Adularescence

1 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 21:29

青板で『式と証明』という超ド級マイナーCPを書いてました。
ねーさんバースデイに合わせて、
新しくスレッド立てさせていただきました。
こちらではまた彼女たちをメインに書いていきたいと思います。

よろしくお願いします。
2 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:32

「おはよーございまーす」

楽屋のドアを開けたら、ヘンな声が飛んできた。
くるりと視界を見回して、一点で目を留める。
ぱちぱちと瞬きをして、アタシはごしごしと目をこすった。

それから反射的にドアを閉めて、ドアの前についてる紙を見直す。

……間違って、へんよなぁ。

もう一度ドアを開ける。

「おはよーございまーす」

おんなじ声が聞こえてきた。
視線の先には……やっぱりおるし。

もっかいドアを閉めると、アタシはくるりとドアに背を向けて、
なんとなくその前に座り込んだ。
ごつんと頭をぶつけて、頭の上のほうでひらひら揺れてる紙を見つめる。
3 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:33

おっかしぃなぁ。
ここ、アタシの楽屋やったよなぁ。
名前も間違ってへんし。

首をかしげてうーんと唸る。
アタシの楽屋やったら、なんであの子がおるんやろ?
今日は一緒の仕事、なかったはずやけど。

 ガチャ

突然背中で音がしたと思ったら、支えててくれたものがなくなって、
ごろんと後ろに倒れる形になってしまった。
視界がぐるんと回り、床が天井に、んで、目の前には白いひらひらしたものが……。

「えっち」

言われてよく見ると、それは白いプリーツのスカートやった。
けど、その下にはジーンズはいとるやん。
別に見えてるわけでもなし。

と、スカートが頭の上から離れていく。
ひょっこりとスカートの上から、のぞき込んでくる人の姿。

やから、なんで、アンタがここにおるん?
4 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:34

「おはよーございます」
「……おはよぉ」
「そんなとこで寝てると風邪ひきますよ?」
「……うん」

体を起こして立ち上がると、にっこり微笑む子と目が合った。
その子は体をすいっとスライドさせて、楽屋の中への通り道を作ってくれる。
アタシはそこを通って、やっとこ自分の楽屋へ入り込んだ。
ざぶとんに座ると、それを追っかけるようにその子も部屋にあがってきて、
ちょこんとアタシの目の前に座る。

「なんか用事か?」
「はい」

にこにこと満面の笑顔。
うーん、なんや、元気そうで何よりや。
5 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:34

「で、何」
「お誕生日、おめでとうございます」

あっさりと、ごくごく普通のことのようにその子は言う。
アタシは目の前で笑う彼女を見つめながら、ぱちぱちと目をしばたたかせた。

「あー、ありがとう」
「なぁんですか、その、気のない返事は」
「んー? やって、もうみんなに散々祝ってもろたし」

そうなんや。
今年も誕生日当日にはいろんな人に会うて。
おめでとうって言うてもらったりプレゼントもらったり、
やっぱりいくつになっても祝ってもらえるんはうれしかった。
会えへんかった子もメールくれたり電話してきたり、
なんやかんやとにぎやかやった。

そうや、アンタもメール入れてきたやん。
それも、見事に当日の0時ぴったりに。
なのに、何を今さら?
6 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:35

「松浦からのお祝いはいらないんですか?」
「モノやったらもらっとくで?」

そう言ってやったら、松浦が不満そうに口を尖らせた。

「……かわいくないです」
「かわいくなくて結構です」

アタシは目線をそらして、傍らに置いてあった雑誌に手を伸ばした。
いったいこの子、何しにきたんやろ。
ホントになんかくれる気なんやろか?
ま、くれるもんやったらもらっとくけど?

パラリと雑誌をめくったら、バシンとそのページに手が置かれた。
しょうがなく顔を上げると、やっぱり不満そうな松浦の顔。

「なんやねん」
「せっかくなんですから、こっちちゃんと見てくださいよぉ」
「見慣れてるからいいです」
「そんなことないです! 今日は特別なんですから」

やれやれと肩をすくめてアタシは視線を元に戻した。
ふてくされる松浦をよそに、手をどけて強引にページをめくる。
7 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:36

「中澤さん!」
「んー」
「中澤さんってば!」
「んー」

ぐわし、と雑誌の上に両腕が乗っけられた。
ぐしゃっと雑誌にしわが寄る。
あーあー、まだ全部読んでへんねんで? まったくもう。

仕方なくもう一度顔を上げると、目の前に松浦の顔が迫っていた。
口を尖らせて、めっちゃ不機嫌そうや。

「何でそんなにテンション低いんですかぁ」
「何でそんなにテンション高いんですかぁ」

わざとらしくしゃべり方をまねすると、松浦はますます口を尖らせた。
膨らんだ頬は、年より顔立ちを幼く見せている。

こういうとこ、あんま変わっとらへんねんな。
最近はだいぶ大人っぽくなったなぁと思っとったんやけど。
そんなことを思ってたら、口のはしっこが自然に上がった。
あぁ、もう。
結局アタシはこういう子らは、かわいくてしゃーないんやなぁ。
8 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:37

アタシは意識を完全に雑誌から切り離して、目の前のふくれっつらの子を見た。

「……いったい何が特別なん?」
「特別ですよぉ?」

目が合って、またにっこり笑う。

「今日は絶対忘れられない日になるんです」

言ってる意味がわからん。
今日ってなんかそんなすごい日やったっけ?
アタシの誕生日はもう終わっとるし、アンタの誕生日はちょい先やん?
そもそも誕生日って、そんな忘れられんとかそういうレベルとちゃうし。

わけがわからなくて首をかしげながら松浦を見る。
別にいつもと変わらんと思う。
髪型も、服装も、メイクも、アクセも。
テレビ出てるときより少しおとなしめの、普通の女の子のスタイル。
9 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:37

「中澤さん」
「ん?」

まっすぐな視線。
口元は笑ってるけど、目は真剣。
アタシを絡めとろうするような、そんな眼差しに目を細める。

「好きです」
「は?」

突然松浦の口から放たれた言葉に、アタシはそれを追い越さんばかりのスピードで応えていた。
松浦の笑顔はかき消えて、また不満げに口を尖らせる。

「なんですか、その返事は」
「や、なんですか、言われても」


 アンタの言うてる意味がわからんのやもん。


そう言うと、松浦はますます口を尖らせて、また頬をぷーっと膨らませた。
10 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:38

「す・き・で・す!」
「はぁ」
「だーかーらぁ!」

目の前にあったままだった顔が、ますます近づいてきてアタシは体を引いた。
けど、松浦の両腕はしっかりアタシの膝の上の雑誌に乗っかったままで、
後ろに下がることはできない。

「松浦、好きなんですよ。中澤さんのこと」

どうやら空耳とは違うらしい。

……うん、まぁ、言いたいことはわかったんやけどな。
それに対してどう返事をせぇと?
そもそも、その言葉は思いを伝えるための言葉であって、
返事をもらうための言葉とは違うんやで?
11 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:39

「あー、ありがとう」

とりあえずそう言ってやると、松浦はにっこりと笑った。
ふにゃりと弧を描く瞳の奥で、小さな光が揺れるのが見えた気がした。

「中澤さんは?」
「はい?」
「中澤さんは、松浦のこと好きですか?」

また、わけわからんことを。
キライとか言うたらどうするんやろ?
そんなことも思ったけど、松浦はホントに真剣みたいやし、
いらんことして傷つけたくもないから、アタシは言葉を選びながら口にした。

「まぁ、キライやないと思うけど」

それは、松浦が望んでる答えとは違う。
わかってたけど、どうやって言うたらいいかわからなくて。
逃げの言葉を吐いてみた。
けど、松浦はにぱっと笑って見せた。

え、うそ。これで納得するんや?
ちょっと意外。
もうちょっとぐだぐだ食らいついてくるかと思ったのに。
12 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:39

「中澤さん」
「ん?」

松浦は笑顔のままカバンの中を漁っていたかと思うと、
そこから赤い包装紙できれいに包まれた何かを取り出してきた。
ずいっとそのままアタシの顔の前に押し出してくる。

「これ、プレゼントです。お誕生日の」
「あぁ……ありがとう」

アタシは手を出してそれを受け取る。
なんや、小さな箱みたいやな。
手の中にすっぽりとおさまるくらいの。

「開けてみてください」

言われて、アタシは包装をほどき始めた。
破らないように気をつけながら自分の手に意識は集中させるけど、
でもアタシの体は松浦の視線をしっかり感じ取ってる。
そんなに見つめんなって。緊張するやん。
13 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:40

なんかなぁ。
いろいろ順番違っとると思うんやけど。
なんでおめでとうのあとに告白があって、プレゼントがくるんやろ。
わけわからん。

声に出さずにぼやきながら包装を解いていくと、包装紙の下からは予想通り小さな箱が現れた。
青いビロードに包み込まれた、小さいけれど品のいい箱。

――って、これ……

顔を上げて松浦を見ると、笑顔のままアタシの手元に手を伸ばしてきた。
アタシの手の中にあった箱の向きをくるりと変えて、
左手でアタシの手ごと箱を押さえると、右手でパカッと蓋を開ける。

その中から現れたのは、小さなシルバーリング。
飾り気も何もない、シンプルでかわいらしいもの。
箱の中からおとなしく、でもものすごい存在感でアタシを見上げている。
14 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:41

「中澤さん」

呼ばれて指輪から視線を外す。
目の前にいる松浦は、箱の乗ったアタシの右手をしっかりと握ったまま、
まっすぐに、探るみたいにアタシを見つめている。

その姿は、この手の中にある指輪と同じ――。

飾り気もなく、シンプルでかわいらしいスタイルで。
でも見つめてくる視線はものすごいオーラを放つ。

この手の中の指輪は、間違いなく松浦そのもの。
アタシの手の中におさまりたいとか、そんなことを言うんか。
アンタ、そんなにおとなしい子と違うくせに。
そんなふうに、自己主張するんや。

意識してやってるわけやないのかもしれんけど、
その奇妙な符合がおかしくて、アタシは笑った。
突然笑い出したアタシに、松浦は一瞬きょとんとした顔をして、
でもすぐに笑顔を浮かべた。
15 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:42

「中澤さん、松浦と恋人同士になりましょう」

松浦の口が告げたのは、ものすごく強い言葉。
正直、カッコイイとは言えん、不器用な言葉。
けど、付き合ってくださいでもなく、恋人にしてくださいでもなく、
恋人になろうっちゅーこの子の言葉は、
同じ目線で恋をしたがってるこの子の気持ちを強く伝えてきた。

アタシは黙って手元の指輪に目を落とした。
ギュッとその手が握られる。
アタシの手を握り締めてる松浦の手は、じんわりと熱く、少しだけ震えていた。

こんな自信満々の子でも、緊張するんやって、少しだけ安心する。

イエスであれノーであれ答えてあげないかんのはわかってるんやけど。
すぐに答えは出なかった。

アタシはこの子をどう思ってるんやろ。
16 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:43

かわいいとは思う。
愛しいとは思う。
好きやとは思う。

けど、それは好感なのか好意なのか、そんなこと考えたこともない。
好きの形やパターンが数え切れないくらいあることはわかってたから、
思い込みや勘違いでこの子を傷つけたくはない。

アタシはゆっくりとした動作で箱の中から指輪を取り上げた。
松浦が、そっと手を離す。
その表情を盗み見ると、色が消えていた。

なぁ?
今日は絶対忘れられない日になるってどういうつもりで言ったん?
自信あるんやったら、なんでそんなに不安な顔してるん?
そういう可能性も考えたん?

アタシは一度指輪を箱に戻して、それから両手を首の後ろに回す。
していたペンダントをはずすと、ヘッドをチェーンから抜いた。
それを傍らに置いて、それから指輪をもう一度取り上げる。
そして、それをそのままチェーンに通して、首にもう一度かけなおした。
17 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:43

「これが今の答えや」
「え?」

アタシは胸元で揺れる指輪に指で触れた。

「アンタのことは好きやよ? かわいいと思う。けど、恋人って言われると、
正直、即答できへんねん。今まで、そういう対象として見たことあらへんから」
「……はい」
「やから、こっから。ま、一般的に言うところの、お友達からスタートいうやつや」

表現がおかしいかなとは思ったけど、適当な言葉を見つけられへんかった。
やって、お友達からスタートせなならんほど、遠い存在やないし。
けどなぁ、といっていきなり恋人にはなれんし。

「わかりました」

ほんの少し色の落ちた言葉で、松浦がつぶやいた。
その顔はアタシからそらされて伏せられて、表情まではよくわからん。
落ち込んでるのかと思って声かけようと思ったら、突然松浦が弾かれたように顔を上げた。
18 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:44

「絶対、ぜーったい、好きになりますよ、松浦のこと。ならせてみせますから!」

拳を握ってぐいっとその場に立ち上がる。
あんぐり口をあけて仰ぎ見ると、松浦はよしっとばかりにガッツポーズをしていた。

「その指輪、絶対指にはめさせてみせますから! 覚悟しといてください! それじゃ!」

アタシに一言も口を挟むスキを与えずに、ものすごい勢いでそれだけ言うと、
松浦は部屋から弾丸のように飛び出していった。
アタシはまたあんぐりと口をあけて、それを見送るだけやった。

「覚悟って……何するつもりやねん」

決意の言葉は微妙にそぐわない言葉だったんやけど、アタシは笑っていた。
19 名前:Present for 投稿日:2004/06/19(土) 21:45

くすくすと笑いながら、アタシの呼吸に合わせて揺れる指輪にそっと触れた。
ほんの少し冷たさと、ほんの少しの違和感。
きっとそれは、今アタシが感じてるのと同じ。
そらなぁ、突然妹みたいに思ってた子から告白されたら、違和感も感じるわな。

けど、それも悪いもんとは違う。
ちょっとくすぐったいような恥ずかしさもあるけど。
なんや、指輪の触れてる部分から、じんわり熱が広がってくみたいや。

アタシは松浦の消えていったドアに目をやった。

なぁ。
アンタやったらそうできてしまうかもしれへんな。
先のことなんて、全然わからんけど。
アンタと恋人になるアタシなんて、全然想像できへんけど。

楽しみしてるわ。
アンタがどうやって、この指輪を指に落としてくれようとするのか、な。


 END
20 名前: 投稿日:2004/06/19(土) 21:53

久々に書くとちょっと新鮮な気持ちです。
やっぱり好きです、楽しかったですw

というわけで、
中澤ねーさん、お誕生日おめでとうございます!

次回は彼女のバースデイに……。
では。
21 名前:名無し読者 投稿日:2004/06/20(日) 02:14
みっけー!!
このCP最強です。
更新楽しみに待ってます。
22 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/20(日) 11:03
青の作品も大好きでした
これはまた続いていくお話なんでしょうか
作者さんの松浦さんは素直で健気で可愛くて中澤さんはかっこよくて愛嬌あって
二人とも大好きなキャラです
今後をとても楽しみにしております
23 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/21(月) 00:08
これはまたコミカルで楽しい感じ。


続きが楽しみです。
24 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:19

人生のうちでタイミングが合うときっていうのは、何回かある。
ジャストタイミングなのか、バッドタイミングなのかわかんないけど、
この広いんだか狭いんだかわからない世界の中で、山ほどの人がいる中で、
本当に偶然、タイミングが合うときがある。

きっと、それをみんなは運命って言うんだろう。
25 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:20

それはホントに、何気ないことだった。
仕事の帰り、いつもならもっと家に近いコンビニに寄るのに、
あたしはなぜかいつもは行かないコンビニに立ち寄っていた。
どうしてそんなことしようと思ったのかはわかんない。

きっとそれが、運命なんだろう。

時間はそれほど遅くなかったから、店の中にはまだ人がそれなりにいた。
帽子を目深に被りなおして、もう一度店の中に目をやったそのとき。

あたしはそこに、いるはずのない人の姿を見つけた。

反射的に走り出そうとして、入口の重い扉にそれを阻まれる。
よいしょっと透明の扉を押して中に入ると、
あたしは一目散に店内の飲み物コーナーをうろうろしている人に近づいた。

あたしと同じように帽子を被って。
手には小さなかごを下げていて。
その中には、銀色に光る缶がひとつ。
とても、かごを下げる必要性があるとは思えない。
26 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:21

後ろから近づいて、その腕をそっと握る。
ビクッとして振り返ったその人は、間違いなくあたしの思い人――中澤さんだった。

「ま……」
「なんで、こんなとこに、いるんですか」

小声で声をかけると、その人は小さく笑った。
聞かなくてもわかるやろ、とでもいうふうに。

わかんないです、わかんないですよ。
あなたの気持ちなんて、ただの一度もわかったことなんてないです。
だってあなたは、あたしなんかよりずっと大人で。
あたしなんかよりいろんなことを知ってて。
あたし自身よりもあたしを翻弄しようとする。

その、大人の余裕たっぷりの微笑みで。
あたしの心を怖いくらいに躍らせる。

「とりあえず、お会計してくるから。なんかほしいもん、ある?」

中澤さんの声で、我に返った。
あたしのうだうだした考えなんかにかまうことなく飄々と言うその口調が気に食わなくて、
あたしは手近にあったチョコレートの箱を3つ続けてかごの中に叩き込んだ。
そんなに夜食べたら、お肌に悪いで?
そう言いながらも、中澤さんはそれを棚に戻す様子はなく、レジへ行ってしまった。

 ◇ ◇ ◇
27 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:23

コンビニを出て家に向かって歩くと、中澤さんの手の中で
がさがさとコンビニの袋が鳴いた。

「こっちでいいんですか?」
「何が」
「方向」

聞くと、中澤さんは首をかしげた。
なんでそんな決まりきった答えの質問をするんだって言わんばかりに。

「迷惑やったら帰るけど?」
「そういうわけじゃないですけど……。なんで、あそこにいたんですか?」

もう一度同じ質問を繰り返すと、やっぱり中澤さんは首をかしげた。

「アンタに会いにきたんやけど?」

その言葉に、胸の中が一気に熱くなる。
だけど、それは抑え込んで、できるだけ淡々とした口調でさらに問いを重ねる。

「なんでですか?」
「誕生日、ちゃんと祝ってあげられへんかったから」

ざわっと心臓がざわめいたのがわかった。
28 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:23

あたしの誕生日。
それはもう何日も前に過ぎてしまったもの。
スケジュールが絶対合わないことは、もうずっと前からわかってた。
だから、もちろん期待なんてしてなかった。

でも、当日にはおめでとうのメールが届いた。
とりあえずは、それだけでもうれしかった。

だけど、なんだか物足りなかったのも事実。
何が足りないのか考えてみたけど、
足りないものが多すぎてどれが今一番ほしいのかがわからなくなっちゃって。
だから、考えるのはやめたんだけど。
29 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:24

フヮンという音が響いて、ぐいっと体を横に引かれた。
体の脇を、スピードを上げた車が走り抜けていく。

「ぼーっとしとったら、あぶないで?」
「ご、ごめんなさい」

腕に感じる中澤さんの体温。
それは、今ほしいものだったかな。
どうだろ。
ほしいものには違いないけど、今すぐほしいものだったかな。

うーんと悩みながら歩いたせいで、あたしは無言。
中澤さんも特に何をしゃべるわけでもなくて、ふたり黙って家への道を歩く。
でも、そんなに遠くはなかったから、家にはあっさりと着いてしまった。

あ、来るなんて思ってなかったから、あんまりキレイじゃないかも……。

だけど、中澤さんはそんなこと気にするふうでもなく、部屋に上がってカバンを下ろす。
30 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:24

「むしあっついなぁ」
「クーラー入れます?」
「体に悪いからいらん」

中澤さんはそのまま窓へと近づいて、カラカラと窓を開けた。
雨が降ってないとはいえ、なんだか空気はちょっと湿っぽい。
梅雨だからしょうがないけど。

それにしても。
キッチンでお茶の用意をしながら、こっそりと窓辺に立つその人の背中を見る。
誕生日を祝うってなにしてくれるんだろう?
手には何かを持ってる様子もないし。
カバンだって、そんなに大きいものじゃないし。
まかり間違ってもケーキとか入ってなさそうだし。

……案外、何も考えてない気がする。
31 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:26

「どーぞ」

とりあえず紅茶を入れて持っていくと、中澤さんは窓辺でくるりと振り返った。
その胸元で何かが揺れる。キラリと一瞬光った、小さな何か。

中澤さんはトコトコと歩いてきて、テーブルを挟んであたしと向かい合わせに座った。
その胸元に目をやると、そこにあったのは小さな指輪。
あれは、あたしが誕生日にプレゼントしたものだ。

なんだかちょっと場違いな雰囲気で揺れている。
救い出してほしい、とでもささやいてくるみたいに見えるのは、なんでだろう。

「それで、何を祝ってくれるんですか? なんかプレゼントくれるとか?」
「……直接的すぎてかわいくない」
「お互い様です」

なんとなく沈黙が息苦しくて言ってみたら、不満そうな声が聞こえた。
と思ったら、がさがさとコンビニの袋が鳴って、
テーブルの上にあたしが放り込んだチョコの箱が3つ並べられる。
包装を解いて、中澤さんがその中からチョコを1かけ取り出して口に入れる。

「あま〜」
「当たり前です」

あたしも同じようにチョコを口の中に放り込む。
確かに甘かった。
32 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:26

「プレゼントなぁ、いろいろ考えたんやけどなぁ。アンタの好みってわからへんし」
「……くれるものなら大概うれしいです」
「大概いうんがクセモノやな」
「中澤さんがくれるなら何でもうれしい、と思います」
「と思いますってなんやねん」
「うれしいです」
「とってつけたように言うな」

またコンビニの袋を漁ったと思ったら、今度は缶ビールが出てきた。
プシュッと音を立ててプルタブを起こすと、グビッと一口口をつける。

「酔っ払っても面倒見ませんよ」
「うわっ、冷たっ」

ホントに、この人はいったい何しに来たんだろ?
来てくれたのはうれしいけど、何したいのか全然わかんない。

なんかなぁ。
こういう中途半端な立場でふたりきりになるのって大変なんだ。
だってあたしは中澤さんが好きで。
でも、あたしの思うように中澤さんはあたしを思ってくれてるわけじゃなくて。
それでも、振られたわけじゃないからまだいいほうだと思うんだけど、
なんかこう、わーって抱きついたり甘えたりもできないし。
ましてやちゅーなんてもってのほか。
うーん、びみょー。
33 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:27

「で、くれるんですか、くれないんですか」
「やから、直接的すぎてかわいくない」
「なんかください」
「変わらん」

ぶつぶつ言っていたと思ったら、突然中澤さんがあたしの隣に移ってきた。
トンと腕が触れて、中澤さんがごめんとつぶやく。けど、あたしのほうは見なかった。
何しにきたのかと思って見ていると、中澤さんはテーブルの上に放置されていた
リモコンに手を伸ばした。
プチッと音を立ててテレビがつくと、バラエティ番組が流れ始める。

あー、確かにその位置からじゃテレビは見づらいですねぇ。

横顔を見つめていると、缶ビールを持って、また一口。

「いったい何しにきたんですか?」
「んー? なんやろな」
「なんですかそれは」

どうも会話にならない。
もしかして、もう酔っ払ってたりとかするのかな。
でも顔はそう赤くなってるようには見えないし。
今飲んでるビールで最終的に酔っ払うことはあるかもしれないけど。
34 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:27

「やっぱり、プレゼント、ほしいですねぇ」

テレビに視線を向けたまま、一応言ってみる。
中澤さんはんーと聞いてるのか聞いてないのか適当に相槌を打って、
テーブルの上のチョコにまた手を伸ばした。そのまま口の中に放り込む。

と、またチョコに手を伸ばす。
まだ口の中に残ってるんじゃないですか?
あんまり甘いものばっかり食べると、お肌に悪いですよ?

そんなことを思ってたら、ひょいっとそのまま手が伸びてきた。
目の前にチョコが差し出される。

「なんですか?」
「プレゼント」
「えー」
「アタシの金や」
「うー」

ひらひらと目の前でチョコを振られて、
あたしは仕方なくパクンとチョコを口にくわえる。
甘い味が口の中に広がる。
35 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:28

別に不満があるわけじゃないんだけど。
恋人同士ってわけでもないし、そこまで求めるのもおかしいのかもしれないけど。
でも、わざわざこうやってきてくれたら、期待しないほうがおかしいじゃないですか。

あたしを特別な存在として見てくれてるのかもしれないって。

「ん」

中澤さんはまたチョコを差し出していた。
自分の口にも同じようにチョコを放り込みながら。

あたしはそれを軽く歯で挟んで、中澤さんの手が離れていくのを見る。

そのときだった。
36 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:29

不意に肩に重みを感じたと思ったら、隣にあったはずの中澤さんの顔が一気に近づいて、
反射的に目を閉じた。
気がついたら唇に温もりを感じていた。
歯で挟んでいたはずのチョコがぐいっと意思に反して押し込まれてくる。

「んっ……」

甘い味とともに、唇にやわらかいものが触れる。
それが何かを確認する間もなく、薄く開いたままの唇をこじ開けるみたいに、
もうひとつ甘いものが口の中にゆっくりと入り込んできた。

「……っ……ん」

そして、その甘いものを追いかけるように飛び込んでくる、やわらかい何か。
それは、ほんの少しだけあたしの口の中を静かに動いて、
あたしの唇をそっとなで、ゆっくりとあたしから離れていった。

 〜〜〜〜〜〜っ!?

バッと中澤さんから体を離して、口を手で覆う。
中澤さんは眉を上げて、なんとも言えない微妙な表情であたしを見ていた。
37 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:29

「プレゼント」

その口の端が上がっていく。

待って、待って、待ってください。
いや、だって、ほら、その、何ですかぁ!?
わかんないです、全然わかんないんです!
わけわかんないですってばぁ!

頭の中ぐるぐるしてきて、あたしは頭を抱えた。

だって、待って、ね、ほら、おかしいから。
おかしいですよね、おかしいですよ、うん。

すーはーすーはーと深呼吸。
両手で頬を押さえて、それから目の前の人の顔を見た。

口元だけを緩ませた笑顔。
少し細められた目の奥にある、真剣な光。
冗談じゃないんだって、わかる。
……冗談でやられたら、さすがにあたしもキレるけど。
38 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:30

「な、中澤さん?」
「ん?」
「あの、その、今、キス、してくれた、んですよね?」
「わからんの?」
「や、あの、そーゆーわけじゃなくて、その、あの、
あたしたちって別に付き合ってとかないですよね?」
「んー、せやな」
「じゃあ、あの、なんで、その……」

あたしの気持ち、知ってるのに。
そんなことされたら、期待しちゃう。

「イヤやった?」
「や、その、ヤとかそういうんじゃなくて、けど、その、こーゆーのは、
やっぱりそんなお手軽にやったらいけないと、思うんです、けど」

すーはーすーはー、しゃべりながら呼吸を整える。
けど、目の前のその人は動揺してる素振りも見せない。
もしかして、やっぱり、からかわれたんだろうか。
39 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:30

「その、あの、中澤さん?」
「何」
「……松浦の恋人になってくれるんですか?」

その言葉に、中澤さんはふんわりと微笑んだ。
首にかけていた指輪をチェーンごとはずすと、そこから指輪を抜き取る。
それからそれを、あたしの目の前に差し出してきた。

目がまあるくなるのがわかった。
指輪と中澤さんの顔を視線が行き来する。

「はめさせるって宣言しとったやん」
「え、あ、はい」

あたしは何かに誘われるみたいに、指輪に手を伸ばした。
それから、中澤さんの手を取って、そっとその指に指輪を通す。
サイズはピッタリだった。リサーチしておいた意味があった。
40 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:32

これはもう、イエスってことなんだと思うんだけど。
でもやっぱり、言葉にしてくれないと不安。
だって、この指輪をプレゼントしたのは、ホントにごく最近で。
そのときの中澤さんは、あたしを恋愛対象としては見てくれてなくて。

それが、この短期間で、いったい何があったんだろう。

そんなあたしの頭の中に気づいたのか、
中澤さんはくしゃりとあたしの頭をなでてきた。

「なんでって思ってる?」
「え、あ、はい」
「あのとき言うたんはウソとちゃうよ? あのときはホントにアンタのこと
そういう相手としては見てへんかったんやけど」

 あの日からアンタを意識するようになったのも本当で。
 メールとか、毎日くれるようになったやん?
 そしたら、なんか、メールとかなくてもアンタのこと気になってしまって。
 メールくれんのが楽しみになってきて。
 どうしてんのかなぁとか、何してんのかなぁとか、
 時間があればアンタのこと考えるようになってしまって。

 アンタに会いたいなぁって思ってしまってん。
41 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:32

やわらかく笑う彼女は、たぶん、今あたしが一番ほしいものをくれた。
温もりでもキスでもなく、やわらかい笑顔。
あたしにだけに向けてくれる、そのやさしい笑顔。
それが、あたしが今一番ほしかったもの。

「こんな短時間やと、あんま説得力ないかもしれんけど。
まぁ、恋に落ちるのに時間なんて必要ないやん?」

中澤さんは頭をもう一度くしゃっとなでて、それからその手であたしの頬に触れた。


「アンタが好きや」


ぶわーっと胸の中心から背中に向かって風が吹きぬけたような気がした。
体温が急に下がって、心臓がバクバクと鼓動を一気に上げる。
指先から血の気が引いていくのがわかった。
手も足も冷たくなって、急に体が震え始める。
42 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:34

「松浦?」

うれしさって、自分の想像を通り越してると、喜びより先に震えが来るんだ。
そんな事実を冷静に分析しながら、でも頭の中が凍り付いてる気がする。
うまく、言葉が出ない。

隣に座っていた中澤さんが少し動いたかと思うと、ぐっと肩を抱かれて、
体を引き寄せられた。
左手があたしの左手をぎゅっと握ってくれる。
あたしは目を閉じて、そのまま中澤さんの胸にもたれかかる。
トクトクと心臓の音が聞こえてきて、少しずつ気持ちが落ち着いていく。

自信はあったんだけど。
絶対好きにならせてみせるって思ってたんだけど。
なんで、それが叶ったのにこんなに震えてるんだろう。
怖いわけじゃない。
悲しいわけでもない。
うれしいよ、うれしいんだけど。
なんだろ、自分の気持ちを自分が処理できてない感じ。
43 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:34

ポンポンと軽く肩を叩かれる。
その温もりが心地いい。

「好きです、中澤さん」
「ん、ありがとう」
「大好きです」
「ん」

肩を叩いていた手が、頭に動いた。
さらりと髪をすくように触れて、ぐいっとまた引き寄せられる。
ふっと、こめかみのあたりにやわからい感覚。

「恋人になってくれて、ありがとうございます」
「こちらこそ、どーぞよろしく」

ほっと息をつく。
やわらかい声音に、震えが止まった。
冷たかった指先も、中澤さんが握っててくれたおかげで、
少しずつあったかさを取り戻してきた。
目を開けて、頭を動かして、ゆっくり中澤さんを見る。
目が合うと、笑いがこぼれた。
44 名前:Re:Present for 投稿日:2004/06/25(金) 23:35

うれしい。
うれしい。
ホントにうれしい。

あー、なんか叫んじゃいたくなるくらいうれしい。
だけど、こんなとこで叫ぶのも迷惑だから、ぐっとこらえる。
でも、やっぱりこの喜びを噛み締めたくて、あたしは中澤さんを見つめた。

「中澤さん、キス、してもいいですか?」
「はぁ?」

突然の申し出に、中澤さんが目をまあるくした。
あたしが真剣な顔でいるのに気づいたのか、少し頬を染めて小さくうなずく。

なんか、そんな態度も新鮮で、すっごくかわいくて。
だからあたしは笑って。

そっと、その唇に、キスを落とした。


  END
45 名前: 投稿日:2004/06/25(金) 23:44

松浦さん、ハッピーバースデイ!

……間に合ってよかったw
『Present for』の答えというか、返事というか、そんな感じです。
めちゃくちゃ短期間で恋に落ちちゃいましたw
ふたつはセットだと思っていただければ。


レス、ありがとうございます。

>>21
みつかりましたー!!w
今回は松浦さん視点でした。いかがでしょうか?

>>22
えーと、これはふたつでひとつのショートストーリーという感じで、
今のところ、先は考えておりません。
ふたりを好きと言っていただけて光栄です。
今後もがんばります。

>>23
コ、コミカルですか、ありがとうございます。
実はコミカル系はなぜか苦手なのでw
ほめていただけてうれしいです。
46 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/28(月) 01:57
え、えろい…いやいや。素敵だけどえろっすよ中澤ねえさん。
読んでて急展開に驚いたり喜んだり。生き生きした描写ににやけてしまいました。
二人よお幸せにです。
47 名前:difference 投稿日:2004/07/11(日) 00:18

最近、亜弥ちゃんの様子がおかしい。

「みっきたぁーん!」
「うぁっ!?」

背後からの呼び声に振り返る間もなく、美貴は背中からものすごい衝撃を受けた。
一気に背中が重くなって、よろよろと前のめりにつんのめりそうになる。
だけど何とか踏ん張った。
さすがに、局の廊下でつぶされる美貴、っていうのはいただけない。
それに、こんなとこで転んだら間違いなく顔打つし。
ヘタするとあちこち打ったり、捻挫したりとかしそうだし。

両足に思いっきり力を入れてよろめくのを強引に止めると、
美貴は背中から回された腕をぐっと握った。
48 名前:difference 投稿日:2004/07/11(日) 00:19

「重いよ」
「重くないよーん」
「重いってば」

無理やり腕を引き剥がすと、背中の重みがやっとこ離れてくれた。
体を起こして振り返ると、そこには当然亜弥ちゃんの姿。
にっこりわらって美貴を見ている。

「久しぶりー」
「……はいはい」

ポンポンと頭を叩くと、亜弥ちゃんは少し口を尖らせて、でもすぐに笑顔になった。

最近の亜弥ちゃんはやたら機嫌がいい。
電話もメールもめちゃくちゃテンション高くて、テンション高いのはいつものことだけど、
さすがに美貴もついていけないくらいテンションがハイだった。
何があったのかと思って聞いてみたら、にひゃひゃとわけのわからない笑い声を立てた後、
ほんの少し顔を赤くして、でも満面の笑顔で、
「中澤さんと付き合うことになった」と教えてくれた。
49 名前:difference 投稿日:2004/07/11(日) 00:20

中澤さんが好きなんだって。
憧れとかの「好き」じゃなくて、愛してるの「好き」だってことは聞いてたし、
まぁ、驚かなかったわけじゃないけど。
でも、別にそれをどうこう思ったわけじゃない。
こんなにも身近にいたってことにはちょっとビックリしたのかもしれないけど、
だから別にどうってこともなかったし。
だって、亜弥ちゃんは亜弥ちゃんだから。

いつかは告白するんだとか、絶対好きになってもらうんだとか、
一生懸命話す亜弥ちゃんは普段見てる亜弥ちゃんより少し子供っぽくて。
だけど、その一生懸命さはあまりにもがむしゃらで、見てるほうがあきれちゃうほどのものだった。
一生懸命でがむしゃらなわりには一向に進展してる気配がなくて、
いい加減大振りしすぎてバッターボックスの中で転んじゃうんじゃないかって思えるくらいだったから、
ちょっとだけ心配はしてたんだけど、どうやら満塁ホームランを打ったみたいで一安心。

一安心……のはずだったんだけど。

最近、亜弥ちゃんの様子がおかしい。

絶好調にハッピーの真っ只中にいるはずなのに。
50 名前:difference 投稿日:2004/07/11(日) 00:21

「みきたん?」
「ん? あ、うん」
「何ぼーっとしてんの?」
「うん? 別に何も」
「大丈夫?」

美貴の顔をのぞきこんでくる亜弥ちゃんの顔に、いつもと違うところはない。
元気そうだし、顔色も悪くないし、いつもと同じなんだけど。

おかしいんだよねぇ。

まぁ、でもこんなとこで悩んでたってラチがあかない。
ホントにどうしようもなくなったら、亜弥ちゃんのほうから話してくれるだろうし、
とりあえずは今すぐどうこうなりそうな感じでもなかったので、
美貴はそのことは頭の中心からちょっとだけ離れたところに置いておくことにした。

「美貴、楽屋戻るけど? 亜弥ちゃんは?」
「んー? あたしもちょっとお邪魔しようかなぁ」

 みんなの顔もちょっと見たいし。

そう言って、亜弥ちゃんは美貴の後をついてきた。
51 名前:difference 投稿日:2004/07/11(日) 00:21

楽屋のドアを開けると、中にいたメンバーの何人かがこっちを見た。

「おー、ミキティ遅かったじゃん」

声をかけてきたのは矢口さん。

「や、ちょっとつかまっちゃって」

美貴の言葉に従うみたいに、亜弥ちゃんがドアから顔をのぞかせる。

「おはよーごさいまーす」
「なんだ、師匠か」
「なんだってなんですかぁ」
「ごめんごめん。おはよ」
「おはよーございます」

きゃらきゃらと笑顔を振りまきながら、亜弥ちゃんが楽屋の中に入ってくる。
それに気づいたのか、加護ちゃんと辻ちゃんがトトトと走って亜弥ちゃんに寄っていった。

美貴は3人がきゃいきゃいと騒ぐのを横目に、少し離れたイスに座る。
めちゃくちゃ笑顔で騒ぐ亜弥ちゃんに、いつもと違ったところは見えない。
52 名前:difference 投稿日:2004/07/11(日) 00:21

 コンコン……ガチャ

少し離れて亜弥ちゃんを見ていた美貴は、ノックの音に気づいてドアに顔を向けた。
返事をするより先に、ドアが開く。
そこから顔をのぞかせたのは……中澤さん。

「おはよーさん」
「あ、裕ちゃん、おはよー」
「おはようございまーす」
「おはようございます!」

口々にメンバーから挨拶の言葉が飛ぶ。
中澤さんは口元にうっすら笑みを浮かべて、中を見渡すこともせずに、
つかつかと楽屋の奥へと進んでいく。
あいていたイスに腰を下ろすと、手近にあった雑誌に手を伸ばして、
パラパラとめくり始めた。
53 名前:difference 投稿日:2004/07/11(日) 00:22

「裕ちゃん、どうしたの?」
「んー? ひとりでおってもヒマやし」
「ここ来て、ひとりで雑誌見てたら意味ないじゃん」
「ええんやって。ほら、アンタが相手してくれてるし」
「意味わかんないよ?」

矢口さんが傍らに近づいていって、話しかけている。
中澤さんは時々顔を上げて視線を矢口さんに送るけど、基本は雑誌に向いたまま。
ホント、何しにきたんだろ。

中澤さんと矢口さんのやり取りに気を取られていた美貴は、
きゃいきゃいとした声が少し落ちたのに気づいて、視線を中澤さんから外した。
視界の端に、亜弥ちゃんの姿が映る。
ゆっくりと視線を動かしていくと、しっかりと亜弥ちゃんの全身が目に入る。

いつの間にか辻ちゃんと加護ちゃんから少し離れて、
亜弥ちゃんの視線は中澤さんの背中に向けられていた。
その表情は横顔しか見えないけど、どこかぼんやりとしていて。
そのくせ、なんだかすごく熱のこもった視線にも見える。
54 名前:difference 投稿日:2004/07/11(日) 00:22

ねぇ、亜弥ちゃん?
満塁ホームラン、打ったんじゃないの?
なんで、飛びついてかないの?
さっき、美貴にしたみたいに。

亜弥ちゃんが中澤さんを好きなことも。
中澤さんと付き合い始めたことも。
気がついたらみんな知ってた。
まぁ、あんだけあからさまに抱きついたり飛びついたり、
今までしてなかったことをするようになったら、気づかないのがおかしいんだけど。
だから、今さら遠慮することなんて、何もないはずなのに。

今だって、抱きついたり飛びついたり、中澤さんがいつキレるかって周りがハラハラするくらい、
亜弥ちゃんはおおっぴらにその愛情を表現しまくっている。
それなのに、本当に時々、今日みたいにぼんやりと見つめているだけっていうことがある。
55 名前:difference 投稿日:2004/07/11(日) 00:22

そんな亜弥ちゃんは、美貴の中にはいなかった。
だから、おかしいって思ったんだよね。

じっと亜弥ちゃんの横顔を見つめ続けていたら、ふっと頭が動いた。
顔がゆっくりとこっちを向く。
美貴と目が合うと、なんだか微妙な笑みを浮かべた。
照れたような、所在無げな、微妙な笑みを。

見たこともない笑みに、一瞬だけ行動が遅れた。

声をかけようと立ち上がりかけたところに、スタッフさんから声がかかった。
結局、その日はそれっきり、亜弥ちゃんと話すことはできなかった。

 ◇ ◇ ◇
56 名前: 投稿日:2004/07/11(日) 00:28

間があいた割に更新の量が少なくてすいません。

今回は前2作の後日的な話です。
ふたりの一人称で書くとどうにも甘々な雰囲気にならないので、
彼女に登場してもらっちゃいました。
でも、甘々にはちょっと遠いかなぁ……。


>>46
レス、ありがとうございます。
ホントにえろえろですが、
実はあのへんが一番書いてみたかったシーンでもあったりw
57 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/07/11(日) 01:22
更新キター!
藤さんのお話読んで、このCPの良さに気付きました。
松浦さんが犯罪的にカワイイです。
甘々待ってます。
58 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/12(月) 23:22
大振りしすぎてって表現が妙にあややに合ってる…w
ミキティがどう絡んでくるか楽しみです。
59 名前:difference 投稿日:2004/07/18(日) 23:23

最近、亜弥ちゃんの様子がおかしい。

や、様子がおかしかったのはちょっと前からだったんだけど。
なんだか、ちょっとこないだまでとは違う意味での「おかしい」。

「おはよーございまーす」
「おはよう」

楽屋のドアを開けると、わいわいした雰囲気は今日はまだなかった。
声をかけてきたのは飯田さん。
目があって、頭を下げる。

「おー、おはよーさん」

その後を追っかけるように飛んできたのは、ちょっとイントネーションの違う言葉。
てか、「おはようさん」なんていう人を、美貴はひとりしか知らない。
飯田さんの影になってて見えなかったけど、ちょっと歩くと茶色い頭が見えた。
その持ち主は、もちろん中澤さんで。

「おはようございます」
「んー」
60 名前:difference 投稿日:2004/07/18(日) 23:24

飯田さんと中澤さん。
別にめずらしい組み合わせじゃないんだけど……。
中澤さんの場合、亀井ちゃんとかと一緒にいるほうがよっぽどめずらしいんだけど。
って、そんなとこ見たことないけど。
なんだか、亜弥ちゃんのことがあるせいか、中澤さんを見てる時間もいつもより多くて、
別に普通のことまで目につくような気がする。

ちょっと離れたところに座って、なんとなくふたりの会話に耳を立てる。
でも、話してるのはたいしたことじゃなかった。
最近あったこととか、ファッションとかアクセとか、そんな話。
別に、めずらしいこともない、よねぇ?

「おはようございまーす」
「おはよー」

ぼんやりしてたら、続々とメンバーがやってきて、
静かだった楽屋はあっというまにわきゃわきゃとした空気に包まれる。
ふっと顔を上げると、中澤さんはいつかみたいに、また部屋の隅っこのイスに座って、
パラパラと雑誌をめくっていた。
61 名前:difference 投稿日:2004/07/18(日) 23:25

 コンコン……ガチャ

不意にノックされたと思ったらドアが開いた。
そこから顔を出したのは……亜弥ちゃん。

「おはよーございます」
「あ、あややだー。おはよー」
「おはよー」

みんなから声をかけられると、うれしそうににゃははと笑う。
両手を軽く振りながら楽屋に入ってきて、トトトと迷うことなく美貴のそばまで寄ってくる。

「おはよーみきたん」
「おはよ」
「なんか元気ない?」
「や、普通に元気だけど」
「んーそっか」

こうしてるときは普通に見えるんだけどなぁ。
うーん、もしかしておかしいと思ってるのは美貴の気のせいなのかな。
気にしすぎ、なのかな。
62 名前:difference 投稿日:2004/07/18(日) 23:26

「どうよ、最近?」
「何が?」
「や、だから最近」
「……別に変わんないよ、いつもと」
「ふーん」
「……ヘンなみきたん」
「失礼な」

うん、やっぱりいつもと変わらない。変わらないんだけど……。
美貴が一瞬ぼーっとしてたら、亜弥ちゃんの言葉がとまった。
ふっと見上げると、その視線は遥か先を見てる。
その先にはもちろん……中澤さんの姿。

中澤さんは亜弥ちゃんが来たことに気づいてるのか気づいてないのか、
雑誌にものすごい集中していて、顔を上げようとはしない。
63 名前:difference 投稿日:2004/07/18(日) 23:28

と、美貴の視界のはしっこで影が動いた。
視線をそっちに動かすと、亜弥ちゃんがまっすぐに中澤さんを見つめたまま、
すごくゆっくりしたスピードで歩き始めていた。
ためらうこともなく、まっすぐにまっすぐに歩いていく。
途中、田中ちゃんたちがいたけど、亜弥ちゃんに気づいて道を開ける。

もう何も、亜弥ちゃんと中澤さんの間を妨げるものはない。
それでも速度はあげずに、亜弥ちゃんは中澤さんに近づいていく。

一瞬。
本当に一瞬だけ、中澤さんが横目で亜弥ちゃんを見た気がした。
だけど、それ以上顔を上げることもなくて、また視線は雑誌に戻ってしまう。

亜弥ちゃんはそんなことに気を配るふうでもなくて、
やっぱりまっすぐに中澤さんを見つめて歩いていく。
64 名前:difference 投稿日:2004/07/18(日) 23:28

いつの間にか、楽屋の中は静まり返っていた。
田中ちゃんたちはもちろん、ほかの人たちも亜弥ちゃんに視線を向けている。
そんな視線をもろともせず、亜弥ちゃんはまっすぐ歩いていって、
ついに中澤さんに手の届く距離まで近づいた。

と思ったら、突然亜弥ちゃんがガバッと床に手をついた。

 うえぇっ!?

反射的に立ち上がりかけて、イスがガタン! と大きな音を立てる。
亜弥ちゃんに集中していたみんなの視線が、一気に美貴のほうを見る。
さすがにバッとあれだけの数に見られると、美貴の腰も落ちる。
トスッと微妙な音がした。
美貴を見つめていた視線も、またばらけていく。
65 名前:difference 投稿日:2004/07/18(日) 23:29

 あぁ、もう、ホント心臓に悪いよ。

悪いことしてたわけじゃないんだけど、このヘンな団結力というか、
そういうのはすごいなぁと思う。
ほっと息をついて、はっと我に返る。

視線をみんなの背中越しに、亜弥ちゃんへと飛ばすと……。


亜弥ちゃんは、なぜかすっぽりと中澤さんの腕の中におさまっていた。

66 名前:difference 投稿日:2004/07/18(日) 23:30

いやいやいや? それってありえないでしょ?
あなた、アイドルでしょ?
その体勢は、ちょっと人には見せられないでしょ?
……めちゃくちゃギャラリー多いけど、ここ。

中澤さんはイスに座ってるわけで。
亜弥ちゃんはいったいどこをどうやって通ったのか、中澤さんに正面から抱きついてる。
お尻はしっかり中澤さんの膝というか太ももの上に乗っかってて。
子供が抱っこされてるのと同じ状態。

中澤さんの首に両腕をしっかり回して。
その肩に顔をうずめて。
まるで、その存在を腕の中に繋ぎとめるみたいに。
じっと動かない。
67 名前:difference 投稿日:2004/07/18(日) 23:31

みんなもそれに気づいたんだろう。
なんとなく、シンと静まり返ったまま。

そりゃそうだよねぇ。
だって、亜弥ちゃんといえばいつでもどこでも元気爆発させてるし。
明るくて笑顔で、それが当たり前で。
美貴といるときは、ぼーっとしてたりすることもあるんだけど、
基本的に仕事場にいるときはすごく元気だから。

こんな亜弥ちゃんはそう見られるもんじゃない。

中澤さんはといえば。
もちろん、気づいてないはずはないんだけど。
視線は雑誌に注がれたまま、さっきとほとんど体勢が変わってない。
68 名前:difference 投稿日:2004/07/18(日) 23:31

「……んー」

ぽそっと、中澤さんが声を漏らした。
視線は相変わらず雑誌の上に注がれたままで、パラリとページをめくる音がする。
だけど、ページを押さえていない左手が、ゆっくりと動き始める。
そっとそっと動いたと思ったら、その手が亜弥ちゃんの後頭部にピタリと触れる。
少しの間さらさらと頭をなでていたと思ったら、
すっと指を差し込んで、髪をすき始めた。

亜弥ちゃんの顔はここからじゃわからないけど、
ほんの少し肩にこすりつけるみたいに頭を動かした。

なんだろう。
いつも、中澤さんに飛びついたり抱きついたりする姿は何度も見てきたのに。
付き合ったって聞いてからだって、それまで以上にものすごい笑顔で
飛びついていく姿を何度も見ていたのに。
あぁ、ホントに付き合い始めたんだなって、わかったのに。

なんだか、今、初めて。
中澤さんは視線も表情も全然動かしてないのに。
ふたりがホントに恋人なんだってわかった気がする。
69 名前:difference 投稿日:2004/07/18(日) 23:32

それにしても亜弥ちゃん。
ホント、微動だにしない。
なんかあったのかな。
ちょっと心配だな。

だから美貴は、聞いてみることにした。
中澤さんに。

 ◇ ◇ ◇
70 名前: 投稿日:2004/07/18(日) 23:37
更新しました。
甘々は……ちょっと微妙でしょうか?


レス、ありがとうございます。

>>57
ありがとうございます。
最近まったく絡みがないのでさびしい限りですが。
甘々……になってるんだかなんなんだかという感じで(汗

>>58
なんとなく、大振りもありかとw
ミキティは、絡むやらどうやら……観察係っぽいですがw
71 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/22(木) 00:28
完璧2人の世界だ…。
この甘いようなそうでないような雰囲気が、2人らしいですw
72 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/24(土) 15:07
静かで濃密な二人の関係がなんとも素敵です
藤本さんの視点もいいなあ
それにしてもなにがあったんだろう…
73 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:33

「で、アタシに何を聞きたいん?」
「言わなくてもわかると思うんですけど」
「言ってくれな、わからんなぁ」

中澤さんと美貴のオフはなかなか重ならないんだけど、それでも強引に時間を作って、
美貴は中澤さんが会ったのは、とある公園のベンチ。
平日だから人はあんまりいなくて。
外だからなんとなく話はしやすい。

中澤さんは飄々とした態度で、美貴の前でうっすらと笑みまで浮かべている。
まったく、この人はホントに意地悪だ。
わかっててそれを言わせようとするなんて。
74 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:33

「……中澤さんって、亜弥ちゃんと付き合ってるんですよね?」
「あの子から聞いてないん?」
「や、聞いてますよ、聞いてますけど……。なんか、最近亜弥ちゃんの様子、
おかしいじゃないですか」
「んー? いつもと変わらんと思うけど?」

しらばっくれるつもりなのかな。
それとも話したくないだけなのかな。
ふたりだけの秘密って言うのは、もちろんあって当たり前だと思うけど。
でも、それだったら、亜弥ちゃんは人前であんな態度は取らないと思う。

美貴は小さくため息をついた。
中澤さんはやっぱり薄く笑いを浮かべているだけ。
この余裕しゃくしゃくな態度が気に入らない。
相変わらずどっか子供みたいなところがあるんだよね、この人は。
75 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:34

「この間、楽屋で亜弥ちゃんに抱きつかれてたじゃないですか」

そう言ってやると、中澤さんは考えるように上を見た。
でも、すぐに思い当たったみたいで、あぁと一言だけつぶやく。
ん? もしかして、ホントに思い当たってないのかな。
そもそも、考えるつもりがないのかもしれないけど。
……まぁ、いいや。

「普段の亜弥ちゃんなら、あんなことしないと思うんですよ。
なんか、ここんとこぼんやり中澤さん見てること多かったし、何かあったのかなって」
「そんなん、松浦に直接聞けばええやん」
「そりゃそうなんですけど……」

聞けないからこうして中澤さんのところにきてるんじゃないですか。

口にはしなかったけど、そう心の中で文句を言ってみた。
中澤さんはそんな美貴に気づいたのか、やれやれと言ったように息をついた。
76 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:34

「……甘えてるんやと、アタシは思ってるんやけど?」
「甘えてるって、亜弥ちゃんがですか?」
「ほかに誰がおんねん」

や、それはそうなんですけど、でも、あの亜弥ちゃんが?

「正直なとこ、付き合い始めたばっかりっていうのに、アタシらあんまり会えてへんねん。
せやから、たまに会うたときくらい、べったりしたいんやろなぁって」
「でも、それは……」

ちょっと違うんじゃないかなぁ。
亜弥ちゃんだったら、飛びついたり抱きついたり、いつでもどこでもまとわりつく、
それがべったりってことのような気がする。

「うーん、べったり、言うんはちょっと違うんかな。なんやろ、
黙ってギューってされたいときとかあるんやないかな。人恋しいっちゅーか」
「うーん」

わかるようなわからないような。
亜弥ちゃんとさびしいとか人恋しいとか、
そういうのがなんかしっくりこないからかもしれないけど。
77 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:35

「そういうのに、アタシは適任やってことやろ」
「恋人だからですか?」
「……それもあるけど、年、上やからな、めちゃくちゃ」

あぁ、それならなんとなくわかるような気がする。
美貴は元々負けず嫌いであんまり人に弱音とかはけないんだけど、
亜弥ちゃんもたぶんそんな感じで、そういうところは似たもの同士な気がするんだけど。
亜弥ちゃんの場合は、負けず嫌いっていうのとはちょっと違うかもしれないけど。
でも、とにかく、そんなだから、美貴は年齢とか関係なく、
人にはなかなか弱いところ言えないんだけど。

でも、中澤さんになら、言えるかもしれない。
この人とじゃ何も比べようがないから。
言うことへの恥ずかしさとか悔しさとか、そういうのを越えたところにいる気がするから。
78 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:36

「なかなか会えへんから、ああいうときにそうするしかないんやろと思う。
まぁ、アタシの予想やから、外れとるかもしれんけど?」
「理由、聞いたりしないんですか?」
「特別つらそうな感じはしてへんし、大丈夫やと思うよ?」
「それはカンですか?」
「恋人やからな」

中澤さんは、にやりと笑っていた。
それは、全然答えにはなってないんだけど、なんだかすごく強い言葉で。
半分以上のろけに間違いないんだけど。
それでも、そうなんだろうなと思わせる。
79 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:36


「ま、いつかなんかあっても、絶対アタシが助けるし。
どこにおっても、いつでも、どんなときでも」


もう、美貴はため息をつくしかなかった。
この人は、きっと本当に本当にそうするだろう。
さらりと言ってのける、その強さ。
この人のこんな姿も、美貴は見たことがなかった。
強くあろうとして、強さを持つ人ではあったけど。
その強さは、こんなふうにしなやかなものだったんだ。
80 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:37

「で、アンタの疑問は解決した?」
「……なんとなく」
「ホントに解決させたかったら、あの子に直接聞いたほうがいいと思うで?」
「……ですけど」

もごもごと口ごもる美貴に、中澤さんは微妙な微笑みを向けてきた。

「松浦が話してくれるの待ってるん?」
「……まぁ」

だって、恋人のことだし。
こっちから突っ込んで聞くのもどうかと思うし。
言わないってことは話したくないことなのかもしれなくて。
だったら、聞くのは悪いことかもしれなくて。
……そんなことを考えてたら、聞けなくなった。

亜弥ちゃんは割と何でも美貴には話してくれるほうだと思うから。
なおさら話してくれないことを聞くことはできなかった。
81 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:37

「そんで、うじうじ考えてたんや?」
「うじうじって……だって」

中澤さんはペシペシと自分の頬を右手で叩いてむにーっと引っ張ると、
いきなり半身になって顔だけ後ろを向けた。

「……やって」

美貴に向けて言われた言葉じゃない。
だから、美貴は自分でもわかるくらいきょとんとしてた。
くるりとこっちに顔を戻してきた中澤さんは、やっぱり微妙な微笑みで、
半身のまま、意識をこっちに完璧には戻してないみたいだった。

美貴は何気なく中澤さんがさっきまで向いていた方向を見た。
美貴たちの座ってるベンチの後ろには、大きな木がある。
その後ろで影が動いたと思ったら、そこから現れたのは……。
82 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:37

「あ、あ、亜弥、ちゃん?」

――紛れもなく亜弥ちゃんだった。
ジーンズにTシャツ、パーカーのラフなスタイル。
そういえば、今日はオフだったっけ。

「おはよー、みきたん」

軽く手を振って、なんだかやっぱり微妙な微笑み。

おはよーって言うにはちょっとお昼過ぎちゃってるよね。
まぁ、美貴たちの挨拶なんていつでも「おはよう」だけどさ。
って、そうじゃなくて、なんでここにいるわけ?
いつからそこにいたわけ?
中澤さんは……。
83 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:38

「最初から知ってたんですか!?」
「はぁ?」
「亜弥ちゃんが、そこにいたことですよ!」
「知っとったもなにも」

中澤さんは突然立ち上がって怒鳴った美貴には目もくれず、
ひょいひょいと亜弥ちゃんを手招きしている。
その手に誘われるみたいに、亜弥ちゃんが満面の笑みで中澤さんのそばに寄っていく。
中澤さんの隣に座ると、その腕に腕を絡める。

あー、いーねー、ラブラブで。
……って、だから!
84 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:38

「アタシが呼んだんやもん、この子」

美貴が怒鳴るより先に、中澤さんが答えを言った。
呼んだって、呼んだってことは、当然……。

「最初から聞いてたんですか、美貴たちの話」
「そういうことになるなぁ」
「どういうことですか!」
「や、どーもこーも……」
「あたしが頼んだの、みきたん」

中澤さんの言葉を遮った亜弥ちゃんの言葉に、美貴はあんぐり口をあけた。
亜弥ちゃんは美貴を見上げながら、ちょっとバツの悪そうな顔をしている。

亜弥ちゃんの話によると。
なんだか最近美貴の様子がおかしくて。
それが気になってなんとか話をしようかなって思ってたところに、
中澤さんが美貴と会うってことを聞いて。
中澤さんに美貴のことを相談したんだって。
そしたら、中澤さんからそれとなく話を聞いてみるってことになって、
で、今に至ると。
85 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:39

「……はぁ〜」

力が抜けて、美貴はへなへなとベンチに腰を落とした。
なんかなぁ。
結局、ふたりの手の上で踊らされてた感じじゃん。
て……あ。

「中澤さん」
「ん?」

ギューっと亜弥ちゃんをすがりつかせながら、中澤さんはこっちを見た。
子犬がじゃれつくみたいに、中澤さんの腕に擦り寄る亜弥ちゃん。
その顔は、一言では言いにくい顔なんだけど、安心しきっていてとても幸せそうだった。
86 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:39

「美貴、亜弥ちゃんにはナイショでって言いませんでしたっけ?」
「あー、それムリやから」

美貴のふてくされた口調は、あっさりと一言で片付けられてしまった。
亜弥ちゃんがパチッと目を開けて、美貴を見る。
にんまりとその唇の両端が上がっていくのを美貴は見た。
その笑顔は、小悪魔的な雰囲気すら持っているのに、どこかものすごく純粋で。
それでいて、美貴を牽制しようとする、ヘンなオーラまでまとっていた。

って、美貴、中澤さんと浮気とかする趣味ないから。

「黙ってアンタとふたりで会うてたら、それこそ問題やん」
「……ばれなきゃへーきだと思うんですけど」
「ばれるよ」

さらりと言ってのけたのは、亜弥ちゃん。
根拠なんて何もなさそうなのに、ものすごい自信満々の声だった。
87 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:40

「ばれるんですか?」
「……さぁ? だませる自信もなくはないんやけど……いたっ!」

突然声を上げた中澤さんを見ると、しっかりと亜弥ちゃんに腕をつねられていた。
亜弥ちゃんの表情は、でも笑顔で。
それがちょっとコワイ。

空いてるほうの手で、なだめるように中澤さんが亜弥ちゃんの髪をなでる。
その手がそっと亜弥ちゃんの前髪を揺らして、ほっぺたをペチペチと叩く。

「痛いって」
「中澤さんがヘンなこと言うからいけないんだもん」
「ヘンってなぁ」
「……だましたりとか、しない、よね?」

急に亜弥ちゃんから笑顔が消えた。
中澤さんの腕にすがりついたまま、上目遣いで中澤さんを見上げる。
その表情は、ホント、なんかこう不安そうで。
捨てられかかってる子犬みたい。
88 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:41

あぁ、こんな顔もするんだ。
亜弥ちゃんは、割と笑顔でいることが多くて。
怒ったりもするんだけど、基本的に美貴とは同じ目の高さにいて。
まっすぐに自分の感情を表に出す子だと思ってたから。

ちょっと自分の感情を遠まわしにしたような、こんな顔を見るのはすごく新鮮だった。

中澤さんはそんな亜弥ちゃんに見上げられて、ちょっとだけ目を細めた。
それからほっぺたを叩いてた手で、もう一度頭をなでる。
そのまま亜弥ちゃんの肩に手を置くと、亜弥ちゃんの髪にそっと口づけた。

……ダイタンですねぇ。こんな、人の見てる前で。
いちゃつくんなら、美貴のいないとこでやってください。
そんなことを思ったけど、ふたりには全然通じてる様子もない。
もう、ふたりの視界からは美貴はいなくなってる気がする。
89 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:41

「せぇへんよ」
「ホントに?」
「するんやったら、今日しとるわ」

心配するな、とでも言いたげに、中澤さんは笑った。
それから、肩に置いていた手で、もう一度頭をなでる。

亜弥ちゃんが安心したように目を閉じる。
ことん、と中澤さんに全体重を預けて、ただなでられるがまま。

……美貴、帰ってもいいですか?

それは、口に出して言ったつもりはなかったんだけど、
思った瞬間、中澤さんと亜弥ちゃんがいっせいに顔を上げてこっちを見た。
思わずあとずさる。
90 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:42

「ありがとう」

声を出したのは、亜弥ちゃんだった。
意味がわからなくて、美貴は首を傾げる。

「心配してくれて、ありがとう」

あぁ、そのことね。
いいよ、そんなの。
元気ならいいし、笑顔ならいいんだもん。

亜弥ちゃんに聞くチャンスだったんだと思う。
どうして、中澤さんをあんなふうに見てたのか。
どうして、楽屋であんなふうに中澤さんに抱きついたのか。
中澤さんの言ってることは正しいのか。

だけど、なんかどうでもよくなってきた。
どうでもいいってのはちょっと言葉が悪いかな。
だって、目の前のふたりはホントに仲がよさそうで。
亜弥ちゃんの心のうちはわかんないけど、
中澤さんが亜弥ちゃんのことすっごく大切に思ってるってのはわかったし。
91 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:44

「美貴、帰りますね」
「……気をつけて帰り?」
「はい」
「あ、みきたん」

亜弥ちゃんに呼ばれて目があった。
そこにあるのは、さっきまで美貴を牽制してたヘンなオーラをまとった笑顔じゃない。
すごくやさしい笑顔だった。

そこで初めて知った。
亜弥ちゃんは中澤さんのそばにいると、何百倍もの笑顔を放つんだって。
いつも見せる笑顔よりずっとずっと穏やかでやさしくて、キラキラ輝いてまぶしくて、
なんかもう、ホントに無敵の笑顔だった。

「あんま、心配させないでね?」
「……それはこっちのセリフだよ」
「そっか」

にゃははと亜弥ちゃんが笑う。
その笑顔は、いつもの亜弥ちゃんのものだった。
だから、美貴も笑った。
中澤さんがちょっとあきれたようにため息をつくのが見えた。
92 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:44

ふたりとはその場で別れた。
一度だけ振り返ったら、ふたりはまだそこにいて、亜弥ちゃんがこっちに手を振ってくれた。
手を振り返して、そのまま前に向き直る。

今日ふたりのオフが重なってるなら、数少ないデート日和だったんだろうに、
中澤さんは美貴の心配事をちゃんと聞いてくれようとして。
亜弥ちゃんは中澤さんとの時間を削ってくれた。

ふたりはちゃんと通じ合ってる。

だったらいいじゃん。
本当につらいことがあったら、そのことを一番に話すのは美貴じゃないかもしれないけど。
きっと、中澤さんなら亜弥ちゃんをちゃんと支えてくれる。
ちょっとさびしい気もするけど、笑顔でいてくれるならそれでいい。
93 名前:difference 投稿日:2004/07/26(月) 00:45

「なんだぁ、結局美貴、のろけられただけじゃん」

そのことに思い至ってちょっと不機嫌。
でも、無条件に中澤さんに擦り寄ってた亜弥ちゃんを思い出すと、その気持ちも吹っ飛んだ。

ビルの隙間から見える空は、いつもよりも青く澄んでいるように見えた。

いいね。
うん、すっごくいいと思う。
なんか、美貴もしたくなっちゃったよ。

亜弥ちゃんみたいな、恋を。



     END
94 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 00:50
更新しました。
なんか、甘さが微妙な気がする……(汗


レス、ありがとうございます。

>>71
きっとふたりの世界にはまったらはまりっぱなしなんだろうなぁと。
しかし、甘いようなそうでないよう雰囲気になるのは、どうしてなんでしょうw

>>72
ミキティ視点を喜んでいただけて幸いです。
甘々じゃなくっても、大丈夫……ですかね?
95 名前:名無しROM 投稿日:2004/08/08(日) 02:19
いいもの発見しました〜。
あやゆう(彩裕)でも違う亜弥裕なんですね。凄く新鮮です。
三人の関係もあったっかくて良かったです。
96 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/20(金) 19:47
甘さと爽やかさとちょっとドキっとするところと
絶妙な味わいですねえ 藤本さん視点ならではでしょうか
松浦さんと中澤さんの世界が素晴らしい
これからもますます楽しみにしています
97 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:07



  百万回でも足りない


98 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:08


『道化芝居』

99 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:09

「あーやーちゃん」

駅へ向かう途中の道で、亜弥は声をかけられて振り返った。
その視線の先には、ちょっぴり目つきの悪い女の子がひとり。
亜弥と目が合うと、にこっと笑いかけてくる。

「どったの、こんな時間に」

彼女は腕時計をちょいちょいと指差して見せた。
亜弥は笑顔を返しながら、自転車の前カゴに放り込んでいたカバンを指す。

「あ、予備校?」
「うん、みきたんは?」
「美貴はごっちんと遊んだ帰りなんだけど」
「あー……いいなぁ」
「亜弥ちゃんも誘おうかって話にはなったんだけどねぇ」

バツが悪そうに顔をゆがめ、美貴が頭をかく。
美貴――藤本美貴は、亜弥の家の隣に住んでいる女の子。
3年前に亜弥の隣の家に越してきた。
今は大学2年生になったはずだ。
100 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:09

初めて美貴を見たときに亜弥が彼女に持った感想は、
美貴を見たうちの1割以下の人間しか持たない感想だった。

――なんて、かわいい人なんだろう。

にらんでもいないのにらんでいると言われるその目つき。
やる気がなさそうと言われるその態度。
確かにそのとおりだと思う。
それでも亜弥にとって美貴は「かわいい人」としか映らなかった。
どこが、といわれると、今でもそれはうまく説明できないのだが。

「気にしなくていいよ。誘われても行けないし」
「……うん、ごめんね?」
「あたしのほうこそ」
「……ママさんは、相変わらずなんだ?」
「ん、まぁね」
101 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:10

高校3年生で受験生の亜弥は、2年生の夏休みから今の予備校に通っている。
決して成績が悪いほうではないのだが、だからといっていいほうでもない。
なものだから、母親から大学に現役で合格するためにも予備校に行けと強く言われ、
そのまま言われたとおりにしている。

亜弥自身はさして大学に行ってやりたいことがあるわけではなかった。
ただ、亜弥の母親はいわゆる教育ママで、とにかくいい教育を受けさせることこそが、
娘にとってもすばらしいことなのだと思っているフシがあった。
危うく小学校の頃から家庭教師をつけられそうになったのだが、
子供ながらにそれはヤバイと察知した亜弥は、かなり一生懸命がんばった。
だから、小学校、中学校と成績は学年トップクラス。
そのおかげで、中学校までは塾に行くことも家庭教師を頼むこともなく、
平穏無事に過ごせてきたのだが。

高校はそうは行かなかった。
亜弥が受かった学校は、全国的にみてもかなりレベルの高い進学校。
ここに入るためにもかなりのムリをした亜弥に、
ここでトップクラスを守れるだけの学力はなかった。
だから、学校での成績がよくもなく悪くもないという、微妙な位置になってしまい、
案の定、母親からいい大学に行くために、予備校に通えと言われることになった。
102 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:11

最初こそ反発していた亜弥だったが、いくら言っても効き目がないことに気づいてしまって、
今ではもうあきらめてしまっている。
勉強すること自体はそれほど嫌いではなかったし、勉強さえしていれば母親も静かだったから。

勉強自体が特別好きなわけではないが、なんとなく予備校に行きはじめたら、
予備校のある日はさぼってまで遊びに行こうと思えなくなった。
友達の中には適当に折り合いをつけている子もいるのだが、
亜弥はそんな気分にはなれなかった。
美貴が大学に合格した頃は、よく遊びに行っていたのが、最近はとんとご無沙汰だ。

「ごっちん、心配してたよ? 詰め込みすぎじゃないかって」
「んー? そんなことないよ?」

ごっちん――後藤真希は、美貴と亜弥の遊び相手、というかなんというか、まぁ友達だ。
亜弥の1歳年上で、亜弥とは同じ高校だった。
今では美貴とはまた別の大学に行っているはずだ。

高校時代、美貴とは部活が一緒で、よく大会で顔をあわせていたらしい。
気がついたら美貴と意気投合していたらしく、
「友達だよ」と紹介されたときには亜弥もかなり驚いた。

ちょっとクールで近寄りがたい先輩として有名だった真希のフランクさに
亜弥もはじめは驚いたが、それでもなんとなく気が合って一緒に遊ぶことが増えた。
それも、とんとご無沙汰なのだが。
103 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:11

「ね、亜弥ちゃん、このあと予定ある?」
「……ないよ。って、あるわけないじゃん、こんな時間なんだから」

時計の針は、もうすぐ10時になろうとしていた。
確か、予備校の自習室を出たのが9時近かったから、普通だろう。

「んじゃさ、お茶しようよ、お茶。美貴、おごるから」
「……んー」

答えを渋っていたら、強引に手を取られた。
いつもなら、家に帰って学校の授業の予習をするところだ。
そうこうしているうちに、いつも寝るのが1時を回ってしまうのだが。

「お茶って言っても、ファミレスのドリンクバーしかないけど」
104 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:12

くしゃりと笑う美貴。
あまり人と広く付き合うタイプではない美貴は、普段そんな顔を人に見せたりはしない。
そんな顔をしてくれるのは、自分か真希にだけだと思うと、むげに断ることもできなかった。
なんと言っても、亜弥は美貴が無条件で好きだったし、
最近はメールくらいしかやりとりしていなかったから、たまには話がしたかった。

「ん、わかった。付き合う」
「お、マジ?」

誘っておいてそれはないと思う。

「よっし、じゃ行こー」
「ちゃんと、家まで責任もって送ってよね」
「もちろん! てか、隣じゃん、家」
「んにゃ、わかってるけど」

にゃははと亜弥が笑うと、美貴も楽しそうに笑ってくれた。
それが、そんな些細なことが、亜弥には今はうれしかった。

 ◇ ◇ ◇
105 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:12

「でもさ、マジでごっちん心配してたよ? なんか、元気ないって」

家から一番近いファミレスに入って、美貴の言ったとおりドリンクバーを注文する。
亜弥はホットココアを、美貴はアイスティーを持ってきて、
なんとなくまったりしはじめたところで、美貴が言った。
その瞳には、心配そうな色が浮かんでいる。

「……みきたんは心配じゃないんだ?」

わかっていながらこんなことを言う自分は意地悪だと亜弥は思う。
だけど、なんとなく美貴の困った顔が見たくて、つい口をついていた。
案の定美貴はあわてたように顔の前で手を振る。

「や、そんなことないよ、美貴だって心配だよ。亜弥ちゃんってすぐ根詰めちゃうタイプだし、
集中するとほかの事に目いかなくなるし、やりすぎてんじゃないかなぁって」
「うん、わかってる」

亜弥がうなずくと、美貴はあからさまにほっとした顔をした。
それがなんとなくおかしくて思わず吹き出すと、今度は美貴の顔がむっとしたものに変わる。
106 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:14

美貴は確かに誰彼かまわず気楽に付き合うタイプではないが、
付き合うことになってしまえば、そつなく付き合うタイプだし、
特に年上の人からのウケがいい。
だけど、目線の高さが同じ人に、深く突っ込むのが得意ではない。
表情や言葉に出せばまだしも、隠していることを突き止めるなんてまずムリだ。
亜弥がヘアスタイルを変えたところで、延々気づかないなんていつものこと。

一方、真希は美貴の逆のタイプ。
人付き合いはあまり好きではないらしいマイペース。
年上にも年下にも変わらないその態度。
だから、生意気ととられることもあるのだが、本人は気にしている様子もない。
その割に、付き合いの深い人間の様子がちょっと変わったことにすぐ気づく。
本人が意識して隠そうとしていることでさえ、かなり的確に当ててくる。
ヘアスタイルを変えたら、翌日開口一番に間違いなくそのことを言ってくるタイプだ。

そんな正反対のふたりが一番仲がいいっていうんだから、世の中は不思議だ。
たぶん、今回亜弥の様子が違うと真希に言われて、そうかなぁと思ったんだろう。

だからといって、別に怒る気にもならない。
107 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:14

「冗談は抜きにしてさ、ホント大丈夫なの?」
「大丈夫だよ」
「ホントに?」
「……あたし、信用ないなぁ」
「や、そういうわけじゃないけど」
「……ごっちんはなんて言ってるの? あたしのこと」

そう言うと、美貴はん?と首を傾げた。

「なんて……って、なんか、最近ちょっと元気ない気がするって」
「それだけ?」
「んーと、なんか悩んでるっていうか、考えてるっていうか、
心ここにあらずみたいな感じがするって」
「ふーん。……って、あたし、最近ごっちんと会ってないんだけど」
「あ、こないだ見かけたらしいよ、どっかで。なんかそのとき気になったんだって」

さすがはごっちんだ、と亜弥はヘンなところで感心していた。
一言もしゃべっていない、まっすぐ顔も見てない相手を、そこまで見抜くなんて。
108 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:15

「で、実際のとこどうなの?」
「……どうだろ」
「何それ」

美貴が苦笑いを浮かべる。それに亜弥は笑顔で応える。
美貴がこういう曖昧な言い方がキライなのは知っている。
だけど、美貴があえて言おうとしないことを突っ込んで聞いてこないのも知っているから、
亜弥はあえて曖昧なままにした。
美貴にウソをつくのはイヤだったし、かといって本当のことも言えなかったから。

「別にムリしてるってわけじゃないから、心配しなくてへーきだよ」
「……ならいいんだけど」
「でも、ありがと」

ふにゃりと笑いかけると、美貴もため息をつきながらそれでも笑顔を返してくれた。
胸が痛んだけれど、それは隠しておいた。
どんなにがんばっても、言えやしないから。

 ◇ ◇ ◇
109 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:15

1時間ほどファミレスで時間をつぶして、亜弥は美貴と一緒の方向へ歩く。
いつも予備校から帰るときは、自転車をひとりでかっ飛ばしていくだけだったから、
隣に誰かがいるという感覚は久しぶりで、なんだかうれしかった。

「亜弥ちゃんさぁ、いっつもひとりで帰ってるわけ? 予備校終わったら」

帰り道、明るく照らされた街灯の下で美貴が言う。
ひょいっと顔を向けると、美貴は少し心配そうな顔で亜弥を見ていた。
今日はなんだかこんな顔をやたらと見ている気がする。
それだけ心配してくれてたということか。

 それならメールでもなんでも言ってくれればいいのに。
 みきたん、恥ずかしがりやさんだからなぁ。

亜弥は自転車を押しながら、そっと笑う。
気が強そうに見えて、それでいて実は繊細な美貴。
そういうところをたまに見ると、なんだかうれしいやらくすぐったい気分になってしまう。
110 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:16

「そだよ、雨の日とかは駅まで迎えに来てもらうこともあるけど」
「いくら自転車っていっても、危なくない?」
「うーん、もう慣れちゃったし」
「そういう油断が危ないんだと思うけど」
「でも、あたしが帰る時間って、まだ人たくさんいるし、大丈夫だよ」
「……うん」

それにしても、今日の美貴はなぜかやたらと不安を口にする。
何かあったんだろうか。
自分の様子がおかしいと真希から聞かされて、考えすぎているだけなんだろうか。

「亜弥ちゃんさぁ、美貴、ごっちんみたいにカンよくないから、
なんか悩んでても言ってくれないとわかんないんだよね」
「うん、知ってる」

ピタリと美貴の足が止まる。
それにあわせるように、亜弥も足を止めた。
振り返るように美貴を見ると、あからさまに納得できないという顔をしていた。
111 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:16

「……ひどい」
「自分で言ったんじゃん」
「……ま、いいや。でさ、だからさ、悩み事とかあるなら、言ってよね。ホント、マジで」

美貴は本当に真剣だった。
くしゃっと笑う顔もほかの人はあまり見たことがないだろうが、
こんな真剣な顔もたぶんお目にはかかれないと思う。
しみじみ、きれいだなぁと思う。
そして、自分を本当に心配してくれている、その気持ちを心からうれしいとも思う。

 だけど、ごめんね。
 これだけは言えないんだ。

「うん、わかった」

亜弥がうなずくと、美貴は満足したように微笑んで、歩き始めた。
亜弥もそれに続く。
112 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:17

「ホント、ごっちんがお隣さんだったほうがよかったんじゃないかって思うことあるよ」
「なんで?」
「したら、亜弥ちゃんの様子が変わったこと、すぐ気づいてあげられるじゃん。
亜弥ちゃん、ほんっとに抱え込んじゃうからさ。負けず嫌いもいいけど、ちょっとは信用してほしい」
「負けず嫌いだったらみきたんだって負けてないじゃん」
「……そうなんだけどさ」

どうしたんだろう、何があったんだろう。
さっきの疑問がよみがえる。
普段の美貴は、こんな恥ずかしいことをわざわざ口に出して言ったりはしない。
真希が似たようなことを言う隣でうんうんと相槌を打つくらいなのに。

「みきたん、なんかあったの?」
「ん?」
「普段ならそんなこと言わないじゃん」
「や、特別なんかあったとかそういうわけじゃないんだけど」
「……ふーん」

言いたくなさそうだったので、あえて突っ込まないことにした。
気にならないわけではないが、美貴は明らかに言いたくないという態度をとったから。
あんまり突っ込んで美貴を困らせたくはない。
113 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/22(日) 17:17

「でもね、みきたん。あたし、みきたんがお隣さんでよかったと思うよ?」
「うん?」
「だって、そうじゃなかったらこうやって一緒に帰れないじゃん。
こんなふうに心配してもらったり、うれしいし」

驚いたように目を見開いた後、美貴はふにゃっと笑った。
その笑顔を見て、また亜弥も笑う。

 ホントにありがと。
 でも、ごめんね。
 ホントのこと、言えなくて。

亜弥は門の前で美貴が家にたどり着くのを見ていた。
美貴が手を振るのを見つめながら、心の中で亜弥はそう繰り返していた。

 ◇ ◇ ◇
114 名前: 投稿日:2004/08/22(日) 17:21

新しいの、はじめてみました。
ほのぼの甘々系にはならないと思います。
しかも、お相手がカケラも登場しておりませんが……。
次回はばっちり出ます。
よろしければ、お付き合いくださいませ。


レス、ありがとうございます。

>>95
ありがとうございます。
かなりマイナーなんですが、ちまちま書いていきたいと思っております。
今後もよろしければお付き合いくださいませ。

>>96
おほめいただきまして、うれしいです。ありがとうございます。
ちょっとこれからは雰囲気が変わると思いますが、
ふたりの世界をなんとかうまく出せればと思っております。
どぞ、よろしくお願いします。
115 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/23(月) 19:43
切ない系かな。
松浦さんの悩みごとってなんだろ…。
116 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/23(月) 23:22
やはりまずは三人組が登場するわけですね。
彼女たちも妙なバランスが取れたいい関係で嬉しい。
そしてあの人がどう関わってくるのやら。
117 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/25(水) 02:33
あの御方はどのような形で登場するのだろう…
118 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/31(火) 01:15

美貴に久々に会った日の、ちょうど2週間前。

「相談室」と書かれたドアの前で、亜弥は手にしていたカードを確認していた。
時間まであと5分。

亜弥の通う予備校には、講師室のほかに相談室というものがある。
毎日講師のひとりが入れ代わりで担当する、学校で言う進路指導室にも似た部屋。
授業内容でわからないところは講師室で聞くこともできるが、
中にはたくさんの人の前では聞きにくいという子もいて、それでできたようなものだった。
講師と1対1というのは緊張することも多いので、すごく利用者が多いというわけではないが、
授業内容のほかにも進路相談に乗ってくれたりするので、それなりに人気はある。
なので、予約制をしいているのだ。

1週間分の相談室担当の講師は、前の週の木曜日に掲示板に掲示され、
自分が相談したい日にち、時間を書いて申し込むと予約をすることができるというシステム。
基本的に初めての人が優先で、その後は状況に応じて対応するとのこと。
状況というのがどんなものなのかまで、亜弥は把握していなかったが。

その、相談室の予約カードを握り締めて、亜弥は部屋の前に立っていた。
119 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/31(火) 01:15

亜弥がよくわからなくなってしまったのは、数学。
講師室で聞くのが恥ずかしいわけではないが、自分でも何がよくわからないかがわからなくて、
それをうまく端的に説明することもできそうになかったので、
初めて相談室を使ってみることにした。

講師と1対1になるのは初めてで、ちょっとドキドキする。

腕時計を見ると、ちょうど1分前になっていた。

もういいだろう、と深呼吸を1回してからドアをノックする。

 どうぞー

その声に無条件に反応して、ドアを開ける。
中にいる人を確認する前に頭を下げて、ドアを閉める。

気づくべきだった。
ドアの向こうの声を聞いたときに気づくべきだったのだ。
それが、自分の望んでいたものとは違う声だったことを。

しかし、亜弥がそれに気づいたのは、下げた頭をゆっくりと元の位置に戻してからだった。
120 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/31(火) 01:16

顔を上げた亜弥の目に飛び込んできたのは、ありえない光景だった。
目の前の広い机にいたのは、茶色い髪の女性。
確かに今日担当しているはずの講師は女性だったが、黒髪のショートヘアだったはず。
それが、目の前の女性は、肩よりやや長い髪をしている。

まるで、線路の警報機のように心臓が早鐘を打ち始める。
その鼓動の早さが、自分自身を追い詰めていこうとする。
亜弥はパニック状態に陥ろうとしていた。

 お願い、お願いだから。
 顔を上げないで。
 あたしを見ないで。

何度も何度も、鼓動に逆らうように繰り返す願い。
だけど、そんなものが叶うわけもない。
亜弥が黙り続けていることを不審に思ったのか、目の前の女性が顔を上げる。
そして、その眼差しが亜弥を射止める。

瞬間、電流が体中を駆け抜けた気がした。
体の内側から、自分を破壊しようとするように鼓動が早くなる。
もう、息ができない。
苦しくて苦しくて、倒れてしまいそうだった。
121 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/31(火) 01:17

「……松浦さん?」

名前を呼ばれて、我に返る。
鼓動のスピードは変わらないが、それでも目の前の事実を少しだけ認識できた。

「大丈夫? 具合でも悪い?」
「いえ……大丈夫、です」
「でも、顔青いけど」
「大丈夫です」

深呼吸をして目を閉じると、気持ちが落ち着いてきた。
本当なら、ここで具合が悪いからと言って、帰ってしまえばよかったのだろうだが、
亜弥にはもうそれはできなかった。

 だって、見つめられてしまっている。
 もう、射止められてしまっている。
 ずっとずっと避け続けてきた、あなたの、その瞳に。

それでも、それを認めたくなくて、できるだけ平静を装いながら
亜弥は机の前に置かれたイスに座った。
ふわりと、目の前から柑橘系の香りが漂ってくる。
122 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/31(火) 01:18

「んで、相談事は何?」
「……センセイ、なんで、センセイがここにいるんですか?」

質問には答えずに、質問で返す。
顔は上げない。彼女の胸元あたりに視線を落としておく。
でなければ、心臓が爆発してしまいそうだった。

「ん? あぁそっか。今日な、急にセンセイ具合が悪くなった言うて、
急遽ピンチヒッターや」
「でも、センセイ、担当は国語ですよね? あたしの相談は数学なんですけど」

イントネーションの違う言葉。
それは、亜弥の故郷の言葉に近かった。
その懐かしい音に、鼓動がゆっくりになる。

 冷静に、冷静に。
 流されちゃいけない。

意識してゆっくりと呼吸をする。
何度も心の中で言葉を反芻する。

ふっと目の前で笑うように息の漏れる音がした。
123 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/31(火) 01:19

「高校生レベルの数学くらい、アタシやって教えられるわ。
アタシ、割とオールマイティなんやで? そのほうが、お給料もよくなるし」
「お給料?」
「相談室担当すると、1回いくらで手当てが出んねん。こんなふうにイレギュラーで
別の担当が回ってくるんも、教えられるからや。いい臨時収入やろ?」

顔は見えないけれど、笑っているのは雰囲気でわかった。
この人の持つ空気に巻き込まれてしまいそうで、亜弥はあわててカバンを探った。
テキストとノートを取り出して机の上に置く。

「あの、それで、質問なんですけど……」
「その前に、アタシの質問に答えてほしいんやけど」
「な、なんですか?」

ふっと目の前に影ができた。
自分から顔を上げる前に、手が伸びてきてあごに触れられる。
そしてそのまま、ぐいっと持ち上げられた。
ずっと外してきた視線が、そこで絡む。
薄い茶色の瞳に自分が映る。
そのまま、瞳に魂ごと吸い込まれる気がした。
124 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/31(火) 01:20

「なんで、アタシのこと避けてるん?」
「えっ……」

亜弥の動揺を見極めたのだろう、彼女は音も立てずに目を細めた。

「やっぱりか」
「やっぱり、て」

 どうして気づいているんだろう。
 予備校なんて、現役生のほかに浪人生も含めてものすごい数の生徒がいるはず。
 それなのに、どうしてあたしを知ってるの?

その問いに答えるように、彼女はにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「いくらたくさん生徒がいるから言うても、あんだけあからさまに目線そらされたら気づくって。
アンタ、授業中でも絶対アタシの顔見ないやんか。一度も見ないなんて、そのほうが不自然やって」

自分の愚かさを思い知る。
そうなんだ、こういうときは普通に、本当に普通にしていなければならないのに。
それが、亜弥にはできていなかった。
125 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/31(火) 01:20

「なぁ、なんで?」
「な、なんでって……と、特に理由は、ないんですけど」
「理由もないわりには、めちゃめちゃ頑なやったやん」
「そ、それは、あ、あたしの性格で……」
「ふぅん」

納得していないという口調。
どこか、からかうような色が混じっている。

「てっきり、アタシのこと誘ってんのかと思ったわ」
「さ、誘ってなんて!」

不意にあごを持ち上げていた手がはずれて、すいっと頬に触れた。
二三度軽くなでると、その手がそのまま肩に置かれる。
その行動の意味がわからなくて、亜弥は回らない頭で目の前の瞳を見つめていた。
その瞳がゆっくり自分に近づいてきても、ただまっすぐに見つめているだけだった。

ふっと薄茶色の瞳が目の前から消える。
消えてしまった。そう思った瞬間、息を止められた。
126 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/31(火) 01:21

唇に感じるやわらかい感覚。
目の前にある整った顔。
吐いていたはずの息が、のどを通って肺まで戻っている気がする。
キスを、されている。

奇妙なほどに冷静だった。
キスされてることを認識した途端、彼女はそっと亜弥から離れていく。
ふさがれていた唇が自由になって、空気がのどに届く。
だけど、確かに残る、その感覚と彼女の香り。
確かめるように指で触れようとすると、彼女が目を開けて口の端をあげた。

「ごっそーさん」

ひどく冷静で、キスをされたとわかっても動揺さえしなかった。
鼓動だけならさっき、彼女と目があったときのほうが速い。
それは、静かな化学反応のようだった。
ドクドクと打つ鼓動を、彼女のキスが静めてしまった。

「なんや、イヤに落ち着いてるやん。つまらんなぁ」

その言葉に、キッとにらみつけていた。目の前の、その笑顔を。
127 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/31(火) 01:22

「……別に、驚くようなことじゃ、ありませんから」

亜弥の言葉に彼女は一瞬目を丸くして、それから楽しそうな笑みを浮かべる。
その笑顔が、キューッと胸を締め付ける。

「アタシ相手じゃ驚くにも値せん?」
「そう、かもしれないです」
「何しても?」
「……わかんないです」

ふうん。
わざとらしく声に出して、彼女は言った。
何かを考えてるような態度を見せて、それからまた笑う。
目を閉じてしまいたくて、でも魅入られたまま閉じることはできなかった。

目の前に彼女がいることも、今自分に起こった出来事も、すべて他人事のようだった。
その後の彼女の言葉は、自分に向けられたものではないように、どこか遠くから響いて聞こえた。


「そんなら、試してみよか?」


 ◇ ◇ ◇
128 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/31(火) 01:27

亜弥が目を覚ましたとき、そこに彼女はいなかった。
あわてて左右を見回しても、人の気配を部屋の中には感じなかった。
起き上がろうとして、自分が何も着ていないことに気づく。
なんとなく、体がだるくて重い。
その事実が、昨夜のことがウソではないんだと認識させる。

起き上がって見たベッドは、家の倍以上あるような大きなベッドだった。
そうだ、ここは家じゃないんだ。
あの人に連れてこられた、テレビでしか見たことのないような高級ホテル。
それが、自分の身に起こった出来事を間違いではないんだと、しつこいくらいに教えてくる。

ベッドの上に起き上がって、シーツを胸元まで引っ張りあげると、
ひざを抱えるように抱きしめる。
それから髪をかきあげて、ひざに顔をうずめる。

後悔しているわけじゃない。
それなのに、言い知れない感情に体中すべてを埋め尽くされている。
満ちていなかった部分も、満ちていたはずの部分も、すべて彼女に塗り替えられてしまった。

でも、目を閉じても彼女をはっきりと思い出すことができない。
昨夜のことも、思い出す端から忘れていっているような感覚に襲われる。
129 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/31(火) 01:28

額に、頬に、肩に、腕に、唇に、体中のすべてに触れてくれた、やさしく、激しいキスも。
見つめるだけで自分を追い詰める、深くて暗い瞳も。
見たこともないほど高いところまで押し上げて突き落とす、その冷たくて細い指も。

確かに覚えているはずなのに、1秒ごとにあやふやになっていく。
その事実が、夢か幻に変わっていくような気がする。

それでも、思い出し、そしておぼろげになるにつれて、顔が熱くなっていくのがわかった。
あやふやな記憶でしかないけれど、それでも恥ずかしさは消えなかった。

彼女の腕の中で、意識を飛ばすほどに乱れてしまった自分に。
130 名前:道化芝居 投稿日:2004/08/31(火) 01:28

ふっと、今は何時だろうとキョロキョロとあたりを見回す。
そこで、時計よりも先に、テーブルの上に置かれた1枚の紙に気づいた。
シーツを手放すと、ベッド脇に投げ出されていたバスローブを羽織ってテーブルに近づく。
紙を手にとってそこに書かれた文を読んで、亜弥は息をついた。

  松浦さん

   ぐっすり眠っているようなので先に帰ります。
   支払いは済ませてるのでご心配なく。

                     中澤

ムダのない文章。
文字にさえ、大人らしさを感じてしまう。

亜弥はベッドに腰を下ろすと、またひざを抱えた。
昨夜のことを後悔はしていない。
だけど、あの人に近づいてしまったことは後悔している。

知っているから。
彼女に近づいたことで、自分のすべてが変わってしまうことを。
その理由がなんなのかは、はっきりと言い切ることはできない。
それでも、最初に会ったときから、彼女は亜弥にとって特別だった。
まるで、悪魔に魅入られたように。

 ◇ ◇ ◇
131 名前: 投稿日:2004/08/31(火) 01:33

更新しました。
いきなり……です。


レス、ありがとうございます。

>>115
切なくなるかもしれません。
あややの悩み事は今回のことで少しわかったかと。

>>116
この三人組はバランスがとりやすくて、ついつい書いちゃいますw
あの人はとりあえず登場のみですが。
今後いろいろと……な予定です。

>>117
こんな登場になっちゃいました。
いきなり暴走しまくりです。
132 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/31(火) 20:57
うわ、本当にいきなりですね。ドキっとしました。
切ない以上に痛い予感が。嬉しかったり。
133 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/01(水) 00:23
あややの悩みはやっぱりあの人でしたか。
姐さんは何を考えてるんだろ…。
134 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/01(水) 03:27
中澤さんがママさんだったらどうしようかと思ってました。


しかし、たしかに、いきなりだ。
135 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 22:51

亜弥が初めて彼女――中澤裕子に出会ったのは、去年の8月のことだった。
予備校に通って初めての授業、そこで、亜弥は裕子と出会った。

最近は高3になる前から予備校に通う子も多いと聞いていたが、
亜弥の受けた授業には同じ学校の子はいても、仲のいい子はいなかった。
それでも入学式のような、緊張と期待の入り混じった気持ちで、
亜弥は講師の先生が入ってくるのを待っていた。

「おー、悪い悪い、ちょっと寝坊してしまって」

授業開始の時間から10分ほど過ぎた頃になって、先生はやっと顔を出した。
扉を乱暴に開けて、そのままずかずかと教壇に上がる。
そして、生徒たちのほうを見た瞬間、教室の中がざわめいた。

今よりもずっと金に近い茶色い髪。
瞳はキラキラとブルーに輝いている。
ぴったりと体にフィットした真っ赤なスーツは、まるで血の色のようだった。
バシンと机を叩いてざわめきを鎮める。
136 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 22:51

「えーっと、時間がないから授業を始めます。……あぁ、このクラスは今日が初めてか。
アタシは中澤裕子。英語教えてます、って英語の授業やから当たり前やけど。
けど、名前なんて覚えなくていいです。そんなことに記憶を使うくらいやったら、
単語のひとつも覚えてや」

教室に笑いがこぼれる。

「笑っとる場合と違うやろー。その単語1コであんたらの人生決まるかもしれんねんで」

言われてすぐに笑いがやむ。
裕子は満足そうにうなずいていた。

「素直でよろしい。で、アタシの授業は結構きついからな。ついてこれへん子は、
早めに別のクラスに移ることをオススメするで? はい、じゃ、始めます」

裕子が言ったその言葉も、亜弥の耳には半分エコーのように届いていた。
飲み込まれてしまった、その数分の間に。
亜弥の心に、裕子の姿が、声が、刻み込まれていた。
137 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 22:51

一目ぼれだったのかもしれない。
けれど、それは亜弥の想像していたものとはまったく違っていた。

一目ぼれというのは、もっと甘くてあったかくて、やわからくてやさしいものだと思っていた。
それがどうだ。今目の前にあるのはそんな甘っちょろいものではない。
一気に速度を上げた鼓動が、自分をどこかへ追い詰めていこうとする。
まるで、自分をあの世へ連れて行くためにやってきた死神に恋したような、そんな気分だった。

なんでこんな気持ちになるのか、その理由はまったくわからない。
ただのひとりの予備校の講師じゃないか。
どうしてそんな人に捕らえられなければならないのか。
声をかけられたわけでも、暴力を振るわれたわけでもないのに。

そう自分の中で繰り返してみても、鼓動は止められない。
その顔に、声に、表情に、眼差しから目が離せなくて。
裕子に近づいてはいけないと、心の半分が叫ぶ。
それでも、残り半分は、彼女を欲し求めている。

その理由が知りたかったのかもしれない。
ただあの人を見つめていたかったのかもしれない。
どちらが本当の気持ちなのかはわからなかったけれど、どちらかには違いない。
だから、亜弥は裕子の授業を受け続けた。
その代わりに、目を合わせないという条件を自らつけて。
138 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 22:53

しばらくして、食堂にいたとき裕子の噂話を耳にした。
それは、裕子が生徒の――それも女の子とホテルから出てきたというものだった。
よくよく聞いてみると、裕子の女癖の悪さというのは、もうずっと前から有名な話だったらしい。
しょっちゅう生徒に手を出してるとか、何人もと同時に付き合っているとか、
聞いた人数分だけ話が出てくるといっても過言ではないくらい。

そんなことを繰り返していたら、生徒の親から苦情が出てきてクビにでもなりそうなものだが、
裕子のクラスに最後まで通えた生徒は、確実に難関大学に合格しているし、
そんなにも多くの女の子と付き合っているのに、女の子のほうから苦情が出たことはないらしい。
すべては人の噂話。
もちろん調べれば証拠は出てくるのだろうが、合格率を挙げてくれる相手に対して、
予備校側からもそんなことをするつもりはないらしく、
あくまでも噂話ということになって、うやむやになっているようだ。

そんなある日のこと。
授業が終わったあと、教室から出て行こうとした裕子を呼び止めた男子がいた。
139 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 22:53

「せんせー、オンナと付き合ってるってマジですかー」

授業終わりのざわめきが一気に静まり返った。
残っていた生徒のすべてが、息を呑んで裕子の背中を見つめている。
怒るのか、笑い飛ばすのか、無視するのか。
いったいどうするのかと、亜弥も同じように裕子を見つめていた。

裕子はくるりと振り返ると、口元だけに笑みを浮かべて、質問を飛ばした男子を見る。
そして、静かにその口から発せられたのは――亜弥の想像もしていない言葉だった。

「それ聞いて、アンタはどうするん?」

逆に質問を返されて、男子がむっつりと黙る。

「そうや言うたら、どうするん? そうやったら、アンタなんて逆立ちしてもアタシの
恋愛の相手にはならへんで? ま、そうやろうとそうやなかろうと、アンタじゃ
アタシの相手には不充分やけどな」

ふふんと、挑発するような笑みに、男子がガタンと立ち上がる。
140 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 22:54

「んなわけねーだろ! こっちだってあんたみたいなおばさん、お断りだよ」
「なんやて?」

急に裕子の声が低くなった。
笑みはあっという間にひいていて、眉を寄せ、すくいあげるように男子をにらみつける。

「う……うっせーよ!」

居心地が悪くなったのか、男子は捨てゼリフを吐いて、あわてたように教室を飛び出していった。
それを見送る裕子の顔に、さっきまでの迫力はない。
やれやれとあきれたような表情を浮かべているだけだ。
だけど、それも一瞬だった。
くるりと生徒たちを振り返ると、人懐っこい笑みを浮かべる。
141 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 22:57

「ま、なんちゅーか、アタシは博愛主義者やから。愛に飢えてる子は大歓迎やでー。
あ、もちろん、アタシにも選ぶ権利はあるけどな?」

砕けた口調で言ったので、教室に笑いがこぼれた。
裕子は満足そうにうなずくと、「そんじゃ、また次の授業でな」と言い残して、教室を出て行った。

凍りついた空気が溶けるのにホッと息をつきながら、亜弥はさっきの裕子の言葉を反芻していた。

 博愛主義……。
 違う、あの人のあれは、博愛とは違う。
 なんて言うんだろう、あれは……。

その答えは出なかった。
けれど、それまでも裕子のことが気になり続けていた亜弥が、
あの騒動でさらに裕子から視線をそらせなくなってしまった。

まさか、こんなことになる日が来るとは、そのときは思いもしなかったが――。

 ◇ ◇ ◇
142 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 22:57

何気なく、亜弥は予備校内を歩いていた。
あの日以来、裕子とふたりきりでは会っていない。
授業こそ受けるものの、そのときの態度はいつもと変わらず、目を合わせたりはしない。
ただそれは、今までの飲み込まれそうな不安からではなくて、
恥ずかしさが先頭に立っていたからだったが。

ぼんやりと歩いていた亜弥は、とある教室の前で足を止めた。
そこは――相談室。
確か、今日はもう相談の時間は終わっていて、相談室は使われていないはず。
それなのに、そこから物音が聞こえてきたのだ。

よせばいい、見るべきじゃない、そう思っていたのに、好奇心はそれよりも強かった。
気がつけば、亜弥はおそるおそるその扉を開け放っていた。
そしてそこで見たのは――。

「……中澤センセイ」

裕子が、誰だかわからない女の子とキスを交わしているところだった。
143 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 22:57

亜弥の声に裕子が振り返るよりも先に、キスされていた女の子が亜弥の存在に気づいたようだった。
あわてて裕子を突き放すと、裕子がやれやれといったように軽く髪をかきあげながら振り返る。
そして、目を細めて、亜弥を見つめた。

「なんや、せっかくいいとこやったのに」

低い声。人を圧倒しようとする目つき。
でも、亜弥はそれに気圧されはしなかった。
それよりも、目の前で見た光景に呆然としていた。

「あ、あの……あたし、帰ります!」
「んー」

髪に手をやって整える女の子の姿が目に飛び込んでくる。
彼女はあわてたように傍らに置いてあった荷物を手にとって、バタバタと亜弥の脇をすり抜けていった。
裕子はそれを引き止めようともしない。
かといって、亜弥を問い詰めるわけでもない。
ただ窓の外に視線をやっただけだった。
144 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 22:58

「なんか用?」

感情を感じさせない裕子の声が、静まり返った部屋の中に鈍く響く。

そんなこと、想像していたはずだったのに。
人から散々聞かされて、ちゃんとわかっていたはずだったのに。
目の当たりにすると、こんなにもショックを受けるものなのか。

ただ、裕子が自分ではない誰かとキスをしていたということが。

「松浦さん?」

裕子の声に返事もできずにいると、不意に裕子が歩み寄ってきた。
その顔に笑みはない。といって、怒っているようにも見えない。
間近まで近づいてくると、いきなり手首をつかまれて部屋の中に引っ張り込まれた。
気がつけば、亜弥は壁を背に、目の前を裕子にふさがれて身動きが取れなくなっていた。
145 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 22:58

「なんか用なん?」
「……いえ」
「ふーん」

裕子は手首を握ったまま、離そうとはしない。
細められたままだった瞳が、弧を描いた。
唇の端がゆっくりと上がっていく。

「アンタ、1回寝たくらいで、アタシのこと落としたとか思うてへんよな?」
「え……」
「アタシ、束縛されんの、キライやねん。1回寝たくらいでカノジョ面されんのは困るんやけど。
言うたやん、博愛主義やからって」

また裕子が目を細める。
その口元には笑みが残っている。

 別に束縛するつもりなんてありません。
 カノジョ面するつもりもありません。

言いたかったのはその言葉。
それなのに、亜弥の口をついて出たのは、まったく違う言葉だった。
146 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 22:58

「博愛、じゃないと思います」

その言葉に、裕子の口元から少しだけ笑みが消える。

「センセイのは……博愛じゃなくて」

 なんだっけ。
 なんだろう。
 初めて彼女の言葉を聞いたとき、思い浮かばなかった言葉。

「退廃、みたいに見えます」

言葉は流れるように落ちていった。
その言葉に、目の前の裕子の表情が変わる。
口元に残されていた笑みは完全に消えていた。

それが正しい言葉なのかはわからない。
けれど、裕子の行動は万人を愛しているからそうなるのではなくて、投げやりに見えた。
もう、愛することとかそういう行為をどうでもいいと思っているようにしか見えなかった。
147 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 22:59

「退廃、か。うまいこと言うやん」

にやりと裕子の顔に笑みが戻る。
瞳はまた細められ、亜弥の手首を握っていた手は、肩に移って亜弥を壁に押し付ける。

「で、アンタはそんな退廃的なアタシを救おうとでもしてくれんの?
わざわざ人の恋路を邪魔したくらいやから、落とし前くらいつけてくれるんやろな」
「え?」
「言うたやん。いいとこやったのにって」

肩に触れていないほうの手で、すっと頬をなでられる。
そのままその手で唇に触れられたかと思ったら、また唇をふさがれていた。

「……っ」

この間よりも、ずっと長いキス。
裕子の舌が唇に触れてきたけれど、それでも亜弥はかたくなに口を開かなかった。
しばらく触れてはいたけれど、あきらめたのか、裕子の唇が離れていく。
148 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 23:00

「そんなん、今さら拒んだってしゃーないやん。知らん仲でもなし」
「へ、ヘンなこと、言わないでください」
「ん? 事実やろ?」

裕子は亜弥の手首を握り締めたまま、まっすぐに亜弥を見つめてくる。
居心地が悪くなって亜弥が目をそらそうとしたら、頬に戻っていた手でそれを止められた。

「離してください」
「ヤ」
「……センセイこそ、あたしに用があるんですか」
「特にはないけど。今さらアンタにどーこー言ってもしゃーないし。
ヘタに関わってどーこー言われたくもないし」
「……どういう意味ですか」
「アタシ、1回寝た子と2度寝る趣味、ないから。
いくらアンタが初めてやったって言うても、責任取れへんし」
「っ……」

顔が熱を持っていくのがわかった。
どうしてこの人は、こんなに凛とした顔立ちで、こんなことを言うんだろう。
149 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 23:00

「センセイは……人を好きになったこと、ないんですか」
「いつも、どこでも、みんなを好きやけど?」
「真面目に聞いてるんです」
「真面目に答えてますよぉ?」

裕子の考えていることの一端さえも亜弥には理解できなかった。
その笑顔と、その言葉の裏側で、いったい何を考えているのか。
別に、この人を独占したいとか、カノジョになりたいと考えているわけじゃない。
自分ごときの手の中にはおさまりきらない相手なのはわかっている。

それでも、彼女を求めてやまない自分の心の半分が、
自分自身でさえもそう思うことを理解できない半分の心が、
彼女の奥底へたどり着く手がかりを探し求めてしまう。

「ひとりの人を、好きになったことはないんですか」

薄く笑っていた裕子の表情に、ほんの一瞬だけ影がさしたような気がした。
けれど、もう一度見直してみても、そこにそんな影はなく、
ただ薄茶色の瞳が亜弥を見つめているだけだった。
150 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 23:00

「何、アンタ、アタシのカノジョにでもなりたいん?」
「そういうわけじゃ……」
「それはなかなか、難しい相談やなぁ」

人の話を聞く気はないらしい。
頬をなでていた手を手持ち無沙汰に亜弥の前髪に持っていく。
さらさらとその細い指でそれをもてあそぶ。

「アタシを満足させてくれるんやったら、考えてもいいけど」
「満……足って」
「まぁ、気持ちの問題やなぁ。アタシを捕まえて、アンタしか見えへんようにしてみ?
それができたら、アンタのこと、もっかい抱いてもええで?」
「べっ、別にそんなことされたいわけじゃないです!」
「ま、いいけど、別に」

不意に手首を強くつかまれて、ぐいっと顔を寄せられた。

「その前に、キス、うまくなっといてほしいけどな」
151 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 23:01

また唇に指で触れられる。
そして、目の前の裕子が目を閉じて顔をさらに寄せてきたと思った瞬間。

 ♪〜

どこからともなく、音楽が聞こえてきた。

「タイムリミットや」

裕子はその音を合図にしたように、いともあっさりと亜弥を離した。
置いてあったカバンに近づくと、中をあさって携帯を取り出す。
パカッと開いて、何かの操作をしていたら、その音はやんだ。

「アタシ帰るから、ここ閉めるけど」
「あ……」

亜弥はあわてて部屋を出た。
それを追いかけるようにやってきた裕子がドアを閉めてカギをかける。
152 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 23:01

「そんならな」
「あ、はい、さようなら」

ぺこりと反射的に頭を下げていた。
顔を上げると、裕子がきょとんとした表情を見せいてた。
かと思ったら、急に声を上げて笑い始める。

「え、え?」
「アンタ、ホントマジメっちゅーか、律儀っちゅーか。ふつーこういう状況で
アタシに『さよなら』は言わへんやろ?」
「え、や、あの……」

亜弥にしてみれば、それは当たり前のことで。
挨拶はきちんとしなさいと教えられてきただけのことだったから、
こんな風に笑われるとは思わなくて、意外だった。
その笑顔が、自分が今まで見てきたどれよりも、幼くやわらかかったことも。
153 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/20(月) 23:02

「変わってんなぁ、アンタ」

すっと頬に触れられたかと思ったら、逆側の頬に軽くキスをされた。

「セ……!」
「そんじゃ、気をつけて帰り」

スタスタと、一度も振り返らずに歩いていくその後ろ姿を見ながら、亜弥は呆気にとられていた。
本当に本当に、とことん彼女のことがわからない。
わからないから知りたいと、そう思うのだろうか。
独占したいとか彼女になりたいと思っているわけではないはず。
ないはずなんだけど……心のどこかでそれを求めているんだろうか。
いつか、彼女の隣で笑っている自分を。

「あー……もぉ」

怒る気にもならなかった。
だって、腹が立つなら近づかなければいいだけのことだから。
近づいてるのは自分なのだから、そのことに怒るのは間違っている。

亜弥は頬をさすると、そのままその場を後にした。

 ◇ ◇ ◇
154 名前: 投稿日:2004/09/20(月) 23:07

更新しました。
じわじわ進行中です。


レス、ありがとうございます。

>>132
痛くなっちゃうかもしれません。自分でも先が読めず(殴
喜んでいただけるといいのですが。

>>133
ええもう、あの人しかいないって感じでした。
彼女は何を考えているやらは、まだまだ……な感じです。

>>134
ねーさんがママさん……いいかも(爆
なんか、あらぬことをいろいろ想像しちゃいましたw
ふたりがどうなるのか見守っていただけるとうれしいです。
155 名前:名無し読者 投稿日:2004/09/21(火) 13:16
黒裕子発見(w
裕子の過去(何で博愛主義になったか)も気になるな〜。
156 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/21(火) 18:51
黒っ、姐さん黒すぎる!
松浦さんも大変だ…w
157 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/21(火) 19:32
悪い中澤さんかっこいいぞ。松浦さん可愛いのに。逃げたほうがいいぞきっと。
この展開はツボです。好きです。
158 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:34

パタ

サンダルが音を立てた。
そんな、日頃は気づかない些細なことが、亜弥の足を止めた。
何に気づいたわけでも、何を思ったわけでもない。
ただ、なんとなく。

そこはちょうど、昇降口だった。
何気なく顔を外へと向けると、帰る人の波とは逆の方向、
ちょうどこちらに向かって歩いてくる私服の人の姿が見えた。

ごく普通に昇降口への道を歩くその姿。
それだけなのに、通り過ぎる生徒たちはみなそろって振り返る。
不思議なほどに目を引くその人は、顔がわからないその距離から見ても、
誰だかわかる人だった。
日の光が、キラキラとその髪を輝かせる。
まるで、スポットライトに照らされているようだった。
159 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:35

「久しぶり」

顔のわかる距離まで来て、彼女は告げた。
やわらかな笑みをその顔に浮かべて。

「……ごっちん、どーしてここにいるの?」

その言葉に、後藤真希は目をぱちくりさせてもう一度笑った。

「ちょっとさ、先生に呼ばれちゃってね」
「……なんかやったの?」
「なんも。ほら、3年生に向けて進路の新聞? みたいなやつあるじゃん。
あれに原稿書けって言われちゃってさ。それ持ってきたとこ」

なるほど、と亜弥は小さくうなずいた。

亜弥の学校では、卒業生からの経験談や意見を載せた新聞のようなものを作っている。
進学なり就職なりの参考にしてもらおうというのだ。
時には、卒業した生徒を呼んで、講演をしてもらうこともある。
その役目を真希がおおせつかったということなのだろう。

確かに、真希の原稿ならそれなりに反響はあるかもしれない。
何せ、高校時代はかなりの人気を誇ってきた人だから。
大学に入ったせいなのか、高校を卒業したせいなのか、
最近では高校の頃にあった、ギラギラした感じはなくなっていたけれど、
それでも、キラキラと輝く魅力的な人であることには違いはない。
160 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:35

「まっつーは? まだ帰んないの?」
「あーうん、ちょっと予備校の時間まで間があるから。図書室で時間つぶそうと思って」
「ふーん」

真希は何かを考えるように口を尖らせて、それからにぱっと笑った。

「ね、ごとーも行っていい?」
「ふぇ?」
「いいよね。んじゃ、後で行くから」

一方的に話を打ち切って、真希は職員室のほうへと歩いていってしまった。

「あ、ちょっと!」

まったく、マイペースなところは変わってない。
まあ、ダメだといったところで、彼女は勝手にやってきただろう。
そして、勝手にしゃべって自分が満足したところで帰っていくのだ。
一歩間違えると人を振り回すくらいのマイペースっぷりなのに、
なぜか真希に対しては怒る気にならない。
それも、真希の人柄なのかもしれない。

亜弥は真希の背を見送ってから、そのまま図書室へと向かっていった。

 ◇ ◇ ◇
161 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:36

「ねーねーまっつー、ごとー聞きたいことあるんだけど」

図書室で勉強を始めて数十分。
いつの間にか目の前の席には真希が陣取っていた。
周りにいた子は真希に憧憬の眼差しを向けつつも、それ以上近づいてこようとはしない。

正直、やりにくい。

在学中から真希にかわいがられていたおかげで、こうして面と向かってタメ口を叩いていても、
ほかの人から嫌がらせをされたりすることはない。
だけど、そのせいで仲のいい友達以外からは距離をとられているのも事実で。
微妙に注目されていたりもするようで、居心地がいいとは言えない。

それでも、クールな外見と裏腹に、自分の前では人懐っこいところを見せてくる真希に、
ほかの人よりは愛情を持っているのも事実だから。
突き放そうとか距離を置こうとは思わないけれど。
162 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:36

「なーに?」

シャーペンをノートに走らせたまま答えると、パシッと小さな音がした。
顔を上げると、口を尖らせている真希の顔が見える。
小さな音は、真希が机を手で叩いた音だったようだ。

「しゃべるときは顔見ようよ」
「あーうん、ごめん」

わかっていたのに、ついおざなりにしてしまった。
真希はこういうことには何か思うところがあるらしい。
それは、礼儀正しさというお堅いものとは違うのだけれど、
しゃべるときは顔を見てもらっていないとイヤなんだそうだ。

「それで、聞きたいことって?」

シャーペンの手を止めて、顔を上げる。
満足したのか、真希はにっこりと笑った。

人を寄せつけない凛とした横顔を見るのも好きだけれど、
やっぱりこういう顔は好きだなぁと思う。
163 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:37

「まっつー、最近なんか変わったことあった?」
「変わったこと?」
「うん」
「……んー? 何、それってみきたんに言ってたことと関係ある?」
「あれ、ミキティに会ったんだ?」
「うん、こないだ、予備校の帰りに」

ふーんとつぶやいて、真希は小さくうなずいた。

「前から元気ないなぁって思ってたんだけど。なんか、最近は考え込んでるっていうか、
悩んでるっていうか、思いつめてるようにも見えたから、ちょっと気になって」

真希の言っている言葉は美貴から聞いた言葉と違いはない。
いまだに心配してくれているのは、少しうれしくてちょっと心苦しかった。
思いつめてるように見えるっていうのは、引っかからないでもなかったが。

それにしても、すべてを隠し通すことはたぶんできない。
言葉を交わしていない相手からそれだけの情報を引き出すことができた真希だ。
こうして面と向かってしゃべっていれば、自分に何かがあったことはわかってしまうだろう。
それでも、しゃべりたくないんだということさえ伝えてしまえば、真希はわかってくれる。
それに、美貴に言えないことを真希に言う気にもならなかった。
別にふたりを平等に扱わなくてはなどと思っているわけではないのだが、
それでも、ヒミツにしていることはふたりにヒミツにしてしまいたかった。
164 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:38

「何もない?」
「……ない、とは言えない。けど、言えない」
「言いたくないか」
「うん、ごめん」

友達相手に内緒のことを作るのは、あまりいい気分ではない。
胸にじわりとイヤな感情がわいてきて、亜弥は顔を伏せた。

「いーよ、気にしなくて」

思いのほか明るい真希の声に、亜弥は顔を上げた。
真希はいつもと変わらない、人懐っこい笑顔で亜弥を見ていた。

「誰にだってヒミツにしておきたいことはあるし。けどさ、ちょっと心配なんだ」
「……あたしが、ためこんじゃうタイプだから?」
「ためこんじゃうっていうか、まっつーは言わないタイプじゃん。弱音とか」
「……そかな」
「そだよ」

人懐っこい笑みが、ほんの少し影を帯びる。
165 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:38

「ホントは黙って見てよーかと思ったんだ。今までにもなんか悩んでるっぽいことあったけど、
それなりに乗り越えてきたみたいだったし」
「……そかな」
「けど、なんかな、うまく言えないんだけど、なんかちょっと今回は違う気がして」

本当に、真希はカンがいい。
今までだって悩み事や考え事なんて山ほど抱えてきた。
だけど、どこかで折り合ったり解決したりして、もしくは解決できないままで、
それでも何とかやってこれるレベルにはなっていた。
その悩み事や考え事と比べれば、今回のものはレベルが違う。

思いつめているつもりはないけれど、日ごといろいろ考えてしまうのは事実。
その考えてしまったことから、根を広げるように考えることは広がっていく。
あの人と向き合って答えを出すこともできないから、減ることはありえない。

無視したいけど無視できない。
自ら迷宮の奥底へと好んで入りに行っているみたいなものだった。
166 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:39

「言いたくないならムリには聞かないけど。落っこちる前に言ってよね?」
「え?」
「言ってくんないと、手出せないからさ」
「あー、うん」
「黙って落っこちるのはナシだよ? ごとーとミキティに後悔とかさせないでよね」

亜弥はその言葉に苦笑いで答えた。
先に釘をさしておけば。
もしも亜弥が黙って傷ついて落ちこんで、救いの手も声も届かないところに行ってしまったら、
ここまで気づいていて何もできなかった自分たちを責めるから。
だから、言えと、そう言うのだ。

亜弥が真希や美貴を後悔させることを望んでいないことをよくわかっている。
直線で言ってもムリだから、サイドから攻めようとする。
短い付き合いの間に、よく自分の性格をつかんだものだと亜弥は感心した。

「あ……ごっちん、あたしそろそろ行かないと」
「ん? あぁ、もうそんな時間か」
167 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:39

立ち上がりながら、真希は何かを考えるような顔をして見せた。
イヤな予感がした。
真希がこういう顔をするときは、大概あまりよくないことを考えているときだ。
真希ほどカンがよくない亜弥でもそれくらいはわかった。

「ね、ごとーも行っていい?」
「はい?」
「ごとー、予備校って行ったことないから、ずっと行ってみたいと思ってたんだよねぇ」
「や、えっと」

予備校といっても、たぶんいろいろだ。
亜弥の行っている予備校には、出欠確認がある。
しかし、聴講できる講義もあり、そこでは出欠確認は行われない。
その講義であれば真希にも出ることは可能だろう。

「ダメかなぁ」
「ダメってことはないと思うんだけど……」
「ならいいってことだよね。よしっ、行こー」
「ご、ごっちん!」

相変わらず強引だ。
図書室を出て前を歩く真希の背中を見ながら、亜弥はやれやれとため息をついていた。
それでも、その強引さになんだか心穏やかになっているのも事実なのだけれど。

 ◇ ◇ ◇
168 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:40

「ほうほう」
「ごっちん……」
「へー」
「ごっちん」
「ふーん」
「ごっちんってば!」

何がそんなにめずらしいのか、真希は予備校に入るなりものめずらしそうに
あたりをキョロキョロと見回している。
亜弥は大学に行ったことがないので、大学の教室というのがどうなっているかわからないが、
たぶんそんなに違いはないんじゃないかと思う。
それなのに、なんでそんなに楽しそうなんだろう。

「もー、何がそんなにめずらしいの?」
「んー? なんだろうねぇ。いろいろ」
「わけわかんない。ほら、こっちだよ」

まだキョロキョロしている真希の手を強引に取って、亜弥は階段を上る。
169 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:40

ああ、そういえば。
あの日以来、ここに来るときは気分が重かった。
会いたいという気持ちと、会いたくないという気持ち。
比べてみれば会いたい気持ちのほうが間違いなく強いのだけれど、
それでも確かに会いたくない気持ちはあって――それは会いたくないというよりは、
彼女の起こす予測できない行動への不安だったり恐怖だったりするのかもしれないが――
とにかく何かしら足を遠ざけたくなる理由はあって、それでもこないわけには行かなくて、
ため息をつきつつ来ていたというのに。
今日は、道すがら真希が延々しゃべっていたせいで、そんなことはすっかり忘れていた。

「それで、ごとーが受けられるのはなんの授業なの?」
「えっと……数学、かな」
「ふーん。ごとーはあんまり数学得意じゃないんだよねぇ」
「って、何しに来たの」
「でも、こういう授業は久しぶりかも」
「大学の授業って、そんなに違う?」
「うーん、理数系の大学はわかんないけど、数式とかほとんど使わないし」

階段を上がる間にも、壁に貼られている成績表などを見て、真希はほーと感嘆の声を上げる。

「すっごい、頭いいねぇ」
「貼り出されるくらいだからね」
「志望校もレベル高いなぁ」
170 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:41

何を言う。
おそらくは、その「レベル高い」大学に行けるだけの偏差値は持っていたくせに。
真希は家から遠すぎるのはイヤだから、とかいう理由で、大学のランクを落としたのだ。
一応、やりたい講義がそこの大学にあるから、という表向きの理由もあるのだが。

「ほら、ここだよ」

真希の手を引いたまま教室に入ろうとした亜弥は、その視線の端で人影を捕らえていた。
そして、反射的に足を止めていた。

知らずにいれば幸せなこと。あの人は、自ら深く関わってこようとはしない。
たぶん、それは自分にだけではなく、ほかのすべての人に対してなのだろうけれど。
それなのに、ここに来た時点で気持ちは常にどこかに向いていて、いつだってあの人を探している。
だから、髪の毛一本視界に入っただけでも気づくのだ。彼女がそこにいることに。

「まっつー?」

怪訝そうな真希の声が聞こえて、亜弥はあわてて前を向いた。
真希が不思議そうに、亜弥の視線が向いていたほうを見やる。

そして――

動きを止めた。
171 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:42

「ゆー……ちゃん?」

止めていたはずのものが、再度動き始めるまで、何秒かかったのだろう。
真希は言葉を言い終えるよりも早く、亜弥の手を振り切って走り出していた。

「ごっちん!」

あわてて亜弥も真希の後を追った。
真希の向かった先は、さっき彼女の残像を見た場所だった。
だとしたら、真希の向かっている相手は、まさか彼女だというのだろうか。

真希は減速もせずに廊下の角を曲がる。
キュ、とクツが鳴る音が聞こえた。

「ゆーちゃん!」

姿の見えなくなった真希の声だけが、廊下に響く。
ゆーちゃん。
それが真希の探し求める人ならば、それは間違いなく彼女だろう。
中澤裕子。
裕子。
裕ちゃん。
違和感を覚えるところさえない。
172 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:43

転ばないように注意しながら、亜弥は減速して廊下を曲がる。
そこで見たものは……。
廊下にしりもちをついて座っている真希と、
その前で眉間にしわを寄せたまま真希を見下ろしている裕子の姿だった。

「ごっちん!」

あわてて真希に駆け寄る。
その声に気づいたのか、裕子が顔を上げた。
一瞬だけ、目があった。

「どーしたの? だいじょぶ?」
「あ、うん、へーき……」

真希がゆっくりと立ち上がる。
パタパタとジーンズをはたいて、それから目の前の裕子を見つめていた。

「なんや、松浦さんの知り合いか? 突然飛び掛ってくるから、ビックリしたわ」
「え、あの、えっと……知り合い、じゃ、ないんですか」
「アタシとこの子が?」

あからさまに不満そうな顔で裕子がつぶやく。
真希はやっぱりこちらも不満そうに裕子の顔を見つめた。
173 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:43

「なんや」
「中澤、裕子、でしょ?」

ベシッ

無言で裕子は真希の頭をはたいていた。

「痛っ!」
「年上の人を呼び捨てにすんなや」
「痛いー」
「痛くなるように叩いたんやから、当たり前や」
「だからって、突き飛ばすことないじゃん!」
「それは今の発言の前の話やろ」
「どーだっていーの! ごとーは痛かったんだからね!」

裕子は目を細めて居心地悪そうに首筋をさする。

「中澤裕子、であってるよね?」

ベシッ

また叩かれていた。
174 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:44

「痛いってば!」
「名前は合うてる。けど、呼び捨てにされるんはムカツク」
「裕ちゃん、なら怒んない?」
「んーまぁ」

真希は叩かれた頭をさすりながら、自分よりも背の低い、
でも年上の予備校講師の顔をじっと見つめる。
亜弥はふたりの様子がどうにも気にはなったが口を挟むこともできず、
ただ黙って見つめているだけだった。

「裕ちゃん、ごとーのこと、覚えてないの?」

やや不安そうに真希がその言葉を口にした。
それは、亜弥も知りたかったことだ。
このふたり――少なくとも、真希は裕子のことを知っているようだったから。
175 名前:道化芝居 投稿日:2004/09/26(日) 23:45

「んー、や」

考えるようにしていた裕子。
しかし、その瞳が正面にいた真希を捕らえたとき。
それがきらりと光ったように亜弥には見えた。

「覚えてるよ」
「はー、だよね、覚えてたらそんな態度……って!?」
「覚えてる」
「ホントに? 今思い出したとかじゃなくて?」
「覚えてるって。最後に会うたときは、まだ中学生やったなぁ」

にやり。
笑うその顔は、明らかにからかっておもしろがっている顔だった。

「久しぶりやな、ごっちゃん」

 ◇ ◇ ◇
176 名前: 投稿日:2004/09/26(日) 23:52

更新しました。
彼女が初登場です。


レス、ありがとうございます。

>>155
見つかっちゃいましたw
彼女の過去は、うーん、ちょっと先になるかもです。
気にしつつお待ちいただけるとうれしいです。

>>156
まだまだ黒くなるかもですよ〜w
彼女の大変さも、まだ始まったばかりかも(鬼

>>157
ありがとうございます。
果たして彼女の進む道は……?
今後の展開はどうなるやら、ですなぁw
177 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/27(月) 02:33
更新お疲れ様です。

おぉ〜〜っ!!・・・っておおぉっ!?
ごっちん・・・君に一体何が・・・
178 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:40

「でもさー、いきなりぶっ叩くのはひどいと思うんだよね」

夜のファミレス。
平日のそこそこいい時間になっているというのに、客の数は多くにぎやかだ。

亜弥の隣には真希が座り、文句を言いながらチョコパフェをほおばっている。
正面には裕子が座り、コーヒーの入った白いカップを持ち上げている。
その口元は両端が持ち上がり、余裕の笑みを浮かべている。
そして亜弥は、真希を横目にアイスティーをすすっていた。

どうして自分がここにいるのか。
理由はわかっているが、理屈がわからない。

裕子と真希が予備校の廊下でぶつかった後、
すぐに予鈴がなってしまったので、ふたりはロクに話もできなかった。
今話ができないなら、授業が終わった後に話がしたいと真希が言い張って、
あげく、約束してくれないなら授業に行かせないとまでも言い出したので、
すべての授業が終わった後に、会うことになったのだ。

なったのだが、なぜか亜弥までも強引に引きずり込まれて、
今こうしてここにいる。
179 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:40

「いきなり飛び出してこられたら誰やって自己防衛するやろ」
「けどさぁ、あれ、一歩間違ったらラリアット状態になってたと思うんだよね」
「もうちょっと穏便な再会方法選んでほしかったんやけど」
「でもさぁ」
「ほしかったんやけど?」
「……ごめんなさい」
「ん」

負けたのは真希だった。
裕子の言うことは正論だし、亜弥にはどういう状況になっていたのかまではわからないが、
いきなり飛び出されれば驚くのは当たり前。
真希もそのことについてはそれ以上は何も言わなかった。

それにしても、このふたりはどういう関係なんだろう。
そもそも、どうして自分はここにいなければいけないんだろう。
話なんて、ふたりだけですればいいことなのに。
180 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:41

「あのぅ」

アイスティーがほとんどなくなってから、亜弥はおそるおそる声をかけた。
真希がパフェを食べていた手を止めて、亜弥を見やる。

「あたし、帰って……」
「ダメ」
「な、なんで? ふたりのほうが、話、しやすいと思うんだけど」
「もう遅いし危ないし、ごとーが送ってくし」
「でも、ごっちんの家、逆方向だよ? ごっちんだって危ないと思うんだけど」
「ごとーは力あるからへーき」
「意味わかんない」

ぐじぐじと言い合っていると、笑いの息が漏れ聞こえた。
裕子へと視線をやると、頬杖をついて亜弥たちのほうを見ていた。

「裕ちゃんからもなんか言ってよぉ」
「なんか言うてもなぁ。アタシ、去るものは追わず主義やし」
「ぶぅ」

口を尖らせて、真希はまた亜弥を見る。
181 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:41

「いいじゃーん、久しぶりに会ったんだからさぁ」
「でも……あんまり遅くなると……」
「大丈夫だよぉ。お母さんにはごとーがちゃんと説明するから」
「……ぅんん……」

あまり遅くなったところで、亜弥の母親はとやかく言わない。
早く帰ってくるくらいなら、予備校で勉強でもしてきなさいという人だ。
だからといって、午前様というわけにはいかない……のだけれど。

「あ」
「ん?」
「あ、や、何でも……」

そういえば。
この間、ホテルに泊まることになってしまったあの日。
午前様どころか朝帰りになってしまっていたのだが、母親は何も言わなかった。
それとなく探りを入れたら、どうやら裕子が先手を打って連絡していたらしいのだが、
そのことにお礼を言うのを忘れて……忘れて?

 って、お礼なんて言う必要ないんじゃん。
 そりゃ、ついてったのはあたしだけど、けど……。
182 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:43

「まっつー、まっつー?」
「あ、え、うん、何?」
「もー、どーしてふたりともごとーの話をちゃんと聞こうとしてくんないのさ!」

真希はふてくされたまま、机に突っ伏してしまう。
あごを机につけて歯噛みをするから、ガツガツと鈍い小さな音がする。

「聞くから、ちゃんと聞くから」

なだめるように肩に触れると、真希が首だけ動かして亜弥を見た。

「ホントにー?」
「ホントに、ホントに」
「もー帰るとか言わない?」
「言わないから機嫌直してよ、ね?」

納得したのか、真希がえへへぇと笑い声を上げて体を起こす。
183 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:43

それにしても。
小さくため息を漏らしながら、亜弥は真希と裕子を見比べた。
こんなにも子供っぽい仕草を見せる真希を、亜弥は初めて見た。
美貴と同じように、真希も自分や美貴の前では普段人には見せないような砕けたところを見せる。
少し甘えん坊になってみたり、わがままを言ってみたりなんてことはいつものことだ。
それでも、ここまで駄々をこねたところは今までには見たことがなかった。

それは久々に会ったからなのか。
それとも、裕子が目の前にいるからなのか。
このふたりの関係が、ますますわからなくなる。
といって、自分から聞くのもなんだかおかしい気がする。
けれど、好奇心は押さえられず、ついつい裕子をこっそりと見てしまう。

と、それに気づいたわけでもないのだろうが、裕子が顔を上げた。
そこでバッチリと目があってしまう。
あわててそらしてみても、それがムダなことはわかっている。
それでも、そうせずにはいられなかった。
184 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:44

「まっつーと裕ちゃんは、知り合って長いの?」

そんな亜弥の心の葛藤に気づいたわけでもないのだろうが、真希がのほほんと声をかけてきた。
裕子を見ると、どうも真剣に答える気はないらしく、カップに口をつけて亜弥を見ている。
つまりは、自分に答えろ、ということなのだろう。

「……初めて顔見たのは予備校入ってからだし。知り合いっていうほど親しい……わけじゃないし」
「ふーん」

にやりと裕子が笑ったのが見えた。
危うくどもりそうになって、それでも平静を装いながら亜弥は言う。
ひとつ気になるのは、真希が気づいていないかということ。
何しろカンのいい相手だから、裕子との間に何かがあったと見抜かれる可能性は低くはない。
幸い、今回は気づかれなかったようで、真希はまたパフェに視線を戻していた。

「……ごっちんは、中澤センセイとは?」

思わず口をついて出ていた。
話の流れとしてはおかしいことはない。
むしろ、ここでそれを聞かないほうがおかしい気がする。
そんな風に言い訳をしてみたけれど、単純に自分の好奇心のなせる業であることを、亜弥は知っている。
だから、言った直後に自己嫌悪に陥ってしまったのだが、真希はそれに気づく様子はない。
185 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:44

「んー? 長いっちゃ長いのかな。知り合ったのは小学生のときだよね?」
「そういや、ごっちゃん、ランドセル背負っとった気がする」
「だよね、だよね。んで、裕ちゃんが引っ越しちゃう中学2年生のときまで隣のおうちだったんだよね」
「そうやな」

ウェイトレスにコーヒーのおかわりをもらった裕子は、
真希と視線を合わせて口元に笑みを浮かべたまま、ゆっくりとしゃべる。

その口調は、久々に会ったということを喜んでいるわけでもなく、
といって、真希をうっとうしく思っているわけでもない、そんな奥の見えないしゃべり方。

そうだ。
裕子はいつもこんな風にしゃべる。
笑顔のまま、口調も穏やかで、普通にしゃべっている分にはなんとも思わない。
けれど、深い思いを持ってしまっていた亜弥には、そこにまったく差異がないことが気になった。

出会ってたった1年、あんな仲になってしまって、ほんの数週間。
そんな人間と、久々とはいえ隣同士で付き合いのあった子に対する態度がまったく同じなんて。
いったい何を考えているのだろう。
186 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:45

「で、どう?」
「ん、何が?」
「5年ぶりにごとーに会ってみて」

真希の問いかけに、裕子はますます笑みを深くした。
だけどそれも、何度も見たことのある微笑み。
まるで、精巧に作られた仮面を見ているようだった。

「あんま、変わっとらんな」
「えー、うそぉ」
「髪が黒うなった」
「そーじゃなくってさぁ」

ぼんやりとふたりのやり取りを見ていると、不意に裕子の視線が亜弥に向いた。
危うく体を引きそうになって、何とか押し留まる。

「知っとるか? この子、中1のときに頭真っ金々やったんやで?」
「ふぇ?」
「あー、裕ちゃんそれは内緒だよ!」
「もう言うてしまったわ」
「こっちでは品行方正なのにぃ」
「ウソつけ」

ぶぅ、と真希がまたふてくされる。
それにしても、高校時代は校内でも1、2を争う成績を誇り、
マイペースながら周囲からの人望も厚かった真希が頭真っ金々とは……信じられない。
187 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:45

「引っ越すときにはこの子の将来どうなるんかって心配やったけど。
なんや、まっとうな道に進んでくれたみたいで、一安心や」
「……心配してくれたなら、一緒に連れてってくれればよかったのに」
「アホ言いな」
「……ごとーは本気だったよ」

真希の声のトーンが落ちる。
さっきまでのふざけた調子はどこへ行ったのか、まっすぐに裕子を見つめる。
そんな真希に、裕子は音もなく目を細めた。

「あんときはな。けど、今はもうおんなじセリフ、言えへんやろ?」
「……そだね」
「それに、アタシと一緒におったら、もっとヤバいほう行ってたって」
「けど、裕ちゃん、今ちゃんと予備校の先生やってんじゃん」
「ちゃんと、ねぇ」

裕子からの視線を感じた。
いや、気のせいかもしれない。気のせいだろう。
そんなことをしたら、真希に気づかれないわけがない。
そんな愚かなマネを、裕子がするとは思えない。
いや、するだろうか。するかもしれない。
ありえないと思うことを、あっさりとやってのけてしまう人だから。
188 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:45

「ね、裕ちゃん。5年経って、ごとー変わった?」

けれど、真希はそんな様子に気づくことなく話を進める。
ふっとまた息の漏れる音が聞こえてきた。

「せやな、大人になったな」
「もう子供じゃないよ。自分の言ったことだって、ちゃんと理解できる」
「うん」
「……だからさ、答えてくれるよね」

なんだか深刻な話になってきたような気がして、亜弥は息を詰める。
ここに自分がいてはいけない気がする。
といって、いろと言ったのは真希のほうで。
その真希は、自分がここにいることをわかっているのだろうか。
わかっていて、こんな深刻な話をしているのだろうか。

「あの……」

声をかけると、不意に右の手首を握られた。
視線を送ると、そこはしっかりと真希の手があった。
189 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:46

「いて。ここにいて」
「ごっちん」
「ここにいて、裕ちゃんの言葉、ちゃんと聞いて。証人になって」

言っていることを、亜弥は理解できなかった。
証人になれ、とはどういうことだろう。
このふたりの間にはいったい何があったというのだろう。
最後に会ったのは中学生のときだったというから、
まさか……自分とのようなことがあったわけではないだろうが。

「証人って……」
「裕ちゃん。答えてくれるよね? 覚えてるよね?」

裕子は静かにうなずいた。

「答えはノーや。アンタとは付き合えん」

ためらいもなく、裕子は淡々と告げた。
言葉によどみは一切ない。
表情も笑顔こそ消えてはいるが、深刻さは感じられない。
授業をしているときの、その顔となんら変わりはなかった。
190 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:47

ふっと、握られていた手首が自由になった。
真希の顔は、さっきまでの真剣なものと変わってはいない。
ショックを受けたというほどではないところをみると、最初から予想していたのかもしれない。
裕子の言う、その答えを。

「……理由、聞いてもいい?」
「言ったところで納得なんてせんのやろ? せやったら言うだけムダや」
「でも……」
「聞くだけムダや、あきらめぇ」
「でも!」

やれやれといった風に肩をすくめて裕子は息をついた。

「理由はひとつ。1回寝た子と2度寝る趣味がアタシにはないから。それだけや」
「……裕ちゃん……」
「1回でええっちゅうんやったら、付き合うけど? どうする?」

真希の指が亜弥の手首に触れている。
その指先が小刻みに震えているように感じたのは、気のせいだろうか。
あえて目で見て確認はしなかったけれど、真希の気持ちは亜弥にも少しはわかる気がした。
191 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:47

「別に今すぐ答え出せぇとは言わへんけど。アタシは追いもせんし待ちもせん。
アンタが納得のいくようにしたらええ」

しばらくの沈黙の後、真希が何も言わないのを確かめて、裕子は伝票を手に立ち上がった。

「ぼちぼち帰ろか。アンタらは明日も学校。アタシも仕事や」

その声に導かれるように真希がゆるゆると立ち上がる。
それを支えるように、その腕に触れながら亜弥も立ち上がった。
裕子は一足先にレジに行き、精算をしている。
ゆるゆるとしたペースでレジへと近づいた真希と亜弥に一瞥をくれると、
精算が終わったのか、サイフをカバンへとしまいこんでドアを開けた。

「送ってくから。どっちのが近い?」
「あ、えっと……ごっちんのほうが」
「ん。ならごっちゃんが先でええか?」
「あ、はい」

通りがかったタクシーを手馴れた感じで拾うと、裕子は前の座席に、真希と亜弥が後部座席に座った。
裕子が振り向くよりも先に、真希が行き先を告げる。
タクシーは静かにスタートして、車内には息が詰まるほどの沈黙が流れ始めた。

 ◇ ◇ ◇
192 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:48

「……送ってくれて、ありがと」
「おやすみ」
「ごっちん……また、メールするね」
「あ、うん、ありがと」

小さく手を振る真希を残して、タクシーはまた静かに走り出す。
裕子は真希を降ろして後部座席に移り、今は窓の外を見つめている。
亜弥は自分のほうの窓に映る裕子の輪郭を、そっとなぞった。
そんなことをしている自分に気づいて、急に恥ずかしくなりあわてて手を離す。
これじゃあまるで、恋する乙女みたいじゃないか。

恋――。
これも恋というのだろうか。

彼女を探し求めているのも、欲しているのも事実だし、彼女を知りたいとも思う。
1年と少しの間に見た以外の顔を見てみたいと思うし、よどみのない言葉をよどませたいと思う。
ほとんど完璧に近い彼女という存在を、一度でいいから打ち崩してみたいと思っている。
ただ、そうすることで何を求めているのかといえば、それがわからない。
彼女が自分だけを見てくれることはないとわかっているし、それを望んでいるわけでもない。
けれど、この間、別の誰かとキスしているところを見たときは、確かにショックだった。
だからといって、じゃあ彼女ともう一度キスがしたいとか、
ましてやそれ以上のことがしたいなどとは考えたこともない。

この気持ちはいったいなんだというのか。
193 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/10(日) 21:49

「センセイ……?」
「んー?」

声をかけても、裕子はこちらを見なかった。
窓の外を流れていく景色に視線をやっているだけ。
その横顔が、時々すれ違う車のヘッドライトに照らされて浮かび上がる。

声をかければ答えてくれる。
その声音によどみはない。迷いもない。ためらいすらない。
驚くとか困るとか、そういうことをしたことはないのだろうか。
いったい彼女は何をしたら驚き困惑するというのだろう。

それがわかれば、彼女の謎を解く手がかりになるような気がしたが、
といって、そんなことを本人に聞いたところで答えてくれるはずもない。

亜弥は言いかけた言葉を飲み込んだ。
結局、彼女についての謎は深まるばかりでしかなかった。

 ◇ ◇ ◇
194 名前: 投稿日:2004/10/10(日) 21:51

更新しました。
なんかいろいろと、な感じです。


>>177
レス、ありがとうございます。
ごっちんにはこんなことが起こっておりました。
別にこういう役回りをさせたいわけではないんですが(汗
ごめん、ごっちん。
195 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/11(月) 00:07
うわー…後藤さん今回も(?)強烈な役どころになりそうですな。せつない。
自分にとまどう松浦さんの素直さが好きです。そして中澤さん黒いわやっぱ。
196 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/11(月) 14:58
更新お疲れ様です。
なんだか黒い雲が渦を巻いてますね。
続きがとても楽しみですよ(w
197 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/25(月) 01:07

ピンチだってチャンスだって、想像していないことはいつも突然訪れる。

そして、今まさに、亜弥は自分でも想像していなかった事態に陥っていた。

 なんで、あたしは、ここに、いるんだろう。

こっそりと電柱の陰、壁に身を寄せながらひとりごちてみる。
当然、それに答えてくれる人間はいない。
そもそもいたらこんなことはしていない。

ため息をつきながら、それでも亜弥は任務を遂行するべく視線を走らせた。
その視線の先にあるのは、大きな総合病院。
万事健康な亜弥はとかくお世話にならないようなところだ。

なんでこんなところに亜弥がいるのかといえば、
それは、裕子と真希と3人で会ったその翌日の出来事までさかのぼる。

 ◇ ◇ ◇
198 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/25(月) 01:08

あの日、裕子と別れて部屋に戻ってから、それを見計らったかのように
真希から電話がかかってきた。
一瞬、電話に出るのを亜弥はためらってしまった。
だって、別れ際のあの態度。
震えていた指先。
何を言ったらいいんだろう。
そもそも、裕子とのことを追及されたらどうすればいいんだろう。

それでも、元気印の真希の、落ち込んだような顔が気になって。
亜弥は通話ボタンを押していた。
けれど……。

『まっつー!』
「うぁ、何!?」
『裕ちゃんのこと、教えて!』

電話口から聞こえてきたのは、さっきまでの態度とはまったく違う真希の声。
がう、とかみつかんばかりに身を乗り出している真希の姿が目に見えるようだった。
199 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/25(月) 01:09

『教えて!』
「や、その、あの……あ、あたしも、よく知らないし」
『けど! ごとーよりは知ってるよね!?』
「そ、そりゃ……たぶん」
『それでいいから、教えてよ!』

うむむむむ、とひとしきり悩みながら、
亜弥は懇願する真希に自分が知っている範疇での裕子の情報を話して聞かせた。
とりあえず、その、女癖が悪い、というところだけは省いて。

『そんだけ?』
「……そんだけ」

しかし、女癖が悪いところを省いたら、亜弥は裕子のことを全然知らなかった。
知っていたのはフルネームと職業。予備校で教えている教科。ただ、それだけ。
住んでいるところさえ知らない。
いつからこの街にいて、いつからあの予備校の講師をしているかさえ知らないのだ。

『そっかぁ……』
「ごめん……」
『や、まっつーが悪いんじゃないし』

はふーと息をつく音が聞こえた。
しばし、沈黙が流れる。
コチコチと部屋の中の目覚まし時計が時を刻む。
200 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/25(月) 01:10

『まっつー』
「うん?」
『ごとー、裕ちゃんのこと、ずーっと好きでさ。一目ぼれ? そんな感じで』
「うん」

突然話し出した真希に戸惑いながら、それでも亜弥は静かに答えた。
好き、というその言葉が胸をうずかせる。
真希がもし、自分と裕子の間にあったことを知ったら、どうするだろう。
後悔しているつもりはなかったけれど、
真希と裕子がこんなふうにつながっているとは知らなかったから、
その事実は亜弥の心に影を落とすのには充分だった。

亜弥が裕子を好きで、それでそういうことになったのなら、
おそらくは真希は怒ったりはしない。
ただ、事情が事情だけに、どう思うかがわからない。

いつまでも黙っているわけにはいかない。
いつかはわかってしまう。
それなら、自分の口から直接言うべきということもわかっている。
それでも、今はまだ。
それを言うだけの覚悟も勇気も亜弥は持ち合わせていなかった。
事実を理解することだけで手一杯だった。
201 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/25(月) 01:10

『元々裕ちゃん、結構投げやりなとこある人だったんだけどさ、
あそこまでひどくはなかったんだぁ』
「うん」
『だから、引っ越してから何があったのか、ちょっと気になって。
まっつーなら知ってるかもって思ったんだけど』
「……ごめんね、お役に立てなくて」
『あ、ううん。よく考えたら予備校の先生だもんね。学校の先生ほど仲良くは
付き合わないよね』
「うん……まぁ」

はーっとまたため息をつく音が聞こえてくる。

『どーしたんだろうなぁ、裕ちゃん』
「どーしたんだろうねぇ」
202 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/25(月) 01:12

それは、亜弥自身も気になっていたこと。
裕子は確かに女癖はあまりよろしくはないが、それでも悪い人だとは思えない。
言葉の端々からやさしさが垣間見えることだってある。
だったら、なぜ、あんなにも退廃的な行動を取るのか。
まさか、ずーっと昔からそうだったわけではないだろう。
だとすれば、そうなった理由があるはずだ。

『ね、まっつーさ』

静かだった電話口から、真希の声が聞こえてきた。
なんだか、ちょっとだけ、イヤな予感がした。

「何?」
『ちょっと、協力してほしいんだけど』
「何を」
『裕ちゃんのこと』

 ◇ ◇ ◇
203 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/25(月) 01:12

 はー

なんとなくため息をついてみる。
別にそれをとがめる人はいない。

なんで、も何も、自分がここにいる理由なんて、亜弥自身が一番よくわかっている。
あのあと、真希は裕子をしばらく観察してみたいと言い出した。
日常生活を追っかけてみたら、何かああなってしまった理由がわかるかもしれないからと。
ただし、1週間毎日追いかけるのはムリだし、仕事中は追いかける必要もないから、
予備校が終わってからとか、講義が休みのときとか、そういうときだけということになった。

真希は亜弥にまで裕子観察の協力を申し出てきたわけではない。
ただ、予備校の講義が休みの日、終わる時間を教えてほしいと言ってきただけだ。
それがなぜここにいるのかといえば。

今日は真希がどうしても外せないイレギュラーな大学の講義が入ってしまったとかで
裕子をつけられないから、今日だけ変わってくれと言われたのだ。

理由を知りたいと思っていたのは事実で、その誘惑から逃れられず、
結局こうしてここにいることになってしまっている。

しかし……よりにもよって。
真希のいないときに――いや、正確には自分が追いかけているときに――
こんないかにも秘密めいたことをしなくたっていいじゃないか。
204 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/25(月) 01:13

今日の裕子の講義は、いつもよりも早い時間でを終わった。
裕子の講義が最後の講義だった亜弥は、予備校から出て行く裕子をこっそりと追いかけた。
予備校から車で出て行かれたときにはあせったけれど、タイミングよくやってきたタクシーをつかまえて、
裕子の車を追いかけてもらう。

運転手は少しだけ訝しそうな顔はしたけれど、それ以上追及しては来なかった。
そして、裕子がたどり着いた先が、この総合病院だったのだ。

裕子は手馴れた様子で車を駐車場に入れると、そのまま病院の中へと入っていった。
追いかけようかとも思ったけれど、入口はひとつしかなく、ヘタをすると鉢合わせ。
さすがにそれだけはまずいと思って、こうしてこっそり電柱の陰からのぞく、
というアヤシイ状況になっているのだ。

裕子の具合が悪いなどという話は聞いたことがない。
ということは、誰か家族とかが入院でもしているということなのだろうか。
いや、もしかしたら、本命の恋人とかが入院してたりして。
いやいやまさか、それじゃ退院したときにそこらじゅうに遊んだ相手がいるという怖い状況になってしまう。
いくら裕子でも、そこまで愚かしいことはしないだろう。

どんなに考えてみても、裕子がここに来た理由がわからない。

亜弥は腕時計に目を走らせた。
205 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/25(月) 01:13

裕子が病院に入ってから、30分ほど。
目を凝らして見た面会時間は夜の8時までとなっていたから、時間にはまだまだ余裕がある。
1時間も2時間も出てこなかったらどうしよう。
さすがに延々ここにいたら怪しむ人も出てくるかもしれない。

しかし、亜弥の考えは杞憂に終わった。
亜弥が言い訳を考え始めた直後、裕子が病院から出てきたのだ。
入って行ったときよりもゆっくりした歩き方。
自動ドアが静かに開くのが見えた。

そして、裕子はそこから歩み出ると、くるりと振り返る。
ちょうど、裕子の影になってしまって見えなかったが、どうやら誰かいるようだ。
すっと、裕子の手が上がった。
位置と動きからして、頭をなでている感じ。

そんな裕子の様子を、亜弥は息を詰めて見つめていた。
206 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/25(月) 01:14

それも、ほんの数分の出来事でしかなかっただろう。
裕子は手を下ろし、バイバイと手を振ると、来たときと同じように迷うことなく歩いていく。
ちょうど、自動ドアの前から裕子が離れ、その影になっていた人の姿――見えた。
そこで、亜弥は息を呑んだ。

遠すぎて、表情までははっきりとはわからない。
顔かたちも正直アヤシイ。
けれど、その子の着ていたパジャマ、肩から羽織っていたカーディガン、
そして、その子に付き添うように立っている看護師の姿から、
直感的にそれが自分と同じか、それより年下の女の子だとわかった。

裕子の行方は追えなかった。
亜弥はその女の子に気をとられたまま、そこから動けなかった。

その子はどこかへ向けて小さく手を振っている。
おそらくは、去って行く裕子の車に向けてだろう。
そして、気が済んだのかなんなのか、看護師に促されて病院の中へと戻っていった。
207 名前:道化芝居 投稿日:2004/10/25(月) 01:14

「ウソ、だぁ」

思わずつぶやいていた。
その子が誰なのかはわからない。妹なのかもしれない。
いや、それはありえない。
もし、病気で入院している妹がいたら、あんな態度は取らないはずだ。
この病院に来る予備校の生徒もいるだろう。
裕子のことを知っていたら、あの子に伝わることだってありうる。
ならばなおさら、恋人などではありえない。
入院している子を傷つけるようなことを、あの人がするとは思えない。

だけど、だけど。
あの人の行動は予想もつかないことだから。
何を考えているのか、ひとかけらの予想もつかないから。
ならば、ありうるのかもしれない。
あの子が、妹であったり恋人であったりするという可能性も。
208 名前: 投稿日:2004/10/25(月) 01:19

更新しました。
ちょっと違った感じに進んでおります。

>>195
ありがとうございます。
あややの戸惑いをうまくだしていければと思っております。
ごっちんは……たぶんまだまだいろいろ動いてくれます。
そして、ねーさんは……黒いまんまですね(汗

>>196
ありがとうございます。
黒い渦はぐるぐるときっと見えないところでも渦巻いているのではと(汗
期待を裏切らないようがんばります。
209 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/25(月) 16:57
う〜ん、姐さんの謎は深まるばかりですね…。
210 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/25(月) 18:30
うう〜〜〜〜っ!!
続きが続きが・・・・気になるぅ〜〜〜〜!!!
211 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:21

どうしようか。
ぐらぐらと思考を揺らしたあとで、亜弥はキッと顔を上げた。
黙ってここにいて、何かがどうにかなるわけじゃない。
誰も何も教えてくれるはずはない。
だったら、自分から行動しよう。
そうするしかない。

そこにある真実を知るのは怖いけど。
知ろうとしないで悶々とした気持ちを抱えているのはもっとイヤだ。
とにかく動いてみよう。
後悔だけはしたくないから。

亜弥は自分に喝を入れて、病院へと足を進めた。
212 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:22

ガーと自動ドアが開く。
一瞬、さっきの子がいるかもしれないと思って、周りを見回してしまった。
しかし、亜弥の期待もむなしく、ロビーにはあの女の子の姿は見当たらなかった。

病院の待合室は広くて明るかった。
人の出入りもそれなりに多く、にぎやかだ。

さて、入ってみたはいいものの、亜弥はどうしたらいいかわからなかった。
あまりきょろきょろしていたら不審がられるだろう。
といって、見舞い客でもないし、おいそれと病棟に近づけそうもない。

どうしたものかと考えて、行った先はトイレ。
人がいなくて落ち着いてものを考えられる場所が、ここしか思いつかなかった。

洗面台の鏡と向き合う。
自分の持っている情報はあまりにも少なすぎる。
もし、さっき見かけた子がパジャマを着替えてしまったら、もう見つけ出すことはできないだろう。
病院の人に裕子のことを聞けば、何か教えてくれるかもしれないが、それでは裕子に伝わってしまう。

それは避けたかった。
自分はともかく、真希が何か言われてしまうのは耐えられなさそうだったから。
213 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:22

ふーっと息をついたところで、いきなりドアが開いた。
そこから顔を出したのは、ひとりの看護師。
亜弥と目が合って、きつくしかめていた表情をすっと緩める。

「ごめんなさい、おどかしちゃって」
「……あ、大丈夫です」
そのまま看護師は立ち去りかけて、何を思ったのか、もう一度亜弥の顔を見た。
「あ、この辺で女の子見なかった? あなたとたぶん、同じくらいの歳だと思うんだけど」

その言葉に、亜弥の脳裏に浮かんだのは裕子が会っていた彼女のことだった。

「あの、その子って――」

さっきの子の特徴を口にしてみる。
着ていたパジャマとカーディガンの色。
それを聞いていた看護師の顔がパッと明るくなった。

「そう! その子なんだけど。どこかで見かけた?」
「あ、あの……あたしも探してるんです。お見舞いにきたんだけど、病室にいなくって」
「あ、そうなんだ」
「そう、なんです」

おそらく、年が近かったせいだろう。
咄嗟に考えたウソだったが、看護師は疑いもしなかった。
214 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:23

「あの……こういうこと、よくあるんですか?
あたし、お見舞いに来るの、実は初めてで。なかなか来れなかったから」
言い訳じみた言葉を口にしても、看護師は疑うそぶりは見せなかった。
「うーん……時々ね。ひとりで病室にいると退屈なんだろうなって思うんだけど」
「……あの、あたしも探しても、いいですか?」
思うでもなく、口から言葉が出ていた。
看護師はそれほど迷った様子も見せなかった。

「そうね、お願いしようかな。お友達のほうが出てきてくれるかもしれないし」
「わかりました」
「見つかったらナースセンターに連絡するか、その辺の人つかまえて教えてね」
「はい」

別れ際、念のためその子の部屋番号を聞いて別れる。
ウソの積み重ねも、咄嗟のウソも亜弥にはほとんど経験のないことだった。
それでもこんなにすんなりと言葉にできて、すんなりと信用されたことが
ちくちくと胸を痛ませる。

なんで、あたしはこんなことしてるんだろう。
センセイのことを知って、どうしようっていうんだろう。
確かに気になることはたくさんあるけど、それはたぶん知らなくてもいいこと。
だけど、知りたいと思ってしまう。
あたし――センセイのこと、好き、なのかな。
……わかんないや。
215 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:24

ぶるぶると頭を振って、亜弥は看護師のあとを追いかけた。
屋上にはカギがかかっているから入れないことと、
診察室にはいつも人がいるから1階にはいないだろうこと。
ナースセンターの前を通ると目立つから病棟から出てはいないだろうことを教えてもらって、
ひとりで病棟に足を踏み入れる。

病棟は、待合室よりは静かだった。
それでも、時々人の笑い声や話し声が聞こえるし、人とすれ違うこともある。
病院の病棟というものに入ったことがない亜弥にとって、この光景は新鮮で、
油断するときょろきょろと見回してしまいそうになる。
それを何とか抑えて、できるだけ普通の見舞い客を装いながら、ゆっくりしたペースで足を進める。

彼女はいったいどこに隠れているのか。
自分だったらどこに逃げるだろう。

よくドラマやマンガでありがちな屋上に逃げるという手は使えない。
といって、1階は人の出入りも激しいし、診療室もあるから行かないだろう。
ほかの患者の部屋……相当仲がよければ、それもありうるかもしれない。
でも、そうされていては、こっちは探しようがない。
あとの可能性は、とにかくあちこちを動き回って逃げるということ。

その可能性が一番高そうだと思って、あたりを見回しながら歩いてみたものの、
それらしい人の姿はない。
それなりに職員の姿を見かけるから、おいそれと逃げ回るということもできないのかもしれない。
216 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:25

亜弥はむむうと悩んで、とりあえず、一度その子の部屋に行ってみることにした。
少なくとも部屋に行けば、ネームプレートがあるだろうから、名前くらいはわかるはずだ。
名前がわかったところで、だから見つかるというわけでもないのだが。

看護師から教えてもらった部屋番号は502号室。
エレベーターに乗りこむと、5のボタンを押す。
途中、何人もの人が降りていき、最終的に5階で降りたのは亜弥ひとりだけだった。

降り立ったフロアは、ほかとはなんとなく違っているように見えた。
ドアの数が少ない。人の数も少ない。個室オンリーの階なのだろうか。
だとしたら、入院している彼女は、もしかしたらお嬢様とかだったりするのかもしれない。

そんな先入観たっぷりのことを考えているうちに、亜弥は目的の病室へとたどり着いていた。
ネームプレートがドアの脇に備え付けられている。
少なくとも、名前を知るという目的だけは果たせそうだ。

そのプレートを見上げようとして、亜弥はふっと部屋の中に人の気配を感じた。

なんとなく、開けっ放しになっていたドアから中をのぞきこむ。
そして、亜弥は目を丸くした。

――亜弥の視線の先には、同じように目を丸くした女の子がいたから。
217 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:26

「あ……」
「……おねーさん、誰?」

亜弥が何かを言い出すより先に、その女の子が声をかけてきた。
少し、高い声。
怪訝そうに眉を顰めて亜弥を見ている。

「あの……」
「そこにいられると目立つから、中、入ってください」
驚きで立ち尽くしていた亜弥の前に、その子はあっさりと寄ってきた。
亜弥の手首をつかむと、部屋の中へと引っ張り込んで、すぐにドアを閉めてしまう。
そして、呆然とする亜弥を横目に、ベッドの上にぽんと飛び乗った。
少し高い位置から、やはり怪訝そうな顔で亜弥を見る。

「おねーさん、誰ですか」
もう一度呼びかけられて、亜弥は落ち着きを取り戻し始めた。
お姉さん、と呼ばれるほど年は離れていないと思う。
おそらく、ひとつかふたつ、この子のほうが年下というところだろう。

そして、その子の格好を見て、亜弥は一瞬だけ目を閉じた。
218 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:27

そのパジャマも、ベッドの上に投げ出されたカーディガンも、
裕子の会っていた女の子が着ていたものと同じものだ。
いくら病院にたくさんの患者が入院しているとはいっても、
同じ服を着ている子がいる可能性は、限りなく少ない。
だとすれば、90%以上の確率で、この子が裕子の会っていた子なのだ。

「おねーさん?」
「あ、えと……ごめんなさい。なんだか、ちょっと、迷っちゃったみたいで」

なんとなく、自分の名前を言うのは気が引けた。
といって、即座に思い浮かんだ名前が真希のものでは、言うわけにもいかなかった。
それでも、その子はふーんと軽く言ってうなずいた。

「この病院、広いですもんね。おねーさん、ここ来るの、初めてだ?」
「あ、うん」
ふにゃりと彼女の表情が崩れる。
素直にかわいいと思ってしまった。

美貴や真希とは違ったかわいさを感じるのは、彼女が年下だからだろうか。
たぶん、美少女の類に入るくらい整った顔立ちなのに、
どこかとっつきやすい、おっとりした感じを見せる。
黙っていたらきつそうに見えるその少しつりあがった目も、
黒目がちな瞳が緩和してくれている。
219 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:27

「おねーさん、忙しい人?」
「え?」
不意に言われて、亜弥は目をぱちくりさせた。
彼女はふにゃんと幼い笑みを亜弥に向けている。
「絵里ね、今すっごいヒマなんですよ。誰も相手してくれないから、
もしよかったら、ちょっと相手してくれないかなって思って」
「あ、うん、いいけど」

ほとんど反射的に答えていた。
そこには、裕子のことも何もなかった。
ただなんとなく、彼女と話がしたいと思っただけだ。

それでも、すぐに裕子のことが頭をよぎって、少し気持ちが重くなる。
きっと、話をしているうちに、裕子のことを知ろうとする。
なんとか聞き出そうとする。
屈託なく笑う彼女への裏切りのような気がして、
それでいて、それを避けられない自分の弱さを感じて、そっと亜弥はため息をついた。
220 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:28

「とりあえず、座ってください」
勧められてイスに座ると、ベッドの上の彼女を見上げるような位置になる。
「あ、あのさ、看護師さんが……」
「あー、探してたんでしすよね? 知ってますから」
「かなり真剣に探してたみたいだけど、どこに隠れてたの?」
「ずっとここにいましたけど」

事もなげに彼女は告げた。
灯台下暗し。
おそらく、彼女は一度看護師が探しに来た病室に戻ってきていたのだ。
そして、一通り探し終えないと、ここを探しには来ないと知っていたのだ。
賢いというかなんというか、頭の回転の速い子には違いない。
思っているよりはおっとりしているわけではないのかもしれない。

そんなことをぼんやり考えていると、にっこりと彼女が笑った。
221 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:28

「おねーさん、名前、聞いてもいいですか?」
「あ、亜弥、だけど」
苗字を言わないのはおかしいかなと思ったけれど、彼女はそれを気には留めなかったようだ。
「亜弥さんかぁ。かわいい名前ですね」
「あ、ありがと。えっと、あなたは絵里ちゃん、でいいのかな」
「あれ、名前教えましたっけ?」
「さっき、自分のこと、絵里って言ってたから」
「あ、そっか」

それが耳に残ったのは、美貴と同じだったからだ。
美貴と同じように、自分を名前で呼ぶ。それが印象に残った。
……そういえば、自分の周りには美貴といい真希といい、自分自身を個性的に呼ぶ人が多いな。
関係ないけれど、亜弥はそんなことも考えてしまっていた。

「亜弥さんは、高校生ですか?」
「あ、うん。高校3年生。絵里ちゃんは?」
「絵里は……一応、高校1年生なんですけど」
「一応?」
「学校行ったり行かなかったりだから」
「え?」

絵里はちょっと決まり悪そうにまた笑った。
それから、とんとんと自分の胸のあたりを軽く指差して、亜弥を見る。
222 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:29

「ここが悪くて」
「ここ?」
「心臓」

あまりにも軽く言われて、亜弥はそれがどういう意味なのかをすぐに把握できなかった。
それでも、とんと指差された先を見て、その意味を理解する。
理解した途端、心臓がギュッとつかまれたような気がした。
絵里はそんな亜弥の様子には気づかないようで、そのまま話し続ける。

「生まれたときからなんですよ。だから、子供の頃から体弱くって、しょっちゅう入院してたんですけど、
それでも最近はよくなってて。でも、高校入ってからまたちょっと体調崩しちゃって。
なんとか入院せずにがんばってたんだけど、無理がたたっちゃったみたいで」

あははと無邪気に笑うその姿には、悲壮感はひとかけらもない。
顔色だって悪くは見えないし、こうして向かい合っている限り、
亜弥の後輩たちと何も変わらない。
それなのに、なぜか亜弥は悲しい気持ちに包み込まれていた。
心臓がドキドキと激しく鼓動を打ち始める。

「わ、そんな顔しないでください。ホントはね、手術すれば治るんです。
そんなに難しい手術でもないらしいし。だけど……なんか、別にしなくてもへーきなときはへーきだし、
いっかなーとか思って」
絵里は笑顔を崩さない。
その裏にどんな意図があるのか、それは亜弥にはわからない。
ただ、こうして絵里が笑っているのだから、自分も笑わなきゃいけないと、なぜだかそう思った。
223 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:30

にこにこと微笑みんでいる絵里を見て、ふっとここに来た目的を思い出した。
彼女が裕子と会っていた子に間違いはないと思うけれど。
100%の確証は得られていない。
といって、ここで彼女に問いかけるわけにもいかない。
どうしよう。
……どうもしなくてもいいか。

なんだかそんな気持ちになっていた。
いくら裕子が何を考えていて、どう行動するか予測もできない人で、
こんな心臓の悪い子が聞いたらショックを受けるんじゃないかってことをしていたとしても、
自分から、負担になるようなことは言い出したくはなかった。
いつかはきっと絵里も知ってしまうことかもしれないけれど、
それでも少しでも先に延ばせるならそうしたかった。
短い時間しか話していないけれど、亜弥は絵里を好きになり始めていたから。
けなげで、まっすぐで、それでいて強さを秘めた彼女のことが。

だから、それは本当に予期しない出来事だった。
不意に、絵里がまた問いかけてきたのだ。
224 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:30

「そういえば、亜弥さん、3年生ってことは受験ですよね?」
「あ、うん」
「受験勉強とかって、大変ですか?」
「うん、まあね。だから、予備校通ってるんだ」
「予備校かぁ」

しまった。
そう思ったときはもう遅かった。

「予備校っていえば、お姉ちゃん、予備校の先生だ」

絵里の口からは、亜弥が求めていたものが、そして拒絶したものがこぼれ落ちていた。

「へ、へー、そう、なんだ」

お姉ちゃん。
それが、裕子と絵里の関係か。
225 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:33

「亜弥さん、どこの予備校なんですか?」
「あ、えっと……」
亜弥は咄嗟に大手の予備校の名前を口にしていた。
この予備校なら、だいたいどこにでもあるし、別にあやしまれはしない。
「あ、そっか、じゃあお姉ちゃんの予備校とは違いますね」
「予備校も、いっぱいあるからね」
「そうなんですかぁ」
「うん、すごくいっぱいあるよ。おっきいとこから小さいとこまで」
「へー」

高校生になりたてでは、予備校事情に詳しくないのも仕方がない。
亜弥だって、高校に入学したばかりの頃は、テレビのCMで流れるような大手の予備校しか知らなかった。
だけど、街の中を探せば大中小と様々な予備校やら塾やらがある。
選ぶのは自分次第というのも、予備校を見学しまくってしったことだ。

「お姉ちゃんは……えっとなんだっけ、予備校の名前、忘れちゃったや。
でも、予備校で英語教えてるんだって言ってました」
さっきまでの決意はどこへやら、亜弥の心の中にはまた裕子を知りたいと思う願望が顔を出してきていた。
今なら……今なら彼女のことを聞くことができる。
それも、絵里に不審がられないで。
そう思ったら、言葉は勝手に口からこぼれ落ちていた。
「じゃあ、絵里ちゃんも英語の成績はいいんだ?」
その言葉に、絵里はおおげさに胸をかき抱く。
「うわっ!」
226 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:34

亜弥が目を丸くしていると、絵里はカシカシと照れくさそうに頭をかいた。
「やー、実は英語、一番苦手なんですよぉ」
その仕草がなんだかかわいくて、亜弥は思わず笑っていた。
「お姉さんから教わってないの?」
「お姉ちゃん、自分の教え方は厳しいから絵里には向かないって言って教えてくれないんです」
「あらら」
「ひどいですよねぇ」
ぷーっと頬を膨らませて、絵里は不満そうな顔をしている。
でも、それも一瞬で、少しさみしそうな顔に変わる。

「でも、しょーがないんです。だって、絵里とお姉ちゃん、一緒に暮らしてるわけじゃないから」
「あー、そうなんだ。もうひとり暮らしなんだ?」
絵里は亜弥の言葉にふるふると首を振った。
「お姉ちゃんって言っても、本当のお姉ちゃんじゃないから」
「え?」
「あ、や、そういう意味じゃなくて。マンションの隣に住んでるだけなんです。
だから、全然他人で。でも、うち両親が共働きで忙しいから、
時々ごはん一緒に食べてもらったりとか、ヒマなときはいろいろお世話してもらったりしてて」
「あ、なるほど」

かなりあせった。
何か、とんでもなく深くて暗い事情があるのかと思ってしまったが、
どうやらそういうことではなくて、亜弥はほっと息をついた。
227 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:34

「今日もお見舞いにきてもらっちゃいました」
えへへ、とうれしそうに言う絵里を前に、亜弥は目をぱちくりさせた。
そうか、やっぱり裕子が見舞っていたのはこの子で間違いはないのだ。
だけど、そこには大きな事情も裏の事情もなく、それは純粋な親切だった。
だから、ひとしきり目をぱちくりさせてから、亜弥はこっそりと息をついていた。

それから、そんなことをしていた自分に気づいて、そっちのほうに動揺していた。

いったい自分は何に安心していたのか。
絵里が裕子の恋人じゃなかったことに?
ふたりの間に深い関係がなかったことに?
それに安心して、それで何を得た?

さっきの疑問が頭の中によみがえる。

あたし――センセイのこと、どう思ってるんだろう。
突然キスされたり、あんなことになったりして、怒っても泣いてもパニクってもいいところ。
だけど、イヤに冷静だし。
怒ったり泣いたり……っていうのは、ちょっと自業自得なとこあるからおかしいかもしんないけど、
それでもそんなことしようなんて気持ちはこれっぽっちもなくて。
そういえば、最初に会ったときから、ずーっと気になってたんだっけ。
好きなのかな。わかんない。……人を好きになるって、どういうことなんだろう。
みきたんやごっちんを思ってるのとは違うし……。
228 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/07(日) 20:35

「亜弥さん?」
「あ、うん、ごめん」

絵里のことだって、好きだ。
だけど、それとは違う気持ちで、裕子のことを考えているのもわかっている。
それはどういう気持ちなんだろう。
好きとか嫌いとか、ふたつにひとつで答えられることじゃない。
一言で言ってしまえば気になる。ただそれだけ。
でも、それだけじゃない。

うーんと唸っていると、ふっと頭の隅を何かがよぎった気がした。
それが何か、それを捕まえれば何かがわかりそうだと思ったのに――。

「絵里ー?」
サーという音に乗っかるように、声が聞こえてきて、亜弥は思考を中断した。
振り返ると、閉まっていたはずのドアが開いていて、
そこからは――さっき病院を去って行ったはずの、裕子が顔をのぞかせていた。
229 名前: 投稿日:2004/11/07(日) 20:38

更新しました。
ぐだぐだしながらも急展開?


レス、ありがとうございます

>>209
深まるばかり……解決の気配もないうえ、
さらにやばい事態になってるかもしれないですね(汗

>>210
ああっ! お待たせしまして申し訳ない!
でも、またヘンなとこで切ってるかもw
230 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/08(月) 15:04
ナヌー!ピンチなんちゃうん!?どうするんだ、どうなるんだあやや!
231 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/08(月) 22:40
可愛らしいこの子がかなり薄倖の予感がしてフライングで悲しくなってくるわけですが
そのうえ波乱模様ですか
看護士さんも気になってたりする
232 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 18:56

目があった。
そのはずなのに、裕子は目を細めることさえしなかった。
普通の足取りで病室の中に入ってくると、後ろ手にドアを閉める。

「あ、お姉ちゃん」
「お、なんやお客さんか」
「あ、あの……」
「うん。なんか、迷っちゃったんだって」

少しだけ眉をあげて、裕子は絵里のベッドへと近づく。
ちょうど、亜弥が座っているイスの真横に立つ形になった。

「アンタなあ、そんな人引っ張り込んで何してんねん。
さっきまた看護師さんに言われたで? 脱走したんやて?」

あうう、と小さな唸り声を上げて、絵里はベッドにもぐりこんでしまった。
白いふとんを頭からかぶって、もぞもぞと体を小さくする。

「まったく、そんなんやったら、もうお見舞いになんて来んで?
なんか、アンタ、アタシが来たときにはしょっちゅういなくなるらしいやんか」
「ヤダ!」

ガバッとふとんをめくり、絵里が顔を出す。
その顔は、もう泣きそうになっていた。
233 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 18:57

「イヤやったら、そういうことしたらあかんやろ。
病院の人にも迷惑かかるし、アンタの退院も遅くなるだけやんか」
「うー……そうだけどぉ」
「だけどぉ、やないわ」

めくられたふとんを元に戻し、裕子は絵里をなだめるようにぽんぽんとそのふとんを2回叩いた。

「だって……さみしいんだもん。つまんないんだもん」

ぷーっと頬を膨らませて、絵里は裕子をにらみつけた。
裕子はといえば、そんな絵里の目つきにもなんとも思っていないようで、
軽く肩をすくめてみせた。

「やったら早く元気になりぃや。そしたらどこだって遊びに連れてったるわ」
「ホントに!?」

絵里の顔がぱあっと輝く。
その笑顔は、裕子に対する無条件の信頼を表しているように見えた。

「本当やから。おとなしくして、早く退院せぇよ」
「うん!」

大きくうなずいてから、ふっと絵里が亜弥を見た。
234 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 18:58

「お姉ちゃん、そのときは亜弥さんも一緒でいいかな」
「別にええけど。その、亜弥さんってのは誰やねん」
「そこに座ってるじゃん」

ちらりと裕子の視線が降ってくる。

「迷い込んだ人やって言うてへんかったか?」
「そーだけどぉ……」
「急にそんなこと言われたら、この人やって困るんと違うか?」

むー、と絵里が考えるような顔をする。

「亜弥さん、困ってます?」
「え、あ、や、別に困ってはないけど」
「ほら!」
「何が『ほら』なのかわからん」
「だってぇ……」
「ま、その辺の話はふたりでしてぇや。アタシはどっちでもええから」
「ん、わかった」

裕子はカツという音を立てて体の向きを変えてきた。
亜弥は何かに導かれるようにイスから立ち上がると、隣に立っている裕子を見た。
今度こそ、間違いなく目があった。
235 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:00

息が苦しい。
背丈も体格もそれほど違いはないのに、ものすごい圧迫感がある。
表情は、いつも授業中に見せるときと同じ、穏やかなものだ。
瞳の色だって、今までに見てきたものと寸分の違いもない。
それは、まるで仮面のように同じもの。
それなのに、冷や汗が背中を伝っていくのがわかった。

「亜弥さん、この人がさっき話してたお姉ちゃんです」
「アタシの話って、どうせロクなこと話してへんのやろ」
「そんなことないけどぉ。お姉ちゃん、ちゃんと自己紹介してよ」
「はいはい。中澤裕子です」
「あ、あの、松浦、亜弥です」
「なんやぁ、緊張しすぎやろ?」
「お姉ちゃんの顔が怖いからじゃないの?」
「あんなぁ」

ぽんぽんと裕子が軽く亜弥の肩を叩いてくる。
まるで体の中身がからっぽになったみたいに、亜弥の体中に音が響き渡ってきた。
236 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:00

「なんや、絵里が迷惑かけたみたいで。ごめんな」
「あ、いえ」
「迷惑なんてかけてないもん」
「関係ない人引っ張り込んでかけてないもないやろ」
「いいんだもん。もうお友達だもん。ね?」
「あ、う、うん」

あわててうなずくと、絵里はうれしそうに笑う。
なんでそんなにうれしそうな顔をするんだろう。
そもそも、今日会ったばかりの人間を友達とは、またすごい女の子だ。

「ところでお姉ちゃん、なんで戻ってきたの?」
「あ、せや。忘れもん」
「忘れ物?」
「ほら、これ」

裕子は手に持っていた紙袋を絵里に差し出した。
その紙袋に、亜弥は見覚えがあった。
有名な洋菓子店の袋だ。
確か、最近新しい商品を発売したと、テレビでも放送しているくらい人気のある店だ。
受け取って中をのぞいていた絵里が、またぱあっと顔を輝かせる。
237 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:01

「これ!」
「買うの大変やったんやから。大事に食べてや?」
「うん、ありがと!」

たぶん、中身はその新商品だろう。
かなり行列をしなくてはいけないし、個数限定だからなかなか買えないという話を聞いた。
そりゃ、女の子なら誰だって喜ぶだろう。

「そんならアタシは帰るから。早く退院せぇよ」
「うん、がんばるよ」
「がんばらんでええわ」

ポンと、最後にもう一度絵里がもぐりこんでいるふとんを叩いて、裕子は向きを変えた。

「あ、あの、あたしもそろそろ帰るね?」

亜弥は思わず、そう告げていた。
怖かった。
何も言わない裕子のことが。
238 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:01

「お姉ちゃん、ストップ!」

いきなり絵里が叫び声を上げて、ドアに手をかけていた裕子の動きが止まる。

「亜弥さんのこと、送ってって」
「なんで、アタシが」

くるりと不満そうに振り返る。

「引き止めちゃったの、絵里だもん」
「絵里やけどアタシやないやん」
「いいじゃん。車なんだから」
「しゃーないなぁ。ったく」

しぶしぶといった様子で、裕子が亜弥を見る。
239 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:02

「送ってくから。乗ってって」
「あ、や、あの……」
「遠慮しないで、亜弥さん」

亜弥はこくりとうなずいていた。
うなずくよりほかに方法がなかった。
裕子はもしかしたら話なんてしたくないのかもしれないが、
自分だって話したいと思っているわけではないが、
話さずに別れてしまえば、ますます息苦しくなるような気がしたから。

「ほら、行くで」
「は、はい」

裕子の背中に引っ張られるように、亜弥はふらりと歩き出した。

「亜弥さん、また来てくださいね!」

病室を出る間際に言われた絵里の言葉には、曖昧な笑顔しか向けられなかったが。

 ◇ ◇ ◇
240 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:03

絵里と別れて数十分。
一度は家の前まで連れて行かれたのが、どうにも車から降りられず、
それを察してくれたのか、裕子は亜弥を喫茶店へと連れて来た。
それも、スターバックスなどとは年齢層が違う。
客の大半は裕子よりもずっと年上だろう。
静かな音楽が流れ、人の話し声などほとんど聞こえてこない。
その喫茶店の少し奥まったところに、亜弥は裕子と向かい合わせになって座っている。

ほかの人の姿は亜弥の位置からはほとんど見えなくて、
それが逆に居心地を悪くしていた。

目の前の裕子は、注文してきたコーヒーに一口口をつけたきり、
少しうつむいて、視線を亜弥と合わせようとはしない。
亜弥はといえば、ちらちらと裕子をうかがうことしかできない。
どうやって話を切り出したらいいのかわからない。

このまま黙っていたら、閉店までずっとこの状況が続くんじゃないか。
そんなことを思ったが、それはそれでやっぱり困る。
そもそも、それならさっき家に送ってくれたときに車を降りていればよかったのだ。

それに、たとえ今話をしなかったとしても、
明日もあさっても、予備校で授業がある限り、裕子には会ってしまう。
たとえ裕子の授業を避けたとしても、予備校のどこかで会うことは避けられないだろう。
だって、髪の毛一本でも気づくのだから。
彼女がそこにいることに。
241 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:04

亜弥は息をついた。
目の前には、届いたきり手をつけていないココアのカップがある。
もう冷めてしまっているだろう。
それを両手で包んで、亜弥はもう一度息をついた。

「センセイ」

呼びかけると、裕子が顔を上げる。
その顔に笑みはないが、怒っているようにも見えないし、呆れているようにも見えない。
いっそ、そういう態度を取られていたほうが楽だ。裕子の感情が見えるから。
今の裕子の表情からは、裕子が何を思っているのかはうかがい知ることができない。
あまりにも普通。普通すぎて、色を感じられない。
だから、怖かった。

「なんで……何も聞かないんですか」

問いかけると、裕子はまたコーヒーに口をつける。
カップを下ろして、それから目を細めた。

「別に、聞きたいこととかないから」

そう言われてしまっては、これまたどうしたらいいのかわからない。
グッと黙っていると、ふっと息の漏れる音が聞こえた。

「用がないんやったら、アタシ、帰るけど」

カタンと小さな音を立てて、裕子が立ち上がろうとする。
242 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:05

「あ、ま、待って!」

それを思わず押しとどめていた。

わかっている。
裕子が本当に何も聞きたいことがないのか、
それとも自分から話させるためにそういう態度を取っているのかはわからないが、
それでも、話さずにいられないことはわかっている。
そうしなければ、苦しくてつぶされてしまいそうだから。
だから、あの時、車を降りることができなかったのだから。

「待って、ください」

裕子が席に戻る。
今度は頬杖をついて、亜弥を見つめる。

「あの、その、ごめんなさい」
「んー?」
「その、黙って、あと、つけたりとかして」
「あとつけられてたんや。全然気づかんかったわ」
「……ごめんなさい」

一度目を閉じて息を吸い、目を開けてからもう一度裕子と目を合わせる。
ギュッと両手をひざの上で握り締める。
243 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:05

「その……」

話し始めようとして、ふと気づいた。
真希のことを話してしまうわけにはいかない。
それだけは避けたい。
そう思っていたのに、亜弥の考えは裕子の一言で脆くも崩れ去ってしまった。

「どうせ、ごっちゃんにでも頼まれたんやろ」
「えっ!?」

叫んでからあわてて口をふさいだが、時すでに遅し。
裕子は口元をゆるませて、頬杖をついたまま亜弥を見ていた。

「アンタ、そんなこと考えつくタイプやないし。
考えついてたらとっくの昔に実行しとったやろ」
「ごっちんなら、考えつくんですか」
「せやな。ごっちゃんは思ったら一直線やから」
「……そうですか」

指の先が冷たくなってきた。
もしかしたら、この人は自分や真希が何を知りたいと思っていたのかも知っているのかもしれない。
それでも、そうだとしてもこの人は自分からそれを口にしたりはしないだろう。

イヤになってくる。
なんで、この人がこんなにも気になるんだろう。
244 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:06

「その……ごっちんから、センセイが昔はこんな投げやりじゃなかったって聞いて」
「うん」
「引っ越してから何かあったんじゃないかって聞いて。もしかしたら、こうやってあとつけたりしたら
何かわかるんじゃないかって、そう思ったんです」
「アタシは別に投げやりなつもりはないけどなぁ」
「充分、投げやりだと思いますけど」

亜弥の言葉に、裕子は少しだけ顔をゆがめた。

「アンタはアタシのこと、退廃的やって思ってるらしいからなぁ」
「そ、そうですけど」
「ま、つけたところで何もわからんで。アタシはごっちゃんのお隣さんやった頃から何も変わっとらん」
「で、でも、ごっちんは変わったって……」
「それはごっちゃんが大人になったからやろ。感じ方が変わっただけや」

裕子の言葉はそれ以上の追従を許さないようなものだった。
逆に、それが真希の言葉が真実であることのように、亜弥には感じられた。
いつものよどみのなさが、かえって裕子がかたくなであるように映ったのだ。

このことに関してはそれ以上聞いても無駄な気がして、
亜弥はとりあえずそれ以上のことを聞くのはやめることにした。
だけど、それ以外にも気になっていることはある。

いっそこの際だ。
病院に自ら乗り込んで行ったことで何かが亜弥の中ではずれたのか、
気になったことを聞いてしまおうと、亜弥は少しだけ身を乗り出した。
245 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:06

「あの、センセイ」
「ん?」

さっきよりも裕子の態度が柔らかくなったような気がするのは気のせいだろうか。
裕子は裕子なりに、自分の行動にどういう意味があるのか、気にしてくれていたのだろうか。
そんな、余計な感情が頭をよぎる。
それを息をつくことで追い出すと、目の前の裕子をにらみつけるように見つめた。

「センセイは、なんで、いろんな女の子と付き合うんですか。1回きりの関係なのに」

亜弥の言葉にも驚いた様子は見せず、裕子はふわりと笑った。

「言うたやん。アタシ、束縛されんのキライやから」
「それは答えになってません。だったら付き合わなければいいじゃないですか」
「相手がどうしても言うんやから、しゃーないやん」
「断るっていう選択肢はないんですか」
「ないなぁ。言うたやろ、アタシ、博愛主義者やからって」
「……センセイは相手の子たちのこと、どう思ってるんですか」

裕子は少しだけ考えるような顔をして見せた。
だけどそれも一瞬で、すぐに口元を緩める。
246 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:07

「愛してるよ」
「ウソ」

即座に打ち消すと、裕子は苦笑いを浮かべた。

「ウソやないって」
「ウソ」
「ウソやないって言うてんのに」
「ウソ」
「しつこい」

コンと裕子が机を叩く。
カチャンとカップが抗議の声を上げた。

「センセイ、あたしはホントのことが知りたいんです」
「ホントも何も、ウソとかついてへんし」
「ウソ」
「やから、ついてへんって」
「ウソ」
「アンタいったい何がしたいねん」
「ホントのことが知りたいだけです」

いつの間に、こんなに強気になっているんだろう。
亜弥は言いながら、心の中で首を傾げていた。
自分の中にあった何かが完璧に壊れている。
それでも、今はこれでいいやと思った。ただ、なんとなく。

裕子は頬杖をやめて、その手で軽く髪に触れた。
それをくるくると指の先でもてあそんでから、亜弥と目を合わせてきた。
247 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:08

「なら、言い方変えよか。もっかい質問して?」

裕子の言っている意味は理解できなかったが、それでも亜弥はもう一度さっきと同じ質問を口にした。

「センセイは、相手の子たちのこと、どう思ってるんですか」

裕子が笑った。
けれど、それはさっきまでのふわりとした微笑みとは違う。
何か、イヤな予感がした。

「別にどうも」
「どうもって……なんとも思ってないってことですか」
「ちょお違うけど。ま、アンタらにとったら同じことかもしれんな」
「キスとか、そういうことしてても、なんとも思ってない?」
「まぁなぁ。アタシはどっちでもええんやもん。キスもセックスもしようとしまいとどっちでも」
「どっちでもいいって……!」

声が高くなっていくのが止められない。
自分が「相手」の立場になってしまっているからかもしれないが、
あのことが裕子の中で完全にゼロになってしまっているとは思いたくはなかった。

「なんで、なんでそんなことが言えるんですか! そんなの博愛じゃありません!
ホントに好きなら、少しでも愛情があるなら、そんなこと言えるはずない!」
248 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:10

バシンと、自分が机を叩いた音で亜弥は我に返った。
立ち上がりかけていた自分に気づいて、あわてて腰を落とす。
裕子はといえば、そんな亜弥を相変わらずごく普通の眼差しで見ていた。

「……センセイは、みんなを好きなんじゃないんですか」
「好きやけど」
「それなのにどうでもいいってどういうことですか」

裕子が1回、ゆっくりと瞬きをした。

「それ知ってどうするつもりなん?」
「え?」
「別に言うてもええけど。それを知ってアンタはどうするつもりなんかと思って」

どう、と言われると困る。
なんていっても、いまだ裕子に対する気持ちはまったく固まっていないのだから。

「……好奇心です。知りたいだけです。知ってどうこうとか、そういうのは、ないです」

どう言っても自分の今の気持ちをまとめることはできない。
だから、亜弥は素直にそう告げた。
ふーん、と小さく唸った裕子の姿を見て、亜弥は目を凝らした。
目の前の裕子が、今までにない穏やかな顔で笑っていたから。

それは、いつか、自分がさようならを言ったときに見せた、あの無邪気な笑顔にも似ていた。
249 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:10

「アンタはもうちょっと、駆け引きとか覚えたほうがええと思うで」
「……センセイ相手に駆け引きができるとは思ってませんから」
「そら、あきらめの早いことで」

ま、ええやろ。
軽くそう言って、裕子は亜弥の瞳をまっすぐに見つめてきた。
いや、まっすぐではない。
その視線は瞳よりも下、のどもと辺りを見つめているようだ。

「アンタは、誰か好きな人、おるん?」
「え?」

不意の質問に、即答できなかった。
裕子は何を考えているのか、ゆっくりと瞬きをしながら話を続ける。

「別に彼氏とかやなくてもええけど。特別好きな人とか、おるん?」
「特別……」

特別、というのはどういう意味だろう。
家族はもちろん好きだし大切だし、美貴や真希はほかの友達よりも好きで大切だ。
それを特別というのなら、確かに特別好きな人というのはいる。
亜弥は裕子の様子をうかがいながら、こくりとうなずいた。
250 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:11

「アンタにとって、その人らは特別やねんな」
「と、思います」
「ほかの人らも別に嫌いやないけど、その人らは特別好きと」
「はい」

裕子は静かに目を閉じた。

「アタシにはそれがないだけのことや」
「え?」

言っている意味がやっぱりわからない。
裕子は目を閉じたままで、その細かい表情まではうかがい知れない。
整った顔立ちが、目を閉じることで冷たさをかもし出している。
ごくりとのどが鳴った。

「博愛って、どういうことか考えたことあるか?」
「えっと……みんなを好きってことですよね」
「うん、合うてる。それはつまりな」

ふっと裕子が目を開ける。
今度こそ、その瞳が亜弥をとらえた。
まっすぐな瞳。
そこに今までにはない色を確かに亜弥は見た。

「特別はないってことや」
251 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:11

その色は何の色だったのだろう。
確かに今までにない、今まで裕子が見せなかった色だったのに、
それが何かまでは亜弥はつかむことができなかった。

「みんな平等。おんなじ。その意味、考えてみ」

その意味。
そこに意味があるのだろうか。
どんな意味が。

亜弥は窓の外に視線をやってしまった裕子の横顔を見つめながら、その意味を考えてみた。

みんな平等。
同じ。
みんなを好きということ。
特別はないということ。
それが、博愛。

裕子が出してきたパズルのピースを組み合わせる。
それはつまりどういうことか。

すべてが平等。
すべてが同じ。
すべてを平等に好き。
それは……。
252 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:12

「あ」

裕子がちらっと視線を送ってきた。
合っているのかどうかわからない。
ただ、亜弥がたどり着けた答えはそれだけだった。

「あの……」
「ん、言うてみ」
「それはつまり……センセイにとって、家族も友達も恋人も生徒も……
たとえば、通りすがりの人でも、みんな、同じって、そういうことですか」

ごくりとまたのどが鳴った。
そんなこと、あり得るんだろうか。
しかし、パズルの完成形はそうとしか見えない。
裕子は亜弥の言葉を聞き終えると、静かに、ただ静かに口元に笑みを浮かべた。

「ほぼ正解や。90点かな」
「90点、ですか」
「せや。ひとつ抜けとる」
「抜けてる?」
「アタシ」
「へ?」

とんとんと、裕子は自分の胸元を指差す。
253 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:12

「アタシも同じ。みんな平等。おんなじ。つまり、それがアタシの博愛」

裕子は穏やかな笑みを崩さない。

「アタシにとって、世の中の人間はみんな同じやねん」

言葉を紡ぐことができなかった。
そんなこと、ありえない。
みんな同じなんて、ありえない。
通りすがりの人と、口もきいたことがない人と、友達や家族は違う。
性格だって応対の仕方だって、100人いれば100人違う。
それをどうしたら、全部同じだと言えるのか。

裕子は穏やかだ。怖いくらいに。
その表情で、亜弥は自分の感覚が間違っていないことを知った。

その感覚は。
裕子の持つその感覚は。
間違いなく、退廃じゃないか。
友達も、家族も、自分にさえも固執しない。
それを退廃と言わずに、なんというのか。
博愛という名の退廃なんだ。
この人が抱えているものは。
254 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:13

「センセイ……」

震えそうになるのをこらえながら呼びかけた。

「センセイにとって……ごっちんも絵里ちゃんも同じ、なんですか」

ためらいもせず、裕子のうなずく姿が見えた。
笑顔のまま。
何も、よどむこともなく。

「じゃあ……どうして、ほかの人とは違う、態度をとるんですか。
ほかとは違うってことは、特別ってことじゃないんですか」

その答えに、何を望んだのか。
たぶん、救いを。
そんなことはわかっていた。
そして、望む答えが得られないことも。

「処世術や」
「処世術……」
「そのほうが世の中生きてくのに円滑に物事が進むこともあるから、そうしとるだけや。
お芝居みたいなもんやな」

一番イヤな答え方をされた。
おそらく、それで亜弥がどう思うかも考え済みだ。
だから、亜弥は湧き上がってきた感情を、強引に押し留めた。
255 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:14

亜弥は目を閉じた。
何かが痛い。
心が、瞳が、体が。
何もかもが痛い。
体から水分が蒸発したような気がする。
寒い。
怖い。
辛い。
もう、どうしたらいいのかわからない。

両手を組んで、力を入れる。
震えるより先に、それを止める。
息を吐きながら、その力で目を開けた。

裕子は目を閉じる前と同じように、穏やかに微笑んでいるだけ。
その微笑みさえ、見ているのが辛かった。

この人は、本当に、何を考えているんだろう。
何を望んでいるんだろう。
いったい、何が楽しくて、何のために生きているんだろう。
夢とか希望とか、そういうのは持っていないんだろうか。
それとも――とっくに捨ててしまっているんだろうか。

ここまで自分を放棄しておいて、なぜ生きているんだろう。
256 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:14

ごっちん……。

目の前の人を見つめながら、亜弥は親友の名前を呼んだ。

間違ってないよ。
きっと、ごっちんと別れてから、センセイには何かあったんだ。
何かがあって、持っていたものを全部捨ててしまってる。
だから、ごっちんには投げやりに見えたんだ。
あたしに、退廃に見えたのと同じように。

どうしたらこの人に手を伸ばせるんだろう。
どうしたらこの人に触れられるんだろう。
どうしたらこの人に近づくことができるだろう。
あまりにも遠すぎて、その方法さえも浮かばない。

好きとか嫌いとか、気になるとかならないとか、そんなことは関係ない。
ただ、今この瞬間。
この人を、抱きしめたかった。
257 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:15

「センセイ……」
「なんや。お説教やったらごめんやで」
「……あたしと、付き合ってください」

その言葉は一瞬遅れて自分の耳に届いてきた。
理解するまでにもう一瞬時間がかかって、
理解した瞬間に、亜弥ははっと目を見開いた。

何を。
今あたしは何を言った?

「付き合うって、これからどっか行くん?」

目があった。
目の前の裕子の笑顔は、さっきよりも少し色が落ちたように見える。
わかっていないはずがない。
その言葉の意味を。
それでもはぐらかそうとするのか。
いや、それが当たり前だ。
自分の言っていることはおかしいんだ。
おかしいんだから。
だから、ここは裕子の提案に乗ればいい。
そうすれば、さっきの言葉はなかったことにできる。
できるのに――。
258 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:15

「あたしを、センセイの、彼女にしてください」

意思とはまったく反した言葉が亜弥の口からはこぼれ落ちていた。
そんなことを思ったことはただの一度もないのに。
なんであたしはこんなことを言ってるんだろう。

ありえないことだ。
裕子に対して持っている感情は、恋愛とは違う。違うと思う。
それに、真希の告白を聞いていてこんなことを言うなんて、ありえない。

目の前の裕子はそれでも笑顔を消さない。
まるで、いたずらをした子供を呆れながら見ているようなそんな表情。
自分でさえ驚いたこんなイレギュラーな言葉にも、裕子は揺らがない。
この人の頭の中は、心はいったい何でできているんだろう。

そんなことを考えていた亜弥の耳に飛び込んできたのは、
あまりにも意外すぎる言葉だった。

「ええよ」

ほっと息をつきかけて、亜弥は裕子の顔をまじまじと見つめた。
裕子は笑顔のまま。
ただそのままで亜弥を見ている。

まるで、何もなかったかのように。
259 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:16

「セ、センセイ……?」
「なんや」
「あの、今……」
「ん? なんや、OKしたったんやから、ちっとはうれしそうな顔せえや」

どうやら空耳ではないらしい。

「で、でも、センセイ、束縛されるのは、イヤだって……」
「束縛させるつもりなんてあらへんもん」
「え?」

裕子の笑みの種類が変わる。
ほとんど動揺も困惑もしないし、表情の種類が限られているから、
最近では裕子の笑みがどんな意味を持つのか、亜弥にもなんとなくわかり始めていた。
この笑顔は、何かよからぬことを考えているときの顔だ。

「言うとくけど、アタシは今までの生活を変えるつもりはあらへんで。
今までどおり、ほかの子らとも付き合ってくから。
ああ、アタシのカノジョやって名乗ることくらいは許可するけど。
アンタ、そんなことするほどアホやないやろ?」

完全に混乱した。
今日、絵里と出会って、こうしてほんの少しとはいえ、
ほかの女の子には決して言わないであろう、何の飾り気もない言葉を聞かされて、
それは亜弥にとってはとてもきつい言葉でもあったけれど、
それでも、裕子の心の端っこが見えたような気がしていたのに。
またその心は闇の中へと紛れてしまった。
260 名前:道化芝居 投稿日:2004/11/28(日) 19:17

「アタシのカノジョやーなんて言おうもんなら、アンタ、
どんな目にあうかわからんしな」
「どんな目って……」
「想像つかん? アタシ、まっとうな人との付き合い方、しとらんから。
アンタもめっちゃ恨まれるで? 呼び出しとか食らうかもしれんなぁ」

それがまるで当たり前のことのように、裕子は笑う。
何が楽しいのか、それもわからない。

「センセイも、そんな目にあってるんですか……」
「うんにゃ。今んとこはないけど。女は怖いからなぁ」

やっぱり、言っている意味がわからない。
そんな亜弥の様子に気づいたのか、裕子はふっと笑みを変えた。
やわらかい、優しい、奇妙とも思える穏やかな色合い。

「アタシのカノジョになったって、ええことなんて、なんもないで?
カノジョになったからって、もう一回抱いてやるってこともないし」
「そ、そんなことしてほしいわけじゃありません!」
「ま、アタシしか知らんことやから、いつ解消してくれてもええけど」
「ぜ、絶対しませんから!」

思わずそう言ってしまっていた。
裕子がため息にも似た息を漏らす。
そして、あきらめたように一言だけ、つぶやいた。

「アタシに恋人らしいこととか、求めんといてな。絶対ムリやから」

 ◇ ◇ ◇
261 名前: 投稿日:2004/11/28(日) 19:20

更新しました。
ちょっと長めに更新。
相変わらず、黒い……かな。


レス、ありがとうございます。

>>230
ピンチどころか……こうなっちゃいました。
なんか高速急展開って感じでしょうか?

>>231
一波乱越えてまた波乱な感じでございますです。
この子は今後どうなるかは……自分でも先が読めませぬ(汗
看護士さんは……気にしないでくださいw
262 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/29(月) 22:46
更新お疲れ様です。
え゛〜〜〜〜〜っ!!
一体これからどこへ向かっていくのだろうか・・・?
続きが気になりますね。
263 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/04(土) 19:36
姐さんがどんどん分らなくなる…。
どうなるんだろ…。
264 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:51

何も望んでいないはずだった。
いや、彼女にしてくれと言った時点で、何かを望んではいたのかもしれない。
ただ、それがどういったものかまでは、亜弥はきちんと把握していなかった。
把握しようとも、把握できるとも思ってはいなかった。
裕子の心がつかめないのなら、裕子に関わることの答えも出ないだろうと、
ひとりで勝手に納得し、答えを出すことだけはあきらめることにした。
だから、何も望んでいないのと同じことだった。

裕子に言われたとおり、恋人らしいことは何も望まなかった。
その証拠に亜弥は裕子の電話番号もメールアドレスも知らない。
連絡を取る方法は、直接会って話すしかない。
だから、いくら「彼女」になったとはいえ、生活が変わるとは思えなかったし、
変えようとも思わなかった。
亜弥自身が変えようと思ったところで、あの人は変わりはしないだろうから。

それなのに――。
265 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:52

「30点やったなぁ、今日の映画」

目の前でぶつぶつとさっきから文句をたれているのは、関西弁の女の人。
茶色い髪がちょっと赤くなっているのは、最近染め直したからだ。
少し髪が伸びてきていて、時々右目が前髪に隠れてしまう。

「なぁ、そう思わん?」
「え……」

うっとうしそうに前髪をかきあげて、裕子は亜弥を見た。

「んと……45点くらいはあげてもいいと思いますけど」
「ウソぉ」
「だって、音楽とかすごくよかったし」
「けど、ストーリーってめちゃめちゃやん。説明不足やん。消化不良やん」
「説明不足なのは、確かにそう思いますけど」
「な、な、せやろ?」

うんうんと亜弥の意見を聞いて満足そうにうなずく裕子。
その顔は、いつも予備校で見せているものより、心持ち幼い。
めんどくさいしがらみから解き放たれているようにも見える。

亜弥はどうにも、いまいち自分の状況が理解できなかった。
今日に限ったことではないけれど。
266 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:53

「何ぼーっとしてん」
「あ、や」
「疲れた?」
「そんなことないです」

ふるふると首を振る。

「なぁ、これからどうする? どっか行く?」
「あー……そうですねぇ……」

亜弥は目の前の事実を再確認した。
間違いはない。
目の前にいるのは裕子で。
その反対側にいるのは自分で。
白昼夢でもなんでもなく、彼女は今自分の前にいる。
よく晴れた日曜日。
外は風もなく、穏やかな気候。
映画を見終わって、喫茶店で今日のこれからを考え中。

この前も、その前もそうだった。
267 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:53

恋人らしいことはしない。
そう言ったのは裕子自身。
それを、亜弥から望んだことはない。
それなのに、「彼女にしてくれ」と告白してからもう3度、
亜弥は裕子とふたりきりで出かけていた。
裕子本人曰く、「デート」だと。
しかも、誘ってきたのは裕子本人で。

わけがわからない。
どんどん深みにはまっていっている気がする。
もしかして、自分は底なし沼にでも入り込んでしまったのだろうか。
そんな複雑な気持ちに襲われる。
268 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:54

「まーつーうーらー」
「あ、はい」
「どこ行っとんねん、自分」
「……すいません」
「なんかあったん?」
「何かって?」
「成績落ちて親になんか言われてるとか」

的中。
亜弥は別に、と小さくつぶやいて黙った。
認めてしまえば、それを裕子の責任にしているみたいで嫌だったから。

成績が落ちたのは事実だ。
けれど、それは裕子と言葉の上だけとはいえ付き合うことになったこととは関係がない。
成績は裕子に告白する以前のテストのものだからだ。

その模試の結果を母親に見せたあとのことを思い出して、ふっと息が漏れる。
あまり思い出したくはない。
自分だけならまだしも、友達まで巻き込んでしまったことだから。

 ◇ ◇ ◇
269 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:55

目に見えて成績の落ちたことがわかる模試の結果を母親に見せた翌日、
亜弥はファミレスで美貴と真希を目の前に目をぱちくりさせていた。

あの教育ママな母親が、結果を見てもため息をついただけで何も言わなかったのは気になったが、
こんな事態になろうとは予想もしていなかった。
まさか、母親が自分を通り越して真希に連絡を取ろうとは。

「ごっちん……ごめんね」
「んや、いいんだけどさ、別に」

軽く話をしてわかったことは、母親が自分の成績が下がった原因が、
休みの日や放課後に友達と遊んでいるんじゃないかと疑っているということと、
その実情を聞き出してほしい、と真希が頼まれたということだった。
真希がその相手かもしれないということは考えていないらしい。
元々、在学中成績がよく、大学もストレートで受かっている真希は、
母親にとって、数少ない「認めている」友達でもあるらしいから。

一方真希自身はその事実を聞きだそうとか、母親に告げ口しようとかいう気はさらさらないらしい。
今日呼び出したのも、自分の様子を心配してのことのようだ。
美貴がいるのも、おそらくはそういうことだろう。
270 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:55

「何かあったんだよね?」

完全に決めつけた口調に苦笑いがこぼれる。
できればもう少し黙っていたかった。
けれど、もう迷惑をかけてしまっている。
亜弥は静かにうなずいた。

「で、何があったの」

真希の様子はいつもと変わらないが、美貴が痛々しげな瞳を向けてくるのが痛い。
そんなに変わって見えるだろうか、自分は。
すっと息を吸って、吐く。

「……恋人が、できた」
「は?」
「へ?」

ふたりの反応に思わず笑ってしまう。

「付き合ってる人がいるの」
271 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:56

そんなにも意外だったのか、ふたりからそれ以上の言葉は聞こえてこない。
美貴も真希も、きょとんとしたように目を丸くしている。
想像していた「何か」と限りなくかけ離れていたんだろう。
もっとマイナスなことを考えていたのかもしれない。

「……あー」

先に沈黙を破ったのは、真希だった。
納得したように2回うんうんとうなずく。

「もしかして、ずっと心ここにあらずな感じだったのって、その人絡み?」
「うん、まあ」
「そっかー、それは予想してなかったよ」

ふにゃりと笑う。
あまり悪いことではなかったから、なんとなくほっとしてくれているようだ。
その笑顔が、亜弥の胸をちくりと痛ませた。

「でも、うまくいったんだ、ならよかったじゃん」

その相手が、裕子だと知っても、真希は笑顔を見せてくれるだろうか。
その過程に何があったのかを知っても、今までのように笑ってくれるだろうか。
不安が胸に押し寄せてきて、ふるりと頭を振ってそれを追い出す。
272 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:57

大切なものはいくつもある。
どれも同じように大切なのに。
どれかひとつを選ばなくてはならないのだとしたら、今亜弥は裕子のことを選ぶだろう。
それで、後悔しか残らなかったとしても。

そんな感覚は今まで持ったことがなくて、悲しくてさびしかった。
真希のことも美貴のことも無条件で好きだからこそ、
無条件で最優先だった。
その順番はいつの間にか、自分でも知らなかったところで静かに入れ代わってしまっていた。
後悔はしてない。
だけど、その感情を消すことはできない。
これが、思いあっている恋人同士なら、その上に楽しさやうれしさが存在するのだろう。
ただ、亜弥は相手と想いあっているわけではないから、その感情だけで止まってしまっている。
それは、自分で選んだこととはいえ、苦しいことには違いない。
それを、このふたりの前で出すことはできないけれど。
273 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:57

真希がなんとなく自分の中で亜弥の様子を噛み砕いて理解して、
亜弥がそんな真希の様子を見ながら自分の感情を再確認している間、
美貴はぽかーんと口をあけたまま、こっちに戻ってこようとはしなかった。

「みーきーたん?」

亜弥が声をかけると、はっとしたように口を閉じる。
まばたきを繰り返して、それからふにゅっと口をゆがませる。

「どしたの?」
「あーうん、ちょっと」
「ちょっと?」
「……あんまり意外すぎて、頭がついてかなかった」

美貴は素直にそう言った。

「意外? 何が?」
「亜弥ちゃんの悩み事と、亜弥ちゃんに恋人ができたこと」
「全然意味わかんない」
「うん……正直、美貴もよくわかんない」

困ったように美貴が笑う。
それにつられて亜弥も笑う。
274 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:58

「んで、その人ってどんな人?」
「や、どんなって……」

ずいっと身を乗り出して真希が聞いてくる。
その姿は少し意外だった。
あまり人のことに首を突っ込むタイプには見えなかったから。

「んと、年上なんだけど、ちょっとクールでカッコイイ……かな」
「うお、いきなりのろけてくれちゃって!」
「聞いてきたのはごっちんのほうじゃん!」
「そうだけどさぁ」

ふわっと空気が軽くなった。
真希も、あっけに取られっぱなしだった美貴もやわらかい笑顔を見せている。

「亜弥ちゃん」
「うん?」
「今、幸せなんだ?」

美貴の言葉に、亜弥は笑って小さくうなずいた。
たぶん、考え始めてしまえば、幸せなんて言えやしない。
真希が感じていた心ここにあらずな自分は、今でもここにいる。
時が経てば経った分、複雑な気持ちは自分を埋め尽くしていく。
ただ怖いくらいに静かに。

 ◇ ◇ ◇
275 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:58

「まーつーうーらー」

パシッと両手を目の前で叩かれて、亜弥は我に返った。
目を軽く細めた裕子の顔が真正面にある。

「んで、どこ行くか決めたん?」
「あー……」

ふっと、絵里のことが頭をよぎった。
そういえば、あれからなんだかんだありすぎて、一度も絵里のところには行っていない。
もう退院はしたんだろうか。

「あの、絵里ちゃん、退院したんですか?」
「したよ、あれからすぐ。んで、遊びにつれてけーってうるさくて」
「約束したんですから、つれてかなきゃダメなんじゃないですか」
「んー、せやけどなぁ」
「あたしも一緒って約束したと思うんですけど」

裕子がむーっと口を一文字に結んだ。

「やって、デートにお子ちゃま連れとか、聞いたことあらへんし」
276 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:59

さらりと、その言葉を口にする。
まったくもって、この人のことはわからないばかり。
考えたってわからないのはわかっているのに、やっと割り切って考えないようにできると思っていたのに。
こんなふうに人の心を引っ掻き回すような行動をするのは、考えさせたいからなのかと疑ってしまう。

亜弥はその考えを無理やり押し出しながら腕時計を見た。
今日は早めに家を出たから、まだ2時を回ったところ。
今からでも充分間に合うんじゃないだろうか。
絵里は朝からがよかったとぶーたれるかもしれないが。

「センセ……中澤さん、絵里ちゃんの電話番号ってわかりますか?」
「んー、わかるけど。あ、もしかして、これから連れ出そうとかしてる?」
「はい」
「やめようやー。あの子と付き合うと体力が持たん」
「言い出したのは中澤さんなんですから。約束破っちゃいけません」
「そうやけどー」

ぶつぶつと文句を言いながらも、裕子は携帯電話を取り出して、絵里の番号を表示した。
ん、とそのまま携帯を差し出してくる。
277 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 00:59

「自分でかけてくださいよ」
「イヤや」
「イヤじゃなくて。いきなりあたしがかけたらおかしいじゃないですか。
しかも、中澤さんの携帯で」
「そんなん、適当に言ってぇや。アンタ、ウソつくの得意やん」

そう言われると、返す言葉もない。
そりゃ確かにあのとき絵里の病室では見事にウソをつきまくったけれど。
絵里はそれを疑っている様子もないけれど。
亜弥はしぶしぶ裕子の携帯をつかんだ。
そのまま通話ボタンを押す。

しばらくコール音がしたが、相手が電話に出る様子はない。
途中で留守電に切り替わってしまい、亜弥は電話を切った。

「どした?」
「や、出てくれなくて」
「ん?」

貸して、と裕子が手を伸ばしてくる。
携帯を渡すと、裕子はボタンを押して耳に当てた。
278 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 01:00

落ちた。

そう思った。
裕子の表情がみるみるうちに落ちていく。
夕日が地平線に消えるように、裕子の顔から穏やかな気配が消えていく。
眉を寄せて一度携帯を耳から離すと、じっと携帯をにらみつけて指先で操作。
すぐにもう一度携帯を耳に当てた。

しかし、それもすぐにやめて、携帯を閉じてしまう。
何かを考えるように、視線を動かして、裕子は不意に立ち上がった。

「中澤さん?」
「デートは中止や」

伝票を手に取ると、裕子はそのまま店の入口へと向かう。
亜弥はあわててあとを追いかけた。

「中澤さん」

返事はない。
裕子はもどかしそうに精算を済ませると、そのまま店を出て行く。
遅れないように、亜弥は裕子のジャケットのすそをつかんだ。
歩きながら、裕子がちらりと自分を見た。
けれど、何も言わない。
そのままつかつかと、駐車場へ向かって歩いていく。
279 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 01:00

車にたどり着くと、裕子は亜弥の手を振り払うように車に乗ってしまう。
バタンと大きな音が響く。
窓越しに見える、裕子の顔。
ドスンと胸を押された。

その顔は、今までには見たこともないほど険しい顔。
ピリピリと張り詰めていて、人を近づけようとしない。
演技とか、そんなものではない。
彼女は今、確かに仮面を外している。

恐ろしく、キレイだった。
280 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 01:01

「乗んの? 乗らんの?」
「あ、の、乗ります」

窓が開いて声をかけられ、亜弥は我に返った。
あわてて助手席に乗り込み、シートベルトを締める。
それを確認したのか、裕子は滑らかに車をスタートさせた。

その横顔は、険しいまま。
何を考えているのかはわからないが、それでもよからぬ感じはした。
絵里に何かあったんだろうか。

「あ」

急に呟きが漏れ聞こえたと思ったら、ポイッといきなり携帯電話が飛んできた。

「悪いんやけど、あの子のとこ、かけてくれへん? かかるまで、ずっと」
「え、あ、はい」
281 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 01:01

なぜ。
聞きたかったけれど聞けなかった。
そのくらい、裕子は人を拒絶していた。
どれもすべてがお芝居だったのかもしれないが、それでもそれなりにいろんな裕子を見てきた。
その中に、こんな姿はなかった。
何もためらっている様子はないが、それでも何かじれったくしているようには見える。

亜弥は携帯を手に、リダイヤルを押した。
コール音はするが、誰かが出る気配はない。
留守電に切り替わったところで一度切ってまたかける。

信号に引っかかったところで、裕子は両腕をハンドルの上に乗せた。
右手の親指を口元に持っていって、じれったそうに前を見つめる。

何回電話をかけただろう。
車はいつの間にか大通りをはずれ、細い裏道に入っていた。
裕子は注意深く左右に目を走らせながら、それでもやはりためらいなく車を進める。
そしてついたところは、見たこともないマンションだった。
すいすいと車を駐車場に入れて、裕子は車を降りる。
亜弥もあわててその後を追う。
282 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 01:02

オートロックの扉を開けて、裕子はマンションの中へと滑り込む。
亜弥はただただ追いかけていくだけだ。

エレベーターに乗りこむと、7のボタンを押す。
するすると静かにエレベーターは上昇を始め、誰にも邪魔されることなく7階に着いた。
チンと小さな音がしてドアが開く。
裕子はそのまま足を進めて、あるドアの前で足を止めた。

ドアの脇についていたインターホンのボタンを押す。
周りが静かなせいか、部屋の中からピンポーンという音が小さく聞こえてくる。
けれど、それ以外の音はしなかった。
もう一度、裕子がインターホンを鳴らす。
やはり返事はない。

ドアをにらみつけていた裕子は、カバンの中をあさるとカギを取り出し、鍵穴に差し込んだ。
くるりと回すと、カチャッという小さな音がして、裕子はドアノブを回す。
すっと、ごく静かにドアが開いた。
完全にドアが開ききるより早く、裕子がすき間に体を滑り込ませる。
亜弥はドアを押さえながら、裕子を追いかけた。
283 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 01:02

「絵里!」

裕子の呼び声。
ピリピリと空気がしびれた。
裕子の背中は、リビングで止まった。
ぐっと上がっていた肩がふっと下がる。

体が傾いだその先、部屋の隅。
クッションをギュッと胸に抱いている女の子の姿が飛び込んできた。

「あ……お姉ちゃん」

か細い声。
それでも、その声はどこかに笑みを含んでいた。
裕子の体が隠してしまって亜弥の位置からは見えなくなってしまったが、
おそらく絵里は微笑んでいるのだろう。

「どーしたの、突然」
「どーしたの、やないわ」

裕子が歩き出す。
体の向きを変えたことで、はっきりと絵里の姿が見えるようになった。
何かに怯えているように、しっかりとクッションを抱き締め、その場所から動こうとしない。
284 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 01:02

「調子悪いんやったら、早く言わなあかんってあれほど言うたやろ?」
「別に……調子悪いわけじゃないもん」
「せやったら、なんで電話出ぇへんねん」
「……なんか、携帯の調子悪いみたいで」
「なんでピンポンしても出てこんねん」
「それは……」

絵里が口ごもった。
その傍らには、携帯電話が転がっているのが見えた。
亜弥には状況が読めないが、裕子は状況を理解しているようだ。
つかつかと絵里に歩み寄ると、ひざをついて目線を合わせる。

「あれほど言えって言うたのに」
「だってぇ……お姉ちゃん、朝から出かけてったし」
「それとこれとは関係ないやろ」
「あるよ! だってだって……お姉ちゃんの、邪魔、したくない」
「邪魔やなんてアタシがいつ言うた」

声のトーンが少し落ちた。
びくりと絵里が体を揺らす。
285 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 01:03

「い、言われてないけど……でも」
「でももへったくれもないわ」

そっと裕子が絵里に手を伸ばした。
頭をなで髪に触れ、そのまま頬に触れる。
空いているほうの手で、当たり前のように絵里のクッションを取り上げた。
それから、絵里をその腕で包み込む。

ぴくっと絵里の腕が動いた。
一瞬ためらっていたようだが、すぐにその手は裕子の背中に回る。

「お姉ちゃん……」
「いつからそんなヘンな遠慮するようになったんや。誰かに入れ知恵されたんか」
「違うよ。絵里が自分で考えたんだよ」
「いらんことを」
「だって、だってさ……絵里、お姉ちゃんに迷惑かけたくなかったんだもん」
「あんなぁ」
「だって! だって、だって……」

絵里の声が涙声になる。
それに気づいたのか、裕子が手に力を入れるのが見えた。
286 名前:道化芝居 投稿日:2004/12/30(木) 01:03

「迷惑なんて思ってへん。邪魔やとも思わん。アンタが黙ってひとりで苦しんで、
それに気づかんほうがつらいんや。黙ってへんで言うてぇや」
「でも……お姉ちゃんだって、なんか用事とか大切なこととかあるじゃん。
そういうの、絵里のせいで邪魔したくないんだよ」
「アホ」

笑った。

裕子の顔は亜弥の位置からでは見えなかったが、それでも裕子が笑ったのがわかった。
それも、見えもしないのに胸が痛くなるほどのあたたかさで。

「アンタより大切なもんなんて、この世にあらへんわ」

 ◇ ◇ ◇
287 名前: 投稿日:2004/12/30(木) 01:09

更新しました。
もうちょっとマメに更新するつもりだったんですが、
なかなか時間がとれず……。
読んでくださっている方いらしたら、申し訳ないです。


レス、ありがとうございます。

>>262
どこへ向かっているのか……まだ指針は見つからない感じかなと。
ふたりの向かう先も微妙に……。

>>263
本当にほんのちょっとですが、ねーさんが変わったかも。
少しずつねーさんについて描いていければと思っております。


今年の更新はこれが最後になる予定です。
来年はもうちょっとマメに更新していきたいと思っております。
それでは、よいお年を。
288 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/03(月) 15:53
中澤さん素顔ちらっと見せたっぽいかな? ここから進むんだろうか。
怖いほど綺麗な必死の彼女が浮かんでドキドキしました。
しかしえりりんいたいけだなあ。泣きそう。
じっくり読んでますんでじっくり更新ぜんぜんオッケーっすよー。
289 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/09(日) 00:00
更新お疲れ様です 

つ旦

つうか姉さん、こえぇえ。
なんなんだ、何を考えてる。それは偽りなのか、真なのか…
とにかく魅力的な姉さんに、惹かれます。
続き、マターリ待ってます。
290 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 21:54

不思議だった。
あれほど自分の気持ちがわからなかったのに、今はもうはっきりとわかる。
裕子を好きなんだということが。

絵里に対する言葉を聞いて、亜弥の心にかかっていたモヤのようなものが一気に晴れていった。
ぐちゃぐちゃした感情と感覚と思考を取り除いたその先に残ったのは、
裕子にやさしい言葉をかけられるのは自分でありたいという思い。
いつどこで、好きという感情が生まれたのかはわからないけれど、
最初に会ったとき感じた特別という感情。
それに、偽りはなかったということだ。

そして。

仮面の裏に隠されたやさしさ。
退廃の奥に押し込まれた脆さ。

何かを捨てようとして捨て切れていない、そんな彼女を見つけてしまった。

少なくとも、彼女の言う「博愛」がウソであることはわかってしまった。
絵里に対する態度は、博愛でなどではない。
裕子にとって、絵里はほかの人と違う存在なのだ。
291 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 21:55

「中澤さん?」

帰りの道すがら、送ってくれる車の中で亜弥は静かに声をかけた。
時間はもう午前0時を回っていて、走る車の数も少なくなっていた。
裕子からちらっと視線が送られてくる。
その表情は硬く、いつもの余裕はないようにも見える。

結局あのあと、絵里をベッドに寝かしつけてから絵里の母親が家に帰るまで、
裕子はずっと絵里のそばにいた。
絵里の手を握り、絵里の髪をなで、やさしく言葉をかける。

その姿は、今までに見たどれとも違い、細く弱ささえ感じさせた。

「聞きたいことがあるんです」

その弱さと、自分の本当の感情を理解したことで、亜弥は強さを得た。
怯えることも恐れることも必要ない。
どんなに退廃的だったとしても、彼女は自分と同じひとりの人間なんだ。
彼女の行動や考え方は理解できないけれど、それでも理解しようとすることはできる。
話を聞きたい。
彼女を知りたい。
弱くて脆い彼女をこの手で抱きしめたかった。
292 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 21:55

キッと短い音を立てて車が止まった。
どこだかわからない道の傍ら、カチカチとウインカーの音が小さく響いてくる。
ふっと小さな息を漏らして、何を聞きたいん、と裕子が言った。

運転席を見ると、裕子はシートに体を預け、目を閉じていた。
もう、何かをあきらめているようにも見えるけれど……。

先入観は禁物だ。
亜弥は息を吐き出しながら、体に力を入れた。
この人の話し方、行動、考え、どれも理解できるものじゃない。
今はこんな体勢だが、油断をしていればどこでいつもの彼女に戻ってしまうかはわからない。
つけいるスキ……言葉は悪いけれど、それを狙わなければ。
今が最初で最後のチャンスかもしれないんだから。
293 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 21:56

「中澤さんにとって絵里ちゃんは……ほかの人とは違うんですよね」
「いや」

言葉はあまりにもあっさりと返ってきた。
裕子は目を閉じたまま、さっきと何も体勢を変えていない。

「でも……さっきの態度は、博愛とは思えないんですけど」
「そうかもしれんな」
「だったら!」
「でも、違うんや。あの子はアタシにとってほかの子と何も変わらん」
「……どういうことなんですか」
「そんなん簡単なことや」

裕子が目を開けた。
対向車のヘッドライトがその顔を照らす。
キラリと瞳が光る。
一瞬、泣いているように見えた。

「アタシはあの子を見てるわけやないから」

言っていることの意味が、一瞬わからなかった。
何を……と聞こうとして、亜弥の頭を何かが掠める。
294 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 21:57

絵里を見ているわけじゃない。
でも、絵里を見ている。
その意味は……。

「……誰を見てるんですか。絵里ちゃんを通して」

亜弥は思ったことをそのまま口にしていた。
裕子が口の端を上げて、薄くと笑う。
それから、頭のええ子はキライや、とぽつりとつぶやいた。

カタンと小さな音を立てて、裕子が体を起こした。
そのままサイドブレーキを操り、アクセルを踏んで車を再スタートさせる。

「絵里やない、別の子を見てる」

あまりにも素直に答えてきたので、亜弥は一瞬ぽかんと口を開けた。
危うく話がとまりそうになって、あわてて言葉を続ける。
295 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 21:57

「それは、恋人、ですか」
「違う」
「あたしの知ってる人ですか」
「知らん子やな」
「でも、その人が大切なんですよね」

くっと音がした。
隣の席で裕子は表情をやわらかく崩している。
いったい何がおかしいのか。何が面白いのか。とても楽しそうに見えた。

「中澤さん?」
「アンタの質問、おかしいわ。それ聞いてどうするん?
その子のとこにでも押しかけるつもりか?」
「そういうつもりじゃないですけど……知りたいだけっていうのは理由になりませんか」
「過剰な好奇心は身を滅ぼすかもしれんで?」
「……そんなに大変な相手なんですか」

そういうわけやないけど、くっくっと笑い声をはさみながら、裕子は楽しそうな声で言う。
それから大きく息を吸った。
296 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 21:58

「今のとこ、アタシのカノジョって、アンタだけやし。
それが心配なんやったら、その点だけは安心してもええって。
ま、アタシのカノジョって立場が安心できるほどのものかは知らんけど」

亜弥はこくりと首を傾げた。
そういえば、この人にとって自分はなんなんだろう。
一応とはいえ「彼女」という立場。
それは、裕子にとってどういう立場になるんだろう。

「あの……中澤さんにとって、彼女ってなんですか」
「わからん」

またしてもあっさりと言葉を口にする。
亜弥は黙って前を向いた。
なんとなく、見慣れた道を走っているような気がする。
暗いからそこが確かにその道とは言い切れないが、おそらく家は近づいているはずだ。

ああ、まずいなあ。
暗い車の中でぼんやりと光る時刻を見ながら、ほうっと息をつく。
今日という今日こそは、親に怒られそうだ。
成績が悪くなった上、夜遊びまでするようになったら、そりゃ大目玉も食らうだろう。
裕子が一緒ならうまく言ってくれるかもしれないけれど、
そこまでされては、なんとなく居心地が悪くなる。
だから、車は家に入る手前の交差点で止めてもらうつもりだったのに。
297 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 21:59

「なんで、あたしを彼女にしたんですか」
「してほしいって言うたから」
「……彼女にしてくれって言ったら、誰とでも付き合うんですか」
「そういうわけでもないなぁ」

こくんこくんと裕子が首を傾げる。
けれど、それはどう見ても演技。
なんで自分を彼女にしたのかは、間違いなくわかっている。
そこに何かの目的があるのだ。

「じゃあなんであたしだったんですか」

キッと小さな音と共に、また車が停まった。
今度は目の前に信号。
闇の中に赤い光が輝いている。

対向車はいない。
ちらりとバックミラーを覗いても、後続車もいなかった。
交差点には、裕子の車以外、ほかの車はなかった。
ブルル……という低い音が耳に響いてくるだけで、それ以外の音は聞こえてこない。
まるで、世界にふたりだけしかいないような錯覚に襲われる。

もしも世界にふたりだけになったら……。
この人は、自分を見てくれるだろうか。
それとも、それでも博愛をかざして生きていくんだろうか。
298 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 21:59

「中澤さん」
「ん」

信号が変わって、車が走り出す。
街灯に照らされて、裕子の顔が暗く明るく点滅する。

パッと明るくなった瞬間――

「アンタとおったらなんか変わるかなぁって思ったから」
「え?」
「もう飽き飽きしてんねん、この環境。毎日毎日なんも変わらんし、おんなじやし。
そろそろ変えたいなぁって思っててんけど、そこにちょうどよくアンタが現れたから」
「……はぁ」

つまり、利用されたということか。
まあ、それは予測できないことではないし、そこに愛情やら何やらがあるとも思っていなかったので、
さほどショックは受けなかった。
利用される相手として、どうして自分が選ばれたのかはいまいちわからないが。

「それで……何か変わりましたか?」
「うーん、どうやろ」
「なんですか、それは」
「今んとこでっかくなんか変わったわけやないから。けどなぁ、なんか予感がすんねん。
なんかこう、でっかくすっごいことが起こりそうな予感」

ふふっと裕子は笑う。
それからふと何かに気づいたように、車のスピードを落とした。
299 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 22:00

「なぁ、アンタん家、こっちのほうでよかったんやっけ?」

気がつけば、そこは止めてもらう予定でいた交差点をもうずいぶんと入ってしまっていた場所だった。
あと数分も走らずに、家の前に行けるだろう。

「あ、ここで、いいです」
「送るって」
「や、あの」
「お母さんとか出てきたら、言い訳できる相手がおったほうがええやろ?」

そりゃそうなんですけど。
亜弥は言いかけた言葉をごくんと飲み込んだ。
裕子の言うことは確かに真実で。
成績も急降下した自分としては、これ以上母親を言い含めることができるとも思えなかったから。

……言い訳に裕子を使うのはこれを最後にしよう。
これからはもっとちゃんと勉強して、成績をせめて元に戻そう。
これ以上、真希や美貴に迷惑をかけるのもイヤだったし、
裕子を利用するのもイヤだったから。

「あ」
「え?」

そんなことを深く決意していた亜弥は、不意の裕子の声で我に返った。
300 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 22:00

「やっぱ誰かおるやん。あそこ、アンタん家と違う?」

言われて正面を向くと、確かに家のそばに誰かが立っていた。
だけど、それは母親とは違う。
母親はなら、壁にもたれて立つなんてことはしない。
ちょっとうつむいていて、車の音に気づいたのか、顔を上げてこちらを見た。

「あ……」
「止めよっか」

家の手前で、裕子は車を止めた。
まだはっきりと顔は見えないけれど、立っている雰囲気でそれが誰だか亜弥にはわかった。

車を降りてドアを閉めると、それを追いかけるようにバタンと音がした。
裕子は軽く眉を動かして亜弥を見て、亜弥が歩き出すより先に家のほうへと歩く。

「あ、あの」
「んー?」
「大丈夫ですよ。ママじゃないし」
「ん? でも、アンタのこと心配してるんとちゃうん? せやったら一応な」

ヘンなところで裕子は律儀だなぁと思う。
適当なところはとことん適当なのに、こういうときはしっかり大人としての役目を
果たそうとするから不思議だ。
亜弥は裕子から半歩遅れながら歩いた。
301 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 22:01

そんな亜弥の姿に気づいたのか、門の前に立っていた人が壁から背中を離す。
その人は足を前に出そうとして、何かに押されたように足を止めた。
亜弥が首を傾げると、腕が前を歩いていた裕子にぶつかった。
ぐらりと裕子の体が揺れた。

「中澤さん?」

一歩足を前に出して止まったその人は、亜弥が今までに見たことのない顔をしていた。
軽く開いた唇。
見開かれた瞳。
何か見てはいけないものを見てしまったような、そんな顔。

そして――
その口からこぼれ落ちた言葉は、亜弥が今まで耳にしたことのない音だった。
302 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 22:01





「なっち……?」



303 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 22:02

「亜弥ちゃん!」

名前を呼ばれた声に闇を切り裂く力を感じて、亜弥は呼び声の主を見た。
目の前に駆け寄ってきたのは間違いなく美貴だ。
その表情は、硬さと痛さと怪訝さと、いろんな感情がミックスされていて、
亜弥には美貴が何を思っているのかがわからなかった。
そばに来たと思ったら、ぐ、と腕を引かれてバランスを崩してしまう。
ほとんど前のめりになりながら、亜弥は美貴のそばへと導かれていた。

体勢を立て直しながら美貴の顔を仰ぎ見る。
そこには、さっきまでのミックスされた表情を消し、ギリッと音がしそうなくらい
顔をゆがめた美貴の姿があった。

「みきたん……?」

呼びかけても返事はない。
その視線は、さっきまで亜弥がいた位置をにらみつけている。

「みきたん」

少し強い口調で呼んでも、美貴は視線を変えない。
それどころか、にらみつける目つきはきつくなっていた。
いくら自分を引っ張りまわしていた相手だからといって、初対面の人に美貴が
こんな顔をするとは思えない。
美貴は裕子を知っている……?
裕子も美貴を知っている?
まさか、どうして?
304 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 22:02

ゆっくりと視線を美貴が向けているのと同じ方向に向ける。
手の届かない位置まで裕子は離れてしまっていた。
その顔にはさっきまでの表情はもうなく、ただ薄く笑みが浮かんでいた。
亜弥と目が合うと、ふうっとわかるように息を吐いた。
ただ、無言のままで。

美貴も、そんな裕子を見ても何も言わなかった。
一瞬、苦々しげに目を細めて、亜弥の腕を握る手に力を入れてきた。

「ちょ……痛いよ、みきたん!」
「帰ろう。ママさんも心配してたよ」
「で、でも!」

体格差はほとんどないが、力では美貴にはかなわない。
亜弥は半ば引きずられるようにして、亜弥の家へと引っ張っていかれる。
その最中に振り返ると、裕子は穏やかに微笑んでいた。
その微笑みの端に何かを感じて、ちりっと亜弥の胸が痛む。
305 名前:道化芝居 投稿日:2005/01/23(日) 22:03

「みきたん!」
「いいから!」

怒鳴られて、亜弥は身を固くした。
美貴はそれにもかまわず、ぐいぐいと亜弥を家の中へと引っ張っていこうとする。
もう一度振り返ると、裕子は小さく手をあげた。

「夜遅くまで引っ張って、ごめんな」
「……中澤さん!」
「そんじゃな」

くるりと裕子が背を向けたのと、亜弥の視界から裕子が消えたのはほぼ同時だった。
美貴は一度も亜弥を見ずに、そのまま家へと亜弥を引っ張り込んだ。
車のエンジン音が遠ざかっていくのが亜弥の耳に残った。

 ◇ ◇ ◇
306 名前: 投稿日:2005/01/23(日) 22:08

更新しました。
いろいろ起こりはじめております。
って、前の更新からほぼ1か月ぶり……_| ̄|○


レス、ありがとうございます。

>>288
結構進んだんじゃないかと勝手に思ってます。
なんかちょっと痛くなるかも……。
ちっともマメな更新になりませんでしたが、
今後もじっくり読んでいただけるとうれしいです。ありがとうございます。

>>289
マターリお待たせしましたw
ねーさんの謎にまたちょっと迫った感じになってると思いますが。
ご期待を裏切らないよう、がんばります。ありがとうございます。
307 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/23(日) 23:15
うわぁ、こうきましたか。
続きたのしみにしています
308 名前:名無し読者。 投稿日:2005/01/24(月) 05:16
わくわく。とっても先が気になります。
309 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/03(木) 02:22
実は今一番楽しみにしているスレなんだが、
今迄で一番先が読めん。
ワクワク…
ドキドキ…
310 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/07(月) 00:14

「みきたん」
「何」

亜弥の部屋。
母親には話は明日聞くからと断って、亜弥は美貴を部屋へと引っ張っていった。
ベッドに美貴を座らせると、イスを目の前に持ってきて、亜弥はそれに座る。
少しだけイスのほうが高いから、角度的に美貴を見下ろすことになる。

美貴は視線をそらしたまま、顔を上げようとはしない。
亜弥はそんな美貴をにらみつけたまま、とにかく逃げることだけは許さないと、
退路であるドアへの道を自分が座っているイスでふさいだ。

「話、してもらえるよね」
「話すことなんてないよ」
「あたしには聞く権利があるよ」
「意味わかんない」
「じゃあわかんなくていいよ。あたしが聞くことに答えてくれれば」
「イヤだって言ったら」
「中澤さんに聞く」
「あの人は聞いたって答えないよ」

ふうん。
わざと声にした。
美貴がピクリと肩を揺らす。
311 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/07(月) 00:15

「やっぱり知ってるんだ、中澤さんのこと」

だんまりだった。
部屋の中を静寂が満たしていく。
いつもは小さく音楽をかけながら勉強をしているので、深夜になるとこんなにも
部屋が静かになることは知らなかった。
カチコチと、目覚まし時計が時を刻む音だけが小さく鳴り聞こえてくる。

「中澤さんとはどういう知り合いなの? どうしてあんな……にらみつけるようなことするの」
「……亜弥ちゃんは知らなくていいことだよ」
「それじゃわかんないよ」
「だから、わかんなくていいんだって」
「あたしが知りたいの」
「言わなきゃいけない理由がないよ」

責め立ててもダメだ。
いつもの美貴なら亜弥のわがままにはあきれるのか相手ができなくなるのか、
すぐにあきらめて答えてくれる。
けれど、今日の美貴は頑なだ。今までに見たことがないくらい。
表情も硬く、決して顔を上げようとしない。
312 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/07(月) 00:15

「……なっち」

裕子がこぼした言葉を亜弥は何気なく口にしていた。
その途端、ものすごい勢いで美貴が顔を上げた。
なんで知っているんだと、目が語る。

それだけでわかった。
美貴と裕子を繋ぐもの。
「なっち」という存在。

「って、誰」

それが人かどうかはわからなかったから、その発言は亜弥にとってひとつの賭けだった。
それでも口にしながら人に間違いはないだろうと思っていた。
裕子が美貴を見て口にしたその言葉。
それはきっとマスターキーのようなものだ。
この言葉を間違いなく使えたら、きっといろいろな扉が開く。
そうしたらまた、自分の世界は変わるのだろう。
313 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/07(月) 00:16

踏み込んでしまったところからはもう戻れない。
変わってしまった生活を、変わる前には戻せない。
裕子を好きだと知った以上、何も知らないまま彼女を手離すことはできない。
手に入れたものを簡単に捨てられるほど、人間はできていない。

だったら、このキーをフルに使おう。
その先に何があったとしても、使わずに後悔することだけはしたくない。
もしかしたら、それで誰かを、自分を傷つけるかもしれないけど、知りたいことは知りたい。
起こってもいないことで悩んだってしょうがないから。

カチリとキーを回す。
314 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/07(月) 00:17

「みきたん。なっちって誰なの」
「亜弥ちゃんには……」
「関係ないなんて言わせないよ」

裕子に関係があることなら、自分に関係がないわけがない。
少なくとも、美貴はそのことがあるから、裕子をにらみ、自分を裕子から引き離そうとした。
ならば、関係があるはずだ。
そんな逃げ方は許さない。

「……その前に、教えてほしいんだけど」

亜弥の決意がわかったのか、美貴の声音はまた変わっていた。
ピンと張り詰めた声。
表情は凛としたものになっている。
ただの真剣なものとは違う、その奥に感じ取れる固い決意のようなもの。
この質問に答えない限り、自分の求める答えは得られはしない、
そう思わせる強さだった。
315 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/07(月) 00:17

「亜弥ちゃんはあの人とどういう関係なの?」
「……中澤さんは、あたしの予備校の先生だよ」

美貴からのまっすぐな視線。
それ以上の言葉を待っている。
美貴はたぶん、知っているのだろう。裕子と自分がただそれだけの仲ではないことを。
その程度の薄っぺらい関係なら、こんなふうに自分が人と付き合わないことも。
答えなくてはならない。
ウソも、隠し事もなく。

わかっていても、手に汗をかき始めていた。
美貴は、女の人と付き合っている自分をどう思うんだろう。
軽蔑するだろうか。
それでも、言わなくてはならない。
それが、裕子を知るために必要なことなのだから。

「……そんで、あたしの……付き合ってる、人。恋人」

ギュッと美貴が目を閉じた。
その姿があまりにも痛そうで、亜弥の手も自然と拳を握っていた。
316 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/07(月) 00:20

また静寂が部屋を埋め尽くそうとする。
美貴は目を閉じたまま、ぐっと左手で作った拳を右手で握り締めていた。
何をこらえているのか、何に耐えているのか。
必死になって何かを抑え込もうとしている。

「……なんで、よりによって、あの人なの……」
「え?」
「なんで! なんで……」

美貴の右手に力がこもった。
ギリギリと音がしそうなほど、左拳に右手の指が食い込んでいく。
美貴の指先が赤く、指が食い込んでいるところが白く変わっていく。

「みきたん……あたしのこと、軽蔑、してる?」
「違う!」
「じゃあ、気持ち悪いとか、思ってる?」
「違う……そんなこと、思ってない」
「じゃあ……」

ぶるぶると頭を振った美貴は、そのままぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。
317 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/07(月) 00:21

「違う違う違う! 違うよ、亜弥ちゃん、違うんだって……」
「みきたん?」
「違う……でも、なんで、なんであの人なのさ!」

美貴の顔には悲痛を通り越して、悲壮さが顔をのぞかせていた。
怒りと泣き顔が混在して、途方にくれたような顔になっている。
そんな美貴を見たのも初めてで、亜弥も目を丸くする。
いったい、美貴と裕子の間に何があったんだろう。
何を美貴はこんなに動揺しているんだろう。

「あの人はダメだよ、あの人だけは……」

亜弥はイスから降りて美貴の隣に座り、その腕に触れた。
弾かれたように腕をつかまれて引き寄せられ、気がついたら温かい腕の中に包まれていた。
美貴の細い腕が背中に回ったかと思ったら、痛いくらいの力で抱きしめられる。

「み、みきたん?」
「あの人は……あの人は、絶対亜弥ちゃんを幸せになんてしてくれない」
「え?」
「だって、だって、あの人は……」

ぐっと背中に回る手にさらに力がこもる。
そこまで抱き寄せられて、亜弥の体に小さな振動が伝わってきた。
そっと美貴の体を抱くように腕を回して、その体が小刻みに震えているのに気づく。

「あの人は……壊したんだ。美貴の、大切なものを」

 ◇ ◇ ◇
318 名前: 投稿日:2005/02/07(月) 00:28

ちょっとだけですが、更新しました。
地味な感じに進行中でございます。


レス、ありがとうございます。

>>307
こんな感じになってきました。
期待を裏切らないよう、がんばります。

>>308
地道に更新していこうと思っておりますので、
今後ともよろしくお願いします。

>>309
一番とは……ありがとうございます。
先行きは相変わらず不透明ですが、お付き合いいただけますとうれしいです。
319 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 00:32
重くなってきましたね。
ごっちゃんはまだ尾行中なのかな。
320 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:34

「あ……」

思わず声を上げてしまった。
その声に反応するように、うつむきがちだったその人も顔を上げる。

「あれ、久しぶり」
「あ、うん……」

もごもごと口ごもりながらうなずくと、彼女はにっこりといつもの笑顔を見せた。
その笑顔が変わりなかったことにほっとして、亜弥は彼女の元へと近づく。
久々のやわらかい空気に、肩に入っていた力がすっと抜けた。
321 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:36

その日、裕子は亜弥が通い始めてから初めて予備校を休んだ。
代わりに来た講師の話だと、体調を崩したということだった。
それ自体はたいしたことはないと思う。
それでも、気になり始めたら気になって仕方がなくなってしまった。

美貴から話を聞いた日以来、亜弥は裕子とまともに話さえしなかった。
予備校で顔を見かけても、裕子は軽く笑うだけで近づいてこようとはしなかったし、
亜弥自身も何を言ったらいいのかわからなかったから、近づくことはできなかった。

それが、ここに来て突然の休み。
顔を見られないとわかって、ざわざわと胸が騒ぎ出してしまった。

話せないまでも、真実を知ることができなくても、
顔を見られればそれだけで安心だったんだとそのとき初めてわかった。

ざわざわと騒ぎ出した胸は止まることを知らなくて、とにかく落ち着きたかった亜弥は
一度だけの記憶を頼りに、裕子のマンションまでやってきたところだったのだ。
そして、そこで意外な人物と出会ってしまった。
322 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:37

「ごっちん……なんでここに?」
「あーうん」

少し居心地悪そうに、真希は頬を指でかいた。

「裕ちゃん、ここに住んでるって聞いて」

亜弥は少しだけ目を丸くした。
亜弥が裕子のマンションの場所を知ったのは、絵里のことがあったあの日。
そのあと、亜弥から真希にはその場所は伝えていなかった。
ごたごたしていてなかなか会えなかったから、どうしていたのかと思ってはいたが、
真希は真希で個人的に動いてもいたらしい。
どこをどうしたのかはわからないが、それでもこうして正確に情報を引き出してくるところはすごい。
それだけ、裕子のことを想っている、そういうことなのだろうか。

「まっつーも? 裕ちゃんとこ?」

何の疑問も持っていない顔で聞かれて、亜弥はほとんど無意識のうちに首を横に振っていた。

「あたしは、ここに友達が、住んでて」
「へー、すごい偶然」
「……うん、そうだね」
323 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:38

真希は疑っている様子も見せない。
ウソではないが、本当でもない。
その微妙な感覚が、ちりちりと亜弥の胸を痛ませる。

なぜ。
なぜ裕子のことを言わなかった?
裕子のところに来たと言っても、何の問題もなかったはずだ。
真希に頼まれて裕子のことをつけまわしていたのだから、マンションの場所くらい知っていてもおかしくはない。
確認するために来たとかいくらでも言い訳する理由はあったはずなのに。

「それで、ごっちんは何してるの?」

重くなってしまった心を振り払うべく、亜弥はあえて明るめの口調で話しかけた。

「うん、なんか留守みたいでさ。ここで張ってる」
「留守……?」

それはおかしい。
体調を崩して休んでいるのなら、部屋にいるはずだ。
それとも、インターホンにも出られないほど具合が悪いんだろうか。
324 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:42

「予備校では会わなかった?」
「……うん、今日は」
「うーん、そっかぁ。あ、それより友達は?」
「あ、うん」

亜弥は裕子のことに引っ掛かりを覚えながらも、インターホンへと向かった。
真希は時々外を見ていて、亜弥の動きにはまったく注意を払っていない。

一瞬考えて、亜弥は裕子の部屋の番号を押した。
絵里はもしかしたらいるかもしれないが、いたからといって、今会ってどうしようというつもりもない。
本当に裕子が留守なら、こうしておけば友達が留守だったフリをして真希と一緒にここにいられる。
そう思ったのだ。

「呼出」のボタンを押しても、確かに反応はなかった。
もう一度押してみても、結果は同じ。
亜弥は軽く息をついて、真希のそばへと戻っていった。

「なんか、こっちも留守みたい」
「約束とか、してたわけじゃないの?」
「うん、ちょっとね……」
「そか」

壁にもたれている真希の隣に、亜弥も同じように寄りかかる。
325 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:43

さて、どうしよう。
裕子が居留守を使っているのかいないのかはわからないが、
このまま帰ったほうが安全なのはわかっている。
何がどこでどうなるのかわからない。
美貴のようなことにはならないにしても、付き合っているとか彼女とかそういうことが
ばれたら、どうしたらいいのかわからないし。

それはわかっているけれど、一抹の不安を拭い去ることができない。
その不安の原因がなんのなのかはさっぱりわからない。
ただ、裕子の顔が見たい。
病気でも何でもいい。
ちゃんと、ここにいて生きているということを確認したかった。

 生きて……?

その突拍子もない考えに、驚くよりも笑ってしまった。
怪訝そうな顔で真希がのぞき込んできたので、あわてて笑顔をしまい込む。
326 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:44

あの人の博愛。
あの人の退廃。
簡単に消えるようなものなら、彼女は自分に会う前にこの世からいなくなっているだろう。
今、そんなことを心配している自分が滑稽だ。
少なくとも彼女は、今自らこの世を手放すような、そんなマネはしないだろう。

それがわかっているのに、なぜ自分はこうも不安を感じているのか。
どうして顔を見たいと思ってしまうのか。
亜弥はそっと目を閉じてみる。

何度も、何日も見てきた裕子の顔。聞いてきたその声。
それを正確に思い出すことが、亜弥にはできなかった。
目の前にすれば、確かに自分の記憶とは違いがないものなのに、
目の前になければそこに本当にあるのかが怪しくなってしまう。

いったいいつになれば、彼女を記憶の中におさめられるんだろう。
彼女を見なくても、目を閉じただけで彼女を正確に思い出すことができるようになるんだろう。

そんなことは無理なのかもしれない。
だから、人は好きな人に毎日会いたいと思うのだろうか。
327 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:45

「ごっちん、あたしも一緒に待ってていいかな」
「うん? 別にいいけど」

そう思えば、するりと言葉は出た。
真希は疑う様子もなく、素直にうなずいてくれた。

そういえば、真希は自分と裕子のことを美貴から聞いてはいないのだろうか。
……聞いていたとすれば、こんな態度を取ることもないだろうから、知らないのだろう。
真希が裕子と知り合いであることを美貴は知らない。
美貴が裕子と知り合いであることを真希は知らない。
だったらそんな話題は出ないのかもしれない。
美貴にしても、思い出したくない話だろうし。

目を開けると、外はすっかり暗くなっていた。
時々、このマンションの住人らしき人が何人か通り過ぎていく。
少し怪訝そうな顔をして見る人もいるものの、ふたりで一緒にいるのと、
亜弥が制服を着ているおかげだろうか。何も言われたりはしなかった。
328 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:45

「まっつー、時間、平気なの?」

たわいもないことを話したりして時間をつぶしていた亜弥は、
不意に真希に言われて腕時計を見た。
時間はもう9時を回っている。そろそろ帰らないとまずい。
それでも……このまま帰る気にはなれなくて。

そんな亜弥の様子に気づいたのか、真希がふにゃっと笑った。

「ごとーからお母さんに言ってあげようか? なんなら今日はうちに泊まってく?」

その申し出はありがたかったが、素直に受ける気にはなれなかった。
とにかく最近はいろんな人に迷惑をかけすぎている。
自分で処理しきれないことを他人任せにするのは嫌いだから。
亜弥は力を入れて首を振った。

「ううん、あたしは帰る。ありがと」

そっか、と真希はつぶやいて、それでも引き止めたりはしなかった。
329 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:46

「じゃあさ、ちょっとだけここで待っててくんない? ごとー、買い出し行って来る。
なんかおなかすいてきちゃったし」
「あ、うん」
「もし、裕ちゃん帰ってきたら、引き止めといて」

それは少しでも長く亜弥がここにいられるようにとの、真希なりのやさしさだったのだろう。
こくりとうなずくと、笑顔を残して真希はマンションから出て行く。
その後ろ姿を見送りながら、亜弥はふうっとため息をついた。

今日は、なんとなく会えない気がする。
今日だけじゃない。しばらくは会えないような気がする。
このまま終わってしまうような、そんな予感もする。

もしそうなってしまったら、自分はどうするんだろう。
別れたくないとあの人にすがるんだろうか。
そんな自分は想像できない。

美貴が言っていたことを裏付けるようなことを言い出したら、どうするだろう。
それをすべて信じてしまうだろうか。
そんなこともありえない。

……いったい、あたしは中澤さんとどうしたいんだろう。

何も答えは見えない。
一寸先は闇。まさにそんな状態だった。
330 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:47

目を閉じて息を吐くと、それをねらったようにガーッと自動ドアの開く音が聞こえた。
真希が帰ってきたのかと目を開けて顔を上げ、亜弥は自分の予感が恐ろしいほどはずれていたことを知った。

そこから中に入ってきたのは、裕子その人だった。

「……かざわ、さん」

こぼれ落ちた言葉に応えるように、裕子の視線が亜弥を捕らえる。
裕子は二度瞬きをして、何の表情も浮かべないまま、ついと亜弥との距離を詰めてきた。

裕子の様子には何も変わったところはない。
予備校で見かけるようなスーツ姿ではなかったが、デートの時に見かけるカジュアルな服装。
目を細めるでもなく、顔は今にもいつものように笑顔を浮かべそうだった。
それなのに、その言い知れない恐怖に、身がすくんでいた。

亜弥の様子を見極めたわけでもないだろうが、裕子はためらいなく亜弥に近づく。
そして、その顔の脇にトンと軽く右手をついた。
331 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:48

ヤバイ。
逃げなきゃ。

頭ではそう思っても、体はまったく動かなかった。
裕子が一度瞬きをした、その一瞬後。
亜弥は息を止められた。
真っ赤なルージュの乗った、裕子のその唇で。
332 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:48

息ができない苦しさで裕子の肩を押す。
それでも、強引なまでの強さで、裕子は離れようとはしない。

目の前にあるのは、閉じられた瞳。
息苦しくて唇を開いた瞬間、やわらかいものを差し込まれた。

ビクッとして口を閉じそうになったが、裕子の眉間にしわが寄ったのを見て、
その口も半開きのまま止まってしまう。
そんな態度を知ってか知らずか、裕子の舌は亜弥の口内を巧妙に駆け巡っていく。

頭の後ろがしびれる。
首が痛い。
呼吸ができない。

ふっと意識まで取り上げられそうになった亜弥を引き戻したのは、
脚をはいつくばる奇妙な感覚。
333 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:49

「……ヤ!」

さっきよりも強く目の前の体を押すと、裕子が離れた。
真っ赤なルージュが光っているのが妙になまめかしくて、目をそらす。

「ええやん、減るもんでもなし」

顔こそ近づけてはこなかったが、裕子は手を止めない。
布越しに触れていたその指が、ふと素足に触れたのに気づいて、亜弥は身を固くした。

「な、かざわさんは……二度、こんなことは、しないんじゃ……!」
「んなん、関係あらへん。アタシはアタシのしたいことしかせんだけや」

スカートの裾から、冷たい手が入り込んでくる。
ほんの少しだけ触れるようにしているその中途半端さが、背中をぞくぞくさせる。
裕子はにやりと口の端を上げて、それからまた顔を近づけてきた。
逃げる間もなく、また亜弥は裕子に唇をふさがれていた。
334 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:50

「んっ……」

息苦しさに目を閉じようとしたその瞬間、またしてもガーッという機械音が響き渡った。
ハッとして目を開けた亜弥の視界に飛び込んできたのは、
買い出しに行っていた真希の姿だった。

その瞳が、まっすぐに自分をとらえる。
そして、大きく見開かれる。

「ちょ……あんた、何してんの!」

ガサッとビニールの音。
その声を聞きながら、亜弥は自分でも怖いくらい冷静に、真希が裕子に気づいていないことを悟った。
後ろ姿なんだからわかるはずもない。

真希は駆け出さんばかりの勢いで亜弥に近づくと、裕子の肩に手をかけた。
ぐっと力を入れかけたところで、その手を乱暴に払われる。
それにあわせるように、亜弥の唇が解放された。

裕子の顔がゆっくりと後ろを向く。
335 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:51

「うっさい、触んな」

一拍の間があった。
裕子は間違いなく、相手の顔を確認してからその言葉を言ったはずだ。
そこにいるのが真希だと知って、その言葉を。

「ゆ……裕、ちゃん」
「邪魔すんなや」

それだけ吐き捨てて、裕子がまた向き直ってくる。
また顔を寄せてこようとして、またしても真希に止められる。

「裕ちゃん! ちょっと……何、してんのさ!」
「触んな!」

ビクリと真希が肩を揺らすのが見えた。

「何て、見てわかるやろが。お楽しみの邪魔すんなや」
「だ、だって……嫌がってる……よ」

真希の言葉が小さくなる。
裕子は真希を見ないまま、両手で亜弥の頭を押さえつけてきた。
そして、こつんと額をぶつけて、目を細めた。
336 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:51

「関係ない。この子はアタシのもんや。アタシがどうしようと、アタシの勝手や」
「ゆ、裕ちゃん……もしかして……」

ふわりと、さっきとは違うやわらかいキスをされた。
裕子の肩越しに、呆然としている真希の姿が見える。
胸が痛い。
泣きたくなってくる。
どうしたらいいのかわからなくて、心臓さえ打つのを忘れているようだった。

「なあ」

別世界へ飛んでいきそうだった亜弥を、裕子の声が引き戻す。
目が、合う。
その瞬間、亜弥は息を呑んだ。
337 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:53

「アンタ、アタシのこと、好きやって言うたよなあ?」

肩越しに見える、真希の顔。
そこからはもう色がなくなっていた。
ただ呆然と立ち尽くしたままの真希と視線が絡む。
それでも、亜弥はうなずいていた。
真希の表情がくしゃりとゆがむ。

「やったらさあ」

突然右手を握られた。
その手を裕子はどこかへと導いていこうとする。
視線を落としてその行き先を見やると、右手は裕子の上着のポケットへと入っていった。

ふたつの手では狭い空間。すぐに終点へとたどり着く。
固い何かが手に触れた。
裕子に視線を戻すと、その表情は先ほどまでとはうって変わって穏やかになっていた。
何度か見たことのある、やわらかい微笑み。
その笑みに促されるように、亜弥はその固い何かを握る。
338 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:56

それを確認したのか、裕子がまたその手を導き始めた。
裕子の体の脇を通って、肩の上に乗せられる。
そのとき初めて、亜弥は自分が握っているものが、不思議な形をしていることに気づいた。

長方形……ではない。
角が丸く、手のひらくらいの長さ。
こんな形のおせんべいがあったような、そんな記憶。
黒いそれは、裕子の白い首筋を背景にして、より黒さを増しているようにも見える。

イヤな予感がした。

裕子は右手を亜弥から離して、そのまま黒いそれに添えた。
そして、くいっと右手を下に動かすと、黒いそれから飛び出してきたのは不気味な銀色の光。

ごくりとのどが鳴った。
裕子は右手を亜弥の肩に添えると、左手で亜弥の右手ごと黒いそれを動かした。
その細長く光る刃を、真っ白な首筋にピタリと当てる。
そして、やわらかい笑顔のまま、その唇を静かに開いた――。
339 名前:道化芝居 投稿日:2005/02/27(日) 22:56





 アタシを 殺して?



340 名前: 投稿日:2005/02/27(日) 22:58

更新しました。
どんより雲行きがあやしくなってきております……。


>>319
レス、ありがとうございます。
あっちゃこっちゃこんな感じで動いておりました。
まだまだ重くなるかも……です。
341 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/03/02(水) 09:22
更新おつかれさまです
こないだ気が付いて一気に読みました
なんか引き込まれますね
息を飲む展開でドキドキです。
固唾を飲んで更新まってます。
あのキーワードが気になる…
342 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/02(水) 23:33
あわわわわ(゜o゜)
343 名前:道化芝居 投稿日:2005/03/22(火) 00:36

その言葉ひとつで頭の中がショートした。
チカチカと目の前の色が変わる。

白い首筋についた、赤い一本の線。
誰かの叫び声と、頬にかかる吐息。
香水の香りと、それをかき消す鉄の錆びたような匂い。

壊れたテレビのように、断片的に何かが目の前で起こる。

そんな亜弥を引き戻したのは、赤い色だった。

力なく自分にもたれてきている裕子を支えきれずに、亜弥はその場にぺたりと座り込んでいた。
一本の赤い線は赤い線のまま、亜弥の視線の端に引っかかっているだけ。
視線の先には赤い点々。
そこから視線を動かすと、腕を押さえて前かがみになっている……あれは……。

「ごっち……!」

赤い点の傍らに落ちた、黒いもの。明かりに照らされて先は銀色に光る。
その光に混じって赤いものが見える。

近づこうとしても、体に力が入らない。
自分に覆いかぶさってきている裕子を押しのける力さえ亜弥にはなかった。
344 名前:道化芝居 投稿日:2005/03/22(火) 00:36

そんな亜弥を助けるように、またしても静かな空間に音が響き渡った。
飛び上がりそうになって音のしたほうを見て、亜弥は目を見開いた。

「絵里ちゃ……」
「ど、どうしたんですか!?」

絵里は亜弥に気づいていないのか、今にもうずくまろうとしている真希へと近づく。

「や、なんでも……」
「ないはずないでしょう!?」
「なんでもないって」

真希は声に笑いを含めながら、その場で背を伸ばした。
その顔がへたったままの自分のほうを向いて、亜弥は思わず身をすくめる。

「何か……ハンカチとか持ってませんか?」

絵里に言われて、真希は素直にポケットからハンカチを取り出した。
ほとんどそれをひったくるようにして、絵里はそれを真希の左手のひらに当てる。
そのハンカチがみるみるうちに赤く染まるのを見て、亜弥は息を呑んだ。

絵里はその様子を見つめるとすぐに顔をしかめ、携帯電話を取り出した。
345 名前:道化芝居 投稿日:2005/03/22(火) 00:37

「あ、すいません。ちょっと、友達が手を切っちゃって……」

冷静に電話口で状況を告げている。
真希は少しだけ顔をしかめてそれを見て、すぐに亜弥へと視線を移してきた。

「裕ちゃんは……?」
「え?」
「裕ちゃんは、へーき?」

言われて亜弥は裕子の顔を見た。
目は閉じられてしまっているが、呼吸は規則的だ。
特に問題はなさそうに見える。

「う、うん、大丈夫、だと思う」
「……そっか」

何が起こったのかわからない。
目の前で起こったはずのことなのに、記憶の片端にも今までの出来事が存在していない。
ただ、今の結果を見る限り、裕子と自分の手からナイフを取り上げたのは真希だ。
そのときにケガをしたのだ。あの、ナイフで。
346 名前:道化芝居 投稿日:2005/03/22(火) 00:37

「救急車、呼びましたから」
「そんな、大げさにすることないのに」
「バカ言わないでください。ちゃんと見てもらったほうがいいですよ。深いかもしれない」
「だったら歩いていくのに」
「じっとしててください。ホントは寝ててほしいくらいなんですから」
「はいはい」

絵里と言い合っていた真希が何かに気づいたように、また亜弥を見る。

「救急車来る前に、裕ちゃん、部屋に連れて行ってあげてよ」
「あ……うん」

立ち上がろうとしたけれど、へたってしまって体が動かない。
それを見かねたのか、絵里が近くに寄ってきた。
そこで初めて、驚いたように目を丸くした。
今の今まで、真希に気を取られて亜弥のことにも裕子にも気づいていなかったようだ。

それでも、絵里は何も言わなかった。
難しい顔をしたまま、裕子を亜弥からなんとかひきはがす。
亜弥は目を閉じて息を吐いて、それから体に力を入れた。
なんとか体が動いた。
347 名前:道化芝居 投稿日:2005/03/22(火) 00:38

真希から部屋番号を聞く。
カギのありかがわからないと思っていたら、絵里がたくさんのカギがついたキーホルダーを渡してきた。
そのうちの1本を指差して、それが裕子の部屋のカギだと告げる。

「……裕ちゃんと、知り合い?」
「お隣さんなんです」
「へえ」

さっきよりも真希の顔が青白くなっているような気がする。
それがどうにも心配で、裕子の体を何とか背負った体勢のまま、亜弥は真希を見た。

「絵里が残ってますから」
「いいよぉ。ひとりで」
「ついていくわけじゃないです。ほっといたら救急車ほったらかして帰りそうだから」
「なんだ、信用ないんだ」
「ありません」

やれやれと真希が肩をすくめるのを見て、亜弥はやっと歩き出した。
正直、重い。
意識のない人間の体がこんなにも重いことを初めて知った。
348 名前:道化芝居 投稿日:2005/03/22(火) 00:40

何とかエレベーターまでたどり着くと、そのまま乗りこんで7を押す。
せめて誰にも会わないようにという願いが通じたのか、幸い誰も乗り込んでは来なかった。
特に障害もなく、スムーズに裕子の部屋までたどり着き、言われたとおりのカギで部屋のドアはあっさりと開く。

靴を脱ぐと、裕子の靴はそのままに、何とか部屋の中まで引っ張り込む。
寝室がどこだかわからなかったので、目についたソファの上に裕子を降ろして息をついた。
そのとき、やっと救急車のサイレンが遠ざかっていくのに気づいた。

真希は何に気づいただろう。
自分の恋人が裕子だったということには、もう気づいている。
それでも、あんなにも冷静でいたことが少しだけ怖い。
いっそ、責めてくれたら、と思ってしまう。
そうしたら、少しは気分も晴れるだろうに。

目を閉じている裕子の顔はとても穏やかで、そういえば、こうして眠っている顔を見るのは初めてだと気づいた。
いつだって凛としていて、どこか壁を作っているようで。
人を翻弄して煙に巻いて、本当の自分をどこかに追いやってしまっていて。
でも、今この瞬間だけは、確かに裕子がそこにいる。

そんな裕子をぼんやりと見つめていると、ふと目に飛び込んできたのはもう赤黒くなってしまった1本の線。
傷自体は深くなかったのか、流れ出している様子もない。
けれど、その存在に亜弥の背筋がぞくっと震え上がる。
349 名前:道化芝居 投稿日:2005/03/22(火) 00:44

その線は、さっきの裕子の言葉も行動も夢ではなかったことを教えてくれる。
まるで、狂気としか思えない裕子の行動。
狂気だったら、まだ納得もできただろう。
だけど……。

亜弥はそっと裕子の指に触れた。
そのまま軽くつかんでみても、裕子は何の反応も返してはくれない。

目を閉じたままの裕子のまぶたを見つめる。
その奥にあるはずの、茶色の瞳を思い出しながら。

少なくとも、あのとき。裕子が「殺して」と言ってきたとき。
裕子の瞳に見えたのは、狂気などではなかった。
そこにあったのは光。
いつだってどこか退廃的な色を見せている彼女が見せた、初めての力。
あのときの裕子は、間違いなく正気だった。

だからこそ、怖かった。

普段の裕子が本物ではなく、本当の自分を隠していても怖いことなど何もない。
ただ、あの殺してほしいと言った、あの時だけが正気だったのだとしたら、
彼女はただ、殺されるために生きているとしか思えなかったから。
だから怖かった。
350 名前:道化芝居 投稿日:2005/03/22(火) 00:45

カチャンという音がして、亜弥は顔を上げた。
玄関の方向から現れたのは絵里だった。
少し青ざめた顔からは、さっきまでの強気な感じは見受けられない。
そもそも、あの強気さは絵里らしくない。まして、相手は初対面の真希だ。
たぶん、ケガをしてる姿を見て、冷静ながら動転していたのだろう。

「大人しく行ってくれました」
「うん……」
「これ」

カタンという小さな音とともに、亜弥の前に置かれたのは黒い物体。
銀色の刃はもう姿をその中に隠してしまっているが、それは確かに裕子と真希を傷つけたものだ。
亜弥の背中がもう一度ぞくりと震える。

「見つかるとまずいかと思って」
「……うん」
「……じゃあ、絵里はこれで」
「あ……」

呼び止めるつもりはなかったのに、声がこぼれてしまった。
静かな空間に予想以上の大きさで響いた音に、絵里が足を止める。
351 名前:道化芝居 投稿日:2005/03/22(火) 00:46

「……どうして、何も聞かないの?」

ふにゃんと困ったように絵里が笑った。
そのどこかに安堵の色が混じっていたのは気のせいだろうか。

「お姉ちゃんのやることは、何も聞かないようにしてるんです」
「え?」
「お姉ちゃんを縛りつけたくないから」

絵里はぽつぽつと静かに語り始めた。

「絵里ね、前、仲のすっごいよかった友達がいたんです」
「……うん」
「でも、絵里、心臓悪いじゃないですか。だから、その友達とも、普通の子みたいに遊べなくて。
それでも、絵里は一緒にいてほしくて、わがままばっかり言って困らせて。
その子がほかの子と遊ぶのもイヤで。ずっとずっと絵里とだけ一緒にいてほしくて。
そんなことばっかり言ってたから、気がついたらその子もそばにいてくれなくなってて」

こふっと小さな咳が聞こえてきた。
絵里は何かをこらえるように、シャツの袖をいじっている。

「そのときにね、気づいたんです。わがままは言っちゃいけないんだって。
絵里のわがままは人を縛りつけちゃうから」
352 名前:道化芝居 投稿日:2005/03/22(火) 00:48

ふと、絵里の家に来たときのことが思い出された。

あのとき絵里が言っていた「邪魔したくない」「迷惑をかけたくない」という言葉。
そのすべてはここから来ているんだ。
それは、裕子のことを思っているというより、自分から裕子が離れていくことを恐れている言葉。
裕子がそばにいてくれるなら、多少のわがままは自分の中に押し込めてしまおうという、そんな言葉。

「それでも、たまに困らせちゃうこととかあるんだけど、
でも、できるだけお姉ちゃんには迷惑かけたくないから。
だから、お姉ちゃんが話してくれないことは、絵里からは聞かないことにしてるんです」

これは……強さ? 違う、脆さだ。
自分の弱さを表に出さないために、前もって防御壁を張っているだけのように思えた。
裕子が握ってくれた手を離す可能性を、絵里は予想している。
ただその可能性をできるだけ低くしようとしているんだ。
自分の望みを小さく折りたたんでしまってでも。

……待って。
それはつまり、絵里は裕子の言う「絵里が一番大切だ」という言葉を信じてないということじゃないのか。
もしかして……何かに気づいてるんだろうか。
裕子の言う言葉に真実ではないものが混じっていることに。

そうだとしたら、それは脆さではなく強さだ。きっと。
353 名前:道化芝居 投稿日:2005/03/22(火) 00:48

「絵里ちゃん……」
「何かあったら隣にいるんで、いつでも呼んでください」

何かを振り払うように、笑顔を残して絵里はその場を去っていった。
小さな音が空間を通り過ぎて、一気に静寂に支配される。
裕子は規則的に呼吸をしたまま、一向に目を覚ます気配もない。
見慣れない部屋、初めての空気に、亜弥の頭の中が冷えていく。

真希が最後に残していった眼差しが。
震えていた美貴の体が。
様々なものが波のように亜弥の体に押し寄せてきて、今頃になって体が凍る。

あれだけのことを前にしてもほんの少しも揺らがなかった真希の強さ。
自分の思いを押し込めてでも笑っていようとする絵里の強さ。
殺されたいと思っている裕子と付き合っていくには、そんな強さが必要なように思えた。

 あたしは……どうなんだろう。
 そんな強さを持ってるんだろうか。
354 名前:道化芝居 投稿日:2005/03/22(火) 00:49

わからない。何もわからない。
裕子に近づいたことで、自分のすべてが変わることは理由もなく理解していた。
後悔しか残らなくても、今は美貴や真希よりも裕子を選ぶと思った。
友達を、今までの自分を壊しても、裕子を手に入れられるならそれでいいと思っていた。
そして、壊してきた。
そのことに後悔はなかった。少なくとも、今までは。

でも、実際はどうだ。
自分でも想像しなかったほどのスピードで変わる、目の前の風景。
これから先、今までのように美貴や真希とは付き合ってはいくことはできないという事実。
そうまでしても裕子を手に入れられない現実。
裕子を理解できない不安。

なぜ裕子は殺されたいのか。
どうしてそれを自分に頼んだのか。
何もわからない。
355 名前:道化芝居 投稿日:2005/03/22(火) 00:50

わかっていたのに、その現実が今亜弥に重くのしかかる。
裕子の心を捕まえるのは、雲をつかむのと同じこと。
砂漠の砂の中にまぎれたたった一粒の砂金を探し出すようなもの。
しかも、その一粒の砂金は、空気にさらしたらぽろぽろと崩れてしまいそうなものだ。

だったらどうすればいい?

裕子の願いをかなえることは、自分には到底できない。
だからといって、殺されたいと思っている裕子を救い出すのに、
想像もできないほどの力が必要なのだとしたら。
裕子を傷つけずに、裕子の本心を捕まえることができないのだとしたら。

亜弥は固く目を閉じた。
そして、大きく息を吐いた。



 あたしは、中澤さんと恋なんて、できないのかもしれない。



 ◇ ◇ ◇
356 名前: 投稿日:2005/03/22(火) 00:52

更新しました。
うだうだうだうだうだ……しております。


レス、ありがとうございます。

>>341
ありがとうございます。更新ペースが遅くて申し訳。
あのキーワード……どれだろw

>>342
あわわわわw
いやいやそんなにあわてないでください。
どうぞ、口を閉じてお待ちいただけませ。
357 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/09(土) 00:45
みんなどうなっちゃうんだろう・・・
ソワソワしながら続きを待ってます
358 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/13(水) 22:44
やっかいというか悲劇の予感が
359 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:11

「……ん」

答えの出ない問答を頭の中で亜弥が繰り返していると、不意に音がこぼれてきた。
ころり、と転がり落ちたそれは、部屋の中に溶けるように消える。
はっとして亜弥が顔を上げると、目の前のソファに転がっていた人の体が小さく震えた。

ひどくゆっくりとした動作でだらりとぶら下がっていた右腕があがる。
その白い手のひらが右目を覆うように押さえ、ふううと息の音がする。
右手はそのまま前髪をくしゃりと一度もてあそんで、
それから頭を支えるようにぐいと、その茶色いものを押し上げた。

ふるりと茶色い髪が揺れる。
左腕がその華奢な上半身を支えながら起こす。

まるで、スローモーションのように目の前で繰り広げられる光景を、
亜弥は声も出さずに見つめていた。

二度髪は左右に振られて、それから一点で止まる。
それに気づいて、視線を下げて、そこで亜弥は裕子が自分を見つめていることを知った。
360 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:11

「……っ」

声が出なかった。
それを見て何を思ったのか。
裕子は一瞬目を細め、それから力が抜けたように笑った。

「アタシ、まだ生きてるんや?」
「あ……当たり前です」
「なんや、残念」

本当に残念そうにやれやれと肩を落としながら裕子が息をつく。

「……っ!」

体の中心からあふれ出てくるような熱いもの。
それにまかせて口から言葉がこぼれ落ちそうになって、亜弥ははっとして息を止めた。
そして、その理由に裕子が気づくよりも先に、目の前に転がっていた黒い物体を取りあげ、背中に隠した。

何に気づいたのか。
裕子は軽く首を傾げてまた笑った。
穏やかで、まるで春の日だまりのような暖かな笑い方。
その意味するところがわからなくて、亜弥は黙る。
361 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:11

「ムダや」

裕子の口からこぼれる音は、あくまでも温かい。
さっきまでに起こった出来事、今までのことを考えなければ、
それは本当に恋人同士の間にある会話と同じ温度だったのかもしれない。

だけど、そんなことはあり得ない。
少なくとも裕子は自分をそういう対象としては見ていない。それを亜弥自身もよくわかっている。
だから、逆に怖い。
その温度の示すものが愛情でないことがわかっているから。
それがなんなのか、その正体がわからないから。
さっき二度までも感じたイヤな予感が、またしても亜弥を襲う。

それに応えるように、裕子は穏やかな笑顔を浮かべて立ち上がると、
手近に放り出されていたジャケットに手を伸ばした。
そのポケットに手を突っ込むと、何かを亜弥のほうに放り投げる。

カチャンと小さな音を立てて、それは床に転がった。
裕子の顔と床に落ちたそれを見比べて、そっとそれに手を伸ばす。

答えなんて、わかっていた。

それは、今亜弥が背中に隠したものと同じ。
サイドに触れると溝がある。くぼみに指がさしかかると、冷たいものに触れる。
指を引きかけて息を吐くと、気を取り直してその細いものを指で挟み、
軽く引っ張り出した。
それは何のためらいもなくパチンと小さな音を残して、その姿を現した。

銀色に光るその刃は、さっき裕子と真希を傷つけたものと同じだ。
362 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:12

「……中澤さん」
「ほしかったらアンタにやるわ」

言葉に笑みを含ませたまま言うと、裕子は不意に身を翻して別の部屋に消えた。
そして、その腕に抱えきれないほどの洋服を持って戻ってきた。

「中澤さん?」

亜弥の言葉には応えずに、裕子はその服をソファに投げる。
一番上になったスーツのポケットに手を突っ込むと、また何かを取り出して放り投げた。
その下にあったジャケット、パンツ、ジーンズ……次から次へとまるで手品のように、
裕子はそこからいろんな形、いろんな色をした物体を取り出してくる。
1本、2本、3本……。

「……やめてっ!」

黙々と笑顔でポケットに手を突っ込み、取り出しては投げるという行為を繰り返す裕子に、
しびれを切らして亜弥は叫んでいた。
目の前のその山を見たくなくて、裕子へと視線を飛ばす。
無意識のうちに組み合わせた指は、両方とも冷たく震えていた。
363 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:12

「やめて、ください」

胸が苦しくて、気分が悪い。
亜弥は組んでいた指を離して、右手で自分ののどもとを押さえた。
服の上から鎖骨の下を圧迫すると、その痛みで少しだけ落ち着いた。

ごくりとのどを鳴らして、それから裕子を見上げる。
裕子はさっきよりも驚いたような顔をしていたが、それでも笑顔は消していなかった。

……いったい、何が、したいのか。

今の裕子からは何の悪意も作意も感じられない。
どこか無邪気にさえ見える。
子供が宝物を見せるような、そんな表情だ。

「なんで、こんな……」
「ん?」
「どうして、こんなに、あるんですか、これ」

息を整えながら言うと、裕子はやっぱり少し困ったように首を傾げた。
364 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:12

「なんかなあ、気がついたらこんなんなっててん」

裕子の声に深い意味合いは感じられない。
いつものように、何かを隠しているようにも聞こえない。

「なんか、ないと不安でな。出かけるとき忘れるたんびに買っとったら、
いつの間にかこんなにたまってしもてな」

一番近くに落ちていたそれに手を伸ばすと、裕子はまるで大切なものを愛でるように、
それを両手で包み込んだ。

「これがあると、安心できんねん」

その笑顔があまりにも穏やかすぎて。
今まで見てきた裕子とはまったく違う表情に、亜弥の体が震えた。
365 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:13





 だって、いつでも死ねるやろ?




366 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:13

言ってもいない言葉が聞こえてきて、亜弥は両手で耳をふさいでいた。

違う、そんなこと違う。
だって、死にたいなら。本気で死ぬ気があったのなら、とっくに死んでいるはずだ。
この人なら、その気があるならためらいもなく消えてしまうだろう。

逃げてしまいたかった。
自分には裕子を救うことも守ることも殺すこともできはしない。
そんな絶望にも似た感覚が、亜弥を覆い尽くそうとする。

動くこともできずに震えていると、不意に何かが腕に触れた。
反射的に体を引きながら顔を上げると、そこには心配そうな目をした裕子が立っていた。

「大丈夫か?」
「あ……」

すうっと何かが体に入り込んでくる。
穏やかな裕子の瞳に、さっきまでの眠っていた姿が重なってくる。

何が、亜弥にそれを気づかせたのか。
それは、きっと誰も知らない。
ただその瞬間、一瞬だけ目の前が開けたような気がした。
367 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:13

裕子はふざけて死ぬと言っているわけじゃない。
本気で死ぬ気はあるんだ。
死んでもいいと思っている。
いっそ、死にたいと思っている。
じゃあ、なぜ。
なぜ、今こうして生きている?

それは――
368 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:13

「中澤さん」
「何?」
「……中澤さんは、どうして殺されたいんですか」

ひとつ呼吸をして、亜弥は裕子をまっすぐに見つめた。

「なんで、死なないんですか」

裕子が笑顔を消した。
けれど、それは一瞬で、すぐにやわらかく笑う。
その笑顔で亜弥は自分の言いたいことが、裕子に伝わったことを知った。

そうだ。
死ぬ気がありながら、どうして殺してほしいのか。
なぜ、自らの手で、その命を絶つことをしなかったのか。
生きることに執着しているからとは思えない。
それなら、殺してなんて頼んだりしないだろう。

何かあるのだ。
死ねない理由が。
自分の意思で、死を選べない理由が。
369 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:14

「教えたら、殺してくれる?」

揺らぎのない声が響く。
裕子は笑顔のまま、瞳に怖いくらいの真剣な色を見せながら、亜弥に問いかけてきた。

それは……できない。
どんな理由があったって、それをできるとは思えない。
じゃあ、なんでそれを知ろうとしている?
知ることで、彼女を救うための手がかりを探している?

違う。そんなんじゃない。
そんな崇高なことを考えてるわけじゃない。

あたしはただ。
守りたいだけだ。
彼女を失えば、絶対に後悔する。
だからって、追いかけていくこともきっとできない。
それがわかっているから。

だから。
生きていてほしいんだ。

あたし自身が、苦しまないために――。
370 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:14

でも、ウソはつけなくて。
ウソをついても、彼女を救うことはできないのがわかっている。
亜弥は首を振った。

ふっと笑いが漏れ聞こえた。
目の前の裕子はわかりきったような笑みを浮かべている。

わかりきっているのなら、なぜ自分にその役を求めたのか。
裕子の行動は、亜弥にはひとかけらたりとも理解できない。
だから、亜弥は裕子を見つめた。
裕子も亜弥を見つめ返して、軽く瞬きをする。
371 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:14

「別れて」

その言葉は、予想もしないところから降ってきたようだった。
裕子は微笑みの色を薄くして、目を少し細めて亜弥から目をそらした。

「恋人ごっこはもうおしまいや」
「――それは、あたしがもう、必要ないってことですか。
殺してくれない人間には、用はないって」
「そうや」

あっさりと裕子は告げる。
胸が痛くなって、亜弥は大きく息を吐く。

めげるな。
こんなのはわかっていたこと。
この人は、人の神経を逆なでするのは得意なんだ。
人の弱いところ、言ってほしくないところを的確に突いてくる。
だけど――それが本当の気持ちとは限らない。
少なくとも、あたしはすべてが本当だとは思ってない。

だからって、この人相手に駆け引きはできない。
何か余計なことを言えば、追い詰められるのは自分だ。
だったら、何もかもをすべて捨ててまっすぐに。
ゆがめることも隠すこともなく、まっすぐに。

伝えなければならない。
それが、彼女と戦う唯一の方法だ。
372 名前:道化芝居 投稿日:2005/05/15(日) 01:15

たとえそれが自分のためでしかなかったとしても、死んでほしくない。
生きていてほしい。
そう思うのなら、戦わなければならない。
そのための唯一の方法は、それしかない。

「教えてください」
「何を」
「何で、殺されたいのか。それを教えてくれたら、別れてあげます」

自分の中の強気をフルに活用して、亜弥は裕子を見上げた。
にらむことも怯えることもなく、ただまっすぐに。

教える必要がないことなど、わかっているはずだ。
自分の魂胆など、きっと見切っているだろう。
それでも、今の亜弥にとって、真実を知る一番近い方法はこれしかなかった。
玉砕覚悟だったけれど、裕子が乗ってくれることを祈るよりほかになかった。

しかし、物事は映画や小説のようにはいかない。
裕子はやれやれと困ったように肩をすくめ、小さく首を振った。

それで、終わりだった。

 ◇ ◇ ◇
373 名前: 投稿日:2005/05/15(日) 01:17

更新しました。
ご無沙汰でございまして……。
その割には全然進んでない気もしますが。

レス、ありがとうございます。

>>357
すいませんすいません。お待たせしましてすいません。
今後、ちょっといろいろと動きがある予定でございます。
予定……ですが。

>>358
やっかいどころではないかも、ですね。
どうなることやら……。
374 名前:ケロポン 投稿日:2005/05/16(月) 07:23
怖い…けどおもしろい!
375 名前: 投稿日:2005/05/18(水) 00:18

本日はお知らせに参上しました。

小説の保管庫的なサイトを作りました。
今までに書いたものをちまちま載せていく予定です。
まだ工事中の部分もありますが、
よろしかったらお暇なときにでもいらしてみてください。

http://soraironokakera.hp.infoseek.co.jp/

これを作ってたから更新が遅くなったわけでは…ない…はずです(汗)
更新じゃなくてすみません。

レス返しは次回更新のときに。
376 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/18(水) 22:56
展開が気になる〜。
目が離せませんね。
サイトの方も見させていただきます。
377 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/19(木) 22:38
話しに引き込まれます。
中澤さんの過去って…。
378 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/21(土) 23:57
>>375
早速お気に入り登録ですよ
毎回続きが楽しみでたまりませんよ

379 名前: 投稿日:2005/08/21(日) 22:26

作者です。生きてます。
お待ちいただいている方、いらしたら大変申し訳ありません。
もうしばらくお待ちください。
次回はがっつり更新できるよう、がんばります。
380 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/23(火) 01:16
ゆっくり、楽しみに待ってます。
381 名前:道化芝居 投稿日:2005/08/28(日) 22:53

……………
…………
………
……


雨が、降っている。

目を開けなくても、音を聞かなくても、それだけはわかった。
自分を包む空気が、それをはっきりと教えてくれる。

裕子が体を起こして目を開けると、そこは真っ暗だった。
暗いということは、夜だということか。
今の自分には時間などどうでもいいことだったけれど。

ゆるりと立ち上がって、窓に近づく。
雨のせいか、街は異様に静まり返って見えた。
ぽつぽつとともっている明かりも、どこか心もとない。
382 名前:道化芝居 投稿日:2005/08/28(日) 22:54

今日が何日で何曜日で何時なのか。
そんなことには興味もわかなかった。意味はない。
予備校には退職願を出した。
受理されていないことは、留守番電話が教えてくれた。


 あなたを慕って講義を待っている生徒もいる。
 途中で放り出すなんて、無責任すぎる。


そんな言葉が人を変え、時間を変えて吹き込まれていたが、心は揺れない。
他人がどうであろうと、どうしようと、どうなろうと、どうでもよかった。
結局、予備校側が出した結論は長期の休職。
いつでも、その気になれば出てきてかまわないということだった。
そう言われても、そこに戻ることはない。
理由を問われて説明できるわけではないが、絶対の確証で裕子はそう思っていた。
383 名前:道化芝居 投稿日:2005/08/28(日) 22:55

何かが変わった。
何かが動いた。
どんよりと停滞していた自分の中で、確かに何かが始まっていた。
それが自分の望むほうへと向かっていることを祈る。
結末は――終焉。
何もかもが終わる。
それだけが、願いだ。
384 名前:道化芝居 投稿日:2005/08/28(日) 22:55

裕子はくるりと踵を返すと冷蔵庫へと向かい、
ペットボトルに入ったままのミネラルウォーターをラッパ飲みにした。
それは生きるための水ではない。
生かすための水。
あの日以来、物の味を感じたことはない。
すべては空気を飲み込んでいるのと変わらない。
それでも、生きていなければならないから口にしてきただけだ。

時は流れて、景色も動く。
けれど、裕子の心はあの日のまま、今もあの場所にある。
ただ、雨が降っているということだけが、裕子の心に今を刻む。

ペットボトルを戻すと、裕子はもう一度窓へと近づき、それを開けた。
カラカラという軽い音が部屋の中に響く。
湿った空気が流れ込む。
ベランダの半分は、雨に濡れてしまっていた。

裕子はその場に腰を下ろした。
体を斜めにして壁に寄りかかると、こつんと頭をつける。
385 名前:道化芝居 投稿日:2005/08/28(日) 22:56

世界は静寂に包まれていた。
雨の音だけが静かに響いてくる。
それは本当に雨の音なのだろうか。
もし、世界に木も草も建物も人もいなかったなら。
当たるものが何もなかったなら。
雨は、それでも音を立てるのだろうか。

肩を落とす。
こんなくだらないことを考えるなんて、どうかしている。
いや……どうかしているのは、今に始まったことじゃない。
ため息にも似た笑いが漏れた。

ふっと、空気が動くのを感じた。
386 名前:道化芝居 投稿日:2005/08/28(日) 22:58

「……お姉ちゃん?」

気配のしたほうへ顔を動かすよりも先に、声が聞こえた。
静けさに紛れ込むほどの、小さな小さな声。
その声だけで、表情が想像できた。

「うん?」

返事をすると、ほっとした空気に変わる。
まるでそこだけが、違う世界になっているようだ。
絵里のいるであろう場所は、きっと暖かくて明るいのだろう。

「どした?」
「あの、ね。……うんと、そっちに行ってもいい?」
「もう寝る時間ちゃうんか?」
「……そうだけど」
「ええよ。おいで」
「うん!」

元気よく返事をして、すぐに気配が消えた。
絵里がどうしてここに来たいと思ったのかはわからないが、
その理由は裕子にはそれほど重要なことではなかった。
ただほんの少しだけ、絵里の顔を見たくないなとは思ったが。
387 名前:道化芝居 投稿日:2005/08/28(日) 23:00

絵里はいつもどおりの笑顔で部屋に現れた。
部屋の電気が消えていることを訝しく思っているようでもあったが、
裕子がしないことを絵里は絶対にしない。
だから、部屋の中は真っ暗なままだった。

絵里の腕には、裕子が一昨年の誕生日にプレゼントした毛布が抱えられていた。
ここに越してきてもう4年。
絵里は裕子に言われることを先回りして行動できるようになった。
それが、付き合いの長さを物語っているようだった。

えへへ、と笑いながら、絵里は裕子の隣に座る。
ふわりとマントのように毛布を背中から被って、その端を裕子の肩にもかけようとする。

「アタシはいらんよ」
「えー、入ろうよー」
「いらんて。アンタが風邪ひく」

その手を取って、毛布をきちんと体にかけてやった。
丸くなった背中が、何か小動物を思わせる。
そっとなでると、えへへとまた笑い声が聞こえた。
388 名前:道化芝居 投稿日:2005/08/28(日) 23:00

「眠れんの?」
「うん……ちょっと、目がさえちゃって」
「昼寝のしすぎとちゃうんか?」
「違うよー」

毛布ごと体をぶつけてくる。
むうっとふくれた頬が、横からでもわかる。
思わず、目を細めていた。

やはり、その横顔は似ていた。

「お姉ちゃんは?」
「ん?」
「お姉ちゃんも眠れないの?」
「んや。アタシはさっきまで寝とったから」
「あれ、そうなんだ」

密着しているわけではないのに、絵里からは熱が感じられる。
思わずその額に手を伸ばしていた。

「わ、な、何?」

ピッタリと張り付こうとする直前に、絵里が身を引いた。
けれど、もう遅い。
389 名前:道化芝居 投稿日:2005/08/28(日) 23:01

「熱」
「ふぇ?」
「熱、あるやろ」
「え、えええ、そ、そんなこと……」

軽く目を細めると、絵里がしゅんと黙った。
だますことなどできないとわかっているはずだ。

「……ごめんなさい」
「アタシにあやまることとちゃうやろ。具合悪くなって困るんは、自分やんか」
「……うん」
「帰って大人しく寝とき」
「……お姉ちゃん」

絵里の表情は静かだったが、少しの不安がのぞいていた。

ああ、そういえば。
あの子もそうだった。
熱が出ることは、自分の命に直結する出来事でもあったから、
熱が出るたび不安になって、いつも呼びつけられていた。
だったらそう、絵里も不安なのだろう、きっと。
390 名前:道化芝居 投稿日:2005/08/28(日) 23:02

「もうちょっとだけ、いてもいい?」

ぽんと頭を叩いて息をついた。
手から絵里の温もりが流れ込んでくる。

世の中は、運命にも似たくだらない偶然でできている。
人を苦しませる意味しかもたなくても、それは世界に必要なのだろうか。
裕子は目を閉じた。
そして、黙ったまま絵里の肩にもたれかかった。

「お、お姉ちゃん?」

絵里が動いて、ずるりと体がずれる。
重力にしたがって、裕子の体は絵里の膝の上へと落ちる。
熱があるからなのか、絵里は温かい。
なぜか、胸が痛くなった。

「お姉ちゃん?」

様子がいつもと違うことに戸惑っているのだろう。
少し遠慮した力の強さで、絵里の手が裕子の肩に触れた。
391 名前:道化芝居 投稿日:2005/08/28(日) 23:03

「絵里」

感傷に浸るつもりはない。
体が求めていたからそうしただけだ。
それなのに、口から出た言葉は、まさに感傷そのものだった。

「ごめんな」

その言葉から、絵里は何を感じたのだろう。
触れていた手が肩から離れ、頭に触れるのがわかった。
その手はまるで自分を後押しするかのようで、
触れられた瞬間、世界から音が消えた。
カチャリと、どこか違う世界への扉が開いた音が聞こえた――。

 ◇ ◇ ◇
392 名前: 投稿日:2005/08/28(日) 23:08

ほんっとうに久々ではございますが、更新しました。
今までとはちょっと違う雰囲気…なのかな。
そんな感じで進む予定です。

レス、ありがとうございます。

>>374 ケロポンさん
なんかすごいヤバイ人になってる気がします…。

>>376
展開してるようなしてないようなな感じになってます。
サイトのほうもどぞよろしくお願いします。

>>377
その辺に触れていく予定でございます。

>>378
ありがとうございます。お気に入っていただけてるとよいのですがw
長々お待たせしてすみません。

>>380
ありがとうございます。のんびりお待ちいただけるとうれしいです。
できる限りがんばります。
393 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/04(日) 21:15
次回はなにか新たな展開が待っていそうですね
すごく楽しみです
394 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/12(月) 01:52

「うー、寒っ!」

声に出したって暖かくなるわけじゃないことはわかってる。
それでも、声にせずにはいられなかった。

裕子は歩く速度を緩めながら、それでも立ち止まることはせずに、
頭の上に広がる灰色の世界を恨めしく見上げた。

 雨降るなんて言ってなかったやんかぁ。

冬と呼ぶにはまだ少し早い季節。
そう厚着をしなくても出かけるには十分だった。
昼間は太陽も出ていたし風もなく、少し歩けば暑くなるくらいだったのに、
帰り際になって、急に雨が降り出した。
雨が風を呼んで、体感温度は一気に下がった。
雨対策も防寒対策も頭をよぎりもしなかった裕子は、
風に煽られた雨に顔を叩かれながら肩をすぼめて歩いていた。
395 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/12(月) 01:53

駅から家の近くまでバスもあったが、たかだか歩いて15分程度。
お金を使うのももったいなかったし、何よりバスの時間まで約30分。
待っている間に家につけるとなれば、歩くほうがまだマシだと思った。

歩いているうちに少しは暖かくなるかと思ったが、
濡れた服に風が吹いてあっというまに熱を奪っていく。
といって、歩き出してしまったから引き返すのも面倒で、
こうしてポテポテと歩いているのだ。

まあ、帰り道だから、家に帰ったら熱いシャワーを浴びればいい。
そんなことを考えてもみたけれど、寒いことに違いはない。
ぶるぶると震えながら、必死になって裕子は帰り道を歩いていた。

この街に引っ越してきてから1か月。
やっと迷わずに家まで帰れるようになったところだ。
見慣れた路地を曲がって、このまままっすぐ行けば家に着く。
もうあと5分もかからないだろう。

はふうと大きく息を吐いた。
気がつけば、息は白くなっている。
相当寒いということなのだろう。

目で見てしまうとさらに寒さが増してきた気がして、裕子はあわてて足を進めた。
そんなときだった――。
396 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/12(月) 01:53

 ビュオウ!

何かを切り裂くような音に振り返ろうとした瞬間、ゴツッとものすごい衝撃に襲われた。
予想外の出来事過ぎて体が衝撃に耐えられず、そのまま転んでしまう。
何が起こったのか、まったく理解できなかった。

体は寒くてガチガチのに、左腕だけがじんじんとしびれている。
何がなんだかわからないまま、裕子はとりあえず立ち上がった。
ちょっと動くと、しびれている部分がズキッと痛む。

「つっ……」

右手で左腕に触れると、それだけでもビリッとしびれがくる。
ギリギリと奥歯を噛みしめた。

なんだかわからないが、とにかく腕が痛い。
ぐるりと周囲を見回すと、赤い物体が転がっているのが見えた。
どうやらこいつがどこかから吹っ飛んできたらしい。
まさか、空から落ちてくるわけもないし、だとしたら故意に投げたヤツがいるはずだ。

それでなくても機嫌は悪かった。
そこへこの始末か。
いったい自分が何をした。
怒りは一気に頂点へと達した。
397 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/12(月) 01:53

「……誰やぁ! こんなもん投げつけたヤツはぁ!」

ふざけて投げたのなら、もうその主はいないはず。
それでも叫ばずにはいられなかった。

「ざけんなやぁ! やるんやったら正々堂々やれや!」

見えない敵にガオッと噛み付く。
当然、相手が出てくるはずは――。

「あ、あの……」
「なんやっちゅーねん、マジでふざけんなや、ボケ」
「あのぉー」
「あー、マジ最悪や。引越し考えたほうがええんかなあ。まだ1か月やのに……」
「あのぉ!」

ぶつぶつつぶやいていたのと、雨と風で完全にかき消されていた声が、やっと裕子に届いた。
398 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/12(月) 01:55

「ああ!?」

反射的に大声で怒鳴りつけていた。
空気が震えたんじゃないかと、裕子自身も思うほどの大声。
こんなにも不機嫌に人を怒鳴ったのは初めてじゃないだろうか。
怒ることも不機嫌になることもしょっちゅうだが、
裕子は怒鳴りつけるようなことはほとんどしなかったので、自分でも驚いてしまった。

目をぱちくりさせていると、自分を見下ろしているふたつの目が見えた。
ばっちり目が合った。
もう一度驚いた。
そこにいたのが、どう見ても自分より年下の女の子だったから。

「……何か用?」

突っ立っていた時間が長かったせいか、髪からも滴が滴り落ちてくる。
前髪が邪魔くさくて、裕子は乱暴に髪をかきあげた。

「あ、あの……」

怯えた声。
裕子をイラつかせるのには充分すぎる声だった。
399 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/12(月) 01:55

「何、用があるならさっさと言ってや。早く帰りたいんやから」
「あの……それ」

下から見上げる形になっているので、少女の造形はよくわからない。
なんとなく丸いイメージ。
それだけだった。

彼女の指差す先には、さっきの赤い物体が転がっていた。
それを見て、裕子は眉間に深いしわを刻んだ。

「これ……放ったん、アンタか」
「あ、あの……」
「アンタかって聞いてるんや! そうか違うか答ええや!」

ビクンとその体が跳ねたように見えた。
それから彼女はこくこくと懸命にうなずいた。

投げた相手が自分の想像していた相手とはまったく違っていたせいで、
怒りのぶつけどころがわからなくて、裕子は口から出かかった言葉をため息に変えた。
ギシギシと心がきしむ音が聞こえてくる。
その音にあわせるように、ズキズキと腕が痛む。
400 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/12(月) 01:56

「恨まれる覚えは、ないんやけどなあ」
「そ、そんなつもりじゃなくて!」
「んじゃあ、どんなつもりなん? 通りすがりに物投げつけるなんて、
まっとうな人間のすることとちゃうで」
「ち、違うんです!」
「なんでもええわ、もう」
「カ、カサ!」
「はぁ?」

歩き出そうとしていた裕子は、意外な単語に足を止めた。
踏み込みと同時に、ズキリとまた腕が痛む。

「カサ……なんです、それ」

言われて赤い物体に近づき、それを拾い上げた。
あんまりにも小さくてよくわからなかったが、確かにそれは折りたたみのカサだった。

「あの……ごめんなさい」

見上げた少女にはそのまま小さくなって消えてしまいそうだった。
線が細いというわけではないが、何か繊細な雰囲気がある。

「ぶつけるつもりじゃなくて。その、カサ、持ってないみたいだったから、
使ってもらえればって思っただけなんですけど……」
401 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/12(月) 01:56

裕子はぽかんと少女を見上げたまま、動きを止めていた。
親切のつもりだったのか……完全に逆効果だったけれど。
その証拠に、裕子は頭の先からつま先までもうずぶ濡れになっていた。
こんな騒動がなかったら、とっくの昔に家に帰れていたはずだ。
そうであったなら、ここまで濡れてはいなかっただろう。
投げるにしても、一声かけてくれればよかったのだ。
そうは思ったが、もう怒る気にはなれなかった。
少女も、こんな天気に窓を全開にしているせいで吹きつける雨をしたたか浴びていたのだ。
その雨に顔をしかめる姿が、なんだかヘンにおかしかった。

「ごめんなさい、ホントにごめんなさい」
「ええよ、もう」

ふーっと息を吐くと、こわばっていた体から力が抜けた。
それにあわせるように、またズキリと腕が痛んだ。

「いつっ……」

顔をしかめながら腕を押さえると、「大丈夫ですか!」と悲鳴にも似た声が落ちてきた。
402 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/12(月) 01:56

「あー、大丈夫大丈夫。たぶん軽い打撲やと思うから」
「あ、あの! あの、上がってください」
「はい?」
「手当て……させてください」
「ええよ、たいしたことないって」
「お願いします、上がってください」

元々裕子は人付き合いがそんなに好きなほうではない。人見知りも激しい。
それなのに、このときはどうして少女の申し出を素直に受け入れたのだろう。
それだけは、後になって考えてもわからなかった。

きっと寒かったからだ。
そして、腕が痛かったから。

それ以外の理由は思いつかなかった。

 ◇ ◇ ◇
403 名前: 投稿日:2005/09/12(月) 01:58

更新しました。
しばらくこっち路線で進んでいきます。
雰囲気もだいぶ違う…かな。

>>393
レス、ありがとうございます。
新たな展開というかなんというか。
彼女の彼女らしさが見えたかなと思っておりますが、いかがでしょうか。
404 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/14(水) 16:10
おーっと!新しい登場人物が出てきましたね
どうなっていくのか楽しみです
405 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/16(金) 01:33
ついに中澤さんの過去が明かされるんですかね。
続き楽しみです。
406 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/26(月) 00:34

家の中にはその少女以外の人の気配はなかった。
中へと促されて、そのままバスルームまで連れて行かれ、
簡単にシャワーの使い方を説明されて、そのままそこに放置された。
裕子はどうしようかと一瞬考えて、それでも寒さには勝てずにバスルームに飛び込んだ。

熱いシャワーを体に浴びせると、少しだけ生き返った気がした。
シャワーが当たる腕が、少ししびれている。
痛む部分を見ると、シャワーの熱も手伝ってか、しっかりと赤くなっていた。
407 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/26(月) 00:34

いつもよりも長い時間をバスルームで過ごしてそこを出た裕子は、
出入口にきちんとたたまれている自分の下着を見て、顔を軽くしかめた。
裕子の気づかないうちにそこまで入ってきたのだろうか。
下着は乾燥機か何かにかけられたようで、しっかりと乾いていた。

 なんつーか……なあ。
 初対面の、名前も知らない相手に触られるってのもどうなんよ。

つぶやいてみたが、もうされてしまったことはしかたがない。
裕子は下着と、その下に同じようにきちんとたたまれていたジャージのズボンと半袖のTシャツを着た。
どこかからゴロンゴロンと洗濯機だか乾燥機らしい音が聞こえてくる。
どこか近くにあるんだろうが、どこにあるかまではわからなかった。
家捜しする習慣はない。
408 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/26(月) 00:35

「おーい、あがったでー」

どこにいるかわからないので声をかけると、廊下の奥から返事が聞こえた。
突き当たりの扉を開けると、そこはリビングらしく、中はほんのりと暖かい。
その奥からぴょこんと彼女が顔を出した。

座っているように促されて、小さなテーブルの前に腰を下ろす。
部屋の中を見回していると、すぐに十字のついた小さな救急箱を持って、彼女が戻ってきた。

「腕、出してください」
「たいしたことないって言うてんのに」

一応文句は言ってみたが、もうここまで上がりこんでいるのだからじたばたしても仕方がない。
裕子は大人しくカサがぶつかったほうの腕を少女に差し出した。

「少し……赤くなってますね。痛いですか?」
「少しな」

そろりと、少女の指が赤くなった部分に触れる。
ピリッと痛みが走った。

「いっ……」
「あ、ご、ごめんなさい」
「ええから。やるんやったらさっさとやってや」
「は、はい」
409 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/26(月) 00:36

少女の手つきは器用とは言いがたいものだった。
湿布を貼るまではなんなくこなしたが、包帯を巻く手つきがかなり危なっかしい。
一度目はかなりゆるく、二度目はものすごくきつかった。
三度目になってやっと、それなりに問題のないレベルで包帯が巻かれた。

そもそも包帯を巻くほどのケガではないと思うのだが、
本人がどうしてもそうしたいらしいから仕方がなくされるがままになっていた裕子は、
少女の手が自分の腕から離れて、やっと息をついた。
あまりに手つきの危なっかしさに、一緒になって息を詰めてしまっていたのだ。

「ん、ありがとう」
「あ、あの、こちらこそ……すみませんでした」

ぺこりと頭を下げる少女の姿を見て、そういえば自分は感謝の言葉を述べる必要がなかったんだと気がついた。
そのマヌケさに、自分でも思わず笑っていた。
なんだかわからないが、この少女は自分のペースを乱す。
それも、決して気持ち悪いものじゃなくて、なんかこうすがすがしいくらいに潔く。

「ええよ、もう。あんま謝られるんも気持ち悪いから、もう言わんとってな」
「あ、はい」

少女は顔を上げると、それこそ文字そのままに「にこっ」と笑った。
屈託のない微笑みだったが、最初に見たときに感じた繊細さは感じられなかった。
410 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/26(月) 00:37

「それにしても、名前も素性もわからん人間をほいほい家に上げたりせんほうがええんちゃう?」
「大丈夫ですよ。人を見る目はあるつもりです」
「アタシはアンタのお眼鏡にかなったいうことかな」
「そうですね。それに……」
「それに?」
「ここでお互いに自己紹介すれば、名前も素性もわからない人じゃなくなります」

裕子の目が丸くなった。それはもう、本当に文字通りに。
人を疑うことを知らないのか、本気で自分の眼力を信じているのかはわからないが、
彼女はどうやらものすごいマイペースで生きているらしい。

 おもしろい。

この子は自分の周りには今までいなかったタイプの子だ。
どんなことを考えて、どんな行動をして、どんなことを言うのかを知りたい。
純粋に好奇心をくすぐられた。
だから、裕子は彼女の提案に乗った。
411 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/26(月) 00:37

「アタシは中澤裕子。普通の会社員」
「あたしは……」
「藤本さん」
「へ? なんで知ってるんですか?」
「表札に書いてあった」
「あ、ああそっか。そうです。名前はなつみ。今は……無職、かな」
「無職? 学校とかは?」
「学校はもうとっくに卒業してます」
「……藤本さんは、いくつなん?」
「年ですか? ハタチです」

一瞬世界が揺れた気がした。
目の前の子はとてもハタチには見えない。
どうおまけをしても、せいぜい高校生がいいところだ。

「意外。もっと若いかと思っとった」
「えー、そんなことないっしょ! なっちはもう充分大人っぽいべさ!」
「………………ん?」
「あ」
412 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/26(月) 00:38

裕子の耳に引っかかった言葉は、「なっち」という聞き慣れない単語と、その語尾だった。
少なくとも、今まで裕子の周りにいた誰も、こういう言葉遣いをしたことはない。
なつみは目を丸くしてから、不満そうに口を尖らせた。
その姿は、ますますハタチには見えなくなった。

 おもしろい。
 ますますおもしろい。

知りたいという欲求が少しずつ裕子を浸食していく。
それは、裕子には珍しい感情で、それがまたおもしろい。

「なっち、言うんがアンタのニックネームなん?」
「ニックネームっていうか……まあ、そんな感じです」
「ふーん。なら、アタシもそう呼ばせてもらってええんかな」
「もち……」

その言葉の続きは、たぶん「ろんです」だったはずだ。
しかし、その言葉はそれ以上言うことを許されなかった。
突然バタンと大きな音がしたかと思ったら、ものすごい轟音を立てながら、黒い影が飛び込んできたから。
413 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/26(月) 00:38

「あ、お帰り、美貴ちゃん」

なつみが声をかけたのは、なつみを幾分大きくして、少しばかり目つきをきつくしたような少女。
制服姿だったところを見ると、高校生か。
飛び込んでくるなり、一度なつみを見てから思いっきり裕子をにらみつけてきた。

「なち姉……何してんの。誰この人。おとなしくしてなきゃダメだって言ったよね」

尋ねているようにも叱責しているようにも聞こえる言葉に、
なつみは困ったような顔をして、仁王立ちをしている少女の顔を上目遣いで見上げた。
そんななつみの態度にもかまわず、少女は裕子から目をそらそうとしない。
しばらく彼女の顔を見つめて、裕子は誰にも気づかれない程度に唇の端をあげた。

目の前の少女は、失礼ながらどう見ても品行方正な優等生には見えない。
どちらかというと人付き合いの得意ではない、一匹狼的なタイプ。
ゆるめられたネクタイと、着崩された制服。
どことなくやる気のなさそうなその態度。
昔の自分を思い出した。

この手の類の子は、一見扱いにくそうに見える。
でも、実はそうではないことは、自分が一番よく知っていた。
手なずけるというと言葉は悪いが、取り込むことは簡単にできるだろう。
414 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/26(月) 00:38

といって、すぐにそれをやる気は裕子にはなかった。
手なずけるのにはそれなりの手間や時間がかかる。
そこまでする必要性があるかどうかは、今はわからない。
とりあえずのところは……適当にかわしておくに限る。

「雨宿りさせてもらってただけやって。そう怖い顔しなや。
別にアヤシイもん売りつけに来たわけでも、なんかの勧誘に来たわけでもないし」
「……なら、もう帰ってください」
「はいはい。言われんでも帰ろうと思ってたとこです」

裕子は立ち上がって、困ったように自分と少女を交互に見ていたなつみに目をやった。

「アタシ帰るけど、アタシの服、どこ?」
「あ……こ、こっちです」
「この服は今度洗って返すんでええかな」
「あ……」
「いいです」

答えようとしたなつみの言葉に口を挟んできたのはもちろんあの少女。

「いいです、返さなくて」
「そういうわけにも……」
「それ、美貴のだからいいです。っていうか、もう来ないでください」
415 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/26(月) 00:39

あらまあ。
そう人好きされる顔をしているとは思っていないが、
出会ってからこんなにも短時間でここまで嫌われたのは初めてだ。

 嫌われる……ゆーんはちょっと違うかなあ。

彼女の態度は、最初から一貫している。まるで、お姫様を守る騎士のようだ。

 ああ……そっか。

情報は圧倒的に少ないが、それでも組み合わせれば見えてくるものはある。
無職で家にいるというなつみ。
「おとなしくしてなきゃ……」という少女の言葉。
なつみは体が弱いか何かで、家から出られない事情があるのだろう。
そんな姉を、彼女は守りたいと思っているのだ。
つまり、自分は外から来た雑菌みたいなものか。
416 名前:道化芝居 投稿日:2005/09/26(月) 00:40

 ふ

雑菌という言葉があまりにも当てはまりすぎているような気がして、思わず笑っていた。
怪訝そうに少女が顔をしかめる。

「あ、あの……」
「ああ、ごめん」
「こ、こっちです」

恐縮しきって体を縮こまらせているなつみの後についていきながら、
裕子は心の中で笑いをかみ殺していた。

普段ならこんなめんどくさそうなことに首をつっこんだりはしないだろう。
けれど、自分の予想を裏切る行動を取るなつみという少女と、
ある意味自分の想像通りの行動を取りまくる彼女の妹は、裕子の関心を引いた。

もし、このときいつも通りにこれきり深入りをしなかったなら、きっと未来は変わっていただろう。
深い闇にはまってしまうことも、この世でないどこかへ思いをはせることもなかったかもしれない。
それでも、裕子はこのときの選択を後悔したことは一度もない。
彼女と過ごした日々は、永遠に陰ることのない光そのものだ。
それは、闇の中にいる今でも、変わりなく光っているのだから――。

 ◇ ◇ ◇
417 名前: 投稿日:2005/09/26(月) 00:42

更新しました。
もう少しこっちモードで続きます。


レス、ありがとうございます。

>>404
名前だけは出てましたが、やっと出せました。
今後ともよろしくお願いします。

>>405
さんざん引っ張り続けてきましたがw
ぼちぼち進行していく予定でございます。
418 名前:ケロポン 投稿日:2005/09/27(火) 01:36
あら素敵な姉妹ですことw
419 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/29(木) 19:48
なにげになちみきですゎw
いい姉妹ですねぇw
420 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/02(日) 00:58
この3人がどんな風に関わってくのかなー
421 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/04(火) 23:57
続き待ってました
姉妹と中澤さんとほのぼのしてるなあ
それだけに切なくなるんですが
422 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/10(月) 00:29

「……また、来てるんですか」
「また、お邪魔してますー」

美貴が言ったのと同じテンポで言葉を返すと、キュッと美貴の表情が変わった。
レバーを引けばドアが開くのと同じような仕組みで、
美貴はいまだに裕子に対して出会った頃と変わらない態度を取る。

結局あのあと、借りた服を返しに来た裕子は、
その後、美貴がいない時間帯を狙って何度も藤本家を訪れ、
その結果、見事両親からの信頼を勝ち取り、週に3回は藤本家を訪れるようになっていた。
夕ご飯をごちそうになるほどの厚かましさはなかったが、
会社帰りに家に寄った日は、だいたい夜10時くらいまで一緒に過ごすのが日課になりつつあった。

裕子にとってのなつみは、とても波長が合うとは思えないようなのんびりした子だったが、
それでも一緒にいると楽しかった。
元々年下のかわいい子は好きだったし、なつかれて嫌な気分はしない。
無邪気な笑顔で「裕ちゃん」と呼ばれれば、それだけで自分も笑顔になれる。
時間がたつにつれて、一緒にいることが楽になってきた。
訪れはしたものの、一言二言の会話だけしかしなかったなんてことも起こるようになってきた。

それは、気を遣わなくてもいいという証拠のようなもの。
なつみの部屋は、とても安心できる空間で、流れる時間さえも優しかった。
423 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/10(月) 00:30

「ん、でも、そろそろ帰る時間か」
「えー、裕ちゃんもう帰っちゃうの?」
「アタシも明日仕事やからなー」

不満そうに口を尖らせるなつみは相変わらずハタチには見えなかったが、
それでもそうしている姿はかわいくて、裕子はそっとなつみの頭をなでた。

「もう! 子供扱いしないでよ!」
「あはは、ごめんごめん」
「ねー、裕ちゃん。今度泊まってってよ、金曜日とか」
「あー……せやなあ……」

ちらりと美貴を見やると、美貴は制服姿のまま、裕子となつみのやりとりを見つめていた。
見られたのがわかったのだろう、ギュッと眉間にしわを寄せる。
いい感情を持たれていないのは、それだけで充分わかった。
そんな美貴を無視して、裕子はなつみに視線を戻した。

「ん、考えとく」
「絶対だよ!」
「わかったって。んじゃ、またな」
424 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/10(月) 00:33

カバンを手に、裕子はなつみに手を振った。
最初の頃はわざわざ1階まで送りに来てくれていたのだが、
今なつみは窓から家を去っていく裕子を見送るようになっていた。
どっちみちバイバイするのなら、1階だろうが2階の窓からだろうが、一緒だろうということで。

なつみの部屋を出て1階へと下りる階段へ向かおうと、美貴の横をすり抜ける。
ちらりとその顔を見ると、一瞬何か言いたげな態度を見せた気がしたが、
それでも裕子は足を止めない。
本当に言いたいことがあるのなら、自分から言ってくるはず。少なくとも美貴はそういうタイプだ。
それに、迷っているなら言わないほうがいいこともある。
だったら自分から働きかけをする必要はない。

「んじゃな」

迷うことなく階段を下りる。
特に途中で両親に会うことがなければ、挨拶らしい挨拶はしない。
今日も誰にも会わなかったので、裕子はそのまま玄関へと向かい、家を出ようとした。

「……あの」

そこで、呼び止められた。
振り返らなくても、それが誰なのかはわかった。
425 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/10(月) 00:34

「なん?」

靴を履いてから家の中を見る。
そこには、目を合わせないようにして美貴が立っていた。
といって、ここであまり時間は使えない。
なつみが2階で、自分が出てくるのを待っているはずだ。

「用がないなら、帰るけど」
「あの……少し、時間もらえませんか。話があるんです」
「今? それともあとで?」
「あとでいいです。いつもよりゆっくり歩いてもらえますか。
なち姉が見送ったら、追いかけます」
「ん、わかった」

こくりとうなずいて、裕子は家を出た。
門を出て、ちょうどなつみの部屋を見上げられるところで立ち止まると、
カーテンが開いていて明かりがこぼれ落ちていた。そこになつみの影が見える。
自分の姿に気づいたのだろう、すぐにせっせと手を振ってきた。
ゆったりと静かに手を振り返すと、またせっせと手を振る。
なんだか、何かの条件反射のようにも見えてくる。

もう一度そんななつみに手を振り返してから、裕子はゆっくりと歩き出した。
なつみが自分を見送り続けているとしても、それは角を曲がるまでのことだろう。
たぶん、そのタイミングを美貴は知っているはずだ。
だから、角を曲がるまではいつも通りに歩き、曲がったところで立ち止まった。
なんとなく腕時計を見る。
426 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/10(月) 00:35

それから3分を過ぎた頃、角からひょっこりと美貴が現れた。
立ち止まっていた裕子に驚いた様子だったが、すぐに深々と頭を下げてきた。

「んじゃ、行こか」
「あ、はい」

美貴の提案に乗って、裕子は家に向かって歩き出した。
ファミレスにでも行こうかとも思ったが、それはおそらく美貴が望んでいない。
だから、歩くことにした。
正直、この時間にひとりで家に帰すことはためらわれるので、
家にたどり着いた時点でもう一度戻ってくることになるだろうとは思ったが。

「なち姉のことなんです」

歩き出してすぐ、ためらうことなく美貴は言った。
凛とした、低い声。嫌いな音ではない。

「うん」

それ以外のことで話などないだろう。
わかっていたから、裕子はあっさりと答えた。
427 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/10(月) 00:35

「中澤さんは、なち姉の体のこと、どこまで知ってるんですか」
「普通の子より具合が悪いらしいってとこまで」

なつみと知り合って数週間。
初めて会ったときにパズルのピースで作り上げた以上のことを裕子は知らない。
そのことについてなつみに聞いたことはなかったし、なつみから話してもこなかった。
言わないのなら知る必要はないし、知ってどうこうできるわけでもない。
だったらいいじゃないかと、なつみの笑顔を見ながら裕子は思っていたのだ。

それを、今美貴が話そうとしている。
その理由は何か、考えかけて思考を止めた。
それを考える必要性は、ない。

「……なち姉、心臓が悪いんです」

ぴくりと自分の表情が動くのがわかった。
428 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/10(月) 00:36

「それも……正直、あんまりいいってわけじゃなくて。だから、学校卒業してから、
ずっと家で安静にしてるって感じで。全然外に出かけられないわけじゃないんですけど、
無理はホントにできないんですよ。だから……」
「あんまり近づかないでほしい?」
「……っていうか」

ジレンマを感じているのが早口になったことからもわかった。
美貴はなつみの病気のこともよくわかっているのだろう。
なつみをとても大切に思ってもいる。
だから、今までのように過ごしてほしい。今を変えたくない。
そこに飛び込んできたイレギュラーな存在である自分を、遠ざけたいのだ。

気持ちはわかる。
続いてきた平穏を壊されるのは、誰だって怖い。
その先にそれ以上の幸せがあったとしても、今で充分ならそれ以上ほしがる必要はない。
それでも、それを真っ向から否定できずにいる。その理由は――。

「あの……なち姉、すごくうれしそうで。中澤さんと、一緒にいるとき。
あんな風にうれしそうななち姉見たの、久しぶりだったんです」
「うん」
「でも……その、えっと……」

ガシガシといらだたしげに美貴が自分の髪を乱した。
くっとあごを引いたかと思ったら、急に裕子の前に回って足を止めた。
それに倣って、裕子の足も止まる。
429 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/10(月) 00:38

「……中澤さん」

その瞳は、今まで見たどれよりも真剣だった。
驚くほどではなかったが、それでもその力に押されている感覚がある。
それが、美貴の思いの強さだった。

「なち姉のとこに来るなら、とことんまでなち姉につきあってください。
それができないなら……もう、来ないでください。お願いします」

ガバッと音がしそうな勢いで、美貴が頭を下げた。
この子は本当になつみのことが好きで大切なんだと、それがわかる行為。
人に頭を下げるなんて本意ではないだろうに、それでも姉のためならそれをする。
思っていたとおり、彼女は見た目よりもずっと純粋でまっすぐなのだ。

「アタシ、そんなに薄情に見えるんかなあ」
「え……?」

意外そうな声に意外そうな表情を乗っけるという、
やられた方が見たら二重に不愉快な行為をあからさまにしながら、美貴が頭を上げた。
430 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/10(月) 00:39

「適当につきあうんやったら、最初っからこんなに肩入れせんわ」
「でも……美貴が言うのもなんですけど、なち姉、時々とんでもないわがまま言ったり、
したりしますよ?」
「あー、するやろね、しそうな感じ、する」

それは直感でしかないが、なつみを見ていて思ったことだ。
美貴を見て確証に変わったことでもある。
美貴のどこか感情を押し殺したようなところは、おそらくなつみとの関係から来ていたはずだ。
正確には両親との関係かもしれないが、そんなことは関係ないのだろう。
自分を押し殺してでもなつみが大切なのだ、美貴には。

「それでも平気ですか? 一度OKして約束破ったら、美貴、許しませんよ」
「アンタに殺されんよう、気をつけるわ」
「……ありがとう、ございます」

もう一度、美貴が頭を下げる。
なんとも微妙な居心地になって、裕子は美貴の後頭部を思いっきりひっぱたいた。
431 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/10(月) 00:41

「い、いたっ! 何すんですか!」
「もうええわ、頭とか下げんといて、気持ち悪い」
「なんですかその言い方。なにげに失礼じゃないですか!」
「うっさい、黙れ」
「うわ、めっちゃ失礼だ!」
「ごちゃごちゃうるさいなあ。ほら、もう帰るで?」
「え、は?」
「送ってくから」
「や、いいですよ、近いし」

キョトンとした美貴の頭を、裕子はぐりぐりとなでた。

「ひとりで帰すと危ないから」
「そんなこと……」
「アンタの問題やなくてアタシの問題。ほら、行くで」
「あ、ちょっと!」

ぶつぶつ言っている美貴を横目に、裕子はひとり歩き出した。
バタバタと追いかけてくる音がする。
なんとなく美貴との距離が近くなった気がする。
その音を聞きながら、ミントキャンディーをなめたようなすっきりした気持ちで、
裕子は来た道を戻っていった。

 ◇ ◇ ◇
432 名前: 投稿日:2005/10/10(月) 00:45

更新しました。
ぼちぼちな感じでございます。


レス、ありがとうございます。

>>418
もうこのふたりったら! という感じでお楽しみいただければw

>>419
ええ、なにげにらぶらぶなんですw

>>420
今のところ、のんびりのんびりな感じでございますが…。

>>421
お待たせしました。
そうなんですよね、先を考えると……な感じですが。
めげずによろしくお願いします。
433 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/16(日) 03:47
ほのぼのとしていい感じっすね。
姐さんとみきてぃ最高w
434 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/30(日) 22:47

「なっち?」

ノックしながら裕子がドアを開けると、なつみがベッドに横たわっていた。
中に体を滑りこませて、すぐにドアを閉じる。
なつみの顔がゆっくりと裕子の入ってきたほうを向く。
目があって微笑みこそしたものの、なつみの顔は素人目に見てもわかるほど白かった。

「裕ちゃん……いらっしゃい」
「あ、ええよ、起きんで」
「うん……」

なつみの部屋を裕子が訪れるようになってからもう何度か、なつみは体調を崩していた。
それでも、それはほんのわずかな期間だけ。それが今回はもう1週間ほどになる。
かかりつけの医者に往診もしてもらっているし、心配することはないと美貴は言っていたが、
これ以上長引くと入院することになるかもしれない、とも言っていた。

『それでも、なち姉のところに来てくれますか』

というのは美貴の弁だ。
それに裕子は「アホ」という一言と、後頭部への一撃で答えた。
435 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/30(日) 22:48

「まだちょっと悪そうやな」
「あは、そうかもしれない」

ベッドの傍らに置かれたイスに座ると、裕子はなつみの頭に手を伸ばした。
なつみが気持ちよさそうに目を閉じる。少し、体温が高いような気がする。

「ごめんね。裕ちゃんの相手、してあげられなくて」

なつみの顔から笑みが消える。
裕子は目を細めて、なつみの額を軽く叩いた。

「そんなん、気にすることとちゃう」
「でも……」
「アタシはアンタに相手してほしくてここに来てるわけちゃう。
アタシがアンタの相手をしにきてるんや」

できるだけ軽い口調で言って、にやりと笑う。
なつみが目を丸くして、すぐにぷーっと頬を膨らませた。

「なっちはそんなにお子様じゃありませんー」
「そんだけ減らず口叩けるんやったら心配いらんかな」

ふっと裕子が笑うと、つられるようになつみにも笑顔が戻った。
436 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/30(日) 22:49

「あー、そうや、なっち」
「うん? なんだい?」

少し、声に力が戻ったと思うのは錯覚だろうか。
そんなくだらない感傷に用はない。必要なのは、現実の中にある真実だけだ。

「これ」

裕子はそう言いながら、手に持っていた紙袋を差し出した。
あえて、中身がわからないようにロゴひとつ入っていない真っ白な紙袋に替えてきた。
なつみは上半身を起こすと、首を傾げながらそれを手に取る。

「プレゼントや」
「中……見てもいい?」
「どうぞ」

なつみの頭から手を離すと、裕子は背もたれにどっかりと背をあずけた。
足を組んで腕も組む。視線はなつみからはずさない。

なつみは丁寧に紙袋から肩幅よりも数回り小さい箱を両手で取り出した。
その箱に書かれた文字を見て、2回瞬きをすると顔を上げて裕子を見た。
437 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/30(日) 22:50

「裕ちゃん……これ……?」

その箱には、携帯電話会社の名前がしっかりと書かれていた。

「それあったら、時間とか気にせんといつでも連絡できるやろ?」

今までなぜなつみが携帯を持たずにいたのかは知らないが、
携帯を使える状態にあることは美貴から聞いて知っていた。
急にこんなことをしたのには、もちろんそれ以外の理由もある。

「そりゃそうだけど……」
「何、うれしくないの?」
「……だって、なっち、そんな頻繁に電話するような相手、いないよ」

さびしそうな声。
それが、なつみの闘病生活を表しているように思えた。
高校までは何とか卒業しているとはいえ、しょっちゅう入退院を繰り返していたのでは、
なかなかクラスメイトと仲良くなる機会もなかっただろう。
さびしげになるのも無理もない。
438 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/30(日) 22:51

「ここにおるやん」
「え?」
「アタシじゃご不満?」
「そ、そんなことない!」

ぱあっと花が咲いたようになつみが笑う。その笑みに今度は裕子がつられて笑う。
まるで、天秤のようだと思った。

「あ、でも、お金とか……」
「ああ、それは心配せんでええよ。金なんて、あるとこにはあるんやから」
「え……」
「ええんやって。プレゼントやって言うたやろ?」
「……うん」

なつみが宝物に触れるように、丁寧に箱から携帯を取り出す。
一応、一度ショップで充電されているから、電源は入るだろう。
それでも、すぐに切れてしまうかもしれないから、裕子はなつみに断って充電器を取ると、
コンセントにそれを差し込み、そのままなつみの持っている携帯につないだ。
パッと赤い光がともる。

「番号教えて?」
「あ、うん。ちょっと、待って」
439 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/30(日) 22:51

箱の中から今度は分厚い説明書を取り出すと、なつみは一生懸命にそれを読み始めた。
携帯を使い始めて長い身としては、使ってみればわかるだろうと思わなくもないが、
口出しはしないことにした。
なんだか、ほんの短い時間なのに、なつみは元気を取り戻している気がする。
精神だけでどうこうなる問題ではないのはわかっているが、
少しでも気持ちが上向きになるのはいいことだと、裕子は思った。

何とか自分の番号を見つけ出す方法がわかったのだろう、
なつみはゆっくりと数字をひとつひとつ口にした。
裕子は数字をそのテンポに合わせて打ち込むと、最後のひとつが言い終わったところで、
通話ボタンを押した。

ピリリリリ…

「う、わ、わっ!」
「はは、アタシやアタシ」
「へ?」
「その番号、アタシのやからちゃんと登録しといて? それから……」

メールアドレスなど決めなくても通じるよう、なつみと裕子の携帯の会社は同じにしておいた。
わからないことがあったら美貴に聞くように伝えたところで、ピピピピ…と別の音がした。
440 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/30(日) 22:52

「え、え?」
「あ、ちょっとごめん」

裕子はカバンの中から別の携帯を取り出して、通話ボタンを押した。

「はい、中澤です……ええ、はい。や、その件は……」

数分話をして、電話を切る。
胸から息を吐き出すと、視界の端でなつみが首を傾げたのが見えた。

「ごめんごめん」
「裕ちゃん、携帯ふたつ持ってるんだ?」
「ああ、これは会社から支給されてるヤツやねん。お仕事専用」
「へー、なんかすごいできる人って感じ」
「できる人やから」
「へーほー」
「なんや失敬な」

こつんと頭を叩いてやると、へへっとなつみが笑みをこぼした。
その笑顔に安堵の息を吐きながら、裕子はなつみの枕元に置いてある時計に目をやった。
441 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/30(日) 22:54

「ん、そろそろ帰らな」
「え、もう?」
「うん。でも、ほら、なんかあったらすぐにかけられるから。いつでもかけて」
「あ、うん……」
「ヘンな遠慮とかしなや? なっちから電話なかったら、なんかあったんかって心配になるから」
「う、うん、わかった」

立ち上がると、裕子は傍らに置いておいた自分のカバンを手にした。

「あ、それから」
「な、何?」
「それ、病院では使えへんやろ? 入院とかせんように気をつけてな」
「わ、わかってるもん!」

むくれるなつみを置いて部屋を出て、玄関まで降りるとそこには美貴が立っていた。
目が合うと、軽く頭を下げてくる。

「元気?」
「はい。渡したんですか、ケータイ」
「うん。いろいろありがとな。なっちのことやから、後々いろいろ面倒もかけると思うけど」
「そのくらい、わかってます。でも、きっと元気になってくれると思います。
なち姉も、病院好きじゃないし」
「せやったらええけどなあ」
「あの、それで、これ」

力を抜いて笑った裕子の前に美貴が言いながら差し出してきたのはカギ。
442 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/30(日) 22:54

「これ……?」

手に取って、何となく持ち上げる。
銀色に光るそれは、真新しそうに見えた。

「うちの合いカギです。親が渡しとけって」
「……んじゃ、もろとくわ」
「はい」

カギをカバンにしまい込んで表に出ると、2階の窓になつみが見えた。
ひらひらと手を振ると、同じように手を振り返してくる。いつものことだ。
けれど、今日はその手に買ったばかりの携帯が握られている。
まるで、新しいおもちゃを買ってもらった子供のようにも見えた。

「裕ちゃん、これありがとー!」
「んー。ちゃんと活用してなー」
「うん!」
443 名前:道化芝居 投稿日:2005/10/30(日) 22:55

元気のよい返事通り、見事なくらいになつみは携帯電話を活用してくれた。
おかげで、裕子が藤本家へ行く回数が週3回から週5回に増えてしまった。
毎日のように行く週もできてしまったくらいだ。
自分でもその事実にあきれてしまうことはあったが、
なつみが自分を呼ぶ理由がただのわがままだけではなく、
時々言いしれぬ不安にかられているからだとわかってからは、何も言わないことにした。
求められているのならば応えよう。
それが使命のようにも思えた。

そう心の中で決意したはずだったのに。
なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。
いったいどこで自分は道を間違えたのだろう。
つながっていることで、油断したのだろうか。

裕子自身が多忙の波にのみ込まれているうちに、
別の波が彼女をさらっていってしまった。
二度と、手の届かないところへと――。

 ◇ ◇ ◇
444 名前: 投稿日:2005/10/30(日) 22:57

更新しました。
こんな感じに、なってしまっております。


>>433
レス、ありがとうございます。
ふたりのコンビは、何となく書きやすいです。
こんなことになっておりますが…。
445 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/07(月) 00:15
ああやっぱり…どうなるかわからんですがそれでも今から心の準備しときます
446 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:31

「なっちぃ、入院するんやって?」
「……うん。でも検査入院だから。そんな長引かないよ」
「あー、そっか。ちょっと安心したわ」
「ごめんね、心配かけて」
「うん、まあしょうがないから」
「あと、もういっこ」
「何?」
「ごめんね、約束破っちゃった」
「約束って……ああ、入院せんようにって、アレか?」
「うん。せっかく携帯プレゼントしてもらったのに」
「しょうがないやん。それにすぐ退院できるんやろ?
退院したらすぐ連絡してや。退院祝い、したるから」
「もう! そんな大げさなものじゃないよう」
「いいの、アタシがやりたいんやから。びっくりするほど盛大にやったるから」
「……じゃあ、楽しみにしてる」
「ん、楽しみにしてて」

 ◇ ◇ ◇
447 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:31

駅を出た瞬間、はふ、というため息が口からこぼれ落ちていた。
いつもの見慣れた駅前なのに懐かしいと思えてしまう。
ここに立つのは、1週間ぶりだった。

仕事で大トラブルに巻き込まれ、裕子は家に帰れない日々が続いた。
早朝から出社して、深夜まで残業。
とにかく時間との戦いで、どうしても家に帰っている時間がなかった。
時間があいたときに、会社の近くに住んでいる同僚の家に寄らせてもらい、
シャワーを借りたり仮眠を取ったりした。
それでなんとかそのトラブルを無事に乗り切ることができ、
久々の家路についたところだった。

……まいったなあ。こんな事になるなんて思いもせんかった。

とにかく早く家に帰ろう。
一刻も早く家に帰りたい。帰らなければならない。
普段なら絶対やらないことだが、裕子はタクシー乗り場へと足を向けようとした。
そこで、地面に引き留められるように、足が止まった。
裕子の視線の先、車のライトと街頭に照らされて立っていたのは……美貴だった。
448 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:32

「藤本……?」

雑踏に消えそうなほどの小さな呼び声が届いたのだろうか、美貴の目に力がこもった。
つかつかと裕子へ歩み寄ると、一拍もためらうことなくシャツの襟元を乱暴につかむ。

「何……してるんですか」
「何、て、これから家に帰るとこやけど」

胸の中の小さな鼓動が聞こえる。
いつもよりも若干速く感じられるそれは、この先に起こる何かを予期していたんだろう。
美貴の表情に、いつもの姉を思う優しさはかけらほどもない。
それがわかっていたから、裕子は口に出せなかった。
――彼女の名前を。
449 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:33

「今まで、どこで、何してたんですか」

美貴の声が震えている。それは悲しみなのか怒りなのかわからない。
ただ、強い感情を低く抑え込んでいるのがわかる。
ただならぬ気配――美貴がこんなふうになる原因を、裕子はたったひとつしか知らない。

「……会社。仕事、してた」
「中澤さんにとって……仕事って、どんだけ大切なんですか」

たぶん、美貴が言いたいことはそんなことではない。
わかっていて、裕子は問いかけなかった。

「人並みに、大切や。稼がな、生きていけへん」
「何かを、ぎ、犠牲に、しても」
「……『何か』、が何かによる」

締め上げるように、美貴の手に力がこもった。
一瞬首が絞まりそうになったが、その圧力に負けてボタンがひとつ飛んだおかげで、
息苦しくはならなかった。

美貴が顔を伏せ、ぶるっと頭を振った。
髪が裕子の顔を叩く。
450 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:33

「あなたにとって!」

勢いよく顔を上げた美貴から透明な雫が弾け飛び、その一部が裕子の顔にも散った。
さっきよりも近づいた美貴の瞳からは、涙がこぼれ落ちていた。

「なち姉は……約束は、その程度のものだったんですか!」

もう、答えを言うことはできなかった。
美貴の口から聞かなくても、何が起こったのかわかる。
それがわからないほど、子供でもないし経験値も少なくない。
奇妙なほどに冷静な自分に、少し驚いただけだ。
どこかで、考えていたんだろうか。
いつか、こうなる日が来ることを。
あの子の笑顔が、自分の前から消えてしまうことを。

「できない約束なら、どうして……どうしてしたんですか!」

美貴の腕に力が入って、がくがくと揺さぶられる。
できない約束なんて……しなかったはずだ。
あの子が入院してからも、面会時間に間に合う日には必ず病院まで出かけた。
予想以上に入院が伸びてしまったが、それでもできる限り会いに行った。
とことんまでつきあうと言ったのは、嘘じゃない。
ただ……。
451 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:34

「……ごめん」
「謝られたって、意味ないんです! もう、もう……」

美貴の膝が落ち、そのまま裕子にすがりつくような体勢になった。
裕子はただ、そんな美貴の髪を上から見下ろしている。

どこかに油断があったんだろうか。
1週間前、裕子はプライベート用の携帯を紛失した。
家のどこかにあるはずだったが、会社に出かける前に見つけられなかった。
いつもはちゃんと音が鳴るようにしてあるのに、
どこでどうなったのか、かけても家の中で着信音は聞こえなかった。

しょうがないから帰ってきて探そう。
そう思って出かけた矢先に、会社での大トラブルだ。
まさか1週間も帰れなくなるなんて、思いもしなかった。
452 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:34

神様はいじわるだ。

こうなることを予想して、こんな出来事を起こしたとしか思えない。
彼女の最期の時間にも、立ち会わせてはもらえないのか。

――アタシ、そんなに極悪なことしてきたかなあ。

美貴の泣き声も、遠くからしか聞こえない。
慰めてやりたかったが、それをされて困るのは美貴自身だろう。
動かない。動けない。
後悔すらできない。

と、突然冷たいものが頭に落ちてきた。
顔を上げると、街頭の明かりに何本もの線が映る。
それはあっという間に落ちる速度を上げ、数を増やすと、
裕子と美貴のことを押し流さんばかりの勢いで、濡らしていった。

 ◇ ◇ ◇
453 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:35

美貴の行方を捜してやってきた両親に見つかり、裕子はそのまま藤本家へと招かれた。
わかれて乗ったタクシーの車中で、美貴の父親から頭を下げられた。

『最期にあなたのようないいお友達ができて、なつみも喜んでいました。
ずっとあの子のわがままにつきあってくださって、ありがとうございます』

裕子は礼を返しただけで、それ以上何も言わなかった。言うべき言葉を見つけられなかった。
なつみが最期に何を望んだのか、裕子はそれを知らない。
最後の最後に望んだことを叶えてやれなくては、意味がない気がした。
何かを叶えるために彼女ととことんまで付き合おうと決めたわけではないけれど、
それでも何かやり残したことがある気がして、気分が晴れなかった。

なつみはもう家に戻っていて、キレイに飾られた壇の前にいた。
なんの支度もしていないうえ、雨に濡れていて一瞬入ることをためらったが、
なつみの両親から強く請われて、裕子はなつみの元へと近寄った。

キレイな顔をしていた。
いつもよりも白い肌をしていた。
微笑んでいるように見えた。

なつみの顔を見た瞬間、体が半分にわかれてしまった。

なつみがこの世にいないことを理解している自分と、
まだここにいると思ってしまう自分。
落ち着いているのに、引き裂かれそうだった。
454 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:36

「なっち」

返事はない。

彼女は最期に何を望んだのだろう。
何かを望んだとしても、それを自分は叶えられていない。

――ごめん。

そんな言葉が胸をよぎったけれど、そんなことを言えば
きっとなつみは頬をふくらませて怒るだろう。
だから――

「ありがとう」

アンタと一緒にいた時間、楽しかった。
ほかの誰といたときとも違う時間をもらえた。
アンタに……なっちに出会えてよかった。
ホント、楽しかったで。
――ありがとう。
455 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:36

なつみの父は葬儀にも参列してほしいと言ってくれたが、それはできないと断った。
こうしてお別れができただけで十分だ。
礼を失することなのはわかっていたが、これ以上美貴につらい思いをさせたくなかった。
それがわかったのだろう。なつみの父も無理は言わないでいてくれた。

もしかしたら、それは自分のためだったのかもしれない。
なつみと本当にさよならするのだと、わかりたくなかっただけなのかもしれない。
理由なんて、どちらでもいい。

ふるりと頭を振って、裕子は藤本の家を出るとそのまま駅へと戻っていっていた。
頭が痛い。
体なのか心なのか、自分の何かが悲鳴を上げている――。

 ◇ ◇ ◇
456 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:37

「ちょっと、裕ちゃん、大丈夫?」
「あー……うん、すまん」
「トラブル切り抜けたからって、ちょっと調子に乗って飲みすぎだよ?」
「わーかってる。そう言わんと、頭に響く」
「ったく……」

ふたり掛けのソファに体全体をあずけて頭を抱える裕子に、ペットボトルが差し出された。

「吐いたりしたら、即刻追い出すからね」
「わかってます。そこまで悪酔いはしてませんー」
「ならいいけど。あたし、シャワー浴びてくるから、おとなしくしててよね」
「はいはい」

パタンとドアが閉じる音を聞いてから、裕子は目を開けてペットボトルの蓋をひねった。
一口飲み込む。ちょうどいい冷たさで、体の熱が冷めていく。
蓋を閉めて、そのボトルを額に当てた。
気持ちがよかった。
457 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:38

バスルームへと消えたのは、裕子の後輩・保田圭。
会社での立場は上司と部下になるのだが、学生時代からのつきあいで、
会社では律儀に敬語を使うが、退社すればこうしてフランクになれる間柄だ。
会社の近くに住んでいて、残業で遅くなったときにはよく泊まらせてもらっているので、
いつの間にか圭の家には裕子が3日くらい家に帰らなくても
困らない程度の洋服と化粧品がそろっていた。
恋人はいるが、今は海外にいるらしく完全な遠距離恋愛。
そんなものがよく続くなあと、裕子はいつも感心している。
そばにいないとさびしくてやってられないじゃないか、と思う。

圭はそんな裕子に、今はメールもあるし、そんなに遠いとは感じないよ、と事も無げに言う。
堅物に近い圭にこれだけ言わせるような相手だ。
どんな人物か興味はあるが、今のところ会いたいとは思わない。
自分のものになるわけでもないし、他人の恋路に興味はない。
458 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:38

――結局、あのあと家に帰ることができずに、なじみの店でかなり飲んだ裕子は、
半ば無意識のうちに圭を呼び出した。
あきれたようにやってきた圭だが、それでも何も聞かずに自宅へと招いてくれた。
気心が知れているせいか、この場所は居心地がいい。
何かにつまずいたとき、失敗したとき、ここに来ることは少なくはなかった。

だとしたら――自分はたぶん、いつもとは違うんだろう。
悲しいのか落ち込んでいるのか憤っているのか。
そのどれもが正しくて、どれもが間違っている。
ひとりになりたくない。
彼女をひとりにしてしまった自分が言っていい言葉ではないとわかっていても、
あの部屋に今、ひとりで帰ることができなかった。

――弱いな、自分。

「うわ、思い出し笑い。気持ち悪っ」

ため息をつきつつそう思ったら、いきなり暴言が飛んできた。
顔を上げると、そこには何だかよくわからない模様の入ったパジャマを着た圭の姿。
髪もすでにしっかりと乾かされ、寝る準備万端。
459 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:39

「なんや、いちいち失礼な」
「あのね、いきなり夜中に呼び出されたら、誰だって不機嫌になるって」
「えー、なんでー? うちらの仲やんかあ」
「あのねえ」

大げさに肩を上げおろして、圭はあきれていることを表現した。

「どうでもいいけど、シャワーはどうするの? 明日の朝?」
「んー……そうする」
「じゃあ、そこで寝ないうちに移動する!」
「圭坊、優しくないなあ」
「優しくしたらつけあがるクセに」
「あー、すんませんー」

重い体と痛む頭を抱えて裕子が寝室へと移動すると、
すでにベッドの下にはいつも使っている布団が敷かれていた。
さすがに、手際はいい。
460 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:39

「おやすみ」
「ん、おやすみぃ」

布団に潜り込むと、すぐに目を閉じた。
眠ることはできるだろう。それが明日元気に起きられるということとは別物だが。

「……ねえ、裕ちゃん」

沈黙を経て、圭の声が聞こえた。

「ん?」

目を開けて、一応ベッドの上を見る。
圭は上半身を起こして、裕子を見下ろしていた。
ベッドサイドのランプの灯りだけなので、表情ははっきりとは見えない。
その声音は、いつも裕子の様子がおかしいときに降らせてくるものと同じだった。
461 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:40

「失恋でもした?」
「まさか」

失恋くらいわかりやすいことだったら、立ち直り方はいくらでも知っている。
倒れたりしない。起き上がりこぼしのように、また起きあがれる。
でも、今回はそうはいかない。
倒れているのか起きているのかもわからない。今の自分が見えない。
あの子を失っても、涙さえ流していない。
それなのに、なつみという存在と、一緒に何かを失っている。
それが何かさえわからない。

考えるのが面倒になって、裕子は目を閉じた。

「裕ちゃん?」
「……大切なもの、なくしてしもた」

わかっているのは、それだけだった。

 ◇ ◇ ◇
462 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:40

それから5日間、裕子は圭の家で過ごした。
仕事はトラブルがあったことなど嘘のように順調で、平穏だった。
胸の真ん中から心臓が丸ごとなくなったような感覚だけは忘れられなかったが、
それでもいつも通りに過ごしていた。

「あの、裕ちゃん」
「あー、もう帰るから」
「え?」
「今から帰る」
「今からって……こんな時間なのに?」

仕事が終わって、今日は圭とふたり外で夕食を食べてきたから、時間はもう9時を回っていた。
そんなことはまったく気にもかけず、裕子は一度置いたカバンを持ち上げていた。

「もう、ホントに突然なんだから。車で送るよ」
「ええよ、気にせんでも」
「いいから。あたしも久しぶりに運転したいし」
「……ありがとう」
「いいわよ。あたしたちの仲でしょ?」

思わず、笑いがこぼれた。
圭の言いたいことはなんとなくわかった。圭もそれに気づいているはずだ。
いつもいつも迷惑かけ通しだが、それでも自分なりの線引きはしている。
圭の恋人が久しぶりに帰ってくるのは、ここ数日の雰囲気でわかっていた。
だから帰ることを決めたわけではない。そろそろ帰ろうとは思っていた。
ちょうどタイミングが合っただけのことだ。
463 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:41

「じゃあ」
「ん、ありがとうな」
「いいえ。じゃあ、また月曜日に」
「はいはい、気ぃつけて帰り」

夜の道は思ったよりも空いていて、圭の車はスムーズに裕子の家までたどり着いた。
裕子をおろすと、そのまま走り去っていく。
おかげで、藤本の家の前を通らずにすんだ。
どっちみち月曜日の朝には通らなければならない道だが、それでも少しだけ気が楽だった。

「ただいまー」

ドアを開ける。少しほこりっぽい気がする。
2週間近くも帰っていなかったのだから、当たり前かもしれない。
部屋に上がると、留守電のランプがぴかぴかと光っていた。その数10件ほど。
ボタンを押すと、実家の親や友達からのメッセージが残っていた。
どれも急用ではなかったが、その言葉を聞いて自分が携帯をなくしていたことを思い出した。
仕事のやりとりは仕事用の携帯があれば事足りたし、
日頃頻繁に会う友人は圭だけだったから、さほど不便は感じなかったのだ。

「携帯……探さんと」
464 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:41

見えるところにないのなら、見えないところにあるはずだ。
とりあえず居間の家具の隙間をのぞき込んでみる。――ない。
キッチンにもない。玄関にもない。
バスルームには持ち込まないから、あるとすればあとは寝室だけだ。

ドアを開けて中に入る。人のいなかったそこは、金属のように冷え切っていた。
暗い、暗い部屋。カーテンを開けずに出かけたせいか、明かりはまったく入ってこない。
これだけの時間充電していないのだから、もう電源は切れてしまっているだろう。
ひとつひとつ、しらみつぶしに探すしかない。

一番落としそうな場所は……ベッドの下だった。
避難用の懐中電灯を持ち出すと、ベッドの下を照らしてみた。――よく見えない。
電気をつけて、もう一度のぞき込んでみる。
落ちそうなところをゆっくりとじっくりと眺めてみると――あった。
部屋の一番奥、ちょうど角の部分だ。
ざっと探しただけでは見つからないのも無理はない。
何かの拍子にベッド脇から下に落ちてしまったのだろう。

「んー」

手を突っ込んでみても、届かない。
少し悩んでから、もう一度寝室を出て木刀を手に戻ってきた。
いつだったか友達がどこかに旅行に行ったおみやげだと買ってきたものだ。
もらってどうしろというのかわからず、そのまま放置しておいたのがこんなところで役に立った。
465 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:42

何とか木刀の先で携帯を転がすと、ベッドの下から取り出すことに成功した。
予想通り、電源は切れていた。

裕子はそれを手にしたまま、ベッドに腰を落とした。
体が重いのは、体調が悪いからではない。
何かが失われたのに、なぜ以前よりも重いと思うのだろう。
体温を測って熱があるとわかった途端、具合が悪くなるのと同じことか。
知らなければ、気づかない。
知っているから、気づく。
だとしたら、自分はいったいなつみに何を抱いていたのだろう。

「……めんどくさい」

ぶつぶつつぶやきながらも、裕子はベッドサイドに置き去りにしていた充電器に手を伸ばすと、
それを携帯につないだ。電源は入れないままコンセントに差し込むと、赤い光がともる。
それをそのままベッドに放り投げて、裕子は部屋の電気をもう一度消してベッドに体も放り投げる。
視界が赤く染まる。その赤い色さえうっとうしくて、裕子は携帯を布団の中に放り込んだ。
部屋に闇が訪れる。

闇に手を伸ばしてみる。指の先は見えない。
それでも、そこに自分の手があるのはなんとなくわかる。
しばらくすれば、暗闇に目が慣れて手の形くらいはわかるようになるだろう。

あの子は最期に目を閉じるとき、何を考えた? どんなことを思った?
466 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:43

『なち姉は……その程度のものだったんですか!』

その程度……と言われても、自分にとってなつみはどの程度の存在だったのか。
なつみといると楽しかった。圭とは別の意味で、一緒にいて楽だった。
妹のようにかわいかった。そばにいたかった。
友達……普通に言うならそうだろう。
それだけでは言い切れないものもあった。
彼女が大切だった。だから、守りたかった。

永遠に失った。涙は流れなかった。
体の一部が失われたようで、何かが足りない。
のどが渇いて水を求めるように、何かを求めていた。
それが何かがわからなくて、体の中をくすぐられているようで、イライラした。

右手で左手を強く握りしめると、裕子は布団の中から携帯を取りだした。
ふっと息を吐いてそれを開くと、電源ボタンを強く押した。
ディスプレイが光り、ゆっくりと起動のムービーが流れる。
設定していた壁紙が現れて少しすると、次々に留守録のお知らせやらメールやらを受け取り始めた。
すべてを受け終えたと思われるところで、まず留守電を聞く。
ほとんど家の電話に入っていたのと同じことだった。
ただし、最近入っていた数件は、すべて美貴からのもので、名前が聞こえたと同時にすぐ再生を止めた。
まだ、美貴の声は聞けなかった。
467 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:43

次にEメールを確認。こちらもそう急と思えるような用事はなかった。
そして、最後にもうひとつのメールを確認。
メールは3件。そのうちの2通は友人からのもの。内容はたいしたものではない。
そして、最後の1件。その送り主は……「なっち」。

なつみはメールが苦手だと、生前にメールを送ってきたことは一度もなかった。
電話のほうがすぐにつながるし、声が聴けてうれしいからと言っていた。
そのなつみが送ってきたメール。日付は亡くなった日の2日前。
亡くなる直前のなつみの状況はまったく聞いていない。
中に何が書かれているのか、想像もできない。

震える指を押さえ込んで、息を吐き出しながらボタンを押した。
パッと画面が変わって、本文が見える。

「……アホや」

思わず、笑いがこぼれ落ちた。
いったい何を思って、こんなメールを寄越したんだろう。
あの子が最期に思ったこと。最期の願い。
468 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:44

ぼんやりと、その少ない文字を追う。
何度も何度も目で追って、何度も何度も心の中でつぶやく。
ディスプレイをじっと見つめながらゆっくりと口を開く。
その言葉を、口にしたその瞬間――手が自分の意思に反してぶるぶると震えだした。
携帯を支えきれずに、膝の上に落としてしまう。 
それでもディスプレイは、自己主張するかのように裕子を見つめたままだった。

「……っち」

震える両手で携帯を握る。落としそうになってあわてて力を入れる。
まさか。まさかまさかまさか。そんなことがありうるのか。
自分さえ知らなかったことを、彼女が知っていたなんてことが。

失くした。失った。永遠に。大切なもの。かけがえのないもの。
大切だった。失くしたくなかった。
失ってしまったら、どうにかなりそうだった。
実際にはどうにもなっていない。なっていない。本当に?
もうないんだ、この手の中に、あの笑顔は。
自分の名前を呼んでくれるあの声は。
二度と、もう二度と戻りはしない。一生、どんなに生きても取り返せない。
だったらどんな意味がある? 生きていることに。
469 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:45

震えが止まらない。
体の中をぐしゃぐしゃにかき回された。
血液が体の中から消えて、体温さえなくなった。
寒い寒い寒い。

あの子が大切だった。あの子がただ大切だった。何よりも大切だった。
生活の一部だ。身体の一部だ。自分が生きているこの世界の一部だ。
あって当たり前のもの。ないのがおかしいもの。

「ああ……」

そうか、そうだったんだ。
あの子は太陽だ。自分を動かす太陽だったんだ。
絶対に失ってはいけないものだったんだ。この世界で生きていくために。
どうして気づかなかったんだろう。いや、気づかないフリをしていただけか。
失うことがわかっていたから、自分ではない自分が自分を守ろうとしただけか。
この世から、消えてしまわないために。

「アホなんは、アタシかあ……」

いつの間にそんなに大きな存在になっていたんだろう。
人間はひとりでだって生きていける。最愛の人をなくしても、消えたりはしない。
それが当たり前のことで、自分もそうだと思っていた。
でも違った。違ったのだ。
470 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:50


  アタシは、なっちを愛してる


その思いが波のように裕子の元へ押し寄せて来ると同時に、
世界が急速に色あせていくのを感じた。
わかった。わかってしまった。
彼女の消えた世界に、意味などない。
ただそれだけのことだったのだ。
でも、自分はそれに気づかなかった。気づかないはずだった。


「……っ、なんでや」


  なんで、最期になって、それをアタシに教えたんや。
  知らなかったら、教えなかったら、
  アタシは今までと変わりなく生きていけたんや。
  アンタをなくしても、平気なフリして生きていけたのに。

  アンタはいったい、何を心配したんや。


「なんでや!」
471 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:50

裕子は手近の壁を殴りつけ、ベッドサイドのテーブルを思いっきり叩いた。
枕を放り投げ、布団をかき乱しても、何も落ち着きはしなかった。
体がざわざわとざわめいて、落ち着いていられない。
声を出していないと、体が爆発しそうだった。

「なんでやあぁ!」

ただ、叫びたかった。このざわめきを外へと追い出したかった。
気がつけば、床に跪いていた。膝が震えて足に力が入らない。

「なっち……なっちぃ……」

両手で拳を握りしめ、床に思いっきり叩きつけた。
何度も何度も何度も。

「なっちいぃぃぃ……!」
472 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:52


  なんで、今頃言うんや。
  気づかないまま、放り出してくれたらよかったんや。
  アタシは気づいてなかったんやから、
  ほったらかしといたらよかったんや。
  何を考えたんや。いつか気づくと思ったんか?
  気づいたときに――アタシがどうすると思ったんや?
  なあ、なっち。
  こんなんされたら、アタシ、もう何もできへんやんか。
  最後の最後で、なんてことしてくれたんや。
  アタシの人生、縛りつけるなんて。


明確な単語は裕子の口から出なくなってしまった。
絞り出すようにのどから嗚咽がこぼれ落ちていくだけ。
そんな裕子を、布団から放り出された携帯が静かに見つめていた。
473 名前:道化芝居 投稿日:2005/11/14(月) 00:52

003□
○ ×/×
[Fr]なっち
――――――――――
ゆうちゃん

いきて





 ◇ ◇ ◇
474 名前: 投稿日:2005/11/14(月) 00:56

更新しました。
こんなふうでした。
彼女モードはあと1回の予定です。


>>445
レス、ありがとうございます。
ええと、こうなってしまいました。
暗くなっててすみません。
475 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/14(月) 03:42
なっち…
姐さんは救われるのかな…
476 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/14(月) 18:23
どぉなるのかな。。
すっごい深いです。
477 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/15(火) 07:12
。・゚・(ノД`)・゚・。
478 名前:道化芝居 投稿日:2005/12/04(日) 22:24

「……お姉ちゃん?」
「ん……」

遠くから声が聞こえてきて、裕子は目を開けながら体を起こした。
体の半分だけが温かく、半分が冷たい。
ニ三度瞬きをしてあたりを見ると、そこは自分の部屋のベランダだった。
雨はまだ降っているらしく、外からは雨音が聞こえ、湿った空気が体を包んでいる。

「お姉ちゃん……大丈夫?」
「ん、大丈夫や」

隣には絵里がいて、目が覚めたことに気づいたのかすぐに身を寄せてくる。
その瞳は、泣きそうに潤んでいた。

「どした」
「……なんか、うなされてたみたいだったから」
「なんでもない、ちょっとよくない夢見ただけや」
「うん……」
479 名前:道化芝居 投稿日:2005/12/04(日) 22:24

あれからどのくらい時間がたったのか、絵里の毛布に触れてみると、
もうすっかり冷たくなっていた。
裕子は手を取って絵里を立たせるとそのまま部屋の中へと連れて行き、
ベランダへと続く扉を閉めた。
絵里の額に触れると、まだ熱を持っているようだった。

「まだ少し熱いな」
「うん……」
「今日はもう帰り」
「……うん」

裕子の言うことに逆らわず、絵里は素直にうなずいた。
たまにわがままを言うこともあるが、基本的に絵里は素直だ。怖いくらいに。
それが彼女との明らかな差異をわからせてくれる。

あの子はわがままだった。だけど、それがうれしかった。
イヤだと思ったことは一度もない。あの子に頼られるのが、ただうれしかった。

あんな夢を見たせいか、どうにも気持ちがあの頃へと戻りたがっている。
だからだろうか。
いつも以上に、絵里に優しくしようとしたのは。
感傷的なことも馴れ合いも、何も必要としてはいないのに。
480 名前:道化芝居 投稿日:2005/12/04(日) 22:24

「……お姉ちゃん」
「今日は、泊まってく?」
「え……いいの?」

裕子は絵里の言葉には答えずに、寝室のドアを開けて絵里を中へと促した。
すぐにベッドの布団を上げて絵里を中に入れると、自分はその傍らに腰を降ろした。

「お姉ちゃんはまだ寝ないの?」
「これからシャワー浴びんといかんからな。でも、絵里が寝るまでは一緒におるよ」
「うん、ありがとう」

絵里の笑顔は本当にうれしそうなもので、思わず裕子は目を細めた。
自分の喜びを素直に表現する、そういところはあの子と似ている。

ふたりを比べるなんてくだらなくて意味のないことだとわかっている。
だけど、自分は絵里と出会ってからずっとそのくだらないことを考え続けている。
ぼんやりとそんなことを考えていると、袖口を絵里に引っ張られた。
481 名前:道化芝居 投稿日:2005/12/04(日) 22:25

「ん? なんや甘えんぼやな」
「だって、久しぶりなんだもん。お姉ちゃんとこで寝るの」
「そういやそうか」
「うん……よかった」
「何が」
「なんでもない」
「何、ヘンな子やね」
「ヘンじゃないもーん」
「はいはい」

いつの間にか絵里の手は袖口から裕子の手へと移っていた。
触れているのに気づいて、裕子がその手を軽く握ってやるとへへへと笑い声がこぼれる。

「お姉ちゃんの手、あったかいね」
「心が冷たいからな」
「そんなことないよ! お姉ちゃんはきっとお日さまみたいにあったかいよ」
「そうかなあ」
「そうだよ。だって、お姉ちゃんは優しいもん。絵里、お姉ちゃんのこと、大好きだもん」

照れたように笑う絵里に、もう一度裕子は目を細めた。
素直だということは、時々何にも負けない武器になる。
絵里のまっすぐな言葉とまっすぐな眼差しは、裕子の凍りついた心に小さな小さな傷をつける。
わかっているから、裕子はそれ以上何も言わず、布団を軽く叩いて言葉を制した。
482 名前:道化芝居 投稿日:2005/12/04(日) 22:26

「ぼちぼち寝なさい」
「はーい。……おやすみなさーい」
「ん、おやすみ」

いつも眠りにつく時間をだいぶオーバーしていたのか、すぐに絵里は眠りに落ちた。
手は離されてはいないが、握る力は弱くなり触れているだけになっている。
その安心しきった寝顔を見て、裕子はふっと息を吐き出した。

いつだったか、亜弥に言った言葉がよみがえる。


『でも、違うんや。あの子はアタシにとってほかの子と何も変わらん』


『アタシはあの子を見てるわけやないから』


『絵里やない、別の子を見てる』


あの言葉がすべてだ。
贖罪するつもりも後悔するつもりもない。
たとえ世界中のすべての人が間違っていると言っても、この生き方は変えない。
絵里のそばにいるのは、絵里を利用したいからだ。
483 名前:道化芝居 投稿日:2005/12/04(日) 22:26

初めて絵里に会ったとき、なぜかなつみの姿がダブった。
極端に似ているというわけではないのに、どこかが似ている気がした。
同じように心臓を病んでいると知って、自分の中で何かが光った。
それは、空虚な日常を壊してくれる可能性のある方法のひとつで、
裕子はそれに手を伸ばした。
なつみに出会う前まで持っていた倫理や価値観と引きかえにして。

少しずつ少しずつ絵里との信頼関係を築いて、取り返しがつかないほどにそれを壊せば、
この子は言ってくれるかもしれないと、そう考えたのだ。
なつみが願った最後の言葉と、まったく正反対の言葉を。
自分の存在を自分で消すことを許してくれる言葉を。

都合のいい願い。
似て非なる存在であることはわかっている。
それでも、許されたかった。なつみに近い、絵里に。
自分がこの世から消えることを。

病気と闘っている絵里にそんなことをさせるのがひどいことだとはわかっていても、
自分の最も深く強い願いを覆すことはできなかった。
484 名前:道化芝居 投稿日:2005/12/04(日) 22:26

絵里から手を離して、裕子は軽く絵里の髪をなでた。
安心しきった寝息が聞こえてきても、心はまるで揺れない。
ただ、この子はもしかしたら、自分の望むことは言ってくれないのではないかと、
ずいぶん前から気づいていた。
素直すぎて、優しすぎる。自分の気持ちを押し殺す子だから、
たとえ、自分が裏切っても言わないかもしれない。
それに気づいて、裕子はもうひとつ、別の場所にも種をまいた。
誰かが、自分の存在を消してくれるようにと。


 どうして、ヘンなとこで律儀なんやろな、アタシ。


どっちにしても、種をまいてるのは自分だ。
なつみがそれに納得するとは思えない。
だったら、自分で消えてしまったって何も問題はないはずだ。
あの世も来世も信じていない。どんなことをしても会えないことはわかっている。
なつみに責められることも、泣かれることももうないのだから、
なつみの願いを裏切ったとしても、誰にも責められはしない。
わかってはいたが、それでも裏切ることはできなかったから、
ゆだねるしかなかったのだ、他人の手に。

裕子は絵里のそばを離れ、振り返ることなく寝室のドアを閉めた。

何もかもが終わること――それが1日でも早く来ること。
ただそれだけが、望みだ。

  ◇ ◇ ◇
485 名前: 投稿日:2005/12/04(日) 22:35

少ないですが、更新しました。
彼女モードはここで一区切りになります。
次回より彼女が復活! 本領発揮…予定。

レス、ありがとうございます。

>>475
かなり頑なな人になってますので…。
見守ってやってくださるとうれしいです。

>>476
全然進んでません、すみません。
深く深く深海に行きそうな感じになっちゃってますね。

>>477
な、涙をふいてくださいませー。
486 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/10(土) 02:27
ダークな展開が続きますね。
松浦さんは今どうしてるだろう…。
487 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/10(土) 14:27
…(T-T)

次回の本領発揮。楽しみです。
488 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 03:14
突然失礼します。いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
489 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/29(木) 16:08
すごく惹き込まれました。
次回楽しみにしています。
490 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/04(水) 15:03

考えて考えて考えて……寝ても覚めても考えて、
自分の持てる時間をすべて裕子のことにつぎ込んでも、何ひとつ変わりはしなかった。
最初からわかっていたことだが、考えるだけ考えた結果、意味がないとはっきりと理解できて、
亜弥はやっと少しずつ裕子のことを切り離して考えられるようになっていた。

それでも、油断するとすぐに裕子のことが頭をよぎる。
それを避けるために、別なことに没頭しようとする。
亜弥はしばらく手をつけずにいた勉強に力を入れ、落ちていた成績も少しずつ戻り始めていた。

予備校には最近行っていない。
母親は何か言いたそうだったが、成績に問題がなくなってきていたせいか、
直接何かを言われはしなかった。

家と学校を行き来して、勉強をするばかりの生活にも少しずつ慣れはじめ、
息苦しさも感じなくなった頃、まるでそれを狙ったかのように、事態はまた動き始めた。
491 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/04(水) 15:03

「……まっつー?」

学校から家へと帰るだけの道。
ここのところ、誰かに声をかけられたことなどなかったから、ただそれだけで驚いてしまった。
亜弥のことをこう呼ぶのは、今のところ真希だけだ。
その姿を想像しながら振り返ると、そこにはぎこちない笑顔で小さく手を振る真希がいた。

もう考えなくてもいいはずだった。
自分の中でちゃんと整理はできたはずだった。
引き出しの中にしまって、カギをかけたはずだった。

それなのに、真希の顔を見た途端、体が震えた。
閉じ込めていたはずの想いが、過去のことに変えてしまったはずのあの日の出来事が、
今目の前で起こっているかのように、一気に亜弥の心を埋め尽くす。

だって、そうだ。
あの日、あの場所に真希はいて、あの事件も出来事も全部見ていた。
真希の姿はそれだけであの日の出来事を思い出させる。
そのことに、今の今まで気づきもしなかった。

目の前が赤く染まった。
心臓をなで上げられるような感覚に、吸い込んだまま息が吐き出せなくなる。
胸が圧迫されて、自分の鼓動が耳元に迫る。
頭を内側から誰かに殴打されてるみたいで……気持ち悪い。
492 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/04(水) 15:03

「まっつー?」

貧血でも起こしたみたいに、視界と真希の姿がゆがんだ。
あわてて目を閉じて、震え始めた自分の腕を強く握る。

「まっつー!」
「……ごっちん」
「ちょ、だ、大丈夫!?」

触れられたぬくもりにしがみつくように手を伸ばして、かろうじて体勢を整える。

「……気持ち悪い」
「うえっ!? えっと、えっと……」

気持ちの悪さは引かない。それでも、慌てふためく真希の声に、思わず笑ってしまっていた。
あんなことがあっても変わっていない。
そんなことがうれしかった。

  * * *
493 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/04(水) 15:03

「大丈夫?」
「……うん」

横になって冷たいタオルで額を冷やされ、だいぶ気持ちも落ち着いてきた。
耳につくほどの鼓動も、殴打されているような痛みももう感じない。
亜弥はタオルを手で押さえると、天井に向かって長く息を吐いた。

頭を動かすと、暗い部屋の中で所在なさそうに座っている真希と目が合った。
苦笑いをする真希に笑みを返したところで、ドアがノックされ無造作に開けられた。

「具合、どうよ」
「あ、うん……大丈夫」

部屋の中に入ってきたのは、美貴だった。
手には丸いトレイを持ち、黒いパンツに白いシャツにベストというボーイッシュなスタイル。
手馴れた動作でテーブルの上にグラスを置いた。

「何かあったらすぐ呼んで」
「うん、サンキュ」
494 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/04(水) 15:04

真希が亜弥を連れてきたのは、美貴のアルバイト先のカラオケボックスだった。
お金がないからタクシーも拾えなかったし、一番先に思いついちゃったんだよね。
そう言って悪びれずに真希は笑う。
亜弥はそれに苦笑いを返すことしかできなかった。

ずっと避けて通っていたものに、一気にふたつも出くわすことになるとは思わなかった。
このままだと、近いうちにまた裕子とご対面……なんてこともあるかもしれない。

…………………………
…………………………
…………………………
…………………………
…………………………

「わっ、まっつー!?」

突然頭を抱えたせいか、真希のあわてた声が聞こえた。
ガチャンという音がしたところを見ると、テーブルにぶつかったんだろう。
予想外の出来事にあわてて亜弥は腕を頭から離した。
目の前にはビックリした顔の真希がいた。

「……また具合悪くなったのかと思ったよぉ」
「ご、ごめん」
495 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/04(水) 15:04

額に乗せられたタオルを外して、亜弥は体を起こした。
大丈夫だとわかったのか、真希もまた元の位置へと戻っていく。
ふたりはテーブルを挟んで対面に座り、背もたれに体を預けて同じタイミングで
ふに、と頬を緩ませた。

「なんか、おかしい感じがするねえ」
「だね」
「……まっつーは、最近元気にしてた?」
「うん……」

亜弥は靴を脱ぐと、ソファの上で体育館座りをした。
両手はすねの前あたりでしっかりと組んだ。

「元気、だと思う」
「そっか」
「ごっちんは? 元気だった?」
「うん、まあ、普通に元気だったよ。その……正直、いろいろビックリしたんだけどさ」
「うん……そうだね」
「まさかまっつーの付き合ってる人が裕ちゃんだとは思わなかったし、
いきなりのキスシーンにも驚いたし、なんか頭の中ごちゃごちゃになっちゃってさ」
「うん」
「いろいろ疑問なこととかもあるんだけど、それはともかく、
やっぱり一番ビックリしたのは裕ちゃんのことで」

殺して、なんて。
496 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/04(水) 15:04

亜弥に気を遣っているのか、真希はすべての言葉を軽い口調で言った。
それでも、裕子のことを心配しているのは、その短い言葉ひとつで充分すぎるほどわかる。
真希は腕を組んでソファにふんぞり返ると、独り言のように「どうしたのかなあ」とつぶやいた。

「……あたしも、よくわからないんだ」

亜弥が今手にしているいくつかのパーツ。
それはすべて一部が欠けていて、組み合わせてもすべてを知ることはできない。
たぶん、知っているのは裕子だけだ。すべてをわかるのは裕子だけ。
きっと自分たちには想像もできないほど、深いところに何か原因があるんだろう。

「まあ、裕ちゃんは一筋縄ではいかない人だから……。付き合ってけるだけでもすごいかも」

真希なりの優しい言葉に、心がほっこりするのがわかった。
でも、違う。もう、違う。

「違うの、ごっちん、ひとつ、訂正」
「ん、何が?」
「もう、付き合ってないの。別れた、から」
「……うそ、なんで」
497 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/04(水) 15:05

どう言ったらいいのかわからなくて、それでも一生懸命に亜弥は状況を説明した。
本当ならあの日のことなんて思い出したくなかったけれど、真希には伝えなければならないと思った。
あの後の裕子と自分の間に起こったことすべてを、主観を交えずに。

じわじわとあの日のことが心を侵食していく。
話せば話すほど、心の何かが欠けていく気がする。
どんどん胸が苦しくなって、呼吸が浅くなっていくのが自分でもわかる。
胸元に手を当てようとして、その手が急にぬくもりに包まれた。
顔を上げると、いつの間にそこに来たのか、真希が跪いた姿勢で
亜弥の手を包み込んでくれていた。

普段は見下ろしてくるその目が、今は不安そうに亜弥を見上げている。
あれだけのことがあったのに、真希の態度はいつもとほとんど変わりなくて、
胸を痛くさせると同時に温かくしてくれる。
涙が出そうになるのをなんとかこらえて、亜弥は今までに起こったことをすべて言い切り、
それを真希に伝えるように長く長く息を吐いた。

真希は小さくうなずいて亜弥の隣に体を移すと、もう一度手を握ってくれた。
498 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/04(水) 15:05

「ありがとう、話してくれて」

穏やかな声と穏やかなぬくもりを感じて亜弥は目を伏せ、ふるふると首を振った。

「がんばったね」

握られる手の優しさと強さに、亜弥は首を振る速度をさらに上げた。
そうでもしないと、泣いてしまいそうだった。

「……裕ちゃんはきっと本気だよね。理由とかいろいろわかんないことはいっぱいだけど、
その気持ちだけはきっと本当なんだよね」

確かめるように言う真希に、亜弥はうなずくことしかできなかった。
それはもう決意とかそんなレベルの問題ではなく、信念であり生きる意味のようなもの。
裕子の中で、それが生きていく目的になってしまっているのかもしれない。
殺されるために――消えるために生きる。
本末転倒もいいところだと思うけど、本人の中ではきっとちゃんとした理由があるんだろう。

真希は自分の言った言葉を確かめるようにしばらく黙って、ぐるりと頭を一回転させた。
499 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/04(水) 15:06

「……ごとーは、裕ちゃんに生きててほしいな。裕ちゃんがイヤでも、ごとーがそうしてほしい。
優しくて泣き虫でヘタレで強がりで……そんな裕ちゃんに生きててほしいと思うよ」
「うん……」
「ごとーは理由なんて知りたくない。どうして裕ちゃんがそう思ったかなんて関係ない。
ただ生きててほしい、どんな理由があっても。ごとーのわがままだって言われても」
「うん……」
「だから、まっつー」

叩けばキレイな音が出そうなほどの硬い雰囲気をまとって、真希が亜弥の手を強く握った。
少し指先が冷たくなっていて、平静を装っていても緊張していることがわかる。
その冷たさが、亜弥の心の波を緩やかに静めていき、自然と背筋が伸びていた。
真希の口がゆっくりと開いて、短くも様々な感情を混ざらせた言葉が亜弥の耳に届く。

「裕ちゃんを、助けて」

真希がどんな根拠があってそんなことを言ったのかはわからない。
それでも、その言葉は亜弥の心の中に小さな火を灯した。
500 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/04(水) 15:06

そうだ。自分のためでいいじゃないか。
同じ思いで同じことを望んでくれる人がいる。
あたしはひとりじゃない。
負けるものか。負けちゃいけない。

「挑戦したら、きっと追い詰められちゃうと思う。
傷つけなくちゃ、助けることなんてできないと思う」

裕子に対して抱いていた想いのかけらを、亜弥は真希に向かって吐き出した。

「この手はもしかしたら届くかもしれない。でも、本当に助けることはできないかもしれない」

真希は黙ってうなずくだけだ。

「だからごっちん。もしそこで、あたしがダメになっちゃったら、
ごっちんが何とかしてね」

真希の手が、さらにきつく亜弥の手を握る。
言わなくたって伝わる。お互いの想い。
真希はもう一度、大きくうなずいた。
501 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/04(水) 15:06

「うん、そのときはごとーが何とかする」

何とかできる、なんてことを考えてはいないはずだ。
そうできるなら、真希はまず自分が動いているだろう。
それでも、こうしてためらいもなく言ってくれることが、亜弥の力になった。

あやふやでありながら、固い約束。
ひとりじゃないということは、こんなにも心強いのか。
だったらもっと早く相談しておけばよかったと、亜弥は過去の自分を少しだけ恨みながらも、
自分を覆い隠していたものがパラパラと剥がれ落ちて、
普段の自分を取り戻してつつあることに気づいた。

壊れることも壊すこともわかっていて自分の意思で踏み込んだ道。
いつの間にか、彼女のペースに巻き込まれて自分のペースを忘れていた。

そう。
自分は人を振り回す側であって、振り回される側ではない。

良くも悪くも、それが松浦亜弥だ。

  * * *
502 名前: 投稿日:2006/01/04(水) 15:11

更新しました。
新年も更新期間もすっかりあけてしまいました…申し訳。


レス、ありがとうございます。

>>486
そんなわけで(?)松浦さんです。
こんな感じになっております。

>>487
すいません、なんか本領発揮前夜みたいになっちゃいました。
つ、次こそは…!

>>488
お疲れ様でございます。

>>489
ありがとうございます。
クライマックスもきっともうちょっと…たぶんw
今後もよろしくお願いします。
503 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/04(水) 21:33
あぁ。
クライマックスがもぅちょっとなんですねぇ?
本領発揮楽しみにしてますw
504 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/06(金) 01:04
松浦がんばれ!
505 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/17(火) 00:42
姐さーーん!
506 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/25(水) 01:07
これまでの回想があまりに強烈でヘビーで主人公の印象が薄くなりそうな勢いでしたが
やはり松浦さんはなんとか立ち向かってくれそうでなによりです
507 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/28(土) 21:33

「みきたん、話があるの」

真希との約束の後、もう一度様子を見に来た美貴に、亜弥は提案していた。
怪訝そうに美貴は眉を顰めたが、亜弥の中に何かを感じ取ったのだろう、
静かにうなずく。

美貴のバイト終わりを待ってカラオケボックスを出ると、
真希は気をきかせたのか、その場で用事があるからとどこかへ行ってしまい、
亜弥は美貴とふたりきりになっていた。

美貴とまともに顔を合わせるのは、本当に久しぶりだった。
家が隣同士だからイヤでも顔をあわせることになると思っていたのに、
お互いの生活パターンをほぼ完全に知っているからこそ、
ふたりはほとんど出会うことなく日々を過ごせてしまっていた。

当たり前のように過ごしていた時間は、実はとても貴重なものだと気づく。
人間がふたりいた場合、互いの思いがあわなければ一緒にいることなど不可能に近いのだと、
亜弥はこの騒動で初めて知った。
508 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/28(土) 21:33

「それで、話って何?」

しばらく歩いて人通りが少なくなったところで、美貴が声をかけてきた。
顔は正面を向いたまま、立ち止まる様子も見せない。

「中澤さんのこと」

何を言われるか、わかっていたのだろう。
美貴はやっぱり、と言わんばかりのため息をつきながら、一瞬だけ目を閉じた。

「美貴の言ったこと、疑ってるわけ?」
「……ウソでもホントでも、それはどっちでもいいの」
「は?」
「みきたんに聞いてほしいことがあるの」

美貴からの返事は待たずに、亜弥は裕子のことを語った。
といって、語ることはそんなに多くはない。
知ってもらって、裕子への憎しみを断ち切ってほしいと考えているわけでもない。
人の心が簡単に動かせないことは、もう充分に思い知った。
それでも、もしかしたらと思った。
憎しみに変わりはなくても、美貴は自分の行動を助けてくれる存在になるのではないかと。
509 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/28(土) 21:34

語り終えると、美貴が足を止めた。
あえて、数歩先に進んでから、亜弥は振り返りながら立ち止まる。
街灯の下、美貴の顔は前髪に隠されていて、よく見えなかった。

「みきたん?」
「……そんなの、認めないよ」

……ほぼ、当たりくじを引いたと思った。

「認めない、認めらんないよ! なんだよそれ! 意味わかんないよ!」

美貴の体がぶるぶると震えている。

「そんな……そんなの許さない。絶対、許さない。
この世の中の人全部が許しても、なち姉が許しても、美貴が許さないよ!
あの人は、生きてなきゃいけないんだ。生きてなきゃ……」

美貴は怒りだと思っているだろうが、亜弥にはそれだけには思えなかった。
言い知れない悲しみを、美貴の体は放っていた。
510 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/28(土) 21:35

「みきたん……ごめんね」
「なんでっ……なんで亜弥ちゃんがあやまるんだよ!」
「ごめんね」

亜弥は美貴に近づいて、その腕にそっと触れた。
美貴が腕を引かないのを確かめてから、包み込むように両手を広げて美貴を抱きしめた。
震えたままの美貴の手が、すがるように亜弥の服をつかむ。

「ごめん」
「だからっ……!」
「あたし、中澤さんが好き」
「……っ!」
「幸せになれるとかなれないとか関係ないの。ただ好きで、そばにいたい。
だから、生きててほしい。あの人を、今いる場所から引っ張りあげたい。
あたしの持つすべての力で」

美貴の体から力が抜けた。
亜弥はよりいっそう力を強くして、美貴の体を抱く。

「でも、やっぱり自信なんかない。あの人は本当に頑なでまっすぐだから。
深く深く、思いを抱えてるから。だから、もっと力がほしかった。
あの人を死なせたくないって思ってくれる人の」

美貴から返事はない。

「それがどんな思いでもよかったの。……憎しみでも」
511 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/28(土) 21:37

ピクリと体を一瞬だけ震わせて、美貴がゆっくりと弱い力で亜弥の体を押した。
されるがまま、亜弥は腕を解いて美貴を解放する。

「だから、ごめんね。あたし、みきたんを利用しようしてる。
……ううん、利用する。させてもらう。あたしはあの人を死なせたくない。
たとえ、みきたんに嫌われても」

美貴がゆっくりと歩き始めた。顔は上げない。亜弥のことを見ようともしない。
それでも、足取りはしっかりしていた。
何を考えているのかわからないが、それでも言いたいことは言った。
あとは、美貴次第だ。

美貴の背中を見つめながら、今言わなくてもよかったのかもしれないとも亜弥は思っていた。
その思いを、ぶるりと頭を振って追い出す。
言うべきだ。もうこれ以上隠し事をするべきではない。
隠し事は、足元の道を狭くする。それが自分のペースを乱すのだ。

何かほかに気を取られては、裕子と向き合うことなどできない。
自分の気になることは、解決できるならしておかなければならない。
そのくらいの覚悟が必要なのだ。彼女の相手をするためには。
512 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/28(土) 21:38

「……美貴の、気持ちが、力になるなんて思えない」
「あたしにはなる。充分すぎるくらい」

どんな理由でも事情でも、裕子を死なせたくないと思ってくれるだけでいい。
自分以外にもそういう人がいると知っていれば、それが力だ。

「……亜弥ちゃん」
「なあに?」
「後悔するとか、考えないの」
「そんなの考えてたら、何もできなくなっちゃうもん。
実際あたし、ついさっきまでどうしたらいいのか、ホントわかんなかったし」
「なんで、そんな急に」
「……うん。気づいちゃったから。あたしはあたしのために行動していいんだって。
あたしのわがままで動いていいんだって」
「誰が、そんな」
「あたしが」

美貴が鼻で笑うのが聞こえた。
少しずつ少しずつ、美貴と亜弥の距離が縮まっていく。
触れられるほどに近くなって、亜弥は美貴の腕に自分の腕を絡めた。
513 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/28(土) 21:38

「みきたん」
「……何」
「あたし、みきたんのこと、好きだよ」

空には星がきれいに浮かんでいた。

「みきたんに、嫌われても」

亜弥がそれきり口をつぐむと、あたりにはふたりの足音しか聞こえなくなった。

だってほら。
ひとりで歩いたらちょっと怖いこんな夜道でも、一緒ならこんなに心強い。安心できる。
ねえ、みきたん。
みきたんも、それにごっちんも、そこにいるだけであたしの力になってくれるんだよ。
だからあたしは、みきたんが好き。
たぶん、どんなことがあっても。

「美貴は……」

美貴の言葉はあまりにも小さくて、油断したら消えてしまいそうなものだった。
それでも、亜弥の耳ははっきりとその声をとらえていた。

「……わかんない。もう、何も」

その言葉が意味することを亜弥は美貴に問わなかったし、美貴も言い出しはしなかった。
ふたりは広がる星空の下、それきり無言のまま家路に着いた。

   * * *
514 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/28(土) 21:39

その翌日。亜弥は最後の難関に立ち向かっていた。

「久しぶり、ですよね」
「うん、そうだね」

ここは絵里の部屋。
当然、目の前にいるのは絵里。
学校帰りに絵里の家を訪れると、共働きだという両親は家にはおらず、
絵里だけが広いマンションの一室にいた。

絵里のためにと用意された部屋に案内され、そこで彼女と向き合う。
最後に会ったのは、裕子と別れたあの日。
その頃と比べて、絵里にさほど変わった様子は見えなかった。
学校には行っているのかいないのか、真新しいままの制服が部屋の壁際にかけられている。
それ以外は特に何の変哲もない、ごく普通の女の子の部屋だった。

「お姉ちゃんのことですか」

紅茶を入れて戻ってきた絵里は、亜弥の目の前に座ると間髪入れずに言ってきた。
ごまかすつもりもないから、亜弥はそれにうなずいて返す。

「絵里は、たぶん何もできないです」
515 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/28(土) 21:40

言われるだろうと思った。
絵里は裕子に対して自分なりの接し方を決めている。
迷惑になりそうなことはしない。
話してくれないことは聞かない。
裕子の行動に何かしらの疑問を抱いてはいるのに、それを問いただそうとはしない。
絵里は絶対的に裕子の味方なのだ。
たぶんそれは、今亜弥が知っている事実を洗いざらい話しても、何も変わりはしないだろう。

それがわかっていても、亜弥は絵里に会わないわけにはいかなかった。
味方になってくれと言うつもりはない。
美貴に言ったようなことを言うつもりもない。
ただ彼女は、自分たちの持っていない最大の武器を持っている。
それがほしいだけだ。

「してほしいことは、ひとつだけだよ」

回りくどく説得することは考えなかった。
直球勝負。
それが、松浦亜弥としての戦い方だ。

「なんですか」
「中澤さんの部屋のカギを貸して」
516 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/28(土) 21:42

今の彼女は、きっと追えば追うほど離れていってしまう。
顔が見えて声が聞こえる距離にいなければ、戦いは始めることさえできない。
本当ならどこかに誘い出して閉じ込めて話がしたいくらいだ。
だが、勘のいい裕子に誘い出すなどという技は通じない。
面白がってのってくるかもしれないが、のらりくらりとかわされるわけにはいかない。
考える間もなく、結論は出ていたのだ。
戦場は、裕子の部屋しかないと。

最近の裕子がどんな生活をしているかはわからないが、家にいようがいまいが、
中に入り込んで玄関を背にしてしまえば、簡単に逃げ出すことはできないだろう。
そうするためには、絶対に絵里の持つカギが必要なのだ。
その行動が傍目に見たらかなりヤバイことだったとしても。

予想通り、絵里はいい顔はしなかった。
そのカギを渡すことは、言葉は悪いが味方を売り渡すようなもの。
それでも、今の亜弥にはこれ以外に方法がない。

「でも……」
「絵里ちゃん」

亜弥は正座をして全身に力を入れ、絵里を見る目にも力を入れた。
言葉で伝えることができないなら、態度で示すしかない。
あたしは、本気なんだ。
あの人を、このままになんてしておけない。
だって、あたしは。
517 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/28(土) 21:42

「あたし、中澤さんと付き合ってた。ちょっといろいろあって別れたってことになってるけど、
今でも変わりなく、あたしはあの人が好き。だから、このままにしておくわけにはいかないの」
「亜弥さん……」
「あたしは中澤さんを愛してる。この世界中の誰よりも」

愛してるから救いたいなんて、エゴもいいところだと思う。
裕子はゆらりゆらりと海底の奥底で揺れる海草のように、波の動きに身をゆだねながら、
それでも確固たる意思でその場を離れようとしない人だ。
太陽の光を見ることを、望んでなどいない。
それを無理やり引っこ抜いて、海上へ上げようとしている自分の行動が、
エゴではなくてなんだというのか。

それでも……それでも。
それが松浦亜弥なんだから、仕方がないじゃないか。
518 名前:道化芝居 投稿日:2006/01/28(土) 21:43

「……わかりました」

負けたのか折れたのか、しばらくの沈黙を経てため息とともに絵里のつぶやきが聞こえた。
いつか見たキーホルダーから1本だけカギを抜くと、それを亜弥の前に差し出す。

「1回だけです」
「それで充分」

亜弥はそのカギを手に取った。
軽いけれど、その何万倍もの重みを持つであろうカギ。

「亜弥さん」
「何?」
「お姉ちゃんのこと……よろしくお願いします」

深々と頭を下げた絵里に、亜弥は言葉をかけなかった。
奥歯を噛みしめて深くうなずいただけだった。

戦場までの距離は、ほんの数メートル。
でも、戦いはもう始まってる。
さあ、行こう。
これが、すべての始まりになるんだ。
519 名前: 投稿日:2006/01/28(土) 21:47

更新しました。
更新速度がいまいち上がらず…。がんばります。


レス、ありがとうございます。

>>503
本領発揮前夜、しつこく続いてしまいましたorz
いや、うん、次こそは!(殴

>>504
がんばってます!

>>505
次回は登場します! たぶん(殴
ウソです、ホントに出ます。

>>506
なんか、自分が書くと松浦さんはいっつもこんな役回りな気がしてますw
でも、きっといずれ振り回してくれるはず…です。
520 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/31(火) 18:46
更新お疲れ様です。

・・・いよいよ、ですね。
次回楽しみにまっています!
521 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:43

暗い部屋の中、亜弥は部屋の隅に立っていた。

裕子が出かけていることは、絵里から聞いた。
最近は昼過ぎに出かけていって、夜遅くに帰ってくるとも教えてくれた。

絵里から借りたカギで部屋に入って、もう2時間ほど。
どこに置かれているのかわからないが、時計が時を刻む音と冷蔵庫の音が
静かな部屋に響く数少ない音だった。
早く帰ってきてほしい。
今日は帰ってこないでほしい。
そんな相反する思いが、頭の中をぐるぐると回る。

息を吐いて腕組みをする。
少し動いたら、傍らに置いていたシューズに足がぶつかってしまって、
ぶつからないようにその位置を動かす。
小さく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
何度も来ていない部屋の中は、それでも裕子の香りがした。
522 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:44

今までに起こった出来事を、頭の中で反芻する。
出会ってからほんの数か月。
何を得て、何を捨て、何が変わったんだろう。

人の心は簡単に動かすことはできない。
あの人の心は、最初に出会った頃から、おそらくほとんど変わっていない。
それでも、きっと変えられると信じている。
100回で足りないなら、1000回。
1000回で足りないなら、1万回。
1万回で足りないなら……。

カチャリ。

ふたつの音しか聞こえていなかった空間にひとつ異音が鳴って、
亜弥は思考を止めて耳を澄ませた。
ドアの開く音、閉まる音。
彼女が動くことで生じる些細な音がすべて耳に入ってくる。
不思議だった。
世の中には、こんなにも多くの音があふれているのに、
自分が日常で気になるのは、その中の一握りでしかないことが。

気づくだろうか。
気づいてもかまわない。
彼女はためらいもなく、部屋の中に進むだろう。
今の彼女をためらわせることができるものは、この世に存在していないのだから。
523 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:45

その予想通りに、玄関から入ってきた黒い影は、暗い中でも迷うことなく部屋の中央へと進む。
窓の向こうから入り込むぼんやりとした街の灯りで、シルエットが浮かび上がる。
少し腰をかがめて、何かを手に取った。
次の瞬間、部屋の中に光が灯った。

「こんばんは」

ほぼ後ろ姿だった彼女は、声に導かれるようにゆっくりと亜弥を振り返る。
その瞳が確かに亜弥を認識しても、動揺はまったく見えなかった。
裕子は二度瞬きをして、まるですべてを知っていたと言わんばかりに優しく笑う。
久しぶりに見た笑顔にガツンと胸を打たれ、
ひるみそうになって、亜弥は左手の指を握りこんだ。

負けるわけにはいかない。
たとえ、本当に裕子が自分の行動のすべてを予測していたとしても、
その行動を止めてしまったら、何も意味がなくなる。
亜弥は一度目を閉じて、真希と美貴、そして絵里の姿を思い浮かべた。

あたしは、ひとりじゃない。
目を開けて、前へ進むんだ。
524 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:45

「お話があって来ました」

裕子はうなずくこともせず、カバンを傍らに置いて外から入ってきた服装のまま、
一番近くにあったイスへと近づき、そこに腰掛けた。

「あなたが好きです」

裕子の表情は揺らがない。

「愛してます」
525 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:47

何がきっかけだったんだろう。
一目ぼれ。
運命の人。
一言で言うなら、そういうことだ。
もしかしたら、その裏側にある秘密にされた過去に、その退廃的な態度に気づいていたから
気になったのかも知れない。
でも、もうそんなことはどうでもいい。
理屈も理論も関係なく、亜弥は裕子に惹かれた。
裕子が好きで、裕子を死なせたくないと思っている。
それだけで充分だ。

目に力を入れて裕子を見ると、変わらず優しく微笑んでいる。
退廃さこそ感じられなくはなったが、今にも霧のように目の前から消えてしまいそうだ。

手離したくなかった。
最初で最後のチャンス。

「好きです。好きなんです。中澤さんの、そばにいたい。
一緒にいたい。一緒に笑っていたいんです……」

亜弥は息継ぎをするのも惜しいくらいの勢いで、愛の言葉を口にする。
その言葉が、裕子と死の世界をつなぐ鎖を断ち切ってくれると信じて。

同じ言葉を違う言葉を、具体的に抽象的に。
思いつく限りの言葉を、考えもせずに呼吸をするのと同じ感覚で吐き出していく。
526 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:47

好きです。
愛してます。
一緒にいたい。
そばにいたい。

あなたを抱きしめたい。
あなたと笑いあいたい。
手をつなぎたい。
触れ合いたい。
笑顔が見たい。

落ち込んでたら慰めたい。
たまにはケンカだってしたい。
それを許しあいたい。

並んで歩きたい。
空を見上げたい。
街を見下ろしたい。

………………
……………
…………
………
……
527 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:48

どのくらいの時間そうしていたのか、亜弥自身にもわからなかった。
大きく咳き込む自分の声で我に返ると、裕子の背後が明るくなり始めていることに気づく。
のどを押さえて一度息を吸う。ちくちくと、イヤな感じがした。
だが、目の前の裕子は話し始めた頃とほとんど態度を変えておらず、
首を少し傾げただけで、ずっとずっと、亜弥を見続けている。
……何も、届いていない。
裕子の心は鉄壁で、亜弥の言葉をすべて弾き返している。

脱力感に襲われる。
結局、自分のしていることは自己満足で、徒労に過ぎないのではないか。

……いや。
そんなのは始めからわかっていたこと。
ここであきらめるのなら、最初からやらなければよかったんだ。

「……中澤さん」

声がかすれていた。
それでも、言い続ける。
届かなくても、言うんだ。
528 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:48

「もう、やめえや」

声を出そうと息を吸い込んだ瞬間、裕子の言葉に口から出掛かっていたものをすべて止められた。
久しぶりに聞く、その声。
涙が出そうだった。

「百万回言っても、アンタでは足らんねん。
アンタの声も想いも、アタシには届かん」

それは、裕子にとっては切り捨てる言葉だったはずだ。
だが、亜弥にとってそれは、紛れもなく光明だった。

出会った頃の裕子だったら、こっちがあきらめるまでずっと言わせ続けていたはずだ。
気の毒だからとかあきらめさせようなんて思いもしなかったはず。
そうしなかったのは、裕子があの頃と変わったから。
自分に少しでも何かの思いを持ってくれているから。

「いいえ。届きます。必ず。
中澤さん。あたしと生きてください」

裕子の表情が揺らいだと思ったら、突然部屋の中に異音が響いた。
聴きなれたメロディーに亜弥はあわてて携帯を取り出し、切ろうとして手を止めた。
ちらりと裕子に目をやって、ゆっくりと通話ボタンを押す。
529 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:49

「はい?」
「……」

空耳かと思った。
だが、その声を亜弥が聞き間違えるはずはない。
裕子に問われるより先に、亜弥は場所を動いてマンションの入口を開錠する。
オートロックが珍しくて絵里に開け方を聞いていたのが、
こんなところで役立つとは思わなかった。

運命は自分に味方している。
亜弥は長く息を吐いた。

今の時間なら、ここにたどり着くまでほんの数分。
裕子を横目で見て、玄関先へと移動する。

可能性がゼロではないとはいえ、今のままではラチが明かない。
なんとか体勢を立て直したかった。

少しの静寂の後、ドン、ドンと遠慮がちにドアがノックされた。
すばやくのぞき穴でその人物を確認し、亜弥はドアを開ける。
お互い、何も言わなかった。
アイコンタクトで何かを感じたのか、亜弥のわきをすり抜けて、
彼女は部屋の中へと飛び込んでいった。
530 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:50

追いかけて部屋へ戻ると、延々と変わらぬ表情でいた裕子の顔に、驚きの色が浮かんでいた。
ああ、そうか、ひとりだけいたんだ。
彼女をためらわせることができる人。

「なんでここ知ってるん?」
「ごっちん……後藤真希ちゃんに聞きました」
「で、どうしてここに?」
「亜弥ちゃんが帰ってないって聞いて。ここだろうって」
「連れて帰ってくれるん?」

裕子の声に安堵の色が混じり、美貴はそれに小さくうなずいて返した。

待って。待ってみきたん。
あたしはそんなこと望んでない。

言葉がのどにつかえて声にならない。
美貴に自分の気持ちを伝えなくては。
そう思ってその背中に手を伸ばそうとして――。
531 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:50

「でもその前に、ひとつ、あなたにも用があるんです」

裕子が怪訝そうな顔をする。
こんなふうに表情豊かな裕子を見たのは、初めてかもしれない。
自分が見てきた裕子は、本当に一部なのだ。
おそらくは美貴に見せているのも一部。
本当の彼女は、いったいどんな顔を見せてくれるんだろう。
知りたい。彼女のことをもっと知りたい。
だから、そばにいたいんだ。

「用って?」
「これ、見覚えありますよね」

美貴がポケットの中から取り出したのは、
今の機種よりもどことなく古い感じの残る携帯電話だった。
それでも、使い込まれた感じはなく、まだ新品のようだ。

「……それが?」
「都合がいいとは思いませんか。あなたの願いは」
「……人間なんてそんなもんやろ」
「なち姉は、そんなこと望んでない」

美貴が手元の携帯を開いた。
じれったくなるほどゆっくりとした動作で、ボタンを操作する。
532 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:51

「あなたはなち姉からのメールを受け取った。破棄するなんて許さない」
「一方的に送ってきただけや。OKなんて言った覚えはない」
「……でも、あなたは今までそれを守ってきた。それで充分でしょう。
守れないなら、他人を巻き込む前に切り離すべきだったんだ」

裕子が口を閉ざし、探るように美貴を見ている。
亜弥も同じように美貴を見ていた。
何を考えているのか、これからどうするつもりなのか、まるでわからない。

「美貴はこのままあなたを見逃すことなんてできない。
あなたはまだ知らないことがある」
「知らないこと……?」

問いには答えずに、美貴が携帯を手にしたまま裕子に歩み寄った。
1メートルほどまで近づいて、手にしていた携帯を印籠のように裕子にかざす。

「なち姉からあなたへ、最後のメッセージです」

裕子は携帯を手に取らなかった。
自分の目の高さに掲げられたそれを、めんどくさそうな眼差しで一度見、
すぐにもう一度見返した。
533 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:52

「……ウソや」
「ウソじゃありません」
「そんなん、おかしいやんか」
「おかしくなんかない。ただエラーで届かなかっただけです」

裕子が呆然とした表情で、髪をかきあげる。
その目はもう、携帯を見てはいなかった。

「なち姉があなたに望んでたことはふたつ。たったふたつだけです。
あなたにならちゃんとできることです」

美貴が携帯を閉じ、裕子が目を閉じた。

「なち姉のことを今でも想っていてくれるのなら、生きてください」
「想ってるから……無理なんや」
「そんなことない。あなたにはできるはずです。なち姉を思い出にすることが」
「そんなんようせんわ」
「できます。できるって自分でわかってて、でも認めたくないから逃げてるんでしょう。
だけど、なち姉はそんなこと望んでない。さっきのメッセージでわかったはずです」

美貴の声は、あくまでも淡々としていて、この間、
亜弥の前で取り乱していた人と同じ人とは思えなかった。
だから、美貴の考えが、亜弥にはまるでわからなかった。
534 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:52

「……無理や」

裕子はあくまでも頑なだった。
凍ってしまった心を簡単に溶かすことはできそうもない。
亜弥は美貴のそばに近づいて、その腕に触れた。
ちらりと美貴が視線を送ってくる。

「中澤さん」

目を閉じたままの裕子は、亜弥の目には四角かった氷の角が取れて丸くなったように思えた。
それだけで充分だ。

「恋人ごっこでもいいです。そのときが来るまで、一緒にいさせてください」

彼女の望むそのときは、必ずしも来るとは限らない。
だったら、来るそのときまでの時間がまずほしい。
その間に緩やかに、彼女の心を溶かすことができる保証はないが、
今のままでもどうにもならない。
535 名前:道化芝居 投稿日:2006/02/12(日) 12:53

「……わかった」

外はもう明るくなっていた。
裕子の顔にも疲労の色がはっきりと浮かんでいる。
だがそれは、亜弥と美貴の言葉を、飽きもせずに最後まで聞いてくれた証拠でもある。
その気があるのなら。
その気を引き出せたのなら。
彼女はきっと変わってくれる。

亜弥が美貴を置いて裕子の前に立つと、裕子の目が開いて自然と亜弥を見あげた。
見てくれている。
あたしをほかの誰とも違う、松浦亜弥として認めてくれるのなら、
まだ先に光はある。

「あなたが、好きです」

裕子の肩に手をかけて、亜弥はその唇に触れるだけのキスした。
536 名前: 投稿日:2006/02/12(日) 12:54

更新しました。

>>520
レス、ありがとうございます。
いよいよ動きました。そしていろいろ動きましたが…。
まだまだ、かなあ(殴
537 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/12(日) 14:05
更新お疲れ様です。

動きましたねぇ。
ココからどうなっていくのか。

もの凄く集中して読んでましたw
538 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/12(日) 20:16
あぁ・・・な、涙がぁ・・・
539 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:42

あの日以降、亜弥と裕子の生活は、付き合っていた頃のように戻りつつあった。
仕事をやめてしまった裕子は、日がな一日家にいることが増えたが、
休みの日には一緒に映画を観に行ったり食事に行くようになった。
元々出不精な裕子にあわせて、亜弥が裕子の家を訪れることも増えた。
予備校に行かなくなった分の勉強を、裕子に教えてもらうこともあった。

「今日は? ご飯食べてくん?」
「ううん、今日は帰って食べる」

そっか。
つぶやく裕子の表情はあくまでも穏やかだ。

勉強道具をカバンにしまいながら、カップをキッチンへと持っていく裕子の背中を見る。
最初のころこそさすがにギクシャクしていたが、今はもうそんな雰囲気はない。
といって親密になったのかというと、それも違う。
恋人らしいことなんて、せいぜい手をつなぐくらいしかしていない。
それも、友達同士でやるレベルのものと大差はない。
恋人というよりは姉妹のような生活。
それでも、確かにそこにあるのは穏やかな時間だった。
540 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:43

ため息をつきながら、首筋を軽くなでる。
不満があるわけではない。
急いでもどうしようもないとわかっている。
それなのに、違和感が消えない。

おそらく自分の周りは彼女と知り合う前の穏やかさに戻っている。
美貴や真希ともうまくやっているし、絵里ともメールのやりとりをするようになったし。
予備校は相変わらず行っていないが、成績は極端に落ちていない。
前回の模試では少し上がったくらいだから、親との関係もまあまあだ。
何もかも、穏やかに見える。

見える。それだけだ。

風が吹いているのに波のない海のように、奇妙な穏やかさがここにはある。
それが亜弥の違和感につながっている。

亜弥はそれを自ら深く感じていたが、どうこうするつもりはなかった。
何かをしようとすれば、今は必ず裕子に影響を与えてしまう。
そうするにはまだ早すぎる。
そうするには何もかもが足りない。
541 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:43

「送ってこか?」
「大丈夫」

玄関先で靴を履き、少し下の位置から裕子を見上げる。

「それじゃ」
「ん、気ぃつけてな」
「はい」

ドアノブに手をかけて、あ、と亜弥は小さく声を上げ、振り返ってまた裕子を見上げた。

「土曜日の約束、忘れてないですよね?」
「ん? ああ、忘れてへんよ。11時やろ?」
「ならいいです」
「信用ないなあ、アタシ」

苦笑する裕子に亜弥は笑顔を返し、今度こそ部屋を出た。
エレベーターで1階まで降り、駅までの通いなれた道を歩く。
542 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:44

あの人はいったい何を考えているんだろう。
どうしてこうも簡単に態度を変えることができるんだろう。

裕子がこの生活に慣れるのに必要だった時間は、亜弥の半分かそれ以下だっただろう。
何回か顔をあわせて、裕子はあっという間に亜弥が恋人であるということを
受け入れてしまったように見えた。

正確には「恋人のようなもの」レベルなのだろうが、
それにしたってあっさりと認めすぎじゃないかと、当事者である亜弥が思ったほどだ。
相変わらずペースをつかませてくれるようなことはなく、
穏やかではあるものの、裕子に振り回されていることに違いはなかった。

「やめやめ」

考えたってわからないと自分で納得したじゃないか。
それよりも、ほかに考えなければならないことはある。
彼女の心を溶かす方法。
彼女に1ミリでも近づく方法。
教えてくれるのなら、悪魔に魂を売る、とまでは言えないが、
ちょっとくらいの無理なら聞いてもいいかなと思ってしまう。

視線を夜空に移しながら、亜弥はカバンの中に手を突っ込み、
カバンの底の底、小さなポーチに触れると、その中身を取り出した。
543 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:44

古い機種の、でもほとんど新品に近い携帯電話。
軽く握ると、少しだけ気持ちが落ち着いた。

あの日の帰り道、美貴が亜弥に渡してくれた携帯は、裕子に見せていたものだった。
訝しく思って美貴を見ると、「なち姉の」と短く言っただけだった。
それを美貴が差し出した理由は、結局聞けなかった。
手を出さないといつまでもそのままにされそうだったから、受け取っただけだ。

美貴はそれをどうしろとは言わなかった。
亜弥は受け取った携帯をどうしたらいいのかわからず、一晩真剣に悩んだ結果、
お守りのようにして裕子と会うときには必ず持っていくようにしている。
もらってから一度も携帯を開いて電源を入れたことはない。
この中に裕子を揺るがすことができる何かがあることもわかっていたが、
ルール違反になるみたいで、中を見ることはできなかった。

裕子の意思をあれだけ強く固めてしまった「なっち」という人。
いったいどんな人だったんだろう……。
544 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:45

「……あ」

考えていて亜弥はひとつのことに思い当たった。
なっちという人がどんな人かはともかく、
裕子がこうもあっさりと恋人という形になじんでしまっている理由。

裕子は、自分をなっちに置き換えているんじゃないだろうか。
なっちに対してなら、今すぐにでも優しくできるだろう。
柔らかな笑顔も、優しさにあふれる言葉も、すべてなっちのためのものだったなら。
……納得できる。

「そっか……」

それならば納得できる。

恋人同士に戻ってからこの方、裕子が自分を呼ばない理由も――。

  * * *
545 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:45

「……めずらし」
「失敬な」

土曜日。
少し早めに待ち合わせ場所へ行った亜弥は、そこに裕子の姿を見つけて思わずつぶやいていた。
速攻で突っ込まれたのは言うまでもない。

裕子は苦笑いをしながら亜弥の頭を小突くと、そのまま駐車場のほうへと歩いて行ってしまう。
亜弥はその背を追いかけて、途中で腕をつかんで引きとめた。

「なん?」
「ちょっと、歩きませんか」
「ん?」
「いつもいつも車っていうのも、なんだか不健康な気がするから」
「不健康ねえ」

多少不満そうにつぶやきながらも、裕子は亜弥の提案を拒絶しなかった。
素直に腕を引かれるまま駐車場を出て、そのまま並んで歩き始める。
546 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:45

いつの間にか、腕は離れていた。
近すぎず、遠くもない微妙な距離がふたりの間にはある。
その隙間に目をやって、
亜弥はこの間考えていたことはやっぱり少し違っているのかなと思う。
もし、なっちと自分を置き換えているのなら、きっともっと近づくだろう。
この距離は、ほかの誰でもない自分だからこそある距離で……。

「何小難しい顔してんねん」
「え、や……別に」
「なんか心配事?」
「そんなのずーっとずーっと持ってますよ」
「ふーん」

亜弥の嫌味に気づいていないはずもないのに、裕子はさらりと流してしまう。
振り回すのは自分のほうだと思ってはいるが、それもなかなか意識すると難しい。
少し、突っ込んでみたほうがいいんだろうか。
たぶん、あっさりと身をかわされるだろうけど。
547 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:46

「中澤さん。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「何?」
「最近、カラコンしなくなりましたよね?」
「……そうやね」

あからさまに拍子抜けしたという声に、亜弥は笑った。
わからないはずがない。あれだけ、自分の行動に揺らがなかった人だ。
人生の経験値も何もかもが違う。亜弥の行動くらい予想はできるだろう。

だったらその上を行きましょう。
振り回されるなんて、ホント、性にあわないから。
予想できない行動、取ってみせましょう。
あなたが、次に何を言い出すのかって、構えるか興味を持つか、
面白がってくれるように。
548 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:46

「なんでですか? 結構好きだったのに」
「結構って、中途半端やなあ」
「うーん……結構」
「変わっとらんやんけ」
「だって、すごい好きとはちょっと。あの目で見られると、かなり怖かったし」

亜弥が出会った頃の裕子は、まるで服を変えるように髪の色と目の色を変えていた。
茶髪が金色になって、赤茶色になったかと思ったら少しグレーになって、
1週間ごとに髪の色が変わっていたこともある。
その髪に合わせるように、瞳の色もころころと変わっていた。
カラーコンタクトの存在は知っていても、実際にしている人を見たのは初めてで、
黒でも茶でもない瞳がそこにあるだけで、覗き込まれてるわけでもないのに、
人ではないものににらまれているみたいで、慣れるまではしょっちゅう身を縮ませていた。

それに何より、彼女の本心が見えないから、怖かった。
549 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:47

「怖いかあ」
「うん」
「あっさり言いすぎ」
「だって、事実だし」

裕子が腕を上げかけたのを見て、亜弥はさっと手の届かないところまで避難した。
振り上げかけた手を顔の前でギューッと握って、苦い顔をしながら裕子は手を下ろす。

自分だけじゃない。生徒の中で裕子を怖がっていた子はたくさんいた。
歯に衣を着せぬ物言い、時々乱暴になる言動、その眼力。
怖がるなというのが無理というものだ。
それでも、付き合っていけば、この人が実際は面白くて優しくて、
他人思いであることがわかる。
怖がっている子と同じくらい、慕っている子もいたのだ。
550 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:47

「でも、好きやったんや?」
「うん、まあ」

本心が見えないのは怖くても、その色に憧れることはあった。
特に好きだったのは、青い瞳。
裕子がしていたブルーのコンタクトは、外国の人の本物の青よりも色が濃くて、
夏の深い海を思わせた。
雲ひとつない空と、それを映す海。
裕子の金色の髪と一緒になれば、それは夏の砂浜のようで、
泣きたくなるほどキレイだと思った。

そっか。
つぶやく声に顔を上げると、穏やかな微笑みを浮かべる裕子の横顔が見えた。

テンポは少しずつ変わり始めている。
まだ振り回されていることのほうが多いけれど、振り回すことだってできる。
少しずつ、距離は変わってきている。
いいほうへ、いい方向へ。
そう、思っていたのに――。
551 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:48

「あ」
「ん?」
「ごっちんとみきたん」
「……んー」

反対側の歩道を、真希と美貴が歩いているのが見えた。
向こうもこちらに気づいたようで、手を振ると手を振り返してくる。
一瞬、美貴が戸惑ったような表情をしたのは無視して。

「お茶でもします?」
「アタシは別にええけど。あの子、嫌がるんちゃう?」
「どうかな」

亜弥はカバンの中に手を突っ込んで、携帯を取り出そうとした。
いつもならあっさりと捕まえることができるのに、今日に限ってなぜか
小さなポーチが邪魔をする。
仕方なく、そのポーチを取り出して上着のポケットにねじ込むと、
携帯を取り出してメールを打ち始めた。

ものすごいスピードでの送信と、間を置かない返信に、
ほおおという感嘆の声が上がる。
552 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:48

「さっすが、現役女子高生」
「変なほめ言葉。……うん、大丈夫だって。こっち来るって」
「そーか。あ、でも割り勘やで? アタシ、無職やねんから」
「わかってます。そんなこと自慢げに言わないでください」
「自慢したつもりはないけどなあ」

携帯を閉じて顔を上げると、少し早足になりながら、
ふたりが横断歩道を渡っていた。
亜弥と裕子もそちらのほうへと歩いていく。

そのとき。
亜弥は後ろから強い力を感じた。
553 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:49

「痛っ……」

押されたその痛さだと思ったのに、同時に何か奇妙な感覚に襲われた。
体の内側に何かが入り込んでくる。
ざわ、と全身が逆立って、熱くなったと思ったら急速に冷えていく。

隣を歩いていたはずの裕子の背中が遠ざかるのを見て、
自分が立ち止まってしまっているんだとわかった。

なんで。歩かなきゃ。

足を一歩前に出そうとして、一瞬目の前がぼやけた。
壊れたカメラのように、焦点が合わなくなっていく。
突然、圧迫された感覚が離れて、体が軽くなった。

ほら、行かなくちゃ。

もう一歩、足を前に出して……亜弥の視界はそのままぐるりと
とんでもない方向に動いた。

ものすごい衝撃が体を襲う。
何か、大切なものが転がり落ちた気がした。
554 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:49

「……いっ、たい」

目の前にあるのは、どこかで見たような、グレーの無機質な物体。
その上をせわしなく色とりどりの物体が通り過ぎていく。

それが、人の靴であることを認識して、
亜弥は自分が倒れていることを知った。

あ、れ? あたし、どうして?

わけがわからない。ついさっきまでちゃんと歩いていたじゃないか。
いつもと変わったことなんて何もなかったのに。

起き上がろうと腕を動かしたが、なぜか力が入らない。
それどころか、どこに腕があるのかさえよくわからない。
頭がごちゃごちゃしてきて、ただ寒い。
555 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:49

「……まっつー!?」
「亜弥ちゃん!?」

え、と。
何、誰?

飛んでくる誰かの声。
動揺しているのはわかったが、何かが欠けている。

あ、そだ。そうだよ。
うん、えっと、ごっちんと、みきたん。
そう、そう、うん、だいじょうぶ。

ほら、ちょっと転んじゃっただけなんだから。
何でだか全然わかんないけど。
すぐ起きるから、ね、待って。

起き上がろうと力を入れかけて、目の前にポーチがあるのに気づいた。
直感で、それが自分のだと思った。
556 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:50

……拾わなきゃ。

そう思って、ゆるりと手を伸ばした。
先ほどまでとは違って、視界に確かに自分の腕が見えてくる。
大丈夫、大丈夫だから。

ポーチに手が届きそうになって目を疑った。
いきなり戻ってくる全身の感覚。
生温かいぬくもりと、ぬるりとした何かが右手にこびりついている。
伸ばしかけた手を目の前に戻すと――視界が赤く染まった。

な、に……?

頭がガンガンする。
切り裂くような鋭い痛みに襲われて顔をしかめる。
そして、その刹那。
557 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/06(月) 00:51

「……つうら!」

胸の中をあたたかい何かが埋め尽くす。
寒さも痛さも、一瞬にして消えた。

待っていた。
その声を待っていた。
その言葉を待っていた。
間違いなく待っていた。

それはわかったのに。

一番大切な何かが、心の中になかった。
消える。
失われる。
そんな予感に手を伸ばしてみても、何にも届かない。

ぬくもりに包まれた。
次の瞬間、目の前の赤は黒へと変わっていた――。

  * * *
558 名前: 投稿日:2006/03/06(月) 00:53

更新しました。
痛々しく……次回、ラストです。


レス、ありがとうございます。

>>537
ありがとうございます。
動いたと思った途端こんなことになってますが、
どうぞあと1回、おつきあいくださいませ。

>>538
わわ、な、泣かないでくださいませ。
559 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/10(金) 08:14
更新されてすぐに読ませていただいたんですが、痛すぎて、切なすぎて、
応援してることはお伝えしたかったんですがすぐにレスできませんでした。
ゆ、ゆうちゃーん・・・・・・
560 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:12

………………
……………
…………
………
……


「怒ってる?」
「……別に」
「不愉快?」
「別に」
「憎いって思う?」
「……いったい何が聞きたいの」
「だって、裕ちゃんがいなければまっつーは」
「あの人のせいじゃない。ただの逆恨みでしょ」
「でも」
「責めさせたいの?」
「……そういうわけじゃないけど」

人のいた気配は、今もそのまま残っている。
が、ここにいた人はもう、ここには帰ってこない。
直感的にふたりはそれを理解していた。
561 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:12

「言ってくれれば、何だってしてあげたのに」
「……だから、でしょ」
「何が」
「だから言わなかったんだよ。あの人は」

真希ではダメだった。
真希だったら裕子の言うことを、言われたとおりに遂行するだろう。
そして、完全に望みを叶えたら、きっと後を追ってしまう。
それがわかっていたから、裕子は真希を選ばなかった。

だって、あの人は……。

「……逃げた、って思ってる?」
「……」
「また逃げたって、そう思ってる?」
「……そう、思いたい、けど」
「けど?」
「……たぶん、違う。違うって、思いたい」
「違う?」
「……追っかけててほしい。追っかけてるって、そう、思いたい」

   ◇ ◇ ◇
562 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:13



止まらない

時は流れて

世界は動く

そして人は……


563 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:14

「……ごめんなさい」

きっちりと頭を下げ、たっぷり10秒ほどたってから、亜弥は頭を上げた。
目の前の背の高い人は、明らかに表情を引きつらせてそこに立っている。
聞こえなかったとは思わないが、もう一度亜弥ははっきりと
「ごめんなさい」を口にした。

目の前の人は自分を納得させるように三度うなずいて、
もごもごといくつかの言葉を言った。
そのどれも亜弥に向けられた言葉のように見えたが、
実のところすべて自分を納得させるためのものであることが、
亜弥にはなんとなくわかった。

いい人、だとは思う。
その観点で見れば、こんなことを冷静に分析している自分は、
冷たい人、ということになるだろう。
それでも、そんな亜弥の胸のうちにまったく気づく様子もなく、
先ほどまでの引きつった表情もかき消して、
背の高いその人はバツの悪そうな笑顔を残して、亜弥の前から立ち去った。
564 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:15

目を閉じて両肩から力を抜くと、自然と顔が上を向いた。
別に緊張していたわけではないし、強い罪悪感も存在はしていなかったが、
やはりこういうのは自分をいい気分にはさせてくれない。

目を開けて空を見ると、恐ろしいほどに晴れ渡っていた。
遠く遠くに雲が小さく見えるが、ほとんど快晴といっていいほどの晴れ具合。
日差しが直接当たっているアスファルトは見ているだけでも焦げそうなほど、
明るく光を放っていた。

「亜弥ちゃん?」
「ん、あー」

声をかけてきたのは、大学で知り合った友達。
たまたま大学に入学して一番最初の講義で隣の席になり、
そのほかの講義でも何回か顔を見かけるうちに、なんとなく仲良くなった。
とは言っても、彼女は大学に程近い高校の出身だったからほかにも仲のいい友達はいて、
猛烈に仲良しかといわれたら、また少し違う。
565 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:15

「どうしたの、こんなところで」
「ん、ちょっとね、暑いから」
「あー、そうだね。ちょっと出かけるには暑すぎるよね」

自転車にまたがったままの彼女はこれからどこへ出かけるのか、
しっかりと帽子をかぶり、日焼け防止用だろう、長袖のパーカーを着ていた。

「にしても……もしかして、また告白された?」

彼女の言葉に、亜弥は微笑みだけで応えた。
ああ、やっぱり。言わなくても彼女は表情だけでそう答えてきた。

「断ったんだ?」
「……うん」
「そっか」

彼女は短くそう言っただけで、すぐに言葉を変えてきた。

「亜弥ちゃん、これから帰るの?」
「ん、明後日帰る予定」
「夏休みはずっと家?」
「んー、まだ考え中」
「そういえば、今度、みんなで海に行こうかって言ってるんだけど」
「うん」
「亜弥ちゃんもどう?」
「んー……」
566 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:17

彼女の言う海は、大学から見えるあの海とは違うだろう。
もっと、こう観光地っぽいというか、海水浴場とかそっち系のことだ。
夏も海も泳ぐことも亜弥は嫌いではなかったが、
少しだけためらってから、小さく首を横に振った。

「今回はやめとく」
「うん、わかった」

彼女は特に気にしているふうでもなく、あっさりそう言ってうなずいた。
それから、じゃあまたね、と軽く言って走り出す。

彼女の背中を目で追いながら、亜弥は口元に笑みを浮かべた。
今、自分の周りにいる人の中で、あの子が一番変わっていると思う。
必要以上に人のプライベートに突っ込まないくせに、
何かと人のことを気にかけている。
一見ぽやっとしているのに、
実は自分の意見をしっかり持っていて、ちょっとのことでは揺らがない。

だからこそ、あまり積極的に友達関係の行事に参加しない亜弥とも
付き合っていきつつ、ほかの子との関係も大切にしていけるのだろうが。

ただ一度だけ、告白を断ったと知られたときに、
ほかにつきあってる人がいるのか、と聞かれたことがある。
亜弥は首をかしげて、言葉を濁した。
そんな人がいた記憶は、ない。
567 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:20

「海、か」

ぽつりとつぶやいて、亜弥は手にしていた帽子を頭の上に乗せた。
両手がフリーになった状態で、そっと自分の腰に触れる。
服の上からでは何もわかるはずがない。
人に見られたって別に何も困らない。
痛みも何ももうここには残っていない。
残っていないんじゃない。知らないだけだ。

普通に考えれば断る理由はない。
だが、亜弥には断る理由がある。
――このことを聞かれても、説明する言葉を持ち合わせていないから。
ウソをついてもごまかしてもいいのだろうが、まだそれをする気にはなれなかった。

知っていてウソをつくことと、
知らずにウソをつくことは、亜弥の中では違うことだ。

いつか思い出せたなら、上手にウソをつけるようになったなら、
友達とかわいい水着で海に行くこともできるようになるだろう。
それがいつになるのかなんて、亜弥には想像もできなかったが。

   ◇ ◇ ◇
568 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:20

大切なことを失くす。
思い出せなくなる。

そんなことが自分の身に起こるなんて、昔の自分は想像もしなかったはずだ。
だが、それが実はたいしたことではないということも、想像できなかっただろう。

何もかもすべてを失くしてしまったのなら。
何を失ったのかさえわからないのなら。
混乱なんてしようもないのだ。
569 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:21

ある日目が覚めて、亜弥は自分が真っ白なことに気づいた。
その一瞬後、自分が何も知らないことを知り、さらにその一瞬後、
自分が何も覚えていないことを知った。

――記憶喪失。

医者の言葉は、リアルでもアンリアルでもなく、
へえそうですか、だけが亜弥の心に浮かんだ感想だった。
ただそばに立っていた名も知らない大人の顔が蒼白になり、
女の人の目にみるみる涙が浮かんだのを見て、
どうやら自分の置かれている立場は大変なものらしいと感じた。
確かに、自分の名前が思い出せなかったときはちょっと困ったなと思ったが、
ただそれだけだった。

だって、何を忘れたのかがわからない。
だって、何を覚えていないのかがわからない。

それはつまり、最初から知らなかったのと同じこと。
知らないことがわからないのは当たり前のこと。
それだけのことだ。
570 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:22

自分の名前が「松浦亜弥」であることと、一緒にいた人が自分の両親であることは
その場で教えてもらい、理解するもしないもなく納得だけはした。
たとえば、世の中の人が総出で自分をだまそうとすれば、
この名前さえもウソということになるのだろうが、
そうすることに意味があるとは思えなかったし、あの場所で泣いたあの涙は
偽物とは思えなかった。

それから1週間。
亜弥は少しずつ自分の周囲のことを理解しようと努めた。

誰かが見舞いに来たことはない。
……友達がいなかったんだろうか。

平日は母親だけが付き添っている。
……どうやら、父親は別のところで暮らしているらしい。

右腰のやや後ろに大きな傷があり、頭にも傷がある。
……事故にでも遭ったんだろうか。

理由がわからないことだらけで、それとなく母親に尋ねてみると、
この上なく苦く悲しい顔をされた。
どうやら、言いたくない事情があるらしいとわかって、
亜弥はそれ以上問いただすのをやめにした。
571 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:22

それでも、退院して戻った家には卒業アルバムがあり、友達と写っている写真もあった。
だが、それは亜弥の記憶を呼び起こすほどのものではなかった。
一方で、用意されていた携帯電話は真新しく、誰のアドレスも登録されていない。

一瞬、何か不穏当な想像が頭をよぎり、あまりにも突飛すぎて自分でも笑ってしまった。

つまりは。
どんな事情があったのかはわからないが、両親は自分の過去には触れたくないらしい。
思い出してほしくはない何かがあったのだ。

実はものすごく素行不良だったとか。
何かやばいことをやらかしていたとか。

リアリティに欠けていて、それ以上の想像ができなかった。
知りたい欲求がないといったらウソになるが、聞かなかった、知らなかったところで、
困ることなど何もない。
だから、亜弥はその立場を受け入れた。

それに――。
知ることなら、いつか自分が自由になってからでも十分できるだろう。
それまでには何か思い出すこともあるかもしれないからと。
572 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:25

それから2年。
結局何ひとつ亜弥が過去を思い出すことはなかった。

2年の間に、松浦亜弥という名前にも慣れ、呼ばれて返事をしないということもなくなった。
両親をちゃんと両親として見ることもできるようになり、表面上は普通に戻った。
亜弥の中には2年分の過去と記憶ができ、それだけで知り合った人と困らない程度の
会話ができるようになった。
覚えていないことを聞かれても、「興味なかったから」「よく覚えてない」ですんでしまう。

人と人との関係が、思っていたよりは希薄で細くても成り立つということを、
亜弥はこの2年で知った。
その2年の記憶を武器に、亜弥はこの春大学に入学すると同時にひとり暮らしを始めた。
親はさすがに反対したが、亜弥はかたくなに自分の考えを変えなかった。
そうすることで何がどうなると思ったわけではない。
思い出せない過去を取り戻せると思っているわけでもない。
何も恐れるものはないから、何かをしてみたいと思っただけだ。

最初の頃は両親のことを思って週末には必ず家に帰っていたが、
2週間に一度になり、それが今は1か月に一度になった。
亜弥の様子が変わらないことに安心したのだろう、両親も生活についてとやかく言わなくなった。
573 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:26

「松浦さん、亜弥ちゃん、か」

大学近くへ戻る途中の電車の中、何も考えずに口にしてみた。
違和感はない。もう慣れた。
だが、それが自分のものになったという感覚だけはいまだに遠かった。

ふと思いついて、頭の中に数を思い浮かべる。
1日に10回名前を呼ばれるとして、1年で3650回。
10年で36500回。

「十万回くらい言われたら、自分のものになるかな」

ぽつりとつぶやきながら、きっとそれでも足りないだろうと漠然と思っていた。
なくしたものはたやすくこの手には戻らない。
おそらく、百万回でも足りない。

「百万回……」

なぜか、その言葉が心にとどまろうとする。
百万がなんだというのか。さっぱりわからない。
頭を振って、亜弥はその思考を頭の片隅へと追いやった。

違うのだ。回数などではない。
亜弥はそれを知っている。
574 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:26

「あ、亜弥ちゃん」
「あれ」
「もう帰ってきちゃったんだ?」
「うん」

小さな手荷物を持って駅舎を出たところで、聞き慣れた声に呼び止められた。
振り返ると、夏休み直前に会ったときとほとんど同じような格好をした彼女がいた。

「夏休みなんだから、家でゆっくりしてればいいのに」

そう言う彼女の実家は、ここから近い。
大学へも自宅から通っている。

「家のほうがゆっくりできないよ。朝とか早く起こされてもう大変でさー」
「あはは、それはそうかもしれないねー」

快活に笑う彼女を見て、亜弥は目を細めた。
夏がよく似合う子だなと、初めて思った。

「家帰るなら通り道だし、荷物、乗せていこうか?」
「あ、うん、ありがと。でもいいや。ちょっと寄るところあるから」
「ん?」

彼女が首をかしげる。それに意味がないことを亜弥は知っている。
彼女はどこまで相手に踏み込んでもいいのか、本能的に理解できる子だ。
だからこれは、好奇心でも何でもない、ただの彼女のクセ。
575 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:27

「うん、ちょっとね」

だから亜弥はくわしく答えはしなかった。
彼女もくわしく聞いてこなかった。

「じゃあまたね」
「うん、またねー」

手を振って彼女と別れ、荷物を持ち替えるとまっすぐに延びた道を歩く。
照り返しがきつくてポケットからハンカチを取り出すと、
一度それで汗をぬぐった。
空を見上げて、息を吐く。
空は雲ひとつなく、青く晴れ渡っていた。

「よし」

気合いを入れ直して、ひたすらに亜弥はアスファルトの上を歩く。
微風に乗って、亜弥の大好きなにおいがした。
思わず、口元がゆるんでいくのを止められない。

手にしていた荷物を肩にかけ、うんとうなずいて、亜弥は走り出した。
576 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:27

近い。
近い。
近い。

どうしてこんなにわくわくするのかわからない。
理由も意味もわからず、それでも亜弥は楽しかった。

音がする。
聞こえる。

それだけで胸が高鳴る。
叫びだしたい衝動に駆られる。

きっと、数分後には望んだ世界を手に入れられる。
それは、真っ白だった自分が持っていた、たったひとつの「亜弥」。
自分が自分であることを証明する、たったひとつの「大好き」。

百万回の言葉よりも大切な、たったひとつ。
577 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:28

あたしはどんな子だった?
あたしはどんな友達がいた?
あたしはどんな食べ物が好きだった?

どんな映画が。
どんなテレビが。
どんな音楽が。

どの質問にも答えられなかった、形のない松浦亜弥。
笑うこともわからないことも苦痛ではなかったけれど、
そこにいるのは自分じゃないように思ったことも何度かあった。

まるでピエロのよう。
そんなことを思ったこともあった。

わからないことは平気だったが、わかることを望まれるのはつらかった。
両親はほとんど口にしなかったが、親戚や医者が口にする
「思い出した?」なんて言葉は、正直聞きたくないと思った。
自分が認められていないみたいで。
自分がやっぱり自分じゃないと言われているみたいで。
それでも、つらいと言えずにおどけてみせる自分は、
まるで芝居をしているようで、時々不安をかき立てられた。

そんなとき、少し落ち込みかけた亜弥に与えられたたったひとつの答え。
テレビで見たその風景が、自分にくれた大切なもの。
578 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:29

あたしはどこが好きだった?

海。
空。
砂浜。
太陽。
夏。

それが、松浦亜弥だ。
579 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:29

走って走って走って。
左目の端にその風景が映り始める。
亜弥が走って動くにつれて、その風景がどんどんと視界を占めていく。

息が切れるほどに走って、でも満面の笑みで、亜弥は砂浜の入り口で
急ブレーキをかけた。

海。
空。
砂浜。
太陽。

「やっ……」

望んでいたものはそこにあった。
しかし、叫びだしそうになって、亜弥は無意識に言葉を止めていた。

視界の中に、何か想像と違うものがある。
少し息を詰めると、それが微妙に動いた。

違和感。

でも。
580 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:30

亜弥は肩の荷物をもう一度かけ直して、一歩、砂浜へと足を進めた。
砂が足に触れて熱い。
それでも、正面から目が離せない。

白。
黒。
金。

原色でできたようなそれは、ただそこにあった。
そばには何もない。
でも、亜弥は知らない。
夏休みの帰省中に現れたのだろうか。

目立つ。
あれだけ目立つ人なら、きっとみんな知っている。
聞けば、いろいろ教えてくれる。
明日になるまでには、ほぼ正確に外側を知ることはできる。

外側なら。
581 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:31

みんなは知らない。
亜弥の内側。
だから知らない。
目の前の、そこに立ってじっと海を見ているその人の内側を。

知りたい。
理由はない。
意味もない。
あるのはただ、ストレートな欲求。

肩にかけていた荷物を、ポスッと砂浜に落とす。
思ったよりも大きな音がして、白い肩が揺れた。

生きてる。

亜弥は自由になった両手で円を作ると、それをそのまま口に当てた。
白い肩はゆっくりと向きを変え、金色の髪がゆらりと揺れる。

振り返る。
その瞬間。

「こーんにちはー!!」

大声で叫んで、亜弥は思いっきり笑った。
582 名前:道化芝居 投稿日:2006/03/22(水) 00:33

波のない青い海と、それを映す空。
砂浜と金の髪は太陽の光でキラキラと輝く。

遠い夏の海を思わせる、深く濃いブルー。

その色を1回見ただけで。
ほかの何よりも、ただ好きだと思った。



   END
583 名前: 投稿日:2006/03/22(水) 00:38

更新しました。

>>559
レス、ありがとうございます。
こんな感じの終わり方になりましたが、いかがでしたでしょうか。


以上をもちまして、『道化芝居』は完結となります。

レスをくださった方、読んでくださった方、ありがとうございました。
マイナーCPなものでw、レスをいただけると大変心強かったです。

最後までおつきあいくださいまして、本当にありがとうございました。
584 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/22(水) 01:24
お疲れ様です。
松浦さん記憶が…とは予想外でした。
でも、無事姐さんと逢えたようでよかった…。
585 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/22(水) 01:47
>>584
ネタバレかんべんしてください…マジで…。
586 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/23(木) 01:21
完結お疲れ様でした。
レスで作品の世界を壊してしまいそうで
完結するまでひっそりと読ませていただきました。
作者さんの作品がきっかけでこのCPが好きになりまして
毎回更新をとても楽しみにしていました。
映画のようなラストシーンがとても素敵でした。
素晴らしい作品をどうもありがとうございました。
587 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/25(土) 11:58
完結お疲れさまでした。
綺麗なラストにただただ脱帽です。
588 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/24(水) 01:23
藤さんの描かれる中澤さんが大好きです。特に「道化芝居」の、感情を押し殺したような、苦しそうで
脆くて儚い彼女、なんとも言えませんです。
589 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/07(月) 16:33
実は弱くて脆いくせに頑なな中澤さん、そんな彼女に真っ向から対峙する一生懸命強くあろうとする亜弥ちゃん。
藤さんの世界に生きる彼女達、切ないけれどその切なさに惹かれます。
近いうちに再びその世界にお目にかかれることを楽しみにしています。

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