煙のセレナード
- 1 名前:烏 投稿日:2004/08/04(水) 21:42
- 黄金に光る太陽が舞台を降りて、代役となった黄金に光る月が舞台に上がる。
朝が中和する昼を通り過ぎて、夜になる。それは誰もが自然に思う世界の摂理である。
太陽と月。一見どちらも黄金に光ることには変わりないが、どちらも同じかと言えばそうではない。
果たしてどれくらいの数の人間達が、その事実に気がついているのだろうか。
果たしてどれくらいの数の人間達が、その事実が自分達人間に迫る危機である事に気がついているのだろうか。
真ん丸、とも一目には自然に言えそうな、ほんの少しだけ欠けた満月に照らされて。
ある街の一角で、灰色の彼女らはほんの少しだけその姿を表に見せていた。
その口にくわえられた灰色の葉巻きから立ち上った灰色の煙は、
ゆっくりとただ静かに、誰もいない夜の街を取り巻くように立ち上って行く。
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/04(水) 21:43
-
煙のセレナード
- 3 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/04(水) 21:44
- カサッと、普通の人間なら当然寝静まっているような真夜中に。
人気のない裏道の通りで、極僅かな小さな音が響いた。
それに反応したネズミが鳴き声を上げて円を描くように散らばって行く。
音を鳴らした本人はといえば、口に加えた葉巻の煙をゆらゆらと揺らしながら
ある場所へ向かうべく、確実に消した足音で風を切るように走っていた。
走りながらちらりと腕元の時計を見る。急にされた召集だったが、今は午前三時十分前。どうやら間に合いそうだ。
少し厚底のブーツで短い階段を駆け上がる。
一本二本、少し大通りに近くなってきた事で、薄暗い灯りの電燈が姿を見せ始めた。
灰色のマントが柔らかい黄色に照らされて翻る。そろそろ目的地にも近いようだ。
大通りには流石にまだ人間が歩いているのだろう、ざわついた声の波を小耳にしながら、
被り心地がどうにも苦手で、灰色の鞄に突っ込まれたままのくしゃくしゃの灰色の帽子を
取り出して、櫛の通っていない髪の上に被せた。
(あれを右に曲がれば集合場所か)
見えてきた十字路に眼を細めながら、再度腕時計を振り返る。
灰色の背景に浮かび上がって見えたのは、午前二時五十五分。
先ほど通り過ぎた電燈からはどんどん通りざかっていくような方向に走っているので、
ぽつぽつとした灯りは消え、大通りの人の声はまたその波を途絶えさせた。
耳にするのは、真夜中の静寂だけだ。
そこにふ、と、場違いなくらい極僅かな車のクラクションの音がした。
さっとそちらに眼をやると、一台の車が音をさせずのろのろとタイヤを転がしているのが見えて、思わず息を飲む。
- 4 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/04(水) 21:46
- 歩いた方が早いのではないかというスピードで十字の角を右に曲がった灰色の車は、
角を曲がったか曲がらないかという瞬間、スッと掻き消されたようにその姿を消した。
慌てて、駆ける足を速める。逆風で飛ばされそうになる灰色の帽子を抑えながら、
藤本美貴は車の後ろに習うように、幾分か加速した駆け足のままで、
十字路の角を右に曲がり、そして影ごと闇に消えた。
- 5 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/04(水) 21:46
-
- 6 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/04(水) 21:47
- 柴田あゆみは大学の講義を聞き終ったばかりの夕暮れ時に、
校舎内をふらふら歩きつつ、うーんと大きな伸びをした。
口を開けてみれば、出てくるのは欠伸ばかり。少しばかり寝不足の柴田は、
だらだらと生徒の波の流れの力を借りるように歩いていた。
家に帰れば、ソファに突っ伏して眠る事は必須だろう。
昨日の夜中。こんな状態になるまで柴田が何をしていたかというと、
なんてことはない。午前三時前ほどにはそれまですっかり忘れていたレポートを仕上げて、
さて寝るかと買ったばかりの新しい寝巻きに着替えていたのだ。
いつもは午前二時が就寝時間だが、一時間の違いならこうも大して違わない。
柴田が寝不足になった訳はそれからだった。
カンッと空き缶が靴の先で蹴られて転がったような音が外に小さく聞こえて、
気のせいかな、と思いつつもベッドの隣に広がっている窓をちらりと覗き込んだ。
まず目前に広がる道路を見て、次に上下左右を満遍なく見渡すが、
割かし人の通らない裏通りに建っている柴田家から見える人影らしきものはない。
「…ま、いっか」
少しの引っ掛りを感じつつも、ベッドの上の掛け布団を手に取ろうとしたその時に、
サッと素早く道を走る影が横目に見えた気がして、柴田は反射的に窓に向き直った。
- 7 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/04(水) 21:47
- やはり、人だった。人が通りを音もなく走っていた。
裏通りというのは人気が少ないが、その代わり小さな音でもよく響く。
柴田は半ば窓に張り付くようにして、知らず知らずの内に息を殺しながら
駆ける背中をじっと見つめていた。僅かな光に照らされた灰色のマントが風になびく。
よくよく目を凝らしてみると、その人物が灰色ずくめであったことがよく分かった。
(…どうしたのかな、あんなに急いで)
駆け足を遥かに超えた全力疾走を傍目からみながら、柴田は他人事にそう思った。
服と同じく灰色のブーツが忙しいくらいの回転で体を道の先へ先へ、と運んでいる。
こんな真夜中に何かのイベントなどあるはずもないし、一般店の閉店間近な時間帯というわけでもない。
どうにもこんな薄暗い裏通りを全力で駆け抜ける理由が見当たらず、柴田は眉を潜めた。
と、その時だった。
それまで疲れないのか、と問いかけたくなるほど一定のリズムで足を運んでいた
灰色の人物が、角にあった十字路を曲がった瞬間、少しスピードを落としつつふっとその姿自体を消したのだ。
柴田はそれを目にした瞬間、思わず窓にべったりと張り付いてしまった。
四方八方に忙しく目を回すが、もうどこにも先ほどまで確かにあった背中は見当たらず。
人が消えるなどと、よく周到に仕込まれたマジックぐらいでしか見たことがない。
柴田はぽかん、と知らず知らずの内に自分の口を開けて、しばらくそのままぴったりと固まっていた。
はっと我に返った時は、もう寝ようと思った時間から一時間ほど過ぎ去っていたのだ。
- 8 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/04(水) 21:48
- 明日も大学があるということを忘れていたわけではない。
なんとか無駄に高鳴る鼓動を押さえてベッドには入ったものの、
人が間近で、しかもおそらくなんのトリックもなしに消えた瞬間を見たのだからそう簡単に眠れるわけもなく。
下手の横好きといったものだろうか、元来、柴田は難しいことを考えるのが好きだった。
どうしてあれはこうなるのとか、子供の頃まだ脈略を得ない文章で親に問いかけてよく困った顔をさせたものである。
ここしばらくは忘れていたそんな幼心。なんだかそれが久しぶりに思い出せたような気がして、
柴田はベッドに入って目を瞑るという形だけはとったものの、結局は一晩中眠る気はしなかった。
そんなわけで。
元気にふわぁ、と大欠伸をしたたった今に繋がる、ということである。
人がざわめく通りの中を紛れて歩きながら、柴田は大口を開けた口を慌てて閉めた。
大学の講義を聞いている最中、声は耳で受けるものの、意味は右から左へ素通りである。
少し禿げた講師が今日はこれで終わり、と背を向けたのを最後に、柴田は鞄を引っ付かんで大学を後にした。
一応後にも授業は入っていたことはいたのだが、集中して聞けないのなら意味はない。
自分は短期集中型だと高校の時に気づいた柴田は、
素早くそう楽天的に考えて大学から近い自宅の扉を軋んだ音を立てて開けた。
両親は一昨日から出払っていて、中から暖かい「おかえり」という声は聞こえてこない。
そのことに少しばかり首を振りながら、ならばと声を張り上げてみる。
- 9 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/04(水) 21:48
- 「むらっち、いないのー?」
張り上げた声は、白い壁に反響して返ってきた。
しかしそのまましばらく待ってみても返事は返ってこず、ただ静寂だけの部屋の中で
柴田はぎゅっと眉を潜めて辺りの扉を手当りしだいに開けて行く。
「むらっちー?」
がちゃ、ぎぃ、ばたん。がちゃ、ぎぃ、ばたん。
永遠とループするその三拍子がふと途切れたのは、柴田が自分の寝室を覗いた時だった。
「……」
こつこつ溜めた精神や心理、物理学の理論的な本が詰まった本棚。
オシャレのつもりで置いた鉢植えの花は、水をすっかりやり忘れて枯れてしまった。
好きな絵本作家の画展にわざわざ行って、入手してきた安っぽいポストカードが二枚。
ケースに納まりきらずに散らばったCDがごろごろ転がった、その先に。
大きな窓が横にある白いベッドに白いシーツ。昨夜柴田が座り込んでいた場所だ。
そこには今、明らかに不自然としかいえない細っこい膨らみが存在していて。
無言のまま静かに上下しているシーツの傍に寄って、すぅ、と深呼吸を一回。
ぎゅっと拳を力むように握りしめた後、柴田は不意にベッド目掛けて飛びかかった。
- 10 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/04(水) 21:49
- 「…起きろ、むらっち!!」
「…っわぁ!」
柴田が倒れこんだベッドの大袈裟な効果音と共に、
倒れこまれた村田めぐみがガバリと慌てたような顔で飛び起きた。
眼鏡をかけていない顔はなんだか久しぶりで新鮮ささえ感じる。
寝起きは悪い方なのか、しばらく上半身だけ起こしたままぼーっと目を瞬かせている村田の隣で、
柴田はシンプルな配色のクッションを抱きかかえたままその目の前でぶんぶんと手を振ってみせた。
「おーい、起きた?」
「……え?」
「あゆみちゃんだよん」
「……へ?」
なにをいっても疑問系の言葉ばかりが返ってきて、柴田は呆れたように目を細めた。
取りあえずそこらの机の上に置いてあった赤眼鏡をそっとかけさせると、
しばらく難しい顔を作っていた村田は不意に目を開けて
「なんで柴田くんがここに?」と平然とした声で言いのけ、柴田はがくっと肩を落とす。
「あのね…ここ、一応私の家だからさ」
「あれ、そうだっけ。…あーうそうそ、冗談冗談」
慌てて両手をぶんぶんと横に振る村田に、柴田は突き出した握りこぶしをゆっくりと降ろした。
- 11 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/04(水) 21:50
- 「それにしても、今日は随分早いね?」
ふわぁ、と欠伸混じりの声で村田が不意にそんなことを言った。
「あー…大学の講義さぼっちゃったから。むらっちこそ早いよ。どうしたの、今日は」
「なんとなーく、柴田くんが早く帰ってくるような気がしてね」
ちゃり、と右手の人さし指で合鍵を回しながら、村田はまだぼうっとした顔と声でそう呟いた。
それに「当たったじゃん」と相づちを打ってから、「で」と柴田は言葉を続ける。
「それがどうして人のベッドで勝手に寝ることになってるわけ?」
「なんつーかね、ほら、お日様に誘われて。気持ちよさそうでさー、その窓の位置が」
「だからって人のベッドで寝ないでよー!」
「あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境」
今日はそういう気分でもないのか、伊達眼鏡を外しながら笑ってそう言った村田は、
ベッドの上に座ったまま猛抗議をしている柴田に向かって、一拍置いた後めそめそと泣き真似をしてみせた。
- 12 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/04(水) 21:50
- 呆れたため息をついた柴田は一度その頭をぺんっと叩いてから、
「そもそも、なんとなく、の直感で人の家くるのはどうかと思うよー?」
とこれが常識といった声色で言うと、軽く叩かれた村田は大袈裟にその場所を押さえつつ、
あり?とおかしな声を出してから「その割には…」と皮肉っぽい声で返した。
「柴田くんだって私が来てるって知らなかったはずなのに、随分ご帰宅直後から
私めの名前をお呼びになっていたみたいでございますけど?」
「……起きてたんならさっさと来てよね」
柴田の文句に悪びれもせずにっと笑った村田が、で、そこらへんはどうなのよとでも
言いたげな目でじっと見つめてくるものだから。
柴田は一度目線を横に外した後、「だって」と言い訳を始めることにした。
「…むらっちが、早く来てるような気がしたんだもん」
「ほら、以心伝心だ」
村田があはは、と軽く笑った。
- 13 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/04(水) 21:50
- コトリ、と音を立てて暖かい湯気の立った紅茶のカップが村田の前に置かれる。
「ありがとー」と両手をあわせた村田は、しばらくぐるぐる回っている水面を
見つめた後、良い具合に温度が下がったのを見計らってくっと一気にカップを仰いだ。
そして、不意に一言。
「で?」
「…へ?」
なんの脈絡も前置きもない、訳の分からない問い掛けに、柴田は首を傾げる。
それに少し目を伏せてから、何もなくなったカップの中でがちゃがちゃとスプーンを
掻き混ぜた村田は、ゆっくりと息を吐き出すような仕草で少し俯き加減で言った。
「なんかとびっきりのことがあったんでしょ?その顔は」
「……聞いてくれんの?」
「柴田くんが聞いて欲しそうだから、この博士が聞いてあげようじゃないの」
なにが博士だ。
そう心の中だけでつっこみながら空のカップに紅茶を注ぎ直してから、
柴田は向かいの椅子に腰掛けつつ「やっぱりむらっちに隠し事は無理かなぁ」と息をついた。
目の前で無心にカップが冷めるのを待っているその様子を見ている限りじゃ、
人のことなんて気にも止めなさそうな感じなんだけど。
で?と先程の言葉をそっくり再度呟いた村田に、柴田は顎で両手を組みながら
「実はね」とすぐ傍にある大学用の鞄をちらりと見つつ、昨夜の事を思い出すような
仕草で一言一言、区切るようなテンポでぽつぽつと語り始めた。
- 14 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/06(金) 15:32
-
- 15 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/06(金) 15:33
-
カン、カン、カン!!
中澤裕子の金属板を叩いた音が、ざわついた辺り一帯に響き渡った。
途端にしーんと、波を断ち切ったかのように静まり返る灰色の人、人、人。
藤本は半分スクラップ化した薄汚れた青い車の車体に腰掛けつつ
その様子を最後尾とも言える場所から見つめていたが、ふと隣に人の気配を感じて振り返る。
「始まったね、会議」
ひょいっと身軽に藤本の隣まで飛び上がって座り込んだ後藤真希は、
口にくわえていた灰色の葉巻の火を揉み消してからそう言った。
それにこくりと軽く縦に頷いてから、藤本は目線をまた元に戻す。
黄色い、眩しいくらいの照明が、ここら一帯ならどこからでも目にできるような
高い位置に設置されている一つの座椅子と、その前に置かれた教卓のような机を照らしていた。
- 16 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/06(金) 15:33
- 「諸君!!」
カン、と、中澤がまた金属板を鳴らしつつ声を張り上げる。
「ただでさえ忙しいところに、このような召集をかけてしまって申し訳ない!
しかしつい先日、我々にとってあってはならないことが起こってしまったのだ!」
普段の中澤の話し方とは掛け離れた会議中特有の回りくどい語り調に、
藤本は胸で腕を組みながらすっと目を細めた。
隣の後藤がぶらぶらと浮いた足を揺らしながら見据えた先から、
お決まりにさえなってしまったようなリズムで大袈裟な音を鳴らして立ち上がった
灰色ずくめの里田まいが、中澤と同じように声をあげる。
「諸君、諸君!私は冷静な状況判断を諸君らに要求したい!
中澤…V/WWF/c-554氏の発言を詳しく説明するとすれば、一週間ほど前、
我々に危機を及ぼした存在がいたことが発覚したのだ!
彼女は仕事に走っていた真っ最中で、たまたま外出していた人間と顔をはち合わせた
ばかりでなく、その時にやるべきことをやればよかったというのに、
そのまま逃げ出してしまったというのである!これは非常に恥ずべき行為、
人間に我々の存在を気づかせてしまっては、今までの計画が全て消え去ってしまうことは、諸君らも重々承知であろう!」
里田が発言を言い切る前に、言葉の中盤からまたざわめき始めた周りを静めるために、
また中澤が金属板を大きく叩いた。
- 17 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/06(金) 15:34
- 「静粛に、静粛に!」
中澤のよく響くストレートな声に、少し一拍置いた後、スーッと静まる場内。
里田は一度ゆっくりと周りを見回してから、全員が口を噤んだのを見届けた後、
またすっと自然な動きで口を開けた。
「人間に姿を見られてしまった彼女も、意図的な行為ではなかったということは
充分に承知の上だ!しかし我々が全力をつくしてその事実を揉み消したものの、
もしその人間が不思議がって他の人間達にこのことを話していたら、とぞっとする!
諸君、我々の力はまだ強大ではないのだ!まだ人間を我々の力で屈服させるまでには至っていない!
それにも関わらず、我々自身を見せてしまった彼女には、厳重かつ適格な処置を行いたいと思う!」
一端声をそこで切った里田に、そこら中から悲鳴とも、歓声ともつかない声があがった。
隣の後藤が「あちゃー」と声を漏らした隣で、藤本は空を見上げた。
葉巻からあがる煙りのような、もくもくとした灰色の空だった。
「私達は諸君らを代表して、つい先日、時間を必要しないこの場所に集合し、
多くの処置法を全面にだし、それら一つ一つについてじっくりと話しあった!
その結果、姿を見られた彼女、R/DEH/j-228氏には、我々を存在危機に危ぶめたとして、
抹消…『卒業』を言い渡したい!」
里田の最後の一言に、今度こそ、ざわりと場が大きく揺らいだ。
- 18 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/06(金) 15:36
- 他の灰色ずくめよりも少し高い位置にいるせいか、車の上から藤本はゴミのように
ぎゅうぎゅうに固まった人の群れの中で、少しだけぽっかりと丸く開いた部分があることに気がついた。
後藤もそれに気づいたのか、その丸の真ん中に距離を取られたように一人
立ちすくんでいる人物を見て、その意外さに「…まさか」と目を丸くした。
「異義あり!!」
後藤と同じように判決を受けたR/DEH/j-228氏、もとい飯田佳織の姿を見止めたのか、
真直ぐに手をあげて挙手をした灰色ずくめの一人が納得いかないと大きく声をあげた。
直後に周りがその声にざっと間を取る。
藤本の目に、灰色の群れの中に丸い穴は二つできたのが見えた。
「発言を許可する」
と中澤の言った言葉に、声を大きく上げた人物はゆっくりと、たっぷり息を吐いてから、
不意に前を真直ぐ見据えて手を降ろしながらまた大きく口を開く。
「R/DEH/j-228、飯田氏は私が知る限り、そんなへまをする人物ではない!
そういう事実があったという証拠も何も見せてもらえないのでは、
こちらとしても納得のしようがない!議長、我々にその証拠を立ててみせて欲しい!」
- 19 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/06(金) 15:36
- そうだそうだ、と周りからも賛同の声が多くあがった。
少し腰を浮かせていた後藤も、それで一度すとんと腰を降ろし、藤本の隣で大人しく場の様子を見つめている。
先ほどまでは確かに誰も座っていなかったはずの一番高い椅子に、今は人影があるのが見えて、藤本は眉を潜めた。
「静粛に!…静粛に!!」
証拠を出せ、というあちこちからの言葉に、中澤はガンガン、と壊しかねない勢いで金属板を力一杯に叩いた。
こうなると静まらずを得ない灰色の人々は、それぞれに突き上げた拳をゆっくりと一本一本降ろして行く。
それを見てはぁ、と、どこまでも長いため息をついた中澤は、頭を抱えるような素振りを
見せてから、不意にゆっくりと椅子に腰掛けた人物に発言を仰いだ。
藤本はその人物の背格好に見覚えがあった。
反対に目立って見える小さな背格好、黄色い照明にますます輝いて見える金髪。
「矢口さんだ」
藤本の呟いた声に、後藤が真剣な顔つきで矢口をじっと真直ぐに見据えた。
少し口を開いて、すぐに口を一度閉じた矢口は、
何事かをしばらく考えるような素振りを見せた後、再度ゆっくりと口を開いた。
「…諸君」
その静かな声色に、辺りにぴりり、とした緊張感が走る。
- 20 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/06(金) 15:36
- 「これだけは、よく聞いて欲しい。我々とてR/DEH/j-228氏を卒業させたくはない。
しかし、仕方のないことなのだ。証拠を出せ、と言うのなら、本人に聞けばいい。
……オイラの知る限りじゃ、カオリは嘘なんかつかないよ」
最後はコードネームではなく、愛称でそう呼んだ。
まるで優しく語りかけるような口火を切った矢口の口調に、
場は思わず、と言った感じでそれぞれが顔を見合わせ始めた。
そんな中で丸い円の真ん中に立ちすくんだままの飯田は、
ふと両目を一度長い間閉じきって、中澤の「R/DEH/j-228氏」と発言を促す声に、
やっとぱっちりとした目を開いて、こくんと頷く事でその事実を肯定した。
「……」
それを見た誰もが、悲痛そうに、卒業を受けなければならないとほぼ決定した
飯田から気の毒そうに目線を逸らした。先ほど飯田を庇った人物も、
不意にゆっくりと地面に向かって俯いた。
そんな誰もが、飯田の『卒業』を受け入れるような雰囲気になった時。
藤本がなんとも言えず、口を真一文字に結んだのとほぼ同時に、
ガタッと音をたてて後藤が怒ったような顔つきのまま、車の上で立ち上がった。
- 21 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/06(金) 15:37
-
「発言を、許可していただきたい!」
表情と同じような怒声に近いそのよく響く声に、藤本は目を瞬かせた。
「許可する」といった矢口の同じトーンの声に、後藤は息せき切ったように肩を大きく揺らしてから、
「その判決は納得しかねる!」
とくしゃりと顔を顰めたままそう大きく言い切った。
藤本は慌ててそんな後藤のコートの裾を掴んでまた元通りに座らせようとするが、
後藤は両足で力強く踏ん張って、決して自分の発言を引っ込めようとはしなかった。
後藤の断定的ともいえる声色が十分に届いたのか、
座椅子に少し疲れたように腰掛けていた矢口が、背筋を伸ばして問いかけた。
「…D/CAX/i-510氏、それはなぜだ?」
後藤は自分のコードネームが確かに矢口の口から発せられたのを確かめるように
少し間を置いてから、藤本の裾を引っ張る手を振り払って前へと足を踏み出していった。
後藤が前へ進む度に元々斜になっていた車体は右に左に大きく揺れ、
一番困るのは藤本だ。上手くバランスを取りながら座ってはいるものの、
ついには灰色の鞄を地面に取りこぼしそうになって、
より近くで発言するため車から飛び下りた後藤とほぼ同時に地面に着地した。
- 22 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/06(金) 15:38
- 一斉に後藤と藤本の周りに穴ができる。
少し静寂に混じって、「後藤と藤本だ」とぽつっと誰かが呟いた声がした。
「証拠は、カオリの証言そのもの。…本人が認めてるんだ、これを覆すのは無理だよ」
藤本がまいったな、と右手で頭を掻いた隣で、怖気もせず後藤は矢口の声に、
先ほどとは少し声を押さえつつも真っ向から反論した。
「確かに、カオリはやっちゃいけないことをしたと思う。カオリのやったことで、
あたしらの存在が人間にばれて、皆まとめて抹消されていたかもしれない。
そう考えるとその判決は納得だ。…だけどっ」
「……」
「だけど、それは少なすぎる確率の話でしょ!実際、今回も上のお偉いさんが
ちょこっと手を回して人間の記憶を消したら無事に済んだじゃない!
それなのに、その罪状は重すぎる!卒業より他に、もう少し他に何かなかったの?!」
- 23 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/06(金) 15:38
- 決められている会議中の口調も忘れて必死に訴える声に、矢口は思わず眉を寄せた。
飯田を卒業させたくないのは、恐らくこの会議に出席しているほぼ全員の気持ちだ。
だけど、この更に上。椅子を預けられた矢口よりも更に上の位置に立っている人物達が、
里田などの部隊長的な人材を集めて特設会議を開き、その判決が下ったというのだから、
この会議は発表をする場であって、こんな議論をする場ではなかったはずだ。
矢口が少し迷うように目を揺らすと、隣に立っていた中澤が「ヤグチ」と矢口の意志を
呼ぶように、普段の声で呼びかけた。
ふと、目を向ける。耳につけた小さい灰色のピアスを揺らして、中澤が心配そうな目をしていた。
それを見て、矢口は決意を不意に固めて中澤にこくんと頷いてみせる。
(今は、与えられたことを忠実にやるしかないんだ)
- 24 名前:あ、今思春期の娘に拒まれた父親の心境 投稿日:2004/08/06(金) 15:39
-
「判決を下す!!」
ガンガンと中澤が金属板を鳴らしてそう言ったのをきっかけに、
矢口はすー、と息を吸い、はー、と吐いて、目を開いてからカン、と
高い音で響く棒を机に向かって振り降ろした。
「判決!R/DEH/j-228氏には、…卒業を言い渡す!!」
ざわり、と深く荒い声で辺りが揺れた。
「そんなバカな!」と嘆く者もいれば、「当然の結果だな」と呟く者もおり、
無関心に会議場を早々と後にしようと行きと同じく姿を掻き消して帰る者もいれば、
矢口に抗議をするべく座椅子の前によってたかる者もいる。
そんなざわめきの中、後藤がいつもと違う様子で悲しそうに深く俯いたのを横目で見て。
藤本は立ったまま、判決を下した矢口のこれもまた悲しそうな顔を見つめながらぎゅっと両手を組んだ。
そして片方の親指を立てて口元にもって行きながら、むっと顔を顰めて自分の中に意識を集中させる。
(…嫌な、予感がする)
藤本のよく当たる、なんの根拠もない本能がこの瞬間、確かにそう告げていたのだ。
- 25 名前:名無し読者 投稿日:2004/08/13(金) 21:20
- この感じ好きです。展開に期待大ですので、頑張ってください。
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/16(月) 20:45
- おっ!なんかいい感じ!
((o(^-^)o))ワクワク
- 27 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/08/18(水) 21:16
-
雨が、降っていた。それもかなりの大降りだ。
朝見た天気予報の降水確率は確か30%。そうも微妙な数字を出されると、
傘を持ってこなかったこっちが悪いのか、予測した人物が悪いのか見当もつかない。
とにかく、雨は降っていた。随分長い時間こうして雨宿りをしているはずなのに、
一定時間を置いて腕時計を見ても見ても、雨は一向に止む気配を見せなかった。
「大丈夫かなぁ」
肉眼では見切れない空からぽつぽつ降ってくる雨粒を右手でぎゅっと捕まえながら、
柴田は一応、と持ってきていた肩にかけた小さい鞄を揺らしてそう呟いた。
気掛かりなのは、先ほど送っていたのを「ここでいいよ」と笑って別れた村田のこと。
二つ離れた駅のすぐ近くで別れたものの、おそらくもう既に村田の住むマンションの最寄り駅には到着しているだろう。
電車から降りて雨に気づき、困った顔をしている村田が簡単に想像できる。
「どっかで雨宿りできてんのかな」
自分の記憶が間違っていなければ、村田も傘を持ってはいなかったはずだ。
柴田は少し心配げに眉を寄せながら、雨を防いでくれている本屋の壁に身をもたれた。
- 28 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/08/18(水) 21:17
- その時、ふと背中に視線を感じでゆっくりと振り返る。
感じる糸を視線で辿って行くと、辿り着いたのは本屋のレジで目を三角にしている店主の姿。
柴田は曖昧にへら、と笑ってみせてから、少し間を置いてダッと逃げるように本屋の屋根の下を飛び出した。
雨の大粒が着ている薄い上着に次々と染みを作っていく。
(どうせなら傘の一本ぐらい買えばよかった)
本屋の目の前にあったコンビニが心残りだ。
しかし、今更引き返しても家に帰っても、そう走行距離は変わらないと判断して
柴田は思い直したように全速力で街通りを駆け抜ける。
しかし、足下までは配慮が回らなかった。
すぐ下にあった並ほどの大きさの水たまりへ派手に足を突っ込み、
跳んだ水が自分のズボンにも広がって行くのに気づいて、柴田は思わず足を止める。
ザーザーと、白い粉粒のように肉眼では捕らえられる雨の降り方。
いつもの帽子がついたパーカーを着てくればよかった、と立ち止まりながら少しだけ後悔したが、もう遅い。
- 29 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/08/18(水) 21:21
-
「…柴ちゃん?」
少しだけ頭を垂れたそんな時、妙に耳にしっくりくる高い声が後ろから聞こえてきて、
柴田はなんだか妙な予感を抱きつつ先ほどと同じようなテンポでゆっくりと振り返る。
見えていた赤い小さな傘がくるんと回り、それをさしていた石川梨華は、
柴田が振り返った瞬間、ぱぁっと顔を輝かせた。
「やっぱりー!…わ、濡れてるじゃん。傘はいりなよ」
「…なんで、梨華ちゃんがここに?」
ぐいっと手を引っ張られて折り畳みの小さな傘に無理矢理二人おさまると、
柴田は目を白黒させながら平然とした顔の友人に向かって問いかけた。
石川梨華。大学の同級生。
だが、確か大学には遠い実家からやってきているはずの石川が、
こんな近所をこんな時間にうろついているのは明らかにおかしい。
今、腕時計の差している時間は七時半。村田に話を聞いてもらうのが随分長引いたのだ。
- 30 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/08/18(水) 21:22
- そんな柴田の見るからに不思議そうな顔をものともせず、石川は雨の中でもお天気顔で、
手に持っていた傘にあわせた赤い色の鞄を柴田の目の前まで持ち上げてみせてから、
「この近くに習ってる英語教室があるんだ」
と言った。なるほど、それで柴田は納得する。
そういえば最近は習い事があるとかで、一緒に遊びにでかけていなかったことを思い出した。
どうやらその教室とやらは柴田の家の近くにあるらしく、
全くその存在をしらなかった柴田はぱちぱち瞬きをしながら石川の傘に寄り添って歩く。
雨は一向に止む気配を見せない。おさまる傘ができたのでそれはそれでいいのだが、
少しばかり石川の傘に二人収まるのは窮屈だ。それに、村田の安否も気になる。
家に充電したまま置いてきた携帯電話を思い浮かべながら、
あれがあれば連絡とれるのに、と柴田が少しため息をついたのをきっかけにしたような
タイミングで、石川がぶらぶらと灰色の曇り空を見ながら話し出した。
「それにしてもさー」
「んー?」
「久しぶりだよね、二人で外歩くのって」
突然の話題に少々瞬きをしながらも、改めて言われた言葉にそういえば…と柴田も
石川に習うように上を向いて返事をした。
- 31 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/08/18(水) 21:22
- 「…だねぇ。梨華ちゃんが大学はいってから忙しくなっちゃったし…」
「ええ、なに、あたしのせいなの?」
「普通にそうでしょ。あたしはまだ暇人たもってるもーん」
少しだけそう自慢げに言ってのけると、隣の石川は不満そうに口を突き出して眉を寄せた。
あたしだって柴ちゃんといっぱい遊びたいんだよ?
そう言いたいのが顔から見て取れて、柴田は少しだけ吹き出しながらぽん、と石川の肩を叩く。
「でもさ、偉いじゃん梨華ちゃん。習い事で忙しいなら立派だよ」
「そうかなぁ…」
「うん。ちゃんと将来の夢も決めてるとか、羨ましいしね」
「……ん…」
おや。いつもなら夢の話を持ち出すと目を輝かせて、
両親と同じ通訳の仕事につくんだ、と語っていた石川の歯切れの悪さに柴田は目を丸くする。
「…どうしたの?なんかあった?」
「……それが……」
ぽつっとそう呟いたきりだんまりになってしまった石川を目にして、
柴田はぎゅっと両眉を寄せる。これはおかしい、一体どんなことがあったんだろう。
元気が取り柄だと、自分でもそう言っていた石川が夢の話になって黙り込むとは、ただごとではない。
- 32 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/08/18(水) 21:23
- もしかして、凄く重大なことが起こったんじゃないか。
親友の肩書きを貰っているくせして今までそのことに全く気づかなかった自分に腹を立てながら、
柴田は石川をなんとか問いつめようと口を縦に開いた。が、
「…あ、柴ちゃん、家ここだよね?」
「え?…ああ、うん」
「風邪引いちゃうから、早く帰ってシャワー浴びなよ?それじゃ、また明日ね!」
「え…あ、ちょっ……」
そんな柴田の口からその先を言わせまいとするような言葉遣いで一気に捲し立て、
一度大きく手を振った石川は、柴田にくるりと背を向け駆け出した。
ばしゃばしゃと石川が足をつけた所が水しぶきをあげる。赤い傘がくるくる回った。
掴む所なく突き出した右手をゆるゆると引っ込めながら
柴田はそんな石川の背中に納得のいかなさを覚えながらも、
少したってからなんとか踵を返して少し錆び付いた階段を一段一段、ゆっくりしたペースで上り始める。
ぎぃ、ぎぃと階段を踏み締める度になる不協和音。親友の、おそらく大きな悩み事に
胸をざわつかせながらも、柴田は階段と自分の部屋へ続く扉を開けて、
充電器に挟まって赤いライトを照らしていた携帯電話を、少し迷った後手に取った。
- 33 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/08/18(水) 21:27
- リダイヤルを呼ぶ。
名前検索…呼び出し…コール音…プルルル…ブツッ。
不意に、会話への糸口を切る。
繋がった相手が、ではなく、柴田自身が何かを思い立ったように電源を切っていた。
「……そんなに心配することじゃ、ないよね…」
石川の様子は確かに変だった。だが、それを本人に聴く必要も、
小さい頃から親しくしている石川の家族に聴く必要も、柴田にはないのかもしれない。
よほど大きな悩みごとなら自分の親に言うだろう。
柴田に聴いて欲しくなったら、いずれ向こうから言ってくるだろう。
うん、そうだ。と自分を勇気づけるように縦に頷いてから、
思い直して続いて呼び出したリダイヤルを、随分前に会話したように思える村田の名前にあわせる。
が、その呼び出された名前をじっと見つめた後、柴田ははー、とため息をついて、ぽいっと携帯電話を放り投げた。
- 34 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/08/18(水) 21:30
- 「……誰も、心配なんかいらないよね」
そんな柴田の呟きにあわせるように、
ベッドの上に軟着陸した携帯電話が小さく跳ねて、画面を上にしたまま着地した。
携帯についたままのお茶犬が見事に起立し、小さいストラップはころりと転がる。
同じように、光る画面は揺れ動いていた。
村田めぐみと表示された名前の下に、
適当に作ったとしか思えない暗号みたいなメールアドレス。何度もリダイヤルした電話番号。
ピッと、なんだか脱力感のある柴田には到底聞こえないような音量で、
跳ねた弾みに通話ボタンが村田に向かって電話をかけていた。
プルルル、プルルル、しつこいぐらいに何度もくぐもった呼び出し音がなる。
プルルル、プルルル。
プルルル、プルルル、プルッ。
不意に途切れた通話への糸口は、ジーと少し掠れた雑音のような音が前置きにされた後、
いつものゆったりとした、舌っ足らずな独特の声で途切れた。
『村田はただ今電話に出ることができません。着信を残したい方は気軽に1をポチッと押して…』
雨はもう既に止んで、ベッドの横にある大きな窓からは、
夕方と同じように明るい陽射しが差し込んでいた。
- 35 名前:烏 投稿日:2004/08/18(水) 21:36
- 励みになるレスありがとうございます。
>>25
渋くかっちょ良くもわもわっと書けたらいいなぁ。と思ってます。
>>26
基本的に全編飛び飛びな話で構成してるので展開とかは亀ペースになりますが
どうぞこれからもよろしく。
- 36 名前:マルタちゃん 投稿日:2004/08/28(土) 15:42
- 初めまして、マルタちゃんといいます。
今までに読んだことのない感じで
毎回楽しく読ませてもらってます。
次回更新待ってます。
- 37 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/07(火) 21:29
-
「あれはおかしい?」
「いーや、別に」
「じゃあ、あれは?」
「あれも普通」
一体、こんな会話を何回繰り替えしただろうか。
暑苦しい日射しに照らされる中、しかもそれを直に受ける校庭を歩き回っていた
松浦亜弥は、大きく溜息をついて額に溜まった汗を拭った。
その隣で高橋愛は顔色一つ変えず、「校庭にはえんみたいやなぁ」と酷く訛った声で
ふと足を止めた松浦を追い越しながら呟く。
松浦はいい加減休みたいという気持ちを隠しもせずに、
不満たらたらな顔でそんな高橋を生暖かい風が吹く木の影から呼びかけた。
「ねー愛ちゃん、そろそろひと休みしなーい?」
ざわざわと人だらけの校庭でその声は掻き消されてしまいそうだったが、
校舎案内のパンフレットを持ってまだてくてくと歩き続けていた高橋には届いたのか、
彼女はちょっと首を回してその声の発信源が松浦だと確かめるや否や、
ぴたりと足を止めて踵を返し、つかつかと松浦のいる場所へ難しい顔でやってきた。
- 38 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/07(火) 21:30
- 「…亜弥ちゃん」
「はーい」
「亜弥ちゃんがしようって言うからつきあってるんよ」
「…はーい」
のろのろと手を上げて、ニ回返事をする。そりゃあ至極、ごもっともで。
高橋に手を引かれて木陰を出ると、また暑い光線が肌を焼きつけた。
こんなことなら予報で曇りの確率が高かった明日にでもこの計画を高橋に話すべきだったか。
歩きながら首を捻って後悔するそんな松浦にはさっぱり気付く様子も見せず、
高橋はまた地図の書かれたパンフレットを広げて松浦にもよく見えるような位置に掲げた。
松浦がちょっと顔を上げて目線を定めて見ると、
広げた白い紙には、高橋の履いているズボンのポケットに挟まった赤ペンで
丸をぐるりとつけられた場所が二つ三つ。
「…これで三年教室廊下、職員室、校庭は済んだってこと?」
松浦が日光に目を細めながら訪ねると、高橋はにっこりした。
「ほやの」
「…となると、あと人が集まる所でいってないのは体育館ぐらいかなぁ」
ざわついた人の声とボールが跳ねる音が混ざりあってくぐもった反響をしている
方向へ、そう松浦が顔を向けると、高橋がむーと唸って親指を顎に押しあてた。
- 39 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/07(火) 21:30
-
「…今日は、少ししかいないんやね」
曖昧に主語が抜けた一言。しかし松浦はその意図をはっきり読み取って、
高橋にくるりと向き直ってから軽く頷いた。
「いつもならあっちこっちにいるのにね」
そんな松浦の返答にも、高橋は縦に頷く。
きちんとした探索をしている今日に限って、二人の『探し物』は見当たらない。
(ついてないなぁ)
はぁ、とまた大きく溜息を肩でついて、新しくにじんできた汗を上着の袖で拭った。
「取りあえず、行ってみようや」
松浦のニ、三歩先からかかった言葉に、うん、と閉じていた目を開いて返事をする。
確か今日の放課後の体育館を使用しているのはバスケ部とバレー部だったはずだ。
バスケ部とバレー部と言えば、この学校の中で部員の多さの1、2を争う二つの部。
その中に松浦と高橋の探し物も一つや二つ、紛れ込んでいるんじゃないか。
そんな希望的とも言える考えを頭に浮かべながら、
松浦は高橋が外から通じる体育館の扉を開けるのを黙って見つめていた。
少し重そうな扉に、半ば体重をかけるようにして押し開く高橋の背中。
まずは中の様子を確認するように首だけを突っ込んで左右を振り返る。
あちこちから地面を突き上げるような力強いドリブルの音が聴こえ、
それと同じくらい腕でボールを強く弾く音が響いていた。
- 40 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/07(火) 21:31
- 『私達は部員です』というなんでもないような顔を取り繕って中へ入り、すかさず無音で扉を閉める。
それに間髪置かず、松浦は一人の人間の全身を確かめて、横目でちらりと高橋を振り返った。
「…あれは、おかしい?」
「…ああ、おかしいなぁ」
ビンゴ。ぐっと手を握って拳を作る。
先ほどからずっと二人の間で繰り返されていた会話が、やっと終わった。
すぐさま誰かに気付かれる前にと、そこらに適当においてあったマットの影に滑り込んで
そこから目をつけた人影を凝視する。
見れば見るほど、松浦の中に実感のあるものがどんどん広がっていった。間違いない。
左右を見渡すぎょろぎょろした目。その下にくっきり刻まれた黒いクマ。
誰かに追われているかのように時折びくつかせる肩。
苛々したように地面を踏む足。
松浦は高橋と一度顔を見合わせて、うん、と互いに強く頷いた。
- 41 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/07(火) 21:32
-
そもそも、二人がこの探索を始めたのにはワケがあった。
高校三年になった松浦と高橋はつい先日、部を引退するまでテニス部のエースだった。
三年といえば受験、受験と言えば大学、大学といえば勉強、だ。
それぞれ部を引退すれば机にかじり付いて勉強する。今はまだ秋に入る少し前という
微妙な季節だからそれほど必死さは感じないものの、やる気がある生徒たちは
ピンと背筋を伸ばして授業を受けている。
松浦も高橋も、それなりに勉強もできてそれなりの学校に行こうと思っていたので
特に焦って勉強する、ということはなかったが、どうにも部活動がなくなってしまうと
早朝、昼休み、放課後にすることがなくなってしまって何かがが狂う。
この間もそうだった。これといってする事もなく二人そろってだらだらしていると、
その代償のように奇妙な話を小耳に挟んだのだ。
「知ってる?最近うちの学校でいきなり性格が変わっちゃう人らがいるんだってさ」
女子と言うものは大概噂が好きで、根も葉もないそれに尾ひれをつけて
学年学校問わず言いふらすのだ。その事実を確かめて本当だったことは果たしてどれくらいだろうか。
それを松浦は知っていたため、高橋に目配せを送って「へー」と適当な笑顔と返答で
あしらったものの、驚くのはそれからだった。
- 42 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/07(火) 21:32
- 好きな音楽の先生が、丸っこかった顔を痩せこけさせて、
まるで何日も寝ていないような顔になった。
とろくさくても何事にも丁寧に取り組んでいた生徒が、何に対してもいい加減で、
何もかも投げ出してしまったかのような態度になった。
子供好きだと有名だった守衛が、生徒を嫌っているかのような素振りを見せ、
せかせかと何かに追われる様に仕事に没頭するようになった。
何故今までこれに気付かなかったのだろう。
松浦はテニス部を止めてから改めて学校を見回し、愕然とした。
噂通り人が変わったようになってしまったのは、
音楽の教師だけでもなく、一人の生徒だけでもなく、守衛だけでもなく。
見渡す限りの生徒のおよそ四分の一ほどの顔が、松浦にとっては異常に見えたのだ。
それに気付いた松浦は慌てて高橋にその事を告げる。高橋も焦った顔でそれに相槌をうった。
- 43 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/07(火) 21:33
- 「この学校はどうしちゃったんだろう」
「あの噂、本当だったんだね」
「何が原因でああいう風になっちゃうんだ」
「一体なにが」
「どうして」
普通の生徒ならここで区切りをつけ、きっと不幸が重なったかどうかしたんだろう、と
会話を終わらせるというのに、そこで終わらなかったのが松浦と高橋らしいといったところか。
「じゃあ原因を確かめようか」
「そうしよう」
原因を確かめるには、実際に変わってしまった人間を誰か一人捕まえるのが一番手っ取り早い。
- 44 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/07(火) 21:33
- 「…亜弥ちゃん、電話しなくてええの?」
さて、どうやってあいつを捕まえるかと目標をじーっと見つめていた時に
すぐ隣から声がかかって、松浦はぎくりと肩を強張らせて高橋を振り返った。
「ハ?電話って……ああ、そっか」
そういえば、連絡しろって言われてたっけね。
うっかりしてたと言わんばかりの動作で慌ただしく制服のポケットから
ピンクの携帯電話を取り出した松浦は、親指だけで素早く押し慣れた番号を押していく。
マットの裏とはいえ、体育館の中はマットの厚さを通り越してなお騒がしい。
松浦はよく相手の声を聞き取れる様にと携帯を耳元に寄せる。
ざわめく声が少し混ざって聞こえるコール音。
高橋が時々ちらちらとマットから首を出して、バスケ部のベンチの方で
ぎょろぎょろした目を腹を立てているかの様に忙しく回している人物がいることを
確認しつつ、その松浦の隣に座り込んだ。
松浦がいつまでたっても声を出さない事に高橋が心配そうな顔をするのとは裏腹に、
松浦はいつまでたってもコール音が途切れないことを心配していなかった。
- 45 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/07(火) 21:34
- 電話の相手が電話に出ないのは今に始まったことじゃない。
携帯電話は大抵放置だし、今日は大学が休みだとこの間言っていた。
もしかしたらまだ布団の中かもしれない。今の時刻は三時半だ、有り得ない事じゃない。
と、なれば、彼女に電話を取らせるためにはとにかくこのまま
しつこく電話をかけ続けるしかないのだ。
プルルル、プルルル、プルルル。
松浦はコール音が鳴る度に、次のコールで彼女は電話を取ると信じてその時を待った。
プルルル、プルルル、プルルル。
高橋がいつものびっくり顔を自然に浮かべながらはらはらと落ち着かないように
両手の指をぐるぐる回した。
プルルル、プルルル、プルルル。
バンバン、とドリブルの軽快な音がして、どちらかのチームがポイントを重ねたという
証拠の笛が高らかに鳴った。
プルルル、プルルル、プルッ。
「もしもし、みきたんっ?」
間髪入れずに電話の相手へ呼びかけた松浦の声は、高橋の耳には弾んで聞こえた。
- 46 名前:烏 投稿日:2004/09/07(火) 21:40
- >>36
初めまして。読んだ事がない感じですか…う、嬉しい!
おかげさまで、更新やっとできました。レスありがとうございました。
>>34
>不意に途切れた通話への糸口は、ジーと少し掠れた雑音のような音が前置きにされた後、
いつものゆったりとした、舌っ足らずな独特の声で途切れた。
何だコレって感じですね。正しい感じのノリに脳内変換しといてやってください…。
なんか高橋さんの方言に関してはほんとごめんなさいとしかいいようがないです。
一応途中までは必死こいて調べましたが撃沈しました。後はノリで。ノリって素晴らしい。
- 47 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/20(月) 21:55
- 小川真琴は難しい顔をして考えていた。ぬいぐるみの置かれた自室の中。ベッドの上。
頭の後ろで両手を組んだのは、もう大分前のことだ。両手が頭の重みで痺れている。
投げ出した両足。瞑った両目。
見たポーズそのまんまに、小川は今、真剣に考え込んでいた。
小川の事をよく知る人なら、今彼女は考え込んでいるんだよと第三者がこっそり
耳打ちしたところで、まさか!と笑い飛ばすだろう。そしてこう繋げるのだ。
あれは考え込んでいるのではなく、眠っているんだよ、と。
しかし小川は今、確かに考え込んでいる。
いや、あれは眠っているのではなく確かに考え込んでいるのだ、と、そう
第三者が返したとすると、それじゃあと知人はまた笑うだろう。
あんなに難しい顔をしているけど、どうせ食べ物のことでも考えているんだよ。
何故そこで食べ物が出てくるのかは、あえて考えないことにして。
ベッドで顔を顰めたまま、不意にふわぁと欠伸をした小川は、
上半身を起こしながら少し潤んだ目元を指で軽く擦った。
今までのは考えていたのではなく、眠気にまどろんでいたのだろうか。
また一つ小川への行動の疑惑が起き上がるが、ベッドから素足で降り立った小川は
気ままな様子でううんと背筋を伸ばした後、おもむろに二階にあった自室から
リビングへ繋がっている下へ向かうべく、階段を一段一段、ゆっくりとした足取りで降り始めた。
- 48 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/20(月) 21:57
- その時も小川の難しい顔つきは変わらない。眠いだけなのか、はたまたやはり考え事をしているのか。
途中、危うく階段を一段踏み外しそうになって、その段からは慌てたように
急いで階段を降り切った小川は、ふと階段を振り返りながらリビングへの扉を開いた。
「お母さーん?いないの?」
そう声に出してみてから、左右を確認するように首を振る。
それでも母親らしき人影は見つからず、小川が台所や洗面所を覗き回っていると、
不意に食卓の机の上に小さなメモ用紙が張り付けられていることに気がついた。
「…ああ、そっか」
その紙を手に取って、母親の筆跡で書かれている文面を目で追ってから、
うっかりしてたと頭を軽く叩いた。そうだ、今日は仕事で夜遅くまでかかるといっていたっけ。
メモ用紙の丁度向かいに置かれた、ラップのかかった少し冷めた早い夕食をレンジで温める。
使うフォークやスプーンを取ろうと食器棚の方を振り返ったところで、
小川はその異変に目を奪われた。
- 49 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/20(月) 21:59
- 「……」
食器を洗うための水道口が開けないような状態まで山積みにされた皿の数々。
ほんの少し近づいてみると、それらがまだ全く洗われていないということがすぐに分かった。
山積みの底の方に、おそらく先週食べたハンバーグの残りカスが小さくくっついている。
「……こんなにウチって、忙しかったっけ」
これだけの食器を洗う暇もないくらい。
その食器達を後でまとめ洗いしようと考えながら少し瞼を落とした小川は、
とにかく今日分の夕食を食卓の上に運びながら何度目ともつかない呟きを、今日もまた呟いた。
- 50 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/20(月) 22:00
-
レンジで温めた食事は不味い。
いや、それだと言葉響きが悪いだろうか。
作った直後の食事より、レンジで温めた食事は不味いと言いたいのだ。
その少し自分の口に違和感を残す食事を食べながら、小川はまた難しい顔をしていた。
食事をする時ぐらいもう少し気を抜いた顔をしていてもいいのに、と
思うと同時に、先ほどあがっていた食べ物のことを考えているのだ、という疑惑はこれで掻き消されたことになる。
ズッとスープを一口啜ると、小川はふぅと何かに対しての息をつきながらスプーンを置いた。
そうしてメインの親子丼に手をつけるのかと思いきや、しばらくそのまま沈黙していた
小川は、時計が6時を差したのを確かめて、がたんと椅子から立ち上がった。
- 51 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/20(月) 22:01
- 「…絶対、おかしいよ」
誰に向けるでもない呟き。それは暗い部屋に反響して小川の耳に返る。
元来た階段を、今度は踏み外さないようにゆっくりと上りながら、
やはり親子丼にも手をつけておけばよかったとスープにしか手をつけなかった小川は
早くも後悔するが、それでも一人だけのリビングに戻る気は起こらなかった。
少し古い階段が、小川が足をのせる度にぎしぎしと軋んだ音を立てる。
部屋への扉を開けると、小川はまた先ほどまでと同じように、
ベッドへどこか投げやりに、素足のままで仰向けに寝転がった。
規則的な動きで、頭の後ろで両手を組む。難しい顔をする。そうして小川はまた考え始めた。
目を閉じた瞬間、まずぼやけた頭に浮かんでくるのは母親の顔。
優しい母親。こうやって瞬間的に顔を思い出しても、にこにこと人の良い笑顔が出てくるというのは凄い事だと思う。
いくら仕事が長引いても、絶対に夕食前には帰ってきた。
家族の時間を大切にしないとね、と。いつもそう冗談混じりに笑っていた。
少しぐらい遅れても、その時は帰りを待つ子供達が母親を信じて待っていた。
- 52 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/20(月) 22:02
- しかし、つい一カ月ほど前からそんな姿をぱったりと見なくなった。
母が愛用していた赤い自転車は、仕事場に向かったっきり帰ってこない。
心配して携帯をかけてみても「まだ仕事が終わらないのよ」という直入な返事で切られてしまう。
たまに帰ってきたと思えば今日のように、レンジをかけた食事だけを机の上に残して
また忙しそうに背中を丸めて仕事へと戻って行く。
一体どうしたっていうんだ。何が変わってしまったというんだ。
母親の笑い顔が歪んで、消える。その次にぼやけた顔が浮かんできたのは、
よく見覚えのある、ふにゃけた親友の幸せそうな顔。
ガリ、と親指の爪を噛む。
こんな切羽詰まったような癖なんて小川は持つべき人間ではなかったはずなのに、
小川の周りが変わっていくと同時に、何故かこんな癖がついてしまった。
ベッドの枕の横に転がった携帯電話。リダイヤルをしばらくスクロールすると、
毎日のように語り合った親友の名前がある。
- 53 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/20(月) 22:03
- 「あさ美ちゃん」
ぽつっと、彼女もまた変わってしまった親友の名前を呟いた。
ふにゃけた幸せそうな顔が世界一似合う。顔を見ているとそう思わずにはいられない。
特にいもを食べている時は格別で、よく小川も隣にいるとかぼちゃを食べるペースが進んだものだ。
のんびりマイペース。というか、何をするにもスピードが遅い。
小川も大概そんな気質を持っているので、何をするにも紺野といれば何をするにも楽しかった。
ゆっくり進める作業ほど、丁寧で細やかに出来上がるものはない。
マイペースに生きる人生ほど、気楽で楽しく過ごせるものはない。
紺野も小川もそう思い、二人でつるめばのんびりと時を過ごしていたはずなのに、
あの時紺野が突然きっぱりと言い切った一言が忘れられない。
『あたし、これからまこっちゃんと遊べない』
その一言はあまりにも衝撃的すぎて、小川は紺野が引っ越してしまうのかとさえ思った。
だがそうではなく。紺野は今も小川と同じ学校、同じクラスで時を過ごしている。
しかし、いつもの紺野の時の過ごし方ではなくなってしまった。
- 54 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/20(月) 22:03
- 元より優等生と名高い彼女であったが、今は何かに追われるように休み時間も
教科書を開き、放課後も小川に声をかけることすらなく足早に帰路についてしまう。
ついこの間、なんとか勇気を振り絞って「あさ美ちゃん」と声をかけてはみたが、
小川の話しかける建て前につくった用件だけを聞いて、それきりだ。
いつも一緒にいっていた金魚屋にもいけなくて。
学校が終われば塾や家庭教師に追われているらしい紺野の家へ、厚かましくお邪魔するわけにもいかない。
付け加えて厄介なのは、母親や紺野のように人が変わってしまったかのような人達が、他にも心当たりがあることだった。
友達、知人、それほど親しくない人。
脈絡のないその人筋は、何故そうなってしまったのかさえ誰にも分からない。
(そういえば)
例を見ない伝説のツートップといわれた後藤、吉澤が卒業して、
皆より一歩先を歩く引率者のような存在、いわゆるボスがいなくなった我が学校で、
まだおおっぴらには囁かれていないが『後継者』ではないか、と人知れず呟かれている
三年の松浦、高橋がこの不可解な難事件の調査を始めたということを風の噂で聞いた。
- 55 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/20(月) 22:04
-
もしかしたら、紺野に関するような情報を掴んでいるかもしれない。
そう考え、電話の横にあるであろう、学校全生徒の連絡網をふと思い出して
小川は反射的に飛び起きたが、すぐに眉間に皺を寄せてぴたりと動きを止めた。
しかしその可能性と同じくらい、何も掴んでいないかもしれない。
何も掴んでいないということを知らされて落胆するなら、聞かない方がマシだ。
しばらくベッドの上で膝を抱え込んでいた小川はぎゅっと口を真一文字に結ぶが、
不意に枕元の携帯電話が和やかな着メロを流し出したのに気づいて、慌てて携帯を握り掴む。
(あさ美ちゃん?!)
メールをしらせる紙飛行機が画面の中央で飛んでいる。
受信ボックスを開くまでの間隔がじれったい。
気持ちがあせるあまり携帯を危うく取り落としそうになった小川は、
一度気持ちを落ち着かせるべく深く深呼吸をする。が、
すぐに現れた受信メールを開いて、がくりと大きく肩を落とした。
届いていたのは迷惑メール。意味不明の文体がひたすら連なっているそのメールを
気だるい指でのろのろと削除して、小川はまたベッドに寝転がろうとしたところで、
すぐに思いとどまった。
- 56 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/20(月) 22:06
-
『まこっちゃん、そんなに悩むことじゃないよ』
『随分簡単にいうねぇ…いもとかぼちゃなんてどっち選ぶか迷うじゃん、普通』
『いもとかぼちゃはどっち選んでも美味しいよー』
『いやそれは分かってんだけど…』
『どっちを選んでも損得なし。それじゃあ、今食べたいって思う方を選べばいいじゃない』
(…あたしは、今、あさ美ちゃんがどうなっちゃったのかが知りたいよ)
そう、これが自分の本心。これが自分の真意だ。
何かをしなくては、何も始まらない。
がばっとベッドから飛び下りて、世界新記録じゃないかというぐらいの勢いで
階段を降りたすぐ傍にある電話の受話器を引っ付かむ。
隣に大雑把に並んでいるプリント用紙をあさくって、ふと目についた連絡網をこれだ!と抜き取った。
- 57 名前:もしもし、みきたんっ? 投稿日:2004/09/20(月) 22:07
- 三年。松浦のま、より、高橋のた、の方が早いという単純明解な理由で
迷わずに高橋の名字を探す。一組、二組…三組で高橋愛という名前を見つけだした。
おそらくこれだろうと見当をつけながらも、念をいれて四組を調べ、
同姓同名がいないかどうかを確かめてから、小川はあせる気持ちを押さえて
電話のボタンを一つ一つ、確実に押していく。
『で、まこっちゃん。結局どっちにしたの?』
『ほぇ?』
『その様子じゃ、決まったんでしょ?いも?それともかぼちゃ?』
『………かぼちゃ』
『好きだねー』
プルル、というコール音に混じって、あの時含んで笑った紺野の声が、
小川のすぐ耳もとをふっと通り過ぎた。
- 58 名前:烏 投稿日:2004/09/20(月) 22:09
-
一人電話編終了。
- 59 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/01(金) 17:36
- 電話のラブコール音が鳴り響く部屋。
松浦の予想通り、その時藤本は布団の中でぬくぬくと真っ昼間を過ごしていた。
基本的に、藤本の生活リズムは夜起きて昼眠るの繰り返しだ。
ましてや昼の三時半など、藤本にとっては眠っていて当たり前の時間。
疲れている時などは一日を仕事と睡眠で消費してしまうことさえある。
しかし。なんとも喜ばしいことに昨日の仕事はそんなにハードなものではなく、
丁度松浦が登校する時間ほどに入れ代わって眠りについた藤本の目はなんとか
布団の中で開いてはいたが、全身にまとわりつく眠気がまだまだ持続していて
布団から這い出ようとはしていなかった。そんな時に、だ。
場違いなくらい静かだった空間に一本の電話を知らせる音が鳴る。
布団に横になったまま目だけを動かして充電器に刺さったままの携帯を見ると、
画面に浮かんでいた名前はお隣にお住まいのあの子のもの。
出るべきか、出ないべきか。
(…出るのは面倒。出てもいい事なんかない)
ほんの一瞬考えるだけ考えて、藤本は携帯に背を向ける様に寝返りを打った。
松浦が帰ってきた後「なんで出てくれなかったのよー!」と怒鳴るように泣きついてくるのは目に見えていたが、
それを恐れる気持ちを眠気が強烈な右ストレートで打ち負かした。
- 60 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/01(金) 17:37
- すっと瞼を降ろしてコールが止むのを待つ。携帯の着信音は一度途切れたか、と思っても
また次の一瞬に鳴り始めてしまうものだから、永遠にこのコールは続くんだろうか?
思わずそう考えて両耳を塞ぎたくなってしまう。
そもそも、松浦から電話がかかってきて今までいい事などあっただろうか。
一度冷静になりふむ、と布団の中で目を閉じたままこれまでの事を思い起こしてみるが、
家に帰ってすぐ食べれるように、とアイスを買いにパシられたこと、
まだ寝ていたのに叩き起こされて勝手に買い物の荷物持ちにされたこと、
藤本の頭を駆け巡るのは大概が嫌な思い出ばかりだ。思わず苦い顔が浮かぶ。
(…今日という今日は、絶対に出ないから)
まだまだ続きそうなコールを完全無視することを心の中で強く決意して、
ぎゅっと一度強く両瞼に力を入れるが、またすぐに目を開けた。
さっきまで続いていた眠気のまどろむ波は、うるさい電話の音ですっかり止んでしまい。
ふわーぁ、と大きい欠伸をして、さて、それじゃあ丁度いい区切りで起きるかと
布団からのろのろ立ち上がった藤本は、タンスの中に掛けてあったお気に入りの
ジャージを取り出し簡単に着込んで、そこらに放ったままになっていた財布入りの鞄を握る。
- 61 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/01(金) 17:38
- 今日は友達の里田のところに行く予定になっていた。
今は昼の三時半、松浦の学校の終業チャイムが丁度なったころだろう。
松浦に発見される前にはなんとかこのアパートを抜け出さなければ、藤本の命と娯楽はない。
どうせ今回の電話だってまた荷物持ちだとかパシリだとか、
人を年上とは絶対に思っていないような用件をたくさん詰め込んだ感じのものなのだろう。
ふんと鼻を鳴らして、藤本は最後にMDウォ−クマンのイヤホンを耳につけながら、
そこでやっと気付いたように部屋の鏡で自分の姿を映し、荒れた櫛で髪を乱暴にといた。
そうして、まだ鳴っていた携帯を玄関に向かいながら顔だけで振り返り一瞥する。
ごめんね亜弥ちゃん、と心の中だけで両手をあわせて、
ちら、と藤本は手に持っていた小さい鞄に視線を移した。
(ケーキ一個のお金はちゃんとあったかな)
そんなことを心配しなければならないほどの自分の貧乏加減には嫌気が差すが、仕方がない。
- 62 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/01(金) 17:39
- 松浦は甘いもので簡単に釣れる、というか、相当に弱いというか。
彼女を怒らせた時はとにかく平謝りしながらさり気なく甘いものを差し出すに限る。
それが被害を最小限に止める一番の方法だ。
そのことをおそらく誰よりも一番よく知っている藤本は鞄から取り出した自分の財布を逆さまにして、
手のひらで落ちてくる僅かな小銭を上手く受け止めた。
ひぃ、ふぅ、みぃ。
一枚一枚を律儀に目で追ってその数を確かめる。
大雑把だだらしがないオヤジっぽいと自分で言っても人に言われても、
藤本本人はそれなりに計画を立てて行動する人間だ。ただそれが後に続かないだけで。
まだ銀行の貯金もいくらかあるし、財布の中にまさかケーキ一つの代金も入ってないなんてことは…
ない、と藤本が自分の頭の中で言い切ったのと、財布の中身を数え終わったのはほぼ同時だった。
「…あれ?」
外に出て後ろ手に閉めかけていた扉を、くるりと頭で振り返る。
藤本の片手には、鈍く光る土色が四枚、黄土色がニ枚、小さい銀が、七枚。
- 63 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/01(金) 17:40
-
- 64 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/01(金) 17:41
-
バンッと何も言わずに勢いよく閉めかけていた扉を開いた。
乱暴に踵の部分に指を突っ込んでぽいっと靴を脱ぎ捨てる。
鞄なんてなんのその。財布だけを取り出したまま小さい鞄は空を飛んだ。
邪魔くさいウォークマンのイヤホンをひき千切るぐらいの勢いで引っ張り、投げる。
「…もしもし」
嗚呼、電話が切れてなくてよかった。
切実にそう心底安堵した藤本には、キラキラ輝く青い空がいつも以上に煌めいて見えた。
『もしもし、みきたんっ?』
「ん、そだよ」
いつものようにまずは嬉しそうな声色で確認してくる彼女に、藤本はふと口元を緩める。
が、すぐに首を傾げた。今日はなんか、変だな。
声の色が嬉しいだけじゃない、今日は何故か、どこか興奮したかのような声だ。
今日は真夏日だからアイス一個と言わず、アイス棒のセットを買ってこい、とか。
今日は親が家にいないから家に来て夕飯作って、とか。
その松浦の声の調子の違いによって自らの身に起こる嫌な状況を想像した藤本は
早くも殴られてもいいから電話は取るんじゃなかった、と後悔した。
しかし。今後悔してももう遅いのは、本人が一番誰よりもよく分かっていることで。
- 65 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/01(金) 17:42
- 「……あ、亜弥ちゃんあのね、ミキ今全然お金持ってないからあんまり高いものは…」
アイスのセットにしてもせめて300円以内に収めてね、と続けようとしたところで、
松浦は『そんなことより!』、と彼女にとっては魅力たっぷりのはずの話題を足蹴にし、
藤本の脳裏が自然にあの全開のアイドルスマイルを思い起こすような声で言った。
『たん、見つけたの!』
「……ハァ?」
何をだよ。誰をだよ。どっちで突っ込むべきか迷った挙げ句、
突っ込むタイミングを逃した藤本は先走って突き出た右手だけを空中に浮かせたままで、
結局は「…何を?」と無難な方をとって聞き返そうとしたが、それより前に松浦が
まともな返事など期待していないという声で、再度興奮したように言った。
『あの七不思議の生徒、見つけたの!』
「……ハァ?」
思わず素の返答を二回も返してしまった。
まぁ、いつものことだが。松浦の話は脈絡がなくて分かりづらい。
ていうか、七不思議ってなんだっけ。学校の怪談系のものによく出てくる、あれか。
まずはそこから思い出している藤本の様子が電話の向こうからでも分かったのか、
松浦は『とにかく』、と言葉を一度区切って、少し冷静さを取り戻そうとした
自主的な深呼吸のあと、不意に一言だけ言い残して電話を切った。
- 66 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/01(金) 17:43
- 『今からなんとかしてそばの喫茶店連れ込むから、たんもすぐ追いかけて来てね!』
「え?いやミキはこれからまいちゃんのところに…」
ブチッ。
藤本はその音で自分の言葉が松浦に全く聞き届けられていないことを潔く悟った。
もし、松浦のところへ行かなければ…。考えると思わず身震いが出る。
やめておこう、ここは大人しく従った方が身の為だ。
小さなため息をついてから、諦めてこちらも携帯を折り畳んで、閉じる。
焦る余り辺りに散らかした鞄やらを拾い直して、身につけ直した。
携帯を手に握ったまま、またボロい戸を開いて外に出る。
これでもかというほど使い込んでいるシューズはもう所々やぶれかけてきていて、
藤本の気分を増々鬱蒼としたものにさせた。
しかし、これは仕方がないのだ。
携帯を開いてピ、ピとボタンをいじりつつ、藤本はきしむ階段を降りていく。
松浦には…相性の問題なのだろうか、どうにもこうにも手緩くには逆らえず。
藤本にとって、松浦は日本の法律よりも厄介な存在なのかもしれない。
- 67 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/01(金) 17:45
- (それに、あのこともある)
今は、我慢だ。そう自分に言い聞かせるべく藤本がうんと縦に頷く。
そうして今日も松浦の言う通りにするべく、里田に向かって
「ごめん野暮用」メールを送った藤本はぱちん、と小気味いい音で携帯を閉じて、
息をついてから何気なく空を見上げた。
「…ん?」
その時、ひらひらと青い空から小さなものが落ちて来たのを目に止めて、
藤本は慌てて落下点を見定めてからそこを飛び退き、丁寧に両手で受けとめた。
受けとめてから、ぴら、と指で摘んで落下物を広げてみる。
どうやら、白いハンカチのようだ。上から降って来たということは、
二階か三階の住民のものだろう。三階立てボロアパートを改めて見上げた藤本は、
少し考えてからどうするべきか迷った。
一人一人訪ねていってちゃんと持ち主を探して届けるべきか、警察に行くか、大家に行くか。
それとも、ネコババ?…いや流石にそれはマズイか。
藤本がハンカチを目の前に広げたままうーんと唸っていたそんなところへ、
ハンカチが降って来た場所と似通ったところから、今度は人の声が降って来た。
- 68 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/01(金) 17:45
- 「すみません、それ、私のです!」
上半身をすぐ上にある二階の階段から乗り出してそう言った人物の顔を
太陽の光に目を細めながら見上げて、藤本は思った。
(…お、美少女)
こんな…何度もしつこいが、今の家賃が高すぎると訴えても敗訴する気がしないほどの
ボロアパートには珍しい顔だ。
藤本は両指で摘んでいたハンカチを一度振り返ると、
その美少女はカンカンと響く階段を駆け降りてきて、すぐに藤本の前までやってきた。
瞬間、藤本の直感に何かが走った。
なんだ、この違和感は。瞬間的に五感を済ます。
目の前まで歩いて近寄って来た人間から放たれる何か。
ざっと藤本の目から見る限りだが、この少女はただの人間だ。特有の物を感じない。
だが、香る。あの匂いが。いつも嗅いでいる、あの匂いが。
動物的本能で身動きできずに硬直してしまった藤本のすぐ前で立ち止まったその少女は、
はぁ、と大きく息をついて、ぺこりと藤本の様子を不思議がるでもなく頭を下げた。
- 69 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/01(金) 17:47
- 「ご、ごめんなさい、暑いから窓開けてたら飛んでっちゃって…」
「……あ。いえ。どうぞ、コレ」
心底すまなそうな顔をして、まだ少し肩で息をする少女、
といっても恐らく藤本よりも年上だがどこか幼さを感じさせる顔に、
藤本は不意にハッとしてハンカチを差し出した。
なるべく自然な動作をしたつもりだが、何かを悟られなかっただろうか?
油断していたところに付け入られて、藤本は少なからず動揺していた。
あの匂いがするということは仲間だろうが、この人は仲間ではない。
この人が仲間ではなく----------
(この人の、匂いが移ってしまうほど近くにいる人間が、もしかしたら)
素早くそれだけのことを瞬時に考えると、ありがとう、と言いながらハンカチを
受け取った少女に無理に作った笑顔を向けてみせ、
とにかくこの場を離れようと考えた藤本は「それじゃ、急いでますので」と
無愛想に適当な言葉を残してハンカチの持ち主に背中を向けた。
- 70 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/01(金) 17:48
- 万一のこと、そう例えば、誰かは知らないがこの少女の近くにいる人間が
この少女に正体がバレでもしたら、連鎖反応で自分のこともバレてしまいかねない。
そう考えるとさっさと立ち去って関わりあいにならない方が身の為だ。
「…あ、お時間取らせてしまってすみません、ありがとうございました!」
という後ろからの声を背中で受け止めながら、
普段の行動にはなによりも慎重を先立たせている藤本は手をひらひら振ってみせながら
考えを頭の中でまとめると、問題の少女をその場に残して足早に歩き出した。
歩きながら気づかれないように後ろを振り返ると、
白いハンカチを丁寧に折り畳んで自分のズボンのポケットに入れている人の姿が見える。
あの少女と、恐らく少女の近くにいる自分の同志は、自分と松浦のような関係なのだろうか。
試験をクリアするためには、誰か最低一人の人間とは
親しい付き合いを持たなければならないのは知っているが、
まさかこんなに近い場所に同志がいたとは。今の今まで気がつかなかった。
そこまで頭の中で思い、不意にふぅ、と藤本はため息をつく。
(とにかく、今は行こう)
それまで恐々としていた松浦の顔が、あの少女に会ったことでふっと脳裏に浮かんだ。
藤本はずれた鞄を肩にかけ直して、完璧に少女から自分の姿が見えないと
確認出来る場所まで早足で歩いていくと、そこから一気に駆け出した。
- 71 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:07
-
- 72 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:08
-
「ヤグチ、大丈夫?」
「…ああ、なっちか」
心配そうな安倍なつみの声に耳をくすぐられて、椅子に腰掛けたまま軽く俯いて
目を閉じていた矢口はふと目を開けた。
途端に飛び込んでくる眩しいライトの照明に、少し目がチカチカする。
瞬きでそれを誤魔化して、書類を持ってきたらしい安倍に「なに?」と笑顔を向けると、
安倍は心配そうな表情を一瞬よぎらせた後、不意に机へ大量の書類を置き、矢口の頭を軽く撫でた。
「無理してない?…ほんとに、疲れてるんじゃない?」
優しく頭を撫でながらの安倍の問い掛けに、矢口は反射的にいつもの調子で
大丈夫だって、なっちも裕子の心配性がうつったんじゃないのー?と
ふざけて答えてしまおうかとも思ったが、結果的には口をぎゅっとつぐみ、
いつもなら子供扱いすんな!と怒るはずの安倍が撫でてくれている手を退けもせずに、
ぷしゅーと息を吐きながら机に向かって突っ伏した。
「…なっちぃ〜」
「はいはい」
「疲れたぁ〜」
「うーん、やっぱり?」
安倍が軽く困ったように笑う。
- 73 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:08
- されるがままに撫でられていた矢口は眉間にむっと皺を寄せて、
だって見ろよこの書類の量!と言いたげに手足をばたばたとばたつかせた。
「はいはい、わかった、わかったから」とその動作を止められて、
「なっちのせいでまた仕事増えた…」と矢口はうんざりしたように安倍の持ってきた書類を見て言う。
「こればっかりは仕方ないべさ。仕事だもん」
「それは分かってんだけどさ…」
「ヤグチも大変だろうけど、下の方の子達は接客業みたいなもんだからね。
デスクワークより体力も使うし、そっちの方が大変かもよ?」
「オイラもまだそっちの方がいいよー…」
子供の文句みたいにぶつぶつ呟く矢口の態度に、「ありゃりゃ」と安倍は笑った。
確かに、どちらかと言えば気性が体育会系な矢口からしてみれば、デスクワークよりも
全身を使って仕事をする接客業の方が向いているのかもしれない。
「でも、まぁ」と安倍はそんな矢口の気持ちのフォローにならないフォローをするために
ぴら、と自分の持ってきた書類を一枚めくって矢口の方向へ見えるように回した。
- 74 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:09
- 「ここんとこ成績優秀だからね。ヤグチが下に回る必要はちょーっとないかなぁ」
「うー。誰だそんなに業績あげてるやつはっ!」
「飛び抜けてるのはみーんなまとめてヤグチの可愛がってる黄金世代の子達だべ」
「……あいつら、恩を仇で返しやがって…」
それだけ低い声で恨むような声色で呟いた矢口は、
不意にがくっと力つきたように机の上で顔を伏せた。
何事か、と安倍が目を丸くすると、「なっちー」とまたぼそぼそとした声が聞こえる。
「なーにー」そう答えた安倍に矢口は持っているペンをぷらぷらと揺らして、手を上げた。
「…ちょっと寝かして」
言うなり自分が寝やすい体制を作って机の上で寝息を立てようとする矢口に、
安倍は「もー」と言いながらもこじんまりとした灰色のベッドの上にある
灰色のシーツを持ってくると、矢口の肩からふわりと掛けた。
- 75 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:09
- ぽんぽん、と頭を叩くと、少し不快そうに眉を潜める。
ほんと子供みたい。本人に言えば間違いなく怒りそうなことを考えた安倍は、
慌ててぷるぷると首を横に振った。疲れている時ぐらい、からかうのは止めてあげよう。
組織の最高責任者となっている矢口の最近の様子を見ていると、
なんだかこちらがいたたまれなくなってくる。
右腕と呼ばれている自分だからこそそう思う、彼女の日常。
矢口を日々追っているのはデスクワークだけじゃない。
普段なら自由を求めている矢口にこんなに大きな事態が全てのしかかっているのは、
どれもこれも、全て彼女が持っている特種能力のせいだ。
矢口のペンを握ったままの右手を見て、安倍はふっと睫を伏せる。
「記憶の操作なんて、…本当はしないほうがいいんだよね」
ふぅ、とついた安倍の小さなため息は、必要最低限しか置かれていない
殺風景ともとれるような矢口の自室の空気に紛れ込んで、消えた。
- 76 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:10
-
「…やぐっちゃん、いる?」
と、そんなところに。
部屋の空気を読み取ったのか、控えめに音を鳴らして扉を開いた斉藤瞳は、
矢口が眠っている真ん前で口に加えた灰色の葉巻をゆらゆら揺らしていた
安倍と目があった瞬間、にへらという効果音付きで微笑んだ。
安倍もそれに釣られて微笑みながら、いつも大概元気な彼女にしては珍しい控えめな態度に感謝する。
今矢口が目を覚ましてしまっては、…何度謝っても謝り足りないというかなんというか。
安倍本人が悪い事をした訳ではないのに、
今まで矢口に重要な仕事が大量に回ってきていたのに気がつきながら、
気の効いた言葉一つも言えなかった自分が情けなく思えて。
斉藤の手にある、また矢口の仕事を増やす書類を静かに受け取って
机の上に積み重ねると、斉藤は隣で矢口の様子を覗き込みながら、ふと安倍の方に目を向けた。
「なっち、なんで葉巻吸ってるの?」
「え?だってこれがないと…」
何気ない斉藤の一言に驚いた安倍は目を見開きながら隣を振り返った。
が、何事もないようにけろりと突っ立っている斉藤の口に葉巻がくわえられていないのを
見て、「あ」と自分の口から葉巻を取る。
- 77 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:11
- 「…ついいつもの癖で吸っちゃうなぁ…」
「なっちは外勤だもんね。デスクワークって慣れちゃったら楽だよー?」
斉藤の言う尻上がりな言葉に安倍は軽く笑う。
「今の分だけで十分だべ」
そう言いながら眠りこけている矢口の隣にこじんまりと置いてあった椅子を持ち上げて、
安倍専用に設置されている机のところで引いた。
ぎし、と古くなって軋む椅子に腰掛けた安倍に、斉藤は不思議そうに目を向ける。
「…なっち、デスクワークしてたっけ?」
「んーん、なっちは完璧外勤なんだけど」
斉藤が部屋の中央で、じゃあ、なんで?という疑問を表情に浮かべたのが見て取れた。
安倍はそれを横目で振り返りながら矢口の広い机に手を伸ばす。
机の角から角まで積み上げられた書類の山。その一番上の一枚をぴら、と捲って取ると、
ふわふわと柔らかく自分の机の上に置いた。
引き出しに入っている万年筆にインクをつける。
そこまで見てやっとピンと来たのか、斉藤はぽん、と手を打った。
- 78 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:11
- 「そっか」
「うん」
「そっかそっか」
「うん」
斉藤が嬉しそうに繰り返す声に、安倍もまた笑顔で相づちを打つ。
忙しい矢口。寝る暇もない矢口。
その暇を作ってあげるためのサポートに、右腕の安倍がいるのだ。
空中に止めたままの万年筆から垂れそうになったインクを危ういところで押し戻して、
安倍は最初の一枚に線を引く。キッと少し音を鳴らした筆は、細くいい線を書いた。
「…ねぇなっち」
その様子をまだ安倍の机の前で見守っていた斉藤が不意に呟く。
なに?と顔をあげた安倍に、照れ笑いを浮かべた顔はほんのちょっと間をあけてから、
「あたしも手伝って良い?」と首を傾げた。
突然の斉藤の言い出しに、安倍はきょとんと目を瞬かせる。
もちろん、人手が増えるのは願ったり叶ったりだ。が、斉藤は中位クラスのデスクに所属する。
- 79 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:12
- 「…ひとみんの仕事はいいの?大変っしょ、最近」
黄金世代と呼ばれる下位クラスの業績がいいので、それらをまとめることになっている
中位のデスクに回ってくる仕事の量はかなり多いはずだ。
それも個人に均等に割り当てられるようになっているので、
斉藤一人分の仕事の量はどんなものか、外で仕事をしている安倍には目測もつかない。
「んー、そりゃ大変だけど…。でも、いいのいいの!あたしもやぐっちゃん助けたいし」
「ひとみん…」
言いながらちゃっちゃと中澤に当てられている机(本人はほとんど座ったことがない)に
腰を降ろした斉藤は、適当に引き出しを開けて万年筆を手に取った。
そして安倍と同じように矢口の山から一枚手に取り、机の上に置く。
「…ありがと」
安倍がぽつっと呟いた声は、果たして届いたのか、届かなかったのか。
- 80 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:13
- いつもは安倍が一人でできるだけやっているものが、
今日は斉藤も加わったことによって二倍の速度で減っていく。
かといって中位の上ほどの位置にいる斉藤が上位の事情を知っているはずもないので、
見せられないほど重要な書類を斉藤に見られては困る事に思い当たり安倍は
ふとした拍子にはっとして顔をあげたが、斉藤がそれすらも見越して自分の階級にあった
書類を選んでいるのを見て、涙がでそうになった。
部屋の主が眠りこけている中で、書類の量が少しずつ少しずつ、着実に減っていく。
ただただ黙々と二人が俯いてペンを走らせている時に、斉藤がふと声をあげた。
「なっちー」
「…はーい?」
「あたしこういうのよくわかんないんだけど」
「ああ。じゃ、こっち回すべさ」
はーいと元気良く言った斉藤の方から、一枚の紙が矢口の机を通ってやってくる。
安倍はそれを受け取りつつ表記を見ると、組織の下位から上位までのしくみが
つらつらと書き綴られていた。どうやら新たな同志達に配る書類のようだ。
- 81 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:14
- 間違ってないか確認しろってことかな。そう考えながら安倍は一度手を休める。
下位クラスの仕事は多い。生まれたばかり、この世界にヒトと似た形を象って
生まれた同志達には、まずこの組織で自分がやることを徹底して叩き込むからだ。
まずやってきた子達には、先に生まれた上の位の人物達の道具の講座から始まり、
そしてその後、外勤を初めとし、基本的なデスクワークなど、全てを教え込む。
それから外勤やデスクワーク、一人一人がどちらに適しているかを判断し、
それぞれの仕事へと回っていくのだ。
下位クラスが中位クラス、中位クラスが上位クラスにそれぞれ昇進するのは難しい。
それに見合った実力と、人徳、それに難解な試験が待ち受けているからだ。
下位が中位へ上がる場合、まずは成績を確かめる書記をパスする必要があり、
次に待ち受ける試験は中位から上位へあがる時よりも難しいと言われている。
書記をパスした人物達は、この組織の交渉相手と主になっている人間の世界へと
足を進める。この時、組織の中に溜め込まれた『時間』が半年分彼らに渡される。
彼らはその時間で半年間人間の世界を生きて、試験の目標となっている
『人間の心理を読み尽くす事』ができるようになると、
その時点で組織に戻り、中位に昇進できることになるのだ。
- 82 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:14
- 「ここはあってる、ね」
この書類の下書きをまとめた人物は中々頭がいいらしい。
分かりやすく、それでいてなおかつ詳しい内容が一連に書き留められている。
ぐる、と赤く丸をつけた安倍は次の文へと目を泳がせた。
次に綴られていたのは中位クラスの仕事。
下位の時点で完璧に振り分けられた外勤とデスクは、この中位クラスでこそ能力を求められる。
下位は外勤と一言にはいっても、実力が飛び抜けていない限り、
それらのほとんどが中位にくっついてのサポートだ。
中位になれば下位の世話、一人での交渉の仕事を受け持たなくてはならなくなってくる。
デスクはデスクで外勤がまとめた仕事を書類に書き留めなければいけない。
中位から上位への昇進は、下位から中位になるための昇進試験よりもさらに困難だ。
一通りの筆記をパスし、精神状態の診断のための面接を受け、
そして最後にその時々の実技試験があるのだが、
実技だけは毎年データの漏れを防ぐためか、ころころと内容が変わるらしい。
実際に受けて通った安倍も翌年の合格者からテスト内容を聞いて首を傾げたことがあった。
- 83 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:15
- だが、上位と中位の間に主立った違いはない。
試験の難易度も関係はしているが、上位になれば中位とは違い、
仕事の一つ一つに何かのオマケがついてくる。
それが頂点に立つ人間、つまり矢口のサポートだったり、中位や下位の指揮官だったり、色々だ。
仕事に集中したいという同志達の中には上位の試験要請をせずに、
そのまま中位にとどまってひたすらにやりたいことをやっている同志もいる。
つまり中位から上位にあがるかどうかは人それぞれ、ということだ。
「…うん、完璧」
この書類を書いた人物は誰だろうか。役割としては中位のデスクがすることだが。
後で調べておこう。そう思って矢口にちら、と視線を投げた後、
安倍はとん、と紙を机の上で揃えた。
前を見ると、斉藤はまだカリカリと万年筆を滑らせている。どうやら中々苦戦しているようだ。
安倍はふと腕時計を見て、もう既に集中し始めてから時間が大分たっていることに気がついた。
矢口の机を見ると、書類の量は最初にあった七分の六ほどには減っている。
- 84 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:17
- 「ひとみん」
まだ紙にかじり付いていた斉藤の顔をあげさせて、安倍はちょいちょいと時計を指差した。
それで自分の腕時計を確かめた斉藤が、「あ」と声をあげる。
「そろそろ帰らなきゃ。流石に困るべ」
「う、うん…うわ、ほんとに急がないと。あっちゃんが怒っちゃう」
「はいはい、ほらほら急げ急げ」
「うわわっ」
安倍の急かす声に斉藤は素早く椅子から立ち上がって身支度を整えると、
「それじゃ」と矢口と安倍を一度振り返った後、急いで部屋を駆け足で出て行こうとした。
しかし扉を開けた瞬間ふと止まり、安倍をもう一度振り返る。
「なっち」
「ん?」
どこか神妙さをふくんだ斉藤の声に、安倍も思わず真顔になって返す。
そんな安倍を真直ぐに見据えながら、斉藤は少しだけ口に出していいものかと
迷うような間をあけた後、極控えめに問いかけた。
- 85 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 11:18
- 「…アイツ、みつかった?」
「……いや」
「…そっか」
じゃあ、いいや。
へへ、と笑って斉藤が改めて片手をあげる。
それに安倍も手をあげることで応じながら、少し寂しそうな背中が立ち去っていくのを
見送って、ふう、とため息をついた。
(…アイツ、みつかった?…かぁ)
本当に、組織力を持ってどこを探しても見つからない。
そんなはずはないのだ。組織は人間の世界の全てを煙のように取り巻いている。
人間の世界に行ったまま帰ってこない彼女。
このまま帰ってこないつもりなんだろうか。このまま消えてしまうつもりなんだろうか。
支給された半年という『時間』のタンクが切れてしまうと、
なす術もなく消えてしまうことしか選択肢は残されない。
- 86 名前:マルタちゃん 投稿日:2004/10/03(日) 16:27
- 書き込んでいいのかな?
駄目だったのならすいません
ちょっと矢口さんの事が分かってきたような感じですね
次回も楽しみにしてます。
- 87 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 17:09
- 何か事件に巻き込まれているのか、それとも自分の意志で戻ってこないのか。
『人間の心理』が読み取れた瞬間組織にはいつでも戻って来れることになってはいるが、
彼女ならすぐに理解し、一番にでも中位クラスとなって帰ってくると思ったのに。
「…たぶん」
彼女は自分の意志で帰ってこないんだろうな、と。安倍は漠然とそう感じていた。
- 88 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 17:09
- コンコン。扉が軽やかな響きでノックされる。
開いてるよと答えた安倍の声に反応して、ドアノブがゆっくりと回された。
きぃ、と軋んで開く扉。その向こうには大量の書類を胸に抱えた、
恐らく下位クラスの同志が戸惑ったように立ちすくんでいた。
「…ごくろうさま」
その書類を改めて受け取りながら安倍が笑ってみせると、
持ってきていた真面目そうな顔の子は早口の敬語で謙遜したのち、
真っ赤にした顔のままほとんど逃げるように立ち去っていった。
書類を胸に、取り残されたような形になってしまった安倍は後ろ手にドアを閉めながら、思う。
(取りあえず、さっき済ませた分はこれでチャラかな)
矢口の机に高々と積み上げた書類は、結局元通りの量へと戻ってしまった。
- 89 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/03(日) 17:13
- >>86
わ、すみません。ちょっとミスを直してたら全部書き込んだ気になってました。
矢口さんは重要人物になっていく予定なので、これからも頻繁に出る感じです。
そろそろ更新速度も上げていけたらいいなぁと思ってます。…思って、ます。
- 90 名前:鳥 投稿日:2004/10/03(日) 17:14
- …名前欄ミス。
- 91 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/08(金) 00:16
- おおお面白い!はまってしまいました。
なんというかもう気になることだらけ。
楽しみが増えました。ありがとうございます。
- 92 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:49
- 「…さて」
そう呟いて腰掛けた椅子は、ゆったりとした座り心地のいいものだった。
ぷか、と口から浮かべた灰色の煙は天井に近づくごとに丸みを帯びた形になり、
天井にぶつかる寸前にドーナツの形となって、消えた。
ごく、と生唾を飲んだ音だけが響く空間。
あさみはふわーぁ、と大きな欠伸をすると、近くにいたみうなを一端振り返ってから、
先ほどまで詰め寄るような形で話し込んでいた、
今やすっかり青白い顔になってしまっているこの店の主人の方に向き直った。
「…体調でも優れないんですか?前田有紀さん」
あさみが切り裂くような口調でズバリと言ってのけた言葉に、
正面の椅子に座り込んで肩を深く落としていた前田はハッとしたように顔を上げた。
小さい体でもなるべく不適に見えるような顔でにやりと笑ったあさみは、
半ば呆然とした顔をしている前田のことを気づかう様子を見せながらも、
隣の椅子に置いてあった鞄の中からわざとらしい動作で何枚かの書類を取り出す。
- 93 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:49
- 「これが、今お話したことの詳しい書類です」
「……」
「この部分にサインをして下されば、すぐにでもあなたの『貯金』は開始されます」
「……」
「…本当に大丈夫ですか?前田さん」
顔を覗き込むような体制を取って再度あさみが同じことを問いかけると、
今度は前田も震える声で「大丈夫です」と答えた。
その返答に少し肩を竦めてみせたあさみは、手に持っていた書類を机に置く。
ずら、と細かい字が詰め込まれた紙が三枚。
自分に向けた方向で置かれたその書類をしばらく見つめていた前田は、
紙を実際に手に取らず、その代わりといったようにあさみに向かって口を開いた。
「……本当、なんですか?」
「…本当、とは、なんのことですか?」
きゅっと絞めた顔で問いかけてくる前田を見て、あさみは適当な返事を返しながら
どうやら読まれそうにもない書類を手を伸ばして掴み、
また元通り灰色のクリアファイルに包んで鞄の中へとしまった。
- 94 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:50
- 「本当に…あなたの銀行に私の『時間』を貯金することができるのですか?」
「ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう」
不安そうとも期待しているともとれるような表情の前田に、
あさみはまた軽く肩を竦めて簡単に答えた。
が、前田はどうもその答えでは納得できないらしい。
まだその表情が緩まないことに目を止めて、自らもふと表情を引き締めたあさみは
自分の腕にはめた灰色の腕時計を指し示し、「時間とは贅沢なものです」と呟いた。
「人間にはおよそ平均して八十年の時間があります。それは短いようにも感じられるが、
実はとても長いものだ。だから人は自分でも気がつかない内に時間の無駄遣いをし、
時間を贅沢に、自分勝手に一人占めして使っている。…そう、前田さん、あなたも」
その内の一人です、と続けるあさみに、前田は少し面喰らったように「え?」と
取りあえず聞き返した。あさみがまた不適に笑う。
「安心してください、それは責められるべきことではありません。何故かといえば、
その人が時間をどのように使い、どのような人生を送ろうが、
結局は自分の身に返ってくることだからです。それになんと悲しいことに、
時間の無駄遣いを無意識の内に行っている人間はこの世界中の人類、ほとんどだ」
- 95 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:51
- ぐっと両手を大きく開いてみせることでその言葉のスケールの大きさを示したあさみは、
また灰色の鞄を手に取り上げて中身をあさり始めた。
前田はそんないきなりのあさみの行動に少しばかり目を揺らすが、
そうしている内にもあさみの口は止まらない。鞄の中を覗き込みながら続ける。
「例えば前田さん、あなたのこの店は…あー、そう、飲食店ですか。
この店の中でも時間の無駄遣いはされており、人で賑わって忙しくしているようで、
あなたは接客を何よりも大切とするためにわざと席数を少なくし、
一人一人の客に丁寧に取り合っている。はっきり言って、これも無駄遣いの一つなんですよ」
「…え、でもそれは……!」
「今それは違うと言い切ることがあっても、最終的には前田さんの人生に関わることなんですよ。
ここで、ましてやまだ若い内に時間を無駄遣いしていると全ては老後に返ってくる。
あなたはいつまでこの店を経営するつもりですか?それに…そうだ、
サービスもなるべく止めておきましょう。サービスをすることで売上の向上がどれくらい臨めるか知っていますか?
代償となる時間の価値に比べると、あまりにも小さすぎる」
「……でも」
「それに、雇っているウェイトレス。一人一人のスケジュールを考えて大勢の人間を
使うのは大変結構ですが、使うなら使うでもっと効率よく働かせなさい。
そう、従業員の中に一週間で一日だけ働きにくる人間もいる。
そんな人間はいてもいなくてもさほど変わらないでしょう。
解雇するか、そうせめて五日に仕事の時間を増やすかしていただければ、
今までのコストのままであなたの自由な時間がいくらでも増えてくると思いますよ」
- 96 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:51
- 前田の反論さえも遮る形で流暢な語り口調を流しきったあさみは、
そこで区切りをつけて、やっと鞄から見つけだしたらしい、灰色の葉巻が
揃って入っているケースを取り出した。見れば、彼女の口にくわえられている葉巻は
すでに小さくなり始めていて、吸うにはいささか不便を感じるようだった。
「さて」
とまた初めと同じ言葉で話を止めて、葉巻を新しいものにとりかえ、
古い方の物をゆっくりと店の灰皿で押しつぶしたあさみは、
前田と視線をあわせるように高い位置で顔をあげ、ふと人懐っこく笑ってみせた。
「それで、どうしますか?」
「……ぇ…え?」
最初に出した疑問の声が掠れて消え入りそうだったのに自分で気がついて、
前田は一度咳払いをしてからすぐに問いかけ直した。
あさみはそれを一向に気にするでもなく、太く柔らかい椅子の背もたれに体重をのせる。
そうしつつもくつろぐ様子で、葉巻をくわえたまま器用に煙を吐き出してみせた。
そして続ける。
「契約の話ですよ。我々はお客様を常に第一に考えています。
あなたがこの話をきっぱり断るというのなら、今すぐ帰らせて頂きます。別にこれは押し売りじゃないんだ」
- 97 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:52
- 「……あ」
何を言うでもなく、思わず呟いてしまった、という声色の前田の声はすぐに部屋の中の
空気に染みてなくなった。あさみはゆっくり考えて下さい、という風に片手を差し出す。
そんなことを言われても。とでも言いたげに、前田は動揺して揺れ動く目を
そんなあさみに向けた後、しばらくの時間自分の腕時計をじっと見つめながら
考える、もとい、迷っている素振りをみせ、そして最後にあさみの後ろにずっと立って
沈黙を守っているみうなの姿に目をやってから極僅かな長い息をはき、
ふと決意したように声を出した。
「…書類を、下さい」
「…よろこんで」
そこで初めて、あさみがにぃっと歯を見せて笑った。
- 98 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:53
-
- 99 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:54
- 「で、どうだった?このあたしの手腕は」
前田のサインが入った書類を手に外に出たあさみは、
そう言いながら後ろについて歩いていたみうなの顔を振り返った。
「いやぁ」
その少し自慢げな問い掛けに、みうなはへにゃっとした笑みを
浮かべてから「凄かったです」と答える。
「なんか、魔性の女って感じでした」
「……なんか褒めてんのか貶してんのかわかんないんだけどそれ」
じろっというあさみの視線にみうなはえへへと笑顔で返す。
その…なんだか見ていると無性に腹が立つ頭をぽかっと軽く殴ってから、
あさみは自分の手にある書類をじっと見つめて、
やがて満足げにやるじゃんあたし、と自分自身に向けてぐっと拳を握った。
木村麻美。愛称あさみ。実は中位クラスとなってから、初めての一人仕事だったのだ。
そんなあさみを教育担当に持つ下位クラスの斎藤美海はぱちぱちと拍手を送る。
「これでまともな報告ができますねー」
「そうだね。あーもう、ほんと成功してよかったぁ。
失敗でもしてたらまたまいちゃんにからかわれるとこだったよ…」
ほっと一息つくように胸に手をあてて表情を和らげるあさみの隣に追いついて、
みうなは「ですね」と笑いながら相づちを打った。
- 100 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:55
- まいちゃんこと、里田まい。中位クラスの外勤の行動を取り仕切る司令官であり、
あさみがまだ昇進前で下位だったころ、一足先に中位であった里田が
そんなあさみを今のあさみとみうなのように連れて回っていた。
それが理由で、やはりあさみが中位に昇進する一歩前に里田が上位に昇進して
お偉いさんの仲間入りを果たしても、あさみ、それにあさみを通じてみうなとも仲が良い。
「あ、そうだ」
里田の話があさみの口から出てきたことで、みうなはぱっと思い出した。
きょとんとするあさみを横目に自分の灰色の鞄をがさがさとあさる。
「ちょっと、どしたの?」「早く帰ろうよ」「おやつならあたしの鞄の中だよ」
そう隣のあさみがかけてくる言葉にうんうん唸り返しながら、
えーと、えーとと二人して人気のない道に立ち止まったままでいると、
しばらくして、やっとのことでみうなが目当ての物を見つけだした。
「そう、これ、これです」
そう呟きながらみうなが鞄から取り出してみせたものに顔を上げたあさみは、
その直後、瞬時にちょっとだけ眉を寄せた。
「さっきあさみちゃんが仕事してる時にまいちゃんから通信が来て。
これあさみちゃんに渡しといてって頼まれました」
「あらそりゃどうも。……で、ごめんだけど…何コレ」
「さぁ…あさみちゃんが見たら分かるって」
- 101 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:56
- 「ふぅん?」みうなの言葉に怪訝そうな顔になりながらも、
里田からの贈り物とやらを受け取ったあさみは無造作に外を包む茶封筒を破いた。
ビリビリという音がして、みうなは何故か片目を窮屈そうにつぶりながらその様子を見守る。
そのうち茶封筒の中身を無事取り出した後、
あさみはその真っ白の裏表を一度ひっくり返して「え」と声をあげた。
みうなから見えるあさみの目が、文面を追って右左と忙しく横に揺れる。
何枚にも重ねられた書類の内、一枚目の書類の終わりほどに視線を落とした時、
あさみの顔色は明らかに変わっていた。
「…どうかしたんですか?」
そのままでは自己完結してしまいそうな雰囲気のあさみに、
隣に立ったみうなはなにも返事をしてくれないあさみの顔を見た後、
上から封筒の中身を覗き込む。
封筒の中身は白い書類だった。それは一目で分かったものの、
その内容が小さい文字で綴られていてややこしそうだ。
きゅっと目を細めることで焦点をあわせ、少しでも視界を綺麗にしたみうなは
書類の一番上に黒い文字で書かれた文体を読んで、思わずといったように呟いた。
- 102 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:56
-
「…ハンギャクシャ、…出現?」
「っみうなッ!」
ぽつっと呟いたみうなの口をはっと我に返って慌てておさえたあさみは、
右左と辺りの道路を振り返って同志の姿がないことを確かめた。
同じような灰色のコートを着て、灰色の葉巻を吸っている姿は目につくところにはない。
見えるのはそこらの家の前で植物に水をやる女性と、角の電話ボックスに寄り掛かっている男性のみ。どちらも人間だ。
だが、まだ油断はできなかった。
「…みうな、ついてきて。静かにね」
「え?あ…はい」
「すみません」そう返事をしてから慌てて自分の口を押さえたみうなに、
あさみはしーっと人さし指を立てて『もう口を開くな』というジェスチャーをした。
それにこくこくみうなが頷いたことを確認してから、
『じゃあ行くよ』とあさみが足音を立てずに道路の真ん中を走り出す。みうなもそれに続いた。
- 103 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:57
- みうなやあさみら、灰色の彼女らは普通の人間達には姿が見えないので、
人間に不審がられる心配はおそらく0だ。堂々と道路の中央を駆け抜ける。
前から吹く向かい風に口元の葉巻の煙は大きくなびいた。
シュッシュッと前に出す足を入れ替える時に鳴るコートの音は、
なにやらずらりと並んでいる車のクラクションに紛れて聞こえない。
ちら、とみうなが前に目をやると、すぐ先の信号機が赤に光っているのが見えた。
行列しているたくさんの人間の車を縫うように、
時にはすり抜けて走る小さいあさみの動きはすばしっこい。
足下の道路の白線を適当な目印に、見失わないようについていくのに精一杯だった
みうなは、そのおかげであさみが途中さり気ない動きで裏の路地に入り込んだことに気がつかなかった。
五歩ほど通りすぎ、あれ?ときょろきょろ右左を振り返ったところで後ろから
力強く手を引かれ、みうなは後ろ向きに細い路地道の中へと倒れ込む。
「シーッ」
自分がいきなり引っ張って転ばせたのに、全く悪びれない顔で人さし指を立てる
あさみにみうなは少しだけ不満顔を向けた。
- 104 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:58
- 「…行くよ」
が、すぐにそうまた背を向けて歩き出したあさみに気づいて慌てて起き上がる。
どうやら相当なことらしい。足早に歩くあさみの横顔が真面目な表情なのを
横目で盗み見て、みうなも大股でついていく。
そのまま一定の歩調でしばらく歩き続け、路地の入り組んだ道を
帰り道が分からないぐらい適当な方向に進んだり、曲がったりしていると、
しばらくしてあさみがふと足を止めた。
ちら、と目だけで振り返ったあさみはそこでまた静かにしてろという仕草をしてから、
ゆっくりすぅ、と息を吸ってすぐ傍の壁にぴたりと耳を当てた。
あさみの目が閉じられる。
それに習ってみうなも顎をあげて灰色の暗雲渦巻く空を見上げ、
ふと目を閉じて辺りに耳をすませた。
車のクラクション、自転車のベル、人間の声、葉が風になびく音、
遥か遠い駅で走る電車の音、じょうろの水が花にはねる音。
灰色の彼女らは耳がいい。人間の地獄耳といわれるようなものとも比べることさえ無意味なほどに。
だからこそ、先ほどのみうなのつぶやきが聞き取られた可能性もあるのだ。
あさみはじっと、ぴくりとも身動きせずに辺りの音を聞いていたが、
ふとした瞬間目を開けて、自分の腕時計を盗み見た。
無音で秒針だけを黙々と進める時計の針を読んで、「OK」とあさみは不意に呟く。
- 105 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:58
- その呟きに反応して、空に向けていた顔をふと元に戻したみうなは
「誰も追ってきてはないですよね」と用心深く潜めた声であさみに話し掛ける。
そもそもみうながつい声に書類を出して読んだ時だって、周りに同志がいると
断定していたわけではなかった。ここまでこうして逃げてきたのは用心に用心を重ねてのことだ。
が、万一のことを考えてのそのみうなの言葉に軽くこくんと頷いてから、
あさみは「けど、まだ気は緩めないで」と慎重に告げて、みうなに顔を寄せるように手招きをした。
足が砂利を踏む。しかし、音はしない。
あさみはすっと書類をみうなにもよく見えるような位置に差し出し、
今度は声に出すなよ、と言いたげな目でみうなの顔を見た。
それにハイ、と唇の動きだけで答えてみうなは書類を受け取る。
さっきは気がつかなかったが、書類の裏には同志諸君に宛てがわれる特別で重要な
書類にだけ押されることになっている最高司令官の印があった。
あさみはこの印に最初から気がついていたから、みうなが思わず声に出してしまった時に
あのような素早い対応を取れたのだろう。こんなところに中位と下位の差を感じる。
滅多なことでは目にしない印を目の前にしたみうなは
ぱちぱちと瞬きをして書類を裏返し表を向けると、やはり一行目には変わらない、
先ほどと同じ文体で同じ言葉が綴られていた。
- 106 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:59
- 『反逆者、出現』
隣のあさみがまたぎゅっと目を閉じて口の中で「まいちゃん」と呟くのが聞こえた。
その声を小耳にしながらみうなは一枚目の内容をざっと流し読みして、
先ほどのあさみと同じように顔を青ざめさせる。
さほど上部とは接触がない下位のみうなにも分かるほど、それは重大な内容だった。
二枚目三枚目を続いてめくると、その反逆者の外見のデータや特徴、
それを捕まえた時に行う厳重な取り締まりが綴られてあった。
あさみさん、と小さく言ってみうながあさみを振り返る。
が、あさみは「ちょっと待って」と呟いたきり、集中した様子でだんまりになってしまった。
どうやら里田と通信を取っているらしい。
それじゃあ、とみうなはその間もう一度書類をじっと注意深く読み直して、
あさみが目を開く時まで、手を口元に当てて考え込んでいた。
反逆者。まさかそんなことを目論む同志が今まで存在していたとは。
まだ現世に存在するようになって間もないみうなにとって、
この事件は素晴らしく大きな衝撃だった。どうして裏切る、どうして逃げる。
(だって、仕方ないじゃない)
みうなは心の中だけで呟いた。
自分達が生きるためには、そうするしかないんだから。
- 107 名前:ですから、先ほどからそう申し上げているでしょう 投稿日:2004/10/08(金) 22:59
- 「…みうな」
そうして、不意にぱっちり目を開いてそう呼びかけてきたあさみの声に、
みうなはすぐにいつもの顔になってハイと振り返った。
「…中々、凄いことになったかもよこりゃ」
「…どういうことです?」
髪をわしゃわしゃとかきあげながらそう深々と言ったあさみに、
みうなは眉を寄せながら聞き返した。里田との通信で何か新事実でもみつかったんだろうか?
反逆者とされた人物の名前には、みうなも耳に覚えがあった。
確か黄金世代の中心人物となる人で、おそらく大部分の同志がその名前を
聞いたことがあると答えるであろう、次世代の大物だ。
ふぅ、とあさみはまた不機嫌そうにため息をつくと、
みうなの顔を真直ぐに見つめながら真剣な顔つきで言った。
「外部勤務副司令官里田まい直属の部下、木村麻美、斎藤美海両名に任務を下す。
それぞれの上官直属の部下と共に力を合わせ情報を利用しあい、
組織の貯蔵庫から時間を盗み出した反逆者を捕らえよ。実在、消失は問わない」
すぅ、とあさみが大きく息を吸い込んで、そこで少し歯軋りするのが聞こえた。
「反逆者の名前は…」
- 108 名前:鳥 投稿日:2004/10/08(金) 23:04
- >>91
面白いと言っていただけで光栄です。
気になる、楽しみとは…ほんと頑張ります。
こちらこそレスありがとうございました。
- 109 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/11(月) 15:42
- 「たん、こっちこっちー!」
「あ、こんにちは藤本さん」
「……ちっす」
場所は喫茶店。冷房ガンガン。寒がりの藤本としては少々身に辛い場所だ。
そんなところで、松浦と高橋は向かい合せの席に座って入口の扉を開けた
藤本に向かってぶんぶんと元気良く手を振っていた。
すぐに歩いて近づくと、礼儀正しく挨拶をしてきた高橋に愛想のいい笑みを
浮かべて返しながら自然な動きで松浦の隣に腰を降ろす。
「遅かったねぇ」
「…ま、色々あったからね」
チューと自分のジュースをストローで啜りながら話しかけてきた松浦に
曖昧な返事で答えた藤本は、忙しそうに動き回るウェイトレスを捕まえてホットミルクティーを頼んだ。
「フーン」と、特に何故遅くなったのかには興味がなさそうな声で呟いた松浦は
不意に高橋と視線を合わせ、にんまり笑う。
そうしてすぐに、藤本の肩をちょいちょいとつついた。
「…?なに?」
「あっちあっち」
不思議そうな顔で藤本が振り返ると、ちょっとイタズラっぽく笑った松浦は、
ちょいちょいと小さい動きで親指を少し先にある席に向けてみせた。
藤本が目でその指の進路を追うと、やはり他のウェイトレスと同じように、
しかし遥かにキビキビした動きで、藤本の目にも一寸の無駄もなくてきぱきと働いている
一人のウェイトレスの姿が見えた。
- 110 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/11(月) 15:42
- 「……彼女がどうかしたの?」
ちょっと顔を傾けて覗き込んだ顔は中々愛らしい。お嬢様風と言えば分かりやすいだろうか。
松浦のタイプはあんな顔だったっけ、ともう一度松浦を振り返ると、
先ほどよりもますます笑いをイタズラっぽく染めていた松浦は違うの、と
声に出さず、口だけを動かした。
「…あの子なの」
「ハ?何がさ」
「だからーっ」
きょろきょろと辺りを見回して、知人友人、もしくは自分達の話に興味を持っている
ような素振りを見せている人物がいないことを確かめてから、
松浦はぐっと身を乗り出して藤本の耳もとに手を当て、小さな声で呟いた。
「ウチの学校の伝説の七不思議の子!…ホラ、急になんか、忙しくなっちゃったっていうか、
とろとろしてたのがせかせかするようになっちゃったっていうか…」
「…ああ」
そういえば電話でもそんなこと言ってたっけ。
思い出した、というように縦に頷いてから、ん?と藤本は改めて首を傾げる。
松浦の今いっている高校は、藤本の昔通っていた高校であり。
三年間その学校の生徒として通っていただけでなく、後藤、吉澤に代を譲る前は
藤本は一人で学校のボス、兼裏番(つまり表裏共ボスということだ)の名を張っていた。
そこらの平凡な学生よりはずっと高校の裏事情まで通っていたはずだが、
松浦ごとく『ずっと昔から伝説って言われてる七不思議』とやらは聞いたことがない。
- 111 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/11(月) 15:43
- 「藤本さん藤本さん」
じゃあここら一、二年で新しくその七不思議とやらはできたんだろうか?
いやそれではずっと昔からの伝説というフレーズが通らないな、と
藤本が難しい顔をして考えていると、斜正面から高橋がストローを口に加えながら
「いつものことですから」と苦笑いした。
それに藤本も「ああ」と納得する。
「いつものことね」
松浦は昔っから、どうも事を大きくして言いたがる癖があるのだ。
多分七不思議とはいっても、不思議はこの今追っている件しか存在しないんだろう。
訛ってて、しかもたまに抜けている高橋がそのような表情をちらっと見せたのを
見逃さなかった藤本は、なんだ、と気を抜いた顔で松浦を見た。
話題の松浦はといえば、ソファの影からなんとかして連れ込む、
といっていた目当ての子を凝視することに夢中である。
「…ところでさぁ」
そんな松浦を横目で呆れて見ているうちに、ふと気がついた。
松浦は確かに電話で『今からなんとかしてそばの喫茶店連れ込むから』と言っていた。
なんとかして、と言えば真っ先に浮かぶのは力ずくでの強制連行しかないが、
今松浦が見つめているのは店の中でてきぱきと働く一人のウェイトレス。
明らかに自主的にバイトをしにきたとしか見えない。
- 112 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/11(月) 15:44
- 取り合えずそこからまとまらない話を聞いていこうと思った藤本は、
隣の松浦に一度目をやってから逸らし、まだ幾分か冷静そうな高橋に話しかけた。
「ミキの電話の後、どうなったの?詳しく話してよ」
「え?…ああ、そういえばまだ話してませんでしたね。
あの後亜弥ちゃんはすぐにあの子を捕獲しようって張り切ってたんですけど、
ほら、色々とマズイじゃないですかそれは。あ、あの子バスケ部の部員らしくて、
体育館で練習してるとこを見つけたんですけど。いきなり連れてっちゃったら後の
言い訳とか、大変でしょ?」
「そりゃそうだ」
おそらく興奮して飛び出そうとした松浦を懸命に押しとどめてくれたんだろう。
妹のような存在の松浦を軽い犯罪者にする前に止めてくれた高橋に
自分では感謝を表すつもりのキラキラ輝く目線を送ると、
「なに怒ってるんですかぁ」と怯えた顔で言われた。どうもこの目では通じなかったようだ。
少しばかり照れながら、それを誤魔化すようにごほん、と咳払いをした藤本は
「それで?」といつもの表情を取り繕って先を促した。
「…それで、その後なんですけど。バスケ部が終わるまでちゃんと待って、
それまで暇だったんであの子についての情報収集とかしたりしてたんですけど。
あ、聞きます?一応基本的なデータは集めましたけど」
「…なんか探偵みたいだね」
探偵っていうか、もしかしたらあと一歩で犯罪ってとこまできてるんじゃないだろうか。
ついさっき松浦を犯罪者にしなくてよかった、と安心したところなのに、
今度は自身の善悪が疑われて藤本はぴくり、と頬を引きつらせる。
- 113 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/11(月) 15:45
- まぁ、それでも聞かないわけにはいかないだろう。
「取りあえず聞いとくよ」と藤本がやっと運ばれてきたミルクティーの渦巻く水面を
見つめながら言うと、高橋は自分の鞄の中から女子高生らしい小さい手帳を取り出し、
そのページをぺらぺらとめくり出した。
「名前は、えーと、…紺野あさ美。1987年5月7日生まれ。高校二年生。B型。
出身は北海道。食べ物はほぼオールオッケー。特にイモ系が好き。
成績優秀、スポーツは長距離、球技が得意。バスケ部には球技で持久力が
要求されるものを選んで入ったらしいです。うちの学校陸上部ないですからね」
「へぇ」
素人の情報収集などほんのお遊びのような物だと思っていた割には、
中々それなりに調べてある。勿論、プロの目からすればまだまだだけれど。
今が丁度いい温度のような感じがするミルクティーに口をつけながら、
藤本は素直に感嘆の声を小さくあげた。
「…それから?」
「はい、それからですね…ってその前に、藤本さん、今私らがなんであの子を
追いかけてるのか、亜弥ちゃんから聞いてますか?」
促しの声に返ってきた高橋の確認の意図が混ざった言葉に、
藤本はちょっと目線を上にあげ、ぐるぐると扇風機が回っているのをじっと見つめた後、
不意に目線を戻してううんというように首を振った。
そんな藤本に「だと思いました」と言いながら一度松浦をじろっと睨み付けた高橋は
一から『学校の七不思議』について、事細かに説明し直してくれた。
- 114 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/11(月) 15:47
- 突然唐突に、全くなんの予兆も前兆もなくごく普通の人間の様子が変わってしまうこと。
しかもそれが今学校の中で先生生徒問わず多発していること。
外を歩き回ってみても、注意してみれば学校の中よりは数が少ないがちらりほらりとは
同じような人間が目につくこと。
そして、紺野あさ美もその被害者の一人だということ。
松浦からの電話が藤本の元にかかってくるまでの経緯も全て話し終えた高橋は、
そこで一端息を小さくついて、「それで私達二人でなんでこうなったのかを解明しようと思いまして」
と言葉の最後を締めくくった。
それまでじっと腕を組んで聴き手に回っていた藤本は、その言葉を区切りに
小さく身じろぎをすると、「ふーん」と興味なさそうな音のアクセントで、
しかし内心は早鐘うっている鼓動を隠して、テーブルについた手に顎を乗せた。
(…いきなり変わる人格の謎、ねぇ)
心の中だけで探偵ものの推理小説のサブタイトルのような言葉を呟いた藤本は、
ふーと息を吐いてさり気なく目を閉じる。
おそらく、というか、絶対に。
その人格変異というのは、藤本属する組織の手によるものだ。
今日は何故か考えさせられることが妙に多い。それも、自分の同志に関するものが。
やっぱり殴られてもいいから来るんじゃなかった、と藤本は顔をゆがめたくなったが、
どちらにせよ松浦が家に帰ってくれば聞かされたんだろうと考えると、
全体が見渡せるこの場にいることは、突き詰めれば実は幸運なのかもしれない。
- 115 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/11(月) 15:47
- 人間にバレてはいけない。万が一察知されれば、その件に関与したものは全て抹消。
人間に自分達のことは尻尾の毛先さえも掴ませてはならないのだ。
「それで、藤本さんはどう思いますか?」
「……どうってのは、なにが?」
例の紺野あさ美が近くの道を通りすぎて、それを食い入るように見つめていた
松浦の後頭部をこつんと小突きながら、目を閉じて深く考え込んでいる藤本に向かって
高橋は眉を寄せながら意見を求めた。
もちろん、松浦の不満そうな顔の訴えは一切無視したままで。
松浦はもういいよと言いたげに、紺野あさ美をずっと見張っているのにも
飽きてきたのか、不服そうな素振りでソファの背もたれに寄り掛かるとため息をついた。
「だから、その七不思議のことで。急に人が変わるなんて、あり得ると思いますか?」
「……」
そんな松浦にも一切気をやらず、
高橋が利口な表情でそう投げかけてきた質問に、藤本は迷った。
(…どうする?どうすればいい?)
ざっと、まずは自分の選択肢を頭の中に並べる。
一番、協力的な顔をしながらも適当な言葉を並べて誤魔化すか。
二番、非協力を取ってばっさり切り落とすか。
三番、嘘八百を言って本筋とは全く違う方向にこの二人を進めるか。
- 116 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/11(月) 15:48
- ほんの少し沈黙の間をあけて、藤本は鼻先に当てた手で隠れた口元をにぃっと緩めた。
「現実的に考えれば、…有り得ないよね、そんなことは」
ふ、と目元を机に落としてみせながら、それらしい言葉を声に乗せる。
何分藤本は組織内でも一、二を争うほどの演技下手だ。
『台詞』が棒読みにならなかっただろうか。少し不安げに高橋を盗み見て、その表情にほっと一息つく。
「ですよね」と頷く姿は、藤本になんの疑いも抱いていないようだ。
「一人二人なら分かるけどさ、大勢がいっぺんになっちゃうんでしょ?
それも性別、年齢層問わず。そんなこと…信じられないよ」
「そうなんです、私もそう思いました。けど…」
現実に、いるんですよ。
そう呟いた高橋の声は、消え入るように萎んでいった。
そこでタイミングを見計らって、藤本はため息をつきながら腕を組む。
ここで頼られている立場になる藤本がお先真っ暗の発言をしてみれば、
猪突猛進の松浦は分からないが、おそらく高橋は深く考え込むに違いない。
頭脳派の高橋をしばらく封じてしまえば、いくらか藤本達の存在を知られるまでの時間は稼げる。
その間にこちらも組織に報告して、新たな手を打てば大丈夫だ。
- 117 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/11(月) 15:48
- 予想通り、今にも「しばらく考えてみます」と席を立ちそうな高橋を前に、
平静を装ってすっかり冷めたミルクティーにまた口をつけようとした藤本は、
不意に隣からあがった「ひゃっ」という素頓狂な声にカップを取りこぼしそうになった。
「ちょっ…もう、変な声出さないでよねー!」
少し着ているシャツにこぼれたミルクティーを指で拭き取りながら怒る藤本に、
高橋も同意するように言葉を繋いだ。
「ほんまやよ亜弥ちゃん、なにをそんなに驚いて…」
見つめられたこちらがぎょっとするくらい、もともと大きな目をさらに大きく見開いた
松浦が震える指先で指し示した場所に目線をやった高橋は、
諌める言葉が途中にも関わらず、中途半端に開いた口のままでぴたりと動きを止めた。
その光景を無気味に見守りながら、不可解に思った藤本は訝しげに眉を寄せながらも
すぐ前で固まってしまった松浦の体を通り越した向こう側に目をやる。
そして、止まった。
「…私がどうかしましたか?」
驚きに満ちた三つの顔に一斉に見つめられて、いつの間にウェイトレスの制服を
着替えたのか、鞄を肩にかけ、私服姿で外に出ようとしていた紺野あさ美は
そう不思議そうに早い口調で首を傾げた。
- 118 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 14:50
-
紺野あさ美は、やはり遠くで見ても近くで見ても、
どこかお嬢様然とした礼儀正しい顔つきだった。
ベースは眉をハの字にする、どうも押しには弱いことを全開にした顔で、
藤本はミルクティーを啜りながら今の状況に自分の不利を見取っていた。
「初めまして、松浦亜弥です」
そう取ってつけたような挨拶をしながら、強制的に席に紺野を座らせようとしたものの
顔とは裏腹に意志は強く、「知らない人の言うことを聞いてはいけないと言われているので」
と優等生のような言葉を言って歩き出そうとした紺野に、生徒手帳を見せて、
「これ!あたしらあなたの先輩!なんかあったら学校に訴えていいから!」と叫ぶやら、
まぁ大変なことを色々と間に挟みつつ。
結局「このお店話題のスィ−トポテトを奢る」という高橋の案に
あっさり折れた紺野は、席をつめた高橋の隣、つまり松浦の真向かいに座っている。
彼女自身は幸せそうに運ばれてきたポテトを頬張ってはいるが、
近くでよく見たから分かる、その顔の異常さに高橋は目を奪われていた。
目の下の黒いクマ。まるで三日三晩眠りをとっていないかのようだ。
きょどきょどとよく回る目。今はポテトに夢中だが、決まった間隔を置いては
落ち着きなく自分の手元や周りを見渡し。
落ち着きない足。机の影で先ほどから紺野はずっと足踏みをしている。
- 119 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 14:51
-
(それに)
高橋は紺野がポテトを自分の口に運ぶべく、
右手をひょいと空中に上げた瞬間を見逃さなかった。
右手の小指側面に見える、鉛筆で擦りつけたような黒い跡。
よく、長時間鉛筆を持って何かを書いていたりするとああいう跡ができることを
高橋は知っていた。それも紺野のものは黒いを通り越して、どす黒い。
よほど何かを懸命に書いていたんだろう、ちょっとやそっと手を洗っただけでは
どうにも落ちなさそうに見えるほどだ。高橋は首を傾げる。一体、何をしているんだ?
丸い形をした、中々大きなスィ−トポテトを全て食べ終えて。
チャリンとフォークを置いた紺野は、幸せそうに緩んだ顔のまま、
ふーっと大きくため息をついた。
「ごちそうさまでした」
「…幸せそうに食べるねぇ」
「それはもちろん、幸せですから」
松浦の思わず、といった呟きにもにっこり笑顔で返す。
しかし目の下にクマを作ったまま笑われても正直、怖い。
松浦はアハハ、と少しアイドルスマイルを見せてから、隣でミルクティーを全て
飲みきった藤本の方にほんの少しすり寄った。
「…じゃあ、本題に入りたいんだけど、大丈夫?」
その松浦の頭をちらりと一度一瞥してから、藤本は紺野に向き直って口を開く。
「あ、はい。もちろんです」
スィ−トポテトは既に自分の腹の中。
ここで断るのは自身の信念に反する、といった力強い顔つきで
ちゃっかりウェイトレスに新しい烏龍茶を頼みながら紺野は頷いた。
が、すぐに「でも、」と人さし指を一本立てる。
- 120 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 14:52
- 「その前に一つだけいいですか?」
「?何?」
「話はなるべく短く、単刀直入にお願いします。時間を無駄にしたくないので」
聞き返した藤本に、紺野はすらすらと息継ぎ一つもせず言い切った。
それに「…ああ、うん」と少し呆気に取られながらも藤本は頷く。
正面の高橋が時間を気にするように自分の腕時計を振り返ったのが横目に見えた。
「それじゃあ、聞いていい?」
そこでいきなり話に首を突っ込んできたのは、松浦だ。
藤本の肩にすり寄せていた自分の額を離して紺野を真直ぐに見据えた彼女は、
自分の鞄から腕時計を取り出した紺野に詰め寄るように、少し前に体を倒した。
「はい。どうぞ」
笑顔というよりは微笑を浮かべて柔らかく対応した紺野に、
松浦はやはり怖気付きながらも今度はなんとか言葉を続ける。
「じゃあ、聞くけど」松浦は一度言葉をそこで区切ってから、また改めて口を開いた。
「あなたをそんなに急がせている理由って、何?」
「……急がせている?」
聞き返した紺野に松浦は「えーと」と呟く。
「急がせているっていうか、時間を気にしてるっていうか、なんていうか…」
「ああ、分かります分かります」
駄目だこりゃ、と高橋が頭を抱えた隣でそう手を打った紺野に、
藤本は何故か思いっきり腹を抱えて笑い出したい衝動に駆られた。
一方、松浦は伝えたいことが通じてぱぁっと明るい顔になりながら、
「じゃあ」と期待を込めて言う。そんな松浦にまた微笑を浮かべた紺野は、
「私が時間を『節約』するわけ。それはとても簡単です」
と目元を柔らかく緩めた。
- 121 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 14:53
-
「松浦さん、でしたよね。私は高校二年生、今年で17になります。
人間の女性の寿命は平均していくらか知っていますか?およそ80です。
80−17=63。私はまだ63年生きれて、それはとても長い人生ですよね」
「……そう…なの?」
「そうなんですよ。しかし長い人生だからこそ、ヒトというものは贅沢になる。
時間はいつか限りが来るものです。そのことに気がついているくせに
気がついていないフリをしている人達があまりにも多い。
何故彼らは気がついていないフリをするのか。それは怖いから、自分の死という瞬間を
この目で真直ぐ見つめることが怖いからなんです」
同意を求められて間に相づちのような、よく分からない松浦の言葉を
笑顔でさらりと流し、紺野は相変わらずの流暢な早口言葉で
まだまだ熱っぽい言葉を捲し立てる。
「そういう人達は至って平凡で、至って普通の人生を送ります。
しかしこれが…そうですね。近い内に、後10年もしたら古い生き方になるでしょう。
人類の生き方は進化するのです。物心ついた時からどうすれば有意義に生きれるか、
どうすれば時間を無駄にせずにすむのかを考えはじめればとても良い。
常に人々は自分がすることを先立って考え、そしてそれらを一拍の間もおかずに
実行する。これこそが理想の生き方。これこそ人間に生まれてきた価値が有るというものです」
「だから、それに早く気づいた私は自分でも幸運だと思いますよ。
まだ無駄なことを一切無くすなんて事はできないものの、
確実に時間の節約は実行できています。のんびりする時間は全て後回し。
そんなもの、体が動かなくなってからゆっくり楽しめばいいじゃないですか。
ですから私は勉強するのです。今は勉強をひたすらにやって、
それを乗り越えれば今までの成果が見える、とね。
…そうだ、ここにたくさんのオヤツがあるとしましょう。
いっぱい種類のあるクッキーやケーキ。その中で一番好きなもの、自分にあう物を
最後まで残しておいて、そして最後の素晴らしい一口にする。…それと同じです。
私はその瞬間までじっと耐えれる自信があります。だから、あなた方や皆さんとは違う
生き方をする。これだけのことですよ」
- 122 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 14:53
-
全てを話し終えて。不意に満足したように大きく肩で熱い息をついた紺野は、
目の下のクマをこれはその証だとでもいわんばかりに愛しそうに指でなぞり、
そして最後ににこりと笑って締めくくった。
紺野の口が動いて熱弁している間中、松浦はひたすら呆気に取られた顔で
その素早く回る口をじっと見つめ、高橋は氷で固まってしまったかのように
ぴくりともせずにその一言一言に聞き入っていた。
藤本は紺野が話し終えたことを悟ると大きな大きな欠伸を一つして、
そして眠たげな目を紺野に向ける。
そんな三人の様子を黙ってしばらく見守っていた紺野は、
不意に残念そうに息をついた。まるでこの三人の中には自分の考えが
理解できる賢い者などいないのか、とでも言うように。
そこで、紺野はまた微笑んだ。今度ばかりは先ほどまでの愛らしい微笑みではなく、
少し皮肉を混ぜたような笑みだった。
「…でも、さぁ」
そんな態度が急変した紺野をぽかんと間の抜けた表情のまま見つめていた松浦は、
不意に小さい自信のなさそうな呟きで沈黙を破った。
話し掛けられた、それも前置きから察するに反論された紺野は
「なんです?」と真面目な顔になって、話している間中それまで一度も振り返らなかった
松浦の方をゆっくりと振り返った。
その視線に少しだけたじろぎながらも、松浦は「難しい話はよくわかんなかったけど」と
少し首を傾げながら言う。
- 123 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 14:54
- 「オヤツの話だけどさ。ウチだったら最後まで好きな物取ってたりすると、
妹に横から全部取られてなくなっちゃうよ?」
その言葉に、藤本はついに押さえ切れなくなったのかぶっと勢い良く吹き出した。
高橋は硬直した体を解かされたようにきょとんとした顔で瞬きをして、
言葉を真に向けられた紺野はやれやれ、と言ったように肩を竦める。
「…おっと」
そうして自分の腕時計を一瞥した紺野は上がった体温を冷ますかのように
上着を脱いで、座席から素早い調子で立ち上がった。
「あなた方に声をかけられたのが午後六時三十分。今現在は午後六時五十分。
もう二十分も無駄にしてしまいました」
イヤなヤツ。
松浦がバカにされたことだけは解ったのか声には出さずに口の動きだけでそう呟くと、
紺野はそれさえも見越したように最後に三人の方を振り返ってにこりと笑った。
今度は愛らしい笑みでもなく、皮肉ったらしい笑みでもなく、
心底バカにしたような笑みだった。
「それでは皆さん、さようなら」
- 124 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 15:02
-
- 125 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 15:02
-
「……なっ、な、な…なぁっ!」
「分かる。よく分かる亜弥ちゃんのいいたいことは」
あまりの紺野の態度の急変に松浦があげている声にならない声を、
藤本は柔らかく諌めることで収めてみせた。
高橋はあんぐりと口を開けたまま固まっているし、
松浦はこの通りだ。今冷静なのはおそらく、というか、絶対に自分のみ。
藤本が意図したことではないとはいえ、
紺野は上手くこの場の雰囲気を掻き乱してくれた。
この調子ならば、わざわざ藤本自身が危険を犯してまで作り話を
でっちあげる必要はないだろう。そう藤本はソファの背もたれに体を預ける。
と、その時だった。
ルルル、ルルル。
必要以上に大きくもなく小さくもない音で、誰かの携帯が存在を主張するように鳴った。
呆気にとられてはいても流石女子高生といったところか、
気がついたというよりも反射的といった様子で真っ先に松浦が自分の携帯を取り出す。
が、どうやら違ったようだ。取り出した瞬間、藤本と高橋に向かってぷるぷると首を振るってみせた。
- 126 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 15:19
- それを見て、藤本も高橋も一斉に自分の携帯電話を探り出す。
松浦はその様子をまだ残っていたジュースを飲みながら見つめていたが、
電話を取り出した瞬間、高橋も藤本も不意に相手を伺うような表情をして、
そして少し間の抜けた顔をしながらほとんど同時に、ほとんど一緒のタイミングで
それぞれ自らの携帯電話の電源を入れて、耳に当てた。
「「もしもし?」」
「…ハァ?」
一人取り残された松浦は思わず声を裏返した。
いくら突飛な思考の松浦でも、無理はない。
突然それまで一緒にいた人間が同じタイミングで電話を取れば、
それはとても奇妙な光景に見えるからだ。
しかし、よく耳を済ませると高橋と藤本も完全にそれぞれ違う会話をしていて。
どうやらこれは全くの偶然らしい。こんなことは初めてだ。松浦は「すご…」と小さく呟く。
と、高橋が不意に声を大きくした。
- 127 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 15:19
- 「え?…やぁ、だから、どちらさんですか?」
どうやらこちら側の声も向こう側の声も、互いによく聞き取れないようだ。
気を使って、正面にいた松浦はコップの中の氷をストローで突くのを止めて、
ストローの袋をぐにゃぐにゃに折ったものに水を垂らすという、
小学生男子が好き好んでやるようなものに暇つぶしを切り換えた。
しかし高橋は目線を天井斜め上にしっかりと固定したまま、
相変わらずの大きな声でまた続ける。
「はぁ、私は確かに高橋愛ですけど…いやだからあなたはどちらさま…
え?なに?あさ美ちゃん?誰なんよそれは…って、」
あさ美ちゃん?
ストローの袋を毛虫のように動かして遊んでいた松浦も、
高橋の真正面で違う電話を真面目な顔で取っていた藤本も、
そんなことを言われた張本人の高橋も、そこで一斉にぎょっとした顔をした。
あさ美。どこかで聞いた覚えがあると思ったら、ついさっきまで
高橋の隣でポテトを食べていた、極端なまでの時間節約家、紺野あさ美じゃないか!
紺野が立ち去った直後のように、またぽかんと口を開けたまま固まってしまった
高橋に変わって松浦が「ちょっと貸して!」と電話を取る。
- 128 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 15:20
- 「ハイ、もしもしお電話代わりました。…え?あんたは誰だって?
ちょっ…あんたこのプリティーボイスで誰かわかんないわけ?!なにそれ!
このバカ!この非国民!あたしが誰か声だけで分かるまで絶対あんたの話は聞いてやんないから…」
「はいもしもし、本当にお電話代わりました」
あまりの怒りにすっかり話の本筋を忘れている松浦の片手から、
するっと藤本が携帯電話をすり取った。
いつの間にか自分の用件は終わっていたようだ。
極平然とした様子で携帯を盗んだかと思えばソファにゆったりと腰掛け直し、
藤本は「ミキは藤本美貴って言いますけど、そっちは誰よ」と
丁寧なのか乱暴なのか、全くもってよく分からない受け答えをして、
やっと我に返った高橋とまだ怒り狂っている松浦に向かって口に人さし指を立ててから、
静かになった背景で携帯電話の向こう側の人物の名前を聞き、
それをそのまま自分の口で繰り返した。
「……小川、真琴?」
松浦と高橋はそれを聞き、一斉に「知り合い?」とお互いの顔を見合わせた。
- 129 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 15:21
-
- 130 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 15:22
-
「ちょっと待ってよ」
自分でも、声が震えているのが分かった。
柴田は一度深呼吸をして、咄嗟に掴んだ石川の腕を強く握り直す。
握り直すには一度離さないといけない。そう思ってふと手を離した瞬間、
石川の手首は赤くなっていたがそんなことに構ってはいられなかった。
「…今」
ごく、と生唾が喉を通り過ぎる。
「……なんて言ったの?」
信じられないという感情を全面にだした柴田の顔を、
それで面倒臭そうに振り返った石川は自分の手首を掴んでいる手を離そうと
左手で柴田の手を剥ぎ取っていきながら、「だからいったでしょ」と言う。
「私、もう通訳は止めたの。通訳にはならない」
「…ちょっと、それ、どういう…」
「だってホラ、面倒じゃない。外国語の勉強なんてさ。資格取るのにも色々あるし。
だったらもっと楽で、良い仕事にしようと思って」
「……梨華ちゃん、嘘、だよね?冗談だよね?」
「こんなことで嘘ついてどうすんのよ」
- 131 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/12(火) 15:23
- 縋り付くような柴田に、最後に石川から乱暴な言葉が飛び出た。
「もう、離してよっ!」
その言葉を信じられなくて、信じたくなくて。
柴田は立ち尽くしたまま石川を真直ぐに見つめていたたが、
唯一最後に石川をつなぎ止めていた手を全身で振り払われる。
その動作が柴田自身を石川から遠ざけられたように感じて。
体の表面がチクチクする。痛い。何かが刺さってる。思わず自分の肩を見た。
「……梨華ちゃん」
嘘、だよね。
いい加減、自分自身にもそれが信じたくないがための偽りだという事が分かっている
台詞は口に出せず、かすれて空気に紛れ、消えた。
- 132 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/13(水) 23:24
- 何がいったいどうなっているのか。
引き込まれたまま続きをお待ちしております。
- 133 名前:名無し 投稿日:2004/10/16(土) 01:15
- なんか読みづらい
説明がいちいち細かすぎる気がする
- 134 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/16(土) 03:36
- 読みづらいのは行間の問題かと。
文ももっとレトリックに凝ったものだってあるし、この細かさは普通だと思うけど。
読み手と作者さんの好きにすべき問題だけど個人的には好き。
横レス、スレ汚しスマソ。
- 135 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/18(月) 17:45
-
暑い、夏の日だった。
「…なにやってんねん、あんた」
加護愛は、そうしてドラム缶の前で座り込んでいた辻希美に声をかけた。
辻は空き地の中。加護は空き地の外。
そのまましばらく待っても、返事は返ってこなかったので、
加護は少し迷った後、そろそろと空き地に踏み込んで辻の真ん前まで近づいていく。
そうすると不意に、辻が右手の小石で地面に絵を描いているということが分かった。
ガッガッと砂が固まった地面に石で溝を掘っていく。
辻の横顔は真剣で、加護はその顔を見てからその手元を一瞥し。
そして思わず、という笑いをこぼした。
「……なんやこれ。あんた絵、ヘッタやなぁ」
「……放っといてよ」
線はぐちゃぐちゃ。どれが輪郭なのか分かりゃしない。
加護が呆れたように呟いた声に、座り込んでいた辻がふと膨れた顔をあげた。
その視線に真直ぐ睨まれた加護は少し「おお怖」と肩を竦める。
そんな加護をしばらくの間じっと見つめていた辻は、不意にぷいっとそっぽを向くと、
また一心不乱に地面を石で擦り始めた。まるで加護などに構ってられないというようだ。
いささかその反応にカチンときた加護は辻にちょっかいをかけてやろうと
両手を伸ばしてみるものの、その瞬間にちらりと見えた辻の表情が
本当に真面目だったので、何をするでもなく、ただゆるゆると手を降ろした。
- 136 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/18(月) 17:46
- 「……あっつー」
そう、辻に話しかける調子ではない、ただの独り言、といった様子で加護は呟く。
そしておもむろに辻の背後にあったドラム缶の上へ身軽に飛び乗ると、
ゆったりと腰かけながら上の視点からすぐ下の辻の手元を覗いた。
相変わらず空間に響くガッガッという小石と地面が擦れ合う音。
それを鳴らしている張本人の辻は、真上から照りつける太陽にも弱音を吐かず、
ただひたすらに地面にどでかい絵を描いている。
大きいだけで、それが何かも分かりゃしない絵。
無意味とも不必要とも取れるのに、辻が懸命に描いている絵が
何故か加護は見ている内にどんどん好きになっていった。
いやそれよりも、絵自体を好むというより、こんな真夏日よりにわざわざ
外で汗をたらしながら絵に没頭しているバカが好きだといった方がいいだろうか。
お喋りでよくうるさい、と怒られる加護も今回ばかりはただ無言で。
辻の動く手元をじっと見つめては、その絵がなんなのか見破ろうと目を凝らした。
しかし、不意にそんな辻の手が止まり。
代わりといったように辻の顔が加護の方を向く。
「……気が、散るんだけど」
その言葉に、加護は何も言わず肩を大きく竦めてみせた。
- 137 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/18(月) 17:47
-
本当に暑い、夏の日だった。
今朝見た天気予報の予想気温は最高が30度、最低が28度。
どちらもそう変わらない数字にげんなりしたものだが、
それ以前にこうやって改めて気温の数字を意識してみると、
明らかに35度は越えているような気がする。
40度近くの真夏日。全くもって、異常気象だ。
そんな暑苦しい気象はエジプトらへんにいかなければ体験できないと思っていた。
こんな異常な日は家にこもってアイスを頬張りながらだらだらベッドに寝転んでいるに限る。
本棚には暇つぶしのための漫画本もかなりの数が詰まっているわけだし。
そうだらけた計画を立てて、それじゃあ今日最初で最後の外出を、と
コンビニに目当てのアイス棒を買いにいってはみたものの。
今、そのコンビニの袋に入ったアイス棒は跡形もなく溶けて蟻の餌食になり。
今、アイスを溶かした張本人の加護はといえば、何故か柔らかいベッドの上でなく、
寝心地の悪いドラム缶の上で寝転がっていて。
「いつまでここにいるつもり?」
そうして、口の悪い辻希美に面白がって付き合っている。
- 138 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/18(月) 17:48
- 長い沈黙の後、また口が動いたかと思えば憎たらしいことを言われて、
加護は「そうやなぁ」と気ままな様子で両腕を組んでから、
「あんたがその絵を描き終わるまで」と寝転がりながら答えた。
その返事を聞いて「げ」と嫌そうな顔を全面に押し出した辻に、
加護は「ウチがどこでなにをしようがウチの勝手や」と舌を出す。
溶けたアイスに群がる蟻の一匹が、加護の寝転んでいるそばまで這い上がって来た。
その様子をただじっと見つめながら、加護は不意にふっと微笑んでその蟻を
指でドラム缶から弾き落とした。
それは暑い、夏の日だった。
「…なんなん?それ」
「あんたには関係ない」
絵の答えを求めた加護に、辻はそうそっぽを向いた。
相変わらず二人の間に進展はない。
最初こそ絵の実体を探ろうとしていたものの、今となっては分からないからこそ
この絵が生きるんじゃないか、という結論に達していた加護が
なんの気なしに呟いた一言だったが、辻は全く取りあう様子も見せず、
その手を動かして地面に描いている絵は次第に大きさをまし、
ついには結構な広さの空き地を四分の一も埋めてしまった。
- 139 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/18(月) 17:49
- 「ケチくさないなぁ、ケチなんは大阪人だけで十分やで。ヒントだけでも教えてや」
「イヤだ」
「頼むわ、このままやったら気になって夜も寝られへん」
「イヤだ」
「あんたウチの睡眠時間奪って何が楽しいねん!
もし睡眠不足で死んだら枕元に化けてでるで!」
「イヤだ」
「…可愛くないなぁ、あんた」
「イヤだ」
「……」
ちっとも進まない押し問答の末、はぁ、と大きいため息混じりに加護は
肩を落としながら呟いた。
「……ほんま頼むって、のの」
ぴくり、辻の背中が揺れた。
見逃さなかった加護は驚く。今まで鉄仮面みたいだった奴が、いきなり何だ?
今までの自分の発言を振り返って、問題の一言との明らかな違いを確認した後、
加護はビビビときた言葉を辻の背中に向けて繰り返した。
「…のの」
「……」
「のーのー」
「……」
「のん」
「……」
「のんちゃーん」
- 140 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/18(月) 17:49
- 不意に、一言言うたびに揺れていた辻の背中の動きが、止まった。
反応がまたなくなってしまったことで、加護は内心つまらないなと舌打ちをしてから
反応を止めると同時に、今までひっきりなしに動いていたその手も止まっていることに
気づいてドラム缶の上から顔だけ出して、辻の顔を覗き込んだ。
「…のの?」
ぽた、と地面に水滴が落ちた。
雨が降って来たのではない。ただ地面の集中した一点に水滴は次から次へと
下から涌いてきているように落ちてきて。
「…いいらさん……」
涙することでいくらか舌ったらずになった辻の口が、そんな言葉を発した。
やはり暑い、夏の日だった。
「……どうかしたんか、その人」
ドラム缶に改めて腰掛けなおした加護が、
いくらか神妙になった顔つきでまだ涙を流しながら、それでも
手を動かす辻の嗚咽を堪える背中に向かってそう聞いた。
- 141 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/18(月) 17:50
- どうやら彼女にとって『のの』はその『いいらさん』を
思い出すキーワ−ドだったらしい。
川の流れを止めていた岩を取り除いたように、突然泣き出してしまった
辻は、そんな加護の問い掛けに泣き声を漏らすまいと時々しゃくりあげながらも
答えた。
「いいらさん、は、ずっと前にのんに絵を教えてくれたの、れす。
毎日毎日、ここまできて、くれて、それでのんに絵を、教えてくれたのれす。
のんは、家族がいないから、いいらさんが一緒にいてくれる、時は、凄く楽しくて、
うれしかったのれす。いいらさんも、のん、と、ずっと一緒にいたいね、って、
いっ…いって、くれのれす。……でも、」
「……でも、なんや」
「街で、いいらさんを見つけて、いいらさんに抱きついただけなのれす。
そしたらいいらさんがいつもみたいに、のんの頭を撫でてくれたのれす。
のんは嬉しかったのれす。だから、そのいいらさんにプレゼントしようと思って
この絵をずっと描き続けてるのれす。
でもそしたらいいらさんが…いいらさんが、ちょっと前から、きてくれなくなって…」
ガリ、と小石が地面を削った音に、辻の最後の言葉はかき消えた。
加護はそんな背中を見つめながら、ぐっと寄せた両眉で眉間に皺を作った。
辻は一体、何時間この地面に座り込んで絵を描いていたのだろうか。
加護が来た時すでに空き地の六分の一ほどを埋めていた絵は、
今もう、だだっ広い空き地にあと半分を残すのみとなっている。
「…なぁ、のん」
気づけば、話しかけていた。
- 142 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/18(月) 17:51
- 「……ウチ、なんかよく分からんことをやらなあかんねん。そのことやれ、いわれて
もう三カ月もたっとるけど、未だによう分かれへん」
「……」
「まぁ、正直いうとな、暇やねん。あんたここでその、『いいらさん』っていう人
ずっと待ってんねんやろ?」
加護が確認するように傾けた顔に、辻が振り返ってまだぐしゃぐしゃの顔のまま
こくん、と軽く頷いた。
「やったら…」それを見て、ふと笑いながら加護は続ける。
「やったら、ウチも一緒に待っててええかな?」
- 143 名前:そうなんです、私もそう思いました。けど… 投稿日:2004/10/18(月) 17:52
-
暑い、夏の日だった。
加護は一人、溶けた蟻入りアイスを袋に詰めて自分の家までの帰路についていた。
家を出たのは正午前だったのに、もう今は夕焼けが赤く光って沈もうとしている。
前からさす赤い陽射しに、加護の影はうっすらと細長く後ろに伸びた。
そんな道を真直ぐに歩きながらううん、と伸びて、
加護は赤い空を見上げながらぽつりと呟く。
「…いい、暇つぶしができたわ」
ふわーぁ、と欠伸をする。加護は自分の着ている服の内ポケットに手をつっこみ、
中身を手に取り出してじっと見つめた。
丁度加護の手の平に収まるくらいの大きさの、
灰色の、四角い固い、冷たいケース。
中から葉巻を一本取り出して、加護は火もつけずにそのまま吸った。
何の味もしない。葉巻を通ったただの空気が口の中に入ってきて、
加護はやはり何もせずにそれを吐き出す。
暑い夏の日は、こうして終わったのだ。
- 144 名前:烏 投稿日:2004/10/18(月) 17:58
- >>132
これから少しずつ謎も解けていく感じです。
なるべくお待たせしないようなスムーズな更新を目指してます。がんばれ私。
>>133
どうもすみません。
>>134
フォローありがとうございます。
- 145 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/21(木) 23:08
- 文章がすごく好き。設定も話も面白い。
辻がかわいいw
更新まってます。
- 146 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/23(土) 09:24
-
「ちょっとまいちゃん!」
その呼び掛けの声に反応して。
吸っていた灰色の葉巻をゆらゆら上下に揺らしながら、
里田はどこからその声が降って来たのかときょろきょろ左右を見渡す。
すると、すぐ目の前の大通りをずかずかと駆けてくるお馴染みのコンビの姿が
狭い視界にちらりと入り、にっと歯をみせた笑みを浮かべた里田は
ゆっくりとかけていたサングラスを外してみせた。
「あさみ。久しぶりー」
「ほんと久しぶりー…じゃ、なくて!」
灰色の愛車に寄り掛かっていた里田のところまで、
何故だか怖い形相で真っ先に走って来たこの子は相変わらず面白い。
全身で怒っている、ということを表現しているようなあさみの剣幕に苦笑しながら、
その後ろを追いかけてきていたみうなにも「久しぶり」と里田は呑気な声をかけた。
「あ、お久しぶりです、まいちゃ…」
「ちょっとまいちゃん!」
こっちは素直に朗らかな笑顔でそのまま挨拶を返そうとしてくれていたのに。
そのみうなの声を遮って先ほどの第一声と同じ言葉を叫ぶように言ったあさみに、
「ハイハイ」と面倒そうな顔で里田は返事をする。
- 147 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/23(土) 09:25
- 「何、どした?また身長が1センチ縮んだとかそういうオチはやめてよね」
「だぁ、違うよ!これっ……これ、一体どういうことさ!」
そう相変わらずの声量で言いながら、あさみがごそごそと自分のコートの中を
あさくって取り出してみせたのは、里田の目に非常に見覚えのあるもの。
…なんだっけ。一瞬素でそう考えてから、ああ、と思い出した。
そういえば今朝張り切って仕事に出たあさみに向けて、
昼過ぎごろに里田自身が送りつけた封筒じゃないか。
副とはいえど、一応は司令官をしきっている里田の仕事は多い。
一々自分が朝からどんなことをやったとかこなしたとかいったことは
全く覚えちゃいなかったが、流石にこの封筒のことは忘れたままでいるわけにはいかなかった。
そこまで一気に頭で思い出した里田は、そこでふと下の方でなにやら怒っているあさみに
目を向けて、そして心底不思議そうな顔で尋ねた。
「…これがどうかしたの?」
「どうかしたの?じゃない!こんな…こんな重要な任務をなんであたしらが
やんなきゃいけないわけ!?」
「なんでって言われてもねぇ」
そこで少しの考え込む間を置いて。
- 148 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/23(土) 09:26
- 「や、やぁ、いやいやいや」と不意にぶつぶつ言い出した里田は
驚いているやら不思議そうというよりも、まさしく怪訝そうという表情で
やはりまたあさみに目を向ける。
「…だって、できるっしょ?」
「できるかぁ!」
平然と言ってのけた里田に向かって地団駄を踏むようにダン、と片足を大きく踏み出した
あさみは両手で作った拳をぶるぶると震えさせて言う。
その様子を見ていた里田は本当にきょとんとした顔をしていたが、
怒っているあさみの後ろにいたみうなはいつも通りの表情だということに気づいて
助けを求めるようにみうなの方へ話を振った。
「みうなは?大丈夫だよね?」
「え?あ、はい大丈夫で「みうなはまだよく任務のこと分かってないの!」
確かに今、笑顔で頷こうとしたような気がするけれど。
またもやみうなの言葉を遮って前に出てきたあさみに里田は「えー」と
不満そうな表情を向けたが、それであさみが折れるわけでもどうこうなるわけでもない。
「取りあえず、」
里田はそう言葉を切ると、自分の愛車の扉をガチャリと開けて見せながら
あさみとみうな、二人の顔を順に見比べて言った。
「時間もあんまりないし、話は中で聞くから…乗ってくれる?」
- 149 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/23(土) 09:27
-
- 150 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/23(土) 09:29
-
ろくに前も見ずに運転する里田のハンドルさばきは危なっかしい。
まぁ危なっかしいといっても、この灰色の車は人間界のものを全てすり抜けて
進むのだからぶつかる心配はどこにもないのだけれど。
あさみは後ろの後部座席からそんなことを思いながら、
窓から見える人間の車の行列を一瞥して改めて手元にある書類を読み返していた。
『後藤真希の追跡、及び捕獲』
捕獲する場合は生死問わず。組織のデータによると後藤は溜め込んだ『時間』を
持ち出し、まだ見つけられにくい人間界に紛れ込んだらしい。
今回の任務はその人間達の中から、たった一人の後藤真希本人を見つけだすこと。
戦闘はやむを得ない場合のみ。遂行するメンバーは上位司令官、副司令官、補佐官、
またはその直属部下、もちろん両人でも可能。
「それの、どこが気に入らないわけ?」
そんな書類を見つめていたら、知らず知らずの間に眉間に皺が寄っていたらしい。
ハンドルを片手で軽く持ったままあさみの眉間をじっと見つめて、
里田は不思議そうな顔でそう聞いてきた。
助手席のみうなはそれまで窓から流れて見える人間の世界を楽しそうに眺めていたが、
その一言でふと気がついたようにあさみの方を振り返る。
そんな二人の様子を平然とした見て、あさみは一人深々とため息をついた。
「…ここ。任務遂行メンバー」
「え、何か間違ってる?副司令官と直属部下でしょ?」
ぴ、とあさみが指差した先の文面を見て、そうあさみとみうなと自分を
交互に見渡した里田は「ねぇ?」とみうなに同意を求める。
求められたみうなもみうなで「そうですよねぇ」などと言うものだから溜まらない。
やはりまだ新人のみうなは組織の状態や任務などをよくわかっていないのだ。
あさみはまたはぁ、とため息をつく。
- 151 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/23(土) 09:30
-
「そうじゃなくて!…なんで、あたし達なわけ?」
「なんでって…だってあさみとみうなはあたしの直属部下じゃん」
「違うっけ?」と悪びれもせず聞いてくる里田の顔が今日ばかりは憎たらしく見えた。
「……ね、まいちゃん」
「ん?」
「まいちゃんはさ、あたしと歳同じくらいなのに上位でよく頑張っててさ、
強いし、頼りになるし、なんでもできるし。凄いし、偉いと思うよ?」
「…どしたの、いきなり」
それまで怒っていたと言うのに、急に手の平を返したように真面目な顔で
里田のことを褒めだしたあさみに、里田は照れるとか頬を染めるとかよりもまず先に、
眉間に皺を寄せて熱でもあるの、と言いたげな顔をした。
額に当てられようとする里田の手を「大丈夫だから」と振り払い、
あさみはそれすらも一切気にしていない様子で続ける。
「だけどあたし達はそんな風じゃないじゃん。あたしはこないだやっと中位になった
ばっかだし、みうなはまだ下位で仕事の仕方を覚えてる途中だよ?」
「うん、そうだね」
あさみの少しばかり責めるような声の調子にも、里田の表情は変わらない。
それどころか何を今さら、という顔で里田は笑いながら頷いた。
そのことに愕然としながらも、あさみはおそるおそる尋ねる。
「そうだねって…まいちゃんはあたしらにこの任務がこなせると思ってるわけ?」
「うん」
あさみのトゲトゲした問いかけにも、やはり里田の表情は変わらなかった。
さっぱりと即答した里田の口を信じられないという顔でしばらく見つめていた
あさみは、不意にはっと我に返ってぶんぶんと首を振る。
- 152 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/23(土) 09:31
- ああ、頭が痛い。
こちらが何を言っても通じない里田の態度に、あさみは一つの不安を覚えていた。
昔からどうも里田はあさみやみうなを買い被っているような時がある。
買い被っているというよりも、過大評価しているといったほうが分かりやすいだろうか。
もちろん、副司令官に就任して他人の上に立つようになってからは
変な贔屓というか、過大評価した任務を与えたりはしなくなったものの、
今ここでそれが出てしまったのではないだろうか。
「まいちゃ」
「私はあさみのさぁ」
そのことを伝えようとしたあさみの真直ぐな声を、さらに真直ぐな響きで里田が遮る。
まさか途中で割ってはいってこられるとは思っていなかったあさみの
きょとんとした顔がおかしかったのか、ほんの少し含み笑いをした里田は
どこか余裕さえ持っていた表情で続けた。
「そうやって冷静に、自分の立場を考えられるところが好きだよ」
(…今この人、なんていった?)
あさみの顔に思いっきり怪訝そうな表情が浮かんでも一向に気にすることなく
さらりとそう言った里田は言い終わると同時に前を向いて、
直前まで迫ってきていた太い電柱を大胆なハンドルさばきで大きく避けた。
- 153 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/23(土) 09:33
-
普通なら中位でこんなでっかい仕事もらえたら、浮かれるところなのにね。
そうしてまた振り返りざまにイタズラっぽくそういう里田に、
隣でそれまで話を黙って聞いていたみうなもにこりと笑ってまた窓の外を見始めた。
何故か、素晴らしくいい具合にごまかされたような気がする。
しばらくそんな前の座席の二人の様子を見比べていたあさみは
ふとした拍子にそんなことに気がついて、あれ?と自分で自分に首を傾げた。
今までしていたメンバーの話は、結局どういう結論で納得したんだっけ。
一人腕を組んで唸ることで少し前の会話を詳細に思い起こしたあさみは、
結局なんの解決にもなっていないことに気づき、それに付け加えて里田にとって
いい方向に話があやふやになっていることにも気がついた。
というか、それ以前に。
あさみはなんとなく気になって、さらに前のことまでも頭の中に思い起こしたが、
そういえば何故里田はあさみやみうなの近くに車を止めて待っていたんだ?
最初に会った時の挨拶が「久しぶり」だったくらい、
最近仕事が忙しいらしく全く顔をあわせていなかった里田が何故自分達と
はち合わせするような場所でわざわざ時間を潰していたんだろうか。
考えるまでもなく、その答えは一つ。
それは、自分達を迎えにきていたからだ。
- 154 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/23(土) 09:35
- なら、里田は今どこに向かっているのか。
あまりにも自然な流れで車に連れ込まれて、憤慨していたあさみの頭は
今の今まで、その至って常識じみたの質問にさえも回らなかった。
うそ、と驚いて窓を見る。人間界にはあさみの連れで何度もやってきていた筈なのに、
何故みうなは先ほどから楽しげに窓を外を見ていたのか。それが今、やっと分かった。
「…ねぇ、まいちゃん」
「んー、なに?」
振り返りざまににやりと笑う里田の顔を一発殴りたくなってしまうのはもう、
仕方がない、不可抗力の範囲ではないだろうか。
「……ここ、どこ?」
車の窓の外に今まで見えていた人間達の景色はすっかり消え去り。
代わりに映っているのは暗い路地裏のような場所。
そこら中に捨てられたまま忘れ去られたゴミ袋が転がっている。
突然現れた里田の車に驚いた黒猫が、しっぽだけを怒らせて走り去っていった。
キ、と不意にゆっくり進んでいた車が止まる。
里田はあさみの問い掛けに答えないまま、自分の目元にサングラスをつけはじめ、
ちゃっかり降りる準備をもう済ませていたみうなはさっさと地上に降り立った。
- 155 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/23(土) 09:36
- そんな様子を半ば呆然と見つめていたあさみは、
ちょいちょいと自分も降りようとしていた里田に手招きされて、
少々の間を置きつつもやがてふらふらとよろめきながら、
いつかどこかで見たことがあるような路地裏に両足で立つ。
「…さて、どこでしょう」
両腕を組んで、先ほどのあさみの問いに今やっと答えた里田の答えは曖昧で。
しかし、あさみは目の前にした光景を見れば、もうその答えは必要ないと思った。
いっそ圧巻といっていいくらい、ズラリと並んだ灰色の椅子。
既にちらりほらりとその席は埋まっており、椅子に座っている人影は
揃いも揃って灰色のコートを身につけ、灰色の帽子を被っている。
その椅子が全て向かうような方向に設置されていたのが、お馴染みの茶色の教壇。
その斜め後ろほどで小さい椅子に腰掛けて、紙になにかをペンで書き留めていた女が
不意にふと顔をあげ、サングラスをかけた里田を先頭に、あさみ、みうなの顔を
一つ一つ見比べた後、少しばかり訛った声で、にこりとした笑顔を浮かべながら言った。
「カントリー、到着だべさ」
- 156 名前:烏 投稿日:2004/10/23(土) 09:49
- >>145
好き、面白い…!ありがとうございます。
辻さんは途中からやたら正反対の方向に口調を変えたんですが、
可愛いと言って頂けて安心しましたw
- 157 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/26(火) 18:53
- まさかこんなことになるなんて・・・!
続きを正座でお待ちします!
- 158 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:27
-
一体、なにが起こっているんだろう?
人間界へ中位昇格試験に出ていたはずの同志が試験半ばに
慌ただしく戻ってきては、武装を固めてまた人間界に散っていき。
滅多なことでは重い腰をあげない最高司令官、そしてその右腕左腕も
先ほど文字通り煙に紛れて姿を消してしまった。
組織に漂っているのは微妙な緊張感と、神経質な空気。
灰色の空間の中で灰色の帽子を被って灰色のコートを着た全員が全員
いつもとは違った武装をし、慎重に光る目を左右へと揺らしている。
一体、なにが起こっているんだろう?
もう一度頭の中で同じ言葉を繰り返す。
その中で田中れいなは、この奇妙な場が不思議で仕方がなかった。
確かに田中はまだ下っ端の下位の、更に下っ端に位置している。
しかしそれはまだチャンスが巡ってきていないからだ。
チャンスがくれば逃さない。そう野心をギラつかせていた矢先だったというのに、
突然がらりと変わった組織の空気と、同志の顔つき。
ただでさえ情報が回りにくいのが下位だというのに、
そこからまたさらに下っ端なのだから、明らかに一大事のようなこの空気の理由は
何故なのか、田中はまだそのことさえも知る機会がなく。
田中の手腕を早くから見定めてくれていた自分の尊敬している師ともいえる彼女は、
同じ中位昇格試験に出ているメンバーは続々と一度組織に戻ってきているというのに
未だに田中のところへ顔も見せていなかった。
何かあったのかな、と思うと同時に、きっと彼女のことだから特別な仕事を
与えられているのかもしれないという、師と崇める人物への期待もある。
- 159 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:28
- とにかく、いつもは何かと理由をつけて田中のところに来ては
自分の小さい頃によく似てると田中の心をよく読み取って大方の情報を与えてくれる
彼女には、今回に限って情報方面の期待はできそうにない。
それでは、どうすればいいか。
手っ取り早くこのもやもや感を解決するにはやはり上位や中位の同志へ
訳を尋ねるのが一番だが、このやたらにピリピリした空気を
むやみに荒立てたくないというのが本音である。
「…どうするかな」
人が忙しく行き来するだだっ広い廊下に一人立ち止まったまま寄り掛かって、
そうため息混じりの暗い声を出した田中の隣で、
灰色の葉巻を指で弄んでいた道重さゆみはきょとんと不思議そうな顔をした。
「どしたの?れいな、今日は暗いね」
「…さゆにはあんまり関係のないことけん」
そう語りかけてくる道重の顔をちらりと見た田中は、
視線を横に逸らしながらぼそりと呟く。
この道重に、よりによってこの手の情報を期待するのはするだけ無駄だ。
下位の中でも特殊さを際立たせている道重さゆみは、
上位にも中位にも物怖じせずに道重ワールドを繰り広げるという大物である。
まあ、一口に大物とはいってももちろん種類があって。
田中の師と丁度対極にいるのがこの道重だといえば一番分かりやすいだろうか。
- 160 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:29
- そんな田中の曖昧な返事にまだきょとんとしつつも首を傾げた道重は、
特に気にするでもなく少し間をおいた後、また指で葉巻を回すことに専念し始めた。
その姿を見て田中はまた込み上げて来たため息を、今度は喉元でぐっと押さえ込んだ。
(そろそろさゆにも馴れが必要ばい…)
親友とはいえ、未だにその行動に仰天させられることも少なくない。
道重一人にこんなことではいつまでたってもチャンスは巡ってこない、と
すっかり道重を手なずけてしまっている自分の師の姿を脳裏に思い浮かべて、
田中は押さえたはずのため息を、遠慮なく吐き出した。
そんな田中の隣で、またもや先ほどと同じ動きできょとんとするのは道重で。
「どしたの?れいな、今日は暗いね」
その台詞が先ほどと全く変わっていないことに愛のなさを感じるのは自分だけだろうか。
とにかく。不思議そうな道重の顔をちらりとだけ一瞥した田中は、
思いっきり顰めた顔でもごもごと口籠った適当な返事をしながら目を閉じた。
とにかく、こんな時に道重に構っても、構うだけ無駄だ。
- 161 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:31
- 道重など放っといて、今もっとも重要なのは、下っ端、いや超下っ端という位置の
田中に、どうすれば組織の情報がつかめるのか、だ。
まだ仕事にもあまり出させてもらえず、上位や中位と関係を持つ機会が全くない
田中にできることと言えば限り無く少なく、
師が帰ってくるのを大人しく待っているか、
場を荒げるのを承知の上でそこらの同志に聞き込むか。
田中の心情としてはそのどちらも避けたいところだが、
いくら頭を捻っても首を傾げても、これ以外に出てこないのだから仕方がない。
時折前を通りかかる同志達がお互いの耳を寄せあっては
何事かをこそこそと口にしているのが見えたが、
田中にはそこに割って入る図太い神経も、上手く盗み聞きするほどの能力もなく。
師が帰ってくるまで苛々しているよりも、一揉め起こしてでも知る方がいい。
結局そんな結論に達した田中はちらちらと周りを見回して、
なるべく温厚そうな顔の同志から理由を聞き出そうかと思ったが、
見回す限り厳しく険しい、顔、顔、顔。
どうやらその方法も無理のようだ。田中はすぐに諦めた。
この緊張感の中ではどんなに温厚な同志でも、
険しく神経質な顔に変わってしまうらしい。
そのことにより一層の不思議を感じると同時に、それほどまでにする組織の状態が
より一層、好奇心旺盛な田中は知りたくなった。
しかし、思いが強まったからといって空からその理由が降ってくるわけではない。
- 162 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:32
- 打つ手は打つ前に全て消えた。
やはり師承を待つしかないのか、と思うと同時に、田中は閉じていた目を開ける。
ちらりと目線を斜め下にやると、鏡を前に自分の顔を凝視している道重の姿が見えた。
相変わらずのナルシストだ。完全の鏡の中の自分に見愡れている。
少しはねた髪の位置を入れ替えたりいじぐったりしている道重は、
田中がその様子を見つめ始めてからたっぷり十五分後にやっと気がついたように振り返った。
「どうしたの?れいな、今日は」
「ああ、もうそれはいいから」
また全く同じ調子で同じ台詞を言おうとする道重の声を遮って、
田中は軽く片手を左右に振る。
振りながら、また田中ははーあ、と、今日一番最悪そうな顔でため息をついた。
自分が知らないことを皆が抱え込んでいる、
皆に負担をかけている時に自分が何も知らずこうしてのんびりと時を過ごしている。
そういうこと、何も出来ない自分が何よりも許せないのが田中れいなだ。
ため息をつくと幸せが逃げるよ、と言いかけた道重はふと口を閉じて、
再度口を開き、言いかけた言葉は放置したまま田中を方を見て
「そういえばさぁ」とまた新しい話題を口にするべく呟いた。
「れいな、知ってる?」
「……さゆが可愛いことはよお知っとおよ」
このナルシストめ。心内でそう思いながらじろっとした目でそう道重を見ると、
「違うよー、そうだけど」と否定も肯定もまとめて済ました返事が返ってきた。
それにはいはいそうですかと呆れた顔で頷きながら、一応文中にお情け程度の
否定の言葉も含まれていたことに気がついて、田中はちらりとだけ道重に目を向ける。
- 163 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:34
- 道重は手元に大事そうに抱えていた鏡を鞄の前ポケットにしまい込ながら
田中の方を振り向きつつ続けた。
「なんかね、さっき加護さんから通信きてたんだけど」
「加護さん?…確か、中位昇格試験受けとったばい」
「うん、そうなんだけど。さっきいきなり加護さんの声が聞こえてきて、
『どうせれいなが苛々してるやろうから教えてやってや』って」
モノマネのつもりなのか、口を少しちょんと尖らせながら
本物には似ても似つかない関西弁を話してみせた道重に、田中は驚いた。
加護愛は田中の友達のような先輩で、たった今師承と時を同じく昇格試験にでている。
しかし確か、試験中のこちら側とのやり取りは一切禁止されているはずだ。
異常事態なのだから恐らくそういう規則は全て解放されているのだろうが、
突然道重に通信を取ってきただけでなく、
『どうせれいなが苛々してるやろうから』という加護のこの台詞。
田中の性格を知り尽くしている加護ならば、たった今、何が起こっているのかも
分からずに一人で苛々している田中のことを見越すことは容易だろう。
『教えてやってや』
なら、加護から伝えてもらうことはただ一つだ。
「『後藤さんが時間を盗んで逃走中』」
「……え?」
「って、加護さんが言ってたよ」
開いた道重の口から出てきた言葉に目を丸くして思わず聞き返した田中の声に、
道重は少し慌てたように付け加えた。
- 164 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:35
- 『後藤さんが時間を盗んで逃走中』
しかし、そんな道重の声も最後まで聞かず、田中の頭の中で加護の言葉が反復される。
後藤さん、後藤真希が。時間を盗んで、そう、自分達の時間を盗んで。逃走、逃げた。
「……ウソ」
呆然と呟いた田中の声に、目の前の道重が平然とした顔で、
それでも少々心外だと言わんばかりに「聞き間違いなんかじゃないよ」と
やけに自信たっぷりと言ってきたので、田中はごくりと喉を鳴らした。
じゃあ、それじゃあ。
辿り着きたくない仮説。加護がたまにみせる不適な笑いが目に浮かぶ。
後藤真希、決める時は決める人。時間、時間という名前のものを言えばあれしかない。
後藤さんが時間を盗み、逃走中、だって?
何かの間違いだろうと思うと同時に、後藤真希ならやりかねないと思った。
「…さゆ、行くよ」
心がはやる。自分だけのうのうと、いや、
いつ自分が死ぬかもしれない状況で立ち止まっていることはできない。
自然に田中の足が前へと歩き出した。
「え?行くって…どこに?」
「どっかに。後藤さんのとこでもよか」
「ちょ…ね、れいな、あたしよく知らないけど、その後藤さんを今皆が
追いかけてるんでしょ?あたしたちも行くって事?後藤さん、何か悪いことしたの?」
今いち加護の一言だけでは状況を掴みかねている道重が、
突然思いつめた顔で歩き出した田中の大きく振る右腕を掴んで引き止めた。
後藤とは田中の師承の友人として軽く知り合っているだけの仲だが、
その全身から放たれる大きなオーラはよく覚えている。
不思議そうな道重の声に振り返った田中は、その時に感じた威圧感を今一度
思い起こして腕に鳥肌を立てながらも強張った顔と声で、答える。
- 165 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:36
-
「さゆ、今は時間なかからこれだけしか言えなかけど、よく聞いて」
「……うん」
いつもの間抜け面が、田中の真剣な声に影響されたかのようにきゅっと引き締まった。
2人分の灰色の鞄がゆらゆら揺れて、ふと止まる。
「…多分、多分だけど」
慌ただしい同志達の駆ける足音がすぐ傍を通り過ぎるのを待ってから、
田中は一度真一文字に結び直した口元をゆっくりとした動きで開いた。
「あたしらの命は今、後藤さんに握られてる」
道重が、信じられないという思いと、何でなのという不思議さが入り交じった顔をした。
そんな道重に田中は少し首を横に振ってみせてから、また踵を返して歩き出す。
今、詳しく説明をしている場合じゃないのだ。
一刻も早くそれが、田中の立てた仮説が本当に真実なのかを確かめなくては。
道重が後ろから「ね、れいな!」とついてくる足音が聞こえる。
あえてその呼び掛けには振り向かず、まだ下位で専用の車を与えられていない田中が
誰かの車を借りてでも人間界に行こうと廊下の突き当たりを曲がったところに
あった駐車場に入り込んだそのすぐ前に、どこかで見た覚えのある姿があった。
「ハイ、今出ようとしてるところです。え?……ああ、カントリーが。
分かりました、それではすぐに加勢しに行きます。……分かりました、それでは」
そう言い終わると、ふと閉じていた目を開ける。
柱に寄り掛かったままその大きな鳶色の目は右、左ときょろきょろ動いて、
自分の灰色の車をたくさんの車の中から探し出すと、
何も言わずコートからキーを取り出し車へと乗り込んだ。
- 166 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:37
- ぶるるる、るるるとアクセルがふく音がする。
田中はしばらくその様子を咄嗟に隠れた柱の影から見ていたが、
次の瞬間、後ろにぴったりくっついていた道重の手を取って
灰色の煙を巻き上げている車のトランクの中に素早く滑り込んだ。
ただ手を引かれて連れて込まれた道重が目を丸くして、
トランクの閉まりきった真っ暗な空間で田中を見ているのが分かった。
シーッと小さく呟いてから、田中は人さし指を口元に当てる。
ここでばれては元も子もない。
暗いトランクの中に差し込む、一筋の光。
どうやら後部座席とトランクとの間に小さな隙間があるようだ。
田中は道重に動かないよう、身ぶり手ぶりで注意した後、
自分はこそこそと四つん這いになってその隙間へと惹かれるように目を当てた。
小さな白い空間にまず見えたのは、運転席で葉巻を口に当てている金髪の頭。
そしてその手元にある灰色の鞄から覗く、灰色のクリアファイル。
一番上の挟まれている用紙には、小さい後藤の顔写真が見える。
やはりこの人物も後藤を探しに行くうちの一人のようだ。
そのことにほっとしながら、田中はあまり調子にのって見つかっては洒落にならないと
大人しく元の通り、トランクの中へと身を縮こませた。
- 167 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:38
-
大分暗闇にも目が馴れて、ふと冷静な気持ちを取り戻してみると、
この車の運転席に座っていた人物が一体誰なのかが何故か簡単に思い出せた。
(…吉澤、ひとみ)
確か黄金世代を担う内の一人、後藤真希の親友だったはずだ。
親友なのに、任務では私情を挟まず、後藤をただ追い掛けなくてはならない。
それがどんなに辛いことだろうか。田中も道重や親友を追い掛けろ、果てには殺せと
言われれば、本当にその通り動けるかは自信がなくなる。
そんな吉澤の境遇に同情を覚えながらも、
突然揺れて走り出した車にバランスを崩しそうになった田中は
慌ててトランクの中で体制を整えた。
- 168 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:38
-
- 169 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:39
-
いつの間にか、いつかのように雨が降り出していた。
簡単に払われた手。その手の平をじっと見つめたまま立ち尽くしていた柴田は
上から降ってきた水滴が自分の手に段々溜まっていくのに気がついて、
ふとすぐ真上に広がる灰色の曇り空を見上げてから、のろのろと歩き出した。
足が重い。まるで足をつけた地面に行かないでと引き止められているようだ。
そうして足を引き摺るように歩きながらも、先ほどの石川の顔が
柴田の脳裏から一瞬たりとも離れなかった。
厳しい顔。眉間に皺をよせて、心底迷惑そうにしている顔。
そんな顔を自分にむかって向けられたことに、柴田は愕然としていた。
あんな石川の顔を見たのは長い付き合いでも初めてだった。
よりによって、こんな時に家に携帯電話を忘れてしまった。
いつも携帯が入っている自分のズボンのポケットが雨に濡れてぴったりと
体に張り付いているのを感じて、柴田はついてないなぁと思う。
それでも諦め切れずに手をつっこんだポケットの中には、申し訳程度に十円玉が三枚。
その銅貨をじっと見つめながら、まぁ、いいかと思った。
どうせこの後の予定も行く宛てもないし、彼女にこれで電話をしよう。
彼女が家にいるという確証はないけれど、何故かきっと出てくれるという確信じみた期待があった。
ふらふらとふらつく足下で、近くの店の屋根下にあった公衆電話へ歩く。
濡れた髪から滴る水滴が邪魔臭い。
緑色の受話器を取って十円玉を入れると、やけに耳に響く音がツ−、ツ−と鳴った。
- 170 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:40
- すっと自然に上げた指で、電話番号を押していく。
全ての番号をぴ、と音を立てて押し終わると、待ってましたとばかりに
ルルル、ルルルと歌うように鳴るコール音。
とん、とん、と店の屋根を雨が打ち付ける音と電話の上を指で叩く。
コール音が響く。雨が屋根打つ。指が電話を叩く。色々な音が一遍に耳に入ってきて、
けれども不快ではなくて、柴田はそのままじっと目を閉じ、耳を済ます。
そこに新しい音が、加わった。
『…はい、もしもし』
低めの、落ち着いた声。いつも聞き慣れているその音が
耳に飛び込んできたのを確認してから、柴田はふと目を開ける。
「あの」
と話を続けようとして、そういえば公衆電話からじゃ誰からの電話なのか分からず、
ついでに自分も名乗っていないことに気がついた。
そう思ってそれじゃあ、と改めて名を名乗るべく口を開くが、
相手もこの一般的にも不審な電話が誰からのものなのかなんとなく分かっていたのか、
ほんの少しだけ間を開けた後、普段よりもいくらか柔らかめな声が聞こえた。
『…柴田くん?』
その声に、何故か安心する。
- 171 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:40
- 「……うん」
胸の中がぽかぽかと暖まっていくのを感じながら
目を閉じてそう返事をすると、相手、村田めぐみはやっぱり少しだけ間を開けて、
柴田に直接響くような声色で続ける。
『……泣いてるの?』
思わず、笑った。
「…泣いてないよ」
『そうかな』
「うん、全然泣いてない」
心配げな村田の声に繰り返して唱えるその言葉は、
柴田自身に言い聞かせるようでもあった。
一つめの十円玉がチャリン、と落ちた音がしたのと同時に、ぱちぱち、と瞬きをする。
その時睫から垂れた水滴は、一瞬自分でも本当に涙が出たのかと思ったが、
つ、と指で跡をなぞってみると、それは屋根の上から溢れた雨だと分かった。
静かに、それでも大きく響く、地面を軽く打って跳ねる水の音。
柴田は無言でその音に耳をすませ、村田もしばらく沈黙した。
- 172 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/27(水) 19:41
-
チャリン、と二つ目の十円玉が落ちた。
向こうからその音は聞こえないはずなのに、
それをきっかけにしたかのようなタイミングで村田の声が柴田の耳に響く。
『…うちくる?』
「……ん」
『じゃあ、お風呂用意して待ってるから。おいで』
「……ん」
今日傘を持ってこずに雨に濡れたことは知らないはずなのに、
そう見越したような声で言ってくれる村田の配慮に優しさを感じる。
柴田はふと口元だけで笑ってから「ありがとう」と付け加えると、
いくらかほっとしたような声でどういたしまして、と返された。
チャリン、と三枚目の十円玉が落ちる時刻とほぼ同時に受話器を置く。
おつり入れに指を突っ込んでみても何もない。
店の屋根の下をゆっくりとくぐって外に出ると、
先ほどよりもいくらか抑えめになった雨がぱらついていた。
体を出すより先に、まずは片手だけを外に出す。
手の平を跳ねる雨。だけど、電話をかける前のより冷たくも、痛くもない。
(……これなら)
電車に乗って二駅ほどの村田の家まで、歩いていけるな。
柴田は雲を割って広がり始めた青空を見上げながら、漠然とそう思った。
- 173 名前:烏 投稿日:2004/10/27(水) 19:43
- >>157
足が痺れる前にと頑張って更新しましたw
- 174 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/30(土) 18:03
- 「はっ…はっ……はぁっ」
大きく肩で息をついて、薄暗いそこらの道に影に身を潜めた。
その直後に隣を通る、何人もの足音…
否、足音とは言ってもほとんど空気が擦れ合う音しかしないのだが。
薄汚れた青のゴミ箱に目をつけて、その真横にぴったりと張り付きながら
ちらりと顔の角度だけを傾けて通り過ぎた影達の様子を伺う。
(そのまま…)
そのまま、行ってくれ。
ほとんど願うような気持ちでゴミ箱の影から目を凝らして、
何やら言い争っている様子の灰色の背中を見守る。
「はっ……は……」
大分荒い息も収まってきた。
一度すっと大きく息をついて肺全体に酸素を行き渡らせると、
一瞬空気を溜めたまま堪え、直後一気に全てを吐き出す。
細く長い息を最後まで外に出し終わった後には、
もういつもの後藤真希が戻ってきていた。
長い間走り続けていた足を軽くさすって、また改めて影達の方へ目を向ける。
言い争っている大きな声は聞こえないものの、
しばらくそれぞれ身ぶり手ぶりでなにかを示し合わした後、
一斉に踵を返して二手に分かれたまま、見当違いの方向にその姿を掻き消した。
それを最後まで見送ってから、後藤はふぅ、と安堵のため息をつく。
- 175 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/30(土) 18:06
- 「……いったか」
そうぽつっと響いたつぶやきを一つ落として、しばらくゴミ箱に寄り掛かったまま
休みを取っていた体をゆっくりと立ち上がらせた。
長い間おいかけ回されていたのだから、全速力で走り続けていた体が軋む。
立ち上がった拍子に足の裏の神経も痛んだが、一瞬顔を歪めた後、
すぐになんでもないような平然とした顔を取り繕って後藤はまた歩き出した。
片手で押さえた脇腹が、歩を進める度に痛む。
一度、同志達…いや、元同志達といったほうが正しいだろうか。
そんな彼らと運悪く接触した時に派手にやり合いになって、
その内の一人に派手に脇腹を蹴り上げられてしまった。
この分ではろっ骨の二本や三本いってしまっているんではないだろうか。
「…っくしょ」
吐息と共に、そう言葉を憎々しげに吐き捨てると後藤は
よろよろとよろめきながらも薄暗い路地を進む。
顔の前に垂れた邪魔臭い長い髪を掻き上げて、後藤は少々自嘲気味に笑った。
と、その時。
ふらつきながらも動かしていた足下を、後藤は不意にぴたりと止めた。
研ぎすまされた神経。あれだけ大勢で追いかけ回されれば嫌でも敏感になってしまう。
- 176 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/30(土) 18:09
- 気配は殺していない。というより、殺す気もないのか。
表にむき出しの敵意。背後から、足音だけは抑えて忍び寄る気配。
焦るな、慌てるな、ゆっくり、ゆっくり。
たっぷりと、そう一度深く深呼吸をして。
全く平然とした顔を作った後藤は、その敵の爪にかかる前にと
一拍置いて素早く身を大きく翻し、その全貌を目で確かめた、が。
「……あれ?」
背後にいたのは、一匹の黒い猫。
かん高い鳴き声を上げて後藤と目をあわせては、シャーッと牙を向いて毛を逆立てる。
確かに、むき出しの敵意。ちょっとその向こう側に目をやると、
たった今あさくったばかりだということがありありと分かる
黒いポリ袋がそこら中に散らかっていた。
相変わらず牙を向いて前足を地面すれすれに伸ばしたまま威嚇してくる黒猫と
そのゴミの山を繰り返し目だけで行き来しては、後藤はまた髪をうざったそうに掻き上げた。
「……あんたか」
良かったのか、悪かったのか。はーあ、息をついて張っていた肩を落とす。
無駄に使った神経を労るようにぎゅっと眉間に皺を寄せては、
後藤はその黒猫の後ろから、忍び寄る影を見切った。
敵意むき出し。その変わらない姿勢、嫌いではない。
- 177 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/30(土) 18:10
-
「……里田、まい」
僅かに差し込む太陽を反射してキラリと光る、黒みがかった灰色のサングラス。
「……上官を呼び捨てにしてちゃ、出世できないよ」
長い髪をくるくる指で回しながら、そう彼女は暗い闇の中から現れた。
追っ手は全て撒いたと思っていたのに、やはり詰めが甘かったらしい。
里田の冗談混じりな台詞に対してにやりと不適に笑ってみせた後藤は、
「悪いけど」と言う言葉を前置きに、こう続けた。
「まともにやり合う気は、全くないから」
「そっちがなくても、こっちはあるんだよね」
スパリと切り返される小気味良い返事。
その響きにふっと口元で笑みを作ったかと思えば、直後顔つきを一変させた後、
後藤は先手必勝と里田よりも早く、速く手を打った。
舐めてかかるつもりなんて全くない。
手始めに、ぐっと力をいれて伸ばした片足を里田の足下目掛けて払った。
不意打ちだが、こんな単純な攻撃が当たるなどとはハナから思っちゃいない。
あっさり上にジャンプすることで避けられるが、そこをまた追いかけて
里田に背中を向けて逆立ちするように体を捻り、蹴りの第二撃を飛ばす。
それを手に括り付けられた手甲ではね除けた後、里田が繰り出してきた
かかと落としを後藤は横に素早く転がることで避けた。
- 178 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/30(土) 18:12
- ざ、と靴の裏が砂に踏み込む音がすると共に、路地に溜まった埃が舞う。
しかし気にしてはいられない。
後藤が体制を整える前に、更に追い打ちをかけてきた里田の足が
咄嗟に下げた頭の上をかする。
「…あッぶな…!」
それで終わりかと思えば、更に続いて飛んできたパンチを反射的に
両腕で受けとめて、後藤は思わずそんな呟きを漏らした。
いつの間にか、もう先ほどの黒い猫はいない。
ギリギリと一瞬でも力、もしくは気を抜けばやられてしまいそうな組み手をしながら、
後藤は横目で辺りを見回してそんなことを考えた。
「どこ、見てんの!」
その隙を見越した里田が、じわりじわりと後藤を潰しにかかる。
元から力は後藤よりも里田の方が上、それに後藤にはろっ骨二本分のハンデがある。
この組み手は、するだけ不利だ。
そう判断すると後藤はやはり先手を打って、里田の拳を抑えていた両腕を
見計らったタイミングでガッと離した。
突如壁を失った里田の拳が一瞬ふらつくのを見逃さず、
そのまま一気に顔を左に逸らして拳を避け、
それと共に勢いあまって突っ込んできた相手の腕を取った。
- 179 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/30(土) 18:12
- 「…っもらった!」
そう一言、後藤が言うと同時に里田の腕を自分の肩に乗せて、
ぐっと足先に体重を込めて腕にありったけの力を込めた。
ぶわ。里田の足が耐え切れず地面から離れて、宙に浮く。
空気の抵抗が重い。しかし、両足で地面に踏ん張った後藤はそのまま
浮いた里田の背中を、丁度一本背負いの真似事のような形で地面へと
押し付けようとした、その瞬間。
歯を食いしばって頭を傾けた後藤の頬を、ピッと赤い血の筋が走った。
その状態からは耐え切れず、不完全なまま里田の体が地面に落ちる。
後藤が突然の出来事に対処できず、驚いて思わず自分の頬に手を当てるが、
里田がその隙を見逃すはずがなかった。
「……わっ」
素早い回し蹴りのような足払いで後藤の足を滑らせる。
その直後、上から降り掛かってくる里田の膝をなんとか避けると、
後藤は出来る限り大きく飛び退いて、ゆらりと立ち上がった里田の顔をじっと見た。
「……サシ、じゃなかったんだ?」
後藤の声が、静かに響く。
「誰も一人、だなんて言ってないよ」
「…里田隊長がそんな汚い人だとは思わなかったな」
「任務に汚いもなんもないっしょ」
けろりと言い放つ里田の言葉に、まぁそりゃそうだと後藤は肩を竦める。
今更隠す必要もないと思ったのか、そんな後藤を見て不意に空を見上げた里田は
口元に両手を当てると、大声で「あさみ、みうな、降りてきていいよ!」と叫んだ。
- 180 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/30(土) 18:13
- あさみ、みうな。
そのどこかで聞き覚えのある名前の響きに、後藤は眉を寄せる。が、
里田の声を聞き届けたのか、遥か頭上から降ってくるように降りてきた
まだ幼いような二人組の顔を見た瞬間、後藤は思わず口元を歪めた。
「……カントリー」
「あれ、知ってたんだ私達のこと。カントリーで召集されるのは久しぶりだし、
中々貴重なんだからね、このメンバーは。ありがたく思ってくれる?」
パン、と手と手を打ち合わせながら、まだやる気満々、といった顔で
挑戦状を叩き付けるような里田の声に、「そりゃどうも」と返した後藤は
里田を見た後、隣に並んだ二人を見て、そして最後に自分の背後を見た。
先ほど、里田と戦いながら辺り一帯を見回してはみたが。
十字路になっているこの通り。
右は先ほど後藤が歩いてきた道で、左は里田が現れた道。
前は一見続いているようで、よく目を凝らしてみると行き止まりなのがすぐに分かる。
と、なれば。
後藤は前に並んだ凸凹三人組を一度じっくり見回した後、きっと目線を鋭くした。
「先手必勝!」
「さっきから、ワンパターンだよ!」
攻撃を仕掛けるべくダッと地面を強く蹴った後藤に続き、
動かない里田の両脇の二人が後藤と真正面からぶつかる。
てっきり三人一度に飛びかかってくるものだと思っていた後藤は駆けながら
二人のどちらに仕掛けるか一瞬迷うが、それよりも先に、
まだ後藤の間合いにも入っていない遥か遠い位置から
小さい方の、おそらくあさみが自分の方に向かってなにやら黒光りする長細いものを
向けているのが見えて、驚いた。
- 181 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/30(土) 18:14
- 普通の人間の肉眼ならば、見えないような光線。
キラリと一瞬光ったそれを判別して、後藤は宙返りでその場を飛び退いた。
地面に膝を抱えて着地しながら、今先ほどまで自分が走っていた足下を
見てみると、深く広くえぐられている。
「……あっちゃあ」
まさか、銃を持っているとは。
予想しなかった展開に混乱しはじめた後藤へ追い打ちをかけるかのように、
いつの間にやらもう片方、みうなが間合い近くまで入ってきていた。
「その首、頂きます!」
パン、と一度両手をあわせてから飛びかかってくるみうなに、
後藤は後ろ向きに反って間合いを広げた。
相手が銃を持っていると分かった以上、下手な動きは出来ない。
しかし、そんなことお構いなしといったようにみうなはしつこく追いかけてくる。
チッと一度小さく舌打ちをした後藤は、こうなればと足の踏み込みを入れ替えて、
ぐっと肩を前に構えるとみうなに向かって体当たりをする。
素直に真直ぐに走り込んできていたみうなは、そんな行動に対処ができず、
あえなく後藤の足下に倒れ込むが、
そのみうなを動けないように馬乗りになって固定した瞬間、
さらに上から重なるように里田が飛びかかってきたのを見て、後藤はばっと飛び退いた。
飛び退くと同時に、豪快に辺りに響くゴガンという強烈な音。
高鳴りがする自分の耳にぐるぐる目を回しながらもその音の原因を確かめると、
後藤の顔には、思わずひくりと引きつった笑いが浮かんだ。
- 182 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/30(土) 18:14
- 「……まいちゃん、重い」
「あー、ごめんごめんみうな」
言いながら、壁に突っ込んだ自分の拳を平気な顔でぐっと引き抜く里田。
なんだ、今の。なんだったんだ、今までのは。
よろ、とよろめきながら後藤が立ち上がると、里田はにやりとした笑いを
浮かべながらぐるりと首だけで振り帰って、どうだと言わんばかりに鼻で笑う。
「…まだまだ、見くびってもらっちゃ困るよ」
「……あはっ」
さっきまでのは、ほんのお遊びだったということか。
そういえばほとんど同年代だというのに、自分はまだ下位で、彼女は上位だ。
いくらルーキーと言われようとも、実力の差がひしひしと後藤の体にまとわりつく。
仲間の二人が姿を表した瞬間、里田のオーラが二、三段は強くなった。
(…これは、勝てない)
里田一人相手でも難しいのに、三人相手、ましてや相手は連携もお手のモノだ。
後藤が唾を飲み込むと同時に潔く浮かんだ考えを見透かしたように
あさみ、里田、みうなと並んだ三人は、後藤の出方を伺うかのように
それぞれぐっと戦闘の構えを取り直した。
「まだやり足りないなら、相手してあげるけど。それとも、素直に盗んだ時間を返してくれる?」
代表するかのように口を開いた里田の声に、
後藤は勘弁してよとでも言うように顔をくしゃっとさせてから、
不意にふーっと強く息を吐き出して、真面目な顔つきで大きく強く、言い切った。
- 183 名前:そっちがなくても、こっちはあるんだよね 投稿日:2004/10/30(土) 18:15
- 「…そりゃー絶対、ごめんだね!」
言うが早いか、後藤は大きく身を翻して自分の足下を強く蹴り上げる。
途端にぶわりと宙に舞い上がる、大量の埃。
先ほど里田と組み合っている時に気がついてよかったと心底思う。
後藤は辺り一帯の地面を蹴り上げ続けると、辺りが舞い上がった白い埃で
ぼやけると一緒に思わず咳き込みたくなるのを必死に堪えて、
前もって確かめていた方角に力一杯走り出した。
少しして、遥か背後から、後藤を探す声と咳き込む音が聞こえる。
ちらりと目だけで背後を振り返って誰の姿も追いかけてきていないことを確かめると、
後藤はほんの少し走るスピードを緩めながら、コートの中に恐る恐ると手を突っ込んだ。
内ポケット。膨らみ。確かにある。取られてはいない。
一通り手で形を確かめて間違いがないことを確信してから、
きょろきょろと辺りを見回して、そのポケットの中身をそろり、そろりと取り出した。
埃っぽい路地を、ボフッという音と共に抜ける。
灰色のコートに埃がついて少し白っぽくなってしまったことに苦笑しながら、
後藤は自分の手の中に握っているものと、
そうしてやっと目の前に現れた、今まで目指していた場所とを見比べて、にんまりした。
- 184 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/01(月) 00:09
- この更新スピードでこのクオリティ。
尊敬の一言です。
カントリー格好いい。
あ、足気遣ってもらってありがとうございます(笑
- 185 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/04(木) 19:41
-
この間、もう夜は遅いからと言われて、別々の方向に分かれたのが三日前。
そうして全員のどうしても外せない予定があるという日を比べあい、
結局まとまったのが、今、今日、本日。
松浦亜弥は憤慨していた。
「…亜弥ちゃん、そろそろ機嫌なおしたら?」
「ぜーったい許せない!!ドタキャンだよドタキャン!」
こないだと同じ喫茶店、同じソファ。
そこで同じジュースをそれぞれ頼みながら、
松浦は正面に座っている高橋へ噛み付くような勢いで突っかかった。
それを適当にあしらうような顔ではいはいそうだねと頷きつつも、
高橋も内心は藤本さんも亜弥ちゃんに気に入られてるなんて可哀想に、と合掌する。
「まぁ、藤本さんもせわしないやろうし…」
「ううん、たんのことだから絶対めんどくさいからだよ、分かるもん」
「なんで」
「……それは、なんとなくだけど」
あたしとたんは多分通じ合ってるの、と言い張る松浦に、
やはり高橋は呆れた顔ではいはいそうだねと頷いた。
いい加減待ちくたびれて、割合ゆっくりのペースで飲んでいたはずの
ジュースがついに終わりを告げて、ガラガラと固まった氷だけが回る。
- 186 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/04(木) 19:42
- 「…来ないといえばさ」
高橋がストローから口を離しつつ、とりあえず話題を変えようと呟いたその言葉に、
皆までいうなというように頷いた松浦は、はーあ、と大きなわざとらしい息をついて
テーブルの上に両肘をつき、その上に顎を乗せた。
「……小川さんも、来ないよねぇー」
全く、皆なにやってんだか。これじゃああたしらがバカみたいじゃんねえ。
そうぶつぶつ呟く松浦に、高橋はいい加減相づちを打つのも面倒になって
ストローで氷をがちゃがちゃ突くということで返事をした。
変なところで鋭い松浦はその高橋の心境を読み取ったのか、
しばらくむぅ、と頬を膨らませてそっぽを向いた後、なにやら自分の携帯を弄り始めた。
そんな真剣な顔を盗み見ながら、高橋は思う。
確かに、いつまでたっても待ち合わせの主、小川が来ない。
待ち合わせたのは、言い間違えや聞き間違えがなければ
ここの喫茶店に午後三時だったはず。
早く来て三時のオヤツを食べようと松浦に誘われた高橋は
オヤツに頼んだドーナツが乗っていた皿を近くに来たウェイトレスに片づけてもらった。
- 187 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/04(木) 19:43
- そんな今、時計が差しているのは、午後三時四十分。
明らかに、遅い。事故でもあったかのような遅さだ。
割合時間にルーズな松浦でも、四十分の遅刻は酷い方…いや、そうでもないか。
まだ顔も見たことのない小川真琴はもしかすると、松浦のような
かなり時間にルーズな人間なのかもしれない。
しかし、初対面の人間と待ち合わせをしている時でさえこんなに遅刻してくるだろうか。
もしそうなら、小川真琴はきっと大物だ。
高橋がそう思って腕を組み、柔らかいソファに体をぐっと沈めた瞬間、
前で携帯をいじくっていた松浦がふと顔をあげて、「あ」と一言、小さく声をあげた。
その声に反応し、薄目を開けた高橋は松浦の視線の先をたどっていって、驚く。
窓の外に見える、ほんの少しぱらついてる細かな雨。
その中を傘もささずにゆっくりとした足取りで歩いている人物。
「…のー、あれ柴田さんじゃ…」
「うん」
高橋の呟きに松浦は軽く首を縦に動かすと、少し心配そうに
店の窓にべったりと自分の額を張り付けて柴田が歩く道をじっと見つめた。
柴田はどこか朦朧とした目で、それでもきちんと前を見据えて
ゆっくりと、焦る様子でもなく足を前に進めている。
こんな雨の中、一体どこに行くつもりだろうか。
今朝の天気予報では、今日は午後から夜まで雨だった。
それもつい先ほどまで、強く吹き付ける風にのった豪雨が降っていたはずだ。
しかし、そのことを教えるとかどうこうするより前に、
店の窓の横幅は思ったよりも狭くて、柴田の様子はほんの少しすると壁にはばまれて
全く見えなくなってしまった。
「そういえば」
そんな柴田の背中を何とか見送っている内にふと頭の中に浮かんできた事を思い出して、
高橋は携帯を持ったままぼーっとしている松浦の方へと目を向けながら呟いた。
- 188 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/04(木) 19:44
- 「石川さん、いたやろ。柴田さんの友達の」
「…ああ、うん。梨華ちゃんがどうかしたの?」
「それがなんか、最近急にせかせかし始めた…ううん、単刀直入に言うけど、
多分、石川さんも例の紺野さんみたいになっちゃったんだと思う」
「え」
「なんか今はどっかの有名企業に入るために勉強頑張ってるらしくて、
ほとんど一日大学と勉強と寝ることで潰しちゃってるんだって」
「……ふーん」
しばらく神妙そうな顔で高橋の話を聞いていたかと思えば、
最後まで話し終わると松浦は対して興味もなさそうな顔で手に持っていた携帯を
ガチャンと少し乱暴にテーブルの上に置いた。
「つまんない人生だよね」
そして、やけに年寄り臭い言葉をぽつりと呟く。
普通なら何いってんのよーとでも笑いながら肩を叩く場面であるが、
何分高橋自身も相当に年寄り臭い人物であったので、
そんな松浦の呟きに重苦しく同意するように首を動かした。
と、そこに。
藤本もこないことだし、とやけ酒ならず、やけジュースをするつもりなのか
小川を待切れずにウェイトレスに向かって二杯目のジュースの注文を出した松浦を
横目にしていた高橋のポケットに、微かな振動が響いた。
そういえば行きに電車を使ってきて、マナーモードにしたままだったっけ。
慌ててポケットからはみ出したストラップを摘まみ上げて、携帯電話を取り出す。
どうも、この喫茶店に来ると電話がよくかかってくるなぁ。
ついこの間かかってきた小川の電話を思い出して、少し含み笑いをした
高橋は携帯の画面を開き、そこに表示されていた人物の名前に目を丸くした。
- 189 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/04(木) 19:44
-
「…もしもし、小川さん?」
少し間を開けて、電話の通話ボタンを押す。
松浦がその高橋の声にぎょっとしたような顔をしたが、
高橋の耳には返答の声は返ってこず、代わりとばかりに
なにやらぼそぼそと独り言を呟いているかのような音が聞こえた。
不思議に思い眉根を寄せて、高橋は携帯へさらに耳を近付ける。
ぼそぼそ、と話す人の声。携帯には小川真琴と表示されているが、どうやら小川の声ではない。
それも、おそらく二、三人ほどのそれぞれ異なった声が固まって聞こえた。
なに?どうしたの?と黙りこくったままの高橋へ興味津々といったように
尋ねてくる松浦を黙らせて、高橋は静かにそっと、電話の受信音量を上げる。
『…で、あるから……なんですよ』
『ずっと……思っていれば…………なんてこともざらじゃない』
『今ならまだ……間に合い……あなたの時間も……』
音量を上げたことによって、細かくは聞き取れないものの
断片的な話が聞こえてきた。どうやら小川を前にした二、三人ほどの人物が、
なにかに対して小川を説得しにかかっているらしい。
よくは聞こえないが、電話の電波のせいなのか、その少しくぐもった冷たいダミ声に、
受話器を通している高橋は思わずぞっとした。
『……すみませんが、そんなことは…』
心なしか、答える小川の声も少し震えているような気がする。
高橋は自分の前にダミ声の持ち主がいるというわけでもないのに
すっかりその世界に呑まれそうになっていることにはっと気がつき、
慌ててぶんぶんと首を振った。
手違いではないとしたら、わざわざ電話をかけてきたのにこちらの呼び掛けに
答えないということは、小川はおそらく高橋にこのよく分からない会話を聞かせようとしているのだ。
- 190 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/04(木) 19:45
- それは何故なのか。やはり、このダミ声の主達に関係があるのか。
と、その時、会話の遥か後ろの方で、ピーッとかん高い音がした。
なんだろう。一瞬考えてから、すぐに思い付く。
(…そうだ、やかん。やかんがお湯を湧かす音だ)
となれば、小川は十中八九まだ家にいるのだ。
待ち合わせ時間に来なかったのは、家でこのダミ主達に引き止められでもしたのだろう。
食い入るように高橋を見つめている松浦の視線にうんと頷いてみせて、
高橋は音量を限界いっぱいまで引き上げた。
『…それじゃあ、あなたはこのまま時間を無駄にして過ごすというのですか?』
『我らが見ている限りでも、あなたは人間の中でも時間の無駄遣いが激しい方だ。
貯蓄しはじめた方が、あなたにとっても利口な方だと思いますけどね』
『……あたしは、』
そこで少し間をあけて。
『……あたしは、今のままで満足してます』
と、最後の声は消え入りそうになりながらも小川は答えた。
その答えに何故か安心しながらも、高橋は今聞いた会話の内容を
頭の中で思い起こしながら整理していく。
時間、無駄、貯蓄。貯蓄といえば何か溜めるということだが、
一体何を溜める気なのだろうか。
会話の線を辿れば時間を溜めるというところが一番妥当な線だが、
いくらなんでもそんなことができるわけがない。
それよりも。高橋は難しい顔をつくる。
時間、無駄遣い。どこかで聞いたことがあると思えば、やはりまた紺野あさ美だ。
石川梨華も紺野あさ美も、自分の時間を節約するような態度、動き。
そして今、小川真琴も石川や紺野と同じような理論を立てる人間となにやら話し合っている。
- 191 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/04(木) 19:46
- ダミ声の主達は、一体誰だ?少し高めの声。恐らく女。
紺野や石川のようになってしまった友達と話しているのだろうか?
いや、それにしてはお互い他人行儀すぎる。小川がこんなにも怯えるはずがない。
『……それは、本当に?』
たっぷりの間をあけた後、ぼそりと呟かれた言葉に、
小川がぎくりとしたのが手に取るように分かった。高橋の背筋に汗が流れる。
なんなんだろう、この威圧感、プレッシャー。
実際に会っているわけでもないのに、体が寒い。
がち、と小川の歯が鳴った音が微かに聞こえて、
何かを言い返そうとする小川のかすれ声が空気を彷徨う。
『……あ、あたし、は……』
『あたしは?どうぞ、ご遠慮せずにおっしゃってください』
『……ぁ』
促す薄ら寒い声に、小川の声が、ぴたりと止まった。
沈黙が続く空間。高橋はその奥から、コツンコツンと響く足音を聞いた。
ブーツ、それもかなり厚底を履いている。そんなことを思ってから、
音を聞き取っていた小川の携帯がふっと持ち上げられたような音がして、
一拍置いた後、ぶちりと無情な音が響いた。
- 192 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/04(木) 19:47
-
ツー、ツー。無機質な音だけが高橋の耳に余韻となって残る。
松浦はそんな高橋の顔を驚いたように、心配げに覗き込んで、
固まってしまったかのような手をそろりそろりと膝の上に降ろし、
高橋の携帯を勝手に手に取るやすぐに画面を確かめて、瞬きをした。
「……何が、あったの?どういうこと?小川さんは?」
不思議そうに聞いてくる松浦に、高橋は額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。
寒い、とにかく寒かった。早く家に帰りたいとさえ思った。
夏はもう終わりを告げて、今は確かに秋に入り始めているが、
秋で店の中に少しクーラーが効いているからといって、こんなにも寒くなるはずがない。
「……」
高橋は小川のように鳴りだしそうになる歯を必死に抑えて、
松浦から受け取った自分の携帯電話をふと握りしめた後、ゆっくりと閉じ切った。
- 193 名前:烏 投稿日:2004/11/04(木) 19:52
- >>184
更新はリズム良くこの調子でやっていけたらいいな!と思ってますがどうでしょうね。
カントリーがやたらよく出てくるのは私の趣味です。愛してます。
こちらこそいつも読んで頂いて…涙がでそうです。
- 194 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/07(日) 14:30
-
『逃げられました』
そう心底謝罪の気持ちでいっぱいだという風に、
けれどもどこか楽しげな響きを含ませて、里田の報告は簡単に終わった。
報告を受けた矢口は、相変わらずだな、と思う。
ちょこまか逃げる後藤の相手がよっぽど楽しくて仕方がなかったんだろう。
逃げられた、というよりも、逃がした、といったほうが正しいんじゃないだろうか。
里田は特に戦闘快楽者ではないが、より強い者と出会うとどこか胸を高鳴らせるところがある。
まぁ、らしいけどね。
里田のある意味子供のような無邪気で純粋なその性格に、
指揮官として惹かれていることも事実だ。
矢口はそう思うと同時に、ざっと自らの教壇の前に広がる、
灰色で埋め尽くされた椅子の上の同志達を広く、ぐるりと見回した。
「…諸君!」
こうして声を張り上げるのは、カオリの卒業の時以来だな。
そんなことを、ふと思う。
「時間もないので、直入に言おう。知っている通り、我らが今まで
溜め込んでいた人間の時間を、後藤真希が全て盗んで人間界に持ち出している!」
衝撃的なことを口に出しても、それで場がざわめくことはない。
矢口の目の前に並び座っているのは、それぞれ上位でもさらに有能な者達、
そしてその直属部下達だ。カエルの子はカエルならば、エリートの部下もエリートである。
- 195 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/07(日) 14:32
- 下手に場の緊張を崩す事が得策とはいえないことを知っている百戦錬磨のエリート達は、
神妙そうな顔つきで矢口がまた話し出すのを今か今かと待っているのが目に見えた。
その頼りがいのある空気と態度に矢口は口元に薄っぺらい微笑を浮かべると、
教壇の上に両手をついて、それに体重をかけるように身を乗り出しながら再度口を開く。
「たった今入った報告によれば、A/OQT/b-237率いるカントリーが
つい先ほど交戦した後、逃げた後藤を追っている。V/WWF/c-554氏直属の
吉澤ひとみ、V/EER/c-872氏もその援護に回る手筈になっているはずだ」
中澤裕子の直属、吉澤ひとみ。
その大物ルーキーの名を知らない者はまさかいないだろう。
やはり顔色一つ変えず、じっと矢口を見つめる何十もの視線に向けて
今度は微笑むのではなく不適な笑顔を垣間見せた矢口は、ふと間を置いてから続けた。
「おそらく、カントリーに吉澤が加われば後藤の足留めには十分なはず。
そこを一気に叩き潰す、というのが今回の任務だが、問題は後藤が今、
我々の時間を持ち出して人間界のどこに向かっているか、というところなのだ。
目的は、勝手な憶測でならばいくつかは考えられる。
一、我々のやり方に不満、または批判を持ち、
時間を持ち出して我々をまとめて消滅させようとしている。
二、時間を全て持ち出して自分の私利意欲のためだけに使おうとしている、等。
しかしそれらは全て憶測で、しかもその中に真実があるとは決して限らない」
「しかし、しかし、だ。あえて憶測でおそらく、一番真実に近い、というものを
考えて選びとれ、と言われるのならば」
矢口がスッと息を呑んで溜めた空白に、誰もが目つきをきっと鋭くした。
勿体ぶらないで早く教えてくれ、という顔が
その空白の時間が長引くにつれ、そこら中に溢れ返り、増えていく。
- 196 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/07(日) 14:33
- 後ろに控えていた安倍が一度自分の手元の書類を読み返して、そんな矢口に目を向けた。
おそらく、見間違いなどではない。安倍の目に、矢口は少し迷っているようにみえた。
果たして、このことを告げていいものか。
このまま放ってやっておいた方が、彼女のためになるのではないか。
そう考えているのが手に取るように分かる矢口の厳しい顔つきは、安倍の心をも揺らす。
しかし。
(…もう、決めたじゃない)
カオリの時も、矢口は迷っているようだった。
果たして本当にこれでいいのか。自分達は間違ったことをしているのではないかと、
そう、悩んでいるような顔をしていた。
(ヤグチ)
心の中だけで、ぽつりと呟く。
目の前に見える小さな背中は、最高司令官という傲慢な位置についているようで、
実は誰よりも優しくて、脆い。
だから、迷う。だからその背中を、私が押した。
ヤグチのやり方が批判されるようになっても、なっちだけはヤグチの味方だから。
そういう思いを込めて矢口の背中を見上げた安倍の視線が分かったのか、
矢口は少し安倍の方を顔だけで振り返って、こくりと極僅かに頷いた。
そして再度前に向かって向き直り、口を開いて沈黙の時間をスパリと打ち切る。
- 197 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/07(日) 14:35
-
「後藤真希には、共犯者がいる。私はこう考えている!」
大きく静かな部屋に響き渡ったその予期せぬ内容の声に、
エリートの集まりでも流石に堪え切れなかったのか、ざわりと一瞬で場が揺らいだ。
ついに言った。安倍は真直ぐと背筋を伸ばした矢口の背中を目を見開いて見つめながら、
ごくりと顎を揺らして唾を呑む。これでもう、…後戻りはできない。
気がつけば、いつ合流してきたのか、先ほどまでは人影もなかった
安倍の隣の席には中澤の姿があった。
ちらり。目をやって顔を見ると、向こうも気づいたのか力強く頷かれる。
そんな中澤にふと柔らかく微笑んだ安倍は、改めて視線を戻して矢口の背中を見た。
きっと、大丈夫だよ。
そう、思いを込めながら。
「ただの推測でわざわざ名を出す事はないだろう。
しかし、共犯者がいるということは非常に可能性の高いことに思える!
その訳を話すとすれば、先ほどの例を上げなければならない。
一、我々のやり方に不満、または批判を持ち、
時間を持ち出して我々をまとめて消滅させようとしている。
もし後藤が本当にこうしようとしているのなら、もう既に我らの存在はないだろう。
これは発表していないことだが、後藤の持ち出した時間は人間界で何かに具現化する。
それを壊すかどうかをすれば我らの存在は跡形もなく消えてなくなってしまうのだ。
後藤が最初から我らへの時間の給与を止め、我らを消してしまおうと考えているのなら
時間に触れたすぐにでも実行できること。しかし、まだ我らは消えていない。
ということは、後藤の目的はこれではないということだ」
- 198 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/07(日) 14:36
- 「次に、時間を全て持ち出して自分の私利意欲のためだけに使おうとしている、だが。
私が知っている限り、後藤真希という人物は強欲のごの字も頭にない。
もし欲を裏に隠していたのだとしても、こんな馬鹿な行動を起こす者ではないことは
周知の通りだ。ならば、これも可能性は非常に低い。後藤の目的は他にある」
会議中で定められている回りくどい口調に、
今回ばかりは苛々している同志達も多そうだ。
矢口は引き締まった顔で、教壇の上でぐっと両の拳を作り、
「そこで…」と勿体ぶる気もないのか、前の言葉からあまり空白も開けず。
はっきりと引き締まった顔のまま、自らの斜上へと視線を上げて、
そして安倍や中澤を冷や冷やさせていた出来事をついに自分の口から告げようと、
矢口は一度きゅっと口元を強く結んでから、再度口を開いた。大きく、大きく。
ここにいる同志達全てに、強く広く、聞こえ渡るように。
「後藤の目的は、おそらく!人間界に出たまま帰ってこない『例の彼女』に、
我らの時間を分け与えて消えてしまうのを防ぐためだと考える!」
突然強く、大きくなった矢口の声に、ビリビリと空間の中が響いた。
言い切った矢口の口元が、罪悪感からくるものなのか、息を荒くしながら微妙に曲がる。
ぐるりと見渡した、すぐ下に広がる灰色の何十人もの顔は、
そんな矢口をしばらくじっと見つめていた後、
内の一人が「…まさか」とぽつりと呟いたのをきっかけにしたような唐突さで、
それぞれ隣にいる人物に今、矢口が言ったことが本当なのか確かめようと
顔を突き合わせるものだから、場が今まで異常にざわざわと大きくざわめきだした。
- 199 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/07(日) 14:37
- 立っていることも耐えられなくなったのか、教壇についていた手を
ゆるりと離して、矢口はそんな同志達のうろたえた顔を目の前にしながら
呆然と、灰色の椅子にほとんど倒れるように座り込む。
ひじ掛けを掴んだ手は、ほんの少しだが微かに震えていた。
ああ、売った。彼女を売ってしまった。
安倍はガタンと瞬時に席を立ってそんな矢口の傍に駆け寄る。
中澤もそれに続くかのような動作ですっくと立ち上がったかと思うと、
椅子に座り込んだ矢口を安倍に任せるようにおもむろに滑らせ、
不意にバッと両腕を高く突き上げて、茶色の固い教壇目掛けて勢い良く振り降ろした。
ガァンッ!!
「静粛に!!」
教壇を叩き壊すかのような勢いの音に続いた中澤の怒声に近い叫び声。
ピタリとその瞬間動きを止めた同志達は、丁度ビデオの一時停止を押したかのような
感じで滑稽な格好のまま硬直し、中澤のギラギラした、奥に炎が見える目と目を
あわせた後、すごすごと、席から立ち上がっていた者は自分の席へと戻り、座った。
一瞬で元の通り、シーンと静まり返った空間。
中澤はそれでもまだぎろりとした目で一度全体を見回してから、
後ろで椅子に座っている矢口と、その隣の安倍を振り返る。
- 200 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/07(日) 14:38
- 静寂の中、ただ一つ音として残った矢口へ語りかける安倍の声は
その中澤の視線に気づいて途切れ、代わりに静かに、ふるふると首を横に振った。
安倍の腕に抱え込まれているような矢口はどこか遠い世界に
旅立ってしまっているような、ぼおっと放心した顔で中澤を見上げている。
中澤はくっと眉間に皺を寄せ、そんな矢口の頭を静かに一度くしゃくしゃと撫でてから、
再度灰色の景色の方へ体を向けて、なんとか声量は抑えたものの、
中身はド迫力の声のまま矢口の後を受け継いだ。
「…司令官が言ったことは、なにも推測だけではない。
確かについ先日、組織宛に『例の彼女』を発見した、という報告が一つ入っている。
そして改めて彼女が旅立った日から今日までを換算すると、
彼女が消滅するのはあと一週間後までに迫っているということだ」
言葉に場がほんの少し揺れる。しかし中澤の恨みのこもったような強烈な睨みで、
またすぐに小さな話し声はなくなった。
「……彼女が」
中澤はふと目を伏せ、ため息を一つついてから続ける。
- 201 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/07(日) 14:39
- 「彼女が組織に帰らず、ほとんど人間のように住んでいる場所は、
同志が接触した時に後藤につけた発信機が向かっている場所と、ほぼ一致するそうだ。
ひとまず後藤が何故彼女と接触しようとしているのかは置いておくとしても、
こうなってしまえば、彼女と後藤真希が接触した、
そしてこれからしようとしている可能性は高い…そうとしか考えられない」
言いながら残念そうに、苦悩するように首を軽く振った中澤は、
今度こそ、と遠慮なく騒ぎ立て始めた場の騒音を止めようとはしなかった。
くるり。踵を返して、目の前で座り込んだまま中澤を見つめていた矢口と
しっかりと目をあわせ、視線を絡ませ、笑う。
「大丈夫や…大丈夫」
一体、何のために同じ言葉を二回も繰り返したのだろうか。
そう呟きながらまたぐしゃぐしゃと矢口の頭を撫でた後、軽く一言安倍に耳打ちして、
黒一色の暗闇に紛れて姿を消した中澤の背中をじっと見つめながら、
矢口はふと、そう思った。
- 202 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 21:37
- うわわわなんてことに・・・。
次への展開がまったく読めない。
引き込まれたまま続きを期待してます。
独特な題が凄く好きです。特に今回(笑
- 203 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの??Bs 投稿日:2004/11/11(木) 19:02
-
もうもうとあがる白い湯気に、包まれた密室の温度は生暖かい。
村田は一瞬で視界が白く煙るのを感じて、慌ててかけていた眼鏡を取った。
ちゃぷり、手を差し込む。
そのままじっとしていると、指先からなんとも言えない痒みにも似た感触が
手の平の方へ登ってくるので、それを誤魔化すようにぐるぐると腕を回した。
うん、これくらいかな。
少しして、納得しつつもつけていた手をそっと引き抜く。
その拍子に指から垂れた小さな雫が水面を静かに打って、波紋を描いた。
濡れた足をタオルで拭いて、素足のままでぺたぺたと音をさせながら
村田は湯のついた手を服に擦り付けつつリビングに出た。
先ほど柴田からかかってきた携帯は、無造作に小さい机の上に転がっていて、
その後ろにある中くらいのテレビは大して面白くもなさそうな番組を流している。
「遅いなぁ」
ぽつりと漏らした声は、そのテレビの真上にかかった時計の針に向けられた。
確か電話がかかってきたのはおよそ二十分ほど前だったはず。
柴田にしては珍しく、少し悲しそうな声色だった。
なにかあったのかな、と思うと同時に、今自分が推測だけで
考えてもどうにもならないという結論にも達する。
とにかく、柴田が来た時、思いっきり歓迎してやろうと
先ほどからせっせと動き回っている村田は、キッチンから聞こえた
ピーという高い音に、「ハイハイハイ」と駆け寄った。
- 204 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/11(木) 19:03
- 音の犯人は、小さなお湯ポット。
すぐ隣に置いたインスタントのミルクティーの袋をこじ開けて、カップに注ぐ。
そこに沸いたばかりのお湯を入れるとやはり白い煙が立ち、
もう秋だなぁと爺臭いことに村田が思わずしみじみした、そんなところへ。
ピンポーン。
そんな訪問者を告げる音。来たか。
「ハイハイハイ」
お湯ポットから離れて早足で玄関まで出ていった村田は、
チェーンを外して鍵も開けてから、ひょいっと開けた扉から顔を覗かせた。
「…あーらまぁ」
そして一言。
視界に映った柴田の口を真一文字にした顔は強張って、
髪も服も靴も全てずぶ濡れ。
まぁ、ここまでは予想していたことだ。
取りあえず自分に出来る限りの柔らかい笑顔で柴田を中へ招くと、
一枚二枚タオルを押し付けるようにして、
先ほどお湯加減を確かめていた風呂場へと直行する。
「体あったまるまで出てこないこと。以上!」
言うなりバタンと扉を閉めて、「よし」と扉の前で手を払った。
その内のそのそと服を脱ぎ終わった柴田がシャワーを使う音がして、
村田はそれを確かめてからまたぺたぺたと素足のままでキッチンまで駆け戻る。
入れた頃から少し時間のたったミルクティー。
猫舌の村田は難しい顔でその水面を見つめ、不意に腹を決めたような顔で
カップを口元に傾け、一口。
- 205 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/11(木) 19:04
-
もごもごと口を動かしてじっくりとよく味わった村田は、
しばらくしてからふと目を開けて、おもむろに綺麗な皿の上にカップを乗せると
ついたままのテレビの前にある小さな机に運ぶ。
それが終わるとまたすぐにキッチンに駆け戻り、今度は風呂から上がってくる
柴田の分を見計らったタイミングですかさずいれると、
それもまた自分のカップの隣へと運んだ。
「うっし」
ちょん、といった様子で小さな机の上に並ぶ小さな二つのカップ。
全体を見回してどこにも欠点がないのを確認してから、
机の前で一人、村田は両手でぐっと拳を作った。
しばらく、柴田が出てくるまでの暇つぶしに、と、
テレビのチャンネルを変えてバラエティにあわせると、
一人でカップを啜りながら柔らかいソファに腰を降ろした。
村田はお笑いが好きだ。というか、人が笑った顔が好きだ。
それは自分がネタ帳を取るほどで、暇さえあればよくこうして芸人でもないのに
ソファに座り込んではお笑い番組をぴくりともせずに見ているのだが。
最近どうも自分の中での笑いのレベルが上がってでもきたのか、
どんな芸人がどんなにおもしろおかしいことをしても、どうも村田は笑えない。
それどころか今のどこが面白かったのか、と詳しく分析しだしてしまう。
笑えないお笑い番組など無意味なものにも思えるが、
村田はそれはそれでお笑いの楽しみ方の一つだと割り切っていた。
- 206 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/11(木) 19:05
- そして今日も身動き一つせずに真剣な顔でテレビを見つめていると、
ガチャリとノブが回る音がして、その後ろからタオルを肩にかけた柴田の顔が覗く。
初めは少しいつもより殊勝そうな顔をしていたというのに、
村田がカップを傾けながら難しい顔でテレビに見入っているのに気がつくと、
一瞬でその顔はいつもの生意気そうな顔に変わり、気配を感じて振り返った村田に一言。
「…むらっち、気持ち悪い」
「え、なにがさ!」
「そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの」
そう生意気なことを口に出すやいなや、村田の隣に座り込んで、
机の上に用意してあったミルクティーを手に取った。
おもむろにず、と一口すする。その表情は極平然としたものだったが、
村田はほんの一瞬、やるじゃん、というように柴田が自分の顔を見たような気がした。
二人で並んで見るテレビ。
柴田と二人でテレビを見るのは何も数えるようなことでもなく、
ほとんど毎日といっていいほどどちらかの家に泊まり込んで映画を見続けた事もあった。
それこそ、ロマンチックなラブストーリーからコメディまで。
それに付け加えてテレビの画面を見るという点では変わらないゲームをもこよなく愛する
二人組なものだから、二人でこうしてテレビをじっくり見つめるということは馴れた、
ごく普通の光景だった。
別に沈黙は居心地悪くない。しばらくじーっとそのまま二人でテレビを見続け、
お笑い番組が終わった後も続きにたまたま入っていた新しく始まったらしいドラマを見た。
- 207 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/11(木) 19:06
- そのドラマをも全て見終わって、何やらアップテンポなエンディングが部屋に流れる中、
村田は小さく欠伸をしながら伸びをする。
ちらりと隣の柴田を見ると、テレビを見ている間は普通だった顔が少し沈み、
未だスタッフロールの続く画面を見つめ続けていた。
「…柴田くん」
見兼ねた村田が、声をかける。
少し肩を揺らした柴田は不意にはっとしたような顔をして、村田の方を振り返った。
「テレビ。消すよ?」
「…ああ、うん……」
返事もどことなく覇気がない。
ソファの上に膝を抱え込んだ柴田の前を横切って、テレビのリモコンを手に取る。
そして後ろの柴田がまだ画面を見ているのを気にしながら、
少し迷った後、ぴ、とテレビの電源を切った。
上の時計を見ると、時計の差す針は丁度10時を差している。
どうやらテレビを何時間も真剣に見ていたらしい。
今頃目がチカチカするのを感じながら目頭を指で抑えて、これからどうしよう、と
村田は柴田の方に顔を向けて聞いた。
「ね、何したい?」
「え…?」
「ゲームでもしよっか」
「ん…そう、だね」
曖昧に返事をした後、柴田は少し困ったような笑いを見せる。
…あーあ、こんな顔をさせたかったんじゃなかったのに。
そんな顔を見ながらこんなことを思った村田は、
手に持っていたコントローラーを床に置き直して、ゆっくりゆっくりと柴田に近づく。
- 208 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/11(木) 19:07
- 不思議そうな柴田の視線が、柴田と村田の距離が近づくごとに垂直に上がっていく。
完全に目の前、といえそうな距離までやってきて、村田は不意に柴田の手を取った。
「…やっぱり君の話、聞く」
「……うん」
やっとのことでそう言った柴田の顔が、今にも泣きそうで、それでも今までで
一番安堵感を含んだ顔だったものだから、村田はほんの少しだけほっとした。
ことり。二杯目のミルクティーが柴田の前で湯気を立てる。
渦巻く白い水面に浮かぶ、微かな泡。
柴田はそれをしばらくじっと見つめた後、ふと顔をあげて目の前の村田を見た。
「で」
ごとり。カップを置く音よりもいくらか重い音で、村田が椅子を引いて座る。
「…どうかしたの?」
簡単で、しかし切り込んだ一言に柴田の肩がぴくりと跳ねる。
こういう曖昧な態度、柴田がよく言いたくはないのだけれど
言わなくてはならないことがある時にする態度の時は、変に前置きせずに、
それよりも直入に切り出した方がいいことを村田は知っていた。
予想通り、その一言で今まで悩んでいた様子の柴田が不意に澄ました顔つきになって、
突然村田の目を真直ぐに見つめてくる。
柴田の大きな目に自分の目を真直ぐ見つめられるのはいささか居心地が悪かったが、
そこで目を逸らすという手段は選びたくはなかったので、村田も柴田を見つめ返す。
見つめあいというよりも睨み合い、睨み合いというよりも探りあいだろうか。
- 209 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/11(木) 19:08
-
ふいに、ふと折れたように柴田がため息をついた。
「今日、さ…」
「うん」
「大学行って…昼まで講義はいってたから、それ受けて」
「…うん」
ぽつぽつ、淡々とした話し方に、一々頷く村田。
柴田は村田の目を見ながら、時々机の上に置いた自分の絡ませた両手に目を落として、
今日、今までにあったことを全て話した。
昼まで、本当にいつも通りだった。
いつも通り朝起きて、いつも通り遅刻しそうになって、
いつも通り走って大学に入って、いつも通り------------------
しかし、食堂での昼を取った後、ふとした所に石川の背中を見つけたのだ。
『梨華ちゃん』
やはりいつも通り声をかけた柴田に振りかえった石川の顔は酷く冷たく。
手を、振り払われた。夢を、打ち砕かれた。
「……それで、あたし…」
凄い、痛くて。
そう最後にぼそり、と呟いた柴田の言葉の前には、おそらく心が、とつくんだろう。
曖昧な声で話の終止符を打ち、急にだんまりになった柴田の顔を、
正面に座った村田は自分がその時柴田の立場にいたかのような、
自分も柴田と共に傷ついたかのような、歪んだ顔をしていて。
ふと目をあげた柴田は、少し笑った。
- 210 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/11(木) 19:09
-
「そんな顔しないでよ」
静かになった部屋に響く、柴田の小さな声。
自分の話で村田にこんな顔をさせておいて、しないでもなにもないだろう。
自分に向けた自嘲の笑いを表情に浮かべた柴田は机の上にあった、
すっかり冷めてしまったミルクティーのカップを手に取った。
村田は柴田がそのカップを口にするのを静かに見つめる。
笑ってはみせているものの、どうしてか柴田の心の中が簡単に読めてしまった。
親友に嫌われたんだろうか。親友に手を払われた。痛い。
そんな不安の入り交じった痛みが柴田を襲い、そして悲しませている。
その原因を作っているのは。
「…柴田くん」
前々から、いつこの事を話そうか迷っていた。
- 211 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/11(木) 19:10
- 自分が消えてしまう前には話さないと。
ずっとそう思って時間を過ごして来たが、どうやらその時が今来たようだ。
柴田が呼ばれた声に村田を見たのを確認して、
村田はちらりと隣の壁にかかったカレンダーを見る。
真っ白い用紙に一つだけついた、赤丸。
誰かの誕生日というわけでも、旅行に出る日にちというわけでもない。
「…柴田くん、あのね」
ぐっと口元を引き締めた後、意を決して柴田の方へと勢い良く振り返った村田は、
そう話を切り出そうと口を大きく開いた。
話し終わった後、この子はどんな顔をするだろう。
話すに越した事はないとしても、話すのは他の誰か、
この子ではない方がいいのかもしれない。
だけど。
他の誰かじゃ、ダメだ。
村田はいざその場面に直面してみると、急に頭の中に浮かんで来た確信を
そう心の中で静かに呟きながら、柴田を見つめる。
この子じゃないといけない。
この子に、全てを話さないといけない。
それが何故かは分からないが、村田はそう急かす自分の心を正直に受けとめた。
「…むらっち?」
不思議そうに見上げてくる柴田に、村田はふと、出来る限りの笑顔で微笑んでみせて。
「……あの、ね」
そう、そうっと手を伸ばして、柴田の手を取った。
その時。
- 212 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/11(木) 19:11
-
バンッ!
そう力任せにドアを蹴破る音がして、直後、
よく見覚えのある顔が村田と柴田の方に向かって一直線に飛び込んで来た。
「むらっち…そのまま離さないでよ!」
後藤だ。
どうして、なんで、と言う前に、履いているブーツも脱がず、
土足で家の中へ駆け上がっては二人のいる場所まで後藤真希が突っ込んで来たので、
村田は反射的に避けようとした。が、直後、後藤のそのよく響く声にはっとして。
離さないで、という言葉をつい聞き入れて、少し迷ってから
今正に村田の手が掴んでいた柴田の手を、ぎゅっと強く握りしめる。
そして後藤がすぐ目の前にやって来た時、やっとのことでこれから起こる事が予測できた
村田は、突然の出来事に対処できず、ただ呆然としている柴田の体を引き寄せた。
「飛んでッ!!」
後藤がそう叫んだのと、村田の体が地面を離れるのとどちらが早かっただろうか。
灰色のコートに身を纏った後藤を先頭に、その腕に腰を巻かれた村田、
村田に手を握られた柴田は揃って空中を飛ぶ。
柴田はただ唖然としたまま自分の手を取る村田の顔を見るが、
不意にこのまま村田の手を払いでもしたら村田が後藤に連れ去られてしまうとでも
思ったのか、村田の手にぎゅっと自ら抱きついて来た。
- 213 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/11(木) 19:12
-
次の瞬間、後藤の体がパリンとマンションのガラス窓を割る。
急に体に吹き付ける風圧。
村田の肩ごしに見える都会の夜の風景は、柴田の目にきらびやかで美しく映った。
後藤のコートが風になびいてはためく。
秋の冷たい風が三人の体に強く吹き付け、笑っているかのように揺れながら通り過ぎる。
後藤が窓の桟をぎりぎりまで残っていた後ろ足で強く蹴って、
星がいくつか光る夜空に飛び込んだ。
刹那、体制的に最後尾につく形となった柴田の鼻を、焦げるような匂いがくすぐる。
後藤のあまりにも非現実的な行動に動転していた柴田は、
混乱した頭の片隅で、その匂いの異常さを本能だけで嗅ぎとって振り返ろうとするが、
そんな間もないくらい、短すぎる間を置いて、柴田の後ろで大きな熱が燃え上がった。
一瞬の後、そのオマケのように静寂に包まれた街の夜を、音が突き破る。
- 214 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/11(木) 19:13
-
ドォン…ッ!!
- 215 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/11(木) 19:14
- 飛び散った赤い粉が服の袖あたりでくすぶる。
目の前の村田の目が柴田の背後を捕らえ、鮮やかに燃え上がっているのを見て、
柴田はやっとのことで自分の後ろを振り返った。
そして、理解する。
先ほどの音は、『爆発音』だったのだ。
「……なんで」
ついさっきまで村田と二人で、テレビを見たり、ミルクティーを飲んだりしていた
部屋が、赤を通り越した青い炎で包み込まれている。
ボロボロと見る間に半壊していく部屋。残って街に散らばる黒い炭。
まだ部屋の中ではボンッと何かが小さく続いて爆発する音がする。
柴田は思わず息を飲んだ。あの行き馴れた村田の部屋が。爆発して、燃えている。
反射的と言うべきか。柴田は特に何も考えもせず、村田の顔へ振り向いた。
むらっち、どうしよう、むらっちの家が燃えて…
言おうとして、柴田の口は開いたまま止まる。
目を炎を反射して赤々と燃やした村田の顔が、まるでこうなることを
予期でもしていたかのような、極平然としたものだということに気がついた。
(…むらっち?)
突然、今目の前にいる村田が柴田の見知っている彼女ではないような感覚に襲われた。
自分の家が、突然爆発して燃えているのに。どうして村田は平然としているんだ?
- 216 名前:そんな真剣な顔でお笑い見んなっつーの 投稿日:2004/11/11(木) 19:15
-
それどころか。
一瞬の内に起こったことをやっと頭の中で整理して、
爆発に気を取られて今まで全く変にも思っていなかったことを思い出す。
そうだ、自分は今、突然乱入してきた女に抱きかかえられているのだ。
家と心中するのを助けられたばかりではなく、
たった今、地上に落ちる気配を全く見せないまま空の中を飛んでいる。
普通に考えて、いや、普通に考えなくとも空中を飛んでいるというのはおかしい。
こうして考え込むこと自体がそもそも間違っているのだ。
人間が空を飛ぶ事など有り得ない。空を飛べるのは鳥と、飛行機だけ…。
しかし、柴田は自分の後ろを振り返られなかった。
確かに、『進んでいる』のだ。
自分の背中に感じる爆発の熱がなくなって、秋の風が炎と柴田の間に割って入って来た。
これは、段々と村田の家から距離を取っている、離れているということだ。
村田と柴田、二人の人間を引き連れながら、灰色ずくめの女は
唯一灰色と離れた茶色の髪を優雅に風になびかせて、爆発に気を取られた様子も見せず、
ただ村田の家から…そう、丁度相当距離の大きい幅跳びでもしているかのように。
目の前に、先ほどまでは豆つぶのようにも見えたほど遠く離れていたはずの
ビルの屋上が近づいてきていた。
やはり、進んでいた。
『浮かんでいる』のでも、『飛んでいる』のでもなく。
女は、村田の家からこんなところまで、『跳んだ』のだ。
高い高い高層ビル。その上へ上へ、と少しずつスピードを落としながら、
それでも最後には着実に、トン、と女が軽い音で着地したのとほぼ同時に。
遠く離れた場所では、ガラリと燃え残った残骸が最後に崩れ落ちた音がした。
- 217 名前:烏 投稿日:2004/11/11(木) 19:20
- >>202
そろそろ話の一区切りがつくところまでやってきました。
予想できないなんて、そんな嬉しいことを…!ありがとうございます。
あ、今回は柴田さんの台詞でしたw
>>203
あらまぁ、タイトル凄いことになってます
- 218 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/17(水) 09:22
- 今日はじめて見つけました。
こんな面白い話があるとは知らなかった!
作者さんがんばってください!更新楽しみにしてます。
- 219 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/18(木) 21:48
- ますます大変なことに・・・。
話に引き込まれっぱなしで目が離せません。
烏さんすごいです。
- 220 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/20(土) 10:00
-
「…うるさいなぁ」
起き抜けにそう一言呟いて、新垣里沙はむくりと起き上がった。
ふわぁ。自然に出てくる大欠伸。枕元の目覚まし時計を見てみると、
その針がさしているのはまだ午後十一時。
部活でへとへとになって帰ってきたままベッドに倒れこんで、
九時ごろにはそのまま眠りについていた新垣にしてみれば、
まだほんの少ししか睡眠を取っていないということになる。
だるい体をなんとか引き摺って、先ほどからガンガン鳴り続けている
新垣の睡眠を遮ったものの正体を見極めるべく、
シャッと鋭い音をたてて窓にかかっていたカーテンを滑らせた。
「うわ」
思わず、呟く。カーテンを開けた瞬間飛び込んでくる、くるくる回る赤い光。
それが窓で反射しては屈折し、新垣の目に直接飛び込んでくるものだから
しぱしぱと顔をしかめて瞬きをした。
何台もの行列する消防車。チカチカ点滅するランプ。
もう外には既に大勢の野次馬が集まっていて、新垣は物好きな人もいるもんだなぁと息をつく。
- 221 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/20(土) 10:01
- 消防車がここらに固まったまま停止しているということは、
火の出所もここら一帯のどこかからなのだろう。
首を伸ばして新垣のマンションを取り囲んでいるように建っているビルを一つずつ
見回してみるが、どこからも煙が上がっている様子はない。
丁度ここからは見えないような、影に建っているビルが出所なのかもしれないな。
そう考えてから、それなら大変だ、と新垣は思った。
ビルが密集しているこの辺の住宅地は道筋がばらばらに散らばっていて
ただでさえ迷い易いのに、裏道に面して建っている家なら回り込むのも一苦労だろう。
外の消防士達もそのことに関してなのかは知らないが、
困った顔をしているようにも見える。
新垣はおもむろに窓を薄く開いて、するりとベランダに体を滑り込ませた。
その瞬間、くん、と鼻をついて匂う強い煙の匂い。
どうやらどこかで火事が起こっているのは間違いなさそうだ。
サンダルを履いて、一歩ニ歩と人々の山だかりに近づいていく。
そうしてすぐ下を見下ろすと、ふと、
大勢の野次馬達がそれぞれ困惑したような顔をしていることに気がついた。
好き勝手な方向を向いては、連れの方に向き直って何かを捲し立てている若い男性。
中にはテープを辺りに張り巡らせ始めた消防士に不思議そうに
話しかけている女性もいる。話し掛けられた消防士も、心なしか困惑顔だ。
何がそんなに不思議なのか。
新垣はそう思って、またあることに気がついた。
- 222 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/20(土) 10:02
- 消防車の数は多い。当然、それに比例して消防士の数も多い。
しかし、その大勢の消防士は消防車のすぐ横に突っ立ったまま、
どこにも行こうとしない、それどころか動こうとさえしていないのだ。
ぼけっと突っ立ったまま、一体彼らは何をしているのか。
何やってんだ!消防士が動かなきゃ、消える火も消えないだろうに。
新垣は一瞬そう憤慨して手すりから身を乗り出したが、
その内消防士達が皆、ある一定の方向を見上げているのに気づいた。
首の角度は、皆等しい。その視線の先を追って、新垣も首をあげる。
自然と目につくのは、自分の住むマンションの正面にある、これもまた高いマンション。
消防士達と同じように見上げた先に、信じられないものが新垣の目に映った。
確かに、そこには火が上がっていた。煙も上がっていた。
マンションといえば燃える場所も多く、当然火は一ケ所から出ると
そのまま周りの部屋も全て巻き込んで、その炎を増幅させていくのは当然だ。
だが、火はとどまっていた。
火の出所であるだろうある一部屋を鮮明な炎で燃え付くしている。
しかし、ただそれだけだった。周りにも、隣の部屋にさえ燃え移ろうとはしないのだ。
まるでその一部屋以外に被害は与えないとでも言わんばかりに、
まるで部屋全体に楯が張られていて、その中だけで炎が燃えてでもいるかのように。
「……」
新垣は、思わず息を飲む。
- 223 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/20(土) 10:03
- 少し離れているとはいえ、マンションは新垣の目と鼻の先だ。
ガラガラと火が全てを焼き付くした小物や何かが原形を止めず崩れていく音が耳につく。
しかし。炎が辺りに燃え広がらないだけでなく、
その崩れた残骸でさえも、地上に何かが落ちてくることはなかったのだ。
消防士が動こうとしない理由がやっと分かった。
火は燃え移らず、残骸が落ちてくるわけでもなく。
あの一部屋は既に手のつけようがないほど燃えているが、
その他に被害が特に出るというわけでもなく。
消防士達は動かないわけではなく、ただそれを見守っているしかする事がなかったのだ。
新垣はベランダから部屋の中に戻って、リビングを通って、家を出た。
階段をサンダルのままかけ上がって、マンションの屋上へと繋がる扉を大きく開く。
なんという偶然か。
マンションの屋上は、丁度火が出ている一室の目の前だった。
轟々と音を立てて燃える火の発する熱が、屋上に立った新垣の頬をくすぐる。
炎の周りに、火の粉が舞う。しかしそれがどこかに燃え移るわけではない。
その常識では考えられないような火の出方に、新垣は肩で大きく息をした。
- 224 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/20(土) 10:03
-
やがて、燃えるものを燃やし尽くした火はするすると萎むように収まっていく。
下の方が、そのことでやっと騒がしくなり始めた。
新垣はその炎が消えた黒コゲの部屋の様を目にして、目を見開く。
一室は隅々まで燃えていた。今や一つの部屋は完全に灰となっていたのだ。
しかし、その部屋の位置は上下にまたある部屋に挟まれていたものだから、
普通、無理矢理に考えても、その部屋が燃やされてしまうと
上にある部屋はだるま落としのように落ちてくるものだろう。
だが。
もう、これは理論的には考えられなかった。
何か支えがあるわけでもない。また、どこかに柱が立っているというわけでもない。
浮いていた。
燃えた一室の上にあったまた一室は、下へと重力に導かれることなく、浮いていたのだ。
ざわり、ざわりと地上の声が新垣の耳に反響して響き渡る。
まさに信じられないことが自分の目の前で起こっていた。
地上の人間達はこのことに気づいているのだろうか。
マンションの屋上を駆けて、先ほど自分の部屋のベランダからそうしたように
身を乗り出して地上を見下ろす。
しかし、そこで下の様子を目にすることはできなかった。
- 225 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/20(土) 10:04
- 顔の向きを下の方へ傾けたその瞬間、ぐわりという風の轟音と共に大量の灰色の煙が
新垣の目の前まで飛び上がって来て、新垣の体をあっという間に包み込む。
突然視界が灰色に占拠された新垣はパニックに陥って、
そのまま勢い良く尻餅をついた。
手を顔の前でぶんぶんと振り回してみる。
しかし、煙は顔に纏わりついたまま離れない。
どうしよう、どうしよう、どうしたら。
焦りしかなくなって、冷静に考えることもできない新垣。
その脳に一番近い場所を、ふと、冷たい『人間の手』がしっかりと掴んだ。
パニックになったまま、突然額を誰かに掴まれて新垣はさらに慌てる。
(誰、誰だ。この手は、一体誰の------)
その手を掴もうと伸ばした新垣の手は煙の中で空をかき、
ニ、三秒後。
しばしの空白を開けて、ふとその動きを止めた。
すぅっと、霧が引くように灰色の煙が新垣の体から離れていく。
座り込んでいた新垣の前に、矢口真里はコートを風になびかせて立っていた。
- 226 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/20(土) 10:06
-
「…ウチに帰りな」
そう、一言呟いて新垣の額をとん、と軽く押す。
その声をきっかけにしたように、新垣はどこか遠くを見つめた目で
ふらりと立ち上がると、先ほど駆け上がって来たばかりの階段を一段一段、
割合しっかりとした足取りで、今度はゆっくりゆっくり降りていった。
その背中が完全に見えなくなるまで見送ってから、
矢口はふと手すりに掴まって地上を見下ろす。
新垣と同じように、ぼんやりとした顔で個々に自宅へと戻っていく人間達。
消防士さえもふらふらと消防車に乗り込んでは、そのハンドルを握って帰っていく。
その内ぶわりと風が吹いて、そこら中に漂っていた灰色の煙が一掃された。
煙が透明な空気に紛れて消えていくごとに、その姿を表していく同志達。
ちらりと見えだした灰色のコートの裾。
とんがった灰色の帽子が、屋上に立った矢口の方を向いている。
突然、静かな街に現れた灰色の彼女らの大軍。
圧倒的なその全体を見渡して、にやりと口元を不適に曲げる。
後藤真希を、捕獲する。
その重大な任務を胸に、彼女らはこの街に散らばるのだ。
- 227 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/20(土) 10:06
- 矢口はそんなことを考えて、ふと目を閉じた。
後藤は、必ず捕まえる。それまで迷っていた思いが急に晴れたようだった。
それは何故か。…安倍や中澤の思いを、無駄にするわけにはいかないから。
それまで燃えていた一室にちらりと目をやって、矢口はやがて踵を返して歩き出した。
歩きながらに、その指をパチンと鳴らす。
小気味よく響いたそれは、壁を反響し、街全体を反響して、
灰色の彼女らにそんな矢口の思いを反響させた。
ひとり、またひとりと、彼女らはその姿を綺麗に掻き消していく。
矢口はカンカンと音を鳴らして階段を降りる。屋上のドアが一人でに大きく閉まる。
ゴウ、と大きな風がまた吹いて、その風が吹き終わった頃にはもう、
灰色の彼女らの姿はそこになかった。
矢口もまた、マンションの中に入っていったまま、その姿を掻き消した。
矢口の立ち去った後の屋上。
その真正面にあった部屋は、黒い灰など片隅にも残さずに、
元通りの整然とした佇まいを風の元に晒しだしていた。
- 228 名前:烏 投稿日:2004/11/20(土) 10:15
- >>218
ずっとsage進行なのに見つけられちゃいました。
面白いといってくださると、もうほんと、恥ずかしい…!
更新は少し間があく時もあるかもしれませんが、おつき合いお願いします。
>>219
大変なことばかりですみませんw
すごいと言われる日がくるなんて思ってもいませんでした。
エネルギー源をありがとう。
- 229 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/23(火) 17:55
-
「ちょ…ちょっと、まいちゃんってば!」
後ろから、早歩きというよりもやや小走りで追いかけてきていたあさみが、
そう言いながら前を早足で進んでいた里田の手を捕まえた。
それまでただ前を見据えて黙々と足を動かしていた里田は
その事でやっと気づいたかのように、ふと足を止めてはあさみにゆっくりと目を向ける。
あさみは、里田が後藤真希のすばしっこさ、
その実力に好奇心にも似た楽しさを覚えているのだとばかり思っていた。
事実、後藤にまんまと逃げられた後、里田は司令官への報告も適当に、
あさみやみうなを放り出すかのように浮かされた足取りで、
すたすたと、ただでさえ長い足で大股に歩き出したのだ。
里田は大人な一面も確かに持っているが、反対に子供っぽさも持ち合わせている。
あさみはそのことを良く知っているだけに、里田の性質を奥底まで見抜いて、
その上で彼女がたった今、熱に自分を軽く見失っていると考えたのだ。
しかし。
振り向いた里田の顔は、至って冷静さに満ちていて。
振り向かせたあさみの方が呆気に取られるほど、
その目には熱の片端も散らついていなかった。
- 230 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/23(火) 17:56
- 「…なに、どうかしたの?あさみ」
「…え、いやえーと、ううん、ごめん、なんでもない…」
「あ、歩くのちょっと早かった?ごめんねぇ、足が生まれつき長いもんで」
そうけろりと言い放つ。
あまりにも平然とした里田の態度にぽかんとしていたあさみは、
そのせいで最後に自分がからかわれたということにさえ気がつかなかった。
「それにしても…どこに向かっているんですか?」
一拍置いて、後ろから少し淡々とした様子のみうなの声が響く。
問いかけられた里田はそんなみうなの顔を横目で見た後、
「そうだね」とその問い掛けに少し顎に手をやりながら、
里田はきょろりと一度目玉を回して、それまで自分が歩いていた方向をじっと見つめた。
「簡単に言えば…」
「言えば?」
続きを促すあさみの声に、里田の頬はにやりと緩む。
「後藤真希を追ってる、ってことになるのかな」
はぁ?
声には出さず、それでも心の内では同じことを思った
あさみとみうなは、そう無意識に顔を見合わせた。
後藤真希を追っている。
そうすることは副司令官という里田の立場からすれば極自然で、
逃がした張本人という立場から見ても、そうするしかなくて。
一見里田は至極普通のことをしていると思えるが。
- 231 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/23(火) 17:57
- これでも戦闘集団の端くれだ。
後藤の埃に紛れて逃げるという機転の効いた作戦に逃げられはしたものの、
あさみはきちんと後藤の向かった方向を記憶していた。
「…でもさぁ、彼女が逃げた方向って、こっちじゃないよね?」
自分が覚えていることを里田が覚えていないわけがない。
そんなことは分かっているのだけれど、丁度後藤の向かった方向とは
正反対に歩を進めていた里田を見ると、ついつい口から疑問の声を出してしまう。
案の定、にやりと。それでも嬉しそうに笑った里田は、
「だから簡単に言えば、なんだよ」とあさみの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「後藤真希が向かった方向は、こっちじゃない。けど…」
「こっちに、彼女の、『これからの行方』を知る手がかりがある」
言いながらニ、三歩踏み出した里田は、ちらりと二人を振り返って。
単純に追いかけっこするより、先回りしてた方が頭良さそうでしょ?
と軽く自慢げに言った。
「悪役は、こうでなきゃ」
- 232 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/23(火) 21:02
- 里田格好いい!
一緒に言ってみたくなりましたw
- 233 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:10
-
車が止まった。
かと思えば、すぐにバン、と扉が閉まる音がして、
田中はうつらうつらしていた頭を慌てて振り起こした。
(しまった、油断しすぎとった)
大体の時間は体内時計で分かる。おそらく今、午後七時を少し過ぎたころだ。
同じようにまだ眠たそうな隣の道重の肩を軽く叩いて起こしてから、
田中は自分の不覚を呪う。
いくら車がノンストップで走り続けている時間が長かったとはいえ、
自分がしていることの重大さも忘れて眠りこけるなど、最悪だ。
先ほどした音からして、吉澤はもう車を降りたのだろう。
このまま今自分達が隠れているトランクの中を覗かれでもしたら一貫の終わりだ。
そう考えて、途端に不安と恐怖に駆られる。
だが。恐る恐る小さな隙間から外の様子を伺って、田中は葉巻をふかしながら
外をぶらぶらと車から離れるように歩いていく吉澤の背中を見つけた。
よし、ついてる。
どうやら運は田中に味方してくれているらしい。
全く二人に気づいた様子を見せない吉澤がきょろきょろと首を回してから
細い通りへスッと姿を消したのを見送って、
田中はごそごそと手探りでトランクの蓋を開けた。
- 234 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:11
- パカリ。軽い音で開いたそれは、久しぶりに澄んだ空気を通して
田中はやっと自分の体に汗をかいていることに気がついた。
見ると、道重の髪も汗でびっしょりだ。こうしてちゃんと見てみれば、
トランクの中は荷物も一緒に詰め込まれていて色々なものが密集し、
空気が通る隙間がなかったことが分かる。
額の汗をコートの肩で拭って、田中はおもむろにそっと足を外に出すと
無音で静かに久しぶりの地面の上へと降り立った。
下手に音を出すと、たまたま今は見えないものの、
家の中の人間が不審がって外を覗くかもしれない。
そういう意味での田中の配慮だったが、すぐ後に続いた道重が極普通に
タン、と軽い音を街に響かせたことでその行動は無意味に終わってしまった。
バカッ!という思いを目に込めて道重を睨みながら、
田中はこうなりゃどんなに音を出しても同じとできるだけの早足で
道重の背中を押しながら先ほど吉澤が角を曲がった道のすぐ傍の影に隠れる。
「…さゆ、とにかく静かに動くこと。よか?」
取りあえず、吉澤のすぐ周りでヘマをされるわけにはいかないと
隠れたそばからそう厳しい顔と口調で言う田中に、道重もうんと笑顔で頷いた。
本当に分かっているのだろうか。その笑顔に一抹の不安を覚えながら、
とにかく気を取り直してじゃあ行くよと田中は吉澤の影を追う。
- 235 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:12
- 夜の街は静かだった。
しかし、しばらく歩いている内にいくらなんでもおかしいことにやっと気づく。
今、田中の読みが間違っていなければ時刻は七時頃。
例え人間の晩飯時と呼ばれる時間帯だとしても、
こうして外を歩いているのに人っ子一人見ないのは明らかに不自然だ。
いや、百歩譲ってこの街の人間が全て今都合良く家の中に引っ込んでいるとしよう、
しかしそれでもまだ不自然さは残る。
人間だけでなく、野良の動物や鳥もいない。
それになにより。
(…家の、灯りがついてない)
そう、どこの家も窓を覗けば見えるのは黒ばかり。
闇の色にどこか引き込まれそうになりながらも、田中はふむ、と顎に手を当てる。
無人、いや、無生物の街。
吉澤は一体こんなところになにをしにきたのか。
車に乗り込む前、誰かと通信を取っていたようだったがその時に聞こえた
『カントリーに加勢しにいく』とやらはどうなったのだろう。
カントリー。ほんの少し小耳に挟んだ程度の知識だが、
確かあの里田まい率いる戦闘部隊だったはず。
戦闘部隊に加勢しにいくのだから、当然吉澤も戦いにやってきたということだ。
しかし、この街はいくら耳を澄ましてみても戦闘音らしき音はなく、
それどころか静まり返りすぎて無気味であると同時に一瞬でも気をぬくと、
自分の立てた足音が街中に響き渡りそうな雰囲気だった。
- 236 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:13
- しかも、この街には吉澤以外僅かな気配さえない。
加勢しにいく、ということは、もうカントリーは後藤真希と交戦しているということだ。
いくらずば抜けた戦闘集団だからといって、
戦っている途中にわざわざ気配を押し殺すだろうか?
もう、この街にはいない。それは確かだ。
逃げた後藤を追いかけでもしているのかもしれない。
そう考えて、田中はピタリと足を止めた。
(…じゃあ何故、吉澤ひとみはこの街におる?)
田中に分かることは吉澤にも分かるということだ。
まさか本当にカントリーがここにいると思い込んでいるほどバカではないだろう。
しかし、吉澤は足を止めない。僅かな気配だけで歩き続けている。
この調子で隣街かどこかへ足を伸ばすのだろうか。
いや、だったらわざわざ車を止めて、尾行しやすい歩行という手段で行く理由がない。
ならば、やはりこの何もない誰もいない街に何か用があると考えるのが妥当だろう。
不意に、ふと吉澤の気配の動きが止まったのが感じ取れた。
田中もそれに習って歩いていた両足を止める。
後ろについてきていた道重がお約束のようにぶつかった。
- 237 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:13
- そんな道重を振り返って、しーっと大きく身ぶりだけで示しながら、
田中は一歩一歩、それまで以上に足音を忍ばせて道を歩く。
吉澤の気配はすぐ近くだ。微かに嗅ぎ馴れた葉巻の匂いが香る。
微かな月明かりの角度を確かめて、田中は自分の影が吉澤の視界に入らないことを
計算してから、右曲がりの角からそっと吉澤の姿を盗み見た。
吉澤が立ち止まっている場所。
それまでの家だけがただひたすらに並んでいた通りとは違い、
角を曲がるとすぐに何も置かれていない白く広い空間になっている。
後ろから背伸びをして田中の頭に顎を乗せた道重が、驚いて少し目を見開いた。
広場の丁度中心点がくるような位置にたった一本だけ立った柱に、
吉澤は口元の葉巻を取り替えながらもたれ掛かって立っていた。
顔は空に雲が薄くかかった月の方を見上げていて、オーラはどこか柔らかい。
灰色のコートが北から吹いてくる風に軽くなびいて、ふわふわと舞う。
しばらく、そのまま時が止まってしまったかのような錯角に陥った。
じっと佇んだまま、そこで特に何をする、といった様子も見せない吉澤につい苛立って、
田中がもっとよく見ようと体制を屈めて前進した、丁度その時に。
- 238 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:14
-
ゴォーン、ゴォーン。
突然鳴りだした音に、思わず田中はびくりと体を跳ねる。
反射的に素早く音のした自分の背後を振り返ると、
そこにはやたらと太い柱の大きな鐘付きの時計台が田中を見下ろすように立っていた。
無人だというのに、何故か一人でに揺れている鐘が空気を振動させる。
うるさいくらいの音にビリビリ震える耳を抑えて、田中は不審気にその時計の針を見た。
ちく、ちく。音を鳴らしている間にも進む秒針が六を差し、
短い針が八。長い針が、十二。つまり、今は午後八時丁度。
自分の体内時計が間違っていなかったことに少し安堵を覚えながら、
田中はまた忙しく、今度は吉澤の方に目を向ける。
時刻は午後八時。吉澤が何かしでかすタイミングを計っていたとしたら、
それを実行するのはキリのいい今しか------------
思わず、目を向いた。
吉澤が柱にもたれ掛かって立っている。それは何も変わっていない。
月を見上げる顔の角度まで先ほどと寸分の違いもなかった。
だが、決定的にたった一つ違うものが田中の視界にはあった。
- 239 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:15
- 吉澤の見上げる月のすぐ下にあった家の屋根に、
灰色のコートを着て、灰色の葉巻をふかした誰かが座っている。
月明かりが乏しいので、顔は影に隠れてよく見えない。
しかし、田中はその明るい茶色の髪の色によく見覚えがあった。
いや、見覚えがあったというよりも、忘れられなかったと言った方が正しいか。
(まさか、こんなにすぐ会えるなんて)
「…五秒遅刻だよ、ごっちん」
じろり。そう屋根上の人影を睨む吉澤の声が、微かに田中の耳に届いた。
慌てて道重のいるところまで四つん這いのまま戻り、
道重がまた頭の上に顎を乗せてくることに構いもせず田中はじっと耳を澄ませる。
少し怒ったような響きを含んだ吉澤の声とは対照的に、
今度は少し笑いを含んだ、どこか楽しそうな声が街に響く。
「ま、いつものことだし。許してよ」
「許すもなにも、こんな大事だってのに…ま、別にいいけどさ」
ちっとも悪びれた様子のない返事に、元から怒る気などなかったというよりも
仕方がないと諦めた感じの声色で、吉澤がため息混じりに呟いた。
それにまた可笑しそうに、しかし一応は堪える素振りでくっくっと笑う人影。
…いや、声といいこの人柄といい、間違いない。
- 240 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:16
-
(後藤、真希だ)
「つーかさ、そっちがちゃんと待ち合わせ時間に来てるって方が驚きなんだけど」
「な、ごっちんひでー。そりゃーあたしのことを見くびりすぎってモンでしょー」
「ハイハイ、よしこはやるときゃやるもんね」
「そうそう」
テンポよく弾む会話。この二人が親友だということは有名な話だが、
田中はその楽しげに進む会話を聞いていくと比例して、
段々吉澤に対する不審感が強まっていった。
組織中に手配されている後藤。その友人吉澤。
後藤が組織の時間を持って逃走していることを、まさか吉澤が知らないはずはない。
車でも、吉澤の鞄の中に後藤に関しての資料が入っていたのが見えていた。
詳しい資料を持っていたということは、後藤捕獲の命令が下っているという事だ。
しかし、吉澤はいつまでたっても後藤を捕まえようとする素振りさえ見せない。
囮捜査の真似事で、後藤に油断させておいて後から捕らえるという可能性も考えた。
だがそれにしては吉澤の方に動きがなさすぎる。
最早、これは裏切りか。
友人に対して冷酷になれず、情を優先して友の犯行に手助けをする。
よく有りそうな話だ。ましてや、情に厚いところが唯一の欠点と言われている吉澤ならば、なおさら。
- 241 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:17
-
「親友の一大事とあっちゃ、寝坊もうかうかできないかんね」
「あはっ、よしこやっさしい!」
「それほどでもー」
別に自分は元々この二人を、いや、後藤を捕まえることを目的に
吉澤の車にこっそり乗り込んだわけではなかった。
ただ後藤に盗んだ時間をどうするつもりなのか、そんなことを聞こうと
ただ単純に考えていただけで。
しかし、今よく考えてみれば。
後藤が結果的に時間の全ての供給口を止めてしまうつもりだと答えれば、
田中自身は一体どうするつもりだったのだろう。
まさか消えてしまいたくはない。
組織に報告したか。それとも、後藤と真っ向から衝突したか。どちらかだろう。
ならば。どうせならば、今。
後藤と吉澤の関係を、組織に報告していた方がいいかもしれない。
田中も勝手に人間界に出たことがばれたらただでは済まないが、
後藤、それに吉澤と正面衝突して消されてしまうよりもよっぽどいい。
そう考えて、田中はほんの少し後ずさる。
先ほどまで鳴り続けていた時計台を見上げれば、
その長い針は12から5の字体を少しばかり回りかけていた。
- 242 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:18
- 吉澤と後藤が会話をはじめてから25分たった。
吉澤に後藤を捕まえる気がないのは、もう明らかと考えても良いだろう。
その事実に決意を後押しされ、後ろで不思議そうに田中の動きを見ていた
道重の後ろに回って、田中は影の中に座り込む。
じっと手を組んで、目を閉じて、集中。
一瞬、誰を呼び出そうかじっくり考えて。
そしてすぐに自分が知る限りで最高の位置にいる、安倍なつみの顔を浮かべた。
「…安倍さん」
ほとんど空気にまぎれるような声で呟き、
いざ通信を取ろうと田中が頭へ意識を持っていった瞬間。
「そういえばさぁ」
ここぞとばかりに響いた、それまで楽しげだった後藤の声。
今まで吉澤の談笑していた人と同一人物だとは思えない。
まるで喉に氷の刃を突き付けられたようだ。田中は思わずハッとして目を見開いた。
ドッドッドッドッ。
知らず知らずの内に心拍が速いリズムで波打つ。
自然と呼吸が荒くなる。
緊張の糸が瞬時に辺りに張り詰められ、身動きができない。
「…わざと、連れて来たの?」
意味ありげに区切った後藤の声が、また続いた。
本能的にその意味を察知して、田中の顔からサッと血の気が引く。
が、すぐにぶんぶんと首を振って堪えた。
まだ、まだだ。まだ、自分達のことをさして言っていると決まったわけでは…。
- 243 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:18
-
後藤は、こっちを見ていた。
ちらりと目をやった先にいた後藤の顔は、しっかりとこちらを向いていて。
先ほどまで雲に隠れていた月は何故か計ったかのようなタイミングで
その全貌を綺麗に表し、後藤の顔を真横から照らし出す。
月光を受けて輝く鋭い眼光。しっかりと田中を捕らえた目。ぞくり、背筋が寒気立つ。
危ない。このままここにいては危ない。
頭がそう危険信号ばかりを出しているのに、肝心な足は竦んで動かなかった。
「……まぁ、ね」
不意にぽつりと聞こえた吉澤の言葉が、田中の中に反響する。
後藤が頭をぽりぽりとかきながら、呆れたと言わんばかりの顔で言った。
「よしこってさ、たまに訳わかんないことするよね」
「そうかなぁ。組織に伝えてくれるならそれでいいと思ったんだけど」
自分に対してのケジメにもなるし。
そう言いながらおもむろにこちらを向いて、至って平然とした足取りで近づいてくる。
前の道重はぽかんとその様子を見つめ、田中はただ自分の中の恐怖を戦い続けた。
- 244 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:19
-
「ねぇ、そう思わない?」
道重と田中の前に立つ、背の高い人物。耳もとのピアスが軽く揺れる。
道重は「はぁ」とも「へぇ」ともつかない声をあげ、田中は思わず息を飲んだ。
吉澤ひとみ。まさか、わざと自分達に後をつけさせていたとは。
後ろでトン、と軽く音がして。
すっかり腰が抜けてしまった田中が目を向けると、先ほどまで屋根上に立っていた
後藤が地面に直接降り立った音だということが分かった。
コツコツ、厚底のブーツを鳴らして近づいてくる。
足音が静かな街の中を一周するようにぐるりと響いて、
道重の顎をその手は掴んだ。
「…ああ」
そうして、なにかを納得したかのような声を出す。
マズイ。逃げろ、逃げなきゃ。何故かは分からないけれど、そう本能が言っている。
後藤の敵に対する刺々しいオーラが田中の心を追い詰める。
息苦しい、早くここから逃げ出したい。
「さゆに…っ!」
それでも勇気を振り絞って、道重だけでも後藤から逃がそうと声を上げたが、
さわるな、という続くはずの台詞までは、あまりの恐怖に言い切れなかった。
展開についていけないのか、ぽかんとしている道重を
後藤の手を振り払うように引き寄せて、田中はただ一心に後ろを向いて逃げ出した。
- 245 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:20
-
- 246 名前:悪役は、こうでなきゃ 投稿日:2004/11/28(日) 19:21
- その、例え足がもつれ、這いつくばってでも逃げてやるという背中を
平然と見守りながら、後藤は先ほどまでの表情とは一変して、呑気な顔で呟く。
「いいね、あの子。大物になるよきっと」
「ごっちんの手振り払うなんて、中々できることじゃないもんね」
隣に立った吉澤もそんな後藤にちょっと目をやって同意した。
成長するのが楽しみだ。そう言わんばかりの顔で満足げに一度頷いた後藤は、
そういえば、と思い出したかのように自分の後ろを振り返る。
「…見てた?」
「まぁね」
「よかったね、あたしら二人の御墨付きだよあの子」
「…ミキが今まで育ててきたし、ま、当然」
影にまぎれる、灰色ずくめの影。
深い闇夜から月明かりの下にその全身を表してそういった藤本美貴の返答に、
後藤はその顔をまっすぐに捕らえてから、ふと心底おかしそうに軽く笑った。
「ミキティ、大遅刻」
時刻の六を長い針が突き刺して。
ゴーン、と。鳴り遅れたかのような鐘が一つ、街の中に鳴り響いた。
- 247 名前:烏 投稿日:2004/11/28(日) 19:27
- あ、sageれてない…。
>>232
ありがとうございます。
本物の里田さんはもっとかっこいいですよ…!
- 248 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/29(月) 21:42
- なにがどうなっていて次、どうなるのか。
展開の予測がつきません。面白いです。
- 249 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:36
-
ザァ。
天気は曇り空、そしてそこから降り注がれる雨の粒。
加護は今日も辻の傍にいた。地面に描かれる巨大絵は、
案外二日三日でできるかと最初は思っていたが、そうもいかないのが現実で。
とくに、今日のような雨の日は。
降りつける雨の勢いが強ければ強いほど、辻の小石で地面を抉っただけの
絵を水で掻き混ぜ、泥にし、何事もなかったかのように去っていく。
その度に辻はただどこからかありったけの傘を取り出してきては
可能な限りの場所を雨から守り、はみ出して泥に潰れた場所を、
天気になってからまた描き直し始めるのだ。
どうして雨は降るのだろう。そんな背中を見る度に、加護は思う。
辻はこの絵をただ一心に描き続けている。
この巨大絵が完成すれば、もしかしたら『いいらさん』が帰ってくるのではないかと、
そう信じて淡い期待さえ抱いている。
天災ならば、それでいいのだ。
…いや、それでいいということはない。
しかし、天災がどうしても防ぎようがないことなのは加護だって知っている。
しかし。もう一つの理由で雨が降っていることよりも、
天災で雨が降っていると片づけてしまった方が、いくらか楽にも、安全にも思えた。
- 250 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:37
- 「…今回は、どうなんやろ」
灰色。まるで、葉巻から立ち上った煙を天空で掻き集めたかのような深い灰色。
『灰色の彼女ら』がこの人間界に煙に紛れてやってきた時、
この世界には雨が降る。やってきた人数が多ければ、多いほど、その雨は強くなる。
加護の差した傘に、バラバラと強く固く弾ける雨。
もしこれが彼女らの起こした雨だったとすれば、
人間界に降り立ったその数は、加護には一体見当もつかなかった。
組織の時間が、後藤真希に盗み出されたのは知っている。
下位から中位に昇進するための試験を受けている加護のところにも、
その伝達はやってきて、組織が慌ただしい状態だということが安易に伝わった。
今頃きっと状況を掴めず苛々してるであろう後輩にも情報を送った。
『一度戻ってこい』という内容も、きちんと受け取った。しかし、加護は戻らない。
自分と同じ立場の同志なら、その伝達を受け取った時点で瞬時に組織に戻ったり、
そのまま後藤の後を追いかけ始めたりしていることだろう。
だが、加護には。どうしても組織に戻れない理由が、今目の前にあったのだ。
- 251 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:37
- (ののだけ、ここに置いていかれへん…)
『いいらさん』
辻と付き合うようになって、三日でその人物が
この間卒業した『飯田』であることを加護は知った。
任務中の同志には、人間にその姿を見られてはいけないという掟がある。
昇進試験の場合、人間に接触を計らなければその課題は通れないため、
組織が同志の扮する人間のデータや過去を抜かりなく用意してくれるので
同志は何の不自由なく人間界に紛れ込むことができるのだが。
灰色のコートに身をつつみ、灰色の帽子を被っているその瞬間を。
人間に、見られてはいけないのだ。
人間にその姿を見られる。ということは、
その時点で組織の内部情報を人間に漏らす、ということに繋がってしまうから。
しかし、そんなことは滅多に起こらない。
それも、人間には灰色のコートに身を包んだ同志の姿を見ることはできないからだ。
人間がなんとなく生きて、なんとなく死んでいく現代社会。
その流れるような時間の進みに、同志達の姿はなく。
誰が定めたかも知れない常識を信じ込み、人間達は見ようと思えば見えるのに、
すぐ近くを歩く同志の姿を見ようともしない。だから、見えない。
だが。たまに、辻のような人間がそこにいる。
おそらく、辻には見えたのだろう。
灰色のコートに身をつつんで、人間の街を歩く飯田の姿が見えたから、抱きついたのだ。
- 252 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:38
- 飯田は組織の上位に、デスクの補佐に当たっていた。
上位になれば人間界を誰の許可もなく人間の姿で歩くことができ、
人間の姿でなら、人間との接触も許される。それは誰も不自然に思うことがないからだ。
だから、辻の姿を見つけ。情に流されたのだか、その理由は知れないが、接触した。
そして親しくなり、飯田と辻の間には絆が生まれた。
もとより、飯田の本質は優しい柔らかな空気をまとっていたから。
身寄りのない辻を見て、放ってはおけなかったことが簡単に想像できる。
そんな飯田の誤算は、たった一つ。
辻の目に、灰色の彼女らの姿が見えるということを、知らなかったことだけだった。
「…ね、あいぼん」
「ん」
「あいぼん」
「んー」
「あいぼんってば」
「…ああもう、なんや!折角人が考え事してんの…に……」
しつこく服の袖を引っ張っては、すっかりお馴染みとなってしまった
ドラム缶の上で座り込んでいた加護の意識を奪う辻の方を勢い良く振り返る。
しかし、それよりも早く。
辻の方を向く間の過程に、見覚えのある顔が引っかかったことに気がついた。
- 253 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:39
-
「…あの人が、あいぼんのこと呼んでって」
辻の言葉が、頭に響く。
加護は傘を持つ手にぎゅっと力を込め、呼吸を落ち着かせるために深呼吸をした。
心拍が自然と速くなる。加護はゆっくりと意識してドラム缶の上から降り立ち、
辻の描いた線を踏んでしまわないよう、足下に気を配りながら。
その、人物の真ん前で立ち止まった。
「…加護、亜依さん。だよね?」
ザァ。雨が降る。加護が少し傘を傾けて見上げたそこには、
長い髪を後ろに垂らした、一人の女の姿があった。
「…里田、副司令官」
反射的に口から飛び出した言葉。
出してしまってからはっとして、慌てて自分の口を手の平で覆い隠すが、
辻に聴かれてしまっただろうか。
そろりそろりと後ろを振り返ろうとするけれど、
それよりも速く「大丈夫、この雨じゃ聞こえないよ」と里田自身がはっきりと言い切ったのが聞こえた。
思わず、里田の顔を凝視する。
おそらくとても間の抜けた顔をしていたであろう加護に、
見つめられた里田はふと微笑んで。
そしておもむろに、「初めまして」と軽く頭を下げた。
- 254 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:40
- 上官が下官に頭を下げる。
そのことは決してあってはならない、とても非常識的なことではあったが、
一礼した里田にはそんな常識という枠に捕われず、
ただ人間の挨拶という習慣に習った、という、どこか小奇麗なオーラがあった。
思わず、加護は握り拳をつくる。
(…ただ者やない)
「…ウチに、何の用ですか」
自然とした警戒に伴って、自然と刺々しくなる加護の声。
里田はその言葉に少し白い歯を見せて、
何かを否定するようにぴらぴらと片手を横に振った。
「ああ、大丈夫。何も強制的に組織に連れ帰るつもりで来たわけじゃない」
「……じゃあ、副司令官がわざわざなんで」
怪訝そうにぎゅっと眉根を寄せた加護に、
里田は少し言いにくそうな顔で、頬を指で撫でながら続けた。
「……ちょっと、協力してほしいんだ」
「…協力?」
思わず加護が聞き返した言葉に「うん」と小さく頷いた里田は、
心なしか増々強くなってきた雨を広げた手の平で受けて、空を見上げる。
- 255 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:42
- 釣られて同じように空を見上げた加護は、雨を降らしている灰色の雲が、
先ほどとは比べ物にならないほど濃い色に変色していることに気がついた。
尋常ではない存在感を放っているその雲は、
それまであった薄い雲を取り込んで、自らの面積を増幅させるかのように、
ぐるぐるとマーブル状に渦巻いていく。
それに伴って。光りが厚い雲にほとんど阻まれてしまったのか、
段々と不気味に明るさを失っていく朝の街。
「…これは」
ぽろりと口をついて出た自分の声を聞いて、加護ははっと我に返った。
雲がその領域を拡大させていくと同時に、降りつける雨も止む気配を見せない。
その様子は明らかに天災の雨が起こす状況ではなく、
もはや異常気象という理由で片付けられるかどうかも危ういほどだった。
天災じゃ、ないと。そう、いうのなら。
「昨日の夜、選抜が軍として送り込まれたのはもう知ってるよね?
…ついさっき、引き続いてほとんど全ての同志を人間界に送り込まれたらしい」
「な…!」
加護の心を先読みして、ずばりとそう言った里田の言葉に、愕然とする。
エリートが選抜グループとして掻き集められていたのは知っていた。
しかし、組織がその選抜をまず人間界に忍ばせて後藤の様子を探る手を取っていると
ばかり思っていた加護は、その意外な同志の人間界への大移動を全く予想していなかったのだ。
- 256 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:43
- …いや、確かに今。組織が置かれている状況はとても危うい。
追っている立場とはいえ、後藤真希の手に全ての同志の命は握られているのだ。
組織での『時間』は、人間界ではもちろん持ち歩きできないため、
何かに具現化されると聞いている。
もしそれが何かの小物だったとしたら、後藤がその指で『時間』を押しつぶすだけで、
それはもうちっぽけに、組織全てが壊滅してしまう。まさに最悪の事態、恐るべき状況だ。
そんな状態の組織が、何が目的なのか、何故か時間を持ち歩いたまま動かない後藤真希の
捕獲に一切手を緩めるべきではないことは子供の頭でも分かることだが、
しかし、それにしてもそんな組織自体の大移動は少しばかりやり過ぎではないだろうか。
「…納得いかない、って顔だね」
眉間に皺を寄せて憮然とした顔を知らず知らずのうちに
出してしまっていた加護の顔を見据えて、里田が片方の眉を上げてみせながらそう言った。
「当たり前です」
そんな飄々とした里田に対して、加護は苛々とした調子で答える。
加護は里田の様子を目前にしながら、こんな凄い人が何故今の組織の状況が
とてつもなく悪いことに気がつかないんだと口調も荒く捲し立てた。
- 257 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:44
- 「人間界に存在する同志の数を増やしていくのは、別に構いません。
けど、ほとんどの同志を全て送り込んでしまうのは間違ってる!
人間界に送る数も重要ですが、組織に警備として残すのも重要ですよ。
もし後藤真希の共犯がまだ組織の中におったとしたら、…いや、後藤真希の共犯じゃなくても、
今の手薄な警備じゃ、組織の壊滅を狙っていた誰かの追い打ちを防ぎ切れないかもしれない…!」
そうなった時、いったいあなた方はどういう対応をするんだ、と。
そう里田に一歩踏み出そうとした時、加護はその表情を一瞥して、
思わず少し空中に浮かせたところで止まっていた片足を、おもむろにすとんと降ろす。
加護の一息で言い切った長い言葉を一句も聞き漏らさずに聞き取った里田は、
にこりと満足げに微笑んでいて。
かと思えば、ぱちぱちと軽く高い音の拍手をしつつ、ふと口を開いた。
「…流石。噂通りの分析力で嬉しいよ、加護亜依」
その、今までとは打ってかわった声に、…いや、声は決して変わっていない。
しかしどこか、その言葉の奥底にそれまで隠れていた里田の強さが
一気に前面に押し出されたかのような圧力を感じて、加護はごくりと生唾を飲んだ。
「そう、その通り。今の組織の警備は今までにないくらいの手薄さで、
今そこを叩かれれば一溜まりもない…。けど、そうなる確率は全くないんだ」
「…え?」
じりじりと体を焼きつけるかのような迫力に、加護は一歩足を引きながらも
聞き逃せない一言に、聞き返す。
- 258 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:45
-
組織を今襲われる確率は、全くないだって?
一体、誰がそれが絶対だと言い切れるのだろうか。
里田がどんな推測を持っていたとしても、それはただの推測だけでしかないと
加護が言い返そうとしたところで、里田はふと、まったをかけるように片手をあげた。
口を半開きにしたまま、怪訝そうに固まってしまった加護に向かって、
そんな里田の片手は不意に横向きになり、伸びていく。
「……里田、さん?」
里田の手にはめられた灰色のグローブが、
加護の目の焦点があわないほど目の前まで迫ってきた。
「…だって、この私があなたを尋ねてきたんだから」
意志のこもった里田の口調。
そこでやっとはっとして。
加護はその手を反射的に振り払おうとするが、
里田は全く怯まず、ただ真直ぐにがしりと。しっかりと、加護の額を掴んだ。
「…まだ、『目覚めてない』のか」
「それとも…」
「シラを切っているのか」
- 259 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:46
- 脅すかのような低い声。
ぐ、と額を掴んだ手に力をこめられて、加護の背筋がぞわりと寒くなる。
手首あたりを狙って手刀を打つが、里田の腕はぴくりともしない。
(分かった)
それでもひたすらに里田の手から解放されようと
抵抗する加護は、そんなふとした瞬間に。
自分の頭にしっかりと、ある一つの確信がよぎった。
(この人は…)
(『知ってる』んや)
「本当はどっちなんだ、F/wrs/d-222!」
加護自身のコードネームをうなるような声で口にした里田の手首を、
先ほどのような解放されるための抵抗ではなく。
今度はとんとん、と。右の人さし指で軽く叩いてみせることで、里田への合図を送った。
「…分かった。分かったから、ええ加減に離せや!」
合図と共に大きく開いた口で、普段の口調を張り上げて叫ぶ。
途端に額を掴んでいた里田の手からふっと力が抜けて、
加護は少しばかり浮いていた自分の踵がちゃんと地面についたのを確認してから、
力をこめられすぎて少し赤くなったこめかみを指で撫でた。
- 260 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:47
- 「…ちょーっとばかし、乱暴すぎるんやないか、副司令官」
「中澤さんから加護には先に乱暴な手を打っていかないと、
からかわれてだまされてはぐらかされてバカにされるって聞いたもんだからさ」
里田の口から長々と飛び出てくる自分についての注意報に
加護は頭と耳が痛くなって、目を細めてから思わず閉口した。
「それにしても、人が悪いわ…。全部裕ちゃんに聞いてきてたんやったら、
最初にそう言ってくれればええのに」
「いやー、ごめんごめん。後藤に逃げられてるこっちとしては、
そう簡単に人を信用できなくなっててね。
君が後藤の共犯だっていう可能性も1%くらいはあったわけだし」
けろりとした顔でそんな大事を口にする副司令官に、加護は乾いた笑いを漏らす。
それで最初は協力の具体的な内容を言わずに、
こうしてまず自分を締め上げたってわけか。
後藤のしでかしたことはもちろん、その心理が全く読めない加護としては
取りあえず笑っておくしかない。
しかし、このままその話を流してしまうのもどうかと思い、
「でもその疑いもこれで晴れたやんな?」と加護が首を傾げて問うと、
里田はにっこり笑ったまま、「さぁね」とだけ曖昧にはぐらかした。
はぐらかしてんのはそっちやんか、と加護が向ける冷たい視線に、
里田は両手をぴらぴらと振りながら表面上は慌てたように続ける。
- 261 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:48
- 「まぁ、それでも一応は信用させてもらったから」
「そら光栄やな」
「だから…」
「こっちも君に信用してもらうために、手の内公開しておくよ」
言いながら、手を高々と上げてぱちんと指を鳴らした里田。
その頭上に目をやると、灰色の雲に紛れるようにして灰色のコートをなびかせながら、
極ありふれた住宅地には全く馴染まないような姿が二つ、降ってくる。
片方はトン、もう片方はスタン、と。
どちらも軽い音で地面に着地してからすっくと立ち上がった全身を見て、
加護は思わずあ、と呟いた。
「…カントリー」
「そう、ちっこい方があさみででっかい方がみうな。
私がただの戦闘員で、あさみは主に情報調達係。みうなはまだ修行中ってとこかな」
目の前に並んだ二人を見比べながらそう言う里田に、
『ちっこい方のあさみ』は眉間に皺を寄せながらガンをつけ、
『でっかい方のみうな』は加護に向かって柔らかく微笑んだ。
加護はそんな一見奇妙な三人組を一人一人目をやってから、
少しの間沈黙し、その後「分かった」とため息混じりに重々しく呟いた。
「…その分かった、っていうのは、信用してもらえたってこと?」
促すような里田の声に、加護は軽く肩を竦める。
- 262 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:48
- 「組織じゃ全くあんたらの情報は流れてへんかったからな。
凄腕の戦闘部隊っていくら言われてても、どんな編成、人数、顔なんかもさっぱり知らんかった。
けど、こうやって見てみるとかなりの少数編成で、あんたらの弱点もよう分かる。
戦闘部隊は戦闘部隊でも、まぁ色々あるからな。
あんたらの人数編成から見たら、おそらく遠距離、中距離、近距離のバランスの取れたスピード型や。
スピードで攻めるのが売りの戦闘部隊に、手の内明かしは絶対に厳禁。
パワーで振り切るならまだしも、スピードってのは一度捕まえられたらそこで終わりやからな」
すらすらと流暢な口調でそこまでを言い切った加護に、
里田はくっと目を細めて、口元だけをにんまりさせた。
前に立ったあさみが、やたらに吹き慣れているような高い綺麗な口笛を吹く。
「…やっぱり、中澤さんの言ってた通りだよ」
加護の科白を全て聞き終えた後。
里田は不意に二、三回手を叩き、そう満足そうな顔のまま
加護のすぐ近くまで歩み寄る。
どうせ『クソ生意気なチビ、それが加護』とでも里田に吹き込んだのであろうことが
すぐに見通せてしまう、我らが上司、中澤裕子の顔を頭の中に思い浮かべて、
加護は思わず渋い顔をしたが。
す。音もなく、静かに里田の手が差し出される。
「それじゃあ、早速。協力してもらえるかな」
その綺麗な指先をじっと見つめて、身長差のせいでどこをどうしようとも
上目遣いになってしまう加護は少しつまらなさそうに口をとんがらせながら、
それでもにやりと不適に笑って。
差し出された里田の手に、自分の『右手』を力強く重ね合わせた。
- 263 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:50
-
「…もちろんや」
そう、言うが早いか。
ボッと加護の右の裾から細長い煙が勢い良く飛び出し、
加護の右手を伝って、繋いでいる里田の右手にくるくるとまとわりつく。
加護はその突拍子もない出来事に里田が警戒しててっきり右手を引くだろうと
思っていたのだが、前に立った里田はぴくりと片眉を上げた以外、
とくに何の行動も見せない。
その大物然たる里田の態度に、加護は裕ちゃんが好きそうなタイプだな、と思った。
「……これが?」
「そう、これがウチの『能力』や。ちっこくて拍子抜けやろ」
「…いや、ちっこくても油断できないヤツを知ってるからね」
ちら、と横に目をやってあさみを一度見た里田は、
すぐに加護の方に向き直って「それで」と言葉を続ける。
「この手は離しちゃいけないんだね?」
「ああ、そのままで頼むわ…。矢口さんが人のデコに触らんと記憶を消されへんのと
一緒で、うちのチカラも人の手をずっと触っとかんと
『記憶を読み取る』ことができへんからな」
そんな加護の台詞に、里田が軽く頷いた。
その右手に前進しつつもくるくる回っていた煙は里田の肱下あたりでその進行を止め、
今はただ回転しながら里田の腕にとどまっているにすぎない。
これが、一体どうなるんだ。
そう聞こうとして再度煙から加護の方に目を向けた里田は、
もうその時点で自分が身動きしてはいけない立場にいることに唐突に気がついた。
- 264 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:51
- いつの間にか、しっかりと目を閉じて。
里田の右手を握ったまま集中しているかのような顔つきをしていた加護は、
先ほどまでのおしゃべりな口はどこへやら。
ただ里田の協力をするべく、一切無言の姿勢を保って難しい顔をしている。
「……」
しばらく、その迫力に圧倒されて。里田はごくりと唾を飲み込んだ。
矢口真里、そして加護亜依。
里田にとって『能力者』の姿を実際に目で捕らえるのは加護で二人目だが、
やはり普通の者にはない、矢口と同じような特異なオーラを持っている。
記憶を『消し去って』人間に組織の存在を隠し通している矢口と、
記憶を『読み取って』それに自分の分析を加え、推理する加護。
人間の数の単位でいくと、何百万人、何千万人、何億人いるかもしれない組織の中に、
極たまに、こういう特異な能力を持って生まれる同志がいる。
と、その張本人でもある矢口に聞いたことがある。
世代血筋一切関係なく、なんの前触れも起こさず、
まず初めに自分自身がその能力のことに気がつくというやっかいな代物なので、
その能力のことをあえて誰にも話さない者、
組織の為に利用してくれと自ら進み出る者、それは三者三様で実に様々だが、
どうやら矢口はこの能力のことをあまり快くは思っていないらしい。
- 265 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:52
- 里田にとってその心理は全く読み取れそうにもない、が、
話を聞く限りでは矢口の能力も、加護の能力も、随分と便利そうなものなのに。
しかし矢口はそんな意見には頑に首を振って、
組織に利用してくれとわざわざ能力を差し出した者のリストでさえ、
矢口だけが知るどこか極秘の場所へしまいこんだまま、決して外に漏らそうとしない。
ゆえに、かなり組織でも上位に入る里田に対しても、
今組織の中に能力を持っている人数はどれくらいだとか、
そういう類いのことを一切話してくれようとしないのだ。
(…まぁ、いいけど)
基本的に他人に忠実な里田は、あの矢口が口を割ろうとしないのだからと
最初に話を聞こうとして拒まれた時からその話題には一切触れていないが。
こうして目の前に『能力者』をぽんっと投げ出されてみると、
やはりその存在は不可思議で、奇妙で、そして面白い。
(ミキなら絶対首突っ込むだろうなァ、こういうこと)
毎度お馴染みの、彼女が人間界に試験を受けにいってしまってからは
里田がわざわざ人間界まで出ていって遊ぶほどの仲の親友の顔を脳裏に思い浮かべて、
面白いことが大好きだという彼女に自分も少しばかり洗脳されてしまったかな、と
里田はほんの少し、苦い笑いを漏らした。
そんな時に。
- 266 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:53
-
「……なに、笑っとるんや」
「おっと」
いつの間にか離れた右手をひらひらと振ってつまらなさそうな顔で
目の前に立っている加護亜依にやっと気がつき、ごめんごめんと里田は頭を掻く。
加護亜依は、中澤の弟子とも言える存在で。
矢口がその存在を知って口止めに回る前に加護自身が自分の能力のことを
中澤に話し、そしてそれを組織の為にどうとでも使ってくれ、と
半ば投げやりなことを口にしたものだから、能力者の中では明らかに特異な例だろう。
その頻度は少ないものの、矢口と同じように、その能力の特質が組織の方針と
ぴったりマッチしていたのも取り入れられて、こうして里田のように
加護の能力のことを知った上で訪ねてきた者の捜査には、
きっちり協力してくれるということになっていた。
まぁ、それも建て前で。
実際は加護のところまでいって、態度が気にいらないやら口が悪いやらと
何かと理由をつけては追い返されたというケースもよく耳にすることだが。
「…それで?」
思うに、自分は加護に気に入られているのかなぁ。
そんなことを考えながら里田が軽く促した言葉に、
加護はわざとらしく「ん?」と聞き返す。
「…あのねぇ」
思わずため息まじりにそう呟くと、加護は豪快に大口を開けて笑った。
- 267 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:54
- 「冗談や冗談。ちゃんと里田のまいちゃんの記憶は綺麗さっぱり読ませてもらったで。
その後ろのちっこい方の趣味が犬ぞりやっちゅうところまで、綺麗さっぱりな」
「……そりゃ、ほんとに綺麗さっぱりだ」
里田のまいちゃんやら、後ろのちっこい方やら、
気になるところは盛り沢山だが、ここはあえて突っ込まないでおくことにした。
後ろでキーキーなにかの声がしているような気もするが、
それに対しては取りあえず『でっかい方』へ、問答無用で押え込め、という命令を手のサインで出しておく。
それよりも、今は。
「…それで、彼女は」
後藤真希は、これから、どこに。
里田が身を少し屈めながら耳の穴に指を突っ込んだ加護に尋ねると、
加護はその質問を待ってましたとばかりに口の両端をくっと曲げて、そして呟いた。
「…こりゃー、なんちゅーか。後藤さんのすることは元々読みにくいから
絶対これや、とはなんとも言われへんけど…」
そう自信なさそうな殊勝な声で言いながら、
それでも顔はやけに自信たっぷりの顔をしている加護に、里田の身体が思わず熱くなる。
自分の顳かみをトン、と軽く爪で叩いて。
加護は続けた。
「まいちゃん、待つのは得意か?」
てっきり今後藤がどこにいるのか、お得意の分析論で教えてくれるものとばかり
思っていた里田はその突然な加護の問いに、思わず首を傾げてしまう。
- 268 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:55
- それでも一応自分の性格を見直して、
「得意というか、それなりに辛抱強い方だと思うよ」
と答えた。周りに時間を守らないヤツらがいっぱいいるし、と付け加えると、
そりゃ楽しそうでええな、と加護が笑う。
「…それやったら、大丈夫かな」
そうまた付け加えられた不思議な加護の言葉に、里田はまた首を傾げた。
さっきから加護が言っていることの意図も意味もはかり知れない。
待つのは得意か、と言われても、今は後藤真希を追って一刻も無駄にできない状態だ。
例え加護にどこかで待ってろと言われても、里田にそれが了承出来るかは返事ができかねる。
そんなことを色々と頭の中で考えて、思わず微妙な顔になってしまった里田の
心境が簡単に見通せたのか、加護は一度そんな里田に笑顔を向けてから、
「ちゃんとこれから後藤さんがどこに行くか言うから、聞き逃さんといてや」と言った。
その言葉を里田が理解すると同時に、加護がふらりと立ち上がる。
その口がゆっくりと開かれるのを見て、里田はどんな説明がくるのか、と身構えた。
しかし。
開いた加護の口からでてきたのは、たった小さな、一言で。
「…二十六日の、夜明けや」
「え?」
思わず聞き返した里田の声に、「聞き逃さんといてって言うたやろ」と
加護はイタズラっぽく笑った。
- 269 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:56
- 「二十六日の夜明けに、この世界であんたは後藤さんに会える」
「…それだけ?」
「それだけって…酷いなぁ。占い師やないねんから、
元々こういう人探しみたいなんは向いてないってのに…」
ぶつぶつ不満を呟く加護に、里田は慌てて謝ろうとしたが、
その頭を下げるよりも早く、それまで不満げな顔をしていたはずの加護が
すっと綺麗に片手を真直ぐ伸ばして、里田の動きをとめる。
「あんたの今までの記憶を全部読み取らせてもらって、
それに後藤さんの行動パターン、後藤さんのことをよく知らない同志の行動、
後藤さんの行動をよく見越して動ける同志の行動、
そんなんを全部組み合わせて、ウチの推理加えてでたんがこの結果や。
詳しいことは時間もないし、面倒やから省かせてもらうけど。
けど、分かるんは、あんたがその時後藤さんを見逃せば、
なんか大変なことが起こる。…ような感じがする」
最後の自信なさげな一言に、思わずがくりとした。
「感じって……」
「なんや、人間にとって本能とか直感ってのは一番大事なもんやぞ!」
そんなんでいいの、と里田が目を向けた先で、
ムキになった風でもなく、加護がそう真剣な顔で言い切るものだから。
「……信じるよ?」
思わず、里田も『加護を信じろ』と直感に言われたような気がした。
- 270 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:57
- 「信じて損はせえへんで」
にぃっと歯を見せて笑う加護に、その時初めて年相応な幼さが垣間見えて、
里田は「そうであることを祈るよ」と言いながら、苦笑する。
二十六日の、夜明け。その時、後藤に会える。
そうと分かれば早速、その予測が当たる可能性が少しでも高い、
どこかもっと人気のあるところを探るため、違う所に移動した方がいいかもしれない。
そう考えて、里田は不意にくるりと踵を返した。
灰色のコートを挟んで、自分の背中に加護の視線を感じた。
気になってちょっと振り返ってみると、加護が里田が振り返ることを初めに予期でも
していたかのような平然とした顔で、「そうや」とおもむろに呟いた。
「裕ちゃんに今度会ったら、伝えといてくれるか」
「なに?」
「ウチ、この件に関しては傍観しときたいから、むやみに仕事よこさんといてって」
『仕事』という単語のところで、加護が少し嫌味をいうような顔で
里田を一瞥したのには、もちろん気がついた。
やっぱり言われた通り、生意気だ、と思いながら、渋々ため息をつきながら返事をする。
「……分かった」
「そうこなくちゃ」
そう加護が笑ったのを横目にしてから、再度改めて里田が「それじゃあ」と
背を向けると「あ、それともう一つ」と、まるで歩き出すのを阻むかのように後ろから響く加護の声。
- 271 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:58
- 今度はなんだ、と里田が渋い顔で振り返ると、白い歯をにかりとさせながら、
加護は気さくな声で続けた。
「里田のまいちゃんだけは、顔パスにしといたる」
その言葉を聞ききって、里田は少し沈黙してから、思わずため息をつく。
「またなー」とぶんぶん手を振る加護に、ちょっとだけ片手を小さく振り返して。
「…ありがとね」
そう小さく響いた里田の声に、加護は満足そうに笑ってみせた。
- 272 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/11(土) 19:59
-
「……あれ」
ぽつ、と頬に雨の雫が当たったことに気がついて、辻はやっと顔をあげた。
どうやら集中しすぎて、またいつものように周りの景色も音も入っていなかったらしい。
そのまま空を見上げて、驚く。
先ほどまでの雲がウソのように、今は綺麗な虹が家々の屋根と屋根を結び渡っていた。
加護はどこだろう。そうきょろきょろ辺りを見回して、
加護がやはりいつものドラム缶の上で丸まっているのに気づいた。
「あいぼん」
「んー」
声をかけると、すぐに返ってくるくぐもった声。
「あの女の人、もう帰ったの?」
「…あー、帰ったで」
「ふーん」
そこでちょっと間をおいて。
「今度紹介してね」と続けた辻の言葉に、
「できたらな、」と加護は笑った。
- 273 名前:烏 投稿日:2004/12/11(土) 20:14
- >>248
ありがとうございます。
個人的な密かな目標はど真ん中変化球です。
- 274 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/13(月) 12:17
- 更新お疲れ様です。
待ってました!
まさか矢口さん以外にあいぼんも
だったとは。
次回も楽しみにしてます
- 275 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/22(水) 19:45
- 『……安倍さん』
「ん」
ふと、どこかで聞いたことがあるような声が聞こえた気がして、
安倍はきょろきょろと辺りを見回した。
上下左右、360度、可能な限り首だけを回して目を配るが、
どうやらどこにもその声の主らしき人影はない。
…気のせいだったか、と安倍はしばらくしてからふと納得して、また元の通り、
真直ぐに続く通路をブーツのたてるコツコツとした音を響かせながら歩き出す。
『…安倍さん』
そんなところに、やはりまた聞こえる誰かの声。
いや、誰かではなく、思い出した。
この少し癖のある声は、安倍が知っている限りただ一人しか持っていない。
「…れいな?」
返事をするように、そうおもむろにぽつっと呟いた安倍の言葉に、
頭の中の声はほっとしたかのような声色で、『お久しぶりです』と挨拶をした。
そうか、そういえばそうだった。
なにも通信が取れるのは組織の中だけでなく、人間の世界でだって可能なのだ。
最近は矢口につきっきりで、ちっともこっちに来てなかったからなぁ、と
すっかり忘れていた自分の頭を軽く小突きながら、「久しぶり」と安倍も返事をする。
- 276 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/22(水) 19:47
- 「っていうか、今どこにいるの?なっちれいな捜しにきたんだけど」
『いや、それが…その……』
「…何かあったの?」
『あ、はい。…いや、そのことなんですけど』
田中れいなは安倍の知る限り、なんの前触れも前置きもせず通信を取ってくる、
そう突発的な性格ではなかったはずだ。とても全く見かけによらず。
そう思って安倍が慎重に問いかけた言葉に、
通信先の、今どこにいるかも知れない田中の声がふと潜められた。
やはりこれも珍しく、いまいち言葉の歯切れが悪い。
いつもはきはき礼儀正しい田中にしては、今日の声はどこかよそよそしいというか、なんというか。
そもそも、安倍は外部勤務の司令官だ。こちらも全く見かけによらず。
中々、というか、組織の上から三本の指には入る事になる安倍が、
こうして下位の下っ端という階級についている田中と話しているのは、
田中が安倍の直属部下の藤本のお気に入りであり、
その藤本がことあるごとに安倍のところにくるものだから、
自然、その後ろにくっついてきている田中のことも覚えてしまって。
- 277 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/22(水) 20:05
- 藤本を通じて知り合ったとはいえ、安倍と田中の関係は『特別』だ。
だからこうして安倍が仕事をしている時、していない時関係なく、
田中からの通信はすぐに安倍へ届けられるようになっているのだけれど。
言葉を濁らしたかと思えば、今度はだんまりになってしまった田中を不審に思って、
安倍は「どうかしたの?」ともう一度続きを促す。
頭の中に直接響いてくる田中のもごもごとした声。
苦労しながらも、なんとかその一句一句をすませた耳で聞き取ってから、
安倍自身の頭の中でその意味をまとめた瞬間。
「…え?」
安倍は、聞き返す声が掠れていたのが自分でも分かった。
- 278 名前:ちっこい方があさみででっかい方がみうな 投稿日:2004/12/22(水) 20:05
-
- 279 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 20:08
-
「やあやあ、お久しぶりー」
穴だらけの空洞に、少しこもった声になって響く言葉。
薄汚れたビルの廃虚裏にひょっこりと顔を覗かせた吉澤の表情が、
その声を聞き取った瞬間、一瞬でパァッと明るくなった。
まだ朝早い早朝の闇夜、空気は透明に少し黒を混ぜたかのような色で、
その中を吉澤の金髪が村田の方へ向かって元気よく跳ねていく。
「村田さん…お元気でしたか!」
「うん、元気元気。やっぱりお肉はどうも口にあいませんがね」
すぐ前まで駆け寄ったかと思えば、何が起こっても変わらない
村田の冗談混じりの言葉を聞いて、吉澤が少し照れくさそうにはにかんだ。
(相変わらずだなぁ、この二人は)
その後ろで厳重な入口の鍵を閉めながら、後藤は思った。
吉澤が村田の大喜利を見て「かっけー」と呟いたのは、一体いつのことだったか。
それ以来吉澤は村田の姿を見る度村田につきまとっては、
心の師承と称して日々笑いの鍛練に励んでいたっけ。今となってはすでに懐かしい。
「…ごっちん、あの子は?」
そんなことを半ば呆れた気持ちで振り返っていると、
隣に立っていた藤本が組んだ両腕を動かさないまま顎で村田の隣に立っていた柴田を指した。
- 280 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 20:11
- 「…ああ、柴田あゆみちゃん。つってもあたしらより年上だけど」
「……柴田、さん」
そう繰り返す藤本の目が不意に意味深な色を帯びたのを見て、
見逃さなかった後藤は内心一気に芽生えた悪戯心で、藤本の脇をにやにやしながらつっつく。
「ん、なになに。ミキティのタイプかい?いや確かに可愛いけどさ、
ミキティはこっちで別の可愛い彼女作ってたんじゃ」
「バカ。亜弥ちゃんとはそんなんじゃないっての」
ツッコミながら、パカンといい音を一発。
頭を押さえる後藤を振り返りもせずに、すたすたと村田や吉澤の方に歩いていく。
そんな背中を一瞥して、今日はやけにノリが悪いな、と思いながら、
後藤も大人しく後ろから小走りで藤本を追った。
すぐに追いつき、自然と絡む目線。交差する。
なにかあったのかと心配げな顔をした後藤に向かって、
しばらくの沈黙の後、ふとにやり。笑う藤本。
「ごっちんごめん」
「んあ?」
「ほんとは結構タイプだったりする」
「……ああ、そう」
- 281 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 20:17
-
- 282 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 20:20
-
「突然だけど、時間がないんだ」
そう前置きするのも突然に、吉澤や村田のところに近づいた瞬間
きっぱりと言い切った後藤の顔を、村田は神妙な顔で見て、頷いた。
「だろうね」
「うん。さっきよしこと街を一通り見回りながら走ってきたけど、
そこら中にうろうろしてるよ。ここがバレるのも時間の問題だと思う。
……それと、ごめん。さっきまでこれ付けられてたの、気づかなかった」
周りの状況を説明しつつ、急に小さく頭を下げた後藤の手の中には、
粉々に破壊されつくしたおそらく、発信機。
「ここに来る三十分ぐらい前に壊したけど、途中までの進行方向は追われてると思う」と
渋い顔をする後藤に、「気づかなかったもんは仕方ないよ」と藤本が言う。
「とにかく、だったらできるだけ早くここを出ようよ」
「うん。……だけど、その前に」
そう吉澤が両手を広く広げて急かす声に、後藤は一度こくんと縦に頷いてから、
ちらりと横に目線をずらして、それまでずっと村田の後ろで
戸惑った顔をしていた柴田の顔をじっと見た。
- 283 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 20:21
- 柴田あゆみ。村田と随分長く一緒にいたのだろう、
煙の匂いが染み付いてはいるが、ただの人間だ。
こうして後藤達が入ってきたことに戸惑った様子を見せているということは、
いや、それ以前にあのマンションから脱出する時に後藤が触れられたということは、
おそらく、この人は。
それまでずっと心の内で思っていた事を確認するべく、
後藤はぼそりと口を開く。
「…柴田さん」
「え、あ、…はい」
「柴田さん、あたしの声が聞こえてますね?」
「……?はい、聞こえてます」
やはり。
柴田が不思議そうにそう答えるのと同時に、
藤本、村田、吉澤の視線が一斉に後藤の方へ向き集まった。
その3つの視線に後藤はただ頷く事で答える。
(柴田あゆみには、あたし達の姿が見えている)
こんな時に、珍しい人間にあったものだな、と思った。
村田はまだ人間の姿のままだが、後藤も吉澤も、昇進試験に出ていた藤本も
一度組織に帰っているので今は灰色のコートを着用している。
このコートを着ている後藤達の姿は、本来ならば
柴田のような普通の人間に見えてはならないのだ。
- 284 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 20:22
- たまに灰色の同志らの姿を見る事ができる人間が存在することは知ってはいたが、
まさか丁度、組織を裏切ったこんな時に出会うことになるとは。
後藤達が今、まだ組織に身を預けている状況だったなら、
まず間違いなく『卒業』だっただろう。そう思うと少し、ほっとする。
「…柴田くん、今ここに何人いるか分かる?」
それでもまだ信じられないといいたげな顔で村田の尋ねたことに、
柴田は何を当然のことを、といった顔で答えた。
「…五人。じゃ、ないの?」
間違いないね。柴田の言葉を聞き取ったばかりの藤本が、そうぽつりと漏らした。
これが後々吉と出るか凶とでるかは中々悩みどころだが、
今の状況では好都合だなと後藤は思う。この分なら、いくらか話す量が減らせる。
ここを一刻も早く出て安全な場所を探すべきなのは分かっているが、
外を気づかれないように走り回りながら全てを説明するのは困難だ。
ましてや、こちらには人間の柴田も、人間の姿の村田もいる。
柴田だけここに置いていけばいくらか負担も減るのだろうが、
身勝手な理由でここまで巻き込んでおいて、突然冷たく立ち去るのは流石に身が引けた。
それならば。
やはり外に出る前に一度ここで全てを説明しておくべきだと
自分の中でもう一度考えをまとめてから、
後藤はしばらく沈黙した後、やっとのことで口を開いた。
- 285 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 20:36
- 「…柴田さん」
「はい」
神妙な顔で答える柴田に、後藤も神妙な顔で語りかける。
「これから言う事は凄く大事です。が、そう何度も堂々と繰り返し話せる事じゃない。
あたし達の勝手であなたを巻き込んでおいてなんだけど、
ここにあなたを一人残しておくわけにも行かない。
あなたにはこれからあたしが言う事を聞いていてほしい。
そしてできれば…、聞き返さないでほしい」
つまり、同じことは二度言わない、ということです。
後藤がそう慎重深く区切った言葉に、柴田はしばし酷く戸惑った顔をしていたが、
その内後藤の迫力に押され負けたかのように、こくんと小さく頷いた。
その動作を追ってから、それでは、と後藤は少しばかり柴田の方に身を寄せる。
それからちらりと藤本、吉澤の方に目をやると、藤本と吉澤の二人はしばし
お互いに押し付けあうかのような目だけでの戦いを見せたが、
吉澤が藤本の睨みに勝てるわけもなく。
ただすごすごと外で見張りをするべく立ち去る吉澤の背中を見送りながら、
後藤はまた柴田に目線をあわせて、再度口を開いた。
「…まだ、自己紹介もしてませんでしたね。
あたしは後藤真希、そこの彼女が藤本美貴、今さっき出ていったのが吉澤ひとみ。
まず知っていてほしいのですが、あたし達はあなたと、むらっちの仲間です」
「……仲間」
「そう。ミキティもよしこもあたしも、むらっちを助けにきました。
…といっても、それを本人が喜んでいるかどうかは別ですが」
- 286 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 20:50
- 後藤がちらっと村田の方に目をやると、村田は後藤の言葉を聞いて酷く曖昧な顔をした。
何か言いたげでもある素振りだが、後藤が柴田に全てを話し終えるまで、
どうやら村田自身は口を挟まず、柴田と一緒に聞き手に回りたいらしい。
後藤がずっと村田の方を見ていると、すぐに先を急かすかのような手ぶりをした。
その様子に「はいはい」と口の形だけで答えて、後藤は再度柴田に向き直る。
「…とにかく、最初から話していくためには、
まず組織の存在を知っていてもらわないといけない。
あたし達を今追っているのは灰色のコート、帽子、鞄、そして葉巻を加えた
あたしやミキティと全く同じ格好をした人達です。
彼女らはあなた達、『人間の時間を奪う』のを目的とした組織に身をおいています。
この格好からも大体気づかれてるとは思いますが、あたし達も
つい最近まではそんな組織で…あなた達人間の時間を奪っていました。
それは組織自体が企むある目的の為の下積みであり…いえ、回りくどい言い方はやめましょう。
組織はあなた達、人間の時間を永遠に奪ってしまって、そして結果的には
この人間界の住人として、とってかわるつもりなのです」
全てを流れるように言い切った後藤の言葉に、なんとか頭をついていかせた
柴田は少しあいた間で眉間に寄った皺を指で抑えながら、気分を整えた。
「……その、人達が人間界の住人になる、ということは、
今いる人間を全て殺してしまう、ということですか?」
少ししてから柴田が控えめに、それでも切り込んで聞いた問い掛けに、
後藤は真面目な顔をして頷く。
- 287 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 20:58
- 「…はい。組織の目的上、最終的にはそうなっています。
組織を仕切っている灰色の彼女らは、人間の時間を奪い、
それをある一つの場所に溜め込んで、その一秒一秒をこの葉巻を通して供給することで
人間の言葉でいうなら、『生きている』んです。
だからこの葉巻を奪われたり、落としたり、反対に溜め込んだ時間を全て
人間の元に戻されると、組織全員…それに、あたしやミキティ、よしこ、むらっちも
全てが全て、塵さえ残らないぐらい綺麗に消えてなくなってしまいます。
簡単に言えば、あたし達がこうして姿を保っていられるのはこの葉巻のおかげ、
あたし達の生命はこの葉巻自体、といっても過言じゃないということです」
「…それじゃあ、あなた達は、人間じゃ」
「深く言えば、違いますね。あたし達は人間と違って暑さも寒さも感じません。
疲れもたまりにくいし、耳も目も鼻も、全て普通の人間より勝っています」
言わば、人造人間とでも思ってくれれば丁度いいんじゃないでしょうか。
そう言う後藤に、柴田は少し困った顔をして隣にいた村田を見た。
もちろん、村田も柴田が自分を見ていることは気配や空気の動きで
分かっているのだろうが、あえてそちらを向こうとはしなかった。
見兼ねて、後藤が間を埋めるように続ける。
- 288 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:00
- 「あたし達に時間を奪われる人間、というのは大体決まっていて、
受験生とか、そういう元から本人にとって無駄な時間がない人というのはあまり狙われません。
真っ先に狙われるのは、時間の無駄遣いをより多くする人間。
組織はまずその人間の元にニ、三人を派遣して、実際に交渉します。
手口はこうです。『無駄な時間を節約して我々の時間貯蓄銀行に貯えれば後々楽に暮らせるぞ』。
そう囁く事でそれまでのんびり暮らしていた人達も途端に人が変わったように
働き始めて、時間の無駄遣いをなくします」
「それじゃあ」
村田が目をあわせてくれないことに不安そうな顔をしていた柴田は
後藤の言葉を途中まで落ち着かないように聞いていたが、
ふと。文の中頃まで差し掛かった時、それこそ柴田の人格が変わったかのように
顔つきを一変させ、後藤が一区切りを打った瞬間、間髪いれず口を挟んだ。
「……石川、梨華も。その一人ですか」
その口から出てきた、聞き覚えのないおそらく人名に後藤はきょとんとしてから、
それでも一応は頷いてみせた。
「そのような素振りがあったのなら、そうなんでしょう」
途端、柴田がくっと眉をハの字にして、悲しそうな顔をする。
石川梨華。具体的な人名をあげて問いかけてくると言う事は、
おそらく親戚か、知人、友人のどれかなのだろう。
隣に座っていた藤本がその名前を聞いて何か引っかかったかのような
曖昧な顔で腕を組んだことには気づいたが、あえてそこは問いたださずにおき。
- 289 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:01
- 後藤がそんな柴田の顔を真直ぐに見つめていると、
「…でも」とそれでもまだ納得いかないかのような顔で柴田は俯きながら呟いた。
「あなたが言ってる事が本当なら、あたしなんか真っ先に狙われてもいい人間です。
それなのに、勉強を人一倍頑張ってた梨華ちゃんが先に狙われた。
あたしはまだ、こうやって一人で無事。これは、どういうことなんですか?」
「それは…」
多分。小さく息をついてから、後藤は続ける。
「あなたが、あたし達の姿を見る事ができるからです」
「……え?」
後藤の言葉に、柴田は少し間をおいてからふと、怪訝そうな顔をした。
まあ、当然の反応だ。
普通の人間の立場というものはよく分からないが、
こうして実際に目の前にしているものが見る事ができるから、と
いかにも特別視したような言い方をされて、その理由も分からないのだから
これ以外の反応はしようがないというものだろう。
後藤は一度小さく息を外に吐き出して、そこらに転がっていた
いかにもビルの廃虚らしい灰色の歪なコンクリートの塊に目をつけた。
「見てて下さい」
そうおもむろに言って、歩き出す。
すぐにそのコンクリートの前で立ち止まったかと思えば、
すっと手を伸ばしてそれに触れようとする後藤。
- 290 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:04
- 柴田はその様子をやはり訳が分からないといった顔で見送っていたが、
後藤のコンクリートに向かって伸ばされた手が、
そのまますっと透けて通り抜けたのを見て、ぎょっと目をむいた。
「え…あ、…」
「このように、普通、人間界に存在するモノ…建物、車、人間、犬、猫、鳥。
物体、生物を問わず、あたし達の体を見ることができる、捕らえることができるもの、
柴田さんのような人間は、極僅かだ。
生命というものは、案外自分以外のものに興味を示さないものですからね。
見えるのに、見えない。それがあたし達です。あたし達に気づく、目をやる生命が
少ないからこそ、…あたし達の目的は少々の犠牲を払うだけで簡単にやり遂げることができる」
後藤がなんでもない風な顔ですらすら言って退けることに、
素晴らしく非現実的なものに対しての理解度が低い柴田は
ぱちぱちと瞬きをしながらも、それでもなんとか犠牲と言った部分だけは聞き取った。
後藤の言う目的というのは、先ほど言っていた人間界にとって変わることだ。
それを行うために必要な犠牲。…それに、先ほどから気になっていたが、
後藤は柴田のことをまるで特異物がそこにあったかのような扱いをしている。
いや、彼女らの目からみれば実際に柴田は特異物なのだろう。
だが、柴田が後藤達の姿を見る事ができるからといって、それがどうしたというのだ。
- 291 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:05
- ちらり。何気なく、また隣の村田に目をやってみる。
すると今度は、きちんと目があった。
物凄く戸惑い顔の柴田をその目に映して、村田は後藤の後を引き継ぐかのように言った。
「…本当は、人間に、私達は姿を見られちゃいけないんだ」
「……?」
「だって、そうでしょ?人間界に取って変わるっていう目的は、
今まさに人間界に住んでいる人間から見れば理不尽だし。
人間達だってみすみす殺されたくないから、当然できるかぎりの抵抗はするよね。
今の時点では、組織は人間達全員のあわせた力には戦力や人手の差で、適わない。
だから、私達の計画してることが人間にばれてしまう。すなわち、姿を見られてしまう。
それがたった一人の人間だったとしても、それは凄く重大な罪なんだ。
柴田くんみたいに、私達の姿が見える人間は極僅か。
だけど、極僅かだけれど、いるということは間違いない。
そんな人間にちらりとでも姿を見られた仲間は、
…今まで、私が知ってる限りじゃ例外なくこの葉巻を没収されたよ」
言いながら、村田はごそりと自分の履いていたズボンのポケットに手を突っ込んで、
中に入っていた2、3本の灰色の葉巻を取り出してみせる。
村田の手の平でころりと転がったその小さな葉巻の存在に、柴田は少し顔を歪めた。
後藤真希達が人間ではないということは、最早明確だ。
だが、しかし。後藤達が人間ではないということを認めると言うのならば、
今自分の目の前にいて、丁度半年ぐらい前に大学で知り合って仲良くなった村田も
実は人間ではなかった、ということを認めることになって。
- 292 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:06
- 「…あたしが組織を出てくる前に見たデータでは、
今や人間のおよそ四分の一に組織の手が既に回ってました」
「四分の一…もう、そんなに…」
口を挟んだ後藤の悔しそうな言葉に、柴田は愕然とする。
普段自分が生活している時に出会う周りの人間の四分の一に、
既にもう組織の手が回っていたなんて、
石川のことで頭がいっぱいだった柴田には全く気づけなかった。
「柴田さんのところに組織の手が派遣されていないのは、
おそらく組織がどこかのルートで柴田さんは組織の仲間の姿が見ることができるという
情報を掴んだからでしょう。何も好き好んで自殺しにくる奴はいませんからね」
「……でも、あたしが一人でも残っていたら人間界を支配することにはならないんじゃ」
「ですから、それはあくまで最終的な目的です。
あたしの推測ですが、おそらく組織は放っておけばこのままどんどん
時間を節約させる人間を増やし、自分達の時間の貯えを増やし、
規模、人手を共に増幅させた後、最後には必ず残る、自分達の姿が見える人間、
柴田さんのような人間を人間界から排除しようとするでしょう。
おそらく、まともな人間なんてほとんど残りません。が、更にそれを
全て排除するべく組織の取る行動が、殺害だったり、どうなるのかはあたしにも分かりませんが。
けれど、これだけは言える。組織がそういう手段に出る時は、
必ず大部分の人間が自分の『一生』という時間を盗まれ尽くした後です。
大部分の人間が時間を使いつくされて死に絶え、残ったのは少数の人間。
こうなれば、組織が恐れるものは何もありませんからね」
つまり、今柴田に組織の人手が派遣されてこなくとも、
最終的には全ての人間が組織によって消されてしまうということだ。
- 293 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:06
- 後藤の一句一句を口を結んで聞き取った柴田は、知らず知らずの内に
とても悲惨な表情を浮かべていた。
「そんなの…」
思わずぽつっと呟いた言葉に、後藤が先を促すような顔をする。
「防ぎようがない」
だって、そうじゃない。
呟いた言葉を引き継ぐように、柴田は続ける。
今まで話を聞いていた通りなら、この組織の目的を防ぐためには
柴田のような組織の彼女らの姿が見える人間が少しでも多く彼女らの姿を実際に見て、
おそらく信じてもらえる可能性は本当に低すぎるが、
それを普通の人間達に話して、信じてもらい、皆で組織の囁きや行動をはね除けるしかない。
しかし、実際に柴田が一人でそういう行動を始めたとして、
それがどんなことに繋がると言うのだろう。
組織の彼女らの姿が見える人間がどれほどいるのかさえ分からず、
例え大勢いたとしても、組織の彼女らがその人間の前に都合良く姿を表してくれるとは限らない。
「…あたし、思ってたけど。人間って他人に凄く冷たいんだ。簡単に人を信じない。
こんなファンタジーみたいな話して、信じてもらえるなんて絶対無理だよ…」
「だから、あたし達がいるんです」
半ば茫然自失とした柴田の言葉をさえぎるように、
少しばかり怒ったかのような表情で後藤が言った。
- 294 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:09
- 「だから、あたし達があなた達のところへ来た。組織を裏切りました。
それまで同じ事をしていたあたし達が言っても説得力がないかもしれませんけど、
何も今いる人間を全て殺してしまうのはやり過ぎだと、そう思って。
……これを、見て下さい」
言うと、後藤はおもむろに手をコートの中に突っ込んで、
大事に広げた手の上にあったそれを、柴田にもよく見えるような位置に置いた。
ころり。少し斜め横に転がるそれを見て、柴田は不思議そうな顔をする。
「……百合の、花?」
「いえ、違います。これは、あたしが逃げる時に組織から持ち出してきた、
組織が今まで溜め込んでいた、人間から奪った『時間』です」
「え、でも…」
どこをどう見ても、柴田の目にはただの白い百合にしか見えないが。
「具現化しているんです」と後藤は言った。
それぞれの葉巻を通して時間を配給してはいるが、組織で『時間』というものは
普通に持ち歩くことができるものだと言う。
組織に隠された人間の時間を見つけだして、それを全てごっそり自分の懐に
収めてから人間の世界に飛び出してみると、それまで持っていた『時間』が
人間界では急にこの白い百合になってしまったのだそうだ。
組織では持ち歩ける『時間』だが、人間界では持ち歩く事ができない『時間』。
その違いが起こしたのが、時間が白い百合に具現化するという事実だった。
- 295 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:10
- 「この百合を千切ったりどうにかして壊したりすると、おそらく。
あたし達や、組織の彼女らは一瞬の内に消えてなくなります」
「……じゃあ、これが」
「はい。これが今生きている私達全員の命であり、源です」
ひょいっと軽々しく百合を摘まみ上げながら言う後藤に、柴田は慌てる。
そんな柴田に向かって少し笑ってから、後藤は続けた。
「命が今、あたし一人の手の中に握られてるんだ。
そりゃあ彼女達も必死になって追いかけてきますよね」
どこか笑い飛ばすような口調でそう言う後藤に、柴田は違和感を覚える。
確かに、元は人間のものだったというその『時間』が彼女らの命であり、
それを消し去る事で彼女らの存在も消えてしまうというのなら、
彼女らは必死にそれを持ち歩いている後藤を追いかけてくるだろう。
しかし、それが分かっているのに、何故後藤は
その『時間』をわざわざ組織から持ち出してきたのだろうか。
人間に全て返してしまうつもりなのか。いやしかし、それでは自分が消滅してしまうし、
後藤がそれでもいいという仏のような人間だったとしても、
そういうつもりなら『時間』を手にした時点でもうとっくに済ませていることだろう。
後藤は未だ何も時間に手をつけず、ただそれを持ち歩いているのみ。
その真意は柴田の頭だけでは計り知れず、
結局、少し迷ってから後藤本人に直接尋ねてみる事にした。
- 296 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:11
-
「……それ」
「ん?」
「その、時間。何故あなたはそれを持ってきたの?」
「……」
「持ってきたら、組織の方の追っ手の数を多くするだけじゃない。
あなたはそれで何をするつもりなの?その時間を、どう使ってしまうの?」
捲し立てるような柴田の言葉に、後藤はちょっと驚いたような顔をしながら頬を掻いた。
それは参ったな、とでもいうような極自然な動作に見えて、
訝しげな柴田の顔から目を逸らし、何故かその隣の村田の方をちらりと見た後藤は
「言っていい?」と村田に向かって尋ねた。
村田に尋ねると言う事は、村田に関係のあることなのだ。
柴田はばっと勢い良く隣を振り向いて村田の顔を伺うか、
村田は村田で、後藤の問い掛けには軽く肩を竦めるのみで。
その行動が「どうとでも」と言うような村田の意志だと解釈した後藤は、
不意にふう、とため息をついた。
「あたしは…あなたからすれば、酷いことをしているように見えるかもしれないが。
あたしだって、まだ生きていたい。死にたくはありません。
だから、この百合は壊さないようにここまで運んできました」
「…はい」
「百合を壊さないように運んでくるのも、中々大変なことでしたよ。
それでも、それでもあたしがこうしてあなた達のところまでやってきたのは…」
ちら。村田の方を一瞬だけまた向いた後藤の目。
一拍だけ淡白な間をおいて、きっぱりと言い放った。
- 297 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:13
-
「むらっちを、助けるためです」
「…え?」
自分でも無意識に、柴田の声が小さく漏れて響いた。
隣の村田がふーっと細長い息をつき、後藤はそんな村田を横目で盗みみながら続ける。
「むらっちも、やはり元々は組織の仲間でした。
組織にもいわゆる上司や部下という立場があって、より上の地位に立つためには
必ず受けなければならない昇進試験というものがあります。
その試験会場は人間界で、組織は受験生に半年間の時間と、
人間界での立場、データ、それまでの履歴を与えます。
内容は『人間の心理を理解する』こと。あたし達の仕事はあなた達人間から
時間を奪うことですから、それが一番大切なことなんです。
それさえ理解できてしまえば、その時点で人間界から組織に戻る事ができ、
半年で理解することができなかった受験生も、五カ月が過ぎた時点で
自分の自由な判断で組織に戻ることができます」
「…むらっちも、それを受けたの?」
「はい。むらっちは力があるのに、試験を受けるのを面倒がって先延ばしにしていた人でしたから。
今回、周りがなんとか丸め込んでこの試験を受けさせたんです」
後藤が淡々と述べる事実に、隣の村田の顔は段々つまらなさそうに膨れていく。
らしいなあ、と思っていた柴田はそんな村田の顔を見て少し頬を緩ませた。
が、すぐにその緩んだ頬を元に締めなおす。
いくらなんでも、今は笑っている場合じゃない。
それに、村田に実力があったというのなら、何故村田はまだこの世界に残っているんだ。
柴田と村田が出会ってから、丁度もうすぐで半年立つころだ。
五カ月などという時間はもう既に過ぎているし、後藤の話なら試験に失敗しても
一応は組織に戻れる事になっているはず。
なのに、村田はそんな素振りさえ見せなかった。
- 298 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:15
- 「でも…」
「むらっちは、帰ってこなかった」
考えていたことと丁度同じことをずばりと言われて、柴田ははっと顔をあげる。
広がった視界にまず真っ先に見えたのは、村田の顔を真直ぐに見つめる後藤。
「こっちで何があったのかは知らないけど」と言いながら、
村田の手を半ば強引に取って、無理矢理その手に百合の花を握らせた。
「あなたは、このまま消えちゃいけない」
後藤の静かで、しかし有無を言わせない雰囲気の言葉に、
村田はぐっと眉間に皺を寄せてふとそっぽを向いた。
どういうことなのか、説明が中途半端なところで終わっている柴田は
そんな二人の様子を見比べながら口の端をぎゅっと下げるが、
見兼ねた藤本がそんな柴田へ、後藤の代わりに説明を加えてくれた。
「同志は試験の合格条件をクリアすることができなくても、
不合格という形で組織に戻れることになっています。
誰もそのまま半年という時間を使い切って人間界で消えてしまいたくはないですからね。
最初に配られた時間の誤差や不備、万が一のことも考えて、
大体の同志が五カ月を少し過ぎた時点で戻ってきます。
だから…、なおさら、その時点で戻ってきていない同志のことは、特別視される」
- 299 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:16
- 「……どういう、ことですか」
「…つまり、組織の中で村田さんは自殺志願者ということになっているんですよ。
実際、村田さんが試験を受けるために組織を出てからあと3日ほどで半年だ。
そこまで期限が迫っても帰ってこないというのは異常ですからね。
五カ月中頃を過ぎたあたりで、最初はどこかで何かに巻き込まれているのかも
しれないと村田さんを捜索していた組織の同志も、諦めた。
村田さんは消えるつもりだと考えて…いや、本当にそうだったんでしょう?村田さん」
え、と小さく呟いて、柴田は村田の方を振り返る。
後藤や柴田に真直ぐ見つめられた村田はほんの少し決まり悪そうに、
それでもため息をつきながら頭を掻いて、小さく、だが確実にこくりと頷いた。
「そうだよ」
なんで。そう言いたいのが手に取るように分かる表情が、柴田の顔に浮かんだ。
後藤と藤本はそんな村田の返答を聞いて、ほぼ同時にため息をつき、顔を見合わせる。
「それは…人間の時間を、もう奪いたくないから?」
「罪に手を、染めたくないから?」
そうして、少ししてから。後藤と藤本が続けて村田に問いかけた言葉に、
村田は目を伏せ、顔を伏せ、それでも最後にはきりりと前を見据えて、頷いた。
柴田が困惑したような表情で後藤や藤本の方を振り返り、
村田は意志を固めるように自らの口元を引き締める。
- 300 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:17
- 「そんなのは、自己満足だよ。むらっち一人が消えたからって、
組織の動きが、組織の目的が達成されなくなるわけじゃない」
「うん。そうだね」
「だったら…」
「でも。私一人が足掻いたって、組織の目的が達成されなくなるわけじゃ、やっぱりないでしょう」
「……それは」
少し何かを責めるような顔つきで村田を見ていた後藤が、言い淀むように顔を背けた。
その後藤の行動に比例するかのように、その場に沈黙が落ちた。
が、途切れたその後を引き継いで、しばらくしてから今度は藤本が後藤に代わって村田に声を投げかける。
「あなたは、試験に出るまで、やはり皆と同じように人間の時間を奪い、
そのことに何の疑問も持たず、こうしなきゃ自分達が消えてしまうから仕方ないって、
分かっていたじゃないですか。なのに、試験で人間界に出て。
すぐに帰ってくると思ってたのに、帰ってこないで。
やっと見つけたと思ったら、自分から消えようとしてる。
…一体、どういうことなんです?人間界に出てからあなたの考えは変わった。
それはこっちの世界の誰かに……いえ」
ちらり。藤本の目が言葉の区切れと共に、柴田の顔を真直ぐに捕らえた。
「この、柴田さんに。何か関係があるんですか」
- 301 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:19
- その一言に、言われた柴田本人がえ、と呟き、村田自身はぴくりとも動かず、
隣で顔をしかめていた後藤が目を見開いて藤本を振り返った。
藤本の目つきは、いつも通りだ。
後藤のように責めるようでも、怒るようでも、問いかけるようでもない。
しかし、その目が一番辛かった。その目が一番、直接心の中に響いた。
村田は根負けしたかのように少し頬を手で撫でて、ため息混じりの言葉を呟く。
「……相変わらず、ふじもっちゃんは手厳しいなぁ」
どうも、と藤本が軽く肩を竦めた。
その隣の後藤と柴田は、相変わらずぴくりとさえしない。
二人は次に村田が話すことをただ息を飲んで待っているかのようで、
それに気づいた村田は少しぴらぴらと片手を何気なく振ってから、
ややあって、「私はね」と、ようやく次の言葉を繋いだ。
「…人間の時間を奪わなきゃ皆が消えてしまうのをちゃんと分かってるつもりだよ。
人間だって自分達より弱い動物の命を食べてるし、そうしないと生きていけないんだから仕方ない。
それと一緒で、私達も人間の時間を奪わなきゃ消えてしまうし、そうすることは仕方ない。
けど…なんだろうな」
村田の紡ぐ一言一言に、後藤の眉が次第に段々と寄って行く。
藤本はむっつりとした顔のまま、まるで次の言葉を探すかのように
目線を廃虚の天井に向かって見上げた村田の顔をじっと見つめて、
それから自分の隣に座った柴田の固まった顔を一瞥した。
- 302 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:21
- 「……そうだなぁ。私は、なんか、嫌になったのかな。人間の時間を奪うのが」
「…情が、移ったっての?」
「……うん、そう言うのが一番当たってるかもしれないね。
だって私、柴田くん好きだし、殺したくないし。他にも好きな人いっぱいいるし。
でも、組織の皆は、自分が消えてしまうよりも、人間の時間を奪う事を選んでる。
あ、別に、何もそれが悪い事だっていってるんじゃなくて。
ただそれが、今の私にはあってないんじゃないかなぁ、って。だから…」
「私は、好きな人の時間を奪うくらいなら、消えたいなって思っただけだよ」
そんなことなんでもない、と。まるで当たり前のことのように
そんな理論を声にする村田に、後藤はいても立ってもいられず、思わずがばりと立ち上がった。
「…あたしは、むらっちにいてほしい!」
「……」
「…あたしの気持ちは、どうなるの。むらっちにいてほしいって思ったから、
ここまでこの『時間』を盗んで持ってきた。
この時間のタンクには、まだ残量だっていっぱい残ってる!
これで、むらっちにたくさん時間を分けてあげられる!
むらっちが、消える必要なんてないよ…ねぇ、そうでしょ?」
「……ごっちん」
感情の赴くままに言葉を作る後藤に、戸惑った顔をした村田が手を伸ばす。
口元を噛み締めて、手の中には百合となった『時間』を握りしめた後藤は、
そんな村田を見下ろしながら、潤む目元をなんとかぐっと抑えて、
伸びてきた村田の指先を軽く振り払う。
- 303 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:22
- その代わりとでもいうように、自分の腕を真直ぐに伸ばし。
村田の丁度目の前に、自分の百合を握りしめた拳がくるように腕を差し出した後藤は、
村田に向かってその花を掴むように、懸命に目で訴えた。
その意図をもちろん読み取って、しかしそれでも花を受け取ろうとしない村田に、
その広いうす汚れた場には、気まずく長い沈黙が落ちる。
そんな、ところに。
「皆、すぐに脱出して!追っ手がすぐそばまで来てる!」
「……ちっ」
バン、と突然大きな音を響かせてそう叫んだのは吉澤の声。
後藤の鋭い舌打ちをまるで合図にでもしたかのように、
瞬時に藤本は隣でつっ立っていた柴田を強引に背に乗せて、
入口から叫びつつも真直ぐに走りこんできていた吉澤は、
ほとんどそのままの勢いで村田の体をひょいっと自分の脇に抱え込んだ。
手に握っていた百合の花を無造作にコートの中に突っ込んだ後藤は、
そんな全員の先頭を切って、村田のマンションを脱出する時と同じように、
飛び散る破片からコートで身を守りつつ、廃虚に僅かに残っていたガラスを叩き割る。
- 304 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:22
- 「よしこ、ミキティ、二人を落とさないようについてきて!」
「うっす!」
「…柴田さん、しっかり掴まっててよ!」
そう、言うが早いか。
古ぼけた廃虚から風圧の中をぐわりと、物凄いスピードで突き抜けるように
飛び出した彼女らに、柴田は自分の目がぐるぐると回るのを感じた。
軽いジャンプをしているだけのように見えるのに、
やはり実際に飛んでいる幅は人間上の理論なら全く考えられもしない距離だ。
そのことを少し後ろを振り返りながら確かめてから、
柴田はばたばたと派手になびいて頬を掠める藤本のコートに、慌てて頭を引っ込めた。
まだ朝早いというのに、この街はやけに騒がしい。
入り交じる人の雑音と車のクラクション、それに、長い間を置いてから
僅かに聞こえるビルからビルへ飛び移る彼女らの厚いブーツの足音だけが、
柴田の耳の傍をすっと通り抜けた。
「…よしこ、次の角右!」
人一人背負っているのと背負っていないのとはやはり大分違うのか、
後藤、吉澤、藤本という順番で街を走り回っているものの、
後藤と吉澤の間はかなりの距離があいている。
- 305 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:26
- それでも全くスピードを緩めようとせず、ただひたすら前へ前へと飛び移りながら
後ろを振り返ってそう叫んだ後藤の声が、これだけ距離があいていれば何秒かは遅れて
聞こえてきそうなものなのに、何故かすぐ隣にいるような感覚で聞き取れた。
「分かった!」
後藤の言葉にそう吉澤が叫び返したのと、後藤が実際に角を右に曲がったのとでは、
一体どちらが早かったのか見当もつかない。
とにかく、風や音やなにやらで藤本から振り落とされないように必死だった柴田は、
藤本の背中にしがみつくような格好で耐えていた。
そうしている内に、藤本の足も先ほど後藤が右へ飛んだところに一度降り立ち、
間髪いれずやはり右に飛び上がる。
柴田は急な方向転換に慌てて藤本の小さな体にしがみつく手に力を込めるが、
ふとした瞬間、すぐ前にある藤本の顔から何かぼそりとした声が聞こえた。
「…柴田さん、ごめん。スピードあげます」
「……え?…え、え、えぇ?!」
言い終わるよりも先に、藤本の駆ける足のリズムが変わった。
気づけばそのスピードは先ほどの倍以上にはあげられている。
あっという間に前をいっていた吉澤の隣に並んだ藤本は、
気づいて訝しげな顔をして振り返った吉澤に向かって、大きな身ぶり手ぶりをした。
藤本にしがみ付きながらもその様子を目で追って、
どうして声を出して伝えないんだろう、と
何気なく後ろを振り返った柴田の目に、明らかに異常な光景が飛び込む。
- 306 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:28
- 一面の、灰色。
灰色の帽子、鞄、コート、靴、何もかも後藤達と同じ格好をした組織の大軍が、
後ろから最後尾の藤本を狙うかのように、ビルの上を飛び回って追いかけてきながら
小さな灰色の銃でこちらに向かって銃を構えている。
あんな大軍から一斉に銃の狙撃を受けては、まさにひとたまりもない。
ようやく藤本の身ぶりのわけを脇の村田から囁かれて理解した吉澤は、
少しちらりと自分の後ろを振り返ってから、直後に慌てた顔で大きく首を縦に振った。
それを合図に、藤本の足がまた倍に、吉澤の足もそれと同じくらいの速さに跳ね上がり、
柴田はますますしがみついていることが困難になってきていたが、
藤本が腕を腰に回していてくれているので、取りあえず吹き飛ばされる心配はなくなる。
後ろの方からバゴォ、と何かを抉り取るような音がして振り向くと、
先ほどの大軍が一斉に銃を狙撃したところだった。
明らかに、その光線は吉澤や藤本の足にはついていけていない。が、破壊力は確かなようだ。
一斉に打ち抜かれて大きく開いた穴は、高層ビルをあっけなく崩壊させていく。
土煙をあげながら崩れていくビルの姿があっと言う間に遠のいて行くのを目で見ながら、
柴田は前の方向に後藤の姿があるのを垣間見た。
「ごっちん!」
藤本の呼び声に、不審気な顔をして後藤が振り返る。
- 307 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:30
- 「どしたの?ちょっとよしこ、そんなにスピードだしたらむらっち飛んでっちゃう…」
「それどころじゃないんだ、すぐ後ろに追っ手が迫ってきてる!」
後藤の言うように、普通にしていてもどこかへ飛んで行ってしまいそうな村田を
その一言でしっかりと小脇に抱えなおした吉澤が、
くいっと自身の親指を後ろに反らしてそう叫んだ。
その意味を理解し、釣られるように背後を振り返った後藤。
瞬間、それまで少し緩んでいたその顔が、はっきりと分かるぐらい引き締まった。
「……思ってたより、早かったな」
そのぼそっとした独り言のような呟きを聞き取りながら、
藤本と吉澤が一斉に後藤の隣に足並みをあわせて、
距離的に厳しい三列になりながらもそれぞれお互いの顔を見合わせあう。
「どうする?一端三手に分かれた方がいい?」
「…でも、こっちが三手に分かれても向こうが第一に狙ってるのはごっちんだから、
多分そんなに意味はないよ。それより、ミキかよっちゃんさんかが
ここらで止まって、あいつらの足止めにかかった方が…」
「いや、それはいくらなんでも危険すぎるよ。止めておいた方がいい」
「……それじゃあ、一体どうしろって…」
言うのさ、と続こうとした藤本の声は、声にならず空気に消えた。
その顔が自分の前方を凝視したまま目を見開いて固まっているのに気づいて、
吉澤も後藤も、それぞれビルの上を跳ねながら目の前を見据えるが。
- 308 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:36
- そこにまた、灰色の大軍があったのを見て、仰天した。
ぞわり。背筋が鳥肌だつ。
「……っ、待ち伏せっ!!」
「こっちだ、左!」
ビルで固められた大通りで丁度挟み撃ちをするような格好で
前からも後ろからも追い詰められ、後藤は一瞬駆ける足を怯ませるが、
すぐに響いた吉澤の声と腕を引かれた手にはっとして、素早く左に方向転換をする。
一番左寄りに走っていた吉澤が先頭で暗いビルの隙間にするりと入り込み、
その後に腕を引っ張られた後藤が続き、最後に藤本が器用な格好で滑り込んだのを
見計らったかのようなタイミングで、前後にあった灰色の大軍が、お互いに大衝突した。
「……くそ、危ないな、ちゃんと前を見ろ!」
「D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?!」
「ここにはいないぞ!地上に飛び下りたのではないか!」
「いや、いくら我々の体とて、この距離をまっ逆さまに落下するのはいささか困難だ。
それよりもD/CAX/i-510氏はこの中のどこかに紛れ込んでいるはず!」
「捜せ、捜すんだ!」
「必ず我々の時間を取り戻せ!」
そう口々に思い思いのことを叫んでは、わらわらと帽子をひったくりあったり、
顔を見せない輩を怪んだり、それこそビルの影に上手く隠れた後藤達が
何の行動を起こす間もないほどの短時間で、その数が二倍に膨れ上がった大軍は
お互いの様子を伺うのに精一杯になり、その内場はうやむやになったまま、
大乱闘といっても間違いではないような騒ぎになりあがってしまった。
- 309 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:37
- 帽子や鞄が灰色の空をさらに灰色に染めるかのように飛び上がり、
一番そちら側に隠れていた藤本はしばらくその様子を見守ってから、
さっと後ろの後藤達にサインを出した。大丈夫、今なら行ける。
それを見取って、素早く先頭の吉澤が動き出す。
脇に抱えられた村田がここからは大丈夫と自分の足で不安定な縁に立ったのを見て、
柴田もやっと今藤本の背負われているという状況を思い出し
ばたばたと手足をばたつかせてみるが、その足場が予想以上に不安定なのを目に見て、
そこに降りてもちゃんと歩ける自信のなかった柴田は大人しく抵抗するのをやめた。
狭く細いビルの隙間を、身を縮こまらせて少しずつ、確実に進む五人。
その時間が長くなるにつれて、それまですぐ後ろにあった騒がしい音や声も、
次第に掻き消えるように周りは静まり返った。
他に聞こえるのは、やはり五人が進む足音のみ。
カツカツカツ。窓辺の細いコンクリートの縁を足場にして進み、
周りのビルに反響して大きく響き渡る、厚底ブーツの足音だけだ。
この分なら、このまま逃げ切れるのではないだろうか。
そう、薄暗い辺りを見回しながら思っていた柴田の期待を裏切るかのように、
しばらくして、吉澤がふとその足を止める。
「……気をつけて」
このまま進んだ所に何かがあるということを告げるには、その一言で十分だった。
いや、何か、ではなく、誰か、と言った方がおそらく適格だろう。
ここまで来る途中、分かれ道は一つもなかった。
- 310 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:39
- 元々、ここから引き返すわけにはいかないのだ。
最初に腹を括った後藤が、立ち止まったまま様子を伺っている吉澤の脇を
するりと器用に通り過ぎて、歩き出す。
慌てて、その後に吉澤、村田、藤本の順番で続く。
柴田はなんだか嫌な胸騒ぎを感じながらも、相変わらず辺りを見回した。
不意に、突然。ぱぁっと、目の前が明るくなった。
「…外」
に、出た。と続くはずだった後藤の言葉が、不自然な場所で途切れる。
「…ッ、跳べ!!」
ぐわん!
そう大きく言い切った吉澤の強い声が強い波紋となって響き、
言われたままに五人は後ろに大きく飛び退いた。
カン、カカカカカン。
それとほぼ同時に、それまで後藤が立っていたビルと外との境目に
上から小さな錘のついた爪がところ狭しと多数引っかかり、
それを追うように次々に灰色の彼女達が五人の方へ縄を伝ってするすると降りてくる。
(まずい!)
素早く前後を見回して、後藤は思った。
このまま前から攻め込まれては、残された手は後ろに逃げるしかない。
が、後ろには今先ほどおいて来たあの大軍が待ち伏せている。いわば、三重の待ち伏せトラップ。
果たして自分達にあの数を相手できるだろうか。考えるまでもない。あまりにも無謀だ。
- 311 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:41
-
ならば、攻め込まれる前に前から突破するしかない。
そこまでの過程を手早く三秒の思考で済ませた後藤は、
結論が出るなり、吉澤、藤本の横を駆けて通り過ぎざまに言った。
「よしこ、ミキティ、サポートお願い!」
げ、と吉澤が小さく呟いた声が聞こえなかった風な顔をして、
藤本は黙って素直に後藤の後に続いた。
かかった縄から飛び下りたばかりのところを、一気に叩く。
突っ込みざまに決めた後藤の体当たりが同志三人を呆気無く吹き飛ばし、
その後から飛び込んだ藤本の踵落としが残った一人に決まり、落とした。
「後藤さん、上!」
すたっと身軽に窓縁に上手く着地した藤本の背中から、
柴田はできるかぎりの大声を張り上げた。
その声に促されて後藤が見上げた先には、ビルの屋上から降り掛かってくる灰色。
後藤がその場を飛び退いて拳を固めるよりも早く、
ガンガン、と強い銃声が二発。それに続いて、パンッ。鋭い銃声が一発。
致命傷を避けたのは偶然か、それとも狙ってか。
その三発はどれもが綺麗に落ちてきたばかりの同志の肩や足を打ち抜いた。
ちらり。後藤が少し目をやった先に見えたのは、
銃身の長い銃を完璧な構えで持った吉澤と、その傍で小型銃を手で抑えている村田の姿。
- 312 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:42
- 「後ろと上は任せて!」という二人の言葉を信じて、後藤は藤本に合図を送ってから
またもや懲りずに接近戦を攻め込んできた同志達をなぎ倒す。
人間界にどれほどの数の同志が送られてきているのかは知らないが、
どうやら里田のような化け物じみた人物ばかりではないようだ。
どれもそれほど手応えなく倒れていく元仲間、今は敵を冷静な目でみすえながら、
後藤はそのことに少しばかり安堵した。
これなら、行ける。後はタイミングを見計らって飛び出すだけだ。
「ミキティ!」
思ったよりもよく響いた後藤の呼び声に、柴田を背負いながらも
涼しい顔で目の前の二人を足でちょちょいと倒していた藤本はそちらに顔を向ける。
広がった視界の先には、一人を拳で思いっきり殴り倒しながらも、
こちらに向かって大きく手招きしている後藤の姿。
どうやらこっちにもっと寄れ、ということらしい。
「分かった!」
と叫びつつ、それで気配を消しているつもりなのか、
また背後から忍び寄ってきた影に回し蹴りを一発決め込んでやろうと
片足を大きく振り上げた時。それが敵にヒットするよりも速く、
柴田の思いっきり勢いをつけた片肱が見事に胸元に決まったのを見て。
- 313 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:43
- 藤本はばたりと倒れるその灰色の彼女の姿を半ば哀れみの表情で見送りながら、
目だけで後ろを振り返ってにやり、と笑ってみせた。
「……ナイス、肱鉄」
その言葉に少し困ったように笑う柴田を見ながら、
内心あれだけは食らいたくないな、と藤本は思った。
ガンガンガンガン、と立続けに四発決めて、吉澤が弾の補充をしている間に
村田が小回りを聞かせながら周りのフォローをするという
見事なコンビネーションで、予めビル上に待ち伏せていた敵数は
もうほとんど全滅しかかっているようだった。
「おし!」
こうなりゃ、少しでも一人でも多く敵の数を減らしてやると
懐からもう一丁小さな銃を取り出した吉澤に、向かっていた灰色の小隊はじりりと怯む。
どうやら後ろから定期的に送られてきていた小隊も、そろそろ底がつくらしい。
「…村田さん、こっちはもう大丈夫です。前の方よろしくお願いします!」
「うん、分かった。それじゃあ私は前のサポートに…行く、必要は…ないみたい」
「へ?」
満を辞して、少しばかり格好良い所を見せてやろうとそう言った吉澤の台詞を
全て無駄にするかのような調子で村田は言った。
その言葉に思わず吉澤が前を向くと、そこに広がるのはまさに無惨な合戦後。
- 314 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:44
- 「……容赦ないなぁ、あの二人…」
そこら中に転がっている灰色のコートを着込んだ塊をひょいひょいっと飛び越えながら
最後に残っていた小隊を全員パパンッと軽い音で倒した吉澤は、
そんな自分も人のことを言えないということに、その時今さらながらやっと気がついた。
先を行っていた村田のすぐ後に、ぶんぶん手を振っていた後藤達の所へ追いつく。
「よし、行こう」
吉澤が完全に合流してからほっと安堵の息をつき終わったのを見計らって、
後藤は間髪おかずそう言った。
神妙な顔で頷く全員の顔を見回して、一番最初に外へと大きく飛び出した後藤の後を
追って、今度は藤本が先に出て、その後に吉澤がつくという形になった。
相変わらず、その走るスピードは落ちない。
タタン、という身軽な音だけをその場に残して、
影だけ残す隼のように三人は陽が昇る早朝を駆け回る。
柴田も大分この感覚と速度に馴れて、自分を乗せてくれている藤本に
話し掛ける余裕さえ持てるようになってきていた。
「…藤本さん、藤本さん」
「はーい。なんですか?」
「あの…なんか、変じゃありません?」
「なんかって…何がです」
「いや、それはちょっとよく分からないんですけど。でも、さっきのところ。
わざわざ三回もあたし達を待ち伏せしてた割には、最後の待ち伏せの数も少なかったし、
それに今も追ってくる気配なんて全然ないですよね」
「……それは、うん、そうですね」
「なんででしょう。普通、捜してた後藤さんの持ってる時間をやっと見つけたっていうのに、
中途半端な罠が破られたからって、こんなに簡単に諦めるものでしょうか」
「……」
- 315 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:45
- ぽつぽつと紡がれる柴田の言葉にじっと耳を澄ませながら、藤本は思った。
(この人、頭の回転が速いな)
こんな短時間で今までの状況をざっと整理し、分析までできるとは。
先ほどの肱鉄攻撃といい、いざとなった時の度胸も座っている。
少し藤本の飛び方が不安定になるだけでしがみついてくるのはいかがなものかと思うが、
思っていたよりも、柴田あゆみというのは強い人間なのかもしれない。
カカン、とリズムの小気味良い音を立てて、藤本はまたビルからビルへと飛び移った。
「…思ったんですけど」
「はい」
「さっき、中途半端な罠って言いましたよね。確かに、さっきの待ち伏せの仕方は
物凄く中途半端なものだった思います。けど、…考えてみてください。
彼女達はミキ達を捜してました。だからこそ、広い範囲に多い人手をばら撒いている。
そんな状況で急にミキ達を見つけたからって、すぐに対応できるもんですかね。
さっきの状況は向こうの手配や計画が追いつかなかったというか…仕方がなかったというか、
そういう可能性も考えてみたら、納得できませんか」
「……ああ」
そっか、と柴田がぽつっと呟く。
ちらりとだけ後ろを一瞬振り返った藤本の目に、
背中の柴田は自身の顎に手を当て、何事かを考え込んでいるように見えて。
- 316 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:46
- 「そっか」ともう一度だけ呟いて、柴田は再度口を開いた。
「すみません、それだけです。ありがとうございました」
「いえいえ」
どういたしまして、と軽い調子で返す藤本に、柴田は「あ、でも」と引き止める。
カカン。リズムを揃えた足が綺麗に飛び跳ねた事を確認してから、
不思議に思ってまた背後を振り返った藤本に、柴田は続けた。
「もう一個だけ。いいですか」
「…はあ、どうぞ?」
「あの……」
「どこかで、会った事ありません?」
そういう柴田の愛用しているハンカチは、綺麗な無地の、白いハンカチ。
にやりとだけ、藤本は小さく笑った。柴田にとって、答えはそれだけで十分だった。
- 317 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:47
-
カン、カカン、カンと。それまで気味が悪いほど一定だった足音のリズムが乱れて、
柴田はやっと目指していた場所に辿り着いたと言う事を悟った。
空中の不安定なバランスにも馴れて、知らず知らずの内にぼうっとしていた頭を
ぶるぶる振る事で覚醒させてから、取りあえずきょろきょろと辺りを見回す。
どうやらここは街からも人里からも遠く離れた、どこかの町外れのようだ。
何もない背景。そこに不自然さを感じるほど、一つだけぽつんと建った家。
その前で後藤が屈みこみ家の中の様子を伺っているのを見て、藤本はふと足を止めた。
そうして少し辺りを見回した後、「どうぞ」と一声、柴田が地面に降り易い姿勢をとる。
少々遠慮しながらも最後はぴょん、とジャンプして地面に降り立ち、柴田はううんと伸びをした。
久しぶりの地上は、風も適度で中々に気持ちがいい。
すぐ後ろで吉澤と脇に抱えられた村田も着地し、ざりざりと砂利を踏みつけながら
藤本達の隣へ並んだ丁度その時ほどに、やっと家から目を離した後藤が、
そこにいた全員に向かって「こっちこっち」と手招きをした。
「……その家に、隠れるの?」
「うん。あたしらが昼動くのは目立ちすぎるからね」
「人は?」
「大丈夫、さっきから見てたけど無人みたい」
- 318 名前:D/CAX/i-510氏、後藤真希はどこだ?! 投稿日:2004/12/22(水) 21:48
-
後藤、藤本、吉澤で円になって行われる用心深い会話を聞きながら、
柴田はなるほどなあと思った。
確かに、真昼の明るい太陽に照らされた街に後藤達の灰色ずくめは目立ち過ぎる。
人間に見られる心配はほとんどないとはいえ、
それでは組織に自ら居場所を教えているようなものだ。
「…取りあえず、夜までここに身を隠しておこう。
それで、今日の夜。組織の手が回らないどこかまで、一気に逃げるよ」
「……まあ、それしかないか」
多分矢口さん達も、ミキ達が夜動こうとすることぐらい分かってるだろうけど。
藤本の少し悔しそうな口調に後藤も頷く事で同意してから、
「でも、それしかない」と言い、ぐるりと集まった五人の顔を、一人一人見回した。
「勝負は、今日の。午後、十時だ」
そう後藤が片言のような発音で言った言葉の真後ろで、
家の中にあった大きな古時計が一つ、昼の三時を示して低く、ゴーンと鐘を鳴らした。
- 319 名前:烏 投稿日:2004/12/22(水) 21:52
- 大量更新終了。今まで溜めてた分を一気に出して気分もスッキリ。
>>274
待たれてました。ありがとうございます、ほんと…!
ですができればsageて下さると嬉しいです。
なるべくひっそりこっそりやってたいので。よろしくお願いします。
- 320 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2004/12/28(火) 20:19
-
ガチャリ、とノブの回る音がして。
すぐに続いて響く軋んだ戸の音に、矢口は思わず顔をしかめた。
目の前には天井まで届きそうなほど、高く積まれた紙の山。
まさに塵と積もれば山となる、だ。
書類を一々押し退けなければ今部屋に入ってきた人物の顔さえ見れない事に
矢口はほんの少し面倒さを感じながらも、それでも今の状況で
この部屋にわざわざやってくる人物など二人に限られていることを
頭のどこかで冷静に察知しながら、わさわさと紙の山を一つ手前に引いた。
そうすることでやっと目に見えたその顔に、思わず小さく声が漏れ出てしまう。
「あれ」
「…あ、ヤグチ。いたんだ」
丁度真正面で向かいあうような形に立っていた安倍は、手に細いペンを持っていた。
そのペンをくるくると回しながら矢口の前の山から自然な動作で一枚取って行く安倍に、
「ありがと」と断ってから、少し身を前に乗り出して
自分の机の方に歩いて行く安倍の背中に声をかける。
「…なっち、そっち裕ちゃんの机なんだけど」
「……」
ぴた、と急に止まる両足。
- 321 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2004/12/28(火) 20:20
- 「下手な芝居はよした方がいいよ」
トントン。一通り目を通し終わった書類の一まとめを机で叩きながらそう言った矢口に、
いつもの習慣は流石に取り払えなかったのか。
しばらく気まずそうに硬直してから、やっと矢口の方を彼女は振り向いた。
「……バレとったんか」
「バレとったんかっていうか、バレバレ。
なっちになりきるんなら、口に葉巻くわえとくのも忘れてるよ」
「あ、ホンマや」
うっかりしとった、と言いながらコートのポケットに突っ込んでいた手を
おもむろに引き出した安倍の姿を借りていた中澤は、
フゥ−、と自分の体に軽く息を吹き掛けて、自分の体の上に煙状で纏っていた
安倍そっくりのパーツを少しずつ取り払って行く。
「中々今回のはいい出来やったと思わん?」
「……ていうか裕ちゃん、そういう自分の趣味に走るのはいいけどさあ。
ここにくる時ぐらいわざわざなっちの姿してこなくても、普通にくればいいじゃん」
「えー、だってヤグチ以外にウチとなっちの違い見分けられるヤツおらんねんもん。
ヤグチにさえ見破られない変身術身につけて、やっと一流になれるんやで」
「……暇だねぇ、裕ちゃん」
「何を言う。今日もこうして身を削ってヤグチの仕事手伝っとるやん」
少しも悪びれない顔でそうけろりと言い切った中澤は、
すっかり元の通りになった自分の金髪をわしわしと手で掻きむしってから、
一度止めた歩みを再開させて、やっと自分の席についた。
- 322 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2004/12/28(火) 20:21
- 「それにしても不思議やなあ、普通葉巻くわえてんの忘れたぐらいでバレるもんなんやろか。やっぱ愛のチカラって偉大やなぁ」
「バッ、何言って…!っ、そもそもなっちは今外に出てるからここに来るはずないの!」
「あ、そうなんや。そらバレるわけや…時期を誤ったな」
チッ、と軽く舌打ちをしながら悔しそうに言う中澤に、
矢口はひたすらに俯かせていた顔をあげて、口ばかり動かしてないで手を動かせ、と
注意しようとしたが、話し続けている中澤の手元が口以上に動き回っていることに
気がついて、思わずむ、と口を噤んだ。
(だから裕子は嫌いだ!)
ぶつぶつそのことに対しての堂々と言えない文句を口元だけで呟きながら、
矢口は再度顔を伏せて書類との格闘を再開する。
そんな矢口の背中を紙の山越しに覗き込みながら、
にやにや笑った中澤はこれみよがしな声で、何気もなく言った。
「でも、嬉しかったやろ?」
「……ハァ?」
思わず、また矢口の顔が中澤の方に向かってあがる。
- 323 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2004/12/28(火) 20:22
- 「ここだけの話、ウチがここに来る時いっつもなっちの姿借りてんのは、
仕事でお疲れのヤグチを少しでも癒しであげようっつー優しさやねんで」
「……え、ちょ、待って、ちょっと待って」
「だってヤグチ、ウチが来るよりなっちに来てもらった方が嬉しいやろ」
矢口が慌てて振り乱す両手に動じもせず、にやにや笑いながらそう言葉を続ける中澤。
その一言に否定しようと口を開いたところで、矢口はふと動きを止めた。
まあ、そりゃあ、こうして自分をからかってくる中澤よりも、
仕事が多い時は優しい安倍の方がいくらかいいところの方が多いけれど。
「…でも、だってそれは裕ちゃんが疲れることばっかり言うから」
「うわ酷い。めっちゃ傷ついたわ」
自分で最初に言っておきながらそう大袈裟なリアクションをとる中澤に、
半ば呆れた目をしてため息をついた矢口は、
もう相手にしないことを決め込んで、また手元の書類に目を落とす。
今現在、組織の人手はほとんど人間界に回ってしまっている。
ほとんど、ということは、外勤だけでなく、普段人間界に回ることもない
書類整理をするデスク大半もが後藤の足跡を追いかけて走り回っているということだ。
今の状況で、そんな人手は惜しんでいられない。
しかしそうなると、元々多い矢口の仕事の量は何十倍にも倍増し、
いつもならなんとか机の上だけで収まる書類の山も、今日は床、棚問わず、
隙間という隙間にとにかく詰め込まれている。
こうしてなんだかんだ言いながらも仕事ができる中澤が毎日手伝ってはくれているが、
果たしてそれでもこの書類を片付けられる日が来るのかは、取りあえず不明であった。
- 324 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2004/12/28(火) 20:22
- 「それにしても、外に出てるって、なっちももちろん人間のとこ行ってんやろ?」
「うん、そりゃあね」
「珍しいなー、ヤグチほっぽって一人で仕事行くなんて」
からかうような口調でそう言う中澤の顔を一度じろっと睨み付けてから、
矢口はその理由を渋々ながらも淡白な声で小さく答える。
「……ちょっと、下位の子がね」
「下位?なんや、クーデターでも起こされたん?」
「違うよ。…ただ、下位の子で二人、組織全体に人間界に出る許可が降りる前に
勝手に人間界まで出て行っちゃった子達がいてさ」
「あ、ええなそいつら。好きやわ、そういう身の程知らず」
「…その子達がなっちの知り合い…っていうか、半分部下みたいなもんだったらしくて。
だからなっちがわざわざその子らを捜しにいってんの」
「ほほう」
顎に手をやって、納得したように口を尖らせる中澤。
その気楽な調子の相づちに矢口ははぁ、と大きなため息をついて、
広いはずの机の狭いスペースの端に置いてあるインクに軽くペン先をつけてから、
また仕事に没頭することを再開させた。
カリカリ。カリカリ。
その場に響くのは、矢口が鳴らすペンの音のみ。
中澤と一緒にいる時は滅多と落ちない沈黙を訝しがって、
しばらくしてから矢口はまたふと顔を上げたが、
その瞬間、目に入った中澤の真面目に悩んでいるような表情に、戸惑った。
- 325 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2004/12/28(火) 20:23
- 「……なに、それが、どしたの。裕ちゃん」
思わず、口をついてでる言葉。
矢口の小さく響く声に、中澤は少しの間を置いてから、振り向く。
「……ん。なにがや」
「なにがやって…今すごい真剣な顔してたじゃん」
「そうか?気のせいやって。さ、今日も張り切って仕事せななー」
ひらひら、と手を振って、剽軽な様子で打ってかわってまた仕事を始めた中澤に、
その顔をしばらくじっと見つめて何も変わらないのを見守ってから、
矢口もまた、まあいいかと思い直して手元のペンを走らせる。
ちく、たく、ちく、たく。先ほどのペンの音のみの空間とはまた違う音。
沈黙の部屋に、今度は人間界の『時刻』を示す時計がその針を鳴らしている。
ちらり。その時計の方へ視界をやって、矢口はすっと目を細めた。
人間界での時刻というのはとても重要なもの、らしいが、
どうもこちらの世界ではやたら滅多に必要とするものではないため、
その時刻を読むという動作でも一苦労だ。
えーと、今は。心の中だけでそうぽつっと響かせて、
矢口は長い針と短い針、その両方がが指している先の文字を読み取り、呟いた。
「……午後、九時、四十五分…」
「大変だべさ!!」
そんな矢口の何気ない声を掻き消すかのようなタイミングで、
ガン!とドアを破壊するかのような勢いで開いた。
- 326 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2004/12/28(火) 20:24
- 今組織には自分達以外、ほぼ誰もいないはず。
まさか急にドアが開くとも思ってもみなかった矢口と中澤は、
そのドアの向こうにいた安倍の姿を2、3秒じっくりと見つめた後、
破られたドアが吹き飛ばした床の書類の空の旅の行方を、静かな目で見守る。
そして不意に、我に返った。
「……あれ?なっち?なんでなっちがいんの?」
「なんやなっち、人間界に出とる、聞いてたけど…」
「だから、大変なの!それどころじゃないんだってば!」
戸惑いを全開にして、表情そのものに怪訝さを含ませた二人の前まで、
カツカツと厚底のブーツを鳴らして歩み寄ってきた安倍は、
バン、と矢口の広い机に力強く両手をつく。
その勢いで、またふわりと書類が7、8枚。
矢口の目の前で驚いたように飛び上がった。
「ヤグチ、見つけたよ!」
「…見つけたって…昨日なくしたって騒いでたオヤツでも見つけたの?」
「違うよ!そんなんじゃなくて、見つけたの!」
見つけた見つけた、と捲し立てるわりにはちっとも主語を伝えようとしない安倍に、
一端呼吸と気持ちを落ち着かせるように背中をさすってやる。
突然部屋に入ってきた安倍のおかしな、とても興奮しているかのような態度に
少し不思議がって、大部分が面白がって、がたりと席を立った中澤は、
隣から安倍の顔をひょいと覗き込みながら、尋ねる。
- 327 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2004/12/28(火) 20:25
- 「なっち、…何を見つけたんや?」
矢口が目をやった先には、にやにや笑いながらそう言う中澤の顔が見えた。
大方エロいことでも考えているのだろう。
文句を言おうと矢口は口を大きく開きかけた、が。
それよりも先に小さく響いた安倍の声に、その動きはぴたりと止まった。
「……ごっちん」
カチ、と。時計の針が、また一分時を繋いだ音がする。
それに合わせて、比例させるかのように。綺麗に重なって、安倍の声が再度響いた。
「後藤真希」
- 328 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2004/12/28(火) 20:26
-
呟いた声に何の反応も返ってこなかったので、言葉を変えて言い直した安倍は、
肩で荒い息をしながら、一度大きくすっと息を吸い込んだ。
その背中をさすっていた手を止めて、矢口は見開いた目で中澤を見る。
にやにや笑いが硬直してしまった中澤もまた矢口を見返して、
思わぬ安倍の言葉に何か言おうと口をもごもごさせるが、結果的には何も言えない。
ふと。顔を少しあげた安倍は、引きつった顔で固まってしまっているそんな二人を
見比べながら、「さっき報告が入ったの」といくらか落ち着いた声で言った。
「今は街の外れにある空き家に隠れてる。動くのは今日の午後十時。
…一気に、そのまま逃げ切るつもりらしいよ」
声を潜めてそう言う安倍に、間を置いてから、矢口はがしがしと頭を掻いた。
「…あいつー、今までまったく音沙汰なかったくせに、今頃報告入れやがって」
「けどまあ、ギリギリセーフ、ちゃうんか?ヤグチ」
「……まあ、ね」
横から聞こえた中澤の助け舟に、矢口はほんの少し呆れた顔でため息をつく。
自由奔放というか、なんというか。まあ、いつものことだけど。
「……午後、十時か」
ぽつっと呟いて、壁にかかった時計を見上げる。
先ほど見たばかりの時計が指しているのは、午後九時、そして五十分少し前。
- 329 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2004/12/28(火) 20:27
- 「十分でいけるか」
「…いけるか、じゃないよ」
中澤にしては珍しく。ほんの少し心配げな声で響いた言葉に、
矢口はちらりとだけ目をやって、その姿勢を全否定した。
「間に合わせる」
中澤が、軽く笑う。
その言葉を聞き取る前に、深呼吸を済ませた安倍はもうすでに
書類の散らばった部屋の中を忙しく動き回っていて、
その手は不意に、部屋にたった一つだけ設置された黒電話の受話器に伸びた。
「なっち、やるんやったら窓開けや。最近それ電波の調子悪いねん」
「ん。わかってる」
中澤の言葉を適度に聞き流し、安倍はすぐ横にあった窓をガラガラと開く。
灰色の窓の奥に広がる、灰色の世界。
窓からもくもくと入り込んできた煙を手で払いながら、
矢口は灰色のコートの乱れを直した。
- 330 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2004/12/28(火) 20:28
- ツー、ツーと言う機械音が、ぶちりと途切れる。
安倍はその瞬間を見計らって、大きく、大きく、叫ぶように言った。
「後藤真希を発見した!所在地番号F-967、2_2。F-967、2_2!
全ての同志は十分後、すぐにその場所へ集合せよ!繰り返す!
後藤真希を発見した!所在地番号はF-967、2_2、F_967、2_2である!」
安倍の声が耳に入り込む度に、耳奥で微かな耳鳴りがした。
部屋の外の世界でも、高々と設置された灰色の汚れたスピーカーから、
少し音のぶれた安倍の声がどこまでも遠くへ、遠くへと響き渡っている。
コートの内ポケットから新しい葉巻を一本取り出し、口元にくわえる。と、
中澤がそれを見計らったかのように手元に握っていたライターを
矢口の葉巻の傍でカチリと鳴らした。
もくり。すぐにその先から立ち始めた煙を、少し吸い込む。
「…なっち、先行ってるよ」
そうして、灰色の鞄を手にした矢口は黒電話の受話器を置いた安倍の背中に声をかけた。
時計の指す針はまた少し前進して、指しているのは今、午後九時五十三分。
一刻の猶予も惜しい。
- 331 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2004/12/28(火) 20:29
- 振り返った安倍もすぐにそんな矢口の意図に感づいたのか、
慌てて開いたままの窓を閉めながら、返事をした。
「後からすぐ追い掛けるから!」
「遅れんときやー」
茶化すように言う中澤の声に、「遅れませんー!」と、
子供のような安倍の言い返す声が響いた。
それに笑って手を振ってから、矢口はまた内ポケットに手を突っ込んで、
今度は車のキーを指でくるりと回してみせながら、扉を閉める。
部屋の中ではただよっていたお気楽なムードが、その瞬間一掃された。
顔つきが一瞬にして真剣になり、周りの空気が急に冷えたのを感じる。
なんとなしに、中澤の顔を、少し見上げた。
すると、中澤もまた、その瞬間矢口を見下ろしていた。
必然的に、出会う視線。
…にやり。矢口が先にそう笑ってみせると、
中澤の口元からも、ほんの少し白い歯が綺麗に覗いた。
- 332 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/29(水) 10:40
- スピード感、流れ、すんごい格好いいです。
滅法すごい。
作者さん大好きですw
- 333 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:22
-
ぶらぶらと、何の気なしに三人で横並びに歩いていたところを
急に横殴りにされたような衝撃を覚えた。
ガタガタとあっちこっちを乱暴に扱いながら、里田はサングラスをつけて
素早く車に乗り込むと、すぐにバタンと扉を閉めた。
隣の助手席には今度はあさみが乗り込み、後部座席にみうなが座る。
その体制が整ったことを確かめてから、里田は一気に足下へ力をくわえて、
豪快に吹き出すアクセル音と共に、人間界の夜道を素晴らしい速さで走り出した。
まだ安倍の声を直接聞き取った耳はガンガンしたまま収まらない。
横目に見える助手席のあさみも、両耳を手で抑えて涙目のままである。
「…うー、なんでみうなはそんな平気なのかなぁ…」
「あ、私ちょっと人より大きめな声で言われる方があってるみたいで」
そういう問題じゃないだろうとは思ったが、あえて口を挟まずにいておいた。
「……それよりあさみ」
まだみうなに向かってもごもごと口を動かし、
いかにも不満そうなあさみの方を顔だけで振り返って、
里田は文字通り適当にハンドルを回しながら声をかける。
「ナビ。頼むよ」
「えー、あたしがやるの?」
「あんた助手席じゃん。助手席ってのはドライバーの助手が座るから助手席なんだよ。
なんか文句でも?」
「……いーえ、喜んでやらせていただきます。みうな、鞄から地図取って」
じろり、という里田の目線に軽く肩を竦めて、
あさみは大人しく後ろのみうなの膝に収まった自分の鞄を指差した。
- 334 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:22
- 少しテンポの遅いみうなの動作で数えること約五秒、
はい、と渡されたものを手に、「えーと、なんだっけ、そうそう、F-967、2_2だ」と
ぶつぶつ一人言を呟きながら、あさみはぱらりと地図を広げる。
音もなく目の前にあった古い住宅をするりと通り過ぎながら、
里田はそんなあさみの指が一度、くるくると回ってから指し示した方向を見た。
「…左に、58度」
「オッケー」
言うが速いか。里田の言葉尻が終わると共に、
突然右方向へと旋回する車。
それまでまたもや窓から外を見ていたみうなは、急に回り出した景色に目を回す。
車の外のタイヤがギャギャ、という暴れ出したかのような音を立て、窓に微かな火花が飛び散る。
その内、回しすぎたハンドルがこれ以上回れないよ、とでも言うかのように、
ガツンと音を立ててまた元の位置に戻ってきた。
瞬間、窓の景色もクリアに変わり、みうなはぱちぱちと瞬きをする。
「…さっすが、58度ピッタリ」
思わず感心したかのように、あさみは指ニ本で小さな丸を作ってみせた。
- 335 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:23
- 一度急停車しつつも、すぐに再度ブルルルと気を取り直したかのように
アクセルを吹かせて走り出す里田の愛車は、毎度毎度同じような豪快な運転をされて
もう馴れてでもしまっているのか、頑丈だ。とみうなは思った。
そんな、あさみが大欠伸を地図で隠しながらして、
里田が適当に適度に、人間界では軽く常識はずれな運転をスムーズに行っている時。
不意にガガ、と軽い雑音がした。
なにかと思ってみうなが首を回すと、
その犯人は灰色い車内でたった一つのスピーカーだったことがすぐに分かった。
突然の機械音に引き続いて、音の粒子が少しばかりざらついた音がする。
『…後藤真希を発見!こちら所在地D-456、1_5!』
ザ、とまた違う音が入った。
『都心のビル上を逃走中!所在地D-823、5_4!』
また聞こえる、ザ。
『総人数はおそらく五名!その内何名かは人間の模様!』
ザ。
『今のところ止まる気配は全くない!所在地B-248、2_2!』
ブツッ、…ザ−。
『……えー』
ごほん、とざらついた咳払いの音が軽くスピーカーに響いた。
- 336 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:24
- 『…諸君、諸君、あー、聞こえているだろうか。
私はコードネームV/WWF/c-554、中澤裕子だ』
ハンドルを左右へ適度に回しながら、突然の音にも一切動じなかった里田が、
やっとその声でそれまで音の入り続けていたスピーカーをちらりと見る。
『後藤真希を既に追っている同志、発見場所に向かっている同志、
それぞれそのままでよいので聞いてほしい。
我々上層部は今まで諸君に前線での行動を任せたきりで、自ら立ち上がろうとはしていなかった。
それもそれで、ワケがある。それは諸君らが一斉に出払った隙に、ここぞとばかりに
なにか悪事をしでかす侵入者を組織に入らせるのを防ぐためであった。
しかし、今日ばかりはそうもいかない。
先ほどの安倍なつみ、X/SSH/u-229氏の声を聞いただろう。
後藤真希は諸君ら、そして私達の命とも言える時間の全てを握っている。
元は仲間とは言え、このような勝手な行動を放っておくわけにはいかない!
たった今、私と矢口真里、コードネームG/PQJ/f-396氏は帯同して、
後藤真希の元へ向かっている!』
「…うわ、遂に上層部まで出てきちゃった」
「出てこないわけにはいかないでしょ、今の状況じゃ」
口元に手を当てながらのあさみの呟きに、
里田はまた目線を地平線へと飛ばしながら答えた。
後部座席から身を乗り出しているみうなは、
きょとんとしつつも流石に驚いた顔でスピーカーからの音に聞き入っている。
- 337 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:25
- 『今までの報告通り、後藤真希は現在、B-2地区を駆けて逃走中だ。
服装は至って身軽、何か武器を持っているわけではない。
夜中とはいえ、人間の目も気になる。諸君らのできる限りの早さで後藤に追いつき、
生け捕り、または消滅するのをその目で見届けて報告せよ。…以上だ。
……諸君の、』
『健闘を祈る』
そんな一言だけを言い残し。
中澤はふと一呼吸おいて、その声をブツリと切った。
あさみが手で顎を撫でて、みうなは戸惑った顔で後部座席の方に大人しく身を戻す。
里田はそんな二人の様子をちらりと見比べてから、ぎゅっと口元を引き締める。
先ほどから多く舞い込んでくる目撃情報。
その内容は数を足すにつれより正確に、貴重なものへとなっていっている。
ならば。おそらく後藤は今、大多数の同志に追われている真っ最中だ。
(……待ってろよ)
ハンドルを握る手に力を込め直して、里田は無言で車のアクセルを足で踏み潰した。
(あんたには、私が一番初めに目ぇつけたんだから)
- 338 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:28
- ギュルギュルッ、と。
その運転の荒っぽさにタイヤが抗議するかのような声を外であげているのが聞こえる。
しかし、そんなことには今構っていられないのだ。
つい先ほど。
加護に言われた自分と後藤の再開する日付は、26日の夜明けということだった。
正確に覚えちゃいないが、確か今日の日付けは10日前後。だった気がする。
おそらくこの車のとばし調子でいけば、里田が後藤を追う一団に合流するのは
ほんの時間の問題だろう。ならば、加護の言葉には誤りがあったのか。
加護の分析は何よりも正確。そんな噂は確かに聞いていたが、
しかし後藤に今日会えるというのならば、その手を逃す理由はない。
「あさみ、みうな、しっかり掴まっててよ!」
目元のサングラスを片手でかけ直して、里田は身を乗り出しながら車に勢いをつけた。
車のアクセル音がまるで壊れてしまったかのような音量で鳴り響き、
助手席のあさみが「ここらへんに『見える人間』がいたら一発でバレるねこりゃ」と
しみじみ呟くのがなんとなしに聞こえたが、しかしそれなら、
その人間が不審に思って家の窓を開けるよりも前に速く走り去ってしまえば済むことだ。
里田はそう考えてから、その無理矢理さに自分で気づいて思わず苦笑した。
加護がどうたら予言がどうたら。まあ、いいや。考えるのはやめにしよう。
今はそんなことを考えている場合ではない。とにかく、後藤に会えればそれでいい。
ついこの間交えた体が、後藤の感覚を思い出しては、熱くなる。
ザ、とまた小さく機械音が響いて、車の中に小さな声が届いた。
『後藤真希、現在B地区を縦断し、A地区に突入…』
- 339 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:28
-
- 340 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:29
-
カカカン、後藤のブーツが不機嫌に跳ねる。
色んな匂いのする風。目に映るきらびやかな風景。
耳に聞こえる、背後からの、大勢の足音。
「ごっちん、その先行き止まりだよ!」
すぐななめ後ろからその足音に混じって聞こえた吉澤の声に、
後藤は顔だけで振り向いて頷くことで了承したことを示した。
ただ無言で、全速力のスピードで駆けたまますぐ先にあった一つのビルに目をつけて、
そのコンクリートの角に足をかけて、跳ねる。
跳躍時、微妙に捻った体からきた回転力が、後藤の跳躍にプラスとなって加わった。
トーン、と綺麗に道として残された左へ飛ぶ後藤に続いて、
村田をまた脇に抱えた吉澤が、そしてそのすぐ後から、
後ろへ威嚇の銃弾を飛ばしつつ藤本がついてくる。
午後十時。そう宣言した時刻丁度に空き家から出発したが、
予想していたよりも早く、というか、出た瞬間と同時に姿を見つけられ、
時間が過ぎるごとにその数を増幅させていく大軍に、
逃げ始めてから十分も足っていないというのにこうして追いかけ回されている。
どうにかしてこの大軍を撒かなければならない。
幸い、まとめ役のできるような力のある上位はまだ姿を見せていないようだ。
その大軍の追いかけ方が幼稚なものなのをちらりと振り返っただけで判断して、
これが不幸中の幸いというやつか、と後藤は思った。
しかし、今自分達が危機の真っただ中に立たされているのには変わりない。
それこそ上位が総動員されて大軍に合流されでもしたらすぐにでも一環の終わりなのだ。
- 341 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:30
- なんとしてでも逃げ切らなければ。
決意を込めた目で前を見ながら走るそんな後藤の背中に乗った柴田は、
不意に、道の先を見据えて、なにかを思い出したかのように
後藤の肩を慌てた素振りで強く叩きつけながら言った。
「ヤバい、ごっちん、こっちの道も確か行き止まりだった!」
「ウソッ…」
その柴田の一言に驚いた呟きを思わず漏らした後藤の前に、
その言葉通りの景色が目に飛び込んできて、
後藤は足の勢いを直前のビル上でなんとか踏み止まらせる。
「…よしこ、ミキティ、こっちもダメだ!」
「はぁ?!いや、そんなこと言われても…」
「もう遅いってば!」
吉澤の言葉途中に割り込んだ藤本の怒声に近い大声に、
背後へと目を向けた後藤の顔が真っ青になった。
藤本の足元すぐ近くまで、物凄い迫力と勢いと人数で迫ってきている灰色の大軍。
それを見取って泣きそうな顔をした吉澤の目に訴えかけられて、
上下左右を後藤は素早く見回す。が、逃げられそうな道はどこにもない。
前は行き止まり、後ろは、敵。
「……どうしろっての…」
ぽつ、と響いた後藤の言葉も空しく、後藤達の立ち止まった一つの小さなビルは、
それこそあっと思う間もなく大軍に包囲された。
- 342 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:31
- ぐるり、周りを埋め尽くした灰色に、後藤の額に汗が滲む。
吉澤が左右を睨み付けながら憎々しげに唇を噛み締めた。
コツン、とトーンの高い足音が響いて、灰色の大軍を掻き分けるようにしながら
進み出てきた灰色の人影が一つ、帽子のつばを指でくっと上げて、後藤を見据える。
その表情を、後藤もまた真直ぐに見据えながら。ぎゅっと口元を引き締めた。
「……マサ」
「時間を、…返してもらうよ、ごっちん」
それなりに何度も呼びかけたことのある愛称を口にしようとすると、
言い終わるよりも先に、苦々しげな調子の声にさえぎられた。
優しい気性の大谷雅恵が口にする、今までは聞いたことのなかったその声色。
後藤はそのことにくっと眉を寄せながら、それでも、
今の自分と大谷の立場をそれぞれ整理して、ふとついた一息のあと、
す、と。吉澤よりも藤本よりも、誰よりも先に構えを取る。
大谷の顔も、そのことにまた歪んだように見えた。
しかしすぐに灰色の葉巻からあがる灰色の煙が、
そのこころなしか少し泣きそうでもあった表情を覆い隠す。
「……むらっち、いるんでしょ?」
煙に表情を隠したまま、ぼやけた大谷の声はビル同士に反響する。
その言葉に、藤本はふと自分の背後を振り返った。
親友の呼びかける声に、険しい顔で身を強張らせる村田の姿がそこにはあった。
- 343 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:32
- 「……いるよ」
村田は答えた。
それと同時に、すぐ隣にいた吉澤は銃を手に取り出して、構えを取る。
大谷はそんな様子を横目に見ながら、さらに続けた。
「…ひとみん、心配してたよ」
「……うん」
「ほんとに、消えちゃうつもりだったの?」
「……うん」
少し目を伏せながら小さく返事をして頷く村田に、大谷の声が僅かに震えた。
「……私、むらっちには消えてほしくないよ」
「……」
「だから…このまま」
「連れ戻す」
不意に突拍子な風が強く吹き出して、ば、と大谷の表情を隠していた煙が散った。
灰色ばかりの中に一つだけ綺麗に映える、大谷の金を下地に明るく染まった頭。
もくりと横に流れた煙が隠していた表情は、思っていたよりも頑強で。
襲いくる灰色から飛び出したワア、という大きな声と声が響きあい、ぶつかりあって、
まるで目の前にしている大軍が一瞬で何倍にも膨らんだかのような錯角を覚えた。
後藤は少ししてからはっと我に返り、手早く背後に立っていた柴田の手を引いて、
少し離れた貯水タンクの裏に座らせる。
- 344 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:33
- 「ここでじっとしてて!」
何か言いたそうではあったが、それを聞いている時間はない。
柴田は外見から脆そうな反面、一本強い精神の支柱を持っている。
初対面の時からそのオーラにどことなく感じていたことではあったが、
この逃走を始めるギリギリまでいた空き家で親しくなって、それは確信に変わった。
柴田なら、大丈夫。
後藤はまた駆け戻る。
「よしこ、サポートお願い!」
相手がどんな数だろうと、もうどこにも退路はないのだ。
やるしかない、という意志が心の底から固まった後藤の張り上げた声に、
いつもならうん、と強い顔で頷く吉澤、なのだが。
何故か今回ばかりは酷く戸惑ったような表情でこちらを見ているのに気づき、
後藤は怪訝に思って眉をひそめた。
どうした。まさか、迫力に気押されてしまっているのか?
だが、またそこで後藤はもう一つおかしなことに気がついた。
不思議なのは吉澤だけではない、ビルを取り囲んでいる灰色の大軍も、
まるで時間を奪われてしまったかのように、ぴくりともせず固まってしまっている。
- 345 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:34
- 「…ごっちん…」
そう震えた声で言った吉澤の瞳が、ゆらりと揺れる。
ビルの下を見つめて、硬直している藤本。
村田はまだ険しい顔のままで、ぎゅっと眉間に皺を寄せている。
その、視線が。三人が三人とも、同じような位置を向いていることを見取って、
後藤はおそるおそる、どうしてか襲いくる恐怖心を押さえ込みながら、
三人と同じように、ビルの下の灰色、そしてそのさらに向こうを見た。
「……なんや、全然間に合っとるやん」
コツリ、一つ目の足音が聞こえる。
「間に合ったっていうのかな、これは」
コツリ、一つ目よりも少し小さな足音が続いた。
「つーか、完全に出遅れだっつーの」
コツリ。二つ目よりも、さらに小さな…三つ目。
- 346 名前:会いたくなかったよ、ごっちん 投稿日:2005/01/06(木) 17:34
-
「待たせたね」
葉巻から器用にドーナツ煙を吹き飛ばしながら、彼女は言った。
さらさらの金髪が風になびく。
灰色の集団の先頭に立っていた大谷に、なんともいえないような表情が浮かんだ。
「あー……」
後藤が思わず、顔を手で覆いながら呟く。
「なんで、やぐっちゃんまで出てきちゃうかな…」
その呟きが、この距離だ。果たして聞こえているのかいなかったのか。
何はともわれ、矢口真里は気ままな様子でひょいっとあげた片手を
ひらひら左右に振ってみせながら、こう言った。
「会いたくなかったよ、ごっちん」
- 347 名前:烏 投稿日:2005/01/06(木) 17:49
- >>332
ありがとうございます。嬉しすぎるので泣かせて下さい。
大好きですとか言われちゃうともう…こっちこそ大好きです。
- 348 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/09(日) 09:35
- こんな展開になるとは…毎回ハラハラしながら読ませてもらってます
次回の更新も待ってますのでがんばってください
- 349 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/22(土) 19:18
- 吹く風に一々なびいて、ばたばたと顔にはためくコートがうるさくて邪魔臭い。
視線の先にいる矢口が静かな足取りで、灰色の軍の中に自然に開いた道を歩いてくる。
その後ろに続いているのは、安倍に中澤。
そんな三人の歩く様子を見て、後藤は額ににじんでいた汗が首筋を伝うのを感じた。
吉澤がぎり、と歯軋りして、藤本が一歩、後藤の影に立つように後ろに後ずさる。
一歩一歩、自分達に向かって近づいてくる強大で、圧倒的な力。
心の僅かな隙間に、怯えと諦めが生まれてしまうのはどうしようもない。
しかしそれをなんとか表面上でははね除けて、後藤は顔つきをぐっと改めた。
その瞬間とほぼ同時頃に、カツン、と歯切れ良い音を立てて、
後藤がすぐ下を見下ろせば丁度見えるような場所で、先頭の矢口が足を止める。
ふと。その口元が微かに笑ったのを、後藤は見逃さなかった。
「…あんたはいっつもそうだったよね」
「……いつ、も?」
矢口の言葉に聞き返す声が、少し枯れた。
そのことに気がついたのか、どうなのか。
ほんの少し軽く笑った矢口は、腰に手を当てながら悠長な様子で言う。
「まあ、そんなにいつもってことでもないか。でも、カオリのことがあった後だ。
そんな時にむらっちの情報が都合良く流れてきて、…やるとは思ってたよ」
「…その割には、随分あたしのやったことに手こずってたみたいだけど?」
後藤のわざと皮肉げに染めた口調の言葉に、矢口は少し肩を竦めた。
- 350 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/22(土) 19:18
-
「……そうだね。それはこっちも予想通りにはいかなかった」
その素直な矢口の返答に、後藤は訝しげに眉を寄せる。
「上手くいかなかった理由は三つぐらいかな」指を二本折り畳んでそう続ける矢口は、
悪戯っぽい思惑を込めた目で後藤の方を見上げて、手を頭上に掲げながら、言う。
「一つ。こっちが最初から決め手のつもりで打った手が、
その駒のちょっとした気まぐれでパーになったこと」
矢口の言葉を聞きながら、後藤の頭にふと里田の顔が過った。
あの時取った、埃に紛れて逃げるという手。
確かに奇抜だったとはいえ、里田のような強者を完璧に撒くには不十分すぎた手だ。
しかしあの後、里田やあさみ、みうなは後藤の後を追ってこなかった。
大方裏での組織の考えや策略に関係しているのだろう、と思って
特別不思議には思っていなかったが、それが『気まぐれ』というもの、なのだろうか。
そんなことを考えながら、無言で何も返そうとしない後藤に構わず、
矢口は折っていた指を一つ伸ばした。
「二つ。ごっちんが、思ってたよりも精神的に強くなってたこと」
その二つ目の理由とやらに反応して、後藤が少し顔をあげる。
目の先に収まった矢口の表情はにやにや笑いで、なんだか少し嫌な予感がした。
微かに捕らえた矢口の口元が、身じろぐ。
- 351 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/22(土) 19:19
- 「あたしは、また、サヤカの時みたいにすぐ戻ってくるかと思ってた」
「……ッ」
「あの時みたいに半泣きになってさ。青臭い正義感っつーの?
少しは大人になったと思ってたけど、人が卒業するたびに一々こうやって
組織に反旗翻してちゃ、身が持たないよ。共犯まで取り込んじゃって、まあ。
前は被害が大したことなかったのと、あんたの将来性と年のことも考慮されて
許して貰えたけど、今回はどうだかね。今の内に謝っておいた方がいいんじゃない?」
「……そういう、問題じゃないっ!」
カ、と後藤の頭に一気に血が昇る。
本能に任せ、そのまま矢口の方に飛びかかろうとする直前に、
「ごっちん!」という吉澤の大きな声がかかって、
なんとか足を一歩前に踏み出すだけで思いとどまった。
そうだ、これは矢口の策略。後藤の冷静さを失わせようという策略だ。
ぐぐ、と足下に自然と力が入る。
つま先だけに神経を全集中させて、後藤は耐えた。
「……あたしは、あたしはただ、誰にも消えてほしくないだけだ…!」
- 352 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/22(土) 19:20
- ぎゅ、と閉じられた後藤の口元と顔を見て、矢口はまた肩を竦めた。
後藤が耐え忍んでいるのを感じとって、これ以上言っても無駄だと判断したのか、
はたまた三つ目の理由とやらをあげて、詰めをかけようとしているのか。
少しだけの間を置いて。矢口の頭上に、最後の一本の指だけが残る。
「…三つ目」
静かに響く、凛とした声。
中途半端に開けられた間にさえ、周りの誰も口を開こうとしない。
ただ矢口の言葉が続けられるのを待ち、身動き一つしなかった。
矢口はその全体の様子を一度ちらりと確認してから、
再度口を開こうとして……止めた。
「……いや、その前に。ちょっと、これだけ言っておきたいんだ」
一度一本残した指を取り消すように、矢口は五本の指全てを柔らかく広げ直した。
その視線が真直ぐに捕らえているのは、後藤のすぐ隣に立った、吉澤の顔。
ぎくり、と吉澤がそのことに気がついて、思わず少し後ずさりした。
矢口はそんな様子を一瞥してから、不意にくるりと身を翻して、
後ろに立っていた中澤へ顎の先を向ける。
- 353 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/22(土) 19:21
-
それは、言葉の促しの合図だった。
中澤は矢口に向かって一度こくりと頷いてみせてから、
すっと目を細めて、視線を先ほどの矢口のように、吉澤だけに向け直した。
「吉澤ぁ」
「……はい」
「あんた、後藤の共犯っつうことになってんねんけど、ほんまか」
「…はい」
「それでええんか」
「……ほんとの、ことですから」
中澤の呼び掛けに、吉澤は少し気押される様子を見せながらも、
頑として心を動かさなかった。
こら、無理やな。そんな吉澤を見ながら、中澤は思う。
あいつ、一回決めたら絶対そこから動かへんもん。
普段の豪快なキャラとは全く異なって、
吉澤の本質は過程を大切にして、それだけに結果を何よりも重んじている。
そのことを知っているだけに。
中澤は無駄なことと知りながらも、最後の呼びかけをした。
「…吉澤、今ならあんたの罪は問わん、ゆうたら」
「あたしは!…ごっちんの、味方です」
中澤の言葉をさえぎって、吉澤はそうきっぱりと言い切った。
なんと、まあ。応じないことは分かっていたが、まさか言葉をさえぎられるとは
思っていなかった中澤は、目を丸める。
(…こら、相当やな)
- 354 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/22(土) 19:22
- 矢口の視線が、こちらを向いているのが分かった。
あえてそちらに目をやらずに、けれども小さく中澤が頷いてみせると、
矢口はまた少しの間を置いて、後藤達の方に体ごとの向きを向け直す。
そうして、再度その頭上に掲げる、最後の一本。
「三つ目」
そう言う矢口の声色に、後藤は思わず生唾を飲み込んだ。
ふー、と置かれる、長細いため息の間。
矢口が微かに目を伏せる。周りの目が全て矢口に向けられる。
まるで勿体ぶるかのような間。後藤がその間に耐え切れず、
やっとそれまで伏せていた顔を上げて矢口の方を見ようとすると、
目と目が、合った。
にぃ、と笑って、続ける矢口。
「……スパイが、バカだったことかな」
中澤が耐え切れずに、後ろでぶっと吹き出した。
『スパイ』?
後藤の頭の中で、その言葉の意味が理解されたのと、
背後から物凄い速さで近づいてきた気配に「ごめんね、ごっちん」と
謝罪されたのとでは、どちらが早かったのだろうか。
- 355 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/22(土) 19:23
-
「ごっちん!」
吉澤の声が遅れて聞こえてくるほど、それは。
一瞬だった。
首筋に軽く、それでいて鈍い衝撃が走って、後藤は目の前が真っ白になった。
目眩がして、足がふらつく。なんとか気を保とうとするのに、耐え切れない。
なす術もなく、後藤は重力に従ってドッと地面に倒れ伏した。
「突っ込め!!」
その直後にかけられる、矢口の命令。
ワァ、と灰色の軍団がそれまでの焦れったさを一気に爆発させたかのような勢いで、
後藤達のいるビルの上へと這い上がってくる。階段を駆け登ってくる。
後藤が倒れ、村田がピンと緊張感を張りつめ、柴田が怯え、
そして、吉澤が。後藤のすぐ後ろに立った彼女を信じられないという目で、見た。
- 356 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/22(土) 19:24
- 「恨まないでよ、よっちゃんさん」
そう、憎たらしいほど満面の笑みを浮かべた藤本に。
吉澤は怒るよりも、問いただすよりも、何よりも先に。
極自然な反応で、指先が勝手に一度直した腰元の銃を掴み直すのを感じた。
それをちらりとだけ見て、「打つの?」とでも言わんばかりに腰元に手を当てる藤本。
吉澤と藤本の間の距離は、およそ5メートル。
それは後藤と同じく体術を得意とする藤本の間合いではなく、
銃を使うことを得意とする吉澤の間合いだった。
構えた銃の、引き金を今すぐ引いて。
後藤を担ぎ、柴田と村田の手を引いて逃げ出せば、少しの時間は稼げるかもしれない。
後藤が目覚めれば、なんとか乗り切れるかもしれない。
吉澤は頭がとくに悪いわけではないが、かといって良いと言い切ることもできない。
それに比べればいくらかは頭の良い後藤になら、何かいい案が浮かぶかもしれない…。
そう都合よく行くか、どうなのか。そんなことを考えるよりもまず先に、
吉澤はここを切り抜けるためには、藤本を打たなければならなかった。
何をどうするよりも、ここで逃げ切らなければ全滅するのだ。
藤本を打つ。打って、逃げ出す。間合いは広いが、短い。打てば、確実に当たる。
- 357 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/22(土) 19:25
-
一歩、藤本が近づいた。吉澤の指先が、銃の安全装置を外す。
もう一歩、藤本が足を踏み出す。吉澤の指先が、銃の引き金にかかった。
もう一歩、藤本が…。
「……今打たないと、捕まるよ」
その冷たい声色に、思わずぎくりとした。
引き金にかかった指先が、震えている。
ダメだ、打てない。吉澤はそんな自分の本能の嘆きに気づいた。
藤本が、だって、まさか、藤本が。藤本が裏切るなんて、思ってもいなかったから。
指先の震えは遂に手全体にまで広がり、吉澤は思わず銃を取りこぼしそうになった。
藤本は相変わらずの憎めない笑顔で、そんな吉澤を見つめている。
下から駆け上がってきた灰色の軍団が、バン、と屋上のドアを開けたのが
吉澤の耳にはまるで遠いところで起こっていることのように聞こえた。
また藤本が、一歩近づいてくる。
藤本が、もう一歩。
藤本が、さらにもう一歩…。
- 358 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/22(土) 19:26
-
「ちょっと待った!!」
そして今、完全に間合いに入った藤本が吉澤のみぞおちに向かって
強烈な蹴りを一発決め込もうとした瞬間、
遥か遠い曇り空の彼方から、ゴ、と空気の摩擦音を立てて降ってくる人影が、2つ3つ。
ズダン、と綺麗に着地したその衝撃に、ビル自体が細かく揺れる。
ピュウ、と地上で様子を傍観していた矢口が高い口笛を吹いた。
それに反応したのか、3つの人影の内の一人がまるで何かに答えでもするかのように、
ピュウ、と更に高く綺麗な口笛を吹き返す。
「……どっから降ってきてんだ、あんたらは」
ふと、呆れたような声で、藤本がそう言った。
- 359 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/22(土) 19:27
- その声に答えるように、真ん中の一人が舞い上がった埃に紛れながら振り返る。
「折角ここまで走ってきたんだから、ちょっとぐらい手柄あげさせてよね」
にや、と笑いながらのそんな言葉に、藤本は肩を竦めながらため息をついた。
そんな様子を見ていた吉澤が、不意にはっとして。
それまでずっと続いていた手の震えをなんとか押さえ込んで、改めて構えを取る。
藤本の声に答えた真ん中の長身、里田まいは、
その様子を横目に捕らえて、自らも不適な笑いのまま、すっ、と。
滑らかな様子で拳をあげた。
「…よしことはまともに闘うの、初めてだっけ?」
「……」
里田の声に、無言で返す吉澤。
もはやその顔に余裕など微塵もない。銃を持つ手が、また微かに震え始めた。
その様子を目で一瞥することで確かめてから、
里田は突き出した拳に、さらにぎゅっと、力を込める。
そして、こう言った。
「言っとくけど…」
「あたし、強いよ」
- 360 名前:烏 投稿日:2005/01/22(土) 19:32
- >>348
ハラハラですか…ありがとうございます!
深夜の軽いサスペンスドラマみたいなノリで見守っていて下さると嬉しいです。
さて、そろそろ前半が終わります。あと2、3回ぐらいかな。
スレの容量とかそこらへんのことを改めて考えてみると
どうにも後半は納まりきりそうにありません…うう。大丈夫かな…。
- 361 名前:名無し読者 投稿日:2005/01/22(土) 22:20
- 里田かっこよすぎです!
- 362 名前:マルタちゃん 投稿日:2005/01/24(月) 12:38
- 更新お疲れ様です。
いつも読ませてもらってます。
矢口さんカッコイイですね。
さすがって感じです♪
- 363 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:01
-
村田の周りには、既に二重の灰色の輪ができていた。
身体能力が数段落ちる人間の姿で、それも元々自ら闘うタイプではなかった村田は、
半ば必死にその場その場を器用にくぐり抜ける。
そうすることで実感したことであるが、
どうやら組織は村田を殺そうとは思っていないらしい。
この人数差と、力量差だ。始末しようと思えばすぐにでもできるだろうに、
灰色の軍から伸びてくる手は村田を捕獲しようという思惑しか見えない。
自ら死を望んでいるヤツに組織が手を下すまでもないと思っているのか、
それともこの事件は後藤達が勝手にやったことだから村田に罪はないと
いうことになっていて、村田を保護しようと言う半ば偽善じみた行為の前兆なのか。
とにかく、組織が村田に本気でかかってきていないということが幸いした。
村田は確かに闘うタイプではなかった。腕力にも脚力にも射撃にも自信がないし、
ただ一つ自信があるとすれば、逃げ足の早さくらいだ。
だが、神様は不平等を好まない。
村田は闘うのが苦手な変わりに、敵の行動を先読みしたり、
これから自分がどうすれば逃げ切れるかということをシュミレートしてみたり、
とにかく頭がキレたのだ。だから、早々簡単な見え透いた手で村田は捕まらない。
次々に増えて行く敵勢の中心で、村田は伸びてくる手から身を躱しつつ、
集まりすぎてひしめきあっている灰色の軍を半ばかき分けるようにして進んでいた。
- 364 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:04
- 目指すは、後藤が先ほど貯水タンクの裏に隠した柴田のところだ。
藤本という味方の裏切りがなければ組織は見逃していたかもしれないが、
後藤の隠した人間の存在、それもその場所さえしっかり見ていた藤本が
向こう側についたとなると、もう柴田に組織が気づかないことを祈るだけなどという
か弱い乙女じみた行動のみで終わらせることなど到底できない。
吉澤は戦える。それも後藤と並ぶほどの腕だ。
きっと吉澤もこの場をくぐり抜けてくれる筈。
柴田のところまで、後もう少し。
淡い期待と不安を同時に胸に抱きながらそんなことを思ったその時、
村田は自分の背後に、ある違和感に気がついた。
「……え」
背後に感じる、見知った、オーラ。
一体誰だ。確実に近づいてくる。速い。行動を予測する暇も与えられない。
来る。来た。もう来た。そうだ、この感じは。
咄嗟の判断だった。
足下に転がっていた鉄パイプを掴んで、村田は目前に突き出した。
直後、ガァンとそれに向かって真直ぐに振り降ろされる、一つの脚撃。
- 365 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:05
-
「…ッ」
ビリビリする手元。溜まらず村田が後ろに後ずさろうとすると、
それすらも許さないというように、さらに左手からまた長い脚が飛んできた。
必死の思いでそれを翻した鉄パイプの側面で受けとめて、村田は呟く。
「…マサオ…ッ」
振り返った、先。そこには、大谷の姿があった。
ちらりとだけ村田を見たその大谷の目は、戸惑っているようで、悩んでいるようで。
長い付き合いだ。今大谷が心の中で何を思っているかが手に取るように分かる
村田にも、その目はいささか辛いものがあった。
村田はそうぎゅっと眉根を寄せながら、再度繰り出されてきた大谷の蹴り技を
つい先ほど二度続いた衝撃に耐え切れず、折れ曲がった不様なパイプで受け流す。
「……くっ」
受け流す、と一口に言っても、その言葉から受ける印象のような
小奇麗なものでは到底済まされない。
耐え切れず噛み締めた口の両端から漏れた声をなんとか飲み込んで、
村田は一度体制を立て直すべく、一つ大きく後ろに飛びずさる。
片手を地面に着いて、前屈みに着地する村田。
ざ、とその靴の裏がビルの上に溜まった砂埃を微かに巻き上げたのと同時に、
大谷は難しい顔のまま、自分の片腕をヒュンッと勢いづけて振り降ろした。
- 366 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:09
-
「……帰ってこなかった、理由。人間を殺したくない、から、だよね」
そうして、不意に動いた大谷の口元からこぼれる言葉に、村田は少し目を見開く。
そんな村田の表情を見とめて、ふとおかしそうに、どこか自嘲気味に笑んだ大谷は、
「あれだけ一緒にいれば、分かるよ」と続けた。
「……そのことは」
「ひとみんも分かってた」
気まずそうに目を伏せながら呟いた村田の問いかけをさえぎって、大谷は答える。
そんな大谷の様子を盗み見ながら、村田は思った。
(…もしかしたら人間界に行く前から、こうなること、わかってたのかもなあ…)
大谷と斉藤の、二人には。
一度そういう考えを持ってみると、試験を受けることを先延ばしにしていた村田が
矢口や中澤に昇進試験を受けることを進められたその日に、隣にいた二人が
心なしか渋い顔をしていたこと、何故かその提案に同意も拒絶も見せなかったこと、
その全てが、今ここでの伏線のようにも思えてくる。
「…やっぱ、伊達に腐れ縁してないよね、私ら」
村田がちゃかすような雰囲気でそんな言葉を口にすると、大谷は少し笑った。
- 367 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:10
- 「…人間界、楽しかった?」
「うん、凄く。大学っていうのがあってさ、毎日通っちゃった」
「好きな人とかできたの?」
「ん?んー…いやあ、それについてはノーコメントで」
「うわ、ごまかすの反対!」
「アハハ、…そうだな、皆いい人だったから、皆好きだった、かな」
「…あー、やっぱりそう答えた」
「え」
「だってむらっち博愛主義だもん」
「……それ、褒め言葉として受け取っとく」
にこー、と満面の笑顔を浮かべた村田に、少し。大谷の両眉が下がる。
「……やっぱり、組織には戻らないつもり?」
急にトーンの落ちた声で囁かれるその問い掛けに、村田はまた目線を地面に落とした。
「……組織が、人間を殺すっていうなら」
「……人間を殺さないと、私らが生きられないってこと、分かってて言ってる?」
「分かってるから言ってるんだよ」
はっきりとした声で響いた返事。
言った張本人の村田はばっと顔をあげたまま口元をぎゅっと締め切って、
大谷はその言葉を聞き、少し前の村田と同じように目線を地面に落とす。
「……そっか」
「……うん」
相づちと、それに対する一言限りの返事は、すぐに消えた。
- 368 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:18
- チク、チク、と、誰かがしている時計の針が動く音が微かにする。
周りを囲んでいる灰色。目の前にいる大谷。誰のものだろう、とぼんやり考えてから、
すぐにそれが自分の腕時計の音だということに気がついた。
「……むらっち」
「……なに」
顔をあげている村田にあわせるように、顔を伏せていた大谷が、ふと前を見た。
その表情を見て。相変わらずだ、と村田は思う。
(…絶対やるって決めたら、やり通すんだよね)
変なところで頑固な大谷の見せた引き締まった顔つきに、肩が勝手に竦まった。
「ちょっとの間だけ、…我慢して」
トン、トン、と、足でリズムを作り出した大谷の腕が、目の前にすっと構えられる。
突き出された拳。それを見て、村田は考える。当たったら痛いかな、痛いだろうなあ。
大谷の持ち味はパワーとスピード、両方のバランスだ。
最初に繰り出される技を自分が避けきれる確率、30%。
村田はぼうっとしたままそんなことを考えて、ふと、手に持った鉄パイプを放り投げた。
- 369 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:19
-
- 370 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:20
-
どん、と一つ小さくこもった音がして。
灰色の輪の中に、たった一つ、高い背のおかげで辛うじて見え隠れしていた
村田の明るい茶色に染まった頭が、ふっと消えた。
その瞬間、一人隠れていた柴田は急に寒気に襲われた。
一番すぐ近くまで来ていた村田の姿が見えなくなったことで、突然実感する、不安。
柴田の全身に緊張が張り詰め、自然と動悸が激しくなって、呼吸が荒くなる。
(…大丈夫、大、丈夫だ……)
そうぎゅっと胸元を手で握りながら、柴田は額にわいた汗を拭った。
先ほどから思うことは、ここをどう切り抜けていいかさえ分からないのに
意味も何もなく、ただ自分で自分を励ます言葉のみ。
大丈夫大丈夫と、一体何が大丈夫だというのか。それさえもよく分かっていない。
だが、自身ででも自分を支えていなければ、
こうして貯水タンクの裏で立っていることさえ柴田には難しかった。
足ががくがく震えて、指先の感覚がない。
「……むらっち」と、歯と歯が噛み合わず、震える口元をなんとか動かしながら
そう呟こうとして、柴田はすぐに言い直した。
「……めぐちゃん」
掠れた声が、喉の乾きを物語る。
いつもなら、そんな柴田の声にはいはい、とでも、なーに、とでも、
いつもの飄々とした様子で返事をしてくれる筈の村田の声は、聞こえない。
その染め直したばかりの綺麗な茶色は、灰色の中で再度浮かんでくることはなかった。
- 371 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:24
- そんな追い詰められた状況で、ふと頭の片隅に浮かぶ、嫌な予感。
「…めぐちゃん」
今度は先ほどよりも少しはっきりした声で、もう一度呟いた。
それでもやはり返らない、返事。見えない、姿。
予感は当たってほしくない時に限って当たるものだ。…それが嫌なものなら、なおさら。
柴田は僅かに口の中で溜まった唾を全て飲み込んで、バ、と
体全体を吉澤や後藤、藤本が立っていた場所に向ける。
うつ伏せに倒れていた後藤の体は藤本が肩に担ぎ上げ、
その両端を灰色の二人組が支えていた。
先ほどまで一緒にいた吉澤の姿はそこには見えない。
そのことにほんの少しの安堵も浮かんだが、直後、藤本達のすぐ隣に
長身の一人がおもむろに並び立ち、柴田はその背中を見てぐっと眉根を寄せた。
さらさら揺れる、金色の髪の毛。
「よっすぃ…」
後藤も、村田も、吉澤も。
藤本が自分達を裏切ったところから、急に歯車が噛み合わなくなり始めたようだ。
今や守ってくれるモノ、人物、何もない。
- 372 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:34
- そんな状況を一気に飲み込まざるをえない状況に追い込まれて、
柴田はついにがくがく震える膝に耐え切れず、その場にぺたんと座り込んだ。
ぐらり、世界が回る。
今、身の回りに起こっている余りにも非現実的な現実。
もしかしたら夢なのかもしれない。
こんな状況、夢だと言い切ってしまった方がある意味現実的だ。
だが、柴田の本能はきっぱりとそれを否定していた。
試しに頬をつねってみる。
柴田は前から頬をつねって夢かどうか確かめるという方法は全く信用していなかった。
夢というのは、何が起こるか分からないのが夢だ。
もしかしたら頬をつねって痛いと感じる夢だってあるかもしれない。
そんな理論を大学に行く電車途中に考えて、自分で自分の考えに納得してみたものだが。
つねってみた頬は、やはり痛くて。ほんの少し赤らんだ。
そんな柴田の目の先にいたのは、藤本と灰色の三人組。
それまで吉澤や後藤を担いだままなにやら話し込んでいたようだが、
柴田がはっと我に返るとほぼ同時に。
くるりと藤本のつま先が90度回転して、柴田のいる方向を真直ぐに向いた。
その指先が、ゆっくりとあがり。
後ろにいる三人組に柴田のいる場所を教えるかのように…いや、実際そうなのだろう。
柴田のいる貯水タンクを真直ぐに、藤本の人さし指は突き刺した。
(…私も)
捕まえられるのかな。
そう考えて、自然と吉澤や後藤の方に目が向いてしまう。
- 373 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:35
- しかし。そうすぐに柴田は首を振った。
後藤達は元はあちらの仲間で、柴田はただの人間、という決定的な違いがある。
捕まえられるだけならまだいい。ことによれば---------
(殺されるかもしれない)
一度そう考えてみて、その考えに柴田は変に納得してしまった。
そう、灰色の彼女らは人間を皆殺しにするという計画を持っていると後藤は言っていた。
となると、今柴田一人を殺しても痛くも痒くも、何の影響も受けないということだ。
またそこまで考えて。柴田は愕然とするのを通り越して、一気に冷静になった。
人間逃げ場のないところまで追い詰められると反対に度胸が座るものだ。
「…なんだ」
そうなってしまうと、呆気ないものだった。思わず呟く。
それまで全く感覚のなかった手足の温度が徐々に戻ってきて、
柴田がなんとなしに呟いた言葉は、柴田の内にあった緊張や不安などを
まとめてふわりと吐き出した。
膝はもう震えない。
ゆっくりと貯水タンクを支えに立ち上がり、
柴田はすっと目を細めながら、藤本達がこちらに走ってくるのを見守った。
人間の自分が、灰色の彼女らに勝てるだろうか。
答えるまでもない。勝率は0に近いどころではなく、0だ。
なら、今自分はどういう行動をとればいい。どういう行動が最善だ。
- 374 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:36
-
『…本当は、人間に、私達は姿を見られちゃいけないんだ』
ふと、村田の言葉が脳裏に甦った。
…そうだ、分かった。
柴田は先ほどの藤本と同じようにつま先を90度回転させて、
高いビルの屋上から地上を見下ろす。
今、柴田が取るべき行動。
それは無謀を承知で灰色の彼女ら相手に闘うことではなく、
かといって自分一人で逃げ出すということでもなく。
「…他の、人間に」
助けを求めること。
それしかない。
今すぐこのビルから降りて、片っ端から人間達に真実を伝えていくんだ。
組織が元々恐れていたのは、柴田のように『見える人間』のこの行動だ。
『見える人間』が組織の存在を話し、そしてその話を
本当のこととして受け止める人間達が増加することを恐れていた。
となれば、この策とも呼べない幼稚な行動ほど組織に効くものはない。
どれほどの人間が柴田の話を信じてくれるかは分からない。
だが、組織に対抗出来るたった一つの行動、そしてこれ以上にはない行動を
起こさずに諦めてしまうということだけはしてはいけない。
- 375 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:38
- 幸い、組織の人手全部がビルの上に這い上がって集まってきてしまっているので、
先ほどまで灰色が密集していたビルの周りはすかすかだ。
後藤や吉澤、村田を助けるためにも。
意志は、固まった。
バッと貯水タンクの影から飛び出して、ビルの上を走り出す。
灰色の彼女らが突然飛び出してきた一人の人間にぽかんとした顔をして、
お互いに顔を見合わせた。
その間をジクザグに通りぬけて、柴田は走る。
ビルの屋上から地上に飛び下りるなどという超人芸のできない柴田が目指すのは、
もちろん下り階段に続く使用扉だ。
自分の背後で、それまで割合ゆっくりとした速度で追いかけてきていた
藤本達の駆け足が全速力に切り替わったことを気配だけでなんとか悟った。
(追いつかれてたまるか!)
そう、柴田もさらにぐんっとスピードをあげる。足にはそれなりに自信があった。
藤本達の速さと柴田の速さでは正に月とスッポン以上の差ということは承知していたが、
何分それ以前に藤本達と柴田の間には距離というハンデがある。
たった一人の、仲間を、ゆくゆくは人間を助けるための全力疾走。
藤本が柴田に追いつくのが先か、
柴田が扉を開くのが先か。
前屈みに身を乗り出した柴田の手が、今まさにドアノブを回して扉を開いた。
その時に。
- 376 名前:恨まないでよ、よっちゃんさん 投稿日:2005/01/29(土) 13:39
-
「はい、そこまで」
急に、目の前にかざされる誰かの手。
そのままぐっと額に手の平を当てられて、柴田は突然の出来事に
目を回しながらもその手の主を視界に捕らえた。
吉澤と同じような明るみの、金髪。
耳もとで少し揺れる小さなピアス。
背は小さい。口元は生意気そうに笑んでいる。
遅れてきた三人組の、先頭に立っていた女。
「……あ」
(………そうだ…確か…名前は……)
掠れた声を出しながら、やっとのことでそこまで考えた柴田の意識は、
その人の名前を思い出せないまま。結局ドアを閉めることなく、ぷつりと途切れた。
- 377 名前:烏 投稿日:2005/01/29(土) 13:49
- >>361
本物の里田さんは…マイッチングとかやってましたけどね。
>>362
いつもですか!ありがとうございます。
矢口さんは個人的に好きな人なので、良いところで突っ張ってもらってます。
更新2回分をまとめて更新してみました。
こんな中途半端なところで一応前半終了です。
後半は今のところ話の主要人物も前半と半分ぐらいは変わる予定…ですが、
これからも是非おつき合いお願い致します。
- 378 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 15:04
-
- 379 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 15:05
-
「なんにせよ、消してしまうのが一番だ」
「しかし、まだこちらは万全の状態ではないのだが」
「向こうの警察とやらに色々と探り回られるのは面倒だな」
「そんなこと、こいつに関する記憶を消してしまえば済むことではないか」
「あのチカラはむやみやたらに使ってよいものではないんだぞ」
「だが、裏を返せばデメリットはそれだけで済むということだ」
「……それにしても…」
「…まあ、いい。とにかく、多数決を取って決めようじゃないか」
「ああ、多数決…そうだな、それが一番いい」
「多数決ほど公平な方法はない」
「よし、それでは取るぞ」
「消滅させる方に賛成のもの」
「…生きて返す方に賛成のもの」
「……それでは、この人間は」
- 380 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 15:06
-
- 381 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 15:07
-
ちゅんちゅん、とさえずる雀の鳴き声に反応して目が覚めた。
布団の中の生温い温度を実感しながら、2、3秒。空中を見つめてぼーっとする。
それから不意に。がばりと掛け布団を手に握って起き上がった柴田は、
すぐ隣に転がっていた目覚まし時計を見て、仰天した。
「…今日…昼から、だったよね…」
とっていた講義の開始時間は、午後一時三十分。
ただ今の時刻は、午後三時三十分。
もはや、走ってどうにかなる限界を超えている。
あーあ、やっちゃった。そんなことを理解した後、ふとやってくる自己嫌悪。
しかし、目が覚めなかったのでは仕方がない。
よく顔を出している講義だったので、まさか単位を落とすことはない、はずだ。
そうして簡単に開き直った柴田は、ふわあ、と呑気に一つ欠伸を落とすと、
のそのそとした動きで布団の中から抜け出した。
朝の早い共働きの両親がテーブルの上に残した今朝の朝食は、
右からこんがり焼けたトースト、苺のジャム、コーンフレーク、それ用の牛乳。
正にこれぞ朝食、といったそのメニューは、
結局柴田の胃袋には三時のオヤツとして受け入れられた。
- 382 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 15:08
-
スプーンで掬ったコーンフレークの最後の一口をぱくりと口に含んで、
柴田はがたりと席を立ちながら、なんとなしに着替えを始める。
ちらりと横目に見た時計は先ほどよりも少し進んで、午後三時四十五分。
今日一日は大学に行って適当に時間を潰すつもりだった暇人・柴田は、
そこらへんに転がっていたバッグを一つその手に引っ付かみ、
履きこみすぎてボロボロになりかけてさえいる運動靴を素早く履いて、
そうして扉を開けて外に出た。
どうせ、特にすることもなかった一日だ。
布団の中でずっとまどろんでいてもよかったが、
一度起きて朝食を口にしてしまうと、どうにも頭がその気にならない。
とくにブルジョワといったわけではないが、
割と礼儀の正しい育ちをしてきた柴田はそんなこんなでううんと伸びをして、
安い家賃を象徴するかのようなカビ臭い階段をテンポ良く弾んで降りた。
片手に持って開いた携帯を操作して、その画面にぷかりと
これから向かうつもりのところに住んでいる人物の名前を浮かべる。
親友の石川は最近付き合いがどうにも悪い。が、
頭の良いくせに暇人を気取っているコイツなら、
今日も暇人・柴田に付き合って遊んでくれることだろう。
- 383 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 15:08
- 階段の残りはあと三段。
柴田はその内の一段を普通に降りて、もう一段を足に弾みをつけて降りて、
最後の一段はひょいっと軽く跳び越してそのまま地面に着地した。
さて、行くか。
踏み締めた大地の砂が、そんな柴田の決意を促すように、じゃり、と音を立てた。
住まいはボロいが、特別生活費に困っているというわけでもない。
ヤツの家には4、5個存在する交通手段、どれを選択しても着くには着ける距離だ。
このアパートからは地下鉄の駅が一番近い。そのことを折角思い出したのだから
電車で行ってもよかったが、それには電車賃がかかるのでやめた。柴田はケチだった。
車は持っていない。小さいスクーターなら持っているが、つい最近壊れたばかりだ。
基本的に徒歩という面倒な方法を好まない柴田は、4、5個あった選択肢一つ一つを
そうして考えては消していき、最終的にはそれを何度も繰り返すことで、
何の変哲もない、極平凡な、自転車という交通手段に収まった。
この間どこかで盗まれて、それからすぐに買い換えた新品の自転車は、
アパートの裏に回りこんだところに鍵をかけて置いてある。
ボタンを4個押して開く型の鍵の番号を、8942だったか、1192だったかと
うんうん悩みながら歩いて裏まで回った柴田は、
いざ自分の自転車の鍵に手をかけて、やっと頭の中に番号を思い起こした。
- 384 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 17:11
- 「…1582」
さようなら、織田信長。
アパートの住人全員がこの狭い駐輪場に自転車を止めるものだから、
一カ月以上も使わず取り出そうともしていなかった柴田の自転車は、
ギチギチのガチガチに密集した自転車達に、いっそ泣きたくなるほど取り囲まれていた。
そこをうんうん、今度は唸りながら抜け出そうとするのだけれど、
まるで先に帰ろうとする友達を引き止める子供のような、裏切り者を逃さんとする悪い組織のような、
全くその輪を乱そうとしない自転車の軍隊に少しばかりムカリと来て、
一気に場を突き抜けようと、自転車を腕にしっかり抱え込んだのが、まずかった。
「あ」
と呟いた時にはもう遅い。
ガン、と軽くそれでいて鈍い音をたてて衝突した柴田の自転車と、
隣の隣の隣に住んでいるタカハシさんの自転車は、当然のようにぐらりと揺れて。
柴田の自転車の方は持ち主である柴田がそこに抱え込んでいるのだから、
幸い壊れるも倒れるもしなかった。が、タカハシさんちのカレは、そうもいかない。
重力という世界の大原則に素直すぎるまでに従って、
そのグリーンに光る今時オシャレな自転車はガチャン、と一言漏らした後、
黒いタイヤの更に先に飛び出たシルバーの荷物籠を筆頭にして、横倒しに傾いた。
柴田は咄嗟に手を伸ばす。このままこれを見逃せばどうなるか、
その嫌な想像だけが脳に浮かび、反射的に飛び出した行動だった。
- 385 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 17:12
- だが、その指先は空しく空を掴む。
タカハシさんは一見細身なボディで隣に立っていたスズキさんにアタックし、
スズキさんのがっしりしたボディはそのまた隣のサトウさんにタックルした。
サトウさんからタナカさん、タナカさんからサカモトさん、サカモトさんからヨシダさん。
まあ、いわゆる、ドミノ倒しというやつか。
自転車達が折り重なって倒れる聞き苦しい騒音が十秒間ほどその場に鳴り響き、
十秒が過ぎ去ってからは、シーン、と。
いっそ不気味に思えるようさえある静けさを確認して、
柴田はそろそろと耳もとに当てていた手を外しながら、思わずぽつりと呟いた。
「…やばい」
やってしまった。
狭いのがいらない自慢のこの駐輪場、他人がこのドミノ倒しを
飽きもせず何世代も繰り替えしているのは、よくこの目で見ていたのに。油断していた。
一瞬で襲い掛かってきた後悔に耐えながら、柴田はふいに、
そろそろと顔を傾けて、ドミノ倒しに巻き込まれた自転車達の方へ目をやった。
こうしてざっと見ただけでも、およそ30体。
地面にその身を倒れ伏して、カラカラと無感情なタイヤを回している数が、30体。
思わず、ため息だって口から飛び出したくなるというものだ。
柴田は片手に持っていた携帯電話を静かにズボンのポケットにしまいこみ、
とにかくこのまま逃げてしまうわけにもいかないと、
取りあえずは一番上に倒れているタカハシさんを引き起こす。
引き起こした時に勢いあまって反対側の列を倒してしまわないように気をつけながら、
続いてスズキさん、サトウさん、その他もろもろをきちんと立てて、止めた。
- 386 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 17:13
- 少しの間、その作業を繰り返し繰り返し、機械になったつもりでやり続けていたら、
20体ほどを過ぎた頃だろうか。先ほどまでは確かに見なかった人影が、
ほぼ30体目付近、つまりはドミノの終わり付近で座り込んでいるのを見つけて、
柴田は慌ててヒラヤマさんのレッドボディを助け起こしながら、大きめの声を出す。
「あ、すみません、あたし、自転車全部倒しちゃって…」
「……」
「あの、もうちょっとでそこまで起こしますんで…ご迷惑おかけします」
「……」
返答、なし。
もしや今急いでたりして、自転車が必要だったりして、それで怒ってたりしてるのかと
思ったりして、柴田はおよそ23体目になるヨシハラさんを立てながら、その、
柴田からは顔や表情がよく見えない人をじっと見つめた。
少し吹いている風に揺れる髪は、ちょっと深みのある綺麗な茶色。
しゃがみ込んで、顔をあげようとさえしないその人は一体なにを考えているのか。
相手は座ってこちらは立っているわけだから、自然と見下ろす形になってしまう柴田は、
少し失礼かな、とそんなことを思いながらも、手はきっちりと。26体目のタカギさんを立ち上げた。
そして、27体目。
「……いいよ」
「え」
「自分で立てる」
そういう声は、取り立てて低いといったわけでも、高いといったわけでもなかった。
しかし、それが反対に感情を読みにくい。
おもむろに立ち上がり、無言で自分の自転車を立てるその人の背中を、
柴田はやはり怒っているのかと心配げな面持ちで見つめていたが、
その視界にふと、その人が立てた自転車の車輪部分にマジックで書かれた文字を捉えた。
- 387 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 17:14
- 「…フジ、モトさん…」
柴田が思わず判読してしまった声に、びくりとフジモトの肩が揺れた。
少し、ほんの少し息をついて気持ちを落ち着かせてでもいるかのような間を置いて、
そうしてから、ゆっくりと。フジモトは振り返る。
やっと柴田の方を見たフジモトの目は、鋭かった。
「……な、んで、ミキの名前…」
「え。…あ、いや、そこに…書いてあるから」
少し気押される形になりつつも、しどろもどろに答えて、
最後になんとなく「すみません」と謝ってしまう柴田の言葉に、
フジモトはその時何か少し言いかけていた口を、むっと噤んだ。
それから自分のライトブルーの自転車を目だけでちらりと一瞥して、
ふと。何故かは分からないが、どこか安心したかのように表情をふ、と緩める。
その表情と動作に少しの違和感を感じて、柴田は少し首を傾げた。
だがフジモトのその表情は、まさにその後一瞬で元の不機嫌そうな顔へ切り替わる。
何故だろう。まるでフジモトは何かに慌てているようだ。
喉に魚の小骨が刺さってしまったような、そんなどうにも落ち着かない感覚。
フジモトの少しキツメで、しかし誰が見ても美人と答えるであろうその顔は、
見たことがないはずなのに、見たことのあるような、それどころか、
昔どこかで会っていたかのような錯覚に陥らせた。
とくに意識はしていなかったものの、柴田は思わずフジモトを凝視してしまう。
それはこれだけ凝視されればいくら鈍い人間でも
気配で気づくであろうほどの見つめ方だったというのに、
やはりフジモトは柴田の方を見ようともしなかった。
- 388 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 17:15
-
そうして、少し流れたなんともいえない沈黙の中。
フジモトは乱暴な手つきでがちゃがちゃと自分の自転車だけをそこから取り出し、
ほんの少し迷った後、残っていた三体の自転車を、柴田が「あ…え、あ」と
よく分からない呟きをあげてあせっている間にてきぱきと立て直してから、
「それじゃ、急いでますンで」
と、一言。これ以上ない無愛想な顔と声で、ひらりと自転車のサドルに跨がった。
「あ」
と思わず漏らした柴田の呟きにも、振り返らない。
さっさとこの場を立ち去ろうとするフジモトの首に巻かれた厚いマフラーが、
せっかく立て直した駐輪場の自転車全てを倒しかねない向かい風になびき、はためいた。
ジャッと擦り付ける音がして、フジモトの足がペダルにかかる。
どうやら本当にこのまま立ち去ってしまうつもりのようだ、そう考えてから、
いやこの場合本当も嘘もないのだけれど、と思った柴田は、
特によく何かを考えもせず、ただ単に、反射的に、本能的に、大きく声を張り上げた。
「ちょっと待って下さい!」
ぴくり、フジモトのハンドルにかかった手が反応して、
瞬時にいつでもブレーキを握れるよう構えていた手の力が、ふと緩む。
一連のフジモトの行動で、ほんの少し離れてしまった距離を埋めるように
走ってライトブルーの自転車の隣に並んだ柴田は、少し荒くなった息をおさえながら、
おそるおそる、といったようにフジモトの顔を見上げた。
その時、柴田は全く予期していなかったのだけれど、フジモトも柴田をじっと見ていた。
怪訝そうに、どこか後ろめたさを感じさせるような、微妙としかいえない表情で。
- 389 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 17:15
- 必然的に、目が出会う。
柴田は目を逸らさない。フジモトは目を逸らせなかった。
あ、思い出した。
そんなフジモトの顔を見て、突然。
柴田の頭に、一つのことが、ぽかんと浮かんだ。
…そうだ、この人、もしかして。
いや、もしかしてじゃない、多分、絶対そうだ。
フジモトの顔を見た瞬間から感じていた違和感、それが今さっぱりと、ぬぐい去られた。
小骨の取れた喉を鳴らして、柴田はその確実なる真実を確かめようと、声を出す。
「あなた…その、」
「……」
「もしかして……」
柴田が、そこまで途切れ途切れに、曖昧としかいえない言葉を続けると、
不意に、フジモトの顔が何かを覚悟するかのようにくしゃりと歪んだ。
それを見て、柴田は自分の記憶の信憑性がさらに確実になったような気がした。
もう、間違いない。
そうだこの人、あの時、あの時自分の…
「ハンカチ」
「……え?」
「ハンカチ、拾ってくれましたよね」
一気に不思議そうな顔をするフジモトに、柴田はほら、と自分のポケットから
白い、綺麗な無地のハンカチをひらりと取り出してみせた。
- 390 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 17:16
- 風に緩やかになびくそれを指で摘み、フジモトの目の前で掲げて広げる。
それまでどこか拍子抜けしたかのようにきょとんとした顔をしていたフジモトは、
そのハンカチを見て、難しい顔をすること、2、3秒。
「ああ」と不意に声を漏らして、少しの間を置いてから、その次に「はい」と頷いた。
その頷きを見届けて、やっぱり、と柴田は笑顔を浮かべる。
「あの時はありがとうございました。その、これ、母から贈ってもらったもので」
「…ああ、いえ…別に、ミキは降ってきたのをなんとなく取っただけですし」
「フジモトさんがなんとなくしたことでも、私にはたいしたことなんです」
厳しくて、でも大好きだった親からの贈り物。
家族を何よりも大事とする今どき珍しい親孝行な性格であった柴田は、
そう言うとにこりと笑って、小さく目を伏せて軽く一礼した。
あの時、フジモトにハンカチを拾ってもらったあの時は、
なにやらフジモトがとても急いでいたようだったので引き止めるわけにもいかず、
そのまま立ち去って行く背中をただ見守り、それで済ましてしまった。
そのことがそれからずっと気掛かりだったのだ。
気掛かりだったのは気掛かりだったのだけれど、
あの時はフジモトがとても気まずそうに、一刻も早く立ち去りたそうに
アパートの出入口の方をちらちらと振り返っていたので、ろくに顔さえ見ていない。
見ていないということはイコール、顔を覚られなかった、ということに繋がるので、
そのなんとなくクールそうな雰囲気と、なんとなく素っ気無い言葉遣いのみしか
その人を見つける手がかりがなかったのであるが、まさかこんなところで会えるとは。
- 391 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 17:18
- 特に何かを言うわけでもなく、口をもごもごとさせているフジモトを改めて見上げる。
この現状。柴田家礼儀作法を重んじるのなら、
助けてもらった人には助けてもらった分のお礼を返さねばならないことになっているが、
フジモトは駐輪場に自転車をわざわざ取りにきていて、
それに一度「急いでいる」とはっきり口にしている。
見るからにこの後予定のありそうなフジモトを今ここで引き止めるのは、
礼儀に習ったようでそれに反するというものだ。
しかしこのまま別れてしまうと、次に会えるのはいつになるか分かったものではない。
このアパート、古臭い割には部屋数が多く、住人もそれなりなのである。
となると、だ。
柴田はもう一度自分のポケットに手を突っ込んで一枚のメモ用紙を取り出すと、
新しく増えたもので、一見マジックのキーホルダーに見えるものの、
ちゃんとペンとして使えるという携帯ストラップペンを携帯電話から取り外し、
フジモトの手に渡した。
「……えー、と」
少し戸惑ったようにペンを持ちながら呟くフジモトに、柴田はたたみ掛ける。
「あの、お礼がしたいんです。お暇な時間と、部屋を教えてもらえせんか」
「……いや、いいですよお礼なんて。ほんと、たいしたことじゃないし…」
「いえ!私、礼儀だけはきちんとしろって言われてるんです。
私から礼儀とったら何も残りませんから」
- 392 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 17:18
- 自分で言って自分で軽く傷つきながら、柴田はとにかくお願いします、と
フジモトを促すように眉根を寄せる。
本当に謙遜しているのか、それともただ単に面倒だからなのかはしらないが。
フジモトはそれから何度も柴田と自分の手元の用紙とを目で行き来したものの、
結局最後は押し負けるような形になり、手の平の上でペンを走らせた。
「…名前は、藤本美貴。今日の夕方、夜なら空いてます」
すっと紙を差し出しながらそういう藤本の顔は、少し複雑そうだったが。
安定しない手の平という土台の上で書かれた達筆と丸文字の丁度中間ぐらいの文字は
少し歪で、しかしきちんと601、と、書いた主の部屋番号を示してくれていた。
受け取って、ありがとうございます、と柴田はもう一度言う。
藤本は小さく肩を竦めて答えた。
- 393 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/12(土) 17:22
-
- 394 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/23(水) 09:11
- これからどうなるんだろう。
なんか下手に何か言ったら駄目なような気がしてレスできませんでしたが、静かに更新待ってます。
- 395 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/25(金) 20:29
-
「ふむ」
下り坂。勝手に回り続けるペダルを無視して、柴田は思っていた。
アパートの藤本美貴さん。
今までに全く面識はなかったはずだけれど、
あの表情や態度から押して測るに、どうやら自分は嫌われているらしい。
他人に嫌われて気分のいい人間などいるわけがない。が、しかし。
あちらが嫌だというのなら、今日訪ねる時にでも
もうこれからは会いにきませんから、とでも言っておこう。
ガッ、と自転車のタイヤの先が小石を跳ね飛ばした音がして、
柴田は反射的に目でその軌道を追いながら、十字路の角を右で曲がる。
吹き付けてくる向かい風はやはり中々の強さで、
あの駐輪場は今頃どうなっているのだろうかと思わず考えてしまった。
考えてみた結果、きっと半分は御陀仏だろうという結論がすぐに出て、
そんな不吉な予感を胸に抱えながら、柴田はそうしてすぐに見えてきた
曇り空の下にぽつんと立っているマンションを目に映す。
その姿形、ざっと見るだけでも柴田のアパートよりかは幾分かマシであるが、
やはりヤツだってどこぞの令嬢といったわけではない。
大学生という生き物は大抵が貧乏なのだ。
そう思わないとやっていけない世の中に、柴田ははーっとため息をついた。
次に待ち構えていた角をもう一度右に曲がって通り抜け、
その直後に姿を現した横断歩道前で、柴田はブレーキをぐっと握った。
キキキ、と少しだけ聞きたくない音に分類される音を鳴らしながら、
柴田の自転車は割合緩やかな速度で止まる。
- 396 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/25(金) 20:30
- すぐ目の前で光る、赤信号。
この歩道さえ乗り切ってしまえば、ヤツの、村田のマンションはすぐそこなのに。
焦れったい信号待ちをしている間に、空からぽつぽつと小雨が降ってきた。
柴田は靴の底でとんとんと落ち着きなくコンクリートの地面を叩く。
いつものことだが、この信号はどうも赤と青の振り分けが不公平だと思う。
中々青に切り替わらない信号に、柴田が暇を持て余して自転車のハンドルに
上体を預けるような格好でぼうっと意識を放浪させていると、ふと、耳に声が聴こえた。
「おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ?」
ん、と思って、声のする斜め後ろを振り返る。
そこにはピンクの傘と水色の傘が横に並んで、雨の中、どうしても暗くなってしまう
辺りの風景に、その二つの傘だけは明るく浮き上がって見えた。
その傘からはみ出た制服は少し灰色がかった紺色。
ところどころにあるラインや模様から察するに、どうやら自分の後輩のようだ。
一口に後輩とはいっても、もう柴田が高校を卒業してから三年ほどたっているので
柴田が知っている後輩、もしくは柴田のことを知っている後輩は全員卒業してしまって、
もう一人も学校に残っていないということになるのだが。
時代の流れは早いなあ。
ついこの間まで自分が高校生だった気がするのに、と
柴田は少し笑ってから、振り返った首を正して再度自転車によりかかった。
そんな柴田に全く気がつくことなく、話を続ける後輩達。
- 397 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/25(金) 20:30
- 「見た見たゆうても、現にキレイなまんまであったやろお」
「それはだって、さあ…」
「夢でもみたんやない?」
「ええ、それにしてはすごいリアルだったんだけどなあ」
むう、とピンクの方が納得いかないような声を出した。
それをなだめるような水色は、ひょいっと肩を竦めているような調子の声で、続ける。
「時々あるで、そういうこと。現実と区別できへんようになんのよ」
「…むー」
訛りが抜けていない特徴的な言葉に、
今一つ納得できていないような声を出したピンクは、
しばらくしてから柴田の背後で、一つ。大きな白い息の塊を豪快に吐き出した。
赤い信号機の向こう側にあった車用信号機が、ふと黄色に切り替わり、やがて赤になる。
ということは、もうすぐ歩行者用の信号が青に切り替わると言うことだ。
そのことを素早く見取って確かめた柴田は自転車のペダルにぐっと足をかけ、
すぐにでも走り出せるような体制になった。
信号が黄色の時点でなんとか通ることができた軽乗用車が一台、
足下に溜まってきている雨水の小さな水たまりをジャッとばらまいていきながら
横断歩道を真直ぐに通り過ぎた。
その後方に位置していた大型のトラックは運悪く赤信号に引っかかり、
もう一度信号が青になるのを待ちぼうけするべく、のろのろとした走りで
歩道のすぐそばに引かれたラインの前で、タイヤを止める。
- 398 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/02/25(金) 20:31
-
そうして、やっとだ。
三分ほど前からずっと待ちに待っていた緑のような青色が、
やたらと目に立つ赤を掻き消して信号機を乗っ取った。
それを見るなり「うし」と一声、自分に気合をいれた柴田は、
段々と本格的になってきた雨の中、一分一秒も早く村田のマンションへ辿り着くべく、
その場で信号が変わるのを待っていた誰よりも先に、
ゼブラ配色の横断歩道の上を猛スピードの自転車で突っ切って行く。
少ししてから、その後方で柴田を追うように横断歩道へ降り立った
ピンクと水色の傘達が、くるくると回りながらその後小さく呟いた会話の一部分も、
雨音でいっぱいだった柴田の耳には聴き掴むことができなかった。
「でもさあ、やっぱりあそこのマンションのあの部屋、つい最近火事で燃えたような気がするんだけど」
「だから亜弥ちゃん、夢でもみたんやって…」
- 399 名前:烏 投稿日:2005/02/25(金) 20:38
- >>394
のっそり更新ですみません。
展開ものっそりですがおつき合いよろしくお願いします…。
- 400 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:23
-
- 401 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:24
-
関係者以外立ち入り禁止、と書かれたマンションの入口を見ると、
どうにもいつも不思議に思ってしまう。
関係者とは一体どこまでが関係者であって、どこからが関係者でないのか。
例えば、そこの住人はもちろん関係者だ。管理人、大家、親族も関係者。
少し幅を広げれば、住人の友人も関係者である。むしろこれは関係者でないと困る。
もし住人の友人が関係者ではないというのならば、
ここにこうして柴田が立っていることは法律だか規則だか規制だかしらないが、
とにかく誰かの定めたこの決まり事に反することになってしまうからだ。
となれば、まず友人は関係者と考えていいだろう。
しかし、問題はここからだ。
友人を関係者と見るのなら、友人の友人はどうなのだろうか。
友人の友人の友人、もっと言えば友人の友人の友人の友人。
関係者の関係者の関係者の関係者、文体的にはこれほど長くとも、
一まとめにまとめてしまえば関係者という三文字にあっさり収まってしまう。
もとより、関係者というものは中々に曖昧な表現技法なのだ。
読み取る方の考え方一つで許容範囲が狭まったり広がったりするのだから、
こうして注意書きのように玄関に表示しても何の意味もないような気もする。
この曖昧表現をなんとかできないものかと、
うーんと玄関先の表示前で立ち止まったまま腕組みをして考え込んでいた柴田は、
何の気なしにふと顔をあげてみると、少し離れたところからジーッとこちらを見ていた
監視カメラとばっちり目線があってしまったので、
ほんの少し居心地の悪い思いをしながらも、曖昧な顔をすること2、3秒。
不自然な平然を取り繕って、すたすたとマンション設備のエレベーターに乗り込んだ。
- 402 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:24
-
村田の部屋は、ええと、6階だ。
ピ、と黒の太字フォントで書かれた6というボタンを指で押し、
上昇中のエレベーターの中、柴田は一人きりなのを良いことに、
雨に濡れた髪の毛を無造作に手で思いっきり掻き撒いて、一つううんと伸びをした。
そうしてそれから、たった今エレベーターが通過中の階数を示す蛍光のオレンジが
次第にその数を増やして行くのを横目に見つつ、横にあった壁に寄り掛かる。
あの暇人気取りは一体今ごろ何をしているんだろう。
柴田が大学へ出発する時間に村田は大学から帰ってくる、という風に
基本的な生活リズムが違うので、村田がこんな昼時に起こしそうな行動など皆目見当もつかない。
まあ、彼女の場合、別に生活のすれ違いやなんやらが無かったとしても、
あの性格や気質ではいつどこにいようがその動きを測り知ることはできないだろうけど。
そんなことを考えて、柴田はほんの少しだけ、笑う。
エレベーターの透明なガラス越しに見える外では、まだ雨が降り続いていた。
…チーン。
そんな風格でもないのにわざわざ背伸びして、無理に高級マンションを装うかのような
高く強張った音を立て、蛍光オレンジ太字フォントで6と表示しながら、
柴田を乗せたエレベーターは緩やかに扉を開けた。
- 403 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:25
- まず少しだけ足を出して、なんとなくきょろきょろと左右を確認してから、
6階という名の地に両足で立つ。
別に来るのが初めてといったわけではないが、どちらかといえば、いや、
割合的には断然村田が柴田の家にくる回数の方が多いので、
こうしてやってきてみる度に、どうにも行動が挙動不審になってしまう。
とりあえず、落ち着こう。
自分で自分にそう語りかけてから、背筋をしゃんと伸ばして柴田は歩き出した。
このマンション、一階一階のスペースが無駄に広いとはいえ、
エレベーターを降りて割とすぐの場所に、村田、と書かれた部屋の扉はある。
顔はこのマンションのスペースぐらい無駄にいい部類なのに、
オトコなど興味ないわの一言で切り捨ててしまうのが村田めぐみという人である。
そのくせわざわざ合鍵を作り、「合鍵を預ける人がいないってなんか寂しいじゃん」と
当時まだ知り合って間もなかった柴田に合鍵を預けていくのも、そう、村田めぐみだ。
不可解かつ理不尽かつ矛盾上等。
もし柴田がこんな、柴田のような人間でなかったなら、一体どうなっていたことか。
人間の生き方や考えの違いなどを理解していないわけではないだろうけど、
それでもあっさりとそんなことをやってのけてしまうのもまた、村田である。
予めポケットの中に入れてきておいた合鍵を取り出して、
ガチャリとノブ傍でいい音をさせながら、柴田はふとあることに気がついた。
そういえば、今日は村田になんの連絡もいれていない。
どうせ暇を持て余して家でゴロゴロしているのだろうと思ってこうして
やってきてみたはいいが、よくよく考えてみればメールも電話もしていないじゃないか。
- 404 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:26
- 扉の丸いノブに手をかけながら、しまった、と柴田は渋い顔をしかけて、
それからすぐに、しばった、と言い直してから改めて渋い顔をし直した。
しかし、まあ、そのことに気がついたからといって、
今更ここから雨の中引き返すのも少しばかり躊躇われる。
とりあえずは村田の在住不在住を確かめて、不在だったなら不在だったで
雨が止むまで少し中で待たせてもらうなり、どうとなりしようがあるというものだ。
そう考えて止まっていた手の動きを再開させた柴田は、ここでやっとノブを回し終えて、
まあ、どうせ中でゴロゴロしているに決まってるんだ、と
ドアを開けた瞬間目を丸くしてこちらを振り返る寝転んだ村田の姿を
瞼の裏に浮かべながら、ゆっくりと、慎重に扉を開いた。
ほんの少しの、軋む音。
扉を開けて中を覗き、柴田は無意識に浮かべていた笑顔をふっと取り消す。
シャレ男ならぬシャレ子気取りとしか思えない色合いのソファに寝転んで、
目を丸くしてこちらを振り返っている村田の姿は、そこになかった。
いや、それ以前に。
村田の姿どころか、家の中の電気さえついていない。
いないのか。
あまり予期していなかった、していたとしても5%ほどの確率であったことが
ありありと感じ取れて、柴田は拍子抜けしたようにニ、三回瞬きをしてから、
不意にふと我にかえって、ひとまずは玄関にあるスイッチに手を伸ばした。
ぱちり、という音に続いて、ぱちぱち、と軽い電流の音がして、
最後はぱあ、と。狭いとも広いともいえない部屋が柔らかい光に照らされる。
- 405 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:26
- そんな中を少し目を細めて歩きながら、
柴田は一度部屋の中心部分となる場所に立ち、ぐるりと辺りを見回した。
そうしてみても、やはりどこにも見当たらない村田の姿。
本当に。一応はここの住人であるヤツは。今日は外出でもしているらしい。
「…あのむらっちが、ねえ」
誰に呟いたわけではないけれども。柴田は小さくふーん、と呟いて、
取りあえずはソファにすとん、と軽く腰を降ろす。
そうしてぐっと背もたれにもたれかかりながら、そこからの視点でも見ることができる
壁にかかった時計を見て、「暇だなあ」とまた呟いた。
これだけ詰められれば本望だろうというくらい、ビッシリ本が詰め込まれた本棚。
やたらと画面の広いテレビに、その足下に転がった何本ものゲームソフト。
シャレ子らしく小さな観葉植物をそこらに置いてはいるものの、
葉が少し枯れかけているところを見ると、どうやら飽きてしまったらしい。
そんな村田の部屋は、散らかってはいなかってけれど整理されているわけでもなかった。
いわゆる、いつも通りの状態だ。
村田は柴田が来るから、といって掃除する人間では全くない。そんなことは有り得ない。
となれば、物の配置や置き場所は前来た時とそれほど
変わっていないということになるのだけれど…。
随分前のことにはなるが、ここに遊びに来た時、柴田がプレイした途中でセーブして、
それっきりになっていたゲームがこの部屋に転がっているはずだ。
村田がいつ帰ってくるかさっぱり分からないことだし、
それでも勝手に引っぱり出して遊んでおこうかとも思ったが、
特にそういう気分でもなかったので止めておいた。
- 406 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:27
- 暇人気取りの村田の部屋で、暇を持て余す本物の暇人・柴田。
やはり気取りは気取りで終わるのだ。所詮気取りなのだから。
いつも暇だ暇だと柴田の家に遊びにきている法学部は、
本物の暇人にはやはりなりきれなかったらしい。
今日みたいな特徴のない日に、外に出ていることがなによりの証拠。
結局、本物はやはり自分しかいなかったのかと少々落胆の息を漏らした柴田は、
しばらくソファに座り込んだままぼうっと時が過ぎるのを待っていたが、
そうしている内に。
次第に腹の底ほどからむくむくっと面白くない感情が沸き上がってきて。
その面白くない腹いせに村田の家荒らしでもしてやろうか、などという
とても物騒なことを考えてから、柴田は勢いよくソファから立ち上がった。
ガタガタ、と、やけに大袈裟な音を立てて棚をあける。
別に本当に家を荒らしているわけではない。そんなことをすれば法律上での問題事だ。
本性に似合わず割と神経質なところもあった村田は、
自分の予定や大事なことをいつも赤ペンでカレンダーに書いておく癖があった。
まあ、書いておく癖があるといっても、村田には肝心の書く予定がないため、
例のカレンダーは割合キレイなままだったのだが。
それをふと思い出して、家荒らしまがいの動作ながらも、
柴田はこうしてそのカレンダーを探しているのである。
あれさえ見つかれば、村田が今日どこに出ているのか、いつ帰ってくるのか、等等。
その大体の見当もつくはずだ。
- 407 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:28
-
棚を一段一段、丁寧に。
不法侵入はすでに犯してしまっているが、できる限り犯罪の範囲内には
おさまらないような手つきで、柴田はがさごそと中をあさって行くが、
お目当てのカレンダーはいつまでたっても見つからない。
こうしている内に村田が帰ってくるのではないだろうか、と思わず考えてしまうほど、
割と気の長い方だと自覚している柴田は粘りに粘って頑張ったのだが、
結局は収穫を掴むことなく、たん、と一番下の棚を静かに閉じた。
そうしてから、1、2秒。
「…あー、もー」
不意にそんな声をあげて、後ろ向きに倒れこんだ柴田は、
ぼんやりと白い壁を見ながら、いつもはあそこにかかってたのになあ、と呟く。
今日に限って、どうしてあのカレンダーは外されているのか。
とてもじゃないが、外出するときにカレンダーを持っていく必要なんて思い付かない。
ならばやはり、この部屋のどこかに存在してはいるはずなのだけれど。
「……ま、いっかなあ」
暇つぶしができて、村田の予定が分かるという一石二鳥な考えで探索を始めては
みたものの、なんだか本格的に疲れてしまって。はー、とため息をついた柴田は、
やっぱり村田が帰ってくるまで大人しくゲームでもしていようと、
そうのそのそとした動きでゆっくりと立ち上がった…
その時だった。
- 408 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:28
-
「あ」
少し目を丸くして見やった先に、ぶらりと下がった白のカレンダー。
なんだ、あんなところにあったのか、と思うと同時に、
なんでまたあんなに見にくいところに配置替えをしたのか、と不思議にもなる。
しかし、まあ、そんなことはこの際どうでもいい。
柴田はちょっと背伸びしながら手を伸ばし、
天井近くにピンで止められていたカレンダーを思い切って手に取った。
少し体制的には無理があったけれど、幸いビリリといったイヤな音も鳴らず、
無事手元に掴むことができたそれを一度見て、柴田は小さく深呼吸をしてから、
なんとなしに改まった顔つきで、丸まったカレンダーを、広げる。
友達と買い物か、それともサークルの集まりか。
これから視界に飛び込んでくるだろう村田の予定に少しだけ好奇心を現しながら、
さあ、こいといった心意気で柴田がいざ目をやった、その場所には。
何も。
今日、12月16日の四角い欄には、一文字も書かれていなかった。
「……あれ?」
拍子抜けもいいところだ。
下手をすれば、この家に村田がいないと分かった時よりも拍子抜けかもしれない。
必死になって、というわけでもなかったが、暇つぶしと言えども
あれだけ頑張って探していたものの結果が、これか。
- 409 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:29
- 今日に限ってメモを取るのを忘れていたのか、
それとも、メモを取る暇もないほど急に入ってきた用事だったのか。
どちらにしても、今まで柴田のやってきた努力は全て報われずに
ただ沈没してしまったという事実は変わらない。
なんだか一気に脱力感が体を襲う。
なんだそれ、どんなオチだ、思わず頭を抱えたくなってしまう。
何も書かれていないカレンダー。そんなもの、対して意味もないし興味もない。
憂鬱なため息をつきながらそんなことを考えた柴田は、
カレンダーを再度元の場所へ戻そうとして…ふと気がついた。
とても、小さく。何かが、微かに。
16日の太文字フォントで書かれた日付の横に、極小さく。
目を凝らして見ないと何が書いてあるのか分からないほどの大きさで、
それでも確かに何かが記されていた。
うんと顔をその一点に近づけて、険しい顔で目を細めた柴田は、小さく呟く。
「…矢印?」
半信半疑で声に出してみた言葉の反響を自分の耳に入れて、
そうだ、矢先が下を向いた、矢印だと自分自身で納得する。
矢印がたった一つだけこんなところに書かれているということは、
さらにその下、そこに何か別のことが書かれていないと柴田としては困るわけで。
実をいうと、ほんの少しだけ、不安だった。
こういう意味不明なメッセージや挙動を起こすのが大好きなのが、村田めぐみだから。
- 410 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:30
- けれどもなんとか勇気を降り絞り、そろそろと目線を静かにさげていって、
カレンダーの日付が31日まできちんと示し終え、
備考欄のようなニ、三本の長細いラインを縦断し、
そうしてカレンダーが途切れ、視界に村田の部屋の風景にぶつかりそうになった瞬間、
これもまた、小さく記された文字に気がついた。
なんだ、これは。
さっきから嫌がらせとしか思えないような小さな書き記しばかりで、
いかにも村田がやって喜びそうなことである。
趣味は悪どくても、頭だけはやたらいいのがヤツの取り柄だ。
どうせ柴田がこういう風にカレンダーを探し出すのを見通して、
こんな宝探しじみた仕掛けとこんな引っ掛けゲームじみた遊びを前もって用意していたのだろう。
そうしてけろっとした顔で帰ってきてから、おそらくにやにやした顔でこう言うのだ。
「柴田くん、見たでしょ」
…ああ、なんだか考えただけで腹が立つ。
あまりにも簡単に見通せたこれからの未来予定に、
一瞬柴田はその小さな文字に目を通さずカレンダーを直してしまおうかとも思ったが、
それはやはり今までの柴田の行動と思案が無駄になってしまうわけで、
それに、どことなくそれはそれで村田に負け伏してしまったかのようで少し悔しい。
カレンダーを目線から外したところで手に持ちながら悩みに悩んで、
しばらくしてからええい、と呟いた柴田は思い切って再度カレンダーに目を戻した。
ここまで引っかかってしまったのだから、
どうせなら最後まで村田の遊びに付き合ってやろうじゃないか。
にやにや笑いでからかわれるのは少々癪だが、
そこは柴田の大人心を村田に見せつけてやるいいチャンスだ。
- 411 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:31
- そう一度うんと頷いて、くるならこい、という心構えと決意を込めた目で
カレンダーの文章を目で追いかけて行く柴田。で、あったが。
冒頭部分を見た当初は、どうせ引っかかった自分を小馬鹿にする文章でも書いて
あるのだろうと決めつけて、苦虫を噛み潰したかのような表情であったというのに、
目で文字を追いかけて行く内に、段々と柴田の顔から表情がすぅっと消えて行く。
いや、柴田が失ったのは表情だけではない、それと同時に血の気というやつも
さあっと音を立てて消えて行き、思わず青白くなった頬を柴田は抑えた。
「…こんなの、聞いてないよ…」
矢印の下の文字の下、そこにまたあったもう一つの矢印の先に示されていたのは、
白くて長細い、一つの封筒。
混乱している頭ながらも、手だけが勝手に動いてその封筒を手に取った。
封を切る。丁寧に切る。中身を取り出す。
そうして。
まず、最初に目に止まったのは、
『United States of America』の文字。
枠を薄い青色で彩った、一枚の長方形。
パスポートだ。
そう理解すると同時に、ふっと、急に足の力が抜けて、
すとんと柴田はその場に座り込んだ。
そんな、まさか、だって、こんなに急に。
- 412 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:31
- 村田はずっと前から、半ば毎日のような感覚で柴田家まで勝手にやってきては、
勝手に騒いで、勝手に喋って、そして嵐のように去って行く。
本人が決めたからこそ、この事実がここにあるのだ。
ということは、本人が知らないということは万に一つもないわけで、
通常なら一カ月も前になれば十分決めていたと考えてもいいだろう。
しかし、村田はそんなこと、一度も口に出さなかった。
柴田に言いたくない理由でもあったのか、
それとも、突然、急に決めたことだったのか。
よく考えてみれば、いや、よく考えてみなくとも、
正解が前者か後者かは分かることではあったが、
柴田はそんなことをふと思ってみただけで、思考を切り替えることはしなかった。
なんだか、どちらにしてもとてもどうでもいいことに思えてきて、
ただ、村田が。
村田がアメリカに留学してしまうという事実は変わらないのだから、と。
どれくらい時間がたったのだろうか。
生涯の別れといったわけではないのに、少なくとも一時間はぼんやりとしたままで、
ふと時計を目にして時間を確かめた柴田は、
ぼんやりしたまま、不意にふらりと立ち上がって、
カレンダーを直すこともせず、そのまま靴を履き、外に出た。
- 413 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:33
-
雨はあがっていたものの、もくもくと立ち篭める暗雲。
こういう天気は見るだけで見た人の気分を暗くするものだが、
今日の柴田は元より気分が暗かったため、それを見ても対した影響は起こらなかった。
来た時と同じように柴田の背中を見送る監視カメラの視線を感じながら、
土場に雨が溜まってキラキラ光る水たまりを、
ばしゃばしゃとわざと足を突っ込んで泥水だらけにしていきながら、歩く。
そうすることで何かが変わるかもしれない、という微かな気持ちからきた
行動ではあったが、跳ねた泥水がかかった野良犬が柴田に向かってキャンキャン吠えただけだった。
そう、何も変わらないのだ。
村田がいなくても、この日本にいなくても、柴田の視界にいなくても。
時間はいつも通りに過ぎて行き、道行く人は素知らぬ顔で柴田の脇を通り過ぎる。
そうしている内に、三年と言う長い年月の間に柴田さえも村田めぐみと言う人の存在を
忘れてしまい、そうして、村田という人は日本から消えてしまうことになる。
けれども、何も変わらない。
村田が消えてしまっても、周りにはなんの変化も起こらないのだ。
そのことを何気なく、暗い気分のままでふっと思い浮かべた時、
その何気なさと同じくらい何気なく、柴田の視界が180度変化した。
- 414 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:33
-
一瞬だけ、あれ、と思った。
それまで普通に見えていた視界が、一気に灰色のフィルターがかかって見えた。
人間、気絶する時は寸前に視界が真っ白になるというが、
実際にそれを体験したことのない柴田はそれが確かなのか確かめたことはない。
それに、真っ白になるとはいっても、こんな灰色がかって見えるというのは
今までの人生で見たことも聞いたこともなかった。
思わず呆然として柴田が両足の歩みを止めると、
それまで素知らぬ顔で通り過ぎていた人間達が、
ほんの一瞬だけ柴田の方をちらりとだけ振り返って、
その後はやはり元の通り、素知らぬ顔で柴田の脇を通り過ぎて行く。
灰色に染まった視界、物の輪郭や色別はどうにも見分けがつきにくかったが、しかし、
柴田は見逃さなかった。
周りの通行人達、その大半が、
口元に灰色の葉巻をくわえているのだ。
見るからに異常、見るからに異質。
先ほどまでは全く気づかなかったのに、いや、
先ほどまでは柴田の目には、…見えていなかったのに。
- 415 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:34
- 人間達がくわえている葉巻は当然のように火がついていて、それぞれもくもくと煙を立てている。
その煙りが上空で次第に交わって行き、
そうして、最終的には、少し前まで雨を降らしていた暗雲となっていた。
その時、ぴくりと何かが柴田の頭の中で疼いた。
妙な違和感と引っかかり。今までの全てをごちゃ混ぜに集めてかき混ぜれば
何かが思い出せそうな気がするのに、それが何故か思い出せない。
こんな、どこかのファンタジーみたいな風景、
見たことがないはずなのに、ありえないはずなのに、どうしてか。
どこかで、見たことがある。
そう、何の確証もない自信が柴田の中で呟いた。
それまで見上げていた暗雲から視線を外し、再度周りの通行人達へと目を向けると、
先ほどまで見えていたのは灰色の葉巻だけであったのに、
今一度見直してみると、人間達は皆、それぞれ頭に灰色の帽子を目深に被っていた。
すぐそこの角を折れ曲がった、少し早めの退社をしてきた太ったサラリーマン、
向こう側からこちらに歩いてきている、学校帰りらしい小柄な女子高生、
三輪車にのって、柴田のすぐ横を通り過ぎて行った小さな子供、皆が皆。
- 416 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:35
- 頭の中の疼きが、大きくなる。
なんだっけ、これ、なんだっけ。
灰色の視界全体が不意にぶれて、二重になって、揺れている。
そうしてただでさえ見えにくかった人々の輪郭が踊るように跳ねている中、
そんなごちゃごちゃした世界の中で、たった一つだけ、他のものよりは
いくらかはっきりとした輪郭線が柴田の前に迫ってきていた。
トラックか、乗用車か、そう思って慌てて身をどけようとするけれど、何故か動けない。
焦るのは心だけで、ちっともそれについて来ようとしない体にぐるりと目を回すけれど、
その近づいてくる輪郭に、柴田はやけに見覚えがあることに気がついた。
そうだ、この輪郭、先ほどの女子高生だ。
周りと同じように灰色の帽子を被って、灰色の葉巻をくわえて、
灰色の煙を立ち上らせていきながら、柴田の方に向かって歩いてくる。
女子高生の平均からしても、かなり小柄な体。
かなりの厚底でごまかしてはいるけれど、身長は150センチあるかないか。
ギャルっぽく染め上げたショートの金髪。
誰だろう、どうして一人だけこんなにはっきり見えるんだろう。
不信と不思議だけがぐるぐると渦巻く中、女子高生はどんどん柴田の方へ近づいてくる。
その時、柴田はまた新たに大きな不思議を一つ、見つけた。
(この子)
顔が、ない。
- 417 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:35
- 金髪の上にのっけられた灰色の帽子が、不自然にふわふわ浮いている。
近づいてくればくるほどはっきりしてくるその不化学。
段々と目眩が起こるのを感じながらも、柴田はその事実をリアルに前にして、
思わずぎょっと目を見開いた。
人間に顔がないなんて有り得ない。
それは分かっているのだけれど、その人の顔は実際に薄い灰色一色のままで、
けれどもその人の隣を通り過ぎ去る自転車に乗った大学生風の男は
特別不思議がる様子もなく、軽やかに緩い下り坂を走って降りていく。
その光景で、考えられない事実を考えざるを得ない場所に立たされた柴田は、
そうしている間にも段々と縮まって行く距離を本能的に広げようとしたが、
やはり柴田の両足は動いてくれはしなかった。
友達か誰かに向かって、とても楽しそうに話す女子高生の声。
手に持たれた水色の携帯。
それは確かに分かるのだけれど、判断できるのだけれど、
その、声が出てくるはずの口が。
携帯を当てるはずの、耳が。
柴田には、どこにも見えないのだ。
女子高生との距離、およそ5メートル。
そこまでやってきてもやはり相変わらずその顔は浮かぶことはなく、
柴田の目に、その不自然さがなんだか自然にさえ感じ取れてきた、その時だった。
- 418 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:36
- 金不意に女子高生の輪郭が、頭の輪郭だけがぐにゃりと歪み、
その他の輪郭、胴体、足などは他の輪郭線達と同じようにして、狂ったように踊り出す。
そういう現状の中、柴田の目には、その頭と顔だけがはっきりと見えていた。
近づいてくる彼女の、何もない顔。
確実に距離をなくしてくる彼女の、何もない顔が。
ふと、歪んだ。
距離にして、およそ2メートルのところで、
女子高生の何もなかった灰色の顔がぐにゃりと歪み、
金髪の頭と灰色の帽子が、その歪みにあわせるように揺れる。
歪んだ顔は柴田との距離が1メートルになるかならないかのところまでに
段々と目や、口元、鼻を形成していき、
それらが綺麗に普通の人間の顔のパーツの位置と当てはまる場所へ移動した時、
柴田の頭の疼きが、瞬時に記憶へと変化した。
やっと見えた女子高生の口元が、悪戯ににぃっと笑う。
目深に被っていた帽子をおもむろに指であげる、見覚えのある彼女の顔が見える。
動けない柴田との距離30センチ、15センチ、10センチ。
ぐわりと迫る、彼女の右手が、
がしりと、柴田の額を掴んだ。
- 419 名前:おっかしいなあ、だってあたし絶対見たんだよ? 投稿日:2005/03/05(土) 15:37
-
『ハイ、ソコマデ』
手の平だけで覆われてしまった視界の向こう側からそんな声が聴こえてきた瞬間、
ばっと視界が灰色の世界から解放されて、急激に明るくなった。
まるで暗い映画館から急に外に出てきたときのような、酷い疲労感と軽い目眩。
迫りくる吐き気をなんとか抑えこみながら、柴田は勢いよく自分の後ろを振り返る。
綺麗になったクリアな視界に映る、先ほどの女子高生の後ろ姿。
彼女は相変わらず手に持った携帯と楽しそうに会話していたが、
柴田の視線を敏感に感じとったのか、少しだけの間をおいて、
ちらりとだけ柴田の方を振り返った。
あの、『ヤグチマリ』とは、どこをどう逆立ちさせても似つかない顔だちだった。
ざわりざわりと、次第に通常の感覚が戻ってくる。
耳は確かに人々のざわめきを聞き取れるし、
目はうざったいくらいカラフルな世界をちゃんと捕らえることができた。
車や通行人の邪魔にならないようなところでしゃがみ込みながら、
柴田は全て思い出した自らの頭を両手で抱えて、
そうしてしばらくした後、鋭い目つきで顔をあげながら、
呟いた。
「……いかなきゃ」
- 420 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/09(水) 17:15
- お、面白れぇ・・・続き期待してます。
- 421 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/03/27(日) 22:45
-
「あんたは一回組織帰ってくれる?」
と振り返りざまにそう言うと、
「え、イヤです」
という、素晴らしいほどの真顔で素敵な返事が返ってきた。
まあ、そんな返事が返ってこないと思っていたわけではないけれど。
それでもやはり思わず沈黙してあけてしまう間に、
渋い顔の矢口の前でしゃがみこんだ藤本は、素晴らしく不満そうな顔をした。
「…ミキ、これからまいちゃんと遊びにいきますから」
そうしてその不服そうな口から飛び出てきた素晴らしいご理由に、
何故だろうか。どうしても閉まろうとしない口からぽろりとこぼれかけた葉巻を、
矢口は慌ててくわえなおす。それから言った。
「お前なあ…なにかと思えばそんなことかよ」
「なっ、矢口さんひっどい!そんなことなんかじゃないですよ!」
「そうですよー親友との久しぶりの再会なのに!」
呆れた、といわんばかりの矢口の一言に、返ってくる二つの反論。
「つーか里田は入ってくんな」という矢口の言葉を、聞こえなかったふりという
上級手段であっさり流した里田は自分の隣の藤本の腕をぎゅっと力強く掴みながら、
矢口に向かってほんの少しだけ情けなく笑った顔を向ける。
「矢口さあん、お願いしますよー」
そうして聴こえたあからさまな猫撫で声に、
矢口はぴくりと片眉だけを釣り上げた。
- 422 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/03/27(日) 22:46
-
こいつら、果たしてコトの重大さを分かっているのか、いないのか。
いや、それは多分きっと分かってはいるのだろうけど、
それを承知の上でこんな下らない言い争いをしたがるのが、この怠け者タッグである。
媚び売りモードで両の手の平をすりあわせるように拝んでいる里田、
その隣で楽しそうににやにやしている藤本、その二つの小憎たらしい顔を見比べながら、
思わず飛び出てしまうのは小さなため息。
タチの悪さという点では後藤よりも上にいるかもしれない最恐タッグを前にして、
矢口はほんの少し胃を痛くしながらも、また改めて口を開いた。
「…つーかお前、ごっちんはもういいのかよ」
さっきまではやたらこだわってたくせに、案外あっさりしてるじゃん。
そんな意図を込めた言葉を声にしながら、ちらりと視線を向けた先の里田は
一瞬だけ目をぱちくりとさせてから、不意に、ああ、と小さく呟いて、
そのまま目線を斜め上45度先まで引き上げた。
それから、何故だかほんの少しだけ困ったような調子で言う。
「…今はもういいです」
「……今は?」
「ええ、今は」
なんだそれ、と、声には出さなかったものの、とてもあからさまな
矢口の怪訝そうな眼差しに、里田はちょっぴり両肩を竦めながら続けた。
「まあ、あれですよ」
「は?」
「あたしがもっかい後藤真希を気にするとしたら、一週間後くらいですかねって」
「…わけわからん」
渋い口元で小さく呟いた矢口の言葉に、里田は白い歯を見せながら
「あたしも実はわけわかってないんですけど」と言って、明るく笑った。
そんな里田を矢口は怪訝そうな顔のままで一瞥してから、
はぁ、と小さなため息をこぼして、不意にくるりと後ろを体ごと振り返った。
- 423 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/03/27(日) 22:48
-
「…あれ、矢口さん、ほんとにいいんですか?」
そんな風に自分達に背を向けたことをサボることへの許可だと受け取ったのか、
その背中に向かってきょとんとした顔で問いかける藤本に、
矢口は顔だけで再度向き直ってから、「…バカ、んなわけないだろ」と舌を出す。
「藤本、やっぱあんたは一回帰んな」
「うえぇー」
「やぐっさん、そりゃないですよー」
「あんたも一緒だ、里田」
「げ」
改めての矢口の一言に再度二つの反論を口にしながらも、
藤本の脇をにやにやと笑いながら肱でつついていた里田の顔が、
直後響いた矢口の冷たい声によってがちりと凍る。
その様子を肩を竦めて流した矢口は、藤本、里田のさらに向こうに並んで倒れている
二つの人影を一瞬ちらりと視界に入れて、それからとてもうざったそうに頭をかいた。
…不安じゃないとは言い切れないけど、まあ、腕だけは誰よりも確かだろうから。
「お前らに、後藤と吉澤は任せる」
- 424 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/03/27(日) 22:49
- 一度口を開け閉めしてから、再度開いて声に乗せた矢口の言葉に、
藤本は隣の里田をちらりと見た後、内心面倒なのを隠そうともしない微妙な顔をし、
里田はにやにや笑いを取り消すように一度真面目な顔をした後、ふと口を尖らせた。
この口をする時の里田からは、決まって文句だか不満だか不平が飛び出てくる、と
矢口はなんとなしにそんなことを考えて、そしてやはり本日もそんな期待を裏切らず、
里田の尖ったあひる口からはぼそりと不満の言葉がこぼれだした。
「なんであたしらにそんな大役おしつけるんですかねえ、矢口さんは」
「あんたらのことを買ってんだよ、それだけ」
「ちっともありがたくないんですけど」
「ありがたく思え」
里田に続く藤本の文句をも軽く受け流し、矢口はそれまで変な角度で
藤本達の方を振り返っていた首を元に戻して、ごきりと鳴らした。
鳴らしたついでに一度ううんと伸びして、大きく深い息を吐いた矢口は、
背後で二人組が忍び足で後ずさっているのをその気配だけで見通して、
少しだけ右頬を爪先で引っ掻いてから、短い間の後、ゆっくりと再度背後を振り返り、
ぴ、と人さし指を突き出してみせながら、
告げた。
「これ、一応上官命令」
逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている。
そう矢口が指差した遥か彼方で、
ヤツらがのけぞり、その後バターンと倒れた音がした。
- 425 名前:烏 投稿日:2005/03/27(日) 22:53
- 少量更新です。
>>420
ありがとうございます。やっと折り返し地点にたどり着きました…
- 426 名前:マルタちゃん 投稿日:2005/04/03(日) 13:08
- 更新お疲れ様です。
何て言っていいのか分かりませんが
続きがきになります。
次回更新楽しみにしてます。
- 427 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/04/13(水) 21:44
-
- 428 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/04/13(水) 21:44
-
「愛ちゃん、遊びにいこう」
扉を開けた瞬間、とっても不機嫌きわまりない顔でそんなことを言われたので、
高橋はその言葉の意味を理解するのに三秒要し、
その後またさらに返事を返すまでに二秒はいった。
前もっての連絡もなく家に押し入られてきたかと思えば、突然言われたこんな一言。
もともとアンリアルな状況や生活に対抗性のない高橋に、
与えられた五秒という短い間で、早急かつ適格、なおかつオリジナリティに
溢れた返答をしろというのは少しばかり無理難題、厳しすぎるというものだ。
結局、そんな高橋が迷った末に返した言葉は、
「うん」
の、一言だった。
- 429 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/04/13(水) 21:45
- 今のご世事、もう少なくなってしまった駄菓子屋に寄って買った
100円のバニラ棒を嘗めながら、松浦は足を気ままな様子に揺らしながら、
ぶらりぶらりと高橋の少し前を歩く。
そんな松浦の背後、1メートルほど後ろについて歩いている高橋は、
両手でホットミルクティーのペットボトルを覆って、赤くなった指先を温めた。
季節は12月半ばの真冬。口から息を吐き出せば、それは一瞬で白くなる。
そんな中バニラ棒を引っさげて歩く松浦の姿は、実に滑稽だ。
なんなんだろうなあ、と高橋は思った。
松浦のアパートと高橋のアパートは決して近くないはずなのに、
いつもなら一応、あくまでも一応、だが、一応はいれてくるはずの前もっての連絡も
今回は一切なく、突然やってきて突然あんなことを言ったかと思えば、
高橋が用意する暇も与えずに突然外に連れ出されてきてしまった。
履いていたズボンのポケットに偶然はいっていた小銭で
なんとかミルクティーは確保したものの、高橋の服装は至って身軽で、
今の時期には少しというか、大変肌寒いくらいである。
「なあ亜弥ちゃん、いい加減かえろうや…」
「ヤダ」
「あっし寒いんやけど」
「もうちょっと」
「もうちょっともうちょっとって、さっきからそればっかり…」
「それは愛ちゃんのもうちょっとが短すぎるの!あたしみたいに心を広く構えてよ」
- 430 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/04/13(水) 21:46
- 「…心を、広く」ねぇ、とちょっと目を細めた高橋は、
松浦が振り返らないのをいいことに、少し顔を伏せて首を振る。もちろん横に。
家に帰るのが無理というのなら、松浦がこれでもかというほど着込んでいる
上着の一枚も貸してほしいというものだ。
そのことをはっきりと言ったところで松浦が高橋に上着を貸してくれる確率が
0に等しいことをよく分かっている高橋はそんなことを内心だけで思いながら、
手元のミルクティーのキャップを開けて、一口飲んだ。
「愛ちゃん」
「…ん?」
ふと、不意に呼び掛けられた声。
高橋はキャップを元の通り閉めながら、極簡単な返事を返す。
それにほんの少しだけ首を傾げて振り向きながら、松浦は言った。
「あの子、なにしてるんだろ」
その突然の言葉にきょとんとして、しばらく瞬きを連続していた高橋は、
ふとした拍子に松浦がそう言って指した目標を見つけるべく、
辺りを見渡すように首を回した。
吹いている寒気にざわざわと揺れる木の枝。
かれ残っていた最後の枯れ葉が、そうしてついに、ゆらりと落ちる。
その、枯れ葉が地面に滑り込んだ、その先に。
「……なにしてるんだろう」
高橋は、そうとしか返せなかった。
枯れ葉が滑り込んだドラム缶のある空き地に、一つの小さな人影が
地面にしゃがみこむようにして、なにやら自分の顔を手で覆っている。
- 431 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/04/13(水) 21:46
- しかし少し離れたここからではその人物が何をしているのかを覗くことは
到底できないし、それでもわざわざ近づいて行くほどのことでもない、と思い、
高橋はまたミルクティーのキャップを外して口を近付けようとしたが、
その少し前に立っていた松浦が、極当然のことのようにすたすたと迷いない足取りで
空き地へ向かって行くのを見て、仰天した。
「…ちょ、亜弥ちゃん…」
「ごめん、ちょっと見てくる」
思わず漏らした高橋の声に、振り向かないまま返ってくる返事。
そんなことを言われて、ついていかないわけにもいかない。ような気がした。
高橋は開けかけたキャップをきっちり閉め直して、
早足の松浦へ追いつくべく、その後ろを小走りで追いかけた。
ざっざっざっざ。
靴裏が足下の砂を弾き飛ばす度に聞こえる一定のリズム音が
その数を増やして行くごとに、段々と、次第に、ではあるが、
確実に一つの人影は高橋の目に大きく映って行く。
相変わらず顔を手で覆ったままの体制で、ぴくりとも動かない。
実際に近づいていってみて分かったことではあったが、
びゅうびゅうと吹き付ける風の音に混じって、微かに嗚咽のような声が聴こえた。
…泣いて、いるのか。
そのことに気がついて、走りながら少し高橋が眉根を寄せた瞬間、
ふと、それまで前を走っていた松浦が、足を止めた。
- 432 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/04/13(水) 21:47
- 呆然、というよりは、少し訝しげな表情で。
自然に、高橋も同じように足を止める。
高橋から見える松浦の横顔は険しい。その視線の先は、泣いているあの子のいる空き地。
どうかしたのか、と高橋がそんな松浦の不自然な表情に声をかけようとした瞬間、
松浦は空き地からじっと目を離さないまま、どこか意志を持った表情で、
しっかりとはっきりと、確かな言葉でぼそりと、こう、呟いた。
「…みきたん?」
「え」
その言葉を聞き取って、高橋は思わず空き地にいる人影を凝視してしまうが、
どこをどう見ても、例え百歩譲ったってあの藤本美貴には似ても似つかない。
その自分の認識が決して間違っていないことを確かめてから、
再度松浦のほうへ目を戻すと、それでも彼女は自分の目の前に藤本がいる、とでも
言いたげなしっかりとした顔つきで、また一歩一歩、片足ずつ歩を進め始めた。
その背中を3秒ほど固まったまま見つめてから、やはり高橋もその後を追う。
初めから感じていたことだが、やはり今日の松浦はどこかおかしい。
もしかしたら、あの子になにか関係があるのかもしれない。
それは根拠も何もない高橋の勘であったが、昔から勘だけはやたらと鋭い方だった。
なにもかも自分の勘だよりに生きているわけでは決してないが、
今回の何気なく感じたそのことは、やけにリアルなことのように高橋には思えた。
よく考えた後の現実性としては、皆無に等しいのだけれど。
- 433 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/04/13(水) 21:48
- それでも、松浦の背中を追って。
二人はついに、空き地の中で泣いている子の目の前で立ち止まった。
ここまで近づいてみて、やっとはっきり聞き取れるその子の嗚咽。
松浦が立ち止まったままどこか遠くを見て硬直しているので、
高橋が一歩前に進みでてその子を慰めようと手を伸ばしたが、
その行動は険しい顔の松浦の腕によって阻まれた。
「……」
なんで、という顔で振り返る高橋に、
松浦はなぜか驚いたような顔で激しく横に首を振る。
それにまた訝しげな顔をする高橋、わかんないの、とだけ松浦の口が動いた。
その時。
ふと、それまで泣いていた子の顔が、松浦と高橋の方に向かってあげられた。
二人の気配に今やっと気がついたのだろうか、
驚いたように目を見開き、もう十分に頬を濡らしていた涙が、
また一粒新しくこぼれ落ちたのが見えた。
それを見て、松浦の制止する腕を振り払い、高橋はその子の方へと素早く駆け寄る。
「どうしたの?なんで泣いてるの?頭痛いの?それともお腹?迷子になったの?」
小さな両方に手を添えながら、次々と質問攻めにしていく高橋の顔を
その子はじっとしばらく見つめた後、きょとんとした顔で、
高橋の質問にはたった一つも答えないまま、高橋のさらに向こう側を見るような目で
こう叫んだ。
- 434 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/04/13(水) 21:48
-
「いいから、早く行って!」
全くわけのわからないその言葉に高橋が一つ瞬きをしたその後ろで、
松浦が「たん、待ってよ!」とまた言って、
誰もいない、それどころか何もないところへと体全体で勢い良く飛びかかった。
ざっ、と舞い上がる砂埃。
何もないところへ一人で飛びかかった松浦は、
直後一人で地面に体を打ち付けるようにして落ちた。
その様子を驚いた目で見ていた高橋は、思わず、といったように声をかける。
が。
「亜弥ちゃん、」
なにをやっているの、という、松浦の不審な行動を問いかける一つの言葉は
高橋の口から飛び出ることなく、上の前歯の裏あたりで、ふと消えた。
その目はしっかりと松浦の体のすぐ下あたりを見たまま、逸らさない。
松浦は今さきほど、確かに一人で飛びかかって一人で落ちた。
当然だ、松浦が飛びかかったところには確かに何もなかったのだから。
捕まるものも触れるものもない状況で、ただ地面へ伏せる松浦。
服についた砂利を構おうともせず、明らかに不自然としかいえないこの状況で松浦は、
未だ自分の下に何かが暴れていて、それを抑えつけてでもいるかのような体制で
「じっとして!」と静かに言いながら歯を食いしばっている。
高橋がそんな松浦を一瞥してから、次に目をやって、そして固まってしまったわけ。
友達が急に非現実的なことをやり始めた。
友達が急に非現実的なことを言い始めた。
どちらかといえば、どちらだ。しかし、より確かで、より非現実的な理由はといえば。
それは、松浦の何かを抑えつけているらしい体の下にあった。
- 435 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/04/13(水) 21:49
- 確かに、何もなかった。
確かに、何もなかったはずだった。
確かに、松浦は何も掴まず捕まえてもいない、はずだったのだ。
浮いている。
松浦の体が、微かにだけれども浮いている。
自らの下にある何かを抑えつけているらしい松浦の体の下に、微かな隙間があって。
その隙間はやはり透明で、何かがあるわけでも、何かに支えられているわけでもなくて、
それでも確かに、松浦の体の下には、空き地の向こう側の景色を覗き込めるような
透明な隙間があったのだ。
『何か、いる』
それは視覚を通して見える現実や、聴覚を通して確かめられる現実などという
常識的な世界をどこか遠くまで飛び越えてしまった、
ある意味なにかの一線を飛び越えてしまったかのような感覚だった。
その感覚がなによりも、自らの本能よりも確かに、強く、よりはっきりと、
高橋に向かってそう囁きかけていた。
何か、いるのだ。松浦は、確かに何かをおさえつけている。
その姿は高橋に見ることは確かにできないけれど、それでも、何かが、いる!
「……誰?」
そう思ってから、思わず高橋はそう問いかけてしまった。
姿が見えるわけでも、声がきこえるわけでもない、ただ、松浦の下にいる筈の誰かに。
それを聞いて一度高橋の方を振り返った松浦は、少ししてからまた再度
自分の抑えつけている何かの方に顔を戻して、どこか言い聞かせるような声で言う。
- 436 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/04/13(水) 21:50
- 「…帽子を、取って。顔、…見せて?」
そう言う松浦の目は、真剣で。
高橋は自分の後ろでしゃがみこんだまま動かない、さきほどまで泣いていた子を
目だけで振り返りながら、その様子をじっと見守る。
姿は見ることができないけれど、松浦の言葉から察するに、
帽子を取れ、ということは、透明人間が松浦の下にいるのだろうか。
見えないのは分かっているのに、多分おそらくきっとそこにいるのであろうという
ポイントを定めてそこをじっと凝視してしまう。
それで姿が見え始めることはやはりなかったのだけれど、確かに何かがそこにて、
松浦に向かって話しかけているような、そんな気配だけがした。
ふと、松浦が口を開いた。
「…愛ちゃん」
「…え?」
「この子のこと、…見えてる?」
「……ううん、見えない」
「…声は?」
「聞こえないよ」
そんな短いやり取りの後、「そう」とだけ言った松浦は、
何故か少し目を伏せて、ため息をついた。
その顔を見て、高橋は先ほどからずっと疑問に思っていて、しかしあえて
言っていなかったことを小さく口にする。
- 437 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/04/13(水) 21:50
- 「…藤本さん?」
「え?」
「藤本さんが、そこにいるの?」
高橋の問いかけは二度繰り返されて、それを聞いた松浦は
一度ちらりと自分の下を振り返ってから、小さく首を横に振った。
それが自分の言葉を否定する意味だときちんと頭で理解して、高橋は少しだけ安心した。
松浦はそんな高橋の表情を見通したような目をちょっと細めてみせながら、
ふと自分の下へ目をやって、高橋には姿も見えない声も聞こえない
『何か』、いや、『誰か』の言葉に耳を傾けているような顔をしてから、
うん、と小さく頷いた。
「なんて?」
たまらずまた問いかけてしまった高橋に、松浦は少しだけ待って、という
サインを目だけで行い、その後十秒ほどじっと固まったままでいた。
それから、ふと、顔をあげ。
高橋の方に向き直って、立ち上がる。
「とりあえず、このままじゃ話にくいから」
「うん」
「人間になるって」
「え」
いつもとは打って変わった静かな表情の松浦が口にした、そんな突拍子もない言葉に。
高橋は思わずやってきた頭痛を感じて頭を抱え込みたい衝動にかられたが、
そうする暇さえをも与えてくれようとはしない非常に非現実的な現実は、
立ち上がった松浦の背後で、直後にボンッと音をたてて突然灰色の煙が立ち上らせた。
- 438 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/04/13(水) 21:51
- ポイ捨てされた煙草とか、
灯油が残ったままのライターとか、
キャンプファイヤーの残り火とか、
そんなものがなかったにも、確かになかったにも、関わらず。
もくもくと次第に形を大きくしていく煙の中から、
スッとあらわれる一つの人影。
初めは夕陽に伸ばされた人影のように長細かったそれは、
段々と横幅をつけくわえていき、しばらくしてからやっと人間らしい影形を形成して、
それから口を動かして、言った。
「…こんなもんやな」
やたらとくぐもって聴こえてきたそれは、
松浦の顔を少しだけ緩めさせて、
高橋の顔を通常よりもさらにびっくりさせて、
高橋の後ろにいた子の顔を、少しだけ険しくさせた。
ぴ、と先ず初めに手袋をはめた灰色の指先が現れて、
それから腕、二の腕、肩、片足、とでてきて、勿体ぶるような演出なのか。
全てがでそろった体の仕上げとばかりに、一番最後に灰色の頭がついた。
少し深めに被り過ぎた灰色の帽子の角度をきゅっきゅと正して、
その透明人間はちょっと生意気そうな顔をあげてから、にやりと笑い、言う。
「加護亜依、や。どうぞよろしゅう御贔屓に」
高橋の後ろの方から、「バカ」と涙声の声が小さく聴こえた。
- 439 名前:烏 投稿日:2005/04/13(水) 21:53
- >>426
ありがとうございます。
今回もまたはっきりしない展開でごめんなさい…
最後に向けて伏線を一つ一つ拾っていきたいんですが。ね!
- 440 名前:マルタちゃん 投稿日:2005/05/04(水) 21:42
- 更新お疲れ様です。
いつも楽しみにしてます。
続きが凄く気になります。
更新頑張って下さい!
- 441 名前:名無し読者 投稿日:2005/05/05(木) 21:49
- 独特の設定とこだわりのキャラ描写が上手すぎてとてもひきこまれますね!
特に葉巻を吹かしてる理由が判明したときには思わずなるほど!と唸ってしまいました。
- 442 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/20(月) 22:57
- 村田や柴田、カントリーの書き方が素晴らしいと思います。
更新待ってます。
- 443 名前:sage 投稿日:2005/07/05(火) 21:35
- 作者さん、生存報告だけでも…(;´д⊂
倉庫逝きとかイヤだよ
- 444 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/05(火) 21:40
- ごめん!
携帯から書き込みで、名前とメール欄間違えました…orz
皆さんごめんなさい。
もうおとなしく待ってることにする…orz
- 445 名前:烏 投稿日:2005/07/07(木) 23:59
- お、お久しぶりです、作者です。更新できなくてすみません。
一応生きてはいます。が、小説のデータを全部まとめていたパソコンが
修理も不可能なぐらい壊れてしまいまして、どうにもこうにもな状態です。
私もこの話をなんとか完結させたいので、なんとかがんばって復活します!
多分更新もこれまで以上に亀になると思いますが、よろしければお付き合いください…
- 446 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/08(金) 00:23
- 生存報告ありがとう
それだけで待ってる側は救われますし、待つことも苦にならなくなります
復活されるのを楽しみに、マターリしながら待ってます
- 447 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/24(水) 19:01
- 鳥さん!
待ってました!
更新ペースはどんなに遅くても構いません。
ここまで待ったのですから、完結する最後の時までついて行きます。
頑張って下さい。
応援してます!!
- 448 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/08/24(水) 23:27
-
もわり、と小さく煙の立つ音がして。
後藤と吉澤が目をやったその瞬間に、灰色の煙からにょきりと生える、細長い腕。
さっきも来たばかりじゃないか。
内心でそんなことを思った後藤は、自然と鋭くなる目つきで
次に出てくるであろう彼女の顔を見据えながら、「なにかよう」と無愛想に呟いた。
途端に、間をおかず返ってくるくぐもった声。
「ふめはいなー、まっはくもう」
「…何言ってるかわかんないんだけど」
「あやや」
おそらく、今のは『ありゃりゃ』だ。
後藤が冷めた気分でそう分析したのと同時に、
ぼふんと空気が音を鳴らして、煙の中から飛び出てくる里田まいの顔。
「やっほー、元気?」
「に見える?」
「あー……ぜんっぜん」
最後にそう付け足すようにへらりと笑った里田は、
ぽりぽりと後頭部をかきながらその細長い足を邪魔くさそうにひょいっと上げて、
それでようやく、煙の中から長細い全身を現した。
「……ミキちゃんさんは、一緒じゃないんだ」
体にまとわりついた残り煙をぱっぱと手で払っている里田の背後を見て、
特にこれといった感情を込めないままそう呟いた吉澤に、
「あの子結構今ヤバい立場にいるからねえ」と呑気な声色で返す里田。
- 449 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/08/24(水) 23:29
- 「ヤバい?あたし達裏切っといて?よすぎる立場の間違いじゃないの?」
おそらく二時間ほど前に同じ事を聞いたのならば、
流すとでも適当に相づちを打つとでも、どうとでもできたのだろうけれど。
こんな所に何時間も閉じ込められているままでは、どうしても神経が逆立ちしてしまう。
自分でもはっきりと感じるくらいピリピリした声で後藤の入れた突っ込みに、
全く動じる様子もない里田はただただひょいっと肩を竦めた。
「あたしあんまり人間界のことってよくしんないから、詳しくはわかんないんだけど。
なんかあの子、シバタさんと同じ家に住んでるらしくてさー」
「え」
「バカ、アパートだよ」
里田の曖昧な言い回しに吉澤が怪訝そうな顔をしたことを一瞬で感じ取って
正しく言葉を言い直した後藤に、「あー、そうそうそれそれ」と里田は笑う。
「ほら、ヤグチさんのチカラってさあ、危険だっていう理由で
対『見える人間』の実験はしたことなかったじゃん?
一応は記憶消せたみたいなんだけどさあ、やっぱ普通の時より手ごたえ少なかったらしくて。
ちょっとしたキッカケでまた記憶取り戻しちゃうかもしんないから」
「…その『キッカケ』になるかもしんないミキティが、ヤバい立場ってワケね」
「そーそー」
- 450 名前:逃げた瞬間、始末書百枚がキミタチを待っている 投稿日:2005/08/24(水) 23:30
- やっぱごっちんって成績は悪いけど頭は良いタイプだよねー。
何故だか嬉しそうに笑いながらそう言った里田の声を聞いて、
つい先ほどまで彼女から自分への呼び掛け方は『後藤真希』であったのに、
一体いつの間にあだ名で呼ばれるほどフレンドリーになったのだろうと、本気で思った。
おそらくそんなことを考えているのが、これ以上ないってくらい顔に出ていたのだろう。
「そんな顔しなさんな」と自分の頬を指差して笑った里田は、
ふいにつかつかと後藤の前まで歩み寄ってきては、目線をあわせるように屈み込む。
「……ねえ」
「……」
「あれ?シカト?」
「……なんですか?」
里田副司令官、となるべく嫌味っぽく聞こえるような声色で返したつもりだったのだが、
それにも里田は動じない。
相変わらずの呑気そうな笑い方のままで、後藤に向かって語りかける。
「今、どんな気分?」
「……は?」
「同志一人助けようとわざわざ皆の命勝手に背負ってでてっちゃってさー、
捕まった後はこんな灰色一色しか見えないところに閉じ込められて。
しかも捕まったのは自分が仲間だと思ってたヤツの裏切りが理由なわけじゃん?
けっこードラマチックだよねー、すっごい興味あるなあ」
す、と。里田の目が細まって。
「ねえ、今、どんな気分?」
その口は、再度同じことを呟いた。
- 451 名前:鳥 投稿日:2005/08/24(水) 23:38
- ものすごい少量ですが、更新です…
8月中にもう一回は更新できると思いますが、多分その後はまた間があくかと…。
すみません。待っていてくれるみなさん、ありがとうございます。
>>440
がんばりました、更新。お待たせしました。
>>441
設定だけはかなり長い間あたためていたので…w
>>442
その人達は愛だけはありますから…!
>>443 >>444
その気持ちが嬉しいです。ありがとう。
>>446
もう少しマターリしていただかなくてはならなさそうですが、がんばりますよ。
>>447
凄いタイミングですねーw
お待ちどうさまです。これからもよろしくお願いします!
- 452 名前:447 投稿日:2005/08/26(金) 23:57
- 実は443と444でもあります。
更新ありがとう!(´∀`*)
これを機にもう一度最初から読み返そうと思います。
この作品で村柴にハマったので、2人の行く末が気になる…
少しずつでも完結に向けて頑張って下さい。
さて、またマターリ待つか(´∀`)
- 453 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/27(土) 17:08
- 更新来てたー。
大好きな作品なので嬉しいです。
- 454 名前:明日、柴田あゆみを組織に連れていきます 投稿日:2005/08/29(月) 11:08
-
「どうしたの」
藤本は自ら開いたドアのノブを片手に、ああ、まずいと思った。
一体いつ取り戻したというのか。
自転車置き場で会った時は、確かに柴田の組織に関する記憶は消されていたはず。
この短時間に記憶全てを取り戻してしまうような、そんな素晴らしいきっかけでもあったのだろうか。
だとしたら、それはとても間が悪い。
明日にはここを出て、柴田からおさらばしようと思っていた藤本は、
小さく、誰にも聞こえないように舌打ちをする。
柴田の表情は、澄み切っていた。
「…どうしたのって、何をですか?」
無駄な事とはしりつつも、それでも肩を竦めてとぼけたフリをしてみる藤本に、
柴田は一歩、どこか引き締められた顔つきで、近づく。
- 455 名前:明日、柴田あゆみを組織に連れていきます 投稿日:2005/08/29(月) 11:09
- 「思い出したの、あたし」
「……」
「あれから、どうなったの?」
「……」
「ごっちんとよっすぃー、それに…」
「……村田さん?」
柴田が今まさに続けようとしていた名前をふいにさえぎった藤本に、
目を少し丸くさせた後に、柴田はこくんと強く縦に頷いた。
藤本にもう逃げる気はなかった。
というよりも、柴田の顔つきと態度が藤本の逃げ場をなくしたと言うべきか。
ちょっとため息をついて手を腰に当てた藤本に、
柴田は整然とした顔つきのままで、再度「どうしたの」と呟く。
どうしたの。
皆を、あれからどうしたの。
「殺した」
え、と。柴田が思わず呟いた。
この場に、長い沈黙が降ってでる。
アパートの一室の前で、和気あいあいとした雰囲気ではなく、というよりも、
どちらかと言えば険悪であるといった雰囲気で、
扉一枚を挟んだ二人はお互いを牽制しあうような目つきで固まっていた。
- 456 名前:明日、柴田あゆみを組織に連れていきます 投稿日:2005/08/29(月) 11:09
- 沈黙、沈黙、沈黙。くずれない。
まさか藤本の言葉がどういう意味か、わかっていないわけではないだろう。
おそらく驚きで、ショックで、完全に硬直したままぴくりとも動かない柴田に、
藤本は少しため息をついてから、ふいにぼそりと呟く。
「…ウソ」
「…………は?」
「ウソだよ、ブラックジョーク」
そんな藤本の言葉を瞬きをしながら聞く柴田のぽかんとした顔に、
我ながら少しばかり黒すぎたかな、と藤本は思った。
その目の前で、ふ、と。直接目で見て分かる程に、柴田の肩の力が抜ける。
「…じゃ、あ。…生きてるの?」
「うん」
「皆、生きてるの?」
「うん」
一瞬ほっと安堵の表情を浮かべた柴田はその後ちらりとだけ歯を見せて笑い、
よかった、と本当にそう心底思っている声色で、呟く。
そんな柴田がなぜだかとてもどこかに引っ掛かり、別に今言ってどうなることでもなんでもないのだが、
藤本はちょっと眉を上げてみせながら、わざと高飛車な態度で付け足した。
- 457 名前:明日、柴田あゆみを組織に連れていきます 投稿日:2005/08/29(月) 11:10
- 「…まあ、今は、だけどね」
その一言で、また柴田がすっと表情を改める。
そんな微かな変化を目の端に止めて、藤本は思った。
正直な人だなあ。いや、この場合は、真直ぐな人だと言うべきか。くすり。思わず笑う。
そんな藤本の様子には一切気づいた様子を見せず、
柴田はしばらく何かを考え込むようにふっと目を伏せてから、再度しっかりと藤本を見据えた。
「……ミキちゃんが」
「うん?」
呟くような、何かを確かめるような、何かにすがりつくような声色。
まるで、ねえ、そうだよね、と。都合の良い念を、希望を込めたような。
「……ミキちゃんが、助けてくれたの?」
みんなを。…あたしを。
そう声には出して続けずとも、藤本の耳にはその声がきちんと届いた。
さて、どうしたものか。
藤本は少しだけ、ぽり、と自分の頬を爪で引っ掻く。
- 458 名前:明日、柴田あゆみを組織に連れていきます 投稿日:2005/08/29(月) 11:11
- 後藤からざっと、本当にざっと話を聞いたとはいえ、
まだまだ巨大な組織の尻尾ほどしか知識としておさえていない柴田から考えてみれば、
なるほど。自分はいつ殺されてもおかしくない状況だったのだろう。
しかしそれがどうしてか、気づいてみれば助かっていたからといって、
その役所がこちらに回ってくるのはいかがなものか。
まあ、そんな思い込み方からも柴田の性格が伺えるといえば、そうなのだろうけれども。
(……ミキ、一回裏切ったんだけどな…)
わざわざスパイとして潜り込んで、あんなに堂々と裏切ったというのに、
それからまた身を転じて後藤側につくというのも中々よろしくない話だ。
それ以前に後藤達を騙していた時点で藤本はすでによろしくない人間なのだろうけれど、
それにしたって、一般的に考えてみればそんなことはすぐに分かるはず。
少しの間、間を置いて。
(……まあ、いいか)
とりあえず、そう思うことにした。
柴田が上手い具合に誤解してくれるのならくれるで動きやすいし、
オイシイところはなるべく取っておきたいというのがハングリー精神豊かな藤本のモットーである。
- 459 名前:明日、柴田あゆみを組織に連れていきます 投稿日:2005/08/29(月) 11:11
- そうと決まったからには、早速。
『みんなを助けた味方』のミキちゃんモードに入らなければならない。
苦手苦手とはいいつつも、何度も何度も、主にマツウラアヤによって演技せざるを得ない
状況においこまれたことですっかり身についてしまった演技力を披露するべく、
藤本は少し優し気に顔を緩めた。…ほら、口元のこの角度。素晴らしい。我ながら絶品だ。
「………ミキ、思ったんだ、あの時」
「え?」
「ほら。灰色のヒトタチに囲まれてさ。もう絶対逃げられないって思った」
ああ、なんてチョロいんだろう。
ここまで騙しやすい人間もいたものか、とさえ思ってしまうほど
それはもう素直な柴田の表情は藤本を信じ切っていて、藤本は心の中だけでにやりと笑う。
「一応、前もってミキは矢口さん達に『スパイになって潜り込む』って言っておいたんだ。
そうした方が動きやすいし、いざと言う時にあっちが油断してくれるじゃん?」
「…うん」
「だからね、ごっちん倒して。よっちゃんさんも倒して。
むらっちも倒して。しばちゃんも倒した後に、ミキ、頼まれたんだ。皆の輸送の仕事」
「……あ…じゃあ」
「うん。もうその時にはしばちゃんの記憶消されちゃってた後だったんだけど、
そのまま皆を安全な場所に連れてったってワケ」
よくもまあ、こんなにも次から次へと嘘が口をついて飛び出てくるものだ。
藤本は少し目を細めながら、自分自身に感動した。
- 460 名前:明日、柴田あゆみを組織に連れていきます 投稿日:2005/08/29(月) 11:11
- そしてまた、柴田の純粋さにも感動する。
藤本のことをこれっぽっちも疑っていないその表情。
これを演技で作れるというのなら、柴田の将来はハリウッドの大女優しかあり得ない。
にやり。また心の中だけで藤本が笑んだ時、
ふいに、「…でも、」と柴田が呟いた。
「じゃあ、なんであたしに本当のこと教えてくれなかったの?」
「…え?」
「ほら、自転車置き場で。会ったじゃない、あの時に」
「……ああ…」
流石に、そこを見逃してくれるほど抜けてはいないか。
ここまで上手く行き過ぎているほどに引っ掛かっているのだから、
どうせなら最後まで引っ掛かってくれればいいものを。
内心そんなことを思いながらも、前もって考えていたその問いかけに対する答えを、
藤本は少しばかり悲しそうな顔をして、『読む』。
「……ほんとはね、しばちゃん巻き込むの、イヤだったんだよ」
「ほんとは、ミキ達だけで片付けなきゃならない問題に、
ただ巻き込まれただけのしばちゃんをまた引っ張り込むのが、イヤだったんだ…」
「……ミキちゃん」
ほら、見て。あの柴田の顔。
まさか自分にここまで演技の才能があったとは。感動だ。
『ダイコンヤクシャ』などという、この藤本美貴の人生においてたった一つで史上最悪の汚名など、
引き剥がして破り捨てて丸め込んで投げ付けて返上してやってもいいかもしれない。
そうしたら気持ちがいいだろうなあ。返上された中澤の驚いた顔が目に浮かぶ。
- 461 名前:明日、柴田あゆみを組織に連れていきます 投稿日:2005/08/29(月) 11:12
-
「ありがとね、ミキちゃん…」
しかしそうするより前に、まずはこの、
一見やっかいに見えてとても簡単な任務を成功させなければならない。
「……でもあたし、皆に会いたい」
「皆に会って、もう一度話したい」
そう、淡々と。それでも意志を込めて呟く柴田。
「……しばちゃん…」
「会いたいよ……」
「会いたいよ……むらっちに」
すっと、柴田の長い睫毛が下を向く。
ここだ。藤本は思った。
ここで付け込む以外に、どうして柴田をもう一度組織へ連れ帰ることができるだろうか。
焦って会話のリズムを崩さぬ様、藤本は自然に見える深呼吸をした。
それから一度、口を閉じて。一歩前に踏み出して、優しく言う。
「…会えるよ」
そうして飛び出てきた声は、今まで藤本自身が聞いた事もないような声だった。
玄関においてあったサンダルに足を通して、扉の前に立っている柴田に向かって歩み寄る。
柴田の顔はうつむいたままで、藤本がその肩に手をかけると、
ほんの少しだけ視線をこちらに上げた。
微笑む、藤本。
- 462 名前:明日、柴田あゆみを組織に連れていきます 投稿日:2005/08/29(月) 11:12
- 「さっきも言ったじゃん。皆を安全な場所に連れてったって。
皆、無事だよ。ミキがしばちゃんを皆のとこへ連れていこうって思えば、
今すぐにだってしばちゃんを連れてける」
「……ほんとに?」
「うん。ほんと」
藤本がそう呟いたとほぼ同時に、少し柴田の顔が歪んで。
松浦が泣き出す時、直前によく似た表情をするのを思い出して、
安堵のあまり泣きだすのかと思ったが、どうやらなんとか持ち直したらしく。
ちょっと指の腹で鼻の頭を撫でた柴田は、二度三度瞬きをしてから、また藤本の顔を見る。
「……ありがと、ミキちゃん」
「んーん。全然」
「あたし…行きたい。今すぐ、皆のところに」
そう、すっと。
真直ぐに言い切った柴田の言葉を聞いて、藤本は内心ガッツポーズをした。が、
ここで事を焦っては、それが失敗のモトになるのだ。
これまでの苦い経験、主にマツウラアヤによってもたらされた苦い経験を一瞬で
全て思い出した藤本は、何かを諭すような様子で少しだけ首を横に振ってから、言う。
「しばちゃんが皆のところに行きたいっていうのは、分かったよ」
「……」
「でも、焦っちゃダメだ。ミキ達が追われてるっていう状況には変わりないんだから、
何をするにも用心深くならなきゃいけない」
「……うん」
神妙な顔つきで頷いた柴田に、藤本は「ね、」とその肩をたたく。
「もしかしたら、もう一回みんなと一緒に逃げ回らなきゃいけないかもしれないんだし。
一応、だけどさ。前もってその準備しておいてからでも、動くのは遅くないんじゃないかな」
- 463 名前:明日、柴田あゆみを組織に連れていきます 投稿日:2005/08/29(月) 11:13
- 少なくとも、今ここにミキ達がいるってことは組織にばれてないんだから。
そう付け足した藤本の言葉を聞いて、柴田は少し黙った後、そうだねと呟いた。
藤本のことを完全に信じ切っている俯いた柴田の顔を見下ろしながら、藤本はべっと舌を出す。
(まあ本音言っちゃえば、『こっちの準備』しなきゃいけないからだけど)
葉巻のセット、まだ残ってたかな。そんなことを思った。
「…それじゃあ、あたし、一回帰るね」
「うん」
「……いつ、また来ればいい?」
「…早くて、明日」
「わかった」
返事をした柴田の顔には、また明日くると書いてあった。
「じゃあ、」と片手を上げて言った藤本に、柴田はただこくんと頷いて。
一歩一歩、何かを踏み締めるような足取りで立ち去っていく柴田の背中を見送りながら、
藤本はふと目を閉じて、「安倍さん」と呟いた。
「明日、柴田あゆみを組織に連れていきます」
かつんかつんと、音を立てる自分のつま先をじっと見つめながら歩く柴田は、
錆びれた階段を降りようとして、ふと立ち止まった。
自分のつま先の前に。誰かのつま先。
と、いうことは。
「……あ、すみません」
「……あ、いえ、こちらこそ」
目線を上げた先にいたのは、何やら深刻そうな顔をした八重歯の小さな女の子。
ものすごく、可愛い。
- 464 名前:明日、柴田あゆみを組織に連れていきます 投稿日:2005/08/29(月) 11:13
- (…こんな子、このアパートにいたっけなあ)
そんなことを思いながら、ふっと更に下へ目線を下げると、
見覚えのある。
灰色の、コート。
「……なん、で」
思わず、そう呟いて。ぎゅっと自分の襟元を握りしめた。
なんで。どうして。
藤本は確かにこの場所はまだばれていないと言った。
藤本が気づいていないだけだったのか?それとも、タイミング悪く別の用事で?
そう次々と別のことを考えてから、たとえ灰色の人物がやってきたのがどういう理由だろうが、
柴田はとにかく、すぐに踵を返して藤本のところへ走り出すべきだと気がついた。
自然と心臓が打つリズムが速くなっているのを感じながら、
それでも柴田がばっと身を翻した、その時に。
がしり。柴田の手首を掴む、冷たい手。
「……めっずらしいなあ。今日はなんや、ビックリ人間にしか会ってないんちゃうん」
「え、なんで?なんで見えるの?やっぱり見えてないのあっしだけ?」
「おちついて愛ちゃん。大丈夫、あたしとのんちゃんと柴田さんが天才的なだけだから」
「亜弥ちゃん、それフォローになってない…」
- 465 名前:明日、柴田あゆみを組織に連れていきます 投稿日:2005/08/29(月) 11:14
- 柴田の手首を掴んだまま、長々とそんな賑やかな会話をしている声の多さに、
柴田は冷や汗をかきながらも、おそるおそる振り返る。
まず目に入ったのは、先ほどと変わらない。八重歯の可愛い女の子。
その後ろから、ちらりとだけ覗く灰色の帽子に、灰色のコート。
それから…そう、それから。
「しーばたさんっ」
「お久しぶりですー」
「……亜弥ちゃん、愛ちゃん…?」
ふっと、自分でもはっきりと分かるくらい、全身の力が抜けた。
高校の時の後輩だった二人の顔を目にして、柴田は安心すると同時に、戸惑いを覚える。
灰色のコートは確かにまだ、風に揺れている。
なぜこの子達が一緒にいるんだろう。なぜこの子達と一緒にいるんだろう。
ふっと後藤の話を思い出して、まさか時間を奪いにきたのかと考えたが、
それにしてはいくらかフレンドリーすぎるような気も、する。
と、いうか。
- 466 名前:明日、柴田あゆみを組織に連れていきます 投稿日:2005/08/29(月) 11:14
- 「みて、柴田さんっ見える?この子、あたしの友達!あいぼんって言うの」
「どーも。初めましてっつーか、柴田さん?みたいな有名人に会えて感激ですわー」
「……ゆう、めいじん?」
「そ」
言いながら、柴田の手首を掴んだまま、つかつかと歩み寄ってくる灰色の彼女。
本能的に身構える柴田に、ほんの少しだけくすりと笑って。
にいっと歯を見せながら、全く悪びれない様子で、彼女は言った。
「後藤真希達と一緒に大脱走した人間やー、ゆう、な」
やはり。
その言葉を聞いた瞬間、ぞっと鳥肌がたった。
一刻も早く、藤本に教えなければ。組織からの追っ手が来たと、そう、教えなければ。
そう瞬間的に判断した柴田がぐっと力強く掴まれている手を引くけれど、
小柄な彼女は少しも全くびくともせずに。
それどころか、まだ歯を見せて笑ったままで。
言ったのだ。
「あんた、騙されてんで」
- 467 名前:鳥 投稿日:2005/08/29(月) 11:20
- >>452
こちらこそ、待っていただいてありがとうございます。
最初からですか!うわ、大変じゃないですか?w
村柴はかわいいですよねー。
私もこの二人が好きなので結末をどうするか未だに悩んでたりします、はい。
>>453
ありがとうございます。がんばって完結させますよ!
- 468 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/07(水) 06:43
- ここで合流するのか〜!
う〜ん、やっぱり面白いです。
- 469 名前:隆 投稿日:2005/09/14(水) 17:23
- 最初から読みました。オモシロいです。作者さん頑張って下さい。
- 470 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 04:09
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
Converted by dat2html.pl v0.2