Tokyo Killing City W

1 名前:MU 投稿日:2004/08/08(日) 12:53
【注意事項】

この小説は残虐な表現が多く使われています。
人によって気分が悪くなったり、嫌悪感をもたれる場合があります。
そのため、何かレスする場合は、必ずメール欄に ochi と入れてください。
人によっては、かなりの嫌悪感を持たれると思います。
したがって、読まれる場合は、その点をじゅうぶんに承知してください。
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 13:29
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:17
―1―

スーパーマーケットに並ぶ食材をカゴに入れ、彼女は夕飯の献立を考えていた。
同居人の紺野あさ美は、ラーメンなら3杯は軽いという大食家である。
彼女は看護師という仕事柄、平均的なOLより収入こそあったが、
それほど贅沢ができるほど、裕福でもないのが現状だった。

「子持ちししゃも―――」

彼女は鮮魚コーナーで、子持ちししゃもを手にとると、
それを凝視しながら、頭の中で想像し、思いをめぐらせた。
焼酎のお湯割りを飲みながら、カリッと焼いた子持ちししゃもを食べる。
魚肉の甘さと頭部のホロ苦さ。まったりとした魚卵の味わい。
仕事で疲れた体と心を癒すには、まさに至高の一品だ。

「―――あ、ままかり」

「ままかり」とはイワシの酢漬けであり、これもまた美味である。
こちらは焼酎よりも、日本酒の方がマッチするだろう。
これをおかずにすると、いくらでも食がすすんでしまい、
米を近所から借りなくてはならなくなることから、
「ままかり」という名前がついたと言われていた。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:19
「―――迷っちゃうな」

飯田は「子持ちししゃも」と「ままかり」を持ち、どちらにしようか考える。
どちらも数百円といったものだったが、その値段が問題なのではない。
彼女にしてみれば、どちらの方が精神的・肉体的に癒されるかだった。
人が生きて行くうえで、どうしても避けられないのが「食」というものだろう。


  ◆      ◆      ◆      ◆      ◆


スーパーマーケットから彼女の住むアパートまでは、歩いて10分くらいである。
商業地帯から住宅地への間には、騒音などを避ける意味で公園や駐車場があった。
準夜勤が終わって家に帰ると、すでに日づけが変わってしまっている。
彼女はそんな仕事を、もう3年も続けているのだった。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:20
「うー、寒い」

彼女は昨年、鶯谷病院を辞め、今は救急病院で働いている。
夏医師の引きぬきもあったが、彼女は人生の終着駅である老人病院よりも、
整形外科外来の多い救急病院に魅力を感じたのだった。
死をむかえるために入院する患者とちがい、救急病院の入院患者は、
ケガを治して社会復帰しようとする活力があったのである。
まだ若い彼女にしてみれば、活力のある現場の方が合っているだろう。

「ん? 」

商店街をぬけて公園にさしかかったとき、彼女は何かの気配を感じた。
公園の中を見てみると、暗くてよくわからないが、誰かがうずくまっているようだ。
こんな遅い時間に公園にいるのは、ホームレスかアベックと相場がきまっている。
まさか、この寒空の下で、野外プレイはないだろうが、圭織は気になってしまった。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:22
「何してるのかな」

逆光でシルエットしか見えなかったが、誰かが食事しているようだった。
こんな時間に公園で食事をするのは、ホームレスくらいのものだろう。
きっと、どこかのゴミ箱で、食べかけのハンバーガーでも拾ったらしい。
いささか景気が回復してきているとはいえ、
まだまだ中高年のリストラ組にはきびしい現実があった。

「看護師でよかった」

こうした不景気の中では、何だかんだといっても、手に職を持っているヤツが強い。
圭織の場合、あくまで看護師であり、転職といっても職場が変わっただけである。
優秀な看護師は、より労働条件や賃金のよい病院に移ってゆくものなのだ。
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:23
「あっと、焼酎はあったっけかな」

公園をすぎて5分ほど歩くと、圭織の住むアパートに着く。
彼女が階段をのぼろうとしたとき、背後から誰かが近づいてくる。
このところ、外国人犯罪も多く、圭織は反射的にふり向いた。

「圭織さん、お帰りなさい」

あさ美だった。圭織の顔から緊張がとけてゆく。
ところが、あさ美は洋服に黒っぽいシミはついている。
看護師である圭織は、それが血であることを見逃さない。
こんな夜更けに、少女が出血するとは何やら危険な感じがした。

「あさ美ちゃん、どうしたの? 」

「ああ、いや―――ちょっとコンビニに―――」

圭織と視線を合わさず、どこか怪しいあさ美の手の爪のスキマには、
赤黒く変色した血らしきものがこびりついていた。
何かいいしれない不安が圭織の頭を過ぎり、胸騒ぎがする。
圭織はあさ美を急かすように、急いで部屋に入って行った。
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:24
―2―

翌日、圭織はドアをノックする音で目覚めた。
すでにあさ美は学校に行っており、キッチンには朝食が用意してある。
昨夜は遅かったので、圭織は昼まで寝るつもりだった。

「もー、誰よ」

圭織は頭をガリガリとかき、目をこすりながら起き上がる。
そして、ドアまで行って覗き穴から見ると、そこには2人の女が立っていた。
相手が女性であれば、それほど警戒する必要もないだろう。
圭織は寝起きの不機嫌な顔のまま、ドアを開けた。

「すんませんなあ。台東署の前田いいます」

いかにもといった感じで、目つきの怖い女が口を開いた。
昼間の都会の騒音とともに、外のまぶしい風景が目に入り、
圭織は顔をしかめて渋そうな表情になる。
その顔は誰が見ても、とても不機嫌のように映るだろう。
そんな圭織に気をつかってか、連れの女は笑顔で言った。
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:25
「同じく村田です」

2人の女は警視庁の職員証を提示し、それをしまう代わりにメモ用紙を出した。
どうやら、2人は事件の捜査か何かで、聞きこみをやっているらしい。
もう10時になろうとしているため、こんな季節でも、外はあまり寒くなかった。
それでもカゼをひいては困るので、圭織は近くにあったジャンバーを羽織る。

「そこの公園で事件がありましてな。もうニュースでご覧になりました? 」

「えっ? いえ、今まで寝てました」

圭織は相手が警察なら、強引な勧誘はないだろうから安心したし、
近所の公園で事件がおきたとは物騒なので、話をすることにした。
しかも、テレビで報道されるほどなら、きっと凶悪事件なのだろう。
自宅近くでの事件なら、早く解決してもらいたいものだ。
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:25
「ちょっとお話を聞かせてもらってるんです。飯田さんはひとり暮らしですか? 」

「いえ、親戚の子といっしょに―――」

最近では女性捜査員も増え、柔らかい対応で評判もいい。
だが、女性といえ警察官だから、鋭い目で話を聞く。
この鋭い目が人によっては、威圧的にうつることもあった。
圭織はあさ美を親戚の子供ということにしてしまう。
そうでないと、何かと面倒なことになるからだ。

「今日はお休みですか? 」

「いえ、看護師なもので、今日は夜勤なんです」

それを聞いた2人の捜査官は、顔を見合わせてうなずいた。
いったいどんな事件があったのか、圭織は知りたかった。
窃盗事件くらいなら戸締りに気をつければいいが、
強盗や婦女暴行といった犯罪なら、怖くてしかたない。
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:26
「あの、何があったんですか? 」

「―――殺人事件です」

「さ、殺人! 」

こんな静かな住宅街で、まさか殺人事件がおこるとは。
圭織は恐ろしさのあまり、しだいに顔が青ざめていった。
殴りあいがエスカレートして、相手を殺してしまうことがある。
そういった類のことならば、まだ話はわかるのだが、
殺人とは殺意があっての確信犯だから、恐ろしくてしかたない。

「もしかして、昨夜12時すぎに、あそこの公園近くを通りませんでしたか? 」

「と、通りましたけど」

圭織が肯定すると、2人の捜査員の表情が変わった。
瞳孔が開き、肉食獣が獲物を狙うような目つきになる。
その目に恐怖を感じた圭織は、自然と後ずさりを始めた。
そんな圭織を追いかけるように、捜査員は玄関に入ってくる。
ただでさえ近所で殺人事件があって怯えているというのに、
圭織は2人の噛みつくような表情が怖くてしかたない。
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:26
「そのときに、不審な人物は見ませんでしたか! 」

捜査員も興奮したのか、ついつい大きな声になった。
これまで、何の情報も得られなかったが、
ここに来て圭織が目撃者である可能性が大きくなったからだ。

「よくおぼえてません。―――そういえば」

「誰か見たんですね? 」

「ええ、公園の中で、誰かが何かを食べてましたね」

圭織は昨夜のことを思いだした。
彼女は直感的にホームレスだと思ったのだが、
今思うと、そうではなかったのかもしれない。
公園は暗かったし、圭織は早く帰って焼酎を飲みたかった。
だから、それほど記憶に残っているようなことではなかった。

「その人は男でしたか! 服装は! 」

「いや、逆光でしたから」

捜査員たちはもっと情報を聞きだそうとしたが、
残念ながら、それ以上は圭織もおぼえていない。
2人の捜査員は、圭織が見た状況をくわしく聞くと、
何度も頭を下げながら帰っていった。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:28
―3―

あさ美の通う都立浅草寺高校でも、その殺人事件は話題になっていた。
早朝に公園で発見された全裸死体は、近所に住んでいる20歳の人妻で、
この夏にも出産予定の妊婦だったという。
あさ美の家の近所ということで、同じクラスの亜依が心配している。
亜依とあさ美は中学からの同級生であり、とても仲がよかった。

「あさ美ちゃん、きっと犯人は捕まるよ」

朝の活気があるはずの教室も、あさ美には無機質な冷たさが感じられる。
たしかに東京の治安は悪化しているが、これほど身近な事件が起こると、
肉体的な力では男に敵わないためか、ひどく不安になってしまうものだ。
たしかに人間の歴史は殺人の歴史。人間とは互いに殺しあう生きもの。
それを否定するようなヤツは、救いようのない偽善者だった。
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:29
「はい、席につきなさい。前田先生は、カゼでお休みです」

そう言いながら教室に入ってきたのは、養護教諭の保田圭だった。
不幸な過去を持つあさ美のことを知っている数少ない人のひとりだ。
保田はこの春から、浅草寺高校の養護教諭として働いている。
かつて、圭織と同じ、鶯谷病院に勤務していたこともあった。

「学区内で殺人事件がありました。くれぐれも注意するように」

これだけ猟奇的な殺人犯だったが、まだ逮捕されていない。
警察では怨恨による事件だと判断し、市井紗耶香の交友関係を捜査している。
若い女が殺されたのだから、浅草寺高校でも、教師たちはピリピリしていた。
校長からも下校時刻を厳守させ、遅くならないようにとの通達が出ている。
高校は義務教育ではないが、責任問題に発展するのを極端に恐れていた。
それが公務員であり、サラリーマン化した教師の実態だった。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:30
「朝のHRはこれで終わります。1時間目は体育ですから、急いで着替えるんですよ」

そう言うと、白衣を着た保田は、無表情なまま教室から出ていった。
あさ美や亜依たち女子生徒は、更衣室へ行って着替える。
そこは女性教諭も利用する場所であり、あさ美たちが入ると、
中では家庭科教師の戸田鈴音が、とても疲れた顔で着替えていた。

「あいぼん、最近、ポヨポヨになったね」

「スカートはけないの。困ったなあ」

「妊娠したの? 」

誰かがポツリと言ったことが、波紋をよぶことはままある。
しかし、それが亜依の処女性、さらには人格まで疑うようなことに、
本人を無視して発展してしまう可能性がある言葉だった。
その証拠に、戸田は驚いた顔で亜依を見つめている。
これが女子高生特有の、きつい冗談であるとはわかっていたのだが。
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:31
「あはははは――――」

無邪気に笑う亜依が妊娠しているなどとは、誰も思っていなかった。
今どき高校2年生にもなって、亜依ほど幼い子も珍しい。
多くの女の子たちは、少なくとも中学時代までに太る時期を経験し、
高校生ともなれば大人の体となっていた。
ところが、亜依はどういったワケか、高校生になってから太りだした。

「―――」

戸田ははしゃぐ女子生徒たちを睨みつけ、更衣室を出ていった。
女子高生の着替える時間が長いのは、こうしたおしゃべりがあるからだ。
服を脱いで着るだけのことだから、黙ってやれば5分とかからない。
「着替えの時間が長い」と指摘されても「女の子なんだからしょうがない」
と、権利ばかりを主張するので始末がわるかった。
17 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:31
「あいぼん、ずいぶんよくなったね」

「―――うん」

亜依の足首に残る醜いケロイドの痕。
それは、恐怖と悲しみを味わった心の傷だった。
殺された3人の少女たちの霊は、亜依に救いを求めたが、
あさ美の霊能力によって、霊界へと導かれていた。
だが、親友の希美だけは、亜依に食欲を残して行ったらしく、
その霊障が激太りの原因だとも考えられる。
それ以前に、亜依は甘いものが大好きだったのだが。
18 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:32
―4―

市井紗耶香の司法解剖には、犯罪心理学のエキスパートとして、
監察医のほかに、鶯谷病院から夏まゆみ医師が呼ばれていた。
被害者の皮膚から指紋採取が行われると、いよいよ執刀となる。
まずは、被害者の全身をくまなく調べることから始まった。

「殴打痕は―――臀部にあるのは、倒されたときのものと思われる」

コンクリートの壁に声が反響し、とても冷たく感じられる。
監察医が言うことを、見習いの医師たちがメモしてゆく。
内出血の状態から、どういった角度で倒れたのかがわかってくる。
それを証明するために、足を払われた痕や上半身を押された痕を探すのだ。
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:33
「鼻骨が折れてるな。でも、殴られた形跡がない」

監察医は被害者の顔面を詳しく調べてゆく。
内出血や手形などと照合して、顔面を捉まれたと判断する。
そして、その証拠は後頭部にあった。
被害者の市井紗耶香は、犯人によって左ヒザを横から蹴られ、
顔面を捉まれたまま、地面に後頭部を叩きつけられたのだ。

「後頭部は―――開いてみないとわからないな」

被害者の後頭部には、直径が5センチ近い内出血がある。
死体発見現場の地面は土だったが、これほど強く叩きつけられれば、
脳震盪、あるいは脳挫傷の可能性もあった。
しかし、死斑の状態や出血量からして、直接の死因は出血性ショックだ。
執刀前の死体を、見習い医師が写真に収めてゆく。
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:33
「漁に使う手カギのようなもので裂かれてるな」

被害者の下腹部は、20センチほど裂かれていた。
この傷が致命傷になったのは、ほぼ確実だと思われる。
監察医が傷を広げると、腹筋まで破壊されていた。
これだけの損傷を与えるには、かなりの力が要求される。
凶器にもよるが、男の犯行にまちがいないだろう。

「変質者による犯行かな。口腔内・膣内・直腸内の検査を」

監察医は見習い医師たちに、陵辱された形跡を調べさせる。
その間、彼は被害者の乳首から唾液を採取しようとした。
そして、解剖ではめずらしく、乳房を切開し始めたのである。
妊婦特有の黒ずんだ乳首・乳輪にメスが入ってゆく。
21 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:34
「妊娠30週だから、まだ乳腺が発達途上だな。これじゃ搾乳しても出るのは微量だ」

「体液は検出されません。陵辱された形跡もありませんでした」

外観からの検査がすむと、いよいよメスを入れて全身を調べることになる。
鎖骨のあたりから、Y字にメスを入れてゆく。まずは皮膚を切り続いて筋肉。
毛細血管に残った血液が、うっすらとにじみ出てきた。
一気に恥骨まで切られ、腹筋の圧力を失った腸がこぼれてくる。
そして、むきだしになった胸骨を、大きな植木バサミのようなもので切断してゆく。
そこには、人間としての尊厳など存在せず、死体は「もの」にすぎない。
法の名の下でのセカンドレイプは、被害者の内臓までおよぶのだった。

「心肺に異常は認められない。気胸、梗塞はなし」

肝臓や腎臓、脾臓、膵臓が摘出されてゆく。
寝台の上に薄目を開けて横たわる市井紗耶香。
医師たちが内臓を摘出するたび、その頭部が揺れた。
そんな市井紗耶香の顔を見ながら、夏医師は深くため息をつく。
22 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:35
(あなたは誰に殺されたの? お腹の赤ちゃんは、どこに行ったの? )

続いて子宮と卵巣が摘出され、詳しく検査される。
子宮はひき裂かれており、胎盤ごと胎児が引き剥がされていた。
そして、いよいよ消化器系の検査をすることになる。
胃の内容物を調べることで、死亡推定時刻が割りだせるし、
胃壁の状態で、どれほどのストレスを受けたのかもわかった。

「こいつはすごいな」

監察医は胃壁がボロボロになっているのを見逃さなかった。
これほど激しいストレスを受けるというのは、尋常では考えられない。
それは発狂してもおかしくないくらいのストレスであり、
胃のところどころに穴が開きかかっていた。
長時間、輪姦されて殺された死体であっても、ここまでにはならない。

「教授、ここが大出血の原因じゃないでしょうか」

摘出された子宮を調べていた見習い医師は、剥がされた胎盤の部分を指摘した。
そこには数ミリの動脈があり、どうやらそれを傷つけたらしい。
監察医がうなずくと、見習い医師たちは何枚も写真をとってゆく。
23 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:36
「よし、開頭しようか」

最後は頭蓋骨を開け、脳の状態を調べる。
死因は出血性ショックによる心肺停止なのだが、
数パーセントの確率で、外傷性の延髄損傷も疑われた。
監察医は後頭部にメスを入れ、頭皮をはがしてゆく。
やがて、頭蓋骨が半分以上出ると、電気ノコギリの出番だ。
けたたましい音をたて、頭蓋骨が切られてゆく。

「出たぞ。ここからが腕の見せどころなんだ」

薄ピンク色の脳が露出すると、監察医は慎重にほじくり出す。
血管を切りながら、最後に脊椎神経を切断すると、脳がポトリと落ちてくる。
このゲンコツ2個分のタンパク質の塊が、人間である証拠の器官だった。
24 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:37
「脳神経に損傷は確認できず。夏先生、何かありますか? 」

「―――行政解剖じゃないんだからさ。もっと死体の声に耳をかたむけましょうよ」

夏医師はレントゲン写真を見ながら、そう指摘した。
専門は精神科だったが、外科医としても有名な夏医師である。
彼女は市井紗耶香の右手首にある、ほんの少しのヒビを見逃さなかった。
ただ、それが転倒したとき、反射的に手をついたものか、
犯人に殴られたものかまではわからない。

「そういえば、右手は血まみれでしたからね」

夏医師はレントゲン写真を見ながら、右手にマーカーをつけた。
そして、それを凝視しながら、ふと、あるものを発見する。

「これは足跡じゃないですかね」

発見現場では足跡が多いため、どれが犯人のものかわからなかった。
被害者にこれほど出血があるというのに、犯人は血痕を踏んでいない。
だが、被害者の手首にある足跡ならば、ほぼ確実に犯人のものだろう。
25 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:37
「おお、蹴られたんじゃないな。踏まれてる」

「性的被害がないからって、男の犯行じゃないって証拠にはなりません。
胎児を略奪しているんですから、まともな神経じゃない」

さらに夏医師は、市井紗耶香の右手指の関節が、変形していることに気づいた。
死後硬直によって手指が折れる場合もあったが、これは生体反応がありそうだ。
ということは、被害者は何かを力いっぱいにつかんだのだろう。
それが犯人の衣服である可能性は大きい。

「爪の間からは繊維片と組織片、これは微量なんで、被害者のものでしょうね」

「それは、私たちが決めることじゃないでしょう? 」

夏医師は若い見習い医師に注意した。
監察医の仕事は、あくまで死体から証拠を得るだけだ。
爪の間にあったものについては、科学捜査研究所で解析される。
それが監察医に求められた仕事だった。

「検査をするもの以外は戻して縫合だ」

監察医の指示にしたがって、見習い医師たちが臓器をもどして縫合を始める。
ここまで損壊しないと、彼女の命を奪った犯人を逮捕できないのだろうか。
26 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:39
―5―

浅草寺高校では、女子生徒に対し養護教諭の保田による授業が行われていた。
性に対するモラルの低下とともに、若年層の堕胎率が急増している。
そうした状況に歯止めを打つため、都立高校では授業に避妊方法を盛りこんだ。
頭のかたい連中は、そうなると性のモラル低下に拍車をかけるとモンクを言うが、
そんなことを言っている場合でないのは、火をみるよりあきらかだった。

「生理が始まって14日目が排卵日というのが一般的ですね」

保田は28日周期の月経を基準に、排卵日、つまりオギノ式を説明する。
ただし、これはあくまで統計であり、避妊に利用するにはアバウトすぎた。
本格的に避妊をするのなら、やはり経口避妊薬か子宮リングを使うしかない。
コンドームを避妊具として使う人も多いが、本来の目的は感染予防なのだ。
27 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:39
「20日以降は妊娠する確率が低くなるだけで、けっして安全じゃないのよ」

現在はカンタンに出産したりしているが、昔はそれこそ命がけの作業だった。
人間は約1年も早産で生まれてくる。そうでないと、母体がたえられないのだ。
出産は母親と新生児が、生きるために命をかける戦争だったのである。
その戦いに勝ったものだけが、幸せな家庭を築くことができたのだった。

「もう、男に避妊を要求する時代じゃないの。避妊は女が先行しないとね」

保田は女性用コンドーム(ペッサリー)やゼリーとオギノ式、
基礎体温法を組み合わせたもので、妊娠の確率を少しでも低くする方法を紹介した。
最近では性感染症が激増しているため、これを防ぐには男がコンドームを使うしかない。
経産婦にはリングを勧める医師も多いが、女子高生に勧めることはありえない。
感染症を防止する上で、夫婦間だけに勧められるという経緯があった。
28 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:41
「それじゃ、妊娠したらどうなるか説明しようか」

保田は黒板に「出産」と「中絶」と書いた。
女性と胎児に対する優生保護法によると、
妊娠した女性は基本的に出産することが義務づけらていれる。
ただし、例外的に遺伝性の疾患や強姦されて妊娠した場合、
堕胎しないと母体が危険な場合などにかぎって、
定められた人工中絶手術を受けることができるのだ。
「女には産む権利、産まない権利がある」なんてのは妊娠以前の問題である。
しかし、医師にしても商売であるから、そういった理由以外でも、
患者が望めば中絶手術を行っているのが現状だった。
29 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:42
「中絶するには、未成年の場合、保護者の同意が必要です」

保田はここで、中絶というのはどういうことか、ビデオを見せながら説明した。
週数に関係なく、生命あるものを殺す行為。それが中絶というものである。
器具によって破壊された胎児の映像に、誰もが嫌悪感を示した。
中には目をおおう生徒もいたが、これが現実なのである。
かつて、女に生まれたことが罪であるという考え方があった。
こうした現実に直面する女性が、宗教に走ったのもしかたないことだろう。

「これが堕胎器具です。これで赤ちゃんの体をつかんで引きずり出すんです。
赤ちゃんは必死になって暴れます。『おかあさん、やめて! 殺さないで』って」

保田が堕胎器具を見せながら話をすると、すすり泣く声が聞こえてくる。
小さな命を慈しむ気持ち、母性というものがあれば、
堕胎が最終手段であることをわかってくれるだろう。
保田はそう思ったのか、笑顔になって手に持った堕胎器具を置いた。
30 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:43
「中絶したという過去は、きっとその子にとって罰なんでしょうね。
でも、その子は一生、自分の赤ちゃんを殺した罪を背負って行くの」

保田の説明は、みんなの心に響いているのだろうか。
この中の1人だけでも、わかってくれればいいと彼女は思っていた。

「次に、出産する場合だけど、これも親が知ることになります」

精神的に自立する時期の女子高生に、親という言葉を出すと効果覿面だ。
出産にしろ中絶にしろ、親に知られずにできると思っている子が多い。
しかし、20歳になるまでは、基本的に親の保護下に置かれているのだ。
まして、相手も未成年であれば、事態は最悪となってくる。
31 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:43
もう知ってると思うけど、男は18歳にならないと結婚できないの。
相手が18歳未満の場合は、認知してもらうことしかできないのよ」

どういったワケか、責任とって結婚となると潔い男も多いが、
認知だけとなると、往生際が悪くなるのが多いものだ。
親や知人に知恵をつけられ、人生を棒にふるといった気持ちがあるのだろう。
認知と結婚は別問題だから、さんざんゴネて相手を怒らせてしまい、
ほんとうに人生を棒にふる愚かな男もいる。

「まず、高校は中退しないといけないわね。妊婦に高校生活はムリだから」

定時制などへの編入も可能だが、母子のことを考えたら、ムリに通学すべきではない。
もちろん、体育の授業は受けられないので、卒業するまでに何年もかかってしまう。
出産後は子育てにおわれ、とても高校などに行っているヒマがない。
パートナーや両親に理解があれば、ごくまれに、定時制を卒業する子もいるという。
32 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:44
「目標は出産じゃありません。出産はあくまで通過点です」

保田は出産後の子育てや社会復帰について説明する。
育児ノイローゼの多くは、専業主婦が患っているのが現状だ。
あまりにも若い母親は、どうやって子供を育てていいかわからない。
昔は近所のババアが、いくらでも子育ての方法を伝授してくれたのだが。

「だから、興味本位や快楽だけで、セックスなんかするんじゃないのよ」

感受性の強い年ごろの女子生徒たちは、マジメな顔で大きくうなずく。
次に、保田は飲酒や喫煙、薬物による胎児への影響を説明する。
とくに薬物は、胎児に深刻な影響をおよぼすことがあり、
保田はその危険性を真顔でうったえた。
33 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/08(日) 17:44
「これはベトナム戦争のとき、アメリカ軍が散布した枯葉剤の影響による奇形です」

保田は戦争が胎児におよぶことを説明した。
こうした弱者が被害にあう。それが戦争なのである。
子供や非戦闘員の女性に、いったい何の罪があるのか。

「東南アジアやアフリカでは、少女売春が行われています」

保田の話は少女売春にまでおよんだ。
ニーズがあるから少女売春は存在するのだが、
極貧世帯では口減らしのために、娘を殺すか売るかしかない。
先進国の常識だけでは、解決しない問題があった。
34 名前:MU 投稿日:2004/08/08(日) 17:47
初日更新終了。
書きあがりしだいうpします。
35 名前:七誌さん 投稿日:2004/08/10(火) 12:11
おっ・・・!ここは・・・。
・・・・いいですねぇ〜、また来たいと思います。
作者さん、がんばってくださいね。
36 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/17(火) 00:50
ochi
37 名前:MU 投稿日:2004/08/21(土) 19:00
>>35
有賀党です。
完結めざしてがんがります。
38 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/21(土) 19:01
―6―

事件はワイドショーでもとりあげられ、この猟奇的な殺人事件を大きく報道していた。
関係者の話しや尋問を受けた人から取材し、不審人物の似顔絵まで作成している。
犯罪心理学の権威だとかで、りっぱな名前の大学教授が司会者とイスを並べていた。

「胎児を持ち去ってるということは、被害者に対して激しい憎悪があったんですね」

犯罪心理学の権威は、犯人を30代の屈強な男というプロファイリングをした。
腹を手カギでひき裂くのだから、男の中でも力が強いものの犯行だという。
司会者もシロウトなので、何を聞いていいのかわからない。
そんな低次元なやりとりを見ていた保田は、莫迦莫迦しくてあくびが出そうだった。
犯罪心理からさまざまな臨床例を研究していた夏医師の下で働き、
門前の小僧習わぬお経で、保田にも犯罪心理の基本が備わっている。
問題は手カギを使える男なのではなく、なぜ手カギを使ったかなのだ。

「えらい人でも、こんなもんか―――」

一般的に考えれば、人の腹を裂くのなら、刃物を使った方がいいだろう。
刃物というのは、力を使わずにものを切るための道具であるからだ。
それを、あえて手カギを使うという蛮行には、どういった意味があるのか。
そういったレベルに到達してこそ、初めて犯罪心理学と呼べるのだ。

「警察では変質者の犯行とみて捜査していますが―――」

変質者とは便利な単語で、こうした猟奇的な事件では多く使われる。
しかし、何をもって「変質」というのかは、きわめてあいまいだった。
「性癖は十人十色」と言われるように、正常と異常の区別もむずかしい。
法律というガイドラインも、多数派の利権関係に左右されていた。
39 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/21(土) 19:01
「犯人は被害者の身近にいると思いますよ」

公的な機関での発表とちがい、ワイドショーでは好き勝手に言える。
あくまで予想の域をでないのだから、無責任に話すことができた。
そんな低俗な番組を職員室のソファーに座ってみていた保田は、
ため息をつきながら、手に持った湯飲みのほうじ茶を飲む。
養護教諭などほかの教師にくらべて、ヒマなことが多かった。
保健室を利用する子供がいなければ、いくらでも時間を作れる。
多忙な看護師だったころを思うと、退屈にも思えてしまう。

「夏先生なら何て言うかな。あたしは狩られたんだと思うけど」

保田の考えはこうだ。
犯人は妊婦を狩ることでエクスタシーを感じる特異な性癖を持った者。
妊婦を狩った戦利品として、胎児を持ち去ったのである。
犯人の年齢は10代後半。非行補導歴なし。引きこもり気味。
もしかすると、ほかに共犯者がいるかもしれない。
なぜなら、不健康な若い男に、それほどの力があるとは思えないからだ。

「保田先生、生徒の前では―――お願いしますよ」

家庭科教諭の戸田に指摘され、保田は苦笑しながらうなずいた。
それでなくても、感受性が強い時期の子供たちである。
恐怖から登校拒否になるようなことが、もっとも危惧されていた。
事実、数十年前に北関東でおきた連続婦女暴行殺人事件のとき、
被害者でもないのに神経症をおこしてしまった女子高生もいる。
過度のストレスは精神ばかりか、肉体にも悪影響をおよぼす。
そのことは、保田もいくつかの症例を見て知っていた。
40 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/21(土) 19:02
「でも、この犯人、捕まるといいけど」

どこよりも役人気質をもつ警察では、捜査状況を記者クラブで公開することは稀だ。
とくに今回のような猟奇殺人の場合は、捜査員の誰もがかたく口を閉ざしている。
それはけっして、被害者や被疑者のプライバシー保護といった崇高なものではなく、
すべての上位に位置するという妄想を抱いた特権意識のあらわれだった。

「そういえば、保田先生は、紺野あさ美と以前から知り合いだったそうですね」

「ええ、それが何か? 」

「あの子は何か不気味ですよね」

あさ美が不気味なのは、あらためて指摘されるまでもない。
それが霊的なものであることは、誰もが知っていた。
だが、看護師をへて養護教諭になった保田にしてみれば、
そうした非科学的なことは、どこかで否定したかった。
ところが保田自身、ふつうの人よりも霊感が強いのである。
直接目撃したことはなかったが、「感じる」ことは多かった。

「そうね。ちょっと変わった子ですから」

保田はそう言いながら、不安そうな顔の戸田に首をかしげる。
もしかすると、芯の強い教師として有名な戸田であっても、
あさ美の放つ独特の雰囲気に呑まれていたのかもしれない。
それは保田もたまに感じることがあり、あさ美と視線が合うと、
意味もなく全身に鳥肌がたったりすることがあった。
41 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/21(土) 19:02
「その、具体的には、どんな力を? 」

「専門用語で言うと超心理学。心霊心理学的要素の強い力だと思いますね」

西洋医学では、古くから手術や薬品による治療が行われてきたが、
精神医学は最近になって、ようやく認められた分野である。
そのせいか、未知の部分が多く、いまだに多くのことがわかっていない。
欧米では特殊能力の研究が行われており、超心理学という分野ができていた。

「というと? 」

「霊能力って言った方がわかりやすいかな? 一種の超能力ですね」

超能力というと、とんでもない力を連想するものだが、
古代の人間は誰でも持っていた力であるといわれている。
現代人は道具を使うことをおぼえ、そういった能力が退化しているのだ。
たとえば、身にせまる危険を事前に察知したり、卓越した身体能力。
こういったものも、超能力の範囲に入れていいだろう。

「―――」

「原人は300キロの岩を持ち上げられるそうです。これも超能力ですよ」

身体的には退化した人類であっても、古代人類の遺伝子を継承しているのだから、
現代人には想像できないような能力が潜在していても不思議ではない。
極寒のツンドラ地帯から、昼夜の温度差が50℃もある砂漠地帯にまで、
人類は驚くべき対応力を発揮して生息しているのだ。
これほど広範囲に生息する動物など、ほかに存在しない。
42 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/21(土) 19:03
「あの子の姉にも、特殊な能力がありました」

あさ美の姉であるなつみは、関西の不良である中澤裕子や寺田光男たちに、
レイプされたあげく性器にビンをつっこまれ、疾走する車から放り投げられた。
その結果、なつみは子供を産めない体になったばかりか、精神を病んでしまう。
同僚の看護師だった飯田の話は無視していたが、保田はなつみの能力に驚いていた。
稲葉貴子・平家みちよ・寺田光男・中澤裕子が殺されると、それに反応したからである。
思い出したくもない、じつに悲惨な事件だった。

「あたし、何か怖くて」

戸田はこうした話が苦手なのだろう。
ソファーに座っている保田にも、戸田の顔色が変わるのが見えた。
たしかにあさ美は不思議な子だが、かわいらしい顔をしているし、
顔色が変わるほど嫌悪感を持つ雰囲気もない。
ただ、その手の話を生理的に嫌う人もいるので、
きっとそうなのだろうと、保田は苦笑しながら渋茶をすすった。

「恐れるほどの子じゃないわ。いい子ですよ」

保田は窓の外に目をうつし、あさ美の顔を思い出してみる。
日中は暖かいが、夜になると真冬にもどってしまう。
そういえば、初めてあさ美に逢ったのも、こんな季節だった。
あのころ、あさ美は中学2年生で、今よりも幼い顔をしていた。

「それはわかってるんですけど―――」

日中は暖かい日が続き、そろそろ桜の芽が出てくるだろう。
そんなうららかな陽気とは逆に、戸田は憂鬱な顔をしていた。
43 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/21(土) 19:03
―7―

圭織が住むアパートのあるとなり町では、乗用車とバイクの接触事故で、
パトカーと事故処理車、救急車が出動していた。
極寒の季節は去ったものの、気温の低下は空気を凍えさせ、
星をまたたかせ、そして人を震わせている。
その事故現場から住宅街へ、ひとりの少女が早足で歩いていた。
すでに、深夜になろうとしているのに、彼女はひとりで外出している。
それが危険であることは、彼女にもわかっていただろう。

「寒い」

どうやら、その少女は亜依のようである。
なぜ亜依がこんな時間まで外出していたのか。
それは塾だとか、寄り道をしてただとか、
もっともらしい理由はあるのだが、
そんなことを知る必要などないのである。
なぜなら、そんなことを知ったところで、
彼女の運命は、もう決まっていたからだ。
この小柄な少女に罪があったわけではない。
そう。彼女には罪ではなく、油断があった。
サバンナでなければ、油断は命取りにならないだろう。
ただ、ここには彼女を狙う肉食獣がいた。

「ふー」

澄みきった夜空に、遠くの雑踏がフランジャーをかけたように、
どこか間のぬけたような音で、大都会に拡散していた。
このホワイトノイズこそが、大都会であるという証拠だった。
44 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/21(土) 19:04
「そこのポチャポチャッとしたカノジョ。乗ってかない? 」

亜依に声をかけたのは、シルバーのアルトに乗った男だった。
せめてワゴンRならナンパに使えるだろうが、アルトは不向きもいいところ。
しかも、男は髪を染めていても、つけ根には白いものがチラホラあった。
東京という街は、こうした田舎者がやってくることが多い。
田舎者だと隠すために、最新のファッションを着飾る者もいる。
それは滑稽であさましく、ときによって愚鈍な感じすらした。

「ごめんね。家、すぐそこなの」

亜依はウソをついた。彼女の家までは、まだ10分以上歩かないといけない。
しかし、家が近所ということは、ナンパされたときにはいい断りモンクだ。
どんなにやりたい盛りの男でも、女の家の近所では拉致れない。
若い女には、そうした恐怖があるのだが、これから起こることにくらべると、
そんなことは他愛もないことだった。

「そうなんだ。じゃあねー」

男は断られたことをものともせず、笑顔で行ってしまった。
軽い男で助かった。粘着な男だと、しつこく誘ってくる。
後にひけなくなった男が、女性を拉致することも珍しくない。
それを数人でやられたら、女性などひとたまりもないだろう。
拉致されてレイプされるのも恐ろしいが、そんなことよりも、
死人に口なしのコトワザにしたがい、殺されてしまうかもしれない。
最悪はどこかの家に駆けこもうと思っていた亜依だったが、
あまりに潔い男だったため、どこか調子ぬけしてしまった。
45 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/21(土) 19:04
「ふう」

亜依は遠ざかるアルトのテールランプを見ながら、また歩きだした。
こんな時間でも、大都会は意外に雑音が多いものである。
自販機の音、車のエンジン音、そしてアスファルトの上を歩く足音。
あの猟奇的な事件から、そろそろ1週間がすぎようとしている。
報道をみるかぎりでは、まだ犯人の特徴すらつかめておらず、
警察は合同捜査本部を設置したが、とにかく難航しているようだった。
まずは、被害者である市井紗耶香の交友関係から捜査しているだろう。

「こんな時間に一人歩き? 」

亜依は背後から話しかけられ、反射的にふり向いた。
その直後、亜依は気が遠くなるような衝撃を顔面に受ける。
倒れないように踏ん張るものの、視界がななめになっていた。
それは、殴られたというより、柔らかいもので突かれた感じ。
つまり、亜依は顔面に掌底をきめられたのだった。

「あうう―――」

亜依は鼻骨近くにきまった掌底のおかげで、脳震盪をおこしていた。
本能的に逃げようとするが、足が前に出ず、立っているのさえつらい。
彼女の視界にある光源は、焦点が合わなくなってぼやけて見える。
それが何とも美しく輝き、冷たい宝石のように見えていた。
ポタポタと生温かいものが、亜依のヒザにたれてゆく。
それが鼻血だということは、マヒした脳でも理解することができた。
そんな亜依の首をつかみ、悲鳴をあげさせないようにすると、
犯人はビニールシートに囲まれた改築中の家屋の中へと入って行った。
46 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/21(土) 19:05
「がっ! 」

コンクリートに叩きつけられ、亜依は全身の痛みを感じた。
下半身がしびれはじめ、右足が変な動きでケイレンしている。
どうやら、腰を強打して、腰椎が傷ついたためだろう。
それが深刻な状態であるのは、亜依にはわかっていない。
必死になって暴れてみるが、彼女の右足はケイレンしたままだ。

「や、やめて! 助けて! 」

亜依が叫んだせいか、いきなり顔をつかまれ、後頭部を地面に叩きつけられる。
一気に視力を失い、彼女は自分の脳内で、はげしい出血をする音を聞いた。
耳からも生温かいものがポタポタと落ち、彼女は初めて自分のおかれている状況を悟る。
急速に意識が低下してゆく中、彼女は下腹部に激痛を感じるが、身動きがとれない。
やがて、内臓を荒らされる感触がして、「チッ」と舌打ちする音が聞こえた。
すぐそこまで「死」がやってきているが、ふしぎと恐ろしさは感じない。
痛さや苦しさより、そこには「開放」といった感覚があった。

「―――しくじったか」

声の主はケイレンする亜依を蹴ると、イライラしたようにその場を後にした。
心肺停止状態になった亜依は、定期的なケイレンをくりかえし、
そのうち、まったく動かなくなってしまう。
寒風がビニールシートに当たり、何とも心細い音を放っていた。
47 名前:MU 投稿日:2004/08/21(土) 19:06
今日はここまでれす。
また、書きあがったらうpします。
48 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/24(火) 17:57
今回は前の続きからですか。
このシリーズは好きなのでがんがって下さい。
49 名前:七誌さん 投稿日:2004/08/26(木) 13:35
また来ちゃいました。
ここは私的に好きですね。
がんばってください!
50 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:13
ochiスレでも読んでくれる人が―――うれしいなあ。
いよいよ終盤にさしかかりますよー
51 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:14
―8―

腹を裂かれて悶死した亜依の無残な死体は、
翌朝になって工事現場にきた職人によって発見された。
絶望と困惑の表情でこときれた亜依の顔こそ、
女に生まれたことを後悔する表情だった。
半開きになったその目に、犯人の顔が焼きついている。
だが、それを確認することなど、今の科学では不可能だった。

「前田さん、不審な少女が目撃されています」

事件現場で捜査指揮をしていた前田に、村田がタイムリーな情報をもってきた。
深夜になると人通りの少ない場所であるから、その少女が犯人ではないにしろ、
何かしら手がかりになるものを見たり、怪しい物音を聞いた可能性がある。
これだけ証拠の少ない事件では、目撃者から話を聞くことしかできなかった。

「似顔絵を作成しや。その子に話を聞かへんとな」

前田と村田が話す横を、シートに包まれた亜依の死体が運びだされてゆく。
たった16年の生涯は、はたして彼女に存在の意味を与えたのだろうか。
昨日までは誰かといっしょに話したり、遊んだりしていたにちがいない。
そんなごくふつうの少女は、憎むべき犯人によって惨殺されたのだった。

「それじゃ、私は被害者の学校に向かいます」

亜依は司法解剖にまわされるが、犯罪被害者の行動は、同時に警察でも調べる。
それによって、具体的な死亡推定時刻を導きだし、捜査に役だてようというのだ。
血のにおいが充満する現場から出ると、村田は大きく深呼吸して歩きだした。
52 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:15


   ◆      ◆      ◆      ◆      ◆


浅草寺高校では、亜依が殺されたことによって、パニック寸前になっていた。
校長たちは責任問題に発展しないように、東奔西走して弁解を考えていたし、
生徒たちは昨日まで仲よくしてたクラスメートが死んで、深い悲しみに包まれている。
そんな中で、あさ美だけが教室の一点を見据え、体をふるわせていた。

「あさ美、あいぼんと仲よくしてたよね。―――何て言ったらいいか―――」

クラス委員のみうなが、あさ美の肩に手をやった。
すると、ものすごい念が、みうなの体を突きぬけてゆく。
そのせいか、脳内で何かがスパークし、みうなは気が遠くなる。
倒れかかった彼女を抱きとめたのは、あさ美だった。

「あいぼんとは、中学のときからいっしょだったの」

みうなが目を開けると、そこにはあさ美の顔があった。
悲しそうな顔。大きく見開いた目に、薄っすらと涙がたまってる。
だが、その奥に、背筋も凍るような恐怖の光があった。
みうなは本能的にあさ美を恐れ、間合いをとろうとする。
それが何なのか、まだ17歳のみうなにはわからなかった。

「お、お葬式には―――おそ―――ああ―――」

ついにみうなは気を失い、保健室へと搬送された。
やがて、教頭がやってきて、あさ美を校長室へと連れて行った。
53 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:15
「入りなさい」

校長室には校長などおらず、見知らぬ女性が立っていた。
痩身だが人を射抜くような目は、警察官ならではのものだ。
薄暗い校長室の中で、女はファックスの感熱紙を食い入るように見つめる。
そして、あさ美を見ると、確信したようにうなずいた。

「私は村田恵。刑事です。紺野あさ美さんね? 昨夜、どこにいたか言いなさい」

「―――私が疑われてるんですか? 」

素直に質問するあさ美の視線に混じって、非難するような教頭の視線があった。
そんな視線を送る教頭に、村田は威圧するような目だけで退去を促す。
ここで不当な行為がされないように、教頭としては見守っていたかった。
しかし、警官ににらまれては、今後の出世にも影響するだろう。
教頭は咳ばらいをすると、あさ美の肩をたたいて校長室を出ていった。

「疑うっていうより、話を聞きたいのよ。座りなさい」

あさ美がソファーに座ると、村田はファックスされてきた似顔絵を見せた。
それは、あさ美と酷似しており、言い逃れのできない状態にある。
よくここまで似せて描けるものだと、あさ美は感心していた。

「これはあなたね? 警察で話を聞こうか? 」

警官というのは、どうも自分たちのテリトリーで尋問したがる。
それが非合法な拷問などをして口を割らすという噂を生むのだ。
村田の威圧的な態度は、あさ美でも反感を感じた。
54 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:16
「私は何もしてません」

「ちょっと待ったー! 」

そこへ飛びこんできたのは、白衣を着た保田である。
昏倒したみうなを放りだして、話を盗み聞きしてたとはいい根性だ。
あまりにとつぜんだったため、村田とあさ美は驚いてしまう。
まさか、こんな状況で人が飛びこんでくるとは思わないからだ。

「紺野さん、これは任意同行です。行く必要はないわよ! 」

そんな保田の白衣を、教頭と戸田が引っぱっていた。
学校が捜査に非協力的だと、教育委員会から圧力がかかる。
生徒の人権などより、保身しか考えない公務員の姿だった。
どこか冷めた保田でも、あさ美だけは特別な存在である。
これだけ不幸な少女を、保田はこれまで見たことがなかった。

「捜査協力をしない気? そのことを記者会見で発表してもいいんだけど」

「脅すの? 」

「莫迦な。これは情報公開よ」

保田と村田は、今にも殴りあいになりそうな雰囲気だ。
この張りつめた空気では、何か言った人が悪者にされそうだ。
そんな空気を悟ってか、あさ美は保田に向かって首をふる。
それがどういった意味なのか、保田にはわかっていた。
55 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:16
「保田先生。私はあいぼんを殺したりしてませんから」

あさ美は捜査協力することで、亜依の敵討ちをしたかった。
自分が警察から犯人ではないかと疑われていたとしても、
それを晴らすことで捜査を進展させたかったのである。
村田としても、あさ美が犯人であるとは思っていない。
なぜなら、少女の力では人の腹など裂けないからだ。

「素直な子ね。知ってることを、せんぶ話してね」

村田は教頭を呼び、あさ美への事情聴取の説明をおこなった。
警察へ連れて行くが、けっして取り調べではないこと。
あくまで本人の意思で、捜査に協力してもらうこと。
容疑者ではなく、参考人としての尋問であること。
遅くなる場合は、保護者である飯田圭織に連絡すること。

「それじゃ、行こうか」

村田に促され、あさ美は警察に向かった。
保田は自分の無力さを痛烈に感じている。
こんな一市民が声をあげたところで、何が変わるわけでもない。
薄暗い校長室の中で、保田は肩をふるわせていた。
56 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:17
   ◆      ◆      ◆      ◆      ◆


あさ美の尋問は、前田と村田が交代でおこなった。
誰もあさ美が犯人だとは思っていなかったが、もしかして犯人を見た可能性もある。
疲れたあさ美を横にして、前田と村田は情報を整理していた。

「匿名の電話の件やけどな」

「ああ、紺野あさ美は犯人じゃないってやつですね? 」

電話をとった職員の話によると、若くて声が高い女だったそうだ。
2人はあさ美と同居している圭織を疑ったが、彼女の声はけっして高くない。
しかも、あさ美しか知らないようなことまで、電話の主は指摘していた。
そうなると、あさ美を監視していたか、真犯人ということになる。
2人は電話の主が事件のカギを握っていると判断していた。

「誰なんやろね。あぶりだしてみるか」

前田はコーヒーを飲みながら、電話の主を動かせる作戦を思いついた。
このままあさ美を帰宅させなければ、電話の主は必死になるだろう。
網を張っておいて、それにかかるのを待つだけでいいのだ。
窓の外には夕闇が迫り、しだいに気温が下がってきた。

「村田、紺野あさ美を洗いなおすんや」

今回の事件は謎の部分が多すぎる。
前田はあさ美を調べることで、何かがわかると思っていた。
57 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:18
―9―

圭織の仕事が終わったのは、夜の11時をすぎたころだった。
職場の仲間と大通りまで来て、スーパーで買い物をする。
このところ続いて猟奇的な事件がおこり、圭織も怖くてしかたない。
そんな住民の不安をやわらげようと、警察では毎晩、
パトカーやバイクによる巡視をおこなっていた。
しかし、それがどれほどの効果をあげるのか、
誰もが五里霧中といった感じだった。

「寒い」

コツコツという足音を響かせて、圭織は自宅のアパートへと向かっている。
やがて、市井紗耶香が殺された公園を通り、自宅の見える場所までやってきた。
すると、アパートの近くにとめた車から、2人の女が降りてくる。
あんな事件があったばかりなので、圭織は反射的に身構えてしまった。

「飯田さん、警視庁の村田です。同居者の紺野あさ美さんは、警察で預かっています」

「どういうことですか? 」

「寒いですね。車に入りませんか? 」

村田は圭織を乗せると、自分も後部座席に座る。
そして、バッグから例の似顔絵を出して圭織に見せた。
車の中はヒーターが入って、とても暖かい。
圭織は村田から似顔絵を受け取り、ルームランプの明かりで見た。
その似顔絵は、どう見てもあさ美にそっくりだった。
58 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:18
「加護亜依が殺された事件はご存知ですよね。
事件発生時刻に、あさ美ちゃんが現場付近で目撃されています」

あの日、圭織は深夜勤で、朝まで自宅には帰らなかった。
あさ美は自宅にいたものと思っていたが、外出していたんだろうか。
ここのところ、あさ美は妙に落ちつきがなく、夜も眠れないようだ。
それと何か関係があるんだろうか。圭織はあさ美の変化に気づいていた。

「あの子は容疑者なんですか? 」

警察が関与してくるということは、何かしらの嫌疑があるからだろう。
圭織としても、あさ美と亜依が仲がいいのは知っていた。
だが、どんなに仲がよくても、ちょっとしたいさかいから、
殺人事件に発展してしまうことは珍しくなかった。

「とんでもない。何か知ってることはないか、話を聞いているんですよ」

容疑者ではないことを知り、圭織は安心してため息をつく。
だが、なぜあさ美は、事件現場近くをうろついたりしたのか。
そういえば、市井紗耶香が殺された日も、外出していたようだった。
しかも、本人は鼻血と言っていたが、胸元に血痕が付着していた。

「今夜はもう遅いし、警察に泊まってもらいます。
安心してください。留置場に入れるなんてことはしませんから」

村田は冗談のつもりだったが、圭織にしては冗談ではすまされない。
驚きと少しばかりの怒りが、彼女の表情に表れていた。
たしかにあさ美は、年齢のわりにしっかりした子ではある。
しかし、警察の執拗な尋問に耐えられるだろうか。
59 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:20
「電話を―――電話をするように伝えてください」

「わかりました。ところで飯田さん。あなたとあさ美ちゃんの関係は? 」

隠してもわかることなので、圭織は素直に話をした。
ただし、あさ美の鼻血の件は、けっして話さなかった。
少しでもあさ美に不利なことは、言うべきではないと思ったのである。
村田はメモをとりながら、リラックスした口調で質問していた。

「そうですか。ご協力、ありがとうございます」

圭織は悲しくなってしまい、涙目になっていた。
もう1人の警官がチャイルドロックされた後部座席のドアを開けると、
身震いするような外の冷気が進入してくる。
暖まった体が冷気に触れ、圭織は全身に鳥肌がたつのを感じた。

「あの子、不思議な強さを感じますね」

村田はあさ美と話していて感じたことを、素直に圭織にぶつけてみた。
あさ美はとても穏やかな性格で、虫も殺さない優しい子だったが、
たまに人の心まで覗くような目をすることがある。
それが人によっては怖かったり、力強く感じるのだろう。
圭織は車から降りながら、村田が言ったことに答えた。

「あの子、特殊な力があるんです」

圭織は言ってしまったことを後悔した。
こんなことを話したところで、警察は信用してくれないし、
薬物でもやっているのかと疑われてしまうかもしれないからだ。
60 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:20
「と言うと? 」

「医療従事者の私が言うのもおかしいんですが」

圭織はしかたなく、村田にあさ美の持っている霊能力を説明した。
さらに、精神科の有名な医師である夏まゆみの話もする。
これまで日本では心霊研究に否定的だったが、
防衛大学が研究を始めると、警察や他の大学でも研究が始まった。
そのことを知っていた村田は、真顔で圭織の話を聞く。

「心霊現象の99パーセントが幻覚です。でも、残りの1パーセントは・・・・・・」

「科学的に立証できないものですね」

かつて人間がサルだったころ、五感とは別の感覚器が存在していた。
カエルはじつに80パーセントの確率で天気を予報してしまう。
この確率は気象庁発表の天気予報よりも高い確率なのである。
ほかの野生動物たちも、天変地異などの重大な危険を察知すると、
本能的に安全な場所へと避難するといった行動をとるのだ。

「私は認めたくもないし、だいいち霊なんて信じません。
でも、あの子に特殊な力があるのは事実なんです」

「飯田さんが言うのなら、私は信じますよ。あなたは嘘をつけない人だ」

村田に指摘され、圭織は反射的に視線を逸らせた。
それは「私は隠しごとをしています」というのと同じである。
圭織は村田の再訪の口実を作ってしまったと思い、口惜しそうに舌を鳴らした。
あまりにもわかりやすい圭織に苦笑しつつ、村田たちは帰って行った。
61 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:21
「ったく、あたしは何やってんだろ」

圭織はくちびるを噛みしめ、遠ざかる車のテールランプを見つめていた。
冷たい外気のためか、鼻が通る感じがして、呼吸が楽になっている。
頭上にまたたく星を仰ぎながら、圭織は深くため息をついた。
あさ美を信じたい気持ちはやまやまだが、どうもあの出血が気になった。

「―――まさかね」

気をとりなおして自室に向かう彼女の背後から、小柄な影が近づいている。
その気配に気づいた圭織がふり返ると、そこには信じられない女がいた。

「あ―――あなたは! 」

「あんたの前に出てこれる立場じゃないんだけどさ」

大きく見開かれた圭織の目。困ったように引きつった笑いを浮かべる女。
大都会の雑音が満天の星空に響き、ドップラー効果のような音をたてていた。
それはあたかも、この不自然な再会をあざ笑うような音だった。
62 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:22
―10―

石黒彩は3人目の子供を妊娠していた。
2人の女の子を出産し、3人目は男の子がほしい。
そんな夫の期待と、生まれてくる新しい命への希望。
義父母への思いが交錯し、不安と喜びが交互にやってきていた。

「ちょっとコンビニに行ってくるね」

幼稚園にかよう愛娘のおべんとうに、好物のウインナーを入れてやりたい。
そう思ったのだが、あいにくウインナーを切らしてしまったのである。
彩は子供たちを寝かしつけたあと、晩酌をする夫にそう言ってでかけた。
すでに妊娠6ヶ月であるため、毎日の運動を勧められている。
そんなこともあって、彼女は歩いて近くのコンビニへ向かった。

「うん? 」

自宅から少し行ったところで、彩は背後から迫る足音に気づいた。
それは誰かがゆっくりと走ってくるような足音だった。
反射的にふり返った彩だったが、足音の主は若い女性である。
どうやら、ジョギングをしているようだ。
これが男性であれば、彩も警戒したのだろうが、
若い女性ということで、安心してしまった。

「あの、ちょっとお聞きしたいんですけど」

ジョギングをしていた女性は、彩の横にくると彼女に話しかけた。
彩は歩いたまま、横にいる若い女性の顔を覗きこんでみる。
街灯が暗く、よく見えなかったが、怪しい女性ではなかった。
63 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:22
「なあに? 」

「お腹に赤ちゃんがいるんですか? 」

「ええ、そうよ」

このジョギングしている女性は、どこかで会ったことがあるのか。
彩は近所に住む若い女性を思いだしてみる。
家の両隣から始まり、徐々に広げて行ったが、
彼女の記憶にある女性とは、どうもちがうようだった。

「よかった」

「何で? 」

微笑みながら横を向いた彩は、側頭部に衝撃を感じた。
それが殴られたものであると感じたときには、すでに歩ける状態ではない。
冷たいアスファルトに倒れようとする彩を、女は抱きかかえていた。
意識が朦朧とする彩は、自分と胎内の子供に危険が迫っていることを感じた。

「た、助けて―――」

「―――」

女は無言で彩を抱き上げると、近くの橋の横から神田川へ降りてゆく。
暗緑色に濁った水は、少ない光に照らされて、限りなく黒に近い色をしていた。
そのほとんどが生活廃水や、側溝を流れる異臭のする水である。
そのヘドロが固まったところに植物が根をおろし、少しばかりの河川敷となっていた。
64 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:23
「うっ! 」

彩はその河川敷に放り投げられ、背中を打って息がつまってしまった。
相手は同性であるから、まさかレイプされるといったことはないだろう。
だが、母体にこれだけ激しい衝撃を受けたのだから、
胎児にも影響しているので、一刻も早く医師による診察が必要だった。
ふくらみかけた腹は、極度のストレスで、パンパンに張っている。
いくら安定期になっていたとはいえ、かなり危険な状態だった。

「うふふふふ――――」

女は笑いながら、身動きのとれない彩に襲いかかった。
信じられないほどの力で、彩の衣服は引き裂かれてゆく。
彩が悲鳴をあげようとしたとき、女は再び彼女の頭をなぐった。
貝殻ほどの厚さしかない彩のこめかみの頭蓋骨は、
まるでコンクリートを砕いたような音がして破壊されてしまう。
それと同時に、彼女の右半身はマヒしてしまった。

「たすけて―――」

遠くの鉄橋を電車が通過する音が聞こえる。
レールのつなぎ目に車輪が乗る衝撃音に加え、
両者がこすれるかん高い音がエコーしながら聞こえた。
それはあたかも、彩にかわって悲鳴をあげているようだった。
ほぼ全裸にされた彩は、抵抗らしい抵抗もできない。
脳挫傷で体が動かなかったことと、ヘビに睨まれたカエルのごとく、
あまりの恐怖に全身が硬直してしまったのだった。
65 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:24
「いい感じだね」

女は彩のふくらみかけた腹を見て、うれしそうに言った。
その直後、激痛が彩の全身をかけぬける。
女は彩の腹を、素手で引き裂いていたのだ。
柔らかな皮膚に爪をたて、皮下脂肪もろとも横に引き裂く。
同時に血管が破壊され、大量の血が吹きだしてきた。

「ぎぎぎぎぎ―――」

あまりの痛みに、彩は歯軋りをするしかない。
そんな彩の痛みなど無視して、女は露になった腹筋にも指を突き立てる。
細い筋状の筋肉は、意外とカンタンに指が入ってしまう。
女が腹筋をこじ開けると、数倍にふくらんだ子宮が姿をあらわした。

「あはっ、あったあった」

女は嬉しそうに、彩の子宮をつかむと、血みどろの手で穴をあける。
穴があいた子宮からは、羊水や血液がふき出してきた。
弛緩剤すら使わず穴をあけたものだから、彩の子宮は破裂してしまい、
一気に胎児と胎盤が飛びだしてきてしまう。
その激痛の中で、彩は世にも恐ろしい光景を目撃した。

「あぐぐぐぐ―――」

痛みに声も出ない彩は、ノドを鳴らしてうめくのが精一杯だった。
その声も川の音に消され、遠くで鳴ったクラクションが、夜の大都会に響いている。
あたりには血の臭いとともに生活廃水のすえた臭いが充満していた。
66 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:24
「これが最高」

女はそう言うと、手足を動かす6ヶ月の胎児をつかみ、いきなり頭にかぶりついた。
まだ、やわらかい胎児の頭蓋骨は、いともカンタンに食いちぎられてしまう。
鼻から上を失った胎児は、即死しながらも反射で手足をケイレンさせていた。
女は胎児の脳をすすり、肉や骨を咀嚼して飲みこんでいる。
そんな恐ろしい光景を、彩は最後に目撃することになってしまった。

「―――そ、そんな」

女は絶望した表情の彩を見ながら、おいしそうに胎児を食べる。
コリコリという骨をかみ砕く音が、意識の低下した彩の耳に届いていた。
大量の出血で彩の意識がなくなるころ、女はすっかり胎児を食べ終え、
手と口についた血をティッシュでふき取り、神田川に投げ捨てた。

「あー、おいしかった」

女は目を見開いたまま息絶えた彩をながめると、嬉しそうに笑った。
そして、何ごともなかったかのように、どこかへと去ってゆく。
彩が最後に見たのは、おぞましい光景と、この星空だった。
67 名前:MU 投稿日:2004/09/08(水) 22:26
また、書きあがったら更新します。
おそらく、次回が最終になると思います。
68 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/09(木) 04:53
うげっ・・・えぐっ・・・夢に出てきそうだよ・・・
でも続きが知りたいよ。
69 名前:MU 投稿日:2004/09/16(木) 14:12
いよいよラストです。
しかし、1作目のできがよすぎて―――
これが漏れの実力なんでしょうねえ。
70 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:14
―11―

圭織の部屋に、ちょこんと座る小柄な女は、毛糸の帽子と大きなメガネをとった。
茶色く染めた髪をかきあげ、着ていたジャンバーを脱いでわきに置く。
ファンヒーターが唸り、暖かな風が彼女のまわりに吹いてきた。

「そういえば、あの事件は公表されなかったわね」

圭織はコーヒーをいれて、コタツに入った女の前に置いた。
この女がどういった目的で訪れたのか、圭織には見当がつかない。
看護師という仕事がら、人間の極限状態に何度も出あった圭織ですら、
ここにいる女には恐怖を感じていた。
なぜなら、彼女は4人も人を殺しているからだ。

「死のうと思ったんだよ。オイラも」

彼女の名前は矢口真里。一昨年、彼女は復讐のために4人の男女を殺した。
自分の人生を踏みにじった4人への、死の制裁をしたのである。
あさ美と出あい、真里は幸せなひとときをおくることができた。

「それで、何の用かしら? 」

「あさ美ちゃん、警察に疑われてるんでしょう? 」

あのとき、倉庫で裕子を撃ち殺した真里は、自分のこめかみにベレッタを当てた。
だが死にきれず、裕子にトカレフをにぎらせ、裏口から逃亡したのである。
それから彼女は全国を転々とし、やはり風俗で働いていたのだった。
手に職もない若い女性が生きてゆくには、こうした業種しか残されていない。
もう、風俗で働くのはイヤだったが、ほかに仕事がないので仕方なかった。
71 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:14
「そうね。事件のあったときに、近所で目撃されたらしいから」

「ちがうよ。オイラ、ずっとあさ美ちゃんをつけてたんだ」

真里は関西方面に逃げていたが、どうしてもあさ美に会いたくなってしまった。
今さら顔を出せる立場ではないことくらい、彼女にはわかっている。
だが、自分にぬくもりをくれたあさ美を、真里はどうしても直接見たかったのだ。
あちこちを調べた彼女は、とうとう圭織とあさ美が同居している事実を知る。
そしてあの日、真里はこのアパートからあさ美が出てくるのを目撃した。

「何ですって! 」

あの日、真里はあさ美のあとをつけていた。
あさ美は何かを探すように、交差点にさしかかるたび、
前後左右をキョロキョロと見まわしていた。
その行動が不審に思われたらしく、警察に疑われたようである。
やがて、あさ美はため息をつくと、自宅へと帰って行った。

「真里さん、証言―――ムリだよね」

「ごめんね。―――警察には、あさ美ちゃんが犯人じゃないって電話したんだけど」

温風ヒーターのモーター音が、なぜか悲しげに聞こえる。
けっしてコーヒーに口をつけない真里の目は、どこか達観しているようだった。
ただ、それがどういった意味か、圭織にはわからなかった。
真里の証言は、警察ではノドから手がでるほどほしいものだ。
だが、真里は存在してはいけない人間なのである。
警察に調べられれば、例の事件の犯人ということがわかってしまうし、
何よりも恐ろしいのは、暴力団にみつかることだった。
72 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:15
「でも、何でそこまで? 」

「オイラには時間がないのよ」

真里はHIVに感染している。こんな仕事をしていたツケがまわったのだろう。
感染して間もないというのに、彼女の血液の数値は悪くなっていた。
このまま発症したりすれば、ほんの数日で死んでしまうにちがいない。
暴力団からの借金を踏み倒した彼女には、数年なら暮らせるだけの貯蓄があった。

「どういうこと? それって―――もしかしてHIV」

後天性免疫不全症候群、通称AIDS。人間の抗体を蝕む恐ろしい伝染病である。
おもに血液を介して感染する病気だが、粘膜を通しても感染してしまう。
ペストや狂犬病と並んで、発症したらまず助からない病気である。
現在ではウイルスの増殖を抑えたり、発症を遅らせる新薬ができていたが、
根本的な治療は不可能とさえ言われていた。

「―――うん」

だまされて借金をつくり、風俗で働くようになった真里。
彼女が殺した4人は、死んであたりまえだと言えよう。
圭織はここまで不幸な女性を、これまでに見たことがなかった。
重苦しい空気の中、蛍光灯の音がヤケに耳につく。

「そういえば、あさ美ちゃんは鼻血をだしてた? 」

圭織は気になっていたことを、目撃者である真里に聞いてみた。
もし、あの血があさ美の言うように鼻血だとしたら、
圭織の心配は取り越し苦労で終わるからだ。
73 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:15
「あれは鼻血だったのかな。―――うん、ティッシュで鼻をおさえてたよ」

寒い時期に鼻血がでるのは、危険の兆候だといわれている。
ふつうは寒さで血管が収縮し、鼻血は出にくいのだ。
鼻血が出るということは、血圧にたえられなくなった血管が破れたのである。
これがもし脳内で起こったとしたら、生死にかかわる一大事となった。

「そっか。そうなんだ。―――よかった」

「よくないよ。早くあさ美ちゃんを救出しないと」

真里は何とかして、あさ美を救出したいらしい。
だが、そうカンタンに警察が開放してくれるとは思えなかった。
ここは彼女が証言しないかぎり、あさ美が開放されることはないだろう。
ただし、真里が証言した場合、あさ美との関係を追及されるのは確実だ。
そうなったとき、真里は警察に逮捕され、獄中で死を向かえなくてはいけない。

「いいのよ。あの子が犯人じゃないってわかれば」

信じることさえできれば、それが希望になるのだ。
同居している圭織ですら、あさ美を気味わるく感じることがある。
だが、あさ美は虫も殺さない優しい子だった。
霊感が強いからこそ、命を大切にしていたのである。
楽観的な圭織に、真里は少しばかりイライラしてきた。

「オ、オイラ、場合によっちゃ―――」

真里がバッグの中からベレッタを出そうとしたとき、
圭織の携帯に電話がかかってきた。
74 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:16
―12―

繁華街は終電ちかくになっても、そのにぎやかな雰囲気は終わらない。
舞い遊んだ蝶たちは、止まり木へ帰るために家路を急ぐ。
酒に呑まれた男が千鳥足で歩く中、戸田は若い女性をみつけて声をかけた。

「こんな時間まで何してたの?」

「ああ、鈴音先生。塾の帰りです」

戸田が声をかけたのは、あさ美のクラスメイトであるみうなだった。
そういえば、みうなの家は、このあたりだったと戸田が思いだす。
クラス委員をするほど優秀なみうなは、某有名進学塾に通っている。
みうなにかぎって、不順異性交遊などはしないだろう。
だが、例の連続殺人事件は、まだ未解決なのだ。

「送っていくわ。こんな遅い時間になるなら、塾も考えないとね」

戸田はけっして頭ごなしに叱りつけたりしない。
抑圧すれば反発するのは、古今東西の常識である。
まずは話を聞いてから、生徒に考えさせるのが彼女のやり方だった。

「すいません」

戸田はこのところ、どうも顔色がわるい。
彼女は静かで優しい教師なので、生徒たちからは人気があった。
そんな戸田の元気がないのを、生徒たちはかなり心配している。
戸田はあまり弱音を吐くタイプでなく、多少のことはガマンしてしまう。
そのことがわかっている生徒には、彼女が意地らしく見えていた。
75 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:17
「加護さんがあんなことになって、クラスも動揺してるでしょう? 」

「そうですね。特に仲がよかった―――」

「紺野さんね? 」

戸田はりんねが怯えているのを見逃さなかった。
ここにも自分同様、あさ美を恐れる人間がいる。
そう思った戸田は、自分が異常でないと確信した。
それと同時に、なぜあさ美が怖いのかを考えてみる。
だが、その答えは出てこない。

「あの子、何か怖いんですよ」

「そうね。ちょっと変わったところがあるけど、何で怖いんだろう」

「本能的に―――いえ、どうなんでしょうね」

それほど感受性の強い子ではなかったが、みうなもあさ美を恐れている。
それにしても、なぜ戸田があさ美を恐れるのだろう。
あさ美の未知な部分。つまり霊感の強いことが何かしら影響しているのか。
みうなの自宅近くになると、住宅街だけあって人通りが極端に少なくなった。

「鈴音先生。最近、どうしたんですか? 顔色が悪いみたいですけど」

「ああ、何でもないの。病気じゃないから」

困ったように笑う戸田だったが、どこか淋しそうな顔をしている。
その理由までは、いくらみうなでも、さすがに聞くことができなかった。
76 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:17
「私の家はここです。どうもありがとうございました」

閑静な住宅街にある今風の建物。それがみうなの住む家だった。
みうなは右手で門をあけ、笑顔のまま敷地内に入ってゆく。
近所の飼い犬が戸田のにおいに反応したのか、低い唸り声をあげた。
かわいらしい笑顔で「おやすみなさい」とお辞儀をするみうなだったが、
戸田は妙な違和感を感じていた。

「おやすみ」

笑顔で手をふる戸田は、みうなが家に入るのを見とどけ、また繁華街へと歩きだした。
夜風が吹き、戸田は寒さに立ち止まる。空には星がまたたき、明日の天気を暗示していた。

「うっ! ううっ! 」

いきなりの吐き気に、戸田は電柱に抱きついてしまう。
これが胃炎や食あたりであれば、まだ気分的に楽だった。
彼女は今、ある男の子供を宿している。
それは、けっして祝福されない子供だった。
なぜなら、その男には妻子がいるからである。
まるで彼女の罪を責めるような吐き気だった。

「心配しないでね。ママにまかせなさい」

戸田は自分の下腹部を優しくなでながら、まだ見ぬわが子に話しかけた。
路上に投げ捨てられた少しだけ変形した清涼飲料水のアルミ缶が、
たまに吹く夜風のせいで、じつに軽い音をたてて転がってゆく。
そんな風の中、戸田は自分の下腹部を抱きかかえるように歩きだした。
77 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:17
―13―

台東署にかけつけた圭織は、廊下の長イスに座るあさ美を抱きしめた。
携帯にかかってきた電話はあさ美で、いきなり釈放されたらしい。
その理由は石黒彩の死体が発見されたからなのだが、
そんなことは圭織とあさ美には関係のないことだった。

「なんか、お腹すいちゃった」

「そうじゃないかな。って思ってたんだ」

圭織はニッコリ笑うと、あさ美の手を引いて警察署をあとにした。
これほど警戒していても、ついに3人目の被害者がでたということで、
数台のパトカーがサイレンを鳴らしながら走り去ってゆく。

「この先に、深夜営業してるファミレスがあるの」

「ハンバーグ食べたいな。圭織さんは? 」

「その前に、会わせたい人がいるんだ」

あさ美は立ち止まった圭織に首をかしげた。
会わせたいと言いながらも、嬉しそうな顔をしていない。
かといって、迷惑そうな顔をしているわけでもなかった。
あえて言うとしたら、とても重い感情のこもった顔である。
ほぼ頭上から照らす街灯のせいか、圭織の顔はよけいそう見えた。
78 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:18
「えっ? 」

背後から近づいてくる人の気配に、あさ美はふり返り言葉をなくした。
その小さな体の主は、まちがえなく2年前の悲劇の主人公である。
大きく見開いたあさ美の目は、暗い中でも驚愕の色を発していた。
車のヘッドライトに照らされ、涙をこぼす真里の姿が浮かびあがる。
それはまぎれもなく、かわいがってくれた真里の姿だった。

「真里さん! 」

「あさ美ちゃん―――会いたかった」

泣き崩れる真里を、駆け寄ったあさ美が抱きしめる。
死んだと思っていた真里が生きていたことはうれしいが、
これまで、小さな体で罪を背負ってきたことを考えると、
あさ美にしても手放しに喜べる状態ではなかった。


  ◆      ◆      ◆      ◆      ◆
79 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:19
「何で出歩いてたの? 」

食事を終えたファミレスの隅の席。沈黙を打ち破るように圭織が言った。
プリンを口に運ぶ手が止まり、あさ美はそのままスプーンを置いた。
深夜ということもあり、店内にいる客の数も多くない。
真里は抱えて飲んでいたウーロン茶を、あわててテーブルの上に置いた。

「気を感じたの。ものすごく邪悪な気を」

「そ、それって、まさかオイラの―――」

泣きそうになる真里に、笑顔で首をふりながら、
あさ美は優しく彼女の手を握った。
いくら復讐とはいえ、4人もの命を奪っしてまった真里は、
これまでずっと罪の意識に苛まれていたのである。
復讐して晴々するほど、人の心は単純なものではない。

「真里さんは素敵な人です。邪悪な気なんてありません」

不思議な力を持つあさ美の言うことだから、それは事実なのだろう。
礼儀正しく、人を思いやる性格のあさ美だったが、けっして嘘をつく子ではない。
それを知る真里は、ホッとした顔であさ美の手を握りかえした。
80 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:19
「その気の持ち主が、殺人事件の犯人なの? 」

「うん、まちがいないわ」

「莫迦! なんでそんなに危険なことを」

圭織が怒るのも当然だ。相手はこれまで3人も殺した凶悪犯。
いくらあさ美に不思議な力があるとはいえ、か弱き少女なのだ。
だが、驚いたことに、あさ美はまったく恐れていない。
これほど凶悪な犯人であれば、誰もが戦慄するというのに。

「あ、あさ美ちゃん、犯人は狂ってるの? 」

「狂ってるわけじゃないです。ただ、私たちとはちがうってだけ」

圭織と真里には、あさ美の言うことがゆくわからない。
それはあさ美ですら、よくわかっていなかった。
状況的には、人を平気で殺す恐ろしい人物なのだが、
あさ美はまったく恐怖を感じていない。

「だからって、遅い時間に出歩くのはダメ。警察に任せればいいの」

「あたしは許さない。あいぼんを殺した犯人を」

あさ美の顔は怒りに満ちあふれている。
ここまで感情を出すのは、あさ美には珍しいことだった。
それほど仲のよかった亜依を殺した犯人を憎んでいるのだろう。
あさ美は制服のスカートを、シワができるほど握りしめた。
81 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:20
―14―

翌日、鶯谷病院の夏医師のところへ、数人の女性が集まっていた。
圭織とあさ美、真里に加え、どういうわけか保田もいる。
夏医師に与えられた研究室の中で、彼女たちは車座になっていた。

「守秘義務があるから、それ以上は話せないんですね? 」

保田は残念そうに、メモする手を止めながら言った。
研究室といっても、精神科医のものであるから、
けっしてビーカーやフラスコが並んでいるわけではない。
どちらかというと、医学書や論文集などの書物が多く、
科学者というよりも、文学者のような部屋だった。

「そうね。残念だけど」

夏は自分が知っていることを、守秘義務を冒さない範囲で、
ここにいる4人に説明していたのだった。
それにしても、今回は謎の多い事件である。
夏としても、これほど奇妙な事件ははじめてだった。
彼女は資料を見ていたが、思い出したようにあさ美に視線を向ける。
その視線は精神科医としてよりも、年上の女性としてのそれだった。

「あさ美ちゃんは、邪悪な気を感じたのね? 」

夏は自分の持っている情報や知識とコラボレーションさせ、
心霊心理学的に可能性のある部分を分析していた。
だが、夏がいくら分析しても、その犯人像が見えてこない。
そこで保田が、得意のプロファイリングをはじめた。
82 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:20
「犯人の目的は胎児じゃないかな。加護亜依は妊娠してると勘違いされた」

たしかに亜依は太っていたし、胸も大きいので妊婦に思われても不思議ではない。
だが、この時期、かなり腹が大きくならないと、外見からはわからなかった。
この、保田のプロファイリングが正しければ、犯人は事前に、
亜依は妊婦であるという間違った情報を得た可能性が高い。

「犯人は女性。堕胎経験があり、胎児に異常な偏愛を持つ」

保田は正確に腹を切り裂いていることから、
犯人が女性であると判断したのだった。
もし、これが男だとしたら、解剖経験があるとしか思えない。
夏は保田の話を聞きながら、被害者の状況を思いだしていた。

「夜間、出歩ける状況から、犯人は1人暮らし。またはそれに近い環境のもの。
目撃者が異常に少ない点からして、運転免許を持っている可能性がたかい。
さらに、短期間に集中して事件をおこしている点から、精神症的発作の可能性がある」

推理小説が好きな保田らしく、自分なりのプロファイリングをしていたようだ。
このプロファイリングを聞いて、誰もが納得していた。そう、夏をのぞいては。
得意そうな顔の保田にため息をつくと、夏は医学書を見ながら口をひらいた。

「警察発表によると、死体から指紋が採取されたわ。
でも、精神病歴者や前科者とは一致しなかったの」

窓に背を向けた夏は、保田の位置からだと、逆光になってその表情が見えない。
中開きのブラインドから、午後の日差しが部屋に入りこんでいた。
日中は暖かくても、夜になると冷えこんでくるのが今の季節である。
おそらく、夏もそんな複雑な表情だったのだろう。
83 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:21
「それは―――」

保田はプロファイリングの穴を指摘され、言葉につまってしまった。
どんなにもっともらしいことを言ったところで、しょせんは素人だ。
日夜、精神医学の研究をする夏とでは、知識や経験がちがっている。
保田の探偵きどりも、夏のひとことで終わりをむかえた。

「加護亜依は太ってただけで、妊娠してなかった。そうよね? 」

夏と目が合うと、あさ美は無言でうなずいた。
それから夏は腕を組んで考え、事件を整理しはじめる。
保田が言うように、犯人は胎児に異常な興味をしめすもの。
だからこそ、妊婦を襲ったのは間違いない。
だが、それがどういった性質をもつ興味であるのか。
今回の事件の謎は、そこから始まっていたのだった。

「あさ美ちゃん、加護亜依が妊娠してるなんて噂はなかった? 」

「そういえば、更衣室で冗談半分に誰かが―――」

夏が「それだ」と言うと、保田は気をとりなおし、、
あさ美から当時の状況や誰がいたかなどを詳しく聞いた。
窓の外では、すっかり春らしくなった陽気に、
モンシロチョウが菜の花を求めて飛んでいた。


  ◆      ◆      ◆      ◆      ◆
84 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:21
保田と夏は警察に連絡し、あさ美と圭織、真里の3人は、
あらゆる状況から推測して、犯人と思われる女性の家へと行く。
すでにあたりは暗くなりはじめており、帰宅を急ぐ人でごったがえしていた。
もし、その女性が犯人だとしたら、とても危険であるため、
圭織は拳銃を持っている真里をつれていたのだった。

「留守みたいね」

いくらチャイムを鳴らしても、人が出てくる気配はなかった。
それ以前に、どこにも明かりがついていない。
3人はムダ足を運んでしまったのだろうか。
夕闇が迫ってくると、日中は温かかった風が冷たく感じる。
そのとき、あさ美に異変がおこった。

「あっ」

生温かいものが、くちびるから顎へと流れてゆく。
手でぬぐってみると、それは鼻血だった。
同時に、おぞましい気を感じて身震いしてしまう。
寒さのせいで、生温かく感じた鼻血も、すぐに冷たくなってしまった。
そのためか、いつもの鼻血とちがって、生臭さを感じることがない。
あさ美にとって、それがせめてもの救いだった。

「あさ美ちゃん、鼻血がでてる」

「彼女、今夜も狩をする気だわ」

あさ美は真里に渡されたティッシュで鼻血をぬぐうと、
その気を追って移動を開始した。
85 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:22
―15―

―――腹がへった。
―――私の糧はどこだ。
―――胎児を食べたい。

どういうわけか、夜になると繁華街にきてしまう。
戸田は不毛の都会をさまよいながら、人の匂いを感じていた。
刺激的な照明の点滅に、本能が刺激されるような気がする。
胎内に小さな命を宿した彼女は、とにかく飢えていた。
つわりによってものが食べられず、支えてくれる相手もいない。
だからこそ、人を身近に感じられるこんな場所に来たのだった。

―――妊婦はどこだ。
―――私の獲物は。
―――これだけ人がいるってのに。

顔色が悪く、疲れた顔の女に声をかけてくる男などいない。
それは彼女にとって、とても喜ばしいことだった。
今は男に媚を売ったり、かわいく演出する「女」ではない。
人恋しさに、こうした繁華街にきてしまうあわれな母。

「―――」

戸田はゆっくりと、雑踏の中を歩いていた。
8時をすぎると、酒の臭いをさせている男もいる。
そんな吐き気のする臭気も、戸田にとっては温もりだった。
すれちがう人は、みんな自分のことで精一杯なのだろう。
乾いた足音だけが、初春の寒空に響いていた。
86 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:22
「鈴音先生」

戸田がふり返ると、そこにはみうながいた。
あいかわらず、さわやかな笑顔で戸田をみつめている。
雑踏の中では埋もれてしまいそうな彼女だったが、
大人びた笑顔は、そんな視界のわるいとこでも輝いて見えた。
周囲の人はみな無表情で、目的もなくさまよっているように見える。
そんな中で、みうなだけに生活感があるのは、どういうわけだろう。

「―――斎藤さん」

戸田は笑顔をつくってみるが、それはひきつった笑いにしかならなかった。
彼女がきびしく注意したので、みうなは遅い時間の講義をやめたのだろう。
それでなくても、こうした繁華街には少女を食いものにする男がいる。
そんな男にだまされたのが、不幸を1人で背負いこむ真里だった。
とにかく、遅い時間に出歩かなくなっただけでも、みうなをほめてあげたい。
戸田はそう思いながら、自然といつもの笑顔になっていた。

「先生、どうしてお腹を? 」

みうなは戸田が手を当てている下腹部に目をやる。
この中には、祝福されない命があるのよ。
戸田はそう言いかけて、言葉を呑みこんだ。
それどころか、あわてて手をひっこめ平然を装った。
不倫の果ての妊娠は、それこそ修羅場になるのは明白。
だから、誰にも気づかれてないはずだった。
この子の出産は、多くの人を不幸にするだろう。
そんな状況をあざ笑うかのように、路上ライブの陽気な音楽が耳についた。
87 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:23
「お腹が痛いんですか? それとも―――」

戸田は核心をつかれ、少しばかり動揺する。
まだ子供である女子高生に、妊娠を悟られてしまった。
あわてて視線をそらした戸田を見て、みうなは確信する。
聖職者の婚前妊娠は、大きなスキャンダルだった。

「なあに? 」

戸田はいたずらっぽく笑うみうなに胸をはった。
たしかに、この子は祝福されないあわれな子。
でも、私は本気で彼を愛していた。
それの、どこがいけないの? 私はまちがってる?
戸田は無言で、そうみうなに言ってみた。

「赤ちゃんがいるんですか? 」

「―――そうよ」

嘘をついたって、じきにわかってしまうだろう。
子供は順調に育っているから、もうすぐ腹がふくらんでくる。
聖職者として恥ずべき状態なのか。いや、そうじゃない。
愛を知らない教師が、生徒に愛を説くことなんてできない。
彼女は今、新たな愛を育んでいたのだった。


  ◆      ◆      ◆      ◆      ◆
88 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:23
3人は町を歩きまわり、妊婦を狩る肉食獣をさがした。
たよりになるのは、あさ美の勘だけということになる。
あさ美は全身をアンテナにし、肉食獣が発する気を感じようとしていた。
気温がさがり、鼻と唇が冷たくなっても、3人は足を止めようとしない。
亜依の仇を討とうというあさ美と、彼女を守ろうとする圭織と真里。

「うっ! 」

「どうしたの? 」

「今、悲鳴が―――」

圭織と真里には聞こえなかったが、あさ美は女性の悲鳴を聞いた。
それが耳で聞こえたのか、第六感で感じたのかは、この際、問題ではない。
肉食獣が獲物を捉えたのは確実で、これから晩餐がはじまるのだろう。
あさ美は長く尾をひく悲鳴を捉え、五感を集中させていった。

「ううううううう―――」

おぞましい気が、あさ美の全身にからみつき、彼女はまた鼻血を出しはじめた。
若い女性が鼻血をだしているのだから、道行く人は驚いて彼女を見つめる。
手の甲で鼻血をぬぐい、あさ美は近くに犯人がいることを確信した。
そして、何かに導かれるように、彼女は裏通りの奥へと歩いてゆく。
わずかな光だけしかない裏通りには、吐き気がするほどの瘴気が満ちあふれていた。
ここでまちがいなく、憎むべき犯人による「狩」が行われている。
まるで色が見えるほど、この瘴気の強い場所こそが、「狩」の現場なのだ。
それは、建物のすき間の闇の部分で、この裏通りからも死角になる場所。
布を引き裂く音がするこの物かげこそが、このおぞましい気を発している場所だった。
89 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:23
「やめて! 」

あさ美の声が響くと、妊婦を襲っていた肉食獣が顔をあげた。
暗い街灯に照らされたのは、あさ美と同じクラスのみうなである。
みうなはあさ美と目が合うと、怯えて硬直してしまった。
繁華街のすぐ裏だというのに、ここにはまるで人の気配がない。
そうした場所こそ、「狩」をするにふさわしい場所だった。

「―――おまえは―――」

「この気は人間じゃないわ」

また、タラタラと鼻血が出てくるのを、あさ美は手でおさえた。
饐えた生ゴミの臭いがするこの不潔な路地裏には、
おぞましいプレデター(捕食者)の気が充満している。
全身に鳥肌がたつような生理的に嫌悪感のある気は、
圭織や真里にも感じることができた。

「た、たすけて―――」

ほぼ全裸の戸田が、みうなの足元から這いだしてくる。
その顔は変形するほど殴られ、ところどころ骨折しているようだった。
真里に援護を受けながら、圭織が戸田を安全なところまで引きずってゆく。
射抜くようなあさ美の目に、みうなは恐怖で動けなかった。
それはまるで、ヘビににらまれたカエルのようである。
これだけ暗いというのに、あさ美の目だけは異様に輝いて見えた。
90 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:24
「紺野あさ美。あんたはいったい何ものなの? 」

風もないのに、あさ美の髪が動き、しだいに逆立ってゆく。
気のせいか、彼女の体は薄っすらと光って見えた。
薄暗い路地裏の裸電球が、電圧を変えたように点滅する。
あさ美はみうなを見据えたまま、ゆっくりと近づいていった。
真里はベレッタを握りなおし、みうなの胸に照準を合わせている。
何しろ凶悪な連続殺人犯であるから、妙な動きでもしようものなら、
真里は発砲するのに迷いなどないだろう。

「く、来るな! 」

あれだけ残忍な殺しをしたみうなが、あさ美に怯えている。
それは、きっとあさ美の発する強烈な気のせいだろう。
近くにいる圭織や真里も、あさ美の発する気に当たってしまい、
頭痛や吐き気がしてくるほどだった。

「あいぼんを―――あいぼんを返せ! 」

あさ美の怒りがピークにたっすると、彼女のひたいに血管が浮き出る。
そして、脳を握られるような強い念が、あさ美から発せられていた。
裸電球が破裂し、スイッチの入っていない蛍光灯が光りだす。
これ以上は裂けてしまいそうにまで見開かれたみうなの目。

「この悪魔! 」

あさ美が叫ぶと、みうなの目が裏返ってしまう。
そして、異臭のするゴミ箱をひっくり返してみうなが昏倒した。
みうなは苦しそうに全身をケイレンさせている。
91 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:24
「あさ美ちゃん! 」

ようやく口を開いたのは真里だった。
すさまじいまでの瘴気で呼吸が苦しくなり、
真里は肩で息をしながら、ベレッタをみうなに向ける。
赤い月が移動してきて、この裏通りを照らしはじめた。

「もうだいじょうぶよ。だいじょうぶだからね」

圭織は戸田にジャンバーをかけ、ハンカチで顔の傷をおさえた。
戸田にとっては災難だったが、あさ美に救われたのはむしろ幸運である。
気がとおくなりながらも、戸田は必死に自我を保とうとしていた。
なぜ、みうながプレデターになったのか、それを知りたかったからである。
やがて、月の光がみうなの全身を照らすようになった。

「圭織さん、警察に―――えっ? 」

真里がそう言ったとき、みうなに異変がおこった。
ケイレンが一段と激しくなり、耳と鼻から出血している。
それはしだいに激しさを増し、ついには脳漿まで吹きだしてきた。
左目は飛びだしてしまい、視神経によってかろうじてつながっている。
そのうち、みうなの鼻のわきが異常に盛りあがったかと思うと、
顔面がパックリと割れて、奇妙な生物が姿をあらわした。

「な、何! 」

みうなのすぐ近くにいた真里は、驚きのあまり腰をぬかしてしまう。
その生物はサンショウウオのようであり、イモリのようであった。
そしてそれは、あさ美を恨むような悲鳴をあげたのだった。
92 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:25
「真里さん! 逃げて! 」

あさ美がそう叫んだ瞬間、奇妙な生物は真里の顔面に飛びついた。
とっさに手でよけた真里だったが、体長30センチほどのそれは、
迷うことなく彼女の指にかみついたのである。
真里は悲鳴をあげながら、その生物をアスファルトにたたきつけた。

「こいつは寄生獣。きっと地球の生物じゃないわ」

頭部に裂傷を負い、ムラサキ色の血をながして苦しむそいつを、
あさ美はスニーカーで踏みつけた。

―――体が乾く。
―――早く人間に寄生しないと。
―――このままじゃ、私は死んでしまう。

「き、寄生獣? 」

「人間の脳内に寄生して、意のままに操ってたの」

みうなは何かの原因で、この寄生獣に侵入されたのだ。
寄生獣は地上では生きてゆけず、こうした宿主に頼ったのである。
彼らの星では、栄養価の高い胎児を捕食していたのだろう。
その本能にしたがい、みうなは妊婦を狩っていたのだ。

「地獄におちろ! この悪魔! 」

あさ美が念をこめて体重をのせると、寄生獣の頭がつぶれた。
ムラサキ色の体液が飛び散り、あたりには恐ろしいほどの悪臭がたちこめていた。
93 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:26
「みうなちゃん―――」

あさ美は悲しそうに、こときれたみうなを見つめる。
みうなは死んでしまったが、彼女の魂はようやく開放されたのだ。
その感謝の意思を感じ、あさ美は少しだけうれしくなる。
彼女はみうなの死体の手をとり、胸の上で組ませた。

「左手の指が折れてるわ」

妊婦の腹を素手で裂くほどの力を出したため、みうなの指の骨が折れていた。
いつもは脳内のリミッターがはたらき、筋肉の力をおさえている。
だが、寄生獣に支配されたみうなは、リミッターを制御できなかったのだ。

「彼女は左利きだったの。それであのとき―――」

戸田はみうなを家におくったとき、変な違和感を感じていた。
それは、みうなが左手を使わなかったというものである。
彼女は家庭科教師であるため、生徒の利き手を全員把握していた。

「圭織さん、真里さんの手を消毒して」

寄生獣にかまれたため、真里の手は少しだが出血していた。
地球外生命体ともなれば、どんな病原菌がいるかわからない。
圭織は持っていた使い捨ての消毒薬を使い、真里の傷を治療した。
プレデターである寄生獣は、本能的にあさ美を恐れていた。
それは、あさ美に発見され、殺されることを予知していたのではないか。
だが、残念ながら、それを確かめる術はもうない。
なぜなら、あさ美は念をこめて、寄生獣の魂を消滅させてしまったからである。
こうして、すべてが終わったころ、ようやくパトカーのサイレンが聞こえてきた。
94 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:26
―16―

数日後、成田空港の国際線出発ロビーに、3人の女性の姿があった。
HIVに感染した真里は、フィリピンで一生を終えようと考えている。
フィリピンであれば物価が安いので、あと何ヶ月生きれるかわからないが、
一生を終えるための資金は用意できていたのだった。

「あさ美ちゃん、最後に会えてほんとうによかった」

泣きたくなるのをこらえて、真里は笑顔で言った。
人でごったがえすアジア最大の空港は、
今日も多くの旅人を迎え、そして送り出している。
真里が乗るフィリピン航空マニラ行きの搭乗手続が始まり、
大きな出発ロビーにバイリンガルでアナウンスが流れた。

「真里さん」

あさ美は真里を抱きしめ、彼女との別れを惜しんだ。
つかの間の再会ではあったが、真里と会えたことは、
あさ美にとっても、この上なく嬉しいことだった。
ゲートの向こうは、すでに日本という国家ではない。
英語やタガログ語で話す人が3人の横を通ってゆく。

「もう―――会えないんだよね」

「会えます。絶対に会えますよ」

あさ美はそう言うと、涙をこぼす真里にキスをした。
真里はつきはなそうとしたが、あさ美は彼女を離さなかった。
95 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:27
「ダメだよ。オイラ、HIVに―――」

「キスくらいじゃ感染しないでしょう? 」

優しくほほえむ圭織に、真里は「そうだった」と言って舌をだした。
真里は自分の口紅がついたあさ美のくちびるを触り、
涙をこぼしながらも、笑顔をつくっていた。
ゲートを通過する人も少なくなり、そろそろ搭乗すべき時刻だ。

「もう行く。あさ美ちゃん! あなたに会えて、ほんとうによかった」

真里はそう言うと、ところかまわず号泣しながら、ゲートを通って行った。
もうふり返ることはないだろう。それでもあさ美は、真里に手を振る。
人の群れの中に消えてゆく小柄な真里。薄幸の女は今、死を迎えるために旅立った。

「あさ美ちゃん、何かおいしいものを食べて帰ろうよ」

「そうですね。真里さんのために」

あさ美は笑顔で、優しく彼女の肩を抱く圭織に言った。


  ◆      ◆      ◆      ◆      ◆
96 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:27
彼らは困惑した顔で、書類を見ながらため息をついていた。
その前で、真里は小さな体をさらに小さくしながら緊張している。
やがて、ボソボソと何やら相談をはじめ、彼女は白く塗られた壁を見ていた。
マニラ郊外にあるこの病院は、HIVの治療と研究で有名である。
同時に、HIVで死亡する患者へのフォローもできる病院だった。

「ミス・マリ・ヤグチ。結論から言いましょう」

日本語のうまい医師が、あきれた顔で真里に話しかけた。
急に話しかけられて驚いた彼女が顔をあげると、
すでに席を立つ医師たちもいるではないか。
もしかして、合併症を発症し、入院を拒否されるのか?
ここを拒否されたら、彼女はまた病院を探さなくてならない。

「あなたはHIVに感染していません。日本の検査でまちがえたとしか思えませんね」

「ええっ! そ、そんな莫迦な! 」

「それに、いつ堕胎したんですか? そんな痕跡はありませんよ」

医師は内視鏡の写真や、血液検査の結果を具体的に説明する。
それによると、血液の数値は健康そのものだったし、
子宮や卵巣も健康で、妊娠〜出産にまったく問題ないという。
しまいには血液が真里自身のものであるかどうか、
検査したDNA分析の結果まで見せられることになった。
97 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:27
「入院はお断りします。それでは」

青天の霹靂とはこのことだろう。
ここを死に場所にしていた真里にとって、
それは喜ばしいことなのだが、ショックの方が大きかった。
真里はそのまま、フラフラとビーチまで歩いてゆく。
スコールが去った海岸は、気化熱の影響で涼しかった。
彼女はうちあげられた流木に座り、茫然として海を見つめていた。

「ヤッホー! サーフィンだぜ! 」

サーフボードを抱えた女が走って行き、砂に足をとられて転んだ。
かなり派手に転んだのだが、彼女はきっとポジティブなのだろう。
頭についた砂をはらいながら、彼女は笑いながら立ちあがった。

「こんなこともあるさ。って見られてたかー」

「―――」

女は真里を見て、恥ずかしがるわけでもなく平然としている。
だが、真里にとっては、それどころではない。
ショックが大きすぎて、何をしていいのかわからなかったのだ。

「うーん、どこかで会わなかった? 」

女は茫然とする真里を見て、どこかで会った気がしていた。
真里は女を見たが、今は誰だったか思いだすどころではない。
真里の頭の中は真っ白で、ただ、波の音が響いているだけだ。
女は砂のついた水着をなおしながら、真里に近づいてきた。
98 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:28
「あたし、保田圭っていうんだけど、あんた日本人だよね」

保田は春休みを利用して、フィリピンへ遊びにきていた。
2人の生徒が死んだのだが、それはそれで割りきっている。
横に腰をおろした保田は、何かと真里に話しかけたが、
彼女が反応することはなかった。

「もしもーし! 」

真里の耳元で大声をだしてみるが、まったく反応はない。
保田は「つまんないの」と言いながら、サーフボードを抱えて海に走って行った。
たしかにHIVに感染していたし、血液の数値もわるかった。
堕胎で傷つき、二度と出産できないと医師に言われた。
それなのに、真里の体は正常にもどっていたのである。
ようやく、真里は少しずつ冷静になってきた。

「―――まさか」

寄生獣にかまれたとき、何かが感染し、HIVが治ってしまったのだろうか。
それとも、あさ美にキスされて、その気が体を正常にしてしまったのか。
少しだけ西にかたむいた太陽が顔をだし、あたりの気温が上昇してゆく。
私怨で4人も殺した真里には、死をむかえることが報いというものだった。
だが、天は彼女に生きることを与えたのである。
これから彼女は死ぬまで、4人を殺したという罪を背負って生きてゆく。
忘れることはできるかもしれないが、彼女の心から消えることはないだろう。

「まあ、いいか」

真里が海に視線をもどすと、サーフボードをくわえたサメがはねあがり、
さすがの保田も泣きながら、全速力で逃げてくるところだった。
99 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 14:33
――― Tokyo Klling City・完 ―――




これで「Tokyo Killing City」は完結しました。
長いあいだ、どうも有賀党ございました。
ochi進行にもかかわらず、レスをしていただき、とても嬉しかったです。
これからも、MU(オサーン)をよろしくおねがいします。
100 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/16(木) 17:37
完結お疲れ様でした。
なななな〜〜〜〜〜っ!!!!って感じの終わり方でしたが
矢口が元気になってよかったです。
犯人が意外でしたが・・・やられたって感じです。(笑
最後のオチ結構笑えた。(笑

次回作も期待してます。
101 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/25(月) 05:22
面白かったですよん。
この手の話はシリーズ化しやすいと思うのですが、どうでしょう?
やりませんか?(笑
102 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/11/02(火) 09:45
シリーズ化されてる気が。
探してみてください。

次回作楽しみにしています。

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