君は僕の宝物 NEXT STEP
- 1 名前:円 投稿日:2004/08/12(木) 13:51
-
色々出てきます。
男ネタありなのでsage進行です。
前スレ 『君は僕の宝物』
http://m-seek.net/cgi-bin/test/read.cgi/flower/1079871734/
- 2 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:52
- 買い物袋を抱えて歩く道すがら、隣の梨華が幾分申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「や、全然構わんですよ。あたしも丁度ヒマやったけん」
照れ臭そうに笑いながら首を横に振った。遊びに出た先でたまたま買い物帰りの梨華と
鉢合わせ、そのまま通り過ぎるのもなんなので声をかけて成り行きで荷物を半分受け持って
付き合う事になったのだ。
「ありがと」柔らかな微笑と共に礼を言われて、れいなは思わず視線を落としてはにかむ。
れいなのクラス担任である保田圭の友人だという彼女とは、前に一度会った事があって、
その時から思っていたのだが彼女はなんというか。
可愛い人なのだった。
だかられいなはちょっと嬉しい。シタゴコロがあるわけではないのだが、一緒に歩けて
なんだか少しだけオトナに近づいた気がする。
そんな事はないのだが。
- 3 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:52
- 「いつもは保田さんに車出してもらうんだけど、最近ちょっと忙しいみたいで」
「あー、期末テスト近いけんね」
「うん。毎晩遅くまで唸ってるよ」
思い出しているのか、面白そうに梨華が笑って、れいなもそれに合わせて笑ってから
首を傾げた。
「毎晩て、石川さんいっつも先生んとこ遊びに行っとぅですか?」
「え?」
梨華もきょとんとしていた。れいなの質問の意味が判らない、という表情だった。
それから少しして合点がいったらしく、彼女は口元に苦笑を浮かべた。
「今ね、保田さんのとこに居候してんの」
「ええ!? マジでぇ?」
これは素直に驚いた。れいなは圭のことを嫌ってはいないが、むしろ冗談で「キモイ」とか
言っても本気では怒らないのでいい先生だと思っているのだが、それでも彼女が
れいなにとって教師である事に変わりはない。
- 4 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:52
- 顔を合わせるのは学校だけで十分だと思っている教師という存在と、ずっと一緒にいる
なんてちょっと考えられない。
「えーなんか、ヤじゃないですか?」
「そう?」
「だって……先生やなかとですか」
不思議そうな顔をしていた梨華は、れいなの言葉に軽く目を細めた。
「あたしにとって、保田さんは先生じゃないから」
「そりゃそうですけど」
梨華がくすと笑う。れいなにはその微笑の意味が判らない。
「あたしも、先生って苦手だったけど」
「ですよね。なんか威張っとるし、遅刻すると怒るし、宿題忘れても怒るし、授業中
寝とっても怒るし」
「それは……しょうがないんじゃないかな」
困ったように眉を下げて、梨華は小さく唸りながら言った。
- 5 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:53
- 初夏の日差しは厳しく、れいなの額には汗の粒が浮いている。流れ落ちた汗が目に入って
れいなは片目を瞑った。それを見つけた梨華がハンカチを取り出して額を拭いてくれる。
「あ、すいません」
「いいよ。暑いよね、今日」
「暑いですよねー。溶けそうですよ」
うんざりした口調になった。梨華も合わせて「暑い暑い」と呟く。
「れいなちゃんは、今日ひとりなの?」
「あー、はい。絵里とさゆ……あの、前会った時に一緒におった二人なんですけど。
二人して映画観に行っとるけん」
「一緒に行かなくてよかったの?」
「行くはずだったんですけど、朝、弟が熱出して。面倒見てて行けんかったとです」
「そっか。残念だったね」
梨華はそう言ったが、実のところそれほど残念でもなかった。どうしても観たいという
わけではなかったし、そのおかげで梨華と話ができたし。
ちなみに弟は昼過ぎに持ち直し、今はもう元気にゲームで遊んでいる。
- 6 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:53
- 「じゃ、絵里ちゃん怒ってたりして」
「へ?」
横目でれいなを見遣りながら、梨華は小さな含み笑いをした。
「女の子って、たぶん男の子より独占欲強いよね」
「はあ……?」
「あたしも人のこと言えないんだけど」
「そうなんですか」
れいなは生温い相槌を打つ。彼女はコイビトでもいるんだろうか。いてもおかしくない。
なにせ可愛い人だし。大人だし。
そういう相手に対する、自身のスタンスについて話しているんだろうと、れいなは
そう思った。
「絶対に失くしたくない……っていうか、失くしちゃいけない人って、いない?」
「失くしちゃいけない人、ですか?」
「うん。あたしはいるんだけど。結構恐いんだけど優しくて、結構意地悪なんだけど
大事にしてくれて、あたしのこと守ってくれる人」
「カレシさんですか?」
「んーん、違うよ。恋人より大事な人」
ふぅんと、れいなは小さく頷いた。頷いてみたのはいいが、実際は全く理解できていない。
- 7 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:53
- 自分の周りにいる子は、まあ大概が恋愛を最上級と定めているような価値観の子が多くて、
恋をする前に恋人を欲しがったりしている。れいなもそういうものだと思っていた。
最上とまではいかなくても、なんとなく、日常の幸福に直結しているような、恋人が
いればとりあえず満足、みたいな感覚は判らなくもない。
しかし、彼女はそうじゃないらしい。それはやっぱり大人だからだろうか。
「あ、家族とか?」
「はずれー」
「えー、そしたら親友とか」
「ちょっと違うかな」
梨華は楽しそうに笑っている。足し算を習ったばかりの子供に掛け算の問題を出して、
解けない事が判っているのに子供が頭を捻っているのを眺めて遊んでいるような、
あまり趣味のよくない笑顔だった。ただしそれほど嫌味ではない。大人がそういう遊びを
する時、どんな反応をすればいいか子供の方もわかっているからだ。
「えー、判らん。降参です」
れいなは彼女の要望通り、少しだけはしゃいだ声でそう言った。ふふ、と梨華の唇から
軽い笑声が洩れて、それから音を形作るために開かれる。
- 8 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:54
- 「実はあたしも判んないの」
「うわ、そんなんズルいじゃないですか」
「じゃあ、大事な人、が答えかな」
ずるい。最初に答えを言っておいて問題を出すなんて。「答えは簡単です」で始まる
なぞなぞじゃあるまいし。
れいながぷくりと頬を膨らませて拗ねたポーズをとると、梨華はくすくす笑った。
短めのクラクションが聞こえて、二人は思わず音のした方へ振り返った。
路肩に停められた軽自動車の窓が開いており、そこから顔を出した圭がこちらに向かって
手を振っている。
「保田さん」梨華が安堵に似た口調で呟いた。
「石川! あんたさっきから電話してんのに、なんで出ないのよ」
圭が近寄ってきた梨華に怒鳴る。開口一番怒られた梨華はしゅんと頭を垂れた。
「バッグに入れてたから気づかなかったんですよぅ……」
「あ、先生、石川さんあたしと話しとったけん、聞こえんかったのかも」
「田中?」
れいなが口を挟んで、圭はようやくれいなの存在に気付いたようだった。すぐ隣にいた
のに、とれいなが僅かに口を尖らせる。
そんなれいなとは対照的に、梨華は叱られたばかりなのに表情を明るくしていた。
- 9 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:54
- 「え、保田さん迎えにきてくれたんですか?」
「ばっ……ちょっと気晴らしにドライブしてただけよっ。
そんでたまたまあんた見つけたの!」
圭の言葉は矛盾している。梨華に連絡を取ろうとしていたのなら、それは彼女を探して
いたということだろう。
これが大人の付き合いというやつだろうか。それとも子供じみたじゃれ合いなのか。
微妙に所在のなくなってしまったれいなは、心の中で首を捻りながら二人のやり取りを
眺めていた。
「いいからさっさと乗って。田中も来る? テストの問題は見せてあげらんないけど、
お茶くらい出すよ」
「いや、あたしは石川さん手伝ってただけやけん、先生が来たならここまでってことで」
「そう?」
正直に言えば梨華ともっと話したかったが、前述のように教師と顔を合わせるのは
学校の中だけで十分なのである。想像しただけで息が詰まりそうになって、れいなは
メリットとデメリットを天秤にかけ、結局首を横に振った。
- 10 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:54
- 荷物を後部座席に放り込んだ梨華が、最後に「ありがとね」と言って頭を撫でてくれた。
子供扱いされたのは癪だったが、撫でられた瞬間にふわりといい匂いがして帳消しに
なった。
「田中、手伝ってくれてありがと」
まるで保護者のように圭が言う。居候をしているという話なので、本当に保護者なのかも
しれないが。
「んじゃお礼に国語の成績Aにして」
「無茶言わないの」
呆れたような苦笑をして、圭は腕を延ばしてれいなの胸を小突く真似をした。
圭の拳をひらりと避けたれいなが悪戯に笑った。もちろん、こっちだって本気で言った
わけじゃない。
発進した車の内部(主に助手席)へ手を振ってから、れいなは帰路に着いた。
別段、用事があってここへ来たわけでもなかったし、特に行きたい場所もなかったからだ。
駅へ向かおうと身体の向きを変えかけたところで、突然肩を誰かに掴まれた。
「う……」思わず出てきた悲鳴を慌てて抑える。休日の昼間、往来は人でごった返している。
こんな所で大声を上げるわけにはいかない。
- 11 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:54
- 恐る恐る振り返った先には、さゆみがいた。
「……な、なんだ、さゆか」
れいなは大声を上げなくてよかったと安堵する。そういえば目的の映画館はこの街に
あるのだったなとれいなは意識的な思考を展開した。本当は最初から解っていて、だから
ここへ足を運んだのだが。
その行動は矛盾を孕んでいたが、生きていく上では必要な矛盾だった。
「れいな」
「なん? あ、絵里は? もう映画終わったと?」
きょろりと辺りを見回しても絵里の姿はない。映画を観終わってから別行動を取っている
のだろうかと問い尋ねたが、さゆみはその質問には答えず、何やら難しい顔をしていた。
「れいなはすぐ絵里の家に行った方がいいと思うの」
「は? なんで」
「絵里が怒ってるから」
「……はい?」
- 12 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:55
- さゆみの言葉には肝心な部分が抜けている気がする。今日は絵里と会っていないので、
別に怒らせるような事をした覚えがない。さゆみと絵里はどうも波長が合うらしく、
喧嘩をしているところなどついぞ見た事がない。第一、さゆみが原因なら自分が行く
必要などないだろう。
「石川さんと楽しそうーに歩いてたよね」
「なん、さゆ見とったと? そんなら声かけたらよかったんに。
あ、保田先生が来たからっちゃろ。さゆ、先生苦手じゃけんね」
「れいな、石川さんみたいな人好きだよね」
会話は噛み合わない。さゆみは基本的にこちらへ合わせてくれない。だからいつも
れいなが合わせる事になる。
「あー、まあ。可愛い人やけんね。なんか女の子っぽくて、そんでオトナだし」
へら、と笑いながら答えたら、さゆみは深く嘆息した。
「その可愛い石川さんと歩いて、れいながデレデレしてるとこを、私と絵里は見てました」
「……あ、そう。てゆーかなんで敬語?」
「れいなが石川さんに汗拭いてもらって超デレデレしてた辺りで、絵里帰っちゃいました」
「…………ふ、ふーん。だからなんで敬語?」
努めてなんでもない風を装いつつ、れいなは首筋に嫌な汗が伝うのを感じる。
- 13 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:55
- だからつまり。
れいながデレデレしながら可愛い石川さんと一緒に歩いてるところを目撃した絵里が
ヤキモチを焼いて帰ってしまったので、その斜めに傾いたご機嫌を元に戻すために
さっさと絵里のところへ行け、とさゆみは言いたいのだろう。
しかしながら、れいなは別にデレデレしていたつもりはない。そりゃまあちょっとは
機嫌が良かったりしたが、それだって通常の範囲内だ。
第一、そんなご機嫌を取るために彼女のもとへ走るなんて、面白くない。
「別に、わざわざ行かんでもよかっちゃろ。子供じゃあるまいし」
「そういう問題じゃないのー」
じゃあどういう問題なのかと問いたかったが、おそらく明確な解答などないのだろうと
予測してれいなは口を閉ざす。
さゆみはこちらが「行く」と言うまで納得しないだろう。親切心から梨華に手を差し伸べた
だけなのに、思わぬところで面倒なことになってしまった。冗談じゃないと溜息をついて、
れいなは苛立たしげに肩を掴んでいる手を払った。
- 14 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:55
- 「それってあたしが悪いん? そんなん、石川さんにも失礼っちゃ。
勝手に怒らしとったらよか」
「ダメだってば! ――――判った、れいな」
「なん?」
「絵里が自分の知らないとこで他の人と楽しそうーに歩いてたら、れいなどう思う?」
う、と思わず喉が詰まった。なんだか以前、そんなような経験をした事があるような
気がしなくもない。
「そりゃ……」気まずげに目を逸らし、れいなはもごもごと口の中だけで言い訳をする。
さゆみは唇をへの字に曲げて睨んできている。元々がぽわんとした顔つきなので大して
恐くはないが、それでもまあ、その視線は居心地が悪い。
「……判った。もう帰るとこやったし、絵里んとこ行ってみるけん」
「ちゃんと謝んなきゃダメだよ」
「だから……っ」
謝らなければならないような事はしていない。
そう主張しようとしたれいなの額を、さゆみが指先で小突く。彼女の方が背が高いので、
なんだか年上の人に叱られているような気分になった。一年生の時より身長差は広がって
いる。何故だ。神様って不公平。
- 15 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:55
- もやもやとした、粘着質の物体が身体の内側にへばりついているような不快感を覚えた。
それは色々なものが重なって混じり合って溶け合って出来た物体で、だかられいなは
根本にあるものを見つけられない。
「いいから早く絵里んとこ行ってあげて。機嫌直せるのれいなだけなんだから」
ぷくっと頬を膨らませたさゆみが言って、れいなの肩を押す。
釈然としないながら、れいなはそれに従って駅へ向かって歩きだした。
「あ、さゆは帰らんの?」
振り返って問うと、「買い物してくー」と返された。
おそらく、本当なら映画の後、絵里と二人で買い物をするはずだったのだろう。
それについては、ちょっとだけ悪い事をしたなと思った。
- 16 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:56
-
- 17 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:56
- 「こーんにーちはー。田中ですけどー」
ピンポンピンポンピンポン。インタフォンを連打しながられいなは声を張り上げる。
子供特有の無邪気な迷惑行為だった。
しばらく待っても応答はない。はて留守だろうか。さゆみも絵里が家に到着するまで
見ていたわけではないのだから、本当はまだ街の方で遊んでいるのかもしれない。
とするとこれは徒労だ。無駄な努力だ。骨折り損のくたびれ儲けだ。駅からなら自宅の
方が近いのに。
「絵里ー、おらんのー?」
ピンポンピンポンピンポン。れいなはしつこくインタフォンを鳴らす。
それはれいなの苛立ちを表していた。自身の行動が無駄に終わるかもしれないという
可能性に、半ば意地になっていた。
ピンポンピンポンピンポン。せっかちなサラリーマンがエレベータのボタンを叩き続ける
ように、れいなは何度も繰り返す。
- 18 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:56
- 「おらんなら帰るけんねー」
頭の中で数をかぞえ始める。10まで数えて出てこなかったら帰ろうという心積もりだ。
すぐに帰らないのはさゆみに対する義理立てである。こうでもしないと後で彼女が
怒りそうだから。
――――さーん、しーぃ…。
ドアは開かない。
――――しーち、はー……ち、きゅー…………う。
段々、カウントアップのスピードが落ちてくる。別に時間稼ぎではない、多分。
――――じゅー…………。
ガチャリとドアが開く。れいなはカウントを止めた。
「……れいなうるさい」
「だったら早いとこ出てきたらよかっちゃ」
出てくるなりインタフォンの鳴らし方について抗議してきた絵里に、れいなは軽く肩を
竦めながら憎まれ口を叩いた。
- 19 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:57
- 「入ってもよかね?」
絵里はしばらく悩んで、結局は「ん」と小さく頷いた。彼女は意地っ張りなくせに素直だ。
家人は誰もいないらしい。「絵里しかおらんの?」「お父さんはゴルフで、お母さんは仕事」
絵里の口調は素っ気無い。まあいいけど、とれいなは思う。
彼女の私室にお邪魔し、遊びに来た時の定位置になっているソファへ落ち着く。絵里は
ソファと対角にあるテーブルの前へ座り込んだ。れいなが片眉を上げた。二人だけの時は、
大概隣に来るのだが、そうしないということはやはり怒っているのか。
「こっち来んの?」
「なんで?」
「……や、別に」
今のは失敗だった。これじゃあまるで来てほしいと言ってるように取られてしまう。
そうじゃなくて、ただ単純にいつもと違うという事を言いたかっただけなのに。
両手を組んで膝の上に置き、れいなは口の中で小さく唸る。
- 20 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:57
- 「あ、映画、面白かった? 行けんようなってごめんね」
「別に」
「お昼にはもう大丈夫になってたけど、絵里たちが観るやつって11時半からやったけん、
行っても間に合わんなーって思って、そんで」
「ふーん」
「あれって何日までやったっけ? うちのお母さんも観たいって言っとったけんね。
今度一緒に行こっかなあ」
「行けば?」
出来れば四文字以上の返答をしてほしい。微かな嘆息を落とし、ソファの背凭れに身体を
預けた。
首を背凭れに乗せ、天井を眺める。天井には幾何学模様の壁紙が貼られている。じっと
見ていたら次第に模様がぐにゃりぐにゃりと動き出し、万華鏡を覗いた時に似た奇妙な
気持ち悪さを覚えた。れいなは軽い眩暈に顔をしかめて首を戻した。
「……怒っとるん?」
「何が?」
「さゆが言っとったけん、絵里が怒っとるって」
絵里は応えない。例の「ムカつく」すら出てこない。困ったなとれいなは自身の顎を指先で
掻いた。ぶつかってきたら何とかなるが、手応えが無い今の状態ではどうしようもない。
- 21 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:58
- こういうのはなんて言うんだっけな。国語教師の保田に会ったせいか、所在ない時間を
どうにかして潰したいのか、れいなは口をつぐんでぼんやりと思考を巡らす。
因果応報。違うだろう。違うと思いたい。……暖簾に腕押し、糠に釘。こっちの方か。
向こうからのアクションはなく、こちらのアクションは無効化されている。
ゲームに出てくる魔法みたいだ。そういった場合、大抵はそれに対処するための方法が
用意されているのだが、現実はゲームのように上手くはいかない。
そんな都合のいい魔法があったら喜び勇んでそれを使うが、そうじゃないから自分の力で
なんとかするしかない。
静かに吐息をこぼし、絵里から目を逸らす。窮屈な沈黙。鬱屈した潜伏。卑屈に歪む
れいなの口元は不機嫌を隠さないし、理屈のない絵里の拒絶は不自然と格差ない。
「……石川さんは、グーゼン会って荷物持つの手伝ってただけっちゃ」
「あっそ」
「だってほら、知っとる人に会ってシカトするわけにいかんっちゃろ」
「ふぅん」
お願いだから四文字以上の返答を。
れいなはぐったりと身体を丸め、くぐもった唸りを上げた。
- 22 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:58
- 「……だいたい、なんであたしが絵里に言い訳せんといかんの」
愚痴に近い口調で呟いて顔を彼女に向けた。絵里は唇を尖らせたまま窓の外を眺めている。
そうだ、別に言い訳をする必要なんてないのだ。自分は彼女の所有物ではないのだから、
自分の意思で行動して自分の判断で行動して自分の価値観で行動して、それを彼女に
責められる謂われはない。
なんだか腹が立ってきた。絵里が勝手に怒って勝手に拗ねて勝手にむくれているだけの
この状態で、自分が謝らなければならない道理はない。
「あたしが誰となにしとったって、絵里に関係なかよ」
絵里が小さく息を呑むのが判った。それでもれいなの言葉は止まらない。
「石川さん、可愛いし綺麗やし、会って話すくらい普通にしたか。
あたし別に、絵里とつ……つー……そういうことになっとるわけじゃないけん、
絵里に文句言われる筋合いなか」
頭に血が上っている状態であっても明確な言葉が出てこず、そこで少しだけ勢いが
削がれたが、れいなは気にしない事にして言い切った。
「…………んだ」
「え?」
その呟きはあまりにも小さく、れいなは訝しげに問い返す。
- 23 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:59
- 「なに?」
「やっぱ、石川さんみたいな人の方がいいんだ」
おいおい、と口の中だけで言葉を転がした。ようやく四文字以上喋ってくれたかと
思えばこれか。
「別にこっちがいいとかあっちがいいとかじゃなかよ」
「だって絵里、れいなよりさゆより年上なのに一番子供っぽいとか言われるし、
石川さんみたいに綺麗じゃないし、れいなよりおっきいし」
「や、絵里は」
どっちかっていうと『可愛い』の方が似合う顔だと思う。
言いかけて、あまりの恥ずかしさにソファへ置かれていたクッションを殴って誤魔化した。
ぼふぼふと間抜けな音が響いて、絵里が怪訝そうに振り返る。
れいなは動悸の治まりを待ってからクッションの形を直し、「んん!」と空咳をして
絵里の視線から逃げた。
「あー……石川さんはなんていうか、憧れっちゅーか、大人の人っちゃねーって思っとる
だけで、別にああいう人が好きってわけじゃ……や、好きは好きっちゃけど」
「やっぱり……」
「って、ちがーうっ」
- 24 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:59
- 言いたい事が上手く伝わらないもどかしさに、れいなが身悶えする。
そうじゃない。種類が違う。絵里に対する想いは曖昧で中途半端にしているなりに、
それはやはりちょっと特別な気持ちなのだ。可愛いとか綺麗だとかそんな感想だけで
済むものじゃない。
それは、だから。
れいながソファを降り、絵里の前でちょこんとしゃがみ込んだ。
「だから、石川さんと比べんでも……」
ふと、何かが引っかかった。
頭の隅を掠めたそれを、れいなは慌てて引き止めて手繰り寄せる。
何かが気になる。それは多分、絵里が言ったことと先ほど自分が発した台詞に関連して
いるのだろう。それらが組み合わさって、なにか糸口が見えたのだ。糸の口というだけ
あって、引っかかったものはとても小さい。れいなは慎重に糸を引き出していく。
子供っぽい。これは梨華を大人っぽいと評したことに対する比較級だろう。
綺麗じゃない。これもやはり、れいなは彼女を綺麗だと言ったから、それと対比させた
言葉だ。
さて、問題は残るひとつである。梨華は確かに小柄だが、それでも並んだ時の記憶を
手繰れば、自分より高かったように思える。
だからこれは、梨華を引き合いに出しているものじゃない。
- 25 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:59
- 「……絵里、ひょっとしてずっと気にしとった?」
瞬間、彼女の頬に朱が差して、ふいと横を向かれてしまった。
当たりか。れいなの肩から力が抜ける。
それは本当に、本当に下らない。確かに一般論として女の子は小柄でか弱そうな子を
可愛いとする傾向があるが(「守ってあげたくなる」とかいうやつだ)、でもそれは、
そんなものは。
下らないにも程がある。
指先で絵里の膨らんだ頬を突付く。眉をきつく寄せ、そっぽを向いた彼女は反応を
示さない。それでもれいなは彼女がもう怒っていない事を理解っている。
彼女が吐き出したものは、おそらくずっと内に抱え込んでいたコンプレックスだろう。
結構、思った事をすぐ口にする性格なわりに表へと出せずにいたのはプライドのせいか。
そのコンプレックスとプライドを癒着させているのは、多分。
「そんなん、気にすることないのに」
「……気にしてないもん」
「そう言うと思った」
れいなは立てた膝に顎を乗せて苦笑する。
さて、どうしたらいいのかな。
幼い自身には、経験に基づいた選択肢など存在しない。経験則は無く、センテンスもなく、
先天性の判断力もない。
だから考えなければならない。大人の経験を持ち合わせていない子供は、まず考えて
候補を絞り込む必要がある。それは悪いことじゃない。
彼女が見失ったものを見つける、都合のいい魔法を。
- 26 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 13:59
- 「絵里は絵里でよかよ」
言って、絵里の長い黒髪を指先に絡めて手慰む。するんと逃れようとするそれは彼女の
心境のようで、結局指先に捕まえられるそれは彼女の心中のようだった。
絵里はますます不機嫌な表情になったが、その視線は多少穏やかになっていた。
彼女は表情で嘘をつく。
膝立ちになって絵里の頬を両手で包み込み、少しだけ強引にこちらを向かせた。
彼女はれいなと視線を合わせないように目を伏せていた。その気弱い態度にれいなは
苦笑をする。
ああ、どうしてそんな風に不安なカオをするのかな。
きゅっと、肺と肺の間が痛くなって、何かがそこに詰まっているような心持ちになって、
その痛みに誘われるように、頬を包んでいた手をうなじの辺りに滑らせて引き寄せ、
ゆっくりと身体を屈める。
君以外に、こういう事をしたいと思える存在なんて、無いのに。
唇が重なる瞬間、絵里が僅かに首を竦めた。それは怯えているのでも怖気づいているの
でもなかったので、れいなは彼女の髪に潜り込ませた指先へ力を込めて阻む。
- 27 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 14:00
- 絵里は目を閉じている。
れいなは目を開けている。
せり上がる不安定と急き立てる不確定。いずれ崩れる足元と、いずれにせよ延ばされる腕。
いじらしいまでの信念といざ過信できない疑念。
薄氷の上を歩く子犬を見かけた時、きっとこんな気持ちになるんだろう。
洗礼のようなキスを終えて、兄弟に意地悪をされた子供みたいな顔をしている絵里に
悪戯く笑いかけてやる。
「絵里は絵里のまんまでよか」
「……むー」
膝を折り、絵里の手を取る。痛みは消えない。
れいなはもう、その痛みの意味を知っていて、痛みの原因を知っていて、痛みが何を
もたらすか知っている。
限りを見つけて区切りをつけて契りを交わして見切りをつけて。
大人に近づかなければならないと、知っている。
- 28 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 14:00
- 絵里が腕を延ばしてきた。れいなは軽い苦笑ひとつでその腕を拒む事を諦める。
「もっかい」
「え?」
受け止めた身体はいつも通りに柔らかかったが、こてりと首筋に乗っかった頭の辺りから
聞こえてきた声はいつもより熱を持っているような気がした。
「もっかい、して」
「………………えぇ!?」
予想外の要求にれいなの声が裏返った。
いや、それは。なんというかちょっと待ってほしい。何度もしている事とはいえ、
いきなりされたりとか自発的にしたりとか、そういうのとこんな風にお願いされて
するのとでは気構えが違うのだ。
だからつまり。
改まって「して」とか言われると、物凄く恥ずかしいわけで。
- 29 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 14:00
- 「い、いやいや。さっきしたげたっちゃろ」
「だからもっかいー」
「ちょ……」
れいなの身体は絵里を受け止めたままの姿勢で制止している。それ以上どうしようも
ないのだ。突き飛ばすわけにもいかないし、かといって抱きしめて熱いキスをするのも
無理な相談だ。むしろこっちが誰かに相談したい。
気付けば絵里の方もすっかり頬が染まっている。そうだろう、そんなトレンディドラマの
ヒロインみたいな恥ずかしい台詞を吐いて平気でいられるようなら、それは既に成熟して
いるか度し難いほど純粋だということだ。後者の方が可愛らしいが、前者は前者でまた
魅力的ではある。しかしどっちであってもれいなが対応に困るのは変わらないので、
彼女のそういった変化は有難かった。今も対応には困っているが多少気が楽だ。
せいぜい気休め程度ではあるが、気が休まらない状態よりはいい。
「せ、せんとダメ?」
「……ん」
れいなは既に腰を下ろしているので、目線は彼女の方が高い。多少見上げるような首の
角度が微妙に小さくなり、つまりれいなは視線を彼女から外した。
- 30 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 14:00
- まったく冗談じゃない。したいならいつもみたいに予告なく唐突に突発的にしてきたら
良かったのだ。そうしたらこっちだって怒るとか呆れるとか照れるとか、いくらでも
対処のしようがあったのに。
そういう、君の素直は。
「……んじゃ、目、つぶって」
ここで頑なに拒むのは、あまりにも無粋だろう。いきがっているつもりはないが粋でない
のはいただけない。
絵里が目を閉じて、それを確認してかられいなが音のない溜息をつく。
嫌だというわけではない。喜んでいるのとも違う。
恐い、んだろうか。
理由もなく勢いもなく、改まって行為に及ぶ根底にある好意。
それが、正しいのかどうか、判らないから。
人は知ろうとする生き物だ。物質でも現象でも病気でも社会動向でもなんでも、とにかく
分析して累積して調査して検査して精査して『それ』が何であるか知りたがる。
- 31 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 14:01
- 感情についても例外ではない。喜怒哀楽なんて高々四文字の言葉で丸く治めようとして
いるが、本当は単純に言語化できる感情なんてない。しかしそれらを象徴するものとして
単語はいくつも存在する。つまりはネーミングからラベリング、そしてカテゴライズ。
そうして判ったつもりになる。
嬉しいと思う心は善いものです。
悲しいと思う心は悪いものです。
楽しみは、苦しみは、喜びは、絶望は。
切なさは。
意味がない。どれだけ振り分けたところで、正の感情にも苦痛はあるし負の感情にだって
快楽は存在する。
「絵里……」
名前を呼んだのは無意識だった。
- 32 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 14:01
- そっと唇を重ねる。押し付けるだけの児戯のようなキス。誰かが、成熟した大人が
見ていたら、あまりといえばあまりな拙さと初々しさで逆に赤面してしまうような、
その脆さと儚さに思わず白旗を揚げてしまうような、そのもどかしさとじれったさと
いじらしさに手を差し出してしまいたくなるような、どうしようもないほどに果敢な。
世界中の誰も、それを止める権利など持っていない。
一度離れ、おまけとばかりに彼女の瞼へキスをして、熱を持った首を竦める。
プラスアルファのおまじないだ。
「……ほら、したげたんっちゃから機嫌直して」
「んー……ん」
わしゃわしゃと絵里の髪を撫でてやると、彼女はむーと唸ってれいなの手を捕まえた。
「ボサったーっ」非難する声に笑い返す事で応え、乱れた髪を直すように指先で梳く。
「もー、れいな」
絵里の頭を捕まえて引き寄せ、腕の中に閉じ込めてから言葉尻を奪うように耳元で囁いた。
- 33 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 14:01
- 「悪いことしたけん、ムカついとるんっちゃろ?」
それはまるで暗号のような言葉だった。全く別の、真逆と言っていいほどに異なった
意味を裏に隠した台詞だった。ある意味、同音異義語だ。当たり前だがどんな辞書にも
用法は載っていないし、他の誰も暗号は解けない。
抱きとめられた姿勢のまま、絵里がれいなの腰に腕を廻してきた。彼女の身体は多分、
嘘をつかない。
だからこれは、れいなの暗号を彼女が正確に解いた、という証明なのだ。
その腕はひどく気弱なくせに強さを持っており、捕らえられているという事実は
れいなに切なさをもたらす。
ぐるぐると身体の内側を駆け巡り、全身に行き渡って、指先まで滾って。
鼓動は速まらない。リズムは穏やかなのに、ひとつひとつが大きい。巨大な和太鼓を
全力で打ち据えているような、ビリビリと痺れるビート。
「絵里のばーか」
彼女は応えない。ただ、少しだけ腰に廻された腕に力がこもって、それはれいなに
対する抗議だった。
正鵠を射る微笑ひとつでそれを受け止め、するりと落ちる彼女の髪に頬を触れさせる。
- 34 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 14:01
- こういうのはなんて言うんだっけ。
この気持ちは、どんなネーミングでどんなラベリングでどんなカテゴライズをされて
いるんだっけ。
どれも同じ文字のような気がする。名称も種別も分類も、全て同じ文字で構成された、
つまりは中心の中心の中心にある想い。
君に対するこの気持ちは、どんな言葉で表せるんだっけ。
忘れてしまった。意図的に明確な思考をしないのではなく、思いついた単語のどれもが
違っているような気がした。だから、忘れたのではなく知らないのかもしれない。
「ヤキモチ焼き」
「違うもん」
「違うことなか」
そうでなければ説明がつかない。この穏やかな、それでいて僅かに苦い、しかし途方も
無く確かな充足をもたらしたのは、嫉妬という負の感情に含まれる快楽なのだから。
面倒臭くて因業深くて展望不確定な罪深い快楽を、れいなは持て余す。
- 35 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 14:02
- 「……ね、絵里」
「ん?」
「もうちょっとしたら」
持て余した想いが溢れかかって、れいなは無頓着な発言をしかけて、それをすんでの
ところで飲み込んだ。
「……なんでもなか」
「えー、なにそれ気になる」
「なんでもなかって」
困ったように苦笑をして誤魔化す。絵里は不満そうに膨れていたが、しばらく苦笑した
まま髪を撫でていたら、そのうち諦めたようで大人しくなった。
れいなは凭れかかって来る絵里の背中をぽんぽんと撫で叩きながら、嫌に甘ったるい
呼気を吐き出した。
さて、どうしようかと考える。本当は考えるまでもないことなのだが、とりあえず
れいなは考える。経験則によって考える隙間を失う前に、考えられる時は考えておく。
別段、絵里のように隙間が好きなわけではないが、過ぎていく時間を有効に使うために
考える。
- 36 名前:『いとしさとせつなさと心強さと』 投稿日:2004/08/12(木) 14:02
- 答えは言葉として存在している。簡単で、単純で、救いようがなく、捻じ曲げようがない、
1足す1と同じくらいに易しくも難しい問題の答え。
誰でも解く事が出来て、しかし「何故そうなるのか?」と問われたらほとんどの人間は
満足な回答が出来ない、無限の解を持つ解への問い。
いつだったかそれを思い知った事があった。自分自身が思い知ったことがあったし、
誰かに……当の絵里に対してさえ思ったことがあったかもしれない。それくらいに
普通で普遍で不遇で不変で不全で不便な解答だった。
絵里の背中を規則正しく叩いて、れいなは口の中で「どうしようか」に対する解答を転がす。
――――『どうしようもない』。
それは、まさにどうしようもなく、意味のない解答だった。
《Must give a name to the emotion.》
- 37 名前:円 投稿日:2004/08/12(木) 14:03
-
以上、『いとしさとせつなさと心強さと』でした。
いつぞやのうたばんは素で驚きましたが。<W世代でギリギリなのか……。
なお、「恋しさ」と書いて「いとしさ」と読ませるのがどうにも好みに合わなかったため、
ひらがな表記としています。
- 38 名前:円 投稿日:2004/08/12(木) 14:03
- な、なんとかログ整理には間に合ったかな…?
- 39 名前:円 投稿日:2004/08/12(木) 14:03
- 次回より、また田亀はお休みです。
- 40 名前:名無し読者 投稿日:2004/08/12(木) 19:54
- 新スレおめ&更新お疲れ様でした!
あいかわらずいい雰囲気をかもし出していらっしゃる・・・・
いろいろこれからも展開が増えそうなので楽しみにしてます。
それでは次回も待ってます!
- 41 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/14(土) 00:00
- 新スレおめ&更新乙です。
なんともこの・・・
相変わらず素晴らしい世界で。これからもヨロです♪
懐かしいタイトルですが、W世代でギリなんですか?
なんだか哀しい事実ですね。(T-T)ソンナトシナノカ、ジブン。。。
- 42 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/26(木) 22:59
- 作者様、お疲れ様です。
毎回、文章力がすばらしくて溜息をついています。
勝手に教科書にさせてもらってますよw
- 43 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:38
-
- 44 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:38
- 「なぁんかさー」
グラスを拭きながら、紗耶香は妙に間延びした口調で言った。
「最近ゴキゲンじゃん」
「えー、そっかなぁ」
真希の表情は、言葉とは裏腹に緩んでいる。いくらか呆れたような顔をして、紗耶香は
グラスを戸棚に仕舞った。
カウンターの最奥に座る真希の前にはジンジャーエールが置かれている。淡黄色の中で
丸い気体がぽわんぽわんと泳いでいた。真希はそれをストローで吸い上げる。グラスと
擦れた液体が軽い発泡音を奏でる。
「まあなんていうの、人生に潤いが出てきたっていうかさあ」
「なんだそりゃ」
「きひひ」
真希がバッグから携帯電話を取り出す。紗耶香は誰かに電話でもするのだろうかと思って
見ていたが、結局通信はされることなく、画面をこちらに向けて突き出された。
- 45 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:39
- 「ん?」
「ごとーのすきなひと」
液晶の画面にはカメラ機能で撮ったらしい写真が映し出されている。
「いえーい」とでも言ってそうな表情でピースサインをしている真希と、その隣で心持ち
緊張した顔で佇む少女。二人とも制服姿だ。青い空とフェンスがバックに見えるので、
学校の屋上で撮ったものなんだろう。
紗耶香は呆気に取られる。
「好きなって……好きってこと?」
「いちーちゃん、そのまんまだよ。――――まあうん、好きってこと」
「え、うわーそっかあ」
さっきから紗耶香の反応は大して意味を持っていない。真希はそれを面白そうに笑いつつ
見ている。
「いちーちゃん、実は悔しかったりして」
「ばっか。んなわけないじゃん」
僅かに気分を害したらしい。紗耶香は小皿を片付けながら眉を寄せた。
- 46 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:39
- 彼女の部屋に別れを告げてしばらくしてから、真希は紗耶香がバイトをしているバーへ
足を運んだ。
もう二度と会わないと思っていたんだろう、真希の姿を見止めた途端、彼女はものすごく
驚いた顔をして、しばらくそのまま固まっていて、真希が「やっ」と片手を上げると
ようやく例の少年じみた笑みを浮かべてくれた。
来るなと言われなかったので、真希はそれから何度かここを訪れている。
相変わらずアルコールは出してくれないが、本当のところ真希自身あまり飲めるわけでも
ないので気にならない。
「なに、付き合ってんの?」
「ううん。切ない片想いなんですよ、これがまた」
「へえ」
驚いたようなニュアンスを込めた相槌だった。真希はその意味を正確に理解する。
「嬉しい?」
「ん? ああ、そうだね。うん、後藤がそういう人を見つけられたのは嬉しいかな」
少年のように笑って紗耶香が頷く。
喜ぶと同時に、その逆の感情も覚えているんだろう。紗耶香の表情は複雑になっている。
笑ってはいるが、どことなくつまらなそうな、電車の中にお気に入りの傘を忘れて
しまった時のような顔をしていた。
- 47 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:39
- それからふと思い当たったのか、「ああ」と小さく呟いた。
「そっか。前言ってたの、その子だったんだ」
「うん」
「可愛い子だね」
「あー、可愛いっていうかね、可愛いけど。面白い」
くすくすと思い出し笑いをしながら言い、真希は携帯を仕舞う。
「まあ、まだ会って半年くらいだし。焦らないでいこうかなって」
「おー、なんだなんだ、成長しちゃって。かあさん嬉しくて涙が出ちゃうよ」
不機嫌になったことを誤魔化そうとしているのか、紗耶香はおどけた口調で冗談を言った。
それに笑みをひとつ返してから、伝票を持って立ち上がる。
「ごちそうさま」
「はいよ」
会計を済ませて店を出る。紗耶香が外まで見送りをしてくれた。「またね」と手を振ると、
凛とした穏やかな微笑で頷いてくれる。真希はそれが嬉しい。
- 48 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:39
- 彼女の手を離した時は世界の終末を迎えたような気になっていた。全てを失って、もう
どこにも何も、自分が手に入れられるものはないのだと思っていた。
けれど本当は何一つ失っていなくて、紗耶香は相変わらず同じ場所にいたし友人も誰も
変わっていないし世界は自分を見捨てることなく存在していた。
ある程度の別れがあり、ある程度の出会いがあり、それらのいくつかは真希の記憶に
残っている。
その中の、更にひとつ。
今でも色濃く浮かぶ彼女との出会いは、真希の中に根を下ろし芽吹き順調に成長した。
「桜はさぁ、白いんだよ」
酔っ払っているふりをして、フラフラ歩きながら呟いた。通りしなに聞き止めたらしい
女性が一瞬こちらを振り返る。
真希はバッグから携帯電話を取り出す。リダイヤルボタンを押して番号を表示させる。
ディスプレイに現れた文字に口元を緩めながら、通話ボタンを押しこんで耳へ当てた。
それほど待つこともなく電話が繋がる。真希はフラフラ歩きながらクルリと一回転した。
- 49 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:40
- 「これから遊びに行ってもいい?」
電話の相手は少しだけ驚いたようだ。曖昧な相槌を打って口ごもる彼女に、真希は軽く
苦笑する。
「ダメならいいよ。用があったわけじゃなくて、ちょっと紺野に会いたくなっただけだから」
これは本当。都合が悪いなら断っていいというのも、会いたくなったというのも本当。
これくらいはなんでもない。
会えないことより、彼女に嫌な思いをさせてしまう方が辛い。
真希は返事を待つ。「あの」とか「えと」とか意味のない声ばかりが聞こえてくる。それでも
ちょっと高めの声でのんびりと言われると、なんとなく嬉しくなってくる。
眠っている赤ん坊の隣で横になって寝顔を眺めている時のような、そんな幸福感だった。
ようやく意味のある言葉が電話から聞こえる。真希が目を細めた。
「いいの? んじゃねー、後藤新しいゲーム買ったから持ってく。一緒に遊ぼ」
歩きながら話していた真希の足が止まる。目の前には閉店間近のケーキショップがある。
「うんうん。一時間くらいかな。ん、じゃあね」通話を終えて、面倒なので携帯を
ジーンズのポケットにねじ込んだ。
- 50 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:40
- 柔らかく目を細めたまま自動ドアを通り、甘い匂いに包まれる。
彼女の喜ぶ顔を想像しながらケーキを選んだ。
あの頃は、自分がこんな風になるなんて思いもしなかった。
「愛されるより愛したい」なんて綺麗事の嘘っぱちだと思っていたあの頃の自分に
教えてやりたい。
綺麗事ではあるが、嘘ではなかったと。
- 51 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:40
-
- 52 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:40
- その日、真希は眠かった。
弟が家出をして、家族総出で夜中まで探し回り、24時間営業の漫画喫茶で悠々と
くつろいでいた弟を連れて帰って家族全員で叱って、終わる頃には午前を二時間くらい
過ぎていた。
おかげでものの見事に寝不足であり、加えて朝起きたときに弟の高いびきが聞こえて
きたりして機嫌も悪くなった。腹いせにベッドで爆睡している弟めがけて踵落としを
おみまいして「ぐえぇ」とか潰れたカエルみたいな悲鳴を上げさせてみたが、それくらいで
気が晴れたりはしなかった。
学校に着いてもやはり眠くて、授業中はなんとか気合で持ち堪えたのだが、チャイムが
鳴った途端に机へ突っ伏していた。
そして昼休みも同じように机と熱い抱擁を交わそうとした時、首根っこを誰かに
掴まれた。シャツの襟で首がしまり、今朝の弟と同じように「ぐえぇ」と唸る。
血は争えないという事だろうか。
「ごっちん、昼一緒に食わね?」
「……んあぁ」
猫を持つように首根を捕まえたまま、ひとみが顔を覗きこんでくる。
真希は苦しくなったので身体を起こした。眠い目をひとみに向けて睨んでみる。彼女は
軽く肩を竦めただけで受け流した。
- 53 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:41
- 「ほらほら、パン売り切れちゃうから」ひとみが急かしてくる。まだ行くとは言っていない
のだが、どうやら今日の食事会は強制参加のようだ。
仕方なく立ち上がって後に続いた。「中庭で食おうよ」「いいけど」真希は覇気のない顔で
答える。購買まで歩くのが辛い。
辿り着いた購買には、既に人だかりが出来ている。うえぇ。真希は口の中だけで悲鳴を
上げた。とてもじゃないが、あの中へ飛び込む気力がない。
ひとみは勇猛果敢に人だかりへ突進していき、すぐに姿が見えなくなった。
よしこ元気だなあ。半ば感心しながら真希は壁に凭れかかる。食欲もあまりないし、
ジュースの一本でも買って行く事にしよう。
戻ってきたひとみは両手にパンの山を抱えていた。どう見ても一人分ではない。
はて彼女は最近ダイエット中ではなかったろうかと首を傾げ、その疑問を真希はそのまま
口にした。
「そんなに食べんの?」
「なわけないって。のののクラスが前の時間体育だから、買っといてって頼まれてたの」
「ああ、つーじーの分ね」
なるほど納得だ。何度か一緒に食事をした事があるが、あの小さな身体のどこに
そんな量が入るのかと思うくらい、彼女はよく食べる。
- 54 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:41
- 「そ。んでこれがごっちんの分ね」
ひょい。レタスハムサンドとアップルパイを渡される。「へ?」なし崩しに受け取った
それとひとみの顔を交互に見遣り、真希は手の中の物をどうするべきか悩む。
「心優しいよしざーが奢ってあげるよ。どうせジュースだけとかにするつもりだったべ?」
パンの山を抱えなおし、ひとみが言う。真希は微妙な表情をする。付き合いが長くなると
こういうところで困る事が多くなる。
でもまあ、嬉しくないわけでもない。
「さんきゅー」
「そんかし掃除当番代わって」
「やだ」
即答したらひとみはくしゃりと顔を崩して笑った。
少年のようだが、紗耶香には似ていない。
春先の中庭は、昼食時の人気スポットである。
桜はさすがに花を落としているが、差し込む木漏れ日は暖かく芝生も柔らかくて
座ると気持ちがいい。
- 55 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:41
- その中庭の一角に二人は落ち着く。少し遅れて希美が姿を現した。
隣には友人らしい少女がいる。希美に手を引っ張られながらおずおずとこちらへ歩いて
くる。空いた手は弁当らしい包みを抱えていた。
真希は樹の幹に背中を預けながらその様子を見ていた。葉桜の隙間から差し込む光は
穏やかで心地良い。次第に瞼が下りていき、舟を漕ぎかけるのをひとみが肩を揺すって
止めた。
「おっすーっ」
「おっす」
希美が片手を上げ、ひとみの膝の上に収まる。
とるものもとりあえず早速パンを選び始めた希美に、ひとみは呆れたように笑った。
「のの、そっちの子は?」
「ん?」
「いや、その子」
ああ、とようやく気付いたように呟いて、希美が所在のなかった少女を手招きする。
「あさ美ちゃん、こっちこっち」
あさ美はおずおずと希美の手前に腰を下ろし、その背中でフレンドリィに笑っている
ひとみといつの間にか目を閉じてうたた寝をし始めている真希へ軽く会釈をした。
- 56 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:41
- 「辻ちゃんのクラスメイトで、紺野あさ美といいます。よろしくお願いします」
「よろしくー」
ひとみがにこやかに手を差し出し、遠慮がちに握ってきた手を勢いよく振った。
「……んあ?」なんだか聞き覚えのある名前のような気がして、真希が顔を上げる。
眠い目を擦りこすり、ぼやんと広がる視界にその姿を納める。
長い黒髪と、大きめな制服。どこか怯えたような、子犬みたいな瞳。
眠気が少しだけ飛んだ。
あの時の。あの時の子だ。
一瞬にして、ジェットコースターが最初の下り坂に入った時のように過去へ引き戻される。
走馬灯のように過去が流れる。縁起でもないと真希は思う。
紺野あさ美。桜。入学式。白、白、白。大きめの似合っていない制服。ギター。
相応しくない曲。それなりに狭く。バーは薄暗い。ジンジャーエール。似合っている私服。
似合っていない制服。遅刻をするから。桜の樹の下で。白。
いちーちゃん。
- 57 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:42
- 「あ……後藤、さん?」
あさ美の方も気付いたらしい。自信無げな表情で窺ってくる瞳に戸惑いを見る。
その戸惑いが意味するものは真希には判らない。
一年生の希美が三年生と仲良くしているのが不思議なのか、それとも真希自身に対して
何か思うところがあるのか。
「……や」手のひらを彼女に向けてそれだけ言った。あさ美が頭を下げる。
なんだろう。もう少し、もうちょっとだけ言葉に出来そうな思いが浮かんだのに。
それは意識した瞬間、煙のように掻き消えた。
ガサゴソと音がして、真希は無意識にそちらを見遣る。真希の視線があさ美から外れた
その瞬間、あさ美は人差し指で鼻の頭を擦った。
希美は渦巻状の貝を模したようなパンの先にかじりついている。膝に乗っかられたままの
ひとみはブリックパックの牛乳を飲んでいた。
「のの、一口ちょうだい」
「ん? はい」
肩越しにパンを差し出す。ひとみが大口を開けてそれに食らいついた。
パンは半ばを過ぎた辺りまでひとみの口に収まって、それを見た希美が「あー!」と叫ぶ。
- 58 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:42
- 「ばかよっすぃ! 半分も食うなよ!」
「ひほふひらろー」
「チョココロネは真ん中にしかチョコ入ってないんだぞぉー!」
膝の上で暴れる希美に手を焼きながらも、ひとみはのらくらとかわす。
「ほらほら、牛乳飲め牛乳。カルシウム補給」
「いらねーよばーか!」
「あーもう、口悪いなあ」
相手をするのが面倒臭くなったのか、はいはいと頭を撫でて宥め始める。希美はまだ
拗ねているようだが最初から本気で怒ったのではないらしく、とりあえず噛み付いて
気が済んだのか食事に戻った。
真希は二人のそんなやり取りには構わず、アップルパイを食べながらぼんやりあさ美を
見ている。
視線に気付いてあさ美が箸を止め、顔を上げた。落ち着きない視線がふらふらと
真希の頭上や肩口のあたりをさまよい歩く。
「あの……?」
「ああ、ごめん、なんでもない」
「なにごっちん、昔の癖でも出た?」
「そんなんじゃないけど」食べ終えたアップルパイの包みを片付け、真希は決まり悪い
表情で下を向いた。
- 59 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:42
- 「クセ?」
「なんでもないよ」
深く考えたわけでもない、ただ気になったから何となく聞いただけという口調で放たれた
あさ美の問いに、真希は他の誰よりも早く答えた。
ちりりと首筋が痺れる。ひとみの意識がそれを引き起こしている。
痛みはない。彼女は責めているわけじゃないから痛くはない。真希の首筋のほんの表面を
流れる弱電流は、追求でも叱咤でも慟哭でも憤怒でもなく、言葉に変換したら「へえ」とか
そんな一言になるような、単純な興味だった。
ひとみは真希の過去を知っている。スポーツ一辺倒だった彼女の耳に入るくらいは
知られている事だった。
それでも、それはせいぜいが真希やひとみと同年の生徒の間だけで、それより下には
伝わっていないだろう。希美もその事については知らない。
別に隠しているわけでもない。聞かれれば肯定したし、それに乗じて誘いをかけてくる
相手は適当にかわしていたし、聞かれなければ言わなかった。
だからひとみはちょっとした興味を覚えたのだろう。きっかけをうやむやにかき消した
真希の行動は、ずっと一緒にいた彼女にしてみれば珍しいものだった。
綱渡りをする犬を見た時みたいな、珍しくないものが珍しい行動をした事に対する、
軽い興味。
- 60 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:43
- けれどひとみはそれを追いかけない。彼女は距離を大事にする。みんなが集まって
騒いでいる時は調子を合わせて楽しみ、そうでなければ緩やかに自分のペースで時間を
消化していく。彼女の最近の趣味は絵を描くことだと、何かの拍子に聞いていた。
それはどちらも本当だ。
「てゆーかのの、ちょっとどいてよ。重いっつーの」
「なんだとー!」
身体をずらして膝の上から下ろそうとするのを、希美は半ば条件反射のように堪える。
ひとみから離れたくないというより、「重い」と言われた事に対する仕返しだろう。
「つーじー、別に重そうに見えないけど。ちっちゃいし」
「そうだそうだっ」
「何言ってんの。これ見ろよ」
ひとみが希美の腕を取り、シャツの袖口に留まっているボタンを外して捲り上げる。
二の腕まで露わになったところで、希美が腕を曲げてふんと力を込めた。
表面に凹凸が浮かぶ。綺麗な、筋肉のラインが克明に現れ、希美は得意げな顔をした。
その後ろでひとみはうんざりとする。
「見ろよこの全身筋肉。いくらちっちゃくてもこんなマッチョじゃ重いっつーの。
しかもケツとか超かてーし」
「ケツには自信があります!」
希美が腰の辺りをバシンと叩いた。「どんな自信だよ」ひとみが呆れたように言って、
それに対してあさ美が小さく吹き出した。
- 61 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:43
- 真希はきょとんとしている。
「よしこ、つーじーがマッチョだとヤなの?」
「え、なんで?」
今度はひとみがきょとんとした。
「だって」真希は何か理由を口にしようとしたが、どう言おうか考えている間にひとみが
口を開いた。
「別にヤじゃないよ。あたしソフマッチョ好きだし、これってののが頑張ってる証拠じゃん」
ひとみの言葉に、希美がしししっと笑う。
得意になっているのと喜んでいるのがない交ぜになったような、「嬉しい」という感情を
二つ掛け合わせたような表情だった。
もうみんな食事を終えている。ビジターであるあさ美はちょっと居心地が悪そうだが、
それでも曖昧に小さく笑っていた。
「今度大会出るんだもんな」
「うん。よっすぃ見に来いよ」
「わーかったって」
はいはいと苦笑しながら頷いて、それからあさ美に「一緒に行く?」と声を掛けた。
ぼんやりしていたらしいあさ美は突然声を掛けられて驚いたらしく、慌てたように
居住まいを正して「はいっ」と応えた。それは多分、返事であって返答ではない。
しかしそのタイミングは勘違いをするには十分で、希美が嬉しそうに身を乗り出してきた。
- 62 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:43
- 「ホント? じゃあまこととかも来る?」
「え? あ……うん、聞いてみる」
流されてしまっているあさ美に、真希は目を細める。
なんだかこういう子は新鮮だ。どういうわけか自分の周りにははっきりきっぱり物事を
言う友人が多い。そういうタイプと気が合うのかもしれない。
紗耶香もそうだった。理屈もなく、理由もなく、理論もなく、ただもう決めてしまった
結果だけを告げて、それはこっちが何をどうしても覆らない。
だから彼女とは通じ合えなかった。そこに会話はなく、試験のように適不適を決められ、
言われた方はそれに従うか、やみくもに逆らって傷つけるしかない。
真希は彼女を傷つけたくなかったし、自分もこれ以上傷つきたくなかった。
それが一番いい方法だとは思わなかったが、それよりいい方法も判らなかった。
今も消えない寂寥は、嫌なわけじゃないのだが。
「あたし手伝いあるから行けないけど、頑張ってねつーじー」
あさ美の穏やかな空気を好ましく思いながら、それでも助け舟は出さない。
そうするには、まだ、浅い。
- 63 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:44
-
廊下で大荷物を持ったあさ美と鉢合わせた。
「紺野、なにしてんの?」
「あ、後藤さん」
ヨタヨタと進めていた足を止め、ロール紙とコピー用紙が積み上げられた山の隙間から
あさ美が顔を出す。
「資料室に持ってってほしいって先生に頼まれて……」
「ふぅん。そんなの自分で持ってけばいいのにねー」
「先生も忙しいですから」
曖昧に笑ってあさ美が言う。ああ、これは好ましい。気負いのない、切実でもない、
凛々しくもない、強くもない、弱くもない、途切れない、融け込まない優しさ。
真希はあさ美に悟られないよう、浮かべた微笑の陰で溜息をついた。
水面に映った景色を見ているようだ。
全てが逆さまなのに、逆さまなだけで同じ構成だから、元の景色を鮮明に思い出す。
紗耶香を、思い出す。
- 64 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:44
- 「……半分持つよ」
感情を布で包み隠すように笑ってロール紙の束を持ち上げた。
「あっ、いいですよ大丈夫です」「いいからいいから」紙というのは見た目に反して重い。
よろけながら抱えたそれを運んでいく。あさ美はああ見えて力持ちなのかもしれない。
資料室へ持ってきた物を放り込み、二人揃って「ふー」と息をついた。
室内は薄暗い。加えて埃っぽい。頻繁に使われる場所ではないからあまり丁寧に掃除を
されていないんだろう。
気休めに窓を開け放って、真希はそこから顔を出して深呼吸した。
あさ美は人ひとり分くらい開いたままのドアのすぐ脇に立っている。先輩をおいて勝手に
帰る事が出来ないんだろう。
正直というか真面目というか。真希は振り返って苦笑をして見せた。
「こういうとこって滅入っちゃうよねぇ。ずっといたら身体にカビ生えそうじゃん?」
「生えちゃったら困りますね」
「ねえ?」
生えないから、そこまで酷くないから、大丈夫だから。
美貴ならそんな風にツッコミを入れてくるだろうが、あさ美は曖昧な笑みで頷いた。
「なんか暗いし。電気点けよっか?」
「あ、でも、すぐ戻るし」
「あー、だね。このまんまでいっか」
- 65 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:44
- 空気の入れ替えが進んで、息苦しさが薄れてくる。
真希は暇潰しをするつもりで、手元に落ちていたプリントを一枚拾い上げた。
数学の公式が羅列しているそれを読む気にはならず、真希はすぐに元の場所へ戻した。
次に棚へ収められたファイルを手に取る。『生物 B-16』と背に書かれたそれを開くと、
中には色褪せたプリントがまとめられていた。
パラパラとそれをめくり、面白そうなものがないと確認すると、それを棚に戻した。
視線を感じてあさ美の方を見遣る。彼女は視線がぶつかった瞬間に目を逸らした。
そんなに恐いかなと、真希は僅かに眉を下げた。別に偉ぶったり先輩面しているつもりは
ないのだが。
空気の入れ替えが終わる。正確に言えば終わらせた。
ここにいるのが飽きたからだ。ここには面白いものがない。役に立つものと面白いものは
イコールにならない。
窓を閉め、カーテンを引くと雨の日のように暗くなる。本当に気が滅入る光景だった。
あさ美はドアの側から動かない。埃が舞うのを嫌がっているのかもしれない。まさか
本当にカビが生えると思っているわけでもないだろう。
真希がドアに側寄ると、あさ美は道を開けるように一歩横へずれた。
- 66 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:45
- 「戻んないの?」
「あ、も、戻ります。はい」
生真面目すぎる返事に、今度は本当の苦笑が出た。同じ一年生でも、ただの友人として
接してくる希美とは大違いだ。
こういうのは、少しくすぐったい。
「じゃ、戻ろっか」
軽く。
何の気なしに、ただいつもひとみや美貴にするように、気安く肩に手を置いただけだった。
震えが伝わる。それから手のひらが抵抗を失う。行き場をなくした右手を、真希は緩く
握った。
手を下ろし、ドアを全開にする。「ほら、授業始まっちゃうよ」歩き出しながら言って、
あとは振り返らずに廊下を進んでいった。一拍遅れてあさ美が出てくる。
「あの、ありがとうございます」
「んー、いいのいいの」
前を向いたまま左手を上げて軽く振る。
拒絶された右手ではなく、まだ自分の自由になる左手で、彼女にじゃあねと告げた。
それは真希のプライドだった。
- 67 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:45
- 彼女は好ましい。紗耶香を思い出させる。
紗耶香と同じように、自分を拒絶する。
ああ、そう。そういうこと。
それなら、別にそれでいいと真希は思う。
それでいいと思っておけと、自分に言い聞かせた。
やる気のない顔で教室に向かう。廊下は生徒たちの声で賑やかしい。
教室に入るとひとみが「おーっす」と手を振ってきた。「おっす」真希は唇だけで応える。
ひとみはすぐに持っていた文庫へ目を落とした。集中しているようだ、よほど面白いのか。
開いたままのドア。
真希は自分の席につくと、机へ突っ伏した。
眠くはない。
胸が痛くて動けない。
ドアの側を離れなかった彼女。
手のひらと首筋に汗が滲む。
真希はぎゅっと身体を縮こませると、目を固く閉じた。
いちーちゃん、辛いよ。
助けて。
- 68 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:45
-
- 69 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:45
- 「ばっかじゃないの?」
開口一番紗耶香は言った。真希は拗ねたように唇を尖らせる。
「なんでよぅ」
「だってお前それ」
紗耶香は呆れたように眉を上げている。
泡のついた両手を水に晒し、乾いた布巾で拭いてから、カウンターへ身を乗り出して
真希の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「わたしのこと思い出してるわけじゃないじゃん」
「……なにそれ?」
「だから、それはその子の問題じゃなくて、お前の心の問題だってこと」
「はあ?」
紗耶香が何を言っているのか判らなくて、真希は思わずトーンの上ずった声を上げる。
心ってなんだろう。真希の視線が下に落ち、グラスの中を飛び交う炭酸を見つめる。
自分の心には何があるんだろう。
ザラザラと、固い何かが皿に落ちる音がする。真希が顔を上げると、紗耶香はいつもと
変わらぬ少年を思わせる笑みを浮かべていた。
- 70 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:45
- 「それは成長だよ」
相変わらず、紗耶香の言葉は理屈も理由も理論もないから判りにくい。
真希はグラスを揺らしながら溜息をついた。
紗耶香は「しょうがないなあ」と笑って、ピスタチオを山盛りにした皿を真希に差し出した。
「お前、わたしのこと美化しすぎてるよ」
「そんなことない」
「そんなことあるって。最初の一手がわたしだった。それだけのことで、後藤が変わった
のは後藤の力だよ」
パチパチとピスタチオの殻を開けながら、真希はつと眉を上げる。
やはり、そんな事はないと思う。他の誰でもない、紗耶香だったから自分は変わって、
だから自分は彼女が大切で、ふとした瞬間にその存在を思い出す。
あさ美と会う度に、紗耶香を思い出す。
紗耶香は腕組みをして、唇の端を僅かに上げた。
- 71 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:46
- 「で、次の問題だ」
「次?」
「避けられた事。ショックだったんだろ」
「……うん」
「それも成長。おめでとう、今日はお赤飯だ」
「からかわないでよ」
本当に赤飯が出てきたら嫌だな。そう思ったのが顔に出たのか、紗耶香は「冗談、冗談」と、
それこそ冗談みたいな口調で言って、グラスにジンジャーエールを注いだ。
成長なのかどうかはともかく、ショックだったのは確かだった。
今まで、そういう扱いを受けた事がないわけでもない。いまだに影で色々と言われている
のも知っているし、直接嫌悪をぶつけられた事だってある。
それでも、今までこんな風に胸が痛んだりはしなかった。
仕方のない事だと思っていた。それは根拠があるものであり、原因を作ったのは自分だ。
そういう部分以外で自分を評価してくれる友人も少なからずいるし、別に世界中の人間に
愛されたいと思っているわけでもない。少なくとも、今は。
「後藤、わたしのこと、どう思う?」
「どう、って。……好きだけど」
「そういうことだよ」
一を聞いて十を知る、ということわざがあるが、真希の頭はそこまで出来が良くないし、
紗耶香の言葉はおそらく一に満たない。
- 72 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:46
- 紗耶香はピスタチオをひとつ摘んで、真希の前に示してみせた。
「今の後藤はちょうどこんな感じ。で……」
爪を殻の隙間に挿し入れ、パチンと割る。
「答えが出たら、きっとこうなる」
「……なんなのそれぇー」
全然判らない。
「後藤が馬鹿だってこと」ピスタチオを口に放り込んで、紗耶香は悪戯く笑った。
- 73 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:46
-
- 74 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:47
- 教室に入り、教科書とノートを机にしまいこんでいる時、唐突にひとみが叫んだ。
「ない、ない、なーい!」
なんだなんだと周りが注目し始める。ひとみは机やバッグの中をかき回したり、自身を
バンバンと乱暴に叩いたりポケットをひっくり返したり、忙しなく動き回っている。
動きがオーバーすぎてパントマイムみたいになっている彼女の肩を、真希はやや強めに
掴んで止めた。
「ちょっとよしこ、どしたの」
「だから無いんだよ!」
「何が」
「指輪!」
簡潔な返答に真希が首を傾げる。休日、どこかへ出かけている時ならともかく、
学校にいる時の彼女が指輪をしているところなどついぞ見た事がない。
記憶を手繰り寄せて彼女の手元を思い出してみるが、やはり今日も指輪なんて
していなかったような気がする。
「よしこ、指輪なんかしてたっけ?」
「ポケットに入れてたの!」真希の問いにひとみは苛々とした口調で答え、それからまた
ないないと騒ぎ出した。
「そんな大事なもんなの? 失くしたならもっかい買えばいいじゃん」
「そういうんじゃないんだよ! あれ、誕生日にののからもらったやつなのに」
「つーじーから?」
それは初耳だ。そういえば以前遊んだ時、妙に浮かれた顔で外した指輪を眺めている事が
あった。その時はよほど気に入っているんだろうとしか思わなかったが、察するところ
あれがその指輪だったのか。
- 75 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:47
- 暴れるひとみを宥めつつ、真希は内心で嬉しく思っていた。
ああ、なんかいいな、こういうの。
友人が困っている時に不謹慎ではあるが、普段は調子を合わせてはしゃいでいるか
物静かに本を読んでいるかしている彼女がここまでうろたえるというのは、なんだか
嬉しい。
それは彼女が、その指輪を本当に大事にしているということだ。
それは彼女が、希美を本当に大事にしているということだ。
しかし、嬉しく思うのはいいとして、とりあえずこの暴れ馬をなんとかしなければ。
「落ち着きなって。なんか心当たりないの?」
「え……あ、さっき化学室で手ぇ洗った時かも。ハンカチと同じとこに入れてたから……」
「じゃ、見に行ってみよ」
「よし!」ひとみがフットサルで鍛えた脚力を発揮しようとしたその瞬間、
クラスメイトから呑気なお声がかかった。
「ひとみー、次バレーだから準備しておけって。あんた日直でしょ」
「なにぃー!」
最高潮のテンションで叫び、さらに声をかけてきたクラスメイトをそのままの勢いで
睨みつける。睨まれた方はビクリと怯えた様子を見せた。ご愁傷様。真希が同情する。
- 76 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:47
- ひとみは探しものと日直の仕事に挟まれて葛藤している。彼女は体育大学への推薦入学を
希望しているので、あまり教師の評価を下げたくないのだ。
見かねた真希がその肩をやさしく叩いた。
「あー、後藤が探しとくから。シルバーの三連になってるやつでしょ?」
「そうそれ! ありがとごっちん、この恩は購買のうぐいすパンで返すよ!」
「やすっ」
つーじー、あんたの指輪は120円くらいらしいよ。
遠い目でここにいない彼女に語りかけ、体育館へ駆けて行くひとみを見送ってから、
真希は先ほど授業を受けていた化学室へ急ぎ戻った。
化学室のドア前に立ってようやく気付いた。
特別教室、とかく薬品なんかも扱う化学室は、使用しない時間は鍵が掛かっているのだ。
試しに引き戸の取っ手を引いてみたが、ドアはガタガタ鳴るだけで開いてはくれない。
「しくったー」
困ったなと頭を掻き、ここに突っ立っていてもドアが勝手に開くわけはないので、
職員室へ行って鍵を借りてこようと踵を返す。職員室は苦手だが仕方ない。
- 77 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:47
- 「あ、後藤さん?」
「へ?」
急に呼ばれて振り向くと、あさ美がびっくりした顔で立っていた。
今日は大荷物は持っていない。その代わりというように、右手は鍵がぶら下がった
プレートを緩く握っていた。
「……や」真希はそれだけ言った。
あさ美は曖昧に笑っている。紗耶香の凛とした少年みたいな笑みとは全然違う、
淡く仄かな笑みだった。
真希は胸が痛くなる。
「どしたの? 一年て化学ないよね?」
「あの、職員室のコーヒーが切れちゃったそうで。稲葉先生から化学準備室にあるから
持ってきてって頼まれまして」
「あー、後藤もたまにお茶してるよ。まっつーっていう友達があっちゃんと仲いいから
暇な時とか呼ばれんの」
「はあ……」
困ったように笑って、あさ美は軽く会釈のように頷く。学校でコーヒーを飲むことに
興味を引かれたのか、まっつーとは誰なのか気になるのか、教師をあっちゃんと呼んだ
ことに驚いたのか。
まあ、どれでもいい。
重要なのは、彼女が化学室の鍵を持っているということだ。
- 78 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:48
- 「あのさ、よしこがちょっと忘れ物しちゃったかもしんないんだ。後藤も一緒に入って
いいかな。見つけたらすぐ出るから」
なんとなく、断られる事はないだろうなと思った。
そして、怯えられるのだろうなとも、思った。
それは予感ではなく確信だった。
「……はい」
やはり彼女は曖昧に笑ったまま頷いた。
人は恐い時、そしてそれが回避不可能な恐怖である時、笑う事しかできないという。
今の彼女はそういう状態なんだろう。
ねえ紺野、それってさあ。
結構、悲しくなるね。
「ありがと」
真希は小さく笑った。
笑みが冷たくなった事は自覚していた。
エタノール、ヨウ素、マグネシウム、生石灰。
鍵付きの薬品棚に並ぶ瓶の数々を、真希は順繰りに眺めていく。
「あの、後藤さん。探しものは……?」
「ああそうだね、うん」
あさ美に言われて、真希は指輪を探し始めた。授業中、ひとみとは隣同士に座っていた。
実験を終えて手を洗う時も側にあるシンクを使っていたから、おそらくその辺りに
転がっているだろう。
- 79 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:48
- 自分たちが使った机の側に屈みこみ、何か光るものがないか目を凝らす。
隙間に入り込んででもいたら面倒だな。溜息をついたら塵が舞って軽くむせた。
「……お?」
壁際に備え付けられている暖房器具の下。床との僅かな狭間に小さな金属の煌きを
見つけた。真希は手を潜り込ませて指先で煌きを引き寄せる。
まだ見えないが、指先から伝わる感触は輪の形をしていた。これか、と真希が口元を
綻ばせた。
輪を摘んで引っ張り出し、身体を起こす。
三連のシルバーリング。これだ、間違いない。以前ひとみが眺めていたのと同じものだ。
「見つかりました?」
「あったあった。ありがとー、紺野が鍵持ってきてくれて助かったよ」
ふうと息をついて、あさ美に探し当てた指輪を見せる。「よかったですね」あさ美は
我が事のように喜んでくれた。
今まで見ていた笑みのような曖昧さはなくなっていた。
「後藤さん、制服汚れちゃいましたね」
言われて真希は自身を見下ろす。彼女の言うとおり隙間に突っ込んだ右腕は下側が黒く
汚れてしまっていて、それ以外にも所々に埃や煤のような汚れが付いていた。
制服を軽く払いながら、真希は照れ隠しに目を細めて笑う。
- 80 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:48
- 「まあ、見つかったからいいよ」
「それって吉澤さんの忘れ物なんですよね?」
「うん。つーじーからもらったんだって。あ、落としちゃったって、つーじーには
言わないでね。喧嘩になるとよしこマジでヘコむから」
「はい」
口元に人差し指を立てて「しーっ」と内緒の号令を出すと、あさ美は子供の悪戯を見かけた
時みたいな表情を浮かべた。さすがに子供っぽすぎたかなと真希は苦笑する。
不意に紗耶香を思い出した。彼女も真希を事あるごとに子供扱いする。以前はそれが
嫌で仕方なかったが、今となってはその理由もなんとなく判る。
彼女は、背伸びをする事が子供の証拠だと知っている子供だった。
子供である事を自覚しながら、それでも背伸びする事をやめずに大人の真似事ばかりして、
そのくせ「そんなのは偉くもなんともないんだよ」とこっちに説教をする我侭な子供だった。
そしてあさ美は、自分が子供であると知っていて、大人の真似事をするにはまだ早いと
思っている、子供の領分をわきまえているが故に少しだけ他の子供よりも大人に近づいて
いる冷静な子供だった。
だからこそ、真希の存在に恐怖を感じているんだろう。
彼女は、無理やりに大人の真似事をさせられる事に怯えている。
- 81 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:48
- 真希はドアを見遣る。人ひとり分だけ開いたドア。
それはすぐに外へと逃げられて、自分が出てからすぐに閉じられるだけの逃げ道である
ことを意味していた。
どうしてかなあ。真希はドアを見たまま両手を力なく下げる。
後藤は、紺野に何もしてないのに。
「……ね、紺野」
「なんですか?」
「紺野は、ごとーが恐いんだね」
あさ美の表情が強張る。「どうしてですか?」否定も肯定もない、問い返すことであさ美は
真希の言葉をはぐらかす。
「噂、知ってるんだ?」
「……あの、いえ……」
「いいよ、ホントのことだし。どこまで知ってんの? ごとー、色々やりすぎて自分でも
覚えてないんだ」
ほんの少しだけ、隙間が空いたピスタチオ。
- 82 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:49
- 「あの……」
「別に後悔とかしてないよ。あれはあれで楽しかったしね。みんなも楽しんでくれたし」
「あの、後藤さん」
答えが出せたら、殻は。
真希はドアからあさ美へ視線を移す。
その眼差しは虚ろっていた。あさ美は困惑した表情で真希を見つめている。
「ああ、なんだったら紺野も試してみる? せっかく二人っきりだし、
ごとー結構上手いよ」
「ご、後藤さんっ」
お願いだから、逃げて。
真希の両腕があさ美の身体を包み込む。抱きしめはしない。そんな事をしたら彼女は
逃げられない。
「後藤さ……っ、やめて下さいっ」
あさ美は必死に真希の腕を押し返した。ああ、とうとう左手も拒絶されちゃった。真希は
虚ろう視線を彼女の背中に回した自身の両腕に落とし、「あーあ」と口の中だけで呟いた。
- 83 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:49
- 「あのっ、後藤さん」
「ん? あ、紺野って初めて? 大丈夫だいじょーぶ、ちゃんと優しくしてあげるから」
胸が痛い。
「そうじゃなくて、いえ、そうなんですけど。ああ、そういうことじゃなくてっ」
わたわたと言い募るあさ美に、真希は忍び笑いを洩らす。
面白いなあ。なんだかもっと意地悪してみたくなる。
本当に欲しいものは、殻を破って。
「あの、すみません。噂っていうか……そういう話は、聞いたことあります」
「うん。まあ別にいいよ」
「私……後藤さんは寂しかったんじゃないかって、思ったんです」
「……え?」
思わず腕の力が緩んだ。あさ美は逃げようとしなかった。
「私が勝手に思ってるだけで、ホントは全然違うのかもしれないんですけど。
後藤さん、そういうコトしたいわけじゃなくて、ホントは後藤さんのことを大切に
してくれる誰かを探してたんじゃないかって……」
ねえ後藤。わたしはそれをすごく悲しい事だと思ってたんだ。
- 84 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:49
- 押し退けようと突っ張っていた彼女の手は、いつの間にか背中に廻されていて、そうして
真希を優しく撫でさすっていた。
「あの……ごめんなさい。後藤さんのこと、ちょっとだけ恐かったんです。
でも、後藤さんにしてみればそれってすごく嫌ですよね。あの、私、あんまりそういう
話って得意じゃなくて、だから後藤さんが恐いっていうか、そういうコトが恐いって
いうか……」
「……うん」
彼女の手のひらは、痛々しいほどに優しい。
それは、紗耶香の身勝手な正義とどこか似ていて、だから。
初めて後悔した。
なんであんな事してたんだろう。
色々なものを大事にすれば、本当に欲しいものが。
「……紺野」
紗耶香の一に満たない言葉を、ようやく理解する。
あさ美を見るたびに紗耶香を思い出していたのはつまり、想いの種類が同じだったからだ。
二人に求めていたものが同じだったから、連想ゲームのように紗耶香のことを思い出して
いたのだ。
- 85 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:50
- 「驚かないでほしいんだけど」
「え? なんですか?」
わたしのこと、どう思う?
「好き」
下手くそな『STAND BY ME』が頭の中で回る。なんだったら今ここで歌ってみせても
構わない。
そばにいて。そばにいて。
そばに。
「えぇ!?」
「驚かないでって言ったじゃん」
「だ、だって、そんな急に言われましてもっ」
「しょうがないじゃん、好きになっちゃったんだから」背中をくるんでいた腕を一度解き、
肩から凭れかかるような形に抱きなおす。
- 86 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:50
- ああもう、本当にしょうがない。
どうして気付かなかったんだろう。
彼女の名前を知りたいと思って、自分の名前を告げたいと思って。
それは、紗耶香にしか浮かばなかった願いなのに。
それと同じ願いを、彼女に対して持ったのに。
「紺野、あたしのこと嫌い?」
「い、いえっ、後藤さんは綺麗だしカッコいいし、あのっ、好きですっ」
「じゃあいいじゃん。両想い」
いちーちゃんありがとう。
バイバイ。
逃がすのはやめた。あさ美を捕らえる腕に力を込め、その柔らかな頬に唇を寄せる。
「ひゃあぁ」触れる前に感じ取ったのか、あさ美は情けない悲鳴を上げて、首を大きく
仰け反らせることでそれを避けた。
惜しいところでかわされた真希が、不満そうに唇を尖らせる。
- 87 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:50
- 「なんで嫌がんのさー。後藤のこと好きって言ったじゃん」
「好きですけど、それって後藤さんの好きとは違うと思うんですっ」
「ええ?」
「あの、私の好きは憧れっていうか友情っていうか。
ええと、そういうコトをする好きではないわけで」
「……えー?」
いちーちゃんちょっと待って。
どうしよう、本当に欲しいものを大事にする方法がわかんない。
「……でも、後藤はこれしか知らない」
みんなそれで満足してくれた。そうじゃなかったのは紗耶香だけで、彼女は他の方法を
提示しなかった。
あさ美は困った顔で真希を見上げている。曖昧な笑みはない。
「じゃあ……お話しませんか?」
「話?」
「あの、お互いを理解し合うには、やっぱりお話をするべきだと思うんです。
好きなものとか趣味とか、あ、私食べ物の話なら何時間でもできますよっ」
何故かあさ美は最後の部分で瞳を輝かせた。それに真希はきょとんとする。
「お話、かあ」
うん。うん。うん。
「そうです、お話です」
誰かと話す時っていつもこうだったっけ。
- 88 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:50
- 「……うん。そうだね」
名前を知りたい。名前を知って欲しい。
真希は目を細めながらあさ美の頭を抱え込んだ。彼女はあわあわと慌てふためいたが
拒む事はなかった。
「考えてみれば、あたし、紺野のこと全然知らない」
君のこともっと知りたい。
自分のこと、もっと知って欲しい。
「ねえ、日曜とか暇?」
「え? はあ、まあ」
「じゃあどっか遊びに行かない? そんでいっぱい話そ」
逃げないで。頷いて。
そばにいて。
「……はい」
あさ美は子供を見るような目で真希を見上げている。
知らず苦笑が洩れた。
ねえ紺野、それってさあ。
結構、悔しいね。
でもそれと同じくらい嬉しかったりして。
- 89 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:51
-
- 90 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:51
- そうしてまさに「お友達からお願いします」なスタートを切った二人は、電話をしたり
メールをしたり、たまに二人で出かけたり、何故か彼女の友人だという少女がくっついて
きたりと、本当にお友達な関係を続けていた。
真希は様々なタイミングで「そろそろよくない?」と言ってみたりしているが、あさ美が
首を縦に振ってくれる事はない。
手土産のケーキと紅茶をテーブルに置き、二人は真希が持ってきた新作ゲームで遊んで
いる。本物の車が出てくるカーレースものだ。
「ああっ、後藤さんずるいぃ」
「ん? ごめん?」
適当に操作していたのだが、偶然あさ美が操る車の邪魔をしたらしい。
うーと小さく唸って懸命にコントローラのボタンを叩くあさ美を横目で見遣り、真希は
可愛いなーと口元を緩ませた。
レースの途中であさ美の携帯電話が鳴り響いた。
なんだ、まさか男じゃあるまいな。真希は気色ばんでディスプレイを盗み見る。
『里沙ちゃん 自宅』。女の子だ、ホッと一安心。いやしかし自分みたいな例もあるし、
まだ油断は出来ない。
- 91 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:51
- 「あ、ちょっと待って下さいね」
あさ美がゲームを中断させ、テレビの消音機能をオンにしてから電話を取った。
唐突に生まれた静寂の中、真希はあさ美の横顔を注視している。
「猫?」
あさ美の戸惑いを含んだ呟きが聞こえて、真希が小さく首を傾げた。
猫がどうしたんだろう。興味を引かれて聞き耳を立てる。
どうやら彼女の友人が子猫を拾ったらしい。「うちはマンションだし……」申し訳なさげな
あさ美の声。あー紺野は優しいなあ。眉の下がった横顔に、つい手を出したくなるが
堪える。
「後藤さん、子猫とか飼えます?」
「んあ?」
急に話を振られて鼓動が飛んだ。やましい事があると動揺しやすくなる。
「ごとーん家はパパとママがいるから……」
「そうですよね」
「うん。食べちゃったりしたら困るしね」
これで大丈夫だと言えたら株が上がったのだが。
- 92 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:52
- 真希の家では、二匹のイグアナを飼っている。身体の大きい方をパパ、小さいのをママと
名付けたら、実はパパがメスでママがオスだった。
その話をした時、あさ美は息が出来なくなるくらい笑って、ああ間違った名前をつけて
よかったなあとか真希はちょっとずれた喜びを感じたりした。
猫を食べるというのはさすがに冗談だが、イグアナと猫を一緒に飼うのはちょっと
無理があるだろう。
電話の相手は諦めてくれたらしい。真希も動物は好きなのでどうにかしてやりたいが、
こればっかりは自分だけの意思で決められるものではない。
通話は終わりに近づいているようだ。真希としてはさっさと終わらせてこっちに意識を
向けてほしい。
あさ美のシャツを引っ張り、半ば強引にこちらを向かせる。
「話終わった? じゃあ続きしよう続き」
言い置いてコントローラのポーズボタンを押し、ゲームを再開させた。
「え!? ちょ、後藤さんちょっと待っひゃあぁ」
まだ電話を切っていなかったあさ美があたふたしている間に、彼女の車はコースアウト
して黒煙を上げ始めた。あさ美がそれを見て悲鳴を上げる。
- 93 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:52
- 「後藤さぁんっ」
「ほらほら、後藤もうゴールしちゃうよ」
「ああっ、ずるいぃ」
恨みがましく真希を見つめ、それから車をコースに戻そうと操作を始める。
そうこうしている間に真希が操作していた車がゴールして、華やかな音楽が流れ、画面に
レーサーの姿が現れた。
「うう、もうちょっと待ってくれたっていいじゃないですかあ……」
「だって紺野、構ってくんないんだもん」
「……後藤さん、子供みたい」
「うん子供ー」
そういうあさ美だって、ぷくっと頬を膨らませて拗ねる様子は子供のようだ。
コントローラを手放し、フォークをレアチーズケーキに突き刺す。口に運ぶと甘酸っぱい
香りと味が広がって、それは彼女の恋に似ていた。
「……あ」
「なんですか?」
不意に気付いて、真希はケーキを食べる手を止め、きょんとこちらを見つめてきている
あさ美を見遣った。
生クリームが口元についている。手を延ばして親指でそれを拭い、自身の口に持っていった。
彼女の顔が赤くなる。これくらいいいじゃん。真希がくすくす笑う。
- 94 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:52
- 「後藤、もしかしたら初恋かも」
「へ?」
「紺野が、あたしの初恋の相手かも」
目を細めたまま、真希は真摯な口調で告げた。
「ひえぇ」あさ美が妙な声を上げる。驚いているのか照れているのか。
紗耶香に対する想いは、恋に限りなく近いものだったが、もうちょっと深かった。
側にいてくれるだけでよかった。自分のことを好きでいてくれるだけでよかった。
何もしなくてよかった。誰を見ていてもよかった。与えてくれるものだけで満足だった。
愛してくれたら、それで十分だった。
彼女にはそれが出来なかった。だから側にいられなかった。
あさ美に対する想いは、愛に限りなく近いものだったが、紛れもない恋だった。
側にいて自分だけを見てほしい。自分のことを好きになって、色々な事を知ってほしい。
色々な事を教えてほしい。誰かのところへ行かないでほしい。
この想いを、拒まないでほしい。
彼女はそれが出来ていない。それでも側を離れない。
- 95 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:53
- 「紺野にとって、あたしってなに?」
知っているのに知らないふりをする大人の狡さ。
あさ美はのんびりと食べていたケーキから離れ、喉の奥で小さく唸りながら下を向いた。
「あの、えーと……」
「うん」
「えーとですね、憧れの先輩というか、大事なお友達というか」
「ホント?」
うう、とあさ美が再度唸る。気弱く責めるような視線が届いて、真希は柔らかくそれを
受け止める。怒っていいよ?と半ば挑発するように目の動きだけで促したが、彼女は
それ以上のアクションを起こさなかった。
「……初めて好きになった人、かも、しれないです…」
根負けして告白する。言った後にくるりと背を向けてしまって、真希はその長い髪に
隠された首筋が朱に染まっている事を知っている。
「ありがと」
背を向けられるというのは、ちょっと嬉しい。
それは彼女の信頼だ。真希はそれに応えなければならない。何かを大事にするというのは
そういうことだ。
- 96 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:53
- うっかり手を出してしまわないよう腕組みをして両腕を封印し、「紺野」と柔らかく
呼びかける。
「ちゃんと待つから」
そういうコトをする「好き」じゃない彼女の気持ちが、自分と同じものになるまで。
まあ、時間がかかりそうではあるが。なにせテレビドラマのラブシーンを見るだけで
真っ赤になって俯いてしまうような子だ。
そんな仕草こそが可愛らしくて真希はもう堪んなくなっちゃったりするのだが、そこで
箍を外して彼女を傷つけてしまったら元も子もない。
何かを大事にするのは大変だ。何かを大事にするということは、それに対して責任を
負うということだ。
責任を果たして責務を成し遂げて、そうして人はようやく何かに愛されるのだ。
それは人かもしれないし世界かもしれない。
人に対して、世界に対して無責任だったあの頃、何にも愛されなかったのは至極当然だと、
今なら判る。
紗耶香に礼をしたくなった。
彼女は自身を「ただ単に最初だっただけ」だと言ったが、それこそが最重要だった。
始まりがないものは全てがない。0と1の間には無限の距離がある。
「お茶しようよ。後藤、ここのケーキ好きなの」
「あ、はい」
あさ美が身体の向きを元に戻す。
- 97 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:53
- ケーキを食べている間、二人は取りとめのない話をした。テストの結果だとか、希美が
また大会で入賞したとか、旅行するならどこがいいかとか。
そんな中で、真希はケーキショップの店頭に張られていたチラシを思い出し、
そのことを口にする。
「あー、あのケーキ屋さんね、来週バイキングやるんだって。行ってみる?」
「え! い、行きます!」
「んはは。じゃあお昼くらいに行こっか」
「はい。まこっちゃんも誘っていいですか?」
「んあ?」
飴だと思って舐めたらビー玉だったみたいな顔をして、真希は思わずまじまじと
あさ美の顔を見つめる。
わざとなのかなあ。口の中だけで呟き、それからそっと溜息をついた。
「……ごとーと二人じゃヤなの?」
犬だったらしゅんと耳を垂れていそうな顔で拗ねてみせると、あさ美は慌てて首を振った。
「そうじゃないです、あの、まこっちゃんもケーキとか好きなんで、だから」
「後藤さぁん」拗ねたままの真希にほとほと困り果てた様子で、あさ美がシャツの裾を
引っ張ってくる。
- 98 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:53
- 実のところ、真希は別に本気で拗ねているわけでもないのだが、おろおろする彼女が
面白くてちょっとからかってみたくなっていた。
「……じゃあ、紺野があたしの目ぇ見て好きって言ってくれたら、小川も来ていい」
「ええぇ!? そそ、そんなの出来ませんよぉっ」
そんなはっきり言わなくても。
ちょっとからかうだけのつもりだったのに、存外ショッキングな結果になってしまった。
「冗談だよ。小川と三人で行こ」
自身のショックを誤魔化すようにおどけた調子で言うと、あさ美はあからさまに
ホッとした様子を見せた。
約束を取り付けて、そろそろおいとましようと立ち上がる。
玄関まで行く途中の廊下で、ふとした拍子に二人の手が触れて、弾かれたようにあさ美が
手を引っ込めた。
別に嫌がっているのではないと判っているが、やはりちょっと悲しい。
あさ美は玄関を出たところで見送りをしてくれる。恋人同士ならここでキスのひとつでも
するんだろうが、未だ二人はお友達なので微笑み合って別れの挨拶を交わすしかない。
- 99 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:54
- 「ごめんね、急に来ちゃって」
「いえ。ケーキありがとうございました」
あさ美の視線がきょろりと泳ぐ。どうしたんだろうと真希は首を傾げた。
何か決心でもしたように唇を噛み締め、あさ美がキュッと顔を上げる。
「あの、後藤さん」
「んあ?」
「……もうちょっと、待ってくださいね。絶対、ちゃんと言えるようになりますから」
彼女にしては早口に告げ、それから一歩踏み出してくる。
一瞬だけ、ほんの僅かに、気のせいかと思えるくらい微かに背中へ温もりが訪れて、
それからすぐに秋風がそれを吹き飛ばした。
「……え?」
抱きつかれたのだと気付くまで、ちょっと時間が必要だった。
あさ美はこれ以上ないくらい顔を紅潮させている。この程度でそうなるんじゃ、もしも
押し倒したりしたら泣いちゃうだろうなあ。真希は必死に自制する。
多分、これが彼女の限界なんだろう。求められて、応えたいと思っていて、それでも
まだ応えられない彼女の。
ああもう、まいっちゃうなあ。真希は静かに嘆息する。口元が緩むのを抑えられない。
- 100 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:54
-
抱きしめたら壊れちゃうかな。
- 101 名前:『HEART TALK』 投稿日:2004/09/04(土) 14:54
- 「……うん。待ってる」
頭をひとつ撫でるだけに留め、真希は小さく頷いた。
たくさん話をしよう。好きなもの、そうじゃないもの、面白いもの、つまらないもの、
楽しいもの、辛いもの。
紗耶香の事もいつか話そう。とても大切な、大切すぎて触れられない人の事。
そして、ひょっとしたら彼女と同じくらい君のことが大切だって。
大切だけど触れたい。触れてもいいと、君が許しをくれるまで待つけれど。
表層を撫でるだけじゃなく、君の内側にある本当の声が聞きたい。
そうだから側にいさせて。気弱い君の小さな囁きひとつ聞き漏らさないように。
ああ、なんかいいな、こういうの。
最後に小声で好きだよと告げて、真希は穏やかに笑った。
《Let's open the door of the Heart.》
- 102 名前:円 投稿日:2004/09/04(土) 14:55
-
以上、『HEART TALK』でした。
この二人、実のところ「憧れの後藤さんに近づきたい紺野さん」+「全然判ってないけど
なんとなく紺野が可愛い後藤さん」という関係が好きなんですが、そういう話は以前
書いたような気がするので、あえて自分のお約束を破ってみました。
- 103 名前:円 投稿日:2004/09/04(土) 14:55
- レスありがとうございます。
>>40
基本的に雰囲気とかノリだけで書いてます(笑)
えーと、展開は……増え、増え……。そーれ逃げろー。
>>41
なんとなく二人の位置関係が定まってきたかなーって感じですね。
ここまで来ると、もう突っ走るのみです。
>>42
えっ、こんな日本語めちゃくちゃな文章を参考にすると大変な事になりますよ?(苦笑)
大体が意味より音を優先して言葉を置いてるので(これを業界用語で本末転倒と言います)
- 104 名前:円 投稿日:2004/09/04(土) 14:55
- 次回、かなり前にちらっと出てきた二人が登場。
でも更新できるのは多分10月になってからなので、ゆったりまったりお待ち下さい。
- 105 名前:名無し読者 投稿日:2004/09/04(土) 15:04
- リアルタイムキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ッ!!
今回も作者様の脱稿ぶりにはもう言葉も・・・
毎回楽しみにしております。
次回は・・・もしや・・・
楽しみにしておりますよ?
- 106 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/04(土) 18:24
- もしかして作者さんは『天然素材でいこう』という漫画をご覧になったのでしょうか?
- 107 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/04(土) 23:12
- この二人の話を見てるとホンと心が落ち着くゎぁ・・
- 108 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/05(日) 04:31
- >>106
んなこたぁどうでもいい。
とりあえずレスするときは下げてね。
作者さん、毎回毎回、もうたまらないです。
また甘酸っぱい青春模様、期待してます。
マターリマターリ待ってます。
- 109 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/06(月) 15:36
- 下にあることの落ち着きも必要と思われる。
これからもゆったり、作者さんが好きなようにやってください。
それこそが読み手の希望かと。
彼女たちの一歩ずつが眩しいのは、
その時間から遠ざかってしまったからか。と、感傷気味。
次の一歩もお待ちしてます。でわでわ。
- 110 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/21(火) 11:03
- おっ!次は『君は僕の宝物』の初期に出てきた、この板にふさわしい職業の二人かな?
わくわく!ドキドキ!
- 111 名前:konkon 投稿日:2004/09/25(土) 00:13
- 白版で書いてるkonkonといいます。
マジこんごま最高です!
ごっちんの紺ちゃんを思う優しさ、
紺ちゃんのごっちんを思う気持ち、
本当に作者様々ですよ。
今後も楽しみに待ってます!
- 112 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:49
-
- 113 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:49
-
なっちはおいらが守るんだ。
- 114 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:50
- 安倍なつみが矢口真里と初めて会った時、彼女はぶかぶかのフライトジャケットと
ロングスカートを身につけていた。
フライトジャケットは、元は綺麗な深紅をしていたのだろうが、なつみが見た時には
薄汚れて赤黒く変色していた。流れ落ち、凝固した血の色によく似ていた。
スカートも大きすぎるせいで裾が地面と擦れ合い、泥に汚れほつれてしまっていた。
左側に大きな鉤裂きがあったのが印象的だった。
前の開けられたジャケットのあわせから、ギュウギュウと彼女の腰を締め付けている
ベルトが見えた。ピンク色の、ビニールで出来た細いベルトだった。それだけが彼女の
外見に相応な物だった。
真里は攻撃的な視線で周りの大人たちとなつみを威嚇していた。手負いの獣のように、
目に映るもの全てに対して警戒し、いつ飛び掛られても反撃できるように身構えていた。
大人たちは、その頃女の子に人気だったアニメのキャラクターが描かれたシャツや
可愛らしいデザインの上着を手に持っていた。
「ほら、こっちの方が可愛いだろう?」猫撫で声で真里にそれらを差し出すが、彼女は
目の前の服を一瞥し、ひとつ鼻を鳴らしただけで切り捨てた。
- 115 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:50
- なつみは父親に手を引かれながらその光景を眺めていた。
自分よりも小さな女の子が、たった一人で大人たちに立ち向かっている光景を、ただただ
じっと見ていた。
真里の父は、勤めていた商社でなつみの父親の部下をしていた。結婚何年目だかの
記念旅行に家族三人で出かけて、旅先で事故に遭い彼女ひとりだけが奇跡的に助かったの
だと、もっと大人になってから聞いた。
その時はただ、父の知り合いが亡くなって、同じくらいの年の子がいれば彼女の慰めに
なるだろうからと言われて、わけも判らず連れてこられただけだった。
なつみは父の手から離れると彼女の元へ向かった。
鋭い視線が突き刺さって一瞬怖気づいたが、それでも半ば無理やり、にっこり笑って
左手を差し出した。その手には一本だけの白い花を握っていた。
「お花、綺麗でしょ?」
「……だからなんだよ」
「綺麗っていいことなんだって。お花って綺麗だからなっち好きなの。
お父さんとお母さんも、綺麗にしてあげた方がいいと思うんだ」
差し出した花を真里の手に握らせる。
彼女はしばらくそれを見ていて、ゆっくりと顔を上げ、それからその花を投げ捨てた。
「こら! お花がかわいそうでしょ!」
「こんなの、その辺に生えてる草と変わんないじゃんか! かわいそうなんてあるか!」
なつみが捨てられた花を拾い上げて表情を沈ませた。真里は決まり悪そうにその様子を
見ている。苛立ちのままに拒絶したが、悪い事をしたとは思っているようだった。
- 116 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:51
- 花は茎の部分が折れ曲がり、花びらも何枚か散ってしまっている。
それをなんとか元の形に戻そうと、茎を撫でたり花びらを拾って差し込んでみたり
しながら、なつみは拗ねたような口調で呟いた。
「ちゃんと、綺麗にしておいてあげなきゃダメなんだよ。お父さんとお母さんだって、
綺麗になりたいって思ってるよ」
「…………」
「お父さんとお母さん、綺麗にして、おうちで待っててもらえばいいと思う」
「なんだよそれ」
「おうち帰った時に、ただいまって言ったら絶対お帰りって言ってくれるよ。
なっちのお父さんね、お仕事から帰って来た時になっちがおかえりって言ってあげると
一番嬉しいって言ってくれんの。だから、お父さんとお母さんにお帰りって言ってもらえ
たらきっと嬉しいよ」
真里は変な生き物でも見るような目でなつみを見つめている。
その瞳には涙が浮かんでいた。
「……言ってくれるかなあ。
お父さんとお母さん、あたしにお帰りって、言ってくれるかなあ」
「うん、言ってくれるよ」
その後、通夜が終わってからなつみは真里を連れて父親のもとへ行き、デパートに連れて
行ってもらって、小さな衣装ケースと花瓶を買ってもらった。
真里は頑なに両親と暮らしていた家を離れようとせず、遠縁の親戚だという大学生の
女性が保護者代わりに一緒に暮らすことで落ち着いた。
元々アパートに一人暮らしをしていたから、家賃が浮いてラッキーだったと、細くした
瞼の隙間から青い目を覗かせて、彼女は笑っていた。
透明な衣装ケースの中には綺麗に洗濯をされて、ほつれを修繕されたフライトジャケットと
スカートが入れられた。それはリビングのソファにずっと置かれている。
そしてリビングのテーブルに置かれた花瓶には、いつも綺麗な花が一輪差し込まれていた。
- 117 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:51
-
- 118 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:51
- 土がついた観葉植物を抱え上げ、大きな植木鉢の上に載せ上げる。
根の部分に土を被せて固定し、保管場所に置いてから真里はふうと息をついた。
軍手を外し、ポケットからハンカチを取り出して額に浮かんだ汗を拭う。冬だというのに
二時間ほど肉体労働を続けていたおかげで身体はすっかり熱を持っている。
ツナギのジッパーを下げ、パタパタとあおいで空気を入れる。中に溜まっていた熱気が
押し出されて、心地良い冷気が肌を撫でた。
「矢口、お疲れー。裕ちゃんが休憩にしよって」
「あーい。今行く」
店側から顔を覗かせてなつみが呼んできたので、真里はそれに大声で応えた。
ハンカチで顔全体を拭いて、ポケットにしまいこむ。胸元まで開けていたツナギの
ジッパーを腰まで下げると袖を腕から引き抜いた。上半身は長袖のシャツ一枚という
格好になった真里が事務室へ入る。
「おー、お疲れ」
事務用の椅子に座ってパソコンをいじくっていた裕子が、椅子ごと真里の方へ振り返った。
彼女は真里の保護者代わりをしていた人だ。大学卒業後の何年かは中学校の教師をして
いたが、四年くらい前に退職してここで花屋を開いた。
真里となつみは開業した頃からここで働いている。真里は気心の知れた彼女と仕事が
出来るというのは有難かったし、なつみも花が好きだったから二つ返事で了承していた。
- 119 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:51
- 「裕子もちょっとは働けよ。おいらばっか重労働してんじゃん」
「アタシは頭脳労働担当なの。なっちだって重いもの持ったりしてないでしょ」
経理ソフトを終了させながら裕子が苦笑する。真里の身体は女の子にしては筋肉が発達
しすぎている。まあ、最近のひょろひょろとした少女たちよりは健康的でよろしい。
ほぼ客の対応専門になっているなつみと、事務処理を一手に引き受ける裕子。この二人は
ほとんど肉体労働をしない。おかげで商品の仕入れやら保管やらの役回りは全て真里が
受け持っており、小さな身体をちょこまか動かし続けた結果、小さな身体は随分と
逞しくなった。
「なっちはいいんだよ」そのなつみが淹れてくれたミルクティーを一気飲みして、真里は
裕子に対して舌を出した。
「やぐちー、ちゃんと服着なきゃダメだよ。風邪引いちゃうっしょ?」
渋い顔でなつみが言ってきて、真里が腰にぶら下げているツナギの袖を持ち上げる。
小さな子にするみたいに着せてこようとするのを、真里は「んあぁん!」と妙な唸り声を
上げて押し留めた。
「自分でやるよ。子供じゃないんだから」
人一倍母性の強いらしいなつみは、いつもこんな風に真里の世話を焼きたがる。
真里としては、そういうのはちょっと面白くない。
- 120 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:52
- あの日。
両親と別れを告げたあの日から、なつみは真里の世界になっていた。
両親と別れを告げるのを拒み続けて閉じこもっていた自分を外へ連れ出してくれた彼女に、
真里はひどく子供じみた情愛を持っていた。
裕子と二人で暮らし始めてからも、なつみはちょくちょく真里の様子を見に来ていた。
そういうのに煩わしさを感じながら同時にくすぐったいような嬉しさも持っていて、
真里の中で彼女の存在はどんどん大きくなっていった。
そしてその彼女が、おっとりとした喋り口調や時々お母さんと『通信』を始めるような
子供っぽさから想像できる通り、まるで漫画のキャラクターみたいなドジを踏む性質
だったため、真里は当たり前のようにひとつの決意をしたのだった。
なっちはおいらが守るんだ、と。
しかしその決意とは裏腹に、なつみと裕子に子供扱いばかりされている。
確かに身長は人よりちょっと低いかもしれないと言えない事もないような気がするが、
力だったら絶対この二人には負けない。なんなら今ここで腕相撲をしてもいいくらいだ。
真里がそんな風に言うと、二人は必ず口元を緩めて「はいはい」とやり過ごす。
それもやはり、自分が子供扱いされているという証拠なので、真里は面白くない。
自らの望む形と自らが甘んじている現状。
そのギャップに、真里はいつも悩むのだった。
- 121 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:52
- 「ほら矢口、甘いもの食べて回復しときなさい。休憩終わったらまたみっちり働いて
もらうから」
裕子が小さめのバスケットに入ったガトーショコラを差し出してくる。少しだけいびつで
大きさの不揃いなそれは、手作りであると一目で知れた。
たとえ差し出してきたのが裕子であっても、真里はそれを作ったのが彼女だなどと
露ほども思わない。
ひとつ摘み上げ、口の中に放る。舌にまとわりつくような甘みとほんの少しだけ
入れられたらしいブランデーの香りが心地良かった。
「あー、なっちの作るもんはやっぱ美味いわ」
「……矢口、それはアタシに対する嫌味か?」
「別にー?」
10年近く一緒に暮らして一度も裕子の手料理を食べた事のない真里は、チョコを口の中で
転がしながら悪戯い笑みを浮かべた。
「ほーう」裕子が僅かに口元を引きつらせ、それからおもむろにガトーショコラを口に
頬張り始めた。その手は止まらない。裕子の頬がどんどん膨れ上がっていく。
「あー! 何してんだよ、出せ、出せぇ!」
「もうない」
空になったバスケットを逆さにし、口いっぱいにガトーショコラを詰め込んだ裕子が
ふふんと笑う。
- 122 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:52
- 真里は歯軋りをしながら裕子に掴みかかった。
「おいらまだ一個しか食ってないのに! 馬鹿ゆーこ!! 出せ!」
「矢口、そんな怒ることないっしょ。また作ってあげるから」
本当に裕子の口の中へ手を突っ込みそうな剣幕の真里を、なつみが少しだけ呆れたような
笑みを浮かべながら押さえる。「うぅ……」悔しそうに唸る真里を挑発するように、裕子は
ふてぶてしく笑ってゆっくりとガトーショコラを味わった。
「あー、なっちの作るもんは美味いなあ」
「この……っ」
「毎日なっちの手料理が食べられる矢口が羨ましいわ、ホント」
またしても柳眉を逆立てかけた真里の気が、ふと抜けた。
裕子の台詞は絶妙のタイミングだった。それは真里の怒りを流すのも、ちょっとした
優越感をもたらすのにも最良のタイミングで口を出ていた。
「ま、まあねっ」真里は照れ臭そうに笑いながら胸を張る。それにくすくす笑いながら、
裕子は甘ったるくなった口を戻すためにストレートの紅茶を口に含んだ。
裕子が家を出たのは、春が来れば真里が高校を卒業するという年の暮れだった。
何が契機になったのかは知らない。「無理には聞かないけど、辛かったら話していいよ」と
言った時も、彼女は寂しそうに笑っただけで結局は詳しい事を話さなかった。
それと入れ替わりになつみが真里の家に来て、共同生活が始まってそろそろ四年になる。
- 123 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:52
- なつみはイベント事が好きなようで、お互いの誕生日とかバレンタインデーとか、
そういう時はいつも手作りの何かを真里に渡してくる。
もうすぐ訪れるクリスマスも例外ではなく、真里は今からそれが楽しみだったりする。
「あ、矢口、休憩終わり。配達行ってきて」
「まだ全然休んでないじゃんかよぉ」
「一軒忘れてたわ。そこにあるアレンジメント、6時まで届けなきゃいけないのよ」
真里の抗議を聞こえないふりでやり過ごし、裕子は「お願いね」とプリントアウトした
地図をひらめかせた。
「あと1時間もないじゃん」地図の印と上部に印刷されている住所から、すぐに出発
しないと間に合わない事を確認した真里が小さく舌打ちする。
「んじゃちょっと行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃーい。気をつけてね」
「うん」
裕子が座っているデスクの脇に掛けられている鍵を指に引っ掛け、真里はアレンジメント
片手に駐車場へ向かった。
- 124 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:53
- なつみと裕子は紅茶を啜りながら休憩を続けている。
「裕ちゃん、クリスマスはどうすんの? なっちたちとパーティーする?」
両手でカップを包みながらなつみが問うと、裕子はわざとらしいほど大きな笑声を上げた。
「ごめんねぇ、アタシちょっと大人の付き合いがあるからぁ。なんていうの? デート?
デートってやつかしらぁ!」
妙に芝居がかった、中途半端に語尾の上がった口調で勝ち誇ると、なつみは僅かに首を
斜めにしながら目を細めた。
「ふーん、そうなんだあ」
「……あんた信じてないでしょ」
「うん」
即座に頷かれた。
いひひ、と勝気な笑みを落とすなつみをひとつ睨みつけ、裕子がヒステリックな
金切り声で言い募る。
- 125 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:53
- 「アタシだってねえ、クリスマス一緒に過ごす男の一人や二人や三人四人くらいいるの!」
「すごいなあ、裕ちゃんモテモテだね」
どうせ一人か友人とでも飲みに行くのだろうと内心で思いながら、なつみは感心した
風を装った。そんなものが通用するはずはないのだが。
裕子が空咳をしてなつみから視線を外した。これ以上この話を続けて、墓穴を掘りたく
ないのか。
「なっちこそ、いい加減矢口と二人だけで寂しく過ごすのなんとかしたら? あんたたち
二人ともいい年なんだから、早いとこ男のひとりでも捕まえなさいよ」
「うーん、そうだねえ」
「うわ、なにそのやる気ない返事。若いからって油断してると、あっという間に
嫁き遅れるんだからね」
「裕ちゃんみたいに?」
裕子は無言でなつみの口を捻り上げた。
- 126 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:53
- 「じんぐーべー、じんぐーべー、すっずっがーなるー」
配達の帰り道、軽快に歌いながら真里は配達用のワゴンを駆る。
シートは目いっぱい手前に引き出され、分厚いクッションを敷いて高さを補っている。
そのスタイルはあまり格好いいものではないが、安全性を重視したら仕方がないと半ば
諦めている。
クッションカバーはなつみの手作りである。彼女はこういったものやら料理やらが
好きだし得意だ。きっといいお嫁さんになるだろうと思うが、それにはまず自分の目に
適う相手でなくてはならない。彼女はちょっとぼんやりしているから、変な男に騙され
でもしたら大変だ。真里は「なっちが欲しかったらおいらの屍を越えていけ」くらいの
気概を持っている。
実は今まで何度かそういう相手がいたのだった。しかし、誰も彼も頼りなさそうだったり
素行に問題があったり、このケースが一番多かったのだがなんとなく真里の好みじゃ
なかったりして、なつみに話が行く前に全部断ってきていた。
「きょっおーはー、たのっしっいー、クリスマスーヘイッってまだ早いよ!」
セルフツッコミが入るくらいノリノリだった。
それというのも今朝、偶然なつみが編み物をしているところを見てしまったのだ。
真里の気配に気付いたら慌てて隠したので、あれはきっとクリスマスプレゼントなのだろう。
- 127 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:53
- 贈る相手は自分以外にいないと、真里は考えるまでもなく確信していた。
去年は手袋だった。今年はなんだろう、マフラーかセーターだろうか。
なんだっていい。なつみが一生懸命手作りしてくれたものなら、どんな物でも大事にする。
「ケーキがまた美味いんだよなー。あー、早くクリスマスになんないかなー」
店の裏側にある車庫へワゴンを入れ、真里は意気揚々と事務室へ向かった。
「あー疲れたー!」ドアを開ける前に、わざとらしく大声で言った。まだプレゼントが
出来ていないようなので、なつみが空いた時間を使って事務室で編み物をしていたら
急に入っていくのは得策じゃない。
しかし、そんな真里の気遣いも虚しく、事務室には裕子しかいなかった。
「おかえり」裕子は既に帰り支度を始めていた。真里はきょろりと辺りを見回し、なつみの
姿を探す。
「なっちは?」
「あー、なんか用があるとかで先帰ったわ。もう店じまいするし、矢口も帰っていいよ」
「うん。用事って何か聞いてる?」
「いやぁ、詳しい事は聞いてないなあ」
なんだろうと首を傾げた。なつみからは何も聞いていない。
少しだけ苛々した。別に束縛しているつもりもないが、自分に何も言わずにいるという
のはなんだか面白くない。
- 128 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:53
- 裕子は真里の表情から察したのか、苦笑しながら宥めるような口調で言った。
「矢口に内緒でプレゼントでも探しに行ってるんじゃないの?」
「……あ、そっか。なんだ、そうだよなー」
途端に締まりのない笑顔になって、真里が照れ臭そうに頭を掻いた。今朝のことを
思い出せば、確かにそういう事で納得できる。
「んじゃ、おいらも帰るね。お疲れさまでした」
「お疲れー。知らないおじさんについてっちゃ駄目よ」
「ばーか!」
「イー!」と歯をむき出して吠えると、裕子は「バカって言う方がバカなんですぅ!」と
子供みたいな切り返しをしてきた。
彼女とは昔からこんな下らない言い争いばかりしているのだが、不思議に二人とも
そういうのが楽しかったりするのだった。
- 129 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:54
- 家の中は真っ暗だった。なつみはまだ帰っていないらしい。
「っかしいな……」真里が怪訝そうに呟く。裕子はああ言っていたが、なつみは手作りの
ものをくれるはずなのだ。だから、てっきり早く帰ってその作業をしていると思ったのに。
どこかへ買い物にでも出かけているのだろうか。
とりあえず、玄関とリビングとキッチンとゲームやら何やらが置いてある奥間の灯りを
つける。これは真里の癖だった。別段、暗所恐怖症というわけではないが、暗い部屋は
なんとなく嫌だった。
一通り灯りをつけてから、奥間の隅に腰を下ろした。
真里の前にはローテーブルに置かれたフォトスタンドがある。その背中では、ハンガーに
かけられた深紅のフライトジャケットと水色のロングスカートが揺れている。
「……ただいま」静かに手を合わせてから呟いた。
リビングのソファの上が定位置になっていたそれらは、なつみが来てからここに移された。
役目はまだ終えていないが、それでも少しだけ、他のものを入れる必要ができたから。
真里はフォトスタンドの汚れを拭き取ってからリビングに戻った。
「あ! 今日木曜じゃん!」
毎週見ているドラマの放送日だということを思い出し、真里は慌ててテレビの電源を
入れ、ビデオテープをデッキに押し込んだ。
テープの内容を確認し、ビデオデッキの時間表示を確認しながらリモコンを構える。
- 130 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:54
- CMが終わるタイミングを見計らって録画をスタートさせた。ドラマが始まり、録画中を
示す赤いランプが点灯している事を確認して、真里はソファに落ち着いた。
録画予約をしておけばよさそうなものだが、つい先週新しく買い換えたばかりなので、
まだ使い方がよく判らないのである。そのうち読んでおこうと思っている説明書は
テレビの上に寝転がっている。
それから15分ほどして、玄関が開く音が聞こえた。
「ただいまー。あ、もう始まっちゃってた!」
「おかえり。ビデオ録ってるから大丈夫だよ」
「ありがと矢口ー。そうだ、お腹空いてるっしょ。今すぐ作るからね」
「ああ、そんな急がなくていいって。そんなに減ってないから」
言った途端、真里の胃袋が激しく自己主張した。うあぁ、タイミング悪。真里は決まり
悪げに顔をしかめる。
なつみは笑いを堪えながら「ちょっと待っててね」と二階の自室へ足を運んでいった。
「か、カッコわるー……」
真里は熱を持った顔を冷やすように、テーブルへと倒れこんだ。合板製のテーブルは
固くて痛い。
- 131 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:54
- エリンギとアスパラガスの和風パスタとロールキャベツ、それから重めに作られた
コーンスープというメニューを平らげていく中で、真里がふと手を止めた。
「なっち、買い物行ってたの?」
「ん? そうなんだけどねー、途中で友達とばったり会ったのー。そんで話してたら時間
なくなっちゃってそのまま帰ってきちゃった」
「へぇー」
彼女らしい話だ。真里は何度もそんなエピソードを聞いているので、微笑ましさと
もうちょっとしっかりしてほしいという思いがない交ぜになった苦笑を浮かべた。
最後にアスパラガスを口に運んで、ごちそうさまでしたと手を合わせる。
満腹になった身体は程よい熱を持ち、それは眠気を誘う。
なつみがキッチンで洗い物をしている間、真里はソファに深く埋まって、眠気覚ましに
漫画を読んでいた。お気に入りである少年漫画の最新コミックスだ。傍らには以前の巻が
山積みにされている。
戻ってきたなつみがソファの背越しにこちらを覗きこんできた。「ん?」漫画を読む目を
上げて彼女に向ける。
「ねえねえ矢口、疲れてるっしょ? マッサージしてあげよっか?」
「えぇ? いいよ別に」
「いいから。昨日裕ちゃんに教えてもらったんだぁ」
その口ぶりから察するに、真里を労うというよりはちょっと試してみたいらしい。
おいら実験台かよと思いつつ、期待に満ちた眼差しで見つめられて、真里は渋々頷いた。
コミックスはまだ半分くらいしか読んでいない。
- 132 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:54
- 漫画の山の頂上に持っていたものを置いて、クッションを敷いて寝転がる。
背中をマッサージされていると、食後の眠気も相まって次第に心地良い浮遊感を覚え始めた。
「うあー、極楽……」
「矢口いっつも頑張ってるもんねぇ。眠かったら寝ちゃっていいからね」
「んー……」
その言葉を待つまでもなく、真里は既に半ば眠りの世界へ入り込んでいた。
身体の内側から湧き上がる熱とシャツ越しに触れる彼女の熱に、精神を融かされていく。
目を閉じて、ぎりぎりの位置にあった意識を浮遊させる。
身体から離れた意識は部屋の隅に落ち着いて手足を丸めた。
なつみはマッサージを続けながら真里の様子を窺っていた。一定のリズムで繰り返される
呼吸と穏やかな横顔に、なつみは柔らかく目を細めて微笑う。
「矢口、寝ちゃった?」
「……んー……」
声をかけると、むずがるように唸って自身の腕の中に潜り込んでいく。隠し切れなかった
頭を優しく撫でながら、赤ちゃんみたいだねぇと口の中だけで呟いた。
天井近くに丸まっていた意識がなつみの側へ行って寄り添う。
なつみは意識に頬を撫でられながら、しばらくの間真里の寝顔を眺めていた。
- 133 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:55
- 静かに繰り返される呼吸は穏やかだ。なつみは奥間から薄手の毛布を持ってきて真里の
身体に掛けてやった。空調を効かせているとはいえ、こんなところで眠り込んで、
寝冷えして風邪でも引いたら大変だ。
「遅くなったら、ちゃんと自分の部屋で寝るんだよ?」
「……うん……」
「矢口、聞いてる?」
「………………ん……」
返答はどんどん小さく、適当になっていく。しょうがないなと苦笑して、なつみがその
背中をポンポンと叩いた。
「さて、と……」
こうなれば丁度いい。真里が熟睡しているのを確かめて、なつみはそっとその場を離れた。
置いてきぼりにされた意識が不安そうになつみの後ろ姿を見つめているが、なつみは
その事に気付かない。
自室に入り、しまっておいた道具を取り出す。編み棒が刺さったままの、出来かけの
マフラーを引っ張り出して作業を始めた。
「間に合うかなあ……。結構ギリギリだよねぇ」
何せ、約束は明後日に迫っている。それまでにはなんとか完成させないと。
なつみは懸命に編み物を続ける。
- 134 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:55
-
- 135 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:55
- いわゆるクリスマスイブイブとか言われる12月23日、裕子は朝から具合が悪そうだった。
真里が大声で呼びかけるたびに「うあぁ」とか唸りながら頭を抱えていたので、おそらく
昨日は遅くまで飲んでいたのだろう。
「いい年してなにやってんだよ」真里は呆れた口調で呟く。それを頭の中で鳴り響く警鐘に
邪魔をされつつも、耳聡く聞き止めた裕子がムッとした表情で振り返った。
「大人には大人の事情があんのよ」
「どーせ一人で寂しく飲んだくれてたんだろ。裕子昔っからそうじゃん」
抱えていた鉢植えを下ろしながら憎まれ口を叩くと、裕子はつんと唇を尖らせて胃薬を
口に流し込んだ。
例によってツナギを腰まで脱いで、空いている椅子にどっかと座り込む。裕子から
渡された在庫管理用の書類をペラペラとめくり、軽く目を通してから保管庫へ戻ろうと
した時、店先に出ていたなつみが慌てた様子で事務室に入ってきた。
なんだ?と真里と裕子が驚きに目を見開く。
「ごめん、リボン切らしてたの忘れてた。なっちちょっと買ってくるね」
「あ、いいよおいらが行ってくるから」
「ダメだよ矢口まだ仕事残ってるっしょ? この時間ならお客さんもあんま来ないし、
裕ちゃんとお店の方見てて」
- 136 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:55
- 「そうした方がいいね」裕子の鶴の一声で、矢口は引き下がった。日が暮れているような
時間であれば、何がなんでも自分が行くのだが、今はまだ昼を過ぎた程度だから一人で
外を出歩いていても危険はないだろう。
「なっち、ちゃんと領収書もらってきてよ」
「判ってるよぉ。じゃあ行ってきます」
行ってらっしゃい、となつみを見送り、真里は更衣室で着替え始めた。さすがにツナギで
接客をするわけにはいかない。
- 137 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:55
- 二時間経ってもなつみは戻ってこなかった。真里は気もそぞろで、何度も裕子に注意を
されたが耳には入っていない。
携帯電話にかけてみたが、更衣室のロッカーから着信を告げるメロディが流れ来ていた。
裕子たちと話してから直接店頭を抜けたので、それも当然の話だった。
真里は花を揃えながら爪先を忙しなく叩き鳴らしている。身体が小さいせいか、真里は
どんな時でもオーバーアクションなきらいがあるが、その癖はこういう状況においては
好ましくない。
「やーぐち、そんな苛々してたらお客さんが恐がるでしょ。もうちょっと落ち着きなさい」
「判ってるよ。でもなんか、なんか……」
視線をキョロキョロといろいろな場所に泳がせ、反論か言い訳を探している真里に、
裕子が小さく溜息をついた。
彼女のこの状態は危険だと裕子は判断している。一時期であれ裕子は真里の保護者として
側にいたから、彼女の事情はよく知っている。物理的な意味合いの距離において最も
彼女に近い位置にいたから、そして彼女よりも長く生きて、彼女よりも様々な経験を
積んでいるから、だから。
彼女の想いの種類を、彼女よりも判っている。
違うんだよと、言ってしまいたいのを裕子はぐっと堪えた。
- 138 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:56
- 「……なっちは」
迷いによって裕子は口を閉ざす。それから代わりの言葉を探して、もう一度溜息をついた。
「そんな心配することないから、大丈夫」
「だって、リボン買いに行くだけでこんな時間かかるわけないじゃん。もしかしたら
どっかで危ない目に遭ってるのかも……」
「寄り道でもしてんでしょ。もうすぐ戻ってくるって」
真里は反論してこないが、納得はしていないようだった。あからさまに不機嫌な様子を
見せる彼女の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫で、屈んでその顔を覗き込む。
「あんた過保護すぎる。なっちだって子供じゃないんだから」
そう、子供じゃないのだ。子供だなんて、誰も思っていない。
それが真里の中にある齟齬であり、真里の中にある不安を意味不明なものにしている
原因だった。
真里は不満そうに唇を尖らせ、裕子から目を逸らした。
どれだけ言っても無駄だろう。意固地になってしまった子供には何を言っても通じない。
仮にも教師をしていたのだから、そういう子供を裕子は何人も見てきた。
こんな時、子供は自らの過ちを認めない。間違っているかもしれないと思いながら
認めなかったり、間違っているなどと全く考えていないから認めなかったり、その心中は
様々であるが、認めないという結果は変わらない。
- 139 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:56
- こんな時、大人はおとなしく諦めるしかない。
本当は、大人はいつだって子供には勝てないのだ。
「……判った、じゃあちょっと探してきて。店番はアタシがしてるから」
そう言うと、ようやく真里は満足そうに唇の端を引き上げた。
「行ってきます!」勢い込んで駆け出した真里を見送ってから、裕子は商品を片付けて
シャッターを下ろした。
二日酔いの頭で接客できるほど、裕子には体力がない。
- 140 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:56
- 真里はコートの端をはためかせながら走っている。クリスマス前だけあって、
街は煌びやかに飾り付けられ、華やかな音楽が溢れている。まるで遊園地の中に
いるような感覚を覚えた。
嫌な感覚だと、真里は思う。
じわじわと迫り来る不安に押し潰されそうになっている。
真里はこの不安を知っていた。それは既に経験した恐怖をまた味わうかもしれないという
不安だった。
だから真里はなつみを守らなければならなかった。大切に大事に何があろうと彼女を
守らなければならなかったのだ。
「あっ、すいません」
前方を歩いてきたカップルにぶつかって、真里は慌てて頭を下げた。カップルはちらりと
こちらを一瞥しただけでまた二人の世界に入り込み、真里も彼らには構わず走り出す。
彼らと真里の世界は、もう二度と交錯しない。真里の世界にはもう、自分も裕子も、他の
誰も存在しない。
本当はあの時、彼女が花を差し出してくれたその瞬間から、真里の世界にはたったひとり
だけ、彼女しか存在していなかった。
そこで世界を閉ざしてしまわなかったのは、真里が聡い子供だったからだ。恐がる事を
知っている子供だったから、小賢しく大人を拒絶しないまま生きてきた。
- 141 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:56
- 自らの聡さを悟りながら、何も気付かないふりをして、何も知らないふりをして、
何一つ捨てないようなふりをして裕子に守られてきた。
彼女が、彼女たちがそれを知っていたかどうかは知らない。知られていてもいいし
そうじゃなくても問題はない。
「……どこにいんだよぉ」
小さく呟きながら真里は走る。街中には人が溢れていて、この小さな身体で走り回るには
街は広すぎた。
目に入りさえすれば、見えるところにいさえすれば、絶対に見つける自信があるのに。
大声で叫んでみようか。迷子の子供みたいに、母親を探して喚く子供みたいに。
「……冗談じゃないよ」
はっ、と自嘲みたいに一瞬の苦笑いを浮かべ、真里は首を振る。
そんな事をする必要なんてない。そんな事が出来るほど、子供ではなくなってしまった。
時期的なものなのか、視界に入るのはカップルばかりだ。
お幸せそうでなによりですよ。真里は嫌味のような独り言を口の中で転がした。
妬む心の理由は、彼らが既に見つけているからだ。
邪魔をするようにゆったりと歩くカップルたちを追い越しながら、辺りに視線を巡らせて
いく。
と、不意に視界へ飛び込んできた小さな後ろ姿。
見つけた、と真里は思わず安堵の息をついた。
- 142 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:57
- ――――あれ?
なつみはひとりじゃなかった。隣に、彼女より背の高い少女が寄り添うように並んでいる。
肩口辺りで揃えられた髪が揺れて、ちらちらとその横顔が見え隠れする。
カジュアルなAラインのコートに包まれた左腕は、なつみを支えるように腰へと廻されて
いた。
その光景に、ドクドクと鼓動が波打つ。
「――――誰だよ、それ」
真里はいつの間にか足を止めていた。
二人の姿は人込みに消えていく。歩道の真ん中で微動だにせず立ち尽くしている真里を、
通り過ぎる人達が訝しげに見遣っている。それでも声を掛けるような人はおらず、
その視線は風変わりなモニュメントを見かけた時のそれと大差はなかった。
さっきの少女。背が高く、僅かに覗いた横顔はひどく整っていて、なつみを守るように
腰へと廻した腕は少女のくせに紳士的だった。
真里の拳がきつく握られて、それは勢いよくコートのポケットへ押し込まれた。
なんだ。
なんなんだあいつ。
なんなんだ、この気持ち。
- 143 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:58
- 「……違う」
無意識に呟きを落としていた。
「違う……あいつじゃない!」
影もなくなった二人を追いかけ始める。すれ違う人々がぎょっとした顔で真里を見つめて
いるが、真里にとってそんなものはどうでもよかった。
視界がぼやけていてよく見えなかったが、そんな事で彼女の姿を見逃すはずがなかった。
歩いている二人を走って追いかけたのだから、それほどの時間もなく追いついた。
彼女たちはまだ自分に気付いていない。
「なっち!」
妙に上ずった、しゃくりあげるみたいな調子の呼び声だった。なつみが振り返り、
真里を見つけて笑おうとした表情が、少しだけ強張る。
「矢口? どうしたの? 転んだ?」
「そんなわけあるかよ、なっちじゃあるまいし……」
駆け寄って、開口一番に見当違いなことを言うなつみに、真里は疲れたような口調で答えた。
なつみが心配そうに真里の肩を両手で抱いた。無理はない、真里の顔は涙に濡れていて、
それをコートの袖で乱暴に拭いながら小さく唸っているのだから。
紳士みたいな少女は唐突な展開についていけないのか、困惑した表情で頭を掻いていた。
- 144 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:58
- 「矢口、心配して探しに来てくれたの? ごめんね、ちゃんと電話してればよかったね」
「ちが、違う……」
確かに最初はそうだったが、今はもうそんなことどうでもいい。
真里はなつみが差し出したハンカチで涙を拭うと、挑むような視線を少女に向けた。
「おっ、お前なんか、違うんだからな! なんだよちょっと背ぇ高くてカッコいいからって
人のこと見下しやがって! なっちは、なっちはなあ!」
おいらが、守らなくちゃいけないのに。
「見下してるって……」少女は半ば呆れたように呟いて、真里と同じくらいの視点まで
身体を屈めた。『見下ろす』と『見下す』を混同している真里の気持ちを汲んで
合わせようとしたんだろう。そんな気遣いすら、真里には馬鹿にされたように映る。
「っ、バーカ!」
「こらっ、そんなこと言っちゃ駄目でしょ!」
「なんだよ、なっちそいつの味方すんのかよ!」
やっぱり彼女の方がいいのか。真里は絶望にも似た喪失感を覚えながら、子犬みたいに
二人へ噛み付いた。
なつみは真里を押さえつけながら、少女へ向かって申し訳なさそうな視線を送った。
- 145 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:58
- 「ごめんねごっちん、なんかこの子、テンパってるみたい」
「んあ、別に怒ってないけど……。この子がヤグチ?」
「なんだ、いきなり呼び捨てにすんな! お前何様だよ!」
「こらぁ!」
少女は困ったように苦笑している。「じゃあ、やぐっつぁんでいい?」身体を屈めたまま
言われた台詞は、まあ許容範囲のうちだったので真里は頷いた。
いつまでもなつみに押さえつけられているのも格好悪いと思ったので、真里は少女へ
向けていた気概をとりあえず収めた。それを見て落ち着いたと判断したのか、なつみが
肩を掴んでいた手を離す。
ぜえぜえと荒ぐ息を整えてから、真里は牽制するようになつみを自分の方へと引き寄せた。
「お前なんかに、なっちが守れるもんか。なっちは……なっちは、おいらが……」
「んあ? あんたがなっちを守んの?」
訝しげに顰められた眉の下にある少女の双眸が、好奇の色を持ち始めた。真里はそれに
気圧されて下を向く。
- 146 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:58
- 自分が守るのだと、昔から思ってきていた。今までもそうだったし、これからも、
ずっとそれだけは変わらずに続くのだと思っていた。
本当に? 本当にそうなのだろうか。もしかして、そんなものは自分のひとり芝居で、
実のところなつみはもう他の誰かの手によって守られていて、自分はただその周りを
グルグル走り回りながら無闇に吠えて、守ってやっているのだと勘違いをして、
いい気になっていただけなのかもしれない。
他の誰か。
そう例えば、目の前にいる彼女とか。
- 147 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:59
- 「……お前、なっちのなんなんだよ」
「あはっ、なんか昔の歌であったよね。あんたあの子のなんなのさ、だっけ?」
「誤魔化すなっ」
少女は軽く目を細めて笑っている。
その泰然とした様子に、真里の不安が募った。
それはまるで、もう手に入れている者の余裕に見えた。
「んあー、なんだろうねぇ?」
「な、なんだそれっ」
「そうだなあ、オトナの関係とか」
「はあぁ!?」
真里は愕然として、次の瞬間少女に掴みかかった。
なっちは、おいらが。
「どういう事だよ! お前、お前……!」
『あたし』が、守りたかったのに。
予想外に真里の力が強かったからか、少女は顔をしかめながら崩れたバランスを咄嗟に
引き戻した。
「もう、ごっちん変なこと言わないでよっ」
なつみは慌てて後ろから真里を羽交い絞めにし、少女に咎めるような視線を送った。
余裕の笑みでそれを受け流して、少女が道化るように口笛を吹いた。
- 148 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:59
- 「なに言ってんの、ごとーとなっちは」
「友達でしょ、友達!」
まだからかおうとする少女に、なつみが少しばかり怒った風な表情を作る。
少女は小さく肩を竦め、「ま、そういうこと」と真里に向かって手を振った。
「なに心配してんだか知らないけど。別に変な関係じゃないよ」
「……ほ、ホント?」
「うん。たまたま会ってちょっと話してただけ」
真里の全身から力が抜けた。どうだろう、本当だろうか。二人はまだ何か隠してるんじゃ
ないだろうか。そういう不安は消えないものの、はっきりと自身の推測を否定されて
安堵を覚えていた。
なつみがぽふぽふと頭を叩いてくる。宥めようとしているのか、慰めようとしているのか。
どちらであってもその行動は正しくない。
「ごとーん家ね、コンビニやってんの」
「……へ?」
前触れなしに話し始めた少女に、真里が顔を上げる。
「あたしもバイトしてるから、ラッピングとか覚えるのね? そんでなっちが教えて
ほしいって言うから……」
「あ、ごっちん言っちゃ駄目!」
なつみが飛びつかんばかりの勢いで少女の口を塞ぐ。「んあぁ」驚きに目を丸くしながら、
少女は転びそうになる身体を慌てて立て直した。
- 149 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 17:59
- 頬を紅潮させて押し留めようとしているなつみの両手を捕まえ、きししと悪戯に笑い
ながら真里を見遣る。
「ごとー、やぐっつぁんの気持ちの方が判るよ」
「……はぁ?」
「うん。まあ、ね。あたしは間違っちゃったけど、やぐっつぁんには間違ってほしくない
からね。だからあたしのことでホントに誤解されたら困る」
なつみを押さえ込んでいた手を離し、ぽんとその背中を押す。なつみはたたらを
踏みながら真里の方へ数歩進んだ。
少女は子供を迎える父親のように両手を広げて、ひどく人懐こい、少年のような、しかし
大人びた空気すら漂わせた笑みを浮かべた。
「こんな、日本てゆうちっちゃい国の、東京ってゆうちっちゃい街の中だけでも、
こんだけの人がいてさぁ。こんなにいっぱいいる中から、なんか『この子だ』って
思える相手に巡り逢えるのって物凄いことだとごとーは思うんだ。
そんで『この子だ』って思った人が自分のこと『この子だ』って思ってくれるなんて
もっと凄いよね」
「……はあ?」
「思いが通じるっていうんだって、こういうの。通じるっていうのはつながってるって
ことだよね。つながってるのはずっとつながってるかもしれないし、自然と切れちゃう
かもしれないし、自分で切っちゃうかもしれないし、誰かに切られちゃうかもしんないよね。
あ、切れたように見えて実は切れてないってこともあるかな」
どうにも要領を得ない長広舌に、真里はぽかんと口を開けていた。
少女はそれに構う気配はない。単に思いついたことをそのまま口にしているだけのようだ。
- 150 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:00
- 「通じるだけじゃ駄目なんだよ。いっぺんつながったからってそこで安心して力抜いて
放っといちゃったら、それは簡単に切れちゃうんだよ。
だからちゃんと、自分で離さないように掴んでなきゃいけないし、力入れすぎて相手に
痛い思いさせるのも駄目だよ」
「なに言ってんのか全然わかんないよ」
「あはっ、ごとーもわかんない」
少女が広げていた両手を頭の横まで上げる。降参のポーズに似ていたが、何に白旗を
揚げたのかは判らなかった。
「なっちとやぐっつぁんは似合ってると思うよ? そんで、ごとーと紺野も似合ってる。
そういうのはなんか嬉しいよね。みんながそうだったら、世界中幸せだよ」
「……紺野って誰だよ」
「ごとーの『この子』。これがまたガード固くてねー。大変なんですよ」
おどけた調子で肩を竦めるのに、真里は膨れ上がった不安の、原因となったファクタが
なんであるか気付く。
彼女がもう見つけていたからだ。
見つけた先にあるのが、なつみじゃないかと思ったからだ。
彼女に、なつみを取られてしまったのかもしれないと思ったからだ。
なつみが、自分を置いて行ってしまうかもしれないと、思ったからだ。
- 151 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:00
- 「……なんだ、そっか……」
無意識になつみの手を握った。彼女は握り返してくれた。
少女はそれを見て微笑んだ。
「離しちゃ駄目だよ」
「お前に言われなくたって判ってるよっ」
「あはっ。そろそろお前っていうのやめてよ。ごとーにはごとーっていうリッパな名前が
あるんだから」
苦笑混じりに言われた台詞に、真里は顎に手を当ててしばし考え込んだ。
「お前、ごとーだっけ?」
「うん」
「じゃあ、おいらがやぐっつぁんだから、お前はごっつぁんだ!」
「おー、いいねえいいねえ」
どうやらお気に召したらしい。くつくつと面白そうに笑う彼女は、お近づきの印にという
ことなのか、真里に向かって右手を差し出してきた。
真里はそれを軽く握る。逆の手はなつみを掴んだままでいる。
「じゃ、ごとーはもう帰るよ。やぐっつぁん、なっちの事よろしくねぇ」
「だから、言われなくても判ってるんだよ!」
喧嘩腰で言い返すと、どういうわけか彼女はひどく幸せそうに笑った。
- 152 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:00
- 少女の後ろ姿が人込みにかき消えてから、真里は隣にいるなつみの横顔を盗み見た。
視線に気付いた彼女がうん?と窺うように目を合わせてきて、真里は小さくはにかむと
誤魔化すように首を振った。
「帰ろ、裕ちゃん待ってるから」
「そうだねぇ。でも矢口、なんでごっちんにあんな事言ったのさ?」
「あんな事って?」
判っているくせに、真里は彼女の問いをはぐらかした。
なつみが不満そうに唇を突き出す。繋がっている手をブンブン振って、視線を真里から
街並みに移して言った。
「バカとか」
「……あれは、ちょっと……なっちが変なのに引っかかってんのかと思って……」
「ごっちんはいい子だよ」
「判って……判ったよ。うん、いい奴っぽかった」
「仲良くしなきゃ駄目だよ?」
「……うん」
全然駄目だ。この状況は理想とは程遠い。
これじゃあまるで、友達と喧嘩をして母親に叱られる子供だ。
俯く顔の視線だけを上に移して、彼女の表情をこっそりと窺った。
穏やかな、感情の見えにくい顔をしていた。真里はいくらか不安になる。
- 153 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:01
- 離さないように、掴んでいないと。
真里は少しだけ彼女の手を握る力を強める。
痛くないかな、正直言って心中穏やかではない。
なつみは視線を真里に向けないまま、不意にくすくすと含み笑いを溢した。真里は心を
読まれたような気がして僅かにうろたえた。別に疚しいものがあるわけでもないのに。
「なっちのこと心配だった?」
「え? ……ん、いや……」
心配していた。それは確かだった。
けれど本当は、なつみの身を一番に案じていたのではなかった。
「……なっち」
「なーに?」
お帰りって言ってもらえたら、嬉しいから。
「……置いてっちゃ、ヤだよ」
「え?」
「おいらのこと、独りにしちゃ、ヤだよ……」
なつみが困ったように笑った。「しょうがない子だねぇ」まるで母親みたいにそう言って、
随分小柄な、頼りない真里の肩へ自身の身体をぶつけた。
- 154 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:01
- 「なっちは矢口が守ってくれるんでしょ?」
ああ、とうとう知られてしまった。
それは真里の弱さだった。
自分には守らなければならないものがあるのだと、自らに言い聞かせる事で虚勢を
張っていた。
自分が支えているのだと思い込む事で支えられている事実を忘れた。
力を過信する事で自らを安心させた。
彼女を過小に評価することで彼女を牙城と等価にした。
本当に望んでいたのは。
「だから、なっちは矢口がいてくれたらいいよ」
「……うん」
二人は手を繋いで一緒に帰った。出てくる話題は明日どんなケーキを作るかだとか、
裕子は果たしてどんな風に過ごすのだろうとか、そんなどうでもいいようなものばかり
だった。
「なっちはおいらが守るよ」
「うん、お願いね」
歩きながらポツリと洩らした一言に、なつみはひどく嬉しそうに頷いた。
真里はその頷きに対してどうする事もできなかったので、仕方なく笑った。
- 155 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:01
-
- 156 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:01
- なつみ特製のブッシュ・ド・ノエルを目の前に、真里はおあずけを食らっている。
まだ準備が済んでいないからだが、出来立ての適度な熱を持ったケーキから放たれる
芳香を浴びながら、それを味わう事ができないというのは結構な苦行である。
「ねえなっちー、一口だけ食べていいー?」
「駄目。もうちょっとだから待ってて」
「……うー」
なつみはキッチンに備え付けられているオーブンを覗き込んでいる。そちらからは肉の
焼けるいい匂いが漂ってきている。
ケーキの甘い芳香と、肉のめり込むような重い香り。もうこれだけで満腹になりそうな
気がするが、それはただの勘違いで真里の食欲はいっそう掻きたてられるばかりだ。
テーブルに顎を乗せながら、そぉっと手にしたフォークでケーキの下部を掬う。
先端にほんの少しだけクリームを付けたフォークを口に含むと、真里はふにゃりと
相好を崩した。
「……んま」
チョコレートクリームは、いつもより甘かった。
「こらぁ。つまみ食いしちゃ駄目でしょー」
「うわっ」
気配で察したのか見ていたのか、キッチンからなつみの叱責が飛んで、真里は思わず
姿勢を正した。もちろん、フォークは元の場所に置いて。
- 157 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:01
- 誤魔化そうとする真里を呆れた様子で見遣って、なつみが溜息をつく。
「もー、なっちホントに矢口のお母さんみたい」
「へへっ。おかーさんお腹減ったー」
「はいはい、もうちょっと待っててね」
ふざけて子供のふりをすると、やはり呆れたような返答が来て、真里はくすぐったそうに
笑った。
こういうのは、本当は悪くない。
それから準備が終わるまで大人しく待っていて、なつみが戻ってきてからそれぞれに
プレゼントを取り出す。
なつみの持っている包みは去年より数段綺麗にラッピングされていて、なるほど成果は
出たようだと真里が笑う。
「これがごっつぁん直伝のラッピングか」
「そういうこと言わないでよー。絶対バカにされると思ったから黙ってたのに」
「いやー、上手いじゃん」
真里は褒めながらも、丁寧にラッピングされた包みを遠慮なく開けた。なつみが少しだけ
寂しそうな顔をする。だって、開けなきゃ中見れないじゃん。無言の非難にどことなく
不条理な後ろめたさを感じながら、真里は視線を逸らした。
- 158 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:02
- 「おー、マフラーだ」
「手作りの物って彼氏とかだと嫌がるって本に書いてたんだけどね、矢口は家族だから
いいかなあって」
「うん、嬉しい嬉しい。ありがと」
早速マフラーを首に巻いて見せた。「あ、丁度いいね、よかった」なつみが安堵したように
息をついて、真里の首に掛かったマフラーを調節する。
「んじゃ今度は、おいらのプレゼント」
「ありがとー」
「なにかな?」なつみがうきうきと笑いながら箱を開ける。
自慢じゃないが手先は器用じゃないので、こちらも手作りで、というわけにもいかない。
しかしながら、仕事の合間を縫って街中走り回り、厳選に厳選を重ねた一品だ。
中から出てきたのはピアスだった。ポイントタイプの物ではなく、チェーンと石を組み
合わせたシックな雰囲気の物だ。
「かっこいー、ありがと矢口ー」
「なっちももう23だしさ、こういうちょっと大人っぽいのもいいかと思って」
「うわー、かぁっこいいねえ。ありがとー」
なつみがピアスを填める。童顔の彼女には少しばかり落ち着きすぎているかもしれないが、
それでも似合っていたので真里は嬉しかった。
- 159 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:02
- 「矢口はなっちのこと判ってるよね」嬉しそうに言うから、真里も思わず笑みをこぼした。
彼女が喜んでくれると嬉しい。
守るとか守られるとかじゃなくて、本当は。
「来年はどんなのが来るかな?」
「早すぎるって」
浮かれた口調で呟かれた言葉に、小さく苦笑しながら返した。
そこにいて、お帰りって言ってくれたら。
「てゆーかご飯食べようよ。おいらマジ腹ペコだよぉ」
「そだね。あ、矢口マフラー外してね。汚しちゃうから」
「判ってるってば」
どこまでも子供扱いする彼女に軽く肩を竦め、真里は首に巻いたままのマフラーを
解いて丁寧に畳んだ。
- 160 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:02
- 小さめのショットバーでグラスを傾けていた裕子は、ふと手首の時計に目をやった。
午後10時。あの子達はまだ騒いでいるか、それとも、疲れて眠ってしまっただろうか。
「姐さん? どうしたんです?」
隣でワインを愉しんでいた友人が訝しげに問いかけてくる。彼女は知己の友人である。
数年前、大学で教育学部に属していた彼女が、裕子の勤め先である中学校へ教育実習に
訪れたのがきっかけだった。
実習後も何度か一緒に杯を交わしていたが、彼女は卒業後、教職につく事はせず
すぐに海外へ留学して、つい一週間ほど前に帰って来たばかりである。
これからはアルバイトをしながら、かねてからの夢であるミュージシャンを目指して
レッスンと作曲を行う予定らしい。
今日は帰って来た祝いとか、彼女の前途を祝してとか、とにかくそういうものを
一まとめにやってしまおうという事で待ち合わせた。
「ホントは別の予定があったけど、あんたのために空けてやったのよ?」とは裕子の談。
裕子がグラスを置き、携帯電話を取り出す。
「誰か呼ぶんですか?」
「んー、ちょっとうちの子に電話」
「え!? 姐さんいつの間にそんな……。ちゃんと認知はしてもらったんですか?」
「違うわ!」
面倒なので説明はせず、驚いている友人をそのままに裕子は電話をかける。
しばらくコールを聞いていて、これは寝たかな、と思った頃に繋がった。
- 161 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:03
- 『裕ちゃーん! めるぃーくりすまーす!!』
「はいはい、メリークリスマス」
ハイテンションななつみの声に苦笑しつつ、「楽しんでる?」と続ける。
『おー! 楽しいよー!』かなりアルコールが入っているようだ。とはいえ、彼女は
カクテル一杯で潰れるくらい弱いので、実際はどうか知らない。
『あ、ちょっと待ってね、今矢口に……』
声は途中で途切れ、なつみに負けず劣らずテンションの高い真里の叫び声が届く。
『裕ちゃん! なっちが、なっちがおいらのワンピースにシャンパンを!!』
「は?」
真里はぎゃーぎゃー騒いでいる。お気に入りの服にシャンパンをかけられたんだろうか。
ワインとかならともかく、シャンパンならすぐに洗濯をしたら染みにもならないだろう。
そこまで大騒ぎする事でもないような気がする。
「やーぐち、ちょっと落ち着きなさいって。洗濯機に入れといたらいいじゃないの」
『そんな事したらボロボロになっちゃうだろバカー!!』
訳が判らない。年代物の洋服なんだろうか。古着とか?
裕子の記憶が確かなら、真里はどちらかというと今時の服装を好んで、
オールディーズはそれほど好きな風でもなかったが。
- 162 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:03
- 「うん、まあ判った。じゃあね、仲良くしときなさいよ」
『でもなっちがワンピースにぃー』
いつまでも同じことを叫んでいそうだったので、裕子は問答無用で終話ボタンを押した。
「……元気にやってるみたい」
「はあ、それは何よりです」
「アタシの子供じゃないからね」
「あ、ですよねー。聞こえてきた声、結構大きい子みたいだったから」
「いやあ、二人とも小さいよ?」
「はあ……?」
酒が回っているせいだろうか、どうも詳しい事を話す気になれなくて、
裕子は微笑みながらグラスを持ち上げた。長い付き合いだ、目の前の彼女が
己のこういった表情に弱い事は知っている。
思ったとおり、彼女は釈然としない面持ちながら、それ以上の追及をやめた。
「乾杯でもする?」
「姐さん、これでもう5回目ですよ、乾杯」
「いいでしょ、こういうのは何回でも」
なんに乾杯するんですか、と心持ち呆れた顔で言ってくるのに、口の中で小さく唸る。
「んじゃ、ちょっと早いけど、うちの子の誕生祝いで」
「それって、あたし関係ないじゃないですか」
今度ははっきり呆れ顔になったものの、彼女は律儀にグラスを合わせてきた。
- 163 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:03
- シャンパンをぶちまけられたおかげでびしょ濡れになってしまった漫画単行本に
半泣きでドライヤーを当てて、妙な形に固まってしまった数冊を前に新しいものを
買おうと固く決意し、しばらくなつみとは口を利いてやらないという事も固く決意し、
それでも几帳面に後片付けをしてから、真里はベッドへ潜り込んだ。
楽しい夜のはずが、思わぬところでけちがついてしまった。その悔しさでなかなか
眠れなかったが、アルコールの手助けと昼間走り回った疲れもあってか、宵も更けた頃に
なってようやくうつらうつらとし始めていた。
音を立てないよう、抜き足差し足で階段を上り、なつみはそっとドアを開けた。
真っ暗な部屋に廊下の明かりが僅かに差し込んで、中の様子を窺わせる。部屋の隅に
置かれたベッドの中央辺りが小さく盛り上がっていて、なつみはそこを目掛けてゆっくり
足を進めた。
ベッドに築かれた山を静かに崩す。めくり上げられた掛け布から、丸まっている真里の
寝顔が半分ほど覗いた。
なつみは口元に笑みを浮かべながらその寝顔を眺めて、それから髪を優しく撫で梳いた。
「……矢口はなっちが守ってあげるからね」
囁いて、唇で柔らかく触れる。
- 164 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:04
- 「あと、漫画汚しちゃってごめんね。後で買ってくるからごめんして?」
もう一度髪を撫でてから掛け布を整え、なつみは入った時と同じように、音を立てずに
部屋を出て行った。
気遣いの足音が消え、それから更に数分立ってから、真里の唇がふっと呼気を吐き出した。
「いくら家族でも、口にちゅうはしないんだよ、なっち……」
やっぱなんかボケてる、あの人。
赤くなった頬を片手で覆い、真里は毛布へ深く深く潜り込んで行った。
明日の朝からは、口を利いてあげてもいいかな、と思った。
約束、してくれたみたいだから。
《As for affection put into the kiss, in her hearts.》
- 165 名前:『愛は愛のままに』 投稿日:2004/10/02(土) 18:04
-
以上、『愛は愛のままに』でした。
書いてた時期、とある作品(NOT娘。小説)に世界を革命されてしまったので、
影響が色濃く出ております(苦笑)
安倍さんの真意は安倍さんにしか判りません。
- 166 名前:円 投稿日:2004/10/02(土) 18:04
- レスありがとうございます。
>>105
この二人でしたー。な、長かったなあ、初登場から(遠い眼)
>>106
おお、タイトルは聞いた事があるんですが(苦笑)
すいません、読んだ事はないです。
>>107
癒し系なんでしょうかね(笑) 自分は癒されます。主に紺野さんに。
>>108
今回は、青春というにはちょっと年食っ(殴)
>>109
ochiありがとうございます。下って落ち着く……(笑)
大概において、過去ってのは美化されますからねえ。そこを突付くのが自分の信条です(笑)
>>110
板にふさわしい職業って、言われるまで気付かなかったり_| ̄|○
無意識にチョイスしてたんですかねー(苦笑)
>>111
この二人の場合、どっちの内心も書きやすいのでありがたいです。
といいつつ、紺野さんの心の動きがほとんどないんですが……_| ̄|○
- 167 名前:円 投稿日:2004/10/02(土) 18:05
- サイドというか、六期トリオ以外の話はひとまず終了です。
「あの伏線はどうなってんだ!」というようなご意見もあるでしょうが、
その辺は……な、流してもらえると……(爆)
- 168 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/03(日) 00:05
- お疲れ様です!!!
待ってたかいがありやした、次も楽しみにしてます!
- 169 名前:名無し読者 投稿日:2004/10/03(日) 03:54
- おもしろかった〜。
- 170 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/05(火) 23:21
- ここのやぐちさんカワイイ!
- 171 名前:? 投稿日:2004/10/12(火) 17:39
- 六期メンもはやく書いてください。
- 172 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/12(火) 20:20
- >>171
初心者なら案内見てから書き込んでね。
作者にも失礼だし、他の読み人の気分も悪くなるから。
- 173 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/13(水) 02:31
- おち
- 174 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:28
-
- 175 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:28
- 例えば可愛いって思う気持ちとか、自分のことだけ見てほしいとか、その想いだけで
感じられる幸福とか、何かあったとき最初に思い浮かぶ顔とか、耳に届く呼び声の
くすぐったさとか、そばにいたいとか、失っちゃいけないと思うとか、守りたいとか
守られたいとか。
- 176 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:29
-
それって、なに?
- 177 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:29
- 「好きなんでしょ?」
「うん」
あっさりとれいなは頷く。ムキになって否定するかと思っていたさゆみは、
思わず手にしていたチョコレートを取り落とした。
包みから取り出す前でよかった。落ちたそれを拾い上げ、銀紙を解きながら、
さゆみは「なにそれぇ」とれいなに非難するような視線を向けた。
頬杖をつき、テーブルに置かれたチョコレートを眺めていたれいなはそれに気付かない。
「今まで判らんわからん言ってたのに」
「判らんふりしちょったんよ」
「あー、そんな感じだよね。だってどう見たってれいな絵里のこと好きだもん」
れいなは軽く眉をひそめ、口を開きかけて、閉じた。
それは、さゆみだから判るものなんだろうか。それとも誰が見ても判るものなんだろうか。
目線を上げ、机を挟んで向かい合わせに座っている彼女の顔を見遣る。
相変わらずのほわほわした笑みがあって少し安心した。何を考えているのか知らないが、
その表面に浮かんだ笑みは悪いものじゃない。
「……さゆは、彼氏がおるんよね」
「うん。超ラブラブ」
「それはどうでもよかっちゃけど。……もし、もしそいつが」
「女の子だったら好きになってないよ」
れいなの問いを予測したさゆみが、最後まで言う前に答えてきた。
質問を邪魔された事と、それが当たっていた事と、その答え自体に驚いて、れいなは
身体を硬直させる。
- 178 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:29
- さゆみはぺたりと机に凭れかかってれいなを見上げた。今も彼女が何を考えているのか、
れいなには判らない。
じわりと、頬杖をついている手のひらに汗が滲んだ。不快というより不安。
不安を感じてしまう自分が、不快ではないが不甲斐ない。
「だって先輩、男の人だもん。女の子だったら別の人じゃん、それって」
「……ようわからん」
「絵里もれいなも、地球に一人しかいないじゃん。男の絵里とか、男のれいなとか
いないじゃん。それってね、いらないからいないんだと思うの」
れいなは喉の奥で唸りながら困惑顔でさゆみを見つめる。彼女の言っている意味は、
判るような気もするが理解できない。
「いらないっていうかね、いたとしてもそれってもう違う人でしょ? だかられいなも、
男の絵里がいても好きにならないと思う」
「……はあ」
「れいなは女の子の絵里を好きになるように出来てるんだよ。そういうの、決まってるん
だと思うの」
決まってる、ねえ。れいなは釈然としない気持ちを持て余す。
どうやら本気で彼女の事が好きらしいと、認めざるを得ないところまできている。
明確な思考を避け続けるのも限界だったし、なんだかそのことに疲れきってしまった。
ただ、思うのだ。
もっと楽な可能性、もっと簡単な可能性、もっと的確な可能性、もっと正当な可能性。
抱く想いについて回る、相反するifの思いに対する畏怖。
- 179 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:30
- 「だいたい、もしとかって言ってたら何でもアリになっちゃうよ。もし保田先生が
超美形の男の人だったらとか、もし飼ってる犬が人間だったらとか、そんなこと考えたら
どんなものでも好きになったり出来るよね」
「……まあ、ね」
「だから、れいなは絵里のこと好きでいればいいと思う」
「……なんか繋がっとらんよ、それ」
繋がってないくせに揺れる言葉だった。落ちると言った方が正しいのだろうか。繋がって
いないのなら、とどめる力などないだろう。
そうしたら、重力に逆らうことなく落ちていくだけだ。
自然に。ありのままに、あるように。
さゆみはチョコレートを食べている。れいなもひとつ取り上げて口に放った。
内側に張り付くような甘みが広がっていくのに反して、れいなの表情は渋くなった。
「あーもー、わからん」
「さっき判ってるって言ったくせに」
「それとは違うことがわからん」
どうしてこうなったんだろう。
彼女と過ごした時間の中で、なにか特別なものがあった記憶はない。少なくとも、
今年の初めまでは。
普通に友達として接していたはずなのだ。そう、『普通』に、だ。
さゆみや、他の友人に対している時の態度と、絵里に対する時の態度を変えた覚えは無い。
それなのに何故、彼女だけが普通じゃなくなってしまったんだろう。
「普通だと思うけどね」
「……普通だったら、こんな困っとらん」
- 180 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:30
- さゆみがふぅんと呟いた。
「れいな、ちょっと絵里のこと考えてみて」
「へ?」
「いいから」
訳が判らないまま、れいなは言われたとおりに彼女の姿を脳裏に浮かべる。
というか、名前を出された時点で自然に浮かんでいた。
ふにゃふにゃした、気負いのない笑顔。ちょっとした喧嘩をした時の、
ハムスターみたいに頬を膨らませた顔。
れいな。れーな。甘えた声、落ち着いた声、はしゃいだ声。
悪いこと。
「……あ、ヤバい」
れいなは慌てて左胸を手の中に握りこんだ。さゆみはほわんとした、しかし少々得意げな
笑顔でその様子を見遣る。
「ほら、普通じゃん」
「いや、普通じゃなか……」
二人の間にある齟齬はなくならない。「もー」さゆみは呆れたように息をついて、
チョコレートをいっぺんに二粒つまんで口に入れた。
動悸が治まったあたりでれいなは手を離し、椅子の背凭れにぐっと身体を預けながら
天井を向いた。
- 181 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:30
- 「今、地球の人口って60億人くらいだっけ」
「んー? それくらいなんじゃない?」
「60億分の1、なんじゃねえ……」
「うん」
馬鹿馬鹿しいくらいの確率だ。具体的に考えられないくらい、途方もない確率だった。
世界には、そんな馬鹿馬鹿しい確率が溢れている。自分がぶち当たったのも、溢れる
60億分の1のひとつ、なんだろう。
それって、なに?
「運命とか」
曲芸をする軽業師みたいな笑顔でさゆみが言った。
れいなは反らせていた背中を丸めて肩に首を埋めると、唇を突き出してぷっと息を吹いた。
冗談じゃない。
- 182 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:30
-
- 183 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:30
-
好きってなに?
- 184 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:31
- 「えー? えっちしたいと思うこと?」
「こらこら、こんなちっちゃい子相手に何言ってんの」
ど真ん中ストレートな亜弥の台詞に、美貴が呆れ返りながらその口を塞ぐ。今更塞いだ
ところで全く間に合っていないので、れいなは素直に赤くなっている。
「冗談だってば。やだなー」亜弥は口を塞いでいる手を掴んで下ろさせ、それを握ったまま
気楽な笑みを見せた。れいなは冗談じゃないと思った。
「でもあたし、めちゃくちゃしたかったけどね、みきたんと」
「だーかーら! やめなさいって!」
そんな当たり前の表情でまぜっ返されても。れいなはどう言っていいか判らず、黙って
下を向いた。
今のところ、そういうのを考えたことはない。想像する事すらできない。
だってやっぱり、それはちょっと。
現状は精々が少女漫画みたいな抽象的なものだけで、そういうオトナなことは照れが
先に立ってしまう。
これが高校生と中学生の違いなんだろうか。
……高校生の絵里は、ひょっとしてそういう事を考えてたりするんだろうか。
「まあなんていうか、人それぞれだから、こういうのは」
取り繕うような口調で美貴が言って、れいなはそれに「はあ」と曖昧な返事をする。
先輩の意見は時に教師のそれよりもためになるが、今回ばかりはそうじゃないかも
しれない。
- 185 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:31
- ちょっとばかり刺激的な発言を聞いてしまったせいで動揺し、それに乗る事も話を逸らす
事も出来なかったれいなは、赤らんだ頬を手の甲で擦りながら黙り込んでしまった。
「にひひ」それを面白そうに眺める亜弥が、悪戯い笑みでれいなの顔を覗きこんだ。
「ほんとはね」
「はい?」
「正しいものなんてどこにもないんだよ」
「……はあ」
「だから自分で決めなきゃいけないんだよ。あたしはみきたんが好きで、みきたんも
あたしが好きで、あたしはみきたんがいなきゃつまんなくて、みきたんがいなかったら
辛くなっちゃって、みきたんを失くしたくないから大事にすんの。そう自分で決めたの」
人懐こい笑顔で、至極当然のように亜弥は言った。その隣で美貴は顔を赤らめている。
「……ああ、もう」小さな独白が聞こえた。喜んでいるのだろうか。れいなには彼女の
胸の内を知る術がない。
「好きとか勝手に決めないでよ」
「え? みきたん、あたしのこと好きじゃん」
「……うぅ」
れいなも以前、彼女からそんなような台詞を聞いた気がしなくもない。
しかし、彼女の気持ちは判らなくもない。
多分、なんとなく悔しいのだ。天邪鬼とかそういう事じゃない。彼女との共通項。
負けず嫌いなんだろう。勝ちも負けもない事を知っているのに、そんな価値観は何の
意味もないと理解しているのに、どういうわけか悔しくなる。
- 186 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:31
- 相手がどうとか、そういう勝ち負けではなく、自分の気持ちをコントロールできないのが
面白くないのだ。
自分の気持ちに嘘がつけないから相手に嘘をつく。それは通用しない嘘だ。通用しない
ことを確かめて安心したいのだ。
「あたしはみきたん好きだよ。世の中かわいいものとかカッコいいものとか
欲しいものとか失くしたくないものとかいっぱいあるけど、そん中でみきたんが
一番大事」
ああ、やっぱり通じないんだなあ。れいなは亜弥の言葉に密かな苦笑を洩らす。
「……ばーか」
「それって好きってことでしょ?」
美貴の表情は一種悲痛でさえある。迷うように彷徨った手が亜弥の手を取る。
なんだか、懐に爆弾でも抱えているような顔だった。しかも絶対に放り投げる事の
できない爆弾だ。それはいつ爆発するか判らないようだった。
逃げないと早く逃げないと。れいなは美貴の揺らぐ視線にそんな呟きを見る。
「あれー? みんな集まっちゃって、なにしてんの?」
真希がバックヤードにひょいと顔を出してきた。入りの時間だったのか、れいながいつも
見ているコンビニの制服姿ではなく、ラフな格好でいる。
ぺこりと頭を下げると、彼女は人良い笑みで軽く手を振った。れいなは彼女が好きだ。
美貴も亜弥も好きなのだが、もっとこう、憧れみたいな思いがある。こんな格好いい人に
なりたいというような、目標と同義の憧憬だった。
- 187 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:32
- 「ごっちん、いいところに」
「んあ?」
美貴がおもむろに立ち上がり、ぽんと真希の肩に手を置いた。
「タッチ」「へ?」訳が判っていない真希を置いてきぼりにして、美貴は亜弥の手を引いて
そそくさとバックヤードを出て行った。
取り残されたれいなと、よく判らないが選手交代になったらしい真希は、お互いに
困ったような顔を見合わせて首を傾げた。
「藤本さん、どうしたんですかね」
「よく判んないけど。あの顔はなんか、堪んなくなっちゃってたっぽいねぇ」
「たまんなく……?」
「や、うん、まあ。まっつーに突付かれちゃったのかな」
全く判らない。抱きついたり腕を絡ませたりはしていたが、別に突付いたりは
してなかったと思う。
真希は誤魔化すように笑って、そばの壁へ寄りかかった。
「なにしてたの?」
「え、いやあの」
憧れの人にこういう事を話すのは、なんだかちょっと気が引ける。
彼女は時折ひどく子供っぽい表情や話し方をするが、その顔立ちや立ち居振る舞いが
大人びていて、それに比べて自分はとても子供のような気がして、だからなんとなく
気後れしてしまう。
- 188 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:32
- 「後藤に話せないようなことなら聞かないけど。一応、美貴ちゃんにタッチされたからね」
強制はせず、しかし突き放す事もない言葉。
それは、気を遣っている言葉のくせに、なんとなく逆らえないような、ずんと沈み込んで
くる重さを持った口調だった。
「……あ、の」
単なるフリーターなのに、彼女は妙に力がある。
土下座して謝りたいような、取り縋って大声でむせび泣きながら助けを乞いたいような、
一目散に逃げ出してしまいたいような、しがみ付いて慰めてくれと懇願したいような。
どっちに転べばいいのか、れいなは判らない。
「話してみる?」
絶妙のタイミングで言われ、れいなは思わず頷いた。
「えと……」
ぽつりぽつりと話し始める。「絵里んこと、好きみたいなんですよね」そう言った時、
彼女は小さく笑ったが、それはひどく温かな微笑だった。
「でも、どうしたらいいか判んなくて。どういう好きか、なんか判らんくて」
「あー……うん、なるほど」
「そういう好きだとは思うんですけど、ひょっとしたら違うかもしれんって思って。
そんで藤本さんにそういう好きってどんなんか聞いてて……」
「ふむふむ」
真希はいやに芝居じみた口調で相槌を打った。腕組みをして、どこかノスタルジックな
瞳をれいなに向ける。
- 189 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:32
- 「……後藤はね」
「はい?」
「好きな人と一緒にいらんなかった事があんの」
どくりと、左胸の奥が自己主張した。理由は判らない。
「その人も後藤の事が好きだったけど、一緒にいたら後藤が壊れちゃうから手放した」
崩れない笑みはどこまでも優しい。泣きそうにも見えないし辛そうにも見えない。
ただ、ただ。
少しだけ、寂しそうだった。
「あの頃のあたしは、いちーちゃんがいれば他に何もいらないと思ってた。
いちーちゃんを失くすくらいなら死んだ方がマシだと思ってた。……うん、そういうの、
あの人わかってたのかな。それが重かったのかもしんない」
「はあ……」
「色んなモノがどうでもよかったよ。それでもいいって思ってた。
ホントはよくなかったんだけど。全然、全然よくなかったんだけど。自分でも判って
なかった」
なんだか難しい話になってきたような気がする。れいなは居心地悪く身を捩じらせながら
真希の言葉を静聴していた。
「人に迷惑をかけちゃいけませんとか、モノを大事にしなさいとか。ちっちゃい頃
お母さんとかに言われなかった? それが出来るようになるってのが、大人になるって
ことだよ。だから、カラダがいくら大人だってそれが出来ないなら子供だってこと」
「……はあ」
「いちーちゃんと会った時のごとーはそういう子供で、そんでいちーちゃんとか
美貴ちゃんとかまっつーとか、みんなしてごとーを止めてくれたの。なんでだと思う?」
- 190 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:32
- れいなは条件反射で相槌を打とうとしたが、最後が疑問形だったので慌てて押し留めた。
「……わかりません」
「みんな、ごとーの事が好きだったからだよ」
真希はなんでもないように深く笑った。
「後藤はそれに応えなきゃいけなかったの。それは責任ってことだよ。本当に自由になる
ためには、責任を負わなきゃいけないんだよね。大人は子供より自由だけど、それって
大人が責任を負ってるからだよ」
子供の不自由、大人の自由。
想うことは自由なのか、想われる事に責任はついて回るのか。
「後藤が応えなきゃいけないみんなの『好き』って、全部カタチが違うでしょ」
壁に凭れかかって、淡くたおやかに、懐かしむような口調で呟く。
彼女がそういう表情をする……出来るという事に、れいなは少しだけ驚いた。
「別にどれでもいいと思うんだ、恋でも恋じゃなくても。あたしがみんなを好きなのは
変わらないし、みんながあたしを好きなのも変わんないし。
好きってだけでいいと思うんだけど。それだけじゃ駄目なの?」
「……駄目、とは思わないですけど」
「じゃあいいじゃん。キミが言う『そういう好き』って、多分人によって考えとか違うし。
自分が納得できるかどうかじゃない?」
納得。その言葉だけ、舌の上で軽く転がした。
- 191 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:33
- 納得しているかと聞かれたら、首を横に振るだろう。自身の想いを認めてなお、れいなは
それを持て余している。
熱く焼けた鉄球を放り投げられたようなものだ。しっかりと掴む事は出来ず、かといって
誰かに押し付ける事も出来ず、火傷をしないように手の上であたふたと遊ばせている。
俯いて何も言えずにいると、真希は水面にたゆたっているような微笑を浮かべた。
「キミはあれだね、カラダ子供だけど大人に近いのかもしんないね」
揶揄にも似た冷静な眼差しで真希は言う。
その純粋で鈍くて鋭い視線にたじろぎ、れいなは思わず口元を引きつらせた。
「後藤もそういう時あったから、なんとなく判るよ。
てゆーか、後藤にしか判んないのかもしんない」
パタン、パタン。彼女の靴底が一定のリズムで固い床を叩いている。腕組みをして、
変わらないパターンで床を叩く。
パタン。音が途絶え、れいなは知らぬ間にその音へと引き寄せられていた事に気付く。
不意に背中を冷たいモノが走った。
それは不快ではないが不可解だった。別段、真希は厳しさを見せているわけでも、
こちらに対して威圧感を発しているわけでもない。それでも確かに実感える怖気。
れいなは意識してゆっくりと息を吐いた。
折角彼女が付き合ってくれているのに、まるで皮肉のような寛大さで話をしてくれて
いるのに、そんな彼女に畏怖れをいだくなんて、本当に冗談じゃない。
- 192 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:33
- 真希が来い来いと手招きをしてくる。なんだろう。れいなはちょっとばかり警戒しながら
彼女へ側寄った。美貴にはなんか色々されているのだが、そういうのは出来れば勘弁して
ほしい。
組んでいた腕がほどけ、れいなの髪を緩やかに撫で梳く。それ以上の事はなかった。
「そばにいたいって思って、そばにいていいって言われてるなら、素直に一緒にいた方が
いいよ。後藤はキミの悩みって、結構贅沢だと思う」
責めている口調ではなかったのだが、ついさっき聞いた話を思い出してれいなはしゅんと
頭を垂れた。
側にいられなかった彼女のその言葉は、なんだか重い。
「んあ、怒ったわけじゃないんだけど」苦笑みたいな呼気が混じった声に、れいなが小さく
頷く。彼女がそんなつもりで言ったわけじゃないという事は、ちゃんと判っている。
「失くしたら、もう取り戻せないんだよ」
真希はキスをするようにれいなの耳元へ唇を寄せて囁き、バックヤードを出て行った。
最後の忠告をれいなは溜息で吹き飛ばす。
そんなこと、わざわざ言われなくたって判っていた。
- 193 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:33
-
- 194 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:33
- 60億分の1。
- 195 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:33
-
君って、なに?
- 196 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:34
- 軽いタッチの電子音。断続的に響くそれは絵里の手元から発せられている。
携帯電話のボタンを押す音だ。ピッピッピ。調子はずれな笛の音にも似たそれは、
行進の合図を思い出させる。
全体、止まれ。いち、に。
連想によって浮かんだそれがなんだったか思い出せなくて、れいなは軽く眉を上げた。
――――ああ、体育祭。
そういえば、もうすぐ今年の体育祭が行われる時期だ。れいなは今回、何の役割も
与えられていない。
ごろりと寝返りを打って、絵里に背を向ける。彼女は気にした気配もない。メールを
打つのに一生懸命なんだろう。そういうのは、いい。
意識はこちらに向いておらず、存在だけが確かめられる。そういうのは、気が楽で
重苦しくなくて適当でいい。
目を閉じる。
身体の内側がぽかぽかと暖かくなってきた。眠いんだな、と浮き上がりかけた意思が
気付いたが、それを止めるまではいかなかった。
「れいな、寝ちゃ駄目だよ」
「んー……」
背中に撫で上げるような声が届いて、それに生返事をしたら肩を軽く揺さぶられた。
眠いんだけどな。れいなは身体を彼女に向けない。
「れいな。れーなってば」「んん……」腹部に腕が廻されて、耳元に吐息がかかる。
意識が、鬱陶しいくらいに周りを囲む。
それは甘い充足。
- 197 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:34
- 引き寄せられ、強引に身体を反転させられる。眠い目を無理やりに開けると、眼前に
絵里のアップがあった。れいなは半ば無意識に口付ける。
「れいなスケベ」
「うん」
絵里が拍子抜けした顔になった。れいなが怒ると思っていたのかもしれない。さっきのは、
彼女なりの眠気覚ましか。
ベッドの縁に頬を乗せ、れいなと顔を同じ高さにしてから、今度は絵里の方からしてきた。
れいなは瞼を完全に下ろす。
何度目だろう。何度、彼女と唇を触れ合わせただろう。
まるで怠惰な貴婦人が長椅子に寝そべりながら嗜好品を口にするみたいに、気安い姿勢で
得る酩酊。
彼女の唇はまるで、もぎ取ったばかりの果実みたいに瑞々しく、じわりと浸透してくる
想いがれいなの何かを力尽くで引きずり出そうとする。
加速度的に『ヤバい』感じが膨れ上がる。不思議なものだが危機感は覚えない。
堪えるように目を開けて、彼女から唇を離す。
中毒性なんてものはない。そう多分、しなければしないままでいられるもの。
しなければしないままでいられたもの。
溺れたくなんてない。ハマりたくなんてなかった。
事実として、どうなってしまっているのかは、別問題として。
- 198 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:34
- 「テレビ見よっか」
「好きにしたらよか」
絵里がテレビの電源を入れる。時間的なものなのか、どのチャンネルもワイドショーを
流していた。流れているニュースは、人気バンドのイベントを伝えるもの。
数万人単位で観客が集まったという。画面には上空から撮ったらしい野外イベントの
様子が映し出されていた。
ひとつの塊にも見える人、人、人。マッチ箱みたいなステージでは数人の青年が楽曲を
演奏している。
きっと、間近で見たら目眩を覚えるだろう。
数万人といったら途方もない数だ。それだけの人数がひとところに集まったというのは
確かにすごい。
れいなはベッドに寝転がったままその映像を眺めていて、絵里はれいなに寄り添ったまま、
上半身を捻る形で同じ画面を見ている。腕を離したらもっと楽な姿勢を取れるのに
そうしないのは、そこにいるのがれいなだからだ。
「すごい人じゃね」
「ねー。後ろの人とか全然見えないよね」
「それでも行きたかっちゃろね」
れいなはぼんやりとテレビを眺める。
あれだけの人数でも、世界のほんの一部なのだ。60億と数万なんて、比べるべくもない。
数え切れないほどの人、人、人。
世の中には、本当に途方もない数の人がいるのに。
- 199 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:34
- 「かっこよかね」
「絵里、この人好き」
絵里が大写しになったギタリストを指差す。「あたしはボーカルの人の方がいいかなぁ」
反論ではなく単純な個人的意見としてれいなは言い、少しだけ身体を起こして頬杖を
ついた。
絵里の肩に腕を廻して引き寄せる。
「ん?」ふにゃふにゃした口元が少しだけ訝しげに歪んで、それでも無警戒な眼差しが
れいなを捉える。
「……絵里」
憧れていなかったわけじゃない。
いつかどこかで少女漫画みたいな出会いを果たし、カッコいいオトコノコと平和で
ちょっとばかり刺激的で概ね幸福な時を過ごすというような、そういう事を、夢見て
いなかったわけじゃない。
都合が良すぎる60億分の1の確率に、腹が立たないわけじゃない。
それなのに。
「あのね」
どうして君がいいんだろう。
- 200 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:35
- 「好いとぅよ」
加速度的なヤバさ。焦がれる焦げるブレーキングとブレイキング。
止まるのも壊れるのも結局は似たようなもので、せいぜいがところ「どちらの方がマシか」
という程度の違いしかない。
れいなはどっちもごめんだった。
絵里は一瞬きょとんとして、それからふにゃりと笑うと、ベッドの縁に顎を預けた。
「おそーい」
「うん」
ごく至近距離で視線が絡み、れいなは軽い苦笑を浮かべる。
彼女の視軸は移ろわないのに左手を温かいものが包んで、れいなもそれを受け入れた。
れいなの手のひらを絵里の指先が辿り、ゆっくりと絡みついていく。皮膚を撫でる感触が
少しだけくすぐったくて思わず手を引いたら、まるで獲物を捕らえるトラップのように
強く掴んできた。
何もしないままでいられたあの場所も、居心地が良かったけれど。
曖昧で、中途半端で、平和で、何もなくて、凪の中で、絵里がいて、さゆみがいて、
それだけで、何も出来なくて、何もしなくてよくて。
子供たちだけの楽園は、とてもとても、居心地が良かったのだけれど。
知恵の実を食べてしまったら、あとはもう追い出されるしかない、から。
- 201 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:35
- 身体を起こし、壁に背中を持たせる。誘うように繋いでいる手を揺らすと、彼女は
ふにゃふにゃ笑いながらベッドへ上ってきた。
「絵里んこと、好き?」
「うん。好いとるよ」
「お母さんより?」
「うん」
「さゆより?」
れいなが小さく苦笑した。まいったなあというように視線を揺らして、微細な険を
眼差しに込めたが、彼女は気にした風もなく目を覗き込んできた。
ああ、ほら。そういうの。
あまりにも魅惑的な、何の恥ずかしげもない君の素直。
それは疾走する快楽に似ていた。目の前を物凄いスピードで走りぬける動物の、
身体のしなやかさに覚えるような感動。
無駄なファクタを全て削ぎ落として、絵にしたら一本の矢になるような、
スリムでスマートで鋭くて優しい、『愛情』とかいういたたまれないもの。
それだけの、彼女の視線。
『ハートを射抜かれる』なんて凡庸な言い回しは、
実のところそんなに馬鹿げた表現じゃないのかもしれない。
- 202 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:36
- 「好き?」
「うん」
心の中でさゆみに謝りつつ頷く。
本当は、そういうのとは次元が違う感情なのだと判っていたが、いちいちそれを言うのも
面倒だったので、黙って彼女の願いを叶えた。
「絵里が一番好き」
まったく、冗談じゃない。
そんなことは、ずっと前から知っていたのに。
そういえば、以前美貴に言われていたか。そういう事は本人に言ってあげろと。
忠告を受けたのはいつだったか。それからどれだけの日々を過ごしたのか。
それは地球が誕生してからの時間を思えばほんの一瞬なのだろうが、15年程度しか生きて
いない自分たちにとっては結構な長さだ。
「……ごめん、待たして」
「んー?」
絵里は嬉しそうに笑って身体を揺らした。その動きはなんだかくねくねしていて、
れいなは喉を振るわせた。
どうしてだろう、見慣れているはずなのに妙におかしかった。
首の後ろを誰かにくすぐられているような気分だった。だからちょっとした事でも
笑えてしまうのかもしれない。
- 203 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:36
- 「れいな」
「ん?」
「これからもっと大人になってって、色んな人のこと好きになっても、
多分れいながずっと一番だと思う」
ふにゃふにゃ笑いながら、絵理は言った。
「なんねそれ。わけ判らん」
こんな時まで意地を張ることもないだろうにと内心で自分に呆れつつ、れいなは静かな
笑みで、彼女の放ついじらしいまでの勇ましいまでのいとおしい想いを受け流す。
自分もそうだと言ってしまうのは、ちょっと悔しかったから。
恋愛、友愛、親愛、敬愛。何をどれだけ得ようと、きっと、今感じている柔らかな
愛情を越える事なんて出来ない。
盲目的に『永遠』を信じられるなら、そんなに楽な事はないのだろうけど、
そうするには多分、可能性について考えすぎてしまったから。
考えれば考えるほど、世界は大きくなっていって、どこに辿り着くかなんて判らないから。
「わかんなくてもいいの」
絵里は目を眇めながら軽やかな声音で言い、その目に込められた鋭さを少しだけ和らげた。
「いいの?」
「うん」
「……したら、判らんことにしとく」
「んじゃ、れいなわかってんじゃん」
きしし、と悪戯に笑って、れいなは「判らんけど」とはぐらかした。
- 204 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:36
- 多分、ほとんどの事はこんな風に嘘でまやかしで、本当じゃない。
本当じゃないものを、叙述トリックのように言葉で可能性を誤魔化して信じ続ける事は
出来るだろうが、それに耐えられるほど強くはない。
情けなくも、いつか来るかもしれない何かに対して心構えをしておく弱さが身について
しまったから。だからせめて、今感じているこの想いが最上だと信じるくらいは、
していたいと思う。
引き寄せ、彼女の肩に頬を乗せる。耳元で小さな笑声が響いて、それはれいなの身体に
染み込んでいく。
「もー、絶対」
「なに?」
その先は言葉にならなかった。絶対に離さないとか、絶対に裏切らないとか、絶対に
守るとか、そういう事なのかもしれなかったが、本当はどうなのか判断しかねたから
言葉にはしなかった。
それって。
くすくすと笑い合いながら、互いの額をくっつける。
どちらともなく唇を寄せ、静かに重ねた。
今、幸せって、こと。
繋がれた手は離れない。どちらも離そうという意思がないのだから当たり前だった。
- 205 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:37
- れいなが空いた方の手を持ち上げて、指先で絵里の鼻先を柔らかく撫でた。絵里はわざと
鼻に皺を寄せながら笑い、れいなの頬を摘んで引っ張る。
「んいぃ」
「れいなってほっぺ柔らかいよね。赤ちゃんみたい」
「そう?」
「うん」
試しに自分でもむにっと摘んでみた。よく判らない。比べてみようと彼女の頬に触れて
みると、絵里の方が柔らかいような気がした。
「絵里もやらかいっちゃね」
「んー?」
絵里が軽く首を傾げる。
「んじゃ、絵里もれーなもおんなじくらいってこと?」
「そうかも」
触れていた手を下ろし、同じ箇所に唇を当てる。「んひひ」絵里が片腕をれいなの首に廻す。
れいなも彼女の腰を抱き寄せて、互いの間にあった隙間を埋めた。
絵里の、首から上のいたる所へ口付ける。耳朶に触れた時の小さな呼気を嬌声だと判断
するには、二人とも幼すぎた。
知らず知らずのうちに、繋いでいる手に力がこもって、緩やかに昇る熱で汗ばんでいく。
最後に長い長いキスを交わして、れいなは深々と溜息をついた。
- 206 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:37
- 「あー、ヤバいヤバいヤバい。超やばい絵里可愛い」
「んひひー」
どういうわけか今日は口が滑らかだ。いつもなら照れが入ったり意地を張ったりして
逆戻りしていく言葉がするすると零れ落ちていく。
「待って待って待って、うわー、ちょっとなんか」言葉だけじゃ足りなくて、れいなは
絵里の身体を両腕で包み込むときつく抱き締めた。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
判らないんじゃない。知っている。知っているが識らない。
「れーな、ちょっと落ち着いてよ」
困った風もなく、好きだと告げてから変わる事のないとろけた笑みのままで、絵里が
たしなめてくる。
落ち着きたいのは山々なのだが、どうにもうまくいかない。
抑え込んでいたものが溢れて、抱え込んでいたものがどこかへ消えて、取り込んで
しまいたいものが多すぎて。
だからつまり。
堪んなくなっちゃってる、ぽい。
- 207 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:37
- 「絵里」
無意識にせがむような切羽詰った口調になって、れいなは自己嫌悪に小さく眉を歪める。
こんなのは、識らない。
絵里は宥めるようにれいなの頭をぽふぽふと叩き、親愛にも似たささやかなキスをした。
れいなは彼女の柔らかい身体を傷つけないように気をつけながら抱き寄せて、その首筋に
顔を埋めた。
足りないのだ。こんなのじゃ全然物足りない。
今までどこに隠れていたのかと思わせるような烈しい衝動。
それとも、今まではどこにもなかったのだろうか。今から芽生えたものなんだろうか。
今とはいつからなのか。今を生むのは過去であり、過去は過去の今だろう。ならば過去は
ここに繋がるのか。繋がっていく伝わっていく連なっていく現在過去未来。
君が左胸に施したらくがきが、今更に熱い。
今、更に熱い。
「……責任、取って」
「取るよ。好きになるってそういうことじゃん」
手の内にある熱を閉じ込め、背後の壁へ凭れかかる。頭の中で白と黒のブチ猫が
にゃあにゃあ鳴いていた。指先に彼女の髪を絡めて手遊びながら、湧き上がる衝動を
抑えるように、抱き寄せた彼女の首筋へ額を押し付けた。
60億分の1の責任。
それに伴う甘い未来を夢想し空想し妄想し幻想し連想し転想し。
想像して。
れいなは、創造する権利を欲した。
- 208 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:37
- 「……絵里。怒らんでね?」
高校生と中学生の違い。
そんなものは存在しないのだ、多分。
「ん?」判っていない様子の絵里に口付ける。
例えば可愛いって思う気持ちとか自分のことだけ見てほしいとかその想いだけで感じられ
る幸福とか何かあったとき最初に思い浮かぶ顔とか耳に届く呼び声のくすぐったさとかそ
ばにいたいとかそばにいてほしいとかキスがしたいとか君の身体の柔らかさにどうしよう
もないほど堪んなくなっちゃうとか息が出来なくなるくらい胸が痛くなるとか最初に目に
入るとか変だけどしょうがないとかどうにもなんないとか君が笑ってると嬉しいとか他の
誰より綺麗に映る君の姿とか大事にしたいとかどうかしちゃっていっそ君の気持ちなんて
どうでもいいとか触れたいとか触れたいとか触れたいとか触れたいとか触れたいとか触れ
たいとか触れたいとか触れたいとか触れたいとか触れたいとか触れたいとか触れたいとか。
この熱情って。
するりと、彼女のシャツへ手のひらを潜らせる。「ひゃう……」息を呑むような悲鳴が
小さく上がって、れいなは宥めるように絵里のこめかみへ唇をつけた。
「変なことせんよ。別にそういうんじゃないけん、ちょっとだけ、触らして」
れいなの手は絵里の脇腹の辺りを撫でている。そこから上がる事も下がる事もない。
ただ触れてみたかったのだ。性的欲求ではなく、興味本位でもなく、ただただ、そこに
何があるのか知りたいという好奇心。
- 209 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:38
- 「ちょ……れいな……」
「ん……」
触れ合った頬から伝わる熱が心地良かった。他の誰でもない、自分を感じているのだと
いう実感が得られて嬉しかった。彼女の60億分の1になっている事実が幸福だった。
手のひらで触れ、指先で触れ、撫でさすり、なぞる。
見慣れない物を取り上げて、「なんだろう?」とためつすがめつするように、
暴力的なまでの優しさで彼女の感触を識っていく。
「やらかい」
「も、やめてよぉ……」
「もうちょっと」
幼い頃、母親に抱かれている時に抱いた気持ちとよく似ていた。我知らず口元が緩んで、
精神がぼんやりと霞がかって、れいなは目を閉じて彼女の感触に深く潜り込んでいく。
今までと逆だなと、ふと思った。
辛辣なまでの無邪気さで相手のアイデンテティを崩壊させて、悪辣なまでの無軌道な
リビドーで相手のパーソナリティを否定して。
彼女の肌に指先を滑らせる。左上から右下に一直線。それから、それと交差するように
左下から右上へ。
これで対等。文句は言わせない。
こてんと絵里が寄りかかってきた。首筋に触れる熱がれいなの内部を混沌とさせる。
- 210 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:38
- 「……ずっと、色々考えとった」
「ん……?」
「なんで絵里、あんなことしてきたんだろとか、なんであたしだったんだろとか、
なんであたし、絵里んこと……」
好きになってしまったんだろう、とか。
「でもなんか、今はそういうのどうでもよくて、なんか……なんやろ。嬉しい、かも」
同じカラダ。
変だろうね、うん。
同じキモチ。
どうにもなんないじゃん、気持ちとかって。
「多分、今だったら」
一番に君を見つけられると思う。
それは独白のようなものだったから、絵里は意味が判らずにきょとんとしていた。
微苦笑して小さく首を振る。「なんでもなか」独り言だ。理解できないままにしていた事の
正解が見えた嬉しさに、思わず口をついてしまっただけだった。
だからつまり。
否応なしに、彼女を求めているということだ。
迷って彷徨って惑って戸惑って行き着いた末に息ついて、錠前の掛かった情愛を
込み上げてくる恋しさでこじ開けて、手に入れたのは諦念だった。
- 211 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:38
- 手を離し、れいなは満足げに息をつく。
「あー、やばいヤバイヤバい。どうにかなりそ」
「どうにかってなに」
幾分、苦笑のようなニュアンスを持った笑声がれいなの耳に届いた。
「なんだろ」くつくつと喉を鳴らしながら誤魔化して、れいなは少しだけ身体を起こすと、
真正面から絵里と視線を交わした。
「……んひひ」
「……へへ」
お互い照れ臭そうに笑っていたら、次第に堪えきれなくなってしまって、
誰かにくすぐられているみたいに身を捩じらせながら声を上げた。
笑ってないと、笑って誤魔化さないと、どうにかなってしまいそうだった。
「なんかねーなんかねー」
「ん?」
「どうしていいか判んないね、こういう時」
もう一度、んひひ、と小さく笑って、絵里は照れ隠しなのか額をれいなのそれに
押し付けてきた。
近すぎるせいでよく見えない彼女の瞳を覗き込みながら、れいなは苦笑に紛れて
音のない溜息をついた。
ああ。
こういうのは、困る。
- 212 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:39
- それは子供ゆえの純粋な好奇心だった。知っているが識らないから識りたい。
自分の意見もないくせに「なぜ?」と問えるのは子供の特権だ。そして与えられることが
当たり前だと思うのも子供の特権で、与えられなければ自力で解き明かすしかないと
気づいた時、少しだけ大人に近づける。
「ね……絵里」
考える前にキスをしていた。絵里は面食らったようで、中途半端に身体を固めたまま
れいなの唇を受けている。付けっぱなしになっているテレビのスピーカは商品の名前に
ちなんだ駄洒落を自慢げに叫んでいる。そのバックでは耳馴染みするCMソングが少々
遠慮がちに流れていた。窓の外で自動車が走る。それと同時に錆び付いた自転車特有の
不快なブレーキ音。階下では洗濯機が回っている。ぐおんぐおんぐおん。
そのどれひとつとしてれいなの耳には入っておらず、また絵里の耳にも届いていなかった。
同じカラダ。
どれだけ強く抱きしめたところで、隙間は消える事がなく、互いはあくまで互いであって、
違えているモノとモノはつがいになる事などはない。
それは寂しい事だ。とてもとてもとても、寂しい事実だった。
彼女を選ぶというのは、そういう意味を持っていた。
それでも識りたいんだ? 教えてほしいんだ? 頭の中で性格の悪そうな笑みを浮かべた
ブチ猫が揶揄するように囁く。本当に識ることなんて出来ないのに?
- 213 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:39
-
それでもいいの?
それでもいいよ。
- 214 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:39
- 唇を重ねたまま、教えてほしいと大声で叫んだ。
「――――!」
次の瞬間、絵里に突き飛ばされた。その力があまりに強くて、れいなは体勢を立て直す
間もなく後ろの壁に後頭部をぶつけた。
「あたた!」あまりの痛さに頭を両手で押さえながらもんどりうっている内に、
絵里はまるで自身を守るように腕を胸の前で交差させて後退さっていた。
「れっ、れいなのスケベ!」
「ったー……え?」
涙の浮かんだ目を乱暴に擦り、ちょっとばかり歪んだ視界に絵里の姿を入れると、彼女は
これ以上ないほどに顔を紅潮させてこちらを睨んでいる。
その表情がなんだか泣きそうにも見えて、れいなは慌てて手を延ばす。
「触んないでぇっ」
「ええ!? なん、絵里、怒ったと?」
「……ばかぁ!」
音がしそうな勢いで手を弾かれ、また痛い思いをすることになったれいなが顔をしかめる。
本当はどれもこれも自業自得なのだが、れいなはその事に気付いていない。
- 215 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:40
- 絵里はボディガード代わりというように、手近にあったぬいぐるみを抱え込んでいる。
それは一抱えほどある熊のぬいぐるみなのだが、中は綿ではなくビニール製のパイプが
詰まっているので結構重い。その上固い。下手に近づいたら体当たりを喰らいそうだ。
多分、痛い。
これ以上痛い思いをしたくなかったので、れいなは無理に近づく事はせずにその場へ
座り込み、絵里のご機嫌を伺うように下側から覗き込んだ。
「絵里、あの……ごめん」
今更ながら、自分でも照れてきた。絵里に負けじと赤くなった頬を意識しながら、
れいなはとにかく下手に出る。
「れいなバカ、れいなスケベ、れいな……れいな……」
とにかく何かを言いたいのだろうが、動揺のあまりか怒りのあまりか、上手く言葉が
出てこないようだった。それでも彼女がどういう心境でいるか、れいなには痛いほど
伝わってきたので(結局痛い思いをすることになったと少しだけ落ち込んだ)、
しゅんと頭を垂れながられいなは更に謝罪を重ねる。
「ホントごめん。あの、もう絶対せんけん」
「………………」
「絵里にヤな思いさせんの、あたしだって嫌じゃけんね。だから、さっきのはナシって
ことで……」
「……れいな鈍ちん」
「へ?」
絵里の言葉の意味が判らなくて、思わず顔を上げたところに熊が勢いよく飛んで来た。
それは吸い込まれるように顔面へ命中し、鼻柱から広がる衝撃に、れいなの視界で
星が飛び散る。
- 216 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:40
- 「もう帰る!」
「あ、絵里!」
呼び止める声にも彼女は足を止めず、れいなが手を延ばすより先にドアは無情にも
閉じられた。
れいなは熊を両手に乗せ、ぼんやりと閉じたドアを眺めたまま、「えー?」と小さく呟いた。
「なん……。だって、最初にそういうことしてきたんは絵里やし、今までだって、なんか、
なんかしてくるのってそっちだったじゃなかとね……」
熊の腕を掴む手に力が入り、熊はぎゅむぎゅむと悲鳴を上げた。
「それに、それに……」
あんな表情を、しておいて。
こっちが誤魔化しきれないくらいの、我慢が利かないくらいの、そういう表情を
浮かべていたのはそっちの方なのに。
「なんか……早速ピンチ?」
れいなは熊の脳天に顔を埋めると、奈落に落ちていきそうなほど深い溜息をついた。
- 217 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:40
-
それってなに。
- 218 名前:『DO IT!!』 投稿日:2004/10/18(月) 22:40
-
《there is No answer in that question.》
- 219 名前:円 投稿日:2004/10/18(月) 22:41
-
以上、『DO IT!!』でした。
エロじゃないのにエロみたい。だーぶるゆーでーす(違)
田中さんは何をしたんですかね。
- 220 名前:円 投稿日:2004/10/18(月) 22:41
- レスありがとうございます。
>>168
お待たせしました(色んな意味で……)
花屋の二人、ホントはもっと前に載るはずだったのに、構成をいじくってたら
どんどん後回しに_| ̄|○
>>169
ありがとう〜。
>>170
うちの矢口さんは、矢口さんというよりどこぞの公園前にいる婦警さんのような気が(笑)
可愛いと言っていただけて嬉しいです。ありがとうございます。
>>171
需要と供給のバランスは難しいですね。
しかし自分も日々の生活とか書き手としての拘りとか、守りたいものが色々とあるので、
その辺を理解していただければ幸いです。
なお、本スレはsage進行となっていますので、レスはsageでお願いします。
>>172,173
ご忠言&ochi、ありがとうございました。
- 221 名前:円 投稿日:2004/10/18(月) 22:42
- 次回、衝撃の新展開!(は、ありません)
- 222 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/18(月) 23:38
- 今回も読み終えてやはり溜め息が出ました。
どうしてこうも見る者を惹きつける表現ができるのでしょうか?
ほんとにアナタは天才ですかw?
- 223 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/19(火) 01:27
- ヤバイです。
萌え死にましたw
ニヤニヤが止まらない。
- 224 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/19(火) 06:17
- なんつーか・・・この話読んでると
俺も年取ったのかな、とか思っちゃいます。
- 225 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/19(火) 17:22
- この二人はすばらしいですね・・・。
叫びながら読ませて頂きました。
- 226 名前:名無し読者 投稿日:2004/10/20(水) 00:19
- 読んでいて、凄く熱くなりました。
それは顔だったり胸だったり目頭だったり色々。
これは私が最高に萌えてるということですw
ここまで惹きつけられる作品は滅多にありません。作者様マイラブ。
- 227 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/22(金) 02:03
- 遠き良き時代は遥か彼方。(^^;
私の厨房時代って、正にこんな感じでしたね。
今現在、リアル厨の子達はコレを読んで、
どう思うのやら。。。
ともあれ作者様の文才には感服いたします。
- 228 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2004/10/24(日) 22:44
- たまらんとですw
本当に情けない顔で読んでるのが自分でもわかります。
せめてよだれだけは垂らさないようにしないとw
- 229 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/29(金) 02:48
- 天使のらくがきから大分経ちましたね・・・。
微妙な二人の微妙な感情。見事に描かれて脱帽しております。
作者様の作品が大好きです、この世界のれいなと絵里も。
最後はどうなるのかと少し思うのですが、きっと今のように微妙な夢を見ているほうが幸せですね。
終わって欲しくない、、というのが正直な感想です。。(リク紛い失礼。読み飛ばし願います。
- 230 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:25
-
- 231 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:25
-
ワルイコトシタイ。
- 232 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:26
-
◆
- 233 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:26
- 空砲の音が空を飛び跳ねている。絵里はほてほてと集合場所まで歩きながらその音を
聞いていた。天高く、馬肥ゆる秋。晴れた天空は本当に羨ましくなるほど高く伸び、
流れる細長い雲がまた爽やかだった。
体育祭には絶好の日和である。
そんな気持ちのいい朝なので、絵里は気分が良い。これから走ったり跳んだりしなければ
ならないのはちょっとばかり面倒臭いが、それだって憂鬱になるほど重くはない。
白いジャージが集まっている列に紛れ込み、前列のクラスメイトと他愛もない会話を
していると、鋭く笛の音が響いた。白い集団と、少し離れた位置で固まっている青い
塊りから洩れ出ていた話し声が一瞬で止む。タイミングを計って壇上の校長が話し始める。
彼は中等部の管理者だ。この後、高等部の校長の挨拶が待っている。絵里は欠伸を
噛み殺した。
退屈紛れと眠気を誤魔化すために周りを見回す。素直に退屈そうな顔をしている生徒も
いれば、真面目な表情で校長の話を聞いている生徒もいる。ただしその心中は定かでは
ない。
その中で、一人の少女が目に留まった。退屈だという表情を隠そうともしていないわりに、
姿勢はきっちり「休め」の形を取っている。表情と姿勢のアンバランスさがなんとなく
おかしかったし、彼女の左腕にはめられている腕章も気になった。
黄色地に黒で校章が描かれているそれは、絵里の腕にも付けられている。
実行委員会のメンバである証なのだ。中等部と高等部合わせて、各クラスから二人ずつ
選出されるのだが、次の種目の準備をしたり、記録をつけたり、上位入賞者に賞品を
渡したりと忙しいので誰もやりたがらない。
そんな事情があるので、絵里のクラスは自薦でも他薦でもなくクジ引きで決められた。
彼女も同じクチだろうか。
- 234 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:26
-
- 235 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:26
- スタートラインに立ち、空砲を合図に走り出す。コースの真ん中辺りに吊り下げられて
いるパンへ食らいついて一目散にゴールを目指した。早いところ、外側を覆うビニール
ではなく、中身を噛み締めたい。
「絵里ー! ガンバー!」
クラスメイトの声援が届いて絵里が振り向く。パンを落としてしまわないように歯を
食い縛りながら笑って、そちらへ大きく手を振った。視界の端に、必死の形相で
追いかけてくる後続の姿が映る。
クラスメイトへ愛想を振り撒いていたのが祟ったのか、その後二番手との距離は縮まらず、
絵里は三位でゴールした。
順位を書いた紙を受け取って控えに戻る。パンの包装を開け、クリームパンを取り出して
かぶりつくと甘い匂いが鼻を通っていった。
これがおまんじゅうだったらもっと良かったのに。絵里はむぐむぐとパンを咀嚼しながら
思う。でも幸せ。
そんな風に絵里が薄ぼんやりとした幸福に浸っていた頃、約20メートル離れたところで
四位に甘んじた選手が屈辱に肩を震わせていたのだが、そんな事はもちろん知らない。
- 236 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:27
-
- 237 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:27
- 花形種目である100メートル走が始まった。それを横目で眺めながら、ハードルを抱えて
コース脇を歩いていく。両手に二つずつ持ったハードルは重い。「んー、んー」小声で
唸りながら運んでいると、後ろから延びてきた手に、右側の半分を取り上げられた。
「ん?」
「や、重そうだったから」
視線を声のした方へ向けると、少しだけ決まり悪そうな微笑を浮かべている、整った顔が
目に入った。青いジャージ姿だから高等部の先輩だ。どこかオトナみたいな雰囲気を
持っているので、二年生か三年生だろう。
先輩は背が高くて、女の人なのに格好いい顔立ちをしていた。絵里はその顔にしばらく
見惚れて、それから我に帰って慌てて頭を下げた。
「あの、ありがとうございます」
「いやいや。大変だね」
「はいー。でもお仕事ですから」
先輩がちょっとだけ肩を竦めた。彼女の左腕に腕章はない。単純に親切心から助けて
くれたようだ。
「あ、ごっちんが走る」
スタートラインへ視線を移して先輩が呟いた。絵里もつられてそちらを見遣る。
- 238 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:27
- 6人が並んだスタート位置の一番手前。柔らかそうな髪をかき上げ、ぼんやりと気の
抜けた表情で佇んでいる姿が見えた。うあぁ、綺麗な人だなあ。絵里はその均整が取れた
手足と整った顔立ちに、思わず感嘆の吐息を洩らす。
「あの子のこと知らないかな。後藤真希っていうんだけど」
「うーん、判んないです」
「そっかー。さすがに下の子には伝わってないのか」
彼女の口ぶりから察するに、有名な人なのだろう。残念ながら絵里は彼女のことを
今初めて知った。
「お友達なんですか?」
「ん? うん」
スタートが切られ、6人が一斉に走り出す。先輩がその場を動かないままだったので、
なんとなく絵里もそれに従った。
「きれーだよな」
「え?」
「すごい綺麗なフォームで走るじゃん。あたし、あいつが走ってるとこ見るの好きなんだ」
「へぇ」
「……ま、もっと好きなのいるけど」
「ええー?」
少しばかり浮ついた声になって、それに気付いた先輩が小さな苦笑を浮かべた。
「いやいや、そういうんじゃないよ。友達ですごい足速い子がいてさ」
軽く手を振りながら言われたが、絵里はニヤニヤと笑ったまま「んー?」と唸った。
「ホント違うって」困った苦笑いと共に柔らかく頭を叩かれる。
- 239 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:27
- 話をしている間に競技は終わってしまったらしい。先ほど話題に上った彼女が
ゴールテープを切り、先輩がひゅうと口笛を吹いた。
ゴールした彼女が大きく手を振っている。視線の先にいるのは隣の先輩だ。
先輩が空いた手を軽く振り返すと、彼女は得意げに笑ってピースサインをしてきた。
「亀井先輩!」
幼い呼び声に二人が同時に振り返った。左腕に腕章をはめた少女がこちらへ駆け寄って
来るのが見える。その顔はなんだか怒っているようだった。
二人の前で彼女は立ち止まった。やはりその顔は怒っていた。
「なにしとぅとですか、もう100メートル終わっちゃいますよ」
少しだけ息を切らせながら少女は言う。一応は敬語を使っているものの、たしなめる
その口調は明らかに上からものを言っていた。この子生意気。絵里はムッとする。
集合してからずっと、彼女とはこんな感じだった。やれラインが曲がってるだの、
やれそこに立ってると危ないだの、やれスタートの合図に使う空砲は先生以外触っちゃ
いけないだの、小姑かと言いたくなるほど注意を受けていた。一年生のくせにどうして
こんなに偉そうなんだろうと、絵里は不思議にさえ思う。
「ごめん、あたしが引き止めちゃったせいだね。さー急ごう急ごう」
絵里の雰囲気が固くなったのを察知したのか、先輩がわざとらしいほどおどけた調子で
声を上げ、腕に引っ掛けていたハードルを持ち直して先導するように歩きだした。
- 240 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:28
- 両手でハードルを抱えながら絵里はその後に続く。先輩は時折こちらに視線だけを
送って、絵里が遅れないよう歩調を合わせてくれた。その仕草はいやにスマートで
嫌味がない。カッコいいなあ。目が合った時、思わずへらりと笑った。
それに比べて。絵里は斜め後ろを歩いている後輩へ目を遣る。彼女は手ぶらだ。
ちょっとくらい手伝っくれてもいいのにと頬を膨らませ、絵里が顔を彼女へ向けた。
「れいなちゃん」
「なんです?」
「いっこ持って」
「あたし、箸より重いもの持ったことないんで」
「…………」
生意気。ムカつく。
「じゃあいいよっ」
不機嫌を隠さないままそう言ってそっぽを向くと、小さく「あー」と唸る声が聞こえて、
斜め後ろにいた彼女が隣に進んで来た。
「冗談やなかとですか」
決まり悪げに、独り言みたいな言い方で呟いて、れいなは絵里が抱えているハードルに
手をかけた。
「いらない」「持ちますって」絵里は意地になってハードルをきつく抱え込んだ。れいなの
口から呆れたような溜息が洩れ、迷うように手が宙に浮く。
絵里は彼女と目を合わせないように真っ直ぐ前を向きながら、ずんずんと進んでいく。
目の前にある先輩の背中は小刻みに震えていた。
- 241 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:28
- 面白くなくて、さっさと運び終えてしまいたくなって、絵里が足を速めた。「お?」先輩は
突然小走りになった絵里に面食らったようで、きょとんとした目で絵里を追うと、軽い
苦笑をしながら自分も歩を速めた。
「おいおい、そんな急ぐと、ころ……」
言いかけた言葉が途切れる。転ぶよ、と注意しようとした矢先に転ばれてしまったのだから
無理もないだろう。
重みによって段々と下がってきていたハードルに脚を取られ、バランスを崩して
前のめりに倒れてしまった。ガシャガシャと耳障りな音が響く。腕に鈍い衝撃が走り、
直後額へ何か硬いものが当たった。それはハードルの底部だったのだが、絵里は目を
閉じていたので判らなかった。
目を開けられないうちに誰かに抱き起こされた。先輩かと思って瞼を上げてみれば、
意外にも自身を抱えているのはれいなで、こちらを覗き込む瞳が心配そうに揺れていた。
「大丈夫? じゃないね、血ぃ出てる」
ハードルを傍らに置き、両手を空けた先輩が絵里の頭に手を添えて、ポケットから
取り出したハンカチを痛みが疼く額へ当てた。
「押さえといて。これ、あたしが運んどくからさ、本部行って診てもらってきなよ。
跡とか残ったら大変だし」
先輩がハードルを顎で示しながら言う。「……はい」傷がじわじわと痛む。れいなの肩を
借りながら立ち上がり、本部である簡易テントへ向かった。
- 242 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:28
- 「大丈夫ですか?」
「……痛い」
「そりゃそうですよ。思いっきりぶつけてましたもん」
それは、ギリギリのところで馬鹿にしているようには聞こえないが、言われて喜べる
ような口調でもなかった。
「……れいなちゃんさあ」
「れいなでよかですよ。ちゃん付けとか、なんかこそばいんで」
「んじゃれいな」
「なんです?」
「生意気って言われない?」
ぐ、とれいなの喉が鳴った。「ま……たまに」面白くなさそうな表情と声音で答え、
れいなは微かなため息をつく。
その横顔を見つめながら、絵里が無自覚の笑みを浮かべた。
生意気だが、ちょっと可愛いかもしれない。
- 243 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:28
-
◇
- 244 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:28
- 「好いとぅよ」
それはあまりにも当たり前に、「私は日本人です」と同じような空気で言われた言葉だった。
絵里は刹那の間何を言われたのか判らなかったが、れいなが真っ直ぐこちらへ向けていた
視線を僅かに逸らせたのと時を同じくして理解を得、それからくすぐったがっているような
笑みを浮かべた。
れいなは別に照れた風もない。今更、という感覚なのかもしれない。それは間違いじゃ
ない。絵里は不思議でしょうがなかったのだ、好きなくせになんで言わないんだろうと。
それはずっとここにあったのに。そう、ずっと、手を延ばせば簡単に届く位置に。
そう、こんな風に。手を延ばせば。ずっと。
絵里が迷いもせずれいなの手をくるむ。れいなは一瞬だけ欠伸をした後の猫みたいな
表情をして、そっと手を握り返してきた。
囁く。額を押し付ける。キスをする。
その度に絵里の中で何かが融ける。解ける。説けない。
言葉になんかならない。それは絵里がまだこの感覚を表す言葉を知らないだけなのかも
しれないし、もしかしたら世界中どこの言語にも、そんな言葉は存在しないのかもしれない。
だから絵里は彼女にキスをする。言葉にならない感覚の口伝え。
- 245 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:29
- そう、伝達方法のひとつだったのだ。絵里にとってそれ以上の意味はなく、だから
声をかけるのと同じくらいの気軽さで彼女にしていた。
それなのに、れいなは唐突に突如として秩序の欠片もなく踏み込んできた。絵里は驚きに
思わずれいなを突き飛ばした。
「あたた……!」
れいなはベッドの上で転げ回っている。羞恥と怒りと戸惑いに紅潮する頬をシャツの袖で
擦り、絵里が身を守るように距離を置く。
こちらが本気で怒っているように見えたのだろう、起き上がったれいなは殊勝な態度で
謝ってきた。
「あの、ごめん」
上目遣いにこちらを見遣って、れいなが小さく頭を下げた。珍しいことではある。
珍しいが、それくらいで許せるようなことでもない。
意思表示のために口をつぐんでいると、彼女はますます情けない顔をして肩を落とした。
- 246 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:29
- 「さっきのはナシってことで……」
恐る恐る言われた台詞に、今度こそ絵里は本気でむかついた。
全然判っていない。ナシってなんだ。
そんなに簡単に、アリとかナシとか分けられるものじゃないのに。
鈍ちんと呟いて、衝動のままに熊をれいな目掛けて投げつけた。それは見事なまでに
クリーンヒットし、れいなに悲鳴を上げさせる。
呼び止める声にも耳を貸さず部屋を飛び出した。買い物帰りらしいれいなの母親と
すれ違った時だけふにゃりと笑って会釈をしたが、それ以外は自宅に着くまで肩を
怒らせながら歩いていた。
絵里はまだ、言葉にしなければ伝わらないものもあるという事に気付いていない。
- 247 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:29
-
◆
- 248 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:29
- 「……うー…」
れいなは綱引きを眺めながら唸っている。隣にいたさゆみが不思議そうに首を傾げ、
その動きの流れでれいなを見遣った。
「どしたの?」
「うー……やっぱ、謝った方がいいじゃろか……」
「誰に?」
れいなの言葉はさゆみに対する返答のつもりではなく、単なる独り言だったようで、
その後もぶつぶつと何かひとりごち続けるれいなに、さゆみは困ったように眉を下げた。
はふ、とれいなが溜息をついた。「あーっ」呻いて頭を抱える。このまま見ていたら、
その内吠えながら転げ回ったりしそうだ。それはそれで面白いかもしれないが、
友人として放っておくのもどうかと思ったので、さゆみはれいなの腕を引いてこっちの
世界に戻した。
「ねえねえ、どうしたの? なんかあったの?」
「うー……あ?」
しつこく腕を引っ張り続けたおかげで、ようやく意識がこちらに向いたらしく、れいなは
頭を掻き毟る手を止めてさゆみに焦点を合わせた。
「あった……」
「何が?」
「……先輩に、ケガさせちゃったんけど、ちゃんと謝らんまま戻ってきたけん、
なんか……なんか……」
どう言えばいいのか判らないらしく、れいなはそこで口を閉じた。「ふぅん」さゆみが
小さく相槌を打つ。
何をそんなに悩む必要があるのか、さゆみには判らない。悪いと思っているなら
謝りに行けばいいだけの話だ。九州男児は豪気で豪快なものだと話に聞くが、女児はまた
違うものなんだろうか。
- 249 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:30
- れいなの頭をぽんぽん叩いてから膝を抱え、さゆみは横目でれいなを見遣った。
「謝ってきたらいいじゃん」
「そうじゃけんど……。なんか、喧嘩っていうか、あたしがその先輩怒らしちゃったけん」
「顔合わせ辛い?」
「うん」
草を踏み分ける音が聞こえて、さゆみとれいなは揃って顔を上げた。目に映る青い
ジャージと大人びた笑顔。見慣れないというか、見た事がない顔だ。さゆみは首を傾げる。
「実行委員は本部に集合だって。放送聞こえなかった?」
「え、あ、すいません、すぐ行きます」
慌てて立ち上がったれいなを目で追いながら、さゆみがもう一度首を傾げた。
そんな放送、していただろうか?
れいなが走り去って、残されたさゆみはなんとなしにれいなを呼びに来た先輩を見上げた。
「呼び出し、してましたか?」「してないね」先輩は飄々と答える。なんだ、やっぱり嘘か。
たとえ二人が聞き逃していたとしても、誰か周りの生徒がれいなにそれを伝えるはずだ、
彼女は腕に腕章をつけているのだから。それがなかったという事は、放送自体がされて
いないということ。
さゆみが不思議そうな目をしたからか、長めの前髪がかかる先輩の瞳が緩やかに細め
られた。
「おせっかいだからね、よしざーは」
「はあ」
よしざーというらしい彼女は朗らかに笑っている。悪戯く歪んだ唇へ、立てた人差し指を
垂直に当てるその仕草に、さゆみも笑みを浮かべて同じポーズをとった。
- 250 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:30
- 「よしこー、次出番でしょ? 準備しろってー」
「あー、すぐ行くー」
探しに来たらしい友人へ大きく手を振り、よしざー先輩は「じゃね」とさゆみに指先だけを
ひらひら振って高等部の控え場所へ戻って行った。
さゆみはなんとなくその後ろ姿を見送る。ポケットに両手を入れてのんびりと歩くその
姿は洒落者のようで格好いい。呼びにきた友人はその場に留まって待っており、合流して
からよしざー先輩と並んで歩きだした。
「さゆさゆっ、あんた吉澤先輩と知り合いなの!?」
唐突に首へ腕が巻き付いてきた。微かに呻いてから後ろを向くと、クラスメイトが
何故か興奮した様子でこちらを見つめている。女の子に熱い視線を送られてもあまり
嬉しくはない。
「あの人知ってるの?」
「あたしが聞いてんの! どうなの? 知り合いなの?」
「ううん。れいな呼びに来て、そんでちょっと話しただけ」
「なんだぁ」
クラスメイトはがっかりしたように肩を落とし、さゆみをホールドしていた腕を解いた。
よしざー先輩は、吉澤先輩が本当の名前のようだ。「知ってるの?」さゆみが再度問うと、
彼女は「そりゃもう」とどこか嬉しそうに頷いた。
- 251 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:30
- 「女子フットサル部のエースで、初めて区大会の決勝まで行ったんだよ。
運動できるしさー、そこらの男よりカッコいいしさー、優しいって評判だし。
いいよね、憧れだよねー」
「ふーん」
さゆみは傍らに置いてあったポーチからチョコレートを出して食べ始める。
私は男の子の方がいいけどなあ。口に出さずに呟く。
それに吉澤先輩は、さっきの悪戯く笑う表情とか声の柔らかさとか、ひどく『女性』を
感じさせる人だと思ったのだが。
「あっ、先輩だ。頑張れー!」
走り幅跳びの準備をしている選手が、最近ちょっと気になる野球部の先輩だと気付いて
さゆみが黄色い声を上げ、クラスメイトに「敵に声援送ってどうすんの」と怒られた。
- 252 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:30
-
- 253 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:31
- 例えば何かを失くしても気付かないとか、そもそも何を持っているのか判らないとか、
どれだけの距離を歩んできたのか測れないとか、そもそも前に進んでいるのか止まって
いるのかそれとも後ろへ退がっているのか判断できないとか、やりたいことが見つから
ないとか、そもそもやりたいことを見つける必要があるのか疑問だとか、このままじゃ
駄目だなんて思わないとか、そもそも今どんな状態なのか知らないとか。
それってつまり、「まあいいか」の一言で全て片付くという事。
- 254 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:31
- アイスパックを額に当てながらビニールシートへ寝転がり、絵里はテントの下から
空を眺めていた。傷口は深くないものの、熱と腫れが出てしまったので大事を取って
休んでいるようにと養護教諭からお達しが下ったので、随分と暇を持て余す事になった。
絵里はそれでもまあいいかと思う。空は高くて気持ちがいいし、応援合戦の声はちょっと
遠いが活気があって気分を高揚させる。
なんとなく、特別な感じがする。年に一度のイベントなのだから特別なのは当たり前だが、
こういうのは理屈じゃない何かがあるような気がする。
『何か』に無理やり言葉を当てはめるなら、期待というものになるんだろうか。
特別な日だから特別な事が起こってもおかしくない。そういう未来への期待。
本当は何かが起こるなんてないと知っているのに、こういう日はどういうわけか
そんな理屈とは関係なしに心が浮き立つ。
「あ……」
空に影が差し、絵里はアイスパックの位置をずらして視界を広げた。
れいなが立ったままこちらを見下ろしている。逆光でその表情はよく判らない。
「だいじょぶですか?」
「ん、もうあんま痛くないよ」
「あの……」
言いにくそうに口をまごつかせて、れいなは無意味に視線を泳がせた。
「ん?」促すように問うと、警戒心の強い小動物のような動作で彼女は絵里の傍らに
腰を下ろし、その背中を丸めた。
- 255 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:31
- 「さっき……すいませんでした」
「なにが?」
「あたしが先輩怒らすようなことしたけん、こんなんなって」
「んー?」
誤魔化すように呟いたが、笑いたくなっていた。
あれからゆうに一時間は経過している。その間、彼女がずっと気にしていたと思うと
おかしくて仕方なかった。
生意気で偉そうなくせに、実は結構神経が細いのかもしれない。
「気にしてたんだ?」
「ま、まあ……。女の子なのに、顔ケガさせちゃったし」
れいなは背中を丸めたままでガシガシと頭を掻いた。絵里は別に、もう怒っていない。
「空、綺麗ね」
「は?」
「綺麗くない?」
何言ってるんだ、という表情でれいなは絵里を見つめている。
「絵里ね、ご飯おいしかったなーとか、このアクセ可愛いなーとか、空が綺麗だなーとか、
そういうので嬉しくなんの」
「……はあ」
れいながおずおずと顔を覗きこんでくる。「それ、怒っとらんってことですか?」気弱い
問いかけに絵里が頷くと、彼女はホッとしたように笑った。
あ、笑った。初めて彼女の素直な笑みを見て、絵里はなんとなく嬉しくなった。
偉そうだし生意気だが、彼女の笑顔はちょっと可愛い。
- 256 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:31
- 腕を延ばし、れいなの腰を捕まえる。「わわっ」驚いて後ずさろうとする身体をぎゅっと
抱きとめ、んひひ、と悪戯く笑った。れいなは困った顔でこちらを見下ろしている。
当たり前だ、困らせたくてしたんだから。
「あ、あの?」
「膝枕して」
「はあぁ!?」
「そしたら許してあげる」
「怒っとらんって言ったやなか!」
「怒ってないけど許してないもん」
無茶苦茶じゃ。れいなの微かな呟きが聞こえた。それでもいう事は聞くらしく、
仏頂面のまま絵里の肩をぽふぽふと叩いてきた。
絵里は目を閉じる。腕を纏う彼女の腰は子供そのものの華奢だった。
頼りなく、力を込めれば簡単に手折れてしまいそうなカラダ。それを折り取ることなく
手の内におさめる優越感の唯一。
「あたし、午後からリレー出るんで、そん時までには起きてくださいよ」
「んー」
適当に返事をして、絵里は意識を沈ませる。
このまま寝こけて彼女が困ったら面白いなと思った。
それは仕返しと言うには淡く、別の何かだと言うには脆い、絵里の無意識下に生まれた
仄かなリビドーだった。
- 257 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:31
-
◇
- 258 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:32
- 「……絵里」
もう何度目か判らない、大した理由もない喧嘩をして、いつものように拗ねた顔で
帰ると言い捨てて部屋を出ようとした絵里の腕を、れいなが掴んでくる。
出逢った頃から二人の身長差は縮まることを知らず、相変わらず彼女は腕を掴んだまま
こちらを見上げてきて、偉そうなのにどこか寂しそうな目をしている。
やっぱり猫みたいだ。それも人の優しい手を知ったばかりの野良猫だ。思いがけず
心地良いものに触れてしまって、どうしていいか判らないのにそれを離すのも嫌がる。
一言で言えば我がままだ。こっちだってそんなに暇じゃない。喧嘩した相手といつまでも
顔をつき合わせているほど暇ではないのだ。
「あたしが悪いとは思っちょらんけど、絵里と喧嘩したまんまでいるのも嫌じゃけん、
ちゃんと仲直りしよ?」
最初の一言が余計だ。悪いのはそっちなのだ。もうきっかけになった出来事はほぼ
忘れてしまっているが、れいなが悪いという事だけは確実だ。
ふい、とそっぽを向く。「えりー」れいなは困り顔で唸りながら腕を引っ張ってくる。
「……あたしのこと、嫌いになった?」
この子は何を考えているんだろうか。こんな、きっかけも忘れてしまうような些細な
喧嘩で嫌いになるわけがないのに。失礼な話である。
口を利いてやるのは悔しくて嫌だったので、代わりに圧し掛かるような形で抱きついた。
やんわりと背中を撫でる手があって、頬に揺れる髪が触れて、腰は相変わらず華奢で、
絵里は力を込めようとしてやめる。
- 259 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:32
- 遠慮しいしい、背中を何かが昇ってくる。小さな生き物がそこにいる。それは絵里の
自由にならない。
「絵里?」
気弱い声が耳に届いて、それは聞いていて心地良い。彼女が自分を気にかけているという
その事を、いつまでも嬉しいと感じていたいと思う。
「黙っとらんで、なんか喋ってよ」
取り縋るようなニュアンスの、恋しがる不安視。絵里は喉を鳴らして笑う。
れいなの手がそろりそろりと上がってきて、絵里の背中にいる生き物を捕まえた。
その瞬間だけ、絵里にとって彼女以外の全てのものは、意図もなく愛しさもなく
憩いもなく色恋もなく恥辱もなく秩序もなく意に介さず理に適わず琴線に触れず
深遠に触れなくなる。
それは束縛の快楽。
仄かなリビドーを覚え、絵里は僅かにかがんだ。
「……だから、なんでいっつもいきなり……」
唐突過ぎて心の準備が出来ていなかったのか、れいなは耳まで赤くなりながら
消え入りそうな声でそう呟いた。
彼女がこういう反応をするうちは、これはまだ悪いことのまま。誰に咎められるわけでも
ない、自分勝手な自分たちだけが持つ罪の快楽。
- 260 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:32
-
◆
- 261 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:32
- がやがやと騒がしく響く人の声に目を覚ました。寝惚けた頭で状況を思い出す。
瞼を上げると呆れたような表情のれいなと目が合った。「……おはよぉ」膝に頭を乗せた
ままそう言うと、彼女は深々と嘆息した。
「もう体育祭終わっちゃいましたよ」
「そうなの? れいな起こすって言ったくせにー」
「起こすなんて言うとらんですよ。起きてくださいって言っとったのに」
それでも起きなかったら起こすのが普通だろう。「先生がかわいそうだからそのまんまに
しとけって」思ったまま告げた言葉に返ってきた反論は尖っていた。
夢見心地のままもう一度目を閉じる。「は? マジで?」れいなが慌てて揺さぶってきたが、
それくらいで起きるほど人は出来ていない。
「ちょっと、先輩」
「ねるー。ねむいー」
「あかんですって。もう帰らんと」
「むー」
目は接着剤でも使ったかのようにぴったり閉じて、絵里の自由にならない。柔らかく
降り注ぐ日差しが瞼を押さえつけているのだろう。そうに違いない。
いつしか彼女の膝はひどく居心地がよくなり、絵里は吸い込まれるように静寂へと
堕ちて行く。がやがやと騒がしい声の群像も慣れてしまえば子守唄のように聞こえた。
ゆらりゆらり、意識が揺らぐ。身体を横向け、れいなの腰へ顔を埋めるように寄り添って、
眠る直前だけに感じられる墜落の快楽を待った。
- 262 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:33
- 「――――あーもうっ」
苛立ちに空気が震え、強い力で押し退けられた。眠気のせいで頭も身体も働いていなく、
絵里は受身を取ることも出来ずに地面へ頭をしたたかにぶつけた。
「いったぁー。なにすんのっ」
「先輩がさっさとどかんからですよ!」
「む、ムカつくーっ」
先輩に対してその態度はなんだと、絵里がきつくれいなを睨みつける。れいなも負けては
おらず、一歩も引くことなく睨み返してきた。まさににらめっこだったが、二人とも
笑うつもりなんてこれっぽっちもない。
睨み合いは教師が呼びに来るまで続き、それからはお互いに逆方向を向いて一言も
口を利こうとしなかった。
「なぁに、喧嘩?」
教師が少しだけ興味を引かれた口調で問うてくる。「なんでもないです」絵里は不機嫌に
答えて頬を膨らませる。
「まあいいわ。ちょっと二人にお願い、体育用具室の鍵掛けてきて」
はい、と鍵を渡される。午後の作業を何一つやらなかったことへの罰という事だろうか。
絵里が渋面を作った。体育館は敷地の端にあり、高等部との兼ね合いで中央に位置する
グラウンドからはかなり離れている。そこまで行くのも面倒臭いし、それから職員室へ
鍵を返しに行くのも面倒臭いし、何よりそれだけの道程を彼女と二人きりで過ごすのが
ものすごく嫌だ。
- 263 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:33
- 「せんせーが行けばいいのにー」
「先生はこれから仕事があるの。若いんだから歩きなさい」
ぽんと頭を撫で叩かれ、渋々といった面持ちで頷く。手のひらで鍵を転がしながら
れいなへ向き直り、絵里は唇を尖らせたまま声をかけた。
「……行こ」
同じように顔を渋くしているれいなが小さく頷き、二人は体育館へと足を進め始めた。
れいなはしばらくの間、口の中だけで文句を言い続けていたが、やがて飽きたのか
押し黙った。絵里も特に話すような事がなかったので口を閉じていた。
体育祭が終わると即解散になるため、既に校内は緩やかな真空を生み出している。
沈黙が気になり、しかし口を開けると呼吸がうまく出来なくなりそうで、絵里はどうとも
出来ずに黙って歩いていく。
手のひらに握りこんだ鍵が熱を帯びていた。金属の鈍い感触が侵食してくる。
気持ち悪くて放り投げてしまいたかった。してはいけないと判っているからしなかった。
代わりに、れいなへ握ったままの手を突き出した。「え?」微かに掠れた驚嘆が洩れ、
れいなは条件反射的にその手を取る。
「ちがうー」
「え? なんですか?」
れいなは手を握ったままでいる。絵里が指を伸ばして内側に収めていた鍵を彼女の
手のひらへ落とした。「ああ」ようやく納得したのか、れいなは自らの勘違いに決まり悪く
眉を寄せながら鍵を受け取った。
- 264 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:33
- 「恐いんかと思った」
「恐くなんかないもん」
ぶすっと頬を膨らませながら言うと、れいなは苦笑みたいに唇を突き出して、膨れた頬を
突付いてきた。ぷしゅっと頬が萎んで、澱んだ真空に流れが生まれる。
「なんか、人がおらんだけで変な感じ」
「うん。明るいのにお化けとか出てきそう」
「出てきても明るかったら恐くなかっちゃ」
「だから恐くないってば」
微妙にかみ合わない会話をしつつ、二人は体育用具室に到着した。一応の確認にと、
れいなが扉をノックしてから開けた。ノックはつまり、もしも中に人がいて、それが
一人ではなくて、しかも男女だったりした時のためだ。
心配は無用で中は無人だった。埃っぽい空気が喉を擦り、れいなと絵里は揃って咳き込む。
「ちゃんと掃除しろっちゅーに」神経質な声音でひとりごち、もののついでと換気のために
中へ入って窓を開け放った。
「ちょっと休みません? 歩いてきて疲れたけん」
「んー」
頷き、絵里がいそいそと、跳び箱とマットが作り出す隙間に身体をねじ込ませた。
れいなは数秒間呆気に取られ、もしもし?というような手つきをした。
「……なにしとぅとですか?」
「だから、休憩」
- 265 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:34
- なんともいえない微妙な圧迫感に至福の表情を浮かべながら、絵里はあっさりと答える。
こうしていると落ち着くのだ。痛くもなく、苦しくもなく、それでいて不自由。
がんじがらめにされるのは辛くて嫌だが、適度な不自由は安心する。自分ひとりだけの
力で立っているのは疲れるから。何をしてもいいという状況は、何をすればいいのか
判らないという不安を生む。
ずるりとれいなの肩が落ち、何も言う気にならなくなったのか、温泉にでも浸かっている
かのようにくつろいでいる絵里をそのままにその場へ腰を下ろした。
窓から入り込む風と光に、室内の埃がキラキラと輝きながら舞っている。喉は痛いが
綺麗な光景だ。
「れいなってハカタの人?」
「はあ、まあ。博多じゃなくて福岡でしたけど」
「福岡ってハカタじゃないの?」
れいなが妙な顔をした。呆れたような、質問の意図が判らないというような、要するに
「何言ってんだこの人」という顔だった。
これが「博多って福岡じゃないの?」であれば、博多市は福岡県ではないのかという
意味にも取れるのだが、今の聞き方ではまるで博多のほうが上位地区であるようだ。
だかられいなは困ったのだろうが、絵里はそれに気付いていない。
「えと、福岡県には福岡市ってとこがあって……」
言いかけたものの、逐一説明をするのが馬鹿馬鹿しく思えたのか、れいなは語尾を
溜息で濁してしまった。
よく判らないが馬鹿にされたような気分になって、絵里が頬を膨らませる。
やっぱり生意気だ。ハカタ弁を使うからハカタの人かどうか聞いたのに、そうだとか
違うとか変な答え方をして。
- 266 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:34
- 「……ま、その辺です」
「ふぅん」
「そんなとこ入って、狭くなかとですか?」
若者特有の脈絡が無い話題の変換で、れいなは流れを変える。「せまいよー」ふにゃりと
笑って絵里は言い、更に奥へと入り込んでいった。
「出られんようになりますよ」
「大丈夫だもん」
「いや、ホント危ないですって」
「へーきだもん」
絵里は奥へ奥へと進んでいく。れいなの視線はそれより上に向いている。なんだろうと
彼女の視線を追うと、棚の上に積み上げられた箱が目に入った。あれは確か、ポールを
留めるためのボルトとか金具類が入っている箱だ。乱雑に積まれているせいで不安定に
揺れている。あれを心配しているのか。
「あの、そろそろ戻った方が」
「んー……うん」
ぐらぐら揺れる箱を見ていたら、絵里もさすがに不安になった。逆戻りしようと足を
踏み出したが、中ほどでその足がぴたりと止まる。
「先輩?」れいなが怪訝そうに眉を上げた。
「だいじょうぶだいじょうぶ」
幾分表情の薄れた声音で言って、絵里はへらりと笑った。
- 267 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:35
- 大丈夫じゃない。どこかにジャージの裾が引っかかってしまったらしく、身体は外に
進まない。力尽くで出ようと思えば出られるだろうが、まず確実にジャージが破れる。
そうしたら親に叱られてしまうだろう。事情を知ったら隙間禁止令とか出るかもしれない。
それは困る。そんな事態だけは避けたい。
口に出していたられいなに呆れられるだろう事を真剣に考えつつ、
絵里はこの危機的状況から脱する方法を模索する。
腕はうまく動かせない。マットは奥へ向かって緩やかにカーブしており、おかげで隙間は
手前ほど開けていないのだ。自由になる範囲が狭すぎる。
上半身を捻ってみたり、前が駄目なら上はどうだと跳び箱を登ろうとしてみたり色々
試している内に、れいなも状況に気付いたらしい。
「……出られんのですか?」
「うーん、うーん、なんかそんな感じっていうか」
「出られんようなるって言ったっちゃろ……」
微かに怒気を含んだ独白が聞こえ、絵里はぷくっと頬を膨らませた。
「とにかく、ちょっと手ぇ出して下さい。こっちから引っ張るけん」
「――――いいっ。一人で出られるもん!」
意地になって彼女の手助けを断り、絵里は尚も身体を揺する。どこかに引っかかっている
ジャージが外れてくれればなんの問題もないのだ。どこが引っかかっているのか見えない
から、絵里はやたらめったに動き回った。
「ちょ、そんな暴れたら危ないですって!」
悪い方向に予測を立てたらしいれいなが止めに入る。差し出された手を弾き返したら
れいなは少しだけ傷ついたような顔をした。
それに驚いて動きが止まった。てっきり怒るとばかり思っていたのだ。
なんで。ずっと偉そうで生意気にしてたのに。
なんでそんな。
- 268 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:35
- 力が抜けて、背後の棚に背を寄せる。どん、と背中に軽い衝撃が走り、それは絵里の
動揺を具現化したもののように思えた。
「――――!」
れいなが一瞬息を呑んだ。声を出す前に身体が動いて、隙間に手を突っ込んで絵里の腕を
力任せに引き寄せる。ジィッと電子音に似た響きが耳に障った。きっと、引っ掛かっていた
何かがジャージを切り裂いたのだろう。
その華奢な身体のどこにそんな力があるのかと思わせるくらいに強く掴まれ、隙間から
引きずり出される。絵里が目を白黒させているうちにバランスを崩してれいな諸共
倒れこみ、背後から物が落ちる派手な音が聞こえた。
弾け飛んだらしいナットが頬を直撃したが、不思議と痛みは感じなかった。
「わわわっ、マジでマジでマジで」
意味不明に喚き、れいなは大きく見開いた目で絵里を見下ろした。絵里も負けず劣らず
大きな瞳でれいなを見上げる。
れいながパクパクと口を動かした。驚きすぎて上手く言葉が出てこないようだ。
「だ、大丈夫」
絵里が聞かれる前に答えると、彼女は少しだけ落ち着いたのかほっとしたように
息をついた。「よかった」静まりかけた瞳を細め、唇の端を気弱に引き上げる。
- 269 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:35
- 絵里はその表情の変化をつぶさに観察していた。
例えば生意気で偉そうなくせになんか可愛いとか、愛想が悪くて意地も悪くてそういう
時に浮かべる笑みを見るとかなりムカつくのに素直な笑顔はどこか可愛いとか、生真面目
なのか面倒臭がりなのかよく判らないのにどことなく可愛いとか、優しいのかそうでも
ないのかよく判らないのにどうにも可愛いとか。
それは特別なこと、なのだろうか。
何かが起こるかもしれないという期待と、どうせ何も起こらないだろうという斜視。
反発しあう思いを抱えながら、絵里が静かに手を持ち上げて彼女の頬に触れた。
「先輩?」
「え?」
「どげんしたとですか?」
「なんで?」
「や……いきなり触ってきよるけん。なんかついてます?」
戸惑っているんだろう、れいなは小さく眉尻を下げている。
絵里は彼女に触れていた手を下ろすと、ふにゃりと笑ってれいなのジャージの裾を
両手で握った。
「……なんだろ」
これは特別なことだろうか。
- 270 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:35
-
◇
- 271 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:36
- 「――――っ……絵里なんかもう知らん!」
れいなとはよく喧嘩をする。知り合った頃からそうだったし、きっとこれからも
そうなんだろう。さゆみには「喧嘩するほど仲がいいってやつ?」と気安くからかわれるが、
絵里はそんな風には思っていない。
きっと、自分たちはそういうスタンスでしか向き合えないのだ。林檎が枝から外れたら
地面に落ちるように、ロケットが空に往くように、猫が眠ってばかりいるように、
月が新月から満月に変わるように、冬に降る雪が白いように、世界が嘘で塗り固められて
いるように、社会が混沌としているように、それでも大概のことは「まあいいか」と思える
ように。
それは特別でもなんでもない、そういう風に構築ているという、ただそれだけのこと。
「絵里なんかもう、好きじゃなか!」
激昂して叫ぶれいなに、負けじと同じ言葉を叫び返した。れいなは一瞬だけ傷ついて、
それでもぐっと唇を噛み締めると絵里に掴みかかった。
どん、と壁に背を押し付けられる。ぶつけた拍子に乾いた呼気が口から吐き出され、
絵里は一拍失った呼吸を取り戻すように咳き込む。
「絵里なんか……好きじゃない!!」
それからしばらくの間、互いに「好きじゃない」と言い合った。叫んで叫んで叫んで叫んで
叫んで叫んで叫んで叫んで叫んで叫んで叫んで叫んで叫んで叫んで叫んで叫んで叫んで
どちらの喉も掠れた悲鳴を上げていたがそれでも叫んだ。
- 272 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:36
- 叫びながら、いつの間にかどちらともなく相手の身体をきつく抱き締めていて、二人とも
泣きそうな顔をしていて、それでも抱き締め合いながら叫んでいた。
どうでもよくないからぶつかり、どうでもよくないから変われず、どうでもよくないから
振り回されて、どうでもよくないから振り回して、どうでもよくないから抱き締める。
それは少しだけ特別なことなのかもしれない。
「好き……」
掠れて消えそうな彼女の声が終わる前にキスをした。
叫びすぎて整わない呼吸を無理やり押さえ込んで、両手でれいなの頭を抱え込んで、
喧嘩腰のキスを続ける。
きつく抱き締めていたれいなの腕が解かれて、頬に添えられた。
泣き叫ぶようなキスをして、内側から込み上げてくる切なさを堪えるようなキスをして、
怒鳴りつけるようなキスをして、強迫観念から逃れようと懸命にもがくようなキスをして、
求めるようなキスをして、鎮めるようなキスをして、確かめるようなキスをして、
愛してると囁くようなキスをした。
離れ、軽く眉根を寄せたれいなが絵里に臨む。
「……むかつく」
専売特許の台詞を取られた。それは違う意味を持っている言葉だった。
誰も知らない言葉だった。どこにもない言葉だった。二人にしか意味の無い言葉だった。
- 273 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:36
- れいなの手が絵里の髪に潜り込み、そのまま抱きくるんだ。深いが不快ではない溜息が
聞こえ、リビドーを抑えるように頬を摺り寄せてくる。
「わけ判らんこと言って困らすし、いきなり変なことしてくるし、ぼけっとしとって
目ぇ離せんし、結構適当だし、わがままだし……可愛いし」
でも。だから。
「むかつく」
目を閉じて、安らぎに似た苦悶の表情で囁かれた言葉に、絵里は泣きたいわけじゃない
のに泣きそうな目をした。
がんじがらめにされて苦しい。中途半端な自由なんて存在しない。逃れようとどれだけ
暴れても、彼女は繋いだ手を離してくれない。
髪に潜り込んだ手に引き寄せられ、お互いに疲れきった表情を浮かべながらキスをした。
- 274 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:37
- 例えば空が青くて気持ちがいいだとか、美味しいものを食べて満足だとか、隙間に入り
込んだ時の適度な圧迫に覚える安堵だとか、運動をした後の心地良い疲労感だとか、
眠りから覚めた時の薄ぼんやりとした倦怠感だとか、ドラマを見ながら好き勝手に感想を
言い合う気軽さだとか、誰かに褒められた時のくすぐったさだとか、いずれ手に入るで
あろうと信じている将来への期待だとか。
- 275 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:37
- そういう、当たり前に世界や手の中に存在している幸福の全てがどうでもよくなって
しまうそれは、いっときであれその全てを放棄してしまうこの無責任な快楽は。
やはり疑いようも無く、特別に『悪いこと』なんだろう。
だから絵里は責任を取らなければならない。
彼女に与えた手酷い愛情と、彼女が与えた得難い現状を、守らなければならない。
それは多分、ほんの少しだけ辛い。
けれどそれが、それこそが楽園を脱出できた理由で、かつて持っていたモノを失う
その痛みを知らなければ、誰かが……彼女が、痛みに涙していても気付かないから。
『痛みを知る』という事は、子供の無鉄砲な強気を失くすという事で、それは紛れもなく
ウィークポイントなのだけど、失くしたくないからと純粋な子供のままでいたら、
この想いがどれだけ心地良いか判らないから。
切なくなって、彼女の華奢な身体を強く抱いた。
苦渋の決断を迫られたれいなは、夢を見るより穏やかに抱き返してきた。
- 276 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:37
-
「好きって言っていい?」って、聞いてもいい?
- 277 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:37
-
聞かなかった、けど。
- 278 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:37
-
◇
- 279 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:38
- 「さてと」
芝居役者のような繋ぎを使い、れいなは腕を解いて立ち上がった。
「どっか行く?」
「うん」
それは全く普通の口調で、ついさっきまで大声で叫んでいたり年齢不相応なキスをして
いたのが嘘みたいな日常のやり取りだった。
なかったことにしたわけではない。終わったことになったのだ。彼女との時間は大概に
おいてひとつひとつ完成しており、その完成形の連続によって成り立っている。
そういう風に、構築ていく。
「さゆ誘ったら来るかなぁ」
「どーせあの坊主とデートじゃなかっちゃね」
「今は坊主じゃないよ。高等部じゃバンドやってるから、髪伸ばしてんもん」
「そうなん?」
「うん」
「チャラチャラしとぅのは、あたし好かん」
「れいなの好みは関係ないじゃん。さゆの彼氏なんだから」
思ったままに言うと、れいなは心持ち拗ねた表情になった。
それくらい言われなくても判っているのだろう。だから反論はない。
- 280 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:39
- 坊主だろうが長髪だろうが、野球少年だろうがバンドマンだろうが、
男だろうが女だろうが、れいなはきっと文句をつけるし絵里の言葉に
反論をしないだろう。
一人だけで満足できないその心境は、さゆみを誰かに取られたことを認めたくないという
その独占欲は、絵里も判らないではない。
たった一人だけでいいというような、閉塞的な悟りなど開きたくはないのだ。
- 281 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:39
- 「聞いてみる?」
「……ま、一応」
絵里はバッグから携帯電話を取り出してさゆみに連絡を取った。
れいなの予想は外れ、彼女は姉と買い物をしていたそうで、誘ったら一も二もなく
了承した。丁度いいからとさゆみがいる街まで行って、そこで合流しようと話をつける。
電車で20分ほどの距離なので、それほど待たせることもないだろう。
外に出て、緩やかに頬を撫でる風に目を細める。ん、とれいなに向かって手を突き出すと
彼女は迷いもせずにそれを握った。その行動は間違っていない。
「絵里の甘えんぼ」
ししっと、意地悪く笑いながられいながそうからかってきた。
「むーっ」絵里は小さく唸りながら頬を膨らませたが、ここで手を離したら彼女の言葉を
肯定してしまうようで悔しかったので、そのまま早足で歩きだした。
れいなは困ったように眉を下げながら笑っていて、繋いだ手を手綱のように引っ張って
速度を落とさせた。
「絵里、えーり」
「なに」
「好いとぅよ」
思わず足が止まった。振り返ると彼女は幾分照れ臭そうに、それでもしてやったりと
言いたげな顔で笑っていた。彼女のそんな表情はひどく生意気に見える。
- 282 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:39
- 絵里は唇を尖らせた。
ムカつく。
……でも、まあいいか。
《there is No inconvenience in decoding a code.》
- 283 名前:『SHAKE IT!!』 投稿日:2004/10/30(土) 01:40
-
以上、『SHAKE IT!!』でした。
「構築て」は「できて」と読んで下さい。
このスレの田亀話には自分内テーマソングがあるんですが、今回は結構それが顕著に
出ています。
- 284 名前:円 投稿日:2004/10/30(土) 01:40
- レスありがとうございます。
>>222
おそらく、222さんと自分の「ここ突かれたら弱いんじゃー」部分が近いのかと(笑)
自分が気持ちいいものしか書けないですから(苦笑)
>>223
え、えーと、ザオラル!<レベル低!
>>224
自分も年取ったなと思います(苦笑)
>>225
叫ばれましたか……自分もよくやります(爆)<他作者さんの作品で。
>>226
恥ずかしがりんごちゃんですね(笑)読者さまウィズラブ。
>>227
わりと、若い子の方がドライだったりするんですけどね(苦笑)
基本的に80年代の少女漫画ですから。
>>228
そんな時こそ人類が生んだ秘密兵器、よだれかけですよ!(爆)
これで多い日も安心。
>>229
大分経ちましたねえ、現実の時間も……。当初は7月に終わる予定だったなんて言えない(爆)
まあ、始まりがあれば終わりもある、という事で……。
- 285 名前:円 投稿日:2004/10/30(土) 01:41
-
次回ラストなんです。
- 286 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/30(土) 02:43
- 自分の知らない世界に足を踏み入れてしまって、
なんかもう抜け出せない感じです。
…次でラストって、マジですか…。ヘコム
- 287 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/30(土) 07:21
- 凄くいい作品ですね・・。
ラスト・・・勝手に期待しちゃいます。
- 288 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2004/10/30(土) 11:37
- もう言葉もありません
いつか、そういつか絶対に書いてくれると思ってました。
彼女達の出会いの「体育祭」
かっけー人もさりげなく出てきててちょっぴり嬉しかったり。
この君は僕の宝物のラスト期待しちゃってもよろしいですか?
- 289 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/31(日) 01:44
- すばらしいですねぇ。
次でラストですかぁ…切ないです。
でも、楽しみにしています!!
- 290 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:39
-
- 291 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:39
- 最近、れいなと絵里は仲が良い。
いや、仲がいいのは前からなのだが、最近とみに仲が良い。
さゆみは二人が何も言おうとしないので自分から問い質して、「んひひー」という絵里の
軽い笑声と「や……まあ」というれいなの中途半端で曖昧な頷きによってその事を知った。
それについては、まあ、喜んだ。ラブラブなのはいいことだ。
さゆみは二人の半歩後ろを歩いている。二人は、もうすぐれいなが15歳になるので、
そのことについて話している。時々こちらを振り返り、さゆみの意見を求めてくる。
それについてもまあ、喜んでいる。
二人は、さゆみがいる時は隣同士で歩いていても手を繋がない。二人きりの時は繋いで
いるらしい。何かとウワサノフタリであるため、彼女たちのすぐ側にいるさゆみの耳には
色々と入ってくるのだ。手ぇ繋いで歩くくらいいいじゃん、とさゆみは常々思っている。
彼女たちは、『三人』が『二人と一人』になることを嫌がっているようだった。
それについては、ちょっと気に入らない。
- 292 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:39
-
☆
- 293 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:39
- 「うーん、女の友情物語だねえ」
亜弥はわざとらしく難しい顔をして唸った。いつものコンビニのバックヤードにいるの
だが、彼女は学校の制服姿だった。シフトは入っておらず、たまたま遊びに来たところで
さゆみと鉢合わせたのだそうだが、多分、もうすぐ美貴がやって来るのだろうとここに
いる全員が思っていた。
「あーでも、なんか判るなあ。あたしもののに彼氏とか出来たら寂しくなると思うし」
そう感慨深げに言うのは地元のフットサルクラブの練習帰りであるひとみだった。
彼女は親友たる真希の顔を見に来たのだが当人はおらず、代わりに亜弥に見つかって
引きずり込まれていた。
「辻のこと言う前に自分だろー」
からかい口調でその希美が言い、ひとみの頭を小突く。国内の強化選手に無事選出された
彼女は連日の特訓で忙しいらしいが、早朝の逢瀬は続けているようだった。
いつだったか、大会当日にひとみが熱を出して会えず、その時の記録は悲惨なものだった
という話を美貴に聞いた。メンタルが弱いというのはスポーツ選手としては欠点なのだろう。
その事を話した時の美貴は「お子ちゃまだよね」なんて軽口を叩きながらも、なんとなく
嬉しそうにしていて、それがさゆみには印象的に映っていた。
- 294 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:40
- 「ばっかお前、ナニゲによしざーモテモテよ?」
ひとみは言われた台詞に軽く笑って、チッチッチ、と人差し指を振った。
「女の子にじゃん」
「……そうなんだけどさ」
あっさりと言われ、ひとみが肩を落とす。彼女が所属するフットサルクラブの試合は
見学に来る女の子たちで、毎回結構な賑わいを見せる、らしい。
「まあそれでもだよ。あたしにコイビト出来ちゃったりしたら、ののだって寂しくない?」
「別に?」
またしてもあっさり首を振られ、ひとみはちょっとショックを受けた顔をした。
「あれ、おかしいな、予定ではもっとこう……」ぶつぶつと呟きながら自分の世界に入る
ひとみに、他の面々は呆れ顔になった。
やはりチームの司令塔としていつも作戦を考える癖がついているのだろうか。
このままでは埒が明かないので、さゆみは下から覗き込むようにひとみと目を合わせる。
「それはいいんですけど」
「ああ、田中と亀井のことね。でもいいんじゃないの? そこで二人がくっつきました、
はい道重はいりませんみたいな感じになるよりさあ」
「ん、あたしもそう思うんだけど」
ひとみの言葉に亜弥が頷き、希美はよく判らないのか足をブラブラさせて遊んでいる。
「そういうんじゃないんです」
さゆみが小さく首を振り、おまけに溜息までつけた。
- 295 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:40
- 「……ごめん、よしざー頭悪いから難しいことは判んないや」
説明を求める視線に、さゆみは困ったように眉を下げた。
自分でもよく判らないのだ。先ほどひとみが言ったような状況になったらもちろん嫌だと
思うのだが、だからといって今の状態がいいとも思えない。
それを明確な言葉に変換できるほど、さゆみの頭も出来が良くなかった。
「んー、やっぱいいです。私もまだちゃんと言えないんで」
「そう? ごめんねー、なんかアドバイスできればよかったんだけど」
「いえ。お邪魔しました」
コンビニに来て「お邪魔しました」はちょっと変かなと思って、さゆみは小さく笑う。
「ばいばーい」
手を振ってくる希美に頭を下げ、さゆみはバックヤードを後にした。
残った面々は、ふーむと息をついたり、んーと唸ったり、商品名が書かれた箱に忙しなく
目を走らせたりしていた。
「道重はなにが気に入らないのかなー」
「なんでしょうねえ」
「ねえねえ亜弥ちゃん、これ一個食べていい? 後でお金払うから」
「……のの、ちょっとは真面目に考えろよ」
さっきとは種類の違う溜息をついて、ひとみは彼女が取り上げた菓子の箱を元に戻させた。
希美が不満そうに唇を尖らせる。
- 296 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:40
- バイトの入りである美貴がバックヤードに入ってきた。既に着替えており、膝突き合せて
考え込んでいる三人(正確には二人だが)を見つけて、お?という風に眉を上げる。
「よっちゃんさんと辻ちゃん? なにしてんの」
「あっ、みきたーん!」
喜び勇んで飛びついてきた亜弥をぎょっとした顔をしながら受け止め、美貴は背骨の
痛みと格闘する。
「いたたた! ちょ、痛いって!」
無理な姿勢で受けたせいで背筋に妙な負荷がかかり、その痛みに思わず悲鳴を上げる。
「ごめぇん」反省などまったくしていない口調で亜弥が謝ってきたが、美貴には聞こえて
いなかった。
「てゆーか、なんで最初に吉澤さん呼ぶのー。しかもあたしの名前なかったし!」
「……あんたがここにいても不思議じゃないでしょ、バイトしてんだから」
呆れた声で言い返してから亜弥を押しやり、美貴は「んで、なにしてんの?」とひとみに
問いかけた。
「さっき道重が来てかくかくしかじか」
「判るわけないじゃん」
「あたしの心を読み取れよー」
「無理だから」
しょうがないのでひとみが最初から説明をする。あまり要領を得ない説明を黙って
聞いていた美貴は、小首を傾げてふぅんと言った。
- 297 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:41
- 「さみしんでしょ?」
「いやだから、道重的には違うんだって」
「あー、じゃなくって。自分が仲間外れにされないのが寂しいんじゃないの?」
「みきたーん、難しいよぅ」
亜弥が再度首に纏わりついてきながら唸る。面倒臭くなったので美貴はそれをそのままに
して、やはり判っていないという顔のひとみに視軸を合わせた。
ちなみに、希美はバックヤードにあった菓子を抱えてレジへ向かっている。
「美貴としては、なんでよっちゃんさんが判んないのか不思議なんだけど」
「ええ? なんだよそれ」
美貴は首にしがみ付いている亜弥を気にしながら微妙な表情をした。
言いたいけど言えない、そんな感じの表情だった。
先刻のひとみではないが、まるで「心を読み取れ」とでも訴えているような。
その表情をじっと見ていたひとみの口が、「あ」の形に開いた。
- 298 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:41
- 「あー、そういうことか」
「そういうこと。多分だけどね」
「あたし全然わかんない」
「あんたは判んなくていいの」
「ぶー」
膨れる亜弥の頭をぽんぽんと優しく叩き、ひとみに向かって軽く肩を竦めて見せた。
ひとみは苦笑みたいに口元を引きつらせて頷く。
「道重って、実は結構オトナなのかな」
「んー、オトナっていうか」
幼児の如く抱っこ抱っことせがんでくる亜弥を全力で押し退けつつ、美貴は柔らかな
嘆息をする。
「普通なんじゃない?」
- 299 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:41
-
☆
- 300 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:41
- 「おっ、さゆみちゃん。どうしたんだい、好きな先輩にでも会いに行くのかい?
そしてそれは……ボクだったりするのかな?」
なぜか美青年風の口調で声を掛けられ、さゆみは高等部の廊下を走る足を止めた。
そこにいたのは美青年でも美少年でもなく、ぼんやりとした顔を精一杯引き締めた
麻琴だった。
当たり前だが、さゆみは彼女に用があって来たわけではない。
「こんにちは。ガッちゃん元気ですか?」
「おかげさまで元気元気。最近は舌が肥えちゃって、ご飯は高い缶のやつしか食べなく
なっちゃったんだよねー。飼い主に似て食べる事だけは我がままなんだから」
自分で言うかなあなどと思いながら、さゆみは曖昧に笑う。しかしさゆみも人の事は
言えない。
以前、絵里が見つけて保護した子猫は、引き取られた麻琴の家で、文字通り猫可愛がり
されているらしい。一度見せてもらったことがあるが、こっちが怯むくらいの甘えようで、
なるほどやはり飼い主に似るのだなと思った。
麻琴は左手首にテーピングを巻いていた。練習中に捻ってしまって、今は休んでいる
状態なのだという。「大変ですね」と言ったら、彼女は「あはー」と気抜けた笑いを上げた。
「高等部に用事?」
「はい、先輩がバンドの練習してるとこ見せてくれるって」
「あー、はいはい。あのギターの」
「ベースです」
さゆみが訂正すると、麻琴は「そだっけ」と気にした風もなく答えた。
- 301 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:41
- 「小川さんも来ますか?」
「ん? んー、ごめんね。ちょっと行けない」
珍しく麻琴は笑みに苦味を加えた。他に用事があるとかなら、彼女はこんな表情を
しないはずだ。
不思議に思っていると、麻琴は困ったように頭を掻いてからさゆみへ耳打ちをしてきた。
「……愛ちゃんの元カレが、メンバーにいるんだよね」
「あー」
納得して頷く。つられて相槌が小声になった。
それはさすがに、無理に誘う事はできない。うんうんと小刻みに首を振ると、麻琴は
また「ごめんね」と謝ってきた。
「それじゃしょうがないですよね」
「いやー、さすがにねー」
「麻琴ー?」
遠くから届いた声に麻琴が振り向く。話題の主である愛がきょとんとした顔でこちらを
眺めていた。彼女の顔はビックリしているように見える。
- 302 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:42
- 麻琴の腰に尻尾が生えて、千切れんばかりに振り回された。ような気がした。
「愛ちゃん!」
「そんな大声で呼ばなくても聞こえてるから。ほらほら、今月号」
愛が鞄から雑誌を取り出して軽く振って見せた。遠目なのであまり細かいところは
見えないが、全体的にはなんというか……煌びやかだった。
「うわ、見せて見せて!」麻琴が更に尻尾の勢いを強めた。ように思えた。
「あ、じゃあねさゆみちゃん」
「さよなら。ガッちゃんによろしく言っといてください」
「判りましたわ。それじゃ、ごめんあさぁせ。オーホホホ、オーホッホッホ!」
麻琴は手を口元に当て、高笑いをしながら去っていった。彼女の持ちキャラは豊富である。
- 303 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:42
-
☆
- 304 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:42
- 「あんたはもうちょっと計算高い女を目指した方がいいと思うわけよ。
もうこれで何回目だと思ってんの? いい加減賢くなりなさい、賢く」
「えーでも、付き合ったばっかの頃はすごい優しい人だったんですよぉ。
梨華ちゃんは素直で可愛いね、とか言われちゃったりして。きゃっ」
「いい年してきゃっとか言わない。気持ち悪いから。あとあんたは素直なんじゃなくて……
まあいいわ。あんたの人生なんてあたしには関係ないし」
「ええー、保田さんひどいじゃないですか」
さゆみは思わず足を止める。「どした?」隣にいた恋人が訝しげに眉を上げた。
転じた視線の先には、並んで歩く担任教師とそのお友達。コースを予測する限り、
まず確実にこちらとぶつかる。
授業中にチョコレートを食べてよく叱られているさゆみは、できればあまり顔を
合わせたくなかったが、無視して通り過ぎるのもちょっと気まずい。
「保田先生、石川さん」
「あら、道重?」
バンド練習を見学した後なので、時刻は夕刻に近くなっている。夕飯の買出しをしていた
のか、圭と梨華は食材の入った袋を抱えていた。
- 305 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:42
- ほてほてとさゆみは二人のもとに向かう。仕方なくというように彼はその後に続いてきた。
圭が彼の姿を見つけて「お」と小さく声を落とした。「ども」彼も中等部時代に圭の授業を
受けていたので、生徒として軽く頭を下げる。
「なによあんたたち、見せ付けないでよ」
「そうだよ保田さんなんて最近めっきり」
「余計なこと言わなくていいからね」
切りつけるような圭の牽制に梨華が慌てて口をつぐむ。圭はやれやれと溜息をつき、
ちらりと梨華を一瞥してからさゆみたちへ向き直った。
「ま、そういうのもいいけど、ちゃんと勉強しなさいよ」
「はぁい」
彼が居心地悪そうに背負ったベースの位置を直した。勉強時間とベースをいじる時間を
比べたのかもしれない。
さゆみが小さく首を傾げた。なんとなく、圭の雰囲気が教室にいる時より柔らかいような
気がした。
彼女が隣にいるからだろうか。別にれいなと絵里のような関係ではないのだろうが、
この二人もなんだか、そう、『ハマって』いると思う。さゆみのボキャブラリの中に、
それ以上、上手く表現する言葉はなかったのだけれど。
「あんたバンドでも始めたの? 中等部の頃は野球小僧だったくせに」
「あ、はあ。まあ」
いきなり矛先を向けられた彼が、面食らったような顔で頷いた。
- 306 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:43
- 「茶髪とかなっちゃって」圭は意地悪く笑いながら彼の長く伸びた髪をグシャグシャと
かき回した。彼は苦笑する。
まさかこんなところで教師と鉢合わせるとは思っていなかったんだろう。さっきから
居心地の悪そうな様子で落ち着かない。
「せんせぇ、触んないで下さいよぅ」
圭に乱された髪を直している腕を引っ張って言うと、圭は軽く肩を竦めながら苦く笑った。
「仲が良くて結構」
「あ、保田さんちょっと羨ましいんでしょお」
「ガキに妬くほど困ってないわよ」
「そんなこと言ってぇ。大丈夫ですよ、保田さんにはあたしがいますから」
「悪いけどいらない」
悪いなど全く思っていない口調で圭が切り返す。梨華はさして気にした風もなく、
さゆみに対してくすりと笑った。
ああ、やっぱりハマってるなあ。二人のやり取りに、再度そう思った。
「保田先生、もし石川さんに彼氏がいたら、寂しいですか?」
問うと、圭は「うん?」と丸くなった目をさゆみに向けて、
「そんなわけないでしょ、清々するわよ。まともな相手ならね」と迷いもなく答えた。
「そうですよね」
ふーむと唸るさゆみに、他の三人は訳が判らず首を捻った。
- 307 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:43
-
☆
- 308 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:43
- 「好きな子ほど苛めたいって言うじゃん。後藤、最近その意味がよくわかんだよね。
だって紺野泣くと可愛いもん。目がキラキラしててさ、涙の星みたいな」
バーの一角で、さゆみはどういうわけか真希のノロケを聞かされていた。まだ昼前なので
開店はしていないのだが、偶然出くわした彼女に昼食を取ったか聞かれて、首を横に
振ったらここに連れてこられた。
裏口に迷いもせず入ったので、ここはきっと彼女の馴染みなのだろう。未成年なのに
馴染みのバーがあるというのもちょっとどうかと思うが。
「そういうの……道重はないか。カレシ泣かせても楽しくなさそうだし」
「うーん、そうですね」
「まあ、優しくもしてるけど。大事にしたいって思うし」
穏やかに真希は笑っているが、隣の彼女はずっと赤くなった顔を俯けている。
紺野さん、真面目そうだもんなぁ。もじもじと身を捩じらせているあさ美を見遣りながら、
口の中だけで呟いた。
なんだかアンバランスな二人である。飄々とした、ある種軽いと言えるような真希と、
見るからに真面目で大人しくて奥手そうなあさ美。
それでもやはり、ハマってると、さゆみは思うのだった。人というのは不思議なものだ。
「ホントはベッドの中で泣かせてみたいんだけどねー」
「へえぇ!? ご、後藤さんっ」
さらりと言われたとんでもない台詞に、あさ美が思わず席を飛びのく。
「んあ、ウソうそ」真希は苦笑しながら彼女の手を引いて、自分の隣に戻させた。
そのままきゅぅっと抱きしめて、首元で微かな溜息をつく。
- 309 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:43
- 「判ってる、卒業するまではキス止まりなんだよね。ごとーはちゃんと約束守るよ」
「だ、だったらそうやって苛めるのもやめて下さいよぉ……」
「んー、それは無理だねえ」
「そんなぁ……」
テーブルに出来たてのグラタンが置かれた。「熱いから気をつけて」気遣いの声と
少年みたいな笑みに、さゆみが頭を下げる。
「後藤、お前もうちょっと道徳観念ってもんを身につけた方がいいよ。中学生の前で
する話じゃないだろ」
呆れたように言う紗耶香へと視軸を変えて、真希が不満そうに唇を尖らせた。
「はいはいはーい。ごめんなさい」
「そうやってふざけて誤魔化すのも駄目。『はい』は一回」
「……はい」
ぶすっとしながらも、真希は言われたとおりにする。彼女たちの関係はよく判らないが、
どうも真希は紗耶香に弱いらしい。『甘い』と同義にはならない弱さだ。単純に、純然と
した、健全な弱さ。
だからさゆみは、ちょっと違うかな、と思った。
「冷めないうちに食ってよ。お代は後藤に請求しとくから」
「えぇ? いちーちゃんの奢りじゃないの?」
本当に驚いたらしく、愕然としている真希に、紗耶香は「しょうがないなあ」と言いたげな
笑みを浮かべた。
- 310 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:44
- 「本気にするなって。どうせまかないみたいなもんだし、サービスしとくよ」
「あはっ。いちーちゃん優しいー」
「大人だからね」
揶揄するような真希の言葉を、紗耶香は自嘲みたいな口調でいなした。
さゆみはグラタンに沈んだマカロニをフォークで突き刺して口に運ぶ。マカロニに絡んだ
ソースが熱かったが、我慢して飲み込んだ。「どう?」紗耶香が側のスツールに腰を預けて
尋ねてくる。「おいしいです」ほわんと笑いながら答えた。
「にしても後藤、中学生と高校生こんなとこに連れて来るなよ。この辺なら別に、
ファミレスとかマックとか色々あるじゃんか」
「いやぁ、近くだったし。一番美味しいとこだと思ったから」
「……ふぅん」
紗耶香はちょっとだけ困ったような、照れ臭そうな笑顔を見せた。
「それに……紺野、会わせてあげたかったし」
眉尻を下げながら目を細め、真希はそう言った。さゆみは二人と偶然会ったので完全な
イレギュラーだが、どうも真希は最初からここに来るつもりだったらしい。
「そか」わざと感情を隠したような呟きを洩らして、紗耶香が頷く。
二人の間に何があったのか、さゆみは知らない。
だからといって問い質すような事もしない。ハマってはいないが出来上がっているとは
思ったので、第三者である自分が口を挟むようなことじゃないと判断したからだ。
「ま……あんまり、困らせないようにね」
「まかしといて」
きしし、と歯を見せて笑う真希に、紗耶香はうんと頷いて視線をあさ美に移した。
- 311 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:44
- 「紺野さんだっけ? 色々と大変だろうけど、よろしく頼むよ」
「あ、は、はい」
「後藤がバカやったら遠慮なくわたしに言ってくれていいからね。ガツンとやってあげる」
「やーやー、紺野ってこう見えて本気で怒ると恐いんだよ? それにいちーちゃんまで
来たらごとー耐えらんないって」
冷や汗すら浮かんでそうな顔で真希が割り込む。
「そんなことないですよぉ」「いや、あるね」あさ美の気弱い反論をすっぱり切り捨て、
真希はグッと拳を握った。
「だってこの前なんか二週間くらい口利いてくんなかったもん。
いちーちゃん、判る? 紺野と二週間も喋れないごとーの苦しみがっ」
喉を押さえ、大仰に悶えてみせる。「わかんねーよ」紗耶香は呆れたように溜息を洩らし、
あさ美に向かってやれやれと肩を竦めた。
真希はすぐに飽きたのか、悶えるのをやめてジンジャーエールに口をつけた。
「まーでも、それからはちゃんとね、考えるようになったから」
「おっ、ようやく学習するようになったか」
「そうですよー。後藤は日々成長してんのよ」
「……だね」
あさ美はグラタンを片付けるのに忙しい。真希はその様子を穏やかに微笑しながら
眺めている。紗耶香の口元には安堵が見える。
残念ながら、参考にはならなかった。
- 312 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:45
-
☆
- 313 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:45
- 「なんでそういうこと言うかなぁっ。いいじゃん、夢だよ、浪漫だよ!」
放課後の校庭に響き渡った刺々しい声に、思わず振り返った。
高等部の方面から、里沙と男子生徒が連れ立って歩いてきている。二人とも制服姿だ。
当たり前といえば当たり前である。
さゆみは男子の方に見覚えがあった。中等部時代、野球部のユニフォームを着て
グラウンドを走っているのを、何度か見かけた事がある。
確か補欠だった。下級生と一緒になって球拾いをしていても、不満そうな顔ひとつせずに
黙々と作業をしていた。
三年生の最後の試合で一度だけバッターボックスに立って、内野ゴロに終わっていたが、
とても嬉しそうにしていたのが強く印象に残っている。
それは好ましかった。その部分だけなら多分、三番レフトでレギュラーを務めていた
恋人よりも。
彼は高等部でもそのまま野球部に入ったようで、中等部時代と変わらない坊主頭の
ままだった。
今日はクラブ活動は休みなのだろうか。
「アイドルなんかなれるわけないだろ」
彼が呆れたように言うのが聞こえる。里沙の手にはチラシのようなものが握られていた。
おそらくオーディションかなにかの募集が書かれているのだろう。
ちょっと、興味をそそられた。
- 314 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:45
- 「新垣さーん」まだこちらに気付いていない里沙へ向けて、声を上げる。
ふと視線を移した里沙が、さゆみの姿を見つけて相好を崩した。
「お? おーっ、シゲさーん! 丁度良かった」
里沙がぶんぶん手を振ってくる。それから小走りに駆け寄って来て、後ろから少年が
慌てたように追いかけてきた。
「いやー、実はシゲさんに用があったのよ。これ、絵里ちゃんに渡してくれるかな」
里沙がバッグから映画のDVDとプリントを取り出した。それを受け取り、さゆみは
問うように首を傾ける。
「絵里ちゃんに貸してあげるって言ってたんだけど、今日、絵里ちゃん休んじゃったから。
あと、英語の宿題。火曜日までって伝えといてくれる?」
「はい」
実のところ、さゆみの自宅と絵里の自宅は方向がちょっと違うのだが、話を聞くと
風邪を引いているらしいので、見舞いがてら顔を出す事にした。
DVDとプリントを自分のバッグにしまってから、さゆみは里沙の手に残っているチラシへ
視線を送り、ほわんと笑った。
- 315 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:45
- 「新垣さん、アイドルになるんですか?」
「え!? あ、いやいや、ちょっと試しに受けてみよっかなーって思ってるだけで、
別に本気で目指してるわけじゃ」
里沙が気忙しい仕草でチラシをスカートのポケットにねじ込む。その頬は軽く紅潮して
いた。そんなに恥ずかしがることじゃないのに、とさゆみは思う。
夢だろうが浪漫だろうが、何も持っていないよりいいのに。
ヤリタイコトガミツカリマセンとか、テキトウニヤッテイキタイデスとか
恥ずかしげもなく言うより、全然恥ずかしくない。
「どーせ無理だって」
少年が頭の後ろで手を組んで、「しょーもない」とでも言いたげな表情で憎まれ口を叩く。
それには少々ムッとしたようで、里沙は肘で彼の腹を打ちぬいた。「ごっ」油断していた
のか存外力が強かったのか、彼が小さく呻いて身体をくの字に曲げた。
「なにすんだ、ボーリョク女!」
「あんたがナヨっちいだけでしょ」
仲いいなあ。さゆみはほわほわと笑いながら口の中だけで呟いた。
「付き合ってるんですか?」
半ば当然のものとして聞いたのだが、里沙は大きく顔を歪めて「はあぁ!?」と言った。
- 316 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:46
- 「違うちがう。これは単なる友達。今だって、なんか勝手についてきただけだし」
「俺だってこっちに用事あんだよ」
「んじゃさっさと行けばいいじゃん」
「……うっせ」
彼はポケットに両手を突っ込み、里沙と目を合わせないようにそっぽを向いた。
その場を動く気配はない。ふーん。さゆみが小さく肩を竦める。
「新垣さん」
「ん? なに?」
「……なんでもないです」
ふるんと首を振り、「デビューしたらサイン下さいね」と冗談交じりに言って、
さゆみは二人に別れを告げた。
チョコレートが食べたいなぁ、と思った。
さゆみと判れた後、里沙は用が済んだので帰ろうと踵を返した。
「あんた、用あんでしょ? じゃあね」
「あー、ああ」
どことなく所在なげな表情で、彼は軽く手を振る。それを不思議に思いながら、里沙は
手を振り返した。
- 317 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:46
- 「なあ」
「なによ?」
「……マジでそれ、受けんの?」
ポケットに押し込まれたチラシを指差し、彼は微妙な顔と口調で言う。まだからかって
くる気なのかと、里沙は僅かに不機嫌な態度で頷いた。
「あ……そう」彼は坊主頭をガシガシ掻いた。
「なに?」
「いや……やめとかね?」
「なんでよ。あんたにそういう事言われる筋合い無いと思うんだけど」
そりゃそうだけどさぁ。幾分拗ねたような、唸り声を上げる直前の犬みたいな目を
眇めて、彼は溜息をつく。
「もし、もしだけど。万が一合格とかしたらどうすんだよ」
「いいじゃん。アイドルとか歌手とかいっぱい会えるよ。あ、なんだったらあんたの
好きな人のサインとかもらってあげよっか?」
「いらねーよ。そういうんじゃなくてな……」
深い嘆息が彼の口からこぼれる。
「……そうなったら、俺、困る」
「なんで?」
首を傾げながら里沙が問うと、彼は青臭い表情で天を仰いだ。
- 318 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:46
-
☆
- 319 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:46
- 「ねー矢口ー、やっぱ裕ちゃんも一緒に来てもらえばよかったんじゃない?
一人ぼっちじゃかわいそうっしょ」
大きな瞳を揺らせて言うのは、手すりに掴まっている小柄な少女。
「いいんだよ。裕子だって子供じゃないんだから。つーかオバハンだしね」
けけっと意地悪い笑みで言うのは、大荷物を抱えている更に小柄な少女。
二人はさゆみが乗っている電車の、さゆみが座っている座席の、さゆみが凭れかかって
いる仕切りの前に並んで立っている。
電車はそれほど混んでいないが、座席は埋まっていて何人かドアの前に立っている。
さゆみは席を譲ろうかと思っているのだが、声を掛けられる位置にいる二人は友人同士
らしいし、なにより若い。その物腰から自分より年上だろうと見当はつくものの、
それでもせいぜい二十歳そこそこだろう。
しかし、なんというかこの二人。
小さいのだ。
吊革に手が届かないらしく、二人とも寄り添うように立って、同じ手すりに掴まっている。
小さい方は背中に大きなバッグを背負っていて、電車が揺れるたびにバランスを崩して
「おっとと」とか言いながら踏ん張っている。
- 320 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:47
- さゆみはチラッと隣を盗み見た。サラリーマン風の青年が雑誌を読んでいる。
なんとなくいい人そうだ。席を詰めてくれるかもしれない。
「あの、どうぞ」
より大変そうに見える小さい方へ声をかけた。
「や、大丈夫ですよ」「いえ、すぐ降りますから」ありがちな会話をして、もう一人が譲って
もらいなよと言ったのを区切りに、位置の交換が行われた。
青年が雑誌を閉じ、「どうぞ」とぼそぼそした声で告げて立ち上がった。立ちっぱなしで
いた少女が礼を言って空いた席へ座る。
「矢口、よかったね」
「……うん」
「これから二時間くらいかかっちゃうもんね、優しい人達でよかったね」
「いいから、なっちちょっと静かにしてよ」
矢口と呼ばれた方が、少々うんざりした口調でたしなめた。「なんだい、矢口が退屈して
寝ちゃわないように話してあげてんのに」なっちとやらが拗ねたように唇を尖らせる。
「心配しなくても寝ないって」
「そんなこと言って、矢口いっつも寝ちゃうっしょ」
「でも着く頃には起きてんじゃん。しかも爆睡してるなっち起こしてやってんじゃん」
膝に乗せた荷物へ顎を預け、どこか揶揄するように言うのを、なっちはえへらと笑って
誤魔化していた。
- 321 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:47
- さゆみは吊革に掴まりながら、ぼんやりと小さい二人の会話を聞いていた。
「寝たかったら寝ていいよ。おいら起きてっから」
「寝ませんー」
「ま、いいけどね。でも、別について来なくてもよかったのに」
「矢口ひとりで行かせたら心配っしょ」
矢口はちょっとばかりムッとしたようだった。その表情がなんとなくれいなに似ていると
さゆみは思った。子供扱いされる事を嫌がる子供の顔。しかし、そう思った次の瞬間には
元の顔に戻っていた。
この二人、どこか旅行にでも行くのだろうか。矢口の大荷物はそう思わせるのに十分だが、
対照的に、なっちが持っている荷物は標準サイズのディバッグひとつだけだ。
人間には荷造りが上手いタイプとそうじゃないタイプがあるが、矢口は後者でなっちは
前者なのかもしれない。
自分たちはどうだろうと思い返す。れいなは軽装を好み、絵里は必ず何かを忘れる。
そしてさゆみは色々と詰め込むが無駄なものはあまりない。
最初から持っていくつもりがないれいなと、忘れちゃいけないものを忘れる絵里のために、
タオルやら何やらを多めに準備する癖がいつの間にかついている。
なんとなく、今では二人とも、それをあてにしている節が見えていた。
そういうことなんだよね。さゆみは胸中で呟いた。
- 322 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:47
- 「裕ちゃんのお土産、なんにしよっか」
「酒」
端的な返答に、なっちが喉を鳴らした。
さゆみは窓から外の景色を眺める。線路脇の建物には、大きな看板がいくつも掛けられて
いる。レストラン、エステ、ドラッグストア、カラオケ。ひとつひとつに書かれている
電話番号や所在地は、電車が速すぎて読み取れない。
「今日はちゃんと綺麗にしてあげたいね。お彼岸の時ってあんまり掃除とか出来なかった
んでしょ?」
「あー、うん。人集まったから、結構バタバタしてて。裕子はソッコー酔っ払ってたし」
ユウコという人はよっぽどお酒が好きなんだなあと、盗み聞いている会話について
感想を抱く。それ以外の推測はしなかった。
車内にアナウンスが流れる。目的の駅だ。吊革から手を離し、ドアの近くへ移動する。
電車が駅に到着し、さゆみがドアをくぐる頃、なっちは目を擦っていた。
- 323 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:47
-
☆
- 324 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:47
- 絵里の自宅へ赴き、彼女の自室へ向かう。れいなも来ているらしい。それを聞いた時は
このまま帰ろうかと迷ったが、せっかく来たんだし、と思い直して玄関を上がった。
控えめなノックをしてからドアを開けると、ベッド脇に腰を下ろしているれいなが、
やあ、という風に片手を上げた。もう一方の手は、絵里の両手に捕らえられている。
絵里は眠っているようだった。毛布から覗く顔が仄かに赤い。額には冷却シートが
貼られているので、熱があるんだろう。
「絵里、大丈夫?」
「んー、起きとる時は結構元気だった」
「そっか」
バッグを漁り、里沙から預かった物を取り出してれいなに差し出す。
「新垣さんから」「絵里に?」頷くと、れいなは渡しとく、とそれを傍らに置いた。
「絵里、さゆ来たよ」
寝顔に唇を寄せ、耳元でれいなが囁く。起こしたいのか起こしたくないのか、微妙な
声量だった。さゆみはそれが気に入らなかったが、表情には出さなかった。
「……ん」絵里が小さく呻いて身を捩る。薄く目を開け、穏やかに微笑するれいなを
見つけると安堵したように息をついて、その首筋に腕を絡めた。れいなは彼女の髪を
撫でる。「ほら、さゆ」促す声に絵里が目線を上げ、さゆみにふにゃりとした笑みを向ける。
「あー、さゆー」
嬉しそうな声に、さゆみはほわんと笑った。
- 325 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:48
- 「新垣さんからプリントとDVD預かってきた。プリントは火曜日までだって」
「ありがと。さゆも一緒に観よ?」
「絵里、あんた風邪引いとるんっちゃから、寝とらんと駄目」
「んむー」
起き上がろうとした絵里を、れいなが押し留めてベッドへ戻す。絵里は不満げに眉を
寄せたが、弱っているせいか大人しくそれに従った。
ほわりほわりと笑いながら、さゆみはそれを眺めている。
チョコレートが食べたくなった。
「ねえ、さゆー」
「なに?」
目線だけをさゆみにくれて、絵里が僅かに眉を寄せた。
「……ごめんね」
「なんで?」
「……ううん」
さゆみは苦笑みたいに息を洩らした。
謝る必要なんてどこにもないのだ。別に誰も悪くない。
彼女だってそれくらいは判っているはずで、それでも謝らずにいられなかったんだろう。
れいなは判ってなくてきょとんとしている。それだって別に、悪い事じゃない。
判らないなら判らない方がいいのだ。
- 326 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:48
- 自分たちの形が崩れかけていることなんて気付かないままでいて、そうして知らぬ間に
変わっていた方が、きっと幸せだから。
「絵里はさゆが大好きだよ」
「うん。私も絵里が好きだよ」
「なんね、あたしは? あたしは好いとらんの?」
二人のちょうど真ん中に位置しているせいか、れいなは忙しなく首を左右に廻らせながら
割り込んできた。「好いとらんわけないでしょーっ」さゆみがほわんと笑ってれいなに
飛びつく。「あーっ、絵里もーっ」更に絵里まで加わって、れいなは自分より大きな二人に
押し潰された。
「うあぁ! ばっ、おも……っ! ちゅーか絵里! あんたは寝とけー!」
絶叫するれいなを、絵里と一緒になってぎゅうぎゅうと抱きしめながら、
さゆみは楽しくて笑っていた。
楽しいなあと、本当に思った。
- 327 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:48
-
あまり長居をしても絵里の身体に障るということで、れいなとさゆみは頃合を見て
絵里の家を辞した。れいなと並んで歩く。さゆみの自宅まではバスでも電車でも
向かえるが、ここからだとバス停の方が近いのでそちらを選んだ。
れいなは特に何も言う事なく、さゆみに付き合っていた。それが当たり前だと思って
いるんだろう。
それを当たり前だと思っている内は、さゆみは二人から離れられない。
「れいなは絵里んとこいればよかったのに」
「んー、もう帰ろうと思っとったし。病気の時は、あん、……」
「安静」
「それ。安静にしとらんと駄目っちゃろ」
ふぅん。さゆみが小さく呟く。絵里は彼女といる時、安らいだり静まったりしていないの
だろうか。落ち着かなくなったり、妙に気が急いたりするんだろうか。
昔はそうだったなあ。空を見上げ、回顧する。
まだ彼に対してちょっとばかり浮ついた憧れしか抱いていなかった頃。告白をして、
ちゃんとしたオツキアイを始めた頃。
その頃は確かに、安らぎも静まりもしなかった気がする。
顔を見るだけで嬉しくて、声を聞くだけでドキドキして、手を繋ぐだけで切なくなった。
青い、と言ってしまえばそれまでだった。
「……れいなはオトナになんなきゃ駄目だよ」
「なんね、それ? 絵里ん方が年上なのに」
「絵里はもうオトナだもん」
「えー? うそぉ」
さゆみの言葉を冗談だと解釈したのか、れいなは眉を上げてから、わざとらしく笑った。
その拙い表情を見て、さゆみはれいなにキスをするか鼻を捻り上げるか、どちらかを
したくなったが、どちらもしなかった。
- 328 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:49
-
☆
- 329 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:49
- れいなと絵里は仲が良い。
れいなと絵里は手を繋がない。
さゆみは二人の半歩後ろを歩いている。
今日はれいなが15歳になった日である。
二人はこれから向かうカラオケボックスの、バースディ特典について話している。
ふと思い立って、足を止めてみた。
二歩。
それが、さゆみに許された解放の時間だった。
「……ん? さゆ?」
「なにしてんの? おいてっちゃうよ」
言葉とは裏腹に、二人ともその場に立ち止まっている。
許されないブランク。
閉ざされないフランク。
鬱陶しいまでの青臭さ。
れいなと絵里が手を差し出してくる。
華奢な身体と幼い表情。
さゆみはチョコレートが食べたくなった。
チョコレートを食べる代わりに、ほわんと笑って彼女たちの手を取った。
何にも包まれていない、寒々しいまでに清々しい青の光景。
眩しいような、寂しいような。
《NAKED BLUE.》
- 330 名前:『MAKE IT TRUE』 投稿日:2004/11/11(木) 00:50
-
- 331 名前:円 投稿日:2004/11/11(木) 00:50
- 以上、『MAKE IT TRUE』でした。
自分は田亀好きですが、6期トリオはもっと好きです。
- 332 名前:円 投稿日:2004/11/11(木) 00:51
- レスありがとうございます。
>>286
あわわ、これはやはり、責任を取る方向で(逃走)
>>287
ものすごく期待外れになってしまった悪寒がしまつ(苦笑)
>>288
出会いはちょっと、書くかどうか迷ったんですが。そしてやっぱり困った時の
かっけー人頼みに……_| ̄|○
>>289
あまりダラダラと続けてもアレかな、と。
……いえ、十分中だるみしてますけど。・゚・(ノд`)・゚・。
- 333 名前:円 投稿日:2004/11/11(木) 00:51
- といったところで、『君は僕の宝物』は終了です。
当初、400KBで収まるように始めたものの、終わってみれば700KB超。
なぜ最初から長編用にスレを立てなかったのかと、自分で自分を小一時間(ry
しかしながら、執筆期間・量ともに自己最高だったせいか、どれもこれも
思い入れの強い作品群となりました。
これまで、スレ容量が余ってると全く別の短編を載せたりしてたんですが、
本スレに関してはやめておこうと思います。
なんとなく、ここはこの子達だけでまとめたいなーという感じなので。
それでは、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
今後スレを立てる予定はありませんが、たまに名無しでどっかに書いたりするかも
しれません。
それっぽいのを短編スレあたりで見かけたら、生温く見守ってやってください(笑)
- 334 名前:円 投稿日:2004/11/11(木) 00:51
- 田中さん、15歳おたおめ。
- 335 名前:前スレ124 投稿日:2004/11/11(木) 01:05
- 完結お疲れ様です。
毎回タイトルを見てタイトル曲を思い浮かべながら読んでましたw
今後スレ立てしないというのは残念ですが、また作品読みたいです。
- 336 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/11(木) 13:19
- すばらしい作品でした。。。
ありがとう、ばり好いとぅーー!!!
- 337 名前:名無し飼育。 投稿日:2004/11/11(木) 23:32
- 完結、お疲れ様でした。
完成された画像の世界。楽しませていただきました。
ちゃんと画面の奥に彼女達の居る世界。
ハラハラしながら見入っておりました。魅入られたんで。
エンドロールを泣きそうになりながら観てる気分です。
いつか、また。
私もCD引っ張りだしてくることにします(笑)。
- 338 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/11(木) 23:39
- れいなお誕生日おめでとう(泣
- 339 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/12(金) 00:33
- お疲れっしたぁーー!!!!!!!
そして、ありがとうございました!
何もかも好きでした。これからお気に入りのチェックが
一つ減るのかと思うと寂しいものがありますが
とにかく、本当に、本当にありがとうございました。
- 340 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/12(金) 01:06
-
初めて書き込みします。
本当に今までお疲れ様でした。
まるで映画を観ているかのような感覚で、
作者様の文章力に感嘆というか感服いたしました。
その場面一つ一つを克明に思い出せる位、私の中で色付いています。
どれもめちゃくちゃ大好きです。
最後に素敵な作品を届けて頂いて、本当にありがとうございました。
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