空気銃
- 1 名前:作者 投稿日:2004/09/10(金) 00:12
- 後藤さん中心、アンリアルです。
- 2 名前: 投稿日:2004/09/10(金) 00:13
- カードキーを縦にスライドさせる。ピピピ、と鳴いて
一瞬だけのシグナル・グリーン。
打ちっぱなしのコンクリート壁に囲まれた円筒形の
建造物。
外側を沿うように存在する十三段の階段を昇りきると
左側に黒い扉があり、奥から不揃いの足音が途切れることなく
響いている。
扉はロックされている。こちらは指紋照合が必要だった。
照合機器に人差し指をあてて、今度はロックが解除される
カチン、という音だけが聞こえた。
この扉の不思議なところはロックが解除されても
自動でそれが開かないというところだった。
恐らくはただの鍵付きの扉だったのだろう。
侵入者や不審者が現れたための応急処置が
この照合機器なのではないだろうか。
ドアノブを廻すと
不揃いだった足音の正体が現れた。
- 3 名前: 投稿日:2004/09/10(金) 00:13
- 「おー高橋じゃん、紺野も」
後藤真希は特に驚くわけでもなく二人に呼びかけた。
呼ばれて振り向いたのは黒い衣服に身を包んだ二人の少女で、
真希の認識では『ポニーテールでちょっと釣り目』が高橋で、
『触ったら気持ちよさそうな頬でタレ目』が紺野である。
「ごとー」
「さん」
高橋も紺野も直前までステップを踏んでおり返事をするのが
そのステップを止めてからだったので返事に時間差が生まれたが、
二人で丁度一つの返事として成り立ったので真希は何となく
それが可笑しかった。
「二人とも汗だくだね。ここもう閉めるよ」
微笑みながらカードキーをひらひらさせると
真希の背中からもひらひらと白いものが落ちていった。
- 4 名前: 投稿日:2004/09/10(金) 00:14
- 「え、もうそんな時間やったんか」
聞きなれたはずなのに毎度異質に聞こえるイントネーションで
高橋が驚いている。
目と口もたいそう驚いていた。
額に浮かぶ汗や上下に大きく揺れる肩。
ステージの幕が下りた後も夢中で踊り続けていたらしい。
「…ほんとだ、もう夜が明ける」
紺野が空を見上げて呟いた。
天井は吹き抜けになっていて空の様子が一目瞭然である。
東の空が白んできていた。
- 5 名前: 投稿日:2004/09/10(金) 21:38
- 高橋と紺野を引き連れて再び扉を開け、今度は階段の
反対側へと歩き出す。
奥の通路には途中でワインレッドの仕切り布が掛けてあるので
それをくぐる。
通路はまだ続いている。真希を先頭に奥へ奥へと歩く三人。
「汗流したら屋上に来てよ。先に行ってるわ」
『STAFF ONLY』の札が下がっている扉の前で真希は天井を
指差して二人に指示した。
「はい」
「すぐ行きます」
生真面目な二人は汗だくでも背筋を伸ばして
それに答え、扉を開けて中に消えていった。
向こう側から施錠の音が聞こえて通路に一人きりになった
真希は歩いて来たそれの床を眺める。
白い羽根がいくつか床に落ちている。
「またゴミ増やしちゃったなー」
独り言を呟いて舌打ちした。
- 6 名前: 投稿日:2004/09/10(金) 21:38
- 屋上は心地よい風が吹いていた。
夜明けで肌寒いかと思いきやそうでもなく、後から来た
湯上りの高橋、紺野などは涼しくて気持ちいいと言いながら
両手を広げて全身に風を受けている。
真希は屋上の周囲に設置されている手摺に身を預けて
そんな可愛い後輩達の様子を満足そうに眺めた後
「二人にあげたいものがあるんだ」
と切り出した。
両手を広げてはしゃいでいた二人はそのままの姿勢で
ピタリと動きを止めた。アゲタイモノ?と素っ頓狂な
声を出したのは高橋だ。
紺野は少し勘違いしているのか食品関係の想像を
してしまったらしく疲労が抜けきれていなかったはずの
目がキラキラしている。
真希は手摺から体を起こした。
- 7 名前: 投稿日:2004/09/10(金) 21:39
- 両足を肩幅より大きく開き
胸を張り
全身の力を一度抜いてから
「この」
空を飛ぶ鳥のイメージを脳裏に思い浮かべる
広がった両翼が追い風を受けて前方に撓る
「羽根を片方ずつ高橋と紺野にあげるよ」
- 8 名前: 投稿日:2004/09/11(土) 19:49
- 高橋も紺野も絶句した。
言葉は理解できたが意味は理解できなかった。
『羽根』は確かに真希の背中から生えているが、これを
あげる、ということがどういうことなのかさっぱり
わからない。
「あの」
高橋が言う。
『あ』の部分にアクセントがついていて妙だ。
「んぁ?」
「それごとーさんのじゃないですか」
「そだよ。でも、もう要らないから」
要らないって、紺野が小さな声で真希の言った事を繰り返す。
真希はもう一度羽根を広げて、己のそれを仰ぎ見た。
「これあるとさ、ウタ歌えないから。アタシは踊るためだけに
ここに居るのはもう嫌なんだよね」
- 9 名前: 投稿日:2004/09/11(土) 19:50
- 紺野はその言葉を聞いて真希の魂胆を理解したが、
それはとても危険なことだ。
『羽根』が無くなれば確かに人間として下界に降りる事ができる。
自分達には今のところ羽根は無いが、生えてくる可能性がゼロ
ではないために下界に降りることはできないし、特別ここを
離れたいという理由はない。
何より踊ることを生業にしているのだから。
それに比べて下界はここのように決められたことしかできない
場所ではない。
自由だ。
しかし自由とはとても大変なことなのだ。
何でも全て自分で決めなくてはいけない世界だ。
そもそもこちらとあちらでは言語が共通なのか
どうかもわからないそうだ。
それに
「後藤さん、下に降りたら…ここでの記憶が無くなっちゃうって、
中澤さんが言ってました」
「うん、知ってる。でも性格は一緒でしょ」
真希は飄々としていた。
高橋は慌てた。
- 10 名前: 投稿日:2004/09/11(土) 19:50
- 「羽根なら!羽根ならあたしたちもあともう少ししたら生えますで…
だから行かんといて下さい!」
「はは、高橋ちょっと違うよ?自分だけが羽根あるのが辛いからって
意味じゃない」
「でも、今のメンバーの中で羽根持っとるのごとーさんだけや…
他がいつまで経っても成長せんから…」
「確かにそうだけどね、アタシ二人は絶対そのうち生えると思うよ。
…おぉっとっと」
強風が吹いて広げていた羽根がそれを受けて体が持って
いかれそうになった。
苦笑いしてそれを折りたたむ。
羽根が無くても屋上の風が徐々に強くなっているのか、それとも
自分の説得に必死になりかけているのか、正面にいる高橋と紺野が
前傾姿勢になっていた。
「さっきも言ったけど、アタシ本当は踊るより歌いたいんだ。
ここでは踊ることしかできない。…運良く能力高くて羽根も生えた
けどさ、得意なことと好きなことは別じゃん」
「ダンス嫌いやったんですか?」
「いや?…好きじゃないけどね」
- 11 名前: 投稿日:2004/09/11(土) 19:50
- その一言に高橋は明らかにショックを受けているようだった。
仕様が無いだろう。彼女は自分のダンスを手本にしていると言っていた。
そしてそれは多分紺野もだ。
向こうからそんな話を聞いた事は無いが、よく高橋と一緒に
自分のダンスレッスンを見学していたのを知っている。
「悪いけど、もう決めたんだ。…二人はダンス好き?」
「好きやけど…」
「好き…ですけど」
だったら、と言いかけた時高橋がそれを防いだ。
「でも後藤さんから羽根もらってもたら、あとからそれが生えてきても
自分の実力やないってことや」
羽根を譲ると言うのは具体的に言うと自己の能力を他人に
吸収してもらうと言うことだ。
能力に優劣があれば高い者から低い者へと吸収される。
方法は体液を嚥下すること。
以前病に倒れ引退を余儀なくされた羽根を持つメンバーが
親友にその能力を譲るために自分の涙を飲ませた、というのは
有名な話だ。
- 12 名前: 投稿日:2004/09/11(土) 19:51
- 真希は一つ、高橋に隠していることがあった。
いやただ単に高橋自身と、それに紺野も気付いていない
だけなのかもしれないが、
本当なら高橋にはとっくに羽根が生えているはずだった。
しかしここ一月ほどで、高橋の実力が落ちた。
全体を通すと一通り踊れるのだが、微妙にテンポがずれるようになった。
本人もそれをかなり気にしていて、だからこそ今日も夜が明けるまで
こうして自主錬に励んでいたわけだ。
そして紺野はというと、高橋と正反対の成長を遂げていた。
ずれていたテンポが噛みあうようになってきていた。
真希にはこの二人の変化の理由がすぐにわかった。
羽根が生えていなくても
体液を嚥下すれば
能力は相手に吸収されてしまうのだ。
……別に、それをどうこう言うつもりは無い。
毎日同じ場所で同じダンスをしている仲間内で、そんな関係が
できあがっても不思議ではない。
- 13 名前: 投稿日:2004/09/11(土) 19:51
- 「でもアタシはどうせなら高橋と紺野にあげたいんだよね」
「そんなの、私と愛ちゃんを甘やかすだけです」
「ほうや」
真面目だなあ、と思う。
知らぬ間に無知であるが故の罪を背負っていることも知らない
後輩二人ではあるが。
「じゃあどうしよっかな。これ誰かにあげないと消えないんだよね」
「ほやから行かないで下さいって」
「ずっとここに居てください」
「……よし、わかった」
真希はパン、と手を叩いて大きく頷く。
高橋と紺野はそれを見てパッと表情を輝かせた。
「行かんのですね?!」
「よかったあ」
「だってしょうがないじゃん、そんな必死になられたら」
言いながら真希は高橋の方に歩み寄る。
心底安堵したらしい高橋は近づいて来る真希を笑顔で迎えた。
…高橋ゴメンよ!
- 14 名前: 投稿日:2004/09/11(土) 19:52
- 「?…ごとーさ、ン?!」
隙を突いて高橋の腕を掴み無理矢理唇を奪う。
唾液を流し込む。あっさり落ちていった。
「わぁあ!!」
紺野が叫んでいるが気にしない。
っていうかさ、これはあんたたち二人のためでもあるだよ!
「………ぷはっ」
「なななな、ごごごごごとさん、何」
離れてみたら彼女は首まで真っ赤になっていた。
その赤面っぷりについニヤニヤしてしまう。
初めてじゃないくせに、とは言わないでおいた。
「何か意地でももらってくれないみたいだったから
こうするしかないかな〜って。ぜーんぶあげちゃった」
紺野は…と隣を伺ってみると、握り締めた両拳がプルプル
震えている。
爆発する前にトンズラした方がよさそうだ。
幸い羽根は今の行為の直後に収縮をはじめている。
- 15 名前: 投稿日:2004/09/11(土) 19:52
- 「じゃっ!後藤は撤収します!」
二人に敬礼して数メートル向こうにあるボイラー室を見やる。
あの向こう側に新しい世界がある。
駆け足でそこへ向かった。
「ご、ごとーさん待って!うわ、羽根もう無くなっとるやん!」
「………」
高橋はテンパりまくって紺野は無言。きっとその胸中は色んなものが
渦巻いているだろうけど、構わず扉のノブを握った。
振り返る。
「二人とも知ってた?ここボイラー室なんかじゃなくて入口だって!
裕ちゃんが仕事サボってここで煙草吸おうとした時に見つけたんだよ」
ああ、何だかとてもワクワクしてきた。
こんな笑顔になったのも、それを誰かに見せたのも久しぶりだ。
「それじゃー行くね。二人ともゴメン、それからありがとう!
…バイバイ!」
立ち尽くす二人に向かって手を振ったが
ちょうど太陽がその背後に昇ってきて逆行で表情は伺えなかった。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/12(日) 11:25
- 初レスです。
面白いです。下界に降りた後藤さんも気になるけど
残った高橋紺野も気になる。
- 17 名前: 投稿日:2004/09/14(火) 20:32
- ―羽根自分で無くしちゃったらここで生きていけないの?
―そんなことないで。まあ、裏切り行為には違いないから
遅かれ早かれ追放処分になるけどな。
―追放ってどこに?
―下界。下界のことはウチらにもまだわかってないことがぎょーさん
あるから、落としてみて調査させるっていう意味もあるんやて。
―なんだ、じゃあ好都合じゃん。
―……でもここに居た頃の記憶は消されてるし、死ぬまでずっと
お上に監視されてることになるんやで。
―だって下に行ったらそのこと自体忘れてんでしょー、問題ない。
―ごっちん、悪いこと言わんから止めとき。下はいい事ない。
ずっとここに居った方が何倍も幸せな暮らしができる。
- 18 名前: 投稿日:2004/09/14(火) 20:32
- ―死にたくなったりするかな?
―……あるかもしれんなあ。
―そっかー、そしたらさ裕ちゃん、本当に辛そうにしてたら
殺しちゃって良いから。
―何ワケわかんないこと言うてんねん。
―できるんだよね?きっと。ていうか調査って目的だったら
最終的に処分されるはずだもんね。
―…ごっちんそれ気付いて
―裕ちゃん管理職だからきっと下に行ったアタシのことも
見てるんだよね?だったらさほんとコイツもう駄目だなって
思ったら一思いにやっちゃってよ。裕ちゃんがいい。
―…約束はせんよ。
- 19 名前: 投稿日:2004/09/14(火) 20:33
- 『空気銃』
- 20 名前: 投稿日:2004/09/14(火) 20:33
- 大学に入学してすぐ、勧誘されたダンスサークルに入った。
それなりに楽しく過ごしてきたが、三年生になったこの年、
人間関係でイザコザが起こり、後藤真希は先日サークルを辞めた。
とはいえ実際のところ、ダンス自体に興味が無くなり部室にも
友人達とのおしゃべりの為に赴いていたくらいだったので、
本人は丁度良かったと思っている。
大学生活も三年目になると授業も減り、真希は自宅に篭ることが
多くなった。
ちなみに入学当初は『独り暮らし』だったはずの自宅に、
今は三人で住んでいる。
「ごっちん、ごっちーん」
「…んぁ?」
ソファで寝転がって雑誌を読んだままいつのまにか眠ってしまっていた
真希は、同居人の一人である藤本美貴に揺り起こされた。
「亜弥ちゃんとコンビニ行ってくるけど何か欲しいもんある?」
「………アイスー」
「おっけー」
- 21 名前: 投稿日:2004/09/14(火) 20:36
- 美貴の台詞の中に出てきた『亜弥』も同居人の一人だ。
真希は答えた後すぐさま再びウトウトとし始める。
直前に美貴の声を聞いたせいか夢の中に美貴が出てきた。
その前にもう一人の同居人、松浦亜弥について触れなくてはならない。
真希と亜弥は幼馴染である。年齢は真希の方が一つ上だ。
亜弥は小さい頃から芸能人になりたいという夢を持っていた。
年齢を重ねるにつれその夢は『なりたい』から『なってみせる』に
変わった。
真希が実家から離れた都市部の大学に合格し独り暮らしを始めたその翌年、
高校を卒業した亜弥は自分で生活費を稼ぎながら某有名タレントスクールに
通いたいと言うプランを帰省した真希に話した。
スクールは大学と同じ都市部にあり、よくよく事情を聞くと両親は
あまりいい顔をしていないということだったので、昔から、
それこそ物心ついた時から亜弥の夢を知っていた真希は亜弥を自分の部屋に
招き入れることで彼女の両親を納得させた。
- 22 名前: 投稿日:2004/09/14(火) 20:37
- 折角の独り暮らしなのに、とは真希の友人の台詞だが、
そのあたりのことはあまりこだわっていなかった。
亜弥とはもう家族同然の関係をこの十数年で作り上げてきて
いたし、余計な気遣いも必要が無い。
それにどうも、一年暮らしてみてわかったことだが、自分には
独り暮らしは向いていないようだった。
寂しいとは感じないのだが、自宅に独りで居るとどうも気が抜けて
何もする気が起きないのだ。
一度だけダンスサークルの合宿に参加したことがあるのだが、
なんだかとても居心地が良かったのを憶えている。
真希は一人っ子であり核家族で育ったのだから寧ろ集団生活という
のは苦手であるはずなのに、まるで本当は大家族の
中で育ったのではないかと思ってしまうほど、自分が自分らしく
いられる雰囲気がその合宿の生活の中に感じられた。
そんな感じなので、亜弥との同居は何の問題も無かったのだ。
- 23 名前: 投稿日:2004/09/14(火) 20:37
- そして藤本美貴であるが、彼女はもともと亜弥がバイト先で
作った友人だった。
美貴は将来保母になりたかったのだが、彼女の家は兄弟姉妹が
多く家庭の事情で学費を支払うことができないという理由で、
進学を断念して悶々としながらバイトに精を出していた。
実家から通っていたが、進学問題で両親とモメてから関係が
うまく行っておらず、家を出たがっていた。
そこに亜弥が口を出した。
そう、真希の部屋で一緒に住もうと持ちかけたのだ。
普通の感覚だったなら非常に迷惑な話だが、真希はこれも
甘んじて受け入れたのである。
真希の夢の中で美貴は、
「貯金溜まったらすぐ出て行くけど、それまでに
美貴にできることがあったら何でも言ってよ」
できないことはできないって言うけど、ときっぱりはっきり
言い放って、真希に人懐こい笑顔を見せた。
- 24 名前: 投稿日:2004/09/14(火) 20:38
- 松浦亜弥、藤本美貴と三人で一緒に暮らしている、
ちょっとやる気の欠けた大学三年生。
それが下界での後藤真希。
- 25 名前:作者 投稿日:2004/09/14(火) 20:40
- >>16 名無飼育さま
レスありがとうございます。降りた一人と残った二人、どうぞ温かい目で
見守ってあげてください。
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/19(日) 18:53
- 内容と題名がどう関わってくるのか
今後の展開が楽しみです
どっちの世界も気になりますね
- 27 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/30(木) 20:00
- 面白い世界観ですね
キャラもいい
続き待ってます
- 28 名前: 投稿日:2004/10/06(水) 23:17
- 「愛ちゃん」
今宵も舞踏館の演目が無事終了し、メンバーは思い思いに楽屋を
後にしている。
舞踏館、そう、真希が以前エースとして白い羽根を舞い躍らせていた場所だ。
この世界の文明は下界とさほど差は無いものの、芸術分野に
関してはまた認識が異なり、それに関わる人物の社会的地位はかなり上位に
ランクインされる。
またそういった人材の育成にも世界的に力を注いでおり、
この舞踏館もその一つであったが、
当初ダンサーの育成に重きを置いていたはずのこの館も、どこで
どう道を誤ったのかいつしか成金どもの娯楽の対象となってしまった。
ステージ前にはカメラが置かれ、
毎晩限られた権利を持つ者だけが彼女達のダンスを視聴することが
できるというシステムに変わってしまったのである。
- 29 名前: 投稿日:2004/10/06(水) 23:17
- 真希がここに入館した当初は、観客席はいつも満員状態で、
オーディエンスの声援や熱気を受けながら毎回最高のステージを
作り上げてきた。
ところが、ある日突然目の前に誰もいなくなった。
代わりにあるのは、無機質で冷たいカメラの目。
それでもこの向こう側には自分達のダンスを楽しんでくれている
観客がいると信じて真希は精一杯踊り続けた。当然他のメンバーも。
高橋愛と紺野あさ美はそんな折に舞踏館に入館した新メンバー数名の
うちの二人である。
彼女達はまだ『本物の観客』の前で踊ったことが無かった。
- 30 名前: 投稿日:2004/10/06(水) 23:18
- 「おーあさ美ちゃん、お疲れー」
無事演目を終えた達成感を胸一杯に感じながら、
楽屋裏の通路であさ美に声をかけられた愛は振り返る。
あさ美は安堵した。演目に入る直前まで、先日の真希の暴挙が発端で
二人の間に会話が無かったのだ。
「えっと…ごめんね?」
「え?……ああ」
あさ美は愛の隣に並んで彼女の顔を覗き込みながら謝罪し、
愛は目を合わせて軽く相槌を打った。そういえばそうだった、
とでも言いそうな表情だった。
「もうええよ。踊ってたら忘れた」
「みたいだねえ、愛ちゃんらしいよ」
穏やかな空気。はにかんで笑いあう。
- 31 名前: 投稿日:2004/10/06(水) 23:18
- 「ごとーさん、元気かなあ」
「……さあ……?」
事件のあと、現場に居た二人は管理職・中澤裕子に呼び出され、
今回の件は他言無用、真希は教育者として他の養成機関に
移籍したことにする、とだけ言い渡され解放されたのだった。
真実を知っている以上に秘密を共有していた二人であったので、
事態を穏便に済ませる以外のことは考えることが出来ず、
ひとまずは中澤の言う通り振舞うことに決めた。
舞踏館は閉塞的な場所で、外部からの情報と言うものは
そのほとんどが館内スタッフからしか与えられない。
そしてその命令は絶対だ。
よって、中澤を通じて真希の『移籍』を知った他のメンバーは、
突然の報告に驚きを隠せない様子ではあったものの、
彼女自身の才能・実力・そしてその証拠である羽根の存在もあって、
皆一様に納得した様子だった。
- 32 名前: 投稿日:2004/10/06(水) 23:18
- 「それより」
あさ美は歩を進めながらも声を潜める。
意識して抑えた声量、それで抑圧された何かが歩みのスピードを
早めることで解放されていた。
多少気持ちが昂ぶっているようだ。
「あれから、上達、してる感じ?」
ああ言葉がうまく出てこないな、ヤキモチって焦るばかりじゃなくて
言葉も不自由にしてしまうんだ。
「えぇー…」
隣の愛はあからさまに困惑した様子を見せた。
あさ美の奇妙な言い方にひっかかったわけではなく、どう答えていいのかが
自分でもよくわからないようだった。
- 33 名前: 投稿日:2004/10/06(水) 23:19
- 「あんなぁ、いまいちピンと来ないんやけど前より元気ん
なったよーな…」
「疲れにくくなったってこと?」
「ほやからピンと来ないんやって。調子いい時はいつも
こうやったような気ぃするし、…なんつーかなこう、
手足がいつもよりほんのちびっと伸ばせてるかなーっていう」
具体的なんだか抽象的なんだかいまいちわかりかねるが
やはり多少良い影響を受けているらしい。
あさ美は想像する。
羽根の生えた愛の姿を。
そうして思い描いた愛はこちらに背を向けており
どんな表情をしているのかまでは想像できなかったが。
そこまで考えたくも、無かった。
- 34 名前:作者 投稿日:2004/10/06(水) 23:24
- >>26 名無飼育さま
レスありがとうございます。
もともとこのタイトルを使いたくて始めましたので、必ず関連性は
持たせます。
>>27 名無飼育さま
レスありがとうございます。
あまり長い話ではないのですが私事によりたびたびお待たせ
するやもしれません。すいません…
- 35 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:19
- 真希達三人が生活するマンションの一室。
今晩の食事当番は美貴だったので、問答無用で焼肉セットが
食卓に出された。
美貴は無類の焼肉好きなのだった。
「美貴たん野菜が少ないよー」
「野菜高いんだもん。予算内に収めようとしたらどうしても
こうなっちゃんだよ」
「ミキティ、三人しか居ないのに六人分の肉があるとこに
問題があると思うんだけど」
ホットプレートの脇にある大皿には焼かれるのを待っている
生肉がてんこもりになっている。
「五人分じゃ足りなくない?」
「たん、だからそういう問題じゃないって」
亜弥が箸の先を美貴に向けて笑った。
それを見て真希も鼻先で笑う。
「…真希さん今日も一日どこにも行かなかったの?」
箸の先を引っ込めた亜弥が真希に問うた。
ややあって
「あー、うん」
気の無い返事が返ってくる。
- 36 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:19
- 「よく退屈しないねえ」
「今んとこ、やりたいことがなくってさ」
「ダンスは?」
「亜弥ちゃん!」
美貴が亜弥を制した。
亜弥は己の失言に気付き口元に手をあてたが、
しっかりと真希の耳には届いてしまっている。
「あはっ、いいって気遣わなくて。
ダンスは辞めたよ、もう」
碗から白米を一口分、ゆっくりと口に入れて咀嚼した。
味が無かった。
真希は幼い頃からダンスを習っていた。
もともとはただの習い事の一つだったのだが、
たいしたもので、すぐさま彼女はその才能を開花させる。
自然高まる周りの大人たちの期待。
褒められると純粋に嬉しかった。
しかし楽しいかったかと言うとそうでもない。
子供らしく、褒められたいから、踊っていた。
- 37 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:20
- だが
年齢を重ねるにつれ真希は自分が踊るたびに
賞賛を浴びることに違和感を感じた。
自分としては、できるからやっているだけのことで、
勿論努力はしたが、苦労はしていなかった。
周りを見渡せば
自分より上手に踊れる人間が居なかった。
おごり高ぶりでも何でもなく本当に初めから後藤真希と言う
人物にはダンスの才能があったのだ。
そういう立場の者が周囲で苦心惨憺しつつも
一つのステップやターンを確実に自分のモノにしていく
仲間の姿を見て何を思うか。
空しい。
…受験のため通っていたダンススクールを辞めて
受かった大学で心機一転、新たな気持ちで踊ることを再開した
彼女だったが、抱く思いと才能は変わっていなかった。
真希はある時その思いをうっかり大学のサークルメンバーに
漏らしてしまい、相当な反発を食らった。真希を尊敬していたと言う
後輩達は目に涙を溜めて抗議したし、先輩連中は何を
勘違いしているんだと激怒した。
- 38 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:25
- サークル内で中心的存在だった後藤真希の人望は
あっという間に失墜。今は辛うじて仲間内だけで留まって
いるが、いつ無関係の友人達にまで悪評がもたらされるか
わかったものではない。
真希が部屋からあまり出ようとしなくなったのも
それがきっかけで、しかし、事情を知っても同居人の亜弥と
美貴はそんな彼女のことを決して責めない。
美貴はもともと居候という立場ではあるが、それ以前に
真希に同情できる要素を一つ持っていた。
自分にもどうすることもできない嫉妬心を抱かれたことがある、
という一つの経験。
亜弥に至っては当事者である真希以上に感情を乱れさせた。
彼女は知っての通り歌手になるための努力を怠らない、
件のサークルメンバーと似通った立場ではあるが、彼らとは
向上心のレベルが桁違いだ。
遊びや馴れ合い目的でサークルに在籍している者も居る。
それを棚に上げて真希を責めるなどもっての他だ、と
目を吊り上げていた。
- 39 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:26
- もっとも、彼女は多少身内に甘い部分があるので、
真希自身がサークルに入った理由が賞賛を浴びたいがためだったと
知ってもそれはそれで、ただ一方的に批判されているという
現状にのみ憤っていたのだが。
「そうそう、今度受けるオーディションなんだけどね」
身内思いの努力家が食後のコーヒーを啜りながら
目を輝かせている。
「あ、そういえば申し込みっていつなの?」
先に亜弥と真希の分のコーヒーを淹れた美貴は今漸く
自分のカップに砂糖を入れ、スプーンでそれをかき混ぜながら
亜弥の話題にのった。
- 40 名前: 投稿日:2004/10/08(金) 22:27
- 「事前申し込みは要らないんだって」
へぇ、と漏らした真希はコーヒーを一口飲んだ直後で
相槌なのかほっと一息ついたのかよくわからない。
「じゃあいきなり会場行っちゃっていいんだ。人多そうだね」
「きっとそれが狙いだよ、何となく受けてみた中に実は
すごいのが隠れてるのかもしれないからって」
「そっかー、なるほどね」
そうなると時間も費用もどのくらいかかるのか一介の大学生である
真希には見当もつかないが、そういう企画を立ち上げるあたり
なるほどあちらの世界も人材不足なのだろう。
歌ねぇ。
二口目のコーヒーを啜った後に何となく零したその一言は、
すでに二人だけの会話になってしまっている亜弥と美貴の
耳には届いていなかった。
- 41 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/09(土) 09:46
- 羽根はやした背中を向けている高橋って綺麗だろうなあ
下界の三人も結束固いですね がんばれ
- 42 名前: 投稿日:2004/10/09(土) 18:46
- ・
・
・
・
・
ドッペルゲンガーは彼女の世界で『下界』と呼ばれている世界の
ある場所に堕ちた。
ボイラー室の奥にあった鉄製の扉を抜けた時そこに足場はなく、
物理的に『落ちた』と感じたのはおよそ一メートル弱。
着地と思しき鈍い音と腰部に感じた衝撃はアスファルトや
硬質のそれではなく、柔軟性はあったがどこか奇妙な感触だった。
「っつ〜……」
手をついて立ち上がろうとしたらその手はささやか地面に沈み、
同時に冷たい。そして気持ち悪い。
思わず手元を確認すると、そこと言わず周囲一体に枯れ葉や
枯れ枝が散乱しており、その全てが湿り気を帯びている。
真希は僅かに顔をしかめて立ち上がった。
その場所の名は、富士・青木ヶ原樹海。
- 43 名前: 投稿日:2004/10/09(土) 18:46
- しかしながらその場所がどこであるかなど当然
知る由もない真希は、泥まみれになってしまった両手を
互いに擦り合わせてある程度の汚れを落としつつ、周りを
見渡した。
背後に人が居た。
衣服こそ違っていたが
そこに居たのも『後藤真希』であることに
間違いはなかった。
「………んあー、こりゃ死ねるんじゃないかな」
背後にいた方の真希はこちらの姿を認めるとそう呟いて、
無表情で自分の頭を撫でる。あてがった手の位置は右脳のあたり。
「ねえアンタもさ、後藤真希、なのかな」
手をあてたままそう尋ねられて『堕ちてきた』真希は口篭もった。
自分の名前が正しく思い出せない。
問われた名前は全部で五文字だが、自分が知っている自分の名前は二文字。
しかし『マキ』というのは合っていたし、何より相手と自分は
瓜二つの容姿であるから、恐らく、いやまず間違いなく同一人物だ。
「アタシも…マキだよ」
「あはっ、だろうねえ」
- 44 名前: 投稿日:2004/10/09(土) 18:47
- アンタさあどこから来たのか知らないけど、
こんな場所でこんなアタシに会ったんだからきっと
「アタシを殺しに来てくれたっつーことでいいのかなあ?」
真希はマキの傍へそう言いながら歩み寄り、こちらの顔を
覗き込んできた。
それで気付いたが、彼女は声こそ明るいものの、
実際にはかなり衰弱している様子だった。
目の周りは薄暗い樹海の中にあっても不自然に窪んでいるのが
わかり、唇はカサカサに乾いている。
どうやら
この樹海の中を随分とさ迷い歩いていたらしい。
「殺す?」
「うん」
「なんで」
「だってアタシと瓜二つじゃん。名前もおんなじで。
ほらあのドッペルなんとかってんじゃないの?」
アタシが聞いた話ならそのドッペルなんとかを見た人は
絶対に死んじゃうらしいって。
「だからアンタが殺してくれるってことかな〜って」
「…さっぱりわかんないんですけど」
え〜?
不満と疑問の入り混じった声で真希はマキから少し離れた。
- 45 名前: 投稿日:2004/10/09(土) 18:47
- 「じゃあアンタ一体何者?
こうなんかトクベツな力持ってたりしない?」
「トクベツ?」
「そ〜そ〜、例えばさぁ…」
マキから目線を外した真希は己の両手をまじまじと見詰めてから、
ふと閃いたらしく開いていた右手をピストルに見立てて、
それをマキに向けて構えた。
「こーやって、バン!とかやって一発でヒトゴロシできちゃうとか」
「できないよ」
即答したら真希はまた、え〜?と間の抜けた声を出す。
「それは困るなあ、アタシどうしても死にたいんだよ」
渋い表情で腕組みをされてもマキとしてはまずとにかくここが
どういう場所なのかを知りたかった。
真希と会ってからずっと頭の片隅でそのことを考えていたのだが
自力で出せる答えと言うのが二文字しかない名前とここがどこかの
樹海の中らしいということくらいなのだ。
- 46 名前: 投稿日:2004/10/09(土) 18:48
- 「え?ここどこかって?自殺する人が来るとこ」
「…そうなんだ」
物騒なことを聞いたにもかかわらず無表情のマキを見て
真希は思わず破顔する。
「やっぱりアンタどっか別んとこの生き物なんじゃん。
どこから来たのかもここがどこかもわかんないって」
「そうかもねぇ」
真希に笑われたことで何だかだんだんと悩んでいる自分が
馬鹿らしく思えてきた。
ふう、と一つ溜め息を付いて天を仰ぐが一面樹木に覆われて
空の様子はあまりわからない。
ただほとんど陽の入らないこんな場所にずっと居たら
確かに死にたくなるのも頷けた。
「うーん、っていうかどっちかっていうと最初っから
死にたくなる人と、とっくに死んじゃった人を
見たい奴が来るところかな」
…死人を見たがるなど随分と酔狂な人種が存在する世界だ。
「それだけ本当に人生捨てちゃったヌケガラがたくさんあるんだよ。
アタシももういくつも見たからね〜」
そう言いながら実際に指折り数える真希の姿は
やはりどこか歪んだ雰囲気を醸し出していた。
- 47 名前: 投稿日:2004/10/09(土) 18:48
- マキはマキで相手の話を聞いているうちに
自分は彼女の言う通り何か意味があってこうして出会ったのでは
ないかと思い始めていた。
「どうしてそんなに死にたいのか聞いていい?」
触れてはいけない部分かとは思ったが
ここまで来ると知っておかなければいけないような気がする。
真希は答えた。
「何でもさ、思い通りになっちゃうんだよね」
例え人生の半分以上が親の敷いたレールの上だったとしても、
そこからの選択肢は自分で選ぶことになる。
「ダンスをさ、習ってたんだけど。…ダンスってわかるよね?」
マキは無言で頷いた。
気のせいかその三文字の響きに切なさを憶える。
- 48 名前: 投稿日:2004/10/09(土) 18:51
- 「アタシこれが割と人よりできる方らしくて、コンクールとか
出たら必ず優勝とかしちゃって」
「褒めてくれるのが嬉しくて、でもアタシ自身は大して頑張って
ないんだよ。他の仲間の子なんかすっごい努力してるのに、
アタシはそれに比べると全然努力らしいことしてなくて」
「けどそれってダンスだけじゃないんだよね。勉強もスポーツも
恋人も全部一緒。モノにしようと思ったものは全部自分のモノになった」
「最近までそのことに何の疑問も持たなかったんだけど、
こないだ大学のダンスサークルで、急に、ほんと急になんだけど
ああ自分って挫折を知らないんだなあってふと思ってそれ漏らしちゃったら」
「サークルのメンバーにすっごい反感買っちゃってさ。
それまですごく仲良かったのに、いきなり全員敵になって、
揃って退部しろとか言われたんだ」
- 49 名前: 投稿日:2004/10/09(土) 18:51
- 最初は頭に来たんだけど、そのうちだんだんみんなのことが怖くなった。
怖いよ〜、部室に居た全員の目が怒ってるんだもん。
何分か前まで和気藹々としてたから
その時とのギャップがすごくて泣きそうになった。
もう天国と地獄。
そうそう、アタシ誰かに怒られたこともあんまり無かったからさ。
だから余計に…ほんと怖かったよ。
- 50 名前: 投稿日:2004/10/09(土) 18:51
- 「……想像したら血の気が引いてきた」
同時に寒気がしてマキは自分の肩を抱いた。
気のせいか話している相手が自分と瓜二つなだけに
まるで自分が体験した出来事のように
『責められる自分の姿』が容易く想像できてしまう。
「あはっ、ごめんごめん。
…とにかくそんな感じでさ、もう誰も信じられなくて」
このまま生きててもやっぱり自分はいつまでも同じなんじゃないかって
そう思ったら人生捨てちゃった方がいいかなって。
「そしたら気付いたらこんなとこに来てた。ボーっとしながら
フラフラ歩き回ったらいつかくたびれるんじゃないかって
期待しながら今まで。もう何日経ったのかもわかんない」
そう言って真希はまた指折り数えてみようと試みたが、
数日歩き回った疲労がその時初めて現れたらしく
指先が震えて折り曲げることすらままならなくなっていた。
- 51 名前:作者 投稿日:2004/10/09(土) 18:54
- >>41 名無飼育さま
レスありがとうございます。
それが紺野さんの背中でも充分綺麗だと思います。
…色々入り混じって参りました。
- 52 名前: 投稿日:2004/10/10(日) 17:13
- 「ん〜、地味にキテますな」
制御できない指先の震えに真希はまた笑う。
それを見て思った。
彼女はもう、徹底的に自身の身に起きた全てを
他人事にしたがっているのだ。
だが
そうして必死に凄惨だった出来事から目を逸らそうとする
それこそが彼女の言う『味わったことの無い挫折』の
あらわれなのだと言うことに
この時の真希も、そしてマキも
ついぞ気付くことは出来なかった。
- 53 名前: 投稿日:2004/10/10(日) 17:14
- 目の前の真希はいよいよ治まりそうも無い指先の震えを
無視できなくなったらしく、視線が両手に釘付けになっている。
それで二人の間に会話が無くなり、すっかり忘れかけていた
樹海の暗く沈んだ空気と不気味な静寂が訪れた。
マキは真希とは違って
生きたい、と思っている。
生に対する意識が相反している時点で、
この世界の後藤真希と自分は明らかに違う人間なのだから。
そう思ったときふと、疑問が脳裏をよぎった。
「…さっき言ってたことが本当なら、あんたもアタシも死んでしまうって
ことになるんじゃない?」
「さあ、知らない。とにかく見た自分が死ねるってことだけ」
最早死に対する願望しか持ち合わせていない真希は両手を見詰めたまま
自分本位な返答しかしない。
「冗談じゃないよ!アタシはまだ生き続けたい」
「だったらアタシを殺してあんたが代わりに後藤真希になってよ」
そのための知識なら全て与えてやる。
必要ならこの血を譲ってやってもいい。
- 54 名前: 投稿日:2004/10/10(日) 17:15
- 例えそんなことをしたところで意味なんか無くても
それで自分がこの世から縁を切れるならお安い御用だ。
「……っ……待って」
自暴自棄気味な相手に落胆しかけたマキは
突然、耳鳴りに襲われた。
左耳の方で聞こえていたそれは徐々に
後頭部を伝い頭頂部で収束してすぐに消える。
瞬間
マキの記憶の一部が開けた。
…高橋、紺野。
裕ちゃん。
ノイズのかかった脳裏の映像の中で
煙草を咥えたままボイラー室の扉を開けて何かを喋っている中澤。
自分の手が高橋の腕を掴んで引き寄せる様子。
俯いて両の拳を震わせている紺野の姿。
- 55 名前: 投稿日:2004/10/10(日) 17:15
- 連続して映し出されたそれらは
もとの世界に居た方の『後藤真希』の記憶で
そうだアタシは
何か目的があってあのボイラー室の扉を抜けたんだ。
それには背中にあった羽根が邪魔で
迷惑なのはわかっていたけど高橋にそれを強引に
譲り渡した。
あの時紺野が
記憶が無くなるらしいと言っていたけど
良かったよ、思い出すことが出来て。
裕ちゃんは多分アタシのためと思って嘘を吐いたんだね。
ああだけど何のためにアタシここに来たのかは思い出せないから
あながち嘘でもないらしい。
「…どうしたの?」
正面に居た真希が窺うように声をかけた。
「…試してみよう」
マキの知っている自分のトクベツな力といえばこれ一つしかない。
- 56 名前: 投稿日:2004/10/10(日) 17:16
- 「何を?」
「あんたを殺すことが出来るかどうか」
相手は目を見開いた。
「やっぱり、方法あったんだ」
「それはわからない。死ぬかどうかまでなんて。
けど、アタシにはやりたいことがあるから。…その為に」
それを聞いた真希は、初めて安堵する表情を見せた。
そうしてから、ほらやっぱり何でもアタシの望み通りになるんじゃん、
と虚勢を張って取り繕う。
「だからまだわかんないって。こういう目的でやったことないから」
「それでもいい。可能性があるなら」
それじゃあ、これからアタシの言う通りにして。
マキは近付いて、痩せこけた真希の頬を両手で包み込んだ。
・
・
・
・
・
- 57 名前: 投稿日:2004/10/10(日) 17:16
- 「なんじゃ、こりゃ〜」
レストランでのアルバイトを終えて更衣室へ戻った
藤本美貴は、変わり果てた姿のマイロッカーに突っ込みを入れた。
ロッカーには油性ペンらしきもので口汚い罵り言葉が
多数落書きされていた。
いくつか読んでみると筆跡から誰がこんなことを
したのかが判断できたのだが、そこまでしなくても美貴には
充分思い当たる節があったし、それが実はもうかなり昔からの
延長であるという現実には、大きな溜め息が出た。
「美貴はレズじゃねーっつの。何回言ったらわかんだよ」
最初に好意を寄せてきたのは相手の方だったから、
自分はそれに流されて今に至るのだ。
とまた目に付いた一番わかりやすい単語に突っ込みを入れてみる。
そのすぐ上に、美貴がこんな仕打ちを受ける原因となっている
人名が書かれていた。
- 58 名前: 投稿日:2004/10/10(日) 17:16
- 「いやっちょっと、名前書くなよ!知らない人も居るのに」
松浦、という二文字だけは今すぐにでも消したくなり、
無駄とわかっていながら美貴は慌てて掌でその部分を
擦ってみるが、当然消えるはずも無く。
「シンナー…ベンジンだっけ?そんなんあそこにあるかなあ」
めんどくさそうに頭を掻いてから
清掃用具が置いてある物置まで向かおうと更衣室の
ドアを開けたら、
そこにバイト仲間であり恋人の松浦亜弥が居た。
「…美貴たん忘れ物?」
「あ〜…バーッドタイミーング…」
- 59 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/11(月) 00:10
- 確かに「入り混じって」きてる。面白い。
- 60 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/11(月) 21:46
- おお、タイミングがよろしい
次回待ってます
- 61 名前: 投稿日:2004/10/18(月) 15:18
- さて結論から言えば案の定亜弥はロッカーの落書きを見つけ、
あっという間に頭に血を昇らせてしまった。
「これアイツでしょ!一発ガツンと言ってくる!」
「止めなって!」
踵を返して更衣室を出ようとした亜弥の腕を美貴が強く掴んだ。
「たん、何で止めるの?!たんが怒らないから私が」
「だって前にもおんなじことようなことが何回かあったじゃん。
…美貴はもう諦めてるって、あんなバカのことは」
そう言って鼻で笑うと亜弥は眉間に皺を寄せたまま体の向きを
美貴の方に向けた。こちらも渋々だが諦めたらしい。
「…美貴たん」
「何?」
「何で私じゃなくて美貴たんを責めるんだろう」
激昂から急速に自己嫌悪に陥った亜弥の伏せた視線に
危機感を覚える。
亜弥は感情的なのだ、いい意味でも、悪い意味でも。
- 62 名前: 投稿日:2004/10/18(月) 15:21
- 確かに彼女の言う通り、自分達がこのような関係になったのも
きっかけは亜弥からであったし、実は最初の頃美貴は亜弥を
避けていた。当時家族との諍いからまだ解放されていなかった
美貴は、自分のことを何でも聞きたがり知りたがる亜弥のことを
疎ましく思っていた。
しかし、あまりにもしつこいので観念して徐々に心の内を
打ち明けるようになってから、美貴の曇った気持ちは少しずつ
晴れていく。それは紛れも無く、一言一言を真剣に、
そして親身に聞いてくれた亜弥のお陰だった。
勿論聞いて貰うばかりではなく美貴自身も彼女の話に
耳を傾けた。大半は幼い頃から抱き続けている夢の話だったが、
話す亜弥の表情はキラキラと輝いていて、この子はもう既に
芸能人として出来上がっているのではないかと美貴に錯覚させた。
そうしてそんな彼女に魅了されてもいた。
いつしかその表情の輝きは顔と言わず彼女自身のオーラとなり、
二人が恋人同士と言う関係になったのもちょうどその頃から
だったと記憶している。
- 63 名前: 投稿日:2004/10/18(月) 15:25
- しっかりと結ばれたというエピソードは無いが、ある時ふと真希が、
二人は絶対友達以上だよね、などと呟いた時に
亜弥が恋人同士だと断言してしまったのがある意味きっかけになって
いたかもしれない。
バイト仲間の一人が、自分と亜弥がそうなる前から亜弥のことを
想っていたことを知ったのは、今回のように嫉妬の矛先が
自分に向けられたからだった。
具体的に何をされたのかはとうに忘れてしまったが、始めは
些細なイタズラだったと思う。
事情を知らない相手からすれば自分は亜弥を奪った憎き人物、
しかも同性なのだからその憎悪は異性に向けるそれより
深いものなんだろう。
- 64 名前: 投稿日:2004/10/18(月) 15:25
- 美貴は奪ったりしてないんだけどな。
亜弥ちゃんから、だったんだけど。
「向こうは美貴が亜弥ちゃんを奪ったって思ってるんだろうね」
「違うのに…」
亜弥の伏せた目線はどんどん下降していき、ついにはそのまま
顔から前のめりになって倒れそうになるのを、肩に触れて阻止した。
「でもさ、逆だって言ったら今度は亜弥ちゃんが狙われちゃうから…
美貴は今のままで平気だから、そんな落ち込まないでよ」
「…ほんとに平気?」
だって、仕方ないじゃん。
美貴は亜弥ちゃんがごっちんみたいになってしまったら
今度こそどうしていいかわからなくなってしまう。
- 65 名前: 投稿日:2004/10/18(月) 15:26
- 自分も今夢の為に生きているから、同じように夢に向かって努力してる
亜弥ちゃんが大好きなんだ。諦めないその姿勢が美貴の支えになってるんだ。
今は夢を叶えることだけ考えていてほしい。
前向きな笑顔を見せていて欲しい。
だから仕方ないんだ。こういう嫉妬は時間に任せて静まるのを
任せるのが一番だと思う。
亜弥ちゃんに矛先が向いてしまうことを考えたら我慢するくらい
どうってことはない。
ごっちんはああ見えて変なとこ不器用でそれができなくて
一気にぶつけられた負の感情に押し潰されて命を絶つことまで
考えてしまったけど、美貴はそれを流せる自信があるから。
「平気だよ、それで亜弥ちゃんが変わらずに居てくれるなら」
- 66 名前: 投稿日:2004/10/18(月) 15:26
-
- 67 名前: 投稿日:2004/10/18(月) 15:27
- 舞踏館から渡り廊下を経て五十メートルほど離れた場所に宿舎がある。
愛は起床の鐘が鳴る前に覚醒し、サイドボードの懐中時計を見た。
起床五分前。
訳あって横を向かないと眠れなかった窮屈なベッドから上半身を起こして
手櫛で乱れた髪を梳いていると、隣で寝ていたあさ美の背中が目に入った。
なんてこった、あさ美ちゃん服着ないでそんまま寝ちまったんか。
そういえば自分も夜中寒気がして目醒めるまでは今のあさ美と同じ
状態だったが、彼女は途中で目醒めることなく熟睡していたらしい。
今更何か上に、という訳にもいかないのでひとまず愛はベッドから
抜け出すことにした。そしてあさ美の全身を覆うように毛布をかけてやり、
寝ていたベッドの隣、未使用同然の『自分のベッド』に腰掛ける。
愛とあさ美は宿舎の二人部屋で同室だった。
- 68 名前: 投稿日:2004/10/18(月) 15:28
- 「イテテ…」
最近演目の後は自主錬ばかりだった上、昨晩あさ美と共に
過ごした一時があったためか、背中に鈍い痛みがあって思わず
声が出てしまう。
背筋を伸ばして伸びを試みるが多少固まっていた筋肉が弛緩したように
感じるだけで背中の痛みにはあまり効果が無い。
数分後、宿舎の鐘は起床の時間を告げた。
- 69 名前: 投稿日:2004/10/18(月) 15:28
- 「今度の演目は前回のとは全く逆で、ポジティブで明るいイメージ。
後藤が居ない分大きく見せる振りは避けてコミカルな動きで
視聴者を飽きさせないようにしていきます」
午後のレッスンから新しい演目に関する情報を与えられる。
メンバーは配布された資料に目を通しつつ真剣に振付師の説明を聞いていた。
「まだ振りは完成していないけど見せ場はメンバー全員分ちゃんと
あるからみんなしっかりアピールしてください。特に新メンバーはね」
言われて新メンバーに該当する愛とあさ美は大きく頷く。
振付師はそんな愛とあさ美に気付き
「そういえば最近紺野、高橋と頑張ってるみたいだね。その調子で」
と微笑んだ。
「はい、頑張ります」
「ありがとうございます」
また多忙な日々が訪れようとしていた。
- 70 名前:作者 投稿日:2004/10/18(月) 15:32
- >>59 名無飼育さま
レスありがとうございます。入り混じってます。そろそろ自分が
混乱しそうです。
>>60 名無飼育さま
レスありがとうございます。読む人によってはグッドタイミングですか。
ちなみに私はバッドだと思いました。
- 71 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/23(土) 18:46
- 藤本さん強いですね
天上界の二人にも変化の兆しが見えるような
- 72 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/24(水) 20:33
- 待ってるやよー
- 73 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/26(金) 02:10
- 束ねていた髪を解いて夜風に晒すと、強風であっという間に真後ろに流された。
しかしながら汗のせいで額に貼り付いた前髪の感触がまだあったので、
二、三度首を横に振って全てを風に連れて行かせると、顔全体に冷気が当たる。
夜風に当たれば多少気分も晴れるだろうと思っていたのだが、そう感じたのは
最初だけで思いの他効果は無く、愛は落ち着かないまま屋上を囲う鉄柵まで歩く。
辿り着いて網状の柵に両手をかけて深く溜め息を付き、項垂れる。
ふと、あまり強い風に当たりすぎると全身が急速に冷えてしまい体調を崩す
だろうかと思って、愛はボイラー室に向かった。
ボイラー室はそれそのものが一戸の建物の形状をしており、といっても
物置程度の大きさのものだが、扉を横切り側面の壁まで近づくとうまいこと風除けの
役割を果たしてくれていた。ここならもろに冷風を浴びなくて済む。
彼女は今夜もまた屋上に来ていた。今日は一人で。
例によって演目の後にあさ美と自主練習をするはずだったのだが、
先日新たな演目についての説明を受けて以来、心が落ち着かなくなった。
- 74 名前: 投稿日:2004/11/26(金) 02:11
- 今日くらいは自粛しよう、そうあさ美に告げて愛は久しぶりに一人で
行動を起こし、ここへとやって来たのである。あさ美は特に何も
言ってこなかった。
「……………」
……なんだろう、これはなんだろう。
確かに現状を維持しつつ新しい振りを覚えるのは大変だけれど、これまでも
そうしてきたし、この気持ちの揺らぎはもっと別のところにあるような気がする。
だが、一体、何なのだろう。
考えれば考えるほど思考は深いところへ深いところへと向かい、とうとう
愛は悩んでいること自体に悩むようになった。
「んぁ〜もぉ〜ワカランー」
考え込みすぎて俯いた視線が床を這い、自分のつま先が見えた時、無意識に
その場に座り込んだ。
コンクリートの床に尻がついた時ヒヤリと冷たい感触がしてほんの少し我に返る。
何でこんなアホみたいに悩んどるんやろ、あたし。
「そこで変な声出してるのは誰だ〜?」
建物の影から突然声がして、驚いて声のした方を見やる。
壁越しにこちらに顔だけ覗かせたのは、先輩の保田圭だった。
- 75 名前: 投稿日:2004/11/26(金) 02:11
- 「保田さん!」
「たっかはしじゃん、こんなとこで何してんの」
「……悩んでました」
「え?なーに、風が強くてよく聞こえないんだよ」
耳に片手を翳しながら保田はこちらに歩み寄り、愛の隣に腰を下ろす。
空いていた方の手には缶ビールが数本入ったビニール袋を提げていた。
「いっつも後藤と一緒に呑んでたからさ、って、いや後藤は呑んでないけど
付き合ってもらってたんだ」
「…一緒の部屋ですからね」
「そーそー、なのに急に居なくなっちゃったでしょ、一言も無しにさ。
水臭いよね」
いきなり一人になっちゃったから落ち着かなくて何となく酒持って
ウロウロしてたらここに着いちゃった、と保田は苦笑いしながら
缶ビールのプルタブを開ける。
愛は保田の口から後藤の名が出たことでことさら表情を曇らせた。
保田はそんな愛に目ざとく気付く。
「あんたもやっぱ後藤が気がかり?」
「…はい」
実のところ気がかりの方向性が保田と自分とで全く違うのだが、
それを口に出すことは出来ない。
- 76 名前: 投稿日:2004/11/26(金) 02:12
- 屋上の風はあの時のことを嫌でも思い出させ、後藤から突然もたらされた
感触が甦って愛は顔を赤くした。無意識に唇を真一文字に結ぶ。
保田はやはりそれにも気付き、こちらの顔を覗き込んでくる。
その頬は別の意味で赤く染まっていた。酒のまわりが早いな、と
呑んだ事も無いくせに知ったかぶったことを思う。
「何泣きそうな顔してんのーぉ」
「…泣いとらんもん」
でも目ぇ潤んでるよアンタ、保田はからかうように言って無邪気に笑っている。
ああ酔っているな、呑んだ経験はなくてもこの変化は明らかに
アルコールのせいだとわかる。
彼女は素面の時自分をからかったことなど一度もないのだ。
保田は自分にとって先輩であり、ダンスの技術もメンバーの中では上位レベル、
今のように何かとメンバーの変化に敏感で、よく声をかけてもらっては
相談相手になってくれる、頼り甲斐のある世話好きお姉さんであり。
正直、後藤が居なければ自分は保田を憧れの対象として見ていたことだろう。
- 77 名前: 投稿日:2004/11/26(金) 02:14
- 「…保田さんは、お客さんの前で踊ってたんですよね」
「うん」
「人が居る前で踊るって、どんな感じなんですか?」
「ああそっかアンタは知らないんだっけ…なんつーかね、血が騒いだ」
問われたことで記憶を甦らせたのか保田は夜空を仰ぎ、その視線は
屋上の鉄柵に設置されている照明に辿り着いて眩しさに目を細めた。
それは果たして眩しさだけだろうか、血が騒ぐなんてなかなか言えるような
言葉じゃないし、保田さん実はロマンティストなんやろか…そんなことを
隣で見ていた愛は思ったりする。
「ごとーさんもほやったんかな……
あたし、ここ入る前たまたま舞踏館の演目を観る機会があって、
そん時初めてごとーさん観たんですけど」
「…多分その頃は今と同じスタイルになってたはずだわ。衛星中継でしょ?」
はい、愛は頷いた。
「だとしたらそれは本物の後藤じゃないね…ああ、思い出したらアタシも
後藤みたくここからオサラバしたくなったな」
「だ、駄目や!」
- 78 名前: 投稿日:2004/11/26(金) 02:14
- 唐突にとんでもないことを言い出した保田に驚いた愛は保田の腕を掴んで
それを否定した。保田はケラケラと笑う。
「なーに、アタシ居ないと寂しい?寂しいんだろそうなんだろ〜?」
迂闊だった、相手は酔っ払いだ。
まんまと振り回された事に気付いた愛はしかし正直にそれに答える。
「寂しいに決まっとるやないですか…」
「あらっ!」
保田はパッと表情を輝かせ、勢い愛の肩を抱いた。
一瞬馴染みの薄いアルコールの匂いが鼻をつくがすぐ風にのって消えていった。
「嬉しいこと言ってくれんね〜。
まあ当分そのつもり無いけどさ、もしアタシがそういうことになっても、
石川に全部叩き込んでからにするから安心しな」
「行かんって言ってくれるのが一番安心です」
「…まあ、ね」
保田は愛の言葉に返事を濁した。愛の心に微かな不安が過ぎるが
追求することは何だか空恐ろしくてできなかった。
後藤に続いて保田も、などということは考えたくも無い。
- 79 名前: 投稿日:2004/11/26(金) 02:15
- それきり会話が途切れ保田はいよいよ飲酒に集中し始めた。
ややあってあっという間に一本目の缶ビールは空になり、保田は二本目に
手をかけるが、愛の肩を抱いたままで器用に片手だけでプルタブを
開けている。長い夜になりそうだな、と愛は思った。
- 80 名前: 投稿日:2004/11/26(金) 02:16
-
同じ頃中澤は舞台裏の給水室に来ていた。
給水室にはメンバーの人数分だけ飲料タンクが設置されており、
規則として食後と演目やレッスン後には必ずここの飲料水で水分補給を
行うことになっている。その他は個人の自由で飲みたい時に飲む。
このタンクをチェックするのも中澤の仕事のひとつだった。
高さ一メートル三十センチあまりのそれは上部の透明なケースの中に
飲料水が入っており、下部の器機を通してコックを捻ればそこから水が
出る。整然と並ぶタンクは飲料水の残量がそれぞれ異なり無機質な中にも
個性が窺える。
後藤のタンクはほぼ満杯に近い状態のまま放置されていた。
「やっぱあんまり飲んどらんかったんや…」
中澤は溜め息混じりに呟いてから後藤以外のタンクの側面にある
鍵のついた扉をマスターキーで開錠し、一つずつ開いては、
箱型の濾過装置を取り出して濾紙を交換していった。
「こんなペラッペラな紙一枚で…」
慣れた手つきで濾紙を取り付けながらも中澤は罪悪感に苛まれる。
- 81 名前: 投稿日:2004/11/26(金) 02:16
- 表向きは不純物の除去であるこの行いの真意を知っているだけに、
それに加担している己には毎度腹が立つ。抗えないことにも。
濾紙には特殊な薬品が塗りこまれており、具体的なことは知らされて
いないが上層部の人間は集中力を持続させるためのものだと言っていた。
覚醒剤の類かと勘繰ってみたがお前には説明しても無駄だと一蹴されて
しまった。だが。
少なくとも後藤がボイラー室の向こう側に旅立ってしまったのは
この水をあまり飲んでいなかったせいだろう。
これは中澤の推測だが、飲料水の摂取が義務付けれられたのは
組織の体制が代わってからだ。恐らく、新体制に疑問や不審を抱かせない
ための措置の一つが、この飲料水にあると思われる。
最後の濾紙を交換し終えた中澤は軽く舌打ちして給水室を出る。
次に後藤のタンクを使用する新しい『犠牲者』は誰なのだろうか、
そんなことを思いながら。
- 82 名前:作者 投稿日:2004/11/26(金) 02:24
- >>71 名無飼育さま
レスありがとうございます。藤本さんは…強いのかな?
きっと相手がいるからそう見えるんでしょうね。
>>72 名無飼育さま
レスありがとうございます。すいませんお待たせして。
書いてはあったけど色々タイミ(以下言い訳が400字ほど続く)
- 83 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/16(木) 22:06
- 保田と高橋とのやりとりがなんかリアルの雰囲気思い出しました
それにしても保田といい中澤といい感慨深いというかきついなあ
読み応えありあり
- 84 名前: 投稿日:2005/01/01(土) 22:09
- 決して座り心地の良くない、雑貨屋で購入したプラスチック製の
椅子は、田舎の駅の待合室にそのまま置いてあるような雰囲気を醸し
出していて、真希はその椅子に座布団を敷いて腰掛けていた。
テレビのガチャガチャした感じが嫌で、傍らにあったCDラジカセをつけて
曲名もアーティスト名も知らないポップスを適当に聴いていた時、
目の前をパタパタと亜弥が横切った。と思ったらこちらを振り返り、
「真希さんラジカセ借りてっていい?」
と尋ねてきた。
「ボイトレ行くんだ?」
「うん」
頷きを受けた真希は今まさにオリコン初登場一位をものにしたその曲の
大事なサビの部分に突入する直前に、ラジカセのスイッチを切った。
サビまで聴いていたら彼女の運命を少しは変えるきっかけになって
いたかもしれないがそんな可能性を彼女自身が意識しているはずは
勿論無く、コンセントを抜かれたそれは亜弥の手に渡った。
「まだ十時なのにもう居ないの」
「十時なんて大抵皆仕事とか学校とかの時間でしょう〜」
「そーだっけか。もう何か外の世界のことはよくわかんないや」
- 85 名前: 投稿日:2005/01/01(土) 22:11
- 山篭りの修行僧のようなことを言いながら真希は何となく窓際まで
歩く。部屋の中で数歩分の距離しかないと言うのにひどく遠い
場所まできたような錯覚が起きる。
直前に自分が言った言葉には割と嘘が無いな、となんとなく納得した。
世間の流れなど、もともとこんな腑抜けになる前からあまり汲んでは
いなかったが、今はそれ以上だ。
そういえば平日の十時とはほとんどの世の中が動き出す時間だったか。
「よっすぃが心配してたよ」
ラジカセを持った亜弥が玄関に向かう途中振り返って、真希の背中に声を掛ける。
「お向かいさんなのにもう一ヶ月以上顔見てないって」
「あー、うん」
顔だけこちらに向けた真希はそれを聞いても、適当に相槌を打って
また窓の外の方を向いてしまった。
内心舌打ちする。
幼馴染を思ってのことではあったが、口からでまかせを言ってみたのが
ばれたのだろうか。
- 86 名前: 投稿日:2005/01/01(土) 22:11
- それとも、でまかせかどうかなど真希にとってはどうでも、本当に本心から
『どうでもいい』ということなのだろうか。大学生になってここに越して
来てから三年目の付き合いになる友人、吉澤のことですらどうでもいい、と。
「気が向いたらでいいからさ…暇なら練習見においでよ」
「……えーでも集中できないんじゃないの?」
真希の背中が問い返してくる。亜弥は見えもしないのに胸を張って答えた。
「見られて集中できないくらいなら〜、
最初から芸能人になる素質が無いってこと」
「さっすが」
「なんて松浦は思うので、その為にもボイトレ覗きに来て下さいよ」
「………考えとく」
亜弥は部屋を出て行った。
真希は窓の外の雑多な風景をしばし眺めていた。
利便性のみに重点を置いて選んだこの部屋の窓からは、夜になると
途端に艶を帯びる看板たちが窓枠内にひしめいている。繁華街のネオンだ。
- 87 名前: 投稿日:2005/01/01(土) 22:12
- それなりの時間になると遮光カーテンを閉めるものの、
完全に遮ることの出来ない人間の欲望看板。
しかしながら今のように日光が世界を照らす時間帯にその看板の群れは
ひどく元気が無い。少し、ほんの少しだが、同情を誘うほどだ。
ぼんやりと窓の外を眺め目の前を滑空する烏や雀を眺め、飽きた頃に
ふぅ、と鼻腔と口腔から同時に二酸化炭素を排出する。
ささやかに両肩が下がる。片方の耳が窓の外のクラクションの音を捉え、
もう片方の耳は玄関の向こう側から漏れ聞こえる重低音を捉えた。
真希の関心を惹いたのは、重低音の方だった。
玄関ドアの右上にあるネームプレートには、黄ばんだ画用紙の切れ端に
油性インクで吉澤の苗字が書かれている。色褪せてもきっちりと枠に
嵌められていた。普段あまり神経質な面を見せないが、こうした部分や
所持品、己に関わってくる人や事柄において、吉澤ひとみという
人間はとても生真面目だ。
その分自分に関してはかなり手を抜いている部分があり、そこでバランスを
取っているようだ。
- 88 名前: 投稿日:2005/01/01(土) 22:14
- 以前買物に付き合った際、彼女がろくに品定めもせず化粧品を買物籠に
放り込んでいる姿を思い出して微かに笑った。
先ほど亜弥が言っていたことを思い出せば吉澤は今アルバイトに
行って部屋を開けていて、出る前にでも亜弥に声を掛けたのだろう。
ああ、そういえば夢の中でチャイムの音を聞いた気がする。ひょっとして
あれは現実に起こったことだったのかもしれない。
玄関の鍵は開いていた。ノブを捻った手を手前に引くと途端に
音の洪水が真希を襲う。
重低音は足元で微震を起こし高音は脳に針を刺すような信号を
突きつけた。中間の音は唯一真希に危害を加えなかった。
思わず両耳に手を添えたが、それをしたところできっと音は止んだり
しないだろう。抗うより慣れる方が簡単であり妥当な手段だと思った。
真希は全ての音を受け入れる心構えをした。
してみるとその音の洪水は洋楽のものであるということがわかった。
アーティスト名も曲名も知らないが言語が日本語ではないことだけは
理解できる。
- 89 名前: 投稿日:2005/01/01(土) 22:15
- そこまで受け入れた真希はドアを閉め玄関先で黒いサンダルを脱いだ。
色違いの白いサンダルがもう一足きっちり揃えて置いてある。
何となく対照的にしたくて自分は乱暴に脱ぎ捨てて室内へ足を踏み入れた。
亜弥はリビングの中央で肩幅に両足を広げて立っていた。
部屋を支配する音の洪水が起こすリズムに合わせて、声を出さず息を吐いている。
自分の気配に気付いたのか目線だけこちらに寄越すと器用にも息を吐く
リズムを崩さずに笑みを浮かべた。
室内はモノトーンの家具で統一され、視覚では落ち着いた空間を
作り上げているが聴覚のみで言うならここはまるでライブハウスのようだ。
真希は音の発生源である安物のCDラジカセの活躍に少しばかり虚を突かれた
気分になって呆然とその場に佇む。
- 90 名前: 投稿日:2005/01/01(土) 22:15
- しばらくして亜弥がその場から動き、ラジカセを止めた。
途端に今度は無音という名の針が真希の脳を突き刺した。
「ようこそ〜」
練習の成果か幼馴染の声は先ほどとは打って変わって
魅力的な響きを持っている。
亜弥は
「折角来たんだから真希さんも一緒にやろうよ、ボイトレ」
と朗らかに言いながら真希の腕を取った。
- 91 名前:作者 投稿日:2005/01/01(土) 22:19
- >>83 名無飼育さま
ありがとうございます。一応、登場人物の口調には気を遣っているつもりです。
- 92 名前: 投稿日:2005/01/09(日) 20:23
-
あさ美ちゃん、自室に戻る途中の廊下で声をかけられた。
振り向くとそこには同期の小川麻琴が居た。
「まこっちゃん、お疲れー」
あさ美は笑顔でそう言ったが麻琴は表情が無い。廊下自体あまり
明るい照明器具を備えておらず薄暗いのでそのせいか、でも
ちょっと変だな、と思ったが特に気にせず微笑んだままでいると、
麻琴がぼそりと呟いた。
「いい加減にしてくれない?」
「……え?」
まるで抑揚の無い呟きにあさ美は反応するのが遅れた。意味も
よくわからなかった。麻琴が迫ってくる。どんどん立ち止まっている
自分との差を詰めてくる。一メートルほどの距離になった時気付いた。
麻琴は怒っている。初めて見るその表情は双眸にのみ醒めた熱が篭っていて
他の顔のパーツはピクリとも動かない。あさ美は思わず後ずさった。
ドン、背中にコンクリート壁の硬くて冷たい衝撃を受けた。
とうとう麻琴に左肩を押さえつけられる。
「ま、麻琴…?」
「あのさあ」
- 93 名前: 投稿日:2005/01/09(日) 20:24
- さほど身長差がない二人だが内から放たれる威圧感はすっかりあさ美を
飲み込んでしまっている。ざり、肩を押さえられたせいでコンクリート壁に
衣服が擦れた音を聞いた。
「最近愛ちゃんと色々お楽しみ過ぎなんじゃない」
「………?」
「ねえ?ほとんど毎晩そっちの部屋から聞こえてくるんだよ」
二人ともよく鳴くねぇ?その台詞であさ美は全てを理解し目を見開く。
次いで血の気が引いた。
あさ美の変化に気付いた麻琴はやっと表情を変える。口元にいやらしい
笑みを浮かべた。
「夢中になりすぎて全然気付かなかったんでしょー
残念でしたっ!」
「い、いつから…?」
「そんなの自分達が一番良くわかってんじゃないの」
それでは最初から?そう思ったが言葉にはならなかった。
声の出ないあさ美に苛立ったのか麻琴が肩を押さえる手に力を篭める。
- 94 名前: 投稿日:2005/01/09(日) 20:24
- 「いッ…」
「ガキさんは優しいから黙っとこうって言ってたけどね、小川的には」
一度釘を刺しとこうかって、耳元で囁かれたその台詞は笑いを含んでいて
ゾッとするほどだった。耳から全身に走った悪寒はそれを震えに変えた。
立っているのがやっとだった。
震えが彼女の手にも伝わったのだろう、くく、と麻琴は喉を鳴らして
肩から二の腕へ撫でるようにして手を離した。その動作はあさ美に新たな
震えを与える。息をするさえ苦痛だ。
「そーゆーわけであさ美ちゃーん、今日はぐっすり寝かせて下さいねぇ?」
同期の背中が廊下の角を曲がる。顔を動かすことも出来ず目だけでその
姿を追っていたあさ美は、気配が消えたその瞬間に脱力してその場にへたり込んだ。
- 95 名前: 投稿日:2005/01/09(日) 20:26
-
自分の部屋で一緒に呑もう、とすっかり出来上がってしまった保田を
宥めながら彼女の部屋に押し込め、やれやれと愛は古ぼけた自室のドアを開ける。
当然ながら室内は真っ暗だ。
あさ美はもうとっくに眠りに落ちているだろうし一度寝たら
なかなか起きない子だと知っていても、愛はそろりとわずかに開いたドアの
隙間に肩を滑り込ませるようにして中に入った。
「愛ちゃん………?」
予想に反して声がかかる。んっ、と顔だけがそれに反応して
声のした方へ向いた。まだ目は暗がりに慣れていないが声は
ベッドの方から聞こえた。
「あー、起こしてもた…?」
後ろ手にドアを閉めた。
「……うぅん、起きてた……」
おや?二度目にあさ美の声を聞いた愛は異変に気付く。
鼻にかかっている。数時間前に聞いたそれとは明らかに質が違っていた。
- 96 名前: 投稿日:2005/01/09(日) 20:27
- ややあってあさ美がベッド脇の照明を点け、異質なのは声だけでは
無いことを知る。ベッドに腰掛けていた彼女は私服ではあるが
いつものように室内着にも着替えていないし髪型も演目を終えた時のままだ。
髪飾りが照明を受けて輝いている。
「ずっと起きとったん?」
愛は尋ねながらひとまず自分のベッドを目指した。あさ美は返事をしない。
自分で点けた照明の灯かりを俯きがちにずっと見ている。
とうとうベッドに辿り着いてしまった。二つ並んだその隙間の半分には
腰掛けたあさ美の両足がある。
位置はちょうどベッドの中央あたり。
「愛ちゃん」
と、彼女が突然こちらを体ごと振り向いた。両足も動いて、あさ美の左足が
立っていた愛の膝から下の部分と接触する。何となく、布地が邪魔だと思った。
触れ合うなら肌がいい。
- 97 名前: 投稿日:2005/01/09(日) 20:27
- 「ん?」
「どうしよう」
あさ美が顔をあげた。
今にも泣きそうな、いや、これは…すでに泣いた後だ。
「どうしよう……」
「……何が……?」
異変を確実に異変だと認知した愛は声のトーンに注意を払う。
もう一度声をかけようとした時、
まこっちゃんが、
と小さく震えた声であさ美が呟いたのが耳に届いた。
- 98 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/15(火) 20:41
- うわ痛いな…小川はまりすぎ…
- 99 名前: 投稿日:2005/03/15(火) 21:21
- ねえ、すごいでしょう。
夕暮れの歩道を歩きながら、頭の中に聞こえてくるのは
誇らしげな亜弥のあの台詞ばかり。
ねえ、すごいでしょう。
歌ってすごいでしょう。
「うーん、確かにすごいね」
腹から声を出すだけで人はこんなにも前向きになれるものなのか。
気持ちばかりでなく体も軽くなったような気がする。
何より喜ばしいのは、ずっと思い出せずにいた大事なことを
思い出すことができた、ということだった。
一度自分の部屋に戻ったが、気分が高揚して落ち着かないので、
買い物がてら散歩に出ることにした。
空のオレンジなど昨日までは憂鬱を誘うものでしかなかったのに、
今はただただ綺麗だ、美しい、と思う。
- 100 名前: 投稿日:2005/03/15(火) 21:22
- 「つまり真希さんは脳味噌に酸素が足りなかったと思うわけ」
トレーニングを終えた直後の真希が、自身の劇的な心理的変化に
驚きを隠せないということを素直に告白した時、亜弥はそう答え
ながら右手の人差し指を真希の額についとあてた。
今のその気持ちは、正しい腹式呼吸をしたからだと付け足す。
「もちろんストレスも溜まってて、それは声出すことでいくらか
発散してるはず」
「あー、そうだね、やったらスッキリしてるもん」
真希はひたすら感慨深げに頷き、亜弥は満足げな笑顔で真希の
頷きを真似た。
そういえば彼女は時々感情的な面もあるが大抵はいつも笑顔を
絶やさない。いつでも前向きだと公言すらしている。
「いっつも前向きって言うのはこれのせいだったんだ」
「イエースその通り。ところで真希さん」
「ん?」
「気持ちも前向きになれたところで、そろそろ自分を変えようよ」
- 101 名前: 投稿日:2005/03/15(火) 21:22
- 自宅マンションがある繁華街から十分ほど歩くと、繁華街と
住宅街を区切っているように存在する国道に辿り着く。
住宅街側の道沿いに一軒のコンビニエンスストアが見える。
やたら待たされる横断歩道の歩行者信号も、外の空気を味わう
時間が少し増えたんだという解釈ができた。
信号を渡り目的のコンビニに辿り着くと、レジカウンター内に
アルバイト中の吉澤の姿を見つけた。接客中で自分には気付いて
いないらしかった。真希は吉澤を一瞥してから書籍棚へ向かう。
表紙を前にして置かれた雑誌を数冊パラパラと捲り中身を確かめる。
「あった、これだ」
目的の記事を見つけ思わず声が漏れた。ハッとして口元に手をやり
周囲を見渡すが、幸運なことに周囲には他の客の姿は無い。
「お客さん、立ち読みはご遠慮ください」
……客は居なかったが店員は居たようだ。
それも聞き覚えのある声だ。振り返ると、幾分サイズの大きいこの店の
制服を着た吉澤が、口元に笑みを浮かべながらこちらを覗き込んでいる。
- 102 名前: 投稿日:2005/03/15(火) 21:23
- 「うおっ」
「何読んでんの?ボーカリストオーデ……マジすか!」
「ぃや、ちょ、ビックリさせないでよ店員さん!」
「悪ぃ悪ぃ、で、なにこれマジなわけ?」
記事の内容に興味津々の吉澤は、馴れ馴れしく真希の肩に頭を
乗せてきた。真希は急にらしくない自分に気付かされ、赤面
しながら雑誌をパン!と勢いよく閉じる。
「何さその反応大マジってこと?すっげー、かっけー」
「まだ決めてないよ。読んでただけ」
「興味はあんだろ。いいじゃん、受けちゃえよ」
「勝手に決めな……あっ」
- 103 名前: 投稿日:2005/03/15(火) 21:23
- ごねる真希の手から吉澤が雑誌を取り上げた。
その場で記事を熟読され、からかわれる、と思った真希は
彼女の手から雑誌を取り返そうとしたが、予想に反して吉澤は
それを持ったままレジに向かい歩き出す。
「ちょ、ちょっと!」
「親友が超久しぶりにやる気出したんだ、これはサービスしてやるよ」
上半身をゆらゆらと妙なリズムで揺らしながら、カウンターの中に入る吉澤。
追いかけた真希は必然的にレジ前に立たされ、バーコードを通した
電子音の後にコンビニ店員、吉澤ひとみは笑顔で真希にこう告げた。
「雑誌一点、出世払いで四百六十円になります」
- 104 名前: 投稿日:2005/03/15(火) 21:24
-
「ごっちんオーディション受けるってマジ?!」
ソファに寝転がって雑誌を読んでいたところを、帰宅したばかりの
美貴に襲撃された真希は、先刻の吉澤とのこともあって多少うんざり
しながら顔を上げた。ソファの手前に両膝をついて中腰になった美貴が、
前のめりで自分に迫っている。いろんな意味で危ない距離だ。
亜弥に見られたら誤解されそうだ。
「だからー、まだ決めてないってば」
「えぇ嘘、よっちゃんが鼻息荒くして雑誌買って行ったってさっき」
「……あんにゃろう」
吉澤の店に行ったのは失敗だったかもしれない、真希は今更のように後悔した。
- 105 名前: 投稿日:2005/03/15(火) 21:25
- 同じように吹聴されたのは一人や二人ではないかもしれない。
もしかして買い物に来た『顔見知り』の全てにベラベラ言いふらされていたり
したら……と思うと眩暈がした。
最もこれは杞憂であり、吉澤がこの件について話したのは真希の同居人である
美貴にだけだった。
「でさ、受けんの受けないの?」
「話聞いてよ、まだ決めてないって言ったじゃん」
「そうなんだ」
そうだよ、と念を押すように言うと、美貴はどことなく安堵したような
表情を一瞬だけ見せた。…気がする。見間違いかもしれないが。
- 106 名前: 投稿日:2005/03/15(火) 21:25
- 「だいたいあたしのことだから今日だけやる気出したかもしんないし」
「…ごっちんって時々自分のこと他人みたいに言うよね」
「ほんとのこと言ってるだけ」
「そっか」
その相槌の後美貴は立ち上がり、亜弥の姿を探し出したので、
彼女は今入浴中であることを告げると、じゃあ一緒に入ろっと、
などと急にご機嫌になりながらバスルームへ向かっていった。
「……はぁ」
落ち着いた真希は再び雑誌に視線を落とす。
ふと、先ほどの美貴の言葉が脳裏を過ぎった。自分のことを、他人のように。
……他人とはここの世界にもともと居た『真希』のことになるのだろうか。
今の自分は真希でもありマキでもある。樹海でここの世界の後藤真希の
全てを、別世界から堕ちて来たマキが吸収したからだ。
死にたいとまでは思わないものの、こちらの世界の後藤真希が持つ
鬱々とした意識まで記憶その他とともに吸収してしまったために、
亜弥のボイストレーニングに付き合うまで自分がここに来た目的を
なかなか思い出せずにいた。
- 107 名前: 投稿日:2005/03/15(火) 21:26
- だが、やっと思い出すことが出来た。
自分は歌を歌いたくてここに堕ちて来たのだ。
そしてタイミングのいいことにもうすぐチャンスの時が来るのだ。
本当は胸張って絶対に合格すると宣言してやりたいが、これまでの
真希の様子から唐突にそのような自信に満ちた発言をしてしまっては、
周囲に不信感を与えるかもしれない。
面倒だが、はじめのうちは気の無い振りをしておくことが最良のように思えた。
「……いやぁでも、何かすごいワクワクしてきたかも」
かも、ではない。明らかに自分は楽しんでいる。
大きな期待に胸を躍らせている。これから忙しくなりそうだ。
「赤飯でも炊いちゃおっかな」
思わず自分の台詞に噴出し笑いながら、雑誌を閉じて遅い
夕飯の支度のためにソファから立ち上がった。
- 108 名前:作者 投稿日:2005/03/15(火) 21:30
- >>98 名無飼育さま
レス有難うございます。痛い…確かに痛い…かも。
- 109 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/19(土) 14:59
- ああ後藤はこうなってたんだ
ある意味きつい展開だけど前向きに進んでますね
- 110 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/03/30(水) 21:18
- 一気に読まさせて頂きました。 せ、切なく痛いです(T_T) あちらこちらから色々なことが起こってます。 次回更新待ってます。
- 111 名前:? 投稿日:2005/04/30(土) 19:17
- tasikani!
- 112 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/19(日) 08:36
- ものすごく待つ
- 113 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/05(金) 21:03
- 超待ってます
- 114 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:27
- 「あたし、部屋……出ようか。中澤さんに何とか頼んで……」
腰掛けたベッドの感触を指先で確かめながら、愛が呟いた。
麻琴との一件を嗚咽混じりに告白したあさ美は、その後隣に居た愛に縋りつき、
そのままぐったりと彼女に体を預けていて、愛のこの呟きに上半身を緊張させた。
「……何で愛ちゃんが出なきゃいけないの?」
「それが一番かと思て」
「どうして」
「って、そりゃあ……」
背負っておけば楽な罪もあるのだ。
自分が出て行ったところであさ美との関係が崩壊しない自信もある。
「愛ちゃんいつもそうだ。何でも自分だけ」
「あたしのせいやし」
「何でそんなこと言うのさ」
あさ美が顔を上げる。愛はそのふっくらとした頬にある涙の跡に息苦しさを
覚えたが、感傷に浸る暇は無さそうだ。
彼女は、怒っている。
- 115 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:30
- 「結論一人で出さないでさ、二人の問題なんだから二人でどうするか考える!」
「……あさ美ちゃん」
「愛ちゃんのそういうとこ、ちょっと好きじゃない」
「ご、ごめんなさい」
「まあ嫌いじゃないんだけどさ」
恐らく、今後二人の間にそういった行為が無くなったとしても、麻琴は過去の
出来事だったと簡単に流してはくれないだろう。
里沙にはまだ実際にこの件に関して直接話を聞いたわけではないから、
ひょっとしたら麻琴の狂言だった可能性も在り得る。優しいから黙っておこう、
ではなく、単純に知らないかもしれない。
「問題はその麻琴がどうするか、だよ」
「言いふらしたり……されるかの、やっぱ」
「されると思ってたほうがいい。で、うちらが平気で居られるかが一番重要で」
それにしてもついさっきまで泣きじゃくっていた彼女が急に真剣に
これからのことを検討しだしたので、愛は少々調子が狂ってしまった。
縋って頼ってこられるかと思っていただけに。
- 116 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:31
- しかし彼女が実は芯の部分は強いらしいという面を発見できたので、
こんな状況にもかかわらず愛は嬉しくなって笑いそうになり、
発作的にあさ美を強く抱きしめた。
「あ、愛ちゃん」
「うん、それで?」
あさ美が受け入れて背中に手を回す。
「……嫌がらせとかもあると思う」
「あるやろね。あー何されるんやろ。練習中足引っ掛けられたり」
「靴の中に画鋲」
「着替え隠される」
「話しかけても無視」
「トイレに閉じ込められる」
「何されても耐えるけど、あさ美ちゃんが変質者扱いされんのは嫌や」
「それはわたしも一緒だから」
今度はあさ美の方が愛に強く抱きついた。
今まで何度か互いの奥の方に触れることがあったが、
今日ほど満ち足りた気持ちになれたことは、ない。
それまでの行いが無駄だったわけではないのだろうが、結局のところ、
自分たちには必要のないことだったのかもしれない。
- 117 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:32
-
- 118 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:32
-
この声が最初に届くのは二人のうちどっちなのかなあ。
高橋か紺野、まあどっちでも届くんならいいんだけど。
今のところ上の奴等はこうやって、能力だけじゃなくて意志とか
言葉とかも譲り渡すことができるんだってことに気付いていないみたいだし、
アタシが今から話すことを余計なお節介だと思うんならそれでいい。
ぶっちゃけ、ずっとそこに居るのはお薦め出来ないね。
偉い人たちはもう自分が楽しむためだけにあんたたちを加入させた。
前みたいに、実力で人を惹きつけようって言う意志を持った人たちは
もうそこには居ないよ。
居たけどいろいろ意地悪されたみたいでさ、どんなことをされたのか
までは知らないけど。
- 119 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:34
- アタシはたまたまその内の一人から、これからこのメンバーでこんな
ことをやってみたいとかワクワクする話を沢山聞いてた。歌をやってみたいと
思ったのもその人がきっかけだった。そのために今まで以上に頑張らなきゃって
自分なりに努力してきて、羽根が生えたのはちょうどその頃。その人が
居なくなったのもその頃。
……あ、違うな、居なくなったんじゃない。変わっちゃったんだ。
とにかくね。
今二人は夢中になってて気付かないかもしれないけど、いつか絶対
『そこでしか出来ないこと』と『やりたいこと』にギャップができる。
あのね、羽根はその目印なんだよ。
今ある才能の限界と同時に別の才能への可能性が出始めたら羽根が生えるように、
何か裏でそういうアヤシイことをしてるんだ、って…アタシ偶然聞いちゃった
んだよね。裕ちゃんとどっかの偉い人が喋ってるの。
考えられるのは食べ物関係だよね。特にあの水とかアヤシイ。
だからなるべく果物で水分摂るようにしてたんだけど。
- 120 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:34
- 言われてみたら確かに、気持ち悪いくらい真っ白な羽根じゃん。
生まれつき持ってた天然の人たちはもっと、なんていうか汚れた
感じの羽根だった気がする。
一回しか見た事無いけど……
あれに比べたら
アタシのは作り物みたいに真っ白なんだ。
- 121 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:36
- 何となくわかってくれたかな?
ここでは羽根は決していい意味を持ってないよ。
こいつの踊りはもうこれ以上成長しないって目印なんだ。
そんで、他にも『使い様がある』モノを持ってる、って意味なんだ。
アタシは…下に行かないでずっと居続けたら多分どこか別の場所に
飛ばされるか、殺される、って思って。
だったら自分のやりたいことを自分で選びたかったから、そこから
出て行こうと思ったんだよ。
- 122 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:36
- 高橋に羽根を譲ったのは…紺野が居たから。
ごめん、アタシ二人の関係がどんなもんか知ってた。
あともうひとつ、これはきっと二人知らないだけだろうけどごめん、
羽根無くても体液飲み込んだら能力が吸収したりされたりするんだ。
だからアタシが譲っても当分生えることは無いだろうと思って賭けに出た。
譲ったのはアタシの能力と意志と言葉だからもしかしたら高橋今頃
何か凄いモヤモヤしてるのかもしれない。ポジティブに行こうとしてるのに
アタシがそれを邪魔するような気持ち無理矢理流し込んだから。
その分、ボイラー室の扉抜ける時はさっぱりした気持ちになれてる
かな…何かほんっとごめんね、自分勝手な先輩で。
- 123 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:37
- 紺野。
今までのこと聞いて、落ち込んだりしないでね。
踊れたのは全部高橋のおかげだったんじゃないよ。能力だけあっても
努力しなきゃどんどん落ちていくんだから。アタシは頑張ってる
紺野をちゃんと見てきたから言い切れる。紺野は紺野の力で踊りきって
きたし、高橋は逆に頑張ってる紺野に引っ張られてたと思う。
でも多分それだけじゃない想いをお互い持ってたんだろうね。
支えあってたんだろうね。
残念だなあ、こんなに頑張ってる後輩なのに、まだお客さんの前で
踊ったこと無いんだよね…
何だかアタシの方が悔しい。生で見せてあげたいよ、みんなに。
そうしたらきっと今よりも何倍も充実感があるし、見てくれた人たちにも
『何か』を残してあげられる、今のメンバーだってそういう踊りができる
はずなのに、どうしてこうなっちゃったんだろうね……
- 124 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:38
- ……………
アタシは…メンバーみんな大好きだけど、二人には特に幸せになって欲しい。
だからアタシが知ってることをこうして残しておきます。
これが届く頃、高橋にも紺野にも羽根が生えてないことを祈りながら
下に行きます。
じゃあね、バイバイ。
…苦情や文句は下の世界の後藤真希まで!
- 125 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:38
-
- 126 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:38
- 空は白みかけ、
いつもは夜の顔しか見たことの無い屋上の、初めて感じる雰囲気に、
あさ美は少しばかり身を震わせた。
あの後、寄り添ったまま自分たちは僅かに浅い眠りに入っていたらしかった。
浅い眠りは夢を見易いと言うが。
真希からのメッセージを受け取ったのはあさ美だった。
愛はまだ自室で眠っている。
もしかしたら、彼女も今頃真希からのメッセージを受け取っているかも
しれない、とは思うが、できるならば自分だけであってほしい。
朝焼けを全身で浴びているうちに、徐々に夢が夢でないのだという確信が
芽生えてきた。
- 127 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:39
- 上達していき感じることができた充実感、身体能力の変化は、錯覚だった
わけではない。
間違いなく本物だった。
ただ、その多くは、本来ならば、高橋愛が実感するべきだったはずの感覚で。
同じ頃、愛本人から、体が鈍ったのかテンポがずれるようになった、と聞いた。
どこも体調に変化は無いのに、踊ろうとすると思った以上に体が動かない、と。
「だってわかるわけないしょ、そんな原因あったなんてさぁ……
わかんないってぇマジで……ゆるくないなあ」
溜め息を吐く。
『紺野。
落ち込んだりしないで、ね』
「……無理です、後藤さん」
あさ美は、
初めて真希の事を恨めしく思った。
- 128 名前: 投稿日:2005/08/07(日) 20:39
- みなさま、レスありがとうございます。
……もう少しあがいてみます。
- 129 名前:作者 投稿日:2005/08/07(日) 20:41
- 失礼。名前欄変え忘れてました。>>128、作者です。
- 130 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/08(月) 22:40
- 待ってて良かった;・(つД`);・
- 131 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/10(水) 14:08
- きた、きた、キター!!!先が気になって気になってもう……
私も待ってて良かった;・(つД`);・
- 132 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/08/13(土) 16:31
- 更新お疲れ様です。
作者様!!待ちわびておりました!!(涙
これからも頑張って下さい!!
次回更新待ってます。
- 133 名前: 投稿日:2005/10/09(日) 22:35
- 「護身用?」
「そう」
バイトの無い休日、亜弥とともに街の中心部へ買物にやってきた美貴は、
休憩と昼食のため立ち寄ったドーナツショップで、耳慣れない言葉を
亜弥から聞いた。
「スタンガンってあれだ、ビリビリってくるやつ」
「うん」
「護身用のために買うっての」
「買うよ」
「大袈裟じゃないの?」
「大袈裟じゃないの」
亜弥が淡々と返答するので、直前に聞いた話からの飛躍もあって、
美貴はいまいち現実感が湧かない。
彼女からの話をまとめるとこうなる。
オーディション応募規定には、『応募時点で芸能活動をしていないこと』が、
条件の一つとして提示されている。そのため亜弥は、タレントスクールを
辞めたい、と代表に申し出た。が、猛反対された。
- 134 名前: 投稿日:2005/10/09(日) 22:35
- スクールでは数ヶ月に一度ライブイベントを催しており、亜弥も勿論、
毎回これに参加していた。回を重ねるごとに一般客の中から固定ファンがつき、
私設ファンクラブも出来た。
ファンクラブの会員は徐々にその数を増やし、亜弥だけでなく他の生徒たち
にも目を向けられるようになってきた。つまり、スクール自体のファンが
出来上がりつつあるというのだ。
代表が目をつけたのはここだ。
亜弥をメインにスクールから事務所をたちあげよう、という計画が、
秘密裏に進んでいたのである。そのことを、亜弥はこの時初めて知った。
しかしながら、彼女は初志貫徹の思いを退けなかった。
辞めさせてくれないのなら、自主的に辞めたつもりでもうここには来ない、
そう言い放ったのである。
- 135 名前: 投稿日:2005/10/09(日) 22:35
- 代表の制止の声も聞かず勢いスクールを飛び出した亜弥は、玄関の
ガラスドアを勢いよく開け、憤懣やる方ない足取りで駅へと向かった。
レッスンの後なので、時刻は夜十時近くになっている。
二十メートルほど直進したところに横断歩道があり、その赤信号を見ていた。
その時、
どこからかカメラのフラッシュが焚かれ、
慌てて走り去るような足音を聞いた。
周りを見回してみたが既に遅かった。逃げられた。
ただ、明らかに自分が撮られたのだ、ということはわかった。
心当たりなら、いくつかある。
そして彼女は直感的に、我が身に迫る危険を察知したという。
今後のことも考えれば、身を護るための武器が必要だ、と考えたのだ。
- 136 名前: 投稿日:2005/10/09(日) 22:36
- 「いつも誰かと一緒にいられるわけじゃないし、だからって今から護身用の
武術とか、遅いでしょ」
「そうだねえ、でもスタンガンねえ……相手死んだりしないの」
「流石にそこまで威力あるの買わないよ。高そうだし」
「で、誰から護身すんの亜弥ちゃん」
「主にファンの人、あと念のためスクールの子、それから」
「まだ居んの」
「こないだ、たんのロッカーに悪戯した奴からも」
亜弥はそう言って不敵な笑みを浮かべた。
美貴はそれを見て、同じように笑う。
「たん、今何考えたか当ててあげようか」
「え、なーによ」
「それなら美貴が使いたい、って思った」
「ん〜、どーだろ?」
彼女はそうはぐらかして、残り少ない冷めたコーヒーを飲み干した。
- 137 名前: 投稿日:2005/10/09(日) 22:36
-
- 138 名前: 投稿日:2005/10/09(日) 22:36
- 「何か聞いたことある名前がいっぱいあった!」
「そうなの?スタンガンもさ、すごい種類があって、もーかなり迷って」
マンションまで帰り道、亜弥と美貴は初めて訪れたガンショップで受けた
衝撃を声高に語り合い、通りすがる通行人が目を丸くしているのを見て
思わず声を潜めた。
不自然なほどに明るい店内だった。場所も、ある複合デパートのテナントの
一つ。普段から買物に来ているところなのに、こんな店があったことを、
今日まで知らずにいたことにまず驚いた。
壁や天井は白で統一されていたが、店内の半分以上が黒や銀、金といった色で
埋め尽くされていた。
ところどころに、デパートや雑貨屋でよく見かける大きな蛍光イエローの
POPが置いてあり、目に馴染んでいる「激安」だの「大特価」だのいう
単語が向けられている商品はと言えば、亜弥の求めるスタンガンであったり、
催涙スプレーであったりした。
「たんはさ、何見てたの?」
「ベレッタとかトカレフとか」
「……えーとなんだっけそれ、ピストル?」
- 139 名前: 投稿日:2005/10/09(日) 22:37
- 美貴は歩きながら、右手を銃の形にして亜弥に向ける。
「パーン!」
「ぉうっ、やられた」
「エアガンだよ」
「ああー、死なないやつね」
「そう、死なないやつ」
「何かあんだけいっぱいあるとだんだん玩具みたいに見えてきてさ」
「危ない、危ないですよこの人」
「友達の家でやったゲームに出てきた銃とかさ」
「なんて名前?」
「デザートイーグル。銃なのにデザートってかわいくない?だから憶えてて」
「イーグルってでも、鷹?だよね」
「違う、鷲だよ。でもそこあんまり気になんなかったけど」
その時、亜弥の携帯に真希からメールが入った。
夕飯をどうするかという用件だと亜弥が美貴に伝えたが、
美貴の口からは相変わらず、肉、という返答しかえられなかった。
- 140 名前:作者 投稿日:2005/10/09(日) 22:40
- 更新。
>>130-132
いやもうほんとにお待たせしました。
今後もゆっくりと、確実に、できたらいい、なあ……
- 141 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 04:34
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
- 142 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 17:19
- 待ってます
- 143 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/18(日) 11:53
- まだまだ待ちます
- 144 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/12(木) 18:41
- まだ?
- 145 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/22(日) 16:19
- 早く読みたいよぉ
- 146 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/23(月) 01:31
-
ゆっくり更新で良いので待ってます☆
それと皆さんあげちゃだめですよ(汗
- 147 名前: 投稿日:2006/02/01(水) 22:07
- 色々なことを思った。
まずは反省。その次に羞恥。上回る憤怒。
ゆっくりと諦め。そして依存。
もう自分には、これ以上、踊りに関して上達する見込みは
無いのだろう。
ならば、出来る限り彼女を、大切な思い人を、『応援』しよう。
支えになろう。
踊りだけに集中できるように、自分で分かる範囲のストレスは
軽くしてあげよう。
なるべく釣り合いの取れるような立場でありたかったが、
そもそも無理なのだ。
まずは小川麻琴。
- 148 名前: 投稿日:2006/02/01(水) 22:08
- 屋上を出たあさ美は、麻琴と里沙の部屋へ向かった。
虚ろな目で廊下を歩く。
……ふと気付いたらドアの前にいた。
軽く握った拳でドアを二回、ノックすると、寝ているところを起こされた
らしい里沙が、寝癖を手櫛で整えながら応対する。
彼女が何を言ったのかは覚えていない。
「マメ、開けてくれる?」
マメというのは里沙の愛称であるが、この呼び名は、あさ美だけが
使用していた。
ややあって、ドアが開かれる。
里沙がまた何か言っているらしいが、よく聞こえない。
「朝早くごめん。麻琴いる?」
言いながら強引に室内に入った。
すぐ様二台のベッドが目に入る。
壁際に設置されているベッドには、人のものと思われる膨らみがあった。
里沙が背後で相変わらず何か言っている。
だがその声は耳の内側で篭っていて、意味までは分からなかった。
- 149 名前: 投稿日:2006/02/01(水) 22:09
- 誰かが眠っているベッド。誰か?間違いなく麻琴だろう。
とうとうそのベッドの傍らにやって来た。
シーツの端を掴み、風を起こすほどの勢いでそれを剥いだ。
「……?」
胎児のように丸くなって眠っていたが、突然当てられた外気に
気付いたのか、呆けた状態でゆっくり目を開けたので、笑顔で、
おはよう、と声をかけた。
「おあよ……え?なに」
麻琴は片肘をついて髪をかきあげながら、掠れ声で返事をする。
「話があるんだ」
「ええ……?ちょっと勘弁してって。寝起きなんだけど」
「麻琴、麻琴がどんな手を使っても無駄だから。わたしが護るから」
「はあ?」
「護るためなら何でもするよわたし。
多分麻琴がここにいられなくなるくらいのことも平気だし」
「……は?……意味わかんないんですけど?」
「わかんない?そんなはず無いでしょう。あーもしかして、
まだ起きてない?起こしてあげようか」
- 150 名前: 投稿日:2006/02/01(水) 22:10
- 次の瞬間、あさ美は麻琴に飛びかかった。
全体重をかけて彼女の上にのしかかり、首に両手をかけ力を込めた。
ドアの前で立ち尽くしていた里沙が、同期の異変に我に返る。
二人の元へ駆け寄り、麻琴の首にかけられた手を引き剥がす。
そのままあさ美の視界に横から入り込んで、何事か叫んでいる。
絞首状態から開放された麻琴は、仰向けから体を横に倒し、
首を抑え咳き込んだ。
睡眠中の胎児姿勢から、たったの数分で老いた人になったかのようだ。
「起きた?じゃあもうわかるしょ」
「あさ美ちゃん何やってんの!?止めなって」
両手首を掴まれ、至近距離で怒鳴られたあさ美は、この時初めて
里沙の言葉の意味を理解した。
「マメ手ぇ離して。痛い。ちょっと麻琴と話させて」
「何言ってんの何が話だっつーの!?あんた今首絞めようとしたんだよ!」
「麻琴、目醒めた?」
咳き込んでいた麻琴が、顔を上げた。
眉間に皺を寄せ、肩で息をしているが、意外にはっきりとした口調で呟く。
「…………愛ちゃん、か」
- 151 名前: 投稿日:2006/02/01(水) 22:11
- 「そうそう。別にわたしは何言われてもいいよ?赤点だし言われ慣れてる。
でも愛ちゃんは駄目。あの子打たれ弱いんだから。わたしが護らなきゃ」
少しの沈黙があり、手首を掴んでいた手の力が緩んだ。
里沙が同期の異質な雰囲気を肌で悟って、あさ美から離れたのだ。
麻琴があさ美を睨みつけ、吐き捨てる。
「あさ美ちゃん、頭おかしい」
「そうかなー?わたしはただ好きな人護るって言ってるんだけど」
「普通じゃない」
「普通って何?わたしたちの邪魔して脅してくる人のことなら、わたしも
普通じゃないって思うけど」
「気遣ってやったんだよ!」
「……へえ、麻琴、面白いこと言うねえ?」
- 152 名前: 投稿日:2006/02/01(水) 22:11
- 背後で、ドアを開閉する激しい音が聞こえた。
恐らく里沙が出て行ったのだろう、とあさ美は思った。
麻琴は気付いていないらしい。
「麻琴今好きな人いる?いないよね?じゃああれは嫉妬だよね」
「……」
「そうだよね最初は愛ちゃんと麻琴が張り合ってた。
ライバルみたいになって、でも途中から麻琴がやる気なくしたの」
「……」
「これわたしの勘なんだけど」
「……」
「麻琴、愛ちゃんに振られた?」
- 153 名前: 投稿日:2006/02/01(水) 22:12
- 今度は麻琴があさ美に襲い掛かった。
ベッドは壁に沿って置かれている。麻琴はわざとその壁に叩きつけるように、
両肩を突き飛ばした。あさ美は抵抗できずそのまま壁に背中を強か打ち付けたが、
頭の中では、こいつは殴るとか蹴るとかいう直接的な暴力より、間接的に怪我を
「させる」ようにしむけているのだな、と、嫌に冷静な分析をしていた。
それならそれで、自分にも考えがある。
あさ美は壁から離れず背中の質感を確認しながら、じりじりと壁面に沿って
体を枕元に移動させた。
彼女の動作が、怯んで逃げの態勢になったように見えたのだろう。麻琴は、
以前廊下であさ美に迫った時と似たような薄笑いを浮かべた。
壁に沿って滑らせていた左手が空を切り、次いで何か硬いものに当たった。
指を曲げて爪を当ててみると、カツ、と乾いた音がした。
- 154 名前: 投稿日:2006/02/01(水) 22:12
- 麻琴から目は逸らさず、あさ美は脳をフル回転させる。
爪が当たったのは、サイドボード上のベッドサイドランプの傘の部分。
傘はガラスで出来ているはずだ。自室にも同じタイプのものがある。
大きさはベッドサイドランプといっても結構なもので、先ほどちらりと
目に入ったのを思い出すと、ベッドに座り込んだ自分の上半身、肩くらい
までの高さがあったはずだった。
「……逃げんの?結局びびってんじゃん」
形勢逆転と見た麻琴が挑発してくる。
……まだだ、もう少し。
「……」
「どうしようかねえさっきの。首。痕とか関係ないよねえ?
ガキさんも見てたし、証人に」
- 155 名前: 投稿日:2006/02/01(水) 22:12
- その時、里沙の姿を視認するためなのか、麻琴が自分から目を逸らした。
あさ美は再び敵の首めがけて手を伸ばす。
だが二度目のせいか麻琴にすぐさま勘付かれ、彼女はその襲い掛かる腕を、
体を横に逸らせて回避した。
それだけでは終らなかった。体を逸らせた事であさ美の隙だらけの
上半身を両目が捉え、咄嗟に肩からその胸元に飛び込む。
どん、と鈍い衝突音の後、麻琴は、ベッドの上に辛うじて引っかかる
ような姿勢で倒れこんだ。
顔はベッドからはみ出して、思わず閉じてしまっていた目を開けると、
見覚えのある自室の床と、ガラスの破片が間近に迫っていた。
床とガラスの破片。
「う……」
「……?」
自分のものではない呻き声に顔を上げる。と、床の上で粉々になった
ガラス片の上に、あさ美が蹲っている。
何が起こったのか理解できず、麻琴は視線を左右に動かした。
床は、ところどころが紅く煤けていた。
- 156 名前:作者 投稿日:2006/02/01(水) 22:15
- 更新。
>>142-146
お待たせしました。
- 157 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/02/15(水) 16:13
-
静かに淡淡と、だけど確実に進んで行く物語に惹き込まれてしまいました。
これから2人はどうなってしまうんだろう…?
…後藤さんたちも。
先の読めない作品には、ドキドキしてしまいます。
いくら時間かかっても、最後まで読みたいと思っちゃいます。
だから、これからも、楽しみにしています。
- 158 名前:作者 投稿日:2006/04/28(金) 20:38
- お知らせです。
このスレを放棄します。
内容の一部で、現実には起こって欲しくない展開のつもりで書いて
いたことが、本日実現してしまったためです。
「起こりそうなこと」を念頭に置いて書いていたのに、いざ直面
してみるとショックが大きすぎました。
続きを楽しみにして下った方々には大変申し訳ありませんが、
これ以上続けることは困難と考え、放棄することにしました。
あらゆるレスを下さった方々、見守ってくださった方々、今まで
有り難うございました。
- 159 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/04/29(土) 22:19
- orz
- 160 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/01(月) 17:06
- 気持ちは分かるが残念だ・・・
Converted by dat2html.pl v0.2