無題
- 1 名前:lou 投稿日:2004/09/25(土) 17:04
- 無題
- 2 名前:lou 投稿日:2004/09/25(土) 17:04
- 『長い黒髪が痩身に巻きついている美しい女』
- 3 名前:長い黒髪が痩身に巻きついている美しい女 投稿日:2004/09/25(土) 17:06
- 喉の手前、なだらかな板になったところでちょうど髪が底をつく。
残った先端部分を、襟の部分で結い合わせた。圭織は黒い糸を巻きつけた棒のようになった。
日に焼けて色が変わったテーブル、
節々にささくれが目立つたんすや扉の締まりが悪くなった冷蔵庫など、
凋落の一途をたどる室内において、自らの髪を身につけた女は、異形の美しさを滲ませている。
なつみはできばえに満足していた。
ベッドの中で半身だけを起こし、薄い闇の中に輝く黒衣に触れた。
同時に、暑いわ、と云う言葉が圭織の口からこぼれ、
そしてそのまま流れるように首を窓の方へと向けた。
彼女もつられてそちらを見た。
雨音がしていた。
開け放たれている窓から低く垂れ込めた鉛色の雲が見え、白いすじが糸を引いている。
古びたビルの灰色の外観が斑模様を描き出し、街路樹の葉は露に打たれうなだれていた。
彼女は気だるげにベッドから起き出した。
足をつけると床は耳障りな音を立てる。
首周りから胸元にかけて粘り気のある汗をかいていた。
夏の熱気に湿気が溶け、部屋中に重たい空気が充満していた。
- 4 名前:長い黒髪が痩身に巻きついている美しい女 投稿日:2004/09/25(土) 17:06
- なつみは不愉快だった。
眠りを妨げられたせいだと思ったが、
しかし彼女自身自分が眠っていたのかどうかよくわからなかった。
ガラス戸を引くと、雨音は遠ざかった。
ふと、近く彼女の身に起こる現象もその程度のことなのかもしれないという思いがよぎる。
閉ざされて、遠く離れる。云ってみれば、それだけのことなのかもしれない。
ひとり何かに乗って──彼女は舟だと当たりをつけていたが、実際はどうなのか知る由もない──
別の場所へと赴く。
どうせなら、部屋ごと連れて行ってくれるとありがたい。
年代もので使い勝手がいいとはお世辞にも云えない道具も多々あったが、彼女には愛着があった。
扉には鍵がかかっている。窓にも鍵をかければ、閉ざされる。
そんなことを考えて、窓の錠を下ろした。
- 5 名前:長い黒髪が痩身に巻きついている美しい女 投稿日:2004/09/25(土) 17:07
- ここ数日、いや数週間、或いは数ヶ月にも至るのかもしれない。
つい先刻から、という可能性もないではなかったが、彼女は常にベッドの中にいた。
実際にはそんなはずはなく、少なくとも生活に必要な最低限の行動は行っているはずだが、
その時間、つまりベッドを離れている間は、
まるで自分の中の違う部分を動力としているような感覚があった。
淡いブルーの掛け布団には一円硬貨ほどの赤黒い染みがついている。
いつついたものか定かでなかったが、数日だか数週間だか数ヶ月の間についたに違いない
──つい先刻という可能性もまったくないではないが──ので、
いつついても不思議はないし正確な日時を知る必要もないと彼女は思っている。
両手の指の爪先が白くなっていて、肩口にかかっている髪が枯れ草のように乾きねじれている。
払って、ベッドに入った。
魚が水中にいるのがごく当たり前であるように、
残っていたぬくもりが自分のいるべき場所であると告げているように思われ、機嫌も直った。
そして、いろいろなことを考える。
奇蹟、と云う言葉を幾度となく聞いていた。
医者は例外なく口にした。こういっては何ですが
──彼女はこういった前置きがあまり好きではないのだが、
医者は何度頼んでも取り除いて喋りだすことをしなかった──
もうすぐ二十歳を迎えられるというのが信じられません。まさに奇蹟ですよ。
頻繁に見舞ってくれる友人はさすがに使わなかったが、
時折、暇をつぶすために顔を見せる曖昧な関係の上に立っている人々は同義の言葉を口にした。
彼らは褒めることは素晴らしいことだと信じて疑っていないようだった。
- 6 名前:長い黒髪が痩身に巻きついている美しい女 投稿日:2004/09/25(土) 17:08
- 圭織は決してそのような言葉を口にしなかった。
暑い、寒い以外の言葉をほとんどなつみは聞いたことがなかった。
遠くの覚えのある建物を見るような目をして、
なつみが髪を着せたり脱がせたりするのを静かに待っている。
結ったばかりの髪をほどいた。
圭織は、外面と内面が乖離しているようだった。
無機的な内面とは裏腹に、
絶望的に細い脾腹になびいている白いさざなみのような産毛はまるで命を持っているかのようだった。
冬、髪を着せる直前には芽吹いたばかりの植物を思わせるほどの溌剌さで上を向いているが、
夏になり、髪を脱がせて見ると、洪水に見舞われたかのごとく乱れて肌に張り付いている。
それは髪に関しても同じだった。
脱がせる際にはしっとりと濡れていたが、
着せるときには肌を傷つけないか不安になるほど水分と艶を失っていた。
尤も圭織はまったく気にかけていなかった。
なつみも女の皮膚が白以外の色を含んでいるのを見たわけでもなかったので、特に何を云うでもなく、
請われたとおりにしていた。
- 7 名前:長い黒髪が痩身に巻きついている美しい女 投稿日:2004/09/25(土) 17:09
- 初めて圭織がなつみの元に、髪を脱がせてくれないかとやってきたのは夏だった。
蚕の繭のように首から膝まで髪に巻かれていた。淡い光を放っていた。
柔らかく、仄かに暖かい髪は強情に身体に絡み付いていた。
難しいパズルのように、慎重に解きほぐした。
脱がせ終わると冬になっており、寒いという圭織に髪を着せてやった。
終わると夏になっていて、また脱がせた。また着せた。
もう何度目の脱衣になるのかわからなかったが、なつみは手馴れていた。
圭織を椅子に座らせ、爪や髪で肌を傷つけないよう丁寧に脱がせていく。
踏みしめると悲鳴を上げる床には黒いドレスのように髪が横たわっている。
ノックの音がした。
返事をして扉を開くと、真里が芳しい香りとともに笑顔を見せた。
寝ていたかと訊かれたので、わからないとなつみは答え、お腹は空いていると続けた。
友人は笑顔のまま紙袋に手を差し込んだ。
内側に水滴を汗のように纏わせたビニル袋には、手製のスコーンが入っている。
見舞いの際には必ず作りたての物を持参していた。
床を鳴らして部屋に入ってきた友人はスコーンを枕元のバスケットに放り込み、
ベッド脇の椅子に腰掛けた。
- 8 名前:長い黒髪が痩身に巻きついている美しい女 投稿日:2004/09/25(土) 17:09
- 他愛ない話には常に花が咲いた。
もっぱら話し手は真里だったが、喋ることよりも聞くことを好むなつみは十分満足だった。
時折、奇蹟について訊ねると、友人は相手にしなかった。
彼女も、相手にされないことを楽しんでいた。
そんなことを考える暇があるなら健康のことを考えろ、スコーンばかりでは栄養が偏る、
ベーグルサンドウィッチでも作ってこよう、いや、スコーンが好きなのだから構わない、
といった問答を繰り返したあと、仕事の都合で、今度は冬にならないと来られないと友人が云った。
冬まで生きていられるかどうか、と彼女が笑うと、
あんたのことだから気がついたら冬になってるよ、と友人も笑った。
ありがとう、と、乳房の上部が覗いたところで、圭織が珍しく口を開いた。
視線がなつみの手元へと降りてきていた。
なつみはどもりながらいいえ、と言葉を返した。
話ができそうな雰囲気が一瞬感じられたが、圭織は既に目を上げ、薄汚れた壁を見やっている。
なつみは作業に戻った。胸の隆起の周辺は着せる際にゆったりとさせてある。
髪が食い込んでしまうのだ。
脱がすにも注意が要った。
焦ると肌を傷つけてしまうため、ことさら丁寧に髪を繰る。
不慣れな頃にこさえてしまった赤い繊維のような傷が見えはじめ、
手には力がこもり、反比例して指先は柔らかく動く。
- 9 名前:長い黒髪が痩身に巻きついている美しい女 投稿日:2004/09/25(土) 17:10
- スコーンをちぎる。口に放り込む。バターの味が強い。
無性にオーブンが欲しくなるが、気がつけば忘れている。
スコーンを咥えたまま、ミルクとカップを手にキッチンから真里が戻ってくる。
レンジはあったが、なつみはホットミルクは好きではない。
冷たさが胸の辺りを降りていくのがわかる。
圭織の肌は心地のよい冷たさを湛えている。
とりわけ腰は、その手触りと合わせて白磁の陶器を思わせた。
網目模様の質のよい白が膜のように皮膚に浮き出している。
下腹部に差し掛かり、残る髪もわずかになった。もうすぐ脱ぎ終える。
- 10 名前:長い黒髪が痩身に巻きついている美しい女 投稿日:2004/09/25(土) 17:10
- 帰るね、と真里が云った。
時間の感覚が曖昧になっているなつみは、もうそんな時間かと思いつつ友人を見送った。
扉越しに、今度来るまで元気にしてろよ、という真里の声が聞こえた。
真里がそんな言葉を投げかけたのは初めてのことだった。
今までありがとう、と圭織が云った。
足元には投げやりな様子で髪が散っている。
それを纏め上げ、裸身のまま扉へと歩いていった。
窓の外には雪が舞っている。寒いはずだ、となつみは思ったが、言葉が口をつかなかった。
扉越しに、さようならと声が聞こえた。
圭織がそんな言葉を投げかけたのは初めてのことだった。
女が出て行ってまもなく、ノックの音がした。
鍵のかかっていない扉が開き、友人が芳しい香りとともに笑顔を見せた。
しかし、彼女には、風景すべてが白く霞んで見えていた。
- 11 名前:lou 投稿日:2004/09/25(土) 17:11
- おしまい
- 12 名前:lou 投稿日:2004/09/25(土) 17:12
- ・
- 13 名前:lou 投稿日:2004/09/25(土) 17:12
- >>2-11 『長い黒髪が痩身に巻きついている美しい女』
- 14 名前:lou 投稿日:2004/09/26(日) 17:11
- 『湖』
- 15 名前:lou 投稿日:2004/09/26(日) 17:12
- つまり、運命とは似ていることである。
──J・ミーズ
- 16 名前:湖 投稿日:2004/09/26(日) 17:13
- 〇
水面は澄んだ青を広げ、時折吹き抜けていく風がさざなみを起こしていく。
雲が揺れた。
青い鏡となった湖を、少女は興味深げにのぞき込んだ。
林立する木々、水際に生い茂る葦、そして自分の顔。
とてもよく似た風景がふたつ接している、その事実から、少女は湖を魔法の鏡に仕立て上げた。
湖から生まれ出でた世界、枷を外れて自由になった風景、
もしくは湖に収められた世界、凝縮された濃密な風景、
奔放な空想は、穏やかな自然の中にいると、
あながち妄想とも云い切れない立体感を持って立ち上がってくる。
鏡の中から自分が見つめている。
湖の中の世界に吸い込まれたら、自分は今より小さな存在になってしまうのかもしれない、
湖に映る顔の大きさは今とそれほど変わらないけれど、木や雲はとても小さくなっているのだ。
水の中の世界は魅力で満ちていた。
大きな世界に存在している少女は、小さな世界に強い憧れを抱いた。
少女は縁に坐り込み、恐る恐る湖に手を差し入れようとした。
危ないよ、と声をかけられたのはその時だった。
振り返ると、女性が立っていた。
小道のところで笑顔を浮かべている。
少女は頷いて、素直に湖から手を引き、立ち上がって膝の汚れを払った。
何してるの、と女性に問われた少女は、答える言葉を巧く見つけることができずに、
湖の中、とだけ云った。
女性はしかし、その答えに満足したように頷くと、少女の元へとやってきて膝を畳んだ。
ふたりの視線が絡まる。
お姉さんの名前は、お嬢ちゃんの名前は。
二人の問いかけは綺麗に重なり、顔を見合わせて笑ったあと、それぞれが答えた。
- 17 名前:湖 投稿日:2004/09/26(日) 17:13
- 女性は柔らかい笑顔で、私の名前はカオリって云うのよ、と少女に告げた。
女性は柔らかい笑顔で、私の名前はなつみって云うのよ、と少女に告げた。
少女は無垢な笑顔で、なつみ、と答えた。
少女は無垢な笑顔で、カオリ、と答えた。
- 18 名前:lou 投稿日:2004/09/26(日) 17:13
- おしまい
- 19 名前:lou 投稿日:2004/09/26(日) 17:14
- 名前欄間違えたorz
- 20 名前:lou 投稿日:2004/09/26(日) 17:14
- >>14-18 『湖』
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/16(土) 10:56
- 不思議な空気の話ですね。
この二人の微妙な空気が好きなので、楽しみにしてます。
- 22 名前:lou 投稿日:2004/11/03(水) 00:09
- 自己保全。
>>21
レスありがとん。
面白い話は書けないし、更新も遅いんで、
変な話が読みたくなったときにでも覗いてやってください。
- 23 名前:21 投稿日:2004/11/10(水) 17:52
- 楽しみにしてます
(`一´●)人川 ゚皿 ゚)
- 24 名前:lou 投稿日:2004/11/11(木) 16:04
- 『カンバス・ライフ』
- 25 名前:カンバス・ライフ 投稿日:2004/11/11(木) 16:04
- 庭に張り出したベランダに木製のテーブルと椅子が二脚置いてある。
テーブルにはティーセット一式が用意されていた。
はじめに案内された居間のソファから移るように指示されて、後藤真希は立ち上がった。
ベランダに出るために通る廊下には、画家の家らしく小さめの額に嵌め込まれた絵が掲げられている。
一様に風景を描いたもので、人物画は一枚としてなかった。
冷たい木の扉を押してベランダに出ると、程なくして飯田圭織がティーポットを手にやって来た。
「紅茶、飲めるわよね」
促されるまま椅子に腰掛けた真希は、人形のように首を縦に振った。
赤みの強い紅茶が独特の芳香を撒き散らしながら真希のカップに注がれていく。
圭織の長い髪が鼻先で舞った。覚えのある匂いがかすめて通った。
自分のカップに紅茶を注いでいく圭織を横目で見ながら、
真希は改めて彼女がなつみと同い年であるという事実
──個展会場で配布されていたパンフレットの記述を信じるならばの話だが──に愕然とした。
なつみが年齢に比してだいぶん幼かったことは確かだが、
圭織の纏っている成熟した雰囲気は、真希との四の年齢差にそぐわないように思われる。
振る舞いに余裕が浮かんでいて、本音と嘘の使い分けなど手馴れているのではないかという気がする。
一言も話していないうちから相手のペースに巻き込まれてしまうように感じられ、
真希は慌てて対峙の心構えを整えなおした。
- 26 名前:カンバス・ライフ 投稿日:2004/11/11(木) 16:06
- 「Aギャラリーの子よね」
ポットをテーブルに置いて、圭織がそう切り出した。突然の指摘に、真希は思わず頷いていた。
「使えそうな画家かどうか偵察して来いっていわれたの?」
「いえ、純粋に興味があったからです」
「使えそうにないでしょ」
圭織の個展はGギャラリーで開かれた。
ギャラリーと名はついているもののほとんど掘っ立て小屋であるし、
個展と銘打ってはいるものの観覧に料金はかからなかった。
いつからか、少なくとも真希がAギャラリーで働きはじめた二年前には、
Gギャラリーは無名の画家による発表の場、画廊関係者による品評の場と化していた。
幾人か、Gで素質を見出された画家もあると聞く。
実際のところ、真希もAのオーナーからある程度の印象批評を依頼されてはいたが、
まだまだ経験不足は否めないゆえに、目の肥やしも兼ねて訪れていたのだった。
二十人の収容も危うい場所に、絵は八枚並んだ。
圭織の画風は青緑系統の色を多用する穏やかなものだった。
波も立たない湖や風のない林を描いた作品には見るべきものがあったが、
滝からは轟音が感じられず、黒や茶を用いて荒地を描いた異色作はどこか暢気さすら漂わせていた。
しかし、真希が圭織の元を訪れたのは営業のためではない。
あの場にあった唯一の人物画について聞き出すためだった。
- 27 名前:カンバス・ライフ 投稿日:2004/11/11(木) 16:06
- 「なっちとは、どういった関係なんですか」
もっともストレートな言葉で真希は訊ねた。
「どうって、友達よ」
圭織は動じることなく、紅茶を口に運んだ。
「友達って、だってあの絵には『恋人』とタイトルがつけられていたじゃないですか」
八枚目、最も奥には人物画が飾られていた。
『恋人』と題された作品は、明らかに風景画とは違うタッチで描かれていた。
白みのかった黄色の肌には肉感があり、半開きの桜色の唇からは今にも言葉がこぼれそうだった。
髪は二種類の黒を使って巧みに描き分けられ、瞳には静かな優しさを湛えていた。
見るものを見つめ返すその表情は、安倍なつみのそれに酷似していた。
「それに、友達って本当ですか?
わたし、なっちの口から飯田さんのことを聞いた覚えがないんです」
なつみはAに勤めていた唯一の正社員で、事務から雑用までを幅広くこなしていた。
絵が好きであると公言して憚らず、また面倒見もよく、
真希はたびたびなつみとふたりで美術館を巡ったりしていた。
「タイトルに関してはわたしがつけたわね。
友達かどうかに関しては、主観が混じってしまうからノーコメントにするわ。
だけど、どちらにしろあなたとの会話の話題に上ることはなかったはずね」
圭織は紅茶を飲み干すと、両肘をテーブルについて言葉を繋いだ。
「信じるか信じないかはあなたに任せるわ」
- 28 名前:カンバス・ライフ 投稿日:2004/11/11(木) 16:07
- 〇
はじめは夢だと思った
朝、目が覚めるなり洗顔に立ち、
混濁した意識を引きずったまま扉を開け放たれたアトリエの横を通り過ぎようとしたときに、
声が聞こえた。
「飯田さんじゃないですか」
呆けていたせいもあるだろうし、声が柔和だったことも作用しているのだろう、
一切の危険や不審を感じることなく、呼びかける声の出所を探した。
アトリエといっても家に設けられた一室をそう名づけているだけである。
窓がないので、外から中を窺って圭織の名前を呼ぶことは考えにくい。
かといって、影の出来るような大きな家具もないアトリエには、
人間の隠れることの出来るスペースなど存在していない。
- 29 名前:カンバス・ライフ 投稿日:2004/11/11(木) 16:08
- 「こっちです、ここ」
声は明らかに女のものだった。
困っている様子はなく、楽しんでいるかのように弾んで聞こえる。
導かれるように、一枚のカンバスの前に立った。
見慣れない女が微笑んでいる。
圭織の描いた作品でないことはひと目だった。
なぜなら、表情が変化したからである。
「どうも、こんにちは」
しばらくは反応できなかった。絵の中の女は無垢な幼女のように返答を待っている。
偉大な画家は絵の声が聞こえるといったりするが、そういう類のものではないだろう。
そもそも、今圭織の目の前にあるものは果たして絵なのかどうかもわからなかった。
写真では決して表せない、カンバスの凹凸による肌の質感が恐ろしいまでのリアリティを持っている。
「こんにちは」
女は再度言葉をかけてきた。
自分が絵になっていることを知らない、もしくは気にもかけていない軽やかな調子だった。
やっとのことで返事をした圭織に、女はマイペースで素性を告げた。
「安倍なつみといいます。Aギャラリーに勤めていたんですが、死んじゃいました」
- 30 名前:カンバス・ライフ 投稿日:2004/11/11(木) 16:08
- 危うく飲み込んでしまいかけたが、最後の言葉が小骨のように引っかかった。
「死んだ?」
「ええ、不慮の事故で」
わたしは不慮の事故で死にました。あまりに不自然な文章である。
「死んだってこと、わかってるんだ」
「うん、しばらくはその場所に縛られてたからね。地縛霊ってやつ?」
なつみによると、自分の遺体が処理される過程を見てしまったそうだ。
「なんていうのかな、腹部の辺りだけ骨がなくなってるみたいな感じかな?
見事に二つ折りになってんの」
圭織が顔をしかめると、なつみは慌てて謝った。
その後しばらくの記憶がなく、気づいたときにはこの場所にいたということだった。
「カンバスの中だってこともわかってるんだ」
「うん、悪いけどお邪魔するね。三日ばかしだと思うからさ」
どういうことかと問うと、死に場所に縛られていたのも三日ほどだからと応えた。
「生きてる人にはわからないみたいなんだけど、幽霊なんてそこら辺にわんさといるんだね」
- 31 名前:カンバス・ライフ 投稿日:2004/11/11(木) 16:09
- なつみがいうには、幽霊には幽霊のコミュニティ、というより社会があるらしかった。
いうなれば死後の人生である。
寿命は二四〇〇時間、九割の幽霊は地縛霊として召される、
強固な足かせで縛られているそれらは、
およそ二四〇時間を費やしていくつかの場所を転々とするうちに浮遊霊となる、
外見上はまったく普通の人間の姿をしているが、
五感をつかさどる器官に限って、死亡時に破損していた場合にはその力を失う、
人間とは異なった次元を生きているため基本的にその姿を目撃されることはないが、
例外的な存在は、目に見えたり、音が聞こえたりすることがあるなどなど。
「幽霊に足がないってのは大嘘なんだよね。
地縛あがりだと枷と一緒に引きちぎれちゃうだけで、生粋の浮遊霊には足があるんだよ」
「ということは、あと一週間もしたら浮遊霊になるんだ」
「多分ね、あと一箇所飛ばされたらなれると思う」
「やっぱり自由なほうがいいよね」
「そりゃあそうさ」
なつみは期待感に満ち溢れた笑顔を見せた。
- 32 名前:カンバス・ライフ 投稿日:2004/11/11(木) 16:09
- 〇
喋り終えた圭織は優雅な動きで二杯目の紅茶を自分のカップに注いでいる。
真希は動き出すことが出来なかった。
のうのうといい放った圭織に半ば呆れ、半ば憤慨していた。
「それを信じろっていうんですか?」
「それはあなたの自由よ。だけど、わたしにはこれ以上いいようがないことだけは確かね」
「話にならないですね」
真希は強い動作で立ち上がった。
一口も飲んでいない紅茶が波を立てる。
圭織はそれを一瞥したあと、奥深くから湧き立ってきたような笑みを携えていった。
「わたしは、あの子とは三日しか一緒にいなかったから、あまりよくは知らないのよ。
あなたのほうがよく知っているでしょう? 恋人を裏切るような女かどうかなんて。
事故についても、わたしは不慮の事故としか聞いてないわ」
舐めるような視線に真希は身体が粟立つような気がした。
不快感がせり上がってきて、唾を吐くのにも似た調子で、失礼します、と捨てていた。
ベランダを出ようとした真希の背中に、圭織の言葉が絡みついた。
「今度は『恋人たち』ってタイトルの絵を描くわ。あの子と、もうひとり……」
- 33 名前:lou 投稿日:2004/11/11(木) 16:10
- おしまい
- 34 名前:lou 投稿日:2004/11/11(木) 16:11
- ・
- 35 名前:lou 投稿日:2004/11/11(木) 16:11
- >>24-33 『カンバス・ライフ』
- 36 名前:lou 投稿日:2004/11/15(月) 23:14
- 『死に際の選択』
- 37 名前:死に際の選択 投稿日:2004/11/15(月) 23:15
- 飯田圭織から手紙を受け取るのはほぼ五十年ぶりだった。
郵便受けに懐かしい文字を見つけて、安倍なつみは幾分疑問を感じながらも、悪い気はしなかった。
齢八〇を超えて、記憶は混迷を極めている。
昨日の記憶と十年前の記憶が並んで坐っているような、
より厳しい審美眼をもって得る記憶、蓄積する記憶、残しておく記憶を選り分ける脳髄の中で、
圭織との友好のあった期間は鈍い蛍光を放っている。
なにがあったわけでもない平凡な月日だった。
胸を震わせるような出来事がなかった代わりに、
常に心地よい温度の水に浸かっているような心地よさがあった。
死の足音を間近に聞くようになり、
平凡であることとつまらないことの埋まることのない差異を明確に意識しだしてからは、
時折二人で過ごした時間を思い出したこともあった。
何度となく連絡を取りたい誘惑に駆られたが、杳として知れない居場所に断念せざるを得なかった。
そこに手紙である。なつみは丁寧に封を開いた。
- 38 名前:死に際の選択 投稿日:2004/11/15(月) 23:15
- 『親愛なる安倍なつみ様
長らくご無沙汰しております。
この場に書き綴りたいことは山とあり、事実今にも手が走り出してしまいそうですが堪えます。
簡潔に、お願いだけを記させていただくことをお許しください。
今、私は下記の住所に暮らしております。
この手紙が届いて三日後、月が昇るころにその場所を私のために訪ねては下さらないでしょうか。
お身体は大変なことと存じますが、
おそらく生涯最後となるであろう私のわがままを聞き入れてくださらないでしょうか。
詳細な話はその場でさせていただきます。
なにとぞご理解いただけるようよろしくお願いいたします。
飯田圭織』
- 39 名前:死に際の選択 投稿日:2004/11/15(月) 23:15
- 手紙を読み終えたなつみに小さな怒りが芽生えたことは否定しようがない。
理不尽極まる内容であると圭織自身断ってはいるが、それでも来いといっていることに変わりはない。
文面にもあるとおり、身体も万全ではなかった。
しかし、だからといって行かないわけにはいかない。
記された住所はそれほど遠い場所ではなかったし、もったいぶった書き方は興味を引いた。
圭織は──加えていえばなつみも──それほど秘密主義の人間ではない。
圭織と顔をあわせることに純粋な楽しみもあった。
- 40 名前:死に際の選択 投稿日:2004/11/15(月) 23:16
- 三日後、なつみは指定された住所に聳えていた邸宅の前に立っていた。
中世の宮廷を一回りスケールダウンさせたような、それでもじゅうぶんに立派な建物だった。
月光に浮かんでいる落葉のじゅうたんが敷きつめられた道を歩いていくと、
無人の守衛室が捨てられていた。
さらに進むと、物々しい大扉の前に人影を見つけた。
圭織は昔のままに長い、けれどすっかり白銀に染まった髪を風に躍らせながら、
なつみの姿を認めると細い声で呼んだ。
「久しぶり、ごめんね、こんなところまで」
細い身体の割りに丸みを帯びていた頬は危なさを感じさせない程度にこけていた。
変わっていない艶めいた低い声で、圭織はなつみを部屋に案内した。
圭織は物持ちのよい性格で、中にはなつみの見慣れたものもいくつか置いてあった。
主に利用している部屋だということで、そこかしこから生活感が感じられ、
中央に据えられているテーブルには紅茶と菓子の用意がされてあった。
- 41 名前:死に際の選択 投稿日:2004/11/15(月) 23:16
- 対面に坐った圭織は開口一番いった。
「素敵に歳をとったわね」
昔を懐かしむような口調だった。
「そんなことないよ、圭織だって面影があるよ」
イチゴのジャムを落とした紅茶の甘い香りが漂っている。
スコーンをつまんだ圭織は苦笑しながらひとかけを放り込んだ。
「ダメよ、なっちと比べたらぜんぜんダメ。だけど、おかげで決心がついた」
紅茶に口をつけていたなつみが目で問うと、
圭織は手紙のときと同じようにわざとらしく紅茶を口に含んだ。
なつみに勿体をつけているのか、それとも単に自分が口に出したくないのか、
判断が出来ていないようなしぐさだった。
「笑わないで、怒らないで、あと哀れにも思わないで、聞いてくれる?」
なつみの返事を待たずに、圭織は話しはじめた。
- 42 名前:死に際の選択 投稿日:2004/11/15(月) 23:17
- 「そうね、どこから話すのがいいのかしら。
会社を辞めて、なっちと連絡を取らなくなったころからにしようかな。
覚えてる?わたしが会社を辞めたとき……そう、三〇歳になってすぐのころね。
でも、あのとき実は、わたしは三一歳になってたの。
意味わかんないよね、でも、説明するから。
あれは、大学を卒業する直前だったわ。
わたしの住んでいた部屋に、少し大きめの封書が届けられたの。
今でも正確に描けるわ、薄い青色をして角ばった字でわたしの名前が書いてあった。
差出人の名前はなくて不思議に思ったけれど、封書だからかななんて思って、開いてみた。
褐色のかった藁半紙が出てきたわ。
広げてみると、宛名と似たような角ばった文字が並んでた。
一行目に、事後承諾となることをお許し願いたく思います、と書いてあったわ。
- 43 名前:死に際の選択 投稿日:2004/11/15(月) 23:17
- 細部は詳しく覚えていないけれど、内容は忘れようがないわ。
だって、とても信じられないようなことだったんだもの。
わたくしは、あなた様のお時間をお貸しいただいたものでございます。
二三歳の貴重な一年、真にありがとうございます。
返済については責任を持って行わせていただきますので、同封の書類をご使用ください。
たとえわたくしの身に何が起こりましょうとも、
引き継いだものがしかるべき処理をさせていただきますのでご安心ください、
みたいなことが書いてあったわ。コピー可の書類も入ってた。
驚くし、困るよね、いきなりそんな手紙が来ても。
だけど、意味はわからないし、なんとなく気味は悪いし、癖もあったしで捨てられなかったの。
机の引き出しに放り込んで、しばらくそのままになってた。
- 44 名前:死に際の選択 投稿日:2004/11/15(月) 23:18
- それで、三〇歳の話ね。
八月九日に恒例のお祝いをふたりでしたあと、家に帰ったわ。
三〇歳──このときは手紙の存在なんて忘れてたから、三〇歳だと思ってた──、
急激に衰えるって人もいれば、何も変わらないって人もいる年齢よね。
家に帰って鏡を覗いてみて、やっぱりどこか違うかななんて思いながらその日は眠った。
次の日の朝、鏡を覗いてみて愕然としたわ。
自分の顔が信じられなかった。
三〇歳になってたった三日で、見るからに崩れていたの。
今となっては、錯覚だとわかるわ。いくらなんでも十時間足らずで肌が変わるわけないものね。
だけど、当時はショックだった。癒えない傷を負ったみたいに思えた。
そのときに、手紙のことを思い出したのよ。
- 45 名前:死に際の選択 投稿日:2004/11/15(月) 23:18
- 眠っていたそれを引っ張り出して、穴が開くほど調べてみた。
書類は簡単なもので、わたしの名前、貸した年齢、返済希望日数
──一日単位で請願できた──を書き込んで投函するだけだった。
住所も書いていない、封筒もない、そのまま裸でポストに入れろと書いてあった。
正直いって気落ちしたわ。
手紙を全面的に信用していたわけじゃないけれど、一縷の希望すら絶たれた気分だった。
それでも、わたしは書類を送った。
自分の身体を覆っている皮膚に耐えられなかったのね。
四日でお届けします、となっていた。
仕方がないから、仕事へは行ったわ。絶望的な思いでね。
誰もわたしの肌について触れなかったことは天の配剤だと本気で思った。
- 46 名前:死に際の選択 投稿日:2004/11/15(月) 23:19
- 四日待ったわ。あのときほど時間が遅く──殺意すら抱くほどに──感じたことはなかった。
ちょうど日曜日だったわ。
目を覚ましたわたしはとるものもとりあえず鏡にむかった。少しの期待を抱きながらね。
そこには、昨日までとは別人のような肌をしたわたしがいた。
顔だけじゃない、身体中で瑞々しさを感じた。大学時代を思い出したわ。
だけど、若返ったっていう感覚とは少し違った。
当然この年齢であるべきという思いが強かった。
過ごしていなかった二十三歳を過ごしはじめたんだから、その感覚は正しかったのね。
そのときにはいろいろなものを事実として受け止めたわ。
わたしは二十三歳の一年間を過ごすことなくとってあること、
そのせいで一年分早く歳をとっていること、
そして、二十三歳の時間を一年分、好きなときに取り戻すことが出来ること、ね。
わたしはすぐに仕事を辞めたわ。顔を知っている人間が近くにいるのは不安だったの。
二三歳を生きるには、わたしのことを知らない人間ばかりのところで過ごす必要があったわ。
今まで雲隠れしていたのは、そういう理由だったの」
- 47 名前:死に際の選択 投稿日:2004/11/15(月) 23:19
- 「それで、わたしはどうしてここに呼ばれたの?」
なつみは訊ねた。圭織の話の真偽については微塵も疑っていなかった。
疑うことは簡単だが、それについて論を戦わせることは徒労にしかならない。
不都合も何もない以上、疑う理由はない。
喉を鳴らして紅茶を飲み込んだ圭織は、申し訳なさそうに上目遣いでいった。
「医者を呼んで欲しいの」
「医者?」
「日付が変わったらすぐに、死ぬわ」
圭織は錠剤をテーブルの上に置いた。
「この歳になったら、死ぬことが怖くなくなるわ」
なつみは頷いた。いつしか、死を受け入れる体制が整うように人間は出来ているのだ。
死を恐れ遠ざけることより、死との共存──まったくおかしないい回しだが──を望むようになる。
「ただ、苦しみながら死ぬのは気が進まないわ。
それに、出来ることなら綺麗に死にたい。
この薬、幼い子供がはじめて薬を飲むのと同程度の苦しさで死ねるらしいの、漠然としてるけどね。
そして、わたしの二三歳はあと一日だけ残っている。
それが、明日になって届くよう手配してあるわ」
- 48 名前:死に際の選択 投稿日:2004/11/15(月) 23:19
- 圭織のいわんとすることをなつみは真正面から理解できた。
楽に美しく、それは死の理想形だ。なつみも願っている。
圭織は扉の上に掛かっている時計に目をやった。今日の日は残り三十分を切っている。
「隣の部屋に入って、二三歳になったのを確認したら薬を飲むわ。
なっちは、一時くらいになったら確認に来て。
申し訳ないことを頼んでることは承知してるんだけど、なっちしかいないの」
「いいよ、やってあげる」
なつみが承諾すると、圭織はありがとうといって、ゆっくりと席を立った。
「それじゃあ、お願いね。またね……」
途切れた言葉を残して、圭織は部屋を出て行った。
- 49 名前:死に際の選択 投稿日:2004/11/15(月) 23:20
- ひとりになった部屋で、なつみはさまざまなことを考えた。
扉が開いて目に飛び込んでくる風景はそれぞれ様相が違いすぎて困惑した。
刻々と時間が流れていき、一時をわずかに過ぎた。
なつみは緩慢な動作で立ち上がって、圭織の示していた部屋の前に立った。
耳を澄ませても物音は聞こえない。
ひとつ大きく深呼吸をして、取っ手に手をかけた。
と、まるで背中を氷が滑り降りていったような感覚に襲われ、反射的に手を離していた。
不意に訪れた正体不明の思い、それは即座におぞましさであると解明され、なつみに戦慄が走った。
わたしはこの扉を開くと同時に、これ以上もないほど圭織を嫌悪する。
眼前に現れる光景はわからない。
しかし、咄嗟に脳裏によぎった事実は動かしようのないものに思えた。
最良の友人を嘲笑う映像が鮮明に映り、消えようとしなかった。
約束を守ることをせず、睨みつけて踵を返す気がしてならなかった。
いや、そんなことはない、わたしは扉を開けて、医者を呼ばなければならない。
いや、開けてはいけない、わたしは医者など呼ばない。
宙をさまよう右手が異常な速度で汗を噴出している。
- 50 名前:lou 投稿日:2004/11/15(月) 23:20
- おしまい
- 51 名前:lou 投稿日:2004/11/15(月) 23:24
- 註:
本作の核となるアイデアは
ジョヴァンニ・パピーニ「返済されなかった一日」(「逃げてゆく鏡」所収)
より、限りなくオリジナルに近い形で流用しております。
わたし自身はセーフと判断しましたが、上記作品をお読みの方で、
これはアウトだと感じた方がおられましたらばその旨書き込みをお願いいたします。
しかるべき処置をとります。
- 52 名前:lou 投稿日:2004/11/15(月) 23:25
- >>36-50 『死に際の選択』
- 53 名前:lou 投稿日:2004/11/17(水) 03:04
- 『道が交わるとき』
- 54 名前:道が交わるとき 投稿日:2004/11/17(水) 03:05
- 荒井由実の「卒業写真」がエンドレスで流れている。
ベッドに横たわって、唄にあわせるように、圭織は卒業アルバムのページを繰っていた。
本棚最上段の一番右に常に位置しているそれは、
不定期によみがえる懐かしい記憶とともにたびたび手に取られていた。
ざらついた手触りの青い表紙、
一枚めくると、当時のクラスメイトたちが思い思いに書き込んだ言葉で埋め尽くされている。
骨太で破天荒な男子の字、小さく丸まった女子の字。
何度も読み返した文にもかかわらず、頬が緩むのを抑えられない。
さらに進むと、各クラスのページが現れる。
圭織の個人写真は満面の笑みで写っている。
そのすぐ上、圭織とは対照的に、控えめな笑顔で写っている少女がいた。
圭織の表情に影が差す。
唄の通り、卒業写真の面影の残った顔が瞼の裏に浮かんでくる。
何気なくその顔の上に指を置いたそのとき、携帯電話の着信が静寂を貫いた。
「え?」
電話口からこぼれた言葉は、穏やかな土地を襲った津波のように圭織の脳内に流れ込んできた。
信じがたい、まったく見慣れない風景が視界に広がっていくように思われた。
無意識のうちに、指し示されている顔に視線を落としていた。
彼女に会ったのは、昨日のことだ。
- 55 名前:道が交わるとき 投稿日:2004/11/17(水) 03:05
- ◇
歩いていた。
寂れた工場や古くなった民家が立ち並ぶ一角に当たり、昼間から人通りは少ない。
耳慣れた種々の音がほとんどなく、鳥の羽ばたきや猫の鳴き声がとても近くに聞こえる。
目的を持たずただ遊歩に徹する圭織にとっては格好の場所だった。
時間が浮けば歩く、それは学生時代からの習慣だった。
インドアで出来る作業、たとえば絵を描くことなども嫌いではない圭織だが、
気分の乗らない日でもない限り外に出ることを選んだ。
霧のような雨が降るときには何を措いても外に出た。
太陽の覗く時間でもなく、ましてや豪雨が猛り狂っている場合でもなく、
たおやかな雨が音もなく落ちている瞬間こそ、もっとも清廉で平穏なものに感じられるのだった。
学生時代は天気によってその表情を百八十度変える学生街を、
就職してからは暇を見つけては散策した結果掘り当てた裏道を。
そのときも、鉛色に覆われた空の下、傘を手にゆったりと歩いていた。
- 56 名前:道が交わるとき 投稿日:2004/11/17(水) 03:06
- 「あれ、圭織じゃない?」
空間の中では異質ともいえる人の声が背後から圭織に被さってきた。
ふり返った圭織は、眼前に立っていた人物に目を奪われ、言葉を失った。
「やっぱり圭織だ、お久しぶりです」
いたのは、中学時代の同級生だった安倍なつみだった。
丸みを帯びた顔つきも清潔感を重んじている服装も柔らかな雰囲気を纏った笑顔も、
すべてが当時のまま、記憶の中から抜け出てきたかのようだった。
「覚えてる? なっちのこと」
固まってしまった圭織を下から、いたずらっぽい表情で覗き込んだ。
不安げな色が滲み出しているのを見てとって、慌てて圭織は言葉を返した。
「覚えてる覚えてる。ごめん、びっくりしちゃって」
「なっちもびっくりしたよ。こんなところで会うなんてね」
- 57 名前:道が交わるとき 投稿日:2004/11/17(水) 03:06
- お互い学生時代から変わっていないという話題から、あっという間に話は広がった。
思い出話、それぞれの卒業後についての話、クラスメイトについての話。
唐突に顔をあわせた瞬間は会話が成立するのかどうか心配もあったが、
絶えず湧き立っている泉のようにとめどなく言葉が交わされ、
気がついたときには三十分が過ぎていた。
「あ、ごめん、なっち行かなきゃいけないところがあるんだ」
腕時計に目を落としたなつみの左手を何気なく見ると、薬指にリングが光っていた。
喉に針のような尖った痛みがせり上がって来ることを意識しながら、リングについて訊ねると、
なつみは少し恥ずかしそうに目を伏せて答えた。
「結婚をね」
おー、おめでとう。
あからさまに明るくなつみの肩をはたいた。
なつみは複雑な笑みを浮かべて、それじゃ、と圭織の横を通り過ぎていった。
- 58 名前:道が交わるとき 投稿日:2004/11/17(水) 03:06
- ◇
圭織は喪服のままベッドに横たわっている。
瞼を閉じると、葬儀の様子が克明に思い起こされた。
旦那になるはずだった同級生は涙で歪んだ顔を隠そうともしないで苦しげに吐露した。
三日前にプロポーズしたばかりだった。
みんなに連絡しようとした直前の事故だった。
病院に運ばれたけれど、一日後に息を引き取った。
圭織は、病院のベッドで眠っているはずの日になつみと会った事実を口にしなかった。
口にする理由も、必要も見当たらなかった。
見開いた目からしずくが滴った。
尾崎豊の「I LOVE YOU」がエンドレスで流れている。
- 59 名前:lou 投稿日:2004/11/17(水) 03:06
- おしまい
- 60 名前:lou 投稿日:2004/11/17(水) 03:06
- ・
- 61 名前:lou 投稿日:2004/11/17(水) 03:07
- >>53-59 『道が交わるとき』
Converted by dat2html.pl v0.2