虚無の切断面
- 1 名前:いちは 投稿日:2004/10/29(金) 07:49
- どうも、いちはと言います。
本日が小川さんの誕生日ということで、
小川さんが主役の話を書いてみようと思います。
ただ、内容的に暗くなるので、sage進行でひっそりと。
それでは、始めたいと思います。
- 2 名前:虚無の切断面 〜the third personal〜 投稿日:2004/10/29(金) 07:51
- 昨日在った〈 わたし おれ 〉は偽り
今日在る〈 わたし おれ 〉も偽り
明日在るだろう〈 わたし おれ 〉も偽り
ここに存在しているわたしは偽り
ここにしか存在できないおれも偽り
おれのそとのわたしは偽り
わたしのなかのおれも偽り
なら……
わたしがこうして見ている世界は……
なら……
おれがこうして感じている世界は……
- 3 名前:偽りの連続 投稿日:2004/10/29(金) 07:54
- 偽りの連続0
誰もいないビルの上でのんは一人、夜空を見上げました。
お月様が綺麗で、のんはそれをずっと見ていました。
今日も一人、この夜空に向かって飛んで行きました。
きっと良いヒトが見つかることでしょう。
だって、のんが探してあげたんですから。
これで五人。
だけど、まだ誰ものんにお礼を言いにきてくれません。
いいんれす。
のんはお礼を言ってもらうためにしてるんじゃないんれすから。
みんなが幸せになってくれれば、それでのんも幸せになれます。
でも……。
のんはまだのんに相応しいヒトに出会ってません。
のんのことを分かってくれるヒトはどこにいるんれすか?
- 4 名前:偽りの連続0 投稿日:2004/10/29(金) 07:54
- ――――――――――
- 5 名前:偽りの連続0 投稿日:2004/10/29(金) 07:55
- 今日もあいぼんが部屋に遊びにきてくれました。
あいぼんは、自由にお外へ遊びに行けないのんのところにいつもきてくれます。
それで、いつもたくさんお話をしてくれます。
でも、そのあいぼんもさっき帰ってしまいました。
のんはこれから明日、あいぼんに会うまで独りれす。
あいぼんはのんの一部れす。
のんはあいぼん無しではたぶん、生きていけないれしょう。
だから…。
のんはいつまでもあいぼんと一緒にいたいれす。
- 6 名前:偽りの連続0 投稿日:2004/10/29(金) 07:55
- ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 7 名前:偽りの連続0 投稿日:2004/10/29(金) 07:56
- 誰もいなくなった裏通りでおれは独り、それを見下ろす。
目の前には赤い水溜りに沈み、まだ痙攣しているモノが一つ。
いや、元が一つであって、今は五つほどに千切れて転がっている。その中の最も大きな一つが痙攣しているだけだ。
元はヒトだったモノ。
おれと会わなければこの先も人間であっただろうモノ。
(いや、こいつは結局はこうなる運命だったんだ)
おれは血糊のとれたナイフを月明かりに照らして、傷がないか確認する。
刺したのは一度だけだったが、かなり深くまで刺さったから心配といえば心配だ。
が、おれの心配をよそに、刃こぼれ一つしていない銀のナイフが月明かりに照らされて鈍く光っている。
この鈍い光はおれにとっての安定剤だ。
いや、安定剤とまでは言えないか。だが、それでもおれになんらかの影響を与えてくるのはたしかだ。
といっても、今は別に興奮しているわけでもなく怒っているわけでもない。ただ、わたしがため息を吐いているだけ。
「ただの習慣、もしくは連続か」
誰もいないのに言葉が零れる。
他人に言った言葉ではない。おれがわたしに言った言葉。
それは彼女も分かっているはず、それがおれ達なのだから。
- 8 名前:偽りの連続0 投稿日:2004/10/29(金) 07:58
- 今日の出来事で全てが分かった。
存在の掛け算ではなく、存在の足し算だということを。
そして、その元も分かった。この次はない。
いつになく満たされた感覚に、いつまでも身を任せるのもどうかと思い、おれは思考をむりやり断ち切る。
そしてナイフを懐に収め、おれはもう一度、モノを見た。
文字通り血の池に浸かったモノはすでに痙攣すらしておらず、ただそこに在るだけだった。
「じゃあな」
返ってこない答えをどこかで期待しながら呟くが、やはり答えは返ってこなかった。
帰りがてら、あることに気付く。
部屋に戻る前に着替えないといけない。
今日はペンダントをしていなかったから、極力注意して作業をしたが、服にも血が飛び散っているはずだ。
しかも、おれの部屋にはあの娘が寝ている。おれと、いや、わたしと共存しているあの娘が。
わたしと一緒だった彼女があのペンダントを握り締めたまま眠ったのがわたしにとって不幸だったけど、おれはそのおこぼれに預かることができたから、まあ良しとしよう。
表面は大雑把だが、内面は神経質な彼女のことだ、おれだと分かればなにかと聞いてくるのは目に見えている。そして、おれが血まみれだと分かれば取り乱すに違いない。
(実家に寄るか)
時刻はすでに三時。今から向かえば絶対愚痴られることだろう。
だが、それも仕方が無い。
おれはどうせ一時的なのだから。
(そういえば明日、いや、もう今日か。あいつが帰ってくるのは)
ようやくおれは独りから解放される。だが、まだそれをあいつは知らない。おれの存在を知らないからだ。
どうすればいいんだろう。おれがいるということを知ってもらうには……。
気持ちが沈んでいくのを自覚しながらも前に進むことしかできず、おれは重い足を引きずり帰ることだけに集中した。
- 9 名前:いちは 投稿日:2004/10/29(金) 08:00
- 初回の更新としては短いのですが、
導入部なので、ここで区切りたいと思います。
次回の更新は日曜日の予定です。
それでは。
- 10 名前:いちは 投稿日:2004/10/31(日) 13:39
- どうも、いちはです。
早速なんですが、二回目の更新です。
- 11 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:41
- 「麻琴、ええかげんに起きーよ!」
そんな声と共に、寝ていたわたし、小川麻琴の上になにかが覆いかぶさってきた。
いや、これは覆いかぶさってきたのではなく、押しつぶしてきたに近い。
「ぐえっ!」
カエルの潰れる音のような声を出しながらもわたしはなんとかその原因を睨みつけようと、タオルケットを掻き分け必死の思いで顔を外に出す。
かなり近いというかほとんど目と鼻の先には、同じ寮に住んでいて、先輩でもある高橋愛ちゃんがにやけた顔をしてわたしを見ていた。
「何時?」
愛ちゃんに聞いてみるけど、彼女はわたしを見たまま動こうとしない。わたしの問いかけにも答えてくれること無く、愛ちゃんはひたすらにやけている。
「愛ちゃん、いい加減のかない?重いんだけど…」
「麻琴のほうが重いからええやん」
「うっ…」
素早い切り返しに言葉が詰まる。
たしかにわたしのほうが体重的には重いかもしれないけど、今はそれとこれとは別(たぶん)。
「そうじゃなくてね、わたしが言いたいのは、精神的なものであって……」
寝起きだからまだ頭が回らない。
ただ単に愛ちゃんに退いて欲しいだけなのに、言葉にならない。
と、愛ちゃんが突然、わたしにキスをしてきた。
「あ、愛ちゃん、なにしてんの!」
しかも舌なんか入れようとしてるし!
じたばた暴れてなんとか愛ちゃんから顔を離すが、相変わらず近い。
「ねぇ麻琴。まだ時間あるからもう一回せん?」
目をとろんとさせながら愛ちゃんが言ってくる。
- 12 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:42
- 「……そんな時間、ないじゃん」
愛ちゃんから離れて時間を確認すると、すでに昼過ぎになっていた。
「あさ美は四時に着くやろ?やったらまだ十分時間あるやん!」
「二時にれいなと里沙ちゃんと合流するでしょ」
「あっ」
間の抜けた愛ちゃんの声が部屋にぽつりと響く。どうやら愛ちゃんは完全にそのことを忘れていたらしい。
「それに、昨日もしたんだから、今日くらい休ませてくれてもいいよね」
ようやく冴えてきた頭と身体を動かしてわたしは布団から這い出る。
洗面所に行って顔を洗い、歯も磨く。そのころには身体が軽くなっていた。
よし、今日も絶好調だね。
その間、愛ちゃんはわたしのベッドの上で寝転がっていた。その視線はずっとわたしに定まったままだ。だけど、このままの格好(つまりはパジャマってこと)で出かけるわけにはいかない。
わたしはタンスを開けて、適当に服を選ぶと、まずはジーンズを履くことにする。
「愛ちゃん、あんまり見ないでよ」
一応釘をさしておいたけど、効果はなかったようだ。視線が突き刺さって痛かったから。
そしてTシャツに袖を通すけど、その頃には愛ちゃんを完全にシャットアウトしていた。
- 13 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:42
- わたし自身の準備ができたら、後は簡単。化粧は軽くするだけだし、香水とか面倒なものはつけない。
「ほーや麻琴。これ」
愛ちゃんからペンダントを手渡され、わたしはそれを首に掛ける。
シルバーの十字架が鈍く光り、それと同時に安堵している自分に気がつく。
そして荷物を適当にまとめ、ポシェットに入れる。
「そういえば愛ちゃん」
「なに?」
「昨日はわたしの部屋で寝てたよね。いつ戻ったの?」
いまさらだけど、愛ちゃんの格好は昨日の夜着ていたパジャマではなかった。
「あーしは八時には目が覚めたけど、麻琴が全然起きんかったから、三回ほどキスして戻ったよ」
「ふ〜ん……って、なにしてるの!」
わたしの知らないところで三回もやられていたことに、ツッコミを入れながらも凹む。
[いや、だって、あんなかわいらしい寝顔見たら、ねぇ?]
『ねぇ?』って聞かれても、自分の寝顔なんて分かるわけないじゃん!
まあいいや、今日でやっと愛ちゃんから解放されるわけだし。
- 14 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:43
- 部屋を出る前に、もう一つあるベッドを確認する。わたしの本来のルームメイトである紺野あさ美のベッドは比較的綺麗だった。
「そういえば愛ちゃん、わたし達の部屋に三週間も泊まってたけど、あさ美ちゃんのベッドで寝たことってあった?」
「いんや、一度もないよ。ずっと麻琴と一緒やったやん」
「そうだったね」
わたしはあさ美ちゃんの机の周りの埃を軽く払うと、愛ちゃんを急かして部屋を出た。
「愛ちゃん、忘れ物はないの?」
手ぶらの愛ちゃんを見て凄まじく不安になって、聞いてみる。
「大丈夫やよ。財布は持ったし、鍵はかけんでええし」
「そうだったね」
同じ台詞を言ってわたし達は寮を出る。
この寮においては二人部屋が基本で、わたしはあさ美ちゃんと相部屋だ。で、愛ちゃんは松浦亜弥先輩と相部屋なんだけど、あさ美ちゃんがホームステイに行っていないっていうことで、三週間ずっとわたし達の部屋に泊まっていたというわけ。
- 15 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:44
- 寮を出て、二人並んで歩く。
妹のれいなと親友の里沙ちゃんが待っている喫茶店は、寮から歩いて十分ほどのところにある。
名前は『アターレ』。実に変な名前の喫茶店だ。
と、その喫茶店の外で待ち合わせの片割れである新垣里沙ちゃんが電話をしていた。わたしと愛ちゃんは手だけを上げて、里沙ちゃんに挨拶をする。
「マコ姉、遅かよ」
「ごめん、れいな。さっき起きたばっかなんだ」
すでにアイスコーヒーを飲みながら待っていた田中れいなに苦笑いしながら、わたし達はれいなの正面に座る。
今日のれいなの服装は上は迷彩柄のシャツで、スカートは豹柄(?)だった。
そんな派手なれいなの顔はわたしを直視していたけど、わたしはそれに視線を合わせることができなかった。
ん?なんでれいなとわたしの苗字が違うか?
ここで説明してもいいんだけどそれだと話が長くなるから、それはまた今度の機会ね。
「マコ姉、誰に向かって話しかけとうと?」
「べ、別に」
わたしは慌ててメニューを取り出して、愛ちゃんと中を見る。
「愛ちゃんはご飯食べたの?」
「いんや、まだやよ」
「じゃあ食べようか」
「ほーやね」
というわけで、わたしと愛ちゃんは二時までやっているモーニング(ここまでくるとアフタヌーンだけど、安いからいいか)を頼む。
- 16 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:44
- 「まこっちゃんに愛ちゃん、ごめんね」
里沙ちゃんが電話を終えて戻ってきて、れいなの隣に座る。
ちょっとやつれた感じのする里沙ちゃんだけど、部活とか受験とかのストレスが原因みたい。
最近になってようやく肩の力も抜けてきたから、すぐに元に戻るだろう。
「里沙はなんか頼んでないの?」
わたし達にコーヒーが運ばれてきても里沙ちゃんの目の前にはなにも無いのに気付いて、愛ちゃんが尋ねる。
「ん?私はスペシャルミックスパフェを頼んでるよ」
里沙ちゃんのその一言に隣に座っていたれいなの顔が歪んだ。
わたし達姉妹はどっちかというと甘いものは好きじゃない。里沙ちゃんの頼んでいるスペシャルパフェはサイズが半端じゃなく、食べる人間だけじゃなく、周りの人間にもかなりのダメージを与える。
「おまたせしました」
店員の矢口真里さんが現れ、まずはわたしと愛ちゃんのモーニングをテーブルに置いた。
「お豆ちゃんさぁ、あんまりこれ食べないでね。これだけでうち、赤字になりそうだからさ」
矢口さんが苦笑いしながら里沙ちゃんの頼んだスペシャルパフェをテーブルに置いて去っていった。
「うげっ」
これはれいなの悲鳴。
やっぱりここのスペシャルは特別で、食べる人以外には災害でしかならないのを感じる。
わたしもれいなと同じように悲鳴を上げたかったけど、サンドイッチだけに集中していたかられいなほどダメージは受けずにすんだ。
- 17 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:45
- 「里沙、本当にそれ、全部食べきれる?」
心配になったんだろう、愛ちゃんが里沙ちゃんに聞く。
「大丈夫大丈夫、前は二十分で完食できたからさ」
そう言って里沙ちゃんは目の前の山をほじくり始める。
里沙ちゃんの食欲は大したもので、目の前の山はどんどん削られて小さくなっていく。この調子なら二十分っていうのもまんざらな話じゃない。
「そういえばさ、また出たよね。自殺と通り魔殺人」
「ふっ!」
パフェを食べながら言った里沙ちゃんの一言に、わたしは思わず飲みかけていたコーヒーを噴き出しそうになる。それを慌てて抑えて里沙ちゃんを見てみる。
「がきさん、今は食事中とよ」
れいながすかさず反応するが、その顔は強張っていた。
「だって、話題っていったらこれくらいしかないじゃん」
ひたすらパフェに夢中になっている里沙ちゃんは、強張ったれいなの表情に気付いていない。
- 18 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:46
- 「言われてみればほーやね」
いつもは嫌そうな顔をして話を遮るはずの愛ちゃんだったが、今日はなんの悪戯なのか里沙ちゃんの話に乗って今朝見たというニュースの内容を話しはじめた。
愛ちゃんの話は簡潔で、通り魔に襲われたのは身元不明の少年、自殺したのは女子高生とだけ話した。
通り魔殺人のほうの身元不明っていうのは、少年(これは体格からして判断したんだろう)の顔が潰されていて、歯型とかから身元を特定することができなかったからだ。で、その少年は身分を証明するようなんものを持っていなかったから、今のところ、身元不明。
自殺した女子高生は未成年ってことで名前は伏せられている。
「でもさ、今月に入ってずいぶんだよね」
里沙ちゃんが八月に入ってからの自殺者と通り魔殺人の被害者とを語り始める。
「自殺してるのはとりわけ、私達みたいな女の子ばっかり、五人でしょ?でも、遺書とか見つかってないよね。で、通り魔殺人のほうも五人死んじゃってるでしょ?五人ずつっていう数が同じってのはさ、ただの偶然かなぁ?」
「どうなんやろね」
相鎚は愛ちゃんだけがしている。わたしとれいなはそれを厳しい顔で聞いていた。
里沙ちゃんと愛ちゃんが楽しそうに(話題は決して楽しくないけど)話しているのを尻目に、わたしは決意とは裏腹に気持ちが落ち込んでいくのを自覚する。
妹のれいなの視線が痛くて、わたしは思わず視線を逸らす。だけど、それくらいではれいなの強烈な意志をはじき返すことはできなかった。
小さくため息を吐き、これからどうすべきかを思案し始めたおれを感じて、わたしはもう一度、今度は大きくため息を吐いた。
- 19 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:47
- ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 20 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:48
- 小川麻琴がため息を吐いていたちょうどその頃、紺野あさ美はただひたすら身体を震わせていた。あさ美にはなぜ自分が震えているのか良く分からなかった。
今乗っている飛行機が原因なのかと考えてみたが、あさ美は高所恐怖症でも、閉所恐怖症でもない。実際、行きの飛行機では怖がることなく、平然としていた。
が、三週間前とは状況が異なっている。
あの頃とは違って世界の裏を知ってしまったあさ美にとって、一人でいることは恐怖でしかなかった。
そして、今のあさ美はほぼ無防備。今襲われればあっさり殺されるだろう。ただ、誰に襲われるのかというところに問題があったが、恐怖であさ美にはそこまで思考が回ってしなかった。
そんなあさ美を見越して二人の師匠から対策を授かったあさ美だったが、たかが紙切れ一枚で助かるとは思えなかった。
それに加えて、あさ美は武器も持っていない。金属探知機に引っかかるということで送る荷物の中に入れたが、それを後悔しても後の祭りだった。
師匠達ならばどんな手を駆使してでも持ち込んでるのだろうが、あさ美にはそんな度胸はなかった。それに、あれをどう警備員に説明すれば良いか検討すらつかない。
だから、あさ美は身体を震わせている。
が、それもあと少し。
『当機はこれより…』
アナウンスと共にベルト着用のランプが点灯する。
そう、あと少しでこの狭い飛行機から解放される。
向こうには彼女達が待ってくれているはず。そうすれば、この閉塞感も少しは解放されるはずだ。
それを強く意識して、あさ美は両脇にあった肘掛を強く握り締めた。
- 21 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:48
- ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 22 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:49
- 「まこっちゃぁぁぁん!」
「あ、あさ美ちゃん?」
出口から出てきたあさ美が持っていた荷物を放り出し、突然麻琴に抱きついた。
「まこっちゃん、怖かったよぉ〜」
かなり情けない声を出しているあさ美に、麻琴は終始戸惑いっぱなし。
だけど、それを後ろから見ていたあーしはもっと複雑だった。
あーしが麻琴のことを好きなのはあさ美だって知っている。だけど、この三週間にあったことはまだ話していない。というかあーしからは話すつもりは無い。話せるはずはない。
話したらきっと純粋なあさ美のことだ、顔を真っ赤にしてなにも話さなくなるか、怒り出すに違いない。あーしとしては怒ってもらったほうが気が晴れるけど…。
だから、あーしは目の前で麻琴があさ美を慰めているのを黙って見てるしかなかった。
「ねぇ愛ちゃん。ちょっと妬いてない?」
さっきまでれいなと一緒に空港の中を探索していたはずの里沙が、いつのまにかひょっこりとあーしの隣にいた。
「そんなことないよ」
「顔が歪んでるよ」
里沙に指摘され、あーしは慌てて顔をぱんぱんと叩く。
- 23 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:49
- 「あれ、どうしたの、愛ちゃん?」
気がつけば、麻琴とあさ美が不思議そうな顔をしてあーしを見ていた。
「いや、蚊がおったから、追い払っとったんよ」
「えっ、ウソ!」
あーしのウソに見事なくらいあっさりと引っかかる麻琴。
「それより麻琴。あさ美の荷物持ったら?」
話題を変えるため、あーしはあさ美が放り出していたかなり大きな旅行カバンを拾い上げて持つことにする。
「あ、愛ちゃん。それくらい私持てるよ」
あさ美がちょっと慌てた感じで言ってくるが、
「いいよ、あーしらは荷物持ちできたんやし」
とだけ言って逃げる。
そして、あーしら五人はバスに乗って帰ることにした。
バスの中は比較的空いていて、あーしら五人が普通に喋ってても注意されることはなかった。
三十分ほどバスに乗り、寮がある街まで戻ってくる。
- 24 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:50
- 「あ、そうだ。ごめんけど、あさ美ちゃんさ、先に帰っててくれない?わたし、用事ができちゃったんだ」
突然麻琴があさ美に部屋の鍵を渡しながら言ってくる。
「まこっちゃん、どこ行くの?」
「ん、ちょっとね…」
言葉を濁した麻琴の顔が少しだけ暗い。
「まこ…」
「あ、れなも行くと!」
あーしの横にいたれいなが、姉の麻琴みたくこれまた突然大声を出してあーしの言葉を遮る。
「いいよ。行こうか」
じゃあ、とあーしらに気まずそうに手を上げた麻琴と格好良く手を上げたれいなは、かなりの早足で去ってしまった。
最近の麻琴、おかしい…。
いつも麻琴はおかしいけど、最近の麻琴は特におかしかった。具体的に言うと、落ち着きが無くて、あーしと話をしているときでも意識が別の場所に飛んだりしている。
もしかすると麻琴の中のもう一人が原因かもしれない……。
「愛ちゃん、どうしたの?顔が怖くなってるよ?」
「えっ?あぁ、大丈夫やよ」
顔をのぞきこんできたあさ美に笑いかけるが、自分でもその笑顔が作り物であるのに気がつく。
「それより、早く荷物置きに行こうよ」
あーしはあさ美と里沙の二人を急きたて、寮に戻る。
- 25 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:51
- 「そうだ、安倍さんにもお土産買ってきたんだ」
と言ってあさ美が寮の一階にある食堂に向かう。
「あさ美ちゃん、おかえりだべ!」
語尾に『だべ』もしくは『だべさ』が目立つ管理人兼食事担当、つまりは寮母の安倍なつみさんが、エプロンに三角巾といった一昔前の給食のおばちゃんの格好で、必死に鍋をかき混ぜていた。
「安倍さん、ハワイのお土産です」
あさ美が手渡していたのは、海外土産の定番中の定番、マカデミアンナッツのチョコレートだった。
「わぁ、うれしいべさ。わざわざありがとうだべね」
「安倍さん、今日の晩ご飯、何ですか?」
後ろの鍋が気になり、あーしはその中身を尋ねてみる。
「今日はカレーだべね。がきさんも良かったら食べて行くべさ!」
「えっ、いいんですか?」
「そうだ。麻琴とれいなの分も用意してもらえますか?」
「オッケーだべ」
安倍さんの許可を得た里沙が実家に電話を入れ、了承を得るのを見届けてから、あーしらは麻琴とあさ美の部屋に向かう。
「うーん、やっぱり自分の部屋が一番落ち着くね」
荷物を置くなり背伸びをしたあさ美が、感慨深そうに言う。
「そうだ、愛ちゃんと里沙ちゃんにもお土産ね」
あさ美はそう言って安倍さんに渡していたのと同じ、チョコレートをくれた。
- 26 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:53
- が、あーしはそんな真っ直ぐなあさ美の目をちゃんと見ることができなかった。
あーしが三週間使っていた部屋、すっかり使い慣れたはずの部屋なのに、なぜか落ち着かない。
原因は分かっている。でも、あーしはそれを承知で麻琴の部屋にいたし、麻琴もあーしを受け入れてくれた。だから、後悔はない。だけど、後ろめたさはある。
「どうしたの、愛ちゃん?」
あさ美が心配そうにあーしを見てくる。
「お、お茶でも入れるね」
あーしはその視線に耐え切れなくなって、半ば逃げるようにキッチンに向かった。
コーヒーメーカーに粉を入れ、スイッチを押す。後は待つだけだが、後ろから得体の知れない、いや、とっくに知ってるけど受け入れがたい何かが押し寄せてくるのが分かった。
やっぱりあーしには隠し事は無理か。
コーヒーメーカーに液体が満たされ、あーしはそれをカップに注ぐ。それを持って部屋に戻る頃には、あさ美と里沙はテーブルを出し終えて、お土産のチョコをその上に広げていた。
「ねぇあさ美、ハワイの話を聞かせてくれん?」
どう切り出せばいいのか分からず、あーしはとりあえずあさ美にそう言う。
「いいよ」
自分の部屋に戻ったということでかなりリラックスしたあさ美が、ハワイでの三週間を語り始めた。
- 27 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:54
- 「まずね、私がホームステイした先の人たちなんだけど、ほんと、おかしな人たちだったんだよね」
勢い良く話し始めたあさ美の話をまとめると以下のようだった。
あさ美のホームステイ先は、ミカさんとアヤカさん(どっちもファーストネームしか教えてもらわなかったのが疑問やったけど)という姉妹のところだったらしい。しかも、この二人はやたらと日本語が上手で、あさ美はこの二人といるときには普通に日本語で会話をしていたらしい。
「ねぇ、それって本来のホームステイの趣旨と外れてることない?」
里沙の意見ももっともだ。
「そうなんだけど、外じゃちゃんと英語喋ってたからね」
「……それでええの?」
「良いんじゃない?」
……。
まあ、行った本人が良いって言うから、良いんだろう。
「それより愛ちゃん。この三週間、私達の部屋に泊まってたでしょ?」
「うっ!」
突然のあさ美の一言に、あーしは固まる。
「えっと、その、あっとぉ……」
なにかを言おうとするが、言葉にならない。それ以前になにを言えば良いのか分からない。
三週間前はあんなに決心していたのに、今、あさ美を目の前にするとそれも砂上の楼閣のようだ。
- 28 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/10/31(日) 13:54
- 「匂いがしないんだよね、私のさ」
あーしがなにも言えずにいると、あさ美が少し暗くなった顔で続きを話し始めた。
「部屋ってさ、使ってる人の匂いってものが自然とつくよね。三週間前は私とまこっちゃんのそういう匂いがしてたんだけど、さっき帰ってきたら、私の匂いがしなかったんだ。その代わりに、愛ちゃんの匂いがしたんだよね」
あさ美の悲しそうな視線に射られ、あーしは身動きがとれなくなる。
「そのさ、愛ちゃんはまこっちゃんと………やった?」
「ごめんっ!」
いつもは控えめなあさ美からストレートに聞かれ、あーしは思わず謝っていた。
「そうか、そうなんだ。それが良いよね。私よりも……」
泣き始めたあさ美に、あーしはどうすることもできない。
「私はもう、戻れないの……」
泣きながら呟いたあさ美のその一言の意味を、そのときのあーしは知る由もなく、ただ、呆然とあさ美を見つめるだけだった。
「あのさ、私もいるってこと、忘れてほしくないな」
里沙の呟きがあーしらを無視して、宙に漂っていた。
- 29 名前:いちは 投稿日:2004/10/31(日) 13:59
- 以上が二回目の更新部分です。
名前が明記された人達についてはこの話が終わった段階で
まとめようと思うので、しばらくお待ちください。
次の更新は水曜日辺りにしようかと思います。
それでは。
- 30 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/01(月) 03:40
- お、なにやら設定が面白そう。
期待してます。
あと行間を適度に空けてもらえると有難い。
- 31 名前:いちは 投稿日:2004/11/03(水) 10:44
- どうも、いちはです。
>>30
感想とご指摘、ありがとうございます。
それを受けて、少しばかり修正してみました。
では、更新三回目です。
- 32 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:45
- ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 33 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:46
- わたしとれいなは何も話さずに歩く。行き先は決まっているし、何度も行っているから道を聞くこともしない。
「ねえ、マコ姉?」
「なに?」
隣を歩いているれいなが立ち止まってわたしを見てくる。それに少し後になって気付いたから、わたしはれいなの一歩前で止まった。
「さっきがきさんが言うとった通り魔殺人って、マコ姉かマコ兄がしとうと?」
遠いとも近いとも言えないその問いかけにわたしはおろか、私の中にいるもう一人も答えに窮する。
「どうなんだろ……?だけど、わたし達がその場にいることだけは確かだよ」
「やったら、そうじゃなかと!」
口調の強くなったれいなに、どうしてだかわたしは笑いかける。
「あれは、すでに人じゃなくなってる。だから、あれは殺すんじゃなくて、壊すんだよ」
これはわたしの言葉でもあるし、もう一人の言葉でもある。
- 34 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:47
- あのときわたし達が見てしまったあの異常を、れいなにどう説明しようとも、れいなには分かってもらえないだろう。だから、わたし達だけで終わらせないといけない。そのヒントをこれからもらいに行くところだ。
少し冷たい言い方になったけど、これでれいなも納得してくれたのか、再び歩き始める。
はっきり言ってわたしがしていることを異常だと思わないれいなもれいなだけど、これがわたし達だ。異常の中にあって、異常を異常と思わないわたし達。いや、異常だと思えないんだ。
すべては、わたし達だけにしか見えない、あれが関係してくる。
あのとき、わたし達が見たのは、あれが本来あるべきところから離れる瞬間だった。それも、生きている人間から離れるという異常さを伴ってだ。
まだ目的地まで時間はある。
わたしは歩きながら、そのときのことをぼんやりと思い出してみた。
- 35 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:48
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 36 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:48
- 「愛ちゃん、こんなに遅くなるんだったら、帰らなければ良かったんじゃない?」
「やって仕方ないやん。明日、あさ美がハワイに行くんやろ?やから、あーしも予定を繰り上げて戻ってきたんよ」
ぽつんと立っていた小川麻琴の言葉に、駅の改札を出てきた高橋愛がそう返す。ちなみに時刻は午後の十一時をすでに半周ほど回っていた。
いくら夏だからといっても、この時間帯は当然のこと真っ暗だ。加えて終電が通過した駅はそうそうに明かりを消し始めているため、余計それを自覚させることにもなったが……。
こんな時間帯に二人がなぜ、このような場所にいるのか。その答えは簡単で、ここ三日ほど実家に戻っていた愛が明日の予定のために急遽戻ってきたのだ。本来の予定ならば一週間は実家で過ごすはずだった愛の妥協がそこに見出せるが、迎えに来るように直々に指名された麻琴にしてみればたまったものではなかった。
- 37 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:49
- 「この時間帯ってさ、ほんとに人がいないから怖いんだよね」
電車の着く時間を教えてもらっていたため最低限の時間だけ消費した麻琴だったが、それでも十分は一人で待っていた。主要都市でもないここの改札から出てくる人間は本当にわずかで。しかもそのほとんどがサラリーマン風の男か塾帰りの学生といったところで、それらの視線をちくちくと浴びながら気の長くなる十分を過ごしていた麻琴だった。
「ほやけど、麻琴は来てくれたやん」
そう言って愛が荷物を持っていない左手で麻琴の右手を握ってくる。それに無理に逆らわないが、握り返しもしない。ただ、軽く添えるだけだ。
「そりゃ御指名があったからね」
行かないとひどいことになりそうだから、という言葉は飲み込んでそれだけを言う麻琴。苦笑いしようか、本気で笑おうか迷って、結局中途半端な笑みしか出なかった。
- 38 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:50
- 「明日からあさ美ってハワイやろ?羨ましいなぁ」
駅から離れるごとに人通りは少なくなる。駅周辺は小さなビル街で、そこはこの時間帯には真っ暗だ。
「でもさぁ、準備が大変だったよ。パスポート申請したり、トランク買ったりさ」
小川麻琴のルームメイトである紺野あさ美は明日からハワイにホームステイに行く。その準備を同室の麻琴はあれこれと手伝ってきたため、その苦労が何となくだが分かっていた。
「ほーや麻琴。明日から麻琴の部屋に泊まりに行ってもええ?」
「はぁ?」
あまりに唐突なその言葉に、麻琴は変な声を上げながら立ち止まる。それに釣られて愛も立ち止まったが、その視線は麻琴にしか向けられていなかった。
- 39 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:50
- 「あさ美がおらんと、麻琴も寂しいやろ?やから、あーしが行ってあげる」
「それってさ、単に愛ちゃんが来たいだけなんでしょ?素直にそう言えば良いじゃん」
どうやら自分はこの愛に好かれているらしい。それがどういった好意なのかいまいち良く分からなかったが、それでも嫌われるよりかはましだろうと勝手に結論付ける麻琴だった。
「何か麻琴、怒ってない?」
「そう?」
愛の言葉を流しながら麻琴は歩く。それが気に入らなかったのか、愛が歩きながらも器用に麻琴の正面に回りこんできて、顔を覗き込んできた。
「何か生意気やね。後でぎゃふんて言わすから」
「ぎゃふん」
言わされるくらいなら先に言っておこう、そう判断した麻琴が即答する。
「……麻琴、それってジョークのつもり?」
「いや、本気で言ったんだけど……」
お互い無言で微妙な空気が流れてくるが、居心地の悪いものでなかったことがせめてもの救いだった。
- 40 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:51
- そんなこんなで麻琴と愛は普段過ごしている寮へと急ぐことにする。が、周囲が異様に暗かったため、麻琴の足は自然に明るい方へと向かっていく。それは普段の寮への帰り道からすれば遠回りにしかならなかった。
「ねえ麻琴。いつもの近道せんの?」
「へっ?」
それは愛にも伝わっていたが、それでようやく麻琴は迂回ルートを取っていることに気付いた。
立ち止まった麻琴を見て、愛の顔が暗闇でも分かるほど緩む。どうやら笑っているらしい。
「もしかして、怖いん?」
「ち、違うよ」
本当のことを言うといつもの『ヘタレ攻撃』に合いそうだったため、思わずそう答えた麻琴だったが、それも虚勢に他ならなかった。
暗闇をそうそう好む人間はいない。そして、麻琴もそれを好まない人間だった。が、どうやら愛はどちらでも良いらしい。
- 41 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:51
- 「じゃあ、決定ね」
さっきまで主導権を握っていたと思っていたのは錯覚で、あっという間に愛に引っ張られて歩くことになる麻琴。しかし、それ以上不平不満は言わない。言えばどうなるか分かったからだ。それに、今は一人ではない。二人だ。
ビルとビルの谷間の隙間道。そこを通れば寮への時間はかなり短縮される。ただし、街灯らしきものは一切無かった。行きはそこを避けて、いつもの倍以上の時間をかけて駅までやってきた麻琴に緊張が走る。が、そんな麻琴の緊張にまったく気付くことなく愛はどんどん進んでいく。
- 42 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:52
- 何度か角を曲がり、寮が確実に近づいてくる。そんなときだった。
(麻琴、上だっ!)
麻琴にしか聞こえないその声にぎょっとして麻琴は上を見上げる。
はるか上、しかも麻琴と愛の真上から、何かが落ちてくるのが視界に入る。周囲の暗闇を切り裂いて落ちてくるそれに、麻琴はとっさに愛を突き飛ばし、自身も後ろへ飛んだ。ただし、視線はずっとそれに集中したままで。
それは、人の形をしていた。否、人そのものだった。人が頭を下にして落ちてきている。とても受け止められるものではない。それを冷めた感覚で思いながら、麻琴はそれを見ていた。
そして、それがやけにスローになって麻琴の目の前にやってきた。というよりも通り過ぎたと言ったほうが正確だったが、麻琴にしてみればそれは大した問題ではなかった。
- 43 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:53
- (あれ?見えない?)
全ての事物に共通して見える麻琴にしか見えないそれが、目の前の人間には見えなかったのだ。それは、人間ならば必ず身体のどこかに付着する形で存在しているのだが、それを見つけられない。そして、視線を走らせてそれを見つけた麻琴は、思わず目を見開いた。
(うそ……、身体から離れてるの?)
周囲の暗闇とほとんど同じ色をしていたが、それでも麻琴にははっきりとその丸い物体を見ることができた。ただし、それはいつものそれとは違って、単独で元あったその人間から離れていく最中だった。
そのときになってようやく目の前の地面から、鈍い音が聞こえてくる。ただし、そちらは見ない。見たからといってもう、麻琴にはどうすることもできない。するのは別の人間の仕事だ。
麻琴がしなければならないこと、それは宙を浮いているそれを追跡することだった。
- 44 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:53
- 「ま、麻琴……。ひ、人が落ちてきたよっ!」
「愛ちゃん、見たらダメ」
突き飛ばした際に倒れたのであろう愛の声が地面の近くから聞こえてくるが、それも麻琴は見ていなかった。
「愛ちゃん、こっち!」
それを捕捉したまま麻琴は感覚だけで愛の手を取ると走り出す。それが移動を開始していたからだ。
「麻琴、連絡せんでええの?」
「それは、別の人の仕事!」
常識的なことを言ってくる愛の言葉をばっさり切り捨てると、麻琴は目の前のそれに集中する。
- 45 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:54
- 地面から三メートルほどのところで浮遊しているそれは、ふわふわ漂いながら微妙な速度で移動していた。微妙というのは歩けば離れてしまうし、走ればあっさりと追いつけるという意味だったが、麻琴は無理に距離を詰めようとはしなかった。それは、本能が告げてくる危険と、もう一人が伝えてくる『あれがどうなるのか』といった興味本位からだった。
十メートルほどの距離を開けて早足で歩き、それを追って麻琴は次の角を右に曲がる。そして、麻琴は足を止めた。
五メートルほど離れた場所に、誰かが蹲っている。男なのは分かるが、それが麻琴よりも年上なのか年下なのかはいまいち分からない。ただ、麻琴や愛と近い年代の人間だということだけは分かった。
- 46 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:55
- 「愛ちゃん、近づいたらダメ」
人の良い愛のことだからきっと駆け寄るに違いないと思い、麻琴が手を引いて愛を止める。愛は引っ張られて軽く踏鞴を踏むと恨めしそうに麻琴を睨む。
「なしてよ。苦しんでるやん!」
愛の言っていることはもっともだがこれは医者ですらどうにもできないだろう、それを麻琴は確信する。
その苦しんでいる人間の肩に、さきほどまで漂っていたそれが付着していた。それは蹲っている人間に元々付いていたそれとゆっくりとくっ付いていく。
(こんなことって、あり得るの?)
(まさか、あり得るはず無いだろ!)
自問する麻琴に、もう一人から答えが返ってくる。そう、二人はこれまで多くのそれを見てきたが、このような事態は初めてだった。それだけに、これから先のことがまったく予想できないでいた。
- 47 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/03(水) 10:56
- 一つの物質に一つしか存在できないそれが、一つの人間に二つ強制的に内包されてしまった。それが何をもたらすのか、そのときの麻琴には理解できなかった。
(何かがまずいぞっ!)
もう一人に警告され、麻琴はとっさに愛を抱きかかえて地面に転がる。だが、それでも麻琴の視線は人間ではなく、混ざり合ったそれらに集中していた。
元々の大きさは維持していたそれだったが、おかしくなっているのが分かった。
そして、変化は唐突に訪れた。
風船が割れるような軽い音が一瞬だけ聞こえる。それはさきほどまで蹲っていた男が弾け飛んだ音だった。
それを終始見ていた麻琴ですら、何かの冗談にしか見えなかった。だが、実際に目の前で人が弾け飛んだ。その証拠として残っている四肢だったが、それらもどこか現実味を帯びていない。
「麻琴……?」
麻琴の腕の中で愛が苦しそうに声を出す。しかし、それでも麻琴は愛を離すつもりになれなかった。それをしたら、この悪夢のような世界に取り残されてしまいそうだったから。唯一感じられる現実は今、腕の中にいる愛しかない。
「愛ちゃん、見たらダメ……」
呟いた麻琴が腕に力を込める。
これが、麻琴と飛び降り、そして、後に通り魔殺人と呼ばれる出来事の、最初の出会いだった……。
- 48 名前:いちは 投稿日:2004/11/03(水) 10:59
- 三回目の更新は以上です。
少しは読みやすくなったでしょうか?
次は日曜日辺りに更新したいと思います。
それでは。
- 49 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/04(木) 02:56
- 面白い。
マコかっけー。
続き楽しみに待ってますよ。
セリフの前後で一行ずつ改行すると、より読みやすくなると思いまつ。
あと文の頭のスペースも無い方が読みやすいかな。
文句ばっかでスマソ。
- 50 名前:名無し読者 投稿日:2004/11/04(木) 21:42
- 新作速報スレッドでこの小説を知って
まこっちゃん押しの自分は彼女が主役ってだけで嬉しくて読みはじめましたが
すっごく面白いです 次の更新が楽しみです
- 51 名前:いちは 投稿日:2004/11/07(日) 10:04
- どうも、いちはです。
四回目の更新の前に、まずはレス返しから。
>>49 名無飼育さん
感想ありがとうございます。
かっけーと思ってくれれば幸いです。
量はあまり多くないですが、定期的な更新をしていきたいと思いますので、
よろしくお願いします。
あと、ご指摘にあった通りに修正してみました。
これで読みやすくなったと思いますが
まだまだ至らない点があったら、指摘してください。
>>50 名無し読者さん
感想ありがとうございます。
いちはもまこっちゃん推しということで始めてみました。
少し内容的には重いんですが、軽い気持ちで読んでください。
では、四回目です。
- 52 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/07(日) 10:05
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 53 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/07(日) 10:06
- 「そうか、存在の足し算だったか」
「あぁ、あの裕子の言うとおり、あれは個別の存在が維持できなくなっていた」
目の前の椅子に座った中澤裕子が盛大にたばこの煙を吐き出す。
ここは街の端にある誰もが見落としがちな廃屋。そこにおれとれいなが目的とする人物がいた。
ちなみにれいなは裕子に何かをもらい、今は隣の部屋でそれを試している。
「どうやら相手は形振り構ってられなくなったみたいだな」
「それは初めからだ」
「そうだったか……。まあいい。大して変わらん」
裕子はそう言ってもう一度たばこを吸い込む。
「裕子、たばこは害にしかならない」
「知ってる」
おれの忠告に裕子は即答する。が、たばこを消す気配はない。
「ところで真琴、お前は元凶を突き止めたと言ったが、そいつは女だろ?」
おれの心を見通したような発言に、おれは一瞬躊躇する。
- 54 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/07(日) 10:06
- 昨日のあれは、おれが情報を引き出すための生贄といっても過言ではなかった。
触れた瞬間に膨大な量の情報が流れてきたが、その根底にあるのは間違いなく女だった。年はおれ達と大して変わらない。もしかすると同い年なのかもしれない。
「そうだが、あれは実体なのか?」
「そうだ、アレはすでに個人から独立した別個の存在に成り下がった」
そう言った裕子はデスクから紙切れを取り出して、おれに投げつけてきた。
「そいつじゃないか?」
紙切れはどこかの高校の学生証のコピーらしく白黒だったが、顔はくっきりと写っていた。
「あぁ、こいつだな」
昨日見た絵と照らし合わせるまでもない。こいつが全ての元凶だ。
「そうか」
裕子がたばこをもみ消して立ち上がる。そして、満足げな顔で窓に近づく。
- 55 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/07(日) 10:07
- 「ヒトというものは、そもそも単独で完結した存在だ。たとえそれが傍から見て欠けた存在であってもだ」
またその話か、と言いたくなったが、今の裕子は悦に入っていておれの言葉など耳に入らないだろう。だから、おれはただひたすら裕子が喋り疲れるのを待つことにした。
「数字でたとえるなら、ヒト個人は完結した『1』であって、それ以上でもそれ以下でもない。それをいじるのは馬鹿げた行為だし、意味がない。と、そこでだ。ある人間がその完結した『1』を欠けた存在だからといって別の『1』を持ってきて掛け合わせたとしよう。これがどういうことか分かるか?」
どうやら今日の講義は強制参加らしい。裕子の悦に入った顔を見て、おれは内心ため息を吐きながらも答える。
「存在の掛け算か?」
「そう、元々ある『1』に別の『1』を持ってきてそこから新たな存在を創り出す。これが存在の掛け算だ。だが、さっきも言ったように、ヒトはそもそも単独で完結した存在だ。外から別の『1』を与えられようがすでに完結したものは変化しない。『1×1=1』ってわけだ」
裕子はそこで新しいたばこを取り出し、ライター無しで火を点ける。
- 56 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/07(日) 10:07
- 「欠けた『1』に別の『1』を持ってきて掛け合わせても変化しないことに苛立ったそいつが、次の行動に移った。しかも、掛け合わせるという複雑な手法を使わず、もっと単純なやつだ」
「それが存在の足し算か」
また聞かれるからと、今度は先回りして答える。そのタイミングの良さが気に入ったのか、裕子はおれのほうを見て満足そうに頷き、たばこを深々と吸い込んだ。
「そう。『1×1=1』に気がついたそいつは、ヒトが『1』では完結した存在ではないと心底信じていた。そして、次の段階に到る。だったら、今度は『1+1』にすればいいじゃないか、とな」
紫煙を吐き出しながら裕子が目を細める。
「『1+1=2』なら、ヒトはもっと完結した存在になるはずだと信じて止まなかったそいつは、死んでもいい――もっともこいつはあくまで極端な表現だ――ヒトの『1』を回収して、別の『1』に混ぜ合わせた。繰り返すがヒトはあくまで完結した『1』だ。ヒト一人が持ち合わせた器には『1』しか存在できず、その『1』が破られることとなったら、そいつはヒトではなくなる」
裕子がたばこを摘み、それを弾いた。そのたばこは中空で小さな音を立てて地面に落ちることなく燃え尽きた。
「つまり、今のたばこと同じだ。個人の『1』は弾けて消える、というわけだな」
「だが、裕子はさっき、こいつは独立した別個の存在になったと言った。それは今の『1』と矛盾しないか?」
おれは持っていた学生証のコピーをもらったときと同じようにして裕子に投げて返す。
- 57 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/07(日) 10:08
- 「矛盾などしないさ。そいつは『1』として独立した存在だ。そして、お前がこれから会うそいつも独立した『1』だ。この両者において、もう直接的な関係はない」
紙切れがたばこと同じように中空で燃えて消えた。
「だが、元々は『1』なんだろ?それが独立して『1』として存在を保つことなんてできるのか?」
『1』として独立した存在が分裂する。それはつまり『1』ではなくなることと同義ではないのか?
「さっき私が『もう』と言っただろ?分裂したての頃は『1』として存在し得なかった存在が、時間を経て、経験を経て、そして、憎悪を経て『1』となってしまった。分裂した段階で、この馬鹿の存在は『1』より小さくなった。が、そいつは小さくなった存在を『1』だと認識して、分裂した残りを除外してしまった。その時点でそいつの『1』は『1』ではなくなり、同時に『1』となった。ただそれだけだ」
「なら、最後にもう一つ」
裕子の言っていることはなんとなく分かる。つまり、己の存在を否定することで、存在してた己が別の形で具現してしまった。今回はそういうことか。
なんだ、と目だけで問いかけてきた裕子に、おれは笑いかけながら聞く。
「おれ達はどうなんだ?一つの器に二つが存在しているぞ?これは裕子の言った『1』とは矛盾するんじゃないか?」
「私に聞くのか、そんなことを?」
裕子が同じように笑いかけてくる。
「そうだったな、おれ達はおれ達だ」
おれの中の麻琴もそれについては同感のようだ。
- 58 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/07(日) 10:09
- 「ところで真琴、そろそろ七時だが帰らなくてもいいのか?たしか帰ってきたんだろ?紺野あさ美が」
その裕子の不意打ちにおれは転びそうになり、慌ててバランスをとる。
麻琴、お前は笑わなくてもいい。
立場がいつもの逆になり、おれは急速に機嫌が悪くなっていくのを自覚しながらもため息を吐く。
「……裕子、お前、どこからそういう情報を仕入れてくるんだ?」
あさ美が帰ってくることなど裕子には話していない。というか話す必要がない。が、この目の前の奇術師はおれが触れたくないことを的確に、それも土足で踏み込んでくる。
「真琴、良く覚えておけ。世界は狭い」
「ちっ」
あからさまな抗議の印として舌打ちをするが、裕子には全く効かなかった。
- 59 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/07(日) 10:09
- おれは急速に沈んでいく気持ちを切り替えるため、目の前の奇術師から視線を外す。
「帰るなられいなも連れて行け。あの様子だと一晩中するつもりかもしれん。が、こっちとしては迷惑だ」
おれは答えずにドアを向かう。どうせ帰るのなられいなと顔をあわせなければならない。そのことは裕子も分かっているはずだ。だから、今のはあからさまな嫌がらせとしか思えない。
「年を取ると忘れっぽくなるみたいだな」
おれはチンピラの捨て台詞のような一言を吐き、裕子の返事を待つことなくドアを開けた。
とたんに冷たい、いや、凍える空気がおれと裕子のいた部屋に流れ込んでくる。
「ほう、なかなかやるな。一時間でそこまで使い切るとは……」
後ろの裕子がなにか言ってくるが、廊下に出たおれは裕子を無視してドアを閉めてやった。
- 60 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/07(日) 10:10
- 廊下はおれが最後に認識したそれとはかけ離れた場所になっていた。全面が凍りついていて、あちらこちらに氷の塊が出来上がっている。少しでも注意を逸らすと足元を掬われかねない。
おれは細心の注意を払いながら、一番近くの氷に触れてみる。
存在核ができたばかりのそれは、おれが触れるのと同時に分解され、再び空気に戻っていった。
「空気中の水分を凝固させたのか」
「触るだけで良く分かるとね」
廊下の中心にいるれいながおれを見ずに言ってくる。
「だが、ここではほどほどにしておけ。この廃屋は木造だ」
「分かっとうと」
おれの言っていることを理解したのだろう。れいなは構えを解き、おれの方を振り向いた。
そして、振り向いたれいなの首にかかったそれを見て、おれは顔をしかめる。それと同時に周囲の氷が消え去る。
- 61 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/07(日) 10:11
- 「裕子からもらったのはそれか?」
「そうとね。カッコよかとよ」
れいなの顔がにやける。よほど裕子からもらった物が気に入っているようだ。
「おれのとは対照的だな」
れいなの首にかかった髑髏のペンダントを一瞬だけ意識して、おれはそう言う。
「もう七時だ。帰るぞ」
れいなの返事はなかったが、付いてくるのが気配で分かる。
ウグイス張り(とは響きがいいが、単に壊れかけているに過ぎない)廊下を歩いて、廃屋を出る。
「れいな。お前、なにか厄介事でもあるのか?」
「マコ兄には関係なかと」
そっけなく拒否の姿勢を見せるれいなに、おれは心の中だけでため息を吐く。
これが麻琴と真琴の差か。思った以上に広いな。
「それよりマコ兄」
「なんだ?」
「今ニュースでやってる通り魔殺人って、マコ兄がやっとうと?」
裕子にしてもれいなにしても、自分の都合を通そうとして他人の領域に土足で踏み込んでくるらしい。それに、れいなはさっきも聞いてきたばかりだ。ただし、今度はおれに向かって直接だ。
「いや、おれは直接的にはやっていない。ただ止めを刺しているだけだ」
れいなはこの件に関してはなにも知らないし、おれも教えるつもりはない。
それはわたしも同じことだ。
- 62 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/07(日) 10:12
- 「そう……」
れいなの顔をまともに見れず、おれは視線を逸らす。
「それと、なんでマコ姉は泣いとったと?」
しっかりと覚えているんだな、わたしが泣いていたということを。
昨夜のことを思い出し、わたしは少し後悔した。
やっぱり、れいなのところに行くんじゃなかったかな。
「れいなは知らなくてもいいことだよ」
わたしは、わたしの意志でれいなを遠ざける。それがもっとも確実で、安全なことだから。
「だけど、れいなもあんまり無理しないでよ」
「……分かっとうよ」
れいなの声はどこか暗く、でも、意志だけは貫かれていた。
まだ沈んでいない太陽がわたし達を照らし、それがどこまでもわたしと真琴の心の中に土足で踏み込んできた。それが嫌になり、わたしはれいなに気付かれないよう小さく舌打ちをした。
- 63 名前:いちは 投稿日:2004/11/07(日) 10:18
- 以上が更新四回目です。
いろんな疑問があるでしょうが、まだ話の途中というわけで
できるだけ流してください。
次は水曜日にでも。
それでは。
- 64 名前:名無し読者 投稿日:2004/11/08(月) 21:44
- 更新お疲れ様です
うーむ…これからどんな展開になるんでしょうか…
この話のまこっちゃんはカッコイイですね
なんかどんどんこの話に引き込まれます 次の更新楽しみです
- 65 名前:いちは 投稿日:2004/11/10(水) 09:54
- どうも、いちはです。
まずはレス返しから。
>>64 名無し読者さん
四回目更新部分は設定が少しばかり複雑になったのが垣間見えたところです。
この話が終わる頃には何とか繋がると思うんで、しばらくお待ちください。
で、更新五回目なんですが
いちはが日曜日に予定が入ってしまい更新できそうに無いので
その分も含めて少しばかり長めになります。
- 66 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/10(水) 09:54
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 67 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/10(水) 09:55
- すっかり状況が変化したあさ美にとって、周囲の環境は耐えられるものではなかった。笑っていないと自分が崩壊してしまいそうだった。
(周りの皆から線が出てる)
あさ美はそれを『赤い糸』と名付けていた。これは比喩的な表現ではなく、現実にそう見えていたからだ。
そして、これはあさ美にしか見えていない。それを意図的に見ないよう二人の師匠から訓練を受けていたが、日本に帰った安心感と親友と再会できた心の緩みで、その訓練もあっさりと無駄になってしまった。
食堂には幸いあさ美達しかいない。といってもこの食堂にはあさ美のほかに愛、麻琴、里沙、れいなそしてなつみの五人という顔ぶれだったが。
楽しそうに話す愛に、天然のボケで反応する麻琴。里沙はそれに笑い、れいなは麻琴に呆れ、なつみはそれを笑って見守りながら、それぞれ過ごしていた。
その全体図をあさ美は観察する。
そして次に一人一人に注目していく。
- 68 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/10(水) 09:55
- あさ美が特に注目しているのは胸のところで、そこからあさ美にしか見えない『赤い糸』が見えるのだ。
愛のそれは太く、真っ直ぐと麻琴に伸びていた。
里沙のそれは太いがここではないどこかへ伸びていて、伸びた先を特定できない。
れいなのそれは細く、里沙と同じようにどこか別の場所に伸びていた。
なつみのそれはめずらしく、胸のところでは太く一本であったが、それが分裂して、この場にいる全員に均一に伸びていた。もちろんあさ美も例外ではない。
そして、麻琴。
あさ美はそこで顔をしかめる。何度視認しても、同じ結果であることに納得がいかなかった。
あさ美が二週間観察して学んだこと、それはヒト一人から伸びているそれは必ず一本だということ。なつみのように途中で分裂するというケースは稀だが、それはすでに経験済みだったため、別段、驚くことでもなかった。
が、麻琴のそれは根元――つまりは胸だが――から二本、伸びているのだ。一本はなつみと同じように途中で分裂していたが、それはなつみほど均一なものではなく、あさ美と愛に向かっては多少太かった。そして、もう一本は細く、誰とも結合することなく空中で漂っているだけだった。
- 69 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/10(水) 09:56
- あさ美はそれに気付いてからずっと、その『赤い糸』が気になって仕方がなかった。そして、それに触れてみたいと思う自分がいることに気付き、頭を振ってその考えを振り払う。
あさ美はヒトの『赤い糸』が見えるのと同時に、それに触れることもできた。それを話したときの師の言葉を思い出す。
『その糸はヒトの尊厳であって、根源でもある。それを見ることができ、触れることができるあなたは、ヒトの根源を支配することができます。それは我々奇術師が長年研究し続けて、追い求めてきた究極です。ですが、それは同時に破滅ももたらします。そのことをあなたは知っておかなければならない……』
あのときの師はいつになく難しい日本語であさ美に語った。母国語で話せばもっと楽だったであろうに。あえて使い慣れていない日本語での説明をしたのか、それはあさ美にもすぐに理解できた。
- 70 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/10(水) 09:56
- (つまりは、私次第でこの力の善し悪しが決まるから……)
そのことを認識し制御するため、あさ美はあえて師から独立することを選んだ。
(私はヒトの根源に触れることができる。だけど、それは同時にヒトの醜い部分に踏み込むことでもあるんだ)
一度経験したあさ美はそれから『赤い糸』に触れることを自ら禁じた。
その快楽に慣れてしまう自分が無様だったから。
その苦痛に焦がれる自分が怖かったから。
だが、イレギュラーを目の当たりにしてあさ美はその決意が揺らいでいるのに気がついた。
「あさ美、どうしたん?」
意識を戻したあさ美の目の前に、すでに夕食のカレーを食べ終えた愛がいた。
「あさ美ちゃん、食欲無いね」
里沙もすでに食事を終えていた。
「うん、ちょっと疲れてるのかな。飛行機、揺れて怖かったから……」
あさ美は自分でも訳が分からない言い訳をし、その場を繕う。
- 71 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/10(水) 09:57
- 「そうだね、疲れてるんだよ」
二人に続いて言ってくる麻琴だったが、彼女にしてはめずらしく、あさ美と同様、カレーを半分ほど残していた。
「まこっちゃんは食べないの?」
『赤い糸』が気になりながらも、あさ美はなんとか言葉を紡ぐ。
「うん、わたし今、ダイエット中なんだ」
麻琴がいつものようにへらへらしながら言ってくる。が、あさ美にはそれも表面上のものでしかないことに気がついていた。目が笑っていなかったからだ。
麻琴の視線があさ美を正面から捉える。
あさ美もその視線を正面から受け止め、瞬時に理解した。
「安倍さん、残しちゃってすいません。私、もう休みます」
できる限り気分が悪いのを装ったが、半分は本当だったため、完全な演技にはならずに済んだ。
「そうだべね、カレーはまた明日にでも食べるべ」
残されたことにショックも怒りも感じていないなつみのその一言に、あさ美は底知れぬ後悔が押し寄せてきたが、それもなんとか乗り越える。
- 72 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/10(水) 09:57
- 「あのさ、まこっちゃん。部屋まで着いてきてくれない?」
「ん、いいよ」
麻琴もあさ美の言葉を予測していたのか、彼女にしては素早い反応を見せる。
そして、あさ美と麻琴は足早に食堂を後にした。
部屋に戻る間、二人には会話がなかった。
「ねぇまこっちゃん?」
部屋に戻り、あさ美は電気を点けずに麻琴に振り返る。相手が見えなければ『赤い糸』も見えない。そのほうが気が楽だから。
「私ね、まこっちゃんに怒らないといけない」
麻琴はあさ美の気持ちを知っている。あさ美も麻琴の気持ちを知っている。その点において、二人に壁はなかった。が、いつの間にか壁が現れ、二人を遮ってしまった。
「だけどね、私、怒れそうにないよ……」
暗闇に目が慣れるにつれて、麻琴よりも先に細く弱々しい『赤い糸』がその存在を主張してくる。
「そうだね、わたしにはもうあさ美ちゃんに『愛してる』って言う資格は無いね」
- 73 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/10(水) 09:58
- 麻琴が電気を点けた。
その明るさにしばらく目を細めていたあさ美だったが、意識を集中させて麻琴を見る。
いつもと変わらないはずの麻琴が、そのときだけはやけに弱々しく見えたのは、きっと気のせいじゃない。
「前に話したよね。わたしはわたしであって、おれでもあるんだってこと」
「うん……」
それはごく一部の人間にしか分からないことであり、あさ美はその一部であると認識していた。
「だけどね、わたし、それだけじゃないんだ」
そう言って麻琴が手を差し出してくる。
握ってみて、という麻琴の言葉に逆らうことができず、あさ美はそのいつになく白い麻琴の手をそっと握る。
手を握られた麻琴の身体が一瞬だけ震え、すぐ止まる。目を閉じた麻琴の顔は苦痛で歪み、なにかを見ている、いや、感じているようだった。
「わたしね、用事があるって言って途中で消えたでしょ?それって、つまりはあさ美ちゃんになにが起きたのか分かったからなんだ」
麻琴の一言に、あさ美は思わず握った手を振り払っていた。
- 74 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/10(水) 09:58
- 「あ、まこ……」
振り払われた麻琴の顔が力なく笑っているのを見て、あさ美は気付く。
(そうか、私だけが特別じゃないんだ)
「そう、前に話したように、特別は特別であって異常じゃない。それとこれとは別問題なんだ。異常になるにはもう一歩踏み外さないといけない。ヒトっていう範疇からはみ出さないといけないんだ」
あさ美の考えを読んだかのように、麻琴が話し始める。
「小川マコトっていう二つのヒトが同時に存在するってこと自体は特別。でも異常じゃない。紺野あさ美がヒトの根源を見ることができること自体は特別であっても異常じゃないんだよ」
「まこっちゃん……?」
あさ美はまだ麻琴には話していない。あさ美がこの三週間でどう変わったかを。だが、麻琴は知っていた。
「そう、特別なわたし達が異常になれるのはヒトとして完全に踏み外してるからなんだ。わたし達はヒトに限らず、全ての物事に存在しているあるものを触れることで、その物事の無意識下にある記憶を見ることができる。ヒトならそのヒトがこれまでにどんなことをしてきたのか、一切合財ね。それがあって、わたし達は踏み外して、異常になったんだ」
目の前の麻琴はただ笑っているだけ。
- 75 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/10(水) 09:59
- 「わたしはね、触らないでもそのヒトのことを意識すればだいたいのことが分かっちゃうん。それはわたしの中のもう一人も同じ。
わたしが小さかった頃はそうして感じたことを素直に言っても、まだみんなわたしのことを不気味に思っていなかった。だけど、大きくなるにつれてヒトには踏み込まれたくない領域があるんだってことに気がついたんだ。でも、わたしにはそんな踏み込まれたくない領域も関係なく見えちゃうんだよね」
麻琴の掠れてきた声と、その後に出てきた自虐的な笑いに引き込まれたあさ美は、なにも言えずただ呆然と立っているだけだった。
「彼女の中の想いが分かったから、わたしは愛ちゃんを拒否できなかった。それがあさ美ちゃんを苦しめることだって分かっていたのに……」
泣きながら麻琴は笑っていた。
「ごめんね、あさみ……」
あさ美が包み込むように麻琴を抱きしめ、麻琴の言葉を遮る。麻琴を抱いた瞬間、麻琴とは別の何かに触れた気がしたが、あさ美はそれを大して問題にしなかった。そこまで頭が回らなかった。
「もういいよ、まこっちゃん」
声を押し殺して泣き始めた麻琴の頭を優しく撫でながらあさ美は続ける。
「まこっちゃんは異常じゃないよ。私も一緒だから……」
麻琴の肩が震えるのが分かる。
そしてそれは反発する力となるが、それでもあさ美は麻琴を離さなかった。
「あさ美ちゃん、離して」
麻琴が苦しそうに声を出す。
- 76 名前:偽りの連続1 投稿日:2004/11/10(水) 10:00
- 「いや、私は離さない。何があっても……」
「ダメなのあさ美ちゃん。わたし達はこのままだとあさ美ちゃんをダメにする。そうならないうちに、わたしは消えるべきなんだ」
そう言っている麻琴だったが、あさ美を掴む手は強かった。
「私はダメにならない。まこっちゃんと一緒なら、私はダメにならないよ」
麻琴に言い聞かせるのと同時に、あさ美は自分自身にもその言葉を言い聞かせていた。
(私はまこっちゃんがいないと……)
そこまで紡いだ思考が突然乱れる。
気がつくとあさ美はベッドの上に倒れていた。
「すまない、あさ美」
いつもの麻琴ではない声に、あさ美の思考は切断される。
前に一度だけ聞いた声。あさ美を捕らえて離さなかったあの声。
麻琴の口から出てくるのに、麻琴の言葉ではない、その声。
「おれはお前がいないと……」
マコトから伸びた細く弱々しい、だがそれでも芯だけは通っている『赤い糸』が、しっかりとあさ美の糸と結合していた。
(そうか、これがもう一人の……)
そこまで考えたあさ美はそこで思考を切る。そして、全てを目の前にいるマコトに任せることにした。
- 77 名前:偽りの連続 投稿日:2004/11/10(水) 10:01
-
偽りの連続2
- 78 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:02
- ここは静まり返ったベッドの上。
おれはその上で静かに身体を起こす。
すぐ隣には紺野あさ美がタオルケットに包まって寝ていた。
さっき麻琴は全てを話さなかった。
おれと麻琴がどうして異常なのかを。
おれと麻琴はヒトとしての道を踏み外していた。だから異常なんだ。
なにが異常かって?
おれ達はヒトに限らず、存在核を蒐集している。つまりは、特殊な、そして、おれ達と同類のそれをだ。
おれ達と同類のそれらの存在核は、それ自体も異常だ。それを集めて、おれ達は答えを見つけたい。
どこにおれ達が存在していても良い場所が存在するのか。いつならおれ達が存在していても良い時なのかを。
おれがあさ美にしたことは間違っている。
それは分かっていた。
だが、それでもおれは止まらなかった。いや、止まれなかった。
- 79 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:02
- 「ごめん、あさ美」
小さく呟き、おれはあさ美を起こさないよう注意しながらベッドを抜け出る。そして足音を立てないようクローゼットまで移動して、麻琴が一月袖を通していなかった制服に袖を通した。
初めておれは自分の意志で制服を着たが、スカートというものにはやはり慣れそうにない。が、今夜はこれが必要だった。
ペンダントも忘れずに身に付け、おれは部屋を出る。もちろんナイフは忘れていない。
空は曇っていて星や月が全く見えない。
嫌な感じの天気だ。だが、こっちのほうが雰囲気は出る。
時刻は十一時。
ゆっくり歩いても十分間に合う。
麻琴はさっきのあさ美との会話に自己を保てなくなって、支配権を放棄してしまった。だから、おれが出てこれた。
- 80 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:02
- あれ、真琴。もう外に出たんだ?
……と思ったが、麻琴のやつ、もう起きやがった。
いいよ、おれは引っ込む。お前が行け。
一瞬力が抜けたように身体がぐらつくけど、わたしは落ち着いてそれを制御する。
真琴は自分の時間をわたしに譲った。
これは、わたしが行かなければいかないことを意味している。
これから向かう場所には……。
おい麻琴、まだ時間はあるんだ。
焦らず、ゆっくり行け。
そうだね、まだ十一時だ。
時間はまだ、十分にある。
- 81 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:03
- わたしはポケットに入れていた輪ゴムを取り出すと、それで肩に少しばかりかかった茶髪を後ろで縛る。
髪の毛に隠れていた首筋が露になって冷たい風がそれを撫でてきた。そのあまりの冷たさに一瞬だけ身体を震わせるけど、わたしは止まらずに歩く。
空を見上げてみると星がまったく出ていなかった。雲がそれだけ分厚かったのだ。
そして、その雲が今のわたしの気持ちを代弁しているようで、わたしは笑おうか怒ろうか迷う。
それを意識してしまったわたしは、それから逃げるようにそれまで抜き身だったナイフを革の柄に収めた。
できることなら、これだけは使いたくない。
それが、わたしのそのときの素直な気持ちだった。
- 82 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:03
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 83 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:03
- 部屋は午前中と同じく、燦々たる状況だった。
「先輩?」
もう寝ているのかと思った先輩は、この散らかりきった部屋にはいなかった。
もともと片付けるのが苦手な先輩のことだったから、こうなっているのは予想できたけど、放置していたあーしもあーしだ。
里沙と田中ちゃんはというと夕食が済んだ後、早々に帰ってしまった。それであーしは一人で戻ってきたというわけ。
朝、一度部屋に戻ったときもこの有り様だったけど、あーしは着替えだけをして麻琴の部
屋に戻ったから、結局は片付けていない。
麻琴の部屋にでも行こうかと思ったけど、あさ美と戻ったまま帰ってこないのを考えると、あーしが行くことでもっと拗れそうなので止めておく。
「おらんならおらんって言ってくれればええのに……」
ぶつぶつ言いながらもあーしは部屋を片付け始める。
- 84 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:04
- 部屋は埃を被っていて、あーしがいることでどれだけ部屋が清潔に保たれていたかが証明できた。
と思ったけど、部屋を掃除していくにつれて、一つの疑問が浮かび上がってきた。
もしかして先輩、部屋にずっといなかった?
あーしはすぐさま自分の考えを否定する。
そんなはずはない。先輩はあの人とずっと一緒だったはずだ。あーしもそれを見てから麻琴のところへ行ったんだから……。
「あ、愛ちゃん。帰ってたの?」
突然話しかけられ、ビックリして振り返る。
「松浦先輩、どこ行ってたんですか?」
入り口にはいつの間にかあーしのルームメイトの松浦亜弥先輩が立っていた。だけど、入ってきたときのドアの音がしなかったのは、きっと気のせいじゃない。
- 85 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:04
- その松浦先輩は持っていた大きなカバンを床に放り投げてベッドにダイブする。
「先輩、着替えなくていいんですか?」
なぜか制服を着た先輩が寝返りをうってあーしのほうを見てくる。目が半分閉じていて、
「ごめん、疲れてるんだ……」
そう言って先輩は寝息を立て始めた。
なんて器用な先輩なんだろう。
先輩に聞こえないようため息を吐いたあーしは、三分の一も済んでいない部屋の片付けを再開した。
- 86 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:05
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 87 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:05
- わたしは目的地であるそのビルを見上げる。
そのビルを中心にして漂っているのは、死への願望と生への執着の二つ。矛盾したそれらが粘りついた空気となって、わたし達に纏わり付いてくる。
だけど、わたしはそれを無理には払わなかった。
(気味が悪いってもんじゃないね。死がそこら辺に散らばってるよ)
ビルから下ろしたわたしの視界には、人ではない存在核がそこかしらに浮かんでいる。
試しに近く似合った存在核を、わたしは右手でそっと触れてみる。
何の存在核か情報を読み取る前に、その存在核はあっさりと消滅する。
わたし小川麻琴と、もう一人の小川真琴には物が存在している証であり、その根源となっている現象を核という形で見ることができる。
わたし達はそれを『存在核』と名付けていた。
しかも、わたし達はその存在核に触れることができた。
存在核に触れるということは、対象とした根源に触れる行為と同義だ。
- 88 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:06
- でも、わたし達にできるのはここまで。
あさ美ちゃんのようにその根源を支配することはできない。
だけど、わたし達はそれだけでも十分だった。
根源となる存在核に触れることができれば、わたし達は無条件にその対象を消し去ることができる。それが人間ならば、殺すということだ。
首に掛かっているクロスのペンダントは中澤さんに創ってもらった特別製で、このペンダントを付けていれば、存在核をよりはっきりと感知することができる。
だけど、このペンダントのもう一つの役割がある。
それは、わたし達の能力が暴走しないために制御することだ。
この存在核は外的環境に影響を受けることなく存在している。つまりは、周囲の風景に関係することなく見えてしまうのだ。
このペンダントはそれを制御して、わたし達が感知しようとした存在核だけに的を絞って見せてくれる。
だから、このときもわたしは周囲に浮かんでいる存在核を意識的にシャットアウトして、そのビルを再び見上げた。
- 89 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:06
- 目の前にあるビルはこの街では比較的中心部にあるけど、開発途中で工事を請け負っていた第三セクターが倒産、ビルは完成することなく放棄されてしまった。
その割には広大な土地を有していて、未だにそれらが売りに出されること無く、この付近だけが浮いた存在になっていたのだ。
(まるで、あの娘みたい……)
真琴が見た映像が情報としてわたしの頭の中に過ぎる。
学生証の写真なのにそこに写った彼女は、とても楽しそうだった。
ねえ、どうしてこんな手段を選んだの?
他にも、道は無かったの?
まだ会ってもいないのに、わたしは思わずそう彼女に問いかける。
わたし達の予想が正しければ、彼女はこの先にいる。
これはわたし達の本能が告げていた。
と、そのときわたし達の背後から、まったく関係の無い第三者の足音が聞こえてきた。
- 90 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:07
- 「二日連続なの?」
まだ会ってない彼女に呟いたわたしは、後ろを振り返って足音に注意を傾ける。
(女の足音。年齢はおれ達とそう変わらない。距離、二十メートル)
機械的に告げてくる真琴の言葉に、わたしは首を縦に振るだけで答える。
真琴が言ったちょうどその辺りには十字路があり、そこを曲がったところから、その足音が聞こえてくる。
これ以上被害を出すわけにはいかない。
それだけを意識して、わたしはポケットにしまったナイフを取り出す。ただし、柄ははめたまま。
それを右手で握る。だけど、その右手が汗で湿っていて、気分が悪くなってくる。
たった数秒が数時間にも感じられ、ようやく十字路の角から一人の女子高生が現れた。
わたしがその娘を女子高生だと判断した基準、それは、彼女がどこかの制服を着ていたからに過ぎない。それがコスプレだと言われればそれまでだけど、わたしには確信があった。
- 91 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:07
- 「今日は君が飛ぶの?」
わたしの呼び掛けに彼女はやっぱり答えない。
目は空ろになっていて、目の前にある、わたし達がこれから向かうであろうビルを見上げたままだった。
(同調による精神支配。思った以上に厄介だな)
陰鬱な気持ちにさせる真琴の言葉を聞き流しながらも、わたしはどう動こうか一瞬迷う。
その間にも彼女はわたし達の存在に気付くことなく、わたし達の横を通り過ぎていく。
その先にはビルの屋上へと通じる非常階段があった。
「今日は、君じゃないよ」
意を決したわたしは彼女に素早く近づくと、無防備なその首元にナイフの柄を叩き込む。
だけど、叩き付ける瞬間をわたしは見ていなかった。ただ、感覚でそう認識するだけ。
あっさりと崩れ落ちた彼女を受け止めたわたしは、そのまま彼女を道路の脇に移動させる。
(願わくは、次に彼女が目を覚ましたときには全てが終わっていますように……)
心の中だけで呟いたわたしは、彼女が向かっていた非常階段へと向かう。
- 92 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:08
- ビルに近づくにつれてどんどん大きくなっていくまだ会ってもいないその娘の存在。
「わたし達が代わりだよ」
小さく、口だけを動かして呟いたその言葉だったけど、その娘に聞かれているという確信はあった。
あの娘はずっと、わたし達のことを見てる……。
それを意識しないようにしていたけど、わたしの足は自然と速くなっていた。
短いようで長い階段を足早に上って屋上を目指す。
でも、屋上まで行く必要は無かった。
屋上の一つ下。このビルだと十階にあたるその場所に、その娘はいた。
まだ外壁も完全に組まれていない、鉄骨が剥き出しになった無駄に広いその場所その娘は立っていた。
「なんで、屋上じゃないかって思ったれしょ?」
わたしの考えを読んだのか、その娘がわたしに向かって話しかけてくる。だけど、わたしは何も言うことができなかった。
- 93 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:08
- 「ここは、今ののんれす」
両手を広げている彼女。
今の彼女……。
それは創りかけ?
違う、これは壊れかけてるんだ。
寒い……。
今は八月の下旬。本当なら蒸し暑いはずなのに、わたし達の周りの空気は凍えていた。
(この娘が、辻希美……)
昨日、真琴が得た映像と中澤さんから見せてもらった学生証のコピーにあったその娘が、今回の事件の中心だった。
いや、中心かどうかは分からない。ただ、彼女は関わっていただけ。
でもどんな形にせよ、それも今日で終わる。いや、終わらせる。
- 94 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:09
- わたしはそんな暗い決意を胸に抱いて、その部屋とは呼べない部屋に足を踏み入れた。
周囲の凍えた空気が、わたし達というまったく別の存在を招き入れて掻き乱れる。それが手に取るように分かっても、わたしは歩みを止めることは無かった。
彼女――辻希美――と五メートルほどの距離を取って、わたしは立ち止まる。
でも、彼女はわたし達をまったく見ることは無く、低く押し潰してきそうな天井を見ているだけだった。
(綺麗だな……)
わたしは心の中だけでそう思う。
何が綺麗なのか。
それは辻希美を含めたこの空気。
なぜ綺麗なのか。
それは辻希美を含めたこの空気がとても透き通っていたから。
……。
違う、わたしはこんなことを感じるために来たんじゃない。
周囲の空気に飲み込まれていたわたしは、軽く頭を振ってどうにかわたしという存在を再認識する。
- 95 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:10
- 「何が見えるんだ?」
これはわたしの中にいる真琴が問いかけた言葉だった。
わたしが思ってもいなかったことを、真琴が唐突に問いかける。それはわたしにとっては違和感であり、そして、不自然だった。
「いろんなものが見えますよ」
やや舌足らずな彼女の口調には、これまでの空気を掻き乱したはずのわたし達に対する恐怖や怒り、驚きといった感情は一切感じられなかった。
「あなたには見えないんれすか?」
「生憎、おれには低い天井しか見えないな」
にっこりと笑う彼女だったけど、わたしは笑わない。
ただ、真琴の言葉を受けて肩を竦めるだけ。
なんで肩を竦めたか。
それは真琴の声に、わたしも同感だったから。
「そうれすか、それは残念れす」
寂しそうに笑う彼女はすでに個として独立した存在だった。
(おれより感情の出し方がうまいな)
わたしにだけ聞こえるように呟く真琴。いや、この声はわたしにしか聞けない。
- 96 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:11
- 「わたしがなんでここにいるのか、聞かないの?」
真琴にだけ任せておくのは良くないと思って問いかけてみるけど、それが愚問なのはわたし自身にも良く分かっていた。それでもわたしが聞いたのは、それを彼女の口から聞きたかったからだ。
「聞く必要はないれすよ。どうせのんを殺しに来たんれしょ?」
「その割には余裕なんだな」
まるで他人事のように言ってくる彼女に、これまた真琴が対応する。それがわたしの気持ちを暗くし始めて、わたしは思わず苦笑いをしてしまった。
そして、わたしは持っていたナイフを彼女に見せる。これは威嚇としてではなく、ただの事実として。
「それでのんは殺せませんよ。のんはおばけれすから」
唐突にそう言った彼女が、唐突に彼女自身の両目に右手の人差し指と中指を突き刺した。
「ほら、取れないれしょ?」
何も付いていない指を差し出し、無傷のままの顔で微笑む彼女。
- 97 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:11
- (そうか、彼女は空気、もしくは呪いなんだ……)
震えそうになる全身を何とか押さえ込んでわたしは彼女の存在核を探す。
中澤さんからもらったペンダントで能力を強化しているにも関わらず、わたしが感じ取れるのはわずかな空間の歪みだけ。
いや、このわずかな空間の歪みが今回の事件、もしくは事故の全てだ。
このくらい小さな空間の歪みでは、反応する人はほとんどいないだろう。でも、わたし達のように不安定になっている人には、絶対感じ取れるものだ。
「君が、飛び降りの原因?」
「『自殺』は付けないんれすね」
唐突に話しかけるけど、それに即座に答える彼女。
でも、わたしのこの一言で、凍えた空気がさらに冷たくなった。この中で唯一別個の存在として在るのは、わたし達だけ。
「飛び降りることと、死ぬことは別問題だよ。わたしはただ、君が原因なのかどうかを知りたいだけ」
- 98 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:12
- わたしにとって、いや、わたし達にとって死ぬということはそれほど重要な問題ではない。
人間はいつか必ず死ぬ存在で、それが早いか遅いかの違いでしかない。
それに、死にたい人間ならば飛び降り以外でもそれを遂行できる方法を見つけるだろう。
たまたま今回の自殺の方法が飛び降りだったということだけだ。
「のんはただ、ここにいるだけれす。みんな後からやってきて、飛んで行ったれす」
おかしそうに笑う彼女と反比例して、わたしは無表情、無言になっていく。
まるで彼女にわたしの感情が吸い取られているみたいだ。
そのときになってようやく、わたしは彼女の存在核を見つけることができた。
(そうか、彼女はすでに空気なんだ)
通常、その人間の根源を構成している存在核は、その人間のどこかに付着する形で存在する。だけど彼女のそれは、すでに彼女の身体から離れて存在していた。
(違う、彼女は元からこうだったのかもしれない……)
元は一つだったものが二つに別れる。それはきっと、目の前にいる彼女のような存在になることを意味するのかもしれない。
小さくため息を吐いたわたしは、右手に持っていたナイフに意識を落とす。
あるべき姿を失った彼女は消えなければならない存在。
誰も消せないんだったら、わたしが消してあげるしか方法は無い。
それを実行するのは、わたしでも真琴でもない。持っているこのナイフだ。
- 99 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/10(水) 10:13
- ……。
おかしい。持ってるはずのナイフが感じ取れない。
というか、右手の、いや、全身の感覚が無い?
異変に気付いて眉を顰めたときには、すでに手遅れだった。
「あなたは飛ばないんれすか?」
彼女の声に、わたしは慌てて視線を彼女に戻す。
その彼女はわたし達に左手を上げているだけだった。ただ、それだけだった。
「えっ?」
それから何が起こったのか、その場にいたわたしも真琴も良く分からない。
ただ、一つだけ分かったことと言えば、今いた以上の暗闇に放り出されたことくらいだった。
- 100 名前:いちは 投稿日:2004/11/10(水) 10:14
- すいません、二回分が三回分になってしまいました。
では、次の更新は来週の水曜日ということで。
それでは。
- 101 名前:通りすがりの者 投稿日:2004/11/10(水) 20:43
- なんだか不思議な話ですね。
二つの人格ですか。
まこっちゃんがんばれ!
更新待ってます。
- 102 名前:名無し読者 投稿日:2004/11/11(木) 19:10
- 更新お疲れ様です
すこしづつ明らかになってきましたね 面白いです
しかも凄いイイところで終わってて続きがめっちゃ気になります
やっぱこのお話のまこっちゃんカッコイイですね
次の更新待ち遠しいです
まこっちゃんも作者さんも頑張って!続き楽しみです
- 103 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:02
-
――――――――――
- 104 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:03
- 「ここは、どこ?」
小川麻琴が暗黒の中で独り呟く。
「どこだ、ここは?」
小川真琴が暗黒の中で独り呟く。
誰もいない空間、それは麻琴、真琴にしてみれば初めて味わう孤独だった。
全く感じることのできなくなってしまった、いつもはすぐそばにいるであろうもう一人の自分。
それすらからも切り離されて麻琴、真琴はそこに独りで漂っている。
しかし、それは本当の意味で孤独ではなかった。
なぜなら……
「これはわたし自身の闇と同時に、真琴自身の闇でもあるから」
「これはおれの心の闇と同時に、麻琴の心の闇でもあるから」
麻琴の根底には真琴が常にいて、真琴の根底に在る麻琴は切り離すことができない。それをそれぞれが認識した瞬間だった。
- 105 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:03
- そして、そう呟いた麻琴の前に辻希美が現れる。
そして、そう呟いた真琴の前に辻希美が現れる。
暗黒の中に映るその姿は周囲の色と対照的に白く、それはさながら快晴の空にぽつんと浮かぶたった一つの雲のようだった。
「あなたは今、独りれす。あなたはあなたの願いがあるはずれす」
「あなたの願いはなんれすか?」
「あなた自身のノゾミはなんれすか?」
白い希美が急に消えたかと思うと、別の場所に再び現れる。
それは最初はゆっくりとしたものだったのに、だんだんとそのスピードが上がっていく。
ただ、希美が消えてもその場には白だけが残り、それはどんどんと黒のなかに広がっていく。
そして、白い希美は二人を取り巻いていた周囲の黒ですら飲み込み始め、最終的にはそこに漂っていた麻琴、真琴もあっさりとそれに飲み込まれてしまった。
- 106 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:04
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 107 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:04
- わたしの願い。
わたしのノゾミ。
…………
わたしがなにを好きでなにを愛しているのか。
その境界線がどこなのかを知りたい。
れいな、愛ちゃん、あさ美ちゃん、里沙ちゃん、中澤さん、安倍さん。わたしは彼女達のことが好き。
なら、『愛している』っていうのはどこにあるの?
その境界はどこにあるの?
わたしはただ、それが知りたい……。
おれの願い。
おれのノゾミ。
分かりきっていることだ。
おれがおれであるのは唯一つ、生き甲斐があるからだ。
そして、おれにとっての生き甲斐は紺野あさ美であって、それ以外、おれは必要としていない。
なあ、簡単だろ?
- 108 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:05
-
――――――――――
- 109 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:05
- 麻琴の前だけに白い雲となった希美が現れる。
「あなたのそのノゾミ、のんが叶えてあげましょうか?」
「わたしの、望み?」
「そうれす。あなたが必要としている、その境界線を、のんが引いてあげます」
その言葉に麻琴は頭を抱えて蹲る……
- 110 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:05
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 111 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:06
- 違う。誰かに引いてもらった線じゃあ、わたしは納得できない。
だって、それはわたし自身が引いても一緒なのだから……。
わたしがその境界線を引いてしまったら、わたしは今のわたしを維持できなくなる。
きっと、その線に従ってみんなを区別してしまう。
ヒトは皆、等価値なのに……。
わたしがそれに差をつけてしまう。
わたしはそれが分かっているから、今という不安定なトキを受け入れているんだ。
今は今のまま。
わたしはわたしのままでいたい。
それが……
わたしのノゾミ。
- 112 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:06
-
――――――――――
- 113 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:07
- 真琴の前だけに白い雲となった希美が現れる。
「でも、今のあなたはそれに満足してないれしょ?だったら、のんがそれを手伝ってあげます」
「おれを、手伝う?」
「そうれす。あなたが本当に望んでいることを、のんが代わりに実行してあげますよ」
その言葉を聞き、真琴はわずかにその顔を歪めて……
- 114 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:07
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 115 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:08
- 麻琴はかなり悩んでいるみたいだが、そう難しいことじゃない。
それは決意であり、その根底にあるのは意志だ。
それは決して我儘ではない。ヒトは皆、その決意であり、意志を持って他者と接する。
だったら、おれもおれの信じる道を行くだけだ。
そして、おれの信じる道は紺野あさ美。
それが……
おれのノゾミだ。
- 116 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:08
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 117 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:09
- マコトは、いつの間にか閉じていた目をゆっくりと開けた。
視界に入ってきたのはさきほどまでの暗黒ではなく、ただのビルの一室だった。
どのくらい閉じていたのかは定かではないが、それでも二人のマコトはそれを気にすることは無かった。
「わたしのノゾミは、君には叶えられない」
「おれのノゾミは、すでにおれの手にある。だから、お前なんて必要としていない」
壊れかけた辻希美。それを意識してそれぞれのマコトが彼女に言い放つ。
(麻琴、こらから先はおれの仕事だ。お前は下がってろ)
(分かったよ真琴。よろしく)
麻琴から託された真琴が、自身の意志で希美を睨む。
「おかしいれすね。他の人はみんな、これで飛んで行ったのに……」
真琴の目の前にいる希美は、その首を大きく傾げていた。
その顔がまるで大好きだったものをついに食べ終えてしまったときの顔のように見えて、真琴は小さくだが笑う。
- 118 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:09
- そんな真琴に構うことなく、希美が下げていた右手を左手同様、真琴に向かって突き出した。
それと同時に再びマコトの中に流れ込む希美の意識。
だが、それを真琴が自身の意志でシャットアウトした。
「いつまで、そんな茶番を続けるんだ?」
首を傾げたままの希美が哀れになって、真琴は希美を嘲笑う。
(おれのノゾミはおれにしか分からない)
(それがどんな結末を迎えるのかも、おれしか知らない)
(それでも、おれはおれだ。お前の好きには、させない)
一瞬の間にそれらの考えが真琴の頭に浮かび、そして消える。それはまるで、今目にしている希美自身だった。
そんな嘲笑っている真琴に対して、それまで明確な感情を示さなかった希美が、そこで初めて感情らしい感情を表す。
それはすなわち、哀、そして、怒。
それと同時に、それまで希薄だった希美の存在核も、その存在を明確にしていた。
- 119 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:10
- (このほうが、おれも殺しやすい)
明確になった存在核を完全に捕捉した真琴が安堵のため息を吐く。そして、口を開けた。
「お前はそうやって外見を見繕っているが、所詮それも偽りだ。そこに存在しているお前は、お前じゃない」
そして、真琴はさきほど麻琴が意識できなかったナイフを自分の目の前まで持っていき、革の柄を剥ぎ取る。
それと同時に現れたのは、鈍く光る銀の刃。
ただし、その刃を照らす明かりはその部屋には入ってはいない。それでも、その刃は鈍く光っていた。
「ひどいことを言うんれすね」
遮られたナイフ越しに希美の怒りと、そして、哀しみの混ざった声が聞こえてくる。
その声は真琴の目の前から発せられているはずなのに、はるか彼方から、弱々しく聞こえてきた。
希美の言葉を無視して真琴はナイフを下ろす。そして、そのナイフを右手に持ち替え、希美の存在核だけに集中する。
しかし、そんな真琴に気付くことなく希美は次の行動に移った。
- 120 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:11
- 足が床から離れたかと思うと、希美の姿が天井へ溶け込むようにして消える。
それを存在核で感知した真琴はすぐさまその部屋を飛び出して、階段を駆け上がった。
最後の一段を上り終え屋上に到達した真琴の目の飛び込んできたのは、この曇った空を飛び回っている希美だった。
曇った空の隙間から月明かりが差し込んでいる。それがところどころで希美を照らすが、その光にすら希美は照らされることは無かった。
光に照らされるが決してそれを受け止めることができない辻希美。
それが近い将来訪れるであろう自分のように思えて、真琴はそれを哀れに思った。
「ヒトはみんな、空を飛べるんれすよ」
希美のその言葉と同時に、彼女の存在核が光り始める。
(ちっ、同調か。やっかいだな)
通常、存在核はその元となっている人間の根源に眠った状態になっている。だが、これが何かのきっかけで呼び起こされる。
何かのきっかけ、それはつまりその人間と根源である存在核とが同じ目的に立ったときを意味していた。
- 121 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:11
- 「空はこんなに広いんれす」
曇った空を舞いながら希美が言う。月明かりに照らされること無く、希美が言う。
それにつられて真琴の空を見上げた。
「広い空などあるものか。空には限りが在る。ヒトの心と同様に……」
苦々しく吐き捨てる真琴だったがそんな真琴のことには気付かず、希美はひたすら空を縦横無尽に駆けている。
「なんであなたは飛ばないんれすか?」
光った存在核を見上げて、なにも言わない真琴。
そして、それを見下ろす希美。
「そうか、あなたはまだ完璧じゃないんれすね。だから、空も飛べないんれすね」
真琴を見下ろしながら笑う希美。真琴はそれをただ、見上げるだけだった。
「でもおかしいんれすね。独りの中に二人いるのに、なんであなたは完璧じゃないんれすか?」
希美が真琴と同じ視点まで降りてくる。
その間、真琴は動かなかった。
いや、動く必要がなかった。次、動くとすれば、それは辻希美という存在を消すときだ。
「そっか、二つでも完璧じゃないんれすね。三つあれば完璧になれるんれすね?」
光った存在核が、光った存在核だけが希美という存在を真琴にだけ知らしめてくる。
だが、すでに真琴にとって、それはどうでもいいことの一つに成り下がっていた。
- 122 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:12
- 「それがお前のノゾミなのか?」
静かに問いかける真琴に、希美が笑顔で答える。
「のんにノゾミって聞くんれすか?」
笑顔のまま、希美の頬を涙が伝う。
それはそこに存在している希美の希望であり、そこに存在していない希美の夢だった。
「のんにノゾミはないれす」
涙を流しながらも、真琴の目の前の希美がしっかりと答える。
その言葉は、これまで投げかけられてきたどの言葉よりもはるかに強かった。
「だって、のんはノゾミなんれすから……」
その一言と同時に、それまで光っていた存在核がその輝きを失っていく。
その一言に、辻希美の全てが込められていた。
すなわち、自分が不完全であることを……。
すなわち、他者を完璧にはできないことを……。
すなわち、自分はこのまま消える存在であることを……。
(同時におれってわけか)
真琴は心の中だけで呟くと、一瞬だけ辻希美に意識を戻す。
そして、最後の一言を希美に向かって放った。
「お前を殺す」
その場で唯一温かな存在であった真琴から言い放たれた、非情な一言。
- 123 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:12
- だが、希美にはその意味が伝わることはなかった。
「さっきも言ったとおり、それじゃあのんはころせませんよ?頭悪いれすね」
真琴が明確な殺意を放ち、希美もそれに応えるように殺意を明確にする。
「のんは殺せません。ただ、消えるだけれす」
しかし、希美の言葉に対して真琴は喋らない。真琴はすでに喋る必要を感じていなかった。
ただ、気配だけで伝える。
なら、消すまでだ。
「できますか?」
できる。
いや、おれ達にしかできない。
「じゃあ、のんを消してくらさいよ!」
辻希美の最初で最後の叫びだった。
それと同時に真琴が希美に向かって駆け出す。
距離五メートル。
それは真琴にとって無きに等しい距離だった。
- 124 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:13
- 一瞬にして距離を詰めた真琴は、そのまま希美の脇を素通りして背後の中空を漂っていた彼女の存在核にナイフを突き立てた。
それと同時に存在核から凄まじい風が巻き起こる。
だが、それもほんの一瞬だった。
風を受けて目を閉じていた真琴が目を開けて、後ろを振り返る。
さっきまでいた辻希美はすでに、そこにはいなかった。
残ったのは冷たい空気と、それを乱した小川麻琴・真琴だけ。
「ほら、消せただろ?」
独り呟くが、それに応えるヒトは誰もいない。
すでに事は小川麻琴・真琴から離れた。
後は他にまかせればいい。
一つだけため息を吐いた真琴は、手にしていたナイフを夜空に掲げる。
雲はいつの間にか消え去っていてぼんやりと浮かんだ月が、真琴と手にしたナイフをぼんやりと照らしていた。
「なんで、泣いてるんだろ……?」
ぼやけた視界に気付いてそう呟いた真琴の声は擦れて、宙に溶け込むようにして消える。
その涙が麻琴のものか真琴のものか、それは本人達にも良く分からなかった。
- 125 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:13
-
――――――――――
- 126 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:14
- 「残念だが、君の病気は移植でしか助からない」
そう言われても、辻希美には何のことだかさっぱり分からなかった。
拡張型心筋症。
希美が医師から言われたのは、そんな難しい言葉だった。
だが、それを言った医師は今、目の前にはいない。
そもそも希美が立っているこの場所は病院から遠く離れた、神社の片隅だった。
なぜ自分の病気のことを知っているのか、それを目の前にいる女に聞いてみたかったがそれも時間の無駄だと思い、希美は別の言葉を口にする。
「あなたは、なんれこんな場所に浮かんでるんれすか?」
希美の言葉に嘘偽りは無い。ただ、事実を事実として伝えたまでだ。
ほんの数秒前までは隣にいたもう一人が、今は見えない。
同じ場所に立っているはずなのに、気配でいるということが分かっているのに、その姿が全く見えなかった。
一人なのか二人なのかいまいち分からないまま、希美は目の前の半透明の女を見る。
- 127 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:15
- 「私は、なぜ私なのかを確かめたい」
「それが、浮かんでる理由れすか?」
その言葉が答えなのかどうかいまいち良く分からず、希美は浮かんでいたその女に再度聞いてみる。
すると、その女は小さく肩を竦めたのか、その身体がふわりと揺れた。
「確かに、これでは浮かんでいる理由にはならないな」
そう言った女の姿が鮮明になってくる。
といってもそれまでの半透明が希美や他の人間と同じように実体になっただけだった。
ただ、それだけなのに、希美にはそれが何か神聖な儀式のように思えて、一瞬だけ身体を震わせる。
「あいぼんはどこに行ったんれすか?」
隣にいるであろう彼女を感じながら、希美は目の前の女に聞いてみる。
この女を見てから、希美は独りになってしまったからだ。
「どこにも行っていない。ただ、君と存在する空間を切り離しただけだ」
「?」
やはり女の言っている意味が分からず、希美はその首を露骨に傾げてみせる。
その際鳴った肩か首の骨の音がやけに甲高く響いた。
- 128 名前:偽りの連続2 投稿日:2004/11/17(水) 06:15
- 「私は、君の病気を治すことはできない。だが、君の望んでいることを少しばかりなら手伝うことができる」
まどろっこしいを通り越して、そのまま英文にでも訳せそうな言葉を言ってくるその女に希美はいっそのこと大声で笑ってやろうかと思ったが、それはしない。
するのは、彼女と一緒のときだけだ。
「のんの、ノゾミ……ですか?」
「そうだ、君の望みだ」
それが何か物体を差しているのか、それとも精神的な何かを示しているのか、希美には全く分からなかった。
ただ、それでも一つだけ分かったことがある。
辻希美が辻希美として在るのは、どういう意味を持っているのか。
限られた時間の中で辻希美は何をしたいのか。
それを認識して、希美は目の前の女に自分のノゾミを伝えた……
- 129 名前:いちは 投稿日:2004/11/17(水) 06:25
- 今回は更新から入ってみました、いちはです。
では、レス返しを。
>>101 通りすがりの者さん
この話の設定ですが、欲張った結果こうなってしまいました。
何を欲張ったのかは後々分かると思うんで
少しばかりお待ちください。
>>102 名無し読者さん
一週間も引っ張ったのにあまり内容がありませんでした、すみません。
ただ、この話だけでは完結せずに続いていくので
それらを読んでもらえれば話が通じるかと思います。
今回で偽りの連続2は終わりです。
次回から偽りの連続3に入ります。
次回の更新は日曜日にでも。
それでは。
- 130 名前:名無し読者 投稿日:2004/11/20(土) 23:28
- 更新お疲れ様です
これからどういうふうに話が繋がっていくのか
次の更新楽しみにしてます
- 131 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:08
- 朝、目を覚ますとすでに松浦先輩はいなかった。
部屋の時計はまだ八時。
寝ぼけた頭で着替えを済ませ、あーしは食堂に下りる。
「安倍さん、おはようございます」
人気の少ない食堂でお茶を飲んでいた安倍さんに挨拶をする。
「愛ちゃん、今日はずいぶんゆっくりだべね」
笑顔で返してきた安倍さんの言葉を聞いて、あーしは首を傾げて時計を見る。
「うわっ、もう十時やん!」
そう、食堂の時計はすでに十時を指していた。
ということは、あーしらの部屋の時計が遅れていたのだ。
「安倍さん、朝ご飯ってもう終わってますよね……?」
朝ご飯は九時までで、それ以降は作ってもらえないってのが規則。
「高橋、残念だったべね……って言いたかったけど、なんかずいぶん余って、なっち困ってたんだ」
湯飲みを置いた安倍さんが厨房に入り、すぐさまお盆を持って戻ってきた。
「安倍さん、それって……」
お盆の上には白いご飯に味噌汁、それに焼き鮭まであった。
「そう、せっかく作ったのに捨てるなんてもったいないべ」
というわけで、あーしは無事朝ご飯にありつけたってわけ。
- 132 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:08
- 「でも安倍さん、余ってって、どういうことなんですか?」
そう、さっきの話だと、この朝ご飯を食べてない人が結構いるみたいに聞こえた。
「そうなんだべよ。今、残ってるのって、高橋を含めて十五人っしょ?だけど、遊びに行って戻ってないとかで半分も食べにきてないんだべね、これが……」
いつも明るい安倍さんが珍しく嘆きながら後ろの壁を振り返る。その壁には寮を使っている人の名札がぶら下げてあって、食事がいる人はカウンターに名札を持っていくというわけだ。
壁の名札は安倍さんが言ったとおり、半分以上残っていた。
そして、あーしが気になったのは……。
「先輩……それに麻琴も?」
そう、壁に松浦先輩と麻琴の名札がぶら下がったままになっていた。
「亜弥ちゃんはもうずっと食べにきてないべ。どうしたんだべ?」
首をしきりに捻っている安倍さんを尻目に、あーしは昨日の先輩の様子を思い出す。
「ん?高橋、どうしたんだべ?」
「い、いえ、なんでもないです」
箸の進まないあーしを不思議に思った安倍さんに話しかけられ、あーしはとりあえずその話を引き出しにしまう。
朝ご飯を三十分くらいで食べ終わり、あーしは私服に着替えて寮を出る。
- 133 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:09
- 目的地はこの街の外れにある廃屋。
一見誰も住んでいない、壊れかけたその家にあーしの目標とする人はいる。
二階建てのその廃屋はあいかわらず寂れた雰囲気を放っていた。あーしはそれに構うことなく裏口に向かう。
裏口から廃屋に入り、すぐ近くにある階段で二階に上がる。
ひんやりした空気に一瞬、今の季節を忘れる。
今は夏だ。
すぐにそれを思い出し、あーしは一番近くのドアを開けた。
「今日は客が多いな」
「なんですか?」
「いや、こっちの話だ。ところで、何の用だ?」
あーしが目標としていた人、中澤裕子さんは窓際でたばこを吸っていた。
「いえ、聞きたいことがあってきたんです」
中澤さんがこんなところでなにをしているのかは、あーしは知らない。
「飛び降り自殺と通り魔殺人のことだろ?」
振り返った中澤さんの透き通る、日本人離れしたブルーの瞳に射られ、あーしは言葉を失う。
「分かりやすい反応だな」
肩を竦めてたばこを消した中澤さんにあーしは反論できない。
中澤さんはあーしが聞こうとすることをいつも言い当てる。本人曰く、『単純だから分かりやすい』ってことらしいけど、あーしは自分のことを単純とか、分かりやすいとかなんて微塵も思ったことは無い。むしろその逆だと思っている。
- 134 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:09
- 「安心しろ。どっちも解決だ」
さらに驚くべきことを言い出した中澤さんに、あーしはろくに反応できない。
「いや、直接は誰もなにもしていないか。ただ偽っていたものがその姿を改めただけのことだ」
あーしには意味不明なことを言っている中澤さんからなんとか視線を外す。
と、中澤さんだけだと思っていた部屋にもう一人、人がいることにようやく気付いた。
「麻琴?」
そう、麻琴が中澤さんの部屋の唯一のソファーで横になって寝ていた。
「あぁ、こいつか。真夜中に突然やってきたんだ」
それで一晩中立ちぼうけだ、といった中澤さんが再びたばこに火を点ける。そして、深々とそれを吸い込んで満足げな顔をする。
「それより、さっきの話なんですけど……」
頭がなんとか回りだし、中澤さんの話をリピートする。
「解決……したんですか?」
あーし自身は飛び降り自殺にも通り魔殺人にも興味がなかったが、里沙の話のなかの『5人ずつ』という単語がなんとなく気になっていた。
そのことを素直に話すと、めずらしく中澤さんが驚いた顔をした。
「良いところに着目したな。それから先は考えているのか?」
「い、いえ。別になにも……」
たばこを宙で燃やした中澤さんにしどろもどろになりながら答える。
ただ『5』という数が気になっただけで、それから話を展開しようなんてこれっぽっちも思っていなかったからだ。
- 135 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:10
- 「そうだろうな。一般人ならそこで止まるはずだ。それ以上先に進めば気がついてしまうからな」
はたまた中澤さんは意味不明なことを言い始める。中澤さんはいつも意味不明なことを言っているが、今日のはいつものそれをはるかに越えている。
そんなあーしの表情を読み取ったんだろう、中澤さんは苦笑いしながら話し始めた。
「ヒトというものは、そもそも単独で完結した存在だ」
それからの中澤さんの話は正直、あーしには難しかったから、全部書くのは省略。
でも、要約してみると、『ヒトという存在は『1』というものであり、それ以上でもそれ以下でもない』ということだった。
「あのぅ……、それと、あーしの質問と、どう繋がるんですか?」
話の展開だと『1』しかない感じがして、あーしの気になっている『5』なんて出てきそうに無い。
「高橋が気にしている『5』は直接的には関係ない。だが、今回起こった、飛び降り自殺と通り魔殺人にこれを当てはめれば、別の意味が出てくる」
「はぁ……」
さっきまで正常だった頭の中はすでにぐるぐると変な回転を始めていた。だけど、中澤さんは止まらない。
「どちらにおいても『5』人のヒトが死んだ。さて、ここで問題だ、高橋」
「は、はい?」
突然話を振られて、あーしは加熱しきった頭をなんとか制御する。
- 136 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:10
- 「『5+5』はいくつだ?」
「えっ、10じゃないですか?」
中澤さんのことだから、どんなに難しい問題かと思って身構えていたが、実際出てきた問題は小学生のそれだった。
「そう、『10』だ。そして、さっきの話を思い出してみろ。ヒトは完結した『1』という存在だ。だが、なんらかの原因で『1』から外れたヒトが出てくる。『1』から外れたヒト、つまりそいつは『0』だ」
分かるかと目だけで聞かれるが、なんのことかやっぱりあーしには分からない。
それに首を横に振って答えると、そんなあーしに中澤さんが笑いかけてきた。
「そいつは知ってほしかったんだろうよ。『0』という存在がいることをさ」
どうやら話はそれで終わりみたいだったが、結局、あーしには半分も分からなかった。
そして、あーしを放っておいて中澤さんが立ち上がる。
「私はこれから出かける。お前はあいつを寮まで連れて行け」
一方的にそう言うと、中澤さんは部屋を出て行ってしまった。
「頭イタ……」
座りたかったけど、あいにく部屋に一つしかないソファーは麻琴が曝睡していて座れない。
あーしは仕方がなかったから、さっきまで中澤さんが立っていた窓まで行き、縁に腰掛ける。
結局、中澤さんはなにが言いたかったんやろ?
それに、もう解決したって言ってたけど……。
やっぱり真琴が関係しとるんかな?
あーしの正面に、横になった麻琴の寝顔が見える。
なぜか制服を着ていた麻琴の寝顔は、昨日まであーしが見ていたそれよりもどこか悲しそうだった。
- 137 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:11
-
――――――――――
- 138 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:11
- 「困ったれす……」
さっきまではどこも異常なかったのに、今は全身が熱いれす。一体、のんの身体はどうしちゃったんれしょう?
頭の中も何かすごく熱いれす。
外にいるのがいけないんれすかね?
お日様が上にある木の枝の隙間から見えますけど、それからはまったく暑さを感じません。
やっぱり、のんの身体がおかしいんれす。
あいぼんが持ってきてくれたお茶を飲んでみたけど、全然涼しくなりません。
と、そんなときれした。のんの座っていたベンチに誰かが腰掛けてきたのは。
「君が辻希美か?」
いきなりなそのヒトを見て、とっさに『おばさん』って言っちゃいそうになりましたけど、のんは大人れす。
「そうれす。あなたは?」
笑顔で答えてあげます。
「ほう、存在が過密になっているのに、まだ自我を保っているのか。大したものだ」
遠慮ってものを知らないそのヒトの一言に、のんは息を呑みます。
そんなのんの顔を見て、そのヒトは苦笑いしながらも、その続きを話してくれました。
- 139 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:12
- 「私は中澤裕子。しがない奇術師だ」
そのヒトの差し出した手からぽんっと音がして、何でか一輪のバラが飛び出してきました。
「何か手品師みたいれすね」
正直な感想を言うと、そのヒトは、
「大して変わらんな」
と、肩を竦めて言いました。
「なら、その鬘も手品に使うんれすか?」
「いや、これは変装用だ。君は気にしなくて良い」
「そういうもんなんれすか?」
「そういうものだ」
ぴしゃりと言ってきたそのヒトにのんはしばらく何を言おうか迷います。
でも、良く考えたらこのヒトが後から割り込んできたんだから、のんが別に気後れする必要はないんれすよね。
「ところで、何の用れすか?」
「大した用じゃない。ただ、見ておきたかったんだ」
「お見舞いにくるときって、何か持ってきてくれますよね。あなたは何かないんれすか?」
そのヒトに腹が立って、のんはつい余計な質問をしてしまいました。
- 140 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:12
- 「気が利かなかったな。バラや鳩だったいくらでも出すが?」
「いや、いいれす」
はっきり言って、こんなところでバラや鳩をぽんぽん出されても、すごく迷惑れす。
あっ、それはどこでも一緒か。
「ところで、さっきの話なんれすけど……」
この調子じゃあ、いつまで経ってものんの知りたいことを言ってくれそうに無いれす。
だから、のんのほうから話を切り出します。
「そうだったな」
そのヒトはのんをみて、それから胸のポケットから何か、小さな箱を取り出しました。
「ちっ、ここには無いか……」
小さく舌打ちをしたそのヒトは、結局その箱を使うことなく胸のポケットにしまいました。どうやらたばこの箱だったみたいれす。
「それでさっきの話だが、君に私が何を言ったところで、すでに確定した結果が覆ることは無い。そのことを承知しておいてくれ」
「何か回りくどいれすね」
なかなか本筋に入ってくれないそのヒトに、のんは爽やかな笑顔を見せてあげます。
「回りくどいことは無いさ。私が話すことなど、無きに等しいんだからな」
また肩を竦めたそのヒトは立ち上がってのんの前をゆっくりと行ったり来たりします。
- 141 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:13
- 「私が言いたいことはただ一つ。ヒトは個別で完結した存在だ。よって、君がこれまでしてきた行為は、全て無駄だ」
きっぱりと言ってきたそのヒトは、のんの気持ちを分かんないんれすかね?
「そんなの知ってましたよ、最初から」
そう言ってのんはまた微笑んであげます。今日は笑顔の大売出しれすね。
ここまで笑ったことはあいぼんの前でも無いのに……。
のんは、のんの意志でやってたんれす。そんな、難しいことなんて考えなくてもいいんれすよ。
のんの一言を聞いたそのヒトは、茫然とのんのことを見てきましたが、やがて、首を小さく振ると胸に収めた箱をまた取り出しました。
「すまないが、やはり一本吸わせてもらうよ」
のんの風下にたったそのヒトがたばこに火を点けます。
でも、たばこってライターで火を点けるんれすよね?そのヒトは使ってませんれしたよ?
たばこの煙に霞んだそのヒトが、のんには幻のように見えました。
まるで、のんに事実を事実として教えてくれた死神のように……。
でも、カッコ良かったれす。
- 142 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:13
- 「あなたはのんがどうしてこんなところにいるのか、聞かないんれすね?」
さっきからずっと話をしているけど、そのヒトはのんのことを全く聞いてきません。これじゃあ、あいぼんと同じじゃないれすか。
「興味が無いんでね」
口からゆっくりと煙を吐き出しながら、そのヒトは言います。
やっぱり、あいぼんと同じれす。
「のんはれすね……」
「おっと、それ以上は話さなくても良い。君は、残された時間を有効に使うべきだ」
せっかく話してあげようとしたのに、そのヒトはのんの話を無理やり遮ってたばこを投げ捨てました。
でも、そのたばこは地面に着く前に消えちゃいました。
「君は今夜限りだ。そして、それで終わりだ」
話が終わったそのヒトはのんを見ることなく、そこから去っていきました。
「そんなの知ってますよ……」
話していた間は全く気になっていなかった体の火照りが、再びのんの頭を締め付けてきました。
でも、さっきとは逆で、頭はすごく熱いのに、身体は冷え切っていました。
そういえば、さっきのヒトの名前ってなんでしたっけ?
- 143 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:14
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 144 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:14
- 中澤裕子はぼんやりと空を眺めていた。
すでに赤くなっていた空が裕子の心境を代弁していたが、本人はそれを認めなかった。
結局のところ、辻希美は狂ってなどいなかった。彼女は彼女の意志で今回の事件を引き起こし、結果として自壊することになった。
辻希美がなぜあの病院に入院していたのかを知ってしまった裕子は、あえてそれを誰にも言わなかった。
(そう、結果はすでに見えていた)
そして、それが誰かの掌の上で踊らされたものだということも理解できた。
脇のカバンには、病院に入るために用意した変装用の鬘が入っていた。
それは辻希美のためではなく、自身のための予防線であった。
それに、裕子のことを知らない辻希美のために変装するなど、ナンセンスだ。
裕子が変装した理由。
それはその病院に会いたくない人間がいたから。
そいつと出会ってしまったのなら、裕子は殺される、もしくは殺してしまうから。
裕子自身が作ったその鬘には魔力が込められている。それを付けることで特定の相手から自身の存在を消去するという魔力が。
- 145 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:15
- 「平家みちよ……」
裕子の口から思わず声が漏れる。
今回の事件には彼女が関わっているのは明白。
彼女の能力を考えると、それがどんな結末を迎えるのかは知っていたはずだ。
(あいつは、ウチが止める)
本来の口調で改めて誓う裕子。
と、そこでようやく思考を断ち切る。
「おい、いつまで隠れてるつもりだ」
さっきまでの雑念を払った裕子は、病院を出てからずっと付きまとっていた気配にようやく反応する。
「やっと気付いてくれましたか」
背後の茂みから声がして、正面から突如、人が現れる。
その人物は真っ黒なロングコートに分厚いサングラス。そして、縁のやたらと大きな帽子を被っていた。
夏なのに暑苦しいその格好はそれだけで十分目立っていたが、容姿もそれに拍車をかけていた。
- 146 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:15
- 「もう三時間にもなるだろう?撒くつもりで人込みばかり歩いたんだがな……。どうやら私の足も弱くなったようだ」
「いいえ、あなたは気配を消してました。ただ、あなたは目立つ。気配を消しても、周囲から浮いていればトレースは容易です」
「お前に言われたくないな。ミカ・エーデルシュタイン」
ロングコートの女、ミカ・エーデルシュタインがサングラスを外した。
その瞳の色は裕子の瞳の色に限りなく近いブルーだった。
ただ、違うとすれば裕子はコンタクトであり、ミカは裸眼くらいか……。
「お前がここにいるということは、アヤカも一緒か」
裕子は内心、舌打ちしながら周囲を探る。
「いいえ。残念ですが、これは私の独断です」
「ほう?UKの名門貴族、エーデルシュタイン姉妹が個別行動とはな。めずらしいな」
ミカを無視して周囲を探っていた裕子は、ミカの言葉通り彼女しかいないことで一応の警戒を解く。
「ところでエーデルシュタイン。お前はいつこっちに来た?」
たばこをいつものごとくライターを使わず、手で炎を点す。ミカも同様にたばこを取り出すが、こちらは一連の動作に手すら使っていない。
(不可視、そして気配を感じさせない使い魔か。やっかいだな)
二度目の舌打ちを心の中でしながらも、表面は平静を保つ。
- 147 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:15
- 「めずらしいですね。中澤裕子ともあろうヒトが情報を手にしていないとは……」
ミカが大げさに肩を竦めてくる。
「私だって万能じゃない。どこにでもミスはあるもんさ」
「私達は昨日きたばかりです。当分はなにもするつもりはありません」
「当分……か?」
意味深な発言に裕子は危機感を抱く。
「イエス。すでに種は蒔き終りました。あとは発芽するのを待つだけです」
「すでに活動してるんじゃないか」
半分も吸っていないたばこを口元で燃やし、苛立ちを表す。
「いえ、私自身は活動しません。それだけです」
ちっ、とあからさまな裕子の舌打ちにミカが笑いかける。
「なら、私の目の前から消えろ。機嫌が悪くなった」
「そう言うと思いました」
そう言った奇術師はなんの前触れもなく、その場から消えて去っていた。正面から睨みつけていた裕子にも、ミカがいつ消えたのか分からないように。
さっきまでいたという気配とか、話をしていた名残とかを一切残さず。
「完全な自己の消去。境地に達したか?エーデルシュタイン……」
中澤裕子の呟きは誰にも聞かれることなく夕焼けに溶け込んで、ミカと同じように消え去った。
- 148 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:16
-
――――――――――
- 149 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:16
- 加護亜衣はいつものように辻希美の元へ行く。それが日常であり、習慣であったから。
その病院は何を専門にしているのかは、夜にしかこない亜衣には分からなかったが、それも亜衣には瑣末なことだった。
希美がいる。だから行く。
亜衣はその点において、他の誰よりも、他のどの事象よりも純粋であり、単純でもあった。
「のの、きたよ」
病室まで誰にも遭遇することなく辿り着き、亜衣はいつものようにドアに向かって話しかける。
が、今日はいつもとは違った。
昨日までは亜衣が話しかけるのとほぼ同時にそのドアは開いてきたが、今日はいつまで経ってもそのドアが開かなかった。
いつもと違う状況に亜衣の脳裏に最悪の事態が横切る。
「のの!」
触ることのなかったドアを勢い良く開け、亜衣は中へ飛び込む。
半ば転がり込んだ亜衣は目の前の光景に自分の状態を忘れ、思わず見惚れてしまった。
- 150 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:17
- 病室には希美はいた。が、いつものように亜衣を見ていない。窓際に立ち、開け放たれた窓から夜空を見上げていた。
希美の小さな身体が月明かりに照らされ、いつもの希美とは違った雰囲気を醸し出していた。
暖かい
冷たい
明るい
暗い
楽しい
寂しい
嬉しい
悲しい
月明かりに照らされた希美はそのような感情を含めて、ただそこに立っていた。
- 151 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:17
- 「のの、どうしたの?」
いつもと違う希美に亜衣は、この場所では封印していた能力を解放する。
次の瞬間、暗い病室の一面に青い空が広がった。
透き通る青、どこまでも続く青、そして希美はその中に浮かぶ真っ白な雲だった。
前者は希美を構成している感性であり、後者は希美本人だった。
それと同時に、この一月の出来事が全て亜衣の脳裏に飛び込んでくる。
夜空を見上げていた希美と、そこから飛び立っていく女子高生。
希美が何をしたくてそれをしてしまったのか。
全てが亜衣の中に入ってきて、それが亜衣の感情と一体化する。
そして希美のイメージの最後に映ったのは、その希美を殺した一人の女子高生。
(こいつがののを壊したんか)
ナイフを持って壮絶な笑みを浮かべる小川真琴。それを亜衣は脳裏に焼き付ける。
しかし、希美の記憶の中に、小川真琴という名前は存在せず、亜衣はひたすらその笑みを焼き付けることだけに集中した。
と、そこで真っ白な雲に変化が現れる。
- 152 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:18
- 「あいぼん、こんばんは」
真っ白な雲が希美に戻る。
「う、うん。こんばんは」
亜衣は透き通る空に真っ白な雲のイメージが頭の中に残り、いつもと違ったリアクションをとる。
「あいぼん、今日はすごくかわいいれすね」
「そ、そう?いつもと同じ服なんだけど、ののが気に入ってくれたんなら、明日も着てくるね」
いつものやり取りに少しだけ安心する亜衣。
だが、唐突に沈黙が訪れる。
空に雲はすでに残滓と成り果て、そこには現実が待っていた。
現実。それは終わりを意味していた。
「ごめん、あいぼん」
囁きよりも小さな希美の一言。
それがこれから先のことを全て、語っていた。
「のんにはもう、明日はないんれす」
「えっ?」
- 153 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:18
- 希美の顔が月明かりによって遮られる。
「のんはもう逝かないといけません」
そこまで言った希美の身体が、崩れ落ちる。
「のの!」
倒れた希美に亜衣は駆け寄り、抱き起こす。
さっきまでの希美と違い、亜衣の手の中にある希美は小さく、震えていた。
亜衣はとっさにベッドの脇にあるナースコールを押そうと手を伸ばす。
「あ……いぼん」
それを希美の手によってに遮られる。
「のんは…あいぼんと一緒だと……寂しく……ありませんれした」
「のの、喋るな!」
息が荒くなり、顔面蒼白になっていく希美。それ以上に、抱いている希美の身体から急激に温かさが失われていることに、亜衣は気付く。
「でも…のんは……止まれませんれした」
希美が悲しく笑う。その頬には涙が流れていた。
「のんは……間違ってたんれすか……?」
「アホ言うな!ののは間違ってへんで!それはウチが保証する!」
- 154 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:19
- 冷たくなった希美の手を握り、亜衣は叫ぶ。
「ののは間違ってないで。全部あいつが悪いんや!」
亜衣のその一言に、希美の目がわずかだが、確実に見開かれた。
「あ…い……ぼん?」
「そうや、あいつが全部悪い。あいつが悪いんや……」
そうか、と希美の呟きで亜衣は希美の顔を見る。
「あいぼんは、知ってるんれすね?」
「あぁ」
亜衣のその一言に、希美の顔が綻ぶ。
「そう…れすか」
笑った希美の目がゆっくりと閉じられる。
そして、言葉を発することなく、口だけがゆっくりと動く。
『よかった』
辻希美の最期の一言。
それと同時に握られていた希美の手から力が失われる。
支えているのは、もはや亜衣の力のみ。
「のの?」
あまりにも唐突で、それでいて静かなその最期に、亜衣はなにが起こったのか分からなかった。
「のの?」
冷たくなった身体を揺さぶってみるが、応えはない。
- 155 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:19
- 「なんや、行ってしもうたんか……」
それから亜衣は希美をベッドの上に横たえ、窓を閉める。
「のの、ウチにまかせとき」
亜衣は呟き、初めての、そして最後になるであろうキスをする。
やけに冷たく、それでいて柔らかな感触に、亜衣は希美という存在全てを封じ込める。
全ての作業を終えて部屋を出ても、亜衣は泣かなかった。
自分と希美はすでに一つとなった。
常に希美が自分の横にいる。
だから、弱い自分は見せられない。
「あいつを………殺す」
亜衣の呟きか希美の呟きなのか、それは本人すらも良く分からなかった。
それに、どうでも良いことだった。
- 156 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:20
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 157 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:20
-
ぼんやりと雲の無い夜空を眺めていると、突然胸が苦しくなった。
いや、違う。これはわたしの胸じゃない。彼女のだ。
わたしは振り返って左斜め後ろを見てみる。
そこから見えるのはいつも使っているわたし達とあさ美ちゃんの部屋。
なのに、このときだけは全く別の何かに見えた。
そこに浮かんでいたであろう彼女の存在核。
それをわたし達は消し去った。
そう思った瞬間、わたしの視界は急転してそれまでいた場所から思考が飛び出した。
どこにいるのか分からない不安定な気持ちのまま、次のイメージが流れ込んでくる。
それは白く冷たい空気を含んだ、でも芯では焼け焦げるくらい熱く、そして必死に何かを求めて手を伸ばしている独りの女の子だった。
その手がわたしの首を絞めようとするけど、その手はわたしを掴まえることなく周りの空気に溶け込むようにして消えてしまった。
そのイメージからわたしは一つの結論に到る。
そこでまた視界が急転して、わたしは元の部屋に戻ってくる。
- 158 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:21
- そうか、彼女は死んだのか……。
そう胸の中だけで呟いたわたしは思わず自分の肩を抱きしめたけど、それでも抱いているという実感は伝わってこなかった。
全く別のきっかけで知り合っていれば、きっと友達になれたであろう辻希美……。
それをわたし達はこの世界から消し去ってしまった。
皿洗いの当番になっているあさ美ちゃんが戻ってこないのを確認して、わたしはもう一度窓を振り返って外を眺めてみる。
何も無い夜空。月も星もこのときだけは見えなかった。でもそれは曇っているからではない。おそらくわたしの目が、いや、わたし達の目が曇ってしまったからだろう。
「こんな空だったら、飛んでも良いかな……」
そう呟いたわたしだったけど、それに真琴は何も答えなかった。
- 159 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:21
-
――――――――――
- 160 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:21
-
車も人も多い国だと聞いてアヤカ・エーデルシュタインは安心していたが、あまりのギャップに拍子抜けしていた。
深夜という時間帯だったが、それも日本という国柄を考えると当てはまらないと思っていた。
(これはかなり修正が必要ね)
UK育ちだったアヤカだったが、物心がついたときにはなぜか日本で暮らしていた。
UKには奇術師同盟の定例会合があるときにしか行っていない。そんなアヤカにとって、UKはすでに故郷とは呼べないものになっていて、日本がその名に相応しいものとなっていた。
だが、この故郷にもつい最近戻ってきたばかりだ。
双子の妹であるミカがハワイに拠点を作りアヤカもそれに追随していたから、日本の土を踏むのは実に久しぶりなことになっていた。
(といっても三ヶ月ぶりなんだけどね)
ミカには内緒で日本に来ていたときのことを思い出し、アヤカは小さく笑う。
- 161 名前:偽りの連続3 投稿日:2004/11/21(日) 11:22
- 今、アヤカがいるのは駅前の繁華街。
といっても、地方都市のはたまた地方なため、静まり返っている。
その中でアヤカは一つの建物を見上げた。
それはアヤカが両親から相続した遺産の一部で作ったものだったが、アヤカはそれにある小細工をしておいた。
その結果は着実に実りつつある。
(でも……)
絶対数が足りなさすぎる。
手駒はここを含めて三つ用意したが、ここは他の二つと比べて目に見えて悪かった。
(システムを変更するしかないわね)
アヤカは修正案を考えながら辺りを散策すると、一人、暗闇の中に消えていった。
- 162 名前:―― 投稿日:2004/11/21(日) 11:22
-
偽りの連続 了
- 163 名前:いちは 投稿日:2004/11/21(日) 11:32
- どうもいちはです。
今回はちょっと欲張って終わりまで更新しました。
>>130 名無し読者さん
全七話中の第一話でした。
実のところここらへんだとほとんど何も分かりません。
目だったCPも無く、問題提起という感じの話でした。
そこら辺は気長にお待ちください。
では、次回の更新で「偽りの連続」の登場人物を簡単にのせて
第二話「連続しない循環」に入りたいと思います
それでは
- 164 名前:名無し読者 投稿日:2004/11/23(火) 22:34
- 更新お疲れ様です
全七話もあるなんて、これはいろんな展開がありそうで楽しみです
まこっちゃんの相手になるのは誰かな
まこCPはみんな大好きですが話の内容同様に気になるところですw
では今後の話を楽しみに次の更新待ってます
- 165 名前:いちは 投稿日:2004/11/24(水) 14:36
- どうも、いちはです
>>164 名無し読者さん
全体的に暗めなので、CPくらいしか明るくする要素が無いです
ただ、そこまで漕ぎ付くのに結構時間がかかりますので
気長にお待ちください。
では、第一話「偽りの連続」の登場人物です
最低限のことしか書いてませんが、参考にして下さい
○小川麻琴・小川真琴
一つの身体に二つの人格を有しているちょっと特殊なヒト
2003年8月現在、N大付属高校一年
○紺野あさ美
寮での麻琴・真琴のルームメイト
2003年8月現在、N大付属高校一年
○高橋愛
麻琴・真琴、あさ美の先輩。生徒会会長(麻琴・真琴、あさ美も生徒会役員)
2003年8月現在、N大付属高校二年
○新垣里沙
高橋愛の幼馴染
2003年8月現在、F中学三年
○田中れいな
麻琴・真琴の実の妹
2003年8月現在、F中学二年
- 166 名前:いちは 投稿日:2004/11/24(水) 14:36
- ○矢口真里
喫茶『アターレ』店員
2003年8月現在、T専門学校二年
○安倍なつみ
麻琴達が暮らす寮の寮母
2003年8月現在、23歳
○松浦亜弥
麻琴達の先輩で、前生徒会長
2003年8月現在、N大付属高校三年
○中澤裕子
廃屋で一人暮らしをしている、ちょっと変わったヒト
年齢不詳(というか話したがらない)
○アヤカ・エーデルシュタイン、ミカ・エーデルシュタイン
UK生まれの名門貴族の双子の令嬢、姉がアヤカでミカは妹
2003年8月現在、23歳
○辻希美
A商業高校一年
○加護亜衣
A商業高校一年
- 167 名前:いちは 投稿日:2004/11/24(水) 14:42
- [補足というかお詫び]
2003年現在ということで本当なら安倍さんはじめ
昭和56年生まれの人は22歳なんですが
設定上23歳になってしまいました
あと、ココナッツの二人なんですが
双子という設定なので、二人とも23歳になってしまいました
そこのところを考慮して読んでいただけると助かります
それでは第二話開始です
- 168 名前:―― 投稿日:2004/11/24(水) 14:44
-
孤独って何?
独りって何?
あたしにはいつもあなたが見える
なのに、あなたはあたしのことを見てくれない
どうして?
こんなに近いのに、あなたに触れられない
こんなに近いのに、あなたは触れてくれない
なんで?
これが孤独なの?
これが独りってことなの?
- 169 名前:―― 投稿日:2004/11/24(水) 14:44
-
連続しない循環
- 170 名前:連続しない循環0 投稿日:2004/11/24(水) 14:45
-
あたしは目の前にあるソレから手を引き抜いた。
ぬるりという変な感触と一緒に伸びた爪の先に丸いものが二つくっついてきたけど、それを払って除ける。
丸いもの、それはソレについていた眼球。
爪を元に戻しながら、あたしはソレを軽く蹴ってみる。
ソレはあたしの拘束から解き放たれ、あっさりと崩れ落ちた。
さっきまではあたしから逃げようとしていたけど、それも、意志があったらの話。
それに逃げるって言ったって、ここは人通りのほとんどな裏通り。逃げられないのは分かってるはず。
いつもこいつらはこういう場所に溜まっている。
いや、こいつらはこういう場所でしか溜まれない。
普段は抑圧されていたのに、ここにくれば解放される。
ここでなら、なにをしても許される。
ここには罪なんてないし、もちろん罰なんて存在しない。
あるのは本能だけ。
本能という言い訳に憑かれた人間だけ。
でも、事切れたソレには、もうそんな意志なんてものは残っていない。
- 171 名前:連続しない循環0 投稿日:2004/11/24(水) 14:46
-
これで七人。
だけど、まだ三人残っている。
あたしの人生を無茶苦茶にした連中の残りがまだ、三人も残っている。
あたしはあたしの人生を取り戻すために、そいつらを探して出して殺さないといけない。
そうしなければ、あたしはあたしの人生を取り戻せない。
頭の悪い連中のことだ。警察にはすぐさま行かないだろう。
だってそうすれば、あたしにしてきたことだって洗いざらい白状しないといけなくなるから。
そうすれば、連中は逮捕されるから、絶対に警察には行かない。
だから、あたしはゆっくりと残った三人を見つければ良い。
大丈夫。
あたしには他の誰もが持っていない『力』があるんだから。
三人だってすぐに見つかるはず。
あたしは『猫』を引き出しに仕舞うと、『鷲』を取り出す。
できる限り広くて高くて、しかも誰もこないような場所が良い。
……。
……。
よし、あそこにしよう。
駅前の、突然改装工事を始めたホテル。
その割には工事なんてしてる気配はない。
あれなら広くて高いし、ヒトが来るなんてめったにないはず。
あたしは狙いを定めると、真っ暗な夜空を睨みつけ、大空に羽ばたいた。
- 172 名前:連続しない循環 投稿日:2004/11/24(水) 14:47
-
連続しない循環1
- 173 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/11/24(水) 14:48
-
夏休みも残すところ、今日と明日の二日だけ。
部屋の中には三人もいるのに、会話はまったくない。
でも、その部屋にはかりかりと鉛筆の音だけがずっと響いていた。
それもそのはず、この部屋にいる三人はまだ夏休みの宿題が終わってないんだから、話をしている余裕なんてない。
それに、鉛筆も必死で動かさないと、かなりやばいもん。
部屋にいる三人、つまり、紺野あさ美ちゃんに高橋愛ちゃん、そして、わたし、小川麻琴の三人。
同じテーブルに三人がそれぞれの宿題を広げてるからかなり狭くなってるけど、それも三十分ほどで慣れてしまった。
「ねぇ、麻琴?」
「なに?」
正面の愛ちゃんが首にかけたタオルで汗を拭いながら言ってくる。
汗が出るのはエアコンがないから。
しかも今日は窓と玄関を開放していても風が全く入ってこないから、熱気だけがこもって仕方がない。
- 174 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/11/24(水) 14:48
- 暑さを紛らわせようとラジオをつけてるんだけど、それも大した効果を上げずに唸るような演歌を延々と流している。
だったら切ればいいじゃんって話だけど、それすらもできないくらいわたし達三人はだれていた。
「そろそろ休憩にせん?」
「えっ、もうそんな時間?」
愛ちゃんに言われ、わたしは時計を確認する。
数学の宿題をしていた真琴ががなってくるが、わたしは無視する。
時刻はそろそろ十二時。
三人で勉強を初めてすでに三時間近く経っていることになる。
その割にはあんまり捗ってないから、ちょっとばかり凹む。
でも、お昼だから気持ちを切り替えよう。
「お昼だね。なにか食べようか」
首に流れてくる汗が気になって、わたしも愛ちゃんと同じように首にかけたタオルでそれを拭いながら愛ちゃんとあさ美ちゃんを見てみる。
「安倍さんっていた?」
あさ美ちゃんが手を休めて、うちわで扇ぎながら言ってくる。
でも、あさ美ちゃんは汗を全く掻いていなかった。
「多分おったよ。なにかもらってこようか」
そう言った愛ちゃんは素早く立ち上がって、ぱたぱたと足音を微妙に響かせて部屋を出て行ってしまった。
- 175 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/11/24(水) 14:49
- 残ったわたしとあさ美ちゃんは黙ったまま、わたしはお茶を飲み、あさ美ちゃんはうちわで扇いでいる。
聞こえてくるのはラジオの演歌だけ。
それが息苦しいってわけじゃなかったけど、わたしは静かに深呼吸を三回ほどしてみる。
あさ美ちゃんが戻ってきた日から、どこかわたし達の関係はギクシャクしていた。
それもそのはず、わたしは普通の人じゃないし、あさ美ちゃんも普通じゃなくなったから。
あさ美ちゃんがなんで普通じゃなくなったのかは、わたしにそれを言う資格は無いからパス。
わたしが普通じゃないのはわたしの中にもう一人、小川真琴がいるから。
これはいわゆる多重人格とかっていうやつじゃない。
多重人格だと、基本となる人格を守るように他の人格が形成される。
でも、わたし達の場合はそうじゃない。
わたしはわたしで独立していて、真琴とやりとりができる。
そして、真琴も自分の意志で表に出ることができる。
そう言った意味で、わたし達は対等な関係だ。
- 176 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/11/24(水) 14:50
- なぜわたし達がこんなふうに生まれてきたのかは、わたし達も分からない。
こうした事実があるから受け入れているだけだ。
ただ、身体は一つしかないから、どちらのマコトが表に出るのかでいつももめる。
だから、わたし達は公平にジャンケンで外に出る時間帯を決めていた。
半年に一回のそのジャンケンにわたしはここ最近、三回ほど連続して勝っている。
といっても、真琴はどうやら愛ちゃんのことが苦手のようで、愛ちゃんが傍にいるときには決して表に出ようとはしない。
何がどう苦手なのかは、同じ身体にいるわたしにも良く分からなかった。
だけど、今はその状況が変わりつつある。
具体的に言うと、今のわたし達は見事に二つに分裂していた。
表面上の麻琴は愛ちゃんを、そして、中の真琴はあさ美ちゃんを選んだ。
しかも、わたし達は愛ちゃんともあさ美ちゃんとも関係を持ってしまった。
正直、それが良いとは思わないし、このままだと二人ともダメになってしまう。
それよりも愛ちゃんとあさ美ちゃんを苦しめているのも理解できたのが、何よりも辛かった。
わたし、どうすれば良いんだろ?
真琴は、どうしたいんだろ?
- 177 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/11/24(水) 14:50
- と、そこで演歌が途切れ十二時になった。
『お昼のニュースです』
ラジオからいつものように流れてくる声を聞いていたが、そのニュースの内容を聞いてわたしはすぐに顔を顰めることになった。
「なんかひどいね」
隣のあさ美ちゃんも同じように顔を顰めている。
わたしはそれに頷いて応えた。
ニュースの内容はというと、この近くの危ない人達が集まる通りにあるビルで死体が見つかったというものだった。
死体は六つ。
そのどれもがばらばらにされた状態で見つかったのだ。
しかも話はそれで終わらず、そのビルの近くの通り(これも普通の人なら滅多に通らない通りだけど)で、同じようにばらばらにされた死体が一つ見つかった。
手口が似ていることから、警察は同一犯とみて捜査をしているらしい。
- 178 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/11/24(水) 14:51
- なんだ、実におれ好みの事件じゃないか。
殺したのはおそらく一人。つまりは単独犯。
現場を実際に見てみたかったが、すでに警察が片付けたことだろう。残念だ。
「ちょっと黙ってよ!」
さっきまで数学に没頭していた真琴が突然しゃしゃり出てきたため、わたしは小声で真琴をしかりつける。
そんなに怒らなくてもいいだろ?
どうせ、おれ達に話が回ってくるんだろうからさ。
あぁ、疲れた……。
真琴はそう言って寝てしまった。
自分勝手だね、もう……。
「まこっちゃん、どうしたの?」
「い、いや、別になんでもないよ!」
いつの間にか目の前にきていたあさ美ちゃんの顔に、わたしは思わず仰け反りながら答える。
もしこれを真琴が見ていたなら、きっとわたしはこうやって話していなかっただろう。
良かった、真琴がすんなり寝てくれて……。
- 179 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/11/24(水) 14:51
- 気がつくと、そのニュースは終わっていて、天気予報をしていた。
明日から雨。
それも三日は振り続くみたい。
「愛ちゃん、遅いね」
あさ美ちゃんに言われ、わたしは時計を確認してみる。
すでに十二時二十分になっていた。
「もしかするとお昼ご飯、作ってるのかもね」
「行ってみようか」
愛ちゃんは携帯を持ってるけど、何か作ってるなら手が離せないはずだ。
というわけで、わたし達は愛ちゃんがいるであろう食堂へ向かうことにしたのだった。
- 180 名前:いちは 投稿日:2004/11/24(水) 14:54
- 以上が今回の更新でした
次の更新は来週の水曜日になると思います
それでは
- 181 名前:名無し読者 投稿日:2004/11/29(月) 21:18
- 更新お疲れ様です
第二話始まりましたね これからどんな展開になるのか楽しみです
まこCPの展開については気長に待たせていただきますw
では次の更新まってます
- 182 名前:いちは 投稿日:2004/12/01(水) 03:28
- どうも、いちはです
>>181 名無し読者さん
CPなんですが、この話が終わるくらいには
何らかの形で出てくるので、それまでもう少しお待ちください
では更新なんですが、年内にこの話を終わらせたいと思うので
少しばかり長くなります
- 183 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:29
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 184 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:30
- 「う〜、あぢぃ〜」
持っていたうちわで必死に風を送るけど、周りの空気も暑いもんだから送られてくる風もやっぱり暑いまま。
食堂ってこんなに遠かった?
食堂までの距離が異様に遠い。
近くの木から蝉の金切り声が聞こえて、あーしの耳を圧迫してくる。
「愛ちゃん」
あーしを呼ぶその声に、あーしは足を止めて後ろを振り向く。
「あれ、松浦先輩。どうしたんですか?」
まだ夏休み(といっても後二日しかないけど…)だというのに、あーしのルームメイトの松浦先輩は制服を着ていた。
といってもこの先輩が私服を着ているのをほとんど見たことが無かった。
「愛ちゃん、ちょっといい?」
「えっ、今ですか?」
戸惑ったあーしだったけど、先輩の有無を言わせない視線に射られてしまい頷くしかなかった。
頷くと同時に先輩に手を取られ、あーしは半ば引きずられてどこかへ向かうことになった。
麻琴かあさ美に連絡したいけど、先輩の様子からじゃとてもじゃないけどできそうにない。
「先輩、もうちょっとゆっくり歩きません?」
だけど先輩には聞こえてなかったみたい。
あーしはどんどん引きずられて、結局、自分(と先輩)の部屋に戻ってきてしまった。
- 185 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:31
- 「早速で悪いんだけどさ、頼まれごとしてくれない?」
部屋に入るなり、先輩があーしの手を掴んだまま言ってくる。
「いや、急にそんなこと言われても……」
まだ宿題が残ってるんです、と言おうとしてそれが空気的に場違いだと教えてくる。
「してくれない?」
がしっと肩を掴まれ、先輩の顔がすごく近くなる。
目が笑ってないし……。
「は、はい」
あまりの怖さにあーしは思わず頷いていた。
それに満足したのか、先輩は満面の笑みで三回ほど頷いた。
それからの先輩はテキパキとテーブルを出して、カバンの中から紙の束を取り出した。
「よし、じゃあ、これが情報ね」
にっこりと笑った、でも、顔の青い先輩に勧められてあーしは紙の束の中の一番上の一枚を取ってみる。
「これってなんですか?」
その紙は大学の学生名簿のコピーみたいで、女の人の写真とその大学での所属、家族構成などが書かれていた。
だけど、そんなあーしの素朴な疑問に先輩は答えることなく本題に入っていた。
「私の知り合いに柴田あゆみって娘がいるんだけど、その娘の友達がちょっとトラブルに巻き込まれてるみたいなんだ」
「それがこの人ですか?」
- 186 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:31
- 名前は石川梨華。
写真はコピーで白黒になっていたけど、それでも顔は他の人よりも黒いだろう。
だって、コピーがほんとに黒かったから。
「そう、柴ちゃんはその写真の娘、梨華ちゃんから昨日の深夜……いや、今日の明け方か、に電話をもらったんだって。梨華ちゃんはそんな非常識な時間に電話してくるような娘でもないから、柴ちゃんはすぐなにか変だと感づいたんだよね。それで、梨華ちゃんにそうやって聞いてみると、梨華ちゃんがなにやら変なことを言って、電話を切っちゃった。それからは柴ちゃんが電話しても出てこない、って訳」
先輩がそこで一息つく。
それを合図にあーしはもう一度、手にしたコピーに目を落とす。
「この学生名簿には携帯の電話番号は書かれてませんよね。柴田さんって人は携帯の番号は知ってるんですよね?」
「もちろん。柴ちゃんと梨華ちゃんは常に携帯で連絡を取り合っていた。だけど、今朝からは、梨華ちゃんの電話が全く繋がらなくなった」
そら心配するはずだ。
「で、石川さんが変なことを言っていたってありましたけど、具体的な内容は分かんないんですか?」
「ごめん、それは聞いてないや」
なんとなく次の展開が読めて、あーしはコピーを束の上に置いた。
その前にちらっとしたの紙が見えたけど、嫌な予感がしてあーしはそれから目を意識して逸らす。
「で、あーしになにをしてほしいんですか?」
その一言に先輩はにやりと笑う。
「ほんとは私が柴ちゃんに頼まれたんだけど、私は私で立て込んでるんだ。だから、愛ちゃんが柴ちゃんの話を聞いてあげて」
先輩の一言にあーしはがっくりとなる。
「先輩、夏休みは明日で終わりですよ?それに、まだ宿題が残ってるんですよ?」
こいつが唯一の防衛線。
これが突破されると、あーしの夏休みは終わってしまう。
- 187 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:31
- 「あぁ、大丈夫。私が代わりにやっとくからさ」
夏休み終了。
……。
……。
「分かりました。じゃあその柴田さんの連絡先を教えてください」
「愛ちゃん、相変わらず切り替えが速いね」
あーしの一言に先輩は破顔して、携帯電話の番号を教えてくれた。
「そうだ、できるだけ他の人には言わないでね」
そう意味深なことを言った先輩はあーしの宿題を持って、慌しく部屋を出て行ってしまった。
一人になったあーしは何度かため息を吐いて、ようやく麻琴とあさ美のことを思い出し電話する。
『あ、愛ちゃん。どこにいるの?』
電話から麻琴の心配そうな声が聞こえてくるけど先輩に口止めされた以上、はぐらかすしかない。
「あぁ、ごめん。あーし、ちょっと用事がでけたの」
『そうなの?』
「うん。だから、昼からは二人で宿題してね」
一方的だけどあーしは早口でそう言って電話を切る。
そして、先輩から教えてもらった柴田さんの番号に電話をかけた。
- 188 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:32
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 189 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:33
- 食堂は凄まじい状況になっていた。
「あ、二人とも、良いところにきたべ」
「なんなんですか、これ?」
食堂には二十人くらいの寮生が座っていて、みんな必死にそうめんを食べていた。
その中にいた安倍なつみさんがすっくと立ち上がるとわたし達のところまで歩いてきて、わたし達の手を掴んだ。
「いやぁ、実家から食べきれないって言って送ってきたべ。百人分」
「「はぁ?」」
これはわたしとあさ美ちゃんの重なった驚きの声。
ていうか、百人分って、どういう量なの?
「しかも賞味期限が明日なんで、みんなに食べてもらってるべ」
にっこりと笑った安倍さんは、その笑顔とは裏腹に握った手に力を込めてくる。
「もちろん、二人も協力してくれるべね?」
「「……はい」」
笑顔の安倍さんに言われ、わたし達はテーブルにつくしかなかった。
「二人にもちゃんと用意したんだべ、二十人分」
大きなたらい(この寮にそんなものがあったことさえわたしは知らなかったけど……)を持ってきた安倍さんが満面の笑みでそれをテーブルの上に置く。
「そうめんだね、まこっちゃん」
「そうめんだよ、あさ美ちゃん」
たらいの中はやはりそうめんだけ。
アクセントといえばそれに混じっていた氷くらい。
「ていうか安倍さん。これだけ人数がいれば、五人分くらいで十分じゃないんですか?」
今この食堂には二十人弱いる。
だから、一人五人分も食べればそれで十分なはずじゃあ……。
「なに言ってるべ。他の娘はそんなに食べたら太っちゃうべさ」
「それで、わたし達ならいいんですか?」
半眼になって安倍さんを上目遣いで睨んでみるが、
「うん」
と、やはり満面の笑みで答えられてしまった。
- 190 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:34
- 「まこっちゃん、食べようか」
そしてなにを思ったのか、あさ美ちゃんが意気揚々と盥に箸を付け始めた。
「あさ美ちゃん、二十人分だよ?」
人より多く食べてるわたしだけど、さすがに二十人分はきつい。
というか絶対食べ飽きるのが目に見えている。
「大丈夫だよ。そうめんだと思わなければいいんだからさ」
「……そうだね、そうするよ」
いつになくポジティブなあさ美ちゃんに背中を押され、わたしも箸をとって盥の中のそうめんを挟み上げる。
……。
……。
……。
……。
「ごめんあさ美ちゃん。やっぱりそうめんはそうめんだよ」
「そう?干し芋の味がするよ?」
……。
……。
……。
……。
「ごめん、干し芋の味もしない。ていうか、無理」
「そう?」
わたしは箸を置いて、あさ美ちゃんを観察する。
あさ美ちゃんはいつもの通り、少しずつそうめんを口に運んでいた。
「って、三本はないんじゃない?」
「へっ?」
そうめんを半分ほど食べていたあさ美ちゃんに叫ぶ。
「そうめんだったらもっと多く食べないと、食べた気しないでしょ?」
「だって、それだとすぐ飽きちゃうよ」
たしかに。一理あるな。
……。
と、そこに電話がかかってきた。
相手は愛ちゃん。
『もしもし、麻琴?』
「あ、愛ちゃん。どこにいるの?」
食堂にいないのは幸いだけど、どこにいるんだろ?
『あぁ、ごめん。あーし、ちょっと用事がでけたの』
「そうなの?」
場所を聞こうとしたけど、
『うん。だから、昼からは二人で宿題してね』
と一方的に言った愛ちゃんは電話を切ってしまった。
なんか急いでたな。どうしたんだろ?
- 191 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:34
- 「あさ美ちゃん。愛ちゃんは昼から出かけるんだって」
「ふ〜ん、そうなの?」
「そうみたい」
わたしは再び黙々と食べ始めたあさ美ちゃんを残して、席を立つ。
そして、誰もいない厨房へ向かう。
安倍さんも一生懸命食べてるみたいで、すぐ後ろを通ったわたしに気付く素振りさえしなかった。
あっさりと厨房に入れたわたしは、そうめんよりましななにかを探してみる。
だけど、あるのはそうめんの入っていたであろう空き箱だけ。
よくもまあ、安倍さんは一人でこれを湯がいたことだね。
半分感心、半分呆れて空き箱の一つを手にとってみる。
ん?
その箱の側面の一部に小さなシールが張ってあった。
『消費期限 20040830』
……。
……。
「安倍さん!」
わたしは空き箱を持って、暢気にそうめんを食べている安倍さんのところまでダッシュで戻る。
「なんだべ?」
「これ見てください!」
空き箱の側面を半ば押し付けるようにして安倍さんに見せる。
「あぁ、これね。だからなっち焦ってたべよ。今日までっていうのはね」
笑顔のまま安倍さんが答える。
ダメだこのヒト、天然だ。
「安倍さん、今年は2003年です」
「えっ?」
できる限り冷たくして言うわたしに、箱を持ったまま固まる安倍さん。
「今年は2003年で、このそうめんの消費期限は2004年なんです」
次に食堂の空気が固まる。
「だから、今日無理して食べる必要はないんですよ!」
わたしにとっては止めの一言だけど、安倍さんにはどうなんだろう?
固まったままの安倍さんに被害にあった二十人弱の視線が集まっていた。
もちろんその視線達は好意的なものではない。
わたしが睨まれてるわけじゃないのに、なんかすごく変な気分になってくる。
それもこれも、全部、安倍さんに責任がある。
「ははは、なっち勘違いしてたべ。まさかもう一年先だったとはね……」
「「「「「安倍さん!」」」」」
食堂に悲鳴なのか、絶叫なのか分からない声が響き渡った。
ちなみにあさ美ちゃんはその間も、黙々とそうめんを食べていた。
- 192 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:34
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 193 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:35
- あーしは松浦先輩からもらった資料を見ながらアイスコーヒーを啜る。
「ねぇ高橋。本当にその人ってくるの?」
「さぁどうですかねぇ」
あーしの正面には矢口真里さんが座っている。
あーしがいるのは、寮の近くにある喫茶『アターレ』。矢口さんはそこの店員だ。
一時前という本来なら忙しい時間帯にも関わらずお客はあーしだけで、アイスコーヒーを持ってきた矢口さんとからずっと話をしている。
「そうだ矢口さん。今朝、テレビって見ました?」
「見たけど、どこも一緒だったね」
「なんかあったんですか?」
「あんまり思い出したくないなぁ……」
そう言った矢口さんは顔を顰めていたけど、内容を話し始めてくれた。
矢口さんの話をまとめると、次のとおり。
ここからそう遠くないビルの一室で推定六人のばらばらになった遺体が発見された。
ばらばらになって殺されてたのはいずれも二十歳前後の大学生で、そのうち半分の三人にいたっては未だに身元が判明していない。
そして、そのビルの近くでさらにもう一人。
これも大学生で、これは両方の目を抉り取られて、頭が潰された状態で発見された。
この人は幸いに(なにが幸いなのかよく分かんないけど)近くに財布が落ちていて、その中の運転免許証から身元が判明していた。
いずれもほぼ同じ時間帯、その残忍な犯行から警察は同一犯と見て捜査をしている。
簡単にまとめるとこうだけど、いくつか疑問が残る。
まず、ビルでの六人の殺害。
これは男女問わず一人でこれだけのことをするなんてまず不可能。人の身体を分解するにはそれなりの体力と道具と精神が必要で、六人をばらばらにするなんて問題外。
それに、ばらばらにする必要があったんだろうか?
たいてい、ばらばらにするってのは運びやすくするためで、それをせずにそのまま放置したのか気になる。
それ以外って言ったら恨みってのが有力だけど、六人もばらばらにするなんてすごい精神力だ。
- 194 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:36
- 「矢口さん、死体ってもう片付けてますよねぇ」
「オイラにそんな話を振らないでよ」
そう言って矢口さんはあーしから逃げるように、キッチンに戻ってしまった。
あーしはそれを見届けるとコーヒーを一口飲んで、店の新聞を取りに立つ。
数社ある新聞のうち、名前を公開していたのは二社。あーしはそれを手にとって席に戻る。
コーヒーを脇にどけて、あーしは名前が載っている面を開いて置く。
そして、先輩からもらった紙の束の中から学生名簿のコピーを取り出した。
一番上の石川梨華のコピーは別にして、あーしは十人分の名簿と新聞とを照らし合わせる。
「うわっ、あったし」
そう、名簿の中の一枚と新聞の名前とが一致してしまった。
なんとなく嫌な予感がしたんだけど、これはもしかしたら中澤さんが好きそうな事件かもしれない。
でも、最終判断を下すのは今から会う柴田さんの話を聞いてからだ。
石川梨華は今のところ被害者とも加害者とも伝えられていない。
あーし的には被害者であったほうが楽なんだけど、最悪の場合には飯田さんやら中澤さんやらに相談せざるを得ないだろう。
被害者は七人。
あーしに回ってきた資料は十人。
あと三人が今回のなにかに関わっているはず。
あ、あと石川梨華も入れて四人か。
「いらっしゃいませ!」
軽やかな鈴の音が聞こえ、それとほぼ同時に矢口さんの声がキッチンからしてきた。
見てみるとそこには茶髪の、気の強いのか弱いのかよく分からない女の人が立っていた。
あれが柴田あゆみか。
十人とは別に柴田あゆみの名簿もあり、顔も判明済み。
「あなたが柴田あゆみさんですね」
あーしが立ち上がって、会釈をする。
「えっと……」
「松浦亜弥さんから依頼された高橋愛って言います」
戸惑っている柴田さんをテーブルに招き、正面に座ってもらう。
「あなたが高橋さん?」
「ええそうです」
さっきそう言ったやろ、と言いたくなるのを堪えて笑みを浮かべる。
- 195 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:37
- 「ところで柴田さん。話に入る前になにか食べませんか?あーし、まだ昼食べてないんですよ」
「あたしはいいよ」
矢口さんが水を持ってきて、柴田さんの後ろに音もなく移動していた。
「今食べといたほうがええですよ。もしかすると、食べる気分が失せるかもしれないんで……」
遠慮して断ってくる柴田さんの顔が引きつる。
「じゃ、じゃあ食べとく」
「矢口さん、ランチ二つお願いします」
「ほいきた!」
柴田さんの後ろで矢口さんがメモを取ってキッチンに戻っていった。
「で、ランチがくるまで時間があるんで、少し話がしたいんですけど、ええですか?」
アイスコーヒーを飲み干し、柴田さんを見る。
柴田さんの顔は今の一言で深刻そのものといった感じになっていて、あーしが聞くまでもなかったことを改めて思い知った。
「おおまかなことは松浦先輩から聞いたり、もらった資料で補填できたんですけど、一つだけ分からないことがあります」
「梨華ちゃんからの電話のこと?」
「そうです。あれの内容が分からないと、なにをどうすれば良いか分かりません」
「そうだろうね、聞かれると思ったよ」
「話が分かる人で良かった」
微笑むあーしと、それを睨みつける柴田さん。
柴田さんはあーしを信用していないのが肌を通して伝わってくるけど、今はそのほうが良い。
- 196 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:37
- 「電話があったのは今朝の三時半。梨華ちゃんの名誉のために言っておくけど、あの娘は普段はそんな時間帯に電話なんてしてこない。だから、あたしは変だとすぐに思ったの……」
そこまで言った柴田さんの顔が俯く。
表情が引きつったままだけど、すごく凹んでいる感じがした。
「で、その電話なんだけど、はっきり言って梨華ちゃんはおかしくなってた」
柴田さんの肩が震えていた。
顔が青くなっている。
「具体的に、なんて話したんですか?」
だけど、あーしは聞くのを止めなかった。
ここで止まってしまえば柴田さんは二度と喋らなくなるからだ。
「『人を壊した。もう戻れない』って言ってた」
「『壊した』?」
「梨華ちゃんがそう一方的に言って、切ったの。でも、あのときの声は梨華ちゃんじゃなかった。いつもの梨華ちゃんじゃなかった……」
柴田さんはそう言ったきり黙ってしまった。
人を壊した。
殺したのとは違う。
あくまで壊したって電話では言っていたらしい。
だけど、あーしにはあんまり関係ない。
だって、方向は決まってしまったから。
あーしはこれからすることを頭の中で整理すると、矢口さんがタイミングよく持ってきてくれたランチを平らげることだけに集中した。
- 197 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:38
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 198 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:38
- 「意志というものは、つまりはそいつ自身のことだ。そして、個人の意志というものは直接的な力に繋がっている」
「このぉ!」
自分の長々とした講釈に痺れを切らしたのか、目の前に肩膝を付いていた田中れいながそのままの姿勢で氷柱を放ってきた。
それを目の当たりにしても中澤裕子は慌てない。
それが自分に当たることは無いのだから。
そして、裕子の予想通り、れいなの氷柱は自分の数センチ手前で勝手に蒸発する。
いや、この表現は微妙に間違っていた。
裕子は自分を取り巻くように熱気を帯びたシールドを展開していて、それが氷柱を溶かしたのだ。
もっとも、それをれいなは直接目にすることはできないだろうが……。
それをろくに確認せず、裕子は長々とした講釈を長々と続けることにする。
「それを我々はこれを意志とは別個のものとして捉えている。つまりは意志から派生した意志力としてだ」
「くっ」
れいなばかりに攻撃させるのも退屈だったため小さな火の玉を投げつける裕子だったが、それを必要以上の動作で回避するれいなに思わず笑い出しそうになり、小さく口元だけを歪める。
れいなが元々有していた特殊な能力、それは周囲の水分をストックできるというものだった。
今のれいなはその能力を裕子が作ったペンダントで補強している。
だが、ストックできるといってもそれは無限ではない。
元々水分が無い場所であればそれは当然の如く有限であり、そして、れいなという人間を構成する上でも最低限の水分も必要とする。
だから、裕子はその能力を必要以上に引き出さないよう、ストッパーとしての役目もそのペンダントに課していた。
「人間における意志力を構成する意志は、つまるところ我々奇術師の言う根源だ。だが、この意志力は人間にとって目にすることができない。当然認識することによってその存在を感じ取ることはできるが、それも所詮そこまで。結局は目にすることができない。それを行える人間は、他の個にとってみれば脅威以外の何者でもない」
言葉を紡ぎながら裕子は小川麻琴・真琴を頭に描く。
- 199 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:39
- 事物の根源を『核』という状態で見ることができる存在。
それはつまり、他の人間にとっては脅威以外の何物でもない。
その脅威を隠したまま生きていくことは簡単だろう。
ただ、今の麻琴・真琴は不安定で、そうした繊細な行動を果たして続けることができるのかどうか不安だ。
そこで裕子はれいなの刺すような、というか実体を伴っていたのならば突き刺さってくるであろう視線に気付く。
「おっと、話が逸れたな。つまりだな、意志が弱いということは意志力が弱いということと同義ではない。意志というのが人の根源ならば、意志力はその根源を引き出した力ということだ。意志は人それぞれの形態で存在する。そして、それを引き出す意志力もさまざまだ。効率よく引き出す人間もいれば、無駄に引き出さざるを得ない人間もいるということだ」
目の前のれいなの怒りを涼しい顔で見た裕子は、懐からゆっくりと愛用のピースのボックスを取り出す。
れいなに見せ付けるような緩慢な動作で一本を取り出して、いつもの如くライターを使うことなく火を点けた。
(最初の一口、これに限るな)
全身にニコチンが行き渡るのを認識して、裕子はゆっくりと紫煙を吐き出す。
と、そんなときだった。
というかこれまで飛び出さなかったほうがおかしかったが、大方、空気中の水分を集めるのに苦労していたのだろう。
目の前にいたれいなが一直線に向かってきた。
すぐさま氷柱を放つという愚行にでないだけましだったが、だからといってそれで事態が好転するわけでもない。
それを弛緩した頭でぼんやりと考えながら裕子はれいなを見る。
真正面からただひたすらに向かってくるれいな。
そのがむしゃらぶりが裕子には羨ましかった。
(ウチにもそんな時代、あったんかな?)
ここにはいない誰かに問いかけた裕子だったが、それが油断となった。
一メートルと離れていないところまで接近していたれいなに、裕子は思わずぎょっとして展開していたシールドを弱める。
それ以上近づけばれいなが消し炭になるからだ。
が、そんなことに構わずれいながその右腕を突き出してくる。
裕子の胸元を狙って突き出された右腕がシールドにまともにぶつかった。
- 200 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:40
- いや、まともではない。
その右腕が水の膜で覆われているのを数センチという距離で確認する。
「くっ、そうきたか」
れいなとの組み手では初めてだろう苦しい声を上げるが、実はこれも芝居だ。
ただ、れいなに隙を作るきっかけを与えれば良いだけだ。
すでに下準備は済ませているのだから。
れいなの右腕から凄まじい水蒸気が立ち昇る。
そして、展開していたシールドにれいなの溜め込んでいた水が浸透し、シールドがその状態を維持できずに風船を割ったかのように消え去った。
その向こうではしてやったというれいなの笑みが見え、続いてその目の前に氷柱が現れる。
(それで止めというわけか)
自分を殺すであろうその氷柱をじっと見る裕子。
そこには恐怖は無い。
なぜなら、その氷柱では自分を殺せないのだから。
それを証明するように、裕子はれいなの氷柱に貫かれる。
胸元に三本。大小様々のその冷たさを感じることなく、裕子は自身の右腕でれいなの顔を鷲掴みにした。
「最後の詰めが甘いな」
そう、裕子達が生きている世界において殺すということは相手を完全にこの世界から消し去ることだ。
こんな中途半端なことでは、殺したことにもならない。
鷲掴みにした指の間かられいなの開ききった目が見えるが、裕子はそれに何の感情も抱くことは無かった。
ただ、そのままれいなを地面に叩き付ける。
「かはっ」
文字にすればそうなるであろう言葉を吐いたまま、れいなは起き上がる気配を見せない。
それを二秒ほど見ていた裕子は、れいなとは別の視線の存在をようやく思い出す。
顔を上げると、二人から十メートルほど離れていた場所で新垣里沙が微妙な顔をして立っていた。
「作戦は悪くなかったな」
里沙から無理やり視線を外し倒れているれいなにそう言う裕子。
その言葉を受けてれいなが目を開けるが、まだ立ち上がれそうになかった。
「どれが実体なのかを見極めていれば、私だって殺されていただろう。つまりは田中、お前の持っている力はそういうものだ。あまり乱発するな。被害が広がりかねん」
- 201 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:41
- 裕子があえて貫かせたのは組み手が始まってすぐに作った幻影だった。
ただ、シールドに阻まれたれいなからしてみれば、それが実体なのか幻影なのか区別を付けることは難しかったのだろう。
だが、実戦ではそのわずかな判断の狂いが生死を別ける。
「今日はこれまでだ。中に入ってるぞ」
れいなから背を向け、裕子は根城にしている廃屋に戻る。
それと同時に里沙のものであろう足音がれいなに近づいていく。
廃屋の二階。
いつもの部屋に戻った裕子は立ったまま待とうか、座って待とうか一瞬迷い、そのことを迷った自分にすぐさま気付く。
(どうやら、ウチは流されやすいみたいやな)
れいなの前では絶対口にしないよう誓った口調も、一人のとき、そして心の中だけならば許された。
二人がここまで上がってくるのには、もう少し時間を要するだろう。
そう見切りをつけた裕子は、最後のピースを取り出し火を点ける。
吸い込んだ瞬間に訪れる浮遊感を五秒ほど目を閉じて味わい、それからゆっくりと紫煙を吐き出す。
組み手の最中では感じることができなかったであろうその感覚に身を任せたかったが、それもどたどたという足音で遮らざるを得なかった。
「師匠、いつもなん食べとるですか?」
部屋に入ってくるなりそう言ってくるれいなに裕子は目を丸くする。
そのような質問をされるとは全く予想していなかったからだ。
「何だ、出し抜けに……」
「だって、冷蔵庫の中、何も入ってないじゃないですか」
れいなの後に続いて入ってきた里沙が笑いながら言ってくる。
何がおかしいのかいまいち良く分からないが、里沙には確かに笑うだけの価値が冷蔵庫にはあったのかもしれない。
裕子はそう見切りをつけて言い訳を考える。
「今、たまたま何も入ってなかっただけだ。これから買いに行くさ」
もし聞く人間が違ったのであれば、それが単なる表面上の言い訳に過ぎないと見破られるところだったが、それでも相手はれいなと里沙。
これで十分なはずだ。
「師匠、ちゃんと自炊せんといかんですよ」
「分かった」
それだけで流してしまったれいなを笑いたくなったが、裕子はそれをせずに里沙を見る。
- 202 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:41
- 「新垣、今日はどこで入れ替わっていたか、分かったか?」
この質問をするとき、裕子は必ずといっても言いほど緊張する。
それはもしかすると奇術師としての中澤裕子のプライドかもしれなかったが、それを裕子は否定する。
そんなものは三年前に捨ててしまったからだ。
「田中ちゃんが三回目の氷柱を投げたときですね。あのとき出てきた水蒸気に紛れて入れ替わってました」
突然質問したにも関わらず里沙はよどみなく答える。
「そうか、やはり見切られていたか。私もまだまだだな」
里沙が指摘した通りだったため裕子はそれしか言えない。
ただ、肩を竦めるといつの間にか消えていたピースを放り投げて燃やす。
そして机の引き出しを開けて新しい箱を取り出すと、裕子はそこから一本引き抜いた。
「中澤さん、たばこの吸いすぎは身体に毒ですよ」
「知ってるよ」
小川真琴に言われたことを里沙も言ってくるが、それを裕子は努めて聞き流す。
これらの類の警告はすでに自分には無力だと悟っていたから。
火を点けられた新しいピースを銜える際、れいなの少しばかり落ち込んだ姿が視界に入り裕子はそれとなくフォローしておく。
「田中、落ち込んでいるようだから先に言っておくが、人間には総量というものがある」
急に話を振ったことでれいなが驚くほど肩をビクつかせていたが、それでも裕子は続ける。
「さっきも話したが、この総量というのは意志力ではなく、意志の総量のことだ。こいつは個として完結した人間に内包されながらも、その人間に拘束されることがない。
人間は常に外的環境によってストレスを受ける。それを緩和するために感情があり、コミュニケーションがある。だが、これら外的環境に左右されない、人間の本質部分が存在する。それが意志だ。その総量はすでに生まれたときに決していて、それを変える手段を我々人間は持ち得ない。変えようとすれば、それは器となる人間を変えるということだ」
その器を変えることで辻希美という人間は二つに別れてしまった。
これは二人ではない。
あくまで二つだ。
その一瞬の思考もれいなの次の言葉ですぐさま消え失せてしまった。
- 203 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:42
- 「でも師匠。意志って、そのときどきの気分で変わったりしませんか?」
「田中、それは我々でいう決意でしかない。意志はその人間の根源であって、それが変化することはないんだ。そして、その総量は人間によって変わり、それを具現化している意志力もまた、人間によって変わる。だから、意志力が弱いといってそう落ち込むことはない。お前の意志は確固たるものとして存在している。それは決して弱くはない。ただ、お前が無意識にセーブしているだけのことだ」
「セーブ……ですか?」
紫煙を吐き出しながられいなを見る裕子。
煙の揺らめきがれいなをこれまでとは違って見せるが、それも幻覚だときつく戒める。
「そうだ。田中、お前のその能力、水を内部に溜めるということは特別なことではない。人間の大半は水で構成されている。お前のその能力はただ人より内包量が多いというだけだ。そして、お前自身ではそれを解放することができなかった。それはつまるところ、人間としての本能だな。解放には限度がない。そうなれば、自己に保有されている水分も一緒に放出され、人間として存在できなくなる。だから、私が渡したペンダントはそれを任意の方向に、この場合は自分以外の水分を解放するという形にしたんだ」
今日は少々話しすぎたらしい。
それを喉の痛みで感じながら裕子はまだ半分ほど残ったピースを投げて捨てる。
その際、自分の能力をそのピースに込める。
すると、そのピースは中空で小さな音を立てて消え去った。
さっきと同じ動作なのに、今のはそれを意識しないとできなかった。
それが、裕子にしてみれば歯がゆかったが、それをこの二人の前で出しても仕方がない。
「不服そうだな」
歯がゆい思いを顔をにやつかせることで紛らわせた裕子は、それを全身から放っているれいなに話しかける。
「意志は人間が簡単に制御できるものではないし、制御すべきでもない。それを覚えておけ」
それを最後に裕子は二人から背を向ける。
本当に今日の講義は終わりだ。
それを背中で伝える。
- 204 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:43
- 「田中ちゃん。一度帰って着替えてきたほうが良くない?」
それを悟ったのか里沙がれいなに話しかけるのを裕子は背中越しで聞く。
その頃には久しぶりの戦闘で疲れた全身がその疲労を訴え、睡眠を欲していた。
(いつぶりやろ……。本気で眠いって思ったんは……)
少なくともここ一年は本当の睡魔を味わっていなかった裕子は重たくなった瞼を必死に持ち上げようとするが、それも虚しい努力だった。
そんな裕子の状態に気付くことなく、後ろの二人の会話は進む。
「さすがにその格好じゃあ亀ちゃん、凹むよ」
「……そうとね。帰ってシャワー浴びてくると」
疲れた声でそう言ったれいなが足音を立てて裕子から離れていく。
それを感じた裕子だったが、半分思考の停止した頭ではそれもどこか別の世界の話だった。
「がきさんは?」
ドアを開けたれいなが里沙に話しかける。
「あぁ、私はここでもうちょっと遊んでいくよ。田中ちゃんが着替え終わる頃には行くからさ」
(なぜ行かない!)
思わずそうツッコミを入れそうになった裕子だが、里沙との距離が一メートルほど離れていたからそれもできなかった。
ドアがいつもより強い音を立てて閉まり、裕子はようやくソファへと向かう。里沙がまだいても、それを大して気にはしていなかった。
二人がけのソファに寝転がり、顔を横に倒してみるとそこに里沙の姿が視界に入った。
それを認識した裕子はとたんに気まずい気持ちになり、小さく笑っている里沙に話しかけた。
「なんだ新垣。お前は行かないのか?」
「だって、田中ちゃんってシャワー浴びるのってすごく遅いんですよ?付いていったら絶対待ちますって」
なぜかぱたぱたと手を振って答えてくる里沙にどう応じるべきか悩む裕子だったが、結局、
「まあ、お前がそう言うならそうかもしれないな」
とだけ言ってその場で肩を竦めた。
が、それでも里沙は動かなかった。
- 205 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:44
- 「新垣、なにか聞きたいのか?」
笑顔のまま動こうとしない里沙に、裕子は眉を顰めつつ聞く。
「中澤さん。私って嫌な女ですよね」
そう唐突に言い出した里沙に、裕子の半分ほど眠った脳が微妙に刺激されて裕子は目を見開いた。
「どうした?」
怪訝そうに聞く裕子だが、それに答えない里沙。
(超記憶の障壁か……)
心の中だけでぼそりと呟く裕子。
新垣里沙は通常のヒトとは違った記憶回線を持っている。
そもそもヒトは感覚を通じて物事を記憶する。
ヒトの感覚。
それはつまりは聴覚であり、嗅覚であり、味覚であり、触覚であり、そして視覚である。
その中でも視覚が記憶を構成する上で重要な部分を占めてくる。
そして、里沙はその視覚による記憶がヒトのそれと違っていた。
通常でもヒトは異常なできごとに遭遇すると、それを鮮明に覚えていたりする。
それを閃光記憶というが、里沙は連続した閃光記憶の持ち主だった。
連続した閃光記憶。
すなわち、異常でもない普通の日常でも里沙は鮮明に記憶しているのだ。
裕子を含めた普通のヒトにとってそれはうらやましい限りだったが、メリットだけで成り立つ事象は存在しない。
デメリット、それは鮮明すぎる記憶が里沙の脳を圧迫して、絶えず彼女にストレスを与えていることだった。
そのため、里沙は必要なときしか記憶しないようにしていた。
ビデオを録画するときと同じ要領で、記憶したいときにだけ録画し、それ以外はまったく録画しないことにした。
- 206 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:45
- だから、里沙は学校の成績は良いほうではない。
それは里沙が必要ないと判断したからで、記憶するほどのことではないと判断した結果だった。
そして、里沙の記憶はいつでも途中からだった。
最初が存在していない。
それに途切れ途切れで連続性がなかった。
「新垣、お前はお前の悩みがあるんだろう。私で良かったら聞くぞ」
ソファで寝転がったまま裕子は言う。
そしてそれが柄にも無いことだと気付き、胸の中だけで舌打ちを三回ほどした。
今、このときのことを新垣は記憶しているのだろうか、と裕子は少し不安になる。
というのも、裕子が今のように寝転がるという暴挙に出るのはたいてい一人のときで、それを他人に見られると心境的にまずいからだ。
「まだ、大丈夫です。これからやってみますよ」
意味深なことを言った里沙がちょこんと一礼して、小走りで部屋を出て行った。
一人残された裕子は、廃屋の天井をぼんやりと見ながら呟いた。
「全て記憶できる人間など、いるものか」
ぼんやりとした視界に二人の人間が映ったように見えたが、裕子はそれを無理やり意識の外へ追いやると、自身も逃げるように夢の中へと避難した。
- 207 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:45
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 208 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:45
- お腹はそうめんで満たされて変な気分だし、真琴はさっき起きたと思ったら、突然中澤さんのところに行きたいって言い出すし、ちょっとはわたしの気持ちってのを分かってよね。
「まこっちゃん、顔が変だよ?」
……。
……。
「あさ美ちゃん、変なのは顔色であって、顔じゃないよ」
「そうだったね」
正面で勉強しているあさ美ちゃんは平然としている。
どういうお腹してるのかな?
結局安倍さんが勘違いしていたそうめんの処理をさせられ、わたし達は二時前にようやく解放された。
だけど、やっぱり気分は悪い。
「なぁあさ美、散歩に行かないか?」
うわっ、真琴。突然すぎるよ!
わたしはとっさに自分の頬を抓る。
頭の中で真琴が叫んでいるけど、それを無視してあさ美ちゃんを見た。
わたしの予想通り、あさ美ちゃんは呆然とわたしを見ていた。
いや、多分見ていたのはわたしじゃなくて、真琴か。
「まこっちゃん、今のは……?」
「あ、あぁ。今のはわたしじゃなくて、もう一人の真琴ね」
はぁ、と納得なのかそうじゃないのか良く分からないため息を吐いているあさ美ちゃんを見て、わたしはちょっと凹む。
あさ美ちゃんが好きなのは、わたしじゃなくて、真琴なんだ……。
真琴、ここはあんたにまかせる。
一方的に言うと、わたしは全体を真琴に任せて眠ることにした。
- 209 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:46
- おれは少し重たくなった身体を持ち上げると、座ったまま呆然としていたあさ美に手を差し出した。
「散歩に行かないか?」
もう一度同じ台詞を言う。後は返事を待つだけだ。
そして、その返事はあっさりと返ってきた。
少し顔が赤くなったあさ美がおれの手を握ってきたので、おれは軽く引いて立ち上がらせる。
「裕子のところまで行こうと思うが、構わないか?」
小さく頷いたあさ美を背中で感じ、おれは部屋を出る。
「ねぇ、今、まこっちゃんはどうしてるの?」
寮を出て二人で歩く間、あさ美がそんなことを聞いてきた。
「どうもしてないな。寝てるよ」
そう、と小さく呟いたあさ美。
「あのさ、こうやって話すのって、二回目だよね」
「三回目じゃないか?」
おれの記憶だと、あさ美にこうやっておれが出て行ったのは三回。
「違うよ。先週のはほとんど話してなかったから、私はカウントしてないの。だから、二回目」
頬を膨らませたあさ美に、おれは知らず知らずのうちに笑みがこぼれていた。
「話はしてなかったが、することはしてたな」
「馬鹿!」
拳で殴られるが、あさ美の弱い腕力ではびくともしない。
「すまなかった。もう言わない」
「そうだよ。あれは不可抗力だったんだから!」
肩で息をしながら言ってくるあさ美を尻目に、おれは少し考える。
他人に自分の意見を伝えるには、言葉はたしかに有用なツールだと言える。
だが、それ以上のことを伝えるには?
おれ自身を伝えるには?
言葉では足りない。
おれはあのときあさ美を押し倒した。
そのときのことをおれは後悔していない。
ただ、あさ美が嫌だったのなら、おれは二度としないだけだ。
- 210 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:47
- それからおれ達は無言で歩く。
ただ、あさ美は嫌がっていないようで、そこがおれには理解できないところだった。
裕子はめずらしくソファに転がって寝息を立てていた。
だが、おれにはそれが偽者だとすぐに分かった。
「ねぇ、どうするの?」
あさ美はドアの張り紙が気になったのか、おれの袖を引っ張ってくる。
裕子の部屋のドアの張り紙。
『昼寝中
起こしたらひどいことになるぞ
中澤裕子』
とだけあったが、おれとしてはどうでもいいことだ。
「おい裕子、起きろ!」
おれはソファの人形に思い切り蹴りを入れる。
その人形はあっさりとソファから落ちると、ごろごろと床を二メートルほど転がって止まった。
「まこっちゃん、それはまずいよ」
隣のあさ美が凄まじく慌てているが、おれは特に気にしない。
「裕子、いい加減出てきたらどうだ?」
この奇術師のことだ。
どうせ天井かタンス、もしくはソファの中にでもいることだろう。
「なんだ、小川に紺野か」
裕子はソファの中から出てきた。
まあこれも予測済みなので驚くことではない。
「ち、お前らはどうしてまとめてくるんだ?」
苛立った声の裕子がおれを睨んでくる。
「そんなのはどうでもいい。なにか情報はないか?」
「おいおい、私はお前専属の情報屋か?」
「そんなもんだろ?」
にやつくおれが気に入らなかったのか裕子は苛立たしげに胸ポケットからピースを取り出し、火を点けた。
「で、どういう情報が欲しいんだ?」
「今朝方に起こった大学生のばらばら殺人だ。あれの死体の状況が知りたい」
ろくなやつじゃないな、とおれに聞こえるように呟いた裕子だったが、それから肩を竦めて、
「すまんな、その件に関しては、私は一切手を出さないことにした。情報はお前が一人で集めろ」
とだけ言った。
「そうか、なら用事は終わった」
「だったらさっさと帰れ」
ソファに寝転がった裕子を尻目におれは踵を返す。
- 211 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:48
- 「あの、中澤さん。ちょっといいですか?」
が、あさ美が裕子に話しかけたためおれは足を止めて身体の向きを変える。
「めずらしいな紺野。お前から話しかけてくるとはな」
笑った裕子だったが、あさ美は真剣な表情だった。
「中澤さんは『好き』ってことをどう思ってますか?」
「「はぁ?」」
今のはおれと裕子の驚きの声。
おれはあさ美を呆然と見る。
なんであさ美がこんな話を裕子にしたのかが、良く分からない。
裕子もそれは同じようで、起き上がったその顔を珍しく呆けさせてあさ美を見つめていた。
が、それもほんの一瞬で裕子はばつが悪そうに頭を掻くと、あさ美を睨みつける。
「私にそんなことを聞くのか?」
「私は中澤さんに聞きたいんです」
即答するあさ美に裕子は再び驚いていたが、諦めたのかため息を一つ吐いた。
「分かった。話す前に聞いておくが、お前の聞きたいことは『like』か、それとも『love』か?」
「もちろん『love』のほうで」
これまた即答するあさ美に、今度はおれが驚く。
なにを言い出すんだ、あさ美?
が、そんなおれを置いて二人は話を始めてしまい、おれは仕方なくそれを聞かなければならなくなった。
「結論から言えば、どっちにしても私にとっては確率の問題だ。私という人間にとって、好きになる人間、もしくは好きになった人間が男であるか女であるかは大した問題じゃない。この世界には大別して男と女しかいないんだからな」
ソファに座った裕子は肩を竦め、短くなったピースを投げ捨てた。
そんな裕子にあさ美が鋭く切り返す。
「でも、同性同士の恋愛って異常じゃないですか?」
それを聞いた裕子が、おかしそうに笑う。
「異常なものか。それはヒトとしての固定観念がそうさせているからに過ぎない。まあ、こじつけて言えば生産性の問題か。が、これも将来解消されるだろうから、そうなればそういった問題もじきに無くなる」
「でも、今は周囲からは異常だと認識されますよ?」
- 212 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:49
- あさ美がやたらと難しい言葉を使って反論してくるのを、おれはただ呆然と聞くことしかできなかった。
おい麻琴。お前が聞けよ。おれはこういった話は苦手なんだ。
……。
くそっ、爆睡して起きやがらねぇ。
そんなおれに構わず、二人の会話は先へ進む。
「だからどうした。周囲なぞ、その程度のものだろ?それで自分という人間の本質が変わるわけではない。周囲を気にして自己の本質を消し去るのは愚かな行為だ。それに、意味が無い」
「だけど、周囲が結束すれば人間の一人くらい消し去ることは容易でしょ?そういった状況で自己の本質に素直になれるか、疑問を感じます」
「それは本質を知らないだけだ。本質を知っている人間にとって、その程度の障害は障害ではない。もっと別のところに存在するんだよ」
裕子は立ち上がり、おれの脇を通り過ぎて窓に向かう。
あさ美を見てみると、彼女は首を傾げていた。
「別のところ?」
「そうだ」
いつもならその定位置でピースを取り出して火を点けるんだろうが、今日は違っていた。
窓の脇に立った裕子がおれ達の方に振り返ってにやつく。
「仮に私が紺野のことを好きだとしよう。もちろんそれは、通常の異性間の恋愛感情のものだとしてだ」
言われたあさ美が頬を赤らめて、なにも言えずに立っている。
ちょっと待て裕子。そんなことを急に言い出すんじゃない。
とっさにおれは二人の間に入ろうとしたが裕子に睨まれ、おれは渋々引き下がる。
覚えておけ、中澤裕子。
芽生えた殺意を大事に仕舞いこむおれ。
が、それもどこか空しかった。
「だが、お前はそんな私の感情は知らない」
それが前提条件だ、と裕子は言う。
- 213 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:49
- 「さて、ここで問題だ。私がお前に『好き』だと言った。お前はこの『好き』という意味をどう捉える?」
裕子に言われあさ美はしばらく考えていたが、考えがまとまったのか話し始めた。
「そうなんだなって思います。ただ、それだけです」
「そうだな。お前は私の感情を知らないから、それが当然だ」
満足のいく答えだったのか、裕子が嬉しそうに頷いた。
「つまり、私が恋愛感情を抱いているが、お前はそれを感じ取ることができない。それは私が単に『好き』だと言ったから。それだけでは私の気持ちは伝え切れていないんだ。これが別の障害だよ」
裕子がそこで話を一端切り、おれを見てくる。
ちっ、どうしてこうもおれが思っていた疑問にぶち当たるんだ?
それを言葉にして裕子に言ってやりたかったが、それよりもあさ美が口を開くのが先だった。
「どういうことですか?」
どうやらさきほどの裕子の言葉が理解できていなかったのか、あさ美は首を傾げていた。
そんなあさ美に裕子が言葉を続ける。
「つまりは言語による障害だな。言葉は自分が思った以上に自分の感情を伝えてくれない。ましてや同性間になれば、さっき言った固定観念が縛りとなってくる。たとえ私がその固定観念に縛られていなくても、紺野がそれに縛られていれば言葉でいくら伝えても、私の気持ちは伝わらない」
そういうことだ、と言って裕子は話を締める。
あさ美はしばらくそれを反芻していたのだろう、口は動いていたが声は出ていなかった。
「それって、結局は互いの気持ち次第ってことだろ?」
場の空気に耐え切れなくなり、おれは二人に割って入る。
「それは違うな。二人にその固定観念の縛りがなかったとしても、そこに至るまでの積み重なった経験がなければ、結局のところ伝わらない。そういうものだろ、恋愛とは?」
「なんかいつもの裕子とは違うな。今日はやたらと気持ち悪いぞ」
「うるさい。私にだってこういう日はあるさ」
とっさに飛んできた火の玉を、おれは半歩ずらしてかわす。
- 214 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:50
- 「危ないな。自分の立場が危うくなったくらいで、すぐ攻撃するな」
「くそっ」
どうやら今日はおれの方が優位らしい。
そのことでにやついているおれにもう一つ火の玉が飛んできたが、それも当然のことながら当たらない。
「そんなに喋るんなら、おれにも情報をよこせよな」
「知るかそんなこと。私はその件には手を出さないと決めたんだ」
「その割にはあさ美には手を出そうとしたな」
「真琴。いい加減、焼き殺すぞ」
「殺される前に、お前を消すさ」
立ち上がりかなり凶悪な顔で威嚇してくる裕子に、おれは笑って答える。
何から何までおれの優位だと、裕子はこんなにも弱くなる。
「まこっちゃんも、中澤さんも止めて。私がいけなかったの」
見るに見かねたあさ美に止められ、おれは笑いながら引き下がる。
その間、裕子はずっと睨みつけていたが、どうってことはなかった。
「中澤さん、変な質問をしてすみませんでした」
あさ美が頭を下げる。
「いや、私も久しぶりにあの頃に帰れて良かった」
あさ美に笑って答える裕子。
なんだ、この差は。おれだとあんなに睨んでたのに。
それじゃあ帰ります、とのあさ美の一言で、おれはドアを開く。
あさ美を先に行かせるが、ドアをくぐる前に、一度だけ裕子に振り返った。
「中澤さん。今話した『あの頃』っていつのことですか?」
あさ美に言われ、裕子はばつが悪そうな顔をする。
「あまり深く聞かないでくれ。私にも都合があるんだ」
そう言った裕子は笑っていた。
が、それまでの笑みとは違って、それにはどこか後悔が含まれていて弱々しかった。
「分かりました。すみませんでした」
再び頭を下げて出て行くあさ美。
おれもその後に続くが、やはり裕子に振り返って言ってやった。
「今回は手を出さないんだろ?だったら、おれはゆっくり探せるな」
「勝手にしろ」
- 215 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:51
- 三度目の正直、とでも言うのか火の玉がそれまでの二つに比べてはるかに速く飛んできたが、おれはそれが届く前にドアを閉めてやった。
三度目の正直も通じないな。
肩を竦めて裕子の廃屋を後にする。
少し前に出たあさ美は出入り口のところで、おれを待っていた。
それを半ば無視しておれは帰途につく。
「ねぇ、まこっちゃんはなんでそんなにあの事件のことを気にしてるの?」
足早に歩くおれの後ろから、少し息の切れたあさ美の声が聞こえる。
おれは立ち止まって後ろのあさ美を見る。
「そういうあさ美は、あんなことを気にしてたのか?」
おれの反撃にあさ美は露骨に頬を膨らませる。
「私のは前から聞こうと思ってたの。それより、まこっちゃんはどうなの?」
「どうってことない。おれと同類だからさ」
「えっ?」
「おれも人殺しだからさ」
正確には残滓した存在核の蒐集だが、それがヒトならばヒト殺しと同義だ。
ヒトではないものは壊す。
そしてヒトなら殺す。簡単なことだ。
「おれはこのまま街に行く」
気が変わり、おれは今からそいつを探しに行くことにした。
どうせおれと同類だ。歩き回れば手掛かりくらいはあるだろう。
「うわっ」
が、行こうとしたおれは髪の毛を引っ張られ、バランスを崩してしまう。
引っ張ったのはもちろんあさ美。
「ダメ!」
顔を真っ赤にして怒鳴りつけてくるあさ美に少々度肝を抜かれる。
「はぁ?」
「だから、今日はダメなの!」
「なんで?」
「だって、宿題まだ終わってないでしょ!」
……。
……。
「知るか、そんなの!」
宿題よりも、おれの同類が街を闊歩しているほうがよっぽどやばいぞ。
が、やはり髪の毛を引っ張られて、おれは動けない。
「まこっちゃん、帰るよ!」
「い、いや、ちょっと待てっっ!」
強引に腕を掴まれ、おれはろくに抵抗できずあさ美に引きずられていった。
- 216 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:51
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 217 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:52
- ランチを食べながら柴田さんの話を聞いて、あーし的な石川梨華のイメージを固めることができた。
柴田さんの話を総合すると、石川梨華は極端なポジティブとネガティブの融合体で、そのときの感情でかなり人が変わるってことらしい。
「えっと、だいたいこんな感じかな」
食後のアイスコーヒーを飲みながら、斜め上を見上げる柴田さん。
「でも、どこに行ったのかあたしにも検討がつかないんだよね……」
「まったくですか?」
「うん、だってあの娘、泊まりに来るって行ったらあたしのところしかないんだよね」
「そうですか……」
というわけで、あーしが欲しかった手掛かりはあっさりと断ち切られてしまった。
「分かりました。後はあーしがなんとかします」
柴田さんと同じように二杯目のアイスコーヒーを飲み干したあーしは、そこで柴田さんと別れた。
本当なら柴田さんにもいてほしかったけど、もしかするとこの先はショックが大きくなるかもしれない。
だから、あーしが一人で行こう。
「高橋。結局、なんの話してたの?」
会計のところで矢口さんに呼び止められる。
「知らないほうがええですよ」
「……そうだね」
笑顔のあーしが怖かったのか、矢口さんはあっさりと引き下がってくれた。
「飯田さんは起きてますか?」
「あぁ、圭織ならさっき起きてきたよ。二階にいるから行ってみれば?」
「そうします」
そう言って、あーしは一度喫茶『アターレ』を出て、脇にあった階段でビルの二階に上がる。
階段を上がってすぐの扉にはかなり怪しい文字で書かれた看板があり、『アタール』とだけ書かれていた。
それだけでは他のヒトはなにがなにやら分からないが、その扉をあーしは迷わず開ける。
- 218 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:52
- 「いらっしゃい……って、なんだ、高橋か」
六畳ほどの部屋の真ん中には学校の机みたいなのが置かれていて、その上に部屋の雰囲気と同じくらい怪しげな水晶が置かれていた。
そして、その後ろには全身黒ずくめの、やっぱり部屋と同じくらい怪しげな格好をした飯田圭織さんが座っていた。
「眠そうですね」
目が半分閉じているのを見て当てずっぽうで言ってみる。
「そうなのよ。さっき起きたばっかだからね」
欠伸をかみ殺しながら言ってくる飯田さんにあーしは笑いかける。
「で、今日はなに?」
「ヒト探しです」
「ん、分かったよ」
飯田さんはそれだけで水晶に手をかざし始めた。
いつも思うんだけど、飯田さんはヒトの話をほとんど聞かずに占いを始める。
今も、あーしはヒトを探してるとは言ったけど、石川梨華をさがしてるとは言ってない。
普通のヒトならこれでかなり不安になるんだろうけど、あーしはこのヒトの実力は知ってるからその辺は心配ない。
ただ、方向音痴なのが気になるだけ。
「ねぇ高橋。変なこと考えてるとさ、やる気が失せるんだ」
「あっ、すみません」
失言失言。
飯田さんは人の心が読めるんだった。
一度ため息を吐いた飯田さんが、再び水晶に手をかざす。
お、今日は普通の占いかな?
と思ったけど、やっぱり飯田さんだ。
「きえ〜!」
突然弾かれたように立ち上がった飯田さんが、狭い部屋の中を踊りながら暴れだした。
それに連動して、壁に立てかけてあった大きな本棚が崩れるようにして倒れる。
見事なくらいに散らばっていく部屋。
うわっ、退散しとこ。
入り口に立っていたあーしは素早く外に出て、扉を閉める。
扉越しにも飯田さんの奇声とどたばたという暴れている音が聞こえてきた。
これって、一種のトランス状態ってことなんだろうけど、飯田さんのはそのときによってかなり変わってくる。
この前なんかはリストラされた親父なんかになって、二時間ほど愚痴ってきたし……。
まあ、あれでも当たるんだからいいけどね。
- 219 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:53
- 飯田さんはそれから十分くらい踊っていた。
途中疲れたのだろう、休憩なんかも挟んでいたが今日の占いは結構順調な部類に入った。
部屋の中が静かになったのを見計らって入ってみると、さっきまでの怪しいけど整然としていた部屋は見る影も無く、無残に散らかっていた。
そして、その真ん中で倒れている飯田さんは肩で息をしている。
それを見ているあーしのほうが暑くなってきたのは、きっと気のせいじゃないだろう。
「飯田さん、見えました?」
「ん、見えたよ」
何事もなかったかのごとく、むくっと起き上がった飯田さんがあーしを見上げてくる。
「高橋が探してるヒトは、当分会えないよ。だからって、こっちから探さないほうがいいかもね。会う時がくれば、自然に会えるからさ」
「つまりは、放っておけってことですか?」
「そう」
うーん、これは予想外だ。
「高橋、不満そうね」
立ち上がった飯田さんに今度は見下ろされる。
「えぇ、ちょっと急ぎだったんですけど……」
「大丈夫だよ。高橋達の周りでは目立った変化は出ないからさ。当分は静かにしておくべきだね。下手に動き回ると事態がややこしくなるよ」
「そうですか……」
飯田さんがそこまで言うなら、そうなんだろう。
「分かりました。ありがとうございました」
「お金はいつものところに振り込んどいてね」
そんなことを言ってくる飯田さんに、ちょっと引け目を感じながらあーしは部屋を後にする。
だって、お金なんてこれまで一度も振り込んだこと無いしね。
「矢口さん、あーしの用事は終わりましたよ」
喫茶『アターレ』には相変わらず人が入ってなかった。
こんなんで続けていけるのかな?
まあ、余計な詮索は止めとこ。
- 220 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:53
- 「あ、そうなんだ。オイラのほうも一段落ついたよ」
手招きする矢口さんに誘われて、あーしはもう一度店に入ることにする。
「ところでさ、圭ちゃんって元気にしてるかな?」
唐突に話を切り出してくる矢口さん。
「さぁ、どうなんでしょうかね」
突然だったけど、不自然なところはなかったはず。
矢口さんには圭ちゃん――保田圭さんのこと――のことをまだ話していない。というか話す気になれない。だって、話したら矢口さんは悲しむだろう。いや、多分怒るかもしれない。
保田さんが行方不明になったのは、三ヶ月前。そこから今のあーし達が始まった。
小川マコト。
中澤裕子。
あの二人が出会ってしまった。
あーしにはそれが良かったのか、悪かったのか分からない。
だけど、あのときからマコトは確実に道を踏み外しつつある。
そして、それをあーしが止めることはできない。
マコト自身が止まるか、壊れるしか方法は無い。
「ねえ高橋、どうしたの?目が泳いでるよ?」
「へっ……うわっ、どうしたんですか!」
気がつくと目の前に矢口さんの顔があり、それに驚いたあーしは思い切り仰け反る。
「いや、あんまり泳いでる高橋がかわいかったもんだから、食べようかなっと……」
「あーしはあんまりおいしくないから、食べんほうがええですよ」
ぶーぶー言ってる矢口さんにお礼を言って席を立つ。
そうしないと、あーしはあのことを言いそうになるから。
店を出ると、やっぱりそこはいつもの暑い日常。
石川梨華も、この日常のどこかにいるんだろうか……。
- 221 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:54
-
――――――――――
- 222 名前:連続しない循環1 投稿日:2004/12/01(水) 03:54
- 警察に行かないっていう核心はあったんだけど、意外と見つからないものね。
あんまり広くはないこの街だけど、人口はざっと三十万はいる。
その中からたった三人を探し出さないといけないんだもんね。
まあ、駅前のこの場所はたくさんのヒトが見れるから、それも楽しいんだけど。
あたしの人生をめちゃくちゃにしたあの十人。
そして、その残りの三人。
今度はあたしがめちゃくちゃにしてあげる。
……。
……。
まあ、じっくり探せばいいか。
殺すときのあの感覚って一度癖になると、止められなくなるの。
お楽しみは後にとっておかないとね。
- 223 名前:いちは 投稿日:2004/12/01(水) 03:56
- やけに長かったですが
これで「連続しない循環1」は終わりです
次は「連続しない循環2」に入ります
あと、更新なんですが
当分は週に一度、水曜日に固定しようと思うので
よろしくお願いします
それでは
- 224 名前:名無し読者 投稿日:2004/12/07(火) 23:23
- 更新お疲れ様です
なんか登場人物いっぱい出てきましたね
そのせいか今回まこっちゃん(麻琴)の影が薄いような…w
今後のまこっちゃんの活躍に期待して次の更新待ってます
- 225 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/08(水) 12:24
-
連続しない循環2
- 226 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:25
- 田中れいなは空気が緊張する中、一人ため息を吐く。
れいながいるのは田中家にある道場。
広いこの道場にはれいなを含めて五人。
田中れいな。
小川麻琴。
紺野あさ美。
道重さゆみ。
そして、れいなと麻琴の父親。
いや、麻琴にとっては前の父親だ。
道場の中央の畳の上では麻琴と父親が、竹刀を持って向き合っていた。
外では雨が降っていて、それが二人の殺気を流しているかのような錯覚をれいなは覚える。
なにせ近くに座っているれいなですら二人の殺気を感じ取ることができなかったのだから。
そんなれいなに構うことなく二人は中央のその位置から動かない。
麻琴の右手の竹刀はだらりと畳について、それ自体に力が込められていないのが一目で分かった。
父親のほうは正眼に構え、ただ深呼吸をしている。
その二人は防具は一切つけず、ただタイミングを見計らっていた。
父親と麻琴が月末に竹刀を交わすことはすでに習慣になっていた。
そして、今日はその月末である八月三十一日。
「ねえれーな」
れいなの隣に座っていたさゆみはこの空気が読めないのか、やたらとれいなに話しかけてくる。
「さゆ、ちょっと黙っといて」
小声でそう何度も言うが、さゆみはそわそわして落ち着きが無い。
(ははぁ、なるほどね)
「さゆ、トイレはあっち」
「違うよ。足が痺れたの」
「なら崩せばよかと」
「え、いいの?」
隣のさゆみが笑顔で足を崩していたが、れいなは正座をしたまま麻琴と父親の二人を凝視していた。
周囲の空気が少しの動きもしたらいけないと諌めているようで、れいなは少しも身動きができなかった。
身動きができないまま、視線だけを動かして正面の紺野あさ美を見てみる。
彼女もれいなと同じように正座をして、身動き一つしていなかった。
そもそも、今日、なんであさ美がここへきているのかれいなには検討がつかなかった。
だが、それも余計な詮索だと思って、一切口を出さないことにして、れいなは目の前の二人だけに集中する。
- 227 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:26
- と、中央の二人が動いた。
唐突に竹刀を突き出した父親。
それを半歩身をずらしてかわす麻琴。
竹刀をフェンシングの要領で絶えず突き、それを受け止めることなくかわしている麻琴。
竹刀が無ければ、麻琴はただ踊っているかのようにも見える。
だが、少しでも止まれば父親の竹刀の餌食となってしまう。
そう言った意味で、そこにはただならぬ緊張感が漂っていた。
そろそろ四十になる父親だったが、余分な動きがなく非情なまでに滑らかだ。
れいなではおそらく一分ももたないだろう。
その突きだけだった父親の動きが唐突に変わった。
突きだけの単純だった動きに薙ぎ払いと袈裟懸けのバリエーションが加わったのだ。
(ダメだ、れなには見えん)
れいなは父親の動きを完全に捉えきれず、ただ目の前の光景をぼんやりと見ることしかできなかった。
それから五分ほどは父親が竹刀を振るい、麻琴がかわすといった構図になっていた。
風を斬る竹刀の音と、麻琴の畳を踏み鳴らす音の二つだけが辺りを支配する。
が、やはり変化は唐突だった。
麻琴がそれまで上げることがなかった竹刀を少し上げた。
れいなにはそれだけしか分からなかった。
次の瞬間、父親の竹刀が弾け飛び、麻琴の竹刀が父親の腹に突き刺さっていた。
「やっぱり歳だな。親父殿」
(マコ兄だったのか)
急激に緊張していくれいな。
それもそのはず。
これまでの仕合では真琴が出てくることは無く、麻琴と父親がいつも竹刀を交わしていた。
その仕合では麻琴が勝つことはなく、いつも父親の竹刀をその身体に受けていた。
「まだ四十手前だ。老いぼれ扱いされたくないな」
蹲った父親だったが、その声はしっかりしたものだった。
「だが、動きにキレがなくなってる。それにスタミナもなくなってるな」
真琴の言葉にれいなは息を飲む。
(あれで動きが悪くなっとる?)
れいなが見た限りでは、父親の動きはこれまでのどれよりも良かったはずだ。
だが、そこには基本的な意見の相違があったらしい。
- 228 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:26
- 「次するなら、防具を着けることを勧める」
真琴はそう言って紺野あさ美のところまで下がってしまった。
「やっぱりかっこいいね。小川さんって」
隣のさゆみからはしゃいだ声が聞こえてきて、それがれいなの神経を逆撫でした。
「ちょっとマコ兄!」
気がつくとれいなは立ち上がって、道場の中央まで移動していた。
「今度はれなが相手とね!」
父親が使っていた竹刀を握り、れいなが叫ぶ。
「れいなが相手か?初めてじゃないか?」
汗一つ掻いていない真琴が口笛を吹く。
そんな些細な仕草ですらこのときのれいなを逆なでするには十分だった。
「れいな、俺にも勝てんようなやつが、真琴に勝てるものか」
「ちょっと親父は黙っといて!」
まだしっかりと立てない父親を畳から追い出し、れいなは竹刀を振り回す。
「一度マコ兄とはやってみたかったとよ!」
「そうだな、おれも一度れいなとやってみたかったんだ」
再び畳みの上に戻り、れいなと対峙する真琴。
父親はすでになにも言わず、畳の外からただ状況を見ているだけだった。
五メートルほど離れたれいなだったが、正面にいるはずの真琴の姿がなぜかぼやけて見える。
それがなぜなのかは理解できたが、それをれいなは認めなかった。
(これが、あのマコ兄?)
れいなは麻琴は好きだったが、真琴は嫌いだった。
どことなく全てを見下したような言動に行動。
それ以前にれいなは真琴の本性が好きではなかった。
- 229 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:27
- 真琴の本性。
中澤裕子の言うところの根源であるが、れいなはそこまで深くは考えてはいなかった。
いや、このときはそこまで頭が回らなかった。
「どうしたれいな。竹刀が震えてるぞ?」
「う、うるさかよ!」
真琴にからかわれ、れいなは反射的に足を前に踏み出す。
その時点ですでにれいなの負けは確定した言っても過言ではなかったが、れいなが気付くのは全てが終わってからだった。
ひたすら竹刀を振り回すれいな。
それを目を閉じてかわす真琴。
(なして当たらんの?)
余裕の真琴が正面にあり、それがれいなを余計に焦らせる。
「れいな、お前は余分な力が入りすぎてるんだよ。肩の力を抜いてみろよ。そんなことだと、いつまで経っても当たらないぞ」
目を閉じたままの真琴が軽く笑う。
その舐め切った笑みにれいなは『キレ』た。
「このぉ!」
普段から水分を溜めていたれいな。
それをとっさに氷柱にして真琴に向けて放っていた。
「まこっちゃん!」
あさ美の悲鳴と、一度だけ鳴り響く甲高い破壊音。
そしてその後の静寂。
全てがスローモーションのように流れていく。
れいなは目の前で起こったそれを、出来の悪い夢かと思った。
氷柱はれいなと真琴のちょうど中間点で発生して、真琴に向かって真っ直ぐ飛んでいった。
二人の距離は一メートル。
氷柱は三十センチ。
高速で投げつけた氷柱を真琴がかわせるはずなどなかったはずだ。
そう確信していたが、真琴はその高速で接近する氷柱をいつの間にか手にしていたナイフで叩き落していたのだ。
- 230 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:27
- 「おいれいな。今のは反則だぞ。あとコンマ一秒遅かったら殺されてたな」
肩を竦めた真琴を見て、ようやくれいなは自分がしようとしていたことに気がつく。
(マコ兄を殺そうとした?れなが?)
無意識での行動にれいな自身、寒気を覚える。
そして、冷え切った頭がそれを否定した。
自分が殺そうとしたんじゃない、消そうとしたんだと……。
「ここで殺し合いをするのもいいが……」
真琴の声の質が変わる。
重く、冷たいその声とそれと同質の視線にれいなは恐怖を感じる。
「覚悟を決めてるんだよな?」
正面から睨んでくる真琴を、れいなは怖くて見ることができなかった。
その頃になってようやく自分の足が震えていることに気付いたれいなだったが、だからと言ってそれを止めることはできなかった。
「真琴、それまでだ。れいなも悪気があってしたわけじゃない」
いつの間にか父親が間に割って入って、二人を遠ざける。
「ちっ、親父殿はれいなには優しいんだな」
真琴が元父親に毒づくが、すぐさま踵を返すと出口に向かい始めた。
「仕合は今日で終わりだ。おれも麻琴ももう必要ない」
「ちょっと、まこっちゃん!」
足早に出て行く真琴の後ろを、慌ててあさ美が追いかけていき道場にいつもの静けさが戻ってくる。
そこでようやくれいなは、いつもの自分を取り戻した。
(あのプレッシャー。本気でやったら、れなが殺されとった……)
そのプレッシャーこそが真琴とれいなとの違いであり、埋まることの無い差であった。
だが、それでもれいなは認めなかった。
認めることができなかった。
(マコ兄。あんたはれなが絶対倒す。そして、マコ姉を解放してみせる)
独り心の中で誓うれいなだったが、それは叶わないことだと心のどこかで思っている自分に気付きしばらくの間、唖然とする。
どちらか一方だけを消すことはできない。
消えるのならば、きっと二人一緒だ。
そのことを痛烈に認識して、れいなは唇を噛む。
「ねぇれーな。さっきのあれってなに?」
さゆみの場違いな声にれいなはろくな反応をすることができず、ただ立ち尽くすだけだった。
- 231 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:28
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 232 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:28
-
「ねぇまこっちゃん。今のはやりすぎじゃない?」
先を歩く小川真琴に、紺野あさ美が食らいついた。
周囲の雨で、あさ美はすぐ先を歩いているはずの真琴を見失いそうになる。
「知るか、先に仕掛けてきたのはれいなのほうだ。おれは殺されそうになったんだぞ?」
「でも、まこっちゃんには分かってたんでしょ?田中ちゃんが仕掛けてくるのがさ」
「うっ……」
食らいついたあさ美が予想外の抵抗を示し、言葉に詰まる真琴。
そう、真琴は妹である田中れいなの性格を熟知していて、わざと挑発していたのだ。
そして、挑発されてキレたれいなが次に取る行動も予測していた。
だが、真琴にはれいなの行動を予測しなくても、存在核の変化でれいなの攻撃を容易に見切ることができた。
れいなが無意識的に真琴を攻撃する瞬間、れいなとその存在核とが完全に同調していた。
それを感知した真琴はとっさに反応していたのだ。
それと違う形になるが、あさ美もれいなの異変を察知していた。
れいなの胸から出ている、あさ美にしか見ることができない『赤い糸』(これはあさ美が勝手につけたもので、正式名称は別にある)が真琴を攻撃する寸前、真琴の『赤い糸』と結合したのだ。
だが、その結合は荒々しく相手を食らい尽くす感じがして、危険を感じたあさ美はとっさに叫んでいた。
「うるさいな。おれだって……」
真琴がそう、なにかを言い出したときだった。
あさ美は綺麗な放物線を描いて空を飛んでいく傘と、相変わらず聞こえてくる雨音しか認識できなかった。
が、次の瞬間あさ美は現実に引き戻され、慌てて真琴に駆け寄る。
傘が飛んだ原因は、唐突に真琴の拳が上がり自分の顔を殴ったから。
「真琴、今のはやり過ぎだよ」
真琴を無理やり閉じ込めて、麻琴が外へ出てくる。
「あさ美ちゃん、ごめんね。元はと言えばわたしがいけなかったの」
そもそも今日、真琴に父親の相手を任せたのかは、真琴が苛付いていたからだった。
- 233 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:29
- 「わたしがちゃんとしてれば、れいなも傷つかなかったのにね」
「ま、まこっちゃん?」
真琴から麻琴、そして麻琴から真琴への変化は、あさ美にとってすでに日常のものとなっていたが、それでもあさ美はまだ戸惑っていた。
「れいなには後で謝っておくよ」
「う、うん……」
麻琴に言われ、あさ美はあっさりと引き下がる。
転がった傘を拾いに行くべきか否かあさ美は迷い、あさ美はそのままの姿勢で麻琴を見つめる。
このまま目を離すと麻琴がいなくなってしまう気がしたからだ。
真琴から出ていた『赤い糸』は細いながらもどこか獰猛で、さきほどのれいなとの仕合においてもれいなの糸を粉々に切り裂く気配すら感じさせた。
が、今目の前にいる麻琴の糸はどこか不安定で、どこに行こうか迷っている感じがしていた。
誰にも頼れない。
誰に頼ったら良いのか分からない。
そんな感じが麻琴の糸からは読み取れた。
そんな二人のマコトにも共通点はあった。
『何をどうしたら良いのか分からない』
『互いのマコトのことが分からない』
そんな感覚が二人のマコトから出ていて、互いを侵食しようとしている。
それと同時にもう一つの疑問があさ美の脳裏に甦ってきた。
そして、その疑問を素直に聞いてみることにする。
「まこっちゃん。昨日の夜中なんだけど、出て行った?」
「うん、出て行ったよ」
小降りになった雨のおかげで麻琴の顔がさきほどよりかははっきり見えるようになった。
ただ、そのせいで麻琴の格好がやけにみすぼらしくも見えた。
そんな麻琴を見るのが嫌になってあさ美は転がっていた傘を拾い上げて麻琴に渡す。
麻琴は何も言わずにそれを受け取った。
- 234 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:30
- それからあさ美はさきほどの話に頭を切り替える。
あさ美はしっかりとは覚えていないが、麻琴が出て行ったのは夜中の一時前。
「あのさ、それってやっぱり、昨日のことに関係あるの?」
「うん、そうだね」
あっさりと答えてくる麻琴に、少し戸惑うあさ美。
「だって、昨日はまこっちゃんは元に戻ってたでしょ?」
あさ美にしてみれば、小川麻琴が第一人格であり、小川真琴は第二人格であった。
そして、あさ美が昨日強引に真琴を連れて帰ってからさっきまで、真琴は出てこなかった。
「うん。あれはわたしの意志で行ったんだ」
これにもあっさりと答える麻琴。
「わたしもね、あの事件は気になってるの。真琴みたいにあんなに露骨には言わないけどね」
苦笑いなのか半泣きなのか、雨に濡れて分からなくなった表情で麻琴が言う。
それを見たあさ美は、唐突に死ぬ寸前の犬を連想したがそれも一瞬で忘却する。
「わたしと真琴ってね、結局は繋がってるんだよね。わたしが好きなことは真琴も好きだし、真琴が嫌がってることはわたしも嫌なんだ。だから、今回の事件はわたしも興味があるの」
「そう……なの?」
麻琴の言葉に固まるあさ美。
それと同時に、先週の出来事がリプレイされる。
真琴が嫌いなことは麻琴も嫌い。そして、真琴が好きなことは麻琴も好き。
それは、つまり……。
- 235 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:30
- 「じゃあ、私が帰ってきた日のことも、まこっちゃんは望んでたの?」
それはあさ美にとって決定的な出来事であり、それは麻琴にとっても同じである。
ただ、それでも二人には隔たりがあった。
なにも言わずに、ただ黙る麻琴。
それは言えないのではなく、これから話すことを必死に考えている故の沈黙だった。
あさ美も黙って、麻琴を正面から見据える。
無表情だった麻琴の顔が歪み、俯いた。
「わたしはね……」
ゆっくりと話し始めた麻琴の声は小さく、普段のそれとはあまりにもかけ離れたものだった。
「わたしはね、自分の気持ちが分からなくなったの。あさ美ちゃんに口では好きだって言ってても、やってることは全然違うでしょ?でも、それもわたしは受け入れちゃった。わたしは真琴みたいに単純になれない。わたしは皆が平等に好きなの。でも、それだとみんなから誤解されちゃう」
ゆっくりと顔を上げた麻琴は泣いていたが、笑ってもいた。
「だからわたしはね、考えないようにしたんだ。わたしはみんなのことを好き。でも、それだけだってさ」
ごめんね、とか細い声で付け足した麻琴が走り出す。
その後姿をあさ美は追わなかった。
いや、追えなかった。
ただ、雨が弱まったのだけがはっきりと分かり、そのことが無性に腹が立ったあさ美は曇った空を見上げ、降ってくる小雨の一粒一粒を睨みつけた。
- 236 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:31
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 237 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:31
-
足早に歩くわたしは、それを人事のように眺めているだけだった。
雨に濡れて気持ち悪いはずなのに、今のわたしはそんなことを微塵も感じていない。
今のわたしは、世界大馬鹿選手権に出れば、きっと優勝できるはず。
それくらい、わたしは大馬鹿だ。
だってわたしは、わたしのノゾミを自ら断ってしまった。
不安定なこのときを受け入れることができなくなったから。
この一週間、あさ美ちゃんと同じ部屋で過ごすことがとても辛かった。
そして、愛ちゃんにも顔を合わせるのが辛かった。
あさ美ちゃんのことを好きなのは真琴で、わたしじゃない。
そして、わたしは愛ちゃんのことが好きなのかどうか分からない。
……。
……。
わたしはもう、あそこにはいないほうが良いのかもしれない。
だけど……。
そうやって無理やり断ち切って、それでわたしは踏ん切りがつくの?
わたしがわたしでいられる保証はないでしょ?
辛かったけど、あの環境をわたしは受け入れていた。
それは事実。
あさ美ちゃんと愛ちゃんがいたから、わたしはわたしであれたし、真琴は真琴であれた。
二人には感謝こそすれ、憎んだりなんてできない。
気がつくと目の前には駅があった。
だいぶ歩いてきたことを物語るかのように、息が荒くなっている。
雨も小降りになっていた。
このままいけば、あと三十分もすれば止みそうだ。
濡れた服は重たくなっていたけど、それを気持ち悪いとは相変わらず認識できなかった。
やっぱり、今のわたしはおかしいんだ。
別のことをやって、無理やり落ち着こうとしている。
- 238 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:33
- それを真琴は存在核の蒐集だと言った。
たしかに表面上はそうなんだろう。
だけど……。
結局わたし達がやってることは壊すこと。それがヒトであるから、ヒト殺し。
それを別の言葉で無理やり隠してる。
そうやって、無理やり落ち着こうとしている。
わたしはどこか座る場所を探す。
だけど、今日は日曜日。
喫茶店には人が結構入っていたし、それ以前にわたしのこのどろどろした格好ではまず入れないだろう。
仕方ない、歩くか。
さっきの無意識と違って、わたしは軒下を選んで歩いてみる。
そのうちに雨が止んで、わたしは傘を閉じて歩いた。
それから数分後。
わたしはある場所に来ていた。
「あれ。ここのホテルって、改装工事してたんだ」
見慣れたそのビルは鉄骨とビニールシートで囲まれて人が入れないよう、柵がしてあった。
このホテルはわたしが高校受験をするときに使ったビジネスホテル。
建て替えている最中だった。
それを見上げたわたしは屋上に人の気配を感じ取り、息を呑む。
ちょっと待って。これって……。
急に高鳴り始める心臓。
そして、黙らせた真琴も主張してくる。
ここにいる。
わたしの本能もそう言っていた。
辺りを見回し、他に人がいないか確認してみる。
ここは駅の前だっていうのに、不気味なくらい人がいなかった。
でも、今は好都合。
そう割り切ったわたしは、立入禁止と書かれていた札のかかった柵をくぐり、ホテルのエントランスに駆け込んだ。
半分開いたままの自動ドアをくぐり、ロビーに入る。
電気が止まり熱気だけが溜まって暑いはずなのに、わたしは寒気を覚えて震えた。
- 239 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:33
- これはあの時と同じ感覚だ。
融合させられた存在核を知った、あの事件と。
上にいるぞ。
いつの間にか起きた真琴に急かされ、わたしは階段を探す。
屋上だ。
通常の階段と非常階段があり、わたしは非常階段を選ぶ。
ホテルは五階建て。それをわたしは駆け足で上る。
重い空気を切り裂き、刺すような空気に突っ込む。
そして、あっという間に屋上に着く。
ほら、目の前にいるぞ。
そんなの、知ってる。
真琴に言われるまでも無く、わたしはそのヒトを視界に収めていた。
そのヒトはこのホテルの屋上から、下を見下ろしていた。
その後姿に、わたしは辻希美を感じる。
「なにが見えるんですか?」
真琴が辻希美にした質問。
あのとき、彼女は見上げていた。
そして、目の前の彼女は見下ろしている。
「いろんなものが見えるよ」
振り返った彼女よりも、その台詞に息を飲む。
口調は違うけど、辻希美と同じ答え。
次に出る言葉も同じはず。
「君には見えないの?」
「わたしには、あなたが見えてます」
わたしだけがあのときと違う。
あのときのわたしには、もう戻れない……。
「うん、そうだね。言われてみればそうだね」
目の前の彼女がうんうんと頷く。
- 240 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:34
- 髪は茶色のセミロング。
背はわたしより高いだろう。
デニムのロングスカートに、花柄のワンピース。
耳には花柄のピアス。
肌の色は白い。
見た目の彼女の特徴はそれくらいだった。
でも、彼女は普通のヒトとは違った。
わたしは、彼女の周りにある存在核に目を奪われていた。
彼女本体の存在核はある。
だが、それに加えて彼女の周りをさらに三つの存在核が浮遊していた。
まるで、彼女を守るかのように。
多重人格者?
違う、それなら存在核は別れていない。
わたしと同じ。
いや、わたし達と同じだ。
彼女の場合は、一つの身体に四つのヒトがいるんだ。
……。
……。
違う、これはヒトじゃない?
じゃあ、何……?
「ねえ、どうしたの?顔色が悪いね」
微笑む彼女に、わたしは反応できない。
おれが行く!
頭の中で真琴がやたらに主張してくる。
ダメ、あんたが出て行くとややこしくなるの!
それを必死に押さえつけ、わたしは声を出した。
「ここでなにをしてるんですか?」
「あたしはね、探してるんだ」
ずっと微笑む彼女に、なぜかわたしは冷や汗が出てくるのを感じる。
- 241 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:34
- 「なにを探してるんですか?」
それを堪え、言葉を続ける。
そうでもしないと彼女から逃げ出しそうになるから。
「君じゃないね」
肩を竦めてやっぱり笑う彼女に、わたしは畳み掛けるように言葉を被せる。
「こんなところにいて、見つかるんですか?」
「今のままじゃ、見つからないだろうね。だけど、そのほうがいいのかな……?」
そう言った彼女はそれまでの笑みを納め、少し悲しそうな表情をした。
絶対こいつだ!
こいつが殺したんだ!
「ちょっと黙ってて!」
しきりに叫んでくる真琴を制するため、思わず声が出てしまった。
慌てて彼女を見てみるけど、やっぱり、彼女は不思議そうにわたしを見ていた。
「どうしたの?」
「い、いえ、なんでもないです」
わたしは笑って見せるけど、彼女みたく自然な笑顔はできないみたい。
「そうだあなた。名前は何ていうの?」
彼女の屈託の無い笑顔に、わたしは底知れぬ不安を感じる。
「わたしは、小川麻琴って言います」
それから通っている高校の名前を告げる。
「なんだ、その学校って近くだね」
「そうです。あなたの名前は?」
わたしの言葉に彼女はそれまで見せたことの無い、最高の笑顔を見せてくれた。
「あたしは石川梨華。よろしくね」
- 242 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:35
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 243 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:35
-
午前十時、高橋愛は一人、寮の部屋にいた。
目の前には父親が入学祝に買ってくれたノートパソコンが置いてあり、その画面には英語の文字が羅列してあった。
柴田あゆみとの情報ではおおまかな内容しか把握できなかったため、愛は直々に情報を収集していた。
といっても、情報を得ようとするにしても個人のそれはかなりプロテクトが固く、愛はいつもの手段を使っていた。
(でも、これって見つかったら間違いなく捕まるよね)
愛は柴田あゆみと石川梨華が通う大学に直接侵入していた。
もちろん、擬装を行ってからなので、足がつくことは無い……はずである。
まず愛が行ったのは、松浦亜弥からもらった資料に入ってなかった柴田あゆみの学生名簿を補充することだった。
画面には簡略化された名簿が映し出され、それを保存する。
それから手元の石川梨華との名簿を照らし合わせてみる。
「二人の共通点ってないやん」
呟く愛の背中に冷たいものが走る。
柴田あゆみに石川梨華。
二人の共通点は愛の呟き通り、全くと言っていいほどなかった。
まず二人は学部が違う。
柴田あゆみは文学部、石川梨華は工学部。
そして、二人ともサークルには所属していない。
(もしかして、あーしの知らんところで二人は会ってるんかな?)
愛はまだ先の大学というものを想像してみる。
……。
……。
「ダメや、全然想像でけん」
- 244 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:36
- 愛はパソコンを終了させると、部屋を出た。
そして、一階にある食堂に向かう。
「安倍さん。今、いいですか?」
「いいべよ。だけど、手伝ってね」
厨房の中の安倍なつみは食器を洗っていた。
「安倍さん。日曜なのに大変ですね」
愛はシンクの積み重なった食器を一人で洗っていたなつみの隣に移動して、なつみの洗った食器を濯ぐ。
「ところで愛ちゃん、どうしたべ?」
愛を見てくるなつみだが、その手は休むことなく食器を洗っている。
「大学ってどういうところですか?」
「どういうところって……。そりゃ、人それぞれだべね」
なつみは去年まで大学生だった。
そして本来ならばその上である大学院に進学が決まっていたが、ここの寮母が倒れたと聞いて、急遽ピンチヒッターとしてきたのだ。
なつみは前の寮母と親戚で、その関係でこの寮にもちょくちょく顔を出していた。
愛も知り合ったのは去年の夏くらいで、そのときの二人の楽しげなやりとりを覚えていた。
寮母になって半年。
なつみは驚くほど柔軟に対応していた。
そして、本来の人懐っこさで寮生からも好かれていた。
「なっち的には結構面白かったけどね」
そう言ってくすくす笑うなつみに、愛は思わず笑みがこぼれた。
「そうだ愛ちゃん、そのときのアルバムがあるから、見せてあげるべ」
なつみのその一言で、二人は食器を洗うのに集中する。
三十人分の食器はそれから十分後には見事に片付けられ、それからさらに十分で厨房が片付けられた。
- 245 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:37
- 「愛ちゃん、これだべ」
なつみの部屋に移動して、本棚から出されたアルバムを手にとって見る愛。
「この人って、飯田圭織さんじゃないですか?」
たくさんある写真の中に飯田圭織の姿を見つけ、愛は驚きの声を上げる。
「愛ちゃん、よく知ってるべね。圭織は同じサークルだったべよ」
「サークルって、なんのですか?」
「お笑い研究部だべ」
笑顔のなつみに言われ、愛は言葉に窮する。
(ここは追及せんほうがええんやろか?)
さまざまな疑問が浮かんできては消えていくため、どう話したらいいか分からない。
かなり悩んだ末、愛は一つの質問をしてみる。
「もしかして、安倍さんと飯田さんって同い年ですか?」
「そうだべよ。誕生日もほとんど一緒だべ」
愛は写真から目を離し、なつみを見る。
そして、頭の中で飯田圭織の顔を想像する。
……。
……。
(ダメや、二人とも二十三には見えんわ)
「愛ちゃん、圭織って今、なにしてるべ?」
「飯田さんなら、占い師をしてますよ。これが良く当たって、評判なんですよ」
ただし人はきてませんけど……、とは心の中だけで付け加える。
「へぇ〜。愛ちゃん、場所教えてよ。なっち、今度行ってみるべ」
「ええ、いいですよ」
本当なら一緒について行って圭織がどういう対応をするのか見たかったが、それを堪えて住所だけを教える。
「飯田さんとは学部は同じだったんですか?」
「いんや、全然違うべ。なっちは法学部、圭織は教育学部だべ」
思わず悲鳴を上げそうになった愛は、慌てて自分の口を塞ぐ。
(飯田さん、全然そう見えませんよ?)
あくまで心の中だけのツッコミにしておく。
「愛ちゃん。なんの話だったの?」
(そうやった、忘れるところやった)
楽しそうにアルバムを見ているなつみから言われ、愛は本来の目的を思い出す。
「安倍さんと飯田さんって、サークルで知り合ったんですよね?」
「そうだべよ」
「じゃあ、サークル以外の方法で知り合えた可能性ってありますか?」
「サークル以外?」
「そう、授業で同じになるとかは?」
愛に言われ、なつみはしばらく考え込む。
- 246 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:37
- 「愛ちゃん、それはないべ。同じ学部でも、クラスが違えばなっちもあんまり知らないべ。ましてや学部が違うとなれば、ほとんど無理に近いっしょ」
「じゃあ、文学部と工学部ではどうですか?」
「まず無理だべね」
やっぱり、あの二人には共通点がない。
「強いて挙げるなら合コンくらいだけど、それでもあんまり質は高くないべ」
(質って何だろ……)
どこか達観した言い方のなつみに愛はしばらくそのことを考えてみるが、それも筋違いだと思い出して柴田あゆみと石川梨華の共通点について考える。
(どっちも合コンなんて行かなさそうやね)
答えはあっさりと出た。
話をした柴田あゆみの印象はどこか固く、進んでそういったイベントに参加しているとは考えにくい。
参加してもせいぜい一回か二回程度か。
(先輩にもう一度聞いたほうがええかな)
愛は急激に不安になってくる気持ちをなんとかして押さえ込む。
時刻は十一時。
あまりなつみの邪魔をするべきではないと愛は判断した。
「じゃあ、安倍さん……」
そこまで言った愛だったが、
「愛ちゃん。暇なら、圭織のところまで連れて行ってよ。なんか話してたら会いたくなったべ」
と割り込んできたなつみに口ごもってしまった。
「えっと……」
なんとか言い訳を考えていた愛だったが、
「暇だべよね?」
「……はい」
笑顔のなつみに言われ、頷くしかなかった。
- 247 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:38
-
――――――――――
- 248 名前:連続しない循環2 投稿日:2004/12/08(水) 12:38
-
あたしの気持ちって、彼女には伝わらないんだ。
なんでかって?
だって、彼女はあたしのことなんて知らないんだもん。
あたしが一方的に想ってるだけなんだからさ。
あたしは独り、暗闇の中でまやかしの明かりで照らされた下界を見下ろす。
この中のどこかにあの三人もいる。
そして、彼女も。
あいつらと彼女を一緒の世界には置いておけない。
あたしがあいつらを排除して、彼女の世界を綺麗にしてあげないといけない。
大丈夫。体力はまだ持つ。
気力だって十分。
これは我慢比べなんだ。あいつらとあたしの。
でも……。
……。
……。
あたしの気持ちって、いつごろ彼女に届くのかな?
- 249 名前:いちは 投稿日:2004/12/08(水) 12:53
- どうも、更新しました
いちはです
>>224 名無し読者さん
少しだけネタばらしをすると、今は精神的に落ち目なときで
出てくるほぼ全員が辛い時期に突入しています
それぞれが答えを出すのも時間的にはばらばらになってくるので
それまで見守っていてください
それでは次の更新のときまで
- 250 名前:名無し読者 投稿日:2004/12/15(水) 00:24
- 更新お疲れ様です
やっぱこのお話、どんどん引き込まれます
なるほど、みんなそれぞれいろいろ思い悩んでるわけですね
まこっちゃんもみんなも頑張れって!
では次の更新楽しみに待ってます
- 251 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:46
-
連続しない循環3
- 252 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:47
-
新学期が始まった。
その一日目である今日、九月一日は試験が中心。
教科は数学に英語、そして国語。
まあ、夏休みの宿題の範囲だったから、楽勝なんだけどね。
それも午前中で終わって、今は放課後。
だけど気分はいまいち。
曇った空が原因かもしれない。
それを考えないようにして、同じように荷物を片付けているあさ美ちゃんに話しかけた。
「生徒会室に行くんでしょ?」
「うん、行くよ」
というわけで、二人揃って生徒会室に向かう。
隣を歩いているあさ美ちゃんのことをあまり意識せずに、わたしは独りの世界に入る。
昨日、わたしは石川梨華さんって言う人に出会った。
透き通った白い肌と同じくらい透き通った存在の彼女は、わたしと同じだった。
そう、わたしの中に真琴がいるように、彼女の中にも他の人がいる。
しかも彼女には三つもだ。
だけど、なにか違う……。
それはわたしも真琴も感じていた。
だけどなにが違うのかは、まだ分からない。
なんだろ、この違和感。
「まこっちゃん、生徒会室だよ」
「あ、うん」
あさ美ちゃんに言われ、わたしは思考を元に戻す。
石川さんのことはまた今度にしよう。
気持ちを切り替えて、わたしは生徒会室のドアに手をかけた。
「こんにちは……って、なんかだれてますね」
勢い良くドアを開いたけど、中は勢いが全くなかった。
中にいるのは愛ちゃんに松浦先輩、それに後藤真希先輩の三人。
「まこっちゃんに紺ちゃん、久しぶり〜」
「後藤さん。すごく際どいですよ、その格好」
扇風機の前の後藤先輩は上のカッターシャツのボタンを半分ほど外して、中に直接風を送っていた。
前から見ればもちろん見えるって状態だ。
「ん、大丈夫。ごとーの前にきた人間は生かして返さないから」
さりげに怖いことを言う後藤先輩に、わたしとあさ美ちゃんは引きつった笑いをするしかなかった。
- 253 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:48
- 「あれ?」
そこで部屋の異変に気づく。
後藤先輩に松浦先輩、それに愛ちゃん。
そして、わたしにあさ美ちゃん。
誰かがいない……?。
「なにかおかしくない?」
「そうだね……。なんか違和感があるんだけど、なにか分からないね」
あさ美ちゃんも同じようになにかを感じているみたいだけど、それがなんなのか具体的には分からないみたい。
「二人とも、そんなところにぼけっと立ってないで、座ったら?」
団扇で扇いでいた松浦先輩に言われ、わたしは感じていた違和感をとりあえず仕舞う。
「でもさ、今日って無理に集まらなくても良かったんじゃない?イベントなんてないしさ」
「でも、二学期の予定を立てないといけないでしょ?」
愛ちゃんはなにやら紙を見ながら、顔を上げずに言ってくる。
「愛ちゃん。相変わらず真面目だね」
「あーしは元からこうですよ」
やっぱり顔を上げない愛ちゃん。
どうしたんだろ?なんか様子が変だな。
「愛ちゃん、試験はどうだった?」
「さっぱりやよ。どうせ再試があるからええけどね」
かなりまずいことをあっさりと言ってくる愛ちゃんに、わたしは不安を覚える。
「ねぇ愛ちゃん。さっきからなに見てるの?」
ずっと顔を上げない愛ちゃんの紙を見ようと後ろから近づいてみる。
「ごめん麻琴。見んといて」
気配を消して近づいたはずなのに、愛ちゃんは素早く反応してその紙を隠してしまった。
そして、愛ちゃんは席を立ち荷物をしまい始めた。
「すいません。特に用が無いならあーし、帰ります」
松浦先輩と後藤先輩を見て言う愛ちゃん。
その中にわたしとあさ美ちゃんは入ってなかった。
「いいよ。それに、愛ちゃんが生徒会長でしょ?愛ちゃんが決めないといけないんだよ」
「そうでしたね。じゃあ、今日は特になにもありません」
それじゃあ、と言った愛ちゃんが足早に生徒会室を出て行ってしまった。
- 254 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:50
- どうしたんだろ?
頭の中に疑問が渦を巻いているけど、解決するための糸口が全くと言っていいほど見つからなくて、背中がむずむずしてくる。
隣のあさ美ちゃんはカバンから常備していた干し芋の袋を取り出して、ぱくついていた。
「そうだあやや。ミキティとはどうなったの?」
扇風機にあたりながら後藤先輩が唐突に話し始める。
松浦先輩には藤本美貴という彼女(もしくは彼氏)がいる。
一つ年上の彼女とどうやって知り合ったのかは知らないが、そうとう深い仲になっていたらしい。
その藤本さんが松浦先輩の部屋に遊びにくるってことで、愛ちゃんが夏休みの間、わたしの部屋にきてたんだ。
その意味でいうと藤本さんには少し苛立ちを覚えたけど、それも間接的であって結局のところ、彼女は関係ない。
だけど、後藤先輩から話を振られたのに、松浦先輩の反応が無い。
夏休み前にもこんな感じで話を振られた松浦先輩は、それから二時間、ずっと喋り通しだったのに……。
曰く、『男っぽく見えて、実は亜弥よりも女らしい』とか、『絵がかなり個性的』とか、『肉を食べさせないと、人を襲う』などなど……。
どこまでが本当で、どこからが嘘なのかわたし自身が藤本さんをあまり知らなかったから、その判断をつけることができなかった。
わたしが藤本さんとちゃんと話をしたのは、夏休みに入ったばかりのきもだめしのとき。
あのときの藤本さんはやたらとハイテンションで、誰かにツッコミを入れられていたのを思い出す。
- 255 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:50
- ……。
……。
あれっ?
あのとき、藤本さんにツッコミをいれていたのって、誰だっけ?
思い出せない。
誰だったんだろ?
「ミキティとなら、別れたよ」
後藤先輩と同じくらい唐突なその一言に、場の空気が固まる。
あさ美ちゃんなんか干し芋を半分食べかけた格好で止まってる始末。
わたしも同じで、それまで思っていた疑問が頭の中から吹き飛んでしまった。
「亜弥、振られたのかな?いや、違うね」
松浦先輩が静かにため息を吐く。
「いなくなったんだよね、ミキティ。亜弥、ずっと探してるのにさ……」
松浦先輩のその一言に、わたしはそれまでの二人の関係を改めて認識させられる。
松浦先輩と藤本さん。
二人は表面だけじゃなくその内側、つまり精神面でも繋がってたんだ。
さっきまでの明るい雰囲気が一転して暗くなる。
俯いてなにかを考えている松浦先輩。
扇風機の中心を見て固まっている後藤先輩。
再び干し芋を食べ始めたあさ美ちゃん。
でもなにか物足りない。
こんな暗くなった空気を変えてくれる誰かがいたはずなのに……。
でも、それはありえない。
だって、これが生徒会の(女子の)フルメンバーなんだから。
口うるさい真琴ですら今は息を潜めて、この違和感に浸っている。
それはわたしも同じ。
しばらくわたしはなにをしたらいいか分からず、途方にくれる。
- 256 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:51
- と、そこで変化があった。
扇風機の前にいた後藤先輩がごそごそと動き始めたのだ。
彼女は服のボタンを閉めると立ち上がった。
「ねえあやや。アイス買いに行くけど、一緒に行かない?」
「いいねぇ、行こうか」
それに応じる松浦先輩。
二人はこれまでの暗い空気を破って部屋を出て行った。
「なんか大変だね」
「そうだね……」
二人きりになり、わたしは居心地の悪さを急激に感じていた。
いや、これはわたしじゃない。
真琴だ。
彼はあさ美ちゃんを避けている。
でも、彼はあさ美ちゃんのことが好きだとも言っている。
その中間で彼は悩んでいた。
人を理解することの難しさ。
そして自分のことを理解してもらうことの難しさを抱えて、真琴は悩んでいる。
わたしだって同じことで悩んでいるけど、真琴のそれとはまた別物。
だって、わたしはみんなに理解してもらいたいから。
そして、わたしはみんなを理解したいのだから。
そこでわたしは石川さんのことを思い出す。
彼女なら分かってくれるんだろうか、わたしって存在を。
わたしは分かるんだろうか、石川さんって存在を。
……。
……。
分からない。
どうすればいいんだろ?
- 257 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:51
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 258 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:52
- 部屋に戻った愛は、資料を見て静かに凹んでいた。
目の前のPCは立ち上げたが、触っていない。
視界に入っている文字の羅列もそのときの愛には見えていなかった。
それとは別の様々なものが頭の中で渦を巻き、愛の思考を乱してくる。
昨日、安倍なつみに頼まれ、彼女を飯田圭織のところまで案内したのは良かった。
二人が揃うと普段の飯田圭織は影を潜め、別の飯田圭織が現れたのだ。
その飯田圭織はまず、とにかく喋る。
甲高い声に、絶えず出てくるだじゃれ。
愛はそれにうんざりして疲れていたが、なつみは平然と圭織にツッコミを入れていた。
二人はそれからお互いの連絡先を交換して帰ることになったが、そこで圭織が愛に一つの忠告をした。
『どうやら高橋が関わってるなにかは、その方向を変えることになったわ。それが良いのか悪いのかは分からないけど、もしかすると、高橋には荷が重いかもしれないわね』
それはつまり、今回の件から手を引けという遠まわしな表現だったが、愛は引くつもりはなかった。
愛は圭織となつみを頭の中から閉め出して資料をめくる。
分からないことが多すぎる。
今回の件を持ってきた松浦亜弥と柴田あゆみとの接点はあったが、なぜ亜弥からもらった資料の人間が連続ばらばら殺人の被害者なのか。
身元は昨夜の段階で全員判明していた。
そして、愛のもらった資料にもそれらの名前があった。
だが、今回殺されていたのは七人。
そして愛がもらった資料は十人。
つまり、あと三人はまだ生きているのだ。
この三人にコンタクトが取れれば、少しは真相に近づけるのかもしれない。
だが、この三人の連絡先に電話しても繋がらない。
三人のうち一人はPCのアドレスまで書いてあったため、そこに愛はとりあえずメールを送ってみた。
今のところ返事はない。
しかし愛は別に落ち込んではいなかった。
これは保険であって、愛は相手が見ないことをほぼ確信していた。
- 259 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:53
- それよりもすることがある。
この資料がどこから出てきたのかを亜弥から確認しないといけないということだ。
一番確認しておかなければならないことを、愛はうかつにも忘れていた。
(うーん。あーしも歳なのかな?)
中澤裕子が聞いていたらまず間違えなく八つ裂きにされるようなことを、愛は心の中だけで思う。
ただ、松浦亜弥には独自の情報ルートがあり、そこから出されたものならば愛がいくら聞いても答えることは無いだろう。
それに、柴田あゆみと石川梨華との接点が気になる。
結局、なつみの話からではなにも分からなかった。
週末でいいから、直接会いに行ったほうがいいだろう。
それまでは学校があるから、動けない。
愛はこれからすることをまとめると、使わないままPCの電源を落とした。
PCがばちんと小さな音を立てたちょうどそのとき、電話がかかってきた。
相手は新垣里沙。
『やっほー、愛ちゃん。元気?』
今日の里沙はかなりハイテンションで、愛は少し驚きを覚える。
「なんやの里沙。急に電話してきて」
『予告する電話なんてないよ』
「それでもメールとかあるやろ?」
『あぁ、そういえばそうだね』
愛の皮肉にも里沙は明るく答える。
「それで、どうしたん?」
愛は電話の向こうにいる里沙のことが心配になる。
愛と里沙は幼馴染だった。
当然のこと里沙の超記憶のことも愛は知っていた。
それだけに不安を覚えてしまっていた。
『ねえ愛ちゃん。人を好きになるってどういうことかな?』
「はぁ?」
明るい口調のままの里沙の、唐突なその質問に愛は間の抜けた声を上げる。
『だからさ、人を好きになるってどういうときにどういうときなのかなって思ったの』
「うーん……。ねぇ里沙、それって一般論?それともあーしの意見?」
『愛ちゃんの意見が聞きたいな』
「分かった。ちょっと考えるから、待って」
- 260 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:53
- 愛は自身のことを考える。
愛は小川麻琴のことが好きだった。
だから生徒会にも誘ったし、紺野あさ美がホームステイでハワイに行っている間、彼女に積極的にアプローチもしていた。
だが、それも言ってみればそれだけだった。
愛が迫れば、麻琴は困惑しながらも愛を受け入れた。
だが、それは本当に好きだということなのだろうか?
それに気づいてしまった愛はどことなく麻琴から遠ざかっていた。
つまり、一方的に人を好きになっても、それは意味の無いことだ。
相手も自分のことを好きになってくれなければ意味を持たない。
そのことを愛はあさ美が帰ってきてから痛感していた。
帰ってきた日にあさ美が流した涙。
あれには小川麻琴に対する想いがこもっていた。
愛の小川麻琴に対する以上に。
あの三週間、愛が感じていた想いは誰よりも強いものだったと愛自身も感じていた。
が、それもあのあさ美の涙で吹き飛んでしまった。
(あーしの想いってその程度のもんなん?)
心の中では否定したかった。
しかし、否定できるほど愛は強くなかった。
「ねぇ里沙?」
『なに?』
「人ってね自分勝手なんやよ。好きな人なんてすぐに変わるもんなの」
気がつくと愛は勝手に話し始めていた。
「要はそれをどう方向付けるかなの」
『どういうこと?』
「自分が感じている『好き』っていう想いを成し遂げる道筋に、誰がいるのかはあまり関係ない。肝心なのは、自分が進んでいるその道筋が明確に見えているかなの」
里沙から返事が返ってこない。
なにか言おうとして言葉が出ず、愛は考える。
そこでふと一年ほど前に買ったCDの歌詞を思い出した。
- 261 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:54
- 「つまりね、一歩一歩進んでいく人生ってものの中の、その想いっていいう道筋が見えていれば、自ずと『好き』ってものも限定される。そして、その道筋にいる人が『好きな人』ってことになると思うの」
考えがまとまらずかなりアバウトになってしまったが、愛は伝えたいことを伝え、里沙の反応を待つ。
沈黙がしばらく二人を支配する。
愛にはそれが十秒とも十分とも感じられ、おかしな感覚になった。
『愛ちゃん。いい?』
「なに?」
静かな声の里沙に、静かに答える愛。
『一歩一歩進んでいく人生って言ってたけどさ、その人生の一歩ってどのくらいの長さなのかな?』
「えっ?」
里沙の思わぬ一言に、言葉が詰まる。
そもそも人生を道筋に例えること自体間違えているのかもしれない。
その先にあるのは死であり、人間はそれに向かって進んでいる。
それは見えるものではなく、いつ終わるのかも分からないのだから。
こうして里沙と電話している間にもその道を進んでいて、死が迫っている。
以前読んだ本の一説が甦る。
『生きていることの方が異常』
『死んでいることが本来』
その本を最初に読んだときは頭ごなしにそれを否定していたが、今考えてみると分からない。
唐突に頭の中で再生される小川麻琴の寂しそうな顔に小川真琴の冷たい視線、紺野あさ美の涙。
そして、その中であいまいに漂っている自分。
『愛ちゃんごめん。話が逸れたね』
里沙の言葉で、愛はそれらを引きずったまま現実に戻ってくる。
『愛ちゃんの言ってることは難しいけど、なんとなく分かるよ。全部記憶しておいたから、後でゆっくり考えてみるよ』
それからろくに会話をすることは無かった。
電話を切り、愛は考える。
(今のあーしって異常なんやろか。それともこれが本来なんやろか?)
出るはずの無い答えを求めて、愛はそれからしばらく当ての無い航海をすることになる。
そして、それはさきほど愛がまとめた疑問を見事に拡散させ、かつ見事に忘却させていた。
- 262 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:54
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 263 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:55
-
「大学ってまだ夏休みなんですか?」
わたしは買ったけど開けていない缶コーヒーを手で転がしながら、手すりにもたれかかって下を見下ろしている石川さんに話しかけた。
「そうだよ。九月いっぱいまでは休みだね」
「いいなぁ〜。高校もそれくらい休みがあったら良いのに……」
「でも、休み明けのテストは変わらないよ。二ヶ月も開いてるもんだから覚えてないんだよね、講義の内容」
肩を竦めた石川さんが見下ろすのを止めて振り返ってきた。
その顔はやっぱり笑顔。
アンバランスな感じがするけど、石川さんだと全然違和感は無かった。
「でも大半はレポートで試験自体することも無い……かな?」
「いや、そんな疑問系で聞かれても、わたしには分かりませんよ」
何がおかしかったのかいまいち良く分かんなかったけど笑い出した石川さんを尻目に、わたしは持っていた缶コーヒーをようやく開ける。
ホットだった缶コーヒーは今ではすっかり冷えて、コールドになっていた。
「あのさ、ひとつ気にになるんだけど、聞いても良い?」
「なんですか?」
首を傾げている石川さんに笑いかけながら言うわたし。
だけど、それも石川さんのように自然に出たものではなかった。
今笑ったのは、わたしが笑えって全身に命令したから。
それを受けて顔がそう反応しただけ。
「昨日聞いた話だと、もう一人まこっちゃんっているんでしょ?その娘は出てこないの?」
「わたしと違ってシャイなんですよ」
柄にも無いことを言ったのを聞いていた真琴が中で何やら言ってくるが、わたしはそれを聞かなかった。
- 264 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:56
- 真琴は石川さんが今回の事件を引き起こした張本人だった主張している。
でも、わたしはそれを信じなかった。
だって、目の前にいる石川さんはどこもおかしくは無い。
至って正常だ。
存在核が分裂していてもみんなおかしいってわけじゃない。
わたし達も分裂してるんだから。
……。
……。
違う。
わたし達はおかしいんだけど、それが周りに伝わらないだけだ。
だからといってそれを石川さんにも当てはめるのは間違いだ。
だって、石川さんはわたし達よりこんなに安定しているだよ?
こんな石川さんが人を殺すはずなんて無い。
ただ、事情があるだけなんだ。
真琴がぐずぐず言ってくるのを完全に無視して、わたしは頭を石川さんだけに切り替えた。
そして、その石川さんに聞いてみる。
「ところで石川さん。好きな人っていますか?」
「どうしたの?いきなり」
「いえ、何となく聞いてみたかったんです」
あまりに唐突過ぎたのか、石川さんはしばらく目線を上げて考えていた。
その石川さんが答えてくれるのをひたすら待つわたし。
本当はこんなことを聞きたいんじゃない。
まだ質問は終わったわけじゃない……。
「いるよ」
「なら、愛している人っていますか?」
あさ美ちゃんが中澤さんにした質問を、わたしが石川さんにしてみる。
わたしのその一言で石川さんは見事に固まっていた。
口が開いたままでわたしを見ている石川さんがどこかいつものわたしみたいで、わたしは思わず笑い出しそうになる。
だけどそれをしたら石川さんに失礼だから、それを我慢して石川さんを見つめた。
「……それってどこが違うの?」
難しい顔で石川さんがそう呟く。
呟かれたわたしも答えに窮するけど、聞いたんだしちゃんと言わないといけない。
- 265 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:57
- 「もしかすると違わないのかもしれないんですけど、それでも言葉では『好き』と『愛』って分かれてます。わたしはこの二つがどうしても一緒のものって考えられないんです」
「たしかに、感覚としては似てるけど、言葉が違うと意味が違ってくるもんね」
石川さんはわたしの曖昧な疑問を素直に感心してくれたのか、何度も頷いている。
「石川さんはどうですか?この二つの違いって分かります?」
意地悪なのは分かってるんだけど、あえてわたしは石川さんに畳み掛けるようにして言ってみた。
目の前にいる石川さんなら、わたしの疑問に答えてくれるかも。
そんな期待がわたしにはあった。
いや、あったってわけじゃなくて、石川さんからその答えを聞きたいんだ。
「正確な違いは分からない。言葉としての定義はできるかもしれないけど、それは人間一人一人の感覚で見極めるものじゃないかな?」
「一人一人の感覚……ですか?」
「そう。人にはそれぞれ価値観があって、それは他の人とは当然違ってくる。だから、それを判断する人次第でその言葉の捉え方も違ってきちゃうんじゃない?」
そう言って石川さんは再びわたしに笑いかけてきた。
だけど、わたしはそれに答えることができなかった。
ただ、小さくため息を吐くだけ。
「それって、結局はわたしの気持ち次第ってことですよね」
「ぶっちゃけるとそうなるけど、それが人間だよ」
「何か達観してますね」
「そりゃ伊達に大学生してないからね」
肩を竦めた石川さんがおかしくて、ついにわたしも笑ってしまった。
- 266 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:57
- 「でもさ、まこっちゃんっていつもそんなこと考えてるの?私なんて言われてみるまで全然考えなかったな。ていうかそんなに思いつめてると息が詰まっちゃうよ」
「そうですね。気をつけます」
そう言ってわたしは立ち上がる。
時計を確認すると三時を過ぎていた。
「じゃあ、そろそろ帰りますね」
「うん、じゃあね」
わたしの一言に石川さんはもう一度笑って、背中を向ける。
そして、そこにいる石川さんは再び一人の世界に戻ってしまった。
そんな石川さんから視線を外してわたしはホテルの中へと入る。
薄暗い非常階段を下りながら、疑問を払拭できなかったことにもう一度ため息を吐いた。
わたしは答えが欲しかった。
境界はどこにあるのか。
わたしはどこで境界を引けば良いのか。
でも、結局それを石川さんには聞けなかった。
やっぱり、こんな疑問はするもんじゃない。
わたし一人で答えを見つけるべきなんだ。
暗い気持ちでそう思ったわたしは、行きと同じように重い足を引きずりながら寮へと戻ることにした。
- 267 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:57
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 268 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:58
-
中澤裕子は独り、殺人現場に来ていた。
時刻はすでに夜中の一時を回っている。
無人のその現場に立ち、裕子は目を凝らす。
裕子にとって、死体の有る無しは大した問題ではなかった。
死んだ人間、いや、殺された人間には多かれ少なかれこの世に未練があり、それが残留思念となって漂うこととなる。
「これはすごいな……」
思わず声が洩れる裕子。
事件現場に漂っていた残留思念は、強い後悔だった。
六人分の後悔。
通常の残留思念には強い憎悪がこめられていて、それが新たな憎悪を呼び込む原因になっている。
だが、今回の残留思念は後悔。
それがどのくらい凄まじいものか裕子には理解できなかったが、それでも一つだけ分かったことがあった。
それは唐突にやってきた。
殺意を感じた裕子はとっさに左耳のピアスをもぎ取り、床に叩きつける。
小さなガラス球が砕け散り、簡易だが裕子が知っている限りもっとも強固な結界が裕子の周りに展開された。
次の瞬間、裕子の目の前が青白く燃え上がり、ビルが激しい爆発に飲み込まれた。
(爆弾じゃない。残留思念に点火したか)
凄まじい爆発もほんの一瞬であり、裕子は音が途切れるのと同時に結界を破って外へ飛び出した。
(このままでは騒ぎが大きくなる。距離をとらないと……)
路地裏を走りながら、一人愚痴る。
(これまでのあいつの殺り方を知ってれば、これくらい予想ができただろうに……)
まんまと相手の術中にはまり、裕子は内心焦りながらも的確に行動していた。
「だがな、それがお前の悪い癖でもあるんだ」
- 269 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 10:59
- 実際に聞こえてくるその声に、裕子はとっさに飛びのくことしかできなかった。
衝撃とそれによって舞い散る裕子の髪の毛。
そして、辺りは砂煙に包まれ、視界を遮られる。
(くそ、八本持っていかれた。女の命を!)
自分に殺意が芽生えるのを自覚しながら、裕子は目の前の砂煙を睨みつける。
(いや、こいつはもうヒトじゃない。ヒトの形をしたモノだ)
頭の中でそう必死に言い聞かせる裕子。
が、それでも本能はそれを否定していた。
ゆっくりと収まっていく砂煙の中に一人の、そして独りのモノを確認する。
「みちよ……」
砂煙が晴れ、そこに立っていたのは半年前に裕子と対峙したときと同じ格好の平家みちよだった。
「久しぶりだな、中澤裕子。といっても、この私とは初めてか」
「ウチとしてはもう会いたくなかったわ」
本来の口調に戻って言う裕子。
「そう言うな。私にだって都合はあるんだ」
肩を竦めて言ってくるみちよに、裕子は不思議な気分になる。
(殺された人間の、殺された時点の性格を複製しての再生か。やっぱりウチが殺したんか)
頭の中ではそう考えながらも、本能が危険を訴えてくる。
「三年前、私はお前に僅差で敗れた。今回はどうかな?」
ゆっくりと近づいてくるみちよに、今度は裕子が肩を竦める。
「どうもこうもないわ。ウチはもうあんたと殺り合うつもりはないわ」
三メートルほどの距離を開けて対峙する二人。
(あの時、ウチはこの距離でみちよを殺した)
その距離は裕子にとって必殺の距離であり、みちよにとっての必殺の距離ではなかった。
ただし、あの時の場合だ。
今ではない。
- 270 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 11:00
- (あいつはウチの能力を吸収しとるはずや。本気でかからんと生き残れんか)
だが、今のみちよにはそれにプラスするなにかを持っているはずだ。
以前、思念体で現れたみちよが裕子に言った言葉を思い出す。
『私は、ヒトの限界を知りたい』
短かったが全てを語っていたみちよに、裕子は恐怖した。
平家みちよはヒトではなくなった。
中澤裕子はあのときに平家みちよと断絶したはずだった。
が、それでもこうやって繋がったままでいる。
(これはもはや必然やな)
裕子は心の中だけで愚痴る。
動き始めた歯車は止まらない。
誰かが犠牲になってそれを止めない限り……。
(でも、まだウチにはやらんといかんことがある。歯車に挟まるわけにはいかん)
「辻希美を別けたのはお前か?」
「そうだ」
相手の動揺を誘おうとして聞いたが、それに動揺する相手ではなかった。
「他にどれだけの種を蒔いた?」
「さあ、覚えてないな。わたしは望まれたときにしか出て行かない。それがお前なんだろ?」
それを聞いた裕子は苦笑いする。
なにもかもあの時と同じだ。あの時の自分と。
……。
……。
なら、今の自分とどこが違う?
この半年で中澤裕子はどう変わった?
「三年前まではそうやったな。あの時のウチとそっくりや、目の前のあんたは」
静かに言い放つ裕子に、すでに迷いはなかった。
脳を切り替え、目の前の平家みちよを敵と認識する。
「だがな」
睨みつけた先には、平家みちよが無表情で立っていた。
「ウチもこの三年で変わったんや」
一歩みちよから退き、距離を開ける裕子。
あの時の裕子が相手なら、これで自分は瞬殺されない。
「今のウチが、ホンマの中澤裕子や」
獰猛な笑みを浮かべる裕子。
それに静かに応えるみちよ。
- 271 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 11:01
- 「そうか、私の知っている中澤裕子は私だけか。残念だ」
みちよの姿が消え、それと同時に裕子は背後にハイキックを繰り出した。
衝撃とともに、裕子の右足がみちよの手に遮られる。
(三年前のウチなら、嫌ってくらい覚えとるわ)
裕子は崩された上体をそのまま前に倒し、両手を突く。
そして自由になった左足でみちよの腹を狙う。
みちよはそれを見越していたのか、ろくな反撃をせず距離を開ける。
裕子も勢いを殺さず転がって距離をとる。
四メートル。
(ウチがリードしとる。いけるか?)
たったあれだけの動きなのに、息が上がっていた。
(くそ、これが三十路かい。もうちょい動けよ、身体!)
年齢を急激に認識しながら、裕子は胸ポケットからライターを取り出す。
少しでも落ち着きたかったから。
「私はあの時の中澤裕子が好きだった。今のおまえは必要ない」
みちよは冷たい視線で睨むことなく、ただ事実を述べるだけだった。
「なんや、そないに冷たくせんでほしいわ」
その視線を正面から受け止めながら、裕子は小さく笑って返す。
(接近戦はウチが不利。やったら近づく前に決着(ケリ)をつける!)
緊張して身体が震えるのを堪えながら、ピースを取り出す。
そして、それを口に銜えると手にしたライターで火を点けて、深々と吸い込んだ。
ニコチンが全身を巡るのが分かり、裕子はその感覚に安堵する。
(大丈夫、ウチはまだウチや)
そのとき目の前のみちよの姿が唐突にかき消えた。
どうやら吸い終わるまで待てないらしい。
- 272 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 11:01
- 「そんなとこまで半年前のウチやな」
そう呟いた裕子は、まだ半分ほど残っていたピースを背後に投げ捨てた。
それを追って痛烈に死を感じさせる気配が現れる。
「爆」
だが、裕子は構うことなく小さく呟いた。
そしてそれを受けて小さな爆発が起こる。
それを現れたみちよはかわすことなく正面から受け止めた。
みちよが引き起こした爆発とは違い、裕子のそれはピースを導火線にしたものだった。
衝撃と共に巻き起こる煙。
(やけど、これも効果はないか)
距離を取りながら裕子はみちよの姿を探す。
平家みちよはやはりその場所にいた。
右手を正面に突き出して。
(あれに当たっとったら、ウチは死んどったな)
なにもかも半年前の自分を体現していて、裕子はいいかげん辟易していた。
「あのなみちよ。あんたは前に戦ったときのウチをそのまま模しとるが、それだけじゃウチは殺せんで。なにせ、今のウチはあのときのウチとは違うからな。ウチを殺したかったらそれ以上のなにかをせなあかん。それが分かっとるか?」
殺されるかもしれない相手に忠告しながらも、裕子は内心でそれを否定する。
平家みちよはすでにそのことを知っていて、種を蒔いた。
それが実を結べば、それはみちよのものとなる。
今回は都合が良かったから仕掛けてきたからであって、裕子が来なければそのまま流れていたはずだ。
- 273 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 11:02
- 「知っているさ、それくらい」
案の定、みちよは動じることなく返してくる。
「今の私ではまだ中澤裕子には勝てない。が、それも後少しだ。こいつが私の内にくれば、私は中澤裕子に勝てる」
そう言うみちよの周辺の空気が渦巻き始め、みちよを取り囲んでいく。
「中澤裕子、次を待て」
そのみちよの一言を最後に、一瞬だけ風が強く吹いた。
それを腕で遮った裕子が目を戻したときには、すでにみちよの姿はなかった。
「なんや、もう行ってしもうたんか」
裕子は半ば怒鳴り散らすようにして言うと、懐からたピースの箱を取り出す。
そして、その中から一本を引き抜いて火を点けた。
目の前には突如戻ってきた静寂と、爆発の衝撃でできた小さな窪みだけ。
(今は静かだが、じき、うるさくなるな)
二人が争った代償として、ビルが一つ全壊した。
すでに警察なり消防なりに連絡がいって、騒がしくなるだろう。
「やっぱ、ウチは出て行かんほうがええんかな?」
そう呟いて投げ捨てたピースは、宙で小さな音を立てて弾け跳ぶ。
(兄貴、ウチはまだあんたを追い越せんわ……)
踵を返して闇に消える途中、裕子は死んだ兄を思い出し、弱音を吐いた。
- 274 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 11:02
-
――――――――――
- 275 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/15(水) 11:03
-
今日は、あのビルで大きな音がしたの。
あれにはあたしもびっくりしたけど、それからがもっとびっくり。
だってあのビル、壊れっちゃったんだからさ。
でも、あんなビルなくなってもいいもんね。
あたしには辛いことしかないんだから。
いっそのことあたしが壊そうかとも思ってたんだよ?
まあ、か弱き乙女がそんなことしてちゃダメだけどね。
さてと、あたしはあたしの仕事をしないとね。
今日、やっとあの三人のうち、一人を見つけたの。
居場所だってちゃんと分かってる。
だから……。
殺すのは、明日ね。
- 276 名前:いちは 投稿日:2004/12/15(水) 11:14
- 更新しました、いちはです
いきなりなんですが、タイトルのところを間違ってました
今回の更新部分は、正確には「連続しない循環3」です
すみません
>>250 名無し読者さん
悩みが漠然としすぎていまいち何なのか分からない
そういった状況がしばらく続きます
主役の麻琴・真琴にしてみても一人(実質には二人ですが)であれこれ悩みます
二人いるんで出てくる答えも二つになりますが
それがどういった答えになるのかはもう少しお待ちください
次は「連続しない循環4」です
それでは
- 277 名前:名無し読者 投稿日:2004/12/21(火) 22:36
- 更新お疲れ様です
漠然の思い悩みいつかまこっちゃんたちが出す答えが出る最後まで
是非読ませていただきます!
では次の更新も楽しみにしてます
- 278 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/22(水) 10:14
-
連続しない循環4
- 279 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:15
- 夜、一人でぼんやりしていると、新垣里沙ちゃんから電話がかかってきた。
『もしもし、まこっちゃん。今、大丈夫?』
「大丈夫だよ。どしたの?」
時刻は九時少し前。
あさ美ちゃんはお風呂に行ってて、幸いわたし達だけだった。
といっても最近のわたしと真琴は分裂状態で、あんまり話をしていない。
そう言った意味でわたしは一人だった。
で、里沙ちゃんがこんな時間にいきなり電話してくるってことは、おそらく用事があるんだろう。
前にもこんなことがあったからさ。
『あのさ……急で悪いんだけど、海に行きたくなっちゃった』
ほら、予想通り。
「わたしの前に愛ちゃんに電話した?」
前もこんな感じでわたしは里沙ちゃんに呼ばれて海まで連れて行ってあげたんだけど、そのときはなぜか愛ちゃんが怒りに怒って二時間ほど説教を喰らってしまった。
何でだろう……。
『今回は大丈夫だよ。愛ちゃん、忙しいからまこっちゃんと行ってだってさ』
「あ、そうなんだ。それなら安心だね」
『でもさ、何で二人で遊びに行くのに、愛ちゃんの許可がいるんだろうね?』
「さぁ……」
本当は分かってるけど、わたしはそのことについて何も言わなかった。
愛ちゃんには悪いけど、わたしはやっぱり愛ちゃんのことを愛してはいない。
だからってわけじゃないけど、愛ちゃんに束縛される理由はないんだと思う。
……。
……。
何か嫌な人間だな、わたし。
不意に込み上げてきた暗い気持ちがわたしを包んで、わたしは声を出さないように笑う。
何で声を出さなかったかというと、きっとその声が擦れていたから。
『じゃあさ、明日九時に家まで来てくれる?』
「……オッケー。分かったよ」
電話の向こうから聞こえてきた里沙ちゃんの声に、深呼吸をして答えた。
幸い声は普通だった。
- 280 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:16
- 「で、明日は何の話をするの?里沙ちゃんのことだから、また何やら難しい話でもするんでしょ?」
『あれっ、何で分かったの?』
「だっていつもそうじゃん」
電話越しの里沙ちゃんの声があまりにも素っ頓狂で、わたしは思わず笑ってしまった。
『何で笑うの?』
「ごめんごめん」
『笑いながら言っても全然効果ないよ!』
電話の向こうでぶうと言って頬を膨らませている里沙ちゃんの顔が手に取るように分かってしまった、わたしは今度は声を出さないようにして笑う。
『まこっちゃんさぁ。声出さなくても笑ってるって分かるんだよね』
「うえっ?」
絶妙なタイミングで言ってきた里沙ちゃんにわたしは変な声を上げてしまった。
「何で分かったの?」
思わずそう言ってしまい、わたしはその質問がものすごく間抜けだったことに気づく。
『ほら、やっぱり笑ってたんだ。明日は自転車漕いでよね』
「分かったよ。っていうか、言われなくても漕ぐつもりだったんだ。だって里沙ちゃんが前だとすごく不安定なんだもん。後ろに乗ってると生きた心地がしないんだからさ」
前のときなんかあんまりふらふらしてるもんだからわたし、途中で降りちゃったもんね。
しかも里沙ちゃん、そのことに気づいたのってずっと後だったし……。
『うわ、ひっど〜いっ!』
「ひどくないよ、事実でしょ?」
『そりゃ、まこっちゃんが重かったからだよ』
うっ、そういう切り返しをしてくるか。
「わたしのは重いんじゃなくて、愛情が詰まってるんだよ。だから、重く感じるの」
『それって、全然理由になってないよ』
「立派な理由だって。わたしのは体重じゃなくて、愛情なんだもん」
『まこっちゃんさ、言ってて寒いと思わない?』
電話越しの里沙ちゃんがからからと笑いながら言ってくるのを聞いて、わたしもようやく自分の言ったことを理解した。
やっぱ思いつきでぺらぺら喋るもんじゃないね。
すごく寒いじゃん。
「……ごめん、すごく寒かった」
『ほら、やっぱし!』
里沙ちゃんの一オクターブ高くなった笑い声に少しばかり耳が痛くなる。
- 281 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:17
- 里沙ちゃんさ、笑うときはもうちょっと抑えて笑ってよ。
聞いてるこっちにはがんがん響くんだからさ。
なんてことを思いついたけど、それを言ったら怒りそうなので言わないことにして里沙ちゃんの笑い声をずっと聞くしかなかった。
だけど、それは別に嫌じゃなかった。
「ところでさ里沙ちゃん」
ひとしきり笑った里沙ちゃんにわたしは自然に話し始めていた。
『ん。なぁに?』
里沙ちゃんの返事を聞いて少しだけ躊躇するけど、それでもわたしは進むことを選んだ。
何をどう思ったのかはわたし自身も良く分からないけど、自然に口から言葉が出ていた。
「わたしもさ、里沙ちゃんに聞いて欲しいことがあるんだ。良い?」
『もちろんじゃん。いっつも私だけだから、いい加減疲れるんだよね。だけどまこっちゃんさぁ、何か悩んでるの?』
「何言ってんの。わたしはずっと悩みっぱなしだよ。ただ、言葉にできなかっただけ」
そう、言葉にできなかったんだけど、今なら何となくそれを言えるかもしれない。
それを誰かに聞いて欲しかった。
誰かと一緒に考えて欲しかった。
『いつもぼけっとしてるまこっちゃんでも、悩むことってあるんだね』
「それってかなりひどくない?」
さらりと言ってきた里沙ちゃんに少しばかり拗ねた口調で言ってみる。
すると、『さっきのお返しだよ』と、これまたさらりと言ってきた。
何かひどい言われようだけど、相手が里沙ちゃんだから特に何も感じることは無かった。
これって何なんだろうね、ちょっと不思議。
『じゃあさまこっちゃん。明日の九時に家まで来てね』
「オッケー。八時くらいにメール入れてね。起きてないかもしれないからさ」
『分かってるよ。だってまこっちゃんだもん』
またまたひどいことを言ってきた里沙ちゃんに思わず言い返しそうになったけど、それをする前に電話は切れてしまった。
- 282 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:18
- プーッ、プーッっていう音を言い始めた携帯から耳を離して、画面を閉じる。
耳がちょっとばかり熱くなってたけど、それすらも気持ちが良かった。
今のわたしなら、これまで抱えていた疑問を素直に言えそうな気がする。
そして、里沙ちゃんならその疑問に答えてくれるかも。
そんな淡い期待をしながら時計を見る。
ちょうど九時半を指していた。
わたしの今日の一日はこれで終わり。
あとは真琴の時間。
結局何も言わなかった真琴を尻目に、わたしは良くなった気持ちのまま布団に入る。
久しぶりに遠出するから緊張してるんだけど、それでも身体は正直だった。
眠気に襲われたわたしは沈んでいく意識の中で真琴が何かを言ってくるのを聞いていた。
でも、わたしはそれを無視して意識を潜行させる。
きっと真琴のことだから石川さんのことで何かを言ってるんだろう。
それが気に入らない。
「何で、あんたとわたしって一緒なんだろ……」
せっかく良い気持ちになっていたのにそれを台無しにした真琴に小さく呟くと、わたしはそのまま眠ることにした。
- 283 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:18
-
――――――――――
- 284 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:18
-
興味深い研究対象がここにいる。
アヤカ・エーデルシュタインは、自身が所有するそのビルを見上げてそう直感した。
魔力の込められた物質には、同等の魔力を引き寄せる力がある。
今回はそれが働いた結果だった。
「さて、と……」
そこでアヤカは立ち止まって自問する。
これほどの魔力を込めた人間に接触するのに、今の自分で大丈夫なのかと。
この場のアヤカにはミカから無理やり渡された使い魔が一匹。
そして、アヤカ自身が創った使い魔が一匹。
ミカのそれは不可視で、アヤカのそれは肩に止まった青い鳥だった。
「大丈夫。でも保険をかけておかないと……」
小さく呟いたアヤカは右耳からつけていたピアスを外し、受付カウンターの上に置いた。
簡易の転送機能を持つそのピアスがうっすらと光るのをアヤカは確認する。
それからアヤカはエレベーターに向かった。
途中、落ちていたブレーカーを一瞥する。
その一瞥で下がっていたブレーカーが上がり、再び電力が供給され始める。
エレベーターに乗りアヤカは迷わず『R』を押した。
鈍い音と共に動き出すエレベーター。
ミカの使い魔が危険を感知して低い唸り声を上げている。
そして、アヤカの使い魔は恐怖を感知してその羽をばたつかせていた。
そんな二匹に構わずエレベーターが目的の場所に着いたことを知らせてくる。
屋上に降り立ったアヤカがまず見たのは、血に塗れた一人の少女の背中だった。
いや、少女にしては大人びている。
が、といっても大人のそれとも違い、中途半端なその状態がその場をさらに複雑にしていた。
その少女が肩を震わせて、静かに泣いていた。
- 285 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:20
- 「すごい……」
その背中にアヤカは人の業の深さを知らされる。
それと同時に道徳といった固定観念の縛りの強さに辟易としていた。
「なぜ、あなたは泣いているのですか?」
肩を震わせていた少女が素早くアヤカの方を振り返る。
その目は真っ赤に充血していて、それだけで彼女の業の深さを測ることができた。
「ヒトを、殺したの」
少女からの呟きが聞こえる。
それは弱々しく途切れそうだったが、不明確な意志だけは伝わってくる。
それをアヤカはなんであるのかをすぐに見極める。
「なにも恐れる必要はありません。あなたは正しいことをしているのですから」
「なにが正しいの?あたしはヒトを殺したのよ!」
少女の叫びに、アヤカは不可解な魔力を感じる。
(これは、奇術師に意図的に覚醒させられた者の匂い。これは罠だったか?)
そう感じたアヤカは少女を無視して周辺をスキャンしてみるが、他の人間、特に奇術的な気配は全く感じられなかった。
(ならば、覚醒させた奇術師は死んだということですか。それとも……)
日本の奇術師協会は三年前に事実上崩壊していた。
そして、その協会に属していた奇術師もほぼ全員死亡していた。
その際に行われた奇術師による奇術師狩りにアヤカももちろん参加していた。
今、日本に存在している奇術師は協会に参加していなかった、いわばアウトローな存在で、彼らは前の協会のように群れることを嫌って独自の世界に閉じこもってしまった。
そのため、今の日本に奇術師が何人存在しているか、正確に把握できない状況だった。
が、それでもアヤカには確信があった。
それを周囲の魔力で敏感に感じ取る。
- 286 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:21
- 現在の日本における代表的な奇術師を挙げるとすれば、アヤカが選ぶのは次の三人。
一人目は物質破壊の最高峰、中澤裕子。
二人目は根源探究者である、稲葉貴子。
そして……
特徴の無い、限りなく無に等しい存在である、平家みちよ。
(魔力から推定して、彼女が覚醒したのは一月前。それができるのは……)
壊すことが主の中澤裕子には他人の覚醒などできやしない。
集めるだけの稲葉貴子にも到底無理。
「平家みちよ……」
答えに至ったアヤカの呟きが思わず口から漏れた。
それと同時に周囲の空気に緊張が走り、危険を察知したアヤカはそれに反応してとっさに後ろへ飛ぶ。
それと同時に鈍い音がして、さきほどまでアヤカが立っていた場所から砂埃が舞う。
それはさっきまで弱々しかった少女が行った凶行だった。
(やはり、あの女でしたか)
自分に危険が迫っているにも関わらず、アヤカはほくそえむ。
奇術師の奇術にかかっている人間は、奇術をかけた奇術師の名前を聞くとそれを無条件で排除するという性質を持っている。
今、目の前にいる少女がまさしくそうだった。
(あの女は生きている)
平家みちよは中澤裕子に殺されたはずだった。
アヤカはそれが達成されるのを目の前で見ていたのだから、間違えるはずはなかった。
だが何の間違えなのか、平家みちよは生きていた。
- 287 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:22
- 「私に殺されるために、あの女は生き返った!」
感極まったアヤカの叫びに呼応して、砂埃を突き破って少女がアヤカに襲い掛かってくる。
「止めろ」
アヤカが肩に乗った自身の使い魔に命じる。
その小さな使い魔は、くえっ、と小さく一鳴きすると小さな羽を一度だけ羽ばたかせた。
使い魔からアヤカにしか視認できない微小の燐粉が巻き起こり、それが少女の身体に纏わりついた。
燐粉には麻痺性の毒が仕込んであり、それを吸った人間は動きだけが縛られることになる。
少女もそれに違わず、アヤカの目の前でその動きを止めていた。
「私はあなたに興味はない。あなたをそうした人間に興味がある」
苦悶の表情をしている少女に冷たく言い放つアヤカ。
だが、その目はさきほどの少女と同じくらいに血走っていた。
少女のほうはすでに自我が戻っており、目の前のアヤカを見てその顔を恐怖で歪ませるだけだった。
その少女の顔をアヤカは鷲掴みにする。
当然のことながら、少女は抵抗することなどできない。
少女はいつしか泣いていた。
が、それもすでにアヤカにとってはどうでもいいことの一つに成り下がっていた。
「女、お前の名は?」
嗚咽の混じった声で、言われるまま少女は自分の名前をアヤカに告げていた。
- 288 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:22
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 289 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:23
-
九月六日、土曜日。
あーしは焦る気持ちを抑えながらあるところに向かっていた。
本当はすぐにでも行きたかったけど、あーしにだって学校がある。
それに飯田さんが言ったとおり、あーしの回りでは目立った変化はなかった。
だけど、社会には大きな変化があった。
それをあーしは三日付けの新聞で知ることになる。
あーしが探していた、残りの三人。
それが揃って殺されていたのだ。
前の七人と同じようにばらばらになって。
これで、あーしに残されたのは石川梨華だけになった。
それに、松浦先輩に資料の出所だって聞いていない。
というか聞ける雰囲気じゃなかった。
部屋にいるときもいつもの松浦先輩はいなくて、塞ぎこんで呟いている先輩がいるだけだった。
麻琴から聞いたところによると、松浦先輩の大切な人、藤本さんがいなくなったとのことだった。
「いかん、考えが逸れとる」
あーしは頭を振って、松浦先輩を頭の片隅に追いやる。
石川梨華の家は大学の近くにあり、彼女は自宅から大学に通っていた。
門限はあまり厳しくないほうで、月に一回は友達のところに泊まりに行っているみたい。
だけど、その友達の中に柴田さんの名前はなかった。
柴田さんと出会った日から、あーしは彼女に会っていない。
電話で連絡するにしても、『まだ分からない』とだけ言ってすぐに電話を切っていた。
その電話も昨日から通じなくなっていた。
あーしなりの結論は出ている。
だから、焦っていた。
- 290 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:24
- 柴田あゆみと石川梨華の二人は親友ではない。
それ以前に知り合いなんてこともありえない。
ネットだけが武器にならざるを得なかった平日は、取れ得る手段を講じた。
その甲斐あってか、二人の大学の履修状況を手に入れることができた。
あーしの予想通り、二人が同じ講義をとっていることはなく、これで完全に二人が交差するきっかけがないことが証明された。
あのとき柴田さんは石川梨華から電話をもらったと言った。
だけど、これも信憑性は無い。
だから、あーしが自分で確かめる。
入り組んだ小道を進んで、学生名簿に記入されていた住所に向かう。
それから十分だろうか、あーしは目的の家を見つける。
平凡な一軒家。
ここに石川梨華がいる。
緊張しながら呼び鈴を押そうと手を伸ばした。
そのときだった。
目の前のドアが開き、一人の女の人が出てきた。
石川梨華だ。
こんな展開は予想してなかった!
とっさに隠れようとしてけど、テンパったあーしほどドンくさい人間はいない。
「きゃっ!」
なにもない、いたって普通のアスファルトの道路の上でなぜか滑ったあーしは、かなり情けない悲鳴を上げるしかなかった。
気がつくと、あーしは両手を地面についてなんとか顔を打たないようにしていた。
でも、持っていたカバンがどこにいったのか、石川梨華の住所が書いてある紙がどこにいったのか、全然分からなかった。
「ついてないなぁ……」
なんとか身体を起こして、カバンを探す。
「ねぇ、このカバンってあなたの?」
「へっ?」
あーしの頭の上で、聞き慣れない声がしてくる。
その声の主を見て、あーしは固まってしまった。
学生名簿に張ってあった写真のヒト、つまり、今あーしの目の前にいるのは石川梨華だ。
その石川梨華があーしのカバンを持って立っていた。
- 291 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:24
- 「え、えぇそうです。ありがとうございます」
立ち上がって、身体についた埃を払いながらカバンを受け取る。
「ところで、家に用があったみたいだけど、なに?」
きょとんとした表情で立っている石川梨華を尻目に、あーしは一つ深呼吸をする。
「すいません。あなたは石川梨華さんですね?」
確認するまでもなかったけど、石川梨華はあーしとは初対面。
それを把握しなければならない。
「うん、そうだけど、あなたは?」
名前を呼ばれた石川梨華は、きょとんとした表情であーしを見ている。
「単刀直入に聞きます。柴田あゆみって人を知ってますか?」
柴田さんの写真を見せながらのあーしの一言に、石川梨華はうーんと首を捻る。
「さあ、ちょっと分からないな。誰だったかな……」
そう言って石川梨華は自分のポーチから手帳を取り出して、中の紙をめくる。
手帳にはプリクラが無数に張ってあって、それだけで石川梨華の交友関係が分かった。
やけど、今のあーしにははっきり言って関係ない。
あるのは二人の接点だけ。
それもないのなら、そうという確証がほしかった。
そして、それを柴田さんに言わないといけない。
「あ、思い出した。そうだ、柴ちゃんだ」
甲高い声を上げる石川梨華に、あーしは耳を疑う。
なんで知ってるの?
それじゃあ、あーしの仮説が間違ってることになるやん。
二人は接点なんて無くて、柴田さんが勝手に思い込んでいる。
石川梨華を親友だと。
そして、勝手にでっち上げた親友の失踪をこれまた勝手に自分だけで抱え込んでいる。
つまり、誰も見ていないのに一人芝居をしているってことだ。
やけど、饒舌になった石川梨華から話を聞くにつれて、あーしはその仮説を最悪の方向に修正しながら、これからの事態を想定しなければならなくなった。
- 292 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:25
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 293 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:25
-
(こいつは息をすることを知らないのか?)
目の前でさっきから話をしている小川真琴に、中澤裕子は辟易しながらピースをふかしていた。
すでに相槌を打つことも止めそっぽを向いていたが、真琴はそんなことはどうでも良かったらしい。
話は止まることなく延々と続いている。
「つまり、麻琴のやつは目を閉じたってわけだ。後ろを見ることが麻琴の役目なら、あいつはその役目すら放棄してしまった。ただ目を閉じて、逸らしているだけだ。そんなのおれにとっちゃ、迷惑そのものだが、そんなことやっぱりあいつは知らないんだな」
今日の真琴は用意がいいことにペットボトルを持参していた。
これでは喋りつかれて帰るということは無い。
それだけに裕子は苛立っていた。
「それで、お前はなにが言いたいんだ?」
本当ならば『知るか』と一蹴したかったが、そうしてもあまり効果がないことを知っているため、裕子は根気強く問いかける。
「おれとしてはあいつの正体を暴いて、麻琴に目を開けろって言いたいね。それくらいしなくちゃ麻琴は目を覚まさない」
どうやら小川真琴は興奮すると口調が変わるようだったが、そんなことは裕子にとってどうでもいいことだった。
今はこの辛い時間が過ぎ去るのをじっと耐えるだけだ。
本当ならば怪我をした稲葉貴子の元へ行きたかったが、それは貴子本人から断られているため、裕子はそれ以上関与しないことにした。
だが、それでも悔やまれる。
(もっと早くウチが決着をつけておけば、あっちゃんはああならんですんだのに……)
そんなことを考えている裕子のことは気づかず、真琴は先を続けてくる。
「石川梨華っていうのも怪しいもんだぜ。あれが本当の名前かどうかっていう意味でさ」
(それはもう三回聞いた)
心の中だけで毒づきながら、裕子は窓の外に視線を下ろす。
そこには見慣れた一人の少女の姿があった。
どうやらここへくるらしい。
- 294 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:26
- 裕子は腕時計を確認する。
夕方の六時を指した時計のことを、二人は知っているのだろうか。
(知るわけないか)
ため息を吐きながら、裕子は真琴へ振り返る。
貴子のことも棚にしまい、気持ちを切り替える。
「おい小川。高橋がここにくるぞ」
だから帰れ、とは言わないものの、視線だけでそれを伝える。
が、今日の真琴にはそれすらも効果が無かった。
「なんだ、好都合じゃないか。あいつにも話をしないとな」
やけに楽しそうに言ってくる真琴に、裕子は肩を落として抗議の意志を示したが、そんなことに気づくはずも無い。
ほどなくして高橋愛が部屋に入ってくるが、真琴を見て固まった。
「麻琴?」
「違うな。おれは真琴だ」
意地悪く笑う真琴に部屋の空気が重くなるが、それでも愛は真琴に構うことなく裕子の方へ歩いていく。
「どうしたんだ?やけに怖い顔をしてるな」
真琴よりも話しやすい相手がきたことで、裕子も愛の相手をするために彼女に向きを変える。
「中澤さん。人って思い込むとどこまで暴走しますか?」
が、愛の唐突なその質問に裕子は再び顔を顰める。
「なんだお前ら。私を困らせたいのか?」
できることならこんなことに体力を使いたくない裕子だったが、愛のまっすぐな視線を受け止めて肩を竦める。
どうやら逃げることはできないらしい。
それを悟った裕子はしぶしぶ口を開いた。
- 295 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:27
- 「それはベースとなる人間に因るな。ベースとなる人間の感情が豊かで、かつ、その事象に対して執着があるならば、人はどこまでも暴走できる。たとえそれが本人にとって暴走になっていなくてもな」
「なんだ裕子。おれの話にはまったく乗らなかったのに、高橋の話には反応するんだな」
すかさず真琴がつっこんでくるが、裕子は無視して愛を見る。
それを見た真琴は口の中だけで舌打ちをすると静かになった。
「感情が豊かって、どういうことですか?」
さっきの答えでわざとぼかしていたところを鋭く突いてくる愛に、裕子は口笛を吹く。
それから素早く思考を巡らせ、考えをまとめた。
「感情というのは内面に在るものを外面に向けてどう表現するかだ。たとえば悔しいから泣く。これは他人が見るとただ泣いているに過ぎない。その原因が悔しさからきているということを認識させるには、泣いている本人がそうだと主張しなくてはならない。感情が豊かな人間とは、その内と外が直結していることが他に対して主張できる人間のことだ」
「でもそれだと、テレビとか見て笑ったりすることも感情が豊かってことになりませんか?」
「おかしいから笑うというのももちろん感情から生じるものだ。だが、そのおかしいという点は人それぞれだ」
饒舌になった裕子は真琴を一瞥してにやついてやった。
すると真琴は露骨に顔を歪め、裕子から目を逸らした。
これで真面目に話ができる。
そう判断した裕子は目の前の愛に視線を戻した。
その愛は裕子の話を真剣に聞いている。
- 296 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:27
- 「たとえば、芸人が二人漫才をしているとしよう。片方がボケで、もう片方がツッコミだ。ネタの面白さはこの際問わないぞ。二人の掛け合いの中でボケ役がボケる。それにツッコミ役がツッコミを入れる。観客はそれを見て笑うわけだが、どこで笑うかは観客それぞれだ。ボケ役のボケ方が面白いから笑う観客もいれば、ツッコミが面白いから笑う観客もいる。当然のこと、それとはまったく別の要因で笑う観客もいるわけだ」
裕子としてはコントよりも漫才が好きだったが、最近はそういう芸人が多くなりすぎて何が面白いのか、どの芸人が面白いのか良く分からなくなっていた。
が、それを表に出す裕子でもない。
あくまで例だ。
「話が反れたな。元に戻すぞ」
愛の後ろで真琴が笑っているのがやけに気になり、裕子はそれを睨みつけながら先を続ける。
「感情を表すのはあくまで自己の意志がなければならない。自分が面白いと思うから笑う。悔しいと思うから泣く。それが外部から強要されたのでは、それはもはや感情ではなく単なる反射だ」
真琴を意識の外に追いやり気分が良くなった裕子は、懐からピースを取り出し、手で火を点ける。
そしてそれを思い切り吸い込むと、窓から外に向かって紫煙を吐き出す。
- 297 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:28
- 「次の、その事象に対して執着があるかどうかだが、これも結局はその個人がどう思っているかに因る。これこそ思い込みだが、それを言えば説明にならないからな。あまり深く考えるな。つまり、その個人がその事象に対してどのように位置づけを行っているかだ。言い換えれば優先順位か。これが上にあればあるほどその個人にとっては重要であり、下にあればあるほど忘却の対象となる」
「忘却ってことは、忘れちゃうんですか?」
「そうだ、人間は常にその優先順位を変えて生きている。重要でないものをいつまでも残しておけるほど器用な人間はいない。その結果として、優先順位の低いものは忘れ、新しいものを上書きするんだ」
人間の脳に保存できる情報など、たかが知れている。
それを認識せず人間は常に生活し、情報を取得する。
まだ愛や真琴の年ではそれを明確に認識することは難しいだろうが、裕子は違った。
どんなに苦い思い出も、楽しかった思い出も、全て均一に薄れていく。
それを裕子は認識していた。
たった三年前の出来事なのに裕子はそれを封印したがために、すでにそのときのことを半分も覚えていなかった。
明確に覚えているのは最後の部分だけ。
泣きながら向かってくる平家みちよに、それを迎え撃つ自分。
そして、その脇に転がっているミカ・エーデルシュタインとアヤカ・エーデルシュタイン。
あのとき体験したはずの熱気、殺意、恐怖、そして後悔。
それらはすでに過去のものとなって、裕子から乖離していた。
それを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、答えはいまだに見つかっていない。
- 298 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:28
- 「思い込むということは、これら二つの条件が満たされた状態だが、その状態に陥った人間にとってはさほど重要でなくなる。そこまで思い込んだ人間はすでにそんなことにすら考えが回らなくなってしまうからな」
裕子はまだ半分ほど残っていたピースを投げ捨て、新しいピースに火を点ける。
火を点けた直後が一番おいしく、それ以降はどんどんまずくなってくるのを知っているから。
「なら、その思い込みで人格を複製することはできますか?」
愛の質問に裕子は燻らせたピースを銜えたまま考える。
「人格というものは複雑すぎて、複製などできない。できるのはせいぜい外見だけで、それを完璧に真似るということはまず無理だな」
これは裕子が前に研究していたことであり、結果は明確だった。
人格を口で説明するのは容易い。
だが、それを真似るということは不可能だ。
人間というものは常に外部から刺激を受けて、それに反応しなければならない。
その刺激によって人格も少なからず影響を受け、同じ状態を維持することはできない。
裕子にしても外部から刺激を受けて人格を変化させているのを自覚していた。
真琴にしても愛にしても裕子にとっては外部であり、それらからの刺激からは逃れることはできない。
こうやって話をしているということ事態、裕子にとってそれを自覚させるものだった。
「できるとすれば、それは完全な自己の願望だな。こうあってほしいとか、こうあるべきだとかの」
「じゃあ、そうして勝手に作り上げた人格ってのが、元の人格を乗っ取るってことはありますか?」
愛に問われ、裕子は思考を巡らす。
愛に指摘されたことは考えたことがなかった。
もとより一人での研究に終始していた裕子にとって、他人のことは考慮外のことであったから。
- 299 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:29
- 「元の人格というのがその人間固有の人格のことなら、それを新たな人格が乗っ取ることはできないな。固有の人格は生まれたときから出来上がっているものだ。それを乗っ取れるほど強力な人格を作り上げることは、まずできない」
「でも、多重人格とかありますよね。あれはどうなんですか?」
「あれは元の人格をプロテクトするのが目的で作られる人格だ。元の人格を阻害する原因が消えれば作られた人格も消えてしまう。小川みたいに特別な人間もいるが、まあ、こいつは特別だから考慮するまでもなかろう」
愛と裕子に見られ、真琴は鼻を鳴らす。
「おれもそうだと思っていたが、そうでもないぞ。おれより特別な人間はいるぞ」
裕子はしまった、という顔をしたがそのときにはすでに遅かった。
話を振られた真琴が話し始め、裕子は耳を塞ぎたくなる気分になる。
「おれというか、麻琴が見つけた人間だが、そいつには存在核が五つある。元の核が一つとして、作られた核が四つだ。これを一つの体に収めるのは至難の業だぜ」
おれ達にもその秘訣を教えてほしいもんだな、と真琴は続ける。
「そいつは石川梨華なんだろ?」
さっき散々話を聞かされた裕子が、先回りして答える。
- 300 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:30
- それを聞いた愛の体が硬直した。
その愛を見た裕子は首を捻り、真琴はただ鼻を鳴らすだけだった。
「ちょっと真琴。石川梨華って、この人?」
愛はカバンの中から紙切れを取り出して、真琴に渡す。
それは愛が手に入れた石川梨華の学生名簿のコピーだった。
「いや、あいつはこんなに黒くはなかったぞ」
コピーを少しだけ見た真琴がすぐに愛にそれを返す。
裕子もそれを見るが、そこに写っている人間は真琴が話した印象とはだいぶ違っていた。
「お前が話した石川梨華は、髪が茶色だったよな」
コピーに写っていた石川梨華は、白黒だったが黒髪だとすぐに分かった。
「なら、こっちの人?」
今度は柴田あゆみの写真を取り出して、真琴に見せる。
「そうだ、こいつだな。ちょっと待てよ。麻琴のやつにも確認させるから」
写真を持ったまま、真琴が目を閉じる。
そして、目を開けるころには真琴は麻琴になっていた。
「あ、この人だよ。石川さんは」
そうあっさりと答えた麻琴だったが、話はそれだけで終わりそうには無かった。
- 301 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:30
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 302 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:31
- 麻琴の一言に、あーしは脱力する。
探していた石川梨華は石川梨華ではなくて、柴田あゆみが石川梨華だった。
いや、これは正確ではない。
柴田あゆみが思い込んだ石川梨華が、あーしの探していた石川梨華だった。
アターレであった柴田あゆみがあーしの探していた石川梨華だったんだ。
そして、その石川梨華は小川麻琴と接触している。
抜けた力を脇にあったテーブルで支えて、あーしは何とか身体を支える。
「麻琴、その人どこにおる?」
言葉にすることで何とか思考を回転させるが、それでもあーしには先が見えてこなかった。
だけど、柴田あゆみに言わなければならない。
あなたが見ているのは幻想で、偽りだということを。
それをはっきりあゆみに伝えなければならない。
「その人なら、改装工事中の駅前ホテルにいると思うけど……」
ここ二、三日は会ってないけどね、と付け加える麻琴の声をあーしはしっかりと記憶する。
(あの人には前を見てもらわんと……)
その決心を胸に、あーしは握り締めていた拳に力を込めた。
- 303 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:32
-
――――――――――
- 304 名前:連続しない循環4 投稿日:2004/12/22(水) 10:32
- 人を殺したあたしに、人並みの生活なんてできやしない。
前にあるのはそれを受け入れたあたし、後ろにあるのはそれから目を逸らしていたあたし。
どっちを選ぶか?
簡単なことよ。
あたしは、もう止まれない。
だったら、進むだけ。
それがたとえ破滅でも、あたしは進むしかないの。
でも、あたしは消えない。
だって、あたしが消すんだもん。
それが、誰であってもね。
- 305 名前:いちは 投稿日:2004/12/22(水) 10:45
- 更新しました、いちはです
今回で一部について種明かしがされてますが
なんでそうなったのかはまだしてません
それは次ということで
>>277 名無し読者さん
主役に少しばかり心境の変化が出てきました
それが良いのか悪いのか分かりませんが
一番肝心な部分をここでは端折ってます
その部分については次の話で補完するつもりです
次回で「連続しない循環」完結です
ただ、思い切り血が流れます
それでは
- 306 名前:名無し読者。 投稿日:2004/12/28(火) 23:13
- 更新お疲れ様です
だんだん明らかになってきて益々この話にのめり込んでます
次回はなんか怖そうだけど凄い楽しみです
- 307 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/29(水) 12:31
-
連続しない循環5
- 308 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:32
- 午後十時。
一人、中澤裕子はピースを燻らせる。
ようやく一人の時間を手に入れ、それを満喫していた。
高橋愛と、小川麻琴の二人は今夜にでも現場に向かうだろう。
だが、裕子はそれを手伝うつもりはない。
裕子が出て行けば、他の奇術師が出てくる。
それに、もともと今回の事件も奇術師が関与していた。
それは中澤裕子にとっては人形に成り下がったかつての友、そして稲葉貴子にとっては生き返った悪夢。
稲葉貴子はその悪夢に腹を抉り取られ、入院を余儀なくされている。
「私は、逃げているのか?」
紫煙を吐き出し、その行方を追いながら自問する。
本当なら裕子が現場に行って、平家みちよと対峙すべきだ。
だが、それが裕子にはできなかった。
人形とはいえ、平家みちよは平家みちよだ。
それを殺すことなど、できるはずはない。
以前対峙したときの平家みちよは、かつての中澤裕子を見事に模していた。
それを痛感した裕子は、殺されることはなかったが、同時に殺すこともできなくなっていた。
- 309 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:33
- 殺すことのできなくなった自分は、次は確実に殺される。
『中澤裕子、次を待て』
周りの空気に飲み込まれながら言ったみちよの一言。
次に会うとき、裕子は確実に殺されるだろう。
「だがな、みっちゃん……」
裕子は自身の右手を見下ろす。
この右手でみちよの心臓を握りつぶした。
その感覚は一生忘れることはできない。
「ウチらはもう、必要ない人種や。やから、消えていこうで」
奇術に頼らなくても、人は先へ進める。
根源など知らなくても、人は己の価値を見出せる。
裕子にはそれで十分だった。
後ろにあるドアがノックされて裕子はそれまで泳がせていた思考を慌てて元に戻す。
この時間にやってくるのは小川麻琴か高橋愛だが、その二人は今夜は来ないことは分かっていた。
不思議に思いながらドアを開ける裕子だったが、目の前にいる人間を見て舌打ちをする。
その人間は小さな肩を震わせていた。
「あなたが中澤裕子さんですか?」
(高橋め、私をパイプ役にしたな)
目の前に立っている少女は、知っていたが初対面だったが写真で見た人間、石川梨華だった。
- 310 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:33
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 311 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:34
-
午後九時。
わたしは食堂で食器を洗っている安倍さんに気づかれないよう、静かに寮を出た。
外では愛ちゃんが待っているはず。
「あれ、なんであさ美ちゃんもいるの?」
そう、そこにはなぜかあさ美ちゃんもいた。
その隣の愛ちゃんは居心地が悪そうに頭をかいていた。
「ごめん、あさ美に見つかったわ」
「見つかるも何も、私の目の前でこそこそしてるからだよ」
あっさりと言ってくる愛ちゃんに、怒っているあさ美ちゃん。
どうやら部屋を抜け出した愛ちゃんはばったりあさ美ちゃんと出くわしたらしい。
「それに、まこっちゃんがいなくなったらそれで分かるしね」
飄々と告げてくるあさ美ちゃんに、わたしは眉をひそめる。
そう、これが二人部屋のデメリットだ。
寝るときは必ず二人になる。
その片方が欠けていればもう片方も異常に気づくってわけ。
「でさ、愛ちゃんから大体の事情は聞いたよ」
「えっ、あさ美ちゃんも行くの?」
いつになく仕切っているあさ美ちゃんに度肝を抜かれながら、何とか聞いてみる。
「当たり前でしょ。二人だけじゃ心配だよ」
いや、三人でも心配なのは変わらないけど……。
ま、いっか。
なぜか自信満々に答えてくるあさ美ちゃんに、わたしは肩を落として同意することにした。
おい、高橋だけならまだしも、あさ美まで連れて行くつもりか?
仕方ないでしょ。あさ美ちゃんって言い出したら聞かないんだからさ。
頭の中でぶつぶつ言っている真琴を押し止めて、わたし達は駅前ホテルに向かう。
途中、あさ美ちゃんも愛ちゃんも無言だった。
- 312 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:34
- 土曜日ということもあって駅はかなりの人だったけど、裏道に入るとその人もぱったりといなくなった。
駅前なのに人の気配なんかしないのが、やけに気になる。
わたしは目の前にある駅前ホテルを見上げた。
すっぽりとシートが掛けられた外見はどことなく棺桶を想像させ、わたしはその考えを慌てて頭を振って打ち消す。
そのときだった。
背筋に電気が走ったかのように、わたしは身震いする。
いるぞ!
真琴も同じように感じたんだ。
異様に強く、そして攻撃的になっている存在核を。
これは石川さん、もとい、柴田さんの五つの存在核のうちのどれかだ。
しかも、近くにいるわたし達にその攻撃的な意志を向けている。
「愛ちゃん、どうやら話してる時間はなさそうだよ」
わたしは護身用のナイフを取り出して、左手に構える。
「麻琴、どういうこと?」
一般人の愛ちゃんにはこの殺気は分からない。
というか分かってほしくない。
だけど、この状況だとそうも言ってられないかも。
「あさ美ちゃん、分かる?」
「うん、分かるよ。すごい殺気……」
愛ちゃんの後ろにいるあさ美ちゃんは、どっちかって言うとわたし寄りの人間だからこの殺気も感じ取れるだろう。
でも、感じることはできても反応できるかが問題。
これはわたしの知っている柴田さんじゃない。
なにかのきっかけで、五つあった存在核のバランスが崩れたんだ。
麻琴、上だ!
真琴が言うのとほぼ同時に、わたしはあさ美ちゃんと愛ちゃんを突き飛ばしていた。
その一瞬後にはもちろんわたし自身も地面を転がってその場から離れる。
- 313 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:35
- 次の瞬間、わたし達が立っていた地面に轟音と衝撃が襲い掛かってきた。
それと同時に巻き上がる砂埃。
「柴田さん!」
襲ってきたのはもちろん柴田さん。
だけど、わたしの呼びかけに彼女は答えてくれない。
砂埃はすぐに晴れ、わたしは目の前の光景に言葉を失った。
最初に目に飛び込んできたのは、血走った目の柴田さん。
そして、背中から生えている鳥の翼だった。
「ちっ」
羽の生えた柴田さんが、舌打ちをしながらホテルの中に消えていった。
その動作には無駄がなく、とても素早かった。
「ちょ、ちょっと、麻琴?あれって……」
後ろで愛ちゃんの震える声が聞こえてくる。
「柴田さんはバランスを失ってるんだと思う。そして、その状態の柴田さんにわたし達は狙われてるよ」
柴田さんは消えたのに、わたし達を取り囲む殺気はまったく消えることがなかった。
むしろさっきの一撃で殺せなかったのを悔しがっているのか、殺気は濃くなっている。
だけど、わたしにはそれ以上に彼女の存在核が目に焼きついていた。
通常は丸くて独立しているはずの存在核が、柴田さんのは五つくっついて、歪な形になっていた。
一つが暴走したにせよ、五つ同時に暴走したにせよ、そのバランスはすでに失われている。
それを元に戻すには、彼女の存在核を分離させるしかない。
「あさ美ちゃんはすぐ愛ちゃんを連れてここから離れて」
「まこっちゃんは?」
「わたしは、柴田さんを元に戻しに行く」
銀のナイフを右手に持ち替え、わたしはホテルの中に走りこんだ。
後ろで愛ちゃんとあさ美ちゃんの声が聞こえてくるけど、すぐにいなくなってくれるだろう。
- 314 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:36
- ホテルの中は電気が通ってなくて、暗かった。
目が慣れるまでまだ少し時間がかかるようだ。
おい麻琴、これはおれの仕事だ。代われ!
「ダメ。これはわたしがやらないと、いけない」
柴田さんのことを知らない真琴では、彼女の存在核を分離させることはできない。
それがするのはわたしの役目だ。
まだ何か言ってくる真琴を無理やり押さえ込んで、わたしはエレベーターホールに向かう。
よく見るとエレベーターホールの電気は通っていて、エレベーターには乗れるようだ。
そのエレベーターは三階で止まっていた。
絶対罠だ。
真琴の警告を無視するけど身体は忠実で、わたしは隣にあった非常階段から上を目指した。
そして、すぐに三階に到着する。
柴田さんはきっと三人から逸れたわたしを最初に殺しにくるはず。
それにはわたしに近づかないといけない。
そのときがチャンスだ。
エレベーターホールの真ん中に立って、じっと待つ。
周りから丸見えなこの場所でわたしは柴田さんが迫ってくるのを待つ。
無謀な賭けだけど、こうでもしないとあの機動性と破壊力を備えた柴田さんには太刀打ちできない。
わたしは呼吸することすら忘れて、周りの空気と同調する。
これが歪んだとき、柴田さんはやってくる。
彼女の存在核は右胸を中心に展開していた。
それを一つでもいいから切り離せれば……。
そのときだった。
周囲の空気が緊張するのが分かり、わたしはとっさに後ろを振り返り、ナイフを突き出した。
次の瞬間、わたしに何かがすごい勢いでぶつかり、わたしは成す術も無く吹き飛ばされる。
そして背後の壁に叩きつけられ、息を詰まらせた。
な、に……?
衝撃よりも先に、驚愕で頭が真っ白になる。
わたしは、反応できなかった?
わたしが振り返るより、柴田さんの攻撃のほうが早かった?
まずいぞ、麻琴!
目の前には柴田さんが立っていた。
目を真っ赤に充血させ、その息遣いは荒い。
まずい、離れろ!
真琴が必死に呼びかけてくれるけど、わたしはさっきの一撃で動くことができない。
わたしは柴田さんが伸ばしてきた右手を、茫然と見ることしかできなかった。
- 315 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:36
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 316 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:37
-
情が移ると勘が鈍くなる。
麻琴はそれを分かっちゃいない。
気絶した麻琴を無理やり押し込めると、おれはさっきの衝撃でもかろうじて手放さなかったナイフで、おれの頭を掴んでいる柴田あゆみの右手を切り裂いた。
止めを刺そうとしていただけに、油断があったのだろう。
驚きのあまり、柴田あゆみはおれを放り投げて距離を取った。
ホールの中央に陣取りながら、おれはすぐさま全身のチェックを行う。
さっきの衝撃で全身が思うように動かなかったが、それは自覚すればなんとでもなる。
問題は左腕だ。
さっきの一撃で使い物にならなくなった。
折れたんじゃない。
ひじから先が半分引きちぎられている。
どうすればこうなるのか検討がつかなかったが、それでも相手はそれをやってのけた。
このまま放っておけば血が流れておれまでダウンだ。
止血をしたいが、そんな暇を与えてくれる相手ではないのは血走った目ではっきり分かる。
おれは覚悟を決めると、真正面から柴田あゆみに特攻をかける。
思い切り殺気を放ちながら。
相手は当然のことながらかわすが、おれの狙いはその後ろの壁だった。
- 317 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:37
- 存在核というのは何も人間だけにあるものではない。
人間以外の全てにこの存在核はあり、おれ達はそれを見ることができる。
見ることができるんだから、触ったり壊したりすることも当然のことだ。
柴田あゆみのちょうど後ろにあった壁の存在核をナイフで壊す。
核を失った壁は当然のことながら崩壊するが、そんなことを柴田あゆみは知る由もない。
突然崩壊した壁に驚きながら、柴田あゆみはさらに後退してしまった。
その隙に、おれは柴田あゆみとは反対方向へ走り、部屋の一つに入る。
これもドアの存在核を破壊して入ることになったが、おれにとっちゃどうでもいいことだ。
ベッドのシーツを剥ぎ取り左腕の傷口に当てるが、皮一枚でぶら下がった左腕が邪魔だった。
おれはそれをナイフで切り落とすと、左腕(もちろん体のくっついているほうだ)にシーツを巻きつける。
これで少なくとも数分は生きながらえるだろう。
ただし、これはあくまで応急措置だ。
早く決着を着けないと……。
しかも相手はほぼ無傷。
これからどうやって反撃するか。
おれは反撃のための道具を探すため、部屋を見回した。
- 318 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:37
-
――――――――――
- 319 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:38
-
獣と化した柴田あゆみは、死なない相手を目の前に戸惑っていた。
最初の一撃を寸前でかわされ、二度目は慎重に近づき、その左腕に噛み付いた。
およそ人間とは思えないその歯で骨をもあっさりと噛み砕き、肘から先を使用不能にすることができた。
だが、それでも相手はあゆみの右腕を切り裂き、どうやったか分からないが背後の壁を崩して、驚いている隙に逃げた。
小川麻琴。
どうやら相手は只者ではないらしい。
だが、あゆみにしてみればそれも些細なことだった。
(でも、あたしより弱い)
柴田あゆみは確信する。
自分に存在する四つの人格を統合させた今の自分に、敵はいない。
暗闇の中でも物が見える『猫』
空を自由自在に駆け回ることのできる『鷲』
どんな相手も一口で飲み込んでしまう『蛇』
そして、それを総括する『柴田あゆみ』もしくは『石川梨華』
これだけの人格が混ざり合っている自分に勝てるわけがない。
あゆみはそう信じていた。
左腕の使い物にならない小川麻琴は、すぐさま反撃してくるだろう。
そのときが小川麻琴の最後だ。
柴田あゆみはいつでも体を反応させられるよう適度に緊張させたまま瓦礫の上を悠然と、だが着実に目標に向かって進んだ。
- 320 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:39
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 321 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:39
-
ホテルの中ではさきほどから轟音が鳴り響いている。
そのたびに高橋愛は体を震わせていたが、紺野あさ美は違った。
(私だって、戦える)
空手も多少かじったし、それにあさ美には最強の武器がある。
いや、これは正確に言えば武器ではない。
あさ美が信じる概念だ。
だが、使いようではそれも武器になることをあさ美は知っていた。
「愛ちゃんは逃げて!」
あさ美は叫ぶと、麻琴と同じようにホテルの中に駆け込んでいった。
残された高橋愛はどうすれば良いか分からず、ただ戸惑うばかり。
(逃げろって言ったって……二人が残ってるのに、あーしだけ逃げれんわ)
だが、愛にはできることは何もない。
唯一の手段であった説得も、柴田あゆみがあのように暴走した状態では望みも薄い。
混乱した愛は、最後の手段として取っておいた携帯のメモリから『中澤裕子』を選んで通話ボタンを押した。
『高橋か。私からも電話しようと思っていたところだ』
「それより中澤さん、石川さんはきてませんか?」
ワンコールで繋がった中澤裕子の愚痴に耳を傾けることなく、愛は切り札を出す。
『あぁ、そいつなら今、ここにいるぞ』
「だったら、その人を連れて、すぐに駅前ホテルまできてください。麻琴とあさ美が危ないんです!」
中澤裕子が積極的に関与しないのであれば、関与するよう仕向けるしかない。
それが愛の出した結論だった。
だから、石川梨華に中澤裕子の居場所を教えたし、今夜そこへ行くよう伝えておいた。
もはや、愛の手に負える状況ではなかった。
麻琴なり裕子なりの特殊な人間の領域だ。
愛の唯一の心配は、紺野あさ美だった。
彼女だけは愛と同じ一般人だ。
だが、この時点で愛は知らなかった。
あさ美がすでに麻琴や裕子と領域を同じにする人間になっていたことを。
「なんであさ美まで行ったん?」
愛の呟きは轟音にかき消され、届くことはなかった。
- 322 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:40
- 一方、その紺野あさ美はホテルの内部を、驚きながらも駆け抜けていた。
一階はどこも異常はなかった。
音は上から聞こえるため、あさ美は近くにあった非常階段から上に向かう。
だが、それもすぐさま考え直さなければならなくなった。
二階から三階に上がる階段が見事になくなっていた。
それだけではない。
横にあるエレベーターホールを見ると、二階の天井がなかった。
それは、三階のエレベーターホールが崩れていることを示していた。
瓦礫に埋まった二階のエレベーターホールの先から轟音がしてくる。
あさ美はそれに引き付けられるかのように向かう。
足元が極端に悪くなり、ときおり上から小さな瓦礫が落ちてくる。
三階の崩壊はもはや決定的で、その場にいるあさ美も危険だった。
麻琴、いや、真琴はどこにいるのか。
それがあさ美の全てだったが、それもこの暗闇ではなしえることができない。
あさ美の目の前で火花が散り、二人の人間がほんの一瞬だけ見える。
片方は真琴で、もう片方はあさ美の知らない人間、柴田あゆみだった。
その柴田あゆみを見て、あさ美は驚く。
柴田あゆみから出ていた『赤い糸』は全部で四本。
そのうち太い二本はお互いに結びついて、固く結ばれていた。
そして、残りの二本は結びついた二本を守るように漂っていた。
(そんな、在り得ない)
一人の人間から四本も糸が出ていること自体、すでにあさ美にとってイレギュラーだった。
しかも出ている糸同士が、同じ人間で結ばれている。
その二本の糸は柴田あゆみと、柴田あゆみの中で創られた石川梨華だったが、そんなことをあさ美が知るはずもなかった。
ナイフを突きたてようとした真琴があさ美を確認して、その顔を歪める。
そして、突きたてようとしたナイフをそのまま引いて、あさ美のほうに走ってくる。
- 323 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:41
- 「あ、まこっちゃん!」
とっさに叫んだあさ美だったが真琴はそれに構わず、あさ美の首を掴んで近くの部屋に入った。
途中、真琴が壁にナイフを突き立てると、その壁は崩れて柴田あゆみをそれで遮ってしまった。
「なんできた」
目の前で荒い息を吐く真琴の顔は青い。
そして、左手が無かった。
「あぁ、これか?最初の一撃で取れたから、攻撃に使ったんだ」
軽く言ってくる真琴だったが、その目は真剣そのものだった。
こうやってあさ美と話している間も、常に目を動かして周囲を警戒している。
「止血しないと!」
雑に結ばれていたシーツを解き、あさ美は持っていたハンカチで傷口を固く止血する。
「真琴。あの人、異常だよ」
「知ってる」
戸惑いながら言うあさ美に、あっさりと答える真琴。
あさ美はその事実を受け入れることができず、真琴はその事実を受け入れていた。
「さっきの不意打ちで何とか一つをつぶすことができたが、まだ四つ残ってる」
こうやって話している間にも真琴の呼吸は荒くなる。
「だけど、コツは掴めた。あいつはワンパターンだ」
そう言った真琴は、持っていたナイフを床に突き立てる。
それと同時に崩れる床。
「あさ美はここから外に逃げろ。足場は悪いが、降りれないこともないだろう」
「真琴は?」
逃げるなら一緒に、と言おうとしてあさ美は固まる。
真琴の顔は笑っていた。
- 324 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:41
- 「おれは、あいつを殺さないといけない」
ナイフを器用に右手だけで構える真琴に、あさ美は冷たいものを感じる。
これが真琴とあさ美の差。
それは埋まるものでもなかったし、埋めるものでもなかった。
だが、それでもあさ美はその場に留まることを選んだ。
「真琴が行くんなら、私も行く」
「はぁ?」
あさ美の力強い一言に、真琴は口を半開きにして答える。
「お前がきたところで、巻き込まれるだけだぞ」
「それでも私は行くの」
真琴はあさ美のまっすぐな視線を受けて、小さく舌打ちする。
「くるのは勝手だが、おれの前には出るなよ」
「?」
真琴の一言にあさ美は首を傾げるが、すぐにその意図を理解することになる。
真琴がナイフを壁に突き立てるとその壁が崩壊し、新たな道が現れた。
「この先、あいつの隙を狙うにはこうやってサプライズを仕掛けないといけないからな。お前のことまで構ってられないぞ」
- 325 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:42
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 326 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:43
-
このとき、すでに小川真琴は柴田あゆみを捕捉し、柴田あゆみも同じように小川真琴を捕捉していた。
そして柴田あゆみは真正面から、その機動性を最大限に生かして向かってきた。
だがそれは真琴にとって、すでに慣れた感覚に成り下がっている。
「三回も同じ手は食らわねえよ!」
小川麻琴が最初に受けた左腕の傷は、柴田あゆみの存在核の一つ、『蛇』の能力によるものだった。
だが、それはさっき小川真琴がその左腕を活用することによって潰すことに成功した。
そして柴田あゆみに残っている、柴田あゆみを強化している存在核は二つ。
すでにその能力を看破していた真琴にとって、それは単なる小細工にすぎなかった。
(『猫』だろうが、『鷲』だろうが、速いだけだろ?)
『蛇』を失っただけで柴田あゆみの機動性は極端に落ちていた。
『蛇』特有のくねくねした動きが他の二つと重なってそれをさらに複雑にさせていたが、それも無くなればあっけないものだった。
真正面から突っ込んでくる単純さに、真琴は辟易としていた。
形成が逆転したことで、柴田あゆみは動揺している。
そして、それが手に取るように分かっている真琴にとっては、決定的だった。
紺野あさ美の気配を後ろに感じたまま小川真琴は見えない柴田あゆみに向かって、同じように突進する。
逆手に構えたナイフを、あとはタイミングよく振り下ろすだけだ。
そして、そのタイミングもすぐそこまで迫ってきている。
一瞬だけ目を閉じ、真琴は感覚だけで正面を見据えた。
余計なものを一切排除し、自分自身をアンテナにして全てを捉える。
そして、そのアンテナが柴田あゆみを捉えた。
- 327 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:45
- 目を見開いた真琴が、そのまま体を地面すれすれまで沈ませ柴田あゆみの一撃をかわす。
そして、全身をバネにして柴田あゆみの右胸にナイフを突き立てた。
「ぎゃあぁぁぁぁっ!」
およそ人の声でない声を上げ、胸を押さえながら後退する柴田あゆみから、背中の羽が消え去った。
これで『鷲』も消えた。
残るは『猫』のみ。
握った右手に力を込めるが、血を流しすぎた真琴にはそれを感じることができなかった。
それでも真琴はそのまま前へ足を踏み出し、その勢いを体当たりという形で柴田あゆみにぶつけた。
見上げた真琴の目の前にある柴田あゆみの顔は、人のそれではなかった。
痛みと怒りで歪んだ顔は、それまでの苦悩とこれから進もうとする決意が混ざり合ったものだと、真琴はぼんやりした意識で確信する。
(でも、あんたの手段じゃあ、ろくな結果にはならない)
何でこうなったのか、それは真琴にも分からない。
ただ、目の前に現れたからそれに対処する。
そう言った意味では辻希美のときと同じだった。
違うのは、小川麻琴がそれを拒否して、小川真琴はそれを受け入れたということだ。
(くそっ、目の前にいるってのに、手が動かねぇ!)
左肘に巻きつけたシーツは赤黒くなっていて、それが嫌でも視界に入ってしまった真琴は、振り上げようとした右手に己の意志を伝えることができなくなっていた。
そして、その隙を柴田あゆみに突かれてしまった。
とっさに危険を感じて飛び退いた真琴だったが、重くなった身体とぼんやりした思考が反応を遅らせた。
『猫』だけになった柴田あゆみが伸ばしてきた手には、人の手には見ることができない鋭い爪がついていた。
右肩を多少切り裂いただけで留まったのは幸運なのか、それとも実力なのか良く分からなかったが、それでも事態の悪化を招いたことだけは認識できた真琴だった。
- 328 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:45
- 「ちっ」
柴田あゆみを逃がした小川真琴は、青い顔をしたまま舌打ちをする。
右手を叱咤してそのナイフをもう一度右胸に突き立てていれば、全ては終わっていたはずだ。
だが、すでに真琴は血を流しすぎた。
それによって思考が正常に回らないどころか、他の様々なことに対してガードができなくなった。
そんな状況と重なった目の前ですらまともに見えていない状況では、追撃は無理なことだった。
そして、真琴自身が活路を見出すために崩した瓦礫が、今度は真琴を縛る枷になっていた。
息を潜め、再び全身をアンテナにする真琴。
だが、さっきよりも集中力が欠けて、ところどころに穴ができている。
『猫』だけになった柴田あゆみは、その俊敏性と、敏感さで真琴に迫ってくるはずだ。
だがそれを迎え撃つだけの余力が、真琴にはすでに残されていなかった。
(もってあと一分)
それが真琴の限界であり、勝敗の分け目だった。
だが、真琴は忘れていた。
紺野あさ美と言う存在を。
「真琴!」
立ち止まった真琴を心配して飛び出してくるあさ美を、柴田あゆみが逃すはずはない。
そして血を流し、思考を流していた真琴はそれに気づくのが一瞬、ほんの一瞬だけ遅れた。
「くるなっ!」
とっさに叫びながら振り返る真琴の前を、二つの光が疾駆する。
それにめがけて真琴はナイフを一閃させたが、服の一部を切り裂いただけに留まった。
瞳に光を宿した、『猫』の柴田あゆみが、その爪を紺野あさ美に振り下ろす。
「あさ美!」
人間の小川真琴の見えたのは、綺麗に放物線を描いて飛んでいく紺野あさ美と、彼女から出ていた、暗闇の中でもはっきりと見える、真っ赤な鮮血だけだった。
- 329 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:46
-
――――――――――
- 330 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:47
-
「柴田あゆみは、終わったな」
事態の異常を察知して駆けつけたときには、すでに柴田あゆみは暴走していた。
だが、それは彼女が仕組んだものではなく、他者が割り込んだことによるイレギュラーからだった。
しかし、そんなことは彼女――平家みちよ――にとってはどうでもいいことであった。
すでに柴田あゆみには種を蒔き、柴田あゆみ自身がそれを成長させ、開花させた。
ただ、それだけのことだ。
平家みちよはそれを遠くから観察し、全てが成熟するのを見届けるだけだった。
元から分裂していた人格に、さらなる攻撃的な動物を三つ与え、柴田あゆみの壊れ方を観察する。
それが今回行ったみちよの仕事だった。
およそ人間と呼べない存在に成り下がった柴田あゆみは、分裂した人格『石川梨華』になり、道を踏み外した。
遊びが過ぎた柴田あゆみ、いや、石川梨華は殺された十人によって強姦された。
そして、そのとき石川梨華は柴田あゆみと人格を合成させた。
分裂した人格の再統一化。
だが、それはすでに元の人格であるはずがなく、実際柴田あゆみも壊れていた。
柴田あゆみとも、石川梨華とも呼べなくなった彼女は、ただ本能に従って十人の内六人をその場で、一人を近くの路地で殺した。
そのとき開花させたのが、平家みちよが植えつけた三つの動物だった。
- 331 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:47
- 平家みちよは空から柴田あゆみを観察することに興味を失った。
すでに結果は回収し、己のものとしたからだ。
今、あそこにいる柴田あゆみはすでに必要なく、生死については特に関心がなかった。
まあ、小川真琴の勢いを見れば柴田あゆみを殺すのは明白だろう。
そのほうが平家みちよとしては都合が良かった。
それ以上に収穫だったのは、彼女にとって面白い素材を見つけたことだった。
小川麻琴・真琴。
柴田あゆみのように極端な願望によって人格を分離させた後天性の人間とは違う、生まれたときから複数の人格を所有する先天性の人間。
いや、一種の使い魔的な存在。
そして、戦闘、いや、破壊のセンスもある。
最初の一撃で失った左腕を活用し、柴田あゆみから『蛇』の能力をもぎ取ったその動きは、平家みちよも思わずため息を漏らすほど、綺麗で無駄がなかった。
小川麻琴・真琴なら、彼女の目的を達成させられる。
そう確信し、みちよは小さく笑う。
- 332 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:48
- 存在核を見るという能力は、実は麻琴・真琴が初めてではない。
麻琴・真琴よりも先にその能力を有していた人間がいたのだ。
しかし、その人間はみちよの父親と共に死んでいる。
といってもこれも片割れだけだから、もう片方の人間は生き残っている。
そして、彼女は麻琴・真琴の義母となっていた。
「お前が『core seeker』だとすれば、お前の娘は『core seeker』、その『second』と言ったところか。小川千尋・智広」
ここにはいない誰かに向かって呟くみちよ。
何から何まで、父が求めていたものと同じだ。
根源に到ろうとする道筋。
そのための媒体。
そして、それを得るための努力。
「だが、私は父を超える。すでに人では無くなったのだから……」
言葉でそれを確認したみちよは、全てを見届けることなくその場を離れた。
- 333 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:48
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 334 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:49
-
全てがスローモーションのようにゆっくりだった。
手を伸ばす自分。
狂気の笑みを浮かべた柴田あゆみ。
その柴田あゆみが振り下ろした爪。
それに切り裂かれ、飛んでいく紺野あさ美。
切り裂かれた紺野あさ美から舞い散る血液。
全てが遅く、そしてはっきりと見え、それが真琴をさらに怒らせた。
ゆっくりと振り返る柴田あゆみに、小川真琴は持っていたナイフを投げつける。
二メートルの距離から放たれたナイフは、柴田あゆみの左胸に突き刺さり、柴田あゆみを地面に打ち倒した。
さらに接近する小川真琴は足元の瓦礫の破片を握り、柴田あゆみに馬乗りになる。
そして、持っていた破片を柴田あゆみの顔面に叩き付けた。
「殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな殺したな」
何度も何度も、その顔に破片を叩きつける。
自身の手が裂け、その手が血塗れになろうとも。
途中、地面が崩れ二人は一階へ転落したが、それでも真琴は柴田あゆみから離れることはなかった。
二階から叩きつけられた衝撃も、舞い上がる粉塵もすでに意識に入っていない。
小川真琴にとって、柴田あゆみを殺すことだけが全てだった。
殴りすぎて粉々になった破片を投げ捨て、小川真琴は血塗れの右手で胸に刺さったナイフを引き抜いた。
そして、すでに意識の途絶えた柴田あゆみをただの物として見下ろし、小川真琴はその右胸に再びナイフを突き立てる。
胸に三つ目の穴が空き、それと同時に消え去る最後の存在核。
- 335 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:49
- これで、柴田あゆみを強化していた原因は無くなった。
しかし、それだけでは終わりではなかった。
本来の自分である柴田あゆみとその中で創られた石川梨華という擬似人格。
その二つの混ざり合った存在核だったが、それも小川真琴にしてみれば単なる障害物に過ぎなかった。
柴田あゆみは紺野あさ美を殺した。
だから、今度は小川真琴が柴田あゆみを殺す。
そこに二人いようが関係ない。
「なに寝てんだよ」
ナイフを突き立てたまま、真琴は柴田あゆみの真っ赤に腫れ上がった顔を叩く。
「気絶したままじゃ、殺さないぞ」
ぼんやりと目を開ける柴田あゆみに、小川真琴が狂気の笑みを浮かべる。
「生きたまま、消えていく恐怖を味わえ」
あとはナイフを数センチずらして、柴田あゆみの存在核に突き立てるだけだ。
そう意識した真琴が持っていたナイフをゆっくりと動かそうとした。
が、突如小川真琴は馬乗りになったまま体を前に倒す。
いや、自分から倒したのではない、勝手に倒れたのだ。
限界にきた体を怒りによって動かしていた小川真琴にとってその事実は受け入れ難く、そして悔しいものだった。
(あと……すこし………なのに……)
血を流しすぎ、活動限界を過ぎた体は休息を求め思考は体から離れていく。
そして、それを小川真琴自身が止めることができなかった。
急速に薄れゆく意識の中、小川真琴は前方に誰かが走ってくるのを見たが、それが誰なのか結局分からず、そのまま意識を失った。
- 336 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:50
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 337 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:50
-
「やけに派手に暴れているな」
現場にやってきた中澤裕子は憮然としながらも、周囲を警戒しているようだった。
それは目の動きを見れば、高橋愛でも分かることだ。
そして、その隣を石川梨華が真っ青になって小走りになっていた。
「中澤さん、石川さん。こっちです」
ホテルの入り口で待っていた愛は、二人を手招きして、状況を話した。
上空から突如柴田あゆみが襲い掛かってきて、それを小川麻琴が追撃するためホテルに入ったこと。
そして、それを追って紺野あさ美まで中に入ってしまったこと。
中では二人、もしくは三人が争っているのだろう、轟音が鳴り響いてくる。
それが聞こえるたびに愛は最悪の事態を想像し、その度に血の気を引かせていた。
「これは、小川が破壊している音だな。ならば、このホテルはそう長くは持たないぞ」
「柴ちゃんはこの中にいるの?」
声の震えた石川梨華に、高橋愛は頷く。
それを見た梨華はすぐさまホテルに入ろうとするが、裕子に肩を掴まれる。
「お前らが行ったところで、争いの邪魔はできない。ただ死にに行くだけだ」
「柴ちゃんはそんな人じゃないです!」
振り返った梨華が必死の反撃をしてくるが、それも裕子にとっては些細なことだった。
「そんなに知ってる仲でもなかろう?ただ二時間ほど話をしただけなのにさ」
裕子の一言に、梨華はその顔を歪ませて俯くだけだった。
柴田あゆみに石川梨華。二人の接点は本当に薄いものだった。
新入生のオリエンテーション。そのときに二人は隣同士の席になって、話をした。
ただそれだけだった。
そして、慌しく終わったオリエンテーションだったため、お互い連絡先を告げることができず、二人はそのまま大学生活を始めることになる。
- 338 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:51
-
石川梨華は工学部。柴田あゆみは文学部。
それが二人を隔て、切り離す原因だった。
「人間関係なんてそんなものだ。知ろうと思えばできるが、手順が複雑になる。たったそれだけのことで、人は興味を失う。そうだろ?」
裕子がピースを取り出しながら、梨華に意地悪く聞く。
どうやら機嫌が相当悪いようだ。
「でも、中澤さん。二人はこれからちゃんと友達になれるじゃないですか」
見かねた愛が、梨華のフォローに回る。
が、それは同時に裕子を敵に回すことでもあった。
「そうかな?柴田あゆみはすでに石川梨華を己の中に創り上げている。それがあれば、この石川梨華など必要ないんじゃないか?」
ピースに火を点け、そのピースで梨華を指す裕子。
それに反論できず、唇を噛む愛。
そのときだった。
ホテルの中から一際大きな轟音が鳴り響いた。
その方向を見て、愛は息を呑む。
二階が崩壊して、一階にその瓦礫が降り注いでいる。
それと同時に凄まじい粉塵が舞い上がり、あっという間に一階を隠してしまった。
「ちっ、どうやら本格的に崩壊が始まったようだな」
舌打ちした裕子が、ピースを銜えたままホテル内部に踏み込む。
その後を追おうとした愛は、粉塵の中に人影を見て叫ぶ。
「中澤さん!」
「分かっている。私にも見えている」
ホテルに慎重に踏み込んだ裕子の後を愛と梨華の二人も続く。
が、その人影がはっきりするにつれて、愛は裕子を追い越していた。
- 339 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:53
- 「麻琴!」
このとき、すでに小川麻琴の意識は無く小川真琴に変わっていたが、それを愛は知るすべが無かった。
そして、その小川真琴の意識も愛が叫ぶ直前で途切れていたのにも気づいていない。
愛が見た小川麻琴・真琴はゆっくりと放物線を描いて、走っていた愛の脇に落ちる。
それはぼろぼろのくず切れのようで、その麻琴・真琴の左手は無くなっていた。
「麻琴!しっかりして!」
麻琴・真琴に駆け寄りその体を抱きかかえる愛だったが、その冷たさと軽さにそれが麻琴・真琴の体だとは一瞬信じられなかった。
三週間も寝食を共にした小川麻琴の、全てを愛は知っているつもりだった。
だが今、愛に抱かれている麻琴・真琴は三週間のどこにもいない麻琴・真琴だった。
愛はとっさに麻琴・真琴の胸に耳を当て、心拍を確認する。
心拍はある。
だが、かなり小刻みで、弱々しい。
続いて呼吸を確認する。
呼吸はある。
だが、やはり小刻みで、途切れ途切れだった。
「柴ちゃんっ!」
後ろにいた梨華の叫びに、愛は麻琴・真琴を抱きかかえたまま目を正面に向ける。
そこには顔を真っ赤に腫らし、全身傷だらけになった柴田あゆみだった。
「……梨華ちゃん?」
「柴ちゃん!」
そのあゆみ呼びかけに応え、梨華がすぐさま駆け寄る。
「紺野は上か?」
裕子はそう叫ぶとその体を跳躍させ、崩壊するホテルに飛び込んでいった。
その次の瞬間、愛の横の壁が唐突に崩壊した。
一階ですらその状態を維持できなくなったらしい。
- 340 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:53
- 「石川さん、柴田さんを連れて外に出てください!」
そう叫ぶ愛も、麻琴・真琴を抱えて外へ向かっていた。
降り注ぐ瓦礫から麻琴・真琴を守り、愛は短く、長い直線を進む。
何もできなかった愛が、麻琴・真琴にできる唯一のこと。
それは麻琴・真琴を生かすことだった。
途中、瓦礫の飛礫が愛を直撃するが、愛はその痛みに臆することなく前進する。
時間が無い。
ただ、それだけが愛を前進させていた。
たった数秒が数時間にも感じられたが、愛は無事麻琴・真琴を、そして梨華はあゆみをホテルの外に連れ出すことに成功する。
梨華に担がれたあゆみはぐったりしていて、背中が上下しているのが辛うじて分かった。
その数秒後には裕子があさ美を連れて出てきた。
あさ美もやはり怪我をして気を失っている。
「中澤さん、麻琴がっ!」
青いのを通り越して白くなっている小川麻琴・真琴を見て、さすがの中澤裕子もその顔を引きつらせた。
「今から病院に行ったのでは間に合わない」
闇医者に連れて行く、と言った裕子を先頭に三人はホテルを離れる。
その数秒後、駅前ホテルは完全に崩壊することとなった。
- 341 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:54
-
――――――――――
- 342 名前:連続しない循環5 投稿日:2004/12/29(水) 12:54
-
崩壊したホテルを空から見下ろしながら、アヤカ・エーデルシュタインはほくそ笑んでいた。
平家みちよを実際にこの目で確認できた。
だが、簡単には殺しはしない。
念入りに準備し、平家みちよの全てを打ち砕かなければならない。
そして、思わぬ副産物もあった。
小川麻琴。
彼女とミカの合成した紺野あさ美。
どちらが優れているか。
これはアヤカにとって、根源に至る道のりには必要だ。
二人が親友ということも知っているが、そんなことはアヤカにはさほど重要な問題ではなかった。
どちらが生き残るかだけが重要であり、その結果によって根源に至る道も変わってくる。
「あさ美さん。あなたには道化になってもらいましょう」
計画を練りながら、アヤカは乗っていた使い魔を軽く撫でる。
「帰りますか」
その声に反応して、彼女の使い魔はゆっくりと夜の空を走り出した。
- 343 名前:連続しない循環 投稿日:2004/12/29(水) 12:54
-
連続しない循環6
- 344 名前:連続しない循環6 投稿日:2004/12/29(水) 12:55
- 紺野あさ美はぼやけた視界と共に、その意識を覚醒させた。
はっきりしない思考を何とか回転させ、自分の状態を確認する。
(たしか、あのとき私……)
立ち止まった小川真琴を気絶したものと勘違いしたあさ美は、叫びながら彼女の元へ駆けて行った。
が、それを柴田あゆみに妨害され、そこであさ美の意識は途切れた。
(結局、私は何もできなかった……)
真琴が言ったとおりだった。
ただ『赤い糸』がみえるだけで、他は普通の人間と変わらない紺野あさ美が今回踏み込んだ世界は、まさに異世界だった。
「私は、やっぱりそっちには行けないよ」
呟いたあさ美はゆっくりと体を起こす。
改めて周囲を観察するとそこは畳の新しい六畳間で、その中央の布団に横になっていた。
正面の襖の向こうからは明かりが洩れ、そこから話し声が聞こえてくる。
だが、まだ頭が完全に覚醒していないせいか、誰のものかは分からない。
ゆっくりと、そして確実に歩いてあさ美は襖を開ける。
そこにいたのは、テーブルに伏せて寝ている高橋愛と、もう一人の知らない女性、石川梨華。
そして、何やら隅で話をしている中澤裕子と、一人の老人だった。
「なんだ紺野か。もう少し寝ていればいいものを……」
露骨に舌打ちをしてくる裕子はだいぶ苛立った様子だったが、あさ美は首を傾げることしかできなかった。
そのあさ美を無視して、裕子は老人に向き直る。
「だからジジイ、義手は私が作るといってるだろ。それで十分じゃないか」
ピースを取り出した裕子だったが、老人に一睨みされ渋々懐に収めている。
それが意外で、あさ美は目を丸くして裕子を観察した。
「何が十分だ。あんな欠陥品を付けられた日にゃ、あの娘も可哀想じゃよ」
「可哀想かどうかは小川自身が判断することだ。私達が勝手にするものではない」
「お前のはそれ以前の話じゃ。趣味で作った義手なんぞろくに機能せんぞ」
- 345 名前:連続しない循環6 投稿日:2004/12/29(水) 12:56
- 老人がキセルを取り出して、その先に火を点ける。
裕子はそれを見て苦虫を潰したような顔をしていたが、それでも何も言わなかった。
いや、この場合は何も言えなかったのだろう。
「だからといって、足元を見るな。この金額はないだろう」
裕子が畳に置かれた紙切れを叩きながら言う。
足元を見た金額とはいくらなのかあさ美も気になったが、立っている場所からでは紙切れの端しか見えなかった。
「ワシのは最高級品じゃぞ。それがその価格で手に入るのだから、損はないぞ」
それから早口で説明を始めた老人の言葉を、あさ美は聞いていなかった。
何やら専門用語ばかりで、あの裕子ですら無口になってしまったからだ。
「あの、柴田さんはどこですか?」
そんな二人から興味を失って、あさ美が尋ねる。
すると裕子が腕を振り上げて、あさ美とは真反対の部屋を指し示した。
どうやらそこに柴田あゆみがいるらしい。
「見るのは勝手だが、あまり近づくなよ」
裕子の一言の意味が分からずあさ美は曖昧に頷き、襖をゆっくりと開ける。
薄暗い部屋の中央に布団が敷いてあり、その上では誰かが寝ていた。
もちろん柴田あゆみである。
あさ美はふらつく足取りながらも何とかあゆみの傍らに座る。
顔と胸に包帯が巻かれ、顔には氷が乗せられていた。
あさ美はあゆみの胸の、『赤い糸』を見る。
前に見たときは五本あった糸が、今は二本しか見えない。
しかし、その二本は未だに結合したままだった。
- 346 名前:連続しない循環6 投稿日:2004/12/29(水) 12:57
- (私にできるのは、これくらい……)
あさ美は無事な左手であゆみの胸に触れる。
『赤い糸』に触れた瞬間、柴田あゆみと、柴田あゆみの中にある石川梨華の二人の感情があさ美に流れ込んでくるが、あさ美はそれをただの情報として処理した。
そして、二人を繋いでいた糸を切断する。
あっさりと切り離された二本は互いを求めて彷徨っていたが、そのうちの片方は霞んで消えた。
これで柴田あゆみの中の石川梨華は消えた。
人は一人では生きてはいけない。
それを柴田あゆみは知っていた。
だから、自分の中に新しい人間の石川梨華を創り上げて、それに縋った。
だが、それではやはり一人だ。
他人から刺激を受けることによって、人間は個性を自覚する。
それを柴田あゆみは知らないといけない。
そして、それを教えるのは紺野あさ美の仕事ではない。
全ては終わった。
眠っている柴田あゆみをそのままにして、あさ美は部屋を出る。
愛と梨華はまだ眠っていた。
そこでようやくあさ美は時計を確認する。
午前三時。
真夜中だ。
あさ美達がホテルに向かったのは前日の午後九時。
あれからまだ六時間しか経っていないにもかかわらず、あさ美はずいぶん変わった。
強いて言えば、それは弱い部分を見ることになり、それを自覚することだった。
部屋の隅に座り、立てた膝に顔を押し当てる。
何かしていないと、あさ美は自分がそこに存在しているのかどうかを確かめることができなかった。
押し当てた顔の痛みだけが、唯一あさ美をそこに存在していることを証明してくれる。
(ごめん、真琴。私はやっぱり人じゃないよ……)
そして次第に薄れていく意識の中で、あさ美はただ、真琴に謝っていた。
- 347 名前:連続しない循環6 投稿日:2004/12/29(水) 12:57
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 348 名前:連続しない循環6 投稿日:2004/12/29(水) 12:58
- 目の前の作業を見ながら、中澤裕子はひたすら我慢していた。
ここに着いてかれこれ四時間。
その間、裕子はピースを一本も吸っていなかった。
原因は単純。
それはこの家の主である王洋一が許さないから。
腕は確かなのは裕子自身が何度も見ている。
ただ、口が悪いだけだ。
王洋一は奇術師である。
それも大陸から渡ってきた。
そして、今回も裕子は自分の浅学を知ることとなる。
裕子が奇術関係の道具を自分で作り始めたのは三年前。
それに比べて、王はその道八十年の大ベテランだった。
すでに百歳を超えているのにその手は振るえがきているどころか、腰もまったく曲がっていない。
本人曰く、『今のワシは二人目じゃ』ということだが、それもあながち外れではないだろう。
その王が作った義手は、裕子が作ったそれをはるかに超える代物だった。
担ぎこまれた小川麻琴・真琴の傷を見て、すぐさま義手の作成に取り掛かり、三十分でそれを完成させた。
そして、今、目の前でそれを小川麻琴に取り付けられている。
しかし、裕子が目にしたのは取り付けるという作業ではなかった。
そもそも奇術師には種類があり、それは大別して破壊と蒐集、そして作成の三種類に分かれていた。
中澤裕子はもちろん破壊のエキスパートであり、その道では日本で敵う者はいないことを自負している。
そして、王洋一は作成のエキスパートだった。
目の前の王は作った義手を麻琴の左腕にくっつけ、それを呪符で固定した。
「中澤。これが本来の作成者の仕事だ。よく見てろ」
およそ百歳を超えたとは思えない張りのある声に、裕子は思わず身構えた。
作成者の仕事はよく目にしている。
だがそれは作成者個人によって千差万別であり、裕子が見たのは、王とは別の人間だった。
そして、その人間はすでに死んでいる。
そんな裕子に構わず、王は何かを小さく呟く。
それはほんの一言だったが、その効果はすぐ現れることとなる。
- 349 名前:連続しない循環6 投稿日:2004/12/29(水) 12:58
- 麻琴と義手を繋ぎ合わせていた呪符が溶け込むようにして消えた。
ただそれだけだったが、それで全てが終わった。
残ったのは五体満足の小川麻琴・真琴が一人。
その左手は元に戻ったかのようだった。
いや、実際は違うが、麻琴・真琴にとってはさほど違いはないだろう。
作業を終了させた王が、振り返る。
「ワシができるのはせいぜいここまでじゃ。この先へ進んだのは、ワシが知っている限り、一人しかおらんな」
キセルを取り出し、麻琴が眠っている部屋から出て行く王。
それを裕子は追わなかった。
王の語った『先』。
それは裕子自身も良く分からない。
もしかすると話していた王本人にすら正確には把握できていないのかもしれない。
だが、そんなことは裕子にとって、どうでもいいことだった。
部屋を出る寸前、王が立ち止まり裕子に振り返った。
「それだけ中澤祐一は優秀だった。それを忘れるな」
襖が静かに閉められ、残された裕子は自身の浅はかさを呪った。
いくら見よう見まねで作っても、それでは兄に追いつけない。
それは裕子自身が一番理解している。
「兄貴は優秀で、ウチは落ちこぼれやった。まさにそのとおりやな」
ゆっくりと立ち上がった裕子は王とは反対方向の襖を開けた。
そのまま部屋を出ると懐からピースを取り出し、火を点ける。
- 350 名前:連続しない循環6 投稿日:2004/12/29(水) 13:00
- 久しぶりの感覚に、裕子は一瞬だけ宇宙飛行をする。
そして、そこで失った三年前を思い出した。
結局、自分は不器用だった。
だから、兄がしたような最善という選択ができなかった。
「やけどな、兄貴はもう、この世にはおらんで」
最善を尽くした兄はこの世界から消え失せ、そしてそれができなかった裕子は未だにこの世界に生き続けている。
結果として弾き出された答えがこれならば、どれほどの皮肉が込められているのか。
それを想像した裕子は小さく、そして自嘲気味に笑った。
「『どんなに辛くても、生き続けないと意味は無い』……か」
ピースを銜えたまま夜空を見上げる。
星が出ていて、それがところどころで光っていた。
が、裕子の心のうちはその光とは正反対にどんどん暗くなっていく。
「ウチって何がしたいんやろ……?」
呟く裕子に、答える者は誰もいなかった。
大きく吸い込んで、息を吐くと紫煙が一メートルほど裕子の口から吐き出され、それが霧散した。
それが今の自分のようで、裕子はそれを手で掻き消す。
死んだ兄のことを意識してしまった裕子はもう一度ピースを銜え、大きく息を吸い込む。
ただし、今度は宇宙飛行できなかった。
- 351 名前:連続しない循環6 投稿日:2004/12/29(水) 13:00
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 352 名前:連続しない循環6 投稿日:2004/12/29(水) 13:01
- 気がつくと、すでに外は明るくなっていた。
どうしたんだっけ?
ゆっくりと体を起き上がらせて、わたしは気を失うまでのことを思い出す。
たしか、柴田さんに顔を掴まれたところで気を失ったんだ。
その直後、真琴が体験したことが雪崩のようにフィードバックされる。
左腕を噛み切られたわたし達。
助けにきたあさ美ちゃんに襲い掛かる柴田さん。
それを見ていた真琴の暴走。
全てが鮮明に記憶されていた。
そして、それを反芻しながらわたしは自分の間違えに気づく。
真琴の言うとおりだった。
柴田さんは結局人殺しで、わたしはそれを信じていなかった。
その結果が無くなった左腕だし、あさ美ちゃんだった。
麻琴、それ以上言うな。
そういうわけにはいかない。
だって、わたしの浅はかさのために、真琴はあさ美ちゃんを失った。
それだけは許されない。
もういい、言うな。
思い出したくない。
こみ上げてくる涙が頬を伝うが、それがわたしのものなのか真琴のものなのか分からなかった。
わたしのものならそれは悔し涙。
真琴のものなら悲しみの涙。
残念だが、おれのじゃない。
おれはさっきまで散々泣いてたからな。
そうか……。
だったら、これはわたしの涙なんだ。
指で涙をこすって消す。
おい、いい加減気づけよ。
真琴に言われ、わたしはようやく異変に気づく。
いや、それは正確には異変じゃなかった。
さっき、涙を拭いたのって、左手だったよね?
よく見ると、左手がちゃんとあった。
握ってみてもちゃんと閉じるし、開けようとすればちゃんと開いてくれた。
- 353 名前:連続しない循環6 投稿日:2004/12/29(水) 13:02
- 「おい、ようやく目が覚めたか」
中澤さんの声が隣から聞こえてくる。
よく見ると隣には襖があって、その内側に中澤さんが座っていた。
「あ、はい。おはようございます」
我ながらすごい間抜けな答え方をしたが、そのとき突然開いた襖の向こう側を見て、わたし達は目を丸くする。
「あさ美?」
これは真琴の声。
だって、あさ美ちゃんを想っているのは真琴。
だから、わたしは引き下がる。
驚きだった。
死んだと思っていたあさ美ちゃんはちゃんとこうやって生きていた。
「紺野は一番浅かったんだ。何を勘違いしていたんだ?」
珍しくたばこを吸っていない中澤さんに言われ、わたしと真琴はあさ美ちゃんが倒されたときのことを思い出す。
そういえば、血の量が少なかったな。
そうだね。よく考えてみれば、あの傷だとすぐに死んじゃうってことはないよね。
「真琴の方が大変だったんだよ。でも、ちゃんと治ったね」
どこをどうやって治したのか分からないけど、あさ美ちゃんが生きているのが何よりうれしかった。
それはきっと真琴も同じ。
「柴田あゆみは生きてるか?」
「あぁ、そいつも意識を取り戻した。」
真琴が珍しくあさ美ちゃん以外の人の心配をしている。
それだけ真琴は責任を感じているんだ。
「そうか、なら、いい」
- 354 名前:連続しない循環6 投稿日:2004/12/29(水) 13:02
- 真琴は無差別に殺人をするわけではない。
それはわたしも同じ。
目的がないとできないということは、悪いことではない。
それは単に動きが制約されるということだけ。
だけど、それは決して不自由ではない。
「もう、いいんだ」
真琴があさ美ちゃんと話を始めたのを見て、わたしは二人から離れて独りになる。
里沙ちゃん、どうしてるだろう?
昨日の聞いたのに、里沙ちゃんの声が聞きたい。
わたしはこんなにも、弱い。
そして真琴はあんなにも、強い。
同じ人間なのにわたしと真琴は違う。
この違いは何なのだろう……。
感覚だけになったわたしは、自分の手を唇に持っていく。
そこには昨日のあの柔らかい感触が残っているはずもなく、ただかさかさになったわたしの唇があるだけだった。
「里沙ちゃん、逢いたいよ……」
わたしは独り座り込むと、記憶していた里沙ちゃんの声を呼び出そうと必死に思考を働かせた。
- 355 名前:連続しない循環6 投稿日:2004/12/29(水) 13:03
-
――――――――――
- 356 名前:連続しない循環6 投稿日:2004/12/29(水) 13:04
- 何も無くなった廃墟を彼女は軽い足取りで歩く。
鼻歌を歌っているが、それを聞いている人間は当然の如く存在しない。
「みんな不真面目なんだよね。最後までちゃんと見届けてあげないとさ」
そう言った彼女が目にしているのは、柴田あゆみの消え去ったはずの存在核。
「こうやって収穫があるのにね」
三つの存在核を掴み取った彼女は、小さく微笑む。
「うん、予想通り」
何がどう予想通りなのかは、本人にしか分からない。
そして、彼女はそれ以上口にすることは無かった。
「さて、用事も終わったことだし、そろそろ帰るかな」
誰も聞いていない廃墟に佇んでいた彼女は真っ暗な夜空を見上げ、鳥の羽を強くイメージする。
すると、彼女の背中からイメージした通りの羽が生えた。
彼女はそれを何度かバタつかせて感触を確かめる。
「へえ、使い勝手が良いね、これ」
初めて使うにもかかわらず、彼女は本来それを有していたはずの柴田あゆみよりも器用に使いこなして空に飛び出す。
「空を飛ぶって結構気持ち良いね」
ある程度の高さまで飛び上がった彼女はそこから小さくなった街を見下ろす。
瓦礫の山となった元ビジネスホテルも、彼女からははっきりと見ることができなかった。
「ほんと、みんなやることが大雑把なんだよね。私ならもっと綺麗さっぱりやってあげるからさ」
そう呟いた彼女は小さくなった街に興味を失い、しばらく空中遊泳を楽しむことにした。
- 357 名前:ー 投稿日:2004/12/29(水) 13:04
-
連続しない循環 了
- 358 名前:新規登場人物 投稿日:2004/12/29(水) 13:06
- ○柴田あゆみ
N大学文学部一年
2003年9月現在、19歳
○石川梨華
N大学工学部一年
2003年9月現在、18歳
○飯田圭織
喫茶『アターレ』のオーナー兼占い師
2003年9月現在、23歳
○道重さゆみ
田中れいなの幼馴染
2003年9月現在、F中学二年
○平家みちよ
中澤裕子、稲葉貴子の旧友
2000年に死亡
- 359 名前:いちは 投稿日:2004/12/29(水) 13:26
- 年内最後の更新でした
第二話「連続しない循環」終わりです
二回分とあってかなりな量になったのと場面がとびとびになって読みづらいかと思います
ゆっくり読んでもらえれば助かります
>>306 名無し読者。さん
まだ序盤とあって血が流れる部分は少なかったです
ただ、麻琴の出番はほとんどなかったのが悔やまれます
最後の部分辺りにしてみれば次の話との兼ね合いがあり、ほとんど何も分かってない状況です
あと、最後の最後に出てきた『彼女』ですが、まだ名前は出しません
というか、出せません
次から第三話「循環するは想い」に入ります
それでは、よいお年を
- 360 名前:いちは 投稿日:2004/12/29(水) 13:50
- 訂正です
>>309 最後の一文
「目の前に立っている少女は、知っていたが初対面だったが写真で見た人間、石川梨華だった。」
ですが、日本語的におかしかったです
「目の前に立っている少女を裕子は直接知らなかったが、さっきまで散々写真を見せられその特徴は鮮明に記憶されている。
それは、石川梨華だった。」
の二文に別けて読んでください
そのほうが意味も分かると思います
すみませんでした
- 361 名前:名無し読者。 投稿日:2005/01/04(火) 20:10
- 更新お疲れ様です
新年も楽しみに読ませていただきます
話の展開も少しハードになってきて手に汗握りる感じです
まこっちゃん(麻琴)頑張れ!
彼女の今後の活躍にも期待してます
- 362 名前:―― 投稿日:2005/01/05(水) 10:08
-
見えているもの
見えていないもの
聞こえてくるもの
聞こえてこないもの
触れられるもの
触れられないもの
私は何が欲しかったの?
どうしてそれが欲しかったの?
分かりきってる、それは……
寂しいから
私が一人では生きられないから
だから、私はあなたを消しました
あなたと一緒になりたくて
私、何か間違っていますか?
間違っているなら……
誰かそれを私に教えてください
- 363 名前:―― 投稿日:2005/01/05(水) 10:09
-
循環するは想い
- 364 名前:循環するは想い0 投稿日:2005/01/05(水) 10:11
-
蝉の声がぴたりと止む。
それと同時に、私は彼女に想いを伝えた。
私の想いを聞いてくれた彼女は、しばらくなにもせずに立っているだけ。
彼女が困惑するのは分かっていた。
だけど、私もずっとこの想いを伝えたいと思っていた。
再び聞こえてきだした蝉の声に、私は自分の居場所を見失って不安になる。
そんな私に気付いてか、彼女は私に笑いかけてくれた。
私だけに向けてくれるその微笑に、私の不安はあっさりと消し飛んでしまった。
だけどそんな彼女から出た言葉は、私の望んでいたそれではなかった。
「分からないんだ、自分自身がさ」
小さく首を横に振りながら、彼女は私に告げてくる。
目の前でそう話す彼女は私よりも大きいのに、そのときだけはとても小さく見えた。
だから今はその想いに応えることはできない、そう彼女が呟くようにして付け足した。
「なんでですか、私はこんなにあなたのことを想ってるんですよ?どうして伝わらないんですか?」
止めようと思ったけど、本能を理性が押さえ切れるわけが無いのは分かっていた。
私はいつだってあなたに見てもらおうと努力した。
ときには際どいことだってした。
だけど、それはあなただから。
あなたにしか、こんな私は見せられない。
あなたにだけ、見て欲しかった。
いつの間にか俯けていた顔の前に、ハンカチが差し出される。
差し出してくれたのは、もちろんあなた。
でも、それを私は手にすることができない。
顔を上げて、あなたを見ることができない。
「ほら、拭きなよ。泣いてるなんてみっともないよ」
そのあなたの一言に、私は自分の思い上がりを知る。
「みっともなくないです。私はあなたのことを……」
顔を上げて叫ぼうとした私を、彼女は抱きとめてくれた。
- 365 名前:循環するは想い0 投稿日:2005/01/05(水) 10:11
-
前はこれが何よりの幸せだった。
でも、今は……。
「知ってるよ、どんなに好きなのか」
あなたは私にだけ聞こえるように言ってくれる。
前はそれだけで幸せになれた。
でも、今は……。
「だからこそ、私は自分のことを知らないといけないんだ。君の想いを無駄にしたくないから」
そう言うあなたは、いつものように私の頭を優しく撫でる。
前は……。
でも……。
『欲しいなら、手に入れればいいじゃないか』
唐突に聞こえてくる、私の頭の中にだけ響いてくる、悪魔の囁き。
『自分ひとりのものにしたいんだろ?』
あのとき私に囁いてきた天使の声が、再び私を誘惑してくる。
「私は、吉澤さんの全てが欲しいです」
抱きしめている先輩が硬直するのが、手に取るように分かった。
私がこれからしようとしてることを、先輩は絶対に知らない。
だけど……。
私は先輩の、あなたの全てが欲しい。
たとえそれがヒトから外れた、背信的な行為であるとしても。
私だけのあなたなんだから、私だけのものになってほしい。
たとえそれであなたという存在が消えてしまっても、私があなたという存在を覚えている。
それで私は満足なんです、吉澤さん。
「いいよ、亀井……」
呟くように言う先輩は、あのときの、初めて出会ったときの先輩だった。
声は弱々しいのに、あなたはこんなに力強い。
私はあなたと一緒にいたいんです、ずっと……。
私は自分の想いの中に先輩の全てを閉じ込めるため、先輩に背伸びをしてあなたの唇に軽く、だけど、全ての想いを込めて、私は自分の唇を先輩の唇に重ねた。
- 366 名前:循環するは想い0 投稿日:2005/01/05(水) 10:12
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 367 名前:循環するは想い0 投稿日:2005/01/05(水) 10:12
-
消えていく意識の中、吉澤ひとみは考えていた。
(結局、私は私が分からなかった)
不意に浮かんできたのは親友の里田まいの寂しそうな笑顔。
(そう。結局、まいちんは親友でしかなかった。まいちんに私はその先を見出せなかった)
なら亀井絵里は、と自問するひとみ。
(亀井が抱いてる感情がなんなのかに、私は気がついていた。だけど、私は亀井を妹以上の存在として認めることができなかった)
そこでひとみは小さく笑う。
(なんだ。結局、私は誰一人、理解してなかったんだ)
自分を含めてか、とひとみは自嘲気味に笑う。
が、それもすでに自己の感覚として認識できなかった。
里田まいはひとみを親友と呼び、亀井絵里はそんなひとみを好きだと言ってくれた。
後藤真希に松浦亜弥、高橋愛に紺野あさ美、そして小川麻琴といった面々の顔が次々と浮かんできては消えていく。
(私はわがままだ。人には私のことを知って欲しかったのに、私自身は知ろうとしなかった)
- 368 名前:循環するは想い0 投稿日:2005/01/05(水) 10:13
-
『もうちょっと、よしこは自分を出したほうがいいよ』
難しい顔をしながら言ってくる里田まい。
『ごとーはよしこのことは結構好きだよ。もちろん友達としての意味でね』
複雑な笑みを見せた後藤真希。
『松浦的にはよっちゃんはボケで、私がツッコミだと思うよ?』
ひとみはそう言った松浦亜弥にすかさずツッコミを入れていた。
『あーしは吉澤先輩みたいな人になりたいですね』
『男っぽい女の人って、謎ですよね』
無邪気に言ってくる高橋愛に紺野あさ美。
『吉澤先輩はわたしにとって親分ですよ。生きる道って感じですね』
惚けた答えが多い小川麻琴にしては、めずらしく真面目な答えだった。
『私は、先輩のことを愛しています』
控えめな亀井絵里しか知らなかったひとみにとって、その一言は衝撃だった。
だが、それも今は全て終わったこと。
それらの記憶も全て消え、吉澤ひとみという人間が消滅しようとしている。
(まいちん、それにみんな……私、行くよ)
そこで吉澤ひとみに残っていたわずかな自我は泡の如く、弾けて消えた。
- 369 名前:循環するは想い 投稿日:2005/01/05(水) 10:14
-
循環するは想い1
- 370 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:15
-
(なんでウチが手本を見せなあかんのや)
稲葉貴子は心の中だけで愚痴りながらも、手にしたビー玉を弾き出した。
空中を真っ直ぐ飛んでいくそれに目に見えない何かが貫かれ、聞こえるはずの無い断末魔を上げる。
(あと三匹か……。やけど、見事に散っとるな)
そこまで分析して貴子は急に面倒臭くなり、それまでの作業を短縮することにした。
ポケットに手を入れた貴子は、ため息を吐いて目に掛かっていた前髪を左手でかき上げる。
見た目は派手な貴子だったが、これでも中学校教諭だ。
金髪なのは見た目上の理由から譲れなかったが、それでも服装は落ち着いた黒のスーツを着ている。
ただ、口を開けば出てくる関西弁がその容姿といまいちマッチせず、貴子自身も悩んでいるところだったが、それでも貴子はこのスタイルを止めるつもりは無かった。
そんな貴子は改めて目の前に漂っているそれらを凝視する。
一向に何もせず漂っているそれらは、漂っているだけでも一般人に悪影響を及ぼす現象だ。
だから、こうやって稲葉貴子が始末をすることにしていた。
だが、今日はそれとも少し状況が違っていた。
「お前ら、一気に片ぁつけるで」
ポケットからナイフを引き出した貴子が叫ぶ。
それに呼応してナイフの刃が発光し始めた。
「行け」
短く呟く貴子の声と同時に、ナイフが貴子の手を離れる。
三本のナイフが、それぞれの意志でそれぞれの目標をあっさりと貫いた。
目標を貫いたナイフはそこで力を失い、ぽとりと地面に落ちる。
役目を終えたそれらを慎重に取り上げ、貴子は三本のナイフを回収した。
「封魔完了」
ナイフをポケットに収め、貴子は振り返った。
そう、今日はギャラリーがいたのだ。
- 371 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:16
-
「もう終わったで。お前らも出てこんかい」
「さすが、稲葉先生ですね。れな、感動しました」
「私には全然見えなかったよ。なにしてたの?」
体育館の角から現れたのは、貴子が担任を受け持っているクラスの田中れいなに道重さゆみ。
「ウチが何してたんかは、知らんほうがええわ。それに、田中」
「は、はい?」
さゆみに苦笑いしていた貴子が、れいなを睨む。
それに射すくめられるれいな。
「ウチの作業中に邪魔したやろ。そないなことせんでも、ウチ一人で十分や」
貴子が一気にケリをつけようと思った原因。
それがれいなの入れてきた横やりだった。
「気付いてたんですか?」
れいなの驚きの声に、貴子は肩を竦める。
「気付くもなにも……。あんな目立つことされたら、こいつらも驚くわ」
ポケットからナイフを取り出し、それをれいなに見せる。
そのナイフには、さきほど貴子が封じ込めた『こいつら』がこめられている。
『こいつら』のことを、貴子達奇術師は残留思念と呼んでいる。
他の人間から見ればお化けとか幽霊の類になるが、そんなものは貴子達奇術師にしてみれば単なるまやかしに過ぎなかった。
恐れるべきは人間から派生した業、それを具現化する場所、そして、それを可能とさせる現象だった。
F中学の体育館裏。
喧嘩をするときのありきたりな場所であったが、貴子が勤務するその場所は別の意味でありきたりになっていた。
残留思念の通り道として、そして、残留思念の溜まり場として。
普段は誰にも感知されない残留思念に危険性はないと判断されがちだが、それを貴子は否定していた。
ただ、きっかけがないだけ。
なにか取っ掛かりがあれば、溜まった残留思念はそれを実体化してしまう。
だから、奇術師である貴子がそれを排除していた。
もちろん貴子もそれをボランティアでしているわけではない。
稲葉貴子の奇術の目的。
それは残留思念の分類だった。
残留思念は人間から派生し、それを辿ることは元の人間の根源を辿ることにもなる。
そのためには残留思念のサンプルが必要だった。
- 372 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:17
-
が、今日、その場の残留思念はいつものそれとは違っていた。
「田中、さっきみたいな氷柱はそう出すもんやないで。こいつらも反応して狂暴になるからな」
刃の腹を指で軽く弾きながら言う貴子に、れいなは頭を掻く。
「できることなら一気に殲滅したいんですけど、今のれなじゃ、一発が限度ですよ」
「今の?」
れいなの台詞に不安を覚える貴子。
「えぇ、今、師匠にれな専用の武器を作ってもらっとるです」
(裕ちゃんはお人好しやからな……)
旧友の不幸を明日のわが身と思い、貴子はフォローしておく。
「田中、あんまり裕ちゃんを巻き込むなよ」
「分かっとるですよ」
「そんなら今日は終わりや。早よ帰って宿題でもせい」
「そんなこと言われんでも、ちゃんとしときますよ」
苦笑いしたれいなが、行こさゆ、とさゆみを促しその場から去って行った。
「さて、と……」
それを確認した貴子は、改めてその場を観察する。
今日狩った残留思念は三十。
そのうちのほとんどはこれまで同様、怨念のこもったそれだったが一つだけ違っていた。
詳しく分析していない現状ではなんとも言えないが、それでも貴子は気になっていた。
(よりにもよってイレギュラーか。面倒なことにならかったらええけど……)
ため息を吐きながら、貴子はナイフを持っていたカバンにしまう。
しかし、このときの貴子にはその採集した残留思念が重要なものだと認識することは無理だった。
- 373 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:18
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 374 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:20
-
新垣里沙は病的なまでに白いその部屋で、果物ナイフを器用に操ってりんごの皮を剥いていた。
(病院なんだから、それもそうだよね)
その日、里沙は入院している亀井絵里を見舞いに来ていた。
「新垣さん。本当にりんごの皮むきって初めてですか?」
「うん、そうだよ」
ベッドの上にちょこんと正座している絵里を見てにっこりと笑う里沙。
りんごの他にも、絵里が好きだと言っていた老舗の煎餅に緑茶(これはパックだったが)などをリュックに詰め込んできたが、絵里は珍しくりんごを里沙にリクエストしていた。
「よそ見してると危ないですよ」
「そうだね」
似たような台詞を言った里沙は、再び手の中のりんごに集中する振りをしながら、別のことを考える。
(通算431回。亀ちゃんも直してくれないよね)
りんごに集中していると見せかけて、里沙は別のことを考えていた。
里沙がカウントしていたそれは、絵里の『新垣さん』という里沙の呼び方。
去年の四月から同じクラスになった里沙と絵里は何かと席が隣になることが多く、そこから今の付き合いが始まった。
同い年なのに、絵里は里沙を『新垣さん』と呼ぶ。
そのことに慣れなかった里沙はその度に『さん付けだけは止めて』と言っているが、それでも絵里の『新垣さん』は直ることがなかった。
里沙はそのことを表面には出さずに、皮を剥き終わったりんごを八つに切り分けた。
「ほら亀ちゃん。できたよ」
「あ、ありがとうございます」
が、そこで里沙は絵里の現状を思い出す。
- 375 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:21
-
「そういえば、亀ちゃんって腕が折れてたんだよね。だったら、私が食べさせてあげるよ」
絵里が入院している原因は左腕の骨折だった。
「いえ、そんな、悪いですよ……」
絵里がしどろもどろになっているのを見て、里沙は首を傾げる。
「でもさ、片手だと食べ辛くない?」
「いや、右手を使えば、大丈夫かと……」
「お皿は持てないでしょ?」
里沙の一言に絵里は、そうですね、と諦めた。
「でもさ、亀ちゃんも運が無いっていうか、これってある意味では運が良いのかな?」
りんごを食べさせる間、里沙は絵里が入院する経緯を反芻していた。
補習に来ていた絵里は、新校舎建設のために組まれた足場の崩壊にたまたま巻き込まれ、そこで左腕を折ることになった。
「たまたまゴミを捨てに行って、巻き込まれちゃうんだもんね。しかも、結構ひどかったって言うじゃん。あれって絶対手抜きだよ」
不謹慎とも言える里沙の一言に、絵里は苦笑いするだけである。
「手抜きって、崩れたのは足場ですよ?校舎自体は壊れてませんから」
「でもさ、ちゃんとしてたら足場だって崩れることはないでしょ?」
「そりゃ、そうですね……」
里沙から四つ目のりんごを差し出され、それを齧る絵里。
「でも新垣さん、補習は良かったんですか?今日もあったはずなんですけど……」
今年受験生となった絵里と里沙の成績は中の上といったところで、二人が目指している高校には少し条件がきつかった。
「私は大丈夫だよ。いざとなれば参考書まるごと覚えちゃえばいいしね」
さらりと言ってくる里沙に、絵里ははぁ、といった中途半端は相槌をすることしかできない。
「それよりさ、早く食べちゃおうよ。そろそろ田中ちゃんと重さんが来るからさ」
そう言った里沙がりんごを一切れ摘んで口の中に放り込む。
- 376 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:22
-
と、そのときだった。
病室のドアが勢い良く開かれ、そこから里沙が噂をしていた田中れいなと道重さゆみが入ってきた。二人の手にはそれぞれ大きなビニール袋が握られている。
「絵里、見舞いに来たとよ」
「絵里、元気だった?」
その後も大声でまくし立ててくる二人に、絵里はなにも言えずたじろぐしかなかった。
「二人とも、ここは病院だよ」
里沙に釘を刺されてようやく静まる二人。
「それよりも二人とも大荷物だけど、どうしたの?」
おそるおそる聞く絵里に、二人の顔がにやける。
「いやね、絵里が退屈だと思ったけん、れな、こんなん持ってきたとよ」
そう言って袋の中身をベッドの上にばらまくれいな。
袋から出てきたのは変なところで折り目がついた雑誌が三冊に、申し訳程度の煎餅三枚だった。
「れーな?」
「なんとね?」
「これって、れーなの部屋にあったやつだよね」
絵里はそれを読んでいたれいなを思い出す。
たしかあのときは数ページめくっただけで、『つまらんと』と言って放り出していた。
「絵里なら楽しく読んでくれると思ったんよ」
「楽しくって、私はこんなの読まないよ」
しれっと答えてくるれいなに、絵里は苦い顔をするしかなかった。
ちなみにれいなが持ってきた雑誌とやらはJの頭文字の週刊誌だった。
しかも半年ほど前のやつだ。
「これって男の子向けだよね」
「いや、絵里ならそこら辺の障害は乗り越えてくれると思ったんだけどさ……」
「私読まないよ」
絵里が軽くれいなを睨んでみると、れいなはいそいそと雑誌を再び袋の中に入れた。
- 377 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:23
-
「で、さゆはなに持ってきたの?」
家が隣であるさゆみの性格を知っている絵里にとってその中身はだいたい想像できたが、それでも聞いてみる。
「きっと驚くよ〜」
嬉しそうな顔(すでにこの時点で絵里には確信できていた)をしたさゆみが袋の中をベッドの上にばらまく。
「「「はぁ〜」」」
それと同時に漏れる三人のため息。
「えっ、なんで?」
三人の反応が予想と違ったのか、さゆみはしきりに首を傾げている。
「だってさ、さゆが写ってるんだよ?絶対かわいいって!」
「いや、かわいいって、自分で言ってること自体間違ってるから……」
里沙のツッコミにさゆみはこれまた首を傾げるばかりだった。
さゆみが持ってきたのは、彼女だけが写った写真のアルバム。
それが五冊もあった。
「今日はね、小学生からこれまでの人生の軌跡を辿ってみたの」
感想聞かせてねと笑顔のさゆみに言われ、絵里は抵抗する気を失くし頷くしかない。
と、そこでれいながベッドの脇に置いてあったデスク上のりんごに気付いてしまった。
「おっ、ちょうどれな、お腹減っとったとよ」
すかさずりんごに飛びつくれいな。
「おっと、これは亀ちゃん専用だよ」
里沙に皿を取り上げられ、れいなはりんごを食べ損なってしまった。
「がきさん、別にええじゃなかとよ。別に減るもんでもないし」
「いや、食べたら減るって」
珍しくさゆみにツッコミを入れられ、そこでれいなは大人しくなった。
- 378 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:23
-
それからは落ち着いた雰囲気で話をする。
絶えずボケているさゆみにツッコミを入れるれいな。
それにさらにツッコミを入れている里沙。
そんな三人を絵里は笑いを堪えながら見ていた。
そして、時間は面会時間終了の五時になってしまった。
「それじゃ絵里、帰るとね」
「帰ったらメール入れるから、絶対見てね」
終始暴走気味のれいなとさゆみに、絵里は苦笑いしながら頷くことしかできなかった。
「最近はさ、通り魔が出るんでしょ?だから二人ともまっすぐ帰るんだよ」
「なに言うとよ。あんなの出てきたら、れなが一発で倒すとよ」
「れーななら本当にしそうだから、私は隣で応援してあげるんだ」
(うーん、これって注意すべきなのかな?)
寄り道をしたがる二人に釘を刺したつもりだったが、それに気付かない二人に絵里は頭を悩ませる。
「二人ともさ、そんな時間帯まで遊びまわるお金ないでしょ?」
そんな絵里の苦悩に気付いたのか、里沙がフォローに入る。
「だったらマコ姉からもらえばよかとよ」
さりげなく怖いことを言ってくるれいなに、絵里は引きつった笑いしかできない。
「いや、まこっちゃんもそんなお金持ってないって」
ここもやはり里沙にツッコミを入れられ、れいなはようやく引き下がる。
そしておかしそうに笑っているさゆみを促すと、二人は部屋を出て行った。
- 379 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:24
-
「亀ちゃん。リュックは置いていくからさ、中のものは食べていいよ。どうせ晩御飯食べてもお腹減るだろうからさ」
煎餅とお茶のパックの入ったリュックをデスクの下に置いた里沙も、れいなとさゆみと同じように部屋を出て行く。
が、里沙がドアのところで立ち止まって、絵里に振り返った。
「ねぇ亀ちゃん」
「……なんですか?」
四人で話していたときの感じと違った里沙の雰囲気に、絵里は真顔で答えていた。
「吉澤さんのことはさ、どう言ったらいいのか分かんない」
顔を歪ませながら言ってくる里沙に、絵里は言葉を詰まらせる。
(なんで、新垣さんが知ってるの?)
吉澤ひとみは亀井絵里だけのものになったはず。
それを実現できる力を絵里は手に入れ、実行した……。
(はずだったのに、新垣さんはこの異常に気付いてる)
なにも言えずに固まっている絵里に、里沙が優しく笑いかける。
「でもね、私はいつだって亀ちゃんの味方だよ」
だから今日はさよならだね、と言って里沙は病室を出て行った。
ぽつりと残された絵里に、さっきまでの安心感はなかった。
あるのはそれまで意識しようとしなかった罪悪感。
吉澤ひとみという存在をこの世から消し去ったという自己中心的な衝動への後悔。
そして、それを知っている新垣里沙という存在への危機感。
いつも以上に複雑な気持ちになりながら、絵里は脇に置いてあったリュックに目を落とした。
- 380 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:24
-
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
- 381 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:26
-
「えっと〜。これってもしかして、かなりヤバイ状況なのかなぁ」
夜十時。
塾で居残って勉強していた私、亀井絵里は近道しようとわき道に入って、こんな状況になってしまった。
こんな状況ってどんな状況かって?
それって、つまり、薬で逝った変な人達に囲まれたってことなのかな……?
全員、アップ系で逝ってるみたい。
私を見る目が嫌らしくて気持ちが悪くなるけど、今の私にはどうしようもない。
とっさに携帯電話でお母さんと連絡を取ろうとしたけど、それも今は壊れて地面に散らばっている。
そこまで追い詰められてるのに、なんで私ってこんなに落ち着いてるんだろう?
そんな私に構わず、取り囲んだ五人のイヤラシイ人達が包囲網を狭めてくる。
なんかみんな変な呼吸してるけど、大丈夫?病院行ったほうがいいんじゃない?
それを目だけで伝えてみるけど、当然のことながら伝わるはずはない。
仕方ない、特攻をかけるか。
私は半ばやけになりながら、正面にいた比較的(っていっても五人の中っていう意味だけど)ましそうな一人に狙いをつけて、持っていたカバンを両手で抱きしめる。
準備完了。
あとはタイミングだけ。
呼吸を整えて足に力を込めて、駆け出そうと……。
……って思ったそのときだった。
狙いをつけたその一人がうめき声を上げて倒れた。
「あれ?私まだなにもしてないよ?」
もしかして、私には隠されたすごい力でもあるのかな?
- 382 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:26
-
「なに馬鹿なこと言ってるんだよ!」
「へっ?」
私でもなく残った四人の男の人達の声でもない女の人の声に、私は間の抜けた声を出すことしかできなかった。
その声はさっき倒れた男の人の方から聞こえてきている。
ということは、私の正面ってこと。
なのに、私はその人に気付かなかった。
いつの間にか私の横にきていたその人は背の高くて、男の人と間違えてしまうほど格好良かった。
でもこの人、どこかで見たことあるような……。
そんな私に構わず、その人は両手を丸めて親指で何かを弾く。
それとほぼ同時にまた一人倒れてしまった。
「ほら逃げるよ」
その人が急に私の手をとって、残った三人から逃げ出す。
(この人の手って暖かいな……)
なんて場違いなことを考えている自分に、私は苦笑いする。
「こら。笑う暇があるなら走る!」
「は、はいっ!」
私もそう言って思い切り走ってみるけど、この人ほど速く走れず結局は引きずられる形になってしまう。
「あのぅ〜、いいですか?」
「なに?」
引くずられている間も、私は気になったことを思い切って聞いてみた。
「残った三人は倒しちゃわないんですか?」
私の前を走っているその人が、軽く肩をこけさせる。
「倒しちゃわないって、君って結構過激だね……」
「へっ?なんでですか?」
言っている意味が分からず、私は間の抜けた返事しか出来ない。
「だってさ、普通は使わないよ。それにね、私のは打ち止めなんだ」
「なるほどぉ〜、分かりました」
走りながらもその人が苦笑いしていたのが、握っていた手の感覚でなんとなく分かる。
- 383 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:28
-
なんだろ、この感覚。
変な感じがする……。
「なんか緊張感が無いなぁ」
当然のことながらそんな私の気持ちに気付かず、その人と私は一緒に走る。
すっかり打ち解けた私達は五分ほど裏道を走り、残った三人を完全に撒いたところで近くの公園によることにした。
十分以上全力疾走したおかげで私はへとへとだったけど、私を引っ張って走ったはずのその人は全く息を切らしていなかった。
「君もさぁ、大胆なんだか無謀なんだかよく分かんないよね」
その人はどこからか取り出したペットボトルのお茶を私に差し出してくれていて、私はその人に甘えることにする。
「さぁ〜、どっちなんでしょうかねぇ?」
「いや、私に聞かれても困るって」
お茶を三分の一ほど飲み、その人に返す。
その人は軽く一口だけお茶を飲んで、ペットボトルの口を閉じた。
その姿が男の人みたいに格好良く、私は思わずその人に見惚れてしまう。
「ところでさ、君の家ってどこ?」
「へっ?あ、はい。家は近いと思いますよ。多分……」
ここの公園も私達(れーなとさゆの二人と)は何度かきたことがあるのを何とか覚えていて答えるけど、正直ここからどうやって帰ればいいのか検討がつかない状態の私。
「多分ってなんだよ」
「いや、私あんまりこの辺まできたことないんで、良く分かんないんです」
私はそう言って苦笑いするしかない。
そんな私を、その人は肩を落としてため息を吐きながらも、やっぱり苦笑いしていた。
「じゃあさ、家の住所は覚えてる?」
「それくらい覚えてますよ〜」
その人の一言に、さすがの私も頬を膨らませる。
それから私は住所をすらすら暗唱して見せたけど、その人はそんな私をずっと苦笑いしながら見ていた。
- 384 名前:循環するは想い1 投稿日:2005/01/05(水) 10:29
-
「なんだ、寮の近くじゃん」
都合がいいな、と呟いたその人が、私に手を差し出してくる。
「まっすぐ帰るんだろ?」
「は、はい」
急に男らしい口調になったその人に、私はどぎまぎしながらも手を取る。
さっきとは違って落ち着いた雰囲気に私はろくに話すことができず、ちらちらとその人を見上げるだけ。
「ん、どうしたの?」
やっぱり男らしい口調のその人に、私は急に憧れの人の横顔を思い出す。
急に高鳴り始める心臓に、私は確信する。
そうだ、この人は……。
なんでもっと早く気付かなかったんだろ?あんなに好きな人なのに……。
二人だけのこの時間が、私にはとても心地よかった。ただ、手を繋いで歩いているだけなのに、それが私を安心させてくれる。
『永遠にこの時間が終わらなければいいのに……』
だけど、それとは裏腹にどんどんと私の家が近づいてくる。
私もその人もなにも喋らず、無言のまま時間だけが過ぎていく。
なにか言わないと。
せめて、この人が誰なのかを知りたい。
「あのぅ、すみません。お名前を聞いてもよろしいですか?」
緊張を悟られないようにさっきと同じ口調で尋ねてみるけど、声が少し上ずっている私。
どうしよう、気付かれたかな?
おそるおそるその人の横顔を見てみるけどその人は特になんの反応をすることなく、だけど、私の手をさっきよりも強く握り締めてくれた。
「私はね」
立ち止まり、その人が私に、私だけにその笑顔を見せてくれる。
「吉澤ひとみって言うんだ」
私に天使が舞い降りてきた。
少なくとも、あのときの私にはそう思えた。
- 385 名前:いちは 投稿日:2005/01/05(水) 10:52
-
明けましておめでとうございます
新年最初のこの第三話「循環するは想い」なんですが
これは第一話「偽りの連続」、第二話「連続しない循環」と
同時平行、別場面の話です
というわけで、これまでの登場人物がほとんど出てきません
主役の二人にいたっては、付け込む隙がほとんど無いです
>>361 名無し読者。さん
第二話が終わった段階で、主役の二人にはかなりの溝ができてしまいました
それを放置するのは忍びないんですが
そこまでの整理をこの第三話でしていると思ってください
あと、ここまで読んで頂いた方々はもう気づいているかと思いますが
第一話「偽りの連続」
第二話「連続しない循環」
第三話「循環するは想い」
という感じで、タイトルの語尾と次のタイトルの語頭が繋がってます
このパターンで最後まで話を繋げようと思います
主役の二人がほとんど出てきませんが
その周りの出来事という感じで読んでください
それでは
- 386 名前:名無し読者。 投稿日:2005/01/12(水) 00:35
- 更新お疲れ様です
主役の2人、特にまこっちゃん(麻琴)の今後が凄く気になるところですが
その周りの出来事も気になるところで楽しみです
- 387 名前:循環するは想い 投稿日:2005/01/12(水) 09:55
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循環するは想い2
- 388 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 09:55
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八月二十三日の土曜日。
私、新垣里沙は今日も複雑な心境だった。
そんな私に構わうことなく、テーブルを挟んだ目の前では田中れいなちゃんが不機嫌そうな顔でアイスココアを啜っている。
「ていうか、二人とも遅かよ」
さっきから壁に掛かっている時計をしきりに気にしている田中ちゃんに、私は心の中を隠して苦笑いすることしかできなかった。
ちなみに重さんは今日から東京にある某TDSに行っているため、ここにはいない。
「あのさ、遅いって言っても待ち合わせは二時でしょ?まだ三十分あるよ?」
そう、今はまだ一時半。
私と田中ちゃんの二人は、この喫茶店で田中ちゃんのお姉さんでもあって私の親友でもある小川のまこっちゃんと、私の幼馴染の高橋の愛ちゃんを待っている。
なんでも、今日はまこっちゃんと愛ちゃんの親友である紺野のあさ美ちゃんがホームステイ先のハワイから帰ってくるということで、それを四人で迎えに行くのだ。
でもさっきも言ったように、集合時間は二時。
早く着いた私たちのほうが問題あるんじゃないかと思うんだけど、田中ちゃんはしきりに『遅い』って言っていた(ちなみに、店に入って十分で田中ちゃんは『遅い』を二十三回言っていた)。
だけど、私はそれで心境を複雑にはしていなかった。
それには、私の変わった特徴が関係している。
その変わった特徴というのは視覚による記憶のことで、知り合いの中澤裕子さんが言うには、『連続した閃光記憶』というものらしい。
その中澤さんの説明を引用すると、『閃光記憶というのは、異常な事件の発生を知ったときの光景を写真のフラッシュをたいたときのように鮮明に記憶していること』で、『新垣のそれは連続している。
つまり写真という一瞬だけ画としてではなく、動画とした連続のそれとして記憶している』らしい。
- 389 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 09:56
-
中澤さんの説明は実に的を射ていて、私は日常生活のどうでもいいような細部ですらも完璧に記憶することができた。
だから、田中ちゃんの『遅い』にしたって、亀ちゃんの『新垣さん』にしても、カウントすることができていた。
昔はそれでも特に問題はなかったんだけど最近は常に記憶していると頭が痛くなって、新垣里沙という存在が分からなくなってきていた。
というのも、日常生活のそれは本当に変化が無く、私、新垣里沙という存在が無くても日常生活に支障をきたさないことを知らしめてくるからだ。
だから最近の私は見ても、それが重要でないときには記憶しないことにしていた。
といっても、何が重要でなにが重要でないかは後になってみないと分からないので、結局は私の主観で決めることになる。
つまり、私が死ぬまで忘れたくないことを記憶して、それ以外は全て消去という方法だ。
「がきさん、なに考えとう?」
私がぼけっとしているのを不思議に思ったのか、田中ちゃんが持っていたグラスを置いて聞いてきた。
「いや、田中ちゃんが面白いなって思ってたの」
「なに言っとうよ。がきさんのほうがよっぽどおかしかよ」
「私は面白いって言ったんだよ。ひどいなぁ、田中ちゃんはさ」
今度は水の入ったグラスを持ち上げる田中ちゃんに、私はすかさず言い返す。
「それにしても、マコ姉は遅かよね」
「田中ちゃん。遅いって言ったの、それで二十四回目だよ」
「うわっ。れな、そんなに言っとうと?」
私の言葉も田中ちゃんにはあまり効果は無かったみたいで、それからも田中ちゃんは三回ほど『遅い』と言っていた。
と、そこで私のバイブにしている携帯電話がぶるって、私に電話がきたことを伝えてきた。
急いで画面を見て、私はこれまた急いで席を立つ。
「ごめん田中ちゃん。電話だわ」
田中ちゃんの返事を待たずに、私は店の外に出る。
電話の相手は私の心境をもっとも複雑にさせている、その人からだった。
- 390 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 09:57
-
『もしもし、新垣さん?』
「亀ちゃん、どうしたの?」
電話から聞こえてくる亀ちゃんの声はいつものそれより弱々しく、私は思わず今にも死んでしまいそうな雛鳥を想像してしまった。
『私の退院なんですけど、来週まで延びるそうです』
「単なる骨折でしょ?固定しちゃえば家でも治療できるんじゃない?」
私の一言に、亀ちゃんからの反応はない。
亀ちゃんの左腕はぽっきり折れちゃったんだけど、それが幸いして固定すれば比較的早く治るって、亀ちゃん本人が言っていた。
なのに、なんで?
『私、家に帰りたくないんです』
私の疑問に答えるようなタイミングで亀ちゃんの声が電話から聞こえてくる。
『怖いんです』
なにに、と言おうとして私は言葉を飲み込む。
気付いてしまったから。
亀ちゃんがなにを怖がっているのかを。
亀ちゃんは私を恐れているんだ。
亀ちゃんだけのものにしたと思っていたけど、私は例外として枠から外れてしまったから。
「亀ちゃん、私はね……」
『あの人を私だけのものにしたかったんです。なのに、どうして新垣さんも覚えてるんですか?』
電話の向こうで亀ちゃんが叫んでいる。
怒り。
哀しみ。
後悔。
電話の向こうの亀ちゃんは、そんな感情を全て含めて存在している。
それが分かってしまい、私は自分を呪うことしかできなかった。
『吉澤さんは私だけのものです。たとえ新垣さんでも、これだけは許せません』
痛いくらい伝わってくる亀ちゃんの言葉に、私はなにも言えない。
『どうして……』
そう呟いてくる亀ちゃんの声は擦れていて、電話越しからでも泣いているのが分かった。
私は深呼吸をして、ゆっくりと話し始める。
「あのね亀ちゃん。私は亀ちゃんがしたことを責めるつもりはないの」
今からじゃ、なにを言ってもマイナスにしかならないけど、亀ちゃんには分かって欲しかった。
私は亀ちゃん、いや、亀井絵里の味方だってことを。
途中、まこっちゃんと愛ちゃんが私の前を通ったけど、私は軽く手を挙げるだけで、気持ちは亀ちゃんに集中していた。
- 391 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 09:58
-
「明日そっちに行くから、亀ちゃんも考えてみて。これから、亀ちゃんはどうしたいのかってことをさ」
返事がこない。
私達の関係って、こんなに簡単に断ち切れてしまうものだったの?
お願い、亀ちゃん。
私を一人にしないで。
『……すいません。取り乱してました』
電話越しから聞こえてくる弱々しい声でも、私は安心できた。
だって、まだ亀ちゃんとは完全に切れていないから。
「いいよそんなの。だって、私は亀ちゃんにとってみれば、イレギュラーな存在でしょ?それくらい当然だよ」
でもね、こんなイレギュラーな私でも君と離れたくないの。
それだけは理解して。
『新垣さんも辛いんですよね。ひどいことを言っちゃいましたね』
すいません、ともう一度謝った亀ちゃんに私はろくな返事ができず、明日行くことだけを伝えて電話を切った。
気持ちの整理ができてない今の状態であの三人と話していたら、絶対に感づかれる。
そして、私だけの綻びが広がってしまったのならば、最終的にそれは亀ちゃんにまで跳ね返っちゃう。
そうなれば、繊細な亀ちゃんのことだ、さっき以上に取り乱すに違いない。
それだけは嫌だ。
だけど、私は忘れることなんてできない。
一度記憶してしまったのだから。
だから、こうやって亀ちゃんのことが気になるんだ。
そう、私も辛いんだよ。
だって、私は亀ちゃんのことが……。
ため息を吐いて、私は空を見上げる。
雲ひとつ無くどこまでも澄み切った青空に、このときだけはどうしようもなく腹が立ってしまい、私は太陽を睨みつけた。
- 392 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 09:59
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 393 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:00
-
さっきまで使っていた携帯電話をそっと閉じ、亀井絵里は小さくため息を吐いた。
そして、さっきまでの自分を振り返って塞ぎこんでいく。
家に帰れば、どうしても思い出してしまう。
そういった強迫観念が絵里に攻撃的な感情を芽生えさせる結果になったが、それも今の絵里にしてみればほんの些細なことに過ぎなかった。
絵里が消してしまったから。
絵里だけのものにしてしまったから。
目的語を省いたのは、それを考えることで再び落ち込んでしまうからだった。
ただ、その胸の奥にわだかまった思いを吐き出すことに、少しだけは成功していた。
(完全に八つ当たりだよね、今の……)
新垣里沙は知っている。
が、それでもいつもと同じように接してくれた。
親友として。
そんな里沙に本当は励ましてもらおうと思ったのに、絵里の口から出たのはわだかまっていた自身の想いと里沙に対する罵り。
しかし、そんな絵里に里沙は会いに来ると言った。
空を見上げると、そこにはむかつくまでに青い空と、わずかばかりの白い雲が浮かんでいるだけだった。
そんな空を見上げ、絵里は晴れ渡るそれと対照的にその気持ちをどんどん沈めていく。
「はぁ〜」
視線を自身の足に落とし、深く、長いため息を吐く。
(でも、どんな顔をして会えばいいの?)
この前みたいに笑って話せるわけはないのは分かっていた。
『でもね、私はいつだって亀ちゃんの味方だよ』
昨日、帰り際に言った里沙の言葉。
それに縋っている自分がいることに、絵里自身も気づいていた。
しかしながら、それでも絵里はその言葉に縋ることができないことにも同時に気づく。
- 394 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:01
-
まだこの街に引っ越してきて二年しか経ってない絵里には、友達はあまり多いとは言えなかった。
たまたま隣に住んでいた道重さゆみを通して田中れいなや里沙とも知り合えたけど、それでも絵里はあまり彼女達の輪に入ることができなかった。
しかし、里沙はそんな絵里に対して常に味方でいてくれた。
今年、同じクラスになった里沙ともようやくまともに話すことができるようになり、絵里もそれなりに親友という概念についておぼろけながらに理解し始めていた矢先のことだった。
里沙は全てを知っている。
絵里が吉澤ひとみの全てを絵里だけのものにして、他人からはその存在を消し去ってしまったことを。
その事実が絶壁のように立ち塞がって、絵里を押し潰さんばかりの威圧感を放っているのが手に取るように分かった。
(私、どうしたらいいの……?)
吉澤ひとみのように全てを自分の中へ閉じ込めたいとも絵里は思えなかった。
それが何度も考え、そしてそのたびに否定されていることが何よりの証拠だ。
「はぁ〜」
二度目のため息も果てがないくらい深く、そして長いものだった。
「あのぅ、どうしたんれすか?」
「へっ?」
突然後ろから聞こえてくる声に、絵里は間の抜けた声を上げる。
振り向いてみると、そこには絵里と同じ薄いピンクのパジャマを着た少女が立っていて、絵里のことを不思議そうに見ていた。
「さっきからため息ばかり吐いてるみたいれすけど、気分でも悪いんれすか?」
「いえ、全然大丈夫ですよ」
心配そうに尋ねてくるその誰かに、絵里は大きく首を横に振って答えた。
「そうれすか。なら安心れす」
にっこりと笑うその誰かに絵里は、いなくなってしまった吉澤ひとみの面影を感じる。
(あの人の笑顔も、私のことを癒してくれた。そしてこの人の笑顔も、今の私を癒してくれた)
心がやけに軽くなったことを意識し、絵里はその誰かに向かって笑いかける。
(全然雰囲気が違うけどどこか似てるな、この人と吉澤さん……)
- 395 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:01
-
「立ってると疲れるから、座りませんか?」
「そうれすね。じゃあ、おじゃましますね」
絵里が少しずれて隣を指差すと、その舌足らずな誰かはが、ゆっくりと絵里の隣に座った。
「そのパジャマを着てるってことは、やっぱりあなたもここに入院してるんですか?」
「へい、そうれすよ」
そう言って、その誰かは病室を告げた。
「あれ?それって、私の隣じゃないですか?」
広い病院内でわずかばかりの偶然に驚きながら、絵里も病室の番号を告げる。
「ほんとれすね。隣同士れすね」
ほんのささいで小さな偶然なのに、それを本当に嬉しいといった感じでその誰かは笑う。
「私は亀井絵里って言います」
「のんは、辻希美って言います」
その誰か、いや、辻希美はやはり嬉しそうに笑っていた。
「辻さんは、なんでのんって言うんですか?」
「これはれすね、のんのお友達がつけてくれたんれす」
だから亀ちゃんものんて言ってくらさい、ざっくばらんな感じの希美がそう続けてきたが絵里は不思議とそれが嫌ではなかった。
(いつの間にか、私も亀ちゃんになってるし……。ま、いっか)
そう希美に呼ばれたことで絵里は、その呼び名を使っていた別の人間を思い出す。
それは里沙だった。
しかし、その里沙も今では希美ほど大きな存在とは言えず、そのことを思い出してしまったことでそれまで忘れていた憂鬱な気持ちになってしまう絵里だった。
「ところで、私がなんで入院してるかは……見れば分かりますよね?」
そんな里沙から意識を無理やり引き離した絵里は、固定した左腕をちょっとだけ主張させて苦笑いする。
「腕が折れてるんれすよね。すごく痛そうれす」
苦笑いの絵里とは対照的にに、希美は自分が骨を折ったみたいに顔を歪ませた。
- 396 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:02
-
「先週の新聞の地方欄に、F中学の新校舎建築のために組まれた足場が崩壊してけが人が出たっていう記事がありましたよね?そのけが人っていうのが、私なんです」
絵里の一言に、希美は口をぽかんと開けて、なにかを考えている。
が、それもほんの数秒だった。
「すいません。のんは新聞読まないんれす」
「そ、そんなの別にいいですよ。記事だってすごく小さかったし……」
本当に申し訳なさそうに謝る希美に、なぜか絵里私のほうが慌ててしまった。
(のんちゃんは優しいんだ。相手の気持ちをすぐに分かってあげられる、優しい人なんだ)
「でも、左腕だったから良かったですよ。私今年受験生なんです。この時期に利き腕が使えないってなると、やっぱりまずいですよね?」
右手で左腕をさすってみるけど、右手に伝わってくるのはギブスのざらざらした感覚だけ。
その慣れない違和感に絵里はそれをどう表現すべきか悩んだが、結局何も表現しないことにした。
「そうなんれすか?のんはもう終わったから、忘れちゃいました」
「えっ、のんちゃんって高校生なの?」
へへへ、と笑いながら言ってくる希美に絵里は自分の耳を疑って思わず聞き返してしまった。
「そうれすよ。のんは高校一年生れす」
胸を張って答える希美に、絵里はあんぐりと口を開けることしかできない。
(こんな高校生、あり得ない……。中学生、下手をすると小学生でも通じるんじゃない?)
「ねぇ亀ちゃん。今もしかして、すごく失礼なことを考えてなかったれすか?」
「い、いえ、そんなことないですよ。その通りだなって思ってました」
半眼になって睨んでくる希美に、ぶんぶん首を横に振って答える絵里。
「そうれすか。ならいいれす」
「そうだ。のんちゃんはなんで入院してるんですか?」
まだ不服そうな表情をしている希美から目を逸らし、絵里は空を見上げながら聞いてみる。
絵里が見たところ、希美は全くもっての健康体で、なぜこんなところにいるのか皆目検討がつかなかった。
- 397 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:04
-
「なんなんれしょうね。のんもよく分かんないんれすよね」
そう答えた希美は苦笑いしていた。
「そうだ亀ちゃん。一緒に外に行きませんか?」
話を切り上げた希美がいきなり立ち上がり、絵里に手を差し出してくる。
「外って、病院の外ですか?」
「そうれす。のん、お腹減ったれす」
そう言ってお腹をさする希美に、絵里は顔を引きつらせた。
「さっきお昼ご飯食べたばかりじゃないですか?」
十二時にはちゃんと病院食が出ている。
味覚に関してあまり注意を払っていないそれだったが、他に食べるものがない絵里にしてみればそれも重要な食料だったため、きちんと腹の中へと収めたが、どうやら希美はそれでは満足できなかったようだ。
「あんなのおいしくないれすよ。ちゃんとしたご飯が食べたいれす」
病院食を一蹴する希美。
そのあまりにストレートな表現に絵里も思わず笑みがこぼれてしまった。
絵里は差し出されたままになっていた希美の手を取る。
「いいですよ。行きましょう」
いったんそれぞれのは病室に戻り支度をするということで、手を繋いでそこまで戻ることにする。
その希美の手に、絵里は吉澤ひとみの温もりを感じていた。
そして、病室の前まで戻ってきたとき、絵里は気づいてしまった。
『これから、亀ちゃんはどうしたいのか』
里沙が言いたかったこと。
絵里はもう、吉澤ひとみと触れ合うことができない。
声を聞くこともできない。
あるのはただ思い出としてのイメージのみ。
それなのに絵里は勘違いして、吉澤ひとみの全てを手にしたと思い込んでいた。
(どうしよう……。なんて思い上がりなんだろう)
唐突に思いついたその考えに、しばし愕然となる絵里。
そこにさきほどまでの満ち足りた感覚は無かった。
(私の自分勝手で、吉澤さんはこの世界から消えてしまったんだ……私が消したんだ)
「亀ちゃん。どうしたんれすか?」
希美の顔が目の前にあるのが分かるが、それもどこかぼやけていてはっきりとは見えない。
そして一瞬、視界が真っ暗になり、再び元通りに戻る。
否。
元通りではなかった。
- 398 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:05
-
『なんで、泣いているの?』
以前聞いた、吉澤ひとみの声。
絵里が好きだった先輩である吉澤ひとみの声が聞こえてくる。
ぼやけた視界に、その吉澤ひとみの顔が浮かんでいた。
「だって、私は先輩を消しちゃったんですよ?」
そう言う絵里を吉澤ひとみは無表情で見つめてくる。
だが、そんなことは今の絵里にしてみればあまり関係なかった。
「そんな私に、あなたを好きになる資格なんてありません」
口から出るのは、言い訳だけ。
見えるのは先輩を好きだったという、あの頃の絵里の残骸だけ。
『資格なんて、必要ないよ』
ゆっくりと話し始めた吉澤ひとみに、絵里は伏せていた顔を持ち上げた。
はっきりと見える吉澤ひとみから手が伸びてきて、それが絵里の顔を包み込んでくる。
『好きになるってことに、資格なんていらないと思うよ』
だから顔を上げて、と続けてくる吉澤ひとみの顔が急速に薄れていく。
そして、最後の一言は声になっていなかった。
だが、口の動きから吉澤ひとみがなにを言ったのかが分かった。
『前を見て』
たしかにそう言った吉澤ひとみに絵里はただ、残った右手で肩を抱き寄せることしかできなかった。
- 399 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:06
-
再び視界が暗転する。
「亀ちゃん、大丈夫れすか?」
病院の自分の部屋の、そして自分のベッドの上に横になっていた絵里の視界に、希美の心配している顔が映る。
その心配そうな表情の希美に向かって、絵里は小さくだが首を縦に動かした。
「急に倒れたんれすよ。本当に大丈夫れすか?」
希美をあまり心配させたくなく、絵里はゆっくりと身体を起き上がらせる。
全身の節々がぎちぎち音を立てるような感覚を受け、絵里はそれが自分の体から発するものなのかと驚く。
が、それも表に出すことはなかった。
「大丈夫です。夢を見ていました」
(大切な人の夢を……もう戻ってこない、あのときの夢を。)
後半部分は心の中だけで付け加える絵里だったが、それを受けて出てきた言葉は消すことができなかった。
「先輩、無理ですよ」
思わず口に出ていたその一言に希美は目を丸くしていたが、絵里は構わず先を続けた。
「前なんて見れません。あなたがいないんですから」
- 400 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:06
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 401 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:08
-
稲葉貴子は、勝手知ったる我が家に土足で踏み込んでいた。
というのもそこはすでに我が家ではなく、単なる廃墟だったからだ。
(裕ちゃんも人が悪いな。ウチへのあてつけか?)
物心ついたときから長年を過ごしたその廃墟は貴子にとって思い出の地であり、そして忌まわしい過去でもあった。
(過去を振り返るのは、死ぬときだけや。それまでは前に進む)
そう割り切って、二階の元副理事長室へと向かう。
ほんの数秒で目的地に着いたが、貴子はドアを開けることができない。
手にはいつしかナイフが握られていたが、それは相手を殺すためではない。
あくまで助言を得るためだけだ。
そう認識しているはずなのに、貴子は衝動に駆られた。
衝動、すなわち殺したい、仇を取りたい、消えてしまいたい。
が、それをするにはまだ自分は若すぎる。
次、生まれるとき、再び人間だという保証はない。
むしろ貴子のような人間は二度と人間に生まれることはできないだろう。
生まれないほうが良い。
「それは全ての奇術師にあてはまるぞ」
ドアの向こうから声がして、貴子は反射的にそれまでの衝動を己の内に隠した。
「なんや裕ちゃん。気付いとったんかいな。それならそうと言うてえな」
できるだけおどけながらドアを開ける貴子。
が、さっきの衝動とは反比例して感情は消えていった。
(そう、ウチらはもう元には戻れん。ウチら三人は……)
親友ではなく単なる同士に成り下がった中澤裕子は、いつもの定位置――窓際だが――に立って愛用のピースを吸っていた。
- 402 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:09
-
「貴子から訪ねてくるなんてめずらしいな」
火を点けたばかりなのだろう、長いピースを左手で持った裕子が肩を竦めて言ってくる。
(やっぱり、裕ちゃんは全てに心を閉ざした。あのとき、みっちゃんを殺してしまったから。ウチが二人を止められへんかったから)
過去が現実に追いついて、貴子の首を絞めてくる。
あのときの貴子なら、罪の重さでそれを受け入れていただろう。
だが、貴子も大人になった。
少なくともあの頃よりも……。
「今日はな、裕ちゃんに見てもらいたいもんがあるんや」
過去を振り払い、貴子は持っていたナイフを裕子に向かって投げつけた。
狙いを外したナイフが裕子の顔のすぐ隣の壁に、軽い音をたてて突き刺さる。
裕子はしばらくそれを見ていたが、持っていたピースを投げ捨て宙で燃やすと、おもむろにそれを壁から引き抜いた。
「裕ちゃん、あんまり力使うと、いざってときに力がでんくなるで」
いつものことながら、貴子は苦笑いしながら裕子に忠告しておく。
本来、面倒くさがりな裕子は、こうやって力を絶えず浪費している。
それは奇術師にとって背徳であり、自分自身にとっても背信的な行為だった。
だが、その二つよりも優先されるものが存在する。
(奇術師は己の奇術にのみ縛られる。これは偽。奇術師といえども、己の根源には逆らえない。これが真)
中澤裕子の根源は『破壊』であり、平家みちよのそれは『虚無』だった。
そして、稲葉貴子の根源は『蒐集』である。
(そうや。ウチら三人がまとまるなんてどだい無理な話やったんや。三人とも全然違うしな)
が、破壊が根源だった裕子に変化が訪れている。
最近の裕子は破壊とは対極に存在する『作成』を行っているのだ。
だが、表面上ではいくらそれを繕ったところで、根源は変わることはない。
全ての事象は根源によって縛られ、それから脱却することはできないのだから。
- 403 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:09
-
ナイフを見たまま動かなくなった裕子を無視して、貴子は部屋を見回してみる。
そこは貴子が最後に見た光景とあまりにも掛け離れていた。
まず壁にかかっていた絵が無くなっていた。
そして、部屋の大半を構成していた調度品の数々も失せてしまって、かろうじて残っているのはバネの利かなくなったソファと、唯一あのときの権威を象徴しているデスクだけだった。
(夢の跡か。まさしくその通りやな)
あの忌々しい副理事長をこの手で殺せなかったのが唯一の心残りだが、それもすでに過去のものとなっていた。
「どういうことだ、これは?」
奇術師と呼ばれる人間、いや、人種には、誰にでも人の根源をトレースする能力が備わっている。
これは、それがなければ奇術師になりえないとまで言える絶対条件だった。
たまたま貴子はその能力に優れていたため、そして自己の根源に気付いたから、こうやって他人の根源を蒐集しているに過ぎない。
「途中で根源が途切れ取るやろ?めずらしいと思わんか?」
全ての事象は日々変化していて、終わりというものはない。
が、その反対の事象が発生するきっかけとなった始まりは存在する。
それが奇術師にとってもっとも重要であり、それを解明することが最大の役割だった。
「めずらしいなんて比ではない。あり得ない」
「そう、普通に考えればそこに行き着くのが当然なんやけどな……」
そこで貴子は思い出す。
その残留思念を回収・分析して裕子と同じ結論に行き着いた貴子は、ここへ来る直前にもう一度その現場に足を運んでいた。
現場に着いて、貴子はまず眉を顰めた。
残留思念が溜まりやすい場所だと分かっていたが、その溜まり具合がこれまでのそれよりも多かったのだ。
- 404 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:11
-
特殊な残留思念の残骸が新たな残留思念を呼び込む憑代になっているのか、はたまた残留思念の通り道に変化があったのか定かではなかったが、貴子は前者だと直感していた。
(特殊なものは普通のものを呼び寄せる。これが道理やしな)
問題はその特殊な残留思念がどうやってその特殊性を得たかだ。
自分で勝手に特殊性を得るのはほぼ無理と言ってもいい。
(特殊性を与えた人間がおるはずや。そして、そいつは自分のしたことを分かっていない)
「貴子、返す」
短く言ってきた裕子に、二度目の軽い音。
気がつくと貴子が入ってきたドアに裕子に渡したナイフが突き刺さっていた。
「で、これを私に見せて、なにを期待してるんだ?」
定位置の窓際で再びピースを吹かす裕子に貴子は苛立ちながら、自身もフィリップモリスを取り出してライターで火を点ける。
大きくそれを吸い込んで紫煙を吐き出した。
しばらくなにを言おうか迷うが、結局、言うことは一つしか見つからずそれを口にした。
「裕ちゃん、あり得ないものがあり得るものとして目の前にその姿を現す。やけど、それは価値が下がったからやない。ましてや価値が上がったからでもない。そんなことは関係ないんや。ただ、それが日常として姿を現す。そのことが重要なんや。常に物事は前に進んどる。それを認識せんと、ウチらは進めんで」
言ってからそれが皮肉にしかなっていないことに気付き、自嘲気味に笑う貴子。
「なんだ、それは私に対する皮肉か?」
裕子もそれに同じように自嘲気味に笑う。
いや、裕子の場合は自嘲ではなく、後悔のせいかもしれない。
「祐ちゃんだけやないで、ウチ自身にも当てはまるわ」
あのとき二人を止めておけば、二人を別々に行かせておけば、こうならなかったはずだ。
それを痛感しながら貴子は言う。
- 405 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:12
-
「違う、あっちゃんは関係ない。あれはウチがやっただけや」
裕子のその一言に、貴子は自分の耳を疑う。
それは紛れもなくあのときの裕子だった。
そんな貴子の表情を見た裕子が苦笑いして、ピースをもみ消す。
「悪い、今のは忘れてくれ」
肩を竦めてデスクに戻る裕子の背中を、貴子は呆然と見送る。
あの頃の自分達には戻れないが、あの頃の自分達は消えはしない。
それを認識して貴子は過去を置いて、未来を見据える。
「ところでな裕ちゃん。田中のことなんやけどな」
それを聞いた瞬間、裕子の顔が苦虫を噛んだように歪んだ。
それがあまりにも裕子らしく、貴子は思わず笑い出しそうになったが、それがあまりに場違いなものだと気づき、自制する。
「なんだ、もう知ってるのか」
「そりゃ知るわ。あいつはウチの生徒なんやで。あんまりこっちの道に入れんといてくれよ」
日本で残っている正式な奇術師は全て死滅した。
残っている貴子や裕子は異分子として、あらかじめ消された存在だった。
それが、今もこうして生き残っている。
「それこそ皮肉やな」
「それでも私達は生きているんだ。死ぬよりはましだろう」
デスクの引き出しを開けながら言う裕子を、貴子はただ見つめるだけ。
「試作品第二号だ」
裕子がなにかを投げてよこしてくるのを、貴子はとっさに右手で受け止める。
「これって、ペンダント?」
が、デザインはかなり悪趣味だった。
銀の髑髏が貴子を睨みつけている。
ちなみに試作品第一号は小川麻琴に渡したもので、そっちの完成品も見たが、今、貴子が手にしている髑髏よりかは幾分ましなデザインだった。
「田中にぴったりだろ?」
にやりと笑っている裕子に、貴子はただため息を吐くだけだった。
「こんなのつけて学校きたら、即没収やで」
「仕方ないだろ?どこかに身につけるとしたら、首が一番良い」
首から前にぶら下げれば、そのアイテムは効力を最も効率よく発揮できる。
それを貴子は認識していたため、一応ツッコミを入れただけにすぎない。
- 406 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:13
-
「あいつの根源は『闘争』だ。そいつはそれをコントロールして、効率良く引き出す」
「裕ちゃん、いちいち説明せんでもええわ」
分かっていることを説明する裕子は、だいたい機嫌が良い。
それと反比例して貴子は不機嫌になる。
それは昔からだった。
「奇術師はウチらで終わりや。もう次を育てる必要はないで」
同じようにペンダントを投げて返した貴子は、裕子に背を向ける。
「ごめんなあっちゃん。ウチはもう、戻れんわ」
背中越しに聞こえてくる裕子の一言に、貴子はそれまでの罪悪感が薄れていくのを感じる。
だが、完全に消えるものでもなかった。
それが自然と口から漏れる。
「ええよ裕ちゃん。それはウチも同じや」
壁に突き刺さったナイフを引き抜き、貴子は静かに部屋を出る。
「だって、みっちゃんはもう、この世にはおらんのやろ?」
誰に言うでもなくその呟きと同時に零れ落ちそうになる涙を必死に堪え、貴子は廃墟を後にした。
- 407 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:13
-
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
- 408 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:14
-
さっきから私の胸が異様に高鳴っている。
こんなことじゃ私の心臓の音で、あの人に気づかれちゃうかもしれない。
今私が立っているのは、N大付属高校の寮の玄関前。
さすがに入り口の前に立つのは迷惑だから、私は玄関の横の壁にもたれて立っている。
「あれ、亀井ちゃんじゃない?どうしたの?」
気がつくと、N大付属高校の制服を着た小川さんが立っていて、目を丸くして私を見ていた。
隣には知らない女の人が立っている。
この小川さんは、れいなのお姉さんになるんだけど苗字が違う。
私はそれを不思議に思ってれいなに聞いてみたんだけど、れいなは言葉を濁して結局教えてくれなかった。
「いえ、実は吉澤さんにお礼が言いたくて、待ってるんです」
昨日の出来事を素直に話すと、小川さんは苦笑いしていた。
「吉澤先輩、またやったんだね」
「またってなにをですか?」
私の一言に、しばらく唸っていた小川さんだったが、まあいっかと小さく呟いて続きを話し始めた。
「吉澤先輩はね、ヒーローなんだ」
「ヒーロー?ヒロインじゃなくて、なんでヒーローなんですか?」
私の素早い切り返しに、再び唸り始める小川さん。
「うんとね…。多分、ヒロインだと似合わないからだよ」
それから吉澤さんがなぜあの時間帯にあんなところにいたのか説明を受けて、私は納得した。
それじゃヒロインより、ヒーローだな。
「でさ、その吉澤先輩なんだけどさ……」
「なんですか?」
「もう学校に行ったよ。朝練なんだ」
それを聞いた私は慌てて自分の時計を確認する。
七時半。
こんなに早いのに、吉澤さんはもう学校に行ってるんだ。
- 409 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:15
-
「ちなみに、私はあさ美ちゃんの巻き添えね」
「だから、あれは違うんだって」
苦笑いしている小川さんに、隣の人が顔を真っ赤にして言ってきた。
「なにが違うの?チャットしてて夜更かしなんかするし、宿題もちゃっかり忘れてるし……」
それから説教を始めた小川さんだったが、私はそれどころじゃなかった。
「あの、小川さん」
説教を遮って、二人に割り込む。
「吉澤さんってどこにいるんですか?」
なぜか目を丸くしている小川さんだったが、それもほんの一瞬だった。
にやりと笑った小川さんに、背筋を冷や汗が伝うのが分かる。
「亀井ちゃんさ、今日はすごく積極的だね」
うわっ、予感的中。
「違いますよ。ただ、お礼を言うんだったら、早いほうがいいかなって思っただけです」
「そう?別にどっちでもいいけどね」
それから小川さんと隣にいた人――この人は紺野さんって言うらしい――の後について、私はN大付属高校に行く。
「あさ美ちゃん。わたしは亀井ちゃんと一緒に体育館に行くからさ、ちゃんと宿題しててね」
校門のところでノートを手渡す小川さん。
「あくまでそれは最終手段だよ。全部合ってるって保障はないから。あと、カバンに詰めてたお菓子は昼休憩まで食べちゃだめだよ」
あれこれ指示する小川さんと、それを顔を真っ赤にして聞いている紺野さんを見ながら、私は時計を確認する。
七時三十五分。
私が通うF中はここからだと十五分。
予鈴が鳴るのは八時半で、差し引きするとまだ三十分以上時間は残っている。
「じゃあ行こうか」
「あ、はい」
小川さんに促されて、私はその後をついていく。
N大付属高校はかなり広い。体育館でも三つあって、それぞれ目的によって使い分けられている、らしい。
この最後の『らしい』は小川さんから聞いた話で、小川さん本人もそこのところはよく分からないみたい。
- 410 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:16
-
小川さんはその三つある体育館のうち、第二体育館に向かっていた。
体育館が近づくにつれて、中からボールの弾む音が聞こえてくる。
「ここが入口だよ。吉澤先輩なら中にいるから」
小川さんからペットボトルを手渡される私。
小川さんの顔はにんまりとしていた。
「先輩は一人だからね。頑張って」
「小川さん、なにか誤解してませんか?」
実はその通りだったんだけど、それを知られたくないから私はわざとそう言い返してしまった。
「誤解じゃなくて、応援だよ」
じゃあね、と言って小川さんは元きた道を戻っていった。
スポーツドリンクのペットボトルを渡された私は、一度だけ深呼吸すると覚悟を決めて体育館に足を踏み入れた。
広い体育館は朝の空気を反映して、冷たく、そして軽かった。
その中で吉澤さんは一人、サッカーボールを蹴っていた。
なんて話しかけたらいいのかな?
私に背を向けて、ひたすらボールを蹴っている吉澤さんをしばらく観察する。
かっこいい。
それにきれい。
私はそれほどサッカーに興味があったわけじゃないけど、蹴るときのフォームがなんとなくそう見えた。
いや、フォームだけじゃない。
吉澤さんを取り巻いている空気もなんとなくそれを後押ししていて、それが私には触れることのできない聖域のように感じられた。
その中に私は入れない。
そう思えて、急に不安になってくる。
ボールを全て蹴り尽くし、吉澤さんがはじめてシュート以外の行動――玉拾いだけど――をはじめたのをきっかけに、私は思い切って話しかけることにした。
「あの……」
肝心の何を話したらいいのかが口から出てこない。
昨日あれほど考えていたのに、それも一瞬にして吹き飛んで、消えてしまっていた。
でも吉澤さんはその短い一言でも私のことだと分かってくれた。
「亀井?」
振り向いてびっくりしている吉澤さんに、私は小さくお辞儀をする。
後はなるようにしかならないんだったら、なにも考えずに話そう。
そう割り切った私はゆっくりと吉澤さんに近づきながら話し始める。
- 411 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:16
-
「すみません、こんな朝早くに」
「いや、それは構わないけど、学校は大丈夫?」
「あと三十分くらいしたら学校に行きます」
小川さんからです、と預かったペットボトルを吉澤さんに手渡す。
「サンキュー」
ペットボトルを受け取り、それを一気に半分ほど飲み干す吉澤さん。
それから彼女は体育館の脇の荷物まで歩いて、上に置いてあったタオルを手に取った。
「ところでさ、どうしたの?」
汗を拭きながら言ってくる吉澤さんをやっぱりかっこいいと思う私がいて、それが微笑ましかった。
「昨日はありがとうございました」
「いいよそんなの。たまたまあそこにいたわけだからね」
ちょこんとお辞儀をする私に、吉澤さんは苦笑いしていた。
「だけど、あんまりあんな時間にあんな場所に行くんじゃないよ。あそこら辺はなにがあってもおかしくない場所だからさ」
「吉澤さんは助けにきてくれるんなら、私、またあそこに行きたいです」
忠告した吉澤さんに私は笑顔でそう答える。
「おいおい、それは勘弁して。私だってあいつらの相手をするのって疲れるんだからさ」
吉澤さんは私を怒ることなく小さく肩を竦めて、ドリンクを飲んだ。
「ところで、昨日はどうやってあの人達を倒したんですか?」
「ひみつ。それは教えられないよ、真似されたら困るからね」
やっぱり肩を竦めている吉澤さんに、私は頬を膨らませる。
だけど、効果がなかった。
それからしばらく、私達は無言で外の景色を眺める。
遠くのグラウンドには吉澤さんと同じように朝練をしている人が何人か見えた。
そして、それを縫うようにして他の生徒が登校している。
- 412 名前:循環するは想い2 投稿日:2005/01/12(水) 10:17
-
時刻は八時十分。
そろそろ学校に行かないと遅刻してしまう。
だけど、まだ話し足りなかった。
もっと吉澤さんと話がしたい。
「あの、吉澤さん?」
「ん?」
汗も引いたのか首に巻いたタオルを外している吉澤さんに話しかける。
「明日もここにきますか?」
私の一言で、顎に人差し指を当てて、少し上向きになって考える吉澤さん。
それが妙に女の子らしくて、私は思わず笑いそうになった。
でも、もちろん吉澤さんの前では笑わない。
自分だけの宝物にするつもりだから。
「気分次第かな。早く起きればくるし、遅ければこないよ」
「じゃあ、早く起きてください。私、明日もきますから」
おいおい、と苦笑いしている吉澤さんにすかさず追い討ちをかける私。
「無茶言うなよ。明日のことなんて分からないのにさ」
「じゃあ、携帯の番号を教えて下さい。私が毎朝起こしてあげますよ」
ちょっと強引だったけど、これで吉澤さんといつでも話をすることができる。
あのとき私はたしかにそう思って、素直にそのことをうれしいと感じた。
問題は朝寝坊しやすい私がどうやって毎朝早く起きたら良いのかって、ことだけだった。
- 413 名前:いちは 投稿日:2005/01/12(水) 10:40
- 更新しました
この時点でようやく第一話の冒頭部分に追いつきました
というわけであまり出番の無かった人が出てきます(といっても少しだけですが)
>>386 名無し読者。さん
この話については読んでる限りではあの二人が主役なような感じがしますが
いちは的には一人称で出てきたあの人が主役のつもりです
この話なんですが、全五回で次は「循環するは想い3」です
それでは
- 414 名前:名無し読者。 投稿日:2005/01/19(水) 07:24
- 更新お疲れ様です
今回のお話は違う角度からの物語が読める感覚で
楽しいですね
- 415 名前:循環するは想い 投稿日:2005/01/19(水) 10:39
-
循環するは想い3
- 416 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:39
-
(さゆもよく頑張るっちゃ)
尊敬しながらも退屈そうな視線を送る田中れいなは心の中でそう思い、シュートを放っている道重さゆみに気付かれないようにため息を一つ吐いた。
ここはF中の体育館。
そこでさゆみは一人、自主練習をしていた。
さゆみはF中バスケ部に入っていて、それでここにいる。
そして、れいなはそのバスケ部のマネージャーだったので、無理やりさゆみに突き合わされていた。
体操服のさゆみと違って、れいなはTシャツにジーンズといった服装だった。
見た目は運動ができそうなれいなだったが、実のところ運動がほとんどできない。
球技はもちろんのこと、陸上競技に関してもほとんど音痴といってもいい状況だった。
一時期はそれが嫌で運動音痴を克服しようと頑張ってみたが、結果が出ることはなかった。
では、姉の小川麻琴はどうかというと、彼女はそつなくなんでもこなす万能型だった。
が、それも人並みであって人より抜き出ている部分がなく、それゆえに目立つことはなかった。
(でも、マコ姉は違う)
通常の運動に関しては小川麻琴は平均的で光るものがなかったが、運動で無い部分ではその才能を見せていた。
運動で無い部分。
それはつまるところ、日常ではあり得ないことを意味している。
小川麻琴は物を壊すことに長けた特殊な人間だった。
それに小川麻琴にはもう一人、小川真琴がいる。
彼(見た目は女だが、れいなからすれば真琴は異物にすぎない)は小川麻琴のその特殊性を最大限活用している人間で、彼が原因で小川麻琴が田中家を出て行った原因といっても過言ではなかった。
(マコ兄がいなければ、マコ姉はずっとれなのお姉ちゃんだったのに……)
田中麻琴が小川麻琴になったその決定的な日を思い出し、れいなは知らず知らずのうちに握り締めた拳に力をこめていた。
- 417 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:40
-
「れーな、タオル取って」
遠くのさゆみの声で現実に引き戻されたれいなは、慌てて脇に置いてあったタオルをつかんで投げるが、それも全く見当違いのほうへと飛んでいった。
「もー、れーなたら、ちゃんと投げてよね」
「ごめんさゆ」
言い訳できる状況ではなく、れいなは素直に謝る。
さゆみはそれで満足したのか、あっさりとれいなへの追求を止めてタオルを拾いに行った。
それが気に入らず、れいなは苛立ちながら自然とその手を首にかけたペンダントに持っていく。
二日前の土曜日に、れいなは奇術の師である中澤裕子からペンダントをもらった。
裕子曰く、それは特殊な能力を持つれいなの、その能力に方向性を与える物らしい。
れいなもそれを自身の目で確認して、納得していた。
そして、なんといってもデザインが気に入っていた。
不気味な髑髏はあたかも今の自分のようで、それを見ていると時間を忘れるほどである。
だから、さゆみのいる前ではそれを意識して見ないようにしていた。
そんな悦に入ったれいなに突如異変が襲い掛かる。
ずきんっ。
突然襲われた胸の痛みに、れいなは思わず体を丸めた。
呼吸が荒い。
体の節々に痛みが走る。
意識が遠のく。
再び意識が戻る。
ほんの数瞬でそれら全てを体験したれいなは、とっさに立ち上がり外へ駆け出た。
足元がふら付いたが、そんなことを気にしている暇は無い。
れいなを襲ったそれらは外にいる。
途中、さゆみの声が後ろから聞こえてきたが、れいなはそれを無視して走り始めた。
- 418 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:41
-
(なんかおる)
直感でそれを感じ取り、れいなは体育館の裏手にある建築中の新校舎に向かう。
新校舎が近づくにつれて、体が緊張して強張ってくる。
暑いのは当然のことだったが、それとは違う汗が出てきてそれがれいなの気持ちを逆なでしていた。
遠くでは誰かが、れいなのことを笑っている。
少なくともそのときのれいなはそう感じた。
「なにがそんなにおかしか!」
れいなにしか聞こえない笑い声に、れいなが吼える。
ほんの数分が数時間にも感じられ、ようやくれいなは目的地に着いた。
「笑っとったのはお前らか?」
声を低くして言うれいなだったが、その足は震えていた。
暗い。
そして、冷たい。
れいなが見ていたのは、それまで漠然としか感じることのできなかった残留思念で、それが明確な形となってれいなの前に現れていた。
『方向性を与えられることで、これまで感じることができなかったものが見えるかもしれない』
師の言葉を思い出し、れいなはそれが今なのだとはっきり自覚する。
(こいつら、前のやつらとは違う)
稲葉貴子が狩っていた残留思念は他人を害する意志を持たない、ただ浮遊しているだけの存在だったが、れいなの見ているそれらはれいなにある事実を突きつけていた。
嘲り。
哀れみ。
憎しみ。
そして歓喜。
それらが一体となって、残留思念達は笑っていた。
- 419 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:41
-
貴子のときとは状況が違う。
そう感じたれいなはとっさに周囲の水分を集めて、小さな氷の飛礫を残留思念の密集している部分に打ち込んでいた。
飛礫に当たり消える三つの残留思念。
それ以外はれいなの攻撃と同時に周囲へと分散していた。
前方から聞こえていた笑い声が周囲に飛び散って、れいなを取り囲む。
男のもの。
女のもの。
子供のもの。
大人のもの。
人間のもの。
それ以外のもの。
それらの笑い声の取り囲まれ、れいなはあっさりと自分を見失う。
「このっ!」
れいなは正面に見えた残留思念に対して、今度は氷柱を投げつける。
しかし、今度は当たる前にかわされた。
それでもれいなは構わなかった。
正面には少なくとも残留思念は見えず、そこにれいなは駆け出そうとした。
が、足が動かない。
見下ろすとヒトの形をした残留思念が二つ、上半身だけを露出させてれいなの足を掴んでいた。
息を呑むれいな。
思考が途絶え、それら二つの残留思念を見たまま体を強張らせる。
掴まれたことを自覚した瞬間、それら二つの残留思念からの意識がれいなに流れ込んできた。
『帰りたい』
『あいつがなんで生きている』
『なぜ俺が殺された』
『あいつが死ぬべきだったんだ』
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる……
ジーンズ越しにも関わらずそいつらの感触が分かり、れいなは吐き気と殺意に襲われた。
頭を抱え込んで蹲りたいが、足元にはそいつらがいる。
れいなは必死に頭を振って、そいつらの意識を振り払おうとした。
が、一向に離れる気配はない。
- 420 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:42
-
次に感じたのは、ふとももだった。
冷たい感触が粘り気を伴って、ゆっくりと這い上がってくる。
それと同時に足の感覚がなくなり、れいなは立っているのか座っているのかも分からなくなった。
(このままだと、こいつらに殺される)
頭ではそう思っていても体が動かず、れいなはどうすることもできない。
氷柱を放とうにも意識が集中できず、少量の氷の粒しか作れなかった。
そのときだった。
何かが風を切り、れいなに迫ってきた。
ほんの一瞬のことだったが、それでもれいなにはそれが分かった。
次の瞬間、冷たい感触がなくなり立っていたれいなは尻餅をつくように地面にへたり込んだ。
「先客が田中とはな。ウチも鈍ったか?」
かろうじて動く首で後ろを見ると、そこには稲葉貴子が立っていた。
が、台詞とは裏腹にその表情は硬い。
「せ……んせい?」
「動けるか?」
素早く近づいてくる貴子だったがその手は絶えず動いていて、握っていたナイフで残留思念達を切り裂いている。
「動けるか?」
横にきて、もう一度言う貴子に首を横に振るれいな。
腰が抜けていてろくに動くことができなかったからだ。
「そうか。そのほうが都合がいい。ウチも本気が出せる」
そう言いながらスーツの上を脱いだ貴子は、それをれいなに放り投げた。
「持ってろ。あまり汚すな」
貴子の口調が変化し、それと同時にそれまでの暗く冷たい空気も変化した。
それまでれいなを嘲っていた残留思念も、その動きを止めて貴子を睨んでいた。
いや、それは正確には見えなかったが、気配でなんとなく分かった。
- 421 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:43
-
鋭い刃となって歩き出す貴子。
その後姿にれいなは自分の師を思い浮かべた。
(先生も、師匠と同じとね……)
目の前の貴子がゆっくりと、その両手を前に突き出す。
「行け」
凍りつく感触を持った一言に、れいなは思わずその身を強張らせる。
が、それでも貴子から目を離さなかった。
貴子の一言と同時に、突き出した両手から何かが飛び出していく。
それからはすぐ近くにいたれいなですら何がなんだかよく分からなかった。
ただ、貴子はオーケストラの指揮者のごとく両手を振り回すだけだった。
そして、それと同時に弾け飛んでいく残留思念達。
それら残留思念の声が響き渡り、あたかも何かの曲のように聞こえた。
しかし、貴子の演奏は三分も続かなかった。
最後の一つが弾け飛び、貴子の両手が止まる。
それと同時に残留思念による演奏も終わり、辺りは静かになった。
「戻れ」
呟きと同時に貴子の両手に何かが舞い込んでくる。
れいなはそれを見極めようとしたが角度が悪かったため、結局分からなかった。
魔法の両手をポケットにしまった貴子が、れいなのところまで戻ってくる。
といっても振り向いただけだったが。
「終わったで」
口調もすでに稲葉貴子のものに戻っていて、それを聞いたれいなは安堵する自分がいることに気づいた。
- 422 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:44
-
「先生、あれってなんだったんですか?」
スーツを渡し、ジーンズの砂を払いながら立ち上がるれいな。
よく見ると、貴子の額には大粒の汗が、そして全身から湯気のようなものが立ち昇っていた。
「せ、先生。大丈夫ですか?」
れいなの問いかけに顔を歪ませる貴子。
「ちょいと待ってくれ」
そう言って目を閉じてしまった貴子にれいなはどうすることもできず、ただ慌てていた。
さっきの戦闘(といえるかどうか疑問だが)で、どこか怪我をしたようには見えなかったが、もしかすると怪我をしているのかもしれない。
心配したれいなは貴子の周囲を見回すが、どこもそれらしいところは見当たらない。
「すまんな、終わったで」
目を開けた貴子の体からはすでに汗は引いていて、湯気も消えていた。
暑苦しそうなスーツは手に持ったまま、貴子はため息を一つ吐く。
「それにしても、今日のはやけに好戦的やったな」
目がじろりとれいなを睨み、れいなは思わず後ろに下がる。
「いや、れなは特になにもしてなかとですよ」
口から嘘が勝手に出るが、目の前の貴子から逃げたい一心がそうさせていた。
「そやけどな、あいつらがここまで好戦的になるのは訳がある……」
突如言葉を切った貴子が、れいなから視線を外し考え込む。
口だけがときどき動きなにかを言っているようだったが、それをれいなは聞くことができなかった。
「ところで先生。さっきはなにをしてたんですか?」
重くなった空気が嫌になり、れいなは黙ったままの貴子に話しかけていた。
それを聞いた貴子の顔が苦くなる。
が、それもほんの一瞬のことだった。
- 423 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:45
-
「田中」
「はい?」
真剣な表情、そして真剣な口調になった貴子にれいなも少なからず緊張する。
「ウチはお前に奇術に関することを教えるつもりはない。それにな、奇術なんて知らんほうがええ」
スーツに袖を通しながら言ってくる貴子の雰囲気に、れいなは違和感を覚える。
「ウチらがしとることは人として外れた行いや。無理にそれに入って込んでも、人は人として存在できる」
だから入ってくるな、貴子はそう言い、れいなに背を向ける。
「先生、それは無理です」
遠ざかっていく貴子の背中に、れいなは話しかける。
それを受けた背中が、その歩みを止める。
「れなは知りました。中途半端に知るんだったら、全部を知りたいです」
とっさに口が動いて言葉が紡ぎだされたが、それでもれいなの本心だった。
貴子が小さく何かを言ったようだったが、それをれいなは聞いていなかった。
ただ、貴子の背中を見つめるだけ。
「全部知りたいのは、ウチも同じや」
再び歩きだす貴子だったが、
「田中、学校に来るんやったら制服着てこいよ、たとえ休みでもな」
とだけれいなに言い、去って行った。
取り残されたれいなは、自分の格好を見下ろし呟く。
「最後の一言って、八つ当たりじゃなかと?」
その呟きに答える声はなく、少し冷たくなった風にれいなは肩を震わせた。
貴子と入れ違いにやってきたさゆみに思い切り怒鳴られるれいなだったが、それに遭遇のはもう少し後になる。
- 424 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:45
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 425 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:46
-
ラーメン、餃子、チャーハン、カツ丼、親子丼などなど。
それらの並ぶテーブルを見下ろしながら、亀井絵里はただため息を吐くしかなかった。
「のんちゃん。こんなに食べきれるの?」
目の前でカツ丼をかきこんでいる辻希美に、絵里は心配して話かける。
絵里が頼んだのはチャーハンだけ。それ以外は目の前にいる希美が注文していた。
「大丈夫れすよ。これくらいなら三十分もあれば十分れす」
そう言って空になったどんぶりをテーブルに置く希美。
そして、すぐさまラーメンに手を伸ばしていた。
(これなら本当に三十分で食べ終わるかもしれない……)
次々と空になっていく皿を眺めながら、自分のチャーハンを見下ろす絵里。
希美の食欲に自分の食欲が奪われていくみたいで、絵里は控えめなはずのチャーハンでさえ食べきる自信がなかった。
それには病院での昼食を完食していたのも、少なからず原因があるようである。
昨日出会ったばかりの辻希美とこうやって外に食べにきていること自体も絵里にとっては驚きだった。
元来控えめで家族を除けばれいなやさゆみ、里沙といった面々でしか外に行ったことのない絵里にとって、それは冒険だった。
(のんちゃんて面白いな)
目の前の希美を観察しながら、絵里は心の中だけで思う。
そう思えるのも友人を除けば本当に希少で、それが絵里にはくすぐったかった。
だが、そこで思い出す。
(そうだ、三時から新垣さんがくるんだった)
それはきっと絵里の能力のことだし、吉澤ひとみのことだろう。
その話の方向によっては、絵里は里沙とも離れざるを得られない状況になるかもしれず、それだけで憂鬱になっていく。
しかし、それでも絵里の決心は変わらなかった。
- 426 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:46
-
(吉澤さんは、ひとみさんは私だけのもの)
そのためならば、手段は選ばない。
たとえそれが親友であっても……。
「亀ちゃん。食べないんれすか?」
気がつくと、希美の目の前には空になった皿で埋め尽くされ、残っていたのは絵里のチャーハンだけだった。
「あ、食べてもいいですよ」
「えっ。ほんとれすか?」
皿を差し出してレンゲを手渡す絵里。
それと同時にぱっと明るくなる希美。
時計を確認すると、まだここへ来て二十分しか経っていなかった。
(ほんとに十分だったな)
戦々恐々とチャーハンを制覇している希美を見て、絵里は再び心の中で今度は尊敬の念を抱く。
「ふう。なんとか落ち着いたれす」
おいしそうに水を飲み干す希美に、絵里は苦笑いしながら言う。
「のんちゃん。おなかいっぱいじゃないの?」
「人間、腹八分って言うれす」
(よかった。六分とか言わなくて……)
それから十分ほど話をして、そろそろ帰ろうかという話になった。
結局なにも食べてないことに気づいた絵里だったが、それでも半分を支払い店を出る。
「のんちゃん。大丈夫?」
多少足元がふら付いている希美に、声をかける絵里。
「大丈夫れすよ。足が痺れただけれすから」
そう言った希美の足元は、結局病院に戻るまで治ることはなかった。
途中、何度か肩を貸そうか迷ったがその度に断られ絵里は小さくため息を吐くしかなかった。
- 427 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:47
-
「あれ。亀ちゃんの部屋の前に誰かいますよ?」
希美が指差すほうをみて、絵里の体は緊張する。
そこに新垣里沙が立っていたからだ。
「うん、あれはね私の友達なの」
平静を装ってなんとか答える絵里だったが、内心は焦っていた。
吉澤ひとみと話しているのとは違う意味で心臓が高鳴り、冷や汗が出てくる。
そう、今の絵里にとって里沙は親友ではなく、ただの敵となっていた。
「そうれすか。のんもお話したいれすけど、お昼寝の時間れす」
じゃあ、おやすみれす。
そう言った希美が、手前の自分の部屋に入っていく。
残された絵里は、里沙を観察する。
見た目はいつもの里沙と変わらないが、目が泳いでいるのに気がついた。
いつもなら絵里のほうを見て笑っているのだが、今日はそうではない。
どこに視線を送れば良いか悩んでいるようにも見えた。
「新垣さん、来てたんですか」
できるだけ声を冷たくして言う絵里。
それを聞いた里沙は悲しそうな顔を向けて、やはり悲しそうに笑うだけだった。
「入りましょうか」
鍵のついていない病室に入る絵里。
それに無言で続く里沙。
(なんでこんなに気まずいんだろう……)
心の中で思いながらも表には出せない絵里は、無表情のままベッドに座る。
その間、里沙はそれを立ったままじっと見ているだけだった。
- 428 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:48
-
「新垣さんも座ったらどうです?」
「あ、うん。ありがと」
冷たく言う絵里に、小さく微笑む里沙。
『何をしたいのか』
絵里はそれを一晩ずっと考えていた。
吉澤ひとみを手に入れることはできた。
その想いはすでに絵里のものになっている。
(それで、私はどうしたいの?)
昨日からの自問に、答えは見つかっていない。
それと同時にこみ上げてくる不安が、次第に絵里の心に闇を広げていた。
(私はもう、吉澤さんとは触れ合えない)
その事実が痛烈に絵里へと襲い掛かってくる。
そのため、絵里は昨晩一睡もできなかった。
ただ、自己の内に在るひとみの温もりだけを感じて一夜を過ごした。
だが、その中のひとみは絵里に口だけを動かして、ある想いだけを伝えてきていた。
『前に進んで』
それができないことを絵里は知っているし、もしかするとひとみも知っているのかもしれない。
だが、それでもひとみは絶えずそう言っていた。
「私、どうしたらいいんですか?」
気がつくと絵里は、里沙に言わないと誓っていた一言を呟いていた。
そして、その一言と共にそれまで抱いていた決意があっさりと消え去る。
「亀ちゃんはどうしたいの?」
冷静な里沙の一言に、絵里は霞んだ視界を里沙に向ける。
ぼやけた視界に映る里沙はどこか、寂しそうな表情をしていた。
- 429 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:49
-
「それが分からないんです。だって……」
他人の心なんて分からない、そう言おうとして絵里は息を呑む。
そして次の瞬間、悟った。
他人と自分を隔てているもの、自分と他人を区別しているものを。
全てを理解し、己の行動の浅ましさを呪う絵里。
その絵里に里沙がゆっくりと話しかける。
「もしさ、私が亀ちゃんに消してってお願いしたら、消してくれる?」
突然の、そして意表を突いてきたその問いかけに、絵里は伏せていた顔を持ち上げる。
そして、早口に告げた。
「できませんよ、そんなこと」
他人の意識と同化することは、その他人が持っていた全てを背負うことにはならない。
ただ、その人間が存在していた証を痕跡なく消し去ってしまう、どうしようもなく愚かな行為に過ぎなかった。
「そっか、そうだよね……」
小さく呟いた里沙は絵里から視線を逸らし、窓越しに外を見る。
その横顔がやけに寂しそうに見えて、絵里はいつのまにか里沙に自分を重ねていた。
(そうか、新垣さんは……)
それから先は里沙の尊厳だから、絵里が口にすることも思うこともしない。
ただ、理解するだけに留めておく。
(私と同じなんだ。あのときの私と……)
そして、絵里はするべきことを見つけた。
- 430 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:49
-
「新垣さん。私、吉澤さんともう一度会って、ちゃんと謝りたいです」
許してくれるとは思わないが、それでも、それが絵里にできる全てのことだった。
「そうだね。そうしたほうが、吉澤さんにもちゃんと想いが伝わるよ」
にっこりと笑う里沙に、絵里は安堵する。
里沙はどういう状況にあっても絵里の味方だった。
それが伝わってきて、絵里の心を休めてくれる。
自分と里沙は親友。
それを認識して、絵里は決意する。
「そのためには、あの人にもう一度会わないといけません」
自分にこの能力を与えた人間。
それにもう一度会って、伝えなければならない。
決心のついた絵里は窓から見える空を見て、その空の下にいる誰かのことを睨みつけた。
- 431 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:50
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 432 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:50
-
誰に意地を張ったわけでもないが、稲葉貴子は自分の部屋に入るまでずっと耐えていた。
体中から汗が噴き出して、そのたびに激痛に見舞われていたが、それを表面に出すことは一切なかった。
が、それも外での話である。
部屋に入るなり、貴子は力尽きて倒れた。
持っていたカバンが放り出され中身が飛び出ていたが、そんなことに構っている暇はない。
貴子は急速に薄れていく意識の中で何とかポケットを探り、中から糸を結びつけた短剣を取り出した。
「ほれ、好きに暴れてみ」
貴子は何とか意識を繋ぎ止めながら、短剣を部屋の中に放り投げる。
放り出された短剣は床に転がることなく宙に留まったまま、笑い声を上げる。
それは、田中れいなが聞いた笑い声とまったく同質のものであり、貴子にとってすでに慣れ切ったものだった。
(そうやって笑うのも、今のうちや)
心の中だけで毒づいた貴子は、続いて反対側のポケットから同じ短剣を取り出すとこれまた同じように宙に放り出した。
「殺れ」
小さく、だが、鋭く囁く貴子。
それと同時に後に放り出した短剣から貴子の使い魔が滲み出て、笑い声を上げている短剣に群がった。
稲葉貴子が所有する使い魔は餓鬼だった。
常に餓えたその使い魔達は、あっという間に短剣に潜んでいた残留思念を平らげてしまった。
それを他人事のように見ている貴子は、ため息を吐いて軽くなった体をゆっくりと起き上がらせる。
(これで昼間の残留思念は片付いた。だが、あれはなんだ?)
これほどまでに凶暴な残留思念を貴子は最近では見たことがなかった。
最後に見たのは三年前、平家みちよが死んだあのときだ。
- 433 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:52
-
「あの頃に戻っている……?」
日本にある奇術師協会の暴走が三年前。
そのころすでに貴子は中澤裕子と共に協会から離脱していたため、暴走自体には巻き込まれなかった。
ただ、暴走した平家みちよに襲われ、貴子はあっけなく倒された。
そのとき感じた残留思念は特別怨念のこもった、今にして思えばあり得ないほどの純度を保ったものだった。
ただ、それを感じた貴子はそれを蒐集したいとは思わず、破壊することを選んだ。
そのときの残留思念と今日のそれとはあまりにも似すぎていた。
今日の残留思念はそれまでとの残留思念とは異なり、怨念の質がまったく違った。
それまでの装備では歯が立たず、貴子はとっさに一本の短剣にそれらの残留思念をとりあえずの形で封印した。
そして、もう一本の短剣を触媒にして貴子自身が育てた使い魔を召喚していたのだ。
「誰かが意図的に集めているとしか考えられない」
中澤裕子にそれはできない。
彼女は破壊が専門で、それ以外の事に関しては無知に等しい。
(なら、誰が集めた?)
今日の残留思念は、奇術師として駆け出し(もっとも貴子はそれを認めてはいなかったが)の田中れいなには荷が重すぎた。
あと一分でも遅ければれいなは残留思念に取り込まれ、それらの仲間となっていただろう。
だから、貴子も手段を選ばなかった。
いや、選ぶ時間すらなかった。
一刻も早くれいなから残留思念を遠ざけるため、あのような行動にでざるを得なかったのだ。
だが、この時点ではまだ貴子は知らない。
平家みちよが再生し、再び行動を起こしていることを。
ミカ、そしてアヤカ・エーデルシュタイン姉妹がすぐ近くにいることを。
- 434 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:52
-
「前みたいに蚊帳の外にはいたくない……」
三年前みたいにあっさりとやられるわけにはいかない。
そのために中澤裕子は親友を殺すことになり、稲葉貴子は全てにおいて置いてけぼりを食らうことになった。
それに、あのころとは違う。
「私も教師の端くれ。最低限の尊厳は持っているんだ」
稲葉貴子は教師だ。
そして今の貴子には、それに対する自覚も多少なりとも芽生えていた。
自分の生徒である田中れいなに手を出した罪は重い。
それを相手に思い知らさなければならない。
そのためには、貴子自身の持てる能力の全てを解放する必要がある。
「間に合わせる。たとえそれが破滅だとしても」
生徒を危険から守るのは教師としての最低限の義務であり、貴子にはそれを遂行する力もある。
残留思念の抜け殻となった短剣を拾い上げ自身の使い魔を再び封印した貴子は、散らかった荷物をそのままにして部屋に入ると受話器を取り、実家に電話をかけた。
実の娘である自分を『奇術師』というカテゴリーに分類し、それから逃げ出した両親。
そのおかげで貴子はかけがえのないものを得ることができたのだが、それでも貴子にしてみれば幼いうちに勘当されたも同然で、今では単なる倉庫と化していた。
貴子の手に負えない、曰くつきの物を収めるだけの倉庫として……。
用件だけを告げ、受話器を置く。
三十秒。
それだけ十分だった。
- 435 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:54
-
続いてカレンダーを確認する。
幸い明日は休みだ。
車を飛ばせば実家まで三時間もかからない。
その頃には実家のほうも準備を整えていることだろう。
こんな娘の顔など一秒たりとも見たくないのだから……。
五分でシャワーを浴びて、それから奥の書斎兼研究室に入る。
使い魔の入った短剣を大切に保管庫に収め、それとは別の貴子にとってもっとも凶暴な使い魔を取り出した。
その使い魔は真鍮のブレスレットに封じ込められている。
遥か彼方の地で見つかったそれは、完全な形ではなかった。
ただの破片でしかなかったが、それでも強力な使い魔が封じ込められていた。
遥か昔に封印された、72の悪魔のうちの一つ。
それが貴子の手にあった。
「出ろ、デカラビア」
貴子の呼びかけと同時にブレスレットから凄まじい殺気を含んだ風が巻き起こった。
その風が部屋のあらゆるものを飲み込んでいくが、その中で貴子は必死に耐える。
一分以上も続いた召喚の儀式が、ようやく終わる。
だが、貴子は何も無くなった部屋に構うことなく、ただ目の前だけを見ていた。
そこには、五芒星の形をした禍々しい悪魔が漂っている。
それが振動し始め、別の形を取り始めた。
「待て、まだ変えるな」
変化を止めさせ、それに触れる貴子。
自らの意志を失い、ただの使い魔と成り下がったそれから意識が流れ込んできた。
単純、そして明快な意識。
それが貴子の体を侵食していく。
だが、貴子はそれに逆らわず、身を任せていた。
「ウチの体を喰らって、己の意志を取り戻せよ」
呟いた貴子に五芒星の悪魔は、その体を震わせて答えた。
- 436 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:54
-
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
- 437 名前:循環するは想い3 投稿日:2005/01/19(水) 10:54
-
今日は二人だけの、初めてのデート。
ここまでこぎ付くのに、私はすごい勇気を振り絞った。
だけど、そんな私のことは吉澤さんは知らない。
でも、それでも私はうれしかった。
吉澤さんは待ち合わせ場所の駅に三十分も早くきて待ってくれている。
なんで私がそんなことを知ってるか?
だって私はそれよりも早く来て、吉澤さんのことをずっと観察してたもの。
今日の吉澤さんは黒のジーンズに黒の革ジャンなんか着て、遠くから見たら男の人だと思われるかも。
そして、私は白のカーディガンにピンクのロングスカート。
ちょっと落ち着いた女の子をイメージしてみたけど、吉澤さんは喜ぶのかな?
吉澤さんの癖は、前髪をいじることだってことにも私は気づいた。
だって、気にしすぎてるのが遠目の私からでもよく分かったから。
目の前に大きな時計が立っているのに、吉澤さんは自分の腕時計をしきりに確認している。
まるでそっちのほうが正しいって主張してるみたい。
もちろん私は吉澤さんの時計のほうを信じるけど。
でたらめな時計を見てみると、すでに待ち合わせの十時を五分ほど過ぎている。
だけど、もうちょっとだけ見ていたいな……。
あ、携帯を取り出した。
電話がかかってきたんだ。
誰だろ?せっかく私とのデートなのに……。
でも、すぐ切っちゃった。
また髪の毛をいじってる。
吉澤さんって、待つのがあんまり好きじゃないんだね。
それを観察してる私も意地が悪いかな。
吉澤さんに会う前にもう一度自分を確認。
よし、完璧。
吉澤さん、待っててくださいね。
亀井はもうすぐあなたの前に行きますよ。
- 438 名前:いちは 投稿日:2005/01/19(水) 11:07
- 更新しました
今回、ちょっと焦っていて推敲しきれていない部分があります
すいません
>>414 名無し読者。さん
同時進行ということで、もうちょっと前回までの話と絡ませられれば良かったのですが
そこは技量が足りなくて、ほぼ完全分離という形になってしまいました
次は「循環するは想い4」になります
それでは
- 439 名前:名無し読者。 投稿日:2005/01/26(水) 07:08
- 更新お疲れ様です
前回のお話と今回の話が今後どう繋がっていくのか楽しみです
- 440 名前:循環するは想い 投稿日:2005/01/26(水) 11:41
-
循環するは想い4
- 441 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:42
-
亀ちゃんは新学期が始まる前に無事退院できた。
でも、元気は無い。
原因は病院でできた友達が亡くなったから。
その彼女のことを、私も見ている。
遠目からだったけど、その顔形ははっきりと覚えていた。
でも、私はその娘のことを思い出さないようにしている。
だって、彼女はこの世界からいなくなってしまったのだから……。
だけど、そうもいかないのが私、新垣里沙でほんの一瞬だったけど寂しそうに笑ったときの表情が頭から離れなかった。
そして、新学期が始まった。
亀ちゃんのギプスは相変わらず取れないけど、それでもなんとか学校には来てる。
私とも話をしてくれるのがせめてもの幸いだった。
そして休み明けの二日間あったテストも何とか乗り越えて、あっという間に放課後になってしまった。
そして、私達はここにいる。
ここは街の外れにある神社へと続く小さな道。
脇には桜が植えてあって、それが春になると綺麗に咲くんだけど、それも今は見ることができない。
- 442 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:42
-
亀ちゃんはあの日から、ずっと一人の人を探している。
その人は亀ちゃんの無謀とも言える希望を叶えてくれた天使でもあるし、亀ちゃんがこうやって苦しむ原因にもなった悪魔でもあった。
そして、ついにここに行き当たったってわけ。
空は雲が重たくその顔をもたげていて、今にもそこから涙が降ってきそうだった。
「亀ちゃん、一人で大丈夫?」
亀ちゃんはこれからその人ともう一度話をしに行く。
消してしまった吉澤さんをどうすれば元に戻せるかを聞くために。
「大丈夫です。これだけは、私が一人でしないといけないから…………私がやらないといけないから……」
そう気丈に振舞う亀ちゃんだったけど、その肩は震えていた。
「そう…………でも、忘れないでね。亀ちゃんには田中ちゃんがいるし重さんもいる」
ゆっくりと振り返った亀ちゃんに、私なりの笑顔を見せてあげる。
「もちろん、私だっているよ」
小さく頷いた亀ちゃんが、ゆっくりと歩き始める。
目的地は神社の裏手にある墓地。
そこにあの人は現れ、そこにあの人は消えていったという。
亀ちゃんが見たというその人になら、私も同じ場所で出会っている。
その人はあのとき、こう言った。
『望めばいつでもそれに手が届き、望まなければいつまでも届かない』
それがなんなのか私には分からないけど、あのときの亀ちゃんには分かったのだろう。
あのときの亀ちゃんはそれを望んで、そして、それを手に入れた。
だけど、それは違っていた。
それは必要無いものだった。
いや、あってはならないものだった。
だから亀ちゃんはそれを返しに行く。
- 443 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:43
-
「じゃあがきさん。行ってきます」
「えっ?」
背中越しに聞こえてきた亀ちゃんの声を、私は不覚にもちゃんと聞いていなかった。
そして、亀ちゃんはそんな私を置き去りにしたまま歩いていく。
私はその亀ちゃんの背中を茫然と見つめる。
どこか追ってはいけないような雰囲気がしてたけど、それは厳しいとか尖ってるとかのマイナスなイメージではなかった。
むしろ、その反対だった。
『がきさん』って言ってくれたよね、今……。
それから昨日電話での愛ちゃんの言葉を思い出す。
そしてそれらを反芻してみて、なんとなくだけど愛ちゃんが言いたかったことが分かった。
つまり、こういうことなんだ。
私にとって、亀ちゃんは大切な人。
亀ちゃんにとって、吉澤さんは大切な人。
そして、亀ちゃんは進もうとしている道筋を、しっかりと見定めている。
その道筋には吉澤ひとみという目印がはっきりと浮かんでいた。
それで十分じゃない?
それ以上、なにを望むの?
こうやって分かったことだって奇跡に近いのに。
それ以上、その先を望んで、手に入れられるの?
そうだよね…………亀ちゃん?
- 444 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:43
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 445 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:44
-
「なんだ、絵里もがきさんも帰ったとね」
そう言った田中れいなは、退屈そうにそれまで読んでいた本を放り出した。
「そうだよ、さっき新垣さんからメールがきたの」
ポッキーの袋を開けながら言う道重さゆみ。
ここはF中学の生徒会室。
と言っても、名ばかりの物置と化した空き部屋にれいな達生徒会の人間が勝手に机やら椅子を運び込んだだけの殺風景な部屋だった。
外では新校舎建設のための工事だろう、鉄筋を持ち上げているクレーンの重苦しい音が鳴り響き、その地響きが生徒会室にまで伝わってくる。
「さっきもポッキー食べとったけど、まだ食べるん?」
「だっておいしいじゃん」
笑顔のさゆみに言われ、れいなは口を閉ざすして苦い顔をする。
それもそのはず、れいなもちゃっかりそのおこぼれに預かっていたのから。
そのとき、生徒会室の前の廊下をどたどたと誰かが走ってくるのが磨りガラス越しに見えた。
「まずいさゆ。早く隠して!」
「えっ、ちょっと待って」
あたふたしているさゆみを急かしたれいなだったが、さゆみがポッキーをカバンに入れるより先にドアが開き、そのドアを開けた人物に対して引きつった笑いをすることしかできなかった。
- 446 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:44
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「おいお前ら。学校で菓子食ってるんじゃねえぞ」
入ってきたのはプリントの束を抱えた稲葉貴子。
れいなとさゆみの担任の彼女は、同時に生徒会の顧問でもあった。
貴子はプリントの束をどすんと机の上に置くと、なぜかれいなを睨みつけてきた。
そのやけに迫力のある視線から逃れるように、れいなは視線を泳がせて隣のさゆみを見る。
さゆみの目が少し潤んでいたのはきっと気のせいではないだろう。
しかし、れいなは現実的だった。
「れなじゃなかとですよ。お菓子はさゆが持ってきたとです」
さゆみの視線が非難のそれに変わったのを空気の変化で悟るが、それでもれいなはあっさりとさゆみを裏切ってしまった。
「やけど、田中も食ったやろ?」
「うっ……」
貴子から睨まれ、あっさり落ちるれいな。
それから貴子は手を出し、さゆみを見た。
さゆみもそれがどういうことか分かり、机の上に散らばったポッキーと、カバンに入れていた残りのそれらを貴子に渡した。
「なんやストロベリーか。ウチはアーモンドのほうが好きやねん」
そう言ってポッキーを食べ始める貴子。
「って、食べるんかい」
「文句あるか?」
誰にも聞こえないようにツッコミを入れたつもりのれいなだったが、貴子の一睨みで沈黙した。
- 447 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:45
-
「暇なお前らに仕事やで」
「何となく分かりますけど、一応聞いときますね」
プリントの束を見ないように話すれいなに、貴子は苦笑いする。
「そないに苦い顔するなよ。三人でやれば、十分で終わるやろ?」
そう言ってホッチキスをれいなとさゆみに手渡す貴子。
どうやられいなが想像したとおり、プリントの束をホッチキス止めするのが今回の仕事らしい。
それからしばらくはホッチキスの無機質な音だけが響き渡る。
れいなはその間、貴子を観察していたが、その貴子の様子がいつもと違っていた。
いつもはへらへらして、教師というより年の離れた姉を想像させていた貴子だったが、その日だけは緊張感を漂わせた、れいなが思う理想の教師だった。
「先生、なしたとですか?」
「いや、特に何もないが?」
口調が裕子のそれと似ていることに、れいなは嫌な感覚を覚える。
そして、次の瞬間だった。
以前感じたとり殺そうとする意識を感じ、れいなは胸を押さえる。
その際に手にしていたホッチキスが床に落ちたが、そんなことに構える状態ではなかった。
さまざまな負の感情が入り乱れてれいなの中へと侵入し、れいなをそちらへと引きずり込もうとしている。
しかし、それらの感情は胸に掛けているペンダントを通して伝わってきたものだったが、それもれいなにしてみれば些細なことだった。
「れーな、どうしたの?」
ホッチキスを床に落とし苦しそうに喘ぐれいなに、さゆみが作業を中断させて近寄る。
「先生もどうしたんですか?」
さゆみの一言にれいなは苦しみながらも顔を持ち上げる。
そして、れいなは自分の苦しみが甘かったのだと認識した。
- 448 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:46
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貴子はホッチキスを持ったまま固まっていた。
その顔には普段見ることの無い玉のような汗がびっしりと付着している。
呼吸することすら忘れている貴子は、それからしばらくなにもできずに固まっていたが、突如、その呪縛を自らの力で解き放った。
「田中、今日はお前に見せたいもんがあるねん」
そう言って立ち上がった貴子は普段の貴子だったが、それでも汗は引いていなかった。
れいなはそれを見て、自分の苦しみが引いているのに気づく。
「道重。お前もきてええぞ」
なにが起こるのかいまいち分かっていないさゆみも連れ出し、貴子とれいなは生徒会室を出た。
「何があるんですか?」
無関係のさゆみも連れ出す貴子に疑問を感じながら、れいなは前を歩く貴子に問いかける。
「田中、奇術師ってのは汚いもんや。今からそいつを見せてやる」
背中越しに聞こえてくる貴子にれいなは寒気を覚え、一瞬だがその歩みを止めた。
が、すぐさま歩き始める。
立ち止まることを許さない空気がれいなの背中を押したからだ。
れいなが以前襲われ、そして貴子に救われた場所。
今回もそこが現場だった。
だが、そこは新校舎がすぐそばにあり、そこには当然工事関係者が多数いるはずである。
しかし、彼らの姿は見えなかった。
「あらかじめ人払いをしといたからな」
疑問を先読みするかのように言ってきた貴子の一言に、れいなは首を捻る。
人払いといっても奇術師としての特別なものなのだろう。
しかし、れいなにはそれが具体的にどういったものなのか分からなかった。
だが、すぐにれいなはそんなことを忘れ去り、身を固くする。
そこにはやはり、以前のような攻撃的な意志を持った残留思念達が渦巻いていた。
- 449 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:47
-
「田中、これを頼む」
前と同じように貴子からスーツを渡され、れいなは不安を覚える。
あのときはあっさりと片付けた貴子だったが、今日は雰囲気が違っていた。
それはもちろん貴子のほうで、緊張感の中に殺意のようなものまで感じてしまったからだ。
前に進み出た貴子の左腕に見慣れないブレスレットが嵌っているのに、れいなはようやく気がつく。
それが不気味なものに感じられたが、れいなは貴子の後ろ姿を見つめるしかなかった。
「二人とも、グロいのがダメやったら、目を閉じとけよ」
叫ぶのと同時に貴子はブレスレットの嵌った左腕を前に突き出した。
それと同時に周囲の空気が凍りついた。
それは肌を通さずにれいなの直感へと直接襲い掛かり、れいなの頭に『恐怖』の二文字が浮かび上がる。
しかし、目の前の貴子はそんなれいなに構うことはなかった。
「出ろ」
短いながらも拒否を許さない鋭い一言に、後ろのれいなが身を竦める。
いつの間にか隣のさゆみがしがみついて震えているのが感覚で分かったが、れいなは目の前の光景に気を取られ、それどころではなかった。
「今回は特別だ。道重にも見えるようにしたぞ」
口調の変わった貴子だったが、れいなはそれとは別のものに釘付けになっていた。
れいなには残留思念が以前と同じように見えていた。
だが、今日はそれとは別の、それよりも禍々しい物体を見ていた。
「こいつが私の使い魔だ」
豹の形をしたそれは、もちろん動物ではなかった。
動物のそれよりももっと純粋で、そして単純だった。
「行け」
貴子の一言で、それがゆっくりと走り出す。
が、それもほんの一瞬のことで、あっという間に見えなくなったそれをれいなは目で追いかけることができなかった。
- 450 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:48
-
そして、そんなれいなを尻目に殺戮が始まった。
それは目を通して頭に伝わるのではなく、心の中、つまり感覚へと直に全てを伝えてきた。
正確には相手は生きている人間ではない。
意識の残留だったが、れいなにはその違いがいまいち良く理解できず、結局のところ同義のものでしかなかった。
貴子から出てきたそれは、四足で風の如く空間を駆け、獲物に飛びつく。
そして、その獲物に対して己の牙を振るっていった。
まさに地獄のような光景だった。
いや、それはれいなの目には見えていない。
しかし、それは全て正確にれいなの中へと入ってきて、れいなのわずかな精神を掻き毟った。
それが噛み砕く音が辺りに響き渡り、噛み砕かれる残留思念の悲鳴がれいなの頭の中で直接反響する。
二つの音は不協和音を響かせながられいなの全身を駆け巡り、その心を次第に、そして着実に削っていった。
「これが奇術師の戦い方だ」
いつの間にか横に来ていた貴子に、れいなはかろうじて目だけを動かす。
貴子の横顔に優越感を感じ、れいなは硬くなっていた身をさらに強張らせた。
「奇術師の戦い方はそれぞれだ。中澤裕子のように己の体を武器にするものもいれば、私のように使い魔を手足として使役するものもいる。そして、結果がこれだ」
『これ』、とは目の前の光景のことだろうか。
れいなは回らなくなった頭を何とか回転させて考える。
- 451 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:49
-
「奇術師として己を高めるには研究だけでは駄目だ。実践として活用して、効果を見極めなければならない。私の研究…………といっても、これは奇術師全般の研究領域だな……まあ、それは置いておくが、つまりは全てに共通する根源を探ることだ。それには多数のサンプルが必要だ。そして、こいつもその中のサンプルの内の一つだ」
ポケットからフィリップモリスを取り出した貴子が優雅な動作でそれに火を点ける。
そして口から長い紫煙を吐き出し、先を続ける。
「もっとも、こいつは私の中でも特別でね。遥か昔の悪魔さ」
フィリップモリスを銜えたまま前を見る貴子の目はどことなく母親のそれに感じたが、れいなはそれを純粋に怖いと思った。
今、れいなが目の当たりにしている光景は異常だ、それだけを認識する。
そして、それを容認している貴子も異常だった。
「ふん。あらかた終わったな」
貴子の一言と同時に、彼女の横にそれが現れる。
元の白が今はどす黒い血に染まり、滴を滴らせていた。
その滴が何なのか、れいなは考えることを拒否した。
しかし、残留思念はまだ残っている。
ただし、目の前にぽつんと一つだけ。
食い残しではなく、見せしめのために残されたことをれいなは瞬時に理解してしまった。
「こいつは私より優秀でな、残留思念の発生場所を正確にトレースすることができる。もちろんさっきのやつらも辿ろうと思えばできた。だが、こいつはいつも腹を空かしていてな。補給しないと暴走するんだ」
そう言った貴子が、いとおしげにそれの頭を撫でる。
その際に血が手に付着したが、そんなことに貴子は構うことはなかった。
そして、目の前に残った残留思念が唐突に消えた。
「追い詰められた残留思念は発生した場所に回帰して、新たな残留思念を呼び寄せる」
貴子の呟きとほぼ同時に、横にいた豹が曇った空を見上げ雄たけびを上げる。
声が出ていないにもかかわらずれいなは頭が割れるような痛みに襲われ、思わず頭を押さえていた。
「そら、見つけた」
豹の頭に手を乗せたまま、貴子が振り向く。
- 452 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:50
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「田中、これが奇術師だ。お前にこの道を歩く覚悟はあるか?」
れいなは何も言えず、ただ茫然と貴子を見つめるだけ。
「お前が思っているほど、この道は容易くない。覚悟が無いなら、入ってくるな」
そう言った貴子は、豹と共に消えてしまった。
残されたのは小さく震えているさゆみと、ただ茫然と立っているだけのれいなの二人。
れいなは何もなくなった光景を見つめ、ぼんやりと思考を回転させた。
小川真琴は直接的に、そして、稲葉貴子は間接的にれいなに警告してきた。
それは分かる。
だが、それでもれいなは否定していた。
「れなが考えとったのは、こんなことじゃなかとよ……」
自分が描いていたのは、もっと純粋で、綺麗で、そして、上辺だけのものだったのか。
そんな認識の甘さが現実となって押し寄せてくる。
言葉を発したことによってそれまでの呪縛が解かれ、れいなは体の自由を取り戻す。
そしてそれと同時に麻痺していた感覚も元に戻り、周囲の感覚だけに訴えてくる異臭に頭がくらくらしてきた。
れいなは吐き気を抑えながら、隣にしゃがみこんださゆみを見下ろす。
さゆみは単なる被害者に過ぎなかった。
それを認識したれいなはさゆみを促し、その場から立ち去ることにした。
そうしなければ、れいな自身も壊れてしまいそうだったから。
生徒会室に戻る途中で雨が降り始めていたが、そんなことに気づくれいなとさゆみではなかった。
- 453 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:50
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 454 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:50
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「なんて暗いんだろ……」
誰もいないのにも関わらず、亀井絵里は呟いていた。
新垣里沙と別れて数分しか経っていないのにすでに数日が過ぎたようで、それが寂しさとして絵里に襲い掛かってくる。
かなりの広さを占めるその神社。
そして裏手の墓地もかなり広く、その中を絵里はゆっくりと歩いていた。
「あのときは二人だったから、怖くなかったけど……」
吉澤ひとみのことを思い出し思わず泣き出しそうになるが、それでも絵里は果敢にも歩き続けた。
道順は覚えている。
二人で歩いたその道は忘れることは無い。
そして、その後に起こったことも……。
気がつくと絵里の五メートルほど前に、一人の女が立っていた。
以前会った時と同じ白いその女は、もちろん幽霊ではない。
それはあのときに確認した。
雨がぽつぽつと降り始める。
しかし、絵里は傘を持っていなかった。
だが、今の絵里に傘は不要だった。
「こんにちは」
できるだけ平静を保って話しかける絵里だったが、内心は逃げ出したかった。
だが、もう引けない。
ここで逃げ出したら、本当の意味で負け犬になってしまう。
その意地だけで絵里は立っていた。
- 455 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:51
-
「私と再び話そうとする人間は、お前が初めてだ」
周囲の雨と同化した女が静かに言ってくる。
本当に小さなその声は周囲の雨に溶け込んでも良さそうだったが、その雨からも拒絶されたのか、少し離れた絵里のところまではっきりと聞こえてきた。
(生きてる感じがしないのは、前と同じ)
ゆっくりと振り向いたその女に、絵里はそう思いながらも言葉を紡ぐ。
「あなたからもらった力を返します。だから、私から奪ったものを返してください」
雨が強くなり、それが二人を隔てる壁のように立ちはだかる。
しかし、二人にしてみればそれは単なる雑音に過ぎなかった。
「それは無理だ。お前の力はお前のものであり、そこから派生したものについて、私は把握していないし、把握するつもりもない」
冷たい雨の中、冷徹な宣告が絵里に下される。
「そもそも、力は誰にでも備わっている。私はそれに方向性を与えたにすぎない。その力を使って何かをなし得るかはお前の意志であり、私はそれに干渉する権利を持っていない」
「でも、あなたに言われなければ、私は私の力に気づきませんでした。それを気づかせたことだけでも、十分じゃないですか?」
多少強引な絵里の一言に、相手は一瞬沈黙する。
「あなたに会わなければ、私は私の力に対して方向性を与えることができませんでした。その点で言えば、私にとってあなたの存在そのものが重要になってきます」
「…………なるほど、力の方向性が問題か。それならば、私にも責任があるかもしれないな」
「私にはこれしか力がないんですか?」
あまりにも膨大すぎる絵里自身の能力を『これ』の一言に凝縮させて相手にぶつける。
- 456 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:52
-
「そうだ。お前の能力は他の認識を忘却させることしかできない。それは無に繋げることであり、決して有には繋がらない」
「でも、私が吉澤さんにしたのと逆のプロセスを辿れば、吉澤さんは元に戻りますよね?」
縋る思いで言葉を紡ぐ絵里だったが、相手は常に冷静で、そして冷淡だった。
「それは無理だ。たとえ可能であっても、それにはそれなりの代償が必要だ」
「代償ってなんですか?」
それさえ分かれば、吉澤ひとみは帰ってくる。
そのためならば、絵里はなんでもする覚悟だった。
が、相手から次の言葉が出てこない。
「悪いが、話はここまでだ」
「えっ?」
唐突に話を終わらされ、戸惑う絵里。
それに相手はまったく無関心で、その眼は宙を見ていた。
「ここは戦場になる。死にたくなければ去れ」
相手の言っていることを理解できず、絵里はただ慌てるしかなかった。
それに構わず、相手は雨の中に消えようとしている。
「ちょっと、待って!」
慌てて後を追いかける絵里。
だが、それも突然現れた何かによって遮られた。
「稲葉……先生?」
突然現れた何かは稲葉貴子であり、その傍らには大きな猫のような動物がいた。
貴子がゆっくりと絵里に振り返る。
それはいつもの稲葉貴子ではなく、絵里はその表情を見て思わず震えてしまった。
「何だ、亀井か」
そう言った貴子は絵里のことに構わず、再び前を向く。
不思議なことに雨が降っているのに、貴子と大きな猫はまったく濡れていなかった。
- 457 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:53
-
「追い詰めたぞ。お前があいつらの親玉か」
貴子の一言と同時に、隣にいた猫が絵里の天使、もしくは悪魔に襲い掛かる。
疾駆した猫が飛び上がり、その牙を突き立てようとした瞬間、そいつが振り返った。
それと同時に貴子に緊張が走った。
それが後ろの絵里にも伝わってくる。
「止まれっ!」
叫んだ貴子、そして空中で止まった猫。
一人と一匹の視線はそいつに釘付けになっていた。
「みっちゃん……?」
わずかに聞こえてくる貴子の呟きは絵里の目の前で周囲の雨に溶け込んでしまい、良く聞こえなかった。
しかし、そんなことに構わず貴子はすぐに次の動作へと移った。
「戻れ」
その一言でそいつ――みっちゃん――に襲い掛かろうとしていた猫が貴子の横に戻る。
雨が強くなるのとは逆に視界がはっきりとしてくるのを、絵里は不思議な気持ちで受け入れるしかなかった。
「何で、みっちゃんがここにおるんや?」
貴子の声が震えている。
まるでお化けでも見たかのように怯えながら……。
「だって、みっちゃんは祐ちゃんに殺されたんやろ?なんで、生きとるんや?」
貴子の言葉に、絵里は鈍器で殴られたような衝撃を受ける。
(なんで……?)
貴子と同じ疑問を抱きながら、絵里の意識は急激に薄れていく。
- 458 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:54
-
それからは夢でも見ているようだった。
なにか叫んだ貴子に、掻き消える猫。
顔を歪ませた貴子がそいつに殴りかかる。
だがそれはもう、絵里にとってどうでもいいことだった。
どうやら答えは出たらしい。
あとは絵里の心次第。
それだけが分かっただけでも収穫はあった。
そう思わなければ絵里は取り乱しそうだった。
前方からすさまじい衝撃波が巻き起こり、絵里を紙くずのように吹き飛ばしていく。
三メートルほど転がって倒れた絵里の意識は、その時点ですでにほとんど途絶えていた。
持っていたカバンもどこかへ飛んで行ったのだろうとか、せっかくの制服が汚れてしまったとか、そんなことはどうでも良かった。
自由に動けない絵里は、唯一自由な目を動かして何かを探す。
(がきさん……)
待っているはずの里沙の温もりが欲しい。
それだけが、今の絵里を繋ぎ止めてくれる。
意識の薄れていく絵里の耳に、はっきりと聞こえてくる足音。
それが絵里を安堵させた。
(やっぱり来てくれたんだ……)
里沙が来ても何もできないし、絵里もすることはない。
それは里沙も知っているはずだった。
なのに、里沙はここへきてくれた。
それが絵里にとって嬉しく、それと同時にとても辛かった。
そして、絵里は里沙の規則正しいその足音を聞きながら、その意識を断絶させた。
- 459 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:54
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 460 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:55
-
「何で、みっちゃんがここにおるんや?」
稲葉貴子にとって、目の前にいる彼女は亡霊以外の何者でもなかった。
その動揺が使い魔であるフラウロスの形をしたデカラビアにも伝わり、制御不能になった使い魔が震え始める。
「稲葉貴子か。現段階において純潔を保つ奇術の使い手か」
平家みちよが冷静に告げてくるのに対して、貴子の動揺は増すばかりだった。
「だって、みっちゃんは祐ちゃんに殺されたんやろ?何で、生きとるんや?」
目の前でこうやって話している平家みちよは、かつて稲葉貴子が接していた平家みちよだった。
だが、それでも貴子にはその現実が受け入れられなかった。
平家みちよは中澤裕子に殺された。
その事実だけが貴子を縛りつけていた。
そして、貴子は思い出せなかった。
みちよの根源が『虚無』であるということを……。
「私はいつだって生きている。そして、望まれればどのような状況においても私は現れる」
みちよの周りに無数の残留思念が現れ、みちよを取り囲む。
その中でみちよは顔を引きつらせて笑っていた。
みちよの乾いた声が雨に溶け込み、周囲の残留思念に伝染していく。
そして、貴子の理性が小さな音を立てて『切れた』。
- 461 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:56
-
制御できなくなったデカラビアが宙に霧散するがそんなことに構わず、貴子はみちよに向かって走り出す。
それに反応して残留思念が殺到してきた。
貴子はそれを声にならない声を上げながら残留思念を切り裂き、または叩き潰す。
みちよの周囲を取り巻いていた残留思念は薄い壁の如く、どんどん削られていく。
だが、みちよの笑い声は止むことが無かった。
むしろ、削られていく残留思念に反比例して増しているようだった。
一分足らずで残留思念の壁を無効化し、そのままの勢いでみちよに接近する貴子。
仮初の血に染まった拳を振り上げるが、それでもみちよの笑い声は止まらなかった。
そして、貴子は拳をみちよに向かって振り下ろす。
しかし、それはみちよに当たることはなかった。
みちよは貴子の拳が当たる直前に消えていた。
空ぶった拳をそのまま地面に叩きつけ、貴子はそのまま雨の中を転がる。
が、それも器用に前転をして、すぐさま立ち上がった。
(どこに行った?)
冷たい地面と衝撃によってかすかに理性を取り戻した貴子は、粉々になってしまった残りの理性をかき集めて周囲を探る。
しかし、感じ取れるのはかろうじて立っている貴子を嘲笑う全方位から聞こえてくる声だけ。
すぐに感覚だけを全方位に展開し、みちよの殺気だけを感じる貴子。
- 462 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:56
-
(後ろか!)
殺気を感じ、振り返った貴子を衝撃波が襲い掛かってきた。
とっさに両腕で顔を庇い、餓鬼を正面に展開した貴子だったが、その無数の餓鬼が衝撃波によってあっさりと消滅する。
そして、両腕の隙間から見えたみちよの引きつった笑顔と笑い声に貴子は目を見開き、一瞬我を忘れてしまった。
その一瞬が貴子にとって致命的であり、みちよにとっては決定的となった。
動けなくなった貴子の無防備なその腹に、みちよの右手が伸びる。
それはあっさりと貴子の腹の肉を抉り取った。
飛び散る血を他人のそれだと感じながら、貴子はゆっくりと倒れる。
地面に叩きつけられ、貴子はようやく自分に何が起こったのかを悟った。
しかし、それだけだった。
冷たい雨が貴子の血とともに意識をも流し去っていく。
だが、その中でも貴子は見ていた。
自分の肉を喰らうみちよの姿を。
笑いながら、貴子の肉を喰らうみちよの姿を。
(これは、夢だ)
悪い夢だ、口の中だけでそう呟いた貴子は悪魔に成り下がったみちよを見つめ、その意識を現実から切り離した。
- 463 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:57
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 464 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:58
-
雨が降り出した。
亀ちゃんは傘を持ってるのかな?
私はカバンの中に入れていた折り畳みの傘を取り出しながら、そんなことを考える。
今すぐにでも追いかけて行きたいけど、それは亀ちゃんに止められてる。
だけど、それでも心配。
あと五分しても帰ってこなかったら行ってみよう。
亀ちゃんに怒られてもいいから行こう。
しばらく空を見上げてみる。
重たい雲から落ちてくる雨粒がこのときだけはやけにはっきり見えて、不安になってきた。
傘を叩く雨の音が強くなった。
嫌な予感がする……。
まだ三分しか経ってないけど、私は雨の中を駆け出した。
もちろん神社に向かって。
そのときだった。
私が向かっている先から、なにかが壊れるものすごい音が聞こえてきた。
そして、地面が衝撃で揺れた。
「亀ちゃん!」
持っていたカバンと傘がとことん邪魔になったけど、私はそれに構わず走った。
一本道なのに先が見えなくて、それで余計に心配になる。
最初に見えたのは、亀ちゃんの持っていたカバン。
その次に倒れている亀ちゃんを見つけた。
「亀ちゃん!」
水溜りに浸ったそのカバンの横を駆け抜け、私は亀ちゃんに駆け寄る。
上を向いた亀ちゃんは気を失っていて、ずぶ濡れになっていた。
どこも怪我はないみたい。
私は持っていた傘を亀ちゃんの上に置いて、慌てて携帯を取り出す。
そのときになって、鼻につく血の臭いに気づく。
臭いがする先には、稲葉先生が血塗れになって道に横たわっていた。
- 465 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:58
-
「先生!」
近づいてみるけど、先生は空ろな目をして曇った空を見上げるだけ。
口だけ動いているその仕草に、生きている気配なんて漂っていなかった。
私は持っていた携帯で119番に電話をする。
そして二人が倒れていて、一人から血が出ていることとこの神社の場所を教え、私は電話を切った。
続けて私は中澤さんに電話をかける。
『なんだ、新垣か。どうした?』
すぐに繋がった電話の向こうから中澤さんの、少しくぐもった声が聞こえてくる。
「稲葉先生が血塗れになって倒れてます。すぐきてください!」
『どこだ?』
同じ口調なのに緊張感が漂った声に操られたかのように、私は神社の場所を伝えた。
『三分で行く。そこを動くな』
中澤さんの電話が切れ、私はずぶ濡れになったことにようやく気づく。
だけど、しなくちゃいけないことがある。
私は持っていたカバンの中からタオルを取り出して、それを稲葉先生のお腹に当てた。
白かったタオルがどんどん赤く染まっていく。
それが気持ち悪くて、私はそれから目を逸らした。
「新垣!」
なんと中澤さんは二分で来てくれた。
この神社は中澤さんの住んでるところから近いけどあまりに早すぎる。
それが私には驚きだった。
しかも中澤さんは傘を指していないのにまったく濡れていない。
「こっちです」
中澤さんはいつも無表情なのに、このときだけはすごく焦っていた。
視線も稲葉先生にずっと向けられていて、私は蚊帳の外だった。
「あっちゃん、大丈夫か?」
倒れた稲葉先生の傍らにかがみ込んだ中澤さんが話しかける。
だけど、それに答える声はなかった。
- 466 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 11:59
-
遠くから救急車の音が聞こえてくる。
だけど、ここにくるにはもう五分はかかるだろう。
私は亀ちゃんのところまで戻り、横たわっている彼女の頭だけを持ち上げて膝枕をする。
ポケットからハンカチを取り出して、亀ちゃんの顔を拭いてあげた。
といっても、そのハンカチも半分以上濡れていたから大した効果は無かったけど、それでも私は拭いた。
亀ちゃんは答えを見つけたんだろうか。
それは亀ちゃんにとって良かったんだろうか。
それとも……。
救急車が神社の前に止まり、それから辺りは慌しくなった。
二台やってきた救急車の一台に亀ちゃんと私が乗り、もう一台に稲葉先生と中澤さんが乗り込んだ。
担架の上に横たわっている亀ちゃんを診た救急隊員の人に、『外傷は無い』って言われて私はとりあえず胸を撫で下ろす。
前から折れていた左腕も異常はないとのことだった。
救急車の中で握った亀ちゃんの手がやけに冷たくて、それが私の脳に焼き付いてしまった。
いや、それだけじゃない。
今日の出来事全てが焼きついてしまった。
なのに、決定的な瞬間は何も見ていない。
そのことだけが悔しかった。
- 467 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 12:00
-
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
- 468 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 12:01
-
吉澤さんは今夜もこうやって、街の安全を守るために戦っている。
私はそれを物陰から観察していた。
吉澤さんが危なくなったら、すかさず持っているこのカバンで助けに行くのが私の役目。
今の吉澤さんは五人の男の人に取り囲まれているのに、まったく動揺してる様子は無い。
それもそのはず。
何も持ってないように見える吉澤さんだけど、実はちゃんと武器を持っていた。
あ、吉澤さんが動いた。
さっと拳を作ったまま両手を前に突き出した吉澤さんに、飛び掛ろうとした一人が何の前触れもなく崩れ落ちた。
それを合図に残りの四人が同時に吉澤さんに襲い掛かる。
これじゃあ、いくら吉澤さんでも分が悪すぎる。
目の前の二人を二メートルほど間を空けた状態で倒してすかさず振り返る吉澤さんだったけど、そこで小さく舌打ちしたのが見えた。
まずい、玉が切れたんだ。
そう思った私はすかさず物陰から飛び出して、持っていたカバンを思い切り二人の内の一人に叩きつけた。
蛙が潰れたときの音を出しながら倒れる一人。
だって、私のカバンには塾で使ってる問題集やら辞書やらでかなり重くなっている。
それを思い切り叩きつけたんだ、無事なはずがない。
そんなことに構わず、私は素早く吉澤さんを見る。
だけど私の心配を他所に、吉澤さんは残った一人に回し蹴りを後頭部に決めていた。
- 469 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 12:03
-
「吉澤さん、こっちです」
倒れて呻いている五人を尻目に、私は吉澤さんの手を引いて走り出す。
遠くからパトカーのサイレンの音がするけど、これは私があらかじめ公衆電話から通報したんだから当たり前。
前もって調べていた裏道をすいすい走り、ちょっとした壁を乗り越えて私達は元の世界に戻ってくる。
「何か手際がいいな」
息を吐いてる私に、吉澤さんが用意していたペットボトルを差し出しながら言ってくる。
いや、私としてはこれを用意している吉澤さんに敵わないと思いますけど……。
そう思いながら私はペットボトルを受け取り、四分の一ほど飲み干す。
そしてそれを受け取った吉澤さんが、半分ほど飲み干した。
「後は警察の仕事だな」
そう呟いた吉澤さんが、私に手を差し出してきた。
私はそれを握り、二人で岐路に着く。
今日吉澤さんが倒した五人は、前から麻薬に手を出していた高校生だった。
吉澤さんが前から散々手を引くようにって注意してたんだけど、彼らはそれにまったく耳を貸さず、結局今日のような強硬手段に出たってわけ。
- 470 名前:循環するは想い4 投稿日:2005/01/26(水) 12:03
-
でもまあ、それも終わった話。
手を繋いで帰るときの吉澤さんは、あのときみたいに緊張していない。
本当にリラックスしていて、私のためだけに話をしてくれるし、笑ってくれる。
この瞬間が楽しみで、そして、幸せの瞬間だった。
学校であったこと。
寮で一緒の部屋になっている人の話。
生徒会の話。
よく行く喫茶店のマスターの話。
どれも私には新鮮で、同時にそれらはちょっとだけ嫉妬するものだった。
私はもっと、普通の吉澤さんが知りたい。
だけど、私は吉澤さんとはこういうときじゃないと一緒になれない。
それが悔しかった。
でも、今のこの瞬間だけは別。
全部が私だけのためにあるんだ。
本当にうれしくて他の誰かに自慢したかったけど、そんなことをすれば、きっと私はこうやって夜、出歩けなくなってしまう。
だから、これは吉澤さんと私だけの秘密。
そんな特殊な状況がまたうれしくて、結局は堂々巡りなんだけど、それでも私は良かった。
だって、こうして吉澤さんと一緒になれる時間があるんだから。
- 471 名前:いちは 投稿日:2005/01/26(水) 12:25
- 更新しました
この「循環するは想い4」ですが、時間的には「連続しない循環3」の後になります
>>439 名無し読者。さん
前回までの話とリンクしている場所がちらほら出てきますが
それに絡む人間が限られているためあまり多くはありません
むしろ、今回から出てきた人達がかなり大変なことになってます
次回は「循環するは想い5」になります
それでは
- 472 名前:名無し読者。 投稿日:2005/02/02(水) 02:20
- 更新お疲れ様です
ネタバレしちゃいそうなんで何も言えないのですが
次の更新も楽しみです
- 473 名前:循環するは想い 投稿日:2005/02/02(水) 11:03
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循環するは想い5
- 474 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:04
-
九月五日、金曜日。
その晩、私は急に海が見たくなったので、まこっちゃんに電話してみた。
電話越しのまこっちゃんは驚いていたけど、愛ちゃんが使えないときにはいつもまこっちゃんに電話してるから、すぐにオッケーの返事をもらうことができた。
それからいろいろ話をして電話を切ったけど、私の中にあったもやもやが消えることは無かった。
だけど、まこっちゃんと電話をして気づいたことがある。
まこっちゃんも私と同じようにもやもやを抱えていたってこと。
それを電話で聞いて、私は少しだけど勇気づけられた。
私と同じ気持ちの人がすぐ近くにいる。
そのことが今の私を支えてくれていた。
そして夜が明けて、九月六日の土曜日。
まこっちゃんはちゃんと時間通りにきてくれて、私は自転車の後ろに立って乗った。
「でもさ、なんでまた海なの?」
自転車を漕ぎながらまこっちゃんが言ってくる。
わざわざ上り坂なのに聞いてくるところがまこっちゃんらしい。
「何でかな。急に見たくなったんだ」
なんでやねんってまこっちゃんにツッコミを入れられるけど、これは私の正直な気持ち。
あの時見た赤が目に焼きついて離れない。
そして、それと一緒に思い出される血の臭い。
それはやけに現実味を帯びていて、気持ちが悪かった。
亀ちゃんはどこも怪我がなく、その日に帰ることができた。
だけど、稲葉先生はお腹の傷が思った以上に悪くて、一週間ほど入院することになった。
なんであんな怪我をしたのかは、先生が話してくれないからいまだに分からないまま。
- 475 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:05
-
あの日から亀ちゃんはまた、悩んでいるようだった。
今日も一緒に海を見に行こうって誘ったけど、亀ちゃんは独自のやんわりした口調でそれを断った。
亀ちゃんは思いつめている。
それが他人の私からでも良く分かった。
いや、これは私にしか分からないだろう。
外見はいつもの亀ちゃんなのに、ところどころであの悲しそうな顔をするのが明確に記憶された、私だけにしか分からない。
「里沙ちゃん、見えたよ」
前で必死に漕いでるまこっちゃんに言われ、私は意識を元に戻す。
私達の目の前に、いつの間にか広く、青い海が見えていた。
坂もいつの間にか上りが終わって今は下っている。
結構スピードが出てて怖かったけど、幸い車はいなかった。
それにまこっちゃんの自転車捌きも大したもんだから、コケはしないだろう。
まあ、コケそうになったら飛び降りるんだけどね。
「ところでさ、どこまで行くの?」
あらかた坂を下り終え、私達は自動販売機の前で止まる。
ここまで三十分以上漕ぎっ放しだったまこっちゃんはだいぶ疲れたのか、買ったお茶を一気に飲み干していた。
「いつもの岬に行こうよ」
そこから見える海はこれまた綺麗で、ちょっとしたデートスポットにはぴったりの場所だった。
「えっ。あそこって人が結構飛び降りて危険だから、柵を作ってるんじゃなかったっけ?」
「その工事なら夏休みに入る前に終わってるよ」
そうだったの、とまだ首を捻っているまこっちゃんを無理やり自転車に乗せて、私はその後ろに跨った。
「そういうことだから、行こうよ」
私の一言でまこっちゃんが再び自転車を漕ぎ始める。
その岬まで自転車で五分もかからなかった。
今日は幸い天気も良くて、空には雲一つ無い。
あのときとはまるで反対だ。
「里沙…………ちゃん………着いたよ」
「まこっちゃん、お疲れ」
ぜえぜえと肩で息をするまこっちゃん。
どうやら直前の上り坂が堪えたみたい。
- 476 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:06
-
私は自転車を飛び降りて、先に岬の先端のほうに走る。
前に来たときは柵がしてなくて眺めがもっと良かったんだけど、人が死んじゃうのはさすがに気分が悪いから、これも仕方がないんだろう。
それに岬には罪はないしね。
「うーん、やっぱり気持ちが良いね」
自転車を置いてきたまこっちゃんが私の横で背伸びをしている。
それを見て私も背伸びがしたくなった。
大きく息を吸い込みながら、両手を空に突き上げる。
風が適度に吹いていて、それまで感じていた暑さがあっという間に消えてしまった。
「ほんとだ、気持ちがいいや」
それから私達はちょっと周辺を散歩して、近くの木の陰に入って休むことにした。
時間もまだ早いから誰もいなくて、それがまた気持ちを良くしてくれる。
「ところでさ、前もここに来るために呼ばれたよね」
「そうだよね。行こうって思ったときにはさ、愛ちゃんは都合が悪いんだよね」
カバンからお菓子を取り出したまこっちゃんに、私は苦笑いしながらもそれをもらうことにした。
しかも、まこっちゃんは用意の良いことに、ペットボトルのジュースを二本も用意してくれていた。
それを一本もらってお菓子を食べる。
「それにさ、ここにくるときは必ず真面目な話をするよね」
「そうだったね」
話したいことはいっぱいあるけど、どれから、どうやって話せばいいか分からない。
それがもどかしかった。
「里沙ちゃん」
「なあに?」
まこっちゃんに呼ばれて、私はまこっちゃんのほうを見てみる。
まこっちゃんの顔は笑っていた。
「時間はあるんでしょ?だったら、一つずつ解決すればいいんじゃない?」
「……そうだね」
まこっちゃんだって辛いはずなのに、それを私には見せてくれない。
そんなまこっちゃんが羨ましかった。
- 477 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:07
-
笑っているまこっちゃんにそう答えて、私は話し始めた。
亀ちゃんと吉澤さんのこと。
入院中の亀ちゃんとのやりとり。
退院してから今日までの軌跡を。
「でも、これは私と亀ちゃんでどうにかするよ」
時間があるとは思えない。
長引けば亀ちゃんの精神がおかしくなってしまうかもしれない。
だけど、これは亀ちゃんがどうしたいかにかかっている。
ちゃんと物事を整理して、これからどうするのかを亀ちゃん自身が決めないといけない。
それを踏まえて、亀ちゃんはどうするのか、それは私にも分からなかった。
でも、亀ちゃんがどんな道を選ぼうとも、私はそれを後押しするつもり。
「わたしはね、見つけたんだ。わたしと似てる人をさ」
そんなことをぼんやり考えていると、空を見上げたまこっちゃんが楽しそうに話し始めた。
夏休みの終わりに出会った石川さんって女の人のこと。
その人はまこっちゃんと同じように一人の中に多数の人間を詰め込んだ人だった。
不思議なのはそれがまこっちゃんのように最初からじゃなくて、後から分裂してしまったこと。
「おれは最初から反対なんだ。あいつは絶対おかし……いてっ」
「ちょっとあんたは黙っててよ」
もう一人のまこっちゃんが唐突に口を開き、それをまこっちゃんが叩いて黙らせる。
このやり取りはまこっちゃんにとっては日常茶飯事なんだけど、外から見れば自分で言って自分で自分を叩いてるってことで、かなりおかしく見える。
もう一人のまこっちゃんはそれきり黙ってしまったけど、どうやらまだ中で文句を言ってるみたいで、それをまこっちゃんが嗜めていた。
「ところでさ、話ってそれだけ?」
まこっちゃん達の話が終わってしばらくしたときだった。
まこっちゃんが私を見つめて聞いてきた。
- 478 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:08
-
私はそれを見れなくて、視線を逸らす。
今のまこっちゃんになら話せるかも。
だけど、それだと絶対まこっちゃんに迷惑がかかる。
それだけは嫌だ。
「あのさ里沙ちゃん?」
「なに?」
じっと私を見てくるまこっちゃんに、私が先に折れる。
まっすぐな視線に私は逃げたくなるけど、じっと耐える。
「里沙ちゃんって人のことには敏感だけどさ、自分のことだとすごく鈍感だよね」
そう言ってにやりと笑ってきたまこっちゃんに吊られて私も、思わず笑ってしまった。
「鈍いのはまこっちゃんのほうじゃない?」
私の笑いながらの反撃に、まこっちゃんは頬を膨らませる。
「わたしのは鈍いんじゃないよ。単に分からないだけ」
「それって一緒だよ」
違うもん、と呟いているまこっちゃんを尻目に、私はさっき言われたことを反芻した。
たしかに、私は自分のことになるととことん疎い。
亀ちゃんへの気持ちだって、亀ちゃんが入院するまで気づかなかった。
そして、それが私だけの一方的な気持ちだってことも……。
そんな私に、人を好きになる資格なんてあるのかな?
「まこっちゃんは、人を好きになったことってある?」
気づいたときには口が勝手に動いて、そんなことを聞いていた。
言われたまこっちゃんは唸りながら空を見上げている。
私もそれにつられて空を見上げた。
高くて、雲がまったくない空。
あのときとはまったく反対だ。
これは私の気持ちなのかな……?
「私の周りにいる人達は好きだよ」
空を見上げたまま、まこっちゃんが答えてくる。
「だけどね、それ以上のことが分からないんだ」
本当に困ったという顔でまこっちゃんが続けてくる。
「どういうこと?」
本当は知ってるのにまこっちゃんの考えが知りたくて、私は先を促した。
- 479 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:09
-
「愛ちゃんも、あさ美ちゃんも里沙ちゃんも好き。だけど、それ以上のことが分かんないの」
変なのかな、と小さく呟くまこっちゃんに、私は首を思い切り横に振って意思表示する。
「夏休みに愛ちゃんと三週間、一緒の部屋で生活してたけど、それはそれで面白かった。だけど、それだけなんだ。それ以上のことをしようとは思わなかったんだよね。愛ちゃんが言ってくれば答えることはしてたけど、わたしからはしようと思わなかったんだ」
再び私のほうを向いてくるまこっちゃんは笑っているような、はたまた泣いているような、そんな二つが混ざり合った顔をしていた。
「真琴はね、あさ美ちゃんがいれば、それで十分だって言うの。それがわたしには分からない。不思議だよね。わたしと真琴は同じ体にいるのにさ。わたしは真琴のように鋭くないことを知ってる。そこがわたし達の違いなんだろうけど、それがわたしには羨ましいんだ。誰かのために自分を犠牲にできる勇気を真琴は持っている。そして、それは紺野あさ美っていう人間のために存在している。
だけど、わたしはそれを見つけることができない。いや、できないんじゃなくて、わたし自身がそれをしようとしてないだけなんだ」
長く話したまこっちゃんが一度そこで話を止めて、ジュースを飲む。
その間に、私はまこっちゃんの話を繰り返していた。
今ならなんとなく分かる。
私の亀ちゃんへの思いもそれと結局は同じだった。
なんか似てるな、私とまこっちゃんって……。
「わたしはね、真琴みたいに器用な人間じゃない。真琴みたいに区別をつけると、わたしはそれに従って皆を分けて考えちゃう。だから、わたしはその区別をしないようにしてたんだ。曖昧なものを曖昧なままにして、わたしはその中で生きてたんだよね」
「それって、区別しないといけないものなのかな?」
自然と出た一言に、私自身驚いていた。
まこっちゃんを見ると、彼女もおんなじ顔をして私を見ていた。
- 480 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:11
-
「えっとね……、それって無理やり区別しないといけないものなのかなってことでね……」
大切なことを言いたいのに、言葉にならない。
それがすごくもどかしい。
私は真剣なまこっちゃんを尻目に、大きく一度深呼吸した。
そして、話し始める。
「まこっちゃんはまこっちゃんでここに存在してるわけでしょ?もう一人のまこっちゃんはもう一人のまこっちゃんで、ちゃんとした意志を持っている。だったら、まこっちゃんもまこっちゃんなりの意志で、曖昧でもいいから区別してもいいんじゃない?でもね、それは無理やりじゃないよ。まこっちゃんが自由に決めるの。だから、それは曖昧じゃないの。まこっちゃんが決めたんだから……まこっちゃんの意志で決めたってことが、重要じゃないかな?」
自分で引いたんだからいざってときにはすぐにその境界は移動できるでしょ、私はそう付け加えてまこっちゃんに笑いかけた。
きょとんとしていたまこっちゃんだったけど小さく頷きながら、次第に笑顔に変わっていく。
「そうだね、わたしなりの基準で、わたしなりに線引きをしてもいいのかもね。それなら真琴も文句は言えないか」
これはもう一人のまこっちゃんに言ったのだろう。
にやりと告げるまこっちゃんは、すごく満足そうだった。
それからまたしばらくはお互い無言で空を見上げた。
風が吹いてきて、体の汗が嘘のように引いていくのが分かる。
まこっちゃんは自分で境界を定めて、自分の意志を決めることにした。
- 481 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:11
-
私はどうだろう?
私はその境界線は引けたんだろうか?
……。
……。
引いたけど、それは私の幻想だった。
そして、私の勝手な思い上がりだった。
一人になった亀ちゃんに付いていれば、亀ちゃんは私に心を開いてくれると思っていた。
だけど、亀ちゃんは一人で吉澤さんを取り戻す決心をして、そのために行動を始めた。
なんてひどい女なんだろう。
傷ついた亀ちゃんに取り入ろうとしたなんて……。
でも、亀ちゃんは私じゃなくて吉澤さんを選んだ。
それが正しい選択だ。
私みたいな、卑怯な女を選ぶよりかは、ずっと正しい。
「里沙ちゃん」
気がつくと、まこっちゃんの顔がすぐ近くにあって、私は思わず後ろに下がろうとした。
だけど後ろは木で、結果的にはちょっと仰け反っただけになった。
「な、なに?」
「なんか、卑屈になってない?」
心配そうに見つめてくるまこっちゃんに、私はそれまでの考えを恥じた。
「里沙ちゃんはね、わたし達が知らないようなことまで覚えてるから、それが足枷になるときがあるのかもしれない。でもね、わたしはそれが羨ましいんだ。だって、里沙ちゃんはこうやって、わたしと話していることもちゃんと覚えててくれる。わたしなんかきっとすぐに忘れるんだろうけどさ」
眩しい笑顔でまこっちゃんが、私を見てくる。
その笑顔に、私は探していたものを見つけたような感じがした。
私は自分が特殊だってことを皆に知ってもらおうとした。
だけど、私と皆って結局は同じ。
ただ私は皆より少し物覚えが良いだけ。
そのことに甘えていて、私はずっと自分を正当化してきた。
そして、私は後ろ向きになって、言い訳をしてきた。
亀ちゃんはそのための理由で、私はそれに甘えてたんだ。
いつまでも甘えてはいられない。
- 482 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:12
-
笑顔のまこっちゃんに私も笑顔を返し、再び空を見上げる。
空が高い。
やっぱり今の私だ。
ようやく、皆と同じになれた、今の私だ。
亀井絵里、ありがとう。
私はこれから自分の道を歩くよ。
だから、君も自分の道を歩いて。
「ありがと。なんかすっきりしたよ」
立ち上がって、大きく伸びをする。
「ならいいけど……。でも、突然立ち上がらないでよね。びっくりするからさ」
仰け反ったまこっちゃんに私は笑いかける。
「ねえ、そろそろ帰らない?」
時計を見るとすでに十一時半を過ぎていた。
これから帰ってるとお昼になるだろう。
「えっ、もう?やっと汗が引いたのに……」
「じゃあ、あと五分休憩したらね」
渋るまこっちゃんにすかさず追い討ちをかける。
まこっちゃんは、ちぇっ、と小さく舌打ちしたけど、反対はしなかった。
ちゃんと時間を計るわけじゃなかったけど、この五分が私にとってはすごく幸せなものだった。
自分の気持ちが整理できて、これからもみんなとちゃんと接することができるだろう。
そのきっかけをくれたまこっちゃんには感謝してもしつくせないかも。
「そうだ。まこっちゃん?」
「なに?」
「まこっちゃんって、キスしたことある?」
ふっ、とまこっちゃんは飲みかけていたジュースを盛大に噴き出した。
そして、咳き込みながら私を睨んでくる。
「突然、どうしたの?」
「いや、なんとなく聞きたくなったから……」
まだ咳き込んでいるまこっちゃんの背中をさすりながら、顔を覗き込んでみる。
その顔は真っ赤になっていて、私から必死で目を逸らしていた。
「そっか。愛ちゃんと付き合ってたんだから、キスくらいするか」
私の追い討ちにまこっちゃんは恨めしそうに私を見上げるだけ。
だけど、私はそんなことは聞きたくない。
聞きたいのは、この先。
- 483 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:13
-
「愛ちゃんのキスには、愛はあった?」
後で思い返してみると本当に洒落みたいだけど、このときの私は真剣だった。
真剣にまこっちゃんを見て、まこっちゃんも真剣に私を見ていた。
「こんなこと言ったら愛ちゃんに悪いけど、愛ちゃんは結局友達であって、先輩でしかないんだ。それ以上のものを感じなかった。これはあさ美ちゃんも同じ。ルームメイトで同級生ってこと以上のものは感じなかった。その点で言えば、さっき引いた境界線の外側なんだよね、二人とも」
「私はね、まだキスしたことないんだ。でも、まこっちゃんとならできるかも」
私の一言に目を丸くするまこっちゃん。
「というか、まこっちゃんとしかできないかも」
悪戯っぽく笑う私に、まこっちゃんは真剣な表情のまま言ってくる。
「それって、わたしに同情してほしいの?」
「違うよ。私は私の意志で言ってるの。亀ちゃんや吉澤さんは関係ないよ。それに、私ならまこっちゃんの境界線の内側に入れるかもしれないよ」
これは確信があったから言った言葉。
それはまこっちゃんにも伝わっているはず。
「それに、私達って似てるよね。いろんな部分でさ」
「似てるってどこが?」
真剣な表情を一転させて驚いた顔で私を見上げるまこっちゃん。
それに向かって私は笑いながら言う。
「口で言わないと分かんない?」
かなり挑戦的な言葉だったけど、まこっちゃんには伝わったみたい。
しばらく私から視線を外してどこか別の場所を彷徨っていたけど、戻ってきたときにはさっきまでのまこっちゃんではなかった。
それこそ言葉では言い表せない変化で、私は思わずそんなまこっちゃんを見つめるしかできない。
- 484 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:14
-
そのまこっちゃんが立ち上がって、私を見てくる。
その表情は柔らかく、そして温かかった。
「言っとくけど、わたしってあんまりそういうの上手じゃないからね」
なぜかにやりとしながら言ってくるまこっちゃんに、私は口を思い切り尖らせた。
「それって、する前に言う台詞?」
「前もって言っとかないと、終わった後でなに言われるか分からないもん」
「初めてなんだから、文句なんて言わないよ」
せっかく雰囲気を作ってあげようとしたのに、まこっちゃんはそれを見事にぶち壊してくれた。
ほんと、台無しだよ。
でもまあ、まこっちゃんだからいいか。
気分を取り直して、私は見よう見まねでまこっちゃんの顔にゆっくりと近づく。
まこっちゃんもそれに反応して、顔をちょっと赤らめて目を閉じた。
これじゃあ、どっちが初めてなのかよく分かんないよ……。
って思ったけど、まこっちゃんが私の肩を掴んできたのには驚いた。
そのとき目を開けて、そして、一瞬だけ目が合う。
その顔がとても今までのまこっちゃんとは思えないほど、格好良かった。
そう思った瞬間、私は全ての力を抜いてまこっちゃんにその身を預けていた。
- 485 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:14
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 486 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:15
-
(こんな晴れた日に、外へ出ないのは損だな)
亀井絵里は公園の木陰でそんなことを思いながら、目の前の二人を見ていた。
手にしていた単語帳はさっきからずっと同じページのまま、止まっている。
次の瞬間、バスケ部の道重さゆみがボールをつきながら、バスケ部マネージャーの田中れいなにフェイントを仕掛けた。
れいなはそのフェイントに見事に引っかかり、さゆみと逆方向に飛び出していた。
「ちょっとさゆ、今のは卑怯とよ!」
前のめりになりながらも何とかバランスをとったれいなが、すかさずさゆみに掴みかかる。
が、それすらもかわされさゆみはゴールを決めてしまった。
「卑怯って、フェイントに引っかかるれーなが悪いんだよ」
当然のことながらさゆみの反撃にあい、れいなはかなり苦そうな声を絞り出して口を閉じることとなる。
この公園に着てから、二人はずっとそんなことをしている。
たまに攻守が交代するときもあるが、そのときはさゆみがすぐにボールを奪い返していた。
(二人とも仲がいいな)
そんな二人を見ながら、絵里はいつの間にかそこに自分と吉澤ひとみを重ねていた。
ひとみがさゆみで、絵里はれいな。
きっとそんな関係だっただろう。
それがこんなにも羨ましいものとは思わなかった。
「絵里、なしたと?」
気がつくと、れいなが絵里の隣に汗を拭きながら座っていた。
どうやらさゆみから逃げてきたらしい。
「いや、二人とも仲が良いなって思ってたの」
素直に答える絵里。
気持ちが澄んでいると、言葉も澄んでくる。
それを心の中だけで思いながら、小さく笑う。
「何言うとうよ。疲れたわ」
れいながさゆみを睨みながら言うが、それも絵里には微笑ましかった。
- 487 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:16
-
「ねえ、れーな?」
「ん?」
汗を拭いているれいなを見ながら、絵里はゆっくりと話し始める。
「絵里って、れーなの友達?」
「いんや」
絵里の一言に、即答するれいな。
その顔は笑っていた。
「絵里は友達じゃなかと。親友たい」
それだけで絵里の心は満たされたが、そこで質問は終わりではなかった。
「じゃあ、絵里がいなくなったら、寂しい?」
絵里の質問にれいなは首を傾げる。
「おらんくなるって……。もしかして絵里、引っ越すと?」
「違うよ。そういう意味じゃなくて、絵里がこの世からいなくなったらっていう意味でさ」
ずれた疑問に苦笑いしながら続ける絵里。
「おらんくなるって、そんなの考えられんわ。だって、絵里はここにおるし……」
「もしもってことでいいから、考えてみてよ」
しつこく食い下がる絵里に、れいなは頭を抱えて唸る。
しばらくその状態が続いたが、答えが見つかったのかれいなはその顔を絵里に向けた。
「そのときは捕まえる。絵里がおらんくならんよう、捕まえる」
だから絵里も逃げんといて、と続けたれいなに絵里は笑いながら頷く。
「多分、さゆも同じやけん」
一人、フリースローしているさゆみを見ながら、れいなは言う。
そう、絵里はそのことを忘れていた。
人の価値は自分が決めるのではない。
他人から決められることによって、自分がそこに在るべき価値が出てくる。
答えは出た。
あとはその答えを持って、もう一度吉澤ひとみと話すだけだ。
絵里は立ち上がり、れいなを見下ろす。
「じゃあ、帰るね」
「ん、気をつけてね」
軽く手を振って答えるれいな。
顔を上げると、さゆみも同じように手を振っていた。
- 488 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:17
-
そんな二人と別れて、絵里は街へ行く。
途中、新垣里沙からメールが届いた。
内容は一言。
『がんばって』
だが、気持ちは十分伝わってきた。
亀井絵里は一人ではない。
こうやって絵里のことを想ってくれている人間がたくさんいる。
それは吉澤ひとみにも言えることだった。
それを絵里は剥奪してしまった。
そのことでひとみは個性を失い、この世界から消えてしまった。
それでは不公平だ。
この世界に在り、他人から想われ他人を想うことによって、人はこの存在できる。
これから絵里はそれをひとみに返しに行く。
三十分ほど歩いて、絵里は人気の無い裏路地に立っていた。
亀井絵里と吉澤ひとみとが最初に出会った、思い出の場所。
「ひとみさん。絵里はあなたに謝りたいです。だからもう一度、話をしましょう」
あのときとは逆の手順で、絵里はひとみの全てを解放する。
だが、それは絵里の能力の範疇でできることではなかった。
それをするにはそれなりの代償がいる。
そのことに絵里は気づいていた。
(ひとみさんが戻ってくれば、私は安心して消えることができる)
絵里を想ってくれる人間がいるという事実は消えない。
それだけで絵里は満足だった。
次の瞬間、亀井絵里から光が満ち溢れ、あっという間に彼女を包み込むと、彼女と世界とを断絶させた。
- 489 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:17
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 490 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:18
-
「私は、どうしたんだっけ?」
急速に晴れ渡っていく思考と共に、吉澤ひとみは寝かせていた体をゆっくりと起き上がらせた。
たしか、自分は絵里と一つになり、消えたはずだ。
それを思考が消え去る直前まで感じ、消えた後もそう感じ続けていた。
だが、ひとみはこうやって、ここに存在している。
「て、どこだ?」
見渡してみるがそこは上も下も、右も左も真っ黒な空間だった。
まるで今の自分のように……。
続けてひとみは自分の状態を確認する。
が、目を下に落として、すぐに舌打ちをせざるを得なかった。
「よりにもよって裸かよ」
誰も見ていないから良いか、というものでもなくひとみは頭を掻く。
歩いて服を探しに行こうにも、そこは不安定だった。
宇宙を漂っているかのように身体がふわふわと上下し、それが一向に収まることは無い。
もっとも宇宙遊泳などしたことのないひとみは分からなかったが、あくまでイメージとして捉えることにして、その不安定さに仕方なく身を委ねた。
と、そんなひとみの目の前の空間が、突然揺らめいた。
そして、それは次第に人の形を成していく。
「亀井?」
それはひとみにとっては見慣れた、そして大切な人である亀井絵里だった。
ひとみと同じように裸だったが、その姿はぼんやりしていて、そこにいるのかどうかすらはっきりとしない。
『ひとみさん。また逢えて、絵里はうれしいです』
正面にいるはずの絵里の声が、ひとみの体を包み込む。
その感覚はまるで絵里の手が自分に触れているかのようで、ひとみは思わず身体を一瞬だけ震わせた。
「元気だった?」
居心地の悪さを感じたひとみは、何を言うべきかを考えるための間を置くため、とりあえずそれだけを聞いてみる。
- 491 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:19
-
『元気……じゃなかったです。わがままですけど、私にはやっぱりひとみさんが必要です』
「私が必要だから、亀井は私を取り込んだんだろ?それで良かったんじゃなかったのか?」
頭では何を言うべきか考えていたのに、それを全く無視した言葉がひとみの口から言い放たれる。
つい喧嘩口調になっていることにひとみは不安を覚えたが、それでも目の前の絵里は微笑んでいるだけだった。
『いえ、それじゃあ、絵里はひとみさんと触れ合えませんでした。そのときになって、ようやく気がついたんです』
絵里の微笑みに影が差す。
その笑みに絵里の苦悩の全てが含まれていて、それをひとみは一瞬にして理解した。
「でも、私はすでに消えてしまった人間なんだろ?どうやって元に戻すんだ?」
もし方法があったにしてもそれが絵里にマイナスになるのなら、ひとみは受け入れるつもりはない。
絵里にとってひとみは必要不可欠な人間のように、ひとみにとっても絵里は必要不可欠の人間なのだから……。
『大丈夫です。安心してください』
絵里がゆっくりと手を上げる。
すると、ひとみの目の前にぽっかりと真っ白な、人が一人ほど通れるような穴が広がった。
『その穴に入れば、ひとみさんは元に戻ります。後のことは絵里がしますから、行ってください』
再び微笑んだ絵里にひとみは心配になり、とっさに口を開いていた。
「私が行って、絵里がここに残るのか?」
まっすぐ見つめるひとみに、絵里は微笑を湛えたまま頷く。
『私にできるのはここまでです。ひとみさんは戻ってく……』
「そんなの勝手じゃないか!」
絵里の言葉を半ば遮るようにして叫ぶひとみ。
そして、その叫びはそれだけに終わらなかった。
- 492 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:19
-
「私がいないから、ここに来ておいて、私と入れ替わりで残るだって?それで私だけ戻って、どうやって生きていけばいいんだよ!吉澤ひとみはね、ようやく気がついたんだ。亀井絵里っていう人間がいないと、自分ってものを認識できないってことに。そして、それも悪くないかってことも。それを知って、むざむざ手放すものか!」
ひとみの叫び声は周囲の暗闇に溶け込んでいたが、ひとみにしてみればそんなものは些細なことに過ぎなかった。
周囲の暗闇を引き裂く勢いで右手をまっすぐ伸ばし、絵里を睨みつける。
それから、ひとみは再び叫んだ。
「帰るなら、二人一緒だ!」
そう叫ぶひとみに絵里は顔を伏せて、小さく首を横に振る。
『それはできません。それをすれば、バランスが崩れてしまいます』
「バランスって何だ?誰が決めたバランスなんだよ!」
無理やり手を取ったひとみに、絵里は驚いて顔を上げる。
絵里はひとみから逃げようとしているが、力のこもったひとみの手を解ける人間はそうそういないことをひとみは知っていた。
それは絵里にも伝わったのか、絵里が身体を引いたまま声を少しだけ大きくしてひとみに言ってくる。
『それは神様です。私にこの力をくれた、私だけの神様です』
絵里はひとみの手を振り払おうとしているが、ひ弱な絵里の力をひとみは無視する。
それからひとみは絵里ともども、現実へ戻れるという穴へ向かった。
「そんな自分勝手な神なんかいるもんか!」
そう叫んだひとみは、手を握ったままの絵里と共に穴の中に飛び込んだ。
一人ならばすんなり通れたはずのその空間も、そこを通る人間が二人だと認識してその性質を変化させていた。
目に見えない悪意が濁流となってひとみと絵里を飲み込んでくる。
身動きの取れない二人に濁流が押し潰さんばかりに圧し掛かってくるが、それでもその手を離すことはなかった。
- 493 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:20
-
身体全体の感覚が無くなろうとも、ひとみには絵里との繋がりが消えることはない。
その証拠に繋いだ手から、絵里の、そしてひとみ自身の全てが伝わってきていた。
それは感覚を超越した別の何かで、これが他の何者にも断ち切ることのできない『絆』なのだとひとみは認識する。
「絵里の力は絵里だけのものだ。それを横から割って入るな!」
そして、ひとみはこの流れのどこかにいる誰かに、そして何かに向かって叫んだ
それは周囲の濁流に全て飲み込まれていたが、それでもひとみは叫ぶことを止めない。
そして、ひとみの意志を受け止めた何かが、反応した。
『たしかに、横から割って入ったことは認めよう』
頭に直接響くその声は、ひとみの意志を汲み取り、それに反応してきた。
だが、その姿は見えない。
それでもひとみにしれみれば十分な収穫だった。
目の前に倒すべき敵がいる。
それをしっかりと捕捉することができ、ひとみはその根源を明確にさせた。
『だが、その力もどう使いたいか方向を見出せなければ、意味が無い。私はその方向を指し示した。それはつまり、亀井絵里に能力を授けたことと同義ではないか?』
「違うっ!」
力の限り、ひとみが叫ぶ。
そこには迷いは一切無い。
なぜなら、吉澤ひとみの根源は『決断』で、このときのひとみはそれをありのままに覚醒させていた。
「誰かに助けてもらわなくても、人は自分で進むべき道を見つけられる。お前がしたのは、単なるおせっかいだ!」
ひとみの叫びに、声は返ってこない。
それでもひとみは目の前の濁流を睨みつけたままだった。
しかし、身体は的確に動いて手を繋いでいた絵里を引き寄せ、そのまま抱きしめる。
同じように圧力を感じていた絵里の顔は憔悴しきっていたが、それでも目を閉じずに前を見据えている。
そんな絵里を健気に思いながら、それと同時にひとみはこの場で迷うことを捨てた。
- 494 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:21
-
(そうだ。私は絵里のために生きなきゃいけない)
そのためならばひとみは相手が何であれ、それを超えることができる。
たとえ相手が神であっても、それは変わらない。
そんなひとみに突然、激痛が走る。
右肩から感じられたそれを見てみると、そこには尖った剣のようなものが刺さっていた。
「へえ、神様ってこんな姑息な手段を使わなけりゃ、人一人殺すことができないのかよ」
肩に刺さった剣を引き抜くひとみ。
血が付着していないそれがやけに現実から離れたもののように感じられるが、この空間そのものが現実から遠く離れていることを思いだし、小さく笑いながらそれを振り上げた。
そして、それを目の前の濁流に向かって振り下ろす。
もちろん、そこにもひとみの根源がありのままに含まれていた。
断固とした『決断』がその一振りと同時に周囲の濁流を切り裂き、道を作り上げる。
それと同時に濁流は濁流と呼ぶほどの圧力を失い、単なる流れへと成り下がった。
しかし、それでもひとみは叫んぶ。
その言葉にひとみ自身の意志をありったけ込めて。
「絵里だって、力の使い方を自分で分かることができた。なのに、あんたは自分の価値観を絵里に押し付け、絵里を誤った方向に導いた!そんな自分勝手で、独りよがりで、神になったつもりか?」
すでに流れは無くなり、ひとみと絵里はその中をただひたすらまっすぐ突き進んでいた。
だが、ひとみはそんなことにすら気づかない。
ただ、目の前の何かに向かって、その攻撃的な意志を剥き出しにするだけだった。
- 495 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:22
-
『私は、神だ』
白々しい台詞を言ってくるそいつを、ひとみは鼻で笑う。
そして、すかさず言葉を叩き付けた。
「神っていうのはね、本当にもがき苦しんだ人間のところにだけ現れるんだ。だけど、その人間の欲しいものを全部与えるんじゃない。きっかけを与えるにすぎないんだ。それをどう捉えるかはその人間だけが選ぶんだ。もちろん拒否することだってできる。なのに、それをお前は無視した。それで神だと?笑わせるな!」
周りの空間に亀裂が入り、そこから光が差し込み始める。
が、そんなことですらひとみにはどうでもいいことだった。
今は見えない、傲慢なこの『人間』を打ちのめす。
それだけがひとみを突き動かしていた。
『私は必要なかったのか?神である私が?』
静かなその声に、ひとみはさらに怒りが増したのを感じた。
抱きしめている絵里を見下ろしてみる。
はっきり見える絵里はひとみに向かって小さく、だが、確かに頷いた。
そして、二人は自分達の意志を言葉という武器にして、見えない相手に放った。
「「私達に、そんな神は必要ない!」」
ひとみの叫びが、絵里の叫びが周囲に散らばり、暗闇を切り裂く。
絶望と虚無とに満たされた世界に、ひとみという希望が、絵里という希望が膨れ上がり……
光が爆発した
- 496 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:23
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 497 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:24
-
吉澤ひとみが次に意識を取り戻したとき、そこはあの見慣れた場所だった。
吉澤ひとみと亀井絵里が出会った場所。
その道路脇にひとみは寝転がっていた。
視界に入ってくる空にはまだ青が大半だが少しだけ紅くなっている。
その鮮やかな青と紅のコントラストの美しさに目を奪われ、それに対してひとみは適当な言葉を当てはめることができなかった。
さきほどから感じている軽い負荷については、何も考えない。
それを見るのは、この紅をちゃんと見てからだ。
十分に空の紅を堪能した後、ひとみは視線を少しだけ下げる。
その視線の先には……
「ねぇ絵里。結構重いんだけどさ、退こうと思わないの?」
できるだけ平静を装うが、それも今の絵里にはまったく通用しないことをひとみは知っていた。
だが、それでも虚勢は張る。
それが吉澤ひとみなのだから。
ひとみの上に、絵里は寄り添うように乗っている。
その軽い重みがひとみにも伝わってきて、ひとみは思わず行動していた。
微笑む絵里の手を強く握りしめ、空いていたもう片方の手で絵里の頭を引き寄せる。
そのままの勢いを利用して、ひとみは絵里の口に自分の唇を重ねた。
そして、自分の想いをこめる。
(あのときは軽くだったけど、私はね、こういうのが好きなんだ)
(知ってますよ。だって、あなたはひとみさんでしょ?)
言葉で伝えなくても、お互いの言いたいことは分かる。
そのことがひとみには新鮮で、同時に、生きていることが証明された瞬間だった。
- 498 名前:循環するは想い5 投稿日:2005/02/02(水) 11:25
-
(そうだよ。こんな私でいいの?)
何度も聞こうと思いつつ、ついに聞けなかった一言をひとみは想いだけで絵里に伝える。
お互い目を閉じているはずなのに、ひとみは絵里の表情が手に取るように分かった。
絵里はひとみだけに微笑んでいて、ひとみも絵里だけに微笑んでいた。
(そんなこと、私に聞くんですか?)
絵里に言われ、ひとみはそれまでの心の靄が晴れたのに気づく。
言葉で伝えようとしても、それに意志が込められていなければ、結局のところ意味は無い。
逆に、意志さえ通じ合っていれば、言葉なんて必要ない。
全ては自分の手の中にあった。
それに気づかなかっただけだ。
(言葉にしても伝えきれない想いはある。だけど、それも感じ取ろうとする意志があるかどうかだ)
その証拠がこの私だ、ひとみはそう心の中だけで呟く。
ひとみはゆっくりと目を開けた。
そして、目の前にあった絵里のつぶらな瞳を見て、改めて実感する。
吉澤ひとみは、亀井絵里と共に在るということを。
これからは二人で共に歩いていけば良いということを。
しかし、その過剰なまでの依存がのひとみを縛り付けてしまうことに、自身が気づいていない。
そして、それももう少し先の話だった。
秋の風がひとみの髪を撫で、その心地の良い感触を全身で受け止めるひとみ。
すぐ目の前にいる絵里もそれを同じように感じていた。
(そうだ。私はここに在るんだ)
それを確かめたひとみはもう一度瞳を閉じると、絵里を感じ、そして自分自身を感じることにした。
- 499 名前:―― 投稿日:2005/02/02(水) 11:26
-
循環するは想い 了
- 500 名前:新規登場人物 投稿日:2005/02/02(水) 11:29
-
○亀井絵里
新垣里沙の同級生
2003年9月現在、F中学3年生
○吉澤ひとみ
麻琴達の先輩で、元生徒会執行役
2003年9月現在、N大付属高校3年生
○稲葉貴子
F中学校教諭、専門は社会科
2003年現在、29歳
- 501 名前:いちは 投稿日:2005/02/02(水) 11:56
- 「循環するは想い」はこれで終わりです
第一話「偽りの連続」と第二話「連続しない循環」は高校組を中心に話を展開して
第三話「循環するは想い」で中学組の話を同時進行という形で展開したつもりです
時間的にはこの後、「連続しない循環4」の後半部分以降につながります
>>472 名無し読者さん。
今回、特に最後の部分についてももしかすると分かるかもしれません
雰囲気で使っているので、それが伝わったら幸いです
来週から第四話「想いのなかの迷い、それから得る自由」に入ります
それでは
- 502 名前:―― 投稿日:2005/02/09(水) 11:27
-
この世界は完全ではない
なぜなら、この世界を牛耳っている人間自体が完全でないのだから
人間は個として完結した存在であるべきなのに
他者と交わらなければまともに自分の個を認識できない
人間はそのときの感情によって簡単に自己を見失うのに
その感情によって他者と結合してしまう
そんな人間に私は手を差し伸べて、彼女たちを救ってきた
だが……
その私を、人間は必要としていないと言った
ならば、試してみよう
人が神無しで生きていけるのかどうかを
孤独に耐えられる強さがあるのかを
どうせ、私にはすることが無いのだから……
- 503 名前:―― 投稿日:2005/02/09(水) 11:27
-
想いのなかの迷い、それから得る自由
- 504 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由0 投稿日:2005/02/09(水) 11:28
-
病院には良いイメージがない。
それを思い出しながら中澤裕子は心の中だけでため息を吐いた。
下を向くのもいい加減に疲れて苦し紛れに辺りを見渡してみるが、どこを見ても生気を失った人間ばかりで、裕子はさらに辟易とするしかなかった。
足を吊られ、ただ画面を見つめるだけの老人。
たくさんの管に繋がれ、無理やりこの世界にしがみつかされている子供。
それをただぼんやりと見ているだけの親達。
なぜ、ここまで全てが後ろ向きなのか。
それが裕子にとって不可解だった。
そして、目の前にある白いベッドの上では、稲葉貴子が周囲と同じように生気の失った目を天井に向けている。
その貴子の腹には包帯が巻かれていた。
しかし、貴子の足は動く。
そして、身体は管に繋がれていない。
それなのに……自由に動けるはずなのに貴子はその自由を行使することなく、ただ茫然と天井を見上げているだけ。
苛立った身体がニコチンを求めていたが、裕子はその衝動を無理やり押さえ込んで貴子を見下ろす。
そして、苛立ちを隠せないまま貴子に呟いた。
「あっちゃん、何があった?」
新垣里沙から連絡を受け駆けつけたときには、すでに貴子は倒れた後だった。
なぜ彼女がこうやって重傷を負わなければならないのか、それが裕子には理解できなかった。
(違う、これはウソや……)
逃げたいと思っている本能を理性が何とか律し、それを頭の中だけで表す裕子。
本当は分かっていた、なぜ、貴子がこのようになってしまったのかを。
しかし、それを裕子は未だに否定している。
いや、否定したいと思っているのだ。
が、現実はそれこそ無情で、裕子はあの日のことを鮮明に思い出していた。
救急車の中で一度だけ、寝言のように呟いた貴子の一言を。
『みっちゃん』
か細い声で、貴子はたしかにそう言った。
- 505 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由0 投稿日:2005/02/09(水) 11:29
-
平家みちよとこの世界で確実に繋がっているのは、もはや中澤裕子しかいないはずだった。
なぜなら三年前のあの日、裕子はみちよを殺したからだ。
根源に縛られた者を殺すことは、その根源をも背負うことを意味し、それは同時に自身の根源をも拘束してしまう。
そして、あのときのみちよは自らの根源に縛られ、裕子も縛られていた。
平家みちよの根源は『虚無』。
中澤裕子の根源は『破壊』。
それらの根源を剥き出しにして互いはぶつかり、結果としてみちよはこの世界から消え去った。
そう、文字通り消え去ったのだ。
あのとき、自分の手はたしかにみちよの心臓を鷲掴みにし、それに向けて自分の能力を直に伝えた。
その結果、みちよは消し炭となったのだ。
(せやけど、みっちゃんはこの世界にまだおる)
それは裕子にしてみれば苦痛以外の何者でもなかった。
平家の特質は何度か耳にしたことはある。
が、あの状況でみちよがそれをしたとは考えにくい。
実際、みちよは自分の力だけでこの世界に留まったわけではなく、別の力によって生かされていたが、それに裕子が気づくことはなかった。
(虚無ってなんや……?)
裕子はそれまで何度も考え、結局答えの見つからなかった問を自分の中だけで呟く。
何もなく、むなしいこと。
だが、それは全てが無意味だということを意味してはいない。
みちよがむなしい存在なのだということを意味しているのではない。
このときのその問いかけに、何となくだが裕子は答えを見つけたような気がした。
つまり、みちよに関与する全てが無に帰すのだ。
そして、無に帰すべき中澤裕子に、平家みちよが再び現れた。
彼女を元の状態へと戻すために。
- 506 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由0 投稿日:2005/02/09(水) 11:30
-
根源に目覚めた者は、根源に縛られる。
それを忠実にみちよは守っているのだと、何となくだが思ってしまった。
だが、その奇術師としての常識を裕子は信じていない。
その常識はあの日に全て、消えてしまったからだ。
人は根源などに目覚めなくても、自然と己の根源を自覚する。
おぼろけであっても、人はすでに根源に縛られている。
それを裕子はこの目で見てきた。
無理やり言葉にして固定し、その中で安定しようとしていたのは誰か、その問いかけにはすぐに答えが出る。
(そう、ウチら奇術師や)
誰が始めたのか分からないその組織は、言葉というものに必要以上の力を与え、それでその下にいる人間達を文字通り縛りつけた。
そして、ありもしない幻想を追い求めて暴走し、最終的に日本にあったその組織は消え去ってしまった。
(それでも、ウチらは縛りつけられとる……)
「だから、これは呪いやな」
小さく今の自分を皮肉った裕子は、空ろな目をした貴子を置いて病室を出た。
廊下を歩いていても裕子が感じているような様々な不満は感じ取ることができず、ただ生気を感じさせない、それこそ『虚無』という空間に裕子はため息を吐く。
それから人気の少ない廊下を選んで歩き、非常口から外へ出た。
すぐ脇には灰皿が置いてあったが、そこでは吸う気になれなかった裕子はそのまま病院を後にする。
ゆっくりと歩き、根城へ戻る途中、裕子は一度だけ病院を振り返ってみてみる。
そして、小さく呟いた。
「あっちゃん、あいつはウチが必ず止める」
決意を込めた呟きは誰に聞かれるとも無く、空中に霧散し、消え去る。
それがまるで裕子の今と、そして、今後を示しているかのようだった。
ただ、中澤裕子がその決意と向き合うのにはまだ時間がかかる。
そして、それにはそれなりの代償を支払わなければならない。
しかし、このときの裕子はそれがいつやってくるのか、また、どのようにしてやってくるのか全く想像することができなかった。
- 507 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由0 投稿日:2005/02/09(水) 11:30
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 508 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由0 投稿日:2005/02/09(水) 11:32
-
午後九時。
自室のベッドに寝転がり小説を読んでいた新垣里沙は、チャイムの音を聞いて寝転がったベッドから跳ね起きた。
二階にある自分の部屋を出て階段を下りる頃には母親が玄関に現れて、チャイムを鳴らした人間をもてなしているところで、それに割り込む里沙。
「あ、里沙ちゃん。こんばんは」
「ちょっとお母さん。あとは私がするから良いよ」
いつも以上に強引な里沙に驚いている様子の母親を居間へと押し込み、里沙はやってきた小川麻琴を部屋へと案内した。
「まこっちゃんさ、お風呂はどうしたの?」
部屋に入り少し大きめのカバンを置いた麻琴に里沙が話しかける。
その麻琴の髪の毛は少し濡れて、しかも前髪は立っていた。
「寮で入ってきたよ。そのほうが荷物が少なくなるからね」
たしかに麻琴が持っていたカバンは大きい割にはすかすかだった。
「でもさ、わざわざ泊まりにくることもなかったんじゃない?」
里沙はそれまで口にすることのなかった(というよりもできなかった)疑問を麻琴へ向けて言う。
麻琴が住んでいる寮から里沙の家まで、自転車で二十分もかからない。
それなのに、麻琴はあえて泊まりにきたのだ。
そして、里沙はそうしなければならない理由について、何となくだが察しがついていた。
おそらく麻琴の周辺にいる人間ならばその異変に気づいているのだろうが、誰もそのことについて何も言えない。
それは里沙においても同じことだった。
では、その異変とは何か。
答えは簡単で、里沙は麻琴としか話をしていないということだった。
通常ではそのことは当たり前だが、麻琴に関して言えばそれは異変と言わざるを得ない。
なぜなら麻琴にはもう一人、小川真琴という人間が存在している。
この二人は同じ身体を共有するという状況であり、それをこの二人もそつなくこなしていた。
そして、それを周囲が飲み込み始めた矢先のことだった。
真琴が一切外へ出なくなってしまったのは。
里沙が記憶しているだけでもこの二月近く、真琴とまったく話をしていない。
- 509 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由0 投稿日:2005/02/09(水) 11:32
-
最初は自分と一緒にいるのが麻琴であるべきだと思って控えめになっていたのかと思っていたが、どうやらそうでもないようだ。
それまでの真琴はたとえ麻琴が表面に出ていても、何か意見があればそれを言っていた。
しかし、それすらも無くなってしまったのだ。
里沙が最後に真琴の声を聞いたのは二学期が始まってすぐのとき。
麻琴と共に岬へ行ったときだった。
そして今はもう十一月。
この間、周囲は真琴とまったく会話をしていなかった。
「ねえ、まこっちゃん……?」
それを聞こうとしたとき、里沙は麻琴の異変に気づいた。
麻琴は顔を歪ませて、何かと葛藤しているように見える。
その口は絶えず動いていたがそこから言葉が聞こえることは無く、何を言っているのか口の動きからでも分からなかった。
「だ、大丈夫?」
慌てて麻琴に駆け寄ろうとした里沙だったが、それを麻琴が無言で手を挙げて遮る。
それに驚いた里沙は反射的に足を止めたが、そのときの麻琴の顔を見て顔を強張らせた。
麻琴は顔を歪ませて笑っていた。
だが、それは同時に泣きそうにも見えたし、怒っているようにも見えた。
その麻琴に感情の統一性が見出せず、里沙はどうすればいいか分からなくなる。
そのときだった。
麻琴の口がはっきりと動き、何かを言った。
その口の動きを里沙は瞬時にして記憶する。
なぜなら、それはすぐに分かるほど単純な内容ではなかったからだ。
それを最後に、麻琴が床にへたりこんだ。
その息は荒く、肩を激しく上下させている。
「大丈夫、大丈夫だから……」
顔を俯けたまま、麻琴がぼそりと呟く。
その額には汗がびっしりとついて、それが玉になっていた。
- 510 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由0 投稿日:2005/02/09(水) 11:33
-
それきり何も言わなくなった麻琴を見た里沙は、思わず部屋を飛び出していた。
慣れた動作で一階へ駆け下り、母親と二言ほど話をするとすぐさま里沙はバスルームへと向かい、そこからバスタオルを引っ張り出す。
それを持ったまま部屋へ戻り、俯いたまま動かない麻琴を尻目に今度は自分のタンスを開ける。
そして、そこからはフリーサイズのTシャツと、黒いスパッツを取り出した。
「まこっちゃん、ずいぶん汗掻いてるね。もう一度お風呂に入っておいでよ」
手にした三つを麻琴の前に置きながら言う里沙。
何がどうなっているのかは、この場ではあえて聞かなかった。
里沙の言葉を聞いた麻琴が顔を上げる。
そこにはさきほどまでの麻琴の姿は無く、里沙にはそれが弱々しい、打ちひしがれた別の何かのように見えた。
「お母さんには話してあるからさ」
少しでもそんなことを意識してしまった里沙はそう言って無理やり自分の考えたことを否定すると、置いてあった三つを取り上げ、麻琴の手を引いて部屋を出た。
前を歩く里沙は決して後ろの麻琴に振り返らなかった。
それをしてしまえば、何かを言ってしまいそうで怖かったから。
そして、麻琴もそれに対して何も言わなかった。
半ば麻琴を引きずった里沙はあっさりとバスルームへと到着し、そこへ麻琴を押し込める。
「ちゃんとお風呂に入るんだよ」
有無を言わさぬ口調でそう言い放った里沙は、麻琴が何かを言ってくる前にバスルームの扉をぴしゃりと閉めた。
が、すぐに立ち去るのではなくしばらく耳を澄ませてみる。
壁越しからでも中の様子は手に取るように分かると思っていた里沙だが、一分近く何の音も立たなかったため、麻琴がどうなってしまったのか不安になってきた。
もう一分待って何の音もしないようなら怒鳴り込もうと決め、静かにカウントダウンを開始する。
そして、そのカウントが残り十を切ったとき、ようやく中から音がしてきた。
- 511 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由0 投稿日:2005/02/09(水) 11:34
-
(もしかして、一緒に入ったほうが良かったのかな……)
麻琴(といっても本来の麻琴・真琴を里沙はほとんど知らなかったため)の動作が緩慢すぎるのが壁越しからでも分かってしまった里沙は、そんな不安に襲われながらも渋々その場を離れる。
部屋へ戻る途中に台所へ寄って適当に食べるものと飲み物を持って行くが、そのときには別のことで頭がいっぱいになっていた。
部屋に戻った里沙は持っていた諸々をテーブルの上に半ば放り投げるようにして置き、その足でベッドへと向かう。
その縁に腰を下ろすのと同時に、さきほど麻琴が目の前で言った何かを思い出し、それを瞬時に理解した。
『出て、こないでっ!』
『お前は、邪魔だ!』
二人のまことが同時に、そして、別々の言葉を発した瞬間だった。
それはお互い攻撃的で、そこには互いを奥へ閉じ込めようとする強烈な意志が明確に表現されていた。
そして、今回は麻琴が勝利し、そのまま表に残っていた。
「そんなことって、あり得るの?」
それまでの記憶を探っても、このような事態に遭遇したことは一度も無かった。
里沙はそれを断言してみるも、それにどう対処すれば良いのか分からない状態であり、少しばかり途方にくれる。
どう頭を回転させれば分からないまま時間は過ぎ、麻琴が部屋へと戻ってきた。
麻琴が部屋を出ていた時間はちょうど二十分。
それはただ、風呂に入ったというだけで、それ以外の行為を何もしていないことに里沙はすぐさま気づいた。
「髪、ちゃんと乾かしてないね。ほら座って」
おとなしい麻琴は、その里沙の言葉に素直に従ってすとんとその場に座る。
それを確認した里沙は自室に置いてあったドライヤーを持ち出すと、それを麻琴の頭に吹きつけることにした。
里沙本人の髪の毛の半分ほどの量しかない麻琴のそれはすぐさま乾いていくが、それをしている里沙は変な気持ちになっていることに気づく。
- 512 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由0 投稿日:2005/02/09(水) 11:35
-
(うわっ、こんなときになに変なこと考えてるんだろ……)
自身の頭をぶるぶると振ってその思考を打ち消したが、それでもどこかもやもやとして感覚が残っていることに気づき、里沙は一瞬だけ震える。
幸い、前に座った麻琴にはその震えが伝わることが無かったため、里沙は平静を装って作業を続け、十分後にはようやく元通りの麻琴へと戻った(ただし、これは里沙から見て、という意味においてだが)。
「ごめんね、里沙ちゃん。迷惑ばっかりかけて……」
ドライヤーを元へ戻し、これでもかと正面に座ってみた里沙に麻琴が小さく頭を下げてくる。
「別にいいよ、これくらい」
そう言って笑う里沙につられて麻琴も笑ったが、それには力が込められていない。
その表情がどこか自分を皮肉っているようにも見え、里沙は思わず口を開け、麻琴へ話しかけていた。
「まこっちゃんさ、最近ちゃんと話をしてる?」
麻琴の肩が面白いように跳ね上がるが、それでも里沙は笑えなかった。
なぜなら、その里沙の言葉は当然のこと麻琴に向けられたものであり、それはまた、真琴に対して向けられたものであったから。
しばらく沈黙がその場を支配し、里沙もそれに逆らうことは無かったが、それでも里沙は麻琴へ何かを期待していた。
しかし、麻琴はその期待に沿ってはくれなかった。
「わたしね、怖いんだ……」
顔を俯けた麻琴が静かに話し始める。
いや、静かにという表現は正確ではなく、それを話すことを含めた全てのことに疲れていると言ったほうが正確のようだと思った里沙は、これから麻琴が話すことを記憶すべきだと一瞬で判断し、頭の構造を切り替えた。
「わたしが小川麻琴だって自覚はある。でも、前みたいにもう一人の、小川真琴だっていう自覚ができなくなったの。わたしが表にいるとき、真琴は絶対外へ出てこようとしない。わたしが眠って完全にいなくなってから、真琴が出てきていた。それをわたしは朝起きたときに情報として知っているにすぎないの。前は、こんなこと無かったのにさ……」
「それって、もう一人のまこっちゃんと話ができなくなったってこと?」
里沙の言葉に頷く麻琴。
- 513 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由0 投稿日:2005/02/09(水) 11:35
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「そう……。でも、唐突に真琴が目覚めるの。それはこれまでみたいに曖昧じゃなくて、外にこうやっているわたしを押しのけて、自分だけになろうとしている真琴なの。それに、その真琴はわたしがこれまで感じたことが無いくらい凶悪で、凶暴なの。そんな真琴と話なんてできないし、したくもない。あんな真琴を、わたしが起きている間には外へ出したくないの」
何度か麻琴の言ったことを反芻し、それを里沙なりに噛み砕いて理解する。
(まこっちゃんがまこっちゃんと争ってる……)
それまで共有(表現が適切かどうか分からないが)していた二人が身体の支配権を求めて争っている。
今はたまたま麻琴が有利なだけで、それも麻琴の状況を見ていればいつまで続くか分からなかった。
それを麻琴の言葉から類推するに決意なのか征服なのか里沙には良く分からなかったが、それでも里沙ができることは一つしかなかった。
震えている麻琴の手をゆっくりと、そしてしっかりと握った里沙が麻琴に笑いかける。
「でもね、まこっちゃんはまこっちゃんでしょ?私がいるときに、もう一人のまこっちゃんを押さえ込んでまで、私と一緒にいようとしてくれたね。私は、それで十分だよ」
そう言った里沙だったが、それが正しいことだとは思わなかった。
ただ、麻琴の気持ちだけを汲み取って、それをできるだけストレートに代弁する。
笑いかけられた麻琴は、ぽかんと口を開けて里沙を見ていた。
力が抜けているのはさっきと同じだったが、それでも里沙が知っている麻琴に戻っていたため、里沙は麻琴の手を取り、自然な感じでキスをする。
付き合い始めてかれこれ二月近くが経過するが、キスはこれで二度目。
一度目が麻琴からしてきたため里沙はそれを待ってはいたが、いくら期待していても麻琴が再びしてくることはなかった。
それも、今の麻琴の状況を鑑みれば致し方ないことで、その気持ちを少しでも理解した里沙の小さな思いやりだった。
- 514 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由0 投稿日:2005/02/09(水) 11:36
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「やっぱり上手にできないや」
近くにあった麻琴の顔がこれでもかと言わんばかりに赤くなっていて、里沙は自分も身体の芯から熱くなってくるのを自覚する。
それを照れているのだと認識してごまかすためにそう言ってみたが、麻琴は首を思い切り左右に振ってきた。
「ぜ、ぜんぜん上手だったよ」
「愛ちゃんよりも?」
どもりながら言ってきた麻琴にすかさず聞いてみる里沙。
それと同時に首の止まった麻琴が恨めしそうに里沙を見てくるが、里沙は笑いながらそれを見つめるだけだった。
視線が交差したのはほんの一瞬で、麻琴がすぐに視線を逸らしてしばらく宙にそれを彷徨わせる。
三十秒ほどそんな状態が続き、麻琴が再び里沙と視線を交差させてきた。
そして、ぼそりと呟いた。
「愛ちゃんはね、強引だったんだ。だから……本音を言うと、ちょっと嫌だったかな」
「ふ〜ん、そうなんだ。そう言っておいてあげるね」
「えぇっ!」
自分の言葉に面白いように肩を飛び上がらせてくる麻琴がおかしく、今度こそ里沙は笑った。
「ちょっと里沙ちゃん!」
「大丈夫だって。オフレコってことにしとくからさ」
半分叫び、半分泣きそうになっている麻琴に答える里沙。
もとより話すつもりもないし、話でもしたら里沙のほうが危険に晒されかねないからだ。
「ねえ、一緒に寝ようか?」
「えっ、もう寝るの?」
話をいきなり変えたことで驚いた麻琴が時計を見ながら返してくる。
それにつられて里沙も時計を見るが、時間はまだ十時半にもなっていなかった。
「でもさ、明日の集合時間は九時だよ。ちゃんと起きないとね」
「そっか。そうだったね」
明日の目的を考えれば九時の集合でも遅いくらいだったが、集合するほうの都合を考えるとこれがぎりぎりで、それ以上早くなると里沙も辛いし、麻琴も辛かった。
- 515 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由0 投稿日:2005/02/09(水) 11:37
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それから電気を全部消してベッドに移動する里沙と麻琴。
部屋に一つしかないベッドに二人で潜り込んで頭から布団を被ってみると、そこはすっかり二人だけの世界だった。
明るさの加減に目が慣れないのか、何も見えない状態で里沙は麻琴へ話しかける。
「まこっちゃんさぁ、朝は強いほう?」
「自信が無いから泊まりに来たんだよ」
「そうだよね……。まあ、二人いるんだから、寝坊するってことはないよね」
やけに声が近かったが、まだ麻琴の姿は見えなかった。
ただ、手は握ったままだったし、ほとんど密着していたから麻琴がどんな格好なのか大体分かってしまい、里沙は自由だった手をわずかに動かして麻琴の顔を触ってみる。
「里沙ちゃん。いきなり何してるの!」
触れた瞬間、麻琴が激しい動作で動いたため、かなり大きな音を立ててベッドが軋む。
が、それでも里沙は麻琴の頬(感触で分かった)から手を離すことは無かった。
「まこっちゃんの顔ってあったかいね」
さきほどの熱がまだ冷めていないのは里沙も同じだったが、それでも麻琴は里沙よりも熱かった。
「緊張してるんだよ」
「そうなの?」
声そのものが強張っていたため、すぐに緊張していると分かった里沙は、握っていた麻琴の手を離して少し強引に麻琴の頭を自分の胸に引き寄せた。
「な、何してるの?」
慌てた麻琴が里沙の腕の中でもぞもぞと暴れているが、そんな麻琴を尻目に里沙はゆっくりと話しかける。
「私の心臓の音、聞こえる?」
その声を合図に暴れるのを止めた麻琴が、小さく動いて里沙の胸に耳を押し当ててくる。
その頃には暗闇にも目が慣れたため、麻琴がどんな状態なのかがはっきりと見えたが、里沙は麻琴を見ることなく目を閉じた。
そして、麻琴が答えてくるのを待つ。
「うん、聞こえる」
一分ほど待っただろうか、麻琴が小さくだがはっきりと里沙にそう言ってきた。
自分ではよほど集中しないと聞けない音を、麻琴は聞いている。
それを確認しながら里沙は目を閉じたまま先を続けた。
- 516 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由0 投稿日:2005/02/09(水) 11:38
-
「心臓の音を聞いてると落ち着くんだって」
「そうなの?」
顔を少しだけ上げてくる麻琴に、里沙は目を開けて優しく笑いかけた。
暗闇の中でもはっきりと分かる赤い顔を向けていた麻琴は里沙から視線を外すと、再びさっきと同じように里沙の胸へと耳を当てる。
「ほんとだ。何か、楽になってきた……」
そう呟いた麻琴がすやすやと心地良い寝息を立て始めたのは、それからすぐ後のことだった。
眠った麻琴を抱いたまま一人になった里沙は、寝るまでの少しの間、ぼんやりと思考を回転させてみる。
そして、浮かんだのは幼馴染の顔だった。
(とてもじゃないけど、愛ちゃんには言えないよ……)
それをしてしまったことに少しだけ後悔する里沙だったが、明日は幸いにもその幼馴染とは顔を合わせなくても良い。
そのことで安心してしまったことに気づいた里沙は、小さくため息を吐いて幼馴染を思考の外へと追いやる。
が、完全に消え去るには至らなかった。
その幼馴染の顔を目を閉じて見ていた里沙は、麻琴に聞こえないよう、本当に声を小さくして呟くことにした。
「ごめんね、愛ちゃん」
しかし、目の前にいる愛は何も言おうとしなかったため、里沙は再びため息を吐くと本気で眠ろうと思考を完全にシャットダウンした。
- 517 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/02/09(水) 11:39
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想いのなかの迷い、それから得る自由1
- 518 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:40
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「ねえ裕子。生きるってどういう意味か分かるかい?」
「さあ、ウチにはいまいち分からんわ。それに、こうやって話をしとる今も生きとるやろ?別に深く考えんでもええんやないの?」
「そうだね。普段は生きているということを実感することはないね。でも、これは誰が決めたことなんだろう?」
「誰って、何が?」
「つまりね、僕達人間を含めた全ての事象はここに存在している。だけど、どうして存在しているのかという問いを発することは無い。だって、現実にここに存在しているのだからね。それをすること自体がナンセンスってわけだ。」
「兄ちゃん、何が言いたいんや?」
「簡単だよ。君を含めた奇術師が血眼になって探している、共通した根源に対する僕なりの見解ってやつだよ」
「ウチだけやないやろ?一応、兄ちゃんも奇術師やで」
「僕はそうじゃないよ。だって、奇術師の奇術師たる条件を満たしていないんだからね。まあ、その辺は特に気にしなくても良いや。どうせ君には関係ないからね」
「で?」
「裕子、君の根源は『破壊』って言う言葉で定義づけられている。それについて、君はどう思うんだい?」
「どう思うって言われてもな……。まあ、強いて言えば、作るよりも壊すほうが気が楽って感じやな。料理かて作るよりも食うほうがええし」
「そうだね。だから料理は僕の担当になってるってわけだ……って、今はそんな話をしているんじゃない。つまりね、僕が言いたいことはそういうことなんだ」
「どういうことなんや?」
「中澤裕子という人間の根源は『破壊』。それを意識するのは本人でしかないけど、そう意識しようと誘導することはできる。つまり、方向づけるってことだ。今、君の根源は『破壊』という言葉で表されているけど、もしかするとこれも正確ではないのかもしれない。もっと別の、他の言葉で表すことができる根源が存在しているのかもしれないんだ」
「誘導って……。ウチは誰にもそんなこと言われんかったで?」
- 519 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:41
-
「それは別に言葉で伝えなくても良いし、洗脳みたいな困難な手段も使う必要は無い。ただ、日常生活においてそう仕向けるだけで良いんだ。普段生活している中で、裕子がそういう方向へ行きやすいような出来事をばら撒いておく。で、後は君がそれを回収していけば完成ってわけだ」
「出来事ってなんや?」
「だから、日常生活だよ。こうして普通に生活している今でもそれらは無数にばら撒かれている。ばら撒いた相手は存在している場合もあるし、存在していない場合もある。つまり、こうやって僕が君と話していることもそうしたばら撒きの結果に過ぎないんだ」
「なんか、最初の話からずれたみたいなんでもう一度聞くけど、結局、兄ちゃんは何が言いたいんや?」
「簡単だよ。必要以上に言葉に囚われるなってことさ。君は君でそこに存在している。それだけで十分なんだ。それに無理やり理由をつける必要は無いし、そもそも理由なんて存在していないのかもしれない。だから、無理やり探そうとしないほうが良い」
「それってウチみたいな末端に言うんやなくて、お偉いさんにでも聞かせたらどうや?」
「これをいきなり言ったところで、言葉に固執してるあの人間達は変わらないよ。だから、こうして身近にいる人達にだけ話すことにしてるんだ」
「できることならウチにも言わんで欲しかったわ。何か、兄ちゃんと話しとると、頭痛くなるねん」
「君ならそう言うと思ったよ。それじゃあ、そろそろ食事にしようか。君の好きな『破壊』ができるよ」
「なんかそう言われると腹立ってくるわ」
「そうだろうね」
- 520 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:42
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 521 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:43
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「へっくしょん、こんちくしょ〜!」
十一月にもなると風が結構冷たくなる、それを自覚しながらわたし、小川麻琴は鼻を啜った。
鼻を啜る原因になった変なくしゃみには一切触れなかったけど、今日はわたし一人じゃないことを思い出す。
「うわっまこっちゃん、親父クサッ!」
「仕方ないじゃん。くしゃみって自然に出ちゃうんだからさ」
隣で笑っている新垣里沙ちゃんを尻目に、小さく肩を竦めたわたしは羽織っていた上着の前を閉じてみる。
この程度の話題なら、この仕草で何とか終わらせることができるんだけど、今日に限ってはそれができなかった。
それもそうだ、今日はわたしと里沙ちゃんの二人だけじゃなかったんだから……。
「小川は親父くさいんじゃなくて、親父なんだよ」
「そうですよ。もうちょっとおしゃれしたらどうですか?」
「マコ姉はどっちかっていうと、おばさんよりもおっさんとね」
「ピンクは着ないでくださいね」
後ろから降り注ぐッコミの嵐に、わたしはがっくりとうなだれた。
言いたいことはたくさんあるけど、多勢に無勢、それを意識して何も言わないように一生懸命努力する。
ちなみにツッコミを入れてきたのは、上から順番に吉澤ひとみ先輩に亀井絵里ちゃん、それに妹の田中れいなにその友達の道重さゆみちゃん。
今、わたしの周りには里沙ちゃんを含めてこの五人がいた。
「まぁ、そんなまこっちゃんも面白いから好きだよ」
「それって面白いの?」
すぐ隣にいる里沙ちゃんがそう言ってきたため、顔を少しだけ動かしてその横顔を見てみる。
その横顔は笑いたいのに笑えないって感じがした。
だって、頬が痙攣してるんだもん。
- 522 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:43
-
「笑いたいなら笑って良いよ」
「今、笑ったら凹むから、止めとくね」
わたしのほうを向いた里沙ちゃんが笑いながら言ってくる。
だけど、それはおかしくて笑っているんじゃなかった。
そんな里沙ちゃんに顔を近づけて里沙ちゃんにしか聞こえないように耳打ちをする。
「できることなら二人で来たかったね」
「まこっちゃんがそんなふうに言ってくるのって、初めて聞いたよ」
「たまにそんな気分になるんだ」
そう言ってわたしは里沙ちゃんから顔を離す。
里沙ちゃんはわたしのほうを見ていたけど、その視線が何となく怖くなってわたしはそれから逃げるように視線を逸らした。
わたしは里沙ちゃんと付き合っている。
でも、わたしは自分から里沙ちゃんの手を握る勇気は無い。
だって、それをしたら真琴が出てきそうだったから……。
もう一人のわたしが、今のわたしを壊してしまいそうだったから……。
「大丈夫。まこっちゃんはまこっちゃんだからさ」
里沙ちゃんの声が聞こえてきて、次にわたしの手にあったかい何かが触れた。
それが里沙ちゃんの手だと分かり、それと同時に自分の手がいつも以上に冷たくなっていることに気づく。
だけど、里沙ちゃんはこんなわたしの手を離すことなく、優しく握ってくれた。
それが嬉しくて里沙ちゃんを見てみると、里沙ちゃんはこんなわたしにもう一度笑いかけてくれた。
できることなら、ここで昨日できなかったキスなんかをしてみたかったけど、今日は二人きりじゃないことをすっかり忘れていた。
「もしかしてさ、私達の存在を忘れてない?」
そんな声がわたしのすぐ後ろから聞こえてきて、一瞬視界が真っ暗になる。
「ぐえっ」
それが吉澤先輩の腕だと気づいたのは、苦しくなってカエルみたいに変な声を出したときだった。
右のほうを見てみると、ものすごい間近に先輩のにやついた顔があって、わたしは思わず引こうと身体を捩ってみる。
だけど、そんなことでは先輩の腕からは逃げられなかった。
- 523 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:45
-
「今日の集合時間って九時だったよな。二人して何で遅刻したんだ?」
「そういえば、今日は絶対遅刻しないように小川さんはがきさんのところに泊まってたんですよね?」
先輩の後に続いてきたのは亀井ちゃんで、先輩越しに見える彼女もやっぱりにやけていた。
なんか亀井ちゃん、吉澤先輩に似てきたな……。
「何してたんだ?」
意地悪く聞いてくる先輩から必死に視線を逸らすけど、首を絞めてる腕が弱まることは無かった。
(そりゃあ遅刻したのは悪いと思ってますけど、絶対変な勘ぐりをするんだから、とてもじゃないけど言えませんって)
先輩達の顔を見ながら心の中だけで言い訳をしてみるけど、やっぱり先輩達には通じてくれなかった。
というか、通じてもらっても困るんだけどね
「何してたって、普通に寝坊したんですよ」
と、ここで隣にいた里沙ちゃんがうっかりと口を滑らせてしまった。
「学校でも遅刻したことの無いがきさんが、寝坊するなんて珍しいですね!」
ほら、亀井ちゃんがやけに大きなリアクションをしてびっくりしているけど、それに里沙ちゃんは首を小さく傾げるだけだった。
里沙ちゃんって結構度胸あるよね……。
先輩の腕の中でもぞもぞと動いたわたしは、先輩に見つからないように小さくため息を吐く。
昨日の晩、里沙ちゃんの家に泊まったわたしは、里沙ちゃんのおかげで久々に熟睡することができた。
わたしは朝の七時には目が覚めたんだけど、わたしを抱いてくれていた里沙ちゃんを起こすのが可哀想で、わたしはそれから二時間ほどずっとじっとしてたんだけど、それが裏目に出たみたい。
だけど、これはとてもじゃないけど先輩や亀井ちゃんには話せない。
絶対誤解するだろうから……。
「ほんとだな、二人して何してたんだ?」
わたしは首を締め付けてきた先輩、もとい、取り付いていた寄生虫を睨みつけてぼそりと呟く。
それもありったけの悪意を込めて。
「それってセクハラですよ」
だけど、これも結局火に油を注ぐ結果にしかならなかった。
- 524 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:45
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「私は純粋に遅刻した原因が知りたかっただけなのに、それのどこがセクハラなんだよ!」
「勘違いしてるから言っときますけど、わたし達は先輩や亀ちゃんみたいに卑猥なことはしてませんから。ただ、一緒に寝ただけです!」
叫んだ先輩に叫び返すわたし。
でも、こんな場合だとわたしは悪くない……はずだよね。
あんまりにもしつこい先輩のほうが悪いんだよ、絶対。
「なんだよ卑猥って。それじゃあ私達のほうが節操が無いみたいじゃないか!」
さらに叫んだ先輩が顔を少し赤くしながらわたしの首をさらに絞めてくる。
そのおかげで息ができなくなったわたしはカエルみたいな声すら出すことができなくなった。
そんな踏んだり蹴ったりのやりとりをしているわたし達のところへ亀井ちゃんの手が伸びてきた。
で、その手が先輩の肩を叩き、それを合図にわたしの首を絞めていた腕の力が弱くなる。
「吉澤さん、そんなに怒っちゃダメですよ。小川さん達はまだ恥ずかしがってるだけなんですって」
「そ、そうだよね。私達みたいにオープンにはできないんだよね」
亀井ちゃん、それってフォローのつもりなの……?
かなり誤解している二人を半眼で見てみるけど、先輩は亀井ちゃんを見たまま、そして、亀井ちゃんは先輩を見たままだった。
つまり、二人は二人だけの世界に入ったってわけ。
とてもじゃないけど、真似できないよね……。
「いや、だから本当にただ、一緒に寝ただけですって。本当に何もしてませんから」
二人から離れたい一心で、わたしは先輩の腕からようやく逃げることができた。
でも、先輩達は二人の世界に入ったまま帰ってくる様子は無いみたいで、それから視線を逸らす。
ちなみに今日の吉澤先輩と亀井ちゃんの格好なんだけど、同じ服装なのに対照的だった。
二人は黒のジーンズに同じ色のシャツ、それに革ジャンなんかを羽織っている。
で、何が対照的なのかってのは、その格好が似合ってるかどうかってこと。
吉澤先輩の服装はそれなりに着こなしていて身体になじんでいる感じがしたんだけど、亀井ちゃんはまったくその逆だった。
革ジャンなんかかなりぶかぶかで、袖から辛うじて手先が見えているって状態。
- 525 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:47
-
「ねえ亀ちゃん、上の革ジャン脱いだらどう?」
「えぇ〜、それじゃあお揃いじゃなくなるじゃないですか!」
里沙ちゃんが心配そうに聞くけど、それを突っぱねる亀井ちゃん。
わたしはそれに苦笑いをすることしかできなかった。
わたしはというと相変わらず色気はなく、青いジーンズに黒の長袖のシャツ、それにジャンパーっていう装備。
隣の里沙ちゃんはこの寒さなのに、青い七分袖のパーカーなんかを着ていた。
まぁ、これはこれでかわいいからいいか。
この中で一番女の子らしい格好をしているのは重さんで、デニムのロングスカートに袖にピンクのふりふりのついた白いシャツを着ている。
隣のれいなはわたしとどっこいどっこいの格好だったけど、違っていたのは背中にやけに大きいリュックサックを背負っていたということだった。
しかも、そのリュックサックは迷彩柄……。
「れいなさ、その大荷物でどこに行くつもり?」
「どこって、ここの地下に専門店ができるとね。今日はそれに合わせたとよ」
さらりと答えてくるれいなに、わたしはただため息を吐くことしかできなかった。
お父さんと一緒でそういう趣味があるっていうのは知ってたけど、わたしがいなくなってからかなりやばくなったな。
一応、釘は刺しておこう。
「あんまり運動神経が良くないんだからさ、無茶なことはしないでよ」
「うるさかよ、マコ姉!」
ダメだ、効果は無いみたい……。
「にしてもさ、なかなか開かないね」
里沙ちゃんが背伸びをして、前の人だかりを観察する。
それにつられてわたしもれいなから視線を外して前を見てるけど、その人の多さに辟易としてしまった。
- 526 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:47
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電車で四駅ほど離れたここに、大規模なテーマパークが完成して、今日がそのオープンの日だった。
何が大規模かっていうと、まず敷地面積が半端じゃないらしい。
東京ドームが何個か入るみたいだけど、わたしには東京ドームがどのくらいの大きさだか分かんないから、結局どのくらい大きいのか良く分からない。
だけど、そうとう広いんだろう。
次に中身なんだけどこれが結構充実してて、五階建ての大きなお化け屋敷や、かなりマニア向けなテナント、それに遊園地なんかも一緒になっているって場所だった。
ちなみに吉澤先輩と亀井ちゃんは遊園地、れいなはかなりマニア向けなお店(これに重さんは連れて行かれるのかと思うと、かわいそうになってくる)、そして、わたしと里沙ちゃんはお化け屋敷が目的でこうやって長蛇の列に混じってるってわけ。
だけど、わたし達(これはわたしと真琴っていう意味ね)にとって、本当の意味でのお化けなんてものは存在していない。
あるのは作られた模型で、わたし達もそのことについては知り尽くしていた。
ただ、里沙ちゃんが怖いもの見たさで誘ってくれたのがうれしくて、わたしはこうやってここにいる。
たくさんの人をぼんやりと眺めていると、その中にわたしの良く知っている人がいた。
だけど、それはわたしの思い違いで、それが人違いであることにもすぐに気づくことができた。
(愛ちゃん、どうしてるんだろ……)
その良く似ている人の背中をぼんやりと眺めながら、わたしは高橋愛ちゃんの背中を重ねてみる。
だけど、その愛ちゃんの背中からは何も感じられなかった。
- 527 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:48
-
ほら、愛ちゃんとは違うよ。
どこがどう違うのかは言葉では分からないけど、気持ちがそうわたしに言ってくる。
だから、わたしは愛ちゃんよりも里沙ちゃんを選んだ。
愛ちゃんには悪いけど、愛ちゃんよりも里沙ちゃんといるほうがわたしがわたしだと認識できるような気がする。
もちろん、それはわたしの勝手な思い込みなのかもしれないけど、それでもわたしは里沙ちゃんと一緒にいるほうを選んだんだ。
ただ、愛ちゃんには悪いと思ったから里沙ちゃんと一緒にそのことを伝えに行ったんだけど、愛ちゃんは『あっそ』とだけ言って、それから特に何も言わなかった。
それでも愛ちゃんは裏切ったわたし達を以前と全く同じように接してくれる。
それは嬉しいんだけど、それでもどこか違和感があってもやもやした気持ちが晴れることはなかった。
「あ、まこっちゃん。動き出したよ」
里沙ちゃんに手を引かれて、わたしは意識を現実に引き戻される。
愛ちゃんに似た人も人ごみの中に紛れて見えなくなっていた。
手は相変わらず里沙ちゃんと握ったまま。
その温もりが伝わってきて、わたしはたちまち満たされた。
ほら、愛ちゃんとは違うよ。
わたしに必要なのは愛ちゃんじゃなくて、里沙ちゃんなんだ。
この感じ、愛ちゃんからは感じることができなかったんだよ。
「だから、ごめんね」
ここにはいない愛ちゃんにそう言ってみるけど、それが愛ちゃんに届くはずが無いことに気づいたわたしは、手を繋いでいる里沙ちゃんにも気づかれないよう、静かにため息を吐いた。
- 528 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:48
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 529 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:49
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(何か、今のあーしみたい……)
高橋愛は置かれたコーヒーを見ながら、ぼんやりとそう思った。
その目の前には雑誌に目を落としている紺野あさ美がいるが、彼女には意識が回らない。
喫茶『アターレ』は相変わらず愛達が来なければ、永遠に客が来ないのではないかというくらい暇だった。
実際、愛は常連以外の客を見たことがなく、また、入ってくる気配すら感じられなかった。
が、これがデフォルトの状態だと分かってしまうとそれさえも些細なことへと成り下がる、それを意識した愛は小さくため息を吐く。
あさ美のように雑誌を読むつもりになれなかった愛は、機械的にページを捲るしかしていないあさ美から視線を外してカウンターのほうを見てみる。
そのカウンターの中ではいつもの店員の矢口真里の姿は無く、かなり年配の男がひたすらグラスを磨いていた。
彼の名前は五郎。
苗字は知らないし、愛も聞くつもりは無かった。
というより、この喫茶『アターレ』のマスターである五郎を愛はつい最近まで見たことがなかった。
なぜなら、いつも店の中を動き回っていたのは矢口真里だったからだ。
が、その真里が風邪を引いて休んでいるため、彼がこうやってカウンターに姿を現したのだ。
「愛ちゃん、飲まないの?」
「なんか、そんな気分じゃないんだよね」
声をかけられ顔を前へと戻してみると、あさ美が雑誌から視線を上げて自分を見ていた。
そのあさ美に対して、愛は再びため息を吐く。
コーヒーがきてからすでに三十分。
愛はまったくカップに手をつけることなく、それを見つめるだけだった。
黒い液体がまるで今の自分のようで、それに手をつけることができなかったからだ。
- 530 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:50
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『わたしの、必要な人じゃないみたい』
幼馴染の新垣里沙と共に来た小川麻琴のその言葉は、愛にとってあまりにもストレートすぎた。
意味が分からないままどう返事をしようか迷った愛に、麻琴はすかさず止めを刺してきた。
『わたしね、里沙ちゃんと付き合うことにしたの。ごめんね』
頭を下げてくる麻琴に複雑な表情を向けてくる里沙。
『あっそ』
その二人を目の前にいして他に何か言うべきこともあったが、何がどうなっているのかいまいち理解できなかったため、結局、その一言しか言葉が出なかった。
それがあまりにも淡白すぎたのか、麻琴はおろか里沙も驚いた顔をしていたが、そのときの愛は一人になりたかったため、すぐに二人から離れることを選んだ。
あのときは何とも思えなかったのに、最近になってそれが苛立っていたのだということに気づいた愛は、そのもどかしさを抱えたまま、今も普段どおりに麻琴や里沙と接している。
「はぁ〜」
ここへ来てすでに何度吐いたか分からないため息をこれでもかと長く吐き、愛はカップをようやく持ち上げた。
そして、冷め切ったブラックのコーヒーに麻琴を重ね、それをシャットアウトして一息で飲み干す。
しかし、のどを通り越すのは冷たいコーヒーではなく、自分の中途半端な気持ちであり、それに対する苛立ちだった。
「これって失恋なんかな?」
カップを置きながら、なんとなくあさ美に聞いてみる。
「まこっちゃんとはちゃんと付き合ってたの?」
雑誌を目を落としたままのあさ美からそうした言葉が投げかけられ、愛はそれまでの軌跡を思い出してみる。
- 531 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:51
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(なしてあーしは麻琴を選んだんやろ?)
愛が麻琴と知り合ったきっかけ、その最初は麻琴とあさ美の二人を愛が生徒会にスカウトしたことだった。
といってもそれは麻琴達が入学してからすぐの四月中旬くらいからで、そこから麻琴とあさ美の関係が始まった。
あのときのことを正確に思い出してみて、愛はそこに穴が空いていたことに気づく。
計画当初は単純に仲間が欲しかっただけで、同じ寮の人間をピックアップしていたのに、愛は麻琴とあさ美を選んだのだ。
だから、この時点ではまだ、愛は麻琴のことが好きではない。
(なら、いつからだった?)
高橋愛は小川麻琴のどこに惚れたのか。
高橋愛は小川麻琴のなぜ惚れたのか。
それらの発端はどこだったのかとしばらく考えてみて、愛は本来、もっとも重要であるその部分が抜け落ちていることに気づいた。
(そうか。これがあーしに欠けてたものなのか……)
自分には始まりが欠けていたことに気づき、愛はそれがいつ、どこであったのかを記憶の中で必死に探してみる。
しかし、はっきりとそれだと言えるような場面が愛の記憶から抜け落ちていた。
学校の廊下ですれ違っただけかもしれない。
近くの本屋でたまたま見かけただけかもしれない。
寮の食堂で隣に座ったからかもしれない。
気がついたら愛は麻琴を好きになって、必死になっていたのだ。
(麻琴やったら何か知っとるかな?)
そう自問するが、それを麻琴本人に聞く気になれず、愛はもう少しだけ記憶を掘り下げてみる。
が、やはり穴だらけの愛の記憶では、その始まりが明確に分かることはなかった。
(こんなときに里沙みたいな記憶力があればええのに……)
幼馴染の顔を思い出し、その里沙が麻琴と一緒に(正確には他にもいたが、愛には関係が無かったので無視した)出かけていることも思い出してしまい、さらに気分が憂鬱になっていく。
そして、そんな憂鬱を晴らせないまま、愛はあさ美に話しかけた。
- 532 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:52
-
「あさ美は最近、真琴と一緒におらんけど、それでええの?」
悔し紛れというか、八つ当たり気味だったその言葉を発した後で、愛は己の犯したミスに気づいた。
麻琴とあさ美が同じ部屋だということは、真琴とあさ美が同じ部屋であるのと同義で、それは寝るときは必ず二人になることを意味している。
しかし、顔を上げたあさ美の顔はぼんやりとしていて、愛は別の意味でその疑問を投げかけたことに後悔した。
「最近ね、真琴とは話してないんだ」
それだけを言ったあさ美は再び雑誌に目を落としてしまい、愛はますます気分が憂鬱になっていくのを感じた。
コーヒーも無くなってしまったため、何もすることが無い愛はしばらくぼんやりとあさ美を観察してみる。
愛が観察している間、あさ美は雑誌に目を落としたままだったが、紙が捲られることは無かった。
そして、マスターの五郎もほとんど音を出さなかったため、愛の周辺から全ての音が消えうせてしまったような錯覚を覚えた愛は、それを遮るようにあさ美に話しかけてみた。
「あさ美、何か不安でもあるの?」
これであさ美の肩が跳ね上がってくれれば話を繋げることができるが、あさ美は全くの無反応で紙を一枚だけ捲った。
(帰りたい……)
心の中だけでそう呟く愛だったが、今日、ここへ誘ったのは自分だったのを思い出し、何となくそれを切り出すことに負い目を感じてしまった愛は、カップではなく水の入ったグラスに触ってみる。
しかし、やけに冷たいそれが気持ち悪く、愛はすぐさまそれから手を離してしまった。
- 533 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:53
-
「夜遅くに出て行くんだ」
「えっ?」
突然話し始めたあさ美の声があまりにも小さく、愛は一瞬、あさ美が何を言っているのか理解できなかった。
が、顔を上げたあさ美がしっかりと自分を見ていることに気づき、愛は小さく頷いて先を促す。
そのあさ美から聞かされた話は次のようなものだった。
深夜一時過ぎ、まこと(あさ美からでは麻琴なのか真琴なのか分からない)が黙ってどこかに出かけているらしい。
なぜ出かけているのか、どこへ出かけているのかあさ美には分からなかったが、その手にいつも持っているナイフが握られているのが気になっていた。
そして、それ以上に気になるのが、そのときのまことの表情。
それは笑っているときの表情だった。
しかし、それはあさ美が知っている真琴、もしくは麻琴の笑ったときの表情ではない。
通常の笑いとは違うその禍々しい笑みに、それを見てしまったあさ美は素直に恐怖を感じた。
だが、聞こうにも真琴には聞けない。
そして、麻琴に聞いてみてものらりくらりとかわされるだけで、そのことがあさ美を余計心配させることになった。
「私って嫌われたのかな……?」
そう呟くあさ美に何も言うことができず、愛は空になったカップに視線を落とす。
空になったカップの底には少しばかり残った茶色い液体がしみとなって固まり、それが今の愛を表しているようだった。
(結局、あーしは麻琴だけじゃなくて、全部から逃げたかったのか……)
それが腹立たしく、思わず愛はカップに残った水を入れてにる。
それと同時に底に溜まっていたしみは消えたが、愛の感じているさまざまな蟠りはその程度の簡単な作業で消えるものではなかった。
- 534 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:53
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 535 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:54
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そのお化け屋敷を見た瞬間、わたしは一気に気分が悪くなるのを自覚した。
お化け屋敷といってもその建物は病院を模して造られていて、その中を進んでいくというものだった。
だけど、その建物からは変な感じがしていて、目を凝らしたわたしは思わず息を呑んだ。
押しつぶされてしまいそうな威圧感。
誰から構わず向けられている殺意。
それなのに一向に感じられない生気。
そして、見えない存在核。
それがわたしの気分を悪くしている原因だった。
わたし達だけに見える、事物が存在していることを示す存在核がないということは、その建物自体に存在する意義がないということだ。
だけど、その建物はわたしの目の前にこうやって存在している。
こんな矛盾ってありえるの?
「あの建物、変じゃない?」
隣の里沙ちゃんがわたしの手を強く握りながら言ってくる。
存在核が見えない里沙ちゃんでも、その特別な感覚で建物の異常を察知したのだろう。
里沙ちゃんを見てみるが、彼女の存在核は確かに在った。
だから、存在核が見えなくなったというわけではない。
そんな里沙ちゃんの手をしっかりと握り返して、わたしは聞いてみた。
「どうする?入る?」
本能が入るなって言っている。
あれは単なるお化け屋敷じゃないって警告している。
別の何かのために造られた異界だ。
そう真琴とは別の、わたしの本能が叫んでいた。
「どうせなら入ろうよ。せっかくここまで来たんだからさ」
里沙ちゃんの目線はずっと入り口に釘付けになっていた。
それもそのはず、もう目と鼻の先に入り口が迫ってきていたのだ。
「そうだね。ここまで来たんだから、覚悟を決めようか」
ぜんぜん覚悟は決まってなかったけど、強がって里沙ちゃんに言ってみる。
身体が震えそうになるけど、それをしてしまったら里沙ちゃんに心配をかけそうだから、思い切り自制をして気持ちを切り替えた。
- 536 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:55
-
大丈夫、わたしは里沙ちゃんと一緒だから。
それに確かめないといけないこともある。
目の前の異界は外側だけなのか、内側も異界なのかを。
気持ちの悪い時間を過ごして、ようやくわたし達の番がやってきた。
入り口のところで羽織る形の病院用パジャマをもらい、それに袖を通す。
これにも存在核は無かった。
上の階から誰かの悲鳴が聞こえてくる。
ここはお化け屋敷なんだからそれも当然なんだけど、それでもわたしは不安になってきた。
これは怖いんじゃない、不可解なんだ。
無いものに触れている、それが分かってしまったことに対して不満があるんだ。
消毒液の漂う廊下。
ぼろぼろになって半分崩れてしまったドア。
ひたすら電話が鳴り響いているナースセンター。
片腕がない看護婦。
血塗れの医師。
血の臭いの立ち込める病室。
首から上を持って現れる患者。
進むにつれて出てくるお化け達。
これらにも全て存在核は無かった。
おかしいよ。
だって、この世界に無いはずなのに、何でわたし達の目の前にあるの?
本当だったら無いはずの廊下を歩いて進んでいくわたし達。
隣の里沙ちゃんは怖がってわたしの腕にしがみ付いていたけど、それだけが唯一わたしにとっては存在しているもので、そのことでわたしはなんとか安定できた。
そして、手を繋いだわたし達は階段を上って二階へ上がる。
二階は小児科と産婦人科があるようで、出てくるのは子供と妊婦のお化け、そして、血塗れで這いずり回っている赤ちゃんだった。
だけど、その赤ちゃんは右目が潰れていて、脳が半分はみ出している。
あれにも存在核は見えなかった。
- 537 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:56
-
「まこっちゃん。あれ、気持ち悪いよ」
「里沙ちゃん、目を閉じて」
吐き気がこみ上げてくるのを必死で抑え、わたしは里沙ちゃんの手を引いて赤ちゃんの横を素通りする。
止まったら最後、わたし達もその仲間に引きずり込まれてしまいそうだったから。
だけど、それもできなかった。
這いずり回っていた赤ちゃんが、よりにもよってわたしの足を掴んできたのだ。
血に塗れた手が、薄ピンクのパジャマを侵食していく。
そして、その赤ちゃんはわたしを見上げて、笑った。
まるで、疑問を持ってしまったわたしのほうがおかしいっていう侮蔑の笑みに……
「里沙ちゃん、耳塞いで!」
思い切り掴まれたほうの足を振り上げて、赤ちゃんを蹴り飛ばしていた。
壁にぶつかった赤ちゃんは、蛙を踏み潰したときの鈍い音を上げて動かなくなる。
いくらなんでも、これじゃあ演出過剰だ。
ナイフを振り回したくなる衝動を必死で抑え、わたしは里沙ちゃんの手を引いて三階へ向かう。
上がってすぐのところに休憩所があり、わたし達はそこへすぐさま駆け込んだ。
「里沙ちゃん、大丈夫?」
「まこっちゃんも結構やられてるね」
青くなった顔を見合わせたわたし達は、そこで休憩することにする。
その間にも他の人達が通り過ぎていくけど、わたし達ほどダメージを受けている様子は無かった。
「みんな良く平気で進んでいけるよね」
ホットココアを飲みながら呟く里沙ちゃん。
その顔にようやく赤みが差してきて、それを見てようやくほっとするわたし。
そのわたしはさっき買ったコーヒーに手をつけないまま、里沙ちゃんの前に立っている。
「他の人は気づいてないんだよ。ここが異界だってことをさ」
「……どういうこと?」
感覚だけで分かっている里沙ちゃんが首を傾げて言ってくる。
- 538 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:56
-
「わたしにとって、この病院は存在していないのと同じなんだ」
誰もいないことを確認して、わたしはナイフを取り出した。
そして、近くの壁に突き立ててみる。
壁に存在核があればそこを突いて壊すことができるんだけど、ナイフは甲高い音を出して弾かれるだけ。
三回ほど同じことをしてみたけど、結果はやはり同じだった。
そりゃそうだ。
だって、この壁にも核は無いんだからね。
「わたしが殺せないってことは、つまりは存在していないことと同義なんだよね」
人が上がってきたためナイフを収めて、わたしは置いてあった自分のコーヒーを手に取る。
冷たくなったコーヒーですら、そこに存在核は存在していた。
わたしにとっては、この冷めたコーヒーのほうがこの病院よりはるかにましな存在だと言うことができる。
「存在して無いなら、私達には見えないんでしょ?でも、現にこうやって中に入ってるよね。これってどういうこと?」
里沙ちゃんが座っている椅子を触りながら言ってくる。
そう、わたし達は虚無を虚無だと理解しないままその中に入って、こうやって虚無の中を漂っている。
それは……
「わたしが思うにはさ、悪い冗談なんだよ」
何を目的にしているのか良く分からないこの建物は、わたしにとってその程度のものでしかなかった。
- 539 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:56
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 540 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:58
-
「ひとみさん、ようやく乗れましたね」
正面に座りながら言ってくる亀井絵里に、吉澤ひとみはどう答えたらいいのか分からず、小さく一度だけ頷いた。
遊園地のスペースにやってきたひとみと絵里だったが、オープン初日とあってどのアトラクションも長蛇の列だった。
二人で話し合った結果(というか、絵里に強引に決められたが)、二人は観覧車の列に並ぶことにした。
が、その列に並んでひとみはおかしい点に気付く。
(何で観覧車の隣にこんなでかいのが建ってるんだ?)
入り口でもらったパンフレットを確認すると、そこはお化け屋敷だった。
(まあいいや、反対方向を見れば済むしね)
そう割り切ってひとみはそれまでの疑問を外へ追いやる。
並ぶこと一時間。
ようやく二人はその席の一つに乗り込むことができた。
ゆっくりと上昇を始める観覧車の中で、ひとみは目を下に向ける。
下には未だ長蛇の列があり、それがところどころに連なっていた。
その間も絵里が何かを言っていたようだが、ひとみは相槌を打つだけで視線を上に上げてみる。
住宅地の真ん中を電車が縫うようにして走っている。
あの電車に乗ってひとみ達はやってきたのだ。
間近で見れば大きなそれも、今、座っている場所からでは小さく見えてしまい、ひとみは思わず笑ってしまった。
それから思考を自分の中へと移す。
ひとみはここでこうやって観覧車に乗っているのは、ひとえに絵里のおかげだった。
だが、ひとみをこの世界から消したのも亀井絵里だった。
しかし、それは絵里が望んでした行為ではない。
神と名乗る、自分勝手な人間(少なくともひとみはそう思っている)に唆され、自分の力を間違った方向に使った結果だった。
それに気づいた絵里は、危険を犯してひとみを救い出した。
- 541 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:59
-
そのときに対峙した、見えない神。
いや、単なる傲慢な人間か。
(あいつは絶対、私のところへくる)
それが何となくだが分かり、ひとみはすでに準備をしていた。
同じ人間ならひとみの相手ではないが、今回の相手は自分を見失った思い上がった神(自称)だ。
その神(自称)へ思い知らせねばならない。
人は神など必要としないということを。
人は人だけで歩いていけることを。
それを証明するために、ひとみが負けるわけにはいかない。
そのときのひとみは確かにそう思っていた。
「ひとみさん、聞いてます?」
頭を小突かれ、ひとみは思考を元に戻す。
目の前にはいつの間にか頬を膨らませた絵里がいた。
「あぁ、ごめん、亀井」
反射的に謝ったひとみだったが目の前の絵里は顔を真っ赤にするのを見て、失言だったのを思い出した。
ひとみと絵里はルールを決めていた。
そのルールの一つに、『二人でいるときには、常に名前で呼び合う』というものがあった。
「ひとみさん。二人きりのときは絵里でしょ!」
それから怒り出した絵里に、ひとみは耐えようかどうかを考える。
が、この怒りようを見れば、観覧車が下に着くまで終わりそうに無いだろう。
そこでひとみは強硬手段をとることにした。
素早く動いたひとみは絵里の頭を両手でがっちりと掴んで、その頭を自分に引き寄せる。
そして、そのままの勢いを利用して、自分の唇を絵里のそれに押し当てた。
十秒ほどそのままの体勢を維持し、ひとみはゆっくりと顔を絵里から話した。
絵里の顔は真っ赤なままだったが、それは怒ったときのそれとは違った。
「突然ってのもいいだろ?」
ぽかんとしている絵里を見て、にやけながらひとみは言う。
絵里はぼんやりしていたが、しばらくするとため息を吐いて頭を振った。
- 542 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 11:59
-
「突然って、何も怒ってるときにすることないじゃないですか」
さきほどの勢いを失くした絵里が、弱々しく言ってくる。
その姿の絵里を見てひとみは再びキスをしたい衝動に駆られたが、それを抑制して隣に座ることで我慢した。
手を繋ぎ、今度は二人で下界を見下ろす。
そのころには絵里の機嫌もすっかり直っていた。
「ひとみさん、あれってお化け屋敷ですよね?」
絵里の指差すほうを見て、ひとみは嫌な感じを覚える。
「あぁ……でも、何かおかしくないか?」
「やっぱりひとみさんもそう思います?」
ひとみは返事をしながら、病院を模したお化け屋敷を見つめる。
絵里も同じように見ているが、その顔が少し青くなっていた。
「たしか、あそこに行ったのは小川と新垣だったよな?」
ひとみの言葉にこくりと頷く絵里。
ひとみは携帯を取り出すと、麻琴に電話をかけてみた。
が、電話から聞こえてくるのは電波が届いていないか、電源を切っているかという無機質な音声だった。
ちょうど中へ入っているのだろう、そう思ったひとみは軽くため息を吐くと携帯を収めて再び下界を見下ろす。
具体的にはどう言えば良いのか分からないが、それでも二人は底知れない悪意を感じていた。
それも、前に一度感じたことのある悪意が。
「そうか、あのときか」
さきほどまで考えていたそのことを思い出し、ひとみは苦い顔をする。
そして、すぐさま気持ちを切り替えるために絵里に話しかけた。
「絵里、あんなやつのことは忘れよう。ろくなことにならない」
「そうですね」
絵里もどうやら同じ結論に至っていたため、ひとみの提案をすんなり受け入れてくれた。
二人が感じた悪意。
それは後に二人の周辺にまで及ぶことになるが、この時点ではまだ二人はそのことまで考えが及んでいなかった。
下りになった観覧車があっという間に下に着き、二人は手を繋いだまま外へ出る。
- 543 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 12:00
-
「ひとみさん、お腹減りませんか?」
「そうだね、何か食べに行こうか」
今は午後三時。
麻琴や里沙、それにれいなやさゆみとは五時に入り口のところで合流すれば良い。
それまでは二人だ。
ゆっくりと周囲の人の間を歩いて、ひとみと絵里はフードコーナーへと向かう。
とっくに昼を過ぎていたがそこにもやはり人はたくさんいて、二人はできるだけ人の少ない列の後ろへと並んだ。
「でも、これ買っても座れませんよね」
「そうだね」
周りを見ていた絵里に釣られてひとみも周りを見てみるが、ある一点を見て固まってしまった。
そして、絵里もひとみが固まっている間にひとみと同じ方向を見て固まった。
「おっ、絵里やなかとね!」
二人が見ていることに気づいた田中れいなが手を挙げてくるが、ひとみはすかさずそれから視線を逸らした。
「ひとみさん、どうしましょう……」
「行くしかないみたいだね」
弱りきった絵里の声が聞こえてくるが、こればかりはどうしようもなく、ひとみは横着をしようとしたことを思い切り反省する。
「だけど、あの顔……」
「今は言うな。あいつらの目の前で言ったほうが良いよ」
心配そうにれいなともう一人――道重さゆみ――を見ている絵里の言葉を遮ったひとみは、自分達が注文する番が回ってきたことに気づき、カウンターで適当に注文をする。
ひとみが頼んだのはホットドックにコーラを二つずつで、これらは注文してから一分で出てきた。
「このまま別の席に座っても、れーなは怒りませんよね?」
「空いてればそうしてるよ」
トレーを店員から受け取り振り返ってみると、れいなが手を二人に向かって手を振っているのが目に入った。
「あれで逃げられる?」
「いえ、何か憑かれそうです」
お互い諦めモードになってしまい、それまでの軽い足取りが一気に重くなるのを自覚しながらも、二人はれいなとさゆみが座っている席へと移動する。
そして、席に座る前に、ひとみが二人に向かって話しかけた。
- 544 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 12:01
-
「その顔はどうしたんだ?」
「あぁ、これですか?かわいいですよね?」
緑色の塗料でペイントされた顔を小さく傾げながらそう言うさゆみに、ひとみは引きつった笑いしかできない。
「れなもかわいいでしょ?」
さゆみの隣に座ったれいなも、同様に顔がやたらと緑色になっていた。
なぜか口調が変わっていたれいながやたらとさゆみのことを『かわいい』と連呼していたが、ひとみにしてみればそれもほんの些細なことに過ぎなかった。
力がやたらと抜けたことを意識し、ひとみは席に座る。
それからトレーに乗っているホットドックの包みを破くことにした。
隣に座った絵里も同様に包みを破いているが、その視線はれいなとさゆみの二人にがっちりと固定されている。
(こいつらの『かわいい』っていう基準って、何なんだ……?)
聞いてみるべきか、それともあえて放置すべきか分からないひとみだったが、さんざん考え抜いた上で放置することを選んだ。
そして、ホットドックに齧りつく。
(まあ、こいつらだけで完結してくれれば良いしね)
もし絵里にもそのわけの分からないペイントを勧めてくるようならば、それは阻止しないといけない。
そう固く決めたひとみはできるだけ二人のことを考えないようにしながら、ホットドックを食べることだけに集中した。
- 545 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 12:01
-
――――――――――
- 546 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由1 投稿日:2005/02/09(水) 12:03
-
人が神に何を求めるのか。
そして、神は人に何を与えるのか。
彼女達はそれを知りながら、それを否定した。
それが私には分からない。
きっと彼女達は不完全なのだろう。
今の人間以上に。
無視しておけば良い。
どうせ大した脅威にはならないのだから。
私は私の使命を果たせば良い。
それが私の存在する意味なのだから……。
それしか、私には残されていないのだから……。
- 547 名前:いちは 投稿日:2005/02/09(水) 12:12
- 第四話「想いのなかの迷い、それから得る自由」始まりました
前回までの話から二ヶ月ほど時間が経過してます
というわけで、かなり登場人物が多いです
あと、この話とこの次の話でこれまでのおおまかなまとめをするため
結構長くなると思います
それでは
- 548 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 20:22
- http://m-seek.net/cgi-bin/test/read.cgi/discuss/1085149091/156-
だそうですが
- 549 名前:名無し読者。 投稿日:2005/02/13(日) 13:31
- 更新お疲れ様です
しばらくネット見れなくて今日いっきに二回分読ませていただきました
まこっちゃん(麻琴)の不安定な心の葛藤に安らぎを与えてくれるりさちゃんとの
関係すごく素敵ですね 今後の展開も凄く気になります
自分はこの小説の世界観、作者さまの文章力、表現力に惹かれて読み始めたので、
>>548は気にせず、これからも作者さまの思い描く作品を作っていってほしいです
今後の更新も楽しみにしてます 頑張って下さい
- 550 名前:いちは 投稿日:2005/02/16(水) 11:56
- 今回は更新の前にレス返しからしたいと思います
>>549 名無し読者。さん
いつもレスありがとうございます
もう少し頑張ってみようと思います
それでは、本日の更新です
- 551 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/02/16(水) 11:57
-
想いのなかの迷い、それから得る自由2
- 552 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 11:58
-
「裕子。人間が使っている言葉っていうのは、本来、どういったものなんだろうね」
「なんや兄ちゃん、出し抜けに」
「いつものように突拍子も無い話さ。悪いけどつき合って欲しいんだ」
「まあ、できるだけ聞かんでおくわ」
「そう、その姿勢が大切だと思うよ。で、さっきも言ったけど、言葉というものはなんなんだろう。僕達がこうして話をしているのも言葉があるからだ。でもね、それだけでは不足してるように思えてしまうんだ」
「ふーん。それで?」
「つまり、その言葉を認識するにはそこに共通の理解が必要なんだ。今、こうして僕と裕子が話をしているけど、そこで話される言葉を君は聞くことができるし、話すこともできる。だけど、それだけでは無いんだ。そうした言葉の根底にある共通概念が存在していないと、僕が君に対して伝えた言葉も正確には伝わらないし、君が僕に対して言った言葉も正確には伝わらない。まあ、今回は都合上、どちらも認識可能な言語ってことで話を進めるからさ、その辺は考慮しておいてくれ」
「また、訳の分からんことを……」
「そう、僕がこうして話していることを君は理解ができない。だけど、それは言葉が通じないというわけではないんだ。僕が何を言っているのかを君は正確に理解できる。しかし、それだけでは不十分なんだ。つまり、僕と君との間には言葉に対する共通の認識が得られていない、だから、僕と君との間で意味の錯誤が起こるんだ」
「錯誤っていうか、単に兄ちゃんの言葉が変なだけや……」
- 553 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 11:58
-
「そう感じるのは君がそう認識しているからで、僕が無理やりさせているわけじゃないよ。そして、これは単純な単語一つ一つにも適用されてしまうんだ。つまり、僕達が日常使っている単語でも、人によってどう認識しているのかが違ってくる。そこから生まれるのは無数の錯誤であって、そこに奇術師という人間達はつけ込んだってわけだ。それを誘導することができれば、うまいこと自分達がしたいことをできるのかもしれないってね。だけど、彼らが考えているほどそれは甘くなかった。例として『孤独』という言葉を挙げてみよう。一人ぼっちで寂しい状態だと僕は認識しているけど、君はどうなんだい?」
「何か、やけに子供じみた認識やな……。ウチは特に考えてないけど、強いて言うなら、誰も寄せつけんって感じやな」
「そういうことさ。僕が認識している『孤独』と、君が認識している『孤独』は違っている。日常にはこうしたものが溢れている。そこに奇術師としての欠陥が存在すると思うんだ。言葉に絶対的な共通認識が与えられない以上、彼らがやっていることは無意味なんじゃないかってね」
「無意味って何が?」
「つまり、彼らがその協会約款に定めてしまった『共通根源への到達』。その時点ですでに間違っているんだ。だって、何をもって共通根源とするかは協会の構成員一人一人、千差万別だからね。それを上辺だけの言葉で繕っても、それに対する認識は得ることができない。だから、彼らのしていることは無意味なんだ」
「なんや、今日はやけにストレートやな」
「たまにはずばっと言わないとね。君だって気持ち悪いだろ?」
「まあ、今度もぼかすんやったら、どついたところやったけどな」
- 554 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 11:59
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 555 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 11:59
-
深夜一時半。
いつものように息が詰まって小川真琴は目を覚ました。
ぎこちない動作でベッドを降りて振り返らないように歩く。
なぜなら、後ろにあるベッドの上段にはルームメイトの紺野あさ美が規則正しい寝息を立てていたからだ。
あさ美から逃げるように真琴は自分のデスクまで歩き、あらかじめ用意しておいたジャージの上下に袖を通す。
そのあまりにも緩慢な動作に真琴は自分自身を呪い殺したい気分になったが、それも苛立っているのだと認識して無理やり意識の外へと追いやった。
そして、五分で準備を整えた真琴は深夜の街へと向かった。
もちろん、その手にいつものナイフを持つことは忘れていない。
それは真琴にしてみれば護身用のそれではなく、殺すための立派な道具だ。
深夜の街はやはり静かで、目を閉じれば自分もその中へと溶け込むことができそうだと真琴は錯覚するが、目を閉じることは無かった。
しかし、周囲のその静けさを破るような真似はせず、足音を一切立てずに真琴は歩く。
それは真琴にしてみれば日常生活のほんの一部に過ぎなかったが、その日はその日常生活にわずかな差異が存在した。
(よく、おれみたいな暇人につき合うよな)
背後から人の気配を感じ取った真琴だったが、それについて何ら言葉を発しないし行動にも起こさない。
相手が誰であれ、何もしてこなければ放置するし、これから自分がしようとすることを阻止してくるのなら打ち倒すまで、そう真琴は意識した。
そして歩くこと十分。
真琴は目的地の神社へと到着した。
真琴が感じた人の気配もやはりここへ到着していたが、真琴と距離を必要以上に詰めようとしないことから、真琴はその誰かを意識から完全に除外することにする。
真正面に境内があるがそこには何も感じられなかったため、真琴はそこを素通りして裏手にある墓地へと向かった。
そして、真琴はそこで目的の『モノ』と遭遇した。
- 556 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:00
-
「ほら、今日も来てやったぜ」
周囲の空気が急速に低下するのを肌で感じた真琴は、少し冷たくなった手を無理やり動かしてポケットに収めていたナイフを取り出す。
そして、革のカバーを外しながら意識を少しだけ鮮明にさせた。
それと同時に浮かび上がってくる、もともとは人間であったもの。
しかし、今は人間ではないもの。
中澤裕子を含めた奇術師達は真琴が目にしている『モノ』を残留思念と名づけていたが、真琴にしてみればそれもどうでも良いことの一つに過ぎなかった。
悪意を自分に向けてくる無数の残留思念に対し、真琴は小さく笑いかける。
が、その笑みもいつものそれとは全く異なっていた。
そして、その禍々しい笑みを湛えたまま、真琴は残留思念へと言い放った。
「おれを殺したいんだろ?だったら来いよ」
真琴の言葉を残留思念は理解することはできなかったが、それでもその言葉を合図に真琴へと殺到してくる。
しかし、それでも真琴が動揺することは無かった。
人の形をした残留思念を冷静に見つめ、呼吸を整える真琴。
その真琴の目には三つのタイプの残留思念が映っていた。
一つは他の残留思念に構うことなく、殺意を向けてくるもの。
一つは小川真琴という生きている存在を嫉妬して、同じ世界に引き込もうとするもの。
一つは残留思念となったことにすら気づかないもの。
そして、その違ったタイプの残留思念達にある共通点があることにも真琴は気づいていた。
(そう、こいつらはみんな独りなんだ)
常に二人である真琴にしてみればそれはまさしく望むもので、それを止める役割がいないことを確認した真琴はその欲求を満たすべく、手を伸ばした。
- 557 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:00
-
一番近くに漂っていた残留思念の存在核をナイフで切り裂く真琴。
それと同時に切り裂かれた残留思念が霧散するが、それを真琴は見ていなかった。
次々と群がってくる残留思念に対して、真琴は持っていたナイフでそれらを切り裂いていく。
腹
左手
胸
右足
背中
残留思念達の存在核はあらゆるところに存在した。
しかし、それは生きている人間にとっても同じことなので、真琴はそのことを深くは考えない。
そして、持っていたナイフで物足りなくなった真琴は、不意に自由な左手を突き出した。
実体を持たない残留思念の頭を突き抜け、その中にあった存在核を鷲掴みにする真琴。
掴んだ瞬間、その残留思念が持っていた記憶が身体の中へと流れ込んできたが、それを真琴は完全にシャットアウトした。
そこで感じた唯一のものを除いて。
握りつぶすのと同時に霧散する残留思念を記憶の外へと追いやった真琴だったが、そこにある確固とした事実だけは消えなかった。
(これが通常なのに、あいつが見たあれはなんだ?)
右手のナイフを振り回し、左手で存在核を握りつぶしながら真琴は自問するが、それに対して明確な答えは出てこない。
その真琴の頭の中では、小川麻琴から得た不可解な現実が再現されていた。
麻琴が見て、触って、そして感じた事象には、全て存在核が無かった。
それは麻琴はおろか、真琴にしてみてもこの世界に存在していないのと同じなのに、現実に現れている。
その不可解さがそのときの真琴をさらに苛立たせた。
それまで絶対のルールとして存在した『存在核』。
麻琴・真琴にしか見えないそれは全てに共通していて、麻琴・真琴はそれに触れることができる。
その絶対的な法則の前に現れた明らかな矛盾、それが真琴の苛立ちの原因だった。
しかし、それが全てではない。
苛立ちの原因は他にもあり、それが大半を占めていたのは言うまでも無い事実だった。
そして、その大半を占めていた原因を目的に、真琴はその場に立っていた。
- 558 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:01
-
それから真琴は無我夢中で残留思念を消し去っていく。
ただ群がってくるだけのそれらとは違い、真琴は明確に殺意をそれらに向けていた。
そして、十分後には周囲の残留思念はいなくなった。
その場に立っているのは真琴と、もう一人だけ。
「いい加減出てきたらどうなんですか、吉澤先輩」
刃の剥き出しになったナイフを収めないまま振り返って叫ぶ真琴。
その言葉を受けて、近くにあった桜の木からのっそりと吉澤ひとみが現れた。
「おれの狩りなんか見ても、面白くないでしょ?」
目の前に現れたひとみから何となく威圧感を感じてしまった真琴は、それに少しでも萎縮してしまったことを彼女に悟られないよう、できるだけ平然とした声を出す。
実のところ、真琴はひとみとあまり話がしたことがなかった。
話をするにしてもそれは麻琴の役割であり自分が関与する場面ではない、そう真琴は判断していた。
だが、その麻琴と話をしているひとみの情報を引き出しても、これほど威圧感を露骨に出している彼女は存在しなかった。
全身が臨戦態勢を整えているのを感じた真琴は、それをあえて否定することなくひとみを見る。
そして、そんな真琴にひとみが小さく肩を竦めて言ってきた。
「あぁ、あれが人だったら虐殺だな」
(そうか、こいつも残留思念が見えるのか)
自分で話を振っておきながら答えの時点でようやくそのことに気づく真琴。
そう、ひとみにも残留思念が見えていたのだ。
(だけど、それも特別なことじゃない)
麻琴・真琴の場合は首からぶら下げたペンダントで感覚を先鋭化させることによって残留思念を見ているが、それだけが残留思念を見る方法ではなかった。
自己の感覚が他人のそれより敏感であれば麻琴・真琴のように道具を必要とすることなく残留思念を知覚することもできるし、もしかするとそれに触れることもできるのかもしれない。
そんなことを考えた真琴は、小さく頭を左右に振ってその考えを頭から追い出した。
それよりも重要なことがあったからだ。
- 559 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:02
-
「で、今日はどうしてついてきたんです?」
大体の予想はついているが、それでも真琴はひとみに聞く。
これが単なる興味本位であれば適当に流して終わるが、ひとみから伝わってくる威圧感がそれを否定していた。
「お前が危険なことをしているようなら止めてくれって紺野に頼まれてさ」
予想していた通りの答えを返してくるひとみに、真琴は露骨にため息を吐いてみせる。
それで少しでも相手の気持ちを逆撫ですることができれば良かったが、それも徒労に終わってしまった。
(おれが何をしてようが、あいつには関係ないだろ)
心の中だけで愚痴を吐き捨てる真琴。
その頭の中に一瞬でもあさ美の顔が浮かんでしまったことに、真琴はそれまでの苛立っていた気持ちがさらに苛立ってしまった。
「だったら必要ないですね。おれが危険になるってことはあり得ませんから」
苛立ちを隠そうとしたがそれがうまく隠れてくれず、真琴は早口でそう言う。
その間もひとみを睨みつけているが、睨みつけられているひとみは全く動じた様子を見せることが無く、ただ、そこに立っているだけだった。
「おれは壊すだけです。だから、壊されることはないですよ」
ひとみの前から逃げ出したいのを自覚しながらそう続けた真琴は、その言葉と同時に周囲の空気が変化したことに気づいた。
そして、その変化の元がひとみであることにも同時に気づく。
「そういうわけにもいかないな」
それまでただ立っているだけだったひとみが、おもむろにポケットから拳を引き抜いた。
その表情はさきほど以上に険しいものに変化していて、背筋に冷たいものが通っていくのを真琴は感じる。
しかし、それをひとみに見せる真琴でもなかった。
- 560 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:03
-
「私には、今のお前が危険に見えて仕方ないんだ」
「おれが……ですか?」
ひとみの危険がどういったものなのかいまいち理解できなかった真琴だったが、それでも相手を睨みつけることは止めない。
ひとみもその真琴の視線を受け止め、跳ね返そうと睨みつけていた。
そのひとみがわずかに一歩、真琴のほうへ歩み寄ってくる。
たったそれだけの動作なのに、そこに含まれている威圧感がひしひしと真琴へ津波のように押し寄せてきた。
「そう、お前はそうやって物を壊すことで安定している。それってすごく不安定じゃないか」
「不安定ってなんです?おれは常に、こうして存在していますよ。ど、どこも壊れていません」
冷静な声のひとみに対して早くも同様が見え始めている真琴。
その真琴の声はいつものそれと違って早く、そしてどもりがちだった。
「壊れているって話をしてるんじゃない。お前が不安定だって話をしてるんだ」
「それってどう違うんですか?」
「全然違うよ。お前はまだ壊れてはいない、不安定なだけだ。だけど、このままだと完全に壊れてしまう。だから、私はそれを止めに来たんだ。それに、不安定なのはお前ら自身の問題だ。だから、こういった無駄なことは止めろ」
ひとみの言葉を受けた真琴はそのあまりの傲慢さがおかしく、つい笑ってしまった。
そして、そのままの表情で言葉を続ける。
「あんたがおれを止めるだって?馬鹿も休み休み言えよ。お前なんかにおれを止めることなんてできやしないよ」
「違うよ。これは私の意志じゃない。紺野の意志だ」
「だったら、なおさら止まるわけにはいかないな」
「そうか……」
そう呟いたひとみの拳がわずかに振り上がったのを見て、真琴はすかさずその場から横に飛んだ。
次の瞬間、小さな音と衝撃が真琴のすぐ横からしてきて、真琴はその目を疑う。
(おれが見えなかった?そんなに速かったのか?)
ひとみが何をしたのかは良く分からないが、それでも真琴へ向かって攻撃を仕掛けてきたことに変わりはない。
- 561 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:04
-
「今のはパチンコ玉を指で弾いた指弾だ。この暗さだとろくに見えないし、私も見える速度で打ち出しはしない。だから、こいつを避けるのは困難だ」
「おれとやりあうつもりですか?」
右手に持ったナイフをひとみのほうへ向ける真琴。
普段ならそれも十分な脅しになるはずだったが、そのときは全く意味を為さなかった。
「今のお前は口で言っても聞いてくれないだろ?私はね、面倒なことは嫌いなんだ。だから、手っ取り早く終わらせるつもりさ。まあ、紺野もそのほうが良いと思うだろうしね」
「うるさいっ!」
あさ美の名前が出てきた瞬間、自我を保てなくなった真琴が飛び出した。
ひとみの右手がわずかに動くがそれを真琴は感覚だけで避ける。
周囲が小さな音と衝撃で揺れているが、それすらも真琴は見事に無視した。
「そうか、やっぱり実戦で鍛えていると避けられるか」
拳を開いたひとみが小さく肩を竦めている。
その仕草があまりにも余裕じみていて、また、自信に満ち溢れていて、冷静さを失った真琴は最短距離でひとみへと詰め寄った。
そして、右手のナイフを思い切りひとみの頭目掛けて振り下ろす。
ひとみはこれは一歩だけ後退することで避けてしまい、口笛を吹いてきた。
「なかなかの速さだね。ヒヤッとしたよ」
あくまでも自分優位だと言わんばかりのひとみに向かって再び真琴は突進する。
しかし、その突進もひとみは闘牛士のような身のこなしで避けてしまった。
「今の小川を見ていて気が変わったよ。ちょっとだけ、私の話でもしようか」
なおもナイフを振り回してくる真琴に向かって話しかけるひとみ。
本来ならば避ける側のひとみのほうがプレッシャーを感じ、早く消耗するはずだったが呼吸は全く乱れておらず、逆に攻める側の真琴の息がすでに上がり始めていた。
- 562 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:05
-
「新垣からも聞いたと思うけど、私は三週間くらい人の意識と同化してたんだ」
ナイフだけでは埒が明かないと判断した真琴は、左手も参加させてひとみへと襲い掛かる。
だが、それでもひとみの動きが止まることは無く、また、言葉も止まることはなかった。
「そのとき感じたのは、みんな外見通り『独り』だってことだ。だから、それはお前らについても言えるんじゃないかな?」
「お前に、何が分かる!」
『独り』という言葉に反応し、叫び声と同時にナイフを突き出す真琴。
その右手はひとみの左手によって受け止められてしまい、真琴はその力で身動きが取れなくなってしまった。
すかさず自由な左手をひとみの腹へと突き刺そうとした真琴だったが、それすらもひとみに受け止められてしまう。
そして、間近に迫ったひとみの視線を受けて、真琴は身動きが取れなくなってしまった。
「残念ながら分からないね。でも、それは他人から教えてもらうんじゃない、お前ら自身が見つけないといけないんだよ!」
そう叫んだひとみが真琴を押し出し、一瞬、真琴の身体が宙へ浮く。
そして、その宙へ浮いている間に、衝撃がやってきた。
耳障りな甲高い音と同時に弾き飛ばされた真琴は、とっさに受身を取ろうとしたが、思うように身体が動かず地面を無様に転がっていく。
そんな醜態を晒しながらも、真琴は朦朧とする頭で必死に考えていた。
(なにが……)
五メートルほど転がったのだろうか、それを感覚で察知してすかさず立とうとするが、全身が痺れて思うように動かず、真琴は何とか頭だけを動かしてひとみを視界に入れた。
そのひとみの右手には銀色の鈍い光を放つ棒が握られている。
「私もね、いろいろ準備しないといけないんだ」
右手の棒が一瞬、光を発した。
ばちっとしたそれはその一瞬だけの光を周囲に溶け込むようにして消える。
- 563 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:05
-
「こいつは特殊警棒にショック機能をつけ足した物騒な品物なんだが、そのショック機能のリミッターは外してある。今はパワーを最小限に絞ったが、フルパワーにすると人なんかは軽く殺せる代物だ」
そんな危険な武器を持ったひとみがゆっくりと近づいてくるが、真琴はそれに対して身動き一つすることができない。
ただ、全身で敵意を剥き出しにしてみるも、ひとみの前ではそれも無駄だった。
「私はね、痛めつける趣味はないんだ。お前が帰ってくれればそれで良い」
真琴のすぐ隣に落ちていたナイフを回収したひとみが、警棒を収めて真琴に手を伸ばしてくる。
そして、荒々しい動作で真琴を担ぎ上げると、その神社をゆっくりと後にした。
「まずは紺野に謝れ。そして、何をしてたかちゃんと話してやれ」
帰り道、そう静かに話しかけてくるひとみに対して、真琴は何も言わなかった。
真琴はただ、無言でひとみを睨みつけるだけ。
しかし、その力のこもった視線も真琴から背を向けているひとみには全く効果が無かった。
「これから帰るとなると、三時過ぎか……」
一仕事を終えてこれから家にでも帰る、そんな口調のひとみに真琴は恨みがましい視線を送ることしかできなかった。
- 564 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:06
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 565 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:06
-
「あの、一つよろしいですか?」
普段使わない敬語を使いながら、中澤裕子は正面に座った婦人に話しかけた。
その隣にはしかめ面の紳士が座っている。
が、そんな彼に構うことなく、彼女はコーヒーカップを口元まで持っていった。
そして、その状態のままで裕子を見て、小さく首を傾げる。
彼女の場合、それが構わないという意思表示であり、そのことを裕子は知っていたため、裕子は言葉を発するために口を開いた。
「なぜ日曜日なのに、ここは開いているんですか?」
裕子が言う『ここ』とは喫茶『アターレ』であり、裕子が記憶している限り日曜日は休みのはずだった。
「顧客のニーズには、応えるべきだと思うの。そして、ニーズがあるところにしか顧客は発生しない。これは正しいことだわ」
婦人がカップをソーサーに戻して裕子に笑いかける。
その間、ずっと彼女は首を傾げたままだった。
「はぁ、そういうものですか……」
それ以上言うことが見つからず、裕子はそれだけを口にする。
どうでも良い話を聞いてしまったことを激しく後悔しながら、視線を彷徨わせるが、その間に目の前に座った二人に動きがあった。
「何がニーズだよ。単に姉貴のわがままだろ?」
裕子の斜め前に座った紳士が、キャスターに火を点けながら隣の婦人を睨みつける。
「わがままではないわよ。だって、あなたが今日しか空いてないって言ったのよ。だから私は彼に頼んだの」
そう言って婦人はカウンターを見る。
そこでは冗談かと勘違いされそうな髭を蓄えたマスターの五郎が、客には決して出さないグラスをひたすら磨いていた。
- 566 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:07
-
婦人と紳士のやりとりをぼんやりと見ながら、裕子は自分の前に置かれたカップを持ち上げ口へ持っていく。
カップを傾け液体をのどに流し込むが、まったく味が分からなかった。
重たいだけのカップを慎重に置き、裕子は愛用のピースに火を点けながら小さくため息を吐く。
アターレにいる人間は、裕子を含めて四人。
その中で裕子が一番年下だった。
そんな環境が裕子には合わず、さきほどからずっとむずがゆい思いをして、ため息を吐いてばかりいる。
自分のピースの煙がキャスターの煙と混ざるのを目で追いながら、その先にぼやけて見える婦人と紳士をなんとなく観察した。
小川千尋。
田中仁志。
それが婦人と紳士の名前。
二人は姉弟で仁志は小川麻琴、田中れいなの父親、そして千尋は現在の小川麻琴の母親である。
「五郎さんもいい迷惑だな。ほんと、わがままな姉貴に振り回されるんだからさ」
仁志はまだ何かを言いたそうだったが千尋に微笑まれ、言葉を濁して視線を逸らす。
その手には短くなったキャスターがまだ握られていた。
「ところで、今日はどういった用件なんでしょうか?」
二人の会話が切れたのを見計らって、裕子が話を切り出す。
一刻も早くこの時間を終わらせたかったから。
「先月末、二人が家に帰ってきたの」
ゆったりとした口調で千尋が話し始める。
「そのとき、あの子は出てこなかった。いえ、多分出てこれなかったのね。私に気づかれると思ったのかしら」
千尋の何気ない視線に射られ、裕子はとっさに思考をガードする。
が、それすらもあっさりと破られることとなった。
- 567 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:08
-
「見えないものが見えるようになったら、どう思うかしら?」
一番痛いところを突かれ、裕子は返答に窮する。
が、それでも頭を回し、台詞を考え、言葉を発した。
「どう思うかは本人の自由です。それよりも見えるということを知るということが重要ではないですか?」
「そうね、あなたの言うとおりよ」
そう言って千尋が再びカップに手を添える。
が、今度はそれを持ち上げることはなかった。
「でも、それはあなたのようにある程度状況を把握した場合のみよ。あの子達はまだ成熟していないのに、それを見せられた。それへの困惑は強いわ。そして、それへの憧れもね」
千尋の表情が沈痛のものに変わっていくのを見ながら、裕子は自分のしたことをいまさらながら後悔していた。
千尋の隣では苦い顔をした仁志が新しいキャスターに火を点けているところだった。
「あの子は、私と同じ道を辿ろうとしている……」
裕子には千尋が誰のことを指しているのか分かったが、それは裕子が口を挟むことではなかった。
それに、裕子には彼女達の本当の苦悩を知ることができない。
これは小川麻琴・真琴と同じ運命を背負い、その道を先に歩んだ彼女にしか分からないことだった。
「あの子達には、私のようになってほしくないの」
さまざまな感情を込め、千尋が長いため息を一つ吐く。
沈黙が三人を支配し、それが店全体へ広がる。
それを裕子は止めることができなかったし、それ以前に止める資格すらなかった。
味のしないコーヒーを啜りながら、裕子は思考を巡らせる。
もし、自分の中に同じ名前の人間がいたとしたら。
そして、その人間と常に一緒だとしたら、と。
裕子ができるのはそこまでだった。
想像することはいくらでもできる。
だが、それも所詮それまで。
そこに内在する本当の苦悩については理解することができなかった。
- 568 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:08
-
「中澤さん。あなた、私の話は聞いたことある?」
唐突に聞かれ、裕子は何のことか理解できなかった。
が、それもほんの一瞬のことで、すぐさま思い出す。
「人からは聞いたことがあります。ですが、あなた本人からは聞いたことがありません」
「そうね、あなたには話したことがないんですからね」
おかしそうに笑う千尋を見て、裕子はしばしの間、憮然とする。
極めて真面目に答えたつもりなのに、それが相手に通じなかったからだ。
「なんだ、また昔話か?」
やってられないな、と仁志はキャスターを銜えたまま席を立つと、カウンターにいる五郎のところまで行ってしまった。
「弟はね、あの人のことが嫌いだったのよ。そして、今も嫌いなのね」
許してやってね、と言われ裕子は曖昧な表情をしたまま頷くしかなかった。
そんな裕子に千尋は微笑むと、脇に置いてあったホープに火を点ける。
「私はね、生まれたときはあなたみたいに独りじゃなかったの」
千尋の視線は裕子を捉えていたが裕子を見ておらず、別の何かを見ているように見えた。
裕子を他の誰かと重ね合わせているのかそれとも裕子の後ろを見ているのか、それは裕子には分からなかった。
「私の身体の中にはもう一人、私とは別の人間がいた。彼、もしくは彼女は私と同じ身体を使っているけど、私とは明らかに違った。だけど、私にはあの人の考えていることが何となくだけど分かった。だから、私はあの人に別の名前をつけて区別することにしたの」
不思議なものね、と千尋が呟くのが裕子の耳に入ってくるが、意味が分からず裕子は首を傾げた。
「そうして同じ人間なのに区別しないといけないなんて……。そこで気づくべきだったのかもね。そうした行為が無駄だってことに」
裕子はどう言えば良いのか分からず、中途半端な相槌を打つだけだった。
- 569 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:11
-
「他人から認識されるのは外にいる一人だけ。そして、私達は一人しか外へ出ることができない。だから、常にどちらか一人しか認識されることはない。他人から要請を受けてそうした区別をしたわけではないの。私達が、私達の意志でそれをしたの。だって、そうでしょ?相手から見れば私達は常に一人の人間、『ちひろ』という人間で認識される。それを無理やり区別したのは他でもない、私なのよ」
灰が先に溜まったホープを灰皿の上で小さく突き、それを落とした千尋が再びホープを口に持っていく。
やけに長く吸い込んでいるようにも見え、全く吸い込んでもいないようにも見えたが、次に吐き出された煙で裕子は前者だと気づいた。
その千尋が先を続ける。
「それをしたのは、私達が六歳の頃だったわ。それまでは私ともう一人は明確に区別されることもなく、『ちひろ』と呼ばれていた。突然、それが怖くなったのよ。私が一体誰なのか、私と常にそばにいるもう一人との違いは何なのかってね。だから、私はあの人を無理やり引き離した。たとえそれが仮初であったとしてもね」
攻撃的な中澤裕子の中に、防御的な中澤裕子がいる。
それを想像してみて、裕子は身震いをした。
その先の展開が恐ろしかったからだ。
「でも、あの頃は大して字も読めなかった。結構骨の折れる作業だったわ。幸い、施設にいた姉みたいな人も手伝ってくれたから、私達は名前をつけることができた。そして、私は『千尋』、そしてあの人は『智広』になったの。後になって考えてみて、これほど皮肉なものは無いって思ったわ。だって、あの人に男みたいな名前をつけていたんですからね。私の考えと全く正反対のあの人を、それで区別できるわけでもないのに……」
そう言って笑いかけてくる千尋だったが、裕子はそれに笑みを返すことができなかった。
千尋のその笑みがあまりにも自虐的だったからだ。
居心地の悪くなった裕子は視線を逸らし、感覚だけでピースを取り出すと火を点ける。
そして、何も考えずに口からそれを大きく吸い込んだ。
- 570 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:12
-
(やっぱ、味はせんか……)
さらに三回ほど同じ行為をしてみるも結果が同じだったため、裕子はため息を吐かないよう最大限努力しながらピースを灰皿に押しつける。
その手をコーヒーカップへ持っていくべきか水の入ったグラスへ持っていくべきかを悩んだ裕子だったが、千尋はそんな裕子に構うことなく先を続けてきた。
「私達が十八の時。私達はある一人の奇術師に出会ったわ。彼は私達のような特殊な人間について研究していたの。そして、それが人間全体の根源に通じているのだとも信じていたわ」
「典型的な奇術師ですね。博物館にでも飾ってやりたいですよ」
三年前の自分を思い出し、それを皮肉に込めて吐き出す。
それだけでも、裕子自身はかなり楽になることができた。
だが、それもほんの一瞬だった。
「彼の名前は平家道正。平家の分家の出身だったけど、彼は平家の中でもっとも優れた奇術師となったわ」
「えっ……?」
千尋から名前を聞き、裕子は耳を疑う。
そして、千尋の顔からそれが聞き間違えではないことを確信し、裕子は記憶の中を探った。
平家道正。
それは裕子もよく知っている人間だった。
そして、彼は裕子がまだ小学生のときに死んでいた。
「そう、彼は平家みちよの父親。私は彼を殺したの。いえ、智広が彼を殺したの。私を生かすために」
鈍器で殴られたかのような衝撃を受け、裕子の頭の中は白くなる。
その裕子に向かって千尋はなおも続けてきた。
「あなた達の因果を作り出したのは、私達だと言ってもいいわ。だって、そうすることで平家みちよの役割を決めてしまったのだから……」
施設出身の三人が何となくだがぎこちなくなってしまった瞬間、それが道正の死のときからだった。
何も知らなかったみちよが平家の当主となり、施設を去った。
しかし、みちよはそれからも裕子と貴子のところへとやってきていた。
まるで、何かから逃げ出すかのように。
- 571 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:13
-
稲葉貴子にも両親がいるにはいたが、奇術師としての能力を幼い頃に顕現させてしまったため、捨てられるようにその施設へやってきたということは聞いた。
両親がいないのは裕子だけで、裕子にとっての唯一の肉親は兄である祐一だけであった。
しかし、みちよに関しては何も分からなかった。
父親がいることはみちよ本人も知っていたが、その父親の元へ戻る気は無いようで、かつての裕子はそのことをさりげなく聞いてみた。
そのとき返ってきたみちよの言葉が、今の裕子の中で蘇った。
『あそこにいたら、私が私じゃなくなる』
まだ小学生だったあのときのみちよが言っていたことは正しく、そして、まだ小学生だったあのときの裕子はそのことに気づけなかった。
そして、それが暴走してしまったのが三年前。
そう、日本にある奇術師協会が消滅するきっかけになった、あのときだ。
それまで蓄積していたさまざまなものがどういったきっかけで歯止めを失ったのか分からないが、それでもみちよがそれまで自分の役割について悟ることは無かった。
「でも、みっちゃんは完全に役割を知っていたわけじゃないです。彼女が役割を知ったのは三年前ですから」
いつの間にか握った拳が白くなっているのを、他人事のような感覚で見下ろす裕子。
それなのに痛みだけが伝わってきて、唐突にその拳を叩き潰したくなった裕子は、それまで我慢していたため息を長く、そして深く吐いた。
「それでも、私はあなた達に謝らなければならなかった。それなのに、私は今までできなかった」
「それは違います。私達にはそれぞれ意志がありました。そして、それを信じて進みました。その結果として私が平家みちよを殺し、彼女は根源という輪廻の内に囚われてしまった。これは私達だけの問題です。あなたには関係ない」
そう、千尋は全くの無関係だった。
あのとき、みちよを確かに殺したのは裕子で、その感覚が今でもその右手に残っている。
しかし、そのときの千尋はそんな裕子の願いにも似た感覚を察知してくれることは無かった。
- 572 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:14
-
「でも、きっかけを作ったのは私達。それを回避できたはずなのに、私達は最悪の道を進んでしまった」
そう言った千尋がテーブルに置いてあった自分のライターを手に取り、いきなりそれで左手を炙り出す。
「なにして……!」
唐突過ぎるその行動に裕子は慌ててライターを取り上げようとして、固まった。
その裕子の視線は、千尋の顔に釘づけになっていた。
彼女は笑っていた。
そして、泣いていた。
「私はね、あの日から左半身の感覚が無いの。智広がいなくなってしまったあの日から……」
千尋がテーブルに置いてあった水の入ったグラスに左手を入れる。
グラスの中が小さな水蒸気を吐き出し、異臭が立ち込めたが、裕子は顔を顰めることすらできなかった。
ただ、無言で、そして、無表情で千尋を見るだけ。
その裕子に向かって千尋が小さく続けてきた。
「あの日から私は『1』でも『0』でもない存在になってしまった。こんな中途半端な存在に成り下がってしまったのよ」
寂しそうに笑う千尋の涙はすでに止まっていた。
いや、枯れたといったほうが表現としては正しいのかもしれない。
裕子はそう感じた。
「ごめんなさい。でも、こうでもしないと気が済まなかったの」
「いえ……」
かすかに漂う異臭が千尋の苦悩を物語っていて、それが裕子にも伝染してくる。
そして、裕子は自分がした行為を少なからず後悔した。
「あの娘達には、私のようになって欲しくない。それが私の唯一の望みなの」
そう呟いた千尋に裕子は何も言い返せず、苛立ちながら新しいピースに火を点けることで何とかそれを逸らすことにした。
- 573 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:14
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 574 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:15
-
日曜日の昼下がり。
長袖では少し暑いのを感じながら、紺野あさ美は正面の小川真琴を見つめた。
その後ろにはなぜか吉澤ひとみが立っていて、手には何やら怪しい棒を持っている。
しかもその棒はときどき光を発し、その度に真琴は身体をビクつかせていた。
「それにしても、高橋のやつ遅いな」
着ているジャージが少し前のスパルタ教師を連想させるひとみに、あさ美はどう対処したら良いか分からず、視線だけで真琴に助けを求める。
が、その真琴も機嫌が悪そうだったため、仕方なくあさ美は網戸にしていた窓から外を眺めることにした。
そしてなぜこんな状況になったのか、それを思い返す。
そもそもの始まりは今日の真夜中。
大声で叫んでいる真琴を引きずってひとみがこの部屋にきたときからだった。
ひとみは罵倒している真琴を構うことなくベッドに放り出すと、持っていた棒を真琴に突きつけた。何かが弾けるような音と同時に静かになった真琴を縛るひとみをあさ美は寝ぼけ眼で見ていたが、やっていることを間近でみていてようやく思考が正常に働きだし、すぐさま動転した。
『あぁ、これくらいなら大丈夫だよ』
さらりと言ってくるひとみにどう対応したらいいか分からず、あさ美はひとみに部屋を連れ出された。
途中、真琴の叫び声に心配して出てきた安倍なつみと遭遇したが、ひとみが頭を下げて謝りその場はすんなりと収まってしまった。
そして、あさ美はひとみと後藤真希の部屋で一夜を過ごしたのだ。
『何があったかは、真琴本人に聞いてくれ』
爆睡している真希の隣でひとみがそう言ったが、その真琴と切り離されあさ美は不安な一夜を過ごすこととなった。
しかし、用意の良いひとみから睡眠薬を手渡され、そのおかげ(もしくはせいで)ぐっすり眠ってしまい、あさ美はそのことをかなり反省していた。
- 575 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:16
-
回想はそこまでにしておいて、今度は現実に目を向けてみる。
遠くの山が紅葉で紅く染まり、ところどころその使命を終えその身をさらけ出していた。
(そう言えば、まだ秋刀魚食べてなかったな)
今度なつみに提案してみよう、そう考えながらあさ美は急に干し芋が食べたくなった。
「ねぁ紺野。食べ物のこと、考えてない?」
「えっ、あ、はい。分かりました?」
「まあ、顔を見ればなんとなくだけどね……」
ひとみに言われ、あさ美は慌てて思考を元に戻す。
ひとみを見てみると呆れていたのか、ため息を吐いていた。
「それにしても先輩」
「なんだ?」
正座をした真琴が背後のひとみに振り返ることなく話しかける。
「なんで高橋が必要なんです?」
棘を含んだ言い方だったが、それに動じることのないひとみ。
しかし、あさ美はそんな真琴の言い方が嫌で、小さくだが身体を捩った。
「さっきトイレに行ったときにね、捕まったんだ。それでこのことを話したら、聞きにくるって言ってたんだ」
「高橋は完全に部外者ですよ?」
苛立った真琴の声が部屋に響き渡る。
だが、それでもひとみは淡々と続けてきた。
「私達はね、すでに部外者じゃないんだ。少なからずどこかで関係してしまった。高橋にもいずれ何らかの異変があるかもしれない。だから、それに対する処置はすませておきたいんだ」
小さく舌打ちした真琴が静かになり、ひとみがその真琴を見て小さく肩を竦める。
そんな二人(もしくは三人)を見ていたあさ美は、あまりの居心地の悪さに思わず行動していた。
「あの、一つ良いですか?」
授業中の生徒のように手を上げるあさ美に、肩を竦めたひとみが笑う。
「紺野、ここは学校じゃないんだ。それに自分の部屋なんだから、もうちょっとリラックスしたらどう?」
「あっ、それもそうですね。でも……」
慌てたあさ美は真琴に視線を送る。
その視線を受けた真琴は、気まずそうに顔を動かしてそれから逃れた。
- 576 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:16
-
「あぁ、小川はいいんだ。こいつは正座したいから、してるんだからな」
にやけるひとみに、露骨に舌打ちする真琴。
その真琴に対して、ひとみが持っていた棒を再び光らせた。
「くそっ、卑怯だぞっ!」
身体をビクつかせながらも必死に反論してくる真琴だったが、再びその棒から光が発したのを見て、すぐさま大人しくなった。
「ところでさ、小川」
「なんですか?」
さりげなく問いかけるひとみに、憮然としながら答える真琴。
「さっきからずっとお前が出てるけどさ、もう一人の麻琴はどうしたんだ?まだ寝てるってことはないだろ?」
ひとみのその一言にそれまでの真琴が思い切り顔を顰め、目を閉じた。
それからしばらくは無表情のままで、何をしているのかが全く分からない。
しかし、次に目を開けたときには小川真琴は小川麻琴へと入れ替わっていた。
「わたしなら起きてますよ」
麻琴の一言を聞いたひとみは少し驚いた表情をするが、それもわずかな時間だけだった。
すぐさま表情をいつものそれへと戻し、麻琴へと話しかける。
「なんだ起きてたのか。いつからだ?」
「真琴が縛られたときからですかね。でもまぁ、それもそうかなって思ったんで、何も言いませんでした」
「起きてるなら起きてるって言ってくれよ。それならもう少しゆるく縛ったんだけどな」
「えぇ、すごく痛かったです」
苦笑いしてきた麻琴にあさ美はどう返したら良いか分からず、置いてあったコップを持ち上げた。
そして、できるだけ目立たないように中に入っていた液体を口に含む。
「それでも黙ってるってのは、もしかしてMか?」
「ふっ!」
ひとみの言葉に、あさ美は思わず飲みかけていたお茶を噴き出した。
「あさ美ちゃん、大丈夫?」
背中を擦られているあさ美は声を出すことができずにひたすら頷くしかなかった。
そして、咳き込むあさ美を麻琴が介抱しているのを、ひとみは腹を抱えて笑いながら見ていた。
- 577 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:17
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「だから、昨日も遅れたんだ」
「違いますよ!わたしには、そんな趣味はありませんからっ!」
力いっぱい叫んでくる麻琴に、やはりひとみは腹を抱えて笑うだけだった。
そして、一分近く笑ったひとみがあさ美に一言、
「これを聞いて噴き出す紺野も、一応は知ってるんだな」
とだけ言う。
それに対して、あさ美はただひたすら顔を真っ赤にするだけだった。
「先輩、あんまり言わないでください。変に誤解されますから」
脱力した麻琴にそう言われ、ひとみは頷くべきかどうか迷うが、それを実行するよりも先に待ち人が現れたため、うまいことうやむやにすることができた。
「ごめんくださいっ」
タイミングが良いのか悪いのかよく分からない状況で、高橋愛が部屋にやってきたのだ。
愛を見た瞬間、それまでは普通だった麻琴が、急に態度をよそよそしく視線を逸らす。
それをすぐ目の前で見ていたあさ美は、とっさに視線を逸らされた愛のほうを見たが、その愛は麻琴の視線に気づいていないようだった。
「さて、役者は揃ったみたいだね。始めようか」
ひとみが立ち上がったのを見て、麻琴がビクつくのがあさ美にも伝わってくる。
が、そんな二人に構うことなくひとみは部屋の中を歩き始めた。
「始めに、小川から昨日どこで何をしていたかを報告して」
ひとみが例の棒をちらつかせながら言う。
「あのですね……それは…………」
口を開いて何かを言いかけた麻琴の表情が固まり、そして、次の瞬間、あさ美がこれまで見たことが無いくらい歪んだ。
その歪んだ顔が笑っているのだと気づいたあさ美は、すかさず麻琴の胸から出ている『赤い糸』を見てみるが、その二本の状態を見て息が止まってしまった。
(真琴がまこっちゃんを抑えつけてる……)
麻琴・真琴の胸から出ている『赤い糸』は普段、絡み合うことが無かったが、そのときは真琴の細い糸が麻琴の糸に絡みついていた。
真琴の糸はあさ美が見る限り最も細く、そして、脆そうにも見えたが、実際はその逆であることをそのときあさ美は知る。
しかし、それに対してあさ美は何も言うことができなかった。
- 578 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:18
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「おれから話してやるよ。そのほうが都合が良いだろ」
麻琴の糸を文字通り侵食した真琴の糸が離れた瞬間、入れ替わった真琴が口を開く。
そのときの麻琴・真琴の胸を見てみたが、あさ美には麻琴の『赤い糸』が見えなくなっていた。
もう一人の麻琴を完全に制圧した真琴が、普段はあまり見せることの無い攻撃的な視線を送ってくるが、そんな真琴を最後に見たのがいつなのか、あさ美は良く覚えていなかった。
「神社で狩りだよ」
記憶の中を探っているあさ美に構うことなく、そうぶっきらぼうに言ってくる真琴。
その言葉をほとんど聞いていなかったあさ美は、確認のために愛とひとみを見てみた。
「ねぇ真琴、そこって……?」
「そうだよ、夏休みの始めに肝試しをした、あの神社だよ。あそこは今、ちょっとした異界になってるんだ」
そう言った真琴が横目であさ美を見てくるが、それもほんの一瞬で、すぐに目を逸らされてしまった。
「あのとき、紺野はちょうどハワイに行ってたから知らないかもしれないが、今、あそこに残留思念が溜まってるんだ」
「あっと…………ザンリュウシネン……って何?」
あさ美も同じような疑問を抱いていたため、愛がそう聞いてくれたのには助かったが、それでも真琴は機嫌を損ねてしまったようだ。
「ほらっ、これだから嫌なんだ。最初から説明しないといけないじゃないか」
髪の中に手を突っ込み、それを思い切り掻き毟る真琴。
そんな真琴が怖く、あさ美は別に聞きたくないと遮りたかったが、その声すらまともに出なかった。
「正確な定義は知らないが、おれが感じたあいつらは何かの途中で死んでしまったってことだ。それは別に人間でなくてもいい。動物だって例外じゃない。そうした、『無念』ってやつを抱えたやつらがおれの目に見える形で現れたのを、残留思念って言ってる。中澤裕子が何か知ってるようだったが、あいつの説明はあんまりややこしすぎたから、おれなりの結論だ。で、そんな残留思念が溜まってるのが、あの神社だ」
- 579 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:18
-
残留思念といっても真琴が目にしていたそれらは常に変化していた。
動物のときもあれば人間のときもある。
以前までの比率を考えてみれば動物の残留思念のほうがはるかに大きかった。
しかし、その比率があるときを境にして、一気に逆転する。
それはちょうど小川真琴が柴田あゆみを殺そうとして殺せなかった日で、それ以後に感じ始めてしまったそれらを真琴は無視することができなかった。
「あいつらは、おれみたいに敏感なやつを引きずり込もうとした。だから、そうなる前に狩り取ることにしたんだ」
最初のきっかけは麻琴が放棄した時間を使っての散歩。
そして、その散歩の途中で残留思念を感じ取り、狩りが始まった。
きっかけはたったそれだけの小さなものに過ぎなかったが、それでも真琴の中でそれは次第に大きな部分を占め、そして、変化していった。
「あそこにあんなんがおるの?」
「いてもおかしくない状況だったよ」
以前、その場所へ行った愛が不思議そうに聞いてくるが、それに対して答えたのはひとみだった。
「だけど、あれは私やお前らみたいなちょっと変わったやつにしか見えないんだろ?だったら、放っておいても良いんじゃないか?」
「そうだな。高橋みたいに普通だったら問題ない。だけど、紺野には見えてしまうんだ」
ひとみに問いかけられ、あっさりと答える真琴。
しかし、それを聞いたあさ美は全身が強張るのが分かってしまった。
「ほやけど、なんであさ美が見えるん?」
今の自分の状態を知らないであろう愛とひとみが不思議そうな顔を向けてきて、あさ美はそれまで黙っていたことを後悔する。
しかし、あの現象をどう表現すれば良いのか、あさ美は未だに納得ができていなかった。
困惑したあさ美が視線を彷徨わせていると、そんなあさ美を見透かしたような真琴の視線とぶつかる。
それはさっきまでの刺々しい感じではなく、それとは全く正反対だった。
- 580 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:19
-
同情。
その一言が頭の中で浮かんだあさ美は、それに反発するかのようにとっさに口を開いていた。
「実は私、一回死んでるんです」
愛とひとみを見てみるが、その二人はあさ美が何を言ったのかいまいち理解できていないといった表情を向けている。
しかし、それもしばらくすると別のそれへと変化した。
「えっ……死んだってどういうこと?」
愛の思い切り戸惑った声と、それに頷いてくるひとみ。
それをまさに他人事のように眺めたあさ美は、自分なりに整理した記憶を話すことにした。
「私ね、ハワイにホームステイしたときに、事故で死んじゃったの」
あさ美に記憶に残っていたのは目の前に迫り来るやたらと大きく、そして、勢いのついた大型トラック。
幸いなことにすぐ後できたであろう衝撃などは記憶の中からすっぽりと抜け落ちていたが、そこで途切れていることから自分に起きてしまったことは容易に想像できた。
が、鮮明に覚えていたのはそこまでで、次に紛れ込んできた曖昧な記憶について、あさ美は未だに説明することができない。
それは誰かと誰かが話をしているようで、その内容はおろか、それがどこなのかも判別がつかなかった。
ただ、トラックのすぐ次に覚えていたことからそれがハワイのどこかだとは想像できたが、それも予測の域を出ないでいた。
そして、気がついたら何事も無かったように生きていた。
だから、あさ美はそうした曖昧な部分は説明せず、死んで生き返った、その事実だけを愛とひとみに伝えることにした。
そのとき、あさ美は真琴のほうを見なかった。
というよりも見れなかった。
もしかすると、自分が知らないような部分まで真琴は知っているのかもしれない、それが怖かったからだ。
- 581 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:19
-
「でもね、私はこうやって生きてる」
最大限の自制を己に課し、真琴を意識の外へと追いやったあさ美は、自分の手のひらを見下ろしてみる。
そこにあるのはいつもの自分の手のひらのはずだったが、そのときだけはやけに白く見えた。
「分かった。今はそれまでにしとこう。紺野がどうして生きてるかは聞かない。というか聞いても分かんないだろうから、放置しておこう」
ひとみがそう言ってきたのを受けて顔を上げてみると、ばつの悪そうな彼女の顔が見え、あさ美はそれにどう返すべきかを迷う。
愛にしてみても困惑しているといった表情がまざまざと見えてしまったため、諦めのついたあさ美は口を閉ざすことで放置されることを受け入れた。
「今は小川の話を聞くのが先決だ」
自ら気持ちを切り替えようとしたひとみがそう言い、真琴のほうを見る。
それに釣られて愛の注意も真琴に向かったため、あさ美は小さくため息を吐いて緊張を解くことにした。
そして、自身も真琴を見る。
「最初はほんの軽い気持ちであいつらを狩っていた。だけどな、途中で気がついちまったんだ」
顔を俯けてぼそりと呟いた真琴の口調が明らかに変化し、あさ美は眉を顰める。
そして、ひとみを見てみるとその顔は険しいものへと変化していた。
「気持ちがすっきりしたんだ。いつまでも溜まっていた変な感じが、あいつらを狩ることで消すことができたんだ」
テーブルの上に置いてあった真琴の拳がわなわなと震え、それが何かを抑え込んでいるのだとあさ美はすぐさま気づく。
しかし、何も言えなかった。
「だけど、それも永遠じゃない、ほんの一瞬だった。すぐ次にはまた変な感じが溜まってきて、おれに催促してくる。『早くあいつらを壊せ』ってね。そのときになって、ようやく気がついたんだ。それはすっきりしたんじゃない。単に引き伸ばしてるんだって。おれが、おれで無くなるのを、単に先延ばしにしてるんだ」
「小川真琴が小川真琴で無くなる?」
- 582 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:21
-
ひとみの問いかけと同時に顔を上げる真琴。
その目が血走っていてあさ美は思わず座ったままだったが、その身を後退させた。
「そう、あいつらを狩って、消して、壊すことでしかおれがおれだと認識できない。おれがそう感じなくなったんだ。だから、おれはあいつらを徹底的に壊す」
静かだがやけに迫力のあるその声に愛はおろか、あさ美も言い返すことができない。
ただ、ひとみだけが小さく「ほらな」とだけ呟いたが、それも真琴の次の言葉ですぐさま消えてしまった。
「なのに、あいつは……麻琴はそんなおれを認めてくれない。だから、おれは決めたんだ。あいつから離れられないんなら、消すまでだってね」
自嘲気味の真琴がそうつけ足して静かになる。
あさ美はそれを黙って見ることしかできなかった。
身体は強張って動かず、首だけを小さく動かして他の二人を見てみる。
愛はあさ美と同じように固まっていて、ひとみは小さく何かを呟いていた。
あさ美は首に普段以上の力を込めて動かし、前を見る。
そこにあった真琴の姿は意識して見ないことにして、先にあった窓に集中することでその場を逃げることにした。
だが、頭の中は真琴が言った言葉と、さらには、さきほど見た真琴の糸がが麻琴のそれを侵食している様子がリピートされる。
そして、そうなってしまった原因にすぐさま到ってしまった。
「私が、悪いの?」
搾り出すようにした声で真琴へと問いかけるあさ美。
そのときのあさ美には柴田あゆみと対峙していた小川真琴の後姿が見えていた。
あのとき、自分の力量を弁えず飛び込み、結果として足を引っ張ってしまったあさ美。
気を失うまでは自分の力が絶対だと確信できて、気がついた後はそうやって思い上がった自分をかなり責めた。
「だけど、あれは私が勝手にやったことでしょ?だったら、真琴は関係ないよ」
真琴を弁護するため、自分を貶めるあさ美。
ただ、現にそうした事実があったことは確かだったため、あさ美は素直にそう告白した。
が、そのときの真琴には、それすらも通じなかった。
- 583 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:22
-
「違う、紺野は関係ない。あれは、単なるきっかけに過ぎなかったんだ……」
震えていた真琴の手が小さく動き、それが拳をさらに強く握り締めたのだと少しして気づいたあさ美だったが、だからといって何も言うことは無い。
それを無情にも感じ取ってしまい、さらに絶句することとなった。
「これが餓えってやつなのかもな……。あいつの気持ちが何となく分かるよ」
突然、『餓え』という言葉が真琴の口から出てきて、肩を飛び上がらせたあさ美は慌てて二人を見る。
が、愛とひとみはいまいち理解できていないといった感じで真琴を見ていた。
(そうか、あそこにいたのは、私とまこっちゃんと、真琴だけだったんだ……)
中澤裕子と初めて出会った事件と言えば事件だし、単なる出来事と言えば出来事だった。
しかし、それはあさ美にとっての話である。
実際はそこに関わった数人は死んで、引き起こした『それ』も最終的には真琴に殺された。
(あのとき、保田さんもいなくなったんだ)
喫茶『アターレ』の常連であり、やたらと口数の多かった保田圭。
彼女もその事件と関わり、最終的に『それ』に喰われてしまったらしい。
「らしい」とついたのはあさ美が実際にそれを目にしたのではなく、真琴から聞いただけであり、それについて裕子も否定することは無かった。
- 584 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:23
-
「だいぶ分かんないところがあったけど、何となく分かったことにする」
半年ほど前の出来事を思い出していたあさ美の思考を遮るかのように、ひとみの声が響き渡る。
ひとみを見てみると不満そうに顔を歪め、真琴を睨みつけていた。
そして、その睨みつけたまま、その表情に一番見合った感情で言葉を発する。
「結局は今の自分に満足できてないってことだろ、違うか?」
それまでの話を強引にまとめたひとみに、さすがのあさ美も言葉を挟むべく口を開いたが、そこから言葉を発するよりも先に真琴が答えるほうが早かった。
「そうだな。あんたの言うとおりだ。今のおれは何もかも許せないんだ。おれも、麻琴も含めてさ」
ふらりと立ち上がった真琴をあさ美は止めることができなかった。
そして、それは愛にしてみてもひとみにしてみても同じだった。
ゆっくりと歩いてドアへと向かう真琴の表情をただ見つめるだけのあさ美。
その真琴の顔は自嘲気味に笑っていた。
部屋のドアが小さく軋んだ音を立て、そして、小さな衝撃がやってくる。
そのことが真琴が部屋から出て行ったのだと知らしめてくるが、それでもあさ美は自由になれなかった。
しばらく三人の間に沈黙が訪れる。
それをあさ美は自らの意志で打ち破ることができなかった。
- 585 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:23
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 586 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:24
-
午後十時。
安倍なつみは一階の食堂に誰もいないことを確認して、その鍵を閉めた。
そして部屋に戻る途中、正面玄関に寄ってこれにも鍵を閉める。
これで寮母としての安倍なつみの仕事は終わりである。
本来ならば寮生が抜け出して遊びに行くのを監視するのも寮母としての役目だったが、それをなつみは放棄していた。
というかそこまでプライベートに立ち入る必要性を感じず、その点に関しては寮生自身にまかせることにしていた。
そして、今はそれを監視しているのは最年長である松浦亜弥、後藤真希、吉澤ひとみの三人であった(もっとも吉澤ひとみに関しては夜十時ごろになるとしょっちゅう外出しているため、あまり役には立っていなかったが……)。
部屋の電気を消して回りながら自室へ戻るなつみだったが、あまり暗闇といったものが得意でなく、自然と駆け足になったが、それを咎めることをする人間がいないことをなつみ本人が良く知っていた。
なつみがこのN大付属高校第三女子寮の寮母になったのはこれから半年ほど前のこと。
つまり、その年の四月からであった。
しかし、今のところこの仕事を苦痛に思ったことは一度も無い。
北海道にいたなつみはN大に合格してから一人暮らしをしていたが、その経験が見事に役に立っていた。
寮生は全部で二十五人(一学期終了の時点で転校したり退学したりで多少人数が減った)。
これくらいの人数なら量をごまかしても大丈夫な料理で何とでもなったし、それだからといって味が落ちることも無かった。
掃除に関しては寮生が学校へ行っている間に業者がやってくるから、これも問題はない。
洗濯機に関しては五台あり、それらをフル回転させれば昼までには洗濯は終わった。
寮生が着ているカッターシャツについては、彼女達自身にアイロンをかけされているため、これも特に重要視するほどの問題ではなかった。
- 587 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:25
-
そして、この時期に入って一番楽なのが、昼食を作らなくても良くなったということだった。
一学期と二学期の間には夏休みがあり、帰省する寮生以外についてはなつみが面倒を見なければならず、それが多少たいへんだった。
が、その苦労も今は昔。
そして、明日からはまた学校が始まる。
なつみにとって、それは変わらない日常だった。
ただ、ある一点を除いては。
(まこっちゃん、どうしたんだべ?)
電気を消して回る最中も、なつみは小川麻琴の姿を探していた。
なぜなら今日の夕飯のとき、麻琴が食堂に現れなかったからだ。
いつも一緒にいるはずの紺野あさ美、高橋愛に麻琴がどうしているのか聞いてみたが、二人から明確な返事が返ってくることは無かった。
一階と二階の電気が消えていることを確認し、次に三階へと足を運ぶなつみ。
が、そのときのなつみの頭は単純な作業から離れ、別のことを考えていた。
それはなつみがこの仕事に就職してから感じたこと、つまり、この寮にいる人間は不安定だということだった。
なつみは大学から一人暮らしを始めたが、それはなつみ自身が望んだからでそのことに少しも不安は無かった。
しかし、ここにいるのはまだ高校生。
たかがその差を三年だと言って軽視することもできるが、なつみはそれをしたくはなかった。
それはなつみが味わった、突如訪れる一人という寂しさを認識させられてしまった瞬間で、それを感じてしまったとたん、なつみは不安定になってしまった。
ホームシックとも違うそれはなつみ自身にも良く説明ができなかったが、今にしてみれば、それも一種の情緒不安定ではないかと判断できた。
寂しいのに誰とも連絡を取らなくなる。
大学に行かなくなる。
外に出なくなる。
なつみがしたのは一種の引きこもりだったが、なつみの場合、それが半年続いた。
そして、それを今では後悔していた。
その半年で出会えた何かを掴むことなく、それを放棄してしまったからだ。
何かというのが具体的に何なのかは、なつみ自身にも分からない。
だが、引きこもるよりも多くの何かを得ていたはずだ。
それが今のなつみの原動力になっていた。
- 588 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:25
-
基本的に二人部屋となっているこの寮だったが、それでもルームメイトと未だに打ち解けずにいる寮生がいるのもたしかだ。
これまで家族という殻に守られていた人間が、いきなり赤の他人と生活しなければならない苦労。
特に一年生についてはそれが顕著で、親から離れて暮らすことに対して不安がある上、しかも見知らぬ人間と一緒にならなければならない不安。
その二重の不安が彼女達にどのように影響を及ぼすのか、なつみはこの半年でなんとなくだが理解することができた。
自分という人間を良く見せようと、必要以上に大きな殻を被る生徒。
決して他者と打ち解けず、自分という小さな殻の中に閉じこもる生徒。
そうかと言えば、本当に打ち解けてしまう生徒。
今年入ってきた一年生は全部で八人。
彼女達を観察していたなつみはそうした不安を取り除くべく奔走した。
その中において、小川麻琴と紺野あさ美は比較的安定した組み合わせだった。
同じクラス、出席番号も近いということからすぐに打ち解けてしまった二人に、なつみも最初は安心していた。
が、最近では違った。
打ち解けたといっても、二人は元々他人。
その二人が本音を本当に言えているのだろうかと。
仲が良いこと自体は悪いことではない。
しかしそれでは本当にお互いのことを理解できるのかという不安があった。
理解するには衝突も必要で、それらの障壁を乗り越えてこそお互いが理解することができるのだとなつみは信じていた。
小川麻琴、紺野あさ美。
この二人が喧嘩をすることをなつみは見たことが無かった。
食堂で好きな食べ物の取り合いをしていて小さな喧嘩にはなったことがあった。
しかし、なつみが見たいのはそんな生優しいものではなく、お互いが本音をぶつけた、本当の意味での喧嘩だった。
それをこの二人はまだ、していない。
それがなつみにとっては不安だった。
もしかすると、この二人はお互いを理解しているものだと勘違いしているのかもしれない。
お互いの本音を隠したままで……。
- 589 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:26
-
(かといって、喧嘩をけし掛けるのもどうかと思うんだけどね……)
ため息を吐いたなつみは階段を上り、自分に割り当てられた部屋のある四階へ向かう。
縦長のこの寮には一階に食堂と倉庫、二階、三階に寮生の部屋(八部屋ずつ)、そして四階には寮母の部屋と自習室があった。
そして、四階の自習室は原則として九時以降は立入禁止ということから、本来ならばその階にいるのはなつみだけのはずだった。
しかし、その日はその原則が破られていた。
なつみの部屋の前に誰かがいたのだ。
いや、正確には部屋のドアのすぐ横だった。
ポケットに入れていた鍵を取り出し、前を見た瞬間にそれに気づいたなつみは、それが誰なのか、すぐに分かってしまった。
そして、その誰かに小さく声をかける。
「まこっちゃん?」
返事が無かったため、廊下の電気を点け小川麻琴の姿を確認するなつみ。
が、立てた両膝に顔を埋めていた麻琴が反応することは無かった。
「こんなところで何してるべ?」
できるだけ優しい声を心がけてなつみは麻琴に近づく。
そんななつみの呼びかけに麻琴はゆっくりと埋めていた顔を持ち上げた。
明かりに慣れておらず、うっすらとしか開かれていなかったが、その目は真っ赤に腫れ上がり、頬が少し窪んでいるのが分かる。
その姿を見てなつみは一瞬、昔死んだ犬のことを思い出してしまった。
そして、その愛犬と目の前にいる麻琴は違うことを慌てて認識しようとしたが、それもうまくいかなかったことにすぐさま気づく。
「あ、べさん……?」
急に点けられた明かりに目が慣れていないのか、麻琴の声は疑問系だった。
しかし、このときのなつみはそれに対して何も言わなかった。
麻琴の横に足音を立てることなく移動し、鍵を開けるなつみ。
一度玄関の中へと入りドアストッパーを挟むと、再び外へ出た。
「まこっちゃん、入るべ」
座ったままの麻琴がなつみを呆けた顔で見上げた。
それになつみは笑いかける。
それを見た麻琴がよろよろと立ち上がり、おぼつかない足取りで何とかなつみの部屋に入った。
なつみは玄関の鍵を閉め、二人だけの空間を作る。
- 590 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:27
-
「そこら辺に適当に座ってるべ」
そう言ったなつみはキッチンへ移動した。
冷蔵庫から牛乳を取り出してマグカップに注ぎ、それをレンジに入れて温めボタンを押す。
そして再び冷蔵庫を開け、夜食用に取っておいたピザトーストを取り出してオーブントースターの中に入れて摘みを回した。
ぢぢぢと耳障りな音を立てているトースターを意識の外へ追いやったなつみは、部屋にいる麻琴に声をかけるべきかどうか迷い、結局何も言わないことにした。
どうせ、すぐに話をすることになる。
それまでは一人にさせておけば良い、そうなつみは判断した。
調理時間三分。
皿にピザトーストを乗せ、温まったミルクを持って居間に向かう。
が、そこに麻琴の姿が無かった。
なつみの心臓が飛び上がり、彼女は慌てて麻琴の姿を探す。
そして……
「まこっちゃん、何もそんな隅に座ることないべ」
居間の隅でさっきと同じように顔を埋めて座っていた麻琴に声をかけるなつみ。
しかし、麻琴からの反応は返ってこなかった。
そんな麻琴を無視して、なつみはマグカップと皿をテーブルの上に乗せる。
それからもう一度麻琴に声をかけてみた。
「晩ご飯食べにこなかったけど、ちゃんと食べた?」
麻琴の反応は無い。
それでもなつみは粘り強く続ける。
「もし何も食べてないんだったら、これ食べて良いべ。食べてるんだったら、なっちが食べるべよ」
少し冷たく言い、なつみはテレビをつけてテーブルの脇に座る。
十時過ぎではあまり面白い番組をやっておらず、ニュース番組に合わせてなつみはボリュームを絞ってリモコンを放り投げた。
「あと一分もすればトーストが冷めちゃうべ」
そのなつみの一言に、麻琴の肩が一瞬だけ反応する。
そして、のっそりと麻琴がテーブルへとやってきた。
「人間、素直が一番だべ」
トーストとミルクを渡して、なつみは自分用のコーヒーを淹れるために席を立つ。
できることなら時間をかけてコーヒーを淹れたかったが、今はそんな時間がないため仕方なくインスタントの粉をマグカップに入れ、お湯を注いだ。
ブラックのまま、かなり濃い目に作りそれを持って居間に戻ったなつみは、苦笑いする。
- 591 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:28
-
「ほんと、お腹減ってたんだべね」
見るとテーブルの上のトースターはすでに無くなっていて、ミルクも半分しか残っていなかった。
「安倍さん、すみません」
食べることで何とか調子を少し戻すことができたのか、麻琴がちょこんと頭を下げてきた。
「何に謝ってるべ?」
麻琴の正面に座ったなつみは、意地悪く麻琴に聞いてみる。
その頃には、麻琴がなぜ食堂に来なかったのかが想像できていた。
つまり、麻琴が夕食を食べなかったのはあさ美がいたからだ。
あさ美は食べるのが遅く、特に夕食ともなると一時間ほどかかって食べていた。
そんなあさ美と顔を合わせたくないのなら、それはつまり、夕食を取らないことを意味していた。
が、そのあさ美も元気が無かった。
今日に限っては三十分ほど、しかも半分以上も残して食器を戻してきたのだ。
それを心配したなつみは部屋に戻る途中のあさ美に声をかけてみたが、あさ美は曖昧に頷いただけで何も聞くことができなかった。
「こんな遅くに部屋に来ちゃって、すみませんでした」
正面に座った麻琴がちょこんと頭を下げてくる。
そんな麻琴に優しく声をかけるなつみ。
「別にここにくるのは構わないべ。ただ、何があったべ?昨日はそこまでひどくなかったべよ?」
昨日までの麻琴は食欲も普通で、あさ美とも普通に話していた。
それが今日になってこうなってしまったのだ。
(いったい何があったべ?)
小さな不安が大きなそれへと変化していくなつみを尻目に、麻琴がゆっくりと頭を上げた。
その目はすでに元に戻っていたが、頬はまだ少し窪んでいる。
「……そうですね。この一日でいろんなことを再確認しました」
なつみは、麻琴が何を言っているのか分からなかった。
が、それも一瞬だった。
次の瞬間には、堰を切ったように話し始めた麻琴の言葉に耳を傾けなければならなかったからだ。
そして、なつみには麻琴が話していることの半分も理解することができなかった。
- 592 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:28
-
最近、麻琴は新垣里沙とつき合い始めたこと。
それに伴って高橋愛に別れ話を切り出したこと。
小川真琴は紺野あさ美が好きだったが、それを諦めたこと。
紺野あさ美は一回死んでるということ、などなど。
十分ほど喋り続けた麻琴が荒い息を吐いて、ようやく静かになる。
その息も聞こえなくなるまで待ってから、なつみは話し始めた。
「つまり、まこっちゃんが言いたいのは、自分の環境がすっかり変わっちゃったってことだべね」
半分しか理解できなかったが、麻琴が主張したかったのはそういうことだったのだろうと、なつみはぼんやりと理解する。
「それで、二人のまこっちゃんは困ってるべね」
さきほどの話を総合してなつみが下した結論はそうした単純で、そして、明快なものだった。
が、それ以上なつみにはどうすることもできず、ただそうとしか言うことができない。
「とてもじゃないけど、あさ美ちゃんとは話せません」
掠れた声で麻琴が言う。
それをなつみはただ見るだけだった。
何かを言いたかったが、どう言って良いのか分からず言葉にならない。
ただ、漠然とさきほど思い描いていたことが蘇ってきた。
そして、そのことを後悔する。
すれ違ったまま、それに気づかずに進んでしまった真琴とあさ美の関係が修復不能なまでに壊れてしまった。
それを受けて麻琴と里沙の関係も少しずつではあるが影響を受けている。
自分を素直に出せなくなってしまった小川真琴に、自分を素直に出すことを覚えてしまった小川麻琴。
その二人の違いが明確に現れた瞬間だった。
そして、結果としての二人の混乱がそこにあった。
「すみません、今日はここに泊まらせてもらえませんか?」
弱々しい声で言ってくる麻琴に、なつみは飼っていた犬のことを再び連想する。
そして、漠然とだが確信してしまった。
この二つ、いや、三つに違いは無いのかもしれない……と。
- 593 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:29
-
――――――――――
- 594 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由2 投稿日:2005/02/16(水) 12:29
-
結合することに何の意味がある。
人は生まれたときから独りで、死ぬまで独り。
その中で誰かと結びつこうとするが、それも無駄な努力だ。
結局は単なる勘違いで、そして、単なる自己満足に過ぎない。
安定という虚構に逃げ込む、愚かな行為だ。
そこで得た力というものも、結局はまやかしでしかない。
その力で私を凌駕することはできるかもしれないが、それも、所詮はそれまでだ。
結合した事実が確実にあれらを追い詰めるだろう。
人は死ぬまで独り、それを意識できないような力など、私には必要ない。
それに、あったとしても役には立たない。
その意味において、あれは失敗だった。
しかし、それも経験だ。
あのような不必要な力を取り込まないよう注意すれば良いだけの話だ。
だから、好きにさせておこう。
どうせ、あれらには何もできないのだから。
虚構に身を委ね、それを自己の力だと勘違いしているに過ぎないのだから。
- 595 名前:いちは 投稿日:2005/02/16(水) 12:37
- 今回の更新は以上です
長くなりました
今回の話で第一話以前の話がちらほら出てきます
本来ならここに載せた第一話が第四話のはずでした
ただ、話によって主人公が違っていたので、ここに載せるのは差し控えて
結果だけを載せるという形にしました
後々少しフォローはするつもりです
次は「想いのなかの迷い、それから得る自由3」になります
それでは
- 596 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/02/20(日) 00:55
- だいぶ確信に迫ってきましたね。過去のことも分かり、進展もあったわけですが、何か腑に落ちないのがあるんですよね。 そこらへんも考えて更新待ってます。
- 597 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/02/23(水) 22:11
-
想いのなかの迷い、それから得る自由3
- 598 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:12
-
「最近、兄ちゃんの口数がやけに多くなってきたような気がするねん。さっきの話にしても然り、昨日の話も然り。なしたんやろな……」
「せやけど、兄妹やったら話くらいするやろ?」
「そう言うてもなぁ……。聞くウチの身にもなってくれよ。絶えず変な話を聞かされるウチの立場ってやつをさ……」
「ええやん、それくらい。それに、祐一はんも悪気があって言うとるわけやないやろ?」
「違うねん。あいつは絶対、話しとる間にウチからいろんなもんを吸い上げとるんやって。こう、ちゅ〜ってな感じでさ」
「裕ちゃんから盗るもんってあるの?」
「そりゃあるやろ。若さとか……若さとか、若さとか」
「なんやのそれ。それに、裕ちゃんから若さ盗ったら、余計結婚できんくなるやん」
「大きなお世話や。来年までにはしたるからな」
「来年、来年って、もう八年くらいそう言うとるような気が……」
「あっちゃん。何か言ったか?」
「いや、単なる独り言やねん。気にせんといて」
「はぁ……。ところでみっちゃん、今日はやけに口数が少なくないか?気分でも悪いんか?」
「いや、そんなことは無いよ。ただ、考えてただけ」
「考えるって、兄ちゃんの訳分からんやつを?」
「そう裕ちゃんは言ってるけど、私には何となく分かる気がするよ。だってさ、今、奇術師って『攻撃』、『使役』、『作成』の三つにカテゴライズされてるわけでしょ?だけど、この三つだけには収まらない人なんかも出てくるの思うの。たとえば、私みたいなのとかね」
「……」
「私の根源は『虚無』だって言われてるけど、結局はそれだけで、私には何もできないもん。裕ちゃんみたいに火の玉を出せるわけでもないし、あっちゃんみたいに悪魔を使役したりもできない。本当は何か能力があるのかもしれないけど、今のところ、それが目に見える形で現れてるわけじゃないからね」
- 599 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:12
-
「「……」」
「だからってわけじゃないけど、考えるんだ。もしかすると、この三つのカテゴライズってのは間違えなのかもしれないって。みんな、本当はもっと別の形で根源を認識するんだけど、それだと具合が悪いからってことで、無理やり三つに区分したんじゃないかってね。無限かどうかは分からないけど、人が持っている根源っていうのは個人個人が認識するものであって、それを周囲の、それこそ『ばら撒かれた出来事』で方向づけられるものだと思うの。だけど、これには悪意があるものとそうでないものとがあって、よほど注意しないとそれがどういったものなのかっていうことには気づかないし気づけない。そうした悪意の出来事ってのを協会がばら撒いてるんじゃないかな?」
「「……」」
「あれっ?私、何か変なことでも言った?」
「……いや、みっちゃんの話を聞いとると頭が痛くなってきたねん」
「裕ちゃん、それはウチも同じや」
「そんなに難しいこと言ったかな?」
「いや、話は分かるねんけど、どうも、そうした議論ってやつをするのが苦手でな。それに、ウチなんかは単に壊すだけが専門やから、普段、そこまで深く考えんでもええし……」
「それ言うたらウチも似たようなもんやで。ウチの使うとる餓鬼なんか単純やから、そうそう難しいことなんてできんしな。できるとしてもせいぜい、新聞を持ってくるくらいや。この前なんか家の鍵をあいつらに開けさせてみたら、十匹がかりで一時間もかかったねん。そのうち一匹なんか何を血迷ったか鍵を食ってしもうてな。スペアの鍵があったから良かったものを、あんときはほんまに冷や汗掻いたわ」
「あっちゃんの場合、単に横着したかっただけやろ?自業自得やん」
「ウチもそう思うたからあれ以来、あいつらには何もさせてないで。ただ、それでかなり不満は溜まっとるみたいやけどな」
「私からしたらそんな裕ちゃんやあっちゃんが羨ましいんだけどね……。今度、祐一さんの話でも聞きに行こうかな」
「聞きに行くなんて生っちょろいこと言わずに、そのまま持って帰ってくれんか?そのほうがウチもすっきりするねん」
「いや、それはちょっと……」
- 600 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:13
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 601 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:13
-
……。
……。
ダメだ、全然反応が無い。
ため息を吐いて空を見上げるわたし。
その仕草はわたしがわたしの意志でしていたけど、それをわたしはそうだと認識することができなかった。
ほら、わたしが誰なのか分からなくなってる。
やっぱりおかしくなったんだ。
……。
……。
違う。
ずっとおかしかったのが、ようやく表に出てきただけなんだ。
今までもずっとおかしかったけどわたしは真琴を放棄することで、そして、真琴はわたしのいないところでストレスを発散することで、そのバランスは保たれてきた。
だけど、昨日は違った。
真琴が、わたしを完全に抑え込んだ。
表に出ているときは絶対出てこようとしなかった、あの真琴が……。
あのとき、あさ美ちゃんや愛ちゃん、それに吉澤先輩と話をしていたのは、たしかにわたし。
なのに真琴はそれを押しのけて、わたしを無理やり引きずりおろして代わってしまった。
前まではこんなことってなかったのに……。
引きずりおろされた後のことは、ぼんやりだけど覚えていた。
だけど、それはこれまでのように正確な真琴の情報ではなく、ちょっと気を抜けばすぐにでも忘れてしまいそうな、錯覚とでも言うべき脆弱なものだった。
ほら、昨日までは真琴が何をしてたのか分かってたのに、それもできなくなった。
これって、壊れたってことだよね。
そんなわたしに自分のものでもなく、そして、真琴のものでもない誰かの声が聞こえてくる。
『邪魔なんでしょ、もう一人の自分が。消したいんでしょ、もう一人の自分を』
昨日から聞こえ始めたその声はわたしと全く同じなのにわたしでなく、真琴と同じようで真琴とも違う、そんな声がわたしの頭の中に響いていた。
そして、そんな声にわたしはろくに言い返すことができないでいる。
- 602 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:14
-
だって、その通りなんだから……。
今まで何となくだけど分かっていたから、何をしても見逃してきた。
だけど、今は真琴が何を考えているのかがさっぱり分からない。
唯一分かるのは、真琴がわたしを消したがってるってこと。
だったら、わたしも自分の身は守らないといけない。
でも、なんで?
『あなたはあなたで、あの人ではない。簡単でしょ?』
そう、わたしは小川麻琴であって、小川真琴ではない。
それでも、以前はこの関係でうまくいっていた。
だから、続けようと思えば続けることもできるはず。
なのに、どうしてこうなったの?
『あなたとあの人が全く違ってしまったからよ。それくらい分かるでしょ?』
わたしと真琴の違い?
それって、何?
どこにあるの?
『あなたは幸せになったけど、あの人は不幸せになった。そのことでお互いがお互いを認めることができなくなったのよ』
「違うっ!」
わたしの声だけど、絶対にわたしの声でないそれに思わず叫び返すわたし。
真琴だって、もう少し素直になってくれたら、あさ美ちゃんだって分かってくれるはず……。
真琴があさ美ちゃんを避けてるから、悪いんだ。
『それも言い訳ね。避ける原因を作ったのは、紛れも無くあなただった。忘れたの?』
その声と同時にわたしはそれまでいた屋上から、別の場所へと一瞬で移動する。
薄暗い、埃っぽい、そして、殺気が満ち溢れたあの場所へ……。
あのときは気絶していたわたしだったけど、このときは違った。
ちゃんと意識はあって、真琴と柴田さんの二人のことが良く見えた。
血を大量に流した真琴の顔は、だいぶ離れたわたしから見ても白く、そして左手が無くなっていた。
そんな真琴が右手だけでナイフを振り上げ、それを柴田さんの胸に突き刺す。
声にならない声を上げて仰け反る柴田さん。
それを追おうとして転がっていた瓦礫に躓いて倒れる真琴。
その間に柴田さんは真琴の前から消え、起き上がった真琴もすぐにわたしの目の前からいなくなった。
- 603 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:14
-
『こうなってしまったのは、誰のせい?』
…………う
『ほら、もうすぐ紺野あさ美がやってくるわよ』
………がう
『ほら、間抜けな紺野あさ美がやってきた』
「違うっ、わたしじゃないっ!」
叫んだのと同時に再び元の屋上へ戻ってくるわたし。
だけど、立っていることができなくて、後ろにあった壁にもたれるようにして座った。
息が荒くなっているのを必死に落ち着かせようとするけど、それもうまくいかない。
そして、そんなわたしの頭にまた、あの声が響いた。
『何が、どう違うの?あのとき、たしかにあなたは自分にしかできないって思ってたでしょ。その驕りが、今を招いたのよ』
「……違う、そんなつもりはなかった」
あのとき、わたしは柴田さんに元へ戻って欲しいって、純粋に思った。
そう思ったこと自体、間違えだったの?
『そんな人間的な感情は、あなた達には必要ない。なぜなら……』
誰のものなのか分からないその声は、その言葉を最後にして聞こえなくなる。
だからといって、それで解放されるほど単純なわたしでもなかった。
緩慢とした動作で時計を見てみる。
一時にもなっていなかった。
だけど、今日はもう動きたくない。
身体が動くことを拒否していた。
ほんと、どうしたんだろ、わたし……
空を見上げてみるけど、そこにあるのはいつもの空なのにわたしはそれをそうだと認識することができなかった。
- 604 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:15
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 605 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:15
-
「それってSF?もしくはファンタジー?」
「さぁ……でも、本人は信じてるみたい」
昼休憩の食堂、にぎやかなその一角でそう半分噴き出した里田まいに、吉澤ひとみはチャーハンに入っている炒り卵を慎重に取り除きながら答えた。
同じクラスの里田まいは吉澤ひとみの貴重な親友だ。
そのまいに、ひとみは昨日の出来事を話していた。
そして、それを聞き終わった第一声が最初の台詞だった。
「ていうか、生徒会ってつくづく変なのが多いよね。よしこを筆頭にしてさ」
ホットドックを齧っているまいに、ひとみは思わず顔を上げてまいの顔を睨みつける。
しかし、小川真琴も多少はたじろぐその視線も、まいには全く効果が無かった。
そんなまいに対し、小さく、そして言い訳がましくつけ足すひとみ。
「変なのが多いのは認めるけど、なにも私の名前を最初に出すことはないんじゃない?」
「あれ、変人ってのを自覚してないの?」
「変人って……それって趣旨がずれてるよ」
憮然としながらようやく卵を取り除き終わったひとみは、残った卵以外の部分をがっつき始める。
そんなひとみをまいは白けた目で見ていた。
「よしこって十分変人だよ。だって、普通の人はそうやって食べないって」
まいはホットドックを持った右手でひとみのチャーハンを指差してくるが、それに対してひとみは首を傾げて言い放つ。
「普通って何なのさ。それに、好きなものを最後まで取っておきたいのは感覚的に普通なんじゃないかな?」
「それにしたって、卵が好きってのも変じゃん。肉とかなら分かるけど……」
「私にしたら、そっちが変だよ」
まだ何かぶつぶつ言っているまいを無視してひとみはチャーハンに集中する。
が、それも長続きはしなかった。
というのもチャーハンがすぐに無くなってしまったからだ。
残った卵をいとおしそうに眺め、少量のそれらを蓮華に全て乗せる。
- 606 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:16
-
「で、何の話をしてたんだっけ?」
「紺野が一度死んでるって話だよ」
そう言ってひとみは卵を口の中に入れ、わずかな咀嚼でそれらを飲み込む。
これでひとみの昼食は終わった。
あとは晩まで補給無しで過ごさなければならない。
「あぁ、生徒会室の隅っこでずっと干し芋食べてる……」
「そういうイメージしかないのかよっ」
斜め上を見て固まったまいにツッコミを入れるひとみ。
ツッコミを入れられたまいは直撃していなかったが、仰け反ってくれた。
「でも、そういうのも大事なのかもね」
「何それ?」
「いや、こっちの話」
まいに聞こえないようにぼそりと呟いたひとみだったが、なぜか聞かれていたことに戸惑い慌てて視線を逸らす。
そして、感覚だけで置いていた湯呑を持ち上げて口へと持っていく。
そんなひとみにまいが小さくなったホットドックを口の中へ放り込み、ずいっと顔を近寄せてきた。
「ところでさよしこ、最近どうなの?」
「どうって何が?」
それまでの話題を全く無視したまいが耳元で囁きかけてくるが、これはいつものことなので特に驚くことではなくひとみも普通に対応する。
お茶を流し込んで息を吐こうとしたが、次に出てきたまいの言葉に口に含んだお茶を吹き出しそうになり、慌てて口を閉じる破目になってしまった。
「どうって一つしかないでしょ。あの娘とは、どうなったの?」
「ま、まいちん、どうしたの、急に?」
半分ほど気管に入ったお茶のせいでやたらと咳が出てくるが、それに構わずひとみはまいを見る。
半ば睨みつけたひとみだったが、やはり、まいには効果が無いようだった。
「亀井ちゃんだっけ?あの娘とはどうなってるの?」
「……いたって良好だよ。何で聞きたがるの?」
下手に話を逸らすと余計に踏み込まれる恐れがあり、最低限度しか答えないひとみ。
が、このときのまいはそれくらいでは引いてくれなかった。
湯呑を気まずそうにもてあそんでいるひとみにずいっと近寄ってくると、ひとみの耳元でなぜか囁きかけた。
- 607 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:18
-
「どこまでいったの?」
「どこまでって、どこにも行ってないよ。私はここにいるし、亀井はF中にいるよ」
まいから顔を離して言うひとみだったが、顔が赤くなっていることは自覚できていたし、まいの視線が全く逸らされていないこともすぐに分かった。
だからといってそれ以上話すことも無く、ひとみはお盆を持って立ち上がる。
「えっ、何も言わないで行っちゃうつもり?」
「だからさ、私はここにいるって」
あくまで会話を成立させないよう努力したひとみは、まいの前から逃げ出すようにその場を離れた。
食器をカウンターに返し急いで出口を目指すが、そこにまいが立っていることに気づき、少しだけ躊躇する。
が、それもほんの一瞬で、ひとみはすぐさまその足を前へと踏み出した。
「ちょっとくらいは話してくれても良いんじゃない?」
「だから、何をさ」
居心地が悪くなり自然と足早になるひとみ。
そんなひとみの後ろをまいはひたすらついてきていた。
(やっぱ、言わなきゃいけないのかな……)
親友とあって、絵里とつき合うという最初の報告だけは済ませ、それで終わりにしたつもりだったが、どうやら途中経過も必要らしい。
それを後ろについてきているまいからひしひしと感じ、ひとみは大きくため息を吐いた。
そして、諦めてまいに振り返る。
「キスはした。だけど、それ以上はしてない」
できるだけそっけなく言い、追随を許さないという態度は表明したつもりだったが、やはりこの親友は曲者で、そんなひとみに配慮することなく言葉を被せかけてきた。
「よしこにしてはめずらしいね、キスなんてしてさ」
「……まいちん、どういう意味?」
ひとみとしては「なんだ、まだ押し倒してなかったの?」くらいの言葉を覚悟していたが、まいの口から出てきた言葉はそれとほとんど正反対だったため、少なからず動揺する。
聞き返すにしても少し間が空いたことでそれを意識してしまったひとみは、咳払いをして何とかごまかそうとしたが、それよりも先にまいが話してきたため、結局、咳払いもできなかった。
- 608 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:18
-
「だってさ、前なんて『良く分かんない』とか言って振ってたでしょ?それに比べたらずいぶん進歩したんじゃないの?」
まいに言われ、ひとみはしばらく考えてみて、それを言ったときのことをようやく思い出した。
そして、苦笑いしながら答える。
「あのときは突然だったし、相手のことも良く知らなかったんだ。だから、それを正直に言っただけ」
「でもさ、相手は結構格好良かったよね」
「さあ、覚えてないね」
口ではそう言ったひとみだったが、そのときの相手(男だった)があまりにもしつこかったため、頭を軽く小突いたら泣き始めたということまで思い出してしまい、げんなりとした気分になってしまった。
「絵里はね、あそこまでやわじゃないよ。芯はしっかりしてるんだ」
「それが本音だね」
なおも追求してくるまいにひとみは力なく頷く。
下手に憶測を並びたてられるよりかは、認めてしまったほうがはるかに気が楽だったからだ。
「じゃあさ、今度はちゃんと頑張らないといけないね」
まいの口から出てきた意味深な一言に眉を顰めるひとみ。
良く考えてみてもその意味が分からなかったため、素直に聞いてみることにした。
「まいちん、どういうこと?」
「だってさ、今度は『自分が分からない』って言って逃げることはできないからね。ちゃんと掴まえててあげなよ」
どうやらまいはどこまでもひとみの親友であり、それをいまさらながら感じたひとみだった。
「分かった、逃げられないように努力するよ」
そう真面目に答えたひとみにまいはなぜか笑いを堪えた顔を向けていたが、その程度のことは些細なことだと受け流すひとみ。
そのひとみが見ていたのは単なる正面ではなく、そことは別の場所だった。
- 609 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:18
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 610 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:19
-
中澤裕子は、寝ぼけた頭で近くに置いてあった時計を確認した。
そして、擦れた声で呟く。
「なんだ、まだ二時か……」
何時に寝たのか良く覚えていなかったが、それは裕子にとって瑣末なことでしかなかった。
ソファから体を起こし、朽ち果てたドアを開けて地下へ向かう。
その地下は稲葉貴子にも教えていない、裕子だけの空間だった。
そこへ降り立ち、裕子はまずシャワールームでシャワーを浴びることにした。
水しか出ないシャワーを身体に受けるが、それを冷たいと感じる裕子ではなかった。
なぜなら、自分の周囲に薄いシールドを展開しているからだ。
そのシールドは普段の焼き尽くすような熱気を帯びてはおらず、反射させることも無い。
ただ、頭から降ってくる水の温度を上昇させることが目的だった。
適度に温かくなった水を全身で受け、しばらくの間、棒立ちになる裕子。
その頭の中ではさまざまな時間が入り乱れて、それぞれの言葉で何かを語っていた。
『裕子には裕子しか知り得ない存在意義ってやつがある』
『本当の私っていうのは、こことは別の場所にいるのかもしれない』
『せやけど、ウチはウチや。こうしてここにおるで?』
『それは君が全く想像し得なかった言葉かもしれないし、結構ありきたりな言葉なのかもしれない』
『自分だけが知り得る意義、それを探しても良いんじゃないかな』
『ウチの仕事は壊すことで、ウチもそれを受け入れた。どこに問題があるねん』
『悩むことから逃げるのは得策とは言えない。だけど、それでも人間だ。そうしたくなるときもある』
『裕ちゃんが本当にしたいことって、それなのかな?』
『ウチは中澤裕子。それで十分やないか!』
(あんときは変に意固地になってたな)
兄が語った言葉があり、みちよが語った言葉があり、そして、自分が語った言葉がある。
兄とみちよが何となくだが似ていたのには気づいていたが、それでも小難しいことを考えるのが苦手だった裕子はそのことに対して深く追求しなかった。
というよりも追求できなかった。
- 611 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:19
-
「あんときにちゃんと考えとけば、違う今になっとったのかもな……」
小さく呟き、自嘲の笑みが出てしまった裕子は、それを打ち消すべく周囲に展開していたシールドを少しだけ強くする。
それと同時に身体に降りかかっていた水滴が遮断され、周囲が水蒸気によって包まれた。
目の前が揺らぎ、それが立ちくらみだと知った裕子だったが、それに対して特に何もしない。
ただ、ぼんやりと水蒸気の靄を見つめるだけだった。
(ウチはこんなにも弱くなった)
全盛期ならばこの程度のシールドでここまで力を奪われることは無かったが、この三年間、全ての事象から遠のいていた後遺症とも言えるその現象に、裕子はしばらくその身を預ける。
そして、五分後にふらつく足を引きずってシャワールームを後にした。
脱衣所の隅に置いてあったバスローブに袖を通し、隣の部屋へと移動する。
上の廃墟とは造りが全く異なっているが、散らかっているという意味においてはそこも上とほぼ同じだった。
床に落ちているがらくたの間を縫って移動し、上に置いてあるデスクとは全く違う質素なそれに向かうと、その上に置いてあったやたらと大きなパソコンのスイッチを入れる。
そして立ち上がるまでの間、集中することによって髪を乾かした。
次に目を開けたときには無地のブルーと、両サイドへわずかに配置されたアイコンが視界に入ってくる。
が、裕子にしてみればそれもいつものことなので、特に何の感慨も無かった。
それからいつものようにマウスを動かして、ネットへ接続する。
右下に現れた接続確認の表示をあっさりと無視して、裕子はメールソフトのアイコンをダブルクリックした。
一週間に一度のこの作業だったが、それでも送られてくるメールはごく少数だった。
ほとんどが『新着メッセージなし』の表示が示されるが、その日は違っていた。
そして、送られてきたメールが表示されるのと同時に、マウスを握った右手が止まってしまった。
- 612 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:20
-
「エーデルシュタインめ……」
握ったマウスがきちきちと変な音を立てるが、その小さな音は裕子の耳に入っていなかった。
感じていたのは純粋な怒りであって、それは同時に殺意でもある。
その原因は一通の新着メール。
それはミカ・エーデルシュタインからだった。
あの事件以降、アドレスを変更したが、どうやらミカには分かってしまったらしい。
それを呪いながらも裕子はそのメールを削除することはせず、クリックして中身を表示させてみる。
そして、表示された内容を見て、裕子は純粋な怒りと殺意がピークに達するのを感じてしまった。
「こんなことをして、何になると思っている?」
内容はいたって簡単で、それは挑戦状とも言えるものだった。
その最後の部分には律儀にも(もしくは皮肉っぽく)日時まで指定していて、それはまだだいぶ先立った。
もう一度内容を確認した裕子はそれを削除して、素早くパソコンの電源を落とす。
そして、立ち上がると足早に根城を後にした。
(だいぶ先を指定してくることなんて必要ない。今、行ってやるさ)
売られた喧嘩は全て買う。
昔の裕子はそうであり、それを思い出しながら裕子はひたすら歩いた。
向かうは駅で、そこから目的地へと乗り込む。
何も相手の指定した日時まで待つ必要は無い。
それに、行っていなければ憂さ晴らしにそこを徹底的に破壊しつくすだけだ。
そう強く意識して、裕子は駅へと向かう足をさらに速めることにした。
- 613 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:20
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 614 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:21
-
「だいぶ早かったね」
「掃除当番をサボってきたんだ」
ドアを開けた瞬間にそう声をかけられ、ひとみはそれに答えながらその部屋へと入った。
そして、相変わらず散らかっているその部屋を眺める。
そこは十畳ほどの広さだったが、その両壁に立てかけられていた大きな本棚が絶えず圧力をかけてくるし、パーテーションで区切られた個室みたいなものがあったため、とても十畳の広さではなかった。
ひとみは手前にあった接客用のかなり高そうな椅子に座るが、バネの利かなくなっていたそれは虚しい音を小さく鳴らすだけだった。
「で、今日はどうしたの?」
部屋の一番奥には小さなデスクがあり、その向こうから声が返ってきていたが、それは最初の一言もそうであったため、ひとみは大して気にせず自分の用件だけを言うことにした。
「そろそろ結果が出てるんじゃないかと思ったからね」
ひとみの一言にデスクの向こうにいた彼女が肩を竦めて見せる。
それがほぼ部屋の反対側に位置していたひとみにも伝わってきて、思わず苦笑いをするひとみ。
しかし、彼女はすぐさま立ち上がってひとみのほうへとやってきた。
その彼女の手には数枚の紙が握られていた。
「あんまり多くないけど、分かったことだけはまとめといたよ」
彼女――情報屋の大谷雅恵――から紙を受け取り、とりあえず枚数を確認してみる。
しかし、彼女から受け取った紙は二枚だけだった。
「これだけなの?」
「そう、それだけしか分かんなかったよ。だから『あんまり多くないけど』って言ったの」
驚きを交えてそう言ったひとみにあっさりと返してくる雅恵。
大きくため息を吐いたひとみは、それでもこの信頼できる情報屋が調べてくれた資料に目を通すことにした。
一枚目には稲葉貴子の個人情報が載っていたが、これは特に気にすることは無かった。
貴子がF中学の教師であり、田中れいなと道重さゆみのクラスの担任であるということはすでに絵里から聞いていたからだ。
左上にホッチキスがしてあり、そこに折り目をつけて二枚目へと進むひとみ。
その二枚目は簡単な表になっていた。
- 615 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:22
-
「そこにあるのは稲葉貴子の友人関係を表にしたものだよ。一番右の欄が名前で真ん中のが職業。で、一番左は備考欄になってる」
頭の上から雅恵の声が聞こえてくるが、それくらいひとみでもすぐに分かる。
そして、資料から顔を上げて雅恵を睨みつけた。
「ねえ、これってほとんど『同僚』ってなってるんだけど……」
「あぁ、分かった?」
「これで分かんないなら、そっちのほうが問題だと思うよ」
あまり欄が多くない上に、職業欄がほとんどF中学の教師であることを示す『同僚』となっていた。
だが、決してそれだけではなかった。
下のほうから数行は今の貴子とは無関係な職業についての記入が為されていることと、備考欄の異常に気づき、それを視線だけで聞いてみる。
「それね……。何か死亡率が高いんだよね、稲葉貴子の知り合いってさ」
雅恵に言われた通り、教師以外の人間についてはほとんどが備考欄に『死亡』と記入されてあり、その例外として中澤裕子だけが空白だった。
ただし、こちらは職業欄も空白だったが……。
(まあ、そりゃそうだね。ありゃどうみてもプーだよ)
裕子とあまり接触したことの無いひとみだったが、喫茶『アターレ』の隅で静かにコーヒーを飲んでいるところを浮かべ、その後姿から仕事らしい仕事ができそうな雰囲気でなかったことを思い出して苦笑いをする。
それからひとみは絵里から聞いた話を思い出しながら、表の下のほうに注目してみた。
(あのとき、稲葉先生は『みっちゃん』って言っていた。該当する人間はいないか……?)
そして、あまり多くないその表に該当する人間を見つけ、ひとみは思わず息を呑んだ。
「ねえ大谷さん。この平家みちよっていう人間についての資料は残ってないの?」
「残念だけど、そこに書いてあることしか分かってないよ。それ以上のことが必要なら、もうちょっと時間をくれる?」
顔を上げて雅恵を見るが、ひとみの視界に入ってきたのは真剣な顔をした情報屋のそれで、それを頼むには追加料金が必要だとすぐに分かった。
- 616 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:23
-
「いや、止めとくよ」
すでに幾分か料金を支払っている上に、これ以上の負担はありがたくない。
そう判断したひとみはあっさりと引き下がって、改めて資料を見た。
(名前からして女なのはこの平家みちよしかいないけど……こいつなのか?)
一応の確認でF中の教師の名前も確認してみるが、それらしき人間は他にいなかった。
と、そこでひとみは諦めることにした。
「まあ、これだけ分かれば十分です。ありがとう」
資料をカバンの中へは入れずテーブルの上に置くひとみ。
つまり、その資料はすでにひとみの中からその価値を失っていた。
(まあ、平家みちよってのが一番怪しいってことで良いや。いざとなれば本人に聞けば良いだけのことだし……)
後はどこに平家みちよ(仮)がいるかだが、それもここ二ヶ月の行動で分かった。
絵里が最後にみちよ(仮)を見た場所が一番怪しい。
それは先日の小川真琴の行動からしても明らかだった。
そして、ひとみもそれをその目で見ていた。
(小川達には悪いけど、私にもやらないといけないことがあるからね……)
すでに気持ちを固めていたひとみは、そこでため息を吐いて気持ちを切り替え、今までの話とは全く別のことを聞いてみた。
「ところで、藤本先輩については何か分かりました?」
すると、その情報屋は思い切り顔を顰めてしまった。
「あのね、依頼人が別の情報を易々とは話せないよ」
「というよりも話すことが無いんでしょ?」
口調からそれを素早く読み取り素直にそう言うと、情報屋は何も言い返さなかった。
どうやら図星らしい。
それが手に取るように分かってしまったひとみは、小さく動いてテーブルの脇にあったポットに手を伸ばし、その横に置いてあった急須と湯呑を慣れた手つきで並べる。
茶葉が入っていないことを確認したひとみは目分量で急須にそれを入れると、続いてお湯をその中へと入れた。
本来ならば、このような仕事(といっても良いのか不安になるが)は雅恵、もしくはその助手(いるのかどうかひとみには分からなかったが)がするべきことだったが、だからといって苦言を呈するわけでもない。
ただ、時間潰しのためにやっているだけだ。
- 617 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:23
-
お湯を注いでから待つこと三分、必要以上に濃くなったお茶を二つの湯呑に注いで一つを自分のところに、そして、もう一つを雅恵の前へと置く。
それまでずっと無言だった雅恵が何も言わずにその湯呑を持ち上げていたが、それもひとみにしてみればいつものことなので、特に何も言わなかった。
「藤本美貴に関して、分かったことが一つだけある」
そんなことを雅恵が言い出したのは、ひとみが自分の淹れたお茶に思い切り顔を顰めているときだった。
そのままの顔で雅恵を見てみるが、幸い、視線が自分のほうを見ていなかったため、ひとみは気づかれないように息を吐く。
「彼女はね、先週に休学届を提出して、受理されてる。つまり、大学へは行ってないってわけ」
「休学って、いつまで?」
「さあ、そこまでは……半年かもしれないし一年かもしれない。あそこは最大二年有効だから、そこまで使うのかもしれないし、そうなる前に辞めるかもしれないね」
自分から言い出したが、結果としてあまり気持ちの良い答えをもらえなかったことをいまさらながら後悔したひとみは、松浦亜弥に対して心の中だけで詫びておく。
本来ならば依頼人である亜弥が先に聞いて、その後に聞くべきだったが、今日はそのことまで気が回らなかった。
そして、どうにも気まずい情報を得てしまったため、とたんに居心地の悪くなってしまったひとみだった。
が、そんなひとみにさらに雅恵が追い討ちをかけてくる。
「ところでさ、あんたはまだ続けてるの?」
「続けてるって、何をですか?」
「説得って名の『狩り』さ」
平然とそう言ってくる雅恵に思わず立ち上がりそうになったひとみだったが、これもすでに何度か経験していることなので、頭がすぐさま冷静さを取り戻す。
そして、座りなおしたひとみは雅恵のほうを見て、小さく笑った。
- 618 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:24
-
「嫌な呼び方しないでくださいよ。私のはあくまで『説得』です。実力行使は最後の手段ですから」
「その割にはその最後の手段の発動が多いね。今月は何人やったの?」
『やった』の『や』の部分に『殺』か『戦』を自然と当てはめていたひとみは、そうした考えを特に否定することなく雅恵に答えていた。
「今月はまだ十三人です。それに、『あれ』も当分は休業です」
「そう……なら、安心なんだけどね」
「……どういうことですか?」
雅恵のやけに含みのある言葉に眉を顰めたひとみは、その顔のまま雅恵に聞いていた。
聞かれた雅恵はひとみに視線を合わせようとはせず、ひたすらあさっての方向を見ている。
そのことに腹が立ったひとみは、すかさず立ち上がろうとしたが、まだ話を聞いていなかったため最大限の自制で耐えることにする。
「あんたのやってることだと、問題は決して解決しない。逆に、このまま続けてれば、必ずしっぺ返しがやってくるよ。その覚悟はできてるの?」
「しっぺ返しって……大げさだな、大谷さん。私はね、正しいと思ったからやってるわけで、あいつらもそれが分かってくれれば問題ないよ」
ひとみの言葉を受けて大きくため息を吐く雅恵。
その表情からは何も読み取ることができず、どう反応したら良いのか分からないひとみだった。
そして、そんな無表情の雅恵から次に出てきた言葉で、ひとみは思わず立ち上がっていた。
「だからって、あの娘まで巻き添えにしなくても良いでしょ。あんた一人でやりな」
「あんたに私と絵里の何が分かるって言うんだよ!」
テーブルから身を乗り出して雅恵の顔に近づくひとみ。
しかし、雅恵はそんなひとみの近づいた顔を無表情で見ているだけだった。
- 619 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:25
-
「あんたが勝手に怪我をするのは良い。それは自業自得だからね。だけど、あの娘はあんたじゃないんだ。それを忘れないことだね」
自分の顔から逃げるように立ち上がった雅恵を追おうとしたひとみだったが、雅恵が小さく動き、それと同じくらい小さなとすんという音で身体が一瞬硬直する。
それから音の発生元へと視線を下ろしてみた。
テーブルの、強いて言えばひとみが手をついていたすぐ横に長方形のそれが突き刺さっている。
それが音の原因だった。
「今度からはそこに連絡して。そのほうが来なくても良いだろ」
顔を向けずにそう言った雅恵に反発しようとしたひとみだったが、それも今の雅恵には効果が無いことにすぐさま気づき、長方形のそれを持ち上げた。
紙なのになぜ木製のテーブルに突き刺さっていたのかという疑問には触れることなく、ひとみはその紙の内容に目を通してみる。
それは名刺だった。
そこには大谷雅恵とは別の誰かの名前と電話番号、それにメールアドレスが書かれていた。
が、それ以外の情報は全く見当たらない。
念のため裏返してもみたが、裏面は全くの白紙で、それ以上に情報が無いことをまざまざと知らしめていた。
「分かった、ありがたく頂戴しとくよ」
名刺をブレザーの胸ポケットではなく、下に着ていたカッターシャツの胸ポケットに収め、部屋を後にするひとみ。
来たときとは違ってやけに足が重くなっているのを気のせいだと強烈に意識し、そのまま外へと出た。
どのくらいいたのかは定かではないが、周囲が薄暗くなっていることから、ずいぶん時間を使ってしまったことは想像に難くない。
というわけで、ひとみはそれまでの雅恵とのやりとりをできるだけ思い出さないようにしながら、寮へ戻ることにした。
- 620 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:25
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 621 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:26
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(何だ、ここは?)
足を踏み入れた瞬間から襲い掛かってきたその違和感に、中澤裕子は戦慄していた。
ミカ・エーデルシュタインからの挑戦状を受け取ってすぐに行動を起こしたは良いが、どうやらそれも相手の計算通りのことだったらしい。
満足した装備を整えていないこと、周辺をリサーチせず逃走経路の確保を怠ったこと、何より独りで来てしまったこと、それら全てが悪循環となって裕子の周りを取り巻いていた。
ミカが設定した決着の場所とはつまり、小川麻琴と新垣里沙が訪れたお化け屋敷だったが、そこをその二人が訪れていることすらも知らない裕子は、纏わりつく粘り気を伴った空気を引き剥がそうとしたが、それもうまくはいかない。
そして、その空気を引きずったまま、その中へと踏み込んでいった。
出てくるお化けは大して怖くない、というか裕子はそれよりもミカに警戒していた。
ここまで準備が整っているのであれば、それはすなわちいつでも裕子を殺せるわけであって、中途半端な期日は裕子に与えられた猶予にすぎない。
それを無視して敵の本拠地に飛び込んでしまった裕子は、それでも引けなくなった意地と根性で足を前に踏み出すだけだった。
一階、二階をすんなりと通り過ぎ、三階へ上がった裕子はそこで休憩所を見つけたが、それも無視して進む。
立ち止まれば足が動きそうになかったからだ。
三階もあっさりと通り過ぎ、四階へと上がる階段を見つける裕子。
それも迷わず上がり、そして、落ちた。
正確には階段の最後の一段が消えてその中へと吸い込まれたのだが、裕子にしてみれば落ちたことに変わりなく、緊張していた中にも油断があったことを激しく後悔していた。
気がつくとそこは裕子の知らない場所だった。
裕子を中心にして広がったその何も無い空間に、異変が起こる。
それは空気の歪みで、それが次第に人の形を成していくことに気づいた裕子は、そこに現れるであろう人間を睨みつけた。
- 622 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:27
-
そして、裕子は邂逅する。
ミカ・エーデルシュタインと、もう一人に……
「平家…………みちよ……」
混乱する頭を必死に落ち着かせ、周囲の状況を把握する裕子。
しかし、見てしまったものが消えるわけではなかった。
「やっぱり来たでしょ?」
「……そうだな」
裕子の行動を読んでいたかのような口調でミカがそう言い、無表情でみちよが続く。
「何でお前らが一緒におるんや?」
三年前ではあり得ない光景を目の当たりにし、思わず声が上擦ってしまう裕子。
そんな裕子に対してミカが平然と返してきた。
「私とみちよさんの利害が一致した結果です。あなたには大して関係ありません」
「利害……やと?何が目的や!」
「それを言うほど私もお人好しではありませんよ」
ミカの口調に苛立った裕子が、彼女に飛びつくべく足を踏み出すが、その足は最初の一歩しか出ることは無かった。
正面にいたミカが手を挙げるのと同時に身体を何かで拘束される裕子。
それは人間のそれとは言えないような力で、耐え切れなくなった身体がすぐさま床へと倒される。
それでも裕子は頭だけを何とか持ち上げてミカとみちよの二人を睨みつけていた。
「本当に単純になりましたね、中澤裕子。まあ、それは昔と変わりませんか」
ゆっくりと近づいてくるミカに対し、口を開こうとした裕子だったが、それをするよりも先に見えない何かによって口を強引に閉ざされてしまい、攻撃の機会を逸してしまう。
そんな裕子に対してミカは笑っていた。
「あのときのあなたはほとんど本能の塊と化してました。その結果として我々が敗れたのであって、それも弱体化してしまえば、実に簡単になります」
ミカの言葉のすぐ後にやってきたのは衝撃で、それから数瞬して裕子はミカに蹴られたのだと理解した。
- 623 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:27
-
(よくも、女の大事な部分を!)
できることならこの場で焼き尽くしたいが、それをするための動作が全くできず、裕子は目だけでミカを威嚇してみる。
しかし、ミカにはその威嚇も通じなかった。
足が再び裕子の目の前に迫ってきて、今度はそれが頭の上から負荷をかけてくる。
床にめり込まんばかりのその力に反発しようにも全身の力が抜けてしまった裕子には、何もできることはなかった。
ただ、心の中にある殺意を研ぎ澄まし、隙を見つけることだけに集中する。
「このままあなたを殺しても良いのでしょうけど、それでは、これまで私が受けてきた屈辱が消えるわけではありません」
ほんの少しだけ見えるミカの表情は歓喜に満ちているといった笑みで、それを見た裕子はさらに殺意を研ぎ澄ませる。
が、不意にその足が裕子の顔から離れ、それまで見えていたミカの歪んだ笑みも視界の外へと逃げてしまった。
「どうですか、この空間は?すばらしいでしょ?」
演技くさい仕草で何も無い空間を指し示すミカ。
それを裕子はただ睨みつけるだけだった。
「あなたを殺すために造った場所です。ですが、私にはまだ、あなたを殺すための道具が手に入っていません」
やはり芝居がかった仕草で大きく首を横に振るミカに、みちよは肩を竦めるだけだった。
そして、その肩を竦めたみちよにミカが振り返って言った。
「ここはあなたに任せます。適当に時間を潰したら、放り出してください」
裕子はそのときになって全身の拘束が解かれていることに気づき、すぐさま立ち上がって懐に忍ばせていた封を切っていないピースを箱ごと投げつけた。
そして、その箱に向かって自分の能力を解放する。
それと同時にそれまで抑えていた大切な何かが切れるのを、裕子は他人事のように確認した。
- 624 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:28
-
「燃え尽きろっ!」
それまでの研ぎ澄ました殺意をより一層明確にし、ピースへと伝える。
その単なる箱は裕子の意志に耐え切れるはずも無く、次の瞬間、大爆発を起こした。
シールドを展開することすら忘れていた裕子は、その爆風に吹き飛ばされ地面を転がるが、それでも感覚だけで正面にいた二人を見据えていた。
しかし、煙が収まったその先を見て、絶句をすることになる。
「あなたの炎はその程度ですか。本当に、弱くなりましたね」
「あれくらいだったら避けるまでも無いな」
呆れたといった感じで首を左右に振るミカと小さく肩を竦めるみちよは、共に無傷だった。
(ダメージを受けたのは、私だけか……)
全身のいたるところが悲鳴を上げてくるが、それでも裕子はそれを表に出すことなく、両足を床に突き刺すようにして立ち上がった。
全身から殺意を解き放ち、それを隠すようなこともしない。
気持ちだけはあのときへと戻った裕子は、己の意志で二人を睨みつけた。
「その視線で殺すことができるのなら、今のあなたは何人殺せるんでしょうね?」
その裕子の視線に対して皮肉を言ってくるミカ。
その隣にいたみちよが裕子に向かって一歩を踏み出してきた。
そして、ミカなのか、それとも裕子なのか分からないが、言葉を発する。
「おそらく、誰も殺せないだろうな」
それを聞いたミカの姿が掻き消え、残ったのはみちよと裕子の二人だけになってしまった。
消えてしまったミカの気配を必死に探る裕子。
しかし、それよりもみちよが動くのほうが早かった。
「中澤裕子、どこを見ている」
すぐ目の前で聞こえてきたみちよの声に、慌ててシールドを展開する裕子。
しかし、ほとんど零距離と言っても過言ではなかったその状況では、その行為も虚しいだけだった。
シールドの内側への侵入を許し、なおかつ無駄なシールドを展開したことで疲労してしまったという二重の愚行を呪いながら、裕子はそれでも後ろへと飛ぶ。
が、ただ後ろへ飛ぶだけではなく、宙で身を捩ることができたのは、それまで培った経験が為しえた技だった。
そして、それを実感させるようにみちよの腕が紙一重で通り過ぎていく。
- 625 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:29
-
「ふむ……やはり、まだ馴染んではいないか」
当たらなかったことをさほど嘆くわけでもなく、淡々と続けてくるみちよ。
そんなみちよに対し、裕子はどう対処すべきか迷っていた。
「なんで、あいつと手を組んだ?」
それまで感じていた疑問をストレートにぶつけてみるが、やはり相手の反応は期待できるものではなかった。
裕子の問いかけに小さく肩を竦めてきたみちよが小さく笑い、少しだけ視線を上げる。
「ミカ・エーデルシュタインの出した条件が私のすべきこととたまたま一致した。ただ、それだけだ」
「お前の目的は何だ?」
すかさず疑問を被せかける裕子だったが、そのときの裕子の頭には、残留思念となったみちよの語った目的が鮮明にリピートされていた。
『私は、ヒトの限界を知りたい』
あのときのみちよは確かにそう言い、そして、この世界へと戻ってきた。
ならば、目的もそれと同じはずだ。
そう思った裕子はすぐさま言葉をみちよに対して浴びせかけた。
「こんなことでヒトの限界なんて分かるのか?ただ、他の誰かの能力を吸収しているだけだろ?」
「私がしているのはそれだけではない。もっと別のこともしているさ。そして、その目的も多少なりとも変更しなければならないことにも、気づくことができた」
「目的の変更?」
「そうだ」
できることならその変更した目的も聞き出したかったが、それを言うほどみちよも短慮ではないらしい。
口を噤んでしまったみちよに対し焦りと憤りで自制が効かなくなってきた裕子は、懐から封を切っていたピースを取り出し、落ち着かない仕草で火を点ける。
少しでも落ち着こうと取り出したピースも、このときだけは逆効果だった。
「なあみちよ。何でお前はこんなことをしてるんだ?こんなことをして、何の意味がある?」
紫煙を吐き出すがその紫煙が鬱陶しく、それを苦々しく見据えながら、同時にその先にあるみちよの姿も見据える裕子。
しかし、みちよはこんな裕子の心境に構うことなく平然と、そして冷静に続けてきた。
- 626 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:29
-
「私には意味がある。ただし、それを理解してもらおうなどとは思わない。私がしたいからする。ただ、それだけだ」
「そうかい。なら、私も好きなように動かせてもらうよ!」
まだ半分ほど残っていたピースをみちよに向かって投げつけ、いつもの手順でそれに裕子の意志を伝える。
元来、物を燃やすという能力を有していた裕子にとって、それをいきなり顕現させるのは難しい。
だから、何かの媒体を使ってそれをより正確に、そして、より強固に実現させていた。
「それはもう通じないぞ」
しかし、裕子の能力を吸収していたみちよが素早く動き、宙に浮いたピースを掴み取る。
それから半瞬遅れてみちよの手の先で小さな爆発が起こるが、それは単なる誤爆に過ぎなかった。
だが、そのとき裕子はすでに動いていた。
ピースとそれによる爆発は単なるきっかけに過ぎない。
少しでもみちよの注意を引きつけることができれば良かったのだ。
みちよとの距離は五メートル。
それを最短距離で縮めながら裕子は右手を伸ばす。
その先にはみちよの左腕があった。
(掴むことができれば、一番強い力で壊すことができる)
接触することで一番その能力を強固に発揮できるため、それを遂行するためだったが、やはりこのときの裕子は衰えていた。
全盛期ならば一秒足らずで縮めることができたその距離も、このときは二秒もかかってしまった。
そして、それはみちよに対しても隙を与えてしまうということを意味していた。
伸ばした裕子の手がみちよの左腕を掴むことなく、宙を切る。
それはみちよが一歩後退しただけだったが、裕子にしてみれば大きな隙になった。
ほぼ前のめりとなった裕子はとっさのことで体勢を整えることができず、自由だった左手を床について何とか転倒することだけは免れる。
しかし、その裕子の左腕にみちよの右手が文字通り噛みついてきた。
- 627 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:30
-
「これは柴田あゆみから吸収した能力だ。単純な割には使い勝手が良いぞ」
「……そうかいっ!」
激痛に耐えながら前へ突き出していた右手でとっさにみちよの腕を掴む。
そして、かなり純化された己の意志を右手からみちよの腕へと直接伝えた。
「砕けろ!」
裕子の言葉と同時に吹き飛ぶみちよの右腕。
それと同時に裕子は自由になった身体を起き上がらせて素早く距離を取っていた。
「ふむ。零距離で、しかも体内への直接攻撃は防御できないか……」
右肘までを失ったみちよだが、その口調には痛みを感じさせるどころか、裕子が発する殺気に対しても全くの無関心だった。
「今度のは効いただろ?」
今までは全くの手ごたえが無かった分、みちよが確実に負傷していることが確認でき、それが少なからず裕子の中にある根源を満たしていく。
しかし、そんな満たされた感覚もほんの一瞬に過ぎなかった。
みちよが少しだけ動いて右肘を持ち上げる。
その直後には傷口から何かが蠢いて、そして、次の瞬間にはそこから右手が生えてきたのだ。
新しく生えた右手を軽く握って使い勝手を確認していたみちよが、下げていた視線をわずかに上げて裕子を見てくる。
そして、ろくに動くことのできなくなっていた裕子に向かって言ってきた。
「あの程度の攻撃は攻撃とは言わない。単なる牽制だ。私を殺そうというなら、一瞬で全身を吹き飛ばすくらいの火力は欲しいな」
自分のことをあっさりと他人事のように言ってくるみちよ。
それを裕子は呆然と見ることしかできなかった。
「一つ勘違いしているようだから言っておく。お前が感じている私との繋がり、それはまやかしに過ぎない。お前の勝手な思い込みだ」
そう言ったみちよから異様な音が聞こえ、それが背後からだと気づいたときには異変が明確なものとなって現れていた。
- 628 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:31
-
「私は私の意志で動くことができる。お前のように繋がっているという不自由はそこには存在しないぞ」
背中に生えた羽を大きく広げるみちよ。
それだけでも威圧感がひしひしと伝わってくるのが、それでも裕子は目の前の異形となったみちよに語りかけた。
「私はお前を殺した。だから、お前はその私を殺そうとする。それが全てではないのか?」
「前は確かにそう感じていた。だが、それも所詮は人間の考える底の浅いものだと気づかされた。つまり、私はもう誰にも束縛されない。私は自由だ」
「お前は変わったのか?」
「違う、単に気づいただけだよ」
前回会ったときは『次を待て』と言っていたのに、あっさりとそれを反故にしてくるみちよに対し、裕子はとっさに前へ出ようと足を踏み出す。
しかし、そんな裕子の緩慢な動作よりも、みちよのほうが数倍速かった。
裕子の視界から突如、みちよの姿が消える。
正確には消えたわけではなく、裕子の目に留まらないよう高速で移動しているだけだったが、裕子にしてみればそのどちらでも大差は無かった。
突然やって来た衝撃に受身も取ることができず裕子は吹き飛ばされる。
真正面からやってきたその衝撃があまりにも強く、息が詰まった裕子はろくに反撃をすることができなかった。
「次を待つまでも無かった。そして、殺す価値も無かった。ただ、それだけのことだ」
仰向けに倒れた裕子の視界に入ってくるみちよの顔。
しかし、それを裕子は見ていなかった。
見ていたのはこの三年間、傲慢にも現状に満足してしまい、己を高めようとしなかった裕子自身だった。
(この三年、何をしてたんだ?)
己の中で膨らんでいく嫌悪感に飲み込まれながら、自分の顔に向かって大きく吐き捨てる。
だが、それでも現実は変わることはない。
それを意識して、裕子は無理やり身体を起き上がらせた。
「私にはもう、お前は必要ない。ただ、この世界へ現出するための単なる媒体に過ぎなかった。それを引きずったのはお前であって、そこに私の責任は無いな」
そう呟いたみちよの羽が大きく羽ばたき、風で一瞬だけだが視界が遮られる。
その次の瞬間には、みちよの姿が消えていた。
- 629 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:32
-
『結合しようともがくのは構わない。だが、その自分勝手な価値観を他に押しつけるな。吐き気がする』
「違う!あのとき、確かに私は感じたぞ!」
どこからともなく聞こえてくるみちよの声に叫び返す裕子。
しかし、そんな裕子の心境を逆撫でするかのようにみちよの声は続いてきた。
『そうやって吼えていても現実は変わらない。それを無様と感じるか、それとも運命と受け取るかはお前の自由だ』
「どこに隠れた、平家みちよ!」
叫んだ裕子の言葉と同時に出てきた火の玉が前方にあった壁にぶつかったが、破壊するまでにはいたっていない。
それが今の中澤裕子をまざまざと知らしめていた。
『どうやら今日はここまでのようだ。といっても、私もお前に用は無くなった。私は私の仕事を続けることにしよう』
事実上、最後通告をしてくるみちよに対し、ついに言い返せなくなる裕子。
気がつくとそこはお化け屋敷の裏手にある駐車場で、その隅に裕子はぽつんと立っていた。
しかし、それまで実感していた全ては消えることなく裕子の中に残っている。
それを見下ろしてみる裕子だったが、そこには何とも言えない敗北感が漂っていた。
(唯一繋がっていた糸が切れた……)
みちよの言葉通りなら、それも裕子の単なる思い込みで、みちよは最初からそこにはいなかった。
それまで感じていた何かがぽっかりと抜け落ちてしまったような喪失感に襲われる裕子。
「くそっ」
小さく毒づいた裕子だったが、それに答える声は当然のことながら無く、裕子はただ一人、じっとその場に立ち尽くすだけだった。
- 630 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:33
-
――――――――――
- 631 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由3 投稿日:2005/02/23(水) 22:33
-
無理やり結合したところでその本質が変わることは無い。
あるのは無情な現実だけであり、そこにどう対処するかはそれに立ち向かう個人の問題だ。
その点で言えば、中澤裕子と私の結びつきはほとんど無かったわけで、それを断ち切ったところで私が嘆かなければならない理由はどこにもない。
私がしなければならない仕事はただ一つ。
私が蒔いた種がどう実ったか。
それの回収は大方終わった。
あとは、鍵を得たあれを使って最終段階へ至るだけだ。
だから、私が恐れることは、何一つとして存在しない。
私が誰なのかは、すでに問題ではない。
何をすべきかが問題なのだ。
それさえ残っていれば、私は私の道を完遂することができる。
向かっている先は父のそれと同じだが、それでもそれを為そうとするのは私の意志だ。
そこに、父の意識は関係ない。
私がしたいからする。
それだけで十分だ。
- 632 名前:いちは 投稿日:2005/02/23(水) 22:48
- 遅くなりましたが更新しました
>>596 通りすがりの者さん
整理をして書いてるつもりですが、どこか抜けてる部分があるかもしれません
この話が終わるまでにはそれなりの決着をつけるつもりなので、気長にお待ちください
次回の更新なんですが
個人的な都合で来週、再来週と更新できそうにないです
というわけで、次回は三月の中旬になるかと思います
それでは
- 633 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/02/24(木) 12:27
- 3月ですか、ではでは自分もまったりと更新待たさせて頂きます。
- 634 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/03/16(水) 11:00
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想いのなかの迷い、それから得る自由4
- 635 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:01
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「ねえ裕子。そろそろ僕は協会から離脱しようと思うんだけど、君はこれについてどう思う?」
「……」
「あれ?今日は反応が無いね、どうしたの?」
「……どうしたもこうしたもあらへんで兄ちゃん。意味分かって言うとるんか?協会から離脱っていうことはつまり、追う身から追われる身に変わるっちゅうことやぞ?」
「そうだよ。だから、君に聞いてるんじゃないか」
「それって、ウチも一緒に離脱せいってことか?それとも、ここでウチに殺されたいんか?」
「僕としてはどっちでも構わないけど、君の場合は少し違う。僕は君の気持ちだけは確認しておきたいんだ。このまま惰性で進むのか、それとも自分の意義ってものを少しでも見つけたいって気持ちが残っているのかをね」
「ウチはこれまで、協会の命令で何人も殺してきた。いまさら裏切れるか!」
「それは違う。裏切るとか裏切らないとかいった問題ではないんだ。これは、君自身の心の問題だ。君がこれからどうすべきかを、君自身に聞いている。だから裕子、君も素直な気持ちで答えてくれ」
「……」
「……」
「……はっきり言って、よう分からんくなってきた。最近なんか毎日のように『あいつを殺せ』、『こいつを消してこい』ってな感じで命令される。せやけど、そいつらを見てみて、何となくやけど気づいた。もしかして、間違っとるのはウチらのほうやないかって……」
「彼らは少なくとも、自分の気持ちに素直になったんだ。協会という戒めから外れ、自分の進むべき道を見つけたんだ」
- 636 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:01
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「なら、今までウチがしてきたことは何や?そいつらを殺してもうたんやで?自由になろうとしとった、あいつらを、ウチはこの手で殺してきたんやぞ?言われるまま殺しといて、いまさら寝返れるか!」
「違う、君は自分のこれまでの道が正しくないのだと認識する機会が持てなかった。だから、協会の命令にも素直に従っていたし、かつての仲間も殺すことができた。だけど、今の君はどうなんだい?殺すことを明らかに戸惑っているじゃないか。ここ一月、協会に顔を出してないだろ?その間、君は悩んでいた。そして、模索していたんじゃないか?」
「兄ちゃん、口じゃあ何とでも言えるが、ウチがしとったことがそれで消えるわけやない。ウチは人を殺した、その事実はずっと残るんや」
「そうだね……ちょっときつくなるかもしれないけど、これだけは言っておくよ。君が今まで殺してきたという事実は消えないし、消すこともできない。これから先、君を知っている人間は君の事を許さないだろう。だけどね、君がその中で感じたことは、君にしか分からないんだ。そして、それから何を得ようとするのかも、君にしか選ぶことができない。それからも君は逃げるのか?」
「……」
「自由になろうとした彼らと接触して、一番を吸収したのは君なんだ。それをむざむざと無駄にしても良いのかい?」
「……」
「君も疑問を感じているはずだ、自分の根源とは何かって。はたして、『破壊』することだけが本当の自分なのかってね。そのことを躊躇っているからこそ、君は外へ出ることを恐れるようになり、他者との接触を拒むようになった。それが、何よりの証拠じゃないか?」
- 637 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:02
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「せやけど、急にウチってやつを変えることはできんで?ウチはウチっていう固定観念があるしな」
「それは君の意志次第さ。君が変わろうとすれば変われるし、そう思わなければずっと変わらない。どうしたいのかは、君が決めないといけないんだ」
「……ウチだけ抜けるのも何か腑に落ちんわ。あっちゃんやみっちゃんにも相談したいわ」
「そう、君は一人じゃない。一緒に悩むことができる人達がいるじゃないか。その人達のことも忘れちゃいけないよ」
「分かった、二人に聞いてから最終的な判断はする。せやけどな……」
「……どうしたんだい?」
「なんか、初めて兄貴って感じがしたな。これまでずっと変な話するやっちゃなって思うたけど、今日のは何か、すんなり分かったわ」
「それは君がそう感じたからに過ぎないよ。僕は僕の主張を変えたことは無い。ただ、自分の道を求めているだけさ」
「早く見つかるとええな」
「えっ?」
「兄ちゃんの本当の道ってやつ」
「……そうだね。ありがとう、裕子」
「言わんといてくれるか、そういうの。何か鳥肌が立ってきたわ」
「だろうね、君ならそう言うと思ったよ」
- 638 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:02
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 639 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:04
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午前十時半。
安倍なつみは午前中の仕事を終え、包みを持って自室へ戻った。
鍵をかけていないドアを無造作に開け、カーテンの閉まった部屋に少し足音を立てて踏み込む。
「まこっちゃん。そろそろ学校に行くべ」
暗闇に呼びかけるが、返事は無い。
それでもなつみは特に気にすることは無かった。
小川麻琴が学校に行かなくなって今日で三日。
さすがのなつみも心配になってこうやって切り出してみるが、相変わらず返事は無かった。
ルームメイトの紺野あさ美には麻琴がなつみの部屋にいることだけは伝えた。
が、このような状況だとは教えていない。
というか教える気になれなかった。
(あのときのなっちだべね……)
部屋の隅にうずくまった麻琴は、ただ単調な動物以下の物体に成り下がっていた。
何がそうさせたのか分からない。
二人のまことが葛藤している結果なのかもしれない。
三日が長いのか、それとも短いのか、それはなつみにも分からなかった。
「ここに朝ごはん置いとくべね」
キッチンのテーブルにご飯の入ったタッパと味噌汁の入った水筒を置く。
「あと、冷蔵庫の中に鳥の唐揚げを入れとくから、足りなかったら食べるべ」
暗闇からはやはり返事が無い。
が、それでもなつみはまだ希望を捨ててはいなかった。
昨日の朝もこうやって置いておいたが、昼戻ってくるとそれらが見事になくなっていたからだ。
まだ、食欲は無くなっていない。
それだけがなつみにとって唯一の救いだった。
「じゃあ、なっちは外へ行ってくるべ」
返事の無い暗闇に呼びかけて、なつみは外へ出る。
そして、入り口の守衛に声をかけてなつみはそのまま喫茶『アターレ』へ向かった。
高橋愛に飯田圭織の居場所を聞いたときから、週に一度は顔を出すことがなつみの習慣になっていたからだ。
- 640 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:05
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(近くにいても、知ろうとしなければ知ることができない……)
アターレに向かう道すがら、なつみは思考を巡らす。
(口で言っても、その本心は知ることができない。それを真琴にしてもあさ美にしても理解してもらわないといけない)
それこそ口で言って理解できるような内容ではなかったが、どうしてもなつみはそれを伝えたかった。
それが二人の現状を打破するきっかけになるであろうと信じていたから。
歩くこと十分。
なつみはアターレのドアをくぐった。
「五郎さん、こんにちはだべ」
グラスを磨いていたアターレのマスターである五郎が、カウンターの中から軽く頭を下げてきた。
「あの、圭織は起きてますか?」
なつみの一言に、五郎が静かに手を上げる。
そして、その先には飯田圭織の後姿が見えた。
「ありがとうだべ」
礼を言ってなつみは圭織のいるテーブルに向かう。
「おはよう、圭織。ずいぶん早起きだべね」
「なっちがくるってことで、急遽起きたのよ」
眠そうな目をこすりながら言ってくる圭織に、なつみは苦笑いして向かいに座った。
「で、今日はどうしたの?」
「あれ?圭織なら分かってると思ったべ」
「私だって全部知ることはできないわよ。私が見れることなんて、本当に些細なことだけよ」
圭織はコーヒーを一息で飲み干す。
それでもカフェインが身体を巡っていないのか、眠そうな目がはっきりと開かれることは無かった。
「でも、なっちが考えてることは分かるんでしょ?」
「うん、それは分かるよ」
大学時代からなつみの考えを当てていた圭織にとって、それは造作もないことだった。
ただ、圭織がなつみのどの部分について知っているのかを明言したことは無く、それをなつみも深くは追求しない。
しかし、その日に限っては少しばかり事情が異なった。
そして、なつみの口から出てきた自嘲じみた言葉がそれを表していた。
- 641 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:07
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「なんだ、なっちが考えてることって、些細なことなんだ……」
「違うわよ。なっちが何を考えてるのかは分かるけど、それからどうしたいのかは分からない。私に見えることっていうのは、その程度のことなの」
なつみの言葉の後をすぐにフォローしてくる圭織。
そこへコーヒーカップを持った五郎が現れ、それをなつみの前に置いて無言で去っていった。
なつみはいつものようにスティック型の砂糖を二本ほど入れ、それからミルクは入れずにカップを持ち上げる。
それを見届けてから圭織はゆっくりと話し始めた。
「小川ってね、元々不安定だったの。一つの身体に二人の人間が同居する。それは私達が同居するのと違って、常にお互いのすべてをさらけ出していることに他ならない。すべてってことは強い部分も弱い部分も含めている。そして、それを知られた上で生きていくには、彼女達はまだ若すぎるわ。なっちがそうやって混乱するのも無理は無い。だって、見た目は一人なんだからね。だけど、実際はそこには二人の人間がいる。それを考慮しないとこれから先、大変になるわよ」
「でも、二人はどっちもまこっちゃんだよ?」
「そうやって混同するから、彼女達も混乱するの。二人なんだからってことで話を進めないと、彼女達のことは分からないわよ」
かなり厳しいことを言われ、圭織のことを恨みがましく見ていたなつみは、そこでようやく一つの疑問に到る。
そして、それを素直に聞いてみることにした。
「なんで、圭織はまこっちゃんが二人いるって知ってるの?」
「小川はここの常連よ。私が知らないことは、おそらく無いわよ」
自信がありそうな口調だったが、言葉自体はどこか曖昧で、どうにもうまく流されたらしい。
それを意識してもう一度、圭織を睨んでみるが、今度は効果が全く無かった。
それから、改めて圭織が言った言葉を反芻してみる。
「弱い部分ってのは一番見られたくない……か」
決して麻琴・真琴と同じ立場になれないが、それに限りなく似せることなら誰にでもできる。
要は、それを意識できるかどうかだ。
そして、それを意識してみたなつみに、圭織が静かに続けてきた。
- 642 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:08
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「そう。でも彼女達はそれを常に互いに知って知られていた。その弱い部分が同じであれば、それは二人にとってどうでもない、些細なことにすぎない。でも、それが違ってしまったのなら、それは互いを違う人間であることを知らしめてしまう。小川真琴は紺野あさ美のことが好きだった。そして、小川麻琴は紆余曲折があったけど、結果的には新垣里沙のことを好きになった。その違いは彼女達にとってはとても大きなものよ。口ではいくら説明しても、それは互いの根っこの部分だから、それを本当に理解してもらおうなんて無理だわ」
「圭織、それは違うよ」
圭織の言葉を同じように静かに遮ったなつみは、ゆっくりとカップを持ち上げて少しだけ口をつける。
適度な甘さになったコーヒーをコーヒーだと認識したなつみは、これまたゆっくりとカップを置き、それから圭織を見て言葉を紡いだ。
「人は理解してもらうのに、言葉なんて必要としない。本当に知ろうとするなら、それは言葉ではなく別の手段で伝えないといけない」
「でも、彼女達の場合はその別の手段を行使するための肉体は一つよ。どちらかを優先させれば、どちらかは必ずないがしろにされるわ」
「それも違う。何かを伝えるのに身体は必要ない。心さえちゃんと通じれば、お互いのことをちゃんと理解できるの」
そう言ったなつみは、両手を伸ばして圭織の右手を握り締める。
それから圭織の顔を覗きこんで言葉を続けた。
「圭織はなっちが考えていることが分かる?」
圭織の顔を見上げながらなつみが言う。
圭織はそんななつみを真正面から見据え、冷たい口調で言ってきた。
「私にはなっちの考えていることが良く分かる。でも、これは私だからよ。私の考えてることがなっちには分かるの?」
圭織に言われ、少しだけ顔を歪めたなつみだったが、だからといって手を離す理由にはならない。
ただ、目を閉じて圭織が何を考えているのか、そして、これから何をすべきなのかだけに集中してみた。
そして、その結果はすぐに現れた。
- 643 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:09
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「圭織、すごく悪いこと考えてる。それが私には許せない」
自然と出た言葉を耳から聞いてそれを頭の中で咀嚼して、ようやくなつみはそこで感じた何かを理解する。
それは圭織が考えていることで、そのイメージがなつみの中へと流れ込んできたのだ。
目を開けてみると、そこには拍子抜けした圭織の顔があり、それを自分に見られたのだと認識した瞬間、圭織はなつみの手を振り払っていた。
だが、それでもなつみが見てしまったイメージが消えることは無い。
一度、明確に認識してしまったそのイメージは、なつみの中でよりリアルに形を作っていった。
なつみが見た圭織のイメージ、それは近い将来に起こる出来事だった。
「前々から言ってるけど、私が見てるのって本当に適当なことよ。それが必ずしも実現するってわけじゃないわ」
自分の顔を見ながらそう言ってくる圭織だったが、その声もさきほどのそれと比べてかなり弱くなっている。
どうやら図星らしい、それを何となく思いながらなつみは圭織に聞いてみた。
「どうして圭織は将来のことが見えるの?」
端的に言ったその言葉がどれほど正確なのかはなつみ自身にも分からないが、それでも目の前の親友がそれに答えてくれることを確信していた。
しかし、そんな信じていた親友から出てきたのはあまりにも胡散臭い話で、それを耳にしたなつみは思わず顔を歪めてしまった。
「この際だから言っちゃうけど、私の頭には変な悪魔が憑いてるの。で、そいつはね、私の質問に答えてくれるの。たとえば、『明日の天気は?』って聞いたら、『おそらく雨が降るだろう』ってな感じでね。だけど、そいつの言うことはほとんど当たらないのよね。『雨が降る』って言っても晴れてることなんてざらだし、他のことを聞いてもまともに答えてくれることなんて無いの。しかもそいつは私にこれから起こるだろう将来のことを無理やり見せてくるの。だけどね、やっぱりこれもほとんどが嘘。つまり、私が見ている未来なんて、結局は嘘なの。これは人の努力によっていくらでも変えることができる。だから、なっちも安心して」
「いや、そんな安心してって言われても……」
- 644 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:11
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どこまでが本当でどこからが嘘なのかが読み取れず、なつみはもう一度圭織の手を握ってみようとしたが、今度は避けられた。
「ところでさ、何でなっちは私の考えてることが分かったの?」
両手を万歳の形で挙げた圭織がそのままの格好で言ってきたのがおかしくてつい笑ってしまったなつみに、圭織が明らかに嫌そうな顔をして両手を下げる。
ただし、その両手も最初に位置していたテーブルの上ではなく、圭織の膝の上だったが……。
「だって言ったでしょ。心さえ通じていれば、ちゃんと理解できるって」
「そうだったわね」
どうしてそれが見えたのかについて、圭織は全く言及してくることは無かった。
たとえ言及してきたとしても、それに対して明確な答えが分かっていないのはなつみも同じだったため、それが向けられることが無かったのは助かったが、それでも圭織は別のことを続けてきた。
「もしかしたら、なっちみたいに頑張ってる人がいるから、私のように先が見えても、そうはならないのかもね……。私が見た将来の形の中には、柴田あゆみはいなかった。だけど、現実の話として柴田あゆみは生きている。私が見ている将来って、この程度のことなの」
圭織の口から出てきたのが、最近になってこの喫茶店にやってくるようになった二人組のうちの一人だということに気づくが、なぜそれがこの場で出てくるのかがなつみには理解できなかった。
それが顔に表れてしまったのか、目の前の圭織が小さく笑っているのが視界に入ってくる。
そして、小さく笑ったまま圭織が口を開いた。
「私にも分からないことはあるし、それはなっちにもある。だから、そんなに思いつめないほうが良いわよ」
「……ありがと」
優しい口調で言ってくる圭織に少しだけ体温が上昇していることを感じながらも、なつみは返す。
そして、何度目になったのか忘れたが、コーヒーカップを持ち上げた。
周囲の不安定な状況を忘れ、わずかだが安らぐ一時。
それをなつみはぼんやりと、しかしながら、それをしっかりと感じながら適度に温かくなったコーヒーを飲むことにした。
- 645 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:11
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 646 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:12
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人気の無いその公園は、中澤裕子にとってつまらない日常の一部となっていた。
ミカ・エーデルシュタインに誘われるまま間抜けにも敵陣へと飛び込み、そこで冷たい現実を突きつけられたのももはや数日前のこと。
それから今日まで裕子は事実上、独りになっていた。
(ウチって一体、何がしたかったんや?)
以前の裕子ならばそれを跳ね除けようともがいていたが、その気力も湧いてはこなかった。
ただ、冷たい現実に晒されその中に身を委ねる。
そうした本当に無意味な時間を過ごしていた。
さきほど火を点けたピースはまだ一度しか口をつけていない。
そして、それ以上口をつけようとも思えなかった。
煙が立ち昇っていくのを視界の隅に収めながら、ただひたすらに空を見上げる裕子。
それはまさしく全てから切り離された単なる人形であり、それまで秘めていた使命感はすでに消え失せていた。
しかし、それも所詮は他人事。
そう思うことで虚ろな心を満たそうとするが、それもうまくはいかなかった。
- 647 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:12
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(それもそうやな……)
結局は自分勝手な独りよがりで、それをすることで一番得をしていたのは他ならぬ裕子自身だ。
それを突き放したのは紛れも無く縋りついていた平家みちよであり、彼女(といえるかどうか疑問だったが)からそれを直接宣告された。
その結果として残ったのは中澤裕子という意志の抜け殻となり、単なる塊へと成り下がった別の何かで、裕子自身もそれを受け入れていた。
受け入れる以外の道は残されていなかった。
(ほんま、脆いな)
それを自覚するが他にどうすることもできず、持っていたピースを緩慢な動作で口へと持っていく。
自身の意志とは正反対で行ったその動作から得られたのは単純な日常の繰り返しで、それをすることによって裕子に得られるものは何も無い……はずだった。
煙が容赦なく口の中へと侵入してくる。
それを肺へと無理やり流し込んで、逆流させた。
(やっぱ、味はせんな……)
しかし、裕子の想像通り味はしなかった。
口を小さく開けて、そこから紫煙を吐き出す。
そこから出て行った煙にはまるで己の意志があるかのようにまっすぐと飛び、やがて宙へ溶け込むようにして消えた。
それを羨ましく、また、妬ましく見てしまった裕子は改めて視線を空へと持ち上げてみる。
そこにあるのもやはりいつもの空で、それが異様に憎らしくなった裕子は知らず知らずのうちに大きな舌打ちをしていた。
- 648 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:13
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 649 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:14
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わたしとあんた。
この二人の違いって何だろう。
いつも一緒にいたからそれほど深くは考えなかったけど、最近は違う。
わたしはわたしで、あんたはあんた。
お互いがお互いの邪魔をしなくなった。
というよりも干渉することを避けるようになってしまった。
わたしとあんたが違うって気づいたのは、わたし達が八歳の頃。
その頃にはわたし達のような人間が特殊なんだってことが何となくだけど分かるようになった。
『本当にあなた達は特殊なの?』
それからだった。
わたしがあんたを区別するために、名前をつけようって思ったのは。
お父さんやお母さんに聞くと変な顔をするだろうから、こっそり調べたりした。
辞書なんて引いても分かんない字がたくさんあったし、意味なんてもっと分かんなかった。
だから、できるだけ簡単に済ませようってことで、その結果としてわたしとあんたの違いは『麻』か『真』ってことになった。
わたしは麻琴であんたは真琴。
外から呼ばれると同じ『まこと』だけど、わたし達はそれでお互いを区別しようってことにした。
『だけど、それもあなた達が勝手にしたこと。外は認めてくれないわ』
そして、十歳のときだった。
お父さんから小川千尋って人のことを聞かされたのは。
その人にはわたし達と同じようにもう一人、『智広』という人がいたらしい。
だけど、今はその人はいなくなってしまった。
理由は分からない。
お父さんが何か知ってるようだったけど、それを教えてくれることは無かった。
そして、その人に会ってみて、わたしとあんたは何となくだけどその人のことが好きになれた。
そりゃそうだ。
だって、その人はわたし達の気持ちを良く分かってくれたんだから。
本当のお父さんとお母さん以上に……。
『違う、それも所詮は仮初でしかない。他人の気持ちなど、分かるはずなんてないわ』
- 650 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:15
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だから、わたし達はその人の子供になることにした。
いや、これはちょっと違うね。
気持ちを理解してくれただけが理由じゃない。
あったのは、それよりも強い理由。
つまり、わたし達がどうしたら良いのかっていう道筋を教えてくれたからだ。
「あなた達は一人のように見えるけど、その心は二人なの。だから、仲良くしないといけないわよ」
『本当に二人なの?』
子供になるってことを伝えた日、あの人がわたし達に言ってくれた言葉。
心に染み込んだはずの言葉なのに、つい最近まですっかり忘れていた。
ほんと、どうしようもないね。
こんな状況にならないと思い出せないなんてさ……。
その日からわたし達は田中麻琴・真琴から小川麻琴・真琴になった。
それは後悔してないし、するつもりもない。
『それは単なる言い訳にすぎない』
ここへ来るまでの五年間、わたし達はその人のところで育ててもらった。
お義父さんは長期出張で家にいることは少なかったけど、それでも寂しいって思うことは無かった。
だって、お義母さんがいつもわたし達二人に話をしてくれたのだから。
あるとき、お義母さんがこう言っていた。
「あなた達って双子よね」って。
『違う、あなた達は双子なんかではない』
それを聞いたとき、わたしは嬉しくて涙が出た。
それは真琴も同じだった。
何でかって?
だって、その一言にお義母さんの全てが込められていたから。
それが感じることができて、とても嬉しかったから。
わたし達にここ――N大付属高校――を勧めてくれたのも、お義母さんだった。
そのとき言ったお義母さんの言葉。
「あなた達は一人のようだけど、実は二人。だから、やろうと思えば二人分の勉強ができるわよ」
『だけど、結局は一人なの、あなた達は』
その言葉があったからわたしと真琴はお互いの得意分野を見つけることができたし、お互いに議論をするようにもなった。
それまでは眠くなったら交代するって感じだったけど、あのときを境にして、ほとんど無くなったようにも思う。
- 651 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:16
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N大付属の合格通知が届いた日、お祝いをしてくれたときのお義母さんの言葉。
それはいつになく真剣なもので、それを聞いていたわたし達も思わず真剣になっていた。
「外の世界はあなた達のような人がいるということをほとんど知らない。でもね、それはあなた達の努力次第で変えることができるの。だから、諦めないで」
『努力しても事実は覆らない。あるのは厳しい現実だけ』
その言葉を大切にしてやってきたここ。
小学校、中学校の単なる延長かと思ったら、そこは全く別の世界だった。
小学校なんて一クラスしかなかったし、中学校だってせいぜい二クラスだった。
なのに、急に同級生が増えた。
それも五十人とかじゃなくて、百人とか二百人。
同じ寮に入ってきたのは十人もいなかったけど、それはわたし達が特別だったから。
それはわたし達のように一人で二人ということではなく、高校からここへやってきたってこと。
後で先輩(この人が高橋愛ちゃんなんだけど)に聞いたら、高校からここへやってくる人は本当に少なく、また、試験もかなり難しいんだそうだ。
そのときになってようやく入試の日のことを思い出す。
数学なんか真琴とああだこうだってやりあったもんね。
そんなこんなで入ってこれたわたし達は、本当にラッキーだったらしい。
『ラッキー?違うわ、これは予定。あらかじめ仕組まれていたこと』
で、入ってから気づいたんだけど、みんな何か必死だった。
何かの参考書を読んでる人なんてざらだったし、休憩中なのにあんまり話もしなかった。
だから、そういう意味でわたし達は恵まれていたんだと思う。
だって、わたし達が入った寮の人達はそんな人達と無縁だったから。
そして、ルームメイトの紺野あさ美ちゃんにも助けられた。
- 652 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:18
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最初はほとんど喋らなかったけど、きっかけなんて本当に些細なことだった。
一緒に食堂にご飯を食べに行って、そこで食べたかぼちゃの煮付け。
あさ美ちゃんがわたし達と同じものを好きだって知れて、それからはあっという間だった。
生徒会に愛ちゃんが誘ってくれて、それからわたし達の輪は広がり、友達もぐっと増えた。
そんなときだった。
あんたに変化があったのは。
「どうしよう、一目惚れだ」
『それも植えつけられた外づけのオプションに過ぎない』
あの言葉を聞いたとき、悪いけどわたしは大笑いした。
でも、あんたが本気なのを知って、どうしたら良いのか分からなくなった。
だって、あのときは人を好きになるってことを知らなかったのだから……。
もともと口下手なあんたはあさ美ちゃんの前だと緊張するからってことで、あさ美ちゃんの前に出ることがほとんど無くなってしまった。
それからだった。
真琴がちょっとずつ外の世界と離れていったのは。
最初はそれが照れてるだけだと思ったけど、それも違った。
あんたは怖かったんだ。
わたし達のように常に二人ってことは、つまりはあさ美ちゃんとは絶対に二人きりにはなれないことを意味している。
だって、その場には絶対わたしがいるんだからね。
だから、あんたはあさ美ちゃんの前では必要以上に無口になった。
まるで、そうしておけば自分の気持ちが分かんないって感じで。
それからちょっと紆余曲折があったけど、あんたはわたしがいるってことを忘れて、あさ美ちゃんといろんな意味で二人きりになることを覚えた。
それをわたしも知ることができるってことが、すごく嫌だったけど、それでもしたことは消えるわけじゃない。
だから、わたしも怖くなった。
『似たもの同士なんかではない。だって、あなた達は私が創ったのだから』
- 653 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:19
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わたしが新垣里沙ちゃんとしたことをあんたは記憶している。
たとえそれが単なる情報であっても、あんたはそれを追体験することができてしまう。
それがわたしには怖かった。
だって、わたしが感じたことがあんたに筒抜けになってしまう。
そのときはわたしだけのものだったのに、時間が経てばそれもあんたと共有しないといけなくなる。
それが怖かった。
だから、わたしは未だに里沙ちゃんとは手を繋ぐだけだし、キスだってろくにできやしない。
もちろん、それ以上のことも……。
『それは当然よ。程度の低い作り物ですもの。無駄な感情は必要ないわ』
そして、あんたは今、わたしが邪魔になっていると言う。
それはわたしも同じ。
自分と里沙ちゃんの世界にあんたが入ってくることが、どうしても許せない。
だけど、これはあんたも同じなはず。
あんたはあさ美ちゃんといる世界にわたしなんて入ってほしくないって思ってるはずだ。
だから、あんたは自分から逃げることで自分を保とうとした。
でも、それも限界。
あんたはわたしを消したい、そして、わたしもあんたを消したい。
『あなた達は二つで一つなの。どっちが欠けても私には困る。だから、生かしておいてあげてるの』
それで十分じゃない。
何でそんなに考えるの?
どっちかがいなくなれば、楽になる。
そうでしょ?
- 654 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:19
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 655 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:20
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おれとお前が別れたとき、全てが始まったのかもしれない。
単にそれは言葉の区別だったのかもしれないが、それでもおれにしてみれば十分すぎる意味を持っていた。
なぜなら、あのときからおれは真琴になれたのだから……。
それまではどうしてもお前の付属品みたいな感じがして居心地が悪かったが、それもあのときからさっぱり消えてしまった。
『だけど、それも結局は自己満足でしかない。真実は別の場所に在る』
そして、おれとお前を同時に認めてくれる存在が現れた。
それも、おれにしてみれば大きな意味を持っていた。
かつて、おれ達のように二人で一人だった人。
その人に認めてもらったことで、おれはおれであることができた。
『違うわ。あの女とあなた達には決定的な違いがある』
だから、おれはあの人のところでもっと自分を知ろうとした。
それはお前も同じだったと思う。
本当のことを言うと、おれはずっと外の世界が怖かった。
気がついたらお前が常に外にいて、おれが中で出番を待っていたから。
おれが出て行って、みんなが認めてくれるのかって、ずっと思っていた。
だけど、あの人だけは違った。
お前が外にいても、あの人だけはおれにいつも気を配ってくれた。
だからってわけじゃないけど、それに甘えていたんだろうな、おれは。
お前に外を任せていても、おれのことを知っている人がいるってことに安心しきっていたんだ。
『それは単なる同情よ。あの女の勝手な自己満足につき合わされただけ』
- 656 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:21
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だけど、時間はそこでは止まってくれなかった。
進んだ時は確実におれ達の周辺を変化させ、おれにも変化するよう求めてきた。
そのときに言ってくれたあの人の言葉。
「外の世界はあなた達のような人がいるということをほとんど知らない。でもね、それはあなた達の努力次第で変えることができるの。だから、諦めないで」
『結果はすでに出ている。あなた達がどう行動しようが、それは変わらない』
それを聞いて、あのとき、確かに決心したはずなのに、周囲の状況はそんなに甘くは無かった。
新しい環境はおれ達に絶えず圧力をかけてくるし、生活も変化した。
おれはそれに尻込みをしてしまったんだ。
おれを知らないやつがいっぱいいる。
認めてくれないかもしれないって。
『認められなくて当然よ。そうなるように仕向けたのだから』
それからだった。
外に出るのが怖くなったのは。
でも、どうしても止められないことが一つだけあった。
「どうしよう、一目惚れだ」
お前に言ってみたが、あのとき、お前は笑うだけだった。
だけど、それが本音だった。
今にして思えば、あのときが一番幸せだったのかもしれない。
だって、あのときがおれがおれだって認識できた瞬間だったのだから。
一目惚れなんてそれまでしたことが無かったから、どうしたら良いのか分からなかった。
でも、あのとき、おれはおれが止められなかった。
あの日、あさ美がハワイから帰ってきた日。
あの日にお前を通して感じたあさ美に、いたたまれなくなったおれは、本当に間抜けな行動をしてしまった。
だけど、おれはそれを後悔していない。
ただ、あさ美が嫌だと言ったから、止めるだけだ。
そう思おうとした。
- 657 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:22
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だが、実際は違った。
理性では抑えつけようと思ってるのに、どうしても本能は止まることができない。
あさ美におれのことを見てもらいたい。
もっとあさ美におれのことを知ってもらいたい。
そんな想いでいっぱいだった。
なのに、それが裏目に出た。
『裏目ではない。重要な事実認定をする上で参考になったわ』
あのとき、おれはあさ美に逃げろと言った。
でも、中途半端にしか理解できてなかったあさ美は逃げなかった。
その結果としておれはおれが許せなくなって、柴田あゆみを殺そうとした。
だけど、それもできなかった。
今にしてみればそれで良かったのかとも思えるが、だからといってそれでおれの気持ちが晴れることはない。
中途半端ということが許せなかった。
できることならおれはおれだけであさ美と通じ合いたい。
でも、それにはお前が邪魔だ。
『私にとってはあなた達がすでに邪魔なの。だから、そろそろ消えてもらうことにするわ』
おれは壊したいんだ、お前が。
だけど、今はそれをする方法が見つからないから、別の何かを壊すことで何とかおれってやつを保っている。
独りになりたいから、おれは探してるんだ、お前を壊す方法を。
もし、おれがお前を壊す方法を見つけたのなら、おれは躊躇いも無くお前を壊すだろう。
だって、おれがおれとしているためには、お前が邪魔なんだから。
お前がいたら、あさ美とは一緒になれないのだから……。
『私が持つはずだった私の時間。それを返してもらうわ』
- 658 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:22
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 659 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:23
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高橋愛は電話をかけてきた相手の名前を見た瞬間、ついに逃げられなくなったと思った。
相手は幼馴染である新垣里沙。
かけてきた理由も分かる。
ただ、愛には何もできないだけだった。
「ねえ、誰から?」
一向に電話に出ようとしない愛を心配して、ルームメイトの松浦亜弥が聞いてくる。
「いえ、幼馴染からです」
そう言った愛は、亜弥から逃げるように部屋を出た。
そして、廊下に誰もいないことを確認して電話を取る。
「もしもし」
『あ、愛ちゃん。やっと通じたよ』
電話の向こうから聞こえてくるのは、まだ何もしらないであろう幼馴染。
愛の愛する人間を奪った幼馴染だった。
だが、それもすでに過去のこと。
そう愛は自分に言い聞かせて、何を話そうか考える。
できるだけ人のいない場所が良い。
その理由から愛は自習室へ向かった。
この時間、自習室で勉強をしている人間はまずいないからだ。
「それより里沙、どうしたん?」
精一杯自制しながら、愛は幼馴染に聞く。
しかし歩きながらの電話は集中力を奪い、それを難しいものにしていた。
『あのね、まこっちゃんさ、どうしてるかなって……』
めずらしく歯切れの悪い里沙の声に、愛は里沙と麻琴の強い結びつきを感じる。
それが羨ましく、また憎らしかった。
「どうしたって、どうしたん?」
あくまで白を切る愛。
ようやく自習室に着き、一番奥の席に座った。
そこならば容易に人に見つからないからだ。
『毎日メールくれてたんだけど、今週になって急にくれなくなったんだよね。私からも送ってるんだけど、全く返事がこないんだ』
それもそうだ、麻琴は部屋に戻ってきていない。
そして、その部屋には麻琴の携帯が放置されていた。
その携帯はここ数日着信を示すライトが点滅していたが、それをあさ美も愛も取る気になれなかった。
- 660 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:24
-
「あのね、里沙……」
どう言おうか迷いながら、愛は慎重に切り出す。
しかし、一向に頭が回らず、何をどう言ったら良いのか分からなかった。
『……愛ちゃん?』
電話越しの里沙もその頃になると、さすがに愛の変化に気づいていた。
『愛ちゃん、どうしたの?いつもの愛ちゃんらしくないよ?』
「なんで、あーしが……!」
里沙から言われた愛はとっさに叫んでいた。
が、それを慌てて抑えこむ。
自制しようとしたにも関わらず、愛は自身を全く制御できていなかった。
だが、相手は幼馴染。
その最低限残った理性が何とか愛を押し止めていた。
『ごめん、愛ちゃん。怒ってるよね、当然……』
里沙の声が低くなる。
掠れたその声が泣いているのだと気づいたのはそれからすぐで、愛はますますどうしたら良いのか分からなくなった。
いっそのことこの携帯を叩き壊して逃げ出そうかとも思ったが、そうすれば自分は誰にも顔を合わせられなくなる。
だから、それだけは止めることにした。
『だって、私は愛ちゃんの好きな人を取っちゃったんだよね。怒らないほうがおかしいよね……』
「里沙、ちが……」
『違わないよ。私だって同じ立場だったら怒るもん!』
叫んできた里沙に、愛は自身の気持ちを確かめる。
麻琴が別れ話を切り出したとき、また、里沙と一緒に愛の元へ来たとき、愛はその両方で泣きたかった。
そして怒りたかった。
それは麻琴に対してであり、里沙に対してであり、そして、愛自身に対してであった。
しかし、愛はそれをすることはなかった。
というよりもできなかった。
ただ、麻琴と里沙の言葉を無条件に飲み込んでしまい、それについて何も言わないことにしてしまった。
なぜなのか、それは自分のことだから痛いほど分かる。
理由は簡単、愛自身が麻琴に愛されていないと分かってしまったから。
そして、冷静になって愛は考えてみる。
すると、それまで愛が取ってきた行動が自己中心的なものだと分かった。
それから全てが飲み込め、麻琴と里沙の関係を認めるようになった…………はずだった。
- 661 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:24
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頭の中ではそうやって無理やり理解していたが、それでも本心はまだ燻っていた。
(何で、あーしが)
(これだけ麻琴のことが好きやったのに)
(どうして、麻琴は里沙を選んだん?)
何度も麻琴に向けたそれらの想いが、はっきりと晴れることは無かった。
ただ、無理やり抑えつけているだけ。
そして、二人のことを考えないようにしていた。
『でもね、私、どうしたら良いのか分かんないの。まこっちゃんにメール送っても返ってこないし、電話しても出てくれないし……。もう、私には愛ちゃんしか頼れないの』
涙声の里沙から伝わってくるのはただ一つ。
それは麻琴への愛情だった。
それが歯痒く、また、羨ましかった。
そんな愛の中に浮かび上がる一つの結果。
なまじ近すぎると、物事が見えなくなる。
そのことに愛はようやく気づいた。
いくら好きであっても近すぎたのではそれをろくに確かめることができない。
少し離れて物事の全体を捉えなければ、確かめようが無いということを。
『ごめんね、愛ちゃん。本当にごめんね……』
電話から聞こえてくる里沙の声に、愛はそれまで抱え込んでいたものがいかに自分勝手だったのかを思い知る。
しかし、完全に吹っ切れたわけではなかった。
あくまで幼馴染だから、それを言い訳にする。
「里沙、もう泣かんでええよ。あーしが悪かったんやし……」
自分よりも里沙のほうが麻琴に近い。
そう無理やり納得することで少しは気が晴れたが、それでも全ての遺恨が取り除かれたわけではなかった。
あくまで幼馴染だから、それを意識して愛は口を開ける。
「あのね、里沙。良く聞いて……」
納得したわけではない、そう強く意識した愛は、それまであったことを包み隠さず話すことにした。
だからといって、それで愛の気持ちも晴れることはないにも関わらず……
- 662 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:25
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 663 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:27
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午後九時半。
吉澤ひとみは自室で私服に着替えていた。
その脇の二段ベッドの下ではルームメイトの後藤真希が雑誌――ただし、これは三ヶ月ほど前のものだったが――を片手に、ひとみを唖然と見ている。
「ねえよしこ、また行くの?」
毎週水曜日と金曜日。
吉澤ひとみはそれらの日を中心に外出していた。
幸い彼女達の部屋は二階。
しかも非常階段のすぐ隣だった。
窓から少し身を乗り出せば、簡単にその非常階段に降り立つことができる。
「うん、でも今日はちょっと違うんだ」
机の引き出しから特殊警棒を取り出し、柄の部分のボタンを押す。
伸縮式の特殊警棒が、機械的な音を立てて五十センチほどに伸びた。
続いてひとみはもう一つのボタンを押して、電流が流れるかチェックする。
ばちっと白く光ったそれを見て、ひとみは満足げにロックをかけた。
「なんか今日は重装備だね」
真希が見るいつものひとみは、物騒な特殊警棒など持っていたことがなかった。
パチンコ玉だけを大量に持って行き、帰ってくるとそれらが無くなったと愚痴っているのを真希は必ず聞かされているからだ。
長身の吉澤ひとみは、ある程度の武術なら心得ていた。
そこら辺にいる通常の大人や麻薬づけになった廃人なら、それらの武術とパチンコ玉の指弾で十分だったが、今日、おそらく相手にするであろう敵は、通常のそれではない。
「そうだよ。なにせ、相手は神様だからね」
「はぁ?なにそれ?」
「そう、それが普通の反応だよね」
真希の反応を見て、ひとみは笑った。
「ちょっと、変なこと言ったのはよしこだよ」
真希は自分が笑われたのだと勘違いして、頬を膨らませて抗議してくる。
「うん、たしかに変だけど私じゃないよ。そう思い込んでる間抜けがいるんだ」
今度はきょとんとしている真希にそれ以上説明するのを諦め、ひとみは窓を開けた。
- 664 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:28
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「よしこ、一人で行くつもり?」
いつもなら絵里のメールを待ってから出て行くひとみが、今日は携帯を置いて出て行こうとしたため、真希が話しかけてくる。
窓に手をかけたひとみはそんな真希に向かって振り返らずに答える。
「こればかりは絵里にも見せたくないんだ。私だけで、あいつを処分するよ」
そのための武器も揃え、覚悟も決めた。
そしてなにより、ひとみには亀井絵里という支えが在る。
絵里のためならばひとみはどこまでも強くなれるし、絵里のためならば絶対に死にはしない。
そういった確信がひとみにはあった。
「朝までには戻るからさ、それまでよろしくね」
窓から非常階段に降り立ったひとみは足音を立てないよう、慎重に下へ降りる。
守衛に見つからないよう秘密の抜け道を抜け裏口へ辿り着いたひとみだったが、その足が先へ進むことは無かった。
「なんで、ここにいるの?」
いつもの裏口に笑顔で立っていた亀井絵里を見て、ひとみは少なからず動揺する。
そして、それは同時にひとみの計画の根本部分の崩壊をも意味していた。
「なんとなくですけど、分かったんです。ひとみさんなら、今日行くだろうってことが」
笑顔のままの絵里に言われ、ひとみはばつが悪そうに頭を掻くことしかできない。
「そんなに私って単純かな?」
「えぇ、だって日曜日にメールしてきたじゃないですか。それを考えるとすぐに思いつきますよ」
小川麻琴・真琴から話を聞いた後、絵里の話していたことを思い出したひとみがそれを確認したが、どうやら今回はそれが裏目に出てしまったようだ。
「それもそうか。うかつだったな」
「でも、そんなひとみさんも好きですよ」
笑顔で言ってくる絵里に、ひとみは小さく舌打ちをする。
が、すぐさま真顔になって絵里を見つめた。
「私が、これからしようとすることを、知ってるんだろ?」
「はい。だから、私も一緒に行きます」
唐突に問いかけるひとみに、即答する絵里。
二人はすでに繋がり、切り離せない関係だった。
それでもひとみは問い続ける。
絵里の気持ちを確かめるために。
- 665 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:29
-
「怪我だけじゃすまないかもしれないよ。それでも、一緒にくるつもり?」
「だからですよ。ひとみさん一人にそんな危ないこと、まかせられません」
即答してきた絵里に微笑まれ、ついに折れるひとみ。
ひとみは右手を出して、絵里の左手を握った。
「分かったよ。でもこれだけは約束して。危なくなったらすぐ逃げる。そして、応援を呼んできて」
「大丈夫です。ひとみさんは危なくなりません。私が一緒ですから」
小柄な絵里に見上げられ、ひとみはそれだけで勇気づけられる。
「分かった。絵里のその言葉を信じるよ」
「はいっ!」
二人で一つになって路地を歩く。
あるのは中途半端な間隔で据えつけられた電灯だけで、それ以外には灯かりらしい灯かりが見当たらなかった。
が、それでも二人には気にしない。
そろそろ冬になるこの季節。
夜風は身に凍みたが、それでも二人は互いの手から互いの気持ちを感じることでそのことを忘れた。
長いようで短い時間があっという間に過ぎ、目的地である神社へ到着する。
その社の前の広場に人が独り、ぽつんと立っていた。
ひとみはそれを確認してすぐ脇にいる絵里へと視線を移す。
その絵里は正面にいた誰かを見たまま、小さく頷いてきた。
「絵里。ここで待ってて」
ひとみは神社の入り口で絵里の手を離し、絵里の顔を見つめる。
絵里は何も言わず、ただ一度だけ、ただし今度は深く頷いた。
それを胸にしまいこんで、ひとみは歩き出す。
ひとみにとって人にしか見えないそれは、ただ立っているだけだった。
そこには何の感情も無かった。
- 666 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:30
-
「まさか、事前に待っててくれるとはね」
五メートルほど間隔を取り立ち止まったひとみが、目の前の自称『神』話しかけた。
「ああ。今日、この時間にお前達が来るであろうことはすでに決まっていた」
静かに話しかけてくる神を鼻で笑うひとみ。
「はん、そういうことか。まあいい。じゃあ、これからどうなるのかもお見通しなのか?平家みちよさん?」
ひとみの言葉に、神――平家みちよ――の身体が一瞬だけ震える。
その仕草が少し離れたひとみにも明確に伝わってきて、ひとみは思わず笑ってしまった。
「あれっ、本当に平家みちよだったんだ……」
確証を得ていなかったが、それでもどうやら的を射ていたらしく、ため息を吐くひとみ。
そんなひとみに向かってみちよが話しかけてくる。
「そうか、私が誰なのかを知ったのか。だが、それは正解でもあるし、不正解でもある」
「そうだね、あんたは三年前に死んでるんだ。こうやってここに現れてること自体がすでにイレギュラーなんだよ」
「そうだ。あのときから私は平家みちよであり、平家みちよでなくなった」
無表情のみちよが両手を広げ、夜空を見上げる。
空は雲一つ無く、満月がくっきりと浮かんでいた。
「何か言ってることが支離滅裂だね」
「そう思うのはお前がそう理解しているからだ」
「ところでさ、一つ聞きたいことがあるんだ」
全身を緊張させながらも口調にはそれを全く表さずにひとみは正面にいるみちよへと語りかける。
そこにはこれから戦うといった雰囲気は全く見られなかったが、どうしてもそれをする前に聞いておきたいことがあった。
「私が消えてた間の記憶がみんなの中から抜け落ちてるみたいなんだけど、これってあんたがそうしたの?」
「私は特に何もしていない。すでにあったものを隠蔽しただけで、それが元に戻っただけだ」
「ふーん、そうなんだ……」
しばらく頭を抱えて考えてみるが、やはりみちよの言ったことは理解できない。
そして、ひとみは分からないものを分からないままあっさりと受け入れることにした。
- 667 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:31
-
「まあいいや。私はここにいるし……。それで何の不具合も生じないんだったら問題ないね」
在るべきものを受け入れたひとみは思考を切り替えながらみちよを見る。
それはひとみの中にあった疑問をすべて跳ね除け、本来の目的でひとみをそこに立たせていることを一目で分からせた。
そして、目の前にいるみちよにさきほどとは打って変わった冷たい声で問いかける。
「死んだあんたは、一体何がしたいの?」
「簡単だ。人が神無しで生きることができるか。それを確かめるだけだ」
あまりにも歯が浮くような台詞をあっさりと言われ、ひとみはしばし呆然とする。
しかし、それもほんの一瞬だった。
「そうだよね。『自称』神さまだもんね」
「そう思うのはお前だけだ」
どこまでも自分勝手な神に鋭い視線を突き刺すひとみ。
それでも神には通じなかった。
そのことに気づきため息を吐いたひとみは、ポケットに入れていた特殊警棒を引き抜き、話しかけた。
「じゃあさ、その神さまの力ってやつで、私を殺してみてよ。神さまならできるだろ?」
「挑発してるのか?」
「違うよ。あんたに教えたいだけさ。私達ってやつをね」
空を見上げていたみちよの顔が動き、再びひとみを見てくる。
その表情はどこまでも無表情だったが、その口から出てくる言葉には感情がこもっていた。
「私が教わるのか?人から?」
「そうだよ、あんたも結局は人だからね」
何を言っているのか分からないといった感じで返してくること自体がすでに人であり、そのことに気づいていないことが人である証拠だった。
それを意識してひとみは握っていた特殊警棒をさらに強く握りしめる。
そして、親指だけを小さく動かし、スイッチに添えた。
後は押すだけといった状態でみちよを睨みつける。
「そう思うならばやってみるがいい。人間よ」
あくまで神になりきった、ひとみにとっては狂った人間。
それに向かってひとみはそれまでの静の動作から動の動作へと瞬時にして移った。
目の慣れた周囲の闇は今のひとみにとっては好都合。
あとはその闇に紛れることができるかどうかだ。
- 668 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:31
-
できるだけ身を屈めてみちよに接近するひとみ。
しかし、ただ接近するだけではなく、単調なようでところどころで左右へ小刻みにぶれることは忘れなかった。
(こいつを当てることができれば、あいつを倒せる)
リミッターを解除した特殊警棒を意識しながらも、ひとみは革ジャンのポケットに右手を突き入れる。
あらかじめ用意しておいたパチンコ玉を感覚だけで五つほど取り出し、それを顔面に向かって撃ち出した。
高速で飛んでいく指弾を全て見切るのは難しい。
しかも今は夜。
銀色であるパチンコ玉もこの闇に溶け込んで、目に見えない狂気となってみちよに襲いかかった。
音だけが指弾の存在を認識させ、それを確認できない人間にとって、それは十分な凶器となるはず。
しかし、みちよはその場から一歩も動かなかった。
(なぜ避けようとしない?)
物が顔に飛んでくると、人は反射的にそれを避けようと行動する。
高速で飛ぶ指弾だが、風を切る音だけははっきりとこの闇夜に響き渡っていた。
が、それでもみちよは動かなかった。
みちよへわずか一メートルと接近した瞬間、周囲の空気が揺れるが、ひとみはそのことを意識の外から追い出す。
そして、全ての神経を目の前に迫ったみちよへと集中させた。
ずぶっ。
指弾の一つがみちよの右目をあっさりと潰し、残りもそれぞれが顔面のどこかへと命中する。
そして、その身体がぐらりと揺れた。
その瞬間を狙ってひとみは特殊警棒をみちよの鳩尾に突き刺し、添えていた親指に思い切り力を込める。
聞こえたのは一瞬だけの弾ける音。
見えたのは瞬間的に弾け散る光。
たったそれだけだった。
周囲に充満した焼け焦げた臭いを何とか意識の外へ追い出しながら、ひとみは正面を見据えた。
鳩尾に特殊警棒を突き刺されたみちよの身体がゆっくりと後ろへ傾き、倒れる。
そして、動かなくなった。
- 669 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:33
-
「やったのか?」
あまりのあっけなさにしばし呆然とするひとみ。
接近してから特殊警棒を突き刺すまでわずか十秒。
それですべてが終わってしまった。
『何を、やったんだ?』
突如聞こえてきた声に、ひとみは驚いて振り返る。
そこには平家みちよが立っていた。
それは先ほど話したみちよであり、顔はおろかどこも傷ついていない。
「なんで、あんたがそこに立ってる!」
確かに平家みちよに向かって指弾を撃ち出し、その身体を狙って特殊警棒を突き刺した。
それらすべては命中し、みちよは倒れたはずだった。
しかし、そんなひとみに構うことなく、みちよは笑っていて立っている。
『誰を、殺したんだ?』
嘲笑うみちよの声に、ひとみの頭にある恐ろしい考えが過ぎる。
そして、ひとみは慌てて後ろに倒れている人間に目を向けた。
そこには………
「絵里!」
そこには右目が潰れ、身体中から異臭を放つ亀井絵里が、地面に転がっていた。
「何で、絵里なんだよっ!」
ひとみは背後に絵里を感じながら、みちよに向かっていった。
そして、みちよに対して攻撃した……はずだった。
なのに、こうして今はその絵里が倒れている。
その事実がひとみには信じられなかった。
『人が人であるが故の弱さ。それは結合した魂においてその連結部分が脆いということだ』
後ろでみちよが何かを言ってくるが、そんなことはひとみには関係なかった。
ひとみは黒くなった絵里の亡骸にそっと手を触れる。
「絵里…………お願いだから、目を覚まして……」
まだ温かく、そして、時期冷たくなる絵里の身体を小さく揺さぶる。
だが、その絵里の身体から返ってくるものは無かった。
『結合した人間はその人間のためならばどこまでも強くなれる。が、その逆も然り。人は、どこまでも弱くなる生き物だ』
「絵里、絵里」
小さな揺さぶりは次第に大きくなり、それがひとみの正気を失わせる。
- 670 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:34
-
『弱き生物など、私には必要ない。強固な意志がなければ、限界は…………』
唐突に消えるみちよの声。
だが、そんなこともひとみは気づかなかった。
ただあるのは後悔だけ。
絵里を自分の手で、殺してしまったという後悔だけ……
『…み………ひと………さん、………ひとみさんっ!』
「絵里?」
気がつくと、ひとみは地面に蹲っていた。
頬の部分が濡れているのは、きっと泣いていたからだろう。
だが、その原因は……
「ひとみさん、私ならここにいますよ」
目の前の亀井絵里を呆然と見上げるひとみ。
そして、呟いた。
「ほんとに、絵里なの?」
「ええそうです。私は亀井絵里です」
にっこりと笑いかけてくる絵里に、ひとみは絵里だと確信する。
それと同時に緊張していた身体が弛緩して、思わずよろめいたひとみは手をついてバランスを取った。
「だとすると、さっきのは何だったんだ?」
涙をこすって拭いたひとみが、ゆっくりと立ち上がる。
周囲を見回してみるが平家みちよの姿は見えなかった。
「平家みちよはどこへ行った?」
隣にいる絵里を見ると、彼女も分からないという風に首を横に振る。
「私が見たのは、ひとみさんが走っていくところまでです。そこで二人は消えちゃいました。それなのに、声だけは聞こえてくるから、不安になって……」
一瞬の空間の歪み。
それがひとみを混乱させた原因なのだろう。
だが、それも絵里のおかげで破られた。
「ありがとう、助かったよ」
絵里の頭に手を置いて、ひとみは絵里に笑いかける。
絵里の顔が赤くなるのを微笑ましく見て、ひとみは視線を戻した。
「これが人なんだ。誰かを想う心があれば、決して敗れはしない。私達は二人で一つなんだ」
どこかにいる平家みちよに静かに言うひとみ。
聞いていても聞いてなくても構わなかったが、それでもひとみは言う。
そして、そのひとみの言葉に反応があった。
- 671 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:35
-
『確かに、亀井絵里が自己の能力を拡大させたことについては誤算だった』
二人の目の前の空間が揺らぎ、そこに平家みちよが再び現れる。
が、さきほどまでのようなはっきりとした姿ではない。
間近にあるはずなのに揺らめいているその影は、現実味を帯びていなかった。
『これが、人の強さというものか……』
無表情のまま、みちよがぼそりと呟く。
「そうさ。これが私達だ」
絵里の手を握り、みちよを睨み返すひとみ。
絵里がいる限り、自分は負けない。
それをこの目の前の人間は思い知ったはずだ。
しかし、そんなひとみの願いとは裏腹に、みちよの顔が歪んだ。
そして、その姿が掻き消える。
『足らんな。これくらいの想いでは』
『やはり、人とはこの程度の生き物か』
『必要ない。人など』
「何言ってるんだ!」
全方向から聞こえてくるみちよの声とその内容に、ひとみは腹の底から叫び返す。
「人は弱い。それを知っているからこそ、それを克服しようと強くなれるんだ!」
『お前達は一つ間違っている』
そんなひとみの叫びに、みちよの嘲笑った声が響き渡る。
『強いものは初めから強いのだ。そのことを、分かっていないお前達に、用は無い』
「逃げるのか?」
虚空に叫ぶひとみの声だけが反響しそれがやけに虚しい行為だと思われたが、それでもひとみは叫ぶことを止めなかった。
『違う。殺す価値も無いということだ。そのことを証明してみせよう』
そう言い放った平家みちよの気配が、あっさりと消滅してしまった。
- 672 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:36
-
「……逃げたんですかね?」
絵里がひとみの手を強く握り締めながら聞いてくる。
「いや、違う。あの言葉に嘘は無い」
そう、自分達は見捨てられたのだ。
神という傲慢な人間から。
「でもいいさ。私達には関係ないよ」
「そうですね」
ひとみはひとみで人の強さを平家みちよに知らしめた。
それはみちよの言葉からも容易に理解することができた。
が、それが本当に理解できたのかは、平家みちよ自身に掛かっている。
「そう……私達にはもう、関係ないんだ」
ひとみは自分に言い聞かせ、歩き始める。
行き先は決まっていた。
だが、そこへ戻る前にすることがあった。
「ねえ絵里」
「なんですか?」
隣を歩いている絵里が、ひとみを見上げて首を傾げてきた。
そんな絵里にひとみは素直に聞いてみる。
「キスしてもいい?」
ひとみは自分で言いながらも体温が上昇していくのを感じた。
そして、それを見た絵里に笑われるが、それもひとみにとってすれば小さな幸せだった。
「いつもはいきなりなのに、今日は聞いてくるんですね」
「そういう気分なんだ」
目を閉じた絵里を見ながら、ひとみはゆっくりと顔を近づける。
いつもとは違うその感触にひとみは身体を震わせるが、それも一瞬だった。
(そうだ、私はここに在る……)
それを絵里の中に感じながら、ひとみはしばしの夢心地を味わうことにした。
- 673 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:37
-
――――――――――
- 674 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:37
-
「ミカ?」
アヤカ・エーデルシュタインが振り返ると、そこには双子の妹であるミカ・エーデルシュタインが立っていた。
アヤカがいるのは彼女の自室。
そこにミカが無断で入ってきたのだ。
「どうしたのですか?」
アヤカの問いかけにもミカは答えない。
だが、その顔は笑っていた。
通常の笑い方ではない。
それは何かを決意して、その道を進み始めたときの笑みだった。
アヤカはその笑みの真意に気づき、すぐさま自分の部屋をスキャンする。
そして二人とは別の、もう一つの気配を察知した。
だが、それもほんの一瞬遅かった。
アヤカの背後に迫っていた恐ろしく俊敏で、獰猛な殺意を携えた気配が一瞬にしてアヤカを飲み込み………
アヤカ・エーデルシュタインはこの世界からその意識を驚くほどあっさりと断絶させる。
最後に認識できたのは妹の狂った笑みと、目の前に迫ってくる鋭利な牙の数々、ただそれだけだった。
- 675 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:37
-
――――――――――
- 676 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:39
-
骸と成り下がった姉を見下ろしながら、ミカはようやくその笑みを収める。
アヤカ・エーデルシュタインは能力的にはすでに打ち止めだった。
さらにそれに平家みちよの呪いが混ざり合ってしまい、これ以上成長のしようがなかったのだ。
だから、ミカの使い魔であるマルコキアスの気配にも気づかず、その牙に身体を砕かれた。
今は身体を二つに別れて転がっている。
「さて、ここからが本当の仕事ですね」
姉を殺したことに対して何の感情も無い。
あるのは自分の目的だけだった。
マルコキアスを封じ込めるとミカはアヤカの上下に別れた遺体を集め、それらを中心に魔方陣を描く。
これからミカが行うのは奇術において禁忌とされた領域の技術だった。
これを行うことによって、アヤカ・エーデルシュタインという人間はアヤカ・エーデルシュタインという人間ではなくなる。
そもそもすでに死んでしまった人間に個性など無かったが、ミカがこれから施そうとしているのはそれを擬似的に埋める作業だった。
「アヤカ。あなたはこれからも私と一緒ですよ」
もう一度高らかに笑い、ミカ・エーデルシュタインはその作業を終えた。
- 677 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:39
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――――――――――
- 678 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由4 投稿日:2005/03/16(水) 11:40
-
結論は始めから見えていた。
仮初の結合など、何の意味も為さないと。
他人と結びつくことがどれほど愚かで、そして、間抜けな行為なのかを、彼女達は知らなかった。
まあ、それも放っておけば良い。
どうせ私がやらなくても、別の誰かがそれをするだろうから。
そして、それはあれらにとっても当てはめることができる。
小川麻琴に小川真琴。
一つで二人という矛盾を内に抱えるその存在。
その矛盾をどう克服するのかは、大体想像がつく。
それに、それを克服したところで結果は変わらない。
お前達がそこに在るのは全て私のため。
私が目的を達成するための、単なる道具に過ぎない。
だから、道具がどう葛藤しようが構わない。
どうせ、最後には消えてしまうのだから。
鍵を得るまでの、仮初の本体は必要ない。
私に必要なのは、鍵を得たあれだけなのだから……
というわけで、しばらくは放っておこう。
あれらがどう結論を出すかを。
そして、それに対し、何が起こるのかを。
私は結果だけを待てば良い。
全ての準備はすでに整ったのだから……
- 679 名前:いちは 投稿日:2005/03/16(水) 11:52
- 久しぶりな感じがしますが更新しました
この辺だと誰が主役なのか良く分かりません
>>633 通りすがりの者さん
長いこと更新してなくてすいません。
来週からは何とか更新できそうです。
次回は「想いのなかの迷い、それから得る自由5」になります。
それでは。
- 680 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/03/16(水) 18:56
- 大量更新有難うございます、そしてお疲れさまです。かなり本格的なところまで来ましたね。しかもかなりリアルな発言、最後が全然分かりません。 次回更新待ってます。
- 681 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/03/23(水) 10:49
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想いのなかの迷い、それから得る自由5
- 682 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 10:50
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「どうやら、僕は大きな間違いを犯していたらしい」
「僕はこれまで、ずっと疑問に思ってきた。どうして自分の根源が認識できないのかって。それを突き詰めた結果、言葉に縛られてそれができなくなってしまったのだという結論に到った。だけど、どうやらそれは全く違ったみたいだ」
「僕が常に感じていた疑問。それと共に在った、曖昧とした感覚。それが答えだったんだ」
「僕の根源はどうやら『漠然』、この言葉が一番適切みたいだ」
「根源を認識した人間は、その根源に縛られる。僕もその内の一人だったってわけだ。ずっと感じていたこと、ずっと引きずってきたもの。それら全てが僕の中で方向づけられ、そこへ向かうように仕向けられていた……少し考えてみれば、少し視点を変えてみれば、あっさりと見つかったんだ」
「でも、僕が最後の最後までこのことに気づけなかったのは、それまでに培った様々な認識が邪魔をしていたからだろう。だって、僕がそれを一番良く知っていたからね」
「僕は常に言葉の意味について疑問を投げかけてきた。それは間違えではないと思う。だって、こうやって根源を認識してしまった今でも、僕はそれを拒否することができている。こんな抵抗は本質的には全く意味を為さないのかもしれない。だけど、それを拒否するという姿勢が大切だと思うよ。抗うことで手にすることができる別の何か、その最初の一歩となるのが言葉なんだ」
「言葉に発して、それを認識して、初めて人は自分以外に伝えることができる」
「常に考え、それを常に自分の中へと反映させる。それは決して簡単なことではない。だけど、それをしようという意志さえあれば、誰にでもできるんだ。それを成長と言うのかどうかは分からないが、少なくともその反対側に位置するものではないと思う。だから、それを恐れていてはダメだ。前を見て進もう」
- 683 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 10:50
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「僕はこれで消えてしまうけど、僕がこれまで語った言葉は消えはしない、それを聞いてくれた人達が残っている限りは。そして裕子、君もその大切な一人だ。今はまだ、意味が理解できなくても構わない。だけど覚えていてくれ、どんなに辛くても、生き続けないと意味は無い」
「僕が取り除けなかった遺恨は間違えなく君のところへ行く。そこで君は何かを失い、そして、何かを得るだろう。だけど、それが全てではないんだ。失ったものは永遠に戻ってこないとは限らないし、得たものが永遠に手元にあるとは限らない。それに対してどう感じるかが大切なんだ。そして、それを言葉に還元して周囲へ伝えていく。そうすることで君は君であったことを周囲へ残すことができるし、周囲も考えてくれるようになる。だから、常に君は模索してくれ。自分とは何か、中澤裕子とは何かを」
「……そろそろ時間か。死ぬのが怖いかって言われたら、素直に怖いって言うしかないよ。だけどね、僕はようやく僕にしかできない道ってのを見つけたんだ。それこそ裕子、君が僕に言ってくれたあの言葉だ。それが僕の中でようやく形になって、目の前に現れてくれた。本来、無理やり『作成者』として位置づけられていた僕がこんなことをするなんて、他の人は思いもしないだろう。だけどね、それが盲点なんだ。そのことを彼らに思い知らせてやりたい。僕が僕であったのにはこういう意味があったんだぞってね。君達が思い描いているほど、人は単純じゃないんだってね……どうしたんだろ、興奮してるのかな。言葉が急に乱れてきたよ」
「最期に一言、君に言っておく。君はこれから先、どうしようもなく追い込まれるかもしれない。だけどね、それまで得た何かまで消えてしまうわけではないんだ、それを忘れないでくれ……あれ、一言のつもりが二言になったな。でもまあ良いか。つまりはそういうことだ、頑張ってくれ、裕子。何をしたいのかを明確にしさえすれば道は開ける。そのことを忘れないでくれ」
- 684 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 10:51
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 685 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 10:51
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小川千尋がN大付属高校第三女子寮に入ったのは、これが二度目だった。
彼女の知っている寮という雰囲気を全く感じさせないのはそれを管理している人間が良いのか、それともそこに住んでいる寮生がそう心がけているのか、玄関先でそう考えてみるが結論は出るものではない。
そんな千尋のところへこの寮の寮母である安倍なつみがやってきた。
「小川さん、わざわざすいませんだべ」
「いえ、こちらこそ、娘が迷惑をかけて申し訳ありません」
最初にこの寮へやって来たのは、娘である小川麻琴・真琴と一緒だった。
そのときは荷物の整理だったため、ろくに話をすることができなかったなつみに改めて挨拶をする千尋。
「もう、今日で五日目なんです」
「そうですか。私のほうで早く対処していれば良かったのですが……」
「いえそんな……ここにいるのに、何もできなかった私が悪いんです」
半分泣いているなつみに、千尋は先月末の麻琴・真琴を思い浮かべて。
新垣里沙を伴って帰ってきた麻琴ははにかみながら、彼女とつき合うことを報告してきた。
そして、一向に出てこなかった真琴。
二人のバランスが崩れていることに気づきながらも、それをあえて放置した結果が今の麻琴・真琴だった。
(あの人から預かったのに…………母親失格ね)
心の中だけで毒づきながら千尋はなつみの後をついて行き、最上階にある彼女の部屋へと向かう。
部屋の鍵はかけていないのか、なつみが部屋の前で千尋に先を譲った。
「この中にいます」
短く言ってくるなつみに、千尋は小さく頭を下げる。
そして、千尋はドアを開けて中へ入った。
(まるであの時の私のようね、智広……)
小さく蹲った義理の娘を見て、千尋は過去にいた自分と同じ名前を名乗っていた人間を思い出す。
しかし、その彼からは返事が返ってこなかった。
それもそのはず、千尋の中の智広はすでに死んでいたのだから……
- 686 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 10:53
-
「麻琴・真琴、起きてるんでしょ?」
カーテンの閉められた薄暗い部屋に入り、千尋は麻琴・真琴に向かって話しかける。
しかし、その麻琴・真琴からは何の反応も返ってこなかった。
「起きてるんだったら、顔を上げて」
ゆっくりと近づきながら話しかける千尋。
そんな彼女に対して麻琴・真琴は無反応だった。
「麻琴・真琴っ!」
千尋の短い叫び声が部屋に響き渡る。
その声の大きさに驚いたのか、はたまた怒られたことに驚いたのか、顔を伏せていた麻琴・真琴が反射的にその顔を上げていた。
「お………かあ……さん?」
「そうよ。私のことが、分かる?」
近づいた千尋が麻琴・真琴の前でしゃがみこみ、彼女達の顔を覗き込む。
目の下に隈を作りながらも小さく顔を縦に動かした麻琴・真琴に微笑むと、千尋はその頭をゆっくりと撫でた。
「何で、学校に行かないの?」
原因は千尋にも分かっていたが、それでも本人達の口から聞かなければならない。
それを意識しながらも優しく声をかける。
「怖いの……」
小さく呟いた麻琴・真琴の身体は震えていた。
だが、まだ千尋は彼女を抱きしめることはしない。
それはこれを乗り越えてからだ。
「何が怖いの?」
頭をゆっくりと撫でながら、ゆっくりと問いかける千尋。
「わたし達、おかしくなってるの。これまでずっと一緒で、何でも分かり合えたのに、それができなくなった。わたし、真琴が何を考えているのか分からない。おれだって麻琴が何を考えているのか分からない。こんなのおかしいよ。だって、わたし達って二人で一人なんでしょ?どうして真琴のことが分からないの?そうだ。おれ達は二人で一人なんだ。なのに、なんで麻琴のことが分からないんだよ!」
(この混乱。あの時と同じだわ……)
堰を切ったように話し始めた麻琴と真琴を見ながら、千尋は彼女達が自分のようになっていることに気づく。
千尋も、そして智広も互いの気持ちが分からなくなり、混乱した。
そして、それを修復する前に智広は消えてしまった。
(私達と同じ目には、合わせない)
千尋は決意を固め、麻琴・真琴へ話しかけた。
- 687 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 10:54
-
「人はね、他の人の気持ちを完全に理解することはできないの。それに、あなた達はそれぞれ独立した一人の人よ。お互いの気持ちを完全に理解しようとしては駄目。それをしてしまっては、あなた達は二人では無くなるわ」
荒い息をしながら千尋を見上げてくる麻琴・真琴。
その麻琴・真琴に千尋はなおも優しく笑いかけた。
「あなた達は二人で一人じゃない。あなた達は二人なの。ただ、身体が一つということだけ。それはずっとあなた達に言ってきた言葉。でもね、それだけでは駄目なの。言葉では伝えることのできない、言葉以上の何かをあなた達自身が、その心で感じ取らないといけない。それは、私が口で言ってきたことよりもはるかに重要で、そして、あなた達の心に一番響く。それを感じないといけないの」
麻琴・真琴の息が静かになるのを待って、千尋は先を続ける。
「麻琴、あなたは私に新垣さんのことが好きだと言ってくれたわね。その気持ちを大切にしなさい。
真琴、あなたは前に紺野さんのことが気になると言ったわね。その気持ちを忘れないで。あなた達にはちゃんとした意志がある。麻琴には麻琴の、そして、真琴には真琴の気持ちが。そこには決して越えることのできない壁が存在する。だけど、それは悪いことではないの。あなた達があなた達でいられるようにそれを見失わなければ、あなた達はあなた達のままよ」
「でもお母さん、わたし達は一つの身体しかないんだよ?おふくろ、それで、どうやっておれ達を出していけばいいんだ?」
麻琴と真琴から問いかけられ、千尋は苦笑いする。
そして、続けた。
「あなた達はこれまでうまくやってきたじゃない、それを続けるだけでいいのよ。あなた達は上手にお互いを表現してきたわ。その要領でこれからもやっていけばいいのよ。分からない部分があってもいいじゃない。麻琴は真琴ではないし、真琴も麻琴ではない。それに、お互い知られたくない部分もあるでしょ?」
そう言われた麻琴・真琴が、顔を赤くして俯く。
それは麻琴の感情であったし、真琴の感情でもあった。
- 688 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 10:54
-
「あなた達は成長しているの。そして、それはお互いをより鮮明なものにするわ。だけど、それは悲しいことではない。あなた達はお互いを区別することによって、自分自身を自覚するのよ」
それまで我慢していた千尋が、ようやく麻琴・真琴を抱きしめた。
大きく震えていた身体が、少しずつだが静かになっていく。
成長して大きくなったはずのその身体はやはり千尋からしてみればやはり小さなもので、同時に千尋にとって守らなければならないものだった。
「寝てないんでしょ。だから、今は眠りなさい。お母さんがついてるから」
優しく抱擁しながら麻琴・真琴の頭を撫でる千尋。
麻琴・真琴が見上げて、何かを言おうとした。
だが、それを千尋は首を振って遮る。
「今は、何も考えなくて良いわ。あなた達の不安は、起きたら無くなっているから」
その暖かさに包まれて、麻琴・真琴はすぐさま規則正しい寝息を立て始める。
しばらく娘を抱きしめた千尋だったが、マコトの身体を抱きかかえると部屋の脇に置いてあったベッドに彼女を寝かせた。
そして、その上に布団をかぶせる。
眠った娘達の顔はそれまでの苦痛を全く見せることの無い、安らかなものだった。
その娘達の顔をそっと撫で、千尋は一つだが二人分の手を握り締める。
(安倍さんには、悪いことをしたわね)
勝手にベッドを使ってしまったことに対する謝罪を心の中ですると、千尋は最愛の娘が目を覚ますまで待つことにした。
- 689 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 10:54
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 690 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 10:55
-
ここは、どこだろう……
……暗い。
だけど、全然怖くない。
さっきまではこの暗闇が怖かったのに、今はこの中で浮かんでいてもそれを感じることはなかった。
だって、今はずっと温かさに包まれている。
これは、お母さんの温かさだ。
お母さんに言われて、わたしは考えていたことが間違っていたことにようやく気づいた。
そう、わたしはわたし。
小川麻琴は小川麻琴なんだ。
それを、お母さんははっきりと言ってくれた。
それが、わたしには嬉しかった。
わたしは、わたしの意志で歩いていける。
ほら、わたしにはちゃんと足がついてる。
どこへ歩いていこうか、それを決めることができるんだ。
しばらく暗闇の中を歩いてみる。
目的地ははっきりしてる。
ほら、見えてきた。
暗闇から出てきたのは、わたしと同じ顔をしたヒト。
いや、もう一人のわたしか。
「こうやって顔を突き合せるのは初めてだな」
もう一人のわたし、小川真琴が笑いながら言ってきた。
「そうだね。でも、不思議だよ。同じ顔をしているんだもん」
「そりゃこっちの台詞だ」
わたし達は同じ顔をして、同じように笑う。
だけど、真琴は真琴なんだ。
わたしじゃない。
それを分かってあげないといけないんだ。
- 691 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 10:56
-
「わたしはね、ずっとあんたの気持ちが分かんなかった。いや、違うね。分かっていたと勘違いしてたの。だけど、あのときを境にしてあんたの気持ちがさっぱり分かんなくなった。だから、すごく困ったの。なんであんたがわたしを壊したがっているのか、どうしてあんたが独りになりたがっているのかって」
「おれもだ。これまではおぼろけだけど分かっていたお前のことが分からなくなって、ずっと戸惑っていた。お前には何でも伝えることができて、当然のことながらお前もそれに同意してくれるものかとばかり思ってた。おれはずっと考えてきた。独りってなんだろうって。おれとお前はずっと一緒で、独りなんて感じることができなかった。おれがそう思ってたんだ。だから、おれはお前のことを壊して、おれだけになろうとしたんだ」
「それはわたしも同じだよ。わたしもあんたのことが分かんなくなって、あんたを消そうとした。消して、わたしだけになって、里沙ちゃんと一緒になりたいって思った」
「おれもお前を壊して、おれだけになって、あさ美と一緒になろうって思った」
「何か二人して違うことを考えてたって思ったけど、結局は一緒のことを考えてたんだね。だけど、ちょっと視点を変えてみれば良かったんだ。わたしはわたしであんたはあんた。そうやって壁を作ってあげるだけで、解決したんだ」
「そうだな。一つの身体にいるから全部分からないといけないって勘違いをしていたから、おれ達はその壁のことに気づけなかった。おれはお前じゃないし、お前はおれじゃない。それを意識してやるだけで、解決できたんだ」
「ほんと、何か遠回りしてたね」
「だけど、さっきまでの方法で消さなくて良かったよ」
「何で?」
「おれがお前を消したって他のやつに知られたら、まず新垣に殺される」
「里沙ちゃんはそこまでひどくないよ……それに、わたしもあんたを消したらあさ美ちゃんにずっと恨まれるだろうって思った」
「もしかするとそこで躊躇したのかもしれないな、お互いに」
「そうだね……でも、それで良かったんだ。二人して歩いていけるって分かったからね」
「そうだな」
- 692 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 10:57
-
そう言って真琴が手を出してくる。
その動作はわたしがこれからしようと思っていたのと全く同じだったため、わたしは思わず吹き出してしまった。
「なんだよ。何がおかしいんだ?」
「いや、わたしも出そうと思ってたんだ、手」
そう言ってわたしも手を出してみる。
すると、やっぱり真琴も笑った。
「なんだ。考えてたことは一緒か」
「多分、思考回路のどっかが繋がってるんだよね」
「違うよ。ずっと一緒だったから、行動パターンが似ただけだ。おれとお前とは思考回路は全然違うぞ」
「そうなの?」
「そうだよ」
わたしと真琴は笑ったまま握手をする。
わたしと同じもう一人の手は、とても温かかった。
「ねえ、あさ美ちゃんのこと、どう思う?」
「今なら素直に言えそうだ。おれの気持ちってやつが」
ストレートに聞いてストレートに返ってくる答え。
それがわたしにはとても気持ちが良かった。
それはきっと真琴も同じ。
「麻琴。お前は新垣のことをどう思ってるんだ?」
「里沙ちゃんはわたしにとっていないといけない存在。だから、ちゃんとそれを言うよ」
真琴がストレートだったから、わたしもストレート。
そんな小さな張り合いだったけど、それもどこか清々しかった。
これが吹っ切れたってやつなのかな……
- 693 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 10:57
-
「そうじゃないよ。おれとお前は別々になった、それだけだ」
「そうだったね、ここまで近くにあんたがいるから、すっかり忘れてたよ」
おいおいと肩を竦める真琴はやっぱり真琴で、それは真似できないだろうって少しだけ思う。
だけど、わたしにはわたしにしかできない仕草があるし、それはいくら真似しても真琴にはできやしない。
そう思ったらそれも笑顔で見ることができた。
「戻ったら大変だな」
「そうだね。かなり捻くれてたからね」
「大丈夫か?」
「わたしは全然平気。それよりあんたのほうはどうなの?あさ美ちゃんの前でずいぶん言いたい放題だったみたいだけど?」
「何とかするよ」
「そう、なら大丈夫だね」
そこでお互いの手を離して、話を切り上げる。
小さく真琴に手を振ってみるとそれに真琴も小さく手を振って返してくれた。
そして、わたし達は互いに背を向けて歩き出す。
わたしが進む道と真琴が進む道は違う。
今は百八十度反対だけど、これも交わることがあるし、一生交わらないままかもしれない。
だけど、それでも良いんだ。
だって、わたしは小川麻琴。
そして、あんたは小川真琴。
全然別人だしね。
- 694 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 10:57
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 695 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:00
-
気がつくと、わたしはベッドの上で寝ていた。
天井がわたしの部屋よりも高い。
そうだ、わたし安倍さんの部屋にいたんだ。
そして、右手には温かい感触があった。
見てみるとお母さんが眠りながらも、わたしの手を握っていてくれた。
お母さんを起こさないようにゆっくりと起き上がる。
『何か、身体がだるいな……』
頭の中で、真琴の声がわたしにだけ聞こえてくる。
すごく懐かしい感じだな。
ずっとこの声を聞いてなかったんだ。
そのことを自覚しながら、わたしは真琴に応じる。
「うん、だってろくに寝てなかったんだよ、これくらいじゃ元には戻らないよ。」
『それよりも、腹が鳴らないか心配だな』
「ほんとだ、すごいお腹減ってるよ」
真琴とそういう会話をするのがまずかったのか、その直後、お腹がものすごい悲鳴を上げた。
「うわっ、あんたがそういう話をするからだよ」
『うるさいっ、今はお前が出てるんだろ、だったらお前の管轄だ』
「あれ、もう起きたの?」
むくっと起き上がったお母さんが、寝ぼけ眼をわたし達に向けてくる。
「ごめんねお母さん、起こしちゃって」
無理な体勢で寝ていたお母さんが腰に手を当てながら、ゆっくりと起き上がる。
「気分はどう?」
「何かさっぱりしてる」
「それに腹も減ったな」
わたしと真琴がそれぞれ言うのをお母さんは笑っていたけど、ちゃんと聞いていてくれた。
- 696 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:00
-
「そう……。でも、何か食べる前にしなくちゃいけないことがあるわね」
「うん。みんなに謝らなくっちゃ」
「そうだな。おれ達が勝手にやってたから、大分迷惑を掛けたみたいだしな」
こういうときはどういう表情をすれば良いんだろう?
それが分からなくて、わたしは結局苦笑いしかできなかった。
「大丈夫よ。麻琴は麻琴。真琴は真琴。それを忘れないで」
「分かったよ」
「分かった」
わたしと真琴がそれぞれの言葉でお母さんに言う。
と、そのときだった。
部屋のドアがノックされた。
ノックしたのは、恐らくこの部屋の持ち主……
「まこっちゃん、ようやく気がついたべか」
安倍さんが返事を待たずにドアを開けて入ってきた。
「安倍さん、すみませんでした」
何かを言われる前にわたしから謝っておく。
そうしないと気が済まなかったから。
「ちょっと待ってるべ。もうそろそろお昼ごはんができるからさ」
「あ、はい。何から何まですいません」
「まこっちゃんのお母さんも食べていってください。お口に合うかどうか分かりませんが」
苦笑いした安倍さんが、聞きなれない敬語を話している。
そのことにちょっと驚いたけど、すぐさま、それは恐怖に変わった。
「その後で、しっかり怒るべ」
にっこりと笑った安倍さんに怖いものを感じ、わたし達はとたんに逃げ出したくなった。
- 697 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:00
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 698 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:02
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そのとき、中澤裕子の中に危機感という言葉はすでに消えていた。
ただ、事実を目の当たりにしても動じることは無く、無気力に応じるだけだった。
「そうか、今の私と繋がっているのは、お前達だけか……」
ここ一週間の日課となっていた散歩。
そして、その終着点であるその人の滅多に来ない公園。
そこで裕子は唯一と言っても良い繋がりと遭遇した。
「今ならあっさりと殺すことができるな」
現れたのはミカ・エーデルシュタインとアヤカ・エーデルシュタインの二人。
十メートルほどの距離を取って対峙した裕子は、普段なら見せるはずだった殺気を全く表に見せなかった。
そんな裕子に向かって一歩を踏み出してくるミカ。
その目は呆れを通り越して哀れな人間を見下すものだった。
「そんなに堪えたのですか?平家みちよとの繋がりが切れてしまったことが」
「……当たり前だ」
容赦の無いミカの言葉に力無く頷く裕子。
ミカの後ろにいたアヤカは全くの無言でそんな二人を見ているだけだった。
「あのときまで、私は何の目的も持てずに生きてきた。そしてあのとき……私の前にみちよが現れたときから、私は再び生きる目的を得ることができた。だが、それも完全に私の独りよがりだった。単なる、私の勝手な思い込みだったんだ」
油断しきっているこの瞬間にも殺されるかもしれないという危惧は全く無く、思いつくままに話す裕子。
ミカもそれを無理に止めようとはせず、喋らせたいだけ喋らせている。
そんな状態を不思議に思いながら、なおも裕子は続けた。
- 699 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:03
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「繋がりというものに縋ったのは紛れも無く私で、それを意識することで安心しようとした。でも、みちよはそんな私を完全に突き放した。もう、残っているのはこの間抜けな抜け殻だけだ」
自嘲気味に笑った裕子にミカが小さく肩を竦めてくる。
「今のあなたを殺すことはとても容易い。しかし、それで私が受けた傷が消えるわけではありません。私の心に刻まれた屈辱が消え去るわけではありません。私が殺したいのは全盛期だった頃の中澤裕子。あの、刺々しいまでの殺気を放っていた、あのときの中澤裕子です」
ミカの後ろにいたアヤカの姿が消え、裕子の目の前に現れる。
それまで無気力な裕子だったが、身体に沁みついた反射神経までごまかすことはできず、とっさに後退していた。
「そうです。まだ、あなたは心まで壊れていない。ただ、動揺しているだけです。ならば、それを引き出すまでです」
全てを見透かしたようなミカとアヤカの動作に大きく舌打ちをしながらも、裕子自身もとっさのその行動に少なからず驚いていた。
(私はまだ、壊れてない……?)
自問してみて、それがすぐに答えの出るものではないとの結論に到るが、それでも裕子にとっては大きなきっかけだった。
(そうか…………私はまだ壊れてないのか)
一度曲がってしまった認識は、そこでも裕子に対し、まっすぐな見識をもたらすことは無く、それを判断できる裕子でもなかった。
曲がった認識をそれだと認識できないまま広がっていく緊張感、それを全身で意識しながら、裕子は前方にいる二人を睨みつける。
そうした裕子の変化した動作に満足そうに頷いたのはミカだけで、アヤカは全くの無表情だった。
- 700 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:03
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「あなたの価値というものを考えてみることです。他人の意志によって生かされているのか、それとも自分の意志で生きているのか、そのことをあなたの心で決めなさい。そうでなければ、私も満足してあなたを殺すことができません」
そう言い放ったミカの姿が消え、続いてアヤカの姿も消える。
誰もいなくなった公園に取り残されたのは裕子だけで、その裕子に対し、声だけが響いてきた。
『明日、また来ます。そのときまでに決心をつけておくことです。生きるか、死ぬかの』
少しでも注意を逸らせば周囲の風に紛れてしまいそうなその声を聞き、裕子は目の前にあった空間を睨みつける。
そのときにはさきほどまでの無気力な中澤裕子の姿は無くなり、そこには別の何かがいた。
そして、その空間を睨みつけたまま、裕子は言葉を放り投げる。
「何をしたいか。それは私が決める」
何をすべきかはまだ見つかっていない。
しかし、裕子にしてみればそれも単なる言い訳に過ぎなかった。
- 701 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:03
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 702 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:05
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(よりによってこんなときに掃除当番なんて……)
紺野あさ美は運の悪い自分を心の中で呪っていた。
が、それもすでに終わったことなので、きっぱりと諦める。
今はそれより大切なことがある。
あさ美はそれに向かって走っていた。
「あ、愛ちゃん」
寮の前で同じように高橋愛と鉢合わせになる。
息を切らせているところから察するに、あさ美と同じ原因でここまで走ってきたようだった。
「あさ美のところにも、安倍さんからメール来た?」
「うん、きたよ」
どうやら愛もあさ美と同様のメールを受け取ったらしい。
そして、二人は共にあさ美と麻琴の部屋へと向かった。
「麻琴は部屋に戻ったって言うとったけど、ほんとかな?」
「安倍さんの言うことだから、間違えないよ」
口ではそう言いながらも、二人は半信半疑でドアを開ける。
「お、あさ美に高橋じゃないか。やけに早かったな」
部屋の中から聞こえてくる小川真琴の声に、二人はしばし拍子抜けする。
「ん、どうしたんだ?」
そんな二人にベッドの上で寝転がっている真琴は、首を傾げるだけだった。
「真琴……なの?」
「あぁ、おれは小川真琴だ」
あさ美の茫然とした問いかけに毅然と答える真琴。
そこにあさ美たちが最後に見た真琴の姿は無かった。
「なんや、安倍さんが言うとったことはほんとやったんや」
愛がぽかんと口を開けながら、ぼんやりと言ってくる。
それを真琴は笑ってみていた。
「高橋のその顔、何か麻琴に似てるな」
「ち、違う。麻琴のほうがもっとだらしないわっ!」
思わずそう叫び返す愛。
「うわっ、愛ちゃん。ずいぶんひどいこと言うね」
そして、それを受ける麻琴。
「へっ、今度はまこっちゃん?」
「うん、そうだよ」
にっこりと笑った麻琴に、愛とあさ美の二人は混乱する。
このような突然の入れ替わりは初めてで、二人はどっちに話しかければ良いのか分からなくなる。
それを麻琴・真琴の察したのか、すかさずフォローを入れてきた。
- 703 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:06
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「今はおれの時間だ」
「そ、そうなの?」
ということで、あさ美は真琴と話すことになった。
「ところで安倍さんからの途中経過を聞いてると、ずいぶんひどくなってたみたいだけど、それはもういいの?」
愛とあさ美が聞いていたのは昨夜の晩の麻琴・真琴の状態だったが、そのときは何も食べない、何も話さないというものだった。
が、今、目の前にいるのはそれとはかけ離れたもので、あまりの変化の大きさにどう反応したら良いのか迷う。
「ああ、おれも麻琴もようやく間違えに気づいたんだ。間違えが間違えと分かったら後は簡単だった」
ベッドから降り立った真琴が、二人に頭を下げる。
「迷惑をかけて、すまなかった」
短いながらも率直なその一言に、二人は何も言えなくなり、しばし呆然とする。
そして、そんな二人に構うことなく真琴は頭を上げて続ける。
その視線はあさ美に向けられていた。
「おれはあさ美のことが好きだ」
唐突にそう切り出した真琴。
あさ美は真琴の言葉を耳から通して聞き、それを脳へ伝え理解する。
そうした普段ならさりげない行為を数秒間、じっくりと行った。
そして、結果はすぐさま現れる。
「と、突然どうしたの?」
あまりにも急な真琴の言葉に言われたあさ美も戸惑うが、真琴はそんなあさ美に構うことなく続けてきた。
「これがおれの気持ちなんだ。ずっと言えなかったけど、ようやく言えるようになったんだ」
「だからって、こんなときに言わなくても……」
「おれは今、この場所で聞いてもらいたかったんだ」
どこまでもまっすぐな真琴の言葉にあさ美は逃げ場を求めて視線を彷徨わせる。
そして、その視界に愛のむすっとした顔が入り込んで、それまで彷徨わせていた視線を固定させてしまった。
- 704 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:07
-
「何であーしがおるのにそういうことが言えるんやろね?」
かなり低くなった愛の声にあさ美は一歩後退するが、真琴は身動ぎ一つすることなく愛を見ていた。
「ごめん高橋。だけど、どうしても言っておきたかったんだ」
良い意味では純粋、悪い意味では愚直。
そうしたことを真琴の表情から読み取ったあさ美だったが、だからといってそれを無理やり否定することはできなかった。
「あのさ愛ちゃん、真琴に返事をしたいんだけど……」
「あさ美ならそう言うと思うたわ」
小さく肩を竦めた愛が部屋の隅まで移動して、そこに座り込む。
部屋を出て行かなかったことに対して何か言おうとしたあさ美だったが、それをするよりも先に愛が耳を指で塞いで「あー」と言い出したため、結局言いそびれてしまった。
困ったままの表情を真琴に向けてみるとやはり真琴も同じような顔をしていたが、これは怒っているというよりも呆れているといったほうが適切で、そのことを不思議に思ったあさ美は自然と口を開いていた。
「なんかさ、変わったね」
「そうかな?前のおれもおれだけど、今のおれのほうがおれだって分かるんだ」
「私も今の真琴のほうが良いよ」
笑顔になった真琴の表情には以前に見た禍々しさは全く見られず、あさ美も自然と顔を綻ばせていた。
そして、素直な気持ちになって言葉を続ける。
「今の真琴だったら、私も好きになれそうだよ」
「……ありがとう」
顔を赤くした真琴が小さく言葉を返してくる。
その顔を初めて見たあさ美はようやく本当の小川真琴という人間を知ることができ、胸に痞えていた何かが取れたような気がした。
そのとき、部屋の隅にいた愛の声が一瞬途切れる。
どうやら声が枯れたようだ。
そんな愛を見て真琴が言ってきた。
- 705 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:07
-
「……そろそろ高橋も中に入れるか」
「そうだね、何か可哀想になってきたよ」
真琴が愛に近づき、肩を軽く叩く。
それを合図に塞いでいた耳をどけて、愛は少しだけ振り返ると真琴とあさ美の両方をまじまじと見つめてきた。
「高橋、どうしたんだ?」
睨みつけるといった言葉が適当かとも思える愛の視線に、肩を叩いた真琴が小さく後退する。
しかし、愛はそんな真琴に構うことなく立ち上がり、部屋の中央まで戻ってきた。
「どーせあーしがおらんくなっても続きができるんやし、これくらいでええよね?」
「……はぁ」
何がどう良いのか分からないが、とりあえず相鎚を打っておくあさ美。
そして、真琴も戻ってきて三人、いや、この場合は四人で話を続けることになった。
「ところでさ、まこっちゃんはどうしてるの?」
「わたしならずっとここにいるよ。だけど、あさ美ちゃんといるときは真琴のほうが良いかなって思ったから、奥で待ってることにしたんだ」
真琴から麻琴への切り替わりに関しても以前のように顔を歪めるといった仕草を全くしなかったため、あさ美は誰と話しているのか良く分からなかったが、それもすぐにあることに気づいて区別ができるようになった。
(まこっちゃんだと口が半開きになるんだ……)
それは愛が常に指摘していたことで、そのことを言われるたびに麻琴が口をわざとらしく閉じていたが、それも長くは続かない。
麻琴にそれを言っては可哀想だしそれも麻琴の特徴だからと割り切って、あさ美は麻琴と話をすることにした。
「それよりさ、里沙ちゃんには電話したの?メールとかだいぶ溜まってたんじゃない?」
「そうなんだよね。で、さっき電話してみたんだけど、出てくれなかったんだ」
どうしたんだろ、そう言って首を傾げる麻琴にあさ美も同じように首を傾げる。
新垣里沙とは学校が違うためあまり話をする機会が無いが、それでも麻琴は違う。
その麻琴と連絡が一週間近く取れなくなれば心配して何らかのアプローチがあっても良さそうなのだが、あさ美のところへはそれが来ていなかった。
- 706 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:09
-
「あ、それやったらあーしが話したよ」
「えぇ〜!」
結果としてはそこへ行き着くはずということにあさ美はすぐさま思い至るが、どうやら麻琴は違っていたらしい。
半開きだった口が愛の言葉を受けて大きく開き、最終的には顎が外れんばかりに広がってしまった。
「そんなに口開けてくれんでもええやろ。それに、里沙のほうから電話があったんもん。下手にごまかせんわ」
「……そりゃそうだね」
口をゆっくりと閉じ、何度も首を縦に振っていた麻琴が視線だけを愛に向けてくる。
その視線があまりにも弱々しく、あさ美は次に麻琴の口から出てくる言葉を予測することができてしまった。
「……里沙ちゃんはどうだった?」
「ありゃ怒っとったよ、相当」
恐る恐る問いかけた麻琴にあっさりと答える愛。
その一言を受けて麻琴の顔は引きつっていたが、そんな麻琴に愛はさらなる追い討ちをかけていった。
「里沙はね、怒ると無口になるんよ。昨日電話があったときも最初はずっごく喋っとったけど、あーしが話をするうちに静かになったもんね。で、最後には『私って信用ないのかな』って呟いて電話切られたよ」
引きつった麻琴の顔がみるみるうちに青ざめていき、半泣きの状態になってしまった。
- 707 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:09
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「明日にでも会いに行けば良いんじゃない?」
助け舟を出すあさ美の言葉を受けて、麻琴の青ざめた顔に少しだけ赤みが差す。
「そうだね。直接謝れば、許してくれるよね」
縋るような麻琴の視線と言葉にあさ美は大きく頷く。
しかし、そんな二人に愛が再び追い討ちをかけてきた。
「ほやけど、怒った里沙って結構怖いんやよ。二人で部屋におっても話なんてしてくれんし、里沙って動かんもんね。ベッドに寝転がってずっと本読んどるだけやもん」
「あ、愛ちゃ〜ん」
ようやく持ち直し始めていた麻琴には愛の言葉はやけに効いたらしく、さきほど以上に青ざめた顔でおろおろしている。
と、愛もそんな麻琴の気持ちを察したのか、すかさずフォローを入れてきた。
「ほやから、みんなで行けばええやん」
「みんなってのは、私も入ってるの?」
「もちろん」
やけに自信満々で言ってくる愛に聞いたあさ美は、やはり自信満々に答えてきた愛に何も言うことは無く、ただ肩を竦めるだけだった。
(真琴もまこっちゃんも変わったんだから、里沙ちゃんもすぐに許してくれるよね)
そんなことを思いながら、あさ美は目の前でひたすら慌てふためいている麻琴とそれをおかしそうに見ている愛に視線を送ることにした。
- 708 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:09
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 709 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:11
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廃屋のいつもの部屋へと戻った裕子は、焦った気持ちを隠さないままピースに火を点けた。
幸い、この場所においてはそれを見られる心配が皆無だったからだ。
忙しくピースに口をつけ、煙を肺へと流し込む。
そんな動作を十回以上も続けて、ようやく昂った気持ちが落ち着き始めた。
そして、静かに自問を始める。
(私はこれまで、何をしてきた?)
三年前のあの日、平家みちよを殺し、事実上一人になってしまった裕子。
あの場所にいなかった稲葉貴子には一切を話さず、その貴子も裕子の元から離れていった。
それはかつての親友から単なる知り合いへと成り下がった瞬間だった。
しかし、裕子はそれを拒否しなかった。
むしろ一人になったことへの安堵感が満ちてしまい、それに身を委ねてしまったのだ。
そして、時間は無為に過ぎていく。
裕子が認識してしまった根源とは全く正反対の『作成』を始めてみたものの結果は出ることはなく、成功した例としては小川麻琴・真琴と田中れいなに渡したペンダントくらい。
それも裕子が適当に作った、本当にお粗末な代物だった。
兄、中澤祐一と比べれば比べるほど出てくる裕子の粗、それが時間を経るごとに浮き彫りになり、それと同時に兄の語った言葉が脳裏に蘇ってくる。
そんな兄の幻影を追い払うかのようにさらに作成に没頭し、そして、全てが失敗に終わった。
その繰り返しを続け、裕子は自分でも何をしているのかが分からなくなっていた。
- 710 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:12
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そんな裕子に転機が訪れる。
ミカの元から逃げ出した使い魔をほんの些細な出来心で抹消すべく動いた裕子は、そこで小川麻琴・真琴と紺野あさ美と遭遇した。
ちょうど使い魔と戦闘中だった二人(小川麻琴・真琴を一人と判断した)に対して裕子は強引に割り込むも、しかしながら逆にその使い魔に追い詰められるという破目になってしまったのだ。
しかも裕子自身は負傷してしまったため、その使い魔は小川真琴によって屠られた。
あのとき痛感したのは自己の力の低下と、それによる自信の喪失。
それを目の当たりにしても、裕子はろくに行動しなかった。
しかし、あのときから人間関係に変化があり、それまで独りだった裕子はほんの少しだけ外の世界へと目を向けることになった。
そして、そうした人間関係の広がりが裕子に再び現実を突きつけてきた。
それがあの夏の日。
高橋愛が主催したという肝試しになぜか強制参加させられたときのことだった。
残留思念の一部と化していた平家みちよと再開し、自分を媒体としてみちよは再生を果たした。
そのとき語りかけてきたみちよはすでに裕子の知っているみちよではあり得ないはずだったのに、裕子は外見だけのそれに縋りついてしまったのだ。
- 711 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:13
-
(あのときは寂しいと思った。だから、私はみちよでないみちよにすら期待してしまった)
その結果がこれだとすれば、これほど皮肉なものは無い。
見せかけだけのそれに縋り、結果として過去から切り離されてしまった。
無情なまでの現実に向き合うことができなかったために失ってしまった様々なもの。
親友
家族
意地
そして、自分……
過去に失われてしまった、もしくは自分から放棄してしまったそれらは、もう手に入らないものもあるし、まだ、取り戻せるものもある。
そう意識した裕子は、そこで何となくそれまでの気持ちに整理がついた。
右手の中指がちくりと痛みそこを見てみると、短くなったピースが最後の抵抗を示しているかのように赤くなっていた。
そんな短くなったピースが今の自分のように思え、裕子はいつものように吹き飛ばすのではなく、部屋の隅にあった灰皿へと入れる。
そこには手にしていたピースと同じように極限まで短くなったそれらが二本入っていた。
(私と貴子とみちよ……繋がりは見ることはできない。言葉にしても実感できない。だが、私は私で繋がっておきたいという思う心が、まだある)
自身の胸に手を当て、その気持ちを確認する。
中にいた貴子とみちよに今の自分を加えて三人になった灰皿の中身を見下ろし、裕子は小さく笑った。
そして、その灰皿の中へいる自分へ呟く。
「私は私のできることをする。それが自分勝手な独りよがりでもな」
ただし、そうしたところで中にいる他の二人から返事が返ってくることは無かった。
- 712 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:13
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 713 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:14
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小川千尋は目の前に止まった古びたシビックの助手席に身を沈めた。
その運転手である弟の田中仁志はそれを横目で確認するとシビックを静かに発進させる。
といってもそれは仁志の気持ちだけで、くたびれたシビックは静かに発進してはくれなかった。
「もういいのか?」
赤信号で止まったとき、仁志がネクタイを緩めながら千尋に話しかけてきた。
「ええ。私の役目は終わったわ。後はあの娘達が自分で見つけるのよ」
「相変わらず厳しいな」
俺の娘でもあるんだからな、そう呟いた仁志が変わった信号とほぼ同時にシビックをゆっくりと前進させた。
それに対して千尋は何も言わなかった。
しばらくは会話も無く進んでいく。
そんな中、千尋は隣にいる弟を少しだけ観察して、すぐに変化を感じ取った。
「悩みでもあるの?」
何となく仁志の抱えているものが分かったが、それでもそれを口にすることなく、静かに聞いてみる。
すると、仁志は前を見たまま小さく笑ってきた。
「このまままっすぐ帰るのか?」
口から出てきたのは千尋の問いかけとは全く無縁の一言。
つまり、弟はそれを姉には話したくない、もしくは話す必要は無いと判断したのだ。
「えぇ、そうしてくれるとありがたいわ」
「分かった」
すぐに気持ちを切り替えた千尋はすぐさま答え、さらに仁志が短く返してくる。
会話らしい会話はそれ以降、することが無かった。
千尋の座った助手席の窓から、最近できたというテーマパークの大きな観覧車の頭の部分が見える。
その話は仁志から聞いていたが、千尋本人としては興味の対象ではなかったので聞き流していた。
と、前へと視線を戻すと、そこに人が立っていた。
そこはもちろん道路のど真ん中。
そして、その人間のことを仁志と千尋は知っていた。
- 714 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:15
-
「あ……のやろう……」
苦々しく吐き捨てた仁志がブレーキではなくアクセルを踏み込もうとしているのを気配だけで察知し、千尋は慌ててハンドルに手を添えて押し留める。
「姉貴、行くのか?」
「殺すつもりなら、姿なんて見せないわ」
大きく舌打ちをした仁志が足をブレーキペダルへ移動させ、踏み込む。
そして、シビックはそのときの仁志の気持ちを代弁するかのようにやけに耳障りな音を立てて止まった。
助手席から降りるとき周囲を確認してみるが、道路にもその脇の歩道にも人は皆無だった。
おそらく、目の前にいる彼女がそれを仕組んだらしい。
それを何となく意識しながら千尋はシビックを降りて、ゆっくりと彼女の前へと移動した。
「お久しぶりね。平家みちよさん」
数十年ぶりでも人の根本的な外見は変化しない、それを目の前にいる元人間にも当てはめる千尋。
それに対し、みちよは何も言わなかった。
後ろにいる仁志がやけに殺気だっているのを肌で感じ少しだけ振り向いてみると、彼はいつも使っている(といっても大抵使用した後は折れるので同じものだとは断言できないが)木刀を手にしている。
そんな仁志が暴走しないことを心の中だけで祈った千尋は、目の前にいるみちよに全神経を集中させて、早く話をすることにした。
「私に何か用?」
「こうして直に話すのは、初めてだ」
答えになっていない答えを返されどう続けようか迷うが、それでも口を閉ざせばそこで仁志が飛び出すのが分かっていたため、千尋は目の前を見据えて話を続ける。
「私には……もう用は無いはず。そして、あの娘達は私達とは違うわ。あなたの役には立たないわよ」
勘だけを頼りに言葉を紡ぐ千尋だったが、それでも目の当たりにしているみちよを見ていて、何となくだが確信した。
あのとき、千尋・智広が対峙した平家道正、それと今のみちよがどことなく似ているのを……。
平家道正から与えられた能力を使ってその道正を殺し、人として独立したはずの千尋と仁志。
それをみちよは否定するかのように立っていた。
- 715 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:15
-
「あの男が何をしようとしていたのか、それは私には分からない。だが、向かう先は見えている」
道正が何をしようとしていたのかは、千尋にも分からない。
ただ、最期の場面に居合わせた智広ならば何か知っているのかもしれないが、その智広も千尋の中から綺麗に消え去ってしまった。
だから、千尋には何も分からないのだ。
「あなたがしたいことって、何なの?」
その答え次第では後ろにいる仁志を抑えることができなくなることを覚悟して、千尋はあえて聞く。
そんな千尋の心境を見透かしたのか、みちよが千尋から視線を外し、仁志から視線を外し、横へゆっくりと歩き始める。
その仕草があまりにもぎこちなく、千尋は壊れかけたネジ仕掛けの人形を思い浮かべ、それを即座に否定することができなかった。
(死んで生き返るということは、つまり、それまでの人では無くなるということ……)
それと未だに向き合っているのは弟である仁志であり、その妻である真理恵だった。
「私が向かう先に必要なのは、外見と内面に矛盾を抱えたあの無様な道具のみ。それ以外では、私は先に進めない」
噛み合わない答えを何とか耳に押し込め、そこで千尋は絶句する。
その脳裏にはかつて聞いた道正の声が蘇っていた。
『お前達のように愚かな道具にも価値はある。それを証明してみろ』
言葉こそ違え、内容的にはほとんど同じことに気づき、思わず千尋は前へと足を進めていた。
そして、あのとき道正に向けて二人分の意志で言い放つ。
「私達には意志がある。あなたの道具なんかではないわ」
それはあのとき千尋の意志で言った言葉で、それは同時に智広の言葉でもあった。
最初で最後だった意志の疎通、それを思い出しながらなおも千尋はみちよへと向かっていく。
しかし、みちよはそれを視界に収めるどころか気づきもしない感じでゆっくりと歩みを進めるだけだった。
そのみちよに向かって、今度は千尋の意志だけで言い放つ。
- 716 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:16
-
「あの娘達もそれは同じ。あなたの道具にはならないわ」
道正とみちよ、この二人が何を思い描いて自分達を創ったのかは分からない。
だが、それでも意志を持って生まれた以上、彼女達には介入できない不可侵の領域があるはずだ。
それを漠然と意識したまま、千尋はみちよを睨みつける。
と、そこで後ろの殺気の塊が動いた。
のっそりとしたその動きは、気にしなければどうとでもないものなのかもしれないが、それでもすぐ次の行動が読めてしまった千尋は、とっさに叫んでいた。
「止めて!」
しかし、殺気の塊は止まらなかった。
自分のすぐ横を熱気を帯びた風が通り過ぎ、その次の瞬間には目の前の地面が陥没した。
その結果だけを目の当たりにした千尋は、そこでみちよの姿が消えていることに気づき慌てて周囲に視線を這わせるが、そのどこにもみちよの姿は無かった。
「しくじったか……」
陥没した地面の真ん中で木刀を振り下ろしたままの格好で止まっている仁志に、どう言ったら良いのか分からず、ただため息を吐くだけの千尋。
そんな千尋と仁志に対し、声だけが聞こえてきた。
『どうやら、あれはお前よりも優秀みたいだ。有効利用することにしよう』
「あの娘達は人間よ。私達みたいな作り物とは違うわ!」
その声に叫び返す千尋だったが、それに対する返答は無い。
だが、それでも千尋は続けた。
「あの娘達はあの娘達で感情を持っている。だから、あなたの思い通りにはならないわ」
それから千尋はまだ周辺を警戒している仁志に声をかけ、シビックへと戻る。
すでに熱気を収めた仁志は荒々しい動作でアクセルを踏み込み、それをそのまま受け取ったシビックが同じように荒々しいスタートをしたが、それでも千尋にしてみればかわいいものだった。
そう、平家みちよがこれからしようとしていることに比べれば……
ただ、赤信号で止まったときに仁志がぼそりと呟いてきた。
「俺達も一応は人間だよな……?」
自問なのか問いかけなのか良く分からない彼のその言葉に、千尋はどう反応すれば良いのか分からず沈黙するしかなかった。
- 717 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:16
-
――――――――――
- 718 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由5 投稿日:2005/03/23(水) 11:16
-
田中千尋・智広と小川麻琴・真琴の最大の違い。
それは、互いを違う『物』として自覚していたかそうでないかだ。
それを認識した上で互いを対極に置くことができるかの違いだ。
田中千尋・智広は互いをろくに知ることができないまま、平家道正に使われ、結果として失敗した。
ならば、自覚した小川麻琴・真琴を使うとしよう。
互いが違うことを明確に自覚して、その上で互いを対極に位置づけることができたあれらならば、平家道正のような愚かな間違えは犯さない。
そして、それももうすぐ私の手に入る。
それはすでに確定したこと。
その結果が変わることは無い。
何が見え、何を欲するのか、それは私にしか分からないが、今は私にも分からない。
ただ、目の前にあるのだから実行するまで。
何が起ころうが関係ない。
ただ、私は私の道を進むだけだ……
- 719 名前:いちは 投稿日:2005/03/23(水) 11:30
- 更新しました
前回までかなり出番が少なかった主役の二人が戻ってきました
二人が会話している部分が少し分かりにくいですが雰囲気で読んでもらえると助かります
>>680 通りすがりの者さん
最後までまだだいぶあります
なので、気長にお待ちください
次回は「想いのなかの迷い、それから得る自由6」です
ここで一区切りがつくので、登場人物の整理なんかもしたいと思います
それでは
- 720 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/03/29(火) 17:48
- 更新お疲れさまです。 うぁーそんな長編になるなんて・・・拝見しがいがあります! しかもかなり興味深い話なんで、次回更新待ってます。
- 721 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/03/30(水) 10:44
-
想いのなかの迷い、それから得る自由6
- 722 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:44
-
何がきっかけなのか、それは誰も分からない。
誰もがそれまでの状況を甘んじて受けてきたと言えばそうだし、それに抗ってきたと言えばそうでもあろう。
ただ、それでも事態は先へと進んでしまった。
それも、破滅的な先へと……
様々な要因が働き、最初の結果として兄である中澤祐一が消滅した。
しかも、その消滅は単独ではなかった。
どこをどうやったら綺麗さっぱり消えるのか分からないが、それでも日本奇術師協会の本部が丸ごと飲み込まれるようにして消えたのだ。
それを目の当たりにした裕子だったが、未だにそのことを信じることはできないでいる。
だが、それだけで事態は終息しなかった。
一万に満たない日本の奇術師、しかも最近では離脱と粛清が横行していた協会の本部が消滅したとあって、それまで息を潜めて逃げていた離脱者が一斉に蜂起したのだ。
本部付近にいた裕子だったが、すぐさま戻ってみると負傷した稲葉貴子が部屋に倒れていて、なおかつそれが粛清でないことはすぐさま分かった。
異様な根源の高まり、それが離れた場所にいる裕子にもひしひしと伝わってきていたからだ。
裕子や貴子がすでに行くことを放棄していた奇術師協会の一支部、そこから感じられるものだった。
力が暴走するとはこういうことか。
それを明確に意識したわけではないが、それでも中澤裕子はそこに立っていた。
周囲にあるのは燃え盛る炎とそこに平伏した無様な死体達。
それからその中でなおももがいている自分達だった。
正面にいるのは平家みちよで、その周囲にはミカ・エーデルシュタインとアヤカ・エーデルシュタインの双子の姉妹が倒れている。
一方のミカは裕子が打ち倒し、もう一方のアヤカはみちよが切り倒した。
そして、裕子はみちよと対峙した。
何度話しかけたか分からない。
それでもみちよが裕子に反応することは無く、持っていた長剣を振り上げ、裕子目掛けて振り下ろしてくるだけだった。
そのみちよの瞳を見て、裕子は何となくだがみちよに起こった異変を理解した。
- 723 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:45
-
根源に目覚めたものが、その根源に完全に飲み込まれてしまったときの現象。
つまりは『完全なる覚醒』がみちよの異変の原因だと……
根源に目覚めたものは、それをするときにより己を高めようと一種のトランス状態に入るが、それも度が過ぎれば逆効果だ。
実際、裕子も初めて『破壊』という根源を認識したときに『完全なる覚醒』状態へと移行し、そこで右手から肘に掛けて大火傷を負った。
『完全なる覚醒』を抑制するのは簡単で、要は興奮しすぎなければ良いだけのことだった。
腹八分目と一緒の要領で、後一歩というところで自制する。
たったそれだけの努力で事は大きくならないはずだった。
自我を失ったみちよを説得する間、裕子はそれまで抑えていた自分の根源をふつふつと感じていた。
それはまさしく単純な『破壊』で、それは絶えず目の前のみちよを殺すよう仕向けてくる。
しかし、裕子はその根源にある程度、抵抗することができた。
それはつまり、兄からの言葉であり、みちよの言葉であり、それを少しだけ考慮した裕子自身の結果だった。
が、それも長くは続かなかった。
所詮はそれも付け焼刃、そう頭の隅で意識した瞬間、裕子の中にあった根源が明確に覚醒してしまった。
後は為すがままだった。
何も考える必要の無くなった裕子に、すでに自我を失くしたみちよは無意味であり、それを裕子はすぐさま己に知らしめることになる。
みちよが長剣を振りかざした瞬間、裕子はとっさにみちよの足場を能力で破壊して自由を一瞬だけ奪う。
そして次の瞬間には、裕子の右手がみちよの心臓を鷲掴みにし、それを握りつぶした。
それこそ瞬殺。
裕子はそれを親友に対して速やかに実行し、みちよはそれを感じる間もなく殺された。
そのとき無意識に発した裕子の一言、それは……
- 724 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:45
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 725 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:46
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「私は何でこんなに弱かったのだろう……か」
三年前に呟いた言葉を今、改めて繰り返す裕子。
だが、場所は三年前のときとは違っていた。
名前も知らない地方の小さな公園、そこに立っていた裕子はそのあまりの異様な静けさに思わず震えている。
目の前にはミカ・エーデルシュタインとアヤカ・エーデルシュタインの双子の姉妹が立っている。
だが、話しかけてくるのはミカだけだった。
「その表情からすると、まだ、決心は着いていないようですね」
「つくわけないだろ」
ミカの言葉が皮肉に聞こえた裕子が同じく皮肉で返す。
だが、答えそのものは裕子の気持ちを素直に代弁していた。
昨日、寝ずに考えた自分という人間の生き様と、そこから見えるはずの何か。
それを模索していた裕子だったが、ついにこのときになってもそれが見つけることはできなかった。
しかし、裕子はそれをそのままに受け取り、その場所に立っている。
(それもそうだ。私は私が嫌いなんだ)
集約すればそれに尽きるのだろうが、だからといってそれで全てが解決するわけでもない。
奇術は自己を強く認識することによって引き起こされる。
つまり、どれだけ自分のことを受け入れるかでその威力も変わってくるのだ。
今の裕子はまさにそれとは逆の立場に立っているために、認識しているはずの能力もろくに使えないでいた。
拒絶したはずのそれらに縋ってしまったという矛盾。
その矛盾と向き合っている間はそれをそれだと認識することは無かったが、いざ、冷静に振り返ってみると結果は明らかだった。
一度意識してしまったそれはすぐに裕子の中で大きな部分を占めてしまい、絶えず過去の行いを悔いるよう強制してくる。
だが、今の裕子はそれすらも拒否していた。
「あなたがなぜそこまでして他と繋がろうとしているのかが分かりません。予測はできますが、私がそれをすればそれも所詮は憶測です。ですから、あなたにずばり聞きます」
「……言うな、お前の予測は正しいから」
静かというよりも投げやりな感じでミカの言葉を遮る裕子。
ミカの憶測はまさしく裕子の心の中であり、それは聞かなくても分かった。
- 726 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:46
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擬似的な空間に閉じこもり、限りなく独りになって過ごした二年半。
その間に裕子は己を律する強さを手にしたのではなく、他人に己を認識してもらいたいという弱さだけを育てていたのだ。
言葉を発しても誰も聞いてくれない、視線を送ってもそこに入ってくる人間も皆無。
そんな環境に慣れたはずだったのに、いざ外の世界へ出て行ったらあっさりとそれらも崩れ去ってしまった。
「そうだ、寂しかったんだな。だから、あのときお前から押しつけられたアズラエルにも果敢に関わっていった。なにせ、三年近く連絡を取ってなかったんだからな。嬉しくもなるさ」
「それは皮肉ですか?」
「違うよ、私が捻くれてるだけだ」
自嘲気味に笑った裕子は懐からピースを取り出し、震える手で一本を引き出した。
ただ、口に銜えるところまではいかず、取り出した一本を両手で転がしながら続ける。
「私はいつだってそうだった。兄の言う言葉を難解だからと言ってろくに理解しようとしなかった。助けてくれと言っていたみちよをこの手で殺した。全てを話して困難を共有しようと迫ってきた貴子を遠ざけた。これが、私なんだ」
裕子が認識している自己の根源は『破壊』。
ただ、これは物的なものに限らず、目に見えない大切なものも含まれていたらしい。
漠然とそう思いながら、口元に残った歪みが消えることは無かった。
そう、認めてしまえば良いのだ。
自分が捻くれていることを、そして、この先もそれを貫いていくのだと。
そうすれば、少なくとも以前よりかは楽になるはずだ。
「あなたの言っていることは支離滅裂ですね。理解したくありません」
「私としても理解してほしくないな。この気持ちは、私だけのものだ」
割り切ったと言えば綺麗なのだろうが、つまるところは自棄になっただけのことで、状況が変わったわけではない。
だが、それでも裕子は二人に向かって静かに一歩を踏み出した。
- 727 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:48
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(止まることができないなら、進むしかない)
どこに行くべきかが見つからなくても進まなければならない。
そうしなければ先にあるであろう何かを見つけることもできないし、手にすることもできない。
これまでの裕子はそれを恐れて進めなくなっていただけだ。
自分勝手な認識でも構わない、それさえ分かっていたら何とかなるはずだ。
そう自分自身に言い聞かせた裕子は、持っていたピースを宙へ放り投げた。
それと同時にそこに向かって自己の力を発信していくが、それも普段以上に困難な作業だった。
裕子に見えたのは自身の手から伸びる不安定な白い線。
ジグザグに伸びたそれがピースに触れた瞬間、そこを中心に小規模な爆発が起こる。
小さな火球はすぐさま弾けて宙に解け、わずかばかりの砂煙もすぐに収まった。
「やはり、この程度では効果が無いか」
先ほどと同じ位置に立っていた二人に対して小さく毒づく裕子だったが、攻撃的な意志だけは剥き出しにする。
根源とは全く無関係な裕子本来のその意志だったが、それだけではこの状況を一転させることはできない。
それはミカも認めていたのか、大きくため息を吐いて隣にいるアヤカへと視線を送った。
「ここはまかせます。好きにして下さい」
その言葉を最後に掻き消えるミカ。
残されたのは裕子とアヤカの二人だけになった。
無言の裕子に無言のアヤカ。
交わす言葉は皆無だったが、裕子の研ぎ澄ませた攻撃的な意志は空気の変化を敏感に感じ取っていた。
とっさにその場から飛び退る裕子、そのほぼ直後にそれまで裕子が立っていた地面が突然陥没したのだ。
(何が起こった?)
目の前にいるアヤカは無言、無表情で何もしていない。
少し離れた裕子から見れば彼女はまるで人形のようで、人間がするはずの全ての行為を拒否しているようにも見えた。
- 728 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:48
-
(違う、こいつはもう、人間ではない……?)
『そうです、そこにいるアヤカはすでに人を止めています。それならばあなたも自責の念に駆られることなく殺すことができますね……いや、アヤカはすでに死んでますから、この場合は殺すということは正しくないですか』
頭の中に過ぎった最悪の事態を裏づけるかのようなタイミングで告げてくるミカに対し、裕子はしばし言葉を失う。
だが、それでもミカの声が途切れることは無かった。
『というわけで、思う存分に壊してください。それくらいでもして少しは力を取り戻してもらわないと、殺す価値すらありませんからね』
その言葉を最後にミカは完全にその場からいなくなってしまったようだ。
そんなことを気配からぼんやりと感じ取った裕子だったが、それでも今はミカではなく、アヤカが目の前にいる。
視線を送られたアヤカはやはり無表情で、そこから裕子のような攻撃的な意志は全く感じられない。
(武器は直接攻撃だけ……さて、どうするか?)
作戦も何も無い。
ただ、この身体だけで立ち向かうしか道は残されていない。
そう意識した裕子は懐に手を入れ、感覚だけでピースのボックスを数える。
それはあまりにも心許ないものだったが、それでもこのときの裕子にとっては最終兵器であり、その中の一つを引き出すと、アヤカ目がけて投げつけた。
- 729 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:48
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 730 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:49
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(なして、こんなに緊張するんやろ……)
新垣邸を目の前にした高橋愛は、なぜか他人事のように思えないその気持ちを心の中だけで呟いた。
声に出せなかったのは、今の愛以上に緊張している小川麻琴がすぐ隣にいたからだ。
小川真琴については起きているようだったが、これからしばらくは麻琴に任せるようでずっと静かだった。
そのさらに隣には紺野あさ美がぼんやりした顔をして立っているが、それも今の時間を考えるとそう不思議なことでもない。
今の時刻、九時半。
土曜日である今日は、本来ならばゆっくりできるはずだった。
しかし、昨日の麻琴の話を受けてとっさにこれからのことを提案してしまった愛に、いまさらながらそれを拒否する勇気は無かった。
「ねえ愛ちゃん。ちゃんとメールはしてくれたの?」
昨日と今日ですっかり見慣れてしまった麻琴の半泣き顔を見て、少しだけ気持ちが晴れてしまったことを意識した愛は、そんな麻琴から視線を外して自身の携帯を取り出す。
そして、保存してあったメールを呼び出して、麻琴へ見せた。
『十時くらいまで寝てるから、その後でね』
昨夜、愛が独自に新垣里沙へ送ったメールのその返信。
そのあまりにもぶっきらぼうな内容に、麻琴が固まるのが空気を通して伝わってきた。
「でもさ、もう起きてるんじゃない?」
いつの間にか後ろから携帯を覗き込んできたあさ美に言われ、愛は頷くべきか寡黙なまま突っ立っておくか迷う。
しかし、それをしたところでこれから先の展開を阻止することができないことに気づき、嫌々頷いていた。
「ほーやね。里沙のことやけん、起きとるよ」
言葉と共に嫌な感情が出て行かなかったのは愛の最大限の自制の成果で、それが三人に伝わらなかったことに満足をする。
しかし、それも嫌な自己満足だった。
そこで愛は頭を三人に気づかれないよう頭を左右に小さく振り、思考を無理やり切り替えようとする。
が、それも単なる虚しい仕草に終わってしまった。
- 731 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:50
-
と、そこで目の前にあった新垣邸のドアが開き、愛にとってすでに見慣れた人物が出てきた。
「愛ちゃん、お久しぶりね」
「あ、おはようございます」
出てきたのは里沙の母親で、幼馴染の愛にとっては馴染みのある人物だったが、それでも他人行儀になったのは麻琴・真琴とあさ美を意識したからだ。
里沙の母親はやけに派手な服を着ていて、これからどこかへ出かけることが一目瞭然で分かる。
それを踏まえて愛は里沙の母親に言った。
「どこか行くんですか?」
「今日って同窓会なの。で、運悪く幹事になったから……」
どうやらその準備をしに行くらしい、それを言葉から感じ取った愛は苦笑いをする。
里沙なら朝ごはん食べてるから、そう言った彼女はそれから慌しく去って行き、残されたのはやはり愛を含めた三人になった。
いや、この場合は四人だった。
「そろそろ覚悟を決めたらどうなんだ?」
「でもさ、絶対怒ってるんだよ?」
真琴のものらしき声が聞こえてきて、それに反応する麻琴。
それを耳だけで聞いた愛は、一人で二人分の会話が成立していることを不思議に思いながら麻琴・真琴を見てみた。
そこにはさきほどと変わらない麻琴の緊張した顔があり、それだけで外にいるのが麻琴だと分かったが、それを知ったところで愛にできることはほとんどない。
しかし、そんなほとんどすることのない愛の仕事をあさ美が横から割り込んできた。
「ねえ、そろそろ入ろうよ」
本来ならば愛の言うべき台詞だったのに、それを先に言われてかなり凹む愛。
が、そんなことは一切外には出さず、頷いて後に続いた。
「いつまでもこんなとこに立っとっても寒いだけやよ」
愛のその言葉におろおろするだけだった麻琴が止まり、それから大きく空を見上げた。
麻琴の横顔を見ると空を見ているのではなく、単に深呼吸をしているだけだと分かったが、だからといって言うことはない。
だから、愛はそれから視線を外して待つだけだった。
- 732 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:50
-
「よし、行こうか」
さきほどまでの戸惑った口調を少し残しながらも、さきほどよりかははるかに使い物になりそうな麻琴が足を前に踏み出し、それに続くあさ美。
それをぼんやりと眺めながら、愛はその場から逃げ出したい衝動に駆られた。
しかし、それをするほどの勇気も持ち合わせておらず、愛はその場に流されるように足を踏み出してあさ美の横に並ぶ。
「別にインターホンは押さんでもええよ」
玄関の壁にあったそれに手を添えた麻琴に一応のフォローを入れ、それから愛は視線を送ってくる麻琴から逃げるように新垣邸のドアに向かった。
そして、手に馴染んだはずのドアノブを違和感を抱いたまま掴み、慎重に回す。
当然のことながら鍵の掛かっていないドアはすんなりと開き、なぜか緊張していることを感じた愛は、それをひた隠したまま中へと入った。
「里沙、上におるけん、食べ終わったら来て」
まっすぐと伸びた廊下のすぐ先にはダイニングがあり、変わってなければそこで里沙が食事をしているはずである。
しかし、そんな里沙のところへ行く気になれなかった愛は声だけをかけて二階へと上がろうと階段へ向かった。
「えっ、里沙ちゃんのところに行かなくても良いの?」
愛にとっては当然のような動作でも、麻琴にしてみれば異質なものに映ったらしい。
そのことを如実に伝えてくる麻琴の言葉に、愛は振り向かずに答えた。
「ほやったら、麻琴だけでも行ってくれば良いじゃん」
あまりにも冷たい言葉だと自覚しながらもそれを止めることができなかったのは、敵陣へ乗り込んでしまったという諦めか、それともそれに対する単なる怒りだったのかそれは愛自身にも分からない。
ただ、その言葉を受け取った麻琴はしばらくその場をどたどたして悩んだ末に、リビングがある廊下へと向かってしまった。
「愛ちゃんさ、何か怒ってない?」
「別にそんなことはないよ」
二人きりになり、里沙の部屋へと入った愛に投げかけられるあさ美の声にできるだけ平静を保って返す愛。
なのに、その真意を悟ったのかあさ美が複雑な顔を向けてきた。
- 733 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:51
-
「なんかさ、どっちつかずって感じなんだよね……」
あさ美の視線は自分の顔ではなく、自分の胸に固定されていた。
そして、そこからあさ美にしか見えない『赤い糸』が出ていることを思い出し、愛はすかさず身体を捩る。
それから動揺した気持ちを悟られないよう、あさ美に話しかけた。
「あーしはいつも、どっちつかずやよ」
口から出た言葉があまりにも自虐的で、そのことを自分でも笑ってしまった愛だったが、あさ美は笑ってくれなかった。
複雑な表情をしたまま視線だけを送ってくるのが分かり、不意に怒鳴りたくなったのを慌てて抑えこんだ愛は、自分に言い聞かせるように言葉を続ける。
「何か、周りだけがどんどん変わっていって怖いけど、それでも、あーしはあーしやからね」
ここまで続けてきた生き方を表面的に変えることはいたって簡単。
しかし、内面の全てにおいては不可能。
それを改めて感じてしまい、再び小さく笑う愛。
そんな愛にあさ美はため息を吐くだけだった。
「あんまりさ、溜め込まないほうが良いよ」
「……そんなの分かっとるよ」
分かっていないが、それでも口では分かった振りをして周囲から印象を薄くさせる。
そんないつもの手段が通じない相手に、愛はあえてその手段を講じる。
それを糸で感じ取ったのかあさ美はそれ以後、愛に話しかけることはなかった。
二人きりだが一人になった愛は、本棚にあった小説らしき本を一冊引っ張り出してベッドに寝転がる。
里沙がいればそうした凶行に及ぶこともできないが、部屋の主は幸いにして不在だったため愛は寝転がったまま本をぱらぱらと捲ってみた。
ただし、内容は読まない。
文字の羅列を単に視界へと収めるだけで……
「まこっちゃんと里沙ちゃんが上がってきたよ」
「えっ?」
あさ美のその一言で愛は慌てて飛び起きた。
そして、朦朧とする頭で周囲を見渡す。
そんな愛の視界にあさ美の笑いを堪えた顔が入り、愛はどうなっていたのかをようやく悟った。
- 734 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:52
-
「どのくらい寝てた?」
「二十分くらいだよ」
あさ美に聞きながらも身体は的確に動いてベッドからずり落ちて床へと着地した。
それから枕の横に置き去られていた本をすぐさま回収する。
それとほぼ同時に部屋のドアが開き、そこからやけに元気そうな里沙とやけにげんなりとした麻琴が入ってきた。
「愛ちゃんさ、寝てたでしょ」
「うっさいわ」
いきなりそう言ってきた里沙を、これもいきなりそう言って返す愛。
それもいつものやり取りなので、里沙は特別気にすることなく部屋へと入ってきた。
「まこっちゃんさぁ、何でそんなにやつれてるの?」
脱力しきった麻琴は部屋に入ったとたんにぱたんと座ってしまい、それを心配したあさ美が話しかける。
その間に里沙は愛の隣まで来て、そこへ座っていた。
「なぜかね、アスパラ食べさせられたの……」
「なぜかってひどいよ。まこっちゃんが嫌いって言うから、直してあげようとしたんじゃん」
ぼそりと呟いた麻琴にこれでもかと言わんばかりに噛みつく里沙。
麻琴はなおも何かを口の中だけでごもごもと言っていたが、それも里沙が見ることで消えてしまった。
「でさ、さっきまこっちゃんからおおかた聞いたんだけどね」
そんな麻琴に構うことなく、里沙が言葉を続けてくる。
それをぼんやりと眺めながら、愛はできるだけ会話の内容を聞き取らないように努力した。
「まこっちゃんてさ、今週ずっと引きこもってたんだって?」
「そうだよ。部屋にも戻ってこなかったもん」
「それじゃあ、ずっと安倍さんの部屋にいたの?」
「ずっとってわけじゃないけど……月曜だけは学校に行ったよ」
「でもさ、授業には出てなかったよね」
「きゅう〜」
麻琴が何やら変な声を出してテーブルにうつ伏せになる。
それを見た里沙とあさ美が笑っていたが、愛は笑うつもりになれなかった。
- 735 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:52
-
気がつくと周囲の楽しそうな空気に反するように立ち上がっていた。
そして下を見下ろしてみると、里沙がものすごく驚いた表情でこっちを見ている。
(いかん……)
「ごめん、ちょっとトイレに行ってくるわ」
そんな里沙の視線から逃げるように部屋を出る愛。
しかし、部屋を出てからドアを閉めるまで、その視線が外されることはなかった。
ドアを完全に閉めてから、ようやく大きな息を吐く。
胸の奥底に溜まった『何か』が自分の中で大きくなっている。
それがどういった種類のものなのか愛には理解できるが、それを否定することもできない。
今日の自分のように、ただ、流されるだけだ。
それを意識した瞬間、笑い出したいような、泣き出したいような感覚に襲われ、愛は素早くその場を離れる。
すぐ近くにある自宅ならば、この時間帯、誰もいないだろう。
だから、叫ぶことくらいはできるはずだ。
そう判断した愛は、足音を立てないようにその場を後にすることにした。
- 736 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:52
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 737 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:54
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「愛ちゃん、かなり溜まってるみたいだね」
「へっ?」
うつ伏せていたテーブルから顔を起こして里沙ちゃんを見てみると、かなり真剣な表情でわたしじゃなくてその後ろを見ていた。
その里沙ちゃんの視線の先を見てみて、わたしはそこがさっき愛ちゃんが出て行くために通ったドアだと気づく。
そして、里沙ちゃんに聞いてみた。
「愛ちゃんって怒ってるのかな?」
「違うよ、いろんな変なのが澱んでるだけだよ」
「いろんなって、何なの?」
「……たぶん、私達には分かんないだろうね」
どこか意味深なことを言ってくる里沙ちゃんに視線だけで聞いてみるけど、見てなかった里沙ちゃんは答えてくれなかった。
「ところでさ、一つ気になってたんだけど、何であさ美ちゃんはもう一人のまこっちゃんと知り合ってるの?」
「ふっ!」
「なんで吹き出すの?」
「いやだって、急に話が変わったから……」
しどろもどろになりながら言ってくるあさ美ちゃんを尻目に、里沙ちゃんがわたしのほうを見てくる。
だけど、この場合はこれがわたしじゃなくて、真琴を見てるんだとすぐに分かった。
『なんだよ、面倒だな……』
ほら、そんなこと言わずに。
どこか引け目を感じてる真琴を無理やり外へ押し出して中へと戻るわたし。
そこはいつも感じている真っ暗な空間だった。
そう、ここがわたしの部屋。
真琴にも邪魔されることの無い、わたしだけの部屋。
そこに意識だけになったわたしは戻って外のことを観察してみる。
真琴の視界から入ってくるのはわたしがついさっきまで見ていた景色で、そこには里沙ちゃんもいるしあさ美ちゃんもいる。
出て行った愛ちゃんはまだ戻ってきてないけど、たぶん、すぐに戻ってくるだろう。
そのとき、真琴が話し始めるために息を吸ったのに気づき、あまり考えないようにしてそれを聞くことにした。
- 738 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:54
-
『おれがあさ美と話をしたのは、五月の末くらいかな』
『そうだったっけ?』
『そうだよ。そのちょっと前、いろいろあってな』
『ねえ、いろいろって何があったの?』
ずばっと聞いてきた里沙ちゃんに押し黙る真琴。
視線はあさ美ちゃんに固定されてたけど、そのあさ美ちゃんの表情も複雑だった。
「あんまり深く話さないほうが良いかもね」
「だけど、適当に流しても納得しないぞ」
真琴の声だけがわたしの耳元で聞こえてくる。
こういうときには、わたし達の会話は外の世界には聞こえていない。
わたし達だけの秘密の会話だ。
辛そうにしている真琴が考え込むようにしてしばらく押し黙る。
そして、それからすぐに言葉を続けてきた。
「おれの分かってる範囲で話すよ」
その言葉を最後に再び外へと戻ってしまった真琴は、それまで固定させていたあさ美ちゃんからゆっくりと視線を動かして里沙ちゃんを見る。
真琴の表情が真剣になっていたことを受けて、視界に入ってきた里沙ちゃんの顔もどこか緊張したものに変化していた。
『五月の中旬くらいかな。あいつに会ったのは……』
そう真琴が語り始めたのは、わたし達が中澤さんに初めて出会ったときのことだった。
喫茶『アターレ』は今年の三月くらいからオープンしたんだけど、そこに毎日のようにやって来ていたという保田圭さん。
職業とかはいまいち分かんなかったけど、本人は『エッセイスト』って言っていた。
常連第一号ともいえるその人とはわたしや愛ちゃん、それにあさ美ちゃんも話をしてたんだけど、運の悪いことに(もしくはとてつもなく運が良かったために)ある出来事に遭遇してしまった。
『あいつが何だったのかは、おれ達もよくは分からない。だけど、あいつはあさ美に手を出したんだ』
保田さんが出会ったという一人の男の人。
だけど、それは元々の形ではなくて、体内に取り込むことによってそれと全く同じ形になるという結果に過ぎなかった。
そして、それにわたし達は襲われたのだ。
どうして襲われたのかは分からない。
だけど、あのとき彼は確かにわたし達を傷つけてきたし、一緒にいたあさ美ちゃんにも怪我をさせてしまった。
- 739 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:55
-
『だから、おれはあいつを殺すことにしたんだ』
襲われていたわたし達の間に割って入ってくれた中澤さんもそのときに怪我をしてしまい、動けなくなった。
だから、軽傷だったわたし達(これは真琴の意志が強かっただけなんだけど)がそれを引き継いだ。
そのときに中澤さんからペンダントももらったし、護身用としてナイフももらった。
元々、作ることがあまり得意じゃないって言ってた割には良くできたそのペンダントをかけることによって、わたし達はそれまで漠然としか見ることのできなかった存在核をはっきり見るようになった。
そのときの中澤さんの台詞。
『人には何がしかの力が秘められている。そいつはそれを方向づけるだけであって、決してそれによって新しい力が加わるわけではない。それを忘れるな』
だけど、それを忠実に受け止めたのかは、良く分からない。
だって、それまでぼんやりとでしか見えてなかったものがはっきりと見えるようになった。
そのことで勢いづいた真琴(これにはもちろんわたしも入るけど……)は、その力によって歪に歪んでしまった核を見つけ、追い詰めることができた。
そこにいたのは保田さんだった。
正確に言えば、それが取り込んだ保田さんの形をしてただけのことだったんだけど、その時点で保田さんがいなくなってしまったことに変わりはない。
そして、それを真琴は殺すことにして、無事、殺すことができた。
『後から聞いた話だと、あいつの名前はアズラエルって言ったらしいな』
死を司るという悪魔。
それに取り込まれた保田さん。
最後の瞬間、保田さんはどう思ったのだろう……
『あいつと保田圭がなんでくっついていたのかは分からないが、それでもあいつは最終的に保田圭を喰らったんだ。そして、あいつは保田圭になって、その姿でおれに殺された』
「真琴、それは違うよ。あんたもわたしもあのとき感じたでしょ?」
保田さんを喰らってしまった直後のそれから感じたのはただ一つ。
寂しいっていう感情。
それがそれから滲み出ていた。
- 740 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:56
-
「自分のことを知って欲しいって思って、同時に自分ももっと他のことが知りたいって思った。だから、保田さんを喰らうことで……保田さんになることで、それを成就したんだよ」
「違う。おれから言わせればそれも逃げてるだけだ。自分は決して自分以外にはなれない。そして、自分だけにしか分からない部分がある。それを抱えて生きていかないといけないんだ」
『それを、おれはおれの口であさ美に話したんだ』
わたしと話していた真琴がすぐさま外へ戻り、里沙ちゃんとあさ美ちゃんに言う。
事情を知っていたあさ美ちゃんはすごく辛そうな表情をしていて、里沙ちゃんはとても難しそうな表情をしていた。
『保田さんって、留学したって聞いてたけど……』
『あれは中澤裕子の嘘だ。そうしたほうが都合が良いと判断したんだろうな』
確か、里沙ちゃんは二回ぐらいしか保田さんと会ってないはずだったけど、それでも覚えていた。
そりゃそうか、里沙ちゃんだもんね……
『でもさ、そのときくらいでしょ、話をしたのは?』
『そうだな。おれがまともに出たのはそのときが最初で、次に出たのは八月中旬だったかな』
『あぁ、あさ美ちゃんがホームステイから帰ってきたときだね』
『そう……』
そこまで軽快に話を進めていた真琴が言葉を濁してあさ美ちゃんを見る。
あさ美ちゃんも真琴を見ていたけど、それもどこか怯えた感じだった。
だけど、それを知った上で真琴が一つだけ大きく頷く。
そして、あさ美ちゃんにはそれで十分だった。
『あのね、私って、ホームステイ中に死んじゃったみたいなの……』
『はい?』
里沙ちゃんにとっては突拍子も無い話だったらしく、思い切り間の抜けた声を出してくる。
まあ、いきなり言われたら誰でも驚くよね……
それからあさ美ちゃんが話したことは何となくわたしも覚えていたから、問題は無い。
ただ、最後の部分であさ美ちゃんがつけ加えてきた。
- 741 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:56
-
『でもね、何かそこら辺の記憶が曖昧なんだよね。潰されたっていうことは覚えてるんだけど、それもどこか実感が無いの。それに、そこまで潰されたんなら、こうやって話してる私っていうのもいないんじゃないかなってさ』
『いや、潰されたって普通に言わないで……』
げんなりとした里沙ちゃんがあさ美ちゃんの言葉を遮ろうとするけど、あさ美ちゃんの話はそこで終わりじゃない。
そのことはあさ美ちゃん自身も気づいていて、げんなりした里沙ちゃんに続けた。
『そのときからね、私には変な『赤い糸』が見えるようになったの』
『何それ?』
わたしと真琴にとっては似たようなのがあるから分かるんだけど(でも、これも何となくね)、里沙ちゃんにはさっぱりだったらしい。
それを確認したあさ美ちゃんが右手を挙げて、胸のところまで持っていった。
『みんなの胸辺りからね、糸が出てるのが見えるの。私や里沙ちゃん、それに愛ちゃんなんかはそこから一本しか糸が出てないんだけど、まこっちゃんからは二本出てたんだ。しかも、その一本がね、私に向かって伸びてるの。だから、そこで気づいたのかな』
あさ美ちゃんが胸のところで人差し指をくるくると回す。
たぶん、それで糸を表現したんだろう。
『赤い糸だから結ばれるって感じなの?』
『うーん……そうじゃないと思うけど、見た目はそうだから、そうなのかなぁ……?』
『なんだそりゃ』
唸り始めたあさ美ちゃんにツッコミを入れる里沙ちゃん。
だけど、すぐさま気を取り直してあさ美ちゃんへと向き直った。
『今さ、まこっちゃんの糸ってどこにあるか見える?』
「り、里沙ちゃん、いきなり何てこと言い出すの?」
突拍子も無くそう切り出した里沙ちゃんに割って入るわたし。
入れ代わった真琴が何か言ってたようだけど、そんなことに構ってる場合じゃなかった。
「なんかね、これでもかってくらいがっしりと里沙ちゃんの糸にくっついてるんだけど……」
あっさりと答えたあさ美ちゃんに恨みがましい視線を送ってみるけど、これは無視された。
- 742 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:57
-
「そうだよね。だって、さっき告白されちゃったもん」
「あんまり言わないでよ!」
止めなかったらどこまでも言ってしまいそうで、慌ててそれを押し留めるわたし。
あさ美ちゃんは首を傾げていたけど、里沙ちゃんはにやにやしていて、真琴は苦笑いしていた。
「でさ、まこっちゃんから何て言われたの?」
「……どうしよっかなぁ」
首を傾げたままのあさ美ちゃんに言われた里沙ちゃんが私を見てくる。
その顔はやっぱりにやついていて、わたしはとたんに逃げ出したくなった。
「秘密にしとくよ。あんまり言いふらしたらまこっちゃんも可哀想だしね」
「……ありがとう」
寛大な里沙ちゃんに助けられたわたしは大きくため息を吐く。
と、そこでようやく愛ちゃんが戻ってきた。
「ごめん、ちょっと家に寄ってきたわ」
「いいよ、それくらい」
そう平然と言ってくる愛ちゃんに、やはり平然と返す里沙ちゃん。
そして、里沙ちゃんが壁に掛けてある時計を見る。
すでに十一時を過ぎていた。
「ところでさ、来週って田中ちゃんの誕生日だよね。もうプレゼントとかは買ったの?」
「えっ?」
カレンダーを見てみるけどそれでは日付が分からず、慌てて携帯電話を取り出す。
そして、そこに表示してあった日付を見て固まってしまった。
「その様子だと忘れてるみたいだね」
「……はい」
そうだ、もう十一月八日だったんだ。
あと、今日入れて四日しかないし……。
『なんだ、本当に忘れてたのか』
「知ってるんだったら早く教えてよ!」
心の中だけで真琴に怒鳴り、すぐさま外へ戻る。
その際、思い切り八つ当たりになったとかは考えなかった。
- 743 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:58
-
「どうせだったら何か探しに行こうよ。お昼も食べないと行けないしね」
「うん、そうだね」
里沙ちゃんが立ち上がったのにつられてわたしも立ち上がる。
それからあさ美ちゃんと愛ちゃんって続いて、わたし達は里沙ちゃんの家から外へ出ることにした。
「先にご飯食べに行こうよ。お腹減ったからさ」
「……ついさっきまで朝ご飯食べてたんじゃなかったっけ?」
「何か言った?」
「いえ、何でもないです」
前を歩いている里沙ちゃんが振り向いてきて、慌てて視線を逸らすわたし。
そんなわたしに向かって里沙ちゃんが追い討ちをかけてきた。
それも飛び切りの笑顔で……
「もちろん、まこっちゃんの奢りだよね?」
「……はい、そうさせてください」
次の瞬間、後ろから聞こえてきたあさ美ちゃんと愛ちゃんの歓声には耳を傾けず、わたし(と真琴)はがっくりと肩を落とした。
- 744 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:59
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 745 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 10:59
-
そのとき、紺野あさ美はものすごく集中していた。
その集中がどれくらいすごいのかをあさ美本人は知っていたが、おそらく周囲の人間は知らないだろう。
なぜなら、そのときのあさ美は試験のときよりもはるかに集中していたし状況判断にも優れていた。
あさ美を含め、喫茶『アターレ』には現在、六人がいる。
そのうち五人は同じテーブルで、もう一人はその脇に立っていた。
『なんかさ、パフェが食べたくなった』
そう言いだしたのは新垣里沙で、それを言った直後、あさ美の前を歩いていた小川麻琴・真琴の動きが止まったのはすぐに分かった。
しかし、それでも麻琴・真琴が何も言わなかったのはそれなりの理由があるのだろうと勝手に判断し、あさ美もそれに口を出すことは無かった。
そして、五人(見た目は四人だが実質はという意味で)はいつもの場所へとやってきて、こうしてメニューを見ているというわけである。
ただし、実際にメニューを見ているのは三人で、あさ美の正面に座っている麻琴・真琴はメニューを見ることを放棄していた。
『まこっちゃんは私と同じメニューだからね』
有無を言わせない里沙の言葉にぐうの音も出なかった麻琴・真琴は終始がっくりと肩を落としていたが、それはここへ来てさらに一人増えたようだ。
「おマメちゃんさ、もしかして……」
立っていたのは『アターレ』で店員をしている矢口真里で、その顔がとても歪んでいる。
その視線は里沙の手元にあるメニューに固定され、しかも冷や汗なども垂らしていた。
「もちろんですよ。しかも、今日は二つです」
メニューのある部分を指差してにっこりと笑う里沙と対照的な麻琴・真琴と真里。
麻琴・真琴の顔は青ざめていて、真里の顔は引きつっていた。
「……分かった。マスターに言ってくるね。二人はじっくり選んでて」
その言葉を最後に一度カウンターの奥へ引っ込んだ真里と、満足そうな表情でメニューを麻琴に渡す里沙。
それを尻目にしながら、あさ美は上げていた顔を下ろしてもう一度メニューを見る。
そして、小さく唸った。
- 746 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:00
-
「あのさ、あさ美。あんまり悩むほど多くないと思うけど……」
「何言ってるの?」
正面の真琴から声をかけられたあさ美はすぐさま言い返して顔を上げる。
そのあまりの勢いに驚いたのか、真琴が少々引いていたのが分かったが、だからといってそれくらいのことで控えめになるあさ美ではなかった。
「こんだけあったら迷っちゃうよ」
「いや…………こんだけって言っても四つしかないような……」
そう言ってくる真琴だったが、それを聞き流しながらあさ美は唸り続ける。
そんなあさ美に構うことなく、隣に座った高橋愛が小さく呟いてきた。
「ていうか、ここのメニューってパスタ系しかないんやね」
「……ようやくそのツッコミが入ったね」
すでにメニューを記憶していたのだろう里沙が苦笑いしながら言ってくるが、それもあさ美の耳には半分ほどしか入らなかった。
しかし、次の愛の言葉には思わず顔を振り上げてしまった。
「どうせやったら全部頼めばええやん」
「そうだね、そうしようか」
「えぇっ!」
愛の言葉に即答したあさ美。
それに対して麻琴と真琴の悲鳴が後に続いた。
「いや、そんなに頼んでも食べれないでしょ?」
「大丈夫やって、そんなん。根性出せば何とかなるって」
「でもさ、これなんか食べたら結構におっちゃうよ」
そう言ってメニューを差し出してきた麻琴だったが、あさ美も手元に同じものを持っているため、その行為は邪魔以外の何物にもならなかったが、それでも麻琴が差した場所を見て、さきほどのとは別の唸り声を上げた。
「このペペロンチーノなんか食べたら、ニンニクくさくなるな?」
そこで追い討ちをかけてくる真琴を恨めしそうに見たあさ美は、小さくため息を吐いてそれをあっさりと諦めることにした。
(だって、これから買い物に行くんだったらね……)
「ほーやね。臭くなると目立つね、止めとこ」
愛もあさ美と似たようなことを考えたのか、あっさりと前言を撤回する。
ただし、あさ美がそれを取り下げた理由は決して愛の理由とは違うことを意識しておく。
- 747 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:01
-
「でさ、この明太子パスタなんて重さんの大好物だね」
「里沙ちゃん。何でそこで重さんが出てくるの?」
いきなり話が飛んだことに驚いたのはあさ美だけではなかったようで、麻琴が不思議そうに里沙に聞いている。
それと同じ意味合いを含めてあさ美も視線だけを送ってみるが、そこで里沙の動きが少しだけ止まった。
そして、次には一度だけ手を叩いて、それから口だけで『あちゃ〜』と作った里沙の一連の意味不明な動作が視界に入る。
「そっか。まこっちゃん達は知らなかったんだ」
「いや、そんな急に言われても……って、何が?」
「だからね重さんは、田中ちゃんとあっちっちで、きっとあそこら辺はいまごろ熱帯雨林になっちゃってるってこと」
「「「……?」」」
意味不明な動作の後の意味不明な言動。
それを確認するまでも無く、他の三人の表情で確かめたあさ美は何を言おうか迷い、結局、言うのを止めた。
それは麻琴・真琴の役目だと思ったからだ。
「で、れいなと重さんがどうなったの?」
案の定、麻琴が里沙に疑問をぶつける。
それに対して里沙は意味深な笑みを浮かべ、
「田中ちゃんね、重さんとつき合うんだってさ」
と、あっさり言ってきた。
あさ美にはその言葉の意味はすんなりと入ってきたが、どうやら姉である麻琴・真琴は違ったようである。
しっかりと固まって、しばらくは動きそうに無かった。
それを確認して、あさ美は横目で愛を見てみる。
(ほら、やっぱりどっちつかずだ……)
愛から出ていた『赤い糸』は大きくぶれながら宙に漂い、結合する先を見出せずにいた。
麻琴の糸に向かっていこうともするが、それも中途半端なところで引き返し、宙ぶらりんなのだ。
しかし、見た目の愛の表情から変化らしい変化を感じ取ることはできない。
「……里沙ちゃん。それってほんと?」
「ほんともほんと。マジですよ」
ぼそりと呟いた麻琴に対しやけにテンションの上がった里沙が答える。
そして、次の瞬間には麻琴がポケットに入れていた携帯を取り出していた。
- 748 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:02
-
「ダメだよまこっちゃん。せっかくのラブラブタイムを邪魔しちゃ」
里沙が素早い動作で麻琴から携帯を取り上げる。
麻琴はそれを恨めしそうに見ていたが、それでもおとなしくなり座り直すことで少しは気分転換をしたようだった。
と、そんなとき、飯田圭織が不意にカウンターの奥から現れた。
「あら、いらっしゃい」
「あ、こんにちは」
このときはなぜかあさ美が代表して挨拶をしたが、それについて圭織は特にコメントすることなく、こちらへとやってきた。
「今ね、上になっちが来てるの」
「そうだったんですか?でも、それだったら、ここで話せば良いじゃないですか?」
自分を見てそう言ってくる圭織にそう返すあさ美。
そんなあさ美に圭織が小さく肩を竦めて続けてきた。
「今はね、ちょっとだけ大人な空間だからね……」
「はぁ……」
里沙と同じく意味深なことを言ってきた圭織はそれだけを言って、それから麻琴・真琴へと視線を移す。
それからしばらく麻琴・真琴を見ていたが、結局、何も言わずに小さく頷いただけで、「じゃあ」と言って去って行った。
それと入れ替わりに真里がカウンターから現れて、こちらへとやってくる。
ただし、このときの真里は小走りだった。
「ごめんごめん。で、注文は?」
「ほんなら、あーしはこのナポリタンでいいです」
どこか慌てた感の真里に愛が持っていたメニューを差しながら言う。
それを尻目にあさ美も慌てて置いていたメニューを持ち上げて、目についたメニューの一つを差した。
「だったら、私はこれでお願いします」
「和風きのこパスタね。少々お待ちください」
愛とあさ美の分のオーダーを素早く書き取った真里は、来たときと同じように小走りでカウンターの奥へと消えてしまった。
「結局、一つしか頼まんかったね」
「……あっ」
気づいたときには後の祭りで、カウンターから再び真里が現れそうな気配は無かった。
せっかくのチャンスを逃してしまったことに小さくため息を吐くあさ美だったが、それとほぼ同時に麻琴・真琴が同じようにため息を吐いていたことを見逃しはしなかった。
- 749 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:02
-
「ところで、里沙は何を頼んだん?」
愛が水の入ったグラスを冷たそうに持ちながら里沙にそう聞く。
何となく想像がついていたあさ美はできることならそれを聞きたくは無かったが、愛の表情を見て
なぜ愛がこのタイミングでそれを言ってきたのかを知る。
(つまりは、まこっちゃんをいじめたいんだ……だけど、その中には真琴もいるからね)
どこか機嫌を損ねたままの愛に心の中だけでそうつけ加えるあさ美。
だが、そのあさ美のささやかな願いも、この場においては無意味だった。
愛に話を振られ、明らかに喜んでいる里沙に、明らかに嫌がっている麻琴・真琴。
その両方を視界に収めてしまったあさ美は、そこから逃げるようにグラスを持ち上げる。
ただし、耳から入ってくる声までは遮断することはできなかった。
「そりゃあもちろん、スペシャルミックスパフェだよ。まこっちゃん達の分も含めて二つね」
「ぐふっ」
何やら呻き声を上げてテーブルへとうつ伏せになる麻琴・真琴。
麻琴・真琴のみならずあさ美もここのパフェに対して少々恐怖感を抱いていたため、そのときの麻琴・真琴の心境は痛いほどに伝わってきた。
が、それでもあさ美に言うべき言葉は存在しない。
それを意識したあさ美はあと少しすれば出てくるであろう和風きのこパスタに集中しようと、水を飲んで気持ちを切り替えることにした。
- 750 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:03
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 751 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:03
-
安倍なつみはその部屋で初めてたばこというものを口にした。
といってもすでに二十歳を過ぎたなつみにとってそれは違法なものではなかったが、興味が無かったのでこれまで手を出さなかっただけの話だ。
(何でこんなまずいのを、吸えるんだべ?)
一度だけ口にし、そのあまりのまずさに辟易としたなつみは、それを灰皿に押しつけ、揉み消した。
その正面では親友である飯田圭織が、ぼんやりとした表情でなつみと同じ銘柄のたばこを燻らせている。
その圭織は先ほど下へ降り、再びそこへ戻ってきたところだ。
「何で、圭織はそんなのを吸うの?」
疑問を正面の親友へと投げかけるなつみ。
そのなつみに、圭織はぼんやりとした表情のまま少し見上げる。
見上げたまま答えが返ってこないため、肩から振り向いて圭織が見ているであろう先を見てみるが、そこには何も無かった。
「さあ……何でだろうね」
「分かんないなら、吸わないほうが良いよ」
たっぷり待つこと一分。
その間もにおいはひどいし、それ以前に煙たい。
なのに、それを『何でだろう』の理由で吸っていることに対して、なつみは精一杯の抵抗を試みた。
そんな苦りきったなつみに対し、圭織が笑いながら言ってくる。
「多分、これって習慣なのよ。朝起きて、歯を磨く。それと同じことかしら」
「そんな習慣、止めなよ」
なおも強く言ったなつみに圭織は小さく肩を竦めて、持っていたたばこを灰皿へと押しつけた。
それから圭織は立ち上がり、後ろにあった窓を開ける。
どうやら空気の入れ替えをするらしい。
冷たい風が部屋に入り込んでなつみは一瞬だけ身体を震わせるが、それは正面の圭織も同じようだった。
口の中だけで「寒い」と言った圭織が再び自分の前へと戻ってくる。
その下のテーブルでは温かいコーヒーが湯気を揺らめかせているが、それも視界の隅の出来事に過ぎなかった。
「ところでさ、何で圭織は何も言わないの?」
カップを持ち上げながら、なつみは圭織を上目遣いで見上げる。
その圭織もなつみと同じようにカップを持ち上げた。
- 752 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:04
-
今日、なつみがこの場へやってきたのは、以前、圭織から感じ取ったイメージが少なからず違う方向へ向かっていることを報告したかったからだ。
しかし、それを言った後でも、圭織の表情が変わることは無かった。
変わったのはついさっきのことで、それも最初の話とは全く関係ない。
「私が言うことは、何もないわ。ただ、無理にでも言うとすれば、なっちがいたからってことかしらね」
一口だけ飲んだ圭織がなつみに無表情で話しかけてくる。
そこに冷たいものを感じたなつみは、それに対して何も言い返すことができなかった。
そして、圭織もそれを承知していたのか、すぐさま続けてくる。
「でも、小川達の試練は終わっていない。むしろ、これからが本番よ」
「……分かってるよ」
あのとき、なつみが受け取ったイメージははっきりと見えていたが、場所や時間は確定できなかった。
だが、それでもなつみはそれが近い将来に起こるのではないかと確信できてしまい、不安になっていた。
「ねえなっち。もし……それがやってきたとき、なっちはどうするの?」
圭織から改めて問いかけられ、なつみは思考する。
だが、いくら考えても答えは見つからなかった。
というよりも自分に与えられる情報があまりにも乏しく、そこからどう結論を導き出せば良いのかが分からなかった。
そして、それを素直に口にする。
「分かんない。なっちが知ってることは、結局、一部分でしかないからさ……」
実際、なつみが口を出せるのは彼女達が自分の目の前にいるときだけだ。
自分の目の前で観察できない事象についてはいくら意見を言おうにも、言うことができない。
それを知ることができないからだ。
だから、吉澤ひとみが小川真琴を引きずって帰ってきたときにも何も言えなかったし、ひとみがなぜ夜遅くに出かけているのかにも深くは追求できなかった。
「そうね……。だけど、それはみんな同じよ。全てを知っている人間なんていやしないわ」
「でも、できるだけ知っておきたい。それで、できるだけなっちの力で解決したかったんだ」
麻琴・真琴が引きこもったときも、なつみはあらゆる努力をした。
が、結局その力は及ぶことなく、母親である小川千尋を呼ぶことになってしまった。
- 753 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:04
-
「なっち、人にはそれほどの力は無いわ。自分一人だけであらゆる事象を解決できるのは、神しかいないの」
唐突に出てきた神という言葉になつみは驚くが、圭織はそんななつみに構うことなく続けてくる。
「人はみんなで助け合って前へ進む。それさえ分かっていれば、神なんて必要ないわ」
そう言った圭織がこの日、初めて笑いかけてくる。
さきほどもそれと同じものを向けられたが、それと全く同じでそれとは全く違う笑みだった。
「なっちも一人じゃない。それを忘れないで」
その笑みを見て、なつみはそれまで何でもしなければならないという自分勝手な使命感を放棄することができた。
そして、気が抜けたまま口を開く。
「分かったべ、圭織。なっちには圭織がいるし、矢口やみんなもいる。それが大切だべ」
そう言った後で、方言を隠さなかったことに気づき、あたふたとするなつみ。
しかし、それでも圭織の表情が変化するわけではなかった。
ただ、小さくため息を吐いて小さくつけ足してくるだけ。
「そうした日常の小さな見栄ってにも、問題があるのかもね」
「……圭織、それって、もしかして嫌味?」
学生時代の名残をそのまま引きずっていることを指摘されたようで、とたんに居心地の悪くなったなつみだったが、それに対して圭織が何か言ってくるわけではない。
それを改めて実感したなつみは、苛立たしげに置いてあった圭織のたばこに手を伸ばし、慣れない手つきで一本を引き出した。
そして、それを素早く口に銜えると同じく置いてあったライターで火を点けてみるが、これも一度ではうまくいかず、三回ほどしてようやく銜えていない先から煙が立ち昇るのが見える。
「……好きじゃないなら、止めたほうが良いわよ」
圭織の指摘もそのときのなつみの耳には入らず、なつみはそれを大きく吸い込んでみる。
そして案の定、大きな咳と共に煙を吐き出した。
- 754 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:05
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 755 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:06
-
(くそっ、ここには一体、何匹いるんだ?)
周囲はすでに違和感と威圧感で取り囲まれてしまい、その中で裕子はひたすらに動き回らざるを得ない状況へと追い込まれていた。
正面にいるアヤカとの距離はわずか五メートル。
しかし、三十分以上経った今でもその距離を埋めることができなかった。
なぜなら、そこにはアヤカ以外の何かがいたからだ。
ミカがいなくなってから聞こえ始めた甲高い何かの音、それが原因だとすぐに分かった裕子だったが、だからと言ってそれに対して良策らしい良策を持っていなかった。
違和感と威圧感にプラスして感じ取った殺気に反応し、素早くその場から後退する裕子。
それと同時にそれまで立っていた地面が陥没し、砕けた土が周囲へ飛び散った。
目に土の破片が入らないようガードしながら退く裕子だったが、それで攻撃は終わりではない。
むしろ、さきほどよりも攻撃の回数は増えていた。
開いてしまった先に立っているアヤカは、最初に現れた位置から動いていない。
ただ、その両手を機械的に動かしているだけだった。
その仕草だけならばオーケストラの指揮者にでも見えたが、実際の効果としてはそれとかけ離れたものだったため、裕子はそれをひたすら睨みつけるだけだ。
(不可視の使い魔……ミカだけだと思ったが、こいつも使えたのか)
ミカとアヤカの姉妹は本来ならばその役割が別れていた。
姉であるアヤカは奇術師の『作成者』として、妹であるミカは奇術師の『使役者』として位置づけられている。
その能力は三年前においてもほぼ完成されたもので、あのときのあの屈辱が身に沁みているのなら、それをバネにしてもっと進化しているはずだ。
実際、裕子が足を踏み込んだあのお化け屋敷の設計者はアヤカで、そこにあれほどの仕掛けを用意できたのだから、その能力は相当なもの……のはずだった。
が、ここにいるアヤカはすでに死に絶え、ミカの言う通りにしか動かない単なる人形に成り下がっている。
- 756 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:07
-
(ミカの怨念のほうが強かったのか?)
そんなことを自問しながらも身体は動いて、アヤカの不可視の攻撃を回避していく。
すでに何十回とも繰り返されたその攻撃で周辺の地面は抉りに抉れて、大穴に近い状態だった。
その不安定な足場では、裕子が履いているパンプスはほとんど意味を為さず、それは当の昔に脱ぎ捨てていた。
(一か八か……か)
ひたすら腕を振り回すだけのアヤカを見据えて一度だけ大きく深呼吸をすると、裕子は意を決して飛び出す。
殺気に敏感に反応する本能に回避行動を任せ、とにかくアヤカとの距離を詰めることに集中した裕子は、その十秒後に初めて結果らしい結果を手にすることができた。
あと一メートルとまで迫ることができた裕子は、懐に忍ばせていたピースのボックスを取り出し、アヤカ目掛けて投げつける。
そして、今度はそれまで前へ出ていた身体を急停止させて、後ろへと飛び退った。
裕子にとってはもっとも手馴れた攻撃方法で、そして、もっとも信頼できる攻撃手段だった。
「爆!」
自身の意志を言葉に乗せて、ピースへと伝える。
以前の裕子ならばそんな媒体を必要とすることはなかったが、このときの裕子は衰えていた。
殺気を明確にした意志は裕子にしか見えない一本の線となって、目標へと向かう。
それは全盛期に見えていたもっとも攻撃的な線には程遠いが、それでもこのときの裕子にとってははるかに心強いものだった。
線がピースへ触れる寸前、裕子はシールドを展開して前方を睨みつける。
しかし、それはすぐさま解除することになった。
全身に感じた自分に対する殺気が本能へと繋がり、それまでの攻撃行動を停止させたのだ。
中途半端に展開したシールドが霧散し、一瞬だけ意識が遠のくが、それを無理やり引き戻して大きく後ろへと跳ぶ。
そして、その直後にアヤカを中心として全方位の地面が陥没した。
- 757 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:07
-
(全方向だと?)
それまでは単発的な攻撃に終始していたのは、裕子をここまで接近させるための作戦で、それにまんまと引っかかってしまったことを腹立たしく思ったが、それでも奇跡的に無傷だった。
ただし、宙に投げ出されたピースのボックスは一瞬にして消滅してしまった。
結局は不発に終わった攻撃にかなり凹みながらも、何とかテンションを上げようとするが、一度下がりきってしまったそれを上げることは困難なことにすぐさま気づく。
再び距離を開けて、全身で呼吸する裕子。
それに対してアヤカは呼吸らしい呼吸をしていなかった。
アヤカを睨みつけながら深呼吸を三回ほどし、無理やり身体を動かせる状態へと持っていった裕子は、目だけを這わせて周辺をチェックする。
(どこかに突破口は無いか?)
しかし、そのときの裕子に見えたのはアヤカだけで、それ以外のものは何も見えなかった。
と、その直後、裕子を包んでいた空気が凍りついた。
それはそれまでの違和感と威圧感を無造作に切り裂き、この中へと入り込んできた証だった。
(ここへきて、何か別の要素が入り込んだのか?)
敵なのか味方なのか分からないその圧迫感に対し、思わず戦慄する裕子。
それはその公園の入り口から侵入してきて、ここへまっすぐと向かっていた。
そして、それの圧迫感が誰のものなのか、すぐに裕子は知ることになる。
「……貴子?」
「何や、やけに苦戦しとるみたいやな」
そこに現れたのはかつての親友で、今は単なる知り合いへと成り下がった稲葉貴子だった。
しかし、そこに立っているはずの彼女を、裕子はにわかに貴子だと認識することができなかった。
(なんで、そこまで自信に満ち溢れている?)
そう、裕子の周辺を明らかに変化させたのは貴子から発せられる圧迫感で、それは目の前に立っている貴子の状態を見れば一目瞭然だった。
自信に満ち溢れた貴子は裕子が最後に見たときよりも背が高く、そして、大きい。
それほどまでに変わってしまった知り合いに、裕子は何も言い返せなかった。
- 758 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:08
-
「ちょい待っといてくれんか?話をしようにも、こいつが邪魔やしな」
陥没した地面に足を取られることの無かった貴子が、地面を滑るようにして裕子の隣までやってくる。
いや、貴子は実際に地面を滑っていた。
正確に言えば足が地面についてない状態でそのまま前へと進んでいるのだ。
その人間らしからぬ動作に返す言葉を見つけられなかった裕子は、ただ、隣に並んだ貴子を見上げるだけだった。
「相手は見えん使い魔か。ま、これくらいやったら楽勝やな」
小さく肩を竦めてそう言った貴子の左腕には、見慣れないブレスレットが嵌められている。
それはいかにも古めかしいといった感じがして、以前の貴子ならば絶対に身に着けそうにない代物だった。
「だが、相手は見えないぞ?どうするんだ?」
緊張しきった裕子は、口調を奇術師のそれに固定したまま貴子へと聞いてみる。
しかし、そんな忠告も今の貴子の前では無意味だった。
「ウチの脇にも、そいつがおるからな」
貴子の言葉を受けて、その隣に何かの形を成していく。
それが豹の形をした動物でないことはすぐに分かったが、だからと言ってそれが何なのか、裕子にはさっぱり理解できなかった。
それまで持ちえていた知識を総動員して情報を検索し、それから結論を得るまでの間に、その豹が小さく動き、再び宙へ溶け込むようにして消える。
そのころになって、ようやく裕子はそれが何なのかを理解することができた。
「フラウロスだと?いつの間にそんな悪魔を……」
「ん?ウチの相棒や。正確に言えば、元々デカラビアだったやつを、ウチが変化させたんや」
宙へと消えた『相棒』の行動が目に見えているのか、貴子が小さく頷いている。
そして、それからすぐに変化が起こった。
周囲に響き渡ったアヤカの悲鳴。
それと同時に聞こえてくる何かを噛み砕く音。
それは裕子が目にしているアヤカから発せられてものではなく、別の何かが喰われている瞬間だった。
「何かおもろないな。ちょっと見えるようにしてくれんか?」
貴子の極めて軽いその一言を受けて、目に見えなかった変化が現れる。
そして、それを目の当たりにした裕子は、身体が硬直するのを感じた。
- 759 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:10
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現れたのは無数の小さな豹と、それとほとんど同じ大きさのアヤカ。
そう、裕子がそれまで相手にして見えない何かは、その無数のアヤカだったのだ。
「人間そっくりに作った使い魔か。趣味悪いな」
貴子が左手で指を鳴らすとそれらが再び消える。
しかし、悲鳴と咀嚼する音だけは消えなかった。
「使役するのがウチの能力。せやけど、それだけや無かったようやな」
正面を見据えたまま貴子が口を開き、裕子はそれを呆然と見上げる。
その横顔はやはり裕子が最後に見た貴子のそれとは違って、やはり自信に満ち溢れていた。
それからしばらくすると、聞こえていた悲鳴と咀嚼音は途切れ、一瞬だけ静寂が訪れる。
が、貴子が有していた使い魔の行動は、それだけでは終わらなかった。
「さて、さっさと殺しとくか」
あっさりとした口調の貴子と、その言葉を受けて姿を現す使い魔。
そして、その使い魔が瞬時に人間だったアヤカへと飛び掛った。
口を異常なほど大きく開けたその使い魔がアヤカを頭から丸呑みにして、地面へと突き刺さる。
貴子の使い魔がしたのは、それだけだった。
しかし、たったそれだけで、全てが終わってしまった。
骨を噛み砕く音がしたのはほんの数秒でそれもすぐに収まると、地面に突き刺さった使い魔の姿が消え、次の瞬間には貴子のすぐ横へと現れる。
それまで残酷とも言える行動をしていた使い魔も貴子の隣では単なる動物になるのか、頭を貴子に押しつけていた。
その頭を数回撫でた貴子が小さく呟く。
すると、その直後、豹の形をした使い魔は消えてしまった。
「これでゆっくり話ができるな」
三年前とほとんど変わらない口調でそう続けてくる貴子。
それに対して裕子は何も言えなかった。
が、それもそのときの貴子にとっては些細なことなのか、反応らしい反応が無くても先を続けてくる。
- 760 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由6 投稿日:2005/03/30(水) 11:10
-
「これまで裕ちゃんはウチを必要以上に遠ざけた。せやから、ウチもそれから遠ざかろうとした。せやけど、それは間違えやった。裕ちゃんも間違えたし、ウチも間違えた」
裕子を見てきた貴子だったが、不幸なことに背後にあった太陽に隠れてその表情がはっきりと見えることは無かった。
「もう、逃げるのはごめんや。ウチは、これから力の及ぶ限り全てのことに関わる。そう決めたんや」
それから左手を目の前まで持ち上げ、貴子はそこに嵌ったブレスレットを一度だけ撫でる。
「それにな、逃げるっちゅうことが格好悪いってことも教えられたしな。あいつらに……」
『あいつら』が誰なのか分からない裕子だったが、そんな裕子に構うことなく貴子は右手を差し出してくる。
その手を思わず取ってしまった裕子は、そこから伝わってきた貴子の決意に対して、無意識に身体を震わせていた。
(そうか、これが決心したってことか……)
自分には無い何かを手にした貴子を見上げる裕子だったが、貴子はそんな裕子の視線にすら動じなくなっていた。
そんな貴子と同じ視線になる裕子。
しかし、裕子はそれを同じだとは思わなかった。
なぜなら、裕子がそれまで苦心して探した何かを先に見つけ、それをすでに手にしていたからだ。
(今度は、私の番か……)
三年前とは逆の立場に立たされ何となくそれまでの貴子の疎外感を噛み締めながら、それでも裕子は貴子を見る。
そんな貴子はどこまでも大きく見え、それを感じてしまった裕子はますます自身が追い詰められていくのを意識してしまう。
そんな自分を拒絶するかのように舌打ちをしてみるが、それもどこか虚しい行為に過ぎなかった。
- 761 名前:[新規登場人物] 投稿日:2005/03/30(水) 11:11
-
○洞悟屋五郎
喫茶店『アターレ』のマスター。
○後藤真希
N大付属高校三年。寮では吉澤ひとみと同室。
○田中仁志
小川麻琴・真琴、田中れいなの父親。
○小川千尋
小川麻琴・真琴の義理の母親。
○里田まい
N大付属高校三年。吉澤ひとみとは同じクラスで親友。
○大谷雅恵
情報屋兼便利屋。吉澤ひとみのほかに松浦亜弥にも情報提供している。
- 762 名前:いちは 投稿日:2005/03/30(水) 11:21
- やけに長くなりましたが更新しました
前半戦終了というわけで、新規の登場人物をまとめました(一部は新規じゃなかったみたいです)
>>720 通りすがりのものさん
毎回のレスありがとうございます
この方向で正しいのか分かりませんが、やれることはやろうと思います
次回から後半戦に入ります
それでは
- 763 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/04/01(金) 01:16
- 更新お疲れさまです。 ついに前半終了ですか、かなり長かったですが一段落と言った感じですね。 過去は過去を呼び戻したとしても、それが殆ど再現することは無いんですね。 次回更新待ってます。
- 764 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/04/06(水) 11:18
-
想いのなかの迷い、それから得る自由7
- 765 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/04/06(水) 11:19
-
すでに準備は整い、後は少しだけの行動で事足りるという状況にあって、ミカ・エーデルシュタインは退屈していた。
それはすぐ後ろに突如現れた彼女も同じかもしれない。
そんなことを考えたミカは振り向いて声をかけることにした。
「みちよさん、コーヒーでも飲んでいきませんか?」
ミカの言葉を受けて、棒切れのように立っていたみちよが音を立てずに歩いてくる。
その無駄のない動作に見惚れていたミカは、それを意識してしまったことに対して少しだけ恥じると、すぐさま行動を起こした。
みちよがその部屋にふさわしい応接セットの椅子に座るのを尻目にしながら、ミカは壁際にある簡易キッチンに置いてあったコーヒーメーカーまで歩く。
そして、そこにあらかじめ置いてあった二つのカップへと中の液体を注いだ。
「残念ながら、シュガーとミルクは切れています」
「……構わない」
カップを持ってテーブルまで移動し、みちよを真似て無駄のない動作(といっても、それはミカがそう意識しただけで、それが相手に伝わったかどうかは疑問だ)でそれらを置く。
それからミカはみちよの反対側へと座り、置いていた自身のカップを持ち上げた。
カップからは独特の香りが立ち昇っているが、それも日常の単なる一部分に過ぎないと感じながら、ミカはカップに口をつける。
目だけは正面のみちよに焦点を合わせているがそのみちよもカップを持ち上げ、やはりミカと同じようにカップに口をつけている。
しかし、みちよはすぐにカップから口を離してテーブルに置いてしまった。
- 766 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:21
-
「仕事の話にしか興味が無いようですね」
皮肉を込めてそう言うミカに、静かに頷いてくるみちよ。
その動作があまりにも自然すぎていて嫌味を通り越して別の何かへと変化していたため、ミカは思わずそれまで湛えた笑みを崩す。
だがそれも一瞬で、目の前にいるのが単なる人形なのだと認識しすぐさま笑みを戻した。
それからカップをゆっくりとテーブルに置いて言葉を続ける。
「ようやく、『これ』に変化が現れました。一度変化が起これば、後は楽に運びます」
自由になった手のひらを上に向けると、そこへくすんだ白い玉が現れミカの手のひらにすっぽりと収まる。
『これ』についてはみちよにあらかた説明した。
しかし、それも表面的なことだけだ。
その本質はミカ本人にしか理解できないし、理解させるつもりも無い。
「どれくらいだ?」
仕事の話には敏感なのか、みちよがすかさず聞き返してくる。
それまでの無関心さは口調からして変わってないが、そういう契約を自分と交わしてしまったことに対してのせめてもの反応だろう。
そう思うことでミカはそれまでの蟠っていたみちよへの殺意を何とか収めることにした。
「来週の日曜あたりが本番ですが、私が介入することで少しだけ早めることができます」
「お前にとってはそのほうが都合が良いんじゃないか?」
自分の目的を知っている人間ならではの返し方に、その場で使い魔を差し向けたくなったミカだったが、それを決断するほど短慮でもない。
それにさきほどで殺意がほどよく緩和されていたため、みちよのその皮肉にも冷静に対処することができた。
「そうですね。私個人としては今すぐにでも殺したいですが、それでは私にとって意味がありません。最終的に中澤裕子を殺すのは、『あれ』の役目ですから……私が創った、あれにしかできません」
「……まあ、私にとって関係無い話だ。『あれら』を手にするまでの契約だからな」
自分との契約が素直に履行されるとみちよは信じきっているのか、はたまた、それを言うことで釘を刺しているのか分からないが、どちらにせよミカには大した問題ではなかった。
- 767 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:22
-
「ところでみちよさん。私達の話を聞いてくれますか?」
ふと、目の前のみちよの変化を観察したくなり、そう話を切り出すミカ。
しかし、みちよの表情が変わることは無い。
ミカにしてみればみちよは単なる一人の奇術師に過ぎなかった。
が、姉であるアヤカにとっては許しがたい敵、そう認識されていたはずだ。
「三年前、UKから派遣された私達は、この国での奇術師という存在の把握という任務を請け負っていました。もちろん、それを聞いたときは軽い気持ちでしたが、それが結局、最後の最後で仇となったのです」
話すことは全て自分のことでありいなくなってしまった姉のことであるのに、ミカはそれを他人事のように話すことができた。
それほどにまであのときと今とを切り離していたからだ。
そして、それは目の前のみちよも変わることは無かった。
「最初のきっかけは分かりませんが、とにかく本部が消滅したときからその異変は確実なものとなり、それを嗅ぎつけたUKも行動を起こしました。つまり、離反した人間による蜂起を促したのは、我々なのです。そして、それも効果的に実施され、各地の支部は潰されました」
「……なぜ、蜂起をけしかけた?」
返ってくるとは思わなかったみちよの言葉に、一瞬、目を見開いたミカだったが、それもすぐに元に戻った。
最大限に課した自制がここでも物を言い、平静を装ったミカは言葉を続ける。
- 768 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:22
-
「邪魔だったのですよ。こんな小さな国が資金力に物を言わせて肥大化していく、それを我々は見過ごすことができなかったのです」
「出る杭は打たれる……というわけか」
「違いますよ。夢を見ているようだったので、現実を教えてあげただけです」
ミカの言葉を受けたのか、それともたまたまタイミングが重なってしまったのか、みちよが無表情のまま立ち上がる。
そして、立ったままミカを見下ろしてきた。
まっすぐとは言えないが、それでもみちよが視線を逸らすことは無く、ミカもそれから逃れるつもりも無い。
無言のまま互いが互いを意識しないよう見ながら、時間だけが過ぎていく。
そして、最初に折れたのはみちよのほうだった。
「なぜ、それを今頃私に話す?」
「何ででしょうね、気が向いたからです。それに、これが全てではありませんから」
「……だろうな」
その言葉を最後に宙へ溶け込むようにして消えるみちよ。
一人ぽつんと部屋に残されたミカは、それでも満足だった。
手のひらに包まれていたくすんだ球体を何度か撫でて、それを再び別の場所へと保管したミカは、カップを置いたまま立ち上がる。
それを片付けるのは別の物の仕事だったからだ。
「せいぜい余裕ぶってるが良い。我が至宝さえ手に入れば、お前も敵ではなくなるからな」
完全に一人になったミカの独り言。
それは決して誰にも聞かれることは無く、また、ミカ自身も決して誰にも聞かせるものではないものであることは認識していた。
誰もいない、その部屋でミカの低い笑い声がわずかな間だけ響く。
それは彼女の覚悟であったのかもしれないし、後悔だったのかもしれない。
しかし、それはミカ本人にしか分からない。
そして、それをミカ本人も決して外へ出すことが無かったため、それは永遠に他人へと伝染することは無かった。
- 769 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:23
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 770 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:23
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「まこっちゃんさぁ、本気でそれを田中ちゃんに渡しちゃうの?」
「うん。だって、面白そうじゃん」
目の前でそんなやりとりをしているのは小川麻琴・真琴に新垣里沙の三人。
そして、紺野あさ美は少し離れたところでそれを見ていた。
今日は十一月十一日。
この日は麻琴・真琴の妹である田中れいなの誕生日らしいことはあさ美も知っていたが、だからといってあさ美がすることはほとんど無かった。
実際、今夜開かれる誕生日パーティーとやらにはあさ美は招かれていないし、それは隣にいた高橋愛も同じだった。
だが、あさ美には一つだけ気になることがあった。
それはあさ美が呼ばれなかったその場に、里沙が呼ばれているということだ。
姉である麻琴・真琴がその場に行くのについては異論を挟むことの無かったあさ美だが、里沙がその場に行くことを知ったときには思わず口を挟まずにはいられなかった。
『でもさ、田中ちゃん本人から言われたしね……』
そう困った表情をしながら言ってきた里沙に、それまでの勢いを失ったあさ美はその場は一旦退くことにした。
ただ、だからといってそれですんなり納得できたと言うわけでもない。
なぜなら、先週末の土日とかけてあさ美は寮の部屋で一人で過ごしたからだ。
本来ならばその部屋にはルームメイトの麻琴・真琴がいるはずだったが、里沙に半ば拉致される格好で(といってもこれはあさ美の主観なのでかなり偏見がこもっていたが)連れて行かれてしまったからだ。
(私だって真琴とゆっくり話がしたいんだけどな……)
そう心の中で思うだけで留まれたのは、あさ美が里沙よりも圧倒的有利な立場にいるという自意識からだった。
あさ美が部屋に戻れば真琴がいる。
そんな小さな優越感であさ美はその場を退くことができた。
いや、退いてあげたのだ。
- 771 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:24
-
「ほやけど、あれって修羅場になるんやないの?」
「へっ?そ、そうなのかな?」
隣に愛がいることをすっかり忘れていたあさ美は、そこで話しかけてきた愛の言葉を半分ほど聞いておらず、何となくで答えを返す。
そして、その愛に注意を向けたことでこの場にいる人間の数の多さをようやく思い出した。
今日、あさ美は麻琴・真琴から頼まれ、街に一つしかない百貨店にやって来ていた。
といってもこれには少し語弊があって、実際には愛もいたし、里沙もいた。
さらに、向かったその百貨店で吉澤ひとみと亀井絵里の二人に遭遇してしまったのだ。
都合、六人(実際には七人だが、見た目が六人だったから)になったプチ集団の中心はなぜかひとみで、あれこれと仕切り始めてしまった彼女にあっさりと流される形で麻琴・真琴が何やら変な物を買わされたのも、ついさきほどの話だった。
あさ美が気になったのは絵里が持っていた紙袋で、それはあさ美達が合流する前から持っていたものだったからだ。
ただ、麻琴・真琴がその紙袋に気づいたかどうかは分からない。
そんな意味を込めてあさ美はさりげなく声をかけることにした。
「まこっちゃんさ、がんばってね」
「えっ?あ、ありがと」
里沙との会話に集中していた麻琴がくるりと頭を回転させて自分を見てくるが、それが麻琴の視線から見られていることにあさ美はすぐに気づくことができた。
なぜなら、麻琴・真琴から出ていたあさ美にしか見えない糸が、一本しか見えなかったからだ。
あさ美が観察した結果で得た結論としての『一人の人間に一本生えている』その糸の例外として存在した麻琴・真琴だったが、その麻琴・真琴を観察していて気づいたことがあった。
それは常に二本出ているのではなく、一本になるときがあるということだった。
つまり、そのときの状態ならば麻琴か真琴のどっちか片方しかいないことを示しているのだ。
- 772 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:25
-
そのことを不思議に思って麻琴に聞いてみると、今、真琴は疲れきって寝ているということだった。
実際、麻琴の声もどこか疲れたように感じたし、見た目もどこかだれているようにも見えた。
原因は言うまでも無く、週末の不規則な生活なのだろう(ただ、何がどう不規則だったのかは考慮していない)。
だが、あさ美はそのことを聞くのが怖くて、何となく流してしまった。
今晩辺りからなら真琴の出番もあるようだが、それも今晩を無事に乗り切ることができたらの話で、あさ美が真琴とゆっくり話すことができるのはもっと先のようだった。
「それじゃあ、私は絵里を家まで送っていくよ」
「さよなら〜」
寮の近くまでやってきたとき、ひとみが突然そう切り出し、絵里もその後に続く。
絵里の手を握ったひとみが交差点でまっすぐ行ってしまい、あさ美達四人はそこを左へと曲がった。
前を歩いている麻琴と話をしているのは里沙だけで、あさ美は愛とその後ろをついて行くだけだった。
そんなあさ美は横目で愛の様子を観察してみる。
それから誰にも気づかれないよう、小さくため息を吐いた。
(ほら、やっぱりどっちつかずじゃん……)
愛から伸びていた『赤い糸』は目の前にいた麻琴に向かっているが、それもどこか中途半端なもので、途中でもつれてところどころで玉ができている。
そのもつれるといった現象をあさ美はこれまで見たことが無く、それが何を意味しているのか、そのときのあさ美には全く理解することができなかった。。
ただ、感覚的にそれが変なことだけは意識できた。
(だけど、私にできることも無いんだ……)
愛が麻琴に対してどんな感情を抱いているのかは、糸の状態を見なくても普段の仕草を見ていれば分かる。
ときにはあさ美や里沙すらも弾き飛ばしてしまいそうな愛のその勢いに、あさ美はどう対処したら良いのか分からない。
だが、これはあくまで麻琴と愛の問題であって、真琴と愛の問題でないことがあさ美にとっては救いと言えた。
- 773 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:26
-
(まあ、私達の邪魔をしてくれなけりゃ、良いんだけどね)
かなり割り切った答えを胸中で呟いたあさ美は、そこで自身の糸に訴えかけてくる何かを感じ、それにすかさず反応した。
懐かしく、そして、どこか大きな存在。
それがあさ美に対して、誰なのかをすぐに知らせてきたのだ。
「ミカさん!」
振り向いたあさ美の視界に入ったのはまさしくミカ・エーデルシュタインで、あさ美は反射的にその人に向かって駆け出していた。
「お久しぶりですね、あさ美さん」
曲がり角から出てきたらしいミカがあさ美のほうを見て、少しだけ甲高い声を上げる。
が、それもあさ美にとってはすでに慣れきったものになっていた。
「いつ日本に来たんですか?」
「つい最近のことですよ。それに、仕事の関係だったので、今日まで自由になることができませんでした」
そう言ったミカが持っていた紙袋を持ち上げてくる。
どうやらそれはあさ美に渡す物だったらしく、あさ美はそれを素直に受け取った。
「ちょうどあさ美さんのところへ挨拶に行こうと思っていたところです。こんなところで会えるとは私もついていますね」
「そうですね、私達もちょうど買い物から帰ってきたところでしたからね」
不意にミカが手を伸ばしてきて、あさ美の頭の上に手を乗せる。
それを撫でられているのだと認識できたのは後ろから真琴らしき声が聞こえてきたからで、あさ美はそうされていることに気づくことは無かった。
なぜなら、ミカがあさ美の頭に手を置いた瞬間に、世界が一変したからだ。
(あれ、どうしたのかな?)
地面についているはずの足が安定せずに宙を浮く感覚に襲われながらもあさ美はぼんやりと思考を巡らせるが、それ以上の異変について考えることができない。
そして、次の瞬間には異変を異変として認識できなくなり、宙に浮いた感覚も消えてしまった。
残ったのは世界がより鮮明に見えるという事実だけであり、それもあさ美の中ですぐさま消化されて日常へと成り下がる。
- 774 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:27
-
「あの……あさ美ちゃん?」
「あぁ、ごめんね」
後ろから麻琴に声をかけられて振り向くあさ美。
そこに入ってきたのは麻琴の顔はどこか緊張したものだった。
もしかすると真琴が出てきたのかもしれない、そう思ってあさ美は麻琴・真琴の胸にあるはずの『赤い糸』を見ようとして、そこで首を傾げることになった。
(どうしたのかな、見えなくなった……?)
『赤い糸』を見るのに特別な動作は必要なく、ただ、それを見ようと考えるだけで良かった。
そのときもあさ美はそれをしたはずだったが、なぜか麻琴・真琴から伸びているはずの糸を見ることはできなかった。
(まあ、いっか)
それまでのあさ美ならばその異常にすぐさま気づき何らかの反応をするはずだったが、このときのあさ美にはそれをするだけの判断力が欠けていた。
ただ、見えなくなったという事実を無抵抗に受け入れるだけでそれを追及することもなく、麻琴に問いかけられたことに対して反応するだけだった。
「この人はねミカさんで、ハワイでホームステイしたときにお世話になったの」
あさ美にしてみればその一言で全てが説明できたが、実際にはそれ以上、そして、それ以外の要素も深く関わっている。
ただし、それをあさ美が把握することはできなかった。
あさ美の言葉を受けてミカが何かを話しているようだ。
しかし、それをあさ美は見ていなかった。
その視線は目の前にいた麻琴に固定され、その表情が一瞬だけ引き締まり、すぐ元に戻る。
それを目にしたあさ美は、その瞬間に麻琴と真琴が入れ替わったことに気づいた。
『赤い糸』を使うことなく……
「あんたはあさ美が『事故』にあったとき、その場にいたのか?」
いつになく真剣で、そして、どすの利いた声を発してくる真琴。
明らかにあさ美を通り越してミカに聞いているその口調に少しだけ腹を立てながら、あさ美は割り込むことにした。
- 775 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:27
-
「何言ってるの、真琴。ミカさんがあそこにいなかったら、私って生き返ってなかったんだよ?」
すらすらと自分の口から出てきたのは、それまであさ美の中でグレーゾーンとなっていたあのときの光景で、このとき、なぜかその光景が唐突に蘇る。
そして、それはそれまでにないくらい、鮮明だった。
具体的にはトラックに轢かれた次の場面からで、ミカとアヤカがやたらと難しい話をしているのだけは分かり、それをあさ美は生きて耳にはしていなかった。
死体となった身体でその声を聞いていただけで、それは結果として残っているだけのものだった。
そして、そのミカとアヤカの二人があさ美の身体に複雑な『何か』を施し、次の日にはあさ美は普段と同じように起きることができた。
(なんだ、そんなことだったのか)
思い出してみればやけに広かったグレーゾーンも意外とあっさりとしたもので、言葉にすればたったそれだけのものだった。
だが、それでもあさ美にしてみればそれまで取り除くことができなかった霞みがかった部分に光が差し込んだようで、晴れ晴れしい気持ちになっていることにも気づく。
「そうだよ。ミカさんは私にとって命の恩人なんだ」
隣にいるミカを見上げてみるが、そこにいるのはあさ美よりも少しだけ背の高いミカではなく、それ以上に大きな、別の何かを含んだミカだった。
「あさ美、ちょっと黙っててくれ。おれは、ミカ・エーデルシュタインと話をしてるんだ」
そんな満足感に浸っていたあさ美を現実に引き戻したのは真琴で、その真琴に対してあさ美はかなり腹を立てるが、あさ美を見ていたミカが小さく頷いたため、その場は引くことにする。
が、それでも真琴に対する不満が解消されることは無かった。
- 776 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:28
-
「そうですね。確かにあの場所に私はいました。そして、あの場所で起こったことは私と姉であるアヤカの責任でした。その償いの意味を込めて、私達はあさ美さんを助けることにしたのです」
「だったら、その後であさ美に変な力がついたことにも、気づいたのか?」
「もちろんです。ですから、私達はあさ美さんがこの能力を上手に使いこなせるよう努力しました」
「じゃあ、お前も奇術師なんだな?」
「そのとおりです。そうでなければ、あさ美さんの能力には気づけないでしょう」
そんなやりとりをしているのを尻目にしながら、あさ美は少しばかり退屈な思いを味わっていた。
ミカが奇術師であることもすでに知っていたことだし、真琴が確認したことはすでにあさ美が身を持って体験している。
だから、真琴がしていることはあさ美にとって単なる反復に過ぎなかった。
「ほら、もう良いじゃん。せっかくミカさんが来てくれたんだしさ」
どこかきつい視線をしている真琴からミカを守るように割って入ったあさ美は、まだ質問し足りないといった感じの真琴を無理やり押し留めると、ミカへと振り返る。
そして、そこにあったミカの笑顔を見て、あさ美は真琴と話しているときと違って満たされていることに気づいた。
「寮もすぐそこですから、そこでゆっくり話をしませんか?」
しかし、ミカはそのあさ美の提案に寂しそうな顔をした。
「すみません。先ほど連絡が入って、すぐに戻らなければならなくなってしまいました」
「そうなんですか……」
「ですが、あさ美さんと小川さんにこれを差し上げます」
そう言ってミカが差し出してきたのは何かの小冊子だった。
それをあさ美となぜか麻琴・真琴へと手渡すミカ。
ただし、笑顔で受け取ったあさ美とは対照的に麻琴・真琴の表情は強張っていた。
「これは私達が建設したテーマパークのフリーパスなのですが、良かったら使ってください」
「え、これってミカさんが造ったんですか?」
「正確に言えば私達が経営する会社が造ったのです。私達は設計に関して少しだけ携わっただけですよ」
手元の小冊子は以前、麻琴と里沙が行ったというテーマパークのフリーパスで、あさ美に手渡されたそれは二冊あった。
- 777 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:29
-
「なんで、おれ達にもくれるんだ?」
あさ美ならまだしも、なぜ麻琴・真琴に手渡したのかはあさ美にも分からない。
それを真琴本人が聞いてくれたことであさ美は無駄な作業を省くことができたが、ミカの口から出てきたその言葉にあさ美も少しだけ驚いた。
「あなた達にはお世話になりました。なぜなら、あのアズラエルを始末してくれましたからね」
「なんで、お前がそのことを知ってるんだ?」
「あれは元々私が所有していた使い魔の一匹でしたが、私の支配を逃れて逃げ出したのです。あれは人を喰らってその形状を変化させます。ですから、一度私の手元から逃げ出せば捕捉することは困難でした。そして、その間に被害が広まってしまったことでしょう。ですから、そのお礼の意味も入っています」
「最初に手を出してきたのはあいつだ。それにあいつはおれ達だけじゃなくて、あさ美にも手を出した。だから、あんたに感謝される筋合いはない。おれがしたくて、おれがやったんだからな。あのときのことは麻琴も関係なかったんだ」
「ですが、結果としては同じことです」
「何か気に入らないな……」
「せめてものお礼ですよ。それ以外に意味はありません」
ミカの言葉を聞くたびに不満が募っていくのか、真琴の表情は険しいを通り越して別の何かへと変化していた。
が、あさ美にしてみればそんな真琴に対して不満が溜まっていた。
そして、その真琴に向かって口を開く。
「せっかくミカさんがくれたんだから、もらっておけば良いんじゃないの?」
自分でも少し棘のある言い方だと認識できたが、必要以上に警戒している真琴のほうに非があるのであって、自分もミカも悪くない。
そうあさ美は判断した結果だった。
言われた真琴のほうはあさ美からそんな言葉を投げかけられたことに戸惑ったのか、しばらく手元のフリーパスとミカを見比べながら、ようやくため息を吐いた。
どうやら諦めたらしい。
- 778 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:29
-
「分かった。もらっておく」
「良かったです。実は、その有効期限が今週の土曜日に切れてしまいます。なので、そのときにでも来てくれたらうれしいです」
そう言ったミカはあさ美に向かった小さく手を振って、その場を後にしてしまった。
残ったのはミカに会えたことで素直に喜んでいるあさ美と、ミカと話をして不満が残ってしまった真琴、それ以外の二人だけ。
(なんで、あそこまで露骨に嫌がってるんだろ……)
ミカに対してやけに攻撃的だった真琴のことに対して半分は怒り、半分は呆れていたあさ美は小さくため息を吐いて気持ちを切り替える。
そして、気持ちはすでに週末へと移っていた。
(だけど、あんな真琴とだった行かないほうが良いかもね)
心の中でそんなことを思いながらも、それを素直に口にすることができないあさ美は、このときまだ重大な事実に気づくことは無かった。
そして、それは存在核を未だに明確に把握することができずにいた麻琴・真琴も同じことだった。
しかし、この時点でミカの『少しだけの行動』は終了し、すでに準備が整ったことを麻琴・真琴はおろか、あさ美本人も気づくことは無い。
それを知ることになるのは、もう少し後、仕向けられた『運命の日』になる。
- 779 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:30
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 780 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:31
-
その日、中澤裕子はF中学へと来ていた。
放課後の校内はやたらと活気づいていて、その中を歩いていた裕子も自然とそうした時代があったことを思い出させてくるが、だからといってそれが戻ってくるわけではない。
その中で一人苛立っていた裕子は、ピースを銜えたい衝動に駆られるが唇を強く噛むことでそれを抑え込んだ。
「裕ちゃん、早かったな」
最悪なタイミングで出てきた稲葉貴子に対し思わず怒鳴り返そうかとも思った裕子は、自制しなければ本当にそれをしてしまいそうなことに気づき、慌てて深呼吸をして無理やり気持ちを切り替える。
が、出てきた言葉はそれまでの自分を引きずっているのか、やけに自虐的なものだった。
「脅迫されたんだ、嫌でも出てくるさ」
「脅迫や無いって」
それは目の前にいる貴子にも伝わってしまったのか、彼女が苦笑いをしてくる。
裕子はその顔を見ることができずに視線を逸らした。
「裕ちゃんが何もかも一人で背負わんようにっちゅうウチの気持ちやないか」
「……余計なお世話だ」
すでに緊張しきった身体から出てくるのは奇術師としての中澤裕子で、それを裕子自身が否定できなかったし、するつもりもなかった。
それから裕子は貴子の後を素直について行き、職員室へと入る。
やたらとパソコンが増えたのは裕子がそうした領域から長く離れていたからで、貴子にとってはそれも日常の一部分に過ぎないようだった。
その職員室にあるデスクを縫うように歩き、そこからまた別の部屋へと移動する。
そこは応接室のようで、職員室のデスクとは明らかに違った、豪華なセットが置かれていた。
「適当なところへ座って構わんよ」
貴子が備えつけてあったポットに向かいながらそう言ってくるが、座るところと言えばセットの一部分であるやけに大きなソファしかあり得ず、裕子はそれに仕方なく座る。
しかし、このときは意識して貴子に背を向けるようにして座ったのは、今の自分の気持ちを代弁していたのかもしれない。
それを座った後で気づいた裕子は、貴子に気づかれないように小さく笑った。
- 781 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:31
-
後ろにいる貴子はコーヒーを淹れているのか、ポットのあった付近で何やら鼻歌を歌っていたので、裕子はそれをできるだけ聞かないようにしながら周囲を見てみる。
ただ、この豪華なテーブルの上は閑散としていて、隅のほうにこの空気に相応しくない筆入れが置かれていたのが目に入っただけで、他には気に引くような物は無い。
「おまたせ」
戻ってきた貴子の手にはコーヒーカップが二つ持たれていて、その一つが自分の前へと置かれる。
貴子は裕子とは反対側のソファに腰を下ろした。
カップは持ったままで、座ったすぐ次にはそれを口にしていたのが以前の貴子のようで、裕子は自然と笑みを浮かべる。
そして、それをしてしまった後ですぐさまそれを引っ込めた。
「ところで、用件とは何だ?」
あまりここに長居をしていると、それまで築き上げてきた自分が崩れ去りそうな気がした裕子は、それまで思っていた全てを否定するかのように口を開く。
しかし、このときの貴子はそんな裕子の心境が手に取るように分かったのか、すぐには何も言わなかった。
しばらくコーヒーを飲んで息を吐く、そんな動作を三回ほど繰り返してからようやく持っていたカップをテーブルに置いた。
「用件って、電話でも言ったやろ?ウチと裕ちゃんとの情報交換や」
あっさりと言ってきた貴子に思わず言い返そうともした裕子は、それも目の前の元親友には通じそうに無いことを気配だけで察し、大きくため息を吐くだけにする。
そして、できるだけ自分の意図が伝わるように言葉を選んで、口にすることにした。
「貴子からもらうような情報は無いんじゃないか?」
短い時間で分かったことは、貴子が必要とする情報を裕子が持っていて裕子が欲しい情報について貴子は皆無だということだ。
それは貴子にもすぐに伝わったのだろう、彼女はじっと固まり、視線をわずかに裕子から逸らした。
が、それもほんの一瞬だった。
- 782 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:32
-
「言われてみたらその通りやな……」
元に戻りそれをあっさりと認めた貴子だったが、このときの彼女はそれで終わりではなかった。
ずいっとソファから身を乗り出し、裕子の顔へと急接近してくる。
いきなりなことで、とっさにできたことと言えばせいぜい身を仰け反らせるくらいで、裕子は近くなった貴子の顔から目を離せなくなった。
「せやけど、もうウチも逃げんって決めたんや。せやから、情報は平等に分けような?」
言葉の最後の疑問は正確には疑問ではなく、裕子に対する牽制を含めていたのだろう。
間近にあった貴子の顔がにやけて、同時に裕子の中にあったある感情がそれに刺激されて中で声を出してくる。
それは裕子にとってみれば懐かしいと呼べるような感情だったが、今はそれを完全に自制する術を得てしまったため、それを表に出すことは無かった。
「……分かった」
それから裕子はこれまでの一連の出来事について話した。
ただ、どこからが始めなのか分からなかったので、ここ半年にあったことを中心にして貴子に聞かせる。
ミカの使い魔であるアズラエルの顛末。
平家みちよが思念体から実体へと変化したときの様子。
二つに別れてしまった辻希美との少ない会話。
手を出さないと決めていた柴田あゆみと、それに関連したみちよとの接触。
ミカと結託したみちよとのやり取り。
そして、そこで下されたみちよから決別。
言葉にすればそれらの出来事もあっという間だった。
わずか三十分という間で全てを語った裕子は、ようやくそこで置かれていたカップに手を伸ばす。
中身はすでに冷め切っていて、その刺々しいくらいの液体を喉の奥へと流し込んだ。
「何や、みっちゃんは生き返ったんかい」
「……違う。今在るみちよはすでにあのときのみちよではない。単なる抜け殻だ」
あまりに見当違いなことを言ってきた貴子に対し、すぐさま反論する裕子。
しかし、貴子はそれくらいでめげることは無かった。
- 783 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:33
-
「それなら、そいつの目的はなんや?」
「……分からない。ただ、人間の限界を知りたいのではないだろうな」
噛み合うことの無くなったみちよの言動に対し、それ以上の追求を止めてしまった裕子は、そこで無理やり話を切る。
と、そこで部屋のドアがノックされた。
『失礼します』
「開けてええで」
ドアの向こうから聞こえてきたその声に反応するのは貴子で、裕子は無言で再びカップを持ち上げる。
が、今度はそれを口まで運ぶことは無かった。
「なんや、田中やないか。どないしたんか?」
「いや、忘れ物したみたいで……」
ドアが開く音がして、より近くに聞こえてきたその声が途切れる。
それはどう見ても自分のせいだと気づかざるを得なかった裕子は、逃げられないことを確認し、覚悟を決めて振り返った。
「あれ、師匠やなかとですか。どうしたんですか?」
「……単なる所用だ。気にしなくて良いぞ」
案の定、そこにいたのは田中れいなで、そのれいなを見た裕子は思わず苦笑いをする。
その内心ではこれまでのれいなと今のれいなとでは全く違っていることに何となく気づき、その変化を驚いていた。
(どうしてあんなに清々しい?)
れいなから受けた印象を一言で言えばそれに尽き、それを疑問として心の中で反芻するが、れいな本人に聞かない限りその答えが返ってくることは無い。
そして、裕子はそれをするつもりになれなかった。
「それより田中。どうしたんや?」
「あ、そうでした。確か、ここに忘れ物したと思ったとですよ」
そう言ったれいなが辺りをきょろきょろと見回す。
「忘れもんって、これのことか?」
貴子はテーブルの隅に置いてあった筆入れを指し示す。
それを見たれいなは、ぱっと顔を輝かせた。
「あ、それです」
小走りになってその筆入れに飛びつくれいなを見て裕子は笑いそうになるが、それも今の自分とはかけ離れているため、それは自制する。
- 784 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:33
-
「なんでそないに慌てとるねん。単なる筆入れやろ?」
裕子の代わりに笑った貴子が、なぜか焦っているようにも見えるれいなにストレートに聞く。
れいなは筆入れを胸の位置で抱きしめているが、筆入れにしては少し大きめだったため、それをれいなが持つとことさらその大きさが目立った。
「大切なものが入っとるとですよ」
「何や、ラブレターか?」
茶化して言う貴子だったが、それ対するれいなの反論は無い。
ただ、顔を赤くして立っているだけ。
そのあまりにも素直すぎる反応に今度こそ裕子も笑いを堪えることができなくなるが、これは貴子の純粋な笑みとは違って、どこか捻くれたものだった。
「まさか、当たりか?」
「ち、違いますよ!
貴子の一言にれいなが顔を真っ赤にしながら反論してくる。
だが、笑い始めた貴子を止めることはできなかった。
「あんだけ派手に暴れたのに、否定するんかい」
「あれとこれとは話が別です!」
置き去りにされた裕子はしばらく呆然と二人のやりとりを聞きながら、やはりその内容を理解できずに諦めに意味を込めたため息を吐く。
それから数分で二人のやりとりは終わり、れいながやけに疲れた様子で踵を返した。
が、それでもれいなはすぐに部屋を出て行かなかった。
- 785 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:34
-
「そうだ。今日、れなの誕生日で、パーティーをするんですけど、先生らも来ませんか?」
「何や、今日やったんかいな……」
「はい、今日です。七時開始なんで、そこのところをよろしくお願いします」
「そんな、急に言われても、何も用意できんで?」
「いや、先生からは恐れ多くて何ももらえませんよ。それに、親父もたまには顔を見せろって言ってましたから」
さらりとそんなことを言ったれいなが軽い足取りで部屋を出て行く。
取り残された裕子は少しだけ身体を捩ることで不快感を示してみたが、それも貴子に伝わることは無かった。
「まあ、たまには顔見せんといかんよな」
「……そうだな」
れいなの父親と言えば田中仁志以外にはおらず、彼とほんの数日前に顔を合わせた裕子はそのときの印象を思い出しながら苦々しく貴子の後に続いた。
しかし、苦い思いをしていたのは自分だけらしく、貴子の顔を見た裕子はそこでもまた自分が置いていかれたような気持ちになる。
(なんで、もうちょっとだけでも……)
「裕ちゃん、なしたんや?」
垣間見えた本心を否定するように頭を必死に振る裕子に対して貴子が声をかけてくるが、このときの裕子はそれを聞いていなかった。
否、それを聞くつもりになれなかった。
- 786 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:34
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 787 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:35
-
「れ、れいな。ちょっと待って!」
「何言うとうよ。さんざん待ったやんか!」
バコッ
「だ、だから、持ってるそれを置いて、冷静に……」
「冷静って、何を冷静にするんよ!」
ガスッ
「ひぇ〜」
「ちょっと待ちぃ!」
そんな光景を目の当たりにしながらも、新垣里沙はそれを温かい目で見ることができた。
周囲はすでに暗くなって、空には星がいくつかとそれらを遮らんばかりに月が照っている。
だが、このときは少しばかり視界が悪く、それを鮮明に見ることができなかった。
「って、何呑気に見てるんですか?」
「あ、重さんに亀ちゃん。やっと来たんだ」
声をかけられ振り向いてみると、そこにいたのは里沙の同級生の亀井絵里と後輩の道重さゆみの二人。
ただし、顔はいつものそれとは違ってどこか間の抜けたものになっていた。
「二人ともさ、そのメガネ外したら?」
「そういうがきさんも外したらどうですか?」
「あ、そうか。すっかり忘れてたよ」
絵里から指摘され、自分もそれをつけていたことをようやく思い出した里沙は、持っていた湯呑を置いてかけていたメガネを外す。
それと同時にそれまでの悪かった視界が鮮明になり、里沙は周囲の景色を改めて見直した。
里沙や絵里、それにさゆみがしていたのは通常のメガネではなく、レンズの部分にやたらと大きな目が描かれた玩具だった。
強いて言えば先ほど逃げていった小川麻琴・真琴にそれを追いかけて行った田中れいなも同じようなメガネをしているが、その三人はそのことを恐らくは覚えていないだろう。
そんなことを思いながら、里沙は感慨深げにため息を吐いた。
「いや、なんでそこで満足そうにため息を吐くんですか?」
「だって、慣れたんだもん」
「きゃ〜」
隣に座ってきた絵里にそう言った瞬間に、三人の前を悲鳴を上げながら走り去る麻琴。
そして、そのすぐ後をれいなが無言で走り去った。
どうやらまだ、れいなの怒りは静まっていないらしい。
- 788 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:36
-
「でもさ、何で絵里はピコピコハンマーなんか用意してたの?」
「ひとみさんがね、絶対用意しといたほうが良いって言ったから、買っておいたの」
立ったままのさゆみが心配そうに追っているれいなを見ながら言ってくるが、それに対して絵里の答えはやたらと楽しそうだった。
だが、そんなことに構うことは無く、れいなの追撃は続いている。
しかも、絵里の渡したピコピコハンマーもすでにピコピコではなく単なる棒切れと化していたことを里沙はつけ加えようとしたが、これは止めることにした。
なぜなら、その時点ですでにれいなにしてみても麻琴・真琴にしてみても里沙の視界の外へと移動していたからだ。
今日の放課後、里沙は麻琴・真琴に幼馴染である(今はそれをはっきりと言えないが……)高橋愛、それに紺野あさ美の四人とともに百貨店へと出向いた。
目的は今日、誕生日を迎えるれいなへのプレゼントであり、実の姉である麻琴・真琴はそのときまでにそれを用意することができなかったからだ。
そこで里沙達は先にやって来ていた吉澤ひとみと亀井絵里と出くわし、ひとみに乗せられる形で麻琴・真琴は追いかけられる原因となった『ブツ』を買わされる破目になったのだ。
ただ、そのときの麻琴はそれに対してやけに乗り気で、いつもはストップ役のはずの真琴ですらそれに同意してしまったため、里沙は何も言わないことにした。
つまりは因果応報というのに期待をし、そして、それは速やかに実行されていた。
(まあ、追いかけられるのが分かってたからね……)
そんな諦めの気持ちがあったからこそ、先ほどから耳にしていた麻琴の切羽詰った声とれいなの怒気のこもった声、それに『元』ピコピコハンマーの音を聞いていても、里沙は冷静に対応することができたのだった。
ちなみに里沙はれいなに作業用の軍手十組をプレゼントしている。
それを必要としていたれいなはそんな里沙を歓迎こそすれ邪険することは無かったが、里沙としてはやけに安くあがってしまったことに対して、少しだけ後ろめたい気持ちになっていた。
- 789 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:37
-
「きゃ〜」
(やっぱ、ちゃんとした手袋にしたほうが良かったのかな……)
が、下手に高いものでも買ってれいながそれを使い渋るよりかは、思い切り安いものを買ってそっちを駄目にしたほうがまだ健康的だと思い直し、その気持ちを忘れることにする。
「あのさぁ、重さんも座ったらどう?」
「あ、はい」
まだ立ったままだったさゆみに声をかけると、さゆみもそれにあっさりと受けて里沙の隣へと座る。
その際に置いていた湯呑を持ち上げて避難させた里沙は、冷め切ったお茶を飲んでみてその冷たさに少しだけ身震いをした。
「でも、あれっていつまで続くんですかね?」
「たぶん、あと十分くらいで終わるよ」
さゆみの言った『あれ』とは、今しがた視界へと現れた麻琴とれいなの追いかけっこで、さらに言えばれいながいつ追いかけるのを止めるかといったことが重点になっている。
「さゆはれーなと早くいちゃつきたいんだよね」
それを見越しているのか、右隣に座った絵里が少し屈んで里沙の左隣にいるさゆみに言ってくる。
そんな絵里の視線を受けて里沙もさゆみを見てみると、そのさゆみの顔はやけにさっぱりしていた。
「絵里や新垣さんが来る前に充分やったから、別に良いよ」
あっさりとそう言ってきたさゆみに里沙は、思わず口へ運んでいた湯呑ごと動きを止めて、しばしさゆみを観察してみる。
ただし、このときのさゆみの顔は少しばかり赤くなっていた。
「なんだ、からかい甲斐がないね」
「そういう絵里は吉澤さんがいないけど良いの?」
思わぬさゆみの反撃に今度は絵里が顔を赤らめて下を向いてしまった。
それから里沙は何となく自分にも被害が及びそうで、思わずそんなやりとりをしている二人から視線を外して正面を見る。
が、そこを運悪く(もしくは運良く)麻琴とれいなが走り去っていった。
- 790 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:37
-
「新垣さんも大変ですよねぇ……」
「重さん、なんでそこで大きくため息を吐いちゃうの?」
さゆみの言いたいことが何となくだが分かってしまい、里沙は控えめにそれだけを言い返す。
が、このときのパワーバランスは通常のそれとは全く違っていたことを失念して里沙だった。
「さっきから小川さんって格好悪いですね」
「……否定できないところが悲しいね」
悲鳴を上げながら逃げ惑っているのは主に麻琴で、追い詰められているときに出てくるのが真琴だと分かったのは今しがたのことだ。
だが、それも功を奏していないのかれいなの追撃が緩むことは全く無く、そのたびに麻琴(プラス真琴)の悲鳴が周囲へと木霊していた。
と、その悲鳴が不意に近くで聞こえてくる。
どうやら戻ってきたらしい。
「重さんがばしっと言えば、田中ちゃんも納まってくれるんじゃないの?」
「そうですね。そろそろ声をかけてみます」
それまで里沙達が陣取っていたのは田中家の縁台で、そこを立ち上がったさゆみが下を覗き込む。
そして、そこに置いてあったサンダルを見つけると、それを引っかけて十メートル四方の庭の隅っこにいるれいなのところへと行ってしまった。
「からかい甲斐がないよね、あの二人」
離れていくさゆみの背中を見ながらぼそりと呟く里沙。
先週まではささいな問題(と言えるかどうか里沙には甚だ疑問だったが)があって互いに口を利かなくなっていたさゆみとれいな。
それもすっかりと解決したが、その解決の仕方に問題があったらしい。
といっても、それは別の話だ。
- 791 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:38
-
「何か、たがが外れたっていうか、隠さなくなったっていうか……」
「まあ、どっちでも良いじゃないですか。あのときは一緒にいるこっちも大変でしたからね」
「まあ、そうだね」
全く口を利かなくなるよりかは話をしたほうが良いことに変わりないが、れいなとさゆみの場合は少しばかり状況が違っていた。
それを思い出さないように里沙はさゆみの背中から視線を外して夜空を再び見上げる。
雲は一つも無いようで、見上げたそこにはさきほどと同じように月とそれに照らされた星のいくつかがあった。
「平和だねぇ……」
「がきさん、それって聞く人が聞いたら絶対に嫌味ですよ」
「そう?」
何だかやけに疲れた里沙はそれだけを口にして首を傾げた。
それに対して絵里が何も言い返してこなかったのは彼女の気遣いのようで、里沙はその厚意を素直に受け取ることにして夜空を見入ったまま静かに一人の世界へと入る。
そして、そんな里沙を遮るかのように麻琴の一段と高い悲鳴と何かが折れる音がしたが、里沙はこれを見事に無視することに成功したのだった。
- 792 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:38
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――――――――――
- 793 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由7 投稿日:2005/04/06(水) 11:41
-
星が綺麗なのは空が澄んでいるのと同時に、それを見ようとしている人間も澄んでいるからだ。
そう認識したミカは、そこで小さく笑うことにした。
周囲には誰もおらず、いるとしてもミカを守る使い魔だけだ。
その中においてもなぜ小さくだけ笑ったのかは、そんな考えをほんの少しだけ思い浮かべてしまった自分に対する自嘲からだった。
「目的を果たすためとはいえ私は姉を殺し、捨て駒としました。こんな人間でも澄んでいるのですか?」
誰に向かって問いかけているのかはミカ本人にも分からない。
ただ、頭の中でそうしたフレーズが浮かんでしまったために、それを素直に口にしただけだ。
それからミカは手にしていた『至宝』へと目を落とす。
手のひらにすっぽりと収まった『至宝』は、朝よりも確実に進行していた。
何がどう進行していたのかは、それを所持しているミカだけにしか分からず、そして、ミカもそれを周囲へ知らせるほど愚かでもない。
「あとは、時が来るのを待つだけです」
自然と切り替わった頭の中で、それ以降のシナリオを描いたミカは、そのどれもが直接関わることのできないものであることを再認識する。
が、それをある程度誘導するための準備は万全だった。
だから、あとは時が経つのを待つだけだ。
そう思って再び空を見上げる。
一人になってからの習慣とはいえ、それをすると必ずといって良いほど姉の顔が過ぎってしまう。
それを思い出したいのか、それとも早く消し去りたいのかは、ミカ自身にも分からない。
ただ、分かるとするものが一つだけあるとすれば、それは決して姉ではないと言い切れる自信はあった。
「お前も平家みちよも敵ではない。それは、私が証明してやる」
口に出してその決意を確かめたミカは、それまであった小さな笑みを消し、それとは全く別の笑みを浮かべる。
それはミカ本人からすれば自信を込めた笑みだったが、周囲からみればそれは単なる引きつった顔にしか見えず、または、あと少しで泣き出しそうでもあることにも気づけなかったのは、ある意味では幸いでもあるし、別の意味では全くの不幸でもあるようだった。
- 794 名前:いちは 投稿日:2005/04/06(水) 11:54
- 次から後半戦と言ったんですが、今回はその前置き段階の話でした
>>763 通りすがりの者さん
昔の話については要点だけかいつまんだつもりですが、分かりにくい部分ばかりでした
ただ、昔にあったことを抱えたまま生きていき、どうやって答えを見つけるかを書くつもりです
次は「想いのなかの迷い、それから得る自由8」です
ここら辺から修羅場がちらほら出てきます
それでは
- 795 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/04/08(金) 22:36
- 更新お疲れさまです。 前半のまとまった様な話でしたね、しかも気になるとこもいくつかある様で、続きが楽しみです。 多分最終的に中心人物のはあの二人かと。 次回更新待ってます。
- 796 名前:名無し読者。 投稿日:2005/04/13(水) 06:35
- 更新お疲れ様です
この頃なかなか時間がなくて今まで読めなかった分をいっきに読ませていただきました
やはりこの話は読んでると、どんどん引き込まれます
次回からいよいよ本格的後半戦に突入のようで益々更新が楽しみです
- 797 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/04/13(水) 11:05
-
想いのなかの迷い、それから得る自由8
- 798 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:05
-
「あれあさ美ちゃん。一人で出かけるべか?」
ちょうど食堂を出た安倍なつみは、そこで遭遇した紺野あさ美に思わずそう声をかけていた。
が、目の前のあさ美はそんななつみに構うことなく下駄箱から靴を取り出し、履いている。
「はい、準備ができましたから」
靴を完全に履き終わったあさ美がそう言ってくるが、それくらいで納得できるなつみではない。
そして、思っていた疑問を素直にあさ美へとぶつけることにした。
「準備って、まこっちゃんがまだみたいだけど?」
「あぁ、真琴は遅いから、先に行こうって思ってるんですよ」
そう言ったあさ美はなつみに背を向けて玄関のドアを開ける。
それからすぐにそこを出て行ってしまい、そのときになってなつみは『行ってらっしゃい』の一言を言うことを忘れていたことに気づいた。
(あさ美ちゃん、どうしたんだべ……?)
取り付く島も無いあさ美からそんなことを思ったなつみは、出て行ったドアをしばらく見つめていたが、そうしたところであさ美が戻ってくるわけではなかった。
それを思い出したなつみは小さくため息を吐いてそこから視線を外し、今度はすぐ近くにあった階段を見る。
なつみの勘が正しければ、そこからもうすぐ二人ほど人が降りてくる予定だった。
そして、その勘がすぐに正しかったと証明された。
「安倍さん、あさ……紺野さんはもう行きましたか?」
慌てた感じで降りてきたのは小川麻琴・真琴に高橋愛で、真琴がそうなつみに聞いてくる。
自分のことではないにも関わらず、そんな焦った感じの真琴を見ていたなつみは少しだけいたたまれなくなり、視線だけであさ美がすでに出かけてしまったことを伝えた。
「なんやの。もう行ったんだ……」
そう言ってきたのは愛で、そのころには真琴はすでに靴を下駄箱から取り出していた。
ただ、あまりにも慌てていたため、いつもしているその動作にも無駄が多く、普段以上の時間がかかっていることに気づいたのは、本人以外だけのようだった。
「真琴、焦ってもあさ美は帰ってこんよ」
愛の冷酷とも言える事実にそれまで焦っていた真琴の動きが一瞬だけ止まり、今度は恐ろしく緩慢な動作で持ち上げた靴をぺたんと床へと放り投げていた。
- 799 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:06
-
「それじゃあ安倍さん、行ってきますね」
「愛ちゃんもまこっちゃんも気をつけて行ってくるべ」
やけに肩を落とした真琴といつもの愛に声をかけて見送るなつみ。
それから何をしようとして外へ出たのかを忘れたなつみは、すごすごと食堂へと戻ることにした。
カウンターにもシンクにも食器が溜まっていたため、なつみはまずはシンクのほうから片付け始めることにして、水道の蛇口を捻る。
勢い良く出てきた水の冷たさに顔を顰めるが、それもほんの一瞬のことだった。
お湯を使うのは十二月に入ってから、そう決めていたなつみはスポンジに洗剤を吸わせると、手前にあった器から順に洗うことにした。
しばらくは単純だがきつい作業をこなし、シンクの中を片付けることだけに集中する。
が、その間にカウンターには新たな食器が積まれていて、なつみはそれを再びシンクへと移動させて洗うという作業を繰り返さなければならなかった。
それらの食器も洗い乾燥機の中へと放り込みようやく一段落ついたなつみは、食堂に誰も残っていないことを確認して休憩することにする。
カウンターの脇に置いてあったポットのお湯の量を確かめ棚からマグカップを持ち出すと、いつもの手馴れた感じでペーパーをセットし、再び棚へと戻った。
「さて、今日は何にするべか……」
棚に置いてあったのはいずれもコーヒーの粉の入った缶で、右からモカ、マンデリン、ブラジル、ミックスの順番で並んでいた。
それらのいずれも喫茶『アターレ』で購入したものだったが、不思議とキリマンジャロやブルーマウンテンといった値段の高い粉は置かれていなかった。
なぜなら、なつみはそうした高い粉だとどこか気後れしてしまい、普段使っている粉のように大量に消費できなかったからだ。
「よしっ」
数秒間悩んだなつみが手にしたのはマンデリンの缶で、それと一緒に計量スプーンを持ってポットのところまで戻る。
その中から三回ほどたっぷりと粉をペーパーへと載せ、お湯を注いだ。
マンデリンに限らず、食堂の棚にあった豆はペーパードリップ用にかなり細かく挽かれていたが、やはり量が多くなると時間がかかるため、しばらくはポットの前で時間を潰すことにする。
そして、三回ほどお湯を注ぎ足してから、それを持ってカウンターの外へと出ることにした。
- 800 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:07
-
遠くからでも湯気の立ち昇っているのが分かるマグカップをテーブルの隅に置いたなつみは、座る前に食堂の入り口に置いてあった新聞を取ることを忘れていなかった。
いつもの日課となっていたそれをいつものようにこなし、ようやく一息を吐くなつみ。
だが、マグカップにはまだ手をつけることができなかった。
適度に冷めるのを待つ間、新聞にざっと目を通し、興味を引くような記事がないことを確認すると、ようやく置いていたマグカップへと手を伸ばす。
その頃には飲みやすい温度まで下がっていて、なつみはそれを一息に半分ほどまで飲んだ。
「ぷは〜、やっぱ濃いとおいしいべ」
その場に親友の飯田圭織がいれば顔を顰めて『飲み物と台詞があってない』と言われそうだが、その圭織もそこにはいない。
そのため、そのことを指摘されなかったなつみは、まったりとしたままぼんやりとそれまで溜めこんでいた小さな疑問について考えることにした。
(結局、圭織から見せられたイメージっていつのことだったべか?)
圭織が描いていたイメージを見てからすでに一週間が経ったが、そのイメージは日に日に強く、そして、鮮明になっていた。
なつみが見ることができたのはどこか薄暗い場所で向き合っている麻琴・真琴とあさ美。
それを遠目から見ていたなつみには、そこで話されるであろう会話を聞き取ることができなかったが、それでもその状態が異常だと認識することはできた。
なぜなら、あさ美の手にはナイフが握られていて、麻琴・真琴の手にも同じようにナイフが握られていたからだ。
しかもあさ美のナイフの刃が部分的に赤くなっているのが遠目からのなつみにも分かってしまい、それをどう使ったのかなつみは詮索したくなかった。
- 801 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:07
-
何かを叫んでいる麻琴・真琴とそれを無言で聞いているあさ美。
そんな三人に対してなつみがするべきことは何も無く、そして、手を出すこともできない。
イメージはそこで途切れてしまい、それから先の三人については全く見ることができなくなっていた。
「つまり、なっちがいないときにあるってことだべね……」
深々とため息を吐いたなつみは、残ったコーヒーを喉の奥へと流し込んで立ち上がる。
圭織からは何もできないとあらかじめ言われていたために、それに対しての不満は無かった。
ただ、そこから先の展開が気になっただけで、それを確かめるにはどうすれば良いのかをずっと思案していたのだ。
と、なつみは不意になぜ先ほど外へ出たのかを思い出した。
「そうだ、圭織に電話しようと思ってたんだべ」
見えてしまったイメージを愚痴るついでに話そうとしていたことを思い出したなつみは再び食堂の外へと出る。
そして、今度こそそれを見せた張本人に対して苦情の電話をすることにしたのだった。
- 802 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:07
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 803 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:08
-
集合時間は九時半だったが、一人だけ早く着いてしまった新垣里沙は待ち合わせ場所である駅のベンチの一角に陣取っていた。
実を言うと、里沙の家からその駅まで歩くと優に三十分はかかってしまう。
だから、今日は急いで自転車でやってきたのだが、どうやらそれが裏目に出てしまったらしい。
ベンチに座ったまま周囲を見てみるが、その視界にはまだ待ち人(複数)の姿は入っていない。
時計を見てみるとまだ九だった。
「こういうときって、三十分くらい早く着いてても良いんじゃないかな?」
誰に向かって言っているわけではなかったが、そのときはその言葉が自然と出てきてしまったため、里沙もそれを無理に止める理由は無い。
ただ、言ってしまった後で慌てて周囲を見るが、それをしたところで特別な変化は起きなかった。
さらに五分ほど待ってみるが、誰もやってくる気配は無かったので近くにあった自販機でコーラを買った里沙は、それを飲みながら電車の時間を確認することにした。
「九時四十分の快速に乗れば速いから、そっちで行ったほうが良いよね」
ただし、それを聞いている人間は周囲にはいなかったため、里沙は小さくため息を吐いて深々とベンチに座り直す。
やけにサイズが小さくなったコーラはあっという間に無くなり、空き缶を捨てることなく手の中で転がしていると、里沙の視界にようやく見慣れた人間が入ってきた。
「あさ美ちゃん、一人でどうしたの?」
やって来たのは紺野あさ美で、彼女は一人だった。
他に三人ほどいるつもりだった里沙は、疑問を疑問として素直にあさ美にぶつけてみる。
が、それでもあさ美の反応はどこか緩慢なものだった。
「まこっちゃんも真琴も遅いから、置いてきたの」
「いや、置いてきたのって言われてもさぁ……」
どうせ集合時間も集合場所も同じなら一緒に来れば良いのになぜそれをしなかったのかをさらに問い詰めようとした里沙だったが、それよりも先に周囲が騒々しくなってしまったためにそれをすることができなかった。
- 804 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:09
-
「り、里沙ちゃん、お待たせ……」
「まだ五分あるから、大丈夫だよ」
先ほどぼそりと呟いた前言をあっさりと撤回した里沙は、全身で息をしている小川麻琴を見ながらもう一人が来ていないことに気づき、それを聞いてみた。
「愛ちゃんはどうしたの?」
全身で息をしていた麻琴がのろのろと左腕を上げて、後ろを指差す。
そして、その先を見た里沙はそこにかなりぐったりとした幼馴染の高橋愛を見て、素早く状況を察する。
ふらふらといった感じの愛が合流してようやくメンバーが揃ったわけだが、だからといってすぐに移動できるほど元気ではないメンバーがいたため、里沙は仕方なく口を開いた。
「まこっちゃんも愛ちゃんもさ、ちょっとは休憩したら?まだ、電車には時間があるからさ」
全身で息をしている二人に席を譲り立ち上がる里沙。
麻琴はすでに座っていたが、来たばかりの愛は何度も首をカクカクと上下に振りながらそこへと座った。
どうやら疲れすぎて何も喋れないようだ。
そんな三人をベンチに放置した里沙は、一人改札の前で時刻表を見ているあさ美を少し離れた場所から観察してみる。
ただ、ぼうっとそれを見上げているようにも見えていたあさ美だったが、焦点が合っていないようにも見え、里沙は不意に声をかけてみることにした。
「電車の時間って、四十分で良かったんだよね?」
英語で言うならば付加疑問形だったが、それに対するあさ美の反応は見事といって良いくらい無かった。
ぼんやりと時刻表を見上げたまま彫像のように固まってしまったあさ美に対して、里沙はしばらくどうしようかと迷うが、するべきことが余り多くないのに気づき、それをすぐさま実行することにした。
「ていっ!」
ぱしんっ
気合の入った里沙の掛け声とそれから一瞬遅れて聞こえてくる音。
里沙があさ美の目の前で手を叩いて見せたのだが、それに対するあさ美の反応はやはり無かった。
半分無駄だと思いつつもついやってしまったという不覚をまざまざと感じた里沙は、あさ美の顔を背伸びして覗きこんでみる。
そして、目の前に顔があるというのに全く目を合わせようとしないあさ美に向かって、里沙は呼びかけるみることにした。
- 805 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:10
-
「あーさーみちゃん。どうしたの?」
構内とあってあまり大声を出すことはできなかったが、それでも至近距離だからそれなりに効果はあるはずである。
しかし、そんな里沙の努力も全くの無駄になってしまった。
(あさ美ちゃん、どうしたのかな?)
あまりに無反応過ぎるあさ美から興味を引こうとしたがそれもことごとく失敗し、里沙はあさ美の目の前でふらふらと手を振ってみることにする。
「え、どうしたの?」
「……いや、何でもないよ」
と、そのときになってようやくあさ美から反応が返ってくる。
ただし、あまりにも返ってきた言葉が気の抜けたものだったため、それにまともに向き合う里沙ではなかった。
やたらと疲れてしまったのを感じた里沙は、とぼとぼと歩いて麻琴・真琴と愛のところまで戻る。
その頃には息も整ったのか麻琴は立ち上がっていたが、愛はまだ立てないようだった。
「愛ちゃんさ、年なんじゃないの?」
「……なんでいきなりそんなこと言うの?」
半眼になった愛に睨まれているとすぐに分かった里沙だったが、だからといって今の愛の状況では特別にできることがないため、麻琴が座っていた椅子へと腰を降ろす。
時計を見るとすでに九時三十五分を差していた。
「そろそろホームに入ろうか」
「……足が張って歩けんかも」
そんな弱音を吐いている愛の手を取って無理やり立たせる里沙。
途中で麻琴が手を貸そうと手を伸ばしてきたが、それは愛が拒んでしまったために結局、里沙が愛の手を引くことになってしまった。
それまで時刻表をぼんやりと見上げていたあさ美は、里沙達が動き出したのを見て切符売場へと移動し、それを追うように四人が移動する。
気を利かせて三人分の切符を買ってきた麻琴に礼を言ったのは里沙だけで、愛は疲れて声が出ないといった感じで首を小さく縦に振るだけだった。
- 806 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:11
-
(って、素直になれないんだよね……)
手を引いているこの幼馴染がどうやら捻くれていると感じ取れたのは里沙だけで、その里沙にしてもそれまでの記憶を総動員して出した結論だ。
いつも通りのようでいて実のところはかなり不満が溜まっている、それを表情から何となく読み取ることができた里沙は、不意に繋いでいる手が冷たくなるのを感じて身震いをする。
それからそう感じてしまったのは愛に原因があるのではなく、実は自分に原因があるのではないかとの結論に至り、誰にも気づかれないように小さくため息を吐いた。
(だって、好きになったら止まれないもんね)
それが幼馴染に対する言い訳なのか、それともそれ以外に対する誇張なのかは分からないが、そう思うことで愛を自然と意識の外へと追いやることができた。
それから五人は三番ホームへと移動する。
そこに快速電車がやってくるからだ。
先頭を歩いているあさ美は後ろの四人のことを全く考えていないのかずいずいと進んでいき、他の四人との距離はどんどんと開いていく。
少し前を歩いている麻琴・真琴を見てみると、そんなあさ美に向かって声をかけようとしてかけられない様子だった。
というのも、何度も麻琴・真琴の口は開いているのに、そこから言葉が出てくることがなかったからだ。
- 807 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:11
-
「もしかして、まこっちゃん達の声も聞こえてないの?」
不意にそう聞いてみた里沙だったが、麻琴・真琴はすぐさま振り返ってきた。
「そうなんだよな、どうしたのかな?」
里沙の問いかけに答えてきたのは真琴のようで、やけに弱々しいその声を真琴と判断するのに少し時間を要してしまった里沙は、そこにある異常が予想以上に深いものだと気づく。
しかし、それに対して里沙ができるようなことはほとんどなかった。
できることがあるとすれば直接的ではなくて間接的で、それをすぐさま麻琴・真琴へと発信することにした。
「まこっちゃんさぁ、困ったことになったら早く言ってね」
「……うん、ありがと」
そう答えてきたのは麻琴で、その笑顔を見た里沙は少しだけ安心する。
だが、それも本当に少しだけだった。
そのときの麻琴の笑みは弱々しく、真琴の気持ちが痛いくらいに伝わってくる。
それを痛感した里沙は、それまで緩まっていた意識が自然と引き締まっていることに気づいた。
- 808 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:12
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 809 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:12
-
極度の緊張に襲われていた中澤裕子は、赤信号で止まったときにそれまで抑えていた不満を助手席に座っている稲葉貴子へとぶつけることにした。
「何で田中と道重までついてきたんだ?」
「しょうがないやろ?来たい言うたんやからな」
満を持してぶつけたつもりだったが、貴子にあっさりと返されてがっくりとうなだれる裕子。
そのまま前へ倒れてハンドルにもたれかかるが、その際にクラクションを鳴らしてしまい、慌てて起き上がる破目になってしまった。
その直後に聞こえてくるのは貴子の容赦の無い笑い声と後ろから聞こえてくる小さな笑い声。
ドアミラーから後ろをちらりと睨みつけると、後部に座っていた二人はすぐさま視線を外して外の景色を見始めた。
前日、裕子の携帯に連絡が入ってきたが、そのときに要求されたのが『車を運転して来い』といったものだった。
実際はもっと柔らかて関西弁だったが、それでもそのときの裕子にしてみればそうとしか聞こえなかったのだから不思議だ。
ただ、それに無理やりも逆らおうとしなかったのも事実で、裕子はそれまで車庫の奥に放置していたグリーンのマーチを引っ張り出してきたわけである。
ただ、車も長期間放置されていれば機嫌を損ねるわけで、エンジンをかけるのにかなり手間取り、さらには貴子達三人を拾うときに止まったときも、そのままエンストしてしまった。
『裕ちゃん、バッテリー換えてもらったほうがええで』
乗り込んでくるなりそう指摘してきた貴子に対し、何度かイグニションを捻ることで対抗した裕子だったが、それも十回を越えた時点で敗北宣言へと変わった。
不安定なままのマーチを騙し騙し走らせて近くの自動車用品店へと入る。
そこですぐさまバッテリー交換と洗車を頼んだのはやはり貴子で、それを裕子は隣に口を半開きにして見ているだけだった。
その後ろでは田中れいなと道重さゆみの二人が物珍しげに洗車をされるマーチを眺めていたが、それも裕子にしてみれば問題ではなかった。
- 810 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:13
-
それとは別に裕子には問題があった。
具体的には運転をするときに限って身体が極度に緊張するといったものだ。。
ハンドルを握ると性格が変わるといってことは良く聞くし、裕子にしてみてもその一種には違いなかった。
ただし、かなりマイナスな変化ではあるが……
そうしたわけで、久しぶりに運転したといった緊張とれいなとさゆみといった二つの不確定要素の乱入についにキレた感の裕子だったが、それに対する貴子の返答も実にあっさりとしたものだった。
「ほら裕ちゃん。進みだしたで」
「……分かってる」
わざとそう言ってきた貴子に苦々しく言い返した裕子は、少しだけアクセルを強く踏み込んでオートマチックのマーチに加速をつけさせる。
がくんと急発進したのに対して露骨に反応してきたのは後ろに乗ったれいなとさゆみの二人だけで、助手席に座った(しかもシートベルトも着けていた)貴子には無効だった。
「それにしても、よう車出してくれたよな」
ようやく快適に進みだした車内で突如そう言いだす貴子に対し、裕子は思わず睨みつけそうになるが、今は運転中とあって小さく舌打ちをするだけに留まる。
が、横目でしっかり睨むことは忘れていなかった。
「連絡が来たんだ。嫌でも用意するさ」
皮肉をたっぷりと込めるが、果たしてそれが一体誰に向けられたものなのか、裕子には分からなかった。
貴子に対してはあまり威力はなく、れいなやさゆみには意味が通じない。
というわけで、裕子はその皮肉を自分で受け止めざるを得なかった。
「それよか師匠、やけにかわいい車に乗っとるとですね」
「うっ……」
タイミング悪く身を乗り出してきたのはれいなで、れいなの一言に裕子は言葉を詰まらせる。
それから咳払いでもして話を流そうと思ったが、それよりも先にさゆみが口を開くほうが早かった。
「どうせならピンクのほうが良かったよ」
「そうとね、そっちのほうがもっとかわいかよね」
しれっと言ってくる道重さゆみに、当然のように答えるれいな。
ちなみにそう言ってきたさゆみの服装はピンクで、れいなの服装もピンクだった。
- 811 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:14
-
「ピンクなら、お前達が大人になってから買え」
忌々しく吐き捨てた裕子は、ウインカーを出さなかったが左折をする。
急ハンドルをきったことで後部の二人が一瞬だけドアミラーから消えるが、それも本当に一瞬だけだった。
後ろを走っていた車からクラクションを鳴らされるのと同時に再びミラーに戻ってくる二人。
が、その二人に話しかけたのは裕子ではなく貴子だった。
「ところで田中。何で裕ちゃんのことを『師匠』言うんや?」
「へっ?」
貴子がその問いをれいなに投げかけたのを聞いていた裕子は思わず顔を顰めるが、だからといってそれで会話が終了するわけではなかった。
ミラー越しのれいなが少し上に視点を移動させて、それからおもむろに話し始める。
それを裕子は黙って聞くことにした。
「きっかけっていうきっかけは特になかとですよ。ただ、マコ姉が面白い人がおるって言うから、会ってみただけです。でも、一目師匠を見て思ったんですよ。『あぁ、この人から何かを教えてもらうのも面白いかな』って。実際、師匠はれなの力ってのを引き出してくれました。だけど、それだけじゃないですよ」
いつの間にか標準語になっていたれいなが裕子に向かって笑いかけてくる。
その笑みがあまりにも眩しく、そこから視線を外した裕子は目の前だけに集中することにした。
ただ、言葉だけは遮ることができずに裕子の中へと入り込んでくる。
「何か、生き様ってのを感じたんですよ。この人が進んできた道ってのがどういったのかはれなには分からんけど、それでも何かに必死になっていたのを感じたんです。だから、そうした意味も込めて『師匠』なんですよ」
言葉だけを耳にした裕子は、それが果たして本当に自分のことなのかどうか、自信が無かった。
確かに、自分が進んできた道を這いずる必死さはあった。
ただし、その必死な想いも所詮は独りよがりだと感じてしまったあのときから、それ以前ほどの必死さはなくなってしまった。
それはあのとき感じた虚脱感であり、無力感であり、喪失感。
三年前と同じ状態へと引き戻され、あまつさえそのときの裕子の役目を貴子が演じている今、この場にいる自分が果たして何者なのか、裕子自身が断言することができなかった。
- 812 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:14
-
「違うよ、私はそこまで格好良くは無い。ただ、もがいていただけだ」
自然と出てきたその言葉を素直に口にし、小さく口元を歪める裕子。
そこに浮かんだ笑みは自嘲でも皮肉でもなく、事実を受け入れるといった単なる慣性によるものだ。
だが、そんな裕子に対して、れいなは再び身を乗り出して言ってきた。
「ですけど、今の師匠はどこか気に入りません。何か、魂が抜けてるって感じがしますから……どうせならもっとガンガン突っ走ってもらわんと、れなとしても格好がつかんですよ」
何やら語尾が意味不明なことをなっているが、ニュアンスが何となく伝わってきたため、裕子はそれについて何も言い返せなかった。
ただ、心の中でその言葉をしっかり刻み込む。
(そうか、ガンガン突っ走るか……)
それをしてきた覚えは全く無いが、それでも自分のこれまでを見てきた人間の一人がそう感じたのは間違えない。
だが、このときの裕子はそのれいなの純粋でまっすぐなその言葉を受け止めて咀嚼するには至らず、そこから何かを得ることもできなかった。
- 813 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:14
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 814 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:15
-
「まこっちゃん、ようやく二人きりになれたね」
「正確に言うと、三人だけどね」
里沙ちゃんは愛ちゃんとあさ美ちゃんが見えなくなったとたんにわたしの手を握ってきて、わたしもそれに素直に従った。
というよりも、わたしのほうも手を繋ぎたかったから、渡りに船ってやつだ。
『麻琴、それは違うんじゃないか?』
「わたしがそう思うんだから、大差無いんじゃないの?」
テンションがかなり上がっていたのか、どこか控えめに言ってきた真琴に対して意気揚々と返すわたし。
それを聞いた真琴は次の瞬間、押し黙ってしまった。
「ごめん、ちょっと言い過ぎた」
『……いや、おれのほうも迂闊だった』
どこか噛み合ってないような感じがしたけど、それまで緊張していた真琴がようやく話を始めたから、わたしも少し安心する。
と、そんな二人して少しばかりブルーになってるわたし達の手を、里沙ちゃんが引いてきた。
「早く行こうよ。あんまり待たせると悪いからさ」
「え、あ、ごめん」
そこでようやくわたし達が別行動をしているのを思い出した。
十時半ごろにやってきたわたし達は、あの怪しい(これはわたしと真琴の偏見だけど……)ミカとか言う人からもらったフリーパスで見事そのテーマパークに入ることができた。
もしかして偽物かも、とか思っていたのはわたし達だけらしく、あさ美ちゃんはもとより、愛ちゃんや里沙ちゃんもそのことを疑っている様子は無かった。
『もしかして、おれの単なる思い過ごしなのかな……』
「違うよ。あさ美ちゃんの態度が変になったのには、絶対、あの人が絡んでるんだって」
いつになく弱音を吐いている真琴を叱咤したわたしは、歩いている里沙ちゃんへと意識を戻してみる。
幸い、やってきたフードコーナーはどこも長蛇の列で、何十分かは待たないといけないことをしっかりと周囲へアピールしていた。
- 815 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:16
-
「まこっちゃんさぁ、顔がにやついてるけど、どうしたの?」
「里沙ちゃんと一緒にいる時間が増えて、喜んでるの」
嬉々としてそう言ったわたしだったけど、そう言った後で言葉の意味を理解して、思い切り熱くなる。
もちろんこれはわたしだけで、全くもって無関係だった真琴は露骨にため息を吐いていた。
「まこっちゃんてさ、さりげなくさらっとそんなこと言うよね。どうせだったら、きちんとした場所で言って欲しいな」
とりあえず列の尻尾へと並び、長蛇の一部になったわたしの腕に里沙ちゃんの腕が絡みついてくる。
だけど、身体が熱くなったわたしはそれを堪能することはあんまりできなくて、ただ、里沙ちゃんの腕をしっかりと握りしめることにした。
「できることならさ、あさ美ちゃんの前とかでもこうしてほしいな」
「……できるならやってるよ」
周囲には人がたくさんいるけど、この誰もがわたし達の知っている人じゃないからできるんであって、知り合い(特に愛ちゃんやあさ美ちゃん)の前ではこうした思い切ったことはできそうにない。
それをげんなりしながら思っていると、不意に里沙ちゃんの顔が目の前にあって、とっさにわたしは後ろへ仰け反った。
「まこっちゃん達って、何か悩んでる?」
ずばっと聞いてきた里沙ちゃんにうまい答えが見つからずに何も言い返せないわたし。
それは真琴も同じみたいだった。
すると、絡んでいた腕にかなりの負荷がかかって、わたしは思わず里沙ちゃんのほうを見てしまった。
「どうせだったら話しちゃったら?楽になるよ」
「……そうだね。二人よりかは三人で悩んだほうが良いかもね」
『良いのか?』
「良いの。だって、人事じゃないからね」
里沙ちゃんと真琴の両方に言ったわたしだったけど、そのときには何をどう話せば良いのか、その道筋を何となくだけど思い描いていた。
そして、それを素直に里沙ちゃんへと話すことにした。
- 816 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:16
-
「最近ね、あさ美ちゃんの様子がおかしいんだ」
正確に言うならば、あさ美ちゃんがあのミカって言う人と会ったときからおかしくなったのであって、ずっとおかしいわけではない。
だけど、そのおかしいってのにもわたし達は未だに確信が持てずにいた。
なぜなら、あさ美ちゃんはわたしや真琴とも普通に話をしてくれるし、手を繋いでもくれる。
だけど……それでもわたし達はあさ美ちゃんが少し変わってしまったことに気づいてしまった。
「ときどきね、真琴が置いてけぼりを食っちゃうんだ。食事のときなんかもそれまでは一緒に降りてたのに、あさ美ちゃんは先に降りちゃうし、お昼ご飯なんかも『一緒に食べよ』って言ってくれないんだよね」
「それがあのミカって言う人と会ってからなの?」
「そう、あの日の晩ご飯のときからかな。あのときはミカって人に警戒してたから、それで怒ってるのかと思ったけど、それとも違うみたい。だって、わたし達が一緒にいても何も言わないからね」
そこまで話すと里沙ちゃんがうーんと小さく唸って前を見る。
それに釣られてわたしも前を見てみるけど、そこにあったのは長蛇の列だけで、それ以外は何もなかった。
「ところでさ、何であのときまこっちゃん達は警戒してたの?それに、あのときはどこか刺々しかったよね?」
「だって、あのミカって言う人が奇術師だったからね」
「何でそうだって分かったの?」
当然そうした疑問に行き着くことは分かっていて、わたし達もそれなりの答えを用意していたんだけど、いざ、それを口にしようとすると、それが果たして正しい表現なのか自信が無くなってしまった。
『だったらおれが話すよ』
「分かった」
というわけでちょっとだけバトンタッチ。
『おれ達にはおれ達にしか見えない『核』があるってのは前に話したよな』
『うん……って、いつの間に入れ替わったの?どうせならまこっちゃんと話したかったのに……』
『そう露骨になるなよ。終わったらすぐに退散するからさ』
だけど、里沙ちゃんも里沙ちゃんだよね、真琴に向かってこうもまともに意見できるんだからさ。
- 817 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:18
-
『で、話を戻すが、おれ達だっていつでもどこでもその『核』を見ることはできない。そいつを見てやろうって意識して、やっとそいつがはっきりと認識できるんだ。中澤裕子からもらったこいつのおかげでぼんやりと認識はできるけど、やっぱりはっきり見えはしない。見ようとおれ達が意識するか、別の要因がないといけないんだ』
そう言って真琴が胸にぶら下げたペンダントを自由な左手で持ち上げる。
その先にあった十字架は中澤さんの最初の作品らしくちょっとだけ歪になっていた。
『別の要因って何?』
『何てことないさ、そいつが存在感をはっきりさせるだけで良いんだ。それで、おれ達はそいつの『核』を認識することができる。あのときは、ちょうどそれだったんだ』
『あのときって、ミカって言う人とあさ美ちゃんが話をしてたとき?』
『そう、あいつはあさ美と話をしていながら、おれ達に向かってアピールをしてたんだ、ずっと。だから、おれ達もあのミカってやつの『核』をはっきり認識することができたし、そこから大体の情報を入手することができた。だけど、情報が直接触れることなく入手できたのは初めてだったな。たぶん、あいつが自分からそれを読ませたんだろう。なにせ、おれ達はあいつの考えてることを何となくだけど理解することができたんだからな』
『で、そのときの会話からまこっちゃん達はあの人が危ないって感じたってわけだね』
『だけど、確信はなかった。あいつが狙っているのはおれ達じゃなくて、別の人間だったって感じがしたからな。おれ達に興味を持ってるのは別の人間で、そいつのためだって感じがした。だから、あのときいろいろ聞こうと思ったが、あいつのほうから先に話をされてあまり聞くことができなかったんだ』
『何か分かったような分かんないような感じだね……』
そう言った里沙ちゃんがしばらく黙ったのを機に、真琴が再び降りてくる。
というわけで、バトンタッチしてわたしの番になった。
- 818 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:18
-
「あのときの会話は短かったし、内容も中途半端だったけど、分かったことは一つだけあるよ」
「え、何?」
不思議そうにわたしの顔を見てくる里沙ちゃん。
それから視線を外したわたしは、周囲を慎重に見渡して知り合いがいないことを念入りに確認した。
よし、大丈夫。
深呼吸を二回ほどして見たままの姿勢で待っている里沙ちゃんへと視線を降ろす。
そして、慎重に口を開くことにした。
「わたしにも守りたいってものがあるってことかな」
「……まこっちゃんさぁ、真っ赤になりながら言うんだったら止めたらどう?」
うーん、どうやら一生懸命考えた台詞だったけど、里沙ちゃんにはいまいちだったみたい。
ちょっとショック……。
「だけどね、そんなまこっちゃんも好きだから、素直に聞いてあげるね」
「……うん、ありがと」
どこをどうやったらこうした会話になるのかいまいちわたしには分かんなかったけど、まあ、結果オーライってやつだから、良しとしよう。
『いや、それで良しにされても……』
頭の中では真琴が冷静にツッコミを入れてくるけど、このときのわたしはそれをスムースに聞き流すことができた。
もちろん、顔にもそんなツッコミが入れられたなんて出すことはなかった。
「ところでさ、私のお願い、聞いてくれる?」
そんなことを里沙ちゃんが言いだしたのは、わたし達が長蛇の列の真ん中ぐらいへやってきたとき。
そのときになってその先にあるのはホットドックの売店だって気づいたけど、だからといって移動するわたし達でもなかった。
「どうしたの、突然?」
「まあ、聞いてよ」
そう言った里沙ちゃんだったけど、しばらくは何も言わずに前を見る。
その横顔を見ていたわたしだけど、そのときの里沙ちゃんがいつになく大人っぽくて思わず下がりかけた体温が再び上がってくるのが分かってしまった。
- 819 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:19
-
「……どんなことがあっても、私の前からいなくならないでね」
前を見たままぼそりと呟く里沙ちゃん。
だけど、言葉ははっきりと聞こえてきて、その内容の重たさをわたしは受け止めた。
そして、少し震えていた里沙ちゃんの身体をしっかりと抱きしめて言った。
「大丈夫だよ。どんなに世界が変わっても、わたしは変わらない。ずっと里沙ちゃんのそばにいるよ」
私の言葉を聞いて再び振り向いてきた里沙ちゃんの顔は少し苦笑いだった。
「世界って……ずいぶん大きく出たね」
「でも、これがわたしの今の気持ちなんだ」
すぐ近くにあった里沙ちゃんの顔。
そこに少しわたしが顔を下げればすぐにでもキスができそうだったけど、このときはそれをするのに気が引けてしまい、わたしは笑顔だけを返す。
すると、苦笑いだった里沙ちゃんはぷっと吹き出して笑ってくれた。
それからは何となくそれとは別の話をして、五分後には無事四人分のホットドックとあさ美ちゃん用のポップコーンを買うことができた。
長蛇の列からようやく解放されて愛ちゃんとあさ美ちゃんの待っている場所まで戻るんだけど、その途中で里沙ちゃんが四人分のジュースを買っていた。
愛ちゃんとあさ美ちゃんはわたし達が最後に別れたベンチにきちんと座ってくれていた。
ただし、ずっと待っていた愛ちゃんの顔はどこかふて腐れているようにも見え、わたしは少しだけ気持ちが重くなるのを感じた。
「大丈夫だよ、行こ」
「……うん」
里沙ちゃんが先に行ってくれて、その後をわたしが続く。
真琴が緊張しているのが分かったけど、それに対してわたしは何も言うことは無かったし、言うつもりも無かった。
ただ、励ますつもりで一言だけつけ足しておく。
『頑張ってね』
『……あぁ』
意識を再び外へと戻してみると、すでに里沙ちゃんが二人にジュースを渡していて、わたしもそれに続いてあさ美ちゃんと愛ちゃんにホットドックを渡す。
と、そのときだった。
- 820 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:20
-
「ねえ麻琴」
「な、なに?」
ベンチに座った愛ちゃんから見上げられ、少しだけへっぴり腰になる。
だけど、このときの愛ちゃんの視線には特別な力があったようで、わたしはそれ以上逃げることができなかった。
そして、半眼のままの愛ちゃんが先を続けてきた。
「やけに長かったね」
「ものすごく並んでたんだよ」
いつもの口調だけどどことなく棘を感じるのは、きっとわたしがそう感じようとしたから。
そう心の中だけで言い訳をして、先に座った里沙ちゃんの隣へと座った。
わたしと真琴がはっきりと違いを認めるようになってから感じ始めた違和感。
それをもっとも体現しているのが愛ちゃんで、その原因にわたしが関係しているのは明白だった。
だけど、わたしも愛ちゃんに素直に話をしたんだ。
だから、これ以上に言うことは何も無い。
そう意識したわたしは、里沙ちゃんからジュースを受け取って、それまで持っていたホットドックを食べるのに集中することにしたのだった。
- 821 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:20
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 822 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:21
-
温かい風が上の吹き出し口からかなりの勢いで吹き出してくる。
その下を、自分を除いた三人がうろうろと歩き回っていた。
それを他人事のように観察していた紺野あさ美は、ぼんやりと上を見上げるだけだった。
「ていうか、これって濡れすぎやない?」
スカートの裾を持って必死にばたつかせているのは高橋愛で、あさ美も同様にスカートを濡らしていたが、それは気にならなかった。
というよりもあさ美には濡れたスカートという物自体が認識できずにいた。
「やっぱり、合羽を買ったほうが良かったね」
そう言ってきたのは新垣里沙で、彼女とその隣にいる小川麻琴・真琴はジーンズを履いていたため、その色が少し濃くなるだけで済んだようだった。
そんな三人はできるだけ温風が当たる場所で乾かしているが、あさ美はその中へと入ることはない。
ただ、その吹き出し口を見るだけだった。
「だけど、三百円は高いな」
いつ入れ替わったのか分からないが、真琴がぼやくように言ってくる。
彼女はその部屋に入ってからずっと麻琴に対して愚痴を言っていたことから、そのアトラクションに乗った直後に交代したのだろうが、このときのあさ美はそれを確認してみるつもりにはなれなかった。
(どうしたんだろ……?)
その中をゆっくりと歩きながら自問するあさ美。
それはここへやって来てから繰り返されていたもので、その問いに対する答えは未だに見つかっていなかった。
それからあさ美は中央付近で温風に当たっている三人に視線を移す。
そして、明らかな異常を目の当たりにした。
(そう、全員から糸が出てるんだよね)
すぐ間近に真琴の細い糸があさ美に絡み付こうとしているのが見え、不意にそれを掴もうと手が動く。
しかし、あさ美は最大限の自制をすることでそれを防ぐことが出来た。
- 823 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:22
-
だが、異常はそれだけではなかった。
あさ美にしか見ることができないという『赤い糸』。
それは一人一本という原則だったが、このときは誰からも均等に糸が何本も生えていた。
しかもその糸は赤だけではなく、白もあれば黒もあり、それらとは全く別の色もあった。
つまり、あさ美には『赤い糸』と別の糸も見えるようになってしまったのだ。
それはあさ美がここへやって来たのと同時に見えるようになり、それらの全てがあさ美に向かっているようにも見えた。
しかし、それはあくまでも個人的な感情へと直結しているため、あさ美はそれを掴むことはなかった。
以前、その能力を開花させた直後に興味本位で触れてしまった糸から得てしまった個人的な感情の全てがあさ美に辛うじてブレーキをかけていたが、それもこのときには些細な障害程度に成り下がっている。
絶えず掴めと訴えてくるのはそれまでのあさ美とは別の部分で、それは瞬く間にあさ美の大部分を占めてしまった。
だから、あさ美はそれらを見ないようにして無理やり意識の外へ追い出していたのだ。
ただし、それもあまり効果は無いようだ。
「あさ美、そろそろ行こう」
「えっ、うん」
真琴から声をかけられ、反射的に振り返るあさ美。
そして、麻琴・真琴から伸びている無数の糸を見てしまい、思わず顔を顰めた。
全てが綺麗に色分けされ、そのどれがどういった感情を表しているのか、あさ美には一目瞭然だった。
ただ、麻琴・真琴の特殊性としてそれぞれの糸が二本ずつ伸びていたのは言うまでもない。
「気分でも悪いのか?」
「……大丈夫」
手を伸ばしてきた真琴を半ば無視するかのようにして歩き始めるあさ美。
その後ろでは伸ばした手を寂しそうに引っ込めている真琴がいたが、それをあさ美は見ていなかった。
外ではすでに里沙と愛が待っていたが、あさ美は二人をすり抜けて先を歩く。
里沙と愛はスカートについての議論をしていたためあさ美に気づくことはなかったが、真琴が出てきたことを受けて、議論を終結させたようだった。
- 824 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:22
-
「で、次はどこに行くん?」
「というか、時間が無いから、次ので最後だよね」
「なら、観覧車に乗ろうよ」
後ろから愛、麻琴、里沙の順で話が聞こえてくるが、あさ美はそれを極めて自然な形で聞き流していた。
遠くの時計はすでに午後四時を指し示していて、昼間のような明るさもすでに控えめとなっている。
しかし、あさ美はそれとは全く別の何かを見ていた。
そして、変化は唐突だった。
(また……来た)
心臓が跳ね上がり、それと同時に一瞬だけ意識が飛ぶ。
それはここへやって来たときから起こっていた異常だったが、それに対してあさ美が抵抗することはできなかった。
ブラックアウトした視界が白んできて意識が戻ったことを告げてくる。
しかし、閉じていた目を開ければ、そこは先ほどと全く別の世界だった。
「あさ美、大丈夫?」
「えっ?」
誰かが話しかけてきて、その口調からあさ美はそれを言ってきた主を愛だと推定するが、あさ美にできたのはそこまでだった。
実際のあさ美の視界に入ってきたのは無数の色の糸に巻かれた人の形をした物体で、それだけでは愛だと断定するには至らない。
それからあさ美が視界を後ろへと流し、それを確信することになる。
あさ美へと向かって伸びていたたくさんの赤系の糸。
その中の真っ赤な糸があさ美から出ていた糸と結びついているが、それを見たところであさ美には特別な感情は芽生えなかった。
というよりもあさ美自身から出ていた糸も、あさ美自身がそうだと認識できなかったのだ。
里沙は愛と同じように無数の色の糸が混ざらずに巻きついているために鮮やかだが、麻琴・真琴とおぼしき人間はそうした鮮やかさは全く無かった。
麻琴・真琴は真っ黒で、それが絶えず蠢いているようにあさ美には見えるのだ。
里沙や愛といった一人の人間でもカラフルな糸が無数にあり、それは辛うじてそれぞれの色を保っていたのだが、それが一気に倍増した麻琴・真琴はその糸の全てが渾然一体となっていたのだ。
特に、身体に巻きついている糸はすでに元の色がどういったものなのかが分からなくなっていて、そこから伸びているわずかな糸だけがその色を示すだけに留まっている。
- 825 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:23
-
「あさ美、大丈夫か?」
「……大丈夫だよ」
その真っ黒な人型から話しかけられ、あさ美は急速に気分が悪くなるのを自覚する。
そして、それを止めるつもりにもなれなかった。
(なんて汚いんだろ……)
真っ黒な麻琴・真琴から視線を外して周囲へと目を向ける。
そこはすでにカラフルな世界と化していて、あさ美はそちらを歩くことを選んだ。
「早く乗りに行こうよ」
「えっ?」
再び勢い良く歩き始めるあさ美。
ただし、それは意気揚々といった感じではなく、真っ黒な麻琴・真琴から逃げたいといった一心からだった。
早歩きになったあさ美が向かっているのは先ほど里沙達が話をしていた観覧車で、その先には病院を模したお化け屋敷もある。
そこへあさ美はまっしぐらへと向かった。
大型のその観覧車は、一つのゴンドラに六人が乗ることができるようだ。
ただし、よほど人が並んでいない限りは定員ぎりぎりまで乗せられることは無く、あさ美達もその例外に当てはまることは無かった。
スムースに人が流れ、観覧車へと乗っていく。
そして、並んだ五分後にはあっさりとあさ美達はそれに乗ることができた。
「そういえば、あさ美は高いところは平気なのか?」
「……どうしたの?」
真正面に座った真っ黒な人型から話しかけられ、嫌々答えるあさ美。
だが、このときのあさ美は最大限の自制でそれを覆い隠すことに成功していた。
あさ美にとっていつもどおりの声で返し、首を傾げる。
「いや、飛行機が怖そうだったからな……」
「あぁ、それなら大丈夫だよ。飛行機だったから怖かっただけなんだ」
「そうなんだ……」
それで会話は途切れ、一瞬沈黙がその場を支配する。
それはあさ美にとって不愉快以外の何物でも無かった。
- 826 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:24
-
(話しかけないでよ……)
中途半端な会話で麻琴・真琴の存在感が否応無しにアピールされ、それまでそれを無視しようとしていたあさ美はその努力が無駄になったことを悟る。
だが、それでもその狭い密室では逃げ場が無かった。
下にあった観覧車はゆっくりと上昇し、確実に高さを増していく。
それと同時にそれまで大きく見えていたそれぞれの建物がだんだん小さくなってきて、遠くまで見通せるようにもなった。
そして、その光景を見たあさ美は、思わず息を呑んだ。
(なんて綺麗なんだろ……)
あさ美が目にしたのは夕日に染まってほのかに赤くなりながらもそれぞれの色を主張している、一際カラフルな光景だった。
それは里沙や愛、それに麻琴・真琴が目にしている通常の街並とは全く別の、そして、それ以上に厳かな光景だ。
無数の色が混ざることなく独自にあるのは、そこにいるはずの人間一人一人が独立しているからで、それを遠めではっきりと確認することができたのはあさ美ただ一人だけ。
だが、そんな悦に入ったあさ美に、どうしようもない現実が押しつけられてきた。
(なんで、こんなに汚らしいんだろ……)
それまでは漠然としか抱いていなかった感情がはっきりと明確になる。
それは一言で表現することができ、あさ美もそれを否定することは無かった。
- 827 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由8 投稿日:2005/04/13(水) 11:25
-
『憎らしい』
なぜこれほどまでカラフルで厳かな世界に、こんな異物が混ざりこんでいるのだろう。
しかも、そいつは自分に対して好意を抱いている。
あさ美にしてみればそれは屈辱以外の何物でも無かった。
そして、それを意識した瞬間、そこにいた誰のものでもない声が、あさ美の中へと入り込んできた。
『機は熟した。来い、紺野あさ美』
誰のものなのか分からない声が聞こえてきて、それがすっぽりとあさ美を包み込む。
それはあさ美がこれまで感じたことが無いくらい快感だった。
その声に素直に従ったあさ美の行動は、実に単純だった。
乗り込んできたのとは別の入り口――つまりは出口だったが――を開け放ち、そこからダイブする。
背後で誰かの声が聞こえてきたようだったが、そのときのあさ美にしてみればどうでも良いことの一つに過ぎなかった。
呼ばれたからそこへ出向く。
そう思いそれを実行するために、あさ美は急降下する自分の身体を少しだけ捻って着地の態勢を取る。
目的の場所はそこにある。
そして、そこへ行けばこれまでの自分とは違う、別の自分になれる。
そうした確信があさ美の中で大きく膨れ、すぐさまあさ美の意識を飲み込んでしまったが、そのことにあさ美自身が気づくことは無かった。
- 828 名前:いちは 投稿日:2005/04/13(水) 11:41
-
前回の更新で修羅場になると言っときながら、今回はその直前で終わってしまいました
次から山場になります
>>795 通りすがりの者さん
この辺りだと誰が中心人物なのか良く分かりませんが、個人的には変更してないつもりです
>>796 名無し読者。さん
ありがとうございます
一人一人の設定を複雑にしすぎたせいでかなり長くなっていますが、最後までおつきあいください
次は「想いのなかの迷い、それから得る自由9」なんですが
全部入るかどうか不安です
それでは
- 829 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/04/13(水) 21:10
- 更新お疲れさまです。 紺チャンの見る世界を想像してみるも、ある意味凄いモノになっております。
中澤サン達は一体何処に向かっているのでしょう? 次回更新待ってます。
- 830 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/04/20(水) 11:26
-
想いのなかの迷い、それから得る自由9
- 831 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:27
-
そこへ帰り着いた瞬間、吉澤ひとみは同伴していたもう一人が実はここが初めてだということに気づき、慌てて振り返った。
「どうぞ、あんまり綺麗じゃないけどね」
できることなら気の利いた台詞の一つでも言いたかったが突発的なことだったために、出てきたのはあまりにも平凡なものだった。
ただし、そんなひとみに彼女は律儀にも返してくれる。
「ひとみさんが全部掃除してるんですか?」
それを言ってきたのは亀井絵里で、その一言はひとみの顔を呆けさせるのには充分だった。
しばし自分の言葉と絵里の言葉を反芻して状況を分析、そして、結論はあっさりと出た。
「ちゃんと掃除してくれる人がいるから、大丈夫だよ」
何がどう大丈夫なのかを聞かれたならばさらに答えを探さなければならなかったが、それに対しての反論は無かった。
絵里が気を利かせてくれたのは言うまでも無いことだったが、そのときのひとみにはそれがありがたく、ドアノブを握っていない左手で絵里に手招きをする。
絵里はすんなりとドアを潜ってくれた。
「何か静かですね」
「そりゃそうだよ。この時間帯はね」
土曜日の午後三時過ぎ。
それはひとみが生活するN大付属高校第三女子寮において、もっとも静かな時間帯だった。
ただし、これはひとみの勝手な想像にしか過ぎず、寮母である安倍なつみならばきっと首を横に振っていただろう。
「みんな遊びに行ったり、部活とかで忙しいんだよ」
絵里が完全に入ったのを確認してひとみはドアをゆっくりと閉める。
そして、靴を脱いで所定の下駄箱へと入れた。
絵里もそれに習って同じように靴を脱いでいるがそれを持ち上げたまましばし迷ったように周囲を見渡している。
それを見たひとみは、絵里が何を迷っているのかにすぐさま気づき、行動を起こした。
- 832 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:27
-
「絵里はね来賓だから、ここだよ」
普段は使われない下駄箱の隅っこ。
寮生が使用している箇所ならばそれを示す名前が書かれたラベルが貼られているが、そこには何も貼られていなかった。
「え、でも……」
「大丈夫だって、来賓なんて滅多に来ないからさ」
絵里から靴を強引に引ったくり、その中へと収めるひとみ。
実際、ここに住んでから三年近く経つが、そこが使われたのは一度か二度だけだった。
絵里の靴をそこへ納めて、ひとみは下駄箱の下に置いてあったスリッパを取り出す。
それも来賓用であり、ひとみはそれを絵里の足元へと置いた。
すでに反論することに疲れたのか、はたまたそれを履くのが当たり前なのか分からないが、絵里は素直にスリッパを履いてくれた。
それからひとみは絵里の前に歩いて階段を上がる。
ただ、肩越しに見た絵里は全てが珍しかったのか、ひとみにとっては見慣れた生活空間に絶えず目を走らせていた。
階段ではもちろん誰とも出会うことは無く、あっさりと自室の前へと到着した。
鍵を取り出しながらひとみの脳裏にある心配が蘇る。
それはルームメイトの後藤真希が未だにこの中で眠っているかもしれないというものであり、ひとみが何も言わなければそれは高い確率で実行されていただろう。
ただ、今日という日が来ることをすでに想定していたひとみはすでに各方面に対して根回しをするのを忘れず、それは着実に成果を上げていた(ただ、成果といっても具体的には同級生の松浦亜弥に真希を一日預かってくれと頼み、承諾されたといったものだったが……)。
「ほら、ここが私の部屋だよ」
自信満々に部屋のドアを開け放つひとみ。
その中へと入った絵里は、中央付近でしばし立ち尽くすだけだった。
その反応のあまりの薄さに、心のどこかで期待をしていたひとみは心配になって慌ててドアを閉めて中へと入る。
- 833 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:28
-
「意外と綺麗なんですね。ちょっとびっくりしました」
「そ、そうなんだ。これでも綺麗好きだからね」
ほうっとため息を吐きながら言ってくる絵里に、どもりながら答えるひとみ。
部屋を綺麗にしたのは実に久しぶりで、真希と二人で最後に掃除をしたのは夏休み前のことだった。
「あ、この本って逆さまになってますよ」
「え、うそっ!」
短い時間、思い出に浸っていたひとみは、本棚へと近寄っていた絵里に気づくことが無く、おそろしく間の抜けた失態を見事に見破られてしまった。
慌てて絵里のところまで駆け寄り、指差された先を見る。
棚は五つあり、その一番上に並んでいたのは漫画だった。
ただし、絵里に指摘されたのはほんの一部分で、巻数が見事にばらばらだった。
「ひとみさん、たまには掃除しましょうね。あと、本棚の整理とかも」
「……はい」
無理に体裁を整えようとしてあえなく撃破されたひとみが力無く答えるが、絵里は特別怒っているというわけでもなく、ひとみはすぐさま気持ちを切り替えて、脇に置いてあったテーブルを中央へと引っ張り出した。
「さて、さっきの続きでもしようか」
「そうですね」
そのテーブルの脇に持っていたカバンを降ろし、中から参考書を取り出す絵里。
それをできるだけ近くで見ようと身を乗り出したひとみは、自分がかなり自制できていないことに気づき、慌てて身を引いた。
(やばい、まだ早いって……!)
ひとみが言った『さっき』とは喫茶『アターレ』での勉強会の続きで、昼前から絵里と共にそこに陣取っていたのだ。
ただ、ひとみにできることはほとんどなく、昼食をとることとおやつを食べるよう絵里に話しかけたことを除けば、ひとみも自身の勉強に集中していた。
ただ、帰ってくると一気に気が抜けてしまったためにひとみは持っていたカバンをベッドに放り出したのは言うまでも無く、それは絵里も咎めることは無かった。
- 834 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:29
-
「ところで、一つ気になったんですけど……」
「えっ?」
絵里の視線に気づき、それまで心の中で必死に念仏を唱えていたひとみは慌てて絵里へと視線を戻す。
そこにあった絵里の目は上目遣いで、それまで唱えていた念仏が即座に心の中から消滅していたが、そんなひとみに絵里がさらに追い討ちをかけてきた。
「ひとみさんて、キスしかしてくれませんよね」
「ふっ!」
いきなり爆弾を投げつけられ、どう対処したら良いのか分からないひとみ。
だが、絵里はそんなひとみを笑ってみているだけだった。
「キ、キスだけじゃあ不満なの?」
混乱しきった頭で考えついた台詞がやけに安っぽいことに気づくが、言ってしまった後でそれを後悔しても後の祭りだ。
なるようにしかならない、そう腹をくくったひとみは絵里に負けじと視線を固定させた。
その絵里の顔が赤らんでいたのは、きっとひとみの気のせいではないだろう。
「だって、ひとみさんはキスだってすごく上手ですよ。どこで練習してたのか分かりませんけど……」
「いや、私だってキスは絵里で初めてだったんだ」
赤くなり上目遣いとなった絵里の言葉に誘われるようにそれまで隠していたことを白状するひとみ。
ただ、それを言ったところで絵里が落ち込むわけでもなく、逆に喜ぶわけでもなかった。
- 835 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:29
-
「すっごく期待してますからね」
絵里のその言葉に頭がくらっときたのはひとみの気のせいではなった。
つけ加えるならば、それはひとみの思い込みでもないということでもあって、それからの行動は実に迅速であり、的確だった。
テーブルから身を乗り出したひとみは絵里にものすごい勢いで顔を近づける。
その直後、ひとみの唇と絵里のそれとが触れるのが分かるが、今回はそれだけで終わることは無かった。
キスをしたままの姿勢でテーブルを降りたひとみは、素早く絵里の腰に手を回して唇を離した。
それからすぐに少し強引だったが俗に言う『お姫様抱っこ』をして、自身のベッドへと移動する。
絵里をその上へとそっと横たえ、意味も無く立ち上がった。
(や、やばいな、これは……)
はだけたスカートから見えていた絵里の足には靴下以外の装備は無く、それを意識してしまったひとみは思わずごくりと生唾を飲み込む。
が、それもすぐに卑しい行為だと気がつき、次にすべき行動をすぐさま実行した。
いつもは使い慣れているはずの自分のベッドがこのときだけはやけに神聖なものと思えてしまい、慎重にその中へと身体を捻じ込む。
それからすぐに絵里の横に同じように横たわった。
「ひとみさん、頑張ってくださいね」
笑顔の絵里に言われたひとみは頭にあった邪魔なカバンを手だけで叩き落とすと、その手でゆっくりと絵里の顔をなぞってみる。
くすぐったそうにしている絵里を見ていたのはそれまでで……次の瞬間には理性が吹き飛んでいた。
- 836 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:29
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 837 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:30
-
高橋愛にとってそれは突然であり、そして、あまりにも異常な出来事だった。
愛を含めた四人(麻琴と真琴は二人だと言えるが、見た目は一人だったので愛はそう判断している)で観覧車へと乗り込んだ。
正面に座った新垣里沙は、観覧車が上へと向かい始めるのとほぼ同時にその顔を窓へと押しつけて下を必死に覗き込んでいたため、愛も負けじとそれに対抗したのだ。
そのすぐ横では小川麻琴・真琴と紺野あさ美が何やら話をしていたが、それもほんのわずかですぐに二人の会話は終了してしまった。
上昇する観覧車に比例するように大きくなる里沙の歓声。
それに応酬しながらも愛も必死に何かを叫んだ。
こうした場面で何を叫んだかを覚えていないのは、おそらくそれがあまりにも恥ずかしいことであり、それを無理に覚えていようとも思わなかった愛は、この曖昧な記憶に感謝していた。
そして、異変は突如訪れた。
激しく揺れ始めた観覧車の中で慌てて近くにあった手すりを掴む愛。
見ると正面の里沙も同様に慌てた様子で手すりを掴んでいた。
しかし、次の衝撃を愛は想像することができなかっただろう。
おそらく、これは里沙や麻琴・真琴でも同じだと思ったが、そのときの愛はそれを正常に判断する思考を持ち得ていなかった。
「あさ美!」
その直後に聞こえてきたのは真琴の叫び声。
それにつられて視線を横へと向けてみて、愛は思わず口をあんぐりと開けてしまった。
「あ、あさ美は?」
その口から出てきたのは常識的なのかそうでないのか分からない。
ただ、事実確認をするために真琴へと聞いただけだ。
「そこから飛び降りた」
切羽詰ったように聞こえたのは愛がそう聞こうとしたからで、きっと真琴は冷静なのだろう。
最初はそう思った愛だったが、勢い良く開かれたそのドアから身を乗り出したときになってそれが全くの間違えなのだと気づく。
そして、それとほぼ同時に里沙が飛び出していた。
- 838 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:31
-
「落ち着いてよ!」
叱咤する里沙の言葉を受けて何とか落ち着いたのか、真琴がゴンドラの中へと戻ってきてドアを閉める。
絶えずその口が動いていたのはおそらく麻琴と話をしていたのであろう、ただし、愛の予想の範囲でしかなかったが。
「まこっちゃん、何があったの?」
冷静な声で里沙が聞いているが、それが全くの見せかけだと愛はすぐに見抜くことができた。
なぜなら、焦っているときの里沙は視線が一点に集中していることは無く、絶えず動き回っているからだ。
ただ、それが分かったところで事態の把握には繋がらず、愛は深呼吸を何度かして無理やり落ち着く。
冷静が大切、そう何度も言い聞かせながら……
「あさ美がいきなりそこのドアを開けて、飛び降りたんだ」
真琴の口から出てきたのは単なる事実であり、それを口にしたところでそれが元に戻るわけでもない。
が、それでも愛にしてみれば驚愕の事実だった。
「飛び降りたって、どこに?」
「たぶん、そこにあるお化け屋敷だ」
苦々しく言ってくる真琴から視線を逸らし、愛は窓越しから下を見てみる。
街並が見えていたその反対側の下半分、そこにあったのは麻琴がいつしか話をしていた奇妙なお化け屋敷で、それは病院の形をしていた。
そして、その屋上には小さな穴が開いている。
「ま、まさか、あれなん?」
「あぁ」
およそ信じられる内容ではなかったが、この場に先ほどまでいたあさ美がいなくなり、真琴がそれを目撃していたことから、それは紛れも無い事実だろう。
「ほやけど、こっからやと三十メートルくらいはあるんやない?飛び降りて大丈夫なん?」
「知るかよっ!」
取り乱した愛に怒鳴る真琴。
自分のせいで怒ったのか、それとも別の要因で怒ったのか分からなかった愛だったが、してしまった質問が愚問の一つであったことに気づき、以前あさ美から聞いた話をぼんやりと思い出す。
一度死んで生き返ったという事実、それが定かではないがなぜかこのときの愛の脳裏に蘇ってしまい、そして、愛はそれまで否定していたそれを何となくだが受け入れてしまった。
- 839 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:31
-
「真琴、落ち着いて」
「くそっ、分かってる!」
苛立った真琴をなだめる麻琴。
傍からみれば独り言のようにしか聞こえないそれも、このときだけはやけに現実味を帯びていた。
「それで、どうするの?」
里沙がこめかみに指を当てて呟いてくる。
その仕草が記憶を検索しているときのものだと知っているのは里沙という人間を熟知している愛だけだったが、それも以前の話だ。
今は麻琴がその役割を担っているはず、そう感じた愛は里沙から視線を外して再び下を見下ろした。
やはり見えるのは冗談としか言い様の無い小さな穴で、先ほどよりそれが大きく見えたのはきっと観覧車が下降しているからだろう。
だからといって愛にできることはほとんどなく、その穴からもやはり視線を外すしかなかった。
「おそらく、あさ美はあのミカってやつに何かをされた。で、たぶん、あさ美はそいつのところにいるはずだ」
「あさ美ちゃんの様子がおかしかったけど、それも関係あるの?」
「あるのかないのか、それはおれ達にも分からない。だけど、あいつはおれ達を呼んでる」
「な、なんで?」
視線を戻した愛と入れ代わるようにして下を覗き込む真琴。
その横顔がこれまでに見たことがないほど強張っていたため、愛は話しかけることができなかった。
「このタイミングで、あいつがあさ美を呼んだからだ。それに、場所はあの異界だ」
「だけど、何であさ美ちゃんにまこっちゃんなの?」
里沙のその問いかけに対する真琴の答えは無かった。
十分足らずに語られたのはそれだけで、総合するとほとんど何も分かっていないということだけだ。
四人ともが無言のままゴンドラの中で過ごし、ようやくそれが下へと降り立つ。
何事も無かったように開け放たれるドアからあさ美が飛び降りたことを未だに信じられずにいた愛だったが、そこから飛び出した真琴は実に迅速だった。
- 840 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:32
-
「おれ達はこれからあさ美を取り戻しに行ってくる。だから、新垣も高橋も帰ってろ」
「えっ?」
聞き返した愛に真琴の返事は無かった。
そのまま背中を向けて走っていく真琴を見つめ、降りたまましばらく動けずにいる愛と里沙。
その背中が完全に見えなくなってから、ようやく愛は呪縛から解き放たれたように動き始めた。
「愛ちゃん、どうする?」
「どうするって……」
里沙を見てみると、自分には視線を合わせずに真琴が走っていた先を見ていた。
そこで愛は自分の置かれている微妙な立場を思い出す。
そして、それを即座に否定した。
「行くに決まってるじゃん!」
「言うと思った」
すでに走り始めていた里沙の後ろをついて行きながら言う愛。
前から聞こえてきた里沙の声は取り乱したものではなく、すでにいつもの里沙のそれだった。
「ほやけど、真琴とあさ美がどこにおるか分かるの?」
「大丈夫、あそこの中身は全部記憶してるからさ」
こめかみを指先で突いている里沙から自信満々の答えが返ってきて、愛は改めて里沙の力強さを感じながらも自分に対する負い目も感じていた。
が、今はそれに浸っている場合ではない。
そうあっさりと自分の意志を凍結させ、愛はひたすらに走った。
- 841 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:32
-
そして、あっさりとそのお化け屋敷とやらに辿り着く。
周囲に人がいないのは、どうやら今日はメンテナンスでそこが休館日らしかったが、愛にしてみれば大した問題ではなかった。
里沙が入り口部分に張られたロープを持ち上げる。
その際に『休館日』と書かれた札がぱたぱたと音を立てたが、はっきり言ってどうとでもいうものでもなかった。
ふと時間が気になったので時計を見てみる。
時刻はすでに四時半を回っていた。
観覧車に乗ってから降りるまで三十分弱。
待ち時間を含めてようやく三十分を越えるが、そのわずかな時間で愛の周辺はかなり変化した。
それを意識した愛は、里沙の後に続いてお化け屋敷へと入った。
と、そのときだった。
いきなり地面が揺れたのだ。
かなり激しいその揺れ、しかも不意を突かれたそれに愛も里沙もバランスを取ることができず、思わずこけてしまった。
「里沙、大丈夫?」
「私は大丈夫。愛ちゃんは?」
「あーしも平気」
何とか起き上がるが里沙は肘を、愛は膝をそれぞれ擦っていた。
が、そんな些細なことに構っている場合ではない。
里沙が正面にあった階段を目指していたことから、愛もすぐさまそれに続く。
しかし、愛も里沙もその階段を上ることができなかった。
なぜなら、そこから二人も良く知る人物が降りてきて、鉢合わせになったからだった。
- 842 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:33
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 843 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:34
-
「中澤さん?」
階段を下りた直後、そう声を呼びかけられた中澤裕子は思わず我が目を疑う。
そして、それはすぐさま疑問として口から外へと伝えられた。
「何で、お前達がここにいる?」
ここはアヤカ・エーデルシュタインの遺産であり、ミカ・エーデルシュタインの聖域でもある。
その中へ踏み込んできたのは裕子達奇術師とは何ら関係の無い、全くの一般人だったからだ。
「そういう中澤さんも……って、どうしたんですか?」
慌てて駆け寄ってきたのは新垣里沙で、そのすぐ後ろには高橋愛もいる。
が、そのときは不自然にもその二人だけだった。
その二人に対して裕子はようやく今の自分の状態を思い出す。
それをしてしまったことでこれまで辛うじて忘れていた負荷が実際のものとなって押し寄せてきたが、ゴール間近なのでそれはほとんど関係なかった。
「田中ちゃんに重さん、どうしたの?」
裕子が背負っていたのは道重さゆみで、そのさゆみよりさらに軽い田中れいなは抱きかかえる格好でそこまで降りてきたのだ。
だが、そこで悠長に話をしている暇は無かった。
「二人とも外へ出ろ。ここは危険だ」
出てきた自分の言葉に果たして実効性があるのか定かではなかったが、切羽詰った状況だったために裕子はそれだけを伝える。
中で体験したいかにも奇術師らしい現象をこの二人に説明してもきっと分からないだろう。
実際、れいなとさゆみの二人もそれを目の当たりにしながらも突っ込み、あえなく気を失ってしまったのだ。
そして、その中でまだ稲葉貴子が残っている。
それを意識した裕子はとっさに戻りたくなったが、それには最大限の自制で耐えた。
「中澤さん、そのお腹……」
目の前にいた里沙は動こうとせずに裕子に指を差してくる。
その先を見てみると着ていたシャツが無残にも切り裂かれて、そこから血が流れていた。
ただ、このときの裕子にとっては些細なことに過ぎなかったが……
- 844 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:34
-
「これくらいは平気だ。唾でもつけておけばすぐに治る」
「いや、そういう量じゃ無いですけど……」
いまいちこの二人にはこの緊急性が分かっていないため、裕子は不安定なまま足を踏み出し、半ば里沙を押しのけて前へと進む。
押しのけられた里沙は抗議でもするつもりなのか再び前へと出てこようとするが、それよりも先に背後から気配を感じたため、裕子は思い切り前へと飛んだ。
鈍い音を響かせてそこに浮かび上がってきたのは無色透明だが、絶対的な境界線である結界。
以前、裕子がピアスで造った急ごしらえのそれとははるかに違い、強度においても持続性においても比較の対象にならなかった。
それをしてきたのはミカであり、その彼女もその上にいるはずである。
しかし、裕子はそれを思う前に意識の外へ締め出し、忘れることにした。
「高橋、新垣。二人を頼む」
有無を言わせぬ口調で言い放ち、背中にいたさゆみと抱えていたれいなを渡す。
急に軽くなった身体が血を全身へと巡らし、そのせいで開いた傷口から血の量が増えたような気がしたが、裕子はそれを無視して結界へと近寄った。
裕子が前へ飛び出すのが半瞬でも遅かったならば、今頃この身体は五体満足ではなかっただろうし、それはさゆみやれいなにしてみても同じだったろう。
ただ、こうした結界は念入りな準備をしておけば遠隔操作でも発動できることも忘れてはいなかった。
そんな結界に対峙すること数秒。
それが全くその場から動こうとしないことを確認した裕子は、ようやく息を吐くことにした。
この結界は先ほどれいなとさゆみが吹き飛ばされたものと酷似しているが、これはあくまで裕子の勝手な想像だ。
実際の効果については分からない。
ゆっくりと振り返り、改めて愛と里沙を見る。
二人に渡したさゆみとれいなの二人は、今は床に横たえられていた。
できることなら今すぐにでも一時撤退して状態を立て直したかったが、二人の目を見る限り裕子の思い通りに動いてくれそうにないことはすぐに分かる。
苛立ちが募り震え始めた身体を、血を失ったからだと言い訳をしてごまかし、呆然ととしている愛と里沙に話しかけた。
- 845 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:35
-
「何で、お前達がここにいるんだ?」
出てきたのは最初の疑問と同じ内容だったが、それに対する答えはまだ聞いていない。
そして、その返答次第ではどう行動するかも変わってくるため、改めて聞くことにした。
「まこっちゃんがこの中に入ったようなんですけど、見ませんでしたか?」
「いや、私は見てない……」
誰ともすれ違っていないことを思い出していた裕子だったが、階段を駆け下りている最中に出会った違和感を思い出して口を噤む。
それからすぐにその違和感の正体が分かったような気がした。
「そうか……そういうことか」
ただ階段を降りているだけならば絶対に気づかなかったであろうその違和感は、結局のところ降りていく人間と上がっていく人間とをすれ違わせないようにするものだったのだ。
どこをどうすればできるのか分からないが、裕子も万能ではない。
ましてやここはアヤカの遺産の中、何が起こっても不思議ではない。
「私は拒絶をされて、小川は招かれた。つまりはそういうことだ」
「はっ?」
「違う、私よりも小川のほうが先というわけか」
理解できたことを素直に口にする裕子だったが、それだけで里沙と愛が納得できるわけでもなかった。
里沙から返ってきたその答えはあまりにも間の抜けたものだったが、だからといってそれを指摘する裕子でもない。
ただ、出来上がってしまった結界を睨みつけるだけだった。
「私を殺すための準備は整っていない。そして、それに必要なのは小川なのか……」
ミカにとって殺す価値を未だ持ち得ない裕子にとってそれは致命的だったが、それを覆せるだけの材料も無い。
だから、この場は貴子の言葉に従うしかなかった。
「ここは危険だ。いったん引いて、体勢を立て直すぞ」
「えっ、でも……」
「つべこべ言うな。時間が惜しい」
まだ何かを言ってきそうだった里沙を強引に押し止めて出口へと向かう裕子。
しかし、裕子はまだ、新垣里沙という人間を完全に理解していなかった。
意識をすでに外へと向けていた裕子にとってそれはほんの小さな油断だったが、里沙にとっては最大のチャンスだった。
- 846 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:36
-
「納得できません!」
「こら、待てっ」
少し離れた位置の里沙がさゆみとれいなの二人を放って走り出す。
もちろん、その先には先ほど張られたばかりの強固な結界があった。
(くそっ、ここからだと間に合わないぞ……!)
自身のうかつを呪った裕子だったが、それで里沙が止まるわけでもない。
慌てて伸ばした裕子の右手は虚しく宙を切るだけで、里沙を静止するには至らなかった。
ただ、足を結界へと向け、全力で駆け寄る。
全盛期の裕子ならばそのわずかな距離でも問題なかったが、衰えた身体では里沙に追いつくことはできなかった。
と、ここで裕子はもう一つの誤算にも気がつく。
それは奇術師としての常識であり、そのことを失念していたことに対して、裕子は大きく舌打ちをするしかなかった。
奇術師の奇術を感知できるのは同じ奇術師だけであり、それを一般人が見ることはできない。
ただ、出来上がってしまった効果は奇術師以外にも均等に現れてしまうため、うっかりと足を踏み込むとしなくても良い怪我をしてしまうのだ。
それを最初に話しておかなかったことを激しく後悔しながらも、次の瞬間、裕子は里沙が弾かれるのを見た。
「ぎゃん!」
子犬が蹴飛ばされたような声とごつんという鈍い音、そのどちらが先かは分からなかったし裕子もあえてそれを特定しようとはしなかった。
なにせ、その結果を目の当たりにしていたのだから。
五メートルほど飛ばされた里沙が裕子の脇を転がっていく。
それに気づいた後で急ブレーキをかけた裕子は、転がっている里沙へと慌てて駆け寄った。
「怪我は無い……ということはさっきのと同じということか」
気を失っている里沙を見下ろして何となく呟く。
結果を結果として口に出した裕子だったが、だからといってそれで気が晴れるわけでもなかった。
結界の効力がそれだけだから良かったものの、『近づく者を問答無用で焼き殺す』とかいった効力であったら、今の接触で里沙は確実に死んでいたからだ。
- 847 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:36
-
ほっと胸を撫で下ろす裕子だったが、事態はますます複雑になっていた。
することが増えてしまったのは気絶した里沙を見れば明らかであり、撤退は絶対的なものへと変わっている。
「高橋、新垣を頼む」
「えっ、は、はい」
どうやら愛は里沙ほど冒険をするタイプではなく、今回はそれが裕子にとってもプラスに働いた。
裕子は床に横たわっているさゆみを背負い、れいなを脇に抱きかかえる。
首だけを動かして後ろを見てみると、愛が里沙の腕を取って起き上がらせているところだった。
それから通常の出入り口ではなく裏口へと回る裕子達。
そこは入ってきたのと同じ場所で、そこからあらかじめ作っておいた逃げ道がすぐ間近に見えていた。
「田中を頼む」
裏手の駐車場に移動してグリーンのマーチの前で止まり、裕子は有無を言わさずに愛にれいなを預ける。
ポケットに入れた鍵を取り出すのにれいなが邪魔になったからだ。
里沙をおんぶしていた愛は、何とかバランスを取ってれいなを受け止めていた。
「田中と新垣と一緒に後ろに乗れ」
リモコンでロックを解除し、まずは助手席を開け放つ裕子。
そこに背負っていたさゆみを乗せて、シートベルトで固定する。
「無茶言わんといてください。いっぺんに二人なんて無理ですよ」
「そうだったな」
愛から当然のように抗議があり、さゆみを固定し終わった裕子は助手席のドアを閉めた。
それから後部座席のドアを開け、愛かられいなを受け取る。
気絶した二人を押し込めるのは楽な作業とは言えなかったが、助手席のときのように固定する必要は無い。
なにせ、固定してくれる人間がいるからだ。
それを乗り込んだ愛で確認した裕子は勢い良くドアを閉めて、自身も運転席へと乗り込む。
座るのと同時に腹の傷口が痛んだが、それは意識の外へと放り出す。
ただし、それをしたところで出血の量が減ることは無かったし、ハンドルを握った手の震えが止まることも無かった。
- 848 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:37
-
(だが、やらなければ……)
自分の身体に鞭を打ち、前を睨みつける。
それは精神の上では効果的であり、少なくとも運転中に意識が飛ぶのを防いでくれるようにも思えた。
「しっかり掴まっておけよ」
エンジンはすでに温まっているし、バッテリーも問題無い。
それを確認した(といってもメーターを見ただけで、正確な確認ではなかったが)裕子は、思い切りアクセルを踏み込んだ。
裕子の今の心境を代弁するかのように急発進するマーチ。
後ろの愛が何やら悲鳴じみた声を上げるのが聞こえたが、裕子はそれを思い切り無視する。
「な、中澤さん。どこへ行くんですか?」
愛がそう聞いてきたのは駐車場を出てから必要以上に車の少なくなった車道をかなりのスピードで飛ばしているときだった。
警察が見つければ即座に捕まりかねないスピードだったが、土曜日の夕暮れ時にそんな物好きもいるはずもない。
だから、裕子はさらにアクセルを踏み込んでから答えることにした。
「ここから一番近いのは、あそこだ」
直進している裕子は目的地までの地図を頭の中で展開し、その道が最短距離であることを確認している。
だが、それを愛に伝えることはしなかった。
一刻を争うというこの状況において集中力を欠くということは致命的であり、それは裕子が身をもって体験している。
だから、裕子はそれ以上の説明を省くことにした。
ただ、ブレーキという存在を忘れて信号もできるだけ無視する。
それを黄色から赤へと変わった直後の交差点で確認した裕子は、そのままの勢いでそこへと突入した。
後ろから愛の不必要な悲鳴が聞こえてくるが、このときの裕子はそれを綺麗に無視することができた。
- 849 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:37
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 850 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:38
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階段を駆け上がる真琴の息はすでに上がっていて、足取りもおぼつかない。
それをわたしは外から観察して、どこか危険を感じていた。
「真琴、ちょっと落ち着いて」
『この状況で落ち着けるか!』
駆け上がりながらも叫び返してくるのが真琴らしかったけど、今はそんなことで安心している場合じゃない。
状況は、もっと複雑だった。
真琴とわたしが踏み込んだそのお化け屋敷は、以前のときよりもさらに異界へと変化していた。
薄暗いのは変わらないけど、周囲から伝わってくるのは何ともいえない後ろ向きな感覚だ。
言葉にすれば『諦め』とか、『死にたいな』とかいった感じで、そうした空気がわたし達の周りを囲んでいる。
その中を進んでいる真琴はそれとは正反対な存在で、わたしももちろん真琴と同じだった。
「でも、いい加減気づいてよ」
『えっ?』
呆れて呟いたわたしの言葉を受けて、真琴がようやく立ち止まる。
そこは階段のちょうどど真ん中で、わたしから見れば真琴はずっとそこを上がっていたのだ。
「さっきからずっと同じ場所にいるような気がするんだけど、あんたはどうなの?」
『言われてみれば、そうかもな……』
こうして中にいるから分かったことで、実際にその場にいる真琴だけではそのことに気づくのがもっと後になっていたのかもしれない。
そう思った瞬間、感覚だけだったわたしは身震いをしていた。
だけど、真琴は独りじゃない。
わたしがついてる。
「下の入り口から階段に入ったとき、変な感じがしたんだけど、あんたは感じた?」
『いや、全然覚えてない』
いつもはわたし以上に冷静なはずの真琴が焦っている。
それがひしひしとわたしにも伝わってきて、逆に冷静になったわたしは落ち着いて真琴の視線から外の世界を見てみた。
だけど、そこは薄暗い階段だけで、上を見ても下を見てもそれは変わらなかった。
- 851 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:39
-
「真琴、集中してみて」
『……分かったよ』
息を無理やり整えた真琴が静かに目を瞑って、深呼吸をする。
完全に整っていない息だったため深呼吸も完全なものではなかったけど、それでもこのときの真琴には効果があったみたい。
目を開いた真琴の視界には先ほどの階段が映ったけど、それとは別の何かも入り込んでいた。
『あれが、おれ達を足止めしてたのか?』
「分かんない。でも、『あれ』を壊せば先に進めるかもね」
わたし達が立っている場所から少し上の壁にあった存在核を見つける。
ポケットからナイフを取り出した真琴は慎重に存在核へと近づいていった。
わたしと真琴がこうして見ている存在核はたいていは真っ黒な球体で、直径はだいたい十センチくらい。
それがその壁の上にぽっかりと浮かんでいたのだ。
『この程度のトラップでおれを足止めできると思ったのか?』
「……いや、最初に気づいたのはわたしだからね」
なぜか自信満々に言ってくる真琴に対して少し脱力してわたしは答える。
だけど、真琴はわたしの言葉に対して返事をすることなく、持っていたナイフを存在核へと突き立てた。
それと同時に弾け散る存在核。
それからすぐに変化が……
『って、もうちょっと明るくなっても良いんじゃないか?』
「そんなこと言っても明るくならないよ」
『そうなのか?』
「たぶん、そうだよ」
さっきよりかは微妙に明るくなったけどそれもどこか中途半端で、足元なんかは未だにはっきりと見ることができない。
『だけど、出口は見えたな』
「そうだね、さっさと行こうか」
その出口を抜けるとそこはエレベーターホールで、見事に五階だった。
『まあ、あれだけ上ったんだ。それでまだ二階ですなんて言われた日にゃ、ここ全体吹き飛ばしてやるところだったな』
「……何も言わないからね」
頭を抱えて小さく呟いたわたしは、そこで一つの疑問を思い出した。
そういえば、ここって存在核が見えない場所だったよね。
何でさっきのだけは見えたんだろ……?
- 852 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:39
-
真琴が見ている視界にはやっぱり、存在核らしいものは全く見当たらない。
集中したばかりだからちょっとは感じても良いんだけど、それが全然感じられないもんだからわたしは一人だけで首を傾げてみる。
だけど、それよりも先に真琴が進み始めたため、とりあえずわたしはその疑問を後回しにすることにした。
『なんだ、これは?』
歩いていた真琴が角を曲がったとき、息を呑んで立ち止まった。
もし、外に出ていたのがわたしでも、その光景を目の当たりにしたら立ち止まっていただろう。
「……なんか、ごちゃごちゃしてるね」
『この壊れ方は尋常じゃないな』
ナイフを構えた真琴が足元にあった瓦礫を蹴飛ばす。
元々脆かったのか、何らかの原因があって脆くなったのかは分からなかったけど、蹴飛ばされるのと同時にその瓦礫は原型を止めることができずに粉々に砕け散った。
そして、その瓦礫の山へと真琴は慎重に足を踏み込んでいく。
「たしか、五階って手術室があったと思うんだけど……」
『あってもこの調子だとぼこぼこになってるだろうな』
どこをどう受け取ったらぼこぼこになるのか分からないけど、まあ、真琴が言いたいことは何となく分かる。
つまり、わたしが前に来たときと今のこことは全く別物ってことだ。
ただ、廊下だけが廊下としての機能を何とか保っているだけだった。
と、そのときだった。
廊下の遥か先、曲がり角の向こうからお腹に響くものすごい音がしてきた。
「真琴!」
『分かってる!』
わたしが言う前に走り始めている真琴。
瓦礫の山を乱暴に蹴散らしながら進み、二十メートルほどの廊下を五秒ほどで駆け抜けて角を曲がった。
そして、その先に見えたのは……
『あさ美!』
その廊下は真琴が駆け抜けた廊下よりも少しは片付いていたけど、あさ美ちゃんが立っている付近は瓦礫の山となっていた。
それに、その脇にはわたし達の知らない誰かが倒れている。
血の量が半端じゃなくて、片腕が無くなったその人は全く動く気配を見せずに、ただそこにいるだけ。
その後ろには以前会った、ミカとかいう人が立っていた。
でも、真琴にはそこまで見えていなかったようだ。
- 853 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:40
-
『あさ美!』
あさ美ちゃんにもう一度声をかける真琴。
だけど、あさ美ちゃんから反応らしい反応は無かった。
真琴の視線はあさ美ちゃんへと釘づけになっているんだけど、そのあさ美ちゃんは全く真琴のことを見ていない。
というよりも、わたし達のことに気づいていないようだった。
『ようやく、来ましたか』
『……ミカ・エーデルシュタイン』
話しかけられてようやくミカとかいう人がいることに気づく真琴。
それからすぐに真琴はその人に噛みついた。
『お前、あさ美に何をした?』
持っていたナイフをしっかりと握り直し、真琴の視線が鋭くなっているのがわたしにも伝わってくる。
でも、そんな真琴の視線を受けてもその人は全く動じることは無かった。
『どうもしていません。ただ、呼びかけただけです』
『嘘つけ、他にも何かしただろ!』
肩を竦めながら言ってくるその人に対して吼える真琴。
だけど、効果は全く無かった。
『それは、自分の目で確かめてください』
そう言ったその人が、あさ美ちゃんの横に倒れている女の人を蹴る。
蹴られたのに、彼女の反応は皆無だった。
なぜなら、彼女はもう……
『稲葉貴子もあっさりとしたものでした。これなら、あなた達にも楽勝です』
『ふざけるなっ!』
その人から出てきた名前が、れいなの話していた担任の名前だと気づいたのは、わたしだけだろう。
だって、真琴はそのときにはナイフを持ってその人に飛びかかっていたからだ。
『おっと、あなた達の相手は私ではありませんよ』
真琴が振り下ろしたナイフを大きく飛び退いて避けたその人は、次の瞬間、宙へ溶け込むようにして消えてしまった。
それなのに、声だけはさっきと同じように聞こえてくる。
『そこにいる、私の至宝が相手です。せいぜい殺さないようにしてください。あなた達の大切な人なんでしょう?』
周りから聞こえてくるその人の声に、真琴が弾かれたようにしてあさ美ちゃんを見る。
無表情で立っているあさ美ちゃんの手には、いつの間にか、わたし達が持っているものと良く似ているナイフが握られていた。
- 854 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:40
-
そして、あさ美ちゃんが笑った。
でも、それはあさ美ちゃんの笑みではない。
だって、ものすごく顔が引きつっていたんだから……
危険を察知した真琴が慌ててその場を飛びのく。
その次の瞬間には、あさ美ちゃんの握っていたナイフが、立っていた場所をなぎ払っていた。
『あさ美、目を覚ませ!』
次々と踏み込んでくるあさ美ちゃんのナイフを必死に避けながらも呼びかける真琴。
だけど、あさ美ちゃんはまったく反応しない。
反応してくれなかった。
ただ黙々とナイフを突き出してくるだけ。
『ミカ・エーデルシュタイン!』
行き場の無い怒りを真琴が言葉に込めて吼える。
その間もあさ美ちゃんのナイフの速度は増すばかりで、真琴ですら反応できなくなりところどころ裂傷が入り始めていた。
『防戦一方ではないですか。それでは面白くありません』
ミカの声が響き渡り、それと同時にあさ美ちゃんの動きも止まる。
突然のその変化にそれまで後ろへ飛び退いていた真琴はゆっくりと止まり、あさ美ちゃんを見つめていた。
『せっかく覚醒したのです。ですから、もう少し楽しませてください』
その声と同時にナイフを落とす真琴。
原因はあさ美ちゃんにあった。
だけど……
『ま、こと……』
立っていたあさ美ちゃんが膝をつきながら呻くように言ってくる。
その声はいつものあさ美ちゃんのようで、思わず真琴はそんなあさ美ちゃんに駆け寄っていた。
だけど、それは……
「違う。それは、あさ美ちゃんじゃない!」
必死に叫ぶわたしだったけど、このときの真琴にはそれも届いてはいなかった。
蹲ったあさ美ちゃんに駆け寄った真琴は、苦しそうにしているあさ美ちゃんの肩に手を置いて、ゆっくりと話しかける。
『あさ美、大丈夫か?』
『……大丈夫だよ』
苦しそうな声を出してきながらもそう答えるあさ美ちゃん。
顔を上げたあさ美ちゃんは少し白かったけど、それでも真琴が胸を撫で下ろしているのが分かった。
ここ最近ではまともに話をしてもらってなかった真琴だけに、苦しそうでも答えてくれたことが嬉しかったのだろう。
と、そのあさ美ちゃんが真琴から目を逸らして、顔を俯けた。
- 855 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:41
-
『ねえ、真琴?』
『なんだ?』
俯いたままのあさ美ちゃんに必死に答える真琴。
あさ美ちゃんは俯いたまま続けてきた。
『私達って、いつまでも一緒だよね』
『……なにを言ってるんだ?』
唐突にそんなことを言ってくるあさ美ちゃんに真琴が眉を顰める。
だけど、真琴はそんなあさ美ちゃんに極めて冷静に答えた。
すると、あさ美ちゃんがゆっくりと顔を上げる。
『なら……、一緒に死んでくれる?』
「真琴!」
その下にあった光る物体を見て、思わず叫ぶわたし。
そのとっさのわたしの叫びと、真琴が飛び退いたのはほぼ同時。
だけど、それでも少し遅れた。
刺されたという衝撃と激痛でわたしは一瞬だけ意識を失う。
次に気がつくと真琴が荒い息をしながらあさ美ちゃんから離れていたところだった。
お腹に刺さったのは、もちろんあさ美ちゃんが持っていたナイフで、それは今もわたし達のお腹に刺さったままだ。
「真琴、下手に抜いたら気を失うよ」
『……分かってる』
朦朧としているのはわたしも真琴も一緒。
わたしは真琴が刺さったナイフに手を添えていたのを感じて、すかさず言う。
だけど、このときの真琴にそれがどのくらい通じているのか、分からなかった。
『あなた達があさ美に抱いている感情は表現では異なっていても、根本的には同じです』
再びどこかから聞こえてくるその声。
真琴はそれを無視して何とか呼吸を整えようと努力しているのが分かるけど、それもうまくいかない。
その声に邪魔をされているようだった。
『あさ美のことを大切に想っているあなた達に、その無力さを教えてあげましょう』
『ふ……ふざけるなっ!』
お腹に刺さったナイフを引き抜いて、それを床に投げ捨てる。
それまで何とか保っていた意識がその瞬間に再び飛ぶけど、今度はほんの少しだけで済んだ。
血が流れていくのが感覚を通して伝わってくるけど、真琴もわたしもそれに対してどうしようとも思わなかった。
数歩後退しながら深呼吸をしている真琴。
床には赤い点がぽつりぽつりとついていたけど、それをわたし達は思い切り無視した。
- 856 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:41
-
どこかにいるミカ・エーデルシュタインを倒さないと、あさ美ちゃんは戻らない。
それを意識したわたし達は、あさ美ちゃんから視線を外して周囲を見渡す。
『どこだ、どこにいる?』
必死に目を動かしている真琴と一緒になってわたしも探すけど、さっきみたその人は影も形も無い。
そして、それがわたし達の最大の誤算だった。
『武器を持たないあさ美を、無害だと思ったのですか?それは違いますよ』
ミカの言葉と同時にいきなり真琴が意識を失う。
それはあまりにも唐突で、わたしは入れ代わるのを一瞬忘れてしまったくらいだった。
身体が床に転がったのを感じてわたしは慌てて意識を外へ出したけど、立ち上がることができない。
指が辛うじて動くけど、持っていたナイフは倒れた際に手から離れてしまったのか、感触は無かった。
(真琴、どうしたの?)
必死に真琴に呼びかけてみるけど、返事が返ってこない。
完全に意識を失っているようで、なんでそうなったのかがわたしには分からなかった。
誰かが近づいてくるのが、気配で分かる。
そして、この場にいるのはわたしと真琴、それにもう一人だけだと気づいてしまった。
何とか頭だけを上げて、近づいてきたあさ美ちゃんを見上げる。
そのあさ美ちゃんの手には、拳くらいの瓦礫が握られていた。
「あ、あさ美ちゃん……」
呼びかけてみるけど、やっぱり返事は返ってこない。
これまでに見たことの無い無表情のあさ美ちゃんが、ゆっくりと、重たそうに手を振り上げた。
ごめん、里沙ちゃん。
わたし、約束果たせないかも……
瓦礫を振り上げたあさ美ちゃんの手が、正確にわたし達の頭を狙ってきて……
- 857 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:41
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――――――――――
- 858 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:42
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紺野あさ美が小川麻琴・真琴に対して瓦礫を振り上げた瞬間、ミカ・エーデルシュタインは人知れず勝利の雄たけびを上げていた。
が、そんなことに構うことなく、あさ美はその瓦礫を麻琴・真琴に容赦なく振り下ろす。
鈍い音が一度だけ響き、すぐさま静寂が周囲を支配する。
その中へミカはゆっくりと現れることにした。
焼け焦げた瓦礫はそれまでの強度を保つことができず、麻琴・真琴の頭を中途半端に砕くだけに留まっている。
しかし、それでも効果は覿面だった。
血を大量に流しながらうつ伏せになっている麻琴・真琴の意識は当然のことながら無い。
このまま放っておけば失血死をするだろう。
ミカとしてはそれでも良かったが、その麻琴・真琴の周囲の空間に変化があった。
一瞬だけ身を強張らせたミカだったが、平家みちよの気配をすぐさま感じ取り、歪んだ空間へ干渉することを諦めて、消えゆく麻琴・真琴に対して小さく呟いた。
「あなた達の最大の敗因。それはあなた達があさ美のことを強く想っていることです」
あさ美に植えつけた人の繋がりを見るという能力。
それを麻琴・真琴は知っていたはずなのに、それに対してあまりにも無防備だった。
もしくはそのことに対して正確な認識を得ていなかったのかもしれないが、結果が出てしまった後でそれを追求するのも馬鹿らしくなり、ミカは麻琴・真琴から視線を外そうとしてそれが無駄な努力になったことを知る。
麻琴・真琴がそこにいたという証拠はそこにあった血だまりだけが証明しているが、そこから視線を上げたミカは、棒立ちになっている紺野あさ美を見て、わずかにその口元を吊り上げただけだった。
「あさ美さん、良くやってくれました。あなたは私にとっての切り札ですよ」
ただし、これに対してのあさ美の返答は無い。
なぜならば、完全に傀儡と化した今のあさ美にとって聞き入れるのはミカの命令だけで、それ以外には無反応を貫くだけだ。
実際、ミカが先ほど下した命令は『小川真琴を油断させて致命的な攻撃を加える』といってもので、あさ美はそれを実行した。
- 859 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:42
-
至近距離へと誘い込んでナイフを腹に突き刺し、自身は無防備になる。
それは焦っていた麻琴・真琴の油断を誘うことに繋がり、あさ美はあっさりと真琴との繋がっていた『赤い糸』を切ることに成功したのだ。
「恐らく、今のあなたには感情を示す全ての糸が均等に見えているはずです。それら一つ一つに人間の感情が直結しているし、そこをあなたは辿り、必要とあらば断ち切ることができます」
それは、最初に接触した稲葉貴子然り、先ほどの真琴然りだ。
目の前に倒れている死体を見下ろすが、以前見た貴子よりもそこにあった死体はまるでパーツが足りていなかった。
「ですが、まだ、あれは中途半端に切れたままです。もう少し繋がってもらわないと、断ち切り甲斐が無いですね」
あさ美へ最初に接触した貴子はみちよが汚名を返上する形で殺した。
しかし、その貴子に中澤裕子を一時的だが撤退させられてしまったのだ。
ただ、それでもミカにとっては時間が少し遅れただけに過ぎない。
裕子はすぐにここへ戻ってくる。
この、死体と化した貴子の元へ……
「みちよさんとの絆はとっくの昔に切れ、今は稲葉貴子と無理やり繋がっていた。ただし、それは貴子だけで、あれにはまだ自覚が無い……」
だが、この死体を見れば、明らかにそれまでの自分の失策に気づくだろう。
そして、そこに繋がりを感じてしまえば、後は簡単だ。
「繋がったのにすぐさまその後を追わなければならない。何とも寂しい結果ですかね」
そう呟いたミカは口の中だけで呪文を唱え、使い魔を召喚する。
出てきたのは鷲の翼を持った、大きな狼だった。
「マルコキアス、やってください」
ミカの言葉と同時に倒れていた貴子の身体が燃え上がる。
意志を失ったそれはあっさりと焼失していくが、その最中に炎の一部が必要以上に揺らめき、何かの形を成していく。
それを確かめたミカは、それに向かって話しかけた。
- 860 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:43
-
「あなたがどれほどの無念を抱いているのか分かります。だから、行きなさい」
それは慈悲でも情けでもない、単なる気紛れだ。
残留思念となった稲葉貴子が宙に溶け込むようにして消え、ミカも完全に灰になった元貴子の死体から興味を失い、すぐ脇に控えていた使い魔へと命令を下した。
「中澤裕子と少しばかり遊んできなさい。ただし、殺してはいけません。あれを殺すのは、あなたの役目ではありませんから」
低い声で唸ってくる使い魔の頭を優しく撫で、それに笑いかける。
使い魔はミカに触れられるのと同時に低い唸り声を止めて目を細める。
そして、次の瞬間には、影も形も無くなっていた。
撫でていた手が宙に浮くのを感じ言葉が忠実に実行されるであろうと確信を得たミカは、改めてあさ美へと視線を移し、その傀儡に対して言葉を投げかける。
「私達の出番はしばらく無いみたいです。休憩でもしましょうか」
口調は先ほどと全く違うことは無いが、あさ美がその声に対して反応した。
それはどこかぎこちなく、傍からみればロボットダンスをしているような感じにも見えないことも無かったが、それもミカの思い過ごしのようだ。
すぐさま滑らかな動きでミカの元へと歩み寄ってくるあさ美。
そのあさ美の頭を先ほどの使い魔と同じように撫でる。
すると、それまで無表情を保っていたあさ美に変化が現れた。
- 861 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由9 投稿日:2005/04/20(水) 11:44
-
「そうですか、嬉しいのですね」
目を細めて笑っているあさ美にそう声をかけたミカは、頭を撫でてはいないもう一つの手を持ち上げ、その指を鳴らす。
周囲に展開していたミカの不可視の使い魔がその音の先へと集合し、空間を捻じ曲げた。
「さて、行きましょうか」
ぽっかりと浮かび上がった黒い穴へと歩き出すミカ。
あさ美はそのすぐ後ろをしっかりとついてきている。
ただし、そのあさ美の顔はすでに無表情へと戻っていて、ミカもあさ美の存在をすっかりと忘れていた。
ミカが穴へと足を踏み込み、姿が見えなくなってからあさ美もその足を踏み出す。
ただ、そのあさ美の顔にわずかだが水が付着していたのをミカが少しでも見ていたならば、その先の展開も変わってきたのかもしれない。
しかし、すでに消えてしまったミカにそれを見ろというのはどだい無理な話であり、一度動き始めたうねりを彼女は止めるつもりなど毛頭無かった。
- 862 名前:いちは 投稿日:2005/04/20(水) 11:53
- 個人的には修羅場のつもりだったんですが、どうだったでしょうか
>>829 通りすがりの者さん
今回で何処に行ったのかが分かりましたが、何をしていたのかは今のところ不明です
次の話で処理するつもりなので、お待ちください
次回の更新なんですが、容量的に苦しいので新しい場所になるかと思います
それでは
- 863 名前:名無し読者。 投稿日:2005/04/26(火) 22:25
- 更新お疲れ様です
まこっちゃんが心配ですけど、すごい続きが気になります
次回も楽しみです
- 864 名前:いちは 投稿日:2005/04/27(水) 11:39
-
新しくスレッドを立てました
http://m-seek.net/cgi-bin/test/read.cgi/sky/1114569516/
「虚無の切断面 2nd」です
よろしくお願いします
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