杏の季節
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/02(火) 03:14
- 短い話をいくつか書きたいと思います。
慣れていないですがよろしくお願いします。
- 2 名前:ポロポロ 投稿日:2004/11/02(火) 03:17
- 収録の終わりがつげられ、私は大きく息を吐く。
敷きつめられたケーブルをうまくまたいで廊下に出ると、そこには珍しく人
通りがなかった。体重に任せるまま壁にもたれかかると、カツンと乾いた音が
した。
真っ白な壁。真っ白な天井。まぶたを閉じると、全てが黒にそまる。耳鳴り
が聞こえたから、私はわざとらしく大きなため息をついた。
「キャメイちゃーん」
遠くから声がして、私はとっさに笑顔を作る。開かれた視界の先には、見覚
えのある顔が映った。
「紺野さーん。お疲れ様です!」
「何やってるの〜こんなとこで」
彼女独特の細い声を耳に入れながら、私はにこにこと笑い続ける。笑えば笑
うほどに、その笑顔が完璧なものになっていく気がして、私は表情を戻す機会
を失う。
この笑顔が、私のたった一つの武器だった。そしてその武器は、へばりつく
ようにして私の一部になった。
- 3 名前:ポロポロ 投稿日:2004/11/02(火) 03:18
- 「それじゃまたねーキャメイちゃーん!」
紺野さんはおかしなハイテンションのまま、私の元から去っていく。それを
見送った後、今日何度目か知れない溜息を吐いた。
ポロポロ。
気を抜くと、途端に何かが零れていく音が聞こえた。何故だか分からないけ
ど、私は笑顔が零れているのだと直感した。
笑顔が零れていく。完璧なはずの笑顔が、なすすべもなくポロポロと零れ落
ちる。
私は慌てて顔を覆う。零れ落ちた笑顔の後には、何が残っているのだろう。
武器をなくした私は、誰もいない白い廊下の真ん中で、一人体を震わせる。
- 4 名前:ポロポロ 投稿日:2004/11/02(火) 03:19
- どれだけそうしていたのかわからないけど、しばらくして、遠くから小さな
物音がした。
慌てて通路の先に視線を向けると、影のような何かが動いた。そしてそれは、
私の心を荒らすように、ずけずけと近づいてきた。
ふと、止まる。
「マシュマロ早食い対決ー!」
見覚えのある顔だった。
先ほどのおかしなテンションのまま、紺野さんが口いっぱいのマシュマロを
ほおばる。私は、いつにも増して膨れた紺野さんのほっぺを、細い目を丸くし
ながら見つめていた。
紺野さんは口いっぱいのマシュマロを何とか飲み込むと、にこっと笑って見
せたが、結局すぐに咳き込んだ。
「何……やってるんですか?」
「何って、収録でマシュマロ余ったって言ってたから貰ってきたんだよー」
「そうじゃなくて、なんでいきなりそんなこと……」
すると、紺野さんは、マシュマロを食べていたときよりもほおをぷっくりと
膨らませ、自分の袖で私のほおをぬぐった。
「なんか元気なかったから一緒に食べようと思って持ってきたのに、泣いてる
んだもん。無茶したら笑ってくれるかなぁって」
- 5 名前:ポロポロ 投稿日:2004/11/02(火) 03:21
- 私はその時初めて、さっきのポロポロという音が涙の音だったのだと気付い
た。私の涙はポロポロと音を立てて、笑顔をさらって行ったのだ。
私はごしごしと目をこすると、再び紺野さんを見た。どういうつもりか、紺
野さんは相変わらずほおをぷくっと膨らませたままだった。
「さっきと今と、どっちがほっぺ膨れてる?」
そして、唐突にそんなことを言った。
とっさに、紺野さんが何を言っているのかわからなかったけど、理解してく
るにつれ、私の体はこぎざみに震えだし、最後には声を出して笑った。
いつまでたっても笑いは収まらなくて、ポロポロと涙が零れてきた。
「なんでまた泣くのー」
「だって、おかしくて」
ポロポロと流れる涙は、今度こそ笑いを奪い去って行かなかったらしく、紺
野さんに、
「くすぐったそう」
と言って、笑われた。
「亀井は笑顔が一番いいよ」
そう言って紺野さんに差し出されたマシュマロをほおばると、また笑顔が零
れ落ちる。
ポロポロと何度も零れ落ちて、最後に紺野さんに見せているこの顔が、きっ
と私の本当の笑顔なのだと思った。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/02(火) 03:22
- >>2-5 ポロポロ
- 7 名前:ピアス 投稿日:2004/11/02(火) 19:43
- なんだかやさしくて、暖かな気持ちになりました。
あまり目にしない二人でしたが、悪くないですね。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/03(水) 16:26
- いい話読ませてもらったよ
- 9 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/07(日) 03:05
- 埃っぽい風が舞っている。髪やスカートの裾がばたばたとはためいているが、
私は特に気にせず、あお向けにねっころがったまま、ずっとずっと遠くまで広
がる空を見つめる。
屋上で一人、水平にのびる空を眺めていると、全てのことがどうでもよくな
っていくような気がする。
仲の良かった地元の友達のことや、いつまで続けていけるかわからない生活
のこと。
地球が自分勝手にぐるぐると回って、世界が常に変わり続けていくというの
なら、私がこれからどう変わっていこうとも、さして重要なことではないのだ
と思える。
今日は昨日にもまして、空がにごって見えた。
- 10 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/07(日) 03:05
- 太陽の光が屋上の周囲に張られた柵に反射して、透明に輝いている。目を細
めて真上を見上げると、一番高いところまで上った太陽が、真正面から私を見
下ろしていた。
「れいな」
頭の先のほうから声が聞こえる。別に顔を見なくても、そこに誰がいるのか
すぐにわかった。もう二年近くの付き合いになる。
「……もう時間?」
「うん、みんな集まってるよ」
「わかった。今行くよ」
そう言って、ゆっくりと起き上がると、さゆは相変わらずぼうっと笑いなが
ら、私のすぐ後ろに立っていた。
- 11 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/07(日) 03:08
- 私がもしモーニング娘。を辞めるとして、もし迷いが生じるとしたら、それ
はきっとさゆと絵里のことだと思った。この世界に入らなければ、きっと友達
にすらなっていなかっただろう二人だけど、いつのまにか、ばっさりと切り捨
てることの出来ない存在になっていた。
でも、二人が私のことをそういう風に見てくれているのかは、私にはわから
ない。
- 12 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/07(日) 03:13
- 「そういえば絵里は?」
先を歩くさゆに、何となくたずねる。さっきまでは空しかなかったのに、立
ち上がってみると雑多な街の風景が視界いっぱいに飛びこんできて、不意にめ
まいがした。
振り返ったさゆの表情は、とたんに曇りだし、ほっぺを少しだけふくらませ
る。その仕草が子供っぽくて、私はさゆをかわいいと思った。
「絵里、笑ってばっかりで何もしないんだもん。れいなを呼んでくるのだって
私に押し付けるし」
そう言って、再び前を向いて歩くさゆの背中が、さっきまでよりずいぶんと
遠くなってしまった気がした。私は何故か、私の目の前でぼうっと笑ってくれ
たときよりも、今の絵里を怒っていたときの表情の方が、ずっと優しいと思え
てしまったのだ。
- 13 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/07(日) 03:15
- 私が立ち止まると、開いた屋上のドアを支えたまま待っていたさゆが、不思
議そうに振り返った。私はうっすらと笑みを浮かべて、さゆの待つ建物へと足
を進める。
背後でバタンと扉の閉まる音がしたとたん、私の周りは人工的な光につつま
れた。目の前にあったはずの空がなくなる。
それは今の私にとって、ひどく恐ろしいことだった。私の未来を暗示してい
るようにすら思えた。
「どうしたの?」
私の顔が曇っているのを心配したさゆが、うかがうように笑顔を見せる。で
も、私はやっぱり、さっきのさゆのふくれっつらの方が、ずっとずっと優しか
ったような気がした。
でも、もし二人が、私に心を開いてくれていなかったとしても、それは仕方
のないことだと思った。
第一私には、二人に秘密にしていることがある。
- 14 名前: 投稿日:2004/11/07(日) 03:18
- >>9-13
まだ続きます。もう少しお付き合いください。
- 15 名前: 投稿日:2004/11/07(日) 03:20
-
- 16 名前: 投稿日:2004/11/07(日) 03:26
- 更新量が少なくて申し訳ないのですが、早めにレスをしたかったのであげてみました。
>>7 この話で優しい気持ちになってくれたことが、すごく嬉しいです。
>>8 ありがとうございます。良ければ、次の話も読んでみて下さい。
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 17:17
- おもしろそう。
しかし、随分と早い時間に投稿してますねw
- 18 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/09(火) 08:19
- お世辞にもお金をかけているとは言えないセットの中で、いつものように撮
影は進められていく。私の隣にはさゆがいて、絵里は矢口さんや高橋さんのそ
ばにいる。何気なくさゆに目を向けると、カメラの存在を忘れているのか、ぼ
うっと遠くを見つめていた。その視線を追っていくと、思っていた通り、絵里
に当たった。
今日はハロモニの収録で、それぞれチームに別れ、くだらない競技で順位を
競っていたのだけど、今は私たちの出番ではなかった。それでも、別なカメラ
は私たちを捉えていて、何もしていないときでも気を抜くことは出来ない。
さゆのわき腹を軽くこづくと、はっとしたように私の方を向いた。
「さゆ、なにぼうっとしてるの」
その問いに、さゆはしばらく何かを考えているようだったが、不意にふわり
と顔をくずすと、ようやく口を開いた。
「ごめん、ご飯食べたばかりで眠くなってた」
さゆはいつもほわほわと笑うから、それが照れているのか、困っているのか、
うまく判断することができない。それは嘘を見抜くこともできないということ
で、私の疑いは宙に浮いたまま、着地する場所を見失ってしまった。
- 19 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/09(火) 08:20
- 「ほら、次私たちの番だよ」
そう言って突然さゆに手を引かれたので、私はよろよろとバランスを崩して
しまう。ふと絵里に目を向けると、彼女は私がよろけた場面を見ていたのか、
すごく可笑しそうに、だけど可愛らしく、にこりと笑って見せた。絵里は、私
が手に入れることのできないものを、本当にたくさん持っている。
「さゆ、そんなに強くひっぱらんで」
私は絵里から視線を外すと、迷惑そうにさゆに言う。なるべく親密な響きを
持つように気をつけて。その後にもう一度絵里を見てみると、絵里は相変わら
ず優しい笑みを浮かべていた。
そのときだった。目の前がざらついた白いもやにおおわれ、私はもう一度横
によろめく。ふんばることもできないまま大きく体をふられた後、ぎゅっとま
ぶたを閉じた私は、いつのまにか柔らかな温かさにつつまれているのに気付い
た。まんまるく開いたさゆの瞳が私を見つめている。
「れいな?」
その視線から伝わってくる怯えの色に、私ははっと息をのんだ。
「もう。ひっぱらんでっていっとるっちゃろ」
なるべく笑顔を作りそう言うと、さゆはひとしきり私の全身を見た後、安心
したように笑い、
「ごめん、痛かった?」
と言った。
- 20 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/09(火) 08:21
- 目の前が突然白におおわれるのは、今回が初めてのことではなかった。数ヶ
月前に突然同じような症状が起こり、それからは周期的に何度もおとずれてい
る。だから、今回のように収録中に起こったとしても、焦らないで、平静を装
うことができる。
最初に起こったときのことを振り返ると、私は自分が本当に幸運だったと思
う。まず、自分の家で起こったということ。そして、福岡から出てきた私の、
面倒を見てくれているおじさんが、眼科を開業していたということ。
そして、そのときに起こったたった一つの不幸が、発作の原因がわからない
ということだった。
- 21 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/09(火) 08:21
- 収録が後半に近づいても、私の視界は相変わらず白いもやにおおわれていた。
最近、発作の間隔が短くなってきている。そのことをおじさんに告げたとき、
心配することはないよ、と優しく笑ってくれたのだが、それが私をはげますた
めだけの、根拠のない言葉だということに、私もうすうす気付いていた。
しかし、今回のように発作が長く続いたのは初めてのことだった。いつもな
らば、数分もすれば白いもやは消えてしまうのだが、今回はゆうに三十分はた
っている。
発作、と大げさな言い方をしてはいるけど、特に痛みをともなうわけではな
い。突然目の前が白いもやにおおわれ、次第に波が引くように、すうっと視界
を取り戻していく。
そこには肉体的な苦痛はなく、例えば深い海の底に引きずり込まれ、永遠に
空の青を見ることができなくなるような、ばくぜんとした恐怖があるだけだっ
た。
- 22 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/09(火) 08:21
- 「れいな、れいな」
体を押すかすかな感触と、か細いささやき声に、私はしばらくの間、思いに
ふけっていたことを知った。声の聞こえた方に目をやれば、さゆがいたずらに
笑っている。
「れいなこそ、ぼうっとしちゃだめだよ」
親の間違いを見つけた子供のように、嬉しそうにしているさゆに微笑み返す
と、絵の描かれたボードに目を向けた。私たちは、あのボードに描かれた絵が
何かを当てなければならない。
視界が白くにごっていると言っても、まったく見えなくなるわけではなかっ
た。霧がかかっているようなもので、近い距離ならば特に問題はない。
問題に答えようと目を凝らしていると、すうっと白いもやがひいていく。長
すぎた海底での時間の終わりにほっと胸をなでおろしていると、私の体は何故
か、海面近くのところで浮かび上がるのをやめてしまった。
- 23 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/09(火) 08:22
- 私は、片手で支えていた回答用のパネルを落とす。
「あ、すみません」
怪訝そうに私を見る飯田さんに頭を下げ、慌ててパネルを拾う。さゆと目が
合えば、瞳の奥に隠した不安を見抜かれてしまうような気がして、私はわざと
目を合わせなかった。
何度かまばたきをする。そうして、しばらく目をつぶった後にまぶたを開く
と、ひどい恐怖が私をおそった。
支えたボードがかたかたと小刻みにゆれる。右側から痛いほどにさゆの視線
を感じる。
私はなるべく大きく深呼吸をして心を落ち着けようとしたが、それは無駄な
ことでしかなかったようだ。時間がたてばたつほど、それは避けようのない事
実として私に重くのしかかってくる。
発作がおさまっても、私の視界にただよう薄い霧が、消えることはなかった。
- 24 名前: 投稿日:2004/11/09(火) 08:23
- >>18-23
続きます。
- 25 名前: 投稿日:2004/11/09(火) 08:23
-
- 26 名前: 投稿日:2004/11/09(火) 08:26
- 今回の話は少し長めでまだ続きますが、よろしければお付き合いください。
>>17 今回も早めの時間でした。笑 時間は不定期ですがよろしければまた読んでださい。
- 27 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/11(木) 05:47
- 真っ白な壁、真っ白な天井。誰もいない診療室で、おじさんは私の瞳の奥を
真剣にのぞき込む。何度かライトが点灯した後、おじさんはふうっと大きなた
め息をつき、両腕を下ろした。
私がまっすぐにおじさんを見つめていると、彼は何かを言いかけて、それを
のみこむ。そんなことを数回繰り返していたが、ようやく決心がついたらしく
口を開いた。
「れなの言うとおり、あまり、いい状況じゃない」
言葉を選ぶように、ゆっくりと話す。私は薄くもやがかった視界の中心にお
じさんを据え、目をそらさないようにじっとたえた。
「反応も悪くなっているし、視力も落ちてる。まあ、この程度なら日常生活に
支障は……」
そこまで言うと、私の真剣な表情に気付き、こほんと一つ咳ばらいをする。
私はまだ幼いし、体も小さかったが、たくさんの本当のことを聞けるように、
胸をはり、あごを引き、精一杯に強がっておじさんと対峙する。
- 28 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/11(木) 05:48
- しばらくしておじさんは、根負けしたようにうっすら微笑むと、すぐにまた
真剣な面持ちになる。
「原因は分からないけど、病気は進行してる。もういい加減兄さんや義姉さん
に病気のことを話したほうがいい。いいかい。これはれなが想像してるより、
ずっと大変なことなんだ」
そこまで一気に言い切ると、おじさんは今度こそ優しく微笑んだ。
「れなが言いにくいなら、おじさんから言ってもいい。いや、最初からそうす
べきだったんだ」
おじさんの手が、私の髪にふれる。そのまま髪をとかすようにゆっくりとな
でられると、おじさんの体温が頭のてっぺんから、すうっと全身に染みわたっ
ていくように感じる。その温もりの優しさに流されそうになるのを必死にこら
え、私はぶんぶんと大きく首を振る。
- 29 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/11(木) 05:49
- 「私から言う。大丈夫だから。おじさんからは言わないでください」
口をしっかりと結んで、おじさんを見つめる。おじさんは納得のいかない顔
をしながらも、最後にはしぶしぶと首を縦に振るよりなかった。
「まったく、これだから、れなに甘いっておばさんに馬鹿にされるんだよな」
照れ臭そうに頭をかいたおじさんを見ていると、私の中から少しだけ不安が
消えていくような気がする。
おじさんは私の右手の小指に触れると、自分の小指とからませる。そうして、
温かな笑みをたたえて言った。
「必ず親には言うこと。何かあったら隠さずに、おじさんに全部話すこと。約
束だよ?」
- 30 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/11(木) 05:49
- おじさんとの話の後、自分の部屋に戻ると、私はベッドに倒れこんで、携帯
のディスプレイを見つめる。そこには、福岡の家、と表示されていて、しばら
くそのまま、ぼうっとその文字を眺めていた。
私がこの病気を発症してから、まだ親には何も打ち明けていない。私は福岡
の家も家族も本当に大好きだったから、一度弱音をはいてしまうと、もう二度
と立ち上がれないような気がした。
それでも私はようやく、通話ボタンに手をかける。おじさんの優しい声が何
度も耳の奥によみがえり、それは私に小さな勇気をくれた。
数秒待つと呼び出し音が流れ出す。その音が耳に入り込んだ瞬間、私は無意
識のうちに通話を切っていた。
私は自分の弱さに大きくため息をつき、携帯をベッドに放り投げた。手のひ
らがじっとりと汗ばんでいる。
明日でいいやと自分を納得させ、大きく伸びをしたときだった。聞き覚えの
あるメロディーがゆっくりと部屋に響きわたる。携帯電話をのぞくとそこには、
福岡の家、と表示されていた。
私はごくりとつばをのみこんだ。そうして、おそるおそる通話ボタンを押す。
- 31 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/11(木) 05:50
- 「もしもし」
私はなるべく慎重に声を出す。動揺が悟られないように。お母さんの想像し
ている、幸せな子供のままでいられるように。
「もしもし、お母さんやけど」
予想通りの声。思わず受話器を握る手に力が入ったから、私はそっと深呼吸
をした。
「どうしたの?」
「今電話が来たったい。れいなやなかと?」
「……ううん、私じゃない」
私は何度も何度もおじさんの声を思い出す。お母さんの声が聞こえなくなる
くらいに。今の私にとって、お母さんの声は優しすぎる。
「元気しとうと」
「うん」
「病気、せんとね」
「……うん」
「おじさんに、優しくしてもらっとるっちゃろ」
「うん……うん」
このたった数秒のやり取りの間に、私は何回も耳をふさいだ。それでもお母
さんの声は私の指先をすり抜け、鼓膜を通り、体の奥の方へと吸い込まれてい
く。
- 32 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/11(木) 05:52
- 「お母さん!」
「なに?」
携帯電話から優しい声がもれる。
「あのね、私、私……」
そこで言葉が止まる。私は必死の思いでその先の言葉をのみこむ。それが飛
び出さないように黙ったままでいると、つばをのむ音が聞こえた。
「なにか、嫌なことでもあったと?」
お母さんの声が急にしぼむ。遠い福岡で受話器を握るお母さんは、いったい
どんな顔で、私の言葉を聞いているだろう。
私は、のみこんだ言葉をさらに深く閉じこめて、もう一度口を開く。
お母さんに私の顔は見えないけど、精一杯に笑った。
「私、もうすぐ帰るけん、だから…だから、焼肉たくさん用意して待っとって」
そこまで言い切って、私は大きく息を吐いた。電話の向こうからも、安堵の
ため息が聞こえる。
「たくさん用意して、待っとるったい」
お母さんがそういった後、私たちはどちらともなく笑い出した。
- 33 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/11(木) 05:55
- それじゃと言って電話を切った私は、気付かぬうちにベッドの端に腰かけて
いた。もう一度ベッドに倒れこむと、両手をいっぱいに伸ばし、天井を見上げ
る。
たれさがった蛍光灯の紐が、ゆっくりと円を描き、揺れていた。その先をじ
いっと見つめていると、視界がどんどんと真っ白に染められていくような錯覚
におそわれる。
私は慌ててかぶりを振り、目の前を覆った白を消す。それでも白はうっすら
と残っていて、私は改めて自分の視界が削られていることを知った。
私の手から、携帯電話がするりと落ちる。
もやがかった視界の先に浮かべたお母さんの顔は、何も知らないまま、幸せ
そうに微笑んでいた。
私の大好きな、お母さんの笑顔。
ずっとずっと笑っていてくれたらいいのに。
蛍光灯の明かりを消し、布団にもぐりこんで、私は少しだけ泣いた。
- 34 名前: 投稿日:2004/11/11(木) 05:57
- >>27-33
続きます。
なかなか他のメンバーが出てこず退屈だとは思いますが、
もう少しお付き合いください。
- 35 名前: 投稿日:2004/11/11(木) 05:57
-
- 36 名前: 投稿日:2004/11/11(木) 05:57
-
- 37 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/11(木) 23:53
- そうきましたか……。
続きを楽しみにしています。
- 38 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/24(水) 08:13
- 今日も空はにごっている。
病気が進行し始めた日から私は、こうやって屋上でぼんやりすることが多く
なった。
空が青から赤に変わること。雲がゆったり流れていくこと。何でもないこと
が幸せなのだ、とは誰から聞いた言葉だったろう。
私は両手をいっぱいに広げ、空を感じる。ゆったりとした風がニットの裾を
ゆらした。はるか下に広がる大地ににおりたてば、あるいは無風なのかもしれ
ない。
視界いっぱいに広がる空をしっかりと覚え、私はまぶたをとじる。とたん、
視界は一面闇にそまる。でもそれは完全な暗闇ではなく、柔らかな日差しをぼ
んやりと感じることのできる闇だ。私は安らかな心でまぶたの外側にある世界
を想像することができる。目を開きさえすればそこには例外なく太陽がぽっか
りとうかんでいると知っているからだ。夜が終われば朝が来るみたいに。
- 39 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/24(水) 08:13
- しばらくして、私は暗闇の中、外に広がっているはずの青と、流れる雲と、
溢れるように降りそそぐ陽射しを思い出す。それはあっというまに私の目の前
に作り出され、何一つ失っていないことを実感する。
目を開けると、私が思っていた通りの世界があった。
もし私の瞳が光を失うとして。私がとっさに思いついた恐怖は空をなくして
しまうことだった。
そこにあるはずのもの。雲のすきまを縫って、風にゆったりと流され、私の
もとにこぼれ落ちる太陽。
ちっぽけな私を包み込んでいる空がなくなってしまうということは、漠然と
した恐怖を私に運んできた。
- 40 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/24(水) 08:14
- それと同時に、もっとはっきりとした悲しいことがあるのだということも、
私は知っている。
例えば福岡の家族のこと。
私はぼんやりと大好きなお母さんの笑顔を思い出す。その笑顔がもうすぐ曇
ってしまうという予想は、私に深い悲しみを与える。
例えばおじさんとおばさんのこと。
私の中にすっと吸い込まれていくおじさんの声は、多分ずっとこれからも、
私を温かな気持ちにさせてくれるだろう。五年たっても、十年たっても。でも、
私はきっとその笑顔を忘れてしまう。ゆるやかな恐怖と悲しみの中で。
例えばさゆのこと。
- 41 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/24(水) 08:14
- 「れいなぁ、いるー?」
今日もいつもと同じように、ドアの方からさゆの声が聞こえてくる。
どうやら私を呼びに行くのはさゆの役目、という暗黙の了解ができてしまっ
たらしく、さゆはぶーぶーと文句を言いながら、いつも私をむかえに来る。さ
ゆには気の毒だったけど、私はそれが嬉しかった。
「いるよ」
私はそっけなく答える。そうして風の音を聞く。
さゆの声が空気にとけて、風といっしょに流れてくるのがわかる。私はその
響きを聞くのが好きで、ついついここにいすぎてしまう。
「もー、たまには自分で時計見て」
だから、そういうさゆの言葉に苦笑するほかなかった。
- 42 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/24(水) 08:15
- 早く行こう、とせかしながらも、さゆは私の隣に腰をおろすと、ぼうっと空
を見上げた。私はそれが嬉しくてさゆに声をかけた。
「今日曇ってるけどね。このくらいが一番いいよ」
太陽と、雲と、風と。青いキャンパスいっぱいに描かれた景色は、私を安心
させる。
だけどさゆは、え、と呟いて、驚いたように私を見た。
「雲ってどこ?」
「あそこと、あそこと、あそこ」
私は一つ一つていねいに、雲のありかを教えてやる。視界が白くぼやけてい
るせいで雲を探すのが大変だったけど、隣で見ているのがさゆだったから、そ
れは決して嫌な作業じゃなかった。
- 43 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/24(水) 08:15
- そこまで考えて、私ははっとする。さゆを見た。
「れいな……?」
さゆは目を大きく開き、私を見ている。私は慌てて視線を空にやった。雲だ
と思っていた白い染みは、私が視線を移動させても、変わらず同じ位置にあっ
た。
「えっと、これは、その」
私の言葉もきかずに、さゆは何かを考えている。しばらく黙ったままでいた
けど、信じられないといった表情になって、私に視線を戻した。
「れいな、まさか、目」
多分さゆは、たくさんのことを思い出したのだろう。私と一緒にすごすうえ
で見落としていた、たくさんのこと。さゆの中にたまったいくつかのささやか
な疑惑は、おそらくそれ単体では取るに足らないものだったのだろうけど、て
いねいにつなぎ合わせていけば、立派な絵になった。
私が何も言わない時間がすぎればすぎるほど、さゆのぼうっとした笑顔が情
けない顔にかわっていく。
何かを言わなければならない。
たまらなくなって空を見上げると、背後から扉の開く音がした。視界にこぼ
れた白い染みはきっかりと三つだけある。
- 44 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/24(水) 08:15
- 「おーそーいぃー!」
絵里だった。いぃー、のところで口をめいいっぱいに横に広げると、つかつ
かと私たちの横まで歩いてくる。
さゆと目が合った。明らかに戸惑った表情を見せるさゆに私は、言わないで、
と声に出さずに伝える。絵里には見えないように、注意ぶかく。
「もぅ先輩たちカンカンだよー! 怖いー!」
体をくねくねとひねらせながら言う絵里に、わかったわかったと微笑んで、
私は扉に向かい歩き出した。
絵里もすぐ後についてきたけど、さゆはなかなか動かなかった。
「どうしたの?」
絵里がかわいらしく首をひねって見せると、さゆは慌てたように顔を上げ、
笑顔になった。ぱあっと周りを明るくさせる笑顔はしかし、彼女らしい笑い方
ではなかった。
- 45 名前:空をなくす 投稿日:2004/11/24(水) 08:15
- やわらかな風が屋上をおおって、私たちの髪がふわりと空に舞う。その隙間
からあふれ出る光がとても綺麗で、私は真っ青なはずの空を見上げた。つられ
て二人も私が見ているのと似た空を見る。ほとんど同じで、だけど少しだけ違
って見える空を。
気持ちよさそうに目を細める絵里の横で、さゆはほとんど泣き出しそうな表
情をしていた。私はさゆの笑顔が大好きだったから、いつものようにぼうっと
笑っていてほしかった。でも、さゆが私の作った檻の中に入ってくれるのなら、
泣き顔のさゆでもいいと思った。私はさゆを失ってしまうことが本当に怖かっ
たのだ。
二人に隠れるようにしてひっそりと笑った私の顔を見ていたのは、きっと悲
しいくらいに青に染まった、秋の高い空だけだっただろう。
でも、全てを見透かすように広がるこの空は、私の心のずっと奥にひそむ悲
しみに気付いていただろうか。
- 46 名前: 投稿日:2004/11/24(水) 08:16
- >>38-45
続きます。
- 47 名前: 投稿日:2004/11/24(水) 08:17
-
- 48 名前: 投稿日:2004/11/24(水) 08:19
- 更新が遅くなりました。すみません。
>>37 レスありがとうございます、励みになります。よろしければ今回も読んでみてください。
- 49 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/24(水) 21:44
- なんか、すごく引き込まれます。
- 50 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/11/25(木) 17:35
- 続き期待してます
- 51 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/28(日) 22:13
- 切ないけど綺麗な世界観が好きです。
- 52 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/06(月) 12:02
- あれから、私はさゆと過ごす時間が長くなった。
さゆはきっと絵里とも一緒にいたかったのだろうけど、私が側にいて、と言
うと、嫌な顔一つ見せずにずっと側に寄りそっていてくれた。
私はまた、これ以上誰にも広めたくない、とも言った。だから絵里にも話さ
ないで、と。それはもっともらしい話だったし、結果として絵里は私たちでは
なく先輩たちと話す時間が長くなった。だからさゆは、私が考えていた本当の
ことを知らない。
そういう一つ一つのことが、さらにさゆを愛しくさせる。
たぶん自分でも気付かないうちに、心がやせ細ってしまっていたのだと思う。
そして、それを支えてくれる優しさが、たった一つだと思い込んでいた。
- 53 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/06(月) 12:02
- さゆと一緒にいる私は、いつも以上に周囲の様子に敏感になる。何気ないふ
りをして辺りを見回していると、石川さんと話している絵里と目が合った。
私がどうしていいのかわからなくなり目を伏せかけると、絵里はいつものよ
うににっこりと笑った。それがどういう意味を持っているのかはわからない。
でもむしょうに悔しくなって、私はさゆに向き直り、くだらない冗談を言って
笑わせる。
私が絵里に対して抱いている感情について、私自身ですらよくわかっていな
かった。そんな私が、今の絵里の気持ちをわかるはずもない。
- 54 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/06(月) 12:03
- 散歩に行こう、という話になる。
目を悪くしてからの私は、それ以前からは考えられないくらいに、外で過ご
す時間が多くなった。野原で寝そべってみたり、水のせせらぐ緑道を歩いてみ
たり。
流れる景色、水面のゆらぎ、こぼれる陽射し、空。
たくさんのものをこの目に焼きつけるために、私は色んなところへ行った。
もちろん、朝でも夜でも関係なく。
そうして私は、移り変わる景色と同じぶんだけの空があることに気付いた。
青の空、雨の空、茜に染まる空、吸い込まれそうなほどに遠い星空。言葉では
言いあらわせないくらいにたくさんの空にであったから、私は、さゆにそのこ
とを話そうと思った。
- 55 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/06(月) 12:03
- 「こうやって空を見上げてると、自分の悩みとかちっぽけに思えてくる」
私はゆるやかな丘のてっぺんで、空に向かって言う。さゆに伝えようと思っ
ていたたくさんのこととは少し違う気がしたけど、それでもいいかと思った。
足元に長くのびる雑草は、吹き付ける風にゆらゆらと揺れながらも、大地か
らけっして離れない力強さがあった。それを目で追っていると、真っ白なさゆ
のスニーカーにぶつかる。さゆの身につけた白は、私の視界にあるたくさんの
白の中でもまっさきに意識にとびこんできた。
「おっきぃー」
私につられるようにして空を見上げていたさゆは、ただそれだけを言った。
私は自分の考えていることが全部さゆに伝わった気がして、たまらなく嬉しく
なる。カサカサという草のこすれあう音も耳に心地いい。
- 56 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/06(月) 12:04
- 目を閉じても、降りそそぐ陽の光や、緑が風にゆられ身をふるわせている音
を感じることができる。私が光を失ってしまっても、私の周りにある全てのも
のは変わらずに私を見守っていてくれる。
それはとても素敵なことだと思った。そして、そう考えることができるのは
きっと、さゆが側にいてくれるからだ。
しかしさゆは、目を開いた私の前から忽然と姿を消していた。私は慌てて辺
りを見回す。
不自由な視界の中で必死にさゆの姿を探していると足元から、れいなぁ、と
いう声が聞こえた。さゆはにこにこしながら、草の中にうもれて、気持ちよさ
そうに伸びをしている。
「さゆ……」
私はその声に安心してへたりこんでしまう。あったはずのものがなくなって
しまうというのは――実際にはなくなってすらいないのに――これほどまでに
怖いものなのかと改めて知ったような気がした。
- 57 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/06(月) 12:04
- このままではあまりにも格好が悪いので、私はなんとかふんばって腰をあげ
ようとする。それでも私の体はちっとも動きやしなかったから、あきらめてさ
ゆと同じように草むらにねっころがった。
さゆのまつげ越しに黄色いコスモスがのぞいた。太陽にぬれてキラキラと光
っている。さゆはそれがまぶしかったのか、んんっと言って何度かまばたきを
した。
「やっぱりこうやってぼーっとするのはいいね」
「さゆ、いつもこんなことしとうと?」
「うん、しちょー」
初めてのやり取りのはずなのに、何故だかとても懐かしいような気になった。
そんなふわふわとした空気に抱かれながら、私とさゆは大きな空に心をうばわ
れていた。
吸い込まれそうな青、まぶしい陽射し、ゆったり流れる真っ白な雲。それは
完璧な昼下がりの風景。どれが本当の雲なのかすら、私にはもうわかりはしな
いけど。
- 58 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/06(月) 12:04
- 楽屋に戻ると、そこは相変わらず騒々しいくらいににぎわっていて、私とさ
ゆはなるべく目立たないように部屋のすみへと歩いていった。途中小さな段差
につまずいてしまった私を、さゆが慌てて受け止めた。
あまりの情けなさに苦笑いでさゆを見上げると、さゆは困ったような、それ
でいて優しい表情で微笑んでいた。それはいつもみたいにぼうっとしてとぼけ
た感じの笑い方ではなかったけど、私の心にじわりとあたたかく広がっていく。
もう大丈夫だからと私を支えるさゆの手をどけて、再び歩き出す。
なんとなく視線を感じて振り向くと、思っていた通りに絵里と視線が合った。
そして、これもまた予想通りに、絵里はいつもと変わらないほがらかな笑みを
たたえている。
- 59 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/06(月) 12:05
- 絵里はさゆが私を選んだことに怒りを感じてはいないのだろうか。突然自分
のもとを去っていったことに疑問を感じてはいないのだろうか。
もしかしたらそんな感情すら抱かないほどに、絵里は完璧な人間なのかもし
れない。絵里は私が持っていないものを全て持っている。私が自分を汚いとの
のしればののしるほど、彼女はどんどんと美しい人間に近づいていくのだ。
自分の中にうずまいている言いようのない感情に包まれてしまうのが怖くて、
私は絵里から視線を外す。
瞬間、私はさゆの顔もわからなくなるくらいの吹雪におそわれた。それは今
までに経験したことのないほどに強く寒々しい吹雪だった。私は真っ白に染ま
ってしまった視界や、ぐわんぐわんと意識をゆさぶられる感覚にたえられなく
なって大きくバランスをくずす。そして、一人取り残されてしまった無の世界
から助けを乞うように、必死で手をのばした。
- 60 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/06(月) 12:06
- >>52-59
続きます。
- 61 名前: 投稿日:2004/12/06(月) 12:06
-
- 62 名前: 投稿日:2004/12/06(月) 12:11
- 相変わらず更新が遅くて申し訳ありません。
たくさんレスをいただいだおかげで、気持ちよくかけます。ありがとうございます。
>>49 もっともっとこの世界に入ってもらえるように頑張ります。これからも是非読んでください。
>>50 これからどんどん展開する予定です。期待にそえればいいのですが。
>>51 おかしな空気感かな、と思っていたのでそう言ってもらえると救われます。
- 63 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/08(水) 23:51
- れいなも切ないけど周りも(特にさゆが)切ないですねぇ。
どうなるのかドキドキして待ってます。
- 64 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/10(金) 17:16
- やばいなーどうなるんだろう
更新の速度は気にせず、がんばってください
- 65 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/15(水) 15:00
- しだいに白い波は引いていき、私の周りに光とざわめきがもどってくる。そ
こで初めて、私の体が未だにバランスを保っていることを知った。目の前には
さゆの顔。泣きそうな顔で、でもそれに必死に耐えて、私に笑いかけていた。
「れいなはおっちょこちょいだからなぁ」
そう言ってさゆは抱きとめていた体を離してくれる。私の右手だけは、決し
て離さずに。
もし私が閉じ込められた世界のすぐ外側にさゆがいてくれなかったら、どう
なっていただろう。私は力ない右手を伸ばしたまま、永遠に真っ白な世界をた
だよっていたのだろうか。
不意に、絵里の顔が浮かんだ。絵里ならきっと闇にのまれてしまった私の体
を右手ごと引っ張りだしてくれる。
でも実際に私のそばにいたのはさゆで、絵里は私を救ってはくれなかった。
それが全てなのだと思う
- 66 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/15(水) 15:01
- 私はもう一度めまいをおこしたふりをして、さゆにもたれかかる。さゆはム
チにでも打たれたかのようにびくりとして、私を抱きかかえる。
「れいな、れいな、大丈夫? れいな!」
さゆは慌てて私をゆさぶる。私はうっすらとまぶたを開け、さゆを見上げる。
目をまんまるにして慌てるさゆとうっかり目が合ってしまい、思わず私は笑い
声を上げた。
「ごめん、じょーだんだから」
「な、なにしちょー!」
「ぷぷ、なんもしとらん」
- 67 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/15(水) 15:04
- 珍しく真っ赤になって怒るさゆに満足しながら、無意識のうちに絵里の姿を
探す。こんなこと自慢になりはしないけど、私は絵里を見つけるのが早い。ど
んなに人が多い場所でも、私の目はあっさりと絵里をとらえる。そうして、全
く同じタイミングで絵里も私を見つけ、晴れやかな笑顔を見せる。
だから、今回もすぐに絵里の姿を見つけることができた。私の大切なこわれ
物の瞳。
だけど今回、絵里は微笑んではくれなかった。苦々しくまゆをひそめ、私た
ちの様子をうかがっている。
私は体の力を抜き、未だ真っ赤な顔で怒っているさゆに体重をあずける。そ
して、絵里を見てにぃっと笑ってやる。
絵里は目をそらさない。さゆは、もー、と牛のような声をあげて、それでも
私を離さなかった。私は大好きなさゆの温もりに包まれている。さゆの胸元に
力いっぱい頭をこすりつけると、彼女はまたしても不満げな声をあげた。
さっきの発作で私の目はますます悪くなっている。そんなことも忘れるよう
に、私は声を出して笑った。
- 68 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/15(水) 15:05
- さゆのいない時間はつまらない。さゆは別な場所で仕事があるらしく、ごめ
んね、と申し訳なさそうに笑うと、石川さんと一緒に楽屋を出ていった。
あまりにも暇だったから、見慣れたはずの楽屋を見渡してみる。この大部屋
は私たちがここの現場にくるたびによく使う場所で、物の配置から大体の広さ
まで、大抵のことは覚えていた。
畳の床。壁際に広がる鏡とそれにそって取り付けられた化粧台。真ん中には
私たち全員がお弁当を広げられるような、大きな机がある。
これらは全て、あるはず、のものだ。今の私にはもうテーブルの大きさはお
ろか、鏡に映る自分の顔ですらまともに見ることはできない。
- 69 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/15(水) 15:09
- 怖い。
とっさにそんな言葉が浮かんで、私はあわててかぶりをふった。どうして今
さら。お母さんにも、おじさんにも頼らずにずっと一人で耐えてきたのに。
怖い、怖い怖い。怖いさゆ怖い助けて。
頭の中に一人の少女の笑顔が浮かんで、私はがくぜんとする。こんな簡単な
ことを忘れていたなんて。ごくりと息をのむ。
私はずっとさゆに支えられていた。
それに気付いてしまった私は、もう駄目だった。さゆがいないことが怖くて
涙がこぼれそうになって、それでも必死で耐えようとした。お母さんを思って
泣いたことはあっても、光を失ってしまう恐怖で泣いたことはなかった。それ
が、私の持つたった一つの武器だと思っていた。
私は手をぎゅっと握り締め、お腹に力をこめ、まぶたを閉じる。それでも一
度流れ出してしまった恐怖の波はおさまることがなく、潮がみちるように徐々
に体を浸食していく。そして、あっと思うまもなく大きな波が私を全部のみこ
んでしまった。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖――
- 70 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/15(水) 15:11
- 「れいなぁ」
私ははっとして声がした方を見る。私はまだ取り返しがつかないような海の
底に流されてはいなくて、かろうじて足がつく浅瀬をただよっていた。私を救
い出してくれたのは誰だろう、と考えるが、そんなことは考えるまでもないの
だと何故か思った。
「絵里、なにか用?」
私は精一杯に強がって、絵里に笑顔を作ってやる。海から引きずり上げられ、
濡れた姿でせきこんでいる私は、上手く笑えているだろうか。
- 71 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/15(水) 15:13
- 「今平気かなぁ? 時間ある?」
「どうしたの? さゆはいないよ」
「今日は天気がいいから、屋上にでも行こうよ。多分すっごく気持ちいいよー!」
「悪いけど、ちょっと今は――」
「話があるの」
来た、と思う。私とさゆはいつも一緒にいて、絵里はそれをずっと遠くから
見ていた。いつもいつも悔しくなるくらいの、私には作ることのできない笑顔
で私たちを見つめてくるから、私も必死でさゆに甘えた。
だから、今日笑顔が消えたとき、そろそろかなと思ったのだ。絵里はきっと
さゆを取り戻しに来る。そしてそれは、さゆのいない今しかなかった。
「わかった、行こう」
私はうっすらと笑みを浮かべ絵里の後に続く。こっちだよ、と言って私の手
を引く絵里の温もりが、ずいぶんと久しぶりのものに感じた。
- 72 名前: 投稿日:2004/12/15(水) 15:15
- >>65-71
(まだ)続きます。
- 73 名前: 投稿日:2004/12/15(水) 15:15
-
- 74 名前: 投稿日:2004/12/15(水) 15:18
- ようやく亀井さんについて少し書くことが出来ました。
本当はとっくに終わっていたはずの話なのにだらだらと長くなってすみません。
>>63 何をするにしても「自分一人だけのこと」では済まないのが難しいですよね。
>>64 ありがとうございます。相変わらず遅かったですけども、見捨てないでいただければ幸いです。
- 75 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/15(水) 19:22
- 更新お疲れ様です。
ついに絵里ちゃんが動きましたね。
どうなるのか楽しみにしてます。
- 76 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/15(水) 23:08
- 飼育にくるとここを最初にチェックしてます
更新乙っす
- 77 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/17(金) 16:09
- 「いい天気だね」
絵里がまぶしそうに目を細めて、空を見上げる。私は白い染みのすき間から
のぞく絵里の笑顔にみとれてしまう。私もこんなふうに笑えたらいいのに。多
分、そう思っていたころもあったはずだ。
「話ってなに?」
そんなことを考えてしまうのが嫌で私は絵里の話をうながした。だけど、絵
里はそんな私の気持ちもお構いなしに背すじを伸ばして、気持ちよさそうに太
陽の光をあびている。
私はいつまでこの空を見上げていられるのだろう。降りそそぐ陽射しを、こ
の瞳の中に入れてやることができるのだろう。そういえば、先ほど絵里は天気
がいいと言っていた。
私の視界へコンデンスミルクのようにべっとりと塗りつけられた染みは、い
つのまにか太陽の光すらも通さないくらいに、じわじわ私をむしばんでいた。
その染みをかいくぐって飛び込んできた陽の光にだけ、私は外側の世界を感じ
ることができる。
風が吹く。ばさばさとパンツのすそがくるぶしを叩いているのがわかる。絵
里の髪が私の頬をかすめ、思った以上に近くにいるのだと知った。
- 78 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/17(金) 16:09
- 「確かれいなって空が好きなんだったよね」
「ん、そーだけど。さゆから聞いたの?」
思わず顔が歪んでしまうのも押さえられず、私は絵里に向きなおる。
当然のことだけど、さゆといつも一緒にいるとは言っても、それは二十四時
間常に二人で過ごしているというわけではない。私が一人で別な仕事場に行く
ときもあれば、さゆが家に帰った後に絵里と電話をすることもできる。
でも、そんな私の気も知らず、絵里は相変わらず空を眺めているようだった。
「違うよー。忘れたの? 前に教えてくれたじゃない。とっておきのことを教
えるよーなんて顔してるから、なんだろうって期待してたら、空ってすごくき
れいっちゃよ、なんて言ってさー」
すごく期待はずれだったんだから。そう言いながら微笑んだ絵里の顔は、何
故だかとても嬉しそうに見えた。
- 79 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/17(金) 16:09
- 「覚えてたんだ」
「当たり前だよー。なになに私が忘れてるとでも思ったの?」
「その変なかっこうやめなよ。くねくねくねくね。石川さんみたい」
「なによぉ、れいな、石川さんのこと好きって言ってたじゃん」
「絵里がやるとキモイ」
「なによー!」
私はあまりにもくだらないやり取りについつい笑い出してしまう。そういえ
ば心から笑ったのはいつ以来だろう。しかもその相手がさゆではなく絵里にな
るだなんて、これっぽっちも考えはしなかった。
だから私は少しだけ油断をしていた。
- 80 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/17(金) 16:10
- 「それにしてもほんとにいい天気だよねぇ。真っ青」
そう言った絵里の声に空を見上げると、私の目には無数にちらばる白い雲が
映った。
私はごくりとつばをのむ。さゆに目の病気がばれてしまったときのことを思
い出した。あの日も確かこんな風に気分がよくなって、うっかりと雲の存在を
口にしてしまったのだ。そして結果的に、さゆにはひどく重荷を背負わせてし
まうこととなった。
私は一度まばたきをして、その後に笑顔で絵里に顔を向けた。
「ほんとだね、すごくきれい」
絵里の顔が一瞬固まった後、不自然にゆがむ。
「れいな、目、どうしたの?」
その言葉を聞いた瞬間、私は時が止まったかのように錯覚した。血液が全身
を逆流してぐるんぐるんと体の中をめぐっている。何も考えられない私は、た
だ口を開くだけで、言葉と呼べるものを発することはできなかった。
- 81 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/17(金) 16:12
- どうしてだろう。何もわからなくなってしまった私はあわてて空を見る。何
度も何度も視線を往復させると、大空には無数の雲が散らばっていることがわ
かった。今日はちっともいい天気なんかじゃない。
「絵里……嘘、ついたの?」
「ごめん」
そう言いながらも、絵里はちっとも悪びれた感じではなくて、普段のにこに
こした顔からはとうてい想像もつかないような、凛とした面持ちで私を見つめ
ていた。時として、自分よりも年下なのではないか、と思ってしまう少女の顔
がとても大人びたものに見えた。
「……どうして?」
私はさらに狭まる視界のすき間から必死に絵里の顔を見る。絵里はその大人
びたまなざしのまま、私をふわりと包み込んだ。
「なんで? なんて言ってくれなかったの?」
震える声が私の耳もとでつむぎだされる。彼女の力は思っていたよりもずっ
と強くて私は、痛いよ、と声をもらした。
- 82 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/17(金) 16:13
- 「さゆは、知ってるんでしょ? れいなが……その、見えなくなっていること」
「うん」
「そっか」
絵里の声は悲しみにみちていた。その悲しみがどこからきているのか、何と
なくわかるような気がしたし、それは全く見当違いであるかのようにも思えた。
肌寒い空気とは正反対の絵里の吐息がくすぐったかった。でも、私はそのまま
でいた。
「ずっと、心配してたんだから。れいなどうしたんだろうって。ずっと様子変
だったし。普段はしないようなミスもするし、笑顔だってこわばってるし。で
も、目が合うと笑ってくれるから、さゆも傍にいてくれてるから、だから、私
に話してくれるまで待とうって、思ってた」
私は驚いて絵里を引き離そうとする。私はずっと、絵里は私とさゆのことを
快く思っていなくて、私たちに意識をやっているのだと思っていた。
でも、絵里は私を離してはくれず、ますます力を込めて私を抱きしめた。
- 83 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/17(金) 16:14
- 太陽が沈んできているようだ。わずかに見える明かりがほんのりと赤みをお
びてきて、頬をなでる風も鋭さを増している。
絵里はずっと私を抱きしめている。私は、何の言葉もかけられず、何の言葉
も受け止められず、ただ黙って絵里の温もりの中におさまっていた。
頬にひやりとした冷たさを感じ、目を凝らしてのぞきこむと、絵里の瞳がう
っすらと滲んでいた。仕方ないなあと思い、自由のきかない右手で絵里の頬を
ぬぐってやろうとすると、私の頬にも一すじの雫が伝った。
「れいな、今どれくらい見えないの?」
「わかんない。でも、絵里を見るのもちょっと辛いかも」
「そっか」
絵里はそう言うと、もう一度ぎゅうっと私を抱きしめた。そしてようやくそ
の手をほどき、代わりに私の頭を優しくなでた。
「えらかったね。こんなにこんなに辛いのに、よく我慢したね」
絵里は私の髪をとかすように、優しくゆっくり手をすべらせていく。その部
分が熱を持って、太陽の赤さにとけこんで、私のなかにすべり落ちていく。
「……っく、絵里、えりぃ、」
「ほんとうに、ほんとうに、偉かったね」
「えりぃ……」
太陽がしずんでいく。ゆっくりゆっくり、柔らかな稜線を描いて西の街にし
ずんでいく。
私は、夕闇に落ちていく屋上で、とうとう泣き声をあげた。ずっとためてい
たものがぼろぼろとあふれ出してきて、大声で泣いた。絵里は私が泣いている
間、ずっと抱きしめていてくれて、ときおりあやすように髪をなでた。
- 84 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/17(金) 16:14
- 辺りがぐんじょう色に染まりだし、太陽以外の光が目立つようになっても、
屋上には誰も訪れる気配がなかった。きっと絵里が言っておいてくれたのだろ
うと思った。
私はようやく顔をあげ、大人びた絵里の顔を見つめた。その姿を記憶に焼き
付けようと目を凝らすと、絵里はやはり私にはできないような大人びた表情を
していた。
付きものが落ちた私の心にはもう、私が以前どんなフィルターを通して絵里
を見つめていたのかがわかっていた。
私は絵里にあこがれていた。私にはできない表情をする絵里も、大好きなさ
ゆに好かれている絵里も、全部私には手の届かないものだと思って、だけどず
っとあこがれていた。
「れいな」
「ん?」
絵里の声が聞こえたから、私は絵里の瞳の位置に視線を合わせる。
「これからは一人で抱えこまないで。私もいるし、さゆもいる。頼りにならな
いかもしれないけど、私たちはずっと一緒だったじゃん」
「……うん、わかっとるよ」
- 85 名前:空をなくす 投稿日:2004/12/17(金) 16:16
- 私は、大して見えもしない空を見上げて、それでもまだ見える部分があるこ
とにほっとする。雲のすき間にうっすらと星が浮かび上がっていたから、全部
を吸い込むように大きく伸びをした。
「今度みんなで、星空を見たいな。もっとちゃんとしたぶわーっとした星空」
「ぶわーって! あはは、その表現へんだよ」
絵里は相変わらず石川さんのようなポーズをとって、くすぐったそうに笑っ
た。つぼに入ってしまったらしく、その笑い声はどんどんと大きくなって、そ
れにつられて私まで笑い出してしまった。晩秋の空にむかって、私たちの笑い
声がしんしんと浮かび上がっていく。
私は絵里やさゆのいるモーニング娘。に入れて本当によかったと思った。そ
して、モーニング娘。が大好きだから、これからたくさんのことを考えて、大
切な決断しなければならない、そう思った。
- 86 名前: 投稿日:2004/12/17(金) 16:16
- >>77-85
ようやく中盤のクライマックス。
- 87 名前: 投稿日:2004/12/17(金) 16:16
-
- 88 名前: 投稿日:2004/12/17(金) 16:20
- レス本当にありがとうございます、嬉しいです。
おかげで、ようやく書きたかったシーンまでたどり着きました。
>>75 亀井さんの見せ場、終わりました。ずっとこのシーンをお見せしたかったです。
>>76 すごく嬉しいお言葉です。本当にありがとうございます。
- 89 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/17(金) 19:00
- 綺麗な友情ですね、癒されます。
れいなの考える大切な決断・・・注目ですね。
- 90 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/18(土) 14:52
- 正直やばいっす。やばいほど気になります。
本当にありえそうなことだからリアルでもれいなを心配してまう…orz
- 91 名前:名無飼育さんα 投稿日:2005/01/03(月) 15:32
- 亀井がとても大人で新鮮ですね。
次回更新が楽しみです。
- 92 名前:空をなくす 投稿日:2005/01/17(月) 11:19
- 夢を見ていた。
何もないまっさらな空に放り出された私は、初冬の匂いのちらつく凛とした
風に流されながら、ふわりふわりと漂っていた。視界はどこまでもひらけてい
て、ずっと遠くに海があるのが見えた。地球のちょうど反対側では一歩先すら
見えないほどの雪が吹きあれていたけど、私には関係のないことのように思え
た。
しだいに太陽はその高さを下げていって、当たり前のような顔で夜が姿をあ
らわした。「やあこんにちは」そう声をかけられたから「こんばんは」と返し
た。思っていたとおり夜は常識がない。
私は太陽の代わりに夜があらわれたことによって、真っ黒に染まってしまっ
た空をながめる。たくさんの種類の星が体をふるわせながら、いっせいに夜空
に明かりを灯す。
- 93 名前:空をなくす 投稿日:2005/01/17(月) 11:19
- 「君はいつもそこにいるね。調子はどうだい?」
相変わらずのなれなれしい口調に、私は辟易してしまう。いつも私に知的な
話し方をする太陽と比べて、夜には常識というものがない。だけど、私は夜空
に憧れていた。私もあの中の星の一つになりたいと思っていた。世界に光を与
えながら、燦燦とそびえる太陽ではなく、一人ぼっちでたたずむ月のような。
そうしてまた朝は訪れる。月はどんどんと遠ざかっていって、代わりに再び
太陽が訪れる。「おはよう」という太陽の声に、私はにっこり「おはよう」と
返した。
- 94 名前:空をなくす 投稿日:2005/01/17(月) 11:19
- ずっと空に浮かんでいて寝ていないせいだろうか、当たりが急に白いもやに
おおわれる。今までずっと先まで見えていた視界が、徐々にふさがれていく。
海が消えて、太陽が消えて、見えるはずのない星だけがぼんやりと残った。か
すかに残った空。
そうして私は全てのことを思い出した。とたん、今まで感じなかった太陽の
熱さが急に感じられてきて、私はあわてて体をひねった。でも、私はただ空に
漂っているだけで、どこにもいくことができない。この熱さに焼かれるのが先
か、空をなくすのが先か、それだけしかない。
- 95 名前:空をなくす 投稿日:2005/01/17(月) 11:20
- あわてて飛び起きると、見なれた天井が目の前に浮かび上がった。元は茶色
かったはずなのに、私の目には日に日に白いペンキが塗られていくように見え
る。体が熱っぽくてだるくて、そういえば風邪をひいていたのだと思い出した。
寝巻きが、中に着こんだ下着ごとぐっしょりと濡れていたから、寝覚めはと
ても悪かった。お気に入りの寝巻きだったけど、水たまりにうっかりと入って
しまった後のようなあの不快感にはあらがえなくて、私はおとなしく着替える
ことにする。起きようと手を伸ばすと、コツンと何かに当たった。それはびく
っとふるえて、でもすぐに私の手をつかんだ。
「なんか、さゆも寝てたみたい」
とろんとした声のさゆは、多分その表情もとろんとさせたまま、私の手を布
団の中に入れた。
- 96 名前:空をなくす 投稿日:2005/01/17(月) 11:20
- 窓の外が赤い。お見舞いに来てくれていたさゆや絵里と、昼頃まで話してい
た記憶があるから、恐らく五時間近くは眠っていた計算になる。さゆはその間
ずっとそばにいて、ついうつらうつらとしてしまったのだろう。
さっきまでの不快感は消え、私の中に温かなものがあふれてくる。部屋の隅
に設置された加湿器がシッシッと音を立てていた。私はもう一度さゆの手をに
ぎり、ありがとう、と言った。そしてもう一度眠った。
- 97 名前:空をなくす 投稿日:2005/01/17(月) 11:20
- 今度は夢を見なかった。電気の消えた部屋は闇に染まっていて、私は視界を
失ってしまったかのように錯覚する。思わず体をこわばらせ、両手に力を入れ
れると、私の左手が未だ温もりに包まれていることに気付いた。強く握ってし
まったせいか、隣から、さゆの「んんっ」というくぐもった声が聞こえる。さ
ゆの顔を少しでも見たくて体をひねらせると、彼女はとても気持ちよさそうに、
私の隣で横になっていた。私はそれを見て安らかな気持ちになる。もうすっか
りと眠気の取れた私の代わりに布団に寝かせてあげようと、つながれた左手を
動かすと、さゆの手に力がこもり、私の手を離してはくれない。
身動きの取れないこの状況をどうしようかと思案していると、廊下からドタ
ドタと階段を駆け上がってくる音が聞こえた。たいして時間も経たないうちに
ノックもなしにドアが開いて、部屋に「ご飯だよー!」という絵里の元気な声
がひびきわたる。絵里の声にさゆはびっくりしたようで、その拍子に二人の手
がほどけた。さゆが眠そうに目をこすっているのを見て、絵里が顔をくしゃく
しゃにして笑った。
- 98 名前:空をなくす 投稿日:2005/01/17(月) 11:21
- 「あーなんでこのスパゲッティ―明太子じゃないの! さゆ明太子がいい!」
「たらこだっておいしいよー。ほら文句言わないで食べなよ」
「絵里のしわざだ! ひどい、絵里、きっとさゆに嫉妬してるんだ」
「私嫉妬なんてしないもん。神様が『絵里ちゃんの方がかわいいからたらこに
してあげよう』って言ってたらこにしてくれたんだよ?」
「な、なにいっちょー! さゆの方がかわいいもん!」
久しぶりの明るい食卓に、私は思わず頬をゆるめる。いつもおじさんやおば
さんは微笑みながら私に気を遣ってくれるのだけど、その気遣いが私の心をぎ
ゅっとしめつける。もしも私がいなければ、二人はもっと安らかな時間を過ご
せているのだろうか、と最近はよく考えるようになった。それでも今、おじさ
んとおばさんが見せている笑顔は偽りなんかではなくて、私はこっそりさゆと
絵里に感謝をした。二人に幸せな笑顔を与えてくれたことと、今でも私の友達
でいてくれていること。
- 99 名前:空をなくす 投稿日:2005/01/17(月) 11:21
- 楽しい時間には終わりが来る。こんな当たり前のことを、私はつい最近にな
ってようやく理解した。さゆや絵里と過ごす時間も例外ではなくて、夜が更け、
一通り笑い話も終えると、そろそろ帰ろうか、という雰囲気になる。
「ありがと。なんか、風邪、どっかいった」
そんな私の言葉に、絵里はにこっと笑って、さゆはふふーなんて口元をゆが
めて、部屋を出る。玄関まできて振りかえったさゆは、あそういえば、なんて
顔をして、口を開いた。
「明日ねー」
「さゆ!」
- 100 名前:空をなくす 投稿日:2005/01/17(月) 11:21
- 絵里が慌てたようにさゆの手を引いて、えへへとごまかし笑いを浮かべる。
絵里は基本的にいつも笑顔なのだけど、さすがに二年も一緒にいれば、その笑
顔がどういう意味を持つかくらいわかるようになる。声の質とか、頬のひきつ
り具合とか、雰囲気とか。友達の顔ですらはっきりと見えなくなった今の私で
もわかるのだから、この三人で過ごした二年間っていう時間は、無駄ではなか
ったのだと思う。
「よくわからんけど、また明日」
そう言って手を振ると、二人はあからさまにほっとしたように手を振った。
パタンとドアのしまる音がしたのに、それでもまだ私は手を振っている。今
日はもうずいぶんと寝たけど、それでも今晩は安らかに眠れるような気がした。
- 101 名前: 投稿日:2005/01/17(月) 11:23
- >>92-100
後二回で終われたらいいなと思っています。
- 102 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/17(月) 11:24
-
- 103 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/17(月) 11:27
- 更新遅くてすみません。レスは励みになります。
>>89 できれば今回で大切な決断まで行きたかったのですが。次回こそ。
>>90 リアルからはちょっと時間で置いて行かれましたが、何とか完結させたいです。
>>91 幼くて大人な亀井さんを気に入っていただけたようで嬉しいです。
- 104 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/17(月) 19:20
- 更新お疲れ様です。
とても温かくて癒されます。
- 105 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/14(月) 19:15
- 続きがすごく気になってます
期待sage
- 106 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/12(日) 19:06
- すごく待っています。
頑張ってください。
- 107 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/22(月) 15:42
- 空にはたぶん星がうかんでいる。うっすらと覗く視界のはしっこで、子犬の
身ぶるいくらいの光の瞬きが見えた気がしたからだ。
時計の針は二時をまわっているのに、私はいまだに寝つけないでいた。昼間
にさんざん寝たのだからあたりまえだな、と思いつつも、二人の去りぎわに感
じた直感が外れたことを悔しく思っている自分がいて、思わず苦笑する。
私は身を乗り出し、夜空を見つめた。まだ、見える。うっすらとではあるが、
私の目には確かに、暗闇を彩る無数の星々がうつっていた。
いつからか私は、世界にめぐみを与える昼間の空よりも、寂しげに横たわる
夜の寒空や、それに囚われたように足を止め、かすかに体をふるわせる星々の
瞬きに目を奪われるようになっていた。
もしかしたら、永遠にも思える闇を照らす無数の光に、私の中に残っていた
わずかな希望を重ねたのかもしれない。だとしたら、それはひどくこっけいな
ことだ。だって、私の目は、もう元には戻らない。
- 108 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/22(月) 15:42
- 私はカーテンを閉め、布団にもぐりこむ。閉じたまぶたにうかぶのは、わず
かな希望も見出せない暗闇だった。
私はもう一度、私の愛した深更の空を思う。光を失い、終えることしか残さ
れていないのなら、私はモーニング娘。のみんなと、この空を見たいと思う。
ゆっくりと終わっていく、時間の最期で。
- 109 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/22(月) 15:43
- みんなよりも一足先にきた現場で、雲に覆われた楽屋の天井をぼうっと眺め
ていると、マネージャーさんに声を掛けられた。彼女は確かめるように二、三
質問をしたが、私は曖昧に微笑んだまま全てに頷いて見せた。あくびと同じよ
うに、微笑みもうつるのだろうか。彼女は寂しげに笑うと、私の肩を叩いて部
屋を後にした。
再び一人ぼっちになった私は、急に手持ちぶさたになって意味もなく携帯を
取り出した。小さな画面はとても見づらくて、近づけたり遠ざけたりしながら、
代わり映えのしない待ち受け画像に目を落とす。画面の上部に四つ並んだ「1」
を見て、そう言えば今日は私の誕生日だったと思い出した。
メールはさゆからも絵里からもきていない。もっとも二人は昨日お見舞いに
来てくれていたのだし、ましてや自分ですら今の今まで忘れていたのだから、
メールが来ないことなどおかしなことではない。誰に向けるでもなく言い訳を
して携帯を閉じると、それは突然振動を始めた。
- 110 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/22(月) 15:43
- 「もしもし」
たいして見えもしない目では相手の名前を確認するのも一苦労で、私は無造
作に通話ボタンを押す。
「もしもし、れいな?」
だから、その声はひどく不意打ちだった。
「……お母さん」
ついさっきまで持て余していた感情が奔流となり、私自身までものみこんで
しまいそうになるのを慌てて抑えて、携帯をぎゅっと握る。
「どうしたの、今日は」
「どうしたって、今日れいなの誕生日っちゃろ?」
息をのむ音が、お母さんにも聞こえただろうか。
「おめでとう。今年は会いに行けんっちゃけど、お父さんが休みもらえたら、
家族みんなで行くけん」
「――っ」
何かが胸の奥からせりあがってきて、思わず目元を押さえる。だけどそれは、
入り口から聞こえるガタリ、という音で、すんでのところでおさまってくれた。
- 111 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/22(月) 15:44
- 「おはよーございまぁす」
耳慣れた声が楽屋にひびいたその声は、受話器を握った私の姿をとらえると、
次第にすぼんでいく。
「ごめんね、これから仕事だから」
そう言って唐突に通話を打ち切り、声の主に視線を向ける。彼女が、もう平
気? と口だけで尋ねてきたから、私も声に出さずにうなずいた。
「れいな、今日は早いね。なにかあった?」
「ん、別に何もないよ。さゆこそ早いじゃん」
あーだって今日は、と言いかけたさゆは、慌てて両手で口にふたをする。ア
ニメみたいだ、と思ったけど、それは口には出さない。言うと、ふぐみたいに
ぷくっと頬をふくらませるから。
「あ、笑った! れいなさゆ見て笑った! 何笑っちょー!」
どうやら顔に出てしまっていたようで、ふぐ少女はぷんすか怒って顔をそむ
ける。どうにかニンゲンに戻すために必死になって謝っていると、みんなも徐々
に楽屋入りしてきて、耳慣れた喧騒が辺りを覆った。
そうやっていろんなことが曖昧なまま、時間だけは確実に刻まれていく。
ちょうどみんなが揃った頃に、時間だよ、というマネージャーさんの声がし
て、私たちは楽屋を後にした。
- 112 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/22(月) 15:45
- 収録の後、私はまたマネージャーさんに声を掛けられる。彼女は納得がいか
ないようで何度も同じことを私に聞いたが、私は結局彼女の望む答えを言って
あげることができなかった。私は、彼女の、そんな悲しそうな顔すら、まとも
に見てあげることはできない。刻み付けておこうと思うのに、それすら叶わな
い。
しばらくすると、彼女はおおきなため息をついて、それから眩しそうに目を
細める。
「れいな、雰囲気変わったね」
「そう……ですか?」
背筋がしびれるような緊張に襲われる。何か気付かれただろうか。
「前よりずっと優しい顔するようになった」
そう言うと、今朝みたいに微笑んで彼女はその場を後にした。私はその言葉
の意味をちゃんと考えなければ駄目な気がしたけど、れいなぁと呼ぶ声によっ
てそれは叶わなかった。
- 113 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/22(月) 15:45
- 振り向くと、いつから私たちの話を聞いていたのか、さゆと絵里が並んでこ
ちらを見つめていた。
「れいな遅いよ。もう準備終わって待ちくたびれ――」
スカン、と派手な音がして、絵里の平手がさゆの頭をはたく。
「れいな、一緒に帰ろ」
「え、うん」
何事もなかったかのように絵里は微笑んで言う。さゆはというと、どうやら
見た目以上に痛かったらしく、涙目で二人のやり取りを見守っている。
私はたまらなくなって、思い切り吹き出す。
「あーれいな、また笑ったぁ!」
そう言ってまたふぐになりかけたさゆの頬をぎゅっと握ってやると、にぎぃ、
という変な声がしぼり出た。今度はそれを聞いた絵里が笑い出し、さゆはます
ます不機嫌になる。
そうやってじゃれ合いながら歩く廊下で、私は先程のマネージャーさんの言
葉を思い出す。
彼女が言うとおり、私は少しずつ変わっているのだろう。視界が失われてい
くのと同じ分の時間を掛けて、ゆっくりと私は優しくなっていく。きっと光と
共に、世界の悪意も私の目には映らなくなっていく。
でも、そのことにいったいどれほどの意味があるというのだろう。どんなに
変わっても、私はもうすぐ終わってしまう。
- 114 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/22(月) 15:46
- 楽屋に戻ると、もうみんなはいなかった。マネージャーさんとの話がそれほ
ど長引いたわけでもなかったし、あまりにも早くはけてしまったメンバーを訝
しみながらも、もしかしたら、ここでの収録がつまっているのかもしれないと
考え、できるだけ早く準備をする。
楽屋を後にしても、二人の歩く速度はちっともゆるむことがなく、世界がも
やで覆われている私には少しだけつらかった。
どこか寄り道でもしていくのだろうか。二人はああだこうだと意見を交わし
あい、私の意見は少しも聞かずにずんずんと道を進んでいく。
そうしてようやく着いた喫茶店の扉の前で、二人は突然私に道をゆずった。
「ええと、何?」
「いいからいいから」
「え、先に行けと?」
「うん」
絵里がにっこりと微笑むのを見て、彼女にはこれ以上何を言っても無駄なの
だと悟る。ならばとさゆに視線を向けると、彼女は今朝のように両手を口元で
クロスさせ、ふるふると首を横に振っている。
私は大きくため息をつき、二人を交互に見る。
「じゃあ、入るよ」
こくこくと頷く二人。
いまいち事情を呑み込めないまま、私は意を決して扉を開ける。
- 115 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/22(月) 15:47
- そこで、何かが弾けた。
後になってから、私はこのときのことを思い出す。多分あれは、宇宙の始ま
りを告げる、大爆発の音。あるいは、新たに生れ落ちた、世界の産声。
いつまでも鳴り止まない破裂音や、大切な人たちの笑い声、後ろから抱き付
いてくる親友の体温。そこにあった全てのものが、私の思考を真っ白にする。
永遠に消えることのない視界のもやではなくて、もっともっと暖かな白が私
を包み込む。
- 116 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/22(月) 15:47
- 「誕生日、おめでとー!」
誰かが叫ぶ。多分、飯田さん。おめでとー! これは、矢口さん。
おめでとうおめでとうおめでとう――次第に誰が言ってるのかわからなるく
らいに重なり合って、最後に耳元でそっと囁かれる二つのおめでとう。
私の中で色んなものがあふれかえって、たまらずその場にしゃがみこんだ。
「れいな、見える?」
顔をふせた耳元に、絵里の囁きが落ちる。
「石川さんがクラッカーを鳴らしてるよ。吉澤さんはもうケーキを取り分けて
る。あ、でも、一番大きなケーキにはろうそくがたくさん立ってる。多分、れ
いなの年の数と同じ分だけ」
絵里の言葉のいちいちに私は頷いてみせる。本当は何一つ見えてはいなかっ
た。でも、多分、私の目が正しく働いていても、視界は覆われてしまっていた
のだと思う。
私はおそらく真っ赤になっているだろう瞳や鼻を見られたくなくて、しばら
くその場でうずくまっていた。そんな私の左手を、絵里はずっと握ってくれて
いる。
- 117 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/22(月) 15:48
- いくばくかの時間の後、照明の落ちた店内でろうそくを吹き消し、乾杯をし、
お腹いっぱいにケーキを食べて、身振り手振りで必死に話しかけてくるさゆの
言葉に笑い声をあげる。
せわしなく動くさゆの手を捕まえて、不意に視線を外に移すと、私を覆う霧
の向こうで月が煌々と光っていた。白く輝く月の灯りを見ながら、ここにいる
みんなが大好きなんだと、改めて思った。
だから、私はみんなに伝えなくちゃいけない。
「あの、みんなに、お話があるんです」
緊張した私の声に、店の中が静まり返る。つながれた右手に力が入る。何だ
お礼か、という矢口さんの声は私の真剣な顔に吸い込まれ、語尾はほとんど聞
こえなかった。
- 118 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/22(月) 15:49
- さゆと絵里は多分私が何を言おうとしているのかわかっているつもりでいる
だろう。でも、残念ながら、それははずれだった。
私は何度も見たマネージャーさんの悲しそうな顔を思い出す。それは私のこ
のガラクタのような瞳のせいではっきりとしたものではなかったけど、あのと
きの決意を思い出すきっかけにはなった。
私は多分もうすぐ終わってしまう。だから私は、自分で終わらせようと思う。
「私は――」
私はぎゅっと瞳を閉じる。大好きなみんなの顔を忘れないように。せめて、
大好きなみんなの顔を忘れないうちに。
そして、息を吐き出すように、詰まらずに一気に言葉をつむぐ。
「田中れいなは、モーニング娘。を卒業します」
無音だったはずの店内から、さらに音が消える。
つないでいたさゆの手が、ほどけた。
- 119 名前: 投稿日:2005/08/22(月) 15:52
- >>107-118
遅くなりました。ようやく次回、最終回です。
- 120 名前: 投稿日:2005/08/22(月) 15:52
-
- 121 名前: 投稿日:2005/08/22(月) 15:55
- 待っていてくださった方、本当にありがとうございます。
>>104 最後まで優しい人たちを描けたら、と思います。
>>105 ありがとうございます。ようやく、残り一回です。
>>106 お待たせいたしました。待っていてくれる人がいたので続きを書けました。
- 122 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/22(月) 20:49
- キターーーー!!
お帰りなさい、作者様!ずっと待ってました!
次で最後ですか…何だか寂しいですね。
れいな……(泣
ラストも、期待して待っています。
- 123 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/23(火) 09:55
- 待ってて良かった…
次回でラストですか…期待して待ってます
- 124 名前: 投稿日:2005/08/28(日) 21:50
- 今回は先にレスを。
>>122 本当にお待たせいたしました。最終回もれいながメインとなっております。
>>123 ようやく最終回にたどり着きました。少しでも期待に応えられれば幸いです。
- 125 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:54
- 「うん、お母さんの言いたいことはわかっとう。黙っててごめん。でも、もう
ちょっとやけん。これが終わったら帰るから、焼肉たくさん用意して待っとっ
て。じゃあ、また……」
いつかと同じように通話を無理やり終わらせ、携帯を放り投げる。そうして、
私の体もベッドに放り投げると、タイミングを計ったようにノックの音が聞こ
えた。
「おじさんでしょ? いいよ」
扉から顔をのぞかせたおじさんは、伺うように私の顔を見つめる。
「義姉さんにはきちんと言えたかい?」
「うん、遅くなったけど、ちゃんと言ったよ。ほんとはもっとたくさん言いた
いことがあったけど、これ以上話したら泣いちゃいそうだったから」
それを聞いたおじさんは、大きなため息をつく。多分、私が思っている以上
におじさんは、私の目のことや、何も知らないお母さんや、これから起こるこ
とを思って、たくさんの心配をしたのだろう。
- 126 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:54
- それがわかるから、私は精一杯の笑顔を作る。
「心配かけてごめんなさい」
おじさんも私につられ、うっすらと微笑むと、ゆっくりと首を左右に振った。
「おじさんはいつだってれなの味方だから。何も気にしないで、不安なことが
あったらみんな話していいんだ」
今度は私がそれに首を振る。
「おじさんのことはお母さんとおなじくらい大好きだよ。だから、今はおじさ
んにも弱音ははけないんだ。まだ、やり残してることがあるから」
私はおじさんをじっと見つめる。視線が合っているのかはわからなかったけ
ど、私の気持ちがきちんと伝わるように、思いを込めてじっとおじさんを見る。
おじさんは、わかった、と言うと、無理をしないで早めに寝るように告げ、
部屋を後にした。
おじさんが出て行った部屋で一人、うすぼんやりと輝く、月の空を眺める。
まだ、光は私の瞳にとどいている。この視界がいったいいつまで持つのかはわ
からないけど。
カーテンを閉め、灯りを消し、布団に包まってまぶたを閉じる。とたん、私
の前から一切の光が消える。
いずれ私に訪れる世界は、こんな風だろうか。震える体を寒さのせいにして、
私はみんなに会える朝を待った。
- 127 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:55
- みんなに別れを告げたあの日から、私の生活や、その他の色々なものが、終
わりに向かって加速していった。
私がモーニング娘。を終える日。それを成功させるために、みんなは今まで
以上にレッスンに力をこめていたし、私がよけいな気を遣わないようにと、今
までと変わらずに接してくれている。
それでも、私がモーニング娘。を卒業する本当の理由は事務所の上の人など
一部しか知らなかったから、私もみんなに本当のことがばれないように、精一
杯の努力をした。
みんなに本当のことを隠しているのなら、最後までそれがわからないように
するのが、最低限の礼儀だと思ったからだ。
- 128 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:55
- 最後のコンサートは福岡で行われることになった。全国ツアーではなく、福
岡での一本。
曲目も、最低限披露しなければならないシングルの数曲をのぞいては、私が
舞台の上で長い距離を移動しなくてすむものが選ばれた。衣装も派手なものが
選ばれ、私がみんなの位置を把握しやすいようにとの配慮がうかがわれた。
さゆが練習の合間をぬって、私のもとに近づいてくる。そして耳元に口を寄
せた。
「さゆがたーくさんフォローするから、大船にのるといいよっ!」
そう言ったさゆの衣装は赤だ。そして絵里の衣装は黄色。
私が、期待してるよ、と耳元で囁くと、さゆは照れたようにはにかんで、ま
た自分の持ち場へと戻った。
- 129 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:55
- 練習は夜まで続いて、深夜の仕事のない年少組は、その場で解散となった。
私はまっすぐ家に帰る気にもなれず、久しぶりに屋上へと足を向ける。真っ
暗に染まっている夜の屋上で大きく背伸びをした後、服が汚れるのも構わず、
その場にごろりと横になった。
今日は確か晴れだったから、夜空にはたくさんの星が浮かんでいるだろう。
そんな空を思い描きながら、私は目の前に横たわる真っ白な闇をぼうっと眺
めていた。
しばらくそうしていると、屋上のドアが開く音がして、それからカツンカツ
ンと靴の音が響いてくる。最近、以前にもまして視界が閉ざされてきたが、そ
れに反比例するように、私の耳は様々なものをとらえるようになった。
「星、きれいだね」
絵里は寝転がる私の隣に腰を下ろし、なんでもないことのように言った。声
が遠くに逃げていったから、絵里は私ではなく、私と同じ方向、永遠に広がる
空を見つめているのだろう。
「そうだね。――すごく、きれいだ」
私の口からも、自然とそんな言葉が出た。なんとなく、絵里の瞳を通して、
幾千の星が瞬く空を眺めているような気になった。
- 130 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:56
- 「目、かなり悪いんでしょ?」
「そうだね。最近、また急にひどくなってきてる」
「無理してない?」
「大丈夫。だって、これは私のわがままだから」
冬の空に、二人の声が溶けていく。やっぱり夜はいい、と私は思う。屋上は
人々の喧騒も、車のエンジン音も何もないから、凛とした空気におおわれてい
て、私たちからこぼれ落ちる音は、どこまでも果てることなく響きそうに思え
た。これはきっと朝や昼にはなくて、夜だけの特権なのだと思う。
- 131 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:56
- 私は寝転んでいた体を起こし、絵里と肩をならべる。
もうじきこんな時間も終わる。朝が終わって夜が来るように、私の楽しかっ
た時間も終わってしまう。
だから、私は夜が好きなんだと思う。いつかきっと朝がくるんだって期待で
きるから。これ以上悪くなることはないから。
――でも。
「でも、ずっとずっと夜が終わらないって認めるのは、やっぱり怖いよ」
私はひざの間に顔をうずめ、必死で嗚咽をこらえる。両親にもおじさんにも
おばさんにも言えなかったこと。思わずもれてしまった本音に、私がずっと守
ってきた防壁が、感情の波にのみこまれてしまうのがわかる。
それでも、私はもう少しだけ耐えなければならない。
みんなの優しさに触れるうち、私の中に芽生えていた決意がある。いつか私
に終わりが来るのならば、私は一人きりでその永遠の闇をむかえよう。だれも
巻き添えにすることなく、自分ひとりで終わらせるのだ。
- 132 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:57
- そうやって一秒でも早くいつもの自分に戻ろうと呼吸を整えていると、不意
に私の肌が、後ろから柔らかな熱につつまれた。
「絵里……?」
私の声に、左隣からくすくすと笑い声がおこる。特徴的な声。決して間違え
ることのない、絵里の声だ。じゃあ、この熱は?
「れいな、元気出して」
私は体を包み込む温もりを前に、すっかり固まってしまう。
「朝でも夜でも、さゆたちはずっとずっと、れいなのそばにいるよ」
そう言ったさゆの腕にぎゅっと力がこもる。
- 133 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:58
- 「――――」
瞬間、私の視界へ激しい閃光が落とされる。稲光にも似たその衝撃に、私は
意識を刈り取られるかのような錯覚をした。
何もかもが光にとざされて、ようやく視界が開けたとき、私の目の前に広が
っていたのは、永遠をも想起させる圧倒的な夜の光景だった。
眼前に広がる星の海。気高く輝く白い月。
夜がこんなにも光に満ちているなんて知らなかった。
考えてみれば、夜の空に興味を持ち始めたのは私の視界が白いもやに侵され
てからのことで、こんなにはっきりと夜の世界につつまれたのは初めてのこと
だ。
今まで私が見ていたのは、いつか訪れる得体の知れない未来。身動きが出来
なくなるほどに深い暗黒の世界。
でも、今見ているのは、私が無意識のうちに憧れていた、温かな夜だった。
それは、全てが終わってしまう前の、ほんの一時の奇跡だったのだろうか。
再び私の前に霧があらわれ、視界は徐々に虚無におおわれていく。私は完全
に霧につつまれてしまう前に、いつも私を支えてくれる二人を見た。
久しぶりにはっきり見る顔だというのに、その顔は私の記憶の中にあるのと
寸分の違いもない。私のよく知る、愛しい顔だ。
「そっか」
「れいな?」
ほんの一瞬のことだったけど、私にはたくさんのことがわかった気がした。
私はもうじき視界を閉ざされてしまうけれど、それは孤独な闇にのみこまれ
てしまうのではなく、温かな夜につつまれるだけのことだ。
- 134 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:58
- 「絵里、前に言ったこと覚えてる?」
「前に言ったこと?」
絵里はちょこんと首をかしげる。
「今度みんなで星空みたいね、ってアレ。今日は三人で見れたけど、いつかメ
ンバー全員そろって、みんなで一緒に見たいな」
次にみんなが揃うのは、私が卒業する福岡でのことだ。でも、私は別にモー
ニング娘。を卒業する前でも後でも構わなかった。ただ、みんなでこの星空を
見ることができたなら、私の中で新しい何かが始まりそうな気がしたのだ。
「じゃあ見よーよ」
さゆがあまりにも笑顔で即答するから、私は吹き出してしまう。
「まーたー笑ったー!」
絵里は、またしてもぷんすか怒っているさゆの頭を優しくなでながら、私の
腕をとる。
「絶対見ようね。だって、こんなにきれいなんだもん」
そう言って空を見上げる絵里につられるように、私とさゆも視線を持ち上げ
る。そこに広がっていた空があまりに綺麗だったから、私は終わりが迫ってい
るのだとなんとなくわかった。
- 135 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:58
- 卒業コンサートの当日。
昨日から降り続いている雨が周囲にみちて、しとやかな水のにおいがする。
- 136 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:58
- *
- 137 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:59
- 私は昨晩家には帰らず、他のみんなと一緒にホテルで過ごした。私はもちろ
ん芸能界にも残るつもりはなかったから、多分これがみんなと過ごす最後の夜
になるはずだった。
コンサートの前の日とは言っても、メンバー全員が集まっているわけではな
い。それでも最後の夜だから、私はみんなで空を見たいと思った。
窓の外は、星すらも見えない闇。窓際でぼうっと雨音に耳を済ませていると、
肩に手が当てられた。
「雨、残念だね」
優しくて悲しみにみちた声に、私の方が申し訳なくなってしまう。私は目を
閉じてゆっくりと首をふる。
「明日もあるし、明後日もある。なにも死ぬわけじゃないんだから」
その言葉に、あたりの空気がふわりと温かくなる。きっと絵里が微笑んでく
れたのだろう。私はそれが嬉しくて、そこにあるはずの雨粒を眺めながら笑っ
た。
それに私は、さっき言った自分の言葉がとても確信をついている気がしてい
た。
死ぬわけではない。
そう、死ぬわけではないのだ。たとえ何かが終わってしまっても、生きてい
る限り、また何かが始まる。夜の後には朝が来るように。そしてまた、夜が来
るように。永遠に続くループの中では、夜は決して永遠の終わりではない。
- 138 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:59
- 「さゆは?」
「明日に力をたくわえる、とか言って寝ちゃった」
今度は、おかしくて吹き出した。すごくさゆらしかった。
「でも、さゆの言うとおりなんだよねー。たくさん寝てたくさんがんばらない
とね。れいなの、晴れ舞台なんだし」
そう言うと、あたしの頭をぽんぽんと叩く。お姉さんみたいに。
「だから、いつまでも窓の外見てるれいなを寝かしつけに来た」
「そっか」
「見たいときはいつでも、私とさゆが付き合ってあげるからさ」
いつもと違うしっかりとした口調に、私は黙ってうなずく。そして、いつか
私を抱きしめてくれた絵里の面影を思い出す。
「そうだね。さゆだけ仲間はずれにしたら、かわいそうだ」
- 139 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 21:59
- もしかしたら、明日で私の太陽の時間は終わるのかもしれない。
「明日、がんばろうね。絵里のこと頼りにしてるから」
絵里はにっこりうなずく。
「あ、もしさゆが今の聞いていじけたら、さゆのことも期待してるってフォロー
しといて」
今度は、声に出して笑う。
私は疲労のせいか少しだけ痛む頭を無視して、絵里に、おやすみ、と言う。
みんなの前で知らん顔して、笑顔を見せて、たくさんの人を喜ばせるのは、
きっと今の私には身の丈をこえたことなんだろう。
でも、あと一日だけは精一杯頑張ろう。
全てが終わって、太陽がしずんだ後、美しい夜が見れるように。
- 140 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 22:00
- *
- 141 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 22:00
- 今朝早く、お母さんが来た。恥ずかしいから終わった後にしてよ、と追い返
した後、もうほとんど顔が見えなかったことが悔しくて、ぼろぼろと泣いた。
幸いなことに誰にも見られてなくて、誰にも慰めてもらえなかったから、私は
もう一度立つことが出来た。
目元を入念に洗って控え室に入ると、まだかなり早い時間だと言うのに、さ
ゆがいた。
「なんか、朝早くおきた……」
「そりゃあね」
昨晩の絵里とのやり取りを思い出し、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとう」
急に頭をなでる私を見て、さゆはいわゆる豆鉄砲な顔をする。でも、すぐに
嬉しそうに、えへへーと声をもらした。
「れいなの晴れ舞台だもんね! さゆにぜーんぶまかせなさいっ!」
どこかで聞いたような台詞に、心がみちていく。
生きていくうえでいつのまにかに零してしまっていたものが、ある日を境に、
また少しずつたまり始めた。だから、私はこうして笑っていられる。
- 142 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 22:00
- *
- 143 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 22:00
- 会場入り、リハーサル、観客の入場。全てが滞りなく進んで、後はいよいよ
開始を待つだけとなる。
私は昨晩から痛み続ける頭をおさえ、部屋の隅にうずくまっている。
「どうした、緊張か? 具合悪いの?」
矢口さんの心配そうな顔に、私は情けない笑顔で応える。部屋の空気が、み
んなの心配を伝えてくる。事情を知っているさゆと絵里は、おそらく誰よりも
心配していることだろう。さすがにこの頭痛は、目とまったく無関係というこ
とではなさそうだった。
「平気ですよ。ちょっと頑張りすぎたみたいで」
「ほんとに?」
そばでずっと様子を見ていてくれた絵里が、心配そうに私をのぞきこむ。
「うん、ほんとに、ちょっと無理しすぎただけ」
これは、多分本当のことだった。目のときにずっと隠していたということも
あったから絵里も必要以上に心配をしてしまうのだろうけど、その目を抱える
本人だからこそわかることもある。
この頭痛は目のときのような嫌な感じはしなかった。おそらく、見えない目
を隠して、みんなと同じかそれ以上の練習をこなしていたための、疲れによる
ものだろう。今までの経験や、わずかに見えるみんなの姿を頼りに歌い踊るの
は、想像以上に神経をつかうことだった。
「田中、もう開演だけど、いける?」
「はい、大丈夫です」
空元気だった。でも、その空元気は痛みを忘れさせてくれた。
- 144 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 22:00
- 開演してからは痛みも消え、思っていた以上に満足のいくパフォーマンスが
出来た。
目が悪くなってからの私は思っていた以上に耳に頼っていたらしく、ステー
ジ上に響く返しのスピーカーの音量が私を戸惑わせる。それでも、絵里とさゆ
の派手な衣装からみんなの位置を必死に把握して、大きなミス一つすることな
く、曲をこなしていく。
その場にとどまって踊っているときはそんな心配もなかったから、最後をか
みしめながら、今まで覚えてきたことが全部出せるように、必死に踊った。
- 145 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 22:01
- ステージも終盤にさしかかったころ、曲の合間で世界が暗転する。そして、
微妙なポジションチェンジをしようと移動を始めたとき、世界を揺さぶるよう
な衝撃が私をおそった。
それは、今までに味わったことがないようなひどい頭痛と吐き気をともなっ
ていて、私は思わずその場に倒れこんだ。以前から続いている頭痛がひどくな
ったのかとも思ったが、どうやらそれは違うようだった。そう言えば、程度の
違いこそあれ、私はこれと似たようなことを以前に経験している。
私は仰向けのままぼんやりと空を見つめる。きっとこれで全てが終わる。そ
う気付くのと同時、頭痛や吐き気は波が引くように私の中から消えていく。
次第に安らかになっていく意識をかみしめながら、私は大きく息を吐いた。
――ああ、なんだ。終わりは、こんなにも穏やかだ。
- 146 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 22:01
- そのまま私がまぶたを閉じかけたとき、突然空に無数の光があらわれた。そ
して、直後に聞こえる絵里とさゆの悲鳴。
「れいな、れいな! どうしたの!?」
私は、あの光はなんだろうと考える。真っ暗闇に浮かぶ幾千の光たち。そこ
まで考えて、自分のバカさ加減に笑いがこぼれた。
「れいなぁ、平気……? れいな!」
なんだ、そんなの決まってるじゃないか。あれは、闇夜を照らす星々の瞬き
だ。
- 147 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 22:02
- 「ねえ、さゆ。絵里」
「れいな! 大丈夫!?」
「やっと、みんなで見れたね」
「え?」
私はいつまでもみんなとその光景を見ていたかったが、どんなことにも終わ
りは訪れる。一つ、また一つ、夜空を彩る星たちが、流れ星となって私の視界
から消えていく。
願い事はなんだろう。そんなことを考えて、当たり前の願いを思いつく。
一眠りして目を覚ましたとき、また新しい時間が始まっていてくれたら、そ
れでいい。
「流れ星。今日はほんとに、美しい夜だね」
いくつもの星が流れていき、とうとう最後の一つになる。私の両手には二つ
の温もり。絵里とさゆが一緒に空を見つめてくれている。
私は嬉しくなって、終わりの空に微笑んでみせる。
最後の一つが流れ落ち、空をなくしてしまったのを確認した後、ようやく私
は瞳をとじる。そして、少しだけ眠る。
- 148 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 22:04
- 空をなくす、おわり
>>9-150
- 149 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 22:04
-
- 150 名前:空をなくす 投稿日:2005/08/28(日) 22:05
- そして、美しい夜のはじまり
- 151 名前: 投稿日:2005/08/28(日) 22:21
- ようやく終わりました。
長い時間がかかってしまいましたが、書きたい話が書けました。
読んでくださった方、本当にありがとうございます。
次回作はまた間が空いてしまうと思いますが、一応予告を。
――その音は、不思議と私を安らかな気持ちにさせる。
東京に放り出された一人の少女。
少女が出会うたくさんの人々、そして音。
慣れない毎日の中で、彼女は少しずつ変わっていく。
以前から考えていた話なのでネタが少し古いかもしれませんが、
よろしければ、気長にお待ちくださいませ。
↓時間つぶしにでもどうぞ
ttp://mseek.xrea.jp/event/messe07/1111329766.html
ttp://mseek.xrea.jp/event/big07/1108360687.html
ttp://mseek.xrea.jp/event/messe06/1100537482.html
- 152 名前:名無し読者。 投稿日:2005/09/02(金) 23:34
- 乙でした。
短編の方も楽しませてもらいました
- 153 名前: 投稿日:2005/09/13(火) 21:09
- ゆるやかなノイズ
- 154 名前:1 灰色の街 投稿日:2005/09/13(火) 21:10
- ビルが建ち並び、空の色は消えて。灰色の街。
- 155 名前:1 灰色の街 投稿日:2005/09/13(火) 21:11
- 改札を抜けると、目の前一帯に広がる人だかり。ゆっくりと辺りを見回して、
田中れいなは一人溜め息をついた。
知らない街は嫌だ。
そして、それが大きな街になればなるほど、その薄気味悪い音たちが、波の
ようにうねり、大きな渦となって、れいなの鼓膜を震わせる。吐き気をもよお
す程に不快なノイズ。
暑さのせいか、空気が歪んで見える。ここがこれから暮らす場所かと、れい
なは早くも辟易していた。人の流れは十三歳の自分には早すぎたし、ビルだら
けの街並みは、押入れに閉じ込められた時の感覚に似ていて、思わず顔をしか
める。
空は青いはずなのにな、と思いながら、色あせた空を見上げた。
街は灰色に染まっている。自動車の排気ガス、建ち並ぶビルの壁。その中で
人の着る服の色だけが無闇に明るい。
そんなことを考えながら大通りをまっすぐに行くと、待ち合わせをしている
喫茶店が見つかった。鮮やかな緑の屋根に、真っ白な煉瓦の壁。なるほど、確
かにわかりやすい。れいなは長旅の疲れを感じながらも、喫茶店の扉を開けた。
- 156 名前:1 灰色の街 投稿日:2005/09/13(火) 21:11
- 休日の午後ということもあってか、店内は多くの客で溢れ、空いている席は
もう見当たらなかった。れいなはつい、と唇を突き出して、辺りを見回す。
しばらくの間視線を彷徨わせていると、同じ年のころの少女と目が合った。
肩までおろした髪に、猫のような瞳。少女は、れいなに気付くとにっこりと微
笑んだ。
「れいなちゃん、長旅ご苦労様」
少女は笑顔のままにれいなに近づいてくると、ひょいと旅行鞄を受け取った。
――のは最初だけで、すぐに顔を歪ませ両手で必死に鞄を抱える。
「重いんだね」
そう言って、また笑った。
「んっと」
「何? どうしたの?」
一声かけただけで、少女は嬉しそうに笑顔を向けてくる。れいなは、料金と
か取られないよな、と内心ビクビクしながら次の言葉を続ける。
「鞄……」
「ああ、気にしないで! れいなちゃんは疲れてるんだから、これくらいさせ
てよ!」
相変わらず高いテンションを保ったまま。れいなは言うべきかどうしようか
迷ったが、やっぱり言うことにした。東京は怖いところなのだし。
- 157 名前:1 灰色の街 投稿日:2005/09/13(火) 21:12
- 「あんた、誰?」
「……え?」
しばしの沈黙。やはり言うべきではなかったかな、と後悔しかけた頃、少女
は相変わらずの笑顔で口を開いた。
「言ってなかったっけ?」
「うん」
「そっか」
少女は鞄を地面に起き、パタパタと服の埃をほろう。そして、黄色い縞模様
のシャツの襟をしっかりと直してから、れいなに向き直った。
「亀井絵里と申します。ふつつかものですが、どうぞ末永くよろしくお願いい
たします」
「はぁ」
いきなり末永くと言われても。
先程からこの亀井絵里という少女はれいなの予想の出来ない行動ばかりをす
る。
どこで名前を手に入れたかは知らないが、そろそろ逃げないといけない。れ
いなは直感でそう思った。
「じゃあ、そういうことで」
冷房の効いたこの部屋を出るのは少々名残惜しかったが、引越し早々厄介ご
とに巻き込まれるのはごめんだった。運の悪いことに待ち合わせまでにはまだ
時間があるが、ハンバーガーでも食べながら時間を潰せばよいだろう。
れいなは、引きつった笑みを浮かべたまま、鞄に手をかけた。
- 158 名前:1 灰色の街 投稿日:2005/09/13(火) 21:13
- 「よいしょ」
「……」
「よいしょ」
「……」
「……よいしょ」
「……」
「……」
「……」
先程かられいなは両腕に力を入れている。絵里が苦しんでいたように、決し
て軽い鞄と言うわけではなかったが、持てない程のものではなかった。
れいなは、目の前の絵里にきつい視線を送る。絵里は、相変わらずに笑顔。
「手、離してくれないかな」
れいなは出来る限り優しい笑みを持って話した。その頬が少し引きつってい
たとしても、誰も責めることなど出来はしないだろう。
しかし、彼女は笑顔のまま、微動だにしなかった。その頬には、脂汗が一つ。
「離して」
もう一度、今度は強めにそう言って、手にも今まで以上の力を入れる。絵里
は、既に答えを返す余裕もないのか、猫のような目をギュッと閉じ、唇を噛み
締めながら、必死にバッグを握っていた。
その表情を見ていたれいなは、諦めの合図か、大きな溜め息をついた。そし
て、すうっと大きく息を吸い込んだ。
「離せって言っとろうが!!」
「きゃあ!」
思い切り引き取った鞄は、そのままれいなの手のひらを離れ、テーブルに直
撃ホームラン。観客の拍手は聞こえずに、代わりに悲鳴が響き渡った。グラス
の割れる音は、応援団の騒がしさに通ずる所がないでもない。
- 159 名前:1 灰色の街 投稿日:2005/09/13(火) 21:13
- 「あ……」
二人の声が重なり合って、同時にカウンターの中をうかがった。アルバイト
らしきお兄さんが、顔を引きつらせてたっている。
「やば……」
触らぬ神に祟りなし。
もう十分触ってしまった感もあるが、そんな嫌な考えは取っ払って、れいな
はポジティブに物事を考えることにした。
今ならまだ、混乱に乗じて逃げられるかもしれない。大体まだ何も頼んです
らいないのだ。少なくとも食い逃げにはならないだろう。
れいなは水浸しの鞄を回収しようと一歩踏み出した。つもりだった。
「……あんた、なにやってんの?」
れいなの視線の先には、見たくない顔が一つ。相変わらずに両手に力を入れ、
バッグを握っている。
「ずるいずるいずるい!」
絵里はついに笑顔を崩し、その両瞼にたっぷりと雫をたたえながら、れいな
のティーシャツの袖を引っ張っている。
うるうるとした瞳で見つめられ、れいなもさすがに良心の呵責を覚えたが、
しばし考えをめぐらせると、再び口を開いた。
「知らん! 元はと言えばあんたが悪いっちゃろ!? いつまでたっても鞄放
さんし!」
「だって……」
「だってじゃなかと!」
- 160 名前:1 灰色の街 投稿日:2005/09/13(火) 21:14
- いつの間にやら論点はずれて、鞄のことはすっかり忘れ去られていた。
れいなは怒り狂って何度も叫び、絵里は涙声になりながらも、自分の罪にな
りそうな部分だけは、ちゃっかりとごまかしてみせる。
永遠に終わらなさそうな論議。しかし、終わりはあっさりと訪れるものであ
る。
目の前に立ちはだかった怖い顔のお兄さんを確認すると、二人そろって引き
つった笑みを浮かべた。こうして見ると、仲のよい姉妹に見えないこともない。
「ここは君たちの遊び場じゃないんだけど」
「あは…は」
れいなはぎこちなく笑ったまま、横歩きで鞄へと向かう。何故か少女もそれ
に着いてくる。その途中、思い出したように、少女は飲みかけのジュース代を、
テーブルの上に並べた。
「すみませんでしたー!」
そう同時に叫ぶと、二人仲良く鞄を持って、出口まで一直線に駆けて行く。
後ちょっとでゴールテープが切れるというところで、二人は最後の障害物に
見事に引っ掛かった。入ってきた客と正面衝突。そのまま後ろに倒れこんだ。
こいつといると碌なことがない、と心の中で少女を毒づきながら、れいなは
再び謝らなければならない自分の運命を呪った。
- 161 名前:1 灰色の街 投稿日:2005/09/13(火) 21:14
- その時だった。
「れいなちゃん?」
その女性はれいなを見ると、一瞬不思議そうな顔をして、その後顔をほころ
ばせた。
この女性のことを、れいなは何度か見たことがあった。写真の中で。そして、
地元を出てくる直前に。
「おばさん……」
れいなは時計を見た。一時半。まだ約束の時間には三十分もある。予定外に
早く登場してくれたおばさんに、れいなは心の底から感謝をした。
ようやく、この摩訶不思議な少女から解放されるのだ。
「じゃあ、あたしはそろそろ……」
絵里に向かって別れの言葉を満面の笑みで言いかけたとき、隣りから不思議
な文字列が聞こえてきた。オカアサンとか何とか。
れいなは口元だけで微笑みながら――目元は不自然なまでに冷静さを残して
――彼女の言葉に耳を澄ました。
「お母さん、早かったね!」
絵里は彼女によく似合った、満面の笑みではっきりとその言葉を口にした。
絵里の明るく弾んだ声を聞きながられいなは、意識が遠くなるのを、他人事
のように感じていた。
- 162 名前: 投稿日:2005/09/13(火) 21:14
-
- 163 名前:2 一輪の花 投稿日:2005/09/13(火) 21:16
- 木々のざわめき、舞う水飛沫、そして。一輪の花。
- 164 名前:2 一輪の花 投稿日:2005/09/13(火) 21:17
- 待ち合わせ場所から、電車やバスを乗り継いで一時間。促されるままに連れ
て行かれた亀井家は美しい緑に囲まれた坂の上にあった。東京にこんなに緑が
あるなんてれいなには意外だったし、この間まで自分が住んでいた福岡の家よ
りも、よっぽどのどかで落ち着いた場所だった。
「れいなちゃん、今日からよろしくね」
そう言ってニコリと笑った絵里は、れいなよりも一つだけ年上で、少しだけ
お姉さんぶりたそうにしていた。こうして見ると、絵里の笑顔はやはり周りの
友達よりも大人びていて、昼間のアレを見ていなければ、素直に甘えられたの
かもしれないと思ったりもした。
- 165 名前:2 一輪の花 投稿日:2005/09/13(火) 21:17
- その日はとても暑い日だった。れいなが手持ち無沙汰のまま扇風機の回るリ
ビングで休んでいると、絵里が小さなうちわを持ってやってきた。
いる、と聞かれたかられいなは、いらない、と言った。れいなが扇風機を指
差すと、絵里は今さらながら納得した顔で戻っていった。
少しだけ時間が空いて、また絵里がリビングに入ってきた。右手には棒付き
のアイス。
「食べる?」
にっこりと笑う絵里に内心ドギマギしながら、れいなは無言で棒アイスをひ
ったくった。
「東京に来ていきなりひどい目にあわされたんだから、これくらいもらえない
と困る」
絵里は顔を真っ赤にして、あれはぁ、とか言い訳を始めた。それを無視して、
れいなは窓の外に目を向ける。ここから見える空は、結構青かった。
- 166 名前:2 一輪の花 投稿日:2005/09/13(火) 21:18
- れいなは東京で暮らしていくことに不安があった。慣れない場所、知らない
人間。そういった環境はれいなにとってはノイズでしかなく、排除されるべき
ものだった。
でも、れいなは今、望んでここにいる。
そうするしかなかったと言えばそれまでだが、れいなが初めて自分から動き
出したと言うのも、事実だった。
「れいなちゃん?」
気付くと目の前には絵里がいた。アイスはすっかり食べ終わってるし、日は
もう落ちかけている。キッチンから聞こえるのはおばさんの包丁の音。それと
、じゃがいもとたまねぎの匂い。
「カレーだ」
当たりー、という声がキッチンから聞こえてきて、れいなはようやく我に返
った。
「絵里、どうしたの?」
自然と名前で呼んでいた。絵里は、お姉ちゃんがいいなあなどとボソボソ言
った後、ああ、と手を叩いた。
「手洗ってきなさいって」
「ああ、わかった」
テーブルに手をついて立ち上がると、れいなはリビングを出た。後ろから、
突き当たりを右だよ、という声が追いかけてきて、素直にそれに従った。
- 167 名前:2 一輪の花 投稿日:2005/09/13(火) 21:18
- お風呂やら洗濯機やらがある洗面所には、大きな鏡がついていて、れいなは
一日分の汚れを落とすように丁寧に手を洗った。その後で、水を一杯に出すと、
両手ですくって、顔に何度もかけた。水はとても冷たくて、気持ちがよかった。
洗濯機の上に置いてあったバスタオルで顔を拭いた後、れいなは水を出しっ
ぱなしにしたまま、大きな鏡に見入った。見慣れたはずの自分の顔が、この家
では全く違ったものに見える。水道の水の音も、前に住んでいた家とは少しだ
け違っていた。それは、家のベランダから見る太陽と、修学旅行のときに見た
太陽の違いにとてもよく似ていた。
不思議と不快感はなかった。この水飛沫の色とか、ジャーっという音とか、
微妙なずれが妙に心地よく感じられた。そう言えば、絵里の声も別に嫌じゃな
いな、とふと思い、その後慌てて首を振った。
「れいなちゃーん」
パタパタと走ってくるスリッパの音。余りのタイミングの良さに、れいなは
少しだけビクビクとしていた。少しだけ、絵里のことを意識していた。
一度深呼吸をして、洗面所のドアをあけると、
「あうっ!」
目の前で、絵里がこけた。
「……いきなりドアを開けないでー」
「フ……フフッ…」
「ちょっと、れいなちゃん……」
「アハハハ!」
「もー!」
れいなは久しぶりに、声を上げて笑った。視線の下では、絵里が泣きそうに
なりながら、れいなをじと目で睨んでいる。いつまでも笑いの止まないれいな
に、絵里はふくれっつらを見せていたが、しばらくすると、諦めたように優し
く微笑んだ。
- 168 名前:2 一輪の花 投稿日:2005/09/13(火) 21:19
- テーブルについてしばらくすると、湯気に包まれたおいしそうなカレーが目
の前に置かれた。昼ご飯も絵里のせいで食べる暇がなかったから、全員分が並
べられるのを、今か今かと待ちつづける。
そのとき、れいなの目に嫌な色が移った。緑の野菜。
(まさか、ピーマン……ッ!)
さりげない風を装って、皿を前後に動かしてみる。カレーの海の中から出て
きたのは、間違いなくピーマン。
途端に落ち着きがなくなったれいなは、きょろきょろと辺りを見回す。カタ
ン。ちょうど絵里のもとへもカレーが運ばれたところだった。
これだ。
何故か、れいなはそう思った。ひっきりなしに動かしていた瞳を一点に集中
させ、その時をうかがう。
そして待ちわびた一瞬が訪れた。絵里が、おばさんが、カレーから目を離し
た。その隙を逃さずにれいなは緑の野菜を――
「もうお母さん、ピーマン嫌いだっていってるでしょ。はいれいなちゃん、こ
れあげる」
緑の野菜をカレーの更に放り込まれた。
自分でもふるふると体が震えるのがわかる。絵里はにこにこ顔で絵里を覗き
込んでいる。
「なんだ、もっと欲しいなら最初からそう言ってくれればいいのに」
ぽい。ピーマンがもう一つ投下される。ぽい。更にもう一個。
そうして三個目に箸をつけた絵里の手を、れいながギュッと掴んだ。
- 169 名前:2 一輪の花 投稿日:2005/09/13(火) 21:19
- 「……あれ、れいな?」
絵里はニコニコ笑っている。れいなもニコニコ笑っている。一瞬だけれいな
の目の奥が光って、絵里の頬から一筋の汗が流れ落ちた。
「あの、れいなちゃん……?」
「……」
れいなは無言のまま、絵里の口の中にピーマンを突っ込む。ぐいぐいとえぐ
るようにねじ込んでいく。
「あぐぅ、あう、あぅ……」
絵里の口から声にならない声が漏れても、れいなは表情を変えずに行為を続
ける。
「あらまぁ、仲がいいわねえ」
にこにこ顔のおばさんに、絵里が涙目で必死に首を振る。れいなは相変わら
ず箸を回転運動させたまま、おばさんに笑いかけた。
「仲良くなれるかなぁって心配だったけど、大丈夫だった」
それを聞くとおばさんは満足そうに一度頷き、再びキッチンへと戻っていく。
れいなはしばらくすると、絵里をいじめることに飽きたのか、自分の皿から
絵里の皿へピーマンをうつす作業を開始した。
「もし残したら……わかっとろう?」
絵里はその言葉に、無言でコクコク頷く。
れいなは、ピーマンのなくなったカレーを笑顔で覗くと、元気よく、いただ
きまーす、と言ったのだった。
- 170 名前:2 一輪の花 投稿日:2005/09/13(火) 21:20
- 食事が終わると、れいなはおばさんに案内されて階段を上った。バック一つ
のれいなに割り当てられた部屋は、階段を上ってすぐのところにあって、想像
していたよりも大きな間取りだった。床はフローリングでも絨毯でもなくて畳。
部屋の隅の方に、布団がつまれている。
「ここ自由に使っていいから」
はーい、と返事を返し、おばさんが部屋を出て行くのを待って、畳の上にご
ろんと横になった。そのままごろごろ転がっていると、れいなの目に布団の山
がうつった。れいなはベットの方が好きなんだけどなあと思って、またごろご
ろと転がった。
そうしていることに飽きると、れいなはむくりと起き上がり、風に揺れるカ
ーテンを一杯に開いた。開ける前よりも涼やかな風が部屋を包んで、れいなの
汗を拭い去った。
外はもう日が見えなくなっているのに、まだ結構明るかった。広く街を覆っ
た緑の先に、大きなプールが見えた。こんな時間だというのに、まだ何人か泳
いでいるようだった。
れいなはなんとなく、洗面所で浴びた水を思い出した。今度の休み辺り、プ
ールに行ってみるのもいいかもしれない。れいなは緑に包まれたプールで泳ぐ
自分の姿をぼんやりと思い浮かべた。
色がないように思えた灰色の街にも様々な色が溢れていて、それはどれも、
すごく綺麗な色だった。
街を覆う緑。飛沫をあげる青。
- 171 名前:2 一輪の花 投稿日:2005/09/13(火) 21:20
- ドアがノックされる。れいなが、はいと、言うか否かの間に、絵里は部屋の
中に入り込んでいた。
「この部屋いいなー。私もこんな広い部屋がいい」
部屋に入るなりれいなの承諾も得ずに、一直線に自分の居場所を確保する。
(それは別に構わないんだけどね。あんたの家だし。でも……!)
「ん、どうしたの?」
無言のれいなを、絵里は不思議そうな顔で見つめる。れいなは何も言い返す
ことが出来ずに絵里をじっと見ていた。
押入れに収まる絵里の姿を。
「ああ、ここのこと?」
絵里は周りをぐるっと見回して聞いた。れいなは無言で頷く。
「なんかこれくらいの大きさがちょうどよくって」
照れながらくすぐったそうに微笑むその姿を見て、れいなは諦めたように溜
め息をついた。
(わかっとったよ。最初に会ったときから変やってのはわかっとったっちゃけ
ど……)
「そろそろ出ようかな……」
広い間取りの部屋の中で、押入れにはまり込んでいる違和感にようやく気付
いたのか、絵里はもぞもぞと押入れの中から這い出てきた。その姿がやけに可
愛くて、れいなはくすくすと笑った。
- 172 名前:2 一輪の花 投稿日:2005/09/13(火) 21:20
- 「花が欲しいなぁ」
「え?」
「あ、何でもない……」
れいなは慌てて手を左右に振る。絵里の顔を見ていたら、いつのまにかそん
な言葉が口から飛び出していた。
しばらくその様子を不思議そうに見ていた絵里は、目を細めると、
「明日にでも買ってくるね」
と言って笑った。れいなもつられて笑っていた。
その後二人は、たわいもないおしゃべりで時間を潰した。いつのまにやら笑
顔で喋っている自分にれいなは驚いたが、絵里が楽しそうだったので、別にい
いかと思った。
そんなおしゃべりに包まれながら、東京に来て初めての夜が更けていく。
きっと明日には、一輪の花が、窓辺を彩っていることだろう。
- 173 名前: 投稿日:2005/09/13(火) 21:21
-
- 174 名前:3 下り坂 投稿日:2005/09/13(火) 21:22
- ペダルから足を離して、風を切って。下り坂。
- 175 名前:3 下り坂 投稿日:2005/09/13(火) 21:22
- れいなが目を開くと、そこには見慣れない天井が広がっていた。れいなはぼ
んやりと一点を見つめた後、そういえばもうここは福岡ではないのだと思い出
した。
着替えを済ませボサボサの髪を軽く手ぐしで梳かす。そういえば随分と太陽
がまぶしい。寝惚けまなこのまま、れいなはさらに目を細めた。
「おはようーーー!」
鏡の前でれいなは凍りつく。元気よく扉を開け放った絵里は、そんなれいな
を無視して、布団をばっさばっさと始める。窓から差し込む光。舞う粉ボコリ。
「朝早いね……」
奥の壁に掛かってある時計を見ると、時間は朝の七時。夏休み中にしては異
常に早い時間だ。少なくとも、れいなにとってはそうだった。
「だって今日学校だもん」
そう言う絵里の顔は今日も笑顔。れいなの布団をてきぱきとたたんで、部屋
の隅に寄せる。
- 176 名前:3 下り坂 投稿日:2005/09/13(火) 21:23
- 「あ、そうだ」
思い出した、と言った感じで絵里が笑う。
「れいなちゃんも今日学校だから、早くしてね」
「はぁ?」
れいなは不機嫌に顔をしかめて見せて、たたまれた布団にダイブする。
「れいなちゃん?」
「……」
「ねえ、れいなちゃん……?」
「……くー」
そして、梳かした髪を再びボサボサにさせて、寝息をたて始めた。
「れいなちゃーん!!」
泣きそうな声で絵里がれいなを揺する。一分ほど揺すっていると、ものすご
く不機嫌そうな表情で、れいなが目を覚ました。その眼光に、絵里は思わず後
ずさる。
「遅刻しちゃうよぉ……」
「じゃあ、早く行きなよ。あたしは寝るから」
「だかられいなちゃんも学校だってばぁ」
「知らん」
「れいなちゃぁん……」
- 177 名前:3 下り坂 投稿日:2005/09/13(火) 21:23
- 朝っぱらからぐずぐずになっている絵里を見て、れいなはなんだかなぁと思
う。これで年上だと言うのだ。しかし、れいなの口元には自然と笑みが浮かん
できていた。
「わかったわかった……。で、あたしは何しに行くの?」
「あ、えっとね!」
布団から顔を上げ聞く体制を作ると、絵里は途端に笑顔になる。れいなは思
わず吹き出した。
「れいなちゃんも二学期から学校行かなきゃでしょ? だから、色々手続きが
あって」
そんな説明を聞きながら、れいなはもう一度布団に顔をつける。
「へー、学校かぁ。学校ねぇ。ふーん」
「……寝ちゃ駄目だよ」
「ね、寝んとよ」
「どもった」
「どもってない」
「どもった!」
一呼吸置いて、二人は同時に吹きだした。何でもないことなのに、腹がよじ
れるくらいに楽しい。こんなことはいつ以来だろうとれいなは思った。
太陽は今日もまぶしい。外は相変わらずうだるような暑さなのだろう。居間
から、ご飯だよ、というおばさんの声が聞こえた。
- 178 名前:3 下り坂 投稿日:2005/09/13(火) 21:24
- 「れいなちゃん、御代わりはいるかしら?」
「あ、大丈夫です」
れいなはおばさんの申し出を断り、目の前にある目玉焼きの黄身をぷすぷす
と箸で刺した。
テレビでは今日も変わらず、国会がどうだの、戦争がどうだの、そういうニ
ュースばかりを流している。
れいなはそんなノイズから意識を逸らすように、絵里に視線を向けた。
「絵里とは学年違うっちゃろ?」
「そうそう、私の方が一個お姉さん。れいなちゃん、訛りかわいいね」
「はぁ?」
「照れちゃってこのぅ」
「ぶつよ?」
「……」
れいなが再び皿に視線を向けると、半熟の黄身が割れて、白身の部分まで黄
色に覆われていた。
れいなは冷えてしまったそれを口に入れ、ごちそうさまと言った。
れいなが立ち上がると、絵里も慌てて立ち上がった。れいなは壁にかけてあ
る時計を見上げる。七時五十分。れいなの前いた学校ならば、そろそろ急がな
ければならない時間だ。
「れいなちゃん、早く!」
どうやら、絵里の学校も同じらしい。
「……遅れて立ったくせに偉そうに」
そう言いながらも、引きずられるようにして、れいなは玄関を飛び出す。
- 179 名前:3 下り坂 投稿日:2005/09/13(火) 21:24
- 外に出ると、れいなの想像通り、眩いばかりの日光が一面に降り注いでいた。
今日もまた夏休みらしい暑さだ。
絵里が自転車の鍵をあけているのをぼんやり眺めていると、ひとすじの風が
吹きぬけた。絵里のスカートの裾がはためく。れいなとは違う制服。
「あたしだけ違う制服っての、結構嫌かも」
「えーいいじゃん、目立って」
ニコニコ笑いながらスタンドを上げる。ガシャンという音がして、黒いタイ
ヤが回りだした。
「さ、どうぞ」
そう言って自転車を指差す。どうやらこれはれいなのための自転車だったら
しい。準備がいいなぁと思いながら、れいなはスカートの裾をたたんで、サド
ルに腰掛けた。絵里もスカートの裾をたたんで、荷台に腰掛けた。
「出発ー!」
そして、叫んだ。
「待て」
なにかがおかしい。れいなはそんなことを思いながら、後ろを振り返る。
- 180 名前:3 下り坂 投稿日:2005/09/13(火) 21:25
- 「ん、なあに?」
夏の陽射しに目を細めながら、絵里はにっこりと微笑んだ。それを見て、れ
いなは思わず、がっくしと脱力する。
「笑顔が可愛いのはわかったけん、とりあえず降りろ。降りてください」
半ば祈るように声を絞り出す。はるか前方から降り注ぐ日の光によって、れ
いなの頬には既に汗が滲んでいた。
「訛りかわいい〜」
絵里はニコニコと笑ったまま、そんな言葉を漏らす。れいなは無言のまま、
絵里の鼻を捻り上げる。
「あうっ!」
「あ、ごめん、手がすべった」
手がすべった、と言いながら、れいなの手にはさらに力が入る。痛がる絵里
をよそに、れいなは真顔で彼女を見つめていた。
- 181 名前:3 下り坂 投稿日:2005/09/13(火) 21:25
- 「で、降りるの降りないの?」
「降りるっ! 降りるから離して……!」
その言葉にうんうんと頷きながら、れいなは笑顔で手を離した。満面の笑顔。
絵里は涙目で鼻をおさえ、上目遣いでれいなを見上げた。
「一台しかないんだもん……」
(だったらお前が前に乗れよ!)
そうれいなは口に出しかけたが、あまりに情けない絵里の顔を見て、言葉の
代わりに溜め息を吐き出した。
「……時間危ないんじゃないの?」
「え?」
細い目を潤ませている絵里に対して、れいなは二三度荷台を叩いて見せる。
「早くしないと置いてくよ」
「……うん!」
その途端、絵里の表情に笑顔が戻った。荷台に飛び乗って、絵里の体に腕を
巻きつける。
れいなはそんなことなど気にもしていないように、ペダルを強く漕ぎ出した。
自転車が勢いよく走り出す。
「あ、れいなちゃん、そっちじゃない! 右! 右!」
れいなはその言葉にも何も返さず、無言で方向を変えた。それでも頬は真っ
赤に染まる。
絵里はそんなれいなの表情を後ろから覗き込んで、クスリと笑った。
- 182 名前:3 下り坂 投稿日:2005/09/13(火) 21:26
- 二人を乗せた自転車は、勢いよく景色を流していく。薄汚れたガードレール、
開店前のレストラン、車もまばらな駐車場。
れいなは絵里に言われるままにハンドルを切って、桜並木のアーチへと飛び
込んでいく。夏を迎えた桜並木は、鮮やかな緑の葉を一面に広げていた。木々
に遮られ、長く続く道に影が落ちる。
並木道を抜けると、何処までも続くかのような下り坂が、目の前に広がった。
「うわぁ」
れいなは感嘆の声をあげ、ペダルから足を離した。それでも勢いはどんどん
と増して、二人を乗せた自転車は風に包み込まれる。
スカートの裾がはためく。髪が後ろに流されていく。絵里の両腕に力がこも
る。
- 183 名前:3 下り坂 投稿日:2005/09/13(火) 21:26
- 「このながーぃーながーいーくだりぃーざぁかをー」
下り坂も中盤に差し掛かった辺り。絵里が凄く楽しそうな声で、歌を歌いだ
した。
「なにそれー?」
「知らないー、友達が歌ってたー!」
「へー」
どうやらうろ覚えらしく、途中から歌詞は消え、フンフンという鼻歌に切り
替わる。れいなの顔には自然に笑みが溢れ、空を見上げて瞳を軽く閉じる。
「まー、ナツメロってやつかなー」
サビが終わったらしく、絵里は先ほどの言葉の続きを言う。
「なにそれー?」
「知らないー、友達が言ってたー!」
「へー」
「あ、そこ左ー!」
突然の方向転換の指示に、れいなは思い切りブレーキを握り締めた。
「きゃぁ!」
絵里は前につんのめるようにして、れいなにもたれかかる。うだるような暑
さなのに、絵里から伝わってくる温もりは、何故か心地よかった。
れいなは、ハンドルを強く握り締め、サドルから腰を上げる。
「ちゃんとつかまっててよー?」
そして、空に向かってそう叫ぶと、ハンドルを勢いよく左に切った。
- 184 名前: 投稿日:2005/09/13(火) 21:26
-
- 185 名前:4 優越感のわけ 投稿日:2005/09/13(火) 21:27
- いつもと違う彼女の表情。戸惑い。優越感のわけ。
- 186 名前:4 優越感のわけ 投稿日:2005/09/13(火) 21:28
- れいなはぼんやりと黒板を眺める。カツカツと文字を綴るチョークの音がや
けに耳障りで、思わず突っ伏してしまいそうになった。それをすんでの所で押
しとどめ、窓の外を眺める。
(なんでこんなことしてるんだろう)
外は鮮やかに晴れ渡っていたが、今朝自転車の上から覗いた空とは、根本的
な何かが違っているように見えた。
れいなが昔過ごした学校とは少し違う音色のチャイムが鳴り、授業は終わり
を告げた。大して真面目にやってもいないのに、ぐーっと伸びをする。
「れいなちゃん、初めまして」
伸びが終わるか終わらないかの間に、一人の少女が笑顔で声をかけてきた。
眉毛がやけに目立つな、とれいなは思った。
辺りを見回してみると、何人かがれいなの方をチラチラと覗いていて、また
何人かは席を立ちれいなの傍へと向かってきている。
質問攻め、という言葉がれいなの頭に浮かんだ。「攻め」という位だから気
分のいいものではないんだろうな、などとどうでもいいことを考えていると、
さっそく眉毛の少女が口火を切った。周りの生徒は、眉毛が話し出すのを待ち
望んでいる気配があった。
どうやら、この眉毛がクラスの中心らしい。
- 187 名前:4 優越感のわけ 投稿日:2005/09/13(火) 21:29
- 「新垣里沙って言います。わかんないことがあったら何でも聞いてね」
ニイガキリサ。彼女はそう名乗り、れいなに右手を差し出した。れいなもと
りあえず、右手を出してそれを握る。
それを見て、ニイガキリサはさっきより余計に笑った。
「れいなちゃんって、福岡から来たんだよね。なにか部活とかやってたの?」
「んー、特に」
「そっかー」
「うん」
「福岡ってトカイなんだよね」
「まーここよりは」
「そっかー」
「うん」
探る、というのとも、好奇心、というのとも違った感じで、一問一答式の質
疑応答は進んでいく。次第に輪が広がっていって、質問者の人数が増えていく
様は、どこか儀式めいていて、しばらくすると、れいなはほぼ無意識のまま言
葉を返すようになっていた。
――ノイズだ。ノイズは何処にだってある。授業中の笑い声も。黒板を叩くチ
ョークの音も。
先生が遅れてきたらしく、その儀式は二十分近くにも及んだ。
黒板を見ると、さっそく数式が書き出される。次の授業は数学らしい。
長旅の次の日。しかも苦手な数学ということもあって、あっという間にれい
なの意識は闇にのまれていった。
- 188 名前:4 優越感のわけ 投稿日:2005/09/13(火) 21:29
- 学校に着くと、絵里は真っ先に職員室へと向かった。ドアを開ける絵里の後
ろ姿を見ながら、入りにくさは何処の学校でも変わらないなとれいなは思った。
それはもしかしたら、自分の素行にも関わっているのかもな、とも思う。
れいなを職員室に預けると、絵里はさっさとその場を立ち去ってしまった。
授業が始まっちゃうから、というのが言い訳にしか聞こえず、れいなは絵里の
後ろ姿を、先生に声をかけられるまで恨みがましく見つめ続けた。
しかし、その後の先生の言葉は、れいなに今のことを忘れさせてしまうほど
に、彼女にとっては衝撃だった。
今日から授業受けてもらうから。そう言われた瞬間、れいなの目の前は真っ
暗になった。
体育ですか。体育ならいくらでも受けますが。
そう言いかけて、夏休みのこの暑い中で体育も嫌だな、と思い、言葉を押し
止めた。
そうこうしているうちに、教師はさっさと歩き出す。れいなも慌ててそれに
ついていく。
そして今に至るという訳だ。
自己紹介をさせられ、教科書は何故か手配されており、席もしっかり一つ空
けてあった。
- 189 名前:4 優越感のわけ 投稿日:2005/09/13(火) 21:30
- 「れいなちゃん、れいなちゃん」
ゆさゆさと肩を揺すられ、れいなは目を開いた。ここが福岡だったらなぁと
淡い期待を抱いてもみたが、何処からどう見てもそこは先程までいた教室に他
ならなかった。
「まゆ……ニイガキさん、どうしたの?」
れいなは眠たい瞳をしぱしぱとさせながら、顔を上げた。ニイガキリサは困
ったように特徴的な眉毛をハの字に下げている。
「もう授業終わっちゃったよ」
れいなは窓に目を向ける。太陽はかなり高いところにある。
「昼で終わり?」
「うん」
「よっし!」
れいなは小さくガッツポーズをし、鞄に手をかける。来たときとは違い、教
科書やら何やらでずっしりと重みを感じた。
「れいなちゃん、家どこ?」
今にも教室を飛び出そうとしていたれいなを、後ろからニイガキリサが呼び
止める。
れいなは来た道を思い返しながら、首をかしげた。
「よくわからんっちゃね」
と言って、れいなは慌てて口を押さえる。
「かわいい〜」
絵里と似たような反応。れいなはニイガキリサの眉毛を抜いてやろうかと思
ったが、さすがに初対面なので止めておいた。
- 190 名前:4 優越感のわけ 投稿日:2005/09/13(火) 21:31
- 「急いでないなら、一緒に帰らない?」
にこにこ笑いながら言われると少し断りづらかったが、絵里がいるのだから
一緒には帰れないと思った。自転車は一つしかないのだから、やはり絵里と一
緒に帰ったほうがいいだろう。第一れいなは家の場所を知らない。
「あー、ごめ――」
れいながニイガキリサに謝りかけたとき、ガラガラ、と教室の扉が開いて、
見知った顔が入ってきた。彼女の制服についているリボンはニイガキリサのつ
けているそれの色とは違っていた。
「亀井先輩!」
どこからかそんな声が聞こえて、クラスの女の子数人駆けて行く。大して時
間も掛からぬまま、絵里の回りには人だかりができた。
れいなはそんな絵里とクラスの女の子達をぼんやりと眺めていた。気付くと、
遠巻きながら、幾人かの男子も絵里に視線を送っている。
絵里の立っている場所は、電気の消された教室内にあって、まるでスポット
ライトのような太陽光の細く差し込む位置にあった。
チョークの粉がキラキラと舞う中、絵里は相変わらずにニコニコと微笑んで
いる。でもそれは、れいなの見覚えのある笑顔よりもずっと大人っぽくて、何
故だか少し悲しくなった。
まだ絵里と知り合ってたったの二日なのに。そう思い、れいなは苦笑する
- 191 名前:4 優越感のわけ 投稿日:2005/09/13(火) 21:31
- 「亀井先輩、やっぱりかっこいいなぁ」
隣りでニイガキリサがそんなことを呟く。
「ねぇ、れいなちゃんもそう思わない?」
んー、と困った風に笑うと、ニイガキリサは、やっぱりかっこいいよ、と言
って、絵里に再び視線を戻した。
「先輩、今日一緒に帰りませんか?」
誰かの声。絵里は相変わらず優しい笑みを浮かべている。
「ごめんね。今日はちょっと無理なの」
そして、れいなが知っているよりずっと大人っぽい言葉遣いで、集まってく
る女の子達の誘いをいとも簡単に断っていく。
- 192 名前:4 優越感のわけ 投稿日:2005/09/13(火) 21:32
- どれくらいそうしていただろう。
不意に、れいなと絵里の視線が交わった。
れいなはバックを手にとり、軽く後ろを振り返る。
「ニイガキさん、また明日」
そしてそのまま、つかつかと人だかりの中へと歩き出した。数人の生徒をか
きわけ、絵里の目の前に踊り出る。
「れいなちゃん」
絵里は首を傾げにっこりと微笑んでみせる。れいなは一瞬だけその笑顔に見
惚れて、すぐ後に胸がじくじくと痛んだ。
れいなは、絵里の肘を掴み、じっと目を見据える。
「早くしないと置いてくから」
そう言って、再び人だかりの中を抜けていく。
「れいなちゃん、ちょっと!」
後ろからは、途端に慌てた声が聞こえてくる。それは今までれいなの触れて
きた言葉の温度とはずいぶんと違った。
れいなはクスリと笑うと、後ろを振り向かずにそのまま教室を後にした。
- 193 名前:4 優越感のわけ 投稿日:2005/09/13(火) 21:32
- 外に出ると、太陽がずっと遠い所から、辺り一面を照らし出していた。
校庭には、コンビニの手提げ袋を持ったジャージの集団や、自転車で校門を
走り抜ける生徒など、放課後特有の開放感と気だるさが入り混じっている。
れいなは駐輪場の柱に体を預けて、ぼんやりと東の空を見ていた。白い雲が
ゆらゆらと流れていく。
「れいなちゃぁん!」
ハァハァと息を切らせて、絵里が走ってくる。サラサラと流れる髪の毛を、
れいなは眩しそうに見つめた。
「遅いよ」
「だってぇ……」
情けないその表情を見て、れいなは思わず吹き出した。そう言えば、先程ま
で話していた少女もこんな顔をしていた気がする。ええとなんだっけ、ニイ――
れいなはそこまで考えて、眉毛でいいやと結論を出した。
- 194 名前:4 優越感のわけ 投稿日:2005/09/13(火) 21:33
- 「それにしても、絵里って二重人格?」
「え、なんで?」
二人乗りは最初の一メートルがきついんだと力を込めながら、れいなは不意
に言った。
「何か大人っぽくなかった? 猫かぶってんの?」
れいなが思っているより、きつい言葉が出る。でも、言った言葉は戻しよう
がなくて、勢いよく校門を走り抜けた。
生ぬるい風がれいなに吹き付ける。腰に回された手がじっとりと汗ばんでい
るのがわかる。
それでも無言のままに自転車は進み、コンビニを越え、薬局を越えた辺りで、
絵里はようやく口を開いた。
「よくわかんない」
自転車は、最初に絵里が出した指示のままに、来た道とは逆の方、東に向か
って真っ直ぐに進んでいく。
電信柱に道の名前がついていたから、きっと有名な道なのだろう。それでも
道幅は狭く、対向する自転車をかわすのに苦労した。
- 195 名前:4 優越感のわけ 投稿日:2005/09/13(火) 21:33
- 「そこ左」
「うん」
ファーストフード店を目印に左に曲がり、少しだけ大きな道に出る。熱くて
頭がくらくらする。少しだけハンドルを切り間違えて、ベルを鳴らされた。
チリンチリン。
「あのね」
乾いた金属の音と、絵里の声がごちゃまぜになって、れいなの頭の中にうわ
んうわんと反響する。
「よくわかんないんだけど、こうやってれいなちゃんと話してる時の私のほう
が、楽な気がする。……本当の私の気がする」
すーっと汗がひいていった。腰に回されていた手が一瞬だけ、強くしまった。
れいなは後ろを振り返ることは出来なかったが、絵里がどんな表情をしてい
るのか何となく分かった。きっとくすぐったそうに笑っている。
「帰り、花屋寄らん?」
上ずった声で、後ろの絵里に声を掛ける。
「約束っちゃろ?」
自分でも何を言ってるのかわからないまま、言葉になってどんどん出てくる。
訛っているのか、訛っていないのか、それすらもわからなくなった。
「うん、行こう」
夏の湿った空気に、絵里の言葉が溶け込んでいく。二人を乗せて、自転車は
かろやかに風を切る。
カーブを曲がると、目の前にゆるやかな上り坂が見えた。
- 196 名前: 投稿日:2005/09/13(火) 21:33
-
- 197 名前:5 猫は気ままに 投稿日:2005/09/13(火) 21:35
- 腕をするりと抜けて、彼女は何処かへ行ったのだった。猫は気ままに。
- 198 名前:5 猫は気ままに 投稿日:2005/09/13(火) 21:35
- 窓の外に、白い線が走る。何本も何本も走る。時には空気を編みこんでいく
ように絡まりながら、それは絶え間なく線を描き続ける。
今日、れいなが東京に来て初めての雨が降った。
空気をしっとりと潤ませて、薄暗い明かりを灯して、サァサァと振り続いて
いた。
こんな風だったから、れいなはせっかくの休日だというのにどこにも行かず、
リビングからぼんやりと空を眺めていた。
新しい学校は夏休みの間も学校があったが、さすがに日曜日は休みらしく、
そう言えば絵里が喫茶店まで迎えに来た日も日曜日だったな、と今さらながら
に思い出した。それはつまり、れいなが東京に来てちょうど一週間たったこと
を意味している。
もともと今日は、絵里に街を案内してもらう予定だった。しかし、雨が降っ
てしまったためそれは中止になり――雨の日に自転車をこぐのは嫌だったから、
れいなは自分から辞退した――恐らく今ごろ絵里は、部屋で宿題でもやってい
るはずだ。
おばさんも買い物ついでに近所のおばさんと立ち話でもしているのか、なか
なか帰ってくる気配はない。
- 199 名前:5 猫は気ままに 投稿日:2005/09/13(火) 21:35
- れいなはごろんと寝返りを打つ。
一週間。東京へ来て、もう一週間が経った。
初めて学校へ行った日。クラスみんなの前でとった絵里に対する態度は、き
っと何かしらの反感を生むだろうと覚悟していたのだが、予想外にもそれは、
彼らによい印象を与えたらしかった。
突然の転校生。気の強い性格。憧れの先輩との対等な関係。
気付くと、転校二日目にして、れいなはクラスの中心部分に配置されていた。
ニイガキリサと馬が合ったのも原因の一つらしい。
あの眉毛は、あれでいてなかなかいいやつなのだ。
- 200 名前:5 猫は気ままに 投稿日:2005/09/13(火) 21:36
- 時計の長針が九十度動いても、れいなは相変わらず、ぼんやりと雨を見つめ
ていた。
サァサァ。
れいなの耳は、雨の音にしっとりと濡れる。
サァサァ。
ずっとずっと、意識の奥にまで雨音は染み込んでいく。
サァサァ。
雨の降る音は、いつだってれいなを深い意識の奥へと誘うのだ。ノイズも何
もない、澄んだ意識の海へ。
すっと瞳を閉じると、久しぶりに、お母さんのことを思い出した。大好きな
お母さん。
――――――
――――
――
「にゃーお!」
が、想像以上にあっさりと、れいなは意識の奥から引っ張り出された。猫の
鳴き声。
少しむっつりとした表情になりながら、鳴き声の主を探す。しかし、どこを
見ても猫はいない。先程の鳴き声は、かなり近くから聞こえてきたはずだ。
れいなは再び辺りを見回す。そして、あるところで、ピタリと止まった。
猫は見つからなかった。でも、何かいた。
「にゃーお!」
「……」
彼女は、なんのためらいもなく、猫のような鳴き声を上げた。
- 201 名前:5 猫は気ままに 投稿日:2005/09/13(火) 21:37
- 「にゃーお!」
「あの……」
「にゃーお!」
「猫ですか?」
彼女は口をあけたままピタリと一時停止をし、カクンと首を横に、四十五度
傾けた。
「……」
「……」
「違うよ?」
「うん、知ってる……」
「にゃーお!」
「……」
れいなはなんだか頭がズキズキして、どさりと腰を下ろす。少女は変わらず
猫の鳴きまねをしている。
雨は相変わらず、サァサァという音を奏でながら、地面に水溜りを作ってい
る。
サァサァ。にゃーお! サァサァ。にゃーお!
落ち着いて聞いてみると、なんだか愉快だ。
「で……あなたは誰ですかね」
「わたし?」
コクリと頷いてみせる。
「わたしはさゆだよ?」
「ほー……」
そう言えばおばさんが裏の庭によく猫が出るといっていたなぁ、などと考え
ていると、階段をどたどたと駆け下りてくる音がした。さゆはれいなに飽きた
のか、部屋をとてとて歩き回りながら、にゃーおにゃーおと鳴いている。
- 202 名前:5 猫は気ままに 投稿日:2005/09/13(火) 21:37
- ばたんとドアが開いた。
「誰かお客様?」
今日も相変わらず笑顔を浮かべて、絵里が辺りをきょろきょろ見回す。にゃ
ーお。さゆの声が聞こえる。
「あれ、さゆ?」
途端に、今まで以上に――ぱぁっと花が咲くように――笑顔になった絵里が、
キッチンに向かって駆けて行く。その笑顔はれいながいつも心に思い浮かべる
天使の笑顔と少し似ていた。笑うと目のちっちゃくなる天使様。
「さゆー、久しぶりだねー」
自分より身長の大きなさゆの頭を抱えるようにして、ぎゅうっと抱きしめる。
さゆは胸の中でも、にゃーおと鳴いていた。
「どれくらい? 一ヶ月ぶり?」
なおも興奮して話しつづける絵里の腕の中から、さゆがするりと抜けた。
雨は勢いを強めて、地面を打つ音が、れいなの耳をつんざくような大きさで
聞こえてくる。
れいなの胸が少しだけズキリとした。今の絵里の笑顔は、れいなに見せる表
情とも、学校で見せる表情とも、どこか違う気がした。
- 203 名前:5 猫は気ままに 投稿日:2005/09/13(火) 21:38
- れいなが難しい表情で二人を見ていると、絵里は慌てたようにれいなに向き
直って言った。
「ごめん、紹介してなかったよね。この子、さゆって言ってね――」
「知ってる」
ぶっきらぼうな声が出た。絵里は何故だかしゅんとしてしまっている。
慌てて声を掛けようとすると、さゆが絵里の頭を撫でた。落ち着いて見てみ
ると、さゆはとても綺麗で、二人のその様子はとても絵になっているなとれい
なは思った。
しかし、さゆはそれにすら飽きてしまったらしい。おもむろにれいなに近づ
く。
「れいなぁ、あそぼ」
「はぁ?」
れいなは思い切り顔をしかめる。
「れいなってかわいいねー。わたしほどじゃないけど」
れいなはますます顔をしかめる。こういう子は得意じゃない。ニイガキリサ
のようにハキハキ喋られる方が、れいなの性に合っていた。
- 204 名前:5 猫は気ままに 投稿日:2005/09/13(火) 21:38
- 「うざいなぁ……」
自然と口から出てしまう。
「え?」
「だから、うざいって言っとるっちゃろ」
じろりと睨みつけると、さゆは怯えたように絵里に目を向けた。
「れいなちゃん!」
すぐに、絵里がさゆを庇うように、れいなの前に立ちはだかる。今までに見
たことのないような目で、厳しく睨まれる。
「わたし帰る」
「あっ……」
絵里が振り向いた時には、さゆは窓を開けて、どこか遠くに消えていってし
まった。遠くの方で、にゃーおという鳴き声が聞こえた。
- 205 名前:5 猫は気ままに 投稿日:2005/09/13(火) 21:39
- 二人残されたリビングは、だだっ広くてやけに静かだった。雨音一粒一粒の
地面に当たる音が聞こえてくる気がした。
絵里はふらふらとテーブルに向かっていくと、崩れるようにソファーに腰を
下ろした。おんぼろのスプリングは、その衝撃にギシギシと悲鳴をあげた。
「大きな声出しちゃって、ごめんね……」
絵里はぼそりと呟いた。笑顔じゃない絵里を見るのは久しぶりだった。
「れいなちゃんが悪いんじゃないってこともわかってるんだ、ごめん」
「別にいいよ」
れいなは絵里と背中を合わせるようにして、ソファーに寄りかかった。
頭の中には再び、雨の音とさゆの声が混ざり合って聞こえるてくる。わんわ
んと耳鳴りみたいに鳴るその音は、今度はちっとも愉快ではなかった。
- 206 名前:5 猫は気ままに 投稿日:2005/09/13(火) 21:39
- ただいま、と声がして、おばさんがリビングに入ってくる。チラリと二人を
見て、そのままキッチンへと向かった。冷蔵庫を開けて、買ってきたものを詰
めている。
「ちょっと出てくるね」
れいながそう呟くと、絵里は驚いたように顔を上げた。外には相変わらず、
強い雨が降っている。
れいなは玄関に置かれた傘立てから適当に一本抜き取り扉を開けた。
外に出ると、先程までより大きく雨の音が聞こえて、れいなはすぐに傘を差
した。れいなの頭のすぐ上で、雨がバチバチと強い音をたてる。
とりあえず、当てもなく歩いてみようと思った。ぶらぶらと、何処まででも。
下り坂の手前にある公園にでも行ってみようか。露に濡れた草花の香りは、き
っと心を落ち着けてくれるだろう。
真っ直ぐに歩いて、最初の曲がり角を右に曲がった時、れいなの耳ににゃー
おという鳴き声が聞こえた。それでも、れいなは真っ直ぐに、公園に向かって
歩き続けた。
- 207 名前: 投稿日:2005/09/13(火) 21:40
-
- 208 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:41
- さゆの手のひら、おばさんの笑い声。照れた横顔。
- 209 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:42
- いつもならばこの道は、淡い陽射しが葉の隙間より零れ落ちて、まるで水溜
りのような陽だまりを作るのだろう。そしてそれは、れいなの姿を鏡のように
ぼんやりと映すのだ。
きっとそれは確かなことだ。れいなはぼんやりとしたまま、足元の水溜りに
映る自分の姿を見て思った。
れいなは雨に濡れる空を見上げた。カサカサと葉が揺れ、その度にまた一つ
雫を落とした。
どうして自分はここにいるのだろう。どうして自分は知らない街で一人、当
てもなくさまよい歩いているのだろう。
雨の音がれいなの鼓膜を震わせる。そしてそのままずけずけとれいなの奥の
方にある何かに触れようとする。
東京は嫌いだ。
この街にあるもの何もかもが、れいなの記憶にあるそれらとはまったく姿を
別にしていた。れいなのふるさと。福岡の街。
れいなは空を見上げ、優しかった雨を思い出した。地面を踏みしめ、温かな
大地を思い出した。
そうして、気付くと公園の入り口にたどり着いていた。
- 210 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:43
- 気付けば、こうして公園をじっくりと見るのは今日が初めてだった。学校ま
での通学路ではあるのだけど、いつも自転車で通り抜けていくだけなので、こ
うして落ち着いて見たことはなかった。
公園はそれを覆うようにぐるりと木が張り巡らされていて、その外にはいく
つかのベンチとバス停があった。雨のせいか、人影は見えない。
表面にうっすらと膜が出来るほどに濡れていたが、れいなは構わずベンチに
腰掛け、もたれかかるように空を見上げた。傘は邪魔だったから、ベンチの横
に放り投げた。
雨の勢いは和らぐことなく、葉を伝って大きな粒となって、れいなの体を濡
らす。
ベンチから放り出される両足は、靴下の意味がないくらいに先までビショビ
ショになっていたし、真っ白なティーシャツはすっかり下着まで透けてしまっ
ていて、肌に張り付いた感じがひどく気持ち悪かった。
- 211 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:44
- 不意にどこかから、にゃーお、という声が聞こえた気がした。れいなは体を
強張らせ、周囲を伺う素振りを見せたが、すぐにまた空を見上げた。灰色の空。
初めて東京の地を踏んだ日の空と、とてもよく似ている気がした。
にゃーお。再び鳴き声が聞こえる。れいなは視線を動かさず、なによ、とだ
け言った。
「風邪引くよ?」
断りもせずにさゆはれいなの隣に腰かけ、先程そうしたように、首を四十五
度かしげて見せる。れいなは、視線を合わせずに、まだ日の見えない空を見上
げている。
「あんたには関係ないっちゃろ」
れいなは濡れそぼった髪をかきあげ、もう片方の手で、意外と近くに落ちて
いた傘を拾い上げる。そして、さゆの前にぐいと差し出した。
「それより、自分のこと気にした方がよかろう?」
さゆはれいなから差し出された傘をじっと見つめる。
いつまでも受け取る気配のないさゆにしびれを切らし、れいなが傘を引きか
けたとき、さゆの両手が傘に伸びた。
「……ありがとう」
さゆは傘を受け取ると、珍しいものでも見るかのように、胸の前に抱え、じ
っと見つめた。
れいなもさゆも、もう傘の必要がないくらいに、びっしょりと濡れている。
「差さんと?」
その言葉に反応して、さゆがれいなに視線を向ける。そして、再び傘に視線
を戻した。その時初めて、傘は差すものなのだと思い出したかのように、慌て
て傘を開いた。
傘を叩く雨粒はますます激しさを増し、二人の間を雨音が支配する。傘を差
し俯くさゆはもう、にゃーお、とは言わなかったし、れいなもこれ以上さゆに
構う気はなかった。
- 212 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:45
- しばらくして、さゆが伺うような視線で、れいなを見上げた。
「れいなって、訛ってるんだね」
「悪い?」
照れ隠しのためか即座に答えるれいなの声は、しかし思った程に棘をもって
はいなかった。さゆは上目遣いを崩さないまま、ぽつりと呟く。
「ううん、お母様の言葉に似てたから」
「お母様?」
れいなが初めて視線をさゆに向けた。
お母様、という物言いがおかしかったのかもしれない。あるいは、さゆの母
親が自分と同じ言葉を使うことが珍しかったのかもしれない。
でも、そんなことより、れいなは何故か、さゆにも母親がいるんだな、とい
う当たり前のことを思った。
「あ、え、えっとえっと」
さゆは突然キョロキョロと辺りを伺う仕草をする。お母様、と言ったのが恥
ずかしかったのだろうか。ともかく、れいなはこういう場面に出くわすと、つ
い条件反射でからかってしまう。
「なにどもってんの」
「どもってませんよ」
「どもっとる!」
「どもっちょらん!」
そう叫んだ後、さゆは、あ、と口を押さえる。なるほど、確かに自分の言葉
に似ている。そして、言ってしまった後に後悔している姿が自分と重なって、
れいなは思わず笑ってしまった。
- 213 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:47
- 「えっと、その、……にゃーお!」
「……ごまかすな」
さゆは、いつの間にか元に戻っていた。傘を受け取ったときのしおらしい表
情などどこへ行ったのか、傘をぐるぐると回し始めた。
そして、余った方の手を、れいなの頭の上に持っていく。
「ちょ……っ」
突然頭をなでられ、れいなは慌てて手を払おうとする。しかし、さゆはにぃ
っと笑うと、その整った顔をれいなの前に突き出した。
「元気でた?」
突然のことで何を言われたからわからないれいなは、思わず伸ばしていた手
を引っ込め、さゆのなすがままになってしまう。
いつのまにか元に戻っていたのは、さゆだけではないようだった。
「れいなはかわいいんだから、笑ってないと駄目だよ」
そう言って、一瞬だけ見せたさゆの微笑みに、れいなは見惚れてしまってい
た。きっと絵里も、さゆのこの笑顔を好きになったのだろう。
でも、不思議とれいなの心の中に、嫌な感情はわいてこなかった。
「あ、さゆのほうがかわいいからね。もちろん」
「あー、別にどっちでもいいけど」
- 214 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:48
- れいながさゆから視線を外すと、視界の隅に、れいなの頭を撫でるさゆの手
が映った。急に恥ずかしくなり、れいなは再び手を払いのける。そして、来た
道に視線を移した。
「れいな、照れてる?」
「な……、照れとらん!」
「あはは、かわいー」
「……ぶつよ?」
れいなはそう言うと、以前絵里にしたようにさゆの鼻をひねり上げようとす
る。しかし、さゆはひょいとその手をかわすと、傘をくるくると回し、れいな
から遠ざかっていった。
傘から跳ねた雫がれいなの視界を侵し、無理矢理まぶたをこじ開けた頃には、
さゆはもう辺りにはいなかった。何処かから、にゃーお、という声が聞こえる。
れいなの右手は、誰もいない世界にまっすぐ突き出されていた。れいなは何
を掴むかわからないまま、そっと拳を握り締める。その手についた雫が、光に
反射してキラキラと輝いた。
空にはいつのまにか、大きな太陽がぽっかりと姿をのぞかせていた。
- 215 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:48
- 「ただいまー」
れいなが大きな声で挨拶をすると、台所の方から、おかえり、というおばさ
んの声が返ってきた。まだ夕飯には早い時間だったが、一応手を洗っておくこ
とにした。
洗面所に向かう途中、廊下に点々と雫がこぼれいていることに気付く。れい
なは咄嗟に自分の濡れた髪を触った。
しかし、雫は洗面所に向かって伸びており、どうやら自分のせいではなさそ
うだと考え直した。
れいなは洗面所の前までたどり着くと、足を止め、耳を澄ませた。雫が地面
を叩く音が聞こえる。雨の音かとも思ったが、よく聞いてみると、それとは微
妙に違っていた。
一思いにドアを開ける。乱雑に脱ぎ捨てられた服が、日中にも関わらずにつ
いたままの蛍光灯の明かりに照らされている。
れいなは服を手に取ると、扉の脇に置かれていた脱衣篭に放り投げた。どう
やらその服が廊下を汚した原因だったらしく、脱ぎ捨てられていた箇所は光に
反射して艶々と輝いていた。
- 216 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:51
- 「絵里、早く上がって。あたしも入りたい」
「なにー?」
絵里の声と共に、シャワーの雫がガラス戸を激しく叩いた。れいなはそこに
近づくと、がんがんと乱暴に叩き返す。
「雨に濡れた。寒い。早く出ろ」
すると、シャワーの音が止み、ほんの僅かガラス戸が開く。そこからひょい
と絵里が顔を出した。
「もぅ、れいなちゃんはほんと、気が短いよねえ。そんなこと言ってると、出
てあげないよ?」
絵里は、先ほどの一件がなかったかのように、ぱあっと微笑んだ。その満面
の笑みを見て、れいなは、ひまわりみたいだな、と思う。一年中咲いているひ
まわり。
- 217 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:52
- れいなは何も返さずに、後ろを振り返ると、洗濯機の上に置いてあった篭の
中から、かわいらしいピンクの下着とティーシャツ、そしてハーフパンツを抜
き取った。
「それじゃ、ごゆっくり」
「ちょっ、ちょっ!」
そう言って洗面所を後にしようとするれいなを、絵里が慌てて引き止める。
れいなは面倒臭そうに後ろを振り返った。
「何? ゆっくり入っとったらよかろう?」
それだけ言い残し、れいなは再びドアに視線を向ける。
「出る! 出ますから! 下着返して……!」
それを聞いたれいなは、大げさに溜息をついてみせ、
「東京もんは、お詫びの言葉も知らんと……?」
と、呟く。絵里と視線が合った。しばらく見詰め合った後、れいなは遠い目で
ふっと笑い、ドアノブに手を掛ける。
- 218 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:52
- 「わかった! ごめんなさい! 許して、ね? れいなちゃーん」
絵里は慌ててそう叫ぶと、ガラス戸の近くに置いてあったはずのバスタオル
をまさぐる。しかしいつまで経っても手にはその感触を感じることが出来ない。
絵里の視線が宙をぐるりと回って、れいなの頭にたどり着いた。
「あーつめた」
バスタオルでごしごしと頭を拭いたれいなは、絵里を一瞥すると、ぽいと洗
濯籠に放り投げる。綺麗にたたんであったはずのバスタオルは、たっぷりと水
分を吸い取り、洗濯物の中に姿を消した。
「着替え取ってくるから、さっさとあがっといてね」
れいながいなくなったのを確認した後、絵里は両手で胸元と下半身を隠し、
洗濯籠に歩いていく。そして、先程れいなに放り投げられたバスタオルを手に
取り、じっと見つめた。
「……」
下ろしたばかりのバスタオルなのに、何故かすごく濡れている。絵里は観念
し、そのバスタオルで水滴に覆われた体を拭いた。冷たかった。
世間の冷たさって言うのは、きっとこんな感じなんだろう。絵里はなんとな
く、そんなことを思った。
兄弟のいない絵里が始めて味わう、世間の冷たさだった。
- 219 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:53
- れいなが風呂から上がると、テーブルには少し早めの晩御飯が用意されてい
た。今日は焼き魚とスパゲティーと言うおかしな組み合わせだったが、隣の絵
里は、うわあ、と嬉しそうな声を上げた。
れいなは慣れない手つきで魚をほぐしていたが、不意に今日出会った少女の
ことを思い出した。猫なだけに魚も好きなんだろうか。そんなことを考えてい
るとついつい吹き出してしまう。
「れいなちゃん、どうしたの?」
「な、なんでもない」
笑っているところを見られたのが照れくさくて、れいなは無言で箸を進める。
しばらく見ていた絵里も、首を傾げると、スパゲティーにフォークを伸ばす。
- 220 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:54
- 「それにしても晴れたねえ」
おばさんは器用に魚をほぐしながら、窓の外を見る。空は赤く染まり、庭の
植物が時間と共に色を変えた。
風が吹くと、葉は静かに揺れ、溢れるように雫がこぼれる。それだけが降り
しきっていた雨の名残を残していた。
「あんたたちも、もうちょっと外にでるの我慢しといたらよかったのに」
おばさんはそう言うと、ほぐし終わった魚を、ゆっくりと口に運ぶ。
れいなは雨の名残が他にもあったことを思い出した。そこで初めて、絵里の
髪が濡れていることを気に留めた。
絵里の髪は濡れているせいか、ゆるやかなウエーブを描いていて、いつもよ
りも大人びて見える。隣に座ったれいなの鼻先に、絵里の髪がかすめるたび、
柔らかなシャンプーの香りが鼻をくすぐった。
自分も同じシャンプーを使っているから、別に珍しい匂いではないはずなの
に、絵里から香るその匂いをかぐと、自然に胸がうずく。それが悔しくて、れ
いなは何の前触れもなく、絵里の頭をはたいた。
「いったぁい!」
絵里は猫目をさらに細くして、うるうるとれいなを見つめる。
「いきなり何……?」
「うるさい」
れいなは絵里の質問をばっさり切り捨てると、食事に戻る。焼き魚はうまい。
そういえば久しぶり焼肉が食べたいな、と思った。
- 221 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:55
- 「そいや、何で絵里まで濡れてるの?」
思いついたことが、不意に口をついて出る。えっと、と口ごもる絵里を、れ
いなは不思議そうな顔で見つめる。
そんな二人のやりとりを見ていたおばさんが、突然笑い出した。
「れいなちゃんを探しに行ってたのよね」
「え?」
「お母さん!」
絵里が真っ赤な顔でテーブルに手を掛ける。身を乗り出した拍子に味噌汁の
水面が、ゆらゆらと揺れた。
絵里が怒っている。おばさんが笑っている。
れいなはどうしていいのかわからず、きょろきょろと視線をさまよわせた。
いつのまにか、おばさんの焼き魚の皿はすっかり綺麗になっていて、れいな
は咄嗟に乱雑な自分の皿を隠す。
「絵里もなんだかんだで、れいなちゃんが可愛くて仕方ないのよねぇ」
おばさんが何かを言うたびに、絵里の顔に赤みが差していく。れいなの視線
は最終的に絵里の横顔に落ちつき、味噌汁に箸をつけながら、その景色に見入
った。
れいなの頭に、公園でのさゆとの出来事が鮮やかに浮かび上がった。さゆに
撫でられる自分と今の絵里は、きっと同じような表情をしている。
- 222 名前:6 照れた横顔 投稿日:2005/09/13(火) 21:55
- 「お母さん、いい加減にしないと怒るよ!」
それっきり絵里は何も言わなくなり、れいなも自分のご飯に意識を戻した。
味噌汁をすすると、体の中が温かくなっていくのを感じる。先程までいた公
園もこの家も、同じ街にある。雨に打たれている自分と、温かく包まれている
自分。
「あっ」
絵里の箸がテーブルから転がり落ちる。そのままれいなの足元まで転がって
くる二本の箸を、テーブルの中に潜り込むようにして拾った。
「おっちょこちょい」
「えへへ、ごめん……」
箸を受け取った絵里が、台所に消えていく。おばさんの包丁の音が止まる。
新しい箸を受け取って戻ってきた絵里は、れいなから視線を外すと、くすぐ
ったそうに笑った。
- 223 名前: 投稿日:2005/09/13(火) 22:00
- 更新終了
>>154-161 1 灰色の街
>>163-172 2 一輪の花
>>174-183 3 下り坂
>>185-195 4 優越感のわけ
>>197-206 5 猫は気ままに
>>208-222 6 照れた横顔
- 224 名前: 投稿日:2005/09/13(火) 22:00
-
- 225 名前: 投稿日:2005/09/13(火) 22:03
- ということで、新しい話です。
少し性格設定が古いですが、流してやってください。
>>152
短編含め、最後まで読んでくださってありがとうございます。
今回も田中さん主役ですが、よろしければごらんくださいませ。
- 226 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/13(火) 22:27
- 再度巡り会えるとは思ってもいませんでした。
期待しております。
- 227 名前:読み屋 投稿日:2005/09/14(水) 01:36
- いったい何度読み返したことか・・・。
再開していただいたことを心からお礼申し上げます
次回更新楽しみにしております
- 228 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/14(水) 11:52
- 更新お疲れ様です。ずっと待ってました!
このなんともいえない柔らかな雰囲気が大好きです。
次章も期待してます。
- 229 名前:駄目作者 投稿日:2005/09/15(木) 23:33
- ゆるやかなノイズが復活したか・・・・
俺も頑張るか!!
- 230 名前:はち 投稿日:2005/09/16(金) 00:20
- はじめまして、更新乙です
案内板のカキコを見て読みました
いや、評判通りのよい作品ですね
これからついていきますのでよろしくですw
- 231 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/21(水) 23:41
- あーいい・・・すごく和むわぁ 久しぶりにいい夢見れそう
- 232 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 21:54
- 夏のてっぺんで、両手を広げる。やじろべえ。
- 233 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 21:58
- 週末の雨が嘘のように、外は鮮やかに晴れ渡っている。
相も変わらずに行われている授業を適当にやり過ごしながら、れいなはぼん
やりと窓の外を見つめていた。
規則正しいチョークの音。こそこそとしたおしゃべりの声。自分以外の何か
が発する音。ノイズ。
もしこの世界が全て自分を構成する物質と同じだったなら、どんなに生きや
すいだろうか。れいなはずっとそう思って生きてきた。東京の街に出てきてか
らは特に。
しかし、最近少しだけ変わってきたように思う。いつのまにか、東京での暮
らしを楽しいと思っている自分がいるのだ。
それは多分――
- 234 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 21:59
- 突然、四方八方からガタっという音がして、れいなは慌てて意識を教室に戻
す。
みんなが席を立っている。どうやら授業が終わるらしい。
背の低いれいなは、うまく前の人の影に隠れているおかげで先生から見えて
いないらしく、せっかくなので、座ったままでいさせてもらうことにした。
途中、斜め前に座る眉毛のニイガキリサと視線があったから、少しだけ笑っ
て見せると、彼女は苦笑いをして再び前を向いた。
ゆっくりと時間が流れている。
物思いにふけってしまうくらい、それは穏やかな昼下がりだった。
- 235 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 21:59
- 夏休みの講習もすでに計画の半ばをこえている。
普段のれいななら、講習など適当にさぼったりして、一ヶ月ちょっとの夏休
みを精一杯に謳歌しているところなのだが、東京に出てきてからこっち、幸か
不幸か友達はというと学校にいるこいつらしかいない。
それに、ここに来れば絵里がいる。それは別に絵里のことが妙に気になると
かそういうわけではなく、あんなやつでもいてくれれば暇つぶしにいじったり
できる、そういうことなのだ。そんなことを心の中で誰ともなく説明しつ窓際
に近づくと、校舎の外に絵里がいた。
どうやら友達と一緒というわけではないらしい。れいなに気づいた絵里は、
満面の笑みを浮かべてぶんぶんと手を振る。あれは家にいるときの絵里だ。そ
のことに気分がよくなったれいなは、手でも振り返してやるかと思い、右手を
上げる。
しかし、その右手は何か鈍い音がして、途中で引っかかってしまう。振り向
くと、眉毛がいた。
「れいなちゃん、あご、痛い……」
「あ、ごめん」
顎にひっかかった右手を下ろして外を見ると、絵里が未だにれいなの方を見
上げている。先程の教訓を生かし、今度は左手を振ると、絵里は再び満足そう
に笑う。
「今日はちょっと用事があるから先に帰っていいよー!」
それだけをれいなに叫ぶと、絵里はそのまま校舎を横切っていった。
- 236 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:00
- れいなはしばらく彼女の後ろ姿を見つめて、ようやく窓際から離れる。眉毛
はれいなが立ち去った後、同じように窓から身を乗り出した。
「あ、亀井先輩だー。どこ行くんだろ」
「さぁ、知らん」
そう言いながられいなは、机の中の教科書類を鞄に詰め始める。本当は自転
車のペダルが重くなるから筆箱以外は置いていきたいのだが、そうすると夜に
絵里がうるさいのだ。勉強の苦手なれいなの宿題を見てやるのが、彼女のライ
フワークに組み込まれてしまったらしい。
「よし、帰るぞ眉毛」
「え? 私? 亀井先輩は?」
「だから知らないってば。早く準備しろ」
「いや、でもそんな急に……」
ニイガキリサが言いよどんでいるから、れいなの機嫌も当然悪くなる。それ
を察してか、ニイガキリサの挙動はどんどん不審になっていく。
それがおおよそピークに達したあたりで、入り口のドアが開いた。
- 237 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:01
- 「里沙ちゃん、お待たせー!」
れいなの記憶にはない可愛らしい声が教室に響き渡る。大方授業でも遅れて
いたのだろう。急いで来たらしく、彼女の息は大分あがっていた。
しかし、彼女にとっては幸か不幸か、れいなのクラスの授業も長引いていた。
そのため、クラスの大部分の生徒たちが、まだ教室の中に残っていたのだ。
「あ、ご、ごめんなさい……」
丸顔の少女は、すっかり萎縮してしまって、真っ赤な顔でうつむいている。
そんな姿をれいなは不思議な気持ちのままぼうっと見つめていた。姿形はおろ
か、声ですら似ていないのに、連想してしまう人がいたのだ。
「あさ美ちゃんってば」
はぁ、と頭を抱えているニイガキリサの眉毛は、いつもよりもへなちょこな
感じに垂れ下がっている。
「彼女、あさ美ちゃん、だっけ? あたしは別に構わんよ。一緒に帰ろうか」
「え、いやでも」
「別に気兼ねとかいらんし。さ、早くあさ美ちゃんのとこいこ」
「あの、私たちの意見は……?」
「あさ美ちゃん、お待たせ、さっさと帰ろう」
突然声を掛けられたあさ美は、どうしていいのかわからずに、はぁ、と声を
漏らす。そんな曖昧な返事でも、れいなにかかれば完全で完璧な了承の言葉だ
った。ニイガキリサもそれを知ってか知らずか、今まで以上に大きなため息を
ついて、転校してきたばかりの少女に従った。
- 238 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:02
- 家は三人とも同じ方向だった。れいなはまだはっきりと街の地理を覚えてい
るわけではなかったが、うろ覚えの住所や付近の施設を告げた所、すぐに彼女
たちが答えを導き出したのだ。
「亀井先輩って結構近くに住んでるんだぁ」
ニイガキリサが眉毛もとい瞳をキラキラと輝かせる。
「なんでそこで絵里ちゃんが出てくるの? 確かに家近いけど」
あさ美が不思議そうな顔でニイガキリサを覗き込む。するとニイガキリサは、
あ、と声をあげてあさ美を見た。
「れいなちゃんと亀井先輩が一緒に住んでるの知らなかったっけ」
「え、一緒に? 親戚か何かですか?」
「あんな親戚いりません」
「……」
れいなの言葉に二人が黙り込む。沈黙は真っ青に晴れた空へ、すうっと染み
渡っていって、すっかりと消えてしまう。
- 239 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:02
- そんなぽっかりと空いた穴に入り込んだのは、へたくそな歌だった。
「そーしっそーあいがっいー、あーなたと、おーなじだーけっすーきがいいー」
突然歌いだした二人のユニゾンを聞きながら、れいなは行きも通ったゆるく
長い上り坂を歩いていく。絵里に自転車の鍵を渡していたから久しぶりに歩い
ているのだが、たまにはこういうのもいい。
ぼんやりと歌詞を聴きながら、れいなは変な歌詞だなぁと思った。あるいは
自分がずれているのだろうか、とも。
それでもれいなは確信にも近い思いがあった。
別に他人の気持ちなど関係はないのだ。肝心なのは自分の気持ちなのだとい
うこと。
いつもよりもゆったりと景色が流れていく。焼き鳥屋だと思っていたのが肉
屋だったり、クリスマスにでも使うのか木に電飾が巻きついていたり、色んな
初めてと出会うことが出来た。
- 240 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:03
- 「へったくそ」
やけに幸福な気分のまま、れいなはそう呟く。
そこでようやくれいながいることを思い出したのか、二人は同時に歌うのを
止め、恥ずかしそうに笑い出した。
「ごめんなさい」
そう言って照れるあさ美を、れいなは可愛いと思った。ふっくらした丸顔の
頬の部分だけうっすらと紅に染まっている。
「かわいいね」
だかられいなは、偽ることなくそのままを告げた。
「え、え?」
ますます照れるあさ美はしばらくして、嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「れいなちゃんの性格はいいなぁ。みんながこんな風だったら、多分世界はも
っとうまく回るのに。そう思いませんか?」
その言葉はちっともお世辞には聞こえなかったから、れいなはどう答えてい
いのかわからず、ニイガキリサに視線を向けた。
「いや、思わないって……うあっ!」
そして、そんなことを言うニイガキリサの眉毛を引き抜いた。
- 241 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:04
- 「うん、あたしも思わないかな」
れいなは指につまんだニイガキリサの眉毛をふうっと吹き飛ばすと、あさ美
に向き直って言った。
自分だけしかいないならきっと、れいなにとってとても楽な世界だと思う。
でもその世界には、絵里もさゆもいないのだ。優しいおばさんもいないし、
ニイガキリサだって、あさ美だっていない。そんな世界で自分はいったいどう
やって息を吸い、どうやって言葉を交わすのだろう。
不思議なことではあるが、今のれいなには全く想像することが出来なかった。
「そうですか。じゃあ多分、そうなんでしょね」
あさ美は思いの他あっさりと、れいなの主張を認めた。彼女は晩夏の風に髪
をなびかせながら、でも、と続けた。
「そうなることでうまく行く部分って言うのはきっと、確実に存在していると
思うんです」
そうして彼女は、彼女の親戚についての少しだけ長い話をさせて欲しい、と
言った。それは、彼女の言葉で言うなら、城に捕われたお姫様たちが過ごした、
日々の悲しい顛末。
「いいよ」
れいながそう言うと、あさ美は嬉しそうに、少し寂しそうに微笑んだ。
「あるところに、二人の美しい姉妹がいました」
そんな冒頭の後、彼女はゆっくりと語り始める。
- 242 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:04
- ***
- 243 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:06
- 彼女たちは、親からとても大事に育てられていました。精一杯の愛情と、そ
れと同じくらいの期待をかけられて。
だから彼女たちも――正確にはお姉さんの方なんですけど――その愛情に応
えようと精一杯の努力をして、親の理想に近い自分を作り出そうとしたんです。
でも、結果から言うと、それは叶いませんでした。
私が思うに、それはたいして難しい答えではなかったような気がします。例
えるならば初等数学のように、式に代入しさえすれば自然と解が得られるよう
な、ひどく単純なもの。
彼女は、親の理想を叶えるほどの才能に恵まれていなかったのです。
それでも彼女は努力を続けました。
誰よりも優雅に、誰よりも聡明に。
ただそのためだけに彼女のこれまでの人生はあったのかもしれません。そし
てそれは、私の知らない所で未だに続いているのかも知れないけど――でも、
それはまた、別のお話です。
とにかく、今のことが、彼女たちに起こった最初の悲劇でした。
- 244 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:06
- でも、彼女たちの悲劇はこれだけでは終わりませんでした。
妹には偶然にも、その才能が備わっていたのです。更に彼女は、親はもちろ
ん、美しい姉のことを盲目なほどに愛していました。
だから、彼女が姉の代わりに親の理想を叶えようとしたのは、至極自然な流
れだったように思います。
それからの彼女は、彼女の意思などないかのように、ただ目的を達成するた
めだけの行為に終始しました。彼女にとっては、彼女の感情の振り子も含めて、
結果へと至る過程など、無意味なものでしかなかったのです。
彼女が欲したのは、両親が、そして愛した姉が求めた理想像のみ。
それは、すごく悲しいことなんじゃないかって思います。だって、彼女の人
生は、彼女以外の誰かのためだけにあるんですから。
久しぶりに会った彼女は、私が小さい頃から見てきた彼女のようには笑わな
くなっていました。まるで城に捕われたお姫様のように、悲しい美しさだけを
身にまとっていました。
- 245 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:10
- ***
- 246 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:10
- それで、ここからは私の推測です。
彼女はただ、彼女の大好きな家族に愛して欲しかっただけなんじゃないのか
なって思います。自分が彼らにそうするのと同じように。
でも、もしその推測が当たっているとして、偽った自分を愛してもらうこと
に意味なんてあるんでしょうか。
彼女が本当に欲しているのは、ありのままの自分を受け止めてくれる――世
間一般では当然のこととして扱われている――家族からの無条件の愛情なので
はないでしょうか。
だから私は、もし彼女がれいなちゃんのように、自分の気持ちを正直に出せ
る人だったなら、って思わずにはいられないんです。
- 247 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:13
- ***
- 248 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:14
- そこまで話すと、あさ美はふうっと大きく息を吐いて、申し訳なさそうに微
笑んだ。
「すみません、長く話をしてしまって」
その言葉に、れいなもニイガキリサも、無言で首を横に振った。
「でもさ」
そして、その後を続けるようにれいなが口を開く。
「今の話を聞く限り、まだ何も解決してないし、言い方を変えれば、まだ何も
終わってないっちゃろ? だったら、反省はともかく、後悔だけはしちゃだめ
だと思う」
あさ美は少しだけ驚いたようにれいなを見る。
「はい、れいなちゃんの言うとおりです。まだ、何も終わってないんですよね」
そう言った彼女の瞳はれいなではなく、その後方に広がる真っ青な空に向か
っていた。彼女が今想起するのは、美しい双子の姉妹だろうか。
- 249 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:14
- 「後、」
そう言って、れいなはあさ美の顔に指を近づける。そして、
「真面目な話をしてるときに、もの食うな」
彼女のふくよかなほっぺをつついた。
「あっ! これはっ! ちがっ!」
何度も。幾度も。見えないくらいの速度で連打をした。そのほっぺが何も食
べ物を蓄えていないと気付くまで。
後にれいなは、彼女のほっぺが冬を越すために重要な役割を果たしているの
だと理解することとなる。極めて勝手に。
- 250 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:14
- だけどそのときのれいなは、全く違うことを考えていた。
あさ美の話とは正反対な、自由な少女のこと。そしてその自由に憧れる、笑
顔の少女のこと。
あの雨の日、さゆを捕まえ切れなかった右手をじっと見る。そして今日、絵
里に向かってバイバイと振った左手。
れいなの手に納められなかった二つのものは、いったいどちらが重かったの
だろう。
不意に、先程まで二人の少女が歌っていた歌を思い出す。自分の気持ちと相
手の気持ちとをつりあわせたいと願う、可愛らしい少女の歌。
そこでれいなは、やはり自分の考えが合っていたことを知る。
だって自分は、自分の気持ちの重さすらも量れない。
- 251 名前:7 やじろべえ 投稿日:2005/10/03(月) 22:15
- いつの間にか差し掛かった橋の上で、れいなは瞳を閉じ、両手を水平に広げ
た後、片足を上げる。
途端にぐらぐらと揺れる体に耐え切れず、れいなは慌てて橋の手すりにもた
れかかる。
まぶたを開けると、れいなから伝った汗が水面に落ち、静かに波紋が広がっ
て行った。どこまでもどこまでも。
この小波は、いずれ海へとたどり着くだろう。そうして別なところで出来た
波紋と重なって、また新たな形を作り出すのだ。
水面に反射した陽光が、川を見下ろすれいなの視界を侵す。遥か前方から、
れいなを急かす少女たちの声が聞こえる。
八月も半ば。今年一番の、夏の日のこと。
- 252 名前: 投稿日:2005/10/03(月) 22:17
- 更新終了
>>232-251
いまさらですが、>>245は間違って書き込んでしまいました。
なかったことにしていただけるとありがたいです…。
- 253 名前: 投稿日:2005/10/03(月) 22:17
-
- 254 名前: 投稿日:2005/10/03(月) 22:19
- 昔から読んでくださっている方、新しく読み始めてくださった方、
改めて御礼申し上げます。
>>226
いつか書こう書こうと思いつつも、かなりの時間が経ってしまいました。
今度こそ期待に応えられるように頑張ります。
>>227
何度も読んでもらえて恐縮です。
相変わらずペースが遅いですが、何かの暇つぶしにでも読んでやってください。
>>228
大変お待たせいたしました……。
タイムラグがあり、設定だけでなく文章も少し変わっているかもしれませんが、
なるべく雰囲気を崩さないように努力します。
>>229
復活すると前から言っていましたが、ようやく復活しました。
お互い頑張りましょう。
>>230
はじめまして。読んでくださってありがとうございます。
長い間待っていてくださった方とは別に、新しく読み始めてくれる方がいるというのもまた、
すごく嬉しいです。
これからよろしくお願いします。
>>231
前回の話とはキャストが違っていますが、今回のやり取りでも和んでいただけたら幸いです。
いい夢は見られたでしょうか?笑
- 255 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/03(月) 23:24
- 更新お疲れさまです☆ あーやっぱりぃぃですね・・・こうニッポンの夏!みたいなw
きょうもいい夢みれそうですw
- 256 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/03(月) 23:52
- 帰り道を歩くれいな
その時の姿が頭に浮かんできます
ここを読むと、懐かしい学校生活を思い出す事ができますね
- 257 名前:読み屋 投稿日:2005/10/04(火) 01:19
- はぁ・・・、とため息が出るほどに満足致しました
明日昼休みに、もう一度読もうと思います
よし!明日も仕事がんばろう!w
- 258 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/08(火) 20:34
-
- 259 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/04(日) 01:43
- う〜ん。続きがきになる・・・
- 260 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 04:08
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
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