CURE
- 1 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 01:50
- 記憶喪失モノです。
「時間制限付きの恋」といったところで。
メインはなちごまですが、なちごまりの3人で進んで行く予定。
アンリアル。設定年齢ちょい高め。
基本sageでひっそり更新していけたらなーと思っております。
読みづらいかもしれませんが、温かく見守って頂ければ嬉しいです。
- 2 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 01:51
-
思えばあの時はじめて目が合って、そしてそれが始まりだった。
- 3 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 01:52
-
「なあ、聞いたか?ゴマキがさ…」
今日もまた、誰かが店の中でその話題を振った。
毎日のことだ。
なつみは少し雨に濡れた身体を冷房のなかで縮こませながらグラスに
口をつけ、その声を冷めた気持ちで耳から耳へ流す。どこにいても、
必ず出てくる話題。噂話。毎夜、話題の中心になっている後藤真希という
人間はこの町ではかなり有名人で、本人が来たこともないこんな小さな
店でも、その噂だけが勝手に飛び回っている。
- 4 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 01:54
- 後藤真希。
彼女は一応小説家なのだけれど、男性受けする容姿や派手な立ち居
振舞い、そしてその若い年齢からマスメディアへの露出がやけに多い。
そして、それと比例するように下世話な噂話も多い。やれタレントと交際
が盛んだの、次の新作は自分を投射した実話だの、この間どこそこの
バーで見かけて服装はこうだっただの、いい噂から悪い噂、どうでもいい
ような話題まで、毎日とにかくいろいろ好き勝手に言われつづけている。
町で彼女は唯一の芸能人だった。
この町は地味で、味気ない。
それは皆がわかっていた。だから有名人の誕生を喜び、真希が文壇で
賞を獲った時には本人が出席しないパーティが色々なところで開かれた
という。真希の新作が当たれば、町も賑わう。誰にとっても願ったりな展開
だ。だから人々は勝手に持ち上げては彼女の噂話を楽しむ。見たことの
ない彼女のプライベートを偽造する。
噂だけならかなりの数が飛び交っていた。
けれども逆に言えば、直接本人を見た人間はかなり少ないということだ。
映像のない報道。同じ町にいるのかいないのか、それすらも怪しい後藤真希
という人物。その姿はほとんどの人間は知らない。
だから、そういう意味ではなつみは運が良かったのかもしれない。
- 5 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 01:56
- 「ねえ、なっちは直接会ったんでしょ?」
カウンターの中、手際よくグラスを並べながら他の客の話に相槌を打って
いた店長が、ふとそう言ってなつみを振り返った。隅に腰掛けて、半ば壁に
もたれかかるようにグラスを傾けていたなつみが顔を上げる。
「後藤ってどんな子だったの?やっぱ可愛いわけ?」
面白半分に聞いてくる彼女に軽く笑って、なつみが答えた。
「確かに可愛いかもしれないけど」
「やっぱ高慢な女王様だった?」
「わかんないけど、なっちはきらいかな」
温和な彼女に似合わず吐き捨てるようにそれだけ言って、なつみはおかわり、
とグラスを差し出した。キツいよぉー、と店長が苦笑いする。
それを受けて微笑む表情は変わらずににこやかだったが、それ以上話す
ことは決してしない。
この時点まで、なつみはまさか真希と自分にまた接点ができようとは思っても
いなかった。
- 6 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 01:59
-
「なっち、ひさしぶり」
懐かしい声に、木漏れ日の中で夢の入口まで入りかけていた意識を呼び
戻して上を見やる。すると、予想外に白衣を着た人間がそこに立って、
なつみを見下ろして笑っている。
「矢口ぃ」
数ヶ月ぶりの意外な再会に、まどろんでいた意識を戻してなつみは草の
上から起き上がった。
「まったく、こんなとこで寝てて風邪ひいても知らないぞ」
立ち上がると、相手との身長差が逆転する。
下から手を伸ばしてぱさぱさと髪にかかっていたなつみの草の葉を払い
ながら、矢口は笑い声をたてた。
「そーだねぇ。白衣のサイズがなくて特注した矢口さん。忠告ありがと」
すばやく切り返すと、うっ、と衝撃を受けた演技で胸を押さえ、笑いながら
へなへなと彼女は芝生に腰を下ろす。
「・・・どこから聞いたの、それ」
「構内ほとんどの人は知ってるって。やぐち、ちーさいもんねぇ」
「ああーやだやだ。おいらが白衣着始めたのなんか半年前じゃん!
なんで今だにそんな噂が残ってんだよーっ」
「それこそ矢口が研究しなくちゃだめな事だべさ」
「あれはだって人間の性質だもん。おいらの管轄外ですよーだ」
そう言って、心理・精神学専攻の彼女は無責任に舌を出してみせる。
そしてまっさおに晴れ渡っている空に向かってゆるりとため息をついた。
- 7 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 02:00
- 「そういや、自分の研究室開いたんだって?矢口。すごいじゃん」
「んん、まあ。でも研究室ったって他の講座みたいにカッコいい実験でき
ないし、あれだよ、心の相談所みたいなもん」
以前から気配りの上手な矢口が心理学を取ったと聞いた時には妙に納得
したものだった。昔から、何故だか人の気持ちを和ませる奴だったから
なのかもしれない。
「じゃあ何、もう患者さんとか来たりしてんだ?」
「いやいや、ひと段落はついたけど、まだまだこれからだよぉ」
しみじみと呟く横顔がいつになく覇気がないように思えて、なつみはかすか
に首を傾げた。
「その相談所がうまくいってなかったり、する?」
- 8 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 02:01
- 「ずばり聞くなあ」
矢口が苦笑する。
「なっちのそーゆーとこ好きだよ。全然変わってない」
「…それって誉めてるのかけなしてるのか微妙だべさ」
自分の思っていたことを先に言われてしまったなつみが、複雑な気分で
眉を寄せて睨みつける真似をすると矢口は「ゴメン」とそれでも満面の笑
みを作った。
「せっかく心配してるのにぃ」
「いやいや、そうそう!そうだよ、やっかいな患者がいてねぇぇ〜」
「…矢口、ふざけてる?」
「ぜんぜん」
「………」
「ほんとほんと」
- 9 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 02:02
- 茶化された余韻でまだ疑っているなつみへ、一瞬だけ真面目な顔を見せ
てから矢口はもう一度ゆっくりと息をついた。その色素の薄い髪が風に吹
かれているのを、なつみはぼんやりと見つめた。
環境が整ってすぐ自分の研究室を立ち上げた矢口とは違い、なつみは
資格を取ったものの、あえて研究室は開かずにいる。いろいろな仕事が
四方八方に詰まっている他人のところを手伝っているほうが楽しいと感じ
ていたから、わざわざ自分で個人の研究室を立てるのはやめたのだが、
それは正解だったかもしれない。
例えば今の矢口のように行き詰まった時に、一人だと息がつまる。
「あ!」
そのとき矢口が、思い出したように顔を上げ、そうだ、と一人ごちてなつみを見た。
「・・・そうだよ、なっち生物学専攻だったよね。ちょっとしたバイトがあるん
だけど、生物の研究ついでにやってみない?」
- 10 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 02:04
- 「・・・・・・バイトって」
「イキモノの世話。餌食わせて寝かしつけて簡単な調査報告するだけ。
それで日給コレだよん」
矢口はなつみの目の前に指を数本たててみせた。表情には名案を発見
した喜びが貼りついている。なつみが驚いたのはその顔ではなく、指の
数だったが。
「そんなにぃ?」
びっくりして思わず眉根が寄る。
「上手い話でしょぉ?」
「うん、上手過ぎるべ」
心底呟いたなつみに向かって満面の笑みを見せた矢口は、次に少し顔を
引き締めて大まじめに咳払いをした。
「しかし大マジなんだ、これ。そんだけ出したって足りないくらい重要視され
てる奴だからね」
「それ、ほんと?」
そうまで聞くと、動物好きの好奇心が芽生えてくる。
一体どんな生き物なのかいろいろ思いをめぐらせて、心の底でわくわくしな
がらなつみは矢口の次の台詞を待った。ところが矢口の口からは一向に
期待している言葉が飛び出す気配はない。
- 11 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 02:05
- 「やーぐーちぃ、なに、それってどんな奴なの?教えてよぉ」
「なっちの答えが先。引き受けてくれる?それともやめとく?おいらじゃどう
にもなんないからさ」
「なーに…そんなに急ぎなの?」
「急ぎなの!」
きっぱりと宣言した友人の顔を眺めながら、なつみはすこし小首をかしげ
て考える。
(そこまで言うんだから、そーとー厄介なんだろうな)
『厄介』のケースをいくつか頭の中に並べてみる。
(…でも動物ならだいたい得意だし)
それに、珍しいものならかなり魅力的だ。研究材料にもなるかもしれない
し、もしかしたら一石二鳥ってやつかもしれない。少しくらい世話が厄介で
も、それに比べれば軽いものだし。おまけに日給も高いときている。
- 12 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 02:06
- 「………んー……」
そうして考え込んだまま、しばらく時間が経ってから僅かになつみの首が
縦に動いた。
「わかった!なっち、そのバイト引き受ける」
「よーし!決まりーー!!」
にやっと会心の笑みを浮かべた矢口が、ゆっくりと立ち上がる。
「悪いけど今からうちに書類書きに来てね」
そう付け足されたのを受けて影が移動した草叢から立ち上がり、先を行く
矢口のあとをなつみもついて行くことにする。
広い大学の中、同じような専攻だが、その実矢口の研究棟となつみの講
座とはかなりの距離がある。こういった意味でも矢口が、どちらかというと
なつみの研究棟に近いこの広場に姿を現すのはかなり不自然なことだっ
たのだ。
- 13 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 02:07
- けれどもその時のなつみは、珍しい(らしい)生物の観察に預かれること
に気分が高揚していて、矢口がその場所にわざわざ出現した違和感も、
その話がどうして生物学を研究している自分のところよりも早く、心理学棟
の彼女のところから来たのか、という疑問にもまったく気がついていなかった。
………だから、敗因はそこだったのかもしれない。
- 14 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 02:08
- 矢口の研究室は始めたばかりということもあって、お世辞にも既に開かれ
ている他の研究所とは比べられないほど質素なところだった。
ファイルの入った棚と机、そして来客用の椅子が数脚、白い空間に並べて
あり、備え付けのコンピュータがガラス壁で隔たれた別室に設置されている。
ファイルの中身を並べないと作業が不可能ななつみの講座とはなにもかも
が違っていた。
部屋に入るなり矢口はさっそく書類を出してきてなつみの目の前に置く。
よほど途中で気が変わるのが怖いらしい。訝しげにその紙の上にペンを
走らせながら上目遣いで見上げると、わざとらしい笑顔を向けられた。
どちらかというと不安がよぎる。
書類の内容は簡単なものだった。
矢口から紹介された仕事を引き受けることへの了解と、その間講座を休み
ます、という申請のサインを同じプリントに書く。
他の項目は矢口が後から書くと言うので空欄のままになっていた。
- 15 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 02:09
- 「はい、ありがと」
書き終わった書類をさっさとなつみからひったくって、矢口はくるりと方向転換をした。背を向けて項目確認をしている背中に、逆になつみの方は先ほどから不安ばかりが募っている。
「…矢口さん?」
「なんでしょう?」
「このバイト、ほんっとーに安全なんだよねえ?」
「何言ってんの。こんな紙切れ一枚であっさり休学させてもらえるくらい
正当な仕事なのに」
「じゃあ説明してよ。そんなに重要視されてる奴なら写真くらいあるっしょ?
そんで仕事の内容とか、もっと詳しくないの?」
少しきつめの口調で矢継ぎ早に質問すると、矢口はわかったわかった、
と「お手上げ」のポーズで両手をあげる。
「わかったら、ちゃんと説明するべさ!」
正直言って、バイトの経験はあまりない。そんななつみにも、何となくは
その魅力的な給料と見合う仕事内容だろうことくらいは見当がついていた。
よっぽど凶暴な動物か、はたまた天然記念物にでもなっているものか。
それなりに覚悟して訊いてみた。
…が。
矢口の口から飛び出した内容は、それとは全く質が違っていた。
- 16 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 02:11
-
「被検体は人間。症状は記憶欠落症、平たく言えば記憶喪失ってやつだね。
固体名は後藤真希、なっちも知ってるでしょ?ここの町始まって以来の
有名人だよ」
- 17 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 02:12
- 「………!」
さっとなつみの顔色が引いた。
思ってもみなかった展開に言葉が出てこない。
それを見ているのかそうでないのか、矢口は無機質な部屋に軽快な足音
を響かせながらさっさと書類をファイルに収めている。
「ちょっと待って」
かたん、となつみが椅子から立ち上がった。
「………ごめん、なっちやっぱり…」
やらない、と言いかけた言葉は矢口に遮られる。いつもの彼女からは考え
られないくらいの強引さで、辞退の言葉を書類に書いたサインで跳ね返さ
れた。
「いやあ、良かったぁ。今まで仲の良かった子とかにこっそり頼んで来て
もらったけど全員だめだったからねー。やっぱり、持つべきものは親友っ
てことか。明後日の十時に迎えに行くから、それまでに荷物まとめといてよ。
当分カンヅメになるからさ」
有無を言わせぬ口調だった。サインを指ではじいて、矢口が微笑む。
(うそ)
目を見開いたままなつみは、そこに立っているのが精一杯だった。
よりにもよってあの…。
- 18 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 02:13
-
その存在は知っていた。
…というより、この町にいれば嫌でも噂だけはいたずらに耳に入ってきた
し、後藤真希という人間に興味もあった。自分より5つも年下で、小説家。
自分とはまったく違う方向に歩いている人物。一回は会ってみたいと思っ
ていた。それは本当だった。夜毎に噂されているその姿を見て、話をして
みたいと思っていた矢先、偶然見つけた。
目立つその風貌は近くまで距離を縮めなくとも自然と視界に入ってきて
いた。長い髪。整った顔立ち。
そして、射るような冷たい視線。
生まれて初めて人が怖い、と思った。
- 19 名前:IW 投稿日:2004/11/09(火) 02:15
- 今回はここまでにします。
後藤さんが小説家なのはちょっと設定的に苦しいですがw
幸い若手女流小説家ブームということで許してやってください…。
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/09(火) 10:32
- 見ました
これからごっちんのキャラが
どうなるか楽しみです
頑張って下さい。
- 21 名前:IW 投稿日:2004/11/10(水) 17:01
-
考えもまとまらないままに朝が来て、なつみは目覚めの悪い頭を抱えて
のろのろと荷造りを始めた。行きたくない遠足の朝に似ている。
「やだな…」
つい、そんな言葉が口からこぼれる。
どうしてよりにもよって自分が後藤真希の住み込み手伝いをやらなくては
いけないのか。
矢口も矢口だ。矢口と彼女は同じ地区の出身で、彼女がまだ一般人の
中にいた頃から友人だった。小説が賞に入ってから友人関係がどうなった
のかは知らないが、数少ない彼女の関係者で、なつみと仲良くしながら
真希にも一目置かれる存在だっただけに、真希の口からもなにか聞いて
いただろうに。
しばらく使わないので食器を棚の奥に片付けていると、軽快な呼び出し音
が響いて出入り口のモニターに機嫌良さげな矢口の姿が映った。
- 22 名前:IW 投稿日:2004/11/10(水) 17:06
- 「…ああ、来たよ。張本人が…」
深いため息を隠せない。なつみはいささか脱力感に襲われながらも健気に準備した荷物を持って玄関へ向かった。
「おっはよー。いい天気で良かったねー」
「天気なんて関係ないっしょ、この仕事は」
「いいや?天気がいいと良いこといっぱいなんだぞ。晴れやかな空に精神
状態も快方に向かうこと間違いなし!ってね」
「………」
うさんくさい空気をなつみはなんとかやり過ごす。
そんな友人に気付かないふりをした矢口が、なつみの手から荷物を取り
上げて自分が抱えると先に立って歩き始めた。書類の時と同様にさっさと
送り届けてしまおうという魂胆らしい。苦笑しながらなつみも続いて外へ
出る。外は矢口の言った通り、雲ひとつない快晴だった。
- 23 名前:IW 投稿日:2004/11/10(水) 17:08
- 記憶喪失になった真希が隔離されている場所はなつみのマンションからさほど離れていない所らしい。並んで歩いている道はいつもなつみがあたりまえに通っているものだ。
(わざわざ書類書いて休学して、住み込みの意味がどこにあるんだろ…)
これくらいなら自分の講座に出ながらできる気もする。
「じゃ、簡単に説明しとくけど」
なつみの気持ちを知ってか知らずか、足を進めながら矢口が早口でおお
まかな説明をはじめた。
「病状、ごっつぁんのは一番めんどくさいの」
「記憶喪失って、症状ひとつじゃないの?」
「いっぱいあるけど、細々したのを省いちゃうと二つだね。自分以外全部
忘れるケース。あとは自分のことも忘れて、きれいに全部記憶に残らない
ケース。これはやっかいだぞー。人間として一から教えなきゃいけないん
だからねえ」
「で、彼女はどっちなの?」
まさか後者とは言わないよね、と恐る恐る尋ねてみる。
風呂からトイレから全部世話するなんて冗談じゃない。考えるだけでも
寒気が走った。
- 24 名前:IW 投稿日:2004/11/10(水) 17:09
- 「実は、どっちともちょっと違うんだよ、あいつのは」
ぼんやりと空を見つめたままで矢口が呟く。なつみは隣でもう一度首を傾げた。
「ごっつぁんのケースは、自分のことはちゃんと覚えてる。でも他人のことや自分の持ってた仕事のこと…『環境』を何一つ覚えてないだけ。一から教えればまた覚える」
じゃあ、と開きかけた口を、人差し指で黙るように遮って矢口は真剣な面差しで続ける。
「なっちの言いたいことは判るよ?でもめんどくさいのはここから先なの。
なっちはこれからごっつぁんの世話するんだからよく頭に入れといてね」
「…わかった」
剣幕に推されて、なつみが頷いた。
「記憶はちょうど二十四時間でリセットされる。いーい?教えたら覚えるけど
一日だけしかもたないんだ。一日で白紙に戻って。また教えなおし」
- 25 名前:IW 投稿日:2004/11/10(水) 17:10
- 「…」
矢口の言葉を頭の中で理解するのに少し時間がかかった。
「本人にとっては同じ日をずっと繰り返してることになるね。だからごっつぁん
は時間の経過がよく判ってないんだ」
二十四時間で全部の記憶が消える?
こんな症状は初めて聞いた。もちろん記憶喪失の人間を見るのもなつみ
はこれが初めてだが。
「確かに、それだったら仕事はできない…ね」
「…なっちの給料ってば、ごっつぁんで飯食ってた奴らが払うんだよ」
知ってた?と急ぎ足をゆるめて振り返る矢口に、なつみはなんともいえない
表情をした。そんな様子を横目に見て矢口がぺろりと舌を出したのだが、
自分の考えでせいいっぱいななつみには幸いそれに気付く余裕もなかった。
「ま、殴っても朝になりゃ忘れてんだから便利でしょ?ストレス発散になる
かもよ〜」
「…ばか。虫。」
「虫じゃなぁーい!!……ま、それはそれとして、これ」
- 26 名前:IW 投稿日:2004/11/10(水) 17:11
- 一応用心のためにってだけだから、と言いながら上着のポケットの中を探る。銀色の輪だけのホルダーに鍵がぶら下がっている。続けて鞄から一冊のノートも渡された。
「原則としておいらたちは監視しないんだ。二週間に一回おいらのところに
来てくれればカメラなんかまわす理由ないからさ。だから、自分の身は
自分で守ってよね」
「………なにそれ」
「向こうはちょっとした錯乱状態なんだよ。記憶が大幅に抜け落ちてたら
誰だってそうだよね?ヒステリーが起きやすい状態ってやつ。
だからもしかしたらなっちに何か危害を加えるかもしれないから」
今まで食事を運んだり、検査に行った何人かは殴りかかられそうになった
り、物を投げつけられたことがあるという。もちろんおいらも、と矢口は自分
を指差した。
「昔からの付き合いなのに薄情なこった。ま、あれは言うなら別人みたいな
もんだね」
- 27 名前:IW 投稿日:2004/11/10(水) 17:18
- 知り合いにも反応しない。かつて親密だった友人にも敵意を持つ。
それどころか家族にも反応しない。
「だったら…」
小さな声だったが矢口には聞こえたらしく、彼女はゆっくりとなつみを振り
返った。しかし言葉の続きは出てこない。その様子に見ないふりをする
ように矢口はポケットからピルケースを取り出す。
透明なケースの中には白いカプセルが並べてある。
「もしそういう状態になったら、まず落ち着かせてからこれ飲ませれば
大丈夫。精神安定剤だから」
足りなくなったら持ってくるから言って、と矢口は付け足して、ひとつの扉
の前で足を止めた。ビルのちょうど東側の、孤立したドアはひとつだけ色
が違う。
「…さて、おいらはここまで」
なつみの荷物が詰まったバッグを持ち主に手渡しながら鍵を開け、
「これ、なくすなよ」
はい、と鍵も渡される。銀色の輪に、かたちの違う鍵がふたつ。
- 28 名前:IW 投稿日:2004/11/10(水) 17:20
- 「ひとつはここの鍵。もうひとつはごっつぁんの部屋の鍵」
それぞれ指で示して矢口は方向転換をする。意味は自分で考えろという
ことらしい。
なつみの視線にも構わず歩き出そうとした矢口の袖が後ろから引かれた。
「一つだけ訊いていい?」
言葉裏にはすがるようなニュアンスが混じっている。
「…矢口は、彼女が有名になる前からずっと友達なんだよね」
「………そうだけど?」
「じゃ、矢口から見て、今の後藤真希って…」
なつみの言わんとしていることは矢口にはすぐに察しがつく。
どうしてこの友人が真希のことをこれほどまで警戒しているのかはわか
らないが、ここまで来てしまったら、歯車はもう回転するしかない。
とりあえず矢口は条件を満たすことを優先した。
「…ああ、あれは別人だね」
背中越しになつみのため息が聞こえた。安堵の色だ。
それほどまでに真希の何を怖がるんだろう?
漠然と疑問に思いながら、矢口はやんわりと袖をなつみから離す。
- 29 名前:IW 投稿日:2004/11/10(水) 17:20
-
「十五分待ってる。だめだったらすぐ戻ってきて」
- 30 名前:IW 投稿日:2004/11/10(水) 17:22
- 今回はここまでにします。
次回はいよいよ後藤さんの登場です。
>>20
レスありがとうございます!
すごく嬉しいです〜。
これからも読んでやってください。よろしくです。
- 31 名前:通りすがりの者 投稿日:2004/11/10(水) 20:08
- すごく続きが気になります。
別人っていうと悪い方なのか良いほうなのか…。
更新待ってます。
- 32 名前:出会い。 投稿日:2004/11/11(木) 09:13
-
部屋の中は整理整頓されているというより、生活感が全くと言っていいほど
感じられなかった。家具の類は一切なく、白い壁が病院を思わせる。
広いはずの間取りだが、そのせいでよけいに広く思える。
入ってすぐ使われた形跡のない台所が目に入り、そして壁で仕切られた
奥の部屋は玄関からは見ることが出来ない。
前に一度だけ、精神科にかかっている親戚を見舞ったことがあったが、
そこよりはずっと明るいことに気付いた。
無機質な部屋なのに日光があたたかく満たしている。矢口のはからいだろう。
なつみは無言で靴を脱ぎ、中に足を踏み入れた。
奥の部屋に人の気配がする。複雑な気分でそこへ向かって歩き出すと、
徐々に死角になっていた部屋の中が見えるようになった。浮き上がる影。持ち主はまだ見えない。
まず毛布が見えた。
次に膝に伏せた髪の毛が、窓からの光に反射しているのが確認できた。
いる。真希だ。
眠っているのか顔を膝に伏せてうずくまっている彼女があの真希だとは
ちょっと信じられない。なつみの知っている彼女はもっと堂々として、
悪く言えば傲慢な印象だった。
それなのに今、目の前にいる真希は他に縋るものがない小さな子供の
ように見えた。
- 33 名前:出会い。 投稿日:2004/11/11(木) 09:15
- ばさばさになっている髪の毛がなつみの足音に反応して微かに動いて、
ぎゅっと両腕で抱えていた膝を顔から離して、顔を上げた。
「!」
瞳がなつみを見つけて僅かに瞬く。
知らない人間みたいだった。
冷たい印象とは程遠い光が、その瞳に宿っている。
向かうところ敵なしの、あの完璧な後藤真希ではない、無垢な光だった。
何も知らない光。
きれいな目だと、思った。
「…………」
その双眸をせいいっぱい見ひらいて、驚きに似た表情で真希はなつみを
見上げている。なつみはすぐに矢口の言ったことを思い出したが、身構え
る気にもならなかった。
その位彼女は無防備で、矢口が言っていたような凶暴さは見受けられない。
落ち着いているのかわかっていないのか(いや、矢口の話だと自分のこと
は覚えているはずだ)彼女はただ黙って、珍しいものでも見るようになつみの
頭から足先まで確認するだけだった。
- 34 名前:出会い。 投稿日:2004/11/11(木) 09:17
- なつみは名前を呼ぼうとして、少し躊躇した。名前を本人に向かって口に
したことなど一度もなかったことにふと気付く。
接点など何もないはずの人間だったから。
「……だれ?」
なつみよりも先に動いたのは真希の方だった。
畳んでいた膝を伸ばして立ち上がり、いくぶんなつみよりも高くなった場所
から今度は見下ろす。どうやらこの真希はなつみに興味を持ったらしかった。
今まで包まっていた毛布を足元に落としたまま、一歩踏み出す。
つまらない空間からおもちゃを発見した時のようなその表情があまりに
何も知らない子供のようで、つい、それでつい、そこにいるのがあの後藤
真希じゃないただの記憶のない人間だと確認してしまって、なつみはやっと
微笑むことに成功した。
いつもよりもほんの少しだけぎこちなくはあったが。
「あの、今日からここに一緒に住むことになったから」
普通に喋るように気をつけて、まずそう挨拶する。
「なつみっていうんだ、なっちでいいよ。よろしく」
「…あ」
そう言って手を差し伸べると、真希は一瞬焦ったあと同じように手を出そう
として、それが左だったことに気付くと慌てて罰が悪そうに反対側の手に
差し替えた。
これは病気のせいではなさそうだ。
笑い声と一緒に手が触れ合った。
「……よろしく」
- 35 名前:出会い。 投稿日:2004/11/11(木) 09:18
- 矢口の言い分はまったくのガセネタだったらしい。
目の前の真希はなつみが笑うのを見て最初はふてくされた表情をしていた
が、やがてつられるように笑顔になった。
それがなつみが見る、真希の初めての笑顔だった。
凶暴どころか、前の真希よりはるかに柔らかくなった感じがする。
少なくともこんなに人懐っこいタイプには見えなかったから、屈託なく笑う
真希なんて想像したこともなかった。
矢口にはめられたことを悔やみながら、これなら何とかやっていけると
いう希望が見えてきた。
全くの別人なら、最初から付き合えばいい。
「もうすぐお昼だけど、おなか減ってる?」
「減ってる」
「材料はあるはずだからなっち、なんか作るよ」
これも仕事の一部だった。
真希は自分の身の回りのことが一切出来ないということだったので、家事
手伝いも仕事に含まれているらしい。
「うん。さっき食べそびれた」
表情を緩めた真希が、早くもなつみの肩に懐きながらそう言う。
懐かれやすい体質は動物や子供以外にも通用するらしい。
- 36 名前:出会い。 投稿日:2004/11/11(木) 09:20
- 「ごめん、ごとー自分以外人のこと忘れちゃってるみたいで。さっきから
ずっと考えてるんだけどなっちの事、思い出せないんだ」
「いいよ。ほとんど初対面みたいなもんだし…えっと…」
「ごとーまき。ごっちんでもまきでも何でもいいよ」
「じゃ…ごっちん」
「うん」
へにゃっと笑った表情に、温かいものが湧き上がってくるのを感じた。
できれば前のことはずっと忘れていてほしい。同じ顔で柔和に話す真希の
顔を見て、なつみは密かにそう願う。
「さて、じゃ何にしよっかな」
台所に備え付けてある冷蔵庫を覗いてみて、そこで限られてきたメニュー
を頭の中で反芻してみる。無難にオムレツでも焼くべきか。
「しっかしこの部屋、殺風景だねぇ。矢口のことだから観葉植物の一個くらい
置いてそうなのに…あ」
そう愚痴った矢先、台所のテーブルの下に倒れて割れたローズマリーの
鉢植えが見えた。どこかから落ちたのか、陶器製の鉢が見事に砕けている。
ため息をつき、ごっちんはうっかりさんなのかな、となつみはひとりごちた。
- 37 名前:出会い。 投稿日:2004/11/11(木) 09:22
-
十三分四十八秒経過。
腕に着けたデジタル時計で正確に時間を測りながら、矢口はエレベータの
壁によりかかっている。
携帯が鳴った。
「もしもし。矢口だけど」
『あ、矢口さん』
「…あ、今送り込んだところ。よっすぃー、大丈夫?」
手伝いをしてくれている後輩からの確認の連絡だ。
『大丈夫じゃないですよぉー。いきなり大声出して鉢植え投げつけるんだ
もん。…あの、先輩の友達平気なんですか?あんな…』
「たぶん。保証はなんとなくおいらがつけるけど」
『…なんとなくじゃ困りますよぉ。あんな凶暴な人、手に負えるんですか?
ウチと梨華ちゃん二人がかりでもお手上げだったのに』
「大丈夫だよ」
『…………』
どうなっても知りませんよ。
そう言い残して回線が切れる。
矢口は携帯をポケットに納めて再び視線を時計に戻した。
十五分ジャスト。
「違った。もう四十秒オーバーだわ」
上からは物音すら聞こえない。
「………ほら、だから大丈夫だって言ったよね」
にやりと笑った首謀者は、靴のかかとを整えながら出入り口へ消えて行った。
- 38 名前:出会い。 投稿日:2004/11/11(木) 09:23
-
記憶のない真希は信じられないほど表情豊かだ。
なんでもないことで驚いたり、笑ったりする。
向かい合って遅い夕食を食べるころにはすっかり打ち解けてしまった
二人は、色々なことを話した。
話したと言ってもほぼ一方的になつみが喋っていただけだが、真希は
まるで知らない異国の話に耳を傾けるように楽しそうに聞いていた。
時折そういえば、と自分のことも少しだけ話す。
そのたびになつみも相槌を打って微笑む。
たわいもないことしか話さなかったけれど、真希と話すのは本当に楽し
かった。
「そろそろ寝る?」
だからそう口に出すまで、危うく自分の立場を忘れそうになってしまって
いた。不自然に立ち止まったなつみを、すっかり慣れたらしい真希が
テーブルの上に頬杖をついたまま見上げる。
- 39 名前:出会い。 投稿日:2004/11/11(木) 09:24
- 「どうかした?」
「ううん、別に…」
「そだ、明日さっき言ってたとこ行こうよ。ごとー行ってみたい」
「…いいよ」
「約束ねっ。じゃ、寝るね」
「おやすみー」
真希が部屋に引っ込んだあと、なつみはふとそのドアを見て鍵のことを
思い出した。真希の部屋の鍵。
(別に閉める必要ないよね)
矢口も必ず閉めろとは言わなかった。
それに、部屋に外から城をかけるなんて自分のほうが何だか嫌な感じだ。
何となく鍵を取り出してみた手をまたポケットに収めて、なつみも自分に
あてがわれた自分用の寝室に入った。
- 40 名前:IW 投稿日:2004/11/11(木) 09:29
- 仕事用の端末でコソーリ本当にちょっとだけ更新ですw
少しずつですがここでの執筆にも慣れてきました。
読みやすいように努力しますのでよろしくおねがいします。
>>31通りすがりの者様
レスありがとうございます!
レスってすごく嬉しいんですねー。執筆する側になって痛感してます。
とりあえず仕上がっている所まではサクサク更新できると思います。
これからもよろしくお願いします〜。
- 41 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/12(金) 01:07
- 更新お疲れさまです。
二人の関係がとても気になりますね。あと矢口さんも。
作者さんのペースで頑張ってください。
- 42 名前:通りすがりの者 投稿日:2004/11/12(金) 21:56
- どうなんでしょうか?
よっすぃ〜の時は何があったんでしょう?
更新待ってます。
- 43 名前:そして、勘違いの朝。 投稿日:2004/11/13(土) 17:42
-
「…うわぁ!」
真希の大声で起こされたなつみは、思わず耳を塞いで唸った。
昨日は慣れない体勢のせいでなかなか寝付けなかったのだ。
他人の腕から抜け出しがてら、もそもそと上体だけシーツから起こして声の
主を見やると、真希は心底びっくりした様子で固まっている。
それはそうだろう。
知らない人間と同じ布団で目覚めれば、きっと真希でなくても驚く。
「おはよ、ごっちん…」
一緒に寝るほどの仲良しなのに、まったく思い出せない。どうして?
と、真希の顔に書いてあるのが見える。
その『一緒に寝るほどの仲良し』が、『単なる仲良しの女友達』としてなら
なつみも一向に構わないが、例の噂のように『老若男女と云々』な『仲良し』
なら、できれば遠慮したい。
(そんなことないっしょ。ちゃんとパジャマ着てるし、女の子同士だし…)
と、寝ぼけながらもまだなつみは真希を信じている。
だが真希の表情は真剣そのものだった。あたりまえだ。
真希の腕枕でしっかり抱き寄せられ、しかも鼻を頬に摺り寄せるようにして
寝ていた自分にも責任があることを、なつみはまだわかっていない。
「…えっと。ごめん」
寝起きが死ぬほど悪い(らしい)真希のほうはすっかり目が覚めた様子で
なつみを見下ろしながら必死で言葉を探しているようだった。
頭を掻きながら視線を泳がせる。
- 44 名前:そして、勘違いの朝。 投稿日:2004/11/13(土) 17:47
- 「あの…一緒に寝た、んだよねぇ…?」
(ごっちん…すごい汗だべさ…)
真希の頭の中でどういう驚きと誤解が生まれているのか、それは何となく
わかっているのだが、眠りの浅いなつみの脳みそはその説明を『面倒くさい』
と完結した。
「誰、だっけ…?」
「なつみ。なっちだよ」
ぼやけた思考を早く覚醒させようと伸びをひとつして、なつみが答えた。
「え」
「だから、名前っしょ。なっちだよ」
もう何もかも面倒で、自分を指差してそれだけ口にする。
どうせ一日だけだし、誤解するならすればいい。
そんな投げやりな気持ちで頭の上にある相手の顔を見上げると、真希は
何かを必死に思い出そうとしている。
もっとも、いくら努力してもそんな記憶など最初からないので、真希でなく
ても思い出せるはずなどないのだが。
なつみはもう放っておいて朝食の準備をすることにした。
まだぼんやりしている真希をよそに着替えて台所へ向かう。
- 45 名前:そして、勘違いの朝。 投稿日:2004/11/13(土) 17:50
- (昨日の残りがまだあったよね)
そう思って火にかけた鍋の蓋を開けようとした時、上だけ着替えたらしい
真希がやってきた。
「…ごとー…、仕事何してたっけ」
「今日は休みだよ」
「そっか…」
最近毎日繰り返している会話を終わらせて、納得した真希をテーブルに
座らせようとしたなつみは、ある事に気付いた。
(何じろじろ見てるべさぁ…)
明らかにいつもより距離が近い。不自然に近い。
いつも最初は距離を取って目を合わせるのにも時間がかかるのに。
しかも目が合うと、ぎこちなく微笑まれる。これは何なのか。
「なに、お腹、減ってない?」
テーブルに皿を並べながら、ちょっとぶっきらぼうな口調で指摘してみる。
ところが、真希の方にはその態度が間違った形で伝わってしまったようで、
「ごめん、ごとー思い出せてなくて…」
と、謝られてしまった。
「あ…あのねごっちん…」
「なっちってさ、ごとーの…」
「なっ…なに」
「…ううん。かわいいなって」
なつみは、目の前がぐらりと揺れるのを感じた。
(ごっちんって…おバカさんかもしれないっしょ…)
だって、だって。
だいたい、たったあれだけのことでこんな見事に誤解することないべさ?
普通。
- 46 名前:そして、勘違いの朝。 投稿日:2004/11/13(土) 17:52
- 「いいから、ごはん!」
「あ、いただきますっ」
むう、と顔を赤くしたまま、目の前で慌てて朝食を食べ始めた真希にお茶
を追加で出す。ちょっと浅はかだったかもしれない。
勝手がわからない『ごっこ遊び』みたいな感じで、恥ずかしすぎる。
(ここ、カメラ入ってなくてほんとに良かったぁ)
はぁ〜っ、となつみは長いため息をつく。
矢口なんかに見られていたら大笑いされてしまうところだった。
- 47 名前:そして、勘違いの朝。 投稿日:2004/11/13(土) 17:57
-
「TVとか雑誌とか、あったほうがいい?」
日がちょうど真上に昇った頃、暇そうにしているのを見かねてそんなことを
聞いてみると、真希のほうは首を振る。
「なっちが暇になるの待ってるだけだから」
(ばっ…)
聞いている方が恥ずかしい。
自分にも勘違いさせた原因があるとはいえ、一つだけの予備知識で調子
が良すぎる。本日何度目かのため息をつきながらも、なつみは掃除機の
スイッチを止めて真希が座っているソファの隣に腰掛けた。
すると、真希が斜めに座りなおしてなつみと向かい合うような形になる。
真希はちょっと困ったような、情けないような顔で、なつみを見下ろして
ごめんね、と口をひらいた。
「ごとー、どんなふうになっちに接してたのか全然思い出せないんだ」
それは、当たり前で。
以前接触したことも一度しかないから。
「でも、こうやってると何か嬉しいんだ。これって前の記憶なのかなぁ。
なっちといるとすごく落ち着く感じがするの」
そう言って微笑む表情が昨日と違う。
違和感を感じると言うよりはとても不思議で、ぼんやりとなつみがそれに
相槌を打つのも待たずにそれきり真希はソファにもたれて眠りはじめた。
- 48 名前:そして、勘違いの朝。 投稿日:2004/11/13(土) 17:58
- (変なの)
不思議だ。
たった一つの思い込みで同じ人間がこんなに態度が違う。
距離が違う。
触れる数が増えたり。
瞳の色が変わって見えたり。
表情がやわらかくなったり。
それでこれが心地いいなんて、自分も変だ。
「…変なの。」
- 49 名前:IW 投稿日:2004/11/13(土) 18:02
- 今回はちょっとラブい感じで更新ですw
>>41名無し飼育さん様
読んでくださってありがとうございます。
なちごまりの3人の関係はけっこう重要になってくる予定ですので、
これからも読んでやってください。
>>42通りすがりの者様
ああっ、説明がわかりづらくて申し訳ありません!!
矢口さん曰く「ヒステリーに近い状態で気が立っている」後藤さんは、
今のところなっちさん以外には懐かず、ものを投げたりするらしいですw
こんなこと小説外で説明してていいんだろうか自分orz
これからもよろしくお願いいたします〜。
- 50 名前:通りすがりの者 投稿日:2004/11/14(日) 01:28
- たしかに、一回会っただけで「あ〜こういう感じの人だったな」とか思い
ますもんね。
でもなっちとは安心できるとなると昔に何かあったとか…
更新待ってます。
>>IWさん いえいえ自分もよく理解してなかったのでお互い様ですよ。
- 51 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/18(木) 22:59
- おもしろいの(゚∀゚)ハッケーンw続きが気になります。
- 52 名前:凍結した記憶 投稿日:2004/11/19(金) 03:06
-
研究室に着くと、そこにはもう矢口がソファに座って先にお茶を飲んでいた。
おぅ、と手を上げる矢口に、真希は困惑した表情で視線を泳がせる。
その腕は無意識になつみの袖をつかまえている。
「ごっちん、これ矢口。なっちより矢口とのほうが付き合い長いんだよ?」
ほら、と真希の背中を押して矢口の前に立たせた。
「そうよぉ、忘れるなんて水臭い。長いお付き合いなのにーぃ」
わざとブリッコ口調でしなを作ってみせると、矢口はそのまま真希を分析室
のなかに押し込んだ。実質上彼女の中では初対面なわけだから、真希にとっ
てはさぞかしうさんくさかったことだろう。
少し同情してからなつみは検査を始めた矢口の後ろに立つ。
そして視線で真希に向かってじっとしているようにと合図した。
- 53 名前:凍結した記憶 投稿日:2004/11/19(金) 03:07
- 椅子に座らされた真希の頭の部分を、天井から降りてきた機械端子が包み
込む。それと同時に矢口の手元にある画面に次々と文字が浮かび上がった。
端子から伝達した脳内情報が映し出されていくようになっているらしく、宇宙
文字のような文字列と数字が混じったようなものが下から上へ、ものすごい
スピードで流れはじめる。矢口はそれを見つめていた。
「…残念だけど、一日以上の記憶の持続はまだ無理みたいだね」
それは空白の多さでなんとなくなつみにも分かった。ヒトの脳内にあるべきの
「記憶」の部分がブランクになっていて表示されないのだ。
「ない」わけでなく、ただ「固まっていて働いていない」状態。
コンピュータと同じだよ、と矢口が言った。
「でもさ。ごっちん、このごろ朝になっちを見つけてもあんまり驚かないんだ。
慣れる速度だって一日ごとに速くなってるんだけど」
なつみの言葉に、矢口が興味深そうに振り返る。
- 54 名前:凍結した記憶 投稿日:2004/11/19(金) 03:08
-
たとえば朝、真希を起こしに行く時。
最初はなつみの姿を見るなり驚いて「誰っ?」と叫ぶことが多かった。
『…あれ…おはよう』
でも今はぼうっとこう呟くだけだ。
「そうなの?」
「そう。もちろんなっちの名前は忘れてるけどね」
専門医の意外そうな表情を見とめると、ちょっと得意な気分になる。
矢口は唸り声をたててひとしきり考えると、
「…もしかしたら、ごっつぁんが気づいてないだけでその日の記憶だけは
ちゃんと頭に蓄積されてるのかも。無意識に頭のどっかでなっちのこと
覚え始めてるんだよ、きっと」
「記憶だけ増えてるってこと?」
「うん。いいことだと思うよ、たいした進歩だし」
矢口はニッと笑って早速カルテにメモしている。
軽快にペンを走らせながら、ふと検査室のなかで退屈して足置きをがたがた
蹴っている真希のほうに視線を移して笑った。
- 55 名前:凍結した記憶 投稿日:2004/11/19(金) 03:10
-
「しっかし、なっちもずいぶん懐かれたよねぇ。あそこまで落ち着かせるんだ
もん。あんなに荒れてたごっつぁんを」
「…別に荒れてなんかなかったっしょ?」
きょとんと答えたなつみに、オーバーに首を振ってみせる。
「それがね、大荒れだったの!なっちがあそこに行くまでは。数人でかかって
も手がつけられないくらい暴れてたんだから」
「ほんとにぃ?」
「言っとくけどおいらはあの時、嘘なんか一個もついてないからね。食事持って
行ってもひっくり返すし、ものは投げるし。掃除しにも行けなかったんだぞ。
現に怪我人も出たしぃ」
言いながら矢口は親指を立てて後ろを指した。
そこには彼女の後輩らしい助手が二人立っていたが、背の高い方の右腕は三角
巾で吊られて不自由そうだ。
なつみと目が合うと複雑な笑顔を向けてくる。
「でもこちとら金払って頼まれた身でしょ?被検体も兼ねた患者を飢え死にさせる
わけにもいかなかったわけよ」
しかも相手は有名人だ。
下手に知らない人間を雇ってまた、新しい噂なんか広められたらこっちがまずい。
- 56 名前:凍結した記憶 投稿日:2004/11/19(金) 03:12
-
「それで白羽の矢が立ったのがなっち。人当たりはいいし、噂を漏らしてメリット
なんてないから秘密厳守してくれるでしょ?」
「人を合理的な人間みたいに言わないで欲しいべさぁ」
苦笑いで反論したなつみに、軽く肩をすくめて矢口は検査室の扉を開けた。
伸びをしながら真希が出てくる。
「お疲れ、ごっちん」
声をかけて、上着を渡してやる。外は雨で少し肌寒かった。
もう帰るんだよね?と訊かれて頷く。
「じゃあ矢口、また二週間後に来るよ。でも矢口も担当ならたまには様子見に
来てもいいんじゃない?」
「うん。気をつけて帰ってねー。……っと、なっちはちょっと待った」
「なに?」
- 57 名前:凍結した記憶 投稿日:2004/11/19(金) 03:13
-
襟首を軽くつままれて耳打ちされる。
「こんな仕事頼んどいて何だけど、あんまり深入りしちゃダメだよ」
何のことを言われているのか、その時にはわからなかった。
「何言ってんの」
そう言って笑っただけだった。
- 58 名前:凍結した記憶 投稿日:2004/11/19(金) 03:14
-
その日の帰りは海岸線を歩いた。
本人にとっては自覚のないことだが、もし真希の顔を知っている人間に会うと
都合が悪いのでわざと人気のない海岸に足を向ける。少し季節はずれの海は
誰もいなかった。
「やっぱり寒いね」
ほんの少し時期を逃しただけなのに、半袖の腕がもう涼しすぎる。
そうかなあ、と真希が五メートル先から答えた。こちらはさほど寒そうな様子も
なく、あとは無言で黙々と海岸線を歩いている。
最近、こんな状態の真希をよく見る。
時折何かを考えるように立ち止まって、また歩き出す。
その仕草に知らずなつみはついていく歩幅を狭めて距離を取ってしまう。
真希の様子が変わり始めたのは、その翌日からだった。
- 59 名前:凍結したはずの、記憶。 投稿日:2004/11/19(金) 03:17
-
「ねえ。これ本当にごとーが書いた?」
不思議そうな表情で真希がそう呟く。
その手には昨夜彼女が書き留めていた(正確にはなつみにつけさせられている)
日記代わりのノートが広げられている。
クセのある字で書かれた短めの文章。
内容はなんでもいい、と矢口は言った。
食べたものの献立でもその日の天気でも、自分の書いた字であれば中身は関係
ない。大事なのは真希自身が「きのう」の存在を知ることができればそれだけで
いいのだと。
「うん。ゆうべそこで書いてたよ」
「ごとーが、書いてた?」
「うん」
「…ふーん」
- 60 名前:凍結したはずの、記憶。 投稿日:2004/11/19(金) 03:18
- それきり今日の真希は黙って、パラパラとノートを捲って読んでいる。
同じ状態から始まる真希でも、することは一日一日違うらしい。
昨日の真希は夜になってやっとノートを書くとすぐに放り出して眠ってしまったから。
朝の光が次第に強くカーテンの間から無機質な室内をあたたかくした。
少し日差しが強すぎるような気がして、なつみが立ち上がり、カーテンを閉めに行く。
薄手のそれを両手でしっかりと引いて閉じるのと、真希の瞳が字を追うことをやめて
そのなつみを捉えるのとはほぼ同時だった。
- 61 名前:凍結したはずの、記憶。 投稿日:2004/11/19(金) 03:18
-
「ねえ」
静かな朝の空気に真希の声が割り込んだ。
「もしかして、『なっち』?」
「………!」
心臓がやけに大きく音をたてる。完全に不意打ちだった。
- 62 名前:凍結したはずの、記憶。 投稿日:2004/11/19(金) 03:21
-
まだ今日は自己紹介をしていない。真希は起きたばかりだ。
「…なんで」
「あっ、だったらやっぱり当たりだぁ」
意味深に目を細めた真希が笑う。
不思議に思ったなつみだったが、すぐにその理由に行き着いた。
(ノートに書いてあるんだ)
どの真希も、今日までの二週間毎日なつみに名前を訊いた。
きのうの真希がノートに話題として記していても不思議じゃない。
そう思うと急に気が抜ける。
(覚えてたわけじゃ、ないんだ…)
ホッとする奇妙な気分。
「ねー、なっちぃ。お腹減ったぁ」
床に仰向けに寝転がって、真希が名前を呼んだ。
なぜかもう一度、わずかに心臓が跳ね上がる。
いつも皆から呼ばれている、自分でも慣れきった単語なのに、
呼ぶ声が違うだけでこんなに緊張するんだろうか。
………緊張?
- 63 名前:凍結したはずの、記憶。 投稿日:2004/11/19(金) 03:21
-
「ちょっと待っててね、今あっためるから」
むりやり思考を中断して、なつみは少し乱暴にそう言い放つと、スリッパの音も
高く台所へ逃げ込んだ。
(なっち、疲れてんのかな)
自分の動揺を情緒不安定だと勝手に片付け、中途半端に温め直したシチューを
再度火にかける。
そこまでして、なつみはやっと大きく深呼吸することに成功した。
なつみが矢口から仕事を引き受けてから、十七日が経っていた。
- 64 名前:IW 投稿日:2004/11/19(金) 03:25
- ちょっと間があいたので大量更新(のつもり。
>>50通りすがりの者様
ありがとうございます〜。
まだまだ至らない作者ですがどうぞヨロシクです。
>>51名無し飼育さん様
(゚∀゚)ハケーンされちゃったw
レスありがとうございます〜。頑張って書きますのでこれからも読んで
やってくださいね。
- 65 名前:名無し読者 投稿日:2004/11/19(金) 10:49
- 面白いですね。
続きが楽しみです。
- 66 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/19(金) 13:09
- 本当に本当に面白いです。
楽しみが増えました。ありがとうございます。
更新、楽しみにしてます。
- 67 名前:名無し読者 投稿日:2004/11/21(日) 21:15
- 面白い小説発見!
続き、楽しみにしてます。
- 68 名前:変化 投稿日:2004/11/22(月) 21:32
-
そうして、それでも数日は静かに過ぎて行った。
真希はノートを長く覗き込んでいることが増えたようだった。
書いている様子はあまりないのだけれど、なつみが他の事をしている時などは
ノートをパラパラめくったり、止めたりする。
それでも飽きると、やっと何か書き付けて、すぐになつみの傍にやってくる。
今も食器を片付けているなつみを後ろから覗き込むようにして、たわいない事を
話しかけてくる。
「なっちぃ」
そう呼んで、笑う。
その顔は好きだった。
時々なつみがしているエプロンの裾をつかまえる。これは少し緊張する。
肩に顎を乗せて懐くことが増えた。
近頃の真希が、出会った頃より柔らかい声を出すのも不思議だった。
なつみを優しい目で見るのも、気のせいだと思っていた。
全部気のせいだと思っていたかった。
目を合わせると全部伝わってしまいそうで、食器を洗う自分の手元を見るように
しながら、洗い物を全部片付けた。
- 69 名前:あってはいけない変化。 投稿日:2004/11/22(月) 21:42
-
その日は買い物が長引いて、結局すっかり暗くなってから部屋に戻った。
冷蔵庫の中がほとんど空になっていたから、今日は真希と一緒に昼を片付け
るとすぐに買い物にでかけ、あまり話すひまもなかった。
「なっち、おかえり」
それでも、最近の真希はちゃんとなつみに懐いていて。
自分達以外は誰も住んでいない静かな廊下になつみの足音が聞こえると、
なつみが鍵を取り出すより早くドアを開いて迎え入れてくれる。
『昨日』がない真希なのに、この「お迎え」だけは始まってからずっと途絶え
ない。気付くといつもドアを開けてくれて、2人で紅茶を入れるのが日課のよう
になっていた。(ただ、日課とわかるのはなつみだけだったが)
しかし、今日は少し違った。
部屋に入るなり、真希が自分の部屋から何か持ってきてなつみの目の前に
置いた。
緑色の表紙は、真希のノートだった。
「なに?」
「なっち、それ読んで」
いつになく真剣な真希の表情に、なつみは手を伸ばしてノートを手に取った。
日記のようなものだから、盗み見のような気がしてずっと今まで中を読んだ
ことはなかった。
じっと向かいからソファに腰掛けたままテーブルの横に立っているなつみを
見つめて、いいから開け、というように顎で示した。
- 70 名前:あってはいけない変化。 投稿日:2004/11/22(月) 21:44
-
表紙をめくると一日め。
(天気は晴れ。今日はパンを食べた)
これは覚えている。
なつみがノートを渡した時、天気でも何でもいいから書けと言ったから、素直に
こう書いたらしい。
この時の真希とはまだ最初だからここまで慣れてはいなかった。
それをめくると二日め。
(猫が外でケンカしてる)
とてもその文面は小説家とは思えない。
隣に三日め。
(雨が降った。)
まあこんなもんだよね、と殴り書きの癖字に微かに吹き出しながらページをめくる。
大学ノートにその後数ページは、そんなたわいのない文章が続いていた。
そして、十二日め。
(この部屋にはごとーのほかになっちがいるらしい)
確か、ノートを見て真希が自分に名前を言ってきたのはこの次の日だった。
- 71 名前:あってはいけない変化。 投稿日:2004/11/22(月) 21:45
-
(今日はなっちが外に行こうと言った。お昼を外で食べた)
ここからどうやら自分の名前が参加しているらしい。
なんとなく事実確認のように楽しくなってなつみはそのページをめくった。
(ねぐせに気が付かなくてなっちに笑われた)
(今日は早く寝るってなっちが寝ちゃったからつまんない。もう寝る)
くすくす笑いながら、何枚目かのページをめくった。
そこで、なつみは微かに硬直する。
ノートの左のページの真ん中にいつもの倍の大きさで書かれた言葉。
- 72 名前:あってはいけない変化。 投稿日:2004/11/22(月) 21:46
-
最後のページは一番新しい字でこう書かれていた。
(ごとーはなっちの、誰だったんだろう)
- 73 名前:あってはいけない変化。 投稿日:2004/11/22(月) 21:48
-
胸の奥でいやな音がする。
心臓が跳ね上がったのを顔に出さないようにするのに苦労した。
「なっちとごっちんは、ほとんど初対面だよ」
真希はソファの上に腰掛けたままなので、なつみもその隣に歩いて行って座る。
そうすると目線が近くなって、その瞳にはじめて気がついた。
今日の真希は様子が違って見える。
どこが変わった、というわけじゃない。
ただ、今までで一番、前の真希に近いように思えて、今の真希はなにか怖かった。
もしかして記憶が戻り始めているのではないかと思うと、罰当たりなことに胸が騒いだ。できればこのまま、このままの真希の隣に立っていたかった。それができるような気がしていた。今の、自分しか隣にいない真希となら。
でも、それでも。
彼女はなつみの予想通り、口をひらいて台詞を呟いた。
- 74 名前:あってはいけない変化。 投稿日:2004/11/22(月) 21:50
-
「ごとーさ、最近何となくだけど、前のこと思い出せるんだ」
真希はなつみの内心を見透かすように、静かに言う。
「…………仕事のこと?」
「そんな前のことはまだ無理だけど。昨日なのか一昨日なのかわかんない
くらいぼんやりしてるんだけど。なっちとこんな話したかもとか、そんなこと」
「治ってきてるんだよ」
「そうかな…そうかもしんないけどよくわかんない。でもそしたら今度はなっち
のこと、もっと前から知ってるような気がしてきたんだ…どうしてかな、なんか
ひっかかる。ここまで出てきてるのに…これが思い出せたらもっと、頭の中が
すっきりしそうなのにな…」
最後は独り言になって、真希は頭を軽く振った。
それを聞いて、なつみはとうとう何も言えなくなってしまった。
本人を前にしても忘れかけていたはずの記憶を、危うく呼び戻しそうになる。
あわててそれに蓋をした。
怖かった。
- 75 名前:あってはいけない変化。 投稿日:2004/11/22(月) 21:53
-
「なっち?」
促すような口調と同時に横から手のひらが自分の左肩に触れようとするのを、
思わずびくりとよけてしまう。
「…ぁ…。ごめん」
「なっちってば…なんて顔してんのさ」
ごまかそうとなつみが苦笑いをすると、真希は怒ったような声でため息をついた。
同時に後ろから強引な腕につかまえられる。
「なっち。教えてよ」
怒るというよりは、答えが聞きたくて聞きたくて焦れている感じの真希が、なつみの
顔を覗き込む。
ノートは床に落下してしまった。なつみがそれを拾おうとする前に、腕はそのまま
腰を固定してしまう。髪が耳元にかかってくすぐったい。
「ちょ…ごっちん…、落ち着いて」
「やだ」
ますます強く引き寄せられて、少し泣きそうな表情の真希が間近に見えた。
「・・・教えてよ。もう教えてくれてもいいでしょ」
「何を…」
本当は真希が何を聞きたいのかも、自分が何を言いたいのかもわかっていた。
でもそれは決して言ってはいけない。
言ってしまえばもう戻れなくなる。
どうしてそんなに真希が過去の自分にこだわるのかなつみには理解できなかった。
- 76 名前:あってはいけない変化。 投稿日:2004/11/22(月) 22:01
-
今のまま、記憶が戻らない真希でいいのに。
今の真希が、いいのに。
どうして思い出す必要があるんだろう?
かたくなに俯いて目を合わせずにいると、少しだけ力がゆるんだ。
「ごとー、この気持ちのこと、本当はよくわかんない。今、ほんとに情緒不安定だから
なのかもしれないけど、そうなのかもしれないけど、ごとーはそう思いたくないよ」
真希の声も少し泣きそうで、掠れていた。
「…なっち。今のごとーも、きっと昨日のごとーも…なっちのこと」
「…………違う!」
真希の言葉を鋭い声で遮ると、頭の中でなにかが弾けた。
「…それは、ちがうよ」
これは何かの間違いだ。感情に引きずられたらだめになる。
この仕事を引き受けてからここ以外のどこにも行ってないから。
真希以外の誰の顔もろくに見てないから。
真希以外と会話してもいないし、笑ってもいないから。
だから、感覚がおかしくなっているだけで。
- 77 名前:あってはいけない変化。 投稿日:2004/11/22(月) 22:02
-
「なっち…?」
真希の顔が近い。ここのところ毎日、飽きるほど見ている顔が。
その前までは思い出したくもなかった顔が、そこにある。
(あんまり深入りしたらダメだよ)
矢口の言葉が頭をよぎった。
でも、もう遅い。
遅すぎた。
はじめからわかっていた。こうなるだろうことは。
引き寄せられるまま、なつみはその目を閉じていた。
- 78 名前: 投稿日:2004/11/22(月) 22:03
-
- 79 名前: 投稿日:2004/11/22(月) 22:07
-
温かい感触から突然なつみを掬い上げたのは、ほんの微かな音だった。
暗くてどこにあるのかわからない時計の、小さな秒針の音。
「………、…」
少し息をあえがせてなつみはからめとられていた両腕をすぐ上の真希の背中に
まわし、触れさせていた片頬をもっとくっつけてその唇にもう一度自分のそれを
重ねた。
少しだけ触れて、離す。
そして同時に、あたたかく自分を包んでいた気持ちのいい場所から意を決して
逃げ出した。
「……え」
懸命に両手を突っ張って身体を離したなつみに、真希が意表を突かれたように
目を見開く。
- 80 名前: 投稿日:2004/11/22(月) 22:09
-
「なっち?」
その言葉にすら聞こえないふりをして、黙ったまま身体を返し、決して速くはないけれど
有無を言わせぬスピードで今まで居た真希の部屋を横切ると、後ろ手にそのドアを閉めた。
真希が中からなにか言うのには聞こえないふりをする。
どうせなら、時間が過ぎるまで気が付かなければよかった。
日付の変わる瞬間を見たくはなかった。
もしもそうなったら真希は不思議な顔をして自分を見下ろすだろう。
それだけは耐えられない。耐えられるわけがない。
目の前でそんなものを見るなんて死んでも嫌だった。
そんなの寂しすぎる。
- 81 名前: 投稿日:2004/11/22(月) 22:10
-
不意にカタン、と中で真希が立ち上がる音がした。
なつみはびくりと見をすくませ、時計を盗み見る。
0時3分。
もうなつみの名前を知らない今日の真希がそこにいる。
無意識になつみは矢口からもらっていた鍵を持ち出し、急いで鍵穴に挿し込んで
それをまわした。がちゃりと大きな音を出して鍵が閉まる。
これまで決して使おうとしなかったその鍵。
一秒遅れで向こう側からノブがまわされた。扉は開かない。
とうとうなつみはドアにもたれたまま、ずるずると座り込んた。
- 82 名前: 投稿日:2004/11/22(月) 22:10
-
…別人になった真希が、向こう側にいる。
- 83 名前:IW 投稿日:2004/11/22(月) 22:17
- 変化というか、急展開です。
後藤さんが行動を起こし、なっちが自分の気持ちに気付いたことで、1回目の山は
このまま下ります。まったくほのぼの抜きな更新で申し訳ありません…。
まだまだまだw先は長いので、一緒に読んで行ってもらえたら嬉しいです。
>>65名無し読者様
ありがとうございます。レス頂けると本当はげみになります。
>>66名無飼育様
楽しみにして頂いてありがとうございます。
ちょっと雲行きがあやしくなってきましたが、どうか続きも読んでくださいね。
>>67名無し読者様
いらっしゃいませ〜。
アップダウン激しい小説ですが、読んで頂けたら嬉しいです。
- 84 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/23(火) 21:04
- 急展開!もう目が離せない。
更新スピードははやいし、面白いしすごいなぁ。
流石です。
- 85 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/26(金) 09:46
- いつのまに、って、うすうすわかってたけど・・・イイ!w
続きを楽しみにしてます。がんがってください。
- 86 名前:あのころ 投稿日:2004/11/27(土) 23:55
-
あれはいつだったっけ?
まだ、それぞれの専攻で分かれる前、ほとんど矢口と一緒に行動してた。
そのときはなっちも矢口も、講義は片手間って感じでしか受けてなくって、
ずーっとつるんで食堂にいたり屋上にいたり。
よくそれで一年目の単位が取れたなって、今でも思う。
そうそう、あの時は知り合ったばっかりってこともあって、共通の話題が
少なかったんだ。そもそも、一緒に行動するようになったのも学生番号が
ひとつ違いだったそれだけのきっかけで、どっちかというとお互い、接点の
あまりないタイプだったのかもしれない。
今じゃ考えられないけど、矢口が最初はあんまり喋ってくれなかったから、
世間話とか自分の体験談とか、なっちが喋る方が多かった気がする。
それを少し物足りなく思っていた頃だったから、矢口の口から、友達に面白い
子がいるって話を聞いた時は嬉しくって、つい食い下がってその話をしょっちゅう
ねだるようになってた。
でも、実際その子の話は面白くて。
矢口の話が上手いっていうよりかは、きっと本当にその友達がちょっと変わった子
なんだろうなって。
- 87 名前:あのころ 投稿日:2004/11/27(土) 23:56
-
後藤真希。
そういう名前だって矢口が教えてくれた。
真面目なのか不良なのかどっちつかずで、クールに見えるけど中身は可愛くて、
でもどこか抜けてて親近感を感じさせる妙な人間像が、話を聞くごとにくるくると
頭の中で形を変えてた。すごく興味があった。
「あのね、ごっつぁんは趣味で小説書いてるんだよ」
何度目かに話を聞いているとき、矢口はそう言った。
それも、本当に雑誌社に投稿もしてる、って。
なっちは本を読むも嫌いじゃなかったけど、その子からは小説を書く人っていう
印象が全然なかったから、すごくびっくりした。
何より、自分より年下の女の子が真剣に小説家を目指してるっていう事実が妙に
新鮮だったんだと思う。
何度も同じ雑誌に投稿してるけど、いつもあと一歩のところで賞に入らないみたいで。
けっこういい線いってると思うんだけどねぇ、理解されにくいんだよね、と矢口は苦笑いしてた。
- 88 名前:あのころ 投稿日:2004/11/27(土) 23:58
-
その時は話半分で聞いて、早く認められるといいね、となっちはあいまいに
笑っただけだったと思う。でも、何気なく寄ってみた本屋でその雑誌を開いて
彼女の小説を読んだとき、矢口の言っていたことが何なのか初めてわかった
ような気がした。
立ち読みはあんまりしないから、そういう雑誌を手にとること自体めったにない
ことなんだけど、気が付くとそのまま全部読んでた。
確かにくせがある文章だなって思ったけど、何か、十代の女の子そのまんまの
考えがすごくリアルで、読んでるうちに主人公の感情がどんどん流れ込んできて、
引きずられるみたいな感覚だった。
「まあ、友達だからっていうのも確かにあるけど、おいらはごっつぁんの小説好きだな。
なんかこう、リアルなんだよねぇ、感情が」
矢口も確かそう言ってた。
でも、たぶんこれは、主人公の感情なんかじゃなくて…。
- 89 名前:あのころ 投稿日:2004/11/28(日) 00:00
- あらためて後藤真希という人物に興味が湧いた。
彼女の一部に触れたからかもしれない。
一体どんな子が、この文章を書くんだろう、と思った。
その瞬間、なっちの中で彼女は「矢口の友達」から「後藤真希」になった。
このときなっちが手に取った雑誌が、彼女の作品が世間に認められて、
ベストセラーに駆け上がって「後藤真希」っていう有名人が生まれるきっ
かけになった、まさにその時の号だったんだ。
- 90 名前: 投稿日:2004/11/28(日) 00:00
-
- 91 名前:いつもと同じで違う朝 投稿日:2004/11/28(日) 00:03
-
夜が明けた。
カーテンの隙間から差し込んできた光に気付いたなつみは、しばらくその
光に目を細めたあと、のろのろと立ち上がった。
ずっと座り込んでいたためか、膝が痛い。
ゆっくりと脚を伸ばした後、自分の部屋に移動して着替えを持ってバス
ルームに移動し、シャワーを浴びる。しかしそれもほんの数分で切り上げて、
すぐに白いシャツとジーンズ地のスカートに着替えた。
寝ていないせいか、洗面台に向かうと自分でも顔色が悪いのがわかった。
歯を磨いて、リピングに戻った後で、少し考えてから横のドアを見る。
まだ物音ひとつしない。
「………」
黙ってドアに近づいて、その床に投げ出したままになっていた鍵を拾うと、
扉にもたれるように耳をつけてそっと鍵穴に差し込む。
必要最小限の音をたてて鍵が開いた。
(昨夜は頭がおかしくなってた)
自分にそう言い聞かせる。無駄だという事は承知の上で。
(何かの、間違いで…)
ドアに頭を預けたなつみが、小さくため息をつく。
(確かに…間違いかもね)
口元に苦笑いが滞って消える。うまく笑えない。
その唇が、ゆっくりとひとつの名前をなぞるように動いて、静かに閉じられた。
声にはならなかった。
- 92 名前:いつもと同じで違う朝 投稿日:2004/11/28(日) 00:05
-
「おはよう」
真希は昼を過ぎてからやっと起きてきた。
まだ何もわかっていない頭に、なつみは笑顔で挨拶をする。
そうすると目をぱちくりさせて、真希はなつみを見つめた。
「…おはよう…」
掠れた声が挨拶を返してくる。
その表情を見てなつみは内心ほっとした。
この真希は何も知らない。大丈夫。
そう自分に言い聞かせて、なつみは不思議そうに見つめてくる瞳に、もう日常に
なっている自己紹介を今日も繰り返した。そうすると真希もいつものように、
不自然なほどすぐに納得して椅子に腰を下ろし、短い一日が始まる。
また元通りだ。
今日ほど、真希の症状がありがたく思える日はなかった。
- 93 名前:いつもと同じで違う朝 投稿日:2004/11/28(日) 00:07
-
適当に食事をテーブルに広げて、今日は真希ひとりに朝食をとらせる。
「あのね…」
不意に、真希が口を開いた。
いまいち落ち着かない足を組んで、なつみを上目遣いで見上げる。
ここに来てから毎日見ている、あどけない表情。
「なに?」
口の端だけで笑って、付き合いで隣に座ってやる。
不思議そうに首を傾げているのを軽く受け止めて笑って、にっこりしたまま
首をかしげて見せる。
そうすると逆にまったく落ち着かなくなってしまった真希が、今度はなつみの
方を見ないようにしてひたすら目の前の皿を空にすることに専念し始めた。
「へんなの」
真希が言った。
ごく小さい声で、視線は合わせないままで。
おそらくなつみに聞こえないように呟いたつもりだろうが、しっかり聞こえている。
つくづく不器用な女の子だ。
- 94 名前:いつもと同じで違う朝 投稿日:2004/11/28(日) 00:10
- なつみはテーブルに頬杖をついてそれを見ていた。
(ごっつぁんが気付いてないだけで、その日の記憶だけはちゃんと頭に蓄積
されてるのかもね)
そう言っていたのは専門医である矢口だった。
もしそれが正しいのなら、真希は昨夜のできごとを感覚だけで覚えていること
になる。
それだったら、昨日の今日で相手の顔を見て落ち着かないのは当然だ。
相手の顔を見て緊張するのは、当然だ。
それはそれは強く心に残ってしまう記憶なのだから。
やわらかな唇同士が触れ合う感触。
頬へ額を摺り寄せたときに感じる、相手のぬくもり。
すべてを包まれるような感覚。
全部覚えている。そして全部思い出す。真希を見ると。
すぐに感覚が蘇るほどつよく。
しかし、それは自分だけが持って帰ってしまった記憶だ。
相手だったはずの真希はもういない。ここにいるのは違う真希で、彼女に
とっては今日初めて会った『どこか不思議に見覚えがある』自分で。
あの時の記憶はどこに保存されていても、もう二度と開くことはない。
- 95 名前:いつもと同じで違う朝 投稿日:2004/11/28(日) 00:13
-
最初に話を聞いたときには、なつみは記憶がなくなることは不便だと思った。
気の毒だと感じた。
実際、たったの二十四時間で一日分の記憶がなくなるなんて普通の人間には
耐えられないだろう。でも。
何も知らないことが、こんなに憎らしいとは思わなかった。
真希は二十四時間ですべてを切り替えることができるが、なつみはすべて抱えて
押し殺さなくてはいけない。
目の前の真希が何も知らず無垢であるほど、なつみは自分が虚しく思えた。
ノートが一日ぶん空いてしまっている。
今日は書いてもらわないと、矢口に不審に思われてしまう。
…思えば、真希の記憶を手繰り寄せるきっかけになったのは全部ノートに
真希が書いた言葉の所為だけれど、矢口が最初に言った目的はただ単に、
真希に昨日の存在を教えることだったはずだ。
書いている内容は何でもいい。
(こんな仕事頼んどいて何だけど、あんまり深入りしちゃダメだよ)
矢口はそう言った。
彼女はこのノートを見たらどう思うだろうか。
異常だと思うだろうか?
たった1つの感情が浮き出してくる状況だけが、全部これに記されていることを。
なつみは黙ってノートを手に取った。
- 96 名前:いつもと同じで違う朝 2 投稿日:2004/11/28(日) 00:19
-
それから、何度目かの朝が来た。
「ねえねえ、なっちぃ」
食べ終わった食器を洗っているなつみに、紅茶のおかわりを取りに来た
らしい真希が懐いてきた。最近、またスキンシップが多くなったように思う。
本人は意識している様子はないのだが、ふとした瞬間にそうなる必要の
ない肩や腕が触れる。
「なぁに、まだ紅茶のむの?」
表情が見えないように背中を向けたままで、なつみが笑う。
今日は機嫌のいい真希が軽い笑い声を返した。
「今日、あそこ行くんじゃなかったっけ?」
「どこ?」
真希の場合、昨日は存在しない。
こういうことを言う時は、明け方に見た夢の内容とごちゃまぜになっている時だ。
- 97 名前:いつもと同じで違う朝 2 投稿日:2004/11/28(日) 00:20
-
初めて言われた時はさすがにびっくりして、なつみは電話で矢口に質問して
みた。すると友人はこんなことを言った。
夢を見る。
夢の内容はいろいろで、やっぱり普通の人と同じようにたくさんの人たちが
登場していて、それは普通の人も、真希も変わりない。
ただ一つ違うのは、真希の記憶機能が停止しているということだけで。
夢には見ていても、目が覚めた時に真希自身は夢の中に出てきた人の名前を
思い出すことができないから、考えているうちに、なつみに出会う。
そうするとなつみは、真希が知っている初めての人間ということになるわけで、
結局真希はいつも、夢の中に出てきたのは唯一自分が知っているなつみだと
自己完結することになる。
こういう症状が表れるときは、快方に向かっている証拠だと、電話口で矢口は
微笑んだ。それに曖昧に笑い返したのは、二回目の検診のあとだった。
- 98 名前:いつもと同じで違う朝 2 投稿日:2004/11/28(日) 00:21
-
「前に約束したよねぇ、面白いから見にいこうって」
「そうだったかなぁ」
最近多くなった真希のこの症状に、複雑な思いでいつもなつみは合わせて
やる。それが自分の仕事なのだから。
「どこだったっけ?」
思えば、これが始まってから出かけることが増えた。
一回目は、なつみの知らない展示場だった。
真希の言っていた展示はとっくに終わってしまっていたけれど、代わりに
新しく並べてある個展を二人で見た。
二回めは駅をふたつ通りすぎたところにある公園。
夏になると海水浴場と合体するつくりになっていて、この季節は浜辺への
道が開けていない。
三回目は町のアーケード。四回目は近所の大学。五回目は…。
「水族館でしょ?」
真希が言った。
- 99 名前:いつもと同じで違う朝 2 投稿日:2004/11/28(日) 00:23
-
もう出かける気らしく、真希は早々と上着を着込んでいる。
いつまでたっても動かないなつみに首を傾げて、今度はなつみのカーディ
ガンを勝手に取りに行って投げてきた。
「…え?」
「だからぁ、言ってたのなっちでしょー。その水族館、全面水槽の道があって
おもしろいって」
真希は『早く行きたい』を顔いっぱいに出して、にこにこしている。
なつみはもう一度、自分の耳を疑った。
「でも、だって、あの話は…」
確かにその話は、した。でも今日じゃない。
忘れるほど前、なつみが真希のところに来た日。
打ち解けようといろいろな事を話したそのなかで、そんな話をした。
(そだ、明日さっき言ってたとこ行こうよ。ごとー行ってみたい)
(…いいよ)
(約束ねっ)
今日の真希が覚えているはずのない記憶。
- 100 名前:いつもと同じで違う朝 2 投稿日:2004/11/28(日) 00:24
-
「なにー?」
不思議そうな顔で見つめてくる目の前の真希は、『後藤真希』に戻ってもいない
ようだが、最初になつみが見つけた何も知らない真希とも、どこかが違うよう
だった。どっちかというと以前、矢口に話して聞かせてもらっていたときの彼女と
イメージが被る。
なつみにとって、あまり良くない予感が過ぎった。
「ごっちん…」
「ん?」
「あのね、……」
(きのうのこと、覚えてる?)
そう聞こうとして、思いとどまる。
これじゃこの前の二の舞だ。
また自分の弱いところをさらけ出したままで終わってしまう。
しかも、今の真希はそれをきっと忘れないだろう。
「何でもない。ちょっと待っててね。片付けてからね」
それだけ言い残して、なつみは流し台の水圧を強にして洗い物の続きを
片付け始めた。
- 101 名前:いつもと同じで違う朝 2 投稿日:2004/11/28(日) 00:26
-
水族館はあいにく休館していて、着いたはいいがゲートの中へも入れなかった。
休みじゃ仕方ないね、と言うと、
「じゃあまた来週来よ?」
と笑う。
「どうする?電車…」
「あれ乗ろうよ。あれ乗っても帰れる?」
真希が指差したのはバスの停留所だった。
最近は利用者が減っていることも手伝って、バスの本数もかなり少ない。
停留所に次のバスの時間が表示されているのを覗き込む。
「ごっちん、バスは45分もあとだって。電車の方が早いし、電車で帰らない?」
「これ乗ったら帰れないの?」
「帰れるけど…」
「じゃ、いいじゃん。ごとーこれ乗る」
そう言い残して歩き出すと、真希は停留所のベンチに座りこんでしまった。
しかも完全にリラックスモードに入っていて、移動させようとしてもテコでも
動きそうにない。
- 102 名前:いつもと同じで違う朝 2 投稿日:2004/11/28(日) 00:26
-
観念したなつみが隣に腰掛けるのを見届け、満足げに足を組んだ。
その仕草が憎たらしい。
「わがままっ」
眉を寄せたなつみが本心を呟くと、ふふん、と口だけで笑ってみせる。
横顔に朝から梳かしてもいない髪の毛が貼りついているのは、海から流れて
くる潮風のせいだろう。
「今までの分、取り返さなきゃ…」
整った横顔がそう呟いた。
風の音ですぐにかき消されるほど、小さな独り言だったけれど。
その日は海岸線をバスに乗って移動した。
- 103 名前:IW 投稿日:2004/11/28(日) 00:31
- 100超えました〜。
でもまだまだ序盤…あと少しなつみ編が続いて、そのあと真希編に突入します。
>>84名無し飼育さん様
一応完結してるモノを直しつつ更新しているので、そのへんは早いと思います。
これからもよろしくです。気に入っていただけて嬉しいです〜。
>>85名無し飼育さん様
やっぱわかってましたかw
こんな感じで進んでいきます。読んでやってくださいまし。
- 104 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/28(日) 00:38
- 更新お疲れ様です。
うまく表現出来ませんが、いま、一番更新を心待ちにしている作品です。
違和感なくすうっと読めて、いつのまにか惹き込まれてるんですよね。
後藤さんの台詞、なんだか意味深ですね、続きが気になります。
- 105 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/28(日) 17:15
- 読ませてもらいました〜。かなりおもしろいです!!なちごまは、はたして幸せになるのかハラハラです。これからも更新頑張ってください。
- 106 名前:30日目の朝。 投稿日:2004/12/04(土) 19:51
-
矢口は走らせていたペンを止めて椅子を回転させると、なつみのほうに向き
直った。なつみはさっきから一寸も変わっていない姿勢でまだ動かない。
「…今なんて言ったの?」
カウンセリングをする時のように、矢口は穏やかな口調で問い掛けた。
なつみはまだうつむいたままだ。
「だから…」
「だから?」
「この仕事、降ろしてほしいんだ」
その唇だけが固い調子でそう動く。子供のように見える。
矢口はそんななつみを見つめたまま小さく溜息をついた。
「正当な理由が必要だね」
驚きもせず、表情も変えないまま矢口がそう言ったことが、なつみには少し
意外だった。てっきり問い詰められるか、窘められるか。
どっちにしろ頭から却下されると思っていた。
「やぐち…」
「まだ、いいとも悪いとも言ってないぞ。理由がないと判断できないから
聞いてるの」
宥めるような口調で矢口がそう言って、なつみは緊張していた自分の表情
が少しだけ緩むのがわかる。
- 107 名前:30日目の朝。 投稿日:2004/12/04(土) 19:52
-
「降りたいっていうくらいだから、ごっつぁんに何かあった?ヒス症状が起こっ
てるんなら、あの鍵で…」
なつみはうすく笑って、手でそれを制した。
「…ううん、全然そんなことない。ごっちん、最近調子がほんとにいいみたい
なんだ。それは毎日一緒にいて、すごく思うよ」
「うん。確かにそうみたいだよね」
矢口が頷いた。
この前の検診の時に矢口も感じたことだった。
荒れていた精神状態が嘘のようにに落ち着いてきているということは、それ
だけ冷静に考えられる時間が増えているとも言える。
矢口を見て、なつみはもう一度笑って首を振った。
「こないだの検診からまだ少ししか経ってないけど、もっと変わってきてるんだ。
まだまだ良くなってる…」
「…なっち?」
「ほんとだよ。最近ごっちん、ちょっと前のことなら思い出せるんだ。話の中身は
まだ、ここ数日のことがごちゃ混ぜになってる感じだけど」
かたん、と矢口の椅子が鳴った。
「思い出せてるの?昨日のことが?」
- 108 名前:30日目の朝。 投稿日:2004/12/04(土) 19:55
-
なつみから目を離さないまま、片手だけで真希のカルテをたくり寄せる。
データではなく書類にしている分だけ手に取って、ペンで一部分大きくバツ
をつけて消した。
「昨日だけじゃないよ。だから…なっちがあそこに行ったあたりからは思い
出せてるみたい。さっき言ったみたいに日付とか時間とか、まだごちゃごちゃ
だけど…ちゃんと思い出せてる。それより前の記憶はまだみたいだけど、
きっともうすぐ思い出すよ」
固い口調は、自分に言い聞かせているようにも見える。
「…それでなっちは、ごっつぁんが元に戻るのが恐いから今のうちに仕事を
降りたいとか?」
矢口が柔らかく問い掛けた。
おそらくそれは、今までのなつみの核心を突く質問のはずで。
すると、ずっと膝の上で重ね合わせていた手のひらを、なつみはゆっくりと組みなおした。顔を上げて矢口をまっすぐ見て、かすかに笑う。
「そう」
驚きもなく、なつみは小さく頷いていた。
短い返事だったが、躊躇はなかった。
ずっと、様子を伺うようにその動作のひとつひとつまで見つめていた矢口が、
初めて視線を外してため息をつく。
移した視界に入るはずだった窓の外は、カーテンに反射されて何も見えない。
- 109 名前:30日目の朝。 投稿日:2004/12/04(土) 19:57
-
「なっちぃ…あのさ。最初に言ったよね?これは仕事なんだって。しかも手軽
なアルバイトなんかとは全然違うビジネスなんだよ。もし今なっちがこの仕事
を降りちゃったら、また次の誰かにあの後藤真希は精神病だって漏らさなきゃ
ならない。秘密規制がまた緩くなっちゃうんだ。なっちなら、そのへん判って
くれてたと思うけど…」
きつい言い方だが、それが事実だということもなつみには痛いほど判っているはず
だった。そしてそれが本当の自分の心ではないことも。
「悪いけど、できないよ。そうしてあげたいのは山々だけどねぇ…降りるにしても、
ごっつぁんが激昂して手がつけられなくなるとか、なっちにほんとに危害を加え
られるなんてことがない限り…」
その時、ぴくりと相手の口元が震えたのを矢口は見逃さなかった。
「できないと思う。おいらも雇われてる身だからさ、あんまり権限なくって
…ごめん」
「ううん…」
また少しうつむいて、なつみがゆっくりと首を振る。
- 110 名前:30日目の朝。 投稿日:2004/12/04(土) 19:58
-
「その代わりおいら、できるだけ顔見せるようにするから」
「うん、待ってる。……買い物して来るって言って出てきたから、何か買って
帰らなきゃ。邪魔してごめんね」
上着を羽織り出口に向かう背中を、矢口は一度だけ呼び止めた。
まだ聞いていない事がある。
「ね、ごっつぁん今部屋?」
「寝てたから書置きだけ残して出てきちゃった」
なつみが笑った。
胸に痛い笑顔だった。
- 111 名前:30日目の朝。 投稿日:2004/12/04(土) 19:59
-
「矢口さん」
なつみの靴音がすっかり聞こえなくなった後、ドアの向こうから助手代わり
の後輩が顔を覗かせた。
「今の会話、ちゃんと録音してた?」
「はい」
「それ、データに入れといて。あと、できたらそこから声の震えとトーン出し
といて。感情の振れ方見るから」
座っていたところから首だけまわして指示を送ると、黙って吉澤が頷く。
そして、僅かに首を傾げて矢口を見た。
「何か…今はあの人のほうが患者さんみたいですね」
「………そうだね。でもなっちにはかわいそうかもしれないけど、ここで降ろす
わけにはいかないんだ」
「それは、患者さんのためですか?」
もう一度振り返った矢口が初めて吉澤と目を合わせた。
表情の読めない瞳をしている。いつもの矢口とは別人のようだった。
「うちは、別に後藤さんとも安倍さんともろくに話したことないですけど、これ
じゃなんだか…後藤さんの犠牲にさせてるみたいで、安倍さんが可哀想です」
吉澤にしてみれば、精神を煩っているはずの真希のもとへ、矢口が頻繁に
様子を見に行かないのも気が気ではなかったのだ。
この研究室では毎日のようにデータ分析を繰り返しているものの、矢口は一向に
出かけていこうとはしない。
二週に一度の検診だって、普通なら三日おきに行ってもおかしくないペースだと
いうのに。それには構わず、なつみの精神分析まで始めると言う先輩の意見が、
吉澤には不思議だった。
- 112 名前:30日目の朝。 投稿日:2004/12/04(土) 20:01
-
「望んでる人が多いから、後藤さんは回復させなければいけない人かもしれ
ません。けど、だからって無関係の安倍さんまで…」
「違うよ、よっすぃー。ごっつぁんのためなんかじゃない」
矢口は立ち上がってカルテを手に取った。
真希のぶんはそのままファイルに戻し、なつみの方だけ持ってドアに向かう。
早くまとめてしまわなければならない。
「治療は、ごっつぁんのためだよ。でも」
吉澤の方は見ず、独り言のように矢口が呟いた。
「この実験は、おいらのためだから…」
「…やぐちさ…」
吉澤の言葉を矢口は、無言のうちにドアの音で阻んだ。
身勝手なのは充分自覚の上だった。
- 113 名前:矢口の独白 投稿日:2004/12/04(土) 20:03
-
最初は、友人である真希のあまりの変わり様に驚くばかりだった。
意志の強そうな強い目がもう感じられないほど白く曇り、うつろな視線が
焦点を定めるでもなくぼうっと浮遊している。
たったの半年会わなかったくらいで、人はこんなに変わるものなのだろうか、
と漠然と感心する。本が売れてからの真希の荒れ様は話つてに聞いては
いたものの、目の前にした彼女はそんな状態とも違っていた。
癇癪を起こした子供のように物を投げつけて壊したり、シーツを掻き毟ったりする。
人間として会話するのも難しい状態だった。
肉親も、自分というかつての友人も、一切真希を宥めることはできなかった。
その時頭に浮かんだのは、たった一人。
真希がかつて、矢口がする話の中で唯一興味を示した人間だった。
なつみならば、今の真希でも大丈夫かもしれない。
矢口の中である可能性が浮かんだ。
もちろん、最近のなつみの、真希への尋常でない恐怖心も知っていた。
しかし、結果的に心理学者としての興味の方が勝った。
もしも自分の思ったとおりの実験結果がでるなら、残酷なことをするかも
しれない。でも、実験の結果としてどうなるのか確かめたい。
その時から矢口は、自分の感情を忘れようと決めた。
矢口は矢口である他に心理学者で、それと同じように真希となつみは
自分の友人であって、同時に個体AとBなのだから。
どちらが欠けても、この実験は成功しない。
- 114 名前:30日目、昼。 投稿日:2004/12/04(土) 20:12
-
「ひゃー、すごーい」
今時珍しい、立体映像ではなく水槽に本物の魚が入っているタイプの古典的な
この水族館はなつみのお気に入りだった。
一部の通路は全面ガラス張りになっていて、縦横無尽に魚たちが泳いでいる。
足下を魚が通り過ぎていくのを見ながら真希が「これ割れないの?」と呟いて、
そっと足を踏み出す。
それでも安心できないのかなつみの手を手摺り代わりに掴んだ。
思わず苦笑が漏れる。
「これっぽっちの体重で割れるようなガラスじゃないよ」
教えても、ちっとも聞いてない。
よっぽど新鮮なのだろう。それもそうだ、あの真希が水族館なんて来たことが
あるわけがない。
2人は、数日前のリベンジでもう一度水族館に来ていた。
矢口の所から戻るなり、真希に引っ張って来られた水族館のゲートは今度は
開いていて、懐かしい色のチケットを2人分買って入った。
朝にあったなつみと矢口のやりとりなど知るわけもなく、真希ははしゃいでいた。
なつみの手を引いて数歩前を歩いては、足を止めて振り向き、ふにゃっと微笑む。
- 115 名前:30日目、昼。 投稿日:2004/12/04(土) 20:14
-
「今日はご機嫌さんだねぇ」
からかい半分でそう言ったのに、そうだよぉ、と素直に切り返されてしまった。
「ごとー、今日すっごく気分いい。何か頭の中がすごくすっきりしてるんだぁ」
真希がまた笑った。近頃よく見せるやわらかい笑い方で、腰を折って自分より
低いところにあるなつみの顔を下から覗き込むようにする。
こういう人懐こい仕草が、ここ数日でどれだけ増えただろう。
なつみは自分の中に浮かぶ可能性を必死で打ち消した。
「ずっと頭がぼーっとして気持ち悪かったんだけど、やっとすっきりしたみたい」
見ていればわかる。真希の表情が明るいことくらいは。
最近は一日ずつ真希の表情が穏やかになってきているような気すらするのだ。
まるで意識を持ち始める子供のような速度で、段々と確実に、容態は快方に
向かっているようだった。
この分なら記憶が引き戻されるまではもう長くはかからないだろう。
あまり遠くない明日、この真希はあの後藤真希に戻ってしまう。
そうしたらなつみはもう一緒にいられない。
…どうしても。あの真希は恐いのだ。
今自分と同じ場所にいる優しい真希とは比べ物にならない。
あの真希は、こんなふうに泳ぐ魚に感動したりしない。
親しく手を絡ませてなんてこない。
- 116 名前:30日目、昼。 投稿日:2004/12/04(土) 20:16
-
……少し、距離が近すぎるようだった。
知らず、なつみはつないだ手をほどくようにする。
気を付けて自然に離したつもりだったのに、また真希の冷たい手が触れてきた。
どうして離れるのか、とでも言うように、また指が捕まる。
それが不思議に思えて、仕方がないので顔を上げた。
真希はまだ水槽の中を珍しそうに眺めている。
「…ごっちん、手」
小さな声で抗議すると、
「大丈夫だよぉ、人いないし」
と的外れな返事が返ってきた。
「ごっちん」
「見えてもふつーに見えるからだいじょぶ」
真希がなにを言っているのか、わからない。
背中を向けられているので表情も見えない。
焦れて手を引っ張るようにすると、やっとその顔がゆっくり振り返った。
鼻の奥がツンとする。
真希がしっかりしていると、おかしい。
あんまり優しいとおかしい。こんな柔らかい触れ方はおかしい。
(きれいな髪…)
目の前に、真希の赤茶けた髪の毛が広がっていた。
まっすぐな細い髪に水槽の青色が透けて、隙間から向こうの壁が見える。
なつみはそれにぼうっと視線を向けた。
時折まばらな人影も横切って行ったけれど、水槽を照らしている七色の
彩色が変わるまで、真希はそのまま動こうとしなかった。
- 117 名前:30日目、昼。 投稿日:2004/12/04(土) 20:17
-
「目、開けてたの?」
唇が離れた時、そう言って笑われる。
「ほら、全然大丈夫だったでしょ?」
軽口と共に、今度は真希の服で視界が遮断された。
声は耳元から聞こえてくる。
唇は離れたけれど温かい感触は背中にまだ残ったままで、身動きが取れな
かったのは両腕でつかまえられていたせいだと気付いた。
「どうして…?」
さっきの予感は、たぶん当たっている。
真希の記憶はつぎはぎに元通りになろうとしているようだ。
これは真希と暮らすようになって十日目の記憶で。
勘違いさせたまま終わった、前夜の雷のせいで一緒のベッドで目覚めた
あの朝の。…なつみの自業自得だ。
- 118 名前:30日目、昼。 投稿日:2004/12/04(土) 20:18
-
「なっち?」
微かに震える空気を読み取ったのか、真希が腕を緩めて、顔を上げさせようと
しているのが判った。
しかしなつみは逆に顔をコートに押し付けたまま、離れようとはしない。
「………」
くぐもった声で、呟いた。聞こえない方が良かった。
「…何、なっちぃ…聞こえないってば。ねえ…」
真希の声も、今は聞きたくない。
真希がまた何か喋って、不安にさせられるのはまっぴらだった。
「なっち」
少しきつめに名前を呼んで、真希が力を込めてなつみの肩を掴んで引き
剥がした。びくん、と過剰なまでになつみが震える。
「ごっちん…。だめ…だよぉ」
こんなに恐怖心を剥き出しにしたなつみは初めて見る。
その様子に驚いて、真希が思わず両手を緩めたほどだった。
なつみは言う事をきかない手と足をそこに硬直させたまま、顔を上げて精一杯
真希を睨んだ。
- 119 名前:30日目、昼。 投稿日:2004/12/04(土) 20:19
-
「…治っちゃ、だめだよぉ」
何かを我慢しているような表情だった。
その衝動はそのまま唇を噛む事によって押し留められる。
「…どうしてそんなに早く直っちゃうのぉ? …違うっしょ。
ごっちんは、ちがうっしょぉ…」
「え?なっち…」
突然しがみつかれて訳がわからないまま、真希もなつみの背中を抱き寄せた。
「もっと…もっと、いて。ごっちんが、ここにいて」
その言葉も、ジャケットの肩に吸い込まれて消えた。
- 120 名前: 投稿日:2004/12/04(土) 20:25
-
翌日から、今までの回復が嘘のように真希の症状が悪化した。
今までの回復分の記憶はもちろん、なつみすらも忘れているようで、朝から
慣れさせるまでまる一日かかってしまった。
初めてここに訪れた日だって、こんなには手こずらなかったような気がする。
治るな、と言ったのは誰でもない自分だけれど、その一言がここまでに著しい
変化を伴うとは思わなかった。
そうなつみが戸惑ってしまうほど真希は荒れに荒れていた。
矢口を呼んだが、ヒステリーを起こして手がつけられなくなったので検診は
もちろん、彼女が帰るまで安定剤を飲ませることすらできなかった。
「フリじゃないかと思ってたけど、本気で悪化してる」
矢口が渋い表情でそう言った。
「あれは今日からだよね。昨日、なにかなかった?」
訪ねられ、なつみは黙ってしまった。
昨日のことが原因ではないのかもしれないけれどタイミングが良すぎる。
矢口に言わなくてはいけないのは判っているが、全部最初から話さなくては
と思うとそれもためらわれた。
「新しい報告書、まだ提出してなくて助かったぁ」
言い訳が大変だった、と矢口は肩をすくめ、そして真希の部屋に鍵をかける
ように指示してから部屋を出て行った。
けれど、もう一度様子を見に行くと幾分落ちついていたので安定剤を紅茶に
溶かして飲ませた。
- 121 名前: 投稿日:2004/12/04(土) 20:26
-
寝顔を見下ろして、真希の悪化を自分のせいかもしれない、と恐れながら、
なつみはそれでも嬉しかった。
この真希がこのままここにいてくれるうちは、自分もここにいられる。
一緒にいられる。
その夜はそのまま、真希のそばで眠った。
- 122 名前: 投稿日:2004/12/04(土) 20:26
-
それが、その『真希』と過ごした最後の夜になった。
- 123 名前:IW 投稿日:2004/12/04(土) 20:32
- イロイロありましたですね。
罪は罪として飲み込んで、そのうえ更にレベルアップした安倍さんを切望してます。
(この件に関して、自分としてはこれ以上語る気はないっす。)
>>104名無し飼育さん様
一番嬉しいお褒めの言葉ありがとうございます!
楽しみに読んでいただいているうちは更新を続けられます。
>>105名無し飼育さん様
ありがとうございます。そしていらっしゃいませ〜。
良い形になればと思ってますが、どう転がるかまだちょっと楽しみに
しておいて下さい。
- 124 名前:IW 投稿日:2004/12/04(土) 20:37
- 追記。
これでなつみ編は一旦停止です。
次に真希編がスタートして、同じレベルまで進行する予定です。
- 125 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/06(月) 23:34
- 最後の一行が・・・。
夢中になって話を追っていました。
真希編楽しみにしてます。
- 126 名前: 投稿日:2004/12/11(土) 07:15
-
もともと友達は少ない方だった。
人付き合いが嫌いだったわけじゃないけど、どっちかと言えばやっぱり苦手
なほうだったのかもしれない。
見た目や素行で判断されやすくって、周りにいる人たちが減っていく中で、それでも
ひとり友達ができた。それから何年もずっと、腹を割って話し合える友達は彼女だけ
だったけど、別にそれでもいいような気もしてた。
一緒につるんでいると気が楽で、多分それは彼女が持ってるあったかい空気の
せいだと思う。かと言って、べたべた行動も始終一緒ってわけでもなくて、気が
向いたらお茶するくらいの付き合いが私も楽だったし、そんな付き合い方がお互い
気に入ってた。
そして彼女―やぐっつぁんも、あんまりゾロゾロ大勢でかたまって行動したがる方
じゃなかったから、入学早々大学ですごく親しい友達ができた、と聞いた時は少し
びっくりした。
で、講義以外じゃほとんどべったり一緒に行動してるって聞いて、また意外だった。
- 127 名前: 投稿日:2004/12/11(土) 07:17
-
「人懐っこいんだよね」
訊いたら、やぐっつぁんはそう言って笑ってた。
「でも、そばに居て心地いい」
それからもやぐっつぁんは会うたびに少しずつ、その女の子の話をした。
お互いの近況報告をするうち、話が学校のことになるとその話になるんだけど、
不思議と好んで聞いてしまう。
人当たり良くて面倒見も良いんだけど、あんまりすぐには気を許さないタイプの
やぐっつぁんがそこまでほだされる事実も珍しいし、話からする人間像にもかなり
興味をそそられた。
- 128 名前: 投稿日:2004/12/11(土) 07:19
-
ある日、どんな人なの?って聞いてみると、やぐっつぁんは集合フィルムを
出してきて、画面を指差して見せてくれた。
自分より年上って信じられないくらい、想像していたよりもまだ顔が幼い感じで、
背もやぐっつぁんほどじゃないにしろ小さかった。
皆が無表情の中ですこしはにかんだような笑顔をつくっていたのも一人だけで。
「なっちっていうんだけどさ」
「ふーん…」
まじまじと顔を近づけて眺めて、もっと大きいのないの?これ拡大できないの?
って色々訊いていたら、
「なんだよぉ。どしたの、もしかして惚れちゃった?」
そう言ってやぐっつぁんは笑ってたけど、あながち間違いでもなさそうな自分
が恐かった。やぐっつぁんが話す人間像とフィルムの顔とその名前を頭の中で
重ね合わせてみると、興味が何倍にも膨れ上がったのを感じる。
できるなら会って話してみたい。
そこまで急速に惹かれていくのを感じていた。
- 129 名前: 投稿日:2004/12/11(土) 07:21
-
そのころだろうか。
数え切れないほど投稿しても一向に認めてくれなかった雑誌から突然連絡が
入って、最後に投稿した小説が素晴らしく、文壇でも認められるだろう、って言われた。
…言われたけど、舞い上がっちゃってあんまり覚えてない。
嘘のような話が、聞き慣れた編集長の声で耳に響いてた。
「次の雑誌に載せるから、作品を手直ししてください」
信じられない言葉だった。
突然の手のひらを返したような台詞を実感する暇もなくって、本にもなるから
指摘点を直せとだけ言われてその電話は切られた。
- 130 名前: 投稿日:2004/12/11(土) 07:28
-
それからは忙しくて。忙しくて。
最年少とか、アイドル誕生とか、いろいろ言われた。
それまでは子供の日記だとか、世間を知らないとかいろいろ言われてたのが、
そういう言葉に変わっちゃうんだってことがただ、不思議で。
本が売れてから、何の自由もなくて、構想のかけらすらもつかめないのに、
どんどん仕事が増えていく。
次の連載。
次の単行本。
それに小説とは関係ない、お化粧して写真撮ったりする仕事だとか、
TVに出てにこにこする仕事だとか、そういう要らないものも、小説の仕事より
ずっとたくさん来た。
自分の中身を文字にして、それを読んでもらいたかっただけなのに。
あの小説がベストセラーになったおかげで、私はもっと苦しくなった。
- 131 名前: 投稿日:2004/12/11(土) 07:29
-
それで。
誰でも良かった。
ここから救ってくれだなんて言わない。気休めでいい。
だれでもよかったんだ。
- 132 名前:真希-01 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:31
-
たまに、自覚もなく長い間眠ってしまう事がある。
窓とか、そうじゃなくても部屋のどこかから漏れてくる光に目が覚めて、
起き上がったときに今が一体いつなのか判らない…だけならまだいいんだけど、
いつの間にか太陽が一周して夜の帳が下りていたり、日付が変わっていたり。
それどころか、いつ眠ったのか、何に疲れていたのかすらも思い出せない。
そういうことがある。
さすがに、ここまで来るとちょっと戸惑う。
もちろん怠けて生活しているつもりはないんだけど、根気よく眠り続けた自分に
少し呆れてしまう。今日もそんな朝だったはず。
白い天井。
新築の匂いがする部屋に素っ気無く置かれたベッドの上で目が覚めた。
- 133 名前:真希-01 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:33
-
頭が重いのはきっと中途半端な眠りの中から起き出してしまったから。
私はとりあえずいつも通りに一日を始めるため、まずシーツから無理矢理
体を起こした。
「?」
もう一度部屋をぐるっと見渡してみる。
白い壁、白いベッド。
高い所に窓がひとつあって、そこから光が入ってきている。
たぶん新築の、そこそこ高価なマンションの部屋のようだけど、『病室みたいな』
っていう例えにもイマイチ当てはまらない質素すぎる部屋だった。
…でも、問題は別のところにある。
私は一周ぐるっと回した首を、今度は傾げるはめになった。
クローゼットは別の部屋にあったっけ?
そもそも、暮らしているはずの家なのに、間取りが全然思い出せないのは
どうしてだろう?
見覚えがあっていいはずなのに。
- 134 名前:真希-01 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:35
-
腑に落ちないまま、とりあえず寝室(みたいな場所)からドアを開けて外に出てみる。
すると、さっきの部屋と同じ色調の広い部屋に同じ色のテーブルと台所があった。
どっちも使われた後はなくて、触れていない感じの真新しさだ。
私はとりあえずダイニングテーブルに座って、まとまらない頭の整理に集中してみる
ことにした。
順番に少しずつ思い出していけばわかるはず…。
起きたばっかりで頭がボーっとして、ちっとも思い出せない。
わかった、じゃあ時間をもっと縮めて、昨日のこと。
それでダメなら昨夜のことでもいい。
- 135 名前:真希-01 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:36
-
(…?)
おかしい。
昨日のことどころか、寝る直前に考えたことさえも思い出せない。
考えようとしても、何にも出てこない。
繰っても繰っても白紙のままのノートみたいだ。
まるで、初めから白いままだったみたい。
そんなこと、絶対にあるわけない。
昨日がないなんて、ここで生まれた訳でもないのに。
でも、考えれば考えるほど胸の中にもやもやとした何かが溜まっていくのを
感じる。
そうやってしばらくぼんやりと部屋を見回していると、変なことに気が付いた。
よく見ると、白くて傷のない新品だと思っていたテーブルの角がない。
何かがぶつかって壊れたみたいに、欠けていた。
「何でだろ…」
思わず椅子から立ち上がる。
叩いてみてもすごく丈夫そうなテーブルが、簡単に欠けるなんてことはないし。
何でこんなことになってるんだろう。
- 136 名前:真希-01 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:40
-
でも、それだけじゃ終わらなかった。
全部いっしょの色調のせいで、ぱっと見ただけでは新築の綺麗な部屋だけど、
よーく見ていくと、テーブル以外にも変なものがいくつか見つかった。
壁が削れたあと。
削ったって言っても、彫刻刀とかで彫った感じじゃもちろんなくて、誰かの爪痕
みたいだった。
すぐ下の白い床にも固まった血の跡があって、その傍に倒された植木鉢。
むしった後があるカーテン。
そういうものを目で確認していくうちに、どんどん気味が悪くなる。
もちろん自分がした覚えも全くないわけだし、現に今ここに私はひとりでいる。
だったら誰がこんなことをしたんだろう。
もしかして昨日誰かが来て、ここでひどい喧嘩をした?
違う。そんな覚え全然ない。
だいたいこの部屋に来て、暮らし始めて何日だっけ?
ここで生まれたなんて。昨日がないなんて考えられないのに。
この部屋は気味が悪い。見覚えも全然ない。
けど、こうしてるともう何日もここにいるような気がする。
- 137 名前:真希-01 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:42
-
今見てるもの全部が今まで見たことがないものだっていう自信は確かにある
のに、前もこんな白い場所に詰め込まれて窮屈な思いをしていたような、
そんな気もする。
色のない、音もない、誰もいなくて、一人で。
そういうところにいたような感覚だけがぼんやりと残っている。
私は部屋中歩き回って、何とか昨日の残骸を探そうとした。
ここで暮らしてるんだったら、せめてメモとか、何か文字が入ったものが
見つかるはずだと思ったから。
でも、すぐ無駄なことだと判った。
小物入れとか引き出しみたいな物は置いてないし、クローゼットっぽい扉も
開いてみたけど中はからっぽだった。
着替え用の服もない。
唯一冷蔵庫にはすこしだけ食べ物が入っていたけど、少し薬の匂いがした。
- 138 名前:真希-01 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:45
-
なんとなく落ち着かなくて、ベッドに戻って毛布をかぶってじっとしてる間に
夜になって、仕方ないからそのまま眠った。
- 139 名前:真希-02 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:47
-
起きた時から頭が痛い。
音が全然ない静かな所に長くいるせいかもしれないけど、
微かな音も頭に響いてしまう。
廊下を歩く靴の音。たくさんになるととてもうるさい。
きっと私は前から気は長い方じゃなかったんだと思う。
訳もなくいらいらする。
だから白い服を着た人たちが騒がしく入ってきたのが部屋の中だったか、
私の頭の中だったか、よくわからなかった。
「ごっつぁん」
その中の1人が私の名前を呼んだ。
あだ名、だと思う。
親しげな発音だったけど、私はこの人のことを知らない。
「今から質問するから答えてくれる?すぐ終わるから」
彼女は、私に椅子に座るように言って自分も向いの椅子に腰掛けたあと、
持っていた紙を片手に質問を始めた。
- 140 名前:真希-02 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:49
-
昨日は何を食べた?
ここがどこだかわかる?
今どんなことを考えてる?
たった三つの質問だった。内容もばかばかしい。
馬鹿にされているとしか思えない。
でももっと苛つくのは自分がどの質問にも満足に答えられないことだった。
どれも知っていて当たり前のことなのに。
向こうも判っているのか、私がなかなか答えられなくても不思議な顔ひとつしない。
それが馬鹿にされているようでますます腹が立つ。
全てを見透かされた上でこんな質問をしているのなら、すごく悪趣味だ。
「…って」
「ん?」
「もう、みんな帰って」
「それ、三つ目の質問の答え?」
「うるさい!」
- 141 名前:真希-02 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:51
-
どうして彼女の言い方は一々気に障るんだろう。
静かな口調なのに、確実に私の神経を逆撫でしていく。
怒りに任せて、立ち上がった瞬間椅子を足で蹴り倒した。
ガツッ、という固い音が部屋の中に響く。
思い切り足を椅子に叩きつけて大きな音をたてているのは自分なのに、
いまいち現実感がないのは、それでも彼女も回りの奴らも、静かに見守ってるせいだ。
皆で観察でもしてるみたいにじっと私の行動を見守っているのがたまらなく嫌で。
確かに私はここがどこかもわからないし、自分が昨日何をしたかも思い出せない。
そんな簡単なこともわからない。
だったら私の頭は一体どうなったの?
「いいから、帰ってよ!もう来ないで!」
椅子をテーブルに叩きつけて、ありったけの大声でそう怒鳴った。
悲鳴のように語尾が掠れる。
子供のヒステリーみたいでみっともないけど、自分で止められない。
- 142 名前:真希-02 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:52
-
「抑えて」
質問をしていた女の子(背が低くて、何歳なのかよくわからない)が、平然と
椅子に座ったままで他の奴らに命令した。
両脇から腕をまわして捕まえられて、無理矢理床に押さえ込まれる。
これだったらまるっきり私がおかしいみたいじゃない。
私は何?病気なの?
そうしていると、もうどこを探してもこの世で誰一人、私のことを正常に見て
くれる人は残ってないような気がしてくる。
そんなの、いやだ。
記憶がないだけで異常者扱いなんてやめて。
もうこれ以上みじめになりたくない。
「帰ってよ」
いつの間にか腕は解放されていた。手のひらを床につく。
- 143 名前:真希-02 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:52
-
「お願いだから、帰って。一人にして」
- 144 名前:真希-03 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:56
-
毛布をかぶったまま少しでも多く光の当たるところを探して座る。
白い壁。白い窓。
そこから差し込む白い太陽の光。
どれも見覚えが全然ない。
すべてが同じ色の中、私はそのままずっと何時間か、何分か、
あるいは何秒だったかわからないけど身動きせずにぼーっとしていた。
だるくて何もしたくない。
考えるのも面倒だし。
そうやって寂しいと寒いの区別もうまくつけられなくなった頃、玄関のあたりで
物音と人の気配がして、ドアが開いた。
柔らかい靴底が地面に擦れる音と共に衣擦れの音がして、部屋の中の空気が
動く。軽い足音がこっちへ近づいてくるのがわかった。
耳が痛くなるほど静かだった空間に急に音が混じったから少し不機嫌になって、
うずくまって膝の上に乗せていた頭を上げる。
- 145 名前:真希-03 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:57
-
でも、玄関からやってきた「それ」が目に入った次の瞬間、思わず瞬きをして
目を凝らしてた。
そこにいたのは、小柄な女の子だった。
口元にかすかに笑みを貼り付かせて、表情は少しこわばってるけど、前髪の
下にある瞳はまっすぐに私のことを見ていた。
見覚えはまったくないはずなのに、髪や瞳や輪郭の、その形がどうしようもなく
気になる。視線をはずせない。
頭のなかの記憶と照らし合わせることすら忘れて、しばらく私はじっと見入ってた。
しばらくお互い黙って見詰め合ってただけだったけど、しばらくして居心地悪そうに
ピンク色の唇が微かに動いて、また止まる。
その動きさえ気になって無意識にもっと近くで見るために私は立ち上がっていた。
上下が逆転して、今度はこっちが見下ろす形になる。背が低い。
「……だれ?」
- 146 名前:真希-03 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 07:59
-
口をついて出てしまった問いに、彼女は無意識なのか、ほんのわずかに
首を傾げてまばたきをした。
不思議な感覚で一歩、足を踏み出す。
どうして全部がこんなに気になるんだろう。
そんな私の表情がよほど真剣で面白かったのか、相手の口の端が持ち上がって、
きれいな曲線になった。
笑顔。
その笑顔に私は何故かとても驚いて、長い間凝視していた。
「あの、今日からここに一緒に住むことになったから。
なつみっていうんだ、なっちでいいよ」
可愛い声だったけど思ったほどカン高い声じゃなくて、でも、それが心地良い。
「よろしく」
「…あ」
あんまり一生懸命見ていたせいで、差し伸べられた手が握手のためだとわかる
のに少し時間がかかってしまった。
- 147 名前:真希-03 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 08:03
-
おまけに反対側の手を出そうとして、おたおた焦りながらやっと右手を出す
ことに成功する。
それを見てなっち(と言うらしい)が声をたてて笑った。
なんだか、久しぶりみたい。
こんなに普通に人と接したり笑顔を見たりするのは。
不思議だった。
さっきまでは確かに静かで冷たかった部屋の空気が、今はこんなにあったかい。
きっと彼女のやわらかい外見と口調のせいだろう。
私の頭は相変わらず使い物にならなくて、なっちという女の子が前からの知り合い
なのか、今日初対面だったのかさえ思い出せないんだけど、なっちの口調や雰囲気
が親しみやすいのには変わりなかった。
- 148 名前:真希-03 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 08:04
-
「もうすぐお昼だけど、おなか減ってる?」
「減ってる」
「材料はあるはずだからなっち、なんか作るよ」
そう言うと、なっちは荷物を置くのもそこそこに台所に入っていく。
後ろについて、私も台所に移動した。
狭くはないにしろ、二人が入るとさすがに少し窮屈になる。
「うん。さっき食べそびれた」
甘やかされているようで心地よくて、子供のような口調になってしまう。
まだ会ってほんの数分しか経ってないのに、どうしてこんなに胸が熱くなる
んだろう?
それとも、もっとずっと一緒にいたのかな。
私はもっと毎日、なっちと話をしたんだろうか。
そうかもしれない。
笑顔に、仕草に、後姿に、とにかく惹かれる。
全部が懐かしい。とてもあたたかい。
- 149 名前:真希-03 1日目 投稿日:2004/12/11(土) 08:07
-
良かった。私、ひとりじゃなかったんだ。
- 150 名前:IW 投稿日:2004/12/11(土) 08:13
- 真希編スタートです。
以前のなつみ編を思い出しながら読むと楽しいかも。
今回からタイトルつけるのをやめて、基本的に「名前 日付」にしました。
後藤さんの場合は24時間で記憶リセットなので、全部1日目。
経過がわかりづらいので「-」で01〜03と番号をつけてみました。
>>125名無し飼育さん様
楽しみにしてくださってありがとうございます。
レスいただくと、頑張って書くぞ!と気合が入りますw
真希編も楽しんでいただけたら嬉しいです。
- 151 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/11(土) 15:24
- 記憶喪失になる前の売れっ子作家になってしまった後藤さんがせつない感じでした
安倍さんに甘えるわけだ
- 152 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/13(月) 09:28
- キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!
記憶がなくなる前のごっちんとなっちの間になにがあったのか・・・
ドキドキしながら次の更新待ってます
- 153 名前:ろむ 投稿日:2004/12/14(火) 21:44
- 毎回ドキドキしながら読んでいます!!
後藤さん編という事で、少しずつ謎がとけていくのか・・・。
楽しみに待ってます。
- 154 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 10:17
-
カーテンの隙間から入る光で目が覚めた。
何だか久しぶりに熟睡できたような気がする。
何かとても温かくて寝ごこちが良くて、ふわふわしたものが頬に当たっていた
のも知ってたけど、人肌だとは気付かなかった。
何だ、昨日は誰かと一緒に寝たのか。
そんなことをまだ夢見心地で考えて、無意識にもう一度相手の背中に腕を
戻そう…として、気がついた。
感触がやわらかい。
別にそれもそれで良いんだけど、やわらかすぎる。
瞼を押し上げて、自分の胸に鼻を擦りつけるようにして眠っている人間の顔を
確かめたいのに、相手が私の肩口に頭をくっつけるようにして眠っているから
鼻の形と茶色い髪の毛しかわからない。
背中を規則正しく上下させている所を見ると、まだ熟睡しているみたいだった。
「…」
失礼かなとは思いつつも、私はそろそろと背中に置いていた右腕をそのまま
反対側に滑らせ、そして。
- 155 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 10:19
-
「…うわぁ!」
まさか、とは思ったけど。
その『証拠』に、思わず声を上げて驚いてしまった。
はずみで左腕も外れてしまって、相手は迷惑そうな唸り声と一緒に子供っぽい仕草で
耳を塞ぐ。それでも私が凝視するのをやめないでいると、やっと私の肩に埋めていた
顔を外して、体を起こした。
「おはよ、ごっちん…」
これは、間違いなく女の子で。
でも、幸いと言おうか不幸と言おうか、私は眠る前のことを全く覚えていなかった。
何度も頭の中で思い出そうとするんだけど、どうにもうまくいかない。
気が動転しているからかもしれない。
自分がこういう趣味だったことも意外だった。
なんだけど、不覚にも、ねぐせのついた髪の下の顔も、呂律のあまりまわってない
朝の挨拶も、すごく可愛いなんて思ってしまう。
- 156 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 10:21
-
「…えっと、ごめん、あの…一緒に寝た、んだよねぇ…?」
だとしたら、覚えてないのは失礼だよね?
曲がりなりにも昨夜から一つのベッドで一緒に寝たわけだし、昨夜の今朝で
名前もわからないなんて普通じゃ信じられない。
どうしよう。
考えてる間にじんわり汗が染み出てくるのを感じる。
「誰、だっけ…?」
おそるおそる、質問してみた。
怒られるとばっかり思ってたけど、意外にも答えは即答だった。
「なつみ。なっちだよ」
んー、とそのまま腕を上げて大きく伸びをする。
「え」
「だから、名前っしょ。なっちだよ」
きょとんとした表情で自分を指さし、『なっち』はそう繰り返した。
(………まずい)
本当に本当だとしたら、私はこの人をどうにかしちゃったのかな。
やばい。やばすぎるよ。
でも、だったらせめて感触くらいは覚えていてもいいんじゃないの?
- 157 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 10:25
-
そのまま私が昨夜の記憶の破片でも思い出せないものかと考えあぐねて
るうちに、がさがさと着替えた『なっち』は私のことなど目もくれずに部屋の
外に出てしまった。
呆れられたのかもしれない。
だけど、しばらくそのまま固まっていると、ドアの向こうから食器の音やいい
匂いがし始めた。
どうやら朝ごはんにありつけるみたい。
食事はいつもなっちが作ってくれてるのかな。
(何か、いいな。こういうの)
顔が自然とゆるむのがわかる。
多分、ここに私達はふたりで住んでるんだろうな。
でも、どうして今朝はこんなに当たり前のことが嬉しく感じるんだろう?
起きたら誰かがいたり、朝飯が勝手にできたり。
…それに何より、人肌が懐かしいと思うなんて。
- 158 名前:IW 投稿日:2004/12/19(日) 10:25
-
更新途中なのですが、急に出かける用事ができたので夜に続きをUPします。
しばしお待ちください。
- 159 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 22:44
-
「ごっちん」
朝食を食べ終わってソファでうとうとしていると、なっちがいつの間にか後片づけを
終えて、隣に立ってた。
なっちはここに同居して私の食事なんかを作ってくれている友達、…らしい。
どうして仮定形かというと、当の私が昨日から以前のことを覚えていないから。
頭の中が凍ったみたいになってて、うまく動いてくれない。
それをなっちは『仕事のしすぎの自律神経失調症』だと教えてくれた。
たぶん、なっちは私がこんなになってしまったからここに泊まり込んでくれてる
んだと思う。
「それ、何?」
そのまま横に腰掛けてきたなっちの手に緑色のノートがあることに気付いて
そう尋ねると、ノートは私の手に渡された。
「ごっちんの日記帳だよ」
「日記帳?」
ぱらぱらとめくってみる。
確かに私の字でいろいろ書いてあるけど、やっぱり全く見覚えはなくて。
- 160 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 22:46
-
「日記っていうほどのものでもないんだけど。今日食べたものとか適当に
書けばいいから」
治りが早くなるらしいよ、となっちは言って、そのまま又台所へ戻っていった。
そういうものなのかな。
よく判らないけど、とりあえず言われた通りに今朝食べたものを書いた。
だけど、それだけだとノートの半分にもならない。
物足りない感じがしたから、前のページをめくってみた。
みんな同じようにたわいもないことが少しずつ書いてある。
「…あれ?」
そして、気付く。
なっちの名前がまだ一回も出てきてない。
これだけお世話になっておいて、日記にひとことも書かないのは変だよね。
今日のページに書いとこっと。
これでノートの空白が少し埋まる。
どうしてこんなに空白部分が気になるのかはわからないけど、とりあえず
書くネタができたことを喜んで、私はペンを持ち直した。
- 161 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 22:49
-
「なに笑ってるの?」
順調にペンを走らせる様子が面白いのか、なっちも楽しそうに傍にやってきた。
何でもないけど、と書き終えたノートを渡すと、意外にも中を見ることはなく、
なっちはそれをそのまま戸棚の引き出しに収めた。
そして代わりに大きなビニール袋を出してきて、
「じゃ着替えて。外に行こ」
見ると、中には服が一セット入ってる。
そういえばこの家にはクローゼットないんだよね。
「早くね」
せかす声に私が面倒がってソファに座ったままで着替え始めると、もうなっちの
方は早々と玄関で靴を履いている。
朝からそのつもりで用意してたみたいで。
更にせかされて急いで後に続くと、玄関で新品のスニーカーを箱から出してくれた。
それからマンションの入り口を出て、連れられるまま電車に乗って大きめの建物が
並んでいる所に着いた。
仕事休みで怠けていたのかもしれないけど、それだけですごく疲れた。
長い間日に当たってなかったわけでもないのに。
少し弱っているのかもしれない。
- 162 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 22:53
-
「変わったとこだね」
同じような建物がたくさんあるから不思議に思って尋ねると、ここは大学なんだと
なっちは教えてくれた。
「なっちとごっちんの友達がここで研究室やってんの」
一応私も通ってるんだけどね、となっちは付け足した。
どうやらその研究室に向かって歩いているらしい。
最初はピンとこなかったけど、いざ入り口をくぐって敷地内に入ってしまうとそれも
理解できた。白衣や作業服を着た学生が大勢行き交っているし、よくよく見ると白い
ばっかりだと思っていた建物の中も講義みたいなのが行われてたり、食堂があったりする。
そういうものを横目に見ながら、建物のひとつに入って、階段をいくつか上ったところで
やっと目的地に到着した(みたい)。
なっちはいくつか並んでいたドアの一つを選んで、そのまま開いた。
「あ、来たねぇ」
中には白衣を着た女の子(…年齢よくわかんない)が一人いた。
すごく背が低くて、顔は可愛いけどなっちとはタイプが違う感じで。
入ってきた私達を見るなり、気安く手を上げて笑顔を見せた。
- 163 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 22:57
-
大学の研究室にいるんだからこの人も学生なんだろうな。
無駄だとは思いつつも一応記憶と照らし合わせてみる。
やっぱり見覚えのない顔だった。
「ほらごっちん、これ矢口。なっちより矢口とのほうが付き合い長いんだよ?」
そう言われても、全然わからない。
確かに雰囲気は親しみやすいのかもしれないけど、私には少し嫌な感じがした。
どういう付き合いだったのかはわかんない。けど、どうやら私にとってはあまり
いいものじゃなさそうだった。
- 164 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 23:01
-
ガラス張りの部屋に入れられて変な機械にかけられて、おまけにそのまま眠ら
されたり起こされたりして、検査って言ってたけど拷問の間違いなんじゃないかと
思ってしまう。
それにその間、ガラスの向こう側でなっちと矢口さんが会話しているのが断片的に
聞こえて。内容までは判んないけどとっても楽しそうで、なっちの笑い声が聞こえる
たびに私はますますイライラしてしまう。
何でもいいから早く終わらせて帰りたい。
そう願っていると次第に目の前でちかちかしていた光が弱くなって、頭を包むように
かぶさってた変な機械がやっと外れた。
「お疲れ、ごっちん」
部屋を出たところでなっちがそう言って上着を渡してくれる。
「もう帰るんだよね?」
早く帰りたい。こんな所もう長居したくない。
「じゃあ矢口、また二週間後に来るよ。でも矢口も担当ならたまには様子見に
来てもいいんじゃない?」
「うん。気を付けて帰ってねー。……っと、なっちはちょっと待った」
意外にすんなり帰れそうな雰囲気に内心喜んでいると、ドアの外に出るすんでの
ところでなっちが捕まった。
- 165 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 23:03
-
首根っこをつままれるようにして引き留められてるなっち。
気安すぎるその仕草にどうしてかまた胸がむかむかしてきた。
「なに?」
なっちもちょっとは気にしてもよさそうなのに、よっぽど気を許してるのか仲が
いいのか、素直にされるがままになっているのがますます頭に来る。
矢口がそのまま何か耳打ちをして、やっと私達はそこから解放された。
一度通ったところなので帰り方はわかる。
こんな所は早く出てしまうに限る、とずんずんと早足で歩く私のあとを、今度は
なっちが首を傾げながらついてくる格好になった。
「ね、早いよ…。ごっちん!ねえってば」
追いつこうと少し駆け足になって、なっちがぐい、と私の腕をつかんで引き留めた。
下り坂なのをいいことに、ますます早足になってしまっていたことに今更ながら気付く。
- 166 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 23:06
-
「あ、ごめん」
上着の袖を引くかわりに自分の体を折って、なっちが私の顔を覗き込んだ。
「海沿いだと歩いて帰れるんだよ、実は」
「歩くの?」
「この時間、電車って人が多いんだよ」
夕方だから帰る人たちが多いのはわかるよ。
「別に私、満員電車でも気にしないけど」
「人気が無いところ、嫌い?」
…何だか、話題が微妙にすり替わったような気がする。
それよりいつまでもこの姿勢でいるのもどーなんだろうか。
「………嫌いじゃない、よ?」
そう言うと、なっちは満足そうに微笑んで、やっと私から離れた。
そして来たときと違う方向に足を向ける。
駅に降りた時からこの建物たちは見えてたけど、思い出してみれば他の景色は
えらく殺風景だったんじゃないだろうか。がらんとしてて。
それは海があるせいみたいだった。
少し斜めに歩いただけで海岸線。
緩いカーブになっていて、一段上には車道があるようで。
でも風が強いせいか、排気音とか余計な音は全然聞こえない。
歩いて帰ることにあんまり乗り気じゃなかったものの、来てしまうと海も心地よかった。
- 167 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 23:08
-
「やっぱり寒いね」
後ろから声をはりあげて、なっちが言う。
こっちが風上なのでそうしないと声が届かないらしい。
また早く歩きすぎてたかと振り返って、ふと、変な気分になった。
少し遠くからこっちを見ている目に、表情に。
今日だけでも何度か経験した感覚だけど、あんまり気持ちよくはないもの。
どきどきするとか、瞳の色に吸い込まれるとか、そういった甘いものじゃなく。
心臓を鷲掴みにされたように驚いてしまう。
なっちが普段と違うわけじゃない。
ただ気が付いたように、突然変な感覚が襲ってくる。
大事なことを思い出さなければいけないような、忘れ物をしているような、感覚。
そしてとっても後ろめたい。
できれば、早くここから逃げ出したいとさえ思う。
どうしてだろう?
- 168 名前:真希-04 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 23:09
-
ごとーはなっちの、誰だったんだろう。
- 169 名前: 投稿日:2004/12/19(日) 23:09
-
- 170 名前:真希-05 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 23:13
-
ノートの一番新しいページにひときわ大きい字でそう書き殴ってある。
少し前のページから度々登場している『なっち』という名前が誰のものなのかは
もう見当がついてた。
この部屋の中で私以外の人間はひとりしかいない。
それに、昨日かそれより前か、とにかく自分がなっちと親しく話をしていたこと
くらいはもう思い出せる。
私の自律神経もほんの少しずつだけど、戻りつつあるみたいだった。
(ごとーはなっちの、誰だったんだろう)
昨日の自分が書いた言葉。
多分、今私が考えていることと同じことなんだと思う。
なっちを見るとき、とても心が落ち着いていい気持ちになる。
人間扱いをされていることは当たり前なのに、ちゃんと存在を認めてもらえること
が訳もなく嬉しいし、話していると楽しい。
たぶんそこまでは相手がなっちでなくても同じような接し方をされればきっと一緒。
知りたいのは行為じゃなくて、なっち自身のことだ。
見てると、なにか思い出しかける。
そして胸にそのままひっかかっているこの気持ちがとても大切なもののような気がする。
思い出さなくちゃいけないのに記憶がなかなかほどけないままなのがすごくもどかしい。
- 171 名前:真希-05 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 23:17
-
私がしばらくノートと睨み合っているうちに、やっと長い買い物からなっちが帰ってきた。
なっちの靴音が廊下から聞こえたから、私は猫みたいに玄関に走っていってドアを開けて
あげた。
「随分時間かかったんだ」
「ん、ちょっとゆっくりしすぎた」
ジャケットの肩が少し湿っているみたいだった。
雨でも降っていたんだろうか。
首の後ろにも髪の毛が濡れて張り付いてるけど、なっちは気にするでもなく、
念入りにビニール袋の中身を選別していた。
「なに?」
なっちは、いきなり私が差し出してきたノートを見て、きょとんと首を傾げる。
「なっち、それ読んで」
私は答えが知りたかった。
今抱えている気持ちが本当に私が思っている通りなら、なっちが一緒にこの部屋に
いることが一体どういうことか。
その答えと、確かな証拠が欲しかった。
それが「良くなる」一番の近道だと信じて。
- 172 名前:真希-05 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 23:20
-
ところが、言われるままページをめくって読んでいたなっちの顔が、急に真顔に
戻った。
そして一番新しいページで指が止まる。
「………」
無意識なのか、ほんの少しだけなっちは唇を噛んで、暫くそのページから
目を離せないみたいだった。
その様子は私の思い描いていたものとは全然違う。
「なっちとごっちんは、ほとんど初対面だよ」
やがて意を決したように私の隣に歩いてきて、同じように座る。
私はなっちの表情や仕草から今まで読めないでいた答えを読みたくて、じっと
その様子を見守っていた。自分で驚くほど冷静だった。
「ごとーさ、最近何となくだけど、前のこと思い出せるんだ」
なっちがどうしてさっきから目を合わせてくれないのかも気になる。
私の方を見てはいるけど、瞳だけは目線より少し下に固定されていて。
うつむいたまま、曖昧に相槌を打ってた。
- 173 名前:真希-05 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 23:23
-
「…………仕事のこと?」
「そんな前のことはまだ無理だけど。昨日なのか一昨日なのかわかんない
くらいぼんやりしてるんだけど、なっちとこんな話したかもとか、そんなこと」
「治ってきてるんだよ」
「そうかな…そうかもしんないけどよくわかんない。でもそしたら今度はなっち
のこと、もっと前から知ってるような気がしてきたんだ」
毎日一緒にいるからそう錯覚してるのかも、とも考えてみたけど、少し違う。
ずっと前に今みたいに仲良く話していたかというと、それも違うかもしれない。
でも私はきっとなっちのことを知っていた。そう思う。
「どうしてかな、なんかひっかかる。ここまで出てきてるのに…これが思い出せたら
もっと、頭の中がすっきりしそうなのにな…」
途中から自分の考えに入ってしまってたから、なっちの様子がおかしいことに気が付く
まで少し時間がかかった。
返事も上の空で、視線もまだ下の方へ固まったまま、微動だにしない。
- 174 名前:真希-05 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 23:26
-
「なっち?」
肩を揺さぶろうと伸ばした手が触れるより先に、びくりと肩先が震えた。
避けるように体が離れる。
なっちは自分の行動に頭がついていかない様子で、避けたあとになって驚いた顔で
私の手を見て、それから私の方を見た。
「…ぁ…。ごめん」
「なっちってば…なんて顔してんのさ」
避けられたことよりも、その表情のほうに傷ついた。
少しむきになって今度は両腕で肩を捕まえて、自分の胸に抱き込むように固定する。
はずみでノートが床に落ちた。
「ちょ…ごっちん…、落ち着いて」
「やだ」
落ち着いてないのはなっちの方だ。
抱きしめた体は緊張して震えてた。
怯えて逃げようとするのを押しとどめるために、また少し腕に力を入れた。
「…教えてよ。もう教えてくれてもいいでしょ」
「何を…」
- 175 名前:真希-05 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 23:31
-
まだじたばた抵抗する体を両足の間に挟み込むように動きを封じ込めて、
横顔を見て、私は答えを知った。
頭で悩むより、本人を見たり触ったりする方がずっとわかりやすい。
本能は、もっと忠実だった。
さっきまでごちゃごちゃ考えていたのがばかばかしくなるくらい、簡単。
中身がわからなくても、この気持ちの形が何なのかくらいは今の私にもわかる。
「ごとー、この気持ちのこと、本当はよくわかんない。今、ほんとに情緒不安定だから
なのかもしれないけど、そうなのかもしれないけど、ごとーはそう思いたくないよ」
なっちに話しかけながら、自分の声が出なくなりそうで必死で声を絞り出した。
緊張で、どうかしそう。
でも、言わなきゃ絶対後悔すると思って。
「…なっち。今のごとーも、きっと昨日のごとーも…なっちのこと」
「…………違う!」
悲鳴に近い声をあげて、なっちが遮った。
その時になってやっとなっちが、捕まえられている肩ごしに私の顔を見た。
「…それは、ちがうよ」
なっちが一体何を考えているのか、全然理解できなかった。
ただ、至近距離にあるその表情がとても辛そうで、どうしてそこまで意地になる
必要があるのかわからないでいた。
あらためて、自分が何も思い出せていないことが悲しかった。
私の覚えていない何かをひとりで抱え込んでいるのなら、吐き出せばいい。
- 176 名前:真希-05 1日目 投稿日:2004/12/19(日) 23:32
-
「なっち…?」
落ち着こうとしているのか、長いため息をつくためになっちが瞳を閉じた。
時間をかけて細い息を吐き出して、ゆっくりと再びその両目が私の姿を捉えた。
その時の衝動を、どう形容すればいいんだろう。
この気持ちをそう呼ばないなら、他にどう言えばいい?
認めてもらえないなら、私はどこに行けばいい?
過去に何があったかなんて今の私はわからない。
ただ、触れたい。
なっちに触れたい。
- 177 名前:IW 投稿日:2004/12/19(日) 23:38
- 今回の更新はここまでです。
なんだか日曜更新になりつつある…w
皆さん、レス本当にありがとうございます。がんばるぞと。
>>151名無飼育さん様
本当の後藤さんもこっちの後藤さんも、さみしがりーなんだと思いますです。
(●´ー`)さんがんばれ。
>>152名無飼育さん様
楽しみにしてくださってありがとうございますw
ドキドキにお応えできるよう頑張りますね。
>>153ろむ様
読んでくださりありがとうございます〜。
なつみ編で欠けてた気持ちやちょっとしたシーンなんかを真希編で補うような
しくみになってますので、楽しんで読んでいただければ本望です。
- 178 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/23(木) 00:01
- 後藤さん編、後藤さんの気持ちが伝わってきて一緒に切なくなります。
更新楽しみに待ってます。
- 179 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/12/24(金) 03:23
- すごく楽しみにして読んでます。
丁寧に書いてあるから読みやすいし、ドキドキします。
後藤さんにとっては毎日が1日目なんだよなぁ…
- 180 名前: 投稿日:2004/12/26(日) 22:53
-
- 181 名前: 投稿日:2004/12/26(日) 22:57
-
水の夢を見てた。
いつもはただ眺めているだけの身体に触れる。
すると、慣れた感触とは違う種類の柔らかい髪ときゃしゃな指が向こう側から
同じように触れてくる。
相手の背中にあるシーツの分だけこっちの方が優勢で、隙を見て私は温みの
ある唇に口をつける。柔らかくて湿ったキスをするのはすごく久しぶりで。
まわりの空気がひんやりと冷たいのにそこだけ温度が上昇していって、唇を
そうしながら指で釦をはじく。爪をひっかけてもうまく外れないそれに苛立って、
構わずシャツの裾から手を入れた私を見かねたのか、さっきまで髪の毛を引っぱる
でもなく引き寄せるでもない、微妙な動きをしていた指が黙って降りてきて、
代わりに自分で釦を外しているのが見えた。
わざとやわらかい場所を探って歯を立てても、溜息以外に声が聞こえることはない。
それを残念に思いながら、いい匂いのするその身体を私は抱きしめた。
全然、現実感がなかった。
夢だから仕方がないのかもしれないけど。
- 182 名前:真希-06 2日目 投稿日:2004/12/26(日) 23:01
- 相手の名前も、状況もなにも全く自覚できないうちに目が覚めていた。
シーツの上にあおむけになって片足だけ外にはみ出した、中途半端な体勢で
寝てた。 醒めきらない頭でベッドの上に上半身だけ起こして、まわりを見渡す。
自分の部屋だった。夢の中とまったく同じ景色、
「…あれ?」
頭痛が薄らいでいるのが判る。
それに、少し視界が明るい。
部屋の間取りが理解できることがこんなに嬉しいとは思わなかった。
欲張って仕事のことや遡って過去のことを思い出そうとすると、頭が痺れる
ようにズキズキ痛むけど、ここ数日のことならぼんやりとわかるような気がする。
それに何より今の私は、ここにいるもう一人の存在を覚えてる。
ドアを開けてリビングに出ると、ソファの背もたれごしに影が見えた。
近づくと、微かな寝息。
人の気配を感じたのか寝返りを打って、その拍子にぱたりと雑誌が落ちた。
いくら考えても、頭の中にある名前はひとつしかない。
- 183 名前:真希-06 2日目 投稿日:2004/12/26(日) 23:02
-
「なっち」
小さな声で、そう呼ぶ。
ん、と唸り声がして瞼が小刻みに動き、開いた。
私の顔を見つけると、少し遅れてぱちぱちと数回瞬きを繰り返す。
「え?ごっちん」
「うん」
「なっちのこと、今呼んだ?」
「うん。」
判らなかった状況といつもは言えなかった名前を覚えていられたことが嬉しいのに、
なっちのほうでは逆にこれがあまり嬉しくないみたいで。
一瞬だけ、瞳が泳ぐ。
居心地が悪そうにソファから立ち上がって台所へ行ってしまう。
それがどうしてなのか判らない。
今まで私の記憶喪失に散々振り回されていたはずなのに。
微かに表情を曇らせたなっちの顔と、水の夢が重なって見えた。
- 184 名前:真希-06 5日目 投稿日:2004/12/26(日) 23:06
-
それから私は、毎日(そう。多分毎日)少しずつじわじわと僅かな記憶を取り戻して
いった。
話したこと、聞いたこと。
どこかへ出かけた時のこと。
とりあえずなっちと一緒に暮らすようになってからこっちの記憶で、しかも時間の
把握がまだいまいち曖昧なんだけど。やっと止まっていた血が巡ってきて体の中で
循環し始めたようにホッとした。
自分が何者なのかってことさえ判らなかった時に比べたら、今はだいぶいい。
思い出した破片をつなぎ合わせてみて、果たしていない約束を実行するためになっちを
引っ張り出した私は、覚えている限り色んなところに連れ回した。
まだまだ不完全だけど、パズルのピースは持ってるつもりで。
無駄に過ごした長い時間を少しでも取り戻したい。
早く回復したい。
私はいったい何日、こうやってぼんやりしてなっちとの時間をなくしたんだろう。
早くなっちとの温かい世界を取り戻さないと。
- 185 名前:真希-06 5日目 投稿日:2004/12/26(日) 23:07
-
こんなに近くにいるのに、以前のことがほんの少ししか思い出せない。
きっと忘れたくなかった記憶もあるだろうに。
なっちの中にだけそれを増やしていくのは辛かった。
なっちだけが辛いのは不公平だ。
だから私は私の中の、その一握りの記憶を頼りに埋め合わせをすることにする。
以前行った個展。
海。
すべて記憶をなぞって取り戻したい。
今までの分を取り返さなきゃ。
そう願って、私はまた自分の中のパズルを組み立て始めた。
- 186 名前:真希-06 6日目 投稿日:2004/12/26(日) 23:08
-
最後は水族館だった。
- 187 名前:真希-06 6日目 投稿日:2004/12/26(日) 23:10
-
見た目と違って、そんなに弱々しいタイプじゃないってことは知ってたけど、
泣くのかと思った。
こんなあからさまな恐がり方をするなっちは、きっと初めて見る。
「…どうしてそんなに早く直っちゃうのぉ? …違うっしょ。
ごっちんは、ちがうっしょぉ…」
くぐもった声が肩のあたりから直接響いてた。
私は、なっちが、なっちがこんなに辛そうにしている理由がわからない。
どうしたの?ねえ、なっち。なっち。
- 188 名前:真希-06 6日目 投稿日:2004/12/26(日) 23:11
-
「ごっちんが、ここにいて」
- 189 名前:真希-06 最後の夜。 投稿日:2004/12/26(日) 23:14
-
(もっと…もっと、いて)
(ごっちんが、ここにいて)
なっちの声が、頭の中でぐるぐる響いて止まらない。
夜中、とにかく気持ちが悪くて目が覚めた。
久しぶりに来る、波のように浮き沈みする酷い頭痛。
鼓動と同じ速度で鳴る頭を抱えて上半身を起こすと、私は音を立てないように
気をつけながらベッドから出て、なるべく静かにドアを開けて洗面所に入った。
足もとがおぼつかないのは寝起きだからというわけじゃなさそうだった。
鉛のように頭が重い。
気分、悪い。
直進もままならない状態でふらふらしながらそのままユニットバスへ入る。
バスタブの淵に何とか腰掛けると、途端に胃の中がぐるぐる逆流を始めて、
トイレの便座にしがみつくようにして吐いた。
急いで水を流すけど、なかなか吐き気は治まらない。
片手で何度も流しながら出るものがなくなるまで吐いた。
- 190 名前:真希-06 最後の夜。 投稿日:2004/12/26(日) 23:16
-
そうしたら、不快感が薄れたかわりに頭がぼーっとして体中の力が抜けて、
私はタイルの上にずるずると座り込んでいた。
この季節にパジャマだけじゃ寒いけど、足の力が抜けてベッドに戻る気力もない。
最近気分がいい昼間と反比例をするように、時々夜中にこうして具合が悪くなる
ことはあったけど。でも、今夜は本当にひどい。
少しでも楽になりたくて、うずくまって膝を抱えた。
背中をきしませるような吐き気はまだ滞っているが勢いは弱くなった。
けど、まだまだ立ち上がる気は起きない。
「…ごっちん?」
かたん、と静かな音がして視線を上げると、スリッパの足が見えた。
なっちが様子を伺うようにバスルームを覗いてた。
- 191 名前:真希-06 最後の夜。 投稿日:2004/12/26(日) 23:24
-
あれだけ音させれば起きてくるのも無理ないか…。
なっちはまだ何が起こったのか把握できないようで、どうかしたの?とスリッパの
足を一歩踏み出して、中を見渡してる。
「…きもちわるい……」
「…吐いた?」
こくり、と頷く。
そうするとなっちが、同じように少し涼しすぎるパジャマ姿で近寄ってきて額に
手を当てる。普段は自分よりあたたかいその手が今はひんやりと心地いい。
「熱、あるね…」
とにかく立って、ベッドまで歩いて、と抱き起こされる。
立ち上がるには私がその肩と、反対側にある洗面台の力も借りなきゃなんな
かった。
何とか足に力を入れて立つことに成功すると、支えるように低いところから腕が
伸びてくる。ぼさぼさになってるなっちの髪の毛が頬に当たった。
- 192 名前:真希-06 最後の夜。 投稿日:2004/12/26(日) 23:27
-
二人してよたよたと部屋まで歩いて、とりあえず私をベッドに降ろすと、なっちは
部屋を出て行った。
そして私が寝返りを打って楽な体勢を探している間にも、すぐに洗面器とかタオル
とかを両手にたくさん持って戻ってくる。
「とにかくこれ」
絞ったタオルが額に当てられる。
少し気分がマシになったみたい。
さっきよりは吐き気も治まったし、やっと呼吸がまともにできた気がする。
上半身を起こすように促されて、次に薬を渡された。
額のタオルはなっちが左手で器用に押さえてくれてる。
そのまま水の入ったコップを受け取って、薬を飲む。
具合の悪い時に甘やかされるのは嫌いじゃなかった。
飲んだ?と確認するなっちの声も少しだけ甘ったるく、子供に話すようで。
「どうしたんだろうねぇ。風邪かな」
一応薬はそういうやつなんだけど、と付け足す。
「矢口に電話しようにも夜中だし…。とりあえず寝られそう?」
「うん」
「じゃ、このまま寝ちゃお。何かあったら起こしてくれていいからね」
そう言って私の毛布をかけ直し、部屋を出ていこうとしたなっちを止めたくて、
気がついたらその袖を掴んで引き留めてた。
なに?と尋ねてくる視線に、いい理由が見つからない。
- 193 名前:真希-06 最後の夜。 投稿日:2004/12/26(日) 23:29
-
「…手」
「うん?」
「手、つないでて」
ふっ、と相手が吹き出す音が聞こえる。
でもなっちはそのまま笑い声をたてながら、寝かせる時に毛布の中に入れて
しまった私の手を探して引きずり出して、指を絡めてくれた。
「おっきな子供だねぇ」
面白そうにそう言われて、私も唇だけで笑い返す。
つないでもらった手の親指を、自分のそれでなでる。
くすぐったいよ、と口だけの抗議をしながら、なっちの手も私の体温をもらって
あたたかくなっていった。
「…」
「なに?」
「ごとーね、……」
「聞いててあげるから寝なさい」
めちゃくちゃだと思ったけど、もう半分以上意識が遠のいていて言葉にならなかった。
今なら気持ちよく眠りに入れそう。
誰かが側にいてくれる空気が、何より心地いい。
- 194 名前:真希-06 最後の夜。 投稿日:2004/12/26(日) 23:36
-
ごとー、思い出すのやめるよ。
そう言いたかったんだ。
きっと私はなっちのことが、好きなんだろうと思う。
全てがぼんやりとした私の世界の中で、その存在だけぽつんと明るい。
それを見ていると、頭の中のぼやけた部分なんかどうでもよくなってしまう。
なっちがそう望むんだったら。
それでなっちが楽になれるんだったら、私は一緒にいられるだけでいい。
戻るな。
記憶なんかいらない。
昔の私なんかいらない。
なっちが助けてくれたのは、癒してくれたのは、私だ。
好きだから、大事にする。
…つらいだけの記憶なんて、いらない。
- 195 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/26(日) 23:45
-
- 196 名前:31日目の朝。 投稿日:2004/12/26(日) 23:46
-
ひなたの匂いのするシーツの中で真希は目を覚ました。
いつもの頭痛が今日は少しもないことに気がついた真希は、ゆっくりと両手を
ついてベッドから起き上がる。
知らない部屋。
頭がやけにすっきりしている。
まるで凍って滞っていたものがすっかり溶け落ちたようにキンと冴えていた。
ただ、昨日まで自分がなにをしていたのかが少しも思い出せない。
休暇なんて取っている場合ではないというのに。
確か、書きかけの長編がまだほったらかしになっているはずで。
あれだけてこずっていた原稿も、今なら書けそうな気がする。
床に足をついて立ち上がり、とにかくドアから外に出ることにした。
ここがどこであれ、自分が色んなものに追われていることは変わりないはず。
白いドアを開けると、自分の作業部屋より少し広いリビングと台所がある。
けれど、やっぱり見覚えはない。
街の中にいくつかあった眠るだけの部屋のどれでもない。
- 197 名前:31日目の朝。 投稿日:2004/12/26(日) 23:50
-
「どこだろ?ここ…」
首を傾げて考える。
思い出せないが、テーブルの上には皿が二人分用意されているし、以前の真希の
部屋と違ってここは生活感にあふれている。
それにとりあえず朝食の支度ができているということは、ほかにまだ誰かいるということで。
恐る恐る、足を踏み出して台所へ向かう。
そしてダイニングと仕切ってあるカーテンを片手で持ち上げると、
そこにはやはり「もうひとり」がいた。
「ごっちん?」
「…ぅわ!」
声をかける前にいきなり名前を呼ばれて、真希は飛び上がらんばかりに驚いた。
「もうひとり」は、真希よりも一段階ほど背が低い。
知り合いだとしたら至極失礼なその反応も、背中を向けたまま笑っていた。
揺れる肩に合わせて、その金茶の髪の毛も肩の上でかすかに跳ねる。
「ごめんごめん。びっくりさせたよね」
そして、ゆっくり振り返ったその顔に、真希は二度驚いた。
「私、住み込みで手伝いに来ることになったんだ。朝から驚かせてごめんね」
その顔は、よく知っていた。
しかしこんなに近くで見たのは初めてじゃないだろうか。
「はじめまして、なっちって呼んでね。家事手伝いっていう名目でここに来ました。よろしく」
言って、なつみは真希に向かってにっこりと微笑んだ。
- 198 名前:31日目の朝。 投稿日:2004/12/26(日) 23:52
-
…そう、「なっち」なのだ、これは。
今日真希が目を覚ましたこの部屋の「もうひとり」はなつみだった。
その事にも違和感を覚えるが、それより真希が気になったのは、彼女の言葉だ。
なつみはこんな生活感のにじみ出た部屋の中で慣れた手つきで朝食の支度をしながら、
それでも「初めまして」と挨拶をする。
どうしてだろう?
真希はそのまま、できるなら頭の中をひっくり返して昨日までの記憶を取りもどしたい衝動に
かられた。
実際は記憶喪失状態からやっと元通りに回復したのだというのに、当の真希本人は戸惑うばかりだ。
「あの…」
「仕事ね。いま休養中だよ。お前、少し情緒不安定だから」
何か言う前に、なっちからハムエッグの皿を持たせられる。さあさあ行った行った、と手で追い払われ、訳のわからないままダイニングへ戻った。そして首を傾げる。どういうことだ?起きてみればあれだけ詰まっていた仕事はどこかに行っていて、しかも同居人がなっちで情緒不安定が休養中…。
「何ぶつぶつ言ってんの?」
なっちにしてみれば、いつになく納得いかない様子の真希がいぶかしい。いつもならとっくに納得して朝食をかきこんでいる頃だというのに、今日に限って真希が箸も取らずに考え込んでいるのが気に留まるらしい。
- 199 名前:31日目の朝。 投稿日:2004/12/26(日) 23:56
-
「どうしたの?具合でも悪い?」
「…ううん、何でもない」
「ほんとに?おかしいな。嫌いなものはないはずだけど」
「ううん…。……え?」
そう言われて見てみれば、確かに用意された食事の中にはひとかけらも
真希の口に合わないものは入ってなかった。
呆然としている鼻先に、不意にいい匂いが触れてくる。
「熱はなし」
額を離して、じゃあ何だろ?と小首を傾げる仕草がかわいらしい。
…じゃなくて。
どう考えても、なつみがこんなふうに接してくるなんて考えられない。
もしかしてあれは全部夢だったのかもしれない、とも考えるけど、もしそうだと
しても夢であるのは多分こっちだろうことは真希が一番良くわかっていた。
- 200 名前:IW 投稿日:2004/12/27(月) 00:02
-
今回の更新はここまでです。
昔自分が書いてた小説のなちごま版リライトなもんで、置換し忘れで
>>198で一部が元原稿とごちゃまぜになってしまって失礼しましたotz
(●´ー`)がおまえとか言ってるよw
海よりも深く反省。
>>178名無し飼育さん様
( ´ Д `)と一緒に切なくなってくださってありがとうございます。
後藤さんは感情がストレートなので書きやすいです。
>>179名無し飼育さん様
ありがとうございます。今回ちょっとポカもありつつ(凹
後藤さんの記憶が戻ってからが少し正念場です。
- 201 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/27(月) 00:17
- リアルタイムで見てました。
なっちとごっちんに何があったんだろ…
てかごっちん…
- 202 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/27(月) 09:58
- なるほど・・・そういうことになったんですね。
これからのなっちとごっちんの関係が気になる。
二人の過去とは一体・・・?
ここからさらに面白くなりそうな予感w
- 203 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/27(月) 16:49
- 更新キタキタキタ━━(゚∀゚≡゚∀゚)━━━!!
ドキドキしながら次回も待ってまつ
- 204 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/17(月) 08:57
- 今までのぶんを読み返して更新待ってます。
- 205 名前:31日目-朝食後 投稿日:2005/01/21(金) 23:25
-
朝食を終えると、今度は空いた皿を持ってまたなつみは台所に入っていった。
しばらくして水音とガラス製の皿が擦れ合う音が聞こえてきて、それをまだ僅かに
混乱した意識の隅で聞きながら、真希は先程のなつみの台詞を口の中で反芻していた。
『仕事ね。いま休養中だよ。ごっちん、少し情緒不安定だから』
そんなはずない。
休みなんかあるはずない。
もし本当に休みでも、あれだけ急かされてた締め切りは?
…だいたい、今って何月?
真希が覚えている最後の日は、小さめのTシャツでも暑かった。
でも、今はカーディガンを羽織っていても肌寒い。
カレンダー。
自分の部屋では見つけることができないものも、生活感のにじみ出たこの部屋からは
簡単に見つけ出せることができた。
……が。
真希は一瞬自分の目を疑った。
- 206 名前:31日目-朝食後 投稿日:2005/01/21(金) 23:26
-
「ねえ、今って10月なのっ?」
慌てて台所へ駆け込んできた真希に、皿洗いを続行していたなつみが少々
ひるむのもかまわずに、思わず目の前の肩を両手で掴んで揺さぶる。
「え?」
「ねえっ、あのカレンダー正しい?」
「カレンダー?」
「日付だよ、今日の日付!」
「どしたの?今は11月だよ。そうだけど…何で」
「何でって、なに」
「だってごっちん、いままで一回も日付のことなんて…」
腕の中でなつみが目を見開いた。
ただでもぱっちりとした瞳をもっといっぱいに開いたまま、何かに思い当たったのか
ふと顔色が変わる。
「いままで?」
そう。
急いで思い出さなくてはいけないのは昨日までの記憶だった。
この際日付や原稿は二の次だと判断して、もう一度真希は頭の中をフル回転
させようとした。
「…きのう……?」
昨日、何をしただろう。
この部屋だってしばらく住んでいたのなら少しくらい見覚えがあってもいいのに。
- 207 名前:31日目-朝食後 投稿日:2005/01/21(金) 23:27
-
「…思い出せないの?」
ずっと考え込む真希の様子を伺っていたらしいなつみから、そう控えめに問い掛けられた。
苦々しい顔で頷くと、見る間になつみの表情が和らぐ。
真希はそれを不思議な気持ちで捉えていた。
「無理しなくても、ゆっくり思い出せばいいべさ?もうすぐ検診だし、矢口も様子見に来るって
言ってたし」
「矢口…、って…」
やぐっつぁん?
真希の中に、友人の顔が浮かんだ。
そうだ。どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったんだろう。
ここに閉じ込められているわけでもないのに。
「ごっちんのココロのお医者さん。矢口はごっちんとなっちの友達だったんだよ?」
楽しそうにそう言って、なつみは中断した皿洗いをまた再開した。
どうやら真希が記憶喪失だと思い込んでいるらしい。
けれど、その「安心」という文字を表しているかのようなほっとした表情に、自分の状態を
説明するのはとてもためらわれた。
そして何より、後ろめたい気持ちが真実を口に出すことを阻んでいた。
- 208 名前:31日目-午後 投稿日:2005/01/21(金) 23:29
-
『もしもし』
数回の呼び出し音のあと控えめな応対が聞こえて、真希はなぜか安心した。
もしこの回線がつながらなかったら、本当にパラレルワールドにでも来て
しまったんだと納得するしかない、と覚悟していたからかもしれない。
「もしもし」
『…誰?』
「ごとー」
『え?』
「ごとーだってばっ」
『…。…ごっつぁん!??ほんとに?』
- 209 名前:31日目-午後 投稿日:2005/01/21(金) 23:31
-
相変わらずのカン高い声に思わず受話器を耳から離す。
それでもキンキンと鼓膜を刺激された。
『ごっつぁん、思い出したのか…』
「ねえやぐっつぁん、私どうなったの?教えてよ、なんでこんなことになってんのさ。原稿は?締め切りは?」
『待って待って。なっちがそこにいたでしょ?今いないの?』
「買い物行った…」
そうすると「よし」と咳払いが一緒に聞こえてくる。
『電話で話すより、直接話したほうがいいよ。明日ごっつぁんを呼び出すからこっちに来て。
場所はなっちが知ってるから』
「やぐ…」
『なっちは、』
バツが悪そうに切り出そうとした真希の言葉を遮って、矢口が先に話し始めた。
言いたいことは判っている、とでも言うように。
『なっちはごっつぁんが記憶喪失だと思ってるんだよ。…まあ、昨日までは確かにそうだった
んだけどね。とりあえず今は何も言わずに、ばれないようにしといて。
理由はごっつぁんが一番わかってるはずだよね?』
「…うん」
『……記憶が戻りついでに、昔のごっつぁんにも戻ってるみたいだね…良かった。
おかえり、ごっつぁん。待ってたよ』
受話器を戻す前、矢口の柔らかい声がそう、耳に滑り込んできて妙に懐かしくて、
真希はじわりと顔が熱くなった。
- 210 名前:31日目-午後 投稿日:2005/01/21(金) 23:33
-
電話を切ってからしばらくして、買い物に出かけていたなつみが帰ってきた。
スーパーの袋が擦れ合う音でえらく大荷物で戻ったのが伺えたので、真希はドアが開く前に
内側からそれを開くことにする。
矢口と話をしたので幾分落ち着いて出迎えることができた。
「あれっ?…あはっ、ただいまぁ」
ドアを開けてあげると、少しびっくりした顔でそれでも微笑む顔がかわいい。
「矢口…さん、から電話あった」
ばれないように、と念じすぎるとボロが出そうなので、なるべく普通に喋るように心がける。
真希はまだ、記憶喪失だった時の自分を知らないからだ。
「え、ごっちん取ったの?ほんとに?急ぎかな」
慌しく手を使わずに靴を脱ぎながら、そう言ってなつみは持っていた買い物袋を
真希に押し付けて部屋の中に上がった。
そのときにふわりと、またひなたの匂いが鼻先をかすめた。
ぱたぱたとスリッパの音をさせながら受話器を上げる後姿が見える。
「…もしもし、矢口?さっき電話…うん、買い物行ってて」
ややあって、ぼそぼそと話し声が聞こえ始めた。
さっきのトーンより少し低い。
- 211 名前:31日目-午後 投稿日:2005/01/21(金) 23:34
-
「うん、…うん…。え、ごっちん?」
矢口との話が本題に触れたらしく、なつみの口から真希の名前が零れた。
無意識なのか、会話を続けながら真希の方を振り向く。
目が合った。
「……わかった。じゃ明日そっち行けばいいの?…うん」
温みのある唇がきれいな曲線を描く。
(ああ、やっぱり…)
出会いがあんな場面でさえなければ、こんな雰囲気で変わらず接する事ができたはずだった。
自分が微笑むと、なつみも嬉しそうに笑う。
そんな当たり前の事が目の奥がじんとなるくらいに嬉しい。
どうしたんだろう。
どうしてこんな簡単な事が、あの時にはできなかったんだろう。
つよく後悔する。
そして、後悔の気持ちと同じ分だけ、今がずっとこのまま続くことを祈らずにはいられなかった。
あれだけ焦がれていたものが、手を伸ばせば届くところにある。
- 212 名前:IW 投稿日:2005/01/22(土) 00:57
-
皆様あけましておめでとうございます(遅
ばたばたの年始でしたが、やっとネットができる環境まで落ち着きました…。
>>201
それは恥ずかしいw<リアルタイム
何があったのかは、だんだん明らかになってくるはずです。
>>202
予感だけにならないように頑張りますw
核心に触れるにはまだ序盤ですが、これからも読んでやってください。
>>203
遅くなって申し訳otz
もうドキドキが消えてたらどうしよう(ダメ
>>204
たいへんお待たせいたしました(平伏。
でもって、「リライトは頭の挿げ替えと同じことでは?」のような意見を見かけました。
こんな深海にたゆたっている小説のことではないかと思うんですが、うちの読者様で
そう思ってる方がいたら…と思って補足しておきます。
(うぜーぞゴルァという方は読み飛ばしてください)
「CURE」は確かに自分が前に書いた作品のリライトです(それは事実)
…が、単に名前を挿げ替えただけでは「なちごま」でCUREをやる意味がない。
というわけで「なちごまCURE」は、当たり前ですがそれぞれのキャラを当てはめた
段階で、原作とは展開が違ってきています。
拙い作品ですが、これからも読んでいただけたら嬉しいです。
…お目汚し失礼しました。
- 213 名前:名無し読者 投稿日:2005/01/22(土) 12:09
- ついに過去が明らかになりそうですね
続き楽しみにしてます
- 214 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/23(日) 22:57
- おー更新きてた嬉しい待ってました
にわかに動き出してきて切ない予感だなー
この作品なりのなちごまは確かにこの二人じゃなきゃと思って読んでます
今後も頑張ってください
- 215 名前:ろむ 投稿日:2005/02/01(火) 10:47
- いつも更新楽しみにさせていただいてます。
この先どうなるのか・・・ドキドキ。
がんばってください!
- 216 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/07(月) 22:55
- とても綺麗な文章で、思わず話に引き込まれてしまいました。
構成もしっかりされていますし、何やら伏線もあるようなので
今後の展開にも期待が高まる一方です。
これからも応援しておりますので、頑張って下さい。
- 217 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/02/12(土) 23:46
- 作者さま、お久しぶりでございます。 最初くらいにレスさせて頂いた者です。まさかここまで更新されていたとは 汗実は去年の冬にパソコンが壊れてしまい、以後、この掲示板にも顔が出せずにいました。 しかし今日ようやく見つけ拝見させて頂きました。 かなりフィナーレに近づいてきましたね。 ここまで来たからには、最後までお付き合いさせて頂きます。 更新待ってます。(長々と汚文を書き、申し訳ありませんでした)
- 218 名前:32日目−午後 投稿日:2005/02/22(火) 00:05
-
矢口の研究室に行くのはもちろん、この大学の校舎に来る事すらも真希にとっては
初めてのことだった。なつみと一緒に人通りが少ない時間を狙って出かけてきたせいか、
長い廊下を歩いている学生もいない。
「おっ、ごくろー」
扉を開いて出迎えてくれたのは矢口だった。
なまいきに白衣なんかを着て、真希の顔を見ると片目だけで器用に目配せをしてみせる。
「今回は早いんだねぇ」
なつみが言った。
「今日は検診じゃないんだー。新しいカウンセリング方法があってさ、ちょっと試してみようか
と思ってさー」
「なにそれぇ、大丈夫なの?」
おもむろに矢口が取り出した書類をうさんくさそうに見つめると、真希を向かいの椅子に座らせる。
「二時間くらいごっつぁんと一対一で話をする必要があるから、悪いけど…」
「あ、うん。二時間待ってればいいの?」
そう、と付け足すと、矢口は奥の部屋に向かって声をかけた。
「ねえよっすぃ〜。なっちに遊んでもらってれば?」
- 219 名前:32日目−午後 投稿日:2005/02/22(火) 00:06
- はーい、という返事と共に、矢口の助手が出てきた。
茶色い髪の毛をセミロングにしていて、背が高い。
何度も会っているのになつみとはきちんと言葉を交わしたことがなかった。
「吉澤です。安倍さんにはちゃんとご挨拶するの初めてでしたよね?
よろしくお願いします」
少し身をかがめるようにして吉澤が挨拶をする。
言葉の端々に人懐こさがにじみ出ている感じで好感が持てた。
「うん。よろしくね」
なつみも笑顔をつくる。
「じゃ、行きましょうか。実は私、おもしろい研究手伝ってて…。内緒なんですけどね」
和やかな雰囲気で部屋を出て行く二人をおもしろくない様子で真希が見送った。
対して矢口は無表情だ。
「じゃあ、行って来ます」
吉澤には矢口の口から、二人の話が絶対に聞こえない距離までなつみを連れて
行くようにと言い含めてあった。
- 220 名前:32日目−午後 投稿日:2005/02/22(火) 00:08
-
「…さあ、後藤先生?」
二つの足音が遠ざかるのを確認してから、手にしていた書類袋をひっくりかえす。
ざらっ、と音をたてて中身がテーブルの上にばら撒かれた。
真希の仕事部屋に山積みになっていた小説が打ち込まれたディスク。
それを見て、真希が僅かに息を飲む。
矢口はそれをひとつひとつ真希に渡しながら、淀みのない口調でこの一ヶ月間の真希の状態を説明した。
「私が適任だったんだよね。秘密を漏らす心配はない、セラピスト免許に、出来立ての研究所、古い親友。
好条件が揃ってた。それと同じように、ごっつぁんのところに行ってもらうのはなっちが適任だったんだ」
それをはじまりに、矢口の口から説明される事実は決して素直に受け入れられるような内容ではなかったが、
それでも真希は黙って聞いていた。
聞きながら今の自分と一緒だった二日間のなつみを重ね合わせてみる。
「それでね」
ひとしきり話し終えて、矢口の黒目がちな瞳がきょろっと動いた。
真希をまっすぐにとらえる。
真希は自分の足が緊張で少し震えていることに気が付いていた。
- 221 名前:32日目−午後 投稿日:2005/02/22(火) 00:09
-
「ひとつ、判らない事があるんだ。聞いていい?」
矢口は一時も真希の表情から目を離さない。
言おうとしていることはすぐに察しがついた。
そして、それを話さなくてはいけないことも、真希には充分わかっていたはずだった。
ただ今は、ずっと昔のことのように思えるそれをどうやって口に出そうか、そればかり
を考えるだけで。
しばらくそのまま時間が過ぎて、やがて真希の唇から、掠れた小声で言葉が紡がれた。
「うん。話すよ…やぐっつぁん、聞いてくれる?」
- 222 名前:32日目−午後 投稿日:2005/02/22(火) 00:10
-
話は一年ほど前まで遡る。
あんなに楽しかった、自分の心だけを文章に起こす作業が、押し迫られていくに
つれて苦痛になってきた。
ベストセラー、最年少、などという甘い言葉が、本当は地獄への入口だったという
ことにも気がついた。
気持ちよりも先に文章をどれだけ書くか。
どれだけ連載を持つか。
化粧をされてTVで喋って、笑って、雑誌できれいな洋服を着せられてポーズを取って、
どんどん自分が変わっていく。
知らないうちに自分がマスコミで作られてゆき、本物だったはずの自分がそのとおりに
操られていく。いつだって気分は最悪だった。
食事も楽しくない。以前は一滴も飲めなかったアルコールを、いつのまにかたくさん飲む
ようになって、それでないと眠れなくなって。
その場限りで、いろんな人と遊んだ。
人に言えない遊びもした。
人間として荒んでいくのが手に取るように判った。けれど止められなかった。
そんな日々が続くうちに自分さえも忘れてしまっていたのかもしれない。
もう小説を書きたくないと思う。
苛々とストレスだけが溜まっていく。
そんなことを続けるうちに、本当におかしくなっていった。
- 223 名前:32日目−午後 投稿日:2005/02/22(火) 00:12
-
自分が頭で考える前に、もう口が他人を怒鳴っている。
手が勝手にテーブルを倒したり、ものを他人にぶつけたり。
おかしい、と自分で思うのに、止められない。
きっと私は私じゃないんだ、と思った。
ひたすらこの状態から逃げたくて逃げたくて、頭が逆方向に暴走をはじめていた
のかもしれない。
誰かを殺してやりたかった。
自分の道連れにしたかった。
何でもいい。誰でもいい。
「なっちに、会ったの?」
静かな矢口の問いに、真希は頷いた。
「なっちは以前のごっつぁ…ううん。『後藤真希』のことを心の底から恐がってるよ」
「うん…」
じっと相手の様子を伺うような視線は、真希から外れない。
自分の中の予想が現実と重なる時を、矢口も待っていた。
- 224 名前:32日目−午後 投稿日:2005/02/22(火) 00:15
-
「…ただ」
真希が、まだ言葉を探しながら、小さな声で話し始める。
「誰かを、傷つけて足で踏みつけてぐしゃぐしゃに…したかったんだ。あの時は、
苦しくって苦しくって…自分でもよく、わかんなくなってて」
「……。」
矢口はなにも言わずに見ている。
真希は自嘲気味に口元を歪ませた。
「おかしいよね・・・。もう忘れちゃいたいのに、そういうことに限ってこんなに
はっきり全部思い出せるなんて」
ずっと頭の中で、黄色いランプが点滅していたのは見えていた。
知らないふりをしたわけじゃない。自制がきかなかっただけだ。
勝手に歯止めを失っていた、それだけだった。
希望に意識は反している。回避できるものじゃない。
気が付いたら、そのランプは赤になっていた。
「そうしたら、それが歩いてきた。向こうから」
軽い靴音も、風にゆれるスカートも、薄茶色の髪の毛も、その時の自分には
全部壊してくれと言っているようにしか見えなかった。
真夜中に似合わない種類の人間が、何を考えているのか路地裏を選ぶように
して段々近づいてきた。
- 225 名前:32日目−午後 投稿日:2005/02/22(火) 00:17
-
なつみだった。
ただ、その時の真希には、矢口から聞いていた記憶などもう薄れて、ずっと昔に
写真で見たセミロングのなつみの姿と、その時出会ったショートカットのなつみが
まったく重ならなかった。
いろんなものにひっかきまわされておかしくなった頭で、その時の真希は彼女の、
自分を見つめる大きな瞳を、汚いものとは無縁の、何かに包まれて守られている
ようなその空気を、ただどうしようもなく壊してやりたくてたまらなくなった。
「それで、どうしたの?」
「もちろん…」
壊してくれと言っているものなら、そうしてやらない理由なんか他にない。
きっかけなんて何でもいい。
『あんた、誰? 遊びに来たんだったら、ここは裏口だよ』
ちょうど、そういう目的の奴らしか来ないクラブの裏だった。
真希にむかって何かを話しかけようとしていたなつみは、その一言で
耳まで真っ赤になる。
『…あ…ち、ちが…』
『こんなところに一人で来といて、よく言うよ』
笑って、足を一歩踏み出すと、なつみの方は一歩下がる。
怖がっているのが面白くて、息がかかるまで近づいた。
(どうやったら、泣くかな)
もっと何か嫌がることをして、もっともっと怖がった顔が見たいと思った。
この幸福そうな女の子を泣かせて、壊したら、どうなるだろう。
もしかしたら、自分の道連れにできるかもしれない。
- 226 名前:32日目−午後 投稿日:2005/02/22(火) 00:20
-
『ねえ。私でよかったら、遊んであげよっか?』
『…え…?』
別に、だれか呼んでもよかった。
ただ、なぜかなつみを他の人間に触らせたくなかっただけで。
『やっ』
壁に押し付けて、そのまま右手をスカートの中に入れた。
自分でそんなことをするのは初めてだったけれど、一番手っ取り早いと思った。
きっとすぐ泣く。
泣き顔が見たかった。
それから、長い長い時間をかけて。
赤が目の裏でちらちらしていたのにも気付かずに、夢中で。
……………いやな、記憶。
今の真希からすれば、思い出すたびに苦い気持ちで吐きそうになる傷で
しかない。
「ただ、自分よりよわいものが欲しかっただけだった。
自分が誰かより優れていると思い込みたかっただけで…それで私が
『おかしくなってない』って確かめられる気がして。
今だったら全然そんなこと思わないよ。でも、あの時は…。
だってそうでしょ?やっと実力が認められたのに、どうして苦しくなるの?
周りのいいように操られているのが実力なの?
そんなの違うよ。証拠だけが欲しかった。
…でも、それは自分とは今後一切なにも繋がらない、ただの無関係な人
だと思ってたから、そう判っていたからできたことで、何も考えてなかった」
知らない人間なら、なにも躊躇することはない。
- 227 名前:32日目−午後 投稿日:2005/02/22(火) 00:22
-
「それがなっちでさえなかったら、ね」
矢口が静かな声で口を挟む。
真希は唇を噛んだまま、頷いた。
それが、あのなつみでさえなければ。
或いはそれに気がつかなかったら。
せめて向こうに気付かれなかったら。
思えばそれが、最後の砦だったのかもしれない。
何も関わらないままいつかちゃんと会って、笑って話をして。
その想いとは裏腹にあの時の自分には、なつみのことを考える余裕すらも
なかったけれど。
……ここまでが、以前の自分が持っているなつみとの一番新しい記憶。
- 228 名前:32日目−午後 投稿日:2005/02/22(火) 00:26
-
矢口は真希をなじることもせず、だからといって慰めもせず、ひたすら真希の話に
耳を傾けていた。そして話が全部終わるのを確認すると、問い掛ける。
「それなら今のごっつぁんが本当に知りたいのは、今のなっちが何でごっつぁんと
一緒にいられるのかってことだよね」
また、無言で真希は頷いた。
「これって私の予想でしかないけどね」
矢口はそう前置きをして、口を開く。
「今のなっちは…軽い現実逃避状態だね。以前の…。だから、『後藤真希』と、
『記憶喪失のごっちん』を別の人間だと思い込もうとしてる。
だからごっつぁんとあんなに自然に接していられる。
その代わり、記憶が戻る事をすごく恐がってる」
「あたりまえだよ…ね。私、なっちにあんな酷いこと…」
うつむいた真希を見つめたまま、矢口は首を振って話をさえぎった。
「それも実は違うかも。今の話ではっきりしたよ、まだ確証はとれてないけどね」
きっぱりとした否定に、真希はいぶかしむように目線を上げた。
矢口の言おうとしていることが理解できない。
なつみにあの忌まわしい記憶を忘れられるわけがないのに、何が違う
と言うんだろう。
「ごっつぁん。…なっちを見てて、何か気がつかない?」
真希が眉を寄せる。
「どういうこと?」
なつみを間近に見るようになってから、まだ二日しか経っていない。
その短い間の記憶を長い時間をかけて思い出そうとするが、何も思い当たる
ことはなかった。でも、矢口の物言いには何かひっかかるものを感じる。
訳がわからないまま真希は数回、瞬きをした。
けれど、矢口はそう言って微笑んだきり、それ以上話そうとはしない。
- 229 名前:32日目−午後 投稿日:2005/02/22(火) 00:26
-
そうして、32日目が終わろうとしていた。
- 230 名前:IW 投稿日:2005/02/22(火) 00:35
- さて今回の更新は好き嫌いが分かれそうな内容で申し訳ありません。
これからぼちぼち山場をむかえます。
>>213 名無し読者様
とりあえず何があったか明らかにはなりました。
ちょいとアンダーグラウンドですが…。
続きも読んでいただけると嬉しいです。
>>214 名無し飼育さん様
ありがとうございます。その一言でやる気が出ますw
なちごまじゃなきゃできないラストにしたいです。
>>215 ろむ様
楽しみにしてくださってありがとうございます。
自分も書きながらうまく表現できるかドキドキです(ダメ
>>216 名無し飼育さん様
ありがとうございます。
自分ではなんだか硬い文章だなーと反省しているんですが…。
読みやすくなるように努力努力otz
>>217 通りすがりの者様
おひさしぶりですw
また来てくださって嬉しいです。
よろしければ最後までお付き合いください〜。
- 231 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/22(火) 05:50
- 更新キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!
…なんか…言葉がでない…ラストまで静観するしかない
- 232 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/02/24(木) 19:15
- かなり気になるやぐっちゃんの言葉。 うあーなっちはどうなってしまうのでしょう・・。 もちろん、最後までお付き合いさせて頂きます。 更新待ってます。
- 233 名前:ろむ 投稿日:2005/02/26(土) 19:01
- 更新お疲れ様です。
改めて全部読み返して、これからの展開を空想してみました。
でもやっぱり作者様の空想が一番ステキです。
次回更新も楽しみに待ちます!
- 234 名前:33日目−正午すぎ 投稿日:2005/02/28(月) 03:45
-
頭の中で組み立てた言葉を、ほとんどそれを追い抜くくらいのスピードで文字に
していく。静かで飾り気のない部屋に、カタカタという音だけが規則正しく響いて
いるのが気持ちよかった。
あんまり時間がたたないうちにどんどん速度を増して、言葉は文章になる。
長い間止まっていた時計を動かした時みたいに、懐かしい。
いったいどのくらいこんな気持ちを忘れたままでいたんだろう?
…昨日(厳密に言えばほんの十二時間前)真希は唯一自分の記憶が戻った事を
知る矢口に、忘れようとしていたなつみとの過去をすべて告白した。
ずっと誰かに、できればなつみ本人に懺悔したかったことを。
話す事で救われるものなんかないはずなのに、たすけてほしいという気持ちは
どうしても消えなかった。
矢口に何を言って貰いたかったんだろう、と考えても自分でもよくわからない。
何を持っても許されるはずがないことなのに。
でも、矢口はずっと冷静に、いっそ真希を観察しているというくらい丁寧に相槌を
打ちながら、真希の話すつたない言葉を補って全部の告白を聞いてくれていた。
そしていつの間にか、昔から良く見ていた、どこか懐かしいその友達の表情を見る
ことだけが真希の気分を少しだけ楽にした。
- 235 名前:33日目−正午すぎ 投稿日:2005/02/28(月) 03:47
-
「ごっちん?」
控えめにドアがノックされた。
真希はキーを打っていた手を止めて、文章に保存をかけるとがたん、音をたてて
立ち上がり、急いで振り向く。
そうすると、中の様子を伺うようにそうっと、なつみがドアの隙間から顔をのぞかせた。
片手にサンドイッチと紅茶の乗ったトレイを持って、呆れた顔でそれをちらつかせてみせる。
「ご飯くらい食べに出て来なきゃダメだべさー。おなか、へらないの?」
「えへへ。忘れてたぁ」
笑うと、なつみも困ったように眉を寄せて笑って、持ってきたトレイを静かに真希の隣に
置いた。
最近特に、なつみはとても穏やかだ。
その表情が曇る事も、眩しいほど輝くこともあまりない。
「まったく…。矢口がへんなもの与えるから、こっちの段取りが狂いっぱなしっしょ」
へんなもの、とはパソコンのことだ。
昨日の帰り際、矢口が差し出した鞄の中に、それは入っていた。
本当は前の作業部屋から持ってきた真希の私物だが、なつみが知るわけもない。
それを強引に持たせながら、彼女は軽くこう言った。
『試しにおもちゃを与えてみようよ。大人しく留守番ができるようになるかもしれないぞ』
- 236 名前:33日目−正午すぎ 投稿日:2005/02/28(月) 03:49
-
内心、ばれないかと気が気ではなかった余裕のない真希と、記憶の糸口になるかも
しれないパソコンに対して複雑な表情しかできないなつみに向かって彼女はさらに続けた。
『そんな顔するなよぉ。私だって雇われてる身なんだからさー。ツラいんだよ?けっこう』
まさになつみにとっては駄目押し、とも取れる一言だった。
そして黙ってしまったなつみにさっさと鞄を持たせると、彼女に気付かれないように
親友は真希に向かって目配せをしてみせた。
幸いだったのは当のなつみが機械に疎く、そのパソコンが彼女の扱えない種類の
ものだったことだった。
まさかここまで計算して矢口が渡してきたとは思えないけれど、とにかくこうして、
真希の仕事道具は手元に帰ってきた。
そして翌日から真希は小説をまた書き始めた。
- 237 名前:33日目−正午すぎ 投稿日:2005/02/28(月) 03:51
-
真希の特殊な記憶喪失が完治した事はまだ、矢口以外は知らない。
ずっと側にいるなつみにすらも教えることはなく、…いや、なつみにだけは知らせ
たくなかったというのが真希の本音だった。
自分の犯してしまった『それ』を目の当たりにしたくなかったし、
何よりこうしてなつみと当たり障りなく一緒にいられる時間をなくしたくなかった。
矢口の助言にも助けられて、矢口を雇っているクライアントにも、真希の世話を
しているなつみにも伏せられたかたちで、〆切をとっくに過ぎた小説の続きから
真希の執筆活動は再開していた。
「あっ…」
食事をするように念押しして、そのまま部屋を出て行こうとする背中を呼び止める。
なつみはダイニングの方を指差して答えた。
「なっちの、あっちにあるから」
「…なら、じゃあ私も、そっち!」
勢い良く椅子から立ち上がると置かれたばかりのトレイをまた持ち上げて、真希は
ドアの外へ歩いていく。
微かな声でなつみが笑った。
- 238 名前:33日目−正午すぎ 投稿日:2005/02/28(月) 03:53
-
最初、矢口から以前の状態を聞かされたときは、朝から記憶喪失の『演技』をしなくては
いけないのかと思った。
実際なつみは真希のことを二十四時間制の記憶喪失だと思い込んでいるわけだし、
その間の自分がどうやって寝起きしていたのかは知らないけれど、
そうならそれらしくしていなければいけないんじゃないかと矢口に尋ねた。
『ごっつぁんはそういうこと考えたらダメ。せいぜい向こうが名乗るまで名前は呼ばない
ことにしてて。そのくらいのほうがどっちにも都合いいはずだからさ』
そっけなく、彼女はこう言って話を打ち切った。
この時は何て友達甲斐がないんだろうかと思ったが、それから数日、彼女の言うとおりに、
矢口の言った事だけ気をつけるようにしてみた。
すると本当に、不思議と自然な共同生活ができることが判った。
それは初めてここで目を覚ましたときにも感じたことだったけれど、だいぶ相手の思い込みに
助けられている。
なつみは頭から真希を記憶喪失だと決め付けているようで、会話の中で真希がうっかり昨日の
話をしても首をかしげもしない。真希はほっとしながら、それが不思議だった。
矢口に言わせればそれはなつみの立派な、『現実逃避』だということらしい。
- 239 名前:33日目−正午すぎ 投稿日:2005/02/28(月) 03:59
-
「これ」
差し出されたのは、緑色のノートだった。
今時見ない原始的な、紙を綴じただけのノート。
食事を一緒に食べた後、珍しくすぐ片付けに入らずに、それを少し緊張した面持ちで
差し出したなつみを見て、意味が飲み込めずに真希は首を傾げた。
そしてとりあえず両手で差し出されたノートを受け取って、表紙をめくる。
何の変哲もないまっさらな新しいノートだった。
(交換日記とか?)
反射的にそう思ってから、自分の発想に思わず頭を抱えそうになった。
(一応作家のクセに、我ながら何て貧しー想像力…っ)
「…これ何?どういう意味?」
首をかしげたまま相手の顔を見上げても、なつみはさらに言いにくそうに
口ごもって大きな瞳を泳がせた。
「あの、ね…何でもいいから毎日書くんだって。ごっちん、今記憶喪失でしょ?
だから、昨日のことを知るのに大切だって矢口が…」
記憶喪失、という発音が少し強調されたような気がする。
バツが悪そうに口の中でぼそぼそと喋るなつみに、
「書いたら、渡すの?」
と訊くと、やっと少し微笑んで頷く。
「交換日記じゃないんだから、なっちは書かないけどね。
ごっちんに持たせとくと書くの忘れるからさ」
そう言った顔はもう普段の彼女に戻っていた。
- 240 名前:33日目−正午すぎ 投稿日:2005/02/28(月) 04:16
-
無機質だった研究室に、最近少しずつ色が混じり始めた。
元々物がなかっただけで仕方のないことなんだけれど、できたての頃と比べられない
ほど散らかったとした雰囲気に圧倒されて、矢口は大げさにため息をつく。
まだ事務所は書類が散らかっているだけなのでいいとしても、準備室のほうはかなりの
ものだった。助手の吉澤も自分の研究や、他の手伝いものの資料やデータを持ち込ん
でいるので矢口の所持物と入り混じって大変なことになっている。
もうすぐ定例の学校側からの視察が入るというのに、大丈夫だろうか?
「もういい加減に紙はやめて、全部あっちに入れるべきですかねぇ」
どうしたものかと佇んでいると、いつの間にか来ていたらしい吉澤が矢口の背後から
そう言った。
あっち、とメインのコンピュータを指差す。
彼女も同じことを思ったらしい。
「そうしたいけど、そういうわけにもいかないんだよなーっ」
やれやれ、とオーバーアクションをつけて矢口は肩をすくめる。
とりあえず入用な資料だけデスクの上や床から拾い集め始めた彼女を手伝いながら、
頭にハテナマークを付けて吉澤が首を傾げる。
「視察があるでしょ?」
そちらを見ずに、矢口は丁寧に書類に目を通しながら真希関係の資料を拾っている。
関係のないものはこの際また床に落とす。
「よっすぃーには話したと思うけどさ、ごっつぁんの件の依頼主っていうのは『広い』のよ。
あっち関係はもちろん、なっちの休学届が公式に受理されるってことはここも一枚噛ん
でるってことだよね?」
- 241 名前:33日目−正午すぎ 投稿日:2005/02/28(月) 04:18
-
ここ、と言いながら研究室の床を指差す矢口に、吉澤は思わず眉をひそめた。
…ということは、校内視察の際に余計なものまで見られる可能性が高いという事で。
矢口が個人的に研究していることがバレたらトラブルが起きる可能性が高い。
趣味に干渉されるのも遠慮したいが、それより今の真希の状態がバレてしまうのは
当の真希にとってもなつみにとっても、それを研究材料にしている矢口にとっても
都合が悪すぎた。
だから余計に、チェックされると思われる機械のデータ内にそれを入れておきたくない。
少しくらい手間がかかっても紙にまとめて、別のファイルに入れておく。
先輩の真意を察し、溜息をつく吉澤に、矢口は肩を上げて『お手上げ』のポーズを作った。
…脇に紙束を抱えていたので片手しか上げられなかったが。
「そういえば、こないだは手間かけてごめんねー」
「ふぇ?なんのことですか?」
「なっちだよ。隔離してもらったでしょ?」
あー、と吉澤が頷いて、持っていた書類をまとめて矢口の手に渡す。
- 242 名前:33日目−正午すぎ 投稿日:2005/02/28(月) 04:20
-
「あんなの、手間のうちに入りませんでしたよ。安倍さん、生物系取ってるらしかった
んで、ラット使って催眠の研究してる飯田さんのとこに連れて行ったんです」
心理学専攻の中でも催眠術を中心に扱っているのは珍しい。
吉澤は矢口のところを主にして色々な講座を手伝っているが、ここは暇つぶしの面では
うってつけだった。
号令に合わせて眠ったりせわしく箱の中を走り回ったりするラットを目にして、なつみは
とても興味を持ったようだった。飯田に予備資料を見せてもらったり、彼女に足りない
生物学知識を副えたりしながら楽しそうに見ていた。
(時折何かと『交信』したあと、よくわからない言葉をものすごい勢いで喋り出す飯田を
見ると、さすがに少し苦笑いしていたが…)なつみを矢口の研究室から離すだけの
役目だったにも関わらず、吉澤も飯田も楽しんでしまい、きっちり二時間という約束だった
のにそのせいでだいぶ時間オーバーしてしまった。
- 243 名前:33日目−正午すぎ 投稿日:2005/02/28(月) 04:21
-
「で、どうだった?」
「かわいかったスよ」
「…ラットが?」
「いや、安倍さんが」
がたん、と矢口の足が誤ってデスクの椅子にぶつかる。
間違いだとは思わないが、真希は一人だけでいい。
できれば後輩には道を踏み外して欲しくないものだ。
「やだな、そういうのじゃないですよ。ただ…」
その反応に苦笑いしながら、吉澤はそう付け足した。
本気で胸を撫で下ろしながら矢口が語尾を繰り返す。
「ただ?」
「何となくですけど。しっかりしてるように見えるのに、時々可愛いんですよね」
「………」
素朴で的確な表現だ。
ほんの二時間の間、吉澤もただなつみの相手をしていたわけでもなさそうだった。
「いや、可愛いっつーか、正しくは…。……何だろ」
ひっかかるものを感じて吉澤がまた首を傾げる。
国語は苦手だったから、とぼそぼそ言いながら頭の中を捜すが、ぴったりの表現が
見つからない。
しかし矢口にはきっちり伝わったらしく、よし、と誉めるように背中を叩かれた。
「だから、そういうこと」
きっと本人も気付いてないはずのこと。
- 244 名前:33日目−正午すぎ 投稿日:2005/02/28(月) 04:23
-
「あの二人はおもしろいよ。ごっつぁんのデビュー作に歯車の話があったけど、まるで
隣でまわってる歯車みたいだ。すごく近いところでお互いまわってるのに、絶対ぶつ
かり合うことがないんだよね。
無意識か、意識か。はたまた無意識の中の意識か、うまく避け合って進行してるんだ」
吉澤が不思議そうな顔をしている。
「その歯車、ぶつからないんですか?」
「ぶつかる。考えても見なよ、隣同士でまわってるんだぞ?二つがぶつかるとしたら、
何が起こればいいの?」
「それ、は」
「横からどっちかを倒せばいいんだよ。違う?よっすぃー」
「…矢口さん」
吉澤が怪訝そうに矢口を見つめた。
研究内容を知っているだけに、つい戸惑ってしまう。
確かめる術はひとつしか考えつかない。そして明らかに、矢口はそれを自分がしようと
している。実験のためか、それとも…。
「近いうちに」
それだけ言い残して、今度は眉を寄せたままの吉澤に目もくれず、矢口はまた散らばった
紙をかき集め始めた。
- 245 名前:IW 投稿日:2005/02/28(月) 04:31
- 更新です。
前の更新、まったく何も考えずにやったんですが…あと1日ずれてたら落ちる
とこだったみたいで。なんつーか。更新頑張りますOTL
>>231 名無し読者さん様
第一発見者wありがとうございます。
ちょっとアレな展開になっていますが、良かったら最後まで読んでやってください。
>>232 通りすがりの者様
矢口さんはちょっとブラックな役回りになってますw
最後まで付いてきていただけますか!嬉しいですー。
>>233 ろむ様
ラストは自分もちょっとおぼろげに出来ているだけな状態ですが、納得いく
締めくくりになるように頑張りますね。
…って、ラストまで行くためには山がまだ…。
皆さん、レスありがとうございます。励まされますw
- 246 名前:名無し読者 投稿日:2005/03/01(火) 18:05
- やぐっちゃんが黒いねぇ
- 247 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/03/02(水) 20:35
- 矢口さんは何か企んでますね、しかもかなり腹黒い・・この先の二人はどうなってしまうんでしょうか? 次回更新待ってます。
- 248 名前:40日目−正午 投稿日:2005/03/08(火) 23:35
-
前の自分が何を考えていたのか、まったく見当がつかない。
自分で書いた文章なんだから最後までちゃんと道筋を決めていたはずなのに、
当時は紙に書き留めず、狂いかけた頭の中だけで考えていたらしい。
取り掛かる糸口がなくなってしまった書きかけの小説に、とうとう真希はキーを
打つことを断念した。
「…」
いらいらする。
とりあえず目の前のこれを片付けないと何も出来ないのに。
懐かしくて新鮮だった最初の頃を過ぎると、こんな壁に当たることが増えた。
文字を通り過ぎて白くなってしまった画面といつまでもにらめっこをしている
わけにもいかなくて、思い切って電源を落とすと、真希は立ち上がる。
なつみは夜11時を過ぎると早々と眠ってしまうので、部屋に篭っているぶん
には何をしていても不審に思われるようなことはない。
- 249 名前:40日目−正午 投稿日:2005/03/08(火) 23:40
-
その結果、今朝は2日目の徹夜だった。
それから朝食もそこそこにこうしてキーを打っていたというのに、一向に仕事が
進む気配がしない。
部屋を出てみると、なつみは珍しくテーブルに突っ伏したままで居眠りをしていた。
退屈だったらしく、顔の下にはこの間矢口のところの助手(真希は『よっすぃー』と
いうあだ名しか覚えてない)から借りてきたらしい本が広げられたままになっている。
疲れているのか、真希がドアを開けた音にも気付かないほど熟睡していた。
足音を消さずに側に近付いても起きる様子はなかった。
「なっち」
返事なし。
呼んでみても聞こえないようだ。
カーテンの隙間から入る光が、ふっくらとした白い頬を浮き立たせる。
真希はその安らかな寝顔に、さんざん自分の文章にやられた頭がすこし苛立つのを
感じていた。いつもならそのあどけない寝顔に負けて、いくらお腹がすいていても毛布を
かけてあげるところだというのに、今日はそんなに穏やかな気分にはとてもなれなくて、
それが自分でも不思議だった。
穏やかな、なつみの顔。
いつもだったら、綿菓子が舌の上でほろほろ溶けるみたいに癒されるはずの。
- 250 名前:40日目−正午 投稿日:2005/03/08(火) 23:44
-
こんな気持ち、何時ぶりだろう?
嫌な、気持ち。
気が付くと真希はかがみこむようにして、眠っているなつみへ顔を寄せていた。
今度は耳元にむかってもう一度呼ぶ。
「なっち」
剣の篭った、嫌な調子の声。自分でもおどろいた。
「…うん……?」
生返事が返って来るものの、まだ起きる気配はない。
真希の息が耳にかかるのを嫌がって突っ伏した顔の向きを変えるだけで。
その仕草と幼い寝顔に、複雑な衝動が生まれる。
(…いやだ)
頭では『やめたい』と思っているのに、身体が言うことをきかない。
得体の知れない懐かしい感覚が蘇りかけるのがとてつもなく嫌で、真希は
自覚のないままその妙な気分を無理やり押し止めようとした。
でも、動作が間に合わない。
勝手に腕が動いて次の瞬間にはバン、と大きな音をたててテーブルが鳴っていた。
- 251 名前:40日目−正午 投稿日:2005/03/08(火) 23:47
-
(いやだ。…こんなのやだよぉ)
内心とは裏腹に、自分の腕がなつみの頬をかすめるようにして勢い良く振り下ろ
されたことを自覚するのに暫くかかった。
音に驚いて飛び起きたなつみは、自分を机に押し付けるようにしている真希の、
もう片方の腕のせいで起き上がれないでいた。
「ご…ごっちん?」
訳がわからない表情をしてなつみが真希を見上げた。
今はその瞳にすら苛立つ自分がいる。
真希は、言うことをきかない自分の身体に『やめて』と叫ぶ。
まるで、自分が二人いるみたいだった。
まっぷたつになった片方が身体を動かしていて、自分は遠くからそれを見ながら
必死に止めようとしている。
そいつと自分が別の人間ならよかった。
でも、なつみに対しての『苛立ち』は、確かに自分のなかに感じている。
(なっちぃ…やだよぉ)
始めは不思議そうな面持ちで見上げるだけだった彼女も、段々と意識が覚醒して
きたのか訝しげな表情に変わっていく。光の加減なのかどうかは判らないが、
眠っていた時よりも幾分顔色が白くなったような気がした。
瞬きもせず、相手の様子を伺っているというよりは『次の反応を待っている』ようで。
そして真希は、今の自分が一体どれだけ鋭い瞳でそれを見下ろしているのかを知らない。
ただ、その怯えたなつみの瞳に、傷つく。
(そんな目で私を見ないで)
- 252 名前:40日目−正午 投稿日:2005/03/08(火) 23:50
-
「…」
どれだけの時間そうしていたのか、やがてなつみの視線を避けるように顔の角度が
僅かに逸れる。
やっと自分の望むとおりに身体が動いてくれた。
視線が外れても、なつみがどれほど自分を意識しているのかが手にとるように判った。
密着した自分の腕からも、その背中の緊張が伝わってくる。
それを感じて眩暈がした。
いけない。到底正常じゃない。
今この感情に流されるわけにはいかない。
…負けない。
もう、負けるわけにはいかないんだ。
「…ごめん、何か…気分悪くて」
これ以上近くにいると、何をしでかすかわからない。
真希は今の自分を『危険』と判断した。
それが具体的に何なのかは判らないけれど、少し落ち着く必要があるようだ。
「やつあたりしちゃったかも。ごめんね」
自嘲気味に笑って見せて、真希は身体を離した。
離れて初めて、どれだけの力で相手を圧迫していたかを知る。
何やってんの、と自分を叱咤した。
ここでまた失敗するわけにはいかないのに。
- 253 名前:40日目−正午 投稿日:2005/03/08(火) 23:52
-
「…、びっくりしたぁ」
ぽつりと呟いた声に振り返ると、なつみはあっけらかんと笑っていた。
「もう、ごっちんってば。びっくりしたよぉー」
「ごめぇん、ほんとごめん!」
相手の表情に助けられて、やっと真希も自然に笑うことができた。
本当にどうかしている。
なつみを傷つけるようなことはもう一切しないことに決めたのに。
「私も着替えてくるね。寒いから」
そう言ってごまかすと、なつみもひらひらと手を振る。
「昼ご飯作っとくから、ゆっくり着替えていいからね」
うん、と頷いて、自分の頭を冷やすために真希は自分の部屋に向かった。
もう今日一日パソコンには絶対触らない、と心に誓いながら。
- 254 名前:40日目−正午 投稿日:2005/03/08(火) 23:53
-
なつみは真希の後ろ姿が部屋の中に消えるのを見送って、ドアの閉まる音に微かに
吐息を漏らした。
今日は買い物に行かなくてはいけないので、当然冷蔵庫の中には大したものは
揃ってない。
有り合わせで何か適当に作らなきゃ。
そう思い、おもむろに椅子から腰を上げた。
…正確には、立ち上がろうと思った。
ところが意思に反して両足には力が入らない。
重力に従った結果、そのまま床の上にぺたりと座り込んでしまう。
言う事の聞かない足を無理して立てようとすると、今更のようにがくがくと震えた。
奥底から湧き出た感覚はまだ治まらなくて。
押さえつけるように両手を使って、そのままの格好で暫くじっとしていないといけなかった。
「…ほんと、びっくりしたぁ」
震える声を何とか押さえながら、なつみはそうひとりごちた。
- 255 名前:IW 投稿日:2005/03/08(火) 23:59
-
一旦ここで更新終了です。
>>246 名無し読者様
すいません。今彼女は回し役ですからw
もうちょっと引っ張っていってもらうつもりです。
>>247 通りすがりの者様
いつも読んでくださってありがとうございます。
それぞれのラストに行けるように頑張りますのでどうぞよろしくお願いします。
- 256 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/10(木) 22:43
- ヒリヒリする緊張感といいますか
安倍さんも後藤さんも綱渡りだなあ
これからどうなるんだろう
- 257 名前:ろむ 投稿日:2005/03/14(月) 18:56
- 同じく緊張感に包まれてます。
ああ〜でもやめられない止まらない。
楽しみに待ちます!!
- 258 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/03/16(水) 14:50
- ごっちんも切羽詰まる程だったんでしょうね。 緊張感がかなりある中二人はどうなるんでしょうか?次回更新待ってます。
- 259 名前:独白−矢口 投稿日:2005/03/28(月) 01:59
-
人の気持ちって、どこから来るんだろ?
こんなことを考え始めたのはいつごろだったっけ。
それなりに恋もした。
仲がいい友達もそれなりにできて、楽しい付き合いも、ひどい喧嘩もした。
ある友達と、いつだったか何かの弾みで言い合いになったことがある。
癇癪持ちの気がある彼女は例のごとく怒り始めて、最後には手がつけられなく
なった。怒鳴りたてる彼女の顔や宥め役の別の友達を見ながら(いつもなら私が
そういう役にまわることの方が多かったけど)、困ったなぁ、と思うのと同時に、
放っといて疲れるまで怒らせれば大人しくなるだろうな、なんて予想してる、妙に
冷静な自分がどこかにいた。
いつのまにか私は会話の内容や、感情やそれらのことを一瞬忘れて、ただ彼女の
中では一体何が起こってるんだろうって疑問に思っていたんだけど、考えてみれば
それがこっちの道を選んだそもそもの始まりだったのかもしれない。
- 260 名前:独白−矢口 投稿日:2005/03/28(月) 02:01
-
歯車の実験っていうのが、依然受けていた授業の中にあった。
大きい歯車と小さい歯車はお互いにぴったり組み合う形で作られているから、
他の種類の歯車とは噛みあわない。
普通いっぺんに複数の歯車を回すんだったら、大きい歯車のまわりに小さな
歯車を置いて、お互いの凹凸を合わせて指でどちらかをはじく。
そしたら、はじいた方と同調してもう片方も回り始める。
時計の中身なんかもそうなってる。
でも実験はこうだった。
簡単な装置を作って、歯車をまわすための軸をちょうど運動場にある鉄棒
みたいに平行に2つ並べる。
そしてセラミックで作ってある、種類を選ばない歯車をふたつ無造作に選んで
(もちろん組み合う形にはなってないから、形も歯も全然違う)、
片方の軸にかけて指ではじいてまわす。
そうしたら当然カタカタと音を立てて回りだすんだけど、次にもうひとつの歯車を
隣にかけて回してみると、微妙に違うリズムで二つの歯車が回り始める。
指ではじくタイミングや、空気の速度や、歯車の重さはほとんど変わらなくても、
ふたつの歯車は少しの強弱をつけてお互いにまわる。
それぞれが違うペースで、でも隣り合ったままずっと回りつづける。
歯は噛み合ってないんだから、連動しているわけじゃない。
共鳴しているわけでもない。
ただ隣り合って別のリズムでまわってるだけ。
- 261 名前:独白−矢口 投稿日:2005/03/28(月) 02:02
-
一緒にそれを見ていた仲間が、だったら例の回転はしごをこういう風に並べて
ラットを入れてみたらどうかな、って言った。
それを受けて私は、ラットは意識が弱いから実験にならないよと笑って、
彼女もそれもそうだねって頷いてた。
珍しい話だけど、これは心理学の授業だった。
「きっと無理だろうけど、やっぱ人間でやってみないとわかんないよね」
冗談めかして言ったことだったけど、このとき私の中に少しだけ、予感みたいな
ものがあったんだ。
予感、っていうより期待って言ったほうが正しいかもしれない。
実際、私にはそのとき『頭の中を開いて見てみたい人間』が2人いたんだから。
できれば回転梯子の中に入れるのはその2人が良かった。
ただひたすら走るんじゃなくって、お互いの様子を見ながらなにか変化をして
くれるんじゃないかと思ってた。
- 262 名前:42日目−午後 投稿日:2005/03/28(月) 02:46
-
突然、矢口から呼び出されたのは午後のことだった。
真希は抜きで、ひとりで来て欲しいという。珍しい呼び出しに、なつみはとりあえず
急いで研究室へ向かった。
着いてみると、そこには矢口しかいなかった。
広い研究棟は休日ということもあるのか、この間真希を連れて来た時よりもさらに
がらんと空いていて、日暮れが近いせいかいつもより冷たい印象の廊下が長く
思える。
少し寒そうに身を縮めて歩くなつみを隣に、矢口も無言で歩調を速めた。
彼女に連れられるまま、どこも同じように見える白い階段と廊下を数本歩いて
やがて、ひとつの扉の前に着く。
なつみは、ちらりと矢口の顔を見た。その視線に気付いていないわけはないのに、
矢口は無表情でまっすぐ前を見たまま、なつみの方を見ようとしない。
「………矢口?」
今日の矢口は雰囲気が違っていて、なんだか冷たい印象を受けた。
なつみを迎えた時から表情が硬く、一度も目を合わせようとしない。
いつもだったら冗談のひとつも出てきていいのに、今日に限って一言も話さない。
どう接したらいいのか不安になっていたなつみを横に、矢口は扉を前に
立ち止まった。でも、鍵を取り出す気配もない。
ただじっと立っているだけ。
なつみは首を傾げた。
- 263 名前:42日目−午後 投稿日:2005/03/28(月) 02:48
-
少し待ってみたものの、いつまでたってもそのままで動こうとしない矢口を
いぶかしんで、なつみがその顔を覗き込もうとした瞬間だった。
「!」
ガタン、と派手な音がして、なつみの後頭部に激痛が走る。
何が起こったのか察する事ができないまま、上下のバランスがおかしく
なったのだけはわかった。
足が床から離れて背中がまたどこかに打ち付けられる。
こめかみに激痛が走った。
続けて数回ぶつかる音がして、急に視界が暗転する。
「いた…ぁ」
あちこちが痛い。何がどうなったのかよくわからない。
倒れた時に持っていたポーチがどこかに弾かれ、部屋の中も明かりが
ついていないのでまわりの様子も一切見えない。
その中で、どうやらここが、いつか連れてきてもらったことがある矢口の
休憩部屋だということはわかった。
彼女がいつも大事に育てている植物の匂いがする。
そしてなつみが現状をうっすらと理解するまでに、更に数秒かかった。
(…あれ)
なつみはふと息苦しさに身を捩った。やけに全身が圧迫される。
身動きが取れないのは上から何かが覆い被さっているからだった。
(矢口…は?)
探すまでもなく、すぐに親友の姿は発見できた。
見回す手間もなく、真上にその顔があった。
- 264 名前:42日目−午後 投稿日:2005/03/28(月) 02:50
-
表情を作らない時の彼女の顔は、ぞっとするほど冷たい。
「ちょっと…何やってるべさ」
なつみの体を部屋の床に押し付けた形でそのまま拘束している矢口は、
押し黙ったまま動こうとしない。
「ねえ」
その身体のどこにこんな力があるのか、というくらい強い力で矢口は
なつみの手首を床に押し付けていた。なつみは、その状態にも戸惑った。
冷たい表情が怖かった。
これが、あの優しい友人だとは到底信じられなかった。
「や…ぐちぃ。なんだよぉー…ねえってば」
冗談で済ませようと、なるべく軽い口調で話し掛けても、答えはない。
それどころか手加減なしで押さえつけてくるその力と表情に、せいいっぱい
明るく喋ったはずの声も震えてしまうのがわかる。
(……)
「ねえってば。冗談は…」
(………)
「…ね…」
(こわい)
「…やぐち!」
…恐い。恐い。恐い。
- 265 名前:42日目−午後 投稿日:2005/03/28(月) 02:51
-
『…ふざけてるんじゃないべ!離してってば!』
そう、大声で怒鳴ったはずだった。
「………」
それなのに、息をあえがせただけの知らない人間が、自分の意志とは無関係に
ゆっくりと拒むように首を左右に振る。
硬直していた肩がやがてガタガタと音をたてて震え始めた。
それを察したのか、なつみの首を壁に押しつけるように掴んでいた矢口の左手が、
そこに痣と爪痕だけ残してゆっくりと離れる。
それでも震えはどんどん大きくなるばかりで止まらない。
「………っ…」
どくん、どくん、どくん。
早い速度で響いてる。心臓の音、うるさい。
「…、………ッ」
何度も唾を飲む。ひっくりかえりそうな呼吸音を何とか静めようと自分の体を抱こう
とした腕は、矢口の両手にまた捕まえられて真上で押さえつけられ、手錠をかける
ような形で固定された。
「ぃや…」
体に力が入らない。
「…や、だ……」
いくら非力な方とはいえ、相手も同じ年の、体格も自分より小さい女の子だ。
本気で逃げようとすれば決して逃げられないこともないはずだった。
力いっぱい振り払えば、振り払える。
平手打ちの一発くらい入れられるはず。
それができないのはどうしてだろう?
思い切り怒鳴って振り払いたいのに、喉からはどうしてこんなに甘ったれた
声しか出てこないんだろう。
力いっぱい睨み付けたいのに、どうして瞼がじわりじわりと熱くなってくるんだろう。
どうして…。
- 266 名前:42日目−午後 投稿日:2005/03/28(月) 02:53
-
それは、覚えのある感覚だった。
あのとき『後藤真希』に、こんなふうに壁に押し付けられたときもそうだった。
何もできなかった。
何もできないはずがないのに。
どうして?
あのときなつみは、吐き気をもよおすくらいの激しい嫌悪感に襲われながら、
それでも動かなかった。動けなかった。
身体が言うことをきかなかった。
…どうして?
- 267 名前:42日目−午後 投稿日:2005/03/28(月) 02:54
-
現実が、今なつみ自身にも突きつけられようとしている。
ざわっ、と自分への嫌悪感と恐怖に鳥肌が立った。
「なっち…」
初めて矢口が声を出した。低い音で。
それに対して、恐怖と衝動が同時に起こる。
唇を噛んだなつみはそれを堪えようと身を捩った。
けれど矢口は拘束を解こうとしない。
そしてなつみの手首を片手でまとめ上げたまま、離れた右手だけがゆっくりと
服の上を滑って下降する。首の痣をなぞった後、セーターの粗い繊維を撫でる
ように時折押し付けるように、手のひらが下がっていく。
「や…やめ…」
止めようとすれば、より強い力で手首が締め上げられる。
「いっつ…」
あまりの痛みに顔をしかめた自分の体温が、意識が追いつけないほど上昇して
いくのが判った。
頬が上気して、意思とは関係なく抵抗が身じろぎに変わっていく。
「………」
自分は何を期待しているのか。何を望んでいたのか。
なつみ自身も、思い知らされるのは初めてだ。
「…ぅ…ん」
やがて、そこを矢口の手のひらがなぞった時、観念したようになつみは目を閉じ、
喉の奥から押し殺した声を漏らす。
矢口の右手はなつみの中心に触れている。
触れた指は触れる以外の動きをしていないのに反して、そこは既に恐怖とは別の
種類の、充分な本能的興奮状態を示していた。
- 268 名前:42日目−午後 投稿日:2005/03/28(月) 02:57
-
脳裏に浮かんでいた可能性にひとつ、矢口は肯定の印をつける。
そしてゆっくりと、被検体である友人を見下ろした。
その視線を拒んでなつみが首を振る。
「やだ…もうやだ……」
ここにいるのは矢口にとっても知らない人間だった。
顔を歪め、今にも泣き出しそうな表情だが、涙はこぼれない。
「なっち」
「………離し…て」
力の入らない腕を必死に動かそうとしながら、時折噛みしめられる唇から
なつみは低い声で言葉を吐き捨てる。
「判ったっしょ。これが知りたかったんでしょ…」
子供がむずがるように、だから離して、と身をよじる。
両腕にかかっていた力が緩められて、なつみの腕は重力にしたがって
床に落ちた。立ち上がろうとしても、力の抜けた足は震えを残したままで
言う事をきかない。
せめて顔を見られないために体を丸めてうずくまるなつみを残して、
空気が動く気配がした。
「……ごめん。はっきり確かめたかったんだ」
あっさりとそう謝って立ち上がった矢口が、部屋の明かりをつけた。
明るくはっきりとした室内で、矢口は驚くほど冷静な声でなつみに向かって謝る。
「ごめんね。立てる?」
腕を掴まれ、顔を上げさせられる。
さすがに矢口の腕ではなつみ全部を持ち上げるのは無理で、膝をついた状態の
まま矢口の胸に引き寄せられるように抱き起こされて、思わずなつみはその体に
体重を預けた。先ほどとは打って変わって優しい仕草で、矢口の腕が支えてくれる
ことに驚く。
- 269 名前:42日目−午後 投稿日:2005/03/28(月) 02:59
-
「ごめんで、済まないべさ…」
頭をうなだれて目の前のシャツに顔を埋めると、どうしようもないくらい毛羽
立っていた気持ちが少し治まるのを感じた。
もっと安心したくて白衣を着ていないジャケットの背中に腕をまわしてしがみつく。
同じように自分の背中に腕がまわされると安心する。…安心する?
「違…」
そうじゃない。そうじゃないよ。
心のなかで独白して、なつみは自分の腕を叱咤する。
渾身の力で、居心地のいい腕から離れようと腕をつっぱらせる。
ちがう。安心させてもらうなんて、ちがう。
もっと余裕があって構えているのが自分だったはずで。
こんなに弱くないはずなのに。
弱 さ な ん て い ら な い の に 。
「なっち、いいんだよ。ごめんね」
がくん、と腕が引かれて、強い力でまた引き寄せられた。
更に抱きしめられる。
つい数分前まであんなに無慈悲になつみの手首を拘束していた手のひらが、
柔らかく背中にまわされる。そのアンバランスさがとても心地いい。
(さっきのことなんて、もうどうでもいい)
(今こうしてもらってるだけで)
(どうでも)
- 270 名前:42日目−午後 投稿日:2005/03/28(月) 03:01
-
…
……
………。
ううん。そんなの違う。そんなの、弱すぎるよ。
「…ッ、…………」
喉の奥が熱くなって、しゃくり上げたいのを何とか堪えた。
弱くない。
弱くない。
手が、温かい場所を求めて動く。
その首にすがってしまえたらどんなにか楽になれるだろう。
全てをゆだねて、相手のものになって。寂しい時にはそれにすがって。
(誰でもいいんだ?)
「…いやだ…嫌だ!」
本当はよわくなんかない。
「嫌…だよっ!こんなに弱いのは…!」
なつみは叫んだ。
ほとんど泣き声に近い情けない声を出してしまって、それが判っていても、
死ぬほど恥ずかしくても、止める事はできない。
今までの分を取り返すように後から後から尽きることなく感情が流れ出す。
「私じゃない…」
矢口の腕を体中の力を込め、拳で打って引き離す。
「こんなに弱いのは、なっち、じゃない」
自分に言い聞かせるようになつみは繰り返した。
- 271 名前:42日目− 投稿日:2005/03/28(月) 03:14
-
- 272 名前:42日目−夕方 投稿日:2005/03/28(月) 03:16
-
「なっち?」
バタン、と盛大な音を立てた玄関のドアに、真希は文字通り飛び上がった。
日頃あまり出ない音が聞こえるとびっくりする。
普段は僅かな音を立てて開くだけの、自分となつみしか使わない扉なので
とりあえずは彼女の名前を呼んでみたが、いつもならすぐに返ってくる
明るい声も、買い物袋の音も今日はまったく聞こえなかった。
不審に思って、真希はキーボードから指を離す。
「帰ったのー?」
立ち上がって開けっ放しのドアからリビングに出る。
そうすると、玄関につながる廊下にへばりついている指先だけが見えた。
何だかただ事ではない予感に、歩く速度を早める。
ほどなくして玄関先に座りこんでいるなつみを発見した。
「なっち…?走ってきたの?」
なつみは、玄関に入ってきてすぐの状態で靴も脱がないまま、廊下に倒れ
こむ形で膝を折って両手をついていた。
持って行ったはずのポーチがない。
そして荒い呼吸と季節にそぐわない汗が、彼女が走ってきたことを伝えていた。
「何かあったの?それとも、具合わるい?」
なつみはどの質問にも答えようとしない。ただ俯いて呼吸を整えようとしているようだった。様子を見ようと同じように真希がそこにしゃがんでも、反応はない。名前を呼んでも顔すら上げようとしないなつみに焦れて、真希はその腕を掴んだ。
- 273 名前:42日目−夕方 投稿日:2005/03/28(月) 03:17
-
「ね、なっちってば」
なつみが顔を上げる。
「一体どう……」
どうしたの、と続けることはできなかった。
後の言葉は全部生温いなつみの唇に吸い取られる。
「ん…っ?」
キスをされたことに気付くまで、少しかかった。
その間もなつみは真希の髪の毛を掻き分けるように掴んで引き寄せて、
なおも口付けてくる。
慌てて離そうとするが、なつみは離れようとはしない。
角度を変えて舌も使って、深く貪りながら真希の上に徐々に体重をかけ、
最後には冷たいフローリングの廊下に押し倒した。
「んん…」
唇の隙間からなつみの吐息が漏れる。
真希が起き上がれないように自分の体全体で床に押し付けて、なつみの
手のひらが微かに震えながらゆっくりと真希の体を辿る。
その直接的な動きが嫌がおうにもこれを『愛撫』だと認識させた。
- 274 名前:42日目−夕方 投稿日:2005/03/28(月) 03:23
-
「…やめて、なっち」
唇が僅かに離れた瞬間に、真希は鋭く制止をかけた。
が、それでもなつみはやめようとはしない。それどころか、いっそう執拗に
真希の体の上をなぞる。他のところに触れるとき真希の肌から手が一瞬
離れるのももどかしい様子で、崩れて深くなった前髪の下の瞳は熱を持って
いるようだった。
その表情を確認する前に、また唇が塞がれる。
重ねる角度を変えるとき離れた唇の間からなつみの吐息が漏れた。
応えない相手に焦れるように何回もぬるい口付けが繰り返され、
真希の体を撫でる手は止まらない。
それどころか真希が反応を返さないことを知ると、なつみは体を更に
押し付けて抱きしめてきた。
「…ちょっ…」
なつみの動きは、お世辞にも慣れているとは言い辛かった。
手は震えて、キスもぎこちなく時々歯が当たるような動きだった。
それでも真希は、ずっと見ないふり、気付かないふりをしていたものを、
なつみ自身に引きずり出されるような感覚に襲われる。
- 275 名前:42日目−夕方 投稿日:2005/03/28(月) 03:28
-
「………」
(そんな場合じゃないのに)
奥底に押し留めていた本能がざわりと蠢くのを感じ、真希は瞳を閉じた。
様子がおかしいなつみを止めなければいけないのに、感触とこれを与えて
いる相手に、本能は忠実に行動を起こさせようとせっつく。
誰の唇と自分の唇が重なっているのか、それを考えただけでどうにかなり
そうだった。
好きでもない相手ならいざ知らず、これほど拙いキスにも反応してしまうほど
の気持ちをずっと真希は抱えていた。
「…あっ」
真希は強い力でなつみを引き剥がし、向かい合うように引き上げた。
目が合う前にまたなつみが口付けてくる。
温かい感触。
今ほど湿った雰囲気のなつみは見たことがない。
それを頭の奥底で気味が悪いと思うが、ずっと目の前にあった誘惑の大きさに
比べるとそんなものはあまりにも小さすぎた。
ぬめった感触で這い回る舌を感じるうち、とうとう真希は我慢ができなくなって、
自らの口腔をせわしく動き回る舌にゆっくりと自分のそれを絡めた。
「…っん」
なつみの肩が微かに揺れる。
たがが外れたように、今まで自分を貪っていた唇に噛み付くようにキスをする。
尖った舌先に緩く歯を立てた。
そうして鈍くなった相手の手のひらのかわりに、自分の腕を伸ばしてその腰を
抱き寄せる。
「ぁ…あ」
低い喘ぎ声と一緒に小さな声で名前を呼ばれた。
その胸に、服の裾から両手を入れる。
先ほどまでなつみが服の上からしていたように、今度は真希がその胸を手の
ひらで撫でた。
「ん…」
微妙な表情をしている瞼や頬についばむようにキスをする。
- 276 名前:42日目−夕方 投稿日:2005/03/28(月) 03:30
-
緩んだ舌で真希の唇を捕まえ、また絡める。
なつみの口から苦しげに短い言葉が何度も小さく、繰り返されて。
それにまた煽られる。
すると、言葉は段々と原型を無くしてゆき、ただの音になって耳をくすぐった。
「………んっ……」
長い口付けが終わった後も、音が混じったなつみの呼吸が耳元から聞こえて、
真希は正気を取り戻すために頭を軽く振った。
そしてなつみのその、薄い温みのある頬になだめるように触れようとして初めて、
キスの最中ずっと繰り返されていたなつみの、あのしゃくりあげるような呼吸音の
意味を知った。
「…なんで泣いてるの?」
間抜けな質問だと思ったが、それ以外に言葉が見つからない。
生理的な涙、という量ではなくて、雫はあとからあとから溢れている。
でも、なつみは呆然とした表情のまま涙だけ出ている状態で、泣いているの
とは本当は違うかもしれない。
問いかけには答えずに、なつみが腕に力を込めてもう一度、真希の首に
しがみついた。
顔が見えなくなる。
その間も音は消えない。
ただ肩に頭を押し付けた時に一度だけ、なつみは長い溜息をついた。
- 277 名前:42日目−夕方 投稿日:2005/03/28(月) 03:31
-
「『なんで』…?」
まだ涙の興奮がおさまらず、上ずった発音でなつみはそう繰り返す。
そうして、ふっ、と吐息だけで笑った。やっぱり音は上に跳ねる。
「…なんでだろ…ね」
自嘲気味に笑って、それから後は言葉が続かなかった。
半ば頽れるようにして、なつみは真希に寄りかかって自分から意識を手放した。
そして、結局それから朝になるまで眠ったままだった。
- 278 名前:IW 投稿日:2005/03/28(月) 03:40
- っだー。お疲れ様でしたー。
今回は自分的な山場でした。ココを乗り切らねばという…。
人によって苦手なシーン(つか自分が苦手だという説も)が多々あったと
思いますが、すいませんです。&文章が拙いのはお許しを。
「CURE」は「癒す」という意味ですが、誰が誰を…というのはラストで。
>>256 名無し飼育さん様
今回は作者が綱渡りでしたotz
次回かその次くらいがラストになると思いますので、毒を食らわば(ry
どうぞよろしくお願いいたします。
>>257 ろむ様
楽しみにしてくださってありがとうございます。
ご期待にお応えできたかどうか…。次回も読んで頂ければ嬉しいです。
>>258 通りすがりの者様
こんな感じになりました。
切羽詰っているのは後藤さんだけじゃないようで…。
(;´ Д `)<…。
- 279 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/03/29(火) 16:14
- 更新お疲れさまです。 な、なっちさん( ̄□ ̄;)!かなり気になります! 作者様頑張ってください!次回更新待ってます。
- 280 名前:thkioo 投稿日:2005/03/30(水) 13:42
- 更新お疲れ様です。 なっち・・・・この先どうなるのか・・。読むたびに
すごく、ドキドキして、たまりません。作者さん次回の更新もドキドキしな
がら、待っています。がんばってください。応援しています。
- 281 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/31(木) 09:33
- >>280
感想はsageでな
メール欄に半角でsageだよ
ますます目がはなせない展開に…
迷走するなちごまはどこに向かうのか…
わくわくしながら次回更新まってます
- 282 名前:独白−なつみ 投稿日:2005/04/01(金) 01:16
-
単純に『後藤真希』そのものに惹かれたのか、彼女の持っている『何か』に
自分の中の本能が惹かれたのかは判らないけど、一目惚れとは比べ物に
ならないほどの「それ」を感じたのは、出会った瞬間…だった。
悪趣味だ、って自分でも解ってはいたんだ。
あのころ、私は町中のそれらしいバーやクラブを廻って情報を集めて、彼女が
現れそうな場所を狙って足を運んでた。
ばかばかしい、それこそ本人に知られたら笑われるような行動を取っているのは
判っていても、止められなかった。
そして、長い長い一人歩きは2週間で目的を達成した。
瞳でわかる。
表情でわかる。
彼女から長く伸びている影でわかる。
すべてが、私の目を惹きつけた。
出会った一瞬、
あるいは目が合った瞬間、
彼女なら私の望む物をくれると思った。
間違いなく彼女は、私が望むものを持っている。
それをくれる。きっと。
- 283 名前:独白−なつみ 投稿日:2005/04/01(金) 01:17
-
でも、そのときは本当に「それ」が欲しかっただけだった。
くれる人間は誰でもよかった。
「それ」をもらうために「彼女」に目を奪われていたのも同然だったから。
私がいつもいつも心の奥底で押しとどめながら熱心に欲していた物、その
正体はまだその時の私には判らなかった。
「一目惚れ」というものがこの世にあるなら…あったのなら。
あれが、それだったのかもしれない。
暗い路地裏でも十分に映えるその形、髪の色、顔。
このとき私は自分がそういう意味で彼女に興味を持つとか、そんな感覚は
全然なかった。もちろん今も、自分がその手の人間なんだって言い切る
ことはなるべくしたくない。
彼女だけだ。
ああして出会わなかったら、こんなに彼女に惹かれ、束縛されることも
なかったと思う。
- 284 名前:43日目−早朝 投稿日:2005/04/01(金) 01:18
-
- 285 名前:43日目−早朝 投稿日:2005/04/01(金) 01:19
-
早朝、と呼べるほど早い時間に電話が鳴る。
まだ薄暗い廊下を横切って受話器を上げたのは、真希だった。
落ち着かず眠りが浅かったというより、本当はなつみをベッドに運んでから
ずっと感触や何やら色々目の前をちらちらしていて、到底眠っているどころ
じゃなかった。一晩中、朝会ったらどうしようとそればかり考えていた。
『ごっつぁん?』
「……そうだけど」
ここに電話をしてくる人間など一人しか思い当たらない。
横目で壁に吊ってある時計を確かめた。
午前6時、矢口にしてみてもこんな早起きは珍しい。
『なっちは?』
「まだ寝て…」
言葉の途中で手前のドアが開き、なつみが顔を出した。
先刻のスリッパの音で目が覚めていたものの、いつになく眠りから覚めきら
ないなつみは、ぼんやりとしたまま真希から受話器を受け取った。
『おはよう』
空気が擦れる音で受話者が変わったことが判ったのか、矢口の声がタイミング
よく耳に滑り込んできた。鼓膜に直接響くような声と共に昨日締め上げられた
手首の感触が蘇り、なつみの唇が微かに震える。
- 286 名前:43日目−早朝 投稿日:2005/04/01(金) 01:20
-
「…おはよ」
『今日、ごっつぁんのカウンセリング2回目やるから、また研究室に連れてきてよ』
「わかった…」
相手が普段通りだったことにほんの少し救われた。
例え忘れている振りでも、そうしてくれていた方が随分楽だ。
弱みをさらけ出すことは自発的な行為より何倍も恥ずかしい。
弱さとは無縁なふりをしている殻の中の、ことさら弱い部分を自覚させられて
しまった、昨日。
矢口なら、ほとんどを悟っただろう。
なつみが今何を思っているかも、軸になっている真希の存在も。
それがなつみにとってどんなに恥ずべきことであるかさえも。
「…着替えよ?やぐちに呼ばれた」
自分も、真希のように昨日のことを忘れられたら良かったのに。
そうすれば今日のことだけ考えていられる。
本来は必要なはずの記憶が今はひどく邪魔だった。
- 287 名前:43日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:22
-
「悪いね、連日」
昼前に研究室に着いた二人に矢口は別段変わりもなく、会釈代わりに軽く
手を上げて微笑む。昨日『矢口に呼ばれた』と言って出掛けたなつみが
あんな状態で帰って来たせいで何かあったとばかり思っていたけれど、
真希が見る限り矢口の態度もなつみの表情もいつも通りだ。
和やかに世間話を交わし、そのうち矢口がカウンセリングと称してこの間と同じく、
なつみを吉澤とともに追い払った。
「さて、ごっつぁん」
二人の足音が遠ざかるのを待って、手招きで呼ばれる。
首を傾げつつも真希が傍らに移動すると、その手から何かが差し出された。
「…!」
はっ、と真希の表情が変わる。
「昨日忘れて行ったんだよね。財布も入ってるみたいだし。あとで渡しといて」
それは、なつみのポーチだった。
見覚えのある細いベルトのデザイン。
確かに昨日持っていたもので、戻ってきたときには手ぶらだったけれど…。
「これ、ここで落としたの?」
ひどく混乱して走ってきた様子だったから、帰って来る途中で落として
しまったものと思っていた。
この安全な部屋の中で、矢口となつみ。
どう考えても財布が入ったポーチを忘れて、あんなに取り乱して帰って
来るような出来事が起こる組み合わせじゃない。
「やぐっつぁん。何があったの?昨日」
矢口はしばらく真希の表情を興味深そうに見上げていたが、その後
ゆっくり歩いてきて顔をしかめた真希の耳元に口を寄せた。
- 288 名前:43日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:25
-
言葉は暗号のようにゆっくりと、ひとつひとつ区切られた。
「その後、なっちの様子はどうだった?」
「…ッ!??」
瞬間、音がするほど乱暴にその手からポーチをむしり取って、思わず真希は
矢口を睨み付けていた。昨夜、自分となつみの間に何があったか知られている
はずはないのに、まるで見透かされているようで勘に障る。
「やぐっつぁん。昨日、なっちに何か言ったの?」
「おいらは本当のことしか言ってないよ」
核心に触れようとすると、さらりとかわされる。
噛んで含めるような言い方が、真希を余計に苛々させた。
冗談を言うような口振りではないだけに不審だった。
「…だから、一体何を」
「判った。じゃあ、ごっつぁんはおいらがなっちに何をしたと思ってるの?」
矢口は面白そうに真希の顔を見つめたまま、そう答える。
昨夜のなつみは尋常じゃなかった。
「おいらが、ごっつぁんが昔なっちにしたようなことをやったって?」
歌うようにそう言って、矢口が微笑んだ。
すっかり顔色を読まれてしまっているらしい。
「…それ以上ごとーを怒らせないで」
今にも殴りかからんばかりの腕を掴まれて、強引にソファに座らされる。
簡易テーブルの上には缶コーヒーが二つ並んでいた。
真希の向かいに腰を下ろし、矢口はそのうちの一つを手に取って開ける。
「うん。言ったし、したかもしれない。でもそれは間違ったことじゃない」
- 289 名前:43日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:27
-
「どういうこと?」
「ずっと予想してたことが本当かどうか試しただけ」
そういえば矢口は前にもそんなことを言っていた。
あの時は最後まで聞けなかったが、その時の口ぶりで彼女がなつみに興味を
持っているらしいことは判った。矢口が研究するジャンルから考えると、なつみに
興味を持つのも妙な話だけれど。
「何のことかわからない、って顔だね」
友達と言うよりは専門医の顔をして、矢口はそう言うと静かに立ち上がった。
窓際に素っ気なく置かれたデスクの上にカルテらしき紙が何枚か散らばっている。
「高所恐怖症の人が高いところに行くと身がすくむみたいに、ごっつぁんは
何かで追い込まれると人が変わったみたいに癇癪が出るよね。
それって立派な病気なの、知ってた?
…ヒステリー持ちはいつからかな?」
虚をつかれて、真希はぎくりと身をこわばらせた。
「…どうして」
「ごっつぁんのカルテ、何枚作ってると思ってるのさ」
お仕事でやってんのよ?と矢口がカルテの束を示してみせる。
確かに、その通りだった。
小説書きが仕事として軌道に乗り始めた、最初の時期からだったと思う。
感情のコントロールがきかなくなることが時折あった。
なつみと暮らしている最近はほとんどないが、記憶をなくす以前は頻繁に、
それこそ一日に何度も何度も発作が通り過ぎたこともあった。
怒鳴っている自分と考えている自分は別物で、冷静に止めようとしている
気持ちを無視して口が勝手に大声をはりあげている。
手が勝手に動いてそこらの家具をひっくり返す。
みっともない、と思うのと同時に妙な満足感が押し寄せて、誰もいなくなって
から正気に返る。あとに残るのは罪悪感だけだった。
ずっと、苦しかった。
- 290 名前:43日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:29
-
「判ってるだろうけど、それは治らないよ。遠ざけることや回避することは
出来るかもしれないけどね」
高所恐怖症もね、と軽く付け足す。
行き場のないストレスがどこにかかるかは人によって違うという。
「おいらが言いたいのは、同じように不安や緊張や痛みが、消化器官や
心臓じゃなくて性感帯に触れる人間もいるってこと」
なっちみたいに。
矢口は無言のうちにそう言っている。
誰を指しているのかは、その瞳を見れば判った。
まさか、と口の端だけで笑おうとするが、うまくいかない。
真希のその動揺は、なつみのマゾヒズムについてではなく、きっかけを与えた
のは自分かもしれない、という虞からだった。
それを一瞥して、矢口が首を振る。
「勘違いしたらダメだよ、別にそれがどうこうってわけじゃない。たまたまなっちの
スイッチがそこにあっただけ。なっちは、自分のそういう部分を心から憎んでる」
矢口の口調は真剣そのものだった。
「おいらが知りたいのは、どうして二人がお互いにそうやって執着するのかってことだけだよ」
真希は黙ってそれを聞いていた。
変な気分だった。
- 291 名前:43日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:32
-
これまでのなつみの行動を思い出せる限り全部思い出して、頭の中で組み
替える。だったら自分が勘違いしていた態度は、全部それが欲しかっただけ
なんだろうか。
真希本人ではなく、真希から与えられるものが欲しかったんだろうか。
そう思うとたまらない気分になる。
スタートボタンを押したのは自分だというのに。
ふと、矢口の表情が変わった。
無表情から、すこし息をついた、やわらかいものへ。そして、専門医ではない
懐かしい声色で真希にむかって口をひらいた。
「ごっつぁん。なっちのこと、好き?」
親友は言葉の裏で止まれ、と言っていた。
真希自身も、信号を赤で渡るとどうなるかくらい身をもって知っている。
まだ間に合う。あの時と同じ、黄色の点滅。
できるならもう一度、リセットしたかった。
真希は、爪が白くなるまで握っていた拳を解く。
そして、すこし震える唇のあいだから、それでもはっきり呟いた。
「好き…だよぉ…」
痛い、痛い。
胸が痛むって言うけど、嘘だと思ってた。
本当に痛いんだ。
本当に、死んじゃいそうに苦しいんだ。
- 292 名前:43日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:37
-
自分の胸を押さえて、苦しそうな真希の表情が、ゆっくりうつむいて完全に
見えなくなるまで矢口は黙ってそれを見ていた。
その想いが伝染でもしたかのように、どうしてだか自分の胸まで痛んだ。
自分の行く先を賭けてまで、成功させたかった実験。
それには、感情を左右されることはご法度だった。
どちらも友達で、大切で、でも、それを思ったら実験なんかできない。
今、ここで真希をたしなめて、もう一度実験場へ戻さなければいけない。
飲まれたらいけない。
冷静でいなくては、いけない。
でも、感情をさらけ出す真希を目の前にして、それをどうしようもなく助けたくて
たまらなくなっている自分がいた。
矢口は、真希に気付かれないように一度、ぐっと唇を噛む。
「………これ以上はやめといた方がいい、ね」
短く、それでも厳しい声で矢口がそう言った。
このままじゃ共食いだ。
お互いに執着が過ぎるとろくなことにならない。
食い尽くして終わりになってしまう。
入れ込みすぎは狂気を伴う。そうなればきっと誰にも止められないだろう。
それなら、まだ引き返せる…。
「これ以上は、やめた方がいい…」
真希に向かってというよりも自分に言い聞かせるように、もう一度矢口が
同じ言葉を繰り返した。
- 293 名前: 投稿日:2005/04/01(金) 01:38
-
何もない、平穏でけれど荒れる前の海のように静まり返った日々が数日、続いた。
- 294 名前:50日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:41
-
いつもならとっくに何か言ってきても良い時間なのに、その日は昼を過ぎても
ドアが叩かれる気配はなかった。最初はPC画面の方に集中していたので気に
留めなかったけれど、耳を澄ましてもリビングから聞こえてくる音が何もない
ことに疑問を感じて、もしかして具合が悪くて寝てるのかもしれないと思いあたって
真希は自分の部屋を出た。リビングは無人だった。
なつみがバスルームやトイレにいるような気配も感じられない。
きっと買い物にでも出掛けてるんだろう。
そう思ってまた部屋に引き返そうとした真希だったが、ふと思い立ってなつみの
部屋のドアをノックしてみた。
「なっち」
いないだろうということは判っていたが、申し訳程度に声をかけて、ゆっくりとドアノブを回す。
なつみの部屋に入るのも、中を見るのもこれが初めてだった。
新築だけれど明らかに簡素なつくりのマンションだけに、間取りはほとんど
真希の部屋と変わりなかった。家具も机の代わりに棚がいくつか並んでいるだけだ。
ただベッドカバーの柄が違っていて、やっぱり部屋の中はなつみの匂いがした。
- 295 名前:50日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:43
-
棚に挿してある本は暇な時になつみがソファで読んでいた雑誌や小説で、
中には少しだが心理学系の物もある。
たくさんのものがちょこちょこと整頓してあって、なつみらしい部屋だった。
一緒に暮らしているとはいえ、なつみが真希の部屋を度々覗くのに対して
真希の方はこうしてなつみの部屋に入る必要がない。きっとそうならないために
なつみがいつもリビングにいるようにしているせいだろう。
寝るためだけの部屋。
そして棚にある本を見回しているうちに、毎日夕方になると書かされる、
あのノートが目に入った。棚に入り切らなくて積んである雑誌の中から
緑色の背表紙を取り上げて開く。あまりにもたわいのない内容ばかり書いて
いたせいもあるが、そういえば読み返したことなんかなかった。
パラパラとめくって、最初のページ。
「あれ?」
一日目の内容が違う。
(天気は晴れ。今日はパンを食べた)
「こんなこと書いたっけ…」
首を傾げて、更にめくる。筆跡は間違いなく自分のものだ。
(雨が降った)
「?」
内容は同じくつまらないことの連続だけれど、その文面に全く覚えがない。
一度閉じて表紙を確かめてもいつものノートと同じ物にしか見えないが、
改めて中身を見ていくうちに妙なことが気になり始め、数ページ目で予感が的中した。
(この部屋にはごとーのほかになっちがいるらしい)
間違いない。
記憶をなくしていた時に書いたノートだ。
- 296 名前:50日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:45
-
自分の覚えていない時期の証拠を見つけたような物珍しさと同時に、どうして
なつみがわざわざ同じ形の新しいノートを買って渡してきたのか気になった。
ここに住み始めてからの時間の経過を考えても、1日1ページのペースで書いて
一冊が終わるとも考えにくいし、念のために最後のページに先回りをしてみたら
やっぱり白紙だった。首をひねりながら元のページに戻る。
(ねぐせに気が付かなくてなっちに笑われた)
なつみの名前が加わった日記らしきものが、その後も数ページ続いていた。
同じ人間のはずなのに、自分だという気があまりしない。
こうして筆跡や文章の癖を見ても間違いなく自分なのに、心なしか少し文面が
幼い気がする。その時の記憶が残っていないだけに、もう一人の人間を見ている
ようで不思議な感じがした。
『真希』の生活は『なっち』を中心にして回っていた。
この女の子は『なっち』以外に誰も知らなくて、そして他の人間は誰も必要としてない。
余計なものが何一つない贅沢な世界に住んでいた。
やがて、文字が記してある最後のページにさしかかって、真希の手がぱたりと止まった。
(ごとーはなっちの、誰だったんだろう)
白い紙の上に大きな文字で書かれた言葉。
ああ、そうか、と思う。
この子も、なっちに恋をしている。
真希は微笑んだ。
出発点が違っていようが、記憶が無かろうが、出会いがどんなものであろうが。
きっと自分はあのひとに恋をする。
最初から決まっていたことだ。
そう思うと、少し気持ちが軽くなった。
たとえ、報われない想いでも。
…だったら、それにすがるしかない。
- 297 名前:50日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:47
-
「ごっちん?」
ぱたぱたと、雨の落ちる音がしていた。
金属の音と一緒に雨音が大きくなって、閉じる。
続いてリビングから聞き慣れた声が聞こえてきて、なつみが帰ってきたんだと
判った。でも、真希はその場から動かずにじっとしている。やがて開いている
ドアに気付いたなつみがスリッパの音をたてて近付いてきた。
「一体何して…」
言葉は続かなかった。
その前になつみが早足で歩いてきて、真希の手の中からノートを奪い取る。
正確には、そうしようとノートを掴んだ。
けれど、真希が持っていた手を離さなかったためにそれは失敗する。
もぎ取ろうとする手を邪魔して、真希はノートを持った手ごと上に引き上げた。
緑色の表紙が乱暴な力に負けて外側に撓む。
「やめて」
破れてしまいそうなそれを、高い位置まで引っ張り上げて無理矢理奪って、
床に投げ捨てた。その代わりに拾おうとするなつみの手首を両手で掴む。
- 298 名前:50日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:49
-
「私の記憶が戻ってること、本当はとっくに判ってたんでしょ?」
ジャケットの袖ごと掴んで、ゆるく揺さぶる。
なつみが答えずに首を振ると、また強い力で引き戻した。
「なっち、ちゃんとごとーのこと見てよ」
手首を捕まえられたまま、表情を確認しようとする真希の動きに逆らって
顔が背けられる。
「見て」
知らず、鋭い口調になる。
掴んだ指は震えていた。
そして何度目かに見る、その表情。
今まで真希がなつみと暮らして一緒にいるうち好意的に感じられたすべての
仕草が、なつみに求められていると思っていたものが、自分自身ではなく
本質の方だったと判って寂しかった。
それでもなつみでなくては駄目だという自分も、ひどくむなしい。
自分は相手でなければ駄目なのに、相手はそれがあれば生きていける。
その事実が真希を苦しめていた。
「ごとーのこと、一部分じゃなくて全部見て。それくらいしてくれたっていいでしょ」
- 299 名前:50日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:51
-
絞り出すようなその声に、初めてなつみが顔を上げた。
「一部分って…」
何もわかっていないその口調に、真希は少し口の端をゆがめて笑った。
そうしないと泣き出してしまいそうだったから。
「…なっちが欲しいのは、ごとー?」
「ごっちん…?」
「それとも、ごとーの中の、どれか?」
「…!」
なつみが顔を上げた。
驚いたように目を見開いて真希を見上げ、唇を動かして何か言おうとして、閉じる。
そうしてひとつ溜息を吐いた後、勢いよく捕えられていた手首を外側に
振り払った。
「…ごっちんは、一体今までなっちの何を見てきたんだべ。あんなに一緒にいたのに」
言って、代わりに射抜くような視線を真希に向ける。
- 300 名前: 投稿日:2005/04/01(金) 01:52
-
もう後藤真希に関わるのなんてごめんだった。
今度こそみっともないことになりそうで、だから記憶喪失のごっちんを見て
たら安心した。
…でも、やさしすぎて物足りなかった。
- 301 名前:50日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:54
-
「…だめ、なの。なっちたち関わったら、そこにいるだけでダメなんだ」
途中から力が抜けて立っていられなくなった両足がへなへなと折れて、なつみは
床に膝をついた。それでも瞳だけはまっすぐに真希を見上げる。
主の言うことを聞かないような、弱い、こんな身体と心で生まれてきて。
ずっと顔を背けてきた、弱いところを見ないように、目の当たりにしないように。
あの路地で、真希に会うまではそれでも生きてこられた。
「なっちのこと、こんなに変えたのはごっちんだべさ」
たった一人のためにこんなに中身がおかしくなるなんて、そんな馬鹿げたことは
自分だって信じたくなかった。
「こんな、形もわかんないくらいぐちゃぐちゃに変えたの、ごっちんだべさ」
真希は唇を噛んで、黙ったまま見下ろしている。
きっと彼女にはなつみの気持ちなどわかっていない。
それでも、いい。
なっちはごっちんが好きなだけだよ。
好きだから、壊されたい。
- 302 名前:50日目−午後 投稿日:2005/04/01(金) 01:54
-
なつみは、記憶のない真希が温かい物を欲しがっているのを知っていた。
冷たい部屋の中で優しく癒されることをあの真希が求めていたから、その
通りにした。
温かい食事や柔らかい言葉や感触や、望まれるままそれを与えた。
今度は真希の番だ。
「なっちのこと、壊してくれる?」
救いを求める時の、すがるような瞳でなつみは微笑んだ。
- 303 名前:IW 投稿日:2005/04/01(金) 02:06
- 多分、次回更新がラストになると思います。
今から推敲する予定なので、今回ほど早くは更新できないと思いますが…。
最初は軽い気持ちで書き始めたなちごまCUREでしたが、ここまで来る間に
オリジナルの方とはまったく違うラストに向かっているので、自分も書いてて
緊張していたりします。
>>279 通りすがりの者様
なちごまCURE、ものすごくやりたかったことなので頑張ってラストまで持って
行こうと思っております。よろしくです。
>>280 thkioo様
応援ありがとうございます。
ドキドキしてくださっているようで、書いてる側としてとても嬉しいです。
(うちはヒソーリsageでやっておりますので、>>281さんの言うようにメール欄
「sage」でお願いしますです。)
>>281 名無飼育さん様
今回更新で迷走がなんとなく一方向に(ほんとか
とりあえず次回決着つける気持ちで頑張りますので、よろしくお願い
いたします。
- 304 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 16:36
- 短いインターバルで更新キタ━━(゚∀゚)━( ゚∀)━( ゚)━( )━(゚ )━(∀゚ )━(゚∀゚)━━━!!!
あああああ!!!
言葉がでない…次回いよいよラストですか
全然予想つかない…
と、とりあえず最初から読み直して復習だ!
- 305 名前:ろむ 投稿日:2005/04/02(土) 18:37
- すごいです。。
なんというか衝撃にぶっ飛ばされました。
ああ、あの伏線にはこんな意味があったのかと改めて感心してしまったり。
何が何でも、最後の着地を見届けたいと思います!!!
- 306 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/04/03(日) 18:29
- 更新お疲れさまです。 ついに最終回ですか、なっちさん分かってても認めたくなかったんですね。 なんか分かる気がします。最後まで見届けさせて頂きます! 最終次回更新待ってます。
- 307 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/06(水) 16:18
-
むぅ…
なっちもごっちんも切ないなぁ。
>>304さんと同じく、もう一度最初から読み直して
正座しながら次回更新を待ってます!
- 308 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/27(水) 23:45
- 続きまってるとゆいたいです。
- 309 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/27(水) 23:51
- sageます。
作者さまのペースで、お願いします。
- 310 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/19(木) 01:51
- 待ってます
- 311 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 12:07
- 更新を待ちつつ三周目の旅に出掛けます。
- 312 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/21(火) 20:04
- 待ってます。
- 313 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/25(土) 03:22
- 四周目いてきまーす
- 314 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/27(月) 21:53
- 作者さんまだでつか?
- 315 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/06/28(火) 21:14
- 気長に作者様を待ちましょう、きっと帰ってきますよ。
- 316 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/01(金) 03:02
- ある方に勧められて読ませて頂きましたが、ぐいぐいと惹き込まれて
のめりこむ自分がいました。
既に7月の声をきき、なにがしらの事情がおありかもしれませんが、
いつか最終回がアップされることをお祈りしております。
それだけの価値のある、面白い作品だと思いました。
- 317 名前:50日目−正午すぎ 投稿日:2005/07/05(火) 11:22
-
「契約は破棄する」
矢口はそう言った。
昼間のことだった。
雨の中、二人は海岸線に沿って歩いていた。砂地は水を含んで柔らかくなり、
スニーカーの底が埋もれて足を取られそうになりながらなつみは傘を右手で
持って、その隣を歩いている矢口にさし掛けていた。
「そう言うと思った」
少しはにかむように笑って、答える。
「やぐちなら止めてくれると思ってた」
- 318 名前:50日目−正午すぎ 投稿日:2005/07/05(火) 11:24
-
二人がずいぶん歩いて大学から海側へ出て、自分の町が見えてきたあたりで
なつみは矢口の手に傘を持たせ、抜け出た。
雨は若干弱くなっている。これなら傘がなくても帰れるからと上着のフードを
広げて被る。
矢口はそれをじっと見ていた。
なつみの唇が笑った形のまま、動く。
「契約、いつまで?」
そう訊いてきた彼女に、矢口も努力して笑顔をつくった。
なつみがいつから、どこまで矢口の気持ちを理解していたのかは判らない。
でも、矢口が彼女に言っていない、言わずにいるつもりだったことさえも、
今のなつみにはわかってしまっているようだった。
- 319 名前:50日目−正午すぎ 投稿日:2005/07/05(火) 11:27
-
「明日まで頑張ってくれたら、おいら嬉しいな」
進ませて、進ませて。
結果、なつみは境界線を越えてしまった。
もう戻れない所まで進ませたのは自分だ。
信号は黄色なのに、進めと言った。
「…明日、かぁ」
なのに、なつみはいつもと変わらず、自分に向かって微笑む。
本当にほんものの、友達だった。
なつみのカルテを作ったのは、ほんの興味からだ。
二つの歯車の仕組みに気付いた時点で、二人を使った実験を試みた。
相互依存の研究だった。
- 320 名前:IW 投稿日:2005/07/05(火) 11:32
-
とりあえず生存報告として短ーーーい更新をしてみましたotz
次はラストと言ったのに、そのラストで行き詰っていて申し訳ないです。
…というか、こんなに待ってくれてる人がいて嬉しすぎる…。
できるだけ早く決着つけますので。
- 321 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/07/05(火) 23:00
- 作者さんお久しぶりです。短いながらも更新乙です。
どのような結末を迎えるのか非常に楽しみにしておりますので
どうか焦らず納得の行くよう完結させてくださいね。
- 322 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/06(水) 06:49
- 報告、更新、ありがたく。
作者様の納得のいくラストを待たせていただこうと思います。
- 323 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/07(木) 09:25
- 更新乙です。
矢口さんの研究内容が明らかになりましたね。
なっちはどうするんだろう。
いよいよですね。
作者さんが納得がいく結末をじっくりと待ってます。
- 324 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/08(金) 03:26
- 待ってますよ。でも、くれぐれも無理はしないで下さいね。
あ、それでも更新つらいときは、レスだけでも嬉しいかな。
なんちって。
- 325 名前:名無し 投稿日:2005/07/11(月) 13:04
- 報告&更新、乙です。
焦らずに、作者様の納得のいくラストにしてください。
待ってます。
- 326 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/05(金) 09:44
- 待ってます。
- 327 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/09(火) 22:19
- まったり待ってます。
- 328 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/09(火) 23:30
- ochi
- 329 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/08/12(金) 14:28
- 更新お疲れさまです。 なるほど、なんとなく分かってきましたよ。 次回更新待ってます。
- 330 名前:tsmiia 投稿日:2005/08/14(日) 22:01
- とうとう、終わりに近ずいてきましたね。
なっち・ごっちんこの二人が、どうなるか、そして、やぐっちゃんの、目的も
次で、分かると思うと、ドキドキしてきます。
生存報告、そして、更新ありがとう、ございます。つぎも、楽しみに、してます
- 331 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/18(日) 04:22
- お待ちしています
- 332 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/24(土) 09:22
- 楽しみですねぇ。
世界にはまってぬけませんw
次回の更新もまってますっ
- 333 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/11(火) 09:27
- なんとなくほぜん
時間かかっても構いませんので待ってますm(_ _)m
- 334 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/30(日) 23:06
- 毎日チェックしてる自分にそろそろご褒美を…
- 335 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/11/06(日) 15:15
- 最終更新から4ヶ月が経ちました。
生存報告だけでもいいのでよろしくお願いしますm(_ _)m
- 336 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/17(木) 23:30
- まだまだ!
- 337 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/12/02(金) 04:12
- お待ちするっす。
- 338 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 04:19
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
- 339 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/04(土) 16:43
- 待ってます。
- 340 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/15(水) 19:42
- 生存報告なければ落ちますが
Converted by dat2html.pl v0.2