赤い夜の空に祈ること

1 名前:chaken 投稿日:2004/11/18(木) 19:21
アンリアルのよしごまです。

前スレは黄板にあります。
2 名前:chaken 投稿日:2004/11/18(木) 19:26
本格的な長編は初めてですが、頑張りたいと思います。
感想などは気軽に書きこんでください。
3 名前:赤い空の夜に祈ること 投稿日:2004/11/18(木) 19:28


捩れる運命が交差する時、全ての歯車が回り出す。
4 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:29



鬱陶しい梅雨も過ぎ去って、緑に色付き始めた若葉が初夏の到来を告げる。葉桜の季節である。
陽射しも強くなり、街を行き交う人々の衣服も段々と薄着が目立ち始める。もちろん、制服も夏服へと衣替えの時期を迎える。
リビングの窓からは朝の眩しいほどの陽射しが差し込んでくる。すでに制服に着替えている吉澤ひとみは壁に掛けられた時計を確認すると、残ったコーヒーを一気に流しこんだ。
「圭ちゃーん、もう学校行くよー」
ダイニングテーブルで新聞を広げる姉に呼びかける。
「今日もバイトなの?」
吉澤圭は新聞から目を離さずに尋ねた。うん、と答えながらひとみは玄関に向かう。
「てゆーかアンタ、姉ちゃんって呼べって言ってるでしょ」
さらに声が追いかけてくる。
「へーい」
いつもの小言にひとみは適当に返事を返してスニーカーを足に引っ掛ける。ひとみの通う女子高ではほとんどの生徒はローファーを履いているが、ひとみは動き易いスニーカーの方が好きだった。靴紐の結び目が締まっていることを確認すると、ドアに手を掛ける。
「じゃあ、行ってくるねー、圭ちゃん」
「はーいって、こらあっ。姉ちゃんって呼べーっ」
居間から返ってくる怒鳴り声を無視して、ひとみはその長身の体を稼動させて走り出した。
5 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:30
薄汚れたコンクリートのアパートの廊下を駆け抜けて、階段を2段飛ばしに下りる。アパートにはエレベーターも備えつけられているのだが、ひとみの部屋が二階であるという立地条件と健康のためにひとみはいつも階段を利用している。
あっという間に階段を駆け下りると、自転車置き場に置いてある赤い自転車を引っぱりだした。街の自転車屋でひとみがひと目で気に入った愛車だった。チェーンを外すとサドルに跨って、軽快にペダルを漕ぎ始める。
「おはようございまーす」
通学路の馴染みの商店街を抜ける間、顔見知りの店に挨拶を送る。
「おう、おはよう、ひとみちゃん」
「どうもお」
色々なところから返ってくる声に、ひとみは人懐こい笑顔で答える。
ひとみは商店街で半ばアイドル的存在だった。
肉屋のコロッケはたまに帰りに買うし、夕食の買い出しも大体はスーパーではなくここで済ませる。
主婦がほとんどの購買層の商店街では可愛らしい女子高生は否が応にも可愛がられる。
店の前で水撒きなどをしている商店街の店員たちは皆一様に笑みを浮かべて、おはよう、ひとみちゃん、などと挨拶を返してくれる。
吉澤ひとみは女子高に通う普通の高校二年生だった。
女子にしては長身なことを生かして昔は部活としてバレーボールをやっていたが、ひとみが中学三年生の時、両親が事故で他界してからはバレーボールを辞めてアルバイトに明け暮れていた。
そのことは商店街にも広く知られている。
ひとみが可愛がられる要因はその辺りにもあるのかもしれない。
6 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:30
ひとみの姉の圭は新宿西署の刑事課、強行犯係の巡査である。両親の他界以来、ひとみと圭は二人暮しをしていた。ちなみにその生活費はひとみのアルバイト代と圭の給料で成り立っている。
確かに境遇は恵まれているとは言い難いが、ひとみは今のままで十分な幸せと平和を感じ得ていた。
校門の柱には黒字で朝娘女子高等学校、と彫り込まれてある。
ちょうど通学の時間帯にあたり、吸い込まれるように生徒たちが門をくぐっていく。
ひとみはその人波を巧みに抜けて車輪を滑らせて校門をくぐった。
「よっすぃーっ。おーいっ」
幼少の頃からのあだ名を呼ばれてひとみは振り向いた。そして自分の方に駆け寄ってくる二つの人影を認めて、ブレーキを掛けて車体を停止した。
矢口真里は金髪を揺らしながら走ってくる。よくみると手ぶらだった。その斜め後ろで小川麻琴が二人分の鞄を提げて駆けていた。二人はひとみの元に到着すると、一旦止まって息を整える。
「おはようございまーす、矢口さん」
声を掛けると、矢口は突然ひとみの頭を叩いた。
「こらぁっ。先輩を走らせるなんて生意気だぞぉ」
長身のひとみと小柄な矢口の身長差でひとみはまったく威圧感を感じない。ひとみはにへらとした表情で笑っていた。
7 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:31
矢口は主将としてバレーボール部を率いていて、ひとみの入学当時からひとみの長身と実力を認めて勧誘し続けていた先輩だ。
しかし、ひとみの事情を知ると勧誘を諦めた。それからはひとみの穏やかな人柄に惹かれていたこともあって、ひとみとは友人として付き合っている。
「あ、小川ー。おはよ」
ひとみは付け加えるように、矢口の脇で息を切らす小川に声をかけた。小川はふたつの鞄を肩に掛けたままひとみに頭を下げた。
小川はひとみの後輩に当たる一年生だ。今年バレーボール部に入部した新入生だ。
セッターとしての実力は一年生にしてレギュラーを射止めるほどだが、主将の矢口に頭が上がらず良いように扱われているのはバレー部の名物だった。
ひとみは校門のすぐ脇に位置する自転車置き場に愛車を停めると、二人と肩を並べて歩きだした。
「よっすぃは今日もバイト?」
小川に鞄を持たせてどこか手持ちぶさたな様子で歩いている矢口がひとみに尋ねた。
「そうっすねぇ。なんか、今日からバイトが一人増えるらしいですけど…」
あくび混じりに答えるひとみに、矢口はさして興味もなさそうにふうん、と唸る。
「コンビニだったっけ」
矢口の問いかけにええ、と返事を返す。
ひとみのアルバイトしているコンビニエンスストアはひとみの自宅からそれほど離れていない場所にある。
朝娘高校ではアルバイトは校則で禁止されているが、ひとみはやむを得ない事情を抱えているため、特例として認められている。
実際には姉の圭の給料で生活できないことはないが、生活が楽になるに越したことはない。
8 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:31
「てゆうか、小川が可哀相じゃないですかぁ。鞄なんか持たせて」
ひとみは矢口に非難するような視線を向けて、小川に同情の視線を送る。矢口は笑みを浮かべて小川の肩を叩く。
「人聞き悪いなあ、よっすぃは。小川が持ちたいって聞かないから、持たせてやってるんだよ。なぁ、小川」
矢口は小川の顔を覗きこんで同意を求める。小川はしばらく間を置いて頷いた。
「脅さないで下さいよー。小川、怯えてるじゃないですかー」
ひとみは呆れたように矢口を見る。
「いいんですよぉ。先輩ですからぁ」
返事が返ってきたのは矢口からではなく小川からだった。
「おうおう、なんていい後輩だぁ」
ひとみはおどけたように言うと、二つの鞄ごと小川を抱き締めた。時間潰しの会話やじゃれ合いだ。
二人と別れてひとみは自分の教室に向かった。階段で二階に昇り、二年三組、と札に記されてある教室のドアを開ける。
「あ、よっすぃ。おはよー」
クラスメイトの挨拶に応えながら、鞄を机にひっかけて席に座る。すると途端に幼馴染が駆けよってきた。
「おはよう」
石川梨華は笑顔を浮かべて高い地声で挨拶した。艶のある綺麗な黒髪がさらっと揺れた。少し浅黒い肌は地黒だ。
ひとみとは中学時代からの親友であり、まだひとみの両親が健在な頃、隣家に住んでいたのが石川家だ。
ちなみにひとみと圭が今のアパートに引っ越してきたのは両親が死んでからである。
両家は家族ぐるみの付き合いがあり、ひとみと石川は幼い頃から常に一緒に行動していた。
大雑把なひとみと、几帳面な石川。性格は対照的だがお互いに気心の知れた親友同士だ。
9 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:32
「あ、圭ちゃんに、昨日はありがとうって言っておいてね」
石川が思い出したようにぽん、と手を叩いて言った。
「まぁた、ご飯一緒に食べたのー?圭ちゃんってば女たらし」
ひとみは顔をしかめながら昨日の出来事を思いだした。
昨夜、ひとみはコンビニの深夜勤でいつも圭と一緒に食べている夕食を弁当ですますことになっていた。
アルバイトに出かける前、圭に自分は夕食は外食で済ませると言われていたから、家事の中で自分の担当である夕食は作り置きしなかった。
おそらく、その時に石川を誘ったのだろう。
珍しいことではなかった。
ひとみは友人が多いほうで、友人をよく自宅に招く。
その時に圭と意気投合する友人も多い。
圭はその意気投合したひとみの友人と携帯番号を交換して、度々会っているらしい。ひとみもそのことは知っている。
その友人にしてみれば、年の離れている圭は包容力もあるので友人というよりは姉的な存在に近いのだろう。
圭とひとみの共通の友人は石川のほかに矢口、小川などもそうである。
「そんなことないよぉ、圭ちゃん、優しいもん」
「答えになってないし。大体、なんで圭ちゃんって呼んでるの?圭ちゃんの方が断然年上なのに」
「だって名字じゃ圭ちゃんもよっすぃだし、圭ちゃんがそう呼べって言うから」
実際、圭が矢口や石川に自分の呼び名についてそう言っていたのはひとみも聞いたことがある。ひとみは、ふうん、と返して机に肘をついた。
「昨日はね、ご飯食べた後になんかバーみたいなところに連れて行ってくれてね、お酒飲ましてもらっちゃった」
「お酒飲ませたのっ」
思わず立ち上がったひとみに石川はうん、と悪びれもなく頷いた。ひとみは盛大に溜息を吐いた。
「そんで、そのお店の雰囲気がね、なんか大人ーって感じですごいの」
ひとみは再び机に肘をつくと、適当に聞き流す。そんなひとみの様子にも構わず、石川は機関銃の如く喋り続ける。二人の日常的な会話の形だった。
10 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:32
そこで教室のドアが開いた。普段通り、ジャージを着た平家みちよは教壇に立つと、静かにい、と呼びかけた。
端麗な顔立ちと茶髪を有する彼女は世間一般に綺麗と部類される容姿だった。
科目は日本史の担当で、生粋の柔らかな関西弁と人柄の良さで生徒からの信頼も厚い。平家は生徒が全て席に座ったことを確認すると、礼の声をあげた。
「一時間目はうちの授業やから、そのまま待つようになあ」
平家が教室を出ると再び教室に喧騒が訪れる。
日常の一日が始まった。
特に勉強家というわけでもなく、成績も中の下というひとみにとっては授業は退屈に他ならない。休憩時間はもっぱら石川や他のクラスメイトとの会話に費やすのが常だった。
普段通りにあっという間に午前の授業は過ぎていく。四時間目の科学の授業の終わりを告げるチャイムがひとみをまどろみから引き戻した。
「よっすぃー、屋上、行こー」
石川の甲高い声が寝起きのひとみの耳に障った。ひとみは耳を軽く抑えながら立ち上がる。
「梨華ちゃんの声、寝起きにはきっついなぁ」
「うるさーいっ」
ひとみの揶揄に石川は口を尖らせて拗ねてみせる。変わらない親友の仕草にひとみは笑んで、石川の頭を軽く撫でるように叩いた。
11 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:33
二人で混み合う売店でパンを購入してから、屋上に向かった。
朝娘高校の校舎の屋上は開放されている。ベンチなども整備されていて、生徒は昼食時などに利用することができることになっている。
元気の良い陽射しが照りつけている。よもや太陽に近いからなどという理由は有り得ないだろうが、そこは地上よりも少しだけ暑いように感じた。
屋上には疎らに生徒が散っていて、昼食を楽しんでいる。
その中で二人は中央の円形のベンチに陣取るある生徒の一団を見つけて近よっていった。
「矢口さーん」
石川が高い声を上げて、一団の中央にいる矢口に駆けよっていく。ひとみも歩いてその後に続いた。矢口が石川とひとみに気づいた。
「あ、石川ぁ、よっすぃ」
石川は矢口の横に腰かけた。ひとみも続いて石川の隣りに座る。
「あのね、昨日圭ちゃんがね、ご飯に連れて行ってくれたんですよー」
石川は先ほどひとみに話した圭との夕食について話し始める。矢口は興味深そうに話を聞く。
ひとみの紹介で知り合った石川と矢口はすぐに意気投合して、親友として交友を深めている。学年が一つ違うが、矢口は石川を気に入っていて、石川は矢口を尊敬して慕っていた。
「そのあとね、バーみたいな所に連れて行ってくれたんですよー。カクテル、飲ませてもらったんですよー」
「あ、私もそこ連れてってもらったことあるー。なんか、熱帯魚がいたよね、水槽に」
「そうっ。いました、いました。あと、なんかもう一つ水槽があって、泡がぶくぶくしてるんですよねー」
そうそう、と矢口は顔を綻ばせて応える。話を弾ませている二人を横目で見ながら、ひとみはパンをかじった。
12 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:34
「よっすぃー」
そこにひとみは後方から衝撃を受けた。振り向くと背中に二つの小さな体がくっついている。
「辻加護ー。あー、もう。くっつくなー」
そう言いながらもその口調はどこか弾んでいた。
二つの体はひとみの両脇に移動する。どちらも真里に引けをとらないほどに小柄な体つきだ。加護亜依がひとみの腕を取る。辻希美も真似るようにひとみの腕を取った。
二人ともどこか似た容姿をしているのはやはり仲の良さからだろう。
打ち合わせでも何にもなく、同じ考え方を持っているのだ。
ひとみは両腕をつかまれて困ったように笑った。
二人は中学の時にひとみの所属していたバレーボール部の後輩だ。高校に上がってからもバレーボール部に所属している。
実力はまだ補欠としてしか認められていない。
二人ともひとみを慕っていて、ひとみがバレーボール部を去ったあとでも友人として慕い続けている。
その付きあいは先輩後輩の枠を払ったような近しいもので二人ともひとみに敬語を使わない。
「今日もバイトあるんやろ?」
加護がひとみを見上げるようにして尋ねる。加護は奈良からの転校生で、転校して間もないせいか時折会話には関西弁が混じる。
座っている状態でも二人の身長差は立っている状態とさほど変わらない。自然と加護がひとみを見上げる形になる。ひとみが頷いたのを確認すると、溜息とともに言葉を吐きだした。
「いいなー。うちもバイトしたいー」
アルバイトが禁止という校則のせいで、この呟きは生徒たちの切なる願いとなっていた。隠れてアルバイトをしている生徒もいるにはいるが少数派だ。それに部活をしている亜依にとってはアルバイトをできる時間もなかった。
「そうかなー。私は部活だけでいいけどなぁ」
辻が話に入りこんでくる。加護は辻を一瞥すると、視線を外して盛大にぶはっと吐き出す。
「何言ってんねん。高校生やで?もっと色んな事をせなあかんやろ」
ふうん、と辻は興味なさそうに呟いた。
13 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:35
ひとみはふと視線を配せて小川に目を留めた。
ひとみはパンをかじっている小川に近づいていく。そして後ろから小川の体を抱きすくめた。
「へい、麻琴ぉ、何してるんだい?」
おどけた口調でそう話しかける。ひとみの腕の中で体がびく、と震えた。そして、ひとみを確認すると小川は安堵したような笑みを見せた。ひとみは小川の隣りに腰掛けた。
「どうよ、最近?頑張ってるの?バレー」
小川は力なく笑みを浮かべるだけだった。ひとみは心配そうに眉尻を下げた。
「どした?調子悪いの?」
「…ちょっと、調子が上がらなくて」
浮かない小川の表情を見てひとみは以前の自分の姿を思いだした。
中学校の部活動でひとみは現在の小川と同じように一年生からレギュラーを担っていた。
部内で唯一の一年生レギュラーと言う事で色々と心労も多かった。
それに毎日の練習で重なる疲労も重なり、時々現在の小川のように後ろむきに悩むこともあった。
「大丈夫だよ。ウチもそういうことあったしさ。気にしない、気にしない。そういうのはエースの宿命っていって贅沢な悩みなんだよ。これ元エースのありがたいお言葉だから」
言い終えるとおどけて片目を瞑りウインクをする。そして軽くぽん、と肩を叩いてやった。
小川の表情は晴れた。これがひとみの天性でひとみが慕われる理由でもあった。
「おい、小川ぁ。こっち来ーい」
矢口の通った声が小川を呼んだ。ひとみと小川は顔を見あわせて苦笑いする。
「ほら、行っておいで。モタモタしてると矢口さんまた怒っちゃうよ」
小川は慌てて矢口のもとへ駆けていった。ひとみはその後ろ姿を見て、笑った。
14 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:35
昼休み終了のチャイムが午後の授業の開始を告げる。
食後の満腹感と窓から入りこんでくる午後の柔らかい陽射しが退屈な授業とあいまってひとみを睡眠に誘う。
日常と同じように時が過ぎていく。退屈で平和で少し物足りない、少し幸せな時間。ようやく今日の授業が終了し、終礼を迎えた。
「それじゃあ、夜遊びは控えるように。解散」
平家の礼とともに教室内は喧騒に溢れる。そしてすぐに人影は疎らに散っていく。ひとみは鞄を肩にかけている石川に寄っていった。
「梨華ちゃーん」
「あ、よっすぃ、行こう」
ひとみは石川とともに人の流れに乗って校外に出た。
ひとみと石川は並んで自転車を走らせる。二人とも部活には所属しておらず、家の方向が同じなので帰宅時はそれぞれに特別な用事がない限り毎日のように一緒に帰る。
「今日、バイトだっけ」
「新しい人が入るんだって、女の子」
「頑張ってねー、私、応援してるからね♪」
おどけたように笑ってみせる。ひとみは吹き出すように笑みを漏らした。
「あははっ、バーカ」
「もうっ、何よぉ」
二人で顔を見合わせて笑いあう。
分岐点の交差点に差しかかった。人通りの少ない道路に陽射しが反射して輝いていた。
「あ、じゃあ、ここでね。また明日」
「バイト、頑張ってね」
「ありがと」
ひとみは石川と別れると、ペダルを漕ぐ足に力をこめた。
15 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:37
そして勤務先のコンビニの前に来ると、車体を停止させた。しっかりとチェーンをかけると、自動ドアをくぐった。
店内は人影も疎らだった。ひとみは店内に入ると、レジカウンターで暇そうに欠伸をする男性店員と軽く会釈をかわした。
里田はひとみの憧れだった。ひとみより前にアルバイトに入っていた大学生だ。
容姿はそれなりに整っていて、両親が他界したばかりで不安定なひとみに優しく接してくれた。
そのことでひとみは里田に憧れを持っていた。
ひとみは店員以外立ち入り禁止と記されてあるドアを開けて奥に歩を進める。
その室内は防犯カメラの監視をするための前室になっていて、その奥は控え室でそれぞれのロッカーが置かれている。鞄を自分のロッカーに押しこめて、さっさと着替えると室内にある気配を感じた。
ひとみが驚いて振りむくと、控え室の中央の長椅子に少女が座っていた。ブーツカットの色落ちしたジーンズを履いて、肌の露出したキャミソールを着ている。
ひとみと少女の目が合った。
そして、ひとみは固まった。
16 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:37
年齢はひとみと同じぐらいだろう。肩下までの長く真っ直ぐな茶色の髪をなびかせている。小さめの目は綺麗な二重瞼で、鼻筋が通っている。街に出れば誰もが振りむくような整った顔立ちだった。
しかしひとみを惹きつけたものはそれだけではない。
この少女が放つ妖艶で、魅力的で、どこか掴みどころがない不思議な雰囲気だ。
そしてひとみは背筋に強烈な刺激を覚えた。
心臓が早鐘を打ち始める。出会ったことのない不思議な感覚だった。
その正体が何なのかは、ひとみ自身にもわからない。
ひとみはその少女に見惚れたまま動く術を見失っていた。
すると少女は長椅子から立ちあがった。ひとみほど背は高くないが、手足が長いモデルのような体型をしている。
少女はその長い睫毛とともに目を伏せて、ひとみに小さく会釈をする。ひとみは会釈を返して、この少女の素性を全く知らないことをようやく思いだした。
「あの、あなたは…」
「あ、今日からバイトすることになりました、後藤真希です」
少女は再び頭を下げた。その大人っぽい外見とは少し掛け離れたあどけない声色だった。ひとみは今日から入るアルバイトのことを思い出して、慌てて姿勢を正す。
「あ、ウチ、吉澤ひとみです。よろしく」
そう言ってひとみは右手を差しだす。真希は不思議そうに目を丸めたあとようやくその意味に気づいて少し頬を緩めてその手を握った。
そして真希は少し視線を上げて、ひとみを見上げると、口許を綻ばせて妖しい笑みを浮かべた。ひとみはその様子を見て、不思議そうに首を傾げた。
「どうかしました?」
「なんでもないですよぉ」
表情を緩めて真希は答えた。その目に妖しい光が宿っていることをひとみは知る由もなかった。
17 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:38



「放火事件?」
圭は鸚鵡返しに答えると、寺岡はああ、と頷いた。
寺岡五郎は刑事課の課長で圭の二階級上の上司に当たる人物だ。地味なスーツ姿で刑事らしい鋭い目付きをしている。寺岡はノンキャリアの叩き上げでここまで上りつめた男で、新宿西署の仲間からの信頼は厚い。
「最近は警察の不祥事が続いている。だから、こちらとしても信頼の回復に努めることになったんだ」
圭はじっと黙りこくって先を促した。
「その一環として時効を迎えていない過去の事件の再調査をこの新宿西に担ってもらおうという判断が下った」
寺岡の言葉に圭は溜息を吐いた。この新宿西署に話が来たのはおそらく単純にこの署が一番暇だからだろう。新宿西署は近隣署と比べても検挙率などの実績は底辺を這っている。
「その過去の事件を洗い出して再調査の必要性があるものを選んだ所、この放火事件が浮かび上がったんだ」
寺岡は机の上からファイルにまとめられた資料を差し出す。圭はそれを受け取り、中身を確認した。
「そこでお前ともう一人、組んで捜査してもらう」
寺岡の言葉に圭は驚いたように寺岡に視線をあげる。
「なんでアタシなんですかっ。今日だってこれから強盗犯の取調べがっ…」
寺岡は無言で圭の背後に視線をめぐらせた。
「安倍!安倍はいるかあ!」
少ししゃがれた寺岡の声が呼びかけると、はーい、と強行犯係とプレートがかかっている机の群れから安倍なつみが立ち上がった。圭はうなだれて、自らの茶髪をかきむしった。
「こいつが担当している強盗事件の被疑者の取り調べ、変わってやってくれ」
「はいなー」
安倍は頷いて快諾の意を示した。安倍は圭と同じ強行犯係の刑事だ。同僚、そして親友として圭との付き合いは深い。
その優しげで柔和な可愛らしい顔立ちとは裏腹に強行犯係の担当である強盗犯や殺人犯とも一歩も引かずに渡りあう芯の強い女性刑事だ。
18 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:38
安倍はうなだれる圭の肩をぽんと叩くと、自分の机に戻っていった。圭はついに観念した。
「アタシのパートナーは誰ですか?」
寺岡は盗犯係の方に、紺野、と呼びかけた。圭と並んで紺野あさ美が寺岡の机の前に立った。
「紺野あさ美です。よろしくお願いします」
紺野は圭に向かって深々と頭を下げる。肩までほどの黒髪が圭の眼前で揺れるとともにシャンプーの香りが漂った。圭は紺野と面識があった。今年配属されたばかりの盗犯係の新人刑事である。何度か言葉を交わす機会もあった。特徴的なのんびりとした口調を印象に残している。
「ちなみにこの放火事件の選別を行ったのは紺野だ。まぁ、頑張れ」
「…ぁい」
圭はうなだれたまま寺岡の机の前から離れて自分の机に向かう。紺野も慌てたようにその後を追った。
刑事課の机の配列は各係ごとに机がまとめられているというものだ。強行犯係に盗犯係、鑑識係と知能犯係。その中で強行犯係の机は一番端に位置している。圭は座り慣れた椅子に深く腰を預けた。
「あの、私、紺野、って…」
椅子の脇から紺野が何やら言いにくそうに声をかけてきた。紺野の怯えたような様子に圭はなんだか毒気を抜かれた。
「…資料確認してから、捜査」
圭は手の中の資料を広げる。紺野も慌てて持っていた資料を開いた。
「おっす、何言われたのー?」
安倍が嬉しそうな笑みを浮かべて問いかけてくる。圭は資料から目を離さない。
「なんか、警察の信用回復のために過去の事件を調べ直すんだってさ」
寺岡へのあてつけにわざと事務的な口調で答える。圭の寺岡へのせめてもの抵抗だった。もちろんそれが伝わる事は叶わない。
19 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:39
安倍は圭の肩をぽんと叩く。
「ま、がんばりなさい。圭ちゃんの事件は私が受け継いであげるから。さぁて、もうすぐ被疑者が来るらしいから、用意しとかないとねー。私の取調べは圭ちゃんと違って優しいからなー。いやー、被疑者ってばラッキーだね」
「嘘つけ、裏なっち」
「あー、その呼び方、キライだからやめてね」
安倍の取調べは強行犯係の中でも特に厳しいと評される。その柔和な笑顔とのギャップでつけられた異名が『裏なっち』である。
「ま、二人とも頑張って。んじゃあねー」
安倍は上機嫌な口調で言うと、取調室に消えていった。圭は恨みがましくその後ろ姿を見送る。そして紺野に目をやった。
「アンタ、なんでこんな事件選んだの?」
圭は資料を指し示してさらに付けたした。
「こんなの事故じゃないの?実際、二年前にはそう処理されてるじゃない。煙草の不始末って」
紺野が選別した事件は二年前の火事だった。確かに二年前には煙草の不始末が原因の事故と処理されている。しかし、圭の言葉に紺野も毅然とした態度は崩さない。
「でも、この被害者を調べたところ、妻の死後、酒とギャンブルに溺れていたらしいんです。借金もかさんでたようですし…」
「保険なんか入ってなかったじゃない」
もう一度、資料に目を落とすと確かに被害者に保険金の記録はない。紺野はでも、と圭に詰めよる。
「でも、借金トラブルは確かにあります。恨みを買ってた可能性も十分にあるし…それに、予感がするんです。怪しいっていうか…資料を見ると色々不自然な点があったし…」
紺野の貫くような真っ直ぐな視線を受けて、圭は諦めたように紺野の頭を軽く叩く。
「わかった、わかった」
圭は勢いよく腰を上げると歩きだした。紺野は慌ててあとを追った。
20 名前:1st.葉桜の邂逅 投稿日:2004/11/18(木) 19:39
署内の廊下を通り抜けながら事件の要点を紺野と確認する。
「事件が起こったのは二年前。被害者は後藤直樹、四十一歳。妻の恵美とは事件の二年前に死別し、娘と二人で暮らしてた。そして煙草の不始末から出火して、一戸建てが全焼。その中から後藤直樹の焼失死体が発見される、か」
紺野は小走りになって圭に追いついた。
「でも、状況証拠から事件の夜、後藤は泥酔して帰ってきて、そのまま眠っています。煙草なんか付けるでしょうか。借金もあるし、恨みも買ってた可能性もある。当時はその辺りで捜査されてたらしいですけど、結局は事故として片付けられています」
「うーん…まぁ、まずは聞き込みだな。二年前だから結構面倒くさいかもな。えっと、娘の名前は、後藤真希、当時14歳だから今は16歳か…。ひとみと同い年だな」
圭の見つめる資料写真の中には、見方によっては冷徹に見えるほど端整な顔立ちの少女が無表情に佇んでいた。
「じゃ、まずは後藤真希から話を聞きに行くか」
圭は紺野と廊下を軽快に歩いていった。

21 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/18(木) 19:40
 
22 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/18(木) 19:40
 
23 名前:chaken 投稿日:2004/11/18(木) 19:41
第1話「葉桜の邂逅」終了です。

更新は大体、週1くらいになると思います。
これからよろしくお願いします。
24 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/20(土) 01:33
待ってました
25 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/20(土) 01:36
ほぉ〜〜〜っ
何やら面白い展開になりそうだ!
続きを期待!!
26 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/21(日) 21:28
面白そうですね。
期待してます。
27 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:03


深夜2時を回った真夜中の新宿。
真っ暗な街の中に、街灯とネオンとコンビニの灯りが夜光虫のように浮かび上がる。
ひとみの勤めるコンビニでは客の姿はなく、ただ店内には流行の曲を紹介するラジオが声高く流れていた。
店内では、賞味期限切れの商品と入荷品を取り替えるひとみの姿があった。翌日に学校が休みになる金曜日の夜はひとみは毎週、深夜勤の予定を入れている。そして土曜日を休んで、日曜日の午前中にアルバイトに入るのだ。
つい先ほど、里田が店内に顔を見せた。
今日、ひとみは真希と勤務時間が重なり、先ほどまで一緒に仕事をしていた。そして、ちょうどこの時間に里田と真希が交代することになっていたため、真希は控え室で着替えている。
真希とはあの出会い以来、一定距離を保ったまま接していた。その行動に特に理由はないが、普段は社交的なひとみが何故か真希と踏み込んで接することが出来なかった。それは妙に大人びたあの雰囲気のせいなのか、どこか近寄りがたい容姿のせいなのか、自分でも判断しかねるところだったが、とにかく自然に距離を取っていた。
視線を何気なく、ドリンクコーナーの隣りにある関係者用のドアに向けた。
おかしい。
商品の交換を行いながら、不審に思った。
真希が出て来ない。大分前に入っていったのだから、中で休憩しているとしても、もう着替え終わって出てきてもいいころだ。
それに里田も控え室に入っていったきり出て来ない。客のいない店内で人手が足りないということはないが、なぜか気にかかる。
ざわざわとした嫌な予感がひとみの胸の内に広がる。
全く出て来ない二人についに痺れを切らして、ひとみはついに奥のドアに手をかけた。
ゆっくりと押し開けたその瞬間、ひとみは表情を凍りつかせた。
28 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:04
部屋の中では、男女が抱きしめあって、キスを交わしていた。
男はいうまでもなく入ったきり部屋から出て来なかった里田、そして女は私服に着替えた真希だった。
目の前の光景が一見して信じられずに、ひとみはまじまじと二人を見つめる。
二人は互いの体を引き寄せあったまま、濃厚なキスを続ける。その姿は恋人同士としか思えない。
しばらくその姿を見つめていると、ひとみの心に灼きつくような鈍い痛みが沸き上がった。体の表面に焦げ付くような熱である。
(何だろう、これ…)
ちくちくと刺さるように鋭く、じわじわと内部を蝕む熱。
自分の頭の中の語彙を探って、この感情に当てはまる言葉を捜す。
そして、客観的にも主観的にもぴったりと一致する言葉を探り出した。
今、目の前の光景に抱いている感情は間違いなく嫉妬だった。
頭の中の可愛らしい、「ヤキモチ」や、そういうイメージとは掛け離れた濃く深い感情である。
ひとみは心に起こる波をそのままに、半ば条件反射的にドアを閉めた。
そして何事もなかったかのように作業の続きを始めた。
その機械的な動きは変化を為さないが、ひとみの中では確実に動揺と混乱が濁り合っていた。
29 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:04
それからしばらくして、里田と真希が並んでドアから出てきた。
里田は店内の制服に身を包んでいる。真希は先ほどひとみが見た私服のままだった。
「あ、ひとみ先輩。お先に失礼します」
真希が食品コーナーの前で商品を取り替えるひとみに声を掛けた。ひとみはびくっと体を揺らす。
距離を取っているとはいえあの出会いからそれなりに二人は親しくなった。
ひとみは真希を後藤さん、と呼んでいるが、真希はひとみのことを、ひとみ先輩、と多少親しみを込めた呼び方をしている。
ひとみは必死に動揺が悟られないように努める。
「あ、お疲れー。バイバーイ」
平静を繕ったひとみの言葉に真希は満面の笑みを浮かべて頷いた。
ひとみはその真希の表情に見惚れた。
真希の端正な顔が柔らかい笑みに変わる。整いすぎて冷酷そうにすら思える外見とその心を許しきったような笑い方だ。真希は間違いなく人を引きつける魅力を持っていた。
里田はひとみのほうなど見向きもせず、去っていく真希の背中を名残惜しそうに見つめていた。
ひとみはその里田の姿をじっと見つめていた。
30 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:05
一週間が経った。
金曜日の午後11時。ひとみはいつものようにコンビニのレジカウンターに立っていた。
あれから里田とは顔を合わせる機会はあった。しかし、ひとみは全く自然に接していた。自分でも意外なほど平常心を保っていた。
一方の真希とはあれ以来顔を合わせていない。時間が重なることはあったのだが、真希が時間の変更を申し出たらしいのだ。
そして今日、もう真希と交代する店員は帰ってしまい、今は真希の到着を待っている状態だ。
ひとみは妙な緊張を感じながらレジカウンターに立っていた。たかがバイト仲間と会うのに、と自分に呆れてみるが、心の高鳴りは止んでくれなかった。
自動ドアが開いた。ひとみはほとんど反射的に頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
ひとみが顔を上げてそこに認めたのは真希だった。
「あ、ひとみ先輩。どうもー」
軽く頭を下げて真希は奥のドアへ向かった。ひとみは半ば呆然とその姿を見送っていた。ひとみが一方的に緊張していた再会は極めて平和に終わった。
安堵と拍子抜けと同時に何故か少しだけ寂しく思った。
31 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:05
すぐに制服に身を包んだ真希が姿を現した。そして、レジカウンターに入りひとみの横に陣取った。
「そういえば久しぶりですよね、ひとみ先輩と会うの。元気にしてました?」
真希は端整な顔を崩してひとみに笑いかける。しかし、ひとみの目はどうしてもその艶やかな唇に向かってしまう。
その唇で、キスしたんだ。
ふと頭に過ぎる思い。ひとみは慌ててそれを振り払った。
里田に対しては普段通りに接していたにも関わらず、なぜ真希にだけこんな行動を取るのか、自分でも理解できなかった。
「先輩?聞いてます?」
「え、ああ、聞いてるよ。元気元気、大丈夫」
慌ててひとみが答えると、真希は安堵したような表情を見せる。次々に変化を見せる真希の反応にひとみはなんともいえないむず痒さを感じた。
日付けが変わって午前1時をまわる頃、客足はすっかり途絶えて、本格的に夜の帳が下りていた。
ひとみと真希はレジカウンターに並んだまま、手持ちぶさたに過ごしていた。
「お客さん来ないから、商品交換しよっか、後藤さん」
ひとみが提案を持ち出した。そろそろ商品交換に移らなければならない時間帯だ。退屈を持て余しているようだった真希は快諾した。
「私にやらせて下さい。仕事覚えたんですよ。一人で出来ます」
どこか甘えたような声色にたじろぎながらひとみは頷いた。
真希は歩調を弾ませながら、奥の部屋に入荷品を取りに向かった。ひとみは真希の背中を呆然と見送っていた。
32 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:06
自分の真希に対する対応がおかしいということにはひとみ自身も気付いていた。
真希の唇に目が向かうことや、平常心が保てず動揺を表に出したことだ。そのことを自身でも不思議に思いながら外を見る。
真夜中の街。行き交う人と車たち。しかし、相も変わらず客の気配はない。
(ウチ、どうしたんだろ…)
胸の中に靄が広がっていくのを感じていた。
店員専用のドアが開かれる。荷物を抱えた真希が現われた。不安定に荷物を抱える真希にひとみは慌てて駆けよろうとする。
「大丈夫?ウチ、手伝おうか?」
真希はひとみの言葉に大丈夫です、と首を振ると床に荷物を置いて商品の仕分けを始める。ひとみは安心してレジカウンターの近くの商品を整理し始める。
「きゃっ」
真希が仕分けのしている食品コーナーから小さな悲鳴がひとみの耳に届いた。ひとみは急いでこの位置からは隠れて見えない食品コーナーに駆け寄る。
そこには商品を床に散らかして、尻餅をついている真希の姿があった。ひとみは慌てて真希の元に走り寄る。
「大丈夫っ?後藤さん」
ひとみは真希の手を握って、起き上がらせようと力を込める。
しかし、真希はひとみの手を握り締めたまま、動こうとせずにひとみを見上げる。
「先輩って優しいんですね…」
真希は甘ったるい口調でそう呟いた。ひとみは思わずたじろぐ。熱っぽい視線で真希は上目遣いにひとみを見つめる。
なんだろう、この視線。
なんだろう、この感情。
33 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:06
「ありがとうございます…先輩…」
掠れたような声色でそう呟くと、真希はひとみの手を握っている手に力を込めた。
ひとみは凍りついていた。体が鎖に繋がれて緊縛されたように動かない。真希はじっとひとみを見上げていた。
この目にはどんな感情があるんだろう。
「ひとみ先輩…」
ひとみは真希と視線を合わせる。そしてその真希の瞳に宿る得体の知れない光に視線を奪われた。
そこで、ひとみは全てに気づいた。
真希と里田がキスを交わす場面に遭遇した時に感じた嫉妬の理由、真希と話す時に平常を保てない理由。
(ウチ、後藤さんのことが好きなんだ…)
認識して、自身でもこの気持ちを不思議に思った。
今まで普通の憧れ程度の恋愛しか経験していない自分が、自分と同年代の同性に明確な恋愛感情を寄せているのだ。それこそ、燃え上がるほど焼けつくような感情を抱いているのだ。
ひとみが覚えた嫉妬は真希とキスを交わす里田への嫉妬だった。里田と話す時には冷静でいられるのに、真希と話す時に動揺を覚えるのは単純に真希こそが感情の対象だったからだ。
34 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:06
「先輩…」
真希は再度呟いた。ひとみはびくんと体を跳ねさせた。真希が艶やかな光を宿した瞳でひとみを覗き込んでいた。
「後藤、さん…」
ひとみは真希の名前を呼び、真希の手を握り返した。
真希が口許を歪めて妖しく微笑んだ。ひとみはその表情に見惚れていた。
ぼうっとする頭の中で、自分が真希を特別な存在として捉えていることを自覚していた。ほかの誰でもない。出会って2週間しか経っていない彼女をそんな存在に思っていた。
しかし、一方で心の奥で警戒音が鳴り響いている。
離れろ。囚われてはいけない。この少女は危険だ。
真希の存在を危険だと警鐘を鳴らしていた。その警鐘が示唆しているものをひとみは知る由もなかった。
しかし、真希に惹かれると共に本能的に真希のことを危険だと忠告する自分がいた。
この少女は危険だ。
危険だ。離れろ。
しかし、体はいうことを聞いてくれない。
ためらいなく真希に飛びこんでいこうとする自分がいた。沈みゆきそうな波に呑みこまれそうだった。
頭は空白に埋まっていく。
手を握り合ったまま真希の瞳を見つめていた。
深夜のコンビニ。
客の影はなく、店内に投影される二人の少女の人影。ゆっくりとその二つの影が重なる。
「先輩…愛してます…」
唇が離れたあと、真希はそう呟き、ひとみに体を預けた。ひとみはしっかりとその体を抱き止めた。
ひとみは真希の奥に潜む巨大な影を薄々と感じながらも、真希に自分を預けた。
35 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:07


ほとんどひと気のない裏通りの路地。
一階建ての敷地の狭い平屋だった。ひっそりと佇むその廃屋には全く人の住んでいる気配もなく、住宅として機能しているとは思えなかった。外壁にはいたるところに煤がこびりついていて、過去の傷跡を刻んでいる。見ているだけで妙な威圧感を覚える。
圭と紺野はその廃屋の前に立っていた。
「もう誰も住んでいないそうです」
紺野の言葉に圭はもう一度廃屋を見上げる。この建物がその言葉通りであるということは一目瞭然だった。
「じゃ、一応入るか」
圭の言葉に紺野は神妙に頷いてみせる。
圭は雑草の蔓延っている狭い庭を抜けて、古い木戸に辿りつく。木戸の横には申し訳なさそうに表札がかけられていた。
『後藤直樹 恵美 真希』
黒ずんだ木の板には続け様にそう記されていた。圭は取っ手に手を掛けて木戸を開いた。
気味の悪い音を立てて、ゆっくり戸は奥に開く。
中は八畳ほどの空間が広がっていた。玄関口もやはり煤けていた。靴を脱がずに、光の届かない薄暗い中を足元に気をつけて進んでいく。
床が踏まれる度に軋む音を立てた。
部屋の中央に辿りついた。周りを見まわしてみる。
36 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:07
台所が備えつけられていて、空間の脇には一つだけドアがあった。圭は気を付けながらゆっくりとそのドアに近づく。踏みこむと、床板が一段と大きな音を立てた。
「わっ」
圭は思わず声を上げて、態勢を崩した。
その瞬間、圭は腰にまわされた手に体重を預けることになった。
「大丈夫ですか?」
紺野が圭の体を支えながら心配そうに尋ねる。圭はすぐに我を取り戻した。
「あ、ああ、うん。ありがと…しかし、相当古いよ…ここ」
圭は体を起こすと床板を見つめて呟いた。紺野も古めかしい木の床板に視線を落とす。ところどころに腐食部分がある床板は木目も黒ずんでいてとても安全とは思えない状態だった。
圭は気を取り直してドアを開いた。
中には狭い空間の中に和式の便器だけが置かれていた。圭はそっとドアを閉める。
「トイレだけ…。風呂もない…相当、貧しかったみたいだ…」
圭の呟きに紺野は頷いた。圭は唸りながらしばらく考え込むと、ふと思い至って顔を上げた。
「そういえば、資料には全焼って書かれてなかった?」
ええ、と紺野は頷いてみせた。
「そうなんですよ。それがおかしいんです。全焼って書かれていたはずなのに、何故か後藤の自宅は、多少焼けてますけど、きちんと残ってるんですよ。これも不自然な点の一つです」
「うーん…ま、とりあえず、出よ。空気も篭もってる。気分、悪くなる」
圭の提案に紺野はこくんと頷いた。
37 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:08
後藤邸を後にして、車に乗りこむ。冷房の効いた車内はひんやりと涼しかった。
「自宅が焼けてないってことは調書にミスがあったのかな」
「そうですね。でも死因は焼死って書いてあるし…」
紺野は言葉尻を細めた。少しの沈黙は即座に破れた。
ぐぐっと胸の中に感情がせりあがってくる。
「…ああもうっ」
耐えきれずに圭は突然大声を上げて髪をかきむしった。
「後藤真希の消息は掴めないし、証拠はややこしいし、面倒くせーなあ、もうっ」
吐き出すと、胸のつかえが少しだけ引いたような気がした。
ふと、紺野の唖然とした視線に気付くと、ごほん、と気まずそうに咳払いをして視線を前に向ける。
「でも、後藤真希の消息は怪しいですよね」
紺野がこの妙に重い雰囲気を打開しようと声を上げた。圭はその紺野の言葉に頷く。
「そう、それなんだよ。この事件が事故として処理されてから、住所を転々と変えて、消息が掴めない…。何かあるんだよ、この事故、事件には。そのためには後藤真希を捕まえなきゃいけない」
紺野は真剣な表情を貼りつかせたまま頷いた。
その時ふと、圭の頭の中にある疑念が沸き起こった。
しかし、その発想のあまりの突飛さと非現実さに呆れて自戒すると、その疑念を振り払うように頭を何度か振った。
そこで圭の携帯電話が無機質な呼び出し音を鳴らした。紺野に手で断わって、ディスプレイを確認する。
そこには石川、と表示されていた。
普段、石川は忙しい自分を気遣ってなかなか仕事中には電話など掛けてこない。圭は訝しく思いながら、通話ボタンを押した。
38 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:08
「もしもし?石川?」
「…あ、圭ちゃん?あの、仕事中にごめんなさい」
圭の声に少し遅れて甲高い声が返ってくる。律儀な石川らしい断わりに、圭は苦笑いを浮かべた。
「いいって。どした?なんかあったの?」
一瞬間、会話に穴が空いた。
「…あの、今日、空いてますか?相談したいことが…」
ほんのわずかだが石川の語調が沈んだ。圭は思考を探って、今日の夜の予定を思い出す。特に何もなかったはずだ。
「いいよ。今日は何もないし、ご飯でも食べる?」
「はい。お願いします」
先ほどまでと比べて少し弾んだような石川の口調に圭はとりあえずの安堵を覚える。
「じゃあ、仕事が終わったら連絡するから。…うん…うん。じゃあね」
圭はボタンを押すと携帯電話をポケットに押し込んだ。再びハンドルを握る。
「どなたですか?」
何気なく紺野が尋ねた。
「ああ、ひとみの、あ、妹の友達…かな。よく会うんだ」
紺野は納得すると口を閉ざした。圭はその反応を受け流して、車体を滑らす。
黙想していることは消息を絶った後藤真希のことだった。後藤直樹の事故と関連して思考の中に妙なひっかかりを覚える。
車内に二人分の沈黙を乗せたまま、車は街をすり抜けていく。
39 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:09


ひとみと真希の眼前には古びたアパートが建っていた。
おそらく新築当初は白かったであろう壁も今は黒ずんで灰色に見える。脇には鉄で作られている階段が添え付けられている。
ところどころに赤褐色に錆びついているその階段は枠組も剥き出しになっていて、必要最小限の役割しか担っていないように思われる。
先週の金曜日の深夜、コンビニでのキスから二人は付き合い始めた。あれから電話番号とメールアドレスを交換して、連絡のやり取りを行っていた。
もちろんひとみは真希に里田との関係を問いただした。控え室での口付けの場面を目撃したことも添えて。
真希の答えは簡潔だった。
「あたし、ひとみ先輩に一目惚れしたんですよ。でも女同士ってノーマルのひとみ先輩じゃキツいかなって思って、ひとみ先輩の気を引くために見せたんです。里田さんが私に迫ってきたのはホントですけど。でも、あたしはひとみ先輩が好きだから、里田さんは利用しただけですよ」
真希いわく、あの場面を見せたのは故意だということだった。ただ利用されただけと断言された里田には不憫だが、ひとみは安心した。
しかし、それとは別にひとみは違和感を感じることがあった。正体の不明な妙な違和感を感じることがあった。
それは掴みがたい、説明しがたい、違和感だった。
例えば、電話口での一瞬の沈黙であったり、声の抑揚などのような抽象的なものと、具体的なこともある。
真希は一人暮しらしい。しかし、家族のことを聞くと彼女は口を閉ざして、話題を変える。何か言い難い事情があるなら仕方ないが、雰囲気の妙さはそれだけでは足りないような気がする。
そういう違和感だった。
しかし、それでも真希は外見も性格も魅力的であることは変わりはなかった。
真希は人を惹きつける何かを確実に持っていて、ひとみはどんどん真希という女性に惹かれていった。
それは矛盾した感覚のように思えた。真希に対する愛しさと違和感がひとみの胸の中に同居しているような、不思議な感覚だった。
40 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:09
一週間が経って、ひとみのアルバイトが休みになる土曜日にようやく再び二人は会うことになった。
真希自身の提案で真希の部屋で会うことになり、二人はこの古びた建物の前にいた。
「入りましょうか。私の部屋、二階なんですよ」
真希は建物に向かって歩を進める。ひとみはその後ろについていった。
鉄の階段はきゃりきゃりと踏む度に耳障りな金属音を立てる。段の脇に目に留まる赤錆と雑草が物寂しげだった。
階段を上りきると、階段と同じ鉄の廊下が続いていた。二人が並んで入れるくらいの幅を持っている廊下は広い間隔で離れている三つの部屋を跨っていた。
真希は一番手前の部屋の前に立つと、肩に掛けている鞄の中を探る。ひとみは木製の古い表札に後藤、という文字を確認した。
真希は鈴がついた鍵を取り出すと、取っ手の鍵穴に差し込む。
白に加工された木製のドアが開いた。
「じゃあ、どうぞ」
ひとみは真希に続いて薄暗い部屋に入っていく。一人暮しの真希の玄関にはブーツやらの靴類が錯乱していた。
真希は履いていたブーツを乱雑に脱ぎ捨てる。ひとみは自分のスニーカーとともにそのブーツの位置を正した。
間取りは10畳ほどの居間のドア側に台所が備えつけられていて、玄関傍のユニットバスのドアの他にもう一つ寝室へのドアが奥についている。
いたって普通の間取りだがひとみは部屋の中に目を向けた瞬間、違和感を覚えた。
41 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:10
リビングには白い冷蔵庫と大きな箪笥と洋服掛けがそれぞれ隅に置かれている。側面いっぱいの窓が大きく口を開けている。
10畳の間取りには少なすぎる家具だった。やけにだだっ広い空間が広がっている。ひとみはすぐに違和感の正体に気付いた。
この部屋には生活感がないのだ。
オーディオ機器もなければ、テレビもなく、ソファもない。生活しているという気配がまったくない。部屋というよりはただ無機質な空間と言ったほうが正しい。
真希は手探りで電気のスイッチを探し当てる。照らされる室内はやはり無機質で広々と見えた。
真希は広い空間に鞄と上着を投げ出すと、ひとみの方に振り向いた。
「一応、案内でもしましょうか。狭いですけど」
真希はそう言って奥のドアへと歩き始める。ひとみは小走りにそのあとを追った。
ドアの先の寝室にもやはり生活感はなく、6畳ほどの空間に大きなベッド、そしてその脇に何も乗っていない小さな棚が無造作に置かれているだけで、他は壁にカレンダーがかかっているだけだった。
「ここがベッドです」
ひとみに中を示すとドアを閉めて、真希は玄関口に向かう。ひとみも続いた。
真希は玄関口のすぐ脇に備えつけられているドアに手をかける。
「ここがユニットバス、えっとトイレとお風呂です」
真希はドアを大きく開いてひとみを中に入らせると、自分も中に入ってドアを閉めた。
42 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:10
中は広く、洋式の便器と浴槽はカーテンに仕切られていた。
真希は浴槽の方に歩を進める。ひとみは首を傾げる。
(わざわざ案内なんかするなんて、何かあるのかな…)
真希の意思を図れないままついていった。
窓側の浴槽にシャワーが付けられていて、脇の棚にはシャンプーなどの入浴製品が並べられている。
真希は浴槽の淵に腰を預けた。
ひとみは何をすればいいかわからずただ立ち尽くしていた。真希はぶらぶらと足を遊ばせている。
「先輩、あたし、ここでいつもしてることがあるんですよ」
真希の問いにひとみは首を傾げた。見当もつくはずもない。
何だろう。ひとみはしばらく思考を働かせたあと、ついに諦めて首を振った。
「どんなこと?」
真希は答えずに浴槽に腰掛けたまま、シャワーを片手に取った。
シャワーの発射口を排水溝の方に向けて、もう片方の手で蛇口を捻る。
発射口から勢い良く水の束が発射された。
ばちばちと床に叩きつけられる水がゆっくり排水溝に集まり流れていく。シャワーを掴んでいる真希の手元に水飛沫が散っていく。
真希はしばらくその様子を見つめると、発射口を自分の胸に押し当てた。
真希の豊満な乳房にシャワーの首が埋まる。長袖の白いシャツが濡れて、下着が透けてくる。ひとみは混乱して目を丸くした。
「後藤さん、何してるの?」
真希は答えずに自分の胸に水束を押し付ける。
水滴が伝って、ジーンズに包まれている真希の太腿も濡らしていく。真希の纏っている衣服が水を吸っていく。
さらに真希は自分で自分の頭上から水を浴びせる。そのさらさらとした綺麗な髪が水に濡れていく。
真希は目を閉じたまま、顔に水が伝うことを感じていた。
43 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:11
(キレイだな…)
ひとみはしばし、見惚れていたが慌てて我を取り戻す。
「後藤さん?」
ひとみの慌てたような声に真希は発射口を下に向けて、ひとみを見上げた。
「ほら、気持ちいいですよ」
真希の言葉にひとみはこの行為が真希の言う気持ちのいい行為だということを悟った。
真希はそのまま後方に位置するシャンプーなどが置かれている棚に手を伸ばした。
何をする気だろう。ひとみは訝しそうに真希の行動を見守る。
真希が棚から取り出したもの、それが何であるか真希の体が壁となっているせいでひとみには明確に確認できなかった。
ただ何か小さな物を手に握っていることだけは確認できた。
真希は手に持ったものを後方に隠して、ひとみに笑いかけた。
「へへぇ、でもこれからがもっと気持ちいいんですよ」
ひとみが真希の言葉に訝しさを覚えた瞬間、いつのまにかひとみの眼前に差しだされていた真希の左手首から赤い飛沫があがった。
目の前で踊る赤。ひとみはそれを血だと認識するまでに数秒の時間を要した。
「後藤さん!」
ひとみの脳内に混乱が廻った。目の前の光景に血が逆流するような錯覚を覚えて、意識が飛びそうになる。息苦しさを必死に抑えて、停止した思考を再開させる。
「何やってるの!ちょ!きゅ、救急車!」
ひとみは混乱する頭でそう判断を下して、ジーンズの後ろから携帯電話を取り出そうとする。その間にも、手首から溢れる赤い液体は排水溝に流れていく。
シャワーの水束が血を素早く洗っていく。真希は片手に持っていた血塗れた剃刀を床に落とした。
44 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:11
「いいですよ。救急車なんて。これくらいじゃ死にませんから」
ひとみはポケットを探る手を停止させる。そして、ゆっくり顔を上げて真希を見る。真希は手首から溢れ出る血飛沫を物憂げに見つめていた。
「傷がいっぱいあるんです、手首に。初めてやったのは中三の時かな。それからはまっちゃって。すっごく気持ちいいんですよ。頭が痺れて、意識が遠いとこで動いてる。この時だけは生きてるって実感できるんです。血が見えるから」
ひとみは呆然と真希を見つめていた。真希がふと顔を上げてひとみに視線を合わせる。
平然としたその綺麗な目の瞳孔は開いていた。
「ただの習慣、ですよ。ヘンですかねえ」
「…ヘンだよ、こんなのっ。普通じゃない、異常だよ!」
ひとみは声を荒げた。目の前の彼女は間違いなく、有り得ない光景だった。
「異常?」
真希は訊き返してくる。途端に常に漆黒を映していた真希の目に光が宿った。いびつな光だった。
「じゃ、フツウってなんですか」
しっかりと芯の通った真希の口調にひとみはたじろいだ。
ただの厳しさではない。その言葉には色んな葛藤が詰め込まれたように重かった。真希は静かな迫力をその目に称えていた。
「周りと同じように生きてるのがフツウ。それならもう私はフツウには戻れない。もう、戻れないんです」
真希は言葉を吐き切ると顔を伏せた。ひとみは何も答えられなかった。
45 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:12
真希は掴んでいたシャワーを床に投げ出すと腰をあげた。シャワーと床が衝突し乾いた音を立てる。
真希はひとみの目を見据えると、赤く濡れた左手首の傷口に口を当てた。
そして流れる鉄分の液体を口に含むと、顔を上げて、ひとみの目を見つめる。
形の良い口許を赤く濡らした真希の顔。その目には狂気の光が宿っていた。
ひとみはその瞳に見惚れていた。
すっと音もなく近付いた真希の唇がひとみの唇を捕まえた。
二度目のキスは血の味だった。ひとみの口内にどんどん鉄の味が流れ込んでくる。血で満たされたひとみの口内に真希の舌が侵入してくる。
真希はその柔らかい舌でひとみの口内をかきまわす。ひとみは脳内を直接かきまわされているような錯覚に陥っていた。意識がだんだんと遠のいていく。
真希の唇が唐突に離れた。自分が耳朶まで紅潮していることを認識する。真希は妖しげに口許をつりあげた。
「これで、先輩も戻れなくなりましたよ?」
ひとみは揺れる意識の中で真希の言葉を反芻する。
ようやく気付いた。
コンビニでキスを交わす前に鳴った警鐘の正体。ずっと感じていた違和感の正体。
真希の狂気。
46 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:12
目が、離せなかった。
そしてひとみは悟った。
戻れない。真希からは抜けだせない。
目の焦点が定まらない。頭の中が虚ろになっていく。
真希は目を細めて微笑んだ。
「後藤さんじゃなくて、ごっちん、でいいですよ」
そう呼ばれてるから、と付け足してひとみを見あげる。ひとみはしっかりと真希の目を見据えた。
「ごっちん、愛してる」
ひとみの言葉に真希は本当に嬉しそうに微笑む。
「ひとみ先…」
真希の唇に指先を当てて、言葉を遮る。ひとみは指先に真希の柔らかい唇を感じ取った。
「よっすぃでいいよ」
真希はいっそう嬉しそうに微笑むと、ひとみに抱きついた。抱き締め返す。この子が愛しい、心からそう思った。
「よっすぃ、大好き…」
甘い真希の呟きにひとみは頬を緩めて微笑んだ。
47 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:13


新宿の街角のイタリアンレストラン。
7時の街に店内の照明が穏やかな光を放っている。外壁の煉瓦はまさにヨーロッパを思わせる洒落たものだった。
店の前の大通りが見渡せる窓際の席のテーブルには圭と石川が向かい合って座っていた。このレストランは圭の行きつけだった。
圭は後藤邸をあとにして新宿西署に戻り、紺野とともに資料の発掘を終えてから、石川に連絡を入れた。結局、戦果は得られず、捜査に進展はなかった。
圭は手をあげた。途端に白い清潔感のある店指定の制服に身を包んだウエイトレスが席に近よってくる。
「ご注文はお決まりでしょうか」
整然とした口調で尋ねるウエイトレスに圭はメニューに目を落として品定めをする。
「じゃあ、あさりのパスタとサラダ、コーンスープ。石川は同じもので良いかな」
圭は石川の頷く仕草を確認すると注文を終了させた。ウエイトレスが去ったことを確認すると石川は顔を上げた。
「あの…相談のことなんですけど…」
「ご飯、来てからにしよう」
言葉を遮った圭の提案に石川は安堵したような笑みを見せて頷いた。
48 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:13
先ほどのウエイトレスが両手にそれぞれ大きな盆を一つずつ乗せて、席に近づいてくる。そしてテーブルに二つの盆を置いて、皿を二人の前に並べていく。
青野菜の盛られた小皿、パスタが乗った薄皿、濁ったスープが注がれている丸皿。
皿を並べ終えるとウエイトレスは注文の確認を行う。
「あさりのパスタ、コーンスープに野菜サラダ。二人分でよろしいでしょうか」
「あ、はい。ありがとうございます」
店員は圭とのやり取りを終えると相変わらず粛然と去っていった。圭は石川に向き直った。
「じゃ、とりあえず食べようか」
圭の言葉と微笑みに石川はどこか嬉しそうに笑みを返して頷く。圭はフォークとスプーンで器用にパスタを絡ませながら、スプーンでスープを掬う石川に視線をやった。
「で、相談ってのは?」
石川は一旦スプーンを休めて圭を見る。圭はパスタから視線を上げない。
それは横柄ということではなく、なるべく気を使わせないようにした圭の気遣いだった。あまり真剣な表情をすると雰囲気も重くなるし、石川も話しにくいだろう。
「よっすぃのことなんです…」
石川はぽつりと呟いた。
ひとみの名前に圭の動きが停止した。そして、スプーンを置くとゆっくりと顔を上げて、石川と視線を合わせた。
石川の表情はやはり沈んでいるように見えた。
「この頃、変なんです。人の話は聞かないし、ボーッとしてることが多くなって…それに、なんか雰囲気が変わったっていうか…」
話している内に石川の顔は俯いていった。よく見ると睫毛の淵が不安げに震えていた。
49 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:14
圭は最近のひとみの行動を記憶の中から掘りだした。
少なくとも、特に生活の習慣に変化は見られなかった。
学校へ通い、その帰りにアルバイトへ向かう。
唯一の休みである土曜日に出かけるのは日常だった。
しかし、石川の言葉に思い当たる節が発見された。
夕食時、朝食時、そして自宅にいる間のひとみの様子は普段と変わらなかった。表情の明るさも笑顔も何も変化はない。
ただ、ひとみの周りに漂う雰囲気が微かに変化した。姉妹としてともに生きてきた圭にとってそれは一目瞭然だった。
その変化は気を遣わなければ気付かないような些細なものだった。
しかし、些細でもひとみは変わっていた。
圭は返答をなさない。石川は俯いた顔を上げて心配げな表情を示した。
「なんかあったんですか。よっすぃに」
圭は視線を俯かせて言い淀んだ。ひとみの異変には気付いていたが、その原因は圭には判らなかった。
「ひとみが変なのはあたしも気付いてた。でも、原因は…」
そこで言葉を止める圭に石川は、そうですか、と再度俯いた。圭はわざと表情を明るく作った。
「でも、ひとみは大丈夫だよ、きっと。強い子だから」
石川はゆっくり顔を上げた。圭はああ、と頷く。
「それでも駄目な時は、絶対にアタシが何とかする」
言葉に力強く芯の通した。
圭はようやく石川の表情に安堵が灯ったのを確認して軽く笑った。
「ありがとね、ひとみの心配してくれて」
石川は微笑みを浮かべて首を横に振った。
「みんな心配してるんです。矢口さんも小川も、加護ちゃんや辻ちゃんも。よっすぃは好かれてますから」
妹を誉められて姉として悪い気はしない。圭はそう、と返すと微笑んだ。
50 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:14
食事を終えると、圭は悪いから、と払いたがる石川を宥めすかして全額を払って店を出た。車で石川を家まで送り届けてから、圭は帰途についた。
アパートに戻ると、もう9時をまわっていた。圭は朝にひとみは今日は夜勤ではないと言っていたことを思い出した。
「やばっ、石川とのご飯のこと言ってない…」
鍵を差しこんだところで圭は気付いた。
夕飯はひとみの当番だ。ひとみが夜勤ではない日は基本的に一緒に食事することにしている。
刑事という職業柄、忙しい時期もある圭がひとみとコミュニケーションを取るために決めた約束事だった。
もう9時だが、ひとみのことだから自分も食べずに待っていることだろう。
そんなひとみの健気さが少し照れ臭いが、やはり今の状況では後ろめたさが先に立つ。
そっとドアを開けて中を窺う。リビングの電気はついていた。微かにテレビから音が漏れている。圭はそっと靴を脱いで音をたてないように忍び足でリビングを覗いた。
付けっぱなしのテレビではドラマをやっていた。圭は視線を移した。
ダイニングテーブルの上には二人分の料理が並んでいた。全ての皿にサランラップがかけられている。そして、その皿を避けるように突っ伏して、ひとみが眠っていた。
51 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:15
「ひとみ」
圭は呟いてリビングに入った。鞄を置いて上着を放るとそっとひとみの傍に近寄っていく。
「待っててくれたのか…」
圭はさらさらとした柔らかいひとみの髪を撫でる。指で掬うように遊んでやる。
指の隙間を通っていく真っ直ぐな髪はまるでひとみ自身のようだった。
ひとみの幼い寝顔に圭はふふ、と笑みを零した。
「可愛いヤツめ」
すると、まるでその言葉に反応するようにぴくんとひとみの肩が揺れて、んん、と唸り声が漏れた。そして、ゆっくりと体が起きあがった。
「あれ、圭ちゃん?あれ?」
ひとみは周りを見回すと、慌てたように立ち上がった。
「あ、ごめん、寝てた。すぐ温め直すねっ」
「いいよ、慌てなくても。さっき帰ったとこだから」
皿を電子レンジに放りこむ背中に声をかけるが、いいから、とひとみは取り合わない。
さすがに梨華と食事を済ませたなどとは言えなかった。なにしろ待っていてくれたのだ。
幸いまだ腹に余裕はある。わざわざ待ってくれていた可愛い妹を思えば苦ではない。
52 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:15
「最近遅いね。仕事忙しいの?」
ダイニングの椅子に座るとキッチンからひとみの声が飛んできた。圭は唸った。
「うーん、実はある事件、任されてねぇ…」
「ふうん…」
少し不満そうな声色でひとみは口を尖らせた。
「仕事ならしょうがないけど…そうじゃない日は早く帰ってきてよ?」
「何よ?寂しいの?」
キッチンから何かが落ちる音が響いた。圭はくくっと笑いを噛み殺した。
「あーもうっ、圭ちゃんがバカなこと言うからっ」
キッチンからひとみの怒鳴りが響いてくる。圭は得意げに笑った。
「ははっ、照れるなって」
「照れてないっ、バカっ」
真っ赤になっているひとみの顔を想像して圭はまた笑った。ひとみがまだ赤みの引かない顔で皿を持ってきた。少し乱暴に温め直した料理を並べていく。
ひとみが向かいに座ったことを確認すると、圭は頬杖をついてひとみの顔をじっと見つめる。目が優しくなるのが自分でも判る。気持ちが和らいでいく。
「姉離れが出来ないねぇ、アンタは」
「…姉離れなんか…してやんないもん…」
口を尖らせて言い返すひとみに圭はふふ、と笑ってやった。
「いただきまーす」
相変わらずひとみの作る料理は絶品で、少し膨れた圭の腹にも躊躇なく吸いこまれていった。
53 名前:2nd.夜光虫 投稿日:2004/11/26(金) 20:16
「どんな事件なの?それって長くかかるの?」
ひとみが唐突に切り出した。
「いやあ、実は再調査のやつでね」
圭はトンカツを口に放りこんだ。事件の輪郭を思い出す。
「放火事件。なんか一回は事故として終わったんだけど、再調査で怪しいところが出たから」
「そんなことするの?」
「ううん、今回は特別らしい。最近、警察のメンツがヤバイからってうちの署に押しつけられたやっつけ仕事」
へぇ、と興味なさそうに唸るとひとみは烏龍茶を一気にあおった。
「なんか被害者の娘が行方不明でね、今日もその家に行ってきたんだけどおかしいことだらけって感じ」
圭はやれやれと首を竦めた。ひとみはじっと俯いてから、顔を上げた。
「…つまり、長くかかるってこと?」
「ああ、まあね」
圭が頷くと、ひとみはふん、と拗ねたように鼻を鳴らした。圭は呆れたように笑った。
「大丈夫。すぐに終わらせるよ。こんな寂しがりの妹がいちゃ安心して仕事出来ないしね」
「う、うるさいなっ」
圭はまたからからと笑ってみせた。ひとみの顔を覗き込む。
「今夜は一緒に布団で寝てやろうか?」
「もー、バカッ」
ひとみは机を叩くようにして立ち上がると、さっさと皿を持ってキッチンへと逃げこんだ。圭はその様子を見て笑っていた。
きっと何も変わっていない、と圭は思った。
梨華との話のような不安など何もない。ひとみは真っ直ぐなまま、純粋なまま、何も変わっていないのだ。
皿を洗う大きな背中を見ながら圭は微笑した。

54 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/26(金) 20:16
 
55 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/26(金) 20:16
 
56 名前:chaken 投稿日:2004/11/26(金) 20:23
第2話「夜光虫」終了です。

>24様。ありがたいお言葉をありがとうございます。待たせました。
>25様。期待外れにならないように頑張ります。
>26様。ありがとう。これからもよろしくお願いします。

皆さん期待して下さって本当にありがとうございます。これからもよろしくー。
57 名前:wool 投稿日:2004/11/27(土) 14:40
初めまして。
素晴らしい文才に言葉がありません。よしごまの妖しい雰囲気に引き込まれます。
そして、アンリアルな設定も最高。後藤さんに魅せられてます。

次回更新も頑張ってください!!
58 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/27(土) 16:58
謎だらけで続きが早く読みたくなる作品ですね。
頑張ってください。
59 名前:名無し25 投稿日:2004/11/28(日) 04:42
す・・す・・すっごいおもしろいです!
謎が謎を呼ぶって感じで・・・
これからみんなどこへ向かっていくのか?
続きが楽しみです。
60 名前:3rd,偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:26



天井から吊り下げられている裸電球はもうすでに寿命を迎えていてその機能を失っていた。
人工の光を失った薄暗い室内を照らすものは窓から差しこむ薄ぼんやりとした月光のみだ。
新宿の空の色は闇というよりは少し明るい。黒というより紺色にも近いような色である。しかし、その紺色は闇よりも深い闇を称えており、吸いこまれそうな神聖さがあった。
夜空に星はなく、ただぽっかりと黄金の月が浮かんでいた。
そして月明かりのもとに二人の影が浮かびあがる。ベッドの上で二つの肢体が絡み合っていた。
真夜中に少女は踊る。
「ごっちん、ッ…」
ひとみは真希の体の熱を体で感じとりながら、真希に呼びかける。
真希はひとみの言葉には答えずにただ艶かしい喘ぎを上げるのみだった。
ひとみは指先で熱い真希の奥を掻きまわしながら、その大きな瞳で真希を見つめる。
真希はその端整な顔を歪ませながら、まわした手でひとみの背中に爪をたてた。
鮮やかなネイルの施された長い爪がひとみの背中にぐいと食い込んだ。鈍い痛みが背筋を伝って全身に渡っていく。しかし、ひとみはその痛みさえ心地良く感じてしまう。
「いいよ、ほら」
低いひとみの呟きが真希の耳に届くと同時に、真希は甲高い嬌声を上げると共にその肢体を撓らせて、ひとみの腕の中で果てた。
絶頂を終えてからも断続的に真希の体は痙攣している。
ひとみは静かに指を引き抜くと、愛液に塗れたその指を真希の眼前にさらす。
真希はごく当然のようにその指を口に含み、舌を絡ませていく。
61 名前:3rd,偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:27
「どう、だった?」
ひとみが不安げな口調で問いかける。この習慣は二人が初めて体を重ねた頃から変わらなかった。
自分の性技が拙いことを自覚しているひとみは、真希が本当に行為に満足しているのかという不安を常に抱えていた。
真希はひとみの指から口を離すと、その端整な顔を崩した。
「よっすぃ、やっぱすごい…。すんごく気持ち良かった…」
真希のこの返答もまた決まり文句になっていた。
ひとみは安堵の笑みを浮かべると、ベッド脇の棚に立てられている酒瓶を引っ掴んで一気に煽った。棚には酒瓶の他に煙草、ライター、灰皿が置かれていた。
アルコールがひとみの喉を通って、渇きを潤していくとともに焼けつくような熱を与えていく。ふと真希が腕に甘えるように鼻を擦りつけた。
「あたしにも飲ませてよぉ、よっすぃ」
ひとみは真希に振り向いて酒瓶を棚に戻すと、真希の唇を奪った。ひとみの唾液と酒が混ざった液体が真希の中に流れ込んでいく。
ひとみは自分が口に含んだ液体を真希に移し終えると静かに唇を離した。ごくん、と液体が真希の喉を嚥下する音がひとみの耳に届いた。
「美味しい…」
「…どっちが?」
「どっちも」
二人はどちらからともなく視線を絡ませて悪戯そうに笑みを浮かべた。真希が媚びるようにひとみを見上げた。
62 名前:3rd,偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:27
「タバコ、吸ってもいいよ」
「ん?」
「だからタバコ」
「なんでさ?」
「エッチの後にすぐタバコ吸うヤツって嫌いだけどさ。あたし、よっすぃのそういうとこ見てみたいから」
ひとみは不可思議そうに眉をよせて首を捻った。
「…よくわかんない」
「わかんなくていいよ」
真希は柔らかく笑った。
ひとみは棚に放られている煙草を手にした。そして手馴れた手付きで煙草に火を付けると深く煙を吸いこんだ。
主流煙がひとみの肺を満たしていく。そして真希のほうをちらっと見た。
「これでいいの?」
「うん、バカっぽくていいよ」
うー、とひとみは不満そうに唇を尖らせた。そして甘く睨むように真希を見た。
「やっぱわかんない」
「よっすぃは何しててもカッコイイってことだよ」
「ふぅん…」
「好きな人のカッコ悪い姿も見たいの。あたしって子供だから」
「そういうもんなの?」
「そういうもんなの」
真希は優しい表情でひとみを見上げた。
はぐらかされている、とは判ったが、その言葉にどのような意味が込められているのか、いくら思考を廻らせても察することを出来なかった。
結局、誤魔化されたままでいることにした。察したところで特に何も変わらないと思った。
真希は半身を起こして片手に持った煙草を燻らせるひとみの横に体を寄せて寝そべる。
二人の手はしっかりと繋がれていた。手を繋いだ影絵は月光に投射されて、壁に浮かび上がっていた。
63 名前:3rd,偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:27
二人が初めて体を重ねたのは、真希が風呂でひとみの眼前で手首を切った、あの日だった。
あの後、ひとみは布で真希の傷口を縛り、応急処置を施した。傷口はやはり浅く、体の機能には支障もなかったようだった。
それから、体を濡らしたまま、真希はひとみを見上げた。16という年齢には相応ではないように思われる、潤んだ瞳に潜む妖しい魅惑の光。
ひとみは誘われるままに浴室で真希を抱いた。
女性はおろか男性との経験もないひとみは戸惑いながらの行為だったが、真希は優しくひとみを受け入れてくれた。
そして、夢幻の中へと体を沈めているような感覚と強烈な快感にひとみは一気に囚われた。
まるで夢心地だった。
ぼんやりとした意識の中で与えられる快感と昂ぶる欲情が混ざりあって、自分が分からなくなる。そして自我を放出するように行為に没頭していく。
初めて覚えたセックスの味は果てしなく甘かった。今では毎晩のようにセックスに暮れている。
しかし、ひとつ、真希の美しい裸を見て、気付いたことがある。
真希には傷跡があった。
華奢で細い肩から鎖骨にかけて引っ掻き傷と火傷の跡のようなものがあった。
ひとみは、その傷のことには触れなかった。ひとみがその傷に意識をやるだけで敏感な真希は話をはぐらかす。
きっと聞かれたくないことなのだろう、と判断して追求は一切しなかった。それでいい、と思った。
64 名前:3rd.偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:28
ひとみが酒と煙草を覚えたのは真希の影響だった。
どちらもきっかけはよく覚えていなかった。ただ、真希の部屋にあったのをごく自然にひとみも手を染めていった。
酔いに身を任せながらの真希との行為は理性の壁を取り払って二人をさらなる快楽に導いてくれる。煙草はあまりひとみは好きではなかったが、時折口寂しくなった時に咥える程度だった。
快楽は本能を呼び覚まして、身体と精神を支配していく。
それはまるでウイルスのように侵食して、体中を侵していく。
ひとみは自宅を空けることが多くなっていた。早朝に家に帰ると待っている圭の咎めを受けながらも、日増しに外泊は増えていた。適当な言い訳を作ってなんとかごまかしていた。
最近のひとみの生活はアルバイトから真希の家に帰って、そのまま泊まってから早朝に帰宅して学校に向かうというものだった。
この繰り返しはもうかれこれ一週間ほど続いていた。ほとんど自分の家に入り浸るひとみを真希は甘んじて受けいれてくれていた。
真希との出会いの瞬間に感じたひとみの予感は的中していた。もう真希から離れることが不可能になってしまった自分の体をどこか嬉しくさえ思う自分がいる。
まるで文字通りにひとみは真希に溺れていた。
真希がひとみの腕をつついた。ひとみは視線を下げて、ひとみの腕の側面に指先で円を描く真希を見つめる。
「もーいっかい、しよ?」
「ん、したくなった?」
「メチャクチャになりたくなった」
ひとみはにっこりと笑むと、煙草の先端を薄い灰皿に押しつけて火種をかきけした。灰皿の上に一瞬だけ火花が散った。
真希が上目遣いにひとみを見つめる。
「今度は一緒に、気持ち良くなろ?」
真希はひとみの股間を弄ろうと布団の中で手を蠢かせる。ひとみはその手を優しく止めると、再び真希に覆い被さった。
夜の闇に一筋の月光が照らしだす中、二人の少女は快楽に狂い踊る。
時間も理性も置き去りにしたまま、二人は舞い躍る。忘れ去られた時間の中をただ舞っていた。
65 名前:3rd.偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:28


消えかけた蛍光灯の弱々しい光が薄暗い廊下の唯一の灯りだった。
通路の側面にも窓もなく、明かりとりさえもない。それが余計に建物の古めかしさを不気味に演出していた。
圭は片手にファイルを抱えたまま足早に廊下を駆け抜けていった。一般の署員でも滅多に足を踏みいれることのない署の地下廊下だ。
新宿西署の地下には拘置所が置かれている。そしてその奥まった場所にもう一つの施設が存在する。
科学捜査室。
あまり一般的に知られていないこの施設は司法解剖や証拠の検証などの捜査を科学的に行っている施設だ。またこの施設には過去の事件の資料や死亡診断書、解剖結果の資料などの捜査資料が蔵書されている。圭がこの施設を訪れる目的はこの蔵書だった。
圭は手の内にあるファイルをもう一度確認して頷いた。
例の放火事件の捜査資料をまとめたものだった。
死因の判定は科学捜査室で行われていた。そして担当者の欄には福田明日香と記されていた。
圭はその名前を確認すると視線を落として見慣れない名前に目を止めた。昨晩からずっとこの名前が頭から離れない。
「市井紗耶香…こいつが調書を書いてる。しかし、聞いたことないな…市井なんて…」
取り調べの担当者の欄には市井紗耶香と記されていた。
この名前には昨日の晩に資料の見直しの最中に気付いた。そして後藤邸で抱いた疑念にこの名前は確実に絡んでいることを直感した。
ただ妙だな、と思ったのは市井、という名前を聞いたことがなかったからだ。放火の担当は強行犯係だ。ならば、市井は強行犯係にいたことになるが、圭はその名前を聞いたことがない。
退職でもしたのか、出向にでもなったのか、初めて聞く名前だった。
66 名前:3rd.偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:29
黒い重厚なドアの前に立つと妙な威圧感を受けた。まるでそこから異世界に繋がっているような寒気のする錯覚さえ覚える。
圭はドアの上に記されている文字を確認した。
科学捜査室 兼 資料室。
圭はドアノブに手を掛けてゆっくりとドアを押し開けた。
部屋の中には四角い広い空間が広がっていて、その壁に幾つかのドアが確認できた。正面に一つ、圭から左右の壁に一つずつドアがついている。ドアの上にはプレートがあった。正面のドアには科学捜査室。左右にはそれぞれ資料室、蔵書室のプレートがかかっていた。
圭は空間を見渡すが人影は確認できなかった。圭は手持ちぶさたにその空間を歩きはじめた。床には一面灰色のマットが敷きつめられている。天井には青白い光を放つ蛍光灯がついていた。椅子も机もないただの空間だった。
突然、正面のドアが開かれた。圭は驚いてドアに視線を向ける。
「どなたですか?何をしてるんです?」
福田明日香は開口一番、訝しげに圭に言った。落ちついた声色だった。白衣をまとっているその姿は圭より少し小柄に見えた。福田はその小脇にいくつかのファイルを抱えている。圭はすぐに頭を下げた。
「初めまして、吉澤と申します」
圭を一瞥すると福田は顔を背けて歩を進める。圭は慌ててあとを追う。
「あの、福田明日香さんですよね?」
圭の言葉に答えずに福田は蔵書室のドアに手を掛けて中に入っていく。圭は慌ててそれについて入る。
室内は書物や紙に溢れていた。両脇に置かれている棚からは書物が溢れ出して中央の長机の上には乱雑に書類が散らばっていた。
福田は抱えていた紙束を机に放ると圭に向き直った。
「そうですけど」
福田は粛然とした口調で答えた。
67 名前:3rd.偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:29
福田明日香は科学捜査室の室長だった。
署内では有名な人物だ。25歳の若さにして科学捜査室の最高責任者という地位を担う実力もさることながら、その性格の難解さも有名だった。
人を寄せつけない雰囲気を持ち合わせて、取っつきにくいと評判を受けている。
圭が警備課にいたときから有名で噂は聞いていたが、警備課では資料請求やらには縁がなく面識はなかった。
3年前、圭が刑事課に異動してからも機会に恵まれず会う機会はなかった。
そのため、圭が福田に面会するのはこれが初めてだった。
福田はそのあどけなさを残した顔に無表情を貼り付かせて圭を見ている。
「あの、調べ物をしたいんですけど…」
申しわけなさそうに圭は福田の様子を窺う。
「どうぞ?別に私に許可を取らなくてもいいですよ」
即座に、呆れたように福田が答えた。
基本的に資料室に蔵書されている捜査資料の閲覧は開放されていて、科学捜査室の室長である福田に許可を取る必要はない。しかし、圭には福田に許可を取らなければならない理由があった。
「死亡診断書の閲覧を許可して欲しいんです」
圭は表情を引き締めて言った。福田の表情は変化をなさない。圭は顔を強張らせたまま福田を見つめる。
捜査資料の閲覧の自由には例外が存在する。
死亡診断書の閲覧についてだけは科学捜査室長の許可を必要とするのだ。
捜査資料の中でも重要書類に位置付けされる死亡診断書は科学捜査室室長の許可を得て期限つきの貸しだしを許されることになっている。
68 名前:3rd.偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:30
「それなら請求して頂ければよかったのに」
福田は無表情を浮かべたままだった。しかし、圭の表情は強張ったまま変わらない。
死亡診断書の閲覧を希望する場合、通常であれば科学捜査室に資料を請求すると、科学捜査室の職員が選別した資料が課に届けられる。しかしそれをしなかった圭には思惑があった。
後藤邸を訪れた際に生まれた小さな疑念。その立証のためだ。
「聞いてますか?」
福田が訝しそうに尋ねる。圭は慌てて頷く。
「ああ、そうですね。でもここまで来たので手を煩わせたくないですから、自分で捜して良いですか?」
「はあ、いいですよ」
福田は訝しさを露わにしながら気のない言葉を返した。二人は乱雑した蔵書室を出て、資料室のプレートが掛かったドアに歩を進める。
「何の事件を調べるんですか?」
資料室の鍵を開けながら、福田が何気なく尋ねた。圭はなるべく自然を装う。
「二年前の放火事件ですよ」
その言葉に福田の鍵を開ける動作が一瞬停止した。
動揺、だろうか。圭は注意深く福田を観察する。
「後藤直樹っていう被害者のことについて調べてるんです」
福田の体がびくり、と小さく、しかし確かに揺れた。福田の動作には間違いなく動揺があった。圭は自分の抱いている疑念に微かな確信を加えた。
「しかしあの事件は煙草の不始末による事故として処理されたはずですが」
自然を装った口調に顔を覗かせる心の跳ね。圭の確信はだんだんと深まっていく。
「よく覚えてますね。再調査で事件の可能性が浮上してきたんですよ」
「そうですか」
なかなか鍵が開かないようだ。福田の表情には焦燥が募っている。しかし動揺の理由は鍵だけではないのは明白だった。
69 名前:3rd.偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:30
ようやくドアが開いた。圭と福田は部屋の中に足を踏み入れる。
だだっ広い空間に身長より高い棚が幾つも並べて置かれている。それは図書館といっても過言ではない蔵書の数だった。この場で資料を確認するためだろう、椅子と机が何組か置かれてあった。福田が室内の案内を始める。
「向こうがビデオです」
指で示すのは奥の棚郡だ。棚の前面に貼られたシールがビデオと示していた。福田は奥から順に棚の区画の概要を説明していく。
「で、死亡診断書はこの一番手前の棚です」
福田はわざわざ回りくどく全ての区画の説明を添えた。その不審な行為は時間を稼ぐという仮説のもとに福田の動揺を示していた。圭の疑念はさらに真実味を帯びる。
「ありがとうございます。手伝ってもらえますか?資料捜し」
圭の言葉に福田は視線を上げて圭を見つめる。その表情には焦燥と不安が確かに表れていた。
「わかり、ました」
もうその口調からは先ほどまでの落ち着きは消滅していた。手前の棚に歩き始める福田のあとについていく。圭はその途中で机に後藤真希の資料を置いた。
そして二人は棚を挟んで向かい合って棚におさめられている資料の捜索を始めた。
70 名前:3rd.偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:32
「死因は焼死、調書にはそう書いてありました」
圭は少し離れた場所で棚をあさる福田に声をかける。
今の位置のままでは福田の様子が見えない。
絶対に福田から気づかれない位置で福田を観察しなければならないのだ。
息を潜めて、そっと本の隙間から向こう側にいる福田の様子を窺う。
「つまり、後藤は逃げ遅れて火事で死んだ」
福田は手を止めないままで無言を返す。圭はその様子にも構わない。
「でも、後藤の家は一部が焼失しただけできちんと残っていました」
「そうなんですか」
福田は必死に棚から目的のものを探しているはずだ。圭の考え通り、隙間から覗く福田の姿はやはり何かを探している。
「それに、不審なことがもう一つ」
「……」
圭はじっとタイミングを待った。言葉を溜めて、言うべき時にきちんと言わなければ、福田を追いつめることなど出来ない。
隙間から圭はじっくりと福田の様子を窺う。
福田は目的のファイルを発見したようだ。あるファイルを棚から引っ張りだした。
そして、そのタイトルをもう一度確認すると、注意しながらそのファイルを内脇に挟んで固定した。
彼女はそのまま自分の身近にファイルを抱きしめる。
圭はその福田の様子を見ながら必死にタイミングを計る。
福田がふう、と息をつく。
よし、今だ。
71 名前:3rd.偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:33
「見つかりましたか?」
圭は隔てる棚を回りこんで福田のほうに近づいていった。
「ええ」
福田は動揺を消した毅然とした態度で圭に対した。
「火事の場合は、建物の焼失が一部であっても十分に焼死は有り得ます。調書にそう書いてあったのは単なるミスでしょう。それにこの事件の場合、火元は被害者、後藤の煙草の不始末。おそらくは後藤の極めて接近した場所で火が起こっていま…」
「後藤の娘が姿を消しているんです」
遮った圭の言葉に福田の動きが停止した。硬直した福田をさらに追いつめる。
「それがもう一つの不審なことです。この事件に関して、死因の特定はあなたの担当でしたよね、福田さん」
圭の言葉とともに福田の脇から先ほどのファイル、福田の目的のものが零れ落ちた。福田はゆっくりと圭に視線を合わせた。
「知ってたん、ですか…」
福田はそう呟くと諦めたように俯いた。圭はその様子を見て疑念が確信に変わっていく感覚を感じ取った。
「ええ、もう仮説は立てています」
圭も片脇にファイルを抱えていた。まず、圭はこのファイルを福田に示した。
「これは後藤直樹の死亡診断書です」
そのファイルには確かにそう記されていた。圭はそれを示すと、続いて福田の落としたファイルを拾った。そしてそのファイルのタイトルを確認する。
「後藤直樹の死亡診断書…。たぶん、福田さんが落としたこれが本物の後藤の死亡診断書なんでしょう」
圭は自分のファイルと福田の落としたファイルを並べて明日香の前に示した。両方のファイルのタイトルは、後藤直樹死亡診断書、とまったく同じ表記がなされていた。
「さっきアタシが見つけた後藤の死亡診断書には焼死と記されていました。でも、後藤直樹の死亡診断書はもう一つ存在する」
圭は自分の見つけたファイルを床に落とした。圭の手に残ったのは福田が隠し持っていたファイルだ。
圭はそのファイルをめくっていく。そしてあるページで指を挟んで止めた。
「死因は頭部への打撲…。これが後藤直樹の本当の死因ですね?」
死因とその解説が書かれたページを福田に示す。
福田はうなだれるように頷いて肯定を示した。圭の疑念はついに事実に変化する。
72 名前:3rd.偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:33
圭の抱いた疑念とは捜査資料によると全焼したはずの後藤直樹の自宅が焼失していなかったことから始まった。
しかし、それは明日香の説明通り後藤の焼死という死因を覆す証拠にはなりえない。
そのため、この時点では圭も自分の推理を否定した。
しかし、そこに後藤真希が意図的に姿を消している可能性があるという事実が加わった。
そのせいで圭は結局、疑念を拭いきれずに科学捜査室を訪れた。
そして福田の肯定により圭の推理が証明された。
圭の推理とは、まず後藤直樹の死因についてだった。
確かに火事が発生して住人が死んでも家が残るという案件は珍しくない。
しかし、またしても後藤真希の失踪が安易な推理を許さなかった。
そして深読みともいえる思考の末、圭はある結論に行きつく。
取調べの報告書に書かれていた後藤の自宅が全焼という事実は間違いではなく、故意だったのではないか。
つまり警察の内部の人間が不正に調書を改ざんして、事故死という処理を施したのではないか。
これがこの事件に圭が抱いた疑念の全貌だった。
そして圭の考える、警察内部の人間による捜査資料の改ざんに福田が一役買っていることは間違いなさそうだった。
「後藤直樹は事故死ではありませんよね?」
「…ええ」
福田は俯いた顔をさらに深く沈めて首を頷かせた。
「話してもらいましょうか。事件のこと、市井紗耶香のこと、後藤真希のこと」
圭の静かな口調に福田は項垂れるように肯いた。
73 名前:3rd.偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:34


早朝は澄んだ空気に満ちていた。
ガチャ、と玄関の辺りで不自然な物音がリビングでソファに座っていた圭の耳を掠めた。
ドアの開く音だ、とすぐに圭は確信する。
眠気を覚ますための5杯目のコーヒーを飲み干した頃だった。
圭はちらっと壁時計を見上げた。
6時を少し過ぎていた。
努めてひそめているような足音がするすると廊下を通る。そしてあえなく、足音が軋んだ。
「…どこいってたのよ。もう朝よ?」
あえて抑揚をなくして声を掛けた。
ひとみが朝に帰宅することは珍しくなくなっていた。
前日の仕事が嵩んで深夜に帰宅した圭はいい機会だ、とひとみが帰るまで待ち構えていたのだ。
しかし、注意をしようというわけではない。
家を空けることは多くなったが、会話が減ったわけでも、明るさがなくなったわけでもない。確かに雰囲気が少し変化したのには気付いていたが、圭は特別に心配してはいなかった。
ひとみを待っていたのは最近、すれ違いが多くなっているので、少しひとみと軽口を叩きたくなったのだ。
「ほら、おいで」
圭が促す。
停止した足音はゆっくりとリビングに戻ってくる。
ひとみはリビングに顔を覗かせて、圭の方を窺ってくる。圭はリビングの戸から顔を出すひとみに視線で促す。
74 名前:3rd.偽装 投稿日:2004/12/03(金) 19:35
ひとみは圭の正面の椅子に腰を下ろした。そして、笑みを浮かべる。
「いやー、友達がさー、なんかカレシにふられて落ちこんでたからさー。カラオケでオールしちゃったんだ。電話するの忘れててさ、ホントゴメンね」
「そう…。友達付き合いも大切だけど…電話ぐらいしなさいね」
圭の窘めにひとみは頷きを返したあと、今度は悪戯な瞳で圭を見た。
「でゆうか、ほんとは淋しいんでしょ、圭ちゃん。もー、そうならそうって素直に言えばいいのに」
「誰がそんなこと言ったってのよ」
圭が呆れたように言うと、ひとみは軽く首を竦めてふう、とこれ見よがしに肩を竦めてみせる。
「でも圭ちゃんもいーかげん妹離れもしなきゃ、だよ。彼氏出来ないでしょ?…なーんて、出来ないのはウチのほうなんだけどね。姉離れも彼氏も」
ひとみは片目を瞑ってウインクをしておどけてみせた。その仕草に圭は笑みを漏らした。
やはり、妹との軽口は楽しい。微妙な周波数の違いが心地良いのだ。
「ばーか。早くシャワー浴びておいで」
圭の優しい語調の言葉にひとみは満面の笑みで頷いた。そして、少し目を細めた。
「ねぇ」
「ん?」
「…ウチね、圭ちゃんのこと、大好きだよ?」
圭は目を見開いてひとみを見た。ひとみはにっこりと笑った。
そしてもう一度、ぱちっとウインクしてみせた。
「…ありがと」
圭はぽんぽんとひとみの頭を撫でた。
「さ、早く浴びてきな。学校遅れるよ」
促す圭に頷いて、ひとみはシャワールームに向かう。
「大好きだよ…」
震えた声が言った。しかし、細い声はその途中で消えてしまった。
「ん?」
圭が聞き逃した言葉を問うと、ひとみは一瞬だけ泣きそうに表情を歪めて「…ううん」と元の笑顔に戻った。そして、そのままシャワールームへと消えていった。
今の表情は何だったのだろう。
こめかみがぴりぴりと痺れるような感覚だった。
しかし、それはすぐに収まり、疑問も宙に溶けていった。結局、そのまま追求はしなかった。
そして、この日以来ひとみは圭の前から姿を消した。

75 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/03(金) 19:35
 
76 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/03(金) 19:35
 
77 名前:chaken 投稿日:2004/12/03(金) 19:43
第3話「偽装」終了です。

>57様。いやいや、誉め過ぎですwありがとうございます。
>58様。謎も徐々に明らかになっていきます。お楽しみに。
>59様。レスありがとうございます。ここからだんだん動き出していきます。

78 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/03(金) 23:17
更新乙です。
よしごま好きなんだけど、よっすぃには純粋で普通の子でいてほすぃ・・・
79 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/04(土) 01:16
更新お疲れです。
妖しくてなまめかしい後藤さんから目が離せません。(壊れている後藤さんが好きです)
80 名前:wool 投稿日:2004/12/04(土) 12:23
更新お疲れ様です。
誘う後藤さんに溺れていく吉澤さんと、圭ちゃんの前では幼く素直な妹の吉澤さん。そのギャップが上手く描かれていて、脱帽。

今後の展開も楽しみにしております。
81 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:04



午後6時を回っても刑事課の人影は消えない。
被疑者を引き摺りながら取調室に消える者、机に貼りついて書類の作成に勤しむ者。
忙しく動く人影が狭々と刑事課を行き来している。
これでも、まだ穏やかなほうで仕事のピーク時はまさに戦場というにふさわしい場所に変貌する。
圭は慌しい刑事課の中を横切って書類の確認に追われる寺岡の机の前に立った。
「寺岡さん」
「放火事件はどうなってるんだ」
寺岡は書類から顔を上げずに尋ねた。圭はひとつ重い息を吐く。
「事故じゃないですね。でも、今のままじゃどうにもなりません。後藤直樹の娘、後藤真希に話を聞く必要があります」
「…事故じゃない、か。後藤の娘の消息が必要なんだな?」
寺岡が尋ねると圭は疲労の貼りついた顔を縦に下ろした。
「そうか。なら各派出所に協力を促しておく。お前は後藤の娘の消息の捜査に専念してもらう。手掛かりくらいは掴めたのか?」
「…いえ、それが全く手がかりも…」
「ふむ…。上には捜査中と報告しておく。無理はするなよ」
はい、と力なく返事を返して、圭は疲れた体を引き摺りながら強行犯係の区画にある自分の机に向かう。そして座り潰した椅子に体重を預けて深く腰を沈めた。
隣りの安倍が書類作成の手を一旦休めて覗きこんでくる。
「どした?疲れてるみたいだけど…」
「…そう、見える?」
「当たり前」
圭は力なく乾いた笑い声を立てた。
「はは、なっちには隠し事、出来ないな」
「本当に大丈夫?」
「…そんなにキツそう?」
絞った声は弱々しかった。安倍は頬杖をついて圭の顔を覗きこんだ。そして、包みこむような優しい表情で頷いた。
「ん、なっち的にはかなり辛そうに見えるな」
「そっかな…。おーい、紺野」
圭は盗犯係の区画に向かって呼びかけた。慌てた風に紺野は駆け寄ってくる。
「後藤真希の消息は?」
圭は少し早口に尋ねた。
「それが、まだ…」
「んー、そっか…」
「まるで足跡消すみたいに、手掛かりも見つからなくて…」
「ん、わかった、ありがと」
「いえ…」
申し訳なさそうな紺野を確認すると、圭は気にすんな、と首を振った。紺野は圭に詰めよった。
82 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:04
「なんでこの事件が事故じゃないって確信できたんですか?」
「ん」
圭は小さく漏らして、真っ直ぐに自分を映す紺野の瞳をじっと見つめ返した。そして視線を落とした。
「証人がいるんだ。会って来た」
「えっ」
圭の言葉に安倍と紺野の表情が驚きに歪む。圭は俯いたままじっと視線を沈めていた。
「言わなくてごめん、紺野。これから空いてるかな」
「え、あ、はい、もちろん」
紺野は慌てて頷く。圭はそれを確認すると顔を上げた。
「じゃ、全部話すよ。居酒屋でも行こうか。なっちも来るでしょ?」
「ああ、うん」
安倍が頷くのを確認すると圭は重い腰を上げた。鉛でも入れられたように体の奥が重たかった。
よたよたと刑事課を後にする圭に二人が慌てて追いかけてきた。
83 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:05



床には人で構成された絨毯が敷き詰められている。熱気と喧騒、そして大音量の音楽が溢れる建物の中。一階のフロアは踊る人波で埋め尽くされていた。
真希とひとみは『drunk』というクラブにいた。アンダーグラウンドでは有名なクラブだった。
真希が下の階で踊る人の波をその冷たい瞳に映し出しながらふん、と鼻を鳴らす。
「よくあんな中で踊れるよね。私、人込みって嫌い」
真希はそう吐き捨てるとひとみの答えを待たず脇に置かれている背の高い丸椅子に腰を下ろした。
「よっすぃはどう?」
「ん、人込み?」
「うん」
「どうかなぁ…好きとは思わないかな」
「でしょ?嫌いだなぁ。なんか溺れそうになっちゃう」
「溺れそう?」
聞き慣れない言い回しにひとみは聞き返した。真希はうん、と頷いた。
「人に?」
ひとみはまた尋ねた。ふふ、と真希は笑みを漏らした。
「ん、いっぱい人がいたらね、自分が消えてなくなりそうで怖くなっちゃうの」
「ふぅん…」
ひとみは下の階に視線を巡らしながら真希の言葉を聞き流した。丸椅子に座ったまま真希は地に付かない足をぶらつかせた。
「ね、よっすぃ…キスして」
「…ふふ、またいきなりだね」
「何で?無性にキスしたい時ってない?」
「ん…あるよ。今がそう」
ひとみは微笑むと、そっと真希の唇に口付けた。
キスはだんだんと深くなっていく。舌が大胆に絡み合う。喧騒の中、漏れる吐息だけが二人の聴覚を支配した。
「ごっちーん。アツいねぇ。彼女?」
背後からの声にひとみは真希の唇を開放して振り向いた。
そこには少女が立っていた。
薄暗い照明の中でもすでに目が慣れていたひとみは少女を観察することが出来た。
84 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:05
耳を隠すほどの明るい茶髪がまず目に入った。少し吊り上がった二重の目は気が強そうな印象を与えた。口の両端をつりあげて笑っているが、その瞳に笑みは浮かんでいないように見える。
笑っていない笑顔。ふとひとみの脳裏に浮かんだ。どこかで聞いたことのあるような言葉だが、ひとみは漠然とそれはこんな笑顔のことを言うのだろうな、と思った。
彼女はひとみを舐めるように見まわすとふーん、と呟いた。その視線はなんだか粘着質でやけに尖っていた。
「ふじもってぃー。久しぶりぃ」
真希が笑顔で呼びかけた。
「おう」
藤本美貴もまた例の笑っていない笑顔で答えた。顔つきは少し冷たく見えるが、その笑顔もやはり美人だった。
「持ってきたよ、例のヤツ」
藤本はジーンズの後ろポケットを探ると、手の平ほどの密封されたビニール袋を取り出して真希に示した。
「ありがとねえ」
真希は椅子から腰を上げると、藤本の前まで歩み寄ってその袋を受け取った。
「じゃ、私はこれで。足りるっしょ、それで」
「ん、わりいね」
「ホントだよ。これツケだからね」
「んあ、いつか払うよ」
「ハッ、期待しないで待ってる。じゃね」
「んー、バイバイ」
藤本は颯爽と人込みに紛れていった。
彼女は人込みは平気なのだろうか、ひとみは藤本の後ろ姿を見送ってから真希に視線を戻した。
「それ、何?」
真希は柔らかく破顔すると、その袋をひとみの眼前に晒した。その小さいビニール袋の中には赤いカプセルが二つ収められていた。
「ま、一言で言っちゃえば…」
「ん?」
「ラブ、ドラッグ」
「ど、らっぐ?」
「麻薬だよ」
あっさりとした真希の言葉にひとみは目を見開いた。真希は得意げに柔らかく微笑んでいた。
85 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:06



居酒屋のドアを横に引くと、熱気と喧騒が溢れてきた。
三人は揃って賑やかしい店内に足を進めた。
店内の席はほとんど埋まっているようだった。小さなテレビ画面では巨人戦を中継していて、中年のサラリーマンの注目を集めていた。
狭い店内を忙しく店員が動き回っている。すると、エプロンを着けた女性店員が三人に気付いた。
「三名様ですかー?」
「あ、はい」
威勢の良い声に圭が頷きを返すと店員が厨房の奥に振りかえった。
「三名様ご案内でーす」
厨房から太い声が返ってきたことを確認すると店員は再び圭たちのほうを振り向いた。
「カウンターがよろしいですか?お座敷がよろしいですか?」
店員の問いかけに圭は安倍と紺野を振りかえる。
「座敷でゆっくり話そうよ」
安倍が顎で店の奥の通路のほうを指した。
「ん、だね、そうしよっか。紺野もいい?」
「あ、はい」
圭が女性店員を振りかえる前に、安倍の言葉を聞き取った店員が奥を振り向いていた。
「三名様、お座敷でーす」
三人は店員の案内に従って、店内を横切って奥に歩を進めた。圭はその途中で店員に注文を言い渡した。
障子に仕切られた和室は三人が座っても持てあますほどの広さを持っていた。
86 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:06
三人は長四角の卓袱台にそれぞれ向きあうように座り、腰を落ちつけた。
圭の表情には疲労が貼りついていた。
安倍と紺野が心配そうに窺ってくる。気遣わせまいと圭は表情を和らげようとするが、どうも上手くいかない。
沈黙を保ったまま時間だけは緩やかに流れていく。それは和室という空間がそうさせるのか、沈黙がそうさせるのかは分からなかった。
とにかく沈黙は障子が開けられる音によって破れた。
「お待たせしましたー。ご注文の日替わり定食メニュー三人分です」
先ほどの店員が上がりこんできて、盆に乗った品々を机に並べていく。
この居酒屋の日替わりのメニューはグルメ雑誌でも取り上げられるほど美味しいと評判だ。圭はここに来る時は大抵、このメニューを頼むことにしている。
食欲を刺激する匂いを発しながら卓袱台に三人分の品が並べられる。品が卓袱台にすべて移されると店員は礼と伝票を残して出ていった。
「じゃ、とりあえず食べようか」
安倍は明るい口調で二人に呼びかけた。
「そうですね。美味しそうです」
紺野も乗じて明るい声をあげた。
二人の心遣いは痛いほど分かってはいたが、圭は自身の疲労と心労を拭うことは出来なかった。
食事は安倍と紺野の空回りの会話の中で進んでいく。安倍と紺野はずっと圭に労わるような視線を送ってきていた。
その視線を感じた圭は、ふう、と息を吐き、箸を置いた。ぎゅっと腹を括る。なつみと紺野も合わせるように箸を止めた。
「話そうか…事件のこと」
圭はそう前置きする。圭の意識が科学捜査室の資料室へと柔らかくループする。
87 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:07



「始まりは、真希の万引きからでした」
福田は俯いたまま語り始めた。圭は黙って先を促す。
「いや、本当は始まりなんてなかったのかもしれない」
福田のその口上で後藤真希の物語は解かれた。
「真希は父親の後藤直樹に虐待を受けてたんです」
突然の衝撃的な事実に圭の顔が強張った。圭の頭の中に写真の中の無表情な真希の顔が浮かんできた。
「…妻を亡くしてから後藤は酒に溺れるようになりました。そして酒に狂った後藤は真希に暴力を振るうようになった。一年も経てばもう虐待は日常になっていたようです」
「…それは妻を亡くしたショックでってことですか?」
「ええ。確かです。実際に私も真希の肩にタバコの跡を見ましたから」
圭はじっと視線を下げてタイル張りの床を見つめた。
ギャクタイ、という言葉が圭の中でやけに非現実に響いた。言葉は知っているし、社会問題としての漠然としてのイメージはあったが、実際にそれと向き合うのは初めてだった。
「父親の暴力と共に真希は非行に走るようになったんです」
明日香があっさりと言った。しかし、その奥底には深い感情が渦巻いていることが圭にもわかった。
「非行ですか?」
「ええ。とはいっても当時はそんなに酷くはなかったようです。万引きや喫煙などの軽犯罪です」
福田は上を見つめた。圭もなんとなしに視線を追う。
高い天井は骨組が剥き出しになっている作りだった。そのためか、冷房なしでもこの空間は涼しかった。
「そんな時、真希の万引きをある刑事が捕まえたんです。それが紗耶香です」
「市井紗耶香?」
その名前に圭は顔を上げて反応を示した。取り調べ担当者の欄にあった名前である。
88 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:07
「ええ、紗耶香は真希の取り調べ、事件の担当者です」
「…あなたは彼女のことを知ってるんですか?」
「はい。紗耶香はあなたと同じ刑事課、強行犯係の刑事でした」
圭は福田の言葉尻を聞き咎めた。
「…でした?市井、さんなんて、聞き覚えはないんですが…やはり、辞めたんですか?」
「ええ…」
含みのある声色で福田は呟いた。圭は追及を止めてとりあえず先を促した。
「真希は紗耶香に懐いてた。紗耶香は本当に人の良いヤツでした。偏屈な私にも優しく接してくれました。私が唯一署内で気を許せる相手でした。真希も紗耶香の人柄に惹かれたんだと思います」
福田は穏やかな微笑みを頬に刻んで感慨深げに市井紗耶香の印象を語った。
先ほどの無表情からは想像出来ない柔らかい微笑だった。
「真希とは面識があります。大人しくてあまり笑わない子だったけど紗耶香の前だけで笑顔を見せるんです。真希は虐待のことを紗耶香に話した。そしたら紗耶香は真希を自分の家に泊めた。幾らでもいていいからって」
「匿ったんですか?」
「ええ、家に帰らせるわけにはいかないって」
目を細めている福田は思い出に浸っているようにも見えた。
「真希も立ち直ったようです。家に戻って決着をつけてくるって家を出たらしいです。紗耶香も安心してました。でも、本当に最後の最後に、最悪の結末が待ってたんです」
「最悪の、結末?」
圭の表情が俄かに緊張味を帯びる。
黒い予感が過ぎる。視線で先を促す。
89 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:08
「真希は…」
福田の顔色が一気に曇った。
「真希は、乱暴されたんです、父親に。紗耶香が後藤の家に行ったんだけど、もう、遅かった」
圭は表情を凍りつかせた。福田は一瞬、苦々しい表情を浮かべるが、すぐに淡々とした表情を取り戻した。
「それから詳しくは知らないですけど、紗耶香は後藤を殴り殺したんです。怒りに任せて…」
「えッ」
圭は驚愕に表情を染めた。
「え、じゃあ、後藤直樹を殺したのは、市井、紗耶香…?」
「…ええ」
福田はどこか苦しげに頷いた。
「…紗耶香は自首しようとした。けど真希はそれを止めました。とにかく紗耶香が捕まって、離れてしまうのがいやだったんだと思います。紗耶香からその事を打ち明けられたあたしは紗耶香と共謀して工作をしました」
「それが、死亡診断書?」
「…それもありますね」
福田は少しの沈黙を置いて言葉を繋げた。
「さすがに捜査員が派遣されてきたらこれは事故ではなく事件になってしまう。だから後藤を事故による焼死に見せかけるために家を燃やした。全焼にはなりませんでしたが、早々に死因を焼死と発表しました。これで大規模な捜査はなしになった。そしてニセの調書と死亡診断書を作り上げた」
そこで福田の言葉が堰き止められた。圭は俯いたままじっと動かない。福田の独白は胸がつかえるように息苦しかった。
90 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:08
「紗耶香が自分で上司に頼んでその事件の担当になったから、偽の調書を出して事故に見せかけることも簡単でした。私は本当の死亡診断書とニセの診断書、二つを作って、刑事課のほかの刑事からの請求の際にはニセの焼死という診断書を届けました」
福田は淡々と今まで捜査の手を欺いてきた手段の始終を語った。
圭は身動ぎの一つも立てない。
確かにそれは可能なことだった。
後藤直樹の死亡診断書に焼死と書かれていて、火元が煙草なら、もう事故の線を疑うものはいないだろう。当時、疑いなく、事故と処理された理由も納得できる。
「でも」
福田の口から語られる物語はまだ終わりを迎えない。その衝撃の事実はやはり淡々と落ちてきた。
「その後、突然の交通事故で紗耶香は、死にました」
「え…っ」
圭は思わず目を見開いて福田に驚愕の視線を投げ掛ける。福田はついに淡白な表情を途切れさせた。
「事故について詳しいことは知りません…。交通事故だったらしいです。後ろからトラックにぶつかられて…。そしてそれ以来、真希は消息を絶ちました…」
福田は滲んだ声色で搾りだすようにそう告げた。
圭が黙ってその様子を見守っていると福田は突然、ゆっくりと深く頭を下げた。
「…お願いします。あの子を救ってください。紗耶香を失って不安定になってるだけなんです。お願いします」
福田は矢継ぎ早にそう言うと顔を上げた。その表情は縋りつくような弱々しい色を称えていた。その懇願に圭はただ立ち尽くしていた。
91 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:09



「これが福田さんから聞いた話の全部」
苦しげにそう吐き出して圭は話を締め括った。安倍と紺野の表情にもやはり明るさはない。障子で仕切られた空間に充満する曇った空気。しばし心地の悪い沈黙が室内を支配する。
「吉澤さんは、どうなさる気なんですか?」
紺野が重い口を開いた。
「ん?」
圭は紺野を見返して訊き返した。紺野は少し言い難そうに俯く。
「調書の改ざん、刑事による殺人、偽装工作…。表に出たら、とんでもないことに…」
「ああ、わかってる…。だから必要なんだよ、後藤真希が。改ざんに関わったとはいえ、直接的に殺人に関わったわけじゃない福田さんの証言だけじゃどうにもならない。まあ、福田さんの話も辻褄は合ってるけど、証拠は死亡診断書だけだしね」
「死亡診断書じゃ足りないんですか…」
紺野が考えこむように眉根を寄せて漏らした。
「絶対的な物証ってワケにはいかないよ。当事者の後藤真希からも話を聞かないと」
「それで、後藤真希を探し出さないと意味がないって…」
「ああ…彼女に話を聞かないとどうしようもない。手のつけようがないから」
「吉澤さん…」
紺野の言葉に含まれる慰めの意を察して圭は疲労を押し隠した。しかし、圭の乾いた作り笑顔は場を重くするだけのようだった。そこで黙って二人の会話を見守っていた安倍が顔を上げた。
92 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:10
「圭ちゃん…せっかくだから全部吐いちゃいなさい。それだけじゃないでしょ」
少し強めな口調の中に含まれる優しさ。圭は俄かに目を丸めたあと、諦めたようにうなだれた。
「わかる…?」
「当たり前」
力ない声色に安倍は頷いた。
ほとほとこの親友には隠し事が出来ないようだ。相変わらず自分の変化を察するのが上手い。それが親友というものなのだろう、圭は少しだけ心が救われたような気分になった。
そして圭はついにもう一つの心労の要因を漏らした。
「ひとみが帰って来ないんだ、この一週間」
「えっ」
安倍は俄かに目を見開いて驚きを示した。そこで紺野がずい、と身を乗りだしてきた。
「ひとみさんって…妹さんですか?」
「うん…。ひとみのクラスメートに聞いたら学校にも行ってないらしい。携帯も繋がらない。家になんか全然帰ってこない。バイトも休んでる」
圭は俯いて言葉を止めると、少しの間を置いて顔を上げた。
「一応、友達とかには当たったんだけどね…。知らない、って…」
「…連絡が一切、取れないの?」
安倍が真剣な表情で尋ねてくる。ああ、と頷く。
「捜索願いも一応、出しておいた。探してはくれてるらしいけど…」
「…そっか」
「…ひとみね…片目瞑ってさ、ウインクするのが癖だったんだ。ひとみには言わなかったけど、すごい可愛かったんだ」
圭の脳裏にひとみのウインクが浮かび上がって、心を切なく締めつけた。圭はふと表情を曇らせる二人を見て自嘲的に笑った。
「なんて、死んだわけじゃないのにね。もしかしたら、友達のところに行って泊まってるのかもしれないし、彼氏だっていてもおかしくないよね」
その言葉は安倍や紺野に向かってというより、自分自身に言い聞かせるための言葉だった。
93 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:10
もちろん圭の言葉通り、ただ自分の知らない友人の家に泊まっている、恋人の家に泊まっている、という可能性も充分に残っている。
しかし、圭の心の中の黒い予感は安堵を許してはくれない。
その予感の正体がただの不安によるものなのか、それとも本物の予感なのか、圭には判断がつかなかった。
それが本物の予感だとしたら、その考えが頭を過ぎり、恐ろしくて考えたくもなかった。
「怖いよ…」
圭はそこまで言い終えると苦しげに息を吐き出す。
体が震えてくる。
失うことへの恐怖だ。両親の時と同じだ。
あの時も救急車から連絡が入って病院に向かう間、体の震えが止まらなかった。結局、病院に着くと、両親とも霊安室に安置されていた。
ひどく体の芯が冷えたことを覚えている。
その時の感覚に少し似ていた。
すっと安倍が近付いてきて、圭の横に座りこんだ。そして、気が付くと安倍の両手に頭がすっぽり包まれていた。
圭は安倍のなすがままになっていた。安倍は圭をそっと自分の胸に抱きよせた。
「泣いていいよ、圭ちゃん」
「……っ」
安倍のこの一言で圭の目から涙が零れ落ちた。温かく柔らかい安倍の胸がさらに心の開放を促す。今まで我慢して心に溜め込んでいたものが一気に目から溢れてきた。圭の涙が安倍の衣服に点々と染みを残していく。
94 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:10
「どうすれば、いいかな?私、何も出来ないよ…。石川にも、約束したのに…」
込み上げる嗚咽に耐えながら懸命に言葉を紡ぐ。安倍は優しく圭を抱きよせて、とんとんと背中を叩いた。
「圭ちゃんがひとみちゃんをどれだけ愛してるか知ってる…。でも背負い過ぎだよ…。今日は全部、荷物、降ろそ…?」
圭は安倍の暖かい胸の中で何度も頷く。
安倍の温かさはまるで苦しみを分かとうとしているように優しく、安心させてくれる。自分は味方だと教え、諭してくれるようだった。
「大丈夫だから…」
涙を溢れさせながら、圭は優しい声を聞いていた。
95 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:11


防音機能を備えた壁に全面を囲われていた。
その個室は『drunk』の奥にある個室郡の一つだった。その個室郡はすべて同様の防音を備えた作りをしている。そしてその使用目的は特に限られておらず、店員に声を掛ければ使用は許可される。
狭い室内には机を挟んで向かい合うようにソファが二つ、置かれてある。真希とひとみは向き合って座り、机上を見つめていた。机の上には酒瓶が一本、半分ほど液体が注がれているグラスが二つ、そしてビニール袋に閉じ込められている二つの赤いカプセル。
「さあ、一緒に試してみよ。よっすぃ」
真希はビニール袋を手に取った。そしてひとみの不安に強張る表情を認めると、柔らかく笑みを浮かべた。
「あのね、これは麻薬っていっても中毒性は少ないの。ちょっとハイになって、気持ち良くなるだけ。これはね、もともとエッチする時専用のドラッグとして作られたのを改良したものなんだ。ま、改良は違法なんだけど、体にあんまり影響はないんだよ」
「ホントに…?」
諭すような真希の言葉にもひとみの不安の色は消えない。ドラッグ、と聞いただけでずっと胸の中が冷たくなっていた。真希は柔らかい表情を浮かべる。
「じゃ、あたしが先に飲むね。その後すぐに飲んでよ?一人じゃなくてよっすぃと気持ち良くなりたいんだから…」
そう漏らすと真希はビニール袋を千切り破り、中からカプセルを一つ取り出した。
96 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:11
顔を上げて大きく口を開けると、ひとみに見せつけるように上を向いている顔上からカプセルを口内に落とした。
ひとみは固唾を飲んでその真希の様子を見守っていた。
真希は口の中にカプセルを遊ばせたまま、グラスを手に取った。そしてグラスを一気に煽り、酒と一緒にカプセルを喉の奥に流し込んだ。
真希はグラスを机に置くと、ぴょん、と机を飛び越えて向かい合うひとみの体に跨った。
ひとみのすぐ目先に真希の顔が出現する。ひとみは暫し真希の瞳に囚われた。真希は顔を少し離して、一つの赤いカプセルを残した破れたビニール袋をひとみの眼前に差し出す。
ひとみは手を出す。赤いカプセルが手の中に落ちた。
ひとみは真希の視線を受けながらそのカプセルを見つめる。
カプセルは赤く光沢を放つ半透明なフィルムに包まれている。
ごくん、と息を呑んだ。
麻薬が目の前にある。
この非現実な、以前の自分からでは決して想像できなかったこの状況が、居心地が悪く、怖く、そこにしかもう自分の居場所はないと思った。
帰る場所は絶ってきた。
かけがえのない唯一の肉親である姉にも別れを告げてきた。
もう戻る場所はない。
真希に寄り添うと決めた。
ひとみは目を固く瞑ってカプセルを口に放り込んだ。
すると、いつの間に取り出したのか、真希の掴んだ酒瓶にそっと口を塞がれた。優しく流れ込むアルコールとともにカプセルはひとみの喉を嚥下した。
97 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:12
「ねぇ、もうあたし、熱くなってきちゃった。よっすぃ…」
真希は熱を含んだ視線でひとみをじっと見つめる。
その瞬間、真希を見つめ返すひとみの視界が大きく歪んだ。そして一瞬後、視界が正常を取り戻すと同時に体内に熱が発生した。その熱は全てを焼き尽くすようにひとみの体中を忙しく駆け巡っていく。
体の中に焦げつく熱。
ひとみは思考と意識の遠のきを感じながら、自分でも理解できない衝動に襲われて真希の唇に被りついていた。
荒々しく自分の唇を貪るひとみに真希は嬉しげに瞳を緩めて受け入れる。
ひとみは頭の中に果てしなく沸いてくる衝動に突き動かされ、荒々しく乱暴に真希を求める。
すでに理性は欲望と衝動に濡れて、侵されていた。
取り残された体はひたすらに求めるだけだった。
「可愛い、キレイだよ?よっすぃ」
真希の顔は満足げに微笑んでいた。真希の手が頭をひどく優しく、撫でていた。
第二波が来た。ひとみの奥底で熱が暴れて迸る。
「あ、来たッ。よっすぃ…あたしも、熱くなってきた」
真希は口調を荒くしながら、しがみ付くように抱きついてくる。どうやら真希にも今ようやく薬の効果が爆ぜたようだった。
激しく求めてくる真希に応えるように、ひとみは真希の熱を愛した。
98 名前:4th.発露 投稿日:2004/12/10(金) 19:12
窓もなく光の届かない個室の中で少女たちは動物的に互いを求める。
ひとみは大きな波に飲み込まれながら、今までの普遍的な自我の崩壊を感じて、快感の虜になっていく自分を客観的に見つめていた。
堕ちていく自分。もう真希からは逃れられない。
コンビニの更衣室で初めて会った時からひとみの首には鉄の首輪が掛けられていた。そしてその首輪から伸びる鎖は真希の首へと繋がっていた。
何にしろもう離れられないのなら、いっそ真希を抱きしめたまま、奈落の底へ、果てまで、どこまでも。
ひとみは薄れていく意識の隅で、真希を愛する自分をどうしようもないほどに愛しく感じていた。

99 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/10(金) 19:12
 
100 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/10(金) 19:12
 
101 名前:chaken 投稿日:2004/12/10(金) 19:21
第4話「発露」終了です。

>78様。ども。吉澤さんにはこれから頑張ってもらいます(色々と)。
>79様。いやあ、後藤さんの壊れっぷりはもう止められません(w。
>80様。毎度です。これから新たな展開に向かっていきます。

ようやく100突破です。これも皆様のおかげです。ありがとうございます。
102 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/10(金) 19:59
更新乙です。
あぁよっすぃ〜が壊れてしまった・・・
あぁ圭ちゃん・・・
103 名前:名無し読者。 投稿日:2004/12/11(土) 03:24
よしこはどーなるんだ…
やすなちの関係もいいですねえ。

次の更新も楽しみです。
104 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/11(土) 07:33
ヤス可愛そうですね。
妹想いで・・・。
105 名前:読者 投稿日:2004/12/11(土) 10:24
面白すぎ!!
ごっちんてこういう役似合うよな〜
106 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/11(土) 12:44
更新お疲れさんです。
ヤススとよっちぃに幸せを・・・
107 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/11(土) 15:06
保田さん幸せが薄すぎます…
108 名前:名無し25 投稿日:2004/12/11(土) 15:32
あぁ〜・・・よっちゃん・・・
これからどこへ行くんだろうか・・・
心配だよぉ〜〜〜〜!!!!
109 名前:wool 投稿日:2004/12/11(土) 23:06
更新お疲れ様です。

圭ちゃん、切ないよ…。chakenさんの描く圭ちゃんは本当に心根が優しいなぁ、と思います。

堕ちてゆくよしこ、心配です。
110 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/13(月) 11:24
やばいハマりそう・・・
111 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:01


すでに本格的な深夜を迎えて、辺りは物音ひとつたたない静けさが支配している。
不気味なほどの静寂はすべてを吸いこんでいきそうなほどの深さを称えていた。ぴん、と糸が張るような緊張感が静寂を包みこんでいた。
眠らない街、と呼ばれる新宿の片隅に小さなアパートが静かにひっそりと佇んでいた。夜の闇に浮かぶその建物はまるで古城を思わせる風貌だった。
アパートの二階の階段側から一番端の部屋。
窓から挿しこむ月光は二人を浮かびあがらせた。大きなベッドの上で、真希とひとみは狂ったように互いの体を煽りあっていた。
「あ、ッ、んッ」
互いの吐息が静寂に溶けていく。被せられた布団の中で二人は蠢きまわる。その行為は熱帯夜の部屋にさらに熱を放っていく。
唇をあわせ、舌を絡ませて、互いの存在を確認し合うように互いを貪りあう。互いが互いを高めあっていく。
昂ぶり、熱くなっていく体。熱と快感が溶けあって心まで侵食していく。
そして、二人は同時に絶頂に達した。
狭い寝室に一段と高い二つの嬌声が響くと、二人の動きは同時に停止した。そしてもぞもぞと布団の中から這いだしてくる。
二人は体を支配する快感の余韻と疲労に気だるさを覚えて、仰向けになるとベッドにその身を沈めた。ひとみは胸を規則的に上下させている。
「どうだった?」
ほとんど儀式のように定着している行為の後のひとみの問いかけ。
しかし、その言葉に以前のような不安そうな色は含まれておらず、むしろ揶揄の感情すら読みとれた。真希は上がる息を必死に整える。
「もー、聞かなくても分かるでしょ。死ぬほど気持ち良かったってば」
「分かってるよ」
ひとみはまだ悶えている真希を尻目に天井を見つめながら笑んだ。
棚に置いてあったはずの何枚ものビニール袋の残骸は二人の行為の激しさを物語るように無造作に床を埋めていた。真希はひとみの腕にしがみついてその顔を埋める。
112 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:01
「今日何曜だっけ」
真希の問いかけにひとみを行為中停止していた思考回路を開いて脳内を探るがその情報は見つけられなかった。
「ん、忘れた」
「大変」
真希はおかしそうにくつくつと喉の奥で笑うと、あらわになっている自分の乳房をひとみの腕に押しつける。
「時々さ」
ひとみは小さく呟いた。
「ん?」
真希はひとみを見上げた。
「自分が誰か分からなくなる」
「ドラッグのこと?」
「ううん。それもあるけど、ごっちんと出会ってからなんか、そういう時があるの」
じっと目を細めて、ひとみは中空を睨んだ。その視線に答えは返ってこない。代わりに隣りから優しい眼差しが返ってくる。
「怖いの?」
「ううん」
「嫌なの?」
「ううん」
「痛いの?」
「ちょっとだけ」
ひとみのゆるやかな声に真希は強くひとみの腕を引きよせた。
113 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:02
ひとみは麻薬の味を知ってからいっそう真希の部屋に入りびたるようになった。
麻薬の調達は真希が行っていた。藤本と接触して大量に麻薬を仕入れてひとみの待つ部屋の戻ってくる。そして、それ以外では一日の大半をベッドの中で過ごしていた。
麻薬を常用して沸き上がる欲情に任せて時間を問わずひたすら真希を求めた。
二人とも曜日の感覚はもちろん昼夜の区別すら曖昧になっていた。大きな波に呑みこまれるように肉欲と麻薬と快楽に溺れていった。
ひとみは自分が真希とともにどんどん堕ちていくのを自覚していた。
ただ、真希に触れていると、ひとみは時々切なくなる。冷たい刃に触れているようにぴりぴりと切ない時がある。しかし、それはひとみにはどうしようもなかった。
「ごっちん」
「…よっすぃ、きっと…」
真希は言葉を飲みこんだ。真希が何を言おうとしたのか、輪郭だけはぼんやりと浮かんだが、実体は掴めなかった。
「よっすぃ」
真希はもう一度、呟いた。甘美な響きを確認して、余韻を噛み締めているようだった。
沈黙の中でひとみはふと壁に立てかけてあったカレンダーに目を止めた。
ずっと、ここに来る度に不思議に思っていた。
何故、家具がないのにカレンダーなどという不用ともいえるものがかけてあるのか。そして、何故そのカレンダーが2年前の7月のものなのか。
「ねえ、あのカレンダー」
「ん?」
2年前のカレンダーを指差す。7月の文字の下には可愛らしいウサギがちょこんと座っていた。真希は一瞬だけ表情をなくした。
114 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:02
「何で2年前のなの?」
真希はしばらく沈黙した。そして、やがて顔を上げた。含みのない笑顔だった。
「…そういえば、もう7月だね。もうすぐ7月10日になるね」
「何かあるの?」
「7月10日はね、あたしが生まれ変わった日なの」
実に愉しそうに真希は笑うのだった。ひとみは疑問符を浮かべながら、真希を見つめた。
「どうしたの?」
「とっても、笑いたいほど、嬉しくて」
その笑顔の下に何があるのだろう。ひとみには想像もつかないし、そこに何かがあるのかということすら気付かなかった。
「ね、人を殺す時って気持ちいいのかなぁ」
真希は狂おしいほど甘く囁いた。悪魔の囁きだった。
「え」
ひとみは目を見開いて真希を見る。真希はひとみを見上げると、目を細めて柔らかく微笑んだ。
その笑みに邪気は見当たらず天使とでも形容できるほどに無垢なものだった。
115 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:03


壁いっぱいに大きく口を開く窓から柔らかな午後の陽光が差しこんでくる。
淡く緩やかな光に普遍的な平和を感じる光景だ。
普段なら刑事課という場所柄、それも叶わないはずだが、今は多くの刑事が捜査に出払っているため刑事課に普段の喧騒はすっかり鳴りをひそめていた。
雑音と雑談が混じって弛んだ空気を生みだしている。
「ふう」
安倍は報告書の作成を中断して主のいない隣りの席に目を移した。
圭は出勤するなりすぐに後藤真希の捜査のために街へ出た。
安倍の頭にひたすら後藤真希の影を追って駆けずりまわる圭の姿が映しだされた。
「ったく。相変わらず仕事熱心だこと」
呆れた風な独り言に当然のことながら返答はない。
「人の心配も知らないくせにさあ」
安倍は呆れたように隣りの無人の机を見つめた。
「あの、安倍さん。ちょっといいですか」
「んん?」
安倍が声に反応して振り向いた先には申し訳なさそうな表情の紺野が気まずそうに立っていた。
116 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:03
本来なら圭とともに後藤真希の捜査に出ているはずだが、安倍は今朝がた紺野が圭に捜査を休ませて欲しいと頭を下げている光景を見ていた。圭は渋々という様子で了承して、現在一人で捜査に明け暮れている。
その二人の様子を見ていた安倍は何か他の捜査があるのか、とでも思っていたが、これまで紺野は机にかじりついて作業をしていた。
安倍は体を机に向けたまま紺野に目を向けた。
「どうしたの?」
紺野は顔を伏せた。安倍はぐるりと椅子ごと体をまわして、体全体を紺野に向けた。紺野は言いにくそうに俯く。
「吉澤さんの妹さん、ひとみさんが通ってる学校ってどこですか?」
伏目がちに自分を見つめる紺野の言葉に安倍はほとんど直感的にある仮説を立てた。
「もしかして、ひとみちゃんのこと、調べる気?まさかそれでわざわざ圭ちゃんに頭下げて捜査休んだの?」
紺野は決まり悪そうに俯くと、小さく頷いた。安倍は呆れたようにうな垂れた。
「呆れたもんだねえ、もう」
「…すいません」
「ホントだよ。圭ちゃんに似てきたんじゃないの?」
「え?」
「もー、仕方ないな」
安倍は勢いよく腰をあげた。紺野は驚いて一歩あとずさった。
「私も行くよ。仕事も報告書だけであとで出来るし」
安倍は歩き出した。その表情には微笑みが浮かんでいた。紺野は一瞬呆然としたあと、嬉々として大きく頷いた。
「ハイっ」
「大声出さない。これ一応サボリだかんね?」
「…ハイ」
「よろしい」
安倍はふふ、と笑みを零した。二人はこっそりと刑事課を抜け出した。
117 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:04


その建物は新宿から二駅ほど離れた場所にあった。
二階建ての細長い建物。一階には二つのドアがあり、コンクリートの地面にはあらゆるものが乱雑に置かれていた。
箒やジョウロ、ちりとりやタオル。さらにはハンドルの曲がった自転車、子供のものだと思われる人形などのおもちゃ類。
そして、その脇から二階へと繋がっている階段は全面に赤錆びがこびりついていて、一見すると崩れそうなほど不安定に思えた。
二階の通路は人がやっと一人通れるほどの幅で奥まで続いていた。
その通路にも一階ほどではないが乱雑したガラクタが散らばっていた。
時計はちょうど午後2時をまわっていた。
一日で最も強い陽射しは本格的な夏の到来を告げるように強く照りつけてくる。
じりじりと肌が焼けつくような感覚を覚える。
耳をつんざくうるさいせみの合唱が近くの並木道から聞こえてくる。
圭は建物を見上げて大きく溜息を吐いた。
真希の消息をたどって何十件も家屋をまわってきたが、この建物はさすがに古びたという言葉では足りないような気がした。
真希が住んでいた建物はどれも一様に古びていた。その理由が真希の懐古趣味ではなく経済的な理由からだということは明らかだった。
118 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:05
圭はゆっくりその建物に近づいていった。足元の砂利は深く敷きつめられていて、圭は時々足を取られそうになる。踏むたびにちゃりちゃり、と音を立てる砂利道を抜けてようやく階段にたどりついた。
圭はそのまま階段を上っていった。金属音を立てる鉄の階段にこびりついた錆びが圭の革靴に纏わりつく。しかし圭はなるべく気にしないようにして歩を進める。
階段自体は外観とは異なり、それなりには頑丈に出来ているらしくさすがに足元が揺らぐことはなかった。
圭は階段を上がりきって、一人分の幅の通路を歩いていく。その部屋は階段側から数えて一番手前にあった。木製のドアは古びていて不規則な木目が露わになっている。
そして脇の郵便受けには中澤、と殴り書きのボールペンの字で記されていた。そしてその下には同じボールペン字で大きく管理人、と書かれている。
その文字を確認した圭は呼び鈴を探すが、それらしいものは見つからない。仕方ないので手でドアを叩く。
「中澤さん。中澤さーん」
部屋の中から返答は返ってこない。圭はさらに強くドアを叩いた。古い木製のドアはがたがた揺れる。
突然、勢い良くドアが引かれた。圭は思わず重心を失って転びそうになった。
「どなたさん?」
少し掠れた声で尋ねられた。態勢を立て直して、圭は声の主に目をやった。
中澤裕子は青い瞳を持っていた。圭は一瞬その姿に目を奪われるが、すぐにそれがカラーコンタクトだということに気付く。その青い瞳と肩までの金髪をあわせみてその派手な色使いに圭は目を瞬いた。外見で判断すれば年齢は三十路を少しまわったくらいだろうと推定できる。
119 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:05
圭は部屋の中に目を向けて先ほどから漂う刺激的な匂いの正体に気付いた。
アルコールだ。交通課の助っ人で行った飲酒運転の取り締まりの時にさんざん嗅いだ匂いだった。
圭から見える狭い畳の居間には酒瓶とその破片が床を埋めつくしていた。圭はそのアルコールの匂いに顔を顰めるのをなんとか堪える。
「後藤真希さんを知っていますね?」
上着の内ポケットを探って黒い手帳を取り出して彼女の前に指し示した。中澤はその手帳に記されている文字を読みとって顔を強張らせた。
「警察か…ごっちんがなんかしたんか?」
その言葉は関西弁で包まれていた。
おそらくゴッチン、とは後藤真希の呼び名であろう。その呼び名から彼女が真希と親しい関係にあったことに見当がつく。
収穫がありそうだ。今までは管理人といっても入居していたはずの真希のことを深く知らない者ばかりだったし、話したこともないという者も珍しくなかった。
鋭い眼光で圭を見つめてくる中澤の表情にははっきりと緊張と敵意が浮き出ていた。
120 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:06
圭は警察手帳をポケットに押しこむと、中澤に視線を合わせた。
「後藤真希を二年前のある放火事件の重要証人として追っています」
「…あんたは家に上げへんで。何も話すことなんかない。さっさと帰りや」
中澤は顔を伏せたまま搾りだすように言った。声が掠れているのはやはりアルコールのせいだろう。
ドアを閉めようと中澤は勢いよくドアを押す。
しかし、圭はそれより一瞬早く狭い玄関に入りこんだ。ドアは抵抗しないまま、がたんと大きな音を立てて閉じた。
中澤はあからさまに顔をしかめて圭を睨んだ。
「あんた、警察なら何してもええわけやないで。住居不法侵入っていうんやろ、こういうの」
鬱陶しそうに言い捨てると中澤は部屋の中に戻っていった。圭の厚かましさに負けたという形だった。
刑事になってから自分も随分と図々しくなったものだ、とふと圭は思った。しかし、それくらいの図々しさがないと刑事など務まらない。
圭は乱雑に散らかっている玄関に靴を脱ぐと、酒瓶やゴミ袋などでその姿を隠している形だけの床をつたって部屋に足を踏みいれる。
電気もつけられておらず窓もカーテンで覆われている部屋の中は薄暗く、得体の知れない不快な淀みとアルコールの匂いが充満していた。
中澤は乱暴に床に転がっている酒瓶などを部屋の隅に放って、部屋の中央に二人が向かいあって座れるだけの場所を空けた。
中澤はそこに腰を下ろすと、明らかに敵意のこもった視線を圭に放つ。
121 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:06
圭はそこには座らず部屋の敷居に立ったまま切りだした。
「後藤真希はこのアパートに住んでいましたね。その様子と後藤真希の現在の居場所か、あるいはこのアパートから出て行った時の引っ越し先を教えてください」
「…フン」
中澤は鼻を鳴らすと脇に転がる酒瓶を手に取ってあおった。
圭は改めて部屋を見まわす。10畳ほどの広さに押し入れとトイレだと思われるドアがついているだけだった。
玄関側に台所があるが、洗い残した皿の山でもはや埋もれている。そして、蛇口から垂れる水滴が規則的にその皿を叩いている。ぴちゃんぴちゃん、と台所から聞こえるその水滴の音が部屋内の沈黙に心地よく響く。
「…ごっちんはこの部屋の隣りに住んどったよ」
中澤は手に持っていた酒瓶を部屋の隅に放った。部屋の隅にはゴミの山が出来ていた。酒瓶は音もなくそこに吸いこまれた。
圭には俯いている中澤の表情は読み取れなかった。
「人懐こい子やった。うちとも仲良かったし。うちもあの子の事は好きやったよ。でも、あの子はなんか重いもんを抱えとった。強いていうなら闇っちゅうんかな」
少し掠れたその呟きは重みを持っていた。圭は俯いたままの中澤に緊張感を含んだ視線を向ける。
「闇、ですか?」
強張った表情で聞き返した。脳裏には福田明日香から聞いた後藤真希の生い立ちが浮かんでいた。
中澤はふう、と吐きだした。
「うち、カウンセラーやったんよ。とっくに辞めたけどな」
吐き捨てる中澤に圭は沈黙で先を促した。
「うちが仕事を辞めたんは挫折や。結局自殺させてもうた患者がおったんや。それでどうしようもなく落ち込んでやめたんやけど、ごっちんの場合はそれよりタチが悪い」
心理学に携わっていたという中澤の断定的な口調は真希の闇の存在を確実なものとして圭に示した。
122 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:07
「ごっちんの事情は知らん。でもあの子の秘めた闇は、うちが仕事で見てきた中で一番深い。目の色で分かる。長い間やってきたうちの直感やけど、とにかくあの子は危ない」
「危ない?」
「まわりも、あの子自身もや」
中澤の強い口調に圭の瞳が微かに揺れた。中澤は俯いたまま身動ぎすらなさない。
「あのままやったら、はっきりいって凶悪犯罪、特に猟奇的な犯罪を犯す可能性がかなり高い」
「…それもあなたの直感ですか?」
「いや、これはあくまで統計的なコトや。もしも、ごっちんがうちの思っとる通りやったらな」
「あなたは、彼女のことどう思ってるんです?」
「自分で感情がコントロールできへんのやろな。でも、それより危険なのはあの子の命に対する冷酷さや」
その言葉の意図する所が掴み切れずに圭は疑問を乗せた視線を送った。視線に答えるように中澤は顔を伏せた。
「自分が死んでもいい。誰が死んでも関係ない。つまり自分の命をかえりみない。命に価値を感じてない」
「価値?」
「そうや、まぁ俗っぽく言ったらいつ死んでも構わんゆうヤツや。けどごっちんの場合はそれとはちょっと違う」
「死んでも構わないっていうほど、死ぬことを大事として受け入れてすらいない?」
「ま、そうゆうことや。あの子の状態は綱渡りしてるようなもんや。いつ落ちてもおかしくない。その落ちる先が自殺か犯罪か知らんけど…」
そこまで言うと中澤は顔をあげてその青い瞳を圭に向けた。その瞳に心配そうな色を浮かべていた。
圭は今まで無感情を貫いていた中澤の表情に俄かに困惑を表した。中澤は再び視線を床に沈めた。
「悪いけど今のごっちんの居場所は知らん。すまんな」
その言葉に偽りは見いだせなかった。圭は軽く会釈した。
「ご協力ありがとうございました」
圭は中澤に背を向けて玄関に向かった。
123 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:08
「刑事さん」
中澤が俯いたまま漏らした。圭は玄関口でその足を止めた。
小さな呟きだったが、圭にはそれが中澤の叫びのように聞こえた。中澤は顔を上げた。
「ごっちんを助けてやってくれや。あの子の二の舞にはしたくないんや」
その言葉で圭は中澤が真希と自殺した自分の患者とを重ねていることに気づいた。
圭はこの言葉こそが中澤の最も伝えたかった心底からの願いだったのではないか、と推測を立てた。
中澤の縋るような口調に圭は背中を向けたまま、はい、と静かに答えた。
赤錆びた階段を降りながら圭は考えた。
おそらく中澤はずっと心配していたのだろう。
危なかっしい後藤真希のことを。
それが死なせてしまった自分の患者に真希を重ねたためなのか、単純に自分が可愛がっていた真希を心配してのことなのか、あるいは自分の関わった人間が心の闇に狂わされる姿を見たくなかったのか。
それは圭にも判断の付きかねることだった。
しかし、その理由が何であるせよ中澤の真希への心配に偽りはないはずだと、中澤と会って言葉を交した圭は確信を持って断言できた。
そして、圭は固く誓った。
何としても、必ず後藤真希を見つけだす。
124 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:08


時計の短針はちょうど6を少し回ったところだった。
陽が落ち始めて街を赤く照らしだしていた。下校時間は過ぎているが、まだ部活の帰りや委員会の帰りの生徒たちが朝娘高校の校門から少しずつ吐き出されていた。
安倍と紺野は夕陽を背に受けて歩道に物寂しく影を落としながら校門に近づいていった。
少し強い夕陽の陽射しは赤い街を歪ませていた。
ちょうど校門の手前で安倍の足が止まった。視線の先には金髪が揺れていた。
「おーうい。矢口ー」
安倍はそう叫んで駆け出した。
矢口は相変わらず手ぶらで、脇にいる小川に鞄を持たせていた。小川はもはや慣れたように器用に二つの鞄を抱えていた。
紺野は二人を確認すると安倍を追いかけた。矢口は駆け寄ってくる安倍を認めると、相好を崩して笑んだ。
「なっちぃ。久しぶりぃ」
自分の目の前で走りを停止させた安倍の肩を矢口は嬉しそうに叩いた。安倍も満面の笑みを浮かべる矢口に微笑みかえす。
「麻琴ちゃん、久しぶりー」
その後ろの小川にも微笑みかける。
「どうも、こんにちは。久しぶりです」
小川は両脇に抱えた鞄を支えながら思いきり頭を下げた。これも体育会系の性というものだろうか。しかし、目の前の姿は体育会系というよりただのパシリに見える。安倍は苦笑した。
125 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:09
矢口と小川と安倍は交友があった。
もともとは圭の紹介で知り合って意気投合した三人は休日に圭も合わせて四人で出かけることもしばしばあって、親しい関係を持っていた。
しかし、最近は圭やひとみの問題も重なって顔を合わせるのは久しかった。
矢口は安倍との再会を懐かしみながら、安倍の後ろで足を止めた紺野に視線を移した。
「誰ですか?」
社交性の高い矢口の言葉には訝しさや警戒心などは欠片も含まれておらず、安倍と行動を共にしている初対面の紺野の素性にただ疑問を持っただけといった風だった。
「紺野っていってね、圭ちゃんの部下なんだ」
圭の名前に矢口は一気に破顔して握手を求めた。
「矢口っていいます」
「え、あ、どうもっ」
紺野は慌てて差し出された手を握り返して、軽く頭を下げる。
「紺野あさ美です。あの私は盗犯係なんですけど、ある事件で吉澤さんと一緒に捜査を行うことになりまして、それで今は吉澤さんと一緒に捜査をして…あ、でも今日はちょっと用事があって、その用事っていうのが…」
まだ続きそうな紺野の丁寧で律儀な説明に矢口は思わず微笑みを零した。安倍が呆れたように手で制する。
「わかったから。紺野は黙って」
「あ、はい…すいません」
紺野は慌てて引き下がった。安倍は表情を引き締めた。
「話したいことがある。矢口も麻琴ちゃんも空いてるかな、このあと」
真剣みを帯びた安倍の口調につられるように矢口と小川は神妙に頷きを返した。
126 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:09
「大事な話なんだ。どっかゆっくり話せるとこ行こうか」
圭とひとみの影がちらついたのか、矢口と小川の表情はなんだか切なそうだった。
その喫茶店は朝娘高校の近隣にひっそりと佇んでいた。
客の気配もないその店は安倍が求めていた静かに話が出来る、という条件を満たしていた。
四人は揃ってその店内に足を踏み入れた。
入るなりコーヒー豆の濃厚な香りが漂ってきた。少し埃っぽいがきちんと冷房は効いている。やはり店自体は古いようでアンティーク調のインテリアが目立った。
店内にはカウンターのほかに四人掛けのテーブルが一つ置かれているだけだった。
店内に入って来た客の姿を確認するとカウンターの奥でグラスを磨いていた店主が会釈を送ってきた。
四人は揃って会釈を返すと、店内で唯一のテーブル席に腰を落ち着けた。
「ブレンドコーヒー、四つお願いします」
安倍が店主に声を掛ける。店主は頷いて了承を示すと、早速棚から食器を取り出した。安倍はしばらくその様子を何気なく見つめると、再び正面に向き直った。
入り口側に座った安倍の隣りの窓側の席には紺野が座っていて、その紺野の正面に小川、安倍の正面には矢口が位置していた。
暫しの沈黙が流れていた。
まるで互いを探り合うような空気だった。それもやはり安倍の大事な話、という科白が尾を引いていた。
店主が盆を静かに席に置いた。店主は四つのコップをそれぞれに分けると、盆を抱えて退いた。
127 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:10
盆の上にはコーヒーとそれぞれ味を調整するように角砂糖とミルクとガムシロップが添えられていた。
安倍はミルクを溶かしながらようやく顔を上げた。
「ひとみちゃんのことなんだ」
安倍は矢口と小川の顔が強張ったことを確認した。安倍は味の調整を終えたコーヒーを一口だけ口に含んだ。安倍好みの苦めのコーヒーがほんの少しだけ緊張を和らげてくれた。
矢口が砂糖を混ぜる手を止めた。
「…よっすぃのことはみんな心配してる。私も小川も加護、辻も…。特に石川っつったらもう見てるのが痛々しいほど、落ち込んでる」
「石川って、ひとみちゃんの幼馴染?」
安倍が尋ねると、矢口は力なく頷いた。
「アイツの場合さ、よっすぃとは小さい頃から一緒で、よっすぃの両親が亡くなった時も一緒にいたわけだから、もう梨華ちゃんにとってよっすぃは誰よりも大事な存在だと思う」
「そっか…」
石川とも面識はあった。時たま一緒に遊ぶことがあった。
二人きりで話したことはないが、明るくて容姿端麗で、ひとみといる時の無防備な笑顔が印象的だった。本当に嬉しそうな幸せそうな笑顔だった。
「…みっちゃん、平家先生に聞いたら家にも帰ってないって言うしさ…」
矢口は苦しげにそう吐き出すとその顔を伏せた。小川がそのあとを引き継いだ。
「私も、心配なんです。優しい先輩です。だから、先輩を見つけてください…」
小川は額が机につくほど深く頭を下げた。
「オイラからも、お願い。絶対、アイツを見つけて…」
矢口の目から大粒の涙が一滴、零れて、古めかしい木の床をポタッと濡らした。小川が俯いてその矢口の背中を擦る。
安倍にとって、普段から気丈な矢口が泣く姿を見るのは初めてだった。
目の前で漏れる嗚咽を抑える術も持たず、安倍はただじっと立ち尽くしていた。
128 名前:5th.狂気 投稿日:2004/12/17(金) 20:10
「紺野」
署に戻る車内で安倍がハンドルを握ったまま助手席の紺野に声を掛ける。
「みんながあんなに心配してるってことは、圭ちゃんには言わないほうがいい。そしたら今度こそ圭ちゃん倒れちゃう。ただでさえもう疲れ果ててるんだ」
沈んだ安倍の口調に紺野は静かに頷いた。
「絶対に私たちだけで見つけるからね。これ以上、圭ちゃんの苦しむ姿を見たくない」
安倍はぎりっと奥歯を噛み締めながら力強い口調で言い切った。
「ハイ」と、紺野はしっかりとその首を頷けた。

129 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/17(金) 20:10
 
130 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/17(金) 20:10
 
131 名前:chaken 投稿日:2004/12/17(金) 20:27
第5話「狂気」終了です。

>102様。どうもです。吉澤、姉妹ともども、書いてるうちに壊れちゃいました。
>103様。安倍さんもこれから重要になってきますね。
>104様。保田さんは比較的に可愛そうな役になっちゃいました。
>105様。面白いですか。嬉しいです。後藤さん以外には考えられません。
>106様。幸せは…保証できません。
>107様。そーですね。これからまだ薄幸になってもらうかも…。
>108様。これからも見守っていてください。
>109様。ホントに毎度のレス、どうもです。ご心配を掛けますw。
>110様。ハマっちゃってください。

沢山のレス、ホントにありがとうございます。期待にこたえられるように頑張ります。
132 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/18(土) 21:27
更新疲れ様です。
よしこさん、落ちまくりですね。
早く戻ってきてください。
133 名前:名無し読者。 投稿日:2004/12/19(日) 01:29
安倍さんの圭ちゃんへの想いが伝わってきます。
姉妹共々幸せになってほしい…
134 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/19(日) 13:36
完全にハマってしまった⊂⌒~⊃。Д。)⊃
135 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/21(火) 01:16
面白いなあ。
続きが気になってしょうがない。
作者さん、ガンバレ。
136 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:27


新宿の夜は眠らない。
誰の言葉だっただろう。それとも何かのキャッチコピーだっただろうか。
しかし、なかなか的を得ている言葉だと思った。
その言葉通りに日付が変わっても新宿駅の前は人で溢れていた。
男を待つ女、女を待つ男、男に買われる女、女を買う男。
アジア随一の歓楽街には異種多様の人種がうごめいている。賑やかな夜の街を混濁した欲望が包みこんで覆っている。
ホストや風俗嬢、そんな性に関する興業に携わるものたちの目はぎらぎらと鈍く輝いて、どこか諦めたような闇をあわせもっている。
そして、そんな興業に携わるものたちがひしめきあうのが新宿だ。
夜が新宿の最盛期である。
真希とひとみは人波をかきわけながら歩を進めていく。
夏の夜の生温かい空気が人込みにまじって香水やアルコールなどを巻きこんで淀みに変わる。他人と肩がぶつかるのを巧みに避けながら夜を泳いでいく。
駅の構内に通じる階段で真希は足を止めた。その段差に座りこむ真希に続いて、その隣りにひとみが腰を下ろした。ひんやりとしたタイルが尻を冷やした。
ひとみはふと、真希を見つめる。
真希はその漆黒の瞳で人込みを眺めていた。
視線の先には新宿の夜があった。
137 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:27
昼間の明るさはなりを潜め、夜の妖しさが街を覆っていた。
その中で人々は役割を与えられた演者のように動きまわる。街という容器で形式のままに人々を行動する。
真希はその光景を、滑稽で全く意味のないことだ、とでも言うようにつまらなそうに見つめていた。そんな冷たさが真希の水晶のような瞳に宿っていた。
「馬鹿みたい…」
真希は悪態を吐いて、夜空を睥睨する。
やはり真希の瞳はひどく冷たくてそしてやたら綺麗だった。
その美しさだけがひとみの頭に焼きついた。
考えるという機能が停止していた。思考の中に靄がかかったように曖昧で、全く空虚だった。
「よっすぃ?気分悪い?」
真希は不安げにひとみに尋ねた。ひとみは首を振った。
「ううん、違う」
「じゃあどうしたの?」
「悲しい…のかな」
ひとみは力なく笑ってみせた。どこか諦めたような笑い方だった。
「悲しいの?」
真希は聞き返した。
「…よく、わからないよ」
答えてひとみは夜空を見上げた。
星のない紺色、だった。
こんな色だったっけ、と今まで見上げた夜空を思い出すが、何故かどうしても思い出すことが出来なかった。
ふと二人の視界を人影が塞いだ。
「ねぇねぇ、キミら、ヒマしてるの?」
軽い口調で尋ねてくる男は長い髪を金色に染めていた。やたらサイズの大きなスウエットにジーパンを腰で穿いている。
いかにも軽そうな男。
真希とひとみの抱いた印象は同じだった。そして、その印象はここに来た目的とぴったり合致していた。
ついに時が来た。
ひとみから表情が消えた。真希は口端をつりあげた。
138 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:27
「ヒマヒマぁ。超ヒマしてるぅ。ねぇ、お兄さん。相手してよぉ?」
真希は男に抱きついて上目遣いに男の瞳を覗きこんだ。
いい女を見つけた。ラッキー。どうやってやりこめようか。傍で見ているひとみにすら男の思考は筒抜けだった。
「気持ちいいこと、の」
真希はそっと囁いた。
ひとみと対する時とは少し違う、作られた媚びが言葉に含まれていた。
男は思いもよらない誘惑に驚きの表情を浮かべて、すぐに真希の思惑通りに頬を緩めた。
「話が早いな。ホテルがいい?」
男は厭らしい笑みを貼りつかせて小声でささやきかけた。真希はイヤイヤとでもいうように首を何度も横に振る。
「いい場所知ってるの。そこ行かない?」
甘えるような語調に艶やかな微笑み。計算され尽くした誘惑の隙間に真希はちらっとひとみに目をやった。真希の目はひとみに計画の実行を告げている。
「ね、いいでしょう?」
再び男を見上げて真希が言う。男はもちろん、と醜い笑みを浮かべて頷いた。
真希の演技のことはもちろんひとみも承知している。真希の表情は自分に向けるものとは圧倒的に違った。
真希が男に対する仕草はどれも密着して性欲をそそるだけのもので、その瞳の奥では冷たく尖った感情が光っているのがひとみにもわかる。ひとみに対するような心を許した表情は垣間見えさえしない。
しかし、それでも半ば無意識にいびつな感情は育っていく。
139 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:28
ひとみは体を寄せあう二人に微かに嫉妬を含んだ視線を送った。真希が男に気取られないようにひとみに視線を送りかえす。
(よっすぃてば妬かないでよ)
(わかってるよ、けど…)
(愛してるよ?)
(それもわかってるよ)
(じゃあ、私の考えてることわかるよね?)
(…うん、全部わかってる)
視線に行き交いはわずか3秒だった。視線での会話も3秒だった。
運命は決まった。
あとは覚悟を決めるだけだった。
しかし、それも3秒あれば充分だった。
3秒で決まる運命こそがひとみの全てだった。
ひとみはゆっくりと頷いた。
その寂れた倉庫郡は駅からそれほど離れていなかった。人通りの多い表通りを離れると工場などの建物郡に出た。そこまで来るとこんな時間だ、ということもあり近辺に人影はなかった。
そして真希はすっかり人の気配の薄れたある倉庫に男を誘いこんだ。ひとみも男の斜め後ろから二人のあとに続いた。
わりに広々とした空間だった。天井が高く風が吹き抜けるため、外よりも気温は低かった。涼しいというよりも寒々しい風が剥き出しの肌を刺す。
倉庫はあまり散らかっていなかった。四隅に石材や鉄骨、木材などが積みあげられているだけで、それ以外は少し寂しいほど広かった。ヒュウヒュウと微かに風の音が鳴っている。
140 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:29
男は怪訝そうにその退廃的な空間を見まわした。
「おい、こんなとこでやんのかよ?」
「そーだよ?」
エコーがかかったように倉庫の隅々にまでに会話が木霊する。真希は妖艶に微笑んだ。
「ねえ?」
甘えるように囁いて真希は男に抱きついた。
真希の行動にひとみの中で激情が沸きあがった。真希はそんなひとみに気づくと視線を返した。
自我を抑える。
しかし、一気に膨れ上がった熱はすぐに理性を飲みこんで、ひとみの全てを侵食していった。冷静な思考と理性はあっというまに途絶えて、残ったのは独占欲と破壊衝動だけだった。
計画の実行は迫る。
どんどん、どんどん、膨らんでいく。
独占欲と絡まった激情は頭の中でぐるぐると回っている。
やがて、それは男へ向けられる感情へと変わっていた。真希を腕の中に抱いたままへらへらと笑っている男への激情へと変わっていたのだ。
ひとみの胸の内で息を潜めていた破壊願望がゆっくりと頭をもたげてくる。
そして、ついにそれは抑えきれなくなった。
事前に打ち合わせていたウインクの合図を待たずして、ひとみは行動を起こした。
141 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:29
ひとみは地面に転がっている鉄パイプを拾いあげて、それを強く握りこんだ。
手の中にひんやりとした感触が広がっていく。それが少しだけひとみの熱を冷ました。
ひとみは男の背後からゆっくりとその距離をつめていく。真希がそのひとみに気付いた。
(もー。まだ合図してないよ?)
(……)
真希が含み笑いで視線を送るが、ひとみは何も返さなかった。
頭の中は水を打ったように静かだった。
半ば恐ろしいほどの静寂の中にひとみはいた。
この状態を嵐の前の静けさというのだろうか。
とくん、とくん、とくん――。
自分の心音だけが聞こえる。自然と息遣いは落ちついていった。
静かな心だった。
痛いほどの無音が満ちて、そして――。
一閃。
光が満ちた。
スローモーションがかかる。コマ送りで目の前の光景が過ぎていく。
振り下ろされた鉄パイプはぐしゃり、と気味の悪い擬音とともに男の頭に埋まった。
パイプをつたってひとみの手に後味の悪い感触が残った。びりびりと痺れるように手が震えた。息が少し荒くなった。ひとみは必死に息を抑えるように努めた。
真希は崩れ落ちる男に冷酷な視線を向ける。すべてを冷まして、すべてを壊すような目だった。
142 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:30
「ぐっ…ッ」
少し遅れてうめきが漏れた。潰れた頭を抱えて男は真希の足元にうずくまった。その男の腹部を真希のつま先が容赦なく蹴りあげた。
「がはあっ…」
声にならない悲鳴が倉庫にとどろいた。男は口から涎を零して体を仰け反らせる。その体は腹部を抱えるように丸まっていた。
真希がひとみを見やった。視線で語りかけてくる。
(まだ終わってないよ?)
(…うん)
ひとみは固くパイプを握りしめた。
そして、渾身の力を込めて男が手で覆っている頭部を殴打した。
パイプは頭部には届かず、男の手を襲った。
手の甲が割れる乾いた音が倉庫に響きわたった。男の手が頭部から力なく投げ出された。
生命への執着の喪失の瞬間を見た。
それでもひとみは一心不乱に鉄パイプを振り下ろし続けた。潰れるような音とともに頭部はどんどん変形していく。
振動が手の平を揺する。痺れが伝わるたびにひとみは男の絶命を確信していく。
非現実がそこにあった。
初めのうちは上がっていた男の呻き声もすでになくなっていた。
自分の手ではないように動きは止まらなかった。半ばその動作は機械的ですらあった。
143 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:30
「いいぞーいいぞー。やっちゃえー、よっすぃー」
真希が楽しげに声を飛ばす。その表情は無邪気で純粋な子供そのものだった。まるで小学校でドッヂボールを見ている子供のそれと相違なかった。
丸まっていた男の体はすでに無防備に仰向けで開いていた。絶命は火を見るより明らかだった。
それでも、ひとみは狂ったように男の頭を打つことを止めなかった。
ひとみは自分が夢の中にいるような錯覚を覚えていた。
崩壊していく自分。
靄のかかったような曖昧な思考の中でこの事実だけが認識できた。覚めない夢の中にひとみはいた。
浮遊感が体中を覆い、世界中を覆っているように思えた。
ひとみはようやく手を止めた。そして頭部の潰れたグロテスクな男の体を目の当たりにした。
興奮の冷めない頭で息を上がらせながら、真希に視線を向ける。真希が微笑みをその顔に刻んだままひとみに近づいてくる。
そして体を寄せて背中に手を回してひとみの体をそっと包んだ。
「頑張ったね」
子供をあやすような語調だった。優しさに包まれたような言葉だった。
「…うん、頑張ったよ」
「そうだね。頑張った」
真希は優しくひとみの背中をさすった。
なんて温かい手なんだろう。
徐々に落ちついていく自分の鼓動を自覚しながら、漠然とひとみはそんなことを思った。
そして、その温かさに何かが溶けていくような気がした。しかし、それが何かはわからなかった。
144 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:31
真希はひとみから体を離すと、男の残骸に目を移した。ひどく冷たく蔑むような眼光で男“だった”肉塊を睨んだ。
そして潰れた男の頭部に向かって足を振りあげる。
しかし、次の瞬間、真希の足は止まった。真希はゆっくりひとみに振りかえった。真希の上着の端にひとみの手がかかっていた。
「ごっちんの足が汚れるよ。そんなことしちゃ」
出てくる言葉はひどく落ちついていた。自分の言葉ではないようだった。
心の奥に何かが刺さっている。きっと抜けない、何かが刺さっている。
痺れる思考の中でひとみは、自分がもう戻れない場所まで来ていることを認識した。
「…っ」
視線を合わせた瞬間、真希が小さく息を呑んだのがわかった。
そして、一瞬だけ、泣きそうな表情になった。
『なんで泣きそうな顔になるの?』
問い掛けの言葉は喉の奥で詰まって、出てこなかった。
自分が何をしているのか、その疑問が頭の中に回り、その答えは深い霧の中に包まれていた。
ただ、この行為が決して真希への愛の証明にも真希を救うことにもならない、と分かっていた。では、なんで自分はこんなことをしているのだろう。
矛盾の渦に迷い込んだようだった。
きん、と後頭部に緩い痛みが波のように重なって押し寄せてくる。
自分が今、何をするべきなのか。
思いつくことはひとつしかなかった。
ひとみは真希に体を寄せて抱きしめる。
「よっすぃ…大好き、愛してる…ホントに…愛してる」
真希は精いっぱい力をこめてひとみを抱きよせかえした。
「うん、わかってる」
「じゃあ、答えて」
「ウチは、狂おしいほどごっちんが好きだよ」
「じゃあ、教えて」
ひとみはそっと真希の唇を奪った。
触れるだけの優しいキスだった。
145 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:31
時刻が12時をまわる。
どこかで高らかに鐘が鳴り響いた。空虚で退廃的なこの空間を満たしていく音色。がらんどうのような倉庫に叫ぶように神々しく響く。
本当に鳴っているのか、幻聴なのか、もう区別はつかなかった。どちらでもよかった。
7月10日。
“真希が生まれ変わった日”だった。
鐘はまるで祝福するかのように綺麗な音色で鳴る。鉄パイプがころころと床に転がっていた。
「ハッピーバースデイ、ごっちん」
「…ありがと、よっすぃ」
また二人は唇を重ねた。
もう二人は戻れない。
そのキスの瞬間には二人はすでに確信して、そしてあるいは覚悟もして受け入れていたのかもしれない。
逃れられない二人の運命を、甘んじていたのかもしれない。
146 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:31


からりと晴れ渡った空が広がっていた。
不快指数ゼロ、絶好の洗濯日和、紫外線情報『非常に強い』。
真夏日の手本のような天気予報で、真夏日の手本のような陽射しだった。
新宿西署の刑事課の朝もどこか間延びしていた。
のんびりとした朝の空気はこれから始まる仕事への数少ない休息の場で、その時間ぐらいはゆっくりと体を休みたいのが刑事たちの本音だ。
しかし、例外はある。
大きな事件の捜査のため、夜を明かすこともある。また、本当にごく稀に早朝に大きな事件などが起こった時は休息などとは言っていられなくなる。
今日は本当にごく稀な日だった。
出勤して間もない署員たちに届けられたその一報に刑事課全体が一気に色めきだった。のほほんとした空気が一変する。
強行犯係の刑事は全員、寺岡の机の周りに集まり、寺岡の説明に耳を傾けた。
147 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:32
「現場は新宿駅近隣の倉庫。殺されたのは新宿に住む男。23歳、フリーターだ。ついさっき発見されたため、犯行時間の特定はまだ出来てないらしい。金銭などはそのままで、何かを取られた形跡はない。強盗の線は薄いということだ。俺も詳しくは知らんが殺され方は異常だったらしい」
「異常、ですか?」
圭が聞き返した。寺岡はああ、と頷いた。
「猟奇殺人らしい。詳しいことはよく知らん。おそらく捜査一課も動くだろう。強行犯係は現場に行って聞き込みだ。他の係からも何人か行かせる。じゃあ、解散」
解散の声に疎らに力強い声が返って、刑事たちは一斉に散っていく。圭は安倍と顔を見合わせて、足早に歩を進める。歩きながら圭はうーん、と唸った。
「異常ってどういうことかな」
「わかんない。猟奇殺人、だから…朝からは見たくないかんじじゃない?」
自分で言いながら安倍は少し顔をしかめた。
「私も一緒に行かせてください」
その言葉で二人は振り向いた。紺野の姿を確認すると安倍はふう、と肩を竦めた。
「聞いてたの?話」
「ハイ、協力させてください」
「ダメ。盗犯係は忙しいでしょ?」
的確な指摘に紺野は顔を伏せた。
「来ればいいよ。殺人事件の現場見るのも経験になるんじゃない?」
思いもよらない圭の助け舟に紺野は表情を固めたあと、目に輝きを灯して頷いた。安倍は圭の袖を掴んで詰めよる。
「どういうことよ。紺野は盗犯係だよ?」
安倍の言葉に答えを返さずに圭は歩を再開させる。紺野はそのあとをついていく。
安倍が圭の横に並んで圭の袖を掴み返答を求める。慌しくなってきた署の廊下を歩き抜ける。
「何事も経験。寺岡さんが他の係からも行けって言ってたでしょ?後で寺岡さんには謝っとく。捜査一課も動く事件なら人出も必要だろうし。紺野は若いしね。しっかり働かせないと」
安倍はふぅん、と釈然としない風に呟きを返した。そしてしばらく間を置いて顔を伏せた。
「…でも、まだ後藤真希のこともひとみちゃんのことも片付いてないのに…」
安倍の呟きに圭は何も言葉を返さなかった。三人は足を急がせながら署内を駆け抜けていった。
148 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:33
新宿駅から徒歩数分のその倉庫の周囲にはすでに人だかりが出来ていた。
その半分は野次馬と報道陣。もう半分は事件のことなど知りもしない普段通りの人込みである。
その倉庫が人で埋まっている様子を見て三人は同様に辟易とした。カメラを前にマイクを持ってまくし立てるリポーターを見つめながら圭が疲れた風に肩を竦ませる。
「どうにかなんないもんかね」
「さあねえ。仕方ないんじゃない?ケーサツとカメラってのは持ちつ持たれつっていうしさ」
安倍が半ば諦めた風に答えた。そして隣りで戸惑っている紺野に気付いた。
「そっか、紺野はこんな事件、初めてかな」
「え、ええ。なんかすごいですね…」
「慣れるよ、嫌になるほどね」
安倍は毒々しく顔を歪めた。圭がふう、と吐き出した。
「行くか」
「うーす」
「は、はい」
圭を先頭にして人だかりをかきわけて進んでいく。
報道陣を始めとした人波は図々しく事件現場を覗きこもうとしている。そのため、三人には気付きもしない。
そこを進むのは骨が折れるし、苛つきもする。
相手を退ける動作には慣れても、野次馬の中の雑多な感覚には決して慣れない。
圭は時折顔を顰めながら人波をすり抜けていく。
149 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:33
現場保存のために引かれているテープにたどりつくと、その傍で待機している顔見知りの制服警官に警察手帳を示す。
「ご苦労様ですっ」
警官が胸を張って敬礼をする。圭は小さく頭を下げて、現場の奥を顎でしゃくった。
「状況はどんな感じ?」
「いえ、その…まだ死体処理班が到着していませんので、遺体はそのままです」
「そっか…だってさ」
圭は安倍に視線を送った。安倍はあからさまに顔をしかめた。
「朝から嫌なもん見そう」
「これも仕事」
にべもなく言い放つ。
「それで」
圭はさらに尋ねた。
「猟奇殺人って聞いたけど原形ぐらいは残ってるの?」
「いえ、頭部が完全に潰れています」
警官の言葉に紺野の顔が一気に強張った。圭と安倍は顔を見合わせて同時に溜息を吐いた。安倍は頭を抱えた。
「私らに平和な生活はやってくんのかね」
「刑事、辞めればすぐ平和になるよ」
「…あーあ、安月給なのにさあ」
「それも仕事」
短く言うと、圭はテープを通り抜けて中へ足を踏み入れた。
現場はまだ奥にあるらしく、スーツ姿の刑事たちが忙しく往復していた。
150 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:34
「あ、どうも」
顔見知りの強行犯係の刑事をすれ違って挨拶をする。しかし、その強面の刑事は口を押さえて青い顔色をしていた。
「あ、よしざ…」
刑事は答えかけたが、またぶり返して走り去っていった。圭は呆然とその後ろ姿を見送りながら不満げに口を尖らす。
「失礼だねー。この美人の顔見て餌付くなんて」
「ははっ、それウケる」
「なにぃ?」
軽口を交わしながらも圭と安倍の表情は否応なしに引きしまっていく。刑事の顔になっていく二人を見ながら、紺野はただ表情に緊張を漲らせていた。
「さて、と、じゃあ…」
「行きますか」
もう圭と安倍の顔はすっかり引き締まっていた。その目に刑事特有の鋭い眼光が光っている。
三人はさらに奥に歩を進める。
ある地点まで進むと、微かな腐臭が三人の鼻をついた。やはり遺体はそのまま放置されているらしい。初動捜査の段階では珍しくないことで圭も安倍も何度か立ち会ったことはある。しかし、いつでも決して気分のいいものではない。
広々とした倉庫の中央に腐臭の原因はあった。
その物体を目に入れた瞬間、紺野はうずくまって餌付いた。
安倍と圭はその表情に厳しさを浮かべて目を細めた。
「こりゃヒドい…。確かに異常だね…」
圭は呟くと上着のポケットから捜査用のビニール手袋を取り出してその両手に装着した。
151 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:34
そして遺体に向かって手を合わせる。普段なら布かなにかがかけられているのだがこの状況だ。布などをかければ現場保全を妨げることになる。
布すらかけてもらえないこの遺体を圭は少し哀れに思った。
「…っく、は…っ」
紺野が胸部を抑えて苦しそうに喘ぎを漏らし始めた。安倍は紺野の肩を抱く。
「どうする?とりあえず離れる?」
言葉も返せず、紺野はただこくこくと頷くだけだった。
「じゃあ、とりあえず行くね」
「ああ」
遺体に視線を収束させながら圭が短く答える。視界の端で、安倍は呆れたように首を竦めた。
「もー、不良刑事のクセに事件には目がないんだね」
不満そうにひとりごちながら、安倍は紺野の腕を自らの肩にかけて紺野を運んでいった。
二人を姿が消えたのを確認すると、圭は改めてその凄惨たる光景に目を向けた。
152 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:35
男の遺体は仰向けに横たえられていた。
そして制服警官の言葉通り、その頭部は原形も読み取れないほど酷く潰れていた。
辺りには血飛沫と共に脳味噌の残骸と透明な脳髄液が飛び散っていた。
見るも無惨なその光景は凄惨、その一言に尽きた。
経験を積んだ強行犯係の刑事が餌付くのもわかる。こんな酷い現場などそうそう見る機会はない。
圭も資料以外で実際に猟奇殺人の遺体を見るのは初めてだった。
頭部をほとんどどなくしてしまった遺体は確かに猟奇的という言葉が当てはまる。
「…ん?」
そこで圭は表情を強張らせた。
「猟奇的?」
圭は思わず漏れた呟きを何度も反芻する。
ごく最近、この単語を聞いた。確かに耳に残っている。
まず頭に呼び起こされたのは透き通るような青い瞳だった。
そして連想されて浮かんでくるのは、その青い瞳で自分を見つめる中澤裕子の姿だった。
「あのままやったら、はっきりいって凶悪犯罪、特に猟奇的な犯罪を犯す可能性がかなり高い」
ふと脳裏を掠める中澤の台詞。
そしてその台詞に触発されるように浮かんでくる。捜査資料で見た冷徹な後藤真希の顔。
圭は自然と起こる疑念を頭を振って振り払う。
153 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:35
「圭ちゃん?どしたの?」
後方から声が掛かった。圭は振り返って安倍の姿を確認する。安倍はもう手袋をしていて、遺体に手を合わせていた。
「ああ、何でもない。紺野は?」
「あの子、気分悪くなったって、トイレに篭っちゃった」
首を竦めてみせる安倍に圭は苦笑を返した。安倍は男の亡骸を真剣な眼差しで見つめる。
「なんか分かった?」
安倍の問いかけに圭は少し間を空けて首を振った。
後藤真希への疑念は心の中に押し隠した。確証も根拠もない。そして何より圭自身がその疑念が事実ではないことを切望していた。
安倍は圭の返答に唸ると、その空間を見まわした。そして、男の遺骸に目を向けた。
「いつ見ても、いいもんじゃないね…。特に朝からはキツい」
「ま…ね」
ふと圭の耳に雑音と足音が届いた。
ふう、と溜息を吐いた。そして、圭は男の死体から目を逸らす。
「帰るよ、外が騒がしくなってきた」
圭は男の屍に背を向けて歩き始める。安倍は圭の言葉に意味を察すると圭と並んで歩を進める。
少し歩き進めると二人の視界に異様な光景が現れた。
スーツに身を固めた屈強な男たちが郡れをなして歩いてくる。
その中心には高価そうなスーツを着た男がいた。鋭い眼光が特徴的で他とは一線を画した厳格さを漂わせていた。
圭はその男を見て心の中で嘆息する。
大きな殺人事件には必ず見なくてはならない光景だった。
154 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:36
圭はすれ違う瞬間、中心にいるその男と視線を合わせた。しかし、男は一瞬、目を鋭く細めただけで、すぐに視線を前方に逸らした。
安倍がその群れを振り返って口を尖らせる。
「何あれ?あの真ん中の人、圭ちゃんのこと睨んでたよ」
「捜査一課長の水谷さん。所轄嫌いのエリート主義で有名なお方だよ」
首を竦めて答える。安倍は圭の言葉に納得したように頷いた。
「あのおじさんがそうなんだ。やな感じー」
「そー言わないの」
「でもぉ…」
安倍は再び男たちを振り返る。その後ろ姿はすでに奥に消えていた。ふん、と安倍は不機嫌そうに鼻を鳴らして再び歩き始める。並んで歩きながら圭は安倍を宥めた。
「捜査は捜査一課に任せときゃいいさ。所轄は聞き込み」
「…へーい」
安倍はまだ不満そうだったが、渋々という風に頷いた。
今度はきちんと刑事専用の道が確保されていた。テープに囲われた道を抜けて車の停めてある場所まで戻る。
「捜査本部、私らの署かな」
安倍が人だかりを睥睨しながら声を漏らした。
「だろうね。ま、管轄だし」
「…やだなあ、本部あると、私ら自由に動けない」
「今更言うことでもないでしょ」
「ま、そうだけどぉ…」
「どっかのドラマみたいにはなんないって」
「それもそっか」
安倍がくつくつと笑いながら圭の肩を叩く。圭は呆れ笑いを漏らした。
155 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:36
車の鍵を開けると圭は運転席に乗り込む。その助手席に安倍が乗りこんでくる。
むんとした熱気が車中を覆っていた。
エンジンをかけると冷房をつけて車内に冷風を取りこむ。ゴーッと音を立てながら風が噴射されて、車内がどんどん冷やされていく。助手席で安倍は上着を脱いで手で火照った顔を仰いでいた。圭はどっしりとシートに背をもたせかけて冷風に当たる。
ふと後部座席のドアが開いた。
紺野が口に手を押し当てながら座席に乗りこんでくる。その表情はやはり優れず、ひどく青白かった。圭はバックミラー越しに紺野の様子を見つめる。
「大丈夫?紺野」
「…ハイ」
紺野は力なく頷いてみせる。
圭はそれを確認してからアクセルを踏んだ。
車が静かに滑り出した。圭はハンドルを操りながらアスファルトを見つめる。
「とりあえず駅に行こう。野次馬の写真も取ってもらってるし、遺留品なんかは捜査一課が持っていくだろうし…。あの倉庫の周りに人が集まるところってったら駅だけだもん」
圭の提案に二人は異論を返さなった。
156 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:37
新宿駅前は人で溢れかえっていた。普段から人通りの多い場所だが、今日は近隣倉庫での殺人事件のせいでさらに人で埋め尽されていた。
刑事や報道記者が通行人を捕まえて話を聞いている。
狂暴ともいえるような強烈な陽射しが人込みに降りかかっている。体力をじりじりと奪っていく酷暑に辟易としてしまう。
圭が雲一つない空を見上げた。
「あーあ」
「あーあ」
安倍が溜息混じりに答えた。圭はんん、と伸びをした。
「とりあえず、二手に分かれますか。紺野となっち、アタシは一人」
「だね。じゃ行くか、紺野」
「ハイッ」
三人は降りかかる酷暑に耐えながら、被害者の顔写真と警察手帳を持って過ぎ行く通行人に声をかける。
現場の倉庫は工場、倉庫郡に囲まれた場所で近くには住宅はない。しかも、人通りもほとんどない。有力な証言を望めるとしたらこの駅の周辺しかないのだ。
けれど、三人に返ってくる答えは全て一様に否定的なものだった。昨夜にこの場所にいた人物すらなかなか見つからない。
時刻も12時を回って日が高くなる頃、三人は駅構内に続く階段のタイルに腰を沈めた。陽射しでそのタイルは熱いくらいに温まっていた。三人は示し合わせたように同時にうな垂れた。
その表情には疲労が色濃く表れていた。
「戦果は?」
力ない圭の問いかけに二人はうなだれたまま首を横に振る。
圭はじっとタイルを見つめながら考えた。圭の頭の中には頭部の潰れた猟奇的な男の死体と後藤真希の顔がまとわりついて離れなかった。
そして、その光景は圭の体を休憩させることを許さなかった。
157 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:37
「よっし!もう一頑張り!」
圭は勢いよく腰を持ちあげる。そのまま階段を駆け下りると再び人込みに入りこんだ。
「すみません」
声を掛けるのに、あくまで事務的に、かつ面倒臭さは出さない。しかし、空振りが続く。
暑さが体の内にジワジワと染み入る。
機械的に動く体とは裏腹に頭の中は混乱していた。
むしろ、混乱を意識しないために体を動かしているのかもしれない。
もしも、後藤真希が犯人だとしたら。
そうだとしたら、運命染みたものを感じるし、自分がその輪の中にいることを確信せざるを得ない。
とりあえず、今は動くしかなかった。
158 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:37


本当に蠢いているという表現が当てはまる光景。直射日光の拷問に抗う場所はなく、迎合するしかない。
あまりの酷暑に降参した安倍と紺野は聞きこみを一旦中断して、駅の傍にある日陰で休憩していた。
この場所からは駅前の人込みが広く見渡せる。
安倍は人込みの中に圭を探すが、見当は付かない。
「張り切ってるねぇ、圭ちゃん」
「ええ、ですね…。本当にマジメというか、すごいですよね」
「んん…優秀な刑事だよ?圭ちゃん。頭もいいし、体力もあるし、一途だし、仕事人間さんって感じ。たまに不良刑事になるけど」
「へえ…」
確かにそうかもしれない、と思った。仕事に関して真面目な反面、のめり込みすぎると少し危なっかしくなる。
今だってそうだ。可能性の薄いと思える聞き込みにも手を抜いていない。
「安倍さんは、吉澤さんとはいつから?」
「ああ、警備課に入って知り合った。同時期に配属されてね、もう二年前になるのかな」
「二年ですか」
紺野は少し意外に思った。二人の関係はまるで幼い頃からの親友のような雰囲気だった。ずっと昔から互いを知って理解しあっているような空気が二人の間にはあった。
159 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:38
安倍は驚いている風な紺野に、
「意外かな?」
「そう、ですね。もっと、その小さな頃から知っているのかと…」
「そっかな。ま、私らの場合は色々あったからね。圭ちゃんのご両親のことも知ってるし、私の弱さも全部圭ちゃんは知ってるもん」
「色々…ですか」
「そ、色々。だから、圭ちゃんがどれだけシスコンかってことも知ってる」
言い終えて、安倍が一瞬だけ目を細めた。その先にいるのは間違いなくひとみの笑顔だと思った。
「…ひとみさんのこと、結局、何も…」
「これからこの殺人事件で忙しくなりそうだしね」
「…そうですね」
「でも、合間見つけてちゃんと捜査する、でしょ?」
「ハイッ」
あの日、真里と麻琴に会ってから、二人は改めてひとみの発見を固く誓った。
しかし、ひとみの捜索は難航していた。わずかな手がかりすらも得られず、ひとみの行方に見当すらつけられなかった。もちろん捜索願いも出しているもののまだ情報は入ってこない。
圭にとっては針のむしろだ。そのことを痛いほど理解している二人はやはりやりきれない。
160 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:38
人波の切れ間に時折、圭の姿が覗く。疲労を押し隠して仕事に没頭するその背中は傍から見ても痛々しい。
圭の近くにいて行動をともにしている安倍や紺野にとってはそれは尚更に痛ましく映った。安倍が嘆息した。
「ひとみちゃん、どこ行ったんだろ…明るくて、家出なんかする子じゃないのに…」
ひとみと面識すらない紺野がこの問いかけに答えられるはずもなかった。押し黙る紺野に安倍の溜息はさらに増える。
「学校っていっても…矢口、麻琴ちゃんも何も知らないみたいだし…」
安倍の呟きにふと紺野にある名前が浮かび上がった。
「石川…」
「ん?」
安倍がその名前を聞きとめた。紺野は確認するように頷く。
「あの時、安倍さんが言ってたじゃないですか。ひとみさんの幼馴染」
「うん、梨華ちゃんのこと?」
「ひとみさんと仲が良いって」
「ん、まあ、矢口が言ってた通り、仲は良いと思うよ」
「彼女なら何か知ってるかも!」
確信的な情報は知らなくても、ひとみにごく近しい彼女ならあるいは何かヒントをくれるかもしれない、と考えたのだ。
161 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:39
「んー…」
興奮気味の紺野の様子に安倍はしばらく唸って考えた。顎に手を滑らせながら動きを停止させている。
紺野はじっと安倍の挙動を見守る。
そして、暫くの沈黙を置いて、
「ま、聞いてみるだけの価値はありそうだね」
「は、ハイ!」
紺野は大きく頷いてみせた。安倍はふっと息を漏らして腰を上げた。そして、紺野に振りかえった。
「とりあえず、目の前の仕事ね」
「ハイッ」
二人は再び雑踏の中に紛れこんでいった。
162 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:39


その部屋には静寂が居座っていた。
しかし、張り詰めるような無音ではなく、緩やかな弧を描くような静寂だった。
窓からは街を眼下に望むことが出来る。さんさんと輝く太陽のもと、景色は歪んだように見えた。
よほど気温が高いのだろうが、部屋の中は冷房が効いてそれなりに涼しかった。
ほとんど家具のない居間には二人は座りこんでいた。身動ぎすら立てずに、じっと緩やかな時間を泳いでいた。
真希は外の様子を見つめていた。
「ねぇ、よっすぃ」
「ん?」
「…あたしのこと、好き?」
「うん、好き。狂っちゃうくらい」
「…あたしを置いてかないで」
「置いてかないよ」
「本当に?」
「本当だよ。もう、きっとウチもごっちんも狂ってるんだから」
「…狂ってなんかないよ」
真希が小さく言葉を返した。ひとみは真希に振りかえった。
「何で、そう思うのさ?」
「いっそ、狂えたらいいのにって思うから」
真希は弱々しく視線を沈めた。ひとみは「ん」と声を漏らして、外を見た。
冷えた部屋から覗く真夏の快晴は爽やか過ぎて、眩しいほどだった。少し目を細めた。
163 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:40
「よっすぃ、あたしはよっすぃが…本当に…」
「好き、なんでしょ?わかってる」
ひとみは柔らかく微笑した。
(まただ)
向けられる瞳に真希は心の中で呟いた。
ひとみの微笑みは以前とは確実に変化していた。
外見が変化したわけではない。
その瞳の色だった。
以前の優しい光が漆黒の闇に変容している。
夜の深淵の色だった。
あの殺人という刺激的な体験を境にしてひとみは変わった。
以前と同じように真希には優しく接しているし、笑うことがなくなったわけでもない。
しかし、以前と同じひとみの表情に常に闇がつきまとうようになった。
笑う表情、真剣な表情、喜ぶ表情、悲しむ表情。
何をしていてもどんな時でも、ひとみの瞳には夜の深淵の闇が浮かんでいた。
真希が心から愛していたあの優しく温かい光は消滅していた。
164 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:40
汚れきっている自分が触れてはいけない光だったんだろうか。
自分はひとみと出会ってはいけない人間だったのだろうか。
心の中で自問は何度でも繰りかえされる。
しかし、どれだけ自問しても答えが出ることはない。
自問の末にやってくるのは苛立ちと息苦しさだけだった。
そして苛立ちの末に感情は行き場を失い、暴発する。
「よっすぃ、あたしはよっすぃと初めて会った時から、あのコンビニの控え室で会った時からよっすぃが大好きだよ。愛してるよ。もうよっすぃがいないと生きていけないんだよ。よっすぃは好き?あたしのこと好き?ホントに好き?愛してくれてる?」
真希はひとみの腕にしがみついた。切実に真希はひとみを見上げた。
見上げる真希のその瞳は子供の純粋さで、大人の切実さをうったえていた。
ひとみは真希の頭に手を添えて諭すように穏やかな表情を浮かべた。
「好きだよ、ウチも好き」
真希が確認したひとみの瞳はやはり夜の深淵を映していた。
165 名前:6th.夜の深淵 投稿日:2004/12/24(金) 19:40
ひとみの心は完全にその機能を麻痺していた。
ひとみの心はもうここにはない。
そしてきっと、ひとみが心を失くしまったのは――。
きっと、あたしのせいだ。
真希は純粋な感情に襲われてひとみの腕に顔を埋めた。
そしてやりきれない想いを抱えながら、心の奥で再燃する狂気を感じていた。
しかし、その処理の方法を知り得ない真希の心は再び狂気に支配されていく。
一人歩きするそれを止める勇気も、気力も、もう真希には残っていなかった。

166 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/24(金) 19:40
 
167 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/24(金) 19:41
 
168 名前:chaken 投稿日:2004/12/24(金) 19:51
第6話「夜の深淵」終了です。

>132様。よしこは戻ってくるのでしょうか?
>133様。幸せにはしたいのですが…。
>134様。どんどんハマってくださいw
>135様。ありがとうございます。頑張ります!

イブに更新。
今日はドクターコトーを再放送で見ました。次回作は「ドクターマコトー診療所」などを書いてみようかな、と思いました。
169 名前:wool 投稿日:2004/12/24(金) 21:25
更新お疲れ様です。

ついに、よしこは崩壊してしまったようですが、どういう形にしろごっちんには最期まで一緒にいてもらいたいなぁ、と思いました。

常識的でなくとも、二人だけの幸せを掴んで欲しいです。ごっちんにはその権利があるはずだから…。


切なくなりつつ、次回も期待しております。頑張ってください。
170 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/24(金) 22:02
読み応えがある作品ですね。
これから二人は何処まで行くんでしょう?
よしこさんが心配です。

171 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/28(火) 11:01
名作の予感・・・
172 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:17


人で埋まる新宿駅前。
34℃という酷暑にも関わらず、人の行き交いは止まることはない。
陽射しがコンクリートを反射して、その熱気がゆらゆらと景色を歪ませていた。
殺人事件の発見から数時間ほど経っているが、街、あるいは行き交う人込みの様子に大きな変化は見られない。
もちろん、マスコミなどにより事件は伝えられているが、それが特に人々の日常に直接、関わるわけでもない。暇潰しの会話の種になるくらいである。
日常の駅前の光景との差異は、記者やらリポーターやらがうろついていることくらいだった。
しかし、さすがに殺人事件ということだけあって現場周辺には昼のニュースに備えたカメラが何台も待機していて、暇な野次馬が集まっていた。
現在、事件現場の検証を捜査本部が行っている。
この殺人事件は既に警視庁の捜査一課が担当することが決定している。捜査本部は管轄である新宿西署に設置される。
捜査一課の水谷の方針で捜査本部が設置される、すなわち捜査の開始と同時に、新宿西署の刑事は捜査本部の補佐に回ることを余儀なくされる。
それだけならまだ納得は出来る。
捜査一課は本格的な捜査、ノンキャリアの所轄署はその補佐、というのが警察の幹部、いわゆる“お上”の考え方であって、それに逆らうことは出来ない。
しかし、実際は補佐すらさせてもらえないのが現状だった。
水谷が捜査一課長に就任してからその傾向はさらに顕著になった。
173 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:17
警察というのはあくまで組織である。
そして、組織には上下関係というものが明白に存在しなければならない。
つまりは、警察組織というものはキャリアありきで、所轄署の刑事はピラミッドの下層部に位置する。
それが水谷の考え方である。
そして、そんな考え方の水谷のもとで所轄署に回ってくる仕事は補佐とは名ばかりの雑用だけである。
しかし、今回のような捜査難航が予想される事件ではさすがに土地勘のある新宿西署の刑事をないがしろには出来ないだろう。
目につきにくい、そして入り組んだ場所にあるあの倉庫を犯行場所に選んだのなら、犯人は新宿近辺に詳しいものだと目星はつく。
そのような事件だと西署の刑事にも入りこむ余地はある。
圭はこの事件に何かただならぬものを感じていた。
言葉では説明出来ない、正体のわからない感覚である。
しかし、それが時折、頭をよぎる後藤真希の名前のせいなのかはわからなかった。
それを紛らわすように圭は聞きこみを続けていた。
「すいません」
サラリーマンらしい男に無視されてまた辺りを探す。もう何度目の行動だろう。
「すいません」
ふと、目についた二人組の少女に声をかける。これもまた何度も繰り返してきた行動である。さすがに口調も事務的なものになってしまう。
しかし、少女たちは立ち止まって圭を見た。
足を止めてくれたことでとりあえず圭は安堵した。声をかけても無視されるほうが多い。聞き込みではまともに話を聞いてくれるほうが少ないのだ。
174 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:18
二人組の少女は対照的だった。背が高くモデルのようにスタイルの良いという少女と背が低く活発そうな子供のような少女である。
背の高いほうが圭を見つめる。
「はい、なんですか?」
圭を少し見下ろしながら飯田圭織が圭に問いかけた。
艶然といった風な笑みと子供っぽい表情が同居している笑顔を浮かべていた。
人当たりの良さそうな物腰だった。
きっと彼女は男に不自由せず、友達が多いだろうな、と圭はなんとなく思った。
「えっと、今、大丈夫?」
圭が尋ねると圭織は頷いた。隣りで飯田里沙もこくん、と頷いた。
二人は姉妹ということだった。いわれれば似通っている顔立ちといえなくもない。
圭はポケットから警察手帳を取りだして見せた。
「アタシ、西署のものなんだけど…」
「刑事さんですか」
「うん、で、この写真の男、探してるんだ」
圭は被害者の顔写真を示した。
ダメモト、というのが聞き込みの基本だ。ましてやこの人込みから昨夜ここにいた人物を探すなど砂浜から小石を探すようなものだ。言い聞かせながら反応をうかがう。
姉の飯田圭織はその写真をじっくりと凝視して、すぐに思いだしたようにポンと手をついた。
「あ、この人、昨日見た。夜。ほら、ここで昨日見たじゃん、里沙」
圭織は里沙にその写真を指して見せる。里沙はそのくりくりした大きな瞳で写真を凝視すると圭織と同様に目を見開いた。
「あ、昨日見た。なんか女の子二人と歩いてた」
写真を指差してそう叫ぶ。
175 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:18
砂浜から小石を見つけてしまった。圭はしばし呆然とすると慌てて警察手帳のメモ欄に書きこむ。
「昨日の夜、この駅で見たの?間違いない?」
圭は真剣な眼差しでそう尋ねる。二人は同時に首を縦に下ろした。
「どこ歩いてた?」
「んー、あそこらへんだと思う」
圭織は駅の階段の辺りを示した。
「どっちに行ってた?」
「多分、あっちの方じゃないかな」
圭織が指差したのは倉庫へ続く線路沿いの道だった。よし、圭は心の中で叫ぶ。
「ありがと、なんかその時の様子とか覚えてるかな?」
「うーん…」
圭織は顎の辺りを綺麗な長い指先でさすった。
「…ゴメン、わかんない。ちゃんと見てたわけじゃないし、暗くてよく見えなかったし…。人も多かったから」
「…そっか、ん、でも十分。ありがとね、助かった」
圭は警察手帳をしまった。
話では被害者は昨夜、新宿駅を二人の女性と歩いていて、その内の一人と腕を組んでいた。
しかし時間帯が深夜だったせいでその二人の少女の情報は全く覚えていない。
それでも、十分に有力な証言だった。
「でさ、悪いんだけど、ケータイ教えてくれないかな。後で証言してもらわないといけないんだ。いい?」
「あ、いいよ」
圭織は鞄の中からいくつか可愛らしいストラップのついた携帯電話を取り出した。
176 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:19
「そういや、いくつなの?」
番号とアドレスを交換している間、間をもたすため、圭は自分から話しかけた。
「ん、私は20歳だよ。里沙が13」
圭織は二つの携帯電話を巧みに操りながら答える。へぇ、と圭が声を漏らした。
「トシ離れてるんだね」
「まーねー」
「ん?…ちょっと待て。昨日って何時ぐらいにここにいた?」
「あ…バレちゃった」
悪戯した子供のような表情に圭は思わず笑みを零した。
「いーよ、情報料だ。見逃したげる」
「へっへー、ありがと」
嬉しそうに圭織が笑った。きれいな笑顔だ、と単純にそう思った。ふと、里沙が自分のほうを見つめているのに気付いた。
「13ってことは中学生?」
腰をかがめて、圭が里沙に尋ねる。
「中学二年生です」
はきはきとした口調で里沙が答えた。要領の良さそうな子供だった。そっか、と圭は里沙の頭を撫でた。
姉妹を見て、ふと、圭の頭にひとみが浮かんできた。
このところ、あまり考えないようにしていた。考えれば、悪いほうへばかり思考が流れていくからだ。
177 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:20
「ハイ、どうぞ」
作業を終えた圭織が圭の携帯電話を差し出す。ああ、と受け取った圭に圭織の視線が刺さった。自分を見つめる圭織に圭は視線を返す。
「なに?」
「ううん」
何でもない、と圭織は首を振った。圭は何だか居心地が悪くなって苦しまぎれに話題を変えた。
「…名前なんて言うの?」
「あ、そっか、言ってなかったけ。飯田圭織、こっちは里沙。あはっ、こんなに話したのに名前知らなかったなんてなんか可笑しいね」
圭織は無邪気に笑った。圭はつられて笑みを漏らした。
「で、刑事さんはなんていうの?」
「アタシは、吉澤。吉澤、圭」
「ケイ?じゃあ、圭ちゃんだね。あ、私のことは圭織でいいよ」
「ん、圭織」
なんとはなしに名前を呼ぶと圭織はうん、と微笑んだ。柔らかい笑顔につられて圭の心が少し和んだ。
そこで、ふと圭織が「あ」と声を漏らした。
「そーいえば、その写真の人ってなんなの?何かしたヒト?」
「ああ…」
圭は言葉を濁した。
何しろ猟奇殺人なのだから軽々しく話すにはあまり気の進まない事件である。しかし、証言してもらう以上は聞いてもらわなければならない。
178 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:21
「この男、駅の近くで起きてる殺人事件の被害者なんだ」
圭織は表情を凍らせた。どうやら驚くと無表情になるらしく、整った顔はやたらと怖くもあった。その脇で里沙が少し不安げに太めの眉を歪ませていた。
圭織はようやく無表情を解いた。
「そうだったんだ…」
「ん…事件のことは?」
「ううん、知らない。いつのことなの?」
「今日の朝、発見されたから、多分昨日の夜」
「私たちが見かけたあと?」
「そうなるね…」
圭織は黙りこんでしまった。圭は心配そうに俯いた顔を覗きこむ。
「…証言、大丈夫?」
「あ、うん、それは大丈夫。聞くと…なんか怖いな、って思って…」
「だろ?夜遊びは控えなよ?」
こくん、と圭織と里沙は揃って頷いた。
「なんか思い出したら連絡してね。少ししたらこっちから連絡が行くと思うからその時に署に来てちょうだいね」
圭織はうん、と頷いた。
「じゃ、行くわね」
圭は二人にひらひらと手を振ると、階段で休憩を取っていた安倍と紺野のもとに向かった。
179 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:22
先ほどまでは二人も人込みを動き回っていたが、さすがに疲れたようで圭に一声かけて休憩していたのだ。缶ジュースを飲んでいる二人の姿を見つけると圭は駆けよった。圭に気付いた安倍が缶コーヒーを掲げた。
「どしたの?なんか分かった?」
「収穫あり」
「うそ!」
安倍は目を見開いて紺野と顔を見合わせた。紺野も表情が驚きに歪む。
ダメモトである聞きこみに収穫が出るのは珍しい。何よりこの事件の状況を考えれば困難は必至だった。
圭はにやりと口端をあげた。
「署に戻るよ」
新宿西署に向かって車を走らせながら、圭は先ほどの飯田姉妹の情報を二人に明かした。
「二人組の女の子、か…」
ことの次第を聞き終えると安倍はそう漏らした。後部座席に一人で陣取る紺野が思いついたように顔を上げた。
「二人の女の子と男一人が一緒に歩いてたってことは恋愛の拗れじゃないでしょうか?」
紺野の意見に二人は唸り声を漏らして同様に首を捻った。
「いくら恋愛でもあそこまでやる?あれは異常者の犯行じゃないかな」
まず安倍が反論した。
「確かに…。それにそうだとしたら男一人が殺されたっていう状況にも疑問が沸いてくるし、脳味噌が潰れるまで叩くっていうのは、まず普通の神経じゃ出来ない…。恋愛っていう線は薄いんじゃない?」
圭が安倍の意見を継いだ。紺野はでも、とさらに食らいついてくる。
「じゃあ、その二人の女の子が異常者になるんじゃないですか」
先ほどの現場での失態を取り返そうということもあったのかもしれないが、それはなかなか的を得ていた。安倍が唸りながら首を捻る。
「…そうなるね。強盗目的って線はまた薄くなるね。動機がまだわかんないな」
「んー…」
「異常者てのは…ま、その線もアリになるかな」
「ま、ね…。でも、その子らが犯人って決まったわけじゃないし。圭織の情報もちゃんと詳しく…」
「圭織?」
安倍が聞き返した。ああ、と圭は説明を加えた。
「情報くれた子、飯田圭織」
「ふうん…。ま、今回はお手柄貰えるんじゃない?あのいけ好かない捜査一課長からさぁ」
「さぁねー…」
圭は苦笑すると、アクセルを踏んだ。混んでも空いてもいない道を快速で駆けぬけていく。
180 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:23
「ちょ、捕まるよ?」
そう咎める安倍の口調は呆れた風だったが、顔は笑っていた。圭は軽く笑った。
「いーのよ、飛ばしたい気分なの」
沈黙が流れる。
続いていくアスファルトを見つめる。
「どうなるのかね…」
圭は一転不安げに漏らした。
「ひとみちゃんのこと?後藤真希のこと?」
安倍の問いかけに圭はふ、とどこか自嘲的に笑った。
「どっちでもないさ。この事件のこと」
「二人組の女の子?」
「まぁね…。ま、どっちにしろ…」
そこで圭は一旦、言葉を止めた。
「怖いのはもし犯人が異常者だったら犯行は繰り返されるってこと。何も起きなきゃいいけど…」
不安げな圭の呟きは車内の緩やかな沈黙に溶けた。
181 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:24


夜の帳は下りはじめて、新宿は裏の顔を見せ始める。
点滅するネオンの採光は赤く糸を引いていた。
昼間よりむしろ夜のほうが人の行き交いは増える。
そして、夜に人々はすべてをさらけだす。
偏った風貌の男が歩き回る。派手な衣装に身を包んだ娼婦が買ってくれる男を捜す。若い男が一夜を共にする女を探し求めて片っ端から声を掛けている。暇つぶしに街でたむろする若者。
老若男女、欲望と野望が昆虫のように蠢く。新宿をさまようのに大層な理由などいらない。
普段通りの夜の新宿の異様な光景である。
上っている下弦の月はすべてを照らしている。夜にひそむ欲望さえもすべてを映し出している。
そして、下弦の月はすべてを見ている。
街の中心部である駅周辺の賑わいから少し遠ざかった場所。
とあるホテル街の一角。
ファッションヘルスのつまった風俗ビルと雀荘やマッサージ店のつめこまれた雑居ビルが隣り合わせに建っている。
そのちょうど隙間にあたる裏路地に真希とひとみは佇んでいた。
人通りは一切ない。どちらのビルの裏口からも死角になっている場所だった。
雑居ビル裏という場所柄からか、アルコールなどの異臭がかすかに漂っている。
しん、と張りつめる静寂に不規則に乱れた息遣いがやたら声高に響いていた。
蒸し暑い空気が体にまとわりつくようだった。
真希は息を乱している。
182 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:25
「よっすぃ…っ」
「ん?」
ひとみの息はまったく落ちついていた。真希は心臓を押さえる。
「あたし…もう、たまンない…ッ」
「何のこと?」
「心臓がっ、バクバクで…っ、おかしくなりそう…ッ」
「…んん」
ひとみはつい、と視線を沈めた。真希も高鳴る心臓を抑えて、視線を下げた。
二人の足元には体を丸めたまま身動ぎ一つ立てない男の屍があった。
身を横にしてぐったりとしていた。
その頭部から流れる赤は地面に水溜りを作っていた。
頭に焼きつくような鮮烈な赤だった。その男の後頭部からはナイフが生えていた。
ひとみが真希の肩に手を回してそっと震える頬を撫でた。
「ごっちん、頑張ったね」
「…よっすぃに見られてるって思ったら、興奮しちゃって…」
心臓は今にも飛び出しそうなほど、高い鼓動を打っていた。身体中が心臓になったようだった。
「ヤバかった?」
「…ぅん」
ひとみは息を整えると静かにしゃがみこんで、男の頭からそのナイフを引き抜いた。途端に刃物が埋まっていた場所からどろっとした赤い血が溢れて、赤い水溜りに流れこむ。
また、水溜りは広がった。
183 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:26
ひとみは軽くナイフを奮って刃にまとわりつく血を散らす。地面に血飛沫が散った。ひとみが振り向いて真希に視線を合わせる。
「ウチはね、どこまでも…ごっちんの味方だから」
「え…?」
「どこでも一緒にいるから」
優しい目だった。しかし、ひとみの目の色はやはり漆黒に染まりきって一片の光も宿していなかった。
絶望に濡れた夜の深淵だった。
その光が真希の心を激しくかきみだす。
真希はひとみの手からナイフを奪って腰を沈めると、沸きあがる衝動にその身を任せてそのナイフを何度も男の体に突きたてた。
首、背中、足、脇腹。
男の体は全く反応を示さない。
肉をえぐる感触だけが手の平に残っていく。
それでも真希はナイフを振りおろし続ける。
機械的に動作を続けながら、よぎる自問。
あたしは何をしてるんだろう。あたしは何をしたいんだろう。
心臓がバクバクするよ。おかしくなりそうだよ。
怖いよ。怖いよう。
ひとみはそっと真希の背後に回って、その華奢な背中を抱きしめた。
その体温に、ぴた、と真希はその動きを止めた。そして、返り血にまみれた顔でひとみを振り返る。
自分は、今どんな表情をしているんだろう。ひとみの目にはどう映っているのだろう、疑問というより、恐かった。
「…よっすぃ」
喉の奥から絞り出すような声だった。
ひとみはその目を伏せて、上着のポケットからハンカチを取り出した。そして、腰を落としてハンカチで真希の顔の返り血を丁寧に拭き取った。
「顔が汚れちゃうよ、こんなことしたら、ね?」
穏やかな口調で諭すとハンカチを離して真希の顔を確認してくる。
どう映っているんだろう。
また、ふと思って、なんだか虚しくなった。
184 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:27
その男は真希とひとみが駅に座りこんでいる時に声をかけてきた男だった。二人は罠に飛び込んできた獲物を以前の殺人と同じ要領でひとけのないこの路地に連れだしたのだ。
手口はまったく同じだった。
ただ、役目を変わっただけだった。
囮になったのはひとみで、実行したのは真希だった。
男がひとみとの会話に注意を欠いている間に真希が男の後ろからその頭部にナイフを突きたてた。
男は即死だった。
真希はひとみの穏やかな様子とは裏腹な夜の深淵のような瞳の色を確認する。
ずん、と響くような鈍痛が頭の後ろをまわっている。
心が掻き毟られる。
(何で人を殺してるの?よっすぃがおかしくなったのはあたしのせいなの?きっとそう。もう戻れないでしょう?うん、戻れないよ。全部あたしのせいなの?そうだよ。どうしていいかわからないよ。どうにでもすればいいよ、どうせもう戻れないなら、狂ってしまうまで…)
真希はナイフを上着のポケットに押しこんで立ちあがった。ひとみもそれにあわせて腰をあげる。
「よっすぃ…まだだよ。もうひとり殺さなきゃ」
「…ん、だね」
「…ついてきてくれる?」
「ついていくよ」
地獄の果てまで――。
ひとみの瞳はそう言っているような気がした。
男の無惨な死体に背を向けて二人は腕を組んで歩き出した。月光に照らされてアスファルトに肩を寄せ合った二人の影が伸びる。夜の風が微かにざわめいた。
185 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:27


新宿西署に捜査本部が置かれることになった。
捜査本部が置かれる場合、所轄署は特別な要請がない限り、大した仕事は出来ない。
回ってくる仕事は事件の戒名を決めて本部のある部屋の前に貼ることぐらいである。
しかし、今回は所轄署の連携、協力の要請が出たらしく、合同捜査本部が三階のフロア全体を貸しきって置かれることとなった。
それでもやはり水谷が仕切る捜査一課だけあって、もちろん捜査の本拠地となる本部は捜査一課と所轄署で別々に置かれることになった。
捜査一課は三階のフロア、新宿西署の刑事たちは普段通りに刑事課を拠点とすることになる。
もともと使い道がない三階のフロアはすべて捜査一課のもので、西署の署員が立ち入ることすら禁止されていた。
圭たちが聞きこみをしている間に機材や捜査資料の積みこみが終わったらしく、もう完全に所轄と捜査本部の隔離は完成されていた。
しかし、協力という言葉は意味深い。補佐という弱い立場ではなく、刑事として捜査が認められたのだ。
新宿西署が決めたこの事件の戒名は『新宿倉庫フリーター猟奇殺人事件』である。
そして、事件発見から数時間たって第一回捜査会議が開かれることになった。
186 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:27
すでに三階の会議室は席がなくなるほどの数の捜査員で埋められていた。
席に座る捜査員のほとんどは捜査一課で、所轄は運がよければ後ろの席に座らせてもらえる程度だった。他は後ろに立っているしかない。
しかし、もともと警視庁と所轄署にここまでの確執があった訳ではない。
以前から警視庁の官僚と所轄署の警官、いわゆるノンキャリアとの間に溝があったのは確かだが、その溝をここまで深くしたのは水谷だった。
エリート主義、キャリア、官僚を主体とした組織の形成を掲げている水谷は、45歳で捜査一課長に就任した。
異例の早さというわけでもないが、決して遅くもない。
峻烈で激しいながらも、実直で真面目な姿勢が認められたのだ。しかし、その徹底した官僚主義はその峻烈な水谷の性格と共に有名だった。
特に所轄署の間では煙たがれる存在として名を知られていた。
圭と安倍と紺野は運良く席を与えられて、最後列に座ったまま捜査情報を手帳に書きこんでいた。
スーツ姿で埋まる席。
最前列、黒板の前には捜査員たちに向かい合う形で長机がひとつ置かれていた。
そして、その席には刑事課長の寺岡や新宿西署、署長、副署長、捜査一課係長が座っている。いわゆる幹部の席である。
その中央には捜査一課長の水谷が厳しい顔つきで捜査員たちを睨んでいた。
「…ということです。鋭意捜査中です。以上です」
この言葉で捜査情報を報告していた男が椅子に腰を下ろした。被害者の素行に関しての情報で、あまり捜査には関与しそうもない情報だった。
187 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:28
水谷が室内を見渡した。
「他にはないのか」
前方の捜査員たちの反応はない。それを確かめた圭が挙手をした。しかし、水谷は圭を一瞥して鼻を鳴らした。
「所轄の刑事が何を知ってる?どうせ小さいことだ。聞く必要はない。他には」
低い声色で言い放つ。その言葉に最後列で席も与えられずに立っていた新宿西署の刑事たちの顔色が変わる。その顔に浮かんでいた感情はまぎれもなく怒りと憤りだった。
「小さなことでもこの事件に関しては情報が少なすぎます。聞く必要があると思いますが」
最前列で低い声が上がった。水谷が迫力を込めた視線を声の主に送る。声の主である寺岡は表情を変えずに圭に発言を促す。圭は手帳に視線を落として報告を開始する。
水谷は少し眉根をひそめると、その視線を圭に向ける。
「目撃証言が出たんです」
圭の一言に室内が俄かにざわついた。水谷の表情も驚きに変化する。
「駅前で聞きこみをしていたところ、ある姉妹が証言してくれました。昨夜未明、被害者らしき男性と少女二人が一緒に歩いているのを見かけたそうです。その内の一人と被害者の男性が腕を組んでいたと。線路沿いの道を歩いていて、倉庫に向かっていたそうです。これから詳しく話を聞きます」
圭の報告が終了すると共に室内が騒音に満ちる。
「貴様。なぜそんな大事な事を今まで言わなかった!」
室内に水谷の怒声が響いた。場は水を打ったように一気に静まり返る。怒声の余韻がぴいん、と残った。
「そんな情報をもっていながら何故黙っていた。さっさと言え!」
緊張が一気に張りつめる。
「…はッ、意味わかんないんだけど」
圭の隣りでぼそっと安倍が悪態を吐いた。
水谷の鋭い眼光が飛んでくるが、安倍はふん、と鼻を鳴らした。水谷は呆れたように鼻から息を吐いた。
「所轄というのはアタマだけではなく、要領まで悪いようだな」
理不尽な言い草に憤った最後列の新宿西署の刑事達は水谷に攻撃的な視線を投げつける。
もちろん、安倍や紺野も水谷に憤慨を示す。水谷はそんな視線は気にも留めずに圭に睨みつける。
これが水谷のやり方である。何度か一緒に仕事をしたことがある圭にはここで逆らっても無駄だということがわかっていた。
188 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:30
「…すいませんでした」
圭は呟くと顔を伏せた。水谷は鼻を鳴らすと寺岡に向き直る。
「その証人はうちが取り調べる。いいな」
高圧的な口調は命令の意を示していた。
新宿西署の面々の視線は一気に険しくなる。
ついに痺れを切らして最後列で声を上げたのは紺野だった。
「ふざけないでくださいっ。吉澤さんが聞きこみをして得た証言です。それにあなたたち、捜査一課の取調べは無駄です。被害者と一緒に歩いていた少女二人の特徴は覚えていないそうですからっ。そんな証人を捕まえて捜査一課の取調べなんか苦痛になるだけです」
紺野の叫びに会議室はしいん、と静まりかえる。
紺野の言葉通り、捜査一課の取調べの追求の厳しさは有名だ。ただの証人にそんな取調べを受けさせることは紺野の正義感をもってすれば許せないことなのだろう。水谷の言葉に従う訳にはいかない、と紺野の眼光は鋭かった。
しかし、水谷は紺野の姿を冷ややかに一瞥すると、再び寺岡に視線を向ける。
「所轄の刑事は相変わらず教育がなっていないようだな。所轄の刑事に何が出来る。その証人は捜査一課が取り調べる」
「…しかし、ただの証人ですよ?それに吉澤の話ではほとんど覚えていないようですし。捜査一課が出る幕じゃないですよ」
その言葉に寺岡と会議室の席を占めている捜査一課の刑事が寺岡に向く。どこかで息を呑む音が聞こえた。
水谷の表情が僅かにしかめられた。
「それは捜査一課に逆らうということか」
「そんなつもりはありませんがね」
水谷は目を細めた。
その緊張感の張りつめる会話に寺岡の横にいる新宿西署長や福署長の表情は不安定に揺れている。自分の地位の保身を考えているのは明白だった。
水谷はしばらく寺岡を睨むと捜査会議の解散を言い放った。
189 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:32
圭と安倍、紺野は解散と同時に資料を片している寺岡のもとに走りよった。
「ありがとうございました」
三人は同時に頭を下げる。寺岡はその三人には目を向けず机の資料を片付けている。
「それより、お前らは聞きこみを続けろ。吉澤の捕まえた証人には二人の女の情報は本当に期待できそうにない。新しい証人を捜しだせ」
寺岡は資料を抱えて会議室を出ていった。
その後ろ姿に三人は改めて頭を下げた。
会議室を埋めていた人波がいっせいにドアに向かう。三人もその波に乗った。
「殺人事件が起こった。すぐ戻れっ」
突然ドアの向こう側で声が上がった。その声と共に捜査員は慌てて走りだす。
捜査一課の人間はそのまま会議室の隣りにある捜査本部に、新宿西署の刑事たちは刑事課にそれぞれ散っていく。
三人はさながら戦場にように慌しくなる署内を駆けて刑事課に駆けこんだ。
刑事課内は慌しく浮きだった。
人が慌しく往復して、それぞれの机に溜まっていた書類は舞いあがる。
刑事たちは一斉に寺岡の机の周りを囲む。強行犯係の刑事は捜査会議に出ていたので、通報を受けたのは盗犯課の刑事だった。
「ついさっき、新宿の三丁目の路地で男の遺体が発見されたようです。その死体はナイフで頭を一突きで即死して、さらに何度も体中をメッタ刺しにされています。この前の猟奇殺人事件との関係性は不明ですが、おそらく同一犯だと…」
その若い刑事は説明した。その言葉が刑事たちに沈黙を生んだ。
異常としか表せない事態だった。昨日に発覚した猟奇殺人事件の捜査の進展もほとんどないのに、さらなる猟奇殺人が起きてしまったのだ。刑事たちの混乱も当然の反応だった。
190 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:33
「でも、昨日の今日でこんな事件起きるものでしょうか」
ぽつり、と紺野が呟いた。その言葉に刑事たちは一様に黙りこんだ。
「とにかく捜査だ。現場に行け」
停止した空気を寺岡の声が吹き飛ばした。その一声で刑事たちはいっせいに散っていく。しかし、圭は自分の机に戻ってその腰を落ちつけた。
「どうしたの?早く行かないと。現場」
安倍が声をかけてくる。圭は机を指先でとん、と叩いた。
「アタシ、これから圭織に話、聞かないといけないんだよ。なっちと紺野は行って」
「そっか、じゃ、先行ってるからね」
安倍は言い終えるとすぐに駆け出した。紺野も安倍のあとに続いていった。
圭は静けさを取り戻した刑事課内を見回して溜息を吐く。
乱雑に床にちらばった書類、それぞれの机は物に埋め尽くされて表面を隠していた。
圭は軽く自分の机を整理する。そして上着から携帯電話を取り出すと、飯田圭織の文字を探し出す。
そこで、突然机の上の電話がけたたましく音を立てた。圭は自分の机で資料の確認をしている寺岡を一瞥するとその受話器を取った。
「はい、西署、刑事課です」
電話口から聞こえてきたのは聞き覚えのない声だった。そして、その内容はまるで予想もしないものだった。
「はい、はい。はい…すぐ伺いますっ」
突然、興奮を露わにする圭に刑事課に残っている寺岡たちが訝しさを含ませた視線を送る。
アドレナリンが一気に廻る。
(何で!一体どういうことなの?)
疑問符が次々に浮かび上がる。
「はい、失礼しますっ」
受話器を叩きつける。
191 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:34
「また殺人事件です」
通報の内容を寺岡に叫ぶ。圭の言葉に残っていた刑事課の面々の表情が驚愕に染まる。
「場所は二丁目の路地。絞殺された上、またメッタ刺しにされてるようです。すぐ向かいます」
圭は興奮気味の口調で言い捨てると椅子にかけられている上着をひっつかんで、刑事課から飛び出した。
パトカーではなく自分のセダンに素早く乗り込んでエンジンをふかす。なかなか掛からないエンジンが圭を焦れさせる。
どういうことだ。
この疑問ばかりがどんどん頭の容量を満たしていく。
ようやくエンジンがかかった。
車を出して道路を滑らせる。ハンドルを切りながら圭は舌打ちを鳴らした。
「一体、何が起きてる…!」
その呟きに答えが帰ってくるはずがなかった。足早に過ぎていく新宿の景色を目を移ろわせながら圭は再び舌打ちを鳴らした。
192 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:34


新宿の街を包む喧騒とは離れて、時間はまるで円を描くように緩く穏やかに流れる。
窓から西日が部屋全体に射して二人を包みこんでいる。
焼けつくようなオレンジは部屋の隅まで赤く照らしている。家具のないこの部屋に伸びるのは二人の背中の影だけだった。
ほんのわずかに焦げるような芳ばしい匂いが漂っている、気がした。
黄昏色に空は染まっていた。そしてその赤は街全体をぼんやりと浮かび上がらせていた。眩しい光はビルの谷間にもう沈もうとしている。
それでも最後のあがきとばかりに眩しく照るので、二人はすっと目を細める。
最近では真希とひとみは寝室で体を合わせるより、居間で二人で窓の外を眺めている時間のほうが増えていた。麻薬もまったく必要なくなった。
真希の心はやけに静かだった。
わずか一日前に人としての禁忌を犯したとは、考えられないほど静かで、緩やかだった。口数も自然と少なくなっていた。
それはもしかしたら反動なのかもしれない。
真希は気取られないようにひとみの顔を覗きこんだ。そして、そのひとみの表情に息を呑んだ。
漆黒を映している瞳を細めて、窓の外を見つめている。夕陽が丸みを帯びたひとみの頬を浮かび上がらせる。
一日の終わりを告げる赤は、ひとみの白い肌をよりいっそう引き立たせていた。
ひとみの表情は細波のように美しく、硝子のように儚かった。
何を思っているのだろう。
そう考えて、真希は耐えきれずに顔を伏せた。
193 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:35
最初の殺人を犯してから一週間が経った。
雑居ビルの裏路地での第二の殺人、同じ日に犯した第三の殺人。
それから日を追うごとにひとみはこの表情を浮かべることが多くなった。そして、真希はこの表情を見るたびに沈んでいる自分に気付いていた。
そして、その度に真希は自問する。
(あたしは、何をした?なんであんなことした?よっすぃを傷付けたかった?いや、そんなことない!退屈だったから?あたしはなんであんなことをした?フツウじゃ足りなかった?わかんない。何の意味があったの?アタマがオカシイの?わかんない…ねえ、よっすぃ)
そして行きつく結論。
ひとみは自分が触れてはいけない存在だった。
その後悔は真希の胸に深く焼きついた。
そして、同時に苛立つ。
ざわざわと波が立ち、かきむしられるような苦しみに襲われる。
衝動が呼び起こされる。
凶暴な光がすべてを包んで、広がっていく。
真希には果てしなく広がる狂気の欲望を抑える術はもっていなかった。
真希はひとみの服の袖を掴む。ひとみはゆっくりと真希に振りむいた。
「あの男たちの死体、見つかったかな」
「知らない。この三日、部屋から出てないし」
ひとみの言葉に真希は床に視線を落とした。
真希の部屋にはテレビやラジオなどはない。だから、情報を得ることが出来ない二人はこの三つの殺人がどれほど世間に影響を与えているか知るよしもなかった。
真希は再度顔を上げてひとみに視線を合わせた。
「ねえ」
「なに?」
「メチャクチャになりたい」
「そっか」
「ねえ」
「なに?」
「もう一回しようか」
真希の言葉の対象が殺人である事はひとみは即座に理解したようだった。
「いいよ」
ひとみは静かに頷きを返した。西日に照らされるその瞳には深く夜の深淵が映っていた。

194 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:36


日が落ち始めていた。
ふわふわとした雲をまとっている太陽は遠くに見えるビル郡の谷間に姿を隠そうとしていた。
それにしても、景色はとにかく美しかった。
八方に黄昏色を放って、街全体は暮れの赤に染まる。
ビルの窓に反射したオレンジ色が少し眩しかったのか、安倍は少し目を細めた。その横でじりじりとした暑さに耐えきれず紺野はスーツの上着を脱いて、カッターシャツの腕をまくった。
「アンタだけ中に入っとく?」
紺野が振り向くと、安倍は店のドアを指差していた。
矢口や小川と来た喫茶店である。前に来た時は気付かなかったが、看板には『 a coffee break 』と色褪せた字で書かれてあった。
紺野は小さく首を振った。
「いえ、待ってます」
「おー、その意地いつまで持つかな」
意地悪そうに安倍が笑った。むっとしながら紺野は辺りを見回した。景色は蒸し暑い熱気でちりちりと湯気が立っているように見えた。
しかし、やはり暑い。
シャツの襟をパタパタと扇ぐ。額に汗が滲む。近くの公園の木立から聞こえる蝉の合唱が暑さに拍車をかけた。
ふと隣りを見ると、安倍は一人だけ喫茶店のドアの前の日陰に入っていた。
「ズルイっ」
「ここは私の場所」
くっと苛立ちながら紺野はまた辺りを見回した。
アスファルトの続く歩道は朝娘女子高校の校舎に沿ってずっと伸びている。
日陰の場所は他になさそうだった。
「中、入ってればあ?」
含み笑いの声にまた苛立った。
もう、となつみを睨むと、安倍は肩を竦めてみせた。
その安倍の仕草と子供の意地悪のような行動が憎らしい。
腕時計を見ると5時を過ぎていた。もうそろそろ待ち人は来るはずだ。
自分でも石川梨華が何かを確信的に知っているという可能性は薄いとわかっていた。
しかし、幼馴染で親友ならばひとみの行きそうな場所、あるいはひとみが姿を消す前の様子を知っているかもしれない。
何か僅かでも手がかりが掴めれば上出来だろう。
195 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:36
「後藤真希のことは、全然手ぇつけてないの?」
背後から安倍の声がかかった。先ほどまでとは違う鋭い真剣な言葉だった。紺野はつられるように表情を引きしめた。
「あの殺人事件とひとみさんのことで手一杯です。寺岡さんも一旦、中断って」
「殺人事件の捜査が終わるまで?」
「そうです」
「…ん、そっか」
先ほど、駆けつけた現場の惨状はあの倉庫での猟奇殺人を彷彿とさせるほど惨たらしいものだった。
まず頭部をナイフでひと突き、これが致命傷となり、即死である。さらに被害者が意識がなくなってからも何度も体中を刺されて遺体は穴だらけだった。
何とか吐くのは堪えたものの、さすがに気分は良いものではなかった。
さらに、もう一件、殺人があったらしい。
そちらには圭が駆けつけたらしい。電話での圭からの情報ではおそらく同一犯だということだ。
そちらの遺体はやはりめった刺しにされて、酷い状態だったそうだ。
そして、また驚くべき事実が発覚した。
この二つの殺人はほとんど同じ時間に行われたらしい。
遺体の状態から二人とも昨夜の深夜に殺されたということだ。
つまりはひとり殺してもまだ飽きたらず、もうひとり殺したということ、もしくは犯人は複数で二手に分かれて殺人を犯したということだ。
しかし、与えられた情報はそれだけで、捜査はやはり捜査一課がしきるので、紺野と安倍は追い出された。圭のほうも駆けつけた捜査一課にすぐ追い出されたらしい。
だから、空いた時間で以前紺野が言っていた石川梨華に話を聞きにいこうと安倍が提案したのだ。
もちろんひとみの行方を探しているということは圭には秘密のままだった。心配をかけないためだ。
紺野はまた辺りを見回した。
そして、駆けてくる人影を見つけた。膝丈の制服のスカートがふわふわと揺れている。この猛暑の中にあって、まるで別世界のように爽やかな姿で汗もかいていなかった。
196 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:36
石川梨華は紺野の前で立ち止まった。
「刑事さんって…?」
「あ、私です。吉澤さんの部下で盗犯係の紺野あさ美と言います」
紺野が頭を下げると、いえいえ、と石川も小さく頭を下げた。
「久しぶり、梨華ちゃん」
そこに喫茶店のドアの前から声が飛んだ。
「あ、安倍さん。久しぶりですっ」
見知った顔に気づくと石川は少し弾んだ口調で頭を下げた。
「とりあえず、中、入る?」
安倍がドアを指差すと、石川より先にまず紺野が即座に頷いた。
冷房が効いている店内は外とは比べ様にならないほど快適だった。紺野はふう、と安堵した。
やはり小さな店内には他の客の姿はなかった。
「アイスコーヒー、三つ、お願いします」
安倍がカウンターの店主に言うと、店主はまた黙って頷いてグラスを取り出した。
客がいないのは店主の無愛想な対応のせいだろうか、何気なく思って、紺野はテーブル席についた。隣りに安倍が座った。
「梨華ちゃんも座って」
「え、ああ、ハイ」
店内を物珍しそうに見渡している石川が安倍の向かいの席に座った。
「こんなお店、あったんですね」
棚に置かれているアンティークの置物を見つめながら石川が漏らした。
「知らなかった?こんなに学校の近くにあるのに」
安倍が意外そうに尋ねた。梨華はぐるっと視線を巡らす。
「たぶん、知ってる人のほうが少ないと思いますよ。ステキな雰囲気ですね」
柔らかく、石川が笑った。
ふと、紺野は違和感を覚えた。
表情が堅い、というか作られた笑顔という印象を受けた。
じっと石川の顔を見つめる紺野に構わず安倍は真剣な眼差しで石川を捉えた。
「矢口から聞いてる、よね?」
「…ハイ、大体は」
石川とのコンタクトを取るのは安倍が申し出てくれた。矢口を通して連絡を取ったらしい。その時に矢口が大まかな話はしておいてくれたらしい。
石川は長い睫毛を伏せた。
「よっすぃ、のことですよね」
「うん」
安倍ははっきりと頷いた。
197 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:37
そこでアイスコーヒーが運ばれてきた。盆から机に移る時に氷が涼しげな音を立てる。机に三つのグラスが並ぶと、店主はまた黙って下がった。気を遣ってくれたのか、ただの無愛想なのか、判断はつかなかった。
紺野はとりあえずストローでグラスを混ぜてアイスコーヒーを飲んだ。外で極限にまで乾いた喉を冷たい液体が潤していってくれる。
安倍は一口飲んで、また石川に向き直った。石川はストローで氷を混ぜていた。
「元気そうで、よかった」
安倍の声に石川はグラスから顔を上げた。
「矢口から落ちこんでるって聞いた」
「…そう、ですか」
石川の表情は一気に曇った。
そこで紺野は石川の表情の違和感の正体に気づいた。
やはり、石川はひどく落ちこんでいるのだ。だから表情を押し隠している。作られた表情のように思えるのはそのためだったのだ。
紺野は目を細めて、石川を見つめた。
おそらく、よほど仲が良いのだろうことは石川の落ちこみ様からも明白だった。
幼馴染で、ひとみの両親がなくなった時もそばにいて、共に生きてきた存在。
よほど強い絆なのだろう。
あいにく幼馴染もなく、両親が健在な紺野には想像するしかないが、それだけは確信できた。
「それでね、ひとみちゃんが、その…姿を消す前、なんか言ってた?様子とか変じゃなかった?」
安倍が切り出した。石川は俯いている顔を上げて、思案をし始めた。
「姿を消す、とか…家出するとか…そういうことは…特には…なにも…言って、なかったですけど…あ!」
ポンと石川は思い出したように手を叩いた。
「なんかあったのっ?」
思わず安倍と紺野は身を乗り出した。
198 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:37
「様子が、おかしかったんです」
石川は真剣な表情で言った。
「様子?」
安倍が険しい顔で尋ね返した。石川はまた神妙に頷いた。
「これは、圭ちゃんにも相談したんですけど…最近、よっすぃ、なんかぼーっとしてることが多くなって…なんか話、聞いてないっていうか…あんまり、人の話聞いてないみたいで…」
「…うーん」
安倍は大きく唸った。
紺野は身を引くともう一度ストローに口をつけた。
話を聞く限り、確かに様子はおかしい。
さすがにそれだけでは何があったか推測は出来ない。
しかし、これは立派な収穫だ。
ひとみが姿を消す前に、確実になにかがあったのだ。
そのなにかがひとみの失踪に繋がっていることは明らかだった。それが事件にでも巻きこまれたのか、悩みでもあったのか、それはわからないが、とにかくなにかがあったのだ。紺野は身を乗り出した。
「様子がおかしかったのは確かですか?」
紺野が尋ねると、石川は控えめに頷いて、
「普段とは違ったと…」
「ねぇ、ひとみちゃんが姿を消す前、どんな会話してた?出来れば詳細まで。そんでなるべく直前のほうがいい」
安倍はポケットから手帳を取り出した。石川は右上を見つめて記憶を掘り出す。
「えっと、いなくなる前は、なんかもう…話しかけづらくて…じっとぼーっとしてました。その少し前は…本当に取り留めのない話ですよ?」
「うん、出来るだけ詳しく。ひとみちゃんの様子が変だなって感じはじめたのは?」
「一ヶ月前、くらいです」
「それでいい。その辺の話。んと…なんかいつもと違うこととかなかった?」
「それが…なかったんです。よっすぃがいなくなってから家で何回も考えてたんですけど…ちょっと雰囲気が変わったってことだけで…」
「話す内容は特に変わらなかった?」
「ええ。家でのこと、圭ちゃんとのこととか、夕食どうしようとか、友達の噂話とか、あと、バイトのこととか」
「バイト?あ、そっか、ひとみちゃんバイトしてたんだ。見落としてたな。どこでバイトしてたっけ?」
「あ、近所のセブンイレブンです」
住所まで聞き出して安倍は手帳にいそいそと書きこんだ。紺野は横で話を見守っていた。
199 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:38
安倍はまた顔をあげた。
「ひとみちゃんは彼氏とか?」
「いない、と思います。聞いたことないし」
紺野は少し意外に思った。
少し前に圭から写真を見せてもらったが、ぱっちりとした目が特徴的な美少女だった。恋人がいてもおかしくないと思ったが、圭の話では彼氏など出来たことがないということだった。
その時は圭が知らないだけでは、と思っていたが、幼馴染まで言うのだから間違いないだろう。よほど奥手なのだろうか。
そこで石川が思い出したように「あ」と声をあげた。
「でも、バイト先の先輩がカッコイイっていってたのを聞いたことあります」
「バイト先の先輩?」
「ハイ、私も見たことあります」
「どんなヒト?」
「サトダさんっていうんですけど…別に、普通の大学生だと思います…。よっすぃの場合はご両親なくした時にそのサトダさんに優しくしてもらったからだと思います」
「…そっか」
安倍は小さく答えた。
「……」
紺野は少し目を細めた。
中学生の時に両親を亡くしたのだ、ひどくショックだっただろう。その時には圭も随分、落ちこんでいたと安倍から聞いた。
本当に二人きりで生きてきた姉妹なのだ。
身を削るほどの心配も仕方のないことだろう。
紺野は声も聞いたことのないひとみのことを想像した。
優しく、慕われる性格で底抜けに明るい。友達も多い。安倍の話では本当に屈託のない純粋な少女らしい。
「それに、告白とかそういう感じじゃなくて、なんかいいなあ、って感じで。付き合うとかは全然ないと思います」
梨華は付け足した。
「んー、そっか。ありがと、とりあえずコンビニ、当たってみるよ」
安倍は礼を言うと手帳をポケットにしまった。
石川は勢いよく席を立った。紺野と安倍は静かだった石川の行動に俄かに驚く。石川は思いきり頭を下げた。
「よっすぃのこと…お願いします」
安倍は一瞬、目を丸くしたあと、穏やかに微笑んだ。そして静かに席を立つと石川の頭を撫でた。
「わかってる。あんま梨華ちゃんが思いつめることないと思うよ」
石川はじっと俯いていた。
紺野には俯いている石川の表情はわからなかったが、石川の細い肩が震えていることだけはわかった。
安倍は優しく石川の髪を撫でた。
「大丈夫、見つけるよ」
200 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:39
わざわざ呼び出したお詫びとして、アイスコーヒーの代金は紺野と安倍が持つことになった。
喫茶店を出ると、日は先ほどより翳っていた。辺りは薄暗くなっていた。陽射しもすっかり弱くなっていた。太陽はビルの谷間に沈みきっていた。わずかに雲の切れ間にオレンジが覗いている。
ふと、石川が二人を振りかえった。
「ありがとうございました、アイスコーヒー」
丁寧に頭を下げる。紺野は慌てて手を振った。
「いえ。…絶対、見つけますからね、ひとみさん」
精一杯の決意を込めて宣言した。
石川はもう一度深く頭を下げると、アスファルトの先に消えていった。
石川の背中が消えると、安倍は紺野に向いた。
「コンビニ、行くよ」
「え、今からですか?」
ああ、と頷くと、車を停めた近くのコインパーキングに歩いていく。紺野は慌ててその後に続いた。
手早く車の鍵を開ける。
「手掛かりがつかめるまで粘るよ。捜査も忙しくなってきてるし、私らには時間がないんだから」
安倍はドアを開けて運転席に乗りこんだ。紺野も助手席に滑りこんだ。
エンジンがかかって、車が発進する。
少し混んでいる道路をすり抜けながらスピードを上げる。
「どう思う?」
ハンドルを巧みに操りながら、安倍がぽつり、と尋ねた。
「え、バイト先の先輩、ですか?」
「うん、サトダさん」
「正直…あまり、望めないと思います」
「ひとみちゃんの行方は知らない?」
「ハイ、彼氏ならまだしも、ただの、いわゆる憧れの人っていうだけですから。そんな人がなにか知ってるとは思えませんけど…」
「ま、私もそんなとこだとは思うよ。でも、バイト先での様子も聞きたいし、サトダさんがなんか知ってたら儲けモンだし」
また車のスピードが上がった。
軽快にアスファルトを蹴って、進んでいく。
梨華が教えてくれたコンビニは学校からそれほど離れていなかった。
人通りの多い交差点の角にコンビニがあった。薄暗い辺りのなかでぼんやりと灯りが浮かびあがっている。
がらんと空いている駐車スペースに車を滑りこむ。きちんとスペースに停める。
201 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:39
「さあて、粘るか」
呟いて、安倍は車を降りた。エンジンをかけたままにしておくのは何があっても動けるように、という刑事の性、らしい。
自動ドアをくぐる安倍に紺野は慌てて続いた。
外ももう温度が下がってきているが、冷房の温度は昼間と変わらないので、店内は少し肌寒く感じた。
広々とした店内には人影はまばらだった。
雑誌コーナーで立ち読みしている若者が数人、男性の店員がひとりだけだった。
「ビンゴー」
呑気な口調で言うと、安倍は男性店員に近づいていった。紺野はついていきながら、その男性店員のネームプレートを確認した。
胸のプレートには里田、とあった。
「あのー、すいません」
安倍が声をかけると里田は振り向いた。ごく普通の大学生、石川の言葉通りだった。容姿も普通で、別段、目立つというわけでもない。
里田は愛想笑いを作った。
「はい、なんでしょう?」
「あ、いえ、客じゃなくて…話を聞きたいんです」
「話、ですか?」
愛想笑いから怪訝そうな表情に変わる。安倍はええ、と頷いた。
「吉澤ひとみさん、ってご存知ですか?」
「は?…ええ、ここでバイト一緒にしてますから」
何故そんなことを聞くのだろう、とでもいう風に里田はまだ怪訝そうな表情を崩さない。
安倍はなるべく深刻そうな表情を作った。
「私たち、彼女の知り合いなんですけど…実は、ひとみさん、姿消しちゃって…」
「えっ?」
俄かに驚いたように里田は声をあげた。
「本当ですか?…そういえば、最近、バイト来ないな…」
里田は俯いて考えこむような仕草を見せる。安倍は気付かれないように舌打ちした。
「どうしたんですか?」
紺野が小声で尋ねる。
安倍は首を振る。
何か知っていればもっと反応があるはずだ、職業柄、そんな仕草を見過ごすはずはない。つまり、里田は何も知らない。
それが安倍の結論らしかった。
それは安倍の主観、つまり感覚によるものであるように紺野には思えたのだが、安倍は里田が何かを知っているという線を完全に消したようだった。
202 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:40
そこでドリンクコーナーの横にある関係者用のドアが開いた。
現れたのはスタッフ用のエプロンをつけた中年の女性だった。
ネームプレートには店長と書かれてあった。
「すいません、店長」
里田はその女性に呼びかけた。
「ん?どうかした?」
女性は振り向くと、安倍と紺野に目を止めた。そして、駆け足でよってくる。
「何かトラブル?」
いえ、と里田が首を振った。
「吉澤さんのこと、調べてるって」
「え?」
女性は怪訝そうに目を細めた。そして、安倍と紺野を交互に見た。しかし、安倍は臆さない。
「吉澤さんがバイトに来なくなったのはいつからですか?」
「…あなたたちは?」
「友達です」
安倍はきっぱりと一片の曇りもなく即答した。女性はすぐに信じたようだった。
「そう…。彼女、一体どうしたの?」
その言葉は心配そうな含みを持っていた。
「連絡とかは入ってないんですか?」
安倍に代わり、今度は紺野が尋ねた。
「ええ、真面目だったのにどうしたのかしら…。一応、お姉さんからはしばらく休ませて欲しいって言われたんだけど…」
圭がひとみの行方がはっきりするまで休ませるように連絡をいれていたことは二人とも圭から聞いていた。
店長の女性は心配そうに眉尻を下げた。
「どうしたのかしらって思ってね…。いい子だったし、何か事故でもって心配してたんだけど…」
「いや、その可能性もあります」
きっぱりと安倍が言いきった。女性はえ、と問いかえした。
「実は、行方がわからないんです。何かの事故、あるいは事件に巻き込まれた可能性もあります」
まあ、と女性は重く呟いた。
203 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:40
「そういえば、あの子も来ないわねえ」
何気なくぽつり、と声を漏らした。
「あの子?」
安倍が問いかえした。
「後藤さんですか?」
里田が声を挟んできた。
「ゴトウ?」
咄嗟に紺野の頭に後藤真希、の文字が浮かんだ。ずっと頭から離れない名前なので仕方ないだろう。苦笑して頭から振り払う。
「連絡もないのよね…」
女性が何気なく呟きを落とした。
その呟きに安倍の顔が俄かに真剣味を帯びた。刑事の目でじっと女性を見つめる。
「そのゴトウさんっていつごろから来なくなりました?」
「え…そういえば、吉澤さんと同じ頃かしらね」
安倍は黙った。
紺野も思考を繋いだ。
もしかすると、そのゴトウという人物が何かひとみの失踪に関与しているのかもしれない。
「吉澤さんとゴトウさんって仲は良かったんですか?」
安倍が尋ねる。
「そうねえ…。同じ時間だし、吉澤さんが一応教育係みたいな感じだったわ。年も近いから、仲は良かったんじゃない?」
ふと、紺野の体に電流が走った。
後藤真希は16歳だ。ひとみと同じ年齢である。
情報が思考を支配する。
限りなく静かな湖の水面にぽつり、と水滴が落ちる。波紋が広がって、湖は静かに波立つ。
ざわざわと予感めいたものに紺野は戸惑った。
「ゴトウ、なんていうんですか?その子」
安倍が沈めた口調で尋ねた。安倍にも正体不明の予感が広がっているようだった。
「え…ちょっと待ってね」
女性はレジのほうへと小走りで向かった。
204 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:41
「ゴトウ、マキですよ。彼女の名前」
里田が口を挟んだ。
「えっ」
弾かれたように二人は同時に顔を上げた。
紺野はまるで体中の血が逆流するような感覚を覚えた。そして、安倍と顔を見合わせる。
そこへ名簿を持って女性が戻ってきた。
「あったわ、ゴトウ…マキよ、マキ」
確信はぎゅう、と固まっていく。
「どう、書くんですか?」
紺野は興奮を抑えて尋ねた。
「えっと、後ろに藤、真実の真に希望の希ね」
ゆっくりと後藤真希、と脳内で変換された。
「ウソ…でしょ…」
呆然と紺野が呟いた。
頭に血が上る、という感覚が明確にわかった。
脳の血管がどくんどくん、としっかりと鼓動している。その鼓動は頭全体に伝播していく。
冷徹な美少女が脳内のビジョンに大きく映し出される。
「ちょっといいですかっ?」
興奮気味に断わりをいれると、安倍は名簿を受け取った。紺野もその名簿を覗きこんだ。
後藤真希、16歳。その横の顔写真には冷徹な美少女。
安倍は紺野に視線で確認を促す。紺野は目を見開いたまま頷いた。
「後藤真希に、間違いありませんっ」
「住所は…新宿、ビンゴ」
安倍は紺野と視線を合わせて頷きあった。里田と店長の女性は二人の様子を訝しそうに見守っている。
205 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:42
「この住所、写させてもらってもいいですか?」
安倍は真剣な眼差しで女性に問いかけた。
「え、でも…それは後藤さんの住所よ?」
女性は困惑気味に言うが、安倍は首を振った。
「彼女のことも探してるんです」
「でも…住所を教えるのはちょっと…」
安倍は静かにポケットから警察手帳を出した。紺野もその横に自分の警察手帳を示す。
女性と里田の表情が驚きに染まる。
「警察です。後藤真希はある事件の参考人として追われています。姿を消していたんですが…まさか、ここでわかるとは思ってなかった。うつしてもいいですね?」
安倍は凛然として言った。
「は、はあ…どうぞ」
女性は戸惑いながら頷きを示した。安倍は警察手帳のメモ欄に後藤真希の住所を書きこんだ。
太く丁寧に書きこむと、安倍は手帳を閉じて、女性に頭を下げた。紺野も慌てて頭を下げる。
「ご協力ありがとうございました」
「え、あ、はい…」
女性が曖昧な返事を返すと、安倍と紺野はコンビニをあとにした。
外は随分と薄暗くなっていた。本格的に夜を迎えようとしている。エンジンをかけたままの車に乗りこむと、安倍は紺野に手帳を渡した。紺野は手帳の住所を確認する。
安倍は運転席のシートにもたれた。のんびりと背を伸ばす。
「後藤真希はさ、自分の意思で隠れてるらしいね」
「え?」
「その住所、アパートやマンションの住所なんかじゃない」
紺野はもう一度その住所を確認した。しかし、別段変哲はない。住所をじっと見つめるがやはりわからない。
「どういうことですか?」
「刑事ならさ、管轄のことはとことん知っとかないと。その住所、『drunk』っていうクラブだよ」
「クラブ?」
「そ。ガキの溜まり場、イロイロ噂聞くんだよね、そのクラブ」
安倍はふう、と大きく息を吐きだした。紺野はじっとその住所を凝視する。
「じゃあ、これはニセの住所…」
「だからそうだってば」
安倍が苦笑しながら言った。そして、ふと目を細める。
「さー、あと一歩、近づこうか」
安倍は紺野から自分の警察手帳を取り上げた。そして車は走りだした。
206 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:42
夜に染まりはじめた街を二人を乗せた車は滑走していく。テールランプが薄暗いアスファルトを赤く照らしだされる。ぎゅん、とアクセルを踏んでスピードを上げる。
紺野の脳内は先ほど判明した奇妙な事実で埋められていた。
「何で…ひとみさんと、後藤真希が…」
対向車のテールランプが一瞬だけ二人を赤く照らした。
「たぶん、後藤真希が何か関係あるんじゃない?」
軽い口調で安倍が漏らした。ふと紺野が横を向くと安倍の真剣な横顔が目に入った。口調とは裏腹に、今までに見たことのないほど険しい表情だった。
「てゆーか、もう関係あるでしょ、確実に」
「ひとみさんの失踪に、ですか?」
うん、と頷くと、安倍はさらにスピードを上げた。
そのクラブは新宿の中心部にあった。治安が悪い、と西署の少年課でも頭を悩ませている通りの地下である。
近くの路地に車を停めて通りを歩き出す。
街はすっかり夜だった。あちこちにもネオンが灯りはじめている。紺色の夜空には月も浮かんでいた。昼間よりは断然気温は下がっていたが、蒸し暑いのに変わりはなかった。
さすがにあまり治安のいい場所ではなかった。もともと夜の新宿などトラブルの宝庫である。淀んだ空気に自然と溜息が出る。しかし、自然と紺野の顔は強張る。
「コラコラ、もっと力抜きなよ」
隣りから安倍の柔らかい声が飛んでくる。表情は読めなかった。
「二人は一緒にいるんでしょうか?」
紺野は少し乾いた声で尋ねた。
「…さあねぇ、可能性はあると思うけど」
安倍の目が一瞬、鋭く細まった。
「そのクラブの噂ってなんですか?」
「大体わかるでしょ?クスリやら覚醒剤やらってハナシ」
「覚醒剤…」
紺野の表情は一気に強張った。安倍は平然とした表情を浮かべている。
「ま、あくまで噂だけど…あ、ここだ」
安倍は立ち止まった。安倍が指す先には通路があった。
地下へと続く通路の脇には若者がたむろして座りこんでいる。
すでに危なげな雰囲気が漂っていた。
「この奥。行くよ」
しっかりとした口調で言うと、安倍は通路に歩いていった。紺野は小走りでそのあとに続いた。
207 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:43
通路を下りると、明るさは一切消える。薄暗く狭い階段を降りるにつれて怪しげな雰囲気に包まれていく。時折、すれ違う若者に訝しそうに見られる。スーツ姿のままなのだからそれも仕方ないだろう。
ようやく階段が終わる。『drunk』の店舗は随分と地下にあるらしい。
ドアの辺りにも座っている若者の姿がある。じろり、と上から下まで見られる。さすがに居心地が悪くなる。
そんな紺野を尻目に安倍は臆せずにドアを開けて、中に入っていった。紺野は慌ててあとに続いた。
フロアは大音量の音楽で満たされていた。地鳴りのように頭の芯に響くほどの音量だ。
とにかく異様な熱気だった。冷房は寒いほど効いているのに、人の多さや熱気がフロア全体を包みこんでいる。
「安倍さんっ」
人込みをかきわけながら進んでいく安倍の肩をつかむことに何とか成功した。紺野は安倍の肩を引きよせるようにして安倍の場所まで辿りついた。
「なにっ、人込み苦手なの?」
大音量に負けないように安倍は叫ぶように言った。
「そういうわけ、じゃないですけどっ」
人波にあてられてすでに弾んでいる息では説得力がなかった。なんだか胸の辺りが息苦しかった。
安倍は呆れたように首を竦めた。
「アンタ、東京ってほとんど人込みだよ?」
安倍が耳元に叫ぶ。紺野はぶんぶん首を振る。
「だから、酔ってなんかないです」
音量に負けるので、安倍はもう紺野の耳の寸前まで唇を寄せた。
「気分悪くなったら上にいきな。座れるトコあるから。あそこが階段」
安倍は入ってきたドアの横を指した。上に続く通路が人波の隙間に見えた。でも、と紺野は反論する。
「後藤真希のこと…」
「じゃあ、気分悪くなるまで聞きこみ。気分が悪くなったら上。帰りたくなったら電話」
「はいっ」
「警察手帳は見せるなよ。こうゆう店じゃメンドクサイことになる」
「はいっ」
それから二手に分かれて聞きこみを開始した。
紺野は人込みを突き進みながらなんとか壁に辿りついた。さすがに壁際は少しスペースが空いていて、紺野は壁に背中を横たえた。
208 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:43
頭の奥がじんじんと痺れる。
昔からこういった密室の人込みはあまり得意ではなかった。
香水の篭もる匂いやアルコールなどの匂いを体が受けつけないのだ。しかし、そうも言っていられない。
後藤真希が書いた虚偽の住所だ。何も繋がりのない場所を書くとは考えにくい。
後藤真希をここで見かけた人物がいるのなら、ここで待ち伏せることも出来る。
そうでなくてもわずかな手がかりでもあがれば上出来だ。
ふう、と深く深呼吸をする。心を落ちつかせる。
「すいません」
人込みの端から聞きこみを開始する。
「後藤真希って子、知ってます?長い髪で…」
「知らないよ、そんなヤツ」
遊び慣れていそうな少女はまともに聞こうとしない。興味なさそうに答えて、人込みにまぎれていく。嘆息して、また次に声をかける。
随分と空振りが続く。
それも当然なのかもしれない。顔写真は安倍しか持っていないので特徴と名前を口で言うしかないのだ。
「くっ」
人込みの中で頭痛が再発する。後頭部の奥が痺れる。
思わずまた壁際まで戻る。頭をかきむしるように抑える。
再び深呼吸で息を整える。少しずつ頭痛が収まっていく。
「安倍さんは、収穫あったのかな…」
人込みを見つめながらどこかで動いているであろう安倍を想像した。
頑張らないと、と自分を奮い立たせる。奥に痺れが残っているが仕方がない。再び人込みに挑もうと紺野は一歩踏みだした。しかし、左手が掴まれて壁まで引き戻される。
「え」
振り向くと安倍が紺野の左手を掴んでいた。
「二階、行くよ」
左手を掴まれたまま紺野は壁沿いに安倍に引きずられていく。壁際にはあまり人はいない。スムーズに進んで、二階への階段まで辿りついた。
「なんかわかったんですか?」
手を引かれて階段を上りながら紺野は尋ねる。
「ううん」
安倍はあっさりと否定した。あまりの切れ味にえ、と紺野が一瞬唖然とする。
「なら、なんで聞きこみ…」
安倍は何も答えずにただ階段を上っていった。
209 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:44
一階とは比較にならないほど二階は空いていた。しかし、その分、スーツ姿に注目は集まる。
しかし、安倍は気にする様子もなく空いている椅子を探した。そして壁際に席を見つけて進んでいく。
紺野を背の高いスチール椅子に座らせて、自分もその向かい側の椅子に腰をかける。
「相棒に潰れられたら困るんだよ」
安倍はにっこりと満面の笑みを浮かべる。紺野にはなんとなくその表情が圭と重なって見えた。
「…吉澤さんに、似てますね。今の安倍さん」
「えー。圭ちゃんにぃ?」
言葉とは裏腹に安倍の表情はやはり笑顔だった。紺野はふ、と笑った。
「顔じゃなくて、雰囲気が」
「ああ、そりゃあ、長い間、一緒に捜査してるから。似てきちゃうんだよ」
安倍の表情は苦笑に近かった。紺野は苦笑を返した。
「大丈夫なんですか?聞き込みしなくて」
「作戦変えることにした。餌ならもう撒いたし」
安倍はついと視線を1階に落とした。紺野もそれにつられた。
二階のフロアからは一階の人込みの様子が見てとれる。まさに人で埋められているという表現が当てはまる。隙間などない。よくあの中で動けたものだと紺野は自分に感心した。
「ハーイ」
そこで、声がかけられた。
弾んだ口調とは裏腹にどこか冷たさを含んだ声だった。二人が振り向くと、見覚えのない少女が立っていた。
「どーもー」
少女は笑みを浮かべていた。
しかし、それは冷笑というにふさわしく、彼女のつりあがった目は笑ってはいなかった。
少女は紺野の隣りの椅子に座った。
「アンタたちだよね?なんか聞きたいことがあるって言って回ってんの」
「え、ええ、まあ」
少女に顔を覗きこまれて、紺野はたじろぎながら頷いた。冷たく、鋭い目だった。
210 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:44
「ふーん」
少女は頬杖をついて、今度は安倍の顔を見た。
「何?聞きたいことって?」
「その前に。あなたは?」
安倍はじっと少女の目を見つめる。少女も挑むように視線を決して逸らさない。
「美貴っていうんだ。この店のオーナーを代理して来た。営業妨害されちゃあ困るんだよねー」
「営業妨害ってつもりじゃなかったんだけど」
安倍はぽりぽりと頭を掻いた。そして、ポケットから後藤真希の顔写真を取り出した。
「この子、後藤真希っていうんだけど、知らない?」
少女は写真を奪うと、じっと凝視した。その間、安倍は彼女の一挙動も見逃さないように見つめていた。
周りにぴりぴりと緊張感が漂う。
少女は写真を机に放りだした。そして、鋭い視線を安倍に刺した。
「知らないね。私はここよく来るけど、こんな目立ちそうなコ、見逃すはずないし」
安倍はしばらくじっと少女の瞳を見つめたあと、視線を外した。
「そりゃあ残念」
机に放りだされた写真をポケットにしまって、代わりに手帳を取り出した。手帳のメモ欄を1ページ破ると、そこに書きこみ始めた。
「アンタ、なにやってんの?」
訝しそうに少女は安倍の行動を見守る。安倍はペンを止めると、その破ったページを少女の前に置いた。
「後藤真希が来たら、あるいは見逃してたのを思い出したら、ここに連絡して」
紙には安倍の名前と携帯電話の番号、メールアドレスが書きこまれていた。少女は少し眉をしかめて安倍を睨んだ。
「知らないって、聞こえなかった?」
「だから、来たら、思い出したらのハナシだって。じゃあ、失礼するね。営業妨害はよくないし。帰るよ、紺野」
安倍はやんわりと笑みを浮かべて席を立った。少女は明らかな憤りを露わにして安倍を睨んでいた。安倍は構わずに紺野を促して階段に向かった。背中にはずっと鋭い視線が突き刺さっていた。
211 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:44
階段を降りて、すぐに外に出た。
『drunk』をあとにして、相変わらず薄暗い階段を上りながら安倍は柔らかく笑った。
「まさか、あんなのが登場してくるとはねぇ」
「あんなの?」
「目つきのキツイ彼女。あのクラブの中じゃ、たぶん一目置かれる存在なんだろうね。有名人。雰囲気でわかるよ」
紺野はクラブの状況を思い出す。確かに少女が席に来てから余計に注目を浴びることになった。
「任意で引っ張っても吐かなさそうだし。あとは一手ずつ、詰めていけばいいかな。後藤真希のこと、よーく知ってるみたいだし」
「え?」
訝しそうに紺野が問いかえした。
「なんで、そんなことわかるんですか?」
「勘」
あっさり切り捨てて階段を上っていく安倍に紺野は閉口するしかなかった。
212 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:45


辺りはもうすっかり夜だった。
ゆったりとした闇に覆われている街をネオンが妖しく渦巻いている。この新宿の夜は人間の欲望をあぶりだしてくれる。それは必然的に犯罪を増やしてくれる。刑事という仕事を始めてから、夜が忙しいという概念を初めて覚えた。
時折過ぎる対向車のテールランプが一瞬だけ光を放って、あっというまに過ぎていく。
車内は冷房で十分に冷えていた。タイヤが軽快に道路を蹴っていく。周りの景色がどんどん過ぎていく。
「ふう」
ハンドルを操りながら、圭は一つ息を吐いた。
沈黙を嫌ってラジオをつけた。チャンネルを適当に回し、適当な番組で止める。
聞き慣れない洋楽が紹介されていた。英語の詞と乾いたギターが沈黙を覆い隠してくれる。
今日は余計に疲れた気がする。
第一回の捜査会議のあと、殺人事件が発覚して、捜査員は総動員された。圭は圭織から話を聞くために残っていたが、さらにもう一件の事件が発覚した。
仕方がないので、圭織のことを後回しにして駆けつけたものの、すぐに駆けつけてきた捜査一課の捜査員に追い出された。
それから、ずっとその現場の近所で聞きこみを続けていた。
足はもう使いものにならないほど使った。それでも収穫は得られなく、手がかりすら出てこなかった。
疲れと収穫なしの落胆が混ざって体がずうん、と沈むような無力感を覚える。
遺体もまたひどい状態だった。
プロファイリングでは怨恨、あるいは異常者の犯行の可能性が強い、ということだった。
おそらく三件は同一犯である。
213 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:46
しかし、これまで被害者に共通点は見つかっていない。そのことから、怨恨という線は薄いと考えられる。被害者の財布やら金品には一切手はつけられていない。
おそらく異常者だろう、というのが大方の見方である。
圭も同じ意見だが、しかし、違和感があった。
つまり、しっくりこないのだ。
理屈的にはまったく間違いはない。異常者の犯行という理屈は正しい。しかし、違和感の正体はわからなかった。
この事件には刑事になって事件を追いつづけて培った勘、というものが働いているのだ。
猟奇殺人、異常者、新宿、夜、二人の少女。
キーワードが頭の中をぐるぐると回る。
きっとこの事件にはなにかがある。
言葉では言い表せない、運命めいたなにか、がある。
確信はある。予想でも、理屈でもない、確信が根付いている。
それに――。
「ひとみ…」
呟きが漏れた。
二人きりの姉妹。両親が事故で亡くなってからはまさにそうだった。
ひとみは大好きなバレーボールをやめてアルバイトに専念した。圭が苦労しているのに自分だけ好きなことは続けられない、というのがひとみの考えだった。もちろん圭は止めたが、頑固なひとみは聞かなかった。
圭はいっそう仕事に専念するようになった。頑張りを支えてくれるのはひとみだった。
二人はお互いを支えあってきた。
圭にとってひとみは半身にも等しかった。
ラジオから流れてくるギターの音色を聴きながら、圭は無言でスピードを上げた。
214 名前:7th.迷走ミクスチャー 投稿日:2005/01/05(水) 19:46
車は圭のアパートの駐車場に停まった。降りるとドアを閉めて鍵をかける。辺りはしん、としていた。
階段を上って、二階の自分の部屋に辿りついた。
まず、鍵を確認する。閉まっていた。
またか、と心が沈むのを感じながら、鞄から鍵を出す。
この仕草はひとみが姿を消してから圭の日課になってしまった。
このドアの鍵が開いていることを願う。しかし、その鍵が開いていたことはなかった。今日も、鍵は開いていない。
ドアを開けて中に入る。
気配はない。もちろん電気もついていない。
この瞬間、圭はいつも悲しくなる。しかし、表情には出さずに靴を脱いで電気をつける。
明るい電気がなぜか場違いなように思えた。
リビングに入って、また電気をつける。
ぱっと辺りが照らされる。
がらんとした広いリビング。見慣れたリビングがなにか違う場所のように感じてしまう。
ひとみがいないとこんなにも広かったのだ。
いつも帰るとかけられる「おかえり」も、テーブルの上の御飯も、あの笑顔も、何もない。
ひとみがいないと生活が空虚だった。
静かなリビングだった。
圭は鞄を置くと、ソファにどすんと体を預けた。
この部屋に両親の仏壇はない。
両親の残した遺産、生命保険は本当に微々たるもので、すべて葬儀代、親戚への分与に消えてしまった。そのため仏壇を買う経済的な余裕がなかったのだ。
しかし、こんな時はさすがに多少無理してでも買っておけばよかった、と後悔してしまう。
頼るものがない。
「父さん…母さん…」
外では強がっていても、どうしても一人の家は心細かった。
「ひとみ…」
いつしか眠りに落ちていた。
その夜、圭は夢を見た気がするが、朝起きると、思い出せなかった。

215 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/05(水) 19:46
 
216 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/05(水) 19:47
 
217 名前:chaken 投稿日:2005/01/05(水) 19:52
第7話「迷走ミクスチャー」終了です。

レス返しを。
169様。毎度どうもです。二人を見守ってあげてください。
170様。さあ、二人はどこまで行くんでしょうか。そしてよしこさんはどうなるのか。次回をお楽しみにー。
171様。名作になればいいのですが…。
218 名前:semisigure 投稿日:2005/01/05(水) 22:04
交信お疲れさまです。
よっすぃーと後藤さん最後まで離れて欲しくないと思いつつも、
圭ちゃんの元へ帰って欲しいなぁと(悶絶
…次回も楽しみにしています。

因みにドクターマコトー診療所も期待してみる。
219 名前:wool 投稿日:2005/01/06(木) 13:40
更新お疲れ様です。
徐々に、しかし劇的に展開されていく話にもう釘付け状態。圧巻です。
二人のやりとりとごっちんの想いが哀しいですが、二人を最後まで見守っていきたいです。
220 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 00:09
本当に面白い。
でもなんか切ないですね。
ごっちんとよっすぃの2人には幸せになってもらいたい。
221 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:02


真夏の昼というのは何をおいてもとにかく暑い。
強烈な陽射しがブラインド越しに射しこんでくる。眩いほどの輝きが床に跳ねかえって、そこだけを明るく照らしている。
外を覗けば、まるで蜃気楼のように歪んでみえる。それが外の気温を嫌というほど訴えてくる。
しかし、冷房が行き渡っている室内は快適で、肌寒いほどだった。まるで楽園のようだ、と圭は思った。
しかし――。
外に出るのが億劫にならないわけではないが、それでも圭は捜査をしたかった。聞きこみでも何でも捜査に進展を得たいのだ。
刑事課の中は人影も疎らだ。
ほとんどは聞きこみ、あるいは捜査一課の道案内、運転手に駆りだされている。安倍と紺野も朝から捜査に出てしまった。
それでも進展は一向にない。
加熱する報道熱とは裏腹に捜査は難航していた。警察の上のほうでは捜査員の増員も視野に入れているらしい。
圭が捜査に出ないのには訳があった。
ごく単純なことだ。
約束があったからだ。そして、その約束も仕事の内だからだ。
圭は刑事課の壁にかかっている壁時計に目をやって、わざと声にだして「ふう」と言ってみた。
222 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:02
もうすぐ2時を回る。
約束の時間は1時のはずだった。一応、少し遅れる、と連絡はあったものの、遅れ過ぎではなかろうか。
思わず席を立った。
「なんかあったのかな」
窓際によっていって、ブラインドの隙間から外を覗いた。
署の前には警備員と行き来する警官、停まっているパトカーという普段と変わらない、見映えのしないものだった。
たんたん、と足踏みをして床を叩く。
瞬間、視界が闇に覆われた。
「ひっ」
圭は声をあげて、体を跳ねさせた。しかし、すぐに視界を覆うものに体温を感じることに気付く。爽やかな香水の匂いで圭は確信した。
「カオリ」
呼びかけるとゆっくりと手が外された。振り向くと圭織は悪戯な表情で舌を覗かせた。その仕草がどちらかといえば大人っぽい容姿の彼女にやけに似合っていた。
Tシャツとジーンズというラフな服装だったが、それが彼女の長身の体によく映えていた。
223 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:03
「来てたんなら言いなよ」
呆れ口調を作ってこれみよがしに溜息を吐く。圭織は手刀をかざして謝った。
「ゴメン、だって圭ちゃんの後ろ姿見たら、好奇心が」
「好奇心ねー…」
「そ、カオってほら、子供の心を持ち続けてるから」
「ただガキなだけじゃない?」
「え、ひどーい」
ぷくう、と頬を膨らませてみせる圭織に圭は笑みを零した。圭織もそれを見て嬉しそうに笑った。
圭織はきょろきょろと室内を見渡す。そして興味津々の瞳を輝かせた。
「想像通りだぁ」
「どうせ、踊る大捜査線でも想像してたんでしょ」
「すごい、あったりー、よくわかるね」
「アンタはわかりやすいのよ」
そうかなあ、と漏らしながらまた室内を見渡す。ひとしきり眺めるとまさに子供のように目を輝かせる。
「で、どこ?」
圭はふう、と吐き出した。
「アンタもたいがい、変わってるわね」
あっち、と圭は部屋の隅を指差した。
ドアが二つ並んでいる。
一つは仮眠室だ。そして、もう一方のドアのプレートを読んで圭織は歓声を上げた。
「すっごーい。取調室だぁ。ね、圭ちゃん行こ?」
「…ハイハイ」
初めて遊園地に来た子供のようにはしゃぐ圭織に、圭は呆れ笑いを浮かべて取調室まで案内した。
ドアを開けて、中を促す。
圭織は相変わらずきょろきょろしながら取調室に足を踏み入れた。
簡素な部屋だった。
机とそれを挟んで椅子が二脚あるだけだった。大きく開く窓から夏の陽射しがいたずらに射しこんでくる。
気の利いたインテリアなど何もない。もちろん、被疑者の取調べのための部屋なのだから必要などない。
224 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:03
圭はドアを閉めて、机を触っている圭織を呆れたように見つめる。
「こんなとこでよかったワケ?」
「うんっ」
実に嬉しそうに返事を返す。
圭織から話を聞くために場を設けようとしたのだが、圭織が指定したのは警察署、しかも取調室だった。どこかの料理屋で出費も覚悟していた圭には嬉しい話だったが、こんな何もない場所に来たがる圭織の気持ちは分からなかった。
「じゃあ、取調べごっこしよっか」
ひとしきり机を触ると、圭織は唐突に明るく言った。
「はあ?」
圭は思いきり眉をつりあげた。しかし、当の圭織は嬉しそうにうんうん、と頷いている。
最近溜息ばかりだ、思いながら圭はまた溜息を漏らした。
「…取調べごっこって、何プレイよ」
「やだあ、プレイって、圭ちゃんヤラシー」
「ハイハイ、話聞くから座って」
圭は苦笑しながら手前の椅子に座って促した。圭織は圭の向かいの椅子に長身の体をちょこんと座らせた。
「で、今更だけど…なんか思い出した?」
圭織は眉をよせて考えるが、しばらくすると首を横に振った。
「カオと里沙が歩いてて、その被害者さんと女の子二人、見かけたってだけ」
「そう、よね…てゆうか、さっきから気になってたんだけど、その一人称は何?」
「ああ、カオ?」
「それ」
「カオねえ、心許した人にはこういう喋り方になるの」
「心許してくれたんだ?」
意地悪そうに尋ねるが、圭織はきっぱりと頷いた。
「うん、圭ちゃん優しいし」
照れも何もなくあっさりと肯定されて圭のほうが恥ずかしくなってしまった。
225 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:04
「で、何で遅れたの?」
照れ隠しにぶっきらぼうに尋ねる。
「ん?」
「今日よ、1時でしょ?約束」
「あー、ごめんねえ」
「何、彼氏?」
口元をあげてなるべく意地悪く尋ねると、首を振られてあっさりと否定された。
「ううん。仕事」
「仕事?」
「カオ、モデルやってるんだ」
「モデル?」
聞き慣れない単語に圭は目を丸めた。
道理で見映えがするはずだ。長い手足、スタイルの良さ、確かにふさわしい容姿を持っている。圭が物珍しそうに圭織を眺めていると圭織が不思議そうに見つめかえしてくる。
「なに?どうかした?」
「いや…モデルなんて身近にいないからさ」
「雑誌とか見ないの?」
「え?」
「雑誌モデルなんだよ?カオ」
圭織が挙げた雑誌の名前はファッション系統に疎い圭でも知っているほどの有名な雑誌だった。圭は「ほー」と感心の声をあげた。
「へえ、なんかすごいねえ、アンタ」
「へへへ、でしょー?」
圭は得意そうな圭織の頭を撫でつけてやった。くすぐったそうに目を細める仕草がひとみと少し重なった。
「なんかあったの?」
圭織の声がのんびりと響いた。頭を撫でるのをやめて、圭織の顔を見つめる。圭織の表情は疑問と心配を半々に含んでいた。
「どんな顔してても辛そうに見えるんだ」
「…カオリって、鋭いね」
「よく言われる。ハズレだったら恥ずかしいけど」
「当たりだよ、ストライクど真ん中」
圭は力なく笑ってみせた。
226 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:04
「…アタシね、妹がいるの」
「カオと同じだ」
「そう、カオリと同じ。高校生なんだけど…家出しちゃってさ」
「家出?」
圭は頷いた。
それは半ば願望も含んでいたのかもしれない。ひとみがわざわざ家出などする理由など見当たらない。ただの家出であって欲しいという圭の願望だった。
「大変、だね?」
優しい声で圭織が言った。圭は小さくうなだれた。
「大変だよ」
心配そうに圭織は圭の表情を覗きこんだ。
「だいじょーぶ?」
「…アリガト」
ぶっきらぼうに言うと、圭は控えめに笑った。圭織もあわせるように笑った。
「ねぇ、妹さんの写真とかある?」
「写真?あるけど…なに?」
「いやあ、圭ちゃんの妹って興味あるんだぁ」
「…あんま似てないわよ?」
圭はポケットから財布を取り出した。
平べったい財布を開くと、写真が入っていた。
笑顔の圭とひっついてウインクしているひとみの写真だった。
「ハイ」
差し出された財布を受け取って、圭織はじっと写真を見つめた。そして、顔をあげて圭の顔を見る。しばらく我慢していたが圭は耐えきれなかった。
「なによ」
「いや…妹さん、可愛いなあって」
「アタシと似てないって?」
「違うよー、なんか雰囲気は似てる」
「そうかあ?」
訝しげに眉根を寄せる。あと、と圭織は付け足した。
「妹さん見てちょっと思い出したんだけど」
「ん?」
「カオが見かけた女の子のこと」
「え?」
圭は思わぬ言葉に身を乗りだした。
「一人がね、カオほどじゃないけど背が高かったんだよね。そんで、髪は短かった」
圭織は顎に手を当てながらゆっくりと答えた。
227 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:05
「どんぐらい短かった?」
「それが、ちょうど圭ちゃんの妹さんぐらいでさ」
それで思い出したんだ、と圭織は写真の中でウインクするひとみを指差した。圭は写真を見つめた。
「ひとみ、くらいか…。背は?」
「圭ちゃんよりは大きかったかな。カオよりは小さかった」
「そっか…」
圭は口の中で呟いた。顔をあげると圭織に微笑んだ。
「ありがと、思い出してくれて」
圭織はずいずい、と机に身を乗りだした。
「カオ、えらい?」
「ハイハイ、偉い偉い」
圭は適当にあしらいながら、最近、自分の中で渦巻いていた殺伐とした感情が和むのを感じた。
圭はじっと圭織の顔を見つめた。よく笑うな、とふと思った。
「アンタって…」
「んー?」
圭織は笑顔で問いかえしてくる。
「ヘンなヤツ」
じっと見つめながら真顔で言い放つと、圭織は一瞬呆気にとられてすぐに頬を膨らませた。
「ヒドくない?それー」
「ヒドくない。気のせい気のせい」
「えー」
不満げな圭織に圭は笑ってごまかした。
そこで取調室のドアが開いた。現れたのは寺岡だった。
「吉澤」
「寺岡さん、どうしたんですか」
寺岡は黙ってドアの外を指差した。
「ちょっとゴメンね」
圭織に断わってから取調室を出た。そこには険しい表情の水谷がいた。後ろに何人もの捜査一課の刑事を引き連れている。
228 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:06
圭は寺岡に視線を送った。
「どういうことですか?」
寺岡に代わって答えたのは水谷だった。
「証人が今来ているだろう。捜査一課で取り調べるから引き渡せ」
「…引き渡せ、ですか。彼女は協力してくれている立場です。引き渡すという表現はおかしいと思いますけど」
「どちらでもいい」
水谷は不機嫌そうに眉をしかめて言い捨てた。圭は引き下がらなかった。
「もうこちらで話は聞きましたから報告書でも提出しますよ」
「引き渡せ、といってる」
水谷の態度は軟化しない。しかし、圭としても譲るわけにはいかなかった。睨みあう二人に刑事課に残っている刑事たちの注目が集まる。
「どーしたの?」
圭が振り向くと、圭織がドアからひょこと顔を出していた。すかさず水谷が一歩踏みだした。
「飯田さんですね?捜査一課で、証言をお願いしたいのですが」
「え?でも、いま…」
圭織は取調べ室内を指差した。水谷は意に介さずという風に首を振った。
「こちらと捜査一課は違いますので」
圭織は困ったように視線をさまよわせて圭を見た。
「聞くことない」
圭は頑固に首を横に振った。圭織は圭の耳に顔を寄せた。
「いいの?捜査一課って偉いところでしょ?」
「いいんだよ」
「でも、圭ちゃん困るんじゃないの?逆らったら」
心配そうな語調で小声で尋ねる。圭は黙りこんだ。
警察の上下関係は圭は嫌というほど知っている。あまりに露骨な態度をとれば、あっというまに異動で刑事課を去ることになる。そんな警官を何度も見てきた。
圭織は黙りこむ圭の肩をポンと叩いた。
「困るんなら助けるよ」
にっこりと笑ってみせると、圭織は水谷に向いた。
「いいですよ。私で良ければ。お話すれば良いんですね?」
「ええ。では」
水谷は背を向けて去っていった。代わりに背後にいた捜査一課の人間が前に出て来た。
「ついてきてください」
「あ、どうも」
圭織は笑顔で対応して、捜査員の後についていく。圭は慌てて駆け寄った。
「いかなくていいって!」
「いいよ。一般市民としてやっぱ協力はしないとさ」
「うー…」
まだ不満げに唸る圭に圭織は柔らかく笑った。そして、思い出したように「あ」と漏らした。
229 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:06
「あのことって言わないほうがいいかな。髪が短いってヤツ」
「うーん…出来れば」
まだ捜査一課にこの情報を漏らして引っ掻きまわされたくなかった。
「わかった。秘密にしとくよ。助けたんだから今度ゴハン奢ってよ?」
圭織は悪戯そうに笑った。圭はまだ渋々という表情だ。
「それはいいけどさあ…」
「ありがと、楽しみにしてるね」
艶然とした、大人っぽい笑みを浮かべて圭織は捜査員のあとを追った。
230 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:06


こころなしか、外にいるよりも随分とゆっくり時間が流れていくような感覚を覚える。
楽しい時間は早く過ぎていくというが、快適な時間というのはそれとは少し違うらしい。
真夏日の陽射しの中で冷房の効いた喫茶店の中は楽園のように快適だった。
『 a coffee break 』に安倍と紺野はいた。
窓際の唯一のテーブル席に陣取って、アイスコーヒーを飲んでいた。
相変わらず店内には客の姿はない。カウンターでグラスを拭いている店主の姿があるだけだった。もしかするとゆったりとした時間の流れはこの喫茶店の雰囲気なのかもしれない、と紺野は思った。
安倍と紺野は向かいあわせに座っている。テーブルの上には安倍のメモ帳が広げられていた。安倍は汗をかいたグラスの淵をなぞってメモ帳を顎で指した。
「ひとみちゃんがバイトしてたコンビニに問い合わせたんだけど、後藤真希がバイトとして入ってきたのは約1ヶ月前」
メモ帳には時間軸のグラフが書かれていた。
長い一本の線。一番端にひとみがバイトに入った時期と記されてある。そして、端から4分の3ほど進んだところに、後藤真希がバイトに入る(1ヶ月前)、と書かれてある。
安倍は後藤真希の文字をトントンと指で叩いた。
「これがどういうことかわかる?」
紺野はゆっくりと顔を上げた。
「後藤真希がバイトとして入って来たぐらいから、ひとみさんの様子がおかしくなった」
「そ」
安倍は短く答えてストローに口をつけた。うーん、と紺野は唸った。
石川の話ではひとみの様子がおかしくなり始めたのは1ヶ月ほど前からだ、ということだった。
そして後藤真希がバイトとしてやってきたのが、約1ヶ月前である。
つまり、後藤真希がコンビニにバイトに来るようになってから、ひとみの様子がおかしくなったということになる。
231 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:07
「例えば…何か弱みを握られた、とか?」
紺野は真剣な表情で安倍を見た。安倍はあーあ、と椅子の背にもたれかかった。
「それが一番の問題なんだよね。ひとみちゃんの様子。ぼーっとしてたり、話聞かなかったり…。悩んでた、とも受け取れるけど、絶対そうだ、とも言えない」
安倍は椅子を揺りかごのように揺らしながら紺野に目をやった。
「アンタはどんな時にぼーっとしたりする?」
「え…えーと、疲れてる時、とか…?」
安倍は見せつけるように大きな溜息を吐いてみせた。
「他にもあるでしょ?例えば、恋愛してるとか、ヒマな時とか、考えなきゃいけないことがあった、とか」
安倍は指折り数えてみせた。他にも色々、と付け足してストローを咥える。
「とても、わかりませんね…」
「本人じゃないとわかるはずなんてない」
安倍はストローを噛んだ。でも、と紺野は言葉を足した。
「その悩みとか考えなきゃならないことに後藤真希が関係してるのは間違いない、でしょう?」
「そーだけどね…。アンタ、後藤真希のこと、知ってるでしょ?親を亡くした非行少女。あんなヤバそうなクラブに出入りしてるクソガキ」
クソガキ、という部分を強調して安倍は顔を歪めた。紺野はその言い様にむっとした。
「後藤真希があのクラブに出入りしてるかどうかはわからないじゃないですか!」
「…知ってる?刑事の勘ってのはなかなか当てになるんだよ」
あっさりと切り返されて、紺野はさらに苛立った。そんな紺野の様子を見透かしたように安倍が薄く笑った。
232 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:08
「おそらく、後藤真希とひとみちゃんは一緒にいる。あの後藤真希とツルんで行動してるなら…事件って可能性も捨てきれない。わかる?」
馬鹿にしたような口調に紺野は顔を赤くして俯いた。頭の中に血が上ってぐるぐるとまわる。唇をぐっと噛み締めて、紺野はそれを抑えた。安倍はストローでグラスに残った氷をつつきながらちらりと紺野を見やった。
「アンタさ、もしかして後藤真希に同情してるの?」
「どう、じょう…?」
紺野は顔を上げる。安倍の表情は先ほどとは違った。
刑事の顔、ではない。安倍自身の感情だった。
「後藤には親がいないから?大事な人が事故で死んだから?人よりも不幸だから?」
う、と紺野は黙りこんだ。安倍の表情には言葉では言い表せない、けれど深い感情が読み取れた。
「自分が不幸だからって、他人に何でもしていいってワケない」
静かだが、しっかりと芯の通った言葉だった。
「私はね、後藤真希がひとみちゃんになんかしてたら、絶対に、絶対に許さない」
安倍の瞳にはふつふつと沸きあがる怒りが満ちていた。紺野はびくっと身を退いた。
「で、でも…まだ、そうと決まったわけじゃ…」
弱々しく言い返すのが精いっぱいだった。
「…そだね」
安倍は表情を崩して、ふんわりと笑った。
紺野は心の中で安堵した。安倍は気にした様子もなく腕時計に目を落とすと、よいしょ、と声を漏らして腰をあげる。
「もう5時か。そろそろ戻ろう。あんまサボッてもいられないし」
「あ、ハイっ」
この日はアイスコーヒーの代金は割り勘だった。
店を出ると、まだ随分と明るかった。夕日というわけでもなく、昼間と変わらず陽射しは照りつけてくる。8月に入って格段に日が長くなった。
車に乗りこむと、やはり空気が篭もって蒸し暑かった。冷房かけとけばよかった、と安倍は舌打ちしてエンジンをふかして冷房をつける。
「そういや圭ちゃんは今日も聞きこみしてんの?署に残ってたみたいだけど」
安倍が襟元を扇いで冷房の風を取り込みながら尋ねた。今朝、出勤早々に聞きこみに繰り出す安倍と紺野を圭はのんびりと見送っていた。紺野は首を振った。
「飯田、さんでしたっけ。証人の方に話を聞くって言ってましたよ。いい機会じゃないですか、最近休みなかったから」
上着を脱いで座席に引っかける。安倍はふうん、と唸った。
233 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:08
「言っとくけど、ひとみちゃんと後藤真希のことは圭ちゃんには言うなよ?心配するから」
「そう、ですね…」
「ひとみちゃんのこと調べてるってのも言うな。一日中聞きこみ、今日も成果はなし。わかった?」
「ハイ…」
一日中聞きこみをしていたわけではないが、殺人事件のほうの捜査も行っていた。午前中いっぱいは現場の周辺をまわってひたすら聞きこみを続けていた。そして午後からはひとみと後藤真希の件の捜査に出た。
しかし、収穫は後藤真希と出会ってから、ひとみがおかしくなったということだけだった。
昨夜、安倍は石川に電話をしたらしい。
ひとみがしていたバイトの話の内容を聞き出したが、ひとみの口から後藤真希の名前は出てこなかったということだ。
新しく入ったバイトの女の子のことは漏らしていたものの、別段特別な感情を抱いていたわけではなさそうだった、ということだった。矢口や小川にも同様のことを尋ねたが、答えは同じだったらしい。
『drunk』を訪れたかったが、安倍によると営業時間が7時からだということだ。もちろん『drunk』で出会った藤本という少女からも連絡はないらしい。
「どうするんです?署に戻って」
「後藤真希のこと、とことん調べる」
言い捨てると、安倍は車を発進させた。一日分の陽射しの熱を閉じこめたアスファルトをタイヤが滑っていった。
234 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:08


時刻は7時をまわった。
すでに辺りは薄ぼんやりとした空気に覆われていた。太陽はビルの彼方に沈みきっている。
まだなんとか残っている日光の余韻で空は薄明るいが、街はゆるやかに、けれど確実に夜に移行しようとしていた。
警察署には昼間と変わらぬ人の行き来がある。なにかの事件の被害者、加害者、関係者など、警察官以外の人影はむしろ昼間より夜のほうが増える。それは事件発生と比例したごく自然な現象だった。夜のほうが事件は増えるのだ。
しかも、今は捜査本部が置かれている。警視庁の捜査一課の出入りもあるし、刑事課はほとんど夜を徹して捜査を続けている。
報道を独占する殺人事件だ。規模の大きさは捜査の難航につれて大きくなるばかりだった。
新宿西署の薄ぐらい玄関口はすでに電灯がついていた。内部から光を放つ蛍のように照らされている。
圭と圭織は連れだって玄関から姿を現した。
「ほ…んと悪かった」
タイルを踏み鳴らしながら、圭はまた謝った。
うな垂れるように頭を下げている。先ほどから圭は平謝りである。
圭織はいいよ、と苦笑して首を振る。
「カオはいいんだって。ほら捜査一課サマを見学できたし、一日体験見学ツアー、みたいでさ、あははっ」
明るく笑ってみせるが、圭の表情は暗いままだった。圭織は困ったように眉を下げる。
「大丈夫だって。別に監禁とかされてたわけじゃないし、捜査一課の人、やさしかったよ?お茶とか出してくれたし…」
「でも、アンタ…よく考えてよ?五時間よ?五時間!」
圭は息荒く言って、右手を広げて突き示す。圭織は柔らかい動作で首を振った。
「どうせヒマだったし、勉強になったよ?」
「でもさあ…」
「大丈夫。あの髪が短いってのも言ってないし」
圭織が宥めても、圭の申し訳なさそうな表情は変わらない。
235 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:09
「…ふう」
圭織は仕方ないな、と口の中に呟いた。
「ゴハン奢ってくれるんでしょ?その時、死ぬほど後悔させてあげるから」
「…わかった」
圭はようやく顔をあげて渋々頷いた。圭織は満足げに頷いた。
「よろしい。んじゃあねえ」
笑顔を浮かべて、手を振りながら去っていった。
その背中が消えると、圭はふう、と大きく溜息を吐いた。
圭織は気にするな、と言ったが、気にしないわけにはいかない。
あれから圭織は5時間も取調べを受けたのだ。
なんとか思い出して欲しい、と補導、逮捕暦のある女性、少女の写真を見せられて、それを一人一人チェックしていく。やはりそれらしいものは見つからなかった。
圭が迎えに行くとさすがに圭織は疲れた顔をしていた。
玄関から来た通路を辿って刑事課に戻る。その途中でふと喉が乾いたので、自販機コーナーに寄った。
この自販機コーナーには徹夜する刑事のためにカップラーメンやアイスやらも売っている。
圭はドリンクの自販機で缶コーヒーを選んだ。冷たい缶を取りだし口から引っ張り出すと、中央のソファに向かう。
自販機に囲まれた中央に二つのソファが背中合わせに置かれてある。圭はドサッと腰をソファに預けた。
プルタブを引いて缶を開けると、一気に煽る。口を離すと、思いきりソファに背をもたれる。
なんとなく白い天井を見つめていると、圭の視界に突然見慣れた顔がアップで映った。
「うわっ」
圭は声をあげてソファからずり落ちそうになるのをなんとか堪えた。安倍はにんまりと笑った。
「なーにカッコつけてんのさあ」
バシンと圭の肩を叩くと、圭の隣りに座った。圭は態勢を戻して笑い返した。
「カッコなんかつけてないさあ」
「つけてるさあ」
顔を見あわせて同時に笑みを漏らす。少し気持ちが和んだ気がする。ふと、安倍が先ほどまで刑事課にいなかったことを思い出した。
「何してたん?帰ってすぐどっかいっちゃったけど」
朝から捜査に出て5時半に帰ってきたかと思えば、すぐに紺野と出掛けていった。
236 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:10
「ヤボ用でねー、資料室で調べもの」
変わらない笑顔で答えた。圭はふうん、と唸った。すると安倍はわざわざ回りこんで圭の顔を覗きこんだ。
「聞いたよー、捜査一課に証人、取られたって」
う、と圭は黙りこんだ。安倍はふわりと笑うとソファの背に凭れかかった。
「まあ、捜査一課も必死なんだろうねェ」
「ん?」
「犯人は複数、だって」
圭は安倍を振り向いた。安倍は天井を見つめていたが、圭の視線に気付くと柔らかい表情になった。
「被害者は全員が男。3人目は空手もやってたんだって。犯人が男だとしても一人じゃてこずる相手でしょ」
「けど、それだけじゃ…」
圭は食い下がるが、安倍は首を振った。
「3人とも、最初に後ろからまったく無防備になった頭を攻撃されてる。それでうずくまったトコをまたボコられてる」
「それが?」
「被害者3人にまったく接点はなし。共通の顔見知りがいたとは考えにくい」
「まあ、そうだけど…」
圭は唸った。安倍はぼんやりと天井に視線を戻した。
「初対面のヤツに声掛けられて、路地裏とか倉庫まで行くのはどんな場合?」
「…喧嘩?」
「喧嘩で相手にわざわざ背中、向けるかなあ?しかも三回とも真後ろからだよ?」
「…ナンパ、とか」
「正解。つまり、犯人は女。女が一人であんなこと出来ると思う?」
「……」
「二人以上でやったって思うほうが自然でしょう?」
圭の答えを待たずに安倍が言った。圭は黙って安倍と同様にソファにもたれた。
「犯人は女、二人以上。捜査一課が飯田さんの証言に縋りつくのもわかるでしょ?」
「…ん」
圭は席を立つと、空になった缶コーヒーをごみ箱に捨てた。
「それからこれは私の個人的な意見」
背後から声が飛んだ。圭はごみ箱の前で動きを止めた。安倍はじっと圭の背中を見つめていた。
237 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:10
「一人は囮、一人が実行犯。そういう形でやってると思うんだ。私は犯人は二人だと思ってる」
「囮って…?」
圭が静かに尋ねた。安倍は頬杖をついた。
「一人が相手の気を引く。犯人が女なら簡単なことだよ。その隙にもう一人がガツン」
あくまで個人的な意見だけど、と安倍は付け足した。
圭は安倍に振り向くと、また安倍の隣に座った。
「つまり、私は飯田さんが見かけた二人の女の子が犯人だと思ってる」
きっぱりとした口調で安倍は言いきった。
「…そっか」
圭の頭には圭織の言葉がよぎっていた。
ショートカットの背の高い少女。いよいよこの証言は重要になってくる。
しかしどうしたものか、この情報だけでは動きようがない。ふう、と圭はまた溜息をついた。
ふと、安倍が圭の肩にこてんと頭を預けた。安倍のサラサラした髪の優しい香りが漂った。
「ここまでは仕事トークね。ここからはプライベート」
安倍の言葉はまるで優しい風のようだった。肩をくっつけているので体に振動が伝わる。それは心地良い振動だった。
「圭ちゃんは今きっと寂しいと思う」
きっぱりとした断定的な口調だった。しかし、その言葉は圭の心情と一致していた。
「きっと、家に帰っても一人で泣いてる」
圭は何も言わなかった。安倍の言葉はやはり当たっていた。
「圭ちゃんは今、自分が一人だと思ってる」
安倍の頭は圭の肩に乗っかったままだ。それがひどく圭を安心させた。
「一人じゃないよ」
その呟きは余韻を引いて、圭の耳の奥に響いた。
「…サンキュ」
圭は小さく言葉を返した。安倍は肩に頭を乗せたままこくりと頷いた。
238 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:10


大きく青白い月が昇っていた。
紺色の空の闇に切り絵のような満月が浮かんでいた。
大きな月には杵を持つウサギも臼もなかった。ただ青白い光を放つだけだった。
それは不気味ではなく、例え様のない美しさを称えていた。
満月は、じっと地上を見ていた。
新宿の隅に追いやられた小さな公園。周りに住宅もなにかの施設もない立地条件から昼間にも訪れるものはほとんどいない。
辺りは静寂に包まれていた。
夜の静寂と一種、暴力的な無音。
広場の中央に佇む人影たちを美しい月明かりがまるでスポットライトのように穏やかに照らし出した。
ひとみと真希は芝生の上に立っていた。芝の感触が靴越しに心地良く伝わってくる。夜露なのか、ひんやりとした感触をともなっていた。蒸し暑い熱帯夜にそれだけが涼しさを与えてくれる。
二人の前には男が対峙していた。
圧倒的な恐怖に支配されて小刻みに体を震わせる男だった。
男の金髪が揺れる。顔中が汗だくだった。顎から滴る汗は芝の緑に落ちていく。
月光を背にして凛然と立っているひとみの手には縮められた警棒が握られていた。真希の部屋にあった護身用の警棒だ。初めは冷たかった鉄の棒もひとみの体温を吸って生温かくなっていた。手の平に滲む汗で少し滑りやすくなっている根元をひとみはもう一度強く握りなおした。
瞳孔を見開いたまま男は芝生に覆われた広場の地面に視線を落とした。ひとみもついとそれを見やる。
真希の足元にそれはあった。
恐怖の元凶、狂気の産物、圧倒的な非現実。
頭から静かに血を垂れ流して微動だにしない屍だった。
ひとみは恐怖に慄く男をじっと見つめていた。
「ごっちん、どうしよっか」
視線は男を捉えたまま、口だけで真希に尋ねる。
「いいよ、よっすぃ。やっちゃって」
軽い、半ばどうでもよさそうな口調で真希は言った。
「…わかった」
ひとみが手を振るって警棒を伸ばした。その警棒は間違いなく地面に転がる屍の血を吸った凶器だった。その足元にはもう動くことはない抜け殻。
239 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:11
非現実の光景が広がっていた。
それは確かに非現実だったが、ひとみにとってはそれはまるで夢の中のように曖昧な世界だった。
脳内に靄が掛かっていて、思考すら許してくれない。ただ、真希の望むままの行動に導くのだ。
男は瞬きすらせずに瞳が乾くほど目を見開いていた。
ひとみが一歩足を踏み出した。
「ひ、ひぃっ…うっ…あっ…」
声にならない声を漏らしながら男は足を縺れさせて尻餅をついた。
それでも潜在的な防衛本能からか、男は少しずつ後ずさりを始めた。
しかし、血に濡れた警棒を握りこんだひとみの前ではその行動はまったく意味をなさなかった。
すぐに距離を詰めて警棒を男の整髪料にまみれた金髪に絡ませる。
そして、段々と警棒を下に下ろして男のこけた頬に突きつける。次々と噴き出す男の汗が警棒を伝う。それは芝に落下して音もなく消えていく。
尋常ではない顔色はどんどん赤くなって、こめかみの血管が太く浮き出ている。本物の恐怖の淵に立った人間の表情だった。
しかし、もはやひとみからは感受性すら抜け落ちていた。ひとみはひどく冷たい視線を浴びせた。
「ひ…ッ」
しばらく顎を鳴らして瞳孔を揺らす男の様子を見つめると、ひとみはふいっと男に背を向けた。
ひとみの顔を月光が正面から捉えた。
長く伸びた影が男に被さった。ひとみは静かだった。
男は唖然とした表情ながらも、小刻みに振動を繰り返して、公園から駆けだした。
ひとみはゆっくりと真希のもとへ歩を進める。ひとみは真希に並んだ。そして、手を振るって警棒を縮めると上着のポケットに収めた。
真希は目を細めて足を絡ませながら必死に逃げ惑う男の背中を見つめる。
「逃げちゃったね…」
小さく、呟きを落とす。
「…うん」
ひとみは短く答えた。真希の視界から男の背中が消えた。ひとみは真希の背中に自分の背中を預けた。体温が互いに伝わる。鼓動までも共有させてくれる。
「捕まるのかな…ウチら…」
ひとみの呟きは振動となって真希の体を揺らした。真希は芝生に転がる男の屍に視線を落とした。
「捕まるの、かな…」
240 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:11
ひとみの心は今までにないほど、静かだった。
この公園の静寂と無音と同調するかのように、まったく静かだった。
ひとみの左手に体温が重なった。真希の体温だった。真希は強くひとみの手を握った。
「よっすぃ、逃げようか」
ひとみはその首を縦に下ろすと、真希の手を握り返した。
二人は互いを確認した。
互いの体温を繋いだ。
青白い月の下に二人の影は美しく伸びていた。
241 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:12


日付が変わる。
辺りは闇と共にすでに夜の妖しさを孕んでいた。
警察に休みというものは存在しない。新宿という街においてむしろ夜というのは活動の象徴だった。
新宿西署の刑事課にはまだ人影が残っていた。圭は資料を読み漁りながら隣りの安倍に視線を移した。
「そういえばさ、アンタのやってた調べものって何?」
「んー、企業秘密」
「なんだぁ、それ。収穫はあった?」
「全然なかった」
安倍は書類作成の手を休めて、大きく伸びをする。
ふう、と顔をしかめて嘆息する。
声にならない唸り声を上げて思いきり背を反らす安倍を見て圭は資料から手を離した。
「あーあ」
「疲れてる?」
「疲れてもいられないさ」
圭は真剣味を帯びた口調で言った。
結局、圭は三件の猟奇殺人事件に真希が関与している確証も、関与していないという確証も得られなかった。
そのため、事件の捜査に満たされている圭の頭から後藤真希の文字が消え去ることは一時もなかった。
それに、圭織の言っていたショートカットの背の高い少女のことも気にかかる。もちろん後藤真希とは違うだろう。写真では髪が長かったはずだし、背も圭より高くなかったはずである。
圭はひとつ大きく息を吐くと、椅子の背凭れに体を預ける。ふと圭は先ほどから紺野の姿が見えないことに気づいた。
「あれ、そういえば紺野は?」
「仮眠室」
安倍は目線で取調室の横にあるドアを指した。捜査本部が置かれるような事件がない限り、滅多に使用しない仮眠室である。
「ああ、最近寝てなかったからな」
「若いんだからちゃんと働いてもらいたいんだけどね」
苦笑しながら安倍が漏らした。圭も思わず苦笑する。
「アンタもまだ23でしょ?」
「いやー、最近腰が痛くて」
「アホ」
圭は軽く笑って安倍の頭を小突くふりをする。いやーん、と安倍はおどけて頭を抱えてみせた。
242 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:12
「吉澤さん、安倍さん、コーヒー淹れました。どうぞ」
後方から声がかけられた。
二人が振り向くと紺野が盆に三つのカップを乗せて立っていた。その表情は笑みに隠されてはいるが、疲労の色がありありと貼りついていた。
「起きたの?大丈夫?」
圭は心配そうに尋ねた。
「いえ…」
「大丈夫そうじゃないけど…」
紺野はふるふると首を振った。
「これ、どうぞ」
紺野が盆に乗ったコーヒーカップを差しだした。
「さんきゅ」
「悪いね」
安倍と圭はそれぞれ礼の言葉をかけてコーヒーカップを受け取った。紺野は近くの机の椅子を持ちだすと二人に向かい合うように調整してその椅子に腰を沈めた。
「紺野、ホントに大丈夫?こっちがハラハラするんだけど」
コーヒーに口付けてから何気なく安倍が尋ねてくる。口ではそっけなく言ったものの、心配する気持ちは変わらないのだろう。
「大丈夫、です」
紺野は疲労の残っている顔で弱々しく笑んで見せる。
圭はふと目を細めた。
飯田姉妹の目撃証言以来、ほとんど情報提供はなくなった。
そして、稀に寄せられる情報はすべて信憑性に欠けるものばかりだった。
さらに殺人現場に残された遺留品はどれも状況証拠すら示してくれない些細なものばかりだった。
そのような状況で捜査が進展をみせるはずがない。捜査は完全に暗礁に乗りあげていた。
243 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:12
「ちょっ、困ります!アンタ、ちょ…!」
刑事課の外から三人の耳に声が届いた。
その声は何かを拒んでいる様子だった。三人は声の発生源をたどって外に目を向ける。
二つの人影が刑事課の常に開かれているドアから姿を見せた。片方の姿には三人は見覚えがあった。
新宿西署の警備を担当している朝岡という制服警官だった。しかし、もう片方の男に覚えはない。
金髪に染め上げた髪を整髪料で針ねずみのように硬く立てている。圭は記憶を手繰るがやはりまったく見覚えはない。安倍と紺野も同様のようだった。
そして二人の態勢が奇妙だった。
朝岡が刑事課に足を踏み入れようとする男を必死に抑えているのだ。
強盗――。
最悪の事態が浮かび上がる。三人は咄嗟に椅子から立ちあがって身構えた。
「友達が殺されたんだ!犯人に襲われそうになったんだよ!あの殺人事件の!助けてくれよ!」
朝岡に両手を抑えられながら男は叫んだ。朝岡を振りほどこうともがく。
男の言葉に安倍と紺野と圭は顔を見あわせる。そして三人とも同時に朝岡に襟を掴まれている男に視線を投げる。
「どー思う?」
圭が小声で安倍に尋ねた。
「さあ?でも…お手柄の予感しない?」
「奇遇だねぇ、アタシもそう思ってた」
二人が顔を見合わせてにやりと笑う後ろで紺野は事態を呑みこめず突っ立っていた。
「朝岡さん。いいですよ、離して」
圭が朝岡に声をかけた。
その言葉に従って朝岡は渋々といった風に男から手を離した。
244 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:13
男は朝岡を睨みつけて簡単に衣服を整える。安倍が探るような視線を男を見つめる。
「本当に見た?犯人」
「本当だよ!」
男は喉を枯らしながら叫んだ。
「本当の本当だろうね?」
圭がさらに尋ねると、男は圭を睨みつけた。
「本当だっつってンだろ!」
安倍と圭は再び同時に顔を合わせる。そして密かに顔を寄せ合う。
「…やりィ、ラッキーじゃない?」
小声で安倍が言った。圭はうーん、と顎に手を滑らせた。
「でもねぇ、言葉遣いは気に入らないな」
「あ、私も同感ー。やっぱ、そうだよねェ」
「でしょ?」
圭が口端をつりあげた。
「話を聞かせてもらいましょう。取調室で」
圭は静かな口調で言うと、男の肩を掴んで、奥の取調室に消えていった。

245 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:13


深夜の駅の構内にまったく人影はない。
暇そうな駅員が時折うろついているくらいだった。もうほとんど電車は来ないのでそれも致し方ないだろう。
藤本は足早に三番線のホームへの階段を上った。
腕には二つのバッグがある。その中身は当分の生活に備えた生活用品やらの類だ。とはいってもそれほど思いつかなかったし、足りないものはコンビニかどこかで買えば良いと思ったので、それほど中身は詰めていない。
長い階段が余計に長く感じた。脇にはエスカレーターも通っているが急いでいる気持ちが階段を選択させた。
中間点に到着すると少し歩調を緩めた。
なんとなく、二人の前で急いでいる姿を見せたくなかった。
ゆっくりとコツコツとヒールを鳴らしながら階段を上っていく。
見上げると看板が映った。
特急、石川方面行き。
藤本はふと上げた視線を沈めた。
階段を上るにつれて、なんだか緊張感が伝わってくる。
おそらくそれはホームに待っているあの二人のものだろう、と藤本は確信した。
階段を終えた。
やはり、三番線のホームに二人は立っていた。
真希の長い髪がかすかになびいている。ひとみは腕時計に目を落としていた。
藤本はブーツを鳴らしながら二人に駆けよった。
二人の前で立ち止まった藤本に真希は優しく微笑みかけてきた。
「ごめんね、ふじもってぃー。こんな急に」
「いいよ、じゃあこれ。ごっちんとよっすぃ、さんの分」
二人にそれぞれ腕に抱えていたバッグを差し出す。
「ありがと」
「…すいません」
それぞれ断わりをいれて二人はそのバッグを受け取った。
246 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:14
荷物から解放された藤本は少し手持ちぶさたに手をぶらぶらと振る。
「何も言わなかったから中身はこっちで考えたよ。大体必要なものは入ってると思う。あとで確認して」
藤本はわざと面倒臭そうに言った。真希は柔らかく表情を崩した。
「ホントにありがとね」
「今更なにいってんのさ」
軽く鼻で笑ってやった。
「お金は持った?」
藤本は思い出したように尋ねる。まるで母親が学校に行く子供に掛ける言葉だな、と、状況に合わない科白を滑稽に思った。
「ん、持った」
真希は頷いて膨らんだ茶封筒をジャケットのポケットから取り出した。
「10万、ちゃんと返してもらわないとね。クスリの金もツケなんだから。ちゃんと返せよ」
逃亡資金の10万円は事前に真希に渡していた。
10万円、逃亡資金として高いのか、安いのか、経験のない藤本にはもちろんわからなかったが、とりあえずは当面の生活には足るだろう。
藤本は一転、真剣そうに目を細めた。
「警察のことだけど…」
言葉を止める藤本に真希は視線で促した。
真希から自分たちの件でまだ警察は動いていないか、調べておいて欲しい、と頼まれていた。
藤本はじっと真希を見返した。
「『drunk』にヘンな刑事っぽいやつが来たよ。ごっちんのこと探して。でも、たぶん殺人のことじゃない。なんか別のことで追われてるの?」
訝しそうに真希に尋ねる。真希はうーん、と唸る。
「心当たりはない…かなぁ」
「…ん、まぁ、そっちに関しては心配ないよ。あのヘンな刑事は別件の捜査だと思う」
安倍という刑事と言葉を交わして、なんとなく確信はあった。安倍の、鋭く細められた丸っこい目を思い出す。
しかし、殺人ではないはずだ。まったくの勘だが、安倍はなにか他のことを探ろうとしていた気がする。
247 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:14
「で、殺人のほうではあたしは追われてるの?」
藤本はううん、と首を振った。
「まだ動いてないみたい。でも、推測だけど、もう少ししたらごっちんもよっすぃさんのこともバレると思う」
「…ん、だろうね」
真希はやんわりと笑ってみせた。何故か、藤本の胸が締めつけられた。それを押し隠すように藤本は表情を作った。
「それより帰って来るんでしょ?ほとぼりが冷めたら」
自分でも分かるほど上手く作れてない笑顔を浮かべて明るい口調で言った。軽い口調とは裏腹に自然と切迫さが滲んでいた。
「そのつもりだよ」
真希は困ったように笑っていた。また藤本の胸は締めつけられる。
藤本にはある仮説があった。
二人ははもう東京に戻ってくる気はないのではないか。
二人のなにかをごまかそうとしているような曖昧な表情はその仮説が的を得ていることを暗に物語っていた。
先ほどの藤本の質問は確認の意を有していた。
そのつもり、と真希は言った。
即座に嘘、だとわかった。口調も表情もすべてが曖昧だった。
しかし、確信をしたからといって、どうすることも出来なかった。
止めることも励ますことも、救うことも出来ない。無力を突きつけられて、藤本は息苦しかった。
「逃避行ってカンジだね。ホント」
息苦しさに耐えきれずに藤本は明るい口調で軽口を叩く。
「ん、そだね」
真希は笑顔を返した。
「まぁ、旅行って思えばいいよね。いいなあ」
「あはっ、そうだね」
「いやあ、それにしても暑いねぇ。夜なのに」
「んー、そだね」
口数が増えていることは藤本自身わかっていた。それでも、どうしても止まらなかった。
「石川県だっけ?海、近いんじゃない?いいなー、海入りたい」
「うん、楽しみだよ」
「…いやー、ホントに暑い」
「うん…」
話題が尽きる。途端に息苦しくなる。
藤本は固く拳を握り締めて、沈黙に耐えた。
248 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:15
藤本の携帯電話に連絡が入ったのは時計の短針が10を過ぎた頃だった。真希からの連絡の内容に藤本は顔をしかめた。
その内容は今日の夜にひとみと東京を離れるということとその逃亡に必要な金銭と荷物を調達してほしいというものだった。
最近、報道の話題を独占する殺人事件の犯人が真希とひとみがだということは真希本人から告げられていた。
安倍という刑事にも会った。おそらく殺人ではなく別件だろうが、真希を探していた。もちろん、しらを切ったが、殺人事件以外にも真希には色々と問題が取り巻いているらしい。
そして先ほど、真希から再度殺人を犯して、その目撃者を逃がしたこと、二人の顔を記憶されたことを告げられた。おそらく自分達の身元が割れるのに時間はかからないだろうという真希の判断は正しいだろう。
そのため、真希の連絡の意味自体は把握できた。
これから逃亡して姿を消すということだ。
しかし、普段とわずかに違う真希の真剣な口調が藤本に疑問を生んだ。そして、このホームで真希と顔を合わせてからその疑問はさらに深まった。
もしかすると、彼女たちは――。
そこでけたたましい警報が沈黙を割いた。
『間もなく、三番ホームに電車が参ります。危ないので白線までお下がりください』
アナウンスが流れる。
最終電車だ。
石川行きの夜行列車である。
予約を入れたのは藤本だったが、足がつかないように藤本の知り合いの名義で予約を入れた。特に怪しまれることもなかった。
プラットホームに列車が滑り込んだ。
ぴったりと三人の前で停車して、ドアが開く。真希とひとみはドアに向かう。
「ねえ」
気付けば藤本は呼びとめていた。二人は振りかえった。月夜に映される二人の表情は儚さに染まっていた。
その表情を見とめて藤本の心に少しずつ寂しみが沸いてくる。
藤本と真希の出会いは唐突だった。新宿のあるクラブで真希の顔を見た時、藤本は面食らった。真希の表情があまりに物寂しげで儚かったからだ。
藤本は次の瞬間にはもう真希の声をかけていた。
真希は意外に人懐こかったがどこか常に影を隠していた。藤本はその影に惹かれていたのかもしれない。真希と藤本はそれから行動をともにするようになっていた。
249 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:15
「帰ってくるよね?」
藤本は真希の目を見つめて尋ねた。
真希は何故か驚いたように俄かに目を見開いた。そして、すぐに優しく目を細めた。
「うん、絶対に帰ってくるよ。ふじもってぃ」
藤本はその瞳に笑みを宿すと、顔を微笑みに崩して頷いた。藤本が久々に見せる心からの笑顔だった。
そして、藤本はひとみに視線を移した。
「よっすぃさん」
「え?」
藤本からの呼びかけにひとみは間の抜けた表情で答えた。藤本は笑った。
「ごっちんを、よろしくね」
一瞬、目を丸めたあと、ひとみは頷いた。
「…うん」
ひとみの語調からはしっかりとした意思と決意が読み取れた。藤本は満足そうに頷いた。
「ん、じゃあ頑張れ、二人とも」
「ふじもってぃー…ありがと」
真希は満面の笑みを浮かべると藤本に背を向けて電車の中に足を踏みいれた。ひとみも藤本に一礼するとあとに続いた。
「帰ってこいよ」
口をついて言葉が勝手に紡がれた。
二人は同時に藤本に振り向くと、深く頭を下げた。
ぷしゅう、とドアが静かに閉まった。ドア越しに見える二人の表情は歪んで見えた。
藤本はそれが自分の目に浮かんでいる涙のせいだと気付かなかった。
歪む視界の中で二人は藤本に向かって小さく手を振る。
藤本は溢れる涙とともに襲ってくる嗚咽を必死に抑えた。
電車は静かに動き出した。
段々と遠ざかっていく。
電車は線路に沿って走っていき、すぐにその姿を消した。
電車がなくなってがらんとした線路を見つめながら藤本はその場に立ち尽くしていた。しゃがみこめば、すべてが崩れていきそうだった。
「っく…」
涙を零した。雫は地面に点々とあとを残していく。
嗚咽が溢れてくる。
唇をぎゅう、と噛みしめる。痛くなるほど噛んでも、それでも涙は込みあげてくる。
250 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:15
「…っくう…ッ」
藤本は嗚咽を漏らしながら心の中で真希を責めた。
ウソつき。帰ってくる気なんかないくせに。
なぜ、こんなにも悲しいのだろうか。
その理由も、もう藤本はわかっていた。
捕まるつもりも逃げるつもりも二人にはもうないだろう。
二人はもう死ぬつもりなのだ。
共に、死ぬ覚悟を固めているのだ。
藤本はあのクラブでひとみと真希が一緒にいる姿を見て確信していた。
真希にとってひとみは誰よりも大切で愛しくて病まない存在である。
そして今、とめどなく涙を溢れさせる自分に改めて実感した。
真希が自分の中で唯一大切な存在だった。
藤本は常に空虚だった。
一応の家族もとりあえずの仲間もいた。言いよってくる男もいた。しかし、いるからどうということはなかった。
予定調和な時間。退屈を埋めるだけの会話。上辺だけの繋がりに失望しながら成長するにつれ藤本の空虚は広がっていった。そして、その空虚を埋めるために煙草や酒、麻薬や薬物に手を染めた。
しかし、真希といる時は違った。
真希は素直で可愛くて儚かった。真希といる時は満たされていた。
真希は唯一大切な親友という存在だった。
藤本は涙を零しながら天を仰いだ。
滲んだ視界に映った夜空に黄金染みた月が浮かんでいた。
藤本はその月に懇願する。
神様、どうか彼女たちを救ってください。
藤本はしゃがみこんだまま、嗚咽を漏らしながら、ただ祈りを捧げた。
251 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:16


取調室は緊張感が張りつめていた。
昼間、圭織と話した時とは部屋自体が表情を変えている。
天井の蛍光灯の光が狭い部屋を寒々しく、広々と見せた。窓からは微かに月光が差しこんでくる。それはまるで光の道のように室内にほんわりと浮かぶ。
中心に机を挟んで、圭と男が向かい合って座っていた。
「アンタの友達はもう殺されたの?」
圭は沈黙を破って尋ねた。男はああ、と頷いた。その様子からは友達が殺された悔しさよりも、自分が恐怖から解放された安堵が読み取れた。
「…わかった。あとで行かせる。で、アンタが見たのはどんな犯人?」
「女が二人だ!18ぐらいの!」
男が椅子から立ちあがって、興奮気味に喚いた。
やっぱりか、と圭は嘆息した。捜査一課の読みは当たっていたのだ。
「で、アンタはどうしてその女の子といたの?」
「逆ナンだよ。俺らが歩いてたら声かけてきて、公園に連れこまれて、ヤレるって思ったアイツが女に飛びついたらもう一人の女が警棒でメチャメチャに殴って…」
男は開き直ったように平然と答えた。
「アンタは命からがら逃げてきた?」
「そうだよ!」
圭はふうん、と少し意外そうに漏らした。
安倍の読みが当たっていた。片方が囮で片方が実行犯、まったく安倍の言った通りだった。
「で、その女の特徴は?」
「え…一人は、背の高い髪が短いヤツだった」
「それは知ってる。あと一人は?」
「髪が長かった」
はあ、と圭はまた嘆息した。
「もっと、特徴を言いなさい」
「だから…髪が短いほうは…目が大きかった」
ああもう、と圭は頭を抱えたくなった。呆れた、の一言しか思いつかない。
252 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:16
「他には?アンタ、名前とかは聞いてないの?あ、ナンパなんかで聞かないか」
「ああ…」
男は言いよどんだ。しかし、すぐに声をあげた。
「いや、聞いた!」
圭はパッ、と顔を上げた。男は興奮してまくし立てた。
「あだ名っぽかったけど、ゴッチン、ヨッスィって呼びあってたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、圭の耳から一切音が遮断された。
頭の中に起こる混乱。思考が掻きまわされて自他の区別すら危うくなってくる。
どちらも聞いたことのある単語だった。
圭は慌てて自我を取り戻す。
「で、どっちがどっちをどう呼んでた!?」
「え…たぶん、髪が短いほうが…ヨッスィて呼ばれて、長いほうがゴッチンと呼ばれてた」
どういうことだ、その疑問だけが頭の中に渦巻く。
中澤裕子は後藤真希のことをごっちん、と呼んでいた。ひとみはよっすぃ、と呼ばれている。
(何?どういうこと?ごっちん、よっすぃ…。二人には接点があったの?何故?アタシの知らないとこで何が起こってる?)
圭は椅子から立ちあがるとおぼつかない足取りで取調室を出た。男は圭の様子を怪訝そうに見つめていた。
安倍と紺野は不安定に体を揺らして蛇行しながら取調室から出てきた圭に慌てて駆け寄った。
「圭ちゃんっ、どうしたのっ」
安倍の言葉に圭は弱々しく首を振る。紺野が圭に心配気な視線を送る。
圭は柔らかく肩を掴む安倍を離させると自分の机に向かう。しかし、その足取りでまともに歩けるはずはなく圭は机に足をぶつけた。慌てて安倍と紺野は再び圭に駆け寄る。
「大丈夫ですかっ」
圭は紺野に手をかざすとようやく自分の机に辿りついて椅子にその腰を預けた。
253 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:17
思考に沈む。
(後藤真希…ひとみ…。ただの偶然か?しかし、特徴は?ひとみは髪が短い、背も高い、目も大きい。後藤真希も髪が長かったはずだ…。それに…圭織はひとみの写真を見せたら、髪が短い、背の高い少女のことを思い出した。もしかすると…圭織の言っていた少女はひとみだったのか?)
安倍と紺野は圭の様子に顔を見合わせているのはわかったが、思考は止まらない。
安倍は鋭い視線で取調室のドアを睨んだ。そして、ずんずんとドアに近づいていく。
「安倍さんッ」
紺野は慌ててついていく。安倍は構わずに取調室のドアを蹴り破って入って行った。
圭はその後ろ姿を見つめていた。
「何やったって聞いてンのっ」
しばらくしてから壁越しにくぐもった安倍の怒声が轟いた。
「安倍さんっ」
慌てた風な紺野の言葉が続いた。
それからまたしばらく沈黙が訪れた。
「…そう呼び合ってたんだ」
「何だって…」
途切れ途切れに言葉の端が耳に届いた。
おそらく男から先ほど圭が聞かされたことを告げられているのだろう。
痛いほどの沈黙が辺りに張り詰めていた。
この事実は捜査の決め手になりうるのだ。捜査一課も間もなく嗅ぎつけてくるだろう。
しかし、情報には衝撃と同時に混乱も伴った。
特徴は確かに一致している。
ひとみは圭よりも少しばかり背が高い。バレーもやっていて、一般的な女子にしては長身である。髪も耳に掛かるくらいの茶髪。真希も写真で見る限り、茶色がかったロングヘアだった。
犯人は二人だ。だとしたら圭織の見た二人組の少女は確定的にその犯人である。圭織の見た背が高く髪の短い少女は男の見た犯人の一人と特徴は一致する。ひとみと似た特徴だ。
そして、男の言った最も重要な証言。
確かにひとみは友人からよっすぃ、と呼ばれている。そして、現在全くの消息を絶っている。
一方、後藤真希のことを中澤はごっちん、と呼んでいた。ごっちん、は真希の愛称なのだろう。そして、ひとみと同様に現在、真希も姿を消している。殺人事件のことでその捜査は中断されていた。
しかし、まさかその殺人事件の捜査で後藤真希の名前が
254 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:18
出てくるとは思っていなかった。
可能性は確かに濃い。
しかし、分からないのは二人の接点である。
かたや自分の妹。かたや2年前の火事の被害者の娘。
接点はない。
ひとみの交友関係は広いが、大体把握しているつもりだし、何より後藤真希は姿を消している。その捜査を必死でしていたのに、妹のひとみが後藤真希を知っているはずがない。
いや。すぐに否定の考えが持ちあがった。
自分の捜索していた後藤真希をひとみが知らなかったという保証は確実にある訳ではない。
ひとみは後藤真希を知っていたかもしれない。
ひとみの前で後藤真希の名前を出したことはない。圭が後藤真希を探していて、後藤真希が2年前の火事の重要参考人だということをひとみは知らない。
普通の友人としてどこかで出会っていた。その考えも全くゼロというわけではない。
それに、ひとみの様子が最近変だった。
石川に相談された通り、どこか上の空でいることが増えていた。
何か、ひとみに変化があったのかもしれない。その変化はもしかすると後藤真希に出会ったことなのかもしれない。
いや、しかし、その可能性はゼロではないが、限りなく低いように思われた。
この広い街で、もしかするともう後藤真希は別の町に映っているかもしれないのに、妹のひとみと出会う確率など限りなく低い。
二人の接点が見つからないことは圭にとって唯一の希望だった。
自分の限りなく低確率の考えが間違っていて欲しかった。
公園での死体。
ふと男の証言を思い出して、圭は電話を取った。
その公園の最寄りの交番に連絡をして公園に確認に行かせた。
男の証言が間違いならば、死体などないはずだ。
そうであって欲しかった。
255 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:19
電話が鳴る。
圭は引っ掴んで、耳に押し当てる。
淡い希望は打ち砕かれた。
死体は確かにあった。男の証言通り、公園で発見された。
死体など見たのは初めてなのだろう、ひどく慌てているその交番の巡査を宥めて、電話を切った。
「みんな、第一公園で死体発見。すぐに急行して」
圭は声を張って刑事課に残っている刑事たちに呼びかけた。刑事課は途端に慌しくなり、一気にもぬけの殻になった。
続けて捜査一課に連絡をいれた。無愛想な一課の捜査員に死体発見の一報だけを告げて電話を切った。3階の捜査一課から捜査員たちが急ぎ足で刑事課を横切っていく。
安倍が取調室から出て来た。続いて紺野が出て来て、取調室のドアを閉めた。二人の表情は同様に曇っていた。
安倍は圭の隣の自分の椅子に座った。
「まだ、決まったわけじゃないじゃん?ほら、あの男が言ってたことが本当かどうかもわからない状態だし、さ」
なるべく口調を明るく飾って、安倍は笑ってみせる。圭は力なく首を振った。
「近くの派出所に連絡いれて確認してもらった。遺体は公園にあった。今、捜査一課が行ってる」
「で、でも…」
食い下がる安倍に圭は頭を抱えたまま、ううん、と言った。
「あの男が言ってたのはひとみのことかもしれない。カオリから実は聞いてたんだ。髪が短い、背の高いコ。カオリ、ひとみの写真を見たら思い出したんだ」
自分で分かるほど圭の声の淵は頼りなく震えていた。安倍は何も言えずに、圭の腕をさすった。
「それに、ごっちんっていうあだ名のコも知ってる」
安倍とその脇で所在なさげに立っていた紺野は顔色を変えた。
「後藤真希、のあだ名だよ」
圭の呟きに安倍は目を見開いた。
「間違いないの!?」
噛みつくように尋ねられて、圭は小さく首を頷かせた。
「前に後藤真希が住んでたアパートに行ったんだ。後藤真希と仲が良かったっていうその管理人が後藤のこと、ごっちん、て呼んでた」
安倍は半ば呆然としていた。紺野も同様に驚愕に震えているようだった。当然だろう。調べていた後藤真希の名前がここで出てくるとは想像していなかったのだろう。
256 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:19
「ただ、ひとみと後藤真希の接点がわからない…」
圭が頭を抱えたまま低く鳴らすように呟いた。あの二人の接点だけが見当もつかない。
安倍は少し視線を沈めてから、紺野に視線を移した。紺野は展開についていけずに呆然としていた。
安倍は軽く息を吐いて、
「私ね、ひとみちゃんのこと、調べてたんだ」
圭が顔を上げた。目を丸くしたまま、安倍を見つめる。
調べていたとはどういうことなのだろうか。何故、ひとみを調べていたのだろう。
混乱と疑問が次々と降って沸いた。まるで突然の夕立に遭ったように怒りとも嘆きともつかない感情が押し寄せてくる。
唐突で、まったく予期していなかった言葉だった。
安倍は圭の腕をさすりながら頷いた。
「紺野と一緒に。圭ちゃんには心配かけないように内緒で」
「アンタ…」
丸い瞳で安倍を見つめる圭に安倍は真正面から視線を返してきた。
「ひとみちゃんのこと、調べてる内に、後藤真希の名前が出て来た」
「え…」
圭は言葉を切れ端を漏らした。
聞きたくない言葉が待っている、そんな予感が頭をよぎった。
「つまり、後藤真希とひとみちゃんには接点があったんだ」
確信をこめて、安倍は言い放った。圭は抱えていた頭から手を離して呆然としていた。
「どう、いう…?」
絞りだす風に漏らす。安倍は一度俯いて再度、顔を上げた。
「ひとみちゃんのバイト先のコンビニに一ヶ月くらい前から後藤真希がバイトとして働いてた。そのコンビニで、二人は、知り合ってたんだ」
言葉も出なかった。息が詰まりそうになるのを抑えるので精いっぱいだった。
安倍と紺野の呆然とした表情はここで後藤真希の名前が出たからではなかったのだ。
257 名前:8th.月下のカタルシス 投稿日:2005/01/14(金) 20:19
二人はひとみの行方を調べている内にひとみが後藤真希と出会っている奇妙で数奇な事実を知った。
しかし、それはひとみと真希が出会っているという事実を知っていただけであって、この殺人事件と関わっているなどとは夢にも思っていなかったのだ。
これで唯一の問題点は解決した。二人の間に確かに接点はあったのだ。
パズルのピースは繋がった。繋がってしまった。
「偶然っていう可能性もある。早まっちゃだめだよ?」
圭の肩を抱いて、安倍が言った。しかし、頭には入ってこなかった。
圭は机の上に広がる書類の一つに目を留める。その書類に記されている人物。
後藤真希。
冷徹な瞳はまるですべてを否定するような闇を称えている。その目に一体、何を映したかったのだろうか、圭には見当もつかなかった。
顔を上げて髪をかきむしった。そしてその脳内にひとみと真希の姿を映しだす。二人は並んで圭を見つめていた。
「ひとみ…」
圭の懇願めいた呟きは沈黙に吸いこまれた。

258 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/14(金) 20:20
 
259 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/14(金) 20:20
 
260 名前:chaken 投稿日:2005/01/14(金) 20:23
第8話「月下のカタルシス」終了です。

218様。レスどうもです。ドクターマコトー、次回作候補に入れておきますw。
219様。毎度どうもです。いつも細かい感想ありがとうございます。
220様。幸せになるか、は保証できませんが、これからもよろしくお願いします。
261 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/14(金) 22:25
更新疲れ様です。
やべぇーどうなるんだあの二人は・・・。

262 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/15(土) 05:52
同じくお疲れ様です。
完結するまでROMっているつもりだったんですが、
今回ので頭を殴られたような衝撃を受けたのでご挨拶を・・・
本当に面白いです。
よしごまみき&やすなちこんの絆には感服します。
263 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/15(土) 16:05
偶然発見し、一気に読んでしまいました
久しぶりにのめりこみました
言葉を失う素晴らしい作品だと思います
最後までついて行きますので頑張ってください
264 名前:wool 投稿日:2005/01/16(日) 20:18
今週も更新お疲れ様でした。
いえいえ、読ませて頂いて毎回感じたことを上手く文章に表せない自分が腑甲斐ないと思うばかりです。

今回の藤本さんには自分も泣けてしまいました。彼女もまた辛い立場にいた人間なんですね。
彼女もまた大好きな娘。の一人です。
265 名前:9th.弱者たちの詩 投稿日:2005/01/21(金) 21:14


月の明かる夜だった。
煌々と輝く黄金の月が闇によく映えていた。車窓から緩やかな月光が差しこんでくる。車内の蛍光灯はちかちかと時折点滅する。蛍光灯が消えるその瞬間だけ、辺りは月光の黄金色に包まれる。
車両は8両編成である。自由席の8両目にひとみと真希はいた。
座席は両の窓際にお互い向かい合うようにして並んでいる。席の区切りが特にない、ソファ型の座席である。この列車は夜行列車だが寝台車はついていない。
その車両にはひとみと真希以外の姿はなかった。
二人は座席に肩を寄せ合って座っていた。二人の横には空いたスペースがぐんと広がっていた。それが広々としている反面、寒々しかった。
車窓が映し出す景色は機械的な高層ビル郡から和やかな田園が目立つ田舎的なものに移ろっていく。
ガタン、ゴトン。
二人は寄り添いながら心地良い揺れに身を任せる。会話はなく、ただ規則的に電車が揺れる物音が響いていた。
「よっすぃ、ごめんね」
真希がひとみの肩に頭を預けたままそっと呟きを漏らす。
「何で、謝るの?」
ひとみは少し掠れた声で尋ねた。頭をひとみの肩に凭れさせているせいでひとみの声は直接頭に響いた。
「よっすぃの、笑顔、奪っちゃった…」
その言葉は静かな重みを持っていた。ひとみが少し目を細めたのが判った。
真希は車窓に映ったのどかな田園風景を見つめていた。
田んぼの穂が風に吹かれている。月光に照らされて敷き詰められた緑は黄金色に輝いていた。
ひとみは最初の殺人を犯してから、日毎に感情の起伏をなくしていった。
儚さに表情を染めて、好きだ、というと悲しそうに笑うだけだった。
胸が締めつけられるような切ない笑顔だった。
緩やかな沈黙が二人の間に流れる。
266 名前:9th.弱者たちの詩 投稿日:2005/01/21(金) 21:14
「いつから…こうなっちゃったのかな…あたし」
自嘲の含みを持たせた真希の言葉が沈黙を割いた。
真希が目を閉じると、静かにその瞳から涙が零れた。
ポツ、ポツ。
ストーンウォッシュのジーンズに涙があとを残していく。
「あたしね、普通の子だったんだよ?お父さんがいて、お母さんがいて、よく笑って…。よく覚えてないけど、たぶん幸せまでとはいかなくても平和だった…」
ひとみは車窓に映る真希の姿を見つめながら沈黙を保っていた。真希が語る過去に静かに耳を傾けてくれていた。
「でもね、お母さんが交通事故で死んじゃってから、世の中が狂ったんだ…」
その目から流れる涙は止まって真希の口調も嗚咽に流されることはなく、毅然としていた。
「お父さんがね、お酒飲みまくるようになって、仕事も辞めて…。借金ばっかり…あたしにもキツくあたるようになった…」
真希の言葉が一旦止まる。ひとみは促すことはせず肩に寄りかかる真希の頭を支えたまま静かに次の言葉を待ってくれた。
「それからは地獄だった…。虐待っていうのかな、それされるようになっちゃった…」
その言葉はやたらと空虚に響いた。
「虐待…?」
俄かに目を見開いてひとみが尋ねた。真希は沈む口調でうん、と答えた。
「蹴られたり、殴られたりは当たり前…。タバコ押しつけられたり、首絞められて、殺されそうになったことも、あった…」
過去の地獄の日々を脳内に映し出して、それに触発されて沸き上がる辛さを堪えながら言葉を吐き出す。
後頭部にじんじんと痺れが走る。それを感じながら、真希はじっと耐えた。
「一年くらい…。そこまでいくとね、時間の感覚とか消えちゃうんだよね…。もう10年くらいに感じた…。死ぬほど苦しくて、でも誰も助けてくれなくて…」
苦しげに吐いて、苦悶の表情を浮かべる。真希は脳内から記憶の欠片を探し出して一つずつ言葉にしていく。
「もうどうしようもなくて、あたし、悪いことするようになっちゃった…。その時にふじもってぃーとも会ったんだ…」
真希は自分の言葉に導かれて駅で涙を零しながら自分に手を振る藤本の姿を思い出した。
267 名前:9th.弱者たちの詩 投稿日:2005/01/21(金) 21:15
初めて会った時はいつもオレンジのサングラスを掛けていて、それが不似合いだったことを覚えている。いつの間にか藤本はオレンジのサングラスを外していて、その頃から藤本と真希は行動を共にするようになった。
藤本と真希との関係をごく端的に表すなら悪友という言葉が相応しい。自分と藤本は一定の距離を保っていた乾いた関係だと思っていた。
しかし、普段は感情を露わにしない藤本の泣き崩れる姿を見て、真希は単純に嬉しかった。
自分の人生は無関心に覆われていて、誰も自分に興味を持っているとは考えてなかったからだ。
藤本が自分を大事な存在と捉えてくれていることが真希にとっては嬉しかった。
しかし、真希はあわよくばもっと早い段階で気づかせて欲しかったと後悔する。
ひとみと出会い、ひとみに溺れて、ひとみを傷つけてしまう前に藤本が自分を親友と捉えてくれているという事実に気付かせて欲しかった。
しかし、それは現在になってはただの後悔として心に残るだけだった。
「その時、市井ちゃんに会ったんだ」
「市井、ちゃん?」
ひとみが疑問を乗せて尋ねた。そういえば、ひとみの前でこの名前を口にするのは初めてだった。真希はこくん、と頷いた。
「出会いは最悪だったんだけどね…。私が万引きしてる時に捕まっちゃって。市井ちゃん、刑事なの。よっすぃのお姉ちゃんも刑事さんだったよね。一緒だね…へへ…」
真希の顔に笑みが零れる。久々の自然な笑みだった。市井紗耶香の話題が真希に明るさを灯した。
気のせいかもしれないが、真希にはひとみが少し悔しそうに見えて、
「拗ねないでよう」
笑顔で軽口を言った。ひとみは真希に体を寄りかからせてきた。
「市井ちゃんね、優しくてさ、あたしみたいなヤツにも優しく接してくれてさ。すごく好きだった。大好きだった。あ、もちろん恋愛じゃなくてお姉ちゃんみたいな感じだからね。浮気じゃないよ」
冗談めかしておどけて見せる真希の表情には自然に漏れる笑みが支配していた。ひとみもつられてか、少しだけ表情を和らげた。
268 名前:9th.弱者たちの詩 投稿日:2005/01/21(金) 21:16
「あたしって人見知りだからさ、あまり人付き合いとか上手くないんだけど、市井ちゃんに対しては笑えたんだ。あ、そういえば福田さんっていう人に会ったなぁ。ちょっと冷たそうだけどすごい優しいの。市井ちゃんの紹介で会ったんだけど、優しい人だったよ」
真希の意識は過去を廻って輝いていた日々を泳ぎまわる。市井や福田の顔を思い浮かべて頬を緩ませる。
ひとみは穏やかな表情で真希の声を聞き入っていた。
「あたしね、虐待のこと話したんだ、市井ちゃんに。そしたら危ない家には帰らせないって市井ちゃんの家に泊めてくれたんだ。いつまでもいていいよ、って言ってくれた」
過去に浸る真希の目に熱い感覚が込み上げた。鼻の奥がつんとした。
「そっか…」
ひとみが静かな声で相槌を打った。
「市井ちゃんちで過ごしてる内に…あたし、立ち直ったんだ。大丈夫だって思えたんだ。そんでね家に帰ることにしたんだ。お父さんとのことを終わりにするって。市井ちゃんは心配して一緒に行こうかって言ってたけど、私が断わったの。自分で出来るって。そしたら市井ちゃんも心配したままだったけど、いいって言ってくれたんだ。今考えたら、市井ちゃんに来てもらえばよかったのかもね…」
不穏な要素を含んだ口調。ひとみは黙って先を待ってくれた。
269 名前:9th.弱者たちの詩 投稿日:2005/01/21(金) 21:16
「私、お父さんに乱暴されたんだ…」
その瞬間、沈黙が通りぬけた。
ガタン、ゴタン。
揺れる音が虚しく響いている。
告げるのには勇気が要った。
ひとみが自分を嫌いはしないだろうか。汚れていると思われはしないだろうか。
少し体が震えるのを堪えて、真希は儚い笑みを浮かべた。
「地獄だった…。その後に市井ちゃんが来たんだ。遅かった…。市井ちゃんは、お父さんを、殴ったんだ。お父さんが動かなくなるまで…。見たことないような怖いカオして…」
真希はなるべくひとみの方を見ないように努めた。確認するのが怖かったし、見れば全てが終わりそうな気がした。ひとみは横で沈黙していた。
「市井ちゃんは自首しようとしたんだ。でも私がそれを止めたの。お父さんのために市井ちゃんが捕まるのは許せなかった。耐えられなかった…。だから市井ちゃんを止めた。市井ちゃんは分かってくれて、事故にね、見せかけてくれたんだ」
真希は少し声を震わせながら吐き出した。ちらりとひとみの方を見上げた。
ひとみは目を瞑っていた。
何を思ってるのだろう。
真希はすぐにその視線を逸らした。
「結局、事故になっちゃったんだよね…。そこまでは良かった。でも、その後、市井ちゃんは私を庇って死んじゃった…」
真希は唇を噛み締めながら苦悶の表情を浮かべた。
「なんで…?」
ひとみは真希を見て、静かに尋ねる。真希はじっとひとみの温度を感じた。
「本当に、突然だった…。一緒に街に出てさ、遊んでる時に、一緒に歩いてる時に車が来たんだ、あたしの後ろから。それからは覚えてないんだ。ただ気が付いたら目の前に血だらけの市井ちゃんがいて…。ほとんど即死だった…」
真希の瞳が切ない悲哀の感情に揺れる。
270 名前:9th.弱者たちの詩 投稿日:2005/01/21(金) 21:17
「それが…2年前の7月のこと。7月10日は市井ちゃんの命日」
あのカレンダーは市井と選んで買ったものだった。うさぎが坐っているデザインを市井が一目で気に入り、勧めてきたのだ。
そうして購入してからずっと手放せなかった。引っ越してもあのカレンダーだけはずっと取っておいたのだ。
何故か捲ることが出来ないカレンダーは7月のままで、真希の時間も2年前の7月からずっと止まっている。
「それからは、あたし、狂った。汚れて、汚れて、汚れまくった」
喉から絞った声は一変して淡白なものだった。しかし、すぐに感情が昂ぶってくる。
「あたしね、怖かったんだ…。市井ちゃんが死んで、なんか知らないけど、すっごく怖くて…。死ぬほど、怖くて…。ワケわかんない内に…人、殺してて…。自分でもわかんなくなって…怖くて…」
言葉は涙で堰き止まった。じっと唇を噛み締めた。
自分の狂気を誰よりも知っているのは真希自身だった。
心の奥底に根づいて膨張を続ける狂気は満足を覚えることはなかったのだ。真希はそのことを十分すぎるほど理解していた。
狂気はどこまでも果てしなく膨らんで、やがて歪に育っていく。
それを抑えられるほど、真希は強くはなかったのだ。
そして、自らの狂気を抑えられなかったせいで、ひとみは変わってしまった。
7月10日。
あの夜、真希が見たひとみの表情。
そこにあったのは確かに笑顔だった。しかし、アンバランスな笑顔だった。
まるで天使のように純粋なひとみの笑顔、ではなかった。
ずっと変わらないで、と願っていた。
自分は何を考えていたのだろう。
この笑顔さえ隣りにあれば、他に何もいらなかったのに――。
それなのに――。
そこにあった優しい微笑みを浮かべるひとみの目は真希が惹かれて愛した優しい光を灯していなかった。
そのかわりにただ黒い闇を映していた。ただどこまでも深く、夜の深淵のような暗黒だった。
それがひとみの微笑みとひどくアンバランスで切なかった。
こんな色をした目を称えるひとみの姿は見たことがなかった。
そして、真希はその瞳の色に見覚えがあった。その色は真希が鏡を前にした時に見た自分の瞳の色だった。
夜の深淵のようなこの暗黒を真希は鏡越しにずっと見てきた。
その色をひとみの目は称えていた。
271 名前:9th.弱者たちの詩 投稿日:2005/01/21(金) 21:17
「こんな汚れきったあたしが、よっすぃに触ったらダメだったのかなぁ…」
真希の言葉に露呈した心の中に燻っていた後悔。
その目からは透き通るほど透明な雫が零れていた。込み上げる嗚咽に必死に耐える。
「あたしは、よっすぃに会ったらダメだったのかなぁ…」
その姿を露呈した真希が抱えていた不安と闇。
怖いよ。嫌いにならないで。嫌いにならないで。
懇願が、哀願が頭の中に廻る。
「あたしを…嫌いにならないで…」
口を付いて漏れた呟き。
瞬間、ひとみの体温が真希の体を覆った。
「…嫌いになんて、ならないよ」
ひとみは真希の頭に手を添えてその髪を撫でてくれた。
「ごっちんを、嫌いになれるはずないじゃん」
諭すような口調で語るひとみの姿を真希は目を見開いて見つめる。ひとみは真希の頭を強く抱き寄せた。
「ずっと、ごっちんがなにかを抱えてたのは知ってた。だから、ずっと待ってた。ウチはね、こうなったこと、後悔してないんだ」
「よっすぃ…」
「ごっちんがそばにいるから、ウチは笑えるんだよ?」
真希はひとみの腕を涙で濡らしながらひとみの顔を見上げる。ひとみの瞳には漆黒の闇ではなく、真希が愛した、心から愛しく思った優しい明かりが灯っていた。
「よっすぃ…」
真希は呆然と呟く。ひとみは真希を抱き締めたまま微笑んだ。
「ごっちん、大丈夫だよ。ずっと笑ってる。ずっとそばにいる。ずっと一緒にいる。どこまでも、一緒に…」
その呟きは真希の闇を静かに溶かしていく。
真希とひとみは何もかもを忘却に任せてただ抱き締めあって、お互いを確認しあった。
もはや二人はもう離れることが出来ない、運命共同体だった。
二人は静かにキスをした。
重なる二人の影を月の明かりが柔らかく浮かび上がらせた。
272 名前:9th.弱者たちの詩 投稿日:2005/01/21(金) 21:18


その朝は明らかにいつもとは違った。
窓から射しこむ太陽の色、夜が明けた街の澄んだ空気、平和な朝の景色。
それ自体に変わりはない。しかし、その朝は確実にいつもとは違う朝だった。
新宿西署の刑事課は朝から慌しかった。
室内を往復する無数の人影はまさに騒然といった様相を呈している。
圭は書類が積もる机に頭を預けて浅い眠りに揺られていた。しばらく安倍は圭の様子を見つめていたが、ついに我慢できなくなって席を立った。そして、書類に向き合う寺岡の前に立った。
「やっぱり、まだ特定は早すぎます!あの二人が犯人だって決まったわけじゃないでしょう!?」
「特定は出来る。後藤真希のほうは写真を見せて確認も取っただろう。まず間違いはない。吉澤ひとみの方も学生証を見せて確認を取った。容姿や声の証言からも間違いはないはずだ」
寺岡は感情を露わにする安倍には目もくれず、机上の書類に目を落としたままだった。
安倍はぐっと口を噤んだ。
その安倍の表情は真っ赤に紅潮して感情の昂ぶりと悔しさを示していた。
昨夜、新宿西署に駆け込んできた男の証言はことごとく正しかった。少なくとも、捜査一課は疑いようのないものだと判断している。
男の証言通りに一丁目の公園に死体は転がっていたし、その状況の証言も細部まで正確だった。
その状況下で吐かれた犯人についての証言も本来なら疑いの余地はないはずだった。
しかし、安倍は納得することが出来なかった。納得したくなかった。
男が証言した二人の少女。
おそらく、男が証言したのが違う少女なら安倍は疑わなかっただろう。
安倍は犯人は二人の少女、一人が囮役、もう一人が実行犯と推理していた。男の証言ではそれも当たっていたのだ。疑い様はない。
しかし、捜査資料の後藤真希の写真を見せて、ひとみの部屋に残されていた朝娘高校の学生証を見せると、男は何の迷いもなくその二人だ、と頷いた。
皮肉なことにひとみを助けるための捜査で得た情報によって、二人に接点もあったこともわかった。
まさか、二つの捜査が繋がるだなんて思ってもみなかった。
そして二人が犯人であることは確定的である。
求めていた真実は知りたくない真実だった。
273 名前:9th.弱者たちの詩 投稿日:2005/01/21(金) 21:18
「いいか?これは殺人だ。連続殺人、しかも猟奇殺人だ。例え家族だろうと、犯人は犯人。殺人犯だということには変わりはない。吉澤は辛いだろうが、それも仕事だ」
諭すような口調で言うとまた書類に向いた。寺岡の言葉は正論だった。
何も言い返せずに安倍は寺岡に背を向けると自分の椅子に体を預けた。そして、隣りで睡眠に陥っている圭に視線を送る。その圭の安らかな寝顔は安倍を余計に切なくさせた。
圭は男の証言を受けて取り乱して、そのまま疲労に身を任せて眠りについたのだ。
そっと、圭の背中に毛布が掛けられた。安倍がその行動の主に目を向ける。
「吉澤さん、辛いですよね…」
紺野はそう呟いて圭に労わるような視線を送る。
「ああ…」
安倍は小さく頷く。
脳裏の後藤真希の顔が過ぎった。
ひとみと関わりのある人物、2年前の火事の被害者ではなく、殺人事件の容疑者と、状況は変わったものの、後藤真希の件は相変わらず調べていた。
紺野と資料室を訪れたものの新しい情報は得られなかった。後藤の両親のこと、市井紗耶香のこと、聞いていたことしかわからなかった。福田はどうやらあれからずっと有給休暇を取っているらしく、代わりの職員はもちろん何も知らなかった。
二人の間に訪れた沈黙をテレビの音が無粋に破った。二人は刑事課の隅に置かれたそのテレビ画面に目を向ける。
画面の中ではレポーターが新宿西署の前で興奮しながら実況している。つい先ほど、逃亡中の連続殺人犯として真希とひとみの素性が公表された。
二人の素性に報道陣は興奮しきりだった。もちろん、二人は16歳という年齢であるため名前や顔写真を公表することは出来ないが、その年齢が余計に報道陣の興奮を駆りたてたようだ。各局一様に二人の素性を必死に調べながら、色々な憶測を並べ立てていた。
ちなみに二人の年齢から指名手配は見送られることになった。代わりに各所轄署にだけ極秘で名前と顔写真が配布された。
274 名前:9th.弱者たちの詩 投稿日:2005/01/21(金) 21:20
「ちょっ、困ります!」
声が割りこんできた。その声は警備員の朝岡の声だった。
二人は声の主に目を向ける。刑事課のドアから姿を現したのは朝岡に抑えられているまた覚えのない男の姿だった。
二人はその姿に昨夜の光景と既視感を覚えた。
太いフレームの眼鏡を掛けているその男はチェックのシャツと紺色のスラックス、首からはカメラを提げていた。その身なりからその男が記者だということは容易に予想がついた。
男は刑事課の中に視線を廻らせると、朝岡を振り払って刑事課に侵入してきた。
安倍と紺野は慌てて記者の前に立ち塞ぐ。男は二人を見とめると、ポケットから名刺を取り出した。
「どうも、週刊ゴシップの作田と申します。あ、吉澤さんはいらっしゃいますか。話を聞きたいんですけど」
虫唾の走るようなだらしない笑い方と口調だった。安倍はぎろりと作田を睨んだ。
「吉澤になんのご用でしょう?」
「あ、いや、公表された連続殺人犯の一人が西署の刑事課の吉澤圭さんの妹だという情報を得まして…」
作田の言葉に安倍と紺野の表情が一変する。
もちろん、プレスにはひとみや真希の名前やらは公表されていないはずだ。
ただ最近ではインターネットなどですぐに情報が流れてしまうことは知っていた。しかし、これほど早く情報が回るとは思っていなかった。
「出て行ってくれませんか?ここは関係者以外立ち入り禁止ですので」
迫力を押し沈めた安倍の声だった。しかし、作田は動じない。
「いや、でもですね、あの殺人事件の犯人の姉がよりによって管轄の警察署の、しかも強行犯係の刑事だなんて、読者が食いつくネタなんですよね」
作田は気の抜けた愛想笑いを浮かべて軽い口調で答える。
その言葉とだらしなく緩ませた表情に安倍と紺野の中で嫌悪感が迸る。愛想笑いのつもりだろうが、神経を逆撫でする笑い方だった。
275 名前:9th.弱者たちの詩 投稿日:2005/01/21(金) 21:20
「ふざけないで!出て行ってください!」
紺野は踏み出して、吼える。しかし、紺野の叫びにも作田は怯む様子を見せない。
「いやいや、でもこのネタは今一番世間が注目してることなんですよね。なぜ刑事の妹が猟奇殺人を起こしたのか」
安倍と紺野だけではなく刑事課全員の刑事の鋭い視線が作田に突き刺さる。しかし、作田は報道記者特有の図太い神経でその視線を押し退ける。
「そうだ。同僚の人にも話を聞きたいですね」
その言葉でついに安倍と紺野は激昂を露わにした。
「だから!出て行ってください、すぐに!吉澤さんに会わせる訳には行きません!」
紺野が作田に憤慨に満ちた怒鳴りをぶつける。
「刑事の姉が妹の犯罪者をどう見るかなんて早々ないですよ。しかもそれが猟奇殺人とあらば尚更で…」
「っざけンな、このクソヤロー!」
鬼のような怒りの形相を表した安倍の怒号が言葉を遮った。作田は目の前の変貌に半ば呆然とする。
室内に余韻と沈黙と緊張が満ちる。
その沈黙を破ったものは圭の机から零れた物音だった。刑事課中の目が一斉に圭の机に視線を送る。
そこには落とした書類には目もくれずにただ表情を凍りつかせる圭の姿があった。
276 名前:9th.弱者たちの詩 投稿日:2005/01/21(金) 21:20
「圭ちゃん」
慌てて安倍が駆け寄っていく。その言葉を耳にして作田はその女性が吉澤圭であることを悟った。
「吉澤さんですよね?話を聞かせてください」
圭に駆け寄ろうとする作田の眼前に強面の刑事たちが立ちはだかった。しかし、作田は構わずに大柄な刑事たちに突進する。
「どうですか、今の気分は!妹さんの事件についてどう思いますか!」
その言葉を残して作田は刑事課から摘み出された。しかし、凶器のように鋭いその言葉は圭の心にどう響いたのか、安倍にも痛いほど分かった。
「大丈夫だから。気にしなくていいよ。大丈夫だから」
安倍は繰り返してそう呟くと自分の胸に圭の頭を抱き寄せた。胸の中で圭が安倍を見上げる。
「アタシ、刑事失格かな…。ひとみの、姉ちゃん失格なのかな…」
縋るように自分を見つめる圭に安倍は視線を合わせることすら出来ずただ強く抱き締めた。
そこに紺野が駆け寄ってきた。
「とりあえず、仮眠室で休まれたらどうですか?」
二人に声をかけて、仮眠室のドアを指差す。
「ああ、そだな。圭ちゃん?行こ?」
安倍が促すと、圭はやはり弱々しく首を頷かせた。ふらつく圭を支えながら仮眠室に入る。利用しているものがいなかったのは好都合だった。
一番奥のベッドに圭を運んで寝かせる。
「心配はいらないから。大丈夫だから、休みな」
布団を掛けて、優しく圭の髪を撫でる。圭は「ん…」と返して、目を瞑った。
年齢より幼く見える寝顔を見つめながら、安倍は居た堪れなくなった。
(一体、なんでこんなことに…)
唇を噛み締めるが、心の中では行き場のない感情は止まなかった。
安倍はそっと圭の手を握って、祈るような格好で額に圭の手を触れさせた。それが自分に出来る唯一のことのように思えた。

277 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/21(金) 21:21
 
278 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/21(金) 21:21
 
279 名前:chaken 投稿日:2005/01/21(金) 21:29
第9話「弱者たちの詩」終了です。

>261様。どうもです。さて、どうなるんでしょう…。お楽しみにしてください。
>262様。勿体ないお言葉、ありがとうございます。
>263様。ホントですか!?どうもです。これからもよろしくお願いします。
>264様。毎度です。泣きましたか!なんかあわあわって感じです。
280 名前:名無読者 投稿日:2005/01/21(金) 21:52
なんか涙でてきた
ごっちんってこういう役似合うよな〜
281 名前:名無しの読者 投稿日:2005/01/23(日) 01:28
何というか、上手い感想は書けないのですがとても引き込まれます。
皆か、救われるといいなあ。続きを大人しく待ってます、頑張ってくらさい
282 名前:wool 投稿日:2005/01/24(月) 18:57
更新お疲れ様です。
よしこの優しさがじんわりと伝わってくる様で、ごちんはきっと救われるなぁと思いました。
切ないながらも、二人の中での確かな何かを掴めたように思えました。感動です。
283 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:17


空には限りない青空が一面に広がっていた。
その突き抜けるような大空は清々しいほどだった。
そして、風が心地良かった。快晴の中に心地良く涼しい初夏の風が吹き抜けている。
まったく人影のない駅。ずれ落ちそうな駅のプレートには朝比奈駅、と記されていた。
「じゃ、行こう」
「うん」
真希は頷いた。
荒廃的な雰囲気を漂わせるその駅に二人は同時に降りたった。無人のホームのコンクリートを踏みしめる。一晩ぶり、久々の地面だった。
夏の朝の風が物寂しく吹き抜けて、二人を刺した。
人の気配すら感じられない構内を見まわす。
やはり駅員も不在で、自動改札口も見当たらない。無人駅、というやつらしい。
東京ではまず有り得ない。田舎ではこんな駅も残っているのだ、と真希は物珍しそうに辺りを見まわした。
「すごおい…」
「なんか、映画で出てきそうな感じ?」
ひとみが言うと、真希はうんうん、と嬉しそうに頷く。
この場所を選んだのには特別な理由はなかった。ただあの時間から夜行列車が出ていて、なおかつ席の予約が取れる、という条件で藤本に探してもらったところ、この場所に絞られたのだ。
日本海に面する小さな港町。
いい場所だ。
真希は唇を噛んだ。ひとみは優しく真希の肩を抱いてくれた。
284 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:17
「ウチはね、ずっとごっちんのそばで笑ってるからさ」
「うん…」
二人は手を繋いでゆっくりと歩き出す。
改札で切符を捨てて駅を出ると、見渡す限りの青い田園が広がっていた。
その田んぼには深緑の穂が隙間なく実っている。
その脇にずっと畦道が通っている。駅から続く畦道は一直線だった。
東京でずっと育ってきた真希にとっては少し憧れてもいた、のどかな風景だった。
真希とひとみはしばし足を止めてその風景に見惚れた。
「田舎だねぇ…」
真希はのんびりと浸るように呟いた。
「でも、空気、美味しいよ」
ひとみがすう、と空気を目いっぱい吸いこんでみせた。
真希は嬉しそうに目を細めて頷く。
真希はひとみの手を握り直した。ひとみは真希に振り向くと柔らかく笑った。
「この町って海も近いらしいね。あとで行ってみようか、海」
真希はひとみと視線を合わせる。
そして、二人は同時に微笑みを浮かべる。
青々しい田園を縫う畦道を手を繋いだまま静かに歩み始めた。その小さな二つの背中の後方には顔を出したばかりの太陽に照らされて長く影が伸びていた。
285 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:17


新宿の隅に佇む古めかしいアパート。
荒廃的な気だるい雰囲気を漂わすその建物の壁は黒ずんで、添えつけられている階段は赤錆びていた。
二階建ての横長のアパートの前に圭と安倍はじっと立ち尽くしていた。
「鍵は貰ってあるから、行こっか」
安倍がじっとアパートを見つめながら言った。
ああ、と圭はゆっくりと頷きを返すと建物に向かって歩を進める。安倍はその横に並んで共に歩いていった。
二人の足が鉄階段を踏むたびに軋む。赤錆びが靴に纏わりついて擦れる音を立てる。
二人は階段側からもっとも手前の部屋の前で止まった。
そして、白いドアに記されているプレートを確認する。
「後藤真希…間違いないね」
安倍の言葉に圭はしっかりとその首を頷かせる。
安倍の携帯電話にメールが入ったのは今から30分前のことだった。そのメールには簡潔にこの住所と後藤真希の名前だけが書かれていた。
差出人は見覚えのないアドレスで、調べたところ、使い捨て携帯から発信されたものだということがわかった。
使い捨て携帯とは、機種変更などで捨てられた携帯電話を8000円ほどの値段で露店などで売っているもののことだ。
もちろん掛け放題で使えるが、数ヶ月の期限つきである。それを過ぎると自動的に使えなくなるのだ。
そのため足はつかない。
「しっかし、本当にないの?心当たり」
圭が訝しそうに安倍を振りかえった。安倍は首を振った。
「ない、かなぁ…」
安倍に覚えはあった。
安倍が後藤真希に関する捜査をしていたことを知っていて、なおかつ安倍のメールアドレスを知っている者。
『drunk』で会った少女。ミキ、という少女だ。
圭にそれを知らせなかったのは、圭が先走るのは目に見えているし、自分一人で捜査したほうが動き易いからだった。
286 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:18
ここを調べ終わったら、『drunk』を訪れるつもりだった。店が閉まっていようと関係ない。店のオーナーを引っ張ってでも、ミキという少女の居場所を吐かせるつもりだ。
圭が木戸に手を掛けてそのドアを押し開けた。狭い玄関口には靴類が錯乱している。
圭と安倍は靴を脱ぎ捨てて部屋に足を踏み入れる。
二人は居間に侵入すると同時にその足を止めた。
家具は冷蔵庫と箪笥、洋服掛けのみだった。そのいずれも隅に寄せられていて居間にはただ空虚に広い空間が広がっていた。
「なんか…寂しい部屋だね…」
圭はじっと部屋を見つめながら呟いた。その言葉には憐憫の情が含まれているように思われた。
安倍は閉口して奥に続くドアを開く。圭もその後に続いた。
寝室は空虚な居間とは対照的に乱雑に散らかされていた。
狭い空間に無粋に置かれているベッドには布団が無造作に踊っていて、唯一生活感を感じさせる。
二人は顔を見合わせる。
「ここだけ、なんか、残ってるね。後藤真希の痕跡…」
圭の呟きに安倍は再び布団に目を向ける。
まるで今まで誰かがそこで眠っていたように無造作に膨らむ布団。
安倍はふと視線を巡らせてベッドの脇に置かれている棚に目を留めた。
「ん?」
安倍はその棚に近づいてその上に置かれている袋を手に取る。
手の平に収まる位の大きさ。密封されているそのビニール袋の中には赤いカプセルが二錠収められているのが見えた。
「改造ドラッグだ。しかも最近かなり出回ってる奴」
安倍がビニール袋を覗き込みながら叫ぶ。
「間違いなさそうだね」
圭は背後からその袋を取り上げて、中を覗きながら小さく頷いた。
287 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:18
「麻薬までやってたのか…。いくら中毒性がないっていっても、違法になるよね、改造ドラッグは…。麻薬捜査班にも知らせなきゃ…」
圭は口調に悔いを滲ませてそう吐き出した。安倍は神妙に頷いた。
次々と明らかになる後藤真希の人物像。
矢口や小川や石川の顔がなつみの思考の中で浮き沈みしていた。
圭は再び視線を泳がせて床板に転がる無数のビニール袋の残骸を認めた。圭はその内の一つを摘み上げた。
「後藤…。あいつは、何を考えてたんだろ…。どんなに苦しかったんだろ…」
無機質な居間。麻薬に塗れた寝室。圭は苦しそうに辺りを見回した。
「圭ちゃん…」
安倍はそっと圭の肩に手を添えた。その口調は労わるような響きを持っていた。
圭は眺めていたビニール袋を床に捨てると、ドアを開いて寝室を出る。
「ここには証拠残ってないね。帰ろ」
圭はその呟きを残して玄関に足を向ける。安倍は静かに頷くと後に続いた。靴を履きながら、圭はもう一度部屋の中に視線を巡らす。
「圭ちゃん」
優しく促す安倍の声に圭はああ、と返事をして部屋を出た。
安倍が盗み見た圭の表情はひたすら痛ましいものだった。
288 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:19


波は静かに揺れていた。
細波に揺る水面に橙色の陽が映る。波打ち際に広がる白い砂浜。観光誌にも載っていないその浜辺は人工的な物の影は無く白い輝きを放っている。
海辺に小さな建物があった。茶一色に纏められた外壁。奥長のその建物の脇には、宿、と記されていた。
二人はその建物の入り口の前で佇んでいた。真希がひとみの手を確認するように握り直した。
「ここでいいよね。海も目の前だから、いっぱい遊べるね」
弾んだ口調でそう言うと真希は頬を緩めてひとみの顔を覗き込む。ひとみは包容力に溢れた微笑を返して頷いた。
二人は障子が貼られたドアを横に開いた。
内装は木製の作りが目立って少し古めかしかった。
玄関口で足を止める二人に受付から着物に身を固めた女性が近寄ってくる。
「いらっしゃいませ。宿屋「朝処」へ。当旅館の女将の石黒彩と申します」
石黒彩はその長い金髪を揺らして頭を下げた。
二人は慌てて深くお辞儀を返す。
石黒は顔を上げて二人を認めると微笑みを漏らした。
「お二人様ですか。お荷物をどうぞ」
石黒はそう言うと真希が提げている鞄に手を伸ばす。真希は慌ててその鞄を自分の胸に抱えこんだ。
「大丈夫です!軽いですから」
石黒は一瞬面食らったような表情を浮かべると、すぐに微笑みでその表情を掻き消した。
そして、手で旅館内を仰ぐ。
「ではどうぞ。あ、靴はここでスリッパに替えてくだされば。それより、お部屋はどうなさいますか」
真希とひとみは顔を見合わせると、同時に石黒に向き直る。
「あの、お任せでいいです」
ひとみの言葉に石黒は頷いて快諾を示した。
石黒に名前と住所の明記を求められた。住所は任意なので記さなかった。
偽名は使用しなかった。本名だけを書いて渡すと石黒は微笑んで会釈した。
289 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:19
ひとみと真希は靴を脱いでスリッパに履き替えて石黒の後に付いて行く。
玄関のある本館から中庭を遮って別館に続く渡り廊下を歩く。
ひとみと真希は手を繋いだまま中庭の景色を見渡していた。
地面には青々しい芝生が広がり、所々に綺麗に刈り込まれて整えられた樹木が庭に調和している。そして石に囲まれた池のは綺麗な柄の錦鯉が泳ぎ回っている。その脇には鹿威しが規則的に美しい音を立てている。さらに同間隔に置かれている石灯籠が日本庭園の感を強調させる。
「仲が良いのね」
石黒がしっかりと手を握り合ったまま庭園に見惚れる二人に声を掛ける。
二人は穏やかな笑みを浮かべる石黒を見て、繋ぎ合っている互いの手を見ると、慌てて手を離して顔を俯かせる。
石黒は思わず笑みを漏らした。
「いいのよ、離さなくても。仲が良いのは良いことなんだから」
石黒の言葉に二人は顔を見合わせると再び手を繋ぎ合う。その初々しい様子に石黒から再度、微笑みが零れる。
石黒の足が止まった。
別館の隅に位置する部屋。
障子の前には、松籟の間、と記されていた。
石黒は静かにその障子を横に押し開き、二人に中を示した。
二人は部屋の中に一歩踏みこんでその光景に目を奪われた。
部屋の側面いっぱいに開く窓には白い浜辺から地平線の果てまでの海の全貌が一望できた。
陽光に揺れて輝く水面。諸所に眩い輝きを放つ白い浜辺。果てのない壮大さを感じさせる地平線。
石黒はその景色に見惚れる二人を優しく見つめる。
「この部屋はとっておきなの。普段ならお客さんに泊まらせないんだけど、何でかな、あなた達には泊まらせたくなったの」
二人は窓から目を離して石黒に視線を向ける。石黒は窓外に目を向ける。遠い目、のような気がした。
290 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:19
「海が綺麗でしょう?海水浴用として整備されてるわけじゃないから穴場なのよ。夏だけどあんまりお客も来ないし。あなたたちも行って遊んできたら?」
穏やかに勧める石黒に二人は頷いた。石黒は少しまた笑った。
「実はうちってあんまり儲かってないのよ。だから今泊まってるお客さんはあなたたちだけなの。だからお風呂はいつでも良いからね」
苦笑交じりにそう漏らす石黒にひとみと真希は釣られて笑みを零す。
「私たち家族は別館に泊まってるから、なにかあったら、下に下りてきてね。中居さんとかもいないのよ。ご飯は下に下りて来てくれたら持っていくから。お布団もね。あ、お風呂もこの下にあるからね。露店風呂だからゆっくりしてね」
二人が頷くのを確認すると石黒は静かに部屋から退いた。二人は畳に荷物を落とすと部屋を見渡す。
畳の敷き詰められた部屋は二人には少し広すぎるように思える。
部屋の中央には四角い卓袱台が置かれていた。窓の前には座椅子が二席置かれていた。
部屋を包する土壁は温かみを持っていて、側面には押し入れが添えられている。
二人は静かに窓へと歩を進める。
肩を寄せて窓外の絶景を見つめる。
「綺麗だね…」
真希がそっと呟きを落とす。ひとみは頷くと真希の肩に手を回した。真希は頭をひとみの肩に凭れさせる。
「彩さん、良い人だね。優しい人だね」
真希の呟きにひとみは静かな頷きを返す。
二人は都合良く二席置かれていた座椅子にそれぞれ腰を下ろす。
「これからどうする?まだお風呂って言う時間じゃないし…。そうだ。海行く?海行こうよ」
真希は体を捻らせてひとみの顔を覗き込む。ひとみは目を細ませて頷くと、勢い良くその腰を上げる。
「よし、行こ、海。あ、水着どうしよ。借りれるかな。彩さんに聞こうか」
ひとみの言葉に真希は嬉しそうに笑む。ひとみは手を差し伸べて真希を立ち上がらせる。
291 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:20
部屋を出て、木製の安定した階段を降りたところで着物で廊下を通る石黒と遭遇した。
「彩さん、水着って借りれますかね」
ひとみが尋ねた。石黒は二人の姿を認めて微笑みを浮かべた。まるで微笑が表情に刻みこまれているような自然な微笑みだ。
「いいよ。あるから。おいで」
そう言うと石黒は廊下を引き返して湯、の文字が印された暖簾をくぐる。二人は後に続いた。
石黒は女性更衣室に入るとその部屋の奥の棚から水着が重ねられた袋を取り出した。
「ここから選んでね」
ひとみは石黒から差し出されたその袋を受け取ると中を覗き込み物色を開始する。
そして一つを選び出し、広げて見せる。赤一色に統一されたその水着を見て納得したように頷くと、真希に振り向く。
「ほら、これ。ごっちんに似合うと思うな」
ひとみはそう言うと水着を真希の服の上から押し当てる。その赤は真希の整った体の線に似合っていた。真希は恥ずかしそうにはにかんだ。
「えー。でも派手じゃないかなぁ」
その口調はどこか嬉しそうな含みを持っていた。
ひとみは目を細めて真希に微笑みを送る。
石黒は仲睦まじい二人の様子を頬を緩めて見守っていた。
真希が袋をひとみから受け取ると中を覗き込んだ。そしてその内の一つを選んでひとみに差し出す。
「じゃ、よっすぃはこれだよ」
真希が差し出した水着は白い地に星柄の降ってある水着だった。ひとみはその水着を受け取ってじっと観察する。
「うーん…まぁ、似合うかな…」
ひとみの言葉に真希は自信ありげに何度も頷く。二人はそれぞれお互いに物影に隠れて着替えた。
ひとみは着替え終えると、こっそりと真希の着替えているロッカーの区画に近寄った。
292 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:21
「おうい、着替えたあ?」
真希は下だけ着替えていて、上は全裸だった。自分の体を抱き締めるようにしながら、震えていた。
「ごっちん?」
ひとみは慌てて走り寄って真希を覗きこんだ。真希はじっと俯いていた。
「どうしたの?」
「…肩のとこ」
真希はぽつりと言った。
「肩?」
ひとみは一旦体を離して真希の肩口を見た。
真希のそこはたばこの跡でまだら模様のようになっていた。肩だけではなく、手首にはリストカットの跡が痛々しく刻まれている。
よく見れば、真希の体はもう傷だらけだった。
ずっとこの身体で生きてきたのだ。今更、そう思うと、愛しさが募る。
堪えきれずに、ひとみは背後からそっとその体を抱き締めた。ぎゅっと傷だらけの体を強く抱く。
「…ありがと」
漏れた真希のその言葉は心の深くに届いた気がした。
「じゃ、行こっか」
二人は水着に着替えてその上に服を着込むと、互いに手を繋いで石黒に振り向いた。
「行ってきまーす」
石黒は二人に柔らかい微笑みを返した。
その仕草を確認した二人は足取りを弾ませて歩き出した。
旅館を出ると、二人は眼前に広がる壮大に海に駆け出していく。
砂浜に靴を脱ぎ捨てて、満面の笑みを浮かべて砂浜を駆ける。足裏を撫でる浜の砂の感触が擽ったくて心地良かった。潮の香りが二人の鼻腔を優しく満たす。
二人は波打ち際でその足を止めて顔を見合わせる。
そして同時ににこりと微笑みあう。
足元に冷たい水が届き、陽射しの火照りを冷ましていく。
293 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:21
「脱ごっか」
真希はそう声を上げると、服を脱ぎ始める。
「おおー」
ひとみの半袖の上着に手を掛けて脱いでいく。脱いだ衣服は海と逆方向の浜に投げた。
二人は水着を着用したまま向かい合う。ひとみが水着を着たまま恥ずかしそうに俯く真希に見惚れる。
「ごっちん、可愛い」
ひとみの言葉に真希ははにかんでみせる。その仕草にさらに愛しさを募らせる。
「入ろうよ、海」
はぐらすように真希の言葉に頷いて、一緒に海へと駆け出した。膝下まで海水に浸かる。ひとみが手で水を掬って真希に降り掛ける。
「きゃっ」
甲高い声を上げて、体を隠すように竦ませる。
ひとみは悪戯な笑みを浮かべてその様子を見つめている。真希は恨みがましくひとみを甘く睨むと、水を掬ってひとみに掛け返した。
「わぁっ」
ひとみは反射的に声を上げると体を退かせる。そこから二人は水の掛け合いは始まった。二人の顔には眩いばかりの笑みが浮かんでいた。
水辺で戯れる少女は平和の象徴のようだった。
ひとみは真希の方へ水中を潜って進んでいく。そして真希の背後まで泳ぎ着くと真希を背後から抱きすくめた。
「ひゃあっ」
真希は声を上げて体を竦める。そして自分を抱き締める手の正体に気付くと振り向いてひとみを睨む。
「もー、よっすぃ。びっくりしたじゃん」
鼻先で自分を怒る。頬を膨らませる真希にひとみは悪戯っぽく笑った。その微笑みに釣られるように真希に微笑みが込み上げてくる。二人は顔を合わせて一緒に笑んだ。
「大好きいっ」
ふとなんだか、叫んだ。
真希は一瞬呆気にとられたような表情を見せ、そして回されたひとみの手に自分の手を絡ませた。
「ありがとうね」
真希が呟く。
「ん?」
ひとみは柔らかく訊き返した。
「ありがと…」
ひとみは目を細めて抱き締める腕に力を込めた。二人は振り向き様に視線を絡ませて、静かに唇を合わせた。
海中で抱き締め合う二人に夏の陽光が降り注いで、眩く照らした。
「ウチも、幸せだよ?」
ひとみは笑みながら言うと、片目を瞑って見せた。真希は満面の笑みを咲かせていた。
294 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:21
陽が沈み始めて、西日が橙に海と二人を浮かび上がらせる。水面に揺れる小波と共に橙が反射されて輝く。もう赤い夕日は地平線に落ち始めていた。空に浮かぶ雲も橙に染められて棚引いている。二人は互いに肩を寄せ合ったまま白い浜辺に腰を沈めて、赤く美しい日没の景色を見つめていた。
「きれいだね…」
真希が静かに呟きを落とした。
「ん、すげえ、綺麗…」
ひとみは赤い落日に目を細めて頷いた。そして穏やかに、
「そろそろ、戻ろっか。体冷えちゃうしね」
と、促した。
ひとみは真希が首を頷かせたことを確認して腰を持ち上げて立ち上がると、真希に手を差し出して真希を持ち上げる。
そしてその手を握り合ったまま二人は浜辺を後にした。
衣服と靴を拾って濡れた体のまま旅館に足を踏み入れる。二人の姿を見て石黒が駆け寄ってきた。
「はい、濡れてるから、拭いてね」
包容的な口調でそう言うと、大きなタオルを二つ差し出した。二人は礼を述べてそのタオルで濡れた体を拭き取る。石黒は二人を微笑ましく見つめていた。
「お風呂に行ってらっしゃい。ゆっくり体を温めてね」
母性溢れる微笑みに二人は笑み返して頷いた。
二人は水着を着たままタオルを巻いて別館の露店風呂に向かった。
別館の一階には風呂以外に二つの部屋がある。二人は一階を直進して突き当たりの、湯、と書かれた暖簾を潜った。
独特の熱気が漂ってくる。暖簾の奥には広い空間が広がっていて、椅子や扇風機、体重計などが置かれている。二人はその空間を遮ってさらに奥へと進む。先ほど水着を取り出した更衣室だ。
295 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:22
二人は棚に手に持っていた衣服を預けて、互いに背を向けて水着を脱ぐ。先に脱ぎ終えて棚に水着を置くひとみの目に真希の裸体が映る。真希は慌ててタオルで裸体を覆うと、ひとみに非難の視線を送る。
「やっぱり、よっすぃ、えっちだ」
真希の言葉にひとみは企ての表情を浮かべた。
「そんなにウチに見られるの、いや?」
わざと言葉尻を落として、弱々しく言ってやる。真希は困惑の表情を浮かべて、
「いや、じゃないけど…。いいけどぉ…」
困惑の中に同意を示す真希。ひとみは表情に輝きを宿して、
「良いって言ったね?言ったよね?」
その言葉で真希はひとみの謀略の正体に気付いた。真希は笑みを浮かべるひとみを睨み付ける。
「いいじゃん。どうせお風呂の時は脱ぐんだし。そっちの方が気持ちいいよ。私も脱ぐから」
ひとみは笑みながら言葉を加えた。真希は渋々了承した。
ひとみはすぐに隠すものを取って裸を真希の眼前に晒した。その行為に恥じらいの様子は見られず至って平然だった。真希はそのタオルを取った。
「よろしい」
恥ずかしそうな真希ににひひ、とひとみは笑った。
そして真希の手を握って奥に続く扉を開いた。木に覆われた空間。
屋根と手摺以外は開放されている。その開放された視界から見える景色は先程まで二人で戯れていた海の景色だった。日は完全に沈んでいて、辺りは薄暗くなり始めていた。闇が少しずつ迫っている夜空には月が薄く浮かんでいた。
二人は揃って足を止める。ひとみが夜空を見つめながら、
「いいねえ…開放感があって…」
と、呟いた。真希は頷いた。
突然、二人の周囲を灯りが囲んだ。その温かみのある灯りは手摺に二つ、天井に一つ灯っている。その綺麗で温もりのある照明に二人は顔を見合わせて微笑む。二人は檜の香り漂う浴槽に足を入れる。熱い感覚が足先に走る。二人は湯気を立てる湯船にその体を沈めた。体の芯から暖気が伝わり安堵を覚える。
「ふー…」
二人は同時に息を吐いた。
ひとみは湯船の水面に映る自分の体を見つめていた。透明な湯に浸かる自分の体が水面で揺れる様子が少し面白かった。湯船に浸かるなど珍しくもないのに、新鮮に思えた。
296 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:23
「おーい、ごっちん。こっちおいで」
ひとみは真希に声を掛けると手招きを繰り返す。真希は体を湯船に沈めたままひとみの元へと辿り着いた。
「どうしたの?」
真希は疑問を含ませてひとみに問い掛ける。
ひとみは答えずに微笑みを浮かべると、自分の膝を指し示した。真希はその意図を測ると嬉しげに笑んでひとみの膝に自分の腰を預けた。ひとみはそっと真希の裸体に手を回した。素肌が擦れ合って互いに安堵感を覚える。ひとみは真希の腹に固定した手を遊ばせながら、
「ほら、裸のほうが良いでしょ?一緒になれるって感じがして」
ひとみの呟きに真希は更衣室でのやり取りの意図を悟ったようだった。真希はしっかりとその首を頷かせた。
二人の表情には温かな笑みが滲んでいた。二人は湯船から日没から夜への移行の様子を見つめていた。
二人が十分に景色を満喫して湯船から出る頃には夜空に幾つかの星が輝きを放っていた。
二人は体に纏わり付く水分を拭き取って、下着を身に付ける。そして棚に置かれてある浴衣に袖を通した。二人は浴衣の帯を締め終えると、脱いだ水着と衣服を袋に包む。そして手を繋いで更衣室を出た。
更衣室を出て椅子などが置かれてある空間を遮る最中に、
「あ、プリクラだ」
真希が弾んだ声を上げた。
真希が指で示す空間の隅にはゲームセンターなどで見るものと変わらないプリクラ機が置かれてあった。
「へぇ、プリクラなんかあるんだ」
ひとみがその機器を見つめながら感心した声色で声を上げる。こんな田舎の旅館でもプリクラ機などあるものなのか。
真希がひとみの浴衣の袖を引っ張る。ひとみは真希と視線を合わせて真希の行動の意味を察すると笑んで真希の手を引っ張ってその機器に近づいていく。
暗幕を潜ると、財布から小銭を取り出して投入口に100円玉を二つ投入する。ひとみは画面に示される指示に従って操作を進めていく。そのまま止まって、の機械的な声が掛かった。
二人は互いに緩ませた頬を寄せ合わせて思いきり微笑む。何度も取り重ねられる内に二人は様々に表情や格好を変えた。
ひとみが真希を抱き締めている姿や二人が口付けている格好など、その格好はどれも二人の仲睦まじさを示している。
そして一様に二人の表情には満面の笑みが浮かんでいた。
297 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:23
二人は取り終えた小さな写真を見つめながら表情を輝かせて廊下を歩いた。
見事に取れている。互いの間抜けな表情についてからかったり、笑ったりしながら進んでいく。
「なんでッ」
廊下の途中のある部屋の障子戸の前で、二人の耳にくぐもった声が届いた。二人は足を止めて、顔を見合わせると、部屋の中で起こる声に耳を傾けた。
「何であの部屋に人を泊めたのっ」
聞き覚えのない声が怒鳴りを放つ。そのあどけなさを残した声から推測するとひとみと真希より少し年齢は下のようだ。
「だって、なんか感じの良い子たちだったし…なんとなくあの部屋から見える景色を見せてあげたくなって…」
弱々しい石黒の声が返す。そこでようやくひとみは自分たちのことだと気付いた。真希を見ると、少し不安げに眉を下げていた。
「なんでそんなことが言えるのっ」
石黒の言葉の終わりを待たずにすかさず声は語気を荒げて反論を返す。
「何でそんなことが言えるのっ。だって、あの部屋は…っ」
そこで突然停止する声。しばらくの沈黙を経て声はもどかしそうに、もういい、と怒鳴ると障子を開く。
障子戸から姿を現した少女と戸の前に立ち尽くすひとみと真希の視線が合わさった。
少女は腰までの長い美しい黒髪を持っていた。制服を纏ってその片手には学生鞄が下げられている。目が大きくあどけなさが残るものの端整な顔立ちをしていた。
少女はその大きな瞳で二人を睨み付けるとすぐに目を逸らして二人の横を通り抜けて行った。
ひとみは開いた障子戸から中を窺った。
少女の後ろ姿を追っていた石黒の視線が二人と合った。
298 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:24
「…見られちゃったね。入って…」
石黒は自嘲的な笑みを浮かべて気まずそうに佇む二人に声を掛ける。二人は顔を見合わせて頷くと、部屋の中に足を踏み入れた。
内装は二人の部屋と全く変わらない。唯一違う物は窓から見える景色のみだった。石黒は二人に炬燵を促す。二人は石黒と向き合って畳に座り込んだ。
「あの部屋はね、死んだ主人の部屋なの。ごめんね、そんな部屋で」
石黒が重い口を開いた。ひとみと真希は首を何度も横に振って否定を表す。
石黒はその様子を確認して溜息を漏らした。安堵したようだった。
「交通事故だった。あ、あの子はね、私の子。愛っていうの。主人に懐いててね、主人が死んでから反抗期っていうのかな。私に反抗するようになって…。もともとは素直な子なんだけど…。私、どうしようもなくて…」
苦しげにそう漏らす石黒を二人は傷ましそうに見つめる。その瞳には悲しみの色が滲んでいて、少し涙が浮かんでいた。二人の視線に気付いた石黒は疲労の貼り付いた表情を笑みで覆い隠し取り繕った。
「あ、服、洗っとくから出しておいてね。ご飯はこれからでいいかな」
二人は頷くと手に持っていた水着と衣服を詰めた袋を差し出す。
「どうも、失礼します…」
二人は礼を残して部屋を後にする。障子戸を閉める時に振り返って目に留めた石黒の表情はやはり沈んでいた。
299 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:24


部屋の側面に一杯に広がる硝子窓。
そこから西日が差しこんで夕暮れを知らせる。橙に照らされる刑事課内には幾つかの人影が浮かび上がる。圭は自分の椅子に腰を沈めて物思いに耽る。
ふと圭の肩に冷たい感触が走った。
「ひゃっ」
圭は驚いて一瞬体を跳ねさせると慌てて背後を振り向く。そこには缶コーヒーを片手に微笑む安倍の姿があった。安倍は圭にその缶コーヒーを差し出すと隣りの自席に腰を下ろした。
「アイスコーヒー。好きでしょ?」
安倍はそう言ってもう片方の手に持っていた同じ銘柄の缶コーヒーを指し示す。
「さんきゅ」
圭は礼を言ってそれを受け取った。
安倍は缶を開けて口を付ける。圭も安倍から渡された缶の口を開けて一気に煽る。冷たい液体が乾いた喉を潤していく。
「圭ちゃん…キツいんじゃない?なんなら休んでも…」
安倍が缶を机に置いて圭に労わるような視線を投げかけてくる。圭は首を振って遮った。
安倍や紺野、他の同僚たちの心配は圭も十分に承知していた。しかし、圭は休む訳にはいかなかった。
「たった二人の姉妹なんだ。今休んでいつ働けっていうのさ」
圭が言うと、安倍は顔を伏せた。真希とひとみの消息についての捜査の進展は全くと言っていいほどなかった。捜査員は二人の現在地はおろか、足取りさえ掴めずにいた。
しかし状況だけを見ても、容疑という言葉は形式上だけで二人の犯行は決定的だった。
圭が飲み終えた缶コーヒーを机脇のごみ箱に放り込む。
300 名前:10th.少女の孤独と憂鬱 投稿日:2005/01/28(金) 18:24
「後藤真希ってどんなヤツだろ…」
独り言のようにひっそりと呟く。安倍は顔を上げて圭を見つめてきた。圭は思考に身を任せていた。
圭の真希への疑問は日増しに募るばかりだった。自分の妹を殺人劇へと巻き込んで、そのまま共に逃亡を図る。
圭は真希の部屋で麻薬を発見した時にふと考えが過ぎった。
ひとみと真希は互いを好き合っているのかもしれない。
真希の部屋で発見された麻薬は主に性行為中の興奮を高めるために用いられているものだ。
ひとみが真希の部屋に入り浸っている、ひとみが頻繁に真希の家を出入りしていたという証言も得ている。
男性の影すらもなかったかつてのひとみの人柄を考えれば俄かに信じ難いが、他の考えようが見つからない。
ならば、何故そのひとみを巻き込んで殺人を犯したのか。
被害者の男たちを調べても真希との接点は欠片も炙り出せなかった。
そのことと猟奇的な手口を考え合わせて浮かび上がる線は愉快犯という人物像。殺人自体に魅力を見出している、あるいは殺人という行為に依存している。
後者の場合は前者と異なって殺人に魅力などを感じていない可能性もある。ただ、依存的に苦しみながら殺人を犯しているという可能性だ。
そしてその場合、真希には動機がある。真希の抱えていた「闇」だ。
母親を失い、父親に虐げられ、その父親を殺して、さらにその後に一番大切な人物を失っている。
心に闇と狂気を作り出すには十分な理由が真希にはある。
その狂気が真希を操り、殺人に駆りたてていたとしたらこれ程、悲しく虚しく遣る瀬ないことはない。
歪んだ邪悪な思想を持つことは罪だ。しかし、正常な思想を歪められたとしたらそれは罪に値するのであろうか。
圭は息を吐き出して思想を打ち切った。永遠に膨らみ続けそうな仮定の論議。確証がなければそれは想像でしかないのだ。
そして脳内の映写機に映し出す。ひとみの笑顔と捜査資料に移る無表情な真希の表情。
やはり圭にはこの二つの映像がどうしても繋がりようのない点だとしか思えなかった。

301 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 18:25
 
302 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 18:25
 
303 名前:chaken 投稿日:2005/01/28(金) 18:29
第10話「少女の孤独の憂鬱」終了です。

>280様。そうですねー、ハマリ役ですね。
>281様。レスどうもです。頑張りますので。
>282様。毎度ー。感動してくれましたか。自分はそのことに感動です。
304 名前:wool 投稿日:2005/01/28(金) 19:20
更新お疲れ様です。
無邪気な二人が可愛すぎて、でもほんの少し切なくなりました。…可愛いなぁ、本当に。
今後の展開に二人がどう関わっていくのか、も気になるところですね。
305 名前:11th.接近 投稿日:2005/02/07(月) 16:10


小波に揺れる海面には煌煌と満月が灯っている。
夏の夜空には月に戯れるように幾つも星が昇っていて、それが水面に宝石のように輝いて映される。
美しい夜の情景を前に二人は座椅子に座ったまま手を繋ぎ合っていた。
真希はひとみの肩に頭を預けて、ひとみは真希の頭を優しく撫でている。二人の後ろには夕食の後、彩が敷いていった二組の布団が横たわっていた。
「愛ちゃんのこと、気になるな…」
ひとみに凭れかかったまま、真希が呟いた。
「うーん、彩さんも辛そうだったし…」
ひとみは指先を流れる真希の髪を弄びながら答える。
二人の脳裏に一階の石黒の部屋での出来事が思い起こされる。
意思の強そうな、愛の大きな瞳と事情を苦しげに吐き出す石黒の表情がどうしても心の隅に引っ掛かってしまう。
ひとみは射し込む月光に目を細める。
「なんとかしてあげたいね」
真希は静かに頷く。
「ホント。愛ちゃんとも話してみたいなぁ」
二人の脳内に石黒の部屋の前で自分たちを鋭く睨んだ愛の大きな瞳が思い出される。
「そだね」
ひとみは真希の頭に手を置くと優しく撫で回した。真希は「ん」と、頷いた。
306 名前:11th.接近 投稿日:2005/02/07(月) 16:10


新宿の街は日付も変わり深夜を迎える。
その中心部に要塞のように構える建物。新宿西署のほとんどの窓には灯が点いていて、人の気配を演出している。
入り口から通じる通路の中途にある刑事課、その室内には深夜にも関わらず沢山の人影が残っていた。
普段は夜勤の署員が2、3人残っているだけの刑事課に人が残っている理由は捜査のためという単純かつ絶対的なものだった。ちょうど2週間前頃からこの光景は珍しくなくなった。
西署の管轄で起きた16歳の少女、二人による3件の連続殺人事件に呼応してのことだ。
新宿西署の刑事たちは寝る間も惜しんで二人の少女の行方を追っていた。
圭は一段落の資料整理を終えて隣りの安倍に目を向ける。安倍は目を擦りながら書類に目を通していた。圭は大きく息を吐くと思いきり背を反らせた。
突然圭の机でけたたましく電話が音を立てた。圭は漸くの休憩を遮られて不機嫌になりながらもその電話を取った。
「はい、西署、刑事課です」
口から出る言葉はやはり不機嫌なものと化していた。しかし、その電話の内容を聞き進めていくうちに圭の表情は驚愕に変わる。
「はい、はいっ、はいっ…ちょっと待って下さいね」
圭は興奮を隠せぬ口調でそう言うと、机上のペンを取って、書類の隅に文字を書き込んでいく。隣りで安倍は圭の様子を訝しそうに見守っている。
「みんなっ。情報が入ったっ」
圭は受話器を叩き付けると、室内にその声を響かせた。
深夜の惰性の雰囲気は一変して鋭く変化する。自分の机に寄ってくる刑事たちに圭は書類の隅に書き写した電話の情報を簡潔に伝える。
「石川県から。七塚市の朝比奈村の街中で二人と思しき人物が手を繋いで歩いてたって。海に面してるけどとんでもない田舎で滅多に観光客も来ないところらしい」
307 名前:11th.接近 投稿日:2005/02/07(月) 16:10
「見たのは誰?」
圭の説明に安倍が質問をぶつける。
「駐在所の警官」
圭は書類の隅の情報に目を落としながら答える。
「結構、信憑性は高いと思うよ」
圭がとんとんと指で書類の隅の朝比奈村、の文字を叩いた。安倍は唸りながら曖昧に頷く。16歳のひとみと真希の顔写真は現在の法律では公開できないことになっている。だから、交番などだけに二人の情報は公開されているのだ。
「あのっ」
そこで圭の情報に聞き入っていた紺野が声を上げた。
「私が行きます。明日の朝一番で。本当かどうか確認でき次第、電話入れますから行かせてください」
紺野は圭の机の周りに出来る人だかりの後方で黙ったまま立っている寺岡に視線を向ける。刑事たちの目は一斉に寺岡を向いた。
「いいだろ。捜査本部には確認してからでも遅くないだろう。ガセの可能性が大きいからな」
寺岡の言葉に紺野は決意を秘めた目で頷く。
「あ、そうだ」
そこで寺岡が思い出したように付け加える。
「一人で行かせるわけにはいかない。誰かもう一人」
基本的に刑事の捜査は、混乱や動揺を避けて、かつ最も行動が取りやすい二人組と決まっている。このような情報の確認であっても不測の事態を避けるため、単独行動は出来ないのだ。
人垣の中で安倍が手を上げた。
「私が行きます」
特に異論を覚えなかった寺岡は頷いて了承を与えた。
「あ、アタシ…」
そこで圭が声を上げた。安倍は振り向いて、手で圭を制した。
「すぐ連絡入れる。圭ちゃんは他の情報、ね」
安倍の強い視線に気圧されて、圭は渋々といった風に頷いた。
この電話を受けて圭は何か予感めいたものを感じ取っていた。
この情報が真実であるという確信めいたもの。
もちろん、あくまで直感の問題であって、可能性としては低いのかもしれない。しかし、その予感は確実に圭の心に根付いていた。
308 名前:11th.接近 投稿日:2005/02/07(月) 16:11


夢を見ていた。
闇に塗りこめられた空間。一筋の光すら拒絶しているその空間では距離感も掴むことが出来ず、真希は宛もなくさまよっていた。
真希は裸だった。
眠る前に着ていたはずの浴衣はおろか下着すら身に着けていない。さらに足は裸足で、地面からひんやりとした冷気が直に伝わってくる。
時間の感覚も失っていた。一体いつからこの空間にいるのか、見当もつかない。
真希は闇の中を走り回る。
「よっすぃーっ?」
不安だけが真希の心を支配していた。布団を繋げて手を繋いで一緒に眠ったはずのひとみがいない。
ひとみの温もりが欲しい。
「よっすぃーっ」
真希は懇願するようにひとみの名前を呼ぶ。
「どこ?どこにいるの?」
その言葉は余韻だけを残して虚しく闇に吸い込まれる。
真希の瞳から不意に雫が零れ落ちた。それが涙だと認識する前に先に嗚咽が込み上げる。
「よっ、すぃ…ど、こぉ…?」
真希は足を止めてしゃがみこんだ。
『お前のような犯罪者が幸せになれるはずがない』
頭の中で声が響いた。冷たい響きを有した声だった。
「そんなことっ…っ…ないもんっ…っ…」
しゃくりあげながら言葉を返す。
309 名前:11th.接近 投稿日:2005/02/07(月) 16:11
『お前は吉澤ひとみを操って、3人殺した。その前にもお前には前科があった』
闇の中から声が響いている。真希は俯いたまま嗚咽を漏らし続けていた。
『市井紗耶香を操り、父親まで殺した。さらにその市井紗耶香まで殺した』
「市井ちゃんはっ、殺したんじゃないもんっ。市井ちゃんが死んじゃったのは、事故だもんっ」
真希は気を張って叫んだ。
『市井紗耶香はお前が殺したんだ。お前の周りの人間は不幸になっていく。母親は死に、父親は酒に溺れた末に死んで、恩人は事故で死んで、さらに今、お前の近くにいる吉澤ひとみはもう普通の生活には戻れない。お前のせいだ』
声は冷酷で嘲るような口調だった。
『オマエノセイダ』
声は静かな調子で真希を追い詰めていく。
真希はしゃがみ込んだまま、天を仰ぐ。勿論そこにあるのは、広い空ではなく、深い闇だった。
「…わかって、るよ…。それでもっ、一緒に…いたいんだよ…っ。人を殺したのは…私が、弱いせいだっただけで…よっすぃには、関係ない…。死んだら罰を受けるのは、私だけにして、下さいっ…。どんな、酷い罰でも受けますから…今だけ、一緒に…居させて…」
真希の哀願は闇に吸いこまれた。
そして次の瞬間、
「ごっちん」
温かい、真希の捜し求めていた声が真希の耳に届いた。
真希は無我夢中で何度も首を振り回してひとみを捜す。
一瞬、真希の脳裏にひとみの微笑みがよぎって、闇の中に一筋の光が射し込んだ。
真希は立ち上がると、吸い込まれるようにその光に向かってゆっくりと歩き始めた。
310 名前:11th.接近 投稿日:2005/02/07(月) 16:11


薄いカーテンの隙間から朝日が柔らかに入り込んできて、朝の訪れを告げる。
雀の奏でる音色が爽やかに部屋に流れ込んで来る。その雀の鳴き声で真希はまどろみから覚醒する。
時計の短針は6を回ったところだった。体に残る眠気に目を細めながら隣りの布団に居たはずのひとみの姿がないことに気付いた。
急に不安が沸き起こり、慌てて辺りを見回してひとみの姿を捜す。
「よっすぃ…?」
真希が掠れた声で不安げに呟くと、
「ん?」
捜していた愛しい声が返ってきた。
「ごっちん。起きた?」
部屋の中央の卓袱台に正座していたひとみが柔らかく笑み掛けてくる。
真希は安堵に破顔して体を起こしてひとみの座っている卓袱台に駆け寄った。
「なんかね、夢見てたの」
真希はひとみの隣りに座ると、静かに呟きを落とした。
「夢?」
ひとみは鸚鵡返しに言葉を返す。
真希は頷いて、
「全然覚えてないんだけどね。哀しくて、寂しくて、ちょっとだけ温かかった」
真希の口から語られたのはおぼろげな夢の断片だった。すでに真希の頭には夢の映像は残っておらず、覚えているのは夢の大まかな輪郭のみだった。
「そっか…」
ひとみはそれだけを返すと、真希の頭を撫でる。今では癖のようになってしまったひとみの愛情表現。真希はいつものように柔らかく嬉しそうに目を細める。
311 名前:11th.接近 投稿日:2005/02/07(月) 16:12
「何、書いてるの?」
そう言って真希は卓袱台に広げられている一通の便箋に目を向ける。20行ほどの便箋はまだ半分しか埋まっていなかった。小さな文字で黒一色で描かれている文章。
ひとみは少し考えてから、
「ん…ちょっと圭ちゃんに、ね…。心配しないようにって」
真希はひとみの曖昧な声色が自分を気遣ってのものだとすぐに悟った。
自分にはそんな手紙を書く相手すらいない。そのことを理解しているからこそひとみは、早朝、自分が眠っている内に手紙を認めていたのだ。そのひとみの優しさが真希には少し眩しく、それでも心地良かった。
「あたしも裕ちゃんに書いてみようかな…」
不意に口を付いて出た呟き。自分でもこの名前が出て来たことが不思議だった。
中澤裕子。真希が一時期留まっていたアパートの隣人兼管理人。中澤のどこか不器用だが優しい人柄もあって真希は比較的長くそのアパートに留まっていた。
ふと思い出される中澤の顔に懐かしさが沸いてくる。
「便箋、あるよ。書いてみなよ」
ひとみの言葉に促されて真希はひとみと向き合うように正座して便箋に向かい文章を組み立て始めた。
朝の静寂の中、無言で進む二人の筆。心地良い沈黙の中、書き上げた二人の文章はどちらも決して上手いとは言えないものだったが二人は満足だった。
終焉の時が近づいてくるのを二人は敏感に感じ取っていた。
そして二人とも互いにそのことを感じ取っているだろうと確信しながらも互いにそのことは口にしなかった。
この旅館での時間は最後の思い出。この宿の戸を潜った時から二人にとってそれは暗黙の了解だった。
312 名前:11th.接近 投稿日:2005/02/07(月) 16:12
「二人ともー、朝よ。起きなさい」
石黒の声が響いて部屋の障子戸が開かれる。石黒は既に起床して正座で卓袱台に向かう二人を意外そうに見つめると、すぐに柔らかく笑んだ。
「早く下りて来なさいね。朝ご飯、出来てるから」
そう言い残して石黒は戸を閉める。
「はーい」
二人は便箋を仕舞ってから一階の食堂に降りた。
そこは全てが木で出来ている洒落た高級料亭のような作りになっていて、テーブルはなくカウンターに十戸ほどの席があった。
二人はほぼ中央の席に並んで座った。
「ねぇ、彩さーん。なんでこの旅館、流行らないのかな」
真希はこの旅館に来てからずっと気になっていた事を問い掛けた。
「こんなに立派な食堂もあって、露店風呂も綺麗なお庭もあって、海も近くなのに」
無粋ともいえる質問の内容だが、真希は厭わなかった。あまり気にし過ぎると、それが却って嫌味ぽく響いて、気を使わせてしまうからだ。
「そうねえ…」
石黒は二人に背中を向けて食事の支度をしながら優しい声色で答える。
「旅館の作りは昔から変わってないのよ。昔は老舗の高級旅館だったんだけど、今はただの古株旅館。ここはあんまり観光客も来ないし、年々人口も減っていってるしね。十分良い設備だと思うんだけどねぇ」
苦笑混じりに石黒はそう言う。二人は同時に納得の表情を浮かべて、そうなんですか、と相槌を返した。
石黒の作る和風の朝食は絶品と言うに相応しかった。
「美味しいっ」
一口、みそ汁を口にした真希から思わず声が漏れた。石黒はその言葉に頬を緩めてくれた。
二人の箸はどんどん進み、瞬く間に皿の中を綺麗に空にした。
「ごちそうさまでしたぁ」
二人で声を合わせて手を合わせる。石黒は、お粗末さまでした、と返すと、笑みを浮かべて二人の膳を下げた。
313 名前:11th.接近 投稿日:2005/02/07(月) 16:12
「今日はどうするの?」
食器を洗いながら、石黒が何気なく尋ねてくる。二人は顔を見合わせて唸って見せる。
「うーん…その辺、ぶらぶらして遊んできます」
ひとみの言葉に石黒は苦笑いを浮かべた。
「あんまり良い場所無いわよ、遊ぶのに」
「えー…」
真希が素直に残念そうな表情を見せた。石黒はその表情を見て困ったように微笑んだ。
「ごめんなさいね、田舎だから。でも一箇所だけ、良い場所があるのよ」
真希は途端に表情を輝かせて期待の視線を送る。
石黒はメモを取り出して、すす、と筆を走らせた。
「はい、どうぞ。いい場所よ」
「彩さん、ありがとー」
石黒が書いたメモを受けとって二人は部屋に戻った。
卓袱台には便箋を仕舞った封筒が2枚置かれてあった。二人はこの宿の住所と互いの宛先を記名する。その途中でひとみが、
「あ、そうだっ」
と、突然声を上げた。
そして、ひとみは自分の鞄の中を探り出す。真希は不思議に思ってひとみの行動を見守った。やがて目当ての物を見つけたのか、自慢げにそれを真希に指し示した。
「プリクラ?」
真希の問い掛けにひとみは笑みを浮かべて頷く。ひとみの手に持っているものは昨日取って鞄に仕舞っておいたあのプリクラだった。
暫くそれを見つめてその意図を理解した真希はひとみに視線を合わせる。ひとみは満面の笑みを浮かべたまま頷く。それにつられて真希の表情にも明るさが灯る。二人はプリクラをそれぞれの便箋の入っている封筒に入れた。プリクラは封筒の底に収まった。
「これでオッケーだね」
真希の言葉にひとみは自然と漏れる笑みを隠さずに頷いた。二人は洗面、着替えなどの支度を終えると鞄とそれぞれ封筒をもって石黒に声を掛けて宿を出た。
314 名前:11th.接近 投稿日:2005/02/07(月) 16:13
通勤、通学時間を過ぎているからか、昨日と同じで町の人影は疎らだった。
二人は人の気配の無い道を手を繋いで進んでいく。舗装されてはいるものの古く綻び始めている道が二人にはどうしてか心地良かった。
ふと真希の視界に道路の脇に立っている赤が映った。二人は少し小走りになりながらその郵便ポストに近寄っていく。
辿り着くと二人は封筒を取り出して郵便配達用の投げ込み口に封筒を丁寧に落とした。
二人は顔を見合わせる。
「入れちゃったね」
「そだね」
交される短い会話。
これで自分たちがするべきことは終わってしまった。その事実が清々しくもあり、どこか不安でもあった。
真希はその不安を押し隠すようにひとみの手を握った。ひとみは黙って握り返してくれる。
不思議なことにひとみの手の温もりを感じ取るだけで、心の中の不安が嘘のように引いていった。
真希は強くひとみの手を握ると歩き始めた。
315 名前:11th.接近 投稿日:2005/02/07(月) 16:13


無機質な高層の建物郡からのどかで田舎的な田園風景へと、車窓の景色はどんどんと移り変わっていく。
目的の町が近づくに連れて車両の乗客も段々と減っていった。すでに数えるほどしか乗客の姿がなくなった車内で二人は席に並んで座っていた。
紺野は朝食に買ったおにぎりを頬張っている。窓際に陣取った安倍は何をするでもなく虚ろに窓の外を見つめていた。
安倍の案ずるところは紺野にも十分過ぎるほどわかっていた。この先の街にひとみと真希が居るのか、否か。
居れば、そのまま署に連絡を入れて二人を逃がさないように見張って待機だ。居なければ捜査は振り出しに戻る。
しかし、もしかするとその方が楽なのかもしれない。
ひとみと真希が見つかれば、追わなければならないのだ。
場合によっては対峙することさえ有り得る。解くに安倍などはひとみと面識もあり、可愛がっていた大事な妹分なのだ。
しかしそれでも、と紺野は慌てて思い直す。
圭が二人を捜査している。かけがえのない二人きりの家族を相応の覚悟を持って追っている。
その状況下で自分が捜査に手を抜くなんてもってのほかだ。
大体、他に欠片さえも証拠がないのだ。
『drunk』で会ったミキという少女もすでに姿を消していた。他にも有力と思える情報は皆無だ。
紺野は隣りの安倍に視線を移す。
「安倍さん…」
「…ん?」
安倍がその声に少し遅れて反応して答える。
「どした?気持ち悪いの?酔った?」
紺野は真剣な眼差しで首を振る。
316 名前:11th.接近 投稿日:2005/02/07(月) 16:13
安倍の強さが羨ましかった。
安倍も圭の為に、ひとみの為に捜査を行っていることを紺野は今更ながらに再認識した。
「絶対、見つけ出しましょうね」
決意の漲った声色だった。安倍は一気に表情を引き締めて頷いた。新幹線はそれからほどなくして目的の駅に到着した。
二人は新幹線を降りると2時間ぶりの外気を味わう暇もなく、電車に乗り換える。
二人が降りた場所は石川駅である。
目的の朝比奈村に行くには、これから電車を利用して七塚市内に入り、さらに2回電車を乗り換えて朝比奈村を目指さなければならない。
電車内はそれなりに込んではいたが2人分の席は空いていた。二人はその席に座ると測ったように発車のベルが鳴り響いた。「安倍さん」
電車が発車してしばらく経って紺野が安倍に声を掛けた。
「証言って交番からでしょう?」
確認するような紺野の口調に安倍は頷いた。
「うん、でも一回見かけただけで、どこに居るかとかはわかってないみたい。今、七塚市の所轄署が動いてるらしいけど」
「ふぅん…」
紺野が納得の相槌を返して、
「県警はまだ動いてないんですかね」
と、呟いた。
安倍は呆れたように笑みを浮かべて、顔の前で手を横に振り否定の意を示した。
「こんな小さい情報で県警まで動かないっしょ。所轄署も一応捜査してるけど、適当にって感じらしいし。ま、そりゃその村に居るってことになったら、慌てて捜査し始めると思うけどね。所轄も県警も警視庁も」
皮肉っぽい安倍の口調。紺野は閉口した
317 名前:11th.接近 投稿日:2005/02/07(月) 16:14
この情報に関しては捜査本部は動いていない。真偽を確認してから初めて動き出すのだ。
現段階ではこの情報の有無すら捜査本部は知らない。もともと同じ署内で捜査をしているにも関わらず、捜査本部と西署の刑事課は全く独立した捜査組織として活動していた。
さらに未成年者の捜査とあって捜査本部の秘密主義にも拍車が掛かり、今では捜査本部から刑事課へ情報は全くと言っていいほど下りて来ない。
「あ、今日一日はこっちで泊まっていくからね」
安倍がふと漏らした。紺野はその首を頷けた。
時刻はもう正午を回っているにも関わらず未だ七塚市内にも到着していない。交通に費やす時間と捜査の時間を合わせ考えれば当然の選択だった。
ふと会話に間が空いた。浮かんでくるのは弱りきった圭の姿だった。
圭と出会ってから、紺野はまだ間もない。
それまでは盗犯係と強行犯係と仕事が違ったので、あまり接点はなかったが、紺野の印象にある圭はいつも飄々としているが、事件に関しては真剣な姿勢を崩さない、というものだった。
実際に接してみて、圭の事件に関する真剣さというのは後藤真希の捜査でも如実に現れていた。可能性があれば徹底的に調べる。
しかし、今回に関しては圭の家族が関わっている。
家族を相手に捜査する気持ちは紺野には想像も及ばないが、圭の疲弊は近くにいて、痛いほど伝わってくる。
だからこそ、救いたかった。
なんとしても二人を見つけなければならない。
それが圭のためであり、何より二人のためでもある。
ひとみと真希のことはよく知らない。
二人がどのように知り合って、どのような関係になって、何故、殺人という禁忌を侵さなくてはならなかったのか。
それよりとにかく、二人を捕まえることが先決だと思った。
捕まえなければ何かが起こりそうな、そんな黒い予感が胸に過ぎるのだ。
「絶対に、捕まえなくちゃ…」
紺野は決意を新たにして、両頬を軽く叩いた。

318 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/07(月) 16:14
 
319 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/07(月) 16:14
 
320 名前:chaken 投稿日:2005/02/07(月) 16:17
第11話「接近」終了です。

304様。いつもありがとうございます。これから関わっていく…かもしれないです。
321 名前:翡翠 投稿日:2005/02/07(月) 16:51
更新お疲れ様です。
更新されたのさっきですね。
出来るなら、よっすぃ〜とごっちんにはこのまま捕まらないで
幸せになってほしい・・・けど、そうだったらそうだったで・・・。
微妙な心境です(苦笑)続きドキドキしながら待ってます。
322 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/08(火) 00:34
胸が痛いとしか言いようがない。
それぞれの行く末をしっかり見据えさせてもらいます。
願わくば、二人に幸あらんことを。
323 名前:wool 投稿日:2005/02/09(水) 17:19
更新お疲れ様です。
少しずつ進んでいく展開に、楽しみも切なさも感じてしまうこのお話は、本当に素晴らしい作品だなぁと再確認しております。
頑張って下さい!!
324 名前:12th.heaven's color 投稿日:2005/02/11(金) 11:26


絶景というより他無かった。
波に抉り取られたような崖の突端。
そこから幾重にも重なって漂う雲にぽっかりと浮かぶ光が見て取れる。その光は存在を華々しく主張するように輝いている。波の打ち寄せる崖の足元から視線を脇に辿らせると、白い砂浜が扇状に広がっていく。
昨日、二人で泳いだ浜が見えた。
海全体を見渡す。セロリアンブルー、インディゴブルー、スカイブルー、ディープブルー、色々な青が交じり合って、形容しがたいほどの美しい色が生まれている。
海と空の境目の地平線は雄大と佇んでいた。それだけが空と海を分ける境だった。
辺りには草が敷き詰められて、映画に出てくるような整った草原だった。吸い込まれそうなほどに壮大な草原だ。
この景色になら吸いこまれてもいい。
崖の先端に立っているひとみはそんなことを思いながらその景色に目を奪われていた。隣りでは同様に真希も景色に目を見張っていた。
石黒に書き留めてもらったこの場所は確かに絶景だった。
石黒はメモにこの場所を記しながらこの場所は秘密だと添えていた。地元の人間のみが知っている絶景の場所らしい。
確かに辺りに人の気配は全くといっていいほどない。石黒の言葉通り、ここは観光場所にはなっていないようだ。
二人は松籟の間に通してくれたことと併せてその秘密の場所を教えてもらったことが嬉しかった。石黒の優しさが嬉しかった。久しぶりに人の温かさに触れた気がする。
しかし、それはもう引き返せないひとみにとっては幻影でしかなかった。その証拠に崖に立ち尽くすひとみの瞳には感慨と呼ぶべきそれが宿っていた。
325 名前:12th.heaven's 投稿日:2005/02/11(金) 11:26
「いい場所…」
ひとみは最初に沈黙を裂いた。重い余韻を引いて響く。
「ん…本当に…」
真希は小さく頷いて、
「何で、こんなにキレイなんだろう…」
「何で…」
ひとみは真希に言葉をなぞった。
「きっと、もう、戻れない場所にいるから…。だから、線を越えたから…こんなキレイなとこに来れたんだ…」
真希は言ってから、儚く、そして美しく微笑した。ひとみは何も答えられなかった。
二人の影は身動ぎすらしないままじっと伸びている。二人は食い入るように青い景色を見つめた。
その瞼に今のこの美しい光景を焼き付けるようにじっと凝視して、どこまでも続いていくようなその青を追った。
326 名前:12th.heaven's color 投稿日:2005/02/11(金) 11:27


狭い構内には全くひと気がない。
陽射しの強さと退廃的な雰囲気が対照的だ。脇にある改札の窓口にも気配がなく、改札口とは名ばかりの開放された出入り口があった。
その駅は終点の駅で、二人が降りた時にはもう他の乗客は居なかった。
改札口の傍に設置されている箱に切符を捨てて、二人はその地をしっかりと踏み締めた。
事前に調べた情報では朝比奈村は深刻な過疎ということだったが、無人駅を見るとそれが予想よりも深刻なものであることが窺えた。
駅から続く長い畦道は先が見えない。両隣りの田園には大分間を隔ててちらほらと人影が点在しているものの、民家すら認めることが出来ない。
安倍は軽く体を伸ばして道の向こうを見つめた。
「うっわ…全然、見えないや…」
額に手を当てて即席の庇を作って、苦笑いを浮かべる。
「ここに、いるでしょうか…?」
紺野はボストンバックを持ち直して、不安げに尋ねる。先ほどから紺野は不安と緊張を表情に滲ませていた。
安倍は強張った紺野の表情を見やり、一瞬目を細めると、柔らかく笑んだ。
「それは、まだわからない。でも、居たら捕まえる。それが私たちの仕事なの。じゃなきゃここまで来た意味がない。ま、当たり前のことだけどね」
安倍は紺野に近付き、軽く頭を撫でてやった。紺野の表情から少し緊張が引いたように思えた。
「行くよ」
安倍は紺野に背を向けて、畦道を睨みながら声を上げた。重く鋭い言葉に紺野は表情を引き締めて頷いた。
327 名前:12th.heaven's color 投稿日:2005/02/11(金) 11:27


ちょうど太陽が二人の真上を照らしている頃だった。
水面を照らす角度が違うと景色はまるで違った。まるで海に宝石が散りばめられているように水面が太陽に反射して輝きを放っている。うねる波がきらきらと輝いている。
青と草原の緑は対照的なコントラストを放って、鮮やかに視界を染めている。
時間の感覚は飛んでいた。ただ二人で居ることに意義が有り、それにしか意義はなかった。
手を繋いでいると、それをさらに実感できるような気がして、二人は強く互いの手を握っていた。
「なに、やってるんですか?」
そこで芯の通った訝しげな声が佇んでいる二人を呼んだ。
「ん?」
真希がいち早く反応して振り返った。ひとみも続いて振り返った。
そこには見覚えのある人物が表情を歪めていた。
宿の廊下で一度すれ違っただけでも、印象に強く焼きついている意思の強そうな瞳。
愛は学生服に身を包み、鞄を提げたまま立っていた。草原を背景としている彼女はやけに映えていて、ひとみの目には映画の一場面を切り取ったように映った。しかしすぐに我に返り、目を見開いた。
「あ、愛ちゃん?」
慌てた応答に愛はさっと眉根をしかめた。
「愛ちゃんなんて、気安く呼ばないで下さい。どうしてあなたたちがこの場所を知ってるんですか」
愛は二人に交互に睨むような視線をぶつけてくる。ひとみはたじろいだが、真希はその視線を優しく受け流して笑みを浮かべた。
「いやー、彩さんに教えてもらったんだけど、いいよねぇ。こんな場所あるんだねぇ」
人懐こい笑みに愛は少し戸惑いを示した。しかし、それよりも愛はその言葉の内容に引っ掛かったようだ。
「お母さんが…?何で…あーもうっ」
愛は苛立ちを隠しきれずに首を振った。
「愛ちゃんこそどうしたの?」
そこでひとみが口を挟んだ。
「学校じゃないの?」
「…サボりました」
愛は呼び名を訂正するのも面倒になってきたようだ。少しひとみを睨みつけて答えた。
愛の真面目な外見とは裏腹な言葉に、ひとみは目を丸くして、真希はころころと丸い笑い声を立てた。
328 名前:12th.heaven's color 投稿日:2005/02/11(金) 11:28
「ここは、あなたの大切な場所なの?」
真希は少し目を細めて尋ねた。
愛は驚きに俄かに目を見開いた。真希は全てを見透かしたような目で愛を見つめる。
「…ええ」
愛はその瞳を見つめ返しながら、ぽつりと呟いた。
「大切な場所です」
その言葉には沢山の大切なものが込められているように思えた。
「まだ…」
愛は目の前の景色に目をやりながら、その重い口を開いた。
「まだお父さんが生きてた頃、よく連れて来てくれたんです、この場所」
真希は一度頷いて、沈黙を保って先を促した。ひとみもその脇で愛を見つめていた。愛は深く息を吐いた。
「私、お父さんが好きでした。だから、死んだことがすごく辛いです。でも…お母さん、そんなに辛そうでない…。お母さん、お父さんが死んだこと、苦しくないんかな…辛くないんかなって…」
ひとみはふと愛と鉢合わせした後の石黒の表情を思い出した。
石黒は確かに苦しんでいて、涙すら滲んでいた。石黒が夫の死を悼んでいないとは思えなかった。
それはあくまで憶測に過ぎないことでもあったが、なんとなく確信を捉えているような気がした。
「だから、お母さんに当たっちゃうんだ?」
真希が補足するように訪ねた。優しく諭すような語調だった。
真希の言葉は常に心を溶かすような優しさを持っている。それこそが本来の真希の姿だとひとみは思っている。
「…はい」
愛は小さく頷いた。その目には少し弱々しくも見えた。真希は目線を景色に移した。
「お母さんはさ、悲しんでるよ。お父さんが亡くなったこと。家族が死んで悲しまない人なんか、いないよ」
その言葉はしっかりと安定した説得力を持って響いた。
感慨に耽る真希が何を思い出していたのか、ひとみには手に取るようにわかった。
329 名前:12th.heaven's color 投稿日:2005/02/11(金) 11:28
母親を事故で亡くして、酒浸りになった真希の父親。
しかし、母親の死に悲しみを受けていたのは父親だけではなかったはずだ。真希も同じように落ちこんでいたはずである。
しかし、父親の壊れていく姿を強制的に見せ付けられて、自分まで壊れるわけにはいかないという現実を思い知らされたのだ。
どちらかが壊れれば、どちらかが支えなければ、やっていけなかったのだろう。
しかしその役目は14歳の真希には重すぎたのだ。
もちろん、それは真希から聞いた話に過ぎない。
しかし、ひとみには真希の人生の痛みがまるで自分の痛みのようにちくちくと心を刺した。
「ちゃんと支え合うんだよ?あなたは壊れないでね」
真希は穏やかにそれだけ言うと、背を向けて緑の絨毯に仰向けに体を預けた。
愛は訝しそうに真希を見やると、ひとみに視線を移してきた。
ひとみは真希に背を向けて、細波の立つ海に目をやった。
綺麗に輝く海は硝子細工のようだった。
「ごっちんはね」
愛が隣りに並ぶのを確認すると、ひとみは口を開いた。
「両親を亡くしてるんだ…とっても悲しい事故でね」
ひとみは冷静というよりは穏やかに言った。愛は追求してこなかった。
「ウチも交通事故で、ね。ウチは姉と二人で残されたけどごっちんはずっと一人だった。お節介じゃないよ。鬱陶しく思うかもしれないけど…」
ひとみは愛に向き直り、笑って見せた。愛は俯いていた。
「ま、推測だけど、愛ちゃんには見せられないんだよ、弱気になってるとこなんか。だから愛ちゃんは彩さんが立てるまで支えてあげればいいんだよ。ウチもそうしてきた」
愛は幾つもの感情を交ぜ合わせた表情を称えていた。ひとみは軽く微笑んだ。脳裏に浮かんでいたのは二人きりでやってきた圭の顔だった。
「家族ってのはただ傍にいるだけで、支えになれるから」
その言葉には励ますでもなく慰めるでもなく、ただ教え諭すような優しさが含まれていた。
愛は虚を衝かれたように顔を上げた。
ひとみはまたにこっと微笑んでやった。
330 名前:12th.heaven's color 投稿日:2005/02/11(金) 11:29
「愛ちゃんには戻る場所がある。大切な人を失うのはとても悲しいよ?でも、それを分け合える人がいるなら…ね?」
もし、自分が真希の苦しさを分け合える、大切な人になれていたら。ふとそんなことを考えた。
もしも、そうだとしたら自分と真希はどんな人生を送っていたのだろう。
「ちゃんと幸せにならなきゃね」
ひとみはぽんと愛の頭を撫でた。
331 名前:12th.heaven's color 投稿日:2005/02/11(金) 11:29


鮮やかな青を映す水面。真っ白い宝石が埋まっているかのように輝く砂浜。地平線が隔てるだけの、海と空。
比べようもないほど、空気も景色も澄んで見えるような気がした。
横目にそんな景色を映しながら海沿いの遊歩道を二人は歩いていた。地図で朝比奈村の地理を確認したところ、駐在所は村に一件だけだった。新宿西署に情報を寄せた例の駐在所だ。
人が少ないせいか、街は静かで、やたら広く感じられた。
「しかし、すごいところですね…」
額の汗をハンカチで拭いながら紺野が漏らした。
「でも…」
安倍は駅前の自販機で買ったペットボトルの緑茶を一口含んで答えた。
「逃亡先にはいい場所かもね」
紺野が俄かに驚いて安倍を見返す。安倍の表情には普段の柔らかさは微塵もなかった。まるで刃物のように鋭かった。
しばらく海沿いを歩くと、こじんまりとした二階建ての建物が目に入った。
外壁の白はどこか薄汚れていて、安っぽいガラス戸の横には簾が立て掛けてある。太陽を一心に浴びているその建物は懐かしく見えた。
ガラス戸を横に開くと、冷房の風が二人を出迎えた。
「すいませーん」
安倍の声に返事はなかった。紺野が部屋を見回す。
中は狭い間取りで扉側に戸を挟むようにして机が二つ置かれてある。さらに奥に続く戸の向こう側には畳の部屋が見て取れる。
「すいませーんっ」
安倍が胸を逸らして声を張り上げる。
普段の二倍の声量の声が室内に響く。きんと耳奥が痺れて、紺野は反射的に両手で耳を抑えた。
奥の部屋で物音が鳴った。安倍が奥へ続く戸を開けた。
そこには制服を着込んだ中年の男が大きな棚と向かい合っていた。
人の良さそうなその男は安倍に見止めると軽く頭を下げた。
「どうも。ここの駐在の宗形です」
「え、あ。どうも」
一瞬、間を置いて、安倍は慌てて頭を下げる。
「新宿西署から来ました安倍です」
その声に反応した紺野は遅れて部屋に入り、自己紹介を添えて頭を下げた。
宗形は丸い顔をさらに丸くして笑うと、二人に上がるように勧めた。
恐縮しながら畳の部屋へと踏みこむ。
332 名前:12th.heaven's color 投稿日:2005/02/11(金) 11:30
それほど冷房は効いていないが、汗をかくような暑さでもない。
畳部屋は広い間取りだ。中央に木の机が置いてあり、部屋の隅には座布団が積み上げられている。宗形が向かい合っていた棚は戸に背を向けるように1つ立っていた。
宗形は部屋の隅に置いてある流し台に向かう。
「あ、お構いなく」
紺野はその後ろ姿に慌てて声を掛ける。
宗形は首を振って、三人分の茶を用意して膳に載せて中央の机を置いた。
そして、座布団を2つ机の片側に置き、宗形はその向かいに敷いてあった座布団に腰を下ろした。
安倍は座るなり、茶には目もくれずに宗形に話を促した。紺野も表情を張って宗形の話を待った。
「海で遊んでる女の子を二人見たんだよ」
宗形は茶を一口啜って口を開いた。
「見かけない顔だったから不思議には思ったんだがね…。こんな辺鄙な所には滅多に観光客は来ないし、村人の顔は覚えているし」
宗形は鼻の頭を指で掻きながら話す。安倍と紺野は真剣な面差しで話に聞き入っていた。
「そのまま駐在所に帰って、あの紙を見て驚いたよ。そっくりだった」
紺野の体が強張る。話だけでも信憑性は高く思えた。
安倍は凛と目尻を上げたまま続きを促す。宗形の表情も段々と真剣味を帯びてきた。
「慌てて戻ったんだが、もう既に居なくてね…」
安倍が頷いて、上着の胸ポケットから手帳を取り出して広げた。紺野もそのなつみの行動に習って手帳を取り出す。
「この村には宿は幾つくらいあるんですか?」
安倍の質問に宗形は少し唸って腰を上げた。そしてそのまま部屋の棚を探り始めた。やがて一つの分厚いファイルを取り出した。
333 名前:12th.heaven's 投稿日:2005/02/11(金) 11:31
「この辺も昔は観光地だったから、その名残で宿や民宿の類は結構あるんだ。もっとも、最近は寂れてきてなくなっていってるんだがね…」
宗形はあるページを指で留めて、机上に広げて見せた。
そこには四ページほどに渡って宿の名前とその連絡先が明記してあった。その大半は赤いペンで消されてある。
「残ってあるのが今も営業している宿だ。調べてみようかと思ったんだが、村人に不安も与えたくはなかったんだよ。小さいこの村では噂も早いし、何よりあの少女二人が何をしたのかということも考えると、ね…」
宗形は少し顔を俯かせた。どうやら真希とひとみの起こした事件はこの田舎の村にまで相当な衝撃を与えているようだ、と紺野は推測した。
「ええ、村の皆さんには黙っておいてください。それとこの資料は借ります。よろしいですか?」
安倍は毅然とした態度で言うと、資料を抱えて席を立った。紺野もなつみに遅れて席を立つ。
安倍と紺野は去り際に宗形に頭を下げると、逸る足をそのままに走り出した。紺野は慌ててその小さな後ろ姿を追い掛けた。
334 名前:12th.heaven's 投稿日:2005/02/11(金) 11:31


海が紅く染まり始める。
夕陽自身は海の反対側に盛り上がる山に隠れてしまった。それでもまだ残り火のように雲を幻想的に紅く染めている。太陽という光源がない分、海の様子はよりはっきりと見て取れる。
細波を立てる様相は相変わらずだが、昼間とは確実に違う表情を見せている。その海は夜の始まりの表情だ。
「そろそろ、帰るか」
ひとみが大きく背を反らしながら呟いた。
「そーだねぇ。帰ろうか?」
真希が間延びした口調で愛に尋ねた。「うん」と、愛は真希の隣りで頷いた。
二人と愛は昼間から時間を共にして、笑顔で言葉を交わせるほど打ち解けていた。
愛の表情も宿の廊下で二人を睨んだ時とは比べ物にならないほど柔らかくなっていた。
特に愛は真希に懐いていた。二人で話しているところにひとみが割り込むという場面が幾らかあるほどだ。
「じゃ、行こうか。ごっちん」
ひとみは笑顔で真希の小さな手を握った。愛は真希の体を引き戻した。
「もう、邪魔せんでよー。吉澤さーん」
その言葉とは裏腹に愛は笑顔だ。
気を許してくれたのか、愛の話し方は少しだけこの地方のであろう、訛りを含んでいたものになっていた。
「邪魔じゃないよー。愛ちゃんがウチのごっちんを奪おうとするからあ」
ひとみは口を尖らせて言葉を返した。
「邪魔しとるのは吉澤さんやがー」
愛はぴったりと真希にくっついていた。まるで幼い子供のようだった。それは年齢に不相応なほどの純粋さだった。
「んー、あたしモテモテだね」
真希は気恥ずかしそうな笑みを覗かせた。
「モテ過ぎだよう。ごっちんはウチのものなのに」
ひとみは愛を睨んだ。わざとおどけてみたのだ。
「べー」
愛は舌を出して応戦した。
「あ、このやろっ」
ひとみは自分より小さく細い愛の体を抱きしめる。愛はひとみの腕の中で笑みを零しながら暴れる。真希は脇で笑いながら二人を見守っていた。
335 名前:12th.heaven's color 投稿日:2005/02/11(金) 11:32
絵に描いたみたいな幸せだ、とふとひとみは思った。
ひとみは家路をゆっくりと辿りながら、海を見つめる。
先頭を行く真希と愛、その少し後ろからひとみが続いている。
二人の背中を見つめる。
愛は初めより随分と明るくなった。話していると、表情豊かで、ころころとよく笑う、普通の高校生だった。
真希によく懐くのは、真希の人柄と、自分と真希の境遇を照らし合わせたからだろう。
真希が昨夜、愛に何かをしてあげたいといったのも、家族のことですれ違うのを見ていられなかったからだろう。
二人はどこか似ているような気がする。内面的に、どこか、深い部分で。
幼い子供のように純粋過ぎる脆さも、似通っているような気がした。
見つめた二人の背中は姉妹のようだった。
ふと、ひとみは気付いた。
宿に近付くに連れて愛の様子が落ち着かなくなり始めた。そわそわしながら辺りを見回したりしている。やはり、すれ違いを正すのにはそれなりの覚悟がいるようだ。父親や母親のことは敏感になるのも仕方ないだろう。
「ただ、黙って、傍に居るだけ。それでいいの。分かった?」
真希も敏感にそれを感じ取ったのか、愛の肩を抱いた。
「考えることはないんだよ」
ひとみが付け加えると、愛は不安げに揺れる瞳を固定させてしっかりと頷いた。
砂利道を進み、障子張りの門戸を潜った。
336 名前:12th.heaven's color 投稿日:2005/02/11(金) 11:32
「彩さーん、ただいまあ」
真希が声を上げる。
石黒はスリッパの乾いた足音を立てながら近付いてくる。
そして、ひとみの横で気まずそうに顔を俯かせる愛を見とめると、ふっと安堵の笑みを浮かべた。
「愛!心配したんだからね、もう!学校サボって、帰ってこないから…」
ひとみはそっと丸くなった愛の背中を叩いてやった。愛はゆっくりと顔を上げた。
「…ごめんなさい」
思い掛けない言葉だったのか、石黒は一瞬目を見開いたものの、柔らかな笑みを浮かべた。
「いいわよ。早く入りなさい」
石黒はふと悪戯な笑みを浮かべている真希とひとみに目を止めて、
「あなたたちもね」
全てを包みこむような柔らかさだった。
真希とひとみは「はーい」とわざと間延びした返事を返すと、スリッパに履き替えて中に足を踏み入れた。
肩を並べて廊下を歩く石黒と愛の後ろ姿を横目で見ると二人は顔を見合わせて微笑んだ。

337 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/11(金) 11:32
338 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/11(金) 11:32
339 名前:chaken 投稿日:2005/02/11(金) 11:35
第12話「heaven's color」終了です。

>321様。どうもです。微妙な心境のままお待ちください。
>322様。温かく見守ってください。
>323様。毎度です。頑張ります。
340 名前:wool 投稿日:2005/02/11(金) 14:58
更新お疲れ様です。
三人のやりとりが温か過ぎて、涙目になりながら読みました。後藤さんは本当に優しい子ですね。勿論、吉澤さんも…。
景色も思わず見てみたくなるほど、細やかに描かれていて素晴らしい。
次回も楽しみです。
341 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:32


辺りが薄闇に覆われて、朝比奈村は夜を迎える。昼間の蒸し暑さは鳴りを潜めて、冷たい風が吹き始めた。昼夜の極端な温度差はこの地方の気象なのだろうか。夏の夜にしては寒い。
満天の星空には蒼白い月が煌々と輝いている。空の向こうが透けて見えるくらいに、東京とは比べようもない澄んだ夜空だった。夜の冷涼な空気も濃く感じるほどに澄んでいるように感じた。
木造の三階建ての建物。
大きめな玄関の戸は障子張りだ。その戸の前で二人が建物内に向かって会釈する。
「ありがとうございます」
くっきりと安倍の声が玄関口に響いた。
「お役に立てないでごめんなさい」
中年で身なりの良い女将は深々と頭を下げる。
「いえいえ」
安倍と紺野はもう一度女将に頭を下げてから、旅館を後にした。
安倍は上着のポケットから折り畳まれたメモを出してそれを手の中に広げた。宗形からもらった朝比奈村にある宿のリストだ。
「これで、あとひとつ、ですね」
紺野が横からリストを覗き込んできた。
「ん」
安倍はもう一度ポケットを探り赤いペンを取り出すと、下の方にある宿の名前を一つ消した。小さく息を吐く。
これで、何件目だろうか、もう覚えていないほど村を回って、ひとつずつ宿を調べた。そして、ことごとく空振りが続いた。
情報は一応隠していたが、すぐに流れてしまうだろう。それにはもう構っていられない。今夜中には全ての宿を調べなくてはならない。
安倍はまたそのリストを確認した。もう消されていない宿の名前は一つしか残っていない。ペンをしまうと、息を吐いた。
「これで、あと一つだ」
人差し指で唯一消されていない宿の名前を指す。
そこには『朝処』と記されていた。
紺野は不安げに眉を下げた。安倍は口を真一文字に結んで頷いた。
342 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:32
「もし、二人がここに来てるとしたら、この宿にいる」
安倍は『朝処』の文字を睨みつけた。
「あっ」
そこで紺野が甲高い声を上げた。なつみは目線で説明を求めた。
「二人の内どちらかがこの村に身内が居るって考えられませんか?」
紺野が思案げに尋ねた。安倍は顔を伏せて首を横に振る。
「それは来る前に調べといた。後藤は三重と愛媛に親戚が居るけど、ほとんど形だけで、後藤の父親が死んでから交流は全く無し。ひとみちゃん…吉澤ひとみの方は埼玉に親戚がいる。どっちも石川県に親戚や知り合いは居ない」
調べるに、石川県などどちらも僅かな交流もない。おそらく二人とも訪れたこともないはずだ。
「んで、親戚の線はシロ。この村と二人の接点はない。多分、適当なところを選んで逃げてきたんだろうね。まァ、つまり、ここにいなかったら振り出しってこと」
安倍はもう一度広げたままのリストに目を落とした。
住所を確認して、道を思い浮かべる。
昼間から村を歩いているので二人はこの村の地理には大分詳しくなった。そのお陰でその旅館の住所が海沿いで、現在地からそれほど離れていないことも分かった。
ちなみに電話番号も記されてあるがそれは敢えて利用しない。事前に連絡を入れると、感付かれて、真希とひとみが逃亡する危険性があるからだ。
わざわざ村を這いずり回って調べたのはそのためだ。
「じゃあ、行こう」
安倍は紺野の肩を軽く叩いて促す。紺野は小走りに安倍の背中を追ってきた。
343 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:34


普段なら沈黙が支配するはずの『朝処』の木造の食堂には笑い声が絶えず響いていた。
ひとみと真希、愛の三人は隣り合わせてカウンターに座っている。石黒はカウンターの奥に立っている。みんな一様に笑顔を浮かべていた。
愛も昨日までとは考えられないほどはちきれんばかりの笑顔で笑っている。石黒もそんな愛の様子を微笑ましく見つめていた。
「でも、愛ちゃんってよく食べるよね」
真希が柔らかい笑みで隣りの愛にいう。愛は何度も首を横に振る。もうすでに御飯は二杯目だ。
「そんなことないですよー。後藤さんこそ、そんなに食べてよく太りませんよね」
真希の顔を覗き込んで言葉を返す。真希は三杯目のおかわりを終えていた。
「うん、それがあたしも不思議でさあ。ミステリーだよねえ」
真希は可笑しそうな表情を作った。
「でもよっすぃは太りやすいから、ダイエットしてるんだって」
真希はふと隣りのひとみに視線を移した。ひとみだけが唯一おかわりをしていない。
「ウチはごっちんや愛ちゃんみたいにバカみたいに食べれないの。デリケートな体だから」
ひとみは口を尖らせる。しかし表情は笑顔だ。
「バカってなんー?」
愛が不満げに真希の背中を通してひとみの背中を抓った。
「いったい!」
「まあまあ」
顔を顰めるひとみに笑顔で真希が仲裁に入る。
愛は「いーっ」と歯を出して見せる。ひとみは思いきり舌を出した。互いに同時に噴き出した。それが真希や石黒にも伝わって、食堂を賑やかに包んでいく。
なんて幸せな時なんだろう。ひとみは思う。けれど、この時間はすぐに終わるものだ、とも判っている。
だから、一方で切なかった。温かい気持ちの中で心が締めつけられるようだった。
344 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:34
「すいませーん」
団欒を裂いたのは女性の声だった。
「すいませーん」
食堂にもその大声ははっきりと届いた。少しくぐもっているその声はその方向から玄関からのものだと察しがついた。
「すいませーん」
再度、声が響く。先ほどより声量が多い。そのせいでより正確に声が聞こえた。
ひとみはその声を耳にして、顔色を変えた。
その声は知り過ぎている声だった。
柔らかくて、凛とした芯の通ったよく伸びる声。
(安倍さんだ…)
あの特徴的な柔和な笑顔がひとみの脳裏によぎる。
ぎゅっと拳を握る。じっとりと手の平に汗を掻いていることに気付いて、また汗が出てくる。
ふと、拳に熱が触れた。横を見る。真希がうん、と頷いた。
大丈夫、と真希の優しい視線が伝えてくる。
そうだ。覚悟はもうとっくに決めていたはずだ。終わるためにここに来ていたはずだ。
「あら。誰かしら」
石黒はごめんね、と断わってから、のれんを潜って廊下に出る。
石黒の足音が遠ざかるのを見計らってひとみは立ち上がった。続くように真希が立つ。
愛が不思議そうに二人を見上げた。
「どうしたんですか?二人とも」
ひとみは首を振って、笑顔を見せた。その笑顔が普段通りに作られているか、自信はなかった。
小走りにのれんを潜り、廊下に出た。愛があとに続いて来たが、ひとみは何も言わなかった。そんな余裕もなかった。
真希とひとみは廊下の曲がり角の直前で止まり、そっと玄関の様子を窺った。
345 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:35


玄関前の砂利が小さく音を立てる。辺りを照らすのは障子戸の上に吊り下げられている提灯の灯りだけだ。ジィジィ、とどこからともなく虫の鳴き声が聞こえる。
すっかり辺りには夜の帳が下りている。
安倍は紺野に振り向く。紺野は神妙に頷いて見せた。一歩踏み出して障子戸を開く。想像より軽く、その障子戸は開かれた。
広い玄関口からロビーの空間が大きく広がっている。カウンターには無人だが、時折笑い声が響いている。
靴がある。ミュールとスニーカー。誰か、客が来ている。どくん、と胸が高鳴った。
安倍と紺野は玄関に踏み込んで、後ろ手に障子戸を閉めた。
「誰か、来ているようですね」
2人分の靴を見つめながら紺野が呟いた。
「…ああ」
安倍は確信を高めた。
今までの宿はほとんど客すらいなかった。『朝処』には少なくとも客は、いる。
それも、女性客が、二人だ。
ミュールは言うまでもない。もう一つのスニーカーのデザインはおそらく女物だ。
「すいませーん」
安倍は決意を固めていた。
もう揺らぐことはない。揺らいではいけない。
どんな事実が待っていても、二人を捕まえなくてはならない。
一瞬の隙や甘さが命取りになる、この事件はそういう事件だ。
安倍は両手で自分の頬を張った。痛みがきんと顔全体を引き締めた。
「すいませーん」
安倍はもう一度、声を張り上げた。
程なくして、スリッパの乾いた足音が近付いてくる。
足音の主が姿を現した。
肩まで靡かせた金髪は毛先が柔らかく丸まっている。人の良さそうな笑顔を浮かべながら女性は二人のもとへ近付いてくる。
「いらっしゃいませ。この宿の女将の石黒彩と申します。お泊りですか?」
柔らかい声が二人に問い掛ける。安倍は首を振って上着の胸ポケットから警察手帳を取り出して示した。
「あ…警察の方、ですか?」
石黒の表情が若干強張るが、それは一般的な反応の域を出ないものだった。
安倍は手帳を胸ポケットにしまう。
346 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:35
「不躾ですが、この旅館に後藤真希、吉澤ひとみという少女が二人、泊まっておりませんでしょうか?」
事務的な、感情を押し殺したような口調を作った。
後藤真希。吉澤ひとみ。自分で出した二人の名前に緊張感が高まる。もちろん、二人が偽名を使っていればこの質問には意味はなくなる。
しかし、石黒の表情がこころなしか強張った。
まさか。
安倍は確かな手応えを感じた。
「16、7の若い女の子、二人組です」
質問を重ねる。
これで反応があれば、間違いない。
一瞬の間があった。
ほんの一瞬の、逡巡の時間。しかし、それは真希とひとみの所在を確信するのに十分な時間だった。
さっと目を細めながら、石黒の反応を窺う。
「当宿には現在、お客様は泊まっておりません」
その人の良さそうな女性は一片の曇りもない爽やかな笑顔で答える。
一気に場に緊張が走る。
「嘘はつかないでくださいね」
安倍は石黒を睨みつけたまま、厳しい口調で言い放つ。
「捜査をかく乱することは罪になります。公務執行妨害、偽証罪。これは殺人事件なんですから」
石黒の表情が俄かに変化する。
347 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:35
安倍の中ではしっかりと、もう確信は出来上がっていた。
二人はきっとここにいるはずだ。
安倍自身、この言葉は自分自身に言い聞かせるために言ったのかもしれない。
殺人犯を追うことは自分の仕事と正義である。
その理屈に縋って親友の妹を追いかける自分を無理矢理に納得させているのかもしれない。
「嘘は言っておりませんが」
石黒の丁寧な物腰は崩れないが、もう関係なかった。
「上がらせてもらいます」
なつみは顔を伏せて言うと、靴を履いたまま綺麗な木目の床に上がった。
その瞬間、急いで階段を駆けのぼる音が耳に届いた。
「くそッ」
安倍は悪態と舌打ちを同時にして、廊下を走る。あとから紺野の足音が聞こえてきた。
ぎしぎしと鳴る廊下は磨かれているのに、古そうだった。
旅館内はそれほど広くはないらしく、廊下をそのまま沿って走ると階段に出た。
階段の前には少女が立ち塞がっていた。
安倍には見覚えのない少女だ。大人っぽい整った眉目で、綺麗な長い髪を持っていた。
少女はその大きな目を尖らせて鋭い視線を放っていた。
348 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:36


「これは殺人事件なんですから」
玄関から鋭い女性の言葉が耳に届いた瞬間、愛は表情を凍り付かせた。
時間が停止したように動けない。
聞き間違いではないか。まずそれを思って、耳を疑った。
動かない首になんとか力を込めて、二人を見る。
二人の表情は険しくもあり、なんだか弱々しくもあった。
この二人が殺人犯だというのか。
有り得ない。愛は反射的に首を振る。
そんなはずはない。
二人の穏やかで優しい表情が次々に思い起こされる。
そんなはずはない。
だって、二人は自分と母親を救ってくれた。
救ってくれた。
夕御飯の時も、あんなに優しく笑っていた。自分ともじゃれていた。
信じられないという驚愕の中で、真希とひとみが顔を見合わせて頷いた。
それが何の合図か判らなくて、愛はひどく焦った。
「あ…」
喉から声を絞り出すが、それは言葉になってくれなかった。
自在に言葉が出ても、何から尋ねればいいのか、分からなかった。
(あなたたちは殺人犯なんですか。人を殺したんですか。あなたたちは優しい人じゃなかったんですか)
349 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:37
「愛ちゃん」
ひとみが真剣な眼差しで愛に話し掛けた。先ほどまでなら、安心を与えるひとみの低い声が、恐くなった。
それは恐怖だった。何かされるという恐怖ではなく、別れを予感させる怯えを促すものだった。
「ごめんね、もう行かなきゃ」
自分を見つめるひとみの顔は酷く哀しげで儚かった。
(何に対して謝ってるんですか?なんで謝るんですか?あなたたちは悪いことをしたんですか?)
頭の中はひどい混乱でまるで濁流に飲みこまれたようになっていた。
真希は少し腰を落として愛と視線を合わせると、軽く頭を撫でてくれた。
「元気でね。彩さんと支え合うんだよ。ありがとう…」
その言葉の余韻がなんだか悲しげで、先ほどまで濁って混乱していた頭が空っぽになって、ありがとう、という真希の言葉だけが凛と響いた。
「ごめんね」
真希が言う。優しい声だ。
(なんで謝るんですか?だって、あなたたちは優しいじゃないですか)
心の中で響く自分の声は縋るようで、結局言葉になることは出来なかった。
真希とひとみは階段を駆けのぼっていく。
すぐに二人の姿は消えた。
愛はじっと階段に佇んでいる。動けなかった。
廊下の軋む音が聞こえる。乱暴で性急な足音だ。
2人の女性が階段の前で立ち止まる。2人ともスーツ姿だ。
一人は童顔で背が低い。もう一人は大きな目をしていて、全体にあどけなさが残る顔だった。こちらの方が若そうだ。
捜査、殺人事件、罪。
階段の傍らで聞いた玄関での会話が思い出される。あの話から推測するに、おそらく二人は刑事だろう。
350 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:37
(二人を、守らなきゃ)
ただ自分の内の声が急かす。
二人がなんであろうと、誰であろうと、あの二人を守らなくてはならない。
退いたら負けだ。
愛は二人の前に階段を塞ぐように立った。二人を大きな瞳で睨むと、両手を広げて立ち塞いだ。
若い刑事が愛に近寄ってくる。
「あの、そこを退いてください。私たちはあの二人を追いかけなくちゃいけないんです」
「イヤですっ」
愛は唇を結んで、何度も首を横に振った。
決して退けない。退いたら、負けてしまう。自分を救ってくれたあの二人を絶対に守る。
その刑事が息を吐いて愛の片腕に手を掛けて力を込める。それでも、愛の腕は下がらなかった。足を踏ん張って、じっと耐える。
「どけなッ」
もう一人の童顔の刑事がもう片方の腕を掴み下げようと力を入れる。その手も下げない。
全身に力を入れて必死に踏ん張る。何とかその場に留まろうとする。
愛の頭に浮かび上がる真希とひとみの笑顔。
いつだって優しかった。だってあんなに優しかった。
351 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:37
真希の最後の言葉。
『ありがとう…』
この言葉だけが脳の中を駆け巡っていた。
「何で、あんなに優しい人が追いかけられなくちゃいけないんですかっ」
その瞬間、二人の力が鈍った。
愛は振り払って、再度、階段を前を塞ぐ。
「…分かってるよ。それでも追わなくちゃいけないんだ」
童顔の刑事は表情を厳しく、言い放った。
そして、同時に愛の腕が信じられない力で引っ張られた。童顔の刑事が愛の腕を掴んでいた。あえなく、愛の体は後方に投げ出される。
「なんでっ、あの人らが、追いかけられなくちゃいけないんですかっ」
廊下に敷かれている絨毯に投げ出されながら、愛が叫んだ。
鼻の奥が痺れて、熱くなってくる。嗚咽が込み上げて、泣き出しそうになるのを必死に抑える。
頬に雫が伝うのが分かった。認識するよりも前に愛は泣いていた。
二階の廊下を真希とひとみが横切った。二人の刑事が慌てて階段を駆けのぼっていく。
愛にはその光景を歪んだ視界で見ることしか出来なかった。
352 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:38


幅のある木の階段を二段飛ばしで駆けあがると、ひとみと真希は慌てて松籟の間に戻った。
ひとみは大きな鞄の中を探って、二足のスニーカーを取り出した。藤本が鞄に入れていたものだ。玄関に置いたままの靴を取りに戻ることは出来ない。
「ごっちん、これ」
一足を障子戸の前で後ろを振り返る真希に放り投げて渡すと、自身もスニーカーを足に引っ掛ける。
「ごっちん、早く行こう」
「うん」
鞄を引っ掴むと、並んで廊下に飛び出した。
二人の服装は外出から戻ってきたばかりなので外に出るのに支障はなかった。特に走りにくい服装でもない。
登ってきた階段の前に人影はない。二人は全速力で廊下を走り抜ける。その先には中庭へと直接続く別の階段があるのだ。
階段を通り抜ける瞬間、ふとひとみが下を確認する。安倍と愛が向かい合っていた。
(迷惑掛けてごめんね…ホント、ごめん…)
ひとみは心の中で謝罪すると、再び足を早めた。
「ひとみちゃん」
安倍の声が引き止めた。柔らかな丸みを持った、懐かしい声だった。もう階段を上がってきたようだった。
353 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:38
「ひとみちゃん。圭ちゃんが心配してる。帰ろう?」
ひとみは咄嗟に足を止めた。真希もそれに合わせた。
即席の沈黙が下りてくる。
ひとみの脳内のスクリーンに圭の笑顔が映された。
『二人きりの姉妹なんだから…』
いつかの台詞が喚起される。
両親が急逝してからずっと二人きりだった。二人きりで頑張ってきた。
でも、今は隣りに真希がいる。
(圭ちゃん…ゴメンね。バイバイ)
「ごめんなさい…」
ひとみの静かな言葉が沈黙を破った。
「ごめんなさい…」
ひとみと真希はなつみに背を向けたまま、その足を踏み出した。
もう戻れなかった。
354 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:39


立ち塞がる少女の体を思いきり引っ張る。やはり呆気なく少女は後方に転がっていった。
「なんでっ、あの人らが、追いかけられなくちゃいけないんですかっ」
少女が叫んだ。
また鈍く心の奥が痛んだ。鈍痛が身を裂くようだった。
(それでも追わなくちゃいけない)
それ以外に理由がなかった。説明しろ、と言われれば、そうとしか答えられない。
この少女のことは知らない。後藤真希のことも知らない。ただ、ひとみを追うことは安倍にとっては辛いことだった。
(でも、それでも追わなくちゃいけないんだ)
ふと見上げると、二人の影が二階の廊下を横切った。
一瞬だったが、初めて見る後藤真希はひどく頼りなさげな横顔だった。
(追わなくちゃ)
慌てて自分を奮い立たせて、階段を二段飛ばしに駆けあがる。
階段を上りきってから、真希とひとみの横切っていった方向を振り仰ぐと、走っている二人の背中が確認できた。二人の背中は華奢で、小さく見えた。
「ひとみちゃん」
安倍が声を張り上げて叫んだ。
355 名前:13th.激流 投稿日:2005/02/16(水) 14:39
「ひとみちゃん。圭ちゃんが心配してる。帰ろう?」
安倍の最後の防波堤だった。最後の望みを託した言葉だった。
(お願い、止まって)
その瞬間、沈黙が通り抜けた。
ひとみはその場で立ち止まった。真希も合わせるように足を止めた。
しかし、振り向いてはくれなかった。
「ごめんなさい…」
ひとみは俯いたまま、静かな口調で答えた。ひとみの背中が少し頼りなげに震えた。
「ごめんなさい…」
ひとみが繰り返すと、二人の背中は再び走り始めた。
それがひとみの選んだ道。安倍はついに最後の覚悟を固めた。
(それがひとみちゃんの選んだ道なら、私は、それを追わなきゃいけない)
「紺野」
なつみは脇でようやく階段を上ってきた紺野に呼びかける。
「電車はもう終わってるはずだ。周辺の村の駐在に連絡入れて。所轄所と県警にも。緊急配備を敷いてもらって。朝比奈村を塞ぐ。私はこのままあの子たちを追う。圭ちゃんにはアンタから連絡入れといて」
なつみは厳しい語調で言うと、真希とひとみの後を追って走り始めた。
走りながら、もう戻れない場所まで来たことを実感した。

356 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/16(水) 14:39
 
357 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/16(水) 14:40
 
358 名前:chaken 投稿日:2005/02/16(水) 14:41
第13話「激流」終了です。

>340様。どうもです。最終回も近いので、最後までよろしくお願いします。

あと2話で完結です。
359 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/17(木) 00:13
固唾を呑んで見守ります。二人の行く末を。
360 名前:翡翠 投稿日:2005/02/17(木) 12:58
更新お疲れ様です。
いよいよ・・・って感じですね。
残り2話で完結という事でさみしいですが
続き楽しみにしてます。

361 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:01


時計の短針が9を回った頃だった。
夜の闇の中で新宿の街は未だ静まろうとはしない。昼間と異質の盛り上がりを見せる夜の街には欲望と本能が渦巻いている。
刑事課内には連続殺人事件のせいで普段より多くの人影が残っている。
事件発生から約1ヶ月が経つが、報道の熱は衰えを見せずに、週刊誌の表紙には大きく見出しで登場している。
圭は安倍と紺野が朝一番で発ってから心配で仕事も手につかなかった。さらに事件の捜査による不眠で眠気も最高潮に達していた。資料の溜まった机でうつらうつらしながら資料整理を進めていた。
その圭の眠気を吹き飛ばしたのはけたたましい電話の音だった。
呼び出し音で覚醒した瞬間、圭は現在石川にいるなつみと出掛け際に交わした約束を思い出した。
『見つかったらすぐに電話する。起きといてよ』
圭は慌てて受話器を取って、もしもし、と噛み付いた。
「あ、吉澤さんですか?紺野ですっ」
電話越しの紺野の声はか細くて明らかに動揺していた。圭は事件に関する事だと直感して昂ぶる感情を無理やりに抑えつけた。
「紺野?見つかったのね?」
多少雑音が酷いが受話器からは肯定の返事が返ってきた。
「なっちは?」
性急に尋ねる。
「今、二人を追ってますっ」
紺野は急いた口調で答える。
「駅から電車も出てないし、さっき七塚署に連絡を入れて、緊急配備をお願いしておきました!朝比奈村と隣町で青年隊を結成して、捜索してもらっています。早く来てください!」
早口な答えには不安が滲んでいた。圭は「わかった」と口早に返すと、受話器を電話機に叩きつけた。
362 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:02
「容疑者、見つかりました。石川の朝比奈村」
圭が叫ぶ。眠気に侵されかけていた刑事たちの目の色が変わった。
「本当か!」
机で資料を見直していた寺岡が机を叩くようにして立ち上がった。数枚の書類が零れる。
「はい。今、なっちが追ってるらしいです」
刑事課中の目が一斉に寺岡に向けられる。判断を促す視線だった。
「吉澤」
寺岡の視線が圭に向いた。
「お前はこれからすぐ現場に向かえ。新幹線も出てないだろうから車を使え。とりあえず他の者は待機しろ。どうせ水谷本部長は所轄に協力させる気もないだろう」
刑事達に異論は出てこなかった。
「俺はこれから捜査本部に報告する。吉澤はすぐ行け」
「ハイ」
圭は表情をさらに引き締めて、力強く頷くと、椅子に掛けてあった上着と車の鍵を引っ掴んで刑事課から飛び出した。
363 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:02


生温かい風が体中に纏わりついてくる。
海沿いでは肌寒かったのに、遊歩道を駆け抜けていると、空気が生温くなってくるのだ。
目の前に山がある。小さな雑木林の山だ。そこを目指していた。
山に近付くにつれて湿気が増しているようだ。それに加えて全力で走っていることもあって、体感温度は昼間よりも上昇しているように思えた。
階段から中庭へ降りた二人はそのまま中庭を突っ切って背の低い塀を飛び越えて外へ飛び出した。
薄暗い上にやたら声高な虫の鳴き声のせいで中庭は不気味にすら思えた。普段の長閑な日本庭園は夜に染まっている。
歩道に出るとまったくといっていいほど人影はなく、街自体が寝静まりきっていた。
ふとひとみの脳裏に対照的に騒がしい新宿の夜が浮かんだ。罪を犯した、汚れてしまった街が浮かぶ。
不気味に黒々と輝く海は全てを吸いこむブラックホールのように見えた。それを横目に全速力で歩道を走り抜けていく。
ひとみは足を緩めずに後方の足音に意識をやった。
カツンカツン、カツンカツン。
二人を追ってくる一人分の足音が確認できた。おそらく安倍だろう。
「ごっちん、早く」
隣りで必死に走る真希を促す。真希は少し息を切らしながらひとみと視線を交して頷いた。
ひとみは走りながら正面を見据えた。伸びていく歩道はこの先で途切れて、舗装されていない道が山の中へと続いていた。
「ごっちん」
ひとみは上がる息を出来るだけ抑えて真希に声を掛ける。
「このまま、山に入ろう」
真希は苦しげに顔を歪めながら頷きを返した。後方の足音は一定の距離を保ったまま、二人を追い続けていた。
真希とひとみはコンクリートで舗装されていた道からデコボコ道へと足を踏み入れる。
足を取られて転ばないように気を付けながら全力で走る。
364 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:02
デコボコ道から山へと入っていく。
山、といっても、それほど高さはなく、樹木に覆われた丘という方が表現的には正しいように思われる。
少し進むと周りはすっかり背の高い樹木に囲まれていた。
森林というものは初めて見る。どこか、自然で心地のいい場所という漠然とした先入観があったが、夜のこの森は不気味で暗く、やたらと恐怖を煽った。
後方からの安倍の足音は相変わらず距離を縮めようと必死に追ってくる。
山の中は夜露と湿気で生温い冷気に保たれていた。足元の土は山の中を進むごとにぬかるみが深くなっていく。
それに注意を払いながら進んでいるため二人の足取りが少し衰える。しかし、条件はなつみも同様でなかなか距離は詰まらないようだった。
「きゃっ」
ひとみは少し遅れて後に続いてくる真希の悲鳴に慌てて振り返った。
真希は木の根に足を引っ掛けて転倒していた。うつ伏せのまま手で体を支える真希にひとみは慌てて近寄る。
「ごっちん、大丈夫?」
ひとみは真希の体を支えて起き上がらせた。真希は座り込んで引っ掛けた右足首を手で抑えている。その顔は苦痛に歪んでいた。ひとみは真希の右足首に手を添える。少し腫れているようだった。
「捻ったのかな」
真希の手を退かせて軽く足首を握ると、真希の顔がさらに苦しげに歪む。
「歩けそうにないね。よし、乗って」
ひとみは真希に背中を向けてしゃがみこんだ。歩けないのなら、背負うしかない。足を止めてはいけない。
「ほら、早く」
真希は一瞬少し目を見開いて、
「…ありがと」
と、笑顔で頷いた。痛みを堪えた表情で立ち上がる。
ひとみの首に真希の細い両腕が回って、ひとみの背中に体重が掛かる。ひとみは真希の太ももに手を添えて支えると、立ち上がった。
真希の温かい体温が直接ひとみに密着する。今更ながらその温かさが愛しく思えた。
「じゃ、行くよ」
「うん」
ひとみは体を揺すって態勢を整えると、再び走り始めた。
365 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:03
足音が先ほどよりも大きく聞こえる。ひとみが振り向くと、遠い木の影に安倍の姿が見えた。
安倍と会うのは久しぶりだった。久しぶりの対面がこんな形になるとは思っていなかった。
安倍の方は二人の背中にはまだ気付いていない様子で、足元のぬかるみに気を払っている。
ひとみは一つ息を吐く。まだ気付かれてはいない。
「ごっちん」
叫ぶように真希に呼びかける。
「ちょっとこれから危ないから、頭抑えててね」
真希の頷きを背中越しに確認すると、ひとみは傍らに広がっている茂みに目を向けた。
ひとみはもう一度、後方の安倍に目をやり、自分たちに気付いていないことを確認すると、頭を屈めてその茂みに飛び込んだ。
硬い葉や足元の草がひとみの顔や体を切り刻む。傷が身体中に刻まれていく。身体を滴る露が出来たばかりの傷口に染みる。
しかし、我慢出来る範囲だった。それほど深い傷も出来ないだろう。
ひとみは真希の重みを背負ったまま茂みを掻き分けて進んでいく。どれくらい進んだだろうか、時間の感覚はすでに麻痺していた。
「わっ」
唐突に茂みから抜け出した。
前のめりになって、転倒した。真希はしっかりと背中に乗せたままだ。
もう後を追ってくる安倍の足音は消えていた。
背中から真希が下りる。ひとみは前に倒れた身体をゆっくりと持ち上げる。
そこには空間が広がっていた。
円形に空間が広がっている。雑草が蔓延っているが、木や茂みは見当たらない。
深く広い森の中でまるでそこだけ切り取られたように空間が広がっていた。
そしてその中心には丸太で作られた小屋が建っていた。小さな木屋だ。木戸の傍には水道も備えられている。
ひとみはその小屋を見てようやくこの空間が山登りのための休憩所だと気付いた。
ひとみはしゃがむとまだ立てない真希を横たわらせた。
ひとみが盾になっていたのか、真希に傷はなかった。一つ安堵する。
366 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:03
「よっすぃ、大丈夫?」
真希が横たわったままひとみの頬に手を伸ばした。
ひとみは自分の頬を撫でる真希の手に自分の手を添えた。
「ウチは全然大丈夫。ごっちんは?歩けそう?」
真希は力なく微笑んで首を横に振った。ふと、真希の右足首に目を落とす。転倒した時より腫れはひどくなっているようだった。
「よっすぃはさ、逃げなよ。もうあたし、駄目みたいだし、よっすぃに迷惑になる」
真希の微笑みは痛ましかった。ひとみは真希の頬に口付けを落とした。そして悪戯な笑みを浮かべた。
「バカだね、ごっちん。ウチが逃げる理由はごっちんと一緒にいたいからだよ。捕まらないことが目的じゃない。少しでもごっちんと一緒にいたいから逃げてる。だからここにごっちんを置いて一人で行っても逃げる意味がなくなっちゃう」
真希は呆然とした表情だった。その目尻から一筋の雫が零れた。
「ごっちんと一緒じゃなきゃ、意味がないんだ」
ひとみは穏やかな笑みを刻んで、親指でぐい、とその涙を拭った。
「あの小屋で休もう」
ひとみが指したのは、空間に中心にぽつりと建っている山小屋だった。真希は笑って、小さく頷いた。
367 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:05


「圭ちゃん…」
呟きは辺りに消えた。辺りはさらに闇を増していく。
安倍はひたすらに二人を探し続けていた。
追いかけていた二人の背中を見失ってしまった。それほど距離が開いていたようには思えないのだが、しかし二人の姿は影も形もない。
「圭ちゃん…」
周りを取り囲む背の高い木々を見回しながら、安倍は圭の名前を呪文のように唱え続けていた。その名前を口にするだけで少し落ち着けるような気がした。しかし、まるで道に迷った子供のようにその語調は弱々しい。
身体は汗と露に濡れていて、体温がどんどん下がっていくのが克明に分かった。それでも探すのを止めるわけにはいかなかった。
どこへ行ったのだろう。抜け道などは見当たらなかったはずだ。
焦りと疲労で冷静な思考は失われつつあった。憔悴しきってぼんやりした頭に浮かぶのは圭とひとみの笑顔だった。
ぼやける二人の笑顔にヒビが入りそうになるのを抑えることで辛うじて安倍は疲労を堪えていた。
独りでいることに弱気になっているのだろうか、単純な疲労のせいだろうか、疲労困憊のなつみの脳内に廻るのは、親友との出逢いだった。
過去を振り返る時、真っ先に浮かぶのは草原の中でぽつりと佇む白い家だった。
これは現実にある家ではない。なつみがいつも見る夢の中での象徴的な景色だった。
緑の生い茂る大自然の中、三人の人影がゆらりと浮かび上がる。
笑みを絶やさない優しい母親。時には厳しく、時には優しい父親。そして純粋で無邪気な少女。
「あなたー、なつみー。御飯出来たわよー」
白く塗られた架空の家の窓から顔を覗かせる母親が柔らかく呼びかけてくる。
368 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:06
「おー、わかったー」
少女とじゃれていた父親は笑顔で大きな返事を返す。
回想ではなく、夢想なのかもしれない。この夢を見る度に安倍はそう思う。
刑事になった動機の上位に挙げられる理由の一つに『自分が犯罪の被害者だったから』という理由がある。つまり自分のような被害者を増やさないために刑事になりたい、事件を解決したいという理由である。ある意味では最も正しく、最も悲しい理由なのかもしれない。
ちょうど物心をつく頃だった。
幸福と平凡を壊したのは不精髭を伸ばした中年の男だった。
周囲の家が寝静まる深夜の頃、男は安倍家に侵入した。そしてナイフを手に、父親と母親を殺した。
理由は単純明快で「金が欲しい」ただそれだけだった。
金品を奪って逃げた男はほどなく捕まった。男には強盗傷害の前科があった。
しかし、その男が誰であろうと安倍には現実は何も変わらない。
僅か11歳にして安倍は取り残された。
安倍が無事だったのは男の鈍さと母親の機転のお陰だった。
二人の布団の間で眠っていた安倍は最初から最後まで気付かれることはなかった。母親が男に気付かれないように布団の中に隠していたのだ。
とはいえ部屋には子供用の玩具やキャラクターのポスターがあるのだから、気付かれなかったのは全くの幸運だった。
頭が悪いくせに行動力と腕力だけが備わっている男は安倍から全ての幸福を奪い取った。
当時の記憶は断片でしか残っていない。
両親の亡骸を前に泣き崩れる自分、唸るように響く怒号、両親の断末魔の叫び、けたたましいパトカーのサイレン、家を囲む赤色灯。
悪夢だった。
夢だったらどんなに良いだろう。悔やむにしても何を悔やめばいいのか分からない。
369 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:06
しかし、安倍にとってはこれは現実以外の何ものでもない。
両親に遺された安倍は一人でどこまでも色のない、褪せた現実と向かい合わねばならない。
安倍は親戚に引き取られた。母方の姉夫婦は子供に恵まれなかった夫婦だった。
叔父と叔母は安倍に決して辛く当たることはなかった。
しかし、常に優しい叔父と叔母に安倍は子供心にどこか疎外感を受けていた。もちろん叔父と叔母にそんな気がないことは理解している。
しかし養子であるという事実もあった。子供は疎外感には過剰なほど敏感である。
それでも、埋まらない喪失感は時間と共に薄れていった。
しかし、なくなるわけではない。ただ靄がかかったように薄まっていくのだ。その奥ではしっかりと形付いた喪失感が膨らんでいた。
あの幸せな夢は自分の奥に眠る喪失感を具現化しているのかもしれない、と安倍は推測している。
安倍は聡い子供だった。そして、正義感が強かった。
だからもちろん男のしたことが犯罪であることも、その男がどれだけ無益な悪を犯したのかも、理解できた。
成長とともに喪失感は薄れても、あの幼い日に感じた感情は決して忘れなかった。
そして、その感情ははっきりと幼心に焼きついた。
憎しみ、だ。
数年後、男は無期懲役に処せられた。
納得がいくはずがなかった。男への憎しみは犯罪者への憎しみへと変化して、やがて使命感が芽生えた。
高校卒業後、安倍は警察試験に合格して、新宿西署の交通課勤務を経て、警備課へと回された。
370 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:06
『なんか…怖そうだな…』
生活安全課から警備課へ自分と同時期に配属された吉澤圭の第一印象だった。その印象の大半は大きな目のせいだった。
しかし、話をする内にその印象も薄れ、もしかしたら自分より可愛いげのある女の子じゃないか、と思い始めた。
その澄んだ瞳と笑うと優しい弓形になる大きな目にも安倍は好意を持った。
意外な内面と見た目の落差と同い年という状況に友情が芽生えるのは時間の問題だった。
その日は新宿西署の玄関に二人で立つ当番の日だった。
時折話を交わしながら、安倍と圭は出入り口を挟んで立っていた。
新宿西署の警備は警備課の当番の一つだ。幾度か経験はあるので緊張はしなかった。
ただその瞬間、緊張せざるを得なくなった。
若い男だった。至って普通の服装だった。ただ少し不審な部分はバックパックを開いて手を突っ込んだままぶら下げている点だ。
不可思議な格好に男の顔に目をやって、安倍は目を見開いた。
過去に自分の全てを奪ったあの中年の男と目の前の若い男の目が重なったのだ。
反射的に安倍は体を動かしていた。
安倍が男に飛び掛かるのと、男がバックパックからナイフを取り出すのが同時だった。
安倍は自分の向けられたナイフの切っ先を交して、ナイフを持った男の手を取って背後に回った。警官の必須である武道の経験が役に立った。
しかし、錯乱して興奮した男の力は安倍一人の腕力で抑えられるものではなかった。
取った手を振り払われて、尻を付いた安倍にナイフが向けられる。
磨かれたナイフの刃面に自分の顔が写された。
両親もこんなナイフで殺されたのだろうか。こんなに突然に殺されたのだろうか。
圧倒的で無差別な悪意を向けられて、こんな虚しい気持ちで死んでいったのだろうか。
371 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:07
しかし、次の瞬間、男の手首が掴まれて、その腕が背中に捻り上げられた。
カラン、とナイフが乾いた音を立てて地面に落ちた。
安倍は呆然としていた。
男は奇声を発してうつ伏せに倒れ込む。その男の背中に乗って彼女は心配そうに安倍に「大丈夫?」と、声を掛けた。
圭は片手で男の腕を捻り上げたまま、そのまま安倍に差し出す。
「ほら、手錠掛けて」
安倍はようやく我に返って、首を横に振った。
「圭ちゃんが捕まえたんでしょ」
圭は軽く微笑んだ。大きな瞳が弓形になる。
「んじゃあ、二人のお手柄ってことで」
圭は上着の内ポケットから手錠を取り出し、男の手首にはめた。圭に笑いかけられて、安倍は笑みを漏らした。
その件での活躍が認められて二人は署から表彰を受けた。そして二人揃って金一封と刑事課への異動が命じられた。
「いやあ、びっくりしたあ。なっちももう少し気をつけないと危なかったよ」
目を弓形にして笑いながら圭が言う。安倍もつられるように柔らかく笑んだ。
オレンジの陽射しが温かくて、心の奥にまで染みこんできそうだったのを覚えている。
普段は新宿西署の屋上は自殺防止のため開放されていない。しかし、二人は警備課にあった鍵でドアを開けてこっそり忍び込んだ。地べたに二人で坐って、コーヒーで祝杯をあげていた。
「圭ちゃん…ありがとうね」
安倍は真剣な口調で言った。安倍の目は空を映し出していた。オレンジの濃淡が鮮やかだった。
「ホント、ありがと…」
ぽつり、と呟いた。
372 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:07
温かい夕陽の射し込む屋上で安倍は初めて他人に過去を打ち明けた。
今まで誰にも話したことのない忌まわしい記憶を圭は同情ではなく、知ったかぶりでもなく、ただ穏やかに受け入れてくれた。
「あの犯人さ」
ひとしきり話し終えると、圭は静かに言った。
「窃盗で前科あったんだって。捕まって釈放されたけど、捕まった時の腹いせに襲ってきたらしい」
安倍が圭の横顔に目を配ると、圭は振り向き少し笑った。
「あたしが刑事になったのは、なっちみたいな被害者をなくすためでさ。ちっちゃい頃からそういうのに憧れてたんだ。交番のお巡りさんとかすごい憧れてた」
そこで、圭は言葉を止めて、にこりと笑う。
「強くて、優しいひとになりたかった」
「強くて、優しい…」
安倍は圭を見つめながら繰り返した。それは目の前で笑うこの警官にぴったりな言葉だ、と思った。
「ガキみたいかもしれないけどさ、みんなが幸せになればいいなって」
そう言った表情は希望に溢れていて、いつまでも夢を失わない少年のようだった。ずっと忘れられない表情だと思った。
「なっちが幸せになればいいな」
圭は安倍の瞳を捉えて、凛と声を響かせた。胸を突かれたようだった。胸の中にやたら声高に圭の言葉が響いている。
「なんてね」
圭は一旦言葉を止めて、すっと目を細めた。夕陽に反射した横顔が綺麗に映える。
「犯罪っていやじゃんね」
軽い口調で言うと、圭は安倍に振り返る。圭の澄んだ瞳が安倍を直接捉えた。
安倍は圭の芯の強さを改めて感じ取った。
「さあて、やっと念願の刑事だー」
圭は唸って背を伸ばす。ふと安倍に振り返り手を差し出す。
大きく安定感のある手。
安倍はその手に手を伸ばした。
373 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:08
そこで味気ない電子音とポケットの中の振動がいつしか過去を廻っていた安倍の意識を呼び戻した。
地面のぬかるみがかなり深くなっていた。周りの木々は相変わらずなつみを囲うようにして並んでいる。本当に移動しているのか、不安になるほど同じ景色だった。
足が鈍く痺れる。呼吸が少し浅くなっているのが自分でもわかった。
安倍は額の汗を腕で拭って、ポケットから携帯電話を取り出した。通話ボタンを押して耳に押し当てると、「安倍さん!」と、紺野の叫び声が耳を突き抜けた。
「よかった。何回も掛けたんですよ?」
電話越しの紺野のくぐもった声は涙声に近かった。
「紺野?」
安倍は乾いて粘膜が張りついている喉から声を絞り出した。
自分でもわかるほどその声は弱々しく掠れていた。
電話の向こう側で紺野の声が微かに聞こえて、少しすると「なっち?」と、圭の声が電話に応答した。
「ホントに良かった。今、どこ?」
心配を孕んだ圭の声が心地良く響いた。安倍は周りを見回した。
「圭ちゃん…」
頭の芯の痺れが取れない。木々は相変わらず威嚇するように安倍の周りを囲んでいた。
「ごめん…わかんないや…とりあえず山」
変わり映えのない景色。
行きがけに地図でそれなりに朝比奈村の地理は確認していたものの、山の中まではさすがに確認していない。視界に入る景色だけでは現在地はとてもじゃないが分からなかった。
なつみが申しわけなさそうに返すと、圭は息を吐いた。
「動かないでね。あたしが迎えに行く」
圭の言葉に安倍の鈍い思考が本能的に働いた。
「でも、それよりあの二人は…」
あの二人のことだけが気掛かりだった。二人はなんとしても捕まえなくてはならない。
374 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:08
「大丈夫だって」
圭の言葉は静かに遮った。
「あの二人は山の中にいる。この山の向こう、隣町では網張ってるし、今アタシがいる朝比奈村の山際にいて、網張ってる。今んとこ、捕まってない」
安倍は俄かに驚いた。事態は予想以上に切迫しているようだった。
「圭ちゃん、今、朝比奈村にいるの?」
もう新幹線も電車も止まっているはずだ。慌てて尋ねると、圭は「ああ」と頷くように応答した。
「今、車で着いた。まだ捜査本部が来てないんだ。とりあえず、アタシが迎えに行くから動くなよ?」
「うん、わかった」
安倍は肯定の返答を返した。
「じゃ待ってて。すぐ行くからっ」
安倍が返事を返す間もなく、ブチッ、と電話は切れた。
375 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:08


高速道路はやはり空いていた。
二時間は掛かるかと思っていたが、予想以上に早く到着しそうだ。
闇に包まれた海岸線を赤いテールランプが線を為して照らし出している。照らされた海は鈍い闇を放ち、波が全てを呑み込むように蠢いている。
圭は指先でハンドルを小刻みに叩いて、苛立ちを抑えていた。
新宿西署を出て、インターに入った頃、改めて紺野と連絡を取った。
その時の紺野の話では安倍と連絡が取れないというのだ。安倍が二人を追って山に入ったことを考えると、携帯電話は圏外で通じないのだろうことは予想が付く。
紺野から聞いた話で現在の状況は大体把握できた。
容疑者の二人は安倍と紺野から逃げて山に入り込んだ。そしてそれを追って安倍も山に入った。
朝比奈村とその隣町では警官と青年隊が山を包囲している。青年隊と警官だけでは人数が足りないので、所轄署と県警の応援と捜査一課が到着次第、山狩りを始めるということだ。
街灯に頼りなく揺れる標識には朝比奈村まで一キロと記されてあった。
いよいよか。圭は気を引き締める。
朝比奈村に入ると、過疎だと聞いていた村は騒ぎに浮かされていた。山に近付くにつれて野次馬が増えていった。
青年隊も結成されているのだから、もう情報は知られているのだろう。おそらく報道に漏れることも時間の問題だろう。
圭のセダンは騒がしい村を抜けて、山の入り口に停車した。
青年隊や警官の持つ懐中電灯やパトカーの赤色灯やらの灯りでやたら眩くなっている。
車から降りると、焦りを表情に滲ませた紺野が駆け寄ってきた。
376 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:09
「紺野。なっちと連絡は?」
口早に尋ねると、紺野は力なく首を横に振った。
「今も連絡入れてるんですけど、まだ圏外で…」
圭は顔を上げて、辺りを見回した。
状況は相変わらずのようで、少数の青年隊と警官が山を囲んでいる。
隣町でも同じ状況が予想される。
記者のような風貌の男が数人見受けられた。マスコミにはもう嗅ぎつけられているらしい。その記者たちが圭の方を気にしていたが、圭は無視を決め込んだ。
この状況では動きようもなかった。
「安倍さん!良かった。何回も掛けたんですよ?」
隣の紺野の声に圭は思わず振り向いた。そして紺野の肩を叩いて、電話を代わる。
「なっち?ホントに良かった。今、どこ?」
応答を求める。
「圭ちゃん…」
と、受話器の向こうから少し掠れた弱々しい声が返ってきた。
「ごめん…わかんないや…とりあえず山」
圭はすぐに迎えに行くとだけ言うと、電話を切って、駆け出した。
「ちょ、吉澤さんっ」
圭の背中に紺野から焦った声が掛けられる。
「居場所もわからないのにどうするんですかっ」
紺野の問いに答えを持ち合わせていない圭は振り返ることなく、山へと足を踏み入れた。
377 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:10


外観とは違い、山小屋の中は広く、綺麗に片付けられていた。
10畳ほどの空間の中央には炉があり、火が起こせるようになっている。壁際の棚には何もがなく、綺麗に整理されている。
ひとみは床が汚れていないことを確認して抱いていた真希を静かに木目張りの床に横たわらせた。
真希の足は痛々しく赤く腫れ上がって、瘤のようになっている。
真希は苦痛に顔を歪め、とても自力で歩ける様子ではなさそうだった。
ひとみはバッグの中を探り、藤本に用意してもらっていた応急処置の用具を取り出した。
そしてその中から、冷却スプレーと包帯を取り出す。
「ごっちん、とりあえず冷やすよ」
真希が頷くのを確認すると、ひとみは冷却スプレーを軽く振って真希の患部に噴射した。
白い冷気が赤く腫れた瘤を直撃する。傍から見ても痛みを伴っているのは明らかだった。真希が顔を顰める。
「痛い?」
恐々ひとみが尋ねると、真希は「ううん」と首を振る。まだ表情は顰められていたが、腫れは引いたようだった。赤い瘤が少しだけ小さくなっている。
「包帯、巻いていいよ。大分、痛くなくなった」
真希が足首を指差す。
「ん、わかった」
ひとみは包帯を適当な長さで噛み千切り、腫れあがる足首に巻いた。少しやり辛かったが、何とか足首全体に包帯を巻いた。
378 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:10
「ごっちん、どう?」
「うん…痛みは引いたけど…」
真希は少し顔を顰めながら、上体を起こした。
「歩けそうにないや…」
申し訳なさそうに首を垂れる真希にひとみは曖昧な相槌を返した。
緩い沈黙の中、風が木の葉を揺する音や虫の鳴き声が山小屋に木霊する。しばらく二人はその音に聞き入っていた。
澄んだ山の夜に響き渡る自然の音。東京では聞き得なかった優しく壮大な自然の音が空間を満たしている。
触発される要素は何もないはずなのに、ひとみの脳裏には東京での殺人劇が思い出される。
男の悲鳴、アスファルトに出来た血の水溜り、ナイフの硬い感触、警棒で殴ってめり込んだ男の頭の感触、あの公園で二人を照らしていた青白い月の灯り。
しかしひとみの頭の中は妙に冷静にその記憶を見つめていた。
今もまだ麻痺したままの感覚は追い詰められているという危機感や圧迫感、この現実を認知させてくれない。
しかし、突き上げる感覚に突き動かされて動く。
まだ、一緒にいたい。
それがどれほど罪深く、欲深いことであっても、それだけは曲げられないものだった。
「ごっちん、少し休んだら、出よう」
真希はこくん、と小さく、か弱く頷いた。
379 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:11


鈍い闇を纏った雲が西の空を微かに侵略し始めていた。
深い闇の中に唯一月と星明かりだけが綺麗に輝いていた。地面がぬかるんでいたのは幸運だった。分かり難いが何とか足跡が読み取れた。
圭は三人分の足跡を追いながら、山を進んでいく。それにこれならひとみと真希の足跡を辿ることも出来るかもしれない。
ぬかるんだ地面に気を払いながら、ぎこちない足取りで進む。そして途中で、圭はあることに気付き、ふと立ち止まった。
ある地点から、足跡が一人分になっている。なくなった足跡二人分の正体はすぐに見当が付いた。
ひとみと真希だ。
通り過ぎた一人分の足跡はなつみであろう。
圭は辺りを見回して、隣の茂みに目を止めた。ある部分の木々が明らかに乱れていた。
「ここ、か…」
圭は草叢を鋭く睨むと、道に続くなつみの足跡を追った。
点々と続く足跡は20分ほど歩いたところで途切れていた。草叢の脇で見覚えのある人影が倒れていた。
「なっちっ」
慌てて駆け寄って、首を支え抱き起こす。安倍は薄目を開けて圭を見上げた。顔は泥や露で汚れていた。
380 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:11
「圭ちゃ…、ひとみちゃんと後藤、真希…見つけられなかった…ごめ…」
圭は消え入りそうな声で訴える安倍の頭を軽く撫でた。
小さな体がいつもよりもさらに小さく見えた。
「大丈夫だって」
圭は静かに安倍を離すと、言い聞かせるようにはっきりと言った。
「途中で二人の足音が途切れてた。多分、途中で違う道に入ったんだと思う」
安倍は一瞬、目を丸くした後、圭の手を解いて、自分の力で立ち上がった。
疲労困憊の体は震えていた。
「大丈夫?」
近くの木に凭れる安倍に声を掛ける。
「大丈夫」
安倍は毅然と答える。
「行こう…。先にあたしたちが見つけないと…あの子たち…」
そこで言葉を切って、苦々しく唇を噛み締めていた。圭は黙って頷くと、安倍の肩に手をやって支えた。
そして二つの影は引き返していった。
381 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:12


小屋の中は相変わらず薄暗く、息苦しい。
その要因は小屋の面積だけではなく、なんだか丸太の壁が圧迫感を持って迫ってくるような感覚を覚えるからだ。
湿った木の空気が纏わりつくようだった。
二人はそれぞれの荷物を探っていた。ここで、荷物を整理しておこうとひとみが提案したのだ。
「ウチ、全部、置いていくよ」
ひとみが自分の荷物を整理しながら、真希に言った。
真希が顔を上げる。先ほど確認してみると、足の腫れの具合は随分と良くなっていた。拳大の瘤は赤みが引いてピンポン球ほどの大きさになっていた。
「じゃあ、あたしもそうする」
真希が足を庇いながら立ち上がった。
ひとみはその隙を盗んで、そっと拳銃を上着のポケットに忍ばせた。トリガーの部分に触れないように慎重に行う。
ずっしりとした重みがジャケットのポケットを引っ張るようだった。
真希は天井を見上げていて、気付いた様子はなかった。
「歩ける?」
尋ねると、真希が手を伸ばしてきた。
382 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:12
「ん」
ひとみはその手を取って自分の肩に掛けてやった。そのままの態勢で真希の肩を支えながら小屋を出た。
濁りのない、澄んだ夜空に星が踊り、黄金色の月が浮かび上がっていた。
星や月やらの光は天から降り注ぎ、二人を照らす。スポットライトのように二人だけを映してくれる。
二人は思わず目を奪われた。
手を伸ばせば触れられるような気がした。
月に触る。星を掴み取る。夜空に飛びこむことさえも簡単なように思えた。
「…行こうか」
ひとしきり空を見つめた後、ひとみは呟いた。
「うん」
真希は小さく答えた。
さあ、夜空へ飛びこもう。
うん、行こう。
回り道してきたが、答えは単純で、全ての答えはただそれだけのことのように思った。
383 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:13


やたらと騒がしくなり始めた。
目の前に広がる森の前にはパトカーの赤色灯、唸るサイレンの音、ざわめく野次馬たちの喧騒に包まれていた。
紺野の周りには青年隊、所轄署、県警からの応援の刑事、捜査本部の捜査員、記者や野次馬などで溢れかえっていた。
先ほどから携帯電話で圭に連絡を取っているもののやはり一向に繋がらない。
現在、電波の届かない場所にあるか、電源を切っているので、繋がりません。
先ほどから延々と聞いている機械的な女性の声。
紺野は苛立ちを隠さずに乱暴に電話を切った。
きちんと止めておくべきだった。安倍はどこにいるか分からない。そこで、圭まで連絡が取れなくなるのだけは避けるべきだった。
そこへ黒塗りの車が滑りこんできた。
運転手が先に出て来て後部座席のスライドドアを開ける。そこから出てきたのは水谷だった。スーツ姿にウインドブレイカーを羽織っている。相変わらずの顰め面だった。
水谷は視線を配せて紺野を見つけると、静かに歩み寄っていった。
「新宿西署の吉澤と安倍が中にいると聞いたが、どういうことだ」
その響く低い声が迫力を帯びていた。元々の性質なのか、それとも怒りを静めているのか、判断が付かなかった。
「安倍さんが二人を発見して追いかけて山に入ったんです。それを追って吉澤さんも。隣町では網を張ってらしいですから、おそらく山の中にまだいると思われます」
嫌悪感を持っていた水谷に詳しく説明したのは、自分の体中を侵食する不安を誤魔化すためだった。
やたらと体が熱いのに、芯は冷めきっている。そんな不快な感覚が募っていた。
384 名前:14th.一つの夜の始まり 投稿日:2005/02/19(土) 23:13
何かを考えていないと、していないとあっという間に全てを呑みこまれそうな不快感だった。
警察試験の面接の時も、空き巣を追う時とも圧倒的にレベルが違う、初めて味わう、本物の緊張だった。
紺野は拳を握り締めた。
水谷は特に言葉も返さずに青年隊を含めた捜査員を集めて、説明をしに行った。
「みなさん、聞いてください」
張った声が紺野にも聞き取れる。
「山狩りを開始します。二人は必ず山の中にいます。ここには十分な数残ってもらいます。捜査本部、所轄署は山に入って、青年隊の皆さんはここで網を張っていて頂きたい」
エリート至上主義者の水谷らしいやり方だ、と紺野は息を吐いた。
山に入るために重装備をしていた近隣の青年隊は気を削がれたようだった。
水谷はそんな様子には目もくれずに捜査員たちと打ち合わせを開始していた。
周りには記者が群がっていた。テレビカメラの前で実況する記者が並んでいた。
「いよいよ山狩りを開始する模様です!」
興奮を隠しきれない口調で記者は捲くし立てる。
様々な騒音が不快感を煽り、不安感を募らせる。訳もなく、背筋がぶるっと震えた。
紺野は再度、携帯を取り出して圭の番号を呼び出した。数回のコール音の後、再びあの機械的な声に切り替わる。
紺野は溜息を吐いて、電話を切った。
山を見上げて、また背筋が震えた。

385 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/19(土) 23:13
 
386 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/19(土) 23:13
 
387 名前:chaken 投稿日:2005/02/19(土) 23:16
第14話「一つの夜の始まり」終了です。

>359様。見守っててください。
>360様。どうもです。励みになります。

次回、最終話となります。
388 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/19(土) 23:32
凄いです…
次が最終話かな?
とにかく見守りたいと思います
389 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/20(日) 00:15
お疲れ様です。
もうラストなんですね。
とても寂しいです。
390 名前:wool 投稿日:2005/02/24(木) 00:13
更新お疲れ様です。
次回ラストということで。…少し哀しいですが、じっと待たせて頂きます。最後まで頑張って下さいね。
391 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:41


星がさんざめいていた。眩しいほど、燦燦と輝いていた。
先ほどまでの山の中では樹木のざわめきが森に共鳴して無気味な音を立てていたのに対して、森から抜けたこの場所はまったく静寂を保っていて、時折、鳥が鳴く声が明瞭な音で甲高く響くのみだった。
静かで深い青。それが夜空だった。
月明かりが塗りこめられた夜の闇を照らしている。海は全てを飲みそうなほどの闇を称えて無気味にうねっていた。
そんな夜景を背にして断崖絶壁に建物が建っていた。
平屋根の小さな建物。茶色だったと思われる塗装は剥げている。壁にはところどころに穴すら空いていた。
この闇の中でもその建物が激しく傷んでいることが分かった。屋根に付いている十字架でこの建物の正体が判明した。
「教会…」
ぽつりと真希が呟きを落とした。
「ホントだ。教会って初めて見る」
真希の肩を支えたまま、ひとみは答える。
通ってきた道筋は一切、覚えていなかった。例の山小屋から続く道をそのまま沿って進んできて、辿り着いたのだ。
392 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:41
何度か分岐点があったにも関わらず、ここへ辿り着いたのはもしかしたら何かに導かれたのかもしれない、とその教会を見上げながらひとみは思った。
ふとジーンズの後ろポケットの硬い感触を確かめる。残酷なほどの冷たさがひとみの手を冷やした。
教会。
最後の場所には相応しいかもしれない。ひとみは自嘲的に笑って、また十字架を見上げる。
十字架の先端に鈍く月光が反射していた。何の変哲もない十字架は吸いこまれそうな不思議な魅力を放っていた。
やはり、自分たちはここに導かれたのだ。そんな気がしてならなかった。
どちらともなく、二人は視線を交わした。
「入れるかなあ」
真希は視線で教会を指した。
「ドア、少し開いてる」
ひとみは両開きのドアを指差した。朽ちかけた木製のドアは少しだけ開いていて、そこから闇が漏れていた。
「入ってみる?」
尋ねると、「うん」と、真希は小さく呟くように答えた。
「じゃ、行こう」
「ん」
ひとみは真希の肩を支えながら教会に向かって踏み出した。二人の足はもう、迷わなかった。
393 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:42


森の風景はなかなか変化を為さなかった。
20分ほどであの草叢から安倍のいた場所まで行けたのだが、安倍を支えた状態ではひたすら遠く感じた。どれぐらい歩いたか分からなかったが、まだあの草叢には辿りついていない。風景も一切変わってはくれず、自分がまだ同じ場所を歩いているのではないか、という錯覚に囚われそうになる。
行く手を遮る木々を掻き分けて二人は進んでいく。
「アタシ、あいつらを助けてやりたい」
ふと、安倍の肩を支えたまま圭が呟いた。安倍は答えなかった。圭は少し間を置いて続けた。
「確かに、二人のやったことは取り返しのつかないことだけど、償ってから、もう一度二人で、過ごさせてあげたいんだ」
今更、二人はかけがえのない絆で結ばれていることを圭は確信していた。こうして必死に逃げているのは、捕まりたくないから、というだけの理由ではないような気がした。
「そだね」
安倍は俯いたまま、小さく答えた。
「二人は、たぶん、一緒にいるべきなんだろうね」
二人は、一緒にいたいから逃げているのだ、と圭は思った。
ようやく草叢を抜け出した。広い場所にぽつんと建っている山小屋が黄金の月のスポットライトで照らされていた。
394 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:42
「もう大丈夫っぽい。ありがと」
安倍は肩に掛かった圭の手を解いて、山小屋の中へと駆けていった。圭も小走りであとに続く。
外観と反して空間は綺麗で広かった。天井の豆電球の薄明かりが室内を照らしている。棚には何もなく、綺麗に整頓されている。中央には炉もあり、火を炊けるようになっているようだ。
踏み進むと、ギシッ、と床板が軋んだ。
「圭ちゃん、見て」
安倍が床に無造作に放り出されている二つの鞄を指差した。寄り添うように二つのリュックが横たわっていた。
「これ、後藤とひとみちゃんが持ってたリュックだよ」
安倍が鋭く目を細めて言った。
「じゃ、これは、二人が置いていったってこと?」
「そう、みたいだね」
安倍は腰を沈めて鞄を物色し始めた。圭ももう片方のリュックを開いた。
中身は救急セット、着替え、10万円ほどの現金だった。逃亡資金と考えるのが正しいだろう。
圭はその中の着替えに注目した。
鞄の中には着替えが結構な割合を占めていた。その中の一つを広げてみる。
白いポロシャツ。胸のロゴマーク。
見覚えがある。間違いなくひとみのものだった。少しポリエチレンの生地が湿っている。おそらく着た後なのだろう。
395 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:42
ひとみが圭の前から姿を消した際、着替えはほとんど残っていたが、この白いポロシャツとジーンズだけがなかった。おそらくひとみが着ていたからだろう。
「これ、ひとみのだ」
圭の呟きに安倍が振り向く。
「間違いないの?」
性急に安倍が尋ねてくる。
シャツをもう一度、広げる。
ひとみとすぐに結び付いたのはひとみがそのシャツを気に入ってきていたからだった。何度かそのシャツを着たひとみを見た。間違いなかった。
「じゃあ…これは後藤の…」
安倍が目の前のリュックを掲げる。ひとみのリュックと同じデザインだった。圭は頷いた。
「だろうね」
それといった確証もなかったが、状況から見ると明白な事実だった。
「よし」
安倍が立ち上がった。
「圭ちゃん、行こう。二人はここを通ってる。奥にいるかもしれない」
「ああ」
圭はなつみと目を合わせて、頷いた。
396 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:43


次々と山に入っていく捜査員たちを横目に紺野は携帯電話でひたすらに圭の番号を呼び出していた。
安倍と圭が合流出来たか確認したかった。それに現在の状況をなんとしても伝えたかった。
ひとみと真希が水谷ら捜査員に見つかる前に圭と話をさせたかった。そしてあわよくば自首させたかった。
二人が根っからの悪人ではない。今まで調べてきて確信を持って断言できることだった。
確かに人を殺した事実には変わりない、二人を自首させることは刑事としては正しくないのかもしれない。
けれど、たとえ甘いといわれても、自首させたかった。
この事件に関しては、二人が連続殺人犯ということで拳銃の所持が許されている。山に入っていった捜査員たちは既に拳銃を携帯している。
相手が抵抗した場合には威嚇射撃の後、急所を外した発砲も認められているのだ。
事情も知らない捜査一課の連中に正当防衛、といって二人の命を危険に晒したくなかった。
しかし、一向に電話は繋がらない。
現在電波の届かない状態にあるか、電源が入っていません。
声の途中で電話を切る。全く変化のない機械的な女性の声がやけに挑発的に聞こえて気に障る。
397 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:43
紺野は苛立ちながら電話をしまうと、溜息を吐いた。
「あーもう、ちゃんと合流したのかな…」
相変わらず山の前のこの場所の喧騒は凄まじかった。
村の野次馬、テレビ中継の記者たち。おそらく現在テレビはどの局でもこの事件で一杯なのだろう、中継者が何台も停めてある。そしてカメラの前で記者は現在の情報を繰り返し伝えている。
紺野は改めて、事態の大きさを思い知った。
これほど、大きな事件は初めてだった。
強行犯係の刑事になるのが目標である紺野にとって、盗犯係にいる内にこの事件に関われたことは一般論ではいい経験になるのかもしれない。しかし圭や安倍の様子を見れば、そんなことは考えようもなかった。
むしろ、いっそ逃げたいとすら思っていた。
張り詰める緊張感、切迫したこの状況に自分が場違いに思えてくるのだ。
先ほどから足の震えは止まらない。しかし意地と執念でなんとか平常を繋ぎとめていた。
圭に現在の状況を伝えることが今の自分のただひとつの使命だと確信していた。
ポケットから携帯電話を取りだす。再び電話を掛けなおすが圭には繋がらない。
「あーもう…」
紺野はようやく中へと入る決意を固めた。ふと山を見上げる。
村人の情報によればこの山は結構複雑に入り組んだ道が続いているらしい。
木の隙間から黒い闇が漏れている。
一筋の風が吹き抜けた。
ふと木々が揺られてざわめいた。
なんとも不気味な様子に紺野の胸に黒い予感が過ぎった。
終焉の予感だった。
398 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:43


辺りには変わり映えのしない風景が続いていた。
ひたすらに木々が連なっている山道は足元に気を払っていないと進めたものではない。
もう、どこまで歩いたのだろうか。
圭の肩を借りずに自分の足で歩けるようになったものの、鈍った思考を働かせるのは難しかった。
疲労もおそらく普段ならこのまま崩れ落ちそうなほどだ。ただ、意地と執念がなつみの足を何とか支えていた。
ひとみは答えた。「ごめんなさい…」と、掠れそうな声で意思を示した。
覚悟を決めた声だった。
だからこそ、自分は追わねばならない。
その覚悟を止めるために、彼女たちを止めねばならない。
足を止める。ぬりゅ、とまた土道がぬかるむ。
先の細い山道が二つに分かれていた。
二人は顔を見合わせる。
「ちょっと待って」
圭は言うと、地面に目を落とす。足跡を確認するためだ。
山道にはしっかりと跡が残っていた。
しかし、その足跡は頼りなく、ふらついていた。
この道を辿った彼女たちはどんな気持ちだったのか。
そして、彼女たちが覚悟している行動。
安倍の霞みがかったような思考の中で唯一はっきりと形付く、彼女たちの覚悟は止めるべきものだ。
「こっちだ」
圭が方向を指し示す。なつみは頷くとその道へと進んでいった。
絶対に死なせない。死なせてたまるもんか。
399 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:44


その山の内部は予想以上に広大で、複雑に入り組んでいた。
地面のぬかるみのこともあり山狩りははかどるはずもなかった。案の定、捜査員たちは立ち往生している。
山道に慣れた町の人たちを加えた方がはかどるだろうに。
心の中で水谷に対する悪態を吐きながら紺野は足元に気を付けて進む。
ぬかるみに足跡が残っているかもしれない、と期待したが、捜査員たちの足跡で掻き消されていた。
「ん?」
ふと、立ち止まった。
横にある草叢に目を止める。
枝や葉が乱れて、明らかに不自然だ。草叢の中央辺りに隙間があった。
まるで人が通った後のようだった。
捜査員が通る道ではないはずだ。捜査隊は奥へと進んでいるのだ。だれもこの草叢の違和感には気付いていないようだ。
紺野はその隙間を掻き分ける。尖った草叢に不自然に空いた隙間は続いていて、通り道のようになっていた。
通り道、というより誰かが通った跡という方が正しかった。
間違いない。
圭、安倍、もしくはひとみや真希が通った跡だ。
いや、よく考えると、圭と安倍はひとみと真希を追っているのだ。おそらくこの草叢をひとみと真希が通ったのに気付いて、安倍と圭が追っていたのだろう。
400 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:44
紺野はその隙間をくぐり、手で草を掻き分けながら進んだ。誰かが通った所為でそこは何とか通れるくらいの幅になっていた。
時々枝木が刺さるが、気にせずに走りながら進む。
自然でこんな道が出来るはずはない。極めて近い時間に誰かが通った証拠だ。確信を深めていく。
ようやく草叢を抜けると、休憩所らしき山小屋が月に照らされていた。紺野はそのドアを開けて中を見回す。
そして二つの鞄に気付く。中身が出て少し散らかっていた。
その中身で、それが誰の持ち物か直感的に分かった。
女物の衣服、救急セット、さらに現金。おそらく現金は逃亡資金だろう。
間違いなく、ひとみと真希はここに来ている。そして荷物を捨てて逃げている。あの草叢の道を作ったのはひとみと真希だ。
紺野は山小屋を出ると、脇の小道に続く道に駆け込んだ。
土は乾ききっていないが、踏み荒らされてもいない。
確かな足跡が残っていた。
しかし、二人分ではない。もっと多い人数分の足跡だ。
捜査員が先を越していたことは考えにくい。だとすると必然的に答えは判明した。
ひとみと真希を追って圭と安倍がこの道を通っている。圭と安倍はひとみと真希に追いついているのだろうか。
紺野は足跡に沿って全力で駆ける。
安倍と圭の足跡は分岐点でも正確にひとみと真希の足跡を追っている。先についたひとみと真希の足跡を追ったのだろう。
401 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:45
どくんどくん、と心臓が早鐘を打つ。
走っているせいではない。
もうすぐ自分が辿りつく結末に対する怯えと期待。
もし、ひとみや真希が最悪の結末を迎えていたら。
もし、圭と安倍が二人に追いついていたら。
細い山道がようやく途切れ、広い空間に出た。
海を背にした崖。その中央には古めかしい教会と思しき建築物が建っていた。月が建物の十字架を反射する。
教会だ。
教会を前にして二つの人影が立っていた。
「吉澤さん!安倍さん!」
紺野の声に反応して二人が同時に振り向いた。
「紺野!」
圭が目を見開いて声を上げる。
「あんた…」
「それより、二人は…ひとみさんと後藤は…」
圭の声を遮って紺野が尋ねると、圭は目を伏せた。安倍に視線をやると、安倍は教会を睨んだ。紺野も教会に視線を移した。
「二人がいる。入り口は閉まってる。声も届かないみたい。叩いても反応なし」
安倍が簡潔に伝える。
安堵したような、不安なような、全く相反する感情が再び体を覆った。
402 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:45
「お前ら」
そこで野太い声が低く辺りに響いた。
「そこで何をしてる」
後方に数人の部下らしき男を従えた水谷が現われた。紺野が通ってきた道からではなく、別の道からだ。おそらくあの山道を真っ直ぐ歩くとここに通じているのだろう。
「何故、お前らがいるんだ」
水谷は低い迫力で尋ねる。安倍は目を逸らして教会を指差した。
「そんなのどうでも良いでしょ。中に二人がいる」
水谷の表情が俄かに変わった。鋭く目を細めて上着の拳銃ホルダーから拳銃を取り出した。安倍が目を見開いて水谷に詰め寄る。
「ちょ、待ちなさいよ。殺す気?」
「ああ」
水谷は表情を変えずに答える。
「場合によってはな。拳銃携帯命令も出てる。相手は連続殺人犯だ。何があってもおかしくない。例え家族でも、だ」
圭が弾かれたように顔を上げる。目を丸くして水谷を見つめる。絶望的な色に染まった圭の表情が見えた。
水谷は拳銃の安全装置を解除した。カチン、と撃鉄が硬い音を立てた。
あまりに現実離れしているように思えた。人の命がこの場所で失われるかもしれない。
刑事になって、そういう場面に出会ったことはなかった。
改めて、刑事という仕事が人の命に携わる仕事だと圧し掛かってくる。
紺野はどこか呆然と立ち尽くしていた。
403 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:45


教会の前には捜査員たちがどんどん駆けつけてくる。
装備を固めた射撃班の刑事たちは拳銃を構えて教会のドアを包囲している。痛いほどの緊張感に満ちた沈黙を保ちながら、静寂に満ちた教会を見守っている。
圭と紺野と安倍は何も出来ずにただ動向を見守っていた。
文字通り無力だった。
安倍には教会の中で真希とひとみが何をしているのか知る術はないし、言葉を届かせることも出来ない。水谷や、銃を構えている捜査員たちを止めることも出来ない。
ただこの状況の行く末を、指を咥えて、見守るしかない。
となりで、圭が祈るように両手を組んだ。そして天を仰ぐ。つられて、安倍も空を見上げた。
夜空にはただ闇が広がっているのみだった。パトカーの赤色灯やライトに反応してか、こころなしか淡い赤に夜空が染まっているように見えた。
懐中電灯の輪やペンライトが古めかしい教会の門扉を照らしている。
その奥にひとみと真希がいる。
二人は今、どんな気持ちでいるのだろう。
安倍は悔しさに顔を歪めて地面を踏み締めた。となりで紺野は緊張のあまり表情を硬直させていた。
404 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:46
圭はただ目を瞑っているだけだった。
今、何を思っているのだろう。ぎゅっと胸が締めつけられるように切なくなった。
「ひとみ…」
圭が呟く。彼女は泣かない。けれど、圭の呟きは引き裂かれそうな悲しみを秘めているように思えた。安倍は圭に駆け寄り、崩れ落ちそうな圭の体を支える。
「大丈夫だよ、大丈夫だから…」
安倍はただその言葉だけを繰り返した。
まるで自分自身に言い聞かせるように。
これ程、弱い圭を見たのは安倍の記憶では初めてだった。
圭は両親を失い、より家族というものに敏感になり、憧れていた。ひとみを誰よりも大事にして、愛していた。
そのひとみちゃんさえ奪うんですか、神様。
安倍は自身の無力さを噛み締めた。
圭の体を抱きしめることしか出来ない自分の無力さを悔いた。この小さな体を抱き締めながら、祈ることしか出来なかった。
助けて。
405 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:46


「ひとみ…」
圭は瞼に焼き付けるように教会のドアを見つめる。
両手を組んだままでただ見守っていた。安倍が肩を支えてくれている。
場には緊張が張り詰めていた。
四方からドアを囲まれている。拳銃を構える捜査員たち。脇で紺野が顔を強張らせて、教会のドアを見つめていた。
カチカチと奥歯で音が鳴る。体の震えが止まらない。組んだ手がぶるぶる振動する。
体の芯が震えているような居心地の悪さだった。
「ひとみ…」
消え入りそうな声で圭はただその名前を繰り返す。
愛しい家族の、妹の名前を。
ずっと二人きりだった。
両親が生きていた頃から、仲が良かった。ひとみはずっと圭のあとに引っ付いてきていた。
両親が死んでからは、本当に二人きりになってからは、圭にとってひとみは唯一の支えだった。ひとみがいなくなるなんて考えもしなかった。
その、考えもしなかった状況が目の前にある。
失うことが怖い。
ごく単純な、その恐怖に圭は過剰ともいえるほど敏感だった。両親を失った時から、ずっと。
ひとみだけは、失いたくない。
『お姉ちゃんは強くて優しいね』
ふと、幼い日のひとみの台詞がフラッシュバックした。
強くて、優しい。
いわば、このひとみの言葉が刑事になるきっかけだった。
刑事になった自分が、そのひとみ自身を追っている。なんで、こんなことになったんだろう。
「ひとみ…」
懇願を祈りに乗せて、ただ呟くことしか出来なかった。
どんな形でもいい。
生きて欲しい。
淡い赤い空にいるはずの神様に祈る。
ひとみだけは奪わないでください。ひとみだけは――。
406 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:46


扉を開くと埃が舞いあがった。真希は手で仰ぎ埃を払う。手を離すと、扉がずんと重い音を立てて閉まった。
「一応、鍵、かけとくね」
ひとみが言って、扉に留め棒を差しこんで、鍵を掛けた。外からの音が完全に遮断された。
照明もなく、薄暗い。
中央には褪せたバージンロードが伸びていた。両側には革の長椅子が数列並べられている。
正面に十字架が掲げられていた。
そしてその傍らには像があった。
マリア像だ。
朽ちていて、銀も褪せていて、手足が欠けている。
しかし、真希には優しく穏やかな聖母に見えた。
神父の教壇の前には欠けた天井の隙間から月光が落ちて、スポットライトのようにそこを照らしていた。
真希の手が温かさに包まれた。ふと見ると、ひとみが真希の手を握っていた。
「よっすぃ」
真希はひとみの顔を覗きこんだ。ひとみは微笑む。
「せっかく教会に来たんだし、結婚式、しない?」
軽い口調でひとみが言って、手を差し出してくる。真希は一瞬何を言っているかわからず目を丸めた。そしてようやく言葉を意味を咀嚼すると笑みを零した。
「うんっ」
真希はひとみの手を握った。温かかった。優しい体温だった。
「ごっちんと会えてよかった」
一歩、ひとみがバージンロードを踏み出す。手を繋いだまま、幸せの道を進んでいく。
「よっすぃと、会えて良かった」
真希も一歩進んでひとみと並ぶ。
「神様に感謝しなくちゃ」
ひとみが一歩前進する。
「…あたしは幸せじゃなかった、いつだって。よっすぃと会うまでは。少し遅かったんだね」
一歩踏み出して、ひとみと並ぶ。
407 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:47
ひとみが腕に力を込めて、真希は引き寄せられた。
「遅くなんかないよ。会えたことは、ごっちんと過ごした思い出は変わらない」
ひとみが大きく前に跳んだ。繋がれていた手が、離れる。
真希は呆然と離れた自分の手を見つめる。
体温がなくなった。
ひとみが振り向いた。
「幸せだよ、本当に」
大きな手を差し出す。
幸せに通じる手。自分が触れてはいけないはずだった手。
「ごっちん」
ひとみの心地良い声が自分の名を呼ぶ。
真希は震える手をゆっくりとひとみの手に重ねた。するとひとみの手は真希の手を引っ張り、引き寄せた。
真希の体がひとみの胸へと収まる。ひとみの手が真希の体を強く引き寄せる。
自然と、真希の瞳から雫が零れた。意識する間もなく、溢れていた。
「はや、く…っ、早くっ…気付けばっ…良かった…」
真希は顔をひとみの胸に埋める。
暖かい。優しい。
自分が感じたことのなかった優しい鼓動。
ひとみの香り、声、感触。全てが安心させてくれる。
「幸せは…こんなに…近くに…あったんだね」
真希の背中をひとみの手が撫でた。
再び、手を繋いで、バージンロードを進む。
そして、ついに月光が照らす場所へと二人で立った。
「へへっ」
ひとみは少年のように照れくさそうに笑う。
月に照らされたひとみはなによりも美しく儚かった。真希はひとみを見上げて見惚れた。
こんなに手を伸ばせば届く場所に、ひとみがいた。
回りくどいことして、こんなぼろぼろになってまで、あたしは何をしていたんだろう。
こんなに近くに、ひとみがいたのに。幸せはあったのに。
「キスして」
真希が目を瞑った。
「もちろん」
ひとみは優しい笑顔で答えた。
408 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:47
だんだんとひとみの影が近付いてくるのが分かった。
二人の影が月明かりで繋がった。距離がゼロになる。
永遠を誓う口付け。
過ぎていく時間への抵抗のキスだった。
唇を離すと、真希は照れくさそうに自身の唇に触れた。温かさが残っている気がした。
ひとみは笑って真希の頭を撫でた。そして、ふと気まずそうに表情を固くした。
「ごっちん…うち、さ…」
ひとみがジーンズの後ろポケットから取り出したのは重量感のある拳銃だった。型やメーカーやらは判らない。
だが、真希はそれを知っていた。
藤本が密かに拳銃をリュックの中に忍ばせてあったものだ。そして、あの山小屋でひとみが密かにそれを持ち出していたことも知っていた。
真希はジーンズのポケットに手を差し込むと、黒光りするそれを取り出した。ひとみが目を見開く。
「よっすぃの考えてること、分かるよ。だから、あたしもこれを持ってきたんだ」
真希は拳銃を月明かりに晒した。遠い目をして、無造作に空いている天井の穴から夜空を見つめる。
空が赤く濁っているのは幻だろうか。
幻想的な赤に染まる空は何を思っているのだろう。
淡い赤の中に天使が見える気がした。
409 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:47
「よっすぃ…」
真希はひとみの大きな温かい体を抱き締めた。
「ごめんなさい…」
真希が漏らした。ずっと心の奥で燻っていた罪の意識だった。
ひとみを巻き込んだのは自分だ。
「だから…」
よっすぃとなら、生きることが出来そうだったんだ。
よっすぃなら、愛せるような気がしたんだ。
「ごめんなさい…」
誰よりも優しくて温かいあなたをこんなことにしてしまって、ごめんなさい。
ごめんなさい。
「いいんだよ」
ひとみは笑みを漏らして言った。
「大丈夫」
ひとみが繰り返す。
真希は振り返ってドアを見据えた。その先に何が待っているのだろう。
終焉、それとも――。
「もう、終わりかな…」
ひとみは拳銃を握った。真希は首を振った。
「違うよ。きっと違う…」
言葉は続けられないけれど、終わりではないことを信じたかった。
二人は徐々にドアに向かって歩を進めていく。
褪せた道、ドアまでの距離が縮まっていく。二人は寄り添っていた。
扉は目の前にある。
隙間から光が漏れていた。どこかへ続く、眩しいほどに輝く光。
「ありがとうね、よっすぃ」
真希が唐突に呟く。額をひとみの腕に当てる。
「幸せだ、あたし」
嬉しそうな笑みを零してひとみを見上げる。ひとみは慈愛に満ちた表情で真希を受けとめてくれた。
410 名前:15th.天使に抱かれて世界は眠る 投稿日:2005/02/25(金) 20:48
「ごっちんを愛してる」
ひとみが言う。
「…うん、あたしも」
短い会話が交わされた。
それはとても脆くて、とても強い言葉。紛れもない、限りない真実の言葉だった。
愛してる。
うん、愛してる。
世界がその言葉だけで成り立っているような気がした。
終焉の時が迫っていることを感じた。
もう、手を伸ばせば届くほど――。
二人はもう一度、顔を見合わせて、微笑みあった。
両開きの教会のドアの隙間から光が二人を導いていた。
眩い光の中に天使がいる気がした。

そして二人は限りない光の中へと飛び込んだ――。


――了――

411 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 20:48
 
412 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 20:48
 
413 名前:chaken 投稿日:2005/02/25(金) 20:54
最終話「天使に抱かれて世界は眠る」終了です。

これにて「赤い夜の空に祈ること」は完結です。
応援してくださった皆さん、ありがとうございました。

>388様。レスどうもです。完結しました。
>389様。終わってしまいました…。
>390様。いつもレス、本当にありがとうございました。

皆様のレスが作品を書く励みになりました。どうもありがとうございました。

414 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 21:59
完結お疲れ様でした。
いい作品をありがとうございます。
415 名前:名無しさん 投稿日:2005/02/26(土) 08:31
お疲れ様でした。
いつの間にか涙が溢れておりました。
次回作にも期待しております。是非是非またよしごまで…
416 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/26(土) 10:58
お疲れ様でした。
すごくせつない気持ちになりました。。。
やっぱりよしごま最高っす☆
417 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/27(日) 10:11
完結おめでとうございます!
この作品は他の作品と違って読んでいて独特の感じがし、あっという間に話の中に引き込まれていました。
一見哀しいようなお話ですがその中は暖かさもあり毎回更新が楽しみでした。
終わってしまうのは少し寂しいですが次回の作品にも期待しております!
お疲れ様でした!
418 名前:翡翠 投稿日:2005/02/27(日) 16:30
完結おめでとうございます。
お疲れ様でした!
すっごい感動しました!!
次回作も楽しみにしてます。
他の方も書かれてるけど、私も次回作もよしごまがいいな・・・。

419 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/01(火) 12:03
いい作品を読ませて頂きましたありがとうございました
420 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/07(木) 17:58
事件後に、プリクラ(手紙)が圭ちゃんの手元に
届く事を考えたら・・・(泣)
次回作も楽しみだけど、後日談も読んでみたかったり(爆)
421 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/04/30(土) 22:33
泣けました
422 名前:奈々氏 投稿日:2005/06/05(日) 04:25
今日発見して一気に読んでしまいました。
本当に引き込まれてしまって感動でした。
ここで終わるのもまた味があるけど
>>420さん同様、続きも読んでみたかったりします。

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