魔物語
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/23(木) 22:26
- れいな主役
更新は多分遅いです。。
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/23(木) 22:26
- 《狭い道を抜けて、》
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/23(木) 22:26
- 表へ出ると、風が強くなっていた。
薄暗い空に月が浮かんでいた。ぼんやりと見上げながら歩いていると、なんだか
月の上を歩いているような気分になった。
11月にもなると、日が落ちるととても肌寒い。雨が上がったばかりみたいな、
草いきれと埃の混じった匂いが鼻についた。
重たいバッグとバイオリンのケースを抱えて、公園を横切った。近道なのだ。こんな時間
には人気もなく、放置された遊具や砂場に忘れられたおもちゃなどが、さみしそうに午後
の静寂の中を微睡んでいた。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/23(木) 22:27
- 色褪せたベンチに女の子が座っていた。白の、とても地味な服を着て、うとうとと眠って
いるように見えた。顔色もなんだか青白くて、不健康そうだった。
なんとなく横目で見ながら歩いていたら、急に女の子が顔を上げたので、思いっきり
視線がぶつかってしまった。
私はばつの悪そうにアタマを下げた。女の子はでも、どこを見てるのか分からないよう
に視線を彷徨わせている。
ネコっぽい目つきでキレイな子だとは思ったけど、なんだか危ない子なのかもしれない。
それに最近、学校で女の子の幽霊が出る、なんて噂が流れたりしている。下らない噂だ
とは思っていたけど、実は少し怖い。
私は目をそらすと歩調を早めて通り過ぎようとした。と、背中越しにか細い声であっと
聞こえた。
恐る恐る振り返る。女の子は、真っ青な顔をしてベンチに横たわっていた。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/23(木) 22:27
- ……なんだかコントじみた動きだったけど、見て見ぬふりなんて出来ない。
しょうがない。私はベンチに駆け寄ると、彼女の頬に手を当てた。ひどくカサカサと
乾いて、冷たい。
「ねえ、大丈夫?」
女の子は薄く目を開けると、弱々しくほほえんだ。とがった八重歯が、唇のあいだから
ちらっと覗いた。
「うん。平気」
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/23(木) 22:27
- 強がってるみたいだ。私はちょっとムカっとして、肩をゆすった。
「平気じゃないじゃん。倒れてるし」
「うん……平気」
かなり朦朧としてるみたいだ。私はちょっと躊躇したけど、肩を支えながらカラダを抱き
起こした。力の抜けたカラダは、ビックリするほど重たかった。
「病院行った方がいいよ。立てる? ほら、病院」
「いや」
「いやじゃないよ」
うっすらと汗の浮いている額に手を当てた。表面は冷たいのに、奥の方からはすごい
熱が伝わってくるみたいだった。
「熱すごいじゃん!」
「うん……」
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/23(木) 22:28
- 辛そうな表情じゃなくて、なぜかすごく幸せそうに笑ってる。これは本当にやばいかもしれない。
「ち、ちょっと待ってて、すぐ救急車呼びに」
「いや!」
女の子は私のシャツをつかんで離さない。ビックリするほど強い力で、首が絞まりそうに
なった。
「離してってば、携帯が……」
「いかないで」
女の子が言う。私は腕をつかむと、しょうがないのでまたベンチへ座り込んだ。
「……家、近いの?」
ふるふると首を振った。私の学校で見たことのある子じゃなかった。どこか別の街から来て、
はぐれてしまったのだろうか。
「連絡は?」
首を振る。迷子か。見たところ、私と歳も変わらないような感じなのに。なんかやっぱり
どこか抜けてるみたいだ。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/23(木) 22:28
- 「でも寒いし……ここで寝てたらホント死んじゃうよ?」
「それは困る」
「ならやっぱ病院に……」
「いやいや」
駄々っ子だ。言っても聞かないタイプみたい。
「……ウチ来る?」
なんとはなしに言ったとたん、女の子はパッと日が差したみたいに笑顔になった。
「うん」
満面のスマイルで頷く。なんだか、罠にはめられたみたいな気分。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/23(木) 22:28
-
◇
ふらふらと何度も転びそうになりながら、ようやく二人で家までたどり着いた。
我ながらお人好し──いや、ここはボランティア精神旺盛ということにしておきたい──
だとは思ったが、とりあえず乱れっぱなしのベッドに寝かせて、水を一杯飲ませてあげる
と、ようやく落ち着いた表情になった。
バッグとバイオリンケースをソファの上に放ると、机の椅子を引っ張ってきてベッドのそばに
腰を下ろした。女の子の顔をのぞき込むと、八重歯を見せてはにかんだ。
「それで、あんた……」
「えり」
「えり……ちゃんは、どこから来たの?」
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/23(木) 22:29
- どういう事情なのか分からないけど、一人ぼっちで知らない街で倒れかけてるということ
なのだから、いろいろとあるに違いない。でも、いつまでもこうやって知らんぷりしている
ことも出来ない。
「遠く」
「旅行?」
「旅行っていうか、……」
言葉を濁した。やっぱり。言いにくい事情があるんだ。
「うんうん、分かるよ。でもね、やっぱり親も心配してると思うし」
お姉さんになったような気分で言ってみる。けど、えりは首を振ると、
「大丈夫。よくやっちゃうことだから」
よく? 家出の常習なのかな。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/23(木) 22:29
- 「ねえ、名前おしえて」
「れいな」
「変な名前だね」
全然悪意のない口調で言うと笑みを浮かべる。
そんなに変じゃないと思うけど……。別に好きでもないけど。
「……少し休んだら、ちゃんと戻らないとダメだよ」
私が言うのに、えりは笑顔で頷くと、布団を口元まで引っ張り上げた。
「これ、柔らかくてすごく気持ちいい」
そんなことを言った。私は肩をすくめると、椅子から立ち上がった。
お腹がきりきりと悲鳴を上げている。夕食を買って帰るつもりが、えりのせいで忘れて
しまっていた。
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/24(金) 01:41
- おおー田亀キタ━(゚∀゚)━!
設定もいいし、かなり期待してます!
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/26(日) 23:32
- コンビニでおにぎりとサラダを買って戻ると、えりはすやすやと安心しきったような寝息を
立てていた。このまま爆睡されつづけても、お母さんが帰ってきたときに私が困ってしまう
んだけど……。そうは思ったけど、なんだかえりの寝顔を見ると少し心が安らいだ。
一人で食卓に座って、テレビをつけた。音楽が騒々しく響いたので慌ててヴォリュームを
下げる。やたらと明るい画面を見て、部屋がいつの間にか暗くなっているのに気づいた。
私はえりの寝ている自室のドアを音を立てないように閉めると、カーテンを引いて明かりを
つけた。蛍光灯の白っぽい光が、やけにだだっ広いリビングを隅まで浮かび上がらせた。
ニュースは暗い話ばかりだった。海の向こうでも、国内でも、明るい話題なんてひとつも
なかった。気が滅入ってしまったので、さっさと食事を終えるとテレビは消した。
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/26(日) 23:32
- 時間にエアポケットが生まれてしまった。私はえりの寝ている部屋の扉をぼんやりと見つめた。
少し気にかかったけど、あの感じでぐっすりと眠っていれば大丈夫かもしれない。
それに、どうせいつまでも寝かせておくわけにもいかないんだ。あと遅くても3時間もすれば、
お母さんも仕事から戻ってくるんだし……。
私はソファからケースを取り上げると、ゆっくりと開いてバイオリンを取り出した。手早く音を
合わせると、少し考えてから簡単なフレーズを鳴らした。
調子は悪くないみたいだ。私は数刻ほど思いつくがままにフレーズを流していって、時折
楽譜に気に入ったメロディをメモしていった。
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/26(日) 23:33
- 誰もいない時間の、密かな楽しみだった。私はまだ修行中だから、勝手なフレーズを弾いて
いると怒られてしまう。お母さんの前では、エチュードしか弾かせてもらえない。
指ばかり疲れて面白みのないエチュードなんて大嫌いだった。私は、自分で拾った音から
メロディを生み出したり、いろんな場所で聴いたキレイなフレーズを……ほとんどポップスとか
映画の音楽とかだったから、やっぱり怒られるんだけど……弾いている方が、楽しかった。
夢中になり、時間を忘れてメロディを歌って、日々の様々な出来事も忘れていってしまう。
あまり褒められたことはないから、多分うまくはないんだと思う……同じ歳でも、コンクールに
何度も出て賞をもらっている子もいたのだから、私の技術が取るに足らないものだっていう
ことは知っていた。
でも、私にとってはこの時間はとても大切なものだ。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/26(日) 23:33
- しばし演奏に没入してから、一息ついた。と、パチパチと乾いた音の拍手が聞こえてきた。
振り返ると、部屋の柱にもたれ掛かったえりがニコニコと笑いながら手を叩いていた。
「すごーい。わたし、そういうの初めて見た」
私はなんだか照れくさくて、目を伏せた。
「ごめん。起こしちゃった?」
「ううん。全然」
えりは首を振ると、私のバイオリンを指さした。
「それ、すっごいキレイな音」
そう言われて、私は改めて自分のバイオリン……小さな頃から使っている、それなりに
いい楽器らしい……を見つめた。
まさかバイオリンの音を初めて聴いたなんてことはないだろうけど……。えりの反応は
とても新鮮で、なんだかうれしくなった。
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/26(日) 23:33
- 「あんまうまくないんだけどね」
「そんなことないよ」
えりは言うと、
「ねえ、このメロディ弾ける?」
単純で素朴な旋律を、えりはハミングで口ずさんだ。私はバイオリンを構えると、えりの
歌うのに合わせて音を拾っていった。
とてもキレイで、なんだか懐かしくなるようなメロディだった。私の演奏を聴いて、えりは
また笑うと、手を叩いた。
「すごーい。かっこいい」
「いやー……」
そんな風に感動されちゃうと、逆に照れる。今までになかったことだし。
「けど、今のはじめて聴いた。何の曲?」
私が訊くのに、えりは首を傾げると、
「ちっちゃいころから聴いてた曲」
とだけ答えた。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/26(日) 23:33
-
「ねえ、今の、うちのみんなにも聴かせてあげたい」
えりは突然そんなことを言った。とても屈託のない表情で、楽しげな様子だった。
「え? でも……」
「いい?」
問いかけられるのに、私は反射的に返していた。
「別にいいけど……」
人前で演奏するのは、未だに苦手だったんだけど。……
そのときの私は、えりの顔色が見違えるように明るく健康的になっていて、やけに高揚
した様子だったのにも、気付けないでいた。私自身も、なんだか舞い上がってしまって
いたのかもしれない。
「ホントに? やった! ありがとー」
無邪気な声ではしゃぎながら、えりはきょろきょろとリビングを見回して、またパッと
花が開くみたいな笑顔を浮かべる。
「じゃ、一緒に来て」
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/26(日) 23:34
- そういうと、リビングの隅、キャビネットと壁の隙間にあいているスペースに、小鳥が巣に
戻るみたいにしてすっと潜り込んで、三角座りをした。
なにやってるんだろう……と思うと同時に、なんで部屋にあんな中途半端なスペースが
あいてるんだろう、なんて思った。多分、壁にコンセントでもついてるんだろう。
「れいな」
えりはいいながら、招き猫みたいにゆらゆらと手を動かした。ちょっと怖いよ。
「……なに?」
「こっちこっち」
そういうとまた笑顔で手招き。わたしはバイオリンをぶら下げたまま、側へ歩み寄った。
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/26(日) 23:34
- 「手出して」
出す。えりが両手を差し出すと握る。あったかいような、冷たいような、変な感触。
「行くよ」
「へ?」
顔を上げて、えりを見た。あれ、また顔色が悪くなってる? ──いや、なんだか、薄い。
「なにを……?」
「心配しないで、痛いとかないから」
不安が顔に出てたのだろうか。えりはおかしそうに言う。逆に怖いじゃん、それ。
「そうじゃなくて」
「転ばないでね」
えりの顔が──カラダ全体がすっと壁に沈んでいくみたいに見えた。
そして、わたしも……。子供の頃、一度だけ貧血で倒れたことがあるんだけど、そんとき
みたいに、すっとタマシイが地面に吸い込まれていくみたいな……。
前のめりに奈落の底へ落ちて行くみたいに、わたしは狭い道を抜けていった。
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/26(日) 23:34
-
《続く》
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/26(日) 23:35
- >>12
レスありがとうございます。マイペースでがんばります。。
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/30(木) 01:10
- 頑張れ。
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 21:58
-
《石病み》
- 25 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 21:59
- 作ってもらったばかりのケースにバイオリンを収めると、幅広のベルトを延ばして
肩から下げてみた。
軽くて柔らかくて、すごくしっかりとしてるように感じられた。
「よく分からないから勝手にやっちゃったけど、大丈夫かな」
近所の肉屋さんにちょっと似てる皮職人のおじさんが、少し不安げな表情で尋ねる。
「いえ、すごくいい感じです」
わたしは素直にそう言った。ごつごつしていつまで経っても慣れることが出来なかった
黒のプラスチックのケースより、ずっといい。
「でも、いいんですか……?」
こっちの町の事情はよく知らないけど、手作りのこういうのはやっぱり、とても高いもの
なんじゃないだろうか……?
「いいよ、気にしないでも」
おじさんはそう言うと手を振った。
「それに、絵里を助けてくれたお礼みたいなもんだ」
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 21:59
- とは言っても、この人が絵里のお父さんとか、そういうわけじゃない。
ここみたいに小さな町だと、生活してる人みんなが親戚みたいな感じになっていくん
だろうな、と思った。
わたしはアタマを下げると、表の通りへ出た。石畳の敷かれたうねうねとした道が、
登り勾配になってずっと続いている。町の建物はみな、くすんだ色の石で組み上げ
られていて、なんだか絵本の中の風景みたいだ。
町の路地はどこも狭くて、急だったり緩やかだったりするけど、大抵坂道だった。
そこを馬に引かれた台車が往来してるのだが、下りは早いし登りは遅いしで、しかも
狭い場所をすれすれで走り回ってるから危なくてしょうがない。
ここに住んでる人にとってはなれたものなんだろうけど、今日も朝からなんども轢かれ
そうになっていた。
- 27 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 21:59
- 広めの通りはキレイな石畳で舗装されていて、こつこつと靴の当たる感じが気持ち
よかったが、狭い路地は薄く砂利が敷かれているだけだったり、赤茶けて湿った土が
むき出しになっていたりした。
そういう路地はほとんど家と家に挟まれた場所にあって、色褪せた背の高い雑草が
ひとかたまりになってぽつぽつと生えていた。
家の屋根はどれも矢印みたいに尖って、空高くつきだしていた。ここの家はほとんど
平屋だけど、びっくりするほど天井が高い。しかも、斜面にバラバラに建てられている
ので、空に向かった屋根は微妙にずれて乱立している。見上げながら歩いていると
なんだか空間が歪んだみたいな、悪酔いしたみたいな気分になってくる。
もっとも、そんな変な町だったけど、住んでる人はみないい人たちばかりだった。
素性の分からないわたしにも普通に接してくれたし、夕べ振る舞ってもらった食事は、
独特だけどとてもおいしかった。
- 28 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:00
- この地方にしか生息していないという、マーブル模様の小馬の皮で作ってもらった
新しいバイオリンケースをぶら下げて戻ると、絵里がテーブルでお茶を飲みながら
手を振っていた。
「おかえりー」
「ただいま」
軽く言うと、椅子を引いて絵里の向かいに腰を下ろした。
「れいなも飲む?」
「うん」
わたしが頷くと、絵里は円錐型の急須からお茶をついでくれた。
味はなににも似てない。甘いような苦いような、熱いのに清涼感の残る、不思議な
感覚だった。
食事にしてもそうだけど、多分もともとの水が、わたしの普段飲んでいるものと違った
成分なんだろう。
- 29 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:00
- 絵里に手を引かれて、なんだか狭い場所を抜けていくようなちょっと苦しい一瞬が
あって、気付いたときにはわたしはこの見知らぬ町へ来ていた。
絵里はわたしの家のリビングでそうしてたみたいに、部屋の中にある狭くて空いている
スペースに膝を抱えて三角座りをしていた。
わたしも、来る前と同じように、前屈みで両手を出して、絵里の手を握っていた。
「えっ……」
困惑するしかなかった。当然だ。こんなことはじめての体験なんだから。
「ここ、うち」
絵里は、自分ちに友達を呼んだみたいな全く日常的な口調で、わたしに言った。
見回すと、そこは、あまり見たことのないような古風な部屋の中だった。床と壁は石造りで、
暖炉にはこうこうとした炎が揺れていて、離れた場所にある台所から香ばしい匂いを含んだ
湯気が漂ってきていて、……。
「……日本?」
思わず、そう呟いていた。
絵里はきょとんとして首を傾げると、またにこっと笑った。
「あ、ちょうどごはんの時間だ」
そう言うと、パッと立ち上がった。真正面に立ちつくしてたわたしは、危うく後ろにひっくり
返りそうになってしまった。
「おばさんの作るシチュー、とってもおいしいんだよ」
そうなんだ……。さっきコンビニのおにぎりを食べたばかりなんだけど、ゆらゆらと漂って
くる香ばしい匂いを嗅ぐと、自然とまた空腹がよみがえってきた。
とりあえず、腹ごしらえをしてから、いろいろと考えることにしよう。そのときは思った。
- 30 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:01
- テレポーテーション、なんていう言葉は知らないみたいだったけど、絵里のやったことは
要するにそういうことみたいだった。
いつ頃からかは分からないみたいだったけど、絵里は部屋の中にある狭い場所とか、
戸棚の中とか、要するに窮屈な場所に潜り込むと自然にカラダが移動してしまうらしい。
行き先を聞いて驚いた。どうやら、わたしの学校の、裏にあるロッカールームらしい。
女の子の幽霊が出るという噂は聞いていたけど、絵里が犯人だったとは……。
こちらからわたしの世界──と言っていいものだろうか──へ来るときはいつもロッカー
ルームに出て、逆にこちらへ戻るときは、部屋のさっきの場所へ戻る。
基本的にその二カ所を行き来することが出来るだけらしく、そうなると、絵里の能力なのか
その場所にもともとあるものなのか、よく分からなくなってくる。しかし、移動をはじめる場所
は、狭くて、「ちょっと押されてるなってくらい」ならどこでもいいらしい。
便利なのかなんなのか、それはともかく、絵里はしょっちゅうわたしの世界へ来ては、
物珍しげにあれこれ見て回っていたそうだ。
- 31 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:01
- 確かに、この町みたいな素朴な場所で育った絵里にしてみれば、大した都心でもない
わたしの住む町でも、驚きの連続だっただろうな、と想像できる。
が、そう言うと絵里はふるふると首を振った。
「ううん、わたしここでずっと住んでたわけじゃないんだ」
「そうなの?」
「一年くらい前に、引っ越してきたの。わたしの町、気付いたら誰もいなくなっちゃってて」
そう言われても、状況がよく分からない。よくよく問いただしてみると、こういうことらしい。
絵里の生まれ育った町は、ここから川の流れる平原を挟んだ場所にあった。大きさはここと
同じくらいで、それなりに交流はあったようだ。
しかし、ある朝、絵里が目覚めると町の住人が忽然と姿を消してしまっていた。
まったく前触れもない出来事で、町のあちこちにも、ついさっきまで生活していたあとが
残されていた。人災なのか、天災なのか、それとももっと別の出来事なのか、それすら
分からない。
仕方なしに、絵里は前から知り合いだったこの家に世話をしてもらうことになった。
テレポートの能力が使えるようになったのも、そのころからだそうだ。
- 32 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:02
- 「……怖い話だね」
わたしが呟くのに、絵里は屈託のない表情で、
「でもわたしは消えないですんだから、よかった」
考えようによってはそうかもしれないけど、それにしても。
わたしが同じような状況に置かれてしまったと思うと、ぞっとする。
……でも、今わたしの家では、やっぱり同じようにわたしが消えちゃってて、みんな泡を
食ってるんだろうな……、と少し罪悪感を感じる。
でもいいんだ。少しくらい心配させてやれ。わたしは口うるさい母の顔を思い出して、
そう思った。絵里に言えば、すぐロッカールームから戻れるんだし。
この町がどこにある町か分からないけど……不思議と言葉も通じたし、なんだか異国って
いうような感じが全然しなかったのが、謎だったけど……、もう1日か2日くらいは、心配
させてやったって、罰はあたらないだろう……。
- 33 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:02
- 絵里は気付くといつも、わたしに聴かせてくれたメロディを口ずさんでいた。
きっと、想い出のメロディなんだろう。町の人がまるごと消えてしまって、なにもなくなって
しまった場所を思い出せる……。
もの悲しくも素朴な旋律を聴きながら、わたしはたまらない気持ちになった。
「ねえ、楽譜……紙、ない?」
絵里の歌うのに合わせてバイオリンでメロディを追いかけながら、わたしは訊いてみた。
絵里は不思議そうな表情を浮かべると、
「かみって?」
「書くもの」
ジェスチャーで説明すると、すぐに理解できたようで、しかし絵里は首を振った。
「もらってこないと」
言い終わらないうちに、すっと立ち上がった。
わたしは手を振ると、
「あ、いやないならいいんだけど」
「いいよー。そんな遠くないから、ちょっと行って来る」
なんだかはしゃいだような調子で、絵里はすたすたと部屋を出ていってしまった。
細い後ろ姿を見送りながら、わたしはアタマの中でシンプルなフレーズをあれこれ
こねくりまわしていた。
- 34 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:02
- その夜、絵里はまた体調を崩して寝込んでしまった。
絵里の世話になっているおばさんというのは、医者だった。旦那さんにも、ちょうどわたしと
同じくらいだったっていう娘さんにも先立たれてしまったそうで、そのせいか不意に世話を
することになった絵里のことも、とてもかわいがっていた。
絵里の寝ている部屋を出てきたおばさんに、わたしは心配を隠さずに訊いた。
「調子はどうなんですか?」
「そんなにひどくないみたい」
おばさんは眼鏡を押し上げながら言った。
「ただ、発作の起きる間隔がだんだん短くなってるのが気になるわね……」
公園で見たときも、ひどく青白い顔で、額も熱くなっていた。
あれが、まだ一日ちょっと前のことだ。
「前から、あんな感じなんですか?」
「ええ……。2,3日くらいおとなしく寝てれば、すぐによくなるんだけど」
「2,3日?」
確か、あのときは、水を飲ませてあげて一時間もしないうちに、おどろくほど元気な表情に
なっていたような気がする。
わたしがそう言うと、おばさんは難しい顔つきになって考え込んでしまった。
- 35 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:03
- 「水か……」
「なにか、まずかったですか?」
不安げに訊くと、おばさんはわたしの肩を叩くとほほえんだ。
「土地によってね、水ってかなり違うから。
あなたの町の水は、絵里にはちょっと刺激が強すぎたのかもしれない」
「刺激?」
「カラダを回復させてくれたんだけど、その分負担が大きかったのかも」
「そうなんですか……」
水の違いなんて、普段そんなに気にしたことなんてなかった。
「まあ、しばらく様子を見ましょう」
おばさんはそう言うと、わたしを促して居間へ戻った。
暖かいお茶を飲みながら、洗い物をしているおばさんの後ろ姿をぼんやりと見つめていた。
この町には時計がない。ひょっとしたらこの世界には存在しないのかもしれない……そんな
生活なんて、想像も出来なかったけど。
だから、夜になってからどれくらい経ったのかよく分からなかった。表に出れば、東京では
見たこともないような満天の星空が広がってるのを見上げられる。
ここの人は、星の位置で時間が分かるのかも知れない。
- 36 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:03
- 「絵里はね、もう長くないの」
背中を向けたまま、おばさんがぽつりともらした。あまり唐突だったので、わたしはその言葉
の意味が、すぐには理解できなかった。
「えっ」
「あの子の病気。石病みっていって、先天性のものなんだけど、治らない病気なの」
不思議と、平静な気持ちで聞いていた。絵里とあってからの出来事がずっと現実離れしたこと
の連続だったので、あまりリアリティのある言葉に響かなかったのかもしれない。
「そうなんですか」
小声で言うと、両手で持っていたコップをテーブルにおいた。
「わたしが医学を勉強したのは、もう30年近く前のことなんだけどね」
おばさんは手を拭きながら振り返ると、わたしの向かいに腰を下ろした。
「だから、今はもしかしたら治療する方法が見つかってるかも知れない」
「え、でも、さっき……」
わたしが声を上げるのに、おばさんは疲れたように目を伏せたまま、首を振った。
「わたしが勉強したのは南にある街。みなそこへ行って医者になって、それから自分たちの
住んでいる町に戻るの。でも、もうずっとこの町にはそういう若い人がいないから」
「……」
新しい発見があれば、なんでも一瞬で世界中に広まってしまうわたしの世界では、こんなこと
ありえない。
助けられるかも知れないのに、助けられない。絵里をかわいがってるおばさんにしてみれば、
こんなに歯痒いことはないだろう。
- 37 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:04
- 「さっきの、いしやみ? って、どういう病気なんですか?」
わたしは訊いた。
「名前の通り、だんだんカラダから水分がなくなってしまって、最後には石みたいになっちゃうの。
原因は分かってない。甲状腺の異常からなんだけど、治療法もただ薬で進行を遅めることしか
できない」
「石に……」
そういえば、公園で絵里に触れたとき、肌がひどく乾いていた感触だったのを思い出した。
「先天性の、多分遺伝する病気だって言われてる。発症もバラバラで、小さなときに発症する
人もいれば、死ぬまで発症しない人もいる。絵里は、かなり発症は早いほうだったけど……」
わたしはコップの中で揺れている水面を見下ろしたまま、よく分からないけど、とても理不尽な
ものを感じていた。
生きる死ぬっていうのは、運命なのかもしれないけど、なんだか納得できない。
絵里はあんなに楽しそうに、にこにこと笑っているのに。
- 38 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:04
- 二日経っても、一週間経っても、絵里はよくならなかった。
ピークを過ぎてしまえばそれほどつらい状態ではないらしく、微熱が続いたまま絵里はベッドの
上での生活を楽しんでるようだった。
それでも時々ひどくせき込んだり、血の気が引いて気を失いそうになったりしていた。そのたびに、
わたしはおばさんの言葉を思い出してどきっとした。
不思議と、こっちで絵里のあいてをしてると、時間の経つのを気にしないでいられた。
どのみち、絵里が治らない限りわたしは向こうへ戻れないのだ。
それに、いつもに比べて回復が遅いのは、わたしのせいなのかもしれないし……。
二週間が経った。絵里は元気そうに振る舞っていたけど、目に見えて衰弱しているようだった。
明るく話しかけてきてくれる絵里を見るのが、わたしは辛かった。
「ちょっと相談したいんだけど」
ここのところ考えていたことを、わたしは絵里に言おうと思っていた。
「なに?」
絵里は首にマフラーをぐるぐると巻いて、時折小さな声で咳き込んでいた。少し冷ましたお茶を
飲めばしばらく収まるみたいだったけど、声はひどく荒れていた。
「もしね、もし……このまま治らなかったら、とかって思ったりする?」
「うーん」
さほど深刻に受け取った様子はなく、絵里はちょっとだけ首を傾げると、
「ずっと外に出られないのはさみしいかなあ」
「それでね」
「うん」
「わたし、南の街に行こうかなって思ってるんだけど」
- 39 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:05
- 絵里はきょとんとした顔で、目を見開いてわたしを見つめると、
「南?」
「うん。絵里のね、病気が、治せるかも知れない」
なにをいっているのか、すぐには分からなかったみたいだ。
「けど……南って遠いよ」
絵里は神妙な面もちで呟いた。けど、わたしの考えは変わらなかった。
「おばさんが行った30年前に比べれば、かなり楽になってるって」
半ば自分に言い聞かせるようなものだった。
どのみち、わたしが戻るには絵里が治ってくれないと無理なのだし、それをただ待っている
よりは積極的に動いた方がいいとも、思っていた。
もちろん絵里にはそんなこと言わなかったけど。
- 40 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:05
- 「……いいの?」
「うん。もともと旅行とか好きだし」
ちょっとニュアンスが違うような気もしたけど、絵里は気付かなかったみたいだ。
「ありがとう」
「わたしが戻るまで、ちゃんと元気でいてよね」
冗談めかして言うのに、絵里は笑いながら肩を小突いてきた。
「平気だよー」
「ならいいけどさー」
わたしも笑うと、絵里のおでこを小突いた。
あまり話し込むと逆に出足が鈍ってしまいそうで、わたしは、じゃあ、と言って絵里の部屋を
出ていった。
翌朝早く、絵里のまだ眠っているうちに、わたしは旅立っていった。
一頭のマーブル模様の馬と、最小限の荷物だけを持って。
- 41 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:05
-
《続く》
- 42 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/02(日) 22:06
- >>23
どうもです。
- 43 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/03(月) 00:23
- 更新お疲れ様です。
徐々にファンタジーになってきましたね。
次も楽しみにしてます。
- 44 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:26
-
《ノクターン》
- 45 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:26
- 湾に面した街で知り合った少女は、高橋愛という名前で、顔も日本人っぽかった。
名前を教えてもらった時、風変わりなイントネーションでたかあしあいと一続きの言葉
みたいに聞こえたけど、よくよく話してみると“あい”というのが下の名前らしい。
わたしなりにわかりやすく表記すると、高橋 愛となるっていうこと。けど、もしかしたら
あいは別の字をあてたほうがしっくりくるのかもしれないけど。
愛さんは、西南の、海峡を渡った場所にある少し大きめな街に向けて旅をしていると
いうことだった。
わたしも、その街まで行って船に乗り、大陸に渡る必要がある。
そう言うと、愛さんは目を大きく見開いて、驚いているのが誰の目にも明らかっていう
くらい驚いた表情をした。
「そりゃ長旅やね」
「まだまだですよ。目的地はもっとずっと南のほうなんで」
「んな遠くの街なんて想像したこともないわ」
- 46 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:26
- 独特のアクセントとリズムには、なかなか慣れられないで置いてきぼりになってしまう
ことがある。
もっとも、愛さんもそういう反応は分かってるみたいで、早口になってわたしが呆気に
取られた表情をしてると、パッと我に返ったみたいにはにかんだ。
「ごめんまた早口になっちゃった」
「愛さんって、どこの生まれなんですか?」
わたしが訊くのに、愛さんは北の方を指さした。
「ずっと向こうのほう。半島があるんだけど、そこの根っこからちょっと南にいったあたり
かな。海の近くの町」
「みんなそんな感じで話してるんですか?」
「ううん、もっとすっごいよ。わたしは旅に出てしばらく経つから、大分訛りは抜けた
みたいやし」
どんな言葉が交わされてるんだろう。わたしは想像して、ちょっと怖くなった。
- 47 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:27
- 潮の匂いのする風をうけながら、海岸沿いに延々と続く道を二人で南下していった。
愛さんはロバに乗っていた。ロバのしっぽが揺れるのと同じように、愛さんの結わえた
髪もゆらゆらと揺れていた。
なんとなく、そんな二つのシンクロした風景が、妙に音楽的に見える。
「れいなちゃんは、そんな南の遠くまでなにしに?」
「えっと、……医学の勉強をしようと思って」
夜になると、二人で小さな夜営を張った。
危険地帯と言うほどでもないらしかったけど、どちらかが表に出て見張りをしておいた
ほうが安全だし、それもまた二人で旅をするメリットだった。
しかし、結局なかなか寝付けずに、こうして話し込んだりしてしまう。この日も、表で
腕を組んで座り込んでいたわたしに、愛さんが声をかけてきた。
冬が終わりかけているのか、肌寒い空気にほのかな湿り気が感じられた。
- 48 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:27
-
「ほー、偉いね」
愛さんは感心したように言った。わたしは手を振ると、
「や、半分くらい好奇心もあるんですけど」
くわしいことは話さなかった。なんとなく照れくさかったからだ。
それに、離れてからわたしはなるべく絵里のことは考えないようにしていた。
病床に横になっている彼女のことを思い浮かべるたびに、つい心が急いてしまう。
慌ててもいいことはない。確実に、ちゃんと旅を続けていかないと大きな失敗に繋がって
しまうかもしれない。そうなってしまったら元も子もない。
「わたしは歌手になるんだ」
愛さんは目をキラキラさせながら言った。
「歌手?」
「そう。歌い手さん。れいなちゃんはオペラハウスに行ったことある?」
- 49 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:28
- なんだろう。言ってみればアーティストのコンサートみたいなものだろうか。
「ないです」
「すごいんだよ。わたしも、お母さんと一緒に3回しか行ったことないんだけど、もうすぐに
決めたの。わたしも、あの舞台に立って歌うんだって」
「へえ……」
愛さんの舞台で歌っている姿を想像してみる。華やかな衣装を身につけて、とても可愛
らしい姿なんだろうな。
「けど、もうなんべんもオーディション落ちてるんだけどね」
そういうとちょっと自嘲気味に笑った。
「だから今度のは本当に本命。最後のチャンスだって思ってるんだ」
- 50 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:28
- 愛さんによると、この地方では最大級のオペラハウスが、これから行く街にあるという。
それだけに、これまで以上に厳しい審査になりそうなのも確かなんだとか。
「この辺りで歌い手になりたい子は、みんなそこに行くの。一年でも何万人ってそこに
行くんだけど、通るのは一人か二人くらい」
「すごい倍率ですね」
わたしは半ば呆れたように言った。しかし、わたしが片足をつっこんでるバイオリンの世界
でも、プロでやっていけるのは一握りなわけだから、似たようなもんかもしれない。
もっとも、わたしはプロなんて目指そうと思ったことは一度もなかったけど。
「うん、でもチャンスは一回だけやないから」
「そうなんですか?」
「こっちががんばってるのが伝われば、別のところで採用してくれることもあるんだって。
わたしの先生が言ってた。
先生もね、むかしオペラハウスで歌ってたことがあるんだよ。
ずっと隅の方で、主役やらしてもらったことはないみたいだけど、それでもすごく充実
してたみたい」
- 51 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:29
- そんな風にして二人して話したりしながら、ようやくわたしたちは海峡を渡り、立派な城壁
に囲まれた街にたどり着いた。
海峡を貫く長い橋は、それ自体が一つの町になっているように見えた。幅の広い両側に
ずらっと露天やら大道芸人やらが並んで、高らかな声がそこかしこに飛び交っていた。
「うちらもちょっとやってく?」
いたずらっぽい笑みを浮かべながら、愛さんが言った。
「? なにをですか?」
「ちょっと演奏。その、なんていったっけ」
「バイオリン」
「それそれ。これから街にはいるし、軽く小遣い稼ぎ」
- 52 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:29
- わたしたちは欄干の側の空いているスペースに場所をとった。
わたしの馬と愛さんのロバは、疲れが溜まっていたのか休ませるとすぐに立ったまま
寝てしまった。
これといって準備するものはない。愛さんは深呼吸をして、胸とお腹のあいだに手を当て
て軽く声を出していた。わたしは手早く調弦をすると、バイオリンを構えた。
即興で愛さんがメロディを歌い、わたしはそれに合わせて対旋律を奏でる。
楽譜通り弾くのより、昔からこういうほうが好きだし、得意だった。
愛さんの歌うメロディは、キレイだけどどこかひねくれていて、難解だった。わたしはそれを
もっと分かりやすく、耳に入り込みやすいように調整する役割といったところだ。
はじめて愛さんの歌を聴かせてもらったときには、とても新鮮なものを感じた。あとからそれ
が全部即興だったと聞いて、もっと驚いた。
もっとも、完全に思いつきで歌っているわけじゃなくて、いくつかのパターンがアタマの中に
入っていて、愛さんはその場でつなぎ合わせたり、ひっくり返したり、逆行させたりして、
バリエーションを作っているのだった。
- 53 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:29
- 橋へ来た人たちは、最初怪訝そうな表情で通り過ぎていったり、からかい半分で手拍子を
打って来たりしていたが、次第にわたしたちの調子が乗ってくると、自然と音楽に聴き入って
行ったようだった。
進行するにつれて、音符の数も増えてリズムも複雑になった。時に二人の旋律がずれたり
ぶつかったりしてしまうこともあったが、それを含めて大きな流れの一部になっていた。
ふと、わたしは奇妙な感じがした。自分の演奏に夢中になって気付かないでいたけど、いつ
の間にか旋律のラインが三本になっているような気がする。わたしは和音は鳴らしていない。
観衆の誰かが一緒になって歌っているのだろうか。それにしてはアンサンブルに合いすぎて
いる。
わたしは目を上げて愛さんの方を窺った。愛さんはちらっと視線を返すと、意味ありげに
ウィンクをして見せた。
そこで、わたしは気付いた。愛さんは、一人で二人分の歌を歌っているんだ。それも、全く
異なるメロディを。
ピアノで右手と左手が異なるフレーズを重ねるようにして、愛さんの声は複雑に絡み合って
いた。どうやっているのか分からないけど、聴いている人たちはそのことには誰も気付いて
いないように見えた。それくらい、流れてくるメロディは自然なものだった。
- 54 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:30
- 演奏は終わり、わたしたちは拍手と歓声に包まれた。愛さんは少し照れたように笑いながら、
周囲にお辞儀をしていた。
結局、橋を越えて街へ入ったのは日が落ちてからだった。わたしたちは町外れにある、
旧家の邸宅を改装した宿屋に泊まることにした。周囲は軒の低い家々が取り囲んでいて、
あまり人気はなかった。
「みんなビックリしてたね」
味を付けたご飯の上に乗った薄焼き卵にスプーンを入れながら、愛さんは少しはしゃぎ
気味に言った。
「れいなが一番驚きました」
苦笑しながら、わたしは濃いトマト味のスープを啜った。
- 55 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:30
- 繁華街の入り口のところにある小さな食堂で夕食をとりながら、わたしたちは今日のこと
を話していた。
「あんなすごいこと出来るんですね」
「ごめんね、隠してたわけやないけど」
愛さんはそう言うと、アタマを掻いた。
「いきなりやると絶対変な顔されるから、いつも音楽が盛り上がったところで入れるんだ。
そうすると、みんな気付かないみたい」
「れいなはすぐ分かりましたよ」
「みたいだね。さすがって思っちゃった」
スプーンで食事を口に運びながら、また早口になっている。愛さんの食べているのは
わたしの世界でいうオムライスみたいなものだ。
「けど、そんなすごいこと出来ても、やっぱりオペラハウスって厳しいんですか?」
「そりゃそうだよ。オペラハウスは曲芸見せる場所じゃないもん」
愛さんはいつになく真剣な面もちで呟いた。
「ちゃんと、歌で勝負しなきゃ」
「そうですよね」
わたしも頷いた。オペラハウスはこの街の中心にある。明日一番で、愛さんは歌を披露
しにいくことにしていた。
- 56 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:31
- その夜、旅の途中はろくに眠れなかったのですぐ寝付けると思っていたのだけど、カラダ
のリズムが戻っていないのか、なかなか眠りへ入れなかった。
薄い毛布を口元まで引っ張り上げて、ベッドの中で身をよじった。カーテンの隙間から、
星空の光が部屋へ射し込んできている。
青白く浮かび上がるみたいに、誰もいないベッドが部屋の隅に見えた。人の形に盛り上
がった毛布が崩れかけていた。
愛さんが夜中の散歩にでも出たのだろうか……? わたしが不思議に思って身を起こすと、
表からかすかな歌声が聞こえてきた。
開けっ放しの窓から聞こえてきている。わたしはゆらゆらと揺れるカーテンをずらすと、
表を見下ろした。
宿屋の裏は、馬などを預ける畜舎を挟んでちょっとした空き地があった。愛さんはその隅に
立って、あまり声は出さないようにしながら、一人で歌を歌っていた。
- 57 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:31
- 明日がオーディションだから、落ち着いて寝ていられない気持ちは分かるけど……、と
わたしは思う。自分も、まだマジメにバイオリンをやっていたころは、発表会やコンクール
の前日も、ろくに眠れないでうずうずしていたものだ。
しかし、喉のためにもちゃんと寝ておいた方がいいんじゃないかな……わたしはそう愛さん
に言おうかとも思ったけど、黙っていた。
あれだけ歌える彼女のことだし、わたしには分からないようなやり方があるのかもしれない。
こっちの常識を押しつけるのはよくない。
- 58 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:32
- つらつらと考えながら、ふと、今愛さんが歌っているメロディははじめて聴くものだと気付いた。
これまで聴かせてもらったもののバリエーションとかでもなくて、まったく新しい旋律だった。
驚くくらい素朴で単純で、しかしなぜか心の深いところに突き刺さってくるようなメロディ。
そうだ……絵里のいつも歌っていたメロディと似てる。似てる、といってもメロディそのものは
全然違うものだったけど、わたしの受けた印象はすごく近かった。
心地よく、懐かしさを感じさせるメロディを、愛さんはいつものように展開させることなく、淡々
とリフレインさせていた。
窓の外からかすかに聞こえてくるやさしいメロディ。わたしはそれに耳を傾けているうちに、
自然と深い眠りに落ちていった。
- 59 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 23:33
- >>43
ありがとうございます。
- 60 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/11(火) 23:34
- 翌朝、わたしが起きたときにはもう、すでに愛さんは出かけてしまったあとだった。
慌ててベッドから転げ落ちると、着替えもせずに表へ飛び出した。朝も大分過ぎて、街は
とっくに動き出している時刻だった。
太陽は半ば近くまで上げって、雲一つない空から透き通った光を降り注がせている。
空腹でお腹が切なげに軋んだけど、とりあえずは後回しだった。
オペラハウスは街の中心を貫く繁華街を通り抜けた場所にある。遠目からも、クリームみたい
にさきっぽの尖った丸い屋根は見ることが出来る。この街のランドマークだ。
周囲には広い公園がぐるっと取り囲むようにあり、大勢の旅行者や街の人たちが往来して
いた。
小さな橋を渡って公園に入ってから、わたしは、実際愛さんがどこでオーディションを受けて
いるのか、よく分からないでいたことに気付いた。
自分の間抜けさに腹が立ったものの、せっかく来たのだから引き返すのももったいない。
- 61 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/11(火) 23:35
- オペラハウスの裏は港湾に面していた。波打つ海面が、キラキラと日光を反射している。
わたしは柵にもたれ掛かって、静かに流れてくる風に目を細めた。
この海の先、南の街へはまだまだ長い道のりだった。
のんびりと公園をぐるっと巡ると、花壇の側に座って、とぎれなく続いていく人並みの往来を
見つめていた。
と、その中に見知った姿を見つけた。アップにした髪をロバのしっぽのように結わえて、
ゆらゆらと揺らしている。
「愛さーん!」
わたしが声を上げると、愛さんは振り返って、笑みを浮かべた。
「あ、れいなちゃん、来てたんだー」
そう言うトーンは明るい。
となると、オーディションではいい結果を出せたのだろうか。
- 62 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/11(火) 23:35
- 愛さんはすたすたと駆け寄ってくると、わたしの隣に腰を下ろした。
「ごはん食べた? まだやったらこれから食べにいかない?」
「オーディション、通ったんですね」
なんの疑問もなくそう言った。愛さんは笑顔のまま首を振ると、
「ううん、ダメだった」
「えっ」
「門前払いくらっちゃった」
明るい口調のまま、愛さんは笑いながら言った。
「そうなんですか……」
信じられなかった。わたしが目に見えて落ち込んだ様子なのに、愛さんは肩を小突くと、
「なんでれいなちゃんが凹んでるんだよー」
「いや、だって……」
「いいって、わたしもうそういうの慣れてるし。まだ終わったわけやないしさ」
- 63 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/11(火) 23:35
- 気丈な口調でいう愛さんに、なぜかわたしが泣きそうになってしまった。
わたしは奥歯を噛むと、無理矢理気分をもり立てるようにして言った。
「これからちょっと演奏しません?」
「え?」
愛さんはビックリした表情をしている。わたしはバイオリンを皮のケースから取り出すと、
昨日聴いたメロディを弾いて見せた。
「これ、すごくいい曲ですよね。わたし、ゆうべ聴いて……」
腕が止まった。愛さんが難しい表情をして、わたしの手をつかんで押さえていた。
「……?」
「ごめん。やめて……」
さっきまでの屈託のない表情からはうって変わっていた。
わたしは戸惑い気味に愛さんの目を見返すと、バイオリンを下ろした。
「すいません」
わたしはなんだかよく分からなかったけど、愛さんの表情から切羽詰まった感情は伝わ
ってきていた。
「ううん、ごめん」
愛さんは反射的に手が出てしまったみたいで、申し訳なさそうに眉根を寄せると、手を
引いた。
なにかを考え込むように、俯いて目を伏せたまま、下唇を噛んでいる。
- 64 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/11(火) 23:36
- 「愛さん……?」
あの曲は、なにか特別なものなのかもしれない。わたしは不安げに、愛さんの顔を覗き
込んだ。
「ね、ごはん行こう」
愛さんは、パッと笑顔を浮かべると、目を瞬かせているわたしを見返した。
「は、はい」
わたしはバネの外れた人形みたいにカクカクと頷いた。
オペラハウスの側にある小さな食堂に入った。昼過ぎだったせいか店内は大勢の人で
ごった返していて、通路や空いたスペースにも椅子を引っ張り出してきて、身を縮こませ
ながらめいめいに食事をしていた。
わたしたちは自分たちの注文を受け取ると──いわゆるファーストフード的なメニュー
だったけど、立派な包装はあとで返さないといけない──、表に出て海の見渡せる場所
まで歩いていった。暖かな潮風が、静かに流れてきていた。
- 65 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/11(火) 23:36
- 「さっきの曲さ」
愛さんが言った。わたしは堅めのパンに薫製肉と細長い野菜を挟んだもの(ちょっとスパイス
が辛すぎる)を囓りながら、黙って頷いた。
「あれ、わたしの曲じゃないんだ」
「……?」
「わたしに、歌を教えてくれた子の曲」
「歌を……」
わたしは頷いた。
「その子、すっごく歌うまくて、わたしの幼なじみだったんだけど……ちっちゃいころに
死んじゃって」
「そうなんですか」
わたしの深刻な表情を見てか、愛さんは笑いながら言葉を継いだ。
「や、もう十何年も前の話やし」
「けど……」
「ただね、あの子、あの曲わたし以外の人が歌ったりするとすっごく嫌がるんだ。だから、
ごめんね」
- 66 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/11(火) 23:36
- 愛さんの言葉に、わたしは少し引っかかりを感じた。愛さんはコップを取ると、一口
お茶をすすった。
「いい曲だったでしょ?」
唐突に訊かれて、わたしはまた変な動きで首を動かした。
「はい。とても」
「その子が言ってたんだ、家には絶対一曲、代々伝えられていく曲があるんだって。でも
わたしがお母さんに訊いてみたらそんなのないとか言って」
また、絵里のことを思い出した。
「まだちっちゃかったから、わたし、何でうちにはないのーとか言ってわんわん泣いちゃって。
よく考えたら、あの子の家って大きくて立派で昔からある家みたいだったから、ああそういう
家にしかないのかなーって、思ったんやけど」
「はあ」
「れいなちゃんの家にはあったりする? そういうの」
- 67 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/11(火) 23:36
- わたしは首を傾げると、
「ないですね」
「だよねえ」
「でも、友達がそういうの、知ってました」
わたしが言うのに、愛さんはうんうんと頷いた。
「今日の夕方の船で出るんだっけ?」
「そうです」
「それまで時間あるから、また演奏しよ」
愛さんが笑顔で言うのに、わたしも頷くと残っていたスープを慌てて飲み干した。
港の側の広場まで来た。少し傾いた太陽が強い日差しを送ってきている。
大勢の人々が、あちこちで時間をもてあましていた。
わたしが調弦をしていると、愛さんが海の方を見たまま話し始めた。
「さっき話した子ね」
「はい」
わたしは振り向かずに答える。
「二人でいつも歌ってたから、今でも、わたしが歌ってると一緒に声合わせてくるんだ」
- 68 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/11(火) 23:37
-
顔を上げて愛さんを見た。愛さんの横顔に、オレンジに染まった陽光が影を作っていた。
「だから、そのお礼で夜になったらあの子に歌ってあげてるの」
「はあ……」
「あの子言ってた。わたしの声が聞こえる人と聞こえない人がいるんだって」
愛さんはそう言うと振り返った。
「れいなちゃんは、聞こえる人やって」
わたしは何と言っていいのか分からず、黙っていた。
ただ、記憶に残っている愛さんの二重唱は美しいものだった。あの夜に聴いた曲がそうして
聴くことが出来たら、どれだけいいだろう……、と思った。
愛さんが歌い始め、わたしも立ち上がってバイオリンを構えた。
- 69 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/11(火) 23:37
-
《続く》
- 70 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/12(水) 19:15
- 更新お疲れ様です。
もうすぐでこの世界の世界観が見えそうな予感。
次も楽しみに待ってます。
- 71 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:26
-
《Hear nothing, See nothing, Say nothing.》
- 72 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:26
- どれほど南下してきたのだろう。船の中で見た地図は独特の描かれ方をしていたので
わたしにはよく分からなかった。
絵里の町を出てから、一月ほど経っているだろうか……。時間の感覚も、この世界の
ペースだとおかしくなってきてしまいそうだった。もちろん、朝に日が昇り夕方に日が落ちる、
というのは同じだったが、その長さが果たして同じなのか、長いのか短いのか、よく分から
なかった。
旅は苦痛ではなかった。ふとホームシックに似た感覚を覚えることもあったが、それよりも
好奇心の方が勝っていた。わたしの住んでいた世界とは似ているようで異なる世界。不便な
ことは多くあったが、それ以上に面白い発見の方が多かった。
- 73 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:26
- そんな風にして、わたしは順調に南へ向かって進んでいた。地理は得意ではない──と
いうか、むしろ苦手科目だったんだけど──、次第に暑くなっているのは肌で感じられた。
つまり、まだ赤道(だっけ?)までは辿り着いていないということになる。
まだまだ先は長い。
数回ほど船に乗ったから、それでかなりの距離は進めているはずだったが、陸路は馬で
進むしかなかったので、どうしても遅い。飛行機や電車を使うのが当たり前の感覚になって
しまっているので、時折苛立ちを覚えることもあった。救われたのは、この世界にはわたしの
ように旅をしている人々が大勢いるということだ。方角は様々で目的もばらばらだったけど、
彼等と常に一緒に動いていれば、少なくとも旅にありがちな危険は避けられていた。
- 74 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:27
- 楽器を持ち歩いていたので、みんなわたしのことは旅芸人のようなものだと思っているよう
だった。そのせいかどうか分からないけど、みな親切にしてくれた。いくら旅人が多い
とはいっても、わたしのような子供が一人でいるというのはやはり珍しいのか、あれこれと
気にかけてもらい、ありがたかった。
港から同行していた二頭立ての馬車と別れて、また一人になった。馬をとぼとぼと進ませ
ながら、真っ青な空に浮かんだ太陽に眼を細めた。
船中で初老の男性から聞いた話では、この土地は南北に広がっている巨大な陸地を
繋ぐ細長い橋のような場所だということだった。男性は手元にあった砂時計をとり、ちょうど
この砂がこぼれ落ちる箇所に相当する、と説明してくれた。
港からずっと南下していけば、分断する運河にぶつかるだろう、と聞いた。運河の港から
は全世界を巡る貿易船が行き来しているので、うまく潜り込めれば、かなり距離を稼ぐことが
出来そうだった。
- 75 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:27
- 小一時間ほど進み、ようやく風景が変わった。辿り着いた町は比較的小さめで、舗装されて
いない道のあちこちから、背の高くて砂と同じ色をした雑草が伸びていた。
陽光は相変わらず強く照りつけていたが、空気は乾燥していて、うだるような暑苦しさは
あまり感じなかった。それでも、肌を焼く日の光は痛みを感じるほどだ。
額の汗を拭くと、帽子を直す。
同行していた馬車の、親切な乗客から赤いテンガロンハットを貰っていて助かった。
下手をしたら、熱中症にでもなってぶっ倒れていたかも知れない。
町の周囲は砂漠に囲まれていて、赤茶けた岩がところどころに転がっているほかは、
代わり映えのしない殺風景な景色が、地平線まで伸びていた。
- 76 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:27
- あたりにはあまり人通りもなく、活気のある町ではなさそうだ。わたしは三叉路で馬を止めると、
水筒から一口お茶を飲んだ。気候のせいか、やけに喉が乾く。
まばらにある建物はほとんどが木造で、屋根は赤いペンキで塗られていた。砂埃で壁は
くすみ、風景の中にとけ込んでいるようだ。風に吹かれて、道の真ん中を丸くなった枯れ草
のカタマリのようなものが転がっていった。
話では、この次にある街はかなり離れた場所だということだったから、少なくとも一晩は
ここで過ごさないといけない。しかし、人気がないだけではなくどこか余所者に大して冷た
そうな雰囲気が、町全体から感じられてしまう。
一瞬、背筋に悪寒が走ったように感じた。あっという間のことだったが、その感覚は深い
戦慄として残されていた。わたしは無意識に自分のカラダを抱くと、不安げに周囲を見回した。
町は相変わらず、どこか倦怠した空気のまま午後の時を過ごしている。
- 77 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:28
- 今のはなんだったんだろう……。単なる気のせいかも知れない。あるいは、どこかで
感染症にでもかかったのだろうか。もしそうだったらやっかいだ。
と、またぞくっとカラダに悪寒が走る。気のせいではない。
わたしだけでなく、馬も落ち着かなげに首をふるわせていた。うっすらと汗の浮いた肌をなでて
あげながら、そうして自分のことも落ち着かせようとした。
『こんにちは』
声が聞こえる。どこからの声なのか分からない。鼓膜からではなく、頭の中に直接話し
かけられているような感じだった。
周囲に視線をやるが、どこにもわたしのほうへ向いている人の姿は見えない。
『聞こえてるの? 聞こえてたらなにか返事してよ』
- 78 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:28
-
「……えっと、誰、ですか?」
声を上げると、もう一度周囲を見回した。路地の入り口でうずくまっていた髭の男がちらっと
見てきたが、すぐに目をそらして横になってしまう。酔っぱらいだろうか。
『こっちこっち。もっと進んで。小さなお店があるから』
声は幻聴でもなんでもなく、はっきりと聞こえていた。わたしは催眠術にでもかけられた
みたいに、言われるままに馬を進めた。
と、日陰になった柱の側に一人の女性が立っていて、こちらへ向かって手招きをしている。
「あ、……あなたですか?」
こわごわと声をかけると、女性はなにも言わずに頷いた。
わたしもつられるように、会釈を返した。
馬を下りると、手綱を引いて彼女のそばに歩いていく。女性はニコニコと笑みを浮かべ
ながら、今度は普通に口を開いて声をかけてきた。
「ね、ビックリした? ビックリしたでしょ? ねえ?」
「ええ……」
やけにハイテンションな彼女に、わたしは気圧されたように小声で返すしかなかった。
「あなた旅行者でしょ? 疲れてるだろうから、うちで休みなよ」
- 79 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:28
-
言われるままに、店の前に馬を止めると狭い入り口をくぐった。
店内は薄暗く、客の姿は見えなかった。床にはうっすらと砂埃が積もっていて、歩くたびに
ざらざらと音を立てた。
「ごめんねー、忙しくてあんま掃除とかできなくって」
とても忙しそうに見えなかったが、わたしはなにも言わずにカウンターの丸い椅子に
腰をかけた。
「ね、今、忙しいわけないじゃんとか思ったでしょ」
女性は相変わらず笑顔のまま、わたしに言ってきた。わたしはどきっとして、思わず顔を上げた。
「いいよいいよっ、実際そうだからさー」
そう言いながら、小さなグラスに入った琥珀色の液体を出してきた。
「喉乾いてるでしょ。どうぞ」
「あ、どうも」
わたしはグラスを取ると、鼻に近づけた。かなりきついアルコールの匂い。お酒だ。
「……これって」
「遠慮しないで。一気にどうぞ」
未成年にいいんですか……と言おうと思ったけど、この世界ではそんな概念はないのかも
しれないので言わなかった。
いや、言わなくてもこの女性には分かってるんだろう、おそらく……。
- 80 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:29
- わたしは顔を上げると、カウンターに肘をついている女性を見つめ返した。彼女はしかし
なにも言わずに、目を見開いて見ているだけだ。
奥には樫材で組まれた天井まである棚が一面に設えてあり、その中に緑や黒や透明の
ボトルがポツポツと並べられていた。みなお酒っぽい。ここは飲み屋なんだ。
グラスの液体に視線を落とす。以前にビールはちょっとふざけて口にしたことはあったけど、
こんな強いのは飲んだことがない。
……まあ、しょうがない。わたしは息を吐くと、ぐっと一気に呷った。ぬるい液体が喉を通って
いく感じの後に、すぐ灼けるような感覚が口蓋から喉に広がっていった。
- 81 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:29
- 「いい飲みっぷり」
女性は言いながらパチパチと手を叩いた。わたしは唾を飲み込みながら、手の甲で唇を
拭った。
「わたし、なっち……あべなつみ。一応、ここのマスターなんだ。マスターだって。変だね」
自分で言って自分で照れている。
「はあ」
あべなつみというのが名前で、なっちは愛称のようなものなのだろう。
わたしも自己紹介をしようと口を開きかけたが、あべさんは手を挙げるとそれを制して、
眉間に人差し指を当てると言った。
「あなたは、たなかれいな? 変わった名前だね」
「あの……」
「南の街に向かってるんだ? けっこう長旅だね……若いのに、大変だね」
「ちょっと待ってください」
わたしが鋭い声をあげるのに、あべさんは口をつぐんだ。
「その……安倍さんは」
「なっちでいいよ」
「なっちさんは、そういう、心が読めたりとかするんですか?」
単刀直入に訊いてみる。あべさんはふっと意味ありげな意味を浮かべると、
『読むだけじゃなくて、話しかけるのも出来るんだ。あなたにはね』
と、さっきのように言葉をかけてきた。わたしはまたさーっと背筋に寒気が走るのを感じた。
- 82 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:30
- 「けどそれって」
『ごめんね、驚かせちゃって。でもね、みんながみんななっちの声が聞こえるわけじゃ
ないみたいなんだ』
「はあ」
『なっちね、いつもこうやって、みんなの心に声をかけてるの。だけど、誰も気付いてくれない。
れいなちゃんがはじめてなんだ、反応してくれたの』
「そうなんですか……」
『だからつい調子に乗っちゃって。あ、あとね、あべって安倍っていう風に書くんだ』
そこまで話すと、安倍さんはまた普通に口を開いて声で話を続けた。
「多分、れいなちゃんにもそういう才能があるんって思うんだ」
「才能……ですか?」
「うん、絶対そうだと思う」
- 83 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:30
- そんな話は聞いたことがない……いや、それ以前に考えたことすらなかった。
「そんなこと言われても……」
「や、別にそんな、深く考えることじゃないから」
そう言うと、安倍さんは楽しそうに笑った。
「でもね、こういう力持ってると意外に便利なんだよ」
それはそうなのかもしれないけど。安倍さんは自分でもグラスについだお酒をちびちびと
飲みながら、少し興奮気味に見えた。
「だからね、れいなちゃんもトレーニングしてみてよ。素質あるから、コツをつかめばすぐに
うまくなると思うんだよね」
「トレーニングって」
「なっちが教えてあげる」
- 84 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:30
- よく分からないまま、わたしは安倍さんに勝手に見込まれてしまったようだった。
夕刻になり、安倍さんはわたしにこの小さな町を案内してくれた。彼女によれば、この町は
以前はもっと人も多く、活気に満ちた町だったそうだが、北の方で開拓ブームのようなものが
数年前に起きたらしく、山っ気のある連中はみな町を出ていってしまい、残されたのは行動力
のない連中か酔っぱらいか、安倍さんのように生まれ育った町を離れることに踏ん切れない
人たちだけだった。
旅行者が立ち寄るのも久しぶりのことらしく、安倍さんはやたらと楽しそうに町のあちこちを
連れていってくれた。もっとも、人が減りさびれた町のことだから、さほど見るべきものがある
というわけではなかった。
- 85 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:31
- 「なっちもね、本当はこの町のこと、そんなに好きなわけじゃないんだよ」
日が暮れたので町の散策はおしまいになり、わたしたちは小さな食堂に入って夕食を取った。
薄くて硬いパンに薫製の肉や野菜などを挟んだのが、ここではメインメニューみたいだった。
ソースがひどく辛く、鼻に抜ける時に涙が出そうになり、慌てて水を飲んだ。
「そうなんですか?」
「みんな冷たいしさ……分かるでしょ」
わたしは二人で町を歩き回ってるときに、人々から向けられた視線を思い出した。どこか訝しげ
な、一瞥してこちらが見返すと慌てて視線を逸らすような、どことなくイヤな感じの空気は
確かに感じられたが、それは彼等がわたしのような余所者に慣れていないからそういう反応を
見せるのかと思っていた。
「今はもう、本当にそういう人しか残ってないから」
「じゃあ、安倍さん……なっちさんも、ここから出ていこうとか思ってるんですか?」
「いやあ……」
少し考え込むように首を傾げると、
「出ていってもそれはそれで大変そうだしね……」
「はあ」
わたしはなんとなく、彼女という人間が理解できたように思った。
- 86 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:31
- と、安倍さんがまたふっと寂しげな笑みを漏らした。
「分かってるよ。よく言われたな、なっち、積極性に欠ける子供です、もっと前向きに行動
出来るようになりましょう、とか、ちっちゃいころ」
「いや、別にそういう……」
考えてることを読まれてしまうと、どうにもやりにくい。
とはいえ、そうした反応にももう安倍さんは慣れてしまってるのだろう。
「しょうがないの、見えすぎちゃうから。あ、予知能力なんてもってないよ。でもなっちの
行動で、周りが考えることとか見えちゃうから……やりにくいんだよね」
そういうものなのかな。
- 87 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/16(日) 23:32
- >>70
ありがとうございます。レスはとても励みになるので、頑張りたいです。。
- 88 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/18(火) 23:23
- 更新お疲れ様です。
良い感じで幻想的ですね。
次も楽しみです。
- 89 名前:石川県民 投稿日:2005/01/19(水) 01:07
- 初レスさせていただきます。
しっかりとしていてファンタジーな独特な世界観に引き込まれました。
マジ面白いです。
次回も楽しみにさせていただきます。
- 90 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:36
- 外からやってくる人間のほとんどいない町なので、宿泊できるような場所は見つから
なかった。
住んでる人もどんどんいなくなっていってしまう町にやってくる人なんて、それはいないだろう。
港への中継地点としての存在意義しか残っていないような町だ。たまに旅人がやってきて
通過していくだけの町。わたしみたいにもたもたしている人くらいが、希にひっかかるくらい。
結局安倍さんのお店に戻り、そこに泊めてもらうしかなさそうだった。
安倍さんはいつもニコニコしていて、親切でとてもいい人だった。彼女の好意を断る理由は
なにもなかった。
ただそうとは分かっていても、やはりどことなく薄気味悪いという感情は拭い去れなかった。
心の中を覗かれてしまうということに慣れるなんて無理だ。
でも、そんなわたしの感情にも当然気付いているはずなのに、やはり優しく接してくれる
安倍さんは、わたしの考えているよりずっといい人に違いない。なんだかわたしの方が
情けない人間みたいに思えてきてしまう。
- 91 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:36
- 「ちっちゃい頃はそういうのが普通で、みんなそうだって思ってたから、なにも考えないで
喋ったりしてたのね。したらみんな気持ち悪がって、近寄ってこなくなっちゃった」
安倍さんは屈託のない表情で、そんなことを話してくれた。
「しばらくしてやっと、ああなっちだけみんなの声が聞こえるんだってのに気付いたんだけど、
そういうことがあってからだからどうしても人間関係がうまくいかなくてさ。
「別にこっちがなにもしなければなにも見えたり聞こえたりしないんだよ。だから、例えば
群衆の中にいてみんなが大声で独り言を言い続けてるとか、そういう感じじゃないんだ。
だから、なっちもなるべく覗き見しないように努力したんだけど……でもやっぱりダメだった。
しょうがないもん、気になるんだから。でもそれから、代わりにっていうわけじゃないけど、
なっちみたいに心の声を聞ける人を探すようになった。れいなちゃんに会ったときみたいに、
初対面の人にはこっちから信号を送ってみるの。でも誰も気付かなかったけどね」
- 92 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:37
- 「わたしがじゃあ、はじめてだったんですか?」
「そうだよ」
安倍さんは頷いた。
「だから、れいなちゃんは才能あるの」
「でもわたしは」
別にそんな力欲しくない、と言いかけたけど、多分言う必要はなかった。分かった上で
安倍さんは、そう言ってきているのだ。
理解できないこともなかった。自分にだけ見えて他人には見えないものがあって、その
ことでずっと邪魔にされ続けてきたとすれば、ようやく同じ力を持った人間に巡りあえた
のだからどうしても逃がしたくないというのは、分かる。
とは言っても、わたしもここでずっと安倍さんと一緒に超能力の修行をしているような暇は
なかった。
- 93 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:37
- 「いやいや、そんな時間とったりしないから」
わたしの考えを見通したように──ように、というか実際に見通して、安倍さんは言った。
「明日でしょ、発つの」
「ええ、早ければ」
「一晩あれば充分だよ。これって、時間かけて鍛えるようなものじゃなくて、それこそ
出来るか出来ないかの、どっちかだから」
「はあ……」
安倍さんにそう言われても、やはりいまいち実感が湧かなかった。
「れいなちゃんは別になにもしないで大丈夫だから。寝ててもいいし」
よく分からないが、安倍さんが言うのならそういうものなのだろう。
- 94 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:37
- 二階の寝室の、古びたベッドに仰向けになりながら、わたしはぼんやりと天井を見つめていた。
部屋は殺風景で、ベッドの他には小さな木の机(埃だらけの真鍮製のランプがあった)と、
隅に据え付けられたクローゼットがあるだけだった。
店を閉じて、安倍さんが毛布を持ってあがってきた。わたしが慌ててベッドから降りようと
すると、手を振って笑った。
「遠慮しないでいいよ。お客さんなんだから」
「でも……」
宿賃もなにも払ってないんだけど。お店の手伝いをしようにもほとんどお客さん来ない
みたいだし……。
「そんな心配までしてくれないでいいのっ」
ぷっと頬を膨らませて言う。わたしはふるふると首をふると、
「いやその、ええと」
「ああごめんね。こういうことするからなっち嫌われちゃうんだよね」
そう言いながら、安倍さんは苦笑いを浮かべた。
「つい調子に乗っちゃうんだよね……」
「気にしてないですよ」
- 95 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:37
- 安倍さんがいい人なのは分かるけど、どうにも接し方に困ってしまうタイプなのも確か
だった。気を遣ってくれて、逆にこっちも気を遣ってしまうと言うか……。
まああまり深く考えなくてもいいか。こっちがなにを考えてもみんな筒抜けなんだから。
そんなことを考えながら、わたしは床の埃を払って毛布を広げている安倍さんをなんとなし
に見つめていた。今考えてることも、普通に分かってるんだろうな。ちょっと慣れてきて
しまっている自分が、不思議でもあった。
しかし、その夜はもう会話は無かった。わたしは帰ってからもお酒を飲まされたせいか
少し頭がボーっとしていて、ベッドに横になってからすぐに眠り込んでしまった。
そして、わたしは夢を見た。
- 96 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:38
- わたしは大勢の人々が往来している街中に立っていた。ここはどこだろう? 渋谷の
スクランブル交差点か、新宿のアルタ前か、池袋の西口公園だろうか……。
周囲を大勢の人々、若い人たちから老人まで、子供も、赤ちゃんを抱いた母親も、わたしと
同年代のみんなもいた。誰もが、無表情のままあてもなく歩いているように見えた。
説明しようのない不安に襲われて、わたしは手当たり次第にみなの肩をつかんで話しかけて
いった。しかし誰も振り向かない。わたしの存在なんて目に見えてないみたいに、立ち止まろう
ともせずに歩いていってしまう。
大声で叫び出したくなる衝動を抑えながら、わたしは誰か知っている人間を見つけだそうと
周囲を見回した。しかし、みな別々の人間なのに誰もが同じような顔をしているように見えて、
なにかを見つける事なんて出来そうになかった。
- 97 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:38
- 途方に暮れてわたしは空を見上げる。そしてはじめて、異様な状況に気付いた。
夕焼けとは全く違う種類の赤色に染まった空に、雲が見たこともないような奇妙な形に
渦巻いている。
昔美術の教科書で見た絵に、こんな色彩のものがあったのを思い出した。
風もないのに空一面が生き物みたいにうごめいて、見つめているうちに吸い込まれそうになる。
そしてわたしは気付いた。ここではみな死んでいるんだと。でも、誰もまだそのことに気付けず
に、あてもなく帰れる場所を探して彷徨い歩いているんだと。
わたしが口を開きかけた瞬間、全てを見下ろすみたいに立ち並んでいたビルや駅が、
溶けていくみたいに崩れだした。その動きもまた雲の渦巻きと同じように見えた。目に見える
ものがみな蜃気楼みたいに揺らめいて、一瞬にして消えていくものを超スローモーションで
見せられているような気分になる。
目を閉じて、耳を塞いでうずくまった。そうしないと、周囲のみんなが一斉にこの状況に
気付いて、叫び出しそうだったから。そんなことに、耐えられるわけがない。
- 98 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:38
- しかし……わたしは思い出した。これは、わたしがそう思いこんでいるだけなのかもしれない。
そう思いこむように、わたしは自分で言い聞かせたんだった。
ゆっくりと立ち上がって、目を開いた。大勢の人たちは静かに席について、じっとしている。
客席はなだらかな勾配になって、暗い奥のほうへ消えて行っていた。
彼らが怖かったら、石か人形みたいなものだと思えばいい……と、わたしは言われていた。
だからわたしの眼には、みんなが無機質なカタマリみたいに映っているんだ。
誰もわたしのことを見ていないし、わたしに興味もないんだって。
- 99 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:39
- わたしはバイオリンを構えると、静かにはじめの一音を鳴らした。
それはひどく歪んでいて、耳に突き刺さるようだった。わたしは驚いて楽器を取り落としそうに
なった。
ああ、こうなるのは分かっていたんだ。絶対失敗するって、だから帰りたいって、あれだけ
言ったのに。いっつもわたしのほうが正しいのに、誰も聞いてくれない!
楽器を離しても、無茶苦茶な音は鳴りっぱなしだった。無表情で無機質で死体みたいな
お客さんはそれでも静かだった。わたしはバイオリンを投げつけて睨み付けてやりたかった。
分かってる。みんなあんなフリして、心の中でなにを考えてるかくらい。
そんなことくらい全部見えてるんだ。なんなら今ここで心の中を言ってやってしまいたい。
そうしたらまた一人になれるかもしれないし。
ステージから暗い客席はよく見えない。そのぶん見たくないものばかりが見えちゃう。
粘土細工のインチキ人間……みんな首になにか巻き付いてる。それは奥の暗がりに向かって
伸びている回線。あれを断ちきられたら死んじゃうし、切らなくても首吊って死んじゃうんだ。
ホントは最初から分かっていたのかも。ここには誰もいない。ここはわたし一人だけの世界。
この世界全てが、わたしの全てで、わたしの心の中に拡がっているんだ。
- 100 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:39
- 夢から覚めて、顔をあげると、わたしは教室にいた。薄暗くて、床にうっすらと砂埃が
積もっていた。
教室はやけに広く見えた。広い空間に並んでいる机は少なくて、なにもない空間ばかりが
目立っていた。
教卓の前に立たされているのは安倍さんだった。みんな、じっと彼女を見つめていた。
わたしは、なにに対してもムカついていたころのことを思い出した。
理由は分からないけど、時々他人の心が、ガラス張りになってるみたいに透けて見える
ような気がしてた。
皮膚がガラス張りの人間と同じように、とてもグロテスクに見えた。でも人のことをそんな
風に見てしまう自分に、苛立っていただけなのかもしれない。
- 101 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:39
- 誰もなにも言わない。ただ無言で安倍さんを責めているようだった。
安倍さんはじっとうつむいて、ただ耐えていた。でも、みんなの心の声は、今すごい
勢いで、心の中に流れ込んできてるに違いなかった。
想像するだけで、わたしは吐き気がしてきた。次の瞬間、栓が外れたみたいに、耳の
なかに洪水のように無数の声がなだれ込んできて、悲鳴を上げた。
- 102 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:40
- ハッとして起きあがった。ひどく汗をかいていて、身体がぶるっと震えた。
窓からは朝の透明な陽光がカーテンの隙間から差し込んで来ている。胸に手を当てると、
心臓が痙攣してるみたいにせわしない動悸を刻んでいた。
まだ夢の中にいるような気分だった。何度目が覚めても、そこはまだ夢の中で、永久に
閉じこめられたまま。合わせ鏡のような無意識の迷宮に閉じこめられてしまったみたい
だった。
わたしは床に広げっぱなしになっている毛布に視線を落とした。安倍さんはもう起きて、店に
出ていってしまっているみたいだった。
頭を掻きむしりたい衝動を抑えながら、わたしはずるずるとベッドから抜け出すと下に降りて
いった。乾いた朝の空気はとても冷たく感じる。
- 103 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:40
- 安倍さんはすでに着替えていて、静かにグラスを磨いていた。相変わらず、店内には誰の
姿も見えない。わたしが下りてきたのに気付くと、パッと表情を変化させて手を振った。
「あ、おはよう。よく眠れた?」
「ええ、まあ……」
どこまで話していいものか分からない。が、そんな逡巡も全て安倍さんには見えてしまって
いるのだろう。そのことに気付くと、なんだかバカらしくなってきた。
- 104 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:40
- 「昨夜、すっごい変な夢見たんですけど」
「うん」
安倍さんはごく日常的な会話みたいに、普通に頷いて見せた。わたしにはそれもまた
わざとらしいジェスチャーに見えてしまってしかたがない。
「あれって、どういう意味なんですか」
「意味って……なっちに訊かれても」
「だって、昨夜」
なんだか、はぐらかされそうな気がした。そう思ったら、安倍さんはふっと真面目な表情を
浮かべて、
「田中ちゃんが見たのは、多分なっちが見てきたのと同じものだよ」
そう言われても、わたしは言うべき言葉が見当たらず、ただ口を動かして空白を吐き出していた。
「それが見えたってことは、やっぱ素質あったんだよ」
- 105 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:41
- そう言う笑顔が、とても恐ろしいものに見えた。わたしはもう怒りの感情も薄れて、なるべく
はやくこの町から出ていってしまいたかった。
ここの中心には見えないブラックホールがあって、その中心に安倍さんがいて、だからずっと
動けないでいるのかもしれない、なんてふと思った。
「なっちも子供の頃はただムカついてるだけだったから」
安倍さんはそういうとわたしの肩を叩いて、天使みたいに微笑んだ。
「きっと分かる日がくるよ。そしたら、大人になったってことだよ」
一瓶のお酒をもらって、わたしはその日の昼に町を発った。
夢のことは、いつものように昼には朧な記憶になっていた。
わたしの中でなにか変化したんだろうか? それはまだ、よく分からなかった。
- 106 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:41
-
《続く》
- 107 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 01:42
- >>88
ありがとうございます。なんだか段々暗くなってるような気がしないでもないですが…。
>>89
初レスどうもです。そういっていただけると本当に嬉しいです。
- 108 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 23:52
-
《歌う彫刻》
- 109 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 23:52
- 絵里の町を出てからずっと、わたしは小さな紙に一日が終わるたびに印を付けて
いっていた。正の字に組まれた棒の数は今見ている夕日が落ちれば78本になる。
こちらの一日がわたしの住んでいた世界と同じ長さなら、二ヶ月半と少しだけが
過ぎているということになる。
それにしても、それだけの時間、長い旅を続けて多くの人々と触れ合ってきたが、
未だに謎の多い場所だった。わたしたちと同じように姓と名に別れてしかも漢字
──みたいにわたしには見えたけど違うのかもしれない──で書くこともあって、
言葉が普通に通じるのにみんなわたしたちからは信じられないような能力を持って
いたりする。
ファンタジーの世界みたいだ、と思うこともあったけど、わたしの知っている、マンガとか
ゲームとかのファンタジーともまたずいぶんと違っているみたいだ。冒険者もいないし
剣も魔法もまだ見かけてなかったし、怪物にでくわしたりもしなかった。
似ているようで少しだけ違う……というのが、未だに慣れられずにいる原因なのかも
しれない。
- 110 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 23:52
- 空を見上げると、ギラギラとした太陽が容赦なく光を撒き散らしていた。そんな光を
たっぷりと吸収したのか、植物たちの色も目に痛いほど鮮やかだった。肉厚な葉の
緑も、色とりどりに派手な花びらを開き花弁を伸ばしている花たちも、溢れんばかり
の生命力を誇示しているみたいだ。
船で知り合った音楽家の女性(この人は本物の旅芸人だった)が、この島に住んでいる
人に紹介状を書いてくれたのだった。そのために安倍さんからもらったお酒を半分近く
飲まれてしまったんだけど。本当は全部あげてしまってもよかったんだけど、彼女は
いつかまた再会する機会があったらそのときに乾杯しよう、なんてカッコいいことを言って
わたしに残してくれた。
- 111 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 23:53
- 無数の小さな群島からなるこの町には、見渡す限りの果樹園が拡がり、一年中が常夏と
いった空気が横溢していた。
関西弁に似たアクセントで喋るその女性は、エキセントリックでかなりの変人だけど
悪い人間じゃないから、とこの島に住む飯田圭織という人を説明していた。
わたしは緑に囲まれた細い道を進みながら、女性から教えられた場所にのんびりと
向かっていた。
実を言うと、手持ちのお金がかなりもうなくなってきていた。絵里の町でカンパして
もらったのや、道中でバイオリンを弾いて稼いだお金もあったけど、やはり長旅だと
厳しいものがあった。なので、わたしはその飯田という人の手伝いをさせてもらうこと
になっていたのだった。
どの程度の期間になるかは分からないが、飯田さんがどのような仕事をしているか
というのも聞いていなかったので、正直不安でいっぱいだった。
- 112 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 23:53
- それにしても暑い。安倍さんの町とはまた違った、じめじめしてまとわりついてくるような
暑さだ。となると、いよいよ赤道──といっていいのかどうか──に近い場所までやって
来たっていうことなんだろう。
ようやく、一直線に続く小道のかなたに、植物で組まれた小さな門が見えた。門といって
も硬く閉じられているわけではなく、縦長のアーチが空に向かって聳えていた。
わたしは滴る汗を拭うと、少し馬のスピードを速めた。馬の方も大分ばててるみたいだった。
門をくぐってもまだ人家は見えなかった。そうとう広い敷地みたいだ。周囲は果樹園では
なくて、背の低い草木が色とりどりの花を見せつけるように拡がっていた。刈り揃えられ
ているようには見えなかったけど、様々な植物が私の背丈くらいの高さで統一されて
いるみたいだった。
- 113 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 23:53
- 門をくぐってから、急に道が複雑になった。カーブが増えて、分岐点に次々にぶつかった。
まるで迷路だ、と思ったけど、実際ここは迷路になっているようだ。
暑さでアタマがぼんやりしてる上に、行き止まりにぶつかるたびに行き戻りを繰り返して
わたしはだんだん苛立ちが募ってきた。
かなりの変わり者、と言っていたけど、最初からこの調子じゃ先が思いやられる。
イライラがピークに達しようとした寸前、ようやく迷路を抜けられたのか、一直線の長い
通路に出た。しかし、そこでまた、わたしは奇妙なものに直面させられることになった。
植物の隙間から、通路を睥睨するみたいに巨大な彫像がそそり立っていた。
なんて説明すればいいのだろう……? それこそ、ファンタジー世界に出てくる魔物の
ようでもあり、宗教の儀式に使われる像のようでもあり、具象的にも抽象的にも、複雑
な曲線と直線が組み合わされて、一種異様な形態を見せつけていた。
暑さと苛立ちのせいで大分アタマが参っていたせいもあるかもしれないけど、わたしは
いよいよ本格的な異世界に紛れ込んだみたいになって、白昼夢を見てるみたいに
ぼんやりと口を開けたまま、彫像たちの見下ろす通路を進んでいった。
迷路のようには長く続いている風景ではなく、少し進むとすぐに小さな家が目に入った。
家自体は普通の家だった。わたしはつい拍子抜けをしてしまった。
- 114 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 23:54
-
「すいませーん」
汗を拭いながら、わたしは扉に付いているワニ型のノッカーを叩いて声をかけた。
返事がない。苛立ちのせいか、つい乱暴に叩きながら、声を荒げてしまう。
と、突然扉が開いた。ノッカーをつかんだままだったわたしは、引きずられるようにして
転びそうになってしまった。
「なに? 誰」
軽くウェーブのかかった長髪を揺らしながら、すらっとした女性が顔を出した。
「あ、あの」
わたしは慌ててしまい、舌を噛みそうになってしまった。恐らくこの人が飯田圭織なん
だろう。薄布をカラダに巻いただけみたいな服装で、足は裸足だった。
「ここに来る船で紹介してもらって」
言いながら、書いて貰った紹介状を引っ張り出した。飯田さんは不審げな表情でわたしを
睨め回しながら、紹介状と見比べていた。
- 115 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 23:54
- 「おっけ。入って」
あいかわらず眉を顰めたままの表情で言うと、飯田さんはさっさと奥の方へ引っ込んで
いってしまった。
わたしは一瞬戸惑ったけど、中からの涼しげな空気にひかれるようにしてふらふらと
扉をくぐっていった。
家の中は、表から見たよりもずいぶんと広い感じだった。ただ、あちこちに雑然とものが
散らばっていたので、注意して進まないとなにかにぶつかってしまいそうだった。
飯田さんは髪をかき上げながら、また自分の机に戻っていってしまった。わたしはどう
していいものか、部屋の真ん中につったったままぼんやりと周囲を見回していた。
西側の壁一面に、天井まで届く棚が組まれていた。そこに、ずらっと隙間なくさまざまな
瓶や白い容器、ビーカーなどが置かれていた。一瞬、安倍さんのお店を思い出したり
したけど、ここにあるのはどうにも飲めなそうなものばかりだった。
- 116 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 23:54
- 「座ったら?」
飯田さんが振り向きもせずに言った。といっても、部屋はどこもかしこも散らかっていて、
座れそうなスペースは見つけられなかった。
「あのー……」
言ってみたものの、なんだか有無を言わせない雰囲気だったので、わたしはソファの上に
積まれてた、ぐちゃぐちゃとなにかがびっしりと書き込まれた紙の束を少しだけずらして、
腰を下ろした。
目の前に置かれてる、ばかでかい容器が目に留まった。半透明のそれは熱帯魚を
飼うための水槽のような細長い長方形で、下の台座にはなにやら複雑な機能を隠して
ありそうな黒い箱があった。
容器の中には赤茶けた砂が詰まっていた。一見したら、そのままの、砂の入った箱に
しか見えなかった。
- 117 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 23:55
- 「じゃ、さっそくだけど、田中れいなちゃんちょっと買い出し行ってくれるかな」
飯田さんは紹介状を机の上に放ると、わたしへ地図と数枚の金貨を手渡した。
「えっ」
「ほら、ここ、行って圭織からのおつかいだって言えばいいから」
「いえ、それはいいんですけど……」
わたしは少し押され気味だったので、ちょっと強めの口調で返した。
「表の迷路の地図も、教えて欲しいんですけど……」
あの複雑な道をまた通り抜けていくのはごめんだった。
飯田さんは不思議そうな表情で一瞬首を傾げると、笑い出した。
「なんだー、裕ちゃんから聞いてなかったの」
「なにをですか?」
「脇道入ってぐるっと回ってくればすぐなのに」
「……」
そんなこと一言も聞いちゃいない。わたしは心の中で裕ちゃんとやらに蹴りを入れた。
- 118 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 23:18
- この家の前の通廊に並んでいた彫像。あれが飯田さんの仕事だった。依頼に応じて
様々な彫像を、飯田さんは作っていた。アーティストなんですね、とわたしが言うと、
飯田さんはうーんと首を傾げてから、でも実際仕事でやってるものと趣味で作ってるのは
完全に分けてるから、といってすこし曖昧な表情を浮かべた。
飯田さんの彫像の作り方は一風変わっている。ノミとハンマーで汗を流しながら巨大な
岩のカタマリと格闘する、といったものを想像していたんだけど、そう言ったら飯田さんは
笑いながら手を振った。
「ま、明日になったら見せてあげるよ」
思わせぶりな笑みを浮かべて言うと、飯田さんはさっさと寝てしまった。
わたしもとても疲れていたので、わざわざ吊してもらった小さなハンモックに横になった。
三日月型の天窓が付いていて、真っ暗な部屋の上で静かに光っていた。ぼんやりとそれを
見つめているうちに、自然と眠りに落ちた。
- 119 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 23:19
- 翌日。わたしが起きると飯田さんはもう机に向かって作業をはじめていた。わたしが目を
擦りながら床に足を下ろすと、振り返らずに声をかけた。
「れいなー、ちょっとそっちの棚からX2Geっての取って」
「は、はい」
パチパチと瞬きをして無理矢理目を覚ますと、壁一面の巨大な棚に向き合った。様々な形
の容器に入った色とりどりの液体が整然と並んでいる。わたしは表面に貼られたラベルを
ざっと見ていった。飯田さんの言ったものはすぐに見付かった、が
「あのー、ちょっと届かないんですけど……」
午前中はずっと、飯田さんは机に向かって作業を続けていた。薬品を渡すとき後ろから
チラッと覗いたけど、一枚の紙に図面、もう一枚にはびっしりと複雑な記号の並んだ式が
書かれていて、それを大きな目で見比べながら多くの薬品を混ぜたり薄めたりしていた。
わたしはとてもお腹がすいていたんだけど、作業に没頭している飯田さんに声をかける
勇気はなかった。それにそんな厚かましい性格でもない。多分。
- 120 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 23:19
- 「よし」
壁際のやけに足の長い椅子に腰掛けてうとうとしかけていたら、突然飯田さんが大声を
あげて立ち上がった。わたしはビックリして床に転げ落ちそうになり慌てて壁に手を付いた。
「あ、終わったんですか……」
わたしが言うのも聞いてない様子で、飯田さんはうきうきとした歩調で扉へ向かった。
「ほら、なにボーっとしてんの。あれ持ってきて」
「あれ?」
口をあんぐりあけたまま、飯田さんが顎で示した方へ目をやった。ここに来たときにも目を
引かれた、巨大な水槽だった。
コロの付いた水槽を引っ張りながら、汗だくになって飯田さんについていった。扉を抜けると
家をぐるっと回って、裏庭へ入っていった。飯田さんはほとんど家と同じくらいの大きさの
ある倉庫へ入っていくと、すぐに台車に乗った岩を引っ張り出してきた。
「このサイズこれでお終いか。また買ってこないと」
ぶつぶつといいながら、裏庭の中程まで岩を運んでいくと、わたしに指示を出して岩の側
へ水槽を移動させた。
- 121 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 23:19
- 一体何をしようとしてるんだろう? さっぱり分からない。わたしが顔の回りに無数の
クエスチョンマークを浮かべている様子に気付いたのか、飯田さんはわたしの肩をぽんと
叩くと、
「もうはじめるから。下がって」
と言った。
南中した日差しは肌に突き刺さるようだった。空には見渡す限り雲一つ浮いていない。
飯田さんは汗一つかかず涼しい表情をしたまま、ポケットから、午前中ずっと調合していた
薬品の詰まった細長い試験管をとりだすと、栓を抜いて水槽に詰まった砂の中へ満遍なく
垂らしていった。
「じゃ、あとはちゃんと見張っておいてね」
飯田さんはわたしを振り向いてそんなことをいうと、さっさと家の方へ戻って行ってしまう。
「え? え? どういうことですか?」
「暑いから代わりに見ててって。終わったら呼んでねー」
- 122 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 23:19
- 代わりに、って言われても。でも見てるだけなら大丈夫かもしれない。このありえない暑さ
に耐えられればなんとか……。
汗を拭いながら岩と水槽の方へ目を戻すと、すでになにかが始まってる様子だった。
水槽に敷き詰められた砂の、表面がざわざわと波打ってるように見えた。と、あちこちから
見たこともないような、エメラルド色のキラキラした小さな虫がぞろぞろと這いだしてきた。
わたしはギョッとして思わず声をあげそうになってしまった。が、そんなわたしには構わず
虫たちは勝手に水槽の壁を昇り、続々と表に出てきていた。ものすごい数だった。わたしは
夏の日に公園でアイスキャンディーを落としたときにあっという間に群がってきたアリを思い
出したが、この虫は、やけに派手な外見をしている。尖った頭と羽の後ろ側が反り返って
いて、まるで緑色に光る三日月みたいに見えた。
- 123 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 23:20
- 無数の三日月虫たちは羽ばたいたり地面をちょこまかと歩いたりしながら、台座に
置かれたままの切り出された茶褐色の岩のカタマリへ次々に這い昇っていった。
見る見るうちに岩は虫たちに覆われていって、やがてエメラルド色のぞわぞわと粟立つ
シートに包まれたみたいになってしまった。
あっけに取られてわたしが見つめている間にも、勤勉でちょっとクスリで狂わされた虫たちは
炎天下の中黙々と作業を進めていったようだ。波打つ緑のシートは少しずつ岩を小さくして
いって、削り取られた欠片は麓に堆く積もっていった。そのうち、それが一つの具体的な
形を取っていっているのに、わたしは気付いた。それは、わたしが覗き見た飯田さんの机
に置かれていた図面で見たものだった。
- 124 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 23:20
- どれくらいの時間がかかったのか、多分それほどではなかったと思うけど、暑さも忘れて
わたしが呆然と見守っているうちに、虫たちは与えられた作業を終えてはじめの逆回しの
フィルムみたいに、さーっと波が引くようにして水槽の中へ戻っていった。一匹たりとも
行動を崩したり職場放棄して逃げ出したりといったこともなく、無数の虫たちは規律を保った
まま全ての行程を済ませて水槽の中のねぐらへと帰っていったのだった。
わたしは白昼の中で沸騰した脳が見た幻覚みたいに、その一部始終を見守っていた。
切り出されたままの不格好だった岩のカタマリは、今は細部まで精密に掘り出された一つ
の美しい彫像に姿を変えていた。どこからの依頼かは分からないが、やけにつるつるした
表面まで虫たちに磨き上げられていたそれは、玉座に腰をかけた王様の彫像だった。
王様が肩から羽織ったケープの、緻密に編み込まれた蔓草模様まで完璧に表現されて
いる仕事ぶりを見て、溜息しか出てこなかった。
- 125 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 23:21
- 美術館に紛れ込んで困惑している子供みたいにぐるぐると彫像を眺め回してから、
ようやくわたしは飯田さんのことを思いだして、家の中へ戻った。
飯田さんはすでに一仕事終えた感じで籐の寝椅子に身を長らえてグラスから
トロピカルドリンクを飲みながら本を読んでいた。
わたしが戻ってくると、顔を上げて
「あ、ちゃんと終わった?」
と訊いてきた。
「ええ。ていうか、なんか、ビックリしちゃいましたよ」
「すごいよねえ」
他人事みたく言うと、飯田さんは飲みかけのグラスを差し出した。
「暑かったでしょ。飲む?」
わたしはありがたくそのカラダに悪そうな色をした液体を受け取った。やけに甘ったるくて、
氷も入ってないのにアタマが痛くなるほど冷たかった。
飯田さんはんーっと全身を伸ばしながら立ち上がると、机の上の図面を取って表へ出て
行った。
- 126 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 23:21
-
その夜、夕食の席で飯田さんから話を聞かせてもらった(その日の最初の食事だった)。
食事は、色鮮やかなフルーツ類と薫製ハムのカタマリをナイフで切り分けたものだった。
黄色のつやつやした果実を齧ると、甘みと酸味の入り交じった飛沫が口の中ではじけた。
話しながらあちこちにエピソードが脱線したりいきなり専門的な内容が続いたりで付いていく
のも一苦労だったけど、とりあえず理解できたところでは、あの虫にそれぞれの与えられた
図面に合わせて調合された薬品を飲ませると、これもまた特殊な成分で出来ている砂岩
──多分に変質した有機物が含まれているとのことだったが──を噛み砕いて、どんな
複雑緻密な彫像でもあっという間に掘り出してしまうということだった。
わたしのイメージしたのは、コンピューター制御の彫刻マシンのようなものだった。こちら
から設計図を入力すると無数の機械の腕が伸びてきて岩を削って彫像を作る。
しかし飯田さんの飼っている虫と彼らを働かせる薬品という組み合わせの方が、ずっと
進化したテクノロジーのように、わたしには思えた。
- 127 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 23:21
- 虫はこの群島には普通に生息しているありふれた種類のものだということだったが、薬品
の調合方法や岩の出所は、厳密な企業秘密、と飯田さんは言っていた。いったいどんな
経緯で発見に至ったのか不思議でしょうがなかったけど、飯田さんはそれに関しても
笑いながらはぐらかしただけだった。
「だってさー、パクられたらやじゃん、やっぱり」
飯田さんは困ったように眉根を寄せて呟いた。
「彫刻1つでも、作るの大変だけどいい値段で買ってくれるしね。世界中から依頼くるんだよ。
圭織の見たことないような北とか南とかからもあったし」
なるほど、だから船乗りの女性とも知り合いだったわけか。
「表にいっぱい並んでたのもそうなんですか?」
わたしが訪ねるのに、飯田さんは手を振った。
「ううん、あれは趣味でやってるやつ。ここだけの話、仕事で作るのよりずっと手間暇かけて
作ってるんだ」
- 128 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 23:21
- 正直芸術とかそっち方面には疎いわたしでも、それは分かった。少なくとも、昼間に
目の前で見た彫像も信じられないくらい精巧に出来ていたけど、改めて表にある彫像と
比べてみれば、あらゆる面での差は歴然としているように見えた。
「11体あったでしょ、表のやつ。あと1体作れば完成なんだ。ここんとこ仕事が忙しくて
なかなか手を付けられないんだけど」
「そうなんですか」
上機嫌そうだったので、わたしは調子に乗って訊いてみた。
「あれってなんなんですか? パッと見てなんかよく分からなかったんですけど……」
「うーん」
飯田さんはまた首を傾げて、考え込むときの表情になった。
- 129 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 23:22
- 「説明するの難しいな。ま、出来たらきっと分かるよ」
数分ほどの沈黙を挟み、わたしが最後のハムを飲み込んだころにようやく飯田さんは
言った。
「はあ」
「でもあんま面白くないかもよ。ずっと自分のためだけに作ってきたものだからね」
その言葉が謙遜なのか本心からのものなのか、わたしにはよく分からなかった。
- 130 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/02/08(火) 13:25
- 初レスさせていただきます。ファンタジーっぽいですね、この手の作品は2番目に滅法弱くて、応援させて頂きます。更新待ってます。
- 131 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:35
- わたしに与えられる仕事はほとんど雑用みたいなものばかりだった。虫たちがちゃんと
仕事を終えるまでの見張りとか(しかし彼らは信じられないくらい完璧に従順で、人間の
目を気にして手を抜いたりとかはしないタイプみたいだった)、仕入れてきた砂岩を倉庫
まで運び込んだり(これは重労働だった)、薬品の調合に使う容器や器具などを洗ったり
ついでに食器を洗ったり(飯田さんは一緒に洗ってたみたいだけど大丈夫なのだろうか?)、
なんだかんだで一日中忙しく立ち働いていた。
飯田さんの仕事を見ているのは楽しかった。午前中、机に向かって薬品を弄ってる様子は
退屈だったけど、虫たちが一斉に動き出して、影がそのまま彫像を生み出すような光景
なんてここじゃないと絶対見られないものだし、なんど繰り替えし見ても面白かった。
本当に売れっ子みたいで、こんな離れ島のややこしい場所に住んでいるのに、彫像の
注文は次々と舞い込んできていた。はるばる遠方からの手紙も連日積み上がっていたし、
直接ここを訪れる人もいた。その中でも、わたしのように飯田さんの作った複雑な迷路に
紛れ込んでしまう人は半分くらいの感じでいて、なんとなくそんなふうにして来たお客さん
にはちょっと優しくもてなしてしまったりしていた。
- 132 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:35
- そんな風にして十日ほどが過ぎた頃、飯田さんは突然、これから入ってくる仕事は全部
断るか延期してもらうように、とわたしに言った。
「なんでですか?」
わたしが訊くと、飯田さんは机の上に広げていた図面と化学式がぐちゃぐちゃと書かれた
紙を取り上げて、自慢げな子供みたいにわたしに見せつけた。
「最後の一体が、やっと出来たの。明日からこれ作らないといけないから」
わたしは目をほそめて二枚の紙を交互に見やったが、両方ともそれぞれの意味でわたし
にはちんぷんかんぷんだった。
だけど、なんとなくすごいことなんだろうな、ということだけは理解できたような気がした。
- 133 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:35
- 翌朝、一足早く寝床を出たわたしは(飯田さんはひどく寝起きが悪くて、彼女を起こすのが、
実はここでの一番難儀な作業だった)昨夜ずらっと並べられた薬品の在庫を棚の前で
チェックしていった。一回に使う薬品の量はそれほど多くないので、ほとんどがまだ大丈夫
だったが、一種類だけ、ビンが空になっていた。
ひどい顔で起き出してきた飯田さんにわたしがそのことを報告すると、眉をひそめてさらに
怖い表情jになった。
「ああー、じゃあ取ってこないと……」
「取ってくる?」
不思議そうな表情のわたしに飯田さんは難しい表情で説明してくれた。
「このクスリは、山で捕れる蛇の毒から抽出しないといけないものなんだ。だから、なくなる
とけっこうめんどくさいのよ」
「蛇、ですか……」
薬品は全部、砂岩と同じように買っているものだと思っていた。あるいは、この薬品に
飯田さんがいう、独創の秘密が隠されているのかも知れない。
- 134 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:35
- 「じゃ、行くか」
「えっ」
食事にしようか、というのとなんら変わらないテンションで、山へ蛇狩りに行くか、といわれて
わたしは一瞬なんのことか理解できなかった。
「ほら、はやく準備して。わたし顔洗ってくるから」
結局、日が高くなってしまう前になんとか作業を終えてしまいたいという気持ちもあってか、
二人して朝から山へ入ることになった。といっても近場で済むようなものではないみたいで、
飯田さんの住む島から小舟に乗り、網の目のように入り組んだ海を抜けて行った。
少し南下したあたりにある、鬱蒼としたそれ自体が小山みたいな島が目的地だった。
獣道を、長い足を伸ばしてすたすたと登っていってしまう飯田さんに、わたしは付いていく
だけで精一杯だった。
- 135 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:36
- あたりは見渡す限りの緑で、羊歯の葉ややけに尖った茎を八方に伸ばした植物が密生して
おり、そこかしこにぶんぶんと小さな虫が飛び回っていて容赦なく顔やら腕やらにぶつかって
来た。わたしは両手で草や虫を払いながら、籔をつついて蛇を出そうとしている飯田さんを
追っていった。
「飯田さーん、どこまでいくんですかぁ……」
暑さでふらふらになりながら、情けない声をあげたわたしに、飯田さんは振り返りもせず、
「どこまでって、見付かるまでに決まってるでしょー」
とやけに間延びした声で返した。と、その時、足下で何かが滑るような乾いた音が通り過ぎて
行った。わたしが視線を落とすと、細い影がすっと消えていったと思ったら、突然目の前の葉
が揺れて、跳ね上がった。わたしは反射的にアタマを抱えると、うずくまった。
「危ないっ」
そんな声が聞こえた。瞬間、わたしはぶつかってきたカラダに跳ね飛ばされて、登ってきた
斜面を太い茎をつぶしながら転がった。たちまち、全身が青臭い樹液の匂いに包まれて、
むせかえりそうになった。
- 136 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:36
- 飯田さんはわたしとは反対側の茂みに突っ込んでいってそのまま見えなくなってしまった。
わたしが声をかけようとした瞬間、ぬっと大きな葉を押しのけて姿を現した。
「れいな、ぐっじょぶ」
鬼気迫る笑顔でわたしを睨みながらいうと、右手にさっき飛びかかってきた影の主を高々と
掲げた。ピンクと黒がマーブル上に絡み合った模様の蛇が、首を絞められてぶら下げられ
ていた。
「だ、大丈夫ですか……」
わたしはまだ混乱と恐怖から声を震わせて言った。飯田さんはわたしを助け起こしてくれ
ながら、なんともいえない表情で黙ってうなづいただけだった。
「さ、戻ろ」
やけにあっさりとした口調で言うと、すっと踵を返した。獲物をケースにつっこみながら、
二の腕を押さえていたのが気に掛かった。
- 137 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:36
- 家に戻ったのはちょうど正午頃だった。太陽が天の中央まで昇り、空をとろけそうなくらいの
青さに染め上げていた。
飯田さんは戻ってすぐ、汗と泥の汚れも落とそうともせずに作業にとりかかった。散らかって
いた机を乱暴に片してスペースをあけると、手際よく蛇を解体して喉元の毒袋を切りはずした。
戻る途中にもうすうす気付いていたのだけど、今は目に見えて飯田さんの顔色は悪くなって
いた。ふらふらと足下もおぼつかなく見えたが、それでも作業の手際はいつも通り正確で、
目つきからは怖いくらいの気迫が感じられた。
「あ、あの、飯田さん……?」
意を決して、わたしはようやく声をかけた。
「なに」
「ずっと気になってたんですけど、なんか、身体の調子悪いんじゃ……」
「ああ、うん、ちょっとね、さっき、コイツに噛まれちゃってさ」
手を休めずに、さらっと言った。
「多分もう3,4時間くらいしたら死んじゃうから、急がないと」
- 138 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:36
-
「え……」
「れいな、やり方とかもう分かってるよね?」
「は、はい」
頷かないではいられないような気迫だった。わたしはただじっと飯田さんの作業する姿を
見守っていることしかできないのに、居ても立ってもいられないような感情になってしまう。
「あ、あとさ」
「はいっ」
そんなわたしの察してかそうでないのか、
「そっちの、書類入れの底の方に、入ってるのあるから、全部終わったあとでその指示
どおりにやってくれる?」
「飯田さん、でもその前に……」
「時間ないの! いい?」
わたしが口を挟める空気じゃなかった。わたしは不安をなんとか抑え込もうとしながら、
書類入れの奥をあさった。
それから二時間近く、飯田さんは黙々と作業を続けて、終わると同時にふらふらとベッドへ
倒れ込んだ。目を閉じたその表情は安らかで、達成感に満ち溢れているように見えた。
そして、そのまま目覚めることはなかった。
- 139 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:37
- 翌日、わたしは飯田さんの説明通りに薬品を調合すると、裏庭で作業に入った。
三日月型の虫たちがカリカリと音を立てながら岩を噛み砕いていくのを横目に見ながら、
わたしは書類入れから出した紙の束を読んでいった。
ちんぷんかんぷんな箇所が3分の2くらいあったけど、それでも大体の内容は掴めた。
南東の方角に誰も住んでいない島がある。その島は飯田さんの私有地だった。
今製作してるのと合わせた計12体の彫像をそこへ運び、メモに記されているとおりに
配置する。
- 140 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:37
- わたしは以前何かの本で見た、大昔に巨大な岩を円形に並べて作られた遺跡の
ことを思い出した。それを作った人たちが、どんな思いを込めて作り上げたかは、
どうやったって知りようのないことだ。
それと同じで、わたしにも飯田さんがこの12体の彫像に込めた思いは全く想像する
ことも出来なかった。
位置や方角も精密に決められた地図の中に、一つの点が示してあった。
そこに、誰かが飯田さんの代わりに立たないといけないんだろう。……
メモを読んでいるあいだに、虫たちは作業を終えて水槽に戻っていた。
完成した最後の彫像は、やはりわたしには理解できない不可思議な形をしていて、
細密に作り込まれていた。
- 141 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:37
- 12体の彫像を、街の他の人たちに協力してもらって、地図にある島まで運び出してもらった。
配置はかなり細かいところまで指定されていた。彫像の向きや微妙な位置関係にまで、
神経質に書き込まれてある。昼前に作業をはじめてから、ずっと微調整を続けているうちに
大分日が落ちてきてしまった。
島そのものは、周囲とは全く異なっていて、ほとんど草木も生えておらず、ごつごつとした
岩盤の大地は起伏が激しくて、とても快適に過ごせるような場所ではないように思える。
ようやくほぼ完璧といえるまでに調整を終えたころには、真っ赤に染まった太陽が沈み
かけていた。わたしは汗を拭うと、小さな水筒から一口だけ水を含んだ。まだこれで作業は
終わったわけじゃない。
- 142 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:37
- メモに指定されている場所まで行くと、彫像たちに向かってわたしは立った。
具体的ななにかを象ったものではなくても、こうして12体を揃えて並べると、不思議な
躍動感が全体から浮かび上がってくるようにも見える。
赤く染まった太陽の投げかける光を浴びて、彫像たちは細長い影を色褪せた大地に向けて
伸ばしていた。あたりはかすかな波音以外は完全に沈黙していて、わたし自身の息づかい
や速くなっている鼓動の音が耳障りなほどだった。
頬にひんやりとした感覚があった。風が出て来たんだろう。乾き始めた汗が、肌から熱を
奪って飛んでいった。
ずっと無風状態だったのがウソみたいに、風はだんだんと強くなっていった。わたしが
粟立った二の腕をさすろうとしたとき、かすかになり始めていた音に気付いた。
- 143 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:38
- 洞窟の中に反響しているような空気の振動は、風が強くなるのにつれて次第に折り重なり、
重層的で複雑な和声を奏で始めた。
わたしはハッとして目の前に並ぶ彫像たちを見つめた。そうだ、空気の流れを取り込んで
ハーモニーを吐きだしているのは彼らなんだ。飯田さんは、全てをはじめから計算して、
彫像たちをデザインし、彼らに唄わせることの出来る場所に運び込ませたのだった。
なんとも不思議な体験だった。彼らの歌は音楽というよりも音そのものがうねりになって
辺り一帯を包み込んでいくようだった。わたしは全身の皮膚が鼓膜になったような感覚で、
その全てを体感していた。
起伏のある大地に並べられた12体の彫像、重さと躍動感を持った音の洪水……これが
飯田さんの心の中に浮かんでいたヴィジョンなんだろうか。それともまだ、これはほんの
一部分にしかすぎないんだろうか。
- 144 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:38
- 今となっては、誰にも知りようがないことだった。太陽が落ち、風が止んだときにはもう
歌は鳴りやんでいた。
あとには、ただ荒涼とした風景と異形の彫像の姿が残されているだけだった。さっきまでの
光景は一瞬の夢のようだった。
飯田さんはまだ安らかな表情でベッドに横になっていた。わたしは彼女の顔を見下ろしながら
今日の出来事を報告しようと思ったけど、やめた。
うまくいったことなんて、飯田さんには始まる前から分かっていたに決まってるんだから。
- 145 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:38
-
《続く》
- 146 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 23:39
- >>130
レスありがとうございます。なかなか更新が出来なくてすいません。。
- 147 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/10(木) 18:25
- 今日初めて読みました。
とても面白いです。作者さんのペースで頑張ってください。
- 148 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/02/10(木) 20:18
- 更新お疲れさまです。 カオリン執念の彫像お見事でした。 今度は何処の誰に会うのでしょうねー、楽しみです。更新待ってます。
- 149 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/02/24(木) 13:59
- いつまでも待ってますよー。
- 150 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:26
-
《神様が降ってくる》
- 151 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:26
- 舞い上がった砂塵が、猛スピードで走っている馬車の左右に壁を築いているように
見えた。
地平線の向こうに、ぼんやりとした稜線が浮かび上がっている。見渡す限りの砂漠。
ついさっきまで、枯れた色の草原が広がり、遠目に動物たちが群れているのも見る
ことが出来たのに、気づいたらこのような死の風景に変わっていた。
- 152 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:26
- 「おっそいなー。ホントにちゃんと馬力出てるのかなぁ。ペース落ちてるんじゃない?」
それこそ、わたしが普通に乗っていた電車なんかよりよっぽどスピードが出てるって
いうのに、加護亜依さんはそんな不満げな声を漏らした。
6頭立ての馬車――といっても、牽いている動物は、強靱そうな二本足で走る巨大な
駝鳥のような鳥だったけど――は、ふざけたリムジンみたいな縦長で、わたしたち
2人を含めて30人ほどの乗客がぎゅう詰めになって乗り込んでいた。
後ろの部分には倉庫までついていて、ちょっとした大型トラックくらいの大きさは
あった。わたしの馬もそこでいまごろぐったりしてるのかもしれない。
「あのー、……なんか、酔っちゃったみたいなんですけど……」
がたがたと揺れ続ける馬車にわたしは大分参っていたんだけど、加護さんは軽く
肩を叩いてくれながら、
「れいなちゃん、身体弱いなー」
「そうですか……?」
「うんうん、もっとちゃんと食べたほうがいいよ。ホントに」
確かに、わたしはこっちに来てからずいぶんとやせてしまったようだった。
ついさっきも、干からびて革みたいな味になったパンをつもつもと囓っていたら
加護さんにからかわれてしまったところだ。
- 153 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:27
- 大陸の港へ入ってから、しばらくは河を上っていく船に乗せてもらっていた。
加護さんと会ったのは一週間ほど前に立ち寄った港で、やけに大荷物を引きずり
ながらうろうろしていたので、とても目立っていた。
大きな湖が遠方に見ることが出来た。全てが縮尺を間違えたように大きくデザイン
されている土地のように見えて、わたしは自分の身体がひどく縮んでしまったような
錯覚を感じていた。
船を下りて、大勢の旅行者が往来する中を、わたしが地図を探してふらふらと
さまよっていたら、同じ旅人と分かって声をかけてきてくれたのが加護さんだった。
「知り合いの商人さんがいるから、その人紹介してあげるよ。多分、直行でその南の
街行くと思う」
「本当ですか?」
わたしが驚いて聞き返すと、加護さんは楽しそうに笑った。
「まーまー、そんなに焦っても旅は面白くないよ」
そう言われても、わたしはのんびりと旅行を楽しんでいる余裕はあまりないのだ。
本当に直行でたどり着けるのなら、こんなに助かることはない。
- 154 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:27
- なんでも、加護さんはかなりのお金持ちの家に生まれて、しかも生来の旅行好きらしく、
暇にあかせて世界中を回っているんだとか。
基本的におしゃべりな人みたいで、二人して長距離馬車に乗り込んでからも、
いろいろと面白い旅のエピソードなんかを聞かせてもらっていた。
加護さんが引きずっていた大きな荷物は、そうした旅先で手に入れたこまごました物
や記録なんかがいっぱいに詰まっていたのだった。
わたしが、旅に必要な物以外はほとんど手ぶらに近い状態でいるのを、加護さんは
ずいぶんと不思議がっていた。とはいうものの、ヴァイオリンのような楽器は初めて
見るものだったらしく、かなり興味を持ってくれたみたいだった。
- 155 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:27
- 「次の町まで、あとどのくらいですか?」
くらくらする頭を押さえながらわたしが訊くのに、加護さんはちょっと考えると、
「うーんと、まあ、日が暮れるまでにはつくと思うよぉ、多分」
「はあ」
まだ昼を少し過ぎた頃だった。このペースであと数時間も……と考えると、わたしは
げんなりした。
「大丈夫?」
加護さんが心配そうな顔で覗き込んでくる。わたしは無理矢理笑顔を作ると、軽く
手を振ってみせた。
「ええ、この程度ならまあなんとか……」
といっても、いかにも無理矢理な雰囲気はバレバレみたいだった。
「あれだよ、れいなちゃん、もっと身体丈夫にしてもらうように、神様に頼んでみたら
いいよ」
「そうします……」
力無い声で言うと、水筒から水を一口だけ含んで、乾いた口の中で転がした。
- 156 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:28
- 無限に砂漠と草原が交代していきながら続いて行きそうな場所を半日かけて通り
抜けて、巨大な火山の麓に広がった町にたどり着いたのは、結局夕刻も終わりに
近づいたころだった。
日が暮れかけているところに、周囲には雲の中に紛れ込んだように霧が立ちこめて
いて、急に気温が下がったように感じられた。
妙に息苦しいのは、疲れているだけじゃなくて、標高の高い場所まで上がってきて
いるせいで空気が薄くなっているんだろう、と思った。
辺り一面はほとんど岩肌しか見えなかった。隙間を縫うように伸びている草も、まるで
岩の一部みたいに見えた。
- 157 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:28
- ひどく腰が痛むうえに、ゴツゴツとして勾配の多い地面を歩いていると、全身が
きりきりと軋み始めた。加護さんはすれ違う人に気軽に声をかけたりしながら、
涼しい顔をして先を進んでいたのだが。
「あ、そういえば」
加護さんがふと思いついたように言う。
「れいなちゃんは、なにしにそんな南の方へ行くん?」
わたしは腰を押さえながら、絵里の病気のことなどをかいつまんで説明した。
加護さんは感心したようにうんうんと頷くと、
「友達思いなんだねー、れいなちゃんは」
「友達……ええ、まあ、そうですね」
なんとなく照れくさくなったので、逆に加護さんに訊いてみた。
「加護さんは? ここに来たのって、面白いものとかあるんですか?」
- 158 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:28
- 先を進んでいた加護さんは立ち止まると、斜面の向こうに伸びている大きな火山の
稜線を示した。
「これからまだまだ先だよ。今日はもう無理だけど、明日一で上るから」
「そうなんですか……」
明日までに節々の痛みは取れているだろうか。わたしが軽く足を引きずりながら
そんなことを考えていると、加護さんは明るい口調で、
「とりあえず、夕食とろう。れいなちゃんもいっぱい食べないと、死んじゃうから」
「ホントに、死にそうです」
わたしは苦笑して言った。
「続きはそこでまた、話すよ」
- 159 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:28
- 町、とは言っても、ところどころに布で張ったテントのようなものがぽつぽつとある
だけで、大勢の人々がうろうろと野営の場所を探してうろつき回っていた。
ここは単なる、長い旅程の中継地点になっている場所なんだろう。それにしても、
一日の旅行者だけで一つの町のようになってしまうというのにも驚いた。
わたしたちは扁平に広がった食堂場のテントの幕をくぐると、人混みをかき分けて
席を確保した。さすがに、旅好きの加護さんは、こういうことには慣れているようで
助かった。
テントの片隅で、旅芸人の音楽家が不思議なメロディーの曲を奏でていた。
どこかジプシー風の感触があったけど、金属的な打楽器のリズムとぎしぎしと
したノイズを含んだ、見たこともない楽器の音は、どこか気持ちを不安にさせる
ような響きがあった。
- 160 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:29
- 「れいなちゃんさ」
クリーム色の濃厚なスープをすすりながら、加護さんが言った。
食器もスプーンも岩で出来た重たいもので、指が疲れてしまう。
「はい」
「周り見て、なにか気付かない?」
「は?」
そう言われて、わたしは思わず周囲をきょろきょろと見回した。
大勢の人々が、狭い空間の中を行き来している。わたしの目には、全ての光景が
単色のテレビに映っているような光景に見えた。
がしゃん、という金属的な音が聞こえ、わたしはそちらへ視線をやった。
車椅子が倒れて、一人の男の人が投げ出されていた。左右にいた人が無言で、
その人を助け起こしている光景が見えた。
- 161 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:30
- 「ああ……」
わたしはようやく、加護さんの言っている意味が分かった。
ここに集まってきている人たちは、どこかしら、身体に障害を負っている人たち
だったのだ。全員というわけではないが、そうした人たちの付き添いであったり、
多分家族だったりして、集団の中に一人は混じっているようだった。
ぼんやりと周囲を眺めているうちに、逆にわたしたちのような人間の方が
ここでは浮いているようにさえ思えてきた。
「……近くで、なにか大きな災害とか、そういうのがあったんですか?」
つい小声になってしまう。加護さんは軽く首を振ると、
「違うよ。この人たちも、みんな世界のあちこちから集まってきてる。うちらと
一緒」
「でも……」
「この先にあるのって、聖地なんだ。わたしたちは巡礼者なの」
- 162 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:30
- 加護さんの言っている意味が、わたしには即座には理解できなかった。
足下に置いてあった鞄から綴じ箱を引っ張り出すと、加護さんはあまり広くない
テーブルの上にそれを広げた。
「これこれ、この記事」
それは、わたしの世界で言う新聞みたいなものだった。
文字はなんとなく読めるように見えたけど、微妙に崩れているのでよく分からなかった。
でも、右上に載っている大きな写真――のように見えたけど、絵かも知れない――は
強く印象に残った。
「この人、後藤真希ちゃん。知ってる?」
「いえ」
わたしが首を振るのに、加護さんが写真を示しながら説明した。
「神様をはじめて見たんだよ。旅の途中だったんだけど、一緒に旅行してた人たちは
みんな死んじゃって、真希ちゃんだけが生き残ったんだって」
「神様……」
- 163 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:31
- 後藤真希、という少女は、確かに独特の雰囲気を持っていることは、写真だか絵だか
を通じてでも伝わってきた。髪は金色で光を放っているようで、無表情なのもどこか
教科書で見た昔の天使なんかのイメージを彷彿とさせた。
といっても、もし絵だとすれば、描いた人の印象が反映されてるのかもしれないわけ
だから、そのまま飲み込むこともないんだけど。
「わたしもこれで読んだだけだから、くわしく知らないんだけど」
加護さんはそう前置きをすると、
「真希ちゃんって、小さい頃に重い病気にかかって、目も見えないし手足も動かない
みたいな、大変な状態だったのに、神様に出会ってからそう言うのが全部治っちゃった
んだよ。真希ちゃんは、神様からの恩寵だって言ってるけど」
「ああ……そうだったんですか」
その説明で、ようやくわたしは話が見えてきた。
わざわざ、不自由な身体でこんな辺鄙な場所まで来ているというのは、その
後藤真希という人がされたみたいに、神様からの恩寵を期待してのことなんだ。
加護さんはさっき巡礼者と言っていたけど、もし本物の神様に出会って直接治療して
もらえるなら、これ以上のことはないだろう。
- 164 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:31
- わたしは改めて、周りの人たちを見回した。
しかし、本当に神様なんているのだろうか……? それがわたしの正直な気持ちだった。
この世界へ来てからいろいろと信じられない出来事に出会っているけど、さすがに
これはちょっと、にわかには信じがたいことだった。
と、ふと疑問に思ったことがあった。
「じゃあ、加護さんも?」
わたしが見る限りでは、加護さんは完全に健康に見えた。
むしろ、こっちに来てから大分体力消耗しているわたしより、健康だろう。
- 165 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:32
- 「ううん、そういうわけじゃないんだけど」
笑いながら手を振ると、
「わたし、これ見てすぐ真希ちゃんのファンになっちゃって」
加護さんは嬉しそうな表情で、写真に視線を落としながら言った。
「かっこいいなーって。だって神様に選ばれた人だよ? すごいよねー。だからね、
わたしも絶対選ばれてやるんだって……」
「あ、あたしじゃんこれ」
いつの間にか後ろに立って覗き込んでいた女性が、そんなことを言った。
「えっ」
「懐かしいなー。一年くらい前のだよ、これ」
- 166 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:32
- わたしが顔をあげて見た女性は、新聞に載っている女性とは大分雰囲気の違う
感じに見えた。
髪も短くて黒に近い色だったし、雰囲気も落ち着いて見えたし……なにより、写真
で描かれているような神々しいまでのオーラは、彼女には全く感じられなかった。
それでも、彼女が後藤真希だということは、明らかだった。それは、顔を見ただけでも
分かった。
「えっ? あ、あの……」
加護さんは言うべき言葉を見つけられないみたいに、戸惑い気味の表情を浮かべた
まま口をぱくぱくさせていた。わたしには、そんな様子がなんとなく可愛らしく見えた。
「あの、あなたが、後藤真希さんですか?」
加護さんの言葉を引き継ぐみたいに、自然にわたしは問い掛けていた。
女性はごく自然に頷くと、
「うん、そうだよ」
「はあ……ええと、あの、ずいぶん、雰囲気が違いますね」
- 167 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:32
- 失礼かとも思ったけど、わたしは素直にそう言った。
「うーん……まあ、大分前のことだからね」
後藤さんはそういうと、照れくさそうに笑った。
その笑顔は、ちょっとだけ好きになれそうな雰囲気があった。
「なんか、でも違うなあ」
そう言う彼女の気持ちは、わたしにもちょっとだけ理解できた。
良くも悪くも、過去の自分をこうして出されるというのは、気持ち悪いものだ。
- 168 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:32
- 「あの……なんでここに?」
ようやく落ち着いた加護さんが、そう問い掛けた。
「ん? みんなと一緒だよ」
そう言うと、後藤さんは奥の席に陣取っている集団を示した。
「あの人たちの付き添いで来てるんだ。もうここ来るのは5回目くらい」
後藤さんはわたしと加護さんの顔をちらっと見ると、
「ていうか、ここ来る車で一緒だったよね。近くにいたんだけど」
「あ、そうなんですか」
「全然気付かなかった」
加護さんがちょっと落ち込んだように言った。
「じゃー、またね。明日一緒に行けたらいいね」
さらっとした口調で言うと、後藤さんは向こうの集団の方へ行ってしまった。
加護さんはまだなにか言い残したことがあるような視線で、彼女の後ろ姿を見送って
いた。わたしは、細い身体が遠ざかっていくのを見つめながら、なんとなく釈然としない
思いを、心のどこかで感じていた。
- 169 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 23:34
- >>147
ありがとうございます。なるべく早く更新できるように頑張ります。
>>148
ありがとうございます。とりあえず娘。の新旧メンバーは可能な限り出す予定です。
>>149
お待たせしてしまってすいません。。。
- 170 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/02/27(日) 13:45
- いえいえ、更新してくださってなによりです。 神様ですか。 本人が出てくるとなると何かありますね? 次回更新待ってます。
- 171 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:15
- 「ねえ、昨日の人、本当に真希ちゃんだったのかなあ」
がたがたと揺れる馬車の中で、加護さんが突然そんなことを話しかけてきた。
まだ日も昇りきらない時間にわたしたちは起きだして、登りの馬車へと乗り込んで
いた。ここまで乗ってきたような巨大なものではなくて、7、8人程度のための
小型の馬車だった。
そうした馬車が数台、山の中腹を目指して並走していた。そのうちのどこかには、
多分後藤さんと仲間が乗り込んでいるんだろう。
「ええ……そう、思いますけど」
よくは知らないけど、わたしの見た限りでは、別人とは思えなかった。
「なんかすごく意外だったなぁ」
「そうですか?」
- 172 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:15
- わたしはむしろ、ゆうべ話したような普通っぽい彼女の方が、変にカッコつけてる
よりも好感が持てる感じではあった。
ただ、加護さんとは別の意味で、少し釈然としない気持ちも残ってはいた。
「だってさ、すごく普通っぽくなかった? そのへんですれ違っても気付かない感じ」
「それは、分かりますけど」
「もっとこう、オーラが出てるみたいなイメージがあったんだけどなー。でも可愛かった
から、いいんだけどさー」
- 173 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:15
- 勾配はなだらかだった。霧の向こうに見える地平線が、昇りかけた太陽の光で
ラベンダー色に染まっている。
「後藤さん、しょっちゅうここには来てるみたいですね」
わたしは昨日から思っていたことを口にした。
「ああ、そんなこと言ってたね」
「なにしに来てるんですかね?」
そう言うと、加護さんは少し首を傾げて、
「案内って言ってなかった? やっぱり経験者がいたほうが、助かる人たちもいる
と思うし……」
「それなら分かりますけど」
「れいなちゃん、なんか気になることとかあるの?」
- 174 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:15
- 訝しげな表情の加護さんに目を覗き込まれて、わたしはどぎまぎしたように手を
振った。
「いえ、ただちょっと、なんとなく言ってみただけです」
「変なの」
加護さんはそう言うと、また表へ顔を向けた。
見渡す限りの岩肌が、複雑に畝を作っている。
- 175 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:16
- わたしは軽く溜息をつくと、目を伏せた。
自分の考えていたのは、あまり堂々と言えるようなことじゃなかった。だから
黙っていてよかったのかもしれない。
要するに、わたしは後藤さんが、一度だけの恩寵で満足できずにまた何度も
聖地へ足を運んでいるんじゃないかと、そんな風に思ってしまったのだった。
もっとも、そんな推測をしてしまう自分の根性の方が、よっぽどおかしいんだろう。
不安が原因なのか、単に疲れているせいなのか分からないけど、どうも思考が
よくないほうに向かっているような気がしてしまう。
- 176 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:16
- そうでなくても、わたしにとっては、昨夜見た――うまい言い方が見つからないけど
――身体に不自由なところを持っている人たちが大勢で聖地を目指しているという
ことを知って、理由のない、なんだか嫌な感情を一瞬だけでも覚えてしまったのも
事実だった。そうしたことも、少なからず影響しているのかもしれない。
多分、わたしの世界では、神様なんてことをいう人間はペテン師かちょっと壊れた
人しかいないと、わたしが思いこんでいるせいで、そんな風な見方をしてしまうの
かもしれない。
- 177 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:16
-
複雑な地形を迂回しながら、それでも順調に高い場所へ向かっていた。
一度目の中継地点についたのは昼過ぎだったが、かなり空気は冷え込んでいて、
霧も深くなっていた。
巨大なナイフで切り裂いたような断崖が走り、遙か下に細長い水の流れが見える。
わたしはなんとなく、そのまま下の方へ吸い込まれて行ってしまいそうな気分に
なり、慌てて戻っていった。
「れいなちゃん、大丈夫?」
「ええ、まあ……」
加護さんが心配そうな表情で声を掛けてきてくれた。わたしは空元気でもいいから
とりあえず笑っておこうとしたが、うまくいかなかったみたいだ。
「顔色悪いみたいだけど……、下の町に戻ろうか?」
「いえ……もうちょっと頑張ってみます」
- 178 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:17
- 結局、わたしも神様という言葉に引っ掛かっているんだろう。
恩寵とか、そういうのとは関係なく、存在するものなら見てみたい。
この場所には、もともとあったはずなのに今まで気付かなかったような気持ち――
信仰とかそういう言葉では言いたくなかったけど――を惹きつけるような、そんな
不可思議な空気が、確かに存在しているように感じた。
加護さんの肩を借りながら、またみんなの集まっている場所へ戻った。
深い霧の向こうに厚い雲が垂れ下がっていて、その隙間からカーテンのように降りて
来ている陽光は、それ自体が神様のようにも見える。大昔に書かれた壁画に
あるみたいな、そんな風景だった。
- 179 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:17
- 隆起した岩盤の先に、後藤さんが立っていた。遠方に向けた視線は、なにを
見ているのか分からない。
と、くるっと身体を回して、すたすたと勾配を下って来た。
「どうしたの? 顔、真っ白だよ」
ごく普通に声を掛けられた。わたしの代わりに加護さんが答えた。
「軽い高山病みたい」
「そっか」
さらっとした口調で言うと、後藤さんはその場に座り込んで、右手に持っていた
大判の本を開いた。
なんとなく、わたしたちも後藤さんに並んで、岩の上に腰を掛けた。微かな風も
なく、薄いはずの空気が妙に重苦しく思える。
- 180 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:17
- 「それ、なんの本?」
加護さんが訊くのに、後藤さんは顔を上げずに返した。
「いつ頃のか分からないんだけど、神様に会ったっていう人が書いた本」
「へえ」
「でもなんか、難しくてよく分かんないんだけど」
そういうと後藤さんは笑った。わたしはぼんやりとした頭で、ああ、笑うと普通の
女の子だしかわいいな、なんてことを考えていた。
「そうだ、昨夜も訊きたかったんだけどさ」
後藤さんの言葉に、なぜかわたしはドキッとしてしまう。
「二人も巡礼さん? あんまりそんな感じじゃないけど」
「ううん」
加護さんは手を振った。
「ただの観光。亜依もれいなちゃんも、ずーっと世界を旅行してるんだ」
「そうなんだ」
- 181 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:18
- わたしが顔を上げると、こっちを見ていた後藤さんと目があった。
どう反応していいのか咄嗟には分からなくて、妙にぎこちなく笑い返した。
「でもそれでこんなとこまで来るって、気合い入ってるねえ」
変なところに感心している。加護さんはわたしを一瞥すると、
「あ、でもれいなちゃんは、なんかちょっと無理矢理つきあわせちゃったみたいな」
「そんなことないですよ」
わたしは、自分でも不思議なくらい熱心な口調で割り込んだ。加護さんも驚いた
ようにわたしを見ていた。
「もし本当に、そういう……神様に会えるなら、会ってみたいです」
後藤さんはそんなわたしをきょとんとして眺めていたが、やがて、ふっと笑い出した。
「会いたいんだ。そうかあ」
- 182 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:18
- 後藤さんは普通に言ったのかも知れないけど、わたしはなんだかからかわれた
ような気がして、ムッとして言い返していた。
「会ったんですよね? 後藤さんは」
「うーん……。会ったというか、まあ……」
そう言うと、どこか複雑な表情で口ごもった。
「会ったっていうか、見たって感じかな」
「はあ……」
「いや、見られたっていうのかなあ」
「よく分かんないです」
- 183 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:18
- 自分でも、なぜこんなに苛立っているのか不思議だった。加護さんが心配そうな
表情で、喋っているわたしを見ていた。
「困ったな」
後藤さんは困惑気味に笑うと、膝に置いていた本を取り上げた。
「これ読めば分かるかも」
「後藤さんは、覚えてないんですか?」
頭がくらくらしていた。身体が妙に熱っぽくて、額に汗が滲んでいた。
「いや……」
- 184 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:19
- 考え込むように俯いた横顔から、笑顔がなくなっていた。
わたしと後藤さんの間に挟まれていた加護さんは、どちらにどう声を掛ける
べきか、逡巡しているみたいだった。
「ごめんね、ホントは、あんまり思い出したくないんだ。そんときのこと」
顔を上げると、後藤さんはそう言った。
「どうしてですか?」
「れいなちゃん……」
食い下がろうとするわたしを、さすがに見かねたように加護さんが口を挟んだ。
わたしは思わず腰をあげかけていたが、その時ふっと視界が暗くなって、
魂が抜け出ていくような感覚に包まれた。
壁一枚向こう側から聞こえるみたいな、加護さんと後藤さんの声が、少しずつ
遠ざかっていった。
- 185 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:19
- ……そんなこんなで、気付いたときにはもう日は落ちていた。
テントのフレームからぶら下がっているランタンが、ぼんやりと滲んで見えた。
「あ、気付いたー。よかったぁ」
上半身を起こしたわたしを見て、加護さんが安堵の声を漏らした。
「すいません、わたし……」
「いきなり前のめりに倒れたから、ビックリしちゃったよ」
わたしはなんとなく額に手をやった。擦り傷が出来て、ざらざらしている。
「えっと、水、くれませんか……?」
「はい」
ずっと用意してくれていたんだろう。加護さんが差し出したカップを、わたしは
泣きそうになりながら受け取った。
- 186 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:20
- 「これ、もらっちゃった」
のどの奥まで潤そうとちびちび水を飲んでいるわたしに、加護さんは嬉しそう
な笑みを浮かべながら、足下に置かれていた本を取り上げた。
「でも、れいなちゃんにだって言ってたけどー」
ちょっとふくれっ面で言うと、わたしに本を差し出して来た。
「はあ」
せっかくプレゼントされても、わたしには読めないのだ。
なんとなく読めそうには見えるんだけど、でも実際読もうとすると全くなにが
書いてあるのか分からない。
外国語の本を見たときのような読めなさとは違って、どこか一つ変なところが
つっかえていて、頭の中に入ってこないような、気持ち悪さがある。
- 187 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:20
- 「どうもです」
わたしは読めないページをパラパラとめくりながら、また後藤さんのことを
考えていた。
と、加護さんもそんなわたしの気持ちに気付いてか、
「でもさ、れいなちゃんってけっこう熱い性格なんだね。意外だった」
「いやまあ」
そう言われても、わたし自身なんであんな風に言ってしまったのか、よく
分かっていなかったんだけど。
「真希ちゃん心配してたよ。なんか気に障るようなこと言っちゃったのかなって」
「すいません……」
熱があったせいで変になってたんです、とはあまり言いたくなかった。
そんな言い訳、最低だと思った。
- 188 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:23
- >>170
レスありがとうございます。
この話はあと一回くらい更新します。(なるべく早く出来ればいいな、と。。
- 189 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/03/20(日) 17:39
- んー、ごっちんはほんとに神様というのにあったんでしょうか? でも何やら理由ありな感じが漂ってますね。 次回更新待ってます。
- 190 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:45
- みんなからは一日遅れて、わたしたちはまた山を登り始めた。
加護さんの話を聞いていると、ビックリするくらいに天候もよく、この調子で
いけば本当に神様に遭遇できるかもしれない、ということだった。
「ここまでなんの大した事故もなくて、順調に進めてるってすごいことみたい」
町を出てから三日目。昼過ぎまで、うねるような勾配を昇り、休憩を取っていた。
霧の向こうにかすかに見える地平線からも、かなりの高さまで来ていることは
分かった。加護さんも、かなり期待は膨らんでいるようだった。
「あの本に書いてあったんですか?」
わたしの体調は、まだ万全という感じではなかった。
ただ、数日前まであったような、気分的な不安定は多少マシになっているよう
にも思えた。
「うん。やっぱり、こういう山の天候って不安定らしいし。いきなり荒れ始めて
ひどい目にあったりとか、よくあったみたい」
- 191 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:45
- それなら、今まで順調でも、明日突然荒れ始めるなんてこともあるかも
しれない……。なんて、また後ろ向きなことを考えてしまう。
「でも、この本読んでもよく分かんないな、神様って」
加護さんはそう言いながら本を閉じると、肩を竦めた。
「どんな風に書いてあるんですか?」
「うーん……全部読んでないからあれだけど」
わたしが言うのに、加護さんはちょっと考えると、
「すっごい漠然と書いてあるの。ただの光だったとか、嵐の中で見た雷みたいとか、
なんかでも、人間っぽい感じじゃないみたい」
「白髪で髪長くて髭生えてて、っていうんじゃないんですね」
普段から神様に縁のないわたしのイメージは、そんなものだった。加護さんは
手を叩いて笑った。
「そんなんだったら分かりやすくていいよね。街歩いてても、すぐ気付くし」
「あんまありがたみないですけどね」
「いやー、願い叶えてくれるんなら、パッと見が汚いおっさんでも、全然気にしないよ」
「神様とかいってしょぼい格好だったら、なんかガッカリします」
- 192 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:46
- そんな会話をして、夜になったらまた、わたしは熱を出して寝込んでいた。
まさか罰が当たったわけでもないだろうけど。血が沸騰して頭の中を駆けめぐって
いるような感覚の中で、わたしはとりとめもなくそんなことを考えた。
辛い、という段階を通り越して、なんだか奇妙に楽しくなっているのが、変な感じ
だった。
- 193 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:46
- 「熱下がらないなあ……」
額に乗せた布巾を取り上げると、加護さんは手を当てて呟いた。
「すいません」
掠れた声で言うのに、加護さんは首を振った。
「ううん。やっぱり降りようか? ここはあんまり水も薬もないし」
「いえ、多分、大丈夫だと思います……」
目を閉じると、記憶のどこかから浮上してきたみたいな映像が、コラージュされた
みたいに通り過ぎていく。あれ、これって死ぬ前に見るやつじゃない? そんな
ことを考えても、不思議と恐怖感はなかった。ただ、妙におかしい気持ちと、
やりきれない感覚が、同時にあるみたいな、なんとも言いようのない気分だった。
- 194 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:46
- 「水、くれますか」
加護さんは心配そうな表情で、カップに入った水を差しだしてくれる。
上半身を少しだけ起こして、口を付ける。水は驚くほど冷たくて、喉を通るあいだ
に全部蒸発してしまうような気になる。身体の中はどこも焼け付くみたいだ。
「やっぱ、大丈夫じゃないよ、どう見ても」
加護さんが言うのに、わたしは頷いた。もうなにがなんだか分からない。
「神様にお願いしてください、わたしが死んだら、天国にって……」
いいながら、わたしはくすくすと笑った。自分の笑い声を聞いて、ふと、絵里のこと
を思い出していた。
「縁起でもないこと、冗談でも言っちゃダメ」
加護さんは真剣な表情で言う。と、天幕が開いて誰かが顔を覗かせた。
- 195 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:47
- 「あ、ごっちん?」
加護さんの声で、わたしは誰だか分かった。
「さっき薬もらいに来たって聞いて」
後藤さんが喋っている。わたしはふらふらと上半身を起こすと、
「かみさまかみさま、助けてください」
手を伸ばす。後藤さんは困惑したみたいな笑みを浮かべながら、でも手を伸ばして
握ってくれた。後藤さんの手はやたらと冷たく感じた。
「えっと……薬、持ってきたから」
そういうと、後藤さんは手に左手にぶら下げていた革袋を加護さんに渡していた。
「ありがとう。結構、近くにいたんだ」
加護さんが言うのに、後藤さんはわたしの手を握ったまま頷いた。
「うん、なんか雲行きが怪しかったし、途中で足止め」
「後藤さん、かみさま、まだですか?」
わたしはなぜだか楽しげに、腕をぶんぶん降りながら言った。
加護さんが、額から落ちた布巾を拾い上げると、わたしの汗の浮いた頬に当てた。
「つめたっ」
「れいなちゃん、今日はもう寝たほうがいいよ」
- 196 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:47
- 「寝る前に、薬飲んでね」
後藤さんが言う。その声は、わたしの頭の中で反響してぎゅるぎゅると渦巻いた。
わたしは握ったままの手をぐいぐいと引っ張ったけど、身体が弱まってるせいで
全然後藤さんは動いてくれなかった。ただ困ったように笑っているだけだ。
「ほら、これ飲んで」
加護さんが粉末状の薬を差し出す。わたしはあーんと口を開ける。苦い味が
さらさらと流れ込んできて、すぐに水で流し込まれた。木の皮みたいだった。
「おいしー」
「すっごい、熱出てるっぽいね……」
後藤さんが呆れたように呟いた。握った手はわたしの汗でびしょびしょになっている。
「そうですかー」
「えっと、とりあえずさ、今夜はもう休もう。ね」
- 197 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:47
- 後藤さんはそういって笑いかけてくれた。でもわたしはなぜだか、後藤さんの握った
手を離そうという気にはならなかった。
「ね、れいなちゃん」
困ったような笑みを浮かべている後藤さんに、わたしは言った。
「後藤さん、神様にお願いして、えりを死なせないように、そう頼んでください」
「えり……って、誰?」
「友達なんです。死んじゃうんです、このままだと、誰も、治せないんです」
わたしはなんでこんなことを言い始めたのか、自分でもよく分からなかった。
なにか張りつめていたものがぷつんって切れたみたいに、止めていた感情がまとめて
流れ出してきたみたいだった。
熱のせいかなんなのか分からないけど、わたしは、滝みたいに涙を流しながら
ひたすら懇願していた。
- 198 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:48
- 「治らない病気で、今も、苦しんでるかもしれない。れいなが、絶対になんとかして
あげるって、そう約束したのに、今も」
「れいなちゃん、落ち着いて」
後藤さんはぐいぐいと引っ張っているわたしの手を、優しく撫でてから、指でわたしの
涙を拭ってくれた。
「けどさ、やっぱりそれは、れいなちゃんが約束守ってあげたほうがいいと思うよ」
「でも絵里は……」
「うん、だからさ、今は自分の身体のこと考えなよ」
後藤さんの声は、不思議と心を落ち着かせてくれるようなトーンがあった。
わたしは何度もしゃくりあげながら、弱々しく頷くと、ようやく握り続けていた後藤さん
の手を離した。
「ね、自分を信じて」
そういうと、わたしの顔を両手で挟んで、じっと目を見つめられた。
「……はい」
わたしが頷いたとき、後藤さんがどんな表情をしていたのか、分からなかった。
そのときはもう、さっき嚥下した薬のせいか、熱と混乱から疲れ果てていたせいか、
泣きすぎたせいか、視界はぼんやりとして、そのまま眠りへと落ちてしまっていた
からだった。
- 199 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:48
- 翌朝になっても、体調はあまり変わってはいなかった。体はだるく火照っていて、
肌に触れる空気の、湿っぽい冷たさが気持ち悪かった。
昨夜のことはぼんやりとした記憶になっているかと思ったけど、ほとんどをはっきり
と覚えていた。自分でも、どうしてあんなに感情が高ぶってしまったのか、今でも
分からない。
ただ、後藤さんと手を離す寸前に、わたしは見ていた。それが気のせいなのか、そうで
はないのかというのは、分からなかった。
「熱は下がってないけど、顔色はよくなってるよ」
加護さんがそういって元気付けてくれるのに、また泣いてしまいそうになる。
なんとなく、自分の身体の状態が最悪なのは、分かっていた。
怖さとか、そういう感情は不思議となかった。ただ、いくつかの心残りが、この
まま解消されないままだということが、すごく嫌だった。
- 200 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:48
- 「天気、いいみたいですね」
わたしは天幕へと目を向けて、呟いた。光は厚い布地を通して、自分の身体へと
降り注いでいた。
「うん。空見たけど、本当に青かった! 生まれて始めてみたってくらい」
「神様……、出てきてくれそうですか?」
「どうかなあ」
加護さんはそういうと肩を竦めた。
薬を飲んで、またしばらく眠った後、目を開いたらもう大分暗くなっていた。
信じられないくらいの汗をかいていて、身体はほとんどの中身が抜け落ちてしまった
みたいに、軽く感じられた。このままふわっと天国へ上っていってしまえるくらい
に、わたしはその軽さを心地よくも思っていた。
- 201 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:49
- 鼓動の音が、やけに耳につく。急に速くなったり、遅くなったり、このまま突然
止まってしまっても、全然不思議じゃない。身体が骨とぼろ布みたいな皮だけに
なって、その真ん中に弱りかけた心臓が浮かんでいる。日の光に透かせば、そんな
姿が見えてきそうだった。
鼓動はリズムで、不安定なリズムを聴いていると不安定なメロディが自然に流れ
出してきそうだった。痩せこけて、節くれ立った死神がバイオリンを弾きながら、
死へ誘うような、不吉に揺れ動いているメロディ。それが頭の中を、ぐるぐると
回り続けていた。
- 202 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:49
- と、表から加護さんが飛び込むようにして戻ってきた。
「なんか、すっごい騒ぎになってる!」
興奮気味なのは、口調からすぐに察せられた。わたしは力無く笑うと、上半身を
起こそうとしたが、全く身体はいうことをきいてくれなかった。
「どうしたんですか……?」
「上の方に登ってた人たちが、慌てて降りてきてた。もしかして、ここに神様が
来てるのかもしれないって!」
「はあ……」
わたしの様子を見て、加護さんの表情が曇った。
「れいなちゃん、着替えた方がいいよ。あと、なにか食べないと」
「そうですね……」
その声も、遠くからの山彦みたいにしか聞こえなかった。
- 203 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:49
- 誰のものか分からない身体に、水で柔らかくしたパンと薬を流し込んで、また
しばらく横になっていたけど、全く眠れなかった。
表の風が強くなったような気がした。天幕の端があおられてバタバタと音を
立てていた。
「雲ってきたかなあ」
加護さんが、急に暗くなったのに、表へ顔を出して言った。
「夜じゃないんですね」
自分でも悲しくなるくらいに弱々しい声で、わたしは呟いた。
そのとき、突然空の彼方から地響きのような音が鳴った。加護さんは慌てて
テントの中に戻ってきた。
「ビックリしたー」
わたしは朦朧としながらも、顔を上げて空の方を見上げた。天幕を通して降りて
くる光が、渦巻いているように見える。
もう一度雷が轟き、強風が激しくテントを揺らした。ついさっきまでの落ち着いた
天候からは予想も出来ない変化だった。
- 204 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:50
- 「やっぱり……来たんだ」
恐る恐る外の様子を窺って、加護さんはわたしのほうを振り向いて言った。
「空から光のカーテンみたいなのが降りてきて、動いてる。みんなそれ追いかけて
いってる」
「加護さんは……行かないんですか?」
「へっ?」
きょとんとした顔で一瞬わたしのことを見ると、すぐに苦笑しながら肩を竦めた。
「いやー、そのつもりだったんだけど、やっぱ無理っぽい」
そう言うと、わたしの側へ戻って、腰を下ろした。
「すごいなんか……、風のかたまりみたいなのと光が一緒んなって、近くを通り
過ぎていったんだよ。ばたばたってなったの」
「みんなは、追っていったんですか……?」
「そうみたい」
「後藤さんも?」
「さあ……」
加護さんは不安げに表の方へ視線を向けると、軽く溜息をついた。
- 205 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:50
- 薬が効き始めたのか、単に寝不足だったのが今になって戻ってきたのか、あるいは
死の前兆なのか……わたしは急に眠気に襲われて、そのまま目を閉じた。
夢の中でなにか、見たような気がするけど、覚えていない。
とても悲しい夢だったから、思い出したくないだけなのかもしれなかった。
夢の中で、誰かに話しかけられたような気がしていた。ちょうど安倍さんがわたしの
心に触れたときみたいに、でもそれも、ただの気のせいだったのかもしれない。
- 206 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:50
- 目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。支柱から下げられたランプの光が、ぼうっと
浮かんでいた。加護さんは椅子の上で毛布を被ったまま、眠り込んでいた。
身体がとても軽くなったように思えた。でも、今朝感じていたような、全身が枯れ
果てたような軽さとは違っていた。
上半身を起こすと、額に乗っていた布巾が膝の上に落ちた。じっとりと汗が染みた
それを拾うと、自分で地面の上に絞った。ぽたぽたと冷え切った水分が、指を伝って
落ちていった。
体力が戻って来ていた。眠りに落ちる前の、死神に憑かれていたような気分が
嘘みたいに、わたしは健康そのものだった。身体にかけられていた毛布は、なかば
ずり落ちていて、全身がやけに火照っていた。
- 207 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:50
- わたしは加護さんを起こさないように、そろそろと這い出すと、テントから表へ出た。
夜空には雲一つなく、満天の、ほとんど宇宙に浮かんでいると錯覚してしまいそうな
くらいの星空が広がっていた。
辺りには誰の気配もなかった。昼の出来事がみんな夢の中のことのように感じた。
神様が来て、竜巻みたいにしてここにある全てを攫って行ってしまった。あとに
残ったのは、ただ永遠に変わらない星空だけ。……
静かだった。
わたしは駆け出したくなる衝動を抑えて、ゆっくりと、岩棚の続く景色を横目に
見ながら、上り坂を歩いていった。彼方まで、所々に草原の残っている荒野が
広がっているのが、眼下に見下ろせた。
平坦な岩の道を登り切った。短く切り立った岩棚が数段見下ろせて、後はずっと
緩やかな勾配が続いているようだった。
星空の隅に、満月が見えた。夜空の一部を切り抜いたみたいな、見たこともない
ようなくっきりとした月だった。わたしは、絵里とあった日にも、こうして月を
見上げて歩いていたことを思い出した。
今こうして立っている場所は、月の上のクレーターの斜面みたいに感じられた。
- 208 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:51
- 神様ってさ、全然優しい人じゃないんだよ、そう夢の中で後藤さんに言われた。
わたしは確かに、そう聞いた。
だって、ただじゃ助けてくれないもん。誰かを助けるのに、誰かが生贄にならないと
いけないんだから。
……だから、またここに戻って来たんですか?
そうかもしんない。よく分かんないや。そういうと、いつもみたいに、ちょっと
困ったような、はにかんだような笑みを浮かべた。
微かな風に、わたしは身体を震わせた。昼間の風の残りが、さっと掠めていった
ような気がして、一瞬不安に襲われた。
両腕を触り、身体を抱きしめて、それでようやく、今こうして自分が立って
いられるということを、改めて確認できた。
わたしは生きている。……多分、わたしだけがこうして、生かされた。
理由なんて分からない。神様は気まぐれだから、後藤さんだってきっと分からな
かったんだろう。
きっとこうして、これからも生きて、生かされていくんだ。そう思った。
- 209 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:51
- 「長い船旅になると思うから、身体には気を付けてねー」
港へ向かう町で、加護さんとは別れることになった。
「はい。いろいろとありがとうございました」
わたしは、そう言うと頭を下げた。
「あとね、食事はちゃんと摂った方がいいよ、ホントに」
「ええ。加護さんも、あまりとりすぎないように……」
「ほっとけ」
そういうと、頭を小突かれた。わたしは笑いながら手を振ると、馬を引きながら
港への道を下っていった。
昼過ぎの淡い陽光が、夢の中にいるみたいに心地よかった。広場の隅にある木に、
小さな花が開いていた。
- 210 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:51
- あの日、奇妙な光と風のかたまりを追っていった人たちは、ほとんどが戻って
くることはなかった。
戻ってきた数人も、なにも語ろうとはしなかった。彼らの誰も、“恩寵”は受け
ていなかった。
ただ、恐怖だけを感じていたようだった。それでもやはり、巡礼をやめるつもり
はないと、そう言っていた。
結局、彼らとはそこで別れた。
旅の間に、わたしは後藤さんからもらった本を、加護さんに字を教わりながら
少しずつ読んでいった。
まだ分からない部分も多いけど、そのうち分かってくるかもしれない。
今はそれでもいいと思う。あの時に見たものは、ただの自然現象なのかもしれ
なかったけど、わたしにとってはどちらでも構わなかった。
自分が信じるか、そうでないか、それだけだから。わたしがあのときに死なずに、
こうして旅を続けられているのも、そういうことなんだろうと、今は信じること
にした。
- 211 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:52
- 微かな波のざわめきが聞こえ、潮の薫りが鼻をくすぐった。
潮風がちくちくと目に染みて、ちょっとだけ涙ぐんだ。
- 212 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:52
- 《続く》
- 213 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/10(日) 22:53
- >>189
いつもレスありがとうございます。かなり遅れて申し訳ないです。
ようやく折り返し地点…。
- 214 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/13(水) 15:29
- 更新お疲れ様です。
折り返し点・・・旅はまだまだ続きそうですね。
次回も楽しみに待っております。
- 215 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/04/13(水) 19:55
- 更新お疲れさまです。 ごっちんは一体何者だったんでしょうか? 今度の場所はなんとなくあそこだと思考を巡らせてみたり。 次回更新待ってます。
- 216 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:55
-
《ジャメネッツ・クリケット》
- 217 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:55
- 船の上は意外なほど静かで、ほとんど揺れていないように感じた。酔いやすい
体質のわたしにはありがたかったけど、この大きな船がどうやってこれだけの
スピードで海の上をすべっていけるのか、不思議だった。
柵にしがみついて、なだらかに曲線を描いている水平線を眺めていた。沈みか
けた太陽が半円になって、空へオレンジ色が溶け込んで行っている。縞模様に
なった波を縦に分断している光は、そのまま橋みたいに船の下まで続いている
ように見えた。こうして見ていると、海も、太陽も、わたしがいた世界と変わらない。
このまま波の上にかかった光の橋を歩いていけば、いつしか太陽まで辿り着く
んじゃないか、なんてことを考えた。
船はとても細長く、甲板を一周するのに一時間近くはかかりそうだった。堅い
木材がしっかりと組み合わされて造られていて、ちょっとした要塞のようにも
見えた。
わたしがまだ小さかった頃に、港で見たことのある捕鯨船を思い出した。記憶
の中にあるそれは途轍もなく巨大で、島がそのまま動いているようにすら見え
たものだった。
- 218 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:55
- この船は貨物船らしく、わたしが加護さんに書いてもらった紹介状を船長に
見せて、話をしているあいだにも、あちこちで船員達がいそがしそうに積み荷
を運び込んでいる姿が見えた。一辺がわたしの背丈くらいあるサイコロのよう
な木箱の列が、どこまでも途切れなく続いて、船の倉庫の中へ流れ込んでいった。
船長は矢口真里という女性で、わたしよりも小柄な人だった。作業中に声を
かけてしまったからか、そのときはやけに怖そうな印象だったけど、話して
みると割と普通の、明るくおしゃべりな女性という感じだった。
「あんまり船っぽくないですね」
見上げるようにしてわたしがいうと、矢口さんは首を傾げて笑った。
「そう? じゃ、どういうのが船っぽい?」
「なんかこう、帆が張ってあったりとか……」
「そんなのなくてもちゃんと動くから。邪魔なもの飾っておいてもしょうが
ないだろ?」
矢口さんはそういうと、慌ただしげに作業へ戻ってしまった。わたしはなんと
なく釈然としない思いを残しながら、架橋を上がっていった。
- 219 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:56
- 太陽は溶けていくようにして水平線へ沈んでいき、やがて海面に光を残すだけ
になった。眼下からの淡い光を見下ろしていると、どうしてもこの船の底が気
になってくる。
下部の階層は危険な場所なので、船員ではないわたしは立ち入ることは許され
ていなかった。普通に考えれば、あれだけの荷物を運び込んでいるのだから
大部分が倉庫になっているんだろうけど、しかしそれだけで危険な場所になる
とも思えない。船員たちの居住区があって、彼らが危険なのかも知れない。
あるいは、もっと他に何か、この巨大な船の秘密が船底に隠されているのかも
しれない。
どうしても無駄な好奇心がこうして出てきてしまって、一度気になり始めると
なかなか頭の中から追いやってしまうのは難しい。自分でもやっかいな性格
だって思う。
それでも、矢口さんの、やさしそうな笑顔の裏に見え隠れしている厳しさの
ようなものはわたしにも分かったので、彼女のことを思い出すとやはり勝手に
船底に降りて行ってしまう気も萎えてくる。
- 220 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:56
- いつしか海面に溶け残っていた陽光も消えて、海は夜空の光を反射して煌めく
波だけを残して黒く染まっていた。夜空を見上げると、信じられないような
星空のパノラマが広がっている。わたしの住んでいた街では――というか、
日本中のどこへ行ったって、こんな星空は見られないだろう。
星のことには全然くわしくはなかったけど、こうして見ていると、確かにいくつ
かの絵が見えてくるような気がする。昔、地球でもまだ夜空が透き通っていた
頃、人々は毎晩こんな星たちを見上げて、星座を見いだしていったのかも
しれない。
- 221 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:56
- 「海、好き?」
声をかけられて、わたしは振り返った。
矢口さんが杖をついて立っていた。黒くて大きな帽子を被っていて、なんとなく
海賊のコスプレをしてる人のように見えてしまう。
「いや……、なんか、空がきれいだなって」
「ふうん」
矢口さんは言うと、星空を見上げた。
「もう何年も見てるから、特にどうとも思わなくなっちゃったけど」
「山の上で見たときもすごいと思ったんですけど、海から見るとまた違うふう
に見えて」
「そうなんだ」
あまり関心もなさそうに言うと、話を変えた。
- 222 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:56
- 「で、れいなは南の街に行くんだっけ?」
「はい」
「街なんてもう何年も降りてないからなあ。おいらはそっちのほうがうらやましいよ」
矢口さんはそう言うと苦笑した。
「港にいる間に、ちょっと降りたりとか出来ないんですか?」
「そう簡単にもいかないんだよ」
「やっぱ、仕事とかいっぱいあるんですか?」
「まあそういうのもあるしさ」
水平線の方へ目を向けると、独り言のように続けた。
「他にもいろいろ問題あるから、あんま船の上から降りたくないんだ」
「はあ」
とはいっても、あまり立ち入ったことを話すのも気が引けた。
なにがあるにしても、これだけの大きな船を動かしているわけだから、苦労することも多いんだろう。
「……メシにしようか?」
「はい」
言われてようやく、空腹だったのを思い出した。昼を食べてからずっと、甲板
から海を眺めていたような気がする。
- 223 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:57
- 船員たち――彼らもものすごい人数がいて、船長である矢口さんですら正確に
は把握していないほどだった――は船の前の方にある広間に集まって、一斉に
食事の時間を迎えていた。わたしは矢口さんと一緒に船長室で食事をさせて
もらっていた。加護さんからの紹介状のお陰かどうかは分からないけど、
わたしは矢口さんからはずいぶんと気に入ってもらえたみたいだった。
「ほら、れいなって変な楽器演奏するじゃん、あの」
「バイオリンですか」
「そう、それ」
わたしは、ここの隣に貸してもらっている部屋に置きっぱなしになっている
バイオリンのことを思い出した。はじめて矢口さんと会ったときに、興味を
示したのはそれだけだった。
「あれさ、夜みんなが食事するときに弾いてやってくんないかな」
「みんな、って船員さんたちですか?」
「ああ。なんていうか、ここってなにも大した面白いこともないからさ。
みんな喜ぶんじゃないかなって思ったんだけど」
「れいなは構わないですけど……」
そういうわたしの不安が分かったのか、矢口さんはおかしそうに笑った。
「いや、そんな乱暴なやつはいないから、心配することないって」
「ホントですか?」
「ここ来るとき見ただろ、荷物運んでるの。みんなマジメだし、文句も言わない
で働いてくれてるよ」
- 224 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:57
- わたしはカップに注がれた飲み物――味はコーヒーに近かったけど、ずいぶん
と苦くて、焼きすぎたトーストを囓ってるみたいだった――をすすると、塩漬け
にされた魚料理を口に運んだ。身は白っぽくて、脂でてらてらと光っていたけど、
口に入れるとやけにパサパサと乾いてる感じで、やけにしょっぱくて喉が乾いた。
付け合わせの青色をした楕円形の豆が、果物と野菜の中間みたいな甘さがあって
おいしかった。
「矢口さん」
「なに?」
「いっこ訊いていいですか?」
矢口さんは少し不審そうな表情で頷いた。
「前話したときから気になってたんですけど、あの、この船ってなんで動いて
るんですか?」
「なにって……そりゃ、人が漕いでるんだよ」
「人が?」
「昔は帆船だったらしいんだけど、どんどんでかくなって、遅くなっちゃった
んだって。それで人力に変えたんだよ」
- 225 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:58
- あっさりと教えてもらえたのには拍子抜けだったけど、それでも不思議なのは
変わらなかった。
「でも、これだけ大きな船を動かすのって、人の力だけで出来るんですか?」
「ああ、うん、そりゃ5人とか10人じゃ無理だろうね」
まるで他人事のようにいう矢口さんに、わたしはさらに質問してみた。
「何人くらいいるんですか?」
「さあ? おいらもよく知らないんだよ。船長になったころはもう、今みたい
な感じでずっと続いてたわけだから」
「そうだったんですか」
少し意外に思った。わたしはコーヒーのような飲み物をもう一口含んだ。舌が
痺れるようで、頭が一気に覚醒するような感じが伝わった。
「じゃあ、矢口さんはもう何代目とかだったりするんですか?」
「何代目かは知らないけど」
わたしのいい方が面白かったのか、矢口さんはくすくすと笑いながら続けた。
「この輸送船自体はもう、ずーっと前からこの海路を往復してるからさ。それ
こそ、れいなとか、おいらとかが生まれるずっと前からだし。それで船長も
その間に代わってったわけだし」
「矢口さんが船長になったのは、なにかきっかけとかあったんですか?」
「きっかけかあ」
- 226 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:58
- そういうと、矢口さんはなにかを思い起こすように天井を仰いだ。映画の中で
見たことのあるような、羽のあるプロペラがゆっくりと旋回していた。
「なんだろうな。まあ、個人的にはあったんだろうけど、言ってみれば運命
みたいなもんだと思うよ」
「運命……?」
「そ、運命」
矢口さんは軽い調子で言うと、皿の上に残ったソースをパンで拭い取って口に
運んだ。
「だから、ひょっとしたらおいらの次に、れいながここの船長になってるかも
しれないよ。そういえば、おいらもいい加減飽きてきたから、次のキャプテン
捜してたところだったし、ちょうどいいタイミングだったっつうか」
「ええっ……。それは」
目を瞬かせながら、驚いて矢口さんを見つめると、わたしの表情がツボには
まったのか、声を立てて笑った。
「冗談だってば。でも、おいらだってなるまでは、こんな風になるなんて考えも
しなかったからさ。おいらの前にやってた人も、そんなこと言ってたし。でも
なっちまえば、それなりに形にはなるもんだよ」
「はあ……」
わたしはなんとなく釈然としないまま頷いた。矢口さんは自分で食器を積み
上げて片すと、
「じゃ、明日から、そのバイオリンだっけ。演奏よろしくね」
そういって、わたしの肩を叩くと部屋を出て行ってしまった。
- 227 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:58
- 自室へ戻ると、ベッドにあぐらをかいて、壁に背中を凭れさせたまましばし
考え事にふけった。大体2帖くらいで、それほど広い部屋ではなかったけど、
居心地は悪くなかった。小さな窓があって、そこから少し顔を出すと、海や夜空
を見上げることも出来た。ふと、大勢いるという船員たちはどんな部屋で寝て
いるのだろう、と気になった。ジャングルジムみたいに組み上げられた何段も
あるベッドに、整然と並んで寝息を立てている光景が思い浮かぶ。どこでそんな
ものを見たんだろう。なにかの映画だったかもしれない。
矢口さんの話では、もう二週間もすればこの船は港につく。その港から、絵里
のおばさんから聞かされた南の街は目と鼻の先とのことだった。一時は、あまり
に先が見えない旅に気力がつきかけたこともあったけど、ここまで来てしまう
と逆にあっさりと着きすぎてしまったようにも思えてしまって、我ながらおかしな
感じだった。もちろん、帰りのことを考えるとそれはやはり大変な道程になる
のだろうけど。
- 228 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:58
- なかなか寝付かれずに、窓から外を眺めたりしていた。船は夜中も止まること
なく、スピードを維持したまま進み続けている。わたしは海にはあまりいい
思い出はなかった。中二のとき部活の合宿で海の近くのお寺に泊まったことが
あって、毎朝のジョギングで砂浜を走らされたこととか、もっと小さい頃、
家族で離れの島まで遊覧船に乗っていったことがあり、そのときは弟がすぐ
船酔いしてしまってずっと吐き続けていた。海は泳ぐにはまだ早い季節で、
くらげがたくさん泳いでいた。両親は暇だと言って、近所の民宿のロビーで
ゲームをしていたけど、わたしは一人で砂浜に立って、日が暮れるまで海を
眺めていた。海岸の砂は細かくて、手ですくってもすぐにこぼれ落ちてしまった。
弟が漂着した大きな枯れ枝でくらげをつかまえようとしていて、両手をべと
つかせていた。日が落ちて船に戻る頃には、髪も体のあちこちも潮と砂でざら
ざらになって、少し気持ち悪かった。
ドラマや映画なんかで、傷つくようなことのあった主人公が海まで車を走らせ
たりするシーンがよくあるけど、それは、海まで来てしまえば、ボートや船に
でも乗らないと先へ行くことは出来ないから、そこが世界の終着点のような
気になれるからだというのを、どこかで聞いたことがある。わたしは海を見る
とどうしても、その先にある、全く知らない世界のことを思ってしまい、圧倒
されてしまう。世界地図を見ると、ほとんどが海で覆われていて、わたしたち
の世界はその中のほんのわずかだということに気付く。でも、そういう未知の
世界がまったく想像もできなくなってしまう退屈さに比べれば、ずっとマシな
ようにも思えた。
- 229 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:59
-
◇
わたしが想像していたよりも、船員の人たちはずいぶんとおとなしかった。
身近にいたわけじゃなかったけど、海の男たちというと、どうしても荒くれ者
の集まりのようなイメージを持ってしまっていたのだけど、食事中もほとんど
私語もなく、淡々と作業の延長みたいにして、整然と配膳に並び、だだっ広い
食堂のテーブルに端から座っていって、時間通りに食事をはじめていた。いい
方は悪いかも知れないが、ほとんどロボットのようにも見えた。矢口さんに前
もって知らされていたのか、わたしが出ていっても特に驚かれるようなことも
なく、かといって全く無視されてしまうこともなく、ものすごく礼儀正しく聴
いていてくれて、少し拍子抜けしてしまった。
一曲終わるごとにちゃんと拍手をしてくれたし、邪魔がられているような雰囲気
は感じなかったけれど、わたしが演奏なんてしなくても、矢口さんがいうように
退屈しているとは思えなかった。どこか、彼らは自分の作業以外のことには
ほとんど興味を持っていないように見えた。
- 230 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:59
- 「どうよ? 連中の反応は」
船に乗り込んでから一週間ほどが経っていた。いつものように一通りの演奏を
終えてから、船長室で矢口さんと二人で夕食の席に着いていると、不意にそんな
ことを訊かれた。
「どうって言われても……なんか、よく分かんないです」
「そんな感じだよな。連中、作業中もなんも喋らないし、ホントにマジメなんだけど、時々ふって不安になるんだよ」
「不安?」
「れいなはそう思ったりしなかった? 腹の底でなに考えてるかさっぱり見え
ないじゃん。なんか、あんだけ静かだとどっか見えないところでいきなり叛乱
とか起こすんじゃないかとかさ、たまに思ったりするんだよ」
「それは、どうなんでしょう。そういう感じでもないですけど……」
- 231 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 21:59
- わたしは、ささやかなステージから見た船員たちの様子を思い返した。これまで
ステージの上から、まじまじと観客の様子を観察したことなんてなかった。
そんな余裕を持って人前に立つことは出来ないでいたからだ。しかし、環境が
変わったお陰なのか、ここではそれほど緊張することもなく、彼らが演奏を
聴きながら静かに食事をしている姿はよく見えた。
特に変わったところもない。見たところ全員が男で、みな、群青色っぽい横縞
の上着にだぼっとしたパンツを身につけて、何人かはバンダナを頭に巻いて
いたりしていたけど、みんな似たような顔つきをしている。ステージの上から
は、わたしの目にはとても見慣れた風景にすら思えた。人が多く集まっている
のを見ると、大体同じように見えてしまう。一人一人と話してみれば、それぞれ
の性格もあるのだろうけど、カタマリになると、絵の具を全部混ぜてしまった
ときみたいに、なんとも言いようがない、腐った泥のような色合いになって
しまうのと似ている。
- 232 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 22:00
- 「ここに来たばっかのころさ、しょっちゅう、連中が言うこときかなくて集団
で血祭りに上げられるのとかよく夢で見たりしたんだけど、最近はちょっと
違ってきてて」
矢口さんはそういうと、フルートグラスのような細長い金属のカップに入った
お酒を飲んだ。
「おいらが気付かないうちにもう全部変わっちゃってて、知らないのはおいら
だけで他の船員はみんな、システムを変えたってことは分かってるんだけど、
それでもパッと見た感じはなにも変わってないから、おいら一人だけずーっと
同じような感じで船長やってるっていう」
「気付かないのに、気付いてるんですか?」
わたしが素朴な疑問を口にすると、矢口さんは苦笑した。
「それは夢だから、そういう感じで見てるんだよ」
「はあ」
「けど、そんなことって思ったことない? 自分が世界の中心にいるみたいな
感じって、子供の頃とかあったりしたけど、実は周りはみんな自分がそう勘違い
してるの知っててさ、それでお膳立てしてやってるの」
「うーん……。小さい頃のことって、あんま覚えてないです」
「実体とかなにもないわけじゃん? ここって、おいらが一から造ったもん
でもないし、荷物だって積んで卸してるだけなわけだし。べつに誰がやったって
構わない仕事だろ? だからさ、時々こんなこと続けてていいのかなって
思うんだよ」
「やめようとか……思わないんですか?」
「なにかきっかけばあればね。きっかけがないとさ、やっぱ難しいよ。外から
見てる分には全然そう感じないかもしれないけど」
- 233 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/04(土) 22:03
- >>214>>215
レスありがとうございます。まとめて返レスですいません。。
更新は今度はもう少し早めにしたいと思います。ちょっと空きすぎました。。。
- 234 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/06(月) 18:53
- 更新お疲れ様です。
今度はあの方ですね・・・。
作者さんのペースで構いませんのでまったり待っています。
- 235 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/06/23(木) 22:11
- 更新お疲れさまです。 おぉ( ̄□ ̄;)あの人ですか、役回りが想定以外だったので期待大です。 次回更新待ってます。
- 236 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:27
- もう数日もすれば南の街に到着するだろう。そう考えると、どうしても気が
せいてしまって、なかなか寝付けなかった。
一人で甲板に出ると、いつものように星空を見上げた。
海面の波は星たちの光を反射して、昼間とは別の顔を煌めかせている。
少し身を乗り出して、真下へ視線を向けてみる。船と海面の境界線から波しぶき
があがり、きらきらとはじけていた。
海面までの距離と、そこから沈み込んでいる部分を考えると、どうしても、
立入禁止にされている底部の領域が気に掛かって来る。
「……今夜は冷えるなー……、外に出てると……」
独り言を呟きながら、ぶらぶらと甲板の上を歩き回ったりした。日中の喧噪が
嘘のように、どこにも人の気配はなく、波の音だけがただ淡々と響いていた。
――そして、結局好奇心に負けた。
- 237 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:27
- 下部へ向かう階段のある場所は知っていた。
一段だけ降りて、一周するだけならそれほどの危険もないだろう……。それだけ
でもすれば、気も紛れるだろうから。
一段おりたらさらにその下が気に掛かるようになるんじゃないか、ということは、
なぜかそのときは考えなかった。
息を潜めて、ほとんど梯子のような階段を両手を支えにしながら降りていった。
古い木材が軋む音が、やたらと耳についた。降りるにつれて潮の香りが薄れて、
旧い日本家屋に入った時みたいな、木々の年季を経た薫りに包み込まれていった。
当たり前だが窓一つもなく、闇が続いていた。
しばらくしゃがみ込んでじっと目を凝らしていると、少しずつ闇に目が慣れて
きたようだった。どこかから光が入り込んでいるんだろう。ネガに焼かれたよう
な視界の中を、壁に軽く手をついたまま歩き出した。
- 238 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:28
- 足下もかすかに軋んでいる。海と空が見えなくなってしまうと、ここが船の中
であるということはすぐに忘れてしまいそうだった。全くの静寂に包まれていて、
絹のような闇を分けるように進んでいると、小さい頃によく見ていた夢を思い
出した。
夢の中で、わたしは友達とみんなで、広場のお祭りに参加して騒いでいる。
そこかしこに喧噪が溢れて、花火が上がり夜空を彩っている。しかしわたしに
耳にはなにも聞こえず、恐ろしい静寂に包まれている。
群衆をかき分けながら、どうにかお祭りの中心に辿り着こうとするのだけれど、
どこまで行っても同じような風景が続くだけで、目を閉じると誰もいないだだっ
広い部屋に取り残されたような気分になる。
目を開けるとそこは行き止まりで、広場の出口に薄汚れた男が立っている。
町内では有名な男で、酒の飲み過ぎで歯はほとんどなくなってしまい、頭が
おかしくなっているらしい。
男は、ここから先へは危険だから入ってはいけない、そうわたしに言う。わたし
は相手にせず、出口をくぐり抜けようとする。そうすれば友達も参加している
祭りにようやく入り込めると思っている。
男は錆び付いた栓抜きのようなものを振り回しながらわめいている。行っては
いけない。危険だ。行っては駄目だ。静寂の中にその声だけがリフレインして、
わたしは汗だくになって夢から覚める。耳元では時計のアラームがうるさく鳴り
響いている。
そんな夢だった。
- 239 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:28
- このまま永遠に壁だけが続いていくのかと思ったら――普通に考えれば、一周
してもとの階段のあった場所に戻るに決まってるんだろうけど――、歩き始めて
からしばらくしてようやく、扉のない出入り口が開いている場所へたどり着いた。
中は倉庫なのか、かなり広いようだったけど、完全に闇に閉ざされていて全く
視界は利かなかった。
こんな感じで、先々の部屋もなにも見えない状態だったら、あまり先を行く意味
もないかもしれない。ここら辺で引き返した方がいいだろう……。
- 240 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:28
- 突然、後ろから背中を押されて、入り口の縁に寄りかかるようにして中を覗き
込んでいたわたしはたまらずに転がり込んだ。
反射的に受け身を取って、身を起こそうとしたがまた肩をつかれて倒された。
床は潮の匂いのする砂埃が積もっていて、顔の近くで舞い上がりせき込んでしまう。
声を出そうとしたら、後ろから口を押さえられ、耳元でしーっという声が聞こえた。
なにが起きているのか、にわかには判断できなかった。暴れ出す前に、背後から
抱きすくめられてしまって、足をじたばたさせるしか出来なかった。
危険だから、と矢口さんが言っていたのを思い出して、ステージから見ていた、
船員たちの一様に静かで礼儀正しい姿を思い出した。
- 241 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:29
- 「大丈夫、大丈夫、犯そうってんじゃないから」
耳元から話しかけられる。女性の声にも、少年の声のようにも聞こえた。力は
相手の方がそうとう強そうだった。
わたしは無駄に暴れるのはやめた。なぜか、とても冷静に今の事態を判断して
いる自分に驚いていた。
「あんたバイオリン弾きだろ? いつも甲板でボーっとしてるから話しかけよう
と思ってたんだけど、ほら、うちら勝手な行動取ると船長に怒られるから」
彼女――少年ではないようだった――が話すのをきいて、わたしは強ばった体
の力を抜いた。
彼女も後ろから抱きすくめていた手をほどいた。わたしは服に付いた埃を払い
ながら立ち上がると、口の中に入った砂埃を唾と一緒に吐き捨てた。
- 242 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:29
- 「バイオリンって、よく知ってますね」
わたしが冷たい口調で言いかけたとき、パッと明かりが灯って一瞬目が眩んだ。
彼女が手元に持っていた小さなランプに火を入れたのだ。
闇の中に浮かび上がった顔は、想像していたよりもずいぶんと子供っぽく見えた。
「最初に言ってたじゃん、この楽器はバイオリンっていうんですよーって。
すごくきれいな音だったから、それずっと覚えてて」
「はあ……どうも」
「あ、わたし吉澤ひとみ。よろしく」
そういわれて、右手を差し出された。
わたしは、いきなり後ろから突き飛ばしてくる人間をすぐには信用する気に
なれなかったが、話しぶりからするとそれほど悪い人間ではないようにも思えた。
警戒は解かないまま、わたしも手を差し出すと軽く握り返した。
- 243 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:29
- わたしが突き飛ばされた場所は、途方もなく広い居住室だった。
使用されなくなってからかなりの時間が経っているのか、埃が積もって全体が
灰色っぽく色褪せていた。
高い天井すれすれまで積み上げられたベッドが、ランプの光が届かない部屋の
奥まで連なっていて、前に想像したままの風景になんだか少し寒気がした。
吉澤さんはわたしと同じ港で、この船に乗り込んだらしい。
船員としてではなく、船員の姿をして忍び込んだ、いわゆる密航者だった。
しかし、自然に彼らに紛れているうちに受け入れられてしまったらしく、普通
に船員として仕事を与えられてこなすようになっているのだという。
- 244 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:30
- 「変な船だよな、ここ。船員の服かっぱらってきて、それ着て底の方に隠れてた
んだけどすぐ見つかっちゃってさ、そのまま海にでも放り込まれてサメの餌に
でもされるかって覚悟したんだけど、なんかなんもいわないで連れてかれて、
倉庫の整理させられてさ。しょうがないからマジメにやってたら、褒められた
上に食堂まで連れてってもらえて」
「吉澤さんも、南の街に行くのでこの船に?」
わたしが訊くのに、吉澤さんは首を振った。
「や、どっか行こうってんじゃなくて、その、まあ町にいられなくなるような
事情が出来ちゃったっていう」
「はあ……」
「まあね、そんなふうにしてずっと流れて来てるから。南から西へ東へ北まで、
って感じでね」
「……けどなんでれいなを?」
さっきから言いたくてしょうがなかったことをぶつけてみる。吉澤さんは目の
前で手を合わせると、ごめんごめんと頭を下げてから、
「でもさ、ここの連中、なんか気味悪いんだよ。はじめはなんか気さくで付き
合いやすいのかなーなんて思ったんだけど、違うみたいで、ほとんど他の人間
に興味持ってないっていうか」
それはわたしにもよく分かる。
「だから、あんた見たときなんか人間って感じがして、ちょっと安心したわけ。
ほら、最初うちらの前に出てきたときさ、すっごく緊張してたじゃん?」
「えっ、そうでしたっけ」
わたしはとぼけた。
- 245 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:30
- 「そうだよ! なんかキョロキョロしてたし。あー、これこれ、こういうのが
人間らしいんだよー、って。よく分かんないけど、そんな感じ」
「はあ」
「あんたいつも船長と一緒にいるからさ、なかなか近寄れなかったんだよ。
ひょっとして船長の知り合いかなにかだったりする? ちゃんと演奏家って
ことで雇われてるって感じじゃないだろ?」
「ええと、知り合いが船長さんと知り合いで、紹介状書いてもらったんです」
「ああ、なるほどね」
「バイオリン弾いて欲しいっていうのは矢口さん……船長から頼まれたんです
けど、やっぱただ乗りしてるだけだとなんか申し訳ないっていうのもあって。
あと人前で弾くのも練習になるし」
「じゃ、この船のこととかはあんま知らないんだ」
吉澤さんはそう言うと、意味ありげに微笑んだ。
小さなランプが投げかける光が、彼女の背後に巨大な影を広げている。
影は部屋の奥の闇へ溶け込んで、少し体を動かすたびに全体が大きく揺れた。
- 246 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:31
- 「あんま、っていうか全然知らないですけど」
「港町では、結構有名だよ。なんかやばいもん運んでる船だってさ。実際なん
なのかってのはみんな知らないんだけど、危ないんだけど、ほら、この船って
でかいし船員もたくさんいるだろ、だから誰も怖くて手が出せないっていう」
「運んでる物って、あの大きな木箱に入ってるものですか?」
わたしは来るときに見た、無数の船荷の列を思い出した。
「や、全部ってわけじゃないよ。普通の貨物とかも運んでるんだろうけど、
そん中に紛れて」
「紛れて……?」
「なんていうか、わたしもよく知らないけど、この辺にキくようなやつ」
吉澤さんは人差し指を立てると、こめかみに当てた。
「港で捌いて、それをまたでかい街に卸してすげー金になるんだって。噂で
聞いただけなんだけど」
そういう話なら、わたしの世界ではしょっちゅうニュースでも耳にするような
ものだった。
どこの世界にも似たような商売はあるものだ。
- 247 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:31
- 「ま、いいや。で、船長ってさ、やっぱやばい奴なの?」
わたしがあまり乗ってこないので、吉澤さんは話題を変えた。
「別にやばくないですよ」
「マジで? こんだけでかい船の船長なんだから、かなり迫力あるのかと思って
たけど」
「見たことないんですか?」
「ないない。あんたが船長室に出入りしてるの遠くから見てただけだよ。さっき
言った、矢口さんっていうのが名前なの?」
「ええ。会ってみたらどうですか? いい人ですよ」
わたしが軽い調子で言うのに、吉澤さんは目を見開いて、両手を振った。
「無理だって! そりゃあんたはお客さんだからだよ。密航者なんてばれたら
その場で海に放り込まれちゃうって」
「そうですかね」
「当たり前だよ」
「でも、船員さんたちは、密航者っていってもなにもしなかったって」
「そりゃ、多分あいつらはそんな感じでうまくやってきたからだと思うよ。
放り込むより仲間にして仕事手伝わせたほうが効率的だろうしさ。けど船長って
立場だとそうはいかないだろ」
「そっか」
「そりゃ、規律ってもんがないと、纏まらないし。ここの連中ってなんか妙に
おとなしくて纏まってるけど、実際腹の底でなに企んでるか分かんないもん」
吉澤さんの言葉から、わたしは矢口さんから聞いた夢の話を思い出した。
すでに船長なんて存在は有名無実なものになっているのに、船長だけがそのこと
に気付いていない。そんな話だ。
- 248 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:31
- 「もしかして」
わたしはふと思いついたことを口にしてみた。
「みんな吉澤さんみたいに密航者だった人たちが船員になってるのかもしれない
ですよ。見つけるたびに仲間にしていって、気付いたら入れ替わっちゃってた、
みたいな」
「え? いやそんなことはないだろ。密航者は普通港についたら降りるって。いつまでも船の上にとどまったりしないよ」
「ああ……そうですよね」
確かにそうだ。
ただ、わたしは矢口さんが話していた「偶然」ということが、やけに頭の片隅
に引っ掛かっていた。
- 249 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:32
- なんとなく、また同じ船室で吉澤さんと会う約束をしてから、その日は自室へ
戻った。
船旅はなんのトラブルも起きずに続き、わたしは毎日の演奏会にも慣れて、
船員たちの無感情な視線もあまり気にならなくなっていた。
吉澤さんとは、夜を過ぎてからいつも会うようになっていて、下らないことを
喋ったりしていた。
この船は港町では様々な噂や憶測を呼んでいる存在らしくて、吉澤さんはそう
した話をたくさん知っていた。
はじめに密航者などとは言っていたのだが、本当のところは、この船が好きで
そうした噂の真偽を確かめるために潜り込んだんじゃないか、なんてことを
考えたりもした。面倒なので本人に直接問いただしたりはしなかったけれど。
- 250 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:32
- もうあと三日もすれば、南の港へ到着する。わたしはいつものように演奏を
終えた後、矢口さんと向き合って遅い夕食を摂っていた。
メニューは変わらず、白身魚の塩漬けに付け合わせがついたもので、矢口さん
はいつもの金属のカップではなく、口が広い透明なグラスでお酒を飲んでいた。
下半分が細かくカットされたデザインのグラスで、淡いランプの火を反射して、
破砕された光をキラキラとまき散らしていた。
- 251 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:32
- 「れいなさ」
食事を終えて口を拭っているわたしに、矢口さんが言った。
「下の船倉で誰と会ってるわけ?」
なんの前触れもなく突然そんなことを訊かれ、一瞬全身の血が逆流しそうに
なった。
「えっ? え、っと、その」
「なんだよ、ええ? 男だったりとか? ね、船員の誰かと出来ちゃったり
した?」
にやにや笑いながらそんなことを言う矢口さんに、わたしは慌てて手を振った。
「違いますよ! そんな」
「ま、いいんだけどさ」
矢口さんは言うと、グラスに残っていた酒を飲み干して、また継ぎ足した。
「それより、もう港に着いちゃうんだけど、れいなはこの船が運んでるもの、
気になったりしない?」
いたずらっぽい口調で言われる。わたしは座ったまま体を硬直させて、びくびく
と矢口さんを見ていた。
「それは、まあ……」
「おいらもあんま、詳しいことは知らないんだけど」
そういうと立ち上がり、棚の一角におかれていた首の長い壺を取り上げて、
席へ戻った。
- 252 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:33
- 矢口さんは壺を傾けると、中に入っていたものをテーブルの上に落としていった。
それは一見すると、色鮮やかな石のようだった。形はどれも歪で、大きさも
まちまちだったが、どれも小さなものだった。色合いは基本的に青っぽく、
石によっては緑がかっていたり黄色に近かったり紫色っぽかったりした。
それはでも、光の加減によって微妙に色調を変化させているようにも見えた。
「これ、なんだか分かる?」
矢口さんは小さめの石を一つつまみ上げると、わたしの目の前に示して見せた。
「さあ……? でも、きれいな石ですね」
「前の船長が言ってたんだけど、これさ、星の欠片なんだって」
真顔で言う。わたしは目をパチパチと瞬かせながら、矢口さんの持っている
石とテーブルの上に無造作に転がされている石たちを交互に見た。
「星? って、あの星ですか? 空にある」
わたしは毎晩甲板から見上げていた、圧倒されるような星空のパノラマを思い
起こしていた。
今もこの部屋を出れば、見ることが出来るだろう。
- 253 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:33
- 「そうらしいんだよ」
矢口さんはそう言いながら、手に持っていた石をグラスの中に落とした。
透明な液体の中で、それは不思議なくらいにゆっくりと沈んでいき、底まで
落ちた。まるでゼリーの中を落ちていくように見えた。
と、石はパッと青い燐光を発したかと思ったら、あっという間に光が液体全体
に広がった。
目映いばかりの光は部屋の隅に置かれたランプの光もかき消してしまうほどで、
じっと見ていたわたしは目を刺されたようになり、手で光を遮った。
「ほら」
矢口さんは平静な口調で言うと、グラスを取ってわたしへ差し出した。
「一口飲んでみな」
「えっ、でも……大丈夫なんですか?」
「うん、死にはしないよ」
- 254 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:33
- わたしは光を発し続けているグラスを受け取ると、目を細めて見つめた。
底へ沈んでいた石は光になって溶けてしまったのか消えていて、液体全てに
均等に光が浸透しているようだった。
わたしは意を決して、グラスの縁に口を付けると恐る恐る傾けていった。
輝く液体が唇に触れたとき、なんともいえない、細かな波動に触れたような刺激
が一瞬にして全身の皮膚の上を走っていった。ビクッと体を震わせると、抗い
がたい力に押されるようにして口の中へ液体を流し込んだ。
強いお酒を飲んだときの感覚とも違う。痺れるような流れが体の中心を貫いて、
肌の表面へ抜けていくような感じだった。
もし自分の体が恒星で、自分で光り輝いている、その光の発生を生理的に捉え
られるとしたら、こんな風になるのかもしれない。
わたしはかすかに震えている手でグラスをテーブルに戻すと、目を伏せてため息
をついた。
- 255 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:33
- 「どう、感想は?」
「なんか……ちょっと疲れました」
わたしが呟くのに、矢口さんは声を挙げて笑った。
「最初はやっぱ驚くよね。でもなんか、すごく体全体から力が漲ってくる感じ
するだろ?」
「はい」
わたしは頷いた。
どこか倦怠したような気分と、説明のしようのない高揚感が同時に体を包み
込んでいくようで、全身から溶け落ちるようにして力が抜けていった。
無意識に二口目を飲もうとして腕を上げたら、矢口さんにグラスを奪われて
しまった。
「いきなり飲み過ぎはよくないぞ」
そういうと矢口さんも光り続けている液体を呷った。
嚥下されて動いている喉が妙に艶めかしく、光が通り過ぎていくのが見えて
くるようだった。
「ま、本物の星ってわけじゃないだろうけど」
グラスをおいて、矢口さんが呟く。
テーブルの上にはまだ、壺の中から出された星の欠片たちが無造作に転がって
いる。
- 256 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:34
- 「一欠片、酒に……水でもいいんだけど、溶かして飲むと、一杯で二日くらい
は眠れなくなるんだって」
「二日、ですか」
「はじめはね。飲み続けてるとそのうち、まったく眠れなくなる……らしい」
「らしいって?」
わたしはテーブルの上から一欠片の星をつまみ上げると、まじまじと見つめた。
「うん。おいらも聞いただけだから。実際、試してみるのも怖いし」
「聞いたって、誰から聞いたんですか?」
「前の船長だよ」
矢口さんはグラスを取ると、また一口飲んだ。
「はじめに聞いたときはさ、なんでこんなもの売れるのかって不思議に思った
んだよね。まあ、こうやって見る分には綺麗なんだけど」
そういうと、光るグラスを掲げてみせる。
「眠れなくなるなんていって、そんなこと誰がしたがるんだろうって。そう
思わない?」
「はあ」
わたしには何とも言えなかった。
もしわたしの世界にこの星の欠片を持ち込めば、やっぱり買う人はたくさん
いるだろう。
- 257 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:34
- 「でもなんか船長やるようになってから、ちょっと分かりかけて来たんだよね。
船の上なんて、いくら広くたって密室みたいなもんだし、そんな中で、いつ
誰かがなにかをしでかさないとも限らないだろ? そう考え始めると、もう
きりがなくて」
「確かに……不安ですよね」
「そう、不安。そういう感情って一回出てきちゃうと、もうどうにもならない。
前の船長はもう完全に中毒になっててさ、船を下りるときにも勝手に星の欠片
を大量に持ち出して行きやがったんだけど」
矢口さんは笑いながら言うと、グラスに残っている液体を床へ零していった。
「ああなったらお終いだよな、なんて思ってたんだけど、今みたいな状態で
ずっとってなるとさ、おいらもそのうち中毒になってもおかしくないな、って」
「でも、……そんなに心配することもないと思いますけど……」
わたしが自信なさげに言うのに、矢口さんは頷いた。
「頭でそう分かってても、意味ないんだって。理性で割り切れるもんじゃない
んだ……。延々と海の上にいると、そんな風になってくる」
そう言うと、テーブルの上に転がっている星の欠片をいくつか拾って、手元に
あった革袋へ入れた。
- 258 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:34
- 「こんな話したあとであれだけどさ、これ、おみやげ」
「え、いいんですか」
「いいよ。でもこれ全部使い切っちゃって、またあとで欲しくなったら、結構
金かかると思うけどね」
笑いながら言う矢口さんから、わたしは恐る恐る袋を受け取った。
石の触れ合う乾いた感触が薄い革を通して伝わってきた。
- 259 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 00:36
- >>234>>235
レスありがとうございます。なんとか自分のペースでまったり続けようと思います。。
- 260 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:32
-
「あ、その話ならあたしも聞いたことあるかもしんない」
わたしが星の欠片の話をすると、吉澤さんは思い当たることがあるようなこと
を言った。
「けど噂だからなあ。てっきりガセネタだと思ってた」
「飲んでみますか?」
「いや、いいよいいよ」
吉澤さんは慌てて手を振ると、
「でもそれがマジなら、他の噂も本当なのかもしれないなあ」
「他のって、なにかあるんですか?」
「なんかちょっと怪談っぽい話なんだけどさ」
そう言うと、吉澤さんは思わせぶりに声を潜めた。
「この船漕いでる人たちの話」
「漕いでる……って、下でですか?」
わたしはなんとなく床板を撫でながら呟いた。ざらついた表面に粘膜みたいな
埃が積もっている。
- 261 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:32
- 「そう。ほら、やっぱこれだけの船がずっと動き続けてるわけだから、かなり
の人数が下にいて、櫂を回してるってことじゃないとおかしいだろ? でも、
なんで誰もその姿を見たことがないのかっていう」
「そういえば、船長も下の方には行くなって言ってましたね」
「うん。で、漕ぎ手の連中がなんで上に来ないかっていうと、多分上があるって
いうことを知らないんじゃないかって。うちらが下に行ったらいけないっていう
のも、漕いでる連中とあったら、それで気付かれちゃったりするからなんじゃ
ないかっていうさ」
「でも、知らないっていっても、船を漕ぐために船に乗ったんだから知ってる
んじゃないですか……?」
「いや、彼らはさ、ずっと下に住んでるんだよ。この船ももうずーっと昔から
航海してるわけだから、最初につれこまれた人たちはずっと死ぬまで船を漕ぎ
続けて、次に彼らが作った子供たちがその仕事を受け継ぐ。船の底で生まれて、
すぐに船漕ぎにされた子供にとっては、それ以外の世界なんて知りようがないし、
そんな風にして時間が過ぎていくうちに、船の底だけの世界が出来た……って、
そういう話」
「そんなことって……ありえるんですか?」
わたしは意識せず、声を低くして話していた。
「それはだから、ただの噂だって。んで、なんでずっと漕ぎ続けてられるの
かっていうと、彼らはそういう薬というか、そういうの持ってて、それで眠った
り休んだりしないで漕いでられる。それに気付いた昔の船乗りが、それを売り物
にしはじめたんだって。あんたの星の欠片の話聞いて、その噂思い出したんだよ」
- 262 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:33
- 吉澤さんの話を聞きながら、わたしはいつしか船底をじっと見つめていた。
話を続けているあいだにも、船は止まることなく、ペースを保って快調に進み
続けている。
巨大な船を動かすために、光も届かないような底に大勢の人が住み、それが一つ
の世界になっている……。気の遠くなるような話だった。
- 263 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:33
- 「吉澤さん、れいなもう二、三日もしたらこの船降りるんですけど」
「うん。わたしも降りるよ。多分目的地は違うだろうけど……」
「その前に、ちょっと、底の方に行ってみませんか?」
「ええっ?」
わたし自身も、自分がなにを言い出したのか少し驚いていたけど、吉澤さんも
かなり狼狽しているみたいだった。
「……行くったって、そんな遠足気分で言われてもさあ」
「でも、もしその噂がホントだったら、ちょっと……」
「なに?」
「ほっといていいのかなって」
「意味分かんないんだけど」
「だけど……」
うまく説明することは出来ない感情だった。
ただの感情的なもので、理屈があって思ったことではない。
それは、わたしの世界では、そうしたことをおかしく思う感情は普通のこと
だったけど、こっちではそうとも限らないみたいだ。
わたしにも、そうしたことを無理に理解させようとは思わなかった。
ただ、自分の中で、言わずに済ませられなかっただけだ。
- 264 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:33
- 「けど、底行ってどうするわけ?」
「別にどうもしないですよ……。ただ、噂が本当かどうか気になるじゃない
ですか」
「ホントにー?」
勘ぐるようにして、吉澤さんはわたしを上目遣いで見る。
「なんかやばいこと考えてるんじゃないの?」
「そんなことないですよ……。いいですよ、吉澤さんが怖くてやなら、れいな
一人で行きますから」
わたしはそう言うと、床に置いてあったランプを取って立ち上がった。
暗くて広い空間の中で光が揺れて、二人の影を踊らせた。
「ま、待ってよ」
早足で出て行きかけるわたしを追って、吉澤さんは肩を掴んだ。
「いいよ、分かったよ、つきあうよ……ったく」
ぶつぶつと愚痴る吉澤さんの声を聞き流しながら、わたしは暗い通路の中を
進んで行った。
- 265 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:34
- ほどなくして、下へ通じている穴を発見した。
正方形の空隙は蓋で閉じられていたが、手がかりを探って二人で引っ張ると
軋んだ音を立ててめくれ上がった。
膨大な量の埃が舞い上がって、ランプの光の中で亡霊が踊っているように
見えた。
「けどすごいなあ……どんだけでかいんだって話だよな」
梯子を下りながら、吉澤さんが言った。暗い中で、わたしも無言で頷いた。
すでにちょっとしたビルくらいの高さは下ってきているはずだった。
5回くらい同じようにして降りていったあと、急に一つの階層の幅が大きく
なったようだった。
手元の明かりでは床が確認できない。手を滑らせて落下したらひどいことに
なりそうだ。
「それになんか、ちょっと暖かくなってきてない?」
「そうですか?」
わたしはあまりよく分からなかった。
「なんか、地球の底に降りてってる感じだよ」
- 266 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:34
- 梯子の降ろされている位置はバラバラで、一つの階層でかなり歩かされることも
あれば、降りてすぐの場所に開いていることもあった。
それでも、梯子がどこにも見つからなかったり、蓋が完全に封鎖されていたり
することはなかった。
それは、不思議と底の方へ導かれているような感覚を、わたしに持たせた。
周囲を闇に覆われた広い空間に包まれているということも、そうした感覚の
一因だったのかもしれない。
わたしたちは、梯子を降りてきた場所に一つずつ星の欠片を置いていっていた。
暗闇の中でぼんやりと青白く光る欠片は、帰るときの目印にはうってつけだった。
「ねえ、もうどんくらい降りてきたんだろう」
長い梯子を降りる中腹あたりで、不安げに吉澤さんが声をかけてきた。
わたしは腕にぶら下げた革袋の中を見ると、
「欠片は残り4つだから……20段は降りてますね」
「おいおい、足りんのかよ。なんかもうどこまで降りても底につかないような
気がしてきたんだけど」
「まさか」
- 267 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:34
- 音もないだだっ広い空間に、わたしたちの小声の会話だけがエコーを伴って響いていた。
「わたしちょっと思うんだけどさ」
「はい」
「さっき話してた噂が本当のことだとしたらだよ? 底の方で船を漕いでる人
たちっていうのは上の世界からは切り離されてるわけじゃん」
「そう言ってましたよね」
「だったら、底までは梯子で降りていけないんじゃないの? 通じてる必要も
ないわけだし」
「はあ」
「それにさ、よく分かんないけど、ずっと暗いところで生活してたら目とか
見えなくなっちゃうんじゃなかったっけ。だったらうちらが降りていっても
分かんないんじゃない」
「や、分かんないほうがいいんですけど……れいなも別にあって話そうとか
じゃなくて、ちらっと見たいだけですから」
「あ、それもそうか……。確かに、話そうっていっても困るしな」
- 268 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:34
- 下らないことを喋っているうちに梯子は床についていた。
それぞれの階層はどれもほとんど変わらなかった。樫材で堅く組み上げられた
床に、深く粘ついた埃が層を作っている。
「もうここまで来ると昼か夜かも分かんないよな」
「そうですね」
吉澤さんの言葉に、わたしは上の方を見上げた。
分厚い闇が覆い、天井は見ることが出来ない。
ランプで照らされた床を見下ろしながら、わたしたちはまた歩き始めた。
「ひょっとしたらもう昼になって、港に到着してたりして」
「そんなに時間経ってないですよ」
「分かんないよ。底に降りてくうちにだんだん世界が歪んでいったりしてる
かもしれないし」
冗談か本気か分からないことを話し続ける吉澤さんだったけど、聞いているうちになんだか怖くなってきた。
- 269 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:35
- 「そういえば、ちょっと思ったんですけど」
「なによ」
「港について停泊するとき、漕いでる人たちってどうやってそれ知るんですかね」
「それは、なんとなく分かるんじゃないの? 海の感じとかで……」
「なんとなくって」
あまりにも適当な言葉に、わたしは思わず吹き出していた。
吉澤さんはムッとした口調で、
「だってわたしが漕いでるわけじゃないから、知らないよ」
「それはそうですけど」
「あんたはどう思うのさ」
「えっと、それは……あ、」
わたしが答えあぐねたとき、運良くというか、下へ続く通路の蓋を発見した。
これまで以上に深く埃に覆われて、注意深く見ていなければ見落としていた
ところだ。
- 270 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:35
- 「なんか固いな」
二人して手がかりから蓋を開こうとしたけど、なかなか動かなかった。
かなり長い期間、閉じられっぱなしでいたんだろう。
多分、その間に微妙に床が歪み、深くはまりこんでしまったようだった。
「外れないですね」
「指が痛くなってきた」
吉澤さんは両手を振りながら言うと、腰にぶら下げていた工具を取り外した。
「船員やらされててよかったよ」
冗談めかして言うと、細長い工具を蓋の扉に差し込んで、ぐっと力を入れた。
ぎしぎしと軋む音が響き、振動が床を通して広がっていった。
「かなり頑張ってるな、こいつ」
苛立たしげに言いながら、吉澤さんは工具に力を入れ続けている。
「大丈夫ですか?」
「ま、最悪こいつが折れるか蓋が割れるかどっちかだろうな……」
蓋はひずんで、山なりにめくれ上がっている。
表面に積もっていた埃が崩れて、波のような模様がランプの灯りの中に浮かび
上がっていた。
- 271 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:35
- 「れいな、ちょっとこれ押さえてて」
吉澤さんが言うのに、わたしはめくれ上がった蓋を支えている工具に手を
伸ばした。
工具は今にも折れ曲がってしまいそうで、わたしは全体重をかけて押さえない
と跳ね返されてしまいそうだった。
わたしが必死で押さえているあいだに、吉澤さんが別の細長い道具を取り外すと、
隙間へ深く押し込んで力を込めた。
なにかが弾けるような音を立てて、めくれ上がっていた蓋が弾け飛んだ。
体重をかけていたわたしは前のめりに倒れて、埃だらけの床に頭をぶつけて
しまった。
- 272 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:35
- 「れいな、大丈夫?」
吉澤さんの声が聞こえた。
わたしは額を払いながら起きあがると、
「ええ、なんとか……」
「かなり派手に頭ぶっつけてたけど」
「もともと大していい頭じゃないんで……」
苦笑しながら言うと、底へ開いた入り口へ手を伸ばした。しかし、なんの手
がかりも掴めない。
下へ伸びているはずの梯子がない。わたしはなにもない空間で手を泳がせながら、
そろそろと体を這わせて穴を覗き込んだ。
遙か下の方に広がっている光景が、そこからは見下ろせた。
わたしは思わず息を呑んで、穴の側でうずくまったまま硬直してしまっていた。
「れいな、どうした?」
吉澤さんは床に置いてあったランプを手に取ると、穴の上に翳そうとした。
わたしはそれを手を挙げて止めると、
「いや……、多分、もう、下には行けないと……」
「え?」
訝しげな様子で、吉澤さんはわたしの正面から同じようにして穴を覗き込んだ。
そして、わたしと同じように言葉を失ったようだった。
- 273 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:35
- どれほどの高さがあるのだろうか。
はじめ、それは太く一直線に流れる光の河のように見えた。あるいは底はそのまま
深い海底へ通じていたんじゃないかと勘違いしてしまいそうだった。
闇に慣れた目には、光はかなりの距離を挟んでいても強烈で、規則的な動きは
滑らかな残像を伸ばして、まるで一つの巨大な生物が呼吸をしているようだった。
それはまた、海面に揺れている波のようにも映ったけど、目が慣れて来るに
つれて、塊でも流体でもなく、それぞれがちゃんとした輪郭を持っていること
が分かった。
櫂を漕いでいる人間。一直線にならんだ光り輝く人たちが、整然としたリズム
を保ちながら船を動かしている。
その横には、次の交代要員が座り、その列が横方向の流れを形作っていた。
彼らは全員が、水に沈められた星の欠片のように目映い燐光を全身から放って
いたけど、特に体を動かして船を漕いでいる両端の人々は一際強い光を持って
いた。
- 274 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:36
- 「すごい、なんだろうこれ……」
吉澤さんが堪えかねたように声を漏らした。
わたしは視線を底へ向けたまま、
「あれですよ、……星」
「星?」
「さっき言ってた、星の欠片を飲んで、ずっと体にとり続けてると、って
いう……」
そう、確かに今見下ろしている光は、わたしの見た星の光と同じものだった。
光り輝く人の列は、整然と船を動かし続け、全体が一つの生き物のようにすら
見えてくる。
一糸乱れず、一定のリズムをキープして、誰一人として外れることもなく、……。
- 275 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:36
- 「れいな」
吉澤さんに声をかけられて、わたしは顔を上げた。
無言で頷き合うと、取り外した蓋を静かに戻した。
底からの光はふさがれ、再びランプの光のみに照らされた埃っぽい闇だけが
残った。
「戻ろう」
吉澤さんはそう言うと、床に一つ置かれていた星の欠片を取り上げた。
ぼんやりとした青白い光は、ついさっき見下ろしていた光の大河に比べれば、
とてもか弱い。
しかし、それは紛れもなく同じ種類の光なのだった。
- 276 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:36
-
◇
甲板にまで戻って来たときには、すでに夜空は白みはじめていた。
淡い光の中をゆるやかに流れていく雲を見上げると、高ぶっていた気持ちも
少しは落ち着いたみたいだった。
欄干にもたれかかり、海面を見下ろす。
巨大な船は滑るように進み、北の方角へ波の模様を広げている。
- 277 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:36
- 「はぁ、なんか疲れた」
吉澤さんはそう言いながら、欄干に背を付けて甲板へ座り込んだ。
「帰りは昇りですから、行きより疲れますよね」
わたしは冗談めかして言ってみるが、吉澤さんはぐったりとした様子で空を
仰ぐと、
「いや、そういうことじゃなくてさ……。でもこうやって戻って来ちゃうと、
さっき見たのも夢みたいな感じになっちゃうな」
「底の穴ですよ、穴」
ふと思いついたことを、わたしは口にしていた。
吉澤さんは訝しげにわたしのほうを見上げると、
「なにが?」
「梯子は下りてなかったですけど、通り抜ける穴が残ってるってことは、
むかしは行き来があったってことじゃないですか」
「ああ、うん、なるほどね」
「それがなんでなくなっちゃったんだろう、って」
「そっか。言われてみればそうだね……」
「やっぱ閉じこめられちゃったのかな、とか」
- 278 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:37
- しばらく、沈滞した時間が流れていった。
海面が水をかき分ける音と、時折通り過ぎていく波音だけが響いている。
水平線の向こうからぼんやりとした光が広がっていき、やがて太陽の頂がにじみ
出るみたいにして浮かんできた。
わたしがちょっとした疑問として口にしたことに、吉澤さんは深く考え込んでしまっているみたいだった。
「……じゃ、れいなそろそろ戻りますね」
陽光に細めた目を擦りながら、わたしは立ち上がった。
疲れていたし、かなり眠かった。
今ならあのごつごつした木のベッドでもぐっすり眠れそうだ。
「ん? ああ……お疲れさん」
吉澤さんはぐったりと座り込んだまま、軽く手を振った。
「吉澤さんは、これからどうするんですか?」
「これからって言っても、今日はまだ作業あるしさ」
「あ、そうですね」
港で降りるまでは、彼女はまだ船員なのだ。
- 279 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:37
-
◇
そして、船は予定通りの日に、南の街の港に到着した。
船員たちが慌ただしく往来している中を、わたしはかき分けるように進んでいった。
下船する前に矢口さんに挨拶をしておきたかったのだけど、船の上は甲板も
船室もどこもひどい混雑ぶりだった。
わたしが乗り込んだときもかなりの人だったけど、はるかにすごいことに
なっている。
吉澤さんも言っていたけど、確かに、こんな状況なら密航したり勝手に降りて
しまうことも難しくないのかもしれない。
- 280 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:37
- 人並みを潜り抜けて、ようやく船長室の前まで抜け出した。
ノックをしてみるが、反応がない。
わたしは大声で、入りますよーと言うと扉を開いて、薄い隙間から身体を滑り
込ませた。
「よ」
驚いた。
いつも矢口さんが座っていた背もたれの高い椅子に腰掛けていたのは吉澤さんだった。
「よ、って」
わたしは目を瞬かせると、
「なにやってんですか?」
「いや、なんか人多くてさ、気付いたらここ入っちゃってて、出られないんだよ」
「今ならそれほど混雑はしてないですよ」
扉の方を指さしながら言うのに、吉澤さんは頷いた。
「ていうか、ここ船長室ですよ」
「あ、そうなんだ」
意外そうな表情で言うと、きょろきょろと部屋の中を見回した。
- 281 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:37
- 「誰もいなかったから、使ってない部屋かと思ったよ」
「矢口さんいないんですか?」
「うん」
「どこ行ったんだろ……」
困惑気味にわたしが言うのに、吉澤さんはなぜか訳知りな感じで微笑みながら、
「でも、もうここには来ないんじゃないかな」
「え? なんでですか?」
「いや、なんとなく」
「はあ」
見たところ、どこにも変わったところはないみたいだった。
どこかへ作業へ出ているんだろうか? しかし、わたしも吉澤さんが言うように、
なんとなく矢口さんにはもう会えないんじゃないかという予感があった。
- 282 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:38
- 「それで、吉澤さんは?」
「ん?」
わたしの声に、窓から海の方を眺めていた彼女は、何とも言えない表情で振り返った。
「降りないんですか?」
「ああ、うん……まあ、まだ混雑してそうだし」
「はあ……」
わたしは両手をテーブルにつけると、また海の方を眺めている吉澤さんの横顔を見つめた。
数日前に会ったときよりも、少しやつれたように見える。
もっとも、それは光の加減でそう見えているだけかも知れないけど。
「……なんだよ、気持ち悪いな」
わたしの視線に気付いて、吉澤さんは恥ずかしそうに手を振った。
「なに考えてるんですか?」
「え?」
「なにか企んでるでしょ」
- 283 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:38
- 結構雰囲気を作って言ったつもりだったのに、吉澤さんはけらけらと笑い出した。
「なに言ってるんだよ……。ちょっとここで休んでるだけだって。まだしばらく
は港にいるんだから、慌てて降りることはないだろ?」
「そうですけど……」
「あんたこそ、降りなくていいの?」
そうだった。わたしもあまりのんびりとしていられるわけではないのだ。
少し扉を開けると、外の様子をちらっと覗いてみた。
混雑のピークは過ぎたみたいで、数人の船員が忙しそうな様子で通り過ぎていくのが目に入った。
- 284 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:38
- 「そうですね……じゃ」
「あ、ちょっと待って」
体を半分出しかけたとき、吉澤さんが急に声を上げた。
「なんですか」
「こないだのアレさ、星の欠片、いくつかくれない?」
「え?」
吉澤さんに言われて、わたしは背負ったバッグの方を見た。
星の欠片の入った袋は、船の底へ降りていった後に回収した後バッグの奥へ
入れてしまって、すっかり忘れていた。
「なんでですか?」
「いや、ちょっと興味があってさ」
相変わらず煮え切らない言い方をする。
もうちょっとうまく演技してくれればいいのに……と少しおかしくなって、
わたしは笑いそうになりながら、棚の一角に置かれている壺を指さした。
「あの中にたくさん入ってますよ」
「あ、そうなんだ」
「じゃ……がんばってください」
「おう」
わたしが言うのに、吉澤さんは軽い調子で手を振った。
船室を出ると、日はかなり高くまで上がっていて、日差しは肌に痛かった。
- 285 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:38
- 船内のあちこちは、まだすごい混雑で、ほとんど押し流されるようにしてわたしは進んでいった。
船底の人々の整然とした動きをふと思い出した。大勢の人々が好き勝手に行き交っているこことは対照的だ。
どちらかといえば、わたしはこっちのほうが好きだったけど。
倉庫で面倒を見てもらっていた馬は、元気そうで安心した。
わたしがぽんぽんと背中を叩くと、うれしそうに頭を押しつけてきた。
馬を引いて、わたしは架橋を渡り港へ降りた。
ひょっとしたら矢口さんがまだそこら辺にいるんじゃないか、なんて思ったりしたけど、これじゃいたとしても見つけられないだろう。
それはそれで構わないんだけど、最後に一言だけ挨拶が出来なかったのが、少し心残りだった。
吉澤さんが何を考えているか、あいかわらず分からなかったけれど、彼女ならきっとうまくやるだろう。
そう思わせてしまうようななにかを、吉澤さんは持っていた。
- 286 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:38
- 停泊中の船を振り返る。
確かに大きな船だったけど、乗っていたときに感じたような圧倒的な巨大さは感じない。
あれはやはり、船の中にだけある魔力のようなものだったんだろうか。
あの中にいると、ふと、それが世界の全てで二度と抜け出せないんじゃないかと錯覚させられてしまう。
その度合いが強いと、本当に降りることが出来なくなったり、偶然船長になってしまうのかもしれない。
わたしはまた街の方へ向き直ると、歩みを速めた。
潮風が顔を撫でて、少しだけ鼻がむずむずした。
- 287 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 18:39
- 《続く》
- 288 名前:17 投稿日:2005/08/23(火) 22:08
- 今日見つけて最初から全部読みました(^O^)作者さん頑張ってください。続きまってます(^-^)ノ
- 289 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/31(水) 17:07
- オモロ
- 290 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/08/31(水) 23:53
- 更新お疲れさまです。
かなり不思議な場所でしたね。
なんだか理由が分かるような気がしてきましたよ。
次回更新待ってます。
- 291 名前:名無し 投稿日:2005/09/07(水) 20:42
- コウシンマダカナー
- 292 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/20(火) 14:44
- 作者さんコウシンマッテルヨ(*^-^)b
- 293 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/03(月) 09:55
-
- 294 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/10/04(火) 18:03
-
- 295 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/05(水) 19:49
- まだかな
- 296 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/14(金) 21:25
- まーだーかーなー?
- 297 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/10/24(月) 21:38
- >>291-296
もう少し静かに待ちましょうよ。
あまり更新するとかえって作者様が帰って来づらいでしょうから。
作者様、最終更新から2ヶ月あまりが経ちました。
生存報告だけでもお願いします。
- 298 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/24(月) 22:06
- >295-296すいませんでした。m(_ _)m
- 299 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/14(月) 09:41
-
- 300 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/30(水) 11:48
- マジで続きが気になる。
- 301 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 01:12
-
- 302 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 01:19
-
- 303 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 03:57
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
- 304 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/30(金) 11:53
- 続き待ってます
- 305 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/01(日) 07:21
- 作者サマ...生きてますかー?
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