恋ノ浦ドロップス

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/26(水) 01:25
「なんでずっと空を飛び続けられないのかって?」

「多分空が綺麗すぎるからじゃないかな」
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/26(水) 01:26


恋ノ浦ドロップス
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/26(水) 01:27
◇ ◇ ◇

chapter 1: roll over roll


「けーちゃん、来たよ」

間延びした声がノイズに混じって聞こえた。
視線を左の上空に振ると、黒点が二つ。
いや、三つか。
デルタの隊形を几帳面に保ったまま、こちらへ真っ直ぐ向かってくる。

「保田さん、敵は二機のはずじゃ?」

右に控えた機体から吉澤の通信が入る。
少し戸惑った声色だ。
確かに事前のブリーフィングで薄汚いスクリーンに映された敵機のマークは二つだった。
けれども、パイロットに知らされる数字なんて相当に低く見積もられているのが通常だ。
空を飛ばない人間は、それを希望的観測なんていう至極便利な言葉で片付ける。
それはいったい、誰にとっての希望であり、そしてどれだけの価値があるのだろうか?
空を飛ぶ人間には、きっと一生理解できない。
しかし、とにかく。
パイロットにしてみれば、これくらいのオーバヘッドは十分予想しておくべき範囲である。
精神的なキャパシティは可能な限り多めに搭載しておくことが、空を健康的に泳ぐコツなのだ。
そろそろ吉澤もそのコツを身に付けた方がいいかもしれない。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/26(水) 01:28


「とりあえず私は一つやります」
「じゃ、ごとーは二機ね」

後方にいた二機が私の機体を追い抜いて左右に散った。
白い排気が青いキャンバスに二筋の線を薄く引く。

「アンタたち、フライングよ」

飛び出した二人にそう言ってやった。
だけどそもそも、スタートのピストルなんて空には無い。
私はゴーグルをかけ直すと上昇を開始した。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/26(水) 01:30


雲はない。
目の前に広がるのはただひたすらに真っ青なステージ。
その気持ちよさに私は思わず口元を傾ける。

共振する羽音。
一斉に全機がブレイクした。
周囲に視線を振り分けて、ターン。
左後方に太陽を背負う位置を取った。
ファースト・ポジションとしてはまずまずの位置だろう。

「けーちゃん、横取りしないでよ」

後藤が言う。
ジョークだとしたら面白い。
いつの間にそんなセンスを身につけたのだろうか。
唇を斜めにして、ラダーを切った。
スライドする機体の内側からキャノピィの外を眺める。
近いところに二機。
すぐに左右に散った。
左の機体をターゲットに決めて、スロットルを少しだけ絞る。
メータをチェック。
フェイントをかけて反転。
相手は更に左に切った。
後ろを確認。
右にいた機体は後藤に向かったようだ。
逆へロール。
スロットルを上げて、上昇。
すぐにダウンして、内側に切れ込む。
相手は右に逃げた。
左に出ると見せかけて、更に右の内側へ。
死角に入る。
二秒待って逆にエルロンを切る。
機首が吸い込まれるように敵機の影を捉えた。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/26(水) 01:30

「ビンゴ」

お別れの挨拶をテレパシーで送るよりも少しだけ早く、トリガにかけた指先が機銃を撃った。
どうも少し我慢が足りないようだ。
ラダーを一杯に切る。
スナップ・ロール。
視界の端を黒い煙のループが横切っていく。
焦げくさい匂いが鼻の奥を微かにくすぐったけど、それはきっと気のせいだろう。
水平飛行に戻して正常旋回。
ゴーグルの中の瞳は既に他の機体を探していた。
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/26(水) 01:31

「はい、一丁あがりぃ〜」

後藤の声がイヤフォンに響く。
相変わらず緊張感の無い声だ。
だけど、これで残りは一機。
右に切り返してロールしつつ上昇する。
斜め前方に吉澤機が見えた。
細かく揺れ動く敵機にぴったりと鼻をつけている。
文句なしのチェックメイトだ。
あと数秒もすればゲームオーバだろう。

息を小さく一つついて、ゴーグルを外そうとスロットルから左手を離す。
けれど、その瞬間。
吉澤の後ろを追尾する青い機体が見えた。
ポジションは極上のテール・トゥ・ノーズ。
持ち上げたゴーグルの隙間から流れた汗が、そっと冷たく眉間を滑った。
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/26(水) 01:32


「吉澤っ!」

宙に揺れた左手を再びスロットルに戻して押し上げる。
エンジンが唸るように吹き上がった。

「けーちゃん! なんで二機も残ってんの!?」

後藤が実に端的に私の気持ちを表現してくれた。
けれどそれを言葉にしたことによって状況が好転した奇跡に私はめぐり合ったことがない。

前方の三機は縦列を組んで海面すれすれを水平に飛んでいた。
一番前の機体から突然炎が吹き上がる。
吉澤が弾を撃ち込んだのだ。
その一機は海面に落ちる前に爆発した。
しかしもう一機の青い機体は依然吉澤の後ろにいる。
パーフェクトなポジショニングだ。
私はスロットルを握りしめたまま舌を打った。
あの態勢からの攻撃が外れるなんて期待をするほど私はお手軽にはできてない。
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/26(水) 01:33

コックピットの内側に電子音が鳴り響く。
限界速に達した警告音だ。
だが青い機体を射程に捉えるにはあと三秒は必要だろう。
空の上で絶望するには十分過ぎる数字である。

吉澤機の左翼がわずかに上がる。
その瞬間。
青い機体が軽やかに機銃音を鳴らすのが聞こえた。
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/26(水) 01:33


そのとき、私は何を考えていただろう?
彼方まで透き通るスカイブルーは時々私の記憶を消してしまう。
時計の針が一瞬凍りついたような錯覚。
気付いた時には何事もなかったかのように、いつも通りに動いていた。

目の前のシーンが継ぎ目なく再生される。
青い機体は機首を上げて離脱態勢に入っていた。
一方、吉澤はラダーを切って右サイドにスリップしている。
被弾した様子は確認できない。
いたってノーマルのようだ。

攻撃をミスしたのだろうか?
いや、それはあまりに考えにくい。
けれどともかくどちらにも異状がないことだけは認識できた。

私は一旦そこで分析を放棄した。
どうせ青い空の上。
それだけわかれば十分だ。
それ以上のことなんて、結局地上に戻ってみなければわからない。
要するに、全く価値がない。
しかし、それでも上に報告する必要はあるだろう。
不覚にも帰還後のレポートのことが思い出されて、私は少しだけ憂鬱になった。
吉澤が無事らしいことだけが唯一、グッドニュースである。
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/26(水) 01:34


操縦桿を手前に引く。
失速する直前にロール。
降下態勢からエレベータ・アップ。
水平飛行に戻った時には青い機体も旋回を終えていて、お互いが機首を向け合う状態になった。

速いな、と私は小さく呟いた。
機速が特別あるという事ではなく、判断が速いといった意味である。
動きにとにかく無駄がない。
普通のパイロットよりも、コンマ五秒は反応が早い。
ダンスのパートナには申し分ない相手のようだ。
今日のステップは激しくなりそうだ。
私は無意識にそう呟くと、左手でゴーグルをかけ直した。
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/26(水) 01:34

右前方上空に浮かぶ青い影が徐々に大きく迫ってくる。
ヘッドオンまであと三秒弱。
操縦桿を握る右手がブレイクのタイミングを静かに計る。

(ワン、トゥ・・・・・・)

三つ目のカウントと同時に左に切り返そうとしたその刹那。
青い機体のコックピットで光が瞬くのが見えた。
突き刺すようなライトの灯りがランダムなリズムを刻んでいる。

「……モールス?」

どうやら何かのメッセージのようだ。
私はトリガにかけた指先を緩め、信号を追いかけるようにトレースする。


――ヒサシフ゛リタ゛ネ、ケイチャン、コ゛トウ……


そこで私の唇は、まるで魔法をかけられたかのように、止まった。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/26(水) 01:36


ライトの光がすれ違うようにして、視界の後方に消えていく。
風が笛のように鳴った。
私は慌てて操縦桿を切り返したけど、青い機体は既に降下態勢に入っていた。
枯葉みたいにロールしながら緑の森へ降りていく。
流れるように絶妙なコントロール。
その軌跡に私は見覚えがある。
思わず溜息をこぼしそうな程美しく洗練された機動。
そう、あの頃、あの空で、私はそれを毎日見ていた。

「紗耶香……」

タバコの煙が漏れ出るように、彼女の名前が抵抗なく滑り落ちた。
なぜその名前を口にしたのだろうか?
キャラメルのように甘い疑問。
きっと誰に聞いたって答えてはくれないだろう。

私は一つため息をついて、あきらめた左手でゆっくりとゴーグルを外した。
空の色を盗んだかのように鮮やかな輝きを残し、青い機体は陸地の向こうに消えていく。
私はその眩しさを、あの時と同じように、ただ見送ることしかできなかった。
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 08:08

◇ ◇ ◇

chapter 2: bitter so bitter


任務を終えて帰還するころには、空は既にオレンジ色だった。
眠りについたかのように静かな山を一つ越えると、古ぼけた基地が近づいてくる。
私たちは一列になって降下態勢に入った。
車輪がゆっくりと地面に接して、地球からの圧力が体の芯に重く響く。
ボウルに落とされた卵のような気分。
着陸の瞬間はいつだって、私を軽く不愉快にする。
きっとそれは、結局は地上に縛り付けられる運命を本能的に思い出すからに違いない。
だけど、それでも懲りずに、また明日も空を飛べる幸運を祈っている。
我ながら不器用だと思う。
けれど、それ以外に私に何があるだろう?

必要以上に眩しいライトが格納庫の方向に誘導してくれる。
その指示に従ってタキシングしながら、私はキャノピィの向こうを見上げてみた。
空に浮かぶ一番星。
何を想いながらそんなに光っているのだろう?
考えてみたけどわからなかった。
そもそも、そんな疑問なんて、空の上には無いのかもしれない。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 08:10




「保田さん、これ見てくださいよ」

コックピットから抜け出そうとする私に、吉澤が声をかけた。
ゴーグルを額の上に乗せたまま自分の機体を指差している。
グローブを外しながらそちらに近づくと、吉澤が示した部分に青い点のようなものが見えた。

「ペイント弾だね。空戦演習なんかで使うやつだ」
「あの青い奴はこれを撃ったんですね」
「実弾だったら、アンタ一瞬で黒焦げよ」

弾痕はタンクのカウルをピンポイントに捉えていた。
相変わらず、神経質なくらいに正確無比なショットだ。
そういえば私も、あの頃は何発も被弾していた記憶がある。
継ぎ目のない滑らかなボディに付着した青い塗料。
その粘性のある懐かしさに、私は思わず目を細めた。
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 08:13


◆ 

「ほら、ここ見てよ。全部で三発当たってるでしょ」

演習後に帰還した薄汚いガレージの中。
ロイヤルブルーの主翼から飛び降りた彼女は嬉しそうにそう言った。
私は彼女の横に立って、自分の機体を見上げてみる。
黄色い機体の右側面に二発、左に一発、青い弾痕が残っていた。

「今日は私の勝ちだね、圭ちゃん」
会心の勝利だったのだろうか。
彼女は腰に手をあてて胸を目いっぱい張っていた。

「でも今日最初のヒットは私だからね」
私は口を斜めにして、精一杯の負け惜しみを言ってあげた。

「けーちゃん、それってあんまり説得力なくない?」
「アンタ、一発も当ててないでしょ」
「今度は絶対当ててやるもんねー」

背後から冷やかしてきた後藤にカウンター気味に切り返す。
後藤は舌を出しながら後ろを向くと、
かけてあったタオルを掴んでガレージの外に消えていった。
17 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 08:15

「ったく、口だけは一人前なんだから」
「まぁ後藤は入ったばっかだからねぇ。しょうがないよ」

彼女は苦々しく笑いながら胸元のジッパーをほんの少しだけ下げた。
夜とはいえ夏の空気はまだまだ暑く息苦しい。

「ま、やっと私たちもユニットにアサインされたんだからさ。頑張るしかないよ」
「そうね、第一小隊には負けられないからね。頼りにしてるわよ、紗耶香」
「こっちのセリフだよ、圭ちゃん」
18 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 08:19



あれはちょうど三年前の夏の夜。
ずっと一緒に飛べる空を、疑いなく信じた夜だった。

けれど。
その翌年の春の終わり。
まるで煙が空に還るかのように。
彼女は、私の前から、消えた。

出来損ないのチョコレートみたいに、ほんの少しだけビターな記憶。
もう思い出すことなんて、ないだろうと思っていたのに。
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 08:20




後藤は腕を組んで壁にもたれかかったまま、じっと吉澤の機体を見つめていた。
彼女もきっと気付いているのだろう。
あの青い飛行機のパイロットの正体に。

「でもなんでペイント弾なんか撃ってきたんでしょうかね?」

わからない、といった顔のまま、吉澤はゴーグルを右手で外した。
けれど、彼女が理解できないのも無理はない。
なぜなら、あのペイント弾は吉澤ではなく、私と後藤に撃たれたものだからだ。

彼女は伝えたかったのだ。
自分がまだ空を飛んでいることを。
その翼が錆びついてはいないことを。
だから、その右手で、撃ってみせた。
あの演習用のペイント弾を。
それは全てを伝えるプロトコル。
私たち三人だけの、秘密のサインみたいなものだ。
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 08:21




部屋で今日のレポートを書いていたら、ノックの音が二回した。
私はキーボードを打つ指先を止めて、どうぞ、と軽く返事をする。
ネズミの鳴き声のような音を立てて、ドアがゆっくりと開く。
ノブを握っていたのは後藤だった。

「どうしたの? アンタが部屋にくるなんて珍しいじゃない」

私は眼鏡を外すと、椅子を旋回させて後藤の方を振り返った。
シャワーを浴びてきたのか、後藤は頭に真っ白なタオルを被っている。
両手には缶ビールが一本ずつ握られていた。

「わかってるくせに」

後藤は不機嫌そうにそう呟いて、右手に持っていたビールを私に放り投げた。
シルバーの缶がスローモーに翻り、私の左手に不時着する。
ひんやりとした冷たさが手のひらに心地良かった。

「とりあえず飲もうよ」

後藤はベッドにストンと腰掛けて、もう一本の缶に口をつけた。

「アンタ、未成年でしょ」

一応警告をしてはみたものの、実際に止めるつもりなんてさらさらなかった。
誰にだって飲みたい時はあるだろう。
それは未成年だって同じ事だ。

責任は自分で取れ。
青く澄んだ空の上でも。冷たく濁った地面の上でも。
そのルールだけは変わらない。

機銃を撃つように、指にかかったプルタブを引っ張った。
気合の抜けた音と一緒に、白い泡が弾けて消える。
喉に流し込んだビールは思いのほか冷たくて気が利いていた。
21 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 08:22


「で、どうしたの?」
「・・・・・・別に」

改めて撃ちなおした私の質問に、後藤は肩を竦めてみせる。
表情を読み取ろうとしたけど、僅かに湿り気を含んだタオルに完璧にガードされた。
私は一つ息をついて、椅子の背もたれに体重を預けながら、もう一口ビールを飲む。
上方に角度修正された視線の先には、つり下げられた蛍光灯。
目を細めると、鈍いオレンジ色の光がクロスの形に分裂した。

後藤は窓の外を向いたまま、つまらなさそうにビールの缶を傾けていた。
私の知る限りでは、後藤がアルコールを口にするのは今夜が二回目だ。
一回目は、確か今から二年ほど前。
紗耶香が私たちの前から消えた、あの日だった。
あの時も、後藤は私の部屋にやってきて、こうやって静かにビールを飲んでいた。
要するに。
後藤がアルコールを飲むという事は、そういう事なのだ。
22 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 08:23


「コイノウラテ゛マッテル」
「……え?」

突然の後藤の言葉に少しだけ反応が遅れた。
視線を天井から後藤に戻す。
後藤は既にこっちを向いていた。
どうやらようやく話をする気になったようだ。

「昼間のモールスだよ。見なかったの?」
「……ああ。途中ですれ違って見えなくなったから」

私はビールの缶を机に置いて、昼間のあのシーンを頭に描いた。
光るモールス。
視界を横切る青い影。
後藤はあの時、私の左後方に位置していた。
あの位置なら、最後まで紗耶香のモールスが見えたはずだ。

「いちーちゃんだよね、あれ」
「……多分ね」

多分じゃない。絶対確実に、あれは紗耶香だ。
なのに。
今の返事が曖昧だったのは。
きっと、彼女の存在が私の中で現実感を失っていたからだろう。
百パーセントの確信さえ鈍くぼかしてしまうほど時が流れていたことに、今更ながら気づく。
23 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 08:24

「で、けーちゃんはどーするの?」
「どーするって?」
「恋ノ浦に行くのかってこと」
「……アンタ、意味わかって言ってんの?」

恋ノ浦とは、私たち第二小隊が演習に使っていた空域にある海岸地帯の地名であり、
そして、紗耶香が私たちの前から去っていった場所のことだ。
紗耶香は、そこに来い、と言った。
それはあの日の彼女のように、今の全てを捨てろ、という意味である。

「当たり前じゃん」

後藤は思いの外あっさりと言ってみせた。
その無邪気さに私は思わず息を呑む。
後藤は行くつもりだ。
彼女にとって、紗耶香と共に飛ぶ空よりも価値のあるものなんて、きっとこの世には無いのだろう。
24 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/27(木) 08:25

私だって紗耶香ともう一度飛びたいとは思う。
それに今の会社に不満がない訳でもない。
最近は本業の仕事も徐々に少なくなり、サーカス・ショーのようなくだらない副業に時間を取られることが多くなった。
だけど。
まだそれなりには自由に飛べる空も残っている。
それに指導すべき後輩もできた。
今はまだ、それを捨てることなんてできない。

「ごとーは行くよ」
「……そう」

後藤はそれきり何も言わなかった。
きっと思い出しているのだろう。
紗耶香が消えたあの日のことを。

私も何も言わずに、椅子をまわして机に向き直った。
夏の残り香を含んだ風が、ベージュ色のカーテンをゆっくりと揺らしていく。
ぬるくなったビールは、ほんのちょこっとだけほろ苦くて。
窓の外は既に闇。
こんな夜はお月様だって、きっと飲みたいに違いない。
25 名前:名無し読者 投稿日:2005/01/27(木) 10:57
プッチモニメインですか?
面白そうですね。
26 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 00:07

◇ ◇ ◇

chapter 3: dive or die


それから数週間が経った。
季節はゆっくりと秋に移ろって、陽射しも随分柔らかくなった。
風もさらさらに乾いている。
飛ぶには最高のコンディションである。
こんな日は、たとえ仕事がつまらないものだとしても、気分は綿飴みたいに甘くて軽やかだ。

「けーちゃん、仕事? 梨華ちゃんと行くの?」

ガレージで出撃の準備をしていると、後ろから声をかけられた。
振り向くと、後藤がドアに体を預けるようにして立っていた。
赤いTシャツに黒のジャージ。
もう昼過ぎだというのに、起きたばかりの様子だ。
非番の日なのかもしれない。
こんなコンディションの日に飛べないのはちょっと可哀相だ。
27 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 00:08

「そう。単なるパトロールだけどね」
「ふーん、いいねぇ。今日は天気もいいし。どこ行くの?」
「ポイントFから北北東に百キロくらい飛んだところ」
「結構遠いね」
「あんたこそどうしたの? 今日は休みなんでしょ?」
「別に。ちょっとけーちゃんを見送りに来てみただけ」
「あら、どういう風の吹き回し?」
「いいじゃん。たまにはさ」

後藤はそう言ってドアの外に顔を向けた。
ブラウンの髪が風で微かに揺れている。
私も外を見た。
ドアの枠で四角に切り取られた空。
静かに雲が横切っている。

「保田さーん。準備できました」
ガレージの奥で石川が声を上げた。
私は半身に振り返りながら左手を上げて応える。

「行ってらっしゃい」

後藤はゆっくりとこちらに近づくと、右手を顔の横で広げて、にっこりと微笑んだ。
らしくない表情だと一瞬思う。
けれどそんな評価をしたところで、何かが変わるというわけでもないだろう。
私はあきらめたように頷いて、後藤の手のひらを軽く叩いた。
ほのかな体温の温かさが、何かを惜しむように伝わって。
乾いた音が一つだけ、ガレージの中にやさしく響いた。
28 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 00:08




今日のミッションは隣の市街地郊外空域のパトロールだった。
最近スカイ・ゲリラの残党がたまに出没するので見回ってほしいという依頼によるものである。
途中、敵機を一機発見したが、こちらが二機だとわかるとすぐに撤退していった。
高度が違いすぎたこともあって、あえて追撃はしなかった。

「珍しいですね。保田さんが追いかけないなんて」
石川の声が無線で入る。

「んー、ちょっとそんな気分じゃないんだよね」
私はそう答えると、撃つ気のない指先でトリガを弄びながら外を見た。

「なんだか今日の保田さん、変ですね」
「そう?」
「そうですよ。出撃の時だって急に準備をやり直したりするし」
「あぁ……、ちょっと忘れてたところがあってね」
「もう、しっかりして下さいね?」

いっぱしの口をたたきながら、石川がロールに入れた。
私はそれを静かに見ていた。
ふんわりと伸びた白色のループは、瞬く間に霧散し、消えていく。
煙だけじゃない。
およそこの世のほとんどは、誰かが気づく前には消えている。
残るのはいつだって、青く澄んだ空だけだ。
けれど、空さえ残っていれば、きっといつかまた飛べる。
それでいいじゃないか。
それ以外になにがある?
呟くように、そう思った。
29 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 00:09


それから一時間ほど偵察を続けた。
かなり広範囲の探索を行ったが、特に問題は無さそうだ。
戦争が終わって数ヶ月が経つ。
そろそろ平和ってやつがお日様の下でのんびりと散歩でも始める頃なのだろう。

「保田さん、どうします?」

再び石川からの通信が入った。
時刻は午後五時。
油圧系のメータをチェックする。
燃料の余裕はあまりない。
けれど特に無理をする必要もないだろう。
バンクに入れて、下を確認する。
視界の下に広がる雲はオレンジ色のクッションのようだ。
飛んでいるものも、何もない。

「そうね、今日は帰ろうか?」
石川に帰還の指示を出して、右にラダーを入れる。
キャノピィに紅い光が跳ね返った。
30 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 00:09




「圭坊、聞こえるか? ウチや」

夕陽に向かって飛んでいると、裕ちゃんの声が無線で入った。
通常は飛行中に地上からの連絡が入ることなどない。
ということは、何か異常があったということだ。

「聞こえてるよ。どうしたの、裕ちゃん?」
「それがな、後藤が無許可で出撃してん。……退職届置いてな」
「えっ!?」

明らかに動揺した声を出したのは石川だった。
僚機用の通信チャンネルを開けてあったから、石川にも無線が通じていたようだ。
私は何も言わなかった。
後藤の行動が、私のキャパシティの内側だったからだろう。
31 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 00:09

「パイロットの無断脱退は第一級厳罰や。わかるやろ? 圭坊」
「厳罰ね……」

一言だけそう呟いて、私はため息を漏らした。
無断脱退したパイロットへのペナルティは、クライアントの機密情報を扱う会社の立場からしてみれば当然の措置である。
信用上、即クリティカルな問題につながるからだ。

だけど、そんな些末な事を気にしてるのは地上にいる人間だけだ。
パイロットは立場だとか、信用だとか、そんな腐りきった沈殿物のために飛んでなんかいない。
ただほんの少しの間だけでいいから、見ていたいだけなのだ。
薄汚れた地上から解き放たれて、
誰もいない空の中で、淡くやわらかな夢を。

だから後藤が仮に会社を離れたとしても、機密情報を漏らす可能性なんてゼロだ。
けれど、空を飛んだことのないお偉方には、結局それがわからない。

「要するに後藤を追撃するってことでしょ?」
「……そうや」

裕ちゃんは力無く答えた。
きっと自分でも納得はしていないのだろう。
当たり前だ。
彼女だってほんの少し前までは空を飛んでいたのだから。
32 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 00:10

「で、なんで私たちなの? そっちから誰か飛んだんじゃないの?」
「それがあかんねん。あのコ、ガレージの鍵全部壊していきよった。今飛べるのはアンタらだけなんよ」

裕ちゃんの言葉を聞いて、私はもう一度息をついた。
後藤は私を誘っている、と思ったからだ。
追撃を阻止するのが目的ならば、全機が地上にいるときにやればいいはずだ。
それを、あえて私が飛んでいる時に実行したということは。
つまりは、そういう事なのだ。

「頼むわ、圭坊」
「……いいわ。私が行く。但し条件があるわ」
「なんや?」
「後藤の処分については私に全部任せて」

そこで会話は一旦途切れた。
イヤフォンからはくすぐったいホワイトノイズが流れるだけ。
私は操縦桿を握り締めたまま、静かに応答を待った。

「……えーよ。アンタの好きにしぃ」

持つべきものは優秀な飛行機と物分りの良い上司である。
裕ちゃんの判断に感謝しながら、スロットルを僅かに持ち上げた。
静けさに満ちたキャノピィの中で、エンジンの音だけがゆっくりと響く。
拡散しそうな意識をなんとか身体にねじ込んで、私は深呼吸を一つした。
33 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 00:12

「寺田さんにはウチから報告しとく。気ぃつけてな」
「ありがと、裕ちゃん」
「すみません、保田さん!」
石川の声が通信に割り込んできた。

「なに?」
「中澤さんとのお話はわかりました。でも燃料がぎりぎりです。
 今からごっちんを捜索しても発見は無理だと思います。一旦基地に帰還しましょう」

声色に冷静さがやや欠けていたように思えたが、
なかなかに賢明な判断だ、と私は素直に評価した。
通常の状況ならば、きっと私も同じジャッジをしただろう。
けれどそれだけで飛べるほど、空は狭くなんかない。
マニュアルには書いてないことなんて、空の中には幾らでもあるのだ。
それこそ、星の数ほど無数に。
帰ったら石川に教えてあげよう。
忘れないようにしないといけない。
34 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 00:12

「石川、アンタは基地に戻りなさい」
トリムを修正しながら、石川に改めて帰還の指示を出した。

「保田さん!」
抵抗する石川。

「戻りなさい」
もう一度、命令。

「石川、戻ってきぃ」
「……わかりました」

裕ちゃんの援護のおかげだろうか、ようやく石川は引き下がった。
前方を飛んでいた彼女の機体が翼を左右に振った。
そして、ゆっくりと雲の中へ沈んでいく。

「保田さん、無理しないでくださいね」
「わかってるわよ」

石川との通信を終えると、私はチャンネルを切った。
ゴーグルを外して、コックピットの内側に身体を押し付ける。
不規則に伝わる機体の振動。
スーツ越しに冷たさを感じた。
不思議と気分は穏やかだった。
不意に昔のことを思い出す。
三人で飛んだ空。
いいチームだったと思っている。
けれど。
それとこれとは関係ない。
結局のところ、パイロットはみんな、ひとりぼっちなのだ。
誰を縛ることもなく。
誰に縛られることもなく。
みんな孤独に飛んでいる。
35 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:28

◇ ◇ ◇

chapter 4: drop like drops


向かうべき場所は、一つしかなかった。
スロットルを目一杯押し上げて、私は南へ向かった。
眼下に広がる海は、まるでチョコレートのように甘く、そして冷たそうに固まっている。
夕闇の遠くには、紺色に滲んだ水平線が見えた。
ほんの少しだけ描いた曲線が、地球が丸いことを教えてくれる。
見上げれば宵闇の空。
せっかちな星たちが、一つ二つ、その姿を光らせていた。

空のずっとずっと上には楽園があるんだ、って話してたのは誰だっけ?
思い出した。明日香だ。
地面から離れた距離の分だけ自由になれる、と言って笑った彼女の顔が印象に残っている。
彼女は今、何をしているのだろう?
太陽の熱にも溶けることのない翼を手に入れて、楽園へとたどり着いたのだろうか。
それとも、誰もいない安息の海へ独り静かに堕ちてしまったのだろうか。
わからない。

ただ一つ確かなのは、私にとってはこの空が楽園だということだ。
―― 少なくとも、今はまだ。
36 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:29

そのまま十分ほど飛んだ。
懐かしい地形が見えてくる。
ジグソーパズルのように入り組んだ海岸線。
静まりかえった森と海。
恋ノ浦だ。

バンクに傾けて、ぐるりとその上空を廻ってみた。
あの頃と変わらない風景。
目の前のアクリルはまるでアルバムのページのよう。
懐かしさが胸の奥で音を立てた。
夜の海風に震える主翼、あるいは地面を叩く冷たい雨の音に似ていたかもしれない。
37 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:29

前方右下に機影を見つけた。
月光に鈍く輝くトマトレッドの機体。
間違いない、後藤だ。
距離は八百くらいだろうか。
スロットルを押し上げて加速する。
後藤はあまり機速を出していないようだ。
あっという間に追いついた。

「後藤、聞こえる?」
無線の出力を最大にして、私は彼女に問いかけた。

「けーちゃん? 来たんだ……」
後藤からの応答が返ってくる。
意外にも落ち着いた声だった。

「良かった……。チャンネル切ってなかったのね」
「まぁね。一人で来たの?」」
「アンタが誘ったんでしょ?」

後藤はゆっくりと左旋回を続けている。
私は左後方のポジションを取って、そのまま旋回に入った。
この位置なら後藤も視認できるだろう。
38 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:30

「そう言われればそうかな。でもホントに来るとは思ってなかったけど。燃料の余裕ないんでしょ?」
「……全部計算済みってこと?」
「まぁそんなことどーでもいいじゃん。
 それよりもさ、ここに来たってことは、一緒にいちーちゃんのとこに行く気になったってこと?
 それとも……」
「……それとも何?」
「別に」
「わかってるんでしょ?」
「まぁね……」

蒼く、薄暗い闇。
無意識に喉がなる。
右手は勝手に安全装置を解除していた。

「……やっぱりそっちなんだ?」
「悪いけど、後者よ」
「それじゃ、これでお別れだね」
「……そうね」
39 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:30

イヤフォンのノイズが強くなった。
私は悟られないように息をつく。
どうしてだろう?
私も、後藤も、ただ空を飛んでいたいだけなのに。
いや、きっと。
ただ空を飛んでいたいから。
何かを捨てないといけないのだろう。
そうしないと重くなりすぎて、いつか沈んでしまうから。
それくらい私たちは、地上の嫌らしさに汚れている。

「けーちゃんの事、好きだったよ」
「……ありがと」
「だけど、ごとーの邪魔をするんなら……」

―― 墜としてあげるよ。恋ノ浦に。
40 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:30

後藤は静かにそう言った。
きっとそれが、最高のお別れの言葉なのだろう。
私たちは死ぬまでずっと、ひとりぼっちのパイロットだから。

深呼吸をして、ゴーグルをかけ直す。
後藤が増漕を落とすのが見えた。
赤いカウルが月明かりに照らされ堕ちていく。
それはまるで投げられたコインのように。
たった一つの静かな合図。
左手が狂ったようにスロットルを押し上げて。
私は右に倒れながら、青い闇にダイブをかけた。
41 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:31

シートに押し付けられる身体。
夜の闇を捉える視線。
エレベータ、フル・アップ。
収縮する加速の中で、指先が静かにその瞬間を待っている。
翼を振って、周囲を確認。
左にいた。
エルロンを切って、旋回に入る。
後藤も回してきた。
ゆっくりと大きな円を描く。
徐々にスピードを上げていく。
後藤の機体がバンクを増して、内側に切り込んできた。
少しずつ追いつかれている。
もうすぐ射程内だ。
小さく舌を打つ。
けれど、機体の基本スペックは後藤の方が上なのだから、仕方ないといえば仕方ない。
左に一度フェイントを入れて、右に滑る。
後藤も遅れて絞ってきた。
すぐに左に切り返す。
お互いに相手を前に押し出そうとして、繰り返されるシザース。
かなりスピードが落ちてきた。
我慢比べになるかと思ったが、あっさりと後藤がスプリットSで逃げる。
近距離の泥仕合よりもまともに組み合った方がスペックの差で有利と踏んだのだろう。
なかなかにドライな判断だ。
相変わらず食えない奴。
追撃しようかと思ったが、こちらも不十分な体勢だったので逆に切り返した。
ハーフ・ロールに入れる。
せわしなく流れる星の光が、ハイウェイの街灯に見えた。
42 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:31


下から後藤が撃ってきた。
全然遠い。
単なる冷やかしだろう。
弾を無駄遣いする悪癖も相変わらずのようだ。
だけど、テクニックは抜群に上手くなっている。
細かいターンの精度とか、スロットルのタイミングとか。
普段一緒に飛んでいるときは気付かなかったけれど、こうしてやり合うと、それがよくわかる。

そういえば、こうやって後藤とやり合うのは何年ぶりだろう?
小刻みに操縦桿を切り返しながら、記憶を手探って思い出す。
そう、多分、第二小隊で演習をしていた時以来かもしれない。
まだ紗耶香がいた頃だ。
あの頃の後藤は、元々のセンスだけで飛んでいた節があった。
あれから三年。
エースとして多くの戦闘を経験し、後藤もそれなりに成長したのだろう。

「もう子供じゃないってことか……」

マイクに拾われないくらいの小さな声で私はゆっくりと呟く。
いや、後藤だけじゃない。
石川だって、もう一人前のパイロットだ。
自分の空を見つけて、ひとりで飛び始めるころなのかもしれない。
43 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:32

「そろそろ終わりにする?」

無邪気な声で後藤がささやいた。
ジョークのつもりだろうか。
スペック差から来る余裕なのかもしれない。
けれど空中戦の勝負を決するのは機体の性能差だけではない。
部隊のエースとして常に最新機を与えられてきた後藤にはきっとわからないだろう。

「そうね」

―― 十二時の鐘ももうすぐ鳴るわ。
私は視線を落として呟いた。

息を吐いて。
唇をなめて。
ベルトを少し締め直す。
準備はオーケー。
さあ、行こう。
キミと踊る最後のダンス。
見せてあげる。
とびっきりのマヌーヴァを。
44 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:32

左反転。
スロットルを押し上げて、僅かに下降。
軽い浮遊感。
後藤はこちらを向いている。
斜めに倒してスリップ。
どっちから来る?
トリガにかけた指先がねっとりと甘えるように微動する。
左から来た。
右へ切って、すぐに左に返す。
エレベータをフル・アップ。
血液が脳の真ん中でシェイクされる。
気を抜いたら一瞬でトリップだ。
後藤を探す。
右後方で立て直してきた。
私もそちらに機首を向ける。
ヘッド・オン。
後藤が先に撃った。
私も応じるように撃ち返す。
お互いにダメ。
すれ違う。
エルロンを半分だけ。
通常なら急旋回のところをあえて左ターンに抑えた。
後藤が左から追ってきているはずだ。
機体を傾けて確認する。
45 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:32

「けーちゃん、そんな余裕あんの?」
後藤が言う。
左後方。
距離は六百くらいか。
向こうに有利なポジションだ。
もう少し。
更にアップ。
上昇するように見せかけて、スロットルを落とした。
徐々にプロペラの音が鈍くなる。
目の前に広がるのは黒天のスクリーン。
満月がキャノピィにキラリと光り、
そしてエンジン音がピタリと止んだ。

―― さあ、おいで。

フリーズする瞬間の中で、右手が誘うように呟いた。
46 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:32

「バイバイ、けーちゃん」

イヤフォンに響いた後藤の声。
瞬間、フル・スロットル。
プロペラが息を吹き返す。
足を思い切り突っ張った。
一杯に切ったラダーがプロペラの後流を巻き込む。
横に倒れる機首。
ぐるんと回転する視界。
正面には黒い海。
後藤の撃った弾道の遥か下を一気に落ちて。
数瞬遅れて舵が戻る。
フラップを戻して、バンクに入れる。
急旋回。
目の前には真っ赤なボディ。
斜め上から被さった。

「さよなら、後藤」

唇が小さくささやいて。
けれど、それよりも早く。
右手の指先が短く撃った。

連射音。
赤い機体に吸い込まれていく弾道が、やけにスローに見えた。
47 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:33




ラダーでスライド。
逆にエルロン。
スロットル・アップして一気に離脱。
左に傾けて、後藤を見た。

「けーちゃん?」
いつも以上に間延びした声がイヤフォンから聞こえてきた。
まだ正確に状況が掴めていないようだ。
そんなことでこれから大丈夫なのだろうかと、少々心配になった。

「もしかして……、ペイント弾?」
「私の勝ちよ、後藤」
「全部わかってたの?」
「……さぁね」

私は無意識に視線を外した。
意味なんて、きっとないだろう。
空はただ、時間を閉ざしたかのように蒼黒く固まっていて。
舞台に下りたカーテンみたいに、静かに二人を包んでいた。

「ありがと……、けーちゃん」
「何のこと? 私はただ任務を実行しただけよ」
「うん……」
「早く行きなさい。アンタはもう撃ち墜とされたんだから」
「ねぇ、けーちゃん……」
「……なによ?」
「がんばってね」

私は目を細めて少し笑った。
最後のジョークにしてはなかなか秀逸だったからだ。
48 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:33

後藤が翼を小さく二度振った。
これで、ほんとにお別れだ。
私は左手を静かにスロットルから解放した。
前方を飛ぶ機体はどんどんと遠ざかっていく。
思い出とダブる映像。
周りには何も無い。
赤いエッジが名残惜しそうに月明かりに光って。
まばらに漂う黒い雲の中へ、ゆっくりと消えていった。

これから何処へ行くというのだろうか。
きっと、ここからそう遠くはないだろう。
だけど私は観たこともない空。
それは多分、彼女たち二人の空だろうから。
49 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:34




メータをもう一度確認する。
燃料は完全にゼロだ。
基地には戻れない。
不時着するしかなさそうだ。
下に広がるのは紫色の海。
きっと冷たいだろうな、と思う。
けれど、その冷たさが、必要な時があるのかもしれない。

私はシートにもたれかかると、ゆっくりと目を瞑った。
おぼろげな月の光が瞼の向こうに薄くにじんでいる。
暗く、そして黄色い空。
なにもかもが、ぼんやりとただ浮かんでいて。
そしてクリアに澄み切っていた。
汚れているのは、私だけだ。
だから墜ちよう。
もう一度、この空に戻れることを祈りながら。
50 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:34

空気を切り裂くプロペラの音は徐々に弱くなり。
魔法が解けたかのように、やがて回転が静かに止まる。
私は息を一つついて、ゆっくりと操縦桿を握り直した。
トリムを調整。
エルロンを左に切る。
秋風の中。
髪がふわりと揺れたような気がした。
季節はずれの桜のように。
ひらりひらりと落ちていく。
スパイラルする一雫。
きっと森のフクロウには、月が涙をこぼしたように見えただろう。
51 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:35




海は静かで、そして綺麗だった。
密閉されたキャノピィの中に、波音だけが籠もるように響く。
私は緊急無線のチャンネルを開けて、SOSのシグナルを叩いた。
じきに救出部隊が到着するだろう。
機体に大きなダメージはない。
コックピットを開かなければ、沈むことはないはずだ。
現状を確認し終えると、私はゆっくりとヘルメットをはずした。

眼前には、夜空のパノラマ。
ピンドットの星空が、ヴェールのように世界をやさしく包んでいる。
それは、確かにさっきまで飛んでいた空なのに。
今はもう遥か遠く。
手を伸ばしたって、きっと届きはしないだろう。

いろいろなモノを置き去りにしてきた空を見上げていたら、不意に瞼が熱くなった。
もしかしたら悲しいという感情を久し振りに思い出したのかもしれない。
それが妙に面白くて、私は思わず口元を斜めに上げた。
もうこんな気持ちはイヤだと、頬をつたう雫が静かに呟く。
けれど、いつかまた味わうことになるのだろう。

そう、私たちは天使なんかじゃないから。
ずっと一緒に飛び続けることなんて、できるはずがない。

だけど。
それでも、きっとまた飛ぶんだろう。
それだけが確かで。
それだけが不思議だ。
52 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:35

「……バイバイ」

唇が勝手に呟いた。
誰にお別れをしたのだろう?
その答えはぼんやりと曖昧に。
なんとなくわかったような気がする。
だけど。
それ以上は考えないようにしよう。
そうしないと、その時が来るのが怖くて。
もう二度と飛べなくなってしまいそうだから。

不意に瞼に重さを感じた。
今日は色々な事があり過ぎたからかもしれない。
けれど、それももう過去だ。
綺麗な包装紙でラッピングでもして、どこかにしまっておけばいい。
今はただ、ゆっくりと眠りたい。

もう一度、空を見上げた。
私はアクリルの揺り籠に包まれたまま。
名残惜しそうにトリガを撫でる指先。
おやすみ、と漏れた声。
冷たい海はベッドにするには、少しだけ硬すぎるかもしれない。
だから。
今度海に堕ちるときは、空にいる間に眠ってしまおう。
そう、最後のその瞬間まで。
青く柔らかな空に、ふんわりと包まれたまま。

多分、そんな生き方が、
私の憧れかもしれないから。
53 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:37

◆ End
54 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:37

55 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 01:37
56 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/31(月) 12:30
切ないような、ある意味清々しいような。
面白かったです。最近圭ちゃんメインの話を見掛けなかったんで嬉しい。。。
57 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/30(月) 23:13
今日見つけて一気に読みました
すっごいヤバイですよ
なにがヤバイって言われたら言葉に出来ないボキャブラリーの少ない自分(ガックシ
58 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/23(木) 00:54
凄く良かったです!
でも飛行機の専門用語とか正直あんまわかんないんで次は日常のいちやすごま?
みたいなぁ!!
59 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 05:07
突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。

Converted by dat2html.pl v0.2