カオリン日和

1 名前:ささるさる 投稿日:2005/02/13(日) 17:20
ささるさると申します。
飯田をネタにした一話完結の話です。
2 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 17:20
目を覚ますと引き戸を一枚隔てた向こうの台所に女が一人立っている。
おいしそうな匂いのするところからすれば、どうやら料理を作っているらしい。
起き上がろうとするとその気配に気付いたその女があわてて俺のもとに走ってきた。
「無理しないで。まだ少しそのまま寝ててね、そのまま」
そう言うとまた台所に戻っていく。俺が心配なようで、チラリチラリと振り返りながら。

枕に頭を乗せたまま天井を見つめる。
妙に部屋が狭いような気がする。
ここよりもっと広いところに住んでたことがあったような…
そのときからあの女はいたような…
いろんなことがあったような気がするがよくわからない。
やがて女がお盆に食事をのせて俺のところまで持ってきた。
「はーい、できましたよー。じゃあね、カオリンが食べさせてあげるから。あーんして」
「一人で食えるよ。箸よこせよ」
俺は自分をカオリンと呼んだ女の手から箸を奪うように取ると、お盆の上の飯を取ってガツガツと食い始めた。
女はなにやら悲しげな表情になっていく。
なんだ? この女。
3 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 17:21
食べ終わってぼうっとしてると
「まだ退院してまもなくだから、きっと体も頭も本調子じゃないのよね。今日は病院に行く日だから、一緒に行きましょう」
と女が俺に話しかけてきた。
…あーあ、また病院か…
少し歩いたところにあるバス停に行って話を交わすこともなくバスを待っていた。
ようやくやってきたバスの、一番後ろの席に二人して座る。
窓の外を流れる景色を見ながら何がどうなってんのか考えてみる。
なんでいつも部屋で寝てたり病院に行ったりするんだ?
なんでこの女がいつもそばにいて俺の世話をいちいち見るんだ?
一体全体、なんで俺こういうことになってるんだ?
そう考えるが毎日の日課になっていたが、その問が求めているはずの答えがどういうわけか頭の中にまったくない。
それでも考え続けていたら激しい頭痛が始まった。
目をつぶって頭を抱えると、その女がとなりで「ね、大丈夫? 大丈夫?」としきりに聞いてくる。
俺は低いうめき声をあげながら耐えた。
4 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 17:21
ようやく病院に着いて、その女に抱えられるようにして待合の椅子にかける。
まだ頭がぐらぐらする感じだったがさっきよりは落ち着いたようだ。
すぐ目の前の受付には『脳神経外科』というプレートが貼ってある。
じきに名前が呼ばれ、女に付き添われて診察室に入った。
「どうですか? だんなさんの具合は」
医者が俺に付き添う女に聞いた。
「ええ、前に比べると意識ははっきりしてきたみたいだし、自分から動くこともできるようになってるんですけど、記憶がまだ… 毎日同じこと言うんです。私が教えても覚えられないようで… それと頭痛なんかもあるみたいだし…」
「そうですか。ま、交通事故に遭われて頭部に受けた衝撃での脳出血ですからね。運び込まれてすぐに手術できたので脳への影響は最小限に抑えられたはずですから。時間の経過に伴って記憶の方も改善してくると思いますよ」
「それって、だいぶ先のことですか…」
「うーん… ケースバイケースと言うしかないですね、こればかりは。じゃ、今回も脳代謝促進の薬をお出ししますので」
「あ、はい、ありがとうございます」
俺は二人のやり取りを横でただぼうっとして聞いていた。
5 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 17:22
アパートに戻ってくると、俺はまた布団の中に寝かされた。また部屋の中で横になるのが窮屈な感じがして思わず女に声をかけた。
「なあ、俺すこし体動かしてみたいんだけど。散歩とかダメなのか」
「うん… 大丈夫だと思うんだけど。何かあったらって思うと、私心配で。ゴメンね」
窓から差し込む太陽の光が顔に当たって、そこだけあったかい。春が近い気がする。
部屋の隅でごそごそと着替えをしていた女が俺の方を向いて言った。
「じゃあ、私ちょっとパートに行ってくる。おとなしく待っててね」
俺は「わかった」と言う代わりに片手をちょっと挙げた。

一眠りのつもりだったが、目が覚めるともう日が暮れて部屋の中は暗くなっていた。
女もまだ帰ってきていない。
俺は布団から立って電気を付けてトイレに行った。
水洗便器のふたを開けてたまっている水に向けて用を足すとジョボジョボと音が立つ。
アパートの狭い部屋の中にその音だけが響いて妙に寂しかった。
布団に戻ってしばらく横になっていたら女が帰ってきた。
「ただいま。あ、寝てるかな」
「いや、起きてる。さっきまで寝てたけど」
「具合、なんともない?」
「うん」
「待っててね、今ごはん作ってあげる」
パートから戻ってすぐごはん作るなんて、そんなのなんだか申し訳なくって思わず言った。
「いいよ、そんなに急がなくて。な、ちょっと俺のそばに来てくれる? いろいろ話聞かしてくれないか。なんだか自分で自分のことがよくわかんないんだ」
6 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 17:22
女は俺のそばに正座した。その手を取ると冬の空気に冷やされたせいかやけに冷たい。
「ずいぶん冷たくなってるね、手が」
そう言うと女は突然俺に覆いかぶさるように抱きついてきた。その勢いで俺は布団に倒れこむ。
女はちょうど俺の胸の辺りに顔を埋めるようにしている。
乱れた長い髪が妙に色っぽかったが、胸に顔を埋めたままで動かない。
そのうち独り言のように話し出した。
「カオリね、つらくはないの。でもね、前みたいに二人で楽しくまったり暮らしたいの」
前みたく二人で暮らす? 
医者は俺のことをだんなさんと言っていたし、やはりこの女は、俺の妻なのか。

「前はね、こういう狭いアパートじゃなくてもうちょっと広いマンションに住んでたんだよ。覚えてない? あなたが事故に遭って、頭に傷を負ってからマンションに住んでることもできなくて、手術代とか入院費とかお金もなくなる一方だったから、この一間だけのアパートに移ったんだよ」
そんなことがあったのか。でもその当時のことをまるで思い出せない。
「でも私、結構楽しかった。仕事一点張りだったあなたが私の世話なしでは暮らせなくなって、ごはんを食べさせたり、身の回りの世話をしてあげるのも、いつもあなたがそこにいるのも、そうやって毎日あなたのすべてを見て感じられることが、私うれしかった。ここまで一緒にいられたの結婚して初めてだった。でも私からあなたに一方的に与えるだけなのは、そろそろ疲れてる」
「カオリ…すまん」
名前で呼んでやると、女が口付けしてきた。
その目からこぼれる涙が俺のほおに落ちる。
その女の体温そのままの、熱いくらいの涙だった。
7 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 17:23
その後も俺は相変わらず布団で横になっている生活だ。
女が俺の胸に顔を埋めながら言った言葉を、あれから幾度となく思い返している。
いずれにせよ、このカオリという女は俺の妻であり、そのためいつまで静養しているかわからない俺に代わってパートをして収入を得ているわけだ。
本来なら俺が働いて楽させてやらなければならないはずなのだ。
記憶が戻らないからどうもしっくりこないのだが、ともかくその女のことをマメに「カオリ」と呼んでやろう。
そうすればそれがきっかけになって、俺は失った記憶を取り戻すことができるかもしれない。
そうすれば俺の世話とパートでひたすら心と体を削っているその女も、少しは気持ちが安らぐかもしれない。
それにその女を「カオリ」と呼ぶことのほかに、今の俺には何もできそうにないのだ。

「おはよう、カオリ」
ある朝から思い切ってそう言うと、その女は一瞬きょとんとしたが、それこそ破顔一笑という表情で「おはよう」と応えてくれた。
顔全体でニッコリと笑ってくれるその表情があまりに印象的で、俺は思わず見とれてしまう。
たぶん俺はこの笑顔にホレて結婚したんじゃないだろうか。
そのほかにも、ごはんを食べたら食べたで
「カオリのごはんおいしいな」
パートに行くときも
「気を付けて行けよ、カオリ」
そう言うとカオリはとてもニッコリと笑ってくれるのだ。
その笑顔を見ているとこっちも少しずつ、元気が体の中にたまっていくような気がした。
8 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 17:23
それから何週間かして病院に行ったとき、医者から眼差しや表情に生気が出てきたと言われた。
確かに俺自身もただ寝てるだけではあきたらず、何かしたいという気持ちが強くなっていたので
「何か内職みたいなことやってもかまいませんか」
と聞いてみた。
「外を走り回るような、スケジュールに追われるようなものだと、俺まだダメだろうっていうのはわかるんです。在宅で少しでも自分のペースでできるようなものだったらどうですか」
医者は少し考えこんだが、横からカオリが言葉を継いだ。
「やらせてもらえませんか。リハビリだとか、少しでも家計の足しにとか以外に、この人が自分でやろうとしている気持ちを長続きさせてあげたいんです。この人が手を動かしている姿を私も見てみたいし。それは私たち夫婦のためにも絶対必要なことですから」
その一言で医者から許可が出た。

早速俺は車の部品組立ての内職を始めた。そこからの収入は雀の涙ではあるが。
やはりなにか仕事をやり出すと自分の中に一種の時計ができあがるようで、毎日の生活にリズムができる。
記憶はまだ戻らないけれど、それでもただ寝ていたときからすれば頭の中がかなりはっきりしてきたようだ。
内職をやり出したら、今までどんより気味だったカオリの仕草にもメリハリが出てきた。
相変わらずパートに出かけているが、普段の表情は前とは違って確実に明るくなっている。
二人の間の澱んでいた空気が、なんとなく動き出したようだった。
9 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 17:24
凍てつく日よりもうららかな日が多くなってきたあるとき。
カオリが突然、梅の花を見に行こうと言い出した。
「俺、まだ遠出とかできないんじゃないか」
「大丈夫だよ。手を動かし始めてからだいぶ雰囲気が変わったもん。たぶんね、頭の血の巡りがよくなってきてるんだよ」
「うわー、失礼ですね奥様。自分のだんなをつかまえて頭の血の巡りなんて」
「あ、ゴメーン、やっぱりホントのこと言われると気になるよね」
「コラ」

二人で笑いながら少し離れたところにある梅林に行った。
「ね、梅の花の匂い、わかる?」
「うん、わかる。いい匂いだよね」
カオリは俺のペースに合わせながら、手を後ろに組んでゆっくり歩く。
俺はここ何日かで思っていたことを言ってみた。少し照れるようにして。
「カオリ、俺こんな状態でお前にすべておんぶするようになっちゃってゴメンな。それに記憶もまだ戻らないし、結婚したときに俺にあったものが今全部なくなってるわけだろ。たぶん別れるってこと何回も考えたんじゃないかって思うんだ」
「…」
「でもさ、そばにいてくれて、俺ものすごく助けられてるんだって分かった。飯作ってくれるとか、いろいろ気にかけてくれるとか、そういうんじゃなくてさ。心に張りが出るんだよ。カオリといると」
「…」
「俺こんなことになっちゃってホントに申し訳ない。でもさ、俺これからもカオリと暮らしたい。カオリといられるっていう安心感が俺の頭や心にものすごく効いてるんだ。だからものすごく迷惑かもしれないけど」
俺はカオリの方に向き直った。
「これからも一緒にいてくれますか?」
10 名前: 投稿日:2005/02/13(日) 17:24
カオリは無言で俺に抱きついてきた。声を殺して泣いている。
「今までもうイヤって思ったことたくさんあった。でもあなたから離れたらそれはすべて単なるイヤな思い出にしかならない。そうなったらあなたのことも、一緒になった人との生活をやめてしまった自分のことも、ずっと嫌いになったままでこれからを過ごさないといけなくなる。そんなこと私したくない。あなたは結婚することで私の存在を認めてくれたのに、そのあなたから離れたら、私何もできなくなっちゃうよ。記憶が戻らないとか全部を背負うとかそういう問題じゃないの… だからこれからもカオリのことを、よろしくお願いします」
俺たちはしばらくそのまま抱き合っていた。梅の枝の間を吹き抜ける微かな風の音だけが聞こえる。

アパートへ帰る途中、コンビニでカフェラテを二つ買った。ストローを挿して二人で飲みながら歩いた。
お互いの心にあったもやもやがとれたような、晴れやかな気分だ。
カオリの横顔も心なしかすがすがしく見える。
その表情に見とれていたら、すぐカオリに気付かれてしまった。
「ん? どうしたの」
顔いっぱいでニッコリと微笑むあの笑顔だ。
俺は返す言葉が見つからなくて適当にはぐらかす。
「ずいぶんニッコリとうれしそうですね、カオリ様」
「そうだよ。心の中は今日のこの空と同じ。どこまでも澄んだ、カオリン日和だよ」

                                完
11 名前:ささるさる 投稿日:2005/02/13(日) 17:25
以上で終わりです。
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 21:59
しみじみしました。
ありがとうございます。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 05:42
突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。

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