凍える鉄槌
- 1 名前:カシリ 投稿日:2005/02/18(金) 15:36
- アンリアル。超能力バトル物。
主演は、とりあえず飯田。
そのうち全員出る予定。
……レス頂ければ最高です。
- 2 名前:プロローグ 投稿日:2005/02/18(金) 15:38
- ――――
- 3 名前:プロローグ 投稿日:2005/02/18(金) 15:39
- 公園を満たしている闇の中で、女は小さく息を吐いた。
もう少しで日の出を迎える、もっとも昏く、静かな時間だ。
公園を申し訳程度に照らしている街灯の白い光を、女性としては長身の
頭上に広がっている枝葉が遮って、その美しい顔立ちと
腰まで伸びた長髪を、半ば闇色に塗りつぶしていた。
4月とはいえ、この時間では少し肌寒い。
白いワイシャツにブラックジーンズ、そして黒いスプリングコートに
身を包んだ女は、ポケットに両手を入れながら、
広場の端にある少し大きめな木に寄りかかり、待っていた。
女が顔を上げて広場の隅にある錆の浮き始めたポールに付いている
時計を見る。
さっき見たときから5分と経っていなかった。
- 4 名前:プロローグ 投稿日:2005/02/18(金) 15:39
- 凍える鉄槌
〜プロローグ〜
- 5 名前:プロローグ 投稿日:2005/02/18(金) 15:40
- ただ待っているのも暇なので、飲み物を買うため、
公園の管理事務所横にある自動販売機の前に立った。
しばらく考えてから、暖かい紅茶のボタンを押す。
静かな公園には不釣合いな音を立てながら、
取り出し口に缶が吐き出される。
同時に、無線機のイヤホンから微かなノイズの後、
切迫したような声が聞こえて来た。
『飯田さん! 誘き寄せました、すぐに来てください!』
女――飯田圭織は紅茶の缶をすばやく取るとすぐに走り出した。
「今どこ!」
『センター前の広場です!』
「了解!」
報告にあったスポーツセンターまで直線距離で200m。
飯田の足なら10秒で到着する。
公園の暗い道を、美しい長髪をなびかせながら駆け抜ける。
- 6 名前:プロローグ 投稿日:2005/02/18(金) 15:41
- 前方にスポーツセンターの正面が見える位置まで来た時に、
白いコートを着た少女が視界に入る。
少女の向こうに黒く巨大な生き物が見えた。
飯田は少女の背中に向かって、走りながら手に持っていた紅茶の缶を、
音も無く投げ付けた。
「伏せろ!」
声を聞いた少女がすばやくしゃがみ込む。
少女の頭上を通過した紅茶の缶は、必殺の速度で生き物に吸い込まれていく。
しかし、紅茶の缶があたる直前に生き物は俊敏な動きで缶を避けた。
(この程度じゃ無理か)
少女の横まで来て、飯田は立ち止まった。
全力疾走でも、あの程度の距離なら、心拍数に変化は無いし
息も切れていない。
「大丈夫だった? ガキさん?」
新垣里沙は、少し緊張した顔で小さく頷いた。
- 7 名前:プロローグ 投稿日:2005/02/18(金) 15:41
- 建物の前は小さな広場になっていた。
生き物は広場の中央付近で低いうなり声を上げている。
広場に一つだけある街灯が、その黒い塊を照らしている。
飯田は異形の生き物をあらためて確認する。
犬に似た体躯を持ったそれは、こちらの常識で見ると奇妙な印象を受ける。
額の中央から生える大きな角、足には鉤爪は鋭く尖り、
尻尾は二股に分かれている。
荒い息遣いを繰り返す口元には、鋭い牙が並んでいた。
獲物に食らいつき、引き裂くための肉食獣のそれだ。
そして生き物の視線は、飯田と同じ高さにあった。
- 8 名前:プロローグ 投稿日:2005/02/18(金) 15:41
- 巨大な生物の体からは、殺意と呼べるような圧力が放出されている。
飯田は前方へ視線を向けたまま尋ねた。
「なんか怒ってるみたいだけど、どうやって誘き出したの?」
「木の上から水かけてやりました!」
「……そんなことされたら圭織だって怒るよ」
新垣は着ている白いコートの内側に手を入れる。
腰に下げた警棒を取り出した。
飯田は苦笑すると、生き物の前に進み出た。
- 9 名前:プロローグ 投稿日:2005/02/18(金) 15:42
- 突然、生き物が広場を震わせるような雄叫びを上げた。
ほとんど予備動作なしで、飯田に向かって飛びかかっていく。
巨大な体からは想像もできない速度で迫る。
飯田は視界一杯に広がった生き物の顔に向かって腕を振った。
飯田に向かって直進していた巨体が直角に向きを変えて吹き飛んだ。
横倒しに地面を滑っていく生き物を飯田が追う。
はじめの一歩で最高速度までスピードが上げて、
一瞬で生き物を間合いに入れた。
ようやく体勢を整えてこちらを向いた生き物の顎に前蹴りを出す。
バック宙をするように一回転して倒れた生物の背にすばやく乗ると、
やや指を曲げ気味の四本貫手で背中の中央あたりを貫いた。
引き抜いた飯田の右手に、黒く脈打つ塊――異形の心臓が握られていた。
飯田は断末魔の咆哮をあげる巨体からすばやく離れる。
新垣の横に立つと持っていた心臓を投げ捨てた。
地面に落ちた心臓は潰れて黒い粘液となり、地面に広がっていく。
空に向かってもう一度、世界の全てを呪うような咆哮を上げ、
生き物の頭が力を失って落ちた。
その体が崩れていく。生命を失ったヤツら特有の現象。
灰色の粘液と化した巨体が地面に不快な染みを作って広がっていく。
「さっすが飯田さん!」
飯田は歓声を上げた新垣に、親指を立てて答えた。
- 10 名前:プロローグ 投稿日:2005/02/18(金) 15:42
- ――――
この世界とは違う、もう一つの世界。
彼らはむこう側からやってくる。
時空間に穿たれた通路を通ってくる存在、
それは古来から神話や伝説の中で正確に伝えられてきた。
悪魔や魔獣、そして天使や神獣。荒唐無稽な存在達。
あちら側の世界において本能と反射で生きる生物、
我々世界で言うところの猛獣は、“妖獣”と呼ばれこちら側に来ると
その凶暴な本能のままに行動する。
すなわち、持っている恐るべき力で人間を襲い、血肉を食らう。
そんな妖獣の跳梁を防ぐため、能力を持った人間が集められた。
しかし、こちら側にくる妖獣の数は際限なく、
守ることのできる人間は数少ない。
むこう側の世界との交渉が始まった。
- 11 名前:プロローグ 投稿日:2005/02/18(金) 15:43
- 多くの妖獣のなかで、意思の疎通が可能な数少ない存在。
むこう側の生物すべてが持っている破壊と殺戮の本能を、
強固な理性で抑える事ができる者。
“吸血鬼”と呼ばれる存在との話し合い。
そのなかで彼らは条件を出した。
吸血鬼のこちら側への移住を正式に認めること。
人類はそれを認めた。
そして条約が結ばれた。
妖獣の存在は、決して通常の生活を営む者に知られてはならない。
自然発生する通路を通って妖獣が現れると分かっただけでも、
世界規模のパニックになることは分かりきっている。
また誘惑に負け、凶行に走る吸血鬼もいる。
人知れず、侵入してきた妖獣を倒し、凶行に走った吸血鬼を取り締まる。
裏の世界の調和を守るための組織が必要だった。
“Harmony Protect”
通称HPと呼ばれる組織が条約締結と共に誕生することになる。
体内の生体エネルギーを“SP(Spiritual Power)”と呼ばれる
エネルギーに変換することで、様々な特殊能力を使うことのできる
“力”を持った少数の人類と、彼ら“吸血鬼”の手によって。
- 12 名前:プロローグ 投稿日:2005/02/18(金) 15:43
- ――――
新垣は周りを封鎖している仲間に連絡にいった。
人気のない広場に残った飯田は、外灯の下で立ち止まる。
妖獣の体はすでに地面に残る灰色の染みに変わっていた。
その色も徐々に薄れている。
倒した妖獣の体から流れ出た、こればかりは変わらない濃厚な血の匂いが
小さな広場を満たしていた。
飯田は意識を逸らすため、静かに目を瞑る。
あの時も同じだった。そして、思い出す。
- 13 名前:プロローグ 投稿日:2005/02/18(金) 15:43
- 飯田のように条約破りを取り締まる吸血鬼は、
同族から裏切り者扱いされる事も多い。
それでも、続けなければならない。
来る日も来る日も胸中から去ることがないあの顔、あの記憶。
忘れてはならないあの時の記憶がある限り。
――彼女の望んだモノを守るために。
閉じた目蓋の裏、視界を満たす闇の濃度が徐々に薄らいでいくのを
感じて、飯田はゆっくりと目を開いた。
太陽の昇る直前、夜明けの光に照らされた東の空は、
ほのかな黄赤色に染まっていた。
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/19(土) 00:16
- よいかも
- 15 名前:名無しファン 投稿日:2005/02/19(土) 01:53
- 飯田さんかっこいいです。
続き期待してます!
- 16 名前:ムーンリバー 投稿日:2005/02/21(月) 17:17
- 第1話
〜ムーンリバー〜
- 17 名前:ムーンリバー 投稿日:2005/02/21(月) 17:18
- 新木場の駅を少し過ぎたあたりでウインカーを出す。
歩道との境目で揺れた車体に気がついて、隣で眠っていた新垣が目を覚ました。
飯田は目の前にみえる建物に向かって、車をゆっくりと走らせる。
東京湾の一角。新木場にある倒産した木材加工会社を買い取って
飯田は自宅に使っていた。
2階建で正面には大きな灰色のシャッターが降りている。
建物の前にある広い駐車場では、ところどころで顔をみせる雑草が
打ちっぱなしのコンクリートを突き破り、その生命力を垣間見せていた。
飯田と新垣は建物の近くに停めた車から降りる。
昨日から眠っていない二人は、朝の日差しに眼を細めた。
飯田は錆の目立つポストから新聞を取ると、シャッター横にある通用口から
中に入る。
建物の中は、間隔を開けて整然と並ぶ鉄柱の茶色と、両側に付いている窓からの
光に照らされた広い空間が広がっていた。
1階部分に置いてあった加工機械は全て処分して、今は駐車場として使っている。
2階部分を住居に改造してあった。
- 18 名前:ムーンリバー 投稿日:2005/02/21(月) 17:19
- 部屋で眠るという新垣に片手を上げて、飯田は1人で2階の事務所に入った。
応接用に置いてあるコーヒーメーカーをセットして、自分の机で新聞を読み始める。
徹夜の後は、全身にだるさを感じるが、すぐには眠れない。
ぼんやりした頭で活字をなぞる。
「いいらさん、おはようございます!」
しばらくしてから元気な声が聞こえてきた。
飯田は読んでいた新聞を下ろして扉の方を見る。
起きたばかりなのだろう、青いパジャマを着て目をこすりながら入って来た辻希美が、トコトコと近づいてきた。
「おはよう」
飯田は読んでいた新聞を畳んで返事をする。
辻はその口調から実際よりも幼く見えるが、17才だ。
「いま帰ってきたれすか」
そう言って、出来ていたコーヒーを飯田の机まで
持って来てくれた。
「そう。結構時間が掛かっちゃったよ」
カップを飯田の前に置くと辻は部屋の中を見回した。
「ガキさんは?」
「部屋で寝てるよ」
飯田はカップを口元に持っていく。
熱く苦いコーヒーが、舌に心地よい刺激を与える。
- 19 名前:ムーンリバー 投稿日:2005/02/21(月) 17:19
- 辻は机の正面に立つと、正面から飯田の目を覗き込む。
にっこり笑って、小さな胸を張った。
「そうれすか。じゃあいいらさんだけに、のんがお〜いしい朝ごはんを
作ってあげます」
「コーヒー飲んだら寝るからいいや」
「そう……ですか」
分かりやすく肩を落として沈んだ声でそう言うと、回れ右をして出口に向かう。
「あ〜うそうそ! 圭織お腹空いてたんだよね〜。
なんかおいしい朝ごはんが食べたいな〜」
出て行こうとする辻の背中に慌ててそう言うと、
辻は笑顔で振り返った。
「ちょっとまっててください。すぐに用意します!」
そう言って、入り口のところで「てへへ」と笑い、
スキップでもしそうな勢いで自分の部屋に戻って行った。
「ののの料理……か」
飯田は苦笑いをして、コーヒーを飲む。
ほんの少し、不安に感じながらも楽しみに待つことにした。
- 20 名前:ムーンリバー 投稿日:2005/02/21(月) 17:20
- それから1時間。
飯田は、一度読んだ新聞を読みながら待っていた。
途中何度か辻の部屋の前に行き、声を掛けるがその度に、
「もうすぐできますから、コーヒー飲んでてくらさい!」
部屋に入れてもらえない。
(コーヒー、残って無いんだけど)
飯田は読んでいた新聞を机に置くと、開いている窓に近づく。
そろそろ世間では出勤時間になる。建物の前にある大きな道路には
車がときどき走っているのが見えるが、歩行者ほとんどいない。
駐車場の隅にある大きな桜の木は、満開を過ぎて、
花弁の桜色と葉の若草色が微妙に交じり合い、
春らしい暖かい日差しと爽やかな風に、梢を揺らしてる。
(早起きすることなんてないからな〜)
休日のような、ゆっくりとした時間が流れていた。
- 21 名前:ムーンリバー 投稿日:2005/02/21(月) 17:20
- ようやく出来た料理を前に、飯田と辻は事務所のソファーに
向かい合わせに座る。
「「いただきま〜す」」
どんな料理が出てくるかと思っていた飯田は、
テーブルに並べられた料理を見て驚いた。
ふろ吹き大根、ほうれん草のおひたし、カレイの煮付け、
そしてご飯とお味噌汁。最近の流行は和食らしい。
とりあえず見た目に破綻はない。
早速食べようとしてふと、正面に座っている辻の姿が目に入った。
着替える時間も惜しかったのか、パジャマ姿のままだ。
袖をまくった腕から見える、褐色の健康そうな肌と幼い顔立ち。
俯き加減に上目遣いで飯田を見るその瞳は、自信と期待と少しの不安に輝いている。
(シャリシャリいったらどうしよう……)
苦笑しながら、大根を取り一口食べる。
「おいし〜い! ちゃんと火も通ってる!
それにこの味噌、市販のじゃないでしょ?」
飯田の言葉を聞いて、辻は満面の笑みを浮かべる。
「あたりまえです。味噌汁もちゃんとだしからとったんれすよ」
辻は誇らしげに顔を上げた。
「ひょっとして、これ昨日から用意してた?」
飯田がそう言うと、辻は照れたようにてへてへと笑いながら、
自分の茶碗を取って食べ始めた。
- 22 名前:ムーンリバー 投稿日:2005/02/21(月) 17:21
- ――――
- 23 名前:カシリ 投稿日:2005/02/21(月) 17:22
- 間が開いた上に、この更新量。すいません。
残っているストックすべてを使って、明日もう一度更新します。
- 24 名前:カシリ 投稿日:2005/02/21(月) 17:22
- >>14 名無飼育さん 様
反応なかったらどうしようとか思ってました。
初レス、ありがとうございます。
>>15 名無しファン 様
ありがとうございます。
小説書くのは初めてですが、期待に答えられるようにがんばります。
- 25 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 01:58
- 奥にある校舎は中天に輝く満月を背にして、まるで欧州の古城のような
威容を誇っている。
そして校門は、敵兵から城を守る城門のように堅く閉ざされていた。
飯田は丘の上に建てられた、廃校になった中学校の前にいた。
人の気配は無く、代わりに数年前に廃校になってから手入れをされていない
周りの茂みからの虫の音が、その存在を控えめに訴えている。
「本当にのんちゃん起こさなくてよかったんですか?」
横に立つ新垣が、少し緊張したように早口で、
そして小さな声で尋ねる。
「寝てるなら無理に起こす必要も無いでしょ」
コートのポケットに手を入れたまま答えると新垣を見る。
白いスプリングコートを羽織って校舎を見つめるその表情は緊張と、
僅かな不安を押し隠していた。
「大丈夫だよ。ガキさんは相手の場所を見つける事だけ
考えてくれればいいから」
新垣の肩に手を置いて言うと、校門に向かって歩き出す。
「じゃあ、始めますか」
門の前まで来ると飯田は助走なしで、錆びた校門を跳び越える。
その後を、慌てて新垣が校門をよじ登って追った。
- 26 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 01:58
- 第3話
Moonlight Serenade
- 27 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 01:59
- 駅前の喧騒から離れ、閑散とした住宅街の中を進む。
住宅街を抜け、10分ほど進むと小高い丘の上に建つ建物が見えてきた。
何年か前に、隣町の学校との統合によって使われなくなった中学校。
廃校へと続く坂道の下、疎らな外灯の薄闇の中で何人かの人影が集まっている。
飯田は後ろで寝ている辻を起こそうとする新垣を止め、車を降りて人影に近づく。
女が2人、男が3人、計5人の人影が集まっていた。
全員揃って黒の戦闘服。
周りに住宅はないとはいっても、かなり不自然な光景だった。
近づいていく飯田と新垣に向かって5人が鋭い視線を向ける。
飯田は中心で話をしていた小柄な女に話し掛けた。
「揃ってる?」
「あんたたちが最後だよ」
「……だと思った」
飯田は神妙な顔で頷く。
咎めるような口調で答えた女――矢口真里は、
飯田を見上げるように視線を返してきた。
- 28 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 01:59
- 矢口は諦めたように溜め息をつくと仲間を見渡す。
「あたしと小川が裏門、圭織と新垣は正面から、
あとは横の通用口から侵入する……準備はいい?」
全員が無言で頷く。
微かな金属音が聞こえ、薄闇に消えた。
矢口の横に立つ少女――小川真琴が、腰から抜いた拳銃の
安全装置を外した音だ。
「じゃあ30分後にスタート……今度は遅れんなよ圭織!」
矢口はもう一度飯田を睨むと、小川を連れて裏門に向かっていった。
- 29 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:00
- ――――
月明かりが照らす広いグランドは、生物の存在を許さない砂漠のように
静まり返っていた。
正面に見える校舎はコの字型をしている。
その少し手前、左手には大きい体育館があった。
飯田たちが入った正門は、コの字の空いている辺にグランドをはさんで
正対した所にある。
- 30 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:00
- 今ごろは体育館横の通用口と裏門から同時に侵入しているはずだ。
「どう? だれかいる?」
「体育館とグランドには、いないですね」
目と閉じたまま、新垣が答える。
「そう。じゃあ行こうか」
飯田は校舎に向かってゆっくりと歩き出した。
「しかし便利だよね。圭織なんて目で見える範囲しか分からないし」
「そうですか? わたしは“増幅”とか“操元”とかの方が
いいと思いますけど……なんか実際に戦闘が始まると足手まといみたいで」
振り返らず尋ねた飯田に、後ろを歩く新垣に答える。
「そうでもないよ。戦闘になる前に相手の位置が分かったほうが
絶対有利だし」
「そうですけど……」
新垣は不満そうに口を尖らせる。
「そのうち分かるよ」
飯田は体育館に向かって歩き出した。
- 31 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:00
- ――――
時間より少し前に、矢口は入り口横の2mほどの塀を乗り越えて
中に入った。
茂みの中で気配を殺し、目だけを動かして周囲の状況を観察する。
裏門の中は小さな駐車場になっていた、右側に小さな池がある。
ところどころ窓ガラスの割れ、電気の消えた校舎は静まり返っていた。
茂みから聞こえる虫の音がやけに大きく聞こえる。
矢口は両手の黒い革の手袋を、感触を確かめるように何度か強く握った。
後ろにいる小川は両手で小型の拳銃、SIG―P228を頭の横に構えている。
矢口は校舎の方から視線を逸らさずに、動かない。
「気を付けろ。なんか変だ」
横にいる小川だけに聞こえるように抑えた口調でつぶやく。
「なにかあるんですか?」
矢口の言葉を聞いて拳銃を握り直しながら小川が答えた。
「さあね、勘だよ……行くぞ!」
姿勢を低く保ったまま校舎に向かって走る。
ガラスが大きく割れた窓に頭から飛び込むと両手で着地。
回転して壁を背に右側をすばやく確認する。異常なし。
左側は飛び込むときに確認してある。
外にいる小川に手で合図を送りながら校舎の見取り図を思い出す。
とりあえず、1階部分の探索。
矢口は攻撃的な目付きで、闇に沈んだ廊下の奥を睨んだ。
- 32 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:01
- ――――
校庭の真ん中を歩きながら、飯田と新垣は校舎に近づく。
あと半分ほどで校舎に着くところで、新垣が立ち止まった。
目を瞑り神経を集中している。
「待ってください、1人近づいてきます!」
「どこから!」
「通用口の方……すごい速さです!」
通用口には仲間がいる。
飯田は全力で体育館横の通用口に向かった。
- 33 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:01
- 体育館の角を曲がる直前、何か重いものが地面に落ちる音が聞こえた。
飯田は角を飛び出す。
左側に体育館の入り口、反対には小さな倉庫があった。
その中間辺りに仲間が3人倒れている。
――そして女が1人、立っていた。
月光を浴びて立つその姿は、成熟した女性の優美さと同時に
可憐さが漂っている。
表情は水晶のように透き通り、飯田を見つめるその瞳には、
美人にありがちな、見る者を遠ざけるような冷たさはない。
しかし、シンプルなシルエットの黒いパンツスーツを身に付けた姿は、
何処か不吉な印象を漂わせていた。
- 34 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:01
- 飯田は倒れている仲間を見る。
地面に突っ伏して動かないが、3人とも目立った外傷はないようだ。
ここまで来るのに2・3秒。やられた仲間は何が起きたか理解しないまま
瞬時に意識を絶たれただろう。
「危なかったね。かおりん」
その言葉に飯田は視線を移す。
月光を浴びて微笑むその表情は恐ろしいほどに無垢で、
幼い子供のような印象を受けた。
「いきなりなんのこと」
「またまた、分かってるくせに」
女は飯田に向けていた視線とは一転して、軽蔑したような眼差しで地面を見る。
倒れている男の脇にアサルトライフル、M16が落ちていた。
「あのまま姿見せてたら、問答無用で蜂の巣だったよ」
女は足元に落ちているライフルを、足で軽く小突く。
「まあ、かおりんなら何とかしたんだろうけどね」
「仲間だよ、なんで撃たれなきゃいけないの?」
女は飯田の言葉を聞いて弾かれたように笑い出した。
「何いってんの? 仲間? あは! こいつら私達を殺すことしか
考えてないんだよ。信用はしても信頼しちゃだめだって!」
そのとき、角を曲がって新垣が現れた。
女を見て動きが止まる。
「石川……さん?」
石川梨華は、新垣をみて微笑んだ。
「久しぶり。元気だったガキさん?」
新垣は困惑したように、石川と飯田を交互に見る。
「え……なんでこんな……」
新垣は突然現れた石川の姿に混乱したのか、うまく言葉が出てこない。
穏やかな風が吹き、立ち尽くす三人の髪を揺らした。
- 35 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:02
- ――――
人の気配が無いのを確かめて、階段から通路を出る。
1階には誰も居なかった。
通路の奥“3−A”とプレートが下がった教室から光が漏れている。
足音を立てないように教室の扉に近づく。
小川に合図してその場に残し、矢口が後ろの扉に回った。
矢口は扉にそっと耳を当てる。中からは何の物音もしない。
しかしこの臭い。
戦闘服の胸ポケットに手を入れて、出した物を小川に見せる。
小川が頷いて準備が出来たのを確認すると、扉の取っ手に手をかける。
三つ数えてから勢いよく扉を開け放ち、中に突入した。
「動くなHPだ!」
同時に、前の扉から小川も教室の中に入った。
- 36 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:02
- 並べられた机、窓には光が漏れないように黒い布で
眼張りをしてある。
教壇の上にはアタッシュケースが一つ、開いたまま置いてある。
そして、教室のあちこちに10人近い人間が、倒れていた。
「どうなってるんですか、矢口さん?」
「おいらに聞くな!」
天井に人型の血の跡、割れた黒板と崩された机の列。
倒れた机の中に埋もれている者や、黒板の下で喉を切られ、
糸の切れた人形のように倒れている者もいる。
全てに共通しているのは“死んでいる”と言うことだった。
入り口で立ち尽くした矢口は、誰に言うわけでもなくつぶやく。
「……吸血鬼?」
「当たり」
突然後ろからかけられた声に反応して、裏拳を出す。
声の場所から頭部を狙った拳が空を切った。
振り向きざまに後ろに飛び退き、顔を見る。
身長は矢口よりかなり高い、茶色い髪、均整のとれた体躯を
黒いトレンチコートで包んでいる。
- 37 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:03
- 矢口が飛び退いた瞬間、女の手が伸びて矢口の胸倉を掴んだ。
掴まれた女の手から感じるのは凄まじい膂力。
矢口の体を吊り上げたまま、女は後ろに下がって廊下に出る。
「まだ残ってたんだ」
女の左手が後ろに引かれた。
(やばい!)
矢口は両手で襟を掴んでいる女の右手首を掴む。
そして右足の踵で脇腹を蹴った。
分厚いタイヤを蹴ったような感触。女の顔に笑みが浮ぶ。
効いてない。
蹴った右足を女の脇腹に押し付けて掴んでいる手を軸に回転。
鉄板の入ったブーツで女のこめかみにつま先蹴りを放つ。
多少は効いたのか、女は頭を振りつつ体勢を崩した。
矢口は蹴った左足をそのまま振り抜き、相手の手を掴んだまま
渾身の力を込めてのけぞる。十字固め。
このまま倒れれば腕一本もらえる。
- 38 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:03
- しかし、踏みとどまった。矢口を掴んでいる手に更に力がこもる。
うつむいていた顔を上げた。その表情が不機嫌そうに歪む。
「おとなしく……」
女の言葉が終わる前に銃声が薄闇の廊下にこだました。さらにもう一発。
最初の一発は女の喉に。
掴んでいる手の力が抜けた。
間を置かずに額に。
女は矢口から手を離して仰向けに倒れた。
- 39 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:03
- すかさず矢口は女から距離を取り小川の横に立つ。
ひざ立ちの姿勢で構えている小川の銃を、
蒼い炎のような揺らめきが覆っている。
「やったか?」
「無理ですよ! 吸血鬼相手に9mmパラじゃ“エンチャント”しても
致命傷になりません!」
女は仰向けに倒れたまま片手で顔を覆い、小刻みに震えている。
矢口にはその姿が痙攣しているように見えたが、すぐに間違いに気がつく。
女は笑っていた。
「くく……。やってくれるじゃない」
女はゆっくりと立ち上がる。
- 40 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:04
- 片手で隠された顔を、割れた窓から差し込んでくる金色の月光が照らす。
背後には、どこまでも続きやがて闇の中へと消えていく通路。
「楽に殺してやろうと思ったけど……。
自分から“殺してくれ”と懇願するまで、いたぶってやろうかな」
顔を隠している手の隙間から矢口を見る眼が、真紅に染まる。
女の全身から人間とは違うSP――妖気と呼べるようなものが溢れ出す。
そして女の周囲を赤く半透明な揺らめきが包む。
吸血鬼特有の能力――“障壁”
- 41 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:04
- 矢口は横目で、銃を構えたまま目を見開いている小川を見る。
狭い廊下であいつが動き出したら同士討ちは避けられない。
2人で逃げれば先に小川が殺られる。
こいつのSPを感知して新垣達が来るまで……3分。
ゆっくりと右手を動かす。
(何とか……なれ!)
矢口は内ポケットから取り出した物を女の足元に滑らせる。
同時に左手で自分の、右手で小川の目を隠した。
廊下を一瞬、凄まじい音量の爆発音と閃光が満たした。
矢口は左手で目を覆いながらカウントを始める。
(……2……1!)
閃光が消えた瞬間に手をはずし女を見た。
姿勢を変えずに余裕の笑みを浮かべながら立っていた。
(“フラッシュバン”が効かない?)
いまさら止められない。
女との間合いを詰め、矢口は全力で右フックを女の顔に放つ。
矢口がはめているグローブには手の保護と威力の倍加のため、
拳のところに砂鉄が入れてある。
“増幅”して全力で殴ればコンクリートの電柱も折れる。
- 42 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:04
- 乾いた音が廊下に響いた。
矢口の拳が、無造作に出した女の手のひらに止められていた。
女の右腕がゆっくりと上がっていく。
斜めに振り下ろされた女の腕を、両腕を十字に交差して受けた。
踏ん張る間さえ無く、矢口は飛ばされて壁に叩きつけられる。
とりあえず後頭部を壁にぶつけるのは避けた。
寝てる場合じゃない。
立ち上がろうと手をつくと左腕に違和感。
床を転がって距離をとった。
何回転かしてひざ立ちになる。
感触から左腕にヒビが入っているが分かった。
痛みをこらえて女を見る。
最初の位置から、動いていなかった。
「もう終り?」
嘲るような表情で見下ろしながらそう言うと、顔の前に右手をかざす。
矢口の背後で連続して銃声が起きた。
- 43 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:05
- 突然の閃光で呆気に取られていた小川は、女の言葉で
我にかえったのだろう、手にした拳銃の引き金を引き続ける。
しかし能力で強化された弾丸も、女の皮膚の表面を傷つけるだけで
貫通できない。
吸血鬼の特殊能力は唯一つ。
SPを使って体の周囲にあらゆる攻撃に耐性を持つ障壁を造る。
小川の能力は武器にSPを“付与”――エンチャントする。
SPで造られた障壁の効果を下げ、武器本来の威力を発揮できる状態にできる。
しかし、通常の拳銃程度では障壁が無くても、吸血鬼の皮膚を貫通できない。
また仮に傷つけたとしても、驚異の治癒能力がその傷を瞬時に回復させる。
運動能力と治癒能力、拳銃の弾丸を通さない皮膚の厚さ。
そして、障壁。
その全てが、人間を遥かに凌駕する。
- 44 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:05
- 小川は引き金を引き続けた。
五発……十発……。
無情な金属音が矢口の耳を打った。
銃のスライドが下がった位置で止まっている。弾切れ。
小川が空になった弾装を抜き、すばやく腰の予備弾装に手をかける。
「くだらない」
女は吐き捨てるようにいうと、かざしていた右手を振る。
皮膚で止まっていた弾が小川の手に当たった。
小さな悲鳴と共に小川の左手が弾かれた。
握っていた予備の弾装が床を転がる。
- 45 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:05
- 矢口は痛む左腕を無視して立ち上がった。
小川の左手から血が流れ出している。手を貫通していた。
矢口は女の背後、誰もいない廊下の奥の階段に目をやる。
階段を上ってくる足音もしない。
(あと2分!)
矢口は大きく息を吸い、止めた。
体内の生体エネルギーをSPに変換する。
体内を回るSPと呼応するように、全身の細胞の一つ一つが
覚醒していくような灼熱感が全身を駆け巡る。
左腕の痛みが一時的に消えた。
体の限界までSPの量を増やした。
しかし、1人で吸血鬼を相手にするには足りない。
量が増やせないなら質を。
さらに生体エネルギーを変換する。
限界を超えて高めたSPが、矢口の体内を暴れ回る。
いまにも制御を離れ、暴走を始めそうなほどに。
そして体内を回るSPを使い、能力を発動する――ブースト。
- 46 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:06
- ――――
「あんな大事なときにいなくなっておいて……戻る気になったの?」
「そうだって言ったら、喜んでくれますか?」
期待を込めた飯田の問いに、石川は悪びれた風も無く答える。
「石川もいろいろあったんですよ。それに飯田さんだって、
私が辞める前に、つんくさんのチームを抜けたでしょ?」
「あれは……」
「知ってますよ。“のの”の事もありましたからね」
言い返そうとした飯田を遮って石川が続ける。
「でもね……。結局あの人が抜けた穴を埋めるはずだったのに
HPの本部に残らずにののを取った。大事な時にいなくなったのは、
飯田さんだって一緒ですよ」
「違う! 圭織はそんなつもりじゃなかった!」
「同じですよ。あの隙を突かれてHPの実権を握られた。
いまじゃつんくさんの親衛隊じゃないですか」
石川は冷静にそういうと、飯田に向けて笑いかけた。
「今は戻ることは出来ません。
それに、こんな事を言いに来たわけじゃないんですよ」
- 47 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:06
- 飯田は混乱していた。
石川の行動が理解できない。
ここに来るのが決まったのは今日の午後。
なぜここにいるのがわかった。
なぜ突然現れて、助けるためとはいえHPの人間を襲った。
「気をつけてください。狙われてますよ」
石川は真剣な表情で飯田に向かって忠告する。
「最近“むこうの世界”との間で通路を作ろうとしている奴が
いるんですよ」
「違法に通路を開く。そんなの珍しいものじゃない。
昔から行われてることだ」
「そうですね。でも今回は今までのように小規模なものじゃなく、
巨大で永続的なものを作ろうとしてるみたいなんですよ」
石川の言葉に飯田は眉をひそめた。
- 48 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:06
- 自然発生するむこう側との空間の裂け目――“通路”も、通常は30分ともたずに
消え去る。
人工的に通路を開こうとすれば、直径2mの通路を開けるのだけでも
莫大なエネルギーが必要になる。
しかもエネルギーの供給が途絶えた瞬間、歪んだ空間である通路は
閉じてしまう。
限定された容器のなかに、真空を作るようなもの。
人の手を加わえ続けなければ、不自然な空間は“世界”がその存在を許さない。
- 49 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:06
- 「空間に開いた通路は“世界”に矯正される。そんなもの作れるわけがない」
飯田の言葉に石川は頷いた。
「詳しい方法はわかりません。でも動いてる組織があるのは確かです」
「何で圭織が関係あるの?」
「それも分かりません。けど、飯田さんの力が儀式を成功させる
一つの要素になっている可能性があります」
飯田は石川の瞳の中に、漠然とした不安を感じることができた。
さっきの口ぶりだとHPに不信感を持っている。
しかし、そこに所属する自分を助け、警告している。
かつての先輩を心配しているのか、なんらかの打算が働いているのか。
飯田には判断がつかなかった。
- 50 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:07
- 突如、3人が無言で立ち尽くす空間に遠くからの爆発音が届く。
石川は校舎の方に視線を向けてつまらなそうにつぶやいた。
「こいつらの仲間だと思うんですけど、先に校舎に入った奴がいたんです。
けっこう強そうでしたよ」
石川は飯田をみて微笑む。
「吸血鬼だったから、早く行ったほうがいいんじゃないですか」
一瞬飯田の顔に躊躇いの色が浮ぶ。
ここに来たのは犯罪を犯している人間の能力者を捕まえるため。
矢口と小川は対吸血鬼用の装備をしていない。
吸血鬼と戦闘になっているなら、危険だ。
石川の眼を正面から見据える。
「聞きたいことはまだあるよ」
「分かってます。近いうちに会いに行きますよ」
石川はそういって、飯田に向けてウインクをした。
飯田は躊躇いを振り払うように石川に背を向ける。
「行くよ。ガキさん」
事態が把握できずに呆然としている新垣を小脇に抱え、
校舎に向かっていった。
- 51 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:07
- 「せっかく助けたのに、お礼もなしか……」
1人残された石川は空を仰いだ。
青黒い空にかかる満月の光が、その顔を照らす。
「また会えますよ……近いうちに」
流れてきた雲が月光を遮り、世界をつかの間の闇に沈める。
雲が抜けて再び照らし出されたその場所に、石川の姿は無かった。
- 52 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:08
- ――――
さっきとは比べ物にならない速度で女の懐に飛び込む。
女の脇腹に拳を叩き込んだ。真綿を殴ったような感触。
対吸血鬼の処理をしていないグローブでは障壁を貫通できない。
袈裟懸けに振るわれた手刀を左腕で受けつつ顔面に右フック。
ガードした女の体が壁に叩きつけられた。
矢口は息を止め、連続で拳を繰り出す。
女は、両手で顔面をガードしながら身を屈めて殴られているが
拳から伝わる感触に殴っている実感は無い。
限界を超えたブースト。まもなく効果は切れる。
こいつが反撃してきたら自分も小川も対抗する手段が無い。
矢口は拳を休み無く叩き込む。
- 53 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:08
- 全身を駆け巡るSPの熱気が緩んでいく。
膨らました風船が縮んでいくように、限界まで張り詰めていた力が
抜けていくのが解る。時間切れ。能力が消える前兆。
(……1秒!)
能力が消える直前、裂帛の気合を込めて前蹴りを放つ。
「おおおっ!」
残った力の全てを乗せる。
- 54 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:08
- 足が伸びきる前に女の腕が、その蹴りを受けた。
まるで壁を蹴ったような反動で矢口の体が後ろに弾かれる。
矢口は両足で着地した。だが足に力が入らない。
崩れ落ちそうになるのをなんとかこらえ、顔を上げる。
「やればできるじゃない」
口の端から僅かに血を流しながら、女が立ち上がった。
矢口の全身から冷汗が吹き出る。体内のSPが無くなった証拠だ。
「なんで、あんなことした?」
これ以上は体が動かない。なんとか時間を稼ぐしかない。
矢口は全身を包む倦怠感と左腕の鈍い痛みに耐えながら、
悟られないように表情を作る。
- 55 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:09
- ダメージがあるのか、腕を擦りながら女は楽しげに話す。
「ここにいた奴らが人を殺すのを見てさ。
後をつけたら、ここにいかにも犯罪者ってのが集まってるじゃない。
そこで正義感に駆られて、天罰が下したって訳」
「だったらHPに連絡すればいい」
女は肩をすくめた。
「電話帳に載ってなかった」
「ふざけんな! あたし達が捕まえればこいつら死なずにすんだんだ!」
10人近い人間を殺しておいて悪びれたようすもない。
矢口はめまいに耐えながら大声を出した。
「なんだ、あんたらHPか。だったら仕事を手伝ったんだ。
お礼ぐらい言ってもバチは当たらないよ」
「何人殺したと思ってるんだ、お前こそ犯罪者だ!」
女の目が冷たい光を帯びる。
「何人か殺したぐらいでガタガタ騒ぐんじゃない」
女の殺気が膨らむ。
昏い廊下に張り詰めた空気が満ちていく。
「これでも急いでるんでね。悪いけどおしゃべりはお終い」
まだ使ったSPは回復していない。
飯田たちが来る気配も無い。
小川は片手で弾装の交換を終えているが、どっちみちこいつには効かない。
矢口は逃げ道を探して周囲を見渡す。
どこに逃げても捕まる自分が、簡単に想像できた。
女の殺気が限界まで膨らむ。
(来る!)
無駄と知りつつも矢口は鉛のように重い両腕を上げて構えた。
そして、廊下に満ちた空気が砕け散る。
- 56 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:09
- その場に相応しい音を立てて、女の背後にある大きな窓ガラスが割れた。
3人は突然の出来事にその場から動かず、割れた窓に視線を移す。
窓枠に、小さな人影が立っていた。
「おいてけぼりとはひどいですね。矢口さん」
長袖の白シャツにワイドなブラックパンツ。
そしてサスペンダーを付けた姿は、さっき見たときと変わらない。
しかし、月明かり照らされた全身から溢れる気配が、
その姿を別人に見せている。
魂を持った人形の様な妖しい横顔と、強烈な凍気を放つ存在感。
窓枠に立つその人影は、辻だった。
- 57 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:09
- 辻は音も立てずに割れたガラスの上に降り立った。
突然の出来事に状況を把握しようとしているのか、
それとも圧倒的な存在感に動けないのか。
突然現れた辻を見て、女はその場から動かない。
「吸血鬼がいるならそう言ってくれれば良かったのに」
そう言って、矢口に笑いかける。
その表情に、無邪気さは欠片も無い。
「なんだ、お前は」
突然の侵入者に驚いたのか、それとも辻の放つ存在感に
圧倒されているのか、女が搾り出すように掠れた声を出した。
「人間ですよ……あなた達専門の」
辻の姿が消える。同時に女の体が矢口の横を飛んでいった。
まさに神速といっていい速度で体当たりをした辻は、廊下の奥へ飛んでいく女を
追っていった。
そして辻が横を通るとき、矢口の脳裏に一瞬だけ辻の瞳が焼きつく。
その闇を映した様な瞳の深遠には、明確な殺意が煌いていた。
- 58 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:10
- 女は何とか空中で体勢を立て直して両足で着地した。
とんでもない力。さっきの奴よりも数段上。
驚きながらも、迫ってくる辻に女は中段の蹴りを放つ。
走ってくる辻には避けられるはずの無いタイミング。
辻は予期していたかのように飛んで避けた。
空中で女の顎に飛び蹴り。
まともにくらった女は再び後ろ、廊下の終点、壁に吹っ飛ぶ。
(エンチャント? ブースト?)
女は驚き、そして分析する。
さっきのチビ女の攻撃も障壁がその威力を半減させて、
致命傷になるようなダメージも食らわなかった。
なのにこいつ、障壁など無いように直接ダメージを与えてくる。
これまで経験したことの無いような攻撃――顎が折れている。
再び迫ってきた辻に女は着ていたコートを脱いで投げつける。
視界を奪っておいて右腕を水平に振った。
見えないはずの攻撃をガードした辻に驚きながらも、
そのまま全力で右腕を押し込む。
辻は教室の扉を破って中に飛ばされていった。
辻が教室に積み上げられた机の山に突っ込むのを確認して、廊下の奥に目を向ける。
靴音が近づいてくる。飯田圭織。
このダメージで妙な能力を持った女と飯田を相手にするのは危険。
女は一番近い窓ガラスを破って、外の闇へと踊り出た。
- 59 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:10
- 飯田が階段から飛び出すと廊下の先に、しゃがみ込んでいる矢口が目に入った。
抱えていた新垣を下ろすと矢口に駆け寄る。
「矢口!」
矢口の肩を揺さぶる。
新垣は固まったように動かない小川に駆け寄っていく。
矢口の肩から感じる体温が驚くほど低い。
視線は飯田を向いているが焦点があっていない。
「遅れんなって言ったのに……」
「ちょっと! 矢口?」
矢口は目を閉じる。ゆっくりと静かな呼吸。
命に別状は無いようだ。
「そっちは大丈夫?」
小川の左手を取って傷を見ていた新垣が、振り向かずに答えた。
「左手が切れてますけど、大丈夫です!」
扉が開く音に、気を失った矢口以外の全員の視線が、廊下の奥に注がれる。
扉を開けて現れたのは辻だった。
- 60 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:10
- 辻はゆっくりとした足取りで飯田たちの方に歩いてくる。
「逃げられちゃいましたよ」
飯田の前まで来ると、なんとも思っていないような口調で言った。
凍えるような存在感と瞳に宿る殺意は、飯田をみても変わらない。
「辻……? なんで? ののは?」
聞かれた辻は、闇色に染まった瞳を閉じて、
自分の胸に右手を添える。
「“のん”は眠っています。私は戦闘の匂いがしたから来ました。
そのための私ですから」
「まさかこの距離で分かるとはね」
「当然ですよ。1km離れていても気が付いてみせますよ」
辻はそう言って、瞳を開ける。
飯田はその昏く果てしなく深い瞳に、自分の存在が吸い込まれるような、
妙な感覚に襲われる。
「ここにいた能力者は?」
「中にいるみたいですよ」
それでも、辻の顔を見ながらやさしく問いかける。
辻はそういって一番近い教室を指差した。
- 61 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:11
- 飯田は教室の扉をくぐり、中に入った。
廊下に漂う血の臭いで、入る前から想像はついていた。
蛍光灯に照らされた教室の中に動く者はいない。
開いたアタッシュケースの中に札束が入っているのが見える。
倒れている男達を見ないように間をぬって教壇に近づく。
飯田の目がそれを理解した瞬間、心臓が狂ったように鼓動を速めた。
震える手で、札束の間に挟まっているそれを取り出す。
――それは写真だった。
遠くにそびえる高層ビルを背景に、街路樹の横で1人の女性が
白いワンピースを着て立っている。
木々の隙間から差す木漏れ陽に目を細めて笑顔を見せるその顔立ちは、
昔と変わらない幼い丸みが残っていた。
教室の天井で古くなった蛍光灯が瞬く。
飯田は一人呆然と、写真を手に立ちすくんだ。
「なっち……」
そして震える声で、つぶやいた。
- 62 名前:Moonlight Serenade 投稿日:2005/02/22(火) 02:11
- ――――
- 63 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/22(火) 10:54
- 小説書くのが初めてとは思えない。面白いです。
辻さんかっこいい。
でも一つだけ。小川「麻琴」ですね。
続きを楽しみにしてます。
- 64 名前:名無しファン 投稿日:2005/02/23(水) 00:32
- だんだん能力がわかってくるんですね。
こういう雰囲気大好きです。 初めてということで大変だと思いますが
応援させてもらうので頑張ってください!
- 65 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 15:56
- ときおり、外を通る人の足音が規則的に近づき、通り過ぎる。
窓から見える夕陽が、病的なまでに白で統一された空間を
オレンジ色に塗り変えようとして差し込んでくる。
病室に入った飯田はベッドの傍らにあるイスに腰掛けた。
「遅かったね」
ベッドにいるのが不思議なくらいの張りのある声でそう言って、
鋭い視線を送ってきた。
飯田は天井の隅を遠い目で見つめた。
「ほんと困るよね電車って。混んじゃってしょうがないよ」
「混んでても関係ない、って言うか車でしょ! そうじゃなくて昨日の話!」
責めているような目で矢口が睨む。
「……石川がいたんだって?」
飯田は、真剣な表情の矢口の顔を見た。
「うん。元気そうだったよ」
「なんか言ってた」
「近いうちに会いに来るって」
「……4年も連絡しないでいまごろ!」
矢口は荒々しくそう言い放ち、顔をそむけるとそのまま窓の外を睨みつけた。
- 66 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 15:57
- 矢口と石川は昔、同じチームで戦っていた。
突然いなくなった石川に裏切られたような感情を抱いても仕方ない。
飯田はベッドの横に置かれた花瓶に視線を移した。
一色に染められようとしている部屋の中で、白い花瓶に生けられた花が
懸命に抗うように、その鮮やかな色彩を放っていた。
なぜあの時期に石川がHPを辞めたのかは分からない。
しかし、石川がいなくなった原因が自分にもあったのだろう。
飯田の胸を後悔が噛む。
窓の外を睨んでいる矢口の横顔は、窓から入る夕陽を受けて
外の山々と同じように、夕陽を受けて朱に染まっていた。
- 67 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 15:57
- 第3話
2人でお茶を
- 68 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 15:57
- 高い天井と大きな円形の柱。だだっ広い空間にあるのは
受付の銀色のテーブルだけ。
澄ました顔の受付穣がいかにも仕事ですといった顔で、にこりと笑いかけた。
飯田は八王子にあるHPの本部にきていた。
山の中には似つかわしくないガラス張りの近代的なビル。
市街から離れ、山々に囲まれた広大な敷地には、研究所や訓練所、
病院や幼い能力者用の学校などが併設されている。
最上階に位置する部屋の前で飯田は立ち止まった。
ここに来たのは昨日の吸血鬼と、飯田を襲おうとした
HPの職員のことで報告を受けるためだった。
- 69 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 15:58
- 茶色い木製の重々しい扉をノックする。
なんで偉い人の部屋は高いところにあるのか。
ここに来るたびに思うが、飯田には想像もつかない。
返事を待ってから扉を開ける。
正面にある大きなガラス窓から、午後になってようやく目を覚ましたような
太陽の強い日差しが目に飛び込んでくる。
「待っとったで」
日差しを背にした男が、軽い調子で飯田に声を掛けた。
- 70 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 15:59
- つんく。
本名ではなく、なぜかその名で呼ばれるHPの実行部隊最高責任者。
世界に広がる条約の執行機関、HPの権限はあらゆる機関の協力が
優先して得られるという超法規的なものだ。
その日本支部を実質的に4年前から掌握している人物。
「早速やけど、昨日のことや」
木製の大きな机の向こう側で、つんくは革張りのイスに深々と腰掛けた。
飯田を真っ直ぐに見て、指を組む。
「石川に襲われたヤツらな。あいつらはお前を撃つつもりは無かった
突入しようとしたらいきなり襲われたって言ってる」
「銃は? 昨日の件に吸血鬼は関係していません。
あんな物が無くても対処できたはずです」
小川が持っていた拳銃から発射される9mmパラに比べ、
軍用ライフルであるM16が発射する弾丸は5.56mm。
その威力、貫通力は比べ物にならない。
対吸血鬼の処理がされていれば、エンチャントの能力がなくても
傷を負わすことが出来る。
どんな理由で銃を借り出したのか。飯田はつんくの言葉を待った。
- 71 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 15:59
- つんくはしばらく無言だったが、口を開く。
「言いにくいんやけど……。
あいつら、吸血鬼と組むのが初めてだったらしいんや。
それで矢口には黙って武器庫から借り出したんやって」
言いずらそうには聞こえない口調で、続ける。
「武器の貸出しも正規の手続きを行ってる。問題は無い。
あいつらも一応持っていっただけで使うつもりは無かった、
そう言ってる」
石川が主張した“飯田を襲うつもり”という証拠は無い。
こうなることは予想できた。
無言で見つめる飯田の視線を避けるように、つんくは視線を落とす。
「仲間を信用できんってのは、悲しいな」
取って付けたようにそう言うと、引き出しからファイルをだした。
「それから、社員を襲った石川には聞きたいことがあるから、
見つけたら来るように言っといてや」
出したファイルをテーブルの上に置き、飯田の方に滑らす。
「昨日の吸血鬼の情報や、もってけ」
飯田は表紙を一瞥してから手に取った。
挨拶をすると飯田は扉に向かう。その背につんくが声を掛けた。
「戻ってくる気はないんか?」
その言葉を聞いて飯田は立ち止まった。
- 72 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 15:59
- 基本的に、HPの能力者は少人数で構成されたチームで動く。
HP本部に集められた情報を元に、それらのチームに出動命令が下される。
つんくは日本全国に存在するそれら無数のチームを統括する立場にあった。
それとは別につんく直属の部隊が存在する。
かつて飯田や矢口そして石川も、能力が高い者を全国から集めて作られる
その部隊に所属していた。
事情があって辞めたが、部隊そのものは今も存在する。
飯田は何度となく誘われているがその度に断っていた。
振り向いて返事をする前に、つんくが先に口を開いた。
「言ってみただけや。気にすんな」
「……失礼します」
飯田はもう一度そう挨拶をして、部屋を後にした。
- 73 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 16:00
- ――――
白い雲が澄み切った青空に浮ぶ。
穏やかな気温、湿度も低く暖かい風が緩やかに吹いている。
低い植木に囲まれたオープンテラスは正午を過ぎて、客席は五割ほどの入りだった。
飯田はHPの敷地内にある喫茶店で、もらったファイルを開く。
長距離から写したと思われる粗い写真と名前が載っていた。
――里田まい。
あの場にはいなかったが、最近は“あさみ”と“みうな”の三人で
活動しているようだ。
飯田はページをめくり、テーブルの上の熱いコーヒーを口に運ぶ。
各人物ごとに詳細が書かれたものが何ページか続く。
里田まいとあさみが一般的な吸血鬼。その能力で近接戦闘に長けている。
もう一人は人間の能力者。能力は“操元”。属性は“水”となっていた。
- 74 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 16:01
- 更にページをめくると、これまでに関わったと思われる事件が羅列してあった。
ビジネスの問題を解決するために、どっかの金持ちが雇ったとか、
裏切った相手に復讐しようとかいった類のものだ。
何らかの思想に基づいて行動しているわけではない。
金で雇われるフリーの殺し屋。
石川の言っていた“組織”にでも雇われたのだろう。
一通り目を通して飯田はぬるくなったコーヒーを飲む。
実戦経験も豊富。能力もそこそこ高い。
相性がよかったのか、今のパートナーと組んでからは失敗も無く、
確実に仕事をこなしている。
関わったと思われる事件も確実な証拠があるわけではない。
状況証拠というやつだ。
読み終わった書類をバックに入れて、残っていたコーヒーを飲み干す。
(……二流だね)
うまくいってることに慢心したのか、半年ほど前から仕事が雑になっている。
ところかまわず襲うようになっているし、やり方も強引。
一流なら状況証拠どころか何の痕跡も残さない。
この職業でこれほど名前が売れていては長生きできない。
このまま手を出さなくても近いうちに自滅するだろう。
しかし、矢口と小川は怪我をした。
知り合いに手を出されて、黙っているわけにはいかない。
- 75 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 16:01
- 飯田は空になったコーヒーカップの底をぼんやりと眺める。
(それにしても……)
周囲の音、隣席の会話も店内にかかるBGMも、
意味のないノイズをフィルターに通したように消えていく。
(なぜ、あの写真を持っていた?)
調べてみたが廃校にいた組織とのつながりは見つからない。
里田があの場所に置いていったと考えるのが妥当だ。
ポラロイドカメラで撮られた写真の日付は、去年の夏だった。
存在するはずのない写真。
飯田は誰にも言わず、見つけた写真を持って帰っていた。
(もしかしたら……)
彼女はもういない。写真など撮ることはできないし、二度と会うことも無い。
理解はしているが心の奥底でそれを期待している自分がいる。
ふと顔を上げて陽の光のなかにある向かいの席を見た。
遠い昔のようにおぼろげな記憶。
今日のように晴れた日には、よく2人でオープンテラスでお茶をした。
自分はコーヒー。彼女は紅茶を。
周囲の風景は溶けたように判然としないが、彼女の顔だけは鮮明に
思い出すことができた。
- 76 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 16:01
- ――――
何のために戦うのか。
吸血鬼がこの世界に移住してから、すでに二千年。
自然に発生する通路から現れる妖獣による被害。
暗黒の力と禁断の知識を求め、条約を侵してむこう側の世界に
接触しようとする吸血鬼や人間。
絶え間なく続く戦い。倒れていく仲間達。
違う種である人類を守るために正体を隠して戦う、飯田のような吸血鬼。
そして、次第に進歩していく技術。
近い将来人類は吸血鬼の力を借りなくても、妖獣という脅威をコントロールする術を
手に入れるだろう。
そのとき、吸血鬼という種はどうなるのか。
人類から見てれば吸血鬼は難民のような存在だ。
むこうの世界での過酷な戦闘に疲れた吸血鬼は、安住の地を求めて移住した。
それを人類が受け入れたのは“妖獣”という眼前の脅威に対処するためでしかない。
脅威が脅威でなくなれば、その目は吸血鬼という異分子に向けられる。
- 77 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 16:02
- どれほど生物として優位に立っていても、数で劣る吸血鬼は弱い存在だ。
いずれ、力を持った人類に駆逐されるかもしれない。
その考えを安倍に話したことがあった。
黙って聞いていた安倍は、目の前で湯気を立てている紅茶を手に取った。
そして、一度軽く頷くと淀みなく答えた。
「確かに、そういう考え方もあると思う。
だからこそ、気がついてもらうしかない。
人間も吸血鬼も、同じ命を持つ対等な生物だってことに。
私たちが人間に手を貸しているのは、この世界に移住した対価としてじゃない。
それが、すぐ横にいる仲間のためだからってことに」
安倍は一度言葉を切ると、カップを口元に持っていく。
そして、飯田を真っ直ぐに見つめた。
「それに、私たちの関係は良くなってきてる。
私たちのことを公表することになったとしても、
いきなり“吸血鬼対人類”なんて構図にはならない。
歓迎してくれる人だっていっぱいいるよ!」
そう言って、誰もが微笑みたくなるような無邪気な笑顔を見せた。
- 78 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 16:02
- 何の苦労もなく、幸せな人生を歩んできたのではないかと錯覚させるほどの
無垢な表情。
しかし、仲間のために誰よりも危険な場所に真っ先に飛び込んでいく。
そんな安倍は誰からも好かれ、優しい目で見られていた。
すぐに汚れてしまいそうなほど真っ白で、
それでいて汚れなどに染まることなく跳ね返す。
そんな安倍に、飯田は尊敬と憧憬の念をもちながら、同時に嫉妬した。
- 79 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 16:03
- ――――
漂う白い雲が、一瞬だけ太陽をよぎる。
視線を落とした飯田は、沈鬱な表情で瞬きもしないでカップの底を見つめた。
飯田の心が鉛を呑んだように重苦しくなる。
(……ありえない)
沈んでいく自分の右手。手の中で何かが失われていく感触。
頭ではなく飯田の体に直接書き込まれたようなその記憶が、
淡い期待のすべてを否定している。
彼女はそれを望んでいた。
他に選択の余地などなかった。
(……違う!)
飯田は強く目を閉じた。
他にも選択肢はあった。自分の意志で選択した結果だった。
飯田の心の中を呵責が渦を巻く。
――安倍なつみ。かつての仲間。そして……。
- 80 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 16:03
- 「……さん! ……飯田さん!!」
肩を揺さぶられて慌てて顔を上げる。
飯田の横で、小川が心配げな表情みせていた。
「大丈夫ですか? さっきから呼んでたのに」
空を見ると陽が大分傾いている。
気がつかなかったが、ずいぶん長い間座っていたらしい。
客席の顔ぶれも全員変わっていた。
「飯田さん?」
小川が再び声を掛けてきた。
「ああ……大丈夫。ちょっと寝てた」
「目、開いてましたよ?」
小川は不審げに言って、飯田の向かいの席に座る。
- 81 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 16:03
- 自分のカップを取る小川の右手が、目に止まった。
左手はテーブルの下で見えない。
昨日の怪我を思い出して尋ねた。
「怪我、大丈夫だったの」
「はい! ぜんぜん平気ですよ! ほら」
飯田の言葉に慌てたように、テーブルの下から左手を出した。
左手を顔の横で振る。表情も、いつも以上に元気そうに見えた。
「良かった。小川まで入院したら大変だからね」
「……そうですね」
目を伏せた小川をみて飯田は内心、舌打ちした。
一緒にいた矢口が怪我をしたのに、気にしていないわけが無い。
小川はカラ元気を出して、いつものように振舞っていた。
飯田は簡単にだまされた自分に呆れた。
「矢口の怪我だってたいしたこと無いんでしょ?
電話じゃ『入院なんて必要ない!』って、わめいてたよ」
「そうですね。大量のSPを一気に通したせいで
体がついていかなかっただけって言ってましたし、
さっき会ったら『こんなとこに来るなら自分の怪我を治せ!』って
怒られました」
矢口の元気な姿を思い出したのか、小川の表情が少しだけやわらぐ。
飯田は空になったカップとバックを持つと立ち上がった。
「じゃあ圭織も怒られてくるか。小川も早く怪我直しなよ」
挨拶をする小川に軽く手を振って、飯田は病院に向かった。
- 82 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/26(土) 16:03
- ――――
- 83 名前:カシリ 投稿日:2005/02/26(土) 16:04
- 第3話の途中ですが、ここまでです。
>>63 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
小説読むのは好きだったのですが、頭にある映像を文章にするのは大変だと
つくづく感じています。
そして名前……。
気を付けていたつもりだったんですけど、教えて頂いてありがとうございます。
>>64 名無しファン 様
ありがとうございます。
雰囲気……暗いですね。
戦闘のない日常っぽい箇所になると、モニタの前で手が止まります。
なんとか頑張ります。
- 84 名前:カシリ 投稿日:2005/02/26(土) 16:05
- 前の分も含めて武器の説明します。
・SIG―P228
全長180mm、重量825g、装弾数13発。
正確な作動性と高い耐久性からFBIや
BATF(爆発物・アルコール・タバコ取締局)などで採用。
・フラッシュバン
スタン・グレネード(音響閃光弾)の事。
矢口が使ったのは、プラスチック製の容器の底に空けられた小さな穴から、
点火の圧力でアルミニウムの粒子を押し出すタイプ。
放出された粒子が一瞬で拡散して周囲に粒子の膜を作り、
アルミ粒子と空気中の酸素が結合します。
そして発火・燃焼することで音響パルスと閃光が作られます。一種の気化爆弾。
・M16
超有名なアサルトライフル。
TVでアメリカの兵士が持っている大きな銃。
・砂鉄の入ったグローブ
昔売ってるのを見たことがあります。
電柱を殴ったことはありません。
・9mmパラ
拳銃の弾。銃口速度342m/sec。
今回飯田が言っていた“5.56mm”はM16で使用される弾。
こっちの銃口速度は972m/sec。
理論的に銃弾の運動エネルギーは速度に大きく影響されます。
速度が2倍になると、運動エネルギーは4倍になります。
9mmパラに比べるとまったくの別物、と考えていいものです。
- 85 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:19
- ――――
- 86 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:19
- 飯田は八王子からの帰り道、皇居を右に見ながら車を走らせる。
すでに日は落ちて暗くなった道路に気をつけながら、バックミラーを確認する。
それほど混雑はしていない後方の道路に、見慣れない車が一台。
都内に入ったところからつけられている。
尾行にしては一台の車で後方に張り付いたまま、というのはおかしい。
黄色に変わった信号を、軽くアクセルを踏んで抜ける。
後ろの交差点でクラックションが鳴らされた。
飯田はアクセルを緩めてスピードを落としながら、再度後方を確認する。
(やっぱり来た)
交差点を無理やり通過した車は、一定の距離まで近づいたところで
スピードを落としていた。
- 87 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:19
- 昨日の廃校にいたメンバーで、安倍なつみに関係あるのは自分と矢口それに石川だ。
里田があの写真を誰かに見せようとして置いていったなら、
矢口と石川は外すことができる。
どこから情報が漏れたか知らないが、石川の存在は予想外だったはずだ。
そして、里田は矢口のことを知らないで襲ってる。
矢口が目的なら本人の顔ぐらいは知ってるはず。
車は二重橋を過ぎた。
皇居の中には大きな広場がある。
(……2人っきりで楽しめるってわけだ)
飯田の口元が、無意識に笑いを浮かべた。
- 88 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:20
- ――――
近くの駐車場に車を停めて、皇居前広場に向かった。
昼間の暖かい陽気も、太陽が沈むとまたたく間に変化する。
ときおり吹く冷たい風が飯田の頬を刺激した。
砂利を踏みしめる音に、飯田が振り返る。
暗い脇道抜けて、こちらに向かってくる人影が見えた。
一陣の風が吹いて、人影のコートをはためかせる。
広場に出てきた影を外灯が照らす。――里田まい。
「よっぽど自信があるんだ」
里田は笑いを含んだ余裕のある声で言った。
- 89 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:20
- 飯田まで10mほどの距離を開けて止まる。
この距離では一瞬で間合いに入るのは難しい。
まずは話し合いというところか。
飯田は里田を視線におさめながら周囲の気配を探る。
資料では三人組だった。何処かに隠れているはず。
「こんなに簡単に誘いに乗ってくるとは思わなかったよ」
「誰とでも、ってわけじゃないんだから」
飯田は茶化した調子で返す。
見えるところに気配は無い。
隠れられるところも近くには見当たらない。
- 90 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:20
- 遠くに立つ外灯が白い砂利を敷き詰めた広場を照らし、空に浮ぶ満月が
対峙する2人を照らしていた。
「あの写真はどういうこと?」
「やっぱり気になるんだ?」
里田は楽しげに言って片手で髪をかき上げる。
「あの写真を置いとけば、後で簡単に誘い出せると思ってさ。
あそこにいた人間だけ黙らせて写真を置いて、
時期がきたら接触しようと思ってた」
「殺すことは無かったんじゃない?」
凶暴な風に巻き込まれた枯葉のように教室に転がっていた死体。
飯田の脳裏に、あの場の映像が浮ぶ。
「アレはアレで依頼があってね。先に仕事を片付けたんだよ」
里田はそう言ってから、バツが悪そうな口調で続ける。
「ほんとはあの女……矢口だっけ? あいつとヤル気は無かったんだけど、
予定より早く来るから仕方なく……ね」
そう言って飯田に片目を瞑って見せた。
- 91 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:20
- 矢口に怪我を負わせた里田に憤りを覚えたが、
飯田は別のことを口にする。
「そう……仕方なく、辻にやられて逃げ出したんだ?」
煽るような口調を受けて里田の表情に、怒りと混乱が混じる。
「アレは人間……だよね? あんな攻撃みたこと無い」
「お前程度の実力で辻と戦って生きてるなんて、運がよかったな」
「……次は殺すよ」
里田の言葉に虚勢は無い。
言葉どうり次に会えば必ず襲うだろう。
飯田は黙って、怒りを見せつけるように里田を睨んだ。
- 92 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:21
- 「まあそれはいいとして。本題なんだけど、あんた仕事する気ない?」
里田は真剣な表情を作ると事務的な口調で提案した。
唐突に変わった会話に飯田は眉をひそめる。
「穴掘りでも手伝えって?」
「あれ? 知ってるんだ?」
「永続的な通路を作るって、ばかげた話だろ。そんなものできるわけがない。
お前も利用されてるだけだよ」
「ふふん。ちゃんと準備はできてる。自分の目で確かめたんだ。
あとはあんたの協力があれば成功する。どう? 報酬もでるけど?」
里田の口調には自信がにじみ出ているように感じる。
しかし、飯田は表情を変えない。
「欲しいモノなんかない」
飯田は交渉の余地が無いことを、相手に告げる。
話し合う気など無かった。捕まえて無理やりにでも
計画している“奴”と写真の事を聞くつもりだ。
- 93 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:21
- 予想していた答えだったのか、飯田の言葉を受けた里田は笑みを浮かべながら
コートのポケットに片手を入れた。
「会わせてあげる……“安倍なつみ”に」
里田の言葉が、飯田の全身を一瞬の衝撃となって駆け抜ける。
穏やかな水の流れが岩にぶつかり、水面を乱すような衝撃。
――安倍なつみ?
彼女は死んだ。疑う余地も無く、間違えるはずも無い。
彼女の傍らで、自分がそれを最も確実に確認できた。
「彼女は……死んだ」
「依頼を受けたら方法を教える。断れば、永遠に会えなくなる」
里田は自分に決定権があるかのように、確証に満ちた声で即答した。
- 94 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:21
- (ブラフだと分かっている。しかし……)
深く昏い海の底で、隠された真珠を抱えた貝のように、心の奥底に隠された儚い希望。
渇望と言ってもいいそれが、飯田の心を激しく揺さぶる。
(冷静になれ!)
飯田は自分を叱咤した。
激情は生命を奪う。迷いや怒りは判断力を鈍らせる。
戦闘になったときに冷静でいられるかどうかが、生死を分かつ境界線となる。
過去を調べた里田のはったり。
このまま里田に主導権を握られるわけにはいかない。
- 95 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:21
- 表面に現れようとする欲求を理性で抑え、決然と言い放つ。
「断る! 私は、私の周りの人間に危害を加えた
お前を信用しないし、許さない!」
里田はその言葉を聞いて口の端を歪め、笑った。
「じゃあこの話は無しで。
あんたの代わりは、そうだな……石川梨華にでも頼もうかな?
ついでに、お前はここで殺す」
飯田を見る瞳の色が、変化していく。
そして、里田の体が紅色の炎に包まれる。
――強大な妖気が、里田を覆う。
息をするのも辛くなるような妖気を受けて、飯田は肌が焼けるような錯覚を覚える。
里田はコートを翻して、腰の後ろに隠してあった刃渡り30cmほどの
大型のナイフを取り出した。
「最初から話し合いなんて必要ないって、思ってたんだ!」
右手のナイフを順手で握り、殺意を漲らせて飯田に迫る。
- 96 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:22
- 飯田は両手を軽く握って胸の高さまで上げ、
右足を引いて迎え撃つ。
飯田を射程距離に捕らえた里田が、一番近い左手首に向かって
ナイフを突き出した。
飯田は当たる直前に右手を伸ばす。
ナイフを持った里田の右手を、左足を踏み込むと同時に外側に流し、
側面に入ると脇腹に左拳を打ち込む。
里田は外された勢いを殺さずに、前転して避けた。
回転して止まると背中を向けたまま、右手のナイフを自分の肩越しに投擲する。
間を置かず後方に飛んで空中で身を捻った。
- 97 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:22
- 高速で回転している刃が光を受け、銀光を煌かせたナイフが飯田の胸に迫る。
その重量と回転速度で切っ先だろうが柄の部分だろうが、
ナイフのどこが当たっても致命傷になる。
飯田は高速で回転するナイフの柄を、あっさり右手で掴んだ。
続いて頭部を狙った左からの飛び蹴りを、左腕を上げてガードする。
骨が軋むほどの衝撃。
右手に持ったナイフで、受け止めた里田の右足を切りつける。
空中で横倒しの姿勢から蹴りを放った里田は、左手を先に地面についた。
切りつけられた右足をすばやく下ろすと同時に、
下から薙ぐように左足で顎を狙った蹴りを出す。
飯田が顔を上げ、蹴りを数ミリの差で避けたのを見て、
蹴った勢いを利用して片手で逆立ちの状態になる。
- 98 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:22
- 触れただけで切れそうな蹴りを紙一重で避けた飯田は、
後ろに重心が崩れた状態で、逆立ちになり無防備になった里田の脇腹に
回し蹴りを放った。
里田は片手で飛び上がると蹴りを両腕でガードする。
蹴りの威力で里田は横に吹き飛んでいった。
受身を取った里田を追いかけ、背中を向けてしゃがんだ姿勢の
ところにもう一度蹴りを出す。
しかし、当たる直前に蹴りを止めた。
飯田は後ろに退きながら、持っていたナイフを里田の背に投げつける。
里田はしゃがんだまま体の向きを変えた。
金属同士がぶつかる甲高い音と共にナイフは弾かれた。
「ざ〜んねん」
里田は両手を下げて飯田の正面に立つ。
その右手に銀色に輝く金属。隠し持ったもう一本のナイフを握っていた。
- 99 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:23
- 脛の付近が切り裂かれたズボンから素足が見える。
赤いミミズ腫れのような跡が見えたが、すぐに赤みが取れてわからなくなった。
障壁によって切れ味が鈍ったナイフは、里田の足を切断することが出来なかった。
飯田は再び構える。
「そろそろ“障壁”出した方がいいんじゃない?」
里田はナイフを逆手に持って前に突き出し、右足を引いて
低い姿勢で構える。
「その程度じゃ、本気にはなれないね」
相手の怒りを誘うためわざと嘲るように言った。
言葉どうり本気ではなかったが、それは里田も一緒だろう。
- 100 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:23
- 障壁同士がぶつかれば、当たった部分の障壁は相殺される。
吸血鬼同士の戦闘の場合、互いに障壁を出して相殺しながら、
自らの持っている身体能力を使って戦う。
飯田が“障壁”を作れば、ナイフの切れ味が落ちることも無く、
里田の足を切断できた。
しかし、飯田には障壁が作れない理由があった。
「あんま余裕見せてると、死ぬよ」
里田が低い姿勢のまま飯田の間合いに入ろうとする。
飯田はひきつけてから、タイミングをずらすように一歩前に出て左でジャブを出す。 里田は上体を振ってかわしつつ、伸ばした腕を切りつけた。
飯田は高速で腕を戻して避け、右のフックを放った。
しかし里田に当たる前に、戻す。
- 101 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:23
- 里田は持っているナイフで、飯田の拳を迎え撃とうとしていた。
持ったナイフでガードされれば、攻撃した飯田が傷を負うことになる。
飯田は攻撃するとナイフを合わせられるため、積極的に攻撃せず、防御に徹した。
ナイフを盾に拳と蹴りで攻撃してくる攻撃を受け、
時々振るわれるナイフを逸らしながら機会を待つ。
里田の攻撃速度が上がる。
フェイントをかけながら、的確に急所を狙い連続で攻撃する。
本命は飯田の注意が向いているナイフではなく、拳と蹴りだ。
しかし流水に浮ぶ葉が岩を避けるように、
飯田は逆らうことなく受け流していく。
防御に徹している飯田に致命傷を与えられない里田の動きが、
次第に大きく、単調になっていく。
- 102 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:23
- ナイフを使っての攻撃が多くなってきた。
冷静に攻撃を受ける飯田には、相手の焦りが感じ取れた。
(……そろそろ)
里田のナイフが不用意に大きく横に振られた。
飯田は僅かに上体を逸らしてかわし、足の先を砂利の中に突っ込む。
そしてつま先だけで砂利を跳ね上げた。
跳ね上がった砂利が里田の顔に飛礫となって襲い掛かかる。
顔に向かう砂利を嫌がり、里田は後ろに下がって体勢を立て直そうとした。
飯田はすばやく踏み込んで、ナイフを持った里田の右手を両手で包む。
右の踵で足を払いながら手首を外に捻った。小手返し。
空中で一回転してうつ伏せに倒れた里田の手首の関節を外す。
さらに腕を捻り肩の関節を極めて、腰の少し上に膝を乗せる。
里田の手を離れたナイフが砂利の上に落ちた。
- 103 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:24
- 「チェックメイト」
障壁は打撃や銃弾を含む投擲物には有効だが、体を掴めなくなるわけではない。
強力な障壁を持つ吸血鬼にも、間接技は有効な攻撃方法だ。
「さてと、いろいろ話してもらうこともあるし、一緒に来てもらおうかな」
飯田はポケットから片手で手錠を取り出すと、極めている腕に掛けた。
手錠には強大な膂力を持つ吸血鬼でも破壊できない強度と、
完全ではないが、生体エネルギーのSPへの変換を阻害する特殊な加工がしてある。
里田程度の吸血鬼なら、障壁は出せなくなるはずだ。
「ほら、そっちの腕」
「……やるね。さすがHPの“元”エース」
里田は地面に顔をつけたまま、横目で飯田を睨む。
その表情に悔しさはない。
「“元”ってのが気になるけど、あんたも良くやったよ」
飯田は持っている腕に僅かに力を入れ肩を外す。
鈍い音がして、持っている腕から力が抜けた。
- 104 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:24
- 里田の喉からくぐもった苦痛の声が上がる。
「片方でもいいや。さっさと立て」
飯田は立ち上がると関節の外れた腕を引張って、
里田の体を立たせようとする。
――そのとき、広場を悲鳴が切り裂いた。
飯田は反射的に“はっ”となって、声の方向を見た。
飯田の注意が一瞬逸れる。一秒にも満たない心の空白。
普段の飯田ならありえない行為。
しかし、里田を捕らえた安堵感がその行動を許した。
- 105 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:24
- 悲鳴と同時に右肩に軽い衝撃を受けた。
視線を落とすと、肩を細長い棒が貫いている。
「余裕見せすぎ」
腕を振り解いて立ち上がった里田は、
低い姿勢から左足を飯田の股下に踏み込み、打ち上げるように左の拳を叩き込む。
鳩尾への強烈な一撃で、飯田の足が地面から一瞬離れた。
すぐに地面に落ちているナイフを拾って、飯田の喉を一閃する。
(よけられない!)
内臓を直接殴られたような衝撃で、上体が前に折れる。
視界の隅で銀光を捕らえた。
なんとか右腕を持ち上げて受ける。
肉を切り裂いたナイフが骨に達した瞬間、腕を捻って切れ味を鈍らせる。
ナイフは飯田の骨で止まった。
飯田は空いている左手で喉を狙って貫手を出す。
里田はナイフを握っていた手を離して、後ろに大きく距離を取って攻撃をかわした。
- 106 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:24
- 飯田は離れた里田の動きに注意を向けながら、刺さっている矢に“返し”が
無いのを確かめて、力任せに引き抜き地面に捨てる。
(クロスボウ?)
先端の抜けた矢の角度と受けた衝撃から判断して100m以上離れた石垣の上、
植え込みの中から放たれた物だ。
矢を抜いた振動で腕の骨まで達していたナイフが、支えを失って落ちた。
外気に晒された傷口が鋭い痛みを発する。
飯田は傷口周辺の血流を制御して出血量を抑えた。
しかし、完全には制御できずに、骨まで達した切り口から血が流れ出す。
心臓の鼓動に合わせて鋭い痛みが走る。
平静を装うために表情を作ろうとしたがうまくいかなかった。
飯田の顔が苦痛に歪む。
- 107 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:25
- 傷口から流れた血が飯田の指先から滴り落ちて、
砂利の上に赤いしみを作っていく。
「傷の回復もないし、血流の操作もうまくいかない……」
里田は言いながら、左手で自分の右手首を捻る。
嫌な音がした。
「血を飲まないってのは、本当みたいだね」
外れた手首を自分で直し、里田は心底楽しそうに言った。
- 108 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:25
- 定期的に血液を飲んでいる吸血鬼は生体エネルギーを増加させ、
任意の場所で血流量を制御できる。
しかし飯田は長い間、血液を摂っていなかった。
通常の食物でも体を維持することは出来る。
しかし、生体エネルギーは最低限度に抑えられているため、
SPに変換して障壁を作ることは出来なくなっていた。
そして、治癒能力も格段に低下していた。
里田は下がったままの自分の右腕を見る。
「とりあえず痛み分けって事で、今日は終わりにしない?」
「助けが来たんだ、これからが楽しいところだろ?」
瞳の色も黒く戻り、これ以上戦う意思の無い里田に飯田はゆっくりと歩み寄る。
- 109 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:26
- 飯田は、腹に受けた攻撃と腕からの出血で立っているのも辛い状態だ。
しかし、肩を外された里田の腕は動かない。
肩を入れるために動けば、その隙にもう一度捕まえて里田を盾に、
矢を防ぎつつ撤退する。
里田を捕らえられる距離まで飯田が進む。
あと一歩というところで、里田が後ろに下がった。
「最近、物騒だから早く帰んないと」
「物騒なのはお前だろ?」
飯田が進んだ分だけ里田が下がる。両者の距離は変わらない。
矢による攻撃を警戒しつつ、さらに里田に近づく。
里田は数歩下がると、背中を向けて走り出した。
(逃がすか!)
追おうとした飯田は踏みとどまって体を右に捌く。
闇の中から飛来した矢が、飯田の横を通り過ぎる。
連続して放たれる矢を飯田は最小限の動きで避けた。
矢は飯田の足を止めるように10本近く放たれた後、
最初の一本と同じように予告も無く、止んだ。
飯田は広場を見渡す。
里田の姿はすでに無く、悲鳴を上げた女の姿も無かった。
- 110 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:26
- ――――
飯田は早足で歩きながら、コートを引き裂いて傷口の上部を固く結ぶ。
残った部分を傷口に巻きつけた。
地下駐車場に停めてあった車に乗り込みエンジンを掛ける。
車を発進させずに座ったまま、灰色の車路を眺める。
(“元”って言われても仕方ないか……)
里田を目の前にして捕らえられなかった怒りと無力感、そして微かな疑念。
通路を作るためには誰でもかまわないようなことを言っていながら、
本気で命を狙ったようには思えない。
里田の仲間がいた以上、あのまま戦っても自分が助かる可能性は低かった。
しかし、里田はあっさりと撤退した。
なにか、通路を作ることとは別に、自分を狙う理由があるのか。
飯田は目を閉じて頭を振った。
(情報が少ない、判断するのは危険だ)
ハンドルを持った両手を強く握り締めるとアクセルを強く踏み込んだ。
- 111 名前:2人でお茶を 投稿日:2005/02/27(日) 16:27
- ――――
- 112 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/01(火) 09:35
- 迫力あって引き込まれるな〜。
続きを楽しみにしてます。
- 113 名前:名無しファン 投稿日:2005/03/02(水) 17:15
- 更新お疲れ様です!
やっぱ飯田さんはかっこいいな〜
これからどうなるのか……とても楽しみです。
次回も楽しみにしてます!
- 114 名前:追憶 投稿日:2005/03/05(土) 23:57
- 黒い背景の中を、ゆっくりと二組のリボンが動いている。
変数によって制御された存在。
しかし四角い檻に囚われた小鳥のように、それは自由に飛び回っていた。
飯田は目の前に置かれたパソコンの画面を眺めていた。
スクリーンセーバーが作り出す光の強弱が、照明の消えた部屋を
気まぐれに演出している。
事務所の奥にあるソファーでは辻が寝ていた。
飯田の怪我をみて大騒ぎしながら傷の手当てをしたあと、いつのまにか眠っていた。
包帯の巻かれた右腕を擦る。
右腕の傷に痛みは無い。血流を最低限に抑えているため
痺れたように無感覚になっている。
このまま動かさなければ数日で完治するが、そんな時間は無い。
飯田は立ち上がって窓際に立った。
窓を開けると、入ってきた風に飯田の長い髪が微かに揺れる。
そこから見えるのは、月光に照らされた桜の木。
傍らには茶色いレンガで囲まれた、小さな花壇。
月明かり背に受けて、飯田は窓枠に腰掛ける。
窓から入る微かな光が、眠っているの辻の横顔を仄かに浮かび上がらせた。
- 115 名前:追憶 投稿日:2005/03/05(土) 23:57
- 第4話
追憶
- 116 名前:追憶 投稿日:2005/03/05(土) 23:57
- ――――
4年前、飯田はつんく直属の部隊に所属していた。
HPは巨大な力を持つ妖獣や能力者を相手にし、吸血鬼を取り締まる。
そのためには仲間はもちろん、関係機関の協力が不可欠だ。
安倍を失った直後だった飯田は、そうすれば心にある喪失と空虚を
忘れられるかのように、ただ無心に仕事に打ち込んでいた。
そして何かに追い立てられるように、応援も呼ばずに独り妖獣を狩り、
条約破りを処分していた。
- 117 名前:追憶 投稿日:2005/03/05(土) 23:58
- 連絡を受けたとき、飯田はHP本部にある研究所にいた。
時刻は早朝だったが、時間と切り離されたような室内を浩々と照明が照らしている。
銀色の棚がいくつも置かれ、部屋を周りを囲むように設置してある機械が、
低い振動音を響かせていた。
部屋の真ん中の、円形の机の上には小さな金属。
飯田と同じ部隊に所属していた紺野あさ美、保田圭の3人は、机の上の物体に視線を注いでいた。
飯田は置かれている金属――細長い弾丸を手に取り、光にかざすように天井に向ける。
「ほんとにこんなもの効くの?」
飯田は疑わしげに聞いた。
白衣を着た保田が、ポケットに両手を入れたまま飯田を睨む。
「従来の技術だとナイフとかグローブなんかの武器、
つまり直接身に付けた状態じゃないと、障壁の無効化はできなかった。
けど、この銃弾に施された技術は使用者の手を離れても
障壁無効化能力を失わない。
“付与”の能力ほどじゃないとしても、
これを使用すれば普通の人間が拳銃で撃たれたのと同じように、
奴らの皮膚を貫通することができる」
保田の口調には、開発した物に対する自信があふれている。
金属で覆われた外観は、普通の弾と変わらない。
飯田は手に持った弾を角度を変えて眺めてみた。
- 118 名前:追憶 投稿日:2005/03/05(土) 23:58
- 飯田は弾を紺野に渡した。
紺野は渡された弾を、右手につけた黒い革のフィンガーレスグラブの上に乗せる。
そして、手の平の上で転がした。
「吸血鬼の皮膚の防弾能力はNIJの基準に従うとTYPE V-A、
つまり全てのハンドガンから発射される弾を防ぎます。
これに障壁が加わるとTYPE Wより上。
ライフルから放たれる徹甲弾も防ぎます」
紺野は弾を机の上に置き、飯田に顔を向ける。
「確かにこの弾を使えば“付与”の能力が無くても、
吸血鬼にある程度ダメージを与えられるかもしれません。
クリティカルな部位に当てられれば、今までのように牽制ではなく
これ自体で、目標を停止させることも可能でしょう」
向かい側に座っている保田は、満足そうに何度も頷く。
飯田は紺野を見ながら、確認するように尋ねた。
「でも、ヒットするのは難しいでしょ?」
「それは個々の射手によりますが……難しいですね。
高速で動く吸血鬼に当てるだけでも大変ですから」
「射撃の要素は3つ、“力・正確さ・速さ”。
私が担当しているのは力、つまり吸血鬼を倒すだけの
パワーを与えること。それは担当じゃない」
保田はポケットから手を出して弾丸を掴んだ。
自分の目の前で、掲げるように持ち上げる。
「この弾の出現で、対吸血鬼戦は劇的に変化する!」
3ヶ月前から血を摂っていない飯田は、すでに障壁を作れなくなっていた。
しかし、障壁を作れないだけで、身体能力は人間を遥かに凌駕している。
その動きは、普通の人間の反射神経で捕らえられるものではない。
飯田が銃器に脅威を感じることは無かった。
「ちょっとだけルールが変更されるだけじゃない?」
保田が何か反論しようと口を開くと同時に、壁の電話が鳴り出した。
- 119 名前:追憶 投稿日:2005/03/05(土) 23:58
- しばらく話していた保田が受話器を置いて飯田に向き直る。
「ねえ。奥多摩に向かって欲しいってさ」
「妖獣?」
飯田は、腰を浮かせた。
「違う。“魔薬師”の集落と、連絡が取れなくなったみたい」
「魔薬師って、あの怪しい薬を作ってる人たちですか?」
椅子に座りながら保田に振り向き、紺野がうさん臭そうに聞いた。
「あそこの薬はすごいよ。個人に合わせて調合された薬は
特殊能力を倍加させる。しかもメカニズムがわからない。
……いずれは解明するけどね」
保田は自信ありげに微笑んだ。
「あそこは護衛が常駐しているから、万が一ってことも無いだろうけど、
念のためってことでしょ」
「じゃあ圭織がいかなくても、誰か他の人に行ってもらってよ」
対障壁処理は物理的に施されるわけではない。
しかし弾道特性と射弾散布域に違いが出る可能性があるため、
テストが行われることになっていた。
射撃自体は紺野が行うことになっていたが、
どれほどの効果があるのか自分で確かめたかった。
電話の内容を伝えただけの保田は、少し不機嫌な表情で飯田を見る。
飯田は保田から視線を外して椅子に座り直した。
「いいじゃないですか、飯田さん」
紺野が割って入った。
「テストは私がやっておきますから、ドライブだと思って行ってきてください」
「でも……」
「飯田さん銃撃たないし、ここにいてもやることないですよ?
結果は後で直接知らせますから」
紺野は飯田の背中を押して部屋の外へ出し、部屋の鍵を掛けてしまった。
閉まった扉を前に、飯田は溜め息をついた。
- 120 名前:追憶 投稿日:2005/03/05(土) 23:58
- ――――
緑の山々を貫く曲がりくねった山道を抜けて、車を走らせる。
見えるのは両側に続く緑の壁。
フロントガラスを通して見る木々が、緑の帯のようにつながって見えた。
飯田の視界に集落が見えてきた。
まだ起きたばかりの太陽が山々の間、僅かに開けた盆地に
そのあたたかい腕を広げはじめている。
緑に囲まれた集落は、疎らに立つ家屋と田園があるだけの質素なものだった。
しかし、集落に到着すると、すぐに異変に気が付いた。
――人がいない。
人口はそれほど多くは無いはずだが、集落に入ってから誰にも出会わない。
集落にはHPから派遣された能力者が護衛に付いていた。
たとえ吸血鬼が襲ってきても、簡単にはやられない。
本部もそう思ったから、飯田を1人で派遣したはずだ。
飯田は携帯で本部に連絡を入れるか迷ったが、先に魔薬師の長の家に向かった。
- 121 名前:追憶 投稿日:2005/03/05(土) 23:59
- 目的の家はすぐに見えてきた。
しかし、かろうじて残っている屋根とそれを支える黒く焼けた柱。
瓦葺の大きな家は、ただの大きな黒い塊と化していた。
ここに来るまで生きている人間には会っていない。
なかば諦めながらも、飯田は車を降りて慎重に家の裏側に向かった。
角を曲がって最初に見えたのは、雲ひとつ無い青空と陽の光を浴びて
緑に輝いている遠くの山々。
そして、異様な光景だった。
広い裏庭はまるで爆撃でも受けたように、周囲の密生した林がなぎ倒されている。
裏庭は大きく、すり鉢上にえぐられていた。
その中心に元は人間だったと思われる、消し炭のような黒い塊が積み重なっていた。
そして、1人の少女が座っていた。
飯田と変わらない、年の若い女性を膝に乗せている。
顔を上げた視線の先は、焼け落ちた家屋の方を見て動かない。
膝に乗せた女性の片足は切断されている。
そこから流れ出た血で、少女の座る地面には小さな赤黒い湖が出来ていた。
「ねえ! 大丈夫! なにがあったの?」
飯田が駆け寄ってかけた言葉にも、少女は何の反応もしなかった。
右手に握った布製の小さな袋を握り締めたまま、身動きもしない。
前に回って見た少女は、泣いているわけでも怒っているわけでもなく、
空ろな瞳を焼け落ちた家屋に向けていた。
そして少女の瞳を覗いた途端、飯田は息を飲んだ。
安倍を失い部屋に閉じこもっているときに見た、鏡のなかの自分の瞳。
同じものを、そこに見つけた。
- 122 名前:追憶 投稿日:2005/03/05(土) 23:59
- ――――
集落の生き残りは少女――辻希美だけだった。
関わった事件だから、という理由で飯田は何度か病室に行った。
しかし飯田がいくら話し掛けても、ぼんやりと壁の方を見ている。
辻は感情が抜け落ちたような顔で、飯田を見ようともしなかった。
そして何度目かの見舞いの時に、飯田は気が付いた。
あの集落で初めて会ったときの顔。
辻はそれ以外の表情を、飯田に見せていなかった。
それに気が付いてから、飯田は時間が許す限り病室に顔を出すようになった。
悲しみでも怒りでも、何でもいい。
辻の感情が見たかった。
周囲のすべてがモノクロに変わったように感じたあの時。
感情の全てが無くなったように感じたあの時。
飯田は昔の自分を思い出し、辻にその姿を重ねた。
- 123 名前:追憶 投稿日:2005/03/05(土) 23:59
- それでも、飯田が1人で話をするのが続いていたある日。
その日も辻は壁の方を見ていたが、飯田は1人で話に夢中になっていた。
「それでね、こ〜んな大きい……」
大きく両手を伸ばしたとき、ベッド脇の小さなテーブルに置いてあった花瓶に肘が当たった。
慌てて床に転がった花瓶を拾い頭を上げる。
飯田はテーブルの角に頭をぶつけた。病室に盛大な音が響く。
頭を押さえながら顔を上げた。
そして、そのまま動きが止まった。
突然の音に驚いたような表情。
辻の視線が飯田に向けられていた。
「……大丈夫、ですか?」
そう言って、辻は小さく笑った。
- 124 名前:追憶 投稿日:2005/03/05(土) 23:59
- それがきっかけになった。
それからは病室に入ってきた飯田に顔を向けるようになり、退院するころには
普通に会話もするようになった。
家族を含む知り合いの人間が一夜にしていなくなり、その犯人もわからない。
少女を襲った悲劇。想像もできないほど深く、底の見えない傷。
乗り越えるのは簡単なことではない。
――そして、初めて見たときの彼女の瞳。
飯田は1ヶ月後に退院した辻を、引き取った。
- 125 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:00
- ――――
事件から3ヶ月がたった夜。
夜遅く、飯田はふと目を覚ました。
横を見ると、隣のベッドで寝ていた辻の姿が無い。
最近は少なくなったが、ときどき辻は1人きりで椅子に座り、
ぼんやりと宙を見ていることが多かった。
飯田はなんとなく不安になって、辻を探すため寝室を出た。
隣室のリビングに入ると、眩いばかりの月光が窓から差し込んでいる。
カーテンを閉めるため窓に近づくと、下にある公園が見えた。
植えられている木々の中でもひと際目立つ大きな桜の木。
緑の葉を付けたその木の下に、辻の姿を見つけた。
- 126 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:00
- 飯田は公園に下りると、辻の傍らに立った。
飯田が来たことに気が付いているはずだが、辻の視線は晴れた夜空に浮ぶ
真円の月に注がれたまま動かない。
何も言わない辻の横に、飯田は黙って腰をおろした。
カラリとした心地よい風に吹かれ、覆い被さるように伸びた桜の枝が揺れる。
飯田の髪が微かに揺れ動いた。
「……あの日は姉の誕生日で、家族がみんな集まることになってました」
黙っていた辻は、空を見ながら静かに話し出した。
「久しぶりにみんな集まって姉の誕生を祝うのが、
私は嬉しくてしょうがなかった」
辻は思い出したように頬をほころばせる。
「たまには喧嘩もしましたけど、姉はやさしかった。
私が怒られていると、いつもかばってくれた。
もちろん他の家族も親戚も、みんなやさしくて好きだった」
飯田は顔を上げて、視線を辻の見ている空に向けた。
雲ひとつない夜空から、鮮やかな黄色い月の光が降り注いでいた。
昼間は行き交う人々と近くの道路を走る車の音でにぎやかなこの場所も、
この時間では通る人も車もない。
静かに話す辻の声だけが、飯田の耳に届いていた。
- 127 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:00
- しばらく間を置いてから、辻がつぶやくように言った。
「ときどき考えるんです」
その真剣な口調に、飯田は横にいる辻に顔を向けた。
辻の背後には茶色のレンガで造られた歩道と、歩道の両脇に立ち並ぶ木々が
暗い回廊のように続いている。
「一本しか当たりの無いくじを引いて、私は当たりを引いた。
姉は死に、私は生き残った。
生き残った私に出来ることはなんだろうって」
辻は一度言葉を切り、再び続ける。
「生き残った幸運に感謝して、姉の分まで精一杯生きること。
それもわかります」
辻は視線を落とし、自分の足元を見た。
「犯人を見つけて償いをさせること……そういうのも、ありだと思います」
「……復讐でも、考えてるの?」
黙って聞いていた飯田は、辻の言葉を受けて尋ねた。
辻は目を閉じるとゆっくりと首を振る。
「本当はこれからの事も、犯人の事もどうでもいい」
溜め息と共にそう言って目を開けた。
辻は目の前の虚空を見つめるように、正面を見据えた。
「怖いんです」
「なにが?」
「笑っている自分が」
やさしく問い掛けた飯田の声を受けて、辻はそう言った。
そして、自嘲気味に笑いを浮かべた。
「他の人と話している時、TVを見ている時。
ふと笑っている自分に気がつく時があるんです。
姉の事も死んだみんなの事も忘れて、笑ってる自分に」
飯田はそう言った辻の横顔に、微妙な均衡の元に存在を保っているような危うさを感じた。
- 128 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:01
- 辻の表情から笑いが消える。
「時間が経ってあの日の記憶が他の記憶と一緒に整理されていく。
心の奥に仕舞い込まれて、ただの辛い思い出の一つに変わっていくんです。
姉のこと、忘れたいわけじゃない。本当ですよ?
でも、だんだんと思い出す時間が少なくなって、
なにもなかったように笑っている自分が、怖いんです……」
辻は怯えたように目を伏せた。
「死んだ人間のことは少しずつ忘れていく。それが自然なことなんだよ。
辻が前のように元気に笑って生きるようになっても、お姉さんは恨んだりしない」
飯田は、今の辻にどのような言葉をかけても、納得することはないとわかっていた。
大切な人を失って開いた大きな心の穴が消えることは無い。
しかし、時間と共にその存在に慣れる。
他のものが積み上げられ見えないように隠される。
そして時が経つことで、積み上げられたたくさんのガラクタの隙間から
偶然見えた穴を、冷静に見ることが出来る。
どれほど深い悲しみも、時間と14才の生命力には勝てない。
飯田はそう、思っていた。
- 129 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:01
- 辻は潤んだ瞳で飯田を真っ直ぐに見つめた。
「そんなのイヤなんです!」
悲鳴にも似た辻の声と不安に揺れ動く瞳に、飯田は掛ける言葉を失った。
「自分でわからなくなるんです!
辻希美は、本当に姉のことを好きだったのかって!」
辻はそう言うと飯田の肩に顔を埋めた。
虫の鳴き声も聞こえない静寂の中で、辻の声だけが飯田の耳に響く。
「私は姉のことが好きだった。それを自分に証明できないのが……怖いんです」
飯田は泣き始めた辻の肩をやさしく抱く。
震える辻の小さな体は、僅かな力でも消えてしまいそうなほど儚げだった。
辻は嗚咽の声と共に、何度も繰り返した。
「……怖いんです」
乾いた風が吹き抜ける。
冴え渡る月輪に影を引いて立つ桜の下で、
飯田は無言のまま、いつまでも泣き続ける辻の肩を抱いていた。
- 130 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:01
- ――それから、3日後。
辻は自分の誕生日に、再び病院に運ばれた。
- 131 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:02
- ――――
強い風が吹き、飯田の髪を乱す。
飯田は目を開けて、窓枠から降りると静かに窓を閉める。
部屋には静寂が落ちていた。
飯田の顔を、僅かな明かりが照らす。
モニタの中では、相変わらずリボンが飛び交っている。
そして、ソファーに寝ている辻の姿がぼんやりと見えた。
- 132 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:02
- 初めて見たときに辻が握っていた小さな袋。
あのなかに入っていた特殊な薬草を、辻は飯田が引き取る前に飲んでいた。
そして薬草と彼女に流れる一族の血が混ざることで、営々として築いてきた
先人達の記憶が継承された。
その薬草は、一族以外の者が飲んでも何の効果もない。
漢方でいう“隠丹法”紺野はそう言っていた。
『それだけでは何の薬効もない実を特定の動物、
たとえば遠く離れた山に生息する小さな鳥に食べさせる。
それだけを食べさせて育てた鳥を殺し、その小さな心臓を煎じる。
すると特定の疾病に劇的に作用する薬が出来上がる。
他の山に生息する同じ種類の鳥ではだめで、
その山の鳥だけがその実を食べたときに、薬効のある薬に変化する。
ある条件を満たさなければ、薬効を生じない。
そういったものが、漢方には存在します』
記憶の継承。
物理的にありえない現象。
しかし、辻の一族はそれを可能にした。
見知らぬ草や実、そして動物や昆虫。
ありとあらゆる物を服用し、その効果を確かめる。
そして無限に存在する、それらの組み合わせを試す。
ときには猛毒を持った物もあったはず。命を落とした者も数知れない。
それでも辻の一族は続けた。
気が遠くなるような試行錯誤の末に、集められた膨大な事例。
明確な理論もない遥か昔から続けられた、壮大な帰納法。
あの夜、彼女の小さな体のなかには無数の犠牲の上に存在する一族の記憶があった。
- 133 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:02
- ――――
飯田は立ったままマウスを操作してスクリーンセイバーを切る。
戻った画面の眩しい光に目を細めた。
メールを確認する。
何件かのHPからの業務連絡のなかに、新垣からのメールがきていた。
今日は紺野のところに泊まるらしい。
紺野と一緒に住んでいる中澤に、稽古をつけられている新垣の姿を思い描いて
微かに口元を和らげる。
HPからのメールを削除すると、飯田はパソコンの電源を切った。
僅かな時間で光に慣れた目が、窓からの月明かりだけが照らす部屋の中を暗闇に見せる。
飯田は何かを見通すように、その暗闇を凝視した。
- 134 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:02
- 誕生日の日、辻は持っていた知識を使って、自ら作り上げた薬を飲んだ。
辻が飲んだ薬は殺したい者を一心に願って飲んだ者に、
魔神が乗り移るといわれる魔薬師の秘薬。
――それは、辻に力を与えた。
特殊能力が無い普通の人間の辻に、吸血鬼をも捻じ伏せる力を与えた。
しかし、その薬には2つの代償が必要だった。
- 135 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:03
- ――代償の一つは、過去と現在。
飲んだ者の人格を2つに分ける。
復讐を誓った本来の人格と、幼い頃の人格。
普段は幼い――10才頃の人格が思考し行動する。
その人格は、どれだけ体が成長しても精神が成長しない。
本来、知識を蓄えて経験を積み、物事の本質を理解する精神の成長。それが停滞する。
どれだけ知識が蓄えられても、どれだけ経験を積んでも、
幼い人格の精神は成長することがない。
そして戦闘の気配を感じたときだけ、本来の人格が体を支配する。
精神の檻から解き放たれて眼前の敵と戦い、それが終われば、再び精神の檻に閉じ込められる。
過去の自分を捨て現在の自分を削りながら、ただ戦いのなかで生きる。
- 136 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:03
- ――二つ目の代償は、自分の未来。
願いがかなったその瞬間、薬の効果は終わりを告げる。
魔神の力と共に本来の人格は消滅し、幼い人格の停滞していた精神は成長を始める。
消滅する本来の人格と、魔人に願った復讐の記憶を失い自分が何をしたかも知らずに
成長を始める幼い人格。
すべてが終わった後、これからの始まるはずだった未来を魔神に捧げる。
それが、代償だった。
- 137 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:03
- ――――
飯田は足音を立てないように、机を離れた。
暗闇に慣れた目が、安らかな寝顔を見せて眠る辻を再び映し出す。
4年が経ったいまでも、辻の願いは適っていない。
1つの集落を一夜にして消し去った吸血鬼。
魔薬師の集落を襲った犯人は、見つかっていない。
辻は秘薬を飲み力を得た。
過去も現在も未来も、全てを捨てて獲得した無意味で強大な力。
辻は自分自身に証明するつもりだ。
自分が失った人たちが、どれほど大切だったかを。
- 138 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:03
- 飯田は眠っている辻を起こさないように傍らに座った。
薄い月光が差し込む部屋の中は、辻の微かな寝息以外何も聞こえない。
飯田は横で眠る辻に左手を伸ばした。
そして辻の髪に、そっと触れる。
辻が薬を飲み意識を失って病院に運ばれた後、飯田のもとに手紙が届いた。
消印は薬を飲んだ日付。
手紙に書かれていたのは、薬の効果と二つの代償。
そして手紙の最後には、辻の勝手な願い。
――私に力を貸して下さい。
辻が全てを捨てて、欲した願い。
あの夜、辻の思いは心のなかに蓄積されていた。
これ以上積もれば破滅をもたらしかねない所まできていた。
それに気がつくことが出来なかった自分への戒め。
飯田は一線から退き、つんくのチームから抜けた。
そして、辻と共に生活を始めた。
- 139 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:04
- 「いいらさん……?」
辻がゆっくりと目を開けた。
飯田を案じるように、真っ直ぐに飯田を見つめる。
「きず、痛むれすか?」
「大丈夫だよ。圭織もそろそろ寝ようかな」
飯田は微笑んで、縫ったばかりの右手を伸ばした。
横になったままの辻の頭をやさしく撫でる。
血流を操作している手に感覚はない。
それでも、温かいものを感じることができるような気がした。
- 140 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:04
- ――――
- 141 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:04
- >>112 名無飼育さん 様
戦闘シーンを書きたくて始めた小説なので、
そう言ってもらえると嬉しいです。
ありがとうございます。
>>113 名無ファンさん 様
ありがとうございます。
個々の戦闘シーンは脳内にあるのですが、
それを使ってどうやってストーリを作るか悩んでいます。
何とか一週間に一度くらいで更新したいと思います。
- 142 名前:追憶 投稿日:2005/03/06(日) 00:05
- 短いですが用語の説明をします。
・NIJ
米国司法省の研究機関。防弾性能の目安を作ったところ。
防弾性能は7種類に分かれていて、それぞれ防げる弾丸が違います。
・漢方でいう隠丹法
昔なにかの本で読んだことがあります。
本当にあるかどうかは、分かりません。
- 143 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/06(日) 19:20
- 面白い!
これから登場人物も増えていくのかな?続きが楽しみです
- 144 名前:名無しファン 投稿日:2005/03/10(木) 23:02
- おぉ〜ののにはそんな過去が……
続きが気になる!次回も楽しみにしてますね!
- 145 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/11(金) 23:55
- 「あたたた……」
新垣は昨日、遅くまで中澤に稽古を受けていた。
いくら若いとはいえ、あれだけ動けば全身筋肉痛で椅子に座るのもキツイ。
「大丈夫? 中澤さん容赦ないから……」
「だ〜いじょうぶ! これぐらいやらないと稽古じゃないって!」
心配そうに声を掛けてくる紺野に向かって、痛みで引きつった笑みを返す。
椅子に座ると、今朝の朝食を確認する。
温かそうな湯気を立てている小籠包、海老入りワンタン、一口サイズの豚まん。
他にも多くの点心が、テーブル一杯に並んでいた。
新垣は体の痛みに耐えながら、点心を1つ取り口に運ぶ。
たしかにおいしいのだが、朝から食べるには多すぎる量だ。
このあと中澤が来たとしても、とても食べきれない。
(お土産用で貰っていこうかな……)
新垣はふと、紺野が点心に手を出していないことに気が付いた。
顔を上げて、向かいの席に座っている紺野に視線を向ける。
紺野はパジャマ姿で座っていた。
登校時間には早いが、新垣はすでに制服を着ている。
紺野は並べられた点心を一つ一つ見ながら、どれを食べるか迷っているようだった。
「全部食べても良いんだから、どれでもいいじゃんよ」
新垣は目の覚めるような熱さの烏龍茶をすする。
「何言ってるの! 今日口にする初めての朝食だよ。
これによって今日一日……いや! これからの私の人生にも
影響が出るかも知れない、大事な場面なんだから!」
真面目な顔で、紺野は点心を睨んでいた。
「……そんなもんなの?」
気の無い返事をして、新垣は点心を眺めた。
- 146 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/11(金) 23:55
- 第5話
MY Favorate Thing
- 147 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/11(金) 23:55
- 昭和初期に建てられた古い小さな洋館。
九段下と神保町の間にあるその洋館に、紺野は中澤と2人で住んでいた。
地下1階、地上2階の建物は何度か修繕されている。
建物の正面には大きなガラス窓と重厚な金属製の扉、そして扉の横に古いランプ型の照明。
茶色いレンガ作りの外観は、建てられた当時の雰囲気を残している。
2階建ての洋館は周囲を近代的なビルに囲まれながらも
過ごしてきた時間をその身に刻み、威厳を放っていた。
新垣はふと、前から気になっていたことを思い出した。
相変わらず点心から目を離さない紺野に顔を向ける。
「紺ちゃんの店ってお客さん来ないよね」
「そんなこと無いよ。週に何人かは来るし……」
紺野は新垣の方を見ないで答える。
洋館の1階部分を紺野の経営する古本屋。2階を住居に使っていた。
扉の上には“紺野書店”と書かれた鉄製の看板を掲げてある。
しかし建物と同様に風雨にさらされ、黒ずんだ看板は読みづらい。
客が来ることは、ほとんど無かった。
「もっと派手な看板でも付ければいいのに。ネオンかなんかでさ」
「それだとお店の雰囲気に合わないでしょ。
それにお客さんがいっぱい来たら、本が読めなくなるし……」
「本が読みたいなら、本屋やめれば?」
「古本屋さんが夢だったの」
紺野はやっと決心がついたのか、真剣な表情で頷く。
桃のようにほんのりと桜色に染まった点心を自分の皿に取った。
飲茶を一口飲んでから、口に入れる。
満足そうに何度も頷きながら、次々と皿に手を伸ばしていった。
- 148 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/11(金) 23:56
- 「おはようさ〜ん……」
伸びきった白いTシャツに黒いジャージを履いて、目は半分以上閉じている。
中澤裕子が、眠そうに挨拶をしながら入ってきた。
挨拶をする新垣たちの横をだるそうに通り過ぎ、真っ直ぐに冷蔵庫に向う。
中に入っていた缶ビールを取り出して一気に飲んだ。
「ぷはあ! やっぱこれやな〜!」
空になった缶を握りつぶし、ゴミ箱に放り投げる。
ようやく目が覚めたのか、大きく伸びをしながらテーブルに寄っていく。
「なんや新垣、つらそうやな」
中澤はテーブルに乗っている点心を取りながら、面白そうに聞いてくる。
「筋肉痛なんですよ……」
「昨日の今日で筋肉痛……ええな〜若いって!」
そう言って、新垣の頭を片手で持ってグリグリと回す。
「いたたた! ほんとに痛いんですよ!」
「無駄に力が入ってるからそうなるんや。
”用意不用力”、意を用いて力を使わずに。基本やで」
「わかってはいるんですけどね……」
中澤は新垣の頭から手を離すと、大きく伸びをする。
新垣は首を押さえながら、中澤を見上げた。
- 149 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/11(金) 23:56
- 新垣は再びテーブルに向き直って、デザートの杏仁豆腐を手元に引き寄せた。
「実際に使えないと、うちらみたいなサポート系の能力者は足手まといになるで。
……よっしゃ! もう一回、開店前に稽古したるわ!」
そう言って、新垣の腕を掴むと出口に引きずっていく。
「開店って、中澤さん店番しないじゃないですか!」
「うっさい! 早よ来いや!」
紺野は騒ぎながら出て行く2人を見ながら、新垣の方へ行っていた杏仁豆腐を引き寄せる。
「ご愁傷様です」
2人が出て行ったドアを見ながら同情したように言うと
食後のデザートを口に運んだ。
「おいし〜い!」
頬に片手を当ててそう言うと、テーブルの点心に手を伸ばす。
紺野の朝食は始まったばかりだった。
- 150 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/11(金) 23:56
- ――――
中澤はジャージに着替えた新垣を、店の裏にある空き地に連れて来た。
3方をビルに囲まれた空き地は、表道りに面していないため人通りはない。
まだ低い日差しは、ビルに遮られている。
午前中の涼しい風が、空き地の土の上に生えている短い雑草を静かに揺らしていた。
「ええか。拳法で使う“氣”は生体エネルギーをSPに変換しないで直接体内に回す。
急激な流れでは無く、緩やかに体内に回すことで心身をリラックスさして
“勁”を発する準備、蓄勁をするんや」
中澤は、ゆっくりとした動作で套路を行っている新垣を見ながら
ビルの壁に寄りかかり、煙草を吸っている。
「“蓄勁は弓を張るが如く、発勁は矢を放つが如し”
ただ動くんやないで、動作の意味を考えるんや」
空き地の中央で、套路を行う新垣の顔は真剣だ。
小柄で華奢な体躯ながら、大きな動作でゆっくりと套路を続ける。
優雅に、舞台の上で神楽を舞うように。
- 151 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/11(金) 23:57
- 中澤は携帯灰皿に吸っていた煙草を入れる。
空き地の中央に立つと、套路が終わりタオルで汗を拭いている新垣を呼んだ。
新垣は中澤の前で右半身に立ち、右手を前に出した。
「ええか、始めるで」
中澤は自分の右手首を新垣の手首と合わせる。
そして2人は、空き地の中央で動き出した。
高速で体を動かし、互いの位置が入れ替わる。
ほぼ密着した状態から相手のバランスを崩そうと腕を動かす。
隙があれば突きを出し、相手から離れずに出された突きを受け流す。
つねに体の一部を相手から離さず、空き地の中央からも離れない。
- 152 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/11(金) 23:57
- 30秒ほどで、バランスを崩された新垣は尻餅をついた。
「まあ、なかなか良くなってきたけど、まだ要らんとこで
力がはいっとるし、軸も時々ブレとるな」
疲れた様子も無い中澤は、笑いかけながら新垣に手を伸ばす。
新垣の顔は紅潮し、額には汗が浮かんでいた。
「はい! もう一度お願いします!」
新垣は、出された手を取って立ち上がると、もう一度構えた。
- 153 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/11(金) 23:58
- ――――
扉を開けると、店内の圧倒的な量の本が視界に入る。
出入口の扉と、通りに面した大きなガラス窓。
そして店の奥にある木製の扉以外、全ての壁に書棚がある。
床から天井まで届く書棚は、その全てが埋まっていた。
それでも入りきらなかった本が、書棚の半分ほどの高さまで平積みにされて床に置いてある。
僅かに開いた真ん中のスペースに、小さなテーブルが置いてあった。
新垣は稽古を終えた後、紺野の店に顔を出した。
奥のカウンターで、ピンクのセータに着替えた紺野が本を読んでいた。
「いらっしゃいませ……」
紺野は本から視線を離さずに、小さな声でつぶやくように言った。
「そんなんじゃ、お客さん帰っちゃうよ」
新垣は苦笑しながら、椅子に腰掛けて店内を見回した。
置いてある本のジャンルは、さまざまだ。
大型書店で売っている現代本が半分。
残りの半分は、背表紙からでもその本の価値が分かるような装飾本が並べてあった。
「ガキさんに愛想使っても、本買ってくれないし」
「そんなことないよ。かわいい店員さんがにっこり笑って挨拶とかしてくれたら、
必要なくても買っちゃうね」
そう言って、新垣はテーブルに両肘を乗せる。
頬杖をついて紺野を見た。
- 154 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/11(金) 23:58
- 紺野は無表情で顔を上げ、一瞬新垣を見てから、
「いらっしゃいませ!」
これが笑顔の手本だというように、少し顔を傾けて元気良く挨拶をした。
紺野の爽やかな笑顔に見とれて、新垣は一瞬言葉に詰まる。
「な、なんだ! ちゃんとできるじゃんよ〜」
慌ててそう言うと、視線を本棚に向ける。
「そういえば最近本業はどうなの?」
取って付けたように言った。
紺野は表情を戻すと、誰もいない店内を見渡す。
「見ての通り、繁盛してるよ」
そう言って目を細め、新垣を見た。
「そっちじゃなくて、情報屋の方」
「情報屋って、私は知ってることを教えてるだけ。
……そういえばこの前、藤本さんが連絡してきたよ。
あの人、相変わらず無茶してるみたいだね。
宝捜しも良いけど、もうちょっと亜弥ちゃんに会ってあげても良いのに」
紺野は再び本に視線を戻した。
経験上、本に集中し始めた紺野はまともに相手をしてくれない。
新垣は立ち上がると扉に向かった。
塗装の剥げた真鍮のノブに手をかけたところで、振り返る。
「ところで、さっきの点心残ってる?」
「全部食べたよ。どうして?」
「そうだと思った…」
出て行こうとノブを回した途端、反対側から扉を開けられた。
バランスを崩して前につんのめった新垣は、柔らかい物体に頭から突っ込んだ。
「お〜い。朝からセクハラか?」
慌てて上を向いた視線の先には、にこやかに笑う飯田の顔があった。
- 155 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/11(金) 23:59
- ――――
紺野の意見が聞きたい。
店に現れた飯田はそう言って、2日前に会った石川の話を聞かせた。
――永続的で巨大な通路。
これまで前例がないその話が可能なのか、話し終わった飯田は
意見を求めるように紺野を見る。
その話は新垣も聞いていたが、石川に会った驚きで内容までは覚えていなかった。
飯田の話を黙って聞いていた紺野が、しばらくしてから小さくつぶやく。
「……“Petite et accipietis, pulsate et aperietur vobis”……」
「……は?」
聞きなれない言葉に、新垣は間の抜けた表情で聞き返した。
紺野はカウンターの下から、ノートパソコンを取り出す。
「13世紀後半に作られた彩色写本“Post tenebras lux”の最初の一行。
聖書からの引用だね。
内容は……むこうの世界への扉を開く一種のマニュアルみたいなもの」
紺野は机に乗ったパソコンをクルリと回して、テーブルに座る2人に画面を見せた。
画面いっぱいに、1冊の黒い表紙の本が映し出されていた。
表紙には金色の文字でなにか書いてあるが、新垣には読めない。
「表紙の文字はラテン語で、英語にすると“After the darkness light”。
暗闇の後に光明が訪れる、って意味です。
当時書かれた内容が異端審問に引っかかって、本が作られた修道院ごと破壊されました。
焼け跡に残ったその本を、当時のHPが回収して遺物保管所にあったみたいです」
「みたい? 今はないの?」
「2年前に紛失してます。この本があれば永続的ではないですが、通常の方法よりも
巨大な通路が開けます。……いろいろと副作用もあるみたいですけどね」
飯田は腕を組んで、視線を宙に彷徨わせた。
紺野はパソコンを自分の方に向けて、キーボードを打ち始める。
話の内容から緊張した空気が流れる部屋のなかを、紺野が叩くキーボードの音だけが響く。
- 156 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/11(金) 23:59
- 新垣は真剣な雰囲気で話をしている2人の話を、黙って聞いていた。
することもないので、適当に周りを見ていると、
腕を組んでいる飯田の袖口から覗く白い包帯に目が止まった。
「飯田さん。怪我したんですか?」
「うん。ちょっとね……」
視線を彷徨わせたまま飯田は返事をした。そのまましばらく沈黙が続く。
進展しない状況に飽きた新垣が腰を浮かしたと同時に、どこかにイッていた飯田戻ってきた。
「この本があれば誰でも“通路”が開けられる?」
「文章自体が難解で複雑な暗号で書かれています。
それらを読み解ける専門的な知識は必要ですけど、
本を中心に置いて地面に魔方陣を描いて、エネルギーを与えれば」
「それは普通の“通路”なの? たとえば開いたまま固定されるとか
そういうのは無いの?」
「それはありません。自然発生する通路と同様に、エネルギーの供給が切れれば通路は閉じます。
改変すれば可能かも知れませんが、深い魔術の知識と研究のための膨大な資金と施設。
それと時間がかかります。とても2年では無理ですね」
低くうなって腕を組み直した飯田を見て、帰るタイミングを逃した新垣は溜め息をついた。
再びパソコンに向かった紺野に、何気なく尋ねる。
「エネルギーってなにを使うの?」
顔を上げた紺野の表情は、曇っていた。
「魔方陣を描いた土地が持っているエネルギーと生体エネルギー。
生物が死んだとき、持っている生体エネルギーは大気中に放出される。
放出したエネルギーを、魔方陣を使って本が吸収。
そしてSPに変換することで本の能力が発動して扉が開く。
つまりエネルギー源は……魔方陣のなかで捧げられる人間の命」
紺野の言葉に新垣は息を飲んで、横にいる飯田を見た。
その無表情な横顔には、抑えた怒りが含まれているように感じた。
- 157 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/12(土) 00:00
- ――――
- 158 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/12(土) 00:00
- >>143 名無飼育さん 様
最初に考えてたよりも、登場人物が増えない……。
次回あたりで何とか増やしたいと思ってます。
>>144 名無ファンさん 様
他のみなさんの小説を読んでいて、辻は“れす”でしゃべる!
と強烈に印象に残っていましたが、最近はそうでもないですね……。
辻が活躍するのは、もうちょっと先になりそうです。
- 159 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/12(土) 00:00
- 用語の解説をします。
・ほんのりと桜色に染まった点心
私が頼んだメニューには“桃○○”と書いてあったと記憶しています。
中にあんが入った、ものすごく甘い蒸したまんじゅう。
簡単に言うと、色の付いたあんまんです。
・用意不用力
太極拳で言われる言葉。
太極拳は健康体操みたいなものから実戦に使用できるものまで、
流派がさまざまに分かれています。
・Petite et accipietis, pulsate et aperietur vobis
ラテン語。ルカ福音書の言葉。意味は、
“求めよ、そうすればあなたがたは受け取るでしょう。
叩け、そうすれば扉があなたがたのために開かれるでしょう”
- 160 名前:MY Favorate Thing 投稿日:2005/03/12(土) 00:01
- ・彩色写本
5世紀頃東ローマ帝国で始まった、本に挿絵を入れたもの。
主にラテン語で書かれ、キリスト教への信仰心を示すものとして修道院で作られていました。
主に聖書、典礼書、祈祷書などで、文章も挿絵も手作業で作っていました。
1冊の写本を作るために何年もかかるのが、普通だったようです。
・Post Tenebras Lux
スイスのジュネーブ大学構内の壁にある、宗教改革記念碑に刻まれた言葉。
ラテン語。意味は紺野が説明した通りです。
こんな本ありません。
- 161 名前:名無しファン 投稿日:2005/03/12(土) 17:53
- 更新乙です!!
太極拳・・・カッケー!!!!
実際見てみたいですねぇ。
こんこんのは、かしましネタですよね??
何となく雰囲気が頭の中に浮かんで来ます。
- 162 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/17(木) 14:03
- 静まり返っている深夜のビジネス街。
明るい陽光の下では人が支配するこの場所も、冷たく光る月光の下ではそれも変わる。
まるで支配者を迎える炎の列のように、街灯だけが無人の通りに整然と並んでいた。
「うわっ!」
宙を飛んできた乗用車に少女は驚きの声を上げながらも、間一髪で避ける。
その声に人型の妖獣が振り向いた。
濁ったガラス球に似た瞳で、声の主を睨む。
少女の後方に控えた車から、強力なサーチライトが妖獣に向けられた。
後方からの強烈な照明を受けて、道路に長い影を落とす。
ショートパンツにボクサータイプの編み上げブーツ。
黒髪に活発そうな瞳。
小柄な少女は力を感じさせるその視線で、対峙している妖獣を睨みつけた。
- 163 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/17(木) 14:04
- 第六話
Round Midnight
- 164 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/17(木) 14:04
- 少女の視線の先には、妖獣の姿。
強烈な光のなかに、その姿が浮かび上がっていた。
身長は2mを超え、全身は銀色に輝く鱗状の光沢が包んでいる。
両腕の位置には、巨大なタコの足に似た触手がついていた。
その触手で、再び車を絡め取る。
放り投げられた車体が少女の頭上を超え、後ろの道路に叩きつけられる。
少女の後方で、ライトを操作してい仲間の悲鳴が上がった。
悲鳴を聞いて慌てて振り返る。
再び妖獣に向き直ると、少女は攻撃的すぎる瞳を妖獣に向けた。
「なにしよると!」
少女はそう叫んで体の両側に下ろした腕の先で、拳を握る。
体内を循環するSPを使って、能力を発動。
周囲の空間に干渉をはじめた。
――そして大気が動き出す。
少女を中心にして“風”が吹き始めた。
周囲で起こった微かな風は、ほんの数秒で嵐となって吹き荒れる。
都会の真ん中に、巨大な台風が現れたような強風。
あおられた看板が大きく揺れて、悲鳴を上げた。
少女は大きく息を吸い込むと、纏った風を伴って妖獣に突っ込んでいく。
- 165 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/17(木) 14:04
- 妖獣の触手が傍らに立つ街灯に巻きついた。
街灯が根元のコンクリートごと引き抜かれる。
そして少女に向かって投げつけた。
少女は走りながら手刀を横に振る。
迫り来る巨大な質量を、大気を切り裂く不可視の刃が迎え撃つ。
風の刃が、飛んできた街灯を半ばから切断した。
街灯を2つに分けた風は威力を減ずることなく、妖獣の喉元を切り裂く。
妖獣が背にしたビルの壁面にも、横一文字に爪跡を残した。
断たれた妖獣の首が、文字通り首の皮一枚で繋がったまま後ろに折れる。
首を無くして2本足で立つ妖獣は一瞬動きを止めたが、次の瞬間再び動き出した。
妖獣の触手が射程距離に入っていた少女に振るわれる。
少女は慌てずに左手を開いて妖獣に向けた。
纏っていた風が少女の手の先に集束する。
そして風が、指向性のある暴力となって妖獣の胸に放たれる。
強大な圧力を受け、妖獣の体がビルの壁へと叩きつけられた。
「あんましつこいと、嫌われるよ」
風を解いて、倒れた妖獣を見下ろす。
液状に融けていく体は、すでに原形を失い始めていた。
「そんな心配、しなくても良くなりよったね?」
そう言い捨てて、少女は妖獣に背を向けた。
妖獣の投げた車は、道路の真ん中でひっくり返っている。
幸い自分達の車には当たらなかった。
それでも心配になって、まだ残っている妖獣を探す前に車の方に一歩踏み出した。
同時に、背後で地響きが轟く。
慌てて振り返ると、倒した妖獣の上で新たな犬型の妖獣が低い唸り声を上げていた。
足元のコンクリートがひび割れている。
(ビルの屋上に潜んでた?)
とっさに後方へ飛び退く。
同時に妖獣が飛びかかってきた。
耳まで裂けた赤い口腔に、異常に白いサメのような牙が並んでいる。
風を作る時間は無い。空中にいては避けることもできない。
真っ白になった頭の横を、軽い衝撃が掠めた。
- 166 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/17(木) 14:05
- 少女の頬を掠めた銃弾が、妖獣を貫く。
右目に当たった銃弾の威力に、妖獣が横を向いた格好になった。
その顔めがけて次の弾丸が飛来し、左の目を貫く。
少女は視覚を失った妖獣に向かって、再び作り出した風の刃を放った。
コンクリートごと胴体を切断された妖獣は、一度大きく痙攣すると動かなくなった。
足元で融けはじめた妖獣が見ながら、少女は額の汗をぬぐう。
「助かりました、紺野さん」
付けていたヘッドセットに向かって言った。
『油断しちゃだめだよ、田中ちゃん』
返ってきた声は、幼い子供をやさしく諭すようにそう言った。
振り返って、遠く離れたビルを見上げる。
夜の闇にぼんやりと浮かび上がった、ビルの非常階段。
100m以上離れたその場所から見ているはずの紺野に、片手を上げる。
そして、田中れいなは車に向かった。
- 167 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/17(木) 14:05
- ――――
巨大なトレーラーの後部を改造して作られた臨時の司令室。
奥でモニターに向かっている男を見ながら、田中は安物のソファーに勢いよく座る。
「はい、れいな。お疲れ様」
田中が顔を向けると道重さゆみが柔らかい笑顔と共に、安物の紙コップを差し出した。
黄色いカットソーにフレアのミニスカート。
髪を後ろで束ねた姿はかわいらしかったが、この場所には似合っていない。
田中は受け取ったカップをテーブルに置いてうなだれる。
「ほんとキツイ。次、さゆね」
「行ってもいいけど、どうせれいな呼ばれるよ?」
「はぁぁぁ……」
溜め息といっしょに、テーブルにのった砂糖とミルクを大量に引き寄せる。
砂糖の入ったスティックを5本立て続けに入れて乱暴にかき回す。
「おかしいと思わん? こんな時間まで中学生働かせて!
訴えたら絶対勝てる!」
「労働基準法? まあ10時過ぎてるし、安全とはいえない業務だけどね」
「やろ? 労働者としての権利は守られんと!」
田中は大量のミルクを鷲掴みしてカップに注ぐ。
カップから溢れんばかりに増えたコーヒーを、慎重に口元に持っていく。
「でもHPってイリーガルだから、私たち法律的には労働者じゃなくて
ただの中学生だよ」
「法律なんか関係なか!」
砂糖とミルクを大量に投入して、まったく違う飲み物になったコーヒーをすすった。
- 168 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/17(木) 14:05
- トレーラーの扉が開いた音に、車に乗っている3人の視線が集まる。
入ってきたのは、全身黒の戦闘服に身を包んでいる紺野だった。
田中の向かいに座り、肩に担いでいた短めのライフルを脇に置く。
「お疲れさまです。コーヒー飲みます?」
「遠慮しとく。神経が高ぶるから」
紺野は道重にニッコリ笑ってそう言うと、上着を脱いだ。
田中はまだ熱いコーヒーを冷ましながら紺野を見る。
下に着ているTシャツも黒だった。
「紺野さんもおかしいと思います? 今ので9件目ですけど」
水の入ったペットボトルを紺野に渡しながら、道重が尋ねた。
「うん、今日だけでも都内で二桁。もうすぐ三桁になるね。
自然発生する通路だけじゃこの数はおかしい」
「誰かが通路を開けて妖獣を呼び込んでる?」
「その可能性もある。その場合なんのためにやってるかが、問題だね」
「これだけじゃ終わらないってことですか?」
「囮を使って敵の戦力を分散、手薄になった本来の目標に戦力を集中。基本だね。
あとは……なにかの影響で通路が開いてる、って可能性もある」
そう言って紺野はペットボトルを開けた。
- 169 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/17(木) 14:06
- 田中は上目遣いでコーヒーをすすりながら2人を見ていた。
疲れすぎて話すのもめんどくさい。
さっきので最後になることを願いながら、黙って話を聞いていた。
「日本橋で通路を確認! 現場に向かいます!」
奥で機械に向かっていた男の言葉に田中はコーヒーを吹いた。
「ちょっと待ってくれんね! いま終わったばっかりとよ! 他の人は?」
「現場に一番近いのが我々です。他の部隊は交戦中です」
「れいな汚い……」
「コーヒーはいらないって……」
テーブルにとびっ散ったコーヒーを拭きながら道重がつぶやく。
紺野はコーヒーがかかる前に、ライフルを持って立ち上がっていた。
「ちょっと2人とも? そんなこといってる場合じゃなかよ!」
「私は後方で援護だから」
「さゆはれいなのために祈ってるの」
「私のことはどうでもよかと!」
田中の叫びは、走り出したトレーラーの音にかき消された。
- 170 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/17(木) 14:06
- ――――
- 171 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/17(木) 14:07
- 今回はとんでもなく短いですが、
近いうちに続きを更新したいと思います。
- 172 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/17(木) 14:07
- >>161 名無しファンさん 様
ありがとうございます。
“紺野書店”はおっしゃるとおり、“かしまし”です。
- 173 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/17(木) 23:24
- 文章のテンポと字のバラスが気持ちいいですね
続き期待しています
- 174 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:51
- ――――
- 175 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:52
- 濡れたように光る石作りの壁。
目の前には鈍い光を放つ鉄の扉。
そこから漏れ聞こえてくる、楽しげな会話。
扉に取り付けられた小さな格子窓から僅かに見える、外の世界。
そして、私。
それだけが、その場に存在するすべてだった。
- 176 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:52
- 扉に近づこうと腕を動かす。
“ガシャリ”と、重い音が小さな牢獄に響き渡った。
振り返った背後には、すべての夜を集めたような闇が広がっている。
そして闇の奥から伸びた鎖が両手足に絡みつき、私の動きを拘束していた。
体を動かすことを諦めて目を閉じると“彼女”の姿。
目蓋の裏で“彼女”に関わるすべての場面が繰り返される。
- 177 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:52
- ――――
初めて見たときから怖かった。
“彼女”はたびたび両親を訪ねてきた。
両親と“彼女”の話し合い。
何の話かは聞こえなかったが、時には言い争う声も聞こえてきた。
“彼女”が来るたびに両親の機嫌が悪くなる。
家の中の空気が硬質に変化したようで、怖かった。
- 178 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:53
- 場面が変わる。
私の前には姉が倒れている。その足には巨大な柱が乗っていた。
私は泣きながら柱をどかそうとするが、どうしても動かない。
途方にくれて床に座り込んだ私の前に、“彼女”は手に持っていた物を投げつけた。
『この家に火をつける。助けたかったら“ソレ”を使え』
そう言って部屋から出て行った。
しばらくすると焦げた臭いが部屋に充満してきた。
立ち込めてくる煙に咳き込む。
奥の部屋へと続く襖に、不気味に揺れる赤い光が映し出される。
赤い光を反射して、床に刺さった物が危険な光を放っていた。
私は震える手で、それを掴んだ。
目の前で倒れている姉は、死んだように動かない。
私は姉の足に、それを近づけた。
いま思えば、あのときの姉はすでに死んでいたのかも知れない。
それでも、姉を助けたかった。ただそれだけを思っていた。
視界がぼやける。
私は、涙を流していた。
- 179 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:53
- 三度、場面が変わった。
私は背負っていた姉を下ろして膝に乗せる。
姉にもらった小さなお守りを握り締めた。
目の前では、家族と暮らしていた大きな家が燃えている。
広場には怯えたようすの村の人々が、小さく一箇所に集められていた。
『まさか本当に“ヤル”とはね』
目の前に立った“彼女”は楽しそうに言った。
その顔を、家を焼く炎が赤く照らしている。
『面白い物を見せてもらったお礼をしよう』
そう言って“彼女”は右の掌を上に向け、その手首を左手で握る。
“彼女”の手の上に光の環が浮かび上がった。
光輪のなかに現れたのは、蒼い炎。
目の前で家を焼く巨大な赤に比べれば、それはひどく小さく儚げで。
そして静かな、心が安らぐような蒼。
“彼女”は私に向かって、嫣然と笑いかけた。
そして右手を、集まっている村人に向けた。
- 180 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:53
- ――――
重い物が外れる音に目を開ける。
扉が僅かに開いていた。
拘束していた鎖は、いつのまにか消えていた。
そして、小さな格子窓から見える外の世界の“匂い”が変わっている。
私はゆっくりと立ち上がると、扉に向かって足を踏み出した。
私はここから出て、帰ってくる。
力を与えてくれるこの場所に。
――そして、証明してみせる。
僅かに開いた扉の隙間から、光が漏れる。
私は目を細めながら、重い鉄の扉に手をかけた。
- 181 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:54
- ――――
サンシャイン60の巨大な影の中を、男は慎重に進む。
都内で発生している通路の数は多すぎた。
男が向かっている場所に集まったのは、3人だけ。
(しかも……)
男は後ろを隠れるように歩く少女に目を向けた。
どうみても中学生。
周りで起こる僅かな音にも敏感に反応する。
もちろん注意を払っているわけではない。怯えてだ。
(なんとかするしかないか……)
今夜はコレだけが頼り。
男は右手に握った拳銃を強く握り締めた。
現場に到着したとき、すでに通路は閉じていた。
通路から現れているはずの妖獣を求め、慎重に歩を進める。
突然、男の耳を悲鳴が打った。
別れて行動していたもう1人の男の声。
「わ〜! おいていかないでくらさい!」
後ろから聞こえる声は無視して、悲鳴の上がった方向に駆け出した。
- 182 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:54
- サンシャイン60と文化会館の間。
高速道路が通るその下に、それらはいた。
短い体毛がまだら模様に体を覆う。その色は赤と黒。
四方に伸ばした足をせわしなく動かしている。
作り出した巨大な蜘蛛の巣に群がる、無数の妖獣。
張られた巣の上で動き回る妖獣は、出した糸で仲間を捕らえていた。
「ちっ!」
舌打ちと共に、男は能力を発動する。
微かな青い輝きが銃を包んだ。銃口を妖獣に向け引き金を引く。
轟音と共に、能力を付与された銃弾が妖獣に向かって放たれた。
慌てて打った銃弾は妖獣の横を掠めて、後ろにある高速道路の柱に当たった。
コンクリートの表面に、小さな青い閃光が走る。
そして、細かい砂のような粒子が零れ落ちた。
男の放った銃弾は、コンクリートの柱を小さく抉り取っていた。
“付与”の能力を与えた武器は、障壁に阻まれなければ
通常では考えられない威力に変わる。
(はずした!)
そう思って再び妖獣に銃口を向けた瞬間、男の首筋を冷たいモノが撫でた。
それだけで、血が凍った。
- 183 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:54
- HPに入って5年。
これまで何度も妖獣を狩ってきた。
何度も危ない橋を渡ってきた。
普通の人間ならパニックを起こすような状況でも、冷静に対処できる自信があった。
背後にいる。
体に触られたわけでも、目にしたたわけでもない。
ただ背後の存在を感じただけ。
それだけで、男の体は硬直して動かない。冷汗すら出なかった。
男と同じように、正面にいる無数の妖獣も動きを止めていた。
「下がって」
空気中の水分がすべて凍りつき乾燥したような、渇いた声。
背後にいた存在が、男の前に出る。
視界に入ったその後ろ姿をみて、妖獣に向けられていた銃口が無意識に向きを変えた。
- 184 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:55
- HPに入って5年。
これまで何度も妖獣を狩ってきた。
何度も危ない橋を渡ってきた。
普通の人間ならパニックを起こすような状況でも、冷静に対処できる自信があった。
背後にいる。
体に触られたわけでも、目にしたたわけでもない。
ただ背後の存在を感じただけ。
それだけで、男の体は硬直して動かない。冷汗すら出なかった。
男と同じように、正面にいる無数の妖獣も動きを止めていた。
「下がって」
空気中の水分がすべて凍りつき乾燥したような、渇いた声。
背後にいた存在が、男の前に出る。
視界に入ったその後ろ姿をみて、妖獣に向けられていた銃口が無意識に向きを変えた。
- 185 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:55
- ――――
- 186 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:55
- 巨大なワニに似た生き物の頭部に左足を打ち下ろす。
足と地面の間で潰れた頭部から泥のような体液が飛び散った。
振り向きざまに左貫手。
背後に迫っていた猿人としか形容できない生き物の喉を貫く。
猿人の胴体を蹴って、貫いていた手を強引に引き抜いた。
周囲を取り囲む妖獣に牽制の視線を送りながら、ヘッドセットに向かって叫ぶ。
「裕ちゃん! 残りは!」
『仕事中は裕ちゃんゆうな! 残りは……12体や!』
じりじりと包囲を狭めてくる妖獣の動きを目で追いながら、
飯田は有利な位置を探して移動する。
「応援は?」
『無理やな、全員交戦中や』
「冷たいな〜。圭織……怪我人なんだけど!」
飯田はコートを翻して、一斉に飛び掛ってきた妖獣を迎え撃つ。
- 187 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:56
- ――――
飯田と中澤は閉館した新宿御苑の前にいた。
通路が開く直前に生じる空間の歪みを検知する。
そして妖獣の出現と同時にこれを滅ぼす。
今までどうり、検知された通路の場所に仲間と向かう途中、次々と報告が届いた。
都内で検知された異常な多さの通路のため、飯田たちは必要最小限の人数に
分かれて行動することになった。
新宿御苑の妖獣を倒した飯田は、自販機から落ちてきた缶を取りながら振り向いた。
背を向けている中澤に向かって尋ねる。
「裕ちゃん、コーヒー飲む?」
「いらん。今欲しいのはビールや」
「言えてる」
飯田に背を向けたまま、中澤が苛立たしげに答えた。
中澤は車のボンネットに置いたノートパソコンに向かっている。
背中越しに見た画面には東京の地図が映し出され、無数の光点が光っていた。
その数はぱっと見で20個はありそうだ。
警報が鳴り、光点が1つ増えた。
「あかん、また増えた。新記録や」
「どこ?」
「日本橋。一番近い田中が向かってる」
田中とは紺野が一緒に行っている。
まだ訓練期間を終えていない田中が出動していること自体が、
今日の異常事態を表していた。
(応援は……必要ないか)
田中の実戦経験は少ないが、紺野がうまくフォローするはず。
温かい缶コーヒーを飲みながら、右手でゆっくりと携帯を取り出した。
- 188 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:56
- 里田に受けた傷は見た目にはふさがっている。
しかし表面だけで、激しく動かせば傷口が再び開いてしまう。
携帯を確認したが着信はなかった。
「ねえ、ガキさんから連絡きた?」
「なんや、まだ連絡ないんか?」
中澤の言葉に頷きながら新垣の携帯にかける。
呼び出し音もせずに、留守電に変わった。
「おかしいな。あの子心配性だから、携帯の電源切ることなんてないんだけど」
けさ紺野の店で分かれた新垣は、そのまま学校に行った。
授業を受けていたのは確認できたが、その後の連絡が取れなくなっていた。
「昨日はだいぶ遊んでやったから、疲れて寝てるんとちがうか?」
「……だといいけど」
笑いを含んだ声で言った中澤に、そう答えて携帯を閉じる。
中澤はパソコンから離れて首を回した。
赤いスーツの内側から出したタバコに火をつける。
「ペースが落ちはじめとる。ピークは終わったみたいや」
飯田はパソコンを覗き込む。
画面の横に光点の発生した時刻が羅列してあった。
すでに終わった分も含めて100件を超えている。
しかし、通路が発生するまでの時間の間隔が開いてきていた。
このままのペースならあと数時間でおさまりそうだ。
「それ吸ったら、のののとこに行こう」
「辻のとこならもう終わってる。あいつがやられるわけあらへんがな」
「でも、怪我とかしてるかもしれないじゃん」
「ほんと……圭織は辻に甘いな」
中澤はからかいながらそう言って、上に向かって煙を吐いた。
- 189 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:58
- 言い返そうとした飯田のポケットで携帯が震えた。
慌てて携帯を取り出し、確認する。新垣の番号だった。
「もしもし? ガキさん?」
『お仕事してる?』
電話の声に、顔が強張るのがわかった。
中澤はタバコと携帯灰皿を持って、再びパソコンの画面を見ている。
「なんでお前がガキさんのケータイ持ってるんだ?」
『なんでですかねぇ?』
「ふざけるな! ガキさんはどうした!」
飯田の出した大声に、中澤がタバコを消して飯田に顔を向けた。
『まあそう焦んなくてもいいじゃん。
それよりさ、そっちの仕事もそろそろ終わる頃でしょ。
ちょっと来てもらいたいんだけど。
やっぱあんたじゃないと、ダメみたいなんだよね』
電話の向こうで里田は場所を告げて、切った。
携帯をしまう飯田に、怪訝な表情をした中澤が寄ってくる。
「どした?」
「行き先変更で。ガキさんが……さらわれた!」
そう言って、空き缶を力まかせに投げた。
線を引いたように真っ直ぐ飛んでいった缶が、ゴミ箱に弾かれる。
誰もいないコンクリートの歩道に、空しい音を立てて転がった。
- 190 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:58
- ――――
- 191 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:59
- すいません、まだ途中です。
いっきに更新したいのですが、なかなか書けません。
- 192 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 11:59
- >>173 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
なるべく変えたいとは思っているのですが
この小説、元ネタの設定をかなり参考にしています。
それでも文章を褒められると、嬉しいです。
- 193 名前:カシリ 投稿日:2005/03/18(金) 12:17
- すいません。>>183と>>184が同じところでした。
>>184は下の文になります。
- 194 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/18(金) 12:18
- ――――
目の前の存在が放つ、妖獣など比べ物にならない異質な存在感。
恐怖に支配された無意識が、男の銃口を動かした。
(辻……希美……)
変わらない後ろ姿に、名前を思い出す。
男は引き金にかかる力を抑えつけた。
背中越しに見えるのは、時が止まったように動かない妖獣。
微動だにしない妖獣の視線のすべてが、一箇所に集まっている。
その視線は銃を持った男ではなく、辻に注がれていた。
「その人を、離しなさい」
辻はそう言って、男から離れる。
そして無数の妖獣が蠢く巣の中へと、向かっていった。
――――
- 195 名前:カシリ 投稿日:2005/03/18(金) 12:18
- 本当に、申し訳ありませんでした。
- 196 名前:名無しファン 投稿日:2005/03/18(金) 20:27
- ガキさ〜〜〜〜〜ん!!!
うわー!!どうなっちゃうんでしょう!?
読むたびに引き込まれちゃいます。
マターリと待ってますんで、
作者さんのペースで更新頑張って下さい。
- 197 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/22(火) 11:56
- テーブルに突っ伏した田中の頭を、道重が子猫でも撫でるように
やさしく撫でる。
「よしよし。よくがんばったね〜」
「う〜!」
そんな2人を横目で見てから、紺野は画面に視線を移した。
「現在の通路の数は?」
「都内で20件以上。まだ、増えてます」
画面上の光点は最盛期に比べれば減っていた。
しかし、20件といえば通常の一週間分以上。
新たな通路も発生している。
個々の発生時間と逃げ出した妖獣の掃討も考えると、今夜は徹夜になりそうだ。
紺野は手にしたペットボトルに口をつけ、水を飲む。
- 198 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/22(火) 11:56
- 紺野たちは日本橋の通路から出現した妖獣を倒したあと、
さすがにバテ気味の田中のために、新たな場所には向かわずに待機していた。
「都内でなにか重大事件とかはないですか?」
「どっかのコンビニが襲われたとか、小さな火事があったとかですね。
HPに報告が上がるようなものはないです」
1日に発生した件数としては、過去最高。
何年か前に、吸血鬼との条約再調印を阻止しようとした組織が起こした数を超えた。
(見当違いだったかな?)
人為的に作った通路で混乱を起こして、どこか重要な施設を襲う。
そう思っていた紺野は、男の言葉を聞いて首を傾げる。
(もしかしたら……)
飯田に話した本の副作用。
魔方陣に作られる通路とは別に、その周囲にランダムに起こる空間の歪み。
HPで実験したときの資料では、周囲100mの範囲に小さな歪みが発生したとあった。
しかし、妖獣が通れるような大きさにはならずに、短時間で消滅したらしい。
飯田に言ったように、改変すれば今日のような通路の異常発生を起こせるかもしれない。
しかし、紛失したのは2年前。
手に入れたのが誰であれ、2年程度の研究では本の内容を理解するのがやっとのはずだ。
ましてや改変など、あり得ない。
- 199 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/22(火) 11:57
- やはり自然発生したものだったのか。確率はともかく、可能性は否定できない。
納得できる確かな根拠が欲しい。
紺野はもう一度、画面を見た。
「今日発生した通路の場所って、地図上に表示できます?」
紺野の言葉に、男がキーボードを操作する。
地図上に表示された無数の光点をぼんやりと眺めた。
「これ、真ん中空いてませんか?」
いつの間にか後ろにいた道重が、何気ない口調で言った。
温かそうな湯気を立てる紙カップを片手に、紺野の背中越しに画面を覗き込んでいる。
「そう……かな?」
そう言われて見ると、かなり崩れているが光点はドーナツ型に配置されている。
都内の地図に表示されている光点の数が、他に比べて異常に少ない場所があった。
「偶然じゃないですか?」
男は顔を後ろに向けて、疑わしげに言った。
紺野はその顔を、真っ直ぐに見つめる。
「……偶然なんて愚か者を幸せしておくだけの説明です。
この場所を、拡大してください」
そう言って、紺野は画面を指差した。
不機嫌な表情を浮かべて、男が再び画面に向かった。
- 200 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/22(火) 11:58
- 画面が詳細な地図に変わった。
その場所はHPにとって特に重要なわけではなかったが、気になった。
「ちょっと行ってみようか?」
「……やっと帰れるの?」
田中がうめくのような声を出す。
道重が、田中に顔を向けて答えた。
「ちょっと寄り道して行こう」
「なんか食べて帰ると?」
「そうだね、れいながんばったからご褒美だって」
「肉! れいな肉がいい!」
道重は、嬉しそうな声をあげる田中をニコニコと見ている。
紺野は横にいる道重に、小声で話し掛けた。
「嘘はよくないよ」
「希望を持って生きるって、いいですよね」
「……生きることの最大の障害は期待をもつということだ。
それは明日に依存して今日を失うことである」
「なんですかそれ?」
「別に」
小声で話している2人に、田中が不審そうな視線を送る。
「なに話してると?」
疑いの眼差しを向けながら、田中は冷めたコーヒーをすする。
「「なんでもないよ」」
2人で微笑みながら、声をそろえて答えた。
- 201 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/22(火) 11:58
- 紺野が座席に戻ろうとすると、携帯にメールが届いた。
確認すると、別行動をしている中澤からのメール。
内容を目で追いながら、紺野の表情が真剣なものに変化する。
「……偶然なんて奇跡と同じ……」
携帯をしまいながらつぶやいた紺野に、道重が不思議そうな視線を向けた。
紺野は運転席に向かっていた男に追いつくと、その肩を軽く叩く。
振り向いた男に向かって、やさしく言った。
「すいませんが、降りてもらえます?」
「……は?」
紺野は呆然とした表情で聞き返す男に、微笑んだ。
- 202 名前:Round Midnight 投稿日:2005/03/22(火) 11:58
- ――――
- 203 名前:カシリ 投稿日:2005/03/22(火) 12:00
- これで、第6話終了です。
最初から読んでみましたが、誤字脱字が目立ちます。
前回の失敗もあるので、もっと注意して読み返してから
更新するようにします。
- 204 名前:カシリ 投稿日:2005/03/22(火) 12:00
- >>196 名無しファン 様
今度からはチョコチョコ更新しないで、
なるべく1話ごとに更新しようと思います。
- 205 名前:名無しファン 投稿日:2005/03/28(月) 22:22
- 遅くなりましたが更新お疲れ様です!
コンコンもかっこいいですね。れいながかわいいw
更新は作者さんのやりやすい方法でいいと思いますよ。
次回も楽しみにしてますねー
- 206 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 03:56
- 夢から現実へ。
睡眠と覚醒の境界線は、ひどく曖昧だった。
(ここ……どこだっけ?)
新垣は気が付いた後も、すぐには目を開けなかった。
頭の下に枕はないし、体に掛け布団もかかってない。
ぼんやりと考えながら、頬に感じる感触に気がつく。
まるでコンクリートの床のように、ざらざらとした硬質の冷たいベッド。
新垣は意識が覚醒したばかりで、うまく回らない頭を使って考えた。
- 207 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 03:56
- ――――
うららかな春の陽気。
そんな表現がピッタリと当てはまるような、穏やかに晴れた午後だった。
新垣は学校の帰り道、いつもとは違う道を歩いていた。
買い物に行くためにときどき通る、住宅街。
駅とは反対の方向だったため、他の学生の姿はなかった。
家と家の間にある塀の上に、真っ白な猫が丸くなっている。
近くを通ったときに、猫に軽く手を振ってみた。
猫はチラッと新垣を一瞥した後、すぐに興味を無くしたように、
目を閉じて日向ぼっこを再開した。
苦笑しつつ前を見ると、横断歩道の手前で電柱を見ている若い女が目に入った。
地図を片手にうなっている。
電柱に書いてある住所と、手に持った地図を確認しているようだった。
(迷ってるのかな?)
新垣は女の横を通り過ぎる。
交差点の信号が赤だったため、立ち止まった。
なんとなく気になって振り返る。
女はさっきの場所で、地図と電柱を見比べていた。
交差点を見渡すが他に人影はない。
信号が青に変わる。
新垣は少し考えてから、来た道を戻ることにした。
- 208 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 03:56
- 「どうかしましたか?」
道に迷っているとは思ったが、いきなり“迷子ですか?”と聞くのも失礼だ。
そう思いながらかけた新垣の声に、女が顔を上げる。
黒い革のコートを着た女性は、サングラスをかけていた。
サングラスのため目はよく見えない。
しかし、口元と顔の輪郭からかなりの美人だとわかる。
全身のパーツもバランスよく整っていた。
女はサングラスをずらして新垣を見ると、爽やかに笑顔を向けた。
「やさしいんだね」
「え?」
「さっき通り過ぎたでしょ。わざわざ戻ってきてくれたんだ」
「ええまあ……」
新垣は女の言葉にてれて、片手を頭に当て足元に視線を落とした。
「ほんと、ありがとう。このまま一人芝居が続くかと思った」
新垣は女の言葉が理解できずに顔を上げる。
女は愉快で堪らないといった感じで笑っていた。
「なんですか?」
「なんでしょう?」
女の言葉が終わると、背中に何かを押し付けられた感触。
振り向こうとした次の瞬間、全身に衝撃が走り世界が暗転した。
- 209 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 03:57
- ――――
目を開ける気にもならず、丸くなったまま耳をすます。
部屋の空調の音だけが聞こえてきた。
(さむ……)
外で寝ているような寒さに、新垣の頭が徐々に回転を速める。
仰向けになって目を開けた。両手を目の前に持ってくる。
手首に手錠がかかっていた。
(手錠……ですか?)
視線を下に向けると、足首にも手錠がかかっていた。
自分の置かれている状況に気が付いた。
「わわ〜!」
シャクトリムシのように地面を進みながら扉を目指す。
扉の前で上半身を持ち上げて、両手でノブを力いっぱい引っ張った。
汗で滑った両手が離れ、新垣は再び仰向けに倒れた。
「その扉、押して開くんだよ」
「ああ! すいません!」
条件反射で謝りつつ、もう一度挑戦する。
両手で掴んだノブを回して思いっきり体重をかけて外に押す。
ガツンとした手応え。
「あと、カギかかってるから」
「そうですよね! すいません!」
とりあえず扉は開かないらしい。
新垣は床に正座しながら、開かない扉を見る。
しばらくして気がついた。背中から感じる視線。
(……誘拐されて、閉じ込められて、部屋に他の人?)
扉を背にして体を縮めながら、勢いよく振り返る。
並んだロッカーの前に置かれたベンチに、少女が座っていた。
髪を頭の横で2つに結んだ顔は幼く見えるが、年齢は新垣よりは少し上のようだった。
新垣を座ったまま見ながら、少し首を傾けて柔らかく笑った。
「パンツ、見えちゃってるけど」
少女の言葉に慌ててスカートを押さえる。
火照った顔で睨むと、少女は少し困ったように更に首を傾げた。
「……誰ですか?」
空調を音だけが聞こえてくる部屋のなかで、しばらく2人は見詰め合っていた。
- 210 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 03:57
- 第7話
Memories of you
- 211 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 03:58
- ――――
遠くに見えるのは、ライトアップされた白い卵。
深夜の東京ドームに、人の気配は無かった。
左手に黄色いビルを見ながら、2人は階段を上がる。
車を降りてからここに来るまで、人は見かけていない。
上りきったところで、飯田は足を止めて周囲を見渡す。
見える範囲に異常はない。
「どう?」
「半径100mは異常なしや。ほんまにここなんか?」
飯田は頷いて歩き出す。3歩も行かないうちに携帯が鳴った。
中澤のことは信用しているが、一応周囲を警戒しながら耳に当てる。
『一人じゃないんだ』
「しょうがないだろ、一緒に行動してたんだから」
どこかでこちらを監視してる。
飯田は携帯から聞こえる音に集中した。
里田の声ではなく、その背後。
なにかの物音がすれば、場所が特定できる。
『まあいいか、HPには連絡してないんでしょ?』
「ああ」
『後ろの人には遠慮してもらう。あんただけ正面ゲートに来て』
「……わかった」
飯田が返事をするのと同時に、通話が切れた。
里田の声以外なんの音もしなかった。室内にいるようだ。
他に監視役がいるということか。
飯田は携帯を閉じて、中澤を振り返った。
「裕ちゃんはここまでだって」
「……わかった。油断すんなよ」
飯田を真っ直ぐ見ながら、中澤がジャケットに片手を入れる。
取り出したタバコを、火をつけずにくわえた。
ぶっきらぼうな言い方だが、表情が硬い。
心配しているのがわかった。
「裕ちゃん、待つのは慣れてるもんね」
「どうゆう意味や」
「帰りに教えるよ」
飯田はそう言って中澤から離れ、ゲートへと向かった。
- 212 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 03:58
- ――――
飯田の姿が見えなくなってから、右手で金色のライターを取り出す。
澄んだ甲高い音と共に蓋を開いて、タバコに火をつけた。
一口吸って煙を吐く。
中澤は顔の前に持ち上げた、小さな赤い火を見つめた。
(そろそろか……)
軽く息を吐くと神経を集中する。
中澤の脳裏に、目の前のタバコの火とは違う光点が観える。
複数の光点が周囲に集まってきていた。
「このまま待たされる……わけないか」
独り言を言って、中澤は手に持ったタバコを弾く。
赤い先端が放物線を描いて、闇の中へと落ちていった。
- 213 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 03:58
- ――――
ツルリとした石壁。
上部から絶え間なく湧き出る水が表面を流れる。
スポットライトを浴びて、キラキラと輝いていた。
「ほら、れいなロマンチック」
確かにきれいだ。
しかし不機嫌な田中は、横にいる道重を軽く睨みつける。
「……帰るんじゃなかったの」
「寄り道してからっていったでしょ」
「嘘つき!」
道重はうっとりとした表情で、道の片側に続く水の壁を見ていた。
もう一言なにか言ってやろうと、息を吸い込んだ田中の耳に緊迫した紺野の声が届いた。
『前方50mで通路が発生してる、急いで!』
ヘッドセットからの声を受けて、田中は走り出した。
水壁の向かい側に続く建物の角を、勢いよく曲がる。
立ち止まった田中の視線の先に、直径30cmの円形の穴が開いていた。
壁ではなく空間に。そして、不快な感覚が皮膚を焼く。
周囲の薄闇よりも数段深い闇色を湛えて浮ぶその穴から、こちら側ではない大気が滲み出していた。
(これが……)
訓練の時に資料として見た映像。
田中が初めて生で見る空間の歪み――通路と呼ばれるむこう側との異常な接触点。
大きさから見て、まだ発生して間もない。
通路から滲み出る瘴気に当てられ、田中の全身の皮膚が総毛立つ。
「れいな!」
追いついた道重の声に、田中は気を取り直して全身にSPを通す。
そして、穴の正面に立つと風を纏った。
能力で作られた風を当てれば通路は消える。
作り出した風を手の先に集め、通路に放つ。
- 214 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 03:59
- 風が通路に届く直前に、人影が割り込んだ。
風はその男を包む半透明な膜のようなものに阻まれて、方向を変えられた。
「せっかく出来たのに、なにすんだ?」
男の出てきた方向に目を向けると、更に2人の男が立っていた。
「……ガキが2人か」
「3人で来ることもなかったかな?」
田中は道重をかばうように、男達と向かい合う。
3人とも黒っぽいスーツを着て、1人はサングラスをかけている。
サングラスをかけた男が一歩前に出てきた。
「まあいい。退屈してたところだ」
男がサングラスを外し、スーツの内側に入れた。
「逃げた女を探す前に……遊ばせてもらおうか」
他の2人とは違うSPに、田中は男の正体に気がつく。吸血鬼。
あとの2人は人間の能力者。
能力者が相手なら、道重と紺野で対処できるはず。
「紺野さん、さゆを頼みます!」
吸血鬼に向かって風の刃を放つ。
そのまま吸血鬼を誘うように、その場から離れる。
男は余裕のある表情で風を避けると、田中のあとを追ってきた。
『バカ! 戻りなさい!』
「れいな!」
無線機の電源を切り、イヤホンを外す。
田中は後ろから男が追いかけてくるのを確認しながら、薄闇を走り抜けた。
- 215 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:00
- ――――
残された道重は正面に立つ2人の男に視線を向ける。男達の背後には通路が口を開けていた。
2人組みは道重の姿を足元から頭まで、ゆっくりと舐めるように視線を動かす。
道重は眉をしかめて視線を逸らした。
『その位置じゃこっちから見えない、移動するから時間を稼いで!』
イヤホンから聞こえた紺野の声に、再び正面に視線を向けた。
相変わらずの、下品な目付き。
道重はうつむいた。
自分を置いていった田中を少しだけ恨みながら、溜め息をつく。
とりあえず時間を稼ぐといえば、基本は会話。
顔を上げると、男達に向かって無理やり微笑んだ。
「好きなものってなんですか?」
「……なに?」
「さゆは甘いものが好きなんです」
道重は呆れる男達を無視して、勝手に話しを始めた。
- 216 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:00
- ――――
田中は立ち止まると、周囲を見渡す。
微かに風が吹く広場は、深夜でも明るい。
何本か街灯が立っているが、他に邪魔になるようなものもない。
(ここなら!)
田中を追ってきた男が、広場をゆっくりと歩いてくる。
その姿を見ながら全身にSPを通す。
熱いSPが体の隅々まで行き渡る。鋭敏になった五感が脳を刺激する。
(何日か前も、HPの能力者がやられたらしい……)
田中は真剣な表情で、拳を強く握った。
吸血鬼と一人で戦ってはいけない。
研修中、何度も聞かされた言葉。耳にするたび、気にいらなかった。
やられた能力者というのが、どの程度の使い手か知らない。
しかし遮蔽物のないこの場所なら、持っている最大限の力を使える。
一対一の戦闘訓練なら、負けたことはない。
男の姿を視界に入れながら、田中は唇を軽く舐める。
全力で戦えるこの場所。
――そして自分なら。
その表情が、挑戦的なものに変わった。
- 217 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:00
- 広場を吹き抜ける風の質が変わる。
落ちていた紙くずがコロコロと地面を転がり始めたかと思うと、突然天上に舞い上がった。
地面に落ちた田中の影がユラユラと揺れ動く。
突然吹き荒れた強風に、鋼鉄製の外灯が左右に激しく揺さぶられる。
田中の姿が、手でつかみ取れそうなほど濃い空気の層に包まれた。
「見せてあげるよ……田中れいなの実力を!」
田中が手刀を上段から切るように振った。
周囲を取り巻く風の層から巨大な刃が放たれた。
地面を切り裂きながら男に向かう。
男は軽い感じで横に一歩ずれてかわした。
「見せてもらおうか、自信過剰なお嬢ちゃん」
男の姿がブレた。
田中は左手を真横に突き出す。
一瞬で横に移動していた男の姿を、撃ち出した風の塊が貫く。
再び男の姿が消えた。
(避けられた!)
そう認識した瞬間、背後でなにかが弾かれる音。
振り返ると男が右手を押さえて着地したところだった。
「なかなか、いい反応だ」
「無駄だよ。れいなの周りは風で守られてる。こっちは攻撃できるけど、
そっちは手が出せない」
田中の周囲に存在する風壁は、外からの攻撃を弾く。
銃弾さえ弾くそれに、田中は絶対の自信を持っていた。
「……そのようだな」
田中はしゃがんだままの男を、見下ろした。
- 218 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:01
- 広場を満たす大気の隅々にまで自分の意識が拡大したように、自在に風を操れる。
少しだけ不安もあったが、そんな心配は必要なかった。
吸血鬼との初めての戦闘。
田中の昂ぶった精神が、能力を最高の状態に高めていた。
「では、少しだけ教えてやろうか」
そう言って、男が立ち上がった。
頭一つ高いため、見上げる格好になる。
田中は男の目を貫くように睨んでから、一転して余裕の笑みを浮かべた。
「なにを教えてくれるって?」
田中の言葉を受けて、男も表情を緩める。
無知な子供を眺める、大人の表情。
「吸血鬼ってモノをだよ」
男の瞳が赤く変化する。そして、体が赤い塊に包まれる。
(障壁!)
あらゆる攻撃を防ぐ、吸血鬼特有の能力。
田中は表情を引き締める。
研修で、ほとんど全ての攻撃に耐えられると教わった。
しかし、どんな強力なものでも一定以上の力が加われば必ず崩せる。
田中は息を吸い込んで、止めた。
体内のSPを限界まで高める。更に勢いを増した風に田中の髪が揺れ動く。
- 219 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:01
- 男が再び動いた。霞むように田中の視界から消える。
速すぎるその動きは、田中の目では追えなかった。
田中は両腕を水平に伸ばし、ターンをするようにその場で回った。
全方位に風の刃を放つ。
胸の高さで放たれるそれは射程が狭くなる。
しかし避ける場所がない。
近くの外灯が断ち切られ、轟音を立てて地面に落ちた。
「その程度で障壁は破れない」
思ったより近くでした声に慌てて振り返る。
男と2mも離れていなかった。
十字を切るように両腕を振りつつ後方に下がる。
慌てて作った風が男の障壁に弾かれた。
(ちっ! 威力が足りなかった! でも……)
田中は周囲に纏った風を強化する。
集まった風を通して見える男の姿が、陽炎のように揺らめく。
(風に守られてる、攻撃手段はない!)
体勢を立て直すために、更に距離を取ろうとした。
しかし田中が動き出すより速く、男が接近してきた。
男はまるで目の前に何もないように左手を伸ばす。
そして、風の壁に触れた。
「えっ?」
思わず声を出した田中の目の前で、風壁に穴が開いた。
まるで男の腕を避けるように風の方向が変わっていく。
男が風壁を通り抜けて、呆然とする田中の目の前に立った。
「だから言っただろ、この程度で障壁は破れない」
軽い感じで田中の腹部に拳を出してきた。
なんとか右手を入れて直撃を防ぐ。
しかし、凄まじい衝撃に田中の体が後方に飛ばされた。
- 220 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:01
- 口の中には鉄の味。地面を滑ったときに、切った。
「それで終りか、お穣ちゃん?」
嘲るような男の声を受けて、立ち上がる。
ふらつく足をなんとか伸ばし、顔を上げる。
ようやく起き上がった田中に、男は楽しそうな顔を向けていた。
男は本気を出していない。それなのに、受けた右手が動かない。
そして全力を出した風壁が、破られた。
ばかげた力と、ふざけた障壁。
まるで猫が鼠を弄ぶように、あしらわれた。
「……か」
「なんだってお穣ちゃん?」
「ざぁっっけんじゃなか!」
田中を中心に、巨大な嵐が出現した。
猛り狂う風が、まるで田中の感情を代弁するかのように咆哮を上げる。
暴虐の意思を宿した風の中心で、髪をなびかせながら男に向かって腕を振るった。
幾筋もの軌跡を地面に残して、触れただけで命を奪う凶刃が次々と男に襲いかかる。
「ハンデぐらいあげようか」
男はそう言ってポケットに片手を入れた。
- 221 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:02
- ――――
照明の点いていない薄暗い正面ゲートのなかに、里田の姿を見つけた。
里田はニヤニヤと笑いながら飯田を見ていた。
飯田は回転扉を通ってなかに入る。
強い風に乱れた髪を直しながらも、向けた視線は外さない。
「携帯」
里田の言葉に飯田は携帯を取り出すと、里田の足元に放り投げる。
乾いた音と共に床を滑った携帯が、里田の足にぶつかって止まった。
「約束だ。ガキさんを渡せ」
里田は足元の携帯を、飯田の顔を見ながらゆっくりと拾う。
「ここじゃ無理だね」
「無事なんだろうな」
「今はまだ……ね」
飯田の全身からは、浴びるだけで命が削れそうな殺気が放たれている。
里田は表情も変えずに、それを受け止めていた。
「お前はなにがしたいんだ? こんなことをして、どうなるか分かってるだろ!」
飯田の声がホールに響き、闇に消えていく。
里田は鼻で笑って答えた。
「わかってるよ。私は逃げられない。近いうちに殺される」
「それなら……」
「色々と込み入った事情ってのがあってね」
里田は表情を消す。
そして昏い目で、飯田を見た。
追い詰められた者がときおり見せる、危険な瞳。
人がある決心をしたときに現れる表情。
里田は着ているコートの内側に、手を入れた。
「……他に選択肢はないんだよ」
取り出したのは里田の手にはやや大きめの拳銃、グロック17。
軽い咳のような音を発すると、飯田の右膝を打ち抜いた。
- 222 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:02
- 飯田は押しつぶしたような声を出して膝をついた。
膝を押さえた左手の隙間から血が吹き出す。
痛みに耐えながら傷口を確認する。
銃弾は膝の前から裏に貫通していて、膝の皿が砕けていた。
肉と血のなかに白い骨の欠片が見える。
(くそっ!)
通常の拳銃で、吸血鬼の皮膚を貫通するなど有り得ない。
特殊なボディアーマー貫通弾。
足は動かない。このままではまずい。
鋭く熱い痛みに襲われながら、飯田は顔を上げた。
里田は拳銃を持ち上げて、飯田の顔に狙いを定めていた。
「……拳銃なんて無粋なものを」
「私もそう思う」
里田は銃口を上げて、引き金を引いた。
消音器を通した鈍い銃声と共に、放たれた銃弾が天井のスプリンクラーに当たる。
そして、大量の液体が吐き出された。
- 223 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:03
- 反射的に目を閉じた飯田の姿を、円錐状に降り注ぐ液体が包み込んだ。
そして液体の濃密な香りが、飯田の嗅覚を刺激する。
(水じゃない!)
失って久しいなにか、まるで久しぶりに会った親友のように
限りなく親しげで誘惑的で、抗しがたい香り。
強烈な香りに、飯田の意識が揺らぐ。
片手で鼻と口を押さえながら下を向いた。
目を開けた飯田の視界に、足元を流れてきた液体が映った。
見た者を捕らえて離さないすばらしい絵画や彫刻のように、思考も、時間も、魂さえも奪う輝き。
目を逸らすことなどできなかった。
「どう? 久しぶりのご馳走は?」
全身に降り注ぐ大量の血液の強すぎる刺激に、精神の奥底に閉じ込めた記憶の扉が軋む。
飯田の視界が一瞬だけ白く変わる。
同時に起こる息が詰まるほど胸が圧迫される感覚。
それは、飯田が最も恐れていたもの。
薄暗いホールに絶叫が上がった。
- 224 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:03
- ――――
紺野は足音を立てないように非常階段を駆け上る。
暗い屋上に出ると、ゆっくりと扉を閉めながら辺りを見回した。
屋上の縁に駆け寄り、肩に担いでいた横長の黒いケース開ける。
取り出したのは短めのライフル、ワルサーWA2000。
605mmのバレルが内臓されていながら全長は1m弱。
同じバレル長の一般的なライフルなら、全長が1mを超える。
多少重くなるが、利点は明らかだ。
全長が短くなるということは、運搬中にスペースを取らない。
そして、狙撃中にも目立ち難い。
紺野は腹ばいになり、屋上から標的を探す。
左目で大まかな位置に見当をつけて、銃口を僅かに動かしていく。
右目に当てたスコープのなかに道重の姿を確認した。
まだ男達と向かい合っている。
(間に合った!)
スコープの中心を道重に合わせた。身長から距離を計る。
距離は約173.67ヤード。照準は300ヤードでゼロイン済み。
目標との高低差を考慮して右目の視界に写る十字線、レティクルの中心を
男の鳩尾あたりに合わせた。
右の人差し指でセーフティーを解除。
瞬きもせず、開いた両目に意識を集中させる。
- 225 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:03
- 指を引き金にかけようとしたとき、左目の視界のなかでなにかが動いた。
紺野は左目に意識を向ける。離れたところにある広場の外灯が、僅かに揺れていた。
スコープをそちらに向ける。
広場の中心に田中の姿。能力を発動している。
田中の視線の先には、男の姿。その体が赤い膜に包まれた。
(まずい!)
男が紺野の視界から消えた。
援護しようにも男の動きが速すぎて追いつかない。
もう一度広場を探す。倒れた田中の姿があった。
離れた場所に男の姿。動いていない。
紺野は距離を再計算して、照準を男に合わせる。
装填してあるのは対障壁処理済みの弾丸。
それでも吸血鬼を行動不能にするには、ヘッドショットが必要。
紺野は男の喉に照準を合わせ、引き金に指をかけた。
そしてゆっくりと引き絞っていく。
- 226 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:04
- 背後の物音で、紺野の指が止まった。
微かな物音。しかし聞き違いではない。
男の姿が右目の視界から消えた。
すばやく動くと、反射的に攻撃される危険がある。
振り向きたいという強い衝動を抑え、引き金にかけた指を外す。
紺野は意識してゆっくりと、首だけを後ろに向けた。
「危ないよ。スナイパーは2人で行動しないと」
暗い夜空を背景に立つ人影。
満月を背にした石川が、薄い笑みを浮かべて見下ろしていた。
- 227 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:04
- ――――
建物の横、通用口らしい扉から音がした。
なかから叩いているような音に、その場にいる3人の視線が集まる。
『せ〜の!』
掛け声と共に、扉が盛大な音を立てて開いた。
扉からゴロゴロとなにかが転がり出る。
足元に転がってきたそれに驚いて、2人組みが後ろに飛びのいた。
「あたたた……あれ? しげさん?」
転がっていたのは新垣だった。
後頭部を押さえながら道重を見つけると、すばやく立ち上がって道重に駆け寄る。
両手で道重の体を揺さぶりながら、早口で言った。
「よかった! ちょっと携帯かして! すぐ飯田さんに連絡しないと!」
「いいですけど……少し落ち着いて、周りの空気を読んだ方がいいと思う」
「へ?」
新垣はクルッと辺りを見渡す。2人組みと目が合った。
「え〜と……どうも」
「え! ああ……どうも」
軽く会釈をした。
つられて返事をした2人組みを残して、道重に向き直る。
「はやく! 時間がないから!」
道重が取り出した携帯を奪って、手の中でしばらく操作してから道重を見る。
「ちょっと。飯田さんの番号入ってないんだけど?」
「飯田さんって誰ですか?」
「はぁ〜?」
「おい!」
背後からかけられた声に振り向く。
男の上を向けた手の上で、拳大の炎が赤く燃え上がっていた。
「……もしかして、敵?」
「だから空気を読んでくださいって……」
「突然出てきてシカトしてんじゃねえ!」
怒った表情の男が、炎の塊を投げつけてきた。
- 228 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:04
- 道重を突き飛ばして炎を避ける。
転がって膝立ちになるとすぐに後ろに飛んだ。
鋭い音と共に透明な鞭のようなものが、さっきまでいたところに叩きつけられた。
「ちょっと待って!」
距離を取った新垣が、男達に向かって片手を向けて制止する。
「私の能力は“探索”で、戦闘は不向きだから」
「だからなんだ?」
「そっちの子が担当」
反対の手で指を差す。
指の先にいた道重は、なにを言っているのかわからないといった感じで首をかしげた。
「ほ〜お、どんな能力なんだ?」
男はバカにしたような態度でそう言うと、さっきよりも大きな炎を出して道重に向き直る。
道重は了解を得るように、新垣の方を向いた。
新垣が小さく頷く。
それをみて道重が目を閉じた。道重の体内でSPが高まる。
そして、能力の発動。
道重を中心に見えない圧力が迸る。
- 229 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:05
- 空気が粘性を持ったような圧力。頭まで水に漬かったような感覚。
効果はすぐに現れた。男の手に乗っていた炎が突然勢いを失う。
「ばかな!」
驚愕の声を上げる男に、新垣が一瞬で近接する。
腰を落とした低い姿勢から、胸の中央に掌打を放つ。
手首までめり込んだように見えながらも、男は後ろに飛ばされずにその場に崩れ落ちた。
仲間が倒されるのを呆然と見ていたもう一人の男が、後ろに下がりながら右手を振る。
しかし、なにも起こらなかった。
男は愕然とした顔を道重に向けて叫んだ。
「なにをした!」
「能力抜きなら私が担当!」
男の言葉に重なるようにそう言って、新垣が懐に飛び込む。
男は反射的に、自分の腹の高さにある新垣の頭部に拳を振るった。
新垣は向かってくる腕を、右手で顔の左側に逸らす。
そのまま男の腕を導くように右手を添え、左足を引いた。
体勢が崩れた男に背を向けるように、上体を捻る。
そして鋭く息を吐く。同時に、背後にいる男に肩口を使った体当たり。
吹っ飛んだ男の体が、建物の壁面に叩きつけられる。
はがれた壁面の破片と共に、その体が地面に落ちた。
- 230 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:05
- 男達が気を失ったのを確認すると、新垣は目を閉じた。
そして神経を集中する。脳裏に三次元の立方体が浮かび上がる。
そのなかに、いくつかの光点が観えはじめた。
能力者や吸血鬼は、僅かながらも常時体内にSPが循環している。
新垣の能力“探索”は、SPを感知して、その位置と量を光点として観ることができた。
(私としげさん、他には……)
離れたところに2つの光点。1つは大きさからみて吸血鬼。
もう1つは人間のようだ。
他に光点がないのを確かめて新垣が目を開けようとしたとき、もう1つの光点が現れた。
人間のようだが、こっちに向かって来る。
「はやく隠れて! 仲間が来た!」
道重を連れて建物の影に隠れる。
- 231 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:05
- しばらくすると人影が現れた。
こちらに背を向けて、空中に浮ぶ通路を見ている。
外灯に照らされたシルエットは、女。
「……合図したら“遮断”して」
そう言って、ポケットから手帳を取り出す。
道重が頷くのを確認して、人影に向かって大きい放物線を描くように投げた。
「……今!」
道重が能力を発動する。
見えない圧力を受けて人影が振り向く。
顔の前に飛んできた手帳を、慌てたように手で払った。
上に注意が向いた隙に、新垣は低い姿勢で女の足元に飛び込む。
しゃがんだ状態から両手をついて足払い。
しかし、足首あたりを狙った蹴りは、女の出した足の裏で止められた。
同時に額を軽く押されてひっくり返る。
「……なにするんや新垣。お前、さらわれたんと違うんか?」
「あれ? 中澤さん?」
慌てて新垣が見上げると、中澤が冷めた目で見下ろしていた。
- 232 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:06
- ――――
「……で、捕まってたところを“みうな”ちゅうのが助けてくれたってことか?」
「そうです。その人の話だと里田って人が飯田さんを使ってなにか
大変なことをしようとしてるらしいです」
「圭織を狙ってなにする気や、下衆どもが!」
中澤は吐き捨てるように言うと周囲を見回す。
背後に浮ぶ黒い通路の大きさは1mになっていた。
「とりあえず田中はどうした? 早くこの通路潰さな、妖獣が出てきてまうで」
「それが……」
道重は、ここで起きたことを説明した。
話を聞いていた中澤の表情が、次第に険しくなる。
「1人で吸血鬼なんて相手にできるわけないやろ、アホか!」
「でも、れいな強いし……」
「次元が違うんじゃ!」
そう言って道重の持っている無線機をひったくった。
イヤホンに繋がったプラグを外す。
「おい! 紺野! どこにいるんや!」
『……怒鳴らなくても、聞こえてます』
無線機から紺野の冷静な声が聞こえてきた。
「そっから田中は見えるか?」
『見えますけど……かなり押されてますね』
「場所は? これから道重を向かわせる、お前は田中を援護せえ!」
『その必要はありません。3人で飯田さんを探してください』
「通路はどうするんや、すぐに妖獣が出てくるで!」
『通路から出る妖獣は、私が何とかします』
「田中は!」
『大丈夫です、応援が来ました』
落ち着いた紺野の声に、中澤は少し考えるように眉間に皺を寄せる。
紺野にはメールで、他の仲間には連絡しないように伝えてある。
“応援”が誰なのか気になったが時間が無い。
「新垣の話やと、ヤツら圭織を狙ってる。阻止せなあかん」
『そのことで、新しい情報と考えがあります』
無線機から聞こえてくる紺野の声に、3人は黙って耳を傾けた。
- 233 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:06
- ――――
光り輝く紅いベールのむこうから里田が話し掛ける。
「あの時と同じでしょ?」
里田の言葉が、僅かに残った飯田の理性を呼び戻す。
なんとか顔を上げて、焦点の合わない視線を送る。
(あの時?)
生じた疑問に理性が記憶を検索する。
思い出したその答えに、飯田は愕然とした。
そして記憶が記憶を呼び起こす。
再び、視界が真白なスクリーンに変わる。
そこに映し出されたのは、過去の情景の鮮明な幻覚――フラッシュバック。
- 234 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:07
- ――――
分厚いガラスを通して見えるのは、無音の劇場。
彼女はそこに立っていた。
うつむき加減のその背中を、天井の水銀灯が白く映し出す。
天井から落ちてきた雫が、彼女の足元に広がる赤い湖面に小さな波紋を作った。
静かに佇む彼女が、ゆっくりと振り返った。
冷たいガラスを隔てて、彼女と視線が絡み合う。
彼女の足元には血の湖。そして、倒れている大切な仲間達。
彼女は全身と同じように真っ赤に染まった両腕を、翼のように広げた。
飯田に向けていた顔に、満ち足りた笑顔が浮かぶ。
その姿は薄暗い照明に両腕の輪郭がぼかされ、背中に真紅の羽が生えた天使に見えた。
――――
- 235 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:07
- 降り注ぐ大量の血液が、押さえた手の隙間から侵入する。
口に入った血の味に、飯田の意識が現実に戻された。
天からの贈り物、瑞祥として降らせる甘い露。
それは天人の飲み物と称えられる、まさに甘露だった。
4年ぶりのその味に、無意識に口に入った液体を嚥下する。
熱湯を飲んだような不快な灼熱感が喉を降りていって、胃壁を打つ。
液体の第一波が爆発して、あたり一面に火をつけた。
- 236 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:08
- ――――
彼女の赤に染まった胸を見ながら、荒い息を繰り返す。
胸に手を置いて横たわる彼女は、呼吸さえ止まってしまったように動かない。
彼女がゆっくりと目を開けた。
こちらを見る瞳のなかで、命の煌めきが失われていくのがわかる。
その瞳を、呆然と見つめた。
ふいに、彼女が微笑んだ。
その場にそぐわない、あたたかい笑顔。
かつての自分が憧れた笑顔を見て、言葉にならない感情が頬を伝う。
――――
- 237 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:09
- いつのまにか、頭上から降り注いでいた血液は止まっていた。
飯田は口を押さえていた左手を床につく。
残っていた血が、頬を流れて口へと流れる。
そして今度もまた、それは喉を焼いて胃に落ちた。
眉間に強い衝撃が襲う。めまいがして気を失いそうになる。
涙が出てきたのがわかった。
そして、変化は突然やって来た。
肉体的疲労や精神的煩悶が引き潮のように彼方に消え去った。
体は軽くなり、精神は明瞭になり、感覚は鋭敏になる。
自身の能力が倍になったような感覚。
右手に力が戻ってくる。膝の痛みもなくなっている。
血の力で目覚めた体が、傷を急速に回復させていた。
飯田の全身を、強烈な陶酔感が包む。
しかし強烈な陶酔感に満たされながら、同時に心の奥底では不安と恐怖が蠢く。
あの時、彼女はこの聖なる愉悦の深遠に飲み込まれてしまった。
あらゆるものを奪い、あらゆるものを生み出す。
素晴らしく、また忌々しいもの。
脳裏に浮ぶのは、勢いを増そうともがいている黒い炎。
それは音を立てて精神の縁を啄ばむ硬いクチバシとなって、飯田に襲いかかる。
身動ぎ一つで均衡が崩れ、墜ちていきそうな精神。
それに耐えようと、飯田は歯を食いしばった。
- 238 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:09
- ――――
ぼんやりとした視界の中に、無残に切り裂かれた広場が横になって見えた。
「いい授業だったろ」
田中は上から聞こえた声に、うつ伏せのまま顔だけを向けた。
全身に痛みが走る。両腕は動かない。アバラも、何本か折れたはずだ。
しかし鋭い痛みではなく、全身が麻痺したかのような鈍痛。
SPは底をついた。風は作れない。最後は素手で殴りにいった。
それでも、男は両手を使わなかった。
「まあその年でよくやった方だ。もう少し経験を積めば
かなりの使い手になっただろうさ」
「……おぼえてろ」
「そうだな。俺が殺したなかに、かわいらしいお穣ちゃんがいたってな」
男のつま先が脇腹にめり込む。
それほど痛みは感じなかったが、体が仰向けになった。
男の左手が伸びて襟をつかむ。
脱力した田中の体を、男は片手で軽々と持ち上げた。
「さて、授業料をもらおうか」
男の右手がゆっくりと喉にかかる。
田中は目を閉じた。
本物の吸血鬼に牙などない。その力で獲物を引き裂き、滴る血を飲む。
それが勝者の権利。
(自分は、負けた……)
ベッドのなかで眠りに落ちる直前のように、ふわふわとした感覚のなかで、
田中は覚悟を決めた。
- 239 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:09
- 田中の顔になにかが当たった。そして突然の落下感。
足に力が入らず地面に座り込んだ。
なんとか目を開けて男を見上げる。
男の胸から白い手が、生えていた。
その手に、赤く脈打つモノが握られている。
「子供を苛めるなんて、よくないよ」
手が男の内側に吸い込まれた。
そして男の体が横倒しになって、視界から消える。
代わりに現れたのは、若い女。
「君も無茶しすぎ。まさか素手で殴りにいくとはね」
「……れいな……子供じゃ……なか」
薄れていく意識のなかで聞こえた、少しだけ呆れたような女の言葉。
田中はなんとかそれに答えて、意識を失った。
- 240 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:10
- ――――
飯田は、ゆらりと立ち上がる。
微かな音さえ立てず、周囲の空気に僅かな揺らぎも起こらない。
落ちてきた赤い水滴が、飯田の目の前を通過する。
通常よりも広がった視界の中を、水滴は不自然なほどゆっくりと落ちていった。
静寂と薄闇に沈んだホールの中で、飯田は独り立ち尽くす。
見えるところに、人の気配は無い。
しかし、視界に入る物も入らない物も、すべての事象が手に取るように理解できる。
里田の居場所が、正確に分かった。
そして、自分の為すべきことを思い出す。
静かに歩き始めた飯田の瞳は、鮮やかな緋色に染まっていた。
- 241 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:11
- ――――
- 242 名前:Memories of you 投稿日:2005/03/31(木) 04:12
- 第7話終了です。
ちなみに、紺野は能力無しの普通人。
他にも2人(辻除く)ぐらいはそうなりそうな感じです。
- 243 名前:カシリ 投稿日:2005/03/31(木) 04:13
- >>205 名無ファンさん 様
ありがとうございます。
基本的に全員かっこよく、とか思ってます。
- 244 名前:名無しファン 投稿日:2005/04/06(水) 17:55
- 更新お疲れ様でっす!
おぉ〜!ガキさん、特訓の成果が発揮されてますね〜
徐々に飯田さんの過去も明らかになってきましたね。
今回も楽しく読ませてもらいました!
- 245 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:26
-
硬く冷たい芝の上。
天然の緑とは違うコンクリートとゴムの香り。硬く冷たい芝の上。
頭上から眩い照明が照らす球場の中に、飯田は足を踏み入れた。
球場の中心には、高さ50cmほどの銀色のアングルで作られたステージ。
黒いフィルムが貼られたガラスの床。
ステージの下に設置された無数のスポットライトが、中心を照らしている。
「久しぶりの血の味はどうだった!」
ステージの上に立っている里田が、誰もいない球場に響き渡るほどの大声で問い掛けた。
遠くにいる友人を呼ぶような口調。
飯田は無言のまま、ステージに近づいていく。
里田は腕を上げて、無言のまま歩いてくる飯田に持っていたグロックを向ける。
そして笑顔を浮かべながら、引き金を引いた。
消音器を外した銃弾が、球場全体に響き渡る音と共に放たれる。
飯田の頭が後ろに弾かれて、僅かに足を止めた。
しかし元の姿勢に戻ると、何もなかったように再び歩き始める。
「ご満足いただけたようで!」
里田は望んでいた物を手にした子供のように、無邪気に笑った。
興味を無くした玩具を手放すように、グロックを投げ捨てる。
ガラスと金属が擦れる耳障りな音を立てて、端まで滑っていった。
ステージの下から見上げる飯田の瞳。
不気味に輝く緋色の瞳に貫かれながら、里田は挑発するように両手を広げる。
飯田はまるで見えない糸に操られるように、緩慢とも思える動きでステージに上った。
- 246 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:26
- 第8話
The World Is Waiting For The Sunrise
- 247 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:27
- 飯田は両手をダラリと下げて、里田に対峙する。
その全身を、瞳と同じ緋色の揺らめきが覆っていた。
「“汝こそ楽園の鍵を持つ。汝のみが、われらにこの恵みを授ける”
無理して飲まないのが馬鹿みたいだったでしょ?」
「……新垣里沙はどこにいる」
何かに耐えるように、抑えた口調。
飯田は問いには答えず、低い声で言った。
それを聞いた里田の瞳が、赤く変わる。
「私を殺せたら、教えてあげる」
里田が空気を切り裂いて飯田へと突進する。
接近すると棒立ちの飯田の喉に、前進の勢いを乗せて右貫手を放つ。
飯田は無造作に左手の甲でそれを上方に打ち払った。
喉に向かっていた里田の右手が勢いよく弾かれる。
想定していた以上の力に、里田は体勢を崩した。
飯田は体勢の崩れた里田の頭部に、右の手刀を水平に振る。
「ぐぅっ!」
さして力を入れたとも思えない攻撃に、里田の受けた左腕がくの字に変形する。
里田は腕の痛みに耐えながら、ガードの空いた脇腹を狙って左足で鋭い蹴りを放った。
当たる直前に、飯田は左拳で迎え撃つ。
硬いものの砕ける音と共に、里田の膝が砕かれた。
里田は苦悶の表情で、残った片足を使って大きく後ろに飛び退く。
「ちっ! ここまで違うものなの?」
愕然とした表情で、片膝をついたまま里田が舌打ちをする。
飯田はそんな里田を瞬きもしないで、無表情に見下ろす。
- 248 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:28
- 里田の折れた腕と砕かれた膝は、動かない。
傷は目に見える速度で回復しているが、まだ動けるほどではない。
「……しょうがない」
里田はポケットから小さなガラス製のアンプルを取り出した。
アンプルの頭を指で弾いて開ける。甲高く澄んだ音が、小さく鳴った。
目の前で、飯田に見えるように振ってみせる。
中に入った銀色の液体が揺れ動いた。
「人間の能力で“増幅”ってあるでしょ。人工的に合成されたものなんだけどさ。
これを飲むと吸血鬼でも同じ効果が得られるらしいよ」
そう言って口に持っていき、一気に飲み干す。
里田はアンプルを投げ捨ててうつむいた。
身体を包む障壁が、里田の体内に吸い込まれるように消えた。
里田は一度大きく震えたあと、ゆっくりと立ち上がる。
「はぁぁ……」
大きく息を吐き、顔を上げた。
里田の周囲に再び、障壁が現れた。その色は、黒に侵されたような赤銅色。
そして生命のない人工芝さえも枯らしてしまうような密度にまで凝縮された、妖気。
里田の妖気に、周囲の空気が禍々しく変質していく。
「はは! すごいよこれ! 力が満ちてくる!」
里田は突き上げてくる笑いを押さえきれないように、突然大声で笑い出した。
それは表情こそ笑いを形作っていたが、心理的要素のまったく無い笑い。
顔の筋肉が痙攣を起こした時に偶然笑いの形になったような、動機のない空の笑いだった。
「人間の血なんて問題にならない! これこそが、鍵だ!」
そんな里田の哄笑を聞きながら、飯田の表情に変化はない。
空ろに見える瞳が、目の前で起きていることをただ映していた。
突然、里田の笑い声が止んだ。
里田は真っ直ぐに立つと、飯田に顔を向ける。
口の端に笑いを残して、両腕を水平に持ち上げた。
「今度は一味違うよ!」
残像を残して、里田の姿が消える。
同時に、飯田は右の裏拳を背後に放った。
重い音と共に止められる。
里田は一瞬で飯田の背後に回っていた。
「よく見えたね」
そう言って、右手で受け止めた飯田の拳を握り潰す。
突き破った骨が、飯田の拳を血に染めた。
- 249 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:28
- 里田は後ろから膝の裏に蹴りを入れる。
膝立ちになった飯田の後頭部に、左の拳を叩き込む。
確かな手応えを感じながら、掴んだ右拳を引き寄せた。
目の前に現れた無防備な頭部に、左の手刀を振り下ろす。
飯田は逆らわずに、後ろに倒れるように手刀を避けた。
あまりの速度に刃物と化した手刀。
前に残った飯田の髪が、束になって切り取られた。
そして、朱色の霧が漂う。
そのまま振り下ろされた手刀は、飯田の右腕を付け根から切り取った。
力なく倒れていく飯田の腹部に、里田は容赦の無い廻し蹴りを放つ。
吹き飛んだ飯田が黒のステージを滑っていった。
片腕で立ち上がろうとする飯田の脇に、持っていた右腕を放り投げる。
「ほら、がんばらないと新垣は助けられないよ」
飯田の背中に見下したような視線を投げかけ、笑いだす。
里田の笑い声が無人の球場にこだました。
- 250 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:29
- ――――
回転扉をもどかしげにくぐると、異様な臭いが鼻を刺激した。
あとから入ってきた道重も、立ちすくんだ。
「なんですか、この臭い?」
先に入っていた中澤の背に向かって、新垣は口元を押さえる。
無言のまま立っている中澤の足元をみて気が付いた。
「血、ですか?」
「圭織がこの場所にいたなら……まずいで」
中澤が深刻そうに呟く。
同時に、微かな銃声が薄暗いホールに響いた。
「急げ!」
駆け出した中澤に慌ててついていく。
「でも、飯田さん血は飲まないって!」
「だからまずいんや! 吸血鬼にとって血液は麻薬と同じ、そんなもの
こんな大量に、しかも4年ぶりに浴びてみろ。おかしくなってまう!」
照明の消えた通路を走りながら、中澤は焦ったように答えた。
更に速度をあげた中澤に、新垣は懸命についていく。
- 251 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:29
- ――――
飯田は傍らに落ちている自分の右腕を拾って立ち上がった。
赤い肉と白い骨が覗く切断面から、出血はない。
相変わらずの無表情で里田を見ながら、右腕を肩口に押し付ける。
グチャリと、不快な音を立てた。
「……人に作られた“マガイモノ”で……」
力なく下がった右の手が、ゆっくりと握られる。
肩口の赤く醜い傷跡が、またたくまに消えていく。
「……私を超えたつもりか?」
不揃いな長さになった長い髪を、右手でかき上げる。
ちぎれた腕は、繋がった。
飯田は右腕に残っていたコートの切れ端を掴むと、無造作に後ろに投げ捨てる。
その姿が、残像も残さずに消えた。
薬で強化された里田の目でも追えない速度。
里田は、驚きながらも勘で前方に飛んだ。
前転して着地した里田の側頭部を、背後に現れた飯田の蹴りが襲う。
まともに食らった里田が真横に弾かれた。
左手を床について側転するように両足で着地。
すぐに飯田の姿を探すが、どこにもいなかった。
もう一度、勘でしゃがみ込む。
頭の上で刃が振るわれたような音。
すぐさま振り向いて背後をみたが、誰もいない客席が目に入る。
- 252 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:29
- 突然、首の後ろを掴まれた。
飯田の指が首に食い込む。首の骨が嫌な音を立て始める。
凄まじい膂力で里田の体が持ち上げられた。
「新垣はどこだ。言わないと痛い思いをすることになる」
「言っただろ、私を殺せば教えてやるよ!」
里田はそう言って背後の飯田に、踵で蹴りを撃つ。
飯田は当たる直前に右手で里田の蹴りをつかんだ。
そして、首と足首を持ったまま背後に放り投げる。
放物線を描いて里田の体が宙に舞った。
床に叩きつけられる直前に体勢を変えて、猫のように着地。
しかし体勢を崩して、床に額を打ちつけた。
右足が、動かない。
それでも立ち上がろうと、両腕を突っ張って上体を起こす。
その肘に、飯田の蹴りが振り下ろされた。
里田は不自然な方向に曲がった肘を押さえながら、床を転がって距離を取る。
膝立ちになった里田の背中に、固いものが押し付けられた。
「私は言ったとおり約束を守る。お前もたまには、真似をしてみるんだな」
言い終わった瞬間、轟音が球場に響き渡った。
里田の右胸を貫いた銃弾が、ステージのガラス製の床に拳大の穴を開けた。
倒れた里田が咳き込むと、血の塊が床を汚す。
飯田の手に握られたグロックから、硝煙が立ち昇っていた。
- 253 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:30
- ――――
中澤は後ろを走る新垣と道重に、手で止まるように合図する。
グランドへと続くゲートの手前に女が立っていた。
女の顔を見た新垣が、後ろからそっと声をかける。
「……あの人が、みうなさんです」
新垣の言葉に、中澤はもう一度女の顔を観察する。
敵意のない立姿、敵対するつもりはないように見える。
「急いでるんや、なんかようか?」
黙ってこちらを見ているみうなに、痺れを切らして中澤が声をかける。
みうなは、3人を順に見てから中澤を目を合わせた。
「……まいを、止めてほしいんです」
「なに言っとるんや? 圭織を殺して通路を開くつもりなんやろが!」
中澤は叩きつけるように大声で言った。
飯田の生体エネルギーを使うために、血を飲ませた。
里田は、飯田の命を使って本の能力を発動させるつもりだ。
- 254 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:30
- 血を飲んだ飯田は、安倍に匹敵する力を持っている。
里田がどれほど強いか知らないが、飯田に敵うとは思えない。
しかし新垣に言ったように、血を飲んだ飯田がおかしくならないとも限らない。
中澤は、焦っていた。
「違うんです……あさみの命が、かかっているんです」
みうなは平静を装ったような表情ではあったが、憔悴した声でそういった。
「どうゆうことや?」
「半年前に、1人で仕事をしていたときに捕まった。人質に、なっているんです」
ゆっくりと、静かな口調。
一言づつ区切るように、話を続けた。
「逆らえばどうなるか分からない。まいは、言いなりになるしかなかった。
人質を取った組織の命令を、聞くしかなかったんです」
みうなは力なく肩を落とした。
その姿は何かを諦めてしまったようにも見える。
「誰かに助けを……って、無理やな……」
みうなは中澤の目を見ながら頷いた。
「こんな仕事をしているんです。誰にも、相談できなかった……」
- 255 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:30
- 中澤は、みうなの瞳を真っ直ぐに覗き込む。
その瞳は、なにか不吉なものに苦しめられているように揺れていた。
嘘を言っているようには聞こえない。
「2週間前にあいつらが、飯田という人と戦え。そして、扉を開け。
勝ち負けは関係ない。戦って扉が開けば、あさみを返す。そう言っていきました」
中澤は、黙ってみうなの言葉に耳を傾けた。
「まいは自分の命で扉を開く。あいつらにそう言ったんです。でも……」
みうなの瞳から、涙が落ちる。
溢れ出した感情を抑えるように、口元を手で押さえた。
「まいを、止めてください」
うつむいたみうなは、震える声でそう言った。
中澤はそんなみうなを、やり切れない思いで見つめる。
「あいつらって、誰や?」
みうなは、中澤の言葉に顔を上げた。
赤く腫れた瞳で、中澤を真っ直ぐに見つめる。
そして、決心したように小さく頷いた。
「それは……」
みうなの言葉を打ち消すように、再度銃声が響いた。
中澤は舌打ちをしながら、みうなの背後にあるゲートを睨む。
「戻ってくるまでそこにいろ!」
そう言って、後ろの2人を促してゲートに向かう。
ゲートに入る直前、中澤は背後を振り返った。
背を向けて立つみうなの背中はとても小さく、微かに震えていた。
- 256 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:31
- ――――
里田が右の胸を押さえながら体を起こす。
しかし立ち上がれずに、飯田の目の前で座り込んだ。
里田の右足首は、ありえない方向に曲がっている。
飯田は蹴りを受けた一瞬で、里田の足首を破壊した。
座り込む里田の額に、銃口を向ける。
「この……ステージの下には……本と……魔方陣がある……」
肺を貫通した傷のため、里田はくぐもった声で言った。
「異界……への扉……を開くもの……」
「“Post tenebras lux”か?」
「よく……知ってるな。あれを参考に……魔方陣を改変したものだ。
“世界”が矯正を始める前に……削り取ったこの世界の隙間に異世界を……はめ込む」
「代替品で世界を騙す?」
「発動すれば……ここを中心に半径……1Kmが異界に変わる。
異界では……こちらの世界は干渉できない。
そして、こちらの世界に存在する異界には……むこうの世界の力も届かない。
つまりそのなかで通路を開けば……」
「通路が閉じない」
「そうだ」
里田が胸に当てていた手を離した。
銃弾に貫かれた服は血で汚れていたが、傷は治っていた。
「改変したことで、必要なエネルギーも格段に増えた。
必要なのは、人間など遥かに及ばない生体エネルギーを持つ、吸血鬼だ。
私かお前のどちらかがこの場で命を落とせば、完成する」
今日の通路の異常発生は、試した時の副作用。
飯田は微かに働く理性の力で、里田と会話をしている自分を意識する。
自分の言葉を、どこか遠いところで聞いているような感覚。
熱に浮かされたように考えがまとまらない。
- 257 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:31
- ふとポケットに手錠が入っているのを思い出して、手を入れた。
「……それでいいのか、飯田圭織?」
取り出した手錠を見て、里田が言った。
飯田の手が止まる。
「なぜ1人でここに来た? 仲間を呼んだ方が良かったんじゃないか?」
「なんの……ことだ?」
飯田は、手に持ったグロックを握りなおす。
「とぼけるな、外に集まってる奴らのことだよ。
血を飲んだお前ならわかったはずだ。
それとも……見られちゃまずいことでもする気だった?」
皮肉な、嘲るような口調だった。
飯田は無言で、里田の額に銃口を押し付けた。
肉の焼ける嫌な臭いが、鼻腔を刺激する。
「お前はいま、なんの為に戦った。新垣を助けたかったから?
この世界を守るため? 違うだろ?」
「……黙れ」
「殺したかったんだろ? お前に血を飲ませ、昔を思い出させた私を!」
「黙れ! 口を閉じてろ!」
銃底で、里田のこめかみを殴りつけた。
倒れた里田が、のろのろと亀のように起き上がる。
朦朧とした頭の中を、里田の言葉がやけに大きく鳴り響く。
膝立ちになった里田は、静かな瞳を向けた。
「お前は安倍にはなれないよ」
里田の顔の横を、流れた血が滴り落ちていく。
その色を、無意識に目で追う。
「お前は血に飢えている。命を奪うことに快感を感じている」
「……そうだ、だから彼女に憧れた。彼女は、尊敬に値する人物だった」
「確かに血を飲まず、そのくせ誰よりも強かった安倍は理想的だった。
だが、お前は安倍に嫉妬した。失望したんだろ? 誘惑に飲まれた安倍に。
そしてあの時、お前は自分の意思で……」
「違う! 彼女が望んだことだった!」
飯田の脳裏に、安倍の笑顔が浮ぶ。
- 258 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:31
- 彼女は罠にはめられた。自分の意志とは反して、血を飲まされた。
血の誘惑に墜ちた彼女は、止めてもらいたかったはずだ。
一番の親友である私に。
そして、誓った。
彼女の望んだ理想の為に、自分が戦うと。
この命が尽きる、その時まで。しかし……
――違った?
満ち足りた彼女の笑顔。彼女は心の底から満足していたように見えた。
あの時、彼女は手を差し出した。自分のところに来いと。
同じ道を進めばよかった? 彼女の手を拒んだのは間違いだった?
墜ちた彼女に失望したから、見捨てた?
「……違う」
飯田の口から発せられた言葉が、力なく宙を彷徨う。
安倍を失った直後、何も考えられずに部屋の片隅で膝を抱えていた。
自分自身とあの一瞬を心から憎み、いつ果てるとも知れない無益な後悔に苛まれながら。
その頃に戻ったかのように、白く塗り潰されていく頭の片隅を黒い何かが煌めく。
飯田は放心したように目を見開いて、里田に顔を向けた。
里田は追い討ちをかけるように、言葉をかける。
「なんで血を飲まなくなった。そうすれば理想に近づけるとでも思ったか?
完璧な理想になりたかった? 安倍の真似をしていただけだろ?」
里田は殉教者のように、胸の前で腕を組む。
そして、全身を包んでいた障壁が消えた。
頭を垂れて、静かに目を閉る。
「無理をしないで私を殺せ……安倍なつみを殺したように」
- 259 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:32
- 思考に霧がかかったように考えがまとまらない。
自分がどうすればいいかわからない。
里田の顔をみるだけで、引き金にかけた指に力が入る。
超近接射撃と特殊な弾丸。
あと少し力をこめるだけで、里田の頭が吹き飛ぶ。
吸血鬼とはいえ、回復の時間もなく一瞬で脳を破壊されれば死ぬ。
いま里田を殺せば魔方陣が完成する。捕まえるのが最上だ。
しかし、後頭部を突き抜ける銃弾。床に飛び散る血と脳漿。
そんな光景を脳裏に浮かべながら、飯田の胸がもどかしい期待感に膨れ上がる。
精神を侵そうと煌めく、黒い炎。
何年かぶりで口にした血のせいで、そんなことを考えているのか。
それとも、本来の自分を取り戻したのか。
なぜ自分が里田の死を見たいのか理解できないまま、引き金かけた指に更に力がこもった。
あと1mmで、撃鉄が落ちる。
飯田の胸が上下に波打つ。荒い息を繰り返しながら銃を強く押し付ける。
覚悟を決めたように目を閉じた里田の顔が、上がった。
黒い炎が燃え上がろうとする頭の中で、その顔が安倍の最後の顔と重なった。
- 260 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:32
- ――――
存在するのは丸い視界と異形の標的。
微かに打った心臓の鼓動が、世界に大きく鳴り響く。
標的の動きにあわせて、視界の中の十字線が修正した。
そして、引き金を絞る。
ライフルが肩に食い込み、スコープの視界が霞む。
視界が霞む一瞬前に、弾丸が目標に命中したのがわかった。
(これで打ち止めかな……)
紺野は小さく息を吐いた。
通路は閉じかけている。
中澤達が飯田を探しに行ってから、すでにかなりの時間が過ぎていた。
通路の近くで倒れている2人の男は放っておくことにした。
とどめ差そうかとも思ったが、気を失っている。
あとで聞きたいこともあった。
スコープから目を離し、周囲を見渡す。
石川の姿はすでにない。里田と本のことを話した後、田中を助けにいった。
紺野は、石川が田中を担いでその場から離れるのを確認してから、
通路から出てくる妖獣を撃ち始めた。
- 261 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:33
- 消音器をつけているとはいえ、10発以上撃った。
一応、通りを走る車の音に合わせて撃っていたが、誰か気がついた人が現れてもおかしくない。
紺野は立ち上がり、横に置いてあったケースの中にWA2000を丁寧にしまう。
空の薬莢も拾ってケースに入れ、しっかりとフタをした。
(それにしても……)
銃を離したことで安心したのか、考えないようにしていた疑問が頭をよぎる。
(タイミングが良すぎる)
都内で発生していた通路、今日この付近で発生した通路はなかったはず。
だからこそ、ここに向かおうと思った。
中澤からのメールが無ければ、少し見回って他の通路に向かっていた。
まるで、こちらの戦力を分散させるために発生したような通路。
紺野はケースを肩にかけると、入ってきた扉には向かわずに右に向かう。
縁の近くでしゃがんで、隣のビルを覗き込む。
古ぼけた給水タンクとエアコンの室外機が設置してあるだけで人影はない。
隣のビルとの間は3m。高さは向こうが1m程低い。このビルに上がる前に、確認してあった。
- 262 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:33
- ビルの間にある隙間は、月の明かりを飲み込んでもなお昏い。
奈落へと続く亀裂のように、紺野の目の前に横たわっていた。
紺野は立ち上がって数歩後ろに下がる。
(なにか、おかしい……)
石川はなぜ本の改変と、儀式がこの場所で行われることを知っていたのか。
それに本の改変に必要な知識と資金。そして、不自然な状況で発生した通路。
いま持っている断片的な情報だけで、判断は出来ない。
紺野は、偶然も奇跡も信じていなかった。
この世の全ては、必然が重なって起きる。
結果が予測できないのは、無限の要素が存在するためだ。
だからといって、起きたことを偶然や運の良し悪しで片付けるのは怠慢というもの。
無限の要素から直感で情報を選択し、選択した情報を論理的に組み立て、結果を推測する。
必要なのは、直感と論理。
紺野は目の前で口を開ける闇を飛び越えるため、走り出した。
- 263 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:33
- ――――
ゆっくりと銃をおろすと、反対の手に持った手錠を里田の胸に放り投げた。
「私には彼女の意志を継ぐ責任がある。
そして……破るわけにはいかない約束もある」
顔を上げた里田は、驚いたように目を見開いていた。
信じられない物でも見るような表情。
飯田は背後に感じた気配に振り返った。
「飯田さん!」
振り返ると中澤と道重、それに新垣が立っていた。
再び里田に向き直ると、小さく微笑んだ。
「それに、全部うまくいったしね」
飯田の思考は、朝日の前の霧のように晴れていた。
そして、黒い炎は消え去った。
- 264 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:34
- 里田は諦めたように一度大きく息を吐いた。
「うまくいった……か」
つぶやくように言って、飯田の背後に視線を向けた。
少しだけ残念そうに、唇を噛む。
「……最後まで、アイツらの……」
「なに?」
里田が、口の中で小さく言った。
聞き返した飯田を、里田は和らいだ表情で見上げた。
「私にとっては、そうじゃない……他に選択肢はないと言っただろ?」
そう言って、里田が左の客席に目を向けた。
つられて見た飯田の視界に、人影が写る。
客席の一番上、男が黒く長い棒のような物を構えている。
(ライフル!)
とっさに飛び退きながら、男に銃口を向ける。
右手に持ったグロックを左の客席に向ける。
そのほんの僅かな時間差が生死を分けた。
銃口が向く一瞬前に、男の持ったライフルから銃弾が放たれた。
ほぼ同時にグロックの引き金を引く。重なった銃声が、球場にこだました。
- 265 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:34
- 飯田は銃を下ろすと、倒れた里田に目を向けた。
飯田が放ったグロックの銃弾は、男の胸に命中した。
そして、男が放った銃弾は飯田には当たらなかった。
男は最初から里田を狙っていた。
銃弾は正確に頭部を貫通している。里田は絶命していた。
呆気にとられた飯田の足元で、光り輝く魔方陣が浮かび上がる。
同時に、飯田の視界が突然変化した。
自分を中心に視界に入る全てが、色彩と線と光の三重奏を構成する。
あるときは速く、またあるときは遅く、クルクルと回転を始めた。
飯田は奇怪な情景に囚われながら、冷静に考える。
里田の命で魔方陣が発動した。
このままでは、取り返しがつかないことになる。
(魔方陣を壊せば……!)
飯田は足元を見ようとした。しかし上下どころか自分がいまどんな姿勢なのかもわからない。
すでに何時間も経ったような感覚。
しかし頭の片隅では、ほんの数秒しか経っていないと理解している。
魔方陣の中で、時間と空間が断絶し、もつれあっていた。
- 266 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:34
- ――――
銃声と共に里田が倒れた瞬間、飯田の立っているステージが光に包まれた。
天井まで届きそうな円柱状の光のなかで、飯田がよろめきながら数歩後ろに下がる。
そして、座り込んだまま動かなくなった。
「道重!」
「はい!」
道重が能力を発動しながら走り寄る。
道重の能力は、確認されている能力の中でも稀有なもの。
人間の特殊能力も吸血鬼の障壁も、SPをエネルギーとして発動する。
道重は能力の届く範囲内の、他人のSPを無効化することができた。
生体エネルギーをSPに変換して本がその能力を発動するなら、道重の能力で抑えられるはず。
紺野の予想したように、ステージの光が急激にその高さを失う。
光の高さが1mほどに抑えられた。
しかし、力強く脈打つように光が強弱を繰り返す。
強力すぎる本の力で、道重の能力でも完全にはSPを遮断できない。
中澤は呆けたように座り込んでいる飯田に向かって叫んだ。
- 267 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:35
- ――――
「圭織! 今や!」
中澤の声で、視界と感覚が元に戻っているのに気が付いた。
慌てて立ち上がりステージを見渡す。
少し離れたところに、円形の魔方陣の中心があった。
飯田は手にしたグロックでその周囲を適当に撃つ。
甲高い音を立てて割れたガラスの下に、芝生が現れた。
(あれか!)
割れたガラスの下、芝生の緑の中に白く異質なモノ――開かれたページの端が覗いていた。
「お願いです、早くしてください!」
道重が上げた悲鳴のような声を聞きながら、銃を投げ捨てると飛び上がって魔方陣の中心に降り立つ。
右の手の平を、残っていた床に打ちつけた。
銀色のアングルを残して、ステージのガラスが大きく円形に砕かれる。
細かく砕けたガラスの破片が、空中を氷晶のように舞い散った。
舞い降りるガラスの結晶の中で、開かれたページに光で描かれたような文字が浮んでいた。
文字の光量が鈍く、鋭く、強弱を繰り返す。
そして本から感じるのは、里田の命。
流れ出た里田の命の灯火を、本が貪欲に吸収していた。
- 268 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:35
- 足元の本に向けて、飯田は右手を引く。
飯田の意志を理解したように、本がその輝きを突然増した。
「しげさん!」
悲鳴のような新垣の声と同時に、右手で地面ごと本を貫く。
断末魔に上げる咆哮のように、本から強烈な光の奔流が放たれた。
反射的にかざした手の隙間から、質感を伴った強烈な光がこぼれ出す。
飯田の体が、白い闇に呑み込まれた。
飯田が強烈な光に目を瞑った瞬間、全身に強烈な力を受けて弾かれる。
ステージから落ちた飯田は、背中から地面に叩きつけられた。
息が止まるような衝撃に耐えながら、すぐに上体を起こす。
そして、見た。
ステージには、空中に浮ぶ黒い穴。
そして中心には、めまぐるしく変わるイメージの連続。
雪と氷に覆われた大地、熱砂と奇岩が立ち並ぶ砂漠、高層ビルが立ち並ぶ都市、
密林に囲まれた遺跡、水平線以外は何も見えない海の上。
この世の全てが、映し出されていた。
一秒で百の光景が写るそれに、本が吸い込まれていく。
そして、中心に溶けるように消えていった。
同時に黒い穴も、自分自身の中心に落ち込み、消えていった。
- 269 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:35
- 飯田はゆっくりと立ち上がった。
周囲を見渡す。
球場の中はなにも起こらなかったように、静まり返っていた。
中澤は複雑な表情で、こちらを見ている。
その後ろで、倒れた道重を新垣が抱かかえていた。
そして里田が倒れていたところには、灰のような物体が小さな山を作っていた。
吸血鬼の末路。二千年の時を経ても変わらない、むこうの世界の特質。
こちらの世界に住んでいても、結局吸血鬼は妖獣と変わらない。
人間と同じ思想を持つようになり、どれだけ社会に溶け込んでいても変わらない特質。
飯田は大きく空気を吸い込む。
目の前の現実が、吸血鬼をこの世界とは異なる存在だと見せつける。
だがむこうの世界の過酷な生存競争に疲れた吸血鬼は、こちらの世界に安住の地を求めて移住した。
それは侵略ではなく、共存だったはず。
彼女がいなくなった今、誰かが踏みとどまって戦わなくてはならない。
泣き言をいっても、望んだ結果は生まれない。
- 270 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:36
- 飯田は一度目を閉じて、開けた。
里田だったモノを、強い決意を込めた表情で見つめる。
――もうすぐ夜も明ける。
飯田は戻るべきところに戻るため、踵を返す。
しかし、その瞳の奥には安息を得た者に対する、微かな羨望の色。
飯田は瞳の奥に宿った物を振り切るように、足を踏み出した。
- 271 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:36
- ――――
- 272 名前:The World Is Waiting For The Sunrise 投稿日:2005/04/11(月) 10:37
- 以上で、8話終了です。
- 273 名前:カシリ 投稿日:2005/04/11(月) 10:38
- >>244 名無ファンさん 様
本当は全員で大暴れ、って感じにしたかったのですが、
こんな感じになりました。
- 274 名前:名無しファン 投稿日:2005/04/20(水) 20:32
- 更新お疲れ様です!
うはぁ〜!!!
画面に近付いて前のめりになりながら読んでしまいました〜!
凄いです!!過ごすぎです!!
更新楽しみにしてます!
- 275 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:22
- 薄い闇が支配する広場の中心で、黒い水面が外灯の光を受けて煌めいている。
普段は濁った水を掻き混ぜている噴水も、今は静かにその姿を微かな光の下に晒していた。
今夜は、暖かい。
広場を照らす光の外側で、飯田は目を閉じて待っていた。
脱いだコートを片腕に下げ、緑の葉に覆われた桜の木に背をあずけたまま、
周囲の闇に溶け込んだように動かない。
彼方で鳴った音に、飯田は目を開けた。
薄い雲に覆われた空に、霞んだ月が仄かに光っている。
(そういえば、雨が降るんだっけ……)
再び響いた春雷に耳を傾けながら、飯田は空に浮んだ朧月を眺めた。
- 276 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:22
- 第9話
春のごとく
- 277 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:23
- ――――
深く息を吸い、吐く。
紺野は深呼吸をしてから、店へと続く木製の扉を開いた。
正面の窓ガラスから差し込んでくる朝の日差しに、目を細める。
眩しい光の中で書棚の前で立っていた飯田が顔を上げ、視線を向けた。
飯田に向かって小さく頷く。
一緒に店に入ってきた中澤は、真ん中にあるテーブルの上に腰掛けた。
カウンターに座った紺野の前に、本を棚に戻した飯田が立った。
「結論から言うと……合成でした」
手に持ったファイルを飯田に差し出す。
写真が、ファイルの一番上にクリップで留められていた。
「人物と背景が、別々に撮られた物です。
背景については日付どおり、去年の夏以降の物。
背後のビルの中に、去年建てられたものがあります。確実です」
飯田は視線をファイルに落とし、ゆっくりとめくっていく。
「人物の方は……分かりません」
紺野は少しだけ声のトーンを落として、そう言った。
ページをめくる手が、僅かに止まる。
「確かに4年前の写真と比べると、多少の違いがあります。
しかし仮に生存していたとしたら、写真自体を合成する必要がない。
同じような写真を修正した。そう、考えられます」
「……そっか」
飯田の手が再び動きだし、ページをめくり始めた。
- 278 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:23
- 飯田がファイルを閉じた。
一番上に挟んであった写真だけを抜き取る。
一度写真に視線を落としてから、丁寧にコートの内ポケットにしまった。
「こっちは要らない」
飯田は残ったファイルを、静かにカウンターに置いた。
紺野はファイルを手に取って、飯田を見上げる。
「いいんですか?」
「なっちの事は、最初から分かってたことだしね」
真剣な表情で聞いた紺野に、笑顔を向けた。
ファイルには写真を解析した結果が書いてある。
しかし合成ということ以外、たいしたことは分からなかった。
飯田の表情に、落胆したようすは無い。
予想とは違う飯田の反応に戸惑いながら、受け取ったファイルを膝の上に置いた。
「この前のことで、なにか手掛りがって思っただけだよ」
「関係してた組織は潰した」
後ろで聞いていた中澤が、タバコを1本抜き出して咥える。
「ここは禁煙です」
冷たく言った紺野の声に、中澤がタバコを咥えたまま苦笑する。
「くわえただけやん、吸わへんて」
そう答えて、くわえたタバコを上下に揺らす。
飯田は中澤に視線を向けた。
「みうなも姿を消したまま、あさみって子も見つからない。
それに、なんでなっちのことを知ってたのか。
写真はどこから手に入れたのか。
分からないことが多すぎる。まだ、終わってないよ」
飯田の言葉に、紺野は目を細めた。
卑劣なやり方で里田を動かし、本を使ってあれほどの計画を立てた組織。
潰した小さな組織が立てたとは、思っていない。
あれで終わったと言う方がおかしい。
「そうかな……みうなの言った事だって、ほんとかどうか分からん」
中澤は名残惜しそうに、くわえたタバコを箱に戻した。
何でもないような口調、そして釈然としない表情。
だが相変わらず、感情が顔に出る。
本心では、みうなの言葉を信じているのだろう。
飯田にも分かったのか、紺野と目を合わせて僅かに口元を綻ばせた。
- 279 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:23
- 飯田は紺野にお礼を言って、扉に向かう。
その背中に、中澤が声をかけた。
「髪、切ったんやな」
「もう2週間だよ? 今ごろ気付いたの?」
中澤の言葉に、飯田が驚いたように振り返った。
ショートにした飯田の髪が微かに揺れる。
「アホか。前から知とるっちゅうねん」
呆れたような中澤の声を聞きながら、紺野は飯田の姿を眺めた。
髪を短くしたことで、活動的な印象を与えている。
手入れの行き届いた長髪も綺麗だったが、飯田には似合っている。
飯田は一呼吸置いてから、明るい表情で答えた。
「これから忙しくなりそうだしね。
まあ、心機一転頑張っちゃおうかなって、思ってさ」
飯田は明るい声でそう言うと、片手を上げて出て行った。
- 280 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:24
- ――――
学校の教室には、無人の机が整然と並んでいた。
何人もの卒業生が使っていたのだろう、机の表面には書いた本人しか意味の分からない
記号のような落書きが、所々に掘り込んであった。
一段高くなっている教卓で、禿げ頭の教師が講義を続けていた。
田中は机の傷を、意味も無く指でなぞる。
教師の話は、ほとんど聞いていなかった。
都内にある高等学校。
対外的にはそうなっていたが、HPが運営する学校の1つだった。
一般の生徒に混じって、能力を持った訓練生が集められている。
田中は放課後に行われる、HPの研修を受けていた。
里田の事件から、2週間が経っていた。
体内を通るSPは、傷の直りを早くする。
痛みもあるが、動けないほどではなかった。
しかし、傷ついたプライドは簡単には治らない。
見せつけられた能力差。
田中は戦闘になれば、絶対の自信があった。
机の傷をなぞっていた指が止まる。
田中は窓に、視線を移した。
吹奏楽部が鳴らしているデタラメなBGMをバックに、放課後の校庭で部活の生徒が汗を流している。
戦闘などとは無縁な、平和な光景。
田中はHPの仕事を、誇りに思っていた。
平和を脅かす存在と人知れず戦い、正義を守る。
持って生まれた能力はその為にあり、それが能力を持った者の義務だ。
どれほどの速さで動くことができるのか。
どれほどの力を持っているのか。
そして、どうすれば障壁を破れるのか。
知りたいのは、吸血鬼の身体能力と障壁の限界。
田中は机の上の両手を、強く握った。
- 281 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:24
- 研修が終り、教師が出て行った。
退屈な時間が終り、田中は机の上の教科書を鞄にしまう。
脇腹を軽く突付かれて、顔を上げた。
「れいな、聞いてなかったでしょう?」
制服姿の亀井絵里が、授業中と同じ笑顔と楽しげな口調で言った。
手の中で、田中をつついたシャーペンをクルクルと回す。
中学の終りに編入してきた亀井は、席が田中の隣だったこともありよく話すようになっていた。
「いろいろ考えることがあるの! 絵里みたいに頭が幸せな人とは違うってこと」
「うん! 絵里幸せだよ。れいなと話してると楽しいし」
皮肉が通じなかったのか、亀井はニコニコと笑いながらシャーペンをしまった。
田中は苦笑すると、一緒に研修を受けていた道重に声を掛ける。
鞄を持って立ち上がった。
- 282 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:25
- 学校近くの公園には、ブランコの影が長く伸びていた。
砂場で遊ぶ子供の姿もなく、無人の砂場にピンクのゴムボールが転がっている。
田中は、乗っているブランコを小さく揺らしていた。
「それで、さゆ。結局どうすると?」
横で同じくブランコに乗っている道重に、なるべく深刻な口調にならないように話し掛けた。
「う〜ん。やっぱり他の能力者は組みたがらないみたいで、配属先が決まらないんだって」
「そっか……」
道重の能力である“遮断”は敵味方の区別なく、範囲内の全ての能力を無効化する。
能力を使って妖獣を倒す能力者にとっては、相性がよくない。
道重はうつむいたまま、足を地面についてブランコを止める。
「実家に帰って普通に暮らすのも、悪くないと思ってるの」
「実家って、山口だっけ?」
「そう……まあ、しばらく東京には居ると思うから、もしかしたら就職先も見つかるかもね」
- 283 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:25
- 道重は持っていたミルクティーを飲みながら、公園の入り口に顔を向ける。
田中はつられて視線を移しながら、コーヒーのフタを開けた。
「れいなと絵里は、今日から飯田さんの所だっけ?」
亀井は腕を組んで自販機を睨んでいる。
なにを買うか迷っているようだった。
「なぜか、そうなったんだよね……」
吸血鬼の事を知るには、やはり傍にいる方がいい。
渋る飯田を何とか説得して、一緒に働くことを了解させた。
飯田を説得するときに、亀井も何度か一緒について来た。
事務所にいる辻や新垣と遊んでいるだけだったが、いつのまにか一緒に働くことになっていた。
「やっぱりこれだよね〜」
やっと決まったのか、亀井が2人の所に戻って来た。
その顔は、やっぱり笑顔だった。
「なに買ったと?」
「タブクリア」
「なにそれ?」
「え〜! れいな知らないの? 透明なコーラだよ。ほんとに知らないの?」
「知らん」
冷たく言った田中に笑顔を見せて、亀井は知らない名前のジュースおいしそうに飲み始めた。
- 284 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:25
- 「そろそろ行こっか」
田中は腕時計を見ながら、そう言った。
このまま飯田のところに行く予定。
荷物はすでに送ってある。
立ち上がった田中は、公園の入り口に立つ2つの人影に気が付いた。
2人とも黒いキャップと大きめのサングラス。
田中たちをジッと見ている。
1人は田中よりも身長が低く、帽子から見えている髪は金髪。
もう1人は黒髪で、身長はそれほど大きいわけではない。
2人とも、田中たちの方に顔を向けている。
公園の出口は1箇所しか無い。
不審に思いながら、田中は横を通り過ぎようとした。
「え〜と、君達?」
「は? なんですか?」
関西弁が混じっているのか、イントネーションが微妙に違う。
声を掛けてきた黒髪を、田中は鋭い視線で睨む。
「そんな目で見なくてもええやん……」
拗ねたようにそう言って、サングラスをずらした。
黒目がちな瞳が印象的な、少女。
田中とそれほど年は変わらないように見える。
- 285 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:26
- 現れた瞳で、3人の顔を順番に見た。
「君たち、能力者だよね? 配属先は決まってる?」
なんでもないような口調。
見知らぬ人間が口にした言葉に、田中は警戒した。
(こいつ、なんで能力のことを知ってる?)
一歩後ろに下がって、距離を取る。
両側にいた道重と亀井が、その場に残った。
「まだ決まってないの」
「飯田さんの所に行くんですよ〜」
「ちょ、ちょっと何答えてんの?」
慌てて元の位置に戻ると2人の肩を揺さぶる。
小さい金髪が、田中を制して質問した。
「名前は?」
「道重さゆみなの」
「亀井絵里です!」
「だから、何でそこで教える!?」
- 286 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:26
- 不審な2人組みは、一瞬お互いを見ると小さく頷く。
小さい金髪が、道重の方に向き直った。
「就職おめでとう!」
道重の手を無理やり取って握手すると、もう1人を振り返る。
拳を握り親指を立てた。
「OKだ!」
「了解!」
携帯を取りだして何処かにかけ始める。
「だから決まってないんですよ?」
「すぐに来ます!」
「分かった!」
金髪は道重の声を無視して、腕を取りながら公園の外へと引っ張る。
- 287 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:26
- 白いワゴン車が、田中達の方に向かって来た。
止めようとした田中の前に、その場に残った黒髪の少女が
間に入るように立ちふさがる。
片手を田中の肩に置き、反対の手でポケットから名刺を出した。
「彼女の就職先。よかったら後で連絡ちょうだい」
そう言って笑顔でウインク。
田中たちの前で、タイヤを鳴らしながらワゴン車が急停止した。
スライドドアが開くと、小さい方が無理やり道重を車に乗せる。
「小川! 出せ!」
「いきますよ〜!」
道重を乗せたまま急発進。飛び乗った黒髪の少女が走りながらドアを閉めた。
あっと言う間に、田中の視界から走り去る。
田中と亀井は一緒に、渡された名刺に視線を落とした。
「え〜と……」
「よかったね。就職決まったんだ!」
本気で嬉しそうな亀井の声を聞きながら、田中は名刺と道路の先を交互に見ていた。
- 288 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:27
- ――――
突然、視界に光が飛び込んでくる。
電車の窓からは、大きな公園と陸上競技場が見えた。
辰巳の駅を過ぎて、しばらく経ったところだ。
田中は、黙ったまま俯いて自分の靴先を見つめている。
亀井は向かいの窓から見える景色を、眩しそうに眺めていた。
2人が乗っている車両に、他の乗客はいない。
電車がレールの継ぎ目を通る音だけが、車内に響いていた。
- 289 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:27
- ――――
「警察!」
「ちょっと待って、れいな落ち着いて」
道重が連れ去られたあと、しばらくしてから我にかえった田中は慌てて携帯を取り出す。
「落ち着いてる場合じゃなか! 拉致! 監禁!
何とかしないと、さゆが殺されて、犯される!」
叫びだした田中の目の前に、亀井は人差し指を立てる。
「いきなり警察に連絡したら危なくない?」
「なにが!」
「あの巧みな話術、連れ去った手際の良さ。相手は本格的な組織だよ。
下手に警察が動いた事がバレると、さゆがますます危険になるかもってこと」
「……巧みな話術ってのが気に入らんけど。じゃあどうしたらよかと?」
田中は携帯を握り締めて亀井を見た。
亀井は、いつもの笑顔を田中に向ける。
「相手はおそらく能力者。ここは飯田さんに相談するべきだよ」
「そうか!」
さっそく携帯を開く田中の耳元で、亀井がささやく。
「……盗聴されてるかもよ?」
振り返った田中の顔は、泣きそうだった。
――――
- 290 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:29
- 無駄に広くてキレイな新木場の駅に着く。
田中は亀井を急かして改札を通り、階段を駆けるように下りた。
「本当にだいじょぶかな?」
心配になって尋ねた田中だが、亀井は駅前にあるラーメン屋のサンプルを見ていた。
「大丈夫だって、殺すつもりならあの場でヤッてたでしょ」
「ころ…! さゆ、殺されると?」
「だから大丈夫だって……それよりさ。この食品サンプル。
1個4000円ぐらいするんだって。本物より高い偽物なんて、面白いよね」
「面白いわけなか!」
亀井は真剣な表情で、田中を振り返る。
「冗談だよ。早く飯田さんのとこ、行こ」
「そ、そうやね! 急ごう!」
そう言って、田中は走り出す。
亀井は面白そうに田中の背中を見ながら、歩き出した。
- 291 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:30
- ――――
辻が楽しそうに、駐車場に隅にある花壇にジョウゴで水を撒いている。
飯田は目を細めて、その姿を眺めた。
花壇には、いろいろな種類の植物が植えられている。
一度辻に名前を教えてもらったが、植物に興味の無い飯田はすぐに忘れてしまった。
見たことがあるような花が咲いている物あるが、どう見ても熱帯系の植物もある。
「だいぶ大きくなったね」
「そうれすね。そろそろしゅうかくの時期れす」
「これが料理の隠し味なんだ?」
「ちがいます! 乾燥させてくすりにするです」
怒ったように返事をした辻の頭に手を乗せる。
「冗談だよ。圭織も後で手伝う」
辻に笑いかけてから、飯田は駐車場の入り口を振り返った。
通りを走る車の排気音に、聞きなれた音が混じっている。
- 292 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:30
- しばらくすると新垣が乗ったスクーターが入ってきた。
「おはようございま〜す!」
飯田の前で停まり、新垣はヘルメットを脱ぐ。
新垣はしゃがんで手入れをしている辻の背中から、花壇を覗き込んだ。
「おぉ! だいぶ育ったね」
「そうれす。そろそろ収穫のじきなんれす」
「まさか、これ料理に使うの?」
不安そうに尋ねた新垣の言葉に、飯田は声を殺して笑った。
「……どうしてもというなら、食べさせてあげます」
辻はゆっくりと振り返って笑顔を見せる。
「どうなっても知りませんけどね」
目が、笑っていなかった。
- 293 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:31
- スクーターにまたがった新垣に、辻が運転させろと言い出した。
無理やりハンドルを握ると、嫌がる新垣を後ろに乗せる。
スクーターはフラフラと蛇行しながら、はしゃぐ2人を乗せて建物に入っていった。
『飯田さ〜ん!』
2人が入っていった建物に視線を向けていた飯田は、自分を呼ぶ声に駐車場の入り口を振り返る。
走ってくる田中と、その後ろをゆっくりと歩いてくる亀井の姿があった。
飯田の前まで来ると、弾む息が整う前に田中が名刺を取り出す。
そして飯田の顔に向かって差し出した。
「飯田さん! さゆが攫われて! 2人組みが! ここに就職して! 殺されるかも!」
「おちつけ田中。さゆって道重のこと? 攫われたってなに?」
飯田は出された名刺に視線を落とす。
見覚えのある名前が書いてあった。
「スカウトされたんですよ」
ようやく追いついた亀井が答える。
- 294 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:32
- 落ち着いた様子の亀井を見てから、飯田は田中に顔を向けた。
ようやく息も整ったのか、泣きそうな顔ですがるように飯田を見ていた。
「え〜と。つまり道重が攫われて……スカウトされて、殺される?」
「そうなんです! なんとかしてください!」
「最後のところは想像なんですけどね」
もう一度、名刺を見て飯田は尋ねた。
「そのスカウトしたのって、すごくちっちゃい奴じゃなかった?」
「そうです!」
飯田は、田中の肩に手を置いた。
「大丈夫だよ、そいつ知り合いだから。あとで事情聞いとくよ」
「そうなんですか?」
「そう。大丈夫だからとりあえず中に入って、ののとガキさんに挨拶してきなよ」
「よかった〜。本当にどうしようかと思いましたよ」
ほっとしたような表情でそう言って、田中は建物の方へ走っていった。
田中が建物に入ったのを見届けて、飯田はその場に残った亀井に顔を向ける。
「あんた、心配ないって分かってたでしょ?」
「当たり前ですよ。有名どころは調査してあります。あのちっちゃい人も有名ですから」
すました顔でそう言って、亀井は建物の方へ歩き出した。
「知ってたのに、なんで田中に教えなかったの?」
「軽い仕返しですね。それに……」
振り返った亀井は、クスっと笑った。
「オロオロするれいなも、すっごくかわいかったし!」
悪戯に成功した子供のような笑顔で、立てた人差し指を唇に当てた。
- 295 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:32
- ――――
強い風が、暗い広場を駆け抜けた。
飯田は背をあずけていた桜の木から離れ、手櫛で乱れた髪を整える。
目の前を、花弁が舞い落ちてきた。
それを手の平で受け止め、視線を落とす。
緑に覆われた桜のどこに残っていたのか。それは、最後に残った桜の花弁。
飯田は闇の中で白く浮き上がったソレを、眺めた。
目の前で誰かが死んだのは、何度目なのか。
飯田の記憶に残る、さまざまな人々。
助けられなかった者も、自分で手を下した者もいる。
浮んでは消える人々を思って、飯田は唇を僅かに噛んだ。
里田は親友を救うために生きて、死んだ。
もちろん里田のやったことは、許されることではない。
それでも、里田は舞台の幕を引き、全てを無にする安息を得た。
飯田は瞳を閉じて、静かに息を吐く。
血と罪に穢れた自分に、もしも許されるなら。
――里田と同じ、安息を。
許されるはずのない願いを心の奥にしまいこみ、飯田は目を開ける。
夜と同化しそうな儚さを漂わせて、再び桜の木に寄りかかった。
- 296 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:33
- 風が止み、音が消えた薄闇を、突然響いた無線機のノイズが破る。
『飯田さん、発見です! ……田中! 勝手に行くなっ!』
『援護に行きま〜す!』
『お先に』
『ちょっと亀井? 辻さんまで! 待てって言ってるでしょ!』
怒ったような新垣の声を最後に、無線が切れた。
苦笑を浮べた飯田の姿が、柔らかい光に包まれた。
手の上の花弁が、鮮明に浮かび上がる。
見上げると雲の切れ間に入った月明かりが、頭上を覆う枝葉の隙間から零れ落ちていた。
今でも、ときどき考える。
あのときの行動は、正しかったのか。
どれだけ考えても、答えは出ない。
確かなことは唯一つ。
(私は救うべき親友を……この手で殺した)
変わらないのは、たった一つの事実。
その事実がある限り、戦わなければならない。
飯田は表情を消して、花弁の乗った手を強く握る。
そして、闇の中へと走り出した。
- 297 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:33
- ――――
- 298 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:33
- 以上で第9話終了です。
- 299 名前:春のごとく 投稿日:2005/04/22(金) 13:34
- >>274 名無ファンさん 様
いつも読んで頂いて、ありがとうございます。
次回の更新は、早いです。
- 300 名前:エピローグ 投稿日:2005/04/23(土) 09:40
- ――――
- 301 名前:エピローグ 投稿日:2005/04/23(土) 09:40
- 白い壁に映し出された映像の光で、暗い会議室がぼんやりと浮かび上がる。
真ん中の空いた、大きく丸いテーブル。
並べられた椅子に1人の女が座っていた。
椅子についた肘掛に腕を乗せ、頬杖をついて映像を眺めている。
プロジェクターの映し出している映像が切り替わった。
映し出されたのは、グランドの真ん中に作られた即席のステージ。
そして、飯田の姿。
音のない映像の中で、飯田が動き出した。
もう1人の相手、里田まいと共にステージ上をめまぐるしく動き回る。
「予想以上、かな?」
女は正面の映像に視線を向けたまま、後ろに立っている石川に声をかける。
壁を背にして立っていた石川は、女の言葉に頷いた。
「飯田さんを、利用すると思う?」
映像から目を離さない女の後ろ姿に、石川は問い掛ける。
「この映像は“あっち”から頂いたものだからね。そう考えるのが妥当でしょ」
女は首だけを後ろに向けて、石川に顔を向けた。
逆光のせいで、女の表情はよく見えない。
しかし口元が笑いの形に歪んでいるのは、確かだった。
「今の力を見るために、里田を利用したんだろうしね」
女が再び映像に顔を向ける。
石川も視線を移した。
飯田の前で座り込んだ里田が、映し出されていた。
- 302 名前:エピローグ 投稿日:2005/04/23(土) 09:41
- 凍える鉄槌
〜エピローグ〜
- 303 名前:エピローグ 投稿日:2005/04/23(土) 09:41
- 石川は手に持ったリモコンでプロジェクターの電源を切り、照明をつけた。
女は大きく伸びをしてから、椅子から立ち上がる。
首筋に手をやり、頭を廻した。
石川と向かい合うように、正面に立つ。
真剣な表情で、石川の顔を見た。
「それで“あさみ”っていう子は?」
かけられた言葉には答えず、石川は黙って女を見つめ返す。
無言で見つめるその表情が、女に答えを教えた。
「……しょうがないか」
僅かに視線を逸らし、少しの哀れみを込めて女は言った。
「紺野あたりが気がつくかもしれない」
感情を押し殺したような口調で、石川が問い掛ける。
女は片手を上げて頭を掻いた。
「そうだね。けど基本的にあの子の知識は紙の上の物だからさ。
気付くにしても時間がかかる。使われた組織は消されたし、証拠も残ってない」
「写真は?」
「あれが“あっち”に渡ったのは痛かったけど、
最終的には合成ってことになるはず……実際、合成もしたけど」
問い掛けた石川に笑顔を見せて、出口に向かった。
「つんくは?」
「まだ準備に時間もかかるだろうし、考えを変える可能性もないわけじゃない。
ほっといてもいいよ」
どうでもいいような口調でそう言った。
扉に手をかけたところで、思い出したように振り向く。
「それにね、“切り札”はこっちにある」
自信に満ちた表情でそういい残すと、部屋を後にした。
- 304 名前:エピローグ 投稿日:2005/04/23(土) 09:42
- 残された石川は部屋の照明を消して、プロジェクターのスイッチを入れた。
眩い光の下で、仲間に向かっていく飯田の姿。
石川は翳りのある表情で、その姿を見つめた。
4年前、誰にも相談することなくHPを抜けた。
そのときの判断は間違ってなかったと、確信を持って言える。
映像を見ながらリモコンを持った石川の手に、僅かに力がこもる。
突然、渇いた音が室内に響いた。
驚いた顔で、石川は自分の右手に視線を落とす。
手の中で、プラスティック製のリモコンが割れていた。
石川は表情を消して、リモコンをテーブルに戻すと再び顔を上げた。
映像が終り、映すものがなくなったスクリーンが白く輝いていた。
石川は強い光から視線を逸らして、電源を切る。
扉から漏れる薄明かりだけが、部屋を完璧な闇に沈むのを辛うじて抑えていた。
広がる闇に拘束されたように、石川は身動きもせず立ち尽くす。
闇の呪縛を解くように、石川は諦めにも似た感情を込めて溜め息をつく。
僅かに光が漏れる扉に向かって、歩き出した。
- 305 名前:エピローグ 投稿日:2005/04/23(土) 09:42
- ――――
- 306 名前:カシリ 投稿日:2005/04/23(土) 09:43
- 以上で、とりあえず終了です。
- 307 名前:カシリ 投稿日:2005/04/23(土) 09:44
- 読んで頂いた皆さん、本当にありがとうございました。
レスを貰ったことが、とても励みになりました。
続きは書くと思いますが、しばらく時間がかかります。
再開したときは、またよろしくお願いします。
- 308 名前:名無ファン2 投稿日:2005/05/06(金) 23:09
- いつも更新を楽しみにしてました。
続き期待しています。
- 309 名前:名無しファン 投稿日:2005/05/09(月) 22:37
- 遅くなりましたが更新乙です!
完結おめでとうございます!いやぁ、はまらせてもらいました。
続編、楽しみにしています。頑張ってくださいね!
- 310 名前:プロローグ 投稿日:2005/06/23(木) 15:48
- ――――
- 311 名前:プロローグ 投稿日:2005/06/23(木) 15:49
- 外灯さえ立っていない荒涼とした大地を走る車内に、ガラスを叩く雨音だけが響いている。
この地域では珍しい降雨。
街まではまだ、かなりの距離があった。
突然の激しい雨と高い気温のため、一気に湿度が上がった車内は蒸し暑い。
ハンドルを握っていた女が、片手で頭の部分を覆っていたフードを跳ね上げた。
現れた髪が、肩の下で揺れる。
前髪が、汗で濡れた額に張り付いた。
女は気温が高いこの土地では、不釣合いな格好をしていた。
首元まで覆った長袖のハイネックのシャツ、ゆったりとしたカーゴパンツ。
両手には革のグローブをはめ、ジャングルブーツを履いている。
すべてを黒で統一したファッション。
睨むように前を見つめる瞳も、研磨された黒曜石のように漆黒の光を放っていた。
女は額に張り付く髪の毛を嫌がるように首を振り、バックミラーに目を向けた。
後部座席のさらに後ろ、追随する車のない道路を映した鏡は、光のない闇だけを見せている。
しかし、女にはわかっていた。
両手でハンドルを握り直すと、アクセルに乗せた足に力を込める。
(……近い)
車外を支配する夜の闇のなか、雨は降り続いている。
ハイビームにしたライトが前方に続く道路と、降り注ぐ雨粒を照らしていた。
- 312 名前:プロローグ 投稿日:2005/06/23(木) 15:50
-
凍える鉄槌 -Second season-
プロローグ
- 313 名前:プロローグ 投稿日:2005/06/23(木) 15:51
- 女が運転する車は左ハンドルだった。
右腕を伸ばして、助手席に無造作に置かれていた銃、イングラムを握る。
短時間での瞬発力を求めた、小型の凶器。
大型のハンドガン程の大きさながら、連射速度は毎分千発に達する。
両手を使って、銃口の減音器を外す。
ハンドルから両手を離しているが、対向車もないこの道で事故など起こすはずはない。
後ろも見ずに、外した減音器を後部座席に投げる。
銃に付いていた弾装を外して、これも後ろに投げた。
ダッシュボードを開け、中に入っていた新しい弾装を取り出して装填する。
ボルトを引いて膝の上に置くと、右手をブーツに伸ばす。
ブーツの脇に取り付けてあるナイフを、音も無く抜いた。
両刃のダガー型。刃と柄が一体のフルチタン製。
剥き出しの金属が、ヘッドライトの光を受けて鈍く輝く。
かなり前から変化のない道路を見ながら、ナイフを持ち替えた左手でハンドルを握る。
右手は、膝の上に置いた銃に乗せた。
頭の片隅で断続的に鳴っていた警報の間隔が、短くなっていく。
本能の鳴らす警報を聞きながら、ポケットから小さな宝石を取り出した。
赤紫に輝く宝石を目の前にかざしながら、数時間前の出来事を正確に思い出す。
同時に浮んでくる、昔の記憶。
女の胸に、激しい感情が湧き上がる。
脳裏に浮んだ映像を振り払うように、頭を振った。
(……悲しいわけじゃ、ない!)
自分の物を奪った者に対する、怒り。
胸に沸きあがってくる感情をそう理解して、女は再びフードを被った。
- 314 名前:プロローグ 投稿日:2005/06/23(木) 15:51
- 鳴り響く警報が最高潮まで上がったとき、それは起きた。
車内でおきた現実の音に、女が天井を見上げる。
屋根がへこんでいた。へこんでいるのは2箇所。
上に、誰かが乗ってきた。
続いて起きた音に、女は右に視線と銃を向ける。
助手席の窓ガラスに“それ”が見えた。
太く長い人間の指。
耳障りな音と共にガラスにヒビが入る。
小型の爆発物なら傷一つ付かない、特殊な防弾ガラス。
それを簡単に破って侵入してきた。
指だけを車内に入れ、内側から車の屋根を親指を除いた4本の指で引っ掛けた。
車内を満たす緊張感に、フードに隠された女の口元が微かに上がる。
(そうこなくっちゃ!)
盗んで終りじゃつまらない。
女は楽しげな表情で、右手の銃を強く握った。
- 315 名前:プロローグ 投稿日:2005/06/23(木) 15:52
- すぐにでも引き金を引きたい衝動を抑え込む。
一瞬の間を空けて、女はすばやく助手席の下に体を入れた。
床に背中がつくのと同時に、屋根を突き破って左腕が侵入してきた。
血管の浮き出た腕。異様に発達した筋肉。
増強剤を使っても実現できないようなそれが、肩近くまで車内に突き入れられた。
入ってきた腕は一瞬前まで女が座っていた空間を貫く。
何もないと分かると、探すように腕を振りはじめた。
女は助手席の下で仰向けになって、鼻先を掠めた腕をやり過ごす。
目の前を通り過ぎた腕に、手にしたナイフを勢いをつけて突き刺した。
屋根の上で獣のような咆哮が上がる。
同時に腕が天井に開いた穴へと吸い込まれていく。
しかし、肘の内側に刺さったナイフが車の屋根に当たって邪魔をした。
再び、車内に腕が深く入ってきた。
反動をつけて強引に引き抜くつもりだ。
腕が上へと動き出した瞬間、女は左手を伸ばす。
腕に刺さったナイフを掴かみ、一気に抜く。
暗い車内に、血の影が飛び散った。
邪魔する物がなくなった腕が、勢いよく車外に抜けていく。
- 316 名前:プロローグ 投稿日:2005/06/23(木) 15:53
- 女は構えていた銃の引き金を引きながら、すばやく身体を起こす。
跳ね上がろうとする銃口を抑えて、助手席の屋根にかかった手を狙う。
装填された特殊な弾丸が車内に侵入していた指を弾き、屋根に拳大の穴を作った。
片手でハンドルを握ると、離していたアクセルを一気に床まで踏み込んだ。
急な加速に体がシートに押し付けられる。
片手でハンドルを握ったまま、勢いを増す加速に逆らって体を捻った。
闇だけが支配する道路の上に、さらに濃い闇を持った人影が落ちたところだった。
会心の笑みを浮べて見送り、正面を向く。
「はっ! “藤本美貴”をなめんなよっ!」
藤本はギヤを入れ替え、アクセルを強く踏み込む。
前方に見えはじめた微かな街の灯りに向かって、車をさらに加速させた。
- 317 名前:プロローグ 投稿日:2005/06/23(木) 15:53
- ――――
- 318 名前:カシリ 投稿日:2005/06/23(木) 15:55
- 遅くなりましたが、続きを書きたいと思います。
- 319 名前:カシリ 投稿日:2005/06/23(木) 15:55
- >>308 名無ファン2 様
>>309 名無しファン 様
と言うことで、再開しました。
またお付き合い頂ければ、ありがたいです。
- 320 名前:名無しファン 投稿日:2005/06/25(土) 16:42
- 更新来てた〜!!
再開おめでとうございます!!!!
続編もなんだか気になる始まり方ですね!
これからも読ませてもらいます!
- 321 名前:サミ 投稿日:2005/06/25(土) 21:26
- 待ってました!ゆっくり更新お願いします。
- 322 名前:私の青空 投稿日:2005/07/01(金) 02:32
- ――――
- 323 名前:私の青空 投稿日:2005/07/01(金) 02:33
- 最初に目に入ったのは、夏の真っ青な快晴ではなかった。
何処か楽しい事の終りの予感に満ちた、薄くベールのかかった青空が広がっていた。
廃墟のように変わった街並みを、幼い少女が息を切らせて走っている。
少女は脇目も振らず、真っ直ぐ前を見て走っていた。
その視線は、今よりもずっと低い。
夢を見ている。
少女の視線と、その姿を俯瞰している視線。
幼かった頃の記憶と、それを見ている現在の自分。
同時に見える2つの視線を矛盾無く、藤本は理解する。
やがて、見慣れた十字路にさしかかった。
ここだけは変化の無い景色を見て、少女の顔に安心したような表情が浮ぶ。
少女は足を止めずに十字路を曲がリ、崩れた街並みを走り抜けた。
今まで何度も見た夢と、寸分も変わらない。
思い出したくない、過去。
しかし記憶の中の映像は、藤本の意思とは関係なく続いていく。
鉄扉の開いた大きな門の前で、少女は立ち止まった。
幼い瞳は、正面に見える大きな古い洋館を映している。
表面の崩れた茶色のレンガ。窓は全て、ガラスが無くなっていた。
破壊された洋館をみて、少女の顔が泣きだしそうに変わる。
額を流れる汗をそのままに、再び走り出した。
- 324 名前:私の青空 投稿日:2005/07/01(金) 02:33
- 敷地に入った少女の頭上に、真夏に相応しい強い日差しが降り注いだ。
雲の切れ目から覗いた太陽の光を頭上に受けながら、建物の横を抜ける。
地面には、砕けたガラスが散乱していた。
少女が一歩踏み出すたびに、細かく砕けて小さな音を立てた。
洋館の裏手、2人だけの秘密の場所に向かっていた。
2人で遊んでいるときに偶然見つけた、秘密の場所だ。
中に入れば、枝や葉っぱの間から広い裏庭が見渡せる。
家の人たちが彼女を探し回る姿を、2人で面白がって見ていた事を思い出す。
裏庭と森の境になっている高い生垣が見えてきた。
生垣に開いた小さな穴を、四つんばいになってくぐった。
狭い緑のトンネルを進んでいくと、やがて僅かに開けた空間に出た。
少女がようやく立ち上がれるような、緑に囲まれた小さな広場。
そこで、彼女は膝を抱えてうずくまっていた。
少女は安堵の溜め息をついた。
弾む息を整えながら、彼女に近づく。
『……ちゃん!』
遠い昔の幼い記憶。
今では思い出せない彼女の名前を呼んで、動かない彼女の肩に手を置いた。
(やめてっ!)
彼女の名前は思い出せなくても、この後の事は鮮明に覚えている。
目を背けようとしても、夢の中で見る映像は止まることなく続いていく。
彼女の組んだ右手の指で、はめていた指輪が小さく光る。
ゆっくりと傾いていく彼女の姿を、少女は呆然と目で追った。
緑の天井からは真夏の光線が、何条もの細い光となって降り注いでいた。
周りではうるさいほどの蝉の声が、溢れている。
夏の匂いを強く感じさせる風景のなか、少女は動くこともできずに立ち尽くしていた。
すべての風景が、溶けるように崩れ始める。
悲しみが透明な冷たい水のように、藤本の意識を包み込んだ。
- 325 名前:私の青空 投稿日:2005/07/01(金) 02:34
-
第1話
私の青空
- 326 名前:私の青空 投稿日:2005/07/01(金) 02:34
- 大きな窓からカーテン越しに朝の日差しが入り込む。
広めの室内には、大きなダブルベッドが置いてあった。
壁際で微かな音が鳴り、銀色のコンポの電源が入る。
藤本は次第に大きくなる音楽の中で、シーツに包まったまま体を伸ばした。
勢いよくシーツを跳ね飛ばし、ベッドから降りる。
大股で窓に近づくと、一気にカーテンを開けた。
昇り始めた太陽と眼下に見える街並みを、不機嫌な表情で見下ろす。
強い日差しに目を細めながら、藤本はシャツの胸元に手を伸ばした。
細い黒革の紐に銀色の指輪を通した、シンプルなネックレスを首から外す。
夢の内容を思い出しながら、持った指輪の角度を変えた。
内側に打たれた刻印が、目に入る。
藤本は指輪を一度だけ強く握って、首に戻す。
再び大きく伸びをして、窓に背を向けた。
- 327 名前:私の青空 投稿日:2005/07/01(金) 02:35
- ――――
まだ午前中だというのに、早くも外の気温は汗ばむほどになっていた。
Tシャツとジーンズ姿の藤本は、ホテルの玄関を出たところで周囲を見渡す。
目の部分を隠している色の濃いサングラスが、街の風景を映し出していた。
表通りは、多くの通行人で賑わっている。
立ち止まってショーウインドウを見る観光客や、時計を見ながら足早に歩いていく
スーツ姿のビジネスマン。
藤本はそれらの人々の間を縫うように、早足で歩きはじめた。
小さな商店の前を通りかかったとき、藤本は突然立ち止まった。
その直後、目の前で開いた扉から黒人の親子が出てきた。
母親に手を引かれた幼い女の子が、扉の脇に立つ藤本に気がついた。
正面を見たまま動かない藤本を、不思議そうな顔で見上げる。
口を開きかけた女の子の手を、母親が強引に引っ張る。
女の子は何度か振り返りながら脇道を曲がり、姿を消した。
藤本は、親子の消えた脇道に顔を向ける。
少しだけ口の端を上げ、再び歩きはじめた。
- 328 名前:私の青空 投稿日:2005/07/01(金) 02:35
- 目的の店の前で立ち止まると、藤本はサングラスを外す。
頭上からの太陽の光に手をかざしてから、閉じていた目を開けた。
藤本はホテルを出てからこの店まで、約1kmを目を閉じたまま歩いていた。
自ら視覚を遮断し、聴覚を使って歩く。
耳に直接聞こえてくる音、あるいは反射して届く音。
そして、その聞こえてくる音を遮るなにか。
それらの情報から、周囲の状況を把握する。
視覚に頼ることなく、周囲に自分の空間を作る。
暗闇の中で命を助ける技術。
“能力”のない藤本が、生きるために身に付けた技術の1つだった。
久しぶりに行った訓練の成果に満足した藤本は、上機嫌で目の前のドアを開けた。
- 329 名前:私の青空 投稿日:2005/07/01(金) 02:36
- 手を伸ばせば両手が壁に触れるほど、狭い店内。
見回すまでもなく目に入るのは、無造作に積まれた本。
藤本は手近にあった本の山から1冊を手に取る。
埃の被った小説。題名は“アリバイのA”と書いてある。
ページをめくると初版本だった。
藤本は元の山に本を戻すと、店の一番奥に向かう。
カウンターには5歩でたどり着いた。
藤本は横に積まれた山から適当に1冊抜き取ると、乱暴にカウンターに置いた。
「これ頂戴」
カウンターの中で居眠りをしている、年老いた白人を起こす。
ゆっくりと、老人が顔を上げた。
「なんじゃ、お前か……」
老人は両腕を伸ばしてあくびをする。
腕を下げ、カウンターに置かれた本を一瞥するとニヤリと笑った。
「いいのか?」
藤本はカウンターに置いた本の表紙に視線を落とした。
題名は“小鹿物語”だった。
「いくら?」
「300ってとこか」
藤本はジーンズの後ろから財布を取り出す。
老人の言った値段の10倍の100ドル紙幣を、カウンターに置いた。
小さな商店では嫌がるところもあるが、カードや小切手では証拠が残る。
こういう場合には現金が一番いい。
- 330 名前:私の青空 投稿日:2005/07/01(金) 02:36
- 「なんの、用だ?」
老人の言葉には答えずに、財布から1枚の写真を取り出すとカウンターに置いた。
昨日の仕事はコレのせいで失敗した。
思い出した藤本の表情が不機嫌に変わる。
「これはまた……」
老人は首から下げていた眼鏡をかけて、写真を眺めた。
その表情に好奇心という名前の色が、現われる。
写真には、小さな宝石が写っていた。
アメジストに似た、赤紫に光る宝石。
「お前にしては普通の物じゃな。この前の……何と言ったかの?」
「コーイ・ヌール」
「それじゃ。そっちはもういいのか?」
藤本は、軽く微笑む。
「誰も被らない王冠にイミテーションが付いてても、文句は出ないでしょ?」
処分した時の金額を思い出して、さらに笑みが深くなる。
- 331 名前:私の青空 投稿日:2005/07/01(金) 02:37
- 藤本は表情を戻すと、ベストの内側からCDを取り出してカウンターに置いた。
「それについて分かること全部。今日中に」
「……むぅ」
良いとも悪いともとれる呻き声を出しながら、老人は写真とCDをしまった。
CDには昨日の仕事で手に入れた情報が入っている。
もちろん、コピーだった。
教える必要のない部分は、消去してある。
いつもは日本に送ることにしているが、今回は特別だ。
「じゃあ、よろしくね」
藤本はカウンターに置かれた本を手に取った。
老人に背を向けて、出口に向かう。
「持っていくのか?」
眼鏡を外した老人が、藤本の背中に尋ねる。
藤本は手に持っていた本を、ジーンズの後ろに捻じ込んだ。
「値段分は楽しまないと」
藤本は振り向かないで答えると、薄汚れたドアを押して外に出た。
- 332 名前:私の青空 投稿日:2005/07/01(金) 02:37
- ――――
- 333 名前:カシリ 投稿日:2005/07/01(金) 02:38
- 以上で、第1話終了です。
- 334 名前:カシリ 投稿日:2005/07/01(金) 02:39
- >>320 名無ファン 様
ありがとうございます。
これからも、よろしくお願いします。
>>321 サミ 様
ありがとうございます。
前回も言っていましたが、一週間に一度ぐらいが目標です。
- 335 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:01
- ――――
何処かで鳴った小さな水音が、大きく響いた。
循環の悪い、地下特有の臭いが鼻を突く。
僅かな明かりさえ差さない地下道は、闇に包まれていた。
藤本は自分の手さえ見えない闇の中を、しっかりとした足取りで進んでいく。
顔にはサングラス型をした特注品の暗視装置。
黒で統一した服に身を包み、その上から黒いベストをつけている。
闇と一体となって歩いていた藤本が、足を止めた。
暗視装置の緑色の視界の中に、大きな扉が映っている。
手探りでポケットから鍵を取り出し、藤本は躊躇なく扉を開けた。
すばやく、扉の内側に体を滑り込ませる。
サングラスの脇に付いたスイッチに触れ、暗視機能を止める。
闇の中で、静かに扉が閉まった。
藤本はベストから手探りで、小さなペンライトを取り出す。
サングラスを頭に上げてペンライトを点け、部屋を見渡した。
身長ほどもある大きなボックスを壁際に見つけて、近づく。
- 336 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:01
- 藤本はペンライトをくわえ、扉を開いた。
ペンライトの小さな光の中に、さまざまな太さのケーブルが見えた。
その中から、警備会社に繋がっている回線を引っ張り出す。
普通は電話線を介して警備会社と繋がっているが、ここでは専用線を引いていた。
ブーツからナイフを抜くと慎重に外装を剥いて、なかの線を露出させた。
背負っていたバックパックから取り出した機械を床に置き、
ケーブルを伸ばして露出した線にいくつかのクリップを取り付けた。
機械のスイッチを入れてから、ナイフを使って回線を切断する。
通常、回線を切れば警備会社に異常信号が出る。
藤本の足元に置かれた機械は、擬似の信号を出して警備会社を騙すことができた。
藤本はナイフをブーツに戻して、ペンライトを消した。
小さな明かりが消えた部屋が、真の闇に沈む。
騙せるのは機械だけ、実際に警備会社の職員が巡回に来るまでの1時間が勝負。
今夜の仕事は、半分の時間で終わる予定。
藤本は闇の中で軽く、息を吸い込む。
再びサングラスを下ろして、スイッチを入れた。
- 337 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:02
-
第2話
God Bless The Child
- 338 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:02
- 芝生に覆われた広い裏庭は外灯も消え、暗闇の中にあった。
周囲でやかましいほど鳴いていた虫の音が、微かな音に驚いたように数瞬止まった。
藤本はマンホールを僅かに開けて、外を確認する。
離れたところに大きな建物。私立の博物館だった。
明かりが付いているのは、入り口横にある警備室だけだ。
藤本は周囲に気配がないのを確かめて、すばやく外に出る。
マンホールのフタを開けたまま、警備室から見えないように建物に近づいた。
夜間窓口用の小さなガラス窓の下に体を寄せた。
なかの話し声が聞こえてくる。
襲われることなど想定していない、緊張感の欠片もない会話。
人数は3人。予定どうり全員そろっている。
館内を巡回していた警備員が、帰ってきたところだ。
藤本はベストから円筒型の小さな缶を外した。
缶に付いたレバーを握ったままピンを抜くと、片手で窓を開けて室内に放り込む。
ガスが吹き出る音と、警備員の悲鳴が聞こえてきたのは同時だった。
5秒ほどで、どちらの音も止んだ。
藤本は小さな窓から、室内を覗き込む。
3人の警備員が、床でイビキをかいていた。
藤本はさらに10秒待ってから、窓口の小さなガラス窓から室内に侵入する。
藤本が使った缶の中には、催眠ガスが入っていた。
5秒間ガスが噴出し、吸った生物を眠らせる。
さらに15秒経過すると、ガスの効果が消えるという特殊な催眠ガスだった。
外部に通じる扉だけを残して、他の機械警備を解除する。
藤本は警備室から出ようとしたところで、天井の隅につけられた監視カメラに気が付いた。
壁の一角に据え付けられたモニターに、視線を移す。
館内に無数につけられた監視カメラの映像を、ハードディスクに記録するタイプ。
映像は外に繋がっていない。
それに、サングラスで顔はわからない。
藤本はカメラに向かって中指を立ててから、部屋を後にした。
- 339 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:02
- 目的の部屋は見当がついていた。
藤本は警備室で借りてきたマスターキーを使って、最短ルートを通る。
事前に建物の図面は手に入れて、記憶してある。
3階の資料室の前までは、3分とかからなかった。
扉の前で監視カメラに背を向けて、左手のグローブを取った。
藤本は扉に顔を寄せ、耳をつける。
素手の左手を、扉にそっと当てた。
聞こえてくるのは空調の音。室内からは僅かな動きも感じ取れない。
再びグローブを付けて、開錠。
腰の後ろに下げてあったイングラムを手に、扉を開ける。
使うつもりはないが、罠を警戒するいつもの癖だ。
静かに室内に入ると、後ろ手に扉を閉めた。
暗視装置の緑の視界に、室内の様子が映し出される。
長方形の室内を圧倒するように、巨大な石造りのテーブルが中央に置いてある。
壁際の棚には古びた本や石版、そしてファイルが無造作に置かれていた。
片方の壁に、四角く切り取られた窓があった。
遠くにそびえる高層ビルの煌びやかな明かりが見える。
立ち並ぶビルを見下ろすように、見事な半月が浮んでいた。
- 340 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:03
- 藤本はサングラスを外して、頭にかける。
室内にカメラがないのは警備室で確認済み。
中央のテーブルを回って奥に向かいながら、藤本は壁の大きな窓に視線を向けた。
部屋の一番奥で、藤本は立ち止まった。
目の前には小さな作業台と、その横に掃除用具を入れるロッカーがある。
作業台の上には、分厚いファイルが一冊だけ置かれていた。
藤本はそっとファイルを手に取って開く。
小さく口笛を吹いた。
古文書のような紙が、1ページずつ丁寧に挟まっている。
ラテン語の文章の周りには、余白が大きく取られていた。
グーテンベルク42行聖書。
しかも、全ページそろった完本だった。
藤本はニンマリと笑って、バックの中にファイルを入れる。
盗みを本業としている藤本だが、相手は一応選んでいる。
非人道的で非合法な手段を使って集めた聖書。
それを、ここの館長が鑑定の為に預かっていると知ったのは最近だった。
資金源が分かっていて依頼を受けた館長には、お仕置きが必要だ。
依頼人は、大事な聖書を盗まれて大損。
当然、聖書をなくした館長には、キツイお仕置きが待っている。
最終的に本は藤本の手に残ることになるが、それはほんの少しのご褒美だ。
藤本は緩みそうになる頬を片手で押さえながら、出口に向かった。
- 341 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:03
- 廊下に出たところで、藤本は立ち止まった。
背後で閉まる扉の音を聞きながら、ゆっくりと左右を見渡す。
人の気配は、ない。
深閑とした薄暗い廊下が、続いているだけだった。
藤本は、いつでも動き出せるように全身の力を抜く。
胸騒ぎがする。
動きでも音でもない何かが、藤本の“勘”に触れる。
慎重に、一歩足を踏み出す。
藤本は床に付いた足から力を抜いて、しゃがみ込んだ。
一瞬遅れて、頭上からけたたましい警報音が降り注ぐ。
天井取り付けられた赤色灯が回転して、暗く静かだった廊下が赤い光に蹂躙される。
藤本は慌てて腕時計で時間を確認した。
ケーブルに機械を付けてから20分。
警備会社の巡回にはまだ早い。
鳴り響く警報音ではなく藤本の勘が、第一級の緊急事態を告げている。
藤本はグローブを外す。
床に左手をつけると、目を閉じた。
警報音だけを意識的に遮断して、他の音に集中する。
左の手の平から感じる振動に、意識を集める。
微かな振動と音。
2フロア下で、何かが廊下を走っている。
(向かってくる!)
通ったルートを正確になぞって、真っ直ぐに向かってくる。
藤本は立ち上がって、再び資料室の扉を開けた。
ベストから缶を取り外しながら、静かに扉を閉める。
- 342 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:04
- 物音を立てないように、奥のロッカーに隠れる。
ロッカーの扉が閉まるのと同時に、部屋の扉が勢いよく開いた。
開け放たれた扉に、赤い光を背に受けた影が立つ。
逆光のせいで顔はわからない。
シルエットからわかるのは、スキンヘッドと常人離れした肉体。
扉が隠れるほどの大男。
しかし重そうな体とは反して、感じさせる気配は狡猾で怜悧な肉食獣のそれだった。
大男は通路に立ったまま動きを止めて、室内に意識を放っている。
瞬きの音でさえも、気が付かれてしまいそうだ。
(昨日の奴……)
尾行された憶えはない。完璧に、まいたはず。
藤本の額に汗が浮ぶ。
何かを感じ取ったように、大男の気配が変わり始める。
室内に一歩足を踏み入れた。
まだ確信はないようだが、いずれ気が付かれる。
想定外の事態。
大男と渡り合うほどの装備は、持っていない。
何とか、やり過ごすしかない。
藤本は音を立てないように、ゆっくりと息を吐いた。
心臓の鼓動を、限界まで落とす。
体温が急激に低下していくなか、呼吸を極限まで浅く、そして遅くする。
そして意識を、無の世界に近い静寂のプールに滑り込ませる。
“藤本美貴”という存在が周囲に溶け込み、消え去った。
- 343 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:04
- 気配を絶った藤本の薄く開けた視界の中で、大男が困惑したように足を止めた。
もう一度、室内の気配を探り始めている。
扉から入ってくる赤い光だけが、室内で動いている。
ロッカーの薄い扉を通して、藤本は大男と向かい会う。
しばらく動きを止めていた大男が、背を向けた。
ゆっくりとした足取りで、部屋を出て行く。
頭を下げて戸口をくぐり抜けた。
その姿を見て、藤本は安堵のため小さく息を吐く。
同時に大男の動きが止まった。
(しまった!)
ありえない距離。大男とは10m以上離れている。
しかも、ロッカーの扉越しで。
扉に付いた小さな空気穴を通して見える影が、ゆっくりと振り返った。
闇の中を射抜くように真っ直ぐに、藤本の潜むロッカーを見ている。
大男は再び室内に入ってきた。
ロッカーと大男の間にある大きなテーブルに左手をかけると、ひっくり返した。
無造作とも言える動きで、1t近くあるはずのテーブルが壁まで飛んでいく。
藤本は飛んでいったテーブルではなく、大男の左肘に視線を向けた。
傷跡は、ない。
昨日ナイフを刺したのは左肘だったはず。
(吸血鬼……か?)
藤本は大男の正体を判断しかねた。
あれほどの力と回復力を持った人間には会ったことがない。
だが、吸血鬼特有の“妖気”は感じられなかった。
大男は確信を持った足取りで、藤本に向かってくる。
- 344 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:04
- 藤本は気配を消すのを諦めて、ロッカーの中でイングラムを左手に持ち替える。
右手を左手首にはめた腕時計に添えた。
大男がロッカーまで2mまで近づいたところで、腕時計のスイッチを押した。
入り口の扉で小さな炸裂音。数瞬遅れて眩い閃光。
音に振り向いた大男が閃光を受けて、太い悲鳴を上げた。
小さな音で注意を向けてから、閃光を発する特殊な音響閃光弾。
再び室内に入るときに仕掛けてあったそれを、腕時計からの信号で起動した。
片手を目に当てた大男は、怒りの咆哮を上げながらロッカーに突進してきた。
大男が動き出すより一瞬早く、藤本は扉を開けて床に転がる。
ロッカーに突っ込んだ大男に向かって、藤本はイングラムを連射しながら立ち上がった。
通常の弾丸が効かないのは、昨日で経験済み。
足を止めるために、大男の膝に銃弾を集中させる。
全弾撃ち尽くした藤本は、背中に大男の苦痛の声を聞きながら窓に向かって走り出す。
ガラスを割って、頭から窓に飛び込んだ。
- 345 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:04
- 全身が外に出る前に、空中で窓枠に右手をかけて体を丸める。
外に向かおうとする力を、強引に真下に変えた。
藤本は壁に沿って真下に落下していく。
膝を軽く曲げてつま先から着地。
関節が耐えられなく直前で力を抜いて体を捻る。
腰、背中と順番に地面につけて最後に転がった。
3階分の位置エネルギーを殺した藤本は、一瞬の停滞もなく走り出す。
建物の1階、警備室に向かった。
部屋に入ると記録用のハードディスクを無理やりはずして、バックパックに詰め込む。
足元で寝ている警備員の胸に、用がなくなったマスターキーを投げる。
そして部屋を飛び出した。
藤本は全力でマンホールに向かいながら、建物を見上げる。
窓から巨影が跳び出した。
闇の中に放物線を描いた影が、重い音と共に地面に落ちる。
(もう遅い!)
マンホールは目の前。大男の体では、穴は通れない。
藤本がマンホールに飛び込もうとしたとき、暗い敷地が明るいライトに照らされた。
「動くな!」
藤本は足を止めて振り向いた。
大男の体が、光に照らされている。
(ちっ!)
警官らしき制服を着た3人の白人が、大男を囲んでいた。
- 346 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:05
- 近所の住人が呼んだのか。
藤本は舌打ちをしながらも、マンホールに向かおうとした。
光の中で大男が警官を順番に見回す。
その表情を見て、藤本は足を止めた。
耳元を飛びまわる虫に苛立ったような、表情。
現れたのは、躊躇のない殺意。
「……くそっ!」
藤本は毒づきながら空になった弾倉を外した。
新たな弾倉を装填しながら、男に向かって走り出す。
「そいつに手を出すな!」
警官に向かって叫びながら、イングラムを大男に向ける。
暗闇からの突然の声に、警官のライトが藤本に向けられる。
眩しい光に大男の姿を見失った。
それは、あまりにも疾かった。
光に目がくらんだ一瞬で、大男はライトを向けている警官の目の前に移動していた。
そして丸太のような腕を振り下ろす。
警官の頭部と首が、綺麗に胴体にめり込んだ。
ゆっくりと、地面に倒れていく。
藤本が銃口を向けようとしたときには、すでに2人目の警官が吹っ飛んでいた。
- 347 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:05
- 残った警官が奇妙な悲鳴と共に、銃の引き金を引いた。
大男はゆっくりとした足取りで警官に近づく。
狂ったように引き金を引き続ける警官に向けて、腕を振り上げた。
「こっちだ化け物!」
藤本は大男の後頭部に向かって銃を連射した。
少しは痛みを感じたのか、大男が腕を振り上げたまま振り向いた。
立ち尽くす警官を無視して、凄まじい速さで藤本に向かってきた。
そのスピードは、獲物を射程に入れた獣の動き。
「逃げろ!」
ギリギリまで引きつけて、男の両足の間に飛び込む。
大男の豪腕が唸りを上げて背中を掠めた。
前転して立ち上がると、走りながら警官を横目で見る。
恐怖の表情を浮かべたまま、空になった銃を構えていた。
「グズグズしてんな!」
藤本はイングラムで警官の足元を撃った。
警官は撃たれたショックで目を覚ましたように、駆け出した。
- 348 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:05
- 藤本は走りながら、頭の中で装備を確認する。
左手には、イングラム。
ベストに残っているのは、通常の閃光弾が2つ。
(あとは……)
左手にはめた腕時計から、内蔵されたワイヤーを伸ばす。
(これだけ?)
イングラムは足止め程度。
不意打ちでもしない限り閃光弾は効きそうにない。
ワイヤー1つでは動きは止められない。
しかし、倒す必要はない。
藤本はワイヤーをさらに伸ばして、輪を作る。
動物を捕らえるときに使う結び方。一度締まれば外せない。
作った輪に左腕を通して、肩にかけた。
そしてベストから閃光弾を取り外し、ピンを抜いて右手に握る。
左手のイングラムを握り直す。
- 349 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:06
- 背中から感じる気配は間近に迫っていた。
足音からタイミングを計って右前方に飛ぶ。
走りながら袈裟懸けに振り下ろした大男の腕が空を切った。
藤本はすばやく振り向いて、地面につく寸前の大男の足を払う。
体勢を崩した大男が地面に倒れた。
藤本は膝立ちになった大男の両肩に立った。
上を見上げた大男の額に、イングラムをフルオートで連射。
大男は顔を下に向けて怒りの声を上げ、両手を頭の上で打ち合わせた。
「バ〜カ!」
藤本は大男の両手が届く前に、体を前に投げ出した。
右手に持った閃光弾を、開いた口に放り込む。
左手を地面に付いて、右の踵で大男の顔面に蹴りを入れた。
蹴った勢いで前に転がる。
その背中を、白い閃光が灼いた。
- 350 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:06
- 口の中で炸裂した閃光弾に、大男が動きを止めて両手で口元を覆った。
藤本はすばやく大男の背後に回る。
ワイヤーを肩から外して、大男の頭に通した。
目の部分で左腕を引いて輪を締める。
後頭部に蹴りを入れながら、さらに力を加えた。
腕時計からワイヤーを外すと、振り返らずに全力で走り出す。
マンホールに頭から飛び込んだ。
大男の声が地霊の叫びのように轟くなか、藤本は闇の通路を駆け抜けた。
- 351 名前:God Bless The Child 投稿日:2005/07/08(金) 22:06
- ――――
- 352 名前:カシリ 投稿日:2005/07/08(金) 22:07
- 以上で、第2話終了です。
- 353 名前:Summer Time 投稿日:2005/07/16(土) 13:24
- ――――
ニューヨーク近郊にある空港は、喧騒の中にあった。
国を出て行く者も、入ってくる者もいる。
白人や黒人。老人や若者。欧米や中近東そして東洋。
人種も年齢も違う人々。
さまざまな人種が話す、異なった言語。
それらの人々が話す雑多な言語が交じり合い、ざわめきに包まれていた。
過剰に効いた空港内の空調に、白いノースリーブのブラウスから出た腕を擦る。
持っていた薄手のカーディガンを肩に羽織った。
外に視線を移すと、真夏の日差しが目に入った。
全面に張られたガラスを通して降り注ぐ光に、手をかざす。
吸い込まれそうな青い空。確かな質感を感じさせる白い雲。
機内で見たニュースでは、気温が30℃を超えていると伝えていた。
(暑そう……)
降り注ぐ日差しから身を守るように、飯田は手に持った薄い色のサングラスをかけた。
- 354 名前:Summer Time 投稿日:2005/07/16(土) 13:24
- 第3話
Summer Time
- 355 名前:Summer Time 投稿日:2005/07/16(土) 13:25
- 前を歩く田中が、両手を広げながら周囲を見回す。
「うっわ〜! 広いですね、空港って!」
興奮した声で、そう言って振り向いた。
「空港なんて、どこもいっしょだよ」
「れいな、子供みたい」
飯田と亀井に続けて言われた田中が、拗ねたような表情で舌を出す。
「子供じゃなか! ちょっと言ってみただけやもん!」
1人早足で、田中が先に歩いていく。
飯田は苦笑しながら、近くにある椅子に座った。
田中の背中を見送っていた亀井が飯田の傍に立つと、楽しそうに話しかけてきた。
「飯田さん。気が付いてます?」
「うん? あぁ、そこの2人組みだろ」
飯田はそう言って、僅かに顔を向けた。
その先には免税店で並んでいる商品を見ている、スーツ姿の白人が2人。
飯田たちが出国ゲートを出る前から、そこにいた。
注意を引かないようにしているが、飯田達の動きを監視している。
「別にいいんじゃない? なんかするわけでもなさそうだし」
「いえいえ、私たちはすでに敵地にいるわけですよ。
危険の芽は早めに摘み取っておくべきなのです。
……ちょっと、トイレに行ってきます」
亀井はにこやかにそう言って、飯田から離れた。
男達の真後ろを通って、トイレのある通路に向かった。
- 356 名前:Summer Time 投稿日:2005/07/16(土) 13:25
- トイレは通路の奥で、男女に別れている。
亀井の姿が、通路に消えた。
男の1人が、亀井の後を追うようにその場を離れる。
「ちょっと、1人にしないでくださいよ! ……あれ? 絵里は?」
「迎えが来るって行ったでしょ。亀井はトイレ」
戻ってきた田中に隣の席を勧める。
飯田はトイレの方を見ながら、背もたれに体をあずけた。
しばらくすると、亀井が1人で出てきた。
ついていった男は戻ってこない。
亀井は店に残っていた男に近づいて、通り過ぎる。
戻ってこない仲間に不審気な表情を見せてから、残った男が亀井の後を追いかける。
亀井は飯田たちに軽く手を振りながら、奥の通路に消えていった。
「なにやってるんですか?」
「おにごっこ」
不思議そうに尋ねた田中は、飯田の答えに眉をひそめた。
- 357 名前:Summer Time 投稿日:2005/07/16(土) 13:26
- 飯田は組んだ脚の先で、履いているサンダルを揺らす。
腕時計に視線を落とした。
約束の時間は、過ぎている。
時間を確認して、再び顔を上げる。
奥の通路に消えたはずの亀井が、トイレから出てくるところだった。
「なんですか、あれ?」
「さぁ? 圭織もよく知らないんだよね」
飯田は背中からかけられた声に、振り向かずに答える。
サングラスをゆっくりと外してから、振り向いた。
視線の先には、懐かしい友人の姿。
短い髪が、夏の日差しを浴びて薄く金色に輝いている。
「久しぶり。あんたのそんな格好、初めてみたよ」
飯田の言葉に、女は自分の体を見下ろしながら両手を広げる。
濃紺のパンツスーツ。
脱いだ上着を片手に持って、着ているシャツの袖を折っていた。
「まあ仕事上こういう格好も必要ってことです……似合うでしょ?」
愛嬌のある表情で飯田を見ながら、問いかけた。
久しぶりに会った友人の問いに笑顔を見せてから、飯田は別のことを口にする。
「さっきの2人組みって、知り合いでしょ?」
女は大げさな動作で、肩をすくめた。
「歓迎してない連中もいるんですよ。
組織がでかくなると、一枚岩とはいかないってことです」
「他人事みたいだね」
ニヤリと、茶目っ気のある笑顔を飯田に向けた。
「出向中の身ですから」
そう言って、視線を移す。
横で話を聞いていた田中と戻ってきた亀井に向き直ると、右手を差し出した。
「2人とも初めましてだね。私、吉澤。よろしくね」
吉澤ひとみは、屈託のない笑顔を見せた。
- 358 名前:Summer Time 投稿日:2005/07/16(土) 13:26
- ――――
- 359 名前:Summer Time 投稿日:2005/07/16(土) 13:27
- 短いですが、第3話終了です。
- 360 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/25(月) 13:38
- 一気に読んだけどおもろいです
- 361 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:01
- 対岸に立ち並ぶ高層ビル群は、夜空を圧してそびえ立ち、
東の空に浮ぶ上弦の月を貫くように、空へと伸びていた。
気温は高かったが湿度は低く、不快な暑さではない。
飯田のいるビルの屋上と、遠くに見える高層ビルとの間には、
黒い海のような巨大な河が、広がっていた。
飯田は設置された柵の上で、組んだ両手に顎を乗せていた。
夜の闇に明りを灯す高層ビルの眩い光が、その瞳に映りこんでいる。
しかし飯田は、瞳に映る夜景を見ているわけではなかった。
「どうしたんですか、こんなところで?」
背後からかけられた声に、振り向いた。
扉から漏れる光の中に、吉澤が立っていた。
「ちょっと、ね」
飯田はそう言って、柵に背中をあずけた。
背後からの光が逆光になり、陰になった吉澤の顔は黒く塗りつぶされたように
表情を見せない。
「1人で何とかしようなんて考えない方がいいですよ。あれは……特別です」
吉澤の言葉に、さっき見た映像を思い出す。
周囲の気温が下がったような感覚。
飯田の背中を気温のせいではない汗が、降りてくる。
「……分かってる」
飯田は、吉澤に背を向けた。
そしてもう一度、夜景を眺める。
槍に貫かれた半月が、暗い空の上に浮んでいた。
- 362 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:02
- 第4話
Moanin'
- 363 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:03
- ――――
音のない鮮明な映像の中で、スキンヘッドの大男が銀色の扉に手をかけた。
Tシャツの上からでも充分にわかる、厚い胸と異常に太い腕。
映像の隅、男の背後には制服を着た警備員らしい人物が倒れていた。
男が手を引くと、扉が壁の一部と共にはがされる。
「あの扉特別製でね。私も試したけど、手が痛くなっちゃったよ」
後ろに立っている吉澤の声を聞きながら、田中は映像に食い入るように目を細める。
映像の中の男が扉を投げ捨て、中に入っていった。
- 364 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:03
- 映像が切り替わった。
ヘルメットに付けられたカメラによる、誰かの視点からの映像。
目の前には数人の男達が、しゃがんだ姿勢で銃を構えている。
長く狭い通路を映した荒い映像のなかに、男の姿が現れた。
通路の中央に立つと、ゆっくりとカメラに顔を向けた。
その瞬間、映像のなかに閃光が走った。
銃を構えた男達が一斉に発砲を始める。
銃撃を受けた男の顔が、苦痛に歪んだ。
男は片腕で顔を守りながら拳で壁を殴りつけた。
肘まで埋まった腕を引き抜くと、手に持った何かを大きな動作から投げつける。
黒い塊が、一瞬でカメラの横を通過した。
映像が激しく揺れて天井を映した。そして動かなくなる。
「貫通した塊が20mぐらい後ろの壁に、めり込んでた」
映像が、男を後ろから映したものに変わった。
- 365 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:03
- 今度のは監視用の定点カメラ。
男を、背中から映している。
男が顔面を腕でガードしながら、銃を発砲する一群に向かっていく。
しっかりとした足取り。ある程度近づいたところで地面を蹴った。
男達の真ん中に降り立つと両腕を振るう。
集まっていた人間が、次々と倒れていった。
カメラの下から、何かが男に向かって投げられた。
背中を向けた男の足の下を通って、転がっていく。
そして、爆発。
赤い炎が、通路ごと男の体を舐めるように包み込む。
「HP特製の焼夷手榴弾。吸血鬼も無事じゃ済まない……はずなんだけど」
炎が収まった通路の中で、男が両手を床についてうずくまっている。
その体が、痙攣を始めた。
出来の悪いCGのように、男の体が変化する。
腕の筋肉が膨れ上がった。その皮膚には剛毛が生えている。
大きく湾曲した背骨が炎に焼かれて焦げたシャツを破り、
床についた指先から鋭く尖った鉤爪が伸びる。
弾かれるように上げた男の顔は、変貌を遂げつつあった。
耳が尖り、口が前にせり出していく。
「……人狼?」
横にいる飯田が、拍子抜けしたような口調で言った。
- 366 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:04
- 飯田の言葉に、田中は眉間に皺を寄せた。
狼男。変身。そして、満月。
連想されるのは、様々な媒体から得られたイメージ。
映画や本に出てくる想像の化け物。
訓練では教わっていない、ような気がする。
人間の男だった者が立ち上がり、咆哮を上げるように口を開けた。
剥き出しになった口腔に肉食獣の牙が並ぶ。
カメラの方向に、憎悪のこもった視線を向けた。
突然、映像が水のなかに入ったように、揺らめいた。
そして、人狼とカメラの中間に亀裂が入った。
「それだけだったら、別に問題はなかった」
空間に広がった裂け目の中に、2つの赤光が輝く。
裂け目から、突然巨大な狼が飛び出した。
床を蹴ってカメラの下に消える。
人狼が足元の黒焦げの死体を片手で掴んだ。
軽い感じで、カメラに向かって放り投げる。
再び、映像が黒く変わった。
- 367 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:04
- 「これでおしまい」
吉澤の声を合図にして、部屋の照明が点灯する。
広い会議室。
楕円形のテーブルに飯田と亀井、そして田中の3人が座っていた。
「これ以外の映像には一瞬しか映らない。反撃する暇も、無し」
後ろの壁にもたれていた吉澤が、手に持ったリモコンを操作する。
正面にあるプロジェクターが、天井に吸い込まれるように上がっていく。
「こっちには10人の吸血鬼がいた。
そのうちの3人が、最初の襲撃でやられた。次の襲撃で5人。
残っているのは、私を含めて2.5人」
「2.5人?」
「私ハーフ、だから0.5人分ってこと」
振り返って質問した田中に、吉澤は自分を指差した。
ダンピールの名で知られる、人間と吸血鬼のハーフ。
両方の特性を持った混血。
彼等は血を必要とせず、強大なSPと身体能力を受け継ぐ。
しかし真正な吸血鬼に比べれば、身体能力は落ちる。
そして、障壁が出せない。
こちら側の世界にも向こう側の世界にも属さない、忌避される、中途半端な存在だった。
- 368 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:04
- 田中は吉澤から視線を逸らし、背もたれに寄りかかった。
吉澤がテーブルに沿って歩き、3人に向かい合うように正面に立った。
質問を待つように、腕を組んだ。
「最後のは“通路”?」
テーブルの上で手を組んでいた飯田が、3人を代表するように口を開いた。
吉澤は困ったような表情を浮かべる。
「そう……みたい。あいつの能力、なんだろうね」
「人狼にそんな能力はない。元人間のただの化け物、でしょ?」
「そう言われてもねぇ……。実際、妖獣が召還されてるし。
まさかあんな都合よく通路が現れるとも、考えにくい」
把握できていない能力への質問のためか、吉澤の言葉には力がない。
- 369 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:05
- 田中の横で、亀井が元気よく手を上げた。
「質問!」
「はい。亀井くん」
吉澤は先生のような口調で答えて、亀井に視線を向ける。
「人狼って人間がなるものなんですか?」
「研修で教えてるはずだけど?」
飯田の言葉は無視して、吉澤は亀井を指差した。
「基本的な、いい質問だ」
吉澤は笑顔を見せて大きく頷いた。
「人狼は“向こう側”とは関係ありません。人間が望んで変化するものです」
そう言って、テーブルに両手をついた。
「満月の夜、深い山奥の地面に魔法円を描く。時は午前零時。
体に狼の毛皮を巻きつけて、円の中央にひざまずく。
そして、目の前で火を燃やし鍋をかける。
その中には香料と薬草、殺したばかりの猫の脂肪、その他もろもろを入れて煮込む。
そして、隠し味」
吉澤はそこで言葉を切り、天井を見上げるように顔を上げる。
芝居じみた大仰な動作で両腕を上げた。
「血を恵みたまえ、人の血を恵みたまえ。
今夜それを恵みたまえ。
偉大な狼の霊よ。
わが心、わが体、わが魂を全て捧げよう」
会議室に響き渡る声で、朗々と歌い上げるように唱える。
言い終わると、充分に間を置いてから腕を下げた。
「今の呪文を唱えながら、煮詰まった軟膏のようなものを全身に塗りこむ。
うまくいけば人狼の出来上がり。まあそんなに成功率は高くないけどね」
吉澤はテーブルに座った。
後を継ぐように、飯田が口を開く。
「そして人狼になった人間は、理性も感情も持ち合わせないただの獣。一匹の狼になる」
飯田は考え込むように視線を下に向けて、腕を組んだ。
「そんなのになりたがるなんて……」
「力が欲しいってのは人類共通の夢、だとさ」
田中が掠れたような声でつぶやいた言葉に、吉澤がそう答えた。
- 370 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:05
- 田中は、映像を見ていたときの飯田の口調を思い出し、
横で目を閉じていた飯田に問い掛けた。
「飯田さんは、知ってるんですか?」
飯田は目を閉じたまま、人差し指で頬をかいた。
「何度か、ヤッたことがある。単純な力だけみれば、吸血鬼より上だった。
けど、それだけ」
飯田は目を開けて、田中に顔を向けた。
「たいして強いわけじゃない。
少し傷の直りが早いって以外、他に特殊能力があるわけじゃないし。
それに致命的なのが、頭が悪いって……こと」
そこまで言って、正面の吉澤に顔を向けた。
つられてみた田中の目に、片目を細めた吉澤の姿が映る。
「そう、人狼に理性は無い。欲望のままに血を求め彷徨い歩く。
なのに襲われたのはHPの支部だけ。おかしくない? 他に被害は出てないの?」
吉澤を見ながら、飯田が問い掛ける。
聞かれた吉澤は質問を予想していたように即答した。
「この付近にある支部は3箇所。そのうち2個所が襲撃された。
他に被害の報告も、目撃したって言う報告もない。
HPの支部を狙ってるみたいだけど、人狼にそんな知能はないはずなんだよね。
通路を開いた能力も合わせて、分からないことだらけ。こっちも困ってる」
吉澤は片手で頭を掻いた。
- 371 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:06
- 「それよりも、問題なことがある。1回めは奇襲だったけど、2回目は違った。
さっきも言ったけど吸血鬼だって5人いたし、能力者だっていた。
準備は万全。返り討ちにするつもりだった」
「さっきのは、2回目の映像?」
「そう。でも戦闘が始まったら一方的だった。って言うか一方的すぎた。
ほとんど反撃もできないで、HPの支部が一月の間に2箇所。
それもたった一匹の人狼ごときにやられたんだから、上の方も大混乱」
田中は吸血鬼に、殺されかけたことがある。
吉澤の言葉を信じられない思いで聞いていた。
「おかしくないですか? 吸血鬼が5人もいたんですよね?
それに能力者だって……」
身を持って知らされた力は、吉澤の言葉を拒否するのに充分な経験だった。
映像に映っていた男がどれほどの能力を持っていたとしても、吸血鬼には障壁がある。
たとえ人狼を倒すことが出来なくても、全員が返り討ちとは考えられない。
「生き残った人間に聞いたら、能力が使えなくなったんだって。
当然、吸血鬼も障壁も出せない。
吸血鬼は障壁に頼って戦うところがあるから、障壁が出せないと……ね」
吉澤は田中の視線を笑顔で受け流した。
「推測だけど、周囲のSPを吸い取るんじゃないかな。それで通路も開いてる。
そんなわけで、障壁なしで頑張ってる飯田さんに、声がかかったってわけ」
「つまり、なぜか高い知能があって、妖獣を召還する能力まである。
そのうえSPまで吸い取る化け物を、圭織1人で倒してみせろってこと?」
飯田の問いかけに、吉澤は驚いた顔を見せて両手を挙げた。
「違いますよ! 人狼には障壁が無いから、通常兵器でダメージは与えられます。
取り囲んで攻撃するまで、飯田さんと私で動きを止めるってことです」
「……“囮”ってことでいいのかな?」
低い声で言って、飯田が目を細め。
「そう露骨に言われると、恐縮です」
吉澤は口の端を僅かに上げて、笑ってみせた。
- 372 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:06
- 「話が違う」
しばらくしてから飯田が誰に言うわけでもなく、言った。
「休暇がてらの簡単な調査だけって話だったんだけど、
これじゃ天国で休暇って事になりそうだね」
軽い口調だったが、吉澤の話と映像を見た後では冗談には聞こえない。
全員が無言で、思い思いの方向を見ていた。
飯田の言葉を受けて、会議室に重い空気が漂う。
横にいる亀井も珍しく神妙な面持ちで、半袖の白いパーカの紐をいじっている。
能力が使えないのでは、出番は無い。
田中も一通り銃火器の訓練も受けたが、得意ではなかった。
(ちょっと、ヤバイかもしれん……)
人狼と遭遇した場合、能力無しでは一般人と変わらない。
映像の中の男と、実際に会ったらどうなるか。
田中は渇いた喉を潤すために、ペットボトルに口をつける。
飯田を、横目で見た。
飯田は誰も返事をしない会議室を見回していた。
田中と目が会うと無理やりといった感じで、引きつった笑顔を作る。
「……な〜んちゃって! 冗談だよ。あっはっはっ!」
おどけた飯田の笑い声が、会議室に空しく響く。
飯田は場の空気をシラけさせて、挙句に黙った。
- 373 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:07
- ――――
「実は、大体の見当はついてる」
吉澤はそう言いながら、扉から離れて屋上の柵に近づいた。
飯田の横に並ぶと、柵に両手を乗せた。
「軍の一部で動きがあります。あそこは元々HPには協力的じゃないですけど、
なかでも積極的に自国の治安を守ろうと考えてる奴らがいます。
そいつらが、吸血鬼に頼らない方法を探して動いてます」
吉澤の視線は飯田と同じ対岸のビルではなく、手前に流れる暗い河に向けられている。
その姿を横目で見ながら、飯田が口を開いた。
「人狼をコントロールして兵士にする、か」
「それだけじゃない。人狼の体内に何かを埋め込んだ。
その何かで、通路を開くとか人狼の周りで能力が使えなくなるとか、
そういった能力を付加したみたいです」
「なんで、さっき言わなかったの?」
「信用度の高い噂ってだけですから。そんな不確かなこと、2人に言えないでしょ?」
吉澤が飯田に顔を向けた。
笑顔で、飯田の瞳を覗き込む。
「ありそうな話だけど、どこで聞いたの?」
「こっちに4年もいると、いろんなとこで知り合いも出来るってことですよ」
そう言って、吉澤が視線を逸らす。
吉澤は笑顔のまま、再び暗い河に視線を向けた。
- 374 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:08
- しばらく黙っていた吉澤が、口調を変えて飯田に尋ねた。
「姿が見えないですけど、2人はどこに行ったんですか?」
「あっち」
飯田は対岸を、顎で示した。
煌びやかな人工の光にライトアップされた、無数の高層ビルが立ち並んでいる。
月は、すでに見えなくなっていた。
「……やさしい、ですね」
柔らかい口調で、吉澤はそう言った。
今夜にも、人狼が襲撃してくる可能性がある。
治安は悪いが、ここに居るより安全だ。
そう考えた飯田は、観光にでも行って来いと言って、2人を建物から追い出した。
「若い子も、ずいぶん増えましたね」
「なに言ってんの。吉澤だって若いじゃん。裕ちゃんが聞いたら怒るよ」
飯田は軽い調子でたしなめて、柵から離れる。
扉に向かう飯田の背中に、吉澤は柵に寄りかかりながら話しかけた。
「中澤さんか……最後に会ったのは、4年前」
吉澤の懐かしむような声を背中に聞きながら、飯田はノブに手をかける。
扉を開いたところで、吉澤が背後から声をかけてきた。
「あの頃が懐かしいですね、飯田さん」
何気ない口調で問い掛けた吉澤の言葉に、飯田は振り向いた。
黒い夜空を貫いた無数の眩い槍を背に、吉澤は深い微笑を浮かべていた。
「……別に」
飯田は感情を込めないで短く、答えた。
- 375 名前:Moanin' 投稿日:2005/07/28(木) 15:08
- ――――
- 376 名前:カシリ 投稿日:2005/07/28(木) 15:09
- 以上で、4話終了です。
- 377 名前:カシリ 投稿日:2005/07/28(木) 15:09
- >>360 名無飼育さん 様
読んでいただいてありがとです。
そう言ってもらえると、うれしいです。
- 378 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:12
- 離れた場所の色彩の豊かなネオンの光で、空は薄く光っていた。
表通りから一つ道を外れると、疎らになったネオンの光量を補うように
頭上の半月が鮮やかに浮かび上がってみえる。
夜空に向けていた顔を落として、田中は溜め息を吐いた。
さっきまで歩いていた大通りの人ごみを嫌い、気が付いたらここにいた。
「どうしたれいなっ! 溜め息なんて吐いてっ!」
「……そうやねぇ」
何故かテンションの高い亀井に、田中が適当に返事を返す。
大通りから少し離れた小さな路地を、2人は歩いていた。
飯田に観光でもして来いと言われたが、特に行くところも思いつかない。
ぶらぶらと歩いていた田中の前方から、若い白人の男が歩いてくる。
正面から歩いてくる男に、田中は僅かに歩く進路を変えた。
男は田中の横を通り過ぎずに、行く手を遮るように目の前で立ち止まる。
顔を見上げた田中に、両手を広げて作ったような見事な笑顔をみせた。
『ねえ、君達観光客? よかったら案内するよ!』
田中に向かって、英語で話し掛けてきた。
(なんか言っとる……)
困った田中が横を見ると、亀井が話し続けている男の言葉を笑顔で受けている。
相槌を打つように、何度か頷いた。
「道が分からないって言ってるみたい」
「英語分かるの?」
田中に得意な顔を見せてから、亀井は1人で男に寄っていく。
- 379 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:13
- 男の目の前に立つと亀井は、男に向かって手招きをする。
頭を下げた男が、亀井の目を覗き込むように顔を近づけてきた。
息がかかるほど近づいたとき、亀井の左手が動いた。
同時に、男の笑顔が凍りつく。
一瞬で現われたナイフの切っ先が、男の喉下に突き付けられた。
背後の田中に見えない位置で、亀井は持ったナイフに軽く力を入れる。
硬直したように動かない男の耳元に口を寄せ、英語でやさしく囁いた。
『間に合ってるから』
突きつけたナイフの切っ先で、小さな赤い珠が生まれる。
すぐに破れたそれが、刀身を滑って赤く細い流れを作った。
膝が震え始めた男の肩を、亀井が気さくな感じで軽く叩く。
よろめくように数歩後ろに下がった男が、地面に尻餅をついた。
男に背を向けながら、田中には見えないように腰の後ろにナイフをしまう。
田中の傍に戻ると肩に手を置き、笑顔をみせた。
「行こっか」
「あの人は? もういいと?」
「そりゃあもう、丁寧に教えましたから」
白い顔をさらに蒼白にした男が、何かわめきながら逃げるように走り出した。
「なんか言ってるけど?」
「“ありがとう”だって!」
亀井は振り返ろうとする田中の腕を強引に引っ張って、歩き始めた。
- 380 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:13
- 第5話
Stompin' At The Savoy
- 381 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:13
- 小さな路地が絡み合った一画を歩いて、少し大きな通りで出た。
空き地の多い通りの両側には商店らしきものもあるが、シャッターが閉まっている。
設置されたゴミ箱から溢れたゴミが、風に吹かれてあちこちに転がっている。
田中は時間が停まったような閑散とした通りを見渡した。
「なんか、ヤバそうなとこやね」
「そうだね、戻ろっか」
来た道に戻ろうとした時、ビルの谷間に小さな音が轟いた。
田中は足を止め、周囲を見渡す。
老朽化の激しい2つのアパートの間、狭い路地で視線が止まった。
片方のビルは使っていないのか、入り口に板が無造作に打ち付けられている。
「絵里、聞こえた?」
「なにが?」
亀井は首をかしげ、不思議そうに田中を見る。
「銃声、だと思うんやけど」
「気のせいじゃない?」
亀井の声と被るように、再び音が聞こえた。
間違えるはずも無い、連続した銃声。
田中は路地に向かって走り出した。
「……邪魔ばっかり入るんだから」
聞く者の無い小さな呟きを残して、亀井もその後を追った。
- 382 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:14
- 細い路地を抜けると、ビルに囲まれ小さな空き地に出た。
田中たちが立っている路地の他に、左右に小さな路地が続いている。
空き地に入った田中は、軽いめまいを伴った違和感を感じてこめかみに指を当てた。
(……いきなり走ったから?)
横にいる亀井も感じたのか、軽く頭を振っている。
おかしいとは思ったが、すぐにおさまった。
田中はとりあえず空き地を見回す。
空き地の中に街灯が1つ立っているが、電球が切れているのか点灯していない。
暗い空き地を照らすのは、周囲のビルの窓からの頼りない灯りだけだった。
片隅には、錆びたドラム缶が転がっている。
銃声はこのあたりから聞こえた。
田中はどっちに行こうか迷って、耳を澄ませる。
- 383 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:14
- 突然、右手にある路地から人影が飛び出してきた。
転がるように空き地の中央まで来ると、出てきた路地を振り向く。
人影の手から軽い音と共に、小さな閃光が連続して放たれた。
銃から放たれる閃光が、人影を白く輝かせる。
強い意志を感じさせる瞳。
首から脚の先までが、黒い服で包まれている。
弾を撃ち尽くした女が弾倉を換えながら周囲を見渡す。
田中と目が合った。
一瞬驚いた表情を見せてから、露骨に不機嫌な顔で田中を睨む。
左の路地に退がりながら、持っていた銃を田中に向けた。
「戻れ! 今すぐ!」
すぐにでも引き金を引きそうな激しい口調に、田中は能力を発動させた。
隣にいる亀井も包むように、風壁を作り出す。
「いきなりなんね!」
「能力者? HPかっ!」
田中の声には答えずに、女は驚いた声でそう言った。
- 384 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:15
- 女は現われた安堵の表情をすぐに引き締め、出てきた路地を指差す。
「妖獣が来る! 入り口をふさげ!」
命令口調の女の言葉に戸惑いながらも、田中は視線を右の路地の入り口に移す。
僅かな光も届かない路地の奥から、今にも何か飛び出してきそうな気配が漂っている。
「早く!」
苛立ったような女の声に、田中は右手を路地に向ける。
広場への出口をふさぐように、細長い竜巻状の風が壁を作った。
「どうゆうことですか?」
「すぐ分かる」
問い掛けた亀井に、女は短く答える。
その直後、右の路地から犬の悲鳴に似た鳴き声が上がった。
風を通して見える暗い路地に、無数の赤い光が蠢いている。
「……街中で狼に襲われるとはね」
女はそう言って、田中に視線を向けた。
「妖獣。ちょっと大きめの犬型。数は20。自信は?」
「それぐらい、なんでもなか!」
試すような女の口調が癇に障った田中は、大声を出した。
睨みつける田中の視線を、女は微笑を浮かべて受け止める。
「じゃあ、よろしくね!」
女は左の路地に走り出した。
- 385 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:15
- 女の姿が左の路地に消える前に、右の路地から黒い物体が風壁を飛び越えた。
暗い広場の中央に、音も無く着地する。
黒く長い体毛に覆われた犬。
田中の第一印象はそれだった。
ただし、大きさが大人の虎ほどもある。
巨大な生物が田中に向けて、威嚇するように牙を見せた。
僅かな光を反射した鋭い牙が、白く輝く。
田中は自分に向けられた赤い瞳を見て、気が付いた。
(妖獣!)
その瞳には野生の動物では有り得ない、獲物を狩る悦びの意志が宿っている。
妖獣は田中に向かって飛び掛ってきた。
後ろには亀井がいる。
下がりそうになるのを堪えて、左手を妖獣に向けた。
田中の左手から生まれた風弾が、妖獣に直撃する。
飛ばされた妖獣が壁に叩きつけられた。
田中は呆然と、妖獣と自分の伸ばした左手を交互に見つめる。
地面に落ちた妖獣はゆっくりと立ち上がると、怒りに満ちた視線を田中に向けた。
その身体が、無数の銃弾に貫かれる。
蹴られた犬のような鳴き声を上げて、妖獣が再び地面に倒れこむ。
そして、動かなくなった。
「何でもないって言ったじゃん!」
広場に戻ってきた女の銃から、硝煙が上がっていた。
女の言葉に返事も返さず、田中は弾かれるように右の路地に顔を向けた。
(風が……!)
路地を塞ぐ風壁の高さが、低くなっていた。
- 386 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:15
- 妖獣に使った風弾も、全力で撃った。
しかし、威力がいつもの半分以下になっている。
田中は混乱しながらも、風壁に意識を集中する。
一瞬だけ勢いを強めたように見えたが、すぐに元に戻ってしまった。
「能力が……弱くなってる!」
「なんだよそれ!」
路地から視線を外さずに、女が苛立ったように叫んだ。
田中の視線の先で、風壁はさらに高さを失っていく。
「使えないっ!」
女は吐き捨てるように言って、ベストから金属の缶を取り外す。
「閃光弾を使うから、合図をしたら風を解け!
後ろを見ないで逃げろ! いいか!」
田中の返事も待たずに、女は左の路地の入り口に下がった。
亀井に腕を引っ張られて、田中も出てきた路地に下がる。
「今だ!」
女の声を合図に、路地をふさいでいた風を解く。
同時に走り出した。
- 387 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:16
- 白い光に包まれた広場に背を向けて、田中と亀井は路地を走る。
すぐに無数の足音が、近づいてきているのに気が付いた。
路地の出口までは、かなりの距離がある。
このままでは追いつかれる。
背後に迫る足音に、田中の身体を冷たいものが駆け抜けた。
振り向いて風を使えば、多少の足止めも出来るかもしれない。
しかし原因はわからないが、能力が弱くなっている。
田中は踏ん切りがつかないまま、路地を走った。
ふと気が付くと、亀井の背中が前より近づいていた。
前を走る亀井の足がもつれた。
転びそうになったのを何とか堪えて再び走り出す。
田中は唇を噛んだ。
ここで躊躇すれば、2人とも殺される。
「先に行って飯田さんに連絡をっ!」
亀井に声をかけて足を止め、振り向く。
視線の先に、群れをなした妖獣が迫っていた。
身体に残る生体エネルギーを掻き集め、SPに変換する。
僅かな風が、周囲に集まる。
目に見える範囲の妖獣も、倒せるかどうかだ。
田中は覚悟を決める。
襲い掛かってくる妖獣を迎え撃つため、風の刃を作り出す。
- 388 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:16
- 足を止めた田中の横を通って、妖獣の前に亀井が飛び出した。
驚きながら見つめる視線の先で、亀井は背中から2本のナイフを取り出す。
刀身が前腕ほどもある大型のナイフを両手に持って、妖獣に走り寄る。
先頭を走っていた2匹の妖獣が空中に飛んだ。
ぶつかる寸前、亀井は向かってくる妖獣の下に身体を入れる。
両手に持ったナイフが、闇を裂くように弧を描く。
2つの鮮やかな白光の半円が、妖獣の首元を撫でるように触れた。
一瞬、朱色の霧が現われて狭い路地を包んだ。
2匹の妖獣が、亀井の背後に並んで落ちる。
地面で横たわる妖獣の首は、鮮やかな断面を見せて切り裂かれていた。
両腕を開いた姿勢の亀井に、正面から別の妖獣が飛び掛る。
亀井は瞬時に、ナイフを逆手に持ち替えた。
正面で腕を水平に交差させて、妖獣の目と口を切り裂く。
同時に右足を跳ね上げ、妖獣の腹を下から蹴り上げる。
血を撒き散らしながら宙を飛んだ妖獣が、亀井の頭上を越えて背後に落ちた。
新たな妖獣が左右から壁を蹴って亀井に向かう。
右から襲ってきた妖獣の首元に、右手のナイフを深々と突き刺す。
- 389 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:17
- しかし、そこまでだった。
同時に振った左のナイフが、金属と牙の擦れる不快な音と共に妖獣の口に咥えられた。
亀井の伸びた左腕に、正面から襲ってきた別の妖獣が食らいつく。
「絵里!」
一瞬の出来事に、亀井を援護する間もない。
それでも妖獣に押し倒された亀井を見て、田中の身体が前に出た。
同時に、後ろから衿を掴まれる。
思わず田中の息が詰まった。
勢いよく振り返った背後には、少し苦しげな表情の亀井の顔があった。
「今のうちだよ!」
目の前の亀井が腕を掴む。
わけがわからない田中は、もう一度振り返った。
地面に倒された亀井の上に、妖獣が覆い被さっていた。
妖獣の下になった亀井の右手が伸びる。
上に乗っている妖獣の首に、後ろからナイフを突き立てた。
力を失った妖獣を押しのけて、亀井が立ち上がる。
千切れそうな左腕。
亀井の全身は、妖獣の物か自らの物かも分からない血で染まっていた。
立っているのもやっと、と言った感じで再び右腕を上げる。
「いいから早く!」
背後の亀井に腕を強引に引っ張られた。
事態が把握できないまま、田中は路地の出口に向かって走り出す。
「どうなって……!」
横を走っていた亀井が、よろけて肩にぶつかった。
「絵里!」
倒れそうになる亀井に慌てて肩を貸しながら路地を見渡す。
少し先に、アパートの裏口らしき扉があった。
- 390 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:17
- 田中は扉を開けて中に入ると、急いで内側から鍵をかけた。
鉄の扉が時間をくれる。
壁に背を預けさせて、亀井を座らせた。
一息ついて、顔を上げる。
薄暗いアパートの廊下を、天井に付けられた裸電球の黄色い光が照らしている。
両側に、薄汚れた扉が並んでいた。
ここで襲われたら、逃げ道が無い。
田中は廊下を見回す。
廊下の中間あたりに、エレベータがあった。
とりあえず上に行こう。
そう考えていた田中の袖が引っ張られた。
視線を落とすと、うつむいた亀井の手が袖を握り締めている。
「大丈夫?」
小刻みに震えている亀井の手に、田中は自分の手を重ねる。
屈み込んで、亀井の顔を覗き込んだ。
亀井は無表情で、何かに耐えるように口を強く結んでいた。
- 391 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:18
- ――――
狭い路地を走りながら、弾の残っていない銃を腰の後ろにしまった。
藤本は、背後の音に注意を向ける。
重い足音、数は一つ。
妖獣は、さっきの少女の方に行ってしまったらしい。
(あっちもプロだし、なんとかするでしょ)
藤本の脳裏に、呆然としたようすで自分の手を見ていた少女の姿が甦る。
(能力の減少……成功したってことか?)
少女の言った言葉が本当なら、思い当たるのは唯一つ。
藤本は灯りのない路地を、息を切らせて走る。
背後から感じるのは、圧倒的な暴力の匂い。
徐々に近づく気配に注意を向けつつ、前を見る。
前方に壁が迫っていた。路地は、左に曲がっている。
ここまで一本道だった。まずい展開。
藤本は路地を勢いよく曲がった。
- 392 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:18
- 建物の隙間にできたような、狭い路地。
伸ばせば両手がつきそうなほどだった。
その先には、大通りへの出口が見えている。
しかし高い柵が、出口と藤本を隔てていた。
「なんなんだよっ!」
走り寄った藤本は柵に蹴りを入れて、左の建物を見上げる。
壁面に、剥き出しの錆びた非常階段があった。
しかし一番下のはしごが上にあがっていて、手が届かない。
藤本は足場になるものを探そうとしたところで、動きを止めた。
ゆっくりと、振り返る。
藤本が曲がった路地の角にそれはいた。
巨大な二足歩行の生き物。
動物の発する、低い唸り声を上げている。
全身を長い体毛に覆われ、巨大な体躯を丸めて藤本を見つめていた。
- 393 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:18
- 姿形は違うが、その気配には憶えがあった。
昨日車で襲ってきた奴。そして今日、博物館であった大男。
感じる気配は、とびっきりの肉食獣。
(人狼、だったとはね……)
藤本はブーツからナイフを抜き、左手に握る。
それなりの安心感を与えてくれる、使い慣れたナイフ。
しかし今は、恐ろしく頼りない。
人狼が、ゆっくりと近づいてくる。
少し距離を開けたところで、足を止めた。
藤本は様子を見るつもりで、半歩足を出した。
人狼の間合いに入る、ぎりぎり手前。
どのような動きでも対応できる距離を保つ、つもりだった。
藤本が前進したと同時に、人狼も一歩前に出た。
予想以上に深く、人狼との間合いに入る。
タイミングをずらされた。
下がろうとした藤本に、人狼がさらに一歩前に出て鉤爪のついた左腕を振るった。
何とか身を捻って攻撃を避け、後方に下がる。
- 394 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:18
- 再び、人狼と距離を取って対峙した。
人狼がジリジリと間合いを詰めてくる。
いきなり飛び掛ってくれれば、背後に回って逃げることも出来た。
だが、人狼に隙がない。
背を向けることも出来ない藤本は、後ろにゆっくりと下がる。
狭い路地では、やり過ごして後ろに回ることも出来ない。
人狼の攻撃が掠った右腕が、熱い。
引き裂かれた服の下で、血が流れていくのを感じた。
人狼が異様に光る眼で、藤本を追い詰める。
虎が、獲物を目の前にしたときに放つ、黄色い光を溜めた視線。
背後にある柵に、足が当たった。
藤本は自らが流す濃厚な血の匂いを嗅ぎながら、ナイフを持った左手を上げた。
ゆっくりと、右腕の傷口に近づける。
人狼から目を離さずに、傷口を指で探った。
表面を薄く撫でただけ、動きに支障がでるほどではない。
藤本は不敵に笑いながら、血に塗れた左の指を口元に持っていく。
小さく舌を出して、舐めた。
- 395 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:19
- 「来いっ!」
人狼に叩きつけるように言って、藤本はスイッチを切り替えた。
物理的なものではない、藤本の頭の中にあるスイッチ。
それを、切り替える。
不意に、周囲の音が消えた。
無音室に入ったときに聞こえるような耳鳴りさえもない、真の静寂。
そして視界から、全ての色彩が失われる。
通常ではありえないほど開いた瞳孔を通して、普段はぼやける周辺視野が鮮明に映った。
モノクロに変わった視界の中で、人狼がゆっくりと動き出す。
意識的に聴覚を遮断し、視覚処理の過程から色を抜く。
不要情報を遮断することで、脳の処理速度を一時的に上げる。
通常1コマとして処理されるところを、30コマ以上に分割して高速処理を行う。
藤本は、全ての能力を視覚に集中させた。
- 396 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:19
- 普段は意識しない時の流れが、粘着質に感じられる。
人狼は間合いに入ると、鉤爪のついた右腕を水平に振ってきた。
顔の横に向かってくる腕を、藤本は余裕を持ってかわす。
通り過ぎていく腕を、視界におさめながら、踏み込んだ。
右の拳を縦にして、人狼の顔に向かって打ち上げる。
かわそうとする人狼の顔に向けて、拳の軌道を修正した。
顔の前で右手を開き、目を叩く。
人狼の目が閉じたのを確認してから、藤本は低い姿勢で人狼の右脇を抜ける。
通り過ぎるときに右の膝にナイフを突き立て、そのまま背後に回った。
半円を描いて、膝を切り裂く。
傷口から血が噴出すより早く、膝に刺さったナイフから一度手を離し、
逆手に持ち替えた。
ナイフを引き抜き、左の膝裏を一閃する。
そのまま人狼の背後を走りぬけ、建物の壁面に向かって飛んだ。
壁に足がついたところで、人狼の姿を確認する。
膝を折って、地面に座り込んでいた。
藤本は壁を蹴って、人狼の背中に乗る。
人狼を踏み台に、壁面の階段に向かって再度飛んだ。
右腕を、限界まで伸ばす。
はしごの一番下に、辛うじて指がかかった。
壁を蹴りながら、身体を持ち上げる。
- 397 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:20
- 重く感じる空気の中を、かき分けるように階段を上った。
足を切られた人狼は上がって来れない。
回復力を考えても、しばらく時間が稼げる。
藤本はポケットから携帯を出したところで、階段から足を踏み外した。
全身の皮膚があわ立つような感覚と共に、急速に時間の感覚が戻っていく。
藤本は階段に両手をついてうずくまった。
凄まじいまでの眩暈と耳鳴り。
自分以外の全ての物が回転している。
藤本は湧き上がる激しい嘔吐感に、片手で口を押さえた。
視覚に全能力を集中できるのは、実際の時間で30秒程度。
その後に襲ってくる、限界を超えた能力の代償。
藤本の脳が、絶望的な悲鳴を上げる。
藤本は感覚の無い手足を、機械のように動かす。
右手に持った携帯を握り締め、階段を這うようにして上った。
- 398 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:20
- ――――
無言のままの2人を乗せて、僅かに揺れながらエレベータが上がっていく。
田中は扉の上で現在位置を表示している光が移動していくのを、見上げていた。
路地でのことを、思い出す。
妖獣と戦っていたのは、確かに亀井だった。
そしていま、横に立っているのも確かに亀井だ。
ようやく落ち着いた亀井に聞いてみたが、適当にはぐらかされた。
(あれが絵里の“能力”なのかな?)
基本は銃器で後方支援。ときどきナイフで近接戦闘。
亀井も妖獣と直接戦うことがある。
しかし妖獣と戦闘をおこなう回数は、圧倒的に田中と飯田が多かった。
能力者ならば他人のSPは、感じ取ることができる。
しかし、その性質まではわからない。
“能力”を持っているのは知っていたが、実際に見るのは初めてだった。
ぼんやりと考えていた田中の耳に、状況に似合わない軽い音が聞こえた。
“10F”の表示で光が止まる。エレベータが最上階に到着した。
田中は視線を扉に向ける。
落ち着いて考えることができるまで、余計なことは忘れることにした。
- 399 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:21
- 開いた扉から出ようとして、田中は足を止めた。
正面の壁に背をあずけて、人が座っていた。
「……やぁ」
顔を上げた女が弱々しく言って、田中に向かって片手を上げた。
「おまえっ!」
「フジモトミキ」
声を上げた田中を制するようにそう言って、藤本は息を吐いた。
「好きに呼んで構わないけど“おまえ”はやめて。
……あと“みきたん”もダメだから」
田中に向かって、力なく笑って見せた。
先に下りた亀井に続いてエレベータから降りると、田中は左右に続く通路を確認する。
通路の両側に扉が並ぶ、1階と変わらない造り。
右の突き当たりに鉄製の扉。
左側の突き当たりは、小さなホールになっていた。
天井から床ギリギリまでの曇った大きなガラス窓を通して、
外で煌めくネオンの光がぼやけて見える。
ホールの脇には、階段が続いていた。
「怪我、してるんですか?」
藤本の傍にしゃがんでいた亀井が、藤本の右腕を見て言った。
切り裂かれた服から覗く右腕を、僅かに流れた赤黒い血が染めていた。
- 400 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:21
- 藤本は壁に背をつけたまま、立ち上がる。
額に浮いた大量の汗を、左の袖でぬぐった。
「たいした傷じゃない。あんた達こそ怪我ないの?」
「おかげさまでねっ!」
巻き込まれたことを思い出し、田中は皮肉をこめて言った。
田中の言葉に、藤本は微かに笑う。
「そんだけ言えれば、大丈夫だね。……それじゃあ、行こうか」
「行くってどこに?」
「屋上だよ。回復するのに思ったより時間がかかった。
いつ“あいつ”が来てもおかしくない」
藤本が壁に手を付きながら、ふらつく足どりでホールに向かう。
亀井が追いついて、肩を貸した。
「あいつって誰ですか?」
「さっきの妖獣の親玉。いくら美貴でも、これ以上は相手にできない」
「あんたは逃げただけやろ!」
藤本が足を止めた。
田中は前を見たままの藤本の横顔を、睨みつける。
「なんか文句でもあると? 本当のこと言っただけとよ!」
「……別に文句はないけどさ。あっちは、そうでもないみたい」
藤本の視線の先に目を向けて、田中は立ちすくんだ。
常識に反するものを見た途端、生じる現象だ。
ホールの大きな窓ガラスを覆い隠すように、巨大な生き物が立っていた。
- 401 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:21
- 僅かに、肩が上下している。
それに合わせて聞こえてくる息遣いが、通路の空気を震わせて田中の耳に届く。
昔飼っていた犬が見知らぬ侵入者に対して上げていた唸り声に、似ていた。
窓からの灯りを背に受けた生き物のシルエットに、見覚えがあった。
映像の中で、男が変貌した姿。
(人狼……)
映像では感じることのできなかった圧倒的な存在感。
肉の内圧が醸し出す迫力が、重い気配となって田中の全身に絡みつく。
考えていたなかでも、最悪な状況。
ほとんど装備がない状態で、倒せるわけがない。
たった2人では、まともに相手もできない。
田中の首筋を不快な汗が、ゆっくりと伝っていく。
不意に、荒い息遣いが止まった。
人狼が窓から離れ、ゆっくりと足を踏み出してきた。
それだけで、動いた空気に顔を叩かれ下がりそうになる。
亀井が静かに、藤本から離れる。
藤本は人狼から目を離さずに、壁に寄りかかった。
- 402 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:22
- 亀井が人狼を刺激しないように、ゆっくりと前に出る。
感情を消した顔で人狼を見ながら、小さく掠れた声を出した。
「……れいな」
視線だけを田中に向けて、背中から2本のナイフを取り出した。
田中は横目で藤本の姿を見てから、亀井に頷く。
藤本を背後に隠すように、前にでる。
田中は能力を発動させた。
一般人を巻き込むわけにはいかない。
隙を作って藤本だけでも、逃がさなければ。
情けないほど微かな風が、右手に集まる。
「行くよっ!」
亀井が低い姿勢で走り出す。
田中は開いた右手を人狼に向けた。
人狼に向かっていく亀井の背中を掠るようにして風弾を放つ。
走る亀井を追い越した風弾が、人狼の顔に直撃する。
普段の力ならば、それで勝負が決まる一撃。
しかし、人狼は僅かに顔を逸らせただけだった。
上を向いて剥き出しになった喉に、亀井が走りながらナイフを投げる。
人狼が右手を振ってナイフを弾いた。
その隙に、亀井が床に鼻を擦りそうなほど低い姿勢で走り寄る。
亀井のナイフが人狼の足先を薙いだ。
- 403 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:22
- 亀井の攻撃を避けて、人狼が前方に飛んだ。
巨大な体が宙を飛び、亀井を飛び越える。
天井に両手を付いて軌道を変えると、亀井と田中の中間に降り立った。
そのまま、田中に向かって頭から突っ込んできた。
田中は両手を前で交差して、反射的に風壁を作る。
能力の半減した状態での風壁。
薄い風壁を突き破った人狼の肩が、交差した腕にぶつかった。
田中の体が吹き飛ばされる。
後ろに立っていた藤本にぶつかり、2人はもつれ合ったまま
後方に飛ばされて倒れ込んだ。
「大丈夫か!」
藤本の声に答えようと開いた田中の口から、低い呻き声が上がる。
トラックにでもぶつかったような衝撃。
吐き気がするほどの痛みが、全身を襲う。
咄嗟に作った風壁が多少でも速度を落としていなければ、死んでいた。
人狼は背後に牽制するような視線を向けた。
ナイフを構えて、飛び掛ろうとしていた亀井の動きが止まる。
再び人狼が振り向いた。
田中の視界に、その顔が映る。
人狼は笑うように大きく口を開け、不快な唸り声を上げた。
さっきの衝撃で体が動かない。
田中は全身を覆う痛みに耐えながら、人狼を睨んだ。
- 404 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:22
- 突然人狼と田中の中間で、軽快な音が鳴った。
エレベータの到着を知らせる音。
人狼の視線が僅かにそちらに向いた。
住人が帰ってきたのか。
田中は焦って立ち上がろうとしたが、四肢に力が入らない。
視線だけを扉に向けた。
エレベータの扉がゆっくりと開き、隙間からの光が人狼と田中の間に広がる。
扉が完全に開ききる前に、人影が飛び出した。
なんの躊躇も見せずに、人狼に向かう。
「飯田さん!」
見慣れた背中に、田中は声を振り絞る。
人狼は現われた新たな敵に向かって右腕を振り上げ、振り下ろした。
- 405 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:23
- 飯田が頭上に上げた右の前腕で、人狼の豪腕を受ける。
両者の動きが止まった。
「ふっ!」
一瞬早く飯田が動き出す。
鋭い声と共に人狼の胴体に前蹴りを入れた。
吹き飛ばされた人狼が、床に伏せた亀井の上を通過する。
ホールの大きなガラス窓に、人狼が叩きつけられた。
巨体を受け止めた衝撃で、ガラスが砕け散る。
縦横に残った窓の骨組みが、ひしゃげながらも人狼が外に飛び出すのを防いだ。
体勢を立て直す前に、飯田が追った。
倒れている人狼の胸に左の拳を叩き込む。
重い音と共に、人狼の背中が外に出る。
人狼は片手を窓枠にかけながら、目の前の飯田に左手を伸ばした。
左腕を掴もうとする人狼の手をかわし、飯田はその胸に押し込むように蹴りを入れた。
支えていた骨組みが壊れる音と共に、人狼の体が大きく外へと押し出される。
飯田は僅かに踏み込んで、窓枠に掛かっていた人狼の手を脚で払った。
人狼の手が窓枠から外れる。
重い叫び声を残して、人狼が闇の中へと落ちていった。
- 406 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:23
- 倒れている田中に、右腕を擦りながら飯田が駆け寄る。
亀井も、ナイフをしまって走り寄ってきた。
飯田は田中の前でしゃがみ込む。
後ろにいる藤本を一瞥してから、田中の目を真っ直ぐに見た。
「怪我は?」
「大丈夫です!」
「よくがんばった。じゃあ……逃げるよ!」
飯田はそう言うと、田中の体を片手で左脇に抱えた。
「上へ!」
藤本の声を背後に聞きながら、ガラスの無くなった窓の脇にある階段を上った。
「ちょっと待て下さい! この高さですよ!」
「走りにくいから、動くな! あれで倒せるわけないでしょ!」
答えた飯田の言葉が、階段に響き渡る。
- 407 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:23
- 飯田は屋上への扉の前で立ち止まり、少しだけ躊躇うように言った。
「それに、腕が動かないんだよ」
「え?」
「右腕が上がらないって言ったの!」
飯田に抱えられながら、田中は飯田の右腕を見た。
ダラリと下がった右腕は、細かく震えている。
人狼の攻撃を受けた部分は、内出血を起こしたように青黒く変色していた。
飯田は、田中を床に下ろした。
「隕石でも止められると思ってたのに」
そう言いながら、藤本が手を伸ばしてノブを掴んだ。
「あんたはなんで、ここにいるのっ!」
「巻き込まれた観光客」
怒ったような飯田の声に、片目を瞑って返事をする。
掴んだ扉のノブを回し、藤本は扉を開けた。
- 408 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:24
- 開いた扉から強い風が、爆音と共に吹き込んできた。
屋上は、眩しい光の中にあった。
上から照らされる強力な光に、田中が手をかざして空を見上げる。
上空でホバリングをしていた民間のヘリコプターが、高度を下げるところだった。
「さっき美貴が呼んどいた!」
藤本が振り返りながら、爆音に負けない大声を出した。
ヘリコプターに手を振りながら、屋上に着陸したヘリに近づく。
操縦席の白人に大声で何か言った後、呆気に取られる田中達を呼び寄せた。
ヘリコプターに全員が乗り込み、扉が閉まる。
離陸したヘリコプターの中で、田中の前に座っていた藤本が突然身を乗り出した。
お互いの鼻がくっつきそうになるほど近づく。
驚いた田中が、軽く身を引いた。
「空からの摩天楼って、見たことある?」
はしゃいだようにそう言って、藤本は軽く笑った。
- 409 名前:Stompin' At The Savoy 投稿日:2005/08/09(火) 17:24
- ――――
- 410 名前:カシリ 投稿日:2005/08/09(火) 17:24
- 以上で第5話終了です。
- 411 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/09(火) 19:34
- 美貴さま (;´Д`)'`ァ'`ァ
- 412 名前:名無しファン 投稿日:2005/08/10(水) 17:08
- 更新乙です!
もう・・・かっこよすぎ!!!!
このメンバー好きです。
- 413 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:37
- 正面にある壁は、ほぼ全面が窓になっていた。
存在感を感じさせないほど磨かれた窓の向こうに、人工の煌びやかな夜景が見えている。
さまざまな色の照明が煌めくビル群の合間を縫うように走る道路には、
車のライトが光の河となって流れていた。
窓に映る照明の絞られた室内を見て、田中は視線を移した。
大きな部屋だった。
田中の座っているソファーは、部屋の中央に置かれていた。
横には、亀井が寄り添うように座っている。
テーブルを挟んで向かい側には、飯田が少し機嫌の悪そうな顔で座っていた。
玄関への扉を含めて、部屋には扉が4つ。
壁際には、バーカウンターもある。
テーブルの上には、先ほどボーイが運んできたオードブルがあった。
田中は感触を確かめるように、足裏に軽く力を入れる。
靴が踏んでいる絨毯も目の前に置かれているテーブルも、高価な物らしい。
田中は一泊幾らぐらいするのか想像しながら、意味も無くソファーに座り直した。
藤本が鼻歌交じりで、バーカウンターから出てきた。
Tシャツとジーパンに着替えた藤本の右腕の上腕に、包帯が巻かれている。
両手には氷の入ったシャンパンクーラーと、シャンパングラスが4つ。
藤本は上機嫌で、抱えていた物をテーブルに置いた。
顔が映るほどよく磨かれた銀色のシャンパンクーラーが、田中の目の前に置かれる。
- 414 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:38
- 田中の右にあるソファーに、藤本は勢いよく腰を下ろした。
手を伸ばして、冷えたシャンパンを取り出す。
それぞれの前に滑らしたグラスに、藤本の手でシャンパンが注がれていく。
シャンパングラスの長い首の部分を、小指を立てた右手でつまんで持ち上げた。
「んじゃ、乾杯でっ!」
「……何に?」
自分の前に置かれたグラスを持って、飯田が聞いた。
藤本は満足そうな笑顔を飯田に向ける。
「色々あったけど、仕事も成功したからね」
飯田を横目で見ながら、田中は恐る恐るグラスに手を伸ばした。
グラスを顔を近づけると、中で弾ける微かな泡の音が聞こえる。
「藤本さんって、何してる人なんですか?」
「なんだと思う?」
質問した亀井に、上機嫌なようすの藤本が目を細めて聞き返した。
「泥棒だよ」
飯田が足を組みながら、答える。
藤本は飯田を見ながら、鼻を鳴らした。
「飯田さん大人なんだから、もうちょっと言い方ってものを考えた方がいいよ」
「捕まる前に辞めたら? 心配してる人もいるでしょ?」
「警察の仕事も始めたの? そんなこと言われる筋合いはないね。
それに……今の話で亜弥ちゃんのことは、もっと関係ない」
笑顔を消した藤本が、飯田と睨みあう。
静まりかえった部屋の中で、シャンパンクーラーの中で解けた氷が音を立てる。
グラスを持ったまま手を伸ばし、亀井がクーラの氷を一つ取って口に入れた。
田中は2人から視線を逸らして、オードブルに手を伸ばした。
しばらくしてから藤本が笑顔を見せた。
藤本が左手の人差し指を立て、顔の前で振る。
「今のは、聞かなかったことにしてあげる。“一応”助けてもらったからね」
藤本は“一応”の部分に力を込めて言うと、全員の顔を見回す。
再びグラスを持ち上げた。
「じゃ、改めて……かんぱ〜い!」
藤本はグラスの中の液体を、一気に飲み干した。
- 415 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:38
- 第6話
Teach Me Tonight
- 416 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:39
- ――――
シャンパンは最初の一杯だけで、飯田と藤本のグラスにはバーボンが入っていた。
飯田は氷をいれずに、生のままのバーボンを一口飲む。
口の中に芳醇な香りが広がり、飲み込んだ熱い液体が胃まで降りていく。
「博物館が襲われて、警備員が殺された。
しかも近くで“通路”が開いて、その場所が亀井たちの行った場所に近くてさ。
なんか嫌な予感がしたから行ってみたけど、よかったよ」
亀井に向かって言いながら、飯田はグラスを軽く振った。
横では田中がぼんやりとした表情で、窓に視線を向けている。
両手で持った田中のグラスは、傾いていた。
「あんなところで人狼に会うとは、思わなかったけどさ」
「今度はあんなのが相手とは、飯田さんも大変だねぇ」
ソファーに深く座って、藤本が面白そうに言った。
藤本のグラスにはバーボンと一緒に、丸く削った大きな氷の塊が入っている。
飯田は藤本に顔を向けた。
「生き残った警官の証言と現場の状況から、HPに連絡が来た。
あんたが警官助けなきゃ、助けに行くのが遅れてたかもね」
「なんのこと?」
藤本はとぼけた顔をして視線を逸らした。
生き残った警官の話から、女が1人で人狼の相手をしていたのは知っていた。
その場にいた藤本が人狼の相手をして、警官を助けたのだろう。
- 417 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:39
- 藤本の横顔を眺めながら、飯田はグラスに口をつけた。
他人を助ける、というのは難しい。
溺れて助けを求めている者に手を伸ばせば、引きずり込まれる。
自分が弱くては、他人は助けられない。
相当の覚悟と力がなければ、手を出してはいけないものだ。
飯田は半分程に中身が減ったグラスを、テーブルに戻した。
人狼を目の前にして他人の命を慮るなど、無茶もいいところだ。
藤本はそっぽを向いて、グラスに口をつけていた。
その表情は照れているのか、それとも不貞腐れているのか判断がつかない。
昔から、藤本には甘いところがある。
しかし飯田は、藤本のそういうところは、気に入っていた。
藤本は皿に手を伸ばして、チーズを1つ口に運んだ。
続いて、口に残っているチーズを流し込むようにグラスに口をつける。
「しかし、豪華な部屋だね」
飯田はソファーに背をあずけて、部屋を見回した。
今いるのは、ホテルの最上階。
それも、世界でも有名な一流ホテルだ。
飯田たちを乗せたヘリコプターは、その屋上に直接降りた。
藤本が何箇所かの拠点を持っているのは知っていたが、来るのは初めてだった。
「真面目に働くのがバカらしくなるよ」
「いや、美貴は真面目に働いてるから」
飯田の言葉に即答して、藤本は空になったグラスに自分でバーボンを注いだ。
- 418 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:39
- グラスを持った藤本に、飯田は目を合わせた。
「真面目な話、そろそろ辞めて日本に帰ってきたら?」
「なんで?」
「最近みきたんが会ってくれないの〜」
「キモイ」
両手を胸の前で組んだ飯田に、藤本は不愉快そうに言った。
「あんたは少し冷たいよ。あんなに慕ってくれてるのに」
「たまたま一度助けただけだし! 別にどうでもいいことだし!」
ぶっきらぼうにそう言って、グラスに入った液体を一気に飲んだ。
乱暴にグラスをテーブルに戻すと、再びボトルに手を伸ばす。
飯田は機嫌の悪くなった藤本から視線を外して、田中の方に顔を向けた。
いつのまにか、田中はソファーに横になっていた。
持っていたグラスは、亀井の手の中におさまっている。
亀井が苦笑しながら田中の頭を撫でていた。
さっきまで田中は勧められる酒を、次々と飲んでいた。
むきになって飲んでいる田中が面白く、
飯田と藤本の2人でさまざまな種類の酒を飲ませていた。
調子に乗って、飲ませすぎたらしい。
飯田は寝ている田中を見ながら、軽く微笑んだ。
- 419 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:40
- 「それよりさ。あいつを倒すなら、協力するよ」
藤本の声に、飯田は視線を移した。
田中の様子をみて少しは機嫌を直したのか、藤本は口の端に笑いを浮かべている。
「あんたには関係ない。余計なことに首を突っ込まない方が身のためだよ」
飯田は冷たい口調で、答えた。
いくら強いとは言っても、藤本は“能力”を持っていない。
これ以上、知り合いを巻き込んで犠牲者を出すわけにはいかない。
「それが、関係なくもない」
藤本はグラスをテーブルに戻した。
向かいの席で横になっている田中に、視線を向ける。
「その子……田中だっけ? さっき能力が弱くなった。
あんたも、そうでしょ?」
そう言って亀井を見た。
藤本の質問に、笑顔の亀井が頷く。
「似たような現象を起こす物もあるけど、あれほど強い効果が現われるのは
美貴が知ってる中では“スライマーンの宝玉”だけ」
「なんですか、それ?」
「スライマーンって言うのは、古代イスラエルの伝説に出てくる人物で、
キリスト教的に言うとソロモン。まあこっちの方が有名かな。
このスライマーンが、ジンとシャイターンを操るのに使ってたと言われているのが
スライマーンの宝玉」
藤本はテーブルに乗ったボトルを掴んで、自分のグラスに注ぐ。
右手でボトルを持ちながら、左の指を一本立てた。
「宝玉の効果は2つ。
1つは所有者以外の、周囲で使われる特殊能力の効果を半減させる」
- 420 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:40
- 藤本はボトルをテーブルに戻して、2本目の指を立てる。
「もう1つは、大地の持っているエネルギーを所有者に与える。
自分の生体エネルギーを減らさずに、能力が使い放題ってわけ」
「人狼の場合はSPを吸い取るんじゃないかって話だったけど?」
飯田の言葉に、藤本は眉をひそめた。
液体の満たされたグラスに、口をつける。
「SPを吸い取るなんて有り得ない。
SPっていうのは、生体エネルギーを本人の能力に適合するように
変換したものだから直接吸い取っても使えない。
HPならそれぐらい分かりそうなもんだけど、誰が言ったのそんなこと?」
「企業秘密」
飯田は脚を組んで、そっけなく答えた。
亀井がよく分からないといった顔で、藤本に質問した。
「ジンってなんですか?」
「ジンとシャイターンは、そうだな……精霊とか魔神とか、かな?」
持ち上げたグラスを途中で止めて、藤本は少し顔を傾けながら答える。
- 421 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:40
- 「ランプから出てくる奴?」
辻と一緒に見た長編アニメを思い出しながら、飯田が言った。
異様にハイテンションは青い大男が、主人公の3つの願いを叶える。
歌と踊りを交えつつ進むストーリーを、イライラしながら見ていたのを思い出す。
「それはジンだね。ランプに閉じ込められた精霊。契約に縛られた魔神。
他にも悪魔って訳されることもあるけど、それはちょっとって思うわけ。
なんて言うか……善悪両方併せ持つ両義的な存在、かな?」
「人間みたいに?」
「そんなとこ」
飯田の目を見ながら頷いて、グラスに入った液体を一口飲む。
「それはいいとして宝玉なんだけど、世界に2つしかないって言われてる」
藤本は持ったグラスを手の中で回す。
グラスと氷が触れ合う澄んだ音が鳴った。
「1つはHPの遺物保管所、通称“石棺”。
あそこは他にも面白そうな物があるから、美貴も何回か行ったことがあるけど、
オッカナイ管理人がいてね。まだ手をつけてない。もう1つは……」
残った液体を一気に飲んで、グラスをテーブルに置いた。
「今見せるけど、ここにある」
「はぁっ?」
藤本は驚きの声を上げた飯田に笑顔を見せて、立ち上がった。
- 422 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:41
- 藤本はゆっくりとした足取りで、バーカウンターの内側に入ってしゃがみこんだ。
何かを探している物音が、聞こえてくる。
「軍の研究所にやたら秘密にしたがってる物があるって聞いたんで、行ってみたわけ」
「聞いたって、誰から?」
「もちろん、企業秘密だよ」
カウンターから顔だけを覗かせて、にこやかに笑って見せる。
飯田は目を細めて、藤本を見返した。
「……わかった。それは聞かないから続き」
しばらく無言で見詰め合っていた2人だったが、飯田が先に視線を逸らしてそう言った。
藤本は意地悪そうな顔で鼻を鳴らすと、再びカウンターの下に引っ込んだ。
「で、研究所で見つけたのがスライマーンの宝玉。
そのあと見つかっちゃって、さっきのあいつに追いかけられてる」
藤本はそう言って、立ち上がる。
握った右手を持ち上げて、カウンターの上に置いた。
右手に視線が集まるように、充分時間を置いてから手を開く。
「これが、スライマーンの宝玉」
藤本の手の上で、カウンターの抑えた照明を受けた石が赤紫に光っている。
つながっている銀色の鎖を左手でつまんで、そっと持ち上げた。
- 423 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:41
- 亀井がちょっとだけ困ったような顔をした。
「ここで能力使えなくなると困るんですけど……」
「一緒に付いてる鎖の部分で能力を抑えてるから、今は大丈夫」
亀井に片目を瞑って見せて、左の指で宝玉の部分をつまんだ。
「これがオリジナル。ってことは人狼の体内にあるのはコピーってこと。
コピーに成功してるなら、その製法に興味がある。
それにあいつがいると、仕事の邪魔になる。だから協力するの」
カウンターに両肘をついて、藤本は目を細めて宝玉を眺めた。
「HPの支部って、この辺だと1つしか残ってないって話だし。
なんなら今から一緒に行ってもいいよ?」
「なんで、そんなこと知ってる?」
飯田は真剣な表情で、藤本を睨んだ。
HPの支部が人狼に襲われたことは、極秘のはずだ。
応援を頼まれた飯田本人も、吉澤に説明を受けるまでそのことは知らなかった。
「やだなぁ。疑ってんの?」
藤本はそう言って、カウンターの背後にある棚から新しいボトルを取り出した。
「人の口に戸は立てられないの」
藤本は笑顔で言って、新たに出したグラスに丸く削られた氷を入れた。
- 424 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:41
- ――――
飯田がグラスに残っていたバーボンを飲み干した。
「そろそろ帰るよ」
バーカウンターの内側にいる藤本に言って、立ち上がった。
藤本はカウンターに乗せた片手で、頬杖をついている。
多少は酔っているのか、少しだけ赤い顔で手を振った。
藤本はさっきまでHPの場所を、しつこく聞いてきた。
飯田が断り続けていると“勝手に行くから頼まない”と藤本に話を打ち切られた。
支部の場所は一応秘密になっているが、藤本なら何とかしそうな気もする。
(これ以上厄介なこと、増やさないで欲しいな……)
飯田は溜め息を吐いて、ソファーで寝ている田中の体をゆすった。
目を開けた田中は、周囲に視線をさまよわせてから飯田に視線を止めた。
「もう帰るよ。言ってること、分かる?」
目の前で手を振った飯田を、田中はぼんやりとした表情で見つめる。
しばらくして、田中は眉をひそめた。
「……ようは、南からの偏西風ってことやろか?」
真剣な表情で、首を傾げる。
横で座っていた亀井が、田中の肩に手を置いた。
「そうじゃなくて、帰るんだって」
「お金を入れたのに商品が出てこないなんて! うちは認めんけんね!」
横から話し掛けた亀井に、田中は大声を上げた。
声を上げて笑っている藤本を睨んでから、飯田は怒っているらしい田中の肩に手を置いた。
- 425 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:42
- ふらついている田中を、亀井が支えながら玄関へ続く扉へと歩いていく。
田中は笑顔で、肩を貸している亀井に話しかけている。
飯田は2人が部屋を出て行く姿を見ながら、グラスに残った小さな氷を口に入れた。
カウンターの内側で、藤本が出て行く2人の姿を楽しそうに眺めている。
飯田は2人部屋から出たのを確認してから、藤本に近づいた。
藤本はカウンターに置いたグラスに、手酌でバーボンを注いでいる。
カウンター越しに立った飯田に、笑ってボトルを振ってみせた。
「なに? まだ飲み足りない?」
飯田は視線を落とす。
カウンターには、落とした照明に薄く輝く赤紫の宝玉が置かれている。
「それを、渡してもらいたい」
藤本はボトルを持った手を止める。
笑顔を消して飯田の顔を見ながら、手に持ったボトルを静かに置いた。
「さっきの人狼。圭織の知ってる奴とは段違いなんだよ。
それがあれば、弱点がわかるかも知れない」
右腕を擦りながら言った飯田の言葉を、藤本は黙って聞いていた。
無言で藤本を見つめる飯田の耳に、微かに音が聞こえた。
遠くで玄関の扉が開き、閉まる音。
そして音のない空間に戻った部屋の中で、2人が目を逸らさず睨み合う。
- 426 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:43
- しばらくしてから藤本が、飯田の視線を遮るようにグラスを持ち上げた。
中に入った琥珀色の液体を一口飲む。
満足そうな息を吐いて、目を細めた。
「やだね」
藤本は、意地の悪そうな顔をして笑った。
「さっきも言ったでしょ。たとえ盗んできたとしても、あんた達の管轄とは違う。
それとも……この場で美貴を殺して奪い取る?」
藤本の口調は、冗談を言っているように和やかだった。
飯田は表情を消し、真剣に藤本を見返す。
「代金は払うよ。それを使って圭織があいつを倒す。
あんたはそれが売れて儲かればいい。でしょ?」
藤本に向かって、左手を出した。
しばらく飯田の左手を眺めてから、藤本はカウンターに置かれた宝玉を右手で握った。
「そうもいかない」
藤本は表情を引き締め、言った。
「HPは信用できない。
おかしいんだよね。だいぶ研究が進んでいた状態で、コレが研究所に持ち込まれてる。
こういうものを解析するのに、どれだけの労力がいるか知ってる?
コレが出回ったのは、たかだか10年前。
そんな期間でコピーまで作れるところなんて、HPぐらいだよ。
それに、あいつは美貴がこの手で殺したい」
藤本の言葉に、飯田は目を細めた。
今年の春に、里田が持っていた“本”。
そのときに聞いた紺野の話でも、同じようなことを言っていた。
「よくそんなこと知ってるね」
「危ない橋を渡って忍び込んだのに、こんな小さな石1つで帰ってくるわけないでしょ。
いろいろと情報も貰ってきたんだよ」
勝ち誇ったように、藤本が胸をそらせる。
飯田は出した右手を戻して、藤本の目を見据えた。
- 427 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:43
- 藤本は握った両手をカウンターに置いた。
「それにね……これ、美貴の両親が持ってたんだ。だけど十年以上前に奪われた。
そのとき、両親も殺された」
そこで言葉を切って、天井を見上げる。
眩しそうに、目を細めた。
カウンターの落とした照明が、その顔を照らしている。
藤本は一度目を閉じてから、再び飯田に視線を戻した。
「別に敵討ちってわけじゃない。そんなことしたって、意味なんかない。
ただね、本当は美貴の物になるはずだったのに盗んだ奴がいる。
しかも、ソレを使ってコピーまで作った。
そんなこと……美貴が許すわけないでしょ!」
最後の言葉を笑顔で言って、藤本は右の指で弾いた宝玉を左手で掴んだ。
- 428 名前:Teach Me Tonight 投稿日:2005/09/01(木) 11:44
- ――――
- 429 名前:カシリ 投稿日:2005/09/01(木) 11:44
- 以上で第六話終了です。
- 430 名前:カシリ 投稿日:2005/09/01(木) 11:45
- >>411 名無飼育さん 様
なんていうか……コメントしづらいです。
>>412 名無しファン 様
ありがとうございます。
しばらくこのメンバーでいく予定です。
- 431 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:38
- その場にいる全員が息を飲んで見守るなか、微かな軋みがロビーに響いた。
正面のシャッターが、ゆっくりと巻き上がっていく音だ。
道路と建物の中を隔てている数枚のシャッターのうち、一枚だけが開いていく。
床とシャッターの隙間が、徐々に広がり、ロビーから溢れた光が
正面の人気のない道路を照らし始めた。
「……来ませんね」
「……警戒、してるんでしょ」
横にいる吉澤の緊張した声に、飯田は正面から視線を逸らさずに答えた。
ロビーの中は、異常な緊張感に漲っている。
この場に、支部にいるほぼ全員が集まっていた。
そして開いていくシャッターには、全ての銃口が向いている。
外にいる奴らも知性がないとはいえ、それを感じ取っているはず。
シャッターが上がりきり、ロビーから音が消えた。
昼間の余韻が残る道路から、熱せられた空気だけが流れ込んでくる。
ロビーには人の気配が溢れていながら、何の物音もしない。
誰もが、開いたシャッターを凝視している。
道路に落ちた光のギリギリ外側で、異形の気配が蠢いていた。
息をするのも躊躇われるような緊迫感の中、飯田は空の右手を強く握る。
(それとも……なにかを待ってる?)
動かない状況に沸いてきた疑問を即座に打消して、飯田は再びシャッターに注意を向けた。
- 432 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:39
- 第7話
Left Alone
- 433 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:39
- ――――
左右に伸びる広い廊下を、職員たちがあわただしく通り過ぎていく。
かわされている会話は英語のため、分からない。
田中は廊下の壁に背を預け、深く息を吐いた。
起きたときは、最悪だった。
目が覚めた直後から“頭がガンガン”と“死にそう”の中間の気分に襲われ、
ようやく起きたときは昼を過ぎていた。
こめかみを指で何度か軽く叩く。
昨日の夜、藤本のホテルに行ったのは憶えている。
出された酒を多少、飲んだような気もする。
しかし、その後の記憶が曖昧だった。
何度目かの溜め息を吐いて、田中は正面に視線を移した。
正面の金網に隔てられた部屋の中に、吉澤がいる。
窓口のところで、用紙に何かを記入していた。
そのすぐ横で、亀井が部屋の中を楽しそうに眺めている。
「気分どう?」
横に現われた飯田の声に、田中は顔を向けた。
笑顔と忍び笑いを絶やさずに、飯田が髪をかき上げた。
「……だいぶ平気です」
田中は自分でも、とてもそうは思えない小さな声で答えた。
飯田は妙に悟ったような表情で、何度か頷く。
「そのうち限界ってものが分かるようになるよ。
……まあ、分かっても止まらないんだけどさっ!」
楽しそうに言いながら、田中の肩に手を置いた。
意味がわからないが、なんとなく頭にくる。
田中は笑顔の飯田を軽く睨んだ。
- 434 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:39
- 飯田が廊下に設置されている自販機の前で、振り返った。
「なんか飲む?」
「え〜と、じゃあコーラで」
渡されたコップを受け取りながら答えていると、正面の部屋から2人が出てきた。
じゃれついてくる亀井を適当にあしらいながら、吉澤に視線を向ける。
視線に気が付いた吉澤が近寄ってきて、持っていた物を差し出した。
「はい、田中の分」
持っていたカップを亀井に渡して、吉澤の目を見ながら差し出した物を受け取る。
田中は手の中に視線を落とした。
黒い光沢を放つ金属、オートマチックのハンドガンだった。
田中はホルスターから銃を片手で抜き出す。
訓練を思い出しながらグリップを握った。
田中の手には、少し余る大きさだ。
「無理に使わなくてもいいからね。慣れてないと味方を撃っちゃうから」
田中は真剣な表情で、吉澤の言葉に頷いた。
基本的に田中は、銃器に興味がない。
訓練の時も、自分の持っている能力の使い方を中心に学んでいた。
ボタンを押して、弾倉を取り出す。
弾丸が装填されているのを確認してから、弾倉を再び入れた。
- 435 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:40
- 田中から離れて、吉澤は飯田に近づいた。
飯田が自販機に並んだボタンの1つを押すと、紙のコップが落ちてきて熱い液体を注ぎ始める。
「私と飯田さんで、人狼の足を狙って動きを止めます。
2人が離れるのを確認してから、一斉射撃でとどめです」
飯田は自販機からカップを取り出しながら、後ろに立っていた吉澤を振り返る。
取り出したカップを渡した。
「単純な作戦だね」
「単純こそが、最も効果的な戦術ですよ」
渡されたカップの中を覗き込み、吉澤は眉をひそめた。
「これ、ミルクと砂糖入ってます?」
「入ってないよ」
苦笑を浮かべたまま無言でカップを飯田に戻し、吉澤は自販機にコインを入れた。
吉澤の背中を見ながら、飯田はカップに口をつける。
苦いだけでコーヒーとはいえない液体が、舌を通過して喉を通った。
「人狼が起こす“通路”は?」
「“結界”がビルを覆ってます。
念のため予備機も起動してますから内部で“通路”は発生しません」
カップを持って振り返ると、吉澤は力強く頷いた。
HPの支部には常駐する能力者や吸血鬼から漏れでたエネルギーが集まり、
“通路”が自然発生する確率が高い。
そのために“通路”が自然発生しないような措置が必要だった。
ビルの内部は“防衛結界”と呼ばれる機械で、空間の固定化を行っている。
今は通常は停止している予備機も起動して、自然発生はもとより、
人工的に“通路”を開くのも不可能なレベルに結界の強度は増していた。
ビルの内部に、いきなり妖獣が現われることはない。
「あとは、来るのを待つだけか」
「そういうことです」
吉澤はカップを片手に微笑んだ。
- 436 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:40
- 「おっと!」
突然ポケットで震えた携帯に、吉澤が声を上げた。
こぼれそうにカップを持ち直して、携帯を取り出す。
「なに?」
「緊急呼び出しです」
携帯の画面を見つめながら吉澤が声をだした。
その声に、緊張が混じっている。
周りにいる数人の職員も、同じように携帯を取り出して画面を見ている。
全員が、困惑したような表情を見せていた。
「人狼?」
「いえ。人狼の姿を確認したら、放送が入ることになっているはずです。
……なにか起きたかもしれません。ちょっと管制室に行ってきます」
走り出した吉澤を見ながら、飯田は持っていたカップを田中に渡した。
「圭織も行ってみる。田中たちはここにいて」
田中の返事も待たずに、飯田は吉澤の後を追った。
- 437 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:40
- ――――
両側に開いていく重そうな自動ドアに体を捻じ込むようにして、部屋に飛び込む。
吉澤は、部屋に入ったところで立ち止まった。
だれも、入ってきた吉澤を振り返らない。
部屋にいる全員が、正面の大きなモニタに釘付けになっていた。
後から部屋に入った飯田が、吉澤の横に並んだ。
四つに分割された画面の中に、ビルの周囲の画像が映し出されている。
正面の道路を映した暗い画面の中で、無数の赤い光が動いていた。
画面を見つめていた吉澤の目が、大きく開かれた。
闇の中で輝く瞳。
無数の妖獣が、道路を埋め尽くしている。
吉澤のいるビルは、数百に及ぶ妖獣に取り囲まれていた。
吉澤は驚きの表情を消し、唇を強くかみ締めた。
一箇所にこれほどの妖獣が集まっているなど、あまりにも不自然だった。
ビルの内部に“通路”を作れない人狼が、他の場所で呼び出した。
そう考えるのが、妥当だ。
「全員を1階ロビーに集めろ!
扉を開けて、外にいる妖獣を全て建物に入れる!」
指揮官らしき男の声に、周囲があわただしく動き始める。
- 438 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:41
- 吉澤は男の言葉を聞いて、無言でモニターを睨んでいる飯田をその場に残し、
部屋の中央へと歩いていく。
「どうするつもり?」
「目の前に妖獣がいてどうするもないだろ。殺すんだよ」
男は吉澤の問いにめんどくさそうに答えて、机の電話に手を伸ばした。
「人狼の姿は確認されてない。本命が出てきてからでも、
遅くないでしょ?」
受話器に乗った男の手を止めて、吉澤は抑えた声を出した。
「あれだけの妖獣を建物に入れば、ここは全滅だよ」
「近くには住宅もある。ほっといたらどれだけの被害が出ると思ってる」
男は吉澤の手を振りほどき、受話器をあげた。
軽蔑したような眼差しで、吉澤を一瞥する。
「目の前に使命を妨げる者がいるなら、どれほどの犠牲を払っても撃滅する。
そのための、我々だ」
冷たい口調でそう言うと、吉澤から視線を外して電話のボタンを押した。
受話器を耳に当てながらもう一度吉澤に視線を向ける。
「怖いんなら、お前はくる必要はないぞ」
男はバカにしたように鼻を鳴らして、電話に向かって話し始めた。
- 439 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:41
- 廊下に出た吉澤の後を追って、飯田も部屋を後にした。
感情の熱が高まったような声が、閉じた扉の向こうから聞こえてくる。
飯田は通路を歩く吉澤の後を追って、横に並んだ。
「あれでいいの? あの数はヤバイよ?」
HPに入るような人間なら、多少なりとも胸に自信と矜持を持ってる。
妖獣を目の前に、黙っていられるわけがない。
しかし、本命の人狼が映っていない。
それにモニタに映っていた妖獣だけでも相当の数だった。
いくら準備ができているとはいえ、途中で人狼が現われれば、全滅しかねない。
飯田の問いに、吉澤は前を見ながら肩をすくめた。
「別にいいんじゃないですか? やりたいって言ってるし」
「そんな簡単に……」
あっさり言った吉澤の言葉に、飯田は立ち止まった。
吉澤は口の端に笑いを浮かべて振り返る。
「それにね、使命のために命を捨てるっていうの、嫌いじゃないんですよ」
それだけ言って、吉澤は再び歩き出す。
片手を振って遠ざかる吉澤の背中を、飯田は呆れた顔で見送った。
- 440 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:41
- ――――
吉澤は両手で持った銃を握り直しながら、周囲を見渡した。
ロビーの左右にある通路の入り口で、銃を構えた男達がシャッターに銃口を向けている。
1階の広いロビーで迎撃の準備を終えてから、シャッターを上げた。
それから、すでに5分以上立っている。
高まっていく緊張感に、耐えられない者も出てくる頃だ。
ロビーの一番奥にある受付のカウンターの後ろで、吉澤は渇いた唇を舐めた。
「様子を、見てきます」
そう言って立ち上がろうとした吉澤の肩を、横にいる飯田が押さえた。
「圭織が行くよ。吉澤はここで援護して」
吉澤が反論するまもなく、飯田がカウンターの影から出ていった。
浩々と照らす照明の下、大理石の床を歩く飯田の足音だけがこだまする。
広いロビーの中央を、ゆっくりとシャッターに向かっていく。
ロビーのちょうど中央で、飯田が足を止めた。
両手を下げた飯田の視線は、四角く切り取られたような闇に注がれている。
唯一の音源である飯田の足音が消え、再び耳鳴りがするような静寂が訪れた。
これ以上待ち続ければ、張り詰めた緊張の糸が持たない。
一度シャッターを降ろして、態勢を整えた方がいい。
そう考えた吉澤がカウンターの電話に手を伸ばそうとしたとき、
ロビーを照らしていた照明が、消えた。
- 441 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:42
- 突然の停電。
一瞬の暗闇の後、切り替わった非常灯のオレンジ色の薄い明りがロビーを照らした。
左右の通路から動揺の気配が届いてくる。
吉澤は慌てて周りに視線を走らせた。
コンセントにつながっている機材にも、電源が来ていない。
「動揺するな! すぐに非常電源が入る!」
吉澤は叫びながら受付の上に置いてある内線電話を引き寄せ、官制室の番号を押した。
内戦電話には繋がっている電話線から電源が供給される。
たとえこの一帯が停電になっていても使用できる。
呼び出し音が鳴らないうちに、相手が出た。
「電源が落ちた! どうなってる!」
吉澤はロビーに視線を向けたまま、電話の相手に怒鳴った。
同時に、ロビーに閃光が走る。
左右の通路から銃撃が始まった。
内部の気配を感じ取った妖獣が、侵入してきた。
『屋上の変電所で警報が発生! 保護回路が働いて地下の主遮断器が落ちました!』
「すぐに電源を入れろ!」
『手動以外での投入は受け付けません! いま何人か地下に向かわせてます!』
受話器を耳から離し、吉澤は左右の通路に目を走らせる。
妖獣の侵入と共に、味方の攻撃が始まっていた。
しかし、明らかに統制がとれていない。
銃弾に倒れた妖獣を楯に、何体かがロビーに入り込んでいた。
- 442 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:42
- 「“防衛結界”はどうなった!」
『いま確認します!』
吉澤は再び、受話器を耳に押し当てた。
結界発生のための機関は、ビルの中央付近の階に設置されている。
繋がっているバッテリーで、機関には無停電で電源が供給されるはず。
祈るような気持ちで、電話の向こうからの声を待った。
『電源喪失と共に機関の一部が停止。出力が30%まで低下。
制御回路がやられたようです。現在稼動中なのは予備機だけです』
最良とは程遠いが、最悪ではない。
胸を撫で下ろした吉澤は、異様な気配を感じて弾かれるように顔を上げた。
銃弾の飛び交うロビーの中央、侵入してきた妖獣を迎え撃つ飯田の背後に、目を凝らす。
頭上から落ちてくるオレンジの明りを押しのけるように、小さな闇が口を開けていた。
『……しかし、ビル全体を覆うには出力が足りません。
現在地下と屋上の変電所、それと結界発生機以外は範囲外になっています!』
小さな闇は一瞬で広がり、歪んだ球体となって空中に留まった。
『発生機と屋上にも人を……』
吉澤は声の聞こえてくる受話器を放り投げて、カウンターから飛び出した。
- 443 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:42
- 左右の銃弾を逃れてロビーに侵入した何体かの妖獣が、飯田に向かっていく。
吉澤は銃を両手で持ってロビーの中央に狙いをつける。
ゆっくりと歩きながら、侵入してきた妖獣に向かって立て続けに引き金を引いた。
飯田に向かっていた妖獣の一体が宙を飛び、大理石の床に転がる。
全弾撃ち尽くす前に、吉澤は左手を離した。
薬室に一発残した状態で、右の親指でグリップに付いているボタンを押す。
空になった弾倉がグリップから抜け落ちた。
同時に、腰に固定された予備の弾倉を左手で取り出し、グリップに叩き込む。
吉澤の持っている銃は改造がしてあった。
通常は薬室に弾が残った状態で、弾倉は抜けない。
こうすれば、交換の最中も銃の中に一発残る。
弾倉交換と言う空白の時間を埋め、反撃の機会を奪う。
空の弾倉が床に落ちる前に、吉澤は再び銃撃を始めた。
「飯田さん“通路”です! 下がって!」
目の前で、侵入した妖獣に応戦する飯田に向かって叫んだ。
飯田の背後に回ろうとしていた妖獣に銃弾を集中させる。
「“通路”を消せ!」
左側の通路にいた男に向かって叫ぶ。
男は吉澤の言葉を受けて両手を前に突き出した。
両手の先に透明な玉が現われ、放たれる。
- 444 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:43
- 同時に、吉澤を眩暈が襲った。
男の出した透明な玉が、闇を集めたような“通路”に触れる。
“通路”はしかし、僅かに揺らめいただけだった。
呆然とそれを見つめる男に妖獣が襲い掛かり、喉に食いつく。
近くにいた別の男が悲鳴を上げながら、妖獣に向かって銃を乱射する。
悲鳴と怒号が飛び交う中、妖獣を打ち倒した飯田が吉澤の横に並んだ。
「たぶん人狼です! 屋上がやられました!」
「防衛結界もだめなんだ?」
飯田が飛び掛ってきた妖獣に蹴りを放ち、床に叩き落とした。
頭部が陥没した妖獣が床の上を滑って開いたシャッターに押し戻され、動かなくなる。
倒した妖獣を踏みつけながら新たな妖獣が数匹、ロビーに侵入してきた。
飯田はすぐ近くにある“通路”を一瞥して、舌打ちした。
「人狼を倒さないとキリがない。ここは諦めて屋上に行く」
「外にいる妖獣が一度に入ってきたら、屋上に着く前に全滅ですよ?
飯田さんはここで食い止めてください。私が屋上に行きます」
「1人で人狼の相手するつもり? 圭織が行くよ」
そういいながら吉澤を振り返る。
吉澤の銃口が、飯田の顔に向けられていた。
「さっきは飯田さんに譲ったんだから、今度は私の番ですよ」
吉澤が、引き金を引いた。
飯田の髪を揺らして通過した弾丸が、背後に迫っていた妖獣を貫く。
再び空になった弾倉を交換しながら、吉澤は笑った。
「それに、ここにいるより楽そうです」
飯田を残して走り出した。
後を追おうとした飯田だが、振り向きざまに腕を払う。
“通路”から出た瞬間に飯田の手刀を受けた妖獣が声もなく吹き飛んだ。
再び振り返ると、ロビーの奥にある非常階段への扉が閉まるところだった。
飯田は一瞬迷ってから、開いているシャッターに顔を向ける。
「能力を同時に当てて“通路”を消せ! ロビーから一歩も中に入れるな!」
飯田は迫っていた妖獣の群れに向かいながら、叫んだ。
- 445 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:43
- ――――
管制室の中で待機していた田中の目は、モニタに釘付けになっていた。
巨大なモニターが分割され、さまざまな角度からロビーを映している。
開いたシャッターから次々と侵入してくる妖獣で、ロビーは大混乱だった。
妖獣と戦っている飯田の姿も映し出されている。
「すごい数だね」
あまり感情のこもっていない声で、隣でイスに座っている亀井がつぶやいた。
突然の停電で混乱していたが、今は態勢も整い反撃に転じている。
しかし一度先手を取られたため、侵攻してくる妖獣の勢いが止められない。
そして突然現われる“通路”があるため、攻撃目標を一点に絞れない。
徐々にロビーの中にいる妖獣の数が増えていく。
飯田も、最初の位置よりかなり後退していた。
立ったままの田中は、両手を強く握り締めていた。
すぐにでもロビーに行って加勢したかった。
しかしさっき感じた感覚で人狼が近くにいるのが分かる。
腰から下げた銃も、能力が半減している自分も、大して役には立たない。
それどころか、飯田の足手まといになってしまう。
田中は見ていることしか出来ない自分に、苛立っていた。
- 446 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:44
- 管制室の中では、指揮官らしき男が半分叫んでいるような声を出して
周囲に指示を出している。
それに答える声とモニターからの音で、部屋は喧騒の中にあった。
「れいなも座れば?」
「なんでそんなに落ち着いて座ってられると!」
かけられた声に、田中は座っている亀井に顔を向けた。
「だって、やることないじゃん?」
亀井は横にあったキャスターの付いたイスを、引き寄せた。
「なんかあったら呼ばれるでしょ」
座席の上を叩いて、亀井は笑顔を見せた。
釈然としない表情で、田中がイスに座ろうとしたとき、
重い何かが当たる音が響き渡った。
- 447 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:44
- 顔を上げた田中の視線の先で、出入り口の扉が変形していた。
扉が内側にひしゃげ、合わせ目にできた隙間から照明の消えた通路の闇が見える。
室内から水を打ったように、音が消えた。
全員が動きを止めて、扉に顔を向ける。
小さな闇の中から、ゆっくりと白く細い人間の指が現われた。
差し込まれた指が電源が落ちてロックされている扉にかかり、徐々にその隙間を広げていく。
あちこちから金属音が鳴った。
次々に向けられる銃口を見て、田中も慌てて持っている銃を扉に向けた。
隣にいる亀井も立ち上がると、ナイフを抜いて両手に握る。
「よいっ……しょっと!」
気の抜けるような声と共に扉が勢いよく開き、外にいる人物が姿を現した。
闇を背にした人物が、室内を見回して眉を寄せる。
「……大歓迎って感じ?」
困ったような表情で、現われた石川梨華が頬をかいた。
- 448 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:44
- 「別に敵じゃないからね」
石川は両手を上げて、剣呑な雰囲気の室内に入ってきた。
すぐに田中を見つけて涼しい顔で微笑む。
「久しぶり。憶えてるかな?」
田中は、その顔に見覚えがあった。
「あんた、石川梨華?」
「あれっ? 名前教えたっけ?」
何ヶ月か前、殺されそうなところを助けられた。
その場を見ていた紺野から、石川のことは簡単に聞いていた。
助けた石川が吸血鬼だったと知って、田中は複雑な心境だった。
「紺野さんから、聞いたと」
「あぁ、紺野ね」
田中の言葉に合点がいったのか、石川は何度か頷いて見せた。
石川は両手を下げて視線を移すと、遠巻きに見守っている人々をゆっくりと見回す。
指揮官のところで視線を止め、歩き出した。
歩きながらジャケットを脱いで、さっきまで亀井が座っていたイスの背もたれにかける。
- 449 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:44
- 目の前に立った石川に、男が持っていた銃を向けた。
石川は向けられた銃口と男を交互に見てから、微笑む。
「貴様っ! 石川梨華だなっ!」
「知ってるならその銃、下ろせば?」
楽しげな石川の表情とは反対に、男の額には汗が浮き始めている。
必要以上に力を込めて握っているため、銃口が小刻みに震えていた。
「別にここで暴れようってわけじゃないよ」
「こっちにも連絡は来ている! 貴様はHPの職員を襲ってるだろ!」
男はほとんど悲鳴のような、甲高い声で叫んだ。
「別に殺したわけじゃないからいいじゃん。
それよりさ、鍵を貸してもらいたいんだけど」
石川の言葉が理解できなかったのか、男は怒りと困惑の混じりあった複雑な表情を浮かべた。
- 450 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:45
- 何も言わない男を黙ってみていた石川の表情が、少し不機嫌なものに変わる。
片方の手を腰に当てて、反対の手を男の前に出した。
「だからさ、“防衛結界”を起動してあげるから部屋の鍵を貸してって言ったの」
「他の者を行かせてる!」
「どれくらい前に? どうせ途中でやられちゃってるよ」
この部屋を出て行った男達の顔が、指揮官の頭をよぎった。
出て行ってから、すでに20分以上経過している。
“防衛結界”のある部屋までは、10分とかからないはずだった。
男の焦った表情を見て、石川が再び微笑む。
「だからここは私を信用して……」
「ふざけるな!」
男は額に青筋を浮かべて怒鳴った。
それを見て、石川はうんざりした顔で首を振る。
締めていたネクタイに指をかけ、緩めながら溜め息を吐いた。
「めんどくさいな〜」
ふわりと、腰に当てていた石川の右手が何気ない動作で、上がった。
開かれた右手が緩やかに見える速度で、目の前の男の顎を横から叩く。
男の頭部が回って上を向き、その場に崩れるように倒れた。
「でっ? どうする?」
目を細めて倒れた指揮官を見下ろしていた石川が、顔を上げた。
呆気に取られたように動かない周りの人々に、薄い朱色に染まった瞳を向ける。
「おとなしく鍵を渡す? それともその手に持ったオモチャで私と遊んでみる?」
向けられた無数の銃口を前にして、石川が艶然と微笑んだ。
- 451 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:45
- ――――
左から襲ってきた妖獣を、一歩下がって避ける。
目の前を通過する首に手刀を振り下ろした。
骨を捕らえた確かな手応え。
床に叩きつけた妖獣の身体を飛び越え、飯田は新たな敵に向かって行った。
倒した妖獣の数が20を超えたあたりで、数えるのは止めていた。
時間の感覚が薄れるほど集中していたが、30分は経っていない。
飯田は“通路”から新たに現われた妖獣を打ち倒し、周囲を見渡した。
相変わらずロビーに入り込んでくる妖獣の数は減らない。
思い出したように“通路”から現われる妖獣がペースを乱し、完全に立ち直る隙を作らせない。
- 452 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:46
- ロビーで飛び交う銃声とは別に、外から爆発音が届いてきた。
飯田は動きを止めて、シャッターに目を向ける。
連続した爆発音が、近づいていた。
「なんだ?」
飯田が不審気な声を出すと同時に、甲高い音と共にシャッターに黒点が穿たれる。
シャッターを貫通した弾丸が、飯田の頭上を掠めた。
次々と飛来する金属の弾丸にコンクリートの壁が削り取られる。
間をおかずに起きた爆発に、近くにいた男が頭を抱えてしゃがみ込んだ。
爆発によって正面の閉じていたシャッターが内側にめくれあがる。
巻き起こる煙の向こうから、2つの光芒が飛び込んできた。
- 453 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:46
- 獣に似た咆哮を轟かせながら、ロビーに入ってきたのは四輪のバギーだった。
四つのタイヤが磨き抜かれた大理石の床を噛み、スピードを落とさずに突っ込んでくる。
ブレーキ音と共に反転した車体が、飯田にぶつかる直前で停止した。
車体の前面が妖獣の群れに向けられる。
ハンドルを握っていた人物が、すばやく助手席に移った。
助手席の前に設置された禍々しいほどに巨大な筒を、妖獣に向ける。
本来ならヘリに搭載されているガトリング型の機関銃から12.7mmの弾丸が放たれた。
拳銃弾とは桁違いの銃光が、ロビーの中を毒々しい火花で染める。
「藤本っ!」
叫んだ飯田の声を、機関銃の掃射の音が掻き消した。
機関銃の猛射が、ロビーに入り込んでいた妖獣を蹴散らしていく。
「そこのあんた! まだ弾が残ってるからここに座れ!」
空薬莢を吐き出している機関銃から手を離さずに、後ろを振り返った藤本が叫んだ。
- 454 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:47
- 周囲を警戒しながら、飯田がバギーに近づいた。
後部座席から大きなバックを取り出している藤本が振り返る。
「いいタイミングだったでしょ?」
呆気に取られた表情の飯田に向かって片目を瞑ると、藤本は上気した顔で笑った。
その目が隠しきれない歓びに、輝いている。
「どっからこんな物騒なもの手に入れてくるの?」
「世の中金で手に入らない物の方が少ないんだよ!」
弾んだ声で言いながら藤本がバックを肩にかけた。
誰かを探すように周囲を見回す。
「よっしいは? いないの?」
「吉澤のこと知ってるの?」
「前にちょっとね。それより屋上でなんかなかった?
飛んでたヘリからなんか降りたみたいだったけど?」
藤本が目を細めて問い掛けた。
- 455 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:47
- ――――
石川は一息つくと、緩めていたネクタイを締めた。
脇腹を片手で押さえた男が、震える手を石川に向かって差し出した。
「ありがとっ!」
差し出されたカードを2本の指で受け取って、背を向ける。
歩きながら上着を取り、内ポケットにカードをしまった。
田中は呆然と、向かってくる石川の顔を見ていた。
指揮官を失神させたことをきっかけに、部屋にいた半数が石川に向かっていた。
そして始まったのは、戦いともいえないような、一方的なものだった。
石川が向かってくる人間だけを標的にして、
離れてみていた田中にも追いきれないような速度で移動する。
石川と重なった人間は、全て床に倒れていた。
ほんの3分ほどで、部屋の中で立っている人間の数は、最初の半分以下になっていた。
出口に向かう石川を、田中は黙って見つめる。
石川を止めようなどと、考える暇もなかった。
- 456 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:47
- (……違う)
田中は、唇を噛んだ。
本当は分かったのだ。
目の前で味方を次々と倒していく石川が桁違いだと、一瞬で察した。
流麗で、無駄のない石川の動き。
田中は抵抗することを諦め、その姿を目で追ってしまった。
白く変わるほど拳を強く握り締め、真っ直ぐに石川を睨みつける。
一瞬とはいえ、石川に見惚れてしまったことが、悔しかった。
出口に向かう石川が、視線に気が付いて足を止めた。
眩しそうに眼を細めて、田中の瞳を覗き込むように見つめる。
「……いいね。そういう目は嫌いじゃないよ」
石川は、向けられた田中の強い視線と見詰め合ったまま、
少しだけ考えるように、頬に手を当てる。
「監視役ってことで、一緒に来る?」
何気ない調子で言った石川に、田中は無言で小さく頷いた。
- 457 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:48
- ――――
- 458 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/14(水) 12:48
- 途中ですが、ここまでです。
- 459 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/15(木) 19:38
- 相変わらずわくわくしてくる展開だねぇ
- 460 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:17
- ――――
ロビーの中は初めより光量が減り始め、次第に闇が濃くなっている。
鳴り止まない銃声と閃光のなか、バックを肩にかけた藤本が車から離れた。
「それなに? 宝玉?」
「違うよ。宝玉はね、美貴が知ってる中で一番安全なとこに向かってる」
藤本は思い出したように微笑みながら、取り出したサングラスをかける。
飯田は藤本のバックに視線を向けた。
入りきらない金属の円筒が、何本か飛び出している。
藤本が肩に担いだバックを手で叩いた。
「コレは別のもの。やられっぱなしは性に合わないからね」
バックを肩に、藤本が歩き出した。
その姿を目で追いながら、飯田が声をかける。
「どこ行くの?」
「どうせ上にいるんでしょ?」
声をかけた飯田を振り返らずに、藤本は天井を見上げた。
その口元が、ほころんでいる。
「……楽しそうだね」
「へへっ! こういうギリギリっぽいのがイイんだよっ!」
サングラスに片手で触れながら、藤本が飯田に顔を向けた。
- 461 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:17
- ――――
「ちょっ……ちょっとストップっ!」
田中は踊り場で立ち止まると、手すりに寄りかかり息を整える。
内蔵したバッテリーが少なくなり光量の減った非常灯の明りが、
頼りなく足元の階段を照らしていた。
急激な運動を止めた足が勝手に震え出す。
速くなった鼓動を抑えるように、片手を胸に当てた。
「だらしないな〜」
その声に顔を上げる。
前を走っていた石川が足を止め、上階の扉の前で見下ろしていた。
「あんたが速すぎやけんっ!」
「2人に合わせてゆっくり上ってるのに」
石川の横にいる、亀井の肩も激しく上下している。
その背後に“13F”の表示が見えた。
エレベータは停電で止まっている。
階段を上るのがこれほどキツイとは思わなかった。
- 462 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:18
- まったく息の切れていない石川を睨みながら、田中は大きく深呼吸する。
「はいっ! 休憩終り!」
石川が笑顔で言いながら手を叩いた。
「急がないと間に合わなく……」
突然言葉を切って、石川が上を向いた。
つられて上をみた田中の視界に、これまでと変わらない、延々と続く階段が映る。
表示がなければ、本当に上っているのか疑わしくなる。
「なんか見えると?」
「黙ってっ!」
鋭く言った石川の声が、階段の中を反響した。
雰囲気の変わった石川の表情に、田中も表情を引き締める。
しばらくすると石川が視線を上に向けながら、片手でカードを取り出して、
田中に向かって投げてきた。
飛んできたカードに手を伸ばし、慌てて受け取る。
「どういうこと?」
「2階上に結界発生機があるから、2人で行って」
「あんたはどこ行くと?」
田中に返事を返さず、石川は一足で次の踊り場まで飛んだ。
足音も立てることもなく、あっと言う間に姿が見えなくなる。
「忙しい人だね」
口を開けて上を見ていた亀井がつぶやいた。
- 463 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:18
- ――――
吉澤は休憩もなく階段を駆け上る。
階下で戦っている飯田達も、それほど長くは持たない。
さすがに20階を越えたあたりから足の感覚がおかしくなってきたが、
立ち止まっている暇はなかった。
もうすぐ最上階というところで、頭上で起きた音に吉澤は足を止めた。
階段の途中で上を見上げながら、僅かに乱れ始めていた呼吸を整える。
とりあえず無理をする必要はない。
人狼にダメージを与えて能力が使えなくなれば、飯田も応援に来られるはずだ。
(それに……)
どうしてもと言う時には、切り札もある。
吉澤は右手に持った銃を強く握った。
気合を入れるように大きく息を吐くと、再び踏みしめるように階段を上り始めた。
- 464 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:18
- 何フロアか上ったところで、吉澤は再び足を止めた。
上を見上げた吉澤の視線の先に、扉が落ちていた。
強い力で、ひどく変形している。
そしてとてつもない量感を持った生き物が、落ちた扉に片足を乗せていた。
人狼の濁った双眸が、下にいる吉澤に向けられている。
殺気のこもった強烈な視線を、両腕を下げた吉澤が怯まずに睨み返す。
不意に、吉澤の身体が動いた。
人狼から視線を逸らせずに、ゆっくりと階段に足をかける。
一歩距離が近づくたびに、2人の間にある空間の圧力が高まっていく。
- 465 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:19
- 吉澤が階段の半ばまで来たときに、人狼が踊り場から飛び降りてきた。
それを見て、吉澤も後ろ向きに飛ぶ。
空中にいる人狼の顔に向けて、引き金を引いた。
銃弾を受け、体勢を崩した人狼が階段の中央あたりに左足で降り立つ。
その瞬間、吉澤の右手に持った銃が再び轟音を立てた。
全体重のかかった片足に銃弾を受けた人狼の身体が前に崩れる。
その隙に吉澤が下の階に着地した。
前に倒れる身体を支えようと伸ばした人狼の左腕を、続けて放った銃弾で弾く。
支えを失った人狼の顔面が、勢いよく階段に打ち付けられた。
うつ伏せで階段を滑り落ちてくる人狼の後頭部に、残りの弾丸を叩き込みながら、
吉澤は階段を降りて下の階へと向かう。
- 466 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:19
- 吉澤がさっきまでいた場所まで滑り落ちた人狼が、
床に両手を叩きつけるようにして上半身を持ち上げた。
低い唸り声を上げながら頭を振ると、変形した弾丸が床にバラバラと落ちていく。
吉澤は舌打ちをしながら、銃口を人狼に向けた。
「よっしい!」
下から聞こえた甲高い声に、顔だけを向ける。
石川が下のフロアの扉を開けて、吉澤を見上げていた。
「梨華ちゃん!?」
驚きの声を上げながら、吉澤が石川の前に降りる。
「こっちにっ!」
腕を引かれた吉澤が、開けていた扉をくぐった。
- 467 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:19
- ――――
扉を開けると、闇が世界を領していた。
廊下の照明は消えている。
持ったライトを点灯すると、小さな光円が田中の足元を照らした。
「暗いね……」
「ライト点ければよかやろ」
振り返って亀井を軽く睨む。
亀井は手に持ったライトを点けずに、両手でしっかり握っていた。
「え〜! なんか暗いほうがワクワクするじゃんっ!」
田中は溜め息を吐いて、ふたたび廊下に目を向ける。
同時に向けたライトだけが唯一の光源となり、無人の廊下を照らしていた。
- 468 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:20
- 何度か廊下の角を曲がったところで、田中は思わず足を止めた。
前方を照らす小さな光の中に、何人かの人間が廊下に倒れている。
結界発生機に向かう途中で、妖獣に襲われたのか。
田中は手に持ったライトを前方に続く廊下に向ける。
頼りない明りの中には、両側に並ぶ扉と誰もいない廊下が続いていた。
呻き声が聞こえ、田中は手に持ったライトを声の方向に振った。
男が壁に背を預け、足を投げ出して座り込んでいる。
何処かに傷があるのか、男の足元から流れ出た血が行く手を遮るように
小さな池を作っていた。
自分のライトを点灯した亀井が、声を上げた男に近づく。
亀井が男の傍にしゃがみ込み、顔を覗き込みながら首筋に指を当てた。
目を細め、指を離す。
田中を振り返り、首を振った。
「行こっか」
あっさりと言って、立ち上がった。
亀井は通路に流れる男の血を、軽く飛び越えて先に歩いていく。
「ちょっと待ってよ! この人は?」
倒れている男を指差しながら、亀井の背中に声をかけた。
亀井は背を向けたまま、立ち止まる。
「助からないよ。それより先に行かないと」
そう言った亀井の口調からは、何の感情も読み取れない。
亀井の言葉に、田中はショックを受けた。
死にかかっている人間を見て、言うことではない。
「そういう言い方はないやろ!」
「じゃあどうするの?」
思わず大きくなった田中の声に、亀井は振り返った。
周りで倒れている人間を、ライトでゆっくりと照らしながら見回していく。
最後に、田中に向けて止めた。
「ここで立ち止まっているうちに、下ではもっとたくさんの人が死ぬ。
その人が死ぬまで待ってても、しょうがないでしょ?」
田中は冷然とした亀井の態度に、息を呑む。
ライトが作る微かな明りを受けて、亀井はぞっとするような微笑を浮かべていた。
- 469 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:20
- 突然、亀井の表情が変わった。
驚いた表情で目を見開く。
「れいな!」
亀井の大声に振り返る。
振り向けたライトの光輪の先には、闇だけが重みをもってわだかまっていた。
光の中に照らし出されるはずの廊下が、見えない。
しかし闇に沈んだ廊下の奥に、田中はそれを感じた。
途方も無い力の源泉。
それは、この世に存在してはならない力だった。
田中の背後に現われた“通路”の中に、赤い双眸が輝く。
飛び出した妖獣が、田中の頭上を飛び越えた。
その姿を目で追いながら、田中は腰に手を伸ばす。
慌ててホルスターから取りだした銃が、田中の手を離れて床に転がった。
背後の床に着地した妖獣にライトを向けながら、手探りで銃を探す。
ナイフを取り出した亀井が、着地した妖獣に向かう。
前足に振った亀井のナイフが、妖獣の口に阻まれた。
がっちりとくわえ込んだまま、大きく首を振る。
凄まじい力で振り回された亀井の手からライトが離れ、床に転がった。
同時に宙を飛んだ亀井の体が、壁に叩きつけられて止まる。
滑るように床へと落ちた亀井が、頭を振りながら立ち上がろうとする。
その亀井に襲い掛かろうとした妖獣の体が、前のめりに倒れた。
- 470 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:21
-
妖獣の頭部を、ナイフが貫いている。
投げ飛ばされながら、亀井はもう一本のナイフで妖獣の頭部を貫いていた。
低い唸り声を最後に動かなくなった妖獣を見ながら、田中は息を吐いた。
「伏せて!」
田中の背後に視線を向けて、亀井が叫んだ。
視線を追って振り向いた田中の背後の“通路”から、新たな妖獣が現われる。
田中は這うように床に伏せた。
亀井は取り出したもう一本のナイフを、田中の背後に投げる。
“通路”から出た瞬間に亀井のナイフを受けた妖獣が、床の上で暴れ回る。
呆然と見ていた田中の腕を、近づいてきた亀井が取って立ち上がらせた。
「こっち!」
亀井に腕を引かれ、田中は駆け出した。
- 471 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:21
- 廊下の突き当たりに、巨大な扉があった。
亀井は壁のスリットにカードを入れる。
吐き出されたカードをひったくるように取って、扉のところにいる田中の横に立った。
「早く!」
田中はゆっくりと開き始めた扉の隙間に手をかけて叫んだ。
背後から、気配が近づいてくる。
なんとか身体が入る隙間が開いたところで、強引に部屋に入った。
続けて入った亀井を確認してから、内側のスイッチを押した。
開くときと同じように、扉がゆっくりと閉じていく。
扉が閉まりきる前に、亀井と共に柱の影に隠れた。
- 472 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:21
- 音も無く、扉が閉まった。
田中は柱からそっと顔を出して、入り口を覗く。
部屋を照らす微かな明りが、巨大な妖獣の姿を照らしていた。
閉まる直前に入り込んだ妖獣が、半分開いた口から唸り声を発する。
あたりの様子を窺うように、首をめぐらしていた。
妖獣の視界に入る直前に、田中は慌てて頭を引っ込める。
扉が閉まる前に、一匹入り込まれた。
深呼吸を一つして、田中は部屋を見渡した。
四方を機械に囲まれた部屋の中央、柱に隠れている田中と亀井の正面に、
水晶のような巨大な玉があった。
コンクリートが剥き出しの、無骨な基部に乗っている。
玉は全部で四つ。
一回り小さな玉が真ん中の巨大な玉を囲むように、正三角形を形作っている。
それぞれの基部から伸びた太いケーブルが、絡み合うように床を這っていた。
防衛結界の発生機関。
中央の巨大な玉が、結界発生機関の本体だった。
しかし本体は光っておらず、滑らかな球面に周囲の光が反射している。
予備機関の3つの小さな玉の内部は、外周から発生したアークが集まり、
青白い光を放っていた。
- 473 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:22
- 田中の表情が強張った。
この場所で暴れられたら、まずい。
「……一発で、倒せる?」
低く抑えた声に、横にいる亀井を見た。
亀井が真剣な表情で田中の目を真っ直ぐに見つめている。
武器は無い。
しかし出来ませんなどと、弱音は吐けない。
しばらく視線を交わしてから、田中は頷いた。
さっきは助けてもらった。
今度は自分の番だ。
柱の影から出ようとした田中を、亀井の声が止める。
「隙を作るから、お願い」
亀井は目を瞑った。
能力を使おうとしている。
田中は息を止めて、亀井の姿を凝視する。
突然、亀井の全身の輪郭が二重にぼやけて見えた。
田中が何度か瞬きをして目を擦っていると、亀井から半透明な何かが別れ、
一歩前に踏み出した。
- 474 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:22
- 分かれたなにかを通して、向こうの景色が見える。
“ソレ”は色彩をまったく持っていなかった。
しかし澄んだ氷の彫刻のように、透明さを維持しながらも確固とした存在感を放っている。
細部までもがリアルな質感を持った、人間だった。
瞬きもせずに見つめる田中に、半透明な人物が顔を向けた。
薄く透けて見える人物の顔は、亀井とまったく同じ。
髪型から着ている服もすべてが同じだった。
「1人が限界みたい」
柱に背を預けていた亀井が目を開いた。
無理やり使った能力の反動なのか、少しぎこちない笑顔を見せる。
亀井が正面を向き、立っているもう一人の亀井を見ながら柱の向こうを指差した。
色彩が加わり、完全な複製となったもう1人の亀井が、了解したように小さく頷く。
いつのまにか、立っている亀井を通して見えていた景色は、見えなくなっている。
もう1人の亀井が、田中に顔を向け、笑顔を作る。
見せた表情も、同じだった。
- 475 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:22
- 実体を持ったもう1人の亀井が、柱の影から飛び出した。
一直線に扉に向かう。
気が付いた妖獣が、その姿を追った。
思わず飛び出そうとした田中の肩を、横に残った亀井が押さえる。
扉まであと一歩と言うところで、妖獣が亀井の背中に飛び乗った。
うつ伏せに倒された亀井が、床の上で反転する。
仰向けに変わった亀井に、口を開けた妖獣の顔が迫った。
亀井は両手を伸ばして妖獣の首を押さえる。
しかし、力で抗えるわけもなかった。
ほとんど何の抵抗もなく、妖獣の開いた口が亀井の首に重なる。
亀井は目を見開きながら、両手を伸ばして首に噛み付いた妖獣の頭部を抱かかえた。
- 476 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:23
- 肩を押さえていた亀井が手を離す。
柱の影から飛び出した田中の視界に、襲われている亀井が映った。
「アレは気にしないで!」
唇を噛みながら、全ての力を出し切って風を纏う。
だが普段の能力から考えれば、集まるのは髪が僅かに揺らぐ程度の微風でしかない。
田中は両手の拳を握り、目の前の一点に意識を集中する。
纏った風を一箇所に、細く、そして鋭く。
イメージするのは全てを貫く強靭な針。
亀井の上で首を振っていた妖獣が動きを止め、顔を上げる。
危険を察知して逃げ出そうとした妖獣の動きが一瞬止まった。
首に巻かれた亀井の腕が強く引かれる。
威嚇するように開いた妖獣の真紅に染まった口を見て、
田中は怒りと共に眼前に造った高い純度に凝縮されたエネルギーを放つ。
高密度に練られた空気の針が、一瞬で田中と妖獣に開いた距離を疾り抜け、
音もなく妖獣の眉間を貫いた。
- 477 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:23
- 田中の足元で身体を丸めて床に倒れていた亀井が、喉を押さえながら目を強く閉じた。
苦しげな表情で咳き込むと、口から大量の血が吐き出される。
飛び散った血が床と共に田中の靴にかかり、紅い斑点を作った。
弱々しい呼吸を繰り返していた亀井が、跳ねるように一度大きく痙攣して動かなくなる。
呆然と見つめる田中の前で、亀井の死体が写真の二重露光のように透き通る。
徐々にその輪郭を失い、目の前で消えた。何も残さずに。
田中はその場でしゃがみこみ、手を伸ばした。
手の平には、無機質な冷たい床の感触。
亀井が倒れていた床には、流れていた血の跡も残っていない。
靴にできていた斑点さえも消えていた。
背後から声が聞こえた気がして、田中は顔を上げた。
急いで立ち上がると、背後の柱に駆け寄る。
- 478 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:23
- 柱の影で、亀井がうずくまっていた。
襲ってくる震えを抑えるように両手で自分の肩を抱き、目を閉じている。
「絵里!」
田中の声に、亀井が顔を上げた
焦点の合わない目で、田中に無表情な顔を向ける。
ようやく気が付いたように、弱々しく笑った。
「大丈夫、だから……スイッチを」
消え入りそうな声で答えると、壁に並んだ機械に震える指を向けた。
- 479 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:24
- ――――
引かれていた手を振りほどき、吉澤は振り返った。
密閉された空間であるビルの中は、人工の明りがなくなると、驚くほど暗い。
それでも吉澤に半分流れる異界の血が、人間では感知できないほどの微かな光を増幅する。
階段へと続く閉じた扉を見ながら、息をついた。
取り出した新たな弾倉を交換しながら、石川を睨みつける。
「なんでこんなとこにっ!」
「しょうがないでしょ。見てるだけってわけにもいかないし」
「だからって……!」
言い争っていた2人が、同時に後ろを振り返った。
いま出てきた扉が外れ、反対の壁まで吹き飛ぶ。
扉があった空間を、身を屈めながら人狼がくぐり抜けてくる。
ゆっくりと倒れてくる扉を支えるように、太い腕を伸ばして扉を掴んだ。
「そんなこと言ってる場合じゃないみたい」
「……そうだね」
人狼が咆哮を上げ、手に持った扉を2人に向かって投げつけた。
吉澤は水平に飛んできた扉を、身を屈めて避ける。
顔を上げた吉澤の目の前に、肉薄した人狼の姿があった。
- 480 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:24
- 踏み込んできた人狼の足の甲に銃弾を放ちながら、立ち上がる。
吉澤の腕の先で銃口が横を向き、体勢を崩しながらも振ってきた人狼の右腕を撃つ。
それでも向かってきた腕を、銃を持っていない左手で受けた。
吉澤の手の中で再度銃口の方向が変化する。
上を向いた銃から人狼の顎に向かって銃弾が放たれた。
至近距離から銃弾を受けた人狼の顔が跳ね上がる。
その隙に吉澤の脇を滑るように通り抜けた石川が、人狼との間に割り込んだ。
動きを止めていた人狼に向けて、腰に構えた左の拳を真っ直ぐに繰り出す。
しかし厚い筋肉の鎧に阻まれて弾かれた。
石川は弾かれた左腕を引くと同時に右足を軸に身体を左に回す。
人狼に背を向けた石川の左足が、美しい軌跡を描いて高々と上がる。
回転力が加わった左の踵が、人狼のこめかみを強烈に叩いた。
ふらついた人狼が廊下の壁に背をぶつけ、座り込んだ。
さらに追撃を加えようと、石川が前に出る。
近づいた石川に向かって、人狼が倒れたまま左腕を振ってきた。
完全に意表をついた攻撃。
それでも踏み込んだ足を止め、石川が上体をスウェーする。
だが前に突っ込んだ状態だったため一瞬遅れた。
人狼の左腕が描く攻撃範囲からは抜けられない。
- 481 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:24
- 次の瞬間には砕かれているはずの攻撃は、石川の頬を掠めて通りすぎた。
人狼の左腕が作り出した風圧に、のけぞった石川の髪が舞い上がる。
そのまま振り切った人狼の腕が、叩いた壁を砕いてめり込んだ。
その隙に石川が距離を取り、人狼に銃を向けた吉澤の傍で再び構える。
吉澤がとっさに放った銃弾が人狼の左肩に当たり、左腕の軌道が僅かに変わった。
「ありがと!」
石川の言葉には答えずに、吉澤は通路に設置された消火器を片手で掴むと床に転がした。
反対の手に持った銃を、消火器に向けて放つ。
人狼の足元に転がっていった消火器の頭が跳ね飛んだ。
爆発音と共に撒き散らされた薄いピンク色の消火剤が、煙幕となって通路と人狼の姿を覆う。
「もっと広い場所に行くよ!」
吉澤が煙幕の中に突っ込んでいこうとした石川の腕を取り、人狼から離れる。
「……自信あったんだけどな」
後ろを振り返りながら残念そうに言った石川と共に、通路を走った。
- 482 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:25
- ――――
飯田はロビーへと続く廊下の入り口で、襲ってくる妖獣の猛攻を辛うじて防いでいた。
すでにロビーの中は妖獣に制圧されていた。
能力者の大半がやられ、現われる“通路”消すことができずに数に押された。
防ぎきれずに負った無数の小さな傷が、飯田の体力を徐々に奪う。
正面から来る妖獣に集中できるとはいえ、数が多すぎる。
妖獣は、すでに上へと向かっているかもしれない。
失った体力に自分の動きが急激に鈍くなっているのを感じながら、飯田は唇を噛んだ。
正面から飛び掛ってきた妖獣に、横から拳を当てる。
そのまま壁に叩きつけるように振り抜いた。
横を向いた飯田の足元を、別の妖獣がすり抜ける。
- 483 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:25
- 慌てて顔を向けた飯田の目が、妖獣とは違う何かを捕らえた。
飯田の背後にいた仲間のさらに後ろに“通路”が現われる。
“通路”に向かおうとしたが、入り込んできた別の妖獣の気配を感じて背を向ける。
「後ろっ!」
背後の仲間に向かって鋭く言った。
その声に仲間の何人かが振り返ろうとしたが、
飯田の横を通り抜けた妖獣に対応するため動きが取れない。
突然、気圧が急激に変化したような激しい耳鳴り襲ってきた。
正面から同時に襲ってくる妖獣を相手にしながら、耳を押さえる。
すぐに気が付いた。
背後に膨れ上がっていた圧力が急速に衰える。
「結界が戻った! 行くぞ!」
誰かが“防衛結界”を起動するのに成功した。
“通路”がなければ、何とかなる。
飯田は正面の妖獣を倒しながら、自らを鼓舞するように叫んだ。
- 484 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:25
- ――――
田中は柱を背にして、横にいる亀井と肩を寄せ合うように腰を下ろした。
目の前では、動き出した結界発生装置が低く唸りを上げている。
巨大な玉の中心部に集まり始めた青白いアークが、淡い光となって2人を包んでいた。
田中の頬を、ゆっくりと汗が伝い落ちる。
極度の集中が解かれ、思い出したように出てきた汗を拭った。
軽く触れ合った肩から伝わっていた震えは、消えている。
隣に座る亀井の顔を覗き込んだ。
「さっきのって……」
「絵里の能力」
田中の言葉を遮って、亀井が頷く。
その額には、田中と同じようにうっすらと汗が浮いている。
「なんて言うかな……二重像? ドッペゲンガー?
正式には“幻像”って言うらしいけどね」
膝を抱えた亀井は自分のつま先を見つめたまま、そう言った。
- 485 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:26
- 「え〜と……分身の術?」
「そうじゃなくて、自分と同じ存在を作るんだ。ちゃんと物にも触れるし、息もしてる。
つまり、絵里と同じように生きてる。それに……」
亀井は抱えた自分の膝に、額をつけた。
「死ぬ」
背中を丸めた亀井の姿を、次第に強くなる青い光が照らしている。
つぶやくように言った物騒な言葉も、なぜか楽しそうな口調だった。
「自分で能力を消すか、殺されない限り意志を持って動く。
そして殺された場合は、生き残った方にもう一方が体験した分の記憶が流れ込んでくる」
「それって……」
もう1人が体験した全ての記憶。
それはつまり死の直前、意識を失うその一瞬までも、体験することになる。
自分が死んだのと一緒。
そう続けようとした田中の声を打ち消すように、亀井が顔を上げた。
「知ってる? 死ぬ瞬間ってすごいんだ!
変な光が見えることもあるし、これまで体験したことを思い出すときもあるんだ。
そのときはね! すごくいい気分になるんだよ!」
なぜか弾んだ声で言うと、満面の笑顔を作って見せた。
- 486 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:26
- 田中は初めて聞いた亀井の能力に混乱しながら、考える。
いままでは、能力を使わない亀井を自分が守っていると思っていた。
しかし昨日も、亀井の能力に助けられた。
そして今も、助けたのは自分では無い。
覚悟を決めるなどというレベルではない。
亀井が文字通り命を捨てて助けてくれたのだと、気が付いた。
呆然と亀井を見ていた田中が、ゆっくりと両手を伸ばす。
横にいる亀井の頭を、両手で包むように抱いた。
「れいな?」
亀井の不思議そうな声を腕の中で聞きながら、田中は目を閉じた。
なんでもないことのように笑って話す亀井に、腹が立つ。
同時に、助けられるだけの自分が情けなかった。
田中は溢れてくる複雑な感情に、涙が出そうになるのを堪える。
震えだしそうな唇を開いた。
「……ありがとう」
亀井の耳元で、そう言った。
- 487 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:26
- 「あれ〜? もう動いてんじゃん」
不意に聞こえた声に、慌てて亀井から離れる。
田中は立ち上がって入り口に目を向けた。
いつのまにか開いていた扉の前に、大きな荷物を持った人物が立っていた。
荷物を地面に置くと、かけていたサングラスを上にずらして、田中に顔を向ける。
「あれ? 泣いてんの?」
「なっ……! 泣いてなんてなかっ!」
田中は顔を見られないように、横を向いて目を擦する。
「ほんとに〜?」
「藤本さんは、なんでこんなとこにいるんですか?」
からかうように言った藤本に、亀井が声をかける。
「本当は“ソレ”動かしてから行こうと思ってたんだけど……」
藤本は本格的に動き始めた結界発生機に、視線を向けた。
巨大な水晶からは周囲を圧するように、蒼白く強い光を放ちはじめている。
すぐに視線を自分の足元に落とした。
「まあいいか。ちょうどいいから手伝ってよ。これ重くてさ」
そう言いながら、藤本は地面に置いた荷物を指差した。
- 488 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:27
- ――――
激しい破壊音が、部屋の中まで聞こえてきた。
吉澤は手にした銃を軽く持ち上げ、重さで残弾を確認する。
入っていた弾倉を抜き、新しい弾倉を取り出すとグリップにゆっくりと入れた。
正面に位置する扉の横で、石川が壁に張り付くように目を閉じている。
吉澤の背後にある大きなガラス窓からの光で、石川の横顔が薄闇の中で白く浮びあがっていた。
広い部屋の中で会話も交わさずに、2人の注意は外の廊下に向けられていた。
人狼が手当たり次第に、扉を壊している音。
先ほどまで聞こえていたその音が止まり、沈黙が部屋を満たす。
代わりに聞こえてきたのは、重く、量感のあるものが、床を踏んでいる音だった。
ゆっくりと廊下を、動いていく。
扉の横にいる石川も、それに気が付いているはずだった。
目を開けた石川と一瞬だけ視線を交わしてから、吉澤は銃を持ち上げ扉に向けてポイントする。
人狼が入ってきた瞬間、正面に立つ吉澤の姿と頭部に集める銃弾で注意を向けさせる。
その隙に、石川が横から致命的な一撃を与える。
先手を取って、そのまま勝負を決める、そういう作戦だった。
扉まであと少しというところで、廊下を動く気配が消えた。
銃口を扉に向けたまま、吉澤は人狼が止まったと思われる地点に、視線を移す。
眉を寄せている石川の姿が、視界に入る。
同時に、壁を通して巨大な気配が膨れ上がった。
- 489 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:28
- 気圧されるように、石川が壁から離れる。
「離れてっ!」
轟音と共に廊下と部屋を隔てていた壁が崩れた。
飛び散った壁の破片の中から人狼の手が現われ、石川の首に伸びる。
瞬時に反応した石川が上体を反らせながら、伸びてきた腕に下から拳を打ち上げた。
軌道が逸れた人狼の攻撃が石川の額を掠める。
後ろ向きで床に転がった石川を視界の隅に捕らえながら、
部屋に入ってきた人狼に吉澤が引き金を引いた。
両腕を顔の前で交差させた人狼が、吉澤にぶつかってくる。
ギリギリまで引き金を引き、横に飛んで避けた。
床の上を転がりながら弾倉を交換する。
すばやく膝立ちになって振り向きざまに、人狼の側頭部を狙って引き金を引いた。
人狼が短く、叫んだ。
顔をそむけて床に転がると、うずくまって低くうめく。
吉澤の放った弾丸が人狼の耳を直撃していた。
浅い角度で当たったため脳に侵入したわけではなかったが、鼓膜を破った。
人狼の全身に生えている強靭な体毛が、銃弾に絡みつき運動エネルギーを奪う。
エネルギの大部分を失った銃弾では、人狼の皮膚は破れない。
銃弾を受けた部分に多少は打撲外傷を与えても、すぐに回復してしまう。
天然のケプラーを纏ったようなものだ。
直接ダメージを与えるなら、体毛の間をすり抜けるような鋭利な刃物が必要になる。
吉澤の持っている銃では耳や目、または口腔にでも撃ち込まない限り
倒すことはできない。
倒れた人狼に銃口を向けたが、頭部を覆った両腕が巧妙に急所を隠している。
吉澤はうずくまる人狼に銃口を向けながら、倒れた石川に視線を向けた。
石川は片手で額を押さえながら、立ち上がるところだった。
床の上の人狼に一瞥してから、額を押さえていた手を離す。
視線を落として、自らの手を瞬きもせず、凝視した。
浅く切られた額の傷から血が滑り落ち、石川の鼻梁を伝って唇に触れる。
「……あはっ」
石川の紅く彩られた唇が、ゆっくりと吊り上った。
- 490 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:29
- 頭部を守りながら上体を持ち上げた人狼に、石川が無造作に歩み寄った。
浮かんでいた笑みは消え、目元が細かく痙攣している。
あと一歩の距離で立ち止まった。
「調子に乗るなっ!」
怒りに震えた声と共に跳ね上がった右足が、人狼の顔を捉えた。
そのまま右足が上に向かって真っ直ぐに上がる。
のけぞった人狼の眉間に、右の踵を振り下ろす。
直撃した人狼の体が床で跳ねた。
仰向けに倒れた人狼の横で、石川が左足を顔面に向けて踏み下ろす。
人狼が転がって石川の攻撃を避ける。
人狼は立ち上がりざま、追ってきた石川に向かって右腕を振るった。
石川が向かってくる腕を左手で殴るように弾く。
同時に、その体が上に伸びる。
飛び上がりながら右の膝蹴りを人狼の顎に叩き込んだ。
後ろにのけぞる人狼を追うように、空中で石川の膝から下の足が伸びる。
爪先が、人狼の喉に突き刺さった。
- 491 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:30
- 吉澤は人狼から距離を取った。
キレた石川が人狼を一方的に攻めている。
とりあえずはコレで時間が稼げるが、いかに石川が吸血鬼でも永遠に動けるわけではない。
少しでも動きが鈍れば、人狼の反撃が始まる。
そして石川に“障壁”がない以上、それに耐えることはできない。
(……やるか?)
広い部屋の中には吉澤と石川、そして人狼だけがいた。
飯田も含めた他の戦闘員は、階下の妖獣の相手をしている。
「梨華ちゃん!」
その声に人狼を殴り倒した石川が距離を取り、吉澤の横に立った。
「なんなのあいつ? ぜんぜん効いてないみたい」
正面に顔を向けたまま言った石川の息が、上がっている。
掛け値なしの全力で動ける時間は、意外に少ない。
しかも、人狼を相手に反撃を許さないほどの攻撃を続けるのは、容易ではない。
殴り疲れて冷静さを取り戻したのか、石川は呆れたような口調だった。
正面で倒れていた人狼が、ゆっくりと立ち上がる。
その姿を見ながら、吉澤は横にいる石川に小さく頷いた。
「やるよ」
短く言って、吉澤は持っていた銃をホルスターに戻した。
驚いた顔で吉澤を見た石川が、唇を強く結ぶ。
小さく頷き返して、再び人狼に向かって走り出した。
- 492 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:30
- 吉澤は自分の呼吸に意識を集中する。
いまいるのは、密閉された空間だ。
しかも、人狼の能力がどれほど影響を与えるかわからない。
細心の注意を払ってコントロールしなければならない。
何度か大きく息を吐いて、吸い込む。
顔を上げ、開いた右手を人狼に向ける。
視線の先で、人狼と石川が戦っていた。
吉澤と石川の与えたダメージはすでに回復しているのか、人狼の動きは疾い。
押されているのは石川。
受けに専念することで時間を稼いでいる。
しかし、長くは持たない。
焦る気持ちを落ち着けて、右手に意識を集中する。
高まっていく集中力が、不意に起きた横からの音で破られた。
吉澤は弾かれるように、部屋の入り口に顔を向けた。
- 493 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:30
- ――――
藤本が扉を開けると、吉澤と目が合った。
一瞬戸惑ったような表情を見せた吉澤が、人狼に向かって走り出す。
「……あれが石川?」
聞いた藤本に、後ろにいた田中が小さく頷く。
藤本は目立たないように、田中と亀井を伴って壁際を移動した。
まとわりついてくる吉澤と石川に、人狼は無茶苦茶に腕を振るっている。
吉澤が振り回される腕をかいくぐり、人狼の背後に回った。
振り向こうとした人狼を、正面から石川が攻撃を加えて阻止する。
人狼を前後に挟んで、2人は人狼の攻撃に細心の注意を向けながら、
隙を見つけて小さくダメージを与えていく。
しかし、人狼の動きは止まらない。
まるで無尽蔵のエネルギーを持つエンジンのように、その太すぎる両腕を動かしている。
幾らダメージを蓄積させても、人狼の攻撃をまともに食らえば勝負が決まる。
その事実が、体力よりも2人の精神力を削り取る。
細かい攻撃を与えているが、2人の表情に疲労の色が濃くなってきた。
- 494 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:31
- 藤本は窓ガラスを背にしたところで止まった。
人狼の後ろは壁。距離は20m。
顔面を捉えた石川の攻撃に合わせて、人狼の背後から吉澤が膝の裏に右足を落とした。
膝をついた人狼に向けて、吉澤が離れながら手にした銃を人狼に連射する。
チャンスと見て藤本が手を伸ばしかけたところで、石川が人狼に近づいた。
(バカ!)
不用意に近づいた石川の姿に、声が出そうになるのを堪える。
手刀を振り上げた石川に、人狼がしゃがんだまま腕を振るった。
空気を砕く音が聞こえるほどの攻撃。
まともに食らった石川が藤本の方に飛ばされた。
- 495 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:31
- ほぼ水平に飛んでくる石川を見ながら瞬時に判断する。
(受け止められる?)
無理だ。
石川の重量と、あの速度。
受け止めれば、動けないほどのダメージを受けることになる。
しかし後ろは窓ガラス。
たとえ吸血鬼といっても、20階から落ちればただでは済まない。
藤本は右足を引き、両腕を前で交差する。
衝撃に備えた。
「梨華ちゃん!」
藤本と石川の間に、吉澤が飛び出す。
空中にいる石川に飛びつくように身体をぶつけた。
勢い余って、2人はもつれ合いながら床に倒れる。
「無理に突っ込むんじゃない!」
吉澤の怒鳴り声を聞きながら、藤本は田中に渡していたバックに手を伸ばす。
金属の円筒を1本抜き取り、人狼と藤本の中間で倒れている2人の背中に向ける。
構えたのは、使い捨ての携帯式対戦車ロケットランチャー、M72A3。
全長1mに満たない大きさながら、発射されたHEAT弾は戦車の装甲も撃ち抜く。
「下がれっ! いしよしっ!」
藤本の声に、石川と吉澤が左右に分かれて飛ぶ。
開いた射線の先には膝をついた人狼の姿。
この位置なら、逃がさない。
藤本は肩に乗せたM72を発射した。
- 496 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:32
- 後方に生じた凄まじい爆風で、背後のガラスにヒビが入る。
前方に一直線に進んだ砲弾が人狼の胸を直撃した。
HEAT弾が人狼の胸を貫通して、後ろの壁を破壊する。
巻き起こった灼熱炎に、一瞬にして人狼の姿が飲み込まれた。
人狼が炎に包まれた瞬間、抑えつけられていた“力”が戻った。
バックを置いた田中が、伸ばした腕を炎に向ける。
藤本と打ち合わせてあった通り、人狼の周囲に風壁を造った。
遮られた熱流が風壁の内部で渦を巻き、人狼を中心に炎柱のように立ち上がる。
藤本は撃ち終わったM72を足元に投げ捨てた。
「次っ!」
横にいた亀井がバックからM72を抜き取り、投げ渡す。
受け取った藤本はすばやく肩に担ぐと続けて発射した。
「ラストです!」
田中が一瞬だけ開いた風壁の隙間から、熱風が押し寄せる。
露出した肌を灼く熱い空気に目を細めながら、渡されたM72を再び構えた。
横にいる亀井も片膝を立てた姿勢でM72を構える。
藤本の背後でガラスが砕け散るのと同時に、2条の航跡が炎に向けて放たれた。
- 497 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:32
- ――――
炎が収まるのを待ってから、田中が風壁を解いた。
残っていた熱気が緩やかに、割れた窓から外へと流れていく。
「なんか変なこと叫ばなかった?」
口を尖らせた石川が、両手を腰に当てて言っている。
石川を無視して、藤本は熱せられたコンクリートの塊を、足でどけた。
「これじゃあ、どうしようもないか……」
パッと見だったが、人狼が宝玉を身に付けていた感じはなかった。
超高温の熱流にさらされた人狼の体は、跡形もない。
体内に埋め込んでいたとしても、胴体。
宝玉のコピーが欠片でも残っている可能性は、なさそうだった。
「ちぇっ」
つまらなそうに口を尖らせて顔を上げた藤本が、近くの床に落ちているものに気が付いた。
「あれって……」
人間の頭部だった。
崩れた壁が楯になって爆風を遮ったのか、ほぼ原形を留めている。
しかし表面が炭化して、黒っぽい無機質な塊となって床に転がっていた。
変身は解けているのか、全体のディテールが人間の形をしている。
さすがに気分が悪くなり、藤本は顔をしかめた。
顔を背けようとしたが、なにか違和感を感じて、藤本は動きを止めた。
真剣な表情で、目を細める。
何かが、ひっかる。
ゆっくりと近づくと、転がっている人狼の頭部を足先で転がした。
- 498 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:33
- 藤本に無視された石川が、不貞腐れたような表情で周囲を見渡す。
壁際にいた田中を見つけて、にこやかな笑顔で近づいてきた。
「どう? 飯田さんは参考になってる?」
「なんの話ですか?」
いきなり親しげに話し掛けられて、少し緊張しながら答えた。
「なにって。吸血鬼倒したいんでしょ。1人で」
田中は言葉に詰まった。
誰にも言ったことはなかったが元々吸血鬼の能力を知るために、
一緒に行動するようになった。
飯田を利用していることを咎められたように感じる。
後ろめたい気分を隠すように、大声を出した。
「あんたには関係なか!」
「障壁の出せない飯田さんじゃ、参考にならないでしょ?
私が直接、教えてあげても良いんだよ」
思わぬ言葉に、田中は再び黙った。
困惑している田中から視線を外し、石川は額の傷に指で触れる。
すでに治りかけている傷から手を離し、指に付いた血を擦った。
石川は視線を上げて、田中に向かって微笑む。
「なに……を、言ってるんですか」
「すぐに決めろとは言わない。少し考えてみて」
ようやく口を開いた田中の肩を、軽く何度か叩く。
ニッコリと微笑んでから田中から離れ、石川は出口に向かった。
- 499 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:33
- 離れていく背中を見ながら、田中の中で石川の言葉が反芻される。
確かに飯田は強かったが、障壁を出さない。
正確に言うと“出せない”だが、田中にとってはどちらも一緒だった。
身体能力という点では、飯田で何の問題もない。
しかし田中が知りたかったことは、それだけではなかった。
知りたかったのは障壁の限界。
居心地の良さに忘れかけていた目的を思い出し、田中は視線を落とした。
無駄のない動きで仲間を倒していた石川の動きを、思い出す。
身体能力という点では、飯田を遜色ないように見えた。
そして石川なら、障壁を出せる。
石川が本心で言ったのかは、分からない。
そして前に石川のことを聞いたときの、紺野の表情や口調。
明確にそう言ったわけではなかったが、HPと石川は敵対していると思ってよさそうだった。
それでも、石川の提案に魅力を感じている自分に、戸惑う。
割れた窓から下を覗き込んでいた亀井が、田中に寄ってきた。
横に立った亀井が、遠ざかっていく石川と田中の顔を交互に見る。
「なに? 何の話?」
「……なんでも、なかよ」
田中は冷静さを装って、答えた。
- 500 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:34
- 出口に向かう石川の前に、吉澤が立ちふさがる。
険しい顔で睨みつける吉澤を見て、石川が一瞬だけ戸惑った表情を浮かべた。
「よっしい……」
「今ごろ何しに来たのっ!」
吉澤の大声が、室内に響いた。
「ここは勝手にいなくなった人のいる場所じゃない!」
続けて怒鳴った吉澤を、無表情になった石川が見つめる。
しかしそれも一瞬だった。
仮面を被ったように、石川の表情が変わる。
「せっかく助けてあげたのに、そういう言い方はないんじゃない?」
「ここから出て行って!」
冷たい笑顔を見せながら言った石川を睨みながら、吉澤は出口を指差した。
「言われなくてもそのつもりだよ。下の妖獣も片付けなきゃいけないし、
飯田さんにも会いたいからね」
「これは私たちの問題で、石川には関係ない! 飯田さんにも会う必要なんかない!」
「……和んでるとこ悪いんだけど」
少し離れたところにいた藤本が、床の上に視線を向けたまま割り込んできた。
2人が、同時に藤本を睨みつける。
藤本の足元には、元人狼の頭部が落ちていた。
足で転がしたため床に接した部分が上になり、
熱に焼かれていない生々しい人間の耳が、見えた。
「こいつ……美貴を追ってきた奴と違うんだけど」
藤本がつぶやくと同時に、天井に並んだ蛍光灯が一斉に点灯した。
- 501 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:35
- ――――
- 502 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:36
- 以上で、七話終了です。
- 503 名前:Left Alone 投稿日:2005/09/26(月) 19:37
- >>459 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
何とか飽きられないように、頑張ります。
- 504 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/08(土) 21:10
- 先の展開が読めない感じがまた憎い(;´Д`)
- 505 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:21
- ――――
エレベータを下りると短い通路が続いていた。
歩くために必要な床と、それを囲む壁と天井。
全てが白で統一された、無駄な物が一切無い通路だった。
通路を照らす強い照明が周囲の白い壁に反射して、眩しい。
目を細めて正面を見ている矢口の前を、紺野と道重が歩いていた。
緊張しているのか無言のままで、肩を並べて進んでいる。
無言で歩く3人を先導するように、女が長い髪を揺らしながら歩いていた
弾んだ足取りで、右手の指で挟んだ黒いカードを弄んでいる。
すぐに見えてきた扉の前で、女が立ち止まった。
磨き抜かれた金属の頑丈そうな扉には、周囲の景色が鏡のように映り込んでいる。
扉に映る女の視線が矢口に向けられ、口元が柔らかく上がった。
微笑んだ女が右手にカードを持って、扉の横にあるパネルに近づく。
パネルにはテンキーと、カードを挿入するスリットが付いている。
女がカードを入れると、テンキーの数字が青い光で浮かび上がった。
手元を見ないで、すばやく数字を打ち込んでいく。
小さな電子音が鳴ると、正面の扉が音も立てずに左右に開いた。
扉の先は、4m四方の小さな部屋だった。
保管所へと続く前室。
天井の中央に点灯していない赤色灯が、付いている。
正面の壁には床から天井まで、一本の線が入っていた。
壁全体が巨大な扉、というより隔壁という名称が相応しいものになっている。
出てきたカードを手に、女が鼻歌交じりで前室に入った。
続いて全員が入る。
最後に入った矢口の背後で、扉が閉まった。
- 506 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:22
- 右の壁には最初と同じように、パネルがあった。
今度のパネルには小さなレンズと、その少し下に黒いディスプレイのようなものがある。
その横に、黄色と黒色のテープが交互に巻かれた大きなレバーが上がった状態で付いていた。
女はディスプレイに右手の平を当て、レンズを覗き込む。
すぐに、先ほどと同じ電子音が鳴った。
『カンリシャノシメイドドウゾ』
抑揚のない不自然な声が、小さな部屋に響いた。
矢口は小さな部屋を見回したが、スピーカは見当たらない。
女がパネルから一歩下がると少し上を向き、天井の一角に視線を向ける。
「ゴ、ト、ウ、マ、キ」
一音づつ区切るように発音した。
壁の中で何かが外れる音が、鳴る。
振り向いた後藤真希を見ながら、矢口が感心した表情で頷いた。
「虹彩に静脈それに声紋か。ずいぶんとややこしくなったね」
「ほら、この間ここから盗まれた本が使われたでしょ?
あれから、うるさくなったんだよね」
矢口に向かって苦笑しながら、後藤が扉を拳で軽く叩いた。
反対の手で壁に付いたレバーに手をかける。
「めんどくさいから、後藤もあんまり入らないようにしてるよ」
そう言いながら、後藤がレバーを引き下げる。
扉から、複数のロックが解除される音が鳴った。
同時に赤色灯が回転を始め、耳障りな警報が鳴り響く。
腹に底に響くような重い音を立てて、厚い扉がゆっくりと左右に開いていく。
「とりあえず……“石棺”にようこそ!」
後藤は開いていく扉に、右手を差し伸べた。
- 507 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:22
- 第8話
Sophisticated Lady
- 508 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:22
- ――――
無機質なコンクリートで固められた崖と、鮮やかな緑を見せている森に挟まれた道路。
山の中腹に作られた、対向車のない狭い上り坂。
右側の木々の上にある夕陽が、走っている白いバンをオレンジ色に染めていた。
矢口は片手でハンドルを握り、サングラスを頭にかけていた。
黒いタンクトップに黒のバンツ。
日焼けするのもかまわずに、片腕を窓から出してガムを噛む。
不貞腐れた表情で、運転を続けていた。
助手席には、同じような服装の紺野が座っている。
揺れる車内で、膝の上に置いた文庫本を読んでいた。
「気に入らない」
隣でつぶやいた矢口の言葉に、紺野は顔を上げた。
読んでいた文庫本を膝の上に置いて、矢口に顔を向ける。
「なんですか?」
「気に入らないって言ったの!」
不愉快な口調を隠そうともしない。
矢口は右側の崖に、顔を向ける。
コンクリートで固められた壁面が、夕陽を受けて赤く染まっていた。
「先輩のために“運転代わりましょうか?”ぐらい言えないかね?」
「むりですよ。両手、ふさがってますから」
「車乗ってまで本読むなっつ〜の!」
怒ったような矢口の言葉を最後に、車内が静まり返った。
少し言い過ぎたかと思いながら矢口が横を見ると、紺野は再び本に視線を戻していた。
- 509 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:22
- 溜め息を吐いて、矢口は再び前方の山道に視線を向けた。
運転を始めてから2時間以上立っている。
目的地は、もうすぐだった。
矢口はバックミラーに視線を移した。
傾けた頭を窓につけて道重が眠っている。
反対の肩には、松浦亜弥が頭を乗せて目を閉じていた。
高速に乗るまではうるさいほどしゃべっていた2人だったが、
いつのまにか静かになっていた。
上り坂が終り、真っ直ぐな道路に変わった。
右側にあった崖が消え、深い木々が両側を挟むように現われた。
「お〜い! そろそろ着くぞ!」
矢口の声に、後ろの席で2人が目を覚ました。
運転席と助手席の間から、起きたばかりの松浦が眠そうな顔を覗かせる。
「やっとですかぁ?」
両側の森が消え、突然視界が開けた。
- 510 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:23
- 眼下の谷間を覆い尽くす木々の緑も、いまは夕陽を受けて赤一色に染まっている。
森の中央にある小さな湖の水面に夕陽が反射して、強く輝いていた。
「あれが遺物保管所。通称“石棺”」
下り坂に変わった道路を走らせながら、矢口は左側を顎で示した。
湖の近くの森が、そこだけ切り取られたように小さく開いている。
その場所には、高い鐘塔が建っていた。
脇には尖った屋根の低い建物が寄り添うように建っている。
後部座席から身を乗り出していた松浦が、紺野に顔を向けた。
「なんか変わった建物だね?」
「……もとは教会だったみたいですよ」
あまり興味がなさそうな声で、紺野が答えて本を閉じた。
「何で石棺って言うの?」
「行けば分かるよ」
松浦の質問に、正面を向いたまま矢口が答えた。
高度を下げた太陽が、木々に覆われた谷を赤い荒野のように見せている。
夕陽を受けた塔が墓標のように、森の上へ長い影を作っていた。
- 511 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:23
- 地図には未舗装の旧道と記載されている道路は、しっかりと舗装されていた。
夕陽を浴びた雑木林の間に立ち込める蝉の声が、一日の終りを強く印象づけている。
県道からの入り口に立てられた無人のゲートをくぐってから10分以上走って、
ようやく建物の入り口が見えてきた。
建物の前にある広い駐車場に、車が一台だけ置いてある。
入り口の階段横に不釣合いな物を見つけて、矢口は苦笑いを浮かべた。
無駄に広く作られた駐車場の真ん中を通って、車を建物の脇に停めた。
車から降りると矢口は木製のロッキングチェアに足を投げ出すように座っている女に近づいた。
頭上には大きなビーチパラソルが張られ、傍らの小さな円形のテーブルに
ワインボトルが数本置いてある。
目の前に立ったが、サングラスをかけた女の顔はうつむいたまま動かない。
矢口はロッキングチェアの足を軽く蹴った。
「ごっちん!」
弾かれるように顔を上げた女は、矢口に顔を向けた。
数瞬の間を置いて、伸びをしながら大きく口を開いて子犬のように欠伸をすると、
サングラスを外した。
半分寝ているような目で矢口を軽く睨む。
「遅かったねぇ。待ちくたびれちゃったよ」
のんびりとした口調で非難の声を上げる。
テーブルに手を伸ばしてボトルを掴むと、直接口を付けて一口飲んだ。
「こんなとこで何してんだよ……っていうか、何だよその格好?」
呆れたような矢口の声に、後藤はへらっと笑って見せた。
着ている服は、光沢のあるノースリーブの青いチャイナドレス。
涼しげな白いビーチパラソルの下で、座っているイスを前後に揺らした。
「通販で買ったんだ。どうよ?」
上体を起こし、後藤は脚を組んだ。
深く入ったスリットから覗く白い太腿が、横からの夕陽に照り映える。
後藤の姿に一瞬見とれた矢口は、照れ隠しのように首を回して、
周りに置いてある場違いな物体を眺めた。
「無駄なもの買ってるね」
「後藤はここから離れられないし、これぐらいしか楽しみがないのさ」
口の端を上げて笑いながら、手に持ったボトルを振って見せた。
- 512 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:23
- 「お久しぶりです、後藤さん」
矢口の横に来た紺野がニッコリと微笑む。
「久しぶり。そっちの子が道重?」
後藤は紺野の後ろにいる道重に視線を向けた。
軽く頭を下げた道重に片手を上げる。
「で、そっちが松浦亜弥ちゃんか。2人ともよろしく。わたし……」
「知ってますよ。後藤さんに会えるっていうから、
夏休み返上してこんな田舎まで来たんです」
松浦は首から下げたネックレスを弄りながら、後藤の言葉を遮って見事な笑顔で答えた。
後藤は不思議そうに小首を傾げる。
「後藤真希の“百人切り”って言ったら、有名だもんね」
ニヤニヤしながら言った矢口の言葉に、後藤は眉を寄せた。
頭の後ろで指を組み、椅子の背に寄りかかる。
「後藤、その呼び方好きじゃないんだよね」
矢口を睨みながら、後藤は口を尖らせた。
後藤が一線から退いて2年が経っていたが、HPの中で後藤の名前を知らない者はいない。
不可能といわれた個人による吸血鬼狩り。
初めて実戦に出てから僅か数ヶ月で成し遂げたその偉業は、その後も続くことになる。
徐々にその数を増やし、僅か数年で三桁に達した。
しかしその直後、後藤は前線から外された。
万が一、後藤が倒されたときの、残ったものに与える影響を考えてのことだった。
「おかげでこんな山奥に飛ばされるし、それになんかヤラシーし」
「女性の場合は“百人抜き”って言うみたいですよ?」
「紺野は、何でそんなこと知ってるかねぇ?」
答えた紺野に、後藤が悪戯っぽく笑いかける。
困った顔の紺野が口を開く前に、後藤は勢いをつけて立ち上がった。
「花火も買ってあるからさ。夜になったらみんなでやろっか!」
夕陽に照らされた横顔に、朗らかな笑顔が浮んだ。
- 513 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:24
- ――――
扉の向こうには、広大な空間が広がっていた。
打ちっぱなしのコンクリートで構成された、灰色の空間。
矢口たちが入った扉から奥へと続く、長方形の空間だった。
一辺が10m以上もある巨大なコンクリートの柱が整然と立ち並び、高い天井を支えている。
柱以外に何もないその場所を、天井の水銀灯が照らしていた。
しかし奥はもちろん、左右の壁さえも見えない。
光量が足りないというよりは、照らすべき空間が広すぎた。
上に残してきた松浦を覗く4人が、前室を抜けて部屋へと足を踏み入れた。
最後に出た矢口の全身を、地下特有のひんやりとした空気が包む。
外の蒸し暑さも、この中では想像するのも難しい。
矢口は足を止め、目を凝らした。
視線の先は闇に溶け込み、突き当たりは見えない。
壁があるはずの左右も、同じだった。
感じることができるのは、途方もなく深い空間の広がりだけだ。
「後藤1人のときは、こっちなんだけど」
その声に後ろを見ると、ジーンズに着替えた後藤が、自転車のサドルに手を置いていた。
自転車の横には、4人乗りのカートが置いてある。
後藤がカートを指差した。
「今日はそっちで行こうか」
そう言って歩き出すと、カートの助手席に座った。
「誰が運転するんだよ」
「しげさんやってみる?」
口を尖らせた矢口から視線を逸らし、後藤は立ったままの道重に顔を向ける。
道重は困ったような顔を矢口に向けた。
「またおいらが運転か……」
つぶやいた矢口が運転席に向かった。
- 514 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:24
- 紺野と道重が後ろに座ると、運転席に座った矢口がアクセルを踏んだ。
モータの回転する微かな唸り音だけの、スムーズな加速。
矢口が運転するカートが、巨大な空間の真ん中を走る。
「あの柱の数字ってなんですか?」
道重が上を見上げる。
耳の横を通り過ぎる風の音を聞きながら、声を出した。
ときおり通り過ぎる柱には、白い数字が書かれている。
「ここは部屋が一杯あるから、迷わないように目印だよ」
正面を見ながら大声で、後藤が答えた。
風になびく髪を片手で押さえる。
「左右の壁に部屋が並んでる。一つの遺物に一つの部屋が割り当てられてるんだ。
呪的に防御しなきゃいけないような、厄介な物もあるからね」
首だけを後ろに向けて、道重を見ながら目を細めた。
「“力”を秘めた危険な遺物は、それを持つ人間に挑戦し、支配しようとする。
魂を持った“魔”となって意志を持ち、干渉してくるんだ。
ここはそういう、在るだけで人間の精神を侵すような、危険な遺物を保管してる。
教会の下にある危険な魂の眠る場所。だから“石棺”」
楽しそうに言うと、後藤は再び正面の闇へと目を向ける。
ヘッドライトの細く強い光が四人の乗ったカートの前方へと、伸びていた。
- 515 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:24
- ――――
道重は用意されていた小さなテーブルの前で、両手を膝の上に乗せて行儀よく椅子に座っていた。
周囲には耳鳴りのするような静寂と闇が満ちている。
テーブルを挟んで向かい側にある扉に後藤が入ってから、だいぶ時間が経っていた。
後藤と道重を途中で降ろして、矢口と紺野はさらに奥へと向かった。
2人の目的は、春に使われた“本”の保管してあった場所だ。
保管の状況がどうしてもみてみたかった紺野が申請を出した。
今月に入ってようやく許可が下りたのを聞きつけ、矢口が道重と松浦を連れて一緒について来た。
天井に並んでいる照明から少し離れているため、道重のいる場所は薄暗い。
1人残された道重は所在なげな様子で、周囲を見渡した。
左右に真っ直ぐに伸びている壁には、充分に距離を取って大きな扉が等間隔に並んでいた。
後藤の入っていった扉は木製だったが隣は石、さらに奥の扉は鉄でできている。
順番に並んでいるというわけではなく、中に入っている“モノ”によって変わるらしい。
隣の石扉の模様が目に止まり、道重が目を細めた。
見たこともない文字が、扉の表面に隙間なく刻まれている。
薄気味悪く感じたが、道重はなぜか視線を逸らさすことができなかった。
暗闇の中で、刻まれた文字が鮮明に浮かび上がる。
周囲に存在するものが、道重の意識から一段外側に遠のいた。
一点を見つめる道重の瞳から徐々に光が失われ、表情が消えていく。
- 516 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:25
- 軋んだ音が鳴り、我に返った。
遠のいていた現実がなんの前触れもなく、道重の周囲を満たす。
軽く頭を振って、道重は視線を正面に戻した。
「お待たせ〜」
両手のふさがった後藤が扉を身体で押しながら、明るい声を出した。
片手で持ったパイプイスを広げ、道重の向かい側に置く。
「え〜それでは……」
広げたイスには座らずに、後藤はわざとらしく咳払いを一つする。
反対の手に持っていた埃の被った年代物のランプを、テーブルに置いた。
「しげさんの持っている“遮断”の能力は、一種の結界です。
その結界は、任意の空間に限定して発動させることができます。
これからそれができるように、訓練をします。
初めに言っておきますが、退屈で地味で単調な訓練です。
なので、後藤もあまり乗り気ではありません」
早口で一気に言うとテーブルに片手をついて、斜めに立った。
道重から視線を外し、テーブルに置かれたランプを見る。
「しかし大変お世話になった、やぐっつぁんの頼みでもありますし、
これも貰っている給料の範囲内かな、と思わないでもありません」
後藤がジーンズのポケットから、平べったい銀色のボトルを取り出した。
蓋を開けて一口飲んでから、ボトルをテーブルに置く。
微かに、アルコールの匂いが漂う。
後藤は道重に視線を戻した。
「まぁ最終的にはかわいい後輩のためでもある、と納得しました」
そう言って道重に笑いかけた。
- 517 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:25
- 「だけど言葉で教えられるほど器用じゃないからさ。
しげさんには目標だけ与えるから、後は自分で工夫して」
あまり乗り気ではない表情の道重が、後藤の目を見ながら黙って頷いた。
“遮断”の能力は道重を中心とした球体状に広がる。
その直径は50mといったところだ。
能力を発動して相手を効果範囲に入れるためには、道重自身が相手に近づかなければならない。
そのため敵の視界に入ってしまう可能性が高くなり、能力を無効化されても
ある程度戦える矢口や小川がフォローに回ることになる。
一緒に戦っている矢口も小川も、能力なしの戦闘能力は高かった。
いままで危険な目にあったこともない。
矢口に強く言われて付いてきたが、正直、いまのままで良いと道重は思っていた。
後藤はテーブルに載ったランプに視線を落とした。
「とりあえず、能力の届く範囲を狭くしてもらう。
と言うことで、このランプ」
片手でランプを軽く押さえ、ふっと息を吹きかける。
薄汚れたランプから埃が舞い上がった。
「これは“プネウマの燈火”って言って、土地の持っているエネルギーを
“SP”に変換して点灯する。
一度点灯すると半永久的に消えないって便利な物だけど、大して明るくもないし熱も出ない。
一応ここで保管してるけど他に転用もできないから、装飾品以外の使い道はない」
そこまで言って、後藤は思い出したように顔を上げる。
唇に人差し指をあて、道重に向かって微笑んだ。
「勝手に出してきたから、黙っててね」
なかなかに魅力的な笑顔。
なんとなく、道重も同じ仕草を真似てみた。
「じゃあコレ持って少し離れて」
渡されたパイプイスを持って、道重が歩き出す。
後藤もいままで道重が座っていた椅子とランプを持って、歩き出した。
- 518 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:26
- 道重と後藤、そしてテーブルが正三角形の頂点になる位置で、止まった。
「しげさんはその位置から動かないで、ランプの火だけを消して。
もちろん、後藤には範囲が及ばないようにね」
そう言って、ランプを足元に置いた。
その場所からさらに奥に数メートル歩くと、後藤は持っている椅子に座った。
道重もパイプイスを広げ、離れたところにいる後藤と向かい合うように座る。
もともと光量が少ない上に距離が離れたため、後藤の姿は黒い影のように見えた。
薄闇の中で後藤の形をした影が、ゆっくりと右手を持ち上げる。
「では、遮断の能力を」
そう言って、後藤が指を弾いた。
微かな音と共にランプに火が灯る。
床の上に置かれたランプから淡い光が広がり、後藤の姿を照らした。
見ていたランプから視線を移し、道重が顔を上げる。
「どうやってやるんですか?」
「う〜ん……なんかギュッてするみたいな感じ?」
そう言って、後藤は自分の身体を抱きしめる。
質問を質問で返されて、道重は首を傾げた。
後藤は頬をかきながら、困ったように笑う。
「昔組んでた先輩って言うか教育係の人が、しげさんと同じ能力だった。
その人がそんなこと言ってた……ような気がする」
「じゃあその人に直接教わった方がよくないですか?」
「それは無理」
短く答えて、後藤は手に持っていたボトルに口をつけた。
「まあ、やってみなよ」
後藤は会話を終わらせるように、言った。
- 519 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:26
- 後藤に向かって曖昧に頷いてから、道重はランプを見つめる。
ランプの中に燈った小さな炎が微かに強弱を繰り返しながら、揺れている。
道重の表情が引き締まり、目が細まった。
循環するSPの量を、能力を発動できるレベルまで増やす。
顔を上げた道重が、少し間を置いてから能力を発動した。
ランプの炎が大きく揺らめいて、押し潰されるように消える。
道重の能力はその範囲を広げ、後藤の座っている場所も包み込む。
ランプの明りが消え、再び周囲が薄闇に包まれた。
「……範囲が広いと無効化できるSPも少なくなる。
普通の能力者の“能力”を止めるだけならそれでも良い。
吸血鬼の障壁だって、効果を下げることができる」
後藤の姿は、再び黒い影へと変わっている。
能力を発動しながら、道重は後藤の言葉を聞いていた。
矢口から聞いた話では、後藤は2つの“能力”が使える。
稀にだが、そういう能力者もいないわけではない。
しかし人間のSPで2つの能力を同時に発動すれば、どちらの“能力”も
中途半端なレベルでしか使えない。
だが後藤が生まれつき持っていた無尽蔵とまでいわれたSPが、
どちらの能力も最高レベルで使用することを可能にした。
後藤の言っていることは正しい。
しかしそんなつもりはないが、この場に矢口がいれば後藤でさえも倒すことができる。
その証拠に、目の前の後藤のSPも抑えることができている。
道重は自信を持って、後藤を見つめた。
- 520 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:26
- 表情も見えない薄闇の中で、後藤のシルエットが再び右手を持ち上げた。
「でもね、それじゃあ吸血鬼と1人で渡り合うことはできない。
それに……普通じゃない能力者もいる」
そう言って、後藤が再び指を鳴らした。
何かが後藤の内側から一瞬で膨れ上がり、弾ける。
道重が小さく悲鳴を上げた。
空間自体に張り巡らしていた神経が一気に引きちぎられるような衝撃。
道重は椅子の上で前かがみになり、全身を襲う衝撃に耐える。
指を鳴らした瞬間に後藤の身体から放たれた膨大な量のSPに、道重の能力が破られた。
喘ぎ声とも、うめき声とも言える声が聞こえて、道重は目を開いた。
床に置いてあるランプには再び炎が宿り、光を放っている。
道重が蒼白になった顔を上げ、後藤の姿を視界に入れた。
ランプの向こう側にいる後藤は、片手に持ったボトルを道重に振ってみせる。
「後藤みたいに、ね」
燈ったランプの光の中で、後藤は喉を鳴らして笑っていた。
- 521 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:27
- ――――
講堂の中は、灰色の光に満たされていた。
元は礼拝堂だったのか正面の一段高くなった段の壁面を、埃を被った磔刑像が占領している。
長いテーブルが何列も並んでいる広い講堂の片方の壁には、大きな窓が並んでいた。
窓から見えるのは、月明かりに照らされた森だった。
日が落ちたばかりだったが、外灯のない山の中の景色は黒く染まっている。
窓枠に肘をかけた松浦の横顔を、窓から入る月明かりが照らしていた。
下に向かった矢口たちは、まだ帰ってこない。
ぼんやりと外に視線を向けた松浦は、首から下げたネックレスを片手で弄りながら、
つまらなそうに頬杖をついていた。
あまり接点のない矢口から突然連絡が来たときは、驚いた。
最初は断ろうと思っていたが、結局はここに来ることにした。
強引に誘われたこともあるが、松浦の目的は後藤だった。
“金色の王者”“焼き尽くす者”
さまざまな通り名で語られる、異能の能力者。
生きながら半ば伝説になっている後藤と会う機会は、そうあるものではない。
めったに笑わないような堅物を想像していたが、意外にくだけた性格らしい。
頬が緩んだ松浦の横を、生暖かい風が撫でていった。
- 522 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:27
- 不意に、松浦は室内に顔を向けた。
「誰?」
そう言いながら立ち上がり、松浦は闇の中の一点を見つめた。
松浦がいるのとは反対側の壁にある出入口には、扉が付いていない。
廊下へと続く四角い闇に、注意を向けた。
気配を消した何者かが、廊下にいる。
松浦の人間を凌駕した超感覚がそれを教えてくれた。
矢口たちなら、気配を消す必要はない。
ここにはかなり重要な遺物が保管されている。
それを狙っての襲撃も、頻繁にあると聞いた。
松浦の周囲に紅く揺らめく“障壁”が現われ、包み込む。
沈黙が支配する講堂の中に、ぬるい風が入り込んできた。
背後の窓は開いている。
相手の姿を確認してから逃げれば、捕まることもないはずだ。
動いていないのに、息が乱れそうになる。
「……出てこないなら、こっちから行くけど?」
震えないように気を付けながら、声を出す。
それほど大きくはない松浦の声が講堂に響き、吸い込まれるように消えた。
正面に注意を向けながら、一歩窓に向かって下がる。
いままで座っていた椅子に足が当たり、音を立てた。
その音を合図にして、入り口の脇から人影が現われた。
現われた人物に、松浦は僅かに揺れる紅い瞳を向ける。
- 523 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:28
- 気が付いた松浦の表情が、一変した。
「みきたん!」
嬉しそうな声を上げて、松浦が走り出す。
入り口に立っている藤本は、照れたような顔で笑いながら両手を広げた。
飛び込んできた松浦を抱きとめる。
「いつ日本に帰ってきたの? なんでこんなとこにいるの?
だいたい松浦に連絡しないってのはどうなの?」
「そんないっぺんに聞かれても困るよ」
藤本は両手を背中に回して見上げる松浦に、困った顔で答えた。
胸に抱いている松浦の髪を、愛おしそうに撫でる。
「日本に着いたのは今日。ここにいるのは亜弥ちゃんに会うため。
連絡しなかったのは、びっくりさせようと思って」
藤本の胸に顔を埋めながら、松浦は気持ち良さそうに目を閉じていた。
- 524 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:28
- 藤本は両肩に手を置いて、松浦の身体をやさしく離した。
真っ直ぐに見つめる松浦の瞳に、少し躊躇しながら口を開く。
「あのさ。美貴の送った物、持ってる?」
「当たっりまえじゃん!」
松浦が首から下げていたネックレスを外して、藤本の鼻先で振って見せる。
数日前に藤本から送られたものだった。
藤本からのプレゼントが嬉しくて、届いた日から毎日身に付けていた。
「ちょっと貸して」
松浦は外したネックレスを右手に持って差し出した。
左手で受け取りながら、藤本は右手に持っていた物を松浦の空になった右手に置く。
松浦は渡された物に視線を落として、不思議そうに首を傾げた。
手に収まるくらいの黒い円筒形をした金属。
表面には英語でなにか書かれている。
「なにこれ?」
問い掛けて顔を上げると、藤本の顔を無骨なマスクが隠していた。
「……ごめんね」
マスク越しの藤本の不明瞭な声を合図に、松浦の手から白い煙が勢いよく噴き出した。
- 525 名前:Sophisticated Lady 投稿日:2005/10/16(日) 14:29
- ――――
- 526 名前:カシリ 投稿日:2005/10/16(日) 14:29
- 第8話、終了です。
- 527 名前:カシリ 投稿日:2005/10/16(日) 14:30
- >>504 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
そう言ってもらえると、ありがたいです。
- 528 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/17(月) 00:25
- ごっちんキタ━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━!!!!
相変わらずテンポ良く進むストーリーに引き込まれます
- 529 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/17(月) 01:39
- ごっちんキタ━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━!!!!
カッコエェ
楽しみにしてます。
- 530 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:46
- ――――
真夏の午後。
駐車場で松浦が1人、マウンテンバイクに乗っている。
周りを囲む木々の傍には影も出来ているが、真ん中を走っている松浦を
日差しから遮るものはない。
暑い盛りの、時刻だった。
「う〜ん……」
2階の窓から下を見ながら、藤本が難しい顔をして唸った。
窓際に置いたイスに座って、窓枠に顎を乗せている。
「行かなくていいの?」
隣の窓から下を見下ろしている飯田が、髪をかき上げながら聞いた。
隙間のない入道雲が浮んでいる蒼空の下、松浦はゆっくりとした速度で円を描いて、
自転車を走らせている。
さっきから何度も、同じところを回っていた。
「……そうだねぇ」
藤本は顔を上げずに、曖昧に返事をした。
- 531 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:46
- 円を描いて回っていた松浦が、建物に向かってきた。
サングラスをかけている松浦の顔が、飯田のいる窓を見上げる。
ハンドルから片手を離して、飯田に向けて手を振った。
目の部分は隠されているが、はっきりと分かる笑顔を見せる。
飯田は、小さく手を振り返した。
「かわいいね」
「……うん」
松浦が僅かに、顔の位置を変えた。
たったいま気が付いたように、藤本のいる窓を視界に入れた。
藤本が慌てて顔を上げ、手を振ろうと片手を上げる。
松浦は拗ねたように口を尖らしてそっぽを向いた。
再びペダルをこぎ出して、窓から離れていく。
「怒ってるね」
中途半端に上がった自分の手を悲しそうに見てから、再び藤本は窓枠に顎を乗せる。
窓の外にだらしなく、両腕を出した。
「……うん」
藤本は困ったような表情で、小さく声を出した。
- 532 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:47
- 第9話
Someday My Prince Will Come
- 533 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:47
- ――――
木々に遮られた深夜の森には、風もない。
夏の成長した葉が月明かりを遮って、視界はとても良好とはいえなかった。
生い茂る下草を掻き分けて、巨大な体躯を持った男が走っていた。
電灯の灯りがない森の中は真実の闇というものを、実感させる。
だが男は獣道にもなっていないような起伏の激しい斜面を、たしかな足取りで下っていた。
荒い息遣いを見せているが、疲れているわけではない。
野生の動物を思わせる騒音を伴わない疾走は、失われていなかった。
目的の物に近づいて、男の気分は高揚していた。
純粋な暴力。
本能が叫ぶ暴力への渇望が、男の身体を突き動かしていた。
与えられた命令は回収だが男にとってそれは、二次的なものにすぎない。
突然、周囲を取り巻いていた木々が消え去った。
広い駐車場に辿り着き、男は足を止める。
正面に建つ高い鐘塔の上から降り注ぐ、黄色い満月の光を全身で浴びた。
ようやく内側に溜まった欲求を、開放させることができる。
喜びが、男の唇を醜く歪ませた。
- 534 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:47
- 森から出た男がゆっくりと歩き出した。
目の前の駐車場には月明かりを受けた建物が、長い影を落としている。
周囲に溢れていた虫の音が、男の放つ強烈な暴力の匂いを感じ取ったかのように、止んだ。
同時に、男の足が止まる。
建物が作る影の中、男の行く手を塞ぐように小柄な少女が佇んでいた。
「あなたが、人狼ですか」
かけられた声は、駐車場に満ちた夏の暑い空気には似つかわしくない、無機質なものだった。
まるで散歩にでも行くように、何の緊張もない歩みで男に向かって歩きだす。
男は立ち止まったまま、人影を凝視した。
建物の影からでた少女の姿を、月明かりが背後から照らした。
足を止めた少女は、闇を映したような瞳で男を眺める。
どのような心の動きも感じさせない、表情のない眼だった。
男からは肌を灼くような殺気が放たれているが、少女までは届かない。
逆に少女から放たれる氷のような存在感が、駐車場と男を包み込む。
「専門外ですが、今回は特別です」
先に動いたのは、男の方だった。
自身を包囲していく力に対抗するように、男が獣の咆哮を上げた。
身体が膨れ上がり、身に付けていたシャツが弾け飛ぶ。
現われた身体を、長い体毛が覆っていく。
変貌を遂げ、唸りを上げる人狼を瞳に映しながら、少女の口元に微笑みが浮んだ。
「さあ……始めましょうか」
歓喜の色が加わった声で、宣言する。
辻希美は友人を向かい入れるように、両手を広げた。
- 535 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:47
- 再び咆哮を上げた人狼が、辻に向かって走り出す。
あわせるように、辻も前に出た。
下からすくい上げるように振られた人狼の右腕を、身体を開いてかわす。
避けた辻の頭上に、人狼が左腕を振り下ろしてきた。
辻の体が、僅かに沈む。
攻撃を受け止めた辻の手が、人狼の手首に食い込んだ。
辻は掴んだ人狼の腕を引いて、強引に引き寄せる。
小柄な辻に振り回され、人狼の巨体が前に崩れた。
たたらを踏んだ人狼の顔が辻の目線まで降りてくる。
その顔が逃れる前に、辻は左の拳を人狼の顔に叩き込んだ。
肉が肉を打つ重い音を残して人狼が後ろにのけぞる。
辻は掴んだ腕をもう一度引き寄せ、振り回す。
そのまま人狼を背後に投げ捨てた。
地面を滑った人狼が、すばやく立ち上がった。
だがすぐには動き出さずに、殴られた顎を手で押さえたまま辻に視線を送る。
顔を覆った手の隙間から、割れたコンクリートの隙間を埋めるように大量の血が流れ落ちた。
辻の攻撃が当たった右の下顎が、半分以上削り取られていた。
失った下顎のため空気が漏れて、人狼は泣くような声で吼えた。
その声に呼応して、駐車場のいたるところに闇が生まれる。
現われた無数の“通路”が、辻の周囲を取り囲んだ。
満足していない本能の叫びを無視して、人狼は身体を反転させた。
本能よりもっと深いところにあるなにかの、悲痛な叫び。
辻に背を向け、走り出す。
- 536 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:48
- 逃げだした人狼を追いかけるように、遠くで指を鳴らす小さな音が鳴った。
出てきた森へと駆け出していた人狼の背が、突然燃え上がる。
同時に、現われた無数の“通路”の色が変わった。
金色に輝く炎に灼かれ“通路”の持った闇色が失われていく。
光り輝く金色の炎が駐車場に落ちていた建物の影を打ち払い、
入り口の階段にいる3人を浮かび上がらせた。
階段を上がったところに2人、もう1人は階段の下で右手を顔の高さに上げていた。
「ふ〜ん。ほんとに半減するんだ」
「あれで半減かよ」
階段の下で感心したような声を出した後藤に、後ろから藤本が呆れたような声をかけた。
後藤は見上げるように振り返って、笑顔を見せる。
「まっ黒コゲにしてやろうかと、思ったんだけどね」
藤本の横に立っていた飯田は、後藤の背後に目を向けた。
人狼は身体を焼く炎を消そうと、地面を転がりまわっている。
駐車場に現われた金色の炎が、かがり火のように揺らめいて駐車場を照らしていた。
人狼に向かって歩き始めた辻の横顔は、周囲で燃える炎の色に染まっている。
巨大な力を授かったとはいえ、その全てをすぐに使えるようになるわけではない。
力を引き出す術を学び、力の限界を知る必要がある。
辻は数々の戦闘の中で、それらを徐々に獲得していった。
今では持っている限界まで、力を自在に行使することが出来る。
足元の石段に座り込んだ後藤が、そろえた膝に顎を乗せた。
「あの子も、強くなったね」
後藤の言葉に、飯田は黙って頷いた。
「……そろそろかな?」
飯田が視線を落とすと、見上げている後藤と目が合った。
微笑みながら、後藤は再び前を向く。
よろけながらも立ち上がり、辻から逃げようとする人狼の背中に指先を向けた。
「バン!」
そう言って、指を跳ね上げる。
同時に、人狼の身体が轟音と共に弾かれた。
- 537 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:48
- ――――
矢口は耳を押さえていた手を離し、小さく咳き込んだ。
柱に手をかけながら下を覗く。
鐘塔の最上階から見下ろすと、広い駐車場が一目で見渡せた。
銃弾を受けて倒れた人狼に、辻が歩み寄っていく。
横で鳴った音に、矢口は視線を向けた。
床の上に腹ばいになった紺野が、抱えていた長大なライフルのボルトを引いたところだった。
飛び出した空の薬莢が小さな放物線を描き、石の床に落ちて澄んだ音を立てる。
足元まで転がってきた金色の薬莢を一瞥してから、紺野に視線を移した。
後藤の炎があるとはいえ、視界の悪い、夜間の狙撃。
照準を合わせて引き金を引けば当たるなどと、単純なものではない。
目標との距離と速度と高低差、使用している弾丸の種類、そして風も計算に入れる。
紺野の全身は意志の力で完璧に制御され、ほんの些細な乱れも感じさせない。
僅かに顔を上げた紺野が、細く息を吐いて再びスコープを覗き込む。
感じるのは鋭く研ぎ澄まされた集中力と、緊張感。
矢口は息を呑んだ。
「……振り向いて」
スコープを覗きながら、紺野が小さくつぶやいた。
引き金に、右の人差し指をやさしく添える。
同時に左手で、スコープに付いているツマミを静かに動かしていく。
「私が……」
矢口は再び、下を覗き込む。
紺野が放った銃弾を受けた人狼が、立ち上がろうとしていた。
月明かりを受けて鮮明に映る人狼の姿が、矢口のいる塔の最上階に向く。
そして紺野が、唇を舐めた。
「触ってあげる」
巨大な銃の先端から、凄まじい音量と共に巨大な炎が迸った。
- 538 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:49
- 激しく舞い上がる砂埃のなか、矢口は息を止め、両手で耳を押さえた。
間近で鳴った銃声のため、耳鳴りがする。
人狼は不自然な動きで宙を飛び、再び地面に叩きつけられた。
「あとは辻さんに任せましょう」
紺野は胡座をかいて、立てた銃から弾倉を抜いた。
抱えている銃の先端は、座っている紺野の頭よりも遥かに高い位置にあった。
12.7mmの大型カートリッジを使用する、対物狙撃銃。
弾頭重量は40g以上、初速は秒速800mを超える。
有効射程は1500mを軽く超え、そのパワーと衝撃力で軽装甲車、航空機などにも効果があった。
巨大な銃身に相応しく、凶暴な力を秘めた超長距離狙撃銃だった。
「気に入らない」
納得いかない矢口が、不機嫌な声で言った。
矢口を横目で見てから、紺野がベストから弾丸を取り出す。
「他に被害はでませんし、それに後藤さんもいます。
確実に殺るなら、この場所が最適ですよ」
「松浦を囮に誘い込むなんて、つんくさんもなに考えてんだか」
呆れながら言った矢口の横で、紺野は取り出した弾丸を慎重に装填する。
「こんなこと吸血鬼側の組織に知られたら、なに言われるか……」
吸血鬼は、相互補助のための組織を作っていた。
HPに所属しない吸血鬼の生活の保障や、人間側との条約の協定もそこが行っている。
松浦はその組織を運営している一族と、つながりがあった。
「得意な駆け引きとかで、何とかするんじゃないですか」
紺野は冷たい声でそう言いながら、勢いをつけて弾倉を銃に入れた。
- 539 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:49
- ――――
辻は周囲で燃える炎の間を、縫うように歩く。
再び銃弾を受けて倒れていた人狼が気が付いて、慌てたように背後を振り返った。
「あなたとの戦闘が、私の望みをかなえるための糧になる」
左の拳を血に染めた辻が、足を止めた。
人狼は苦痛の声を上げながら、立ち上がる。
「逃げることは許しません。死力を尽くして抗いなさい」
揺るぎない力を感じさせる声で、言った。
逃げ道がないと悟った人狼が、辻を睨みながら姿勢を低くする。
弾丸のような速さで、辻に向かって地面を蹴った。
両腕を広げ、辻を捕らえようと全身でぶつかっていく。
ぶつかる直前、辻が両足を同時に後方に引いて人狼の巨体を受け止めた。
勢いに押された辻の身体が数メートル後方に下がり、止まる。
押されながらも、辻は細い腕を人狼の首に絡ませた。
人狼の首に巻きついた片手を、絞り上げる。
離れようともがく人狼の巨体を持ち上げ、身体を捻って後方に叩きつけるように投げた。
呻き声を立てながら立ち上がった人狼が、眼前にいる辻に向かって鋭い鉤爪のついた両腕を振るう。
右手で頭部を、左手で脇腹を。
辻は人狼の両腕の中に、なんの躊躇いもなく踏み込んだ。
人狼の腕が身体に触れるより速く、右の拳を心臓の上に叩き込む。
口から血を吐いて動きを止めた人狼が、その場にしゃがみこんだ。
人狼の脇を抜け、背後に回りこむ。
間髪をいれずに、人狼の背中を左の拳で打ち抜いた。
たいした抵抗もなく人狼の体にめり込み、突き抜ける。
身体を突き抜けた左腕を引き戻し、膝をついた人狼の後頭部に右の拳を打ち下ろす。
思ったよりも軽い音を残して、人狼の頭部が爆ぜた。
- 540 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:50
- 飯田は建物から離れ、1人で辻に近づいた。
燃えていた後藤の炎は消え、駐車場は再び闇を取り戻している。
辻は駐車場の中心で、倒れた人狼を見下ろしたまま、その場を動かなかった。
辻から少し離れた場所で、飯田は足を止めた。
複雑な心境を隠して、両手を朱色に染めて立ち尽くす辻の横顔を眺める。
後藤が言ったように、確かに辻は強くなった。
あれほど願った辻の思いが報われる日は、遠くない。
しかしそれは、同時に辻の消滅を意味する。
人間の姿に戻った人狼を見下ろしていた辻が、ゆっくりと顔を上げた。
足元の人狼を捧げるように、そして祈るように、唇をきつく結んだ辻は月を見上げる。
空からの黄色く濁った月光を全身に浴びて、辻の影が駐車場に長く伸びていた。
- 541 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:50
- ――――
ときおり吹く強い風に、森の緑が波打つように一斉に揺れた。
人里離れた山の中に人の賑わいはなかったが、代わりに夏の風景に溶け込んだ蝉の声が満ちている。
静かで暑い、夏の午後だった。
相変わらず、松浦は自転車をこいでいる。
窓から両腕を出した藤本も、相変わらずの困った顔だった。
今朝目が覚めた松浦に、藤本が事情を説明しようとしたが、
途中で怒り出した松浦が席を立ち、そのまま部屋を出て行ってしまった。
それから何度も話し掛けているようだったが、ことごとく無視されている。
「自分だけ蚊帳の外じゃあ、怒るのも無理ないよね」
「だからさ〜」
窓から出した手をブラブラと振りながら、藤本が不貞腐れた声で言った。
「あの宝玉は美貴ので、亜弥ちゃんにあげたわけじゃ無い。
返してもらって、関係のない亜弥ちゃんには安全なところにいてもらう。
どっかおかしいとこある?」
「あんたのことが入ってない。すぐ近くで“愛しいみきたん”が危ない事してた。
その間自分は眠らされてたじゃあ、納得いかないでしょ」
飯田を横目で睨んでから、藤本は再び窓の外に視線を向けた。
「危険なんてなかったんだよぉ……」
藤本は遠ざかっていく松浦の背中に呼びかけるように、弱々しく言った。
- 542 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:51
- 人間の耳の形には、個人によって微妙に差異がある。
倒した人狼とは別に、もう一体の人狼が存在する。
それには別の命令が与えられていて、それはオリジナルの宝玉を奪還するだ。
藤本はそう、主張した。
確認のためHPを襲ったときの映像と、藤本の持っていた博物館を襲ったときの映像が
比較されたが、粗い映像のため確実には分からなかった。
すでに、日本にいる松浦のもとに宝玉を送っている。
焦った藤本は半信半疑のHPを動かすため、人狼を倒すための場所と人員の提供を条件に
自分の持っている宝玉の売却を提案した。
日本のHPを管轄するつんくは、藤本の提案に条件を提示した。
街中で襲われては、被害は想像できないものになる。
松浦にはなにも知らせずに囮に使って、人狼を有利な場所に誘い出す。
警戒させないで人狼を誘き寄せるにはそれが必要だと、言ってきた。
藤本は、松浦を危険に巻き込むこの条件に、当然のごとく反対した。
すでに人狼を倒してから一週間が経ち、いつ松浦が襲われてもおかしくない状況。
まとまらない両者の間に、飯田が入った。
紺野が出していた遺物保管所の利用申請を許可し、そこに人狼を誘い出す。
飯田と紺野そして辻、さらに道重の訓練で後藤に会いたがっていた矢口に、
護衛も兼ねて松浦を連れてこさせる。
保管所の周辺なら一般の民家はなく、他に被害が出ない。
つんくには受け入れる条件として、人狼の体内にあると思われるコピーをその場で回収し、
保管所に預けると約束した。
反対する藤本には、安全な保管所内部に松浦を匿い、
さらにほぼ引退している後藤を引っ張り出して確実に人狼を仕留める、
ということで納得させた。
もともと立場的に弱かった藤本は、その条件で了解した。
問題はHPだったが、意外にもつんくは、あっさりと了解した。
- 543 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:51
- 飯田が覗いている窓からは、駐車場を囲む広い森が見える。
執拗に照りつける太陽も鳴きつづける蝉の声も、いっこうに衰えを見せない。
「結局コピーもそっちに取られたから、ほとんどタダ働きだったし」
「なに言ってんの? あんた相当ふっかけたらしいじゃん」
「この場所とあんた達を借りるからって、だいぶ割り引かれたんだよ」
不機嫌な声で言いながら、藤本が窓枠から顔を離した。
窓が開いた部屋の中に空調はなく、動かなくても汗をかくほど暑い。
だらしなくイスの背にもたれ、ハンカチを取り出すと額に押し当て汗を拭いた。
「亜弥ちゃんも怒ってるし……さんざんだよ」
「前からおもってたけどさ、あんたって松浦には弱いよね」
飯田は外の景色を見ながら、目を細めた。
つんくには、かなり都合のいい条件を飲んでもらった。
だが藤本個人では対処できなかっただろうし、松浦の身の安全もかかっていた。
借りを作ることになったが、今回はしかたないだろう。
- 544 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:54
- 飯田が腕を組みながら横を見ると、藤本が額の上にハンカチを当てたまま、上を向いていた。
「美貴の親ってさ」
ハンカチで額を押さえたまま、藤本が口を開いた。
「同じような仕事してたんだ。美貴も一緒に付いていってたから、
ちっちゃい頃から、同じ場所に長くいることなんてなかった」
突然話しはじめた藤本の声は、感情を抑えたものだった。
藤本は何かを思い出すように、目を閉じる。
「5・6歳の頃かな、珍しく一ヶ月ぐらい同じ場所にいたことがあった。
調査が長引いてたのかもしれない。そのときにね、仲良くなった子がいた。
初めてできた、友達だったよ。
毎日一緒にいたなぁ……。2人でプールも行ったし、
その子の家ってなんか金持ちっぽくてさ、デカイ家に住んでたから
家でかくれんぼができたんだよ。すごくない?」
飯田は窓の外に視線を移した。
「……すごいね」
「でしょ? でね、一ヶ月ぐらい経ったある日、両親が美貴をその子の家に預けて出かけたんだ。
仕事に行くんだなって、わかった。
でもその子と一緒にいられるから、別に寂しくはなかった。
その夜は、ご飯食べて、いっぱいお話して、一緒にベッドに入ったよ」
目を開けた藤本が身体を起こし、窓に片肘を乗せた。
- 545 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:54
- 藤本は胸元からネックレスを取り出すと、光にかざすように持ち上げる。
眩しそうに目を細めて、先に付いている銀色の指輪を眺めた。
「夜中に住み込みで働いてたおばさんが来て、美貴だけ起こされた。
そのまま外に連れ出されて、街のはずれにある昔の防空壕みたいなとこに連れて行かれた。
中に入ると、結構な人数がいたんだ。
眠くて目を擦りながら座ってると、周りの話し声が聞こえたよ。
今夜、その子の家が吸血鬼の組織に襲われるって話してた。
なんか裏でやばいことしてたみたい。
それ聞いて、すぐに出て行こうとしたんだけど、止められた」
飯田が横目で見ると藤本の視線は指輪から外れ、
どこか、あてもないところに向けられているように、見えた。
「めっちゃくちゃ暴れてわめき散らして、それでも離してくれなくて。
で、ちょっと冷静になって、美貴を押さえてたおばさんを見たんだよ。
そしたらさ、すごく哀しそうな目で、うつむいちゃってさ。
周りをみたら、みんな同じような顔してた。
多分外に出たら全員殺す、とか言われてたんじゃないかな。
そのときのおばさんの顔見たらさ、何も言えなくなっちゃったよ」
そこで言葉を切ると、藤本は目を閉じた。
- 546 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:54
- 「そのまま朝が来て、昼近くなってからようやく外に出たんだ。
すぐにその子のところに行ったけど、間に合わなかった」
そこまで言って、藤本が黙った。
部屋の中は、外から聞こえる蝉の声以外、何の物音もしない。
飯田は正面に顔を向けたまま、黙って外を見ていた。
初めて聞いた藤本の過去に戸惑いながら、飯田は考える。
人間と吸血鬼はこの世界の調和を守るという目的のため共闘しているが、
双方とも相手を完全に受け入れているわけではない。
組織を裏切り、相手に情報を売ろうとする者は必ずいる。
藤本の友達だった子供の家が、どちらに属していたかはわからないが、
裏切り者に与えられる罰は同じだ。
だが表立って行うわけには、いかない。
藤本が隠れた場所から出なければ、その場にいる人間は見逃すといわれていたのだろう。
吸血鬼を相手に、普通の人間が何人いようが、どうしようもない。
子供だった藤本にとっても、どうしようもないことだ。
- 547 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:55
- 「……4年ぐらい前かな、亜弥ちゃんに初めて会ったとき、
その子に似てるって、思っちゃったんだよね」
自分の発した言葉の余韻が消えるのを待っていたように、藤本が再び話しはじめた。
藤本の視線は、駐車場にいる松浦に向けられている。
「たまたま仕事で入った屋敷に亜弥ちゃんがいた。
なんか誘拐されて、軟禁されてたらしい。で、やめればいいのに助けた」
藤本は持っていたネックレスを、両手で包み込むように握った。
「結局さ、美貴は亜弥ちゃんのこと、代わりとしてしか見てない。
今回のことだって美貴の送った物なら、大事に守ってくれるって分かってた。
利用しただけなんだよ」
窓枠に両肘を乗せ、組んだ両手を額に当てて、藤本は目を閉じた。
「このまま、会わない方がいいのかもしれない……」
ようやく聞き取れるような小さな声で、言った。
- 548 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:55
- 淡々と話している藤本の口調だったが、いまも心に深いところを流れる後悔と、
助けにいけなかった自分に対する怒りが、感じ取れる。
飯田は僅かに視線を下に向け、駐車場へと入る道路に目を向けた。
舗装された地面は立ち上る熱気に、揺らめいている。
「形見の宝玉まで手放して、松浦のこと守りたかったんでしょ。
だったら、らしくない弱音なんて吐かないで、一緒にいなよ」
光の中をゆっくりと走っている松浦の姿が、視界に入る。
強い日差しの下、松浦は相変わらず1人で自転車をこいでいた。
「大切なものが、触れられるところにあるなら……」
飯田は目を閉じて、目の前の光に溢れた光景を、視界から断った。
「そばにいなきゃだめだよ」
飯田の言葉を最後に、部屋の中に沈黙が落ちた。
夏らしい熱を持った風が窓を通り、部屋を吹き抜ける。
2人が無言で眺める窓の外には、夏の陽が踊っていた。
- 549 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:56
- 「いいらさ〜ん!」
その声に飯田が振り向くと、部屋に辻が走りこんできた。
「ど〜ん!」
入ってきた勢いでぶつかり、そのまま腰にしがみついた辻の頭に飯田が手を置く。
「どうしたの?」
「ごとーさんがカキ氷作ったからきてくらさいって!」
辻は笑顔で飯田を見上げた。
なにかを思い出したように、辻が飯田の影に隠れるように移動する。
緊張した顔を、藤本に向けた。
「それと、ごとーさんが、藤本さんもって……」
だんだん声が小さくなっていく辻の頭を撫でながら、飯田が苦笑する。
藤本は飯田の顔を一瞬見上げてから、辻に顔を向け、笑った。
「いいねぇ、カキ氷。後で行くから取っといて」
藤本は明るい声で言った。
- 550 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:56
- ――――
飯田と辻が出て行くと、藤本は再び窓枠に顎を乗せた。
雲と空の単純な2色に分けられた空を見上げる。
ぼんやりと空を見ていた藤本が、不意に聞こえたブレーキの音に視線を下げた。
藤本のいる窓のすぐ下に、自転車が止まっていた。
左足を地面に下ろした松浦は、うつむいている。
どうしたのかと見ていると、松浦が顔を上げた。
サングラスで、表情は読み取れない。
松浦は自転車にまたがったままハンドルから右手を離し、藤本を手招きした。
驚きながら藤本は確認するように自分を指差す。
それをみた松浦が、頷いた。
- 551 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:56
- 自転車を押している松浦の後ろを歩きながら、藤本は汗を拭いた。
近くにある湖へと抜ける小道を、2人が歩いている。
「ねぇ亜弥ちゃん、どこまで行くの?」
松浦の背中に言ってみるが、返事はなかった。
砂利を敷き詰めた坂道を下りながら、藤本は溜め息を吐く。
自転車を降りて歩き出した松浦について来たが、話し掛けても返事をしない。
やがて、小さな湖に辿り着いた。
湖面に映った森の景色がときおり吹く風に揺らめいている。
2人が下りてきた坂道は、湖の周囲に造られた遊歩道へとつながっている。
湖を取り巻くように左右に伸びる遊歩道の先は、緑の中に消えていた。
坂道を下りきったところには、傘を広げたキノコのような屋根を持つ休憩所があった。
屋根を支える一本の柱の周りに、背もたれのない木製のベンチが置いてある。
休憩所の前で松浦が足を止め、背後をトボトボと歩いていた藤本に振り返った。
「藤本さんは、いつまでこちらにいらっしゃるんですか?」
サングラスを外すと、やけに丁寧な口調で無表情に言った。
いつも笑顔を絶やさないだけに、無表情な松浦はとてつもなく怖い。
藤本は両手を合わせて拝むように頭を下げた。
「そろそろ、かんべんしてくださいっ!」
「じゃあ……なんでも言うこと聞いてくれる?」
その言葉に、藤本は何度も小刻みに頷く。
それを見た松浦が、藤本の綺麗に整えられた眉を指差した。
「眉毛、片方剃ってきて」
真面目な顔と口調で言った。
返答に困った藤本が固まっていると、突然、松浦が吹きだした。
そのまま、楽しそうに声を上げて笑い出す。
からかわれたと分かった藤本が、口を尖らせた。
「別に怒ってないから、本気にしないのっ!」
「だって……」
拗ねたような安心したような表情の藤本を見て、松浦は破顔した。
「また会えてうれしいよ!」
ようやく笑顔を見せた松浦に、安心した藤本もつられて笑った。
- 552 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:57
- ひとしきり笑うと、松浦が残念そうな声を出した。
「でももったいなかったなぁ」
「なにが?」
「ネックレス。せっかくのプレゼントだったのに……」
何気なく言った松浦の言葉に、藤本は少しだけ考えるように黙った。
小さく頷くと、自分の首にかけてあるネックレスをゆっくりと外した。
手の中で、先に付いている指輪をしばらく眺めてから、顔を上げる。
「これ、あげるよ」
松浦は差し出されたネックレスと藤本の顔を、驚いた表情で交互に見た。
「いいの? それみきたんが、いっつも身に付けてるやつでしょ?」
藤本は無言で頷くと、手に持ったネックレスを松浦の首にかけた。
先についた指輪を嬉しそうに見ていた松浦が、顔を上げる。
「ありがとう!」
松浦は喜びに輝いた顔で、藤本に抱きついた。
- 553 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:58
- ――――
- 554 名前:Someday My Prince Will Come 投稿日:2005/10/29(土) 09:58
- 以上で第9話、終了です。
- 555 名前:カシリ 投稿日:2005/10/29(土) 09:59
- >>528 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
やっと後藤が出せました。
>>529 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
後藤はかなり強めです。
- 556 名前:エピローグ 投稿日:2005/11/06(日) 14:00
- ――――
男はエレベータから出て、暗い地下の駐車場に出た。
人気は、無い。
男の立てる靴音だけが、駐車場に響いていた。
男は周囲から“大佐”と呼ばれていた。
しかし、軍に所属しているわけではない。
すでに軍を退いてから、数年になる。
いまは、別の組織に所属していた。
さっき口にしてきた豪華な食事も、男の機嫌を直すには至らない。
その顔には、不満の表情がありありと見て取れた。
確かに損失も大きかったが、結果的にはうまくいった。
今回のことは今後大きな意味を持つと、思っている。
だが男の考えとは別に、その消息を知りたがっている組織は幾らでもあった。
利用しようとするならまだいいが、物騒なことを考えているところもある。
キーを取り出しながら、男は舌打ちをした。
停めてあった自分の車の上で、寿命の切れた蛍光灯が点滅している。
男が持っているキーに付いたボタンを押すと、扉のロックの外れる音と共に
ライトが二度、点滅した。
- 557 名前:エピローグ 投稿日:2005/11/06(日) 14:01
- ドアに手をかけたところで、男の姿が強烈な光に照らされた。
向かいに停めてある車のライトが突然点灯し、男の姿を照らし出す。
男は手をかざして光を遮りながら、目を細めた。
誰かが向かいの車のボンネットに寄りかかり、足を組んでいる。
男は不愉快な表情で、睨みつけた。
「やっと見つけたよ」
かけられた言葉に、緊張が走る。
いまは目立たないように、護衛もつけていない。
不意に男を照らしていたライトが消え、視界が一瞬で暗闇へと変わる。
「なぜ、ここがわかった?」
目が慣れる時間を稼ぐため、男は自分から声をかけた。
本意ではなかったが、今は身を隠している。
行き先を知られないように、慎重に行動していた。
この場所がわかるはずは、ない。
「探したんだよ」
女は、何でもないことのように答えた。
注意して聞いた軽い口調の声に、男は聞き覚えがあった。
「ヨシザワか?」
ようやく慣れてきた男の視界に、うっすらと女の全身が見え始める。
意外そうな男の声に、吉澤は声を出さずに笑顔で答えた。
- 558 名前:エピローグ 投稿日:2005/11/06(日) 14:02
- 凍える鉄槌 -Second season-
エピローグ
- 559 名前:エピローグ 投稿日:2005/11/06(日) 14:02
- 「困るんだよね、派手なことされるとさ」
呆れたように吉澤が言葉を吐いた。
「アレを解析したのは、あんた達の功績だし、評価もするよ。
でもね、人狼に埋め込んでHPを襲わせたのは、やりすぎ」
吉澤の言い方に、危険を感じた男は周囲をさりげなく見渡す。
なぜか男のいる一角だけ、車が停まっていない。
いまさらながら気が付いた事実に、男の鼓動が早くなる。
「それに松浦亜弥まで襲って。吸血鬼が条約を破棄してきたら、どうするの?」
「我々の組織はそのために存在している。お前のボスの目的だって同じはずだ!」
男の言葉に、吉澤は肩をすくめた。
「つんくさんも困ってたよ。“まだ準備ができてない”ってさ」
男は内ポケットにある銃に意識を向ける。
携帯している武器はコレだけだが、対吸血鬼用の弾が入っていた。
現役を退いたいまでも、訓練は続けている。
いつでも取り出せるように意識を向け、吉澤の姿を視界に入れた。
- 560 名前:エピローグ 投稿日:2005/11/06(日) 14:03
- ふと、吉澤の背後にある車の助手席に女が座っているのに気が付いた。
男の視線に気がついた吉澤が、笑顔を見せる。
「後ろの娘は気にしなくていいよ。ただの付き添いだから」
吉澤はボンネットから離れ、ゆっくりと男に歩み寄る。
「……あんたを“ヤル”のは、私だけ」
男はすばやくスーツの内側に右手を入れる。
銃を握って取り出す前に、男の動きが止まった。
数メートル先にいた吉澤が一瞬で近づいて、男の手首を押さえていた。
「やだなぁ。これでも現役なんだから、あんまり舐めないでくれる?」
吉澤は男に笑いかけると、右足を踏み下ろした。
正確に、男の足の甲を踏み砕く。
骨の折れる音を聞きながら、男は悲痛な叫び声を上げた。
男の叫び声が消える前に、吉澤の左の拳が男の腹にめり込んだ。
吉澤は床にうずくまった男に、背を向ける。
「あんまり人間を刺激しちゃだめなんだよ」
背後の男に聞こえるように話しながら、離れていく。
向かいの車の前で、振り向いた。
- 561 名前:エピローグ 投稿日:2005/11/06(日) 14:03
- 吉澤は膝をついた男を見ながら、微笑む。
「人類と吸血鬼の全面対決、なんてコトになったら共倒れになっちゃうでしょ。
あいつらに一度敵だと認識されれば、手加減なんかしてくれない」
「お前は……いったいなにを考えてる?」
男が出した掠れるような声に、吉澤は薄い笑いで答えた。
「さあ、ね」
男の関わっていた組織の目的。
人間が中心となり、能力と技術を集めて吸血鬼に頼らずに世界の秩序を守る。
最終的には、こちら側の世界から吸血鬼を排除すること。
吉澤は、それに協力しているはず。
人狼に埋め込んだ宝石のオリジナルを、膨大な研究資料と共に持ち込んだのも、吉澤だった。
恐怖の表情で吉澤を見つめる男の視線を遮るように、吉澤が右腕を持ち上げた。
右の手の平を男に向け、左手でその手首を掴んだ。
「あんたのおかげでコピーができるほど、研究も進んだ」
楽しげな声を出した吉澤は、細く息を吐く。
目を細め、表情を引き締めた。
「お礼を、しなくちゃね」
- 562 名前:エピローグ 投稿日:2005/11/06(日) 14:04
- 前に出した吉澤の右手の先に、輝く細い光輪が現われた。
光輪の中心に蒼い炎が生まれ、小さく揺らめく。
男は驚愕に目を見開いた。
吉澤が“能力”を発動している。
人間と吸血鬼のハーフに、そんな能力はないはずだった。
「私に半分流れている人間の血に“能力”が備わってた」
頭の中で抱いた男の疑問が聞こえたかのように、吉澤が答えた。
周囲を支配する薄闇に挑戦するかのように、炎が大きさと輝きを増す。
薄暗い駐車場を、眩いばかりの蒼い光が満たしていく。
「吸血鬼の“SP”で人間の“能力”を使うとどうなるか。見せてあげるよ!」
吉澤の顔に、強烈な笑みが浮ぶ。
そして、蒼い炎が放たれた。
- 563 名前:エピローグ 投稿日:2005/11/06(日) 14:04
- ――――
何台ものパトカーと救急車がサイレンを鳴らしながら、目の前を通り過ぎる。
封鎖された建物の周りは、警察と野次馬で騒然としていた。
明りを消した車内に、明滅する赤い光が入り込む。
助手席から外を見ていた石川は、隣へと視線を向けた。
吉澤は、ハンドルに乗せた両腕の上に顎を乗せて前を見ている。
「少し派手にやりすぎたかな?」
石川の視線に気が付いたのか、おどけたように言いながら石川を横目で見た。
無言のまま、石川は窓の外に視線を移す。
「なに? 怒鳴ったこと、まだ怒ってるの?」
呆れたように言いながら、吉澤が溜め息を吐いた。
「他の人もいたんだから、ああでも言わないとバレちゃうでしょ」
「……殺すことは、なかったんじゃない?」
石川は感情が表に出ないように気を付けながら、言った。
車内に視線を戻すと、少し驚いたように吉澤の眉が上がっていた。
「あぁ……そっちね」
- 564 名前:エピローグ 投稿日:2005/11/06(日) 14:05
- しばらく石川の顔を眺めていた吉澤が、視線逸らせて正面に向ける。
フロントガラスに映る吉澤の顔が、笑いを形作った。
「研究に携わっていた主要なメンバーは、いまの男で最後だったからね。
渡した分も含めて資料のほとんどは回収できた。
残りの資料で研究を続けるのは不可能になる」
「オリジナルとコピーが保管所にあるよ」
「入れた遺物は保管所の外に持ち出さないってのが原則だし、遺物の管理は
前に比べて厳しくなってる。いくらつんくでも勝手に持ち出すのは難しいはず、それに……」
吉澤は身体を起こし、エンジンをかけた。
「いまは、ごっちんがいる」
サイドブレーキを戻した吉澤から顔を逸らし、石川は再び外に視線を向けた。
集まった群衆が割れ、ストレッチャーを押す救急隊員が現われる。
道路に停まった救急車に、運び出された怪我人が積み込まれた。
「……準備が、進んでる」
やりきれない思いでその光景を見ながら、石川はつぶやいた。
吉澤の放った炎は、駐車場の半分を吹き飛ばした。
強い指向性を持っているため背後にいた石川は無傷だったが、
巻き込まれた無関係な人間が無数にいたはずだ。
「分かってるって。もう少ししたら私もそっちに戻るから、
それまでおとなしくしてて」
明るい声で答えた吉澤がアクセルを踏み、車がゆっくりと加速を始めた。
座り直して前方に視線を向けた石川の耳から、喧騒が次第に遠ざかる。
車が交差点を曲がり、サイドミラーの中に見えていた野次馬が消えた。
鏡に映る光景が人気のない道路に変わったのを見て、石川は沈み込むように助手席に背を預ける。
全身を包む低い振動と音に身をゆだねるように、目を閉じた。
- 565 名前:エピローグ 投稿日:2005/11/06(日) 14:05
- ――――
- 566 名前:カシリ 投稿日:2005/11/06(日) 14:07
- すっかり季節も変わってしまいましたが、
これで二章というか二部というかは、終了です。
続きを書くときにはこの板に、新しく立てたいと思っています。
拙い文ですが、読んでいただいてありがとうございました。
- 567 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/08(火) 17:56
- ほぉ・・・こんな展開になってくるとは・・・
楽しみが続いて嬉しいです
- 568 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 05:34
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
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