妄想少女
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/04(金) 18:00
- アンリアルの亀井×田中。
- 2 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:00
- ◆
秋晴れの空には雲ひとつない。
窓枠の四角に切り取られたその青空はまるで水色の絵の具を塗りたくったようで、なんだか幼稚っぽく映った。
グラウンドでは体操服の生徒がソフトボールに興じていた。
閉め切られた窓の内からでは声は聞こえないが、やたら楽しそうに見えた。
2年3組の教室の中には普段通りの光景があった。
黒板には訳の判らない数式が並べられ、教壇に立つ教師の説教のような講義。
規則正しく並べられた机には40人ほどの女子生徒が座っていて、みんなノートと黒板に視線を行き来させて、かりかりと音を立てている。
進学校のよくある風景。
そして、普段通り退屈を感じながら、窓際の一番後ろの席で空を見る私の姿も普段通りだ。
シャープペンのグリップを弄くりながら、ふう、と小さく溜息を吐いた。
その溜息すら教室の毅然とした空気に吸いこまれていく。
見ているだけで圧迫感を覚える。教室を眺めながら、そう思った。
隣りの席は空席だ。誰の席でもない。
再び、周りに視線をやる。
みな同じように、規則正しく並べられた机で機械のようにノートを取っている。
隣りが空席で良かった、と思った。誰かいたら息苦しくなりそうだ。
ふと色気のない教室の壁時計に目をやると、11時10分を回ったところだった。
まだ授業が終わるまで、30分以上の時間がある。
私はそっと机の上で両手を組んで枕を作ると、その枕に額を乗せた。
特に心地がいい訳ではないが、じっと座っているほうが辛い。
そっと瞼を閉じる。
地面が揺らぐ。
ぐらぐら。
地震のような感覚。
来た。ぞくぞくと心が浮き立つ。
そして、始まる。
- 3 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:01
- ◆
廻る意識が止まったのは何やら豪華絢爛な一室だった。
やたらと広い室内には豪華な調度品や家具がずらっと並んでいる。
羽根のような形に象られた鏡台。ガラスが嵌め込まれたテーブルと革の椅子のセット。私よりも断然背の高い箪笥。色鮮やかなドレスの並んだ衣装掛け。部屋の隅に立てかけられた大きな全身鏡。壁には何点か絵が並んでいた。知らない外国人の肖像画や田舎っぽい草原の風景画。
その部屋は中世ヨーロッパのお城をイメージさせた。
ふと自分の腰が柔らかな感触に包まれているのに気付いて、視線を下げると、私はベッドの淵に座っていた。
キングサイズのベッドには立派な天蓋までついている。
昔、フランスかどこかの映画で見た、王妃の部屋にあるベッドに酷似していた。
「すごい…」
私は目を輝かせながら呟いた。
周りを見回す。
今日は素敵な妄想に浸れそうだ、と一人、満足して頷く。
コンコン、と硬い音が響いた。
「はーい」
返事を返すと、彫りの深い外国人の青年がお盆を持って部屋に入ってきた。
彼は黒いスーツを着ていた。白いシャツの襟元には蝶ネクタイがついている。おそらく執事かなにかだろう。
「置いていきますので、お召し上がりください」
明らかにヨーロッパ系の彼が日本語を話すのにはさすがに違和感があるが、映画の吹き替えのようなものだ、と自分を納得させた。
彼は優雅な立ち居振る舞いでガラスのテーブルにお盆を置くと、一礼を残して部屋を出ていった。
私はお盆の中を覗きこんだ。湯のみには焙じ茶が入っていて湯気を立てていた。その脇の浅いお皿には煎餅が扇状に並べられている。
- 4 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:01
- 「んふふっ」
私は笑みを漏らすと、本革の椅子に座った。どっしりとした安定感のある椅子は座り心地が抜群に良かった。
私は椅子の背中に凭れて、湯のみを持った。少し熱いので、両手で持ち直す。
ゆっくりと焙じ茶を啜る。
私好みの渋めの味がゆっくりと身体を満たしていった。
私は湯のみを置いて、そっと辺りを仰いだ。
そこで、部屋に窓があるのにようやく気付いた。
私が通れるほど大きな丸い窓が壁に架かっていた。
そこから見える空の青はなんだか深いような気がした。まるで幾重にも色を重ねたような深さだった。その深青の所々に薄く綿雲が尾を引いている。
私は丸型の空を見つめながら、煎餅を手に取った。
これも私好みの醤油煎餅だった。
私はそれを一口、齧った。
確かな旨みが広がる。
私は齧った煎餅を置いて、お茶を飲んだ。
残った煎餅の旨みと焙じ茶の渋みが口内で溶け合って、絶妙だった。
ほんのりと幸せな気分になった。
そこで、地面がまたぐらぐらと揺らぎ始める。
そして、意識はまた転回する。
- 5 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:01
- ◆
新緑の空気は新鮮だった。
空気が美味しい、などとは単なる比喩だと思っていた。しかし、確かに実感出来る。
都会のどこか雑多で混濁した空気とはまったく違う、清澄とした空気。
すうっとその空気を思いきり鼻から吸いこんで、肺を満たす。
そしてゆっくりと目を開けると、そこは森だった。
深緑の葉っぱが雨のように優しく降り注いでくる。
私のいる場所を囲むようにして落葉樹の樹木が並んでいる。なるほど、空気が美味しいはずだ、と私は吸いこまれそうな葉っぱの緑を見つめながら思った。
独特の木の匂いが体を包んでいる。優しい木の香りは小さな頃のお母さんの子守唄を思い出させた。くんくん、と鼻を寄せると、気分が良くなった。
遠くで風の音が啼いていた。それが樹木の揺れを促し、音楽となって、唄となって、私の耳に響く。
また目の前に碧い葉が揺れた。
私は、切り株の上にちょこんと座っている。
すっぱりと潔く切られた切り株の上だ。本革の椅子もいいが、木の息吹が伝わるこの切り株の上も悪くない。
ガサッ、と私の前方にある茂みが音を立てた。
少しだけ体が固くなるのを自分で感じた。
深緑の尖った茂みから現れたのはクマさんだった。
私よりも二倍くらい背が大きい。茶色の毛むくじゃらで、二本足で立っている。窪んだ目許は優しさを称えていた。
クマさんは前足で器用にお盆を持っていた。
「ガウッ、ガウッ」
クマさんは嬉しそうに吼えて、お盆を私に手渡した。毛むくじゃらの手がくすぐったかった。
- 6 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:02
- 私はお盆を受け取ると、切り株の脇に置いた。
お盆の中身は、と覗いてみる。
お皿に乗ったのり煎餅とティーカップに注がれた熱い午後ティーのミルクだった。
カップから湯気が立っている。しかも、その脇にはティーセットが置いてある。
うん、なかなかだ、と自分の中で頷いて、のり煎餅を齧った。
「ガウッ」
クマさんがまた吼えた。
「欲しいの?」
私が尋ねると、クマさんはこくこく頷いた。
「ハイ、どうぞ」
私はのり煎餅を一枚、クマさんにあげた。クマさんは嬉しそうにそれを受けとって、器用に前足を使って食べていた。
私はカップの中の午後ティーを一口だけ、飲んだ。ほんのりと甘い熱が喉を通った。
そしてもう一度、のり煎餅を齧る。
「美味しいね」
「ガウッ」
クマさんはうんうん、と頷いてくれた。
もう一度、午後ティーを口に運ぶ。
ほう、と嘆息する。
ああ、幸せ。
ぐら。
また地面が揺れる。
ぐらぐら。
意識がまるで弓から放たれた矢のように、びゅんっと勢い良く飛んでいく。
- 7 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:02
- ◆
やけに懐かしいような感触が腰を包んでいた。
柔らかい、安物の黄色いソファだった。背中にはミッキーがピースをしたクッションが敷いてある。
生活臭を掻き消す芳香剤の匂い。それでも微かに混じる流し台からの独特の匂いやソファに染みついた甘ったるい匂い。
リビングの中には生活に合わせたインテリア。
ダイニングキッチンの脇に食器棚、そしてダイニングテーブル。私が座っているソファの前にあるこれも安物の木製の低いテーブル。
さらにそのテーブルの奥、ちょうど私が座っているソファの前には20インチのテレビ。
画面にはヒーロー物の特撮番組が映されていた。
主人公がどうにも格好いいとはいえない変身ポーズを取る。それでも、なんとか形になっているのが面白い。
そして、主人公はライダーになり、バッタバッタと敵の怪人をなぎ倒していく。
「お母さん、カッコイイの。ライダー」
舌足らずの声が下から耳に届いた。私の隣りにはちょこんと幼い子供が座っている。
あどけない顔立ちにも将来美人になりそうな秀麗さが見え隠れしている。くりくりした双眸は幼いが、文句なしに可愛らしい。
私はこの子を知っている。
この子は私の娘、さゆみだ。まだ、小学生の低学年だ。
「そうね、カッコイイね」
声は幾らか艶を失って、落ちついていた。
そして、私は瞳に母性を称えて、優しくさゆみの頭を撫でてやった。
さゆみは人懐こい笑顔を返してくれた。
食器棚のガラスに映る私は今よりも大分、歳を取っていた。
40歳くらいだろうか、大人っぽい顔立ちを通り越して、目許に柔和な笑い皺が出来ている。なかなか可愛らしいおばさんだ。
- 8 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:02
- 私は湯のみに注いだ緑茶を飲み干した。
温かい茶が喉を通って、体の芯を温める。
そして、ソファに静かに背中を預ける。
すると、さゆみは小さな頭を私の膝の上にちょこんと乗せた。
「もー、甘えん坊だね、さゆは」
言いながらも、私は笑顔でさゆみの艶の良い髪を撫でてやる。
さゆみは擽ったそうに、甘えるように目を細めた。
地味だが、確かな幸せを手にしている、私。
ぐらぐら。
また地面が歪む。
ズ、ズズッ、と地面が隆起する。
それは戻る、サインだった。
微かな安堵としっかりとした残念さを抱えながら、私の意識がゆっくりと現実に回帰していく。
- 9 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:03
- ◆
背中のほんわかした熱が深海にあった意識を揺さぶった。
その揺れは波紋を伴って、だんだんと大きくなっていく。幾つもの波紋が重なり、波を呼ぶ。そんな感覚を覚えていた。
何度目かの波に揺さぶられてゆっくりと薄目を開けると、鮮やかなオレンジが目に飛び込んできた。
教室はすっかり落日に呑み込まれていた。
窓から直線的に入りこんでくる橙のグラデーションが机を反射して、跳ねる。まるでそれは夕焼けが海に反射しているようだった。
自分の腕枕を解いて、軽く首を振る。
教室には誰もいなかった。
ふと壁時計を見ると、5時を過ぎていた。もう、みんな帰ってしまったのだ。
「ふう…」
微かに溜息を吐いて、席を立った。
やけに鮮やかなオレンジの濃淡が目に染みて、私は窓を少し睨んだ。
鞄に机の中のノート類を詰めると、足早に教室を出た。
私はこのクラスの中では浮いた存在だ。
こんな進学校に来たことを後悔しなかった日はない。
入学してすぐのテストで、自分と周りとの学力の根本的な違いを思い知った。
それ以来、私の成績はずっと下から数えた方が早い。
一旦そう思ってしまったら、女子高に馴染むのは至難の技だ。
結局、私はドロップアウトしまった。
ここに入れたのはおそらく父親の権力のおかげだろう。私の父は国会議員で、この学校にもコネクションがある。
それを知っているのか、教師は私にあまり関わろうとはしない。コネクションで入学した落ちこぼれた生徒をどう扱っていいのかわからないのだろう。
進学校の空気に馴染めない私に声を掛けるクラスメイトもいない。それでなければ、いくらなんでも終礼には誰かが声を掛けてくれるはずだろう。
ついていけない授業、友人のいない休み時間。
私は莫大な空白の時間を持て余すようになった。
そして、それを妄想に費やした。
- 10 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:04
- 最初は、温度も色も音もない、モノクロの妄想だった。まるでサイレントムービーのような。
例えば、顔のわからない恋人が出来て、それなりの結婚をして、可愛らしい子供を産む。
例えば、渋谷を歩いていると、スカウトされて、ミリオンセラー連発のスーパーアイドルになる。
例えば、モデルになってパリコレに出演し、その後、デザイナーとして有名になる。
幼稚でちゃちな、それでも楽しい妄想。希望に満ちた未来の群像としての妄想だ。
やがて、そんな妄想は鮮やかな色に染まり、リアルな温度や感触を思わせ、しっかりと音が聴こえるようになった。
現実と遜色ないような、そんな妄想になった。
時々、現実と混同してしまうくらいに。
そして、その妄想の世界は私が目を瞑れば簡単に飛びこめる手軽な世界だった。
今、私の中では妄想と現実の境目は曖昧に引かれている。それはまるで砂浜の波打ち際のように波が寄せるたびに微妙に変化し、しかしある一定の範囲を保った境界線だった。
もし、大津波がやってきてその境界線を一切消してしまったら、現実と妄想の境がなくなってしまったら、そんなことを考えることがある。
しかし、それでもいい、と思った。
もしも、この現実から抜けて、妄想の世界に飛びこめたら。
それはとても素敵なこと、とても、とても、素敵なこと。
- 11 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:04
- ◆
進学校から、徒歩で約20分ほどだ。
仰々しい門扉、そこをくぐると、続く砂利道。道の両側には囲うように樫の木が鬱蒼と茂っている。尖った葉の隙間から整えられた日本庭園が覗いている。
砂利道の先には立派な門戸。表札には太字で行書体で亀井、と記されてある。
木造3階建ての豪邸の外壁は濃い茶色で統一されていて、和風の造りになっている。とかく、国会議員というものは日本的なものが好きだ。
大体、会食は障子の引いた高級料亭で懐石料理、和食だ。家屋は木造。何故なんだろう。
ドアを開くと、乾いた空気が私を出迎える。
「ただいま」は言わない。「おかえり」が返ってこないから。
広い玄関でパンプスを脱いで、そのまま上がる。
吹き抜けになっているエントランスの空間を抜けて、白い螺旋階段を上っていく。無機質なタイルの感触が靴下越しにひんやりと足を冷やした。
「あ、絵里様。お帰りなさいませ」
階段の途中でメイドの保田さんが1階から声を掛けてきた。いつも丁寧な言葉遣いで、私は彼女の姿勢が崩れたところを見たことがない。
「どうも…」
私はか細く返事をしてから、階段を上った。
下を向きながら歩くのは子供の頃からの癖だ。そのせいか、いつからか極端な猫背になってしまった。
「あら、絵里さん」
下を向きながら2階の廊下を歩いている時に、前方から聞きたくない声が届いた。その艶っぽい声にはいつまでたっても慣れない。
私はゆっくりと顔を上げて、
「お義母さん…どうも…」
と、小さく返して、頭を下げた。
彼女は軽く頷くと、すたすたと行ってしまった。すれ違いざま香水のきつい匂いが鼻についた。
父親と母親が離婚したのは、私が小学校に上がる前の頃だった。その当時の記憶はあまり残っていないが、私はその時のことで泣いた記憶はない。両親の冷め過ぎた空気は、私から泣く気力さえも奪った。
すぐに後妻として、彼女がやってきた。父親よりも10歳も若い彼女をどうしても母親としてみることは出来なかった。
どう接していいかわからず避けている内に、彼女も私のことを避けるようになった。ここ数年、まともに会話をした覚えはない。
- 12 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:05
- 2階には私の部屋しかない。
同じフロアにシャワーもトイレもあって、食事も保田さんが運んできてくれるので、滅多に1階には下りないし、父と継母の部屋がある3階なんて、入ろうと思ったこともない。
2階の突き当たりのドアを開ける。
やたらと広々とした部屋。
部屋の隅にはセミダブルのベッドが据えてある。窓側では白革のソファが窓からの斜陽に染まっていた。
机の上にはマックのノートパソコンが置いてある。壁際には薄型の30インチのプラズマテレビ、その横のラックにはでかでかとしたステレオが鎮座している。
可愛げのない部屋。
ドアを開けるたびにそう思う。
傍から見れば、中学生の部屋には豪華過ぎると思われるだろう。しかし、この部屋にいて幸せを感じたことは、少なくとも、ない。
ドアを閉めて、鞄をそこらに放り投げると私はベッドに身を投げた。
「……」
ひとしきり枕に顔を埋めると、体を捻って仰向けになる。ベッドのスプリングが少しだけ軋んだ。
ふかふかのベッドが浮遊感を伴って体を抱いてくれる。
物音のない室内。
響くのは時計が秒を刻む硬いチクタク音だけ。
まるでこの部屋と私だけが世界から取り残されたような閉鎖感と孤独をひしと感じる。
エアポケットの中。
生活の大半をここで過ごす私がこの部屋を喩えるとするならば、私はそういう風に喩える。
そこでは全てが停止している。変化を齎すものは何もない。ただ時間が失速しながら通り抜けるだけだ。
私は天井の複雑な格子模様を何をするでもなく、ただ見つめていた。白い天井に走る等間隔の線は複雑な模様を紡いでいる。
ふと、枕元のサイドテーブルに置いてあるデジタル時計を見ると、保田さんが食事を運んでくる7時まで時間が空いていることに気付いた。
何をしようか。
どこか出掛けてこようかな、ううん、シャワーでも浴びてアニメ見ようか、小説を読もうかな。
考えを巡らす。
結局、行きついた、というか何時の間にか、地面はぐらぐらと揺れていて、私は飛ばされていた。
- 13 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:05
- ◆
闇の中に立ち尽くしていた。
暗澹たる闇で丁寧に塗り込められた空には星がなく、まるで出番を間違えた役者のように場違いな満月がぽっかり浮かんでいた。
刺すように冷たい空気を吸いこんでようやく認識した。ここは夜だ。
そして、私の前には錆びついて塗装が剥がれかけた校門が聳えていた。
その奥には5階建ての校舎が二つ、要塞のように頑然とそそり立っている。同じ高さの二つの校舎を結ぶのは1階ごとに架かった渡り廊下だ。校門の脇には一本の欅の大木。真っ直ぐ伸びる幹の樹皮は縦に裂け目が走っている。細かい葉は少し不気味に揺れている。
見覚えのある、校舎。ここは私の通っている中学校の校舎だ。同じデザインの校舎が二つ並んでいるから双子校舎、と呼ばれている。
私はゆっくりと歩き出した。
これは私自身の意思ではない。決して、私の意志が働いた、脳から命令された行動ではない。
私の体を動かしている正体はわからない。ただ、何かが私の体を内側から乗っ取り、心の奥から歩けと命令をする。
ずっしりと重みが腕にぶら下がっていることに気付いた。
ふと見ると私の手にはひんやりと冷たい金槌があった。
柄の部分の鉄の、リアルな冷たさがなんだか酷く怖くなった。
しかし、私の体は反応をしない。
ただ、その拒絶を嘲笑うかのように私の足は泰然と行進を続ける。
鉄鎚の先端には鈍く輝く、鉄の塊。壊すためだけに存在する破壊の象徴。
私はそれを片手に歩いている。
校舎と校舎の間をすり抜けて、そのまま直進。私はこの道を知っている。
1階の校舎の裏手。
案の定、私の足はそこで停止した。
ずらっと窓ガラスが並んでいる。闇を反射して鏡と化す窓ガラスには不気味に辺りの景色が写されていた。
見上げると3階の窓には湾曲した黄金の月が笑っていた。そのまま視線を下げていく。
1階の一番端の窓。
私はゆっくりとその窓に手を掛けた。
- 14 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:06
- 脆い感触でその窓は抵抗なくするすると開いた。ここの鍵は壊れていて閉まらないので、いつも開け放してあるのだ。
高さは私の腰までしかない。あっさりと窓枠を飛び越えて、校舎の中への侵入は成功だ。
着地した先は灰暗い空き教室だった。かび臭く、どこかしら埃っぽい。
私はその教室を出て階段で3階に向かった。
何をする気…?
私は私を突き動かす何かに向かって問い掛ける。答えは返ってこなかった。
私の足は3階のある教室の前で止まった。
2年3組。私のクラスだ。
ドアと窓には当然ながら鍵が掛かっている。
私は金槌を振り上げた。
ひっと驚く間もなく、ガシャン、と破壊の音が小気味良く響いて、教室の窓が粉々に割れ散った。
ただ呆然としていると、私の体はそこから窓の鍵を内側から開けて、中へ侵入した。
ぴょんと窓の淵から飛び降りる。ガラスの屑を踏まないように気をつけて着地する。ザリザリ、とガラスと靴が擦れる音が耳を障る。
教室の中に埃が拡散して、夜の闇に星のように輝いている。
無人の教室内を見回して、
「あはっ」
私は笑っていた。
私が聞いたことのない笑い声で、楽しそうに、淋しそうに、声を上げて笑っていた。
狂人が叫んでいるような歪んだ響きが私の耳の奥に沈む。
まるで頭の中を尖った爪で掻き毟られるようだった。
あなたは、誰?誰なの?
私の問い掛けは脳内をループして、やがて自分自身に返ってくる。
あなたは、誰?
私は、誰?
- 15 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:06
- 「あははは!」
私は周りにある机を蹴っ飛ばして、椅子を蹴っ飛ばした。
昼間、授業を受けている時は決して倒れない、びくともしない砦のように思えていた机や椅子たちは呆気なくドミノのように倒れていく。
「あっはははは!」
頭の中でループする笑い声。
私は机を蹴り倒しながら、窓際まで歩いた。
ガラスには漆黒の中に私が浮かび上がっていた。紛れもない私が映っていたのだ。
「ハッ、あはは!」
私は持っていた金槌で窓ガラスを割った。映っていた私の像はガラスと共に粉々に砕け散った。
しかし、宙に舞った漆黒の破片には私が映っていた。
その中の私は笑っていた。
ふと、感じる。頬にぴりぴりと鋭い刺激が奔っている。
私は金槌を放り投げて、頬を指先で撫でた。
赤い鮮やかな血が指先を染めた。
呆然と、私はその赤を見つめていた。
生命の象徴を確認するように、じっと。
ぐらぐら、と地が揺らいだ。ぐっと押し上げられて、思考が追いつく前に意識はどこかに吸いこまれてしまった。
- 16 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:06
- ◆
まるで引き摺り上げられるように覚醒した。
頭の芯に鈍い痺れがずっしりと残っていた。まるで頭の中にセメントを流しこんだように重苦しかった。
私の視線の先には複雑な格子模様が伸びていた。見覚えのある模様だ。
ようやく頭が一瞬だけ冴えた。ここは、私の部屋だ。
認識すると同時にまた頭に鈍い痺れが舞い戻ってきた。
ふと、頭を起こす。
「…っ」
側面に痛みが走った。
まるで頭に直接、ねじを突っ込まれて思い切り抉られてるようなえげつない不快感だ。
顔を歪めて、気だるい上半身を起こした。
虚しく、広々とした部屋。シンプルで可愛げのない家具。
間違いない、私の部屋だ。
しかし、何だったのだろうか。
夜。私の通っている中学校。金槌。窓ガラス。
短い単語が断片的に浮かび、やがてその破片は結び付いて、私の見た映像を鮮明に蘇らせた。
私は学校に忍び込んで、2年3組の教室を荒らして、金槌でガラスを割っていた。
鍵の壊れた窓から侵入して、3階まで階段で上がり、窓が閉まっていたので金槌で割って教室に入った。細部まで詳細に記憶している。
夢?
いや、違う。
確かにあの映像に飛ぶ前に地面が揺れた感覚がした。
それは妄想に耽る前兆のはずだ。これまでもそうだった。
あの映像は私の妄想だ。
しかし、だとしたら余計におかしい。
妄想の中で私は幸せであらなくてはならない。妄想は私の望んだ未来の群像だ。これまでもずっとそうだった。
あんな恐ろしい映像が私が望んだ未来のはずがない。
だとしたら、あの映像は何なんだろう。
思考が堂々巡りをしている。
コンコン、と硬いノック音が遮った。
- 17 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:06
- 「絵里様。夕食です」
保田さんの低く落ちついた声が壁越しにくぐもって聞こえた。
「すみません。今日は食欲がないのでいいです」
「…そうですか。お大事になさって下さい」
最後まで丁寧な言葉遣いだ。ドアの前で頭を下げる保田さんの姿が脳裏に浮かんだ。
パタパタとスリッパの音が去ってから、私はふう、と嘆息した。
頭の芯に残る鈍痛が再び蘇ってきた。
そして、それと同時にあの鉄鎚の柄の冷たい感触やガラスの破片で切れた頬の鋭い痛みも鮮明に思い出される。
あはははっ。
ループする狂人染みた笑い声。割れた漆黒の破片に映った私の歪んだ笑顔。
怖い。
純粋な恐怖が唐突に私を侵食した。
そして、私は頭を抱えてベッドに横になった。
頭の芯が痺れるように痛い。
じっと目を瞑っていると、いつしかまどろみがやってきた。
少し安堵して、私はそれに任せた。
その日は私が眠るまで、地面は揺れなかった。
妄想の来訪に怯えたのは初めてだった。
- 18 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:07
- ◆
定刻10分前の2年3組の教室はもう席が半分ほど埋まっていた。
それぞれのグループに分かれて話しこんでいたり、一人で机に本を読んでいるものもいる。
普段通りの教室の姿に少し安堵した。
昨夜の夢とも妄想ともつかない映像のせいで、不安な感情を抱えたままだった。
もしかしたら、あの映像のように教室が壊れているのかと不安だったが、ドアのすりガラス越しに見える教室はまったく普段通りだった。
ふう、と息をついて横開きのドアを開ける。
一瞬、静寂が通り抜けて、再び雑音が再開される。
私は席につくと、窓を見つめる。普段なら空を見つめるのだが、どうも昨日の映像が離れない。
昨夜、私はあの映像の中でこの窓を金槌で割っていた。今も手に握った金槌の固い感触や意外に脆かったガラスの感触が残っている。
一体、あれは何だったのだろう。
結局、ホームルームでも特に連絡事項はなく、普段通りの一日が始まった。それに安堵すると同時に密かに落胆する。
変わって欲しいのか、そうでないのか。はっきりしない自分に苦笑するしかなかった。
午前中の授業の間、寝ることはなかった。妄想に耽ることも恐かった。
話半分に教師の講義を聞きながら、昨夜のことを考えていた。
あれはまるで私が自分の中に閉じ込められているようだった。その牢獄の中で誰かに操られている私の行動を見せつけられているような感覚だった。
私は笑っていた。歪んだ笑い声は今も頭に残っている。
確かにあれは私の声で、そして、別の誰かの笑い声だった。
ただの夢だったのか、妄想だったのか。今も判然としない。ずっと頭の隅に引っ掛かっている。
4時間目の終了のチャイムが鳴る。
食欲が沸かないので、私は教室で眠ることにした。昨夜はあまり眠れていない。少し眠気が残っている。
机に突っ伏して、まどろむ。飄々とした睡魔を追う。
教室の中には普段より、人が残っているようだった。がやがやと無遠慮な雑音が教室を包んでいる。
- 19 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:07
- 「アンタ、それ絶対浮気だよ。他にオンナ出来てるって。放っといたら調子に乗られるばっかだよ?」
「ねえ、昨日のドラマ見た?チョー、面白かったよねー。すごい感動したー。アタシ泣いちゃったもん」
「昨日、泥棒が入ったんだって」
雑多な類の噂話が耳を通りぬけていく。
じっと身を沈める。ようやく睡魔の尾を捉えることが出来た。
「なんかね、…が、めちゃめちゃに…」
だんだん眠りに陥っていく。深い深い眠りに沈んでいく。
ぐらっ。
大きく地面が裂けるように、揺らいだ。
妄想の、前兆だ。
昨夜の不安と恐怖が蘇り、同時に今日も普段通りに妄想に陥れるはずだ、と過信めいた期待も生まれた。昨日のは夢か何かで、妄想とは一切関わりのないことだ、と。
妄想を失ってしまったら、私は膨大な時間を前に立ち尽くしてしまう。例え、妄想が何も生み出さない、自慰的な虚しい行為だとしても、時間から逃れられるのら構わない。
今日も、素敵な妄想に浸ろう。
全ての圧力から解放されて、意識がどこかへ飛んでいく。
- 20 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:08
- ◆
まず、アンモニアの混じった冷たい空気が鼻を突いた。
背中に冷たく、固い感触を感じる。防音効果でもあるように、音は一切しない。
ゆっくりと目を開くと、ずらりとドアが並んでいた。すっと横に視線をスライドさせると、鏡と洗面台が見えた。
ようやく、ここがトイレであることに気付いた。
思い立って、ぱっと背中を離す。やはりトイレの壁のタイルだった。慌てて手を回して、背中を払う。
白いタイル。個室のドアは6つ。床のタイルも壁と同じ白だ。
見覚えがある。
学校のトイレ。各階に一つずつある、生徒用のトイレだ。
身体を動かそうとして、ふと気付いた。
動かない。
まるで昨日と同じだ。昨日も私の意思とは無関係に私の体は学校に忍び込み、ガラスを割っていた。
ふと、背筋が寒くなる。
これは一体、なんなのだろう。
夢、妄想、それとも他の何か。分からない。
唐突に私の体が動いた。
止まれ、念じてもやはり、止まらない。私の意思とは関係なしに私は動いている。
自分の中に閉じ込められたように、私は自分の行動を見つめるしか出来ない。
昨日と同じ状態だ。思って、黒い予感が過ぎった。
(あなたは…誰なの?)
私は閉まっている個室の壁に凭れて、スカートのポケットを弄る。
意思は聞いてくれなくても、私の体だから感触は分かる。
四角い箱のような物体。取り出す。
タバコだった。
マルボロライトメンソール、と緑色に包装されたパッケージに書いてある。
ぐっと息を呑んで慌てて辺りを見回す。
ここは学校のトイレだ。見つかりでもしたら――。
しかし、もちろん、私の体は言うことを聞いてくれない。
- 21 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:08
- そっとまたポケットを弄り、蛍光色の青の百円ライターを取り出す。
しかし、何でタバコなのだろう。考えてすぐ思い当たる。
正直タバコに興味がなかったか、と言えば、嘘になる。
どんな味がするんだろう。吸ったら落ち着けるのかな。
ストレスを感じた時、ふと吸いたい、と思うことはあった。
けれど、吸ったことはないし、タバコを買ったこともない。私にそんな勇気があるわけがない。
しかし、私の体を操る誰かは慣れた手付きでパッケージから一本取り出し、口に咥えると、火を付けた。ぱちぱちと先端が乾いた音を立てる。
すっと息を吸いこむ。
メンソールの煙がすうっと肺に染みこんでくる。なんだか侵食されていくような感覚を伴って、煙が肺を満たす。
苦くて、舌がじりじりと焼け焦げるようだ。
一瞬だけ咽そうになり、すぐにそれは落ち着いた。
冷静に煙を吸いこみ、肺に入れて、吐き出す。
ゆらゆらと紫煙が天井に立ち昇っていく。私は上を向いてふっと煙を吐き出す。
落ち着いていく。確かに、精神が穏やかになっていく感じだ。
頭がぼうっとなっていく。心地良くなっていく。
ここが学校のトイレであるとか、見つかればどうなる、とかは頭から飛んでいた。
もう一度、煙を天井に吐き出す。
ぐら。
揺れがきた。
やはり、これは、妄想なのだろうか。だとしたらこれは私の願望なのか。
精神が引き剥がされていく。
意識が、廻る。
- 22 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:09
- ◆
冷たくどこか凶暴な空気が肌を刺す。
ちくちくと少しだけ痛みを伴って、身体を撫でていく。
地面は荒いアスファルト。コンクリートの石垣の上には金網の柵があり、侵入防止の有刺鉄線が張り巡らされている。
校舎裏だ。
また同じだった。
自分の中に閉じ込められたように、体は動かない。
どんなに足掻いても口も利けないし、歩けない。自分の意思がまったく作用しないのだ。
一体、これは何なのか。
妄想であるなら、何故、私の意思が利かないのか。何故、思い通りにならないのか。
苛立ってくる。
ふと、舌で上唇を湿らせる。やけに空気が乾燥している。
今度は何をしでかす気なのか。いくら問いかけても反応すらない。
何も出来ないまま、歯痒さが募る。
そうこうしている内に私はまたポケットの中を探り始めた。
指先が感触を得た。
長細い箱のような物体。百円ライターだ。
そして、もう片方の手で反対のポケットを探る。収めてあった青いチェックのハンカチを取り出す。
乾燥した空気、百円ライター、ハンカチ。
まさか――。
ひどく恐ろしい考えが頭を過ぎって、思わずひっと声を呑んだ。さあっと一気に蒼褪めていく。
そして、その考え通りに私の体は青色のライターを付けた。
かちっと音を立てる。オレンジ色の炎が上がる。根元の部分は青白くなっている。
火を保ったまま、ハンカチを掲げる。
そして、炎の尖端をハンカチの端に近付けていく。
ぼっと炎は燃え移り、青いハンカチは端っこから轟々と火を称えていく。
乾燥した空気は炎を煽っていく。
間近に熱を感じる。熱い。
それでも、私は慌てずにゆっくりと歩く。
- 23 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:09
- 校舎の一階の窓の下にある茂みに向かってゆっくりと距離を詰めていく。
どんどんとなんだか息苦しくなってくる。
止めて。
叫ぶが、やはり声は出ない。
そして、茂みの真上まで燃え上がるハンカチを移動させる。
ぱっと潔く手を離す。
スローになってその光景が映った。
まだ燃えていない青いハンカチの端がそっと私の手から離れる。重力に従って真下に炎が落ちていく。
草叢の中に火が消える。
消えたかと思うと、ぼっと再燃して、たちまち草叢を炎に巻き込んでいった。
私は座ってそれを見ていた。
炎が草叢を呑みこんでいく様子を、じっと見つめていた。
焦げ臭い匂いが鼻腔を刺激する。それでも、私は恍惚に浸りながら火を見ていた。
凶暴な炎が私の目の前で踊る。
ゆらめく陽炎がその体を伸縮させて、草叢を焼き尽くしていく。
「アハハッ」
また、私は笑っていた。
ガラスを壊した時と同じ、あの狂ったような笑い声が頭の中に蘇ってくる。
やがて炎は草叢を全て焼き尽くして、隣りにある花壇にまで燃え移り、さらにはその脇に伸びているイチョウの枯れ木や欅の大木なんかに飛び火していった。
「アハハハハハッ」
ループする。燃えていく。
私は笑う。
ぐらっ。
地面が揺らぐ。
現実への回帰への前兆だ。
混乱の途中で放り出される。そして、意識が呑みこまれた。
- 24 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:09
- ◆
静寂からざわめきへとゆっくりと浮かび上がる。
ざわざわ。物音。声。
机に腕を組んで、突っ伏したままの状態だった。思考が急速に稼動して、慌てて顔を上げる。
半分ほど埋まった席。散り散りにグループを形成する制服。窓際の一番奥で教室の時計に目を凝らす。
まだ、昼休み中だった。10分ほどしか経っていない。
少し、息が乱れていることに気付いた。心臓がひどく乱暴に脈打っている。動悸がする。
ゆっくりと体を起こす。
ふと膝の上に置いた手に目を落とす。
手の平に汗が滲んでいた。ぎゅっと拳を握る。
動かせる。ほっと安堵した。
落ち着こう。
首を捻り、窓枠から空を見上げる。水色に白い雲の空だ。
西の方には綿雲が散り散りに浮かんでいて、東の空には大きな入道雲がどっしり構えている。
ゆっくりと、しかし確実に動いている。東の空の大きく膨らんだ入道雲を見つめながら、あの妄想のことを思った。
タバコを吸った、私。学校に火を付けた、私。
あれほどリアルな妄想があるだろうか。
制御しきれない自分。何も出来ない自分。閉じ込められている自分。
単純に、怖かった。
しかし――。
ふう、とまた息を吐いて落ち着く。
大丈夫だ。あれは現実のことではない。うろたえる必要もない。
あれは、あくまで妄想の中の私なのだから。
額にうっすら滲んだ汗を拭こうとスカートの上からポケットを抑える。
ハンカチはどっちに入れたっけ。
- 25 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:10
- 何気なくやった手の指先に、ふと固い感触を感じた。明らかにハンカチでもティッシュでもない。
家の鍵かな、でも鍵は普段から鞄に入れてるはず。何か、入れたかな。
右のポケットの中に手を突っ込む。
かつん、と指先に触れた。
感触を思い出す。触り覚えのある固さだ。
輪郭をなぞっていく。長方形の、長細い、箱のような物体。
これ、触ったことある。何だったっけ。
端を掴んで、引っ張り出す。
青の蛍光色。
さあっと血の気が引く。
百円ライターだ。
おそらく認識するより先に、私は叫んでいた。
「キャア!」
なんで、このライターがここにあるの?
あれは妄想じゃなかったの?
疑問と不安と恐怖が頭の中に押し寄せてくる。
どういうこと?
パッ、と半ば本能的にライターを手放して立ち上がる。反動でガタン、と椅子が後ろに倒れた。
しん、となる。教室の中のざわめきや雑音が止んだのを意識の端っこで認識した。
静寂が私を飲み込む。
やだ、怖い、怖い、怖い。やだ、やだ、やだ、やだ。
処理しきれない恐怖が波のように重なって、押し寄せてくる。自我は呆気なく、潔く攫われる。
やだ、怖い。
床に目が引きつけられる。
青の蛍光色。タバコを吸った、ハンカチに火を付けた、あの百円ライターだ。
立ち昇る紫煙、燃え盛る草叢、イチョウの木を焦がしていく陽炎。
映像が波になって押し寄せてきて――。
怖い!
「イヤ!」
頭を抱えてその場に座りこんだ。腰が抜けていた。頭を低く抱えたまま、じっと蹲る。
- 26 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:11
- やだ、怖い。
心臓が爆発しそうなほどの高鳴りを打っている。壊れてしまいそうだ。
体の震えが止まらない。
静寂が再来する。
怖い、怖い、怖い、怖い。
体中がひどく冷たくなっているのが分かった。寒気が原因なのか、体の震えは一向に収まらない。
四方から、映像が押し寄せてくる。
パチパチ、と音を立てるタバコ、燃えるハンカチの端を持つ私、欅の大木に燃え移る火。
止めて。
「止めてえ!」
必死に金切り声を絞り出す。
しかし、四方から映像は相変わらず流れこんでくる。
じりじりと蹲ったまま床を這って、教室の隅に移動した。
広い場所にいたくなかった。
壁と壁との隙間に身を寄せて、頭を抱えて、震えていた。
どんどん身体が冷たくなっていく。
頭が空白に埋め尽くされていく。
震えはもはや痙攣といってもよかった。
体温がどんどん下がっていく。
遠ざかっていく意識。
初めて、気絶していく感覚というものを味わった。
- 27 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:11
- ◆
消毒薬の匂いで目が覚めた。
頭の奥のほうが鈍く痺れている。
刺激を避けるようにゆっくりと周りを見回す。
白いタイル張りの天井が目に入る。カーテンレールに翻る白いカーテン。
耳を澄ますと、ピアノが聞こえる。
曲名は知らないが、聞いたことのあるメロディーだ。クラシックの曲だ。おそらくバッハだったと思う。
首までしっかりと掛けられている白い布団を剥いで、ゆっくりと上体を起こす。
白い枕、白いシーツ、白い毛布、白い掛け布団。
これでもかというほど、極端なまでに白に固執した部屋。
覚えがある。入学式の日に一度だけ来た、保健室だ。
ベッドから下りて、ローファーを履いてから、カーテンをくぐった。
白い清潔に整頓された広い部屋。消毒薬の匂い。ピアノの旋律が美しく響いている。
やはり、保健室だ。
「あれ、起きたの」
声がして、パッ、と振り向く。
机に向かい合っていた椅子をくるりと一回転させて、声の主が私を捉えていた。
保健の飯田先生だ。
黒い髪はシャンプーのコマーシャルに出ても違和感がないくらい艶が良い。痩身を包む白衣にはきっちりとアイロンが掛かっている。くっきりした目鼻立ちだ。
入学式の日に一度会っただけだが、はっきりと覚えている。常にクラシックのピアノが流れている妙な保健室のことも、もちろん覚えている。
「圭織、心配したんだから」
自分のことを圭織、と呼ぶ、このどこか子供っぽい教師のことも覚えている。
「私のこと、覚えてたんですか」
つい、気になって尋ねてしまう。一年も前のたった一日の出来事を彼女は覚えているのだろうか。
「覚えてるよ。入学式の日に胃が痛くなって一日、保健室で休んでたよね」
少し、驚いた。本当に覚えているとは思わなかった。
- 28 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:11
- 入学式の日、私は緊張のあまり胃を痛めてしまい、結局出席出来ないまま保健室で休んでいたのだ。
「よく、覚えてましたね」
「圭織、可愛いコは覚えてるから」
にっこりと微笑む様は艶然とも、幼いとも取れた。
「もう具合大丈夫?」
飯田先生は手招きする。私は飯田先生の前にある患者用のパイプ椅子に座った。ぎしっと椅子が軋んだ。
「ちょっとばかし意識がトンでたね。貧血かなあ。良くわかんないけど」
「良くわかんないって…保健の先生でしょう?」
呆れた風に尋ねると、飯田先生は口を尖らせる。
「仕方ないじゃん。よくわかんないんだから。運ばれてきた時も顔色真っ青で、と思ったら寝てるしさ」
「…そうですか」
ふと俯く。どうやらあのまま気を失ってしまったらしい。
「ま、安静にしときな。悩みでもあるんなら聞いとくけど。圭織、一応カウンセラーでもあるからさ」
ほれ、と飯田先生は軽い口調で促す。
「なんでもないですよ」
私も軽く受け流して立ち上がる。
相変わらず美しいピアノが白い空間を満たしている。やはり題名は思い出せない。
ふと、好奇心が沸き起こった。
「飯田先生は退屈な時、どうしますか?」
じっと飯田先生を見つめる。背の高い飯田先生は坐っていても、私の背では見下ろすことは出来ない。
- 29 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:13
- 「ないかな」
飯田先生は即答した。
「退屈しないように、いっつもピアノ掛けてんの。少なくともピアノを聴いてる時間は真っ白退屈じゃないからね」
緩やかに盛り上がっていく旋律。鮮やかで豊かなピアノの音色。
「真っ白退屈って何ですか」
「全然、真っ白で何もすることがなくて、死ぬほど退屈っていう時間のこと。圭織はピアノが好きだから、ピアノを聴いてれば真っ白退屈じゃないの」
飯田先生はわざわざ人差し指を立てて、熱心に説明する。
「なるほど」
真っ白退屈か。思えば、ずっとそうだったのかもしれない。
そして、真っ白退屈な時間を埋めるために妄想の世界に浸かっていったかもしれない。
「私はね、先生」
私も人差し指を立てる。
「真っ白退屈だった」
「だった?今は違う?」
飯田先生が興味深げに身を乗り出してくる。
「わかりません」
答えると、飯田先生は「…あ、そ」と気を削がれたように引き下がった。
「手軽に真っ白退屈じゃなくなる方法ってあると思います」
自分で尋ねながら、頭の中にある妄想という単語が浮かんでいた。
「簡単だよ」
あっさりと飯田先生は答えた。
「現実から遠ざかればいい。空想にでも妄想にでも、浸れば真っ白退屈じゃなくなる」
俄かに瞠目した。
「でも、ダメだよ」
しかし、飯田先生はすぐにふるふると首を振った。
「妄想はね、怪物だから。自分のものだと思ってると、あっという間に呑み込まれちゃう。ガバッてね」
飯田先生は大きく口を開けて見せて、噛みつく真似をした。
怪物、その単語がするりと入りこんでくる。でも、すぐにそれを掻き消した。
妄想が私の命綱なのだから。
- 30 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:14
- 「…帰りますね」
ドアの脇に置いてあった籠から鞄を取り出して保健室を出る。
「お大事に」
もう外は日が暮れていた。
落日が大きくうねり、街全体を呑みこもうとしている。オレンジの濃淡が西の空から柔らかく放射されている。
ビル街がオレンジ色に色付いて、冷たい鉄屑に不思議な温かみが滲んでいる。
夕暮れに染まる家路に着きながら、飯田先生の言葉が蘇る。
妄想はね、怪物だから。
ふと、スカートのポケットを探る。
ポケットティッシュだけが残っていた。あの青いハンカチもない。百円ライターは教室に落としたままのようだ。
背筋にぞくっと悪寒が走った。
恐怖が徐々に蘇る。
ポケットにあった百円ライター。火をつけた青いハンカチ。燃え盛る炎。
また息が浅くなる。
一旦立ち止まって、深呼吸をする。
何で、ライターが私のポケットにあったんだろう。
今更ながら疑問が息を吹き返した。
あれは妄想のはずだ。なのに、何故ライターが教室の私のポケットの中にあるのか。
わからない。
頭の中が靄がかかったように曖昧で、ひどく薄かった。
- 31 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:14
- ◆
家に帰ると、普段通り2階の自分の部屋へ直行した。
途中、廊下で保田さんとすれ違って会釈を交わしただけで、今日は義母との気まずい接触は避けられた。
自分の部屋に戻ると、制服を脱ぎ捨てて、下着のままでベッドに潜りこんだ。
素肌に布団の柔らかい感触が擦れる。
擽ったくて気持ちいい。
羽毛布団を頭からすっぽり被ると、膝を抱えて丸くなった。
一番、私が落ち着く態勢だ。
妄想はね、怪物だから。
先ほどから飯田先生の言葉が頭にしつこく迫ってくる。
目を瞑る。
構わない、と思った。
どうせ、私には妄想を止めることなんて出来やしないのだ。
例え、どんな思いをしても、どんなことになっても、私は止められない。
じっと意識が凝固していく。
ぐら、ぐら。
揺れる。揺さぶられる。
意識がふわあっと浮遊し、離散し、飛んでいく。
- 32 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:14
- ◆
生温かく、少し粉くさい匂いが纏わりつく。
回りはくぐもった曖昧な静寂に包まれていた。
私は制服姿でぽつんと立っていた。板張りの床の上だった。
目が闇に慣れずに、ぼんやりとした暗黒が入りこんでくる。ぎゅっと目を閉じて、3秒待ってから目を開ける。
少しだけ、視界が蘇った。
根気良く目を凝らしていると、ようやく目が慣れて、闇に塗れた景色が露わになってくる。
辺りを見回す。
教壇。並ぶ木製の机と椅子。
窓ガラスには暗澹たる闇が塗り込められた夜が映されている。
右端の窓からは微かな月明かりが差しこんでいる。それに照らされて黒板の存在を認識した。
すっと視線を上げると、黒板の上の壁にぼんやりとだが見慣れた壁時計がある。
針は3時過ぎを指していた。おそらく深夜だろう。
もう一度辺りを見回す。
後ろの方にロッカーが並んでいる。
間違いない。教室だ。おそらく私のクラス、2年3組の教室だ。
踏み出そうとして、また気付く。
やはり、動けない。
閉じ込められている感覚。
まただ。また自分の体を動かすことが出来ない。
指先一本の動きでさえ、通じない。先ほどまで表情は動かせたのに、もう表情の感覚もない。
身体中がまるで別のもののように命令を聞かない。
恐怖が蘇る。
そして、タバコを吸う私や火をつける私の姿が否応無しに脳裏に沸いてくる。
しかし、息さえも呑みこめない。動揺すら出来ない。
どんどん酷くなっていく気がする。
タバコを吸う時は周りを見回す程度の体の自由があった。なのに、今はもう視線さえも動かせない。
視界はずっと同じ景色を映している。まるで映画でも見ているようだった。
ふと私の視線が落ちる。褪せた板張りの床を映す。
- 33 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:15
- そして、私の手はスカートのポケットに行く。弄ると、冷たい感触が指先に触れた。痛感とも取れる、凶暴な冷たさだ。滑らかな感触だ。
指先は器用に滑り、それをポケットから取り出す。
闇に鈍く輝く、光。僅かな月光に反射して、一瞬だけ光を放出する。
ナイフだ。
だとしたら、私が触れたのは。
視線が鈍く輝く刃先に収束される。認識して、ぞっとした。
私の手は冷たい鉄製の柄をしっかりと握る。
しっかりとした足取りで教壇の前に立つ。くるっと一回転して、黒板に向かった。
光沢を放つ、黒い板面。
私はゆっくりと左端へ移動していく。
そして、一番端で立ち止まると、突然、黒板にがっとナイフを突き立てた。
ざくっと、ナイフが黒板に突き刺さる確かな感触が手の平に残った。
そしてそのまま、私は黒板にナイフを走らせる。
時折鳴る、黒板に爪を立てたような耳障りな音が不快だったが、私の体は一心不乱に描いていた。
右端でぴたっと動きが止まる。
ナイフを握り締めたまま、ゆっくりと中央の教壇の前まで戻る。
何を描いたんだろう。
黒板を見る。
削られて剥き出しになった木の部分が文字を紡いでいる。
深く刻まれた跡は「E」と「R」のローマ字だった。
どういう意味だろう。
「ERI」と描こうとしたのか、しかしならば「I」が足りない。
「E」が私の名前だとすると、「R」も誰かの名前だろうか。
分からない。
黒板を前に頭を捻る。
すると、私は唐突に教壇にナイフを突き立てた。
反応すら出来ずに、ごくんと生唾を飲んだ。急速に喉が乾いてくる。
呼吸がまた浅くなってくる。
- 34 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:15
- やだ、怖い。
また恐怖が蘇る。
何度も、何度も、狂ったように教壇にナイフを突きたてる。
単調な作業がひどく恐怖を煽る。
ナイフの尖端が表面にめり込むたびに、私は声を上げられずに心臓の高鳴りに耐える。
怖い。怖い。怖い。怖い。
ぶつぶつと口の中で怖い、をひたすらに呟く。
やだ。やだ。やだ。やだ。
止めて。止めて。
拒絶の言葉を心の内で必死に繰り返す。
「アアアアアアッ」
誰かが叫ぶ。
一瞬後に、それが私の声だと気付いた。ひどく掠れて、別人のようだった。
ひたすらにナイフを振り下ろす。
表面が段々と剥がれて、荒い木の面が露わになってくる。
「アアアアアアッ」
渾身で振り下ろす。
表面がささくれ立ち、べりっと刃先でそれを引き剥がす。
削られた木が全面にその姿を現す。
「アアアアアアッ」
狂った怒声と共に私はそこにナイフを突き立てた。
ぐら。
唐突に揺れがやってきた。
そして、意識は現実に回帰した。
- 35 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:15
- ◆
パッ、と目を見開くと同時に覚醒した。
瞳孔まで開いているのが自分でも分かる。
全身に汗を掻いていた。ひどく消耗していた。
呼吸は不規則になり、過呼吸に近い。焦燥が心の中にべっとりと貼りついている。
体を覆う布団を跳ね除ける。
半裸だったことに気付き、不安に自分の体を抱き締めた。
がたがたと小刻みに震えていた。ひどく体温が下がっているように思えた。
何とか絨毯の上を這うようにして進む。足が頼りなかったが、堪えて、近くにあったバスタオルですっぽりと体を覆う。
落ち着け、落ち着け。
自分に言い聞かせる。落ち着け。
怖がるな、落ち着け。
そうだ、シャワーでも浴びよう。シャワーを浴びて、一旦落ち着こう。
バスタオルで体を覆ったまま、立ちあがる。そのまま、震える足を引きずるようにして部屋を出た。
同じ階にある、シャワールームを目指す。
「絵里様っ」
驚いたような声が廊下に響く。よく通る、保田さんの声だ。
足を止める。
スリッパの音が急いで駆け寄ってくる。
「絵里様、どうされたのですか」
少しだけ落ち着いた口調で言い、私の前に回りこむ。沈んだ視界に保田さんの青いエプロンが目に入った。
- 36 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:16
- 「なんでも、ないです」
目を合わせずに答える。とにかく、一刻も早くシャワーを浴びたかった。
「なんでもないことはないでしょう。顔が真っ青です。先ほど、お帰りになられた時も顔色がよくありませんでした。具合がよろしくないのなら、ベッドで休まれていてください。あとでお粥でもお作り致しますので、さあ」
肩に保田さんの手が添えられる。しかし、煩わしく思った。
早く、シャワーを浴びて落ち着きたいのに。
「いいです」
保田さんの手を払って、保田さんの脇を通りぬけようとする。苛々が胸に募っていく。
「で、でも…絵里様…」
「いいって言ってるでしょう!」
かっと一気に感情が迸り、抑えられなくなって暴走した。顔が赤く紅潮するのを感じた。一気に体温が上がったようだった。
保田さんがもともと大きな目を驚きに見開いた。
私の怒声の余韻が残り、静寂が通りぬける。それが一気に私を冷やした。
「…ごめんなさい。でも、本当にいいですから」
努めて抑えた口調で言うと、私は疲弊した体を引き摺って、シャワールームに向かった。
- 37 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:16
- ◆
教室の前に立つと、少しだけ足が竦んだ。
定刻10分前。普段通りの時間だ。外にも教室からの雑音が漏れている。
意を決して、ドアをゆっくりと開ける。
弾けたように一瞬にして、しん、と雑音が止み、水を打ったような無音だけが取り残される。
教室中の視線が私に向けられているのを感じる。好奇と畏怖の突き刺すような視線の群れだ。
それに耐えて、なるべく足早に教室を横切り、窓際の席を目指す。
椅子に坐って、じっと俯く。
密やかな話し声や、遠巻きで無遠慮な視線が体中に棘のように刺さる。
ひたすら耐えるしかない。
やはり昨日のことだろう。
百円ライターを見て、突然喚き、そのまま気絶してしまったのだ。
麻薬でもやっている、とでも思われたのかもしれない。
誰も近付こうとしない。
そのこと自体は昨日までと変わらないが、向けられる視線の種類は圧倒的に違った。
無関心から好奇の混じった畏怖へと変わっていた。そして、私の立場も単なる孤立から腫れ物扱いへと変化していた。
チャイムが鳴って、ようやくあからさまな視線からは解放された。しかし、時折出所のわからない視線が刺さっているのは気付いていた。
担任が入ってくる。ジャージを着た三十路くらいの女性教師だ。
起立、礼。着席。
普段通りの光景。
「えー、このクラスに転校生が来ることになりました」
担任は何気ない口調で告げた。
その言葉に朝の寝惚けた教室は一気に色めき立った。
まったく唐突だった。そんな噂もなかったし、雰囲気も普段通りだった。
生徒たちは突然のイベントに近所の席でグループを作り、話を始める。教室のあちこちでこそこそと密かな声が聞こえる。
どんな子が来るんだろう。真面目な子かな、不良かな。可愛い子かな。
みんな、まだ見ぬ転校生を予想しあって、勝手に盛り上がっている。
- 38 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:16
- 私はあまり興味が沸かなかった。
クラスメイトの半分も名前を覚えていない私にとって、一人クラスメイトが増えるからといって、何も日常に変化はない。
しかし、ふと視線を隣りの席に移して気付いた。
あ。この席に座るかもしれない。
空席は私の隣りの席と廊下側の一番後ろの席だけだ。転校生がここに座る確率は五分だ。
出来れば、隣りに来て欲しくはなかった。
親しくなる気もないし、腫れ物扱いされている私の周りに転校生という話題があるのも、なんだか気まずい。
「じゃあ、入って」
担任が閉まったドアに向かって促す。
がらっと威勢良くドアが開かれた。
見たことのない制服を着た少女が胸を張って入って来た。堂々とした登場だ。
少女の柔らかそうな髪は窓から射す光に透けて、オレンジ色に見えた。
少女は教壇の前、担任の横で止まり、くるっとこちらに振り向いた。
猫のような目が第一印象だった。少し吊りあがって気強そうに見える。
少女はぎろりと教室中を睨むように見渡す。
怯えを隠すために凄んでいるのは見え見えだった。意思の強そうな目に不安が見え隠れしている。緊張がこっちにまで伝わってくる。
「え、あ、た、田中っ」
少女はどもりながら声を発した。声の淵は少し震えていた。
「た、田中れいな、です。九州の福岡から来ました。よろしくお願いしますっ」
少女は深く腰を折り曲げた。ぱちぱちと疎らに拍手が起こる。
「じゃあ、田中の席は、亀井の隣りでいいか。そこだ」
担任が私の隣りを指差す。
最悪だ。廊下側も空いているのに。
「ハイっ」
少女は頷いて、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。何気なく少女の足を見ていた。日焼けしていて、健康的だ。
- 39 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:17
- 少女の足を追っていると、突然、それが消えた。
見ると、少女は頭から転倒していた。傍に生徒が机に掛けたリュックサックの紐が見えた。あれに引っ掛かったのだろう。
一瞬だけスカートが翻って、白が覗いた。
少女は慌てて体を起こして、スカートを直す。そして、真っ赤な顔で床を見る。しかし、リュックの紐に引っ掛かったことには気付かない。
「な、何すっとねっ」
足を引っ掛けられたと勘違いしたらしい。しかし、誰がやったかは見当がつかないようで、周りを見回しながら叫んでいた。
「あれ」
すぐ脇の生徒が苦笑してリュックサックを指差す。
「え?」
少女は乱れた紐を見て、ようやく事態を理解したらしい。
「あ…」
少女は気まずそうに言葉を呑みこむと足早に私の隣りの席に座った。赤面した顔を俯けている。
ふと少女の視線が私を捉える。
「…よろしく。亀井絵里です」
私が切り出した。
なんとなく、この妙な少女と話したくなった。誰かと話したい、なんて久しぶりの気持ちだった。
「あ」と少女は鞄を下ろして、ぺこっと頭を下げた。オレンジ色の髪が揺れた。
「田中、れいなです。よろしく。えーと…なんて呼べばええと?」
少女は妙な訛りで尋ねる。福岡の訛りだろうか。なんだか心地いい響きだ。
「何でもいいよ」
笑顔を作る。少女はぼうっと私を見つめてくる。
そして、我に返ったように、
「あ、じゃあ、絵里。絵里でええ?」
「うん」
私は笑みを絶やさないように頷く。
- 40 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:17
- 「じゃあ、私はなんて呼べばいいかな」
「れいな。れいなでええとね」
少女は即答した。私は「うん」と頷く。
「れいなちゃん」
呼ぶと、れいなちゃんは照れ臭そうに俯いた。素直に可愛い、と思った。
チャイムが鳴って、一時間目の英語の授業が始まった。
れいなちゃんはまだ教科書を持っていないらしく、私が見せることになった。
机を引っ付けて、一つの教科書を見る。
さすがに寝ることも、妄想に浸ることもなかった。
時々見る、れいなちゃんの横顔は精悍で凛々しかった。
「ここの学校は進んどるとね」
教科書の長文を追いながら真剣な表情でれいなちゃんが言う。
「そうかな?」
授業の進行具合も真面目に受けていない私にはわからない。
「ねえ、れいなちゃん」
話題を変える。久しぶりに会話をしている気がした。
「それって福岡の方言?」
「ああ、そうばい。やっぱ直した方がよかと?なんとなく浮いとるって思うっちゃ」
れいなちゃんは私に向いて、困ったように眉を下げた。
「ううん。なんか可愛い」
私が言うと、れいなちゃんは擽ったそうに笑った。
休み時間になると、れいなちゃんの周りには人だかりが出来た。
進学校には珍しい個性と、みんなから好かれるキャラクターをれいなちゃんは持っていた。
私は机を離して、その輪から離れる。私が近くにいると場も気まずくなってしまうだろう。
そして、私は再び机に腕を組み、頭を沈める。もはや儀式だ。
ゆっくりと意識を沈ませる。
ぐら。
体が揺さぶられる。前兆がやってくる。
意識が遠ざかって、解放された。
- 41 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:17
- ◆
寒々しい。
突き刺すように攻撃的で、ひどく刺々しい空気を認識すると、ふわっと意識が揺り起こされた。
埃っぽい淀んだ空気が不快で、私は思わず顔を顰める。
坐っていた。
ひんやりと冷たいリノリウムの床の上だ。
冷たさが覚醒を促し、私は辺りを見回す。
隅に追いやられたマットの傍には跳び箱が10段も積み重ねられている。バレーボールの籠とバスケットボールの籠が並んでいて、一つだけバスケットボールが落ちていた。
体育用具室だ。いつも体育の時に抜けてきて休む場所だ。
立ち上がろうとして、ふと体が動かせることに気付いた。現実と変わらずに腕も足も動かせる。
軽く手を握ってみる。開く。
現実と変わらない感覚だ。
安堵した反面、なんだか不安になってきた。自由に戸惑うなんて不思議な感覚だ。
辺りは無音で、静寂に満ちている。
ぞわり。
唐突だった。
うなじが不思議な悪寒に包まれて、髪の毛が一気に逆立つ。
気配を感じた。
背筋が凍っていくような薄気味悪い気配だ。
一気に息苦しくなった。呼吸が不規則になる。
胸に何かが溜まっていく。どろどろした、ひどく粘っこいものが胸の奥のほうにつっかえる。
吐き気がずいっと胃からせりあがってくる。思わず胸を抑えた。
半ば発作的に辺りを仰ぐ。
黒いもやもやとした、実体のない、何かがそこにあった。
体育用具室の隅。積み重ねられたマットの上にそれがある。それは折り重なったマットに巣食うようにもわっと広がっている。それは跳び箱の先端をも呑みこんでいる。
一見して、信じられなかった。あまりに現実離れした光景に目を思いきり見開く。
- 42 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:18
- 「なに…これ…」
声をなんとか絞り出す。体中の筋肉を使ってあとずさる。
にゅっと靄の中から手が伸びる。
「ひいっ」
噛み殺したような声を漏らす。
黒い、歪な形の手は私の首を捉えた。
有り得ないほどの力で首を締めつけられて、そのまま用具室の灰色の壁に押し付けられた。
「い、あっ…」
必死に呼吸を試みるが、喉を掴む手はさらに深く締めてくる。
喉になんとか手を伸ばす。しかし、黒い手に触れようとした瞬間、それはすり抜けてしまった。
いくら叩いても、殴っても、空を切るばかりだ。
ぐぐっと体が持ちあがっていく。かっと目を見開く。
どんどん、押し上げられる。
床から足が離れる。付かない足を暴れさせるが、効果はない。
持ち上がっていくにつれて、重力は私の体を下に引っ張る。締め付けは強くなるばかりで、だんだん頭に血が上っていくのが明確にわかった。
私、死ぬの?
ぽつりと疑問が唐突に沸いて、あっという間に脳内を侵食していく。
やだ、やだ、やだ、やだ。
いやだ!こんなとこで死にたくない!
そこで、ぱっと手が離れた。
重力が私の体を引き戻して、あえなくリノリウムに墜落した。
「げほっ…げほっ…はっ…」
首を抑えて、なんとか息を整える。
助かった。
体中の力が抜けた。腰が抜けて、足が立たない。がくがくと膝が笑っている。
手は宙に浮いたまま、にゅっともやの中に戻った。
ほっと安堵する。が、すぐに手は舞い戻ってきた。
今度は数え切れないほど多数の手がもやの中から伸びてくる。
「イヤアッ」
金切り声を上げる。
幾つもの手は八方から私の体に向かってくる。
「止めてっ」
手で払おうとするが、やはり黒い手は貫通してしまう。
- 43 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:18
- ひとつの手が私の胸に触れてきた。こちらからは触れられないのに、向こうが触れてくる感触は本物だった。
「や、いやあッ」
弄ってくる黒い手。私は両手をばたばたと暴れさせて、やはりすり抜けていく。
そこで、私はこの手たちの目的を悟った。
犯される。
そして、認識した瞬間、体を跳ね起きさせて、立ちあがった。
しかし、すぐに別の手が私の床に抑えつけた。呆気なく、リノリウムに倒される。
そして、畳み掛けるように黒い手が伸びてきて、私の体を無遠慮に弄ってくる。
いくら足掻いても、何も出来ない。
「止めてッ、止めてッ!」
叫ぶ。涙が目の淵からぽろぽろと零れてくる。
体中を蹂躙していく多数の黒い手。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
「止めてえッ!」
おぞましい不快感が背筋をぞくぞくと這い上がってくる。
必死に叫びを上げる。
処女なのにッ…キスもしたこともないのに…ッ!
奥歯を噛み締める。
鉄の味がじんわりと広がっていく。
まだ処女なのに、誰にも触られたことないのに、こんな場所でこんな気味の悪いものに犯されるなんて、酷すぎる。
「止めてえっ!」
嗚咽を押しこめて、必死に拒絶を叫ぶ。
ぐらっ。
世界が揺れた。ぐいと引っ張られる。
何?何?何ッ?
暗転するとともに、回帰する。
- 44 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:18
- ◆
急かされるようにして飛び起きた。
額から何かが落ちて、膝に当たった。白い布団の上に落ちたのはアイスノンだった。少し溶けて生温かくなっている。
エタノールの匂いがする。
ピアノの旋律が流れている。聞いたことのあるメロディだ。正確な曲名は判らないが、おそらくクラシックだろう。
改めて、辺りを見回す。
カーテンに仕切られた空間の中のベッドの上に私は坐っていた。白を基調にしてさらに白を重ねたような空間、保健室だ。
しゃっとカーテンが開いた。
そこにはれいなちゃんが立っていた。朝の、見たことのないデザインの制服姿のままだ。
「絵里、大丈夫とっ?」
私と目が合うと、れいなちゃんは慌てて駆け寄ってくる。
「うん…っ」
少し息が荒くなっているのに気付いた。
原因は明白である。あの妄想だ。
今もあのおぞましい悪寒に似た感覚が蘇ってきそうだった。
背筋が凍るとはこのことを言うのだろう。
生きた心地がしなかった。
「私…どうしたの…?」
また、教室で失神でもしてしまったのだろうか。
「昼休みが終わっても帰ってこんから探しに行ったら、廊下の隅で丸まって倒れとった。顔が真っ青で、とりあえず保健室に連れて来たっちゃ」
れいなちゃんは身振り手振りで説明して、私の額に手を当てた。冷たいれいなちゃんの手が心地良かった。
「まだ熱いとね」
心配そうに言って、れいなちゃんは私の顔を覗きこんでくる。
「大丈夫だから」
にっこりと笑顔を作り、ベッドを下りる。ローファーを引っ掛けて、カーテンをくぐる。
- 45 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:18
- 「ホンマに大丈夫と?」
後かられいなちゃんが追ってくる。私は笑顔を返す。
「あれ、亀井ちゃん、起きたの」
飯田先生の声がやけに凛と響いた。振り向くと、飯田先生は椅子を勧めた。
私は大人しく従ってパイプ椅子に坐る。
「目の下の隈、酷いよ?」
飯田先生が自分の目を指差す。どれくらい酷いのかわからないが、とりあえず目の下を擦ってみた。
「また気絶しちゃってたよ。貧血っぽい感じ」
と、首を竦める仕草はなんだか演技がかっていた。
「絵里」
そこでれいなちゃんが口を出した。
「またって、今までも気絶したことあると?」
私の顔を覗きこんで、れいなちゃんが尋ねてくる。純粋で強い瞳が私を捉える。
「亀井ちゃんね、体が弱いみたいなんだ。ちゃんと寝てたら治るよ」
答えたのは飯田先生だった。
「そう、ですか」
れいなちゃんが思案げに答える。私は黙っていた。
「それよりさ」
飯田先生が身を乗り出して、切り出した。やけに真剣な表情だ。真っ直ぐな目はなんだか心まで見透かされそうだ。少し居心地が悪かった。
「亀井ちゃん、あなた、まさか…」
「帰ります」
途中で遮って腰を上げた。背を向けて、ドアに向かう。
「あ、絵里、送ると」
れいなちゃんが呼びかける。しかし、私は振り向かない。
「いいよ。一人で帰れるから」
籠に入っていた私の鞄を取り上げて、保健室を後にする。
また息が浅くなっているのに気付いた。
既に薄暗くなった街には夕暮れの余韻が残っていた。西の空のビルの谷間に日は沈んでいるのに、まだオレンジが街中に放射されている。
光源のない空には雲は一つもない。オレンジと闇が静かに溶け合っている。
すぐに夜になるだろう。
飯田先生が何を言おうとしたのか、分かったからこそ話を切った。
妄想が苦しみであっても、もはや私にとって妄想は暇つぶしではない。
妄想は生きるための手段であり、意義であり、壊れないための、私を保つための砦なのだ。
どうなってもいい。
早く現実から遠ざかりたくて、私は家路を急いだ。
- 46 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:19
- ◆
玄関のドアを開けると、そのまま2階に上がって部屋に向かった。
「あ、絵里様。お帰りなさい」
階段を上りきったところで、保田さんの声が私を呼んだ。保田さんは普段のエプロン姿で踊り場にある花瓶を取り替えていた。
「…どうも」
昨日のことが思い出されて気まずくなる。あれから顔を合わせるのはこれが初めてだ。
「昨日は申し訳ありませんでした。余計なことを言ってしまったようで…」
保田さんは丁寧に腰を折った。なんだか余計に居心地が悪くなり、「いえ、いいです…」と足早に自分の部屋に逃げ込んだ。
鞄を投げ放ると、制服のままベッドに潜りこんだ。
ひどく焦っていた。
暗い布団の中でぎゅっと固く目を瞑る。
早く連れ出して。体を丸める。
ぐら。
揺れが訪れる。
ひどく、安堵する感覚を味わった。
やっとここから抜け出せる。
揺れは激しくなり、自身の所在を見失う。そのまま、意識は飛ばされてしまった。
- 47 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:19
- ◆
ゆらりと揺り起こされるように覚醒する。
薄闇に覆われていた。辺りの様子はぼんやりとしていてひどくおぼろげだった。
私は制服を着て、ローファーを履いている。地面の感触は固く、靴底で踏むとようやくそこがタイルだと分かった。
じっと目を凝らしていると、辺りが明確になってきた。
地面は灰色のタイルだ。
ちょうど目の前で鉄製の手すりがカーブしている。それで階段の存在を認識した。
手すりを挟んで両側にそれぞれ階段があった。
右側には階段が上に伸びていて、左側の下降する階段は途中で段が闇に消えていた。
ふと後ろを仰ぐと、1/2と記したプレートがあった。
それでここが学校の階段の踊り場だと気付いた。間違いなく、見慣れた、私の通う中学校だ。
そして、やはり私の体に自由は与えられていなかった。指一本すら動かせずに、私はまた自分の中に閉じ込められていた。
しかし、それでも不思議と恐怖はなかった。
もういい、と思った。
何が起ころうとも苦しみを味わおうとも、妄想と私は切り離せないのだから、苦痛さえも甘受しよう。
妄想の中なら苦痛も甘い痺れになるような気がした。
黒い無数の手に襲われて取り乱すこともない。タバコを吸って怯えることもない。学校に火をつけて動揺することもない。金槌やナイフを持った私自身の奇行も、受け入れよう。
他人といるのはもう嫌だ。誰かがいる中で一人になるのは苦しくて、怖い。
しかし、一人しかいない中を一人で過ごすのなら、苦痛は伴わない。
だから、誰もいない一人の妄想の中でなら、私は苦しみさえ甘んじて受ける。
その覚悟が曖昧な意識の中で明確に形作られていた。
頭の芯が鈍く痺れていた。後頭部の辺りがひどく重い。やがてそれは体中に伝播して、痺れを連鎖させていった。やがて頭から足までぼんやりと痺れに包まれた。
私は歩き出した。
右側の階段を上っていく。一段一段、ゆっくりと踏み締めて行く。
カツン、カツン、とローファーの底が鳴る音が静寂に包まれた校内に小気味良く響き渡る。
- 48 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:19
- どこまで進むのだろう、私の足は一向に止まろうとしない。
2階、3階、4階に到達して、なお階段を上がる。
そして、階段を上がるにつれて頭の痺れも増していった。電流のような刺激的な類じゃなく、胃の中で溶ける薬のようにじわじわと広がる類の痺れだ。
じんわりと頭の痺れは深くなっていき、それは思考することを許してくれなかった。
屋上に着く頃には、体中が麻痺していた。思考はおろか、すべての脳の機能が停止しているように思えた。もしかすると記憶するという機能も停止していて、後になると覚えていないかもしれない。
ついに全ての階段を上り終えた。最上階のタイルを踏む。
薄暗く狭い空間があって、立ち入り禁止のプレートがドアの横に立てかけてあった。
私はドアの鍵を弄った。回転させるタイプの内鍵だ。右方向に回すと、ガチャン、と音がした。
そっとノブを掴み、捻る。
重そうな割にあっさりとドアは押し開いた。
びゅうっと風がいきなり吹きつけた。凶暴なビル風が吹き荒んでいる。髪が暴れるように靡くが、構わない。
足を進めて後ろ手にドアを閉める。
夜の闇が空に広大に広がっていた。
煌々と輝く黄金の月がやけに近い。屑のような星がところどころに姿を覗かせている。
空は紺色にも似た、深い闇を称えていた。吸いこまれそうだ。
視線を移す。
今まで訪れたことはなかったが、屋上は意外に広かった。
ドアの裏手に貯水タンクがあるだけで、あとはフロア分の敷地が広がっている。
ステンレスで出来た柵は背が低く、私でも跨げば超えられる高さだ。
そこで、私は屋上に来た意味を悟った。
そして同時に甘受した。
- 49 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:20
- 「もう、いいや…」
呟きが漏れた。それが私自身の呟きなのか、私を操る誰かの呟きのなのか、分からなかったが、どちらでもよかった。
妄想の中で果てるのならば、いい。
乾ききった現実世界にも死は訪れる。ならば、妄想で死を迎えた方が私にとっては本望だ。
私の造った妄想世界で果てることは幸福で、贅沢で、なによりも尊いことだ。
私は、私のままで、死ぬ。
ゆっくりと真っ直ぐに歩き始めた。その足取りにもう迷いはなかった。
一直線に歩いていく。どんどん、距離が詰まっていく。
足が止まる。
ひんやりとしたステンレスの手すりを握ると、ゆっくりと下を見下ろす。
中庭だった。芝生の広場が広がっていて、その周りに花壇が植えてある。その脇に欅の大木がずいっと伸びている。
ここに落ちるのか、と思うと、少しだけ安堵した。綺麗な場所で良かった。
もはや腹を括る必要もなかった。とっくに覚悟は決まっている。
ぐっと力を込めて、手すりを跨ぐ。そして、もう片方の足も跨がせる。
今、私の体は柵の外側にある。僅かな突端に足先で立っている状態だ。
後ろ向きの状態から、体の方向を変える。
後ろ手で手すりを掴み、体を支える。
鈍い闇を称えた空と月の黄金が照らす下界の芝生が視界を占領した。
不思議なほど、怖くなかった。恐怖心は欠片すら現れない。怯えもまったく働かない。
これで、終わりか。
少しだけ感慨が沸いて、すぐにそれは溶けた。次に父親や死んだ母親、継母、保田さんの顔が浮かんできた。しかし、それもすぐに消えた。
ぽわんと、唐突にれいなちゃんの姿が脳内の画面に映された。
出来れば――。
私の足が突端を踏み締めている。飛びこむ準備だ。下界を見下ろす。
出来れば、れいなちゃんともうちょっと話したかったな。
そして、跳んだ。
ぎゅっと目を瞑る。手を上に投げ出す。
重力に従って、体が沈んでいく。
- 50 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:20
- ――と。
そこで私の体はがくんと空中で停止した。脳が揺れて一瞬だけ意識が飛んだ。
重力に逆らうものの正体は私の右の手首にあった。何かが手首を握り締めていた。
「亀井さん!あんた、なにしよっと!」
心地良い訛りがひどく狼狽した様子で叫ぶ。
れいなちゃんだ。
認識した瞬間、ぐいっと私の体は引き上げられて、屋上の固い地面に投げ出された。
お尻をコンクリートに強打して、激痛が腰に走った。顔を顰めて、腰に手をやる。
「なにしよっとね!」
れいなちゃんは叫んだ。肩で息をしながら少し離れた場所にへたっている。
今日は制服ではない。黒いパーカにブラックジーンズ、黒づくめの格好だ。
「亀井さん、あんた、死のうとしたと?」
れいなちゃんがこっちを見ながら問いかけてくる。その瞳はひどく心配げで、転校初日の緊張したあの目を思い出した。
あれ?
ここで初めて違和感を持った。
何で、れいなちゃんがここにいるのだろう。
ここは私の妄想の中のはずだ。
私はおぼろげな意識の中で飛び降りることを望んでいた。なのに、何故、れいなちゃんが止めるのだろう。
深層心理では死にたくなかったのだろうか。いや、それは自信を持って否定できる。
私は確かに死にたがったはずだ。いざとなって助けを求めるような半端な気持ちではなかったはずだ。
ならば、何故。
「れいなちゃん、なんで…」
「れ、れいなちゃん?」
言葉の途中でれいなちゃんは頓狂な声を上げた。なんだろう。
- 51 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:20
- 「どうしたの?」
「い、いや…亀井さん…」
「ねえ、さっきからその亀井さんっていうの止めようよ。いつもみたいに絵里、でいいじゃない」
先ほどから気になっていた亀井さんという呼称を指摘する。
「ふぇ?」
れいなちゃんは目を点にして、口をぽかんと開けた。
「な、何いっとう?いつもってなんね?私、亀井さんと話したことなか、よね?絵里、なんか呼んだことなか…よね?」
れいなちゃんは疑問形で畳み掛けてくる。
私の方こそ訳が分からない。
話したことがない、私を絵里って呼んだこともない、なんて、そんなことがあるはずがない。
現に私はれいなちゃんと話した。倒れた時だって、保健室にいてくれた。
どういうこと?
ぐるぐると混乱と疑問が交互に回る。
「…とりあえず、何で死のうとしたと?」
れいなちゃんがあぐらで坐り、混乱を押しこめた口調で尋ねてくる。しかし、言葉の響きだけで頭に意味を理解する能力が残っていなかった。
「なんで、れいなちゃんはここにいるの?」
結局、質問で返していた。
「え、ああ、コンビニ行く途中で亀井さんを見つけて、なんかフラフラして様子がおかしかったから、ついてきた。したら学校に入って、しかもこっちの棟の方に入っていくから、何しようとしとうかなて思って…」
「こっちの棟?」
尋ねると、れいなちゃんは何故か気まずそうに「…うん」と頷いた。
「最近、っていうか…転校してきたばっかでよう知らんけど、この棟でガラスが割られたり、タバコが見つかったり、不審火があったり…っていうのは聞いとったから、危ないな、て思ってついていった」
きいん、と頭に鋭い痛みが迸った。内部から突き刺されるされるような痛みだ。
痛い。思わず頭を抱える。
- 52 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:21
- 「亀井さん!」
慌てたれいなちゃんの足音が駆け寄ってくる。
第二波が後頭部を襲った。ぎりっと奥歯を噛む。
どういうことだろう。
ガラス、タバコ、不審火。どれも私が妄想の中で関係したものだ。
この棟。
ぴん、ときた。
もしや――。
私は慌てて顔を上げる。
「ねえ、ここってどっちの棟?」
と、性急に尋ねた。
「え、どっちって、教室があるのとは違う棟やなかと?いつも私らが授業しとるのはあっちばい」
困惑した風にれいなちゃんが指差したのは、ドアのほうだった。正確に言えば、ドアの後ろのある校舎だ。
今、私がいるこの棟とまったく同じデザインの校舎だ。
私は立ち上がると、柵のほうに走っていった。私が飛び降りようとした場所まで戻る。
「ちょ、亀井さん!」
れいなちゃんの声が追ってくる。答えずに、下を見下ろす。
芝生の広場から少し右側に視線をずらす。
焼け焦げた草叢。端だけ焼失した花壇。
ようやく私は悟った。
全て、現実だったのだ。
私はこの棟に忍び込んで、ガラスを割ったのだ。教室も同じデザインだ。私はこの棟の2年3組を荒らした。
タバコも放火も同じだ。
この棟でタバコを吸い、草叢に火を放ったのだ。
だとしたら――。考えを広げる。
- 53 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:21
- 「私、今日、倒れたりした?」
訊くと、れいなちゃんは「…うん」と不安げに頷いた。
「体育用具室の前のとこで倒れとったらしいと。ようは知らんけど、大丈夫だったと?」
「うん…」
曖昧に返事をしながら、やっぱり、と思った。
「れいなちゃん、私の隣りの席じゃないよね?」
確認するように問いかけた。
「だから、そうって言っとう」
れいなちゃんはしっかりと頷いた。
やっぱり、れいなちゃんとの繋がりは妄想だったんだ。
何か重いものがずっしりと圧し掛かってきた気分だった。足が自然と少しだけ柵から後ずさった。
れいなちゃんは私の隣りの席ではなくて、もちろん話したこともなく、親しくもない。
れいなちゃんとの関係は私の妄想だったのだ。
ついに圧し掛かる重いものに耐えきれなくなって、私はへなへなと腰を抜かした。その場にへたり込む。
冷えたコンクリートがお尻に当たって冷たい。
「亀井さん?どうしたと?」
れいなちゃんは心配そうに私の肩を掴む。温かい手だった。
「…ゴメンね。迷惑掛けて」
ぽろぽろと堰を切ったように涙が溢れてきた。止める術もなく、私は嗚咽を漏らし始めた。
「え、ええとよ。な、泣くのやめると。どしたとね?」
れいなちゃんは困ったように視線をさ迷わせて、やがて私を抱き締めた。
温かく、柔らかい、れいなちゃんの胸の中に包まれる。
これが、これが幸福なんだ、と思った。
- 54 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:22
- 「ねえ」
涙声で呼びかける。
「ん?なんね?」
優しくれいなちゃんが答える。
「…これからも、れいなちゃんって呼んでいい?」
言ってすぐにれいなちゃんの胸に顔を埋めた。れいなちゃんの心臓の音が聞こえる。ばくばく、と今にも爆発しそうな激しい鼓動だった。
「え、ええとよ」
れいなちゃんの声は裏返っていた。
- 55 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:22
- ◆
窓から射しこむ陽気が背中を暖かく包んでいる。
昼食のパンを食べた満腹感が睡魔をおびき寄せる。体中の力が徐々に抜けて、瞼が重い。
私は普段のように机の上に腕を組んで、頭を埋めている。
5時間目の授業は古文だった。
聞き慣れない文章が黒板に書き綴られ、教師の声がつらつらとそれを読解している。生徒たちは皆、黒板を見つめて、ノートと向き合っている。
退屈な風景はさらに眠気を増進させていく。
閉じそうになる瞼を堪えて、隣りの席に目をやる。
空席だった。誰もいない。
ここにれいなちゃんがいた。そう思って、じっと空席を見つめた。
そのまま視線をずらす。
れいなちゃんは私と同じ最後列の端っこにいる。転校初日、れいなちゃんはもう一つの空席である廊下側の最後列の席に宛がわれていたのだ。
端っこから端っこに視線を送る。
私とれいなちゃんの間にいるかりかりとノートを取るクラスメイトたちを飛び越えて、れいなちゃんと目が合った。
れいなちゃんも私の方を見ていたようだ。
寝たらいかんと。
口パクでそう訴えてくる。
大丈夫だよ。
私はにっこりと笑ってそう返す。
すると、れいなちゃんは真っ赤になって、ノートに視線を戻した。何故赤面するのかは判らないけど、そのれいなちゃんの仕草が可愛らしいので、私はわざと彼女に笑顔を見せる。
そして、ようやく意味が判ったことがある。
向こうの棟の2年3組の教室の黒板にナイフで刻んだ「E」と「R」のアルファベットの意味だ。
「E」は私のイニシャル、「R」はれいなちゃんのイニシャルだ。きっとそうだ。
まだれいなちゃんが転校してくる前だったあの時、私はきっと「R」のイニシャルのれいなちゃんのことを感じていたのだ。
それが少しだけ、嬉しい。
- 56 名前:妄想少女 投稿日:2005/03/04(金) 18:23
- 私はまたれいなちゃんに視線を送る。
れいなちゃんは凛々しい横顔でノートに向き合っている。じっと見つめ続ける。
すると、れいなちゃんはびくっと体を跳ねさせて、辺りを見回した。そして、私の視線に気付くと、にこりと笑った。ぎこちないが可愛らしい笑顔だった。
私はにっこりと笑い返した。
そして、再び机の上に組んだ腕に頭を沈ませた。
ぐらっと揺れて、また私は誘われる。
きっと向こうでもれいなちゃんが待っていてくれるはずだ。
今日もキスしてくれるかな。
「可愛い」って言ってくれるかな。
抱き締めてくれるかな。
優しく、してくれるかな。
そして、私は妄想に耽る。
了。
- 57 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/04(金) 18:24
- 「妄想少女」終了。一気に上げました。
残りの容量は短編で埋めていきます。
レス、お待ちしてまーす。
- 58 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/04(金) 19:24
-
- 59 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/04(金) 19:24
-
- 60 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/07(月) 18:00
- 書き溜めた短編をみっつほど。
- 61 名前:November Nostalgia. 投稿日:2005/03/07(月) 18:01
- 晩秋の夜は一種凶暴なほど、寒い。
冷たい風は突き刺すように心の隙間に入りこんで、淋しい音を鳴らす。
新月の夜で、夜空に月は出ていなかった。吸いこまれそうな藍色の闇だけがそこに佇んでいた。
そこには星もなかった。
本当はあるのだろうが、光化学スモッグのせいで都会の夜空はいつも星を隠している。
夜の街を藤本美貴は足早に歩いていた。
コツコツとヒールの踵を鳴らしながら、ただ歩いていた。
アスファルトで舗装された歩道から砂利道へと変わる。
チャリチャリと小石が擦れる音がする。ハイヒールのせいで少しそこは歩き難かった。足を取られて転ばないように注意しながらそこを通っていく。
ふと辺りを仰ぐと並木道だった。
紅葉の季節ももう終わっている。並木道の木々の葉はほとんど落ちていて、丸裸の木立だけが並んでいた。寒々しい冬の象徴のようだった。
それに少し苛立って、美貴はまた早足になった。
並木道を抜けると、少しネオンが目立つようになった。
辺りが明るくなり、人が行き交う雑踏。
そちらの方が気が楽だった。
マフラーを巻きなおして顔を隠すようにしてから雑踏に紛れた。
歩くという単純行為を続けながらふと、自分はどこに行くつもりなのだろう、と考えた。答えは出なかった。
ビルの隙間風がいっそう強く吹きつけて、美貴の髪をグシャグシャに撫で回した。
美貴は手で髪を抑えつけて、さらに歩きつづけた。
人がさらに増えてきた。
雑踏の中に身を潜める。自分を紛れさせる。人に紛れていられるのは楽だった。
自分が何の為に歩いているのか、そんなことを考えなくて済むからだ。
- 62 名前:November 投稿日:2005/03/07(月) 18:01
- ネオンの採光が周りを囲む風俗街に出た。
淫猥な誘い文句の看板。空気に同化している香水の匂い。原色の光の群れ。チカチカして、美貴は目を瞬いた。
なるべく顔を上げずに早足で駆け抜ける。
「ねえねえ、キミー」
「すみません。急いでるんで」
スーツを着た金髪男を事務的に退けて、さらに進む。
大通りに出た。
交差点は夜だというのに人で溢れていた。様々な服装。それぞれの顔。溢れる雑音。雑多な人の声。
ジャケットのポケットに両手を突っ込んでまた歩く。
人波をすり抜けていく。
肩がぶつかるのを避けるのは半ば無意識だった。
北海道にいた頃は人込みは苦手だったが、東京に出て来てずいぶん慣れたように思える。慣れというより、諦めと言った方が近いのかもしれない。東京という現状は変わらないのだから、人込みには諦めるしかないのだ。
いつから自分はそうなったのだろう。ふと疑問が浮かんだが、やはり答えは出なかった。
コツコツ。足音は規則的だ。
交差点を抜けてなお足を止めない。歩道を歩いていく。
どんどん人影は少なくなってくる。ポケットに入れた手をさらにグッと深く差し込んだ。
街から少し離れた土手道に入った。
ここまで来ると人通りはすっかり鳴りを潜める。時折、チャリンチャリンという自転車の鈴の音や、車の通る音が遠くで響く。
しかし、ずいぶん静かになった。
その静寂は北海道と少し似ていたが、空を仰げば星のない空があり、またここが東京であるという事実を押しつけてきた。
高架下を通ると、そこも静かだった。車の通る音も時々しか響かない。
高架下を抜けて、土手道を歩く。
舗装されていない土の道はなんだか安心感を与えてくれる。
ふと辺りを仰いで美貴は闇を見つけた。
- 63 名前:November 投稿日:2005/03/07(月) 18:02
- 水面は細やかにゆっくりと揺れていた。
タプタプと揺れる闇は空の闇を映しているようにも思えた。
土手に挟まれた、川。
それは綺麗に、しかし禍禍しく水面は蠢いていた。
月があれば映えるような景色だが、新月の夜にはどこかその景色は間の抜けているように思えた。
美貴は少し身を沈めて土手の傾斜を下った。少し急な傾斜だった。ハイヒールに気を遣って、バランスを崩さないように降りる。雑草の感触が足元をくすぐった。
下ってから、美貴は雑草の上に腰を下ろした。
草の夜露がジーンズを濡らして、尻を少しひんやりと冷やした。
美貴は草に両手を付いて、ゆっくりと傾斜に背を預けた。
川を隔てた対岸の道路にはたまに車やバイクのテールランプが通りぬける。
水面は妖しい闇を称えている。美貴は闇の流れをぼんやりと眺めていた。
ポチャンと水が鳴った。どこかで魚が跳ねたのだろうが、魚の姿は見えなかった。水面には波紋が広がっているだけだった。
いつからだろう。
美貴はふと考えた。
上京してから三年が経つ。
時々、家に帰ってどうしようもなくなる時がある。淋しくて堪らなくなるのだ。
それは例えば、友達や家族に電話して解消するような類のものではない。
だから美貴はそんな淋しさを抱えた時、街に出るようになった。遊びまわるわけではなく、ただ一人で歩く。淋しさを抱えてただ歩き回るのだ。
どこへ向かうのか、それは決めていない。何を求めているのか、自分でもわからない。
ただ一心に歩くだけだった。
それはもはや習慣になっていて、今日もそんな寂寥感を覚えたので街へ繰り出した。
いつからこんなことをするようになったのだろう。
別に、根暗ってワケじゃないんだけどなあ。
美貴は手を付いた夜露を握り締めた。
- 64 名前:November 投稿日:2005/03/07(月) 18:02
- しかし最近になってそういう淋しさをどういうのか、おぼろげながら美貴は分かっていた。
郷愁。
故郷が恋しいのだ。
北海道の満天の星空。大きな円月。満々と清澄な空気。冷たい雪の感触。
洒落にならないほどの寒ささえも、北海道という雄大さが恋しかった。
大きく包みこむような空が恋しかった。
しかし、空を見上げてあるのは藍色、それだけだった。
「あーあ」
美貴はゴロンと寝転がった。目を瞑ってゆっくりと瞼を開ける。
なにも変わらない現実。藍色の空。
「あーもうっ」
美貴は勢いよく上体を起こした。
北海道に住んでいた頃はそれほど自分が北海道を大事に思っているなどとは思っていなかった。しかし、あの大きさ、壮大さが恋しかった。
帰省出来れば一番良いのだろうが、そう頻繁に出来るほど暇ではない。
もちろん街に出ても、北海道のあの雄大さがあるなどとは思っていない。しかし、一人の部屋に淋しすぎるのだ。
フウ、と美貴は白い溜息を吐いた。鼻の頭がつんとした。
「あれえ?ミキティ?」
のんびりした声が静寂を無粋に破った。声のした傾斜の上を見上げると、自転車が止まっていた。サドルに跨っている人影に見覚えがあった。
「よっちゃん」
呼びかけると、吉澤ひとみは「おお」と答えた。そして、自転車から降りると、傾斜を下りてきた。
背の高いシルエットが格好良く滑り降りてくる。美貴の前にスタッと着地した。
「やあー、奇遇だねえ」
ほんわりした笑顔でひとみは笑った。
「うん」美貴は返した。「奇遇だね」
少し自分より背の高いひとみの顔を見上げる。
「こんなとこで何してんの?」
ひとみはどこか嬉しそうに尋ねた。まるで犬が尻尾を振っているようなイメージを連想させた。
- 65 名前:November 投稿日:2005/03/07(月) 18:03
- 「ボーっとしてた、かな」
美貴が曖昧に答えると、ひとみは「ふうん」と唸って辺りを見回した。
「一人なの?」
ひとみが美貴を見て尋ねた。
「ん。そだよ?」
「ふうん…」
どこか引っ掛かりのある唸りに、美貴は「何?」と訊いた。
「ううん、なんでもないよ」
首を振って優しくひとみは笑った。ポチャンとまたどこかで魚が跳ねた音がした。
「よっちゃんは?何してたの?」
「んー、ごっちんとカラオケの帰りだよ」
ふうん、と返して美貴は黙った。
沈黙が流れる。
しかし美貴にとってそれは嫌な沈黙ではなかった。
目の前で笑顔を浮かべるこの友人は不思議な雰囲気を持っていて、優しくすべてを包容してくれるような安堵を与えてくれる。そのせいだろう、ひとみには友達が多いし、周囲から慕われている。
美貴は普段から一歩引いた付き合いばかりで、あまり人付き合いも得意ではない。
しかし、ひとみはそんな美貴にやたらと懐いてくれる。
美貴にとってもひとみの持つ独特な雰囲気は心地良く、心を許せる存在だった。
「もしかしてさあ…お悩み中だったりした?」
言い難そうに頭をポリポリ掻きながらひとみが尋ねてくる。
唐突に沈黙を破った言葉に一瞬思考が停止して、思わずひとみの顔を見上げた。
ひとみは困ったように、「え、と…悩んでた?」と繰り返した。
ようやく意味を飲みこむと、軽く微笑んで首を振った。
「悩んではないけど…どなのかな、わかんない」
自然と表情に笑みが零れた。それは意識する前のごく自然な仕草だった。
- 66 名前:November 投稿日:2005/03/07(月) 18:03
- ふと、美貴は思いついて、動きを止めた。
「ね、ちょっと止まっててもらっていい?」
言って、ひとみの顔を見上げる。
ひとみは少したじろぐと、「ん、いいよ?」と美貴の手を抑えていた手を離した。
美貴はひとみの胸にそっと体を預けた。
ふわあ、と浮遊していくような感覚に包まれる。温かさが心に染みて自然と体が弛緩していく。
ひとみの少し高い体温が心地良く美貴を抱いてくれる。
無意識に美貴は目を閉じて、額をひとみの胸に擦りつけていた。
ふと、ひとみの大きな手が美貴の頭を撫でた。
「んん…ん…」
鼻を鳴らすように美貴は唸った。
温かかった。
包まれる感覚を久しぶりに味わったような気がした。
あー、気持ちいい。
少しずつ緩んでいく意識の隅でぼんやりと思った。
ひとみの包んでくれる大きさは北海道に似ているような気がした。
「ミキティ?大丈夫?」
ひとみの声が降り掛かってくる。
「んん…」
美貴は不満そうに鼻を鳴らす。もっと、とでもせがむように甘えて鼻を擦りつける。
「大丈夫?」
さらに降ってくるひとみの声。
「このままでいろって言ってんの」
得意の尖った声で言うと、「…わかったよぉ」と、苦笑混じりの声が返ってきた。
舞い戻ってくる沈黙。パシャン、ポチャンとふたつ続けて魚が跳ねた。
ひとみの胸の中でニヤリと笑うと、パッと顔を上げた。
「…満足した?」
穏やかな笑顔でひとみが尋ねる。「うん」と頷く。
- 67 名前:November 投稿日:2005/03/07(月) 18:03
- 「よっちゃん、ミキのお願い聞いてくれる?」
じっと見上げながら甘えた声色で擦り寄る。ひとみの顔が少し強張った。
「ヤな予感が…」
「するの?」
「…しないです」
「よね?」
ニッコリと笑顔で念を押すと、ひとみはしっかり頷いた。
「じゃあ…んー」
「どうぞ」
「送れ」
ビッと人差し指で傾斜の上に止めてある自転車を指差す。
「てゆうか命令形…?」
ひとみが情けない表情で漏らしたが、美貴の「文句ある?」の一言で黙った。
「よし、じゃあ行こう」
笑顔で傾斜を上っていく美貴。慌ててひとみが後についてくる。
また背後でポチャンと魚が跳ねた。
美貴は傾斜を上り終えると、まだ傾斜を上がっているひとみに「早くう」と促す。
ひとみは息を切らしながらようやく上がってきた。
「早くしなさーい」
バシンと背中を叩いて促してやる。
「もーう、お姫さまは大変だね」
愚痴りながらも優しい笑顔だった。ひとみがサドルに跨ると、美貴は後部席に尻を横乗せした。
自転車は走り出した。
土手道を抜けると、下り坂に出た。
- 68 名前:November 投稿日:2005/03/07(月) 18:04
- 「いっくよお?」
「おおー」
美貴は大声で叫び返して、横乗りの態勢のままひとみの背中を片手で掴んだ。
ガクンと車体が沈んだかと思うと、一気に滑り落ちる。
ひとみの背中が盾になり、直接風は受けなかったが、それでもやはり心地よいことに変わりはなかった。
「へへっ」と、笑みを漏らして美貴はひとみの背中に頬を寄せた。
ようやく下り終えると、また平坦な道を走り始める。
少し蛇行しながら二人を乗せた自転車は進んでいく。
「よっちゃんさあ」
「んー?」
「もひとつお願い聞いて」
「いいよ」
ひとみは迷いなく返事を返してくる。それは美貴の頼みなら内容がなんであろうとも聞くという意味だろう。少し美貴は嬉しくなった。
「添い寝とか」
「…いいよ、お姫さま」
自転車は11月の街を滑っていく。
ヒュウヒュウ、と吹きつける寒風が心地良く思えた。
空を見上げると、藍色の空が広がっている。
それでも、口元には笑みがあった。
今夜はゆっくり寝れるかな。
美貴は頬を緩ませて、大きな温かい背中に額を乗せた。
- 69 名前:Graduation Rhapsody. 投稿日:2005/03/07(月) 18:04
- 黄金の満月が煌々と輝いていた。
学校の夜はまるで閑散としている。
昼間は活気に溢れるそこはまるで異空間のように静謐だった。
静寂と寒風がキュッと喉の奥を締めつける。
吐く息は白く、ふわんと夜闇に融けていった。
田中れいなは靡くバーバリーのマフラーを後ろでしっかりと結び直した。
目の前の閉まった校門は淵が赤錆びていた。
れいなは背伸びをしてその錆びた淵に手を掛けた。背の低い校門は小柄なれいなでも手が届く。
グッと足裏で地面を踏むと、思いきり跳んだ。
ふわっとれいなの体が浮き上がって、一気に校門を飛び越えた。
スタッと着地を決めて、赤くなった鼻の頭を擦る。
「えっしゃ、行くとよ」
地を蹴って走り出す。
やたらと気分が昂揚する。走って息を乱しながらもれいなは笑みを零していた。
渡り廊下を横切って、校舎の裏に回ってそこを真っ直ぐに進む。三年間通って見つけた最短ルートである。
やがて行き止まりに辿りつくと、体を捻って方向転換をする。
一旦、足を止める。
100メートル先には目的地がある。
「よおい…」
唸るように呟く。ググッと体を沈めて、先を見据える。
「ドン!」
一気に駆け出す。スタートダッシュはまずまずだった。
走る。
押し返すコンクリートが足に響く。
それがどうした、とばかりにれいなはさらに加速する。
風はオレンジ色の髪を擽って、頬を撫でていく。
音が聞こえる。風の音だ。
心地良く、れいなを包んでくれる音だ。
れいなを幸せにしてくれる音だった。
この音を聞く度にれいなは風に憧れる。
風になりたい。
音を享受しながられいなはゆっくり目を閉じた。
風の音に陶酔しながら、認識する。
ゴールが近付いてくる。
- 70 名前:Graduation 投稿日:2005/03/07(月) 18:05
- 目を閉じたまま、にんまり笑ってカウントする。
(10メートル、5メートル、3メートル)
そこで、パッと目を開ける。しかし、ゴールまでは1メートルを切っていた。
「うあ!」
れいなは驚愕の声を上げた。
激突寸前でなんとかコンクリートの壁に両手の平を伸ばす。
ガツン、と衝撃が伝った。
しかし何とか持ち堪えて、横に体を捻る。勢いは殺されて、ようやくれいなの体が止まった。
「危なかぁー…」
漏らして、きっと壁を睨む。
そして目を外すと、壁沿いに歩いていく。自分の手の平に付いた土を払って、少し駆け足になった。
ふと、立ち止まる。
石階段があった。ゆっくりと上っていく。
その先には柵があった。
れいなの腰までしかない、短い柵には侵入禁止のプレートがついていた。
「ふん」
れいなは鼻を鳴らすと、ぴょんと柵を飛び越えた。
「意味なかと」
言い捨てて、辺りを仰いだ。
パッと視界が開けた。
揺れる水面に映るのは少し歪んだ円月だった。
それを包んでいる水面はなんとも言えない色をしていた。
藍色とも、紺色とも、青色とも言える色だった。
自然と惹きつけられる不思議な色だった。
「ほえー…すごいとね…」
感嘆の声を漏らして、じっと水面を見つめる。
自然と視線が収束させられる、不思議な感覚だった。
フウ、とひとつ嘆息した。
ふとダイバーズウォッチを確認すると深夜1時を回っていた。
「もう、今日か…」
ぽつり、と呟きを浮かべた。
日付上ではもう今日、なのだ。
今日、れいなは三年間通ったこの中学校を卒業する。
学校に忍びこむ計画を企てたのは、昨日だった。約12時間前のことである。
別段、目的があったわけではない。
ただ、自分の通った学校を見ておきたかった。この中学校の生徒としては今日がもう最後なのだ。
出来れば誰もいない学校を見たい、と思っていたので、夜の方が都合が良かった。
- 71 名前:Graduation 投稿日:2005/03/07(月) 18:05
- 夜の学校は慣れ親しんだ昼間とは違い、新鮮な刺激に満ちていた。
それは何度も泳いで、ずっと教室の窓から見下ろしていたこのプールも例外ではない。
昼間の爽やかさとは異質だった。
とにかく綺麗だった。
視線を少しずらすと、プールの向こう側に人影が立っているのに気付いた。
白い、ふわふわのワンピースが風に靡いている。
その後ろ姿だけで一気に人影の正体を確信する。
「さゆ!」
静寂を裂いてれいなの声が響いた。ワンピースが振り向いた。
25メートルの距離を隔ててもその表情が分かるのは幼馴染という間柄ゆえだ。
れいなは駆け出した。プールサイドは走るな、という小学校のころのポスターが浮かんだが無視する。
「さゆ!」
ようやく辿りついて呼びかけると、道重さゆみはまだあどけなさの残る顔にふんわりした笑顔を浮かべた。
「あんた、こんなカッコでなんしょっと!?」
れいなは慌ててマフラーを取ると、さゆみの白い首に優しく巻きつけた。
「れーな、寒いの」
さゆみは不満そうに口を尖らせた。
「自業自得たい」
「でも、寒いの」
「…あーもう」
れいなはガシガシと頭を掻くと、自分が着ていたダウンジャケットを脱いでさゆみの肩に掛けた。
「温かいの」
ふわふわの笑顔でさゆみが言った。
「はーあ」
れいなは自分の頭を掻き毟った。
自覚はしている。自分は幼い頃からずっとこの笑顔にほとほと弱い。
シャツだけではやはり3月の風は肌寒い。少し身が震えた。
「寒いの?」
不安げにさゆみの声が届いた。
「…寒うないとよ」
「れーな、優しいの」
天使の羽根のような声でさゆみは言う。
「…寒うなか」
言って、れいなは5コースに座った。さゆみは6コースに腰掛けた。
- 72 名前:Graduation 投稿日:2005/03/07(月) 18:06
- 緩んだ沈黙が二人を包んでいた。
さゆみ以外とはこの沈黙は成立しないだろう。さゆみの隣りにいて、れいなは改めて実感した。
「さゆはなんでこんなとこおると?」
たんたんと地面を蹴って尋ねる。
「明日が卒業なの」
「もう今日たい」
「れーなに逢えるかなと思って」
さゆみが人懐こい笑みで嬉しそうに言うので、れいなは口元を緩めた。
「れーなは卒業したらどうするの?」
柔らかな声が言った。「ん?」と、れいなは問い返した。
「れーなは卒業したらどうするの?」
さゆみは綺麗になぞった。
「高校行くに決まっとおよ」
きっぱりとれいなは答えた。
さゆみは少し黙ってから、
「私と違う高校に?」
と、訊いた。れいなは口を噤んだ。言い返せなかった。
れいなは陸上推薦で他県の高校への進学が決まっている。スポーツが盛んな高校で陸上部もレベルが高い。そして、そこは全寮制で外出も厳しい。
都内の女子高に進学するさゆみとは今のように頻繁には逢えなくなる。しかし、承知の上でれいなはその道を選んだのだ。
「れーなは私を見捨てて行くの?」
さらに優しい声が重なる。しかし、その言葉はキュッと切なくれいなを締めつける。
「…どうしようもないとよ」
ようやく紡いだ言葉だった。
しかし、さゆみは「そう」とあっさり肯定した。
「でも、行ってほしくないの」
風の囁くような声が心地良くれいなを揺らした。
また沈黙が優しく包みこむ。
その優しさに耐えきれずにれいなは俯いた。
「…どうしようもないとよ」
苦しげに繰り返すと、れいなは自分の靴と靴下を脱いだ。
解放された素足に風が冷たかった。
体を反転させて、闇の中に足を落とした。
キンと染みるような冷たさ。しかし、その潔さにれいなは屈するしかなかった。
足の甲で水を掻き混ぜる。
ぱしゃぱしゃ。
歪んだ満月をじっと見ていた。
- 73 名前:Graduation 投稿日:2005/03/07(月) 18:06
- 「オレンジの髪、可愛いの。目も可愛い。鼻も可愛い。口も可愛い。生意気だけど」
「…ほっとくとよ」
「福井弁も可愛いの」
「…福岡弁たい」
「れーなの優しいところ、好きなの」
れいなは掻き混ぜる足を止めてさゆみに振り向いた。
おそらくさゆみの口から好き、という単語を聞いたのはこれが初めてだと思う。
「好きなの」
ふと唇に熱が触れた。すぐ離れた。
目を見開いたまま、れいなは呆然としていた。もうさゆみは背を向けていた。
唇をそっと指でなぞった。
「さゆ…」
呟いた。
「れーな」
舌足らずにさゆみが返した。
「さゆ」
もう一度、呟く。
ゆっくりとさゆみは振り向いた。
ふわふわした笑顔だった。
まるで風のような優しさだった。
れいなは立ち上がった。
「行くとよ」
さゆみの白く小さな手を取って、プールサイドを走り出す。
歪んだ満月を横目で見る。闇が揺れていた。
「れーな、ありがとう」
風の音が聞こえる。
今なら、風になれる気がした。
- 74 名前:White Sign 投稿日:2005/03/07(月) 18:07
- 「雨の日だよ」
彼女は強い意思を大きな瞳に称えて言った。
大きな記念碑のモニュメントを背にして、彼女の姿はやたら映えていた。何の記念碑だろう、と私は目を凝らしてみたがやはり暗くてはっきりしなかった。
モニュメントの後ろにまるで要塞のように聳え立つ10階建てのショッピングモールは人影もなく閑散としていた。
辺りはすっかり夜に包まれていた。
傍らに立っている電灯の人工光が薄明るく浮かんでいた。
夜空を仰ぐと、霧状の雲に隠された月はいびつに曲がっていた。
「退屈な世界から飛び立つには格好の天気でしょ?」
彼女はにやりと得意げに笑って見せた。その表情は少年のように幼く見えた。
「どこへ行くの?」
私は訊いた。
彼女はさあ、とわざとらしく笑って首を傾げる。
ヒュウッ、と風が鳴った。ビルの谷間を突き抜けて、私の髪を揺らした。私はそっと髪を抑えた。
彼女は唐突に私の前に現れた。
ちょうど数時間前のことだった。
変わり映えのしない学校の帰り道に声を掛けられた。
おそらく同い年くらいだろう、彼女は白いパーカーとコバルトブルーのジーンズを履いていた。
大きく、綺麗な瞳を持っていた。
彼女は何の前触れもなく、
「連れ去ってあげよっか」
と言った。
もちろん、私にはどこへ行くのか、どうされるのか、予測もつかなかった。しかし、私は自分でも驚くほど彼女を疑わなかった。
「…うん」
ただ、頷いていた。
彼女の言う、退屈な世界。確かにそうだと思った。
変わらない色の日常には辟易していたところもある。
些細な変化を楽しめるほど私の心は豊かではない。
名前すら知らない彼女の誘いは魅力的だった。彼女の言葉はするりと抵抗なく入って来た。
「退屈だったでしょ?」
彼女の問いかけに私は頷いた。
考えてみれば私はずっと退屈を持て余していたような気がする。それは私個人と言うよりは人間全体の命題のように思えた。
- 75 名前:White 投稿日:2005/03/07(月) 18:07
- 「雨の日を待とうよ。自由になれる日をさ」
彼女はのんびりとした笑みを双眸に浮かべて言った。しかし、具体的に何かをしろ、と言われた訳でもない私は鎖を外された犬のように不安な気持ちに襲われた。
それも無難に生きてきた私の人生の副産物なのかもしれない。
「雨の日にどうすればいいの?」
私が尋ねると、ああ、と彼女は唸った。
「じゃあ、合図を決めよう。んー…12時の鐘を合図にしよう」
「鐘が鳴ったら?」
「鐘の音が自由をくれるのさ」
気障ったらしく言うと、彼女はすたすたと歩き去っていた。
そんな彼女の背中を見て、ふと思い出すことがあった。
ヒトミのことである。
まだ小学校に通っていた頃だ。思い返すとちょうど5、6年も前になる。
私はその頃、近所の空き地で犬を飼っていた。
白い尻尾のメスの柴犬である。それがヒトミである。
ヒトミを拾ったのは雨の日だった。冷たい小雨だった。
ヒトミは道端で衰弱していてがたがた身を震わせていた。
私はヒトミを拾って、空き地でこっそりと育てることにした。本当は家で飼いたかったのだが、マンションなのでそれは叶わなかった。
私は足繁くヒトミの元へ通って世話をした。
ヒトミは人懐こくて可愛かった。大きな目をくりくりとさせて、くうん、と鳴く。
ヒトミの厚い信頼の視線が当時小学生で世話焼きだった私には心地良かった。
私はいつもヒトミに愚痴を零していた。
学校の愚痴だったり、ヒトミを家で飼えないことへの謝罪だったり、友達と喧嘩した、という風な愚痴だった。
「ジユウはいいね」
そして、私はいつも愚痴を覚えたてのこの言葉で締め括った。
正確に意味を把握していたかといわれると、そうでもない。
ただ言葉の語感とおぼろげに気持ち良いイメージだけで、その言葉を使っていた。
そして、私が自由、という言葉を使うと、ヒトミは決まって「くぅん」と鼻を鳴らした。それが同調してくれるような響きなので私も決まってヒトミを抱き締めたものだった。
- 76 名前:White 投稿日:2005/03/07(月) 18:08
- そして、暫く経ち、具合もすっかり良くなって元気になった頃、ヒトミは姿を消した。
いつもの空き地には敷いていたタオルや餌やりだけが忽然と取り残されていて、肝心の主の姿はなかった。
私は泣きながら探したが、結局ヒトミは見つからなかった。
それからヒトミのことはずっと頭の片隅から離れない。
しかし、なぜ彼女の後ろ姿にヒトミを重ねたのだろう。自問するが、閉ざされたように答えは出なかった。
ふと辺りを見回して異空間のような静寂を認識する。
急に不気味さを感じてわざとタイルを鳴らしながら私は家路を急いだ。
それから数日は晴天が続いた。
朝、カーテンを開けて、青空に落胆する日々が続いた。
少し前まではどしゃ降りが続いていたのに、今は初夏を思わせる青空ばかりだ。
梅雨明けしたのだから仕様がないだろう。
私は根気良く待つことにした。
彼女は自由を与えてくれる、と言った。退屈な世界から連れ去ってやる、と。
一体、彼女は何を与えてくれるのだろう。
そう考えてわくわくした。プレゼントを待つ子供のように心が踊った。
そんな感情を覚えたのは久しぶりだった。
そして、彼女と別れてから6日目。
朝から鉛色の曇天だった。雨こそ降っていないものの、思い出したような梅雨空だった。
天気予報では午後の降水確率は90パーセント。
もう一度、カーテンを開けて、ミルクを一面に注いだような空模様を確認してから、私は喜んだ。
今日だ。今日、やっと私は自由になれる。
心が踊り、気分が昂揚する。こんなに楽しい気持ちになったのは何年ぶりだろう。
時が過ぎるのがやたらと遅々として感じた。
もどかしさと昂揚感を抱えたまま、夜を迎えた。
窓からそっと外を覗いてみる。
夜の帳が下りた街にしとしとと切ない雨が降っていた。
ヒトミに出会った日のような雨だった。
「やたっ」
小さくガッツポーズを決める。
私は家族に気付かれぬようにそっと家を抜け出した。
- 77 名前:White 投稿日:2005/03/07(月) 18:08
- 雨に濡れたアスファルトは光沢を放っていた。まるでその光は私を自由へと誘ってくれる希望の光だった。
その光は私の心を躍らせて、昂揚させた。
傘など要らない。
私は駆け出した。
ふと夜空を仰いだ。
空には厚い雲が掛かって星や月を隠していた。
紫がかった幻想的な空だった。
降りしきるシャワーがすべてを浄化させてくれるようで、私は手を思いきり広げて享受する。
濡れた髪がぴたぴたと額に貼りつく。
しかし、構わない。
「あは、あははははっ」
私は笑った。
こんな風に笑ったのは久々のような気がした。
約束の場所は時計台だった。
鐘を鳴らす時計台である。
高く聳えるアンティーク調の時計台。その下で私は立ち止まった。
辺りに人影はいなかった。
私は昂ぶりを抑えながらただ待った。
チクタク、チクタク。
時を刻む秒針の音。
自由へのカウントダウン。
そして――。
鐘の音は響いた。
耳の奥に自由の音が響いた。
それはとても綺麗で、荘厳な音色だった。美しい鐘の音に私はしばらくまんじりともせず聞き惚れていた。
遠くの自分の部屋でぼんやり聞いていた音色。
(こんなに綺麗だったっけ…)
薄闇の意識で聖なる鐘に陶酔する。耳の奥で心地良くなる音に目を閉じた。
やがて、鐘がカラン、と最後の一鳴りを立てた。
ゆっくりと目を開けると、彼女がいた。
白いシャツと黒いスーツパンツといった出で立ちだった。シンプルな正装が彼女に良く映えていた。
- 78 名前:White 投稿日:2005/03/07(月) 18:09
- 「さあ、行こう」
にっこり笑って彼女は近付いてきた。
「怖がらないで」
彼女は軽々と私を抱き上げた。膝と首をしっかりと支えて両手で持ち上げられる。
驚くほどがっしりとした感触に包まれた。
同じ女なのに、彼女の方が少し背が高いだけなのに、どこにそんな力があるのだろう。
考える間もなく、彼女は走り始めた。
風が心地良く全身を撫でていく。安定感のある彼女の腕の中は揺れなかった。
まるで飛んでいるような錯覚を覚えた。
街を爽快に駆けぬけていく。
彼女はさらに加速する。
いったいどこへ行く気だろう。どこへ導いてくれるのだろう。
わくわくしながら目を瞑り、風を受け入れた。
「さ、降りて」
彼女は足を止めた。私は目を開ける。
そこは屋上だった。
ビル風が心地良く吹いていた。
どこかの高層ビルだろう、そこからは全てが見下ろせた。
360度の視界に街が一望できる眺めの場所だった。
ミニチュアのような建物。
街を横切って流れる川には等間隔に橋が架かっていた。
夜空と同化しているように街は闇に包まれているが、点在する灯りが星のようにそれを照らしていた。
普段住んでいる街なのに、星が降っているかのようにきらきら輝いて見えた。
「キレイ…」
私は思わず呟いた。
隣りに視線を移すと、彼女は得意そうに笑った。
そして、一歩前に踏み出して、
「行こう」
そっと私の手を取った。優しい彼女の体温が伝わった。
私は彼女に手を引かれて、そっと屋上のタイルを進んでいった。踏む度にたんたんと軽快に音が鳴る。
「どこへ行くの?」
尋ねると、彼女は振り向いて、
「自由の世界へ」
と、紫色の空を指差した。
意味がわからないまま、私は彼女に導かれた。
彼女と私は屋上の柵を跨いだ。そして、僅かな突端に並んで立った。
- 79 名前:White 投稿日:2005/03/07(月) 18:09
- 光り輝く街が眼下にあった。
恐怖心は沸かなかった。
「大丈夫さ」
彼女と言葉と共にびゅんと風が通った。
その風は私と彼女を空へと誘った。
私と彼女は手を繋いだまま夜空に舞い上がる。
いざ、自由へ。
私は飛んだ。
音が止まった。
不思議な感覚だった。
眼下に望むは一面の街。夜空に臨むは紫。
足場など、なかった。
地面がないのに、私は空に立っていた。浮かんでいたのだ。
ふわっと風が背中を押す。
周囲の音がようやく浮かび上がってくる。
解放。
そして、認識した。
私たちは夜空に舞っている。
風が頬を撫でつけ、そして私は風に乗る。
彼女は私の一歩前を飛んで、私を導いてくれる。
なんて心地良いのだろう。
眼下に望む街を痛快に思いながら、
「あははっ」
私は声を上げて笑った。
雨粒は私を流していく。それさえ心地良かった。
ふわあっと旋回。
ぐるっと一周。
私たちは手を繋いでいた。
そっとみつめあいながら、互いに笑みを漏らしながら、私たちはぐるぐると何度も回り、踊った。
ぐるぐる、ぐるぐる。
ただ今だけは、繋いだ互いの手が世界の全てで、彼女の手の温もりが私の全てだった。
「あははっ」
私はまた笑った。彼女はにやりと口端を上げた。
ググッと高度が下がった。
風を切るようなスピードで、ビルの谷間をすれすれですり抜ける。
高度が一気にぐんと上がる。
普段、見上げている高層ビルを造作もなく楽々と飛び越える。
愉快で、堪らなかった。
- 80 名前:White 投稿日:2005/03/07(月) 18:09
- 「少しスピードを上げよう」
彼女はにんまりと笑って、私の手を強く引いた。
びゅんっと私は風と同化した。
どんどん私たちのスピードは上がる。
髪が後ろへ靡いていく。私は全身で風を受けとめる。
風の音は耳を撫でる。
その歓喜に私は目を瞑った。
私は街の上を飛び回って、風と戯れる。
隣りには彼女がいる。
「楽しいっ」
私は彼女に叫んだ。彼女は笑った。
浮遊感が私を昂揚させる。
「ジユウはいいね、梨華ちゃん」
彼女は言った。
「え」
問い返す前にまた風が吹いた。
風が教えてくれた。
ヒトミ――。
私の声は届いたのだろうか。
彼女の横顔からそれを窺い知ることは出来なかった。
どんどん上昇していく高度。
「さあ、行こう」
私たちはふわふわの雲を一気に突き破った。
そして――。
- 81 名前:White 投稿日:2005/03/07(月) 18:10
- 私は目を覚ました。
目を開けて飛び込んできたのは白い天井だった。
一気にぼやけた頭が覚醒した。
がばっと飛び起きて、周囲を見回す。
ピンクのカーテン、ソファ、雑然と物が積まれた勉強机。
そこは見慣れた、変わり映えのしない私の部屋だった。
頭の内奥がぼんやりと痺れていた。
「なんか…頭痛い…」
私はゆっくりとベッドから降りた。
夢を見ていたような気がする。
内容はまったく覚えていない。
ただ――。
その夢は楽しくて、幸せで、少し切なくて、でもきっと、素敵な夢だった。
ふと、足元に目をやる。
木目調のフローリングに白い毛が落ちていた。
- 82 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/07(月) 18:12
- 三つとも独立した短編ですので、タイトルで区別してください。
判りにくい書き方で申し訳ありません。
- 83 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/07(月) 18:12
-
- 84 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/07(月) 18:12
-
- 85 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 23:46
- いいですね。好きです、こういう文章。
- 86 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/16(水) 01:26
- 今日見つけて、短編はこれからですけど、妄想少女だけ、ただ今読み終わった所です。
凄くよかったです、たまらなく。
はじめは、正直な話、個人的に語尾の形が切れ切れで気にくわなかったんですけど、
話が進むんで行くごとに、それがリズムで、読み下すごとに引き込まれていって。
勿論、文章云々だけでなくてストーリーとオチのつけかたが又よくて余計に夢中に。
特にオチなんですけど、普通良い話のこう言った形のヒキでの終わり方は
続編が読みたくなるんものなんですけど、これは納得してこれでいいというか、
おもわずニヤニヤしながら心地よい誤読感に浸れました。
感想長くてご迷惑でしょうが、兎も角、たのしかったです。
- 87 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 21:22
- 全部読みました。妄想少女の終わり方好きです
- 88 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/12(火) 11:54
- とてもおもしろかったです。
独特の雰囲気にひきこまれました。
妄想少女、途中から絵里ちゃんと一緒になってわからなくなってました。
ラストですっきりです。いい作品をありがとうございました。
- 89 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 05:07
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
- 90 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/24(土) 12:58
- 久しぶりの短編です。れなえりです。
- 91 名前:分身 投稿日:2005/12/24(土) 12:59
-
「ねえ、れーなあ」
思いっきり甘えた声は、まるで砂糖を入れすぎたココアみたいで、聞いただけで胸焼けしそうだ。
でも、誰なんだろう、こん人。
というか、ここ、どこだ。
見たところ、よくナントカ埠頭とかにある倉庫の中みたいだ。コンテナが積みあがっていて、寒々しい風に混じって潮の匂いがする。海が近くなのか。
れなはさり気なく、絡み付いてくるへらへらした女の子を剥がして、コンテナの上に座った。
「れーなん、ひどいよう、ウヘヘ」
眉を下げながら、ヘンに気が抜けた笑い声で笑う女の子の頬は泥がついている。よく見ると、着ているパーカーにもドロ、ジーンズにも、スニーカーもドロだらけだ。
ホントに、こん人なんなん?
「あんた誰」
「……うん、そっか、れーな、覚えてないんだよね」
覚えていない、というか知らない。
こんなに強烈なキャラクターを忘れるとも思えない。
でも、なんでこんなところにいるんだろう。
れな、確かウチのこたつの中で寝っ転がってミカン食べてたのに。
「あ!」
「え、なになにー」
「いや、れなの服、なんでこんなに汚れとうと」
なぜか、れなのシャツもパンツもドロだらけだった。
少女は困ったように「ウヘヘ」と笑い、首を傾げる。
こっちが首を傾げたい気分なのに。
「ウチに帰りたい」
「うーん……それはちょっと」
「寒い」
「あ、じゃあ、コレコレ、これ着て」
女の子はおもむろにパーカーを脱ぎ始める。おへそが見えて、ちょっとどぎまぎして目を逸らした。
パーカーの下は薄手のロンティーだった。
寒そうにガタガタ震えながら、脱ぎたてのパーカーを差し出される。
「寒くなか?」
「あ、ううん、エリは全然っ」
エリっていうのか。なんか、しっくりくる感じがする。にへらっとした笑顔はなんか柔らかい。
パーカーに袖を通すと、エリの体温が残っていて、ぬくぬくだった。それにいい匂いがする。ふわあ、と力が抜けるようだった。
- 92 名前:分身 投稿日:2005/12/24(土) 13:00
- 「エリ、寒くなか?」
そう訊くと、エリはくりっとした目を見開いた。そして、ううん、と笑顔で首を振った。
「なあ、エリ、れな、なんでこんなところにおると?寒いからウチに帰りたいと」
「ごめんね、れーな、もうちょっとだけガマンしてくれる?」
「寒いと、寒いと、寒いと」
「もーう、ガマンしてよう」
ぎゅっと、唐突に抱きつかれた。
ぎゅうっと力を込めて、抱きしめられる。
けど、なんでか、嫌な感じはしなかった。この女の子のことなんて全然知らないのだけど、嫌というよりむしろ、なんか懐かしい気がした。
れなの中のナニカが命令してくる。まるで、どうすればいいか知っているかのようにれなの身体が勝手に動く。
エリの華奢な身体を抱きしめた。
「エリ……」
「れーなぁ」
エリはホント、狭いところ、好いとうね。
れなの頭の中だけで響いた声は、れなの声だった。
なんで、れな、こんなこと知っとうと?だって、エリとは会ったこともなかったのに。
「……やっぱり、れーなはれーななんだね」
エリは安心しきったようにれなの腕の中で目を閉じる。
「気持ちいい……」
エリのこの温もりも匂いも、感触も、れなは覚えているような気がした。
『絵里のことはれなが幸せにしてやると』
『ホント?』
『だけん、絵里はれなのことだけ見とればいい』
『じゃあ、れーながエリのこと幸せにして。約束』
『約束』
この場面はなんだろう。れなの記憶の中にはない。けれど、確かに幼いれなとエリがいた。
れな、どっかで、エリと会ったと?
答えはやっぱりノーだった。わからない。少なくとも覚えてはいない。
「エリ、やっぱり寒いと」
「もー、れーなのワガママ!」
「寒かもんは寒か!」
「ガマンして!」
「いや……んむ!」
キスされて、唇を塞がれた。驚きに目を見開くと、目の前のエリが目を細めた。
唇が離れて、柔らかい感触が残った。
エリは「ウヘヘ」と笑った。
「ワガママいう子にはお仕置きだからね」
「……ワガママやなかもん、寒かもん」
口を尖らせる。エリはまた笑う。
どこか懐かしい気がした。
- 93 名前:分身 投稿日:2005/12/24(土) 13:01
- 『やっぱり買うと!あれ欲しい!』
『ダメ!お金使いすぎ!』
『でも欲しか!』
『ワガママ!』
『欲しい……んっ』
『んっ……ね?ワガママはダメ』
綿菓子の匂い、焼ソバの匂い、お祭りの匂い。エリの匂い。
これは、れなの記憶?
「ねえ、れーな?」
「なん?」
「大好き」
目を見て、真っ直ぐな言葉がれなを貫いた。
エリのことなんて、れな、何も知らない。
でも、なんか嬉しかった。
「……れなも好き」
口が勝手に動いた。こう言わなきゃいけないような気がした。
エリは目を見開いた。ほとんど同時に涙の粒が溢れた。透明な粒がポタポタっと地面に落ちた。
エリ、なんで泣くん?
ぐいっと手を掴まれ、そのまま引っ張られて、エリの腕の中に捕まえられた。
ぎゅうっと、強い力で、エリはれなを抱きしめた。
- 94 名前:分身 投稿日:2005/12/24(土) 13:01
- 「……れーな、れーな、れーな、れーな」
「エリ、なん、どうしたと?」
「れーな、れーな……っ」
エリはか細い声でれなの名前を呼びながら、ぎゅっ、ぎゅっとれなを抱きしめた。なんか胸が痛い。
エリの目はどこか遠くを見ている気がした。
『絵里は泣き虫っちゃね』
『泣き虫じゃ、ないもん……っ』
『今、泣いとうと』
『泣いてなんか、ないもん!』
白、白、白、白。真っ白い病院にれなはいた。そこにはエリもいた。エリは泣いていた。
そこにいたのは、ホントにれな?
「れーな、ごめんね、ごめん」
エリは泣きながら、れなの頭を抱きしめて、謝った。
なんだろう。エリに謝られる覚えなんかなかけど。
「エリ、大丈夫?」
「大丈夫、なわけないよう……っ!れーな、れーなあ……」
泣きじゃくるエリをどうすることも出来ず、れなはエリを抱きしめてあげた。エリは、れなが抱きしめると、また大きな声で泣いた。
『やだよ!エリを置いていかないで!』
『無茶言ったらダメとよ』
『やだ!やだやだやだやだあああ!』
『もう、やっぱり絵里は泣き虫っちゃ。れな心配っちゃ』
『ううっ、うう……っ!れーなのばかあっ!』
くぐもったやり取りが頭の中で響く。今度は声だけだった。エリとれなの声。
まただ。
これはなんなん?
- 95 名前:分身 投稿日:2005/12/24(土) 13:02
- 「エリ、れなは……ホントにれな?」
ヘンなことを訊いているとは思ったけれど、他にどう訊けばいいのかわからなかった。
れなは怖かった。
自分が、自分じゃないような気がした。れなは本当にれななのか。
さっきから割り込んでくる、まるで覚えのないエリとの記憶が、一体、誰のものなのか。
エリはれなの顔を見て、またぶわっと涙を溢れさせた。
「れーなあ……っ、えっく……ごめん、ね……!」
「れなは……なんなん?」
「……えっく、れーなは……れーなはっ、エリが……っく、エリが、造ったの……っ!」
「エリ、が……?」
れなはエリを抱き寄せた。エリが消えてしまいそうな気がした。
「れーなはね……っ、分身、なんだ……」
エリの嗚咽交じりの声が、倉庫に空虚に響いた。
しばらく、れなは震えるエリの背中を撫でていた。絵里の身体は熱い。
ブンシン、という言葉が規則的な円を描いてれなの頭の中でぐるぐる回っていた。
とても、深く静かな時間が流れていく。
物音一つ立たない。ただエリの小さな嗚咽と遠くで聞こえる波の音だけが聞こえる。
やがて、落ち着いてきたエリはぽつりぽつりと話し始めた。
- 96 名前:分身 投稿日:2005/12/24(土) 13:02
- 「れーなはね、エリの幼馴染だったんだ……。年下のクセに生意気で、でもしっかりしてるコだったなあ……」
「うん……」
「時々、ワガママ言って、でもそんなときはエリがお姉さんになってあげるの。そういうとき、ちょっと嬉しかった……」
さっきのエリの遠い目が、れなじゃなく、本物のれなを見ていたことに気付いた。
れなはエリの髪の毛に手を入れて、優しく梳いた。サラサラと真っ直ぐな髪が落ちる。
「れーなもよくそうしてくれたなぁ……。やっぱ、れーなはれーなだね、ウヘヘ」
エリは心地良さそうに目を瞑る。
「れーなはね、治らない病気で死んじゃったんだ……。置いていかないって、言って、なのに……エリを置いて、行っちゃった……」
「……ゴメン」
謝らなければならない気がした。けれど、れなの腕の中で、エリはふるふると首を振る。
「錬金術って、れーな、知ってる?」
レンキンジュツ、となぞっても、聞き覚えはなかった。
「知らん」
「エリね、れーなを生き返らせるために知り合いの人に頼んだの。その人は、二時間だけでいいなら、れーなを生き返らせてくれるって言ってくれた」
「二時間?」
エリは固い表情でこくんと頷いた。
「でもね、死んだ人を、生き返らせるのは、やっぱり無理で、二時間経ったら、れーなは、消えちゃうの……っ」
涙声だった。
「エリは、二時間でれーなが死んじゃうの、わかってて、それでも、れーなと一緒にいたかっ……っ」
エリは泣きじゃくる。
二時間で、れなは、消える?
でも、ぽかりとれなの心の中に浮かび上がってきたのは、絶望でも恐怖でもなかった。
「れーな……っ、ごめん、ごめん、ごめんね……っ、れー、な……っ」
れなは黙って、エリの頭を撫でた。
「法律で、錬金術は禁止されてるの……。だから、逃げてきたんだ、れーな連れて……。ただ、そうしなきゃって思ったの……」
- 97 名前:分身 投稿日:2005/12/24(土) 13:02
- 耳を澄ますと、潮騒が聞こえてくる。深い夜の冷たい空気が倉庫を支配していた。
れなはぼんやりと漂っていた。
別に、そんなに、ショックでもなかった。
二時間で死ぬというふうに決められて生まれた存在だとしても、それはれなの中ではあんまり大事なことではなかった。
ただ、れなは分身だと聞いて、ああ、そうなんだなあ、と思った。
だから、れなの中には本物のれながいて、きっと本物のれなが知っていたんだと思う。
エリとのやり取りも、エリの髪の梳き方も、エリの抱きしめ方も、エリの匂いも、全部、本物のれなが知っていたんだろう。
れなの中に眠る記憶に、手が届きそうな気がした。
れなのモトになった、本当のれなの、エリとの大切な記憶だ。
れなは、きっと、それを取り戻さなければいけない。
もう少し……!
れなは、ほとんど無意識にエリの温もりをぎゅっと抱きしめた。
それに触れた瞬間、激しい光の奔流が頭に流れ込んできた。
- 98 名前:分身 投稿日:2005/12/24(土) 13:03
- エリの声、泣き声、怒鳴り声、叫び声。
エリの顔、泣き顔、怒った顔、変な顔。
エリの匂い、シャンプーの匂い、石鹸の匂い。
これが本当のれなの記憶なんだ。
偽者のれなじゃなくて、本物のれなが過ごした大切なエリとの記憶なんだ。
その一端に触れただけで、どれだけ、れながエリを愛していたか、言葉じゃなくて、直接、伝わってきて、わかる。
誰よりも深く、優しく、れなはエリを愛していた。
れなにとって、エリは本当に世界の全部だった。
れなは泣いていた。
頬につうっと熱が流れた。
熱かった。そして、痛かった。
本物のれなの気持ちが、れなの中に満ちた。
- 99 名前:分身 投稿日:2005/12/24(土) 13:03
- 「エリ……」
「れー、な……?」
エリがれなの目を覗き込んでくる。
れなは涙を流していた。ずきずきと胸の奥が痛かった。
これは本物のれなの涙だろうか。偽者のれなの涙だろうか。
「エリはアホたい……。心配したとおりだったと」
「れーな、なの?」
「傷ついとうエリなんか見とうなか。泣いとうエリなんか見とうなかよ……」
「れーなっ!」
れなの腕の中にエリが飛び込んできた。
れなはぎゅっと腕に力を込める。
「狭かとこが好きなんて、エリはヘンっちゃ」
「バカ、バカあっ!置いていかないって言ったくせに!言ったくせにい!アホ!バカ!チンチクリン!」
「アホ、言い過ぎ」
懐かしい。
感触も匂いも何もかも、エリの全てが懐かしくて、愛しい。
やっぱり、れなはれなの分身だと、実感した。
- 100 名前:分身 投稿日:2005/12/24(土) 13:04
- そのときだった。
するすると身体の中から、何かが抜け落ちていく感覚がした。本当にれな自身がなくなっていくような今まで感じたことのない、不思議な感覚だった。
ふと見ると、れなの欠片がさらさらと砂になって、地面に落ちていた。
れなはすぐに悟った。
ああ、そっか。なんか、もう、時間みたいだ。
「れーな!」
エリがぽろぽろ涙をこぼしながら、叫ぶ。れなは微笑み、立ち上がった。
怖くなんてなかった。
「れなは、たぶん、もうすぐ消えるっちゃけど、エリ、約束しよ」
「やだ!行かないで!行ったら許さないから!」
エリが泣きながら、ぎろりとれなを睨んできた。れなは困って眉を下げる。
「仕方なかよ、エリ……。こうやって、エリと会えて嬉しかった……。でも、約束して欲しかよ。もう、泣かないって」
「やだ!」
「エリぃ……」
「行かないでよ!また、泣いちゃう、よ……っ」
エリは顔をくしゃくしゃにして、泣きじゃくる。
もう、れなの右腕は消えていた。
残された時間は短い。
「エリ、ありがと……。でもな、もうれなのことで、泣くな……。れなは約束守れんかった……。だから、他の誰かに幸せにしてもらえ……」
「やだよう……れーながいいもん……れーなじゃなきゃ……」
「エリ!」
エリがびくっとして、顔を上げた。泣きすぎて腫れたエリの目がれなを射抜いた。
そこで、れなも自分の頬に伝う雫に気付く。
れなも、やっぱり泣いていた。
- 101 名前:分身 投稿日:2005/12/24(土) 13:04
- 「頼む……!エリがそんなんじゃ、れなも安心出来んとよ……」
もはや懇願だった。れなの両足はもう、消えている。
エリはぶんぶんと首を振りながら、れなに抱きついてきた。きっともう、感触はほとんどないだろう。エリははっとして、心配げな表情で、れなを見上げてくる。
「れーな、苦しいの?痛いの?」
れなは首を振る。
エリはれなの頬をそっと両手のひらで包みこむ。温かい、エリの温もりが伝わってきた。
「エリの、せい、だよね……。エリが、こんなことしちゃったから……。いなくなるってわかってるのに、またれいなを苦しませちゃう……」
「れなは……苦しくなんかなかよ。でも、エリが約束してくれるまでは、行けんと」
エリの表情が苦しげに歪んだ。
わかっていた。
どんなに残酷なことを言わせようとしてるか、とか、自分勝手な約束だってことも、わかってる。
でも、もう、れなの身体はは半分も残っていない。
時間がなかった。
れなは唯一、残っている左手でエリを抱き、キスをした。
今度は、エリが目を見開いた。れなは懐かしい、柔らかな感触を感じながら、唇を離した。
「……ワガママはいかんと」
「れーな……っ!」
さらさらとれなは、消えていく。
「れーな!」
れなの身体を構成していた物質がその機能を放棄して、れなを壊していく。なくなっていく。
声を出そうとしたが、喉に何かが引っ掛かってるみたいに、上手く声が出ない。
もう、れなは喋れもしない。
れなは掠れ声で、相変わらず泣きじゃくっているエリに言った。
「や、く、そ、く」
エリはこくこく頷いた。
れなはにっこり笑った。
「わ、ら、っ、て、え、り」
最後の力を振り絞って、れなは言う。
エリはぐしゃぐしゃになって泣きながら、「ウヘヘ」と笑った。
「よ、か、っ、た」
れなは、笑った。
そして、れなはバラバラになって壊れた。
- 102 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/24(土) 13:06
- >85様。86様。87様。88様。
どうもありがとうございます。励みになります。
- 103 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/24(土) 13:06
-
- 104 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/24(土) 13:07
-
- 105 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/25(日) 15:14
- 独特の雰囲気が好きです
- 106 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/27(火) 19:24
- 儚さがすごく好きです
- 107 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/04(土) 23:11
- すごく好きです
勝手にずっと待ってます
Converted by dat2html.pl v0.2