ANNIVERSARY

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:18
超短編というほど短くないので森に立てようかと思いましたが、こちらで足りそうなので。
メロン村柴リアルです。
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:19
「…え? いま、なんて?」

聞き返しながら、言われた言葉を脳内で繰り返す。

目の前の彼女の表情がみるみるうちに曇っていく。

落胆と、諦めとが同じ比重ぐらいで混ざり合ったその表情で、聞いた言葉が聞き間違いなんかじゃないことを思い知る。

「…ムラタは柴田くんのことが好きなんだけど、柴田くんは?」

あたしの脳内で繰り返されている言葉を、さっきより緊張を差し引いて、さっきより諭しを押し含んで、彼女がもう一度告げる。
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:20
「す…、好き、って…それって」

答えるあたしの言葉は、なんて間抜けなものだろう。

もっと具体的に言ってもらわないと判らないような言葉の種類ではないのに、ましてあたし自身、そんな子供でもないのに。

彼女、むらっちは、あたしの答えを聞いてますます苦笑いになって、ひとつ、大きく息を吐いた。

「うん。そういう意味。…柴田くんのこと、恋愛対象として好きだよ」

吐き出された息が意味しているのは期待じゃなかった。

きちんと判りやすい言葉で反応してくれたむらっちが、あたしが答える前に少し伸びた前髪をかきあげた。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:20
「……ひょっとして、柴田くんもそうなのかな、って、思ってたんだけど、違ったみたいだね…、うん、ごめん、忘れて」
「…え…」
「ってのは無理か、ごめんごめん。でも、気にしないでいいよ」

これ以上は言わないし、だからもう何も聞かないで、というように、むらっちが手のひらをあたしに見せて一歩後退さる。

「ごめんね、帰るとこ呼び止めたりして。お疲れさま、またあした」
「…む……っ」

言うだけ言ってあたしに背を向けてしまったむらっちの背中がひどく胸を締め付ける。

だけど、咄嗟に名前を呼ぼうとして、でもそれは最後までちゃんとした呼び声にはならなかった。

だって、呼び止めたってむらっちが望むような事態には好転しないし、
もう一度むらっちの顔を見て同じ言葉を聞いたところで、あたしが答えられる言葉なんて何ひとつないんだから。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:21
少しずつ少しずつ小さくなっていくむらっちの背中。

線が細い彼女だけれど、後ろ姿は意外と凛々しい。

けれど今、その背中はとても傷付いているように見えた。

いや、そう見えているのは間違いでも思い上がりでもなんでもなくて、勿論、その原因はあたしなのだけれど。

むらっちがタクシーに乗り込むのを見届けてから、あたしも駅に向かって歩き出した。

ずれたマフラーを巻き直し、そこに鼻先まで埋めて、歩きながらむらっちが言った言葉をまた脳内で繰り返す。

何度も何度も、気にしないでいようと思う自分の意志とは裏腹に繰り返されていく。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:21
『柴田くんが好きなんだけど』
『柴田くんのこと、恋愛対象として好きだよ』

「……だって、今までむらっちのこと、そういうふうに見たことないのに……」

『柴田くんもそうなのかなって思ってたんだけど』
『好きだよ』
『柴田くんは?』

「…そんなの、急に言われても……」

『柴田くんもそうなのかなって思ってたんだけど』

「…っ、…そんなこと……っ」

『好きだよ』
『柴田くんは?』

『柴田くんは?』

「………そんなの……」
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:21
あたしの反応にひどく落胆したむらっちの表情が浮かぶ。

鼻先まで埋まってるあたしの声はあたしの声じゃないみたいにくぐもって。

「……そんなの、わかんない」

鼻の奥がつーんとして痛くなってくる。

それが寒さのせいだけじゃないだろうということは判るけれど、でも他に何の理由があるのかなんてあたしにはよく判らなかった。

「…わかんないよ、むらっち」

ただそのときに判っていたのは、あたしの言葉でむらっちを傷つけてしまった、ということだけだった。
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:22


9 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:22
次の日、あまり眠れなくて、だけど遅刻するのは嫌で、集合時間より少し早くラジオ収録のスタジオについた。

楽屋に行くと、もうマサオくんとむらっちがいて、ふたりでファッション雑誌を眺めてる。

あたしを見つけたのはむらっちが先で、目があった途端、あたしのカラダは凍り付いてしまったというのに。

「あ、おはよー、柴田くん」
「おー、おはよー、あゆみん。早いじゃん?」
「…お、おはよう、マサオくん、むらっち」

昨日のことなんてまるで嘘のようにいつも通りの笑顔のむらっちがそこにいて、強張ったカラダから一気にチカラが抜けていく。
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:22
「今日はめっずらしくひとみんが遅いねぇ」

なんて言いながらむらっちがドアのほうへ視線を投げる。

「柴田くんも珍しいよね、遅刻しないなんてさ」

なんて、ドアを見ながら言う。

不意に向けられた言葉に勿論あたしは答えなんて用意してなくて。

「なっ、そ、そんなこと……っ、あ、あたしだって、たまには…っ」

思わず詰まったあたしにゆるりと視線が向けられて。

「なーにムキになってんの。冗談だよ、冗談」

昨日のことなのに、まるで夢だったみたいな雰囲気が気に食わなかった。
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:23
確かに、気にしないで、って言われたけれど、だからってホントに気にしないでいることなんて出来るワケなくて、
なのに、そう言った本人のほうがすっかり忘れているみたいな態度が癪に障ったし、
同時に、微笑む口元がオトナの余裕、みたいなものを醸し出してて、それがなんだかすごく悔しかった。

むらっちを傷つけてしまったんだってことがすごく申し訳なくて、それを考えたらひどく自分がいけないことをした気持ちになって、
ベッドにいてもすぐに目が覚めてほとんど眠れずに今日はここにいるっていうのに。

むらっちに会ったらどんな態度をとればいいのか、あれこれ悩んだ自分がバカみたいに思えた。

「ムキになんかなってないよ、むらっちのバカ!」

一緒の部屋にいるのが不愉快で、叫ぶようにそう言って、荷物を置いて楽屋を飛び出した。
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:23


楽屋を出て、行き先に迷う。

一緒にいるのが嫌で思わず部屋を飛び出したはいいけれど、
ラジオの収録時間中は結局そばにいることになるんだし、事情を知らないマサオくんの前で、
こんなふうに一方的にむらっちに怒鳴って部屋を出てくると、結局自分のほうが立場だって悪くなる。

「……あたし、バカみたいじゃん」

階上へ昇る階段を一段ずつ昇りながら呟くと、いっそう後悔の念が強くなった。

「……なにやってんだろ、あたし」

あんなふうに微笑んだからと言って、むらっちが、傷付いてないワケがない。

思っていたよりも普通の態度を取られて勘違いしてしまうところだった。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:23
むらっちじゃなく、あたしだってことを。
あたしが、傷つけたんだ、ってことを。

昨夜のむらっちの傷付いた顔を思い出して、急に胸が痛くなってくる。

踊り場について、思わずそこにしゃがみこむ。

「……あたしのほうがバカじゃん……」

何気ない様子を装うことがどれほど困難か、知らないほど子供でもない。

だから、いつも通りの今朝のむらっちが、ホントはどんな気持ちでいるのかを推し測ることだって、冷静になった今なら出来る。

ちゃんと謝らないと。
どう考えたって、悪いのは自分じゃないか。
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:24
「……もどろ」

すくっ、と立ち上がって、踵を返した瞬間、あたしの心音がドキリと跳ねる。

踊り場から見下ろした先、階段の段差が途切れたそこに、心配そうな目であたしを見上げるむらっちがいた。

あたしが振り向くとは思わなかったのか、むらっちはバツが悪そうに視線を背けて階段を駆け足で降りていく。

息に乱れがなかったのと足音がなかったことを考えると、上へと向かうあたしを見つけて駆け上がってきたんじゃないと判る。

つまり、静かにあたしを追いかけてきたのだと。

見つからないように、そっと。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:24
追いかけてきたくせにあたしを呼びとめたり近付いてこなかったり、まして今、目が合っても何も言わずに行ってしまったのは、
あたしが昨夜、彼女を拒んだせいだということも同時に判った。

何かあった? と、以前の彼女なら声をかけてくれただろう。

でもそうしない。
いや、出来ないのだ。

あたしが、むらっちの気持ちには応えられないと、拒んでしまったから。

むらっちが駆け下りて行った先をぼんやり見つめながら、また、鼻の奥が痛くなるのを感じる。

俯いて、ぎゅっと唇を噛んで、込み上げてくる何か判らないものを押し戻して、それからゆっくり頭を上げた。

いないはずのむらっちの残像の見える目前に、まだ胸の辺りがざわざわするけれど、振り切るようにあたしも階段を駆け下りた。
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:24


17 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:24


18 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:24
むらっちがあたしを好きだと言った日から、
あたしは、彼女があたしに対してどれほど甘かったのかということを思い知った。
同時に、どれほどあたしがそれを無意識に甘受していたのか、ということも。

甘い、というのがただ優しいだけのことを差すなら、それはマサオくんや瞳ちゃんにだって言える。

甘やかされている、というよりは、一番年下だという意味で可愛がられている、という感じだけれど、
それでも、他のメンバーに対してよりも幾らか違う扱いを受けているような。

勿論それはあたしが他のみんなに馴染んでない、という意味ではなくて、
そういう扱いを受けなくてはいけない立場にいる、ということ。

つまり、まだ、あたし自身が未熟だという意味でもある。

まったく悔しくないと言えば嘘になるし、だからといって今のあたしの位置付けが不愉快極まりない、ということもない。
これがあたしたちの関係なのだ、というところに、ちゃんと落ち着いてるから。
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:25
でも、むらっちのあたしに対する態度が実はそれを逸脱していて、
なのにあたしはそれを知らないままで当然のように受け止めていて、
それに気付いてからは当たり前のように差し出されていた手はもう当たり前ではなくなっていて、
前のように振る舞わなくてはならないことがどれほど不安定なのかを痛感することにもなって、
だけどあたしもむらっちも、それを表面に出さなくてもうまく日々を過ごしていて、
自分でも驚くぐらい、それはスマートに穏やかに繰り広げられていて。

当事者のあたしたちがそうなのだから、何も知らないひとが見ても、
あたしとむらっちの間に流れる空気は何も変わってなかった。

事態は何も…、そう、告白を受ける前と何も変わってない。

――――― 変わってないように、見えた。
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:25
むらっちの気持ちを拒んでから、他人には判らないかも知れないけど、
でもあたしにだけは判ることで変わったことがふたつあった。

ひとつは、オフの日はたいてい、一人暮らしを始めたあたしの部屋に来ていたむらっちが来なくなったこと。

これは、当然といえば当然で、たとえば前のように来られてもあたしが困るけれど。

今思えば、あたしはむらっちと過ごすのが居心地良かったからだけど、むらっちは、それだけじゃなかったんだと判る。

むらっちの本心が判って、それを不愉快に思うことはなかった。
むしろ、あまりにも鈍感な態度で彼女に接してきた自分が恥ずかしいくらいで。

もうひとつは……。
21 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:25
「ひとみーん」
「はいはい、なんなのよ、もう」

鏡に向かって髪を梳いている瞳ちゃんの背中からむらっちが抱きつく。

「かーまってー」
「犬か、アンタは!」

両手を丸めて瞳ちゃんの髪にじゃれつくむらっち。

「ちょっとちょっとぉ、今あたしメイク中なんだからマサオんとこ行きなさいよ」
「マーシー電話中」
「だったらそこでヒマそうにしてるあゆみに構ってもらいなさい」

ドキ、とあたしの胸が鳴る。

でも、むらっちの視線はあたしに向かない。
22 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:25
「やだ、ひとみんがかまって」

視線どころか、意識すら向かない。

「…っ! アンタ、邪魔したいだけでしょ!」
「ぬははー、バレたか」

悪戯っぽくそう言って、瞳ちゃんの首に巻きついていたむらっちの腕が解かれる。

それを見ていたあたしとむらっちの目が不意にかち合って、思わずお互いが顎を引く。

何か言わなきゃ、と思ってあたしが口を開こうとするより先に、むらっちが目を逸らす。

「…あ、そーだ、あたしも電話しなきゃいけないの忘れてたわー、ちょっと出てくるー」
「はいはい」

瞳ちゃんの半ば呆れた声に見送られるようにむらっちが楽屋を出て行く。
23 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:26
むらっちがいなくなったことで、室内の空気が少し変わる。

どう変わったのかと問われてもそれはうまく表現出来ないけれど、
あたしが感じる限りでは、少しだけ、ホントに少しだけ変わった。

………そして、もうひとつは、むらっちがあたしより先に目を逸らすようになった、ってこと。

なんだろう、なんていうか。

いつもそばにあった視線や声が自分に向かないだけで、こんなにも居心地悪くなるもんなんだろうか。

それともあたし、そんなにむらっちに依存してたの?

自分で考えて出た答えに、自分自身でギョッとなる。

なんてこと考えたんだ、いまのあたし。
これじゃまるで……。
24 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:26
視線を感じてそちらを見ると、鏡越しに瞳ちゃんと目が合った。

直接見られていたワケじゃないけど、ぼんやりとじゃなく、
鏡越しでも確かにあたしを見つめていた瞳ちゃんは、何か言いたげにしていた。

「…あのさあ」

鏡越しにあたしを見つめたまま。

「ここ最近のあゆみ、なんかおかしくない?」

ぎくり、と胸は鳴ったけれど、それは表面には出ない。

「そうかな?」
「あたしの気のせい?」
「うん。別に変わったことって何もないよ?」
「そっか。ならいいや」
25 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:26
あたしに注がれていた意識が唐突に途切れる。

あたしを見ていた瞳ちゃんは、もう気になることは解消できたと言わんばかりに、
鏡に映る自分のメイクに崩れがないか、食い入るように見ている。

「…てゆーかさあ、あゆみより、あいつだよ、あいつ」
「え?」
「むらっち。あいつのほうがあゆみよりずっとおかしい」

さっき指摘されたときより大きく跳ねた心音。
26 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:27
「お…、おかしいって、たとえば、どんなふうに?」
「どうって…、具体的にはうまく言えないけど、でもなんか、おかしいんだよねえ。だいたい、あんなにくっつくヤツだったっけ?」

うまく返事が出来ないのは、むらっちの変化の理由を知っているからで。

「ここんとこ、妙にベタベタくっついてくるっていうか」

あたしとじゃれていたむらっちが、あたしに触れなくなった理由を知っているからで。

「まー、別に、あたしだってスキンシップは嫌いじゃないけどさー」

あたしがむらっちを拒んだから、むらっちが傷ついてるってことをあたしだけが知っているからで。

「でも、なんていうか、誰彼構わず、ってところが、なんかちょっと、危なっかしいっていうかさ」
27 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:27
なのに。
なのになんで。

なんであたし、こんなに、悲しいんだろう。

……悲しい?
なんで悲しいの?

なんで、ってそればっかり浮かんでくる頭の中が、次第に思考を遮断するように濁っていく感じになる。

考えたらダメだ、っていう、無意識の警告信号みたいな。
28 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:27
「……瞳ちゃん」
「ん?」
「なんか…、…なんか、ちょっと…、気分…、悪い」
「ええっ!?」

胸の奥のほうが小さな針を幾つも、だけど浅く刺されてるみたいに痛くなってきた。

「気分悪いって、なに、吐きそうとかそういうの?」

ちくちく痛む胸のあたりを抑えながら俯くと、焦った様子で瞳ちゃんが駆け寄ってくる。

「大丈夫? ねえ?」
「だい、じょぶ…」
「医者行く? 誰か呼ぼっか?」
「…いい…、そんなんじゃ…、ない、から」
「でも…」
「……トイレ、行って来る」
「あ、うん、…ついてこうか?」
「ううん…、へー、き…」
「吐けそうなら無理しないで吐いておいで」

心配そうにあたしの顔を覗き込んでくる瞳ちゃんに作り笑顔を向けて、あたしも楽屋を出る。
29 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:27
胸のちくちくと、気分の晴れない感じはどんどん強く大きくなっていくけど、でもその原因はよく判らなかった。
むらっちのことだ、ってことは判っても、むらっちのいったい何があたしをこんなにさせてるのかが判らなかった。

瞳ちゃんに言ったとおり、あたしは覚束ない足取りで化粧室に向かった。

あいにく楽屋から一番近い化粧室までは少しだけ距離があって、
それは楽屋の前からまっすぐに延びた廊下の一番端にある。

途中に上下階に繋がる連絡用の非常階段の扉があって、
たぶん、そこでむらっちやマサオくんは電話してるんだと思ったけど、
通り過ぎるときに、開いた扉の向こうにふたりの姿はなかった。

それで幾らかホッとしたのに、視線を上げたあたしの目に映ったのは、
あたしが今向かおうとしている化粧室から出てきたむらっちだった。
30 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:28
お互いがお互い、視界にその姿を認めて動きが一瞬止まる。

でも、あたしが動くより先にむらっちが視線を外して、今出てきたばかりの化粧室へと視線を変えた。

瞬間、胸のちくちくがズキズキした痛みに変わる。

あたしに見せていたような無邪気な表情は、むらっちの視線の先に向けられている。

誰? と思うより早く現れたのはマサオくんで、
マサオくんがあたしの姿を見つけるより先に、むらっちの細くて長い腕がマサオくんに伸ばされる。

今まで、むらっちが誰かに抱きつくのを見たことがないワケじゃない。
抱きつく行為にだって、たいして意味がないことだって判ってる。

だけど、それはあたしには違ってた。
あたしのことが好きだから、抱きつく腕やそこに向けられる感情は、あたしに対してだけの特別で、他とは違うはずだった。
違ってたはず、だった。
31 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:28
でも今、あたしの目の前でマサオくんに抱きつくむらっちは、以前と何も変わらない。

むらっちのあの行動は、あたしがむらっちの気持ちを拒んだからで、
きっとむらっちは、むらっちのことを傷つけてしまったあたしを気遣ってくれていて、だからこその行動で、
あたしに触れないのも、あたしをまっすぐ見ないのも、全部、あたしのせいで、
あたしの……、せい、で…。

胸の痛みがどんどん増していく。

ねえ、苦しいよ。

むらっち。
ねえ、むらっち、すごくすごく、胸が苦しいよ……。
32 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:28
「……や…」

喉の奥のほうから競り上がってくる気持ち悪いものに吐き気がする。
吐き出さなくちゃ気持ち悪さはきっとなくならない、それが判る不快な気分。

「…む、ら……」

マサオくんが呆れたようにむらっちの腕を解いたのが見えた。

「むらっち…っ!」

あたしの声に驚いたようにふたりとも振り返る。

久しぶりに、あたしを見つめるむらっちを見た気がして、ほんのちょっとだけ気持ち悪さが薄らいだ。
33 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:28
名前を呼ばれたことにむらっちは困惑したようで、でも、あたしが何か言い出すより先に視線は外されてしまった。

呼んだのに。
ちゃんとむらっちのこと、呼んだのに。

隣にいるマサオくんが怪訝そうにあたしとむらっちとを見比べる。

何か言わなくちゃ。

そう思うのに気持ち悪さだけが先行してうまく言葉が紡げない。

すると、むらっちはマサオくんの肩を叩いてくるりと踵を返してしまった。

行っちゃう…!

そう思った瞬間、あたしの口からは予想もしなかった言葉が出た。

「ヤダ! むらっち、行かないで!」

吐き出した言葉が、一気に胸の奥の痛みと気持ち悪さを昇華する。
34 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:29
「やだ…、やだよ…、行かないでよぅ…」

込み上げる、よく判らない感情に流されるまま、逆らわないまま言葉を吐き出すと、自然と涙も零れた。

「行っちゃやだ…やだよう、むらっちぃ…」

言葉を選んでる余裕なんてなかった。
込み上げてくる気持ちと言葉はそれだけしかなかった。

自分が泣いているのだと判って、両手で顔を覆った。
声はくぐもってしまうけど、それでも何度も何度も、行かないでと訴えた。

手で顔を覆う直前、視界の端に立ち尽くしていたむらっちがあたしのもとへ駆け寄ってくるのが見えて、
こっちに来てくれる、ということが少しの安堵を呼んで、あたしは膝から崩れ落ちた。
35 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:29
「柴田くん…っ?」

膝のチカラを失くしたのに床に倒れこまなかったのは、駆け寄ってきたむらっちとマサオくんに支えられたからだった。

あたしの左腕を掴んだ手のひらの熱は、よく知る体温だった。

「あゆみん?」

心配そうなマサオくんの声が右側から聞こえた。

だけどあたしは、崩れ落ちかけた膝をなんとか踏ん張って、あたしの左腕を掴んでいるむらっちの腕を掴み返した。

そして、そのままの勢いで、細いそのカラダにしがみ着く。
36 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:29
「しば…っ?」
「行ったらやだ。やだよ。なんで? なんであたしのほう見てくれないの? なんであたしに触ってくれないの?」
「そ…、それは、だって…」

少しだけある身長差から、むらっちの手の体温は、そっと触れてきた肩先に感じた。

「判ってる、勝手なこと言ってるって判ってる。でもやだ。むらっちがあたしじゃないところに行くはやだよ」
「柴田くん…」
「やだよ…」

背中にまわしたあたしの両腕の中に、むらっちの華奢なカラダは難なく拘束される。

だけど、戸惑いを感じても強い抵抗は少しも感じなくて、
自分から求めて得たむらっちの体温と匂いが、自分の飢えを知らせた。

飢え、という単語が脳内で変換されて、あたしはその意味に納得し、実感する。

知らずにしがみ着く腕にもチカラがこもった。
37 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:29
「……えーと、マーシーは、楽屋に戻りますので」

ぽすぽす、とあやすようにあたしの後頭部を撫でたマサオくん。

「あ、うん、ごめん。すぐ…、あ、いや、ちょっと、ゆっくりしてっていい?」
「コレが泣き止むまではアンタが付いてなさい」

コレ、という言葉のとき、撫でられていた部分に軽いゲンコツのような感触がした。

そして、次第にマサオくんの気配が遠くなる。
38 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:30
「……柴田くん? 歩ける?」

マサオくんも撫でた後頭部をむらっちも撫でてくれて、あたしはやっと腕のチカラを解いた。

少しだけカラダは離したけれど、完全に離れてしまうとまた距離を置かれそうで、
あたしの手はむらっちの服の袖を無意識に掴んでいた。

「…逃げないから、ね? ……あっちに座ろ」

諭すような声色で袖を掴む手をそっと包まれる。

手を、繋がれるのなんて、何日ぶりだろう。

そう思うと顔が熱くなったけれど、カラダや髪に感じる熱とは違って直接伝わってくるような手のひらのぬくもりに、
あたしはその熱を他へ漏らさないようにと、半ば必死に握り返していた。
39 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:30
繋がれた手を引かれるままに非常階段の扉を抜けて、
扉を閉めたら出来上がる簡易な密室で、階段の段差に直接腰を降ろす。

あたしが先に座って、むらっちがそのあたしの左側に座った。

座ってすぐ、溜め息が聞こえた。

その吐息には明らかに困惑の色が含まれていて、むらっちを困らせていることを顕著なまでにあたしに教えてくる。

「…ちょっと落ち着いた?」

こく、と頷いたら、繋いでいた手を外された。

咄嗟に顔を上げたあたしの目には、苦笑するむらっちが映って、胸がぎゅってなった。
40 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:30
「………困ったねえ」
「こ…、困る、って?」
「うーん、まあ…、なんというか…」

むらっちの右袖を掴むと、それを視界に認めたむらっちはますます苦笑した。

「…柴田くんがムラタにそういうことを思ったりしたりしてくれるのは、大変嬉しいんだけども」

大きく、息を吐き出して。

「…でもそれ以上に、結構、キツイですよ」
「な、なんで?」
「ムラタの気持ちには応えられないのに、ムラタが余所を見るのは嫌って、勝手じゃないですかね?」

言葉に詰まる。

むらっちの言い分が正論。
あたしのは、ただのワガママ。

でも、だけど。
41 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:30
「……でも…、でも、嫌…、なんだもん…」

そしてまた、むらっちが大きく息を吐き出した。

「……困りましたね」
「か…、勝手なことだって判ってる」
「うん」
「でも、いきなり、むらっちを近くに感じなくなるのは、あたしだって困る」
「慣れてください」

以前だったら、こんなふうに敬語で他人行儀に喋られても何も感じなかったのに、
悲しくなるくらいの違和感と距離感があたしの身勝手さを痛感させる。

「……そんなの、無理だよ」

何年、その手と体温に甘やかされてきたと思ってるの。
42 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:31
「…すぐには無理でも、いずれ慣れますよ」
「慣れるまで我慢しろってこと?」
「うん」
「そんな……」

言葉が繋がらないのは、むらっちの言葉通りに、
いずれあたしも慣れるのかも知れない、と考えてしまったせいかも知れない。

むらっちが再び溜め息をついて、袖口を掴んでいたあたしの手を離させると、
視界にあたしをいれないように、腕組みした両肘を膝に置いて上体を前屈みに倒した。

「……こっちだってツライんだよ。言ったでしょう? ムラタは、恋愛対象として柴田くんが好きだって。
柴田くんは、もうその意味が判らないような子供じゃないでしょう」

どん! と背中を叩かれた気がして、同時に体温も上がる。

「……こうやって隣にいるのだって、いつまで抑えてられるか、自信ないんだよ…」
43 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:31
両手で顔を覆ったむらっちの声がくぐもる。

切なさと弱さを伴ったその声に胸が締め付けられて、でもその胸の痛みがどういう感情から生まれているのか曖昧で、
ただ、あたしのすぐそばにいるむらっちの、抑制の先を、知りたいと思った。

今、むらっちに触れることがどれほど危険であるかを予測できないワケじゃない。
隣にいるだけでどれほど自身の感情と情熱を抑圧しているかも、読めないワケじゃない。

それでも。

躊躇しながら、あたしはむらっちの腕にそっと触れた。

弾かれたようにむらっちが振り返って、一瞬、ひどく悲しそうに眉を歪ませて、けれどすぐに怒ったように、表情を失くした。
44 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:31
「……バカだね」

低く、唸るような、軽蔑さえ含まれているような声にカラダが強張った。

腕に触れたあたしの手が強く引かれるように掴み返される。
もう一方の手もたやすく片手で絡め取られて頭の上の壁へと押し付けられ、
むらっちの長い骨ばった指があたしの顎に添えられて顔を固定される。

初めて見るむらっちだった。

怖くないと言えば嘘になる。
だけど、ここで逃げるワケにはいかなかった。

「何度も、警告したよ」
「…む、ら…」
「後悔しなさい」

噛み付かれるような、激しくて、怖いキスだった。

だけど、同じくらい、熱くて、悲しくて、胸に痛い、切ないキスだった。
45 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:31
ただ押し付けるだけのキスではなく、舌先で唇と歯を割って中へと侵入してくる乱暴なそれは、
実際にむらっちの歯があたしの唇を噛むたびに脳だけでなく全身にまで刺激を訴えてきた。

中のすべてを探ろうと深く深く入り込んでくる舌に、キスするときの呼吸の方法さえ攫われる。

隠されていたむらっちの本能の情熱に触れて、
そんなむらっちを今までカケラすら見つけられなかったのが不思議なくらいだった。

こんなに激しい情熱を、あたしに、持っていたのだ。
46 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:32
どれくらいの時間、両手の自由を奪われて、簡単には探れない場所を侵食されていたのかは判らない。
けれど、むらっちがあたしから離れたとき、あたしの呼吸はひどく乱されていて、無意識のうちに、涙も零れていた。

肩で息をしながらむらっちを見上げるあたしに、むらっちはとても悲しい笑顔を向けた。

「謝らないよ」

きっぱりと言い放つ声。
迷いのない、声色だった。

「もうこんな怖い思いしたくなかったら、ムラタの前で無防備にならないようにしなさい」

あたしの唇の端から零れる、飲み込めきれなかった唾液の筋を指で掬い取りながら。

「…先に、戻ってなよ」

目尻から溢れた涙も拭い取って、口元だけで笑う。
47 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:32
言葉が出ないままにむらっちを見つめると、目元がほんの少しだけ和らいだ。

「……そんな顔しなくても、ちゃんとあとで行くよ」

それでもまだ動けないあたしを、むらっちが苦笑いしながら立ち上がる手助けをしてくれた。

「…でも今は、ひとりにして」

これ以上そばにいることも許さない雰囲気を纏ったむらっちに、あたしは反論も反抗も出来ず、
少しフラつく足取りで、まだ段差に腰を降ろしたままの華奢な背中を見つめた。

小刻みに震える手で扉を開けて、むらっちの望み通り、彼女に静寂を提供する。

楽屋への短い距離を歩きながら、あたしは、あたしがどれほど彼女の感情を自分の物差しで計っていたのかを思い知った。

優しさの裏に隠された情熱。
情熱を覆い隠す理性。
理性を凌駕する本能。
本能に負けない優しさ。

むらっちの、あたしに向けられているそのすべての感情が、あたしのためであり、そして、あたしのせいなのだと。
48 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:32
楽屋に戻ったあたしはまだ涙も乾ききってない状態で、うまく笑うことも話すことも出来なくて、
瞳ちゃんとマサオくんは、一緒にいたはずのむらっちに対してひどく憤慨して見せたけれど、
数分後に戻ってきたむらっちがあたし以上に憔悴しているのを見て、その怒りはあっさりと消え失せてしまった。

その日、あたしは4人での仕事のあとに別口の仕事が用意されてしまったので、
3人が帰ったあともスタジオに残ることになってしまったけれど、
仕事中も、休憩中も、むらっちがあたしに触れることは一切なく、まして、視線が合うことすら、なかった。
49 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:33


50 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:33
玄関ロビーのインターホンを押したら開けてくれないことは予測できた。

だから、以前教えられた暗証番号を入力して、幾らかうしろめたさを背負いながら中へと入り、エレベーターに乗り込む。

目的の階に降り立って、部屋の前まで来てインターホンを押すと、部屋の中からドアに近付いてくる気配がして、
ドアスコープで確認した相手が息を飲んだのが伝わってきた。

勢いよく開いたドアのノブを持った相手は、綺麗なその顔をひどく怒りに歪ませている。
51 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:33
「……なんで、来たの」
「話、したくて」
「ムラタはないよ。帰りなさい」
「やだ。聞いてくれるまで帰らない」

呆れたように深く溜め息をついて前髪をかきあげる。

薄く眼鏡のレンズが光ったことで、彼女のかけている眼鏡が本物であることが判って、
既に今の時間の彼女が、プライベートタイムで寛いでいたのだと知る。

「学習しないコだね。また怖い思いしたいの?」
「中、入っていい?」
「ダメ。帰りなさい」

にべもなく言い放ってドアを閉じようとするその間に手を伸ばす。

間一髪、ドアに挟まれることはなかったけれど、むらっちのあたしを見る目はとても冷ややかだった。

「…話、聞いて」
52 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:33
しばらくそのまま見詰め合ったあと、折れたのはむらっちだった。

あたしを中へ入れまいとドアノブに添えられていた手が引かれ、
外側からノブを持っていたあたしはそれを手前に引いて、部屋の中へと自身のカラダを滑り込ませる。

靴を脱いで中へ足を踏み入れて奥へ進むと、むらっちはキッチンにいて、ミルク鍋をコンロにかけていた。

無言の威圧感に負けまいとコートを脱いでソファに座る。

数分後、温かそうな湯気を立ち昇らせたカップをあたしが座る前のテーブルに置いて、むらっちは言った。

「それ飲んだら帰りなさい。タクシー呼ぶから」

ホットミルクの優しい匂いが鼻孔をくすぐる。

けれど、あたしの目の前に伸びたむらっちの手を、彼女自身の油断と隙をついて、引かれる前に捕まえた。
53 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:33
途端、びく! と大きくカラダを揺らしてあたしに振り向いたむらっちの瞳が困惑で濁る。

「ここ、座って」

あたしの隣に彼女を誘導すると、また大きく息を吐いて、ゆっくりと腰を降ろした。

「…話って何」
「あ…、うん」

決意してきたけれど、いざ身構えられてしまうと唇が強張ってしまった。

少し流れただけの沈黙に緊張が増す。

「…えーと、あの、ね」
「…なに」
「その…、あたし、むらっちの気持ちに、応えても、いいかなって…」

瞬間、むらっちが立ち上がった。

「帰りなさい」

見下ろすむらっちの視線は軽蔑であり、声は嘲笑であり、そして……、目の輝きは落胆だった。
54 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:34
「え、あ…、ど、どうして」
「どうして? 笑っちゃうね、今の言葉がどれほどあたしを侮辱してるか判らないの?」
「そんなつもりじゃないよ!」
「同情はいらないんだよ!」

言葉の勢いに思わず気圧される。

「……何度も言ったでしょう。あたしは柴田くんが好きなんだって、それは恋愛感情だって」
「聞いたよ、知ってる」
「キミは…何も判ってない」
「判るよ、それぐらい」
「ホントに? あたしがキミに何をしたいと思ってるか、ホントに判ってるの?」
「……判ってるよ」
「判ってないよ」
「判ってるってば!」

頭ごなしの否定がとても癪だった。

「判ってない! あたしはキミにキスがしたいんだ、抱きしめたいんだ、抱きたいんだよ!」
55 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:34
むらっちの激しい一面に思わず息を飲むと、そんなあたしを誤解してか、むらっちは自虐的な笑顔を見せた。

「…抱きたいって、ただ抱き合うだけじゃないことぐらい、判るよね?」

むらっちの言葉を、噛み砕いて説明してもらわなくちゃならないほどあたしだってバカじゃないし、意識しないほど子供でもない。

「そんな覚悟なんてないくせに…」

悲しげに揺れた目の色を認めたとき、むらっちは逃げるように寝室へと駆け込んでしまった。

「ちょっ、待って、むらっち!」
「お願いだから帰って。これ以上同じ部屋にいて、何もしないでいる自信はホントにないよ」

寝室のドアは内側から鍵がかかるから、閉じこもられてしまうとどうしようもない。

あたしは外側から必死にドアをノックした。

まだ何ひとつ、肝心な言葉を彼女に伝えていないのだ。
56 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:34
「むらっち、ここ開けて」
「…帰って」
「帰れないよ…、あたしまだ、何も、話せてないよ」
「帰ってよ、お願い…、もうこれ以上、惨めな気分にさせないで…」

涙声に変わっていることに胸が締め付けられる。

「…ねえ、むらっち、聞いて」

木製のドアの冷たさが指先に伝わる。

たったドア一枚隔てただけで遠く感じてしまう彼女を、ひとりになんて出来ない。
57 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:34
「むらっちの気持ちに応えてもいいって思ったのは、ホンキだよ。同情とかそんなんじゃない。
むらっちがあたしにしたいと思ってることも、応えたらそういうことになるってことも、ちゃんと考えたよ」

ひとりにしたくない。

「むらっちに好きって言われてから、あたしだっていろいろ考えた。
むらっちと知り合ってから、これ以上ないってぐらいむらっちのこと考えたよ。
今日だって、昼間のあのあと、いっぱいいっぱい、考えたんだ。それで、ここに来たんだよ」

ひとりにさせたくない。

「やっぱり、どんなに考えても、あたしはむらっちがあたしじゃないところへ行くのは嫌だ。
勝手な言い分だよね、判ってる、でも、それが一番はっきりしてる気持ちなの。
あたしを見ててほしい、あたしに触ってほしい、あたしの近くに、いてほしいの。
それって、むらっちが望んでることじゃないかも知れない。でも、でもね……」

ひとりに、しない。

「でも、むらっちだって、昼間のあんなキスを、あたしにしたかったワケじゃ、ないでしょ?」

ひとりに、させない。
58 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:35
「……ねえ、むらっち?
あたし、むらっちと、ちゃんとしたキスがしたいよ。抱き合うならちゃんと抱き合いたい。
それじゃダメ? ねえ、ダメかな?」

だから、一緒に、いようよ。
59 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:35
「むらっち…、ねえ、開けて」

ドアに額を押し付けたまま、あたしは静かに目を閉じた。

そしてそのまま、もう一度ドアをノックする。

しばらくして、静かな空間に、カチャ、と施錠を解く音がした。

けれどそのドアは開かれることはなく、これから先の決断を、あたしに委ねているのだと、感じた。

そっとドアを開けると、ベッドサイドのライトの薄明かりの中、むらっちは静かに、ベッドのそばに立っていた。

儚げなその雰囲気に胸が鳴る。

この胸の高鳴りは決して恐怖や後悔ではないと、自信を持って言える。
60 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:35
そばまで近付くと、むらっちはまだどこか不安そうにあたしを見下ろした。

そんな彼女の手を取って、その指先に口付ける。

そのあとで見上げると、困ったように眉根を寄せて、
それから堪えきれないと言いたそうに目を伏せてあたしを抱きしめてきた。

「…柴田くん…っ」

息苦しさが心地好いなんて言ったら、むらっちはどんな顔をするんだろう。

勢い余ってふたりしてベッドに倒れ込む。

むらっちの唇があたしの唇を角度を変えて何度も何度も塞いでいく。
61 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:35
「ん…、ちょ、…ま、待って…」
「…なに? ここまで来て、やっぱ無理とか言っても聞けないよ?」
「言わないよ、そんなの。そうじゃなくて、顔」
「顔?」
「顔、見せて、むらっちの顔」

ほんの少し顎を引いたむらっち両頬に手を添える。

あたしを見下ろすむらっちの優しい目の色がちゃんとそこにあって、それだけで安心感に包まれた。

頭を浮かせて、むらっちの鼻に唇を押し付けると、むらっちはちょっと面喰ったように目を見開いた。

「…あのね、むらっち」
「なに?」
「あたし、後悔しないよ?」
62 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:36
言いながらむらっちの頭の後ろへと手を回す。

「…柴田、くん?」
「昼間のことも、これからのことも、後悔なんてしない」
「……どうかな」

苦笑いを浮かべたむらっちが、きっと本心とは裏腹だと思える言葉で切り返す。

「しない。だって、覚悟決めたから」

幾らか見開かれた目が次第に和らいで、苦笑いが優しい微笑みに変わる。

「…明日の朝も、同じ言葉が聞けるかな」

むらっちの声が聞こえたと同時に、今までで一番優しいキスが瞼に落ちてきた。
63 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:36


――
――――
――――――


64 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:36
髪を撫でられている感じがして、遮断されていた思考が覚醒する。

閉じようとする瞼に逆らって目を開けると、ベッドに腰掛けているむらっちがあたしの髪を撫でてくれていた。

「…あー、おはよ、むらっち…」
「おはよう」
「何時?」
「えーと…、6時」

あたしの質問にぐるりと頭を巡らせて答えたくれた時間は想像以上の早い時間。

髪を撫でてくれている優しい手の感触がとても気持ちよくて、
そっと上から包み込むと、気付いたむらっちが静かに振り向いて微笑んだ。
65 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:36
「もうちょっと寝てていいよ。時間が来たら起こしてあげるから」
「むらっちは? もう起きるの?」
「………かなり刺激的な光景なので目が冴えまして」

微笑みの中に含みを感じてむらっちの視線を辿ると、そこは衣服を身につけてないあたしの胸元だった。

「…むらっちのえっち。…てか、むらっちズルイ、バスローブ着てるってことはシャワーしたの?」

シーツを引き上げて胸元を隠しながら言い返すと、微笑みに少し翳りを見せながら、さっきね、と答えた。

「…カラダ、辛くない?」
「うん」
「痛いところとか、だるかったりしない?」
「平気だよ」
「そっか……」

そのまま、あたしから手を引いて背中を向けてしまう。

微笑みの翳りも気になってカラダを起こすと、むらっちは少し俯きながら、それでもはっきり、ごめん、と言った。
66 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:37
「なにが?」

聞いても答えず、ただ、ごめん、とだけ繰り返す。

華奢な背中がますます儚げに頼りなさげに見えて、あたしは小さく息を吐き出しながらむらっちを背中から抱きしめた。

腰から前へ腕をまわして、肩に頬をすり寄せる。

「後悔、してないよ?」

ぴく、と小さくカラダが震える。

「むらっちは、間違ってなかったんだから、胸張って、あたしの隣にいて」
「しば…?」
「柴田あゆみの、隣にいて」

肩越しに振り向いてきた彼女の頬に唇を押し当てて耳元で囁くと、彼女の目には涙が溢れ出した。
67 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:37
「…ばっか、泣くことないじゃん、もー」
「ご、ごめ…、だって…」
「むらっち、ホントはすごい泣き虫だもんね。よしよし」

正面に向き直ってあたしを抱きしめてきたむらっちの頭を撫でてやりながら、
昨日のあたしたちの険悪な雰囲気を心配しているであろう瞳ちゃんとマサオくんに、
どうやって仲直りしたのかを聞かれたらどう答えようか、なんて、不謹慎にも、そんなことを考えた。

でもきっと、あたしとむらっちで手を繋いで現れたら、
あのふたりは笑ってお互い顔を見合わせて、あたしたちの背中を叩いてくれるはず。

あたしたちの距離感は、そんなふうに、いつもとても居心地がいいんだ。
68 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:37

「柴田くん? なに笑ってるの?」
「なーんでもない」
「なにさ、気になるよ」
「ホントになんでもないってー。むらっち可愛いなって思っただけー」
「な…っ、年上をからかうんじゃありません…っ」

恥ずかしそうに言い返してきたむらっちは、もう、あたしのよく知る彼女。

ちょっと遠回りしちゃったけど、でもちゃんと何が大事か、何が大切か、それが判ったから。

あたしたち、きっとこれで、いいんだよね。
69 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:37


70 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:38


71 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:38


72 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:38

END
73 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/22(火) 21:39
誤字脱字に関しましては、脳内変換で、お願いいたします。
74 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/23(水) 01:11
ROM専門でしたが思わず書き込んでしまいました、とてもよかったです。
75 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/23(水) 23:32
切なかったり、二人が可愛かったりで胸をぎゅっと掴まれました。
ちょっと下品な表現であれなんですけど、最高に悶えました。
読み終わった後の何とも言い難いこの感じ。
すごくよかったです。ありがとうございました。
76 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/24(木) 03:12
なんだかとてもリアルに感じました。
良作!!
村柴大好きなので二人の話がよめて嬉しいです。
次回作も期待しています。ありがとうございました。
77 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/29(火) 07:45
失礼を承知で言わせていただくと・・レズレズしい雰囲気がとても良かったです。
これは村柴にしかだせない空気だと思います。次の作品も楽しみにしています。
ありがとうございました。
78 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:10
更新します。
79 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:10


80 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:11
「あたしとむらっち、付き合うことになりました」

瞳ちゃんとマサオくんにそんな宣言をしてからそろそろ2週間になる。

唐突な告白にふたりは大きく目を見開いて言葉も出ない様子であたしたちを見たけれど、
ふたりよりも驚いたのはあたしと手を繋いでいたむらっち本人で、
ふたりの驚く顔に満足したあたしも、むらっちのその反応には少しだけ傷付いた。

あれ?
そうじゃないの?
あたしたち、そういうことになったんじゃないの?

そうは思ったけど、そのあとはあたしが瞳ちゃんに、むらっちはマサオくんに羽交い絞めに遭ってしまって、
ことの顛末を説明しろと喚かれてしまったので、確認はとれなかった。

いや、勿論なんであたしたちが付き合うことになったのか、それを話したりもしなかったけど。
81 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:11
2週間前、っていうのは、つまり、あの日のこと。

2週間たって、あたしは少しばかりイライラしてる。

なんでって、むらっちの態度が、以前のそれとはやっぱりどこか違ってしまっているから。

お互いの気持ちの持ち方がまるっきり違うのだから、何もかも前みたいに、って言うのが無理なのは、理解できる。

むらっちは以前のように優しいし、ちゃんとあたしを見てくれているし、あたしのそばにいてくれている。

でも、違うのだ。

何が、ってつまり……。
82 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:11
「あのね、むらっち」
「ん?」

明日の仕事は午後からだから、今夜はゆっくり出来るね、
なんて言いながらタクシーに乗って、一緒にむらっちの部屋に帰ってきた。

あれから1度だけあったオフを、あたしはむらっちの部屋で過ごした。

それ以来だから、1週間ぶりくらいなんだけど、今日のあたしは少しだけ緊張と疑問を纏っている。

2週間前みたいな、むらっちの気持ちに応えたくて来たときとは全然違う緊張と、
この前ここに来たときには全然持たなかった疑問と。
83 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:11
ただいま、と言ったあたしの背後でむらっちが小さく笑って、おかえり、と言ってくれたので、
あたしも振り返って、おかえり、と言った。

続くようにむらっちも、ただいま、と言ったので、満足して中へと進む。

もうそろそろ、このコートもいらなくなるかな、なんて思いながら脱いでソファに座る。

「何か飲む?」
「や、それはあとでもいいから」

荷物を置いたら上着も脱がないままキッチンに向かおうとするから、
あたしは慌ててむらっちの腕を掴んで隣に座らせた。

「なに?」

あたしの手を振り解くことはしないで、口元の柔らかさもそのままに首を傾げるむらっち。

ああ、綺麗だなあ、なんてぼんやり見とれてしまって、むらっちの眉が不安そうに歪んでやっと我に返る。
84 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:12
「柴田くん? どうしたの?」
「あ、ごめん…、見とれてた」
「は?」

瞬間、むらっちの頬が朱色に染まって、顔を逸らしてしまった。

「な、なんなんですか、いきなりー」

テレたんだってことが判って、あたしは少しホッとした。

恥ずかしそうに顔の前で手を振る仕草が可愛くて、あたしを纏っていた緊張も薄くなっていく。

「どうかしたの?」
「あ…、いや、どうかしたっていうんじゃ、ないんだけど」

そう、あたしがどうかした、というより。
85 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:12
「あのさ」
「うん」
「なんでしないの?」
「は?」

何も飾らずに言ってしまったせいで、聞きたいことの本質がうまく伝わらなかったようで、
むらっちはまた眉の形を歪めてあたしを見つめた。

「だからさ…」

隣にいて、更には無防備にしてるのをいいことに、あたしはむらっちの頬に唇を押し付けた。

「し…っ?」

驚いたむらっちが、あたしの唇が触れた頬を押さえながらあたしから逃げるように離れる。

って、それ、かなり傷付くんですけど。
86 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:12
「…な、なに? なにを…」
「だってむらっち、全然、してこないから」
「し、してこないって…」
「てゆーか! そういうことの以前に、キスだってしないし、触ってもくれないよね? なんで?」

してこない。
つまり、そういうこと。

あたしたちは2週間前に最後の一線を越えてる。

順序としては絶対逆だって判ってるけど、
でもあたしはちゃんとむらっちの気持ちに応えて、だからこうして、そばにいるのに。
87 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:12
「…触ってほしいって、あたし、言ったよね?」
「……うん」
「………触るの、嫌?」
「そんなことは絶対ない」
「…絶対とか言うわりに、全然じゃん」
「う……」

言葉に詰まったむらっちは、しばらく視線を泳がせて、
それから観念したように大きく息を吐き出して肩から力を抜いた。

ゆっくり、ソファの背凭れに深々とカラダを預けたあと、
あたしが掴んでないほうの手で前髪をかきあげて目を閉じる。
88 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:13
「むらっち?」
「…幾つか、確認、したいんだけども」
「うん、いいよ? なに?」
「あたし、柴田くんと、付き合ってるん、ですか?」
「はあ?」

何の確認なの、それ。

思わず続ける言葉を見失ってしまって黙り込んでしまったあたしに、むらっちが不安そうな視線を向けてくる。

「……あたし、瞳ちゃんたちの前で、そう、言ったはず、なんだけど」
「うん、言ったね」
「あたしは、この2週間、そのつもりでいたんだけど」
「うん、そうだね」
「……むらっちは、そうじゃ、なかった、ってこと?」

不安そうに揺れていた目が僅かな翳りを含む。
89 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:13
「……だってキミ、一度も、言ってくれてないんだよ」
「なにを?」
「……あたしからは、言わない」

なに?
なにを言ってないって?

「…どういうことか、わかんないよ」
「なら、申し訳ないけど、ムラタのほうからは、何も、出来ない」
「出来ないって」
「あたしからは、柴田くんには、触れない。触りたいけど、でも、触ること、出来ない」

むらっちの言葉の意味を把握する前にむらっちが立ち上がる。

それから、優しくあたしの頭を撫でて、思わず頭を上げたあたしに柔らかく微笑んだ。

「…だから、しない」
90 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:13
縋ろうとしたあたしの手をするりと抜けてキッチンに向かうその背中。

むらっちの言葉で判ったのは、
むらっちは、少なくともこの2週間、あたしと付き合ってる、という意識が薄かった、ということ、
どうしてそう思えないのかは、あたしが言わなければならない言葉をむらっちに言ってないからだ、ということ、
そのせいで、髪を撫でたりはしてくれても、キスや、それ以上の…、
つまり、付き合ってる人間がするようなことが出来ないのだ、ということ、
その、みっつ。

みっつだけど、たぶん、答えはひとつなんだろうと思う。

何故って、それらは全部、あたしが判ってない、ということに帰結するから。
91 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:13
「…むらっち」
「ココアでいい? インスタントしかないけど」

あたしの声を遮るようにヤカンをコンロに乗せる。

「むらっち…っ」
「あ、泊まるんだよね。じゃあお風呂の用意もしなくちゃいけないね」

こんなに近くにいるのに。
すごくすごく遠く感じるのも、あたしのせい?

むらっちの優しい手とか体温とか視線とか、笑った顔とか困った顔とか、
気持ちの行方とか感情の乱れとか、そういうの全部。

全部全部。

あたしのものだ、って思ったのは、違うってことなの?

「むらっち、こっち見てよ…っ!」

やっと近づけたと思ったのに、こんなにも呆気なく、また遠くなってしまうの?
92 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:14
「……あのさ、柴田くん」

気持ちが昂ぶって思わず漏れたあたしの声より
ずっとずっと冷静に聞こえるむらっちの声が部屋の空気を震わせる。

背中を向けたままでいるのに、あたしから言葉を奪うのに充分な威圧感。

前にも感じたことのあるそれは、そのときは恐怖に近いものを持っていたけれど、
いま、あたしの目に映る背中が語るのは、あたしではなく、むらっちを責める空気。
93 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:14
「前にも言ったと、思うんだけど」

振り返らずに、ただ。

「同情なら、いらないんだよ」

拒絶すら感じる、その、背中。

「そんなこと…っ!」
「ないって言うなら」

ゆっくりと、振り返る。

綺麗なその顔に、もう見たくないと思った落胆を乗せて。

「どうしてあたしが欲しいたった一言が、キミの口からは、出ないのかな?」
94 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:14
悲しそうに揺れているその目があたしの胸を痛いくらい締め付ける。

「む、ら…」

カラダごと振り返ったけれど、むらっちはそっと目を伏せた。

「……あの日、キミはあたしの気持ちに応えたいと言ってくれて、あたしはキミを抱いたけど、
でも、あれで何もかもがあたしの望むようになったワケじゃない。
キミも言ったように、キミを抱くことだけがあたしの望みじゃ、ないからね」

僅かに上がる口の端が笑みを形作るけれど、勿論それはそう見えるだけで、
本当に笑っているわけじゃないことは明白だった。
95 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:14
「じゃあ、なにが…」
「だから、それをあたしからは言うワケにはいかないんだよ」
「……どう、して?」

伏せた瞼がゆるりと持ち上がって、
眼鏡を掛けていないせいで遮断されることのない真っ直ぐな視線があたしに刺さる。

「あたしが言えば、キミはきっと応えようとしてくれる。
でもそれはあたしが望んだことだからで、キミが…、柴田あゆみが望んだことじゃ、ないから」

笑っている口元。
けれど、決して笑っていない、その視線。

射抜かれて、あたしは咄嗟に言葉を見失う。
96 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:14
「…あたしは…、どうしたら、いいの?」

それでも、なんとか言葉を探して聞いた。

そんなことでむらっちがどうして欲しいのかという答えが出るとは思わなかったし、思えなかったけど、それでも。

「別に、なにも? 柴田くんは柴田くんのしたいように」
「でも、それじゃ、むらっちは…」
「あたしは……」

そのとき、むらっちは、むらっちの告白を受けたあたしが返事を返せなかったあのときと同じ顔をした。

「…あたしは、柴田くんの望む、村田めぐみになるよ」
97 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:15
自虐的にまた笑って、むらっちはキッチンから出てきた。

「あたしが望む…?」
「そばにいて欲しいっていうなら、そばにいる。見てて欲しいって言うなら、見てる」
「触って欲しいって、言ったら?」
「…恋人同士として抱き合うこと以外なら」

何でもないことのように告げるその声色の冷たさにゾッとする。

「欲しい言葉はもらえないのに、たった一度寝たぐらいで柴田くんの彼女です、なんて言えないよ」

頭の中で、ガラスが割れるような音を聞いた。
98 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:15
「…それは…、あたしに、むらっちの彼女ヅラするな、って意味?」

唇が震えたことで同時に声も震えた。

むらっちが、そんなことを口走る冷たい人だなんて思えなくて、思いたくなくて。

なのに。

「………解釈は、ご自由に」

あの日聞いたような冷ややかさで言い放って、むらっちはそのままバスルームへと消えた。
99 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:15
ソファの上にひとり残されて、ぼんやり聞こえてくる水音に胸の痛みが増していく。

膝を抱え、額を押し付け、まだ鼓膜に残るむらっちの声を反芻する。

30分前までは、たとえ不自然だと思っていても、どこかぎこちなさを孕んでいても、
それでも心地好い空気に包まれていた。

2週間過ぎて、やっぱりむらっちのそばが居心地良いんだってことを改めて知った。

あたしを見る目やあたしに向けられる言葉は優しくて、温かくて、むらっちの気持ちに応えてよかったと思った。
心の底からそう思った。

ずっとそばにいて欲しいと思った。
ずっと見ていて欲しいと思った。
また、触って欲しいと思った。

なのになんで。
どうして今更。
100 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:15
「……わかんないよ…」

思わず声が漏れる。

むらっちが、あたしにどうして欲しいのか。
あたしに、何を望んでるのか。

「………簡単なことだと、思うんだけどな」

いつのまにかバスルームから出てきていたむらっちが、
リビングと玄関とを繋ぐドアのところに凭れるように立っていた。

「…ごめん、さっきのは言い過ぎだった」

苦笑を浮かべて謝るむらっちに、あたしは首を振ることしか出来ない。

傷付いたけど、でも、むらっちのほうがきっと、ずっと、傷付いてる。
101 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:16
「あたしたちがこうなった始まりがなんだったか、柴田くんだって覚えてるでしょう?」

こつん、と頭をドアにぶつけてからむらっちが一歩踏み出す。

「……あたしは、どうしてキミを抱いたんだっけ? キミは、どうしてあたしの気持ちに応えたいと思ったの?」

ヤカンが沸騰を知らせる警告音を鳴らす。

むらっちが静かにあたしの視界を横切ってキッチンに入り、火を止める。

そして、そのままの態勢で言った。

「……同情じゃないっていう柴田くんの気持ちを信じるには、その一言で充分なんだよ?」
102 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:16
むらっちが欲しい言葉をむらっち自身があたしから誘導するのはむらっちの本意じゃない。

でも、それでも、どうしてもあたしの口から聞きたい言葉なのだ。
落胆を華奢なその肩に乗せて告げる声色が、彼女の自信のなさを窺わせる。

「むらっちが、あたしを、抱いた理由?」

そんなのは、たったひとつだ。

「……難しい?」

まだ背中を向けたままでいるのに、口元に苦笑を浮かべて自嘲気味に笑ったのが見える。

ぎゅう、と胸が痛くなる。

あたしが、どれほど自分本位の軽率な感情と行動でむらっちを、
むらっちの気持ちを拘束していたのかがやっと理解出来た。
103 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:16
抱えた膝を下ろして、その勢いのままで立ち上がってむらっちのもとへ駆け寄る。

あたしが近付いてきたことに気付いてないワケがないのに、むらっちは振り向かなかった。

「…むらっち」

自分がむらっちの背後にいることをちゃんと知らせたくて名前を呼んでも、反応はなかった。

もし、振り払われたら、と戸惑いながらも、ゆっくりむらっちに手を伸ばした。

両手を伸ばして、彼女の背中から、抱きつく。

瞬間、むらっちはカラダを大きく揺らせたけれど、でもそれだけで、何もしてこなかったし、何も言わなかった。
104 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:16
「……むらっち」

もう一度呼んで、息を吸い込んだ。

鼻孔をくすぐるのは、香水も何もつけていない、むらっちの、彼女そのものの匂い。

その匂いに包まれることの安心感が意味するものの言葉を、あたしは、きちんと声にしていなかったのだ。

背中に額を押し付けて、ゆっくりと頬擦りをする。

「……そばに、いてほしい」

ぴく、と、小さくむらっちの肩が揺れた。

「抱きしめてほしい。キスして、ほしい」

言いながら、これがむらっちの望んでる言葉じゃないことも、ちゃんと判ってる。

「…そばにいたい、抱きしめたい、キス、したい」

むらっちを抱きしめる腕に僅かにチカラを込めた。
105 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:17
無言の空気が、それはどうして? という、むらっちの声にならない声を教える。

「むらっちのこと、好きだから」

それを声にしたとき、部屋中の空気が一瞬だけ張り詰めた。

そしてすぐ、ピンと張っていた糸が途切れたように、風が凪ぐ。
106 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:17
屋内にいるはずなのに風が吹いたように感じたのは、
むらっちの前へと回されたあたしの腕に、むらっちが触れたからだった。

「……もう一回、言って」
「好きだよ」
「…もう一回」
「むらっちが好き」
「もう…」

1回、と言われる前に、あたしの腕に触れたむらっちの腕を掴み返して、彼女をこちらへと振り向かせた。

今にも泣きそうな顔であたしを見下ろすむらっちになんだかとても満足して、今度は正面から抱き着いた。

「むらっちに言われたからじゃないよ。ちゃんと、むらっちのこと、好きだよ」
「柴田くん…」

抱き返してくる腕の、少し頼りなさげなチカラが嬉しい。
107 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:17
「好きだから、だから……」

そっとカラダを起こして、涙で目を潤ませてるむらっちを見る。

見て、愛しさが増した。

この気持ちが、同情なんかじゃないと再認識する。

「しよう?」

笑って告げたあたしにむらっちは目を見開いて、すぐに口元を綻ばせた。

「…したい?」
「うん」
「そんなに?」

苦笑も入り混じった頬の緩みに、あたしは堪えきれず唇を押し付けた。

また目を見開いたむらっちに、焦らされて燻る気持ちが幾らか緩和される。
108 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:18
「あたしの望む村田めぐみになるって言うなら」

さっきそれをむらっちが言ったとき、その言葉の意味は180度違っていたのを承知で。

「今すぐ、して」
109 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:18
声にしてすぐに、瞼にむらっちの唇が降りてきた。

あの日以来の、むらっちからの初めてのキスだと思うと、それだけで全身が痺れた。

うっとり目を閉じたあたしの耳に届くむらっちの掠れ声とともに、
唇が瞼から鼻筋を滑って、あたしの口元に辿り着く。

「…むらっち…、好…」

最後まで言い終わる前に塞がれた唇からむらっちの情熱が伝わる。

その熱さにあたしの全身はむらっちのすべてに侵されていく。

それは、無限にも思える幸せだった。
110 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:18
膝から崩れ落ちるあたしの負担にならないようにしながら、
それでもむらっちの重心はあたしへと傾いて、そのまま横たえられる。

「…ベッド、いこうか?」

僅かに離れた唇から聞こえてきた声にあたしは目を閉じたままで首を振る。

腕を伸ばしてむらっちの頭を抱き寄せ、その耳元に息を吹き込むと、
それが合図のように、むらっちのしなやかな指先があたしの胸を服の上から撫で上げた。

「…セーブできなかったら、ごめんね」

耳元で囁かれた言葉にあたしは再度首を振る。

「……むらっちの、したいように、されたい」

あたしのその声が届いたのか確認はとれなかったけれど、
あたしを抱きしめたむらっちの腕やカラダの熱さはあの日以上に力強く、そして、あの日以上の優しさを持っていた。
111 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:18


112 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:19



113 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:19
「あたしとむらっち、付き合ってるから」

翌日の午後、仕事先にむらっちと一緒に現れたあたしに呆れ顔をして見せた瞳ちゃんにそう言うと、
瞳ちゃんは眉根を寄せて、知ってるっつーの! と唇を尖らせた。

「だからマーシーとひとみん、柴田くん、とったらダメだよ」

あたしの隣でむらっちがそう言うので、瞳ちゃんやマサオくん以上に、あたしが驚いてしまった。

思わず見上げたあたしに、むらっちは、とても、とてもとても、綺麗な微笑みを浮かべたので、
そっちに見惚れてしまって、むらっちの言ったこともあっさり消し飛び、続ける言葉を見失ってしまった。
114 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:19
「柴田くん、ムラタのこと、好き?」

むらっちの微笑みが一緒につれてきたのは、胸に甘くてあたたかい、嬉しい気持ち。

「うん、大好き」

答えると、むらっちはますます綺麗に、嬉しそうに笑った。

「ムラタも」

簡単な言葉だけど、それがどれほど大切で、大きな言葉で、強い意味を持ってるのかを、改めて知る。

あたしたちが無言のまま見詰め合ってるのが照れくさくなったのは瞳ちゃんたちのほうみたいで、
そのあとすぐにむらっちから引き剥がされたあたしは瞳ちゃんから頬をつねられて、
むらっちはマーシーからこめかみにゲンコツを喰らってしまった。

ちょっと痛かったけど、でも、笑ってるふたりを見てたら、
あたしもむらっちも、これでいいんだな、って思えて、不思議と、胸の奥のほうがあったかくなった。
115 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:19
嬉しそうに、幸せそうにむらっちが笑ってくれるから、
そしてそのとき見せてくれる笑顔はとても綺麗であたしも嬉しくて幸せになるから。

ねえ、むらっち?
あたし、これからもむらっちを嬉しがらせたいから、むらっちが綺麗に笑うところが見たいから、
ずっとずっとそばにいるよ。

だからむらっちも、ずっとずっと、あたしのこと、見ててね?
116 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:19


117 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:19


118 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:20


119 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:20

END
120 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:21
誤字脱字に関しましては、今回も脳内変換で、お願いいたします。
121 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/01(金) 01:21
>>74-77
レス多謝です。
122 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/14(木) 00:34
めっちゃ好き!
マジ気に入りました!
続きがあることを願います!
123 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/28(木) 23:59
更新します
124 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/29(金) 00:00
125 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/29(金) 00:00
「あのね、むらっち」
「はい、なんでしょうか、柴田くん?」

「嘘つかないで、答えてね」
「? うん」

「むらっちは、あたしに、秘密なんてないよね?」
「…秘密?」

「そう。隠しごととか。そんなのないよね?」
「…嘘つかずに答えるの?」

「……あるの?」
「んー、あると言えばあるけど、ないと言えばないですかね」
126 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/29(金) 00:01
「どういう意味?」
「秘密はもともとあるし、隠しごとも、いま、あるから」

「!」
「…あ、ちょっと待って、もしかして、柴田くんはムラタには何も隠しごとなんてないのに、とか、そういうこと?」

「…そう、だよ」
「だったら、それこそ嘘じゃないですか?」

「そっ、そんなことないよ!」
「うん、それも判るんですけど、でも、それは嘘ですよ?」
127 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/29(金) 00:01
「……なんで?」
「『言わない』ことと、『言えない』ことの差、って言えば、判ってもらえるかな?」

「…もうちょっと、詳しく」
「んー、そうですね、『言わない』のは隠しごと、わざと言わないんです」

「わざと?」
「そう。でも、それはいずれ、話す予定のことなんですよ。だから、ムラタ的に『いまは、ある』と」

「…じゃあ、『言えない』のは?」
「『言えない』のが秘密。誰にも知られたくないこと」
128 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/29(金) 00:01
「……秘密と、隠しごと?」
「そう」

「あたしにも、言えないって、こと?」
「いや、秘密は、柴田くんだけじゃなくて、誰に対しても『言えない』けど、隠しごとは、柴田くんに対してだけ、ということ」

「あたしに対して、言ってないことがある、ってこと?」
「そうそう。でもそれは、ちゃんと話す予定のことだから、だから、まだ言ってない、だけ」

「……秘密は?」
「それは言えません。秘密なら、柴田くんにも、あると思いますけど?」
129 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/29(金) 00:02
「………」
「…納得してもらえた?」

「なんとなく」
「…じゃあ、もうひとつ」

「なに?」
「ムラタが柴田くんを好きだ、という気持ちは、本当なら秘密だったんです」

「え? でも…」
「うん、でも、告白してしまったよね。秘密だったのに」

「秘密じゃなくなった、ってこと?」
「秘密だったのに、伝えたい気持ちが大きくなって、秘密が隠しごとになってしまったんですよ」
130 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/29(金) 00:02
「秘密が隠しごとになることもあるの?」
「絶対、とは言い切れないけど、それでも、柴田くんが、そういうふうにムラタの気持ちを変えたことには違いはないよ」

「あたし?」
「誰にも知られたくない、が、柴田くんに知って欲しい、に変わった、というかね」

「…それって、つまり」
「つまり、柴田くんのせいであり、柴田くんのおかげ、ということですね」

「じゃ、じゃあ、この先、むらっちが、あたしに対して秘密がなくなる可能性もあるの?」
「ない、とは言えないね、前例があるから」
131 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/29(金) 00:02
「…そっか…、うん、わかった」
「……で、そんな柴田くんに、隠しごとのひとつを暴露してもいいですか?」

「えっ、なに?」
「…手、出して」

「?」
「あげる」

「…これ、鍵?」
「合鍵です。うちの」

「……いいの?」
「いつ渡そうか、そればかり考えてましたよ、ここ数日」

「……むらっち、キザだ」
「たまには、カッコつけさせてくれてもいいじゃない」

「嘘、すごく嬉しい。ありがと」
「いいえ」
132 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/29(金) 00:03
「…えへへ」
「? どうしました?」

「なんか、いいね、こういうの」
「そうですか?」

「知らなかったことを知るのは、嬉しいね」
「じゃあ、これからもいろいろ知っていくことにしましょうか」

「隠しごとが、なくなるように?」
「隠しごとが減るのは、自分自身にとってもいいことだからね」

「…そっか、そうだね」
「そうそう。…ということで、そろそろ寝ようか」

「うん、安心したら、眠くなってきた」
「そう? じゃあきっと、いい夢見れるね」




「「おやすみなさい」」
133 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/29(金) 00:03


134 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/29(金) 00:03



135 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/29(金) 00:03
END
136 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/29(金) 00:05
次のお話の前振り、のようなものです。
誤字脱字に関しましては、今回も、脳内変換と補完、お願いいたします。


>>122
レス多謝です。
137 名前:名無飼育 投稿日:2005/05/06(金) 17:25
柴村やっぱ良いですね。
作者さんの文章好きです、また更新お待ちしております・
138 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:14
更新します


139 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:14


140 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:14


自分でも、なんとなく、少しずつだけど、変わってきてる自覚は、あったんだけど。

141 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:15
「柴田くんが持ってるDVDデッキって、ビデオからもダビングできるよね?」

レコーディングの合間の休憩時間、不意に何かを思い出したようにむらっちが言った。

「うん、できるよ」
「じゃあ、このあと、柴田くんちに行っていいかな」
「いいけど、どしたの?」
「ずっと前に稲葉さんから昔のハローのビデオ借りてたんだけど返しそびれちゃってて」
「うん」
「もうすぐハローの打ち合わせも始まるでしょ。そしたら稲葉さんに会うじゃない。
でも、ダビングする前に、うちのデッキが壊れてしまいましてね」
「あー、そういやちょっと前に動かなくなったとか言ってたっけ。うん、わかった、いいよ」
「ありがと」
142 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:15
ふ、と口元の印象が優しい微笑みが返って来て、それを見つめていた、
…いや、どちらかと言われたら見とれていたあたしと、少し首を傾けたむらっちの間に一瞬の沈黙が流れる。

あ、キスされる。

そう思った次の瞬間には、予想通りにむらっちの顔が近付いてきて、
ちょん、と優しく押すようにあたしの鼻先にむらっちの唇が触れた。

「…むらっち?」
「柴田くんが可愛かったから、つい」

さっきの優しい微笑みとは少し違って、優しいんだけど、どこか満足そうな、幸せそうな、綺麗な笑顔。
143 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:15
臆面もなく言ってくれるむらっちがすごく好き。
恥ずかしいけど、でも、あたしもちゃんと満たされるから。

「…ぱか」

鼻を撫でながら言い返すと、微笑みが更に崩れて嬉しそうに笑った。

むらっちの腕が伸びてきて、肩を抱き寄せられて、引力に逆らわないでむらっちに凭れかかる。

「……今日さ、泊まってってもいい?」

頭の上から聞こえてくる声にあたしは迷うことなく頷いた。
144 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:16


145 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:16


146 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:16
ソファに座るあたしの前には、テレビに向かってリモコン操作してるむらっちの背中。

リラックスしてるとわかる少し崩れた姿勢でテーブルに寄りかかってる彼女の足首が見えていて、
なんとなく、そこから目が離せない。

むらっちがスカートを穿くのは別に珍しいことじゃない。
これがマサオくんだったら、気になってしまう自分もわからなくはないんだけど。

「柴田くん」
「えっ、なに?」

自分の視線の行方と気持ちが疚しかったせいで、不意の呼びかけに答えた声が裏返ってしまう。

「ごめんね、退屈だよね?」
「そんなことないよ」

顔だけで振り向いたむらっちにそう答えると、何故か彼女は小さく微笑んだ。
147 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:16
「もうちょっとだからね」

――――― 終わったら、してもいい?

そんなふうに聞こえた自分に一瞬で顔が熱くなった。

そんなあたしの心中になんかきっと気付きもしないで、もう前を向いてしまったむらっちがテーブルに頬杖をつく。

その動作でさらりと後ろ髪が流れて、うなじが覗いた。

見たことがないワケでもないのに、今度はそこに視線が向いてしまって逸らせなくなる。

ふつふつと、まるで鼓動の高鳴りを煽るかのように競りあがってくる、
なにか得体の知れない感情があたしの脳を支配しはじめた。
148 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:17
静かにソファから降りて、音を起てないように、むらっちの背後に近付く。

さすがに彼女の真後ろまで近付いたときには、あたしがすぐ背後にいることにも気付かれてしまったけれど。

「柴田くん?」

嬉しそうな声に応えたのはあたしの声ではなく。

本能が働くままに、あたしは両手を広げて、むらっちを背中から抱きしめていた。
149 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:17
「…え?」

嬉しそうだった声に困惑の響きが混じる。

抱きしめたとき、あたしのすぐ目の前にさっき見たままのうなじがあって、眩暈がした。

むらっちのカラダが細いことは昔から知っていたけれど、
前にまわしたあたしの両腕の中に、さほど窮屈さを感じることなくおさまる細さだったことに胸が躍る。

向かい合って抱きしめられたことも今まで何度もあったはずなのに、
こんなふうに抱きしめる方法を変えただけで感動も変わるなんて。

「…どうしたの?」

あたしの腕に手を添えながら振り返ろうとする前に、見えているうなじに鼻を押し付けた。

びく、と、むらっちのカラダが震えたのがわかって、ますます鼓動が高鳴る。

鼻を押し付けたそこに今度は唇で触れたとき、彼女を抱きしめたあたしの手は、
まるでずっとそれを待っていたかのように、彼女の服の裾へと伸びていた。
150 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:17
「え…、ちょ…っ?」

薄く唇を開くようにしながら啄ばむように吸いあげると、むらっちのカラダが瞬時に強張るのがわかった。

「し…っ」

服の裾に伸ばした手はその裾から中へ入ることを試みて、
もう一方の手が、カラダのラインをなぞるように足へと伸びていく。

困惑のせいでリラックスさせていた足を戻したけれど、
それは逆に、あたしが彼女の素足に触れるまでの時間を短縮させることにもなった。

スカートの裾から中へ潜り込むあたしの手に、むらっちのカラダがますます萎縮していくのがわかる。
151 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:18
「……むらっち」

堪え切れずに漏れた吐息と一緒に、耳元で囁いた。

鼻先をくすぐるのは、もうそれだけで気持ちだけでなくカラダの熱まで昂ぶるむらっちの匂い。

「むらっち」

それ以外の言葉が浮かばない。
昂ぶっていく自分の感情と体温のブレーキのかけ方がわからない。

スカートの更に奥へと手を進ませるあたしの手を掴むむらっちの、
その強張りを含んだまだ曖昧なチカラはあたしの気持ちを煽るだけで、
それが突然のことで困惑の混じった抵抗なだけだと感じたあたしは、
無言のままカラダを強張らせているむらっちのその態度を承諾のように勘違いしてしまって、
むらっちの心中にまで思考が働かなかった。

昂ぶりだす気持ちの名前が欲情だと気付いたのは、きっとむらっちが先だった。
152 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:18
相手のことを思う余裕がなくなって、更に手を進ませようとして、それまでとは格段に違う抵抗に遭う。

スカートの中にあった手を引き戻され、密着させていたカラダまでが、肘で押されて引き離される。

「むらっち…?」
「ご、ごめん」

幾らか自由になったカラダと、
抵抗されると思わなかったあたしの戸惑いの隙をついてむらっちがますますあたしとの距離を広めた。

乱れたスカートの裾を戻し、ざっくり開いている首まわりを手のひらで隠すように覆って。

「…あ、……え…?」

行き場をなくしたあたしの手はだらしなく宙に浮いたままで。
153 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:18
「……ごめん、柴田くん。…急用思い出したから、今日はやっぱ帰るよ」
「えっ?」
「ごめん」

ばさばさと慌しく荷物をかき集めてむらっちが立ち上がる。

あたしの返事も聞かずに部屋を出て行こうとする彼女にハッとしてあたしも立ち上がると、
空気の流れに怯えたようにむらっちが振り向いた。

「ま、待ってよ、むらっち」

まっすぐ目が合って、その瞳の中にも確かに怯えを感じ取って、今度はあたしのカラダが強張る。

「ごめん…っ」

それ以上は近付くなと言われた気がして、足も動かなくなる。

そしてそのまま、あたしには何も言わせないまま、むらっちの姿は扉の向こうに消えていった。
154 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:18
「……むらっち…?」

誰もいない玄関に向かって呟いたあたしの声が、誰もいないせいで無駄に響き渡る。

なんで、と、聞くことさえさせてもらえなかった。

わかったのは、あたしはむらっちに欲情したのだということ。
その欲情のベクトルが、いつものように受け入れる側のものではなく、与える側のものであるということ。

――――― そして、それを拒まれたのだ、ということ。
155 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:19


156 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:19
むらっちがあたしを好きになってくれて、あたしがその気持ちに遅くなったけど気付いて、応えてから、
あたしがむらっちを拒んだことは、一度もなかった。

それはもちろん、むらっちが、あたし、というものを尊重してくれていたからでもあるし、
むらっちから与えられるあらゆるものが、あたしには心地好いものだったから、というのもある。

つまり、拒む理由なんて何ひとつなかった、ということ。

だけど、あたしはあるとき、不意に疑問を持ってしまった。

じゃああたしは、むらっちに何かを、彼女の望むことを、ちゃんと与えることが出来ているんだろうか。
そしてそれはむらっちに、あたしのような心地好さを感じさせているんだろうか。

むらっちの好きな、『柴田あゆみ』で、いるんだろうか。
157 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:19
聞けばきっと、むらっちは笑って『もちろん』と答え、あたしを抱きしめてくれるだろう。

だけど、本当に?

じゃあ、あたしが時々、むらっちから抱きしめられるだけじゃなく、むらっちから触れてもらうだけじゃなく、
抱きしめたいと思っていることにも、触れてみたいと思っていることにも、彼女は笑って返してくれるだろうか。

むらっちに抱かれるのではなく、むらっちを抱きたいと、思ってしまったことにも?
158 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:19
むらっちがあたしを求めることと、あたしがむらっちを求めるこの気持ちは同じ形をしているとは思うけれど、
何故かあたしには、同じ形をしていても、同じ色をしているようには思えなかった。

むらっちのあたしへの気持ちや求めるものはとてもまっすぐ澄んで見えるけれど、
あたしのこの気持ちや求める感情は、どこか白く濁っている。

許されない気がする。
間違っている気が、する。

あたしを求めるむらっちの想いや情熱に応えるだけでは、物足りないと感じてしまった自分が。

だから、込み上げてきた感情に堪えきれず、思わぬ衝動に突き動かされたあたしをむらっちが拒んだとき、
あたしを見たむらっちの瞳は怯えで揺れていたのだと。

また、彼女を、傷つけてしまったのだ、と。
159 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:20
罪悪感というものがあたしのカラダを包むのに、それとは別のところで違う何かが大きく膨らむ。

彼女に触れたすべての箇所が、熱をもったように痺れている。

鼻先を掠めただけの彼女の匂いで思考が占領される。

撫でた素足、思わず口付けていたうなじ、僅かに触れただけの腰の輪郭。

それだけで。

あたしの中にある、あたしでさえ気付くことのなかった本能が、目覚めた気がした。
160 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:20


161 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:20
夜、おそらく彼女が自分の部屋に帰り着いたと思われる頃にケータイが鳴った。

彼女を傷つけてしまったことと、それでもまだ彼女に触れたいと思っている、
そのどちらの事実も受け入れる準備のなかったあたしは、
ケータイを鳴らしているのがむらっちだとわかっても、すぐには身動き出来なかった。

別れを告げられそうな、そんな悪い考えさえも浮かんで。

着信のメロディは止まなかった。
まるで、あたしが容易に出られない心情であることを知っているみたいに。

奏でるメロディの最長時間が過ぎてようやく、あたしは通話ボタンを押した。
162 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:20
「…柴田くん…」

想像通りの、どこか弱々しいむらっちの声が聞こえてきても、手は自然と震え、声も出ない。

「……もしもし、柴田くん? 聞こえてる?」
「………聞こえて、る…」

小さな機械を通しているのに、向こう側の彼女が溜め息とともに安心を纏ったのが伝わる。

「なかなか出てくれないから、もう駄目かと思った」

そう言った声も雰囲気同様ホッとしているようだった。

「…ごめんね、急に帰ったりして」
「あ、あたしこそ…っ!」

ごめん、と謝ろうとして言葉が切れる。

悪いことをしたとは思うけれど、でもそうすると終わってしまう気もしてしまって、続きの言葉がうまく出なかった。
163 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:22
「……怒って、ない?」

あたしが言うはずだった言葉が、むらっちの声になった。

「な、なんであたしが? むらっちのほうが…」
「あたしは怒ってなんかないよ。急に帰ったりして、あたしのほうが悪かったと思う」

優しいひとだ。

「ごめんね、柴田くん」

だけど、その優しさが逆にあたしを責めているようだった。
164 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:22
「……なんで」
「え?」
「なんでむらっちが謝るかなあ…」

惨めになる。

どう考えたってあたしのほうが悪いとしか思えないのに謝るなんて、年上の余裕で拒まれているようだった。

「あたし、むらっちに何したのか判ってる? それでもむらっちが謝るの?」

こんな言葉はもっと彼女を傷つける。

判っていても歯止めが効かない。

「ごめん」
「やっぱり謝るんだね」

彼女があたしを責めずに謝るたびにあたしと彼女との間に線が引かれるようで、
あたしはそれを消し去りたくて足掻いていて、彼女を責め返すことしか思い浮かばない。
165 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:22
「ねえ、ホントに判ってる?」
「……判ってるよ」
「判ってないよ」

いつか、今と似たような遣り取りをしたことがある。

あのときのあたしたちとは、立場が逆転している。

それにむらっちは気付いているだろうか。

小さな機械を通した向こうで、深く溜め息をついたのが判る。

呆れられたようで胸が痛くなって、あたしは膝から崩れ落ちるように床へと座り込んだ。
166 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:23
「……あたし、振られるの、かな」
「えっ」
「むらっちに、振られるの?」
「なっ、なんでそうなるの! なんでムラタが…っ!」

そのとき、ベランダの外で救急車が通り過ぎていく音がした。

耳に少しも優しくないそのサイレンがマンションの前を通り過ぎていくとき、ケータイの向こうからも、同じ音がした。

声を詰まらせているから余計に耳の奥へと響いたその音に、考えるより先にカラダが動いて玄関へと走る。

ドアスコープで外を確認もせず扉を開けると、不意に開いたドアに驚いたように目を見開くむらっちが、そこにいた。
167 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:23
…いつ、から……?」

あたしの言葉に、目を見開いていたむらっちは静かに目を伏せ、ゆるく唇を噛んで俯いた。

「……帰るつもりだったけど、…でも、あのままじゃ帰れないよ」

こんなときなのに、あたしは、むらっちの伏せがちの瞼の艶やかさに見とれていた。

「こんな気持ちのまま、帰れない」

触れたら壊れそうだと思う。
だけど、触れずにはいられない。
168 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:24
あたしは持っていたケータイを放り出してドアの外に立っているむらっちの手を掴み、部屋の中へと引き込んだ。

さっきみたいな強い抵抗は少しもなくて、引き込んだ勢いでドアを閉じて、
そのドアに彼女を押し付けるようにして、その胸の中に飛び込む。

「ごめん、むらっち。ごめんなさい…っ」
「……柴田くんが謝ることじゃないよ」

背中と髪を撫でてくれるむらっちの手は、言葉と同じぐらい優しかった。

「…ここじゃ、落ち着いて話せないね、奥に行こう?」

自分の部屋なのに、むらっちに手を引かれながら部屋の奥へと進む。

だけど、ソファに座ろうとして、その動きはむらっちに手を強く引かれたことで封じられた。
169 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:24
「……ベッドで、話そう」

むらっちの真意が判らなくて戸惑うあたしに構うことなく、むらっちはあたしの手を引いて寝室に入り、
ゆっくりベッドに腰を降ろしてから、手を、離した。

隣に座ることが躊躇われているあたしをむらっちが苦笑いして見上げる。

「……そんな顔しないで」
「だって」
「言い辛くなっちゃうじゃん」
「…なに、を?」

どくん、と大きく心臓が跳ねて、悪いほうに考えが向いたあたしは思わず一歩後退さった。
170 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:25
「…ここにきて」

むらっちが手を差し出す。

身動き出来ないあたしの手を掴んでまた強く引き寄せて、むらっちの隣に座らせる。

でも掴んだ手を離そうとしている気配は感じられなくて、
あたしは幾らか気持ちを落ち着かせるように息を吐いて、掴まれた手を握り返した。

「…さっきは、急に帰ったりして、ごめん」
「それは…」
「聞いて」

あたしに反論させない強さで言って、むらっちはあたしを見つめた。

小さく頷き返すと、むらっちはゆっくり視線を前に向けて、静かに息を吐き出した。
171 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:25
「誤解しないで欲しいんだけど、柴田くんが嫌で、帰ったんじゃないから」
「…うん」
「…気持ちを読まれた気がして、怖くなった、だけ、だから」
「え?」

あたしの返事の声が変に裏返ってしまったせいか、むらっちはまた目を伏せて、あたしの手を握り締めた。

「………柴田くんに、抱いて欲しいって思ってるって、気付かれたのかと思って」

今、なんて?

「そういうこと、望んじゃいけないって、判ってるつもりだったし」

今、むらっちは、なんて言ったの?
172 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:25
「あたしの気持ちに応えてくれただけで満足しなきゃいけないことも判ってるつもりだったんだけど」
「え…? え? ちょ…っ」
「気紛れとかだったのかも知れないけど、でもあたし、ホントはずっとして欲しいって思ってたから」
「ま…、待って…」
「もしかしたら、そういうこと、言わなくても顔に出てたのかなって」
「ちょっと、待って…」
「柴田くんは優しいから、だから」
「待ってってば!」

むらっちの言葉を遮り、掴まれていた手を離して両肩を掴むと、びくん、と大きく、彼女のカラダが震えた。

「…ちょっと、落ち着いて」

彼女の目線の高さで彼女を見つめると、むらっちは深く息を吐き出して、あたしの肩に額を押し付けてきた。

「……柴田くんは優しいから、ムラタの気持ちに気付いて、応えようとしてくれたのかと、思って」

息を吐くように紡がれた言葉に、あたしの中の何かが弾けたような音を起てた。
173 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:26
「……それじゃまるで、あたしがむらっちと付き合ってるのは、むらっちが望んだからみたいじゃない」
「ち、違う、そんなこと思ってない!」
「…ホントに? でも、そう聞こえたよ?」

あたしの言葉と表情をどう受け止めたのか、むらっちは泣きそうに唇を歪めたあと、両手で顔を覆った。

「……だって、好きだったんだよ。ずっとずっと柴田くんが好きだったんだ。知り合ってから、ずっと。
片想いの時間が長すぎて、今でもこれは夢なんじゃないか、って、時々思うんだよ」

涙声に近い声を聞きながら、肩を掴んでいた手にそっとチカラを込めて、
乱暴にならないように彼女をベッドへと横たえる。

「…柴田くんがあたしを好きって言ってくれるだけでも夢みたいなのに、
これ以上望んだら、ホントに夢になっちゃう気がするんだよ」

横たわる彼女の両脇に手をついて、見下ろすようにしながら彼女の言葉を聞く。
174 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:26
「だって、あたしたちはオンナなんだよ? 本来は受け入れる立場のカラダなんだ」
「……うん」
「あたしはもういい。もう引き返せるところになんかいない。戻りたいとも思わない。
でも、柴田くんは違う。あたしに抱かれているだけなら、まだ戻ることだって出来る」

むらっちの言葉は少なからずあたしを傷つけているけれど、
でもそれはむらっちも同じだけ、傷ついているということだ。

「でも、もしあたしを抱いてしまったら、柴田くんは…」
「……あたしは?」

顔を覆っている手をゆっくりと下ろして、むらっちはあたしを見た。
175 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:26
「……あたしは、汚い」
「なんで?」
「柴田くんには綺麗なままでいてほしいのに、でも、あたしと一緒に汚れて欲しいって思ったりもするんだ」

怯えたように、けれど縋るように、彼女の瞳はあたしをただ、見つめていた。

彼女が発したその言葉が、彼女の中での葛藤を伝える。

同時に、彼女が望み、彼女が望まない言葉も。

「…あたしはもう綺麗なんかじゃないよ」

彼女の言葉は歪んでいるのかも知れない。

それでも、その歪みさえも愛しいと感じ、嬉しいと感じるあたし自身も、もう歪んで汚れている。
176 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:26
「……あたしが、汚したから?」
「そうだよ」

彼女が望み、彼女が望まない言葉を吐いたことで彼女は驚きと失望とを同居させるように目を見開いた。

構わずに下ろした手を掴み、その手のひらに口付ける。

「むらっちがあたしを汚したの。だからあたしはもう、少しも綺麗なんかじゃない」
「柴田く…」
「むらっちのこの手が、あたしを汚したんだよ」

指を絡ませて、その指先にも唇を押し付ける。

「でも、汚されることを望んだのは、あたしだから」
177 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:27
更に大きく目を見開いた彼女から眼鏡を奪って、ベッドの下へ投げ捨てる。

「…ねえ、むらっち? あたし、むらっちのこと、抱きたいよ」
「し……?」
「むらっちのカラダに触れたい。むらっちの全部にキスがしたい」

手首を捕らえ、ベッドへと押し付ける。

「あたしに抱かれるの、嫌?」

問うと、むらっちは大きく首を左右に振った。

「こんなあたしは、嫌い?」

もう一度、大きく、同じように。

「じゃあ、一緒に、汚れて?」
178 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:27
むらっちが息を飲むのと、あたしが彼女の唇を塞いだのはほぼ同時だった。

「……あたしね、むらっちに抱かれると、すごく満たされるよ。
カラダ中がむらっちでいっぱいになる、すごく、幸せな気分になるよ」

唇を離して、唾液で艶めいた唇を見つめながらあたしは言った。

「今からそれを、むらっちのカラダに、教えてあげる」

押さえつけていた手を外して微笑むと、
ゆるく唇を噛んでいたむらっちが酔うように静かに瞼を震わせて目を閉じた。

「どれぐらい満たされて、どれぐらいあたしがむらっちを好きか、思い知らせてあげる」
179 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:27
自身の口元が綻んでいくのを隠せないまま、
弱々しいながらもどこか縋るように伸ばされてきた彼女の手を掴み、
彼女にだけ通じる呪文を、唱える。

「むらっちの秘密を暴いていいのは、あたしだけだよ」

ベッドで話したいと言ったときに、彼女は既にあたしにその真意を伝えていた。

あたしを汚してしまうことに怯えながらも、彼女は、あたしに抱かれたくて仕方がないのだと。
180 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:27


181 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:27


182 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:28
与えられたとき以上の充足感に包まれながら、寝息を起てている彼女の髪を撫でた。

抱きしめられたときとは似て異なる、満たされているという実感。

全身に残る彼女の匂い、ぬくもり、感触。

思い出すだけでカラダの芯から火照っていく。

指先がふと彼女の額に当たって、自身の失態に手を引いたとき、閉じていた彼女の瞼がゆるりと持ち上がった。

「柴田…くん?」
「うん。……ここどこか、判る?」

視線だけで室内を巡らせたむらっちは、視線が一周する前に状況を飲み込んで飛び起きた。

ずり落ちるシーツを手繰り寄せて全身を隠そうとするその姿に堪えきれず、シーツごと彼女を抱きしめる。
183 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:28
「…むらっち?」
「……あ、の…」
「ごめん、って言ったら、怒るよ?」

息を飲んだのが判って、あたしは思わず苦笑してしまう。

それでも、彼女を抱きしめる腕のチカラを弱める気にはなれなくて。

「……あのさ、むらっち」
「え?」
「もう判ってると思うんだけど」
「…うん」
「あたし、むらっちが望んだから、こんなことしたワケじゃないよ?」

腕の中のむらっちのカラダがほんの少し揺らいだ。
184 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:28
「自分でも判んないけど、でもたぶん、最初にむらっちに抱かれた日から、こうなることも、考えてた」
「…うん…」
「…あ、違う」

自分の言葉を反芻しながら、若干の違和感に気付く。

「考えてこうなったんじゃなくて、こうなりたいって、思ってたんだ、きっと」

くるまったシーツから頭だけを出した彼女がゆっくりと振り返った。

「だってやっぱり抱き合うならさ、ちゃんと抱き合いたいじゃん。
どっちか片方だけが満たされるんじゃなくて、ふたりで満たされたいよ」

言いながら、言葉も出ないであたしを見つめているむらっちの頬に口付ける。

「むらっちのこと、満たしてあげたい。これが夢かも知れないなんて思わずに済むくらい、何度でも」
185 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:28
あたしを見つめるむらっちの目が次第に潤んで、あたしはそれにとても満足する。

彼女の涙は、彼女自身が凍らせた秘密という名の我慢が溶けたことを意味するから。

「むらっちが望むだけ、何度でも」

目尻から零れた雫を指で掬い取って、そっと頬を撫でる。

小刻みに震える肩を包み込むように抱きしめて、その耳元にありったけの愛情を込めて囁く。

答えは、聞かなくても判っているから。

「だからむらっちも、あたしが望むだけ、何度でも、あたしを満たして」

囁いてすぐ、むらっちの唇を塞いだ。
186 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:28


187 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:29
ねえ、むらっち。
あたしたちは、これからもきっと、何度でも何度でも似たようなところで躓くよ。
そのたびに、悩んだり迷ったりする。
でも、でもね。
あたしにはむらっちがいるし、むらっちにもあたしがいるんだから、
躓いてもきっと、たとえ差し出してもらえる手がなくたって、隣の相手を想って、立ち上がれると思うんだ。

そうやって進んでいこうよ。
あたしたちは、きっとそれでいいんだよ。
188 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:29


189 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:29


190 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:29

END
191 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/09(月) 23:30
以上でこのスレでの更新は終了です。
短期間でしたが、お付き合いありがとうございました。

>>137
レス多謝です。


いつかまた、このお話のお二人に会えますよう、作者自身、祈りつつ。
ではまた、どこかのスレで。
192 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/13(金) 01:24
こういう物語りきちっりと締まってて、シーンはしっとりとお耽美な……
好きな感触の小説です、満足、ご馳走様でした。
193 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/16(月) 19:11
ずっと読ませていただきました。また、作者さんの小説が読めることを心待ちにしています。
194 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/21(火) 22:13
更新します。
195 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/21(火) 22:13

196 名前:one's one and only 投稿日:2005/06/21(火) 22:14
「柴田くん、赤い糸って、信じる?」

背後からあたしを抱きしめていたむらっちがそう言って、ゆるりとあたしの右手を掴まえた。

「なに、急に」
「…べつに、なんとなく思いついたから」

背中から感じていたむらっちの体温がほんの少し遠くなる。

カラダを離したのが判って、あたしはそれがちょっと気に入らなくてわざと重心を後ろへ移した。

そんなあたしのカラダを支えながら、むらっちは溜め息混じりに小さく笑う。
197 名前:one's one and only 投稿日:2005/06/21(火) 22:15
「…赤い糸だよ、知らない?」
「運命の相手と繋がってる、ってやつ?」
「そう」

後頭部をむらっちの肩に押し付けると、髪の中に鼻先を埋めるのが判った。

「…むらっちは信じてるの?」
「……笑わない?」
「? うん」

掴んだあたしの右手を口元に引き寄せ、小指に口付けたむらっちが、そっと、あたしの耳元に息を吹き込む。
198 名前:one's one and only 投稿日:2005/06/21(火) 22:15
「あたし、今まで、信じてなかったの」
「…うん」
「今まで、柴田くんとこうなるまでに誰のことも好きにならなかったわけじゃないし、付き合った人もいるけど」

知っていたことでも、改めて言われると少しだけ落ち着かなくなる。

それはあたしが、むらっちの過去も全部、自分のものにしたいと思っているからだ。

不可能だと知っていても、だからこそ、余計に欲しくなるものだからだ。

「…でも、どの人も、どっかで違う気がしててね」
「うん…」
「もしかして、あたしには運命の人なんていないんじゃないかって、思ってた」

むらっちがこのあとに告げる言葉は、きっとあたしを喜ばせてくれるものだ。

自意識過剰と言われても、あたしを抱きしめているむらっちの腕の強さや体温があたしを自信家にする。
199 名前:one's one and only 投稿日:2005/06/21(火) 22:15
「みんなの糸はちゃんと運命の人に繋がってるけど、
あたしの糸は、辿っていったらハズレって紙がついてるんじゃないかって思ったこともある」

けれど、その突拍子ない発想にあたしは思わず返す言葉に詰まった。

「…む、むらっち、その発想は…」
「…笑わないって言ったじゃん……」

笑いを噛み殺しながら言うと、頭上から届くむらっちの声が拗ねて聞こえた。

「や、でも、さすがにそれはさあ…」

堪えきれない笑いと溢れ出してしまいそうな感情に後押しされるようにゆっくり離れて振り向くと、
むらっちは少し上目遣いで唇を尖らせながらあたしを見ていた。
200 名前:one's one and only 投稿日:2005/06/21(火) 22:16
「…なんか、なんっかもう…」

うまく言葉にならないけれど、やっぱりむらっちはあたしを喜ばせるのが上手だと思う。

それが本人にとって無意識だったとしても。

「…もういいよ、柴田くんのばぁか」

膝を抱えて拗ねてしまったむらっちがますます可愛くて、あたしは綻ぶ口元を隠しもせずにむらっちの顔を覗き込んだ。

目が合って、むらっちは悔しそうに視線を逸らす。
201 名前:one's one and only 投稿日:2005/06/21(火) 22:16
「…思ってた、ってことはさ、今はもう思ってないってことだよね」

次第に頬に差していく朱色があたしをまた喜ばせる。

「……そぉ、だよ」
「あたしが、むらっちの運命の人、って?」
「…柴田くんはそう思ってないみたいだけどね」
「そんなことないよ」

膝を抱えるむらっちの右手を掴まえて、自分の口元に引き寄せてその小指にキスをする。

「この小指の赤い糸の先を引き寄せたら、絶対あたしに繋がってるよ」
「……ハズレって紙に書いてあるかも」
「だったら、その紙にあたしの名前を書くよ」

それはむらっちには予想外だったらしく、言葉を詰まらせたように喉を引き攣らせてあたしを見つめてきた。
202 名前:one's one and only 投稿日:2005/06/21(火) 22:17
「むらっちの運命の人は、絶対あたしだよ」

掴まえた手をさらに引き寄せて、バランスを崩したむらっちのカラダを抱きとめる。

「他の誰でもなく、あたしだよ」

あたしを嬉しがらせてくれたから、というのではないけれど、
でもあたしは、どう言えばむらっちが嬉しくなるかを知っている。

恐る恐る、あたしの背中に回されてきたむらっちの細い腕。

応えるように少し強めに抱き返したら、腕の中で、細く息を吐き出したのが伝わってきた。
203 名前:one's one and only 投稿日:2005/06/21(火) 22:17
「…糸は、いつか切れる…よ?」

縋るくせに、時々、こんなふうに試すようなことを言うから、愛されてないのかも知れないと錯覚するけれど、
でも本当は、きっとあたし以上の情熱で、むらっちはあたしを求めている。

それがもう、判っているから、だからあたしは、何度でも、むらっちを安心させるために、むらっちの言葉を翻せばいい。

あたし自身の情熱とともに。

「あたし達の糸は切れないよ。もし糸が切れても、絶対見つけ出して結びなおしにいく」

腕の中のむらっちのカラダが小さく揺れて、それから次第に、空気に安堵を滲ませながら重心をあたしへと移してくる。

いつも不安ばかりを膨らませるむらっちが安心できるのはあたしの腕の中だけ。

ちゃんと判っているから、あたしはそれに応えて、いつも求められるままに抱き返せばいい。

むらっちが欲しがるものは、あたししか、持っていないのだから。
204 名前:one's one and only 投稿日:2005/06/21(火) 22:17

205 名前:one's one and only 投稿日:2005/06/21(火) 22:17

END
206 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/21(火) 22:18
>>191で、このスレでの更新は終了と言っておきながら更新してしまったので、落としておきます。
容量がまだあるようなので、
脳内村柴祭開催中の今のうちに短編をいくつか…、と思っておりますが、予定は未定です(苦笑)

>>192-193
レス多謝です。

昔はノリにあわせてレス返しもしていたのですが、
最近はどうも苦手になってしまって、素っ気ない返答になってしまうのが申し訳ないです。
でも、反応があるのは本当に嬉しいです、ありがとうございます。

ではまた、いつか。
207 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/24(金) 02:13
更新大歓迎です!
208 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:31
更新します
209 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:32


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――――――
210 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:33
最近、昔のことをよく夢に見る。

昔といっても子供の頃まで遡るわけではなく、オーディションを受けて、この世界に入ってからのことだけど。

昨夜は、むらっちの夢を見た。

あたしたちはまだデビューしたばかりで、憧れていた芸能界の水は思っていた以上に辛辣で、厳しくて、
世間の注目なんて全然浴びることもなく、地方へキャンペーン巡りをしてばかりだった。

名前を覚えてもらうのが第一だったけれど、
手応えのない日々の仕事は、少しずつあたしたちの気持ちを塞ぎこませていったし、
まだ高校生になったばかりだったあたしは、上京組の他の3人にもなかなか馴染めなくて、
自分で言うのもおかしいけれど、
付き合いの距離の取り方を手探りしているような状況で、無意識に追い込まれていってた。
211 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:33
その日も、キャンペーンで地方へ行った。

うまく笑えないことをマネージャー達に怒られて、でも笑い方なんて誰も教えてくれるワケなくて、
あたしは、自分が本当に自分の足で立っているかどうかさえ、わからない状況だった。

控え室に戻っても、寮で生活している3人はいつのまにか3人での共通の話題が出来ているようで、
楽しげな話の輪に入れないあたしは最初に会った頃よりどんどん無口になっていた。

部屋にいるのが窮屈で、手を洗いに行く、と嘘をついて控え室を出てすぐだった。

背後でドアの閉じる音がしたと思った瞬間、突然うしろから腕を掴まれた。

驚いて振り向くと、むらっちが心配そうな顔であたしを見ていた。

「…え? なに?」
「あ…、ごめん、泣いてるのかと思って」

掴んだあたしの腕を慌てて離して、気まずそうに言ったむらっち。
212 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:33
「……泣いてなんか…」

けれど、そう言った次の瞬間にはあたしの目からは大粒の涙か溢れ出していて、
涙でぼやけて綺麗に見えない視界の中でも、むらっちが焦っているのがわかった。

「わ、わわ、あゆみちゃん? どうしたの? どっか痛いの?」

焦りながらも、次から次へと涙を零すあたしの頭を撫でて、肩を撫でて、
それから他に方法は知らない、と言いたげにあたしを抱きしめてくれた。

「泣かないで。 大丈夫だから、ね? 大丈夫、大丈夫だよ」

あたしの涙の理由なんてきっとわからないのに、
何の根拠もなく、ただ大丈夫という言葉を繰り返してあたしの背中を撫でるむらっちの手があたたかくて、
そのあたたかさがまた涙を呼んで、思っていた以上に細いそのカラダに抱きつきながら、あたしは声を殺して泣いた。
213 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:34
「なんでひとりで悩んじゃうの? 相談してよ。仲間じゃん」

その一言でまた気持ちが決壊する。

欲しかった言葉だった。
でも、あたしには言ってもらえない言葉なんだと思っていた。
あの輪の中には、入れないんだと、思っていた。

あたしたちの様子を心配してか、控え室のドアが開いて、瞳ちゃんとマサオくんも出てきた。

「大丈夫、大丈夫だよ。あたしたちがついてるからね」

頭の上で優しく響くむらっちの声。

その優しい響きをした声色は、ずっとずっと変わらずあたしのそばにいてくれた。

今ならわかる。

気付かなかっただけで、あたしはきっと、このときからむらっちが好きだったんだ。
214 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:34
目が覚めて、頬を伝う涙に気付いて、苦笑しながら起き上がる。

涙を拭いながら、その涙が、現実に起きたことを夢に見てまた泣いたのか、
それともずっと見なかったむらっちの夢だったからなのかがわからなくなる。

そのどちらでもあるような気がしたし、それより他にも理由があるような気がした。

久しぶりに、むらっちの夢を見て思い出す。

初めてむらっちの前で泣いたあの日からもう8年が過ぎていることに。

むらっちの気持ちを知って、彼女の気持ちを受け入れたあの日からは3年。
そして、2006年の夏にメロン記念日が解散してからは2年が過ぎようとしていた。

今でもマサオくんや瞳ちゃんとは時々会ったりするけれど、むらっちとはもう、1年以上、会っていなかった。
215 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:35


216 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:35
解散は、例のごとく、何の前触れもなく、淡々と告げられた。

4人揃えてではなく、あたしひとりと、3人とに分けられて。

自らの音楽性の探求という、もっともらしい理由でハロプロを卒業、という形式だったけれど、3人は事実上の解雇。
あたしはひとり残って、別のメンバーとユニットを組む、というものだった。

どんなに泣き喚いても反抗しても、上からの指示は決して覆すことの出来ない『決定事項』で、
あたしたちは最後に、4ヶ月にも及ぶ全国ツアーで、メロン記念日というグループに幕を下ろした。
217 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:35
メロン記念日でなくなってからも、あたしたちは時間が合えば4人でしょっちゅう会っていた。

でもそれはすぐに上層部に知られることとなり、変な噂をたてられても困る、といわれ、頻繁に会うことは叶わなくなった。
勿論、それでも連絡はずっと取り合っていたけれど。

卒業して半年後には瞳ちゃんとマサオくんが組んでアマチュアバンドを結成した。
契約の面もあるので、インディーズからのデビューでも、更にあと半年かかってしまったけれど、
今は、有名、とまでは言えなくても、本人達にとっては充実した活動をしている。

むらっちは………。
218 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:35
むらっちとは、瞳ちゃんたちのデビューイベントの日以来、一度も会っていない。
実家に戻るらしいと聞いて、一度だけ、あたしのほうからメールを入れてみたけれど返事はこなかった。

どちらかが、別れを切り出したワケじゃない。
明確に、別れた、という状況を作ったワケでもないし、作られた覚えもない。

けれど、少しずつお互いの時間が合わなくなり、擦れ違いの日々を過ごしていくうちに、喧嘩が絶えなくなった。
つまらないことで言い合って、これ以上ないというぐらい醜い言葉で罵りあった。

どちらかが折れるまで言い合いを続けて、気持ちもカラダも疲れ果てて、
結局抱き合って眠るような日々を過ごしていくうちに、
あんなにも固く切れることはないと信じていたあたしとむらっちとを繋いでいた赤い糸は、
いつしか、自分たちでは解くこともできないほど、絡み合ってしまったように思えた。

会えない時間が増えて、だんだんと連絡も途絶えがちになって、自然と距離が出来てしまった。

なのに、会わなくなって1年たつのに、あたしはあたしのケータイから、むらっちのメモリを消すことが出来ない。

むらっちの夢を見て、まだ涙が出ることに自分でも驚いた。

忘れたと思っていたのに、彼女はあたしに、彼女自身のすべてを刻み込んでしまったのだ。
まるで、忘れて逃げることを許さないみたいに。
219 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:35
ベッドから降りて、朝食の支度をした。

今日はオフ日。
半日程度のフリーの時間ならしょっちゅうあるけれど、一日中何の予定も組み込まれなかったのは10日ぶりで、
最近は家と仕事場所以外はロクに出かけていなかったし、買い物がてら、今日は気分転換で街へ出るつもりだった。

あまり気持ちいいとは言い難い夢を見たせいか、
自分の家なのにいたたまれない空気が漂ってるような居心地の悪さにその気持ちは俄然前向きになり、
シャワーをして、適当な服に着替え、適当に鞄に物を入れて、あたしは家を出た。
220 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:36

221 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:36
平日だからか、都心部にいても人の数は気になるほどではなかったし、
午前中からいい歳した女がひとりで歩いていてもあまり浮いた存在になることもなく、
あたしはたいした変装道具を必要とせず、いろいろな店に立ち寄ることが出来た。

適当にショッピングをして、洋服も買った。
昼過ぎになって、そろそろ何か食べようかと思ったとき、
そういえば、最近は食生活のバランスが悪くなってることを思い出し、
何かいい改善方法を特集している雑誌はないかと思って本屋に立ち寄った。

大手のブックセンターは外に比べると客の数も若干多く感じられたけれど、
それでもそれぞれ自分たちの目的があるから周囲には目を向けない。

なかには目敏い人もいるから、
ひとつのコーナーにあまり長居はしないようにしながら平積みされている雑誌を見ているときだった。

思ったより陳列数が多くて、
とりあえずどれか開いてみようと棚に並んだ雑誌に手を伸ばしかけたとき、あたしの右側からも細い手が伸びてきた。
222 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:36
「あ、すいません」

相手の顔も見ないまま謝ってあたしから手を引いた。

けれど相手の手は浮いたまま、そのまま凍り付いたように動かなくなる。

不思議に思って隣を見て、文字通りあたしのカラダも凍り付いた。

少し上からあたしを見下ろしていた相手の表情が、あたしと目が会った瞬間、また更に強張る。

「……むらっち…」

そこにいたのは、1年前に会ったときより髪が伸びていただけで、他はなにひとつ変わってない、むらっちだった。
223 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:37
「………久しぶり、だね」

手を下ろしながら、ぎこちなく笑ってむらっちが言った。

「…うん」
「…オフ?」
「うん」
「そっか……」

会話が途切れて、あたしは俯いた。

1年ぶりに会うのに、もう落ち着いたと思っていたのに、
今朝見た夢のせいで、ケータイのメモリをいまだに消去できずにいる現実と胸の奥に鈍く燻る痛みとで、
あたしはむらっちの顔を見ることが出来なかった。
224 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:37
「テレビ、見てるよ」
「…うん」
「ラジオも聞いてる」
「…ありがとう」

むらっちは?
いま、何してるの?
実家に戻ったって聞いてたけど?

どうして聞けないんだろう。

あの頃は、思ったことは口に出せていた。
気持ちを全部むらっちに向けていた。

それがふたりを繋いでいるんだと思えていた。
225 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:37
俯いていたあたしの目に、むらっちの細い腕が映る。

前髪をかきあげたのだろうか、右手で持っていたブックセンターの文字が印刷された紙袋を不意に左手に持ち替えた。

あまり変わってないその指のカタチに今でも胸が鳴るのがなんだかとても惨めで、
だけど、その薬指に光るものにあたしは一瞬思考と声を失う。

相変わらず骨ばった指に不釣り合いなゴールドのリング。

それの意味するものはひとつだから、胸の痛みが更に増して、あたしは余計に俯くしかなかった。

「…このあと、何か予定あるの?」
「え?」

でも、頭上で聞こえた、少し不安そうに呼びかけてくる声色はあの頃のままで。

思わず頭を上げたあたしに、むらっちがホッとしたように眉尻を下げた。
226 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:37
「もしよかったら、うち、来ない? ここからすぐなんだ」

目元の柔らかな雰囲気も変わってなくて、鼻の奥がツンとなる。

答えに詰まって目線を落とすと、紙袋を掴んでいた左手にチカラが入ったのが見えた。

「…あ、用があるなら…」
「行く」

言葉尻を奪うように答えた。

これを逃したら、こんな運命みたいな偶然逃したら、きっと後悔する。

「行くよ」

まっすぐむらっちの目を見て、あたしは強く、言い切った。
227 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:37

228 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:38
新婚家庭のマンションか新築の一戸建てに連れて行かれる覚悟でいたのに、
着いた場所はさっきのブックセンターから徒歩で10分程度のワンルームマンションだった。

「どうぞ。ちょっと狭くて散らかってるけど」

そう言っても、昔からむらっちの部屋が散らかっていたことはない。
あの頃よりは確かに、間取りは狭くなっているけれど。

8畳ほどの部屋にあるのは、ベッドと、テレビと、こじんまりとしたテーブルと、その上にノートパソコン。
食器棚は玄関口のコンロの上の作りつけだけで、洋服ダンスもベッドの足元のほうに作りつけのものがあるだけだ。

指輪のことを考えたら住人はひとりしかいないと容易に判る雰囲気が少し不思議に感じたけれど、
結婚したのではなく、結婚する相手がいるのだという結論にすぐ辿り着いた。
229 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:38
「適当に座って」
「…あ、うん…」

言われて、ベッドに腰を下ろそうとして、瞬時に、このベッドで寝る、むらっち以外の異性のことを考えて嫌悪感が走った。

吐き気にも似た気分が込み上げてきたけど何とか堪えて、
ベッドには座らず、閉じられているノートパソコンに向かうように座ると、
小さなキッチンの上で、途中のコンビニに寄って買って来たお茶やジュースを取り出す音が聞こえてくる。

「グラスに注いだほうがいい?」
「あ、いいよ、そのままで」

水滴のついたペットボトルを軽く拭ってから手渡される。

むらっちは、ベッドに座った。
230 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:38
「…テレビで見るより、少し、痩せたみたいだね」

キャップをあけて口に含んだら、不意に言われた。

「…そうでもないよ」
「ひとみんたちとは? 会ってる?」
「たまに会うかな。この間会ったときは、マサオくんの髪型が前髪だけ紫になってた」
「マーシーは相変わらずか」

軽く笑ったけれど、むらっちの口調で、今では瞳ちゃんたちとも連絡を絶っているのだとわかった。
231 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:38
「…むらっちは?」

もう一口飲んで、心臓は今にも喉から飛び出してきそうなくらいどきどきしていたけれど、
精一杯なんでもないふうを装って聞いた。

するとむらっちは少しだけ表情を曇らせて、あたしから目を逸らした。

「…特にこれといって変わりはないよ」
「いま、なにしてるの」

さっきは聞けなかった言葉が、今は好奇心と、むらっちの表情の変化が気になってするりと言えた。

「…別に、普通」

誤魔化されているのはすぐに判ったけれど、
曖昧に笑っているから表情の曇りは少しも晴れず、あたしの気持ちも少しずつイライラしはじめる。

「普通とか」
「柴田くんのいる世界とは違うから」
232 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:39
むらっちは、どちらかといえば、繊細そうに見えて嘘や嫌味を器用に使いこなすタイプだった。

けれど、もし今の言葉が嫌味なら、どういうつもりでここにあたしを呼んだんだろう。
久しぶりの再会なのに、あの頃みたいに、また喧嘩を始める気なんだろうか。

あの頃のあたしなら、
むらっちのそんな態度に腹をたてて何か言い返していたかも知れないけど、今のあたしにそんな気力はない。

あるのは、ただ、そんなむらっちを、あたし以外にも抱きしめる誰かがいる、という現実だ。
その現実に悔しくて悲しくて歯噛みしている、という心の狭さだ。

何も言わずにいたあたしの雰囲気から何か感じ取ったのか、
むらっちが急に口元を覆って申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「…ごめん。嫌な言い方した」
「別に、いいよ」

言葉に無意識に棘も嫌味も含んでいたことに思い至ったむらっちが、自己嫌悪しているのが目に見えてわかる。
233 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:39
何も変わってない。
変わってないことが、とてもとても苦しかった。

あの頃と同じなんて、そんなの、ずるいよ。

「……ね、むらっち」

外見も、喋り方も、雰囲気も、癖も、あの頃と何ひとつ変わってないのに。

「むらっちが、いま付き合ってるひと…って、どんなひと?」

あたしが好きなむらっちと何ひとつ変わらずに、気持ちだけが変わったなんて、そんなの、あんまりだよ。
234 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:39
唐突なあたしの問いかけにむらっちが驚いたように目を見開く。

「…なん、で」
「だって、指輪してるじゃん、左手の薬指」

あたしに言われて初めて気付いたように、むらっちの視線が一度手元に落ちて、それから右手で指輪を覆い隠す。

「…これは…」
「あたしと付き合ってたときは、一度もしてくれなかったのにね」
「だ、だってあの時は…っ!」
「うん、わかってる。言ってみただけ、ごめん」

あの頃のあたし達は、自分たちの身に付けるアクセサリーひとつにも気を遣っていた。
異性の存在を思わせるような、特別なモノだと思わせるようなものを身につけることが出来なかったのだ。
そのぶん、カタチとして残せないものをたくさんもらった。
235 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:39
「……どんなひと?」

もう一度尋ねると、辛そうにあたしを見つめてから、すぐに視線を外した。

「柴田くんには…、関係ない」

そういう突き放され方もあるんだ、という現実を突きつけられ、惨めな気分はどんどんその色を濃くしていくのに、
胸の奥で燻る鈍い痛みは、まだその痛みの意味する想いで、あたしを奮い立たせようとする。

「それもそうだね」

冷たく言い放てているだろうか。
ずっと一緒にいると言いながら、それを叶わない願いへと変えてしまったむらっちの、
あたしへの罪悪感に突き立てる刃物になっているだろうか。
236 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:39
「…そういう柴田くんこそ、どうなのよ」

切り返してきた声色は、怒気を含んでいるようにも、傷付いているような響きにもとれる震えたものだった。

「…年末ぐらいに、噂になってたじゃない。週刊誌で見たよ」
「……ああ、あれ、見たんだ」

あたしのほうは見ないままでいてもわかる、怒ったような眉間のしわ。

確かに、年末に週刊誌で熱愛報道をされた。
でもあれは番組の話題作りでしかなく、あたし彼とがふたりきりで会ったことは一度もない。

でも、いま、恋人の存在を指摘されて少なからず動揺しているむらっちを納得させる答えはひとつしかない。

「…むらっちには、関係ないよ」
237 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:40
広くない室内の空気が震えたような気がして、けれどそれはただの錯覚でしかないこともよくわかっている。

こんなに近くにいるのに。
連絡をとることさえ躊躇っていた昨日とは違って、手をのばせば届く距離にいるのに。

もうお互いに、お互いを束縛する権利は、ないのだ。
238 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:40
「……やっぱり、帰るよ」

しばらく沈黙が続いて、それに耐え切れなくなって、溜め息と一緒に吐き出した。

ここはむらっちの家だ。
むらっちはここを出て行けないんだから、
こんな濁った空気の漂う狭い空間にいつまでも無言のままでいるわけにはいかないと感じたなら、
あたしから、ここを出て行くことを切り出さなければ。

濁っていた空気が震えて、むらっちが振り向く。

「…ここにいても、もう話すことなんて、ないし」

あたしはまだむらっちのことが好きだけれど、むらっちの心の中に、『あたし』のいる場所は、ないんでしょう?

伝えるかわりに微笑んでみた。
うまく笑えたかは自信なかったけれど、ゆっくり立ち上がって、むらっちの顔は見ないまま玄関に向かった。
239 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:40
「…え、駅まで送るよ」
「いらない」

追いかけてきた彼女を言葉と背中で突き放す。

もう戻れないなら、優しくしないでほしい。
もう好きじゃないなら、あたしに触れないで欲しい。

玄関のドアを開けて、そこでやっとむらっちの顔を見た。

あたしを見下ろすむらっちの目は、
怒っているようにも、悲しんでいるようにも、傷付いているようにも、ホッとしているようにも、見えた。

「…さよなら」

むらっちからの返事を聞く前に踵を返して歩き出した。
240 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:40
このまま、振り返らずにエレベーターに乗ろう。
振り向いてむらっちの顔を見たら、彼女の気持ちなんかお構いなしで、彼女に縋り付いてしまいそうだった。

振り向かないあたしに、きっとむらっちは安心するだろう。
むらっちに新しい恋人がいるように、
あたしにも噂になった彼がいるのだと勘違いして、自分の罪を罪だと思わなくなるだろう。

そうして、いつまでも途切れることなく繋がっていると信じて疑わなかったあたしたちの赤い糸は、そこで切れてしまうのだ。

背後でドアの閉じる音がして、目の奥が熱くなる。
あの頃みたいに、エレベーターに乗るまでの後ろ姿さえ、もう見送ってはくれないのだ。
241 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:41
そう思った瞬間、いきなりうしろから腕を掴まれた。

驚いて振り向いたあたしの目に、ひどく心配そうな目の色であたしを見つめるむらっちが映る。

「…な、なに」
「……あ、ごめん……、なんか、柴田くんが…、泣いてる気がして」

そのとき、今朝見た夢が瞼に蘇ってきた。

夢の中のむらっちと今目の前にいるむらっちとがブレて、声も重なる。


『泣いてるのかと思って』


あの日とまったく同じ声色で、あの日とまったく同じ表情で。
242 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:41
もう、抑えることは出来なかった。

むらっちに掴まれている部分から伝わるむらっちの体温に、あたしのカラダはあっというまに彼女で侵蝕されていく。

「…柴田くん?」

俯いたあたしの上から聞こえてくる声に、堰きとめていたすべてのものが溢れ出してくる。

「……よ」
「え?」
「ずるいよ…、むらっち」

俯いているせいで余計に、溢れ出す涙の速度が加速する。
243 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:41
「……なんにも、変わらないのに…変わってないのに。……気持ちだけ、変わったの?」
「え? なに?」
「どうして、優しくする方法まで、変わってないのよ…」
「柴田くん? なにを…」

あたしの腕を掴むむらっちの手に不自然なチカラがこもる。

「もうあたしのこと好きじゃないなら優しくなんかしないでよ!」

あたしの言葉の勢いに弾かれたようにむらっちが手を離す。

なのに、優しくするなと言ったすぐに、あたしはもう後悔している。

涙の浮かぶ顔を見られたくなくて俯いたのに、離れていく体温がとても名残惜しくて顔を上げた。

「…ずるいよ…、どうしてこんなときに優しくするの?」

あたしを見たむらっちが喉を鳴らして息を飲む。

「そんなことされたら、忘れられなくなるじゃない…」
244 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:41
今朝、今までほとんど見なかったのに、久しぶりにむらっちの夢を見た。
昔のむらっちと今のむらっちとでは雰囲気は変わったけれど、
それでも、明確に目に見えた何かが変わったわけじゃない。

何も変わらないくせに。
喋り方や、笑い方、あたしの腕を掴んだときのチカラの強さだって、何も変わってないくせに。

「…気持ちが変わったんなら、もうあたしはむらっちにとって過去の人間だって言うなら、もう優しくなんてしないでよ」

言いながら、とても惨めになってくる。
こんな言葉でむらっちを追い詰めるつもりじゃなかったのに。
245 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:42
「…なに、言って……、…気持ちが変わったって…柴田くんこそ…」

むらっちが言おうとしてるのが例の熱愛報道のことだってことはすぐにわかった。
だってそれは、むらっちがあたしを傷つけた罪の言い訳にもなるはずだから。

「…あんなの、番宣のためにわざと撮らせただけだよ…っ」

また、むらっちの喉が鳴った。
息を飲んだ、というより、言葉を飲み込んだみたいにも感じた。

「……なんで今更…他の人なんか…」

むらっちはもうあたしじゃない誰かを選んでいるのに。
こんなこと言ったって、自分が惨めになるだけなのもちゃんと判ってるつもりなのに。

「むらっちが…、むらっちがあたしをこんなふうにしたくせに…っ」

一度溢れだしたものの止めかたを、あたしは知らない。

「今更、むらっち以外の誰に触って欲しいなんて思うのよ!」
246 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:42
吐き捨てるように言って涙を拭うと、少しの間を置いて、搾り出したような声でむらっちが言った。

「…あたしには、関係ないって、言ったじゃない」
「……先にそれ言ったの、そっちじゃん」

あたしを見ているむらっちの瞳の色が困惑で揺れている。

「……関係ないって言われて、関係あるって言い返せるほど、あたしたち、近くにいた?」

むらっちの視線が落ちたのを見て、あたしは深く息を吐き出して呼吸を整えた。

「…ごめん……。こんなこと、言うつもりなかったのに…」

ゆるりとむらっちの視線が上がってあたしを捕らえる。

それはまるで、あたしに縋っているようだと錯覚するほど揺れていて、あたしは直視出来ずに目を逸らした。
247 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:42
「……ごめんね、困らせるつもりじゃ、なかったんだよ。…ごめんね、帰るね」

あんなふうに見つめられたら、期待してしまう。
もうあと1分でもむらっちの顔を見ていたら、もっともっとむらっちを困らせるようなことを口走ってしまいそうだった。

鞄を抱えて踵を返そうとして、さっきと同じところをまた掴まれた。

「……ホントに、誰にも、触らせてないの?」

振り向いたあたしの目に映るのは、つい数秒前までの揺れた瞳ではなく、真実を知ろうとする意志を秘めた強い眼差し。

「あたし以外の、誰にも?」
「…どう、して…」
「答えて」

声色までもが強くなって、あたしは、肩を竦めながら目を閉じて俯いた。

「……ホントだよ。むらっち以外の誰にも、触らせたことないよ」
248 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:42
答えた瞬間、腕を掴むむらっちのチカラがそれまでの何倍も強くなった。

「ごめん」

言うより先にあたしの腕を引っ張り、引きずるようにしてむらっちの部屋まで連れ戻される。

「…む、むらっち…っ? なに、どうし…っ」

ドアを開けて、中へ引き込まれて、靴も脱がずに上がりこんだ先で、
唇だけでなく、呼吸さえ奪おうとする激しさでむらっちが強引にキスをしてきた。

「んっ、んーっ!」

突然のことでバランスをなくして膝から崩れ落ちるあたしを支えながらも、
あたしの両肩を掴む手のチカラが痛くて、床へ倒れこむと同時にむらっちの背中を強く殴った。

それで我に返ったみたいにあたしから離れたむらっちが、あたしを目に映して、また顔を近づけてくる。

顔を背けて寸前で逃れたあたしの耳にむらっちの唇がぶつかって、耳朶を齧られた。

「…い…っ、か、噛まないでよっ」
「柴田くんが、あんなこと言うから悪いんだよ。もう我慢しないから」
「我慢って何! ってか、むらっち、恋人いるくせに、なんでこんなこと…っ!」
249 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:42
もう一度殴ろうとした手を掴まれて、もう一方の手も奪われた。

「そんなの、いない」
「嘘つけ!」
「嘘じゃないよ」
「じゃあ指輪はなによ!」
「なんでもない。ただの飾り」
「か…、飾りって、そんなの信じ…っ」

言葉の途中で再び唇を塞がれる。

掴まれた手は床へと押し付けられて、態勢的にも、心境的にも強い抵抗なんて出来なくて。

あたしの唇を離れたむらっちのそれが頬に滑って、瞼にも触れる。

「………ずるいよ、むらっち…」

キスまで、あの頃のまま、優しいなんて。
250 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:43
「……ごめん」
「こんなことされたら、余計忘れられないじゃん…」

目は閉じたまま、吐息と一緒に悪態をつくと、むらっちが額に唇を押し付けてきた。

「忘れなくていいよ。忘れないでよ」
「………ずるい」
「好きなんだ、柴田くんのこと」
「ずるいよ」
「あたしも、ずっと忘れられなかったんだ」
「……そんなの、今言うの、ずるい」

あたしの手を押さえつけていたチカラが次第に緩んで自由になる。

「あたしも、この1年、誰にも触らなかったし、誰にも触らせなかった」
「……嘘つき」
「信じてよ」

あたしを見下ろすむらっちの目は縋るように切なげに揺れていて、
むらっちに触りたくてたまらない気持ちを抑えきれず、自由になった手を、頬に伸ばしてみた。
251 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:43
「…好きなんだ、いまでも」

頬に触れたあたしの手に、目を閉じながら口付ける。

「あゆみだけなんだ」

ずくん、と胸と腰に響く。

むらっちがあたしの名前を呼ぶのは、ベッドの中だけだった。
まるで条件反射のように、あたしの体の芯に熱が灯る。

口付けたあたしの指先を口の中に含んで、軽く爪を噛んで、舌先で舐める。

少しも変わらない誘い方に泣きそうになった。
252 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:43
むらっちが嘘をついているんだとしても、そんなこと、もうどうでもよかった。
触れたい衝動と、触れられたい欲求とで、あたしの中は埋め尽くされる。

あたしの指を舐めたその唇に、今度はあたしが、誘いをかけた。

「…じゃあ、証拠を見せて」

薄く唇を開いて舌を差し出し、それを認めたむらっちの唇があたしのそれを塞ぐ寸前、
むらっちの背中に腕をまわして、目を閉じた。
253 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:43

254 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:43
目を覚ましたとき、外はもう、薄く暗闇に沈んでいた。

背中からあたしを抱きしめるようにして眠っているむらっちの寝息が耳元から聞こえてくる。

久しぶりの気怠い感覚が全身を覆って身動きできず、
ひっそりと暗い室内に目が慣れるまで、あたしはぼんやりカーテンの向こうを眺めていた。

暗闇に目が慣れたとき、むらっちの骨ばった手を目の前に見つけ、
そしてその薬指に光るゴールドのリングが目に留まった。

眠るむらっちを起こさないように気遣いながらそのリングをそっと撫でた。

飾りだと言ったむらっちの言葉を、どう信じていいか判らなかったけれど、
今、あたしの背中で眠る彼女の熱は紛れもなくあたしの知ってるままの彼女のもので、
何も変わらないままでいた中で、この左手の薬指の部分だけがあの頃と違うことに、ただ胸が切なかった。
255 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:44
「……あゆみ?」
「あ、ごめん、起こした?」
「…いや」

眠そうな声で答えて、確認するようにあたしのうなじに口付けてから、腕にチカラをこめて抱きしめる。

「……気に入らないなら、外そうか?」
「え?」
「指輪。…ホントに、これにたいした意味はないんだ。ただのカムフラージュだから」
「…どういうこと?」

抱きしめられているせいで身動きを封じられているから、顔だけで振り向いて尋ねたあたしに、むらっちが静かに笑う。

「…今の職場、小さな保険会社なんだけど、女ばっかでね。いろいろ世話したがるお節介な主婦がいるんだよ」
「世話?」
「見合いとか」
「お見合いしたの?」
「違うよ。それから逃げるために、彼氏がいるから結構です、っていうカムフラージュなの」
256 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:44
笑ったことで起きた振動が直に素肌に伝わる。

「…信じてくれる?」

自嘲気味に笑う口元があたしの胸に切なく響く。

「……柴田くんが外せっていうなら、外すよ」

顔を戻し、目の前にあるむらっちの骨ばった指に噛み付くと、僅かにむらっちのカラダが揺らいだ。

「…お節介な主婦に世話されたくないなら、つけてていいよ」

あたしを抱くむらっちの腕にまたチカラが込められて、息苦しいのに、全身が満たされていく。
257 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:44
カラダで覚えているその細い腕に頬をすり寄せたとき、薄い暗闇の中、視界の端で何かが点滅しているのが見えた。

「…あ、ケータイ鳴ってる…」

思わず漏れた言葉にむらっちの腕のチカラが不意に弱くなった。

自由になったカラダを起こして、
むらっちを見ながら鞄から覗くケータイに手を伸ばして取ると、サブディスプレイには見慣れた名前があった。

「瞳ちゃんだ…、どうしたんだろ、こんな時間に」

ディスプレイに表示されている現在時刻を確認しながら呟くように言って、
上体だけをベッドから起こして、あたしを見上げるむらっちに振り向く。

首を傾げながらも通話に出ると、小さな機械の向こうから溜め息と一緒に聞き慣れた声がした。
258 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:44
「やーっと繋がった!」
「瞳ちゃん?」
「さっきからずっと鳴らしてんのに、全然でないから心配したじゃん」
「…ごめん、ちょっと……」

思わずむらっちを見ると、むらっちも起き上がってきた。

あたしのほうへ耳を寄せてきたむらっちにも聞こえるように、耳から少しケータイを離す。

「…ま、いいわ。それよりあゆみ、今日オフだったよね?」
「…うん」
「今どこにいるの? もしヒマしてんなら今から会えない? ちょっと報告したいことがあんのよ」
「報告?」
「そう。あたしとマーシーから。すごいビッグニュースなの」

瞳ちゃんの声の勢いから、それはとてもいいニュースなのが伝わってきて、むらっちと顔を見合わせた。
259 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:45
「…電話じゃダメなの?」
「そんなことないけど、直接会って言いたいって言うかさ、渡したいものもあるし」
「…あー…」

むらっちといる、と言えばいいのだろうけど、たぶん、
今は瞳ちゃんとも連絡を断ってるむらっちに無断でそれを言うのは少し躊躇われた。

言い淀むあたしを見たむらっちが小さく笑って、口の動きだけで『貸して』と言った。

何を? と聞く前にケータイを奪われる。

「もしもーし? あゆみー? ちょっと、聞いてんのー?」
「聞いてるよ」
「…あ? あゆみ? じゃないね、アンタ誰?」
「ひどいなあ、半年あけたら忘れちゃったの?」
「は? ………はあぁぁ!? えっ、ちょ、むら? 村田なの!?」

何をするのかと、半ば茫然とむらっちの動向を見ていたあたしに瞳ちゃんの叫び声が聞こえた。
260 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:45
「なに、なんで? なんであゆみのケータイにアンタが出てんの? つか、今一緒にいるわけ?」

チラリとあたしを見たむらっちが、口元で人差し指をたてる。

「なによ、どういうことよ、説明しなさい、こら! アンタたち、ヨリ戻ったの?」
「…ひとみん?」
「な、なによ」
「そういうことだからさ、邪魔しないでもらえるかな?」
「はっ?」
「しばらくケータイの電源切るから」
「はい? 何言ってんの、アンタ。どういうことか説明しろって…っ!」

まだ喋っている瞳ちゃんの勢いになんかお構いなしで、一方的に会話も通話も終了させて、言ったとおりにそのまま電源も切った。

まだ茫然としていたあたしに振り向いたむらっちが、少し満足そうに笑う。
261 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:45
「…切っちゃった」
「き、切っちゃった、て、そんな、あっさり…」
「喋りたかった?」
「話、まだ途中だったじゃん」
「ひとみんに会いたいの?」
「そうじゃなくてさ、大事な話があるって言ってたじゃん」

ケータイを受け取りながら呆れ口調で言うと、笑っていたむらっちの口元が引き締まった。

「…あたしといるより、ひとみんに会いたい?」

試すように言うわりに、欲しい言葉なんて、ひとつしかないくせに。

「……判ってて聞くな、バカ」

ケータイをベッドの下に落として、むらっちの手を掴まえた。
骨ばった指の先を口の中に含んで甘噛みすると、むらっちの肩が小さく震えたのが見えた。
262 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 12:46
「……もう、離さないよ」

熱い吐息と一緒にむらっちが言った。

「離れないから」

手のひらに口付けながらあたしも答えた。

「離れないでね」
「離さないから」

さっきだって貪るようにお互いのカラダを求め合ったのに、まだ埋め尽くしきれない時間の隙間を縫うように、
どちらからとなく顔を寄せて、唇をぶつけ合って、あたしたちはもう一度、ベッドにカラダを沈めた。

ベッドの軋む音を聞きながら、たぶんあたしもむらっちも、
瞳ちゃんとマサオくんへの報告はいつにしようか、頭のどこかでぼんやり考えていた。

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