RUN WILD 2d Season

1 名前:おって 投稿日:2005/03/24(木) 02:34
空板で1月まで書いていたものです。
吉澤主人公のほぼオールキャストの陸上物。

前スレ
http://mseek.xrea.jp/sky/1089213000.html
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/24(木) 02:34


 あのときから、一時たりとも忘れてないよ。
 それを背負ってあたしは、てっぺんを目指す。

 『on your mark』

3 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:36
 21st Race「逸材」

 「マジすか?」
 「うん。10人はカタイね」
 矢口さんは自信たっぷりの表情。
 なんでそこまで沸き起こってるのかは全然分からないけれど、左手の拳をグッと握ってみせる。
 あたしは頭にかけたほとんど空っぽの鞄を揺らすと、矢口さんの頭の上で空を切って一回転した。

 入学式である今日、部活紹介も同時に行われ、
 キャプテンである矢口さんは陸上部の紹介と宣伝のため駆り出されていた。
 ここで部員を何人ゲットできるかは結構大事だ。文化部やテニス部あたりに人気が行きやすいだけに。

 「ほんとすか〜?」
 「絶対来てるって!質問もめっちゃあったし!ごっちんと紗耶香で相当食いついたね」
 「インハイは偉大ってか〜」
 「そゆこと」

 校舎を出ると少しだけ歩く。10数メートル先にある部室ばっかりの建物に入ると、
 前よりかなりきれいになった部室に足を踏み入れた。昨日大慌てで大掃除した甲斐があった。
 あくまで進入部員が入部を決めるまでのものだけど。
 そういえばあたしがはじめて部室に入ったときもこんな風にきれいだったような気がする。
 仮入部じゃなくなった瞬間にとてつもなく汚くなったけど。
4 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:37

 「高橋って娘覚えてる?」
 「ああ、支部新人時に来てた娘っすか?」
 「あの娘も来てた」
 「おお」

 それを聞いて少しだけホッとしたけどすぐに思い返す。
 あたしが受かるような学校なんだからそう落ちる人間はいないか。一応名の通った学校だけど。

 「紺野もしっかりいたし」
 「お、長距離期待の新星」
 「…はぁ」
 『…』

 重苦しいため息が部屋の奥から聞こえた。顔を見なくても誰だか大体見当がつく。

 『梨華ちゃん』
 「ふぁ〜い…」

 紺野の成績が悪いことに元旦の祈りの全てを捧げたけど、生憎様、
 紺野は首席でI高へやってきた。

 「でもよっすぃだってわかんないよ?強〜い娘は入ってくるかもしんないし」
 「んなこと言ったってしょーがないしー」

 本音だった。梨華ちゃんは気にしすぎだと思う。
5 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:37

 『失礼しまーす』

 声を合わせて仲良くご入場の辻加護ペア。そういえば最近、ののは変わった。

 「よっすぃ〜よっすぃ〜、これ、借りてたCD!」

 〜れすとは言わなくなった。

 後輩が来るに当たってののも色々考えたのかもしれない。
 そんなだらしのない口調だと示しがつかないとか、投擲志望で入学してくる娘がいるという噂とか、
 色んなものがののに影響を与えたんだと思う。

 「サンキュ」
 「あ、それうちにも貸して」
 「あいぼんはダメ〜」
 「なんでやねん。それのののやないやん」

 楽屋はいつものように流れていく。新入生を待ちわびながら、いつものように。
 そして校舎の周りに咲く桜達は、トラックシーズンの到来を伝えてくれた。

 「……」

 小春日和だから、と意味分かんないこと言って眠ってる眠り姫も、気持ち良さそうだ。
6 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:39

 「アップ行くよー」

 キャプテンの矢口さんも様になってきた。矢口さん市井さん保田さんの二年生三枚看板は今年も健在。
 今年の初めに目標全員関東進出を掲げていた。あたし達も負けられない。
 あたし達の学年は五人と少ないし、無理ではないと思うけど…。
 一人だけ、実力的というより、精神的にネックな人がいるからどうだろう。

 「はぁ〜……」

 ネガティブモード全開。こんなに暗く落ち込んだ梨華ちゃん中学時代も見たことがない。
 暗いというか、生気が感じられないけど。そんなに暗い表情を見せたら、福も逃げちゃうよ。

 起きたばかりのごっちんが慌てて後ろから走ってきて、追いつく。
 でも眼は開いてんだか開いてないんだか微妙な感じ。もうみんなこれに関しては諦めている。
 やるときはちゃんとやるし。

 「よしこぉ眠いよぉ」
 「授業中ずっと寝てる人の言う台詞じゃないと思う」
 「梨華ちゃんそんなこと言わないで〜」
 「よーしじゃああたしが目が覚める魔法を唱えてやる!」
 「んあ?……あ、アハ、やめ、アハハ、くすぐったいよ!」
 「ちゃんとアップしろー!」

 先頭のちっちゃい人から声が聞こえた。
7 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:40

 二月、三月と暖かくなるに連れて、体作りから段々と本格的なものへと練習が移行されていった。
 そして四月、漸くスタートダッシュの練習も再開された。
 冬場寒い中無理矢理全力疾走させたら怪我する可能性が高い。
 なら逢えてその可能性に乗り込む必要性はどこにもない。だからあたしにとって冬場は我慢の場だった。
 みんながバカな事と形容する行動に走らないように耐えるための。

 去年の秋から中澤さんと徹底的に鍛えてきた反射神経。
 中澤さんは卒業しても三月いっぱいはあたしの練習に付き合ってくれた。
 本当にあの人仕事見つけたのかな?と疑ってしまうほど毎日。
 秋冬春と三つの季節をまたにかけたこの特訓の成果を、今こそ見せなきゃならない。

 「位置について」

 矢口さんとあいぼんの間でスタブロを構える。積んできた練習が自信の裏づけ。
 負ける気がしなかった。

 「よーい」

 これがニュー吉澤だ!

 バンッ!!

 音が鳴ってから体が反応するまでの時間が、昨年のベストレースのそれよりも遥かによくなっていた。
 文字通り見違えるような最初の一歩。
 思えば去年の春、ののと勝負をしたSDが、全ての始まりだった。あれからピッタリ一年。
 あたしは部内最速のダッシュで、

 「一着矢口さん」

 そんなに甘くないらしい。
8 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:41

 「くそ〜!」
 「甘い甘い。おいらだってあの練習一年の冬からやってたんだよ」
 「そうだったー!」

 両手で頭を抱える。コテコテなリアクションをしてしまった。
 
 「キャプテンに勝とうなんざ100年速いってことよ〜。恋人にしたい女子高生ランキング4位だぞ?おいらは」
 「誰がやってんすかそんなランキング。ていうか今更バレンタインすか」

 矢口さんは絶好調みたいで、上機嫌でウォッチを受け取る。
 あたしとあいぼんも同じく受け取ると、ゴールラインの横に並んだ。

 「うちごっちん」
 「あたし市井さんで」
 「じゃあおいらは……高橋?」
 『え?』

 何言ってんですか矢口さん、次の言葉を想定しながらスタートラインを向くと、
 確かに高橋は構えていた。3レーンで。

 『えー!!』
9 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:41

 どういうつもりだろう。
 矢口さんが慌てて30メートル先へと駆け出し、あたし達もその後を追った。
 久々に見た高橋はちょっぴり大人になっていた。あくまでちょっぴり。
 平然とした顔で、スタブロを調節していた。

 「高橋!」
 「なんですの?」

 訛りはそのままだった。これがコントなら間違いなくこけている。

 「入部届け出せるのは明日からなんだけど」
 「だって入るの決まったようなもんやし」
 「あのねー」
 「いいんじゃない?」

 そう笑うごっちんはスタブロの感触を楽しそうに確かめながら、腰を浮かせた。

 「一勝負したいし」

 強く蹴られたスタブロは衝撃で後退しそうになる。
 それとは対照的に極めて軽い足取りでごっちんは飛び出した。
 高橋はそれを何も言わずに眺めながら、淡々とスタブロの準備を終えていた。
10 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:43

 改めて1レーン市井さん、2レーンごっちん、3レーン高橋。
 なんとなくだけど去年の自分と被って見えて複雑な心境だった。
 対する敵も、高橋自身も、全然大きなものだけど。

 「位置について」

 つんくさんの目がきらりと光る。ベンチに座ってくつろいでいるだけかもしれない。
 スターターをしている先輩の目も少しだけ緊張している。

 高橋は気味が悪いくらい落ち着いていて、スタブロに足をつけるときも冷静そのものだった。
 一体いつアップしたのか全然分かんないけれど、ここで構えている以上、しっかりとしたに違いない。

 「あたしはノーアップで走ったっけ……」
 「なに?」
 「なんでもないっす」

 今思えばアップなしで走るなんてありえない。
 肉離れだって怖いし、素人って恐ろしい。格好だってジャージ履いて捲くっただけだったし。
 一年間でまたアスリートっぽい考え方になって、陸上選手として板についてきた自分が少しおかしかった。
 サッカーやってたときみたいに、真面目な自分がいる。

 「よーい」

 三人の体が浮く。

 バンッ!!
11 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:44

 「お」

 矢口さんが感心した様子で呟いた。高橋は二人に全く劣ることないスタートを決めていた。
 低い姿勢から鋭く飛び出した動きは、やろうと思ってもそうできるものじゃないだろう。
 ありゃ天性の素質だな、矢口さんは半ば呆れたように笑った。

 ごっちんは800選手でありながらスタートも部内トップクラスに速い。
 今のあたしとどっちが速いか微妙なラインだ。
 市井さんはごっちんには負けるけどそれでもトップクラス。
 その二人と並んで走っているのだから、相当なランナーだということが一目見て分かる。

 ごっちんはちょっとだけ驚いたような表情を見せたけど、負ける気は全くない。
 短距離顔負けの加速を見せると、たった30mの短い道のりをどんどん突き進んでいく。
 市井さんはそれについていけず体半分ほど遅れた。でも、高橋は違った。

 そのごっちんよりも前に、いつの間にか出ていた。しっかりとした、完成された走りで。
 スピードは遥かに劣るものの、それはあややを髣髴とさせるものがあった。

 「腕の振りの鋭さとリズム、足の回転。たいしたもんだよあのルーキー」

 矢口さんはウォッチを眺めながら苦笑いした。あたしに翳してみせる。
 そのタイムはさっきのあたしのタイムと同タイム。驚くしかなかった。

 「逸材だよ」
12 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:45
 
13 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:45

 翌日。今日から入部希望者生徒が部室にやってくる。
 あたし達先輩は早めに着替えて待ちわびる。ああ、先輩っていい響きだ。

 「何人来るかな?」
 「どうだろ。結構来るんじゃないかって矢口さん言ってたけど」
 「長距離二人は寂しいから増えて欲しいなぁ」

 梨華ちゃんと話していると、ドアが開いた。全員の視線が一点に集まる。

 「うぉ、なんだなんだ」

 驚いた矢口さんが後ずさりする。一斉に飛ぶ罵声。
 矢口さんは状況が飲み込めず一人不満顔。

 「矢口さんかよ〜」
 「そんな言い方ないだろ〜!」
 「誰もやぐっつぁんの登場を期待してなかったからさ」
 「うわ傷ついた今のごっつぁんの一言〜」
 「しゃーないです矢口さんしゃーないです矢口さん」
 「二回言うなー!」
14 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:47

 矢口さんに緊張の糸を一旦切られてから5分が経過した。
 依然部室に現れる一年生の気配なし。本当に今日だっけ?と部員全員が疑い始めたそのとき、
 ドアがゆっくりと開いた。

 「し、失礼します」

 遠めでしか見たことないから自信がないけれど、紺野と思われる娘を先頭に、
 ゾロゾロと部室に入ってきた。全員心の中で人数を確認する。
 1、2、3、

 「…………………………4人?」
 「こんこん……これだけ?」

 ののが唖然とした顔で聞き返すと、

 「は、はい」

 緊張し気味の彼女はそう返した。
 やっぱり彼女が紺野らしい。ってそれよりも、今はもっと大きな問題がある。

 「あれ?矢口さん結構来るんじゃないかって…」

 空気を読めない梨華ちゃんの甲高い声が部室をこだました瞬間、全員の視線が、
 さっきよりも鋭く痛い視線が矢口さんに突き刺さった。

 「10人どころか半分も行ってないじゃないすか!!」
 「役立たず!」
 「4人ってどーいうことだよ!」
15 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:47

 罵声、罵声、罵声の嵐。どんどんちっちゃくなっていく矢口さん。
 もはや145ミリ。でもある地点まで達すると矢口さんの体がぴたっと止まり、いきなり巨大化した。

 「うるさーーーい!!!しょうがないじゃん来なかったんだから!!!」
 「しくったー。あたしが行くべきだったー」
 「ごっちん行ったら寝るだけだと思う」
 「同意」
 「二人ともひどいよ〜。そんなことは絶対ないから〜」
 「今既に寝かけとるやん」
 「ごっちんよりのんがー」
 『絶対無理』
 「えー!」
 「あーもう!お前ら黙れ黙れ!おいらは恋人にした女子高生ランク4位だぞー?!」
 「だからそれなんなんすかー」
 「うるせー40位!」
 「私は何位ですかぁ?」

 喧騒が撒き散らされた部室の中、当事者である4人は困った顔をして体を縮めていることに、
 誰も気づかなかった。
16 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:48
 
17 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:48

 いい加減にしてもらわないと騒いでるだけで日が暮れる、
 と保田さんが部室を出ようとした所で室内は静かになって、新入生の4人の自己紹介が始まった。

 「紺野あさ美、中学時代は1500を中心に走ってました。
  高校でも長距離を走りたいと思っています。よろしくお願いします」

 深々とお辞儀をする姿は優等生、模範的な生徒、そんな言葉が似合いそうな雰囲気だった。
 現にそうなのだろう。成績優秀、努力家。聞けば聞くほど真面目なキャラが出て来た。
 完璧主義って奴なのかもしれない。

 梨華ちゃんを軽くつつくと、「なによ」と不機嫌そうに返された。
 本気でやばいと思っているなら、いい傾向だと思うけど。

 「高橋愛。中学時代は100・200を走っとりました。200がメインです。
  目標は後藤さんです。よろしくお願いしやす」

 種目違うのに平気で目標にごっちんを掲げる強心臓。
 ていうかあたしと種目被ってる。梨華ちゃんいじってる場合ではどうやらなくなった雰囲気。

 逆に梨華ちゃんにおなかを突付かれて「なんだよ」と返した。
18 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:50

 「小川麻琴。陸上経験はありません。
  あさ美ちゃんに誘われて入部を決めました。中学時代は水泳部、元気にいきたいと思います!」

 体つきがなかなか立派。失礼かもしれないけどすぐにでも投擲に推したい。
 多分全員頭の中でそんなことを考えている。ののの顔がその証拠だ。
 緊張気味に強張った顔は、いろんな感情が入り混じっていた。

 最後の一人は顔がやけに小さくて、紺野と見比べると少しだけ笑いそうになって、
 梨華ちゃんの背中に顔を隠した。
 笑いが収まった所で顔を元の位置に戻すと、どうやらそれを待っていたらしく、
 ちょっとだけ申し訳ない気持ちになった。

 「新垣里紗。私も陸上経験はありません。
  特別運動をしていたわけではありませんが、頑張りたいと思いますのでよろしくお願いします」

 後半二人は陸上歴なし。
 特に新垣は運動をしていたわけでもないらしいから、スタートラインは去年のあたしよりも後ろ。
 陸上の名門と呼ばれていることを知っているのかどうか、分からないけれど、先が楽しみだ。
 可能性の見えないものを見ると、ワクワクする。

 このメンバーで、今年一年を戦うことになる。
 一応だけど、どうやら全員で揃ったみたいだ。
19 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:51
 
20 名前:21st_Race ● 投稿日:2005/03/24(木) 02:52

 「ではちょっとしたテストを行いたいと思います」

 高橋と紺野はしっかりと自分のジャージを着て、
 小川と新垣は名前が胸元に小さく書かれた体操着を身にまとって。
 4人並ぶ姿は少しだけ奇妙だった。境界線が分かりやすく見えているからかもしれない。

 「種目は全部で四種目。50m、1000m、走幅跳、砲丸投。
  各ポイントにその種目の先輩が構えてるから、分からないことがあったらどんどん聞いてね」
 『はい』

 50にはよっすぃとあいぼん、1000は中・長距離陣マイナス私。
 走幅跳は矢口さん、砲丸投はのの。何故か私は司会進行に回された。
 長距離陣には他にもたくさん人いるし、そういうのは副キャプテンの市井さんに……頼めないか。
 一人納得すると、4人を連れて50のスタート地点へと歩いた。
 
 経験者、未経験者ちょうど2人ずつということもあって、2組に分けて競技は行われた。
 1組目、高橋・紺野。高橋はさっきのSDでただのビックマウスではないことが証明されているだけに、
 どれだけのタイムをはじき出すのか注目。
 一方の紺野も、長距離選手とはいえ、
 速いかどうかでサブの種目が800か3000かを判断する機会にもなる。

 …………私の今現在の状況の深刻さも分かるし。
21 名前:21st_Race ● 投稿日:2005/03/24(木) 02:54

 「とりあえず2人のスタートを見てみて」

 よっすぃ〜は随分楽しそうな顔をしている。
 高橋が自分の存在を脅かす脅威となる可能性も否定できないのに、
 不安そうな顔は微塵も見せないで、むしろわくわくしているみたいだ。
 その点が私と彼女との決定的な違いなのかもしれない。

 高橋はなれた手捌きでスタブロを設置していたけど、
 紺野は長距離だったこともあってか慎重に歩幅を測っていた。顔も少し緊張している。
 慣れないことをやると意味もなく緊張するものだから仕方がないかもしれないけれど、
 そのちょっとした初々しさが微笑ましかった。
 とっくに緊張なんてしなくなっている自分と比べて自らをちょびっと卑下した。

 「じゃあ行います」
 『はい』
 「位置について」

 スパイクのピンがスタブロに突き刺さる。足の位置を確かめるように、何度も、何度も。
 スタートラインギリギリに設置された手の位置も、細心の注意を払って調節する。
 グランドが沈黙に包まれた後、あいぼんは銃口を空へと突きつけた。

 「よーい」

 バンッ!!
22 名前:21st_Race ● 投稿日:2005/03/24(木) 02:55

 2人がスタートした瞬間。2人の脳が音に反応した瞬間。あいぼんが引き金を引いた瞬間。

 勝負はもうついていた。
 そう思わせるスタートを、高橋はかました。

 ついさっきのごっちんとの勝負の、まるでリプレイを見ているみたいに。
 高橋はきれいにスタートをこなしてみせた。反応速度は紺野も悪くない。
 むしろいい方だ。でもクラウチングスタートで争った場合、長距離選手に勝ち目はない。

 高橋の強さはここでは圧倒的だった。
 紺野も悪い走りはしていないけど、遥か前方を流れるように進む高橋の前ではなにもかもが霞む。

 高橋のフォームは凄く形が整っていて、誰かを思わせるようなものだった。
 高1にして、既に出来上がった走り。前へと出される足の動作もスムーズで鮮やか。
 恐ろしい後輩が入ってきたなぁ、と溜息をつきそうになって堪えた。

 たった50mという距離でこれだけの差をつけられると、紺野も少し不憫に思えてくる。
 部活における自分と重ね合わせて、自ら落ち込んだ。何私は自虐して凹んでいるんだろう…。

 「高橋、6秒88。紺野、7秒75」

 速っ、とうろたえるよっすぃに全員が笑った。
23 名前:21st_Race ● 投稿日:2005/03/24(木) 02:56

 50mのタイムから100mのタイムを割り出すのはそう簡単なことじゃない。
 単純に二倍したら間違いなく本当のそれよりも遅いタイムになる。
 何故なら最初の50mは時速0キロからスタートするけど、後半の50mは加速している状態から始まるから。
 落ち着いて考えてみれば当たり前の話だ。
 でも100と200になると後半の疲れが絡んでくるとまた変わってきたりする。
 そしてこの疲れは、素人には50と100で充分起こりうる要素の一つだ。

 小川と新垣がよっすぃに指導されながら、見よう見まねでスタブロを設置していく。
 歩幅を数えるその足たちにはまだスパイクがない。
 その代わりに学校で販売されているグランド用のシューズが白く輝いていた。
 靴に関しては高橋と紺野がどうにかしてくれるだろうから、先輩が首を突っ込む問題でもないのだろう。

 今日このレースでは分からないけど、
 100mという長旅を走らせたら、確実に最後まで走りきれない。
 新垣には限ればそれが断言できる。
 自分が中学の時はじめて走った記憶が鮮明に浮かび上がってきた。
24 名前:21st_Race ● 投稿日:2005/03/24(木) 02:58

 「あの時は確か…」

 50m過ぎてから筋肉が強張って、2人に抜かれた。
 思えばそれが長距離になるきっかけだったのかもしれない。

 「中2で競り勝って以来勝ち星ゼロだもんな…」

 昔を思い出してもう一度落ち込んだ。私ってバカかもしれない。もしかしたらよっすぃ以上に。
 同じことを学習せずに繰り返して。
 落ち込んで、頑張ろうとして、思い出して落ち込んで。
 いつまでそれは続くのだろう。

 「位置について」

 選手として大成できるまで?
 だとしたら、もしかしたらこの先ずっとないのかもしれない。
 少なくとも、1年の4人の方がよっぽど輝いていて、未来が明るいのだから。
 今の私は深い闇の中でもがいている。スランプだと以前つんくさんに相談したら、
 「スランプって言葉を使えるほどレベルの高い選手やないでまだ」と笑われた。

 「よーい」

 バンッ!!

 私はどうすればいいのか、この先何を目指して走ればいいのか。
 暗闇しか見えなくて、何も分からない。

 「ファイトー!」

 気づくと二人は走り終わっていた。
 視界の影から見えた不恰好な走りは、それだけ私よりも可能性があるということなのだろう。
 そう感じて、また一つ落ち込んだ。
25 名前:21st_Race ● 投稿日:2005/03/24(木) 02:58
 
26 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 02:59

 50mの試技が終了すると1年の4人は砲丸を投げにコースの内側へと入っていった。
 そこでののが砲丸投のための舞台をセッティングしている。
 そしてあたし達は次の舞台のセットに取り掛かった。

 「何人か矢口の手伝い!」
 「任しとき」
 「外回りのライン薄くなってるから誰か引いて!」

 市井さんが現場を巧く仕切り、走幅跳、1000mのためのコースが作られていく。
 まるでミュージックステーションのスタッフがセットを片付けて組み立てている工程みたいだった。
 別に見に行ったことあるわけじゃないけど。

 幅跳び隊は砂場にスコップを立てて解す。普段は鉄棒でしか使わないためシートが被せられていて、
 みんなそこを平気で踏むから地面が固まっている。
 こんなところで飛んだら着地したときに全員足を捻るだろう。
 入部早々捻ったバカな部員が今ここにいるわけだけど。
 3人くらいがスコップで砂場を掘って柔らかくすると、
 ごっちんがラインカーで白線をグランドに描いていた。どうやら余裕を持って準備が出来そうだった。
27 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 03:00

 ストップウォッチを紐の部分でクルクルと回しながら暇をもてあましていると、
 どすんっ、という重いものが地面に落ちる音。そして直後にどよめき。
 他のみんなの例に漏れずあたしは視線を移すと、サークルの中でおおはしゃぎしている1年がいた。

 「飛んだどー!」
 「麻琴、それちょっと違うと思う」

 ガッツポーズをかましているのは小川。地面に残された砲丸の跡は2つ。
 その差約1m弱。共にかなりハイレベルな飛距離。
 多分ののがデモンストレーションに一回投げて、その後に小川が一番で投げたんだろう。
 驚きのあまり何も言えなくなっているののは、今にも去年までのののに戻りそうな勢いだった。

 改めて見てみると元水泳部という経歴に恥じない屈強な上腕だった。
 高く腕を掲げている姿は猪木のモノマネでもしそうな雰囲気。こいつ、投擲選手決定かもしれない。

 「投げ方めちゃくちゃやったわ」

 後ろからつんくさんの声がした。振り向く。

 「こんなんですか?」

 適当にジェスチャーを取る。

 「そうそう、そんなん。あれ鍛えたらかなり伸びる要素あるかも分からんで」

 鍛えたら物になりそう。原石といったら大袈裟かもしれないけれど、
 それに近いものを見つけたような感触を、小川は全員に与えた。
28 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 03:01
 
29 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 03:01

 舞台は砂場へと移される。デモンストレーションとして足が完治した矢口さんが立ち位置に立つ。

 「助走は長くても短くてもいいよ、お好みね。決めたらこいつを置いて…」

 番号が振られた名称不明の、紙を30度くらいに折り曲げたような形をした鉄を置くと、

 「何回かの練習跳躍で調節して」

 あの物体はなんていう名前なんだろう。矢口さん知ってのかな?
 疑問で頭が一杯になってきた。アレってなんて名前なんだ。て言うか矢口さんも知らないでしょ?
 そうだそうに違いない。うんうん、絶対そう。だから「こいつ」なんて曖昧に濁したんだ。
 いや、もしかしたらもはや常識過ぎて名前を言うまでもないのかもしれないぞ?
 どうなんだ?あれ?え?

 聞きたい。アレがなんていう名前なのか。
 その欲望にあたしの頭は埋め尽くされて、もう新入生のテストとかそれ所じゃなくなっていた。
 なんて名前なんだ…。三角っぽい形だよな…でも鉄だ…。
 三角鉄?三角巾みたいだし、違うよな絶対…。

 「うわ〜分かんねぇ~…」
 「よっすぃどないしたん?気ぃおかしくでもしたか?」
 「あいぼんには分からないよ、あたしの悩みなんて」
 「?アホやなぁ相変わらず」
30 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 03:02

 矢口さんがアレの位置を調節すると、アレの横に立つ。そして右手を上げると、

 「行きまーす!」
 「うぉ〜アレなんなんだぁ……」
 「どしたのあいぼん。よっすぃ変だけど」
 「心配せーへんでもいつものことや」

 矢口さんは走り出した。
 あたしの悩みなんてつゆ知らず、精一杯の助走を取ってグングンスピードに乗っていく。
 標的は踏み切り板のギリギリ。やがて目の前まで迫ると、ぴったりの位置で矢口さんは踏み切った。

 宙を舞うように。
 小さな体を揺らしながら、でもデモンストレーションのため着地は素人のそれを見せる。
 すとんと足を落とし、間違っても砂を蹴散らすような豪快なものは見せない。
 1年生4人の目が丸く(特に高橋のびっくりした顔は凄まじい)させたところで、
 矢口さんは平然と立ち上がり、笑った。

 「こんな感じ。分かった?」
 「は…はい」
 「矢口今の跳躍都大会に取っておくべきだったんじゃないの?」
 「圭ちゃんうるさいよ!」
31 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 03:03

 4人がそれぞれしゃがんだ所で、消えかかっていた疑問がぶり返した。

 「だからアレなんだー!!」

 頭を掻き毟る。4人はアレの名称について興味がないのか?
 なんていう名前だとかそんなのどうでもいいの?
 あたしは幅跳びの記録なんかよりもアレにつけられた名前の方がよっぽど気になる。

 「うぉー!」
 「よっすぃ大丈夫?」
 「梨華ちゃん放っといた方がええと思うよ」
 「そうそう。ほっとかないとバカうつるよ」
 「ののに言われたくはない」
 「聞いてたんかい」

 ののもまともな日本語話せたなら今までの「のの語」は一体なんだったんだ。
 なんでああいう話し方をしていたんだ?狙って?何を?甘え?

 「そうか甘えか」

 聞こえないように気をつけて呟く。なんとなく自己解決して気分がすっきりとした。
 でも何かもう一つ重大な問題を忘れている気がしてならない。

 「行きまーす」
 「アレだー!!」

 また頭を抱えた。
32 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 03:04

 結局幅跳の全員の記録どころじゃなかった。
 あたしの脳内は自分のスタート位置を示す目印が、なんていう名を製作者から頂いてこの世に存在するのか。
 それでパンクしそうなほどに疑問が走り回っていた。
 たった一つの疑問がここまで自分の心の中をかき乱すなんて思っても見なかった。
 梨華ちゃんもなんだか大分落ち込んだ表情をしているけれど、
 今のあたしの悩みは世界中の誰よりもきっと大きな悩みだと自負できる。

 みんなゾロゾロと移動してコースへと再び戻る。最終種目の1000だ。
 4人ともそれなりに体力を消耗しているだろうから、そんなに高いレベルの勝負にはならないだろう。
 というか、走る前からほとんど結果が見えているレースよりも、
 アレの名前を世界の中心で叫んだ方がずっと有意義だ。
 ただ、そう言っても分からないのが陸上の面白さなんだけど。

 「最後の種目は1000m。あとちょっとだからみんな頑張って」

 ごっちんがストップウォッチを手に笑顔を振りまく。でもちょっとだけ眠そうなのは、
 今日ほとんど練習していないから。陽が沈みかけて、それも眠気を誘うらしい。

 「コースはこのグランドを5周。マイペースでしっかりと走りきってね。
  あんま最初出しすぎたりしたらきついかもしれないから、2人は特に気をつけて。
  行きまーす。よーい、スタート!」
33 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 03:05

 ごっちんが声をかけた瞬間まず2人が飛び出して、あっと言う間に1人になった。
 紺野だ。コースぎりぎりを狙い済まして足を設置していくその走りは、
 保田さんとはまた違ったマシーンぶりが垣間見えた。
 そして彼女が、いかに努力を積み重ねて来ているのかも。

 矢口さんやあいぼん、ののから聞いた話を思い出す。
 するとレースの状況を眺めながら、あいぼんもそれを思い出したのか、言った。
 
 「こんこんはごっちんに憧れててな」
 「うん」
 「助っ人で来たごっちん見て、どうしたらこんなに強くなれるんだろう、って考えて。
  走りに走りまくったらしいで」
 「…凄いね」
 「駅伝で襷繋ぐことになって「なんで私が1区に」って緊張して。
  プレッシャーで失敗して、ごっちんに見せ場与えとったけど、
  少しでも存在に近づけるよう、ホンマに頑張った言う話やからなぁ」
 「うん」
34 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 03:08

 「ま、全部推測やけど」
 「え゛」

 あいぼんの意外な言葉にちょっとびっくりした。

 「こんこん、そんなこと語らへんから。黙々と、やるタイプやから。それに」
 「それに?」
 「人に笑って話せるようなもんをあの娘は「努力」や思うてへんのちゃうかなぁ」

 重みと含みのある言葉だった。あいぼん自身の考えも混じっているようで、
 今のこんこんの勇姿、表情を見ると、そうも思えるし。
 彼女の顔は、一つの目標に向かって、ただひたすらに、頑なに目指した、そんな強い顔をしていた。
 そしてその姿勢が、今の独走に繋がっているのだとしたら、それは凄く素晴らしい事だ。

 「ラスト1周。紺野ファイト!今の1周41秒2!」

 ごっちんの言葉を受けて、力を振り絞って加速する紺野。
 その背中はとても力強くて、誰かさんと違って触っても決して壊れないと思える背中だった。

 反対側、バックストレートの直線を一人独走する紺野。
 向かい風を浴びながらも走るその姿は不器用にも思えたけど、光るものを感じた。
35 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 03:08
 
36 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 03:09

 「予想以上だったな」

 片付けながら矢口さんが笑った。
 シートを5,6人で思い切り引っ張って、重り用のタイヤを上に乗っけた。

 「紺野も高橋も」
 「そうですね、燃えましたよ!」
 「いいねぇ。後輩に刺激を受けるのはいいことだよ。
  ま、よっすぃ自身もいろんな人に刺激を与えてると思うけどね…」
 「え?」
 「なんでもないよ」

 矢口さんは助走距離を測るメジャーを巻いて回収すると、余ったもう片方の手でアレを掴む。…あ。

 今だ。今しかない。
 ずっと疑問だった。あたしという名の世界の中では、つんくさんはどこら辺がつんくなのか以上に謎。
 重大な問題。聞くなら今しかない。

 「矢口さん」
 「ん?」
 「それ、なんていうんですか?!」

 思い切り指を指す。矢口さんはんー、とアレを眺めると、

 「考えたことないや」

 日が暮れた。
37 名前:21st_Race 投稿日:2005/03/24(木) 03:10
21st Race「逸材」終。
22d Race「コーチ」へ続く。
38 名前:おって 投稿日:2005/03/24(木) 03:10
流し
39 名前:おって 投稿日:2005/03/24(木) 03:10
また多分週1ペースでの更新となります。よろしくお願いします。
40 名前:名無しの読者 投稿日:2005/03/28(月) 14:00
海に立てたんですね、続編待ってました!
相変わらずの大量更新乙です。スピード感溢れる展開に早くも期待してます、頑張ってください
41 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:21

 22d Race「コーチ」

 今日から新入生も一緒に練習をスタートする。
 昨日のテストで4人とも、特に初心者の2人は若干の疲れを見せていた。
 もし今がまだ冬だったら、今日の練習で八割方吐くだろうけど、残念、というか喜ばしいことに今は春。
 そして陸上の戦いはもう目の前まで来ている。

 野球部みたいに夏から予選が始まったら大変だ。走るこっち側からしたらたまったもんじゃない。
 だけど「あたし達の夏が終わった…」となる前に、「あたし達の夏は来なかった…」
 と嘆く選手が星の数ほど存在するのもまた事実。勿論、その星屑になる気はない。
 その星屑たちとは遠く離れた位置で輝いているあの一番星を打ち落とすまでは。
 いや、厳密に言えば打ち落とさなくてもインハイにはいけるけど。
 打ち落とすくらいの気持ちで行かないとダメなのは確かだった。

 まず支部から8人ずつ、都大会、48人から6人、南関東、更にその中から6人。
 言ってしまえば、1位を取る必要はない。ごっちんみたいに都大会6位、南関東6位でも通過は通過だ。
 口で言うほど簡単ならどんなに楽なことか、なんてひねくれたりするときもあるけど。
 ただ、インハイに行くまでにあややに予選決勝含め最大6回ぶつかる。
 全部負けるわけにはいかなかった。
42 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:22

 アップで梨華ちゃんと話したりしながら、1年生をじっくりと観察してみることにした。
 誰が仲いいとか、まだ会ったばかりでそういうのあまりないかもしれないけれど、今後のため。

 ふと横を見るとごっちんがまじまじとこんこんのことを見ていた。
 考える事は同じ…なんだろうか。釣られるようにこんこんに視線を移した。

 こんこんが小川と仲良さそうに話していた。
 てっきり都大会経験者同士で高橋と友好関係があるかと思っていただけに意外だった。
 種目が違うと別に仲良くなったりしないのだろうか。でも小川の自己紹介をふと思い出して、納得した。
 ああ。

 「あさ美ちゃん、か」
 「え?何?」
 「え?あ、あ、なんでもないなんでもない!紺野の下の名前を確認してみただけです!」

 梨華ちゃんに疑問いっぱいの顔を投げつけられてびびってしまった。
 そしてあたしが紺野って言葉を発した直後の表情に更にびびった。

 梨華ちゃんこんなんでシーズン戦い抜けるのかな…。
43 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:23

 高橋はみんなよりも外側。所謂保田ラインを突き進んでいた。
 誰よりも長く走るために、一人だけで走ると必ず外側を走る保田さん。
 その後ろを高橋は黙々とつけていた。正直感心して、一瞬後に危機感に襲われた。
 まずいんじゃないの、あたし。
 でもすぐに頭を切り替える。向こうは陸上歴今年で4年目、あたしは2年目だからキャリアの差こそあるものの、
 あたしは年上だ。それに、後輩に負けている場合じゃない。もっと高見を目指さなきゃならないんだ。
 ドンと構えなきゃ。

 「頑張るか…」
 「どしたのよっすぃ急に。昨日から変だよ」
 「梨華ちゃん、よっすぃはいつでも変だよ」
 「だからののに言われたくないってば!」

 結局後ろにつくとかそういうことはしないあたし、ちょっと好きだ。

 新垣もまた高橋と同様、誰とも話す気配がなかった。
 徐々に高橋と仲良くなっていけばいいなぁ、とお節介焼きのおばさんみたいなことを思いつつ、
 気づいたらアップが終わっていた。何やってたんだあたし。
 体全然暖まっている気がしないんですけど。
44 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:23
 
45 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:25

 こんこんは長距離ブロック、高橋は短距離ブロックは確定。
 小川も昨日の結果を見て早速ののと投擲に回された。

 「あの、私は…」
 「何がやりたい?」

 矢口さんが極力優しく応対する。新垣は少し悩んだ末、

 「短距離で」
 「よしじゃあ短距離ストレッチ終わったらドリルねー」

 色々挑戦して、一番いい種目を探せばそれでも遅くないのかもしれない。
 3年間は短いようで長いものだから。
 あたしは400をちょっとやったりもしたけど、運良く100選手になることができたし、
 新垣も何かあるんだろうな。飯田さんが言ってくれた言葉を思い出した。

 「誰にだって、これって種目は絶対にあるんだよ。めぐりあえるかは本人次第だけど」

 でも、ないうち梨華ちゃんの心の甘えになりかねないのが、ちょっとだけ嫌だった。

 「んあ…よっすぃ」
 「なに?」
 「押して」
 「うぃ」
46 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:26

 ごっちんの後ろに回って、背中を前へ押すストレッチ。
 足は開脚した状態で、柔らかい人は体が地面にくっつくのだろうけど、
 ごっちんはなかなかに柔らかかった。流石はインハイ選手。
 なんかちょっと違う気もしないでもなかったけれど、あたしは意地悪で強めにごっちんの体を倒した。

 「痛い、痛いよぉ」
 「大丈夫大丈夫」
 「痛、痛い痛い!」

 ごっちんを押しながら、ふと目線が部室の窓にぶつかった。

 「?」

 力が抜ける。その瞬間ごっちんは強烈な反動でカムバック。
 ヘディングがあたしの胸を襲った。

 「ぐあ!!」
 「よしこごめん!でも今の叫び声なんかオッサンみたいだったよ!」

 胸を抑えしばし悶絶。
 ごっちんが心配そうにあたしのことをじっと見つめてきたけど、それに応える余裕も暫くなかった。

 なんていうヘディング、流石はインハイ選手。
 …やっぱなんか違うな。
47 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:26

 体をある程度解し終えると今度はいつものようにドリルへ。
 でもこの「いつもの」は新垣にとっては「いつもの」ではないから、当然ながら説明が必要になってくる。
 といっても、

 「じゃああたしの後ろについて真似して」

 くらいしか言えることないけど。

 あたしの場合もそうだったけど、最初から細かい動きなんてできるはずがない。
 体が硬かったり、特に運動をしていなかった人はそうだ。
 足を真っ直ぐではなく、横に上げてから前へと持っていく、しかもハードルを越して。
 そんな動作最初から出来るはずがない。股関節がそういう風に動くように生まれつかない限りは。
 そして新垣は例に漏れることなくぎこちない動きを繰り返しながら、精一杯な表情を見せてくれていた。
 初々しい。去年の自分を見ているみたいだった。

 「最初のうちは上手い具合に足回んないけど、徐々に柔らかくなって来るから。気長にね」

 先輩みたいだな、あたし。
 当たり前のことを思いながら、なんとなく笑ってしまった。
48 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:27

 「えーっとじゃあ今度は、一旦待って。動き見るから」
 「は、はい」

 先に自分の練習を済まして、ちゃんと新垣の動きを見ることにした。
 なんかコーチみたいだな、これだけつきっきりだと。でも矢口さんの指令だし、しょうがない。
 あたしだって中澤さんにこんな風につきっきりで色々指導してもらったし。
 ……唯一の問題といえば陸上歴1年のあたしが果たしてしっかりとした指導を出来るかどうかだ。
 ハードルをまたぎながら、ちょっとだけさっきの発言後悔した。

 連結して並べられたハードルを慎重に越えていく新垣。
 少しだけ緊張しているのか、なんだか体が硬かった。見られることで意識してしまうものなんだろう。
 でもそうすると、形が更にひどくなってしまう。新垣もやっぱりすごいことになっていた。
 
 一台目を右足から越える。その際片足立ちの状態になったけど、そこでバランスを崩してしまった。
 フラフラ揺れながらも手を水平に翳してバランスを取って、なんとか向こう側へ足を置く。
 変わって左足を上げてハードルをまたごうという時、

 ガシャン

 「あ」

 ガラガラガラ!!
49 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:28

 「大丈夫!?」

 新垣大クラッシュ。左足をハードルに引っ掛け転倒。
 そのまま全てのハードルをなぎ倒し、痛さよりも驚きの方が勝っているような顔になっていた。
 呆然とその場で立ち上がれない様子だ。
 
 視線が集中する。新垣ではなく、あたしに。
 お前なにしたんだ的な視線がグサグサと刺さってくる。
 そんなこと言われたって、あたしは特に何もしてないです、
 なんて言ってもいいわけにしか取られないんだろう。
 とりあえず新垣の側によると、ハードルの山から救い出した。

 「大丈夫?」
 「は、はい……」
 「立てる?保健室行こっか」

 するとそんな新垣を見て、高橋が歩き出した。
 ハードルの元へと行くと、一人黙々とハードルと立て直していく。
 ハードルをきれいに並び終えると、なにを思ったか新垣を見て、

 「間抜けやなぁ」

 世界が凍った。
50 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:29

 こんこんを連れて初めてのジョックに当たって、保田さんは一つ引っかかるような言葉を残していた。

 「とりあえず遊ぶわよ」

 遊ぶ。
 それが今の保田さん、いや長距離にとって、これまで同様ゲームをする意味ではない。
 こんこんがどこまで走れるのかのテスト。それを遊ぶと表現しているに違いなかった。
 そしてそれは同時に、私にも大きな重圧としてのしかかることになる。
 引退している期間があっただろうけど、持ちタイムはこんこんの方が上なのだから。

 私の1500ベストタイムは5分30秒。結局去年1年間はほとんど成長できなかった。
 原因は分からない。けどタイムが伸びない。悩む。伸びない。悪循環。
 スランプじゃないというのなら、いったいなんだって言うのだろう。
 昨日に続いてつんくさんの言葉が頭をよぎる。

 「スランプって言葉を使えるほどレベルの高い選手やないでまだ」

 弱い選手に逃げ道はないのだろうか。
 強いみんな、才能のあるみんなを横目に、負けたくないと思いながらも、
 もがいて、苦しんでいるのに。

 才能がないなりに、がんばってるのに。
51 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:30

 保田さんを先頭に、たった三人の長距離は学校を後にする。
 帰宅部の生徒が帰り出すような時間帯だから、たまにクラスメートとすれ違ったりすることもある。
 駅までの道をまっすぐ走ると、最初に見えた角を左に曲がった。

 横の大学の校舎との間の道を走ると、大学生がよく歩いている。
 ふと横に目を移せば雑談をしてる未来の先輩達の姿だってある。
 でも今日はそれを見る余裕があまりなかった。
 速い。スピードが。最初っから。
 スピード自体はさほど速くはないけれど、
 今までのジョックの走り出しから考えると驚くようなスピードで保田さんは快走していた。

 ――遊びなんていうスピードじゃない。

 口には出さない。
 後輩に根性なしだと思われたくない、どうしようもない見栄が、私を苦しめていた。

 こんこんは整った呼吸のまま、保田さんの背中だけを見つめて走り続けていた。じっと。
 その凝視の具合は獲物を狙う何かを浮かばせた。ルックスからいったら絶対そんなもの見えてこないはずなのに。
 走っていないときの雰囲気とのギャップを感じた。人がまるで違う。迫力があった。
 少しだけ、恐怖を覚えてしまうほどに。
52 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:31

 「どこ行く?」

 保田さんの声が前方から聞こえる。風がびゅんびゅんと耳を掠める音と一緒に。
 この向かい風の強風はあんまし気持ちのいいものではなかった。
 
 「城北公園は」
 「城北ね」

 やめて、って言おうとしたのに…。口に出して後悔した。往復50分コースだ。
 苦痛に表情をゆがめかけた。こんこんはなんのことやらさっぱりの表情で、
 ただただついていくことしか頭にない様子だったけど。

 学校の外回りの道に沿って走り、一蹴せず途中の道を右に曲がる。
 そのまま真っ直ぐ出れば、大きな通りの道に出る。巨大交差点。
 排気ガスをたっぷりと感じながら、これからはじまる苦痛との戦いに思いを馳せる。
 今日はまずそうだ。保田さんの表情が、なんていうか活き活きしている。
 好き放題飛ばすつもりだ、この人。

 「城北公園ってどこですか?」
 「……知らないほうがいいよ」

 ちょっとだけ不安そうな顔をみせるこんこんに返した、意地悪な回答。
 自己嫌悪に陥った。本当はもっとやさしくするべきなのに。でもやっぱり負けたくないから、
 心の中で何かを期待している。本来なら期待すべきではない、何かを。
 そんな心の汚い自分が嫌だった。

 信号が青く変わり、道路は動き始める。
 はじまってしまった、地獄が。
53 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:33

 城北公園往復コース。全長9km、アップダウンが激しく、復路序盤は急角度の坂が長時間続き、体力を蝕む。
 ……なんて確認をしている余裕はなかった。
 こうやって走っている今も、大量の酸素が体内に入っては燃焼されていく。
 長距離は酸素の摂取勝負だ。いかに酸素を摂取して体に血をよく回すか。
 脳に酸素を送る暇があったら無心で走るべきだろう。私には無理だってすぐに分かったけれど。

 私とは対照的に、こんこんは精一杯、保田さんについていこうとしているのが目を見ていて分かった。
 それ以外、一切何も考えていない。保田さんの背中だけを見て、ただひたむきについていく、それだけ。
 それははじめて城北へ行った時の自分の姿と、多分なんとなく似ていた。

 野外ジョックで、先頭の人だけが知っている場所に行く場合、
 離されて見えなくなってしまうと道に迷ってしまう恐れがある。
 そうすると迷子になったりして最悪な状況になる。
 シャツにジャージの状態で街をうろついて道を聞くなんて恥ずかしすぎる。それだけは避けたいから、必死についていく。
 遅れないように、離されないように。そういう時、人間は強い。……元々強いこんこんの場合どうなってしまうんだろう。

 序盤、ひたすら真っ直ぐ人を避けたりしながら大きな通りを進む。
 スーパーを通りすぎたり、ちょっとしたお店があったり、地下鉄の駅の入り口もある。
 たまに電車に乗って帰ったらどんなに楽なのだろう、と帰りの道でため息をついたりする。
 たまにじゃないか。
54 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:34

 坂を下り始めると、それは中間点の印。
 急な坂道で若干の加速をしながら駆け下りて、
 狭く人通りの多いコンビニ前の道を通り抜け、信号に足止めを食らう。
 信号も小さな道は基本的に無視だけど、車通りが多かったり大きな道は、仕方なく止まる。
 本当は外でジョックすること自体禁止だから、事故を起こしたりしたら部が活動停止になってしまう危険があるのだ。
 流石にそんな事態になってしまったらどう謝っていいかわからないから、保田さんもストップする。
 そしてそれは私にとってはちょうどいい休憩時間だった。でも今日は、
 
 「あ」

 すぐに信号が青に変わり、止まったのは3秒にも満たないような時間。
 一瞬のストップは、インターバルの要領で逆に体力を消費してしまう。
 整えようとした呼吸が、すぐに乱された。

 信号を渡るとすぐ目の前にある階段を登る。
 でもここで音を上げていたら帰りの坂道を耐えることなんて出来ない。
 こんこんを常に意識しながら、保田さんを追いかける。階段を登り、軽い団地のような場所に入る。
 暫くは真っ直ぐな道が続く。細く人通りの減った静かな道。
 道の左右に植えられた草が夏になると影を作ってくれる。今は春だからあんまし意味はないけれど。
 ここを抜けたらまた休憩ポイントがある。
 それだけに望みを託して、私は保田さんの大きな背中を追いかけた。
55 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:35

 この小さな道を抜ければ大きな交差点に出る。
 私達が目指す城北公園に行くにはどうやっても2回信号を渡らなければならない。
 必ず1回分の信号は休める。こんこんはそれを知らない。精神的に私よりもずっときついはずだ。
 だからこの勝負、私に分がある、間違いなく。あれ、いつの間に勝負になったのだろう。

 確かにベストタイムはこんこんの方が遥かに上だ。でも私には先輩としての意地がある。
 そのことをこんこんに知られない間に、こんこんが引退で訛った体を元に戻すまでは勝ち続けて、
 その間にベストを更新しなければならない。
 弱いのに負けず嫌いって、どうなんだろう。自分でも思う。

 とにかく、こんこんよりも早くゴール、つまり学校に到着しなければならないのだ、私は。

 交差点が見えてきた。真正面の信号は赤。
 真っ直ぐ突っ切って横の長い信号を歩いて通過、その後信号が変わるまで休憩。
 私の頭の中で展開が予測される。やった、休める。

 「はぁ、はぁ、はぁ」

 乱れた呼吸がそろそろ休憩を欲している。保田さん、頼みます。
 でも、なぜか私の願いは見事なまでに叶えられなかった。

 信号の色が青くともる。当然保田さんは直進する。じゃあ横で休憩か。
 私はそう思いながら必死に後ろ3m以内の位置をついていた。
 こんこんも同じくして。そして信号を渡り終えた瞬間、保田さんは呟いた。

 「渡っちゃえ」

 ………………え?保田さん今の言葉もう一回。

 そう思ったときには保田さんは強行突破していて、こんこんに一瞬抜かれた。
 慌てて追いかけたけど、呼吸が着いてきてなかった。
56 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:35
 
57 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:36

 新垣を保健室に連れていって絆創膏を張ってもらった帰り、
 グランドを校舎とネットの間の道――そこをテニス部が走ったりしている――に変な女の人が立っていた。
 どうも陸上部のことをじっと見ている気がする。サングラスをかけてるし、マスクをしていて、
 いかにも怪しさ爆発の格好なだけに、物凄い目を引いた。
 走り抜けていくテニス部もチラ見している。一体何者だろうか。

 とりあえずは触れないようにしてグランドに復帰すると、
 すぐに新垣に心配するみんなの声が投げかけられる。

 「大丈夫かー?」
 「擦り傷だけ?」
 「休む?」
 「は、はい、大丈夫です」

 先輩ばっかりで硬い。最初のうちはしょうがないけれど、この部の雰囲気だ。
 きっとすぐに慣れる。敬語が飛ぶくらいに。

 新垣を連れて中断していた練習を再開。
 でもみんな既にハードルとハードルの間を広げてしまっていて、そこをスキップしながら超えたり、
 間3歩でハードルを飛んだり。
 でもちゃっかり1列だけ基本練習用のハードルが残されていて、さりげない優しさに頬が緩んだ。
58 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:37

 今度こそハードルをぶっ倒したりケガをしないように、あたしは新垣に付きっ切りで指導した。
 こうやって中澤さんに指導された記憶が頭の隅でチラリと浮かんだ。
 あの時教わったように教えれば、きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせて。

 「さっきあたしが見るって言ったら、意識して体がガチガチになっちゃったでしょ?」
 「は、はい」
 「もっと楽に。余計な力を入れる必要はないよ。
  ようは股関節周辺を解すのと、そこを普段から動かして走る時回転しやすくするためのものだから。
  ただ背筋だけはしっかり安定させて。足を上げるとき背中が一緒に前に曲がったりしたらダメ。
  真っ直ぐならなかったら腰に手をつけて矯正する感じで行ったらいいかもしれない」
 「あ、あの……」
 「なに?」
 「いっぺんに言われると……よく分かんないんですけど」
 「え」

 ミスった。目が点になったあたし。
 何故か新垣のほうが申し訳なさそうな表情。

 「ごめんなさい」
 「いや、あたしがごめん。一度に色々言い過ぎた。一個ずつ、行こっか?」

 やっぱりまだ、中澤さんのように上手くはいかない。
59 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:37

 このグランド上で陸上暦の短さトップクラス、ていうか新入生にさえ負けてしまうキャリア。
 あたしが指導していいのか?間違ったことを教えたらどうしよう。不安に駆られながらも一通りドリルを終える。
 その頃になると他のみんなに追いついていた。もう流しに移っている。
 ここで合流すると、新垣には「7、8割で走る」ということだけを告げて、あいぼんの横に立った。

 「久々やな相棒」
 「へたくそな関西弁使いよるなよっちゃんは」

 流しのパートナーであるあいぼんと一緒に並ぶ。
 流しはやっぱり同じくらいの速さの人とやるものだ。
 あんまし差がつくと走り出した時に差が開いてペースを見失う。
 あくまで快調走だし、ドリルで解した足を回すためのものでもあるから、全力で走る意味はない。
 ………あれ、新垣はじゃあ、誰と組めばいいんだ?

 高橋と新垣が一応横に並んで、ぎこちないながらも話をしている。
 なんだか会話が成立していなさそうな雰囲気だけど。ってそんなのはどうでも良くて。
 明らかに実力差がある二人。新垣がかわいそうかもしれない。
60 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:38

 「ほらよっすぃ早く行けー」

 矢口さんに急かされて走り出す。ま、とりあえずはいいか。
 あいぼんといい感じに間隔を空けながら、60mほどの直線を進む。
 土を強く踏む感覚が足に残った。春になって暖かくなってきたのもあって、体が気持ちよく動いた。
 ゆっくりと減速しながら後ろを振り向くと、後続も続いていた。
 みんな調子がよさそう。でも、新垣はちょっとだけ辛そうだった。

 「…………」
 「よっちゃんどないしたん?」
 「え?いや腹減ったな〜って」
 「アホやなよっちゃんは」
 「うるせー」

 ……なんだか自己嫌悪。

 帰りをゆっくりと歩きながら、ふと不審者に目を移してみた。
 まだこっちのことを見ていた。あたし達に何の用があるっていうんだろうか。
 遠目だし顔が隠れてるからなんともいえないけど、殺気を感じた。危ないオーラも。
 あのままにしていたら、部活が終わったときにでも、バックの中から果物ナイフを取り出しそうな、
 そんな雰囲気を醸し出していた。

 どうしよう、矢口さんに相談しようかな。
 そう思ったときにはもうスタート地点に戻っていて、2本目を走っていた。
61 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:39

 流しが終わり、往復の100m走2本。
 タイムを測定するということで矢口さんがストップウォッチを手に持ち、
 50m先に矢口さんの流しのパートナーの先輩が立つ。余計に話しづらい状況になってしまった。

 「じゃあ最初は高橋と新垣!」

 矢口さんが指示を出す。
 でも高橋は新垣から一歩離れると、何故かあたしの側に来て、言った。

 「吉澤さんくらいがちょうどええと思うんですけど」
 「え」

 あぁん?ガラの悪い声を出しそうになって必死に堪える。
 ちょうどええ、だって?言ってくれるじゃないか高橋さんよぉ。

 「だって…どうするよっすぃ」
 「やります!」
 「うぉ、すっげーやる気」

 矢口さんは笑いながらウォッチを高く構えて向こう側の先輩に合図を送る。
 先輩が手を振り返すと、

 「よーいスタート!」

 時間差であたし達は飛び出した。
62 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:40

 100m往復走。
 行きの50m助走つきと帰りの50m助走つきを足し算して100のタイムにする。
 50m先のラインを通過した時点で、先輩が手を下げて矢口さんに合図を送ると矢口さんは時計をストップ。
 再び走り出してラインを通過するときに先輩が手を上げ矢口さんがウォッチを再開。
 あとはゴールラインで時計を止める、と言う風に測定。
 一瞬止まるのが体力を抉り取るから、帰りのスピードはみんな遅くなる。

 実際のレースのタイムと比べることは出来ないけれど、ここではここのコースレコードがあって、
 飯田さんのタイムは誰にも破れていない。12秒33。とても出せる気がしない。

 矢口さんの真横を一気に加速すると、ウォッチの音が耳に僅かに届いた。
 それを振り切るかのように風を切る。
 全身で風を浴びながら、高橋を引き離そうと強く強く地面をけりつける。速いリズムを刻んで、腕でそれを保つ。

 ―――嘘。

 高橋は全く離れる様子がなかった。聞こえる足の音は全く大きくも小さくもならない。
 互角といっていいかもしれない。

 先輩の横を通過する。そのまま減速しながらグランドの端っこまで行く。
 高橋も同じようについてきた。

 「6秒20、6秒18」

 矢口さんの声が向こう側からかすかに聞こえた。うわ、行き負けたのか。
 でも、帰りは慣れてるこっちに分がある。

 一気に飛び出すと、トップスピードに乗って先輩の横を通過した。
63 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:40
 
64 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:41

 なんとか城北公園に到着する。これで中間点。
 出来ればここで一旦休憩、10分後出発にしてほしかったけれど、
 保田さんは踵を返すとあっという間に復路へと旅立ってしまった。

 そしてその時すれ違い様に見えた顔は、確かに笑っていた。

 「保田さん!」

 ためしに、声をかける。精一杯の大声で。でも返事はなかった。
 それどころかピクリとも反応せず、その背中はただただ小さくなっていく。
 …まずい。トランス状態だ。

 私達長距離は絶対的に指導者が不足している。
 つんくさんは長距離の選手ではないことは確かだし(でもなんの選手だかは未だに謎だ)強い選手も保田さんだけ。
 第一人数も少ない。だから保田さんが一人練習を考える。私に合った練習も一緒に。
 でも、こうして集中力がピークに達してランナーズハイ状態になった時、保田さんはそういうことを全部忘れてしまう。
 私がいることも、去年なら先輩がいることも忘れて、どんどん驀進して突き進む。
 楽しそうに笑って。

 今日は多分予想外についてくるこんこんに燃えたんだと思う。
 折り返した矢先突然のスピードアップがそれを物語っている。
 そして、こんこんはそれに屈しそうにない。こんこんの目もまた、燃えていた。
65 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:42

 ――どうしよう。

 私の心に生じた迷い。
 目は保田さんの背中にピントを合わせ、体は追いかけようと動き続けているけど、
 二つの相反する感情が同時に胸の奥に存在していた。諦めと、

 「はぁ、はぁ、はぁ」

 負けたくない気持ち。こんこんに負けるわけにはいかない、という気持ち。
 負けたくなかった。絶対に。

 必死さが直に伝わってくる。呼吸は既に大分乱れて、苦しそうなのが顔に出ているのに、
 でもその眼は前を見据えていた。絶対に遅れないように、ぐっと耐えている。

 ――私よりもきつそうな顔をしているのに。

 そう、私よりもきつそうにしている。だから私は負けるわけにはいかない。
 私のほうが、絶対に余裕があるはずだから。大丈夫、まだ行ける。
 すぐ近くの背中を追い越すと、1mにも満たないようなリードを保った。

 1秒でも、0.1秒でもいい。勝ちたい。負けたくない。
 保田さんの背中は相変わらず小さいままだけど、
 私は必死に真っ直ぐと続く長い長い坂道を進み始めた。
66 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:43

 行きは味方だった下り坂と追い風も、帰りでは強敵になって私たちを待ち構える。
 下り坂も足のダメージを色々考えると味方っていうほどでもないんだけれど、登りがとんでもない関門なのは確かだった。

 一歩一歩地面を蹴るのに苦労する。更に強風が吹き荒いで私達の歩を邪魔した。
 もしこんこんが考えるという動作をする体力がまだ残っていたなら、私のすぐ後ろについて風除けに使っていただろう。
 でも彼女にはその余裕がなかったらしい。私の横に並ぶと、並走した。
 道の端っこでトラックに注意しながら、登ってゆく。

 坂道は300mくらいは続くから、ここで力を入れて走ると相当体力を持っていかれる。
 いつもならここはゆっくりと走って登り切ってからスピードを上げている。
 それが出来なかったのは、横にこんこんがいるからだ。少しでも気を抜けば、こんこんに抜き去られてしまう。
 レースのような緊張感が、私の中にあった。中学の頃を思い出させるような、懐かしい感覚が。

 そういえば中学の時一度だけ1位を取った試合、2位の選手と物凄い競ったのが記憶にある。
 2周目から二人でトップをキープし続けて、1000mはお互い譲らぬ攻防を続け、ラスト勝負スピードで勝った私が勝った。
 でもゴール後そのまま倒れてしまって後の記憶がほとんどないけど。
67 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:43

 坂を上り終えると、小さな商店街のような道を通り抜ける。
 小規模で、少し荒んだような雰囲気で、多分おじいさんおばあさんがお店を開いているんだろう。
 平地になったし、ここで私は少しだけスピードを上げてみた。
 こんこんは反応しきれず遅れた。よし、ここで一気に。

 「石川さん!」

 声がした。絶対止まらない、何があっても止まらないから。
 たとえ擦り傷とかしてたとしても、ここで止まったら負けちゃう。

 「信号赤です!」
 「えっ!?」

 地面に足を置いた瞬間、目の前を3トントラックが通り過ぎていった。

 「大丈夫ですか?」

 乱れた呼吸を整えながら、こんこんが私に追いつく。

 「ま、まあね……」

 それしか言えなかった。とりあえず、一旦休憩。
 ちょっと熱くなってるから一回止まって冷静になろう。
 気持ちと呼吸を落ち着けると、信号が青く染まった。再会の合図。私は再び飛び出した。
68 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:44

 少しの休憩は呼吸を一時的にでは歩けど整えてくれた。でもそれはこんこんも同じ。
 辛そうな顔なのは確かだけど、その足の動きは全く弱まる気配がなかった。どこまでも粘り強い。
 きっとこのしつこさで中学時代も都のトップクラスの選手として勝ち続けてきたのだろう。
 なんとなく分かった。こういう相手がいたら、嫌だ。いかにもJにいそうな、そんなタイプの選手だと思った。
 Jに入学していたらきっと、個性もなく埋もれてしまっていただろうけど。

 商店街を抜け、近くの病院を通り抜けると、再びあの交差点に帰ってきた。
 保田さんはギリギリ信号に引っかかったらしい。小さな背中が段々と大きくなってきた。

 このペースだときっと信号が青く変わった後に信号にたどり着く。
 もう止まる気はなかった。この交差点を通過すると、保田さんは強烈なスパートを開始する。
 それに合わせて私達のスピードも上がっていくだろう。休憩は欲しい。たまらなく欲しい。
 でもそれ以上に今は流れを止めたくなかった。

 行きに保田さんが無視した信号はそのまま渡り、予想通り青く変わった信号を渡る。
 団地に入れば段々と気持ちが高まってくるのは、あたりのブロックが赤く染まっているせいかもしれない。
69 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:45

 こんこんは依然私の真横を並走していた。
 細い道に入ってもギリギリまで道を譲らない。仕方なく後ろにつくけど、精神的に結構きつかった。
 レースをよく分かっているような、頭脳的に相手を追い詰めるレース展開が出来るタイプだろう。
 長距離において、メンタルのダメージは結構痛い。そこから体力が抉られることもありうる。
 ちょっとしたこと、ほんの些細なことでも、突破口になりうる。
 実力が均衡した者同士の競り合いなら。

 こんこんは本当に辛そうにしていた。私よりもずっとずっと。
 私も既に限界ギリギリの位置に近づきつつあった。
 息も乱れ、足に乳酸が溜まり、腕の振りも弱まっていた。互いに。

 ――ここで飛ばせば勝てる。

 確信した。
 こんこんの疲れは尋常じゃない。絶対に振り切れる。
 私のほうがスプリントは上なんだから、スピード勝負になれば勝てるはずなんだ。
 中学時代の1位になった時のレースを思い出す。一気に上げて、離したらペースを落ち着けよう。
 そんな楽に勝たせてくれる相手じゃないだろうけど。

 団地を抜け、復路一番の急な坂道。そこを登りきると、私は一気にスピードを上げた。
 こんこんの呼吸が乱れる音がした。
 勝った。
70 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:46

 ――…………え?

 でもこんこんは離れなかった。
 全く触れられていないのに、まるでしがみ付かれている様な感覚に陥る。
 殺気にも似た迫力が、私の体全体を取り囲んでいた。でもそれに負けるわけにはいかない。

 私はペースを上げる。こんこんの息は更に激しくなった。
 でも着いてきた。どうして、どうして。

 ――どうして。

 ここに来て私の限界が来てしまった。足がもうこれ以上回らない。
 これ以上のスピードは出なそうだった。
 それを感づかれたのか、こんこんはここぞとばかりに私に追いつく。
 私よりもずっと荒れた呼吸、流れる汗。
 辛そうな表情も、とてもこのスピードで走っている女の子のそれとは言いがたいものだった。

 ――こんこんの方が、私よりもずっと辛そうなのに。

 私のほうがまだ走れるはずなのに。なんで。どうして。

 どうして抜かれたんだろう?
 どうしてこんこんの背中が見えるんだろう?
 どうして背中が段々小さくなっていくんだろう?

 その背中はとても大きく、とても小さく。届かない星空の一番星にも思えた。
71 名前:22d_Race ● 投稿日:2005/03/31(木) 23:46
 
72 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:47

 効果音をつけるならビュンビュンと、あたしは走っていた。
 冬場のトレーニングが実を結んでいるのが良く分かる。
 フォームも整ってきて、あややの爆発的な力にはまだ叶わないかもしれないけれど、
 あらゆる面で良くなった。でも、それでも、

 ―――帰りきっついんだよね。

 一瞬止まった後の即再スタート。楽なはずなかった。
 でもあたしには速く走らなければならない理由がある。高橋に絶対負けるわけにはいかない。
 陸上暦は向こうのほうが長いかもしれないけれど、1年間曲がりなりにも強豪校の中で戦ってきたんだ。
 それに、こんなところで負けるわけにはいかない。
 リベンジしなければならない相手がいるから。絶対に勝たなければならない相手がいるから。
 だから。

 ―――後輩に負けてる場合じゃないんだよ!

 ゴールラインが近づく。落ちかけてきたエンジンを再び全開にさせる。
 高橋の足音なんてもう聞こえなかった。
 自分の振動の鼓動、地面に足をつける音、風が後ろから吹き付ける音、それだけだった。

 矢口さんの横を通過すると、減速しきれず曲がりながらどんどん行ってしまい、
 不審者と目が合った気がした。びびった。
73 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:48

 矢口さんが両手に持ったウォッチを見る。
 おー、と一人リアクションを取って喜んで飛び跳ねているけれど、やっぱりちっちゃい。
 乱れた呼吸を整え、重たい足をゆっくりと動かしながら声を出す。

 「早くー!」
 「分かったよ!……よっすぃ!」

 緊張する。
 行きでは僅かにあった差。帰り道に抜かすことができたかどうか。

 「12秒95!!」
 「おしっ」

 自己ベスト更新。遅いけど、それだけでうれしかった。

 「高橋!」
 「………………」
 「13秒01!」
 「っしゃー!!!」

 ガッツポーズをとる。角度を変えてもう一回。あいぼんにアホ、と笑われた。
 更に角度を変えると、またまた不審者のサングラスと目が合い、萎縮した。

 不審者はそんなあたしを見てか、ゆっくりと歩き出すと段々グランドの入り口へと近づいてきた。
 あたし、なんかまずいことしちゃったかな……アハハハハ。
 笑い声も乾いちゃって、びびりまくりだった。
74 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:48

 大股でズガズガと近づいてくる怪しい女。
 グランドにその靴のまま入り込むとどんどんあたしの方へと近づいてくる。
 明らかにサングラスの奥にある瞳はあたしをにらみつけている。まずい、来た。
 どうする?え?あ?!やばい!殺される!

 女はバックの中に手を突っ込んだ。その瞬間、

 「吉澤お前」
 「おりゃーー!!!!」

 スパイクでその頭を思い切りはたいた。
 ……ってこの女あたしのこと知ってる?ていうか誰?え?え?

 女はプルプルと体を小刻みに揺らしながらあたしを指差す。あ、ピンは刺さらなかったか、チッ。

 「お、お前なにしとんねん……」

 聞き覚えのある声。懐かしのあの人のものだった。

 「中澤さん!」

 ドサッ。

 あたしがそのことに気づいた時には、中澤さんは地面に体を預けていた。
75 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:49

 保田さんが何故か一人で帰ってきた頃、中澤さんの意識は回復した。
 スパイクで叩いただけなのに大げさな、と言ったら殴られた。

 「お前殺す気か?!うちになんの恨みがあんねん!言うてみい?!ああん?!」
 「違いますよ!だって格好が怪しすぎるじゃないすか!
  不審者だと思ったんですよ!通り魔!ほら!春先変な人多いっていうし!」
 「花粉症じゃー!!!」
 「え?」

 改めて中澤さんチェック。サングラス、マスク。…………。

 「言われてみれば」
 「勘違いで人殺す気か」
 「まー気にしないで、ポジティブに行きましょう」
 「お前誰のせいでこうなった思うとんねん」

 中澤さんは怒りっぱなしだけど、顔はなんとなく笑っていた。

 「ところで何しに来たんですか?」
 「お前……うちの就職先知らんのか?」
 「え?」
 「ここや」
76 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:50

 こんこんが保田さんから大分遅れて帰ってきた。梨華ちゃんの姿はまだ見えない。

 「え゛え゛え゛―――?!!!」
 「保健室と、コーチ。二束の草鞋やな」
 「え゛え゛え゛―――?!!!ここって保健室って意味すか?!」
 「どういう意味や思うたん」
 「いや、ていうか、中澤さんが保健室の先生とか、マジあり得ないっすよ」

 また殴られた。骨の部分が頭に響く。

 「じゃあコーチとして練習に参加するってことすか?」
 「そういうことやな」
 「やったー!」
 「お前はまだまだ教えなあかんこと仰山あるからな」
 「よろしくお願いします。新人教育させられて荷が重いんです」
 「新人教育?」
 「はい、素人の娘で、新垣っていうんですけど……」

 梨華ちゃんがフラフラとゆっくり帰ってきた。
 でもその足取りの割に、表情は辛そうではなくて、むしろ温存した状態で帰ってきたようにさえ見えた。
77 名前:22d_Race 投稿日:2005/03/31(木) 23:51
22d Race「コーチ」終。
23d Race「ミス」へ続く。
78 名前:おって 投稿日:2005/03/31(木) 23:53
更新終了。次あたりから早くも予選に入るような入らないような(どっちだよ

>>40 名無しの読者さま
   ありがとうございます。お待たせしました。
   追う側はきついかもしれませんがこの更新ペースでなんとか続けたいと思ってます。
79 名前:名無しの読者 投稿日:2005/04/01(金) 01:20
早くも更新きていて嬉しい限りです。
にしても後輩ができたことによる精神面の違いが各キャラによってかなりの違いがあって面白いですね。
個人的には初心者二人の伸びに期待してるです。こまめに更新チェックしてますが、作者さんのペースで頑張ってください
80 名前:娘。よっすいー好き 投稿日:2005/04/02(土) 05:52
中澤さんに思わず笑ってしまった。

1STから読ませていただいていました。2NDも更新楽しみにしてます。
81 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:18

23d Race「ミス」

 何度目かに聞いた目覚ましの音色。
 叩こうにも手の方は空振りばかりで、漸く手が届いた時にはベッドから転げ落ちていた。
 そして時計を鷲掴みすると、針の刺された時間に髪の毛が全て逆立つような衝撃を受けた。

 「嘘――――!!!!」

 飛び上がった勢いそのままに洗面台へとダッシュ、
 顔を洗うと本当に髪の毛が逆立っていたからくしで解しながら部屋に戻り、制服に着替えた。
 マジ無理、間に合わない。でも今日間に合わないとまずい。

 「あらひとみ起きたの?遅かったわね」
 「そんなほのぼの言わないで!」
 「今日お母さん朝ごはん頑張っちゃったから食べてね」
 「間に合わないよ!」
 「食べてね?」
 「……はい」

 もう無理、不可能。間に合わない。朝礼だから朝早いのに。
 用意された朝ごはんをダッシュで食す。今日に限って多い。一気にがっつけ!

 「う゛っ」
 「大丈夫?!」

 今日厄日だ、きっと。
82 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:20

 無理矢理お茶と味噌汁で流し込んで、何も入ってない制定バックを手に、
 ジャージを入れた袋を肩に家を駆け出した。こういうとき陸上部やっててよかった、とほんの少しだけ思ったりする。
 サッカーをやっていたときよりも早く駅に到着できる。
 ほんの少しの差かもしれないけれど、それが生死を分ける可能性もあるからバカにならない。
 梨華ちゃんはもう行っちゃっただろうから、一人か。久しぶりかもしれない。

 SUICAをタッチパネルにぶち当ててダッシュで改札を通過。
 ちょうど電車が到着しているところだった。走れば間に合う!

 『駆け込み乗車はおやめください……駆け込み乗車はおやめください!おやめください!』
 「うるせー!」

 こちとら生きるか死ぬかだ!遅刻は厳禁なんだ!遅刻したら死ぬんだよ!

 うちの学校は内部推薦で大学に進学できるけれど、その時に自己推薦というものが必要。
 あたしが狙っているのは精勤賞。欠席0回、遅刻2回以内でランクA。
 Aがあるとたくさんポイントが入って、3年時学部を選ぶときにすごく有利になるから、
 絶対欠かせないのだ。でも既に遅刻2回。ランプは転倒している。
 遅刻したらおしまいなのだ。
83 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:21

 プシュー。

 無常にも閉まろうとする扉。
 どうにか手を突っ込めれば……咄嗟にあたしは作戦を思いつき、鞄を放り投げた。
 鞄が挟まっている間に追いつき、こじ開ける。完璧すぎて恐ろしかった、それを思いついた自分が。
 そして思ったときには実行に移していた。

 「どりゃー!!」

 中身のない鞄はさほど勢いもなく吹っ飛ぶと、
 あっという間に正確なコントロールで閉められるドアとドアの間に。

 「よしっ!」

 思わずガッツポーズ。あとは止まるだけだ。
 そう思いながら駆け寄った瞬間、予想だにしなかった悪夢が起こった。

 「え?」

 鞄はドアとドアの間を華麗に通過すると、そのまま車内へ。何事もなかったかのように閉まるドア。
 去っていく電車。ガタンガタン、と音を騒がしい音を立てながら、
 電車はすぐにあたしの視界から消えた。

 「……しまったーー!!」

 なんて計算間違いをしたんだろう、あたしは。
 鞄が滑走するだなんて全く思いもしなかった。とんでもないことになってしまった。
 間に合わないし、鞄ないし。何も入ってないだけいいけど。

 「…………鞄買わなきゃ」

 ため息をついて黄色いブロックの後ろに立っていると、

 「お前アホだろ」

 懐かしい声が耳に飛び込んできて、思わず振り返った。
84 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:21
 
85 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:22

 久々に見たその顔は、年をとったという印象を全く感じさせない笑顔だった。
 でもやっぱり、お母さんなのかな、となんとなく思った。もう彼女はミスではなくミセスだ。

 「お久しぶりです」
 「久しぶりだねー、今何年生だっけ?」
 「高二です」
 「高二かー、大人っぽくなったねー」
 「石黒先生もすっかりママって感じっすよ〜」

 石黒先生はそう言われると少し照れながら笑った。

 数分後やってきた電車に乗り込む。二人でつり革に捕まる。
 よくよく冷静に今の状況を考えてみると遅刻したということを思い出し、思わずため息をついた。

 「さっき随分急いでたけどどうしたの?」
 「遅刻しそうだったんすよ、ていうかまじもう無理、します」
 「あたしもなんだよねー、今日学校の朝礼で挨拶しなきゃいけないからまずい」
 「あたしも朝礼っすよ。一緒だ」
 「一緒だね」

 二人で笑っていると後ろからドアが閉まる音がして、電車は駅から飛び出した。
86 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:23

 電車は新人が運転しているのか、なんだか荒っぽくて揺れが激しかった。
 4月だし仕方ないのかも、となんとなく納得していると、

 「吉澤」
 「なんすか?」
 「サッカー、続けてる?」

 どう返していいか迷った。
 でも嘘をついてもしょうがないから、とりあえず目いっぱい笑った。

 「色々あって、今陸上やってます!」

 あたしの精一杯の笑顔は、どう石黒先生に伝わったかは分からないけれど、
 先生は優しく曖昧に笑いながら一言「そっか……」と呟いた。

 「で、その陸上は何やってんの?」
 「100mっす」
 「スプリンターかー。吉澤はドリブル物凄い速さだったもんな。あー、吉澤」
 「はい」
 「うちの高校来ない?」
 「え?」
 「……冗談だって」

 その言葉はどうもあたしには冗談には聞こえなかった。
 今も笑っている石黒先生の笑顔が、造っているように見えたせいかもしれない。
87 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:23

 「どこで降りるんすか?」

 電車に揺られながら、なんとなくたずねた一言。
 先生の口から出てきた駅名は、

 「一緒っすね〜」
 「おんなじ学校だったりして」
 「まさか〜」
 「まさかね〜」
 「ありえないっすよ〜」
 「あったらマジで引き抜くよ〜」

 声は笑っていたけど顔は笑ってなくて、
 あたしはびっくりしてつり革に捕まっていた手の力が急激に強まった。
 でも先生はそんなこと気づきもせずに中吊り広告なんかに目をやっている。

 「今年どこ勝つと思う?」
 「Jリーグすか?マリノスに頑張ってほしいっすねー」
 「マリノスけが人だらけじゃんか」

 そんな会話をしていると、いつの間にか駅に到着していた。
 一緒に降りると、なんとなくだけど、嫌な予感がした。
 なんとなくだけど。
88 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:24

 電車を降りてホームに降り立つと、時計を見た。後3分。全速力で走れば、もしかしたら…。
 って徒歩10分の距離に対してあたしは一体何を考えているのだろう。
 でもなんとなく、石黒先生といるのが気まずかったから、思わずダッシュした。

 「あ、吉澤!」
 「まだ間に合うかもしれないんで!」

 嘘だけど。でもとにかくあたしは走った。
 思い出した、今日は遅刻しちゃいけない理由がもう一つあったって。

 改札を飛び出し、ダッシュしているともう一人焦る理由を持っているはずの知り合いが、
 眠そうな顔をしてフラフラと歩いていた。

 「ごっちん!」
 「んあ、おはよー」
 「今日朝礼だよ!」
 「んん、そうだねー」
 「中澤さんの挨拶遅れたら殺されるって!」
 「んあ!」

 そう、新任の中澤さんは今日、朝礼台で全校生徒の前で軽い挨拶をする。
 あの鋭い眼光は、あたし達をチェックしているに違いない。
 そしてあたし達は遅刻すると、生徒の作る列とは別の場所で立たされ、
 朝礼後生活指導の先生に色々と説教をされる。
 正直その説教よりも中澤さんの目線がビームみたいにこっちに飛んでくるのが嫌だった。
 見つかったら何を言われるだろう。
 びびりにびびったあたし達は、とりあえず走った。
89 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:25

 長い長い地下道。一直線に伸びる地下道をひたすらに走った。しかもかなりのスピード。
 おまけにあたしは鞄がない。ごっちんはインハイ選手。辺りを圧倒するには充分の迫力。
 いや、圧倒っていうか引いてるのか。思わずため息をつく。

 ごっちんのスピードは寝起きとは思えないほどのもので、どんどん地下道を突き進んでいく。
 通勤途中のリーマンや大学生とすれ違い追い越し、地下鉄の改札を通過する。
 このペースだともしかしたら間に合うかもしれない。
 淡い期待を抱きながらあたしは精一杯ごっちんの後ろに着いていった。

 ごっちんは速い。とにかく速い。
 スカートをはいているのも気にしてないみたいに足を上げる。
 もうちょっと恥じらいを持って欲しい、とあたしが言っても説得力ないんだけど。
 別に下にもう一枚はいてるけど、でもねぇ。

 「はぁ、はぁ、はぁ」

 通勤途中の騒がしい地下道の中、ひときわ目立つ息切れの音。
 それはあたし達二人以外からは決して放たれることのないBGM。
 そんな風に表現すれば格好いいかもしれないけれど、旗から見たら見苦しいだけだった。

 天井からかけられた小さなデジタル時計が指す時間を見て、もう一回ため息をついた。
90 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:26

 ま、最初から分かってたんだけどね、可能性に賭けてみたかった?
 ていうか、うんそんな感じ。
 ………Aランクの夢絶たれたり。

 「よしこそんなに落ち込まないでさ、一緒にインハイ行って取ろう?」
 「そだね……、ってそっか!」
 「んあ!?」
 「陸上で取ればいいじゃん!」
 「吉澤静かにしろ」
 「すみません」

 中澤さんは当たり前のように朝礼台からあたしとごっちんをガン見。
 突き刺さるような視線には確かに殺気を感じて、
 この間したことがいかに悪かったかなんとなく理解した。今更だけど。

 それにしても、石黒先生はどこの学校なのだろう。
 同じ駅だけどこの近くにある学校を、あたしはあまりよく知らない。
 私立は少なくとも隣駅に行かないとないはずだし、かといって公立に赴任するだろうか。
 どっちにしろ高校の教員免許は持っていないだろうから、大丈夫のはずだけど。
 ……でも先生の発言がなんとなく引っかかっていた。
 同じかもしれないと言ったということは……。

 「まさか、まさかね」
 「吉澤!」
 「すみません」
91 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:27

 中澤さんから送られてくる強烈なビームが消えると、朝礼台には他の新しい先生が上っていた。
 遠目だからあんまし顔は見えないけど、

 『高校二年生の国語を担当します石黒彩です』
 「嘘――!!」
 「吉澤ぁぁ!!!」
 「ごめんなさい!!!」

 ホントに来たし、ていうかあたしより早く着いてるし、よりによって高二。
 先生はある程度話し終わると、あたしの方へ目を向けて笑顔を見せた。
 そして何段かの階段を下りると、生徒が作る列に姿を隠してしまった。

 『石黒先生は昨年退職なさった畑先生に代わりサッカー部の顧問を――』
 「……………」
 「よしこ、どうしたの?」
 「…………いや…別に」
 「?ふーん」

 とんでもないことになってしまったみたいだ、どうやら。
 神様はどうやらあたしの心の隙間を痛いくらいに強烈に突いてくれたらしい。

 寒稽古のサッカーの時も、ここで先生とサッカーが出来れば、と思ったことがある。
 願わなかったといったら嘘になる。再び先生の下でプレーすることを。
 そして今、現実として先生はあたしの前に現われた。

 神様はあたしにどうしろというのだろう。
92 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:27
 
93 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:28

 地下の売店で制定バックを新しく買い、財布の中身に心を痛めた。
 1時間目まであまり時間がなかったから、あたしはこっそりエレベーターに乗ることにした。

 うちの学校は5階建て。
 いたって普通の大きさだけど、先生達や学校にやってくる父兄のためにエレベーターが取り付けてある。
 ただし生徒は乗車禁止。乗れるのは怪我している生徒か、大きな荷物を運んでいる部活だけ。
 でもこっそり乗る分には構わないだろう、とあたしはボタンを押して乗り込んだ。

 4階のボタンを押すと、一息。上へ上がっていくエレベーターの重圧をなんとなく感じながら、
 頭の中はフル稼働。昔を思い出していた。

 『吉澤、スタメンに使うぞ』
 『え、でも』
 『実力のある奴を使わないでどうする』

 『ナイスシュート!』
 『次も勝ちますよ』
 『期待してるよ吉澤』

 『今日から石黒先生に代わってこの部の顧問を務めることになった松井だ』
 『どうして使ってくれないんですか!』
 『年の上のものから使うのが常識だろうが!』

 「…………」

 あまり思い出したくない過去は、多々ある。
94 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:28

 でもそんな傷を抱えていたあたしも、陸上をすることで癒され、痛みを忘れることができた気がする。
 個人スポーツだからというのもあるのかもしれない。
 実力勝負の世界が肌に合っていたのかもしれない。
 そこに忘れられるという事実があれば何でも良かったのかもしれない。
 でも、ついにあたしは完全に忘れ去ることが出来なかった。

 『2階です』
 「え?!」

 2階は職員室。つまりここから乗ってくるのは必然的に教師。
 誰だ、ハゲか?バーコードハゲか?若ハゲか?部長ハゲか?社長ハゲか?
 ってうちハゲばっかやん。そして扉が開いた先は、

 「俺や」
 「つんくさんか」

 ホッとした。
 つんくさん以外だったらこんな場面見つかったら大変なことになる。

 「予選ボチボチ近いな」
 「そうっすねー」
 「今年は期待しとるで、ホンマ」
 『3階です』

 つんくさんはエレベーターを降りると、笑顔であたしにピースを決める。
 なんだか古臭くて滑稽で、笑ってしまった。
95 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:29

 チャイムが鳴る。そろそろ来ているかも知れないけど、別に走るわけでもなく廊下を歩く。
 教室に入ると、どうやらまだ先生は来てないみたいだった。

 「ごっちん」

 今年はごっちんとクラスが同じだった。

 「1時間目誰だっけ?」
 「分かんない」
 「えー」
 「だって国語先生変わったよ」
 「あそっか……と、いうことは?」
 「あの新任の先生だね」
 「……ええ?!」

 いきなり来るなんて、少しはあたしの精神状態を考えて授業日程を組んでもらいたい。

 「どうしたの大きな声出して」
 「………先生」

 扉を引いて入ってきたのは、やっぱり石黒先生だった。
 先生は出席簿を机の上に置くと席に着こうとするみんなに目をやりながら、
 あたしに向かって笑顔を注いだ。

 「またよろしく」
96 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:30

 授業は当然のごとく集中できなかった。
 いや、だからといっていつもは集中してるわけじゃないけどさ。
 今日ほど自分の苗字が吉澤でよかったと思った日はない。
 出席番号順に並んだ机、さ行あたりだったらもしかしたら真正面で向き合っていたかもしれない。
 その点吉澤は窓際族。日の光を浴びてぽかぽか陽気に眠りに誘われ、でも今日はやっぱり寝付けなかった。
 授業が終わり休み時間に入ると、先生はあっという間に職員室へと帰っていったから、
 なんとなくほっとした。

 ごっちんはよく寝たーなんて呟きながらあたしの席まで来ると、

 「なんかちょっと怖かったねあの先生」
 「今よく寝たーって言ってたじゃん自分」
 「あーそんなこと言ったかもねー」
 「別に怖くないよ、本当に優しい先生だから」

 なんだか強めの口調で話してしまって、自分で自分に驚いた。

 「よしこ45分にしてそこまで見抜くとは、エスパーだな?」
 「……何故分かった?!」
 「みんなの目を欺けてもこのごとーの目は欺けない」

 無意識か、といえばそうなんだろうけど、
 こんなバカ話をしてくれるごっちんの心遣いが、嬉しかった。
 絶対知らないけど。
97 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:30
 
98 名前:23d_Race ● 投稿日:2005/04/07(木) 23:31

 本当に突然のことで、本当にびっくりした。
 まさか石黒先生が私達の学校に赴任してくるなんて、誰が予測できただろう。
 高校免許を持っているなんて知らなかったし、持っていてもよりによって私達の学校に現われるなんて物凄い確率だ。
 これは神様の悪戯なのかもしれない。その神様は陸上のか、サッカーのか、分からないけど。

 石黒先生の授業を受けた後の休み時間、私は去り行く先生の背中を追いかけて、呼び止めた。

 「先生」
 「石川、久しぶり」
 「よっすぃのこと、どういう風に思ってます?」

 単刀直入に、いたってストレートに。これだけ言えば伝わるはずだから。
 私は内心決して穏やかではなかった。
 むしろ不安とか、色々な感情に心を踊らされて、今にもおかしくなってしまいそうだった。

 石黒先生は出席簿を胸に抱え、ちょっとだけ天井を見上げるといつも通り笑った。

 「いいFWだと思ってるよ。監督なら誰もが欲しいと思うような」
 「……先せ」
 「次の授業あてるから予習しろよ」
 「…………」

 悠々と去っていくその姿は余裕すら感じられて、胸を締め付けられるような感覚を覚えた。
99 名前:23d_Race ● 投稿日:2005/04/07(木) 23:32

 サッカー部にいた頃、よっすぃはすっごく輝いていたと思う。
 勉強以外なら何やっても上手くいきそうな雰囲気を醸し出していて現にそうだったし、
 肝心のサッカーもFWとしてその才能を発揮していた。それもこれもみんな、石黒先生がいたからだった。

 石黒先生がいなくなって干されて腐って、でも高校に入って陸上と出会って、持ち直した。
 やっと。本当にやっと。
 それなのに、塞がりかけてた、あと少しで消せたはずの傷が、また開かれてしまった。

 よっすぃは今何を想っているのだろう。それを私に知る術はない。
 私とよっすぃは友達だけど、当たり前のことながら別の人間で、
 私は他人の考えていることを理解できるエスパーではない。
 でも、予感だけはあった。嫌な予感が。

 よっすぃはきっと、心の奥底どこかで想っていたはずだ。
 石黒先生とサッカーが出来れば、って。
 寒稽古でサッカーをしていた時、楽しそうにしている姿を見れば、そうとしか思えない。
 よっすぃはやっぱりサッカーが好きなんだ。

 石黒先生はよっすぃにどういう言葉を使って勧誘するつもりなのだろう。
 もうしたかもしれないけど。どんな言葉でよっすぃの気持ちを揺らがせるつもりなのだろう。
 考えるだけでその場にいられなくなって、私は思わず立ち上がった。
 教室を飛び出す。
100 名前:23d_Race ● 投稿日:2005/04/07(木) 23:34

 よっすぃのいる1組の教室へ。
 今は二時間目と三時間目の間の二十分休みで、軽食をしている人が目立つ。
 そんな中を通り過ぎて、廊下を行く。別に行ってどうにかなる問題でもない。
 これはよっすぃの問題。会って話して、私の出来ることなんてまるでない。
 でもこの時間帯を他の皆と同じように取るのは今の私にはきつすぎた。そんな余裕なかった。

 2組の教室を通過し、1組の後ろの扉を引いて中に入る。
 よっすぃの席はその真正面、教室の一番奥だった。
 カーテンは上に上げられていて、日の光が差し込んでいる。

 よっすぃはそれを浴びながら気持ちよさそうに寝ていた。
 椅子に座って、その頭は机の上で寝ているごっちんの膝の上。
 ごっちんは窓に寄りかかって口をだらしなく開けながら寝ていた。

 「…………」

 二人とも幸せそうな、何にも考えてなさそうな、何の悩みも抱えてなさそうな顔をして。

 知ってる。
 よっすぃはなんでも一人で抱え込むから。
 一人でなんとか使用とするところがあるから。
 表情に出すことはまずないし、たとえ出したとしてもしらばっくれて、絶対に本心を出してはくれない。
 人に対してもそういうところがあるけど。
 だからその顔を見ても私は全く安心できないし、むしろ不安になった。

 でも、やっぱり私は何も出来ない。ただ一つ出来ることがあるとするならば、信じることだろう。
 部活としても、友達としても、陸上部から絶対に出て行って欲しくないけれど。
 よっすぃがこの間、あの場所で言っていた言葉を信じるしかないだろう。

 「南関突破、か……」

 呟いてみたけど、私には重すぎて持てない言葉だった。
101 名前:23d_Race ● 投稿日:2005/04/07(木) 23:35

 放課後、練習に出てみてもよっすぃの顔は浮かなかった。
 アップから既にボーっとしていて、力が入ってない感じだった。
 もう今週末校内予選だし、三週間後はもう支部予選が始まる。
 短距離は人数が多いから、そろそろ気合を入れなきゃいけない時期なのに……。
 あれ?ということは……。

 「あ」
 「どないした梨華ちゃん。うんこか?」
 「しないよ!」

 あいぼんの品のないボケを適当にあしらう。どうやら近いらしい、こんこんとの直接対決が。
 今気づいた。本当に、遅すぎるけど。

 視線を正面から少し外して、走っているこんこんを見た。
 1年生は仲良くなったのか、4人で固まって走っていた。大分余裕が出てきたのか、笑顔を見せている。
 ボチボチ引退期間の訛りが抜けてきたのか、体のキレも初日とは段違いだった。

 「…………」

 もしかするとよっすぃのことを考えている余裕は私にはないのかもしれない。
 枠は3人だから3人とも出場できる。
 でも、まだ直接トラックで負けてはいないけれど、今校内予選で戦ったらぶっちぎりの最下位だ。
 どうすればいいのだろう。頭の中は負の連鎖であふれていた。何を考えてもいいように考えられない。
 これじゃよっすぃと同じく、練習に身が入りそうにない。
102 名前:23d_Race ● 投稿日:2005/04/07(木) 23:36

 少しするといつものように学校を飛び出す。今日も城北公園への道を走る。
 ただしゆっくり。その代わり向こうにある土の400mトラックで練習をする。
 去年よりもレベルアップした練習内容。保田さんはレベルアップできているからいいかもしれない。
 でも私はそのスピードについていけてないから、辛かった。

 ゆっくりと公園に到着すると、ゆっくりとトラックのある場所まで歩く。
 坂道を登り、ちょっとした売店と野球場を通り過ぎると、そこにはグランドがある。
 ただし木がたくさん生えていて日陰が出来やすく、雨の日の次の日は使い物にならなくなるけど。
 もう一つネックなのは凧揚げを楽しむおじさんがたくさんいるところだろうか。

 「今日はなんですか?」
 「今日は〜、1000を3本」
 「えー」
 「はいっ!」
 「………はいっ!」

 こんこんは純真な瞳で保田さんを見つめている。一点の曇りもない。
 そして練習を拒むことが全くない。でもそれはきっと、強くなれるから。
 走っても成長が感じられず、苦しんでいる私とは違うから。

 練習量はいくらやったってこんこんを超えることはない。
 同じメニューを一緒にこなしているから。それじゃ絶対差は縮まらない。
 なら…。ふと過ぎった、一つの策。
 至極単純、どうして今まで思いつかなかったのかというくらい、内容のない策。

 気づくと足に力が入っていた。
103 名前:23d_Race ● 投稿日:2005/04/07(木) 23:36
 
104 名前:23d_Race ● 投稿日:2005/04/07(木) 23:37

 「行ってきます!」
 「気をつけて行ってらっしゃいよ」

 母親の言葉もまともに聞かずに家を出る。
 これしかなかった。私がこんこんに勝つためには、まず練習量を超えるしかなかった。
 練習量を超えるためにはどうすればいいか?夜に走る。
 朝でもいいけれど、朝早く起きれる自信がなかったのと、気持ちが変わらないうちにと思ってすぐに実行した。
 真っ暗闇の中をひた走る。

 夜の小道は不気味なほどに静かで、女の子が出歩く時間帯じゃないのは分かっていた。
 変質者とか、そういうのに襲われることだってあり得るし。
 でも私はそんな可能性を頭に入れた上で考える余裕はなかった。
 とりあえず今は、練習。そんなのが来たら全速力で逃げればいい。
 
 4月入ってすぐの夜は、まだ少しだけ涼しくて。 
 満開とはいかない桜の花の下を通ると、でもそれは確かに春だった。
 暗闇の中姿を変えた道を楽しむのも、悪くないのかもしれない。そして強くなれるのなら。

 風を切る感覚が最初は冷たかったけれど、徐々にそれも心地よくなってきた。
 僅かに流れる汗も風に奪われていく。少しだけ乱れた呼吸は、それだけ強くなろうとしている証明だった。
105 名前:23d_Race ● 投稿日:2005/04/07(木) 23:37

 「はぁ、はぁ、はぁ」

 このくらいじゃ、こんこんには勝てない。このくらいじゃ…。
 頭の中でひたすらそう繰り返す。自らに言い聞かす。まるで洗脳のように。
 何回も、何回も。こんこん、こんこん、こんこんと。まるで呪文だった。
 いや、もしかしたらそうなのかもしれない。私が強くなるための、呪文。

 段々とペースに慣れてくると、呼吸も少しずつではあるが整ってきた。
 もうちょっとスピードを上げてもいいかもしれない。もうちょっと行こう。
 スピードを上げると、いつの間にか結構遠くへ来ている自分に気づいた。
 多摩川の河川敷。自転車で行けば10分くらいの距離。まさか走ってここに来るとは思わなかった。
 階段を登れば河川敷に上れる。その長い道を走ってもいいかもしれない。
 思い立って加速した。

 石段を一段一段刻みながら、上を目指す。視線はひたすら上を向いている。
 暗くて、下を向いてもどうせ見えないから。
 少しでも前へ前へ、という気持ちを持てるかもしれないという、儚い願いもあったのだけれど。

 そんな私の目の前を、黒い影がすごいスピードで横切る。
 一瞬なんだか分からなかったけれど、すぐにそれがなんなのか理解した。
 そして同時に、絶望した。

 「あ!」

 足を引っ掛けた、と理解した時にはもう遅かった。
 バランスを失った私の視界には、真ん丸い月が映っていた。
106 名前:23d_Race ● 投稿日:2005/04/07(木) 23:38
 
107 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:38

 「梨華ちゃんがケガ?」

 ごっちんは驚きのあまりか、それ以上言葉が出てこない。
 でもあたしだってそれを聞いた瞬間本当に驚いた。あまりに突然すぎて。
 一体何がどうなって梨華ちゃんは夜練習に出ようと思ったかも分からないし、
 一体どんなドジをして階段に足を引っ掛けて反対側まで転げ落ちて捻挫したのかも知らない。
 分からないことだらけだったけど一つだけ分かったのは、どうやら支部予選に間に合わないみたいだ。

 梨華ちゃんは保健室で中澤さんに包帯を変えてもらっていた。

 「ミスやな。自己管理ができとらん。急に変なことはじめるからやで」
 「すみません…」
 「謝ってもしゃーないわ。うちに謝ったって、足は治らんわ!」
 「痛!」

 ぎゅっと強く結ばれた包帯。
 大きく腫れ上がった足首にアイシング用の道具をくっつけて巻き上げたため、
 梨華ちゃんは靴なんて履けない状態になっていた。サンダルを履いて、松葉杖を使っての移動。
 梨華ちゃんの表情は当たり前だけどかなり沈んでいた。

 「梨華ちゃんドンマイケル♪」
 「…………」

 冗談を受け入れられるような状態ではないらしい。ネガティブモード全開で、物凄く絡みづらい。
 こういうときは触れないほうがいいかもしれない。
 あたしだってそんな、余裕のある精神状態ではないし。
108 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:39

 最初の授業以降、石黒先生は特にあたしに話しかけてくることはなかった。
 ただ、サッカー部の練習の傍ら、陸上部の練習をちらちらと眺めていた。
 あたしのことを見て、色々考えいているみたいだった。見てるだけなのに、何も言ってこないのに。
 プレッシャーがすごい。無言の重圧って奴だろうか。

 そのせいかどうかは分からない、というか多分そのせいなんだけど、
 練習に全く身が入らなかった。高橋とあの一戦以降直接当たったことはなかったけど、
 タイムではほとんど負けていた。「どうしたー?」なんて矢口さんが心配してくれたけど、
 解答に困った。

 スランプという言葉がある。
 でもそれは一定水準の選手の、運動技能がかなり発達した段階で起こる成績の一時的な低下であって、
 一定水準に満たない選手はプラトーという言葉が用いられる。
 練習をしているのに成績が伸びない、停滞している。多分あたしはそれなんだろう。
 ただ原因ははっきりしている。はっきりしているんだけれど、解決策がない。
 どうしようもない悩みだった。

 あたしはどうしたいのだろう。
 自分に問いかけた。このままなんとなくやってたらあややと勝負するどころの話じゃない。
 それ以前のレベルだ。今のモチベーションじゃ、とてもじゃないけど支部予選すら通れる気がしなかった。

 「ホント大丈夫?よっすぃ」
 「多分大丈夫」

 矢口さんの心配する顔をあんまり見たくはなかったし、笑い返してみた。
109 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:40

 その日の練習が終わった後、部室で着替え、一足先に外へ出てみんなを待っていたとき、
 石黒先生はあたしの側へとやってきた。
 あたしはグランドの囲む緑色のネットに寄りかかったりしていた。

 「……先生」
 「よう」

 石黒先生はあたしの横に立つと、ネットに寄りかかった。
 振動がすぐに伝わってあたしは体が浮きそうになる。

 「どう?」
 「微妙っす」
 「あのスピードで微妙かー」

 何が言いたいのか分かるから、何も言わないようにした。
 石黒先生の口からその言葉が出るまでは、とりあえず気のせいだという可能性だけを信じて待つ。
 
 「―――吉澤」
 「はい」
 「サッカー、またやる気ない?」
110 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:41

 それはやっぱり予想通りの言葉だった。
 でも構えてずっと待っていたのにそれはずっしりと重くあたしに響いた。

 「中学時代より、当たり前だけどスピードが上がって、スタミナもありそう。
  体のキレも全然いいし、バネがある。
  フィジカルの高さは学校どころか東京都探してもそうはいない」
 「…………」
 「3年になる時には、一緒にいい夢見られると思う」
 「……いい夢」

 いい夢とは果たしてあたしにとって、なんなんだろうか。
 ふと浮かんだ疑問。

 確かにあたしはずっと石黒先生と一緒にサッカーが出来ればと考えていた。
 でもそれは所詮夢の中の出来事で、絶対叶わないと分かった上で漠然と、なんとなく願ったりしていた。
 でもそれが今、現実としてあたしの前にある。
 願ってもないことじゃないか、そう笑いかけるあたし。
 せっかく慣れてきたのに、やめてどうする。
 あややにリベンジしてないだろ、と叱咤するあたしがいる。
 どっちが本物なのか、分からない。

 「考えといて!」

 石黒先生は余裕ある笑顔でその場から立ち去ると、
 間もなくしてみんながやってきた。

 「どうしたの?」

 聞かれても、答えられるわけがなかった。
111 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:41
 
112 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:42

 校内予選初日。
 今年こそは100mで勝って出場しなければならない、と胸に誓ったけど、どうやら今年も敵は多い。
 200に続く二種目目が注目された高橋が100mに立候補、結果100は予想以上の激戦となった。
 矢口さん、あいぼん、高橋。他にも3年生の先輩達が今年こそはとチャンスを狙っている。
 そんな中精神的に万全な状態で持って来れなかったあたしは、もしかしてかなりまずい状況にあるのかもしれない。

 矢口さんの足は既に完治、それを考慮すると1番手か2番手か微妙なところだけど、
 今の精神状態だと枠に入れるかどうかすら危うい。
 正式に勧誘を受けてから、あたしの頭の中には常に石黒先生の姿があった。
 何度も何度も、まるでエコーがかかってるんじゃないかってくらい繰り返し刻まれて。
 集中力なんてないに等しかった。

 「よっすぃ?」
 「え、あ、はい?」
 「どした?元気ねーぞー」

 夢の島競技場にいるってことすら忘れてしまっていた。
 アップをしながら矢口さんに声をかけられて、漸くあたしは現実世界に戻ってこれたみたいだ。
 心の中で感謝しつつも、声には出さない。いきなり言ったら変人扱いだろう。

 一応意識は戻ったけど、それでもまだ頭の中には石黒先生が存在し続けているのが苦痛だった。
113 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:43

 「まーあたしにも色々あるんで」
 「意味深ー。男?男?男?」
 「まあまあ」
 「おいー。出来たら言えよー」

 そんな風に笑ってる矢口さんに、本当に感謝したい。
 でもこれは、あたしの問題だから。あたしと石黒先生の問題だから。話すことは出来ない。
 全部あたしで解決すればいい話だから。

 正直なところ、あたしはどうしたいのだろう。
 陸上がしたいのか、サッカーがしたいのか。それすら判断がつかない。
 単純に陸上とサッカーで言えば陸上だ。
 そこでサッカーが勝っていたならあたしは絶対にサッカー部に入部していたはずだから。
 サッカーという言葉に石黒先生という言葉がくっついて、はじめて迷いが生じる。
 深すぎる迷い、悩みが。

 たとえばこれでサッカー部に転部するとしても、この夏だけは譲れない。
 この夏は陸上部を続けないと、きっと一生後悔する。
 でもその後。その後まで石黒先生が待っていてくれたなら、
 もしかしたらあたしの気持ちはサッカーへと傾くかもしれない。

 どっちにしろ今答えが出せないのは明白だった。明白だから、困った。
 それを考えずに走り続けることは出来ない。
 クリアな気持ちで、ただただ真っ直ぐ上を見上げないと、きっと転んでしまうから。
 真っ直ぐ走れないから。ごっちんみたいに、或いはこんこんみたいに。
114 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:44

 くじ引きは去年の巡り会わせを考慮してか、単純にタイム順に選出基準が変化した。
 去年は中澤さん飯田さん矢口さんあいぼんが競り合い、矢口さんが落ちた。
 去年よりも悪いくじ引き結果が出てしまったら、とんでもないことが起こりうるからだろう。
 弱い人をインハイ予選に出したって、どうしようもない。それだけIは強い学校になってきたのだから。

 くじ引きの結果、あたしは1組6レーン。1組は他にも矢口さんが1レーンにいた。

 「よろしく」
 「よろしくお願いします」

 いつもなら燃えて燃えて燃えまくる場面。どうも熱が足りない。
 熱よりも余計なことが頭の中でひたすらに渦巻いていて、集中できない。
 困った。

 一応調整らしい調整はしてみるものの、何度流ししてみても調子が上がらなかった。
 スピードをどんどん出して、どんどん疲れた。
 まるで相手にハンデを与えようとしているのかってくらい、走った。
 頭の中の物を全部真っ白に消してしまいたくて。首を振る。
 髪の毛を弄繰り回す。ジャンプする。

 「よっすぃどうかした?」
 「いや……なんか調子がおかしくて」
 「おいおい大丈夫かよー、今年も落ちちゃうんじゃないの?」
 「落ちませんよ!」

 強く言い返すと、自分で自分にびっくりした。
115 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:45

 『ほな行くでー』

 拡声器を手に中澤さんが銃を構える。
 なんとか足を置いたけど、やっぱりいい走りを出来る気がしなかった。

 『位置について………よーい』

 やばい。漠然とまずい気がした。

 バンッ!!

 完璧に集中できてない人間が、完璧なスタートを決めることなんて出来やしない。
 案の定あたしはスタートでまず遅れを取った。矢口さんがいきなり体一つ近いリードを手にする。
 あたしも3位くらいの位置にいた。
 それなのに危機感をあまり感じないのは、他の感情がやっぱりあたしの頭の中で広がって、
 押し寄せてきたから。
 どうしようもない、どうすることもできないこの感情を、切り裂いて、投げ捨てて。
 それが出来たならどんなに楽だろう。

 「サッカー、またやる気ない?」

 聞こえてくるはずのない声が、胸から押し寄せてくる。
 風を切る感覚よりも速く、鮮明に。耳にこびりついて離れない。

 「3年になる時には、一緒にいい夢見られると思う」

 一歩一歩刻む足音よりも、大きく。
 確かにその場で言われているような錯覚を覚えた。腕の振りを速めて、必死にかき消す。
 足の動きを速めて、必死にかき消す。
 加速して。前を向いて。息を吸って。息を吐いて。ゴールを目指して。

 「考えといて!」

 たった数回のキャッチボール。時間にして数分にも満たないようなやり取り。
 それだけでも重過ぎるくらいだった。
 2位でなんとかゴールした後、あたしは頬を思い切り叩くと、決めた。
116 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:45
 
117 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:46

 なんとか100と200の支部予選出場を決めた次の月曜日、あたしは朝一番で職員室に訪ねた。
 目的は一つ。

 「先生」
 「なに?」

 石黒先生と会って、話をするため。

 「考えてくれた?サッカーのこと」
 「その話なんですけど……」
 「うん」

 無駄に緊張した。
 石黒先生の顔は相変わらず余裕たっぷりだし、まるであたしが入ると信じ込んでいるみたいで、
 胸を刺されるような感覚に陥った。

 「もう少しだけ、時間をください」
 「え?」

 意表を突かれたのか、石黒先生の表情から余裕が消える。一瞬にして。

 「これからインターハイ予選が始まります。
  そこで、あたしは勝たなければならない娘がいます。
  その娘と戦って、勝って、インハイに行って……全部終わるまで、夏が終わるまで待ってください」

 これしかいい答えが思いつかなかった。
 今は陸上に集中したい。例えそのあとやめるとしても。
 でもこの話題で、あたしの集中を切らせているのだとしたら、あたしはこの話題を切らなければならない。
118 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:46

 「それまで、待ってくれますか?」
 「え?」

 放心状態だったのか、石黒先生の反応が少し鈍った。
 でもすぐに表情を整える。

 「うん、分かった。待つよ」
 「ありがとうございます」

 あたしが陸上にとにかく集中して取り組むための、唯一の方法。
 これしかなかった。一番自分自身にプレッシャーを与えることが出来て、一番集中できる。
 今はとにかく陸上のことだけを考えて、走ればいい。サッカーのことは全部終わってから考えよう。
 そんなに上手く気持ちの切り替えが利くのかどうか、ちょっと疑問だったけど。

 「じゃ、あたしはこれで」
 「うん」

 職員室を出ると、あたしは体を思い切り伸ばし、深呼吸した。

 「………よし」

 気合を入れ直す。気持ち足取りも軽くなっていた。
 どうやらあっさり気持ちの切り替えたついたみたい。
 でも、少しは焦らなければならないかもしれない。
 余裕は無い。時間は無い。

 あたし達の少しだけ早い夏は、もう既に目の前にあるのだから。
119 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:46
 
120 名前:23d_Race 投稿日:2005/04/07(木) 23:47
23d Race「ミス」終。
24thRace「天才再び」に続く。
121 名前:おって 投稿日:2005/04/07(木) 23:50
次回から支部予選、二年目の夏が始まります。

>>79 名無しの読者さま
   出来る限りこのペースを保てればいいなと考えてます。
   陸上はやると意外に楽しいです。

>>80 娘。よっすいー好きさま
   はじめまして、レスありがとうございます。
   まさか1stから読んでくれる方がいるとは思わなかったので驚きです。これからもよろしくです。
122 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/09(土) 02:32
続編はじまってたんですね。
もうあいぼんはザコキャラになってしまったんかな?
123 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/12(火) 00:13
よっすぃは努力+才能
ごっちんは天才+睡眠
いしかーさんは負けん気+根性
と、それぞれ解りやすい個性が発揮されていて面白いです。某姉御キャラの登場がどんな変化をもたらすのか、
とても楽しみです。がんがってください!
124 名前:春嶋浪漫 投稿日:2005/04/13(水) 16:27
はじめまして。
1st Season から読ませていただきました。
スポーツは普段からテレビなどでいろんな物を見ているので
レース中の駆け引きや個々の感情など読んでいて楽しいです。

これからの二年目の夏も楽しみに待ってます。
125 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:19

 24th Race「天才再び」

 石黒先生と改めて話したその日を境に、調子は鰻上り。
 みんなあたしが調子悪いと思っていたもんだから、揃って目を丸くしていた。

 今年は去年とは大分違った支部予選になる。
 去年はとにかく何も見えていない状態で、どのくらいのレベルかも分かってない都大会を目指してががむしゃらに走った。
 そして結果、個人種目は早々に脱落してしまった。でも今年は違う。
 色んなものが見えているし、誰が強いとか、そういうものが分かった上で、自分の力も冷静に把握できている。

 その中でも、多分今までの人生を生きてきた中で、最も必死な夏になるんじゃないか、と思う。
 石黒先生に対してしっかりとした答えを出すためにも、インハイに絶対に出場しなければならない。
 理由が出来ただけで、あたしはどこまでも強くなれる気がした。

 インターハイ予選。最初の予選の前日は、例のごとくあの場所へ。
 部室で梨華ちゃんをとっ捕まえると、耳打ちしてそのことを知らせた。

 梨華ちゃんはやっぱり足が完治しなかった。
 松葉杖はもう必要が無いくらいにまで回復したけれど、走るにはまだまだ時間がかかるらしい。
 完治まで3週間って言っていたけど、
 なんとなく、本当になんとなく、梨華ちゃんはもうちょっとかかるんじゃないか、そんなことを思った。
126 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:20

 決戦前夜の星空は、希望いっぱいに輝いていた。
 でも、梨華ちゃんの瞳にどう映っているのか、あたしには分からない。
 ただ曖昧な表情だけを浮かべて、無法地帯となっている草むらに寝転がっている。

 お互い何も言葉を交わさない。お互い特に視線を交わすこともない。
 ただ視線は二人とも星空へと向いていた。
 あたしにとっては打ち落とすべきてっぺんの星は、もしかしたら梨華ちゃんには届かない一番星に見えているのかなと邪険してみたけど、
 考えすぎだと自らかき消した。

 「よっすぃ」

 だから、梨華ちゃんから話しかけてきたとき、あたしは面食らった。

 「なに?」
 「目標、どうなの今回」

 笑っているんだかいないんだか。
 全く心の中を読ませないままに、あたしに答えを求めてきた。

 立ち上がると生い茂った草がジーンズと擦れて音を鳴らした。
 スカートをはいている梨華ちゃんはなんで擽ったくないのだろう。
 余計なことを一瞬だけ思いかき消し、あたしはそこから見える一番高く輝いた星を右手で指差した。

 「あの星を打ち落とす」
127 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:20

 あたしにはあの星はあややにしか見えなかった。
 控えめに輝くたくさんの星の海の上、自分の存在を見せ付けるように強く輝きを放つその姿。
 選ばれし星として咲き誇っているそれは、あややそのものだった。
 
 「あややに、勝つ」

 右手で銃の形を作って「バン」と呟く。高く上げた腕を地面へと落とすと、梨華ちゃんを見つめた。
 あたしの出来る限り真剣な顔で。

 「梨華ちゃん」
 「………何?」
 「今の決まってない?」
 「………え?」
 「だから、かっけく決まってね?」
 「……かっけく…決まった?かな?うーん、どうだろ…」
 「梨華ちゃんちゃんと見てよー」
 「み、…見たもん!」

 顔を赤くして少し声を荒げると梨華ちゃんは、

 「なんか古臭かった」
 「古いー?!」

 素っ頓狂な声を出すあたしに対し、梨華ちゃんは今日はじめて笑顔を見せてくれた。
128 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:21
 
129 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:21

 男子の1500m予選スタートの銃声と共に、高校総体東京都第2・3支部予選会がスタートを切った。
 その音が耳を掠めると、立ち上がった。アップにはまだ早い時間だから、散歩でもしよう。
 深呼吸すると、腕を大きく伸ばして一歩、二歩と歩く。
 昨日いつもより入念にストレッチをした甲斐があってか、悪くない足取りだった。
 
 「あいぼん散歩行こ」
 「散歩?ええで。ついでにコンビニ行きたいねんけど」
 「ええよー」

 あいぼんを連れて学校のベンチから離れる。
 今年は競技場内の席、屋根で雨や光が防げる上段をゲット、階段を下りながら屋根の偉大さを一気に感じた。

 「雨、降りそうだね」
 「ホンマやなぁ」

 空にはたくさんの雲が走り回っていて、会場を指す光はほとんどなかった。
 文字通り暗雲が漂っている状態。なんだか嫌な予感がした。走り出しちゃえば10秒ちょっとで全部終わっちゃうだけいいけど。

 「いややわぁ、幅ドロドロになってまう」

 幅跳びのピットは普段はしっかりとシートが敷かれて土が隠れているけど、試合中となるとそうもいかない。
 常にトンボで綺麗にするのは当たり前だけど、雨が降るとなかなか厄介らしい。
 跳んだ後舞った土が足につくけど、水気を含んだ土はなかなか取れないのだという。
130 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:22

 「1回で終わらせばいいじゃん」

 後ろから声がする。やってきたのは小さな大巨人、我が部のキャプテン。

 「矢口さん」
 「1回目の跳躍で記録出して8に残っちまえばもうこっちのもんだろ。
  別に何位だろうと都大会行けるし、いい記録出した方が有利になったりしないんだから、幅は」

 かっけー、素直に思えた。嫌味にも取れるくらいの自信。
 その裏づけとしてのとてつもない練習量。知ってるからこその迫力があった。

 「にしてもはぶるなよー、100出場の仲間だろ?おいら」

 100m出場者はあたし達三人。高橋は辛うじてあいぼんに競り負け落としていた。
 でも去年のあたしみたいにそこから400挑戦なんていうとんでもない行動には出ず、次の日の200を確実にもぎ取っていった。
 その速さは本当に恐ろしいもので、あたしも見事に負けた。
 といっても、あの二日間のあたしの実力じゃ、100で勝てたこと自体、奇跡に近い。
 だから明日の200は、絶対に負けない。絶対に。

 三人でゆっくりと歩きながら近くにあるコンビニによると、偶然あややと出くわした。
 春にあった記録会以来だから数週間ぶりの再会だ。
131 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:23

 「よっすぃ調子どう?」
 「悪くないよ。今日は優勝するから!」
 「えー種目変わったの?」

 これを嫌味としてしか取れなかったらきっと、彼女と会話なんて到底出来ない。
 全身から溢れる自信。漲る活力故の発言。だからあたしもこう言い返してやるんだ。最高の笑顔で。

 「負けないよ」
 「こっちこそ」

 向こうも返すように笑顔を返せば、仲のいい二人の絵は完成する。
 別に回りを意識しているわけではないけれど。ライバルだと思っているのは、あたし達二人で充分だった。
 今はまだ。

 「よっすぃ一人で何やってんの?」
 「え」

 ごめん、今のは全部妄想。第一あやや支部違うし、今日試合のはずだし。
 都大会のコンビニであややと会っての会話を想定してイメトレをしただけだ、意味無いけど。

 適当に飲み物とお昼ご飯を買う。ついでにゼリー系のドリンクの中から適当にセレクト。
 一通り揃えるものを揃えると、競技場へ向けて四人で歩き出した。
 競技場内で響いているはずのアナウンスが外にも漏れていて、アナウンサーの声が少しだけ聞こえる。
 男子の1500が尚も続いているらしいことだけは分かったけれど、あとは何にも分からなかった。
132 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:24
 
133 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:25

 憂鬱って多分今の状態を指すんだろうな、と思った。
 足を怪我して登録を外れて、こんこんと戦う前から敗北。怪我しているから下手に補助員も出来ないし、
 私は一体どうすればいいのだろう。

 悲しい時、歌を歌ったりして自分を慰めることがたまにあったけど、それは一人のときでしか出来ないし。
 応援するほど素直な気持ちで、今はいられない。
 心の奥深くのどこかで誰かに誤算が起こって欲しいと願っている時点で、それは明白で、
 同時に私は人間として最低だった。

 横で新垣が緊張した様子で辺りを見回している。まだ公式戦出場していない、本当の素人。
 小川は空いている投擲枠でののと一緒に出場を決めたから、一年の中で彼女は一人だけ選手として選ばれなかった。
 そして、その事実を喜んでしまった私。

 こんな強い学校の中、落ちこぼれは仲間を探す。探して見つけて、傷をなめあう。
 三年の先輩達は決して腐ることなく練習を続けていたけれど、その姿勢が信じられなかった。
 どんなに練習したってかなわないって分かっているはずなのに。
 どうして練習を続けることが出来るのか、不思議でならなかった。

 私は密かに新垣がこのまま自分に合う種目を見つけられないままに時を過ごせばいいと思っていた。
 自分の最低さをよく理解したうえで尚。
 そんな自分が大嫌いだったけど、新垣のどことなく不安そうな表情を見ていると、
 喜びの感情が沸き起こってきてもっと嫌いになった。
134 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:25

 待ち続けて待ち続けてもう時間が大分経つ。ぼちぼち100の予選がスタートする時間だ。
 100に出場する三人の姿は既にベンチには無い。
 三人に敗れた高橋は大分悔しそうな表情を滲ませていた。
 そこで悔しいと思えることがまた、私にとって少し羨ましかった。
 私の場合悔しいよりも悲しいが優先的に出てきてしまうし、保田さんならかなわないのは当たり前だよね、
 と諦めてしまうから。走る前までは負けたくない気持ちでいっぱいなのに、なんて私という人間は矛盾しているのだろう。

 「石川さん」
 「……………………」
 「石川さん?」
 「…え?あ、新垣、何?」

 急に話しかけられて、少しだけ動揺した。
 多分新垣と話したりしたら、私は完全に彼女を仲間として受け入れ、依存し、壊れる。
 それが嫌だったから自分からは絶対話しかけないように心に決めていたし、話しかけられないような位置にいた。
 でも今日は無理だったらしい。

 「100ってどのくらいで予選通過できるんですか?」
 「どのくらいってタイム?」 
 「はい」
 「13秒前半かな」
135 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:26

 そう答えると彼女は特徴的な眉毛をぴくぴくと動かしながらそーですかー、
 と納得したような表情を見せた。

 「でも短距離は強い人たくさんいますよねー」
 「そ、そうだね。うん。人数多くて層が厚いし、選手がいつも固定されてる」
 「私には無理かなー」

 無理だよ、心の中で呟いた後、

 「そんなことないよ、頑張ればきっとなんとかなるって」
 「そうすかー?頑張らないとなー」

 これは新垣に向けて放った言葉ではなかった。
 あくまで自分自身に宛てた手紙。救いを求めて送信して、自分で受け取った自作自演のメール。
 でなければ優しく強い先輩を演じているのか。どっちにしろ私が最低なのには変わりないから、どうでもよかった。

 「三人ともどのくらいのタイムですか?」
 「よっすぃが12秒87?で、あいぼんが13秒31。矢口さんは怪我もあってあれだけどその時に13秒01だった」
 「じゃあ三人とも通れるそうってことですか?」
 「あいぼんがちょっと微妙だけど、そう、かな?」
 「すごいなー」

 もう話しかけないでくれと祈った矢先に話しかけられ、
 それでも私は気づけば優しくあろうと振舞っていた。
 普段は空気読めないくせに、こんな時だけ何をしているのだろう。
136 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:27

 鬱々しい感情を吐露しないように精一杯笑おうとするけど、曖昧な微笑みにしかならない。
 朝洗面台でやってみても、全くそれは変わらなかった。上手く笑える自信が無い。
 よっすぃが勝っても。

 『それでは3支部女子100m競争の開始です』
 「あ、始まりますよ!」
 「うん」

 顔も見ないで言葉を返す。
 視線だけは下の競技場へ向けられているけど、ピンボケした視界には何も写っていなかった。

 「吉澤さん1組目かー。吉澤さん調子最近上がってきましたよね」
 「うん、そうだね」
 「この勢いで都大会まで優勝しちゃったりして」
 「うん」
 「でも矢口さんもキャプテンだし負けられないっすよねー」
 「うん」

 ほとんどの会話が右耳から入り左耳から抜けてゆく。
 ほとんど聞き取れていないけど、僅かに入った情報を元に、一回だけまともなレスポンスを返す。

 「でもあややが強いよ」
 「あやや?」
 「松浦亜弥」
137 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:28

 私は陸上マガジンを取り出すと東京都注目選手のページを開いた。
 ごっちんとあややがでかでかと映っている。あややの横にはミキティも当たり前のようにいた。

 「この可愛い二人組」
 「……めっちゃ可愛いじゃないですか」
 「左の子、東京都1位」
 「マジすか?!」
 「右の子、中学時代全国行ってる」
 「すっごいっすね!二人とも!可愛いし!」

 そう、二人は可愛い。なんで可愛くて尚強いのだろう。
 それはうちの部の大半の人に言える言葉だけど。天は二物を与えず、って言葉を作った無責任な人は一体誰なんだろう。
 会って殴ってやりたいくらいの気分だった。

 私は自分の容姿の良さに気づかないほど頭が悪くも、それをひけらかすほど嫌味でもないけど、
 陸上をする上で、それがなんの役にも立たないことを、一番よく知っていた。
 そう、なんの。

 よっすぃが3レーンに入る。足の位置を慎重に確認しながら、スタート練習に入った。
 彼女はおそらく都大会に進出するだろう。フライングで失格でもしない限り、その事実は揺るがない。
 そしてよっすぃは、あややを打ち砕こうとしている。
 その確かな決意は、目を見ていれば分かる。そんな決意が私には確かに欠如していることも。
138 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:28

 8人が並んで見えるこの位置はスタートを見るには格好のスポットだった。
 彼女の集中力を計るバロメーターでもあるから、中澤さんはじっとそれを見つめている。

 『よーい』

 バンッ!!

 よっすぃは完璧なタイミングでスタートした瞬間にほぼ勝負を手中にした。
 タータンの上、引かれた白線と白線の間を綺麗に真っ直ぐ駆け抜けてゆく。
 やがて体を起こした時には、彼女は完全に独走していた。

 「よっすぃファイトー!」
 「吉澤さんファイトー!」

 みんなが声を上げて応援する。私もみんなに合わせるように声を出してみたけれど、
 多分それはよっすぃの耳に届かないほど程度の大きさだった。すごく嫌だったから。
 今日のよっすぃのレース運びが。展開が。怖いくらいに、似てて。

 『3レーンIの吉澤さん』

 よっすぃは独走を保ったまま最後は減速してゴールラインを通過、
 フィニッシュタイマーの計測したタイムは13秒00だった。やっぱり、似てた。

 『13秒00………………風は追い風の0.3mでした』

 よっすぃの走りは、あややにそっくりだった。
 嫌味なくらいに。
139 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:29
 
140 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:29

 三人は当然のように予選を通過し、それに続けとばかりベンチが活気付いた。
 その勢いに上手い具合に乗せてもらったのは、次の種目の幅跳び、400だった。
 幅跳びはまず選手が100で通過した二人だったから、勢いに乗ったのかも当たり前かもしれない。
 疲れなんて全くないみたいに綺麗なジャンプを決めると、矢口さんはたった1回の跳躍で勝負に蹴りをつけてしまった。
 たった1回で、優勝。支部とはいえ、何か鬼気迫るようなものを矢口さんに感じた。
 あいぼんはきっちり3回飛んで記録を出すと、なんとか8位に潜り込んだ。

 「去年の借りは、きっちりね」

 矢口さんはそんなことを独り言のように呟いていた。

 一方400。今年は一発勝負で都大会進出。
 4組タイムレースだから、ごっちんと市井さんにとっては容易いレースだった。
 そして三人目の登録者の先輩も、敗れはしたものの自己ベストを更新。
 部全体が盛り上がる中、私は一人テンションが全く持って上がらなかった。

 「すごいっすよ!マジすごいっすよ!」

 テンションがどんどん上がっていく新垣。
 私に同意を求めてくるけど、それに反比例してテンションが下がっている私はどう返せばいいのか分からない。

 「うんそうだね」

 それだけ返すと、満足そうに笑ってくれたから、多分それでいいんだと思った。
141 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:31

 400が終わるとすぐに女子1500が始まった。目を背けたくなりながらも、なんとか前を向く。
 戦え、私。現実と向き合え、私。カエルの合唱みたいに輪唱される言葉達はでも力が無くて、
 余計に脱力した。

 今年の1500は去年同様3組で2+2。レベルは去年よりまた更に上へと底上げされているため、
 こんこんでも通過は際どいライン。そしてその底上げの原因が、私を悩ませた。

 私達の学年の中長距離は、東京都的に近年稀に見る当たり年とされている。
 うちの支部だけ力が図抜けていて、通過が全支部中最も困難なサバイバルレース。
 隣の支部なら1位で通ることの出来る選手でも3支部では8位に入れないタイムという驚きぶり。
 一般人を大きく遺脱した実力者達の巣窟となっていた。そして、乗り遅れた私。上手く乗り込めた、

 『先頭はIの保田さん。続いてMの柴田さん』

 しばっちゃん。
 中学の時は同じくらいの実力だったのに、いつの間に彼女はあんなに私の前を走るようになったのだろう。

 1組はスタートすると早々に保田さんが先頭をがっちりと保持、次いでしばっちゃんが後ろについた。
 2位のポジション。無理をしているような様子は無い。おそらく相当のレベルアップをしたのだろう。
 その真剣な眼差しは、自信の裏づけにも思えた。

 二人の先頭は最後まで揺るがなかった。二人とも都大会出場を確定とした。
 保田さんは4分40秒、しばっちゃんは4分43秒。トラックとスタンドの僅かな距離が、地球とブラックホールくらいに遠く感じた。
142 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:32

 こんこんは3組目、最終組。腰ゼッケンの数字は2。つまり2番目に内側からのスタートとなる。

 「うわ〜。2かぁ」

 思わず声が出てしまう。私はインコーススタートが大嫌いだった。
 スタートが苦手だからというのが最大の原因。
 スタートが遅いと外から覆い被されてポケットされ、出られなくなる。
 最悪転んでしまうことさえあるし、スタートが苦手な人にとってはいいことは何もなかった。
 そしてこんこんは、

 『位置について…………』

 バンッ!!

 遅れた!まだ高校のスタート速度に着いてこれてないようだ。
 こんこんはあっという間に覆い被されそうになったが、何を思ったのか、引かずに前へと進んだ。

 「まずい!ぶつかったら!」

 私は手で目を覆いたくなった。でも腹の底が黒くなっている自分が想像できて、やめた。
 接触したら、こんこんは転ぶだろう。そして私の予測どおり、彼女は横の選手と足を引っ掛け、転倒してしまった。
 左の膝が強烈にタータンと衝突する。スタートしてまだ10mほどだというのに。

 「ああ!!」

 チームのみんなの悲鳴が響き渡る。新垣も同じく。
 でも私は何故か、なんの声も出なかった。ある意味予想通りだったせいもあってか、
 騒いだのは転ぶ直前だけで、別に驚きも焦りも悲しみも無かった。
 もしかしたら喜んでいるのかもしれない、ため息をついた。
143 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:33

 でもこんこんのリカバリーはすさまじかった。痛がっている時間すら惜しい。
 そう言わんばかりに立ち上がると、一緒に転倒した選手をさっさと置いていってしまった。
 前を走る集団を追いかけて、どんどん間合いを詰めていく。

 「石川とは大違いやな〜」
 「え?……中澤さん」
 「去年、お前もこけたやん」
 「あ」

 言われてから漸く思い出した。去年の3000、私は彼女と同じように転んでしまったことを。
 そして、

 「あー棄権しよったわあの娘」

 そのまま起き上がれず棄権してしまったことを。
 高校入ってからの、消したい過去のうちの一つ。

 「どや、こんこんの走りは」
 「……………」

 すごいです、と呟くと無愛想やなぁ、と笑われた。
 こんこんは破竹の勢いで先頭集団に追いつくと、息を大分切らしながらも4番手についていた。
 相当な精神力が無ければ諦めてしまうような状況だったはずなのに、彼女は鐘が鳴る直前に完全に戦線に復帰してしまった。
 あの体の一体どこにそんな力があるのだろう。
144 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:33

 「あの体でなんであそこまで走れるんですか…?」

 思ったままに、口に出す。中澤さんは私を一瞥すると、すぐに鐘が鳴って視線をトラックへと戻す。
 こんこんが懇親のスパートをかけるも周りも速く、なかなか抜くことが出来ない。

 「そんなこと言うてる限りは、石川は石川のままや」
 「意味が分かりません」
 「分かる日が来たらそれはお前が強くなった日や」
 「………教えてください」
 「人に聞いても意味ないで。自分で答えを出さなあかん時があるやろ、人生」

 中澤さんは言葉はきついけど口調は優しく、あくまで優しく私に微笑みかけた。
 でもその優しさがまた痛くて、私は胸をさする。

 こんこんは3位の娘と激しいデッドヒートをラスト300からずっと演じ続けた。
 それはラスト200になっても100になっても変わることなく、勝負はラストの直線に委ねられた。

 「あかんな、紺野はスピードがない」

 中澤さんの言う通り、こんこんはスピードがさほどあるほうではない。
 ラストスパートで絶対値が劣るこんこんは常に不利な状況に立たされる。
 この場面、+枠に入るには3位には最低ならなければならない。踏ん張り所だった。

 「紺野ラストファイトー!」
 「あさ美ちゃん行けー!」

 試技開始直前に戻ってきたののと小川の声が響く。こんこんは苦しそうにしながらも、全く引かなかった。
 最後まで。ゴールラインを通過する、その時まで。
145 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:34

 こんこんは結局最後に振り切られ4位、タイムから9番手で惜しくも通過を逃した。
 こんこんはタイムを確認して早々にその事実を知ったのか、コースを外れたところで項垂れた。
 それが疲れによるものなのか、悲しみによるものなのか、私には分からない。

 「惜しかったなぁ。……石川」
 「はい」
 「どや」
 「え、ど、どうって…」
 「どやって聞いとんねん」
 「…………残念です」
 「…………そうか」

 中澤さんは少しだけ悲しそうに、ポツリと零すと、立ち上がった。

 「どこに行くんですか?」
 「100の三人んとこ」

 この後は男子の100、女子の100と競技が進む。三人は既に招集に向かった後。今頃最終調整中だ。
 でもまだ時間に余裕がある。私は遅れて立ち上がった。

 「石川さんどこ行くんですか?」
 「ちょっとお手洗いに」

 着ていた上のジャージを脱ぐとベンチにおいて、駆け足で一瞬行きかけたけどすぐに止まった。
 そういえば私、怪我してるんだった。
146 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:35

 ゆっくりと階段を降りると、少しずつ競技場が近づいてくるように思える。
 それでもスタンドとトラックは果てしなく遠いのだけれど。
 試合に出られないのは悔しいけれど、怪我をしてしまったのはしょうがない。
 階段をある程度行くと左へ曲がり、スタンドの通路を抜けて建物の内部へと降りていく階段を使って降りた。
 その先にトイレがあったはず。

 予想通りあったトイレは入る前からあんまし綺麗じゃなくて、なんだか入る気にならなかった。
 誰もいないし、下のもっと綺麗なトイレを使おう、そう思って方向転換したとき、何か変な音が聞こえた。
 声とも取れるような、そんな音が。

 「?」

 その音はトイレから聞こえてきていた。なんの音だろう。
 私は意を決して拒絶したトイレの中に入ると、その音がどこにあるのかをたどった。
 そしてすぐに、どうやらその音は唯一ドアの閉まった個室の中から聞こえてくるものだと分かった。
 中に人がいる、そしてその人が音を出している。

 その音の正体が鼻を啜るような音だと気づいた瞬間、個室の扉が開いた。
 中から出てきたのは……。

 「あ………」
 「い、石川さん………お疲れ様です!」
 「お、お疲れ」

 元気に挨拶をしてくるとこんこんはトイレを後にして、私はそこに一人取り残された。
147 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:35
 
148 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:36

 100m決勝は3組2着+2で争われる。予選レースで実感した。行ける。
 でもどうせ行くのなら出来るだけ高い所へ行きたかった。頂上へ。
 壁はたくさんあるけれど、今なら全部ぶち破って進める。

 敵がいないわけではない。
 決勝に残ってきた24人は当然ながら実力のある24人であって、驕りは許されない。
 それでも漠然とした自信があたしを支えていたのは、きっと予選レースがあまりに完璧に決まったからだろう。
 自分の理想系、目標に。そして余力のある中での通過。
 タイムが伸びる要素がたくさんあるだけで、あたしは気合が入った。

 「どや吉澤。調子は」
 「任せてください」

 言い切るとすぐに矢口さんが顔を出す。

 「おいらを忘れてないか?」
 「……負けませんよ」
 「おいらだって」

 この瞬間からあたし達は仲のいい先輩後輩ではなくなる。ライバル。
 あややを倒す前に打ち破るべき、おっきな壁。
 あたしはまだ万全の状態の矢口さんに勝ったことはないのだから。
149 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:37

 「吉澤ー」
 「マサオさん。勝負っすよ」
 「え、マジで行くの?」

 マサオさんはどちらかというとここでの勝負はどうでもよさそうな顔だった。無理も無い。
 200や400と違って100はレーンによる有利不利はない。
 だから速いタイムで走っても遅いタイムで走っても都大会のレーンに大した影響は出ない。
 強いて言うなら遅すぎるとあややみたいに強い選手と当たる可能性が増える、くらい。
 それにしたって都大会も予選は3位以内に入れば確実に準決勝まで進めるし、大した影響力はなかった。

 「あたしは優勝狙いますよ!」
 「吉澤何組目だっけ?」
 「2っす!」
 「お、同じか。……いっちょやるか」

 マサオさんは相変わらず男らしかった。

 試合直前に飲んだ薬、粉状のアミノバイタルプロ、クレアチン。
 アミノバイタルプロはそれだけでアミノ酸が3600mg摂取できる。
 パフォーマンスも良くなるし、一度結果を出すとおまじないにもなる。
 クレアチンは普段から飲んでいる薬。あんまし体に良いとは言えないらしいし、
 たまに気持ち悪くなっちゃう人もいるけど構わず使う。瞬発力が出るのは確かだから。
 いつも通り、アミノバイタルプロは甘すぎて、クレアチンは無味だった。
150 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:38

 矢口さんは幅跳びとの二冠狙い。それでごっちんと並ぼうとしているのか、かなり気合が入っていた。
 スタートも相変わらずの弾丸スタートであっという間に体一個抜け出すと、二つ結びにした髪を風に靡かせながら、
 最後までそのリードを守った。記録は12秒86。奇しくもあたしのベストよりも0.01秒速い記録を矢口さんは出した。

 スタート練習をして30mほどで立ち止まると、トラックの進行方向に合わせて正面を向く。
 ゴール側で矢口さんがこっちを見ていた。残念ながらその表情は確認できなかったけれど、
 そこにいるのが分かっただけで、十二分に気合が入った。

 あたしは4レーン。横の5レーンはマサオさん。この偶然もまた、あたしにとってはガソリンだった。

 『続きまして、第2組です』
 『位置について』

 久しぶりに、本当に久しぶりに全力疾走する。トラックの上で。
 なんだか無性にワクワクして、魂に高ぶりを覚えた。

 『よーい』

 あたしは誰にも負けるわけにはいかない。
 それがたとえ、マサオさんだって。

 バンッ!!
151 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:39

 スパイクのピンがタータンへと強烈に突き刺さる。
 すぐに反動を貰うと足は地面を離れ、あたしははじめの一歩を強くかみ締めた。
 低空飛行のまま、背中に感じる風に助けられながら暫し離陸準備。
 そしてあたしは重心を起こすと、風に乗って浮き上がるように進んだ。

 地面を蹴る、蹴る、ひたすらに蹴る。ただただ迅速に、ただただ迅速に。
 風を蹴る、蹴る、ひたすら蹴る。もっと強く、もっと速く。
 横にいるマサオさんよりも、速く。

 この間の校内予選の時はとは移り行く景色が全く違った。
 スピードが違うと、目に見える景色が全然違うものになる。
 流れるスピードが、目に映るフィールドが、白線が、トラックが、全てが違う。
 まるで風になるような感覚、というにはまだスピードが少し足りないけれど、そう感じるには申し分なかった。

 横を走るマサオさんが切り裂いていく風圧が、隣からでも確かに感じ取れる。
 勝負はどうやら後半に委ねられるらしい。でもあたし達が出来ることなんて、一つ。
 たった一つしかない。

――この100mという限られた直線を、誰よりも速く駆け抜ける!

 二人の実力は現時点でおそらく互角の状態だ。となるとあとは、メンタルが全てを分ける。
 最後まで勝ちたいと強く願った、自分の勝利を強く信じた方が、勝つ。
 ならばあたしが負ける道理はない。

――あたしは負けるわけにはいかない。

 心の中で何度も何度も復唱する。もうラスト20mを切った。
 依然どっちも体を前に出すことは出来ない。

――あややと戦うまでは、誰にも負けるわけにはいかないんだよ!

 ラストの一伸び、最後の加速。
 そこであたしは体僅か半分のリードを奪うと、逃げ切った。
152 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:40

 ゴールラインを通過すると、すぐに振り返ってフィニッシュタイマーを凝視する。
 タイムは?!

 『12秒85』
 「っし!!」

 たった0.01秒差でも、勝利は勝利。矢口さんの悔しそうな声がすぐ近くから聞こえて、
 あたしは思わず笑った。

 「なんだよ〜」
 「あたしの、勝ちっ、すよ」

 乱れた呼吸から途切れ途切れになって、かっこ悪いもいいところだけど、
 そんなことよりも勝てた喜びの方が大きかった。
 呼吸をどうにか整えようと何回か深呼吸したけど、あんまし意味が無かった。待つしかないらしい。

 「後はあいぼんか」
 「だな」

 ゴールラインの先、腰ゼッケン回収係の人達がせっせと働く更に後ろであたし達は見ていた。
 スタート地点、構えるあいぼんを。順当に行けば彼女も間違いなく都大会。
 更に高橋を加えたリレーももう間もなくだ。なんだか待ち遠しかった。

 銃声が聞こえると同時に飛び出したあいぼんのスタートは、相変わらず華麗だった。
153 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:40
 
154 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:41

 100m全員支部予選通過という結果は部創設以来初めての偉業だったらしい。
 中澤さんが言っているから、多分それは事実。ベンチは文字通り大騒ぎになった。

 よっすぃが優勝、矢口さんが2位、あいぼんが7位。
 去年、東京都の支部予選100mで三人通過した学校はあやや達Tと他2校だけだったから本当に恐ろしいことだ。
 この調子でほかの種目もどんどん勝ってしまうのかと思うと、どんどん取り残されていくような気持ちだった。
 そしてもう一つ、私に蟠りを与えた人物。

 「都大会も優勝だー!」
 「気合入ってるねー」
 「ですね」

 こんこんは三人の都大会進出をまるで自分のことのように喜び、みんなとそれを祝福していた。
 ついさっきの彼女の姿からは俄かに信じがたい光景だった。
 彼女はついさっきまで、トイレの中で一人、声を殺して、それでも殺しきれなくて、
 僅かに音を漏らしながら、泣いていたのに。涙を流していたのに。

 目を腫らして、ぬぐわれていない涙そのままに個室から出てきたこんこんと目が合うと、
 彼女は元気よく笑ったのだ。無理矢理に。心配をかけまいとして。
 でも私はそうされると余計に気になってしまうタチだから、無理だった。
 心配しないことなんて。
155 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:42

 よっすぃはストレッチ用のマットの上にうつぶせになって、中澤さんに足をマッサージしてもらっている。
 矢口さんはもう終わって一人ストレッチをしていた。テーピングも中澤さんにしてもらい抜かりはない。
 あいぼんは順番待ちだ。そして四人目の走者である高橋は、順調にアップを重ねていた。

 「愛ちゃんどう?」
 「いつでも行ける」

 リレメンの実力は総合的に見て去年の方がおそらく上だ。
 矢口さんは変わらず、中澤さんの位置によっすぃが入り、安倍さんの位置にあいぼん、
 そして飯田さんの位置に高橋。矢口さんは去年より速く、よっすぃは中澤さんを超えていたけれど、
 残りの二人はまだ先輩には及ばない。そして何より、バトンは息の合ったチームワークが大切だ。
 ただ速い人間だけ適当に組ませればいいというわけでもない。
 バトン練習で呼吸を合わせ、はじめてリレメンが完成する。

 だから逆に言えば、この未完成な新生リレーメンバーは、底知れぬ可能性を秘めているかもしれない。
 それが楽しみでもあり、不安でもなる。中澤さんが数日前そんなことを語っていたのを思い出した。
156 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:43

 「勝ったどー!!」

 威勢のいい声。ののだった。
 そういえば円盤投げの試技が行われていたことを、思い出す。
 円盤投げは今年人数が少なく、一人にでも勝てば都大会進出、という本当に羨ましいレベルだった。

 「おーどやったどやった」
 「一人3ファーだったから二人とも通過!」
 「師匠、私本当に行って大丈夫ですかね?」
 「あーだから何度も言ってるじゃん。練習すればいいんだよ!」

 小川は何故かのののことを師匠と呼んでいる。
 確かに投擲ブロック内における二人の関係は師弟関係だったけど、敢えてその言葉をセレクトするのが、ちょっとおかしい。
 くすっと笑ってしまいそうになる、聞く度に。改めて二人の顔を見ると、満足そうに微笑んでいた。

 「この流れ、大事に行こう!」

 矢口さんが手を叩く。
 きっとこの場にいる全員の心は一つなんだろう、多分私だけを除いてきっと。
 密かにバトンを落とせばいいのにとか色々考えてしまうのは、
 彼女達に勝てないという事実に苛立ちを覚え、負けたくないと理不尽にも思っているからだろうか。
 あまりよく分からなかった。

 「今夜いい夢見ましょう!」

 よっすぃが声を張り上げる。その言葉のニュアンスが伝わったかどうかは微妙だけど、
 どうやらみんな気合は入ったみたいだった。
157 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:44

 女子4×100リレーは3組タイムレース。上位8チームが都大会へと駒を進める。

 特にライバルはいなかった。せいぜいMだけど村田さんが卒業したMは戦力が半減したといっていいし、
 何故か斉藤さんはまだ3年生だったけれど、短距離じゃないから全く関係なかった。
 だから後は、いかに自分達の走りが出来るか、なんだろう。
 それが出来ずに大誤算が起こればいいのに、一瞬だけ心の底ではなく表面で思い、奥へと押し込んだ。
 でも消そうとは思わなかった。

 Iは最終組、6レーン。やっぱり脅威となりそうな敵は、この支部にはいなかった。
 短距離はT校やH校のいる支部の方が、圧倒的に実力が上だろうし。
 それと同じように、3支部は長距離が信じられないレベルなんだけれど。

 不動の第一走者、矢口さんがスタブロをセットする。昨年は都大会で怪我をしたからこれ以降出ることが出来なかった。
 最低限ここは絶対突破して、都大会に出なければならない。
 矢口さんはレース前、使命感にも似た感情で燃えていた。

 彼女ほど努力を重ねてきた選手はいない。
 彼女ほど怪我に苦しまされてきた選手はいない。
 彼女ほど底を見てきた選手はいない。
 底に関しては私の方が、とどうでもいいところで張り合いたくなってみたりもする。

 『それでは女子4×100mリレー、最後の第3組です』

 ただ彼女の方が、私よりも真っ直ぐ、上を向いていた。
158 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:45

 銃声が会場にいる全員の耳に届くと、矢口さんは誰よりも速くトラックを駆け抜けた。
 狂気さえ纏わせたそのロケットスタートに迷いの色はない。誰よりも先に、よっすぃにバトンを渡す。
 それが自分の仕事なのだと、そう思っているかのように。

 7レーン、8レーンの学校を内側から追い抜く。たった100mの間で。
 本当に1位でよっすぃの眼前にまでやってきた矢口さん。
 頃合を見計らってよっすぃが飛び出した。バトンゾーンに二人とも入る。繋がれたバトン。
 それをスイッチによっすぃは加速した。短いカーブを抜け、直線を快走する。
 もう体一つ以上軽くリード。勝負は決まったようなものだった。

 「吉澤さんファイトー!!」

 それでも私の横のお豆ちゃんは、声援を送り続ける。 
 驚異的な小顔はお豆と形容するのが一番分かりやすかった。
 応援したら応援した分だけ、力になる。そう信じきっている澄んだ瞳は綺麗で、私は目をそらした。

 よっすぃはどんどん差を後方との差を広げていく。
 この支部で一番速い女子だということがついさっき確定したんだ。誰も追いつけるわけがない。

 もはや応援というよりも、傍観という言葉の方が適切な位置に、私はいた。
 その場にいる臨場感を、リレー特有の緊張感も、私にはなくて。
 ただそこにいるだけで、邪念のこもった応援をするくらいならしない方がいいから、何も言わない。
 そんな自分が嫌だったけど、練習をすることも出来ない今。私は何をしろと言うのだろう。
159 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:45

 きっとこの後も何事もなくバトンは繋がれる。4人は都大会へ行く。
 まだまだ勝てるだろう。あいぼんにバトンを渡した瞬間のよっすぃの表情は余裕に満ち溢れていた。
 あいぼんも淡々とリズムを刻んでるし、高橋も表情一つ変えずに平然とその時を待っている。
 で、私は?

 怪我をして予選にすら出れなくて、いきなり夏が終わって。
 東京都選抜も出場資格タイム持ってないし、あとあるのは記録会と、私立大会くらい。
 そしたら新人戦まで半年。私は?

 保田さんはこの夏が終わったら引退。長距離は私とこんこんの二人。
 こんこんは新人戦きっと突破するだろうし、都新人にも出場するだろう。
 私は?

 頭が痛くなった。胸が苦しくなった。足の傷が痛み出した。息が苦しい。
 私は?私は?

 この部活における石川梨華って、なに?
160 名前:24th_Race ● 投稿日:2005/04/14(木) 22:46
 
161 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:46

 あいぼんが高橋に向かって走っていく。
 もう勝利は手中、あとはバトンを慎重に運べばあたし達の都大会行きは確約される。
 でもその時、あいぼんの表情が緩んだ。安心感というか、油断。
 トラックに潜む魔物は、そんな僅かな油断も見逃してはくれない。悪魔が微笑んだ。

 「あっ」

 細切れの声が短く高く響く。バトンゾーンには既に入っている。
 高橋はその声に対して後ろを振り向き、すぐにその目を大きく開いた。
 あいぼんは足を引っ掛け、宙を浮いていた。

 「やばい!!」

 気づいたら出ていた独り言。
 何故かあいぼんが転んでいく絵がスローモーションに映った。焦った。
 後ろはかなり離れているとはいえこれはマイルじゃない。
 これだけで追いつかれてしまうことだってあり得る。
 悪夢が頭の中を駆け巡った。でも、

 高橋は冷静だった。
162 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:47

 あいぼんの手からバトンを奪うように引っ張りぬくと、構わずに駆け出した。
 転倒する先輩を無視するのはどうかと思ったけど、レースとして一番適切な判断。
 咄嗟にあの状況判断。走り出しで脳の回転が上がっていたのかもしれない。
 そして、高橋がすごいのはここからだった。

 一瞬の減速を挟みながらも、爆発的なスピードアップ。度肝を抜かれた。
 すさまじい加速。あんなの誰も追いつけるはずがない。

 「おー速いなぁ」
 「……つんくさん」
 「どや、高橋は。すっごいね♪」
 「何の歌すかそれ」
 「……気にすんなや」

 高橋は校内予選と比べ物にならないほどのスピードでトラックを駆け抜けてゆく。
 弾かれたスパイクは力強く、風を切る体は疾風のように。

 「吉澤知っとる?」
 「何をですか?」
 「あいつ校内予選の時、スパイクはいてへんねん。忘れて」
 「え?!」

 衝撃の事実を明かされた頃、高橋は平然とゴールラインをきっていた。
 全体でトップのタイム。もしかしたらこのチーム、すごいかもしれない。
163 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:47
 「紛れもない天才やで、あいつも」
164 名前:24th_Race 投稿日:2005/04/14(木) 22:48
24thRace「天才再び」終。
25thRace「因縁」に続く。
165 名前:おって 投稿日:2005/04/14(木) 22:52
まだ支部の途中ですが、次回から都大会編に入りそうです。

>>122 名無飼育さま
   伝えられるような場所がなくて申し訳ないです。
   2年目も見守りくださいませ。

>>123 名無飼育さま
   三者三様でお送りしていますが、この2年目色々あるかもしれません。
   作者の思い過ごしかもしれませんが。

>>124 春嶋浪漫さま
   はじめまして。なんと1stから読んで頂いたようでありがとうございます。
   陸上は何にも考えていないようで案外頭も使うので、そこもお楽しみください。
166 名前:名無し読者 投稿日:2005/04/18(月) 11:18
梨華ちゃんがんばれ。
167 名前:春嶋浪漫 投稿日:2005/04/20(水) 22:51
更新お疲れ様です。

陸上も案外頭使うんですね。
スポーツは昔から見てばっかりでやったことないので
どういうところで何を考えているのかわかれば良いなと思ってます。

次回更新も楽しみに待ってます。
168 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:32

 25th Race「因縁」

 支部予選2日目は、とんでもない番狂わせが待っていた。
 あたしの中では感づいていたことだけれど、周りにはそうとしか思えない現象だったらしい。

 200m、高橋の優勝。

 あたしよりも矢口さんよりもマサオさんよりも誰よりも速く、ゴールラインを駆け抜けた。
 まるで誰も滑ったことのないバージンスノーの上を滑走するスキーヤーのごとく。
 去年のあややを髣髴とさせる走りで。

 久しぶりに味わった、完全なる敗北。
 何一つ悪くないコンディションで望んだのに、高橋はそのあたしを超えてきたのだ。
 まさかここまで速いとは。25秒98というタイムは、充分都大会決勝、
 それどころか南関さえ望めるほどのものだと、高橋は知っているのだろうか。
 26秒11でぬか喜びしたのがバカみたいだ。ただまだ夢は続く。
 あたしも矢口さんもマサオさんも、みんな通過はした。
 都大会に向けてのお楽しみが増えたと思えばちょうど良かった。

 800は本当にこれでもかってくらいに余裕たっぷりに、ごっちんと市井さんが通過。
 いつもながらあり得ないスピードで序盤快走、それに反しゆったりな2周目にも、誰も追いつけず。
 格の違いを見せ付けるような圧勝だった。その他も取りこぼしがないままに、
 今年もIは3番目に多く選手が都大会出場が決定した。
169 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:32

100 加護 矢口 吉澤
200 高橋 矢口 吉澤
400 市井 後藤
800 市井 後藤
1500保田
3000保田

走幅跳 加護 矢口
円盤投 小川 辻
やり投 辻

4×100R 矢口―吉澤―加護―高橋
4×400R 吉澤―市井―高橋―後藤

 今年の都大会開始は5月7日の土曜日。
 そこから去年のように日曜日、そして次週の土日へと持ち越される。
 勝負は二週間後。それまでにあたしは、100であややを超える力を身につけ、200で高橋に、勝つ。
 その二つがノルマだった。
170 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:33

 高橋に負けはしたものの、正直内心ホッとしていた。
 個人種目両方、リレー二つ、全部都大会へ無事進出できたことを。
 あややをぶっ倒そうとしているあたしが、予選で物凄い神経質になっていたのは、多分石黒先生の一件のせいだ。

 彼女の誘いへの、あたしの答え。それは先延ばしでしかなかった。
 そして今あたしは、先延ばしするために走っている感が否めない。
 勝てば勝つほど、夏が続けば続くほど、答えなくていいから。
 陸上とサッカーを、天秤にかけずに済むから……。

 江戸川競技場を出て、みんなで西葛西駅への道を歩く。
 疲れた足並みは遅くて、くだらない雑談をしながら歩いているけど、耳に入らない。
 昔のことを思い出していると、周りの音が何も聞こえなくなっていた。

 『すげーじゃん吉澤!!』
 『あたしに任せてください!』
 『お前となら全中も見えるよ!』

 全中、か。結局石黒先生が出来ちゃった婚で産休、そのまま学校も移って、叶わなかった夢。
 そして石黒先生は「いい夢を見れると思う」とあたしを誘った。
 さっきも反射的に使ってしまった言葉。いい夢。
 何がいい夢なのか、何が悪い夢なのか。よく分からなかった。
171 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:34

 「…………………」

 手放しに都大会進出を喜べない。去年は決勝で敗れ、個人種目の出場はならなかったから、
 二種目両方出場なんて上出来すぎるし、嬉しかった。
 でも、心の底から喜んでいるのかどうか、自分自身が見えていない。
 一見吹っ切れたように思えたのに、まだまだだ。

 「………………!」

 あたしは何のために走っている?
 打倒あやや?打倒高橋?南関突破?インハイ出場?名誉?栄冠?自己推薦?…………サッカー?
 あたしはなんのため、走ってる?

 「……………っ!」

 先月、あたしは確かに純粋な気持ちでインハイを目指していた。
 あややを倒そうとしていた。今だってそのつもりだ。つもりだけれど、なにかおかしい。
 絶対的に何かが。でもこの悩みは時間でしか解決できないことも、よく分かっている。

 「よっすぃ!」
 「え?」
 「入るよ、コンビニ」
 「え……うん」

 あたしとしたことが、こんなことじゃダメだ。
 全部分かった上で、全部分からない。なんだ、結局何も分かってないんじゃん。
172 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:35

 「大丈夫?」
 「ん」

 ほとんど相槌に近い返事だけを続けて、
 気がついたら電車に乗っているのはあたしと梨華ちゃんだけだった。
 梨華ちゃんはさっきまでしていた沈んだ表情を隠そうとしているのか、頑張って笑顔を取り繕っている。
 でも今のあたしにはそれがなんのためなのかも分からない。

 「よっすぃ」
 「ん」
 「あのさ〜………」
 「………何?」
 「先生と、なにかあった?」
 「…………梨華ちゃん」
 「何も言わないで」

 自分で話題を振りながら、自ら話をストップさせる。
 なにそれ、とツッコミを入れようとしたけど、梨華ちゃんの顔を見たら、その気が失せた。

 梨華ちゃんは、サッカーをやっていた頃のあたし、そして石黒先生を知っている、唯一の人間。
 つまりあたし達以外で唯一当事者に入ってない、関係者。
173 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:35

 「私ね……思うの」
 「……うん」

 梨華ちゃんは何も知らない。あたしは何も言ってないし、おそらく先生も何も言ってない。
 でも何も言わないという行為は、このネガティブ娘の思考回路をいかれさせる。

 「その……………そのね?」
 「…………うん」

 ありもしないこと、意外と的を得てること、色々妄想を巡らせるだろう。
 そして多分今回の場合、梨華ちゃんの頭の行き着く先は、あたしの進む道。
 きっと彼女は、夏が終われば、あたしは陸上をやめてサッカーをまたやると思っている。
 そしてその上で、今から説得しようとしている。

 「なんていうか…………」
 「……………うん」
 「無理しなくて、いいと思う、よ」
 「………………え?」

 今までで最も長い沈黙。予想外の言葉に、あたしが言葉をなくした。

 「よっすぃの、やりたいようにやればいいし、無理することない。だから、……ね?」

 私にはこれが精一杯。
 そんな風に笑う梨華ちゃんの顔は、やけに切なげに写った。
174 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:37

 梨華ちゃんと分かれ自分の家に戻ると、ゲームをしている弟に軽くヘッドロックをかけ、部屋に戻った。
 重いバックをベッドの上へと落とすと、続いて体も着陸。布団が沈む音が僅かに耳に入った。

 手を伸ばしてリモコンを掴むと、無造作にボタンを押す。
 CDコンポの電源はすぐに入り、遅れてイントロが聴こえてきた。
 激しくかき鳴らされるギターが耳障りなくらいだけど、ちょうど良かった。

 ジャージも着替えないまま、ベッドの上を寝転がった。
 流れてくる歌を軽く口ずさもうとしたけど生憎あたしは英語も弱い。間もなく挫折すると鼻歌に切り替えた。
 リズムに合わせてゆっくりと体を揺らす。なんとなく。
 何も考えないでいい場所へ逃げようとしているみたいだった。今は何も考えたくない。
 何も考えずに、一心不乱に陸上に打ち込めればきっと最高なんだろう。
 でも時々よぎる約束は、あたしを苦しめるんだ。

 「あ〜…………!」

 叫んでみる。
 間延びした声はだらしなくて、CDから聴こえる格好のいいシャウトには遠く及ばない。
 体をゆっくりと起こすと、溜息を一度だけ、ついた。

 どうかしてる。
 大会中は保てていた集中が途切れた瞬間、また校内予選中の精神状態に戻ってしまった。
 一度切れた糸を繋ぎ合わせるには、結ぶかくくりつけるしかない。
 今のあたしは果たしてそれが出来るだろうか。
175 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:38

 気持ちを切り替えた、あの時は全くないように思えた迷いが出た原因。
 憂鬱な梨華ちゃん?いや、その前からもう悩み始めていた。

 「ん」

 おそらく、全種目進出が決定した瞬間。ホッとした気の緩みが、この状況を生んだ。
 さっきと、会場からコンビにまでの道を歩いていた時と同じ思考をまた繰り返そうとしていた。
 すぐに止める。もういい。とりあえず、今あたしがすべきことは。

 立ち上がり、部屋を出る。階段を下りると晩御飯を作っているお母さんの背中に叫んだ。

 「ちょっと走ってくる!」
 「え、ひとみ大丈夫なの?今日もたくさん走ったんじゃ」
 「平気!」

 平気じゃないけど。200も二本走った。400も一本走った。
 でもこれが今のあたしにできる、一番単純明快な解決方法だと思った。
 玄関に脱ぎ捨てられていたアップシューズをはくと、あたしは扉を一気に開けて家を飛び出した。

 足は今にも攣りそうなくらいにパンパン。ちょっと走っただけで息切れを起こすし、
 一度ダウンとストレッチでケアした体にいいことは何一つない。でも走った。
 多分今のあたしに必要なのは、何にも考える気が起きなくなるような時間だ。なら、走ればいい。
 走ることに精一杯になって、それだけを考えればいい。
 順位とか都大会とか、そんなものは何にも関係ないから、邪念すらこもらない。

 とりあえず今あたしに出来ることは、一生懸命走る。それだけだ。
176 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:38
 
177 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:39

 5月7日、都大会1日目。
 今日のあたし達の出場種目は100予選、400、1500、400リレー予選、やり投げ。
 つまり今日は100を二本、共に手を抜けないレースだ。

 大事な大事な都大会、トップバッターを務めるのは三人。400とやり投げ。
 ごっちん、市井さん、のの。特にあたしはののに勝って欲しい、と勝手に応援していた。
 前の二人は放っておいても勝手に勝ちを攫っていくだろうし。それにののの陰の努力はみんなが知っていた。

 体の小さなののは投擲種目においてあまり有利とは言えない。
 ののはそれをカバーするために、日々鍛錬、ウェイトトレーニングを積極的に取り入れ、 
 毎日ジャベリングというやり投げ練習用の小さなやり状のものを投げ続けた。
 少しずつではあるけど確実に伸びていく距離を、みんな知っていた。
 グランド全面練習の時やりを投げ、その度に距離を伸ばしていくのも知っていた。
 自分でも笑っていたけど「女は捨ててる」種目だからこその、肉体の酷使。
 元々あった運動神経も手伝ってか、やり投げはいつの間にかのののメイン種目になっていた。
 実際投げてみないと分からないけど、予選通過標準記録の30mもなんとか超えてくるだろう。

 駒沢競技場のスタンドは大きい。一番上の席からだと、夢の島とは圧倒的に違う景色が見れる。
 まるでトラックを手で掴んでしまえるような角度。応援になるとみんなで階段を下りて、
 夢の島よりもトラックに近い位置で応援。やり投げの場合は近づくと記録が分からないけど、
 ごっちんと市井さんの400もある。みんなでどうしようか、と相談していると、400は始まってしまった。

 「ごっちんも紗耶香も離れたところから応援して平気やろ」

 中澤さんの一言で、全員ベンチに待機。二人とも、ごめん。
178 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:40

 東京都には6つの支部が存在して、各支部上位8位までの選手が都大会へ進出。
 だから当然ながら、選手の数は48かそれ以下と決まる。標準記録を突破して出場するような種目は別だけど、
 トラックはトッパーと競歩を除いてそうだから、組数はおのずと6組になる。
 そして400は上位8名が決勝進出の、狭き門。逆に言えばそこさえ通れば、6人は南関に進出できるから、
 予選は大事に走らなければならない。
 でもあまり力入れすぎると、去年のごっちん、みきちゃんさんみたいに決勝で潰れる。
 難しいところだ。
 
 400の有力選手はごっちん、市井さんの他にもみきちゃんさん、3年になった麻美さん、
 Hの是永さん、福田さん。ここまででもう6つ枠が埋まっている。他にも1年生で速い選手がいるかもしれないし、
 激戦が予想される。余力を残しながら、上位8人に入る。かなり難しいことだろう。

 1組目、いきなりごっちんと麻美さんが登場。着取りではないからあまり関係ないけれど、
 競っているうちに必要以上に飛ばしてしまう人もいる。その辺注意が必要だ。
 ごっちんは去年の失敗を、絶対に生かすと思うけど。

 高々と鳴り響く銃声と共に、構えていた8人が一斉に体を起こす。
 と同時にあたしの緊張が始まった。改めて考えてみれば、純粋な都大会の個人種目はあたし、はじめてだ。
 意味もなくドキドキする。普通な顔して走っているごっちんを見て、首をかしげた。
179 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:41

 カーブを抜けた頃にはごっちんは2番目に前にいた。5レーンだから、もう二人抜いたことになる。
 たった100で。そして1番前にいたのは麻美さん、6レーンだった。直線に入ると二人は順調に加速していく。
 400のスピードながら、淡々と刻まれるペースは恐ろしい。
 あたしはあんなに速いペースで行ったら最後歩くくらいの速度になっちゃいそうだ。

 両者一歩も引かないまま直線を終える。そうなると有利なのはごっちんだ。
 同じペースで走れば、当たり前だけど内側のごっちんの方が前に出る。
 スタンドから一番離れた位置から、二人が近づいてくる。でもここで、あたし達は違和感に気づいた。
 ごっちんが、全くリードを取れない。全く差が広がらない。
 麻美さんの方が距離が長いし、広がないはずがないのに。

 「ごっちんファイトー!!」

 みんなで声を出す。一体どうしたんだろう。なにかおかしいことがあったのか?
 誰も不安の声を露にはしないけど、きっとみんな不安だ。
 でもそんなあたし達の視線は、トラックから別のものへと、一瞬にして釘付けになった。

 「あ……………」

 美しい放物線だった。
 棒のように真っ直ぐと伸びた飛行物体は宙を美しく舞うと、風を切り裂きながら真っ直ぐとその身を進ませる。
 空を。

 やがて重力に従って降下すると、30mラインの遥か後ろ、
 やりは芝生へと見事に突き刺さった。
180 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:42

 「…………え?」

 全員の視線が一本のやりに奪われる。そのやりを放ったのは、紛れもなく、ののだった。
 投げ終えたののの表情はきりっと締まっていて、普段のへらへら笑うののとは全くの別人だった。

 白旗が上がる。すぐに係のおじさん達が記録を計測すると、大きなパネルにその記録は表示された。

 『6310 35m38』

 一投。たったの一投で、ののは予選通過を決めてしまった。

 「…………すげー!!!!」

 思ったことをそのまま体の外へと吐き出す。
 届いたのか、ののはスタンドの方を見て、笑顔を見せ付けてきた。ガッツポーズと共に。

 I校ベンチ中を包む拍手の嵐。ののー、とみんなで声を投げかけると、
 ののは照れくさそうに頭をかく。その愛くるしさは去年までのののと全く同じだった。

 「で、ごっちん見てた人」

 矢口さんが手を挙げて周りを見渡す。誰も手を挙げない。一瞬ベンチを沈黙が包んだけど、
 いち早くフィニッシュタイマーに気がついた中澤さんが叫んだ。

 「あーーー!!!なんやこれ!!」
 『………えええええ!!!』

 全員驚愕。でもそれは1位が麻美さんだったことのせいではない。

 「あり得な……」

 56秒台という驚異的なタイムからだった。
181 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:43

 56秒88。輝かしいそのタイムは、麻美さんの大化けを知らせる鐘の合図。
 インターハイでも充分通用するほどの、恐ろしいタイムだった。
 ごっちんはきっとそれを感覚で察知した上で、ペースを落としたんだ。
 トラックの外側を表情一つ変えずに歩くごっちんの姿が見えて、そう思った。

 「そろそろアップ行かない?」
 「え、もうそんな時間すか」
 「いいなら置いていくぞー」
 「えー、そりゃないっすよー。行きます行きます」

 矢口さんに言われ、ちょっと名残惜しい気もしたけどあたし達は階段を降り始めた。
 その途中で銃声が聞こえ、みきちゃんさんが走り出したのを確認したけど、すぐに通路の中へと入った。
 真っ直ぐ抜けて、競技場の外側に出る。とりあえず歩くことにした。

 「上位何人だったっけ」
 「3+6やで」
 「3かー。ミスだけはしないようにしなきゃな」
 「そうっすねー。今日予選だけだしちゃんと走らなきゃ」

 張り出された掲示板と、早くも張られている男子400予選の結果の紙、群がる人だかり。
 それを横目にあたし達はゆっくりと歩きながら、競技場内から聴こえてくるアナウンスに耳を向けた。
182 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:43

 『先頭はTの藤本さん』
 「やっぱり」

 全員納得。あの組には他に強敵がいなかったし、
 去年悔しい思いをしている分だけみきちゃんさんは確実に強くなっていたはずだった。
 あややの応援も強烈な追い風になっているだろうし。

 「あれ、あやや」
 『え?』

 あいぼんとハモって笑う。
 矢口さんが指差す先には、あたし達と同じようにゆっくりと歩くあややの姿があった。
 すぐに近づく。

 「あややー」
 「あ、よっすぃ。久しぶりー!」
 「どうしてここにいるの?」
 「にゃ?」

 首をかしげるあやや。でもあたしの質問の意図をすぐに理解したのか、

 「だって、たんは予選くらい朝飯前だもん。心配してないよ」

 信頼。2年生になって、二人の関係はますます良好なのか、深い友情が感じられた。
 親友と言う言葉で片付けるのが勿体無く思えるくらい、深い。
 あたしが親友と呼んでいい人物を、頭の中で思い起こしてみる。
 ……今日は来てなかった、おそらく不貞腐れて。どうにかならないものだろうか。
183 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:45

 四人で競技場の周りを何週か回ると、勝手に視線を浴びる。あややの知名度は絶対的。脅威。
 陸マガでこの間特集を組まれていたくらいだから、都大会まで来てあややの名を知らない選手は誰もいない。
 いるとしたらそいつは潜り、ってくらいのレベルだった。多分知名度で張り合えるのはごっちんくらいだろう。

 それでも、なんだかんだ日本人っぽくない顔が手伝ったのか、あたしも少しだけ覚えられている様子。
 ちらちら見られて「あれ吉澤?」とか声が聞こえる。
 なんだか妙な気分だったけど、都大会になるといつもあややと行動を共にするからかもしれない。

 「あれ矢口?」

 とか言っているとうちの部のキャプテンはやはり有名らしい。

 「ホントにちっちゃいな」

 多少悪名混じりだけど。
 なんか芸能人みたいな言われに、矢口さんは若干からだがプルプル震えていたけど、
 あたしとあいぼんで必死に抑えた。
 
 競技場の外周を出たところでストレッチしていると、みきちゃんさんがやってきた。
 あややの横に腰を下ろす。

 「よっちゃんさん久しぶりー」
 「久しぶりー。どうだった?」
 「余裕。決勝進出間違いなし」

 その確かな自信の裏には、絶対に色々なものが詰まっている。
 強い選手なら強い選手なほどに。そしてそれこそが、二人の信頼関係を築いているのだろう。
184 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:45

 「4人は何組目?」 
 「おいら5」
 「うち4」
 「あたし1」
 「え、私も1だよ!」
 「え、嘘嘘!全然気づかなかった!」

 プログラムで1組1レーンで自分の名前を見つけたから、全然他の場所を見てなかった自分に気がつく。
 ………つまり。

 「いきなり当たるんだ」
 「そうだね」

 初レース、いきなりの激突。早くもあややとの2005年度第一ラウンドだ。
 仮に準決も当たった場合、都大会では最大三回。一度でも勝ちたい。
 正確には最後の一回に、負かしたい。

 「よろしく」
 「こっちこそ」

 あややが差し出した手を、がっちりと握り締める。絶っ対に、負けない。
 いまだ敗北の顔を見たことのないこの笑顔を、崩させてやる。
 心にもう何度目か分からない誓いをした。
185 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:45
 
186 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:46

 開始一時間前、つまり召集30分前。ベンチに戻ると、今度は女子1500mがスタートしていた。
 うちの学校からは保田さんのみの出場。こんこんが真剣な顔つきで保田さんを応援しているのを見て、
 ある人物を思い出し、あたしは溜息をついた。

 「何組目ですか?」
 「3組目。3位に入ればいけるんやし、特に問題ないやろ」

 今日は大した気温やないし、そう付け加えて中澤さんは視線を戻した。
 横に座る3年の先輩はビデオを撮っている。フィードバックのためだろう。
 保田さんは先頭を走りレースを上手くコントロールしながら、順調に走っている。
 余裕すら伺える表情。冬場相当走りこんできた証拠だ。
 誰にもそんな話している姿を見たことないからあくまで想像の話だけど、絶対に保田さんは家でも走りまくってる。
 もし本人に聞いたとしても「そんなことないわよ」なんて姐御口調でぼかされるだろうけど。

 「よっすぃスパイク取った?」
 「あ、すみません!」

 レースに見とれていた。慌ててスパイクをバックから取り出すと、遅い、
 という矢口さんに頭を下げながら階段を駆け下りた。出来れば最後まで見たかったけれど、残念。

 「決勝に行ってらっしゃい」

 ラスト一周に入った時点で、中澤さんは遠くを走る保田さんに手を振る姿が下から見えた。
187 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:47

 階段を降りて内部の通路を通り、通行用にある外周を歩く。
 一応スパイクの感触を確かめようというだけで、本格的な流しは召集後。
 でも久々にきた駒沢で余裕を持って調整したかったからあたしはすぐに賛成した。

 スパイクを履いてコースに出ると、1500最終組の4組がスタートしたところだった。
 目の前でしばっちゃんが飛び出す。不意打ちされたような気分だった。
 その場で腿上げをして、ピンをタータンに突き刺してみる。悪くない。
 これだけで分かるものでもないけど、そう感じたのは確かだった。

 「行ったよ」
 「行きますか」

 集団が全員100mを通過、コーナーに入ったところで、あたし達3人は外側のレーンを使うことにした。
 ゆっくり、ゆっくりとした始まりから、じわじわとスピードを上げる。
 段々と加速していく体、蹴りが強くなっていく足、振りが鋭くなっていく腕。好調。
 試合に入ると集中状態に入るから、この間のような葛藤は生まれない。
 ちょっと頭の片隅で気にかけても、すり抜けて消えた。

 直線の終わりが近づくと、あたしは減速を始めた。
 前方では矢口さんが早くも足取りを抑え、歩いていた。
 同じ場所で完全にスピードを殺すと、歩いて追いつく。あいぼんも同じようにして続いた。
188 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:47

 「どうですか?」
 「よっすぃにリベンジするには充分だよ」
 「勝つのはうちっすよ」
 「二人とも、誰か忘れてやしまへんか?」
 「え?誰?」
 「なんやそれ!見とけや!負けへんからな!」

 8レーンの外側を歩く。するとカーブの終わりからソニンさんの顔が見えた。
 相変わらずすさまじい。そしてその後ろから、

 「あ」

 しばっちゃん登場。今日もいい位置につけて走っている。
 目で追うと、集団はすごいスピードであたし達の横を駆け抜けていった。
 しばっちゃんは若干苦しそうな表情を浮かべていた。

 「なーんであんな速さで走れるんだろーなー。長距離って」
 「化物ですよね」
 「圭ちゃんに言ったらキレるぞ」
 「言えまへんよ!!」

 二人の会話はあたしの耳に届くことなく空に打ち上げられて。
 あたしはしばっちゃんに釘付けだった。
189 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:49

 苦しそうなしばっちゃん。
 前半のハイペースが祟ったのか、ソニンさんがレースを支配して疲れるような走りをしているのか。
 とにかくしばっちゃんはもがいていた。あたし達の横を通り過ぎ、カーブに入るとそこで段々と後ろに後退し始めた。
 じわりじわり、注意深く見なければ分からないくらいに。このままじゃ、終わる。
 そう思ったときには叫んでた。

 「しばっちゃんファイト!!!!そこ苦しいけど粘れ!!!」

 あたしの声は、50m以上離れたところで戦っているしばっちゃんに………届いた!
 まるで睨む様な目でソニンさんを見つめる。力を振り絞っているのがよく分かった。
 開きかけたスペースを、再び詰める。ソニンさんはそれに気づいたのか、一瞬、チラッと後ろを向いた。

 「やばい」
 「え?」

 矢口さんが呟く。あり得ないくらいに真面目な顔で。
 何がやばいんですか、と聞こうとしたけれど、その前に意味が分かった。
 ソニンさんの足のピッチが、変わる。

 「!!」

 加速。ラスト500mにして、図ったみたいにスパートを開始してみせた。
 追いついた瞬間のスピードアップ。これ以上きついものはない。しばっちゃんの表情が再び苦痛にゆがんだ。

 そして鐘は鳴る。
 それを合図にあたしは、レースの進行方向とは逆方向に走り出した。
190 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:49

 「よっすぃ!」

 二人の声も聞かずに走った。
 どんどんスピードに乗って、カーブを曲がり始めたしばっちゃんとの差がどんどん近づいていく。
 二人の距離が30mほどになったところで、あたしはゆっくり逆走を始めた。
 段々と追いついてくるしばっちゃん。現在5位。

 「しばっちゃん!!」
 「はぁっ、はぁ、はあ、はぁ」
 「しばっちゃんラストだよ!」
 「はぁっ、はぁ、はぁ、はぁ!!」
 「あと300!!あと一人抜けばいいんだよ!!あと一人だよ?!」

 この組のペースはしばっちゃんの煽りとソニンさんのスパートで速くなっている。
 普通に考えてこの組で4位に入ればプラス枠で決勝に転がり込める。
 そして4位はしばっちゃんの前方、約10m。諦めるにはまだ、早すぎる距離。

 「決勝のレースことなんて考える前に、決勝行くことを考えろ!!!」

 ちょっときつい言葉。あたしに言われる筋合いなんかないんだろうけど、熱くなった気持ちは納まらない。
 少しだけ並走する。

 「はっ、はぁっ、はぁっ!」
 「死ぬ気で行けーーー!!!!」
191 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:50

 吐き出した息はしばっちゃんの背中を押して、ラストスパートが始まる。
 腕の振りがレース開始直後のそれに戻り、キレが出る。後姿だけだから表情は見えなかったけれど、見えた。
 背中から滲み出るような気迫から。あたしはその場で立ち止まると、
 乱れた呼吸が収まらないままに再び逆走を始めた。

 足に鞭を打っているのがよく分かる。
 地面を蹴りつける度にしばっちゃんの足は震えてるし、上体がグラグラと不安定に揺れている。
 予選突破しても決勝で順位を望むのは無理だろう。
 でも、決勝のことを考えるのは、挑戦者がすべき行動じゃない。挑戦者は、

 ――目の前にある勝ちを全力で取りに行け!

 ゴールへ先回りして、最後の直線、力いっぱい声を張り上げよう。
 スパイクも手伝ってスピードがどんどん上がる。あっという間にゴール前にたどり着いた。
 しばっちゃんはまだ5位。でも差は確実に縮まっている。

 「ラストーーー!!!!」

 腹の底から声を出す。会場中に響くように。1位のソニンさんがゴールすると、
 いよいよしばっちゃんのゴールも近づいてきた。しばっちゃんは4位の真後ろ。
 このままじゃ並んでゴールだ。

 「かわせ!!!」

 強引に、アウトコースから。多少のロスはあっても、今はもう抜くことしか考えちゃいけない。
 しばっちゃんはあたしの声が聞こえたのか、アウトに回った。
192 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:51

 足がトラックを捉えた瞬間、堅い筋肉の形が露になる。
 しばっちゃんは相変わらず辛さを表情に滲ませながらも、歩を緩めなかった。
 飛ぶように、前のめりになりながら、しばっちゃんは4位をかわした。

 「そのまま!!!」

 残り10m、しばっちゃんは飛ばし続け引き離し、ゴールした瞬間に4レーン辺りで倒れこんだ。
 審判の先生は特に心配するそぶりも見せずに「はい歩こうね」なんて声をかけている。
 あたしは整わない呼吸そのままに、しばっちゃんに近づいた。

 「頭痛い………」

 地面を這うようにコース外へと出ると、なんとか立ち上がる。あたしのことを見た瞬間しばっちゃんは、

 「よっすぃ…………」
 「…………お疲れ」

 掌を差し出す。しばっちゃんは「はぁ、はぁ」と口を明けたままではあったけど笑顔を見せて、
 自らの掌をあたしの掌に押し付けた。手と手がぶつかり合う渇いた音が響くと、
 矢口さんとあいぼんが戻ってきた。

 「よっすぃ……お前何してんだ……」
 「え?何って、応援っすけど」
 「そうじゃなくて……この後すぐ、予選なんだぞ?よっすぃ1組じゃん」
 「あ」

 誤算だった。
193 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:52

 体力が回復するはずがなかった。召集が終わってから本格的に流しする予定だったけど、
 体力の回復を優先させてやめることにした。たかが100m、されど100m。
 甘く見たらきっと泣く。あややがいる時点で、1位をとるのがかなり辛い状況になったわけだし。

 「どうしたの?流ししないの?」
 「アハハ…疲れちゃって」
 「えー大丈夫?」

 あややはどこまで本心なのか、嘘なのか。まずあたしのことをライバルとして見てくれてるのか、
 数ある星屑の一つとしてしか捉えていないのか。でもあたしにとってあややはライバル。
 たとえ一方的な感情であっても、そう思える相手がいるだけで、あたしはきっと強く走れる。

 3位に入れば通過できる。でもそれじゃ面白くない。
 手を抜きに行ったあややの寝首を掻く、と言ったら聞こえが悪いけれど、
 とりあえず予選の段階で牽制しておきたかった。明日には準決勝、決勝があるんだ。
 少しでもプレッシャーを与えなきゃまずい。

 男子の1500m予選が終了すると、あたし達はスタート練習を開始した。
 スパイクで、今日何度も確認した感触を今一度確かめる。問題ない。
 問題があるとしたら、疲れているあたしの足だけだ。
 スタート練習も最初の飛び出し以外、大して力を入れないでおいた。
 温存して温存して、100mの間を一気に爆発させてやる。
194 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:53

 『それでは女子100m競争予選の開始であります』

 アナウンスが響き渡り、客席中の注目が集まる。去年は味わえなかったこの感覚、この緊張感。
 不思議と気負いがなかった。余計な走行を重ねすぎたせいで、気持ちが楽なのかもしれない。

 あややは4レーン。真ん中に堂々と立っていた。このステージは私のもの、と言わんばかりに。

 『松浦さんは昨年100mでインターハイに出場しています』

 そのスポットライト、こっちへと引き寄せてやる。

 『位置について』

 しっかりと構えられた両の足の筋肉が一瞬だけ震えた。不安になったけど、それも一瞬のことだった。

 『よーい』

 バンッ!!

 スタートは矢口さんレベルを誇るあやや。流石に叶わない。
 あたしが狙うのは、あややがよくやる終盤の“抜き”。レース後半、
 1位が確定したところで減速をはじめ、ゆっくりとゴール。去年は飯田さん相手でさえ見せたその余裕。
 でも逆に言えば、そこを狙うことが出来れば。

 体を起こす。強い追い風が吹いていた。2レーンの人の姿なんてもう見えなくなっていたし、
 私の視界に僅かに入っているのは4レーンだけだった。ただし若干前方で。
 でもこの時点での差が若干と呼べるものになっただけ、あたしは成長した。
195 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:54

 レースは後半に入る。
 真っ赤なタータンを蹴り飛ばすスパイクのピンは、あたしの理解を超えたところであたしに作用し、
 あたしを速く走らせる。じわりじわりと詰まる、あややとの差。これで減速すれば、勝てる。
 でもそう思った瞬間、視界のほんの端っこでは、唇が三日月を描いていた。

 ―――なっ!

 減速が、ない。
 加速を続けるあややは、一体どこまで行くのだろうという驚異的なスピードで駆け抜けてゆく。
 追いつけない。むしろ離されそうだ。

 『4レーンはTの松浦さん。予選から飛ばしてきます』

 呼び上げられた先頭はビュンビュンと追い風を力に進む。
 向こうには台風が味方についているんじゃないか、と錯覚するくらい、速かった。
 去年のレースを思い出した。

 『12秒43、と出ています』

 ゴールラインを通過し、カーブに沿って20mほど進んで止まった。あややはこっちを向いていた。
 目線が合うと、あややはとびっきりのスマイルをあたしにプレゼントした。

 「楽しかった」

 余裕すら伺えるあややのせいで、おそらくベストが出たことに対する喜びも半減した。
196 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:54
 
197 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:54

 3人とも無事に予選通過。あいぼんはプラスで拾われてひやひやだったから、
 アナウンスで準決勝進出が決まった瞬間やり投げで決勝進出を決めていたののに抱きついた。

 「行けたわ〜」
 「あいぼん!二人で南関行こう!」
 「おう、うちらは無敵やでぇ!」

 あたし達は入念なストレッチと中澤さんのマッサージを受け、次のリレーに控えていた。
 それが終わるとちょっとだけ遅いお食事タイム。リレーは3時半から。
 余裕はたっぷりあった。近くのコンビニで買って来たおにぎりを頬張っていると、
 中澤さんが近づいてきた。

 「レース前から疲れてたやろ」
 「え゛、やだなぁ中澤さんったらぁ。私はぁ」
 「キモいわ」
 「ごめんなさい」
 「いや、謝ることはないで」

 うつむいたあたし、髪の毛の上に掌を乗っける中澤さん。そっと撫でると、

 「個人種目は全部自分の責任や。そこを分かっとけばええねん」
 「はぁ……」
198 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:55

 中澤さんの手は緩やかなスピードであたしの肩まで降りると、凝り固まった部分を探しては解す。

 「負けて悔しいのは誰や?」
 「…………………」
 「ベストの状態なら、といいわけしたくなるのは誰や?」
 「…………………自分です」
 「せや。みーんなよっすぃ。誰かが励ましてくれはったって、傷つくだけやし」

 長い年月高校陸上と関わり続け、去年まで選手として走り続けてきた中澤さん。
 それだけに言葉に重さがあった。深くて、重くて。胸にずっしりとおもりを乗っけられたような、
 感覚。

 「それが陸上ってもんやで。リレー以外は一人やから、カバーしあうことなんてできへん。でも」
 「でも?」
 「勝った瞬間の喜びを独り占めできるのは、個人種目だけや」

 独り占め。確かにサッカーみたいな団体スポーツは勝ったらみんなで喜びを分かち合うけど半面、
 自分のプレーが思うように行かず釈然としないこともある。
 でも陸上はそれがない。思うような走り、またはそれ以上のものを出さないといけない。
 逆も叱り。ミスは全て、自分に跳ね返ってくる。

 「ま、怒るけどな。ミスして負けたら」

 笑う中澤さんに、あたしも少しだけつられた。
199 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:56

 2時になった。
 お決まりのメロディーが場内をこだますると、続いてアナウンサーの声がいつものように響き渡る。

 『それでは女子400m競争、決勝です。1レーン――』

 大本命は、一体何があったのか、圧倒的な変貌を遂げた麻美さん。続いて昨年不調で走らなかった市井さん。
 是永さん福田さんのH高コンビもいる。前回体力不足で涙を呑んだごっちんみきちゃんさんは、因縁深いレースだ。

 『位置について』

 たった1分弱で巨大なトラックを駆け抜けていく8人の戦士。それぞれの目は全て異なるけど、放つ輝きは等しい。

 『よーい』

 たった一つの、一番高い場所へ。

 バンッ!!

 スタートからして麻美さんは凄まじかった。
 まるで200を走っているのではないかと思える強烈な蹴り出しにスタブロは揺れる。
 トラックの中心、カーブを曲がりながらアウトの選手を食おうとどんどんペースを上げていく。
 そしてその時、あたしの視界はカーブ途中のスタンドへと吸い込まれた。

 「安倍さん」
 「え?」
 「あそこ」

 指差すと、矢口さんはなっちじゃん!と素っ頓狂な声。そして全員が続いた。
 スタンドから応援をしている安倍さんの姿に。
200 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:57

 「麻美ファイトだべーーー!!!!」

 嬉しそうに、無邪気に、悪気もまるでなしに。ごっちんと市井さんの存在に気づいていないのか、
 いるのかはあたしには判断つかないけど、とにかくひたすら麻美さんを応援していた。
 一瞬固まるI高ベンチ。仕方ないから、

 「I高ファイトーーー!!!!」
 『ファイトーーー!!!!』

 スピードに乗ってきたごっちんがインから、速くもカーブを抜けた市井さんがアウトから、
 麻美さんを狙う。みきちゃんさんは7番手、南関突破が際どいライン。
 インコースから福田さん、8レーンからは是永さんがスピードに乗ってきた。
 誰が勝つのか、今の時点では全く分からない。高速化しているレースは、尚も加速を続ける。

 直線に入る。先頭に出たのは6レーンで最初からある程度前に位置していた市井さん。
 それを追いかける麻美さんの足は止まらない。とんでもないスピード。でも、
 
 「嘘」
 「すげー!すごいっすよ!!後藤さん!!」

 それを更に上回る、ジュニアオリンピックでケニア人を追い抜いた時を髣髴とさせるごっちん。
 興奮する新垣はもっと止まらない。内側から、今にも麻美さんに追いつきそうだ。そして続いて、

 「みきちゃんさん!行けーー!!!……ごめんなさい」

 Iのベンチだということを忘れてた。
 でも去年悔しい思いをしたみきちゃんさんが、今なんとか追い上げようとしている姿を見ると、
 友達として、応援せずにいられなかった。
201 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:58

 レースは中盤を超えて第二カーブ、インコースの選手の逆襲が始まる。
 インコースの利を生かし、ごっちんは麻美さんにどんどんプレッシャーをかける。
 麻美さんは辛さを表情に滲ませることなく、淡々と、しかし更にスピードを上げる。
 そして最短距離を駆け抜けるみきちゃんさんは、ここで7位を完全に抜き去り、単独6位になった。
 このまま行けば、行ける。市井さんと是永さんは逆にアウトコースによって先頭に抜かれる。混戦だった。

 「ラストーーーー!!!!!」

 優勝は麻美さんとごっちんに絞られた。予選でも一緒だったこの二人。
 横に並んでぶつかるんじゃないかってくらいの距離で競っていた。

 『3レーンはIの後藤さん、4レーンはTの安倍さん』

 そして後ろでは、熾烈な南関争い。市井さんが一歩抜け出て、福田さんが続いた後、4人で3つの席を争っていた。
 その中にはみきちゃんさんの姿も。もう周りのことなんか考えてる場合じゃない。
 今トラック上で一番応援すべきなのは、彼女だ。去年も決勝に進みながら涙を呑んだ、彼女だ。
 同じく悔しい想いをした彼女は一歩先の次元で、更に勝負をつけていたから。

 「ごっちんそのままーー!!!」
 「みきちゃんさん逃げろーー!!!」

 周りは特に文句を言わなかった。一度逃げ出したらごっちんは追いつかれたことがないし、
 もうゴールは目の前だ。その10m弱離れた位置で存在する生死を賭けた争いにこそ、
 かけるべき声がある。

 『下位も混戦です』
202 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 03:59

 『優勝はIの後藤さん。56秒28と速報タイムが出ております』
 「速っ!!!」

 ベンチ騒然。客席もざわめきが起こった。
 走り終えたごっちんは、いつものようにコースの外で大の字。一仕事終えた顔をしている。
 そして遅れること2秒。雪崩込むように4人がコースを駆け抜けた。
 肉眼では判断がつかない。

 『結果は写真判定に持ち越されます』

 男子の400も後に控えている。発表はその後になるだろう。
 気づいたら立ち上がっていた、興奮している体を冷ますために椅子に腰を下ろすと、
 スタンドの下段に座る人影が目に写った。あややだ。
 そして同時に、彼女の仕草でさっき聞いた言葉を思い出す。

 「心配してないよ」

 予選の最中、レースを見もせずに余裕の表情から放たれた、言葉。
 手を組んで胸の前に置くあややのそのポーズは、それを思わせないものだったけれど、
 目は確かに信じていた。みきちゃんさんの勝利を。南関進出を。
 強い、あややは強い。

 男子400が終わると程よくして女の人の声が聞こえてきた。
 全員耳を傾け意識を集中させる。

 『それでは女子400m競争の結果発表。1着、6309番後藤さん I。記録56秒29』

 拍手。ベンチに帰ってきたばかりのごっちんは照れ笑いを浮かべた。
203 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 04:00

 『2着、2346番安倍さん T。記録56秒81。3着、6304番市井さん I。記録57秒38』

 再び拍手。ベストにも関わらず市井さんは首をかしげている。
 そして問題の、残りの3枠。4人がほぼ同時に飛び込んだだけに、果たして。
 
 『4着、1212番高野さん W。記録58秒11』

 あと2枠。あややは不動の姿勢。まるで既に結果を知っているみたいに、余裕たっぷりの顔で。
 一ミクロの揺らぎもないその信頼関係は、自分には絶対に築くことができないように思えて、
 少しだけ悲しかった。

 『5着、2355番藤本さん T。記録58秒12』
 「おめでとー!!!」

 口の周りを手で囲い、空に向けて大声を放つ。よく響いた声が会場にこだますると、
 所々から笑い声が聞こえた。でも気にならなかった。振り向いたあややが、なんだか嬉しそうに微笑んだから。
 ありがとう、って何故か口が動いていたから。

 『位置について』

 気づくと女子1500mの開始時刻。号砲と共に、16人は飛び出した。
 いきなり飛び出したのは、やっぱりソニンさん。
 三年になり、厳しい練習を重ねてきたであろうその体は元気そうに活動していた。
 序盤からレースを支配し、後方をけん制。計算された走りに、周りは遊ばれる。
 ソニンさんのペースだ、完全に。
 
 しばっちゃんは10位辺りを走っていた。
 予選から3時間弱間があったから、きっとある程度体力が回復しているだろうけど、
 決勝のレベルはまた次元が違うみたいだ。既に太陽に反射した汗が光っていた。
204 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 04:01

 「やばい、そろそろ2次アップ行かないとやばい」

 矢口さんが立ち上がる。あと4分くらいだから見ればいいのに。
 思ったままに口にすると矢口さんは、

 「ああ、圭ちゃん3000しか狙ってないからいいって言ってた」

 さらりと返ってきた答え。ということは1500は…………。

 「1500は調整レース!」

 気づくと右手にバトンを持った矢口さんの左手に引っ張られ、あいぼんと高橋が後を追ってきた。

 競技場の外周をゆっくりとジョグしながらバトン練習。
 並びは走順の逆で高橋、あいぼん、あたし、矢口さん。
 それぞれバトンを受け取る手とは逆方向にずれて、ジグザグの立ち位置。

 「はい」

 矢口さんの声とともにあたしは手を後ろへ。バトンが手に触れたところでぎゅっと握り締める。
 このとき後ろを向いてはいけない。信頼関係の元、バトンは繋がれるから。
 メンバーを信じることは大前提だ。
 
 「はい」

 あいぼんの手に一直線にバトンを振り落とす。パシッ、という音で触れたことを確認すると、
 握られる瞬間に手を離した。感度良好。予選とはいえ去年のことを考えると全く気を抜けないから、
 全力で走ろう。
205 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 04:02
 
206 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 04:03

 保田さんは本当に調整レースだったらしい。終始同じくらいのペースを保ち続けて8位入賞。
 ちゃんと走れば南関突破できたんじゃないか、って思ったけれど、
 1500じゃなくて3000でちゃんと勝ちたい、と強い目で誓いを唱えていた。
 来週暑かったらどうするんだろう、とは誰も言えない。しばっちゃんは後ろから2番目だった。

 初日のあたし達の最終種目、4×100mリレー予選。6組タイムレース、上位8チームが決勝進出。
 手を抜けるはずがない。強いチームはたくさんいるし、手を抜いて通過するチームなんて、
 いてせいぜいTかHか。あたし達にそんな余裕はないのだ。

 Iは2組5レーン。いい場所をもらえたのは支部予選での好タイムの結果。
 やっぱりリレーは少しでもいいコースが欲しいから、ありがたかった。

 「絶対通過するよ」
 『はい!』

 四方、それぞれの場所へと散る。
 矢口さんはスタートライン、あたしは第一コーナーの終わり、あいぼんは200スタート地点、高橋は最終カーブ明け。
 去年は痛恨のバトンミスで失格だった。それがなければ南関も行けただろうと言われていたあの代の意志を、
 あたし達が継ぐしかない。

 絶対に、負けられない。使命にも近い感情が、胸のうちで燃えていた。

 『位置について』

 穏やかな動きで立ち位置を調節する矢口さんは、
 静から動へと動くためわざと静かに動いているようにさえ見えた。
 きっと今日も、魅せてくれる。

 『よーい』

 バンッ!!
207 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 04:04

 ――ロケットスタート。

 まさに弾丸。
 引き金を引いた瞬間弾け飛んだ銃弾は、その低身長、低姿勢から誰よりも前へと進んでいく。
 そのスピードの絶好調っぷりは、あたしの予想を凌ぐ速度だった。風圧を強く受け止める。
 あたしは頃合を見計らって、飛び出した。

 ――やば!ちょっと速い!

 初歩のミスをしてしまった。予定よりも速い飛び出し。
 矢口さんはもしかしたら追いつけないかもしれない。でもすぐに思い直した。

 「心配してないよ」

 あややの言葉がまた、リフレインして。
 信頼するんだ。あややがみきちゃんさんにそうしているくらいに。信じるんだ。
 振り向かずに、前だけを見て走れ。渡らなかったらその時だ。足がバトンゾーンに入る。
 信じろ、信じるんだ。

 「はい!」

 ――届いた!

 手を差し出す。
 渡されたバトンの先っちょを強引に掴むと、腕を振りながら修正、そのまま一気にスピードを上げた。
 あたしも同じように、弾丸になってやる。誰よりも速く、突っ走れ。
 この枠の中で敗者になるわけにはいかないのだから。

 あいぼんが見えてきた。現在トップ。逃げ切るための鬼門である第二コーナー、
 あたしはさっきそうしたように、やっぱりあいぼんを信頼する。
 あいぼんもあたしを信頼して、関係が成り立った時、あいぼんは前へと飛び出した。
208 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 04:05

 「はい!」

 繋がれた一本のバトン。一本の棒をみんなでパスしてゴールに持っていくだけなのに、
 どうしてこんなに充実感と、達成感に浸れるんだろう。

 あいぼんはカーブを綺麗に曲がりながら、先頭を保つ。
 インコースからじわじわと迫り来る他校も、そう簡単には追いつけない。
 というよりも、追いつかれてたまるか。
 あいぼんはリードを保ったまま、アンカーの高橋へバトンを繋いだ。

 「はい!」

 パシッ、といい音がして、高橋は力強くバトンを握るのが遠目からも確認できた。
 その重量では表せないほどの重み。それを全て受け止めて、高橋は残りの旅路を駆け抜ける。
 赤いタータンは、このときばかりはカンヌのレッドカーペットに見えた。見事なまでの勝利。
 タイムも50秒の壁を破り、49秒88。新チームでのベスト記録。そして、南関も充分狙えるタイム。
 まだまだ可能性が見出せる、タイムだ。

 そしてやりは突き刺さる。日々の努力を乗せて。遥かな想いを乗せて。強い信念を乗せて。
 30mを大きく超えた投擲は、ののを7位から2位にまでジャンプアップさせる完璧なスローイングだった。

 この瞬間、リレーの決勝進出、やり投げの南関進出が確定した。
209 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 04:05
25thRace「因縁」終。
26thRace「スマイル」に続く。
210 名前:25th_Race 投稿日:2005/04/24(日) 04:05
 
211 名前:おって 投稿日:2005/04/24(日) 04:08
更新が遅れて申し訳ございません。なんとか週1で頑張ります。

>>166 名無し読者さま
   頑張って欲しいですね。作者も密かに期待しています。

>>167 春嶋浪漫さま
   ただ走るだけ、闇雲に走るだけでは多分選手として伸びません。
   スポーツもやっぱり頭悪すぎるとできませんからね。
212 名前:名無し読者 投稿日:2005/04/27(水) 13:02
この更新量で週1ですか?
すごいですけどあまり無理しないで下さいね。
213 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:09

 26th Race「スマイル」

 都大会初日、成績。
 トラック、100m3人準決勝進出、400m2人南関進出、1500m保田さん8位入賞、リレー決勝進出。
 フィールド、やり投げのの南関進出。
 出来過ぎ、とつんくさんは評したけれど、ホントに出来過ぎだった。あたしもそうだし、みんなも。

 「ほんま出来杉君やでみんな」

 シーン。そんな効果音が聞こえてしまうほどの静けさ。出来杉君の声も変わりました。多分。
 つんくさんは中澤さんの後ろに隠れておいおいと嘘泣きした。

 「今日ははよ寝て、明日に備えなあかんで。明日も南関かかったレース仰山あるんやし」

 中澤さんが締め、あたし達は解散した。

 駒沢大学駅までの帰り道、たまたま市井さんの横を歩いていたから、
 あたしはずっと胸にしまっていた疑問を投げかけてみた。

 「市井さん」
 「なに?」
 「なんで1500じゃなくて400なんですか?」

 市井さんはあたしの顔を見て、少ししてからボールを投げ返してくれた。

 「リベンジ」
 「リベンジ?」
214 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:10

 「ほら、去年インハイでまいに1500で負けたじゃんあたし。
  あいつったら400で勝てばあたしの完全勝利だね、とか言いやがったから、
  じゃあ400も800も勝ってやる、って言ってやった。絶対勝つけどね」
 「………かっけー。市井さんかっけー」
 「見直したか」
 「惚れ直しました」
 「おしっ」

 よく分からないガッツポーズをしたから、あたしは笑ってしまった。
 そんでもって「冗談です」って言い直したら、「えー」と転ばれた。
 でもかっけー、と思ったのは本当だ。

 1500は南関でもインハイでも負けた。800は疲れから棄権して、里田さんはやっぱりインハイに行った。
 そして里田さんは完全勝利を目指すべく、サブの種目を400に変更した。
 それに市井さんは乗った。1500のタイムの方が、明らかに上なのに。
 1500の方が、明らかに高みを目指せるのに。
 現に去年インハイで8位に入賞しているわけだし、不調でやめた400を今更やるなんて、よほどのことだと思う。
 市井さんは敢えてその道を選んだ。

 「だから吉澤も、松浦なんかに負けんなよ」
 「え」

 どう返していいか戸惑っていると、市井さんは豪快に笑った。
215 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:10
 
216 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:11

 都大会2日目。ごっちんと市井さんは早くも二種目目の800の予選決勝がある。
 あたしは100の準決勝、決勝、そしてリレー。ある意味この都大会で一番注目の矢口さんの走幅跳がある。
 去年は怪我して棄権、決勝までたどり着けなかった、矢口さんのメイン種目。
 関東クラスの実力者と言われながら、一度も関東を経験していない矢口さん。リベンジなるか。
 きわめて落ち着いた様子を見せていた矢口さんだけれど、あたし達は密かに祈っていた。

 走幅跳予選、円盤投予選Aピットが9:30から早くも開始。
 あたしはすぐにスタンド下段まで降りて、矢口さんのジャンプを見に行くことにした。
 AピットとBピットは繋がっていたけどそれぞれトラックのスタートとゴールにのびていて、
 選手は反対方向に駆けてゆく。あいぼんには悪かったけれど、あたしは矢口さんのBピット寄りに座ることにした。

 巾(走幅跳)の予選通過記録は5m05。怪我をしていない矢口さんには、容易い記録だ。
 きっと1回目の跳躍でパスしに行くに違いなかった。
 昨年の都新人は踏み切り板に対する恐怖に怯えて、全く矢口さんらしい跳躍ができていなかったけど、
 支部予選を見るに、心配はなかった。

 矢口さんの試技は四番手。ゼッケン番号を呼ばれると、その小さな体をフィールドへ。
 ぴょンぴょんと飛び跳ねる姿に、不安の色はなかった。
217 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:12

 三番目の選手の試技が終了し、いよいよ矢口さんの出番。矢口さんが狙うは勿論、一発通過。

 「100の準決控えてるし、決勝にいけるとは思わないけどさ。ベストの状態で走りたいじゃん?」

 走路の上で屈伸をする。足首を優しく撫でると、矢口さんは立ち上がった。
 ちょうど審判も旗を上げ、スタートの合図。矢口さんは手を上げると、

 「行きまーす!」

 ゆっくりと、穏やかに。前傾気味に地面を蹴ると、風を切る強さが増してゆく。
 近づく踏み切り板。近づけば近づくほど、矢口さんは疾風のようになってゆく。
 そしてスパイクが正確に真っ白の板を踏み込むと、矢口さんは鳥になった。

 空中を、美しく舞う。重力を戦いながら、華麗に空中散歩。
 1mでも遠くへ、1mでも遠くへ。羽ばたいた両の翼は、矢口さん完全復活を告げる証だった。
 余裕のある着陸で、矢口さんの浮遊は終わった。
 そして白旗が天高く掲げられた瞬間、矢口さんは小さなその体の小さな拳を、小さく握ってみせた。

 「すごいですねー」
 「うわ!…新垣どうしたの?」
 「むっ」
 「え!?」
218 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:13

 あたしは最初の練習で新垣に軽い怪我を負わせてしまったせいで、ちょっと新垣に苦手意識があった。
 なるべくなら一定の距離を置いて話さないと、またなにか間違ったことを教えそうで怖かった。
 所詮、都大会に出てる選手でも、頭の悪いあたしはやっぱり二年目だから。

 「私にも幅跳できますかね?」
 「……………………う〜ん」
 「長いです!間が長いです!」

 え!?ダメ出し?!思わぬツッコミに驚きつつ、あたしは考えていた。
 新垣の今の言葉の真意を。でもなんとなくだけど、すぐに理解した。
 種目が決まらなくて、焦りが出てるんだ、新垣は。

 高橋は短距離、こんこんは長距離、小川は投擲。
 三者三様、みんな自分に合った種目を見つけて、活躍している。でも新垣にはそれがない。
 同じく素人だった小川にも鼻を明けられている。
 とりあえず現段階は短距離だけど、そのままずるずると行くのが怖いんだろう。
 なんとなく、いつだったか飯田さんが聞かせてくれた言葉を思い出した。

 「誰にだって、これって種目は絶対にあるんだよ。めぐりあえるかは本人次第だけど」
 「………ありがとうございます!」

 飯田さんの偉大さを感じると同時に、自分の運の良さと無力さを感じた。
 きっとあたしは、すごく恵まれている。
219 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:14

 スタンドの最前列にいたせいか、あたし達の存在は矢口さんにあっさりと気づかれた。
 予選通過決定の余裕からか、あたし達の座っている位置の真下に立つと、拳を高くかざした。

 「お疲れ様です!」
 「次で決勝っすね!」
 「おう!この勢いでよっすぃに100勝っちゃうからなー」
 「それは無理です」
 「なんだよそれ!タイムおんなじくらいの癖に!」
 「タイムなんてこの際あまり関係ないんですよ」
 「あるよ!!」

 変な漫才をする。新垣はそのやり取りをみて嬉しそうに笑っていた。
 でもすぐに視線を巾の選手に向けると、そのフォームを研究しているみたいで、凝視していた。

 「もう戻りますか?」
 「いや、加護が終わるまで待つー」
 「わかりましたー。それじゃー」

 矢口さんはスタンドとの死角に入って姿を消した。
 トラックでは男子の3000m障害が始まり、新垣の関心は今度はそっちへと移っていた。

 ……見つかるといいね。
220 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:15

 3000mSC。一体どうやって略したのかは知らないけれど、障害を略すとSCになるらしい。
 新垣はしがみ付くように眺めていた。確かにSCは見ていてすごく面白い種目だと思う。

 まずスタート開始直後、約1mの巨大ハードル、といっても普通のハードルとは違って、
 乗り上げることのできる大分太い奴が構え、それを乗り越えた後でも何度もそいつは登場する。
 梨華ちゃんに聞いた話によると7周走って合計でハードルを30回以上乗り越えるらしい。
 飛び越える人は稀、というか高校生クラスだとほとんどいない。
 オリンピックとかを見ていると、ほとんどの選手が苦もなく飛び越えていたから、
 あたしにとってそれはちょっと意外だった。

 ハードルだけならまだ問題ないSCだけれど、最大の難関は第二カーブ途中にあるハードルだ。
 このハードルは、ただのハードルじゃない。
 コースからアウトへと逸れ、8レーンの更に向こうへと走った先のハードルを飛び越えると、
 その先にはなんと水溜り。
 正式名称で水壕と呼ばれているとそれは、無理に飛び越えようとすると体力をえぐられて、
 それでも無理したりすると後半、

 ドボーンッ

 「あ、落ちた!吉澤さん!落ちましたよ!!」

 水没。足を引っ掛けて豪快に頭から飛び込んだダイバーは、
 本当に運が悪いと後続の選手にスパイクで踏まれるなんて惨事も起こりうる。
 ここをいかに超えるかが、SCの最大のポイントらしい。
221 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:16

 トップの選手は物凄く速くて驚いた。そして誰かに物凄い似ていて気になった。
 誰だろう?全く思い出せない。なんだかよく分からないけどほとんど着水せずに水溜りを超え、
 何週走ってもそのバネは衰えない。一体何者なんだろう。

 新垣はそんな先頭の選手を、動物園でパンダを見る子供みたいに目を輝かせて眺めていた。
 パンダじゃないか、象あたり。あまりのすごさに感動しているみたいだ。

 「吉澤さん……」
 「なに?」
 「私にもできますかね?」
 「無理」
 「速いですよ!」
 「男子しかないもん」

 そう、3000m障害は男子にしか存在しない種目。
 女子がこんなのやったらきっと力朽ちて次々と着水するに違いない。
 というか望んでやろうとする選手はきっといない。
 ヨンパーでさえ出場基準の割にそんなに参加選手が多くないのだから。
 でも新垣は残念そうにSCを眺めていた。

 『先頭はTの後藤君』
222 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:17

 SCの3組が終了すると、800が始まる。6組のうち3組ごとで区切りをおき、召集時間が20分差。
 だからごっちんと市井さんは珍しく別行動らしい。
 大会が始まると常に同じ種目の二人はいつも同じような行動を取っていたから、
 無理矢理でもそうするんじゃないかって勝手に思ってただけに、あたしにはそれが意外だった。
 でも、やっぱり都大会なんだということをすぐに知った。
 予選1組に市井さん、6組にごっちんという離れっぷりは凄まじい。
 わざとじゃないかと、意味のない疑いをかけてみたりする。そんなことは、勿論ないけど。

 見たくて見たくて仕方がない800予選だけど、それを見ていると100の準決勝のアップが間に合わない。
 仕方ないけれど、あたしもレースがある。 
 お互い通過して、決勝応援しあうことができれば、それが理想。あたしの中の。

 席を立つ。あいぼんと矢口さんは巾のため先にアップをしちゃったから、一人でのアップになる。
 一人でするアップは久しぶりだった。二次アップとかを外したらもしかして初めてかもしれない。

 「じゃああたし行くわ」

 新垣に一声かける。新垣は振り向くと笑顔で、

 「はい、応援は私に任せてください!それから吉澤さん」
 「なに?」
 「頑張ってください!」
 「……サンキュ」

 誰かさんもこれくらい前向きに生きられないもんだろうか。
223 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:17
 
224 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:18

 ここまで来ると偶然も必然に思えてくる。
 まるで神様が狙ったみたいに、ちょうどいいタイミングであややは通路を通ってあたしの前に現われた。

 「よっすぃ。アップした?」
 「これからー。一緒にする?」
 「ん」

 なんとなく、一緒に走り出す。去年は予選すら走れなかった、都大会。
 インハイへと繋がっている、唯一の大会。絶対にものにしたい。
 たとえ去年の覇者を蹴飛ばしてでも。
 でもそのためには、吸収できるものは吸収したいし、敵ではなくてライバルとして戦いたい。
 この間まではライバルと思っているのはあたしだけだと思っていたけど、予選の時に確信した。
 あたしが見る限り、初めてラストまで手を抜かずに走った、あやや。
 それはつまり、あたしのことを少しは認めてくれた、ってことだと思う。

 勝手な解釈かもしれない。甚だしい思い込みかもしれない。それでもよかった。
 燃えさせてくれる材料をくれるのならば、なんだって。
 あたしが目の前にある階段を駆け上るためには、必要不可欠なものだから。

 3周くらい外周を走ると外側へと出ていつものように体操、ストレッチ。
 そうしていると、どこかの学校の先生らしき人がやってきた。女の人で、年は多分40を過ぎたくらい。
 なんとなく、体が固まる。
225 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:19

 「松浦、どう?」
 「私はいつでも大丈夫です」
 「相変わらずだね」

 笑う先生と、一瞬目線が合う。軽く会釈すると、笑顔を返された。

 「吉澤ひとみ?」
 「え、あ、そうですけど?」

 なんで疑問系なんだよ。胸の奥で自らにツッコミを入れる。

 「あんたもそろそろ有名になりだしてるんだから、自覚しなよ」
 「…………ええ?!だ誰が!?」
 「あんただよ。都新人入賞して三支部で100優勝すりゃ誰だってある程度は有名になるさ」
 「あー、どうも」
 「ま、頑張って。って敵に言うことじゃないけどね」

 笑うと、先生らしき人はベンチへと戻るのか、通路の方へと歩き出した。
 姿が見えなくなったのをしっかりとチェックして、

 「……誰?」
 「うちの顧問。夏先生。結構有名だよ」
 「あたしそういうの全然わかんないからさ」
 「知らなすぎー」

 笑いながら心の中でふと、物凄くそういうのに詳しい人が思い浮かんだけど、
 なんとなく悲しくなった。ぼちぼち何か言葉をかけるべきなのかもしれない。
226 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:20

 召集に行くためにスパイク、ゼッケン、ユニフォームなどなど、
 道具を一式取りに来ると、ちょうど800の空き時間で、タイミングが悪かった。
 矢口さんもあいぼんも既に準備万端で、あたし待ち。急かされながら準備をすると、
 800に名残惜しみながらスタンドを駆け下りた。
 
 「ほらほらー」
 「あたし3組目だから平気ですよー!」
 「そんなこと言うてコール漏れ失格とかしたら恥ずかしすぎるし後悔するで」
 「そうだけどさ」

 そんな人そうそういないだろ、とか思いつつ、本当になったら泣くに泣けない。
 急ぎ足の二人を追いかけた。
 
 100m準決勝は3組2+2が決勝進出。ある意味組み分けの時点で運試し。
 ただ、同じ高校の人とは何があってもここでは当たらない。
 自分より速い人が自分の学校にいても当たらないから、
 あややと同じTで残っている岡田さんは決勝に行きやすい。
 同じように、Hの頼子と川島さん。
 あそこの場合はお互い敵が減った、って感覚なのかもしれないけれど。
 ただ、とにかく言えることは一つ。

 ――強い奴が勝つ。

 それだけは、確かに存在している、事実だ。どんな時だって。
227 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:21

 あたし達Iのトップバッターはあいぼん。相対するは岡田さん、頼子。
 嫌な組に入ってもうたわ、なんて笑ったけど、目は真剣だった。
 おそらく必死になって頭を動かして、悟ったのだろう。実力差を。
 頼子にはおそらく勝てない。岡田さんとはいい勝負ができる。+枠狙い、あわよくば2位で通過……。
 あいぼんの中で描かれた答え。あたしは祈った。一緒に決勝へと進出できることを。
 あいぼんは巾でダメだったから、これでいけないと、もう個人種目がない。
 どっちがメインという決め手に欠くあいぼんにとって、これはある種の危機なんだ、きっと。

 『位置について』

 スタートが持ち味のあいぼん。
 そのあいぼんを更に超える矢口さんがいるからリレーじゃ三走だけど、
 ほかの学校だったら絶対立派に一走を走れる脚力を、あいぼんは持っている。

 『よーい』

 魅せてよ、ロケット。

 バンッ!!

 刹那、あいぼんの頭の位置は誰よりもゴールの近くにあった。

 バンッ!!

 『3レーン』

 フライング。
 あいぼんは首をかしげると、腿上げを何回か繰り返して、スタートラインに戻った。
 これで次誰がフライングしても失格となる。滅多なことがないと審判も見逃すけれど。
228 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:21

 『位置について。………よーい………』

 バンッ!!

 仕切りなおし。今度はきっちりとフライングなし。それでもあいぼんは前にいた。
 でも、さっきよりやっぱりリードが小さい。全員集中力が保ちきれなかったのか、
 若干遅めのスタートとなった。

 「あいぼーーーん!!!行けーーー!!!」

 あいぼんがすることは、逃げること。
 スタートで稼いだリードを守って、逃げて逃げて逃げまくること。
 ただ、それはなかなか難しいらしい。

 まず予想外に岡田さんのスタートが速かった。ほとんどリードを取れない。
 こうなると同じくらいのタイムになる。そして後ろからぐんぐんスピードに乗ってくる、頼子。
 あっという間に二人を追い抜くと、後半70mで1位に。

 『先頭はHの高野さん』

 あとは2位争い。でもフライングの関係でこの組は多分、ほかの組より遅くなる。
 3位になったら、決勝はない。

 「あいぼん!!ラスト!!」

 長距離と違って応援されて根性を出せるものではないけど、
 少しでも追い風が吹くように、少しでも背中を押すように、声を張り上げる。
 スタンドから放たれる大歓声は、八人の選手それぞれの追い風となって、
 後押しする。そして短い旅は終わる。ほぼ同着でのゴール。微妙だった。
229 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:22

 あいぼんの結果は後々アナウンスされるという方向になり、あいぼんは生き地獄。
 結果を待つだけで胸が張り裂けそうになっているだろう。
 あたしも去年一回体験して、結局鉛筆を転がして外した記憶だけ、今も鮮明に頭に焼き付いている。
 ドキドキするだけドキドキして、弄ばれたような感覚。できれば避けたかった。

 『よーい』

 爆裂音が鳴り響き、ロケットは発射した。ロケットスタート。
 でも矢口さんは、巾決勝があるから実は時間のやりくりが大変だ。
 巾決勝は1時半から、100決勝は1時50分から。つまり、巾を跳びつつ途中抜けて100の決勝を走り、
 更に巾跳を続けるというタイトなスケジュール。
 だからもしかしたら、さほど通過する気はないんじゃないか……と思いながら見ていたら、
 やっぱりそうらしかった。矢口さん、明らかに全力疾走していない。

 矢口さんに100と巾を天秤にかけろと問いたら、間違いなく巾へと傾く。
 メインの種目だし、それ以上に去年都大会を通過することができず、
 1年通して思うような跳躍ができなかった、リベンジを果たさなければならない。
 そのためなら、100も平気で捨てる。仮に進出しても、8位でいいと言うんじゃないかと思う。
 欲張りなあたしには考えられない発想だけど。
 あたしは全部南関へ行きたい。100も、200も、リレーも、全部。

 矢口さんは最初だけスピードに乗ると、あとはたいして力を入れずに、
 気持ちよさそうに走っていた。5位くらいの位置でフィニッシュ。
 終わっても平気な顔をしていることから、いかに巾に対して決意を固めているのかが伺えた。
230 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:23

 そして、いよいよあたし。大事な大事な準決勝。またしても横にあやや。
 第二ラウンド。最速の称号である4レーン。
 決勝、あややをそこから弾き落とせたら、どんなに面白いだろう。
 余裕の表情を浮かべる王者に焦りを生ませることができたなら。
 頭ではライバルと思っていても、いざ横に並んでみると、やっぱり段が二つくらい違う気がする。
 都大会とインハイの差だ。それを埋めるために、あたしはレースを積んで、積んで。
 一本でも多く走れるように、頑張るほかない。

 「一緒に決勝行こうね」

 なんて甘ったるい台詞、一体どこから出してるのだろう。でもあたしは頷いた。
 行こう、一緒に。そしてそこで、決着をつける。

 『位置について』

 スタブロとスパイクがくっつく瞬間の音が、静かに響く。スタンドも静に注目した。

 『よーい』

 バンッ!!

 自画自賛していいほどのスタートを切った5レーンのあたし。
 対して4レーンのあややは、ほぼ同じ位置にいた。スタートは互角に出ることができた。
 これ以上のスタートはおそらくきれないだろうけど。

 強烈な向かい風が吹く。さっきまでなかったものだ。
 仮に3位になりでもしたら+枠で弾かれかねない。後ろから川島さんが来ていたけれど、
 あたしには1位しか見えない。
 あややに勝つ、プレッシャーを与える!
231 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:24

 向かい風の壁をぶち破ろうと、前傾姿勢のままタックルを続ける。
 空気圧はあたしの体と直撃を続けながら、尚も吹き荒び邪魔をしてくる。
 もがきながら前へ前へと進むけど、なかなかスピードには乗れない。
 横のあややも流石に苦しいのか、ほぼ真横の位置。差はない。この風を切り裂いたら、勝てる。
 そんな気がした。

 体を起こすと更に強い風がぶち当たる。苦しい。進まない。
 腕を一生懸命振って、足を前へと出して、それでも。
 今までで体感したことがない強風。恵まれてたんだな、とかそんなことを考える余裕もない。
 0.01秒でも速く、ゴールへ。それだけだ。

 半分を通過したとき、風に押されながらもスピードが上がってきたのを感じた。
 流石にここまでの加速がある。でもそれはあややも同じで、

 ――来た!

 風という名の壁を突き破るかの如き勢い。
 後半の爆発的なスピードアップは、この疾風の中でも健在。並ばれた。
 あたしの足の回転も、心持ち上がっていく。タータンを踏みつける力が強まって、体に力が入る。
 負けてたまるか。負けてたまるか。何度も繰り返す。

 『先頭はIの吉澤さん、Tの松浦さん』

 はじめて、はじめて競ってる。負けたくなかった。絶対に。
 たとえ僅かの差でも、同タイムで写真判定になっても、勝ちたかった。
 でもあややには、あたしよりも優れた脚力を持っていた。
 最後の一伸びが、勝敗を分ける。

 フィニッシュタイマー横を通過したときには、負けたことがはっきりと分かっていた。
232 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:25
 
233 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:25

 お昼休み、フィールドを使って感謝賞授与式なるものが行われている。
 去年インハイとかで活躍した選手が並んで名前を呼ばれたりするらしいんだけど、
 あたしの横には何故かごっちん。市井さんはもうとっくに行ってるのに。

 「ごっちん」
 「………ふにゃ?」

 音楽を聴いていて全く気づいていなかったのか、
 あたしの呼びかけに振り向いたのはあたしに肩を突かれてからだった。
 ヘッドフォンを外し、首にかける。

 「なに?」
 「あれ」
 「ん」

 あたしが指差した先にいる市井さんを眺めると、ごっちんの顔色が変わった。

 「行かなくていいの?」
 「よっすぃありがとっ!!」

 立ち上がると、凄いスピードで階段を駆け下りる。
 まるで800の決勝がもうはじまってしまったみたいなスピードで走ると、
 ごっちんは瞬く間に消えていった。

 「どうもいたしまして」

 ……怪我するなよ。
234 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:26

 感謝状が終わると、1時半から矢口さんの巾決勝。50分からあたしが100決勝。
 更に800決勝とリレーの決勝と、負けられない戦いが続く。
 どれも落としてはならない、大事な大事な戦い。
 中澤さんにマッサージを受けながら、精神を落ち着かせる。

 「惜しかったなぁ、順決は」
 「あとちょっとだったんすけどねー」
 「向かい風3mあって12秒台出ただけ立派やで」

 ふくらはぎをゆっくりと解していく。
 準決勝で予想以上に溜まった疲労が、少しずつではあるけど抜けていった。

 「でも12秒96で決勝ってのもアレっすよねー」
 「ほう、言うやないか。去年の今頃13秒台出してひーこら言うとったくせに、立派になりよって!うぉりゃ!」
 「痛い!!いたたたたたたたた!!」

 中澤さんは一通りあたしの体で遊ぶと、背中をバシッと音が出るくらい、叩いた。

 「南関、絶対行け」
 「………絶対、行きます」
 「よしっ!」

 もう一度、さっきよりも強く。痛かったけど、背中を押されたような気がした。
 荷物の用意をすると、あたしは召集場所へと歩き出した。

 「頑張って!」
 「負けんな!」

 みんなの声援を受けて、あたしはあややに勝つ。
235 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:27

 階段でスタンドの中断まで降りて、中央口の中から競技場の中に入る。
 階段を降りると通路が伸びていて、すごく涼しい。
 ごっちんが寝ていてもおかしくないんじゃないかと思いながら歩いていたら、案の定。

 「…………ごっちん?」

 と思ったけれど、すぐに違うと気づいた。顔は確かにごっちん。
 でも髪の毛が短いし、何より着ているジャージの色が違う。
 これはTのものだ。そっくりさんとはこの人のための言葉。偽ごっちんだ。

 「あ、よっすぃ時間ないよ?」
 「え?嘘」

 通りかかったあややに引っ張られ、あたしはそのままその場を去った。
 結局なんだったんだろう、偽ごっちんは。ごっちんの兄弟かなにかかな?

 100mの進行方向とは逆方向に進むと、当たり前だけどスタート地点に到着する。
 その付近であたし達は最後の調整。腿上げをして足を解すと、直線を使って流し。
 100決勝はトラック競技再開後一発目の種目だから、使い放題だ。

 足の状態は中澤さんのマッサージがあってかかなり良い。
 準決勝は強風に煽られてかなり遅かった上に体力を抉り取られたけど、まだいけそうだった。
 6番目でいい。都新人5位に入ったことを思い出して、一旦、心を落ち着かせた。
 大丈夫、まだいける。まだまだ、あたしは速くなれる。
 でもやっぱり、1番がいいかな。
236 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:28

 「では女子100m決勝の召集を行いまーす」

 男の先生の呼び声に反応して、8人全員が振り向く。
 先生の周りに集まって、それを確認すると、先生はプログラムの上に置かれた紙を読み上げ始める。

 「1レーン、2234番」
 「はい」

 頼子。Hは彼女と一緒に川島さんが決勝進出。
 ほかにもTがあややと岡田さんとここも二人決勝進出。うちは結局一人だけの決勝となる。

 「2レーン6311番」
 「はい!」

 返事からしっかりと。体中にやる気を漲らせて、気持ち200%の力を出す。
 我ながらかなり無茶のある考えだけれど、今なら出せる気がした。
 目の前で光ってる星を、打ち落とす。

 「3レーン2450番」
 「はい」

 あややをぶっ倒す。
 それだけ、今のあたしに必要な感情は、それだけの、だけどすごく強い、
 決意にも似た感情だけだ。予選から連続して隣のレーンということにも、運命、
 または宿命みたいなものを感じてしまう。感じているのは、あたしだけでも。
 感じさせてやる。これからはじまる、12秒間の戦争で。

 スタブロをセットする。いつもよりも入念に、しっかりと。
 蹴り出した感覚がいつも通りなのを確認すると、20mくらいダッシュして止まった。

 「よっちゃん!!」

 スタンドから声がする。見上げてみると、あいぼんがいた。
 準決勝で結局残ることができなかった、あいぼん。
237 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:29

 「……サンキュ」

 呟いたけど、きっとあいぼんには聞こえなかっただろう。手を振ると、戻った。
 大一番、集中力を最大まで上げていかないと、絶対に戦えない。両頬を叩く。

 巾のピット付近に矢口さんが座っていた。話しかけるかどうか、迷いはなかった。
 あたしは方向転換すると、スタートラインの後ろまで歩いた。向こうも今、決闘をしているんだ。
 お互い頑張れ、と心の中で呟き合えば、それで充分だ。
 集中力を切らすような真似だけは、絶対してはいけないから。

 肩を回す。その場で片膝ずつ折り曲げると、二回、小さく飛んだ。
 短く息をして、目を閉じた。

 「…………よし」

 開けた視界の先、あたしが走る2レーンは、黄金に輝いて見えた。
 いつものおなじみのメロディが流れ、いよいよ舞台は整う。

 『それでは、女子100m競争、決勝。1レーン――』

 一人一人の名前が挙げられ、その選手が手をあげて一礼するたびに、スタンドから拍手が沸く。
 でも人によって差は大きい。例えばあたしは小さいけれど、

 『3レーン、2450番。松浦さん、T』

 パチパチパチパチ――!!!

 『あややーーー!!』

 歓声。総部員100人を超す上にファンを得ているあややの応援は、やはり物凄い。
 でもそれに推し負けるわけにはいかなかった。歓声は全部、味方。
 敵なんかいない。
238 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:30

 『位置について』

 今まで何度も聞いてきたこの言葉。今日はやけにはっきりと聞こえた。
 逆に歓声が全く聞こえない。スムーズにスタブロに足をかけると、
 微調整を繰り返しながら主導権を握った。

 『よーい』

 もう頭の中には、あややを倒すことしかない。

 バンッ!!

 音が鳴った時には体が前へと出ていた。フライングすれすれ、銃声はない。
 これ以上ない形の、完璧すぎるスタート。でも喜んでいる暇はなかった。
 逃げなければならない。最強の称号を欲しいがままにする、彼女から。

 低弾道で飛び出したライナーはぐんぐんと伸びていく。
 準決と打って変わっての追い風は、あたしを更なる高みへと乗せてくれる神風に。
 でもその神風を浴びているのは、あたしだけじゃないみたいだ。

 ――来た!

 後ろから感じる、強烈過ぎるまでのオーラ。速くも来た。
 あたしの頭の中にあややを倒すことしかないように、あややの頭の中にも、優勝の二文字しかない。
 でも、片方は必ず打ち砕かれる。どっちかが。

 まるでモーターが回転速度を上げるように、あたし達は加速して、
 トラックを蹴散らしスピードを上げる。右斜め後ろの殺気が真横に変わったとき、
 既にレースは終盤に差し掛かっていた。
239 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:31

 ――逃げろ、逃げろ、逃げろ!

 逃げろ、ひたすらに、とにかく逃げろ。絶対に勝つ、絶対に勝つ。
 勝つ、勝つ、勝つ!気持だけは、絶対に負けない。負けてたまるか。
 気持が高まれば高まるほど、スピードが増していく。
 そして、その場にはあたしとあややしかいないような気分になる。
 ラスト30mを切ったところで、きた。と同時に、いつだったか、
 みきちゃんさんが言っていた言葉を、思い出す。

――ロケットスタートと後半の爆発的な伸び。それが松浦亜弥のスタイル――

 それに飯田さんは、敗れた。残り30からの追い上げで、いとも簡単に抜き去られて。
 でもあたしは負けない。向こうが爆発的に伸びてくるのなら、あたしも伸びればいいんだ。
 何か間違っている気がしたけど、今のあたしの中では正論だった。

 『激しい争いとなりました、女子100m競争決勝』

 ――くそーーーーー!!!

 負けない。絶対に負けない。負けたくない。
 思えば思うほど、願えば願うほど、腕は加速していく。足も回転が上がっていく。
 抜かれないように、離されないように。でもラスト10m、あややの胸が、あたしを抜いた。
 もうこれ以上、スピードは上がらない。あややは減速することなく、だけどあたしより速く、
 ゴールラインを通過した。
 
 『優勝はTの松浦さん』

 大きな拍手。いらなかった。
240 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:32

 「お疲れ様ー!!」

 みんなの声と拍手に迎えられ、あたしは疲れた体をベンチに下ろした。
 本当に疲れた。負けた。やられた。本気を出させたのだけはうれしいけれど、負けた。

 「すごいじゃんベスト大幅更新して」
 「はい……」
 「12秒66だよ66。松浦も12秒61だから、準決勝で疲れさせた結果だよ」
 「66?!マジっすか?!ってええーーー!!」
 「よっすぃ驚きすぎ。大丈夫?」
 「っていうか、いいいいい飯田さん?」
 「?そうだよ」
 「ど、どうしたんですか?」
 「何が?」
 「何がって………髪」

 長かった髪の毛をばっさりと切ってしまった飯田さんは、何もないような顔で平然としている。
 不思議でならなかったけど、私服のその姿を見ると、大学生なんだな、となんとなく思った。
 ちょっとして、去年の都大会決勝レースを思い出した。
 嫌な気分になって、申し訳ない気分になった。
241 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:33

 「ごめんなさい。仇、取れなくて」
 「え………ああ。いいよ、別に」
 「でも」
 「それに、まだ続きあるでしょ?南関」
 「え?」

 何がそれに、なのかはよく分からなかったけど、言われてから気づいた。
 南関。あたしが南関に………出る?

 「南関?南関………えー!?」
 「なに今更驚いてんの。2位よあんた」

 保田さんが呆れた顔で呟く。2位?あたしが、2位?
 あややに負けたダメージが大きすぎて、そんなことなんにも気づかなかった。

 「うおーーーー!!!やったー!」
 「バカ」

 中澤さんのそんな声も気にならない。
 とりあえずまだ、あややと戦えることが、すごくうれしかった。
 まだまだ、チャンスがある。夏は終わってない。
 
 「よっすぃ」
 「はい!」
 「………南関は、勝ってよ」
 「…はい!」

 飯田さんの問いに、あたしは力強く答えた。
242 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:34

 Aピットで行われている走幅跳決勝。矢口さんは独壇場らしい。
 三回の跳躍を終えて5m30のベストタイ記録でトップ。2位との差は25cm。
 8にしっかりと残り、勝負は決まったも同然。余裕の表情を浮かべていた。
 残り三回の跳躍もきっと楽に決めるんだろう。

 トラックでは、こちらももはや出来レース同然、800m決勝。
 1、2位がもう決まったも同然なだけに、見る気があまり起きない。
 でも……そんなこと考えて、すぐに気がつく。100の決勝もそうだったんじゃないの?
 周りから見たらあたしが負けて当たり前、2位になっただけで既に番狂わせ。
 最後はやっぱりあややが勝った……そう見えたんじゃないの?なんだか無性に悔しくなってきた。
 すごく、凄まじく。激情という言葉の意味を体感した。

 「飯田さん!」
 「ん、なになに」
 「あたし、勝ちます!南関、あややに勝ちます!」
 「すっごく気合でいいんだけどさー、さっき約束したじゃん」
 「うっ」

 なにやってんだ、あたしのバカ。

 「はじまるわよー」

 保田さんの声に、視線はトラックへと一気に集まる。
 あたしもさっき恨めしく思えたゴールラインを見た。
 ごっちん、市井さん、みきちゃんさん、コレティ。今日二本目の疲れは当然あるだろうし、
 去年ごっちんは確かに苦しんだけど、あたし達は期待していた。爆走を。
 そして数十秒後、あたし達が期待する以上の光景が待っていた。
243 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:35

 「ごっちーん!紗耶香ー!!」

 独走。まるで二人だけのレース。
 開始直後、客席全員の目が点になってしまうほどの勢いで飛び出すと、もう止まらなかった。
 二人が目指すは大会記録。2分8秒82。信じがたいタイムだけれど、二人なら出せるような気がした。
 
 二周目市井さんが離れる。後ろを振り返りながら、
 これ以上飛ばさずともいけると判断したのかもしれない。でもごっちんは止まらない。
 1周目のラップは63秒。ベストを出したときのラップは64秒って言っていたから、
 2周目でいかに落ちないかが勝負。一人で走るのも大分マイナス要素といえた。

 たった一人で走るよりも、速い選手に引っ張ってもらったほうが確実にタイムが出る。
 競っている感覚が選手にいい影響を与えるのは間違いないし、自分より速い選手はつまり、
 自分よりレースをよく知っている。でも、ごっちんより強い選手となると、限られてくる。
 少なくとも東京都にはもう、存在しない。

 今もがきながら走るごっちんは、もう東京では敵のいない状況だけど、
 全国にいけばまだまだ強い選手がいる。東京都記録を切ることがもし、あるのなら、その時だろう、
 きっと。

 「ごっちんラストー!!」

 フィニッシュタイマーが指す時間は、2分8秒を経過した。
 そして2秒もしないうちに、ごっちんはゴールした。2分9秒91。
 市井さんを除くほかの七人はまだ、ラスト50mで争いを繰り広げていた。
244 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:36

 「お、みきちゃんさん」

 呟く。今回も彼女は競っていた。400に続いてのデッドヒート。
 五人で四枠の争い。落ちるのは、たった一人。集団の中からはコレティが抜け出した。
 みきちゃんさんは囲まれて、出られない。

 「ラスト!!行けるぞー!!」

 苦しそうな表情を浮かべているのがスタンドの最上段からでも分かる。
 限界はとっくに来ているみたいだ。でも、あとたったの数十メートル。
 これまで刻んできた距離に比べれば、僅かな距離だ。

 「がんばれ!!!」
 「ああ!!」

 みきちゃんさんは集団の最後尾に落ちこみ、そのまま800mを走り終えた。
 少し、悲しい気分に襲われた。でも、これで来年もここに帰ってこなきゃいけない理由が出来たはずだ、きっと。
 去年の借りを今年返したように、来年もきっと、やってくれる。
 少なくともそう、あたしとあややは信じてるよ。

 『ここで巾跳Aピットをご覧ください』

 言われるがままに視線を向ける。そこでは相変わらず巾決勝が行われていた。
 ただし5回目の跳躍で、矢口さんが、

 「嘘!」

 2位になっていた。

 『5回目の跳躍でWの北上さんが5m38の記録でIの矢口さんを抜き逆転しました』

 そして、次の跳躍は、矢口さん。矢口さんのベストは高一の時の5m30。
 その時は将来のインハイ優勝候補と東京都で期待されたという。
 その後怪我で苦しみ続けた矢口さん、高一の自分を超えられないまま、
 今ここで、絶対に超えなければならない局面を迎えた。
245 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:37

 ピットに立つ矢口さん。スタンドのてっぺんから見ると、とてつもなく、小さい。
 でも、とてつもなく大きな可能性を秘めて今。とてつもない大勝負。
 ここで跳ばなければ、ラスト1回の跳躍で抜かなければならない。それは精神的にも非常にきつい。
 周りの注目が行っている今、決めたいのは確かだ。

 いい風が吹いていた。追い風参考にならないギリギリの、追い風。
 矢口さんを後押しする、応援するサポーターとなれるか。白い旗が上がる。
 矢口さんはすっと、真っ直ぐ手を天高く掲げた。

 「行きまーす!」

 前傾に構え、背中で息を吸う。腕で反動をつけると、矢口さんは飛び出した。
 最初は遅く、踏み切り板との距離が短くなればなるほど、矢口さんは止まらない。
 そして思いの丈の全てをプレートにぶつけた時、最高のジャンプが飛び出した。

 着地した瞬間、巻き起こる砂嵐。
 砂の上に刻まれた軌跡は、矢口さんの勝利を確信付けるものだった。
 純白の旗が風に靡く。追い風2mと計測される。計測員がすぐに動いた。
 記録が読み上げられると、ボードに記録が表示され、スタンドに向けられた。

 6305 5m45

 『矢口さん再逆転です』

 スタンドが沸く。矢口さんは惜しげもなく高く、高く拳を振り上げた。
246 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:38

 暫定2位だった北上さんの2位が確定すると、矢口さんは6回目を前にして優勝が確定した。
 となると、やることは一つ。これが巾跳における一番の快感といっても過言ではない。

 『先ほど優勝を決めましたIの矢口真里さんの6回目の跳躍です』

 みんなでスタンドの下段にまで降りた。矢口さんを見に。
 ごっちんも市井さんも、もう戻ってきていた。矢口さんはそれを確認すると、
 ピットの上に立って、手を左右に大きく伸ばした。

 パチッ、パチッ、パチッ。

 頭の上で掌を弾き合わせ、スタンドに拍手を煽る。あたし達も勿論、それに乗る。
 少しずつ大きくなっていく手拍子の音。やがてそれはスタンド全体に伝染し、
 競技場は矢口さんのものとなった。
 スタンドを支配する感覚。巾優勝者だけに送られる特権だった。

 矢口さんは大きな拍手の中構えると、駆け出した。
 拍手に合わせて矢口さんのピッチはゆっくりと回る。
 段々速くなる回転、あわせるように速くなる手拍子。あたしが見てきた今までで、一番速い助走だった。
 勝ちの決まった今、多少無理をしても、記録を出しに行くのだろう。

 手拍子のBPMが最高潮に達した瞬間、矢口さんはプレートを踏む。
 それと同時に拍手は、最後の一押し。それっきり止まる手拍子。
 スタンドは音のない森となって、矢口さんを包んだ。
 そしてすぐに、大歓声。

 「すげー!!」

 さっきを大ジャンプ。5m50は超えていた。

 赤旗が上がって、歓声はどよめきに変わったけれど、
 矢口さんは最高の笑顔をみんなに送っていた。
247 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:38
 
248 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:38

 トラックではSCの決勝が、いつの間にやら行われていた。
 先頭を走っているのは、さっき新垣が熱い視線を送っていた、あの選手。
 水壕をもろともせずに飛び越えていく。名前は確か……。

 『先頭はTの後藤君』

 後藤君、そうだ後藤君。………………後藤君?顔をよく見る。
 視線をあたしの横にいる我が校最強エースに移す。もう一度後藤君。
 エース。後藤君。エース。後藤君。

 「えーーーーー!!!?あ、あ、あ、あ、あ、あれごっちんと激似?!」
 「ていうか姉弟?」
 「姉弟ーーー!?」
 「あ、沈んだ」
 「え?………水没ーーー?!」
 「よっちゃんうっさいでぇ、もうちっと静かにしてきーひんか?」
 「すみません」

 あまりの衝撃にテンションが上がりまくった。
 最高潮に達したあたりでごっちん弟は足を引っ掛けると、水壕にDIVE TO BLUE。
 なんか使い方間違ってる気もするけど、決勝なのに棄権となってしまった。
 でもごっちんは別段変わった様子はなくて、心配はしてなさそうだった。
 呟かれた言葉も、

 「バカ」

 くらいだった。
249 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:39

 SCが終わると800mの表彰式が行われて、ごっちんは表彰台の一番高い所に立っていた。
 正直、うらやましかった。あたしはあそこに立てなかったから。
 二段目、二番目に高い所で、くすぶっていたから。
 横に立つ市井さんと腕を組んで立つごっちんはとても堂々としていて、
 底を全く感じさせない笑顔だった。

 カシャッ、カシャッ。

 「ええでー、ええでその笑顔―」
 「変態がおるわ」
 「一応顧問なんだから変態とか言わないであげようよ」

 賞状が次々と渡されていき、7位入賞、都大会で姿を消すことになったみきちゃんさんの番が来た。

 「ミキティー」

 でも、そこには悲痛な顔はなくて。笑っていた。笑顔で。精一杯の笑顔で。
 いつもならぶすっと仏頂面でいるはずのみきちゃんさんが、賞状をスタンドに向けて笑顔で写真を撮っていた。
 それはあたしの中の何かを変えてしまえそうなほどのインパクトを持っていて、
 胸がちくちくと痛んだ。

 「みきちゃんさん」

 表彰式が終わり、各自勝手に撮影を行う中、あたしは写真を撮り終わった彼女に呼びかけた。
 彼女はまだ笑っていた。
250 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:40

 「なーに?」
 「がんばれ」
 「…………うん」

 余計なお世話かもしれないけれど、これだけは言っておきたかった、一言。
 笑顔で頷いてくれたみきちゃんさん。今だけで一年分の笑顔を見たのは、きっと気のせいじゃない。

 彼女は多分、悲しんでいる暇がない。
 この後リレーがあるし、それもまた都大会優勝を賭けて戦わなければならない大事な一戦。
 落ち込んでいる暇なんか、ないんだ。

 「行くか」
 「はい!」

 勢い的にはばっちり、ただ体力が心配な矢口さん。
 100を二本全力で走って、正直ちょっと疲れてるあたし。
 でもその代わり、今日一本走っていい状態のあいぼんと、またも入念な調整をしてきた高橋。
 決勝を戦うコンディションとしていいのか悪いのか、多分良くはないのだろうけれど、
 やるしかなかった。

 「絶っ対に、通過するよ」

 矢口さんのその一言を合図に、あたし達は出発した。

 召集場所で時間を待っているとき、溜息をついているあいぼんが目に付いた。
 気になって、すぐに話しかける。

 「どうしたの?」
 「あー、なんかイマイチテンション上がらんねん。足引っ張ってしまいそで」
251 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:41

 モチベーションの低下。
 準決勝で敗れてからテンションが低いのを、あいぼんはいまだ引きずっていた。
 やる気がない、といったら言い過ぎなのかもしれないけれど、がんばれそうにない、
 というのが正直なところなのかもしれない。

 「がんばってもらわなきゃ困るんだけど」
 「いや分かってんねん、充分分かってんねんけどな?なんかな〜」
 「これで南関出ればいいじゃん」
 「みんなの力で連れてってもらうってなんかちゃうやん?」

 ダメだ、ひどいテンションだ。どうしよう。
 困り果てたあたしに話しかけてきたのは、今一番乗っている人たち。

 「よっすぃ調子はどう?」
 「え、あたしぶっちゃけ疲れた」
 「私もー、アハハ」

 出やがったなライバル。
 と意味の分からないナレーションを頭の中で唱えて、やる気をあげてみる。
 あやや、みきちゃんさん、麻美さん、そして………、

 「えーっと」
 「岡田唯。同じ二年生」
 「よろしく」
 「よろしく」
252 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:41

 そういえば、決勝にこんな胸の大きな娘いたなぁ、と、我ながら嫌な思い出し方をしてしまった。
 顔は大らかなで天然な雰囲気が出ていて、なんだかふわふわしている印象。
 本当に速いんだろうか、って疑いたくなったけど、決勝に出ていたんだ、間違いなく速い。

 「岡田さん何走?」
 「三走だよー」

 三、まであたしの耳に届いた時、あたしの横でかすかに反応した短距離の相棒。
 あたしは見逃さなかった。
 四人が去っていった後、あいぼんは漸く口を開いた。

 「あの岡田って娘、負けたんやうち」
 「胸のでかさで?」
 「ちゃうわ!!準決勝のレース、あの娘に負けて2位取られてん」
 「…………」

 そういえば、そうだった。
 結局岡田さんは8位でいけなかったけど、確かにあいぼんを破って決勝へと進んでいた。

 「よっちゃん」
 「なに?」
 「前言撤回して、ええか?」
 「え?」

 あいぼんは右掌と左拳をぶつけて、いい音を響かせた。
253 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:42



 「あいつには、絶対負けへん」


254 名前:26th_Race 投稿日:2005/05/01(日) 01:42
26thRace「スマイル」終。
27thRace「つめ」に続く。
255 名前:おって 投稿日:2005/05/01(日) 01:43
なんだか宣言どおり1週間ぶりの更新となりました。なのに久々な気がするのはなぜだろう(汗

>>212 名無し読者さま
   そうですね、あんまし無理して体を悪くしてもしょうがないですし。
   ご気遣いありがとうございます。
256 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/02(月) 02:12
この話さわやかですごい好きです。
学生時代もう少し真面目に部活やっとけばよかったって気にさせられます。
続き期待してます。がんばってください。
257 名前:春嶋浪漫 投稿日:2005/05/02(月) 09:52
更新お疲れ様です。

やっぱライバル同士の戦いは読んでいてもいいものですね。
ライバルが現れることによって成長する部分もたくさんありますからね。
まぁ〜結局はライバルに勝たなきゃ先には進めないけど・・・

次回更新も楽しみに待ってます。
258 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:09
27th Race「つめ」

 「あいつには、絶対負けへん」

 渇いた音が気持ちよく響くと、左手の拳に力が入る。

 「絶対に」

 もう一度、今度は小さな声で。あいぼんの目は燃えていた。
 それはあたしがこの部に入ってから、初めてのことだった。こんなに燃えている、熱くなっているあいぼん、
 見たことがない。それほどまでに岡田さんに負けて決勝行きを逃したことが悔しいのだろうし、絶対にリベンジをしたいんだろう。
 熱気をひしひしと感じて、分かる。

 そんなあいぼんを見ているうちに、あたしも触発されてきた。
 あたしだって、借りを返さなければならない、相手がいる。

 「あたしも……あややを倒す」
 「……よっちゃん」
 「負けたのは認めるし、いいわけもしない。全力でぶつかって、負けたんだから。でも、だから、絶対勝つ」

 うまく言葉にならなかった。気持ちが胸にこみ上げてきて、体が熱い。
 きっとあたしも、燃えている。あややを倒そうと。Tを倒そうと。

 「よっちゃん、男やな」
 「……任せろ」

 右手の拳を突き出す。
 あいぼんの左の拳に当てると、あたし達は各バトンゾーンへと散った。
259 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:10

 疲れた顔をした矢口さんが、スタブロを組んで準備をしている。
 時折頬を叩くような仕草をして、気合を入れているようだ。
 あたし達の想いを、分かっているのだろう。敗北の悔しさを、誰よりも知っているから。
 負けることがいかに苦しいかを、誰よりも。
 小さな体を何回も空中へと跳ね上げる様子は、心に響いて、震えを起こさせた。

 20歩をしっかりと測って、テープを貼り付ける。矢口さんの足がここを通過したら、ゴー。
 ひたすら逃げて、バトンを待て。矢口さんの疲れを考えると19にしてもいいように思えたけど、
 妥協をしていたら都大会なんて絶対に抜けられない。
 やれるだけのことをやりたい、後悔は残したくなかった。

 Tの走順はみきちゃんさん―あやや―岡田さん―麻美さん。
 みきちゃんさんと矢口さんなら、矢口さんの勝ち。
 つまりあたしは、リードした状態で、あややを迎える。逃げなければならない。
 東京都最強のスプリンターから。逃げ切って、あいぼんに渡さなければならない。
 というか、渡す。絶対に。あいぼんにそう誓ったし、あいぼんだってそのつもりのはずだ。

 「……ふう」

 自信も、根拠も、なんにもないような状態だったけれど、
 勝つ、という気持ちだけは全身に漲っていた。

 勝ちたいじゃなくて、勝つんだ。
 あたしはバカだけど、その言葉の意味は理解しているつもりだった。
260 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:11

 『それでは女子4×100mリレー、決勝のスタートです』
 『位置について』

 5レーンに構えた矢口さん。4レーンにどっしりと構える、王者T。
 逃げ切れるか、いや逃げてやる。矢口さんとみきちゃんさん。
 負ける辛さを知っている同士の勝負。

 『よーい』

 バンッ!!

 はじまってしまえばあたしができることは、矢口さんを信じて待つこと。
 精一杯走ること。仲間を信じること。それだけ。
 でもそのたった三つができるかできないかで、リレーは決まる。

 「!」

 みきちゃんさんのスタートは、
 凄まじくて、矢口さんのロケットスタートが霞むほどのものだった。
 矢口さんとほぼ同レベルのスタート。どう考えても中距離選手とは思えない、規格外の飛び出し。
 矢口さんも予想外に差をつけられなかったことに驚きを覚えているのか、一瞬後ろをチラ見した。
 まずい。そう思ったときには遅かった。追いつかれる。
 この時点で追いつかれるということは、
 内側のレーンであるTが圧倒的優位に立ったということになる。
 でも、あたし達は負けない、絶対。腹が決まった。

 あたしは矢口さんがテープを踏んづけた次の一歩で飛び出した。
261 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:12

 例えば歩幅20歩のところではなく21歩で取ったら、矢口さんが走る距離は増える。
 追いつくまでに要する時間が増えるからだ。でも逆に、19歩なら、あたしが走る距離が増える。
 ちょっと詰まって減速しちゃうかもしれないけれど、

 ――全力で走ればその不安も消える!

 矢口さんのことは、見ない。後ろを振り向いてたら、きっと負けるから。
 逃げる。
 矢口さんから逃げて、トップスピードに速く乗る。そして、

 パシッ。

 ――取れた!逃げろー!!!

 カーブをすぐ曲がり終える。あややもあたしの横につく。絶対に抜かせない。
 絶対にこの先、あたしより先に、行かせない。
 バックストレートの直線、向かい風に押されながら走る。
 今日三本目の100m。辛いに決まっている。でも、条件はあややも同じ。
 なら、負けるわけにはいかない。するつもりもないけれど、いいわけだってしない。
 ここで勝つ!

 あたしにとって風は敵でも、あいぼんと高橋にはきっと味方になるから、あたしが耐える。
 耐えて耐えて、赤いタータンを蹴って蹴って、突き進め!
 スピードは上昇気流に乗って、気持ちも体も、全部それに乗せて。
 視線の先で待っている、段々と大きくなってきたあいぼんに標準を合わせる。
 あそこまで、あそこまでは、絶対に抜かせはしない。

 あいぼんが走り出す。目標が逃げる。あややより先に、追いついてやる。
262 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:13

 苦しかった。足の動きも決して良くなかった。
 でもあややのスピードも伸びない以上、あたしは足を緩められない。
 あと数秒、あと数秒の辛抱、そう言い聞かせて、遂に走り出したあいぼんに追いつく。
 でも少し遠い。

 ――追いつけ!!

 「はい!!」

 手を伸ばす。あいぼんも右手を横に出し、大きく掌を開く。
 あたしは体ごと伸ばして、バトンをなんとか届かせたけど、そのまま転んだ。
 あいぼんは一瞬気にかけたけど、すぐに駆けて行く。
 そう、今はあたしを心配してる場合なんかじゃない。
 ほぼ同時にバトンを受け取った岡田さんも、すぐにスピードを上げていった。

 「はぁ…はぁ…」
 「よっすぃ……」
 「え?」

 あややが、あたしに話しかけてきた。手を差し出して。

 「次は、勝つよ」
 「………次は、勝つよ」

 ぎゅっと握り締めて、がっちりと握手を交わす。
 そのままあややはあたしの体を引っ張り起こすと、擦り傷に体がズキズキと痛んだ。
263 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:14

 準決勝、あいぼんはきっと決勝に本気で進出するつもりだった。
 自信のあるスタートも、完璧なものだった。
 なのに、岡田さんはそれに負けないスタートをかましてきた。
 そしてラスト振り切られ、敗北。あいぼんにとって、それはこれ以上にない屈辱だったはずだ。

 あいぼんは負けず嫌いだ。
 自分よりうまいモノマネをかます人がいればすぐさま練習してくるし、矢口さんのスタートにだって勝つ気でいる。
 だからこの勝負、絶対負けるわけにはいかないんだ。絶対。

 あいぼんは5レーン。岡田さんは4レーン。不利なのは素人から見ても明らか。
 岡田さんのほうが内側にいる限り、あいぼんは更に速い速度で走らないと勝ちはない。
 でも、あいぼんは歯を食いしばって、前を走っていた。
 岡田さんの表情に焦りが見える。

 ――うちは決勝走ってへん。岡田は走った。負けてる場合ちゃうで自分!
    絶対負けへん。何が何でも。こいつにだけは!

 あいぼんの思っていること、全部胸に伝わってきた気がした。
 そしてその想いは全て、あいぼんの力となって、力強い味方となった。

 「あいぼんファイトーーー!!」

 たくさんの人たちが座っている会場から、たくさんの歓声が飛び交う。
 そのどれにも負けないように、あたしは叫んだ。岡田さんに負けるな!

 あいぼんはカーブを、岡田さんよりも先に、曲がり終えた。
264 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:15

 「はい!」

 高い声が響いて、バトンは亜依から愛へ。

 パシッ!!

 今繋がれた!
 高橋は恐ろしいスピードで直線を走っていく。まるで海を泳ぐ魚のように、果てしないスピードで。
 優勝へ向かって、一直線に進む。

 後ろから麻美さんが追いかけてくる。
 高橋は全くそれを気にしていないのか、前だけを見つめ続けて、体も完全に前へ。
 理想的なフォームで、力強い走りを見せるその姿は、とても100で支部予選にすら出ていない選手とは思えないものだった。
 でも、追いかける麻美さんも、200南関の実力者。このままでは終わらせない。

 じわりじわり、差が詰まる。
 高橋は快調に飛ばしているけれど、ルーキーに負けるわけにはいかない麻美さん、
 恐ろしいピッチで進む。スタンドの多くの応援団を味方につけて、声援が大きくなるほどに、
 ぐんと強くなって。

 「高橋ラスト!!」

 南関出場とか、そんなんじゃない。今欲しいのはそんな称号じゃなくて、都大会優勝。
 Tに勝ったっていう、事実。

 ――苦しいわー。でも負けるわけにはいかんがし!

 「よし!」

 加速。縮まりつつあった二人の差が、そこでストップする。
 残り40、30、20m。気づくとあたしは拳をぐっと強く握って、その場から動けずにいた。

 『優勝はI』

 うれしい。
 そんな単純な感情が、こんなにも泣けるものだなんて、知らなかった。
265 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:15
 
266 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:16

 「吉澤、お前授業を何だと思ってんだ?」
 「………弁当までの待ち時間?」
 「廊下に立ちたいみたいだな……」
 「先生面白ーい。そんな水の入ったバケツ持って廊下立つなんて、現代っ子じゃとてもじゃないけど」
 「やれーー!!」

 気づくと女子高にしてバケツを両手に抱えて廊下に立たされる、アホ一匹。あたし。
 21世紀入ってはじめての生徒なんじゃないの?
 とか思いつつ、窓から見えるごっちんの無防備な寝顔に溜息をついた。
 ごっちんは成績いいからいいのかよ。

 バケツを置いて、汚い廊下に腰をおろす。
 足を伸ばすと、壁に寄りかかって目をつぶった。疲れた。この二日間は本当に疲れた。
 それなのにここはまだ折り返し地点。都大会は長い。

 「疲れたー……」

 疲れた。素直な感想。
 心身共に極度の緊張の中戦い抜いた疲労は、一日ぐっすり眠ったくらいじゃ取れるわけがない。
 でも、疲れていたけれど、うれしいの確かだった。
 飯田さんの言葉をまた一つ、思い出す。

 「都大会は忙しければ忙しいほど嬉しいものでさ。1種目じゃ足りないもんだよ」

 そう、1種目じゃ、足りない。無論、2種目でも、足りない。
 来週の200とマイルも、全部南関に行ってやる。胸に大きな誓いを立てたところで、
 あたしは強烈な睡魔に襲われて、そのまま夢の中へと落ちていった。
267 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:17

 「よっすぃどうしたの?」
 「え?」

 アニメ声の囁きに起こされ、どうやら休み時間になっていたことに気がつく。
 先生も呆れて去ったんだろう。ああ、平常点やばそうだ。
 あたしはゆっくりと体を起こすと、立ち上がってスカートの汚れを払い落とした。
 欠伸をする。

 「あのさ」
 「な、なに?」

 梨華ちゃんの声がこわばる。あたしが何を言おうとしているのか、分かっているみたいだ。
 罰の悪そうな顔をしている。だからあたしはあえて一度口を閉じた。
 吐き出そうとしていた言葉を飲み込んで、別の言葉をチョイスする。

 「しばっちゃん、がんばってたよ」
 「えっ…………」
 「決勝行った。ブービーだったけど」
 「…………………」

 梨華ちゃんは固まったまま、何も言わずにただ黙りこんだ。
 その歪んだ瞳が何を思っているのか。
 あたしが望んでいるような想いを、抱いてくれているのなら……。

 「体調悪かったから……それだけ!」

 逃げるように、自分の教室へと戻っていく梨華ちゃん。
 あたしはその背中に、何も言えなかった。
268 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:17
 
269 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:18

 月曜から金曜でできることなんてたかが知れている。
 下手にがんばって疲れてしまうよりも、調整して、
 いかに自分のコンディションを100%に近いところへと持っていくか、そっちのほうがずっと大事だ。
 でもあたしは、100%以上を目指して調整を続けた。
 そうしないと、あややには勝てないし、高橋にだってきっと、勝てないから。
 現に、100は勝てなかった。
 つまり少なくともあれ以上の力を発揮しないと、あたしは決して彼女を下すことなんてできない。
 200という種目自体、得意とも言えないし。

 そうして迎えた都大会三日目。今日から後半戦。
 200、3000、マイルの予選。フィールドでは砲丸投。トラック最初の種目は、

 「あれ、もう100mHやってますよ?」
 「あれは七種競技のトッパーやで。普通のトッパーとはちゃうねん」
 「七種競技?」
 「トッパー、200、800、高、砲丸、巾、やり投げ。これを二日でやって、合計点の高い奴が優勝」
 「二日ー!?」

 相変わらずいいリアクションを見せるのはお豆。
 いつの間にか顔が小さいという理由でそんなあだ名をつけられた新垣は、
 案外気に入っているのか、お豆と呼ばれるとはい、と笑顔で答える。
270 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:19

 「二日って、体持つんですか?」
 「体力勝負や」
 「すっごいなー……」

 七種が行われるのは三日目四日目だから、このハードルが最初の種目となる。
 なんでも記録によって点数が決まっていて、その合計点で競うらしいから、苦手な種目があってはダメ。
 万能な選手じゃないと絶対にできない、更にタフでないといけない、
 一番厳しい種目かもしれない。

 「七種、か……面白そうなんやけどなぁ。やってみようかのう」
 
 高橋がふと呟く。冗談でもなんでもないらしく、その目は本気だった。
 でもあの種目、やってみようかのう、という意志だけではできなかったような気がする。

 「七種の競技でなんか一種目でも東京都の五十傑入らんと出れへんよ」
 「えー」
 「なんですか?五十傑って」
 「東京都で速い順に五十人名前を並べんだよ。
  例えば800は1位ごっちんだから、そっから50位の人までが乗る」

 因みにあたしは去年、乗ることはできなかった。

 「なんだ、簡単じゃん」

 高橋は今度もやっぱり、本気で言っていた。
271 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:19

 すぐにアップをしに競技場の外に出てからも、高橋の自信は全く揺らいでないみたいだった。
 表情から何かを確信しているようにさえ思える。……もしかしたら何も考えてないだけかもしれないけど。

 支部予選の順位は高橋が1位、あたしが3位、矢口さんが5位。
 高橋は、本当に速かった。去年の200の決勝で25秒台を出していた選手はたったの2人。
 あややと、マサオさん。つまり高橋は現時点で既に関東行きをほぼ決めている。
 去年よりも今年のほうが例えば水準が上でも、6位から漏れるほどレベルが高いとは到底思えない。

 ――こいつ、本気でごっちんを超える気だ。

 ただのビッグマウスじゃない。本当にそれを実行しようとしている。
 少なくとも南関は確実。都大会は通過点。そんなことを、当然のように考えている。
 顔から自信が見え隠れしていた。でも何故か哀愁にも似た表情を時折見せるのは、どうしてだろう。
 どうしてといえば、いくらごっちんがライバルとはいえ、Iに入ろうと決めたのは何故だろう。
 高橋ほどの実力があったなら、TやHからお呼びがかかったに違いないのに。

 もし、それとたまに見せる暗い一面が関係していたなら。
 あたしは高橋愛という人間について1%も理解していないことになる。

 「ふぁ〜……」

 気のせいかもしれないけれど、これがあるお陰でまだ可愛げのある後輩だ。
272 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:20

 今日も例のごとくあややと鉢合わせ。
 もう向こうかあたしがわざと合わせているようにしか思えない。
 それとも、宿命か。
 そんな格好のいい言葉使っていいほど、しっかりとしたライバル関係を築ききれてはいないけど。
 先週のリレーも結局個人では引き分け、というより追いつかれたという面から言えば負けだ。
 一度は勝たないと、宿命なんて言葉、高すぎる、きっと。

 「三人とも出るの?強いよねI」
 「Tは?」
 「私と、唯やんと、」
 「唯やん?」
 「岡田唯。あと麻美さん」
 「あー」

 あいぼんと胸の大きさでライバルの……って違った。
 二校だけで、既に六人。更に言えばマサオさんだって順当に勝ち残ってるし、
 Hの頼子、福田さん、川嶋さんもいる。ありえない。何があり得ないって、レベルが。
 一体何人25秒台いるんだ。そしてあたしはまず校内で負けている選手が一人いる。
 ひょっとして、物凄いまずいんじゃないのか?今頭で浮かべただけでも十人、決勝へと進めるのは八人、南関になると六人。
 ほかにも速い人がいるかもしれないし、
 準決勝2+2の状況が物凄いサバイバルレースになってしまう危険性に富んでいる。
 気持ちを引き締めないといけないことは確かだった。
273 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:21

 女子200m予選。全6組、3+6。6組ということはつまり、そういうことだ。

 1組:矢口 福田 
 2組:高野
 3組:高橋 松浦 
 4組:吉澤 安倍
 5組:岡田
 6組:大谷 川嶋

 幸か不幸か、Iは三人揃って実力者と直接対決。
 頼子と岡田さんは運よく穴の組に入りこんだから、きっと難なく通過する。
 個人的にあややと当たれないことが惜しかったけど、麻美さんという相手もすごい楽しみだった。

 「よっすぃ調子どう?」
 「ガンガン来てますよーやばいっすよー!」

 安倍さんと対戦しているみたいな、錯覚を覚えて。
 もはや誰でもあたしのことをよっすぃと呼ぶのか、と呆れつつも、返事を返す。
 腕を勢いよく、ぶんぶんと振り回す。気合を入れまくらないと、絶対に勝ち抜ける気がしなかった。
274 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:21

 「ベストは?」
 「6秒11っす」
 「おー、速ーい」

 安倍さんの笑顔が頭の箸から端を走り抜けていく。
 この声のトーン、誉め方、間違いない。この人予選の時間違いなく、

 「5秒台出しました?」
 「うん、こないだの予選で5秒75」
 「速っ」

 口を滑らせたように気分に陥って、思わず口を塞ぐ。
 麻美さんはあたしに追い討ちをかけたいのか、安倍さん譲り?の笑顔を見せつけた後、

 「去年より断然レベル高いみたいだね今年」
 「マジすかー…。よし、がんばろ」
 「松浦のためにも決勝は行かなきゃダメだよ」
 「松、あややのため?」
 「リレーが相当悔しかったみたいで、超気合入ってる」

 指差す先に視線を合わせると、召集を受けているあやや。
 目が笑ってない、真剣そのもの。そしてその横の高橋も。
 本気であややに勝つ気の表情だった。

 「……燃えてきた」
 「え?」
 「燃えてきましたよ!」

 二人の表情を一瞬見ただけで、やる気のボルテージが急浮上した。
275 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:22

 1組目から順調に競技が消化されていく。
 1、2組目ともにそつなくこなされ、3人とも順調に準決勝行きを確定。
 そして、3組目。去年の覇者、あややVS三支部優勝者、高橋。
 あやや6レーン、高橋3レーン。離れてはいるけれど、何かを期待させてくれる空気が、
 コース上で流れていた。
 
 200はかなり至近距離からスタートを眺めるチャンスがある。
 第二カーブの始まりからのスタートだから、アップしながらギリギリの位置にいればスタートが良く見える。
 そういう意味であややが6レーンなのは好都合だった。
 スタートの勉強、矢口さん以外の選手もしよう。

 『位置について……よーい』

 ここまでは正直、普通の人なんだけど、

 バンッ!!

 松浦亜弥はここからが違う。
 あたしが陸上部で一番最初に教わった、初めの一歩。
 そこからして既に回りとは一線を賀している。同じ人間でもこうも違うのか。
 足の太さなんて、むしろ外側の人のほうが太いくらいなのに、あややはカーブの途中であっという間に抜き去った。
 いつも通り、圧倒的なスピード。
 でも、内側から同じく驚くべきスピードで駆け上がってくるルーキーが、
 余裕に包まれていたあややの表情を一変させた。
276 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:23

 「来た!」

 高橋が来た!

 内側のカーブを利用して高橋が一気にあややに詰め寄る。
 グングンとスピードに乗って、どんどん二人の差が縮まっていく。
 あややの顔から余裕が消える。高橋の口元が少し緩む。
 完全に直線に入った二人は、他を寄せ付けない走りでどんどん前へ。そして二人の差は、徐々に縮まっていく。

 「高橋ファイトー!!!」
 「あややーーーーーー!!!」

 スタンドから降りかかる声の雨、嵐。確かにあややはリードしている。
 問題ないはずの距離を保っている。なのに、どうしてこんなに胸を熱くさせてくれるんだろう。
 高橋は、どうしてこんなに可能性を感じさせてくれるんだろう。

 ラスト50mを切る、あたしは麻美さんと一緒にスタブロの準備も放棄して、
 レースに見入っていた。こんな面白いレース、滅多に見られない。
 逃げる松浦、追う高橋。
 追っても誰も追いつけない王者を心理的に追い詰めている、ルーキーがそこに確かにいた。

 『6レーンはTの松浦さん。3レーンはIの高橋さん』
 「行ける!」

 そう叫んだ瞬間、あややのスピードのギアがチェンジされた。
 急激な加速!でも高橋はそれに特に驚くことないまま、二人はゴールラインを通過した。
 そして次の刹那、観客のざわめき。

 『速報タイムは25秒19です』

 信じがたいタイム。高橋は負けはしたものの、王者に全力を出させた。
 それは多分この都大会で、二人目の経験。

 「……っし」

 燃えないわけにはいかなかった。
277 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:24

 天に向かって放たれた爆音。それに背中を押されるようにあたしは飛び出した。
 相手は支部で25秒台を出している。対してあたしは6秒台。
 差自体は0.5秒ないのに、とてつもないフィルターがあるように思える。
 でも、あたしは負けない。高橋があんなレースをした時点で、もう負けている場合じゃない。

 麻美さんはやっぱり、速い。去年安倍さんに勝って南関に出た実力から更に上乗せをしてきている。
 でも、それでもあややの方が速いのなら、その時点であたしは絶対にその上を行く。
 もちタイムが負けていたって、関係ない。あたしはあたしの出来ることをやるだけだ。

 大き目のカーブを曲がりながら麻美さんから遠ざかる。
 同じ方向へと流れる風向きが段々と背中を押し始めると、体がスピードに乗ってきた。
 気持が高ぶる。カーブを完全に終えると、最高に気持ちのいい状態になっていた。
 支部とは比べ物にならないほど多くの人が、このレースを見に来ている。
 そして100のお陰か、たくさんの人があたしを見ている。
 高揚した士気は上がり続ける。思わず叫びたい衝動に駆られた。

 少しずつ感じてくる、タータンを蹴りつけるスパイクの音。
 そして強烈な殺気。これだ、麻美さんにあって、安倍さんにはない、決定的な違い。
 気持ちの強さ。信念の幹の太さ。それが彼女を南関に連れて行った要因なんだ。
278 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:25

 ラスト50mを通過。つまりあと7秒もしないうちにレースが終わってしまう。
 その間に逃げ切れれば、あたしの勝ち。追いついたら、なんて考えたりはしない。

 視界に映る景色が段々と近づいてくる。段々と感じる気配。
 200は全力で走るには長い、かなり疲れが出てきた。
 残り僅かの距離とはいえ、足の重量が上がったような感覚に眉間にしわが寄った。
 
 『7レーンIの吉澤さん、5レーンTの安倍さん』

 声が会場中を響いた瞬間、あたしと麻美さんの差はゼロになった。
 完全に肩の位置が並ぶ。まずい。今ここで並んだということは当然、

 ――向こうのスピードのほうが速い!

 麻美さんの体があたしの前へ。少しずつ、されど確実に開いていく差。
 抵抗しようと体に無駄な力が入った途端、離れるスピードが上がった。
 その位置のままゴールラインを割る。負けた。
 敗北感が疲労に変わり、コースの外で座り込んでしまった。
 乱れた息を整えようとして必死に吸ったり吐いたりしたけど、なかなか立ち上がる気にはなれなかった。

 「よっすぃお疲れ」
 「麻美さん。お疲れ様です」
 「とりあえず準決勝進出、おめでとうね。危なかった〜」
 「おめでとうございます。次は勝ちますよ?」
 「言うねー、まあかかってきなさい」

 去っていく麻美さんの背中。大きく見えたけど、すぐに頭の中で銃口をあわせる。
 まずは、準決だ。
279 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:26

 砲丸投げは二人とも予選で消えた。そのため、今日のあたし達の競技は全て予選のみとなった。
 ある意味中日だけど、絶対に落とせない、負けられないという事実は、相変わらず高々と掲げられている。
 
 マイルリレーがはじまるのは15:50。
 まだ四時間もあるのかと思うと、気持ちが途切れてしまいそうだ。
 コンビニで買ってきたお弁当を食べながら、
 トラックで行われている女子3000m競争の予選を定まらない焦点で傍観する。

 J軍団はソニンさんを筆頭としてバカ速い。
 何があろうと先頭で固まって走ってそのまま勝ちを持っていく。
 1組目、ソニンさんともう一人が一緒に先頭を走ると、最後までその場所を譲ることはなかった。
 まるで練習しているだけ、みたいな。
 短距離とは本質的に色々と違うから、その光景はなんだか奇妙で、ちょっとだけ気持ちが悪い。

 そんな中保田さんはバックストレートのアウトコースで流しをしながら、
 入念に準備を続けていた。ラッキーなことに今日は割かし涼しい。
 保田さんが走るにはちょうどいい気温。先週本人が言っていたけど保田さんは3000に賭けている。
 絶対に負けられない、とプレッシャーをかけるため、わざと落とした1500。
 その想い、重み、信念。3000mという場面でどう表現してくれるのか。

 『それでは第二組のスタートです』

 矢口さんの呟く声が聞こえた。三年間の集大成、見してよ。
280 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:27

 早々と先頭へと出たところから、去年のレースの保田さんとは違っていた。
 余裕。暑さに負けていたというせいもあるけれど、保田さんの目の色には明らかに余裕があった。
 力が入りすぎることがいかに良くないかを教えてくれるような走り。
 すいすいと形容したくなるような走りでトラックを進んでいく。

 決して速すぎず、決して遅すぎず。余裕を持って、抜かれても保田さんはまた余裕だった。
 8+4は、保田さんには楽みたいだ。8位をとっていく気はきっと、さらさらないけど。

 「圭ちゃんファイトー!」

 周回を重ねるたびに大きくなる声援。保田さんは、正直輝いていた。

 長距離は3割の才能と7割の努力、
 みたいな言葉があるということを以前保田さんに教えてもらったことがある。
 私達は練習するしかないのよ、と自嘲気味に笑った保田さんは、
 長距離の中で確かに誰よりも練習をしていた。
 そして恐ろしい事実をあたしは知っている。

 三月、春休みのある日、あたしはどういうわけか部室に早めに到着して、
 おそらく一番乗りであろう時間帯で中に入った。
 するとそこにいた保田さんにあたしは言葉を失ってしまった。

 椅子の上に座って、まるで燃え尽きた明日のジョーのみたいに頭を落として、
 激しい呼吸を狭い部屋に響かせた保田さん。汗がぽたぽたと滴り落ちていた。
 恐る恐るあたしは質問した。

 「走って………きたんですか?」
 「………はいっ………」
281 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:28

 「保田さんファイトー!!」

 何故か敬語だった保田さんの、
 搾り出すようにして口から零れ落ちた言霊は、今でも忘れられない。

 2000mを通過する。
 ボタンを正確に捉えたウォッチに刻まれた正確な時刻を確認すると、保田さんは気持ちよく加速していく。
 まるで川の流れに乗っているみたいにトップを追い越すと、そのまま流れに乗ってぐんぐん前へ。
 気持ちよさそうに走る保田さん、苦しそうに走る2位。差は歴然だった。

 『先頭はIの保田さん。
  2位以下を大きく引き離しての独走です。2800通過……。9分22秒。9分22秒です』

 速い。去年駅伝で身を持って体験したから分かる。
 10分で3000mという途方もない距離を走ることがいかに大変か。
 都大会を入賞し、更なる高みへと望むためにはきっと必ず果たさなければならないノルマだけれど、
 恐ろしく見えた。

 「ラストファイトー!」
 「余裕だね。詰めまで完璧」

 後ろを確認しながら減速した保田さんは、結局10分11秒で余裕のゴール。
 初の都大会決勝にゴールラインを通過したところで小さくピース。
 レース中極めて冷静な「マシーン」が、喜びを全身で表せてみせた。
282 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:28
 
283 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:29

 3000予選が終わると、ここから男子5000予選、男子5000競歩予選と、
 畳み掛けてとんでもないレースが続く。
 正直見ていてもしょうがないから、あたしは気分転換のためスタンドを出ることにした。
 競歩が始まるくらいの時間になったら、アップを始める頃だろう。

 ちょうど競技場の外周に出ると、疲れた顔一つ見せない保田さんが、
 整然とした足取りでこっちに向かってきた。
 気温が涼しいとこの人の体はどうかしている、そう思った。

 「おつかれさまです!」
 「お疲れ〜。あんまし疲れてないけど」
 「おかしいっすよ〜。あの速さで〜。バケモノっすバケモノ!」
 「なんですってー!?」
 「ケメコ!ケメコ!」
 「よっすぃー!!!」
 「うわ!!」

 二人とも笑顔だけど、
 保田さんの笑顔って怖いから、周りからしたら本気の追っかけっこに見えるかもしれない。
 3000の後にも関わらず元気な保田さん。
 先に疲れてしまった情けないあたしはあっさりと捕らえられ、あっという間にガッチリガード。

 「お助けー!」
 「堪忍しろー!」

 適当にじゃれあっているうちに、どうやら1組目が終わったみたいだった。
284 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:29

 『Tの後藤君、2位以下を大きく引き離してのゴールです』
 「あ」

 二人揃ってその言葉に反応する。Tの後藤、長距離。
 その条件を満たす男は多分、あれしかいない。

 『14分55秒』
 「速!!」
 「あー、ごっちんに相当きつく言われたのかもね」
 「え?」
 「この間のSCでしくじってバカにされたのよきっと。勇気君」

 後藤勇気、天才後藤真希の弟。彼もまた天才だった。詰めの甘さを除いては。
 調子に乗っていかに水壕をかわすかばかりを考えた結果、ドボン。
 そんな弟をごっちんはバカって言っていたけど、家でも何か言ったのかもしれない。
 でないとあんな恐ろしいタイムで予選から走る理由はどこにもない。

 「素質は本物ね。流石後藤の弟、といったところかしら」
 「決勝もあんな感じにいくんですかね?」
 「そう簡単に勝たせてくれる場所じゃないけどね、都大会は」

 保田さんの言葉は、すごく重みを含んでいた。
285 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:30

 適当にふらついて帰ってくると、まさに競歩が始まろうかという時間だった。
 お豆が食い入るように眺めていて、どうしたんだろうと話しかけたら、

 「お豆のなんでも挑戦シリーズ【競歩編】」

 とタイトルコールをかまされた。

 競歩は長い。特に男子は5000mを歩き続けるのだから、そうそう終わるものではない。
 更に言えば、タイムが自己申告で、実は嘘を言っても都大会に出場可能だから、
 遅い人がごくたまに出場したりしている。
 そういう人は歩きとは思えないほどにあり得ない、歩きのプロに周回遅れにされて失格になるんだけれど、
 辛うじて逃げ切った人がいるとまたタチが悪い。
 時間をかけてゴールされると進行に差支えが出るし、例えそういう人がいなかったとしても、
 見ていて飽きる。

 「見てて楽しい?」
 「…………私にもできますかね?」
 「女子は3000だし、頼んだら秋あたりやらせてくれるかもよ?」

 冗談っぽく言ったつもりだったけど、お豆は全く笑う気配がなくて、
 ただただ吸い込まれるように競歩を眺め続けていた。

 「できるかな……」
 「…………………」

 ………悪いけどあたしにその良さは分からない。
286 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:30
 
287 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:31

 二次アップとはいえ、マイルのアップは相変わらずどうしていいのかよく分からない。
 思えばあたしのスタートは400だったけれど、
 その時はごっちんと市井さんについて走っていればよかった。
 結局よく分からないままここまできて、未だに二人についてのアップだ。
 最後まできっとそうなるんだろう。

 今年からは、安倍さんに代わって高橋が入る。
 200であれだけの走りを見せてくれた高橋は果たして400でどれだけの力を持っているのか、
 みんな楽しみにしていた。
 でも走順の組み換えに伴って、あたしはかなり責任重大なポストに着かされてしまった。
 かなりナーバスだ。

 「吉澤1走期待してるぞー」
 「何位で渡してもいちーちゃんがトップで持ってきてくれるから大丈夫だよ」
 「ちょっと待て、その注文ちょっときついんだけど」
 「まあまあ。どんなダメダメでもあたしがなんとかすっから」
 「それはそれでムカつくんだけど」

 1走。マイルに矢口さんがいないとはいえ、責任重大に思えた。
 でもマイルは基本的に2・4に速い選手を置くのが定石だから、ある意味仕方がない。
 二人とも大きすぎる存在だ。まだ。あくまで、まだ。
 いつか必ず追いついてみせると、今は胸の中にしまった。
288 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:32

 召集を終えると、四繋とは違って四人揃ってスタート地点へと向かう。
 ひやひやしてきた。いつもは自分が走る直前の人が全員行った後に100のコースを逆走して、
 その人たちがバトンを運んでくるのを待つ。でも今日は違う。
 スタート地点に立って、スタブロを使って、誰よりも速くバトンを渡そうとしている。

 スタートにどれくらい力を入れていいのかすら全く分からない。
 全力で走ったらまずいけれど、手を抜いたらスタート思い切り出遅れて公衆の面前に恥を晒すし、
 どうしていいのか全く分からない。
 相談したら適当に行けって言われたけれど、あたしにはその適当がイマイチ掴めていない。
 なんだか無性に嫌な予感がしたから、考えることを放棄した。
 深く考えすぎていいことはない、きっと。

 マイル予選は6組TR、上位8組が決勝進出。いつものように狭き門なのは確か。
 一人も400がメイン種目じゃないというこの異常な状況だったけれど、負ける気はあまりしなかった。
 都大会は勝ち抜けて当然。そんな空気が部で出始めてきた。
 そういう空気が出始めてくると、学校は強い。
 Iは東京都でも噂されるようになってきたし、ここで勢いを殺ぐような真似はしたくなかった。

 『それでは女子4×400mリレー、第3組のスタートです』
 『位置について』

 スタブロの上に足を乗せる。
 200と同じ、カーブからのスタートだけれど、全く同じ気がしなかった。
289 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:32

 バンッ!!

 特に強いチームがいるわけでもないのに、今までにない緊張感。
 走り出せばいつも解き放たれるけど、今日はなんとなく体が固かった。
 なんか、やばい。
 嫌な予感だけが漠然とあって、でもなんでそんな気がするのかは全く分からない。
 集中力の切れたスタートなんて、どうしようもないものだった。

 やってしまった、という思い。
 走りで思い切りカバーしようと無理矢理飛ばしてみたけれど、すぐに思い直してペースを整える。
 落ち着け、落ち着くんだあたし。いつも通り走れ。

 カーブを抜け、直線に入る。淡々と走り抜けると、あることに気づいた。

 ――体力が余ってる。

 飛ばさないとまずい、気が焦って、あたしはスピードを上げた。
 案の定、足はいい具合に回転してくれる。
 スピードに乗って、後半の追い風はきっとあたしにとってかなり有利に働くだろうと思った。
 どんどん順位を上げていく自分が快感だし、これはこのままいける。
 確信した次の瞬間、あたしの瞳に映ったそれはショックがでかすぎた。

 「石黒先生」
290 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:33

 石黒先生が、確かにいる。
 スタンドの最前列、一番分かりやすいところで、目立つように大きな声まで出して、手を振って。

 「吉澤がんばれーーーー!!!」

 全身が何故か、凍りつくような感覚に陥った。
291 名前:27th_Race 投稿日:2005/05/17(火) 02:33
27thRace「つめ」終。
28thRace「意地」に続く。
292 名前:おって 投稿日:2005/05/17(火) 02:36
更新大分遅れて申し訳ありません。

>>256 名無飼育さま
   さわやか、その言葉すごくうれしいです。ありがとうございます。
   自分は全く遊べずそっちでちょっと後悔していたりw

>>257 春嶋浪漫さま
   やっぱりライバルがいるかいないかでモチベーションも違いますしね。
   自分も目標と本気で向き合ってから相当がんばれた記憶があります。

今後なるべく戻すように務めます。なかなか書く時間が取れなくなってしまいましたが…。
293 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:34

 28th Race「意地」

 ―――それから起こった出来事は、正直思い出したくない。

 「石黒先生」

 動揺した。
 心が一気に荒波に投げ出されて、遭難しかけた漁船みたいに揺れて、頭の中が真っ白になった。
 でもきっとそれだけならこんなことにはならなかった。問題はその後だ。
 外側から強引に抜きに来た選手が、内側ギリギリを走っていて、
 あたしは視線が揺れるのと同じように足元がふらついて、そして、

 カランコロ〜ン。

 まるでコント。
 そんな、大観衆の中一人バトンにあざ笑われ、もてあそばれたあたしは、
 バトンを拾いはしたものの、完全に戦意は喪失していた。
 足取りがとてつもなく重い。
 都大会、いや支部予選からの疲れが全部一気に足にのしかかったみたいな錯覚を覚えた。

 ――無理だ、もう。ダメだ…………。

 諦める。
 諦めている自分が、俄かに信じられなかった。

 みんなが気遣ってくれる中、輪に入ってきた石黒先生は、
 とても心配そうな顔を見せていたけれど、その表情の真意はあたしには読めない。
294 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:35

 気づいた時にはいつもの場所にいた。決意表明の場、裏山。
 やさしく吹いた風は、5月には珍しく寒すぎて、今日はちょっと厳しい。
 いつものように長い芝の上に寝転がると、きっと体が完全に隠れて誰にも見えないのだろう。
 芝の上を考えなしに転がり続ける。左右に。
 ジャージのままだから汚れも気にならない。夜になっていたけれどそれも気にならない。
 帰りたくなかった。

 こんな状態じゃ、明日疲れた状態で200だな、無理だ。走れない。
 自嘲気味に笑うと、自然と溜息がこぼれ出た。
 体力の問題じゃない。心の問題だ。石黒先生とあたしの、問題。

 完全に忘れていたつもりだったのに、気持ちが切り替えられていたはずだったのに、
 顔を見ただけで、声を投げかけられただけで、どうして。
 こんなにあっさり、積み上げてきたものが崩れ落ちたんだろう。

 石黒先生が悪気あったのかなかったのか、あたしには分からないけれど、
 後者であると信じたかった。
 そこまでしてあたしをサッカーに引き寄せようとするような、
 意地汚い人間であってほしくなかったし、
 あたしの知っている石黒彩は少なくともそういう人間ではなかった。

 月が空に浮かんでいる。もう夜だった。
295 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:36

 もう一転がり、と体を横転させると、何か柔らかい感触とぶつかった。
 すぐに甲高い悲鳴。一瞬にして、誰だか手に取るようにわかった。

 「…………梨華ちゃん」
 「もーぅ、痛いよよっすぃ!」
 「ごめんごめん。黒いから保護色でわかんなかった。闇に溶け込んでて」
 「よっすぃのバカ!」

 考えることは一緒なのか、こっそりと鼻で笑うと、
 あたしは梨華ちゃんの横にポジションを合わせる。
 
 暫く二人とも何も言わずに、ただ沈黙の世界、一人だけの世界に浸っていた。
 考える時間が必要な時、いつもあたし達はここに来ていた。
 二人の時もあったし、一人のときもあったし、こうやって、
 偶然二人同時にくるときもあった。

 「よっすぃ」
 「ん」
 「聞いたよ、今日のこと」
 「…………」
 「石黒先生は、悪い人じゃないよ」

 何が言いたいか、痛いくらいに理解していた。でも、胸の痛みは納まらない。
296 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:37

 「分かってる」
 「うん。よっすぃは分かってる。でも」
 「でも?」
 「…………」

 梨華ちゃんはそこでとめると、月を見上げて動きを止めた。
 静まる空間、溶ける時間。
 あたしには耐えがたいスペースが一瞬にして形成されてしまったような気がした。苦しい。
 何かは分からないけど、多分何もかもが。

 「この先どうなるかなんてわかんないし、よっすぃが決めることだから。
  誰にも左右されないで、一番自分がしたいことをすればいいんだよ。その時一番したいことをさ」
 「一番したいこと…………」

 陸上、頭の中で浮かんだ単語を離さない様にと手を伸ばす。
 がっしりと掴んだそれを、胸に刻みつけた。

 梨華ちゃんは頃合を見て立ち上がると、じゃあね、と言い残して山を降り始めた。
 体をゆっくりと起こしながら、どうしてこんな時だけ空気読めてるんだろう、
 と首をかしげたところで、気がついた。

 「梨華ちゃん!さっきの「でも」って」
 「自分で考えなきゃ。私も……がんばるから」

 暗闇にかき消された笑顔は、確かに光っていた。
297 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:37
 
298 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:38

 都大会最終日。200準決勝、決勝、3000決勝。

 昨晩はあれからすぐに家に帰って、すぐにお風呂に入って、すぐにストレッチして寝た。
 何度も何度も葛藤して、ここまで来て、今一度葛藤して。
 でも悩んでいる場合じゃなかった。明日は明日のために、その一時のために走る。
 誰のためでもなくて、自分のために。何も考えないで、陸上のことだけ考えて。
 あたしの中に宿る闘争本能を、爆発させる。
 わだかまりが消えることを祈りつつ、あたしはベッドの中へと入った。

 最終日というだけあって、いつもに増して競技場内は緊張感が漂っていた。
 女子の種目では200が圧倒的に注目を集めているらしく、
 アップするあたし達をちらちらと見る人たちがたくさんいた。

 無理もない。予選通過者のうち、上位有力候補がたくさんいるからだ。
 Tはあやや、麻美さん、岡田さんが通過し、Hは頼子、福田さん、川嶋さん。
 うちも全員通過したし、マサオさんも順当にきている。誰が落ちてもおかしくない。
 逆に言えばこの10人以外の14人は望みがゼロといってもいいくらいの水準だった。
 そんな中、あたしはモチベーションを昨日以上に高めて、勝ち抜くことが出来るだろうか。
 うん、と言い切れない自分がいた。

 「やっばいな〜」
 「………………」

 矢口さんはそればかりを連呼して、高橋は自信あり気な表情で黙ったまま。
 そんな中、あたしは中澤さんの前に立った。
299 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:38

 「?」
 「中澤さん」
 「なんや?改まって」

 真面目な顔をしたあたしに困惑した様子を見せる中澤さん。
 首をかしげている。そんなにあたしはいつもふざけているというんだろうか、
 なんてちょっとひねくれてみる。

 「一思いにやってください」
 「はっ?」
 「だから、思い切り。遠慮なく、バシンとどうぞ」
 「え??どしたよっすぃ。頭おかしゅうなったか?」
 「とにかく顔面殴ってください!」
 「殴らんわ!」
 「殴って!」
 「殴らん!」
 「殴って!」
 「殴らん!」
 「いいから殴れよ三十路!」
300 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:39

 バシンッ!!!

 「ほ、本当に遠慮がない……」

 頬がきっと、いや絶対赤くなった。
 そう確信できるほど強烈にジャストミートした中澤さんの掌に、あたしの首を一気に右回転。
 本当に思い切り殴られた。天気が良くも悪くもない空間の中、少しだけ靡いた風は嫌に頬に響いたけれど、
 その痛みのお陰で、なんだかすっきりした。

 振り切った腕をゆっくりと元の位置に戻した中澤さんと、目ががっちりと合う。
 衝動的に殴ってしまったことを申し訳思っているのかいないのか、あまり覇気が感じられない。
 いつもの魔王的なオーラは皆無に等しかった。

 「………………」
 「…な、なんや」

 あたしは頬を押さえたりもなにもしないで、ただ大きく体を折り曲げて、
 深く頭を下げた。

 「あざーす!!!!」
 「…………芸人かい」

 呆れたように呟く中澤さん。
 でも、そのお陰でなんとか、今日一日は持ちそうだ。
 今日一日は、全神経を陸上に注ぐことが出来そうだ。
301 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:39

 召集場所に到着すると、そこにいる面子を見て、身震いがした。
 去年はみんな手も足も出なかった選手達。それが今、同じ舞台で戦っている。
 そう思うと、体がひとりでに。武者震いだ。

 「よっすぃ」
 「うぃーす」
 「同じ組だね」
 「うん」
 「しかも横」
 「ん」

 そう、あややはあたしと同じ2組目で、しかも5レーンと6レーン。
 こんな気合の入る状況、他にあり得なかった。

 「勝つから」
 「勝つから」

 なんていう巡り会わせだろう。
 100の予選からはじまって、リレーもあわせてこれであややとの勝負は五度目。
 四日間で五度だから、一日一回以上のペースであたし達は対戦している。
 第五ラウンド。今度こそ、勝つ。
302 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:40

1組:高橋安倍大谷福田
2組:松浦吉澤川嶋
3組:矢口岡田高野

 こうやって見てみると、あたしは比較的あたりくじを引いたらしい。
 一番辛いのは1組目。レースが始まる前から四人に勝負が絞られている。
 25秒台を持っている選手が3人という、誰が勝つのか全く予測できない組。
 一体どう並べたらこんな偏るんだろうというくらいの編成。
 それに対して3組目は、まだ岡田さんが決勝に転がり込む布石なんじゃないか、
 と勘ぐりたくなるような並びだった。でも是非、矢口さんに勝ってもらいたい。

 召集が終わると全員で土手状の通路を通って200のスタート地点へと歩いていく。
 トラックでは男子の200が行われていて、スタンドから大歓声が響き渡っている。
 でもそんなこと、今はどうでもよかった。
 あたし達にはあたし達の闘いがあって、それと今トラックで行われている闘いは全く関係がないのだから。

 アップでしっかりと上げた腿を今一度上げる。
 昨日ダウンをしなかった分ストレッチを入念に行った甲斐があったらしい。
 いつも通り、足は動きそうだ。
303 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:41

 少しずつ、時間が近づいていく。
 決勝を目指して全力で爆走する人、決勝のことを考えて温存する人、最初から+枠狙いの人、
 2位狙いの人……様々な思惑が絡んでいる空間の中、
 あたしの頭の中は相変わらず同じことばかり考えていた。
 
 ――あややに勝つ。

 四日目にして、いまだ勝ち星ゼロ。一度も勝てないまま最終日にまで来てしまった。
 今日勝たないと、南関まで一ヶ月、勝負の場がない。
 あたしにだって意地はあった。一回でも勝って、南関のために牽制がしたかった。

 幸運にも、ことごとくあたし達は同じ組で走っている。
 決勝に進出することができたら、更に一回。絶対に勝つ。
 何度も何度も使ってきて、安っぽくなってきた絶対の響きを今一度、かみ締める。

 高橋たちがスタブロをセットし始める。この組が一番の激戦区だ。
 25秒台を既にマークしている3年生コンビの麻美さんとマサオさんに加えて、
 これまた実力は相当なものを持っていて、去年南関に進出している福田さん。
 そして予選、あややを追い詰めた高橋。
 もしかしたら+枠は全てこの組で使い果たされるかもしれない。
 それほどのレベルだった。
304 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:42

 レベルの高さゆえに注目度も非常に高い。
 女子の種目なのにも関わらず客席からは多くの視線が感じられて、緊張感が高まっていく。
 なんだかワクワクしてきた。自分のレース以前に、ここのレースが一体どんな結果になるのか。
 純粋に楽しみだった。それは他のみんなも同じらしく、揃って注目していた。

 レースが始まる直前、矢口さんがあたしの横に立つ。
 真面目な顔をしたまま、いった。

 「誰が勝つと思う?」
 「………麻美さんは、速かったです。高橋には悪いですけど、勝てないと思います」
 「そっか。おいらは違う意見だ」
 「誰ですか?」
 「……大谷を……マサオをなめちゃいけない」

 バンッ!!

 「!!」
 「ほら」

 スタートした瞬間、矢口さんの言葉は現実となった。
 まるで風圧がここにまで届くような迫力が、体にびしびしと伝わって痺れる。
 真っ先に飛び出したマサオさんの体勢は、万全だった。
305 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:42

 麻美さんは驚きを隠せない表情、高橋は相変わらず余裕アリ、福田さんは必死。
 そしてマサオさんは、先頭を走っている。予選のときは見せなかった爆走で。

 「高橋に負けたのが相当悔しかったんだってさ。そんで練習練習練習」
 「で、でもこんな短期間で」
 「それはお前だって一緒だろ」
 「そうですけど、あたしとマサオさんだと伸びしろが違いますよ」
 「案外そうでもないってことなんだよ。努力すれば、その分だけの見返りは来る」

 矢口さんが言えばその言葉は魔法のように、あたしの体の中で説得力のある言葉として消化される。
 召集に呼ばれ、あたしは体を動かしたけれど、視線はずっとレースに注目しっぱなしだった。

 マサオさんは独走中。まるであやや。それほどまでのスピードをこの一ヶ月で。
 一体どれだけの練習を積んだというのだろう。
 長距離と違ってコツがつかめないといつまで経っても伸びない短距離で、一体何を…。
 そしてあたしの横で招集を受けている娘は、触発されていた。

 「…………」

 無言。あややは真面目な表情をジェルで固めたみたいに固定して、
 いつもにも増してオーラを全身から放っていた。
 どうやらマサオさんの走りは、王者を本気にさせたらしい。
306 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:43

 召集が終わった頃、高橋が3位でゴールしたことに気づいた。
 それでも特に落ち込むような素振りが見られない。
 決勝のために温存したとでも言いたいようなふてぶてしさが、トラックの反対側からでも手に取るようにわかった。
 でももう高橋のことを観察するのは終わりだ。
 火のついた女王、本気の女王と合間見える機会なんて、そうそうない。
 それに挑もうとしている、バカも。

 内側にいるあややから伝わる鼓動に、ワクワクが止まらない。
 感情を抑えられない。まるで初恋でもしているかのような、ときめき。
 これから走るレースに対して、最高のモチベーションになった。

 『それでは第2組のスタートです』
 『位置について…………よーい』

 バンッ!!

 飛び出して数秒もしないうちに、その強烈な殺気があたしに近づいてくる。
 速い。今まで戦ったどんなときの松浦亜弥よりも、速い。
 でもそんなときだからこそ、今の吉澤ひとみは今までのどんなときの吉澤ひとみより、
 速く走ってみせる。無性に燃えた。
307 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:44

 カーブを大きく曲がっていく。内側からどんどん差を詰めてくるあやや。
 せめてカーブの間はリードを取らないと、勝てない。でも不安はなかった。
 気持ち悪いくらいに体が動いたから。
 この一本で潰れてもいい、そう思えるくらいに全身の可動がスムーズだった。
 楽しい。走ることが、今はたまらなく楽しい。
 迫り来る狂気にも、真正面から向かい合える。

 カーブを終えたところでちょうど殺気があたしの横に並んだ。
 吸い寄せられるように、あたしはスピードを上げて並走を続けた。
 どうしてかは分からない。でも、あたしの人生の中で、一番のスピードで走っている。
 
 ――行ける!これなら行ける!

 競り勝てる。
 あややと走っていてここまで勝てると思ったことは今までなかった。
 でもあややのやる気のボルテージが上がったお陰で、あたしのそれも明らかに上がっている。
 そしてそれは組全体に伝わって、会場に伝わって。
 大歓声があたし達を包んでいた。

 「よっすぃーファイトーーー!!!」
 「あややーー!!!!」
 「松浦ーーーー!!!」
 「吉澤ーーーー!!!」

 今にも競技場は爆発しそうなほどの声援。
 これは決勝なんじゃないか?と勘違いしてしまいそうだった。
308 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:45

 ラスト50m。依然勝負はつきそうにない。
 このまま行くとラストほんの数メートルまで決まらないかもしれない。
 それでもよかった。最後まで決まらなくても、最後に勝てば。そしてその自信が、今はある。
 今なら勝てる。逆に言えば、

 ――勝つなら今しかない!

 こんな最高の状態で走っている自分が昨晩全く想像もつかなかった。
 でも面白いくらいの回転を見せる足に、今は楽しくて仕方がない。
 本気のあややに対するワクワクから、
 いつの間にか自分が一体どれだけのタイムを出せるかのワクワクに変わっていた。

 『5レーンはTの松浦さん、6レーンはIの吉澤さん。先日の100m決勝もこの二人争われました』

 そうだよアナウンサー、どんどんあたしの名前を売っちゃってよ。

 ――負けるはずがない。
 「!!」

 突然感じた、強い殺気と、言霊。恐怖を覚えた。そしてそれは尚も続く。

 ――私が負けるはずがない。
 ――私は去年優勝したんだ。
 ――こんなところで負けてるわけにはいかない。
 ――私は勝たないといけない選手だから。
309 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:46

 最後に聞こえてきた言葉の切実さは、胸のど真ん中を銃で撃ち抜かれたようなダメージを与えてきた。
 勝たないといけない選手。その響きは、その必死さは、普段あややから全く見えてこないもの。
 なのに何故か聴こえた、幻聴?いや、違う。確かに聴こえた。

 最後の最後で振り切られ、あややはゴールラインを通過した瞬間、
 珍しく叫んで感情を露にしてみせた。
 フィニッシュタイマーに弾き出されたタイムに大歓声がどよめきと驚きへ。
 一体いくつが出たんだろう。
 振り向くと、そこに提示されていたタイムのとんでもなさに動けなくなるくらいの衝撃を受けた。

 24 88

 24秒台。そこから察するにあたしも25秒台前半。そして風は追い風の1.8m。公認記録。
 言葉が出なくなるほどになると同時に、体に疲れがどっと出た。
 ある種のトランス状態が完全に溶けたらしい。

 あややがゆっくりとあたしの元へと寄ってくる。
 でもそのあややはもう普通のあややに戻っていた。

 「お疲れ〜」
 「お疲れ。速すぎ」
 「ありがと。よっすぃも速かったよ、負けるかと思った」
 
 嘘だ。そう思ったけど口には出さなかった。
310 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:46

 あたし達の組の3位の川嶋さんもなんと25秒台でゴールラインを駆け抜けた。
 プラス枠の一番手に現われ、決勝進出に確定信号を点す。
 そしてそのせいで苦しくなったのが、矢口さんだ。
 何せ+枠の2位、暫定8位の高橋でさえ25秒台という前代未聞の事態。
 +枠での出場を望めないということはつまり、頼子と岡田さんに勝たなければならないということだ。
 しかし、だからといってあっさりと負けてしまえるほど、矢口さんは潔い人間じゃない。 
 可能性がある限り、絶対に諦めない。負けの味を知っている、とんでもない負けず嫌いだ。

 内側から3レーン、矢口さん4レーン岡田さん、6レーン頼子。
 ゴール地点からあたしは、あややと並んで見守っていた。

 「誰が勝つと思う?」

 決勝進出を決めたあたし達にとっては、このレースはある意味で他人事だった。
 誰がこようとも、来る人は間違いなく強いのだから。
 
 「う〜ん、頼子かな」
 「矢口さん応援しなよ〜」
 「してるよ?でも予想は別でしょ」

 予想は別。予想は置いておいて、少なくともあたしは矢口さんのことを信じている。
 逆境にくじけない強い精神力を持った、矢口さんを。

 放たれた銃声、矢口さんはほぼ同時に飛び出した。
311 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:47

 体の動きで分かった。あの人、全力だ。

 矢口さんはまるであいぼんの仇を取ろうとでも言うのか、外側の岡田さんへ向かって猛ダッシュ。
 今まで見た矢口さんのスタートの中でもおそらく上位に入るであろうそれを見せると、
 同じくスタートの速い岡田さんとの差を一気に詰めた。
 その速さは、あややが驚くほどのもので、

 「速い」

 そう呟かせた。矢口さんはカーブの間で岡田さんに並ぶと、
 もう既に疲れを顔に滲ませていたけれど、まだまだ粘る。
 そのまま二人は加速して、直線に入る。外側の頼子の表情もまた、必死だった。
 
 みんな2位以内に入りたくて必死なんだ。
 +枠は望めないのは走る前からもう分かっている。
 でも順位で行けばどんなにタイムが遅くても決勝進出は確約。
 +で拾われての決勝進出なんて最初から期待していないんだ、きっと。

 「強いね、追い参だ、こりゃ」
 「うん」

 強い追い風が吹いていた。このレースは公認記録にならない、すぐに確信できるほどに。
 そしてそれに乗った身軽な矢口さんは、遂に頼子を捕らえた。
 岡田さんも同じくして上がってくる。

 3人の差は、ほとんどなくなった。
312 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:48

 『レースは混戦です。女子200m準決勝第三組』

 アナウンサーの言うとおり、大混戦模様の三組。
 横一線に並んだ3人の、最後のデッドヒートが繰り広げられる。
 矢口さんも、岡田さんも、頼子も。みんな本気だった。

 3人の距離は、最後まで広がらない、縮まらない。本当に横一線。
 あたし達の位置からでさえ、誰が勝ったのか、全く分からなかった。
 目の前でゴールを駆け抜けた3人。同時にしか見えない。

 「25秒55……速」
 「追い参だもん。でもこれで、もしかすると」
 「うん」

 今ここに、新たな可能性が生まれる。あたしとあややの頭の中に浮かんだ、おんなじ可能性。
 そしてこの激戦の結末は、放送によって伝えられる。
 それまで3位の選手はみんな冷や冷やしながら待つんだろう。
 
 1組目3位高橋、2組目3位川嶋さん、3組目3位頼子。
 この3人のうち、誰かが落ちる。3組目のタイムが良かったのもあって、仮定は全くの白紙に戻された。
 あとは祈るようにただ、待つだけ。
313 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:49

 軽いダウンをしてベンチに戻ると、そこにいたみんなにおつかれさまと声をかけられた。
 そう言われた瞬間なんだか疲れがどっと出て、やっぱりベスト大幅更新の代償は大きかったんだな、
 と実感した。決勝足動かなそうだ。

 「お疲れ」
 「お疲れ〜………え?」

 聞きなれている声、でもこの場では久しぶりに聞いたような気がする、声。
 一度聞いたら覚えてしまうような甲高いあの特徴的な声は、
 優しくあたしを出迎えてくれた。

 「梨華ちゃん」

 来たんだ、と言いかけてやめた。

 「おはよう」
 「おはよう。ってもう11時なんだけど」
 「ふふふ」
 「キショッ。梨華ちゃん今のキショッ」
 「ひどーい!笑っただけじゃん!」

 なんとなくだけれど落ち着いて、疲れがちょっとだけ和らいだ気がした。
 1時にある決勝までに、一体どれだけ体を持っていけるだろうか。
 スポーツドリンクを一気に飲み干すと、足を伸ばした。
314 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:50

 『先程行われました女子200m競争準決勝の結果第一組』
 「お」
 「きたね」

 場内を流れるアナウンスに、全員の関心が行く。
 この時ばかりは高橋の視線もマイクのほうへと向かった。
 ここから数分間、緊張が続く。その後に待っているのは歓喜の雄たけびか、それとも…。

 『一着 8013番 大谷さんM 記録25秒17
  二着 2446番 安倍さんT 記録25秒68
  三着 6314番 高橋さんI 記録25秒76』

 会場を驚きの叫びは駆け回る。25秒台三人の衝撃。
 それはこの準決勝のレベルの高さを物語っていた。
 でもあたしは高橋の横で小さく呟いた。

 「流したろ」
 「……よしざーさん分かりました?」
 「分かったよ。顔が余裕じゃん」
 「決勝6位に入らないかんので」

 ぶっきらぼうに答えた高橋。でもその表情から余裕はもう、あまりなかった。
315 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:51

 『続いて第二組』

 トラックは完全な空き時間に入っていて、男子の800m決勝が続くまでの間、
 この放送は休みなく続いていく。競技中じゃなくて良かった。
 レースのたびに間間、少しずつ結果を読み上げられたのではこっちの心臓も持たない。

 『一着 2450番 松浦さんT 記録24秒89』

 正式タイムが発表され、場内は大きなどよめきに支配される。衝撃の記録。
 インターハイでも上位に食い込めるであろうその記録は、
 今まさに東京都で南関レベルの戦いが繰り広げられていることの証明だった。

 『二着 6311番 吉澤さんI 記録25秒12』
 「おおお!!!」

 ベンチの周りのみんなが一斉に拍手してくれる。
 突然のことに驚いたけれど、予想外に速かったタイムに、あたしは飛び上がるほどうれしくなった。

 「っしゃー!!!!」

 ガッツポーズを豪快にかます。「男前!」「かっけー!」なんて野次られたりしたけど、
 全然気にならなかった。

 『三着』

 その言葉が聞こえてくるとベンチは静まり返って、耳を寄せる。注目する。
 目を瞑って、仲間の勝利を祈った。
316 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:53

 『2232番 川嶋さんH 記録25秒60』
 「あーー」

 祈り届かず、全員の表情に落胆の色が浮かぶ。これで高橋は暫定8位。
 もう誰にも負けることが出来なくなった。緊張のメーターは最大値にまで上がっていく。
 心臓の鼓動が階段を駆け上がっていく。全員手を組んで祈りを捧げる。
 キリスト教の学校の癖に普段は全く信じない、神様を信じて。

 『そして最後の第三組』
 「こい!」
 「こい!」
 『一着 2234番 高野さんH 記録25秒70』

 二組目3位より遅い。でもこの組は混戦だった。同じく横で祈っているのは矢口さん。
 彼女もまだ決勝進出が確定していないのだ。

 『二着 2448番 岡田さんT 記録25秒73』

 ここまで記録が読み上げられて、あたし達はあることに気がついた。
 大変な事実に。矢口と高橋は、視線を一時だけ交わす。

 「え?」
 「ってことはつまり?」

 決勝進出最期の一人は、高橋か、矢口さんのどっちかになる。
317 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:54

 二人とも祈るような構えで放送を待つ。
 こういうとき、アナウンサーが読み上げ始めるまでやけに時間を長く感じる。
 どちらか必ず落ちるんだ。

 『三着 6305番 矢口さんI』

 きっと二人はこの瞬間、永遠よりも長く、一瞬よりも短いものを感じている。

 『記録25秒75』
 「おおー!!」
 『従いまして各組二着までと、二組目 2232番川嶋さんHと三組目 6305番の矢口さんが決勝進出となります』

 三年生の先輩達はみんなして矢口さんを称え、矢口さんもうれしそうな顔をしてそれに応えている。
 あたしはどうしていいかわからなくて、とりあえず矢口さんにおめでとうと言い、
 高橋に惜しかったねと言った。高橋は何も言わなかった。

 「矢口おめでとう」
 「あ、マサオ。ありがと」

 横のベンチからマサオさん登場。二人ですぐに熱い握手を交わす。
 マサオさんはすぐにこっちに歩いてきた。

 「おめでとう」
 「どうも」

 握手。そしてマサオさんは、高橋の前に立った。
318 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:55

 「どうだ?負けた気分は」
 「……………」

 マサオさんの口から放たれた言葉は、まるで喧嘩を売っているようなもので、
 でも高橋は黙ったままだった。沈黙が少しだけ、続く。
 先に口を開いたのはマサオさんだった。

 「+枠に頼るほど危険なことはないんだよ。高をくくればくくるほどに、ドツボに嵌りやすい」
 「…………」
 「ぱっと出のルーキーが勝てるほど、都大会は甘くない」
 「ぱっと出やない……」
 「ぱっと出だよ。違うってのは、松浦亜弥レベルの実績を中学時代に残してからにしろ」
 「むぅ…………」
 「来年は絶対、勝てよ。後藤を超えるんだろ?」

 相変わらず男前なマサオさんは、すぐに自分の学校のベンチへと戻る。
 一瞬だけごっちんが反応したのを見て、思い出した。
 ごっちんも去年の私立大会予選、おんなじように負けたんだ。
 偶然かもしれないけれど、二人とも似通った道の上を歩いている。
 高橋のほうが少しだけ足取りが遅いかもしれない。
 でも、この悔しさを胸に置いて、がんばれるなら……彼女は或いは、ごっちんに並ぶ選手になれる。
 マサオさんはそんな想いを胸に、高橋に厳しい言葉を投げかけたんだろう。

 高橋はマサオさんの背中を眺めながら、今日初めて、悔しそうな顔を見せた。
319 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:55
 
320 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:56

 男子の800m決勝が終わると、3000決勝の時間がやってきた。
 いよいよ保田さんの言っていた、本気の種目。初の決勝にして狙いに行く。
 数年にわたってJに独占され続けている、表彰台のてっぺんを。
 優勝候補のソニンさんに、打ち勝つ気だ。

 小雨が降ってはやみ、降ってはやみ、繰り返してく。
 保田さんにとってそれは幸運にも走りやすい気候。暑くなくて、涼しくて本当に良かったと、
 部員全員心から思った。梨華ちゃんもしっかりとスタンド下段に降りて熱い視線を送っている。

 「保田さん勝てるかな」

 わざと聞いてみる。なんとなく、試したかった。

 「大丈夫だよ、保田さんは……」
 「保田さんは?」
 「…………強い。私と違って」
 「タンマ」
 「え?」
 「そういうの、やめよう?」
 「……うん」

 小さく呟いた梨華ちゃんは弱弱しくて頼りなくて、でも返事はしてくれた。
321 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:57

 スタート地点、ずらりと並ぶ16人。10人はここで切られる。

 「南関と付き合えるのは6人だけ、か〜」
 「付き合える?」
 「いや、そんな言い方をちょっと前にマンガで見た気がしたからさ」
 「ふーん」

 梨華ちゃんの集中は完全にトラックへと向いていた。いい傾向だ。
 あたしも視線を傾けると、祈るように手を組んだ。保田さん、がんばれ。

 『それでは女子3000m競争、決勝のスタートです』
 『位置について』

 一歩足を踏み出し、スタートラインギリギリに置く。
 あとは己の耳と反射神経と状況判断だけが頼り。
 正確無比の計算力を持つマシーンは、ここで飛び出すことが出来るか。

 バンッ!!

 ほぼ同時に飛び出す16人、押し合いへし合い、その中いち早く飛び出したのは…

 「ソニンさん」

 そして保田さんは隙間を探しながら前へと這い出てきた。
 すぐに背後を捕らえる。上々のスタートを切ったように思えたが、

 「あ!」
 「まずいですね」

 横と後ろに、Jの選手。冷静に呟くこんこんは、難しそうな顔をしたまま固まってしまう。
 
 「非常にまずいです」
322 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:58

 「そんなにまずいの?」

 そのまずさを理解していないのはあたしだけらしい。
 梨華ちゃんもこんこんと同じくらい、眉間にしわを寄せて、難しい顔をしている。
 先頭ソニンさん、すぐ後ろインコース保田さん、アウトコースJの人、そのすぐ後ろにJの人。
 先頭集団は既にその4人だけで形成されていた。

 「囲まれてます」
 「ホントだ。でもそれってまずいの?」
 「まずい、まずすぎるよ。前に出られないもん」
 「あ」
 「3人揃って保田さん潰そうと思えばいくらでも潰せますし、
  あそこでポケットされるメリットはなにもないですね。
  早めに抜け出さないと、まずいかもしれません」

 ポケットの形は崩れない。
 絶妙に作られたまま進み続ける4人は、後方との差をどんどん開けていく。

 『400m通過…………74秒』
 「速っ!!」

 3人同時に叫ぶ。これはあたしにも分かった。
 10分ぴったりで走るために走るペースは400m80秒。それよりも6秒も速いなんて、
 世界が違いすぎて、考えられなかった。
323 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 00:59

 「異常なまでのハイペースですね……74、74、76。1000通過が3分6」
 「保田さんを疲れさせようとしてるみたいだね」
 「インハイに出れるペースですよ」
 「そんなに速いの!?」

 なんだか去年の今頃に戻った気分だ。
 長距離のタイムになるとあたしはまだ、そこまでの領域は知らない。
 
 1000を凄まじいペースで通過しても、保田さんの顔つきは全くの無表情だった。
 むしろ後ろにいる選手のほうが辛そうな顔をしているくらいで、今にも崩れ落ちそうな砂の城に見えた。
 もしかしたらそこから、突破口が生まれるかもしれない。

 「あ」

 Jのポケットにほころびが出来たのは、その時だった。
 集団最後尾の選手が1500を過ぎたところで、離れた。
 保田さんの後ろには、誰もいなくなる。

 「いける!」
 「まだです」
 「え?」
 「よっすぃ、一度減速してまた飛ばして抜くの、できる?」
 「無理」
 「でしょ?まだきついよ」

 冷静な分析をしている梨華ちゃんに、何故か違和感を覚えたあと、
 現役時代大した選手じゃなかったのにプロ野球の解説やってる人を思い出して、自己嫌悪に陥った。
324 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 01:00

 『2000m通過…………80秒、この間の1000m3分15秒です』
 「落ちましたけど…」
 「速いね」

 2000mで6分21。
 この後仮にラスト1000上がるようなことがあれば、そしてそれがソニンさんの計算の元にあるのならば……
 保田さんはかなり厳しい状況に追い込まれることになる。そして、それは現実となる。

 「!!……これは由々しき事態ですね」
 「上がった!」
 「まずいね、さっきからそればかり言ってる気がしてあれだけど」

 でも梨華ちゃんが連呼するとおり、保田さんはやばい状況下にいるのは確か。
 いつの間にかポケットはなくなっていたけれど、ペースを上げたソニンさん。
 体力をえぐられた保田さんに追う力は残っているのかどうか。

 「保田さんファイトーーー!!!」

 ホームストレートに帰ってくる二人。保田さんはまだ、粘っている。
 ソニンさんの後ろにぴったりついて。でもトップスピードからして、ラストまで勝負がもつれたら、
 勝ち目はない。
325 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 01:01

 「やばいよ、今のうちに抜かさないと」
 「違うよよっすぃ」
 「え?」
 「長距離のスパートは、スピードじゃない」
 「スピードじゃ、ない?」

 保田さんは必死に食らいついている。ソニンさんのすぐ後ろ、そのままゴールラインを通過して、ラ
 スト2周。800mとなった。

 ソニンさんは段々、じわじわとスピードを上げていく。
 でも保田さんとの差は全く開かなかった。ソニンさんは段々と後ろを振り向き始める。
 保田さんは相変わらず無表情だった。

 ――しつこいよ!早く離れろ!落ちろ!しつこい!
 ――しつこい?

 『2400m通過…………77秒、上がりました』

 ――……誉め言葉だね。

 二人は更に上がっていく。今度は目に見えて。
 そして遂に直線、保田さんはソニンさんと並んだ!
 
 「保田さんファイトーーー!!!!」
 「ファイトーーーー!!!」

 とにかく声を張り上げる。それで僅かでも、0.01秒でも速くソニンさんより走れるのなら。
 鐘は鳴り、二人は一瞬だけど、確かににらみ合った。
326 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 01:02

 『ラスト1周。JのソニンさんとIの保田さんの激しい1位争いです』

 実況がそう言いたくなるのも無理はない。それくらいに二人の争いは激しかった。
 カーブの間は内側に引っ込んだけど、バックストレートに入ると再び保田さんが横に出る。
 そしてレースは更に加速していく。

 『2800m…………75秒』
 「また上がった!!!」

 ほぼ最初のペースに戻る。それがいかに辛いことか…考えなくても分かる。
 でも、二人ともどんどんスピードを上げ続ける。勝ちを求めて。
 横で走っている奴よりも速く、ゴールするために。

 そしてラスト200m、長距離なら本当に最後のスパート地点に近づく。
 そして、遂に片一方が本気で仕掛けた。

 「保田さんがんばれ!!!」

 気づいた時には立ち上がっていた。
 急激にスピードアップしたソニンさんに、保田さんはまだ離れなかった。
 部内でトップクラスにスピードの遅い、保田さんが。
 合宿の100mで情けない走りを見せた、保田さんが。

 「ラストです!!!ファイトーーーー!!!」
 
 梨華ちゃんがいつも以上に声を張り上げる。自分が走っているみたいに、胸が熱くなってきた。

 カーブを曲がり終えると、ラストの直線、再び二人は並んだ!
327 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 01:04

 「ラストーーーーーー!!!」
 「ファイトーーーーー!!!」
 「保田さん!!!保田さんラスト!!!」

 競っている、完全に。あの保田さんが、ソニンさんと。
 二人とも苦しそうな表情を滲ませながら、最後の大勝負。
 全く並んだまま二人はどんどんスピードを上げていく。そして、

 ――3年間、私にとってあんたはずっと目標だった。でも………今日で超える!

 「あ!!」

 保田さんが遂に、前に出た!!

 「保田さんラストーーーー!!!!」
 「逃げてーーーーー!!!」
 「ファイトーーー!!!」

 段々と開いてく二人の差。ソニンさんは完全に諦めて減速した。
 それでも保田さんは飛ばし続けている。

 『トップはIの保田さん。9分、25、26、27、28、29、30――』

 最後は歩くようにゆっくりとゴール。ふらついた足取りで外側までなんとかたどり着くと、座り込んだ。
 あたしはうれしさよりも、さっき二人に言われた言葉が跳ね返ってきて戻ってきて、衝撃を受けていた。
 長距離のスパートは、

 「スピードじゃ、ない……」
 「トップスピードという絶対的なものじゃないんです、スパートは」

 こんこんは遠い目で言った。

 「諦めない強い気持ち。これだけあれば、充分なんです」
328 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 01:06

 4日間で行われた東京都大会。残すはあたしと矢口さんが出場する200m決勝だけとなった。
 マイル自分の責任で予選落ちをしてしまったことを思うと、絶対に通りたかったけれど、
 体が思うように動かなかった。準決勝で150%の力を出したせいかもしれない。

 「やばいっすよ矢口さん……」
 「あー?」
 「疲れてます」
 「そんなんみんな一緒だろー!」
 「準決勝がんばりすぎました」
 「そう言っておきながらよっすぃはやってくれるよ」
 「えー」
 「顔笑ってる」
 「あ」

 余裕がないのは確かだけど、完全に冗談としてとられたらしい。
 ヘタレキャラとどっちがましかよく分からないけど。

 それでも召集場所へと近づくにつれて緊張感と共にエンジンが再加熱する。
 パーツに不備が色々とあるけれど、今できる最高のレースをするしかない。
 そして、結局一度も勝ててない王者を、破りたい。
 面を面を再び合わせた瞬間、また強く想った。
329 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 01:07

 「何度目だっけ?」
 「第……六ラウンドくらいじゃん?」
 「全勝しちゃうよ」
 「させない」

 この四日間で、お互いに対する意識が明らかに変わったと思う。
 ライバル意識の芽生え。飯田さんと村田さんのような関係。
 一番星の、肩を並べるまでにはいかなくても、射程距離内にしっかりと入った。
 あとは狙いを定めて、引き金を引くだけ。

 1レーン 矢口 I
 2レーン 川嶋 H
 3レーン 大谷 M
 4レーン 松浦 T
 5レーン 吉澤 I
 6レーン 安倍 T
 7レーン 岡田 T
 8レーン 高野 H

 これだけ学校数が限られてくると、いかに他の学校は選手をとっていて、
 うちががんばっているか分かる。
 Tに完全に囲まれている状況も、むしろ燃えた。全員蹴散らしてやる、そんな強い気持ちになれた。
 体がどこまで着いてきてくれるかの勝負になりそうだけれど。
330 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 01:08

 『女子200m競争決勝。1レーン……』

 アナウンサーが一人ずつ名前を挙げ、挙げられた選手は右手を上げてスタンドに向かって一礼する。
 Iの歓声は他の学校と比べたらちっぽけだけれど、胸に響く。

 『4レーン 2450番 松浦さん T』

 パチパチパチパチパチパチ!!!!!!!

 「あややーーーー!!」

 大歓声。Tが東京都内最大勢力ということもあれば、
 その確かな実力と人気がたくさんのファンを生んでいた。
 この後はいやだな、と思いつつ、

 『5レーン 6311番 吉澤さん I』

 パチパチパチパチ!!!!!!!

 「?!」
 「よっすぃーーーー!!!!」

 え、あたしも、人気?後ろを向くと、あややがしてやったりの顔で笑っていた。
 こいつの仕業か。

 『位置について』

 スタブロの感触を今一度確かめる。足の疲れは相当なレベルだった。
 でも、あたしは走る。負けたくないから。勝ちたいから。
 ヤラセでもなんでも、あの歓声を裏切れるほどあたしは、強い人間でもなかった。

 『よーい』
331 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 01:09

バンッ!!
332 名前:28th_Race 投稿日:2005/05/27(金) 01:09
28thRace「意地」終。
29thRace「前夜祭」に続く。
333 名前:おって 投稿日:2005/05/27(金) 01:10
更新終了です。今後も多分これくらいのペースを目標に書いていくと思います。
334 名前:名無し飼育 投稿日:2005/05/27(金) 03:04
ずっと楽しく読ませてもらってますが今回若干違和感が・・・

自分があまり陸上競技知らないせいかもしれないけど
リレーとか団体競技って意識はあんまりないものなのかな?
球技とかだと自分のミスで試合落としたりしたらチームメイトに申し訳なくて
しばらく立ち直れないなあと思って・・・
335 名前:ひしぎ 投稿日:2005/05/27(金) 21:13
松浦さん、かっこいいです!!勝たないといけない選手ですか・・・熱い王者ですね(≧▽≦)!
336 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 00:51
熱い!熱い!長距離が熱い!!!
あっつい感動を頂きました。
ありがとうございます!
337 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:14

 29th Race「前夜祭」

 あ、やばい。
 一歩目を踏み出した時点で、いかに準決勝で体を酷使したか再認識させられた。

 足の乳酸の香りが早くも漂い始めている。ついさっきのような軽さは全くなかったし、
 動かなくなるのも時間の問題。でも、ならばその時間まで、あたしは全力で駆ける。
 本当ならこれに後一本走るはずだったんだ。あたしのミスで落とした、マイルの決勝が。

 ――南関行かなきゃ申し訳が立たないよ!

 ごっちんはあれで緊張がほぐれた、追いつけなくてごめんと笑ってくれた。
 高橋はまだ来年も次もあるんで、と市井さんの前に無神経に言った。
 市井さんは競技多すぎてきついからちょうどいいと励ましてくれた。
 でも、あたしのせいで負けたのは事実だから。例えそこに石黒先生がいたからといっても。

 余裕がなくて、周りを考える余裕をもてなかった。
 でも今はみんなに謝るために、自分自身のために、絶対に6位以内に入る!
338 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:15

 外側の麻美さんとの差は遠い。
 カーブを曲がりながら、こっちのほうが内側を走っているのに全然追いつかなかった。
 それどころか、インコースから一気に上がってきたあややとマサオさんにあっという間に差を詰められる。
 スピードに全く乗れていなかった。

 左右の三人は一体どういう体をしているんだろう。
 あれだけ走ってまだこれだけの走りが出来るなんて、異常だ。
 でも、三人にそれができるのなら、あたしにも必ずできるはずだ。
 トラックを蹴りながら、振る腕の力を早める。コンパクトに。

 限界という言葉は多分、今使うものなんだろう。
 カーブを抜けたところで、足が悲鳴を上げる。乳酸の溜りが尋常じゃない。
 やっぱり昨日しっかりとしたダウンをしなかったのと、実力以上の走りをした準決勝が効いている。
 カーブを抜けた時点であややもマサオさんも麻美さんも前にいた。
 横には川嶋さんと岡田さんがいる。これ以上抜かれたら、やばい。
 足が震えた。

 ――まだ行ける。

 自分に言い聞かせる。何度も何度も繰り返して、それが魔法の言葉になるように。

 ――動け。

 準決勝の時の自信よ蘇れ。あややに勝てると100%思い込んでいた自分に。体に。

 ――動け!
339 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:16

 『先頭はTの松浦さん……っ』

 アナウンサーの息が、マイクに吹きかかる。驚いたのかもしれない。
 突如動き出したあたしの足に。

 ――動く、まだだ!まだ勝負は終わってない!

 一気に加速。ラスト70mで、勝負してやる。
 準決勝と同じく、あたしの足に何かが舞い降りた。一気に加速する。
 体が動く。疲労感も何も感じない。今は足の裏に生えている針を地面に叩きつけて、力をもらうだけ。
 加速する。どんどん。差をつめる。負けない。負けない。
 麻美さんに追いつき、マサオさんに追いつき、ラスト30mを切った。
 行ける!そう確信した瞬間、

 ――あれ?

 足が、止まった。どうやら200は持たなかったらしい…。
 って、そんな落ち着いている場合じゃないけど。

 ――やばい!!

 あややとの詰まっていた差が一気に離れ、追いついていた二人にも離された。
 更に後ろから4人が迫ってくる。やばい、やばい、やばい。とにかくやばい。
 動かせ、足を動かせ。無理矢理体を前に傾ける。ピッチを上げる。
 でも迫り来る足音はやまない。まずい、でもあとちょっと、でもまずい。
 あと20、10、

 『優勝はTの松浦さんでした』

 最後必死で何位か全くわからなかったけれど、スタンドからの声援がなんとなく結果を知らせてくれた。
340 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:16
 
341 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:17

 みんなからおめでとうと言われても、なんだか釈然としない。
 6位。ギリギリでも通過は通過。
 でも、本当ならこの後マイルを走っていたんだな、と思うと悲しい気分になる。
 バトンを落としてからさっきまで、それを考える余裕がなかった。
 石黒先生はそれほどまでにあたしにとってインパクトのあるものだったし、
 勝ち負けの話よりも自分の進退の迷いの方が大きかったのかもしれない。
 勝ち負けも勿論、かなりの大きさなのに。悩んだ末、あたしの出した答えは、

 「ごめんなさい」
 「え?」

 改めて謝ることだった。みんな鳩が豆鉄砲を食ったみたいな顔をしている。
 でもやっぱり、言っておかなければならなかった。
 昨日のあたしは自己中過ぎた。そしてそれにも気づけなかった。

 「あたしのせいで、負けて……」
 「いいよ別に」
 「……え?」

 市井さんだった。市井さんはいたって笑顔で、平然とした表情で言った。

 「お前は来年があるんだから」
 「……………」

 なんだか複雑だった。
342 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:17

 「まあ全体的にええ都大会やったんちゃうかな?残念なレースもあったけど」

 つんくさんは満足そうに微笑んだ。
 去年を大きく上回る南関進出人数に笑いが止まらないのだろう。

南関東大会進出者
100 吉澤
200 吉澤
400 市井 後藤
800 市井 後藤
3000保田
走幅跳 矢口
やり投げ 辻
100×400mR 矢口―吉澤―加護―高橋

 5種目優勝もI始まって以来の快挙、らしい。笑いが止まらないのも無理はない。
 でもあたしは胸のもやもやが激しくて、どうしていいんだかよく分からなかった。

 「100m2位、200m6位!おめでとう」

 そんな風に誉められても。
343 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:18

 帰り道、あたしの心中は未だ複雑に絡まったまま、
 頭をかきむしりたい衝動だけを抑えながら歩いていた。
 市井さんの言葉は、シンプルだけど、胸に鋭く突き刺さった。

 「来年か……」

 誰にも聞こえないように気をつけて、呟く。
 もしかしたら頭の中で唱えただけかもしれない。
 あたしにそれはあるのかないのか、どうしたいのかどうしたくないのか、
 何も分からなかった。全く、整理がつかなかった。

 「よっすぃ」
 「なに?」
 「どうする?」
 「な、なにを?」

 いきなり話しかけてきた梨華ちゃん。深刻な顔して、口を開く。
 どうする?の言葉の意味、すぐに理解できた。体が震える。
 どうする。そんなの自分が一番知りたい状態だ。何も見えてこない。
 今はとりあえず今を生きて、戦うしかない。
 それだけだから、どうするなんて考える余裕はない。
 梨華ちゃんはあいもかわらず険しい表情のままだ。ゆっくりと口を開く。

 「火曜からテストじゃん?」
 「………え?」
344 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:18
 
345 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:19

 「終わった…………なにもかも」
 「よっすぃ、期末があるよ」
 「ごっちんと違ってあたしゃ救いがないから……」

 早くも中澤さんとの勉強合宿が頭をちらつく中、テストを終えたときには南関が一ヵ月後へと迫り始めていた。
 頭を完全に切り替えて、且つ石黒先生にだけは授業以外で絶対に会わない。
 それが今後に向けての課題だった。会うだけで動揺して、周りが見えなくなって、
 何も出来なくなって、周囲に迷惑かけるし後々自己嫌悪に陥る。
 夏の試合が終わるまでは、全部終わるまでは、あたしは走り続けなければならないから。

 部室に入るとあたしと同じくしてとんでもない点数をたたき出している面々、というかコンビ。
 辻加護コンビ。二人揃って恐ろしい点数のテストを分け合って爆笑している。ヤケクソだ。

 「あはは31点やて31点!」
 「んだよあいぼんだって29点あるじゃんアハハ!!」
 「二人とも少しは気にしようよ」
 「わろとけわろとけ!!」
 「アハハ!!!」

 楽観的なのか、それとも。その先は考えなかった。
 あたしもバカだし。
346 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:19

 一ヶ月でマサオさんが都大会2位にまでのぼりつめたは確かに事実。
 でもそれは現実的に考えてありえないパワーアップなのも、また事実。
 でもあたしはそれに挑戦しなければならない。そして、今回のあたしの課題。

 「体力が足らん」
 「すみません」
 「謝るな!ええか?200準決勝で確かにお前は25秒12で走った。
  でもな、決勝26秒台じゃしゃーないねん!ええか?!」
 「は、はい!」
 「初日はリレー一本やけど、
  通ったら次の日リレー決勝と100が予選準決決勝全部!
  最終日は200を二本!全部100%の力で走れ!」
 「100%!?」
 「せやないとインハイなんか夢のまた夢やと思え!分かったか!?」
 「はい!」

 中澤さんの言葉は厳しかったけれど、
 あたしを思って言っていることが確かに伝わったから、胸に強く響いた。
347 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:20

 都大会は一週間しかインターバルがなかったから大した練習は出来なかったけど、今度は違う。
 一ヶ月ある。一ヶ月でレベルアップすることなんて、
 はぐれメタルがいるわけではないからそうそうできるもんじゃないけど、
 都大会のレースを参考にあたしは練習することにした。

 「フォームはぼちぼちいい感じに固まってきたのう」
 「どうも!」
 「調子に乗らんように」
 「はーい」
 「まだチェックポイントは仰山あるで。全部直すんや」
 「全部ー?!」
 「せやから時間がない言うとるやろが!」
 「はーい…」
 「なんでテンション低いねん」

 時間がない。
 とにかく一つでも多くフォームを修正し、
 調子のベクトルを少しでも上昇させなければならない。
 ベクトルの使い方があっているかどうか、あまり自信がないけど。
348 名前:29th_Race ● 投稿日:2005/06/07(火) 00:21

 「私も……がんばるから」

 あの日の夜、よっすぃに言った、言葉。
 それはよっすぃを励ますために取り繕った偽りの言葉なんかではなく、本心から出たものだった。
 あれだけ頑張っていたよっすぃが、
 あんな形で負けたのは私にとってショッキングな出来事だったのと同時に、
 才能がない以上、私も頑張らなければ永遠にくすぶり続けることを気づかせてくれた。
 長距離はとにかく走るしか、ない。

 保田さんが3000での南関出場が決定したためこの熱い季節、保田さんは長い距離を走り続けていた。
 今年の南関東大会の舞台は千葉。去年の熊谷ほどではないにせよ暑いのは確か。
 汗を良くかきまわりに振り回しよく私の顔に汗をつけてくる保田さん。
 暑さ対策のため、暑い中、走りまくる。バテなければいいんだけれど。

 そしてそれにあわせて私と紺野も長い距離を走ることになった。
 ちょっと前までなら嫌だな、嫌だなと思いながらだったけど、いい機会だと思った。
 いつの間にか捻じ曲がった根性を叩きなおす、いいチャンスだと思った。
 それに、まだ公式戦で直接当たっていない紺野に絶対負けないために、
 私は走らなければならない。負けるわけにはいかない。

 いつもの城北公園でハイスピードで走り続ける保田さんの後方かなり離れた位置で、私は走っていた。
 紺野も同じ位置。今日はいわゆる“抜き”の日で、アクティブレストと分類される日だった。
349 名前:29th_Race ● 投稿日:2005/06/07(火) 00:21

 「こんこん」
 「はい?」

 だから私は話し掛けた。前々から聞きたいと思っていたことがたくさんあったし、
 それによって触発されたかった。

 「中一ベスト、覚えてる?」
 「えーっと、6分30くらいです」
 「え」

 驚いた。

 「私と一緒じゃん」
 「本当ですか?偶然ですねー」
 「いつからそんなに強くなっちゃったの?」
 「うーん、いつでしょう?」

 思わずつっつきたくなるようなほっぺをぷくっと見せつけながら笑うと、
 こんこんは私を見てもう一度笑った。

 「きっかけみたいなものでもいいからさ〜、教えてよ」
 「きっかけ、ですか……」
 「?」

 急にこんこんの表情が締まる。
 なんだか地雷を踏んだような気がしたけど、こんこんはすぐに口を開いて話を続けた。
350 名前:29th_Race ● 投稿日:2005/06/07(火) 00:22

 「中二のとき、ラストスパートで負けたんです」
 「スパートで」
 「はい。最後のギリギリまで競って、勝てると思った瞬間、離されました」

 声のトーンが低い。
 その時のことをもしかしたら思い出しながら話しているのかもしれない。
 こんこんは複雑な表情を滲ませていた。

 「それが悔しくて、悔しくて。二度とスパート勝負なんてしないと思ったんです」
 「え」

 一瞬ガクッと足を踏み外す。何か、何かがずれている気がした。

 「スピードが絶対的に足りない分、根性だけだとどうしてもラストで負けてしまうんです。
  だから私はスタミナで戦うしかないって、気づいたんです」
 「スタミナで、戦う……」
 「はい。石川さんと違ってスピードもないですからね」

 最後になってこんこんは笑顔を見せた。
 その笑顔は苦労をしているからこそ輝いている、そんな光が見えて、眩しかった。
 私にはないものだった。
351 名前:29th_Race ● 投稿日:2005/06/07(火) 00:22

 保田さんは尚もハイスピードでジョックを続ける。
 私達はいつの間にか周回遅れにされていた。あの人はどうやら今日休む気が全くないらしい。

 「石川さん」
 「何?」
 「私は………」

 凧揚げをしているおじさん達が小走りで目の前を通過する。
 糸が頭の上を抜けていったけど、正直少し鬱陶しかった。
 凧は空高く舞い上がると面白いくらいに小さくなっていく。

 「保田さんを超えます」
 「…………」
 「必ず」
 「…………」

 希望の光が満ち溢れているこんこんの瞳は力強くて、目をそらしたくなった。
 前までの私ならきっとそらしていたと思う。でもいけないと、思った。
 これと戦わなければいけないんだ、私は。
352 名前:29th_Race ● 投稿日:2005/06/07(火) 00:23

 「私も」
 「……え?」
 「私も超えるよ、保田さんを」

 こんこんは難しそうな顔をまたしてみせる。
 どうコメントしていいのか、リアクションに困っているのは明らかだった。
 そしてそれを失礼だと彼女は気づいているのだろうか。

 「仲間ですね、私達」
 「……ライバルだよ、私達」
 「ライバル、ですか。燃える響きです」

 相手にされているのだか、されていないのだか。
 高橋だったら確実に私を小ばかにしているけれど。

 「…絶対に負けないんだから」
 「はい?何か言いました?」
 「ううん、なんでもないよ」

 その声はこんこんに聞こえる必要はないと思った。
 というか、聞こえてほしくなかった。
353 名前:29th_Race ● 投稿日:2005/06/07(火) 00:23
 
354 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:24

 修学旅行中もあたし達は走りまくった。
 南関が近いこの時期、修学旅行はそれとして楽しんだけれど、
 自由時間は走ってないとなんだか落ち着けなくて、最低でもジョグとドリルは続けた。
 練習の虫になれ、長距離みたいに。
 時間をかけて掴んだものほどあっさりと抜けてしまうものなんだ。自分に言い聞かせて。

 うちの学校は三コースに分かれて行き先を決めるタイプの修学旅行で、
 ごっちんと行き先が被ったから、毎日一緒に練習をした。
 疲れた状態で宿に戻って、でも夜中騒いで、後半かなりばてたけど、
 この五日間で今までの練習を水の泡にはしたくなかった。

 「疲れたー」
 「普通に練習しちゃってるようちら」
 「夜遊べないよー」
 「そんなこと言ってごっちんいつも普通に寝てんじゃん」
 「アハッ。よっすぃは無理しすぎ。寝た方がいいよ」
 「遊ばなきゃ修学旅行じゃないっしょー」

 結局その日は疲れ果てて寝てしまったのだけれど。
 なんとか体力を落とさずに一山を超えることが出来た。
 そしてすぐに、南関はやってくる。
355 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:24

 6月16日木曜日早朝。
 二台の車に分けて乗せ、つんくさんとまことさん運転で発車。
 目指すは千葉の総合スポーツセンター陸上競技場だ。

 八人は四人四人に分けられて、後部座席に三人、あまり乗り心地の良くない状態で出発。
 でも朝早かったこともあって、発車後10分でごっちんは眠り姫に。
 あたし、ごっちん、市井さん、保田さんの一号車と矢口さん、高橋、のの、あいぼんの二号車。
 どっちが窮屈かなんて、すぐに判断つく。
 これで助手席じゃなかったら結構辛かったに違いない。

 つんくさんの横であたしはぼっと窓の外を見ていた。
 何も考えずに、ただ授業を公欠で休めた自分を誉めながら。
 どうせ出ても出なくても聞いちゃいないのだから、こういう風に過ごせることが嬉しかった。
 でもせっかく休んだんだから、お土産の一つや二つ持ってかえらないといけない。

 「吉澤」
 「はい」
 「目標タイムとかあるか?」
 「タイムより、勝ちです」
 「…………松浦亜弥にか?」
 「……はい」

 名指しをされて一瞬驚いたけれど、答える。
356 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:25

 「一回も勝ててへんもんな」
 「…………はい」
 「……………」

 車は渋滞に捕まることなく順調に進んでいく。
 予定よりもしかしたら早く会場に到着できるかもしれない。

 「あんな?これあんま言わんといた方がええんかもしれへんけど」
 「はい」
 「松浦とかなり、当たっとったよな、お前」
 「は、はい……」
 「あれな。………ホンマ誰にも言うたらあかんぞお前ら」
 「はい」

 何を言い出す気なんだろう。
 後ろで話していた市井さんと保田さんも動きを止めて、黙り込んだ。
 車内に沈黙が走る。

 「こない静かやと話しづらくてしゃーないわ!!」
 「す、すみません」
 「まあええわ、あれな、………俺が仕込んだ」
357 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:25

 「は?」
 「せやから、俺がやった」
 「……番編を?」

 頷くつんくさん。
 ということは、やけにあややと毎レース毎レース当たると思っていたけど……
 それは全部、全部、全部、

 「全部ヤラセかよーーーー!!!!!!」
 「ヤラセって言い方おかしくない?」
 「圭ちゃん冷静にツッコミ入れすぎ」
 「つんくさん、どうなんですか?!どうなんすかそこんとこ!!」
 「落ち着けや!座れや!シートベルトつけい!!!」

 なだめられて後ろから市井さんに無理矢理席に降ろされ、シートベルトを仕方なく装着した。
 落ち着いたところでつんくさんは言った。

 「狙いがあったんや、一つ」
 「狙い?」
 「吉澤のタイムを劇的に伸ばせるんやないかな?思うてな。
  ちょいと番編いじってもろうて……結果的には大成功、流石俺やな!」

 大笑いするつんくさんの声が無駄に良く響いてかなりムカついたけど、
 なんにも考えてなくて、なんにもしてなさそうなこの自称プロデューサーの手によって、
 あたしはプロデュースされたんだな、と思うとなんだか変な気分だった。
 なんだかんだ色々考えているのかもしれない、この人。

 「俺最高!俺輝いてる!俺……」

 ただのアホかもしれないけど。
358 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:26

 会場のすぐ近くのホテルに到着すると、すぐにチェックインして荷物を置いた。
 二人部屋だったから、ごっちん市井さん、矢口さん保田さん、ののとあいぼん、
 そしてあたしは高橋と同じ部屋。なんか余ったもん同士をくっつけられたような気がしたけど、
 高橋と話す機会は前から欲しかったから、好都合だった。

 「着いた着いたー、………普通―」

 部屋に入って最初の感想。普通。本当に普通のホテル。
 別にすごいものを期待していたわけじゃないし、ぼろくなかっただけマシだけど、普通。
 高橋も普通やのう、なんて言いながら大きめの鞄をベッドの上に乗せると、座った。

 「昼飯食ったらサブトラックで練習だよー」
 「はい。よしざーさん」
 「なに?」
 「あと二回走って勝てば、リレーインハイ、実感わきます?」

 突然高橋の方から投げかけられたボールは、意表をついた変化球で、
 あたしは思わず弾きそうになった。

 「え……ない、かな。まだ、南関にきたこと自体が」
 「あぁしもないんですよ、全然。なんて言ったらええんやろな、
  行けると思ってたもんが行けなかったのに、リレーがいけたからかもしれんけど……」
359 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:27

 高橋がうーんと何回かうなった後、漸く出てきた言葉は、

 「なんていうか、こんな簡単に行けていいのかな?って。思うてまうんですよ……」

 なんとなく、一瞬だけカチンときたけど、そういえばそうだ、と納得した。
 確かにリレーは、あっけなかった。
 激しい戦いをしたけれど、今から思えば6位まではここにこれたわけだし、
 そう考えるとかなり余裕があった。
 200で敗れたとはいえ、高橋には勝ちを実感するほどの達成感がまだ、ないのだ。
 嬉しいのは確かなんだろうけど。

 「感じよっか」
 「へ?」
 「インハイ行って。苦労してインハイ行って、今度こそ。実感しよう」
 「………はい!」
 「実は素直なところあんじゃんかお前〜」
 「なんですかそれ」

 最後の一言が納得行かない様子の高橋を無視して鞄から道具を取り出す。
 ジャージの入った袋、スパイク、アップシューズ。
 全部取り出すと、玄関に向けて歩き出した。高橋は慌てて後を追う。

 「ほら、すぐ集合だよ」
360 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:28

 一日の調整を終え、夕食を済ました後、ホテルの部屋は大盛り上がり。
 修学旅行からすぐだったのもあったけど、あたしとごっちんはまたまた修学旅行気分を満喫。
 千葉だけど、ホテルに泊まるというのが気持ちを意味もなく高ぶらせた。

 「上がりー!!!」
 「ダーヤス最強―」
 「誰?!今ダーヤスって言ったのは!」
 「うちも上がらせてもらおかな」
 「あいぼんも強いー!」
 「よっすぃ弱すぎんだよ!早く出して!上がれないから!」
 「こんな強いカード無理です」
 「7のどこが強いんだよ!」
 「んあ、上がり。もう寝る〜」

 ごっちんが三番手に抜けて部屋に戻っていくと、入れ替わりでつんくさんが突っ込んできた。
 何を言い出すのかと思えば、

 「もう寝ろや!!もしくは俺も混ぜい!!!」
 『寝よう』
 「お前らホンマに人の子か?」

 結局各自部屋へと散って、トランプはお開きとなった。
361 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:28

 部屋に戻り、再び高橋と二人きり。
 ベッドの上に無防備に体を落とすと、ぼすっと音がして体が沈んだ。
 すぐにスプリングの反動で跳ね上がったけど、また落ちた。いよいよ、明日から勝負だ。
 ずっと負けられない戦いが続いてきたけれど、インターハイに向けて、
 一レース一レース、本当に大事だ。
 こなす、じゃなくて、全部全力。全部力を出し切らないと、あたしに勝ち目はないだろう。

 「………………」

 二人ともそれぞれのベッドの上に沈んだまま、沈黙が室内に保たれる。
 二人のベッドの間に置かれたアロマテラピーの香りが、心身ともにリラックスさせてくれる。
 歯も磨いたし、着替えたし、あとはもう寝るだけだし、
 そのまま瞳を閉じて何も考えないでいたら、

 「よしざーさん」
 「ん?」

 高橋が話しかけてきた。
 二人ともベッドの上、お互いの顔を見ることはなくそのまま会話をする。

 「明日ってタイムレースでしたっけ?」
 「着取りだよ。2+2」
 「プラスに入ろうとして手抜いたらダメですよ、2、3組に強いチームがいて抜かれるから」
 「お前に言われたくないよ」
 「そうでしたね」
362 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:29

 高橋はそう言って普通に笑っていたけれど、彼女が悔しいのは絶対に確かなことで、
 でも笑っている高橋はやっぱり本物で。意味が分からない。
 掴めなかった。

 再び静かな時が流れる。
 時計の針は10の文字を刺して、普段ならまだ寝るような時間ではなかった。
 でも心地よく流れる空間に眠気を感じたし、あたしはベッドの中に入ることにした。
 体を起こして布団をしっかり被る。

 「よしざーさん」
 「………」

 無言で、でも今度は高橋の顔をしっかりと覗く。
 高橋はその大きな目をしっかりと開けていて、なんだか迫力を感じた。
 布団をめくった状態の腕は宙ぶらりんのまま、見つめあう。
 高橋が口を開いたのは少し経ってからだった。

 「来年のこの時は、ライバルとしてここにおりますから」

 ニヒヒ、と笑ってみせる高橋。
 なんだかかわいい後輩って感じで、愛らしかった。

 「かかってこい」
 「負けませんよ」
 「こっちこそ」

 そろそろ寝るか、とあたしが言うと、高橋もベッドの中に入り、電気を消した。

 明日は、決戦だ。
363 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:29
 
364 名前:29th_Race 投稿日:2005/06/07(火) 00:30
29thRace「前夜祭」終。
30thRace「決戦」に続く。
365 名前:おって 投稿日:2005/06/07(火) 00:34
>>334 名無飼育さま
   貴重なご意見ありがとうございます。
   一応今回こういう風に書きたかったからそう書いたのですが、まだまだ未熟なようです。
   一つ言うなら人と学校によります。それに比重を置いてるかどうかでも千差万別だったり。

>>335 ひしぎさま
   はじめまして。そうですね、熱いです。物凄く熱いです。
   絶対的なチャンピオンはやはりこういうプレッシャーの中戦ってるみたいです。

>>336 名無飼育さま
   長距離も熱いです!というか自分は長距離だったのでそっちのが熱いです!
   何も考えずにスタミナの限り走るだけなようで心理戦なのも醍醐味でしょうか。

次の更新もこのくらいになるかと思います。
と書いておいて今回遅れてしまいましたが(汗
366 名前:名無し読者 投稿日:2005/06/12(日) 21:10
つんくさん・・・
よっすぃ〜のためにしたことだから結果オーライですね
367 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/26(日) 09:14
続きを楽しみに待ってますよ
ガキさん頑張ってくれろー
368 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:07

 30th Race「決戦」

 三日間の決戦。高校総体南関東地区予選会。通称南関。
 ついに訪れた初日に、あたしは緊張がとまらなかった。初めての関東、体が震えないわけがない。
 あまりにすっきり目覚めのいい朝は、それだけ普通じゃないことを物語っていた。

 ホテルで朝食、なんて悠長なことをしている場合じゃない。
 あたし自身は15:10からのリレー一発だから問題ないけれど、400が10:35からあった。
 学校がある上千葉、あたし達が応援しなかったら他に応援する人なんていない。お互い応援しあって、励ましあって進むしかない。

 車で競技場まで到着すると、その大きさに去年に続いて驚かされた。
 関東大会はやっぱりこういう大きなところでやるものなのだろう。ごっちんが体を大きく伸ばす。

 「うわ緊張してきたー」
 「のの体固いけど大丈夫?」
 「………大丈夫」
 「大丈夫じゃないじゃん」

 両肩を掴んで揺らすと、ののはおもちゃみたいに首をぶんぶん振って、とても普通の状態とは思えなかった。
369 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:08

 初日の競技は400予選、決勝、4繋リレー予選、やり投げの三種目。
 午前中、あたしはひたすら暇。本当に暇。きっと東京ベンチでだらだらしているんだろう。
 一番厄介なのはリレーとやり投げの時間が被るから途中までののの投擲が見られないことかもしれない。

 東京都ベンチ、神奈川県ベンチ、みたいに、都道府県ごとに決められた位置でベンチを陣取る。
 つまり必然的に東京都の他校との交流は深い。当然その中にはTやHやMもいるわけで…。

 「おはようございまーす!」
 『おはようございまーす!』

 都大会を共に戦った戦友がばかりがいる。
 相変わらず敵のままだけど、ここではお互いを応援しあう存在へと変わる。

 「あやや久しぶりー」
 「久しぶりー。がんばろーね、暇と戦おう」
 「アハハ、そうだね。みきちゃんさんは400だっけ」
 「そ。よっちゃん応援してよね」
 「任せなさい、都大会のときくらい名前叫ぶから」
 「アレははずい」
 「えー」
370 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:09

 つんくさんがシートを敷くと、あたし達はその上に荷物を乗せた。
 Tと連結されているから、座るとすぐにあややの隣になった。
 あたし達は二人揃って3時まで競技ゼロ。短距離ランナーは初日暇みたいだった。

 10:35に400予選が始まるけど、それまでまだ一時間を軽く越す時間持て余していた。
 ごろごろしていてもストレッチしていてもマッサージ大会してもいいんだけど、
 初日だしどれをするのもなんとなく億劫だった。体力は有り余っている。練習をしたくなるくらいに。
 横にいるあややとどうでもいい話をずっと話していたけど、遂にそれにも飽きた。
 誘ったのはあややの方だった。

 「サブトラ行かない?体重くなりそう」
 「軽く走る?」
 「うん。走ろ。気持ちよくジョギングだけでもいいし、たんが出るまでまだ時間あるし」
 「だよねー。暇!暇!Boring!……で、合ってた?」
 「多分」
 「行こっか」

 二人立ち上がると、東京のベンチを離れる。
 階段を駆け下りると、すぐに近くにあるサブトラまでゆっくりと歩いた。
371 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:10

 「でか」
 「南関だとこのくらいになるよね」

 去年は入れなかった、選手専用の練習用サブトラック。
 選手証を翳して入ると、漸く南関にきたことと、その重みをなんとなく実感した。
 あたしは、関東レベルの選手になったんだ。
 去年は外からちょっとだけのぞいたサブトラックで、今走っているんだ。

 「なんか、夢みたい」
 「えー」

 あたしが言った一言を、あややは一言で否定した。

 「それはないよ」
 「そりゃあややはインハイ行ってるからさ」
 「そうじゃなくて」
 「そうじゃなくて?」
 「夢は、これから見るものだよ。まだ始まってないじゃん」

 さらっと言ってのけたその言葉。
 さらっと言った分だけの重みが、中身が確かに詰まっていて、ずしんと体に乗っかってきた。
 そうだ、これから始まるレースで、夢を見るんだ。
 インハイに行く夢を。
372 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:10

 ゆっくりと走っていると、他にもいろんな選手が走っている姿を見ることが出来る。
 各県の有名選手も多くいて、梨華ちゃんみたいな陸上マニアにはきっとたまらないんじゃないかと思う。
 あたしも大分詳しくはなったけれど都の外を出ると全く知識がない。
 その辺詳しいあややはいろいろな人を教えてくれた。

 アウトコースでゆっくりとジョグしていると、
 インコースをかなりのハイスピードでジョグをする一人の女の子。高一だろうか。
 
 「斉藤美海だ」
 「みうな?」
 「うん。1500、3000の千葉県チャンプ。静岡の中学にいて、全中優勝。そっからCに引き抜かれた」
 「Cって、あのC?強豪の」
 「うん。よっすぃ知ってんだ」
 「さすがにね」

 泣く子も黙るC、なんて言われているわけじゃないけれど、
 確かにCは名の通った強豪校だった。それはあたしだって知っている。
 あらゆるスポーツにおいて全国クラスの実力を誇る、
 一体いつ勉強してるんだってほどのスポーツ優良校。
 噂によると午前授業な上全寮制らしく、聞いただけで寒気がした記憶がある。

 「まだ高一だよ」
 「えー。タイムは?」
 「1500が4分25くらいかな」
 「速」
373 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:11

 犬が歩けば棒に当たるけど、今のあたし達は走れば有名選手に会う。
 なんか使い方微妙に合ってるような、間違ってるような。
 Cの選手はみんな結構練習中らしかった。ジョックを終えて、ストレッチをゆっくりゆっくり、
 入念に何度も行いながら、走っていく選手を眺める。

 「あれ木村麻美」
 「あさみって名前多いね」
 「そういえばそうだね、アハハ。でもあの人は巾跳の選手。
  矢口さんのライバル的存在になるのかな多分。100も出てるけどね」
 「ライバルか〜」
 「あ、里田さんだ」
 「ホントだ。あの人もCだっけ」
 「うん。市井さん勝てるといいね」

 市井さん、その言葉に一瞬だけこっちをちら見した気がしたけれど、
 里田さんはそのまま走り去っていった。ライバルってのは、ああいうものなのかもしれない。

 その後も色んな有名選手が走りまくってたけど、
 そのタイムとか、経歴とか、聞く度に、すごいところにいることを改めて思い知らされた。
374 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:12

 沢山の選手がそれぞれの夢を胸に練習を続けている。
 ここまで来た選手達だ。全員勝ちにきている。
 全員勝利に勝利を重ねて自信を持ってここに来ているのだから、勝利を信じて走っているんだ。
 無表情なのに、そういうオーラがにじみ出て見えるのは、気のせいじゃない。
 そして、横の東京都チャンプから溢れ出るそれも、真実だ。

 「二人とも」
 「え?」

 突然話しかけられて、振り向く。
 話しかけてきたのは、木村麻美さんだった。なぜか笑顔で、あたし達のことを見ている。

 「ちょっと勝負しない?」
 「……勝負?」

 サブトラの真ん中に立っている時計に目をやる。10:30。もう行かなければならない時間だった。
 でも、勝負と言われて胸が燃えているのも確かだった。応援と勝負。
 揺れる。悩んだ。

 「どうする?」
 「なにで勝負するんですか?」
 「あやや」
 「SD」
 「受けて立ちます」

 乗っちゃったよこの子。
 あややはあたしの腕を引っ張ると、スターターと審判やって、とだけ言って腕時計を渡してきた。
 どうやらやらなければならないらしい。
375 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:13

 100のスタートラインから30mほど先、スタートダッシュのゴール地点で構える。
 二人のスタートをひたすら待つ。二人とも真剣な顔つきで足場を整えている。
 実際のレースとなんら変わらない緊張感が、ゴール地点にまで伝わってきた。

 「久しぶりだね」
 「そうですね」
 「今年は勝たせてもらうかんね」
 「今年も頂きますよ」
 「よ〜し、一年あれば人間こんな伸びるってこと教えてあげる」

 ギャラリーが少し集まってきた。
 有名選手が二人、こんなところで並んでSDをするのだから仕方がないのかもしれない。
 ここくらいのレベルの選手は、大抵が有名選手であると同時に陸上オタクに近いくらい強い選手に詳しい。
 ライバルとして、ファンとして、近くにいる存在だから余計に知りたくなるのかもしれない。

 「行きますよ〜」
 「あれって吉澤ひとみじゃね?」

 あたしもどうやら有名になり始めてるらしい。
376 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:13

 「位置について」

 陸上を始めて二年目、スターターのタイミングというものを曲りなりにも理解して、
 利用するまで覚えることができた。
 そのお陰で体育の授業の教師のタイミングが速過ぎてタイミング全く取れなかったりするんだけど。
 そういうことにはならないように、二人に走りやすいテンポを提供しなければならない。

 真剣なあやや。真剣なあさみさん。
 明日100で対戦することを考えると、ここで牽制したいとお互いに思っているはず。
 足の位置を何度も確認している姿は、試合のそれと全く違わなかった。

 「よーい」

 パンッ!

 手を弾く。それを合図に二人は飛び出した。
 全身を強い風に押されるような衝撃。迫力に圧倒されている自分がいた。
 これが関東。思わず後ずさりしそうになって、目を背けかけたけれど、
 しっかりとその姿を目に焼き付けた。嵐の前に吹く風を、見逃してはならない、そう思った。

 低い姿勢から迫りくる風を断ち切ってあたしへの距離を縮めていく。
 二人ともほぼ互角とみてよかった。でも、

 ――あややが少し負けてる!?

 僅か、ほんの僅かだけれど、体一つ分に値しないくらいの差だけれど、
 負けている。あややも苦しそうな顔をして、腕を振っていた。
377 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:14

 ――あややが、負ける。

 そんなシーン、見たくなかった。
 でも審判を負かされた以上、公平なジャッジをして、最後まで勝負を見極めなければならない。
 表情が歪んだのが、なんとなく自分でも分かった。
 二人があたしの横を駆け抜けていくと、誰にも聞こえないように息を吐き出した。
 
 「おっしゃぁ〜!!」

 無垢な笑みを浮かべてガッツポーズをとるあさみさん。
 それだけ誰から見ても、勝ち負けははっきりとしていた。

 あややが負けた。

 「あさみさんの、勝ちです」

 自分で表情が歪んでいるのが分かった。こんなシーン、見たくなかった。
 あややが負けるシーンなんて、どんな時であっても。
 あさみさんはガッツポーズを再び掲げると、喜びを全身で表現していた。

 「じゃあ、明日の100楽しみにしてんね〜」

 手を振って去っていくあさみさん。あややへと視線を移すと、
 ゴール付近でまだうつむいて、黙っていた。
 ギャラリーの視線も、あさみさんからあややへと移っていく。
 松浦が負けた、あややが負けた。そんな声がちらほら聞こえ始めた。

 なんとなくやばい気がして、あややに近づく。
 一気に距離を詰めて、声をかけようとした。
378 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:15

 「あや」
 「………勝つ」
 「え?」
 「絶対勝つ」

 あややは落ち込んだりしてなかった。
 むしろハートに火がついて、目が燃え滾っていた。
 勝ちに対する執念が、執着が。あややを更に強くする。
 勝つことを義務付けられた選手の勝ちへのこだわりが、南関で見ることができそうだった。

 「勝つ」

 こうなると、あたしも負けていられない。
 あたしにはそういう義務だとか世間の目だとか、プレッシャーがない。
 背負うものがないものの、気負いのない、ハングリー精神を見せてやるしかない。
 都大会、あんなにもつんくさんがあたしとあややをぶつけてくれたのに、一度も勝てなかった。
 南関ではいつ対戦できるか分からないけれど、戦う時がきたら、
 いや、勝てば必ず訪れるその時は、勝つ。

 「勝つ。あややにも、あさみさんにも」

 あさみさんごとまとめて、倒す。誰よりも高い位置で笑ってやる。

 「………負けないよ」
 「………負けないよ」
 「………あ、400」
 「………あ」
379 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:15
 
380 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:16

 もう二人、東京都代表の、勝つことを義務付けられた女達。
 ごっちんは1組目、市井さんは2組目。里田さんは3組目で、有力候補は全員バラバラだった。
 ほかにも麻美さんが3組目、みきちゃんさんが1組目。3組2+2。
 運さえあれば多少実力が劣っても潜れなくもない、
 つまり手を抜かなければ三人とも確実に決勝へと進出できる。

 しかしここでごっちんが失敗レースを披露してしまった。
 エンジンがかからないのか、イマイチなスタートで飛び出すと、
 最後の直線でみきちゃんさんに食われ、3位でゴール。
 早速+待ちの選手が一人出来上がってしまった。
 ごっちんは首をかしげながら歩いていて、
 それを見た瞬間つんくさんが「あいつ出しきれへんかったな、余裕あるやん」と笑った。

 ごっちんは苦笑いを浮かべると、声援が送られた方向を見やる。
 あたしが笑うと、それに気づいてか、頭を抑えて少し恥ずかしそうにはにかんだ。
 予選通過がいきなり厳しいのに、余裕だ。
 
 『続いて南関東女子第二組です』
 「市井さんだ」

 みんなの視線が一斉に集まる。
 市井さんは4レーン、真ん中でたっていたけれど、その背中は限りなく大きく見えた。
 何か大きなことをやってのけてくれそうな、威圧感が。今の市井さんにはあった。

 『位置について……よーい』

 バンッ!!
381 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:17

 轟音が鳴った瞬間から、市井さんはいつもの市井さんとは違っていた。
 スタートのスピードも飛び出しもいつもと変わらなかったけれど、確かに違っていた。
 都大会でごっちんと麻美さんに負けて3位に終わった時とは明らかに、何かが。

 気づけば市井さんは悠々先頭に立っていた。
 飛ばしすぎず流しすぎず、着々と歩を刻んでバックストレートを消化していく。
 一体何が、市井さんの身に何が起こったのか。そう勘ぐってしまうほどの変貌ぶりに、
 あたしは言葉を失った。

 「速い」
 「どうしちゃったの紗耶香」

 矢口さんが混乱気味に笑う。何で自分が笑っているのかもよく分かってなさそうな笑いだった。
 市井さんは、速かった。400でこれほどまでに速い市井さんなんて、一度も見たことがなかった。
 あたしにとって市井さんが速いのは800と1500だったし、
 1500インハイ8位の実績がそれを証明していた。でも400に実績はなかった。
 むしろあたしが今まで見た市井さんの400のレースなんて数えるほどしかないし、
 ごっちんに勝っているレースなんてもしかしたら見たことがなかったかもしれない。それなのに。

 「漸く目覚めたっちゅうとこやな」
 「目覚めた?」
 「元々なんでもできる選手やけど、里田前にして火がついたな。400選手として漸く開花しおった」

 つんくさんは満足そうに頷くと、手を叩いた。

 「市井ファイトー!」
 「市井さんファイトー!」
382 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:18

 カーブを抜けると、市井さんは一足も二足も先に最後の直線へと入った。 
 その足取りはまだまだ軽く、余裕が感じられる。
 いつもの市井さんなら2位で通過しようとするのに、その点においてもこの光景は珍しいものだった。

 『先頭はI・東京の市井さん』

 御馴染みのアナウンサーの声が場を盛りたてる。
 流れるように直線を進んでいくと、市井さんは最後は流し気味にゴールラインを通過した。 
 一体どうして南関で流して予選通過ができるというんだろう。
 疑問でならなかった。

 『57秒11』
 
 ベストタイム。まだまだ伸びしろを残しているのに。
 市井さんはトラックに向けてお辞儀をすると、スタンドに向かって小さく拳を振り上げた。
 そして、里田さんをけん制。コース上に出た里田さんは、5レーンのレーン上で止まったまま、
 市井さんと視線を交わらせていた。無言の会話が交わされる。
 数秒後、市井さんはすっとコースを離れると続いて里田さんが流しに走り出した。

 「…………うおーーー!!」
 「どしたよっすぃ、狂った?」
 「なんかああいうの、良い!燃える!…………ていうかののに言われたくないんですけど」
 「遅いよ」

 胸を熱くさせられた、触発させられた。
 今日のリレーに向けてモチベーションが高まってきた。
 今あたしは確実に燃えている。

 「里田さんくるよ」
 「お」

 レースは続く。最終組の3組だった。
383 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:19

 『位置について』

 里田さんは、ついさっきの市井さんのレースを見てどう思ったのだろう。
 少なくともやる気が出たには違いなかった。
 スタートの構えを整えている姿、入念さ、全てに気合が感じられた。
 隠そうとしても隠せないオーラが、感情が、全身から溢れ出ている。
 きっとこの人すごい走りを見せる、直感だけど、そう思った。

 『よーい』

 バンッ!!

 ものが違っていた、他の人たちとは。横にいた麻美さんも霞んでしまうほどに。
 走り方からスピード、何から何までが次元が違った。全国区。
 その言葉がふさわしい走りだった。

 「速いですね」
 「速いな」
 「速いわね」

 みんな他の言葉が出てこないのか、速い、速いとばかり話している。
 事実、里田さんは速い。とんでもなく。俄かに信じがたいスピードで快走している。
 ペース配分もきっと、全部無視しているのだろう。
 でないと説明がつかないような速さでトラック上を駆け抜けていた。

 半分すぎてもそのスピードは止まらない。カーブに入るとますます後方を引き離して、
 独走に更に独走を重ねる。上塗り。
 里田さんは止まらない。
384 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:20

 「こりゃえげつないタイム出ちゃいそうだな」

 矢口さんが呆れたように口にした。えげつない。
 言葉選びがおかしいと一瞬思ったけど、思い直した。ぴったりだ、しっくりくる。

 300を駆け抜けると里田さんは後ろを振り返った。
 続いて前のフィニッシュタイマーに目を向ける。
 そしてラスト50に入ると、急激にスピードを落とした。
 もうどんなにゆっくり走っても1位でゴールできると判断したのだろう。
 しかし減速したとはいえ、ゴールラインを通過するタイムはとんでもないことになりそうだった。

 『1着はCの里田さん。記録は56秒15』
 「は?!」

 市井さんよりも約1秒速い。都大会のごっちんよりもタイムが上だった。
 最後、流したのに。急激に、市井さんよりも。それは里田さんがバケモノであることの証明だった。
 
 「ほんま、とんでもないことしよるわぁ」
 「意味わかんねぇよ〜」

 つんくさんも矢口さんも、
 呆れて物もいえないを体で表現しているみたいで、
 多分あたしもそんな顔をしているのだろうと思った。
 遅れてゴールした麻美さんは2位でタイムが57秒台後半。
 温存しているのは明らかで、決勝はとんでもない舞台になりそうだった。
385 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:21

 ごっちんと市井さんが帰ってきた頃、ごっちんが+枠から漏れたことが放送で伝えられた。
 ごっちんは残念そうに、でも何故かほのかに笑顔を残した顔で首を傾けた。
 あーあ、なんて声を上げて笑うと、ベンチの上で大往生。

 「今日あたしもうなんもないよね〜?」
 「ないよ」
 「zzzzzz」
 「早。400のタイムよりも早」

 ごっちんは爆睡をはじめると、あたしはプログラムで予定に目をやった。
 まだまだ先は長い。むしろ400決勝の方が先にある。どうしよう。すごく悩んだ。
 400決勝を見た後にアップを開始しても余裕がありすぎるくらいなのに、
 この有り余った時間をどう活用すればいいのだろう。………よし。

 「あたしも寝」
 「ヨ・シ・ザ・ワ〜?」
 「はいっ!?…………中澤さん、何故ここに」
 「吉澤の勉強を見たろうと思うてな、ええ先輩やろ?」
 「は、はぁ……」
 「お前成績やばくて進級微妙のくせに何抜かしとんねん!」
 「何も言ってないですよ!ていうかなんで知ってんですか!!」
 「全部知っとるで!英語の11点から何まで全部!」
 「え、よっすぃそんな低いんだ……」
 「あやや、なんでそんな目で見るの!?」

 完全に中澤さんのペースに持ち込まれると、いつの間にか勉強タイムになっていて、
 いつの間にか鬼コーチは鬼教師に変身していた。
386 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:21
 
387 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:22

 「あと五分で始まりますよ!ほら、そろそろ片付けないと!」
 「………しゃーないのう」
 「やった」
 「まこと先生、吉澤の勉強の面倒見といてください、うち400見てきますわ」
 「え゛」
 「冗談や」
 「ほ」

 中澤さんは余裕の表情で笑うと、立ち上がる。
 どこから持ってきたのか分からない問題集をしまうと、スタンドの方へと歩き出した。
 すぐについていく。観客としても楽しみだったし、
 近くにいる存在としてもワクワクとドキドキが止まらない。
 市井さん、里田さん、麻美さん、みきちゃんさん。半分が知り合いというのも面白いし、
 市井さんと里田さんの勝負の行方も楽しみだった。
 そして、勝って欲しいと思った。プライドのため、里田さんに勝つため。
 そのために、メイン種目ではない400を選び、里田さんに勝つと宣言した市井さん。
 勝って欲しいと思った。

 「たーーーーん!!!」

 大きな声であややが親友の名を呼ぶ。
 親友は照れくさそうにスタンドを見上げると、僅かに表情を緩めた。
 彼女もまた、6/8に入って、インハイを夢見る一人だ。
388 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:22

 3レーン市井さん、4レーン里田さん、5レーン麻美さん、8レーンみきちゃんさん。
 横のレーンに立つ二人の選手は、ライバル意識を燃え滾らせていた。
 スタートラインに戻る途中、ふと目が合って立ち止まる。二人で見つめあってそのまま動かなくなった。
 まるで先に動いた方がこのレースで負ける、なんて予言でもされたんじゃないかというくらいに。
 最終的に二人同時に動くと、スタートラインに立った。
 まだ見つめあっていた。にらみ合っているのかもしれない。笑い合ってるのかもしれない。

 『それでは南関東女子400m競争、決勝です』
 『位置について』

 八人の選手達が各々のペースでスタブロに足をかける。
 南関まで来ると観客も色々分かってくるのか、場内は完全な沈黙に包まれた。
 その八人以外、誰もこの会場に存在していないのではないかと思えるほど、静かだった。
 スタブロとスパイクが当たるカシャカシャという音だけが、
 そこに八人が存在している証。

 『よーい』

 腰を浮かす。長い一瞬。

 バンッ!!

 最初から、優勝争いが見えた。

 市井さんと里田さんはもうすごいとしか形容ができない迫力で飛び出すと、
 どちらも譲らぬスピードでカーブを走りぬけた。一番外を走るみきちゃんさんとの差でさえ、
 かなり縮まる。信じがたいダッシュだった。
389 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:23

 麻美さんは驚愕の表情を浮かべている。遠く離れたスタンドからでも、手に取るようにわかった。
 しかしそれが無理もないほどに二人のスピードは400のスピードとはかけ離れていた。

 「これ200だろ……」

 矢口さんは呆れている。二人ともバカだろ、なんて呟いていたけれど、あたしもそう思った。
 二人とも、バカだ。ただし。

 「ファイトー」

 陸上バカだ。それもとてつもない。
 プライドの塊と塊がぶつかり合って、火花を散らして争っている。
 互いにすり減らしあいながら、我慢比べ。
 とんでもないタイムが出るか、もしくは二人とも潰れてたいしたことのない結果で終わってしまうか。
 大方の予想は後者なんだろうけど、あたしは違った。
 
 直線を走る足は弱まるどころかむしろ加速しているんじゃないかと錯覚してしまう。
 それほどまでの迫力が、遠方からここまで体感できるくらいに伝わってきた。
 
 「これが南関の決勝……」
 「いや、ちゃうな」
 「え?」

 つんくさんは厳しい表情を保ったまま、レースを眺めながら言った。

 「二人だけやったら、インハイ決勝レベルの戦いや」
390 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:24

 後半200、絶対に疲れてくるはずの箇所。
 全力に近いペースで走り続けたはずなのだから、そうでないと二人が本当に人間なのか疑ってしまう。
 ここまでで決定的と断言できるほどの差をつけて快走する二人。
 3位の麻美さんは後方15mは後ろにいた。ありえない、その言葉が一番似合うスピードだった。
 そして、落ちはするものの、決定的には落ちない。

 「全然落ちない」
 「ホント」
 「たーーーん!!!」

 カーブになってスピードが落ちる二人、相当足の筋肉が張って乳酸がたまっているはずだ。
 足が回らなくなっている。あれだけのスピードを出したのだから、ある意味当然かもしれない。
 後ろでその爆風をモロに受けたみきちゃんさんが苦しんでいた。
 ペースを完全に乱されたらしく、もう死んでいる。

 「ラストファイトー!!」
 「ファイトー!!」

 片や大応援団、片や東京都の選手の自給自足。
 でもレースが応援の多さで決まることはない。
 決まるのだとしても、声を張り上げて、向こうを越える気持ちをぶつけてやれば、
 絶対に市井さんは勝てる。

 「うわ」

 あややが思わず低い声を出す。信じられなかったのだろう。
 あたしも信じられなかった。二人が。二人の体が。

 二人はエンジンを再び稼動させて、ギアチェンジした。
391 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:25

 最後の直線、本当に最後の勝負。
 ゴールラインへと持ち越された勝負は、スタンドにいるあたし達と一緒に過熱していく。

 「ファイトー!」
 「紗耶香―!!ラストー!!!ファイトー!!」
 「里田さんファイトー!!!」
 「まいーーー!!!」

 色んな声が飛び交う。会場全体がヒートアップして、スタジアムは熱狂していた。
 二人のライバルの、勝負の行方に。

 まず前へと出たのは市井さんだった。歯を食いしばって、動かない足を無理矢理動かして。
 馬を鞭ではたいて加速させようとしているのと同じに見えた。
 でも、里田さんもそうだった。すぐに並ぶと、更に前へと出る。
 どっちも譲らない、スピードアップは続いていく。

 『大熱戦となりました、南関東女子400m競争決勝!』

 アナウンサーの声も熱く、誰もを煽る。声を出さずにはいられない。
 応援をせずにはいられない。目を離すことなんて、できなかった。

 「ラストーーーーーーーーーーーーー!!!市井さんラストーーーーーー!!!」

 誰よりも大きな声を。
 誰もがひいちゃって声が出せなくなるような、とびきりの奴を。
 そしてそれが市井さんの背中にだけ風を吹かせれば、最高だ。
392 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:26

 ラスト50を切る。泣いても笑っても、あと7秒くらいの勝負。
 でもその時間がとてつもなく長く感じるのは、きっと気のせいじゃない。
 だからあたしは声を出す。何度も何度も。出せるだけ。

 二人とも、肩が震えている。足もおぼつかない。腕の振りも鈍っている。でも速い。
 一体何が二人をそれほどまでに追い詰めさせているのか。答えは明白だった。
 お互いがお互いを刺激しあって、二人は六年目の夏、こうして四年目の勝負をしているんだ。
 毎年のごとく、大舞台で。全中、南関、インハイ、そして今年。
 どこまで行くのか。
 崩れ落ちそうなその体からは到底想像もつかないようなスピードで駆ける二人の背中からは、
 熱気が伝わってきて、体中が熱くなった。

 『どちらが勝ったのでしょう』

 ゴール。ほぼ同時。
 二人とも意地を張って平静を装って歩いているけど、きっと今にも座りたいはずだ。
 結果が出るまで、絶対座らないだろうけど。

 誰もが速報タイムを待ちわびる。
 でもこういうときに限って写真判定になって、みんなを焦らす。早く。
 早くしてくれないと、この熱い胸の熱がいつまでたっても冷めずに、爆発してしまう。

 結果がフィニッシュタイマーに映し出されると、
 大歓声が二人を包み、二人同時にトラックの上で大の字に寝転んだ。
 女の子とは思えないくらい、堂々と。

 『優勝はCの里田さん 55秒76。素晴らしいタイムでの優勝です』

 もっと明暗が分かれると思っていた表情は、案外そうでもなく、
 二人とも清清しい顔をしていた。走り終えた爽快感を感じているのかもしれない。

 小さく弾かれた二つの手に気づいた人は、会場に何人いただろう。
393 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:27

 「あ、帰ってきた」

 ののが指差すと、全員の視線が遠くから歩いてくる市井さんへと注がれた。
 ののは立ち上がると、入れ替わりにアップへと出かけた。3時からやりが待っている。
 市井さんとすれ違った時、ハイタッチしたのが見えた。

 「お疲れ様でした!」
 「いちーちゃんお疲れ!」
 「お疲れー!」

 みんなで向かい入れて祝福する。
 市井さんは不満そうな顔をしてシートの上に転がり込んだ。

 「負けたー!」
 「同タイムだもんね」
 「着差とかありえねー、ホントありえねー」

 市井さんは何度も何度もありえねーと愚痴っている。
 みきちゃんさんの帰りがまだで良かったかもしれない。今の調子で喚き散らすのは、無神経すぎる。
 悔しかったら勝て、なんて市井さんなら平気な顔して言うのだろうけれど。

 それから暫くは本当に何もない時間が続いた。アップまでの時間が長い。
 流石にレース前にそれはないです、と説得して勉強話にしてもらったけれど、
 その代わり暇を持て余している気がした。
 こんなことなら勉強再開すれば…………良かったとは思わない。
394 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:28

 南関東女子4×100mリレー予選。3組2+2。
 でも支部予選の頃と違って、2位に入れば、なんて悠長なことは言ってられない。
 気を抜けばすぐに抜かれて弾き落とされる。
 あたし達はあくまでチャレンジャーだということを認識しなければならない。
 各県の高校のリレメンを眺めながら、身震いがした。
 すごい。みんな、強いオーラに満ちている。強いオーラだけで形成されたこの空間は、
 激しい自信と自信のぶつかり合い、選抜された環境の中ひしめき合っていて、
 自分のそれも激しく駆り立てられる。モチベーションがどんどん上がっていく。
 気合が入っていく。勝ちたい、って強く願ってくる。

 「あ、よっすぃだ〜」
 「あさみさん」

 あたしはやっぱりどこ行ってもよっすぃなんだろうか。
 そんな疑問が一瞬浮かんで消えたけど、口には出さない。
 いつの間に、誰からとか聞くと、話が長くなりそうだった。

 「同じ組だよね〜」
 「………マジすか!?」
 「遅、反応遅」

 後ろからみきちゃんさんにツッコミを入れられる。いつの間にきたんだ。

 「みきちゃんさん達何組?」
 「3」
 「最後だ」
 「うん」
395 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:29

 召集を終えると、各走者ごとに配置につく。
 あたしと同じ二走の人は、あややと……あさみさん。偶然なのか狙ってか、あさみさんが着いてきた。
 あややはぴりぴりしていて、同じ組になれなかったことが悔しいみたいだった。
 
 「がんばろうね〜」
 「はい!勝ちますよ」
 「さっき勝負してないもんね、よっしゃ〜負けないぞ〜」

 やけに和やかなテンポで話すあさみさんは、とても有名選手とは思えなかった。
 本職が巾跳とはいえ、100、200の実力も本物。
 目の前であややに勝つ場面を見てしまった以上、絶対に負けるわけにはいかなかった。
 仇を討つのとは少し違うけれど、負けたくなかった。

 「いきなりですからね、緊張します」
 「はは、最初はそんなもんだよ」

 はじめての南関。関東新人も出られなかったから、都大会を超える規模のレースは、本当にはじめて。
 緊張しないはずがなかった。武者震いが起きる。久々のこの感覚、嫌いじゃなかった。
 レースが始まるまでずっと苦しいけれど、その先に限りない喜びが待っていると、
 信じることができるから。苦しければ苦しいほど。
 
 5レーンに立って、少し体を動かしてみる。
 胸の鼓動は収まることを知らずに、どんどん加速していく。
 やばい。久々のこの感覚は、今のあたしには重かった。
396 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:29

 何度か深呼吸して目を閉じる。
 ざわついたスタンドから聞こえてくるたくさんの声が、一層はっきりと聞こえた。
 これだけの人達が、見ているんだ。より緊張感を煽って、振り切ってしまえばいいと思った。 
 逃げ出したくなるくらいの緊張感を体に浴びせて、リミットを越えてしまえ。結果的には、

 「うわ〜…………」

 初レース時以上の緊張で蹲ってしまったんだけど。ダメすぎだろ、あたし。
 おい、どうしたあたしの筋肉。どうしたあたしのハート。
 さっきまでの気合はどこへ行った。そんな時、背中を叩かれる。
 必要以上に体が震えた。あややが最高に怖い顔であたしを待っていた。

 「よっすぃ」
 「な、なななに?」
 「緊張しすぎ」
 「え、え、そそそんなことないよぉ?」
 「まあいいや、よっすぃ」
 「な、ななに?」
 「勝ってよ」
 「は、はい」

 返事していいのか悪いのか、判断する余裕すらなかった。
397 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:30

 『それでは南関東女子4×100mリレー予選は第一組のスタートです』
 『位置について』

 やばい、号砲がもうくる。体が震える。心拍数は右肩上がり。
 今はもう、矢口さんが少しでも多くCに差をつけてあたしにバトンを渡してくれるよう、待つだけ。

 『よーい』

 バンッ!!

 地面を強く蹴る音と共に、爆風が背中に浴びせられたような気迫。
 激情ともいえるような八つの感情が同時に飛び出した。
 それに包まれると、あたしの闘争本能も一気に覚醒する。
 スタートから僅かだけ先頭を守って、今は並ばれている矢口さん。
 近づいてくる体に合わせて、今までにないくらいにスムーズに体が動いた。
 気づくとバトンを受け取って、信じられないくらいに上手くスタートを切れていた。
 
 ――本当に振り切れちゃってたりして。

 もし本当に緊張を通り越して振り切れてるなら、あたしは誰にも負けない。
 漠然とした、理由なき自信。今までで最も根拠がないけど、最も確かな自信だった。

 タータンを蹴る感触が久しぶりで、テンションが上がる。
 短距離でもランナーズハイになるかどうか分からないけど、
 あるなら間違いなく今のあたしはそれだった。気持ちがいい。どこまでも走れる気がした。
398 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:31

 ――…………きた。

 予想通り、すぐにあさみさんが後ろから追い上げてきた。
 鋭い空気が後ろから前へと抜けていく。燃えた。異常なまでに。
 体も完璧なまでに動いた。最高のコンディション。何がどう作用してかは分からないけれど、
 絶好調だ。だから、あたしは絶対に負けない。

 今日は追いつかれる気がしなかった。あややとの約束も守れそう。
 スパイクの状態も良い。腕の振りにもキレがある。足の回転もスムーズ。
 完璧。走ることが今は最高の快感だった。でも、あさみさんは離れない。
 あさみさんも、とてもなく速かった。

 ――くそー!

 がむしゃらに飛ばせばいいというものではない。
 フォームが汚かったらスピードが上がらないし、今のまま走るのが一番得策だ。
 分かっているのに、分かっているのに。
 熱くなったら止まれない、やっぱあたしはバカだ。

 案の定、差が縮まる。横に並ばれた。このままでは抜かれてしまう。
 頭の中が熱くなったとき、ふと力が抜けた。さっきまでの走りが戻る。
 直線を半分以上過ぎたところで、再び引き離す。
 風を切るように突き進む。一直線にあいぼんの元へ、バトンを届ける。
 もう目の前だ。

 「はい!」

 差し出された手、そこに正確に乗せられたバトン。
 しっかりと掴んでもらうと、あいぼんは発進、
 あたしはなんとかギリギリあさみさんから逃げ切ることに成功した。
 実感が沸かなくて、なんだかぼっとする。

 そして、その間にもレースは展開していく。
399 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:32

 「あいぼんファイトー!!!」

 あいぼんは内側から迫り来るCを相手しなければならない、最もきつい位置。
 でもそこを乗り切ることさえできれば、高橋がなんとかしてくれる。
 亜依と愛。二人のアイに予選通過は託された。

 「頼むよダブルアイ……」

 口に出してみてすぐに、たまらなく恥ずかしくなる。
 レースから目を離していると、あさみさんが近づいてきた。
 よっすぃ、なんてあたしのことを呼んで。誰から伝わったのか、全然想像がつかない。
 
 「お疲れ様です」
 「負けたよ〜」
 「勝ちましたよ〜」
 「でもリレーってのは個々の勝負じゃないからね〜。チームが勝てばいいんだよ」
 「そうですけど」
 「だからあたしはよっすぃとはあの差で合格点」
 「………………はい?」

 言っている意味が、よく分からなかった。
 あいぼんは並んだ状態で高橋にバトンを渡して、相変わらずトップだったのに、
 あさみさんから出た言葉はそれ。余裕の意味が分からない。
 高橋は個人種目こそ都大会で消えたけれど実力は間違いなくここで走れる力を持っている。
 そう簡単に負けるはずがない。
400 名前:30th_Race 投稿日:2005/07/03(日) 01:33

 「アンカーは最速である必要はない、その代わり」
 「あ!」

 高橋がCのアンカーに瞬時に追いつかれる。信じがたいスピード。
 しかし単純に速いのとは違っていた。
 速いというよりも、獲物を追う獣のスピード。
 今にも高橋を食らおうとする姿は、まさしくそれだった。

 「最強であれ」
 「………………」

 言葉が出なかった。
 百獣の王に食われた高橋は後退すると、そのまま抜かれて2位でゴール。
 予選通過したのは確かだけれど、テンションが物凄い勢いで急降下した。
 体で体感できるくらいに。

 目の前でののがやりを投げた。
 やりは天高くへと投げ飛ばされるとラインを大きく超えた。ベスト8進出確定的。
 やりは深々と地面に突き刺さると、その地面があたし達と被って嫌な感じがした。
 
 「決勝、楽しみにしてるよ〜」
 「あの!」
 「なに?」

 行こうとするあさみさんを止める。
 聞かなければならないことが、一つあった。

 「あの人は、誰ですか?」
 「菊池亜衣」
 「菊池…………亜衣」
 「トリプルアイ」

 あさみさんは茶化すように笑うと、去っていった。
401 名前:おって 投稿日:2005/07/03(日) 01:36
>>366 名無し読者さま
   都大会の組順はよく知らないんですが、
   支部予選は担当校の生徒が好き放題いじれる仕様です。都大会はつんくさんの力ということで。
>>367 名無飼育さま
   本当にお待たせしました。
   ガキさんには自分としても頑張ってほしいキャラです。

お久しぶりです(爆
人生でこれほどまでに体力と財布をえぐられる日々は初めてです。
次の更新もこのくらい……と毎回言ってきてどんどん伸びているので、
なんとか今回より早く更新したいと思ってます。でも、首を長くして頂ければ幸いです。
402 名前:名無し読者 投稿日:2005/07/23(土) 19:12
新たなライバルが登場ですね
よっすぃ〜がんばれ!
403 名前:30th_Race 投稿日:2005/08/01(月) 23:42

 ホテルに戻ってベッドの上に沈む。
 高橋はバックをベッドに落とすと、窓際の椅子に一人腰掛けた。
 相当落ち込んでいるみたいで、あたしはかけるべき言葉に困った。
 多分何もしないのが一番なんだろうけれど、放っておけないし。
 あたしはとりあえず立ち上がると、ちっちゃな机を挟んだ位置にあった椅子に座って、
 高橋と一緒に夜景を眺めた。

 「お疲れ」
 「………お疲れ様です」

 反応が悪い。やっぱり負けたことが気にかかってるんだろう。
 あたしは少しだけ考えると、肩をぽんと優しく叩いた。

 「明日、借り換えしてやればいいじゃん」
 「……………」
 「この悔しさを胸に、今日以上の走りを見せて、今度こそ勝てばいいことだよ」
 「……………」
 「一緒に夢を見ようよ」

 決まった…。なんとなく、自分に惚れる。
 これならきっと高橋も明日頑張ってくれるに違いない。
 我ながらいい言葉を最後にチョイスしたものだ。
 自我自賛していると、高橋はあたしの方を振り返った。
404 名前:30th_Race 投稿日:2005/08/01(月) 23:42

 「…………はい?」
 「え?」
 「あ、すみません、夜景が綺麗で」

 見とれてただけ!?あ、あたしは何恥ずかしい台詞を連発して………。

 「あ、トイレ行ってきます」

 ト、トイレ……。あたしの言葉よりトイレのが優先なんだ。
 そうだよね、生理現象だもんね…。
 逆にダメージを受けたあたしは、夜景に慰めてもらおうと食い入るように眺めた。
 街のネオンが彩って、窓の外の世界は機械的なのに少しだけ幻想的で。
 何時間でもそれを見続けられる気がした。

 本当に何時間も経過して、風呂に入って、後は寝るだけ、という時間になった。
 そんなとき、

 ブーン

 「もしもし」
 『もしもーし、のののインハイ進出と予選通過、おめでとうござい』
 「切るよ」
 『ちょ、よっすぃひどいよ!せっかくお祝いの言葉言おうと思ったのに〜!』
 「色々ショックな出来事があって大変なんだよ」
 『ショックなこと?なにそれ』
 「あややが木村麻美とSD勝負して、負けた」
 『…………えーーーーーー!!!』
405 名前:30th_Race 投稿日:2005/08/01(月) 23:43

 耳が痛くなるほど甲高いアニメ声が耳に突き刺さる。
 やっぱりあややが負けた、というだけで東京都のランナーからすると信じがたい出来事なわけで。

 『二人が勝負したの!?見たかった〜!』
 「そっちか。そっちかよ」
 『だって見たかったんだも〜ん』
 「キショ。梨華ちゃんキショ」
 『ひどいよ〜』
 「そういうのがキショいんだって」
 『も〜う、よっすぃなんか知らないもん!』
 「うん、やっぱキショいわ」
 『もう!100明日応援行くからね!』
 「サンキュ。勝ち進めるよう頑張るよ」
 『頑張ってね〜!じゃあ今日はそろそろ寝て、明日に備えてください!グッチャ〜』

 いつもならこの後もずっと長電話を続けていたところだろうけれど、
 体長を気遣ってくれた分だけ嬉しかった。

 「寝るかー」
 「ですねー」
 
 ベッドの中に入ると、十分もしないうちに夢の中へと落ちた。
406 名前:30th_Race 投稿日:2005/08/01(月) 23:43
 
407 名前:30th_Race 投稿日:2005/08/01(月) 23:44

 南関二日目。100の予選、準決勝、決勝レース。リレーの決勝。更には巾跳まである。
 市井さんが400で、ののがやりでインハイ進出を決めているだけに、この勢いに乗りたいところだった。

 「頑張れー!」

 ののは体を酷使していたのか、サポーターを肘につけた状態で朝からいた。
 大丈夫?と聞いたら当ったり前!と笑われて肩を左手で叩かれまくった。
 多分大丈夫だろう。

 矢口さんが立ち上がる。スパイクもユニホームもペットボトルも全部持って。
 巾跳は10時からいきなりの開始だった。気合に入ってるのが誰からみても明らかで、
 三年目にして初の大舞台に立てた矢口さんの勝利を誰もが祈っていた。

 「よし、行ってきます」
 「頑張ってください!」
 「矢口、一緒にインハイ行こう!」
 「…………おいらを誰だと思ってんだ?」

 実力は関東クラス。そう言われ続けてきた。
 しかし怪我で逃しては、悲劇のヒロインとも言われ続けた。
 そして今年。三度目の正直。怪我の不安はない。入念に調整して、足の状態は万全。
 後は跳ぶだけ。跳べば、自ずと結果がついてくる。

 矢口さんの瞳は決意と覚悟と、希望が浮かんでいた。
408 名前:30th_Race 投稿日:2005/08/01(月) 23:44
 
409 名前:30th_Race ☆ 投稿日:2005/08/01(月) 23:45

 矢口は精神を研ぎ澄ましていた。
 全身の神経が体の端から端までしっかりと行渡り伝わっているのが分かる。
 体の調子は自分で信じられないほどに良かった。しかしだからこそ、沸いてくる不安もある。
 東京ベンチから離れ、召集場所へと向かう途中の通路、椅子に腰をおろして右足首をそっと摩った。
 大丈夫、大丈夫と繰り返し頭の中で唱える。呪文のように。
 そうしないと、不安で仕方がなかった。

 「…………よし」

 立ち上がる。何度かジャンプをしてみて、息をついた。大丈夫、行ける。
 勝てる。勝つ。歩き出した。

 召集場所にはほとんどの選手が集合していた。
 矢口がきて間もなくすると係の審判員がコールを開始し、
 試技が最後の矢口は後ろの方でその様子を眺めていた。
 しかし如何せん体が小さいせいか、どこまで召集が進んでいるのか全く見えない。
 段々と選手が減っていくのを確認すると、隙間に収まって自分の番を待った。

 「6305」
 「はい」

 胸と背中のゼッケンを審判に確認させる。確認を終えると、腰ゼッケンを受け取った。
 そのままBピット目指して歩き出す。友達が全くいない、完全に一人の状態は久しぶりだった。
 東京都で共に戦った人とは知り合いでこそあるが、ここで話すほどの仲ではないし、なにより。

 「…………」

 全員本気だった。この試合に、賭けていた。
 それが分かったから、矢口は話しかけたりはしなかった。
410 名前:30th_Race ☆ 投稿日:2005/08/01(月) 23:46

 視界に木村麻美が飛び込んできた。何故か笑顔で、こちらを見ている。
 狙いが全く分からなかった。
 彼女は100の選手でもあるから、競技開始したらすぐに100の召集へと移動する。
 おそらく一回目の跳躍はパスだろう。

 「矢口さん」
 「…………おいらになんか用か?」
 「勝負しましょ〜」
 「……は?」

 何を当たり前のことを。矢口は困惑した。
 ここには間違いなく勝負に来ている。相手が誰とかそういうのはさしてないが、
 出場選手全員を倒す意気込みで矢口はここに来たのだ。
 あさみだってそれは同じはず。

 「巾跳、多分優勝争いすることになると思うんですよ。だから、宣戦布告」
 「…………」
 「負けませんよ。昨日あややに勝って調子いいんだ」
 「あややに?」
 「SD。この調子で行かせてもらいますよ」
 「……望むところだ。かかってこい」
 「ではでは〜」

 笑顔で手を振り歩いていくあさみの後姿を目に、矢口は気合を入れた。
411 名前:30th_Race ☆ 投稿日:2005/08/01(月) 23:47

 練習跳躍が始まる。各選手試技順に列を連ねて順番に走っていく。
 矢口は列の最後尾から一人一人の動きを眺めていた。

 「………………」

 これが南関東。体が僅かに震える。
 本当にここまできたという実感を、矢口は選手一人一人の練習跳躍によって感じさせられた。
 意識の高さが、都大会とは遥かに違う。ほとんどが、勝ちに来ている。
 目から放つ殺気が、一人一人から感じられた。

 「ふぅ」

 番が回ってくる。背中を反らし反動をつけ、駆け出した。
 数歩走って、やっぱり体の調子が良いことを最実感した。
 緩やかに加速を続け、残り10メートルを切った地点から一気に上昇気流に乗る。
 爆発的なダッシュを武器に、矢口は踏み切り板へと襲い掛かった。

 バンッ

 音を立てて懇親の一撃を叩き込むと、次の瞬間矢口は暫しの空中遊泳を楽しむ。
 花のように、鳥のように。陸へと足をつけ、そのまま駆け抜けると、
 駆け抜けざまに「ぴったり」という声が聞こえた。今日の矢口は完璧だった。

 数回の練習跳躍を終え、いよいよ決勝が始まる。
 三回の跳躍の中から上位八人がエイトに残り、暫定八位から順に残り三回の試技を行う。
 まずはベスト8に残らなければならない。
 ピットのすぐそばの段差を下りると、そこでストレッチをはじめる。
 呼ばれるまで、矢口はそこでずっと精神統一を行った。
412 名前:30th_Race ☆ 投稿日:2005/08/01(月) 23:48

 「6305」
 「はい!」

 一回目、最後に名を呼ばれて段差をのぼる。と同時に二つ前の順番の選手が走り出した。
 一つ前の選手はそれを睨むような目で見ている。
 矢口はあくまでも無表情に、ゆったりとした足取りでその選手の後ろへと着く。
 威嚇も、無駄な激情も、矢口には必要なかった。
 ただ目の前の跳躍を全力で飛び、残ることだけを考えていた。
 相手を意識するのはそこからでいい。ベスト8に残ってから三回も試技があるのだ。
 焦る必要なかった。

 前の選手が飛び終えると、砂場がとんぼでならされているのを視線に捕らえながら、
 踏み切り板へとそれを落とした。
 あの位置に完璧に足を踏み込んで、高く、遠く、長く。跳ぶ。

 赤い旗が上がる。道は開けた。足の位置を調節すると、短く息を吐いた。

 「行きまーす!」

 手を上げて、自らの存在をアピールする。スタンドの視線を全て、自分に向けてやる。
 スタンドを釘付けにするような大ジャンプを見せてやる。
 小さいからってなめるな。頭で色々な思惑が交錯する。
 その全てを一旦消去して、真っ白に変えた。

 駆け出す。はじめは極めてゆっくりとしたスピードでいい。
 段々段々少しずつスピードを上げて、最後の瞬間に爆発させる。
 矢口は自分が思っている通り以上に回転のいい足に笑みを零した。
 トップスピードに乗ると、その左足を板へと強く重ねせた。

 練習よりも目に見えて長く、長く、永く。
 空中遊泳を楽しむ矢口の姿に、観衆はどよめきの声を上げた。
 砂を撒き散らして着地すると、してやったりの表情で矢口は笑う。

 「5m60!」

 その跳躍は、予選通過を決定付けるには充分なものだった。
413 名前:30th_Race ☆ 投稿日:2005/08/01(月) 23:49

 二回目の跳躍に入った頃、あさみは戻ってきた。100の予選が終わったらしい。
 とそれはつまり、吉澤のレースを見逃したことを意味した。矢口は頭を抱えた。

 あさみは疲れた顔を滲ませていて、段差を降りるとすぐに座り込んだ。
 かなり本気で予選のレースを走ったのだろう。乱れた呼吸はまだ戻らない。

 「矢口さん」
 「……なに?」
 「よっすぃ、速いね…………負けるかと思った〜」
 「………同じ組!?」

 あさみは首を振り下ろすようにして下げる。どうやらそれはイエスの意味らしい。

 「もういいや、次パスしよ〜」
 「え!?三回目だけで」
 「なんとかなるさ〜」
 「さ〜ってあんた」
 「矢口さ〜ん!」

 聞こえてきた声に、矢口は思わず顔が緩んだ。
 自分の人生の中で見てきた人間の中で最もバカで、でも最もいい後輩。

 「よっすぃ」

 バカな笑顔が太陽を受けて、これ以上ないくらいに輝いていた。
414 名前:30th_Race ☆ 投稿日:2005/08/01(月) 23:51

 「どうしたの?」

 スタンドの上から大きな声を上げて呼びかける吉澤に、矢口は聞いた。
 吉澤はいつも以上にテンションが高く、腕をぶんぶんと振りながら身振り手振りで何か言葉を紡ぎ出そうとしている。
 しかし興奮状態のせいか、なかなかそれが叶わない。

 「は、は、は、は」
 「犬かよ」
 「よ、予選通りました!!」
 「マジで!?すげーじゃん!」
 「あさみさんに負けちゃいましたけど、準決はくぁーつ!待っててくださいよ!」
 
 捨て台詞を吐くように叫ぶと、吉澤は走るように去っていった。嵐のように後輩だ。
 矢口はその忙しそうな後姿を見て笑った。そして、あさみに視線を移す。

 「ホントに跳ばないの?」
 「もう通り過ぎて行っちゃいました」
 「え!一回しか跳べないんだよ?!」
 「足合わせま〜す」

 足合わせて跳んで超えれるほど、南関東は甘くない。
 あさみだってそれを充分分かっているはずだ。それなのに疲れたという理由だけでパスする姿は、
 矢口にとって不可解でしかなかった。理解できなかった。

 周りの試技の様子を見て暫定トップを確認すると、
 矢口は二回目の跳躍をパスした。
415 名前:30th_Race ☆ 投稿日:2005/08/01(月) 23:52

 あさみの跳躍矢口の一つ手前、後ろから二番目だった。
 体を休ませる時間は充分にある。大分余裕が出てきたのか、あさみの顔に笑顔が戻ってきた。
 屈伸、伸脚をして足を解すと、何度か小さく跳ねた。

 「おーし」
 「9110」
 「はーい!」

 手を上げて大きな声で返事をすると、矢口を見た。

 「なんだよ」
 「いっちょ一番遠くまで飛んでくっか〜」
 「あん?!」

 カチンと来て、矢口は思わず声を荒げた。汚い言葉が沢山頭の中を駆け巡り、すぐに自制する。
 心を落ち着かせた。真後ろから彼女のジャンプを見てやればいいじゃないか。
 そして、特大のジャンプで決勝の予選を終わらせればいい。

 「6305」
 「はい!」

 睨むように審判員の顔を見ながら飛び上がり、段差の上に乗る。
 小走りであさみの後ろにつくと、その背中を細くなった目でじっと見た。

 「矢口さん」
 「なんだよ。お前ファールしたら失格なんだぞ?」
 「大丈夫ですって〜。なんだったら」

 あさみは笑うと、言った。
416 名前:30th_Race ☆ 投稿日:2005/08/01(月) 23:53

 「右足で踏み切ってもいいですよ」
 「………………は?」
 「だから、逆足で」

 旗が上がる。それを確認すると、あさみは右手を高く、天へとかざす。
 人差し指だけが更に高く上へと伸び、優勝を宣言しているようにも見えた。

 「行っきま〜す!」

 その声がきこえただけで、会場の視線はピットへと集まった。
 木村だ、木村麻美だ、とざわめく。高まっていくあさみへのプレッシャー。
 あさみはやがて手をゆっくりと下げると、一回小さく跳ねあがり、

 「!!」

 着地と同時に強く地面を蹴った!最初からスピードを上げてグングン駆けてゆく。
 あまりの思い切りの良さに矢口は鳩が豆鉄砲を食らったような表情になる。あまりに予想外だった。
 しかもあさみは最初のスピードよりも更に伸びていく。
 一体いつまで速くなるつもりなんだ、矢口は頭を掻き毟りたくなった。
 そしてやがて踏み切り板と出会うと、

 「なっ!」

 あさみは本当に右足で踏み切った。しかし足りない。
 大分余裕を残して踏み切り、跳ぶ。

 長い滞空時間だった。
 会場全体の動きそのものを止めてしまうような、空白の一時をあさみは作った。
 静かな空間の中、あさみは空を泳ぐ。
 それは先程矢口が会場に与えた衝撃よりも、更に強い衝撃の前奏のようだった。
 砂が弾かれる。豪快に足で砂場に穴を掘ると、あさみは笑って立ち上がる。
 白旗が上がり、あとは記録だけだった。
417 名前:30th_Race ☆ 投稿日:2005/08/01(月) 23:54

 あさみは計測をしている審判員のことを食い入るように見つめている。
 矢口もまた同じように、審判員へと全神経を集中させていた。
 現在トップは矢口が一回目に出した5m60。矢口の位置からはどれだけの距離を跳んだのか判断できない。
 自分より跳んだのか、否か。審判が声をあげるまで待たなければならない。

 しかしあの踏み切りだ。矢口は思った。
 あんなひどい踏み切りで自分のベスト記録が越えられるはずがない、絶対に。
 しかしどっちにしろ恐ろしいのは確かだ。あの踏切であれだけのジャンプを見せてきたあさみ。
 残り三回のジャンプ、利き足でぴったり合わせてきたら一体彼女はどれだけ跳んでしまうのか。
 考えたくはなかった。

 「記録――」

 矢口は目をつぶった。

 「5m55!」
 「嘘………」
 「おっしゃ〜〜!!!」

 あさみはガッツポーズをして飛び跳ねている。砂がならされる中、会場の興奮は冷め止まない。
 矢口は一人、動揺していた。

 「負けてたまるか負けてたまるか負けてたまるか」

 負けてたまるか負けてたまるか。逆足で跳んだ奴に負けてたまるか。
 たった5センチ差。逆足なのに。両方跳ぶように訓練されているのだとしても。
 旗が上がった。
 矢口は叫ぶように「行きます!」と唱えると、すぐに駆け出した。
 思い切り、全力疾走する。あっという間に距離を消化していくと、左足を踏み切り板へと叩き込んだ。
418 名前:30th_Race ☆ 投稿日:2005/08/01(月) 23:55

 力んだときのジャンプなんて、いいはずがない。
 大した距離も行かずに着陸した矢口は、豪快に砂を撒き散らした。
 すぐに赤い旗が上がり、矢口は拳を土へとたたきつけた。

 「くそっ!」
 「おつかれさまです!」

 あさみが悪気もなしに矢口へと声をかける。
 その顔は相変わらずニコニコと笑っていて、それが矢口の癇に障った。

 「予選通過ですね!決勝で勝負ですよ〜!」
 「……」
 「どうしたんですか〜?元気ないですよ!1位ですよ!?」
 「暫定な」
 「暫定だろうと確定だろうと1位は1位ですよ〜!負けませんよ〜」
 「絶っ対勝つ」
 「頑張りましょう?」
 「エイトの発表に入りたいと思います」
 「あ、ほら行きましょう」

 腕を引かれる。今にも殴りかかってやりたい気持ちを矢口はぐっとこらえた。
 それはスポーツマンシップじゃない。戦うのは、ピットの上だけで充分だった。
 勝っているのにもかかわらずこんなに余裕のない自分が、嫌だった。

 矢口は1位、あさみは3位。矢口は最終の八番目の跳躍者となり、あさみは六番目の跳躍者だった。
 二人して段差を降りて腰をおろした。

 絶っ対、勝つ。
419 名前:30th_Race ☆ 投稿日:2005/08/01(月) 23:55
 
420 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/01(月) 23:56

 競技場に着くと、相変わらずその大きさに驚く同時に、
 去年は同学年のみんなが一緒にいたことを思い出して、ちょっぴり切なくなった。
 こんこんとお豆は競技場に来てその迫力に圧倒されているみたいだった。
 まだ入る前なのに。

 「そんな調子だと競技場入ったら失神しちゃうよ」
 「すげー、すっげーっすよ!」
 「里沙ちゃん興奮しすぎだよ。ねえ麻琴」
 「でっかいなぁ〜、これくらいでっかいかぼちゃどっかに落ちてないかな〜」
 「………あったらそれはもう落ちてるっていうより建ってるだよ麻琴」

 三人のワールドにイマイチ着いていけない。なんとなく年を感じる。 
 まだ十六なのにどうして私は年を感じなきゃいけないんだろう。

 中へと入ると東京のベンチが去年の熊谷と似たような感じで陣取られていてすぐに分かった。
 あややがマットの上で転がっていて、すぐに分かった。
 手を振ると、あややは笑顔でそれに応えてくれた。
 
 「お疲れ様ー」
 「ありがとー、準決勝も頑張るねー」
 「よっすぃも通った?」
 「うん。あさみさんに途中まで勝ってた」
 「え!?木村あさみ?!」
 「そう、すごかったよ〜」
421 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/01(月) 23:57

 途中まで勝っていた、あの木村あさみに。それは私にとってとても信じがたい事実で、
 よっすぃの背中が信じがたいくらいに遠くなっていることの証明でもあった。
 後輩達はすごいすごいと喜んでいたけれど、私は素直に喜べなかった。

 「今何か競技やってる?」
 「男子の100。あ、矢口さんやってるよ」
 「決勝?」
 「うん。エイトに残った時点でトップ」
 「トップ!?すごい!あさみさんは?」
 「3位。でも、一回しか跳躍してない」
 「一回?なんで?」
 「100の影響。よっすぃのおかげで本気で走ったから。
  逆足で跳んじゃってたみたいだし、まだ伸びそうだよ」
 「逆足で3位………」

 わけわかんないよもう。
 それ以上に分からないのは、矢口さんは素直に喜べるのに、よっすぃの予選通過を素直に喜べない自分だった。
 そんな自分が、嫌だった。私は、同僚の勝利を祝えないほど、心が狭い人間なんだろうか?

 「石川さん」
 「何?」
 「行きましょうよ。巾」
 「あ、そうだね」
422 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/01(月) 23:59

 ゆっくりとスタンドの方へと歩いていく。
 中に入ると、その客の多さは去年に増してすごくて、関東大会のスケールの大きさを再実感した。
 関東中の強豪達が、ここに集って争っているんだ、数少ない椅子をかけて。
 そしてその中で、よっすぃも、矢口さんも、ごっちんも、みんなみんな、引けの取らない戦いを繰り広げている。

 巾のピットから近い席を探すと、沢山の人だかりの中一人、見覚えのある金髪の後姿。
 すぐに誰だか分かった。隣が偶然一席だけ空いていたから、そこへと向かう。
 1年のことなんて忘れていた。謝らなければいけなかった。

 横の席に何とか腰をおろすと、そのままピットへと目を移す。
 次の次があさみさんの跳躍だった。
 矢口さんは堂々と座り込んでいて、気負いが微塵も感じられなかった。
 風格すら漂っていて、少しホッとした。四番手の選手が跳躍を終えると、

 「あ」

 間の抜けた声が横から聞こえて、私は笑ってしまった。今頃気づくなんて。
 ちょっとひどいんじゃない?

 「予選通過おめでとう!」
 「梨華ちゃんきたんだ〜」
 「うん。当たり前でしょ」

 思ってもないことを平気で口走っている自分に罪悪感を覚える。
 心のどこかで負けて欲しいと願っていたのが、分かるから。
 ぬぐいきれないどうしようもない感情を、確かに感じたから。

 「矢口さん今トップなんでしょ?」
 「なんで知ってんの?」
 「あややに聞いたの」
 「ああ〜」
423 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:00

 あまり関心がなさそうな返答が帰ってくる。
 話を広げようと思ったら自分の100の話とか、そっちに広げられるのに。
 あくまで自分からは語ろうとしない。

 「だからよっすぃが」
 「あさみさんだ」
 「!」

 会話が途切れる。ピット上に立つあさみさんに、スタンド中の視線が集まっていく。
 木村あさみさん。こんなに近くで見るのは初めてだったけれど、
 その確かなオーラが大物感を漂わせていた。
 暫定とはいえ3位という順位は、低すぎて彼女に似合わない。そう感じさせてしまう何かがあった。
 
 「逆足の一回だけで3位だから、こっからあさみさんは全開でくる」
 「………………」
 「大ジャンプが見られるかもしれない……」
 「………………」

 よっすぃは何も言わない。ただ真剣な眼差しをあさみさんに向けたまま、じっと動かない。
 よく見ると震えていた。武者震いなのかもしれない。

 「怖いよね。あんな人と100で勝負したんだよ?あたし。あんなとんでもないオーラの人と」
 「………勝てるよ、よっすぃなら」

 今度は罪悪感がなかった。

 「……ありがと」

 少なくともこの気持ちは本心だから。
424 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:02

 「行っきまーす!」

 天高く掲げられたその右腕は、頂上へとこれから上り詰めてやる、という意気込みと確信にさえ見える。
 この人は強い。陸上をやっている人なら誰でも分かるほどに、あさみさんは強いオーラを放っていた。
 私は強いんだ、というオーラが。

 駆け出すと視線は更にピットへと。トラックで行われている男子の100を置いてけぼりにする。
 誰もが注目する中、あさみさんは風に乗って、踏み切り板を左足でしっかりと踏みつけた!

 「あああ!!」

 信じられない跳躍力、とてつもない大ジャンプ。
 男子の弱い選手なら負けてしまうんじゃないか、というくらい凄まじく羽ばたくと、
 あさみさんは砂を豪快に撒き散らした。今まで落ち着いていた矢口さんの表情が一変する。

 「あ」

 しかし、審判は赤い旗を掲げる。ファールだ。僅かに踏み切り板をはみ出していたらしい。
 でももしそうでなかったら、

 「6m近く……」
 「……行ってたね」

 あさみさんは記録なしでも平然と笑っていた。
 次の選手の人が自分の予選の記録を抜いても、その笑顔は消えない。
 自信があるんだ。あと二回のジャンプで確実にしとめる、絶対的な自信が。
 それが揺るがない限り、あの人は崩れないし倒せないだろう。

 「矢口さん………」

 勝てるのだろうか?あのとんでもないジャンパーに。
 スケールが大きすぎて、とても勝てる気がしなかった。

 「大丈夫だよ」
 「え」
 「矢口さんは、勝つ」

 強く握られていたよっすぃの拳、その目は真剣だった。
425 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:02
 
426 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:03

 あさみの大ジャンプは予想通りのもので、
 驚きはしなかったものの赤い旗が上がった瞬間矢口は思わずそっと胸を撫で下ろした。
 今のが決まっていたら、おそらく優勝も決まっていただろう。
 矢口はすぐに安心感を危機感へと変換させると、頬を両手で軽く叩いて気持ちを引き締めた。

 「行きまーーーす!」

 声を出してから、ふっと息を吐き出す。体をそらして、飛び出した。
 やっぱり今日は過去最高の調子だ。今日勝てないなら、あさみには絶対に勝てないだろう。
 しかし後もう一歩。ベストジャンプには後もう一歩何かが足りない。
 何が原因か、頭でも分かっていないから体は呼応しようがない。踏み切り板もしっかりと踏めたし、 
 跳んでから着地までの動作も申し分なかったが、矢口は首をかしげた。

 「5m62」

 ベストを更に2センチ更新。しかしあさみのジャンプが頭をちらついて喜べる記録ではなかった。
 イライラが募る。サッカーでチャンスは作れるのに点が入らないままに後半に入ってしまう感覚と似ていた。
 そういう時は大抵、ふとした気の緩みからカウンターを受けて、

 ――あっさりと点を取られてしまう…。

 絶対にそれだけは避けなければならない。
 焦りはあったが、体がそれに答えてくれそうになかった。
 
 「五回目の跳躍に入ります」
427 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:04

 五回目の跳躍、あさみの試技順になり、矢口はその後ろの後ろに立つ。
 真後ろからあさみの背中を観察した。しっかりと伸びていて、気合が充分に見える。
 次こそ仕留めてやる、という気迫が感じられた。

 あさみの手が、顔の方まで動く。親指と人差し指が耳たぶを触った。
 何かのおまじないだろうか。考えていると、スタンドの一部がざわつく。なんだというのだろう。

 「出た、木村あさみの“耳たぶ”」
 「なにそれ?」
 「癖だよ癖。あの人たまに耳たぶ触る癖があるんだけど、その後の跳躍は必ず」
 「必ず?」
 「トップに立つ」

 矢口の体に動揺が走る。なんだ、その伝説は。

 「なにそれ、マジで?」
 「マジマジ。もう地元じゃ伝説になってんもん」

 伝説……。一度も破られてないという声が遅れて聞こえると、矢口の体にプレッシャーが走る。
 暫定トップは自分だ、あさみが狙っている場所はひとつ。
 矢口が座っている椅子。
 
 「行っきまーす!!」

 弾丸のようだった。
 100mランナーとしての実力も確かだということを再確認させられるようなとんでもないスプリントで飛び出す。
 しかし体はあくまで水平が保たれていて、地面と直角を形成している。
 一歩一歩の刻みも素晴らしい。美しいフォームだった。そしてやがてあさみの足は、踏み切り板を、
428 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:05

 バンッ!!

 捉えた!完璧に。1ミリのズレもないのではないかというくらい正確に、
 ギリギリの位置を的確にミートすると、あさみは再び空の住人となる。
 スタンドからどよめきが再び走る。
 
 舞う、という言葉がふさわしいのかもしれない。 
 美しいフォームのまま、誰よりも高く、誰よりも遠く…彼女は跳んでゆく。 
 矢口のベストのラインを遥かに凌駕するジャンプで、やがてフィニッシュを決めると、
 満面の笑みをスタンドへと見せ付ける。

 白い旗が上がり、矢口の顔が対照的に強張る。抜かれることを確信した。
 しかし一体いくつを出してくるのか。そこがポイントだった。10センチ以上離れているかもしれない。
 もしそうだとしたら……本当に負けてしまうかもしれない。

 「―――記録!」
 「……………」
 「5m85!」

 スタンドのどよめきが歓声に変わる。軽い小爆発を起こした形になった。
 あさみはガッツポーズを天高く掲げた。

 「おっしゃぁー!!!!」
 『木村さん、五回目の跳躍でトップに立ちました』
 
 大騒ぎのスタンド、アナウンサー、あさみ。
 そんな中、矢口の胸の中では、いろいろなものが燃え滾っていた。
429 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:06

 ――完全にアウェイじゃねぇか………………畜生。

 誰もがあさみの大ジャンプに喜んで騒いでいる。有名選手はこういう点で強い。
 スタンドを味方につけてしまう力が、カリスマ性が。
 しかし、ひねくれ者を自称する矢口としては負けていられなかった。
 絶対に打ち負かしたかった。気づくと暫定2位の選手のジャンプがいい加減に終わり、
 矢口の跳躍になった。

 ――思い出せ…………。

 辛かった練習、なんてものはこの場にいる全員が経験している。
 そんな生ぬるいものを思い出している場合ではない。
 矢口が思い出していたのは、ほんの一瞬の出来事。過去の出来事。
 そこから一気に広がっていく映像は、矢口の中で一生消えないものだ。
 
 ――去年の都大会、足を壊して棄権したことを!!
 ――その後リハビリでまともに試合に出られなかったことを!
 ――都新人戦を諦めたことを!
 ――なんで、なんで諦めたんだお前。今日のためだろ!?
 ――優勝して、インハイ行くんだろ?!

 万年、実力は関東レベル、と言われ続けた。しかし関東へ行ったことは一度もなかった。
 思い出せば怪我、考えれば怪我。それが矢口を苦しめ続けてきた。
 しかし、今その思い出達は背中を押す大きな風に変わる!

 「行きます!!!」
430 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:06

 全速力で駆け出す。段々スピードを上げるなんて行程、いらない。
 取っ払ってしまえそんなもの。今にも雄たけびを上げてしまいそうな衝動に駆られながら突っ走る。

 ――たかが20mちょっと、全力で走れ!

 無駄な力が入ってるわけじゃなかった。でも完全に助走ではなくて、走っていた。
 今なら乗り越えられる気がした、過去の自分全てに。
 矢口自身を苦しめた、過去の思い出達を。
 そこから踏み切って、ジャンプしてその先の次元へと飛び立てる気がした。

 バンッ!!

 テイクオフ。小さな体が大きく宙に浮くと、遠くへ遠くへと突き進んでゆく。
 スタンドからざわめきが起こる。油断していたのだろう。
 暫定トップとはいえあさみに叶うはずがないと思っていたのだろう。
 その期待こそが、矢口の最大の追い風となる。

 ――そういう下馬評裏切るのって、最高にかっけくない?

 砂を撒き散らすも、点がマイナスになるようにはしない。
 きれいに砂を飛ばして、旗が上がる音で振り向いた。しっかりと白い旗が上がっている。
 あとは記録だけだ。手ごたえはあった。

 「記録!5m85!」
 『同点!セカンド記録により矢口さんトップを守りました!』

 ――な、よっすぃ。
431 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:07

 スタンドから包まれる大歓声。意外だという驚きの中、矢口の名を何度も叫ぶ少女が二人、いた。
 視線を合わせる。吉澤と石川だった。笑顔でピースサインを送る。

 「矢口さん!」
 「矢口さーん!!」
 「お前ら最後まで見とけよー!!」

 おいらの生き様を。そんなかっこ悪いこと言えなくて、矢口は口をそこで閉じた。
 ゆっくりと、歩き出す。

 砂が撒き散らされた上を歩きながら、笑顔が消えたあさみの前に立つ。 
 あさみはそれでも笑顔を作って矢口に笑いかけた。

 「すごいですね!矢口さん!」
 「木村あさみ」
 「…………はい?」

 呼び捨てにされ、笑顔が消えた。矢口は嫌らしく笑った。

 「一度地獄を見た人間は、しぶといよ」
 「…………勝つのはあたしです」
 「おいらだね」

 背を向けて、自分の荷物が置かれている場所まで戻る。
 腰をおろすと、あさみの顔が見えないのを確認したところでしてやったりともう一度、
 今度は品性のかけらもなく「キャハハ」と笑った。

 「六回目の跳躍に入ります」
432 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:08

 トップの二人の順位は揺るがない。他の六人にはたどり着けない高さまでたどり着いていた。
 全員逆転を狙ったが、力んで中途半端な記録に終わるか、ファールに終わるかだった。
 そして、あさみのラストの跳躍。
 ここで矢口の記録を超えなかった場合、その時点で矢口の優勝が確定する。
 尤も、既にインハイ出場は確定していたが、二人はそんなことどうでもよかった。

 ――南関東優勝。

 それにしか今は関心がなかった。

 あさみはピットの上に立つと、さっきと同じように、耳たぶに触れた。
 今度は前よりも長く。再びスタンドに歓声が沸き起こる。
 しかしここで、矢口は気がついた。癖なんかじゃない、あれは。

 ――おまじないだな。

 スポーツ選手でもやっている選手は数多くいるだろう。
 何色の靴下を履くと調子がいいとか、右足から家を出るとタイムが伸びるとか、些細なジンクス。
 あさみにとってそれは耳たぶを触れることなのだろう。そして自分を信じる。無理矢理に。
 しかしそれによって集中力が極限まで高められて記録を出せるのだから、伝説となった。
 矢口は小さく何度も、なるほどと頷いた。

 ――おいらは信じないけどな、そんなの。
433 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:09

 信じて何度裏切られてきたことか、分からない。
 だから矢口は信じない、己と、そこまでの道程だけを信じる。
 それほど何があっても揺るがないものはないから。

 ――今日、おいらの手によってジンクスを完全に破って、支えを失わせてやる。
 ――振り払ってやるんだ、もう一歩上に行くために。

 ジンクスが破れると、精神的に弱い人間は次のジンクスに頼るまでガタガタと崩れ落ちてしまう。
 しかしあさみは違うだろう。確かな強さを持っているから、たとえ崩されてもそこから一歩上のレベルに進むことができるはずだ。
 そして大学に入ったら、矢口はそれを目標にする。

 「行っきまーす!!!」

 声にわずかに漂わせた悲壮感、それが伝説の全てだと、矢口は思った。
 駆け出したその足は、やはり全力疾走。ジンクスに身を任せて、あさみは駆けてゆく。
 矢口はなんの心配もしていなかった。その時点でトップに立つ、というジンクスをその回の試技中に切り裂いた。
 いくら精神的に強い選手でもその場でこの壁を越えることは出来ないだろう。

 『おお!!!』

 だからスタンドから大歓声が響いた時、矢口は驚きに言葉を失った。
 あさみ、二度目の大ジャンプ。
 起死回生の跳躍は、白旗によって有効証明を受ける。

 『さあ注目の記録は…………』
 「5m88」

 大爆発。矢口は下唇をかむと、飛び跳ねた。
434 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:10

 ――こいつ、超えやがった。
 「おっしゃぁぁぁぁー!!!」

 飛び上がってガッツポーズをすると瞬間、スタンドも跳ねる。
 大きな歓声の中、アナウンサーもこの逆転劇を煽り立てる。

 『木村選手、再逆転です!5m88の大ジャンプで再びトップに立ちました!』

 何度も言わなくたって分かってんだよ。矢口は溜息をつくと、目をつぶった。
 その場で何度も息を吸ったり吐いたりする。スタンドの騒ぎ声は耳が痛くなるくらいに聞こえてくる。
 しかしその中から自分のことを応援してくれる僅かな声を探し当てると、精神を研ぎ澄ませた。
 この勝負、絶対勝つ。

 あさみは満面の笑みを隠しもせずに矢口の前を通った。
 抜けるもんなら抜いてみろ、顔はそのくらいの自信を取り戻している。
 しかしそれが矢口のモチベーションに変わる。絶対にあの笑顔を砕いてやる。

 ――言っただろ?

 「………一度地獄を見た人間は、しぶといよ」
 「………あたしの勝ちですよ〜」

 不敵な笑み。向かい合ったまま硬直していると、暫定3位の選手がジャンプを終えていた。
 大した記録ではない。二人を脅かす存在にはなり得ない。そして優勝の行方は、
 
 『優勝の行方は、矢口さんの跳躍で決まることになります』

 アナウンサーが燃えていた。普段は必要以上干渉しないはずなのに。
 矢口は笑った。
435 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:11

 完全なアウェイだとしても、注目はされている。
 アナウンサーが半ばトラックを置いてけぼりに実況を進めているからだ。
 よほど熱くなっているのだろう。きっと後でどこかのえらい先生に叱られる。
 しかし矢口にとってそんなことはどうでもよかった。とことんこっちに視線を集めて、注目を寄せて、決めてやる。
 それしか考えていなかった。

 パンッ。

 手を頭の上で弾く。ゆっくりと、ゆっくりと。都大会を思い出しながら。

 パンッ、パンッ、パンッ…………。

 明らかに手を叩く場面ではないのは確かだった。
 優勝がほぼ確定的な状況で記録を狙いに行く選手がやるもの。
 しかもあさみならともかく、矢口では応えてくれる人はいない。しかし、

 パンッ!パンッ!パンッ!

 吉澤と石川が強くそれに応えた!段々熱くなっていく会場。
 少しずつ、少しずつではあるがじわりじわりとボリュームが上がっていく。
 煽りが煽りを呼び、また手を叩く人が増えていく。やがてスタンドは拍手の渦と鳴った。
 タイミングよく刻まれたテンポは、矢口の刻むそれに合わせて。矢口の気持ちは完全に高まった。

 ――跳べる、どこまでも高く。
436 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:12

 「行きまーーすっ!!!」

 手をとめ、右手を高く。拍手は鳴り止まない。ゆっくりとした足取りでスタートする。
 矢口のスピードが上がるのに合わせて上がっていく拍手のテンポ。
 拍手が速くなればなるほど、矢口のスピードも上がる。
 今まで感じたことのない高揚感、過ぎる過去の思い出達、全てが矢口の力となる。

 「ああ!!!」

 思わず声が出る。踏み切り板を正確に捉えた瞬間も、気の緩みは全くなかった。
 左足が板と別れを告げると、矢口は地上と暫しの別れの時を迎える。

 生涯飛んできた中で、最も高く跳んでいた。空が今までで一番近い。
 どこまでも遠くへ、どこまでも前へ行ける気がした。ゆっくり、ゆっくり上昇気流に乗る。
 矢口の舞は華麗で美しかった。

 やがて短い空の旅を終えると、無事着地を決める。砂がはじけ飛ぶ。
 旗が上がり、振り返ると白かった。後は記録だけ。 
 スタンドの誰もが審判へと視線を注いで、その一挙一動に注目していた。

 『さあ矢口さん、果たして木村さんの記録を超えたのでしょうか?』

 ――おいらが勝つことなんか期待していないくせに。

 今の矢口はいわばプロレスのヒールだった。
 ヒーローであるあさみに対抗する最大の敵、そして最後はそのヒーローに敗れ去りインハイ出場の喜びを分かち合う……
 そんなドラマを期待されていたのが目に見えていた。
 しかし、今の跳躍で、手拍子を含めて、何かが変わった気がした。
437 名前:(〜^◇^) 投稿日:(〜^◇^)
(〜^◇^)
438 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:13

 あさみは伝説が、ジンクスが破られてしまったことで、本当に落ち込んでいるのかもしれない。
 笑顔は完全に消え去り、下をうつむいているのは誰とも目を合わせないようにするためにさえ見えた。
 意外な脆さを見せたあさみに、矢口は首をかしげた。

 矢口は違う。怪我で勝負する段階にすら達せなかったという、究極の屈辱を味わった。
 ただ単に負けたのよりも、遥かに苦しい地獄と、矢口はずっと戦ってきたのだ。
 怪我と、治った後も再発の恐怖と。そして、六年目にして掴んだ黄金の切符。
 怪我によって矢口は精神的に誰よりも強くなっていた。
 誰よりも遠くへ飛べる。日本一遠くへ跳べる女子高生になれると、漠然とした自信があった。

 あさみのそばによる。しかしそれは荷物がそこにあるから。ただそれだけの理由。
 特に話すこともない、投げかけるべき言葉もない。
 どんなことをしてもあさみはいい気がしないだろう。だからただ一言、

 「お疲れ」

 この一言だけ残して、矢口は去った。あさみの落ち込んだ背中を見て、ふとこの後のことを考える。

 ――まだ落ち込むのは早いよ。あんたには大きくなってもらわなきゃならないし、それに。

 ――まだうちのあんまし可愛くない弟子が、100でお前を待ってんだからさ。

 「な、よっすぃ」

 小さく呟いたその名は、誰にも届くことはなかった。
439 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:14
 
440 名前:30th_Race ● 投稿日:2005/08/02(火) 00:14
 
441 名前:おって 投稿日:2005/08/02(火) 00:16
いつの間にか月1に。温かい目で見守って頂けたら幸いです。

>>402 名無し読者さま
   新たなライバル、彼女の底力はこれからです。
   時間がかかりそうですが、待っていてください。   
442 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/02(火) 07:52
梨華ちゃんも早く活躍できる日が来ると良いなぁ・・・。
リアルでも頑張りやさんだからついつい応援に熱が入ります。
443 名前:437修正 投稿日:2005/08/08(月) 23:57

 「――記録!」

 ――でもお生憎様。

 「5m…………」

 普段なら絶対溜めることなんてしないはずの審判がすぐに答えを出さない。それが競技場の全ての人に緊張を走らせる。
 100の競技も一旦小休止していた。異例の事態。それほどまでに、いつの間にか注目度が高くなっていた。
 そして審判は、漸くその口を開く。

 「90センチ!!!」

 ――ドラマは破られるからドラマなんだよ。

 『南関東女子走幅跳は逆転に次ぐ逆転で、Iの矢口さんが5m90の素晴らしい記録で優勝しました!』

 大歓声。矢口は右手を握り締めて高々と掲げた。最高のピースサインで。客もそれに応える。
 いつの間にか、ヒーローとかヒールとか、そんなものは関係なくなっていた。素晴らしい勝負を見せてもらったことで、
 観客の心が動いた!小さな体で大きく礼をすると、大きな歓声と拍手に会場は包まれる。

 『スタンドの皆さん、今一度拍手をお願いします』

 大きな拍手。矢口は珍しく優しい微笑を見せると、引っ込んだ。
 するとショックを隠しきれない表情で俯いているあさみが、矢口の視界に入った。
444 名前:おって 投稿日:2005/08/08(月) 23:58
とんでもない間違いをしていたので削除をしていただきました。顎さんありがとうございます。
見て気づいてしまった方はどうか見なかったことに。
445 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:23
今、絶対作者さんは世界陸上見てるはずw
続き待ってますよー
446 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/28(日) 23:35
主役の人以外の活躍も見たいなあ。と思ってたら矢口さんかっけーっすよ!
他の部員達にも期待しつつ更新待ち
447 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/30(日) 22:48
作者さん、お元気でしょうか?
行楽&スポーツの秋もそろそろ終わり。
冬場は小説でマターリしたいなぁ。
更新お待ちしております。
448 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 04:26
突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。

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