強盗事件
- 1 名前:いこーる 投稿日:2005/04/11(月) 20:27
-
夏焼雅
「強盗事件」
菅谷梨沙子
須藤茉麻
徳永千奈美
- 2 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:27
- 住宅街の外れにある小さな路地。
その中に
話の舞台となるコンビニエンスストアがある。
狭い駐車場は乗用車2台分のスペースしかない。
場所柄
地元の人間以外には見つかりにくい。
そのためいつも客はまばらである。
茉麻の家の近所だった。
- 3 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:28
- 20:10
雅はいらだっていた。
時間を10分オーバーしているというのに
待ち合わせのコンビニには3人とも来ていない。
店内には若い男性店員と雅の2人だけ。
千奈美からはさきほど「今起きた」とメールが入った。
午後の8時に起きるなんてどうしたものだろう。
梨沙子と茉麻からは連絡もなし。
―――まあ、いそいでないけどね
今日は茉麻の部屋に4人でお泊りだ。
時間はたっぷりある。
この店でお菓子を買い込んで部屋に行こうという段取りだった。
- 4 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:28
- 20:13
車の音がしたので雅は立ち読みしていた雑誌から顔を上げた。
菅谷ママの車だ。
ドアが開いて梨沙子が店内の雅に手を振る。
まったく悪びれる様子もなく入ってきた。
「おそーい!」
「道混んでた」
へらへらと笑う梨沙子。
「あれ?みんなは?」
梨沙子が聞いた。
雅は
バタンと大きな音をたてて雑誌を閉じた。
「遅刻!みんな遅刻!!」
雑誌を放り投げると雅はそのまま飲料水コーナーに顔を向けた。
今、梨沙子の無神経な顔を見たら本気で怒鳴ってしまいそうだった。
- 5 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:28
- 20:24
茉麻が到着した。
「待ったぁ?」
いつも通りののんびりした調子で言ったのが
雅を怒らせた。
「……」
怒りの言葉も出てこない。
雅は大きく鼻で息をして茉麻を睨みつけた。
そんな雅の後ろ肩を通り抜けて梨沙子の声がした。
「ままぁ!お菓子どれがいい?」
「あ、一緒に選ぶー」
茉麻はひょいと雅をスルーして
梨沙子の元へ向かった。
- 6 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:28
- このメンバーとの付き合いも長くなる。
しかし
そろそろ限界だった。
マイペースにとろい茉麻。
空気を読まず自分の世界に住む梨沙子。
元気はいいが周りが見えていない千奈美。
いい加減
歩調を合わせて遊ぶことに疲れていた。
こんな自己中なメンバーと一緒に泊まるなんて
もう嫌だ!
「私、帰る!」
雅は
お菓子コーナーの2人に言い放った。
- 7 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:29
- 20:29
男のことについては不明な点が多い。
なぜ犯行にこの時間を選んだのか
なぜこんな小さな店をターゲットにしたのか
それらは何もわかっていない。
20:30
マスクとサングラスで顔を覆った中年男が
紙袋を片手にこの店に入ってきた。
- 8 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:29
- 雅はお菓子コーナーの2人の後ろに立っていた。
茉麻と梨沙子がチョコレートを物色している最中
雅は見た。
男はレジまでまっすぐ歩いていくと紙袋から
包丁を取り出した。
「レジを開けろ」
「……」
店員は一瞬顔をしかめた。
だが男が包丁を店員に突きつける。
ほどなくしてレジの開く音が聞こえた。
「一万円札を全部よこせ」
男の声は異様なほど低く、味気なかった。
脅しもせず怒鳴りもせず
淡々と
事務的に
しかし拒否を許さない口調で店員に指示を出していた。
- 9 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:29
- 雅はぽかんと口を開けて
成り行きをじっと見ていた。
―――泥棒……
店員は紙袋に札を入れていた。
雅の全身が緊張して凍りついたみたいだった。
―――どうしよう……
男は包丁を持っている。
自分たちになにかできるわけもない。
じっと
何も見ていないように振る舞い
男が去るまで耐えるしかない。
雅は歯をくいしばって
男が自分たちに興味を示さないよう祈った。
- 10 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:29
- 店員が紙袋に札束を入れ終えると
男はすぐに立ち去ろうとする。
雅の心臓が激しく脈打っている。
目が大きく見開いているのが自分でもわかる。
―――よし、そのまま帰って!
男が自分達の前を通りすぎようとしている。
雅の緊張の中に安堵が広がっていく。
金を手に入れ目的を達成している。
自分たちに危害を加える理由がない。
大丈夫だ。
雅は大きく息を吐き出した。
そしてちらっと後ろの2人の様子を見た。
!!
雅はぎょっとなった。
―――梨沙子!
梨沙子が
携帯のカメラで男を撮ろうとしている。
- 11 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:30
- <<梨沙子だめ!!>>
<<だってあいつ!>>
雅は梨沙子の腕を強く引っ張った。
その拍子に
梨沙子は
思わずシャッターを押してしまった。
音が店内に響いた。
雅の全身が凍りつく。
時間が止まったように感じられた。
- 12 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:30
- 雅は祈る心地で
男を
見た。
しかし
祈りはとどかなかった。
男は足を止めじっとこちらを睨みつけている。
いや
サングラスをかけているので正確にどこを見ているかはわからない。
そのことが逆に雅を戦慄させた。
総毛立った。
―――目があっちゃったかも……
雅はじっと固まったまま
男の動きから目が離せないでいた。
- 13 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:30
- 男は
ゆっくりと
こちらに近づいてきた。
右手にはぎらりと光る包丁。
足音も立てずに
徐々に
距離を詰めてくる。
「何を撮った!?」
男が声を上げた。
先ほどまでの冷淡な口調とは一転
心臓に響くような恐ろしい怒鳴り声。
雅はすくみあがった。
- 14 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:31
- 3人が硬直したまま反応がないのを見ると
男はさらにいらだったように言った。
「何を撮ったんだ!?」
男はすぐそこに迫っていた。
そのとき
雅の左腕がぐいと後ろに引かれた。
雅の脇から茉麻が前に出た。
「茉麻!」
茉麻はまっすぐ立ち
両手を広げて後ろの2人を庇っている。
- 15 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:31
- 男が歩みを詰めた。
もう
後一歩で茉麻を刺せる間合いだ。
雅の位置からも
茉麻の顔が恐怖でこわばっているのがわかる。
凶器を持った大人の男と対峙しているのだ。
怖くないわけがない。
それでも茉麻は一歩も退かなかった。
男は茉麻には関心を示さずに
梨沙子に向けて言った。
「よこせ!」
男が茉麻の脇を抜けようとしたが
茉麻も立ち位置を変えて男を遮る。
男はもう一度怒鳴った。
- 16 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:31
- <<梨沙子!!>>
雅は梨沙子に目くばせをしたが
梨沙子は携帯をかたく握って首を振った。
「と……」
雅は
震える声で男に言った。
「撮ってません」
「何?」
「何も撮ってません!」
「嘘をつくんじゃない!!!」
男が雅の方に手を伸ばした。
茉麻が阻む。
男は左手で茉麻を思いっきり押し倒した。
茉麻の体が
お菓子の棚にぶつかって大きな音を立てた。
茉麻は目を大きく見開き
びっくりした様子で倒れた。
- 17 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:32
- 「茉麻!!」
男が梨沙子に向かった。
そのとき
男の体が後ろに退いた。
!?
見るとレジから出てきた店員が男の腕を引っ張っていた。
子どもが危険にさらされているのを見かねて出てきたのだ。
「この野郎!」
男が振り返る。
そして
包丁を持った右手を
店員に突き出した。
- 18 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:32
-
店員の表情に苦痛が貼りついていた。
男が腕を引く。
店員の腹から
鮮血が噴出した。
「「きゃあああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」」
雅と梨沙子の絶叫が店内に響き渡った。
- 19 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:32
- 茉麻は放心したままへたりこんでいる。
男が再び梨沙子を向いた。
「あ……あ……」
梨沙子はいやいやをしながら一歩、二歩と後ずさる。
雅の足ががくがくと震え始めた。
「よこせ!!」
男の手がすばやく梨沙子に伸びた。
「いやぁぁ!」
血塗れた手が梨沙子の腕をつかむ。
梨沙子の携帯がもぎ取られた。
- 20 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:32
- 男は携帯を見た。
男の顔が歪んだ。
予想していたものが写っていないのだろう。
当たり前だ。
雅が腕を引っ張ったときに梨沙子がシャッターを押したのだ。
男が写っているはずがない。
「写ってないでしょう?何も撮ってないでしょう?」
雅は懇願するように言った。
「だからお願い、もう帰ってよぉ」
涙がでてきた。
全身が震えている。
「帰ってぇ!」
叫んだ。
これ以上こんな状況が続いたら
雅の精神は耐えられない。
だから雅は腹の底から絶叫した。
- 21 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:32
- しかし
何が気に入らないのか男は雅をずっと見ている。
「梨沙子が撮ってなくても
あなたの顔は防犯カメラに映ってるんですよ。
私たちなんて放っておいて早く逃げたほうがいいですよ!!」
男は
「ガキが……」
低く唸りながら
「俺に命令するなぁ!!!」
血に染まった包丁を雅に突きつけた。
- 22 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:33
- 雅は泣きながら後ずさる。
胸の中は後悔でいっぱいだった。
そうだ
こいつははじめからまともじゃないんだ。
大体いくら小さなコンビニだからって
こんな中途半端な時間に強盗に入るなんておかしい。
それに顔を隠しているくせに
梨沙子の携帯に異様に反応した。
こいつはまともじゃない。
雅は
そんなやつを言葉で説き伏せようとした
自分の愚かさを呪った。
- 23 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:33
- 背中に何かがぶつかって冷えた感覚が伝わってきた。
雅の背中が飲料水の入ったガラス戸にあたったのだ。
―――もうさがれない……
男は
じりじりと
包丁を雅の首筋に近づけてきた。
左手に持った梨沙子の携帯を床にたたきつけた。
電池カバーがはずれて雅の足元まで転がってきた。
カバーの裏にはシールが貼ってあった。
以前、梨沙子と雅の2人で撮影したものだ。
―――梨沙子……
- 24 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:33
- 雅は顔をくしゃくしゃにして
それでも男を睨みつける。
畜生。
梨沙子と撮ったプリクラを……
殺してやる!
雅は涙を流しながらじっと男を見た。
包丁がのど元に届く。
あと1センチで雅を刺せる位置。
動けば刺さる。
雅は全身の筋肉を緊張させた。
- 25 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:33
- そのとき
雅の視界が店の外にいる人物をとらえた。
―――千奈美!
千奈美が自転車で店に到着したところだった。
―――来ちゃだめ!
千奈美は自転車を停めて
店内を見た。
包丁を突きつけられている雅を見て
千奈美はポケットからすばやく携帯を取り出して助けを呼ぼうとする。
「ん?」
男が雅の視線の先にいる千奈美に気づいた。
そして店の入り口に駆け出した。
- 26 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:33
- 「ちー!!逃げて!!!」
千奈美は店の外に出た男をみて
携帯を取り落とした。
千奈美は一瞬
携帯を取るか逃げるか逡巡してしまった。
その間に男が千奈美に飛び掛った。
千奈美が倒れる。
男がのしかかる。
「ちーーーー!」
雅の叫びを聞いて
それまで放心していた茉麻は
突然立ち上がると
千奈美と男のところへ駆け出した。
茉麻は店をでると男の背中に掴みかかる。
- 27 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:33
- 雅の喉が熱くなる。
目も熱くなる。
梨沙子が肩を大きく震わせていた。
「うっ……ひっく……うあぁぁ……」
床にへたりこんだ梨沙子の泣き声。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
耳をつんざく甲高い声で泣き叫んでいた。
外では茉麻が男に叩かれ倒れていた。
- 28 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:34
- 雅の全身が、ふるふると震えている。
しかし
さっきまでとは違った。
恐怖に震えていたのではない。
―――みんなに、なにしやがる!!
雅は怒りに
全身を打ち震わせていた。
―――許さない!!
雅は勢いよく駆け出した。
レジカウンターまで行って電気ポットを両手で持ち上げた。
コードが引っこ抜ける。
- 29 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:34
- 雅は湯がたっぷり入ったポットの重みを感じとると外に飛び出した。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
咆哮しながら男に走っていく。
千奈美に包丁を向けようとしていた男が
声を聞きつけて振り返った。
雅はその顔に
頭の上に振りかぶった電気ポットを
叩きつけた!
ぐしゃりと
骨とは思えない脆い音がした。
ポットが音を立てて地面に転がり
そのあと男が倒れる音がした。
- 30 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:34
- 「ちー!茉麻!!」
雅は2人の元に駆け寄った。
「大丈夫!!」
「……」
茉麻は
目の焦点が合わない。
それでも雅が両肩をつかんでゆすると
「よかったぁ……」
にこぉと笑顔を見せた。
- 31 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:34
- 「ちー!」
続けて雅は千奈美を見た。
「……ちー?」
千奈美の膝が
かたかたと震えている。
その表情には恐怖が貼りついていた。
「こ……の、ガキ!!!」
立ち上がった男の形相は人間とは思えなかった。
血に染まった頬からは骨が見えた。
目をひん剥いて雅をぎろりと睨みつける。
男はポットを拾い上げた。
雅の前に立ち
振りかぶる。
―――やられる!!!
雅は思わず目をつぶった。
一瞬遅れて雅の視界が真っ白になった。
- 32 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:34
- ―――何?
目を開けようとしたが
ヘッドライトは眩しすぎた。
「動くな!!」
続けて複数の男性の声がした。
雅は手をかざしてライトを遮り目を細くあけると
赤いランプを灯したパトカーが一台見えた。
足元で男が警察官に組み敷かれていた。
―――助かった……
雅は長いため息をついた。
安堵のため息をついた。
- 33 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:35
- ―――そうだ梨沙子!
雅は店内に駆け戻る。
戻ってみて気づいたが
先ほど刺された店員がいない。
血の跡がレジの中に続いている。
雅はレジの中を見た。
「お兄さん大丈夫!?」
店員は顔中に汗を浮かべながら
なんとか頷いた。
警察はこの店員が呼んだに違いない。
刺された後、
なんとかここまで這ってきて非常ボタンを押したのだ。
外を見ると救急車が到着していた。
すぐに救急隊員が店員に駆けつけた。
- 34 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:35
- 雅は梨沙子のところまで歩いていく。
「み……みやぁぁぁぁぁぁぁ!!」
梨沙子は雅を認めると
顔を更にぐしゃぐしゃにして
しがみついてきた。
雅は梨沙子を抱きしめる。
「怖かった……怖かったぁ……」
雅の胸で
梨沙子はわんわん泣いた。
雅も泣いていた。
- 35 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:35
- どのくらいそうしていただろう。
梨沙子はどうにか泣きやんでいた。
千奈美と茉麻が外で待っているだろう。
「梨沙子立てる?行こう!」
「ね……みや」
先に立ち上がった雅を梨沙子が上目遣いに見上げた。
「ん?」
「今日……まぁん家にお泊りする?」
「え?」
「さっき……ひっく……みや帰るって……」
「ああ」
雅は梨沙子に微笑みかけた。
「お泊りするよ」
―――梨沙子。みんな……
- 36 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:35
- 梨沙子の行動は勇敢だった。
茉麻は自分たちを必死にかばってくれた。
千奈美は逃げずに助けを呼ぼうとしてくれた。
―――みんな大好きだよ
梨沙子がなんとか立ち上がる。
「じゃあさ、じゃあさ」
「何?」
「一緒に寝てくれる?」
涙ながらにそう懇願した梨沙子の頭を
雅はそっと撫でた。
「うん」
2人は手をつないで
店の外に向かって行った。
- 37 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/11(月) 20:35
-
―完―
- 38 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/13(水) 00:52
- 面白いですねぇ
- 39 名前:強盗事件 投稿日:2005/04/24(日) 23:49
- >>38
ありがとうございます。
そのお言葉は最高の誉め言葉として頂戴しておきます!
- 40 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:52
- 今からうpしますのは
同一タイトル企画のお題「れいなの通販生活」に対して書いた作品なんですが
レス上限を勘違いしていて結局、削除依頼を出してしまったのです。
その件に関しては本当に申し訳なく思っていますが
作品は作品として発表しておきたいとも思いました。
なのでこのスレに上げさせていただきます。
他作品との比較なんてなさらないでください。
所詮私のはルール違反。他と並べて語られる資格もあるかどうか……
それでも感想くらい書いてやるよ、という優しいかたがいらっしゃいましたら
レスいただけると嬉しいです。
それではどうぞ
- 41 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:53
- 6 れいなの通販生活
- 42 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:53
- 仮説。お金で買えないものなどない。たとえそれが愛であっても。
呼び鈴が来客を告げた。
いや、客ではないか。私には友達も恋人もいないのだから。
訪ねてくるのは商品を持った業者だけだ。
「田中さーん!」
「はい!今出ます!」
頭を掻くのをやめて立ち上がった。
転がった荷物を踏まないようにひょいひょいと玄関口まで行く。
「焼肉弁当二つです」
「ありがとう」
私はサインをしてお弁当を受け取った。
「もーなんで一人前だと出前してくれないんだろう」
いつもの疑問を決まり文句のように口にしながら
私は焼肉弁当を一つゴミ箱に捨てた。
- 43 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:53
- そして残りの弁当のフタを開けて中身を食べた。
「おいしい!」
私は大げさに感動して見せたがもちろんリアクションしてくれる人などいない。
大体が何度も口にした焼肉弁当だった。ちょっと虚しかった。
私はダンボールの山を眺める。
食べ終わったらさっき届いたゲームをやろうか
それとも昨日届いたDVDを見ようか。頭を掻きながら考える。
どれも気が乗らない。娯楽は買った。ご飯も買った。でも足りない。
「矢口さん呼ぼうかな」
私は矢口さんのところに電話をかけた。
- 44 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:54
- 矢口さんが来るまでベッドに横になって待つ。
頭を掻いた。
鼻歌を歌ってまた頭を掻いた。
いい加減シャンプーをした方がいいかもしれない。
髪の様子を見ようと思ったが鏡がないことを思い出した。
「いいや、矢口さんにやってもらおう」
そう決めると私は起き上がった。
矢口さんが来るから
散らかり放題の部屋を片付けようと一瞬思ったのだ。
「いいや、矢口さんにやってもらおう」
頭を掻いて再び横になった。
天井を眺めながら今月はどのくらいお金を使ったか考えてみる。
ゲーム買ってDVDを買って便利屋にゴミ出し頼んで……
「いいや、矢口さんに計算してもらおう」
- 45 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:54
- 呼び鈴が鳴った。
私はがばっと飛び起きる。
「はーい!」
「どうもー、プラトニックの矢口でぇす」
「わぁ矢口さん久しぶり!!」
「れいな久しぶりだね。元気してた」
「はい!」
私は矢口さんを部屋に招く。
「ひゃー散らかってるな。今日は掃除つき?」
「あと、お風呂と朝ごはんも」
「了解!」
矢口さんはしゅびっと敬礼した。
「添い寝コース朝食セットにお風呂と掃除のオプションでいいですね?」
「はいお願いします」
「任せて!いつも指名してくれてありがとうね」
- 46 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:54
- つい最近近所ではじまったプラトニックサービス。
性行為を除く様々な世話をしてくれる人気の出張サービスだ。
食事も買って娯楽も買って、後は人恋しさを満たすだけ。
他の人たちなら街に遊びに行くのかもしれないが
お出かけの習慣がない私にとってこのサービスは本当にありがたかった。
- 47 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:54
- 矢口さんのおかげで部屋はだいぶすっきりしたし
お風呂に入れてもらって私の体はさっぱりした。
あとはもう寝るだけだ。
矢口さんが先にベッドに入って
私がその横に寝る。
添い寝コースだからそれ以上は何もしないが
眠くなるまで話し相手になってくれるのが嬉しかった。
電球を小さく灯した部屋の中で私は小さく語り出した。
「ねぇ矢口さん、れいな最近思うんですよ」
「何?」
「ご飯はお金で買えるし、優しさもお金で買えるじゃないですか」
「うん」
あなたに優しさ届けます。
それがプラトニックのキャッチコピーだった。
「お金で買えないものはない。そうですよね」
「……どうかな」
「……」
矢口さんがおでこをくっつけてきた。
こうしてもらうのが本当に落ち着く。
- 48 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:54
- 「例えばですよ、恐怖とかスリルとかも買えたりして」
「それは……」
矢口さんは一つ
間をおいて言った。
「……そのくらいなら、れいなにも買えるよ。たぶん」
「本当ですか?」
「うん。うちでも今度そういうサービスを始めようって話が出てる」
「そういうサービス?」
「そう、お客様にスリルと興奮をお届けするサービス」
「へぇ……」
矢口さんの声がおでこの振動となって伝わってくるのが心地よくて
「……」
私は眠りについた。
・
・
・
・
- 49 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:55
- 窓から朝日が入り込んできて私は目を覚ました。
「やぐちさん?」
隣に矢口さんはいなかった。
きっと朝ごはんを作ってくれているのだろうと思って
台所に行ってみた。
「矢口さん?」
しかし様子がおかしかった。矢口さんは携帯を片手に困った顔をしている。
「矢口さんどうしたんですか?」
「田中さん」
「…え?」
どうしたのだろう。口調もいつもと全然違う。
「先ほど会社から電話が入りました。
田中さんのカードから代金の引き落としができないそうです」
「え!?」
「支払い限度額を超えてしまっているんです。だから朝食は作ってません。
というか、今回のお風呂と添い寝だけでもすでに超過してます。
申し訳ありませんが現金でお支払いいただけますか?」
矢口さんが事務的な口調で言い放った。
そして請求書をつきつけてきた。
- 50 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:55
- 「そんな……お金なんて持ってません?」
「え?持ってない?」
「だってお店で買い物なんてしないから……」
「うそでしょう?」
本当だった。私に手持ちのお金は一円もない。
「そうですか……じゃあ」
矢口さんは私を見上げて言った。
「体で払ってもらうしかないね」
- 51 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:55
- *
- 52 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:55
- 「そんな……」
当惑している相手に私は怒鳴った。
「大人しくしろ!!」
「や……やめてください……」
涙の溜まった目を見上げる。
「お金があると思って相手してやったのに……
泣きたいのはこっちだ!!」
私は部屋を見回した。
お金持ちだなんてとんでもない。
広く見えるこの部屋だって踏み込んでみたらたいしたことはない。
「だって……だって……」
私は目の前で小さく震えている少女に詰め寄る。
バッグの中から1本のロープを取り出した。
「へへへ……覚悟しろ」
「や……来ないで」
- 53 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:56
- 1歩、2歩、3歩。逃げる子猫を追い詰めるように私は近づいていく。
といっても相手の方が身長は高い。それでも私は、動作で自分を大きく見せ威圧する。
向こうは向こうでどんどん縮こまった体勢になっていく。
もちろんこれは演技だ。
「もう逃げられないぞ!」
「いや!」
見た目には広く感じられる部屋だったが実際にはすごく狭い。
すぐに追い詰めることができた。
「えい!」
私は差し出された両手に縄をかけて結んだ。
「っと……ちょっと動かないで」
「い……痛くしないでください」
甘えるようなその口調がちょっとムカついた。
「痛くなんてするわけないでしょう。
結び終わるまで大人しくしてて!」
ロープを結んだ。
「よし」
- 54 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:56
- 私は獲物を床に寝かしつけた。
そしてバッグの中から次の道具を取り出した。
「これがなんだかわかるか?」
「ナイフ……」
私は満足して頷いた。
「お嬢ちゃんお金ないみたいだから小指もらっていくよ」
「えっ……ウソ……マジ?」
手首にロープが結ばれたまま足元でバタバタと動き回る。
「なんだようっせーな!」
ウザかったので肩を軽く踏んづけてやった。
「あの……私を縛って……その
体を触ったり舐め回したりするんじゃないんですか?」
「は……」
今度はこっちが仰天した。
体を……触る?誰がそんなこと言った。
「天下のプラトニックサービスが
そんなエッチなことするわけないでしょう?」
「あ……そっか……この場合でもそうなんですね」
- 55 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:56
- 拍子抜けした口調で言う。
「なんだよ、触って欲しかったの?」
「いや……そういうわけじゃ」
「じゃあ文句ないな!さあ小指をもらうぞ」
その言葉で
少女は自分の置かれている状況を思い出したみたいだった。
「い……いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
驚くほどいい叫びっぷりだった。
「へへへ、やっぱこうでなくちゃ。さぁ指を出せ!」
「お願いです、やめてください。何でもします!」
「もう、遅いんだよ。いまさら命乞いなんて」
「やだやだ……ダメ!指切るなんていやぁ!!!」
「泣いても無駄だ!指を出せ!」
私は少女の右腕をぐいと引っ張った。
すると「ひっ」と、弱弱しい声が聞こえてきた。
- 56 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:56
- 「ごめんなさいごめんなさい。
お金、そんなに使いすぎてるなんて知らなかったの!
こんな目に合うんだったら、私……私……」
「あのねぇ、今さらこんなこと言うのもあれなんだけど……
あなた、何でもお金で解決させようとしていたでしょう?
でもそれは間違っている。
本当に大切なものは、いくらお金を出したって
誰も届けてくれないんだ。
本当に大切なものは自分で見つけるものなんだよ……」
「ごめんなさい。私……そんなことわからなくって……」
「悪く思わないでね。別に殺しちゃうわけじゃないから」
私は差し出された小指に手に持っていたものをあてがう。
「やめてぇ!!
私の体を傷つけないで!!」
「やかましい!!」
私は手に力を加えた。するとゴムがぐにぃと曲がる。
- 57 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:56
- 「きゃぁぁぁぁ、痛いいぃぃ」
私は立ち上がってゴムのナイフを鞄にしまう。
足もとでは痛くもないのにまだ叫び声をあげている。
「ちょっと……ちょっと、
お楽しみのところ悪いんだけど」
「いやぁぁ……あっ、はい」
「そろそろお時間なんで……」
「えぇ?延長とかできませんか?」
「すみません。次の予定が入っちゃってますもので」
「そうですか……。でも楽しかった!」
「ありがとうございます」
私はお客さんに頭をさげる。
最近始まった当社自慢のサービス。出張恐怖体験。
「今回のは悪徳金融につかまる美少女」コース。
本気で怖いわけじゃない「安全な恐怖」には癒し効果もあるらしく
このサービスは超人気がある。
今回のお客さんも満足してくれたみたい。成功だ。
彼女の演技も途中からかなり真に迫っていたし。
場合によってはリピーターになるかもしれない。
- 58 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:56
- 「あの、これ私の名刺です。よかったら」
「あっ、はい。またお願いします」
やっぱり。かなり気に入ってくれたようだ。
「あの、ロープ解いてもらえます?」
「あ、それは引っ張れば勝手に取れます。
そういうふうに結んであるので」
相手がぽかんとしているので私は両手を持って引っ張ってやった。
するするとロープが解けた。
「それにしてもすごい部屋ですねぇ」
私は部屋を見回した。
見た目には広く感じられるのに実際にはすごく狭い。
「全部鏡なんですか?ダンスレッスンの部屋みたい……」
「この方が、かわいい私が見られるじゃないですか」
「はぁ……。」
変った人だ。まぁいいや、仕事は済んだしもう行こう。
- 59 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:57
- 「それじゃ」
「あ……、あのこれって指名もできますか?」
「できますよ。
『れいなで』って言ってもらえれば私が来ますから。
道重さん。これからもよろしくお願いしますね」
「わかりました。また電話します!」
- 60 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:57
- 私は部屋を出ると電話をかけた。
「もしもし矢口さんですか?」
私がそういうと受話器の向こうから返答があった。
「おっれいな!どうだった?」
「上手くいきましたよ。道重さんかなり気に入ったようです
矢口さん今、どこにいるんですか?」
「今?マンションの駐車場」
「え?迎えに来てくれたんですか?」
「一緒にご飯でもどう?」
「マジ?すぐ行きます!!」
私は階段を一段飛びに駆け下りて行った。
矢口さんを思い浮かべながら。
- 61 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:57
- 1ヶ月前
足りない金を体で払え!
添い寝に来てくれた矢口さんにそう言われた私は
プラトニックサービスに入社して働くことになった。
「そうそう、お金がないなら働いて返してもらうからね!」
矢口さんにそう言われて私が任されたのが恐怖体験サービスだ。
「れいなヤンキーっぽいから絶対いけるって!」
そう言われて私は必死に働いた。後でわかったのだが、矢口さんは私に仕事させることで
ひきこもりから更正させようと考えていたらしい。私はとても感謝している。
駐車場に行くと矢口さんが待っていた。
「やぐちさーん!」
私は矢口さんに飛びつく。
矢口さんは私を両手でぐっと抱きしめてくれた。もちろん無料。
- 62 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:57
- 「れいな、今日は何食べたい?」
「肉!」
「ははは、いいよ!」
結論。お金でなんでも買えるように見えるけど実はそうじゃない。
道重さんが受けた恐怖体験は、実際には危害がないという了承の上での演技。
あくまで「恐怖らしきもの」でしかない。それは遊びだ。ゲームと変わらない。
プラトニックサービスはこれからもいろんな「らしきもの」を売っていくだろう。
「友情らしきもの」「愛らしきもの」
でも本当に「愛」が欲しいなら自分で何かを始めてみたほうがいい。
そうすれば
「ねぇれいな……れいなプラトニック来てから顔が生き生きしてるね」
「えっ……そうですか?」
「うん……なんか……かわいいなって」
「らしきもの」じゃない何かが手にできるはずだ。
- 63 名前:6 れいなの通販生活 投稿日:2005/04/24(日) 23:57
-
−れいなの通販生活 fin−
- 64 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/25(月) 00:35
- 何だ、サービスだったのかぁ
ある意味作者さんに恐怖を与えられた気が…(笑)
- 65 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 05:04
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
- 66 名前:いこーる 投稿日:2005/12/28(水) 11:20
- 年の瀬に ひとつ話で 書き納め
- 67 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:21
-
桃源郷に茉の花
- 68 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:21
- 村上天皇が麗景殿におはしますころに
藤原師輔の娘でおられた安子姫が昭陽舎を賜ったのは
帝があまりに溺愛なさって自分のすぐお側に
安子姫を住まわせようとお考えになったからと聞く。
それとはいささか時代も進みはしたが
桃子姫が昭陽舎を賜ったのも
やがて后となる御身でおられたからのはずである。
それが未だご寵愛を受けずして
宮中を去らなければならなくなったのには
私をはじめ、おつきの者どもは
心底がっかりしてしまった。
嗣永の家の姫である桃子様は
生まれついたときから珠のようにお美しい姫であられたと聞く。
その頃まだ赤子であった私にその記憶のあるはずないが
ご成長なさった桃子様はその類まれな御美貌から
「あはれにうつくしき姫」と評判になりあっという間に女御の中でも
一番の后候補となられたのだった。
- 69 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:21
- まだご寵愛を受けてもいない女御が昭陽舎に住まうなど
前代未聞のことである。
桃子様は次第に周囲の女御、更衣たちから嫉まれ
数々の嫌がらせを受けるようになった。
そして桃子様のお側に仕える私に対してまで誹りが及ぶ。
私はそのたびに泣いた。
私がいじめを受けて泣いていると桃子様は優しく私をお慰めなさる。
「茉麻、あなたが涙を流すことではありません。
宮中の人たちは皆、あなたの才能に気がついていないのよ」
「いえ、あの人たちの言うとおり私ってばドンくさいし腫れぼったいし
何一つ取り得のないところを、こうして桃子様に召抱えられただけです。
人々が悪し様に言うのも無理のないこと……」
「茉麻や。こちらへいらっしゃい」
桃子様にそう言われてお側まで寄ると
桃子様は私の頬に手をあてておっしゃる。
「あなたの才能は誰よりもこの私が知っています」
「桃子様にそう言って頂けるだけで私の心は躍りだす感じがします」
「そうだ、この前の日記。あれの続きを書きなさいよ。
あれほど面白い日記はきっと宮中でも評判になるはず。
紙を持たせますから必ず書きなさい」
私を元気づけようとお言葉をくださる桃子様の優しさに
私の目からは、さっきとは別の涙がはらはらと落ちていった。
- 70 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:21
- その優しくお美しい桃子様を嫉んだ誰の策略だろうか、
嗣永家がクーデターを計画しているなどと言いがかりをつけられ
嗣永家は処分を受けることとなってしまったのだ。
桃子様も京都を離れ西の地に流されてしまう。
お仕えしていた女房たちも薄情なもので
誰も西の地などに赴きたくないのだろう、
一人、また一人と桃子様のお側から離れていった。
「まったく皆、嗣永が危うくなった途端に
桃子様のご恩も忘れて離れていくなんて、信じられない!」
「そうは言うけど茉麻、西の地に行ってしまっては
その後の出世が遅れてしまうのだから仕方ない」
「でも……あまりに酷いですよ」
「人とはそういうものですよ。それより茉麻、
嗣永の側にいては、あなたも将来が閉ざされてしまう。
政治のいざこざに、あなたまで巻き込まれることはないでしょう」
桃子様はそんなことをおっしゃった。
しかし巻き込まれるいわれがないのは、私ばかりではない。
桃子様にしたってそうだ。桃子様も私もまだ幼い。
普通の家ならば、まだ気楽に遊んでいたい年頃なのだ。
嗣永家は摂政の座を狙ってこの「あはれにうつくしき姫」を
后にしようと宮中に送り込んだ。桃子様だって巻き込まれた御身なのである。
「私には後ろだてもございません。いいえ、身寄りがいたって同じことです。
桃子様のいらっしゃらない生活など私には考えられません。
一生を桃子様のお側で過ごしたいのです」
「……茉麻」
- 71 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:21
- いよいよ昭陽舎を出て行かなくてはならない。
桃子様が出て行ったあとは、菅谷家の姫がいらっしゃると聞く。
菅谷の梨沙子姫といえば「あやしうきよらなる姫」と評判の
それはそれは美しいお方らしい。
ここでの生活は決して長くはなかったが
ときめいていらっしゃる桃子様を拝見するのは
私にとって何よりも貴重な時間であった。
そんな素敵な時間を過ごした部屋を出て行くのは寂しくって
私は朝からずっと泣いていた。
桃子様も悲しみに涙をお流しなさる。
それでもつとめて明るくこうおっしゃるのだった。
「この昭陽舎に跡を残しましょう」
「跡?」
そういうと桃子様はふふっとお笑いなさった。
まるで童がいたずらを企んでいるかのようなお顔、
そんな顔をする桃子様はかわいらしい。
「歌を詠んでちょうだい。それを昭陽舎の柱に書き記しておくのです」
なんと桃子様は、最後にいたずら書きをしようとおっしゃるのだ。
やはり桃子様はまだ純粋で無邪気だ。
そう思って私の心が搾られるように痛んだ。
桃子様を陥れた後宮争いが許せない。そうも思った。
私は桃子様のご提案に従うことにした。
- 72 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:21
- 「じゃあまずは春の歌を詠んで」
「桃子様、今は秋です」
「後で秋の歌も詠んだらいい。まずは春です。
お題はそうだなぁ……『桃の花』で詠んでちょうだい」
私はなるほどと思った。柱に書き記す桃の歌。
それは確かに桃子様がここにおはしましたという「跡」になるのだ。
私は少しお時間をください、と言って歌を考える。
古今集の序にあるとおり和歌とは
「人の心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」というもので
人が感動したときに生まれるものである。
春の歌は春を感じたときに詠むものだ。
それを今詠めというのだから難しい。なんとか考え出して詠んだ歌。
春の日に けはひ流るる 桃の花 風はにほひて うちかをりつつ
今は悲しいけれど「桃」の歌で悲しいものなど残したくない。
私にとって桃子様はいつだって輝いておられるのだ。
「じゃあ次は約束どおり秋の歌ね。私は秋の植物が好きではありません。
虫を使って詠んで。『松虫』がいいわ」
とおっしゃる。秋の花が嫌いなどとは初耳だ。そこで詠んだ歌。
翳りなき 月を松虫 一人鳴く うつろふ葉より 落つる野分に
- 73 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:22
- 「茉麻らしい、皮肉の効いた面白い歌ね」
そのうちにお迎えが到着して私たちは昭陽舎を離れた。
廊下を歩いていると、昔の記憶が心いっぱいに染み渡るようで
そんな中にしみじみとした静かな悲しみが混じっている。
昭陽舎とはお別れなのだ。
車に乗ろうというときのことだった。
これまで気丈にしていた桃子様のお顔が突然
くしゃくしゃに歪んだかと思うと大声を上げて泣き叫びなさる。
私は桃子様のお側まで行き声をかけるが
桃子様の涙は止まろうとしなかった。
その時、私は初めて桃子様の弱さを知った。
これまではただお美しく芯の強い方だとばかり思っていた。
今、私の前で大きく泣き叫びなさる小さな桃子様を見て
私は絶対に桃子様から離れまいと心に誓った。
一生をかけて、このお方を支えていきたい。桃子様には私が必要だ。
そう思うと、私も想いを止められずに泣き出してしまった。
桃子様は私に手をおかけになった。
桃子様と目があった。桃子様の悲しそうなお目を拝見していると
ますます涙は止まらなかった。
- 74 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:22
- そうして西の寂れた地での暮らしが始まった。
桃子様は以前と比べて笑顔をお見せになることが少なくなってしまった。
ただぼんやりと、波の音に夕日を眺めなさる。
心づくしの秋に、桃子様は何をお考えだろう。
失われた華やかな生活だろうか。
京の高貴な方々との楽しい思い出だろうか。
私はこの地で、桃子様に喜んでいただこうと虫をよくつかまえさせた。
田舎の秋にはきりぎりす、こおろぎ、とんぼ、鈴虫、ひぐらし、
たくさんの虫が鳴いて、しみじみとした風情をかもし出す。
その声をお聞きになりながらうっすらと涙を浮かべなさる桃子様は
まさに「あはれにうつくしき姫」だった。
こうして寂しい地の秋に自らの境遇をお嘆きになる桃子様は
ぞっとするほどお美しい。
こちらがどきっとしてしまうほど儚く脆く可憐な御横顔だった。
私は桃子様のそんな清らげなお姿を拝見するたび
田舎の寂しさもまぎれて
ああ、この方と一緒でよかった
と心から思えるのだった。
- 75 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:22
- そんな生活をして一ヶ月したころ
京からの使いがやってきたとき、ひょんな噂を耳にした。
「昭陽舎におはします梨沙子姫を知っていますか?」
使いのものがそういうので私は答えた。
「もちろんです」
「あのお方は本当に『あやしき姫』だったようですよ」
「え?『あやしうきよらなる姫』ではないの?」
私は思わず聞き返してしまった。
評判は「あやしうきよらなる姫」である。
「あやしき姫」では「変な姫」と同じ意味になってしまう。
「それが『あやしき姫』なのです。
来る日も来る日も世迷いごとばかりおっしゃる。
『私の前世は舞妓であった』と言うんですよ。
何か悪い物でも憑いたんじゃないか、ということで
陰陽師を呼んでみたんですが、
どうも何かに祟られているらしくって……」
「前世は舞妓?それは奇妙な……」
「それだけじゃないんです。なんと梨沙子姫は
『前世では桃子姫と親しかった』なんてことまで言い出しているんです。
宮中じゃ気味悪がって殿方もお近づきにならないとか」
- 76 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:22
- 私はそれを聞きながら穏やかではなかった。
その人が帰ってからも一人あれこれ考えてしまった。
陰陽師は祟りと言ったそうだが、
桃子様がおはしましたころ、昭陽舎に憑き物があるなんて話は
つゆと聞かなかった。
つまりあの昭陽舎が祟られているとしたら、私達がこちらに移ってからだ。
ではいったい誰の祟りというのか。
梨沙子姫のお言葉には、桃子様も登場していたという。
祟りには桃子様が関係あるのではないか。
私はそこで例の歌を思い出してしまうのだった。
桃子様に命じられて私が柱に書き残した桃の歌。
あの歌に、追い出された桃子様の怨念が込められたのではないだろうか。
私の言霊が梨沙子姫に取り憑いてしまったのではないか。
私は桃子様の企みに触れた気がして背筋がぞっとなった。
私の考えはこうだ。
桃子様はあどけない顔をしながらあのとき
昭陽舎の柱に呪をかけた。
自分が追いやられた後に昭陽舎に入る梨沙子姫に対して
自分の怨念を残しそうとお考えになり
桃の花を詠んだ歌を柱に刻み込んだのだ。
- 77 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:22
- そういえばあのとき
なぜ秋なのに、春の歌を詠まねばならぬか不思議に思ったが
それは、「桃」の言霊が必要だったからに違いない。
秋の歌を詠ませたのも、カムフラージュだったのかもしれない。
秋なのに桃の歌だけでは、私が疑問を持ってしまう。
だから松虫の歌も付け足して詠ませたのだ。
桃子様はかわいい顔をして
しっかりと政敵を陥れる準備をなさっていたことになる。
なんということだろう。
出発のときに私に見せた涙はなんだったのだろう。
あのとき私は、弱い桃子様を支えていく誓いを立てたというのに
桃子様はその裏で、こんな恐ろしいことをお考えになっていたというのか。
後宮争いは幼い桃子様に怨念を残させ、
その怨念は、さらに幼い梨沙子姫に襲いかかった。
私は内裏の真実を知った気がしてぞっとなった。
- 78 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:22
- 胸が苦しくなった。
桃子様のご提案とはいえ、実際に柱に呪をかけたのは私なのだ。
私の言霊が梨沙子姫を狂わせてしまったのだ。
人ごとではない。私こそ梨沙子姫に呪をかけた張本人だ。
なんと罪深いことをしてしまったのだろう。
私は仏の前に跪いて何度も何度も祈った。
どうか梨沙子姫をお救いください。
罪は私にある。私は罰が当たるのを恐れた。
もし梨沙子姫が世迷いごとのせいで、宮中から孤立してしまっては
その怨念が今度は、こちらに向かってくるかも知れない。
一体どんな祟りが私たちに襲い掛かってくるだろうと思うと
心が搾られるように痛んだ。
それから
私は何度も桃子様にあの歌のことを聞こうとしたが
桃子様の前に立つとどうしても聞けなかった。
あのツンとした鼻とつぶらな目を拝見していると
どうしても桃子様がそんな恐ろしいことをしたとは思えなくなってしまう。
だから聞けなかった。
- 79 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:22
- それに聞いたところで同じことだ、と自分に言い聞かせる。
私は桃子様に一生お仕えすると誓った。
桃子様の心が後宮争いで乱れていたとしたって
私はそれを受け止めて理解をしたい。
桃子様は幼い。
幼い桃子様のちょっとしたいたずら心のしたこと。
それを責めることなどできるだろうか。いや、できない。
桃子様がどんなであろうと
私は桃子様のお側で暮らしていくのだ。
そう言い聞かせようとするが
やはり膨らんだ疑念は抑えられない。
「茉麻、何か言いたそうね」
「い、いえ。何も……」
「そう……」
「あの、桃子様」
「何ですか?」
「あの……梨沙子姫の噂は聞こしめしましたか?」
「ええ、聞きました。来世は舞妓、というやつでしょ?」
- 80 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:23
- 「来世?いえ、私が聞いたのは前世は舞妓、というものでした」
「私は来世と聞いています。噂だからそんなもんでしょう」
「梨沙子姫は桃子様と親しかったともおっしゃったそうです」
「まぁ……」
間があった。桃子様は何かお考えになったようだ。
「茉麻。あなたは強い言霊を持っているのね。
やはりあなたは才能のある歌人よ」
そのお言葉を聞いて私は心臓がぎゅっとつかまれた気分だった。
やはりそうなのか。
やはり桃子様はわざと桃の歌を詠ませたのか。
「も……桃子様」
「本当に効いたみたいで私は嬉しいですよ。
茉麻。あなたには感謝しています」
そんな嬉しいお言葉をくださる。
桃子様に評価をいただいて本当なら踊りださんばかりに喜べるはずである。
しかし、私の中には梨沙子姫に対する罪悪感と
桃子様を恐れる気持ちがあって、喜ぶことができないでいた。
- 81 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:23
- それからまた数年経った。
桃子様は重い病に臥していた。
坊主を呼んで加持をしてもらうが
桃子様の憑き物は落ちずにみるみる悪化していった。
「田舎の物の怪は京よりもたちが悪いので……」
坊主がそんないい訳をするので、家のもの皆でこの坊主を追い出した。
私は桃子様のお側で来る日も来る日も看病を続けた。
お顔は白くて生気が感じられず呼吸だけが小刻みに早い。
ときおりうんうんと唸り声を上げるのが苦しそうで見ていられなかった。
もう長くはないと、誰もがわかるような御様子に胸が痛んだ。
私は看病の合間に、仏様に桃子様の病が治るように祈った。
- 82 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:23
- いよいよ病状はひどくなっていく。
加持祈祷がまるで効かないのはどうしたことか。
「梨沙子……梨沙子……」
桃子様はうわ言を繰り返していた。
もしかしたら桃子様に
梨沙子姫の恨みが憑いたのではないだろうか。
それなら坊主の加持も効果はないはずだ。
私は慌てて仏の前にひざまずき祈った。
梨沙子姫を狂わせたのは私の罪です。
どうか桃子様をお救いください。
祈りながら涙が次々と出てきた。
私はなんてことをしてしまったのだ。
あのとき、私は桃子様の女房として桃子様の悪意に気づき
それをお止めしなければならなかったのに
まるで気づかずに、あんな歌を書き残してしまうなんて。
それが原因で桃子様をこんなに苦しめることになるなんて。
私は仏の前で一晩中泣き続けた。
- 83 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:23
- 仏の前でシクシクと泣いていると隣の部屋から声がする。
「茉麻……茉麻はどこ?」
桃子様が搾り出すような声で私をお呼びになっている。
「はい、ここです」
私は慌てて桃子様のもとに寄った。
「ああよかった。あなたはいつも私のそばにいてくれるのね」
「私はいつまでも桃子様のお側にお仕えしています」
私は桃子様のお手を取った。
お手は冷たく力なかった。
「さっき……夢の中で……お告げを賜りました」
「お告げ…ですか?」
「そう。私の目には来世の姿がはっきり見えました。
私と梨沙子姫と茉麻、一緒に舞妓をしているの」
そのお言葉に部屋中がはっとなった。
それは梨沙子姫の言葉とまるで一緒だ。
「桃子様のような高貴な方には
舞妓のような賤しい職はふさわしくありません。
それは梨沙子姫の呪に違いありません」
- 84 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:23
- 「呪?なんのこと?」
「私が柱に呪をかけたから、それが祟っているのです」
「ああ……」
桃子様はうっすらをお目をお開けになり私をご覧になる。
「茉麻、勘違いしていたのね」
「え?」
桃子様はふっとため息をつかれると
「あの歌の秘密はね」とお話しなさる。
「あれは呪なんかじゃありません。私の……願いです」
「願い?」
桃子様は苦しそうにぜえぜえと息をしている。私は次のお言葉を待った。
「茉麻は梨沙子姫を知らないでしょう。
私は一度だけ拝見したことがあるの。
ほんとうにかわいらしい子でした。
実は……私は梨沙子姫と仲良くなりたかった。
敵味方でないならば、梨沙子姫と手紙をやりとりしたり
一緒に遊んだりしたい。私はそれをずっと願っていたのです」
「それと、あの歌とどういう関係があるのです?」
- 85 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:23
- 「それはね……
桃の花というのは桃子、私のことです。
そしてもう片方の柱に残した松虫の歌。
松は『茉』。これは茉麻、あなたのことです。
私は昭陽舎の二つの柱に私と茉麻を残したの」
「松虫の歌は……私だったのですか」
「そう、そして……茉麻、昭陽舎の別名は?」
昭陽舎には別名がある。庭に植えられている梨の木。
そこからついた名だ。
「梨壺です」
「そう、梨壺……。梨沙子姫のことよ」
「え?」
驚きに私は呆けてしまった。
昭陽舎は梨沙子姫?
「宮中を去らねばならないと知ったとき私は悔しくてしかたなかった。
後宮争いのせいで、仲良くできなかった梨沙子姫。
梨沙子姫が好きだったのに、話をすることも叶わず
私は流されてしまった。だから梨壺と呼ばれる昭陽舎に
私を表す桃の歌と、茉麻を表す松虫の歌を残した。
いつか、梨沙子姫と私たちが仲良く暮らせる世が来るように、
そんな願いを込めてね……」
- 86 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:24
- 私はとんでもない勘違いをしていた。恨みなんかじゃなかった。
優しい桃子様らしい、ささやかだけど素敵なお願いだったのだ。
政治のいざこざも争いもなく、桃子様と梨沙子姫が仲良く暮らせる世。
そんな素敵な世はやってくるのだろうか。
「私たち三人、仲良く暮らし……たいね」
桃子様の目が濁ってきた。
呼吸はいよいよ荒く今にも意識をなくしそうだった。
もうしゃべらない方がいいのかもしれない。
しかし、私はどうしても聞いておきたいことを聞いた。
「そのときも私は桃子様にお仕えできるのですか?」
「いいえ」
「……そうですか」
たっぷり間があった。桃子様の息遣いだけがうるさいくらいに聞こえる。
「あなたは来世では女房ではありません。私の……友達よ」
「そ、そんなとんでもございません。
私のような取るに足りない者が、桃子様の友達だなんて。
私はいつまでも桃子様の女房でございます」
「違う……違うの、茉麻。私には……はっきり…見えたわ。
その世では……私たちが舞妓となっている世では……
もう身分もなく、血族の争いもほとんどないの。
賤しい者も貴い者もみな一緒に暮らしている……」
- 87 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:24
- 「賤しい者と貴い方が混ぜこぜに?
そんな世は恐ろしくて想像できません」
「いいえ……すっごく楽しそうだった……
だって……茉麻が私と一緒に……友達として
一緒に笑ってくれる。一緒に泣いてくれる。
私とあなたの間に……身分なんて要らないわ」
私は再び涙していた。
桃子様がそんなふうに思ってくださるなんて、私は最高に幸せな女房だ。
次から次へと溢れて止まらなくなっていた。
「私と……茉麻と……梨沙子姫と……
他にも楽しい仲間たち。
みんなで…輝く……舞台の…上で……踊って……」
もうほとんど声が聞き取れなくなっていた。
桃子様は汗をびっしりと浮かべて目を閉じていた。
「桃子様?」
「まあ…さ……。これから……も…仲良く……して…………」
「はい、もちろんです」
桃子様は一言、よかったぁ、と言うと
そのままお休みになられた。
「桃子様……」
涙はずっと止まらず、動かなくなった桃子様の上にはらはらと落ちていった。
- 88 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:24
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それからまたしばらく経った春。私は京都へと戻ってきた。
梨沙子姫を一目拝見したい想いがあったが
主のいない元女房の身で、それは出すぎた願いだった。
特に縁者もない私にとって京は決して住み良い場所ではなかった。
追われるような苦しい毎日が続いていた。
そんなあるとき梨沙子姫の使いが私のところへ届け物をしにきた。
なんだろうと思って開けてみるとそれは紙だった。
草子が作れそうなほどたくさんの紙。
「紙なんて贅沢なものをいただいてしまっていいのですか?」
「文も預かってございます」
受け取ると梨の花が添えられた手紙にはこう書いてある。
桃子姫とのお約束 必ず果たしてくださいね
梨沙子姫はどこから聞きつけたのだろう。
桃子様とのお約束を私は思い出した。
- 89 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:24
- そうして今、私はこの日記を書いている。
日記というにはあまりに大雑把だが
桃子様に関して必要なことはそれなりに書けていると思う。
桃子様の聞こしめしたお告げ。
身分の隔たりもなく、血族の争いもほとんどなく
この世の皆が手を取り合って暮らす世は
果たして来るのだろうか。
後宮争いなんて醜い権力闘争とは無縁の地で
桃子様や梨沙子姫と楽しく暮らせる、そんな夢のような世界が
本当に実現するのだろうか。
桃子様のご覧になった理想郷が
いつか現実となるよう精一杯の願いを込めながら
風かをり立つ春の日に、茉の花を添えて
この日記を桃子様に捧ぐ。
- 90 名前:桃源郷に茉の花 投稿日:2005/12/28(水) 11:24
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―桃源郷に茉の花 完―
- 91 名前:いこーる 投稿日:2005/12/28(水) 11:25
- 以上です。
来年も素敵な彼女たちでありますように
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