宇宙の子供
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/13(水) 23:29
- 中篇、短編を主に
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/13(水) 23:42
- 白雲彷徨
- 3 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/13(水) 23:43
-
さゆがふかす煙草の匂いは、私の心にただ紫色の靄を掛けるだけだった。
いつからだろう、彼女と一緒に居ることが、こんな苦痛に感じるようになったのは。
彼女の口から吹き出す煙はゆらゆらと、ゆっくりと、確実に
逃がしている。溶かし出している。彼女の潤いを。
かさかさに乾いてしまう。
私は、ただそんな彼女を見ていることしかできない。
いつものように、口元に微笑を貼り付けて。無意味に、微笑んで。
「煙草、止めなよ。身体に毒だよ」
私は言う。お定まりの、何も意味を纏わない科白を。
「やめられないの」
さゆは、笑って言った。
無機質で、透明な、美しい声で。
また一つ、私の心に小さな針が突き刺さる。
空は何日も晴れていない。薄墨色の、今にも泣き出しそうな空模様が続いている。
もしかしたら晴れていたのかもしれないけれど、私が見上げた時
空はいつも薄墨色だった。青い空が思い出せない。
いつも私の見る空には、さゆの吐き出した紫煙が淡く被さっている所為かもしれない。
- 4 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/13(水) 23:44
- 彼女は何時からか、苦痛の迷路を彷徨うようになった。
私にはどうすることもできない。
彼女を迷路に入り込ませないようにすること、彼女を迷路から救い出すこと。
その両方が出来なかった私を、私は呪った。
「絵里、好きだよ」
彼女が囁いたその言葉と
「さゆ、愛してるよ」
私が囁いた言葉とは
彼女が墜ち込んだ、迷路の入り口だった。
まだ二人が幼かった頃。二人が潤いに満ち、二人の時間が永遠と疑わなかった頃。
大口をあけて目の前に待ち構えていた迷宮の入り口に、誰も気付かなかった。
いつでも二人で一緒にいて、それが当たり前に思えた。
当たり前のように、一緒に居た。
じゃれあって、無邪気に笑いあって、口付けした。
お遊びのキス。
- 5 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/13(水) 23:44
-
「絵里、ねぇ、キスしてよ」
さゆが言う。
私は頷く。微笑んで。
彼女の求めるままに口付け。怯えた子猫が噛み付くみたいに強引に
激しく求めてくる彼女を、私はただ受け止める。
煙草の荒んだ臭気と、乾いた口腔内の感触と。
目を瞑って、ただ受け止める。
さゆが私を押し倒して、身体を求めれば、私は身体を彼女に預ける。
我武者羅に私の身体を侵していくさゆと、とうとう泣き出した空を交互に見ていた。
私を思う存分侵し、弄んだあとでさゆは言う。
「ねぇ、抱いてよ」
私はいつものように黙って、微笑んで、首を左右に振った。
一瞬だけさゆの表情に、殺意にも似た激しさが過ぎり、また口付けを落とす。
疲れ果てた私が、さゆを抱きしめて眠り
また目覚めると、側にさゆはいなかった。
ベッドから抜け出し、いつものように、泣きじゃくる空を見上げながら
煙草を吹かしている。
- 6 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/13(水) 23:45
- 「さゆ…」
夢現の私は、今目の前にある光景を受け入れきれずに
無邪気な期待の篭った声で呼んだ。
「絵里、起きたの」
さゆの言葉は棘棘しく鋭利で、私は一度に現実に立ち返らされる。
私のほうを見て微笑んださゆの目は、掏りガラスのように曇っていた。
さゆが私をじっと見ている。
私は裸のまま、ベッドに腰掛けた。
会話は生まれない。雨の音と時計の針の音がやけに響く。
「ねえ、絵里」
「なあに?」
静かな、短いやりとりの後、さゆが放った言葉は私の予想したものに大差なかった。
「私、絵里と一緒にいたくないな」
私が相変わらず、馬鹿みたいに笑っているのに
さゆの表情からは忽然と笑顔が失せていた。
「ん」
薄笑いを浮かべて、返事ともつかない返事を返した私に
さゆのは目に憤慨の色を浮かべて応じた。
- 7 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/13(水) 23:45
- 私はさゆにわからないように、考える。
どうすればいいのか。私は一体、どうしたいのか。
私がもし、さゆと別れることを選んだならば、彼女は半分だけ救われるだろう。
彼女の戦っている相手は『時間』
道重さゆみは時間に囚われた哀れな囚人だ。
生まれながらに絶異の美しさを持っていた彼女。
永続的な児童性の中に生きる、その中でしか生きられない彼女。
刹那的な、世界の断片に産み落とされた特別な存在、それが彼女だった。
澄明な瞳と透くような肌と、煌きの中でしか彼女は生きられない。
御伽噺のネバーランド。彼女の住める世界は所詮この世界には存在しなかった。
否応無しに迫る時間。
彼女を永遠の子供とすることを許さない、時間。
日増しに、肌の潤いを消し、目の光を濁らせる時間。
彼女が、私がどれだけ足掻き、抵抗したところで、冷然と奪っていく、時間。
ただ「完全に美し」かったさゆに、無理やり、意味を付与しようとする。
世界が彼女自身であり、彼女が世界であった、その関係から追放しようと企てる。
彼女と世界とを切り離そうとする。
その圧倒的な「絶対者」を前に、彼女は敗れ去った。
我が身の衰え朽ちていく様に絶望した彼女には、ただ闇雲な
投げ遣りな、時間への従属の他に為す術がなかった。
自ら子供であることを捨て、自らの存在を否定し、肉体を追いやって
破滅に向かう。
それがさゆだった。
- 8 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/13(水) 23:46
- 「永遠の児童性」その中で愛し合った私は
たださゆの絶望の拍車として、そして破滅への捌け口としての存在へ、叩き落された。
私にはもともと、さゆの持っている何物も無かった。
私はただ影として、観察者として、一人の愛する者として
彼女を見ていただけ。
彼女の絶望を、ただ眺めているだけだ。
もし私が彼女を、敗北者として、この世界における不適格者として
打ち棄てたなら、彼女は救われるだろう。
自惚れではない。彼女を、絶望の底にいてなお、この世に繋ぎとめているのは私だ。
私の存在が彼女の前から消えたとき、彼女は安らかに、何の気負いも無く、この世を去るだろう。
それが本当の救いであるか、私にはわからない。だから半分。
私に委ねられている。
私は、一体どうしたいというのだろう。
さゆの目が、私を射るように見つめている。
私は、鏡であってはいけない。彼女の総てを受け止め、或いは透過させてしまわなければいけない。
少しでも跳ね返し、彼女自身を私に映しこんでしまえば、それは彼女を更に苦しめる。
鏡でいられたのは、ただ無邪気に愛し合っていたそのときまで。
「私はさゆといっしょにいたい」
沈黙の後、私の口から薄ら笑いと共に漏れた言葉はそんなものだった。
耳に、いつしか激しくなった雨音が響く。
桜はもう完全に、散ってしまったか知ら―――
ぼんやりとそんなことを思った。
- 9 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/13(水) 23:46
- 「そう」
さゆは笑った。苦しそうな顔、ほっとしたような顔、それが半々に見えた。
起き上がり、素早く服を着てさゆの横に座る。
ほんの少しでも、さゆが嬉しそうに笑ってくれたことが
驚くほどに私を喜ばせていた。
私は観察者であって、堕ちてゆくさゆを愛しく、冷徹に見守る異邦人。
そうである前にまだ、一人の人として、純粋に、限りなくさゆを愛していられる、そのことが
思いがけず知らされたのに違いない。
「ねえ、雨がやんだらまた遊びに行こうよ。二人で」
私が言う。
さゆは紫色の煙を吐き出しながら
寂しそうに「うん」と応えた。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/14(木) 01:06
- えと、更新は遅いです
- 11 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/14(木) 22:52
-
「重さん、大人っぽくなったね」
ある日の仕事場で矢口さんが、何の気なしに呟いた。
この日もまた、外では雨が降っている。
私は矢口さんを見、それからさゆを見た。
「そうですか?」
そういってさゆは、ニコリと笑って見せた。
隙の無い笑顔―――私はそう思わずにいれなかった。
「ほんと、大人っぽくなりましたよねぇ。なんかミステリアスっていうか」
「うん、オトナの女性って感じぃ?妙にイロッポイよね」
新垣さんや小川さんが矢口さんに便乗して、矢継ぎ早に言う。
さゆはまた一頻り、照れたように嬉しそうに笑った。
日常のありがちな風景。
それだのに私の胃はキリキリと痛んだ。
考えすぎなのは解っている。
先輩たちにだって他意はないし、さゆもそんなこと解って、適切に受け流している。
それだのに私の胃ばかり、キリキリと痛む。
- 12 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/14(木) 22:52
- 矢口さんが続けて私を見て言う。
「なんか亀井と比べたら重さんの方が絶対年上に見えるもん」
可笑しそうに。
わからないではないけれど、嫌なフリだ。
「えぇ、何言ってるんですかぁ?絵里はオトナの女性ですよぉ」
場を繋ぐための返し。私のキャラ。空気を壊さないこと。
心がけたことは何も間違ってはいない。
先輩たちも満足そうに、私に突っ込み、会話を繋げる。
さゆが一瞬、私に蔑むような視線をくれて、また直ぐに、笑顔に戻った。
ズキリと心が揺れる。
何故だか私が、惨めな気持ちになった。
テレビ収録中、さゆを見ていると不思議なことに気付く。
彼女は決して「二面性」を持っているわけではないのだ。
私といるときのさゆも、カメラの前で笑っているときのさゆも、同じ。
昔のように、ただ幼く笑うことが無くなっただけで
彼女の内にある絶望を湛えた、憂いた笑顔を、ちょっとした手品で、秀麗な笑顔に変えてしまっている。
彼女が彼女自身を露呈しているのにかかわらず、誰も彼女の変容に気付かない。
それはただ「オトナっぽくなった」という程度にしか映らない。
- 13 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/14(木) 22:53
- 私たちの仕事は忙しいといいながら
その量は多かった昔に比べれば随分と減った。
それは喜ぶべきことか、そうでないのか。はっきり言って私にはどうでもいい。
仕事は仕事。生活の一齣。
大事なのはさゆと過ごす時間。
彼女を見つめている時間だけだ。
どれだけ苦痛に感じようと、私には彼女の居ない時間は何の意味もない。
れいなと三人でいるのもいい。先輩たちとみんなで
楽しくやるのもいい。
だけど、さゆが居なければ何も無い。
ただ、私は機械人形のように「亀井絵里」になるだけだ。
さゆは特別な存在だ。
それは、誰よりも私にとって。
収録後、石川さんが私のところにやって来て言った。
「今日どうしたの?ぼーっとして」
- 14 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/14(木) 22:53
- 意外だった。
私にはそんな自覚は全く無い。
この間のこと、さゆのことを考えていたにはいたけれど、その間中、ぼんやりとしていたのだろうか。
いつでも完璧に「亀井絵里」に成りきっていると思っていたのに。
「えー、そんなことないですよぉ?」
なるたけ、いつもの調子で応える。石川さんに不信感を持たせるのは
私のためにも、卒業を控えた彼女の為にも不可ない。
「そんなことあったよ」
石川さんは、まるで見透かすみたいに、呆れたように言い放った。
「何か悩み事?」
「絵里にそんなのあると思いますぅ?」
我ながら、吐き気がするくらい、馬鹿だ。
石川さんは少し、溜息のに見える息を吐いた後、真っ直ぐと私を見て言った。
「最近ね、亀井のこと凄く心配。何かいっつも無理してるみたいに見える。
無理して笑ってるみたいに。心にある蟠りを無理やり押さえつけてるように見えるんだよ」
- 15 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/14(木) 22:53
- 私自身の目が、すっと細められるのがわかった。
この感情を強いて名付けるなら、警戒心だろうか。
確かに私はさゆみたいに、心の曇りをそのままで、美しく見せてしまうことなんてできないから
いつでも得意の仮面をつけている。笑っている。でもそれは無理なんかじゃなくて
さゆが持っているように、私にも備わっている私の才能。私の笑顔はどんなことがあっても剥がれない。
でも、その笑顔を簡単に透かし見たかのように言う石川さんが、些か不気味に思えた。
それも彼女の才能だろうか。
「ね、もうすぐ卒業しちゃう私が言うのもなんだけど、卒業するからって訳じゃないんだけど
少し、話さない?二人でさ。奢るよ」
二人で?一体何を話すと言うんだろう。
石川さんに私の考えていることを言う?そんなこと出来るわけ無い。
「いいですよ。よろこんで」
そう応えてみたのはいいけれども、どうしよう。
この場合、それらしい悩みの一つ二つでっち上げて石川さんに聞いてもらうのが正しいだろうか。
でも何だか今の石川さんを見ていると、そんなことが通用しないような気がしなくもない。
私は彼女に何か打ち明けるつもりは微塵もない。
- 16 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/14(木) 22:54
- 「じゃあ、今から」
「ハイ!お供します」
石川さんについて楽屋に戻る。
さゆと目があった。
「絵里…」
小声でさゆが呼ぶ。私は彼女の元に行く。
「さゆ、ごめんね。今日石川さんにご飯誘われちゃったから、さゆのところ行けないや」
「石川さんに?」
「うん。何だか、お話があるんだって」
「絵里に?」
「うん」
「…そう、わかった」
さゆはそのまま高橋さんたちの方へ行って会話に加わった。
その後姿は三日月のようにか細く見えた。
「亀井、行くよー」
石川さんが呼ぶ。
「はーい」
私と石川さん。珍しい組み合わせの二人に、先輩たちが興味深げな視線を送ってくる。
「なんだぁ、梨華ちゃんと亀井がデート?」
「珍しいな」
- 17 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/14(木) 22:54
- 石川さんはいつもの綺麗な、だけれども皆からはキショイと馬鹿にされる笑顔で笑ってみせた。
私もそれに倣う。私の評価も、石川さんと大差ない。そんなことはどうでもいいのだけれど。
私たちはそのまま、雨の滴る東京の街に出た。
夜の蚊帳はとうに降りた後で、空はどす黒い。石川さんは私の半歩前を、すいすいと歩いていく。
部屋の中でピンク色に光っていた傘は、夜の闇のネオンに照らされてくすんだ紫色に見えた。
程なくして一軒の寂れた、陰気な食堂に着いた。
石川さんは躊躇無くその店に入っていく。
私も仕方なく彼女に続いた。
ガラガラの店内には2、3、疲れた労働者に見える男の人がいた。
ヤニ臭い。さゆのことを思い出してしまう。
どうしてだか、同じ煙草の匂いが、さゆの放つそれとでは全然違って感じる。
「石川さんって親父くさいですねぇ」
思わず呟いた。
石川さんは、可笑しそうに笑った。
「葱ラーメン」
石川さんは注文を取りにきたハゲ頭の店主に、メニューも見ずに言った。
「それ、もう一つ」
つられて私が言うと、石川さんはまた、何が可笑しいのか、クスクスと笑った。
「さて、と」
石川さんの言葉を待つ。
- 18 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/14(木) 22:54
- 彼女がいったい私の何を見たのか、どれくらい彼女はひとの心が読めるのか
そんなことに些細な興味が沸いた。
「そんなに警戒しないでよ」
石川さんは、断定調でそう言った。
なるほど、その一言は、私に変な取り繕いをする気を挫かせるのに充分だった。
彼女は思いのほかよく見ている。だけど、そんなことを言われて警戒するなというほうが無理な話。
言葉を返さなくなった私に石川さんはなお続ける。
「亀井は私に似てる。ついでにさゆも私に似てる。だからなんか
他人事にに思えないんだよね。二人のこと。ほっとけない」
予想していなかったわけじゃないけれど、石川さんの口から唐突に、さゆの名前が出てきたことに
私の身体はピクリと反応した。
私と石川さんが似てる?さゆと石川さんが似てる?私とさゆが似てる?
疑問符は増える。石川さんの言葉の意図が掴めない。
彼女は一体何を言おうとしているのか。
「似てますか?」
「似てるよ」
石川さんは穏やかに笑っている。私も笑っている。
だけれども、息苦しい。
- 19 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/14(木) 22:55
- 「自分勝手なところとか」
尚笑いながら、彼女はそういった。
はじめて、彼女の表情が見えた気がした。
彼女のその穏やかな顔の裏には、潜められた悪意がある。
彼女は、一つは先輩として、私のことを何故だかわからないけれど心配している。
それは本当だろう。だけど、もう一方には、私に対する敵意にも似た感情を孕んでいる。
少し、ほっとした。
掴みどころの無かった今日の石川さんの輪郭がおぼろげながら掴めた。
彼女のそんな感情を感得したなら、躊躇はいらない。堂々と構えればいい。
私は、さも可笑しそうに、心外そうに笑って見せた。
「自分かってかぁ。当たってますねぇ」
「うん、心配なんだよね」
「自分勝手だから?」
「じゃなくって、私と似てるから」
石川さんの感情はまたすぐに眩まされた。
思いのほか、彼女の鎧には継ぎ目が少ない。彼女の姿は、ある一瞬に隙間から覗く程度だ。
「最近、辛くない?」
「そんなことないですよ?」
- 20 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/14(木) 22:55
- さっきの店主さんが、葱のこんもりと乗ったらーめんを二つ、どんと私たちの前に置いた。
石川さんは一度会話を切って、私の分まで割り箸を取ってくれた。
会釈をしてそれを受け取る。そういえば何だかんだで、お腹がすいていた。
石川さんが箸を付けたのを見送ってから、私もらーめんをいただく。
「あ、おいしい」
呟いた私に、石川さんは嬉しそうに言った。
「でしょ? 穴場なんだよ。みんなには内緒」
口元に指をあてがって可笑しそうに言う。
不思議な気分になった。
彼女から先ほど微かに感じた敵意のようなものが、微塵も感じられない。
まるで米粒が裏表するように、微細に、誰にも知られないうちに人格が入れ替わっているみたい。
「石川さんって面白いですね」
今日始めて、私から話しかけた。
なんだか凄く、彼女に対して興味が沸いたから。
最近では、さゆ以外の人に興味が沸いたのは本当に久しぶりだ。
「私にはよくわからないんですが、さっき言ってた、私が押さえつけてる蟠りって?」
私からそんな話題を切り出したことは些か石川さんを驚かせたらしかった。
彼女は少し黙ってから、ゆっくりと言った。
「さゆと、うまくいってない?」
ほんの一瞬、箸が止まって、すぐに麺を掴みなおした。
「どういうことですか?」
思いのほか、乾いた声が出た。
- 21 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/14(木) 22:56
- 私はどうやら自分が思っている以上にさゆという言葉に弱いらしい。
「まんまだよ。最近二人、凄い目で見合ってるから。
コイビトドウシなんでしょ?」
よくまあ、彼女はこうも簡単にカードが切れるなと思う。
確かに、よく私たちを観察していたなら、私たちが普通以上の関係を持っていることくらい
わかるのかもしれないけど。
「まあ…」
「何か、喧嘩でもした?」
「別に、してないですよ」
「だよね」
初めて石川さんが、怖いと思った。
彼女の目は、透明で、なのに見透かせない。
底の見えない井戸のような、魔モノめいた恐ろしさがある。
「どうして、石川さんがそのこと、知ってるんですか…?」
「さゆにきいたから」
また身体がビクリと反応するのがわかった。
でも、次の言葉を聴いた時、私の総ては、止まった。
「私もさゆと寝たからね」
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/14(木) 22:57
- リアル設定で書いてるときに、そりゃないよ矢口さん…
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/15(金) 19:06
- さゆえり!!!更新待ってます
- 24 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/04/16(土) 22:23
- 更新お疲れさまです。 ・・・ある意味、リアルワールドって感じになりましたね。 次回更新待ってます。
- 25 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/18(月) 23:45
- >>23
さゆえり!もっと増えないですかねぇ
>>24
これからリアルとはかけ離れた妄想世界を彷徨することになりそうです。
- 26 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/18(月) 23:46
- その後のことは殆ど覚えていない。
石川さんが何か言い繕っていたようにも思う。私はただ笑っていたよう。
籠に盛られたゆで卵を手にとって
「結局生まれなかった卵と、生まれてしまった鶏とは、どっちが幸せだろう」
そんなことを石川さんが呟いていた気がする。
石川さんに見送られて、雨の降りしきる東京をふらふらと帰った。
歩いている時も私は笑っていた。ただ、傘をさすことを忘れていた私はぐしょぐしょに濡れていた。
部屋に戻っても私は何もすることが出来なかった。
何も考えることができなかった。
頭の中を無形の、妙に禍々しい図形がぐるぐると蠢くばかりで、何一つ理解することができなかった。
何時間か、真っ暗な私の部屋で蹲っていた。
時間が経ち、少しずつ整理がついてくると、それに比例して私の身体は拒絶を示した。
泣いた。
夜中泣いていた。
何故自分が泣いているのか、理解する気にもなれない。億劫だった。
何度か吐いた。それで始めて、私がらーめんの他にゆでたまごを食べていたことを知った。
ぼんやりと、結局私の身体の一部にもなれなかった彼らは不幸だとか、そんなことを考えた。
ひどい豪雨だった。
朝が来たとき、私は空に掛かった分厚い灰色の雲を恨めしそうに見ていた。
- 27 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/18(月) 23:46
-
朝、仕事場に向かう私は酷く落ち着いていた。
石川さんが昨日私に声をかけた理由は明瞭だ。つまり、私を潰そうとした。
どうしてそんなに石川さんに怨まれなければいけなかったのか分からないけれども。
私を潰して、さゆを独り占めにしようとした、ということならば分からないでもない。
私は静かに、石川さんと、さゆに対する殺意にも似た憎悪を憶えていた。
電車の窓から、さゆを思わせる暗い空を眺める。
直ぐ側の窓に映った私の顔は、笑っていた。
昨日までの、石川さんに見透かせるような笑いではない。完璧な、一部の隙もない笑顔。
昨夜の石川さんの攻勢は、私の鎧をより完璧なものにした。
今の私ならば、どんなことでも笑って出来る。例えば石川さんやさゆを殺すことも。
とてつもなく、惨めな気分だった。
「おはようございます」
楽屋の扉を開けて、元気よく言ってみると、いつものように
先輩たちやれいながいて、口々に「おはよう」と返してくれた。
その声の中に、私の頭の中に描く二人の声はなかった。しかし、見渡してみれば二人はいた。
- 28 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/18(月) 23:47
- 「ねぇ、昨日梨華ちゃんとどこいったの?」
早速矢口さんが面白そうに聞いてきた。
「ラーメン奢ってもらいましたよぉ。凄く美味しかったです」
もっともそのラーメン、家に帰ってから全部体外に出てしまったけれど。
「へぇ、どののラーメン屋?」
「それはぁ、秘密、だそーです」
そういって石川さんに誰にでも分かるように目配せをする。
石川さんは引きつった笑みで応えた。心なし顔が蒼ざめている。
してやったりな悪戯心が仄かに過ぎた。
今度は誰にも分からないように、さゆの方を伺う。
さゆも、私たちのやり取りに耳を立てて、どこかしら蒼ざめているように見えた。
また、心が急激に冷えていくのが分かった。
そんなに二人は共通のものを抱えてるんだろうか。
同じ反応。そんなところまで見せつけなくてもいいじゃないか。
矢口さんや吉澤さんがラーメン談義に花を咲かせ始め、私は会話の中心から外れた。
さゆの方に寄っていく。
私が隣に座ったとき、彼女の身体がビクリと震えるのがわかった。
「さゆ、おはよう」
笑顔でいう私に、さゆはあからさまな恐怖と、少しの侮蔑と、大きな悲哀との表情で応えた。
昨日の話が或いは石川さんの口からの出任せかもしれない。そんな仄かな期待は
今のさゆの表情を見ていれば幻想に思えた。
- 29 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/18(月) 23:47
- 私の内に渦巻く激しい憎悪。
それはただの一片も私の外側には漏れなかった。
さゆにとってはそれが恐ろしく思えているのがよくわかった。小さな優越感。
一日の仕事を、私は難なくこなした。
寧ろ昨日までよりもずっと調子がいい。まるで吹っ切れたように、傍目には映ったろうか。
まさか石川さんはこうなることを予測してあんな話をしたのではあるまい。
逆に極端に調子を落としたのはさゆだった。
私には彼女の考えていることがまたよく分からなくなった。
「さゆ、帰ろう」
仕事を終えてから、私は言った。
彼女は無言で頷いた。
外は既に暗く、小雨がぱらつき、肌寒かった。
二人でさゆの部屋に入った。
会話は無い。
さゆは部屋に入ると早速煙草に火を点けた。私のほうを見ようとはしない。
私はその姿を、昨日までとは違った感覚で眺めていた。
彼女の身体は既に石川さんの手によって蹂躙を受けている。彼女は今現在堕ちていっているのではない。
すでに堕ちきっている。ただの、屍だ。
薄汚れた、腐乱しきった、屍。
私の目に映った彼女が、ただのモノに思えた。限りなく愛おしい、生きた人形。私のお人形。
私の気持ち一つで、いくらでも辱めることができる。引き裂き、打ち棄てることも訳はない。
とても楽な気持ちがした。
彼女を想うことはもう必要ではない。私の想うままに出来るのだ。
さゆの口元から漂う煙草の煙が私の鼻腔を刺激する。
その香りはさながら彼女が放つ腐臭。
- 30 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/18(月) 23:48
- 私はまた彼女の座るベットに近づき、彼女に擦り寄った。
そして彼女の手にある煙草の火を、私の指で挟みこんで、揉み消した。
ジュウという音と共に、焼き付ける感覚。私の指がギリギリと悲鳴をあげるのが心地いい。
それ以上に、この世とも思えないような恐怖とも絶望ともつかない驚愕の表情で真っ直ぐに私を見た
さゆの目に、私の胸は高鳴った。
「え、えり…」
怯えひるむ彼女に私はニッコリと笑顔を投げつける。
それから、有無を言わさず、彼女の唇を塞いだ。
私の唇が、舌が彼女の口内を暴れ回る。彼女からのお返しは無い。
そのまま彼女を抱きすくめ、ベッドの上に押し倒した。
いったん両腕を立てて、彼女から身体を離す。私が見下ろしている格好。
彼女はただ怯え、戸惑っている。
私はまた彼女にキスを振り下ろし、それから耳元で囁いた。
「石川さんと寝たの?」
彼女の表情は、あえて見なかった。彼女の身体が小刻みに震え、それがすぐに収まった。
それから小さな声で、「うん」といった。
- 31 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/18(月) 23:48
- 「ふふ、へへへへ」
何故だか、笑いがこみ上げてきた。
彼女の言葉は、今まで私が脳内に描いてきたことをすべて裏付けるもの。
馬鹿馬鹿しい夢想と切に願った状況が、一挙に現実であると悟らされる言葉だった。
遣る瀬無さと、虚しさと、絶望感が、私を笑わせている。
妙な脱力感と、無力感に打ちひしがれている今の私自身が酷く滑稽でしかたない。
もう一度身体を離して、さゆの顔を見た。
諦念にも似た、意思の篭らない虚ろな目がどこかを見ている。
濁った目。まるで木偶人形だ。
いつの間に私たちはこんなになってしまったんだろう。
薄汚れた、ボロ屑のような二人。
虹色に輝く恋をしていた時がもうどれくらい前かも思い出すことが出来ない。
さゆがこうなることは彼女が生まれたときから決まっていた運命だったとしたら
私がこうなることは私が彼女を愛した時に決まった運命だろうか。
生まれなかった卵と、生まれてしまった鶏とはどちらが幸せ?どちらが不幸?
どちらも、不幸だ。
存在してしまったことが不幸だ、と。
彼女の瞳を見ながらそんなことを考えずにはおれなかった。
結局私はその夜、彼女にキスを繰り返した。だけど、抱けなかった。
自分でも分からない。まだ何処かで、私は幻想に縋っているのかもしれない。どれだけ馬鹿か、知れない。
壊れてしまえばいいのに。
- 32 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/18(月) 23:52
- 協議の結果(誰と?)矢口さんの件はあぼーんで…
- 33 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/21(木) 01:05
- 更新お疲れさまです。
なんというか凄い緊迫した展開になってますね・・・。
おもしろいです。
次回更新待ってます。
- 34 名前: 投稿日:2005/04/28(木) 02:31
- >>33
あまり緊迫感のある話でもなかったり…
肩透かしだったらごめんなさい…
- 35 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/28(木) 02:32
- 幾日か経った。それは地獄のような、甘美な時間だった。
さゆの身体は目に見えて壊れていった。
木偶人形のように、私に意思を示すことをしなくなった。本当に、ただの抜け殻になってしまった。
酷使された身体だけがどんどんと衰え、本人にはまるでそれを阻む気力が無い。
毎夜、共に過ごす相手が、私であろうが誰であろうが、まるで関係はない。
彼女の魂は既に消えていた。
私はそれでも彼女を独占し続けた。
意味なんてまるでない。既に総てを失った、喪失感だけが残った。
彼女を愛していると、言うことはもうできない。
彼女を愛していたのかさえ、私にはわからなかった。
彼女を壊したのが私であると、そう考えることが私の拠り所であると同時に
その考えが甚だしい自惚れだということもわかっていた。
私自身をいえば、外面上なんら変わることは無かった。
私の鎧は分厚く堅くなりすぎた。たとえ甲羅だけを残して朽ち果てる甲殻虫のように
私自身が死んでいたとしても誰にも、私自身にすらもうわからない。
私は目に映る、耳に届くだけの、主体の無い、実体の無い幽霊のような生き物だった。
仲間たちはさゆの変化に戸惑い、私の雰囲気にただ不気味さを感じているようだった。
- 36 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/28(木) 02:33
- 仲間の心が私から遠のくのは私にはかえって嬉しかった。
何か意味らしい意味が私自身にあるようには、とても思えない。
宇宙を漂う塵のように、そこにあったという記憶すら曖昧な、微小な、取るに足らない無意味な存在。
それが私。
私は俄かにわかり始めていた。
人々の記憶の中に永遠に漂う、僅か一瞬の、絶対の煌き。
それがさゆだとすれば、その対極にある、宇宙のゴミである私が、彼女に何らかの関わりを
意味を持ちたいと想うのは当然のことだったのかもしれない。
それは地面を這い蹲る蜥蜴が空を夢見るくらいに、巨大で、悲劇的な妄想。
私は彼女を取り巻く、取るに足らない一要素だということを
認められずに、自己を誇張して、彼女の崩壊にただ絶望しているだけ。
それでも私は彼女と繋がりたかった。
「一緒に死なない?」
あるとき私は、こっそりと懐に忍ばせていたナイフを
出し抜けに彼女の前に示して、笑いながら言った。
彼女は虚ろな目で私を見上げたあと、ゆっくりと、首を左右に振った。
最後の希望も、あっけなく潰えた。
「じゃあ、私ひとりで、死んでもいい?」
- 37 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/28(木) 02:33
- 何でもいい。彼女との繋がりが欲しかった。
例えば、私という一つの命の終わりに立ち会ったただ一人が彼女だった、というような
でたらめなことでも。
彼女はまた、左右に首を振って、小さな、小さな声で言った。
「…だめ」
「じゃあ、さゆのこと、殺していい?」
彼女は少しだけ俯いて、ためらいなく
「どうぞ」と呟いた。
私はナイフを投げ捨てて、彼女から離れ、はじめて
彼女の前で泣いた。
顔は笑っている。
ただ涙だけが、2、3毀れた。
もう自分ですらはがすことのできない鎧が、彼女の前で隙間をのぞかせたことに驚いた。
- 38 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/28(木) 02:34
-
翌日、仕事中にさゆが倒れた。
原因は栄養失調、過労、ストレス。
彼女はそのまま強制入院した。
とうとう、カタチばかりの独占も終わった。
メンバーは皆、殊更にさゆのことを心配して、中には事務所に対して憤慨する人までいた。
仕事の量なんてそれほど多いわけじゃない。ましてや、他のメンバーはみんな同量をこなしている、にもかかわらず。
それが、さゆという存在だ。
仕事終わりに先輩たちにお見舞いに行こうと誘われたとき、私は吐き気をおぼえながら
笑顔で断った。私が行かないと言ったとき、何人かは明らかにホッとしたようだった。
それほど、私は不気味らしい。
私は一人家に帰って、一人佇んでいた。
何の物音も聴こえない。
人の気配を感じない。
一人の部屋は、零人の部屋と大差なかった。
玄関のベルにはっとしたとき、私が帰宅してから数時間が経過していたことに驚いた。
零人の部屋に、客人が来た。
それは、石川さんだった。
また今日も、雨が降っていた。
- 39 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/28(木) 02:34
-
石川さんはいつになく険しい顔をしていた。
私の部屋に上がり込んだ時、煙草くさい、と眉を顰めた。それはさゆの匂いだ。
さゆは私が指で火をもみ消して以来、私の前で煙草を吸わなくなった。
それでも私の部屋には彼女の匂いが残っている。
私はもはや何一つ石川さんに興味を持っていない。
ただ、彼女に対するいおうようの無い嫌悪感だけが私の胸をむかつかせた。
彼女はただのキッカケに過ぎない。それでいてなお、私は彼女を許せないでいるらしい。
「何か用ですか?」
私はいつものように、笑顔で尋ねた。
彼女の身体から湿った、憂鬱な雨の匂いがした。
「どうしてお見舞いに来なかったの?」
彼女は出し抜けに言った。怒りを孕んでいることを隠そうともしない、ぶっきらぼうな言い方。
ここまで憎しみあっている二人がこうやって対峙している場面に置かれるとは考えてもいなかった。
二人の緊張感にそぐわず空気は生温い。
「石川さんは行ったんですか?」
私の問いに石川さんは応えず、さらに「なんで?」と語気を強めた。
「そんなこと、石川さんになんの関係が?」
変わらず、笑って言った。
- 40 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/28(木) 02:35
- 「あんたは、さゆをどこまで追い込めば気がすむの?」
「なんのことですか?」
この人はいったい何を勘違いしているんだろう。本気でそう思った。
さゆは勝手に、自分自身で追い詰められて壊れただけだ。さゆを抱いた石川さんになら
よくわかっているだろうに。
そして、私をこんな風に追い込んだのは当の石川さんだ。
石川さんは一つ、溜息を吐き、言った。
「あんたが、この間の私の話をどう解釈したのか知らないけど
これ以上…これ以上さゆを苦しめるようなら、私はあなたを許さない」
「この間の?石川さんがさゆと寝たって話ですか?」
どこに解釈が必要だというのだろう。事実なんだろう。
石川さんは私の言葉に、より怒りを増したらしかった。
私には訳がわからない。彼女の言っている意味が。彼女は一体何を怒っているのか。
石川さんから殺気にも似たものが感じられる。
彼女は私を殺しに来たのだろうか。もし、彼女に殺されるとすれば、不本意だ。
しかし、私には彼女に殺される程度の末路が丁度いいのかもしれない。
私は高みを望みすぎていたのかも。
- 41 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/28(木) 02:37
- 暫くの沈黙が流れた。
私は相変わらず笑っている。
石川さんも相変わらず。
微かに耳に雨の音が響いてくる。その音を、時計の秒針が一齣一齣打ち消していく。
石川さんの表情が、次第に緩み泣きそうな、悲しそうな表情になった。
それはまた私を驚かせた。彼女の感情の変化が、どうして起こったのかまるでわからなかった。
「本当に…本当に馬鹿な子たち…」
石川さんは一言、噛み締めるように呟いて、つと黙った。
妙な息苦しさが私を襲った。
一時に混乱が押し寄せた。
しかし、それが、それこそが石川さんの罠かもしれないという意識が私を保たせた。
とにかく今目の前にいる彼女が、全く不愉快な、漠として掴めない存在であることが空恐ろしい。
じりじりとした気持ちで彼女を見据えた。
石川さんはそんな私の視線を柳のように受け流して、尚も物思いに耽る。
「あなたには私の言葉は何一つ届いていないのね…
臆病で、鎧を取ることを知らない…それは、あの子にしても同じ…」
独り言のように彼女は言った。
とうとう私の苛立ちは頂に達した。
- 42 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/28(木) 02:38
-
「帰ってください」
思いのほか、冷えた声が出た。
石川さんが微かに微笑んだような気がした。
それはまた私の神経を撫で上げるのに充分だった。
「もう一度、言うわ。あなたも、さゆも、私の可愛い後輩。何があってもあなたたちに不幸になって欲しくないわ。
そして、私はあなたたちに似ているから、よくわかる。その陥穽から、抜け出して欲しい」
石川さんはそういい残して、部屋を後にした。
- 43 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/04/28(木) 02:38
- 彼女の言葉の一つ一つが、やけに不可思議で、耳障りで、合点がいかず私を混乱させる。
彼女が消え、また零人に戻った部屋で私は
ガンガンと煩く鳴り響く頭と格闘しなければいけなかった。
私とさゆだけの世界にのうのうと踏み入ってきた彼女にどうして私がこれほど煩わされなければいけないのか。
そして、私とさゆだけの世界のはずなのに、どうして彼女の存在がこれほど私揺るがすのか…
陥穽…彼女は何をして、陥穽と呼ばわったのか。
彼女自身の仕掛けた陥穽?まさか…
空気が濁っている。
さゆの匂いが、足りない。
さゆの匂い…彼女の口から吐き出される、他に仕替えようもない煙草の匂いが、足りない。
さゆと私だけの世界を、引き剥がされていくみたいな。
さゆと私だけの世界から、引っ張り出されていくみたいな。
引っ張り出される?私が、石川さんに?
彼女は踏み入ってきたはずじゃないのか…?
雨音と秒針の音の繰り返しのなかで
私はずっと佇んでいたようだった。
ふと気付いた時、鏡越しにみた私自身の顔は笑ってはいなかった。
ギラギラと燃える両眼は、しかし何を見据えているでもなく
私の中で燻り、死臭を放っている。
それは全く無防備な、私自身だった。
空恐ろしくなり、また心のどこか隅で私は、安堵していた。
- 44 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/28(木) 02:39
- 石川さんも卒業だね…
- 45 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/30(土) 02:57
- 亀井さんや道重さんはこの先どうなるんでしょう・・。
気になります。。
更新待ってます
- 46 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/11(水) 23:50
- >>45
どうなるのでしょうか。正直自分もよーわからんです。
- 47 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/11(水) 23:51
-
私も一人の人間だ。ましてや、取るに足らない凡人。
私の肉体が、今の様な過酷さに耐えうることなど土台無理だった。
食事も御座なり、睡眠時間は限りなくゼロに近い。
私の身体のダメージは自身で想像していたより遥かに大きかった。
朝仕事に向かう途上も頭はガンガンと鳴り響き、身体の節々が思うように曲がらなかった。
仕事中にしても同じだ。ただ、我慢ができないというレベルには達していなかった。
誰も私の不調に気付く人はいなかった。意識して、私を見まいとしているようにも思える。
それは有難いことだ。
不安定になっていた。
身体のことが先か精神が先か。どちらにしても、今の私は
ともすれば崩れ落ちそうなほど不安定になっている。
思考が纏まらず、息苦しく、周りを取り囲む空間が総て、黒い靄のように私を圧迫する。
何一つ拠り所は無く、心は盲で、覚束ない。
不安…換言すればその一語に尽きる。
私は今、嘗て感じたことも無い巨大な不安の為に絞め殺されそうな心地がしている。
私という基盤が揺るぎ、瓦解している。それが自分で分かるだけ不気味で空恐ろしい。
- 48 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/11(水) 23:52
-
私一人ではもう如何しようもないのではないか。
自己同一性の崩壊が起こりかけていはしないか。
しかし、そこで辺りを見回したとき、私の存在を肯定するような何者も居ないことに愕然とする。
私の唯一の鏡であったさゆが、私の側から離れてしまったことは私にとってこれだけの大事だったのだ。
彼女は今日もまだ病院のベッドで寝ているだろう。
一度入院させてしまったからには1日や2日で返すわけにはいかないだろうし。
不安、その想念に続いて私の激しく襲ったのは孤独という想念だった。
孤独…それは、真にそれと実感するまではどれだけにじり寄っていても知覚できないものらしい。
廊下の暗い隅を歩くだけで、仲間の乾いた笑い声を耳にするだけで、壁の陰鬱な沁みを見るだけで
それは私に襲い掛かってくる。
私は私を救い出す術を全く知らなかった。
どうして私はここまで追い込まれなければならなかったのか。
石川さんの言葉が過ぎる。
自分勝手で、自己中心的で、自身のことしか考えていなかったのが悪かったのか。
しかし私以外にいったい誰を思うべきだったろう。さゆのことを?
さゆのことならば、いつ何時だって考えている…
―――本当に、考えている?
いや、分からない。何も、わからない。
今の私に何か考えることが果してできるとは思えない。
ただどうすればこの状況から脱せられるか、それが当面最も肝要と考えることは間違ってはいまい。
死ねば、総ての苦しみから解放されると言ったのは誰だったか。
しかし私にはその選択肢は現実感が無い。何か、全部を闇に葬り去るという感じが
今の状況と酷似していると思え、それが解放になるとはどうしても思えない。
どこに行こうと今の煩悶を抱えてしか逝けないという感じが頭を離れない。
- 49 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/11(水) 23:52
-
私の闇雲な想念は、この日一日、続いていたらしい。
殆ど現実感を伴わず、唯一の現実はといえば頭を打ち続ける頭痛と耳鳴りだけだった。
それが、もっと他の何かで取り戻されたのは、意外にも私に掛けられた声だった。
「絵里…大丈夫…?」
徐に振り向いた私の視界には、幾分目の垂れた、蒼褪めた、小動物のように小さな
れいなの姿があった。
不思議な心地がした。私に向けられて発せられた言葉なら仕事中にはいくらでもあった。
私に振られた言葉に私は、殆ど機械的に、理性を解さずに受け答えしていた。
それらの言葉は私に掛けられたものでありながら、私にとって雑音でしかなかった。
今彼女が発した声は殆ど聞き取れないくらいの小さなものだった。
それでいて、何かしら乾いた喉に一気に冷水を流し込んだような、何ともいえない感覚を覚えたのだ。
頭痛が幾分和らいだような気がした。
私がこれまで殆ど相手にもしてこなかった、さゆと私の間に気がつけばいた
煩わしいとさえ思っていたれいな。
彼女の、本当に些細な言葉。その一言が、今私の身体を染み渡るように廻っていた。
理解を超えていた。今の私の頭がそれだけの、考えるだけの状態に無かっただけかもしれない。
それでも私は純粋に、嬉しさを感じていた。
- 50 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/11(水) 23:53
-
「うん…ごめん、ありがと」
私の口から発せられる言葉も、やはり私の考えの及ばないものだった。
全く予想だにできない台詞。しかし、それは幾分人の気の篭った言葉に思えた。
「最近さゆも絵里もめっちゃしんどそうやけん…
特にさゆが倒れてからの絵里…ほんとに…なんつーか…」
れいなは言いよどみながら、必死で言葉を紡いでいるようだった。
彼女の姿は、一種私の対極を思わせた。感情の逸流、温度、息遣い、そんなものが
冷血動物のように硬化した私の肌に届いてくる。
「れいな子供やけん…二人が悩んどることとかよーわからん…
やけん…やけん、辛いっちゃ…見とって…」
「ごめん、れいな…」
「絵里の顔色…蒼褪めとるけん…」
- 51 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/11(水) 23:53
-
誰にも気付かれてさえないと思っていた。
よくよく考えれば、そんなはずが無いのに。
れいなですら、簡単に気付けるような、私の不調を、見た人がわからない訳がない。
誰も見ていないと思っていた。
私のことなんて、誰一人感心もなければ、気にする利点もない。
そう頑なに思っていたのに、れいなは私のことを見ていた。
見ていなかったのは、私の方だ――
「ちょっと…マジ限界っぽいんだ…ちょっと休ませて貰っていい…?」
私が今寝たら次に起きるのは何時だろう。
もう二度と起き上がれないんじゃないだろうか。
仕事はどうしよう。
今日はまだあったっけ。
いろいろなことが頭に浮かんでは、泡のように次々と消えた。
本当にもう、どうでもよくなっているようだ。
すでに視界はぐにゃぐにゃに曲がっていた。
その中で、れいなの幾分安堵したらしい顔が見える。
その顔もやっぱり歪んでいたけれど、不思議と心地いい。
ああ、でもさゆの顔がもう一度だけ見たいな…
私の意識は遠のき、柔らかい、久しぶりの眠りの世界が私を包み込んだ。
- 52 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/11(水) 23:54
- 話が進まない…
- 53 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/24(火) 13:55
- 夢を見ていた。
夢の中で私は卵の中にいた。
何も見えず、何も聴こえない。卵の殻は固く、絶対の壁だった。
狭い狭い空間で私は、一廉の安らぎを、絶対的な居心地のよさを感じていた。
卵の中は温かく柔らかくて、何もしないでも、充分に満足が出来る。
私はそこで、その世界で考えに考えていた。
とてもとても、長い間。
しかし、考える対象になるものが、白い、薄暗い周囲の殻の表面しかなくて
その他には何もわからなかった。
次第次第に不安になった私は不意に聴いたことの無い物音を聞いた。
私はただ恐怖に駆られて身を捩り、物音から逃げようと必死だった。
だけども、指一本、動かすことも出来なかった。
物音は大きくなる。
全身に余すところ無く響き渡り、恐ろしさに震え上がる私。
ある瞬間に信じられないくらいに眩しい光が、始めてみる光が私の瞼を射た。
巨大な亀裂が四方に広がる。
と、思うやいなや、卵が割れた。
そんな夢だった。
- 54 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/24(火) 13:55
-
目が開いてからも暫くは、何も見えなかった。
情報の波が、ゆるゆると五感に沁みこんで来る間も、何か夢の続きを見ているような感じがあった。
頭がまだズキズキと痛む。
その一方で、妙に晴れやかな気分がしていた。
暗い場所から不意に明るい、暖かい場所へ辿りついたような晴れやかさ。
その多量の刺激に、まだ身体がついていけていないといった体であった。
やっと頭が情報を処理し始めた。
それと同時に夢の中にいるような不可解な感覚は薄れ、快さも失せて
ただだるい、身体の感覚ばかりが戻ってきた。
私は自分の部屋で寝ていた。
全身が鉛のように重い。
頭痛は相変わらず酷く、自分でも分かるくらいに息は荒かった。
「えり!」
枕元で不意に声がした。
まだ意識がおぼろげである所為かしら、声がするまで、この部屋に私以外の誰かがいるとは
思いもよらなかった。それで私は変に驚いて呼吸を乱した。
重い頭を傾けて声のした方を見る。
密かな期待が、さゆがそこにいてくれるという期待が頭を過ぎる。
果してそこにいたのは、れいなだった。
- 55 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/24(火) 13:56
-
「れいな…」
れいながそこにいたということに私は何故か酷く安心した。
さゆを期待したに関わらず、さゆでなくてよかったとすら思った。
どうしてだか、考えるのも億劫だ。
ともかく私は、れいなの姿を見て、心から、安堵の笑みを漏らしていた。
「もう…ばかぁ…心配したけん…」
「ごめんってば…」
れいなは泣きそうな表情で私に縋ってきた。
彼女の一言一言が私を安心させる。心持、身体が楽になるような気さえした。
「さゆがあんなことになったのに、絵里まで…」
「うん…」
意識がハッキリしない一方で、今の私は妙に聡明になっているという予感がした。
私をすっぽりと覆っていた黒い靄が晴れているような。
妙な勘繰りも遠慮もまるでせずに、れいなの気持ちを純粋に喜んでいる自分が新鮮だった。
目覚めた時の晴れやかな気持ちの正体はまさしくこれだった。
今までの自分、そしてさゆや石川さんのことまで、全部がわかったような気がした。
どうして歯車が噛みあわないのか、そんなことにばかり悩んでいた前の自分の思考を
打ち消すことができた。
私も、彼女達も、れいなももっと複雑な、殆ど世界と同じくらい大きな大系、機構のなかに
いて、だから他を度外視してさゆとだけ繋がろうとしてた自分の思い通りにいくわけなはいんだ
と、そんな考えが頭の中を渉猟していた。
馬鹿馬鹿しい、当たり前のことかもしれないけれど、私にとってそれは随分と目新しい画期的な考えだった。
- 56 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/24(火) 13:56
-
「ここ、あたしの部屋だよね?」
「そだよ?」
「なんで…?」
「絵里が急に、仕事の途中で急に真っ青な顔して倒れるけん…
みんなびっくりして…運んで来たと…」
「そっかぁ」
「そっかぁじゃなかと!どんだけ心配したと思っとるん?!」
れいなの凄い剣幕が、ひん曲がった表情が心地いい。
私の口元からはついつい笑いばかりが漏れて、それが次第に止まらなくなった。
「ふふ…あはは…へへ…うへへへへ」
「もう、何笑いよぉと!」
「いや、いやごめんね。へへ、ありがとうね、れいな」
そういうとれいなはつと黙った。
それから、泣きそうな、それでいてこそばいような表情になった。
凄く、素直だと思う。
その感情が、まるで手に取るようにわかる。自分の感情をありありと、堂々と伝える術を得ている。
彼女は私やさゆとはやっぱり違ったタイプの人間だと思った。
- 57 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/24(火) 13:57
-
「この部屋…」
少しの静かの後、れいなが言った。
「たばこ臭い…絵里たばこなんか吸っとうと?未成年のくせに、そんなやけん身体壊すんよ」
まだ、残ってたんだ。
少し嬉しさを感じた。何だか遠い思い出のようにも思えるその匂いの存在。
今も多分別のところで眠っている彼女の姿を、私に思い起こさせてくれる。
そういえば。
「ねえれいな、他に誰かいた?」
ふと、殆ど根拠の無い予感がした。ただの予感だけどそれは確信に近かった。
れいなのほかに、この部屋にもう一人いたという確信。
「え、ああ、うん。さっきまで石川さんがおったよ。ずっと二人で絵里のこと見とったけん」
やっぱり、予感は当たっていた。
そしてそのことは、妙に穏やかな気持ちを私にもたらした。
「そっかぁ、石川さんにも…迷惑かけたなぁ…」
彼女が今までに私にいった言葉が、思考でなしに感覚で
少しずつ理解できはじめていた。
はっきりとしたモノは何もわからないけれど、彼女に対して持っていた敵意だけは
霧のように雲散していた。
- 58 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/24(火) 13:57
- れいながすっと立ち上がって窓の方へいった。
「空気悪いけん、窓あけるよ?」
れいなが窓に手を掛ける。
私は咄嗟に声を出した。
「あ、待って!」
れいなが不思議そうな顔で私を見た。
窓を開け放つのには、勇気がいる、なんて言ったられいななら笑うだろうな。
ぼんやりとそんなことを思った。
一つ、大きく胸の中に空気を吸い込んだ。
さゆの匂いがする、ような気がした。
「あ、うん、いいよ」
私の声で、れいなは部屋の窓を大きく開け放った。
部屋の中を漂っていた、見えない煙が、さゆのカケラが、ゆらゆらと揺られながら
空に漂い出ていくのが見えるような。
そんな気がして目を向けた窓の外は、いつ以来だろう、久しぶりに見る
綺麗な夕焼け空だった。
- 59 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 13:58
- もう少しで終わり…
- 60 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/30(月) 16:06
-
次の日から私は仕事に復帰した。
身体は随分衰弱していたらしくて、まだまだ本調子とはとても言えなかったけれど
私は入院はしなかった。させられなかったというのが正しい。
さゆが病欠した昨日の今日というところでメンバーがまた一人入院したともなれば
事務所や関係者としても責任を問われる事態に発展しかねない。
それで私は無理にでも現場復帰する必要があった。
病院で寝ているような退屈を味あわないだけマシといえば言えなくもない。
といってこの日はライブに向けてのダンスレッスンが主だったため
殆どの時間、隅で見学することになった。
それはそれで退屈なものだ。
ぼんやりと歌い踊るメンバー達を見ていた。
今までならそうしている間いつも頭の中で、ぐるぐると別のことを考えていたけれど
今そうすると頭痛が増すだけなのと、あまり昨日まで頭に渦巻いていた考えを
覚えていなかったから、そうしなかった。
ただ目や耳から入る情報を受け止めて、その解り易い、眼前の光景に意識を集中した。
先輩たちはやっぱり動きのキレがいい、とか、今紺野さんがちょっと間違えた、だとか。
こんな風にしてメンバーを見るのも随分と久しぶりのような気がする。
まだ入ったばっかりのとき、我武者羅に先輩に追いすがっていたころ以来だ。
さゆやれいなに負けまいと必死になっていたころ。
何時からか私は自分だけの、競争相手を設定しないレッスンに慣れていた。
各々課題は違うのだからその方が合理的だと、無意識にそんな風に思っていたのかもしれない。
しかしこうして改めてメンバーの姿を見ていると、随分と一人善がりだったと感じる。
- 61 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/30(月) 16:07
- 一つ一つ、耳に入る、目に映る一つ一つに、目を覚まされたような心地がする。
自分の世界が絶対だと思っていた、小さな殻に篭っていた私のその殻が破れ
一つ一つ剥されていくような。もうおぼろげな記憶にしかない昨日の夢の内容が思い出される。
私は、全てのものに意味づけをしようと躍起だった。
しかし一度殻の外に出てしまえば、私のそんな態度がいかに傲慢だったか分かる。
私の見ていた世界は小さな小さな自分だけの部屋の、狭い白い壁だけだった。
一歩部屋を出れば無限と広がる空や地平線の前に、一体私がどんな名前を、意味を与えることができるだろう。
ただ私は世界によって在らしめられているだけだと、そんな意識が昨日目覚めてから確実に
私の中に広がっていた。
ハードなレッスンの合間、隅でちょこんと山座りをしている私に
メンバーが口々に声を掛けてくれる。大丈夫?そんな風に、荒い息を沈めながら。
私は笑顔で応える。
これまでの保身やタテマエの笑顔と、意味合いが若干違っている。
今は私を思ってくれている彼女達の為に笑える。笑えているという感覚があった。
石川さんの姿が目に入る。
彼女から私に接触しようとしては来ないのは、一昨日の一事が彼女の気を揉ませているからだろう。
私が石川さんに対して今は微塵の敵意も無いことを示すべきだろうか。
そうは思ったものの、タイミングを逸して、レッスンの休憩時間のうちにはついに声を掛けることはできなかった。
- 62 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/30(月) 16:07
- ダンスレッスンの後、雑誌の取材が入っていた。
私はその仕事から皆と合流した。
今までとは随分違う感覚だった。
皆は変わらない。それでも私には新鮮な感覚だった。
今まではただ「仕事」だったのが、今、みんなと一緒の仕事だと感じていた。
誰とペアになるか、どんなメンバーで絡むか、そんなことでもその仕事の色が変わった。
それが妙に可笑しな、新しい発見だった。
「元気そうでよかった」吉澤さんにそんなことを言われた。
体調は悪いながら確かに彼女の言うとおり、私の心は晴れていた。
仕事はいつものように滞りなく終わった。
しかし私にはいつにない達成感があった。
相変わらず身体はだるい。だけれども、その浮遊感が、何かしら私の心の軽くなったような
感じを与えてくれた。それは一種の万能感にも似ていた。
「石川さん」
仕事を終え、三々五々メンバーも散り始めた楽屋で、私は彼女に声を掛けた。
- 63 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/30(月) 16:08
- 「亀井…」
彼女はまだ笑顔の中に戸惑った表情を覗かせていた。
早く彼女を安心させてあげなければいけない。そんな義務感のようなものが沸いて
自分自身にそれが妙に可笑しく思えた。
「あの、昨日ずっとれいなと絵里のこと看ててくれたんですよね?」
石川さんの表情はさも意外そうだった。
彼女の目に映った私の表情は晴れやかなものだろうという自信があった。
その表情が、昨日までとまるで違うであろうこともわかる。だから石川さんが戸惑うのも道理だ。
「ありがとうございました。それと、いろいろと、ごめんなさい」
私の言葉を聞いた石川さんは少しほっとしたような、むっとしたような顔になった。
それから笑って言った。
「なんだかよくわからないけど、元気みたいね。よかったわ。心配したんだから」
私も笑った。
石川さんとの間にあった壁が、すっと引いたような気がしたから。
私はぼんやりと石川さんの顔を見ながらここ数日の彼女とのやりとりを一つ一つ思い出した。
「もう、大丈夫なの?」
- 64 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/30(月) 16:09
- 石川さんの言葉。
私の中で不意に、ある一つのことが思い出された。
それが次々と溢れて、再び辺りが真っ暗になるかと思われるくらい、急激に。
一番大切なことを忘れていた。
昨日目覚めてから、心地よい感覚の中で、無意識にそれを考えまいとしていたのかもしれない。
私が愛して、私がこの手で傷つけた、さゆのことを。
一つ一つ考えが啓けても彼女のことだけは考えることが出来なかった。
私はまだ、彼女から逃げていた。
「亀井?」
不意に沈潜してしまった私を、石川さんが不安そうに覗き込んだ。
私の中で、真に蟠りを消す為にも、何を置いてもさゆとの関係を築き直すことが必要だ。
私は今までの私ではないと、殻に閉じこもった、盲目の私ではないのだから
今さゆに立ち向かっていけるという自信がある。
私はもう一度、自信に言い聞かせた。
本当の目覚めは、開放はさゆと会った後だ、と。
もう一度頭を上げ、石川さんの目を真っ直ぐに見た。
- 65 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/05/30(月) 16:09
- いつかのラーメン店で、彼女が私に言った言葉。
あの時の私は、彼女がさゆと寝たということにショックを受けすぎていて何も聴こえてはいなかった。
石川さんは、さゆの不安や私との関係に思い悩んでいるということを私に教えてくれていたのに
私の耳には何一つ入ってはいなかった。
今やっと、そのときの話のすべてを思い出すことができた。
「大丈夫です。全部、なんとかできそうです」
笑顔で、石川さんにそう告げた。
彼女は私の言葉に、真に安堵したらしかった。
「今から、さゆに会ってきます」
そう告げて、私は楽屋を後にした。
- 66 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/30(月) 16:10
- 次でラスト…
虚しい…
- 67 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:44
-
時間はそれほど遅くは無いとは言え、病院を訪ねるには充分晩い時間だった。
大きな総合病院の廊下には人影もまばらで、ときどき看護婦らしき人が訝しげに私の目的を訊いた。
さゆはそれほど重い病気の持ち主でもないのに、個室を割り当てられていた。
廊下を一歩一歩歩くたび、私の靴音が私の中に木霊した。
さゆに会って、私はいったいどうするつもりでいるのだろう。
何を言うつもりだろう。
分からなかった。
ただ漠然とした不安と、大きな期待とに胸を膨らませていた。
しかしその胸中とはうらはらに、靴音は不気味に響いた。
さゆの病室の前まで来た。
病院の扉は、一様にそっけなく、それでいてものものしい感じがする。
さゆが居る、というだけで、私にはそれが増して思われる。
- 68 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:45
- 暫くその扉の前で佇んでいた。
やはりこの扉を前にしても、私が彼女を前にして何を言い、どう触れるのか予想だにできなかった。
今の自分と今のさゆが隣り合わせにいる姿をまるでイメージできない。
握った手の中に汗が伝っているのが感じられた。
その拳を、最小限の力で持ち上げた私は、頭がGOのサインを出す前に、扉を叩いていた。
コンコンと、想像したよりもずっとくぐもった、落ち着いた音が響いた。
「ハイ」
暫く待ってから、声が聞こえた。
私にはそれがさゆの声だと、分からなかった。
そんなに長く彼女と離れていたわけでもないのに、驚くほど、彼女の姿を覚えていない。
彼女のイメージを形作ることがむつかしかった。
「さゆ? 絵里だよ」
ドアの外から告げる。
数瞬間待っても返事が無かったので、取っ手に手をかけ、ドアを開いた。
- 69 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:45
- 病室には今日最後の日の光が、強い幾筋もの金色の光線となって差し込んでいた。
さゆは、ベッドの上にちょこんと腰掛けて、真っ直ぐ私の方を見ていた。
西日に照らされ翳ったさゆは相変わらず綺麗だった。
だけれどもその姿は、その顔容は私の思い描いていたどのさゆとも違っていた。
私の記憶の中にいるどのさゆとも違う。
今目の前にいるホンモノのさゆは、私の中にいなかった。
そのことが妙に私を緊張させた。
まるで初対面の面会をするみたいに背筋が伸びた。
扉から顔を覗かせた私をみて彼女は「絵里…」と、一言呟いた。
私はなかなか言葉を発することができなかった。
彼女の姿を見たトタンいろいろな想念が頭の中を駆け巡って、とても整理が追いつかなかった。
ただ一ついえることは、瞬間、確かに彼女を愛していると感じたこと。
ついに気の利いた言葉一つ言えないまま、私はドアを後ろ手に閉め
彼女の元に寄った。
さゆはそんな私をじっと見据えていた。
ただその目には、特に意思らしいものが感じられなかった。
さゆの顔はやはり憔悴していた。
- 70 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:46
- 「ね、起きてて大丈夫なの?」
やっと捻り出せた私の台詞は酷く素っ頓狂なものだった。
「うん、全然平気」
さゆはあまり表情を変えることなく言った。
私が入ってから彼女の表情は一貫して硬い。
まだ彼女の笑顔を見ていなかった。
そこでふと思い出した。私はここ数週間というもの、彼女の笑顔など一度も見てはいない。
しかし私の幻想の中に居たさゆはいつでも弾けんばかりの稚い笑顔だった。
彼女を見たときに感じた違和感はソレだ、と思った後、やけに短絡的な自分を嘲った。
「大丈夫?」
何が、と自分で問いたくなるような間抜けな質問。
だけど、この病室の空気のなかで、無言が妙に重苦しくて、何か言わないわけにはいかなかった。
「もう何ともないの。仕事だってもう直ぐにでもはじめられるんだけど…
妙にみんなが用心深くって、ね」
「そっか…よかった…」
会話の中にも空気の壁を取り払うようなキッカケが掴めなかった。
続けて「心配した…」と呟いた私の言葉は口の中に篭り、喉の奥に消えた。
- 71 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:47
- さゆの少し後ろから強い太陽の光が一瞬私を焼いて、思わず目をそばめた。
「なんか、久しぶりみたいね」
さゆがぽつりとそんなことを言った。
少しだけ、ほんの少しだけ笑って。
「三日ぶりだもんね」
「うん、そうだけど。なんか、そうじゃなくて」
- 72 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:47
-
逆光が重なって、一瞬、さゆの表情を見失った。
「絵里、変わったね」
- 73 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:48
- どういう意図で発せられたのか、わからない。
今さゆが考えていることが縹渺としていて、掴めなくて、怖かった。
「そう?」
そう言って笑った。そのとき自分が前と同じ笑顔をしていると感じた。
こちらの恐怖を、戸惑いを漏らさないように塗り固めた笑顔。
さゆがふっと笑った。
「なんか凄く…オトナっぽくなった、かな?」
さゆは少し冗談ぽく、そう言った。
私の心臓がドキリと跳ねた。
夕日が射していたから、翳っていたからかもしれない。
少し俯いて、口元を僅かだけ綻ばせてそう言ったさゆの表情が
寂しそうに見えた。
私の中で次々と、後ろめたさだとか、遣る瀬無さだとか、そんな感情が沸き起こった。
私にそう告げたさゆの顔は、幼かった。
私の中で何か、とても認めたくは無いような一つの考えが浮かんだ。
- 74 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:48
- 「たばこ」
さゆは私の顔を見ることなく続けた。
「取り上げられちゃった。看護婦さんに。こんなの吸ってたら
身体壊すのもアタリマエだ!なんていって。怒られちゃった」
変わらない表情で、さゆは私に向かっていうとも無しに言う。
「だから…やめなってずっと言ってたのにさ…」
私の声は幾分上ずった。
「うん…。もう、やめる」
「え?」
さゆの発する一言ごとに、唾を飲み込んでいるのが自身で分かった。
「もう吸う意味、なさそうだから」
この意味がわかる?とでも問うように、さゆが上目に私を見た。
- 75 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:49
- 何も返すことが出来ない。
人の言葉の意味を、勝手に解釈することは前までなら私の得意だったけども、今はそれが怖かった。
というよりも、不意に私の中で為された解釈が本当だと思うのが怖かったのかもしれない。
いつのまにか西日は大分弱まっていた。
千切れた雲が幾つも、消え入りそうな太陽の方へふらふらと流れている。
「どうして、吸っていたの?」
さゆはまた口元だけでクスリと笑った。
子供染みた、悪戯な笑み。
「聞きたい?でも、大した意味なんてないよ」
太陽が見えなくなった。
「絵里が私を好きでいてくれたから」
- 76 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:49
- 数瞬間、言葉の意味を理解することができなかった。
そしてようやっと言葉が分かったところで、それがいったいどういうことなのか分からなかった。
考えが、まるで追いつかない。
日が隠れた途端、辺りが急に暗くなった気がした。
病室には電気が点されていない。
さゆの表情が夕闇にごまかされて、笑っているようにも、泣いているようにも見える。
「私、絵里に置いていかれちゃった」
そんなことないよ、と叫びたかった。
だけどどんなに頑張っても、声にならない。
次第次第、さゆの言う一つ一つが、おぼろげに解されてきた。
「ねえ、いつだか、絵里がナイフを持ってさ、私のこと刺そうとしたの、覚えてる?」
- 77 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:50
- ぞっとした。
その一場面を思い出し、そのあまりの私の狂態に。
あのとき、いや、つい一昨日までの私は本当にどうかしてたのだと
言い聞かせる自分がいる。
ところが目の前のさゆの目は、あのときのままだった。
「あのとき本当にさゆみを殺してくれたらよかったのに」
そういって笑ったさゆの目は、怖いくらいに真剣だった。
狂気と、そうとしか呼び得ない。しかし自分にそう呼ぶ権利は無いように思えた。
さゆは尚も続ける。
矢継ぎ早に。
「私のことオカシイって思う?思うよね、今の絵里なら。
ずっと一緒に歩いてきた。どんなことでも共有して、何が何でも愛してた。
絵里が望むならどんな私にでもなれた。絵里の世界に私、私の世界に絵里。二人だけの世界。ね?」
「さゆ…」
「絵里が私に壊れることを望んだなら私は壊れるし、傷つく。そして私も絵里を壊すの。
蔑んで、あしらって。迷わせて、困らせて、嘲って。石川さんと寝て。
私が壊れれば壊れるだけ絵里も壊して、二人でどこまでも行くの。この世の果てまで。
御伽噺みたいに、物語みたいに。ね?もう少しで、きっとそうなったの」
「私は絵里のお人形。絵里は私の…私だけの………」
「さゆ!」
思わず、遮った。
- 78 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:51
- さゆの畳み掛けるような言葉の一つ一つがまるで刃のように私の心に突き刺さる。
私は、確かにほんの数日前までそこに居た。
さゆの隣に。
彼女と同じように、物語りめいた、悲劇めいたヒロインの妄執に取り付かれて。
私が思い描いたストーリーの中に、私とさゆだけのキャラクターを設定して。
私の言葉にさゆはぐっと口を噤んだ。
さゆは私と同じ場所に立っていた。
立ち止まっていた。
私はどうすればいい?
出ておいでって、小さな小さな妄執の殻の中から、広い広い獏とした空の下に顔を出しなって
さゆに諌言すればいいの?石川さんが私にしたように?
私はさゆを引き回していた。
私の子供めいたストーリーの中でした人物設定を、さゆは無償に演じていた。
煙草だってその小道具にすぎない。
身体を壊して、私の妄想通り、ボロボロになるまで私に付き合って
私の世界の中で生きていた彼女を今更、連れ出す権利なんてあるわけがない。
彼女は私に、置いてけぼりにされたんだ―――
- 79 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:51
- さゆはまだ私の顔をじっと見ていた、ような気がする。
もう殆ど真っ暗で、確かなことは何もわからない。
また暫くの沈黙が流れた。
それから、さゆは少し落ち着いた声で言った。
「いいの。わかってるの。絵里は私と同じ世界にはもういない。
私と同じ夢はもう見れないの。二度と、絶対に…
それに、私には絵里を追いかけることも出来ない。どんなに絵里のこと、愛してても
それだけは…私にはできないの」
そういってさゆはまた闇の中に俯いた。
- 80 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:52
- 永遠の児童性――いつか、私の妄想の中で彼女をそう呼んだことを思い出した。
私とは違う、特別な存在――
自らの美しすぎる檻の中から一歩も出ることの出来ない
外の空気に触れればたちどころに死んでしまうような、永遠の子供。
夜の闇に照らし出された、痩せた彼女の全身の放つ
まるでこの世とは思えない絶対的な美しさは、そんな半ば馬鹿げた考えをも裏付けているとさえ感じた。
私が通ったような一過性の、些か極端な暗黒の殻は、彼女にとって人生の全てなのかもしれない。
私にはそれを狂気とは呼べない。
- 81 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:52
-
「ね、絵里。私たちさ、コイビトドウシだったよね?」
「うん…」
それは彼女の世界だ。
彼女の、特別な、子供の世界。
「だったら、お別れね、もう」
「さゆ…でもね、でも…あたしは、さゆのこと好きだよ…。ずっと愛してる…」
「ありがと、絵里…。ねえ、私も絵里のこと誰よりも好きだよ?」
どうして今更、こんな会話ができたんだろう。
何よりも望んでいた言葉なのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。
- 82 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:53
- もうどうしても、ただ純粋にお互い愛し合っていたころには戻れない。
私はまるで遠い場所から、懐かしむように見ている。
破滅に向かうストーリーを描いたのも全部私なのに、無かったことみたいに、私は上から見てる。
「絵里、そろそろ面会時間終わっちゃう。もう終わってるかも」
「うん…さゆ、あのね…でも、何があっても絶対…」
「うん」
「これからも、大好きだよ…」
「私もよ、絵里。だから、ね…泣かないで…」
その言葉と同時に、目元に溜まりに溜まっていた涙が一筋、頬を伝った。
目が霞んで、ただでさえ真っ暗なのがもっと何も見えない。
さゆの表情が見えない。
何も見えない。
- 83 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:53
- 「ねえ、さゆ。キスしていいでしょ?」
私の震える声に、さゆはうん、と鼻詰まりの声で頷いた。
闇の中で交わした最後のキスは優しくて、冷たかった。
ほんの幽かに、さゆの唇の奥からタバコの香りがして、糸を抜くようにスッと闇に消えた。
二度と嗅ぐことの無いであろう香りは、唇に焼き付ける間もなく消えてしまった。
「バイバイ…」
私はその言葉と一緒に、手探りで部屋を出た。
煌々と照った廊下の光が私の目を眩ませ、また、涙が溢れた。
- 84 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:54
-
さゆは次の日の午後から仕事に復帰した。
私もそうだけど、病み上がりということでダンスレッスンは見学になった。
今仕事といえば専ら石川さんの卒業コンサートに向けたレッスンなので
私ともども、早く体調を治すようにとお叱りを受けた。
さゆは今まで通り愛らしい笑みを振りまいて、今まで通り先輩たちに可愛がられた。
私は今まで通り先輩たちに弄られて、相変わらずへらへらと笑っていた。
晴天が続いた。
あんなに拝めないと思っていた青空も、こうも続くと面白くない。
石川さんの卒業コンサート当日。武道館もやはり晴れ渡っていた。
全員がそれぞれ石川さんに思いを馳せる。
さゆも、れいなも、そして私も、石川さんとの2年余りを思い出していた。
彼女の卒業コンサートは大熱狂と涙のうちに閉幕した。
彼女の輝かしい、雄大な最後は、私の目にも多分さゆの目にもとてつもなく大きく映ったろう。
彼女はいつしか私に、自分と似ている、と言った。
石川さんがこれまで積み重ねてきたことの中にきっと、私が体験した
一種イニシエイションみたようなモノがあったのに違いない。
しかし、さゆも共に似ている、と言ったのは石川さんの間違いであると思われた。
さゆは石川さんに相談を持ちかけたとき、彼女をも私のために利用したのだ。
- 85 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:54
-
石川さんが卒業してからも、相変わらず晴天が続いた。
私はいつか空を見上げることが多くなっていた。
空はどこまでも広い。どれくらい広いのかも、到底想像に及ばないくらい。
そこに浮かんでいる雲はどれも寄る辺無い虚ろみたいだった。
私は雲に閉ざされた、白い壁に覆われた盲目の世界から
果てしない青空の下に投げ出されたのだ。
自分だけの絶対の、小さな世界を抜け出て。
そしてあまりにも広い荒野を、一人きりで歩き出す。
時には他のあらゆるものと関わりながら、利用しながら自力で生きていかなければならない。
それ以外に道はないし、目的も無い。
ふらふらと空を彷徨う白雲のよう。
オトナになるということは、案外そういうことかもしれない。
私は空を見上げ、さゆのことを想って一人、溜息をついた。
- 86 名前:白雲彷徨 投稿日:2005/06/02(木) 03:54
- 終わり
- 87 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2005/06/03(金) 02:21
- 張り詰めた空気を壊さないように、完結を待っていました。
こういう空気の作品は好きなので、次も楽しみにしています。
- 88 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/21(火) 13:48
- >>87
ありがとぉ。あなたに見捨てられないように書いていきます。
次の、空気ぜんぜん違うけどね。。。
- 89 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/21(火) 13:49
- 地球
- 90 名前:地球 投稿日:2005/06/21(火) 13:50
- 『熱っちぃ地球を冷ますんだ!』
真希は地球の衛星写真をしげしげと見つめながらぼんやりと考えておりました。
地球の中には、それはそれは熱っちぃ地核というものがあって、それが冷えるということは
即ち地球が死んでしまうことではないか知らん。
それは、真希がまだ小学生の頃に、理科の先生がおっしゃったことでした。
「地球を冷ましちゃ、まずいんじゃないのかな」
写真の地球はというと、青くて白い模様がなんとなく綺麗で、そんなに熱っちぃみたいには
見えないのです。
真希は手にガラス玉を取ってみて、写真の地球と重ねて見ました。
なるほど、熱っちぃかは別にしても、微妙な青光りを放つビー玉と地球はよくにておりました。
「本当に、地球は熱いのかしらん」
- 91 名前:地球 投稿日:2005/06/21(火) 13:50
- 真希は、どうしても気になって、眠れませんでした。
それで夜、町の外れの公園にやってきました。
空は満天星空なので、なんとなく地球の胸板も大らかな感じがするのです。
まずは礼儀。こんこんと地面にノック。
それから草生した地面に向かって呼びかけました。
「地球さん、地球さん。熱いですか?」
ひんやりとした大地に耳を押し当てて、暫く待っておりますと
「別に」
と、ぶっきらぼうな返事が返ってきました。
「地球温暖化とか言われてるけど、どうですか?」
「僕には関係ない」
ずぼらだな、と思いました。
- 92 名前:地球 投稿日:2005/06/21(火) 13:51
- しかし、地球ほどの大きさがあれば、摂氏で1度や2度表面の温度が変わったって
大して気にならないのも頷けます。
「何か気になることは無いんですか?」
「うるさいなぁ。僕は忙しいんだから、放っておいてくれ」
「何に忙しいんですか?」
「考え事にさ」
「何を考えているんですか?」
そう尋ねたところ、地球からの返事が途絶えました。
そもそも、地球が地球のくせに考え事をしているなんて、なんだか真希にはおかしく思えました。
「僕があるってことを、さ」
暫くして地球が返事をよこしました。
「と、いうと?」
- 93 名前:地球 投稿日:2005/06/21(火) 13:51
- 「僕は僕なのに、僕の上に君たちみたいなのがいるってことさ。
僕の一部を使って、僕の上で生まれて、僕の上でしか生きれないなら、君たちだって
僕の一部といっていいんじゃないか?
なのに最近は、君たちに僕の写真を撮られるとか、どんどん僕から離れようとしてる。
僕の一部のくせに、君みたいな変わった奴はこうして僕に話しかけてきたりするじゃないか。
いったい、君は僕なのか?それとも、違うのか」
真希は少し考え込みました。
地球の話は、思いつきのようにも思えたのですが、とにかく考えました。
「私はあなたの一部でも、あたなの所有物でもないと思うわ。
だって、私は私だもの」
真希は少し考えてからそういいました。
「僕の上にずっと乗ってるくせに」
地球はさもつまらなそうに言いました。
- 94 名前:地球 投稿日:2005/06/21(火) 13:52
- 「それなら、あなたがずっと私の足の下にぶら下がっているんじゃない」
真希の言葉には思わず地球も言葉を噤みました。
自分の上に乗っかってる、自分の何万分の一しかないちっちゃな女の子。
自分の何億分の一しか生きない、小さな真希に、こんなことを言われては
地球もたまりません。
夜空ではそんな二人のやりとりを見ていた星星が、にやにやと笑っていました。
地球の直ぐ側で見ていた月も、遠慮がちにクスクスと笑っていました。
それで、地球は急に恥ずかしくなりました。
そんなに、むきになっていたのがなんだか可笑しくなりました。
- 95 名前:地球 投稿日:2005/06/21(火) 13:52
- 「地球が死んでしまうのはいつ?」
「わからないよ」
地球は、今度は穏やかに応えました。
「不安ですか?」
「ちょっと」
地球は、照れたように笑って言いました。
- 96 名前:地球 投稿日:2005/06/21(火) 13:54
- 真希は自分の部屋に帰ってきました。
もう夜が明けかけて、東の空がぼんやりと暁光に映えておりました。
その淡い光にガラス玉を透かしてみると、薄暗い部屋に七色の光が飛び散りました。
あっと思うと、ガラス玉は真希の手をすり抜けて
床に落ちてしまいました。
そしてビシリと高い音を立てて真二つ割れました。
真希はそれを拾い上げて机の上に置きました。
それから一度空を見上げて、段々、空の青が澄んでくるのを確認してから
ベッドに潜り込みました。
優しい温みに、ふんわりと包まれている気がしました。
- 97 名前:地球 投稿日:2005/06/21(火) 13:55
- 終わり
- 98 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 05:22
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
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