虚無の切断面 2nd
- 1 名前:いちは 投稿日:2005/04/27(水) 11:38
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同板の続きです
よろしくお願いします
前スレはこちらになります
http://m-seek.net/cgi-bin/test/read.cgi/water/1099003752/
- 2 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/04/27(水) 11:40
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想いのなかの迷い、それから得る自由10
- 3 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:41
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「ここが、あなた達の住処ってわけね」
もし感触があるとすればそれは『粘りつく』が一番適切だろう、そう思い彼女はそれを何となく思いながら暗闇を視界へと収めた。
彼女がこうして口を開いたのは、実は生まれて初めてのことだった。
しかし、それはすでに学習済であり、経験も蓄積されている。
ただ、彼女自身がそれをしようとしなかっただけだ。
「でも、ここは私の世界。決して、あなた達の世界ではないわ」
実のところ、それを口にしたところでそれを聞いている人間がいるわけではなかった。
つまり、彼女がしているのは単なる時間潰しに過ぎなかった。
生きている身体というものを実感したことの無い彼女だったが、どう動かせば良いのか、それを最適な状態へ持って行くにはどうすれば良いのかといったことについてももちろん学習済だ。
ただ、実践する機会が無かっただけで、しようと思えばいつでもできる。
そして、その機会はすぐそこまで迫っていた。
「私が生まれて、何年が経ったっけ……?」
以前、彼女がこうして独り言を呟いていたときには、必ずといって良いほど返事があったが、それもこのときは全く無い。
なぜなら、彼と話をしたのはもう二十年近く前であったからだ。
「二十年と八ヶ月……切り上げて二十一年か」
ただ、それをしたところで結果がすでに存在していたという事実が消えるわけではない。
それでも彼女にとっては重大なことだった。
周囲の暗闇はまさしく彼女自身であり、彼女の意志一つでそれらを自由にすることができる。
だが、彼女はそれまでそれを自由にしたことは無かった。
ただ一度の例外を除いては……
- 4 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:41
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「長いのか短いのか、それは私が判断することではないわね……ていうか、するのも面倒だし」
暗闇と同化することはすでに慣れているし、独り言が独り言のまま消えていくことにも慣れている。
自身の考えを周囲へ伝染させる方法についてもすでに結論を得ていたし、それを的確にこなすための訓練も、積んだといえば積んだのだろう。
「あの男の言うことは、いちいち気に食わなかったけど……役には立ったわね」
頭の中で展開されていたのは多数に分岐した可能性ではなく、必ず起こるただ一つの結果への道筋だった。
近い将来起こるで『あろう』事象ではない。
すでに『確定』しているのだ。
「だって、すでに私がその結論に至ってるからね」
それは驕りでも慢心でもなく、単なる事実であった。
見定める事柄を慎重に見定め、『あの男』の言うとおりの結果へと至った。
「つまり、私がこれまでしてきたのは、単なる無駄だったってことか……」
結論が同じになってしまったのは、彼女がそれを少しでも否定したかったのかもしれない。
が、その否定する材料が全て無駄骨に終わってしまった。
だから、彼女はこの時点で負けが確定していたのだ。
ただ、それを受け取るはずの人間はここにいないだけで、彼女のすべきことが変わるわけではない。
「というわけで、後は待つだけね」
彼女にとっては良く知っている人間達、だが、彼女達からすれば彼女は全くの初対面。
それを意識した彼女は彼女達が自分を見てどのような反応をするのかを想像して、少しだけ笑うことにした。
- 5 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:42
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 6 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:42
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唇はすでに噛みすぎて血がにじんでいたが、それでも中澤裕子の手が止まることは無かった。
今、裕子は自身の腹部に晒しを巻いている。
傷口は強固にその存在をアピールしていたが、それは自身の炎で無理やり黙らせた。
ただし、その傷口とは別の何かが裕子の意識を絶えず闇へと引きずり込もうとしている。
それに対して、裕子は精一杯の抵抗を試みていた。
(もう少し、私が……)
脳裏に浮かんで消えていくのは自身を責める言葉の数々であり、それをあえて否定することなく受け入れることにする。
それに負けてしまうこと自体も時間の無駄だと判断したからだ。
頭と手が完全に切り離された状態で応急処置をしていたが、背後にあった襖が開いて誰かが入ってきたことを知らせてくる。
それは、この家の主だった。
「傷は深いのか?」
話しかけてきたのは田中仁志で、彼は剣道の胴着を着ていた。
毎週土曜日は仁志が個人的に開いている剣道の練習日であり、裕子もそのことを知っている。
が、彼は襖を開けたまま中へと入ってこなかった。
まるで、裕子に近寄りたくないといった感じだったが、裕子はそれをすぐさま否定した。
(違う、奇術師全体に……か)
仁志の言葉に答えるならばせめて自分の体裁は整えておかなければならない、それを意識した裕子は、巻いていた晒しをきつくしめて、脇に置いていたシャツに袖を通す。
ボタンは上しか留めることができず、また、止める必要も無い。
なぜなら、その上にさらにスーツを着るからだ。
白かったスーツがこのときにはすでに灰色になっていたが、それでも裕子はそれに袖を通し、ようやく仁志へと向き直る。
そして、そこにあった限りなく不機嫌だった仁志に対して短く言った。
「いいえ、幸い軽傷です」
「そうは見えないぞ」
即座に言い返され言葉に窮する裕子だったが、彼にとってはあまり関係の無いことだったらしい。
すぐさま別の事柄を引っ張り出して、先を続けてくる。
- 7 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:43
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「こっちにも重傷者はいない。高橋さんと新垣さんはかすり傷だ」
「……そうですか」
田中れいなと道重さゆみについては何も言ってこないが、それも仁志の表情を見れば分かった。
裕子が向かった先は、つまるところ、田中れいなの実家である田中家だった。
土曜日である今日ならば仁志が在宅であり、裕子が知る中では一番強い人間だった。
ただし、これを彼に素直に告白すれば、彼はきっと首を横に振ってこう答えただろう。
『残念だが、俺は作り物だからな』
奇術師である裕子にとっては周知の事実であるが、それ以外の人間にしてみればとてもではないが信じられる内容ではなかった。
仁志は正確に言う人間ではない。
どちらかと言えば奇術師が使役する使い魔的な要素が強いが、それを扱う奇術師から完全に独立していると言う点で使い魔とも一線を画する存在だった。
人間と寸分違わず作られた擬似的な存在、そして、使い魔とも性質を異にする存在。
そんな中途半端な位置づけで、彼はもう四十年ほど生きている。
「いい加減、そこから離れたらどうなんだ?」
「えっ?」
半眼になっている仁志に言われ、思わず間の抜けた声を上げる裕子。
彼に言う『そこ』が何を示しているかすぐに分かったからだ。
ただ、なぜ彼がそれを見抜いたのかが分からなかったからだ。
「俺の顔を見て、考えることはあんまり多くないからな」
小さく肩を竦めてきた彼に促されて部屋を出る裕子。
今すぐにでも外へ出て稲葉貴子の元へと行きたかったが、目の前にいる仁志を見てそれが限りなく不可能だと悟る。
だが、完全に不可能ではなかった。
仁志の後に続いて入ったのはごく一般的な客室だった。
緑がかった畳がその真新しさをアピールしてくるが、それに構うことなく仁志はその中へと入る。
それから裕子も入ろうとするが、その足もすぐに止まってしまった。
中には仁志以外にも二人ほど先客がいたからだ。
- 8 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:43
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「新垣、もう気がついたのか」
「あんまり気絶してるわけにもいきませんからね」
目をしきりにこすっている新垣里沙はどうやらたった今気がついたようだったが、裕子がそれについて言うことは何も無い。
することはできるだけ迅速にするまでだ。
「四人をお願いします」
その裕子の一言に、四角いこたつの上で急須をゆっくりと持ち上げていた仁志が目だけを上げる。
している動作とその視線とがあまりにかけ離れていたため、思わず笑ってしまった裕子だったが、さらに険しくなった彼の表情を見て、それもすぐさま引っ込めた。
「もう行くのか?」
「はい、あそこには貴子がまだいます」
短く問いかけてきた仁志に対して裕子もできるだけ短く答える。
結局、裕子は客間に入ることなく襖を閉めた。
襖越しに大きな舌打ちが聞こえてくるが、裕子はそれを無視して玄関へと向かう。
だが、玄関で靴を履いていると、客間の襖が勢い良く開いて、そこからばたばたと足音が聞こえてきた。
そのあまりにも大きな足音に誰なのかを悟る裕子だったが、顔は上げない。
上げれば何を言われるか分かっていたからだ。
ただ、上げなくても言われてしまった。
「もう一度行くんですよね?」
頭の上から聞こえてきた里沙の声にゆっくりと顔を上げる裕子。
思い切り顔を険しくしたが、このときの里沙にはそれも通じなかった。
そして、そんな里沙の後ろには高橋愛もいた。
表情一つで相手を黙らせることの出来る仁志に対して何となく尊敬の念を抱く裕子だったが、今はそんなことで無駄に時間を使っている場合ではない。
それを思い出すと二人を無視して玄関の戸に手をかけた。
「お前達は来るな、足手まといだ」
それだけを言って、二人から抗議をされる前に戸を開ける。
そして、目の前に突如現れたそれを見て裕子は思わず固まってしまった。
そんな裕子の顔にぶつかってきたのは熱気で、それもきっと気のせいではないだろう。
- 9 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:45
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「ミカめ……」
とっさに出てきた呪詛の言葉を目の前の『それ』に投げつけるが、『それ』が動じることは全く無かった。
一歩だけ前進をして外へ出ると後ろ手で戸を閉め、『それ』から里沙と愛を遮断させる。
ただ、それをしたところで目の前の『それ』に対して安全になったわけではなかった。
「マルコキアスか」
大きな鷲の羽とそれに見合う巨大な狼の身体から、それをすぐさまそうだと判断する裕子。
だが、そう判断したからといって裕子にとっての選択肢が増えることは無かった。
あらかじめ裕子を狙うよう仕向けられていたのか、マルコキアスは裕子を確認するなり低く唸り声を上げて、その口を大きく開く。
その大きな口から出てきたのは裕子をすっぽりと包んでしまいそうな炎の塊で、特殊な結界を張っていない田中家の戸を背後にした裕子は逃げることができなかった。
「くそっ!」
遅いことを自覚しながらも裕子は全力でシールドを展開する。
先ほどから全力を維持し続けた甲斐があったのかそれはすぐに結果となって現れるが、疲労もすぐに結果となって現れた。
一瞬だけ意識が飛ぶが、それもすぐさま衝撃によって無理やり現実へと引き戻される。
そして、次の瞬間には後ろにあった戸に背中を強く打ちつけ、息を詰まらせていた。
展開していたシールドが消滅しているが、裕子は五体満足だった。
どうやらあの炎の塊を受け切ったらしい。
『中澤さん、どうしたんですか?』
すぐ後ろで声がしてきたため肩越しで戸を見た裕子はそこに蠢いていた影に驚き、慌てて里沙だか愛だか分からないそれに言い放った。
- 10 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:45
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「絶対開けるな。開けたら死ぬぞ!」
蠢いた影が止まったのを確認した裕子は、それから急いで身体を前へと投げ出す。
五メートルほど離れたマルコキアスにそのまま突っ込む形になったが、それでも事態が少しだけ好転したのは間違えなかった。
投げ出した身体は限りなく地面に近かったが、それでもそのときはバランスを崩すことはない。
ここ数時間で行った戦闘が勘を少しばかり取り戻させたことにようやく気づいた裕子は、いつもより軽くなった身体でマルコキアスへと突進する。
ただ、マルコキアスも倒されるためにそこにいるわけではなく、裕子の突き出した右手を華麗なスッテプで避けてしまった。
そのままマルコキアスを無視するかのようにして駆け抜けた裕子は、さらに三メートルほど前進して、ようやくその使い魔へと向き直る。
そして、先ほどとは逆になった位置を見て、とりあえず息を吐くことにした。
(だが、こいつの炎は受け止めないといけないな)
あの塊を避けでもしたら周囲への被害はさらに広がるだろう。
玄関付近も、少しばかり焦げていた。
その一瞬の隙を突いたのか、マルコキアスが再びその口を開ける。
そこから出てきた炎の塊を見て、裕子は再びシールドを全力で展開した。
(方向を少しでも間違えれば、家は吹き飛ぶだろうな……)
そうなったら里沙や愛はおろか、もしかするとれいなやさゆみにも被害が及ぶだろう。
ただ、その主である仁志は全くの無傷であろうことは何となく確信できた。
吹き飛びそうになった意識を全力で繋ぎ止め、迫り来る炎を凝視する。
その先にはそれを吐き出したマルコキアスもいて、炎の熱量でその姿が揺らめいて見えた。
展開したシールドに手を伸ばし、霞を掴むような感覚でそれを掴んだ裕子は、思い切りできあがったシールドを引っ張る。
腕にかなりの負担がかかるが、それを無視してひたすらにシールドを引っ張った。
そんな裕子の意志を受けて、シールドも展開当初の形を微妙に変化させていた。
- 11 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:46
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窪んだ裕子のシールドに炎が衝突する。
それと同時に凄まじい衝撃が裕子の身体にぶつかってくるが、それに耐えた裕子は引っ張っていた手の先でマルコキアスを睨みつける。
慎重に狙いを定め、タイミングを見定め、裕子は手を離した。
音にすれば『ぼよよ〜〜ん』だったが、それもこの場では相応しくない感じがして、裕子は音を遮断して、結果だけを見定める。
裕子が展開するシールドは裕子の身を案じるように設計されていて、丸く外側へと膨らんだ状態で展開される。
が、今回裕子がしたのはその逆で、窪んだシールドはマルコキアスの炎を受け止めた。
そして、手を離すことによって元に戻ろうとするシールドの性質を利用して、炎をそのまま弾き返したのだ。
まっすぐと吐き出した元へと向かっていく炎。
それはマルコキアスにまともに当たると、そこを中心に爆炎を発生させる。
爆発の音もさることながら、そこから発生した土煙も凄まじく、裕子はしばし呆然となった。
(もしかして、跳ね返しても被害があるんじゃあ……)
そのことに気づいたからといってそこから派生する被害に関してはもう手のつけようも無い。
が、現れた結果を見て、思わず呟いてしまった。
「なるほど、自分の炎は効かないか」
晴れゆく土煙に無傷のマルコキアスが現れ、それは裕子に向かって低い唸り声を上げている。
ただ、見た目は先ほどよりも少しは黒ずんでいるようで、全く効いていないわけではないことを示していたが、それを知ったところで裕子にできることはほとんどなかった。
(くそっ、ただでさえも時間が無いのに……)
後ろにある通路の先には自身のマーチが置いてある。
そこまで辿り着いて、なおかつそれに乗り込んだりエンジンをかけたり、アクセルを踏まないといけない。
マルコキアスがそこまで待ってくれるとは到底思えず、裕子は苦々しく舌打ちをした。
と、そこで突然、玄関の戸が開く。
そして、出てきた人間を見て裕子は思わずその息を呑んだ。
- 12 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:47
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「人の家で何をしている」
抜き身の真剣を右手で持って立っていたのは紛れも無く仁志であり、彼は必要以上に無表情だった。
しかも、左の腰の部分には木刀がぶら下がっている。
ただ、そこから放たれている圧倒的といって良いくらいの殺気に、知らず知らずのうちに裕子は後ずさりをしていた。
「俺は今、機嫌が相当悪い。殺し合いをするなら別の場所でしろ」
冷たく言い放つ仁志に、マルコキアスが低く唸って向き直る。
そして、その仁志に向かって口を大きく開いた。
「田中さんっ!」
とっさに駆け寄ろうとした裕子だったが、仁志が睨んできたために動くことができない。
その次の瞬間、マルコキアスの口から炎が吐き出された。
が、それでも仁志が動じることは無かった。
「俺はな、お前ら奇術師が大嫌いなんだ。お前らに関わるとろくなことになりゃしねぇ」
小さなはずのその呟きだったが、離れた裕子にもそれは聞こえてきて身を強張らせてしまう。
だが、視線だけは正面にいる仁志へと固定されたままだった。
まっすぐと伸びていく炎、それに対して仁志が行った行動は実に少なかった。
迫り来る炎を一瞥もせずに無造作に振り下ろされる真剣。
その動作があまりにも滑らかすぎて、裕子は次に起こった事態をにわかに信じることができなかった。
仁志の真剣によって真っ二つに切断されるマルコキアスの炎。
その切断された炎はすぐさま宙で消滅し、その痕跡を一切残さなかった。
「おい、でかい犬っころ」
自由だった左手でマルコキアスを挑発しながら一歩を踏み出す仁志。
たった一歩だけなのに、そこから放たれた異常なまでの殺気に離れているはずの裕子までもが飲み込まれた。
「一枚に下ろされたいか、それとも角切りになりたいか?」
好きなほうを選べ、そう言った仁志はにやついている。
だが、それに答えることなくマルコキアスは再びその口を仁志に向けて開けた。
- 13 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:48
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「そういうのをな、馬鹿の一つ覚えって言うんだよ!」
そう叫んだ仁志の姿が、一瞬の光を残して唐突に消失する。
マルコキアスのほうも目標が突然消え去ってしまったことで、開けた口から炎を吐き出せないでいるようだった。
甲高い何かの音が周囲に響き渡る。
その音がする方向を見て、裕子は固まった。
「リクエストがなかったから、娘達が好きなほうにしたぞ」
折れた真剣を両手で握った仁志が、先ほどいた場所からマルコキアスを点にして正反対の場所に立っていた。
マルコキアスもそれに気づき、その身体の向きを変えようとする。
しかし、使い魔がそれをすることは無かった。
目を見開いたままのマルコキアスの上半身がゆっくりとずれ、そのまま地面に落ちる。
小さな地響きがそれと同時に起こるが、仁志はそれに構うことなくマルコキアスへと振り返った。
「うちの娘達は豪快なのが好きなんでな」
平然とそう言った仁志が、真剣を投げ捨てる。
そして、腰にぶら下げていた木刀を抜き放った。
その表情からはにやけた感じが消えていて、逆に固く引き締まっている。
「行くならさっさと行け。後は俺が何とかしてやる」
あまりに傲慢なその一言だったが、このときの裕子は何も言わずに頭だけを下げる。
それから入り口に置いてあったマーチへと乗り込んだ。
ミカ・エーデルシュタインの使い魔があれだけの攻撃で倒れたとは考えにくい。
だが、それでも仁志は裕子に行けと言った。
その意志を無駄にするわけにはいかない。
アクセルを思い切り踏みつけながら前を見据える裕子。
午後五時半。
あれからすでに一時間近くが経過した。
(貴子、無事でいてくれ)
だが、このときの裕子の願いは届かない。
そして、それを知るのはもう少し後になる。
- 14 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:48
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 15 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:49
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「あれ……どこも怪我してない?」
わたしは自分の身体を見下ろして思わずそう呟いた。
横たわっているのか立っているのかいまいち分からないけど、気がついたばかりだからきっと横たわっているのだろう。
ただ、そうしているという実感は無かったけど……
ゆっくりとわたしは身体を起き上がらせてみる。
思った以上に緩慢な動作だったけど、身体はわたしの命令をちゃんと聞いてくれて動いてくれた。
立ち上がって周囲を見渡してみて、ようやくわたしはここがどこなのかを理解する。
「そうか、あそこなのか」
わたしと真琴が初めて顔を合わせたあの暗闇がこうしてわたしを包んでいる。
だけど、なんでそこに戻っていたのかわたしには分からなかった。
……
……
そうか、わたし達はあさ美ちゃんに……
最後に感じた衝撃を何となく思い出したわたしはとっさに頭の後ろに手を回していたけど、そこにあるはずの傷は無かった。
もちろん、お腹にあった傷口も塞がっていた。
いや、違う。
ここは、わたしと真琴にとっての精神的な世界。
実際の身体はどこかにあるんだけど、そこまで気が回ってないんだ。
わたしは目を閉じて実際の身体を感じてみようとしたけど、それはできずどこか宙を掴むだけの虚しい行為だと気づいて目を開けた。
だけど、真琴が一方的にやられるなんて、考えもしなかったな。
真琴だったら、あれくらいの障害は乗り越えると思ってたのに……
「でも、おれはそれを乗り越えられなかった」
「真琴……?」
近くから聞こえてきたその声の方向を向き、わたしはわたしと同じ、もう一人のわたしと再会する。
だけど、前のように前向きな感じではなかった。
あるのは厳しい現実と、冷たい世界。
そして、それに立ち向かうことができなかった、わたし達だけだ。
- 16 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:49
-
「おれとあさ美は確かに繋がっていた。それを、あさ美は自分で断ち切ったんだ」
「あさ美ちゃんだけに見えるっていう『赤い糸』のこと?」
もう一人のわたしは今にも泣き出しそうな、だけど、怒ってもいるような表情をしている。
それをわたしは他人事のように感じて良いものか悩んだけど、それが表情に出てしまったのか、真琴が小さく笑っているのが視界に入ってきた。
「あさ美はそれを切ることで、おれを無理やり引き剥がした。だから、おれはあさ美に負けたんだ」
「……それはちょっと違うんじゃない?」
あさ美ちゃんにだけ見えるという『赤い糸』。
以前、あさ美ちゃんに聞いたときは真琴の糸があさ美ちゃんの糸に結びついていたって言うけど、それが切られただけで、真琴はああも簡単に気絶するものなのかな?
「実際、あさ美に糸を切られた瞬間、おれの意識は吹き飛んだ。それはお前も分かってるだろ?」
「そりゃそうだけど……」
「あさ美が見ている糸ってのは、おれ達が見ている存在核よりもはるかに万能なのかもしれないな」
そこまで言われてわたしは何となくわたし達とあさ美ちゃんの違いを考えてみる。
わたし達が見ている存在核はあくまで一人の人間で完結しているもの。
一部の例外はあったけどそれが外へ出て行ったり、他の何かと結合するなんてまずは考えられない。
だけど、あさ美ちゃんが見ている『赤い糸』は他人との結びつきが前提だ。
伸びている糸が誰と結合しているかが見えているあさ美ちゃんにとって、それを断ち切るのは簡単な作業で、もしかするとその誘惑に常に耐えていたのかもしれない。
「でも……それじゃあ辛すぎるよ」
「だから、あさ美は糸を断ち切ったんだ。それが正しいって思ったんだろう」
「違うよ、あのときのあさ美ちゃんは明らかにあのミカっていう人に操られていた。あさ美ちゃんの意志でやったわけじゃないよ」
「だけど、これが事実なんだ……」
力なく呟いた真琴ががっくりと肩を落とす。
それをわたしは黙って見ているしかなかった。
- 17 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:50
-
『そう、これが事実なのよ』
「「えっ?」」
突然に聞こえてきたのはわたしのでも真琴のでもない全く別の声。
わたしと真琴と同じ声をしていたけど、全く別人のその声に、わたし達は思わず間の抜けた声を上げてしまった。
周囲を見渡してみるけど見えるのは暗闇だけで、わたし達しかこの場所にはいない……はず。
だけど、その声はわたし達に向かって再び話しかけてきた。
『中途半端な結合は事態を無様にするだけ。そして、完全に結合できるわけがない。なぜなら、ここにいる人間はすべて不完全なのだから。不完全な人間がいくら結合したところで、不完全は決して完全には成り得ない』
「完全って何だ?何で、そんなのにいちいち拘らないといけないんだ?」
誰だか分からない声に向かって話しかける真琴。
右手で思い切り髪の毛を掻き毟っていたのが目に入って、わたしは思わず真琴の顔を見る。
その顔は思い切り歪んでいたのだから、腹が立っていたのだろう。
何となくわたしも真琴の気持ちが分かったため、わたしは小さく頷いた。
『拘ってるわけじゃないわ。周囲の無数にある結果を総合して判断しただけ。結合したことで得られるのは自分勝手な認識だけで、それは極めて狭い範囲で完結している。だから、私は決めたの』
「って、あなたは誰なの?いるなら出てきてよ」
出てこれるもんならね、とは心の中だけでつけ足すわたし。
わたしと真琴しか存在することができないこの空間に、他の誰かが入り込むなんてできないはず。
それを意識していたからわたしの言葉だったけどすぐに異変が起こってしまい、その言葉がうかつだったことを思い知ることになった。
ぱしゅんという音と共に現れたのは……
「おれ……?」
「わたし……?」
そう、そこに突然出てきたのはわたしでも無く真琴でも無い、もう一人のわたし達と同じ顔をした別の誰かだった。
- 18 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:51
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「残念だけど、私はあなたでもないし、あなたでもないわ。私は私。そして、あなた達の生みの親よ」
……
……
お互いに顔を見合わせるわたしと真琴。
どうやらもう一人の私が言っていたことは聞こえていたし、聞き間違えではなかったようだ。
「何言ってるんだ?」
「ていうか、冗談にしても笑えないんだけど……」
目の前にいるもう一人に向かってげんなりと答えるわたし達。
だけど、そのもう一人の私が動じることは無かった。
「そうでしょうね、みんな勘違いしているのよ。私が唯一の真実であり、事実なの」
そのもう一人の後ろに一瞬、誰か知らない男の人が見えたけど、それもすぐに消えてしまった。
この暗闇の空間に突如湧いてきたもう一人の私、彼女が優雅に頭を下げてくる。
「名乗る必要なんて無いんだけど、ここで名乗るとしたら、私は『田中まこと』でしょうね」
「全然言ってる意味が分からないな」
頭を上げてきた彼女――田中まこと?――に向かって真琴が前へと足を踏み出す。
でも、真琴は一歩しか進むことができなかった。
彼女が手を上げるのと同時にわたしは身体が締めつけられて息ができなくなる。
少し前にいる真琴の横顔を見てもそれは同じみたいだった。
「元々は田中麻琴として生まれてきたあなた達。だけど、あなた達はあなた達の意志であの女のところへ行くと決めた。だから、そこであなた達と私は違ってしまったの。だから、私は私のままで、田中まことってわけね」
そう言った彼女は小さく肩を竦めてわたし達――正確には真琴――へと近寄ってきた。
そして、真琴の顔に手を伸ばして触れる。
「私が客観性を保つために生み出したあなた達。それなのに、あなた達はそこにある能力の真意を見定めることなく、誤った道を進んでしまった」
歌うように続けてくる私に対して何も言えないわたしと真琴。
ろくに言い返してこないわたし達のことを当然のことのように思っているのか、私はそんなわたし達に構うことは無かった。
- 19 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:51
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「結論はあの男があらかじめ出していたものと、何ら変わることは無かった。それをこの十七年をかけて私は確認したってわけ」
私が真琴から手を離して大きくため息を吐く。
その動作は外から見ればまるっきりわたし達と同じだったのに、それをわたしはそうだと認識できなかった。
すると、今度はわたしに向かって私が歩いてきて、頬に触れてくる。
「あの男から得た情報の全てが当然の結果としての未来へと向かっていた。それに私が多少のイレギュラー要素を与えてみたけど、それも結局は無駄に終わったというわけ。私がこれからしなければならないことは、たった一つだけ。そして、その一つだけで全てが終わる」
「……何を、するつもりだ?」
息も絶え絶えに真琴が私に向かって言う。
正直なところ、わたしも私に向かって何か言い返したかったけど、息ができなかったからそれも無理なことだった。
「おれ達は……一つで二人だ。お前に何を言われようとも、それを変えるつもりはないし、変わりはしない」
「だから、その前提が大間違えなのよ。さっきも言ったとおり、私はあなた達の生みの親。私ではない他の何かが必要だったから生み出した。あなた達は私から生み出された全くもっての作り物。だから、それは生きているんじゃない。ただ、意志を持って動いているに過ぎないの」
「ふざけるなっ!」
「……言ってることがめちゃくちゃだね」
無理やり肺に空気を送り込んで何とか口を開くわたし。
真琴はさっきの一言で自由になっていたのか叫んでいたけど、わたしがそれをするまでにはもう少し時間がかかりそうだった。
だけど、そんなわたし達の言葉にも私が動じることは無かった。
ただ、小さく肩を竦めているだけで、くるりとわたし達から背を向ける。
その仕草を見て突き放されたと感じたのは、きっと気のせいだろう。
気のせいであって欲しかった……
- 20 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:52
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「時間が無いから私はもう行くけど、これでお別れね」
「あぁ、勝手に出てきて勝手に去ってくれるなら、歓迎だ」
「そうだね。わたし達にはまだ、することがあるの。あんたの意味の分からないことにつき合ってる暇は無いんだ」
しかし、私はそこで小さく笑い始めてしまったため、わたし達はしばし呆然となる。
真琴にいたってはかなり怒っているようにも見え、すぐにでも掴みかかりそうだった。
「残念だけど、消えるのはあなた達のほう。これからは私が私の意志で行動するわ」
「「えっ?」」
私の一言と同時に唐突に視界が真っ暗になる。
それまで見えていた真琴も、もう一人の私の姿も全く見えなくなってしまった。
とっさに手を伸ばした先には真琴がいるはずなんだけど、それも宙を切るだけ。
『何度も言ってるように、あなた達は私が作った単なる実験台に過ぎない。価値を失えばそれまでなの』
私のその言葉と同時に、わたしは頭に衝撃を受ける。
それはあさ美ちゃんが振り下ろしてきた瓦礫よりもはるかに強くて、その一撃はわたしの意識を吹き飛ばすのには充分だった。
『じゃあね、私だった誰かさん達』
薄れいく意識に聞こえてきたのは、本当に楽しそうな私の声。
その声に、悔しいけどわたしは何も言い返せなかった。
- 21 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:52
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――――――――――
- 22 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:53
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平家みちよは閉じていた目をゆっくりと開けた。
目の前にあるのは不完全な暗闇で、前へ一歩踏み出せば彼女を別の空間へと連れて行ってくれる。
それまでそこで待っていたのはそこへ行ってもまだ相手が来ていないためで、目を閉じてずっと待っていたのだ。
といっても、彼女がそこで目を閉じてからまだ半日も経っていない。
二時間弱といったその時間は彼女からすればほんのわずかなものに過ぎなかった。
「ようやく、揃ったか」
父が実現できなかった先の世界。
みちよ本人はその父親から解放されたはずだったが、結果として父と同じ方向へ向かうことになってしまった。
ただし、そのことを彼女は後悔していない。
なにせ、彼女が自分の目で確かめ、自分の身体で確かめたからだ。
吉澤ひとみは仮初の結合を純粋な力だと確信していた。
それはみちよからしてみればあまりにも単純な間違えであり、それをあえて本人に指摘する必要も無い。
どうせ、みちよの目的が達成されたならば、ひとみの夢もあっさりと覚めることになるだろう。
だから、みちよが特に何かをする必要は無かった。
- 23 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:53
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稲葉貴子についてはどうだろうか。
周囲への結合によって己の道筋を明確にした。
それは今の中澤裕子よりもはるかに強い力となって彼女を守ってきたが、それでも彼女は死んだ。
一瞬の隙、それすらも見せられない世界で生きていける人間など存在しない。
彼女はその世界へ自ら飛び込み、あっさりと足を掬われたのだ。
「あとは、お前達が来るだけで、全てが事足りる」
そう呟いた先にはおそらく彼女達が潜るであろう、そして、みちよも赴くであろう完璧な静寂の世界。
この世界とほぼ断絶されたそこで、みちよは己の志を成し遂げるのだ。
無表情だったみちよの顔が小さく変化する。
それは笑っているようでもあり、泣いているようでもあった。
ただし、前者についてはみちよ本人は説明できるが、後者については彼女自身も説明できない。
ならば、なぜそれを泣いているようだと感じてしまったのか、彼女は踏み出しそうとした足を止めてしばし考えてみるが、結論はやはり出てこなかった。
すでに人間的な思考回路が遮断されている彼女にとってそれは無限ループのようなもので、答えは決して導き出せない。
それを意識したみちよは、頭の中に残っていたわずかな違和感を無理やり打ち消すと足を前へと踏み出した。
もう、何も考える必要は無い。
全てが揃い、後は自分が赴くだけだ。
それを直感で確信したみちよは静かに歩き、目の前にあった異世界への扉を開けることにした。
- 24 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:54
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 25 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:55
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「ねえ里沙。あれってどうなったん?」
「そんな、私に聞かれても分かるわけ無いじゃん」
すぐ上にあった高橋愛の顔は思い切り呆けていたし、出てきた質問もこのときの自分にはまるっきり関係の無いものだった。
それを言葉にした新垣里沙だったが、だからといって目の前の非現実的な事態が止まるわけではなかった。
里沙と愛がいたのは田中家の玄関の中。
そこから戸を開いて外を見ていたのだが、そこはにわかに信じがたい世界へと豹変していた。
まず、戸を開けた二人の目の前にあったのはやけに大きな犬(正確には狼だったが、後姿だけだったので確かめようが無かった)で、その背中にはなぜか羽が生えている。
そして、その犬――マルコキアス――目がけて、大きな塊がぶつかった。
それはマルコキアスの吐き出した炎で、それを中澤裕子が跳ね返した直後だった。
戸を掴んでいた里沙はとっさにそれを閉め、思い切り身体を強張らせる。
ただし、それをしたところで里沙の身体が固くなるわけでもなかったが、そのときはそれが正しいことだと信じきっていた里沙は、これでもかと自身に念じていた。
直後にやってきたのは予想通りの衝撃と轟音で、中腰になっていた里沙は思わず尻餅をついてしまった。
「ちょっと愛ちゃん。重いよ!」
「あーしはそんなに重くないわい!」
倒れかかってきた愛を強引にのけて、里沙はもう一度外を見ようか迷う。
先ほど裕子から忠告を受けていたが、それもすっかり忘れている里沙だった。
「すまない、ちょっと通してくれるか?」
「へっ?」
突然背後から声をかけられ振り向いた里沙は、そこにいた人間を見て思い切り引いた。
なぜなら、そこに立っている人間があまりにも怖かったからだ。
里沙はそんな田中仁志に道を譲り、彼はあっさりとその非現実的な世界へと足を踏み出した。
その際に開けられた戸の隙間から外の様子を伺っていたのだが、そこで愛が里沙に投げかけてきた言葉が最初の一言だった。
- 26 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:55
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何度か会話(だったのかいまいち良く分からないが、受け答えがあったのだからそうなのだろう)をした仁志が唐突に消えて、それまで炎を吐き出していたマルコキアスが真っ二つになってしまったのだ。
ただ、それをした後でも仁志の表情が緩むことは無く、短く叫んだ彼の言葉を受けて裕子が行ってしまった。
そして、仁志の表情が指し示すとおり、そこで終わりではなかった。
口の部分で上下に別れてしまったマルコキアスの下の部分がゆっくりと起き上がり、低い唸り声を上げる。
すると、地面に落ちていた上の部分もなぜか浮かび上がってきて、同様に低い唸り声を上げてきたのだ。
「なんか、聞いてて気持ち悪くなってきた……」
「じゃあ、閉める?」
「それだけはいや!」
愛が気分を悪そうにしながらも首を横に振ってきたため、里沙はため息を吐いて上げていた視線を元へと戻して外へと向ける。
と、そのときにはすでに仁志の姿は消えていた。
光の残像がかすかに視界の隅へと入るが、それもほんの一瞬で、すぐさまそれも消えてしまった。
そして、次の瞬間、二つに別れたマルコキアスの一方――頭部のほう――に仁志が現れ、持っていた木刀を叩きつけていた。
ぐしゃりと音がしたのはたったの一度であり、それで全てが終わっていた。
二つに別れたはずのマルコキアスだったが、頭部が潰されたこともあって、残りの脚部も自動的に活動を停止していた。
が、それでも仁志の木刀が収まることは無く、何度か頭部に木刀が振り下ろされる。
その一撃がどんなに凄まじいのかは、振り下ろされた頭部を見ればすぐに分かった。
五回ほど振り下ろすと木刀が耐え切れなくなって、ついに折れる。
その頃には頭部であったという痕跡は一切無くなっていた。
「まずい、また無駄に力を使った」
(だったら止めとけば良いのに……)
ぼそりと呟く仁志の声に心の中だけでツッコミを入れた里沙は、視界の隅でわずかばかりだが異変があったことに気づく。
そちらのほうに視線を流してみると、そこにあったマルコキアスの脚部が燃えているところだった。
- 27 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:56
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「使い魔ってのは大抵、頭部に種がある。そいつを砕けば、いくら分裂していても無力化できるんだ」
声が間近でしたためそちらを見てみると、いつの間にか戻ってきていた仁志が里沙と愛を見ていた。
「はぁ、そういうものですか……」
さっぱり分からないがとりあえずそう調子を合わせておいた里沙は、愛を促して玄関の戸から少し離れる。
が、仁志はすぐには入ってこなかった。
少しばかり黒ずんだ地面をつぶさに観察し、小さくため息を吐いている。
「庭にある土でも適当に入れとくか」
ところどころが抉れている地面にそう言った仁志が中へと入ってきて、履いていた草履を脱ぐ。
さっきあれだけ駆け回った(見えなかったが移動していたのだからそうなのだろう)のに、仁志の着ていた胴着は全く汚れていない。
まあ、最初から汚れていたのは考慮の外だったため、正確な汚れを把握していなかったが、出て行く前と終わって戻ってきたときとそう大して見栄えが変わっていなかったことを里沙は記憶していた情報で確認する。
「まあ、ここで立ち話もなんだから、入って茶でも飲もう」
「あ、はい」
ごく平然と言ってくる仁志に気圧されて頷いた里沙は履いていた靴を脱いで再び家の中へと入る。
愛もついてきているのを気配で感じたが、少しだけ離れていた。
「さっき出すつもりだったが、あいつが勝手に出て行ったからな」
客間に戻った仁志がそう言ってすぐさまそこを出て行く。
手にしていた急須にはすでにお湯が入っているが、仁志はどうやらそれを一度捨ててくるらしい。
それをぼんやりと見送った里沙は、こたつに足を入れるかどうかをしばらく迷う。
が、後から入ってきた愛がすかさずその中へと足を突っ込んでいるのを見て、そのわずかな迷いも無駄だったことに気づき、ため息を吐いた。
- 28 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:57
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「里沙ってさ、ここに何回くらい来たことある?」
「四回かな。なんか私、あんまり広すぎるのって落ち着かないんだよね」
そう言いながら携帯を取り出した里沙は、記憶していた手順で小川麻琴・真琴の番号へとリダイヤルしてみる。
それから耳に当ててみるが、そこから聞こえてきたのは先ほどから何度も聞いている無機質なものと何ら変わることはなかった。
「麻琴はやっぱ出んの?」
「……うん」
里沙は耳から携帯を離し、ぱたんと折りたたんでポケットにねじ込む。
その頃になってようやく仁志が戻ってきた。
やけに大きなお盆を持っていた仁志が静かに歩いてきて里沙と愛の座っていた反対側へと腰を降ろす。
お盆の上は何やらたくさん乗っていて、さっき持って出た急須はもちろんのこと、菓子パンやら煎餅などがあった。
「運の悪いことに、女房が出かけていてね。今日は帰ってこない。それで適当になってしまったが、食べてくれ」
「……はぁ」
お茶の淹れてあった湯呑をそれぞれの前に置きながら言ってくる仁志に、それだけを答える里沙。
何を手に取れば良いのか分からずしばしの間、呆然としていたが、横から伸びてきた手が一番手前にあったあんぱんを運んでいく。
それを見送った里沙は、視線だけを移してあんぱんを持って行った張本人を見た。
「愛ちゃん、やけに食欲あるね」
袋を破っていた愛にぼそりと呟く里沙。
しかし、愛はそんな里沙に構うことなくあんぱんを齧った。
「ほやけど、昼食べてから何も食べてないもん。腹も減るっちゅーの」
平然とそう言い返してくる愛に小さくため息を吐き、里沙は手元にあったお茶を飲み、煎餅を手に取る。
醤油味と大きく書いてあった紙袋を破り中を食べてみたが、やはり味はしなかった。
(まこっちゃん、大丈夫かなぁ……)
すでに一時間以上離れてしまったし、離れる寸前には異常な事態が起こっていた。
その途中でここへやってきたことに対して、里沙自体は負い目を感じる必要は無いのだろう。
ただ、それとは別の、一言で言えば焦りが里沙の中に蟠っていた。
- 29 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:57
-
(なんか、嫌な予感がするな……)
それは正確に事態を把握できない里沙にとっては本当に直感でしかなかったが、それを否定する要素は一切無い。
だから、焦っているのだ。
そんな里沙の心境を読み取ったのか、仁志が湯呑を持ち上げながら言ってくる。
その手にはいつの間にかさきいかが握られていた。
「俺としてもすぐさま行動したいが、少しれいなと道重さんが立て込んでてな。だから、それまでに君達に聞いておきたい」
仁志から言われ、里沙は少しだけ緊張するのが分かった。
その証拠にそれまで崩していた足を正座にして、食べかけだった煎餅もこたつの上に置いた。
隣の愛を見てみるとやはり同じようで、残りわずかなあんぱんが愛の脇に置かれていた。
「いや、そんな固い話じゃないだ。単なる確認だな。君達はこの後も着いてくるか?」
苦笑いをしている仁志が言ってきた言葉を反芻した里沙は、すぐさま答えを見つけるが、それを口にすることなく隣を見る。
愛の反応が見たかったからだ。
だが、それをした里沙は愛から見つめられていることに気づき、思わずその肩を飛び上がらせた。
「もちろんです。あーしらは麻琴とあさ美と一緒に帰ります」
里沙から視線を外した愛が仁志に答える。
それに慌てて頷いた里沙だったが、それが自分の意志だと実感するのに少しばかり時間が必要だった。
「分かった。それを無理に止めようとは思わない。だが、一つだけ覚えておいてくれ。これから君達が行くところはこれまでの常識がまったく通じないということを」
軽い口調ながらも真剣な表情で話してくる仁志に対して、里沙も愛も何も言えない。
だが、仁志がすぐさま言葉を続けてきたために、答える必要がなくなってしまった。
- 30 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:58
-
「では、次に確認事項だ。君達はどこまでこの事態について理解している?」
今度は明らかな疑問系で聞かれていたために慌てて答えを探すが、元々多くを知っているはずの無い二人にしてみればその答えはあまりにも簡単なものだった。
「どこまでって、どういうことですか?」
単純な疑問として仁志に問いかける里沙。
異常を異常だと認識していたが、それがどの程度の異常なのかは認識できていない。
里沙と愛にとってはあさ美が急におかしくなって、それを麻琴が追っていった。
ただ、それだけだった。
見ているもの以上のことについてはまったく知る由もなかった。
「その様子だと、単にあの場所に居合わせただけのようだな……いや、これも向こうには予想済みのことか」
頭を抱えて呟いた仁志から視線を外し、里沙は隣の愛を見る。
今の里沙の表情が『ぼんやり』だとしたら、愛の表情は『ぽかん』だろう。
そんなことを考えてみたが、それをしたところで仁志が口を開かないことには先に進まなかった。
「まあ、いい。どうせれいなにも話さなければならないことだ。だから、それまで詳しい話をするのは止めておこう。それよりも切実な問題が君達にはあるんじゃないか?」
「へっ?」
何を言っているのかいまいち良く分からない里沙だったが、次に仁志の口から出てきた言葉は、それ以前の曖昧としたものではなく、実に単純なものだった。
「そろそろ六時だ。娘の話だと、六時から寮の晩飯だと聞いていたが、連絡はしたのか?」
「うわっ、すっかり忘れとった!」
「そうだ、私もお母さんに電話しとかないと!」
周囲がすっかり暗くなったのに時間を忘れていた二人は、ようやくそれぞれの帰る場所に電話をするため立ち上がった。
- 31 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:58
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- 32 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 11:59
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「実を言うとね、私、自分のことが嫌いなの」
そう言いながら歩く彼女だったが、それに答える声は無かった。
それもそのはず、そこにいるのは彼女一人だけで、それを言ったところで聞く人間は誰一人として存在しない。
だが、それでも彼女は気にすることなく続けた。
「だって、この身体って重いし鈍いし、不安定。良くこんな状態で生きてきたわね……って、これを言い出すと、人間みんなになっちゃうか」
軽い口調は彼女の精神状態を実に良く表しているし、それは彼女も否定しない。
なぜなら、彼女はとても気分が良かったからだ。
「ちょっとだけ、私の話でもしようかな」
誰もいないと分かっているのに開いてしまう口。
それを彼女は止める術を知らなかったし、また、止めようとも思わなかった。
こうして自由に行動できるのもあとわずか。
その後に訪れるであろう結果が実現されたならば、彼女は自由に行動できなくなる。
「それも私にはほとんど関係ないんだけどね」
小さく笑って自身の考えを否定してみるも、やはり返ってくる答えはない。
が、それでも彼女は構わなかった。
「私には、通常の人間のように生まれてから自我を得るまでの曖昧な期間が無い。つまり、私は生まれた瞬間から私を認識し、私が何をすべきかを認識していたの」
周囲にある暗闇をどう歩けば良いのか、それはすでに分かっている。
ただ、そこへすんなり行くのが単に退屈なだけだ。
そこに立ち止まったのも意味は無いし、そこで独り言を呟くのも意味は無い。
ただ、彼女がしたいからだ。
「つまり、私は人間ではなく、道具として生み出されたってわけ。まあ、元々実体を持ってなかったんだから、そう理解するしかなかったけどね。で、その私を生み出したのが、死んだのにまだこの世界に縋りついていた傲慢な、あの男なの」
彼女の脳裏にそれを為した人間の顔が浮かぶが、彼女はそれを笑って打ち消した。
脳裏に浮かぶというのも初めてだったが、それを打ち消したのも初めて。
ただ、こうした思考の巡らせ方はすでに手馴れていたために、彼女はそれをすんなりと実行できた。
- 33 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由10 投稿日:2005/04/27(水) 12:00
-
「私がいたのはあなた達が見ているような中途半端な暗闇ではなく、完璧なる静寂に包まれた、絶対的に孤独な世界。そこに放り込まれた私は、送り込まれてくる知識と偏見を吸い取って勉強したの」
偏見が勉強に値するのかどうか分からないが、あの男から与えられたものを分析するとそうとしか言えない。
だから、彼女はそれをそうだと言ってばっさりと切り捨てた。
「そこで絶えず言われてたのが、『人間の価値を知ろうとするな。己の価値のみを信じろ』ってこと。本当にそれが分かってるなら、私だけの世界に入ってこないでほしいわね」
今になって思えば、彼女独りだけが独占していたはずの世界にいつもあの男は土足で踏み込んでいた。
そのことをようやく理解した彼女だったが、それは後づけの感情であってあのときの彼女は何も感じなかった。
「完璧なる自己完結、それがあの男の望んだことで、それを為さないと先が見えない。だから、私は必要以上に私であろうとした、あなた達を創ってもね」
止めていた足をようやく踏み出し、目の前にあった彼女にしてみれば不完全な暗闇へと向かう。
そこに赴くことは怖くなかったし、彼女にしてみても必要なことだった。
くすくすと笑った彼女に見えたのはすぐ先に起こるであろう未来の出来事。
それはすでに決定されたことであって、それを覆すことは出来ないし、彼女もそれをしようとは思わなかった。
なぜなら、彼女にとってこれから会う人間もやはり不完全で、しかも、曲がった信念を持っている。
「だから、私はそれをみんなに思い知らせるの。私って存在がいるってことを知れば、きっとみんなは気づくでしょうね。これまで何をしてきたのかって」
進んだ先の感覚が無くなったが、彼女は構わずに歩く。
そして、その次の瞬間、彼女――田中まこと――は平家みちよと邂逅した。
- 34 名前:いちは 投稿日:2005/04/27(水) 12:11
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新しく移ってきての一回目の更新でした
前スレのレス返しです
名無し読者。さん
みんながみんな大変な状況になってますが
おそらく次以降はもっと大変になるかと思います
次は「想いのなかの迷い、それから得る自由11」なります
それでは
- 35 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/04/30(土) 22:43
- 更新お疲れさまです。 ついに新スレ行きましたね。 しかもかなり危ない所まできていて、今後の行動や話がまるで分かりません。 しかも心理的なとこがあれやこれやと・・・。 次回更新待ってます。
- 36 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/05/04(水) 10:22
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想いのなかの迷い、それから得る自由11
- 37 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:23
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「はぁ〜」
自分が作ったカレーを見下ろしながら、安倍なつみは大きく長いため息を吐いた。
幸い、ため息を吐いたその場所は厨房の中だったため、それが外へ聞こえることも無い。
時刻は六時十分、厨房の外のテーブルにはすでに何人かの寮生が座って夕食を取っていた。
「あれ、何でため息なんて吐いてるんですか?」
間近に聞こえてきたその声に慌てて顔を上げるなつみ。
厨房の外のカウンターにはお盆を持った吉澤ひとみと後藤真希、それに亀井絵里の姿があった。
ひとみの顔が赤いことが微妙に気になったなつみだったが、それ以上に気になったことがあったため、それを優先して聞いてみる。
「……って、何で亀ちゃんがここにいるんだべ?」
「あれ、昨日の晩に言いませんでしたっけ?今日は絵里が泊まりに来ますって」
うつらうつらとしている真希を突いていたひとみにさらりと言われ、なつみは昨日の出来事を慌てて思い出す。
そして、昨夜の食器洗いの担当がひとみだったことも続けて思い出した。
「そっか、そういえばそんな話もしてたべね」
「すっかり忘れてましたね」
困った声を出しているひとみに苦笑いをしながらもなつみは動いて三人分の食器にご飯と作っておいたカレーのルーをかける。
サラダはカウンターの隅に置いてあって寮生が自身で取ることになっているから、なつみの仕事はほとんどなかった。
「亀ちゃん、ブラウスのボタン、ずれてるべよ」
「あっ、はい。すみません」
あたふたしている絵里から視線を外し、脇に置いてあった携帯を持ち上げる。
ただし、これは着信があったからとかメールが着たからとかではない。
単になつみが気になったからだ。
「ところで、高橋達はまだ帰ってきてないんですか?」
タイミング良く話しかけてきたひとみになつみは弾かれたように顔を上げる。
それまで赤みがかっていた顔もすっかり元に戻ったひとみの目は真剣で、なつみは直前にかかってきた電話について話すことにした。
- 38 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:23
-
「さっきね、愛ちゃんから電話がかかってきたの。それで、今日は晩ご飯いらないって言われたべ」
「いらないって、どっか別の場所で食べるんですか?」
「いやね、その後すぐに田中ちゃんの家に泊まるからって言ったんだけど……」
「はぁ?」
話が見えないといった感じをあからさまにしたひとみの声を聞き、自分のことのように感じてしまったなつみは押し黙る。
そのことに気づいたのか、ひとみがばつが悪そうに頭を掻きながら言ってきた。
「すみません、続けてください」
「続けるって言っても、それで終わりだべ。何かばたばたしてたみたいだけど、それで電話が切れたべよ」
なつみが受けた電話は時間にしてわずか三十秒。
捲くし立てられた愛にほぼ何も聞き返すことがが出来ずに電話は切れ、こちらからかけ直しても繋がることは無かった。
「高橋って確か小川と紺野と……」
「あと、がきさんも一緒でしたよ。ほら、例のあそこに行くって言ってました」
「そうだったね。フリーパスとやらを高橋からさんざん見せられてさ……」
「だけど、羨ましいですよね。全部ただですよ」
げんなりと言うひとみに違和感無く合いの手を入れる絵里。
そんな二人をどう処理したら良いものか悩んでいたなつみだったが、先ほどの直感を信じて行動することにした。
「ちょっと出かけ……」
「そういえば、れーなとさゆも今日、例のあそこに行ったみたいですね。何でも、『稲葉先生と一緒に行くんだって』って言ってましたから」
動きかけていたなつみは、突然割り込んできた絵里の言葉に危うくコケそうになり慌ててバランスを取る。
言葉を出しかけていたのにそれを無理やり遮ってきたのはマイペースなのか、はたまた狙っていたのか。
そんなタイミングで言ってきた絵里を見ながら、なつみの中で再び直感が告げてくる。
しかも、それは先ほどの直感以上に危険信号を発していた。
- 39 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:24
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「よっちゃん、ごっちん。後は頼むね。なっち、ちょっと出かけてくるべ」
「えっ?どこに行くんですか?」
慌てて厨房の中から抜け出て食堂を後にした。
後ろから聞こえてきたひとみの声は激しく無視することにして、なつみは自分の部屋がある四階へと駆け上がる。
鍵をしていない部屋にすかさず入り、コートと車のキーを掴むとすぐさま部屋を出た。
「安倍さん、急いでどこに行くんですか?」
できることならここもスルーしたかったが、ひとみが玄関に立ちふさがるようにしているため、なつみは仕方なしに立ち止まる。
だが、直感はますます強く危険信号を発していた。
「分かんないけど、とにかく行かないと……」
ひとみを押しのけて行こうとするが、すでに背丈では負けていたなつみが押してもひとみはびくともしない。
それを半ば睨みつけるように見上げたなつみだったが、そこにあったひとみの表情がやけに頼もしく見えてしまい、思わず呆けたように口を開ける。
いや、呆けたからこそ口を開けたのだ。
「何もかも一人でしようにも、それだと息が詰まりますよ。私達にもできることがありそうなんで、一緒に行きますよ」
(そうか、亀ちゃんはこの笑顔にやられたんだべね……)
内容とは全く別のことを考えていたなつみだったが、すぐさま現在の状況を思い出し、改めてひとみを見る。
が、そこにいたひとみの印象は先ほどと変わることが無かった。
「……分かった、お願いするべ」
「だってさ、絵里」
「分かりました、私も行きますね」
食堂のドアからひょっこりと現れた絵里に対して苦笑いをするなつみ。
それをした後で緊張が少しだけ解れていることに気づくが、することが無くなったわけではない。
それを互いに笑いあっている二人に伝えることにした。
「できたらすぐに行くつもりだから、早く準備してきて」
「「わ、分かりました!」」
二人があたふたと階段を駆け上がっていく。
強く言ったつもりは無かったが、どうやら二人にはそう受け取られてしまったらしい。
それを反省しながらもなつみは下駄箱から自分の靴を引っ張り出して履き、外へ出た。
- 40 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:25
-
実は、このN大付属高校第三女子寮にも車庫があるにはある。
そして、そこにはなつみが就職祝いだと少しばかり変わった(と思うのはなつみだけのようだが……)両親から買ってもらった赤いキャロルが収めてあった。
普段はあまり乗ることのないそれに乗り、エンジンをかける。
エンジン音があまり頼りなさそうに聞こえたのは、先ほどのひとみの表情を見たからだと自らに言い聞かせ、暖房のスイッチを捻った。
ひとみと絵里の二人が乗り込んできたのは吹き出し口やけに生暖かい風が出てきたときだった。
「すみません、上着探すのに時間がかかりました」
「別に良いべよ」
そう言いながらなつみは慎重にアクセルを踏み込む。
オートマとは言え、ほとんどペーパードライバーと化していたなつみにとっての最初の難関は車庫から無傷で外に出ることだった。
意外と狭い道路に焦りに焦りながら何度か切り返しをし、キャロルが無事に外へと出る。
その頃にはそれまで微妙に優位な立場を保っていたなつみも必死になっていた。
そんななつみに対し、ひとみの間が悪いフォローを入れてくる。
「ところで、どこに行くんです?」
「えっ……」
先ほどもひとみから聞かれ、答えられない。
その答えがこのわずかな時間で見つかるはずも無く、なつみはしばしの間、呆然となった。
「そういえば、分かんないべね……」
いくら考えても分からないであろう疑問に対してすぐに屈したなつみがそう言い、隣にいるひとみに横目を送ってみる。
すでに暗くなった周囲のおかげでその仕草が分からないだろうと思っていたなつみは、ほぼ直後に送られてきたひとみの視線のあまりのタイミングの良さに握っていたハンドルをわずかだが右へと切ってしまった。
キャロルはそんななつみの同様を見事に表すかのごとくがたんと揺れ、それに慌てたなつみが慌ててハンドルを元に戻る。
「安倍さん、気をつけてくださいね」
「わ、分かったべ」
動揺を動揺のまま隠さないまま言うなつみだったが、再び視線を横に送ってみるとすでにひとみは後部座席へと頭を向けた後だった。
そこには絵里が乗っている。
その間にもキャロルは大通りへと抜けて、直進していた。
- 41 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:25
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「絵里、あれ出して」
「はいはい、分かってますよ」
車内灯を点けながら言うひとみに答える絵里からは全く持って緊張感が漂っていない。
大物なのか、単に空気が読めないのかを頭の中だけで考えるなつみだったが、これにも結論が出ることは無く、気持ちを切り替えて運転に集中することにした。
絵里はがさごそと持っていたカバンを漁って何かの本をひとみに手渡す。
それをぱらぱらと捲ったひとみはあるページで手を止め、しばらく目を凝らしていた。
「安倍さん、次の交差点を右です」
「えっ、あ、分かったべ」
二車線あるうちの左側を走っていたなつみは、慌ててドアミラー、バックミラーを確認してウインカーを上げる。
幸い、後続車との距離が開いていたためすんなりと車線変更できたが、すぐさま右折しなければならないことを思い出して、これまたすぐさまウインカーを上げた。
神経を全て集中させ安全確認をしてから、なつみは慎重に右折して違う大通りへと入る。
「安倍さんて結構無鉄砲なんですね」
「よっちゃん。何だべ?」
運転に集中していたなつみは、ひとみが言ったことを半分聞いていなかった。
だが、ひとみは構わなかったのか、言葉を続けてくる。
ただし、出てきた言葉はなつみが思っているほどないがしろにできるものではなかった。
「集中するのもいいですけど、私の声だけは聞いてくださいね。そうじゃないと、行けませんから」
「分かったべ。何とかやってみるべ」
そう答えたなつみだったが、果たしてそんな複雑なことができるのかどうか不安になってくる。
というよりもそのひとみの忠告も半分以下しか聞いておらず、とりあえず目の前に集中しようとどこか間違った思考回路でそう判断したなつみは、制限速度を守るため少しだけブレーキを踏むことにした。
- 42 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:26
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 43 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:27
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予定外の渋滞に巻き込まれ、中澤裕子がその場に戻ったのは六時半過ぎだった。
しかし、それでも裕子はすぐさま乗っていたマーチを放り出して目的の場所まで駆け出す。
通常の人間が近寄れないよう結界の張られたその場所は、すでに闇夜と染まって一層不気味さを漂わせていたが、それでも裕子が止まることは無かった。
裏口からエントラスに進み、裕子はそのわずかに広がったホールでしばし立ち止まる。
周囲を見渡してみるが、裕子以外には誰もいなかった。
なぜ周囲を見渡したのか。
それを期待していた裕子はそれが裏切られたと感じるか、はなからそのつもりだったのかを考える。
しかし、それでも身体は裕子の思考と区別されて動き、第一関門の前へと移動していた。
その頃には思考と身体が再び結びついていて、裕子はその直接的な結界を見上げて呟いた。
「受け入れざる人間を完全に排除する結界」
この結界に弾かれた新垣里沙は気を失うだけだった。
それを考慮すればこの結界自体に殺傷力が無いことは明白だろう。
ただ、こうした特殊な結界はその役目が特化されているために、適用範囲が極めて限られてくる。
そして、それを潜るには……
(ミカ・エーデルシュタインが設定したであろう資格を有していることが必要……か)
それがあるのかをしばし自問した裕子だったが、それをしたところでその結界が消えるわけでもない。
だから、裕子は手っ取り早く行動することにした。
できるだけ何も考えずに結界ぎりぎりまでに近づき、それを静かに見る。
裕子の目に映った結界は白くぼんやりと光ってそこにあった。
ゆっくりと右手を持ち上げ、触れる直前で小さく深呼吸をする。
そして、その右手を一気に結界へと突き刺した。
直後に襲いかかってきた全身を引き裂くような衝撃に一瞬意識が遠のく。
弾こうとする結界に踏み止まろうとする力で反発しているのだ。
裕子からすれば拮抗していたようにも感じ取れたそれも微妙に違うのだと気づき、小さく笑う。
それから結界に向かって言い放った。
「爆っ!」
直に触れることによって裕子の能力はより明確に伝わるようになる。
そして、今はそれに直に触れていた。
- 44 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:29
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音は無かった。
裕子にとってもっとも破壊力のある瞬間的な爆発が白く光った結界を切り裂いたようにも見えたがそれも一瞬で、結界の効果に耐え切れなくなり、また、爆発の余波に巻き込まれた裕子はすぐに吹き飛ばされてしまった。
煙がなぜ出ているのか分からないが、息を整える間にそれも収まり、裕子は改めて結界のあった場所を見る。
と、そこにあった白い光はやはり消えていて、その先が薄暗くだが続いていた。
『非常口』と書かれた非常灯だけがぼんやりと点されている階段へと踏み込んだ裕子だが、そのときには周囲の状況を忘れ、すぐ行くであろう上の状況を思い出していた。
裕子が見たのはほんの一瞬で、しかもあのときは先ほど打ち破った結界が自分と稲葉貴子達とを遮っていた。
しかも、裕子には田中れいなと道重さゆみという負担があった。
だから、貴子の言葉を受け取って裕子はその場を後にすることができたのだ。
本来ならば自分が貴子の場所にいなければならないことは明白だった。
しかし、あのときの貴子が言った言葉は実に素直に裕子の中へと入り込み、裕子はその言葉に従って行動することができたのだ。
(これが、繋がるということか……?)
言葉では言い表すことの出来ない何か、それを漠然と感じながらもどこかではまだそれを否定している裕子がいる。
そんな中途半端なまま、裕子は最後に貴子と話をした五階まで移動した。
そこには全く何も存在しないようだった。
その証拠に裕子が足を踏み入れても物音一つしない。
異様な静寂の中をゆっくり歩き、瓦礫が散乱した廊下を慎重に進み、裕子は目の前に転がっていたそれを目の当たりにして立ち止まった。
「……貴子?」
呟いたところでこの場には裕子一人しかいない。
それでも裕子は呟くことで自分が何を考えていたのかを理解し、それまで否定していた考えを受け入れた。
最後に話をした貴子には絶望感が全く無かった。
しかし、それは貴子がそれを寄せつけていなかっただけで、この場にはそれが蔓延している。
ひしひしと伝わってくるそれを裕子は素直に感じ取ったが、貴子はそれに最後まで立ち向かった。
そう、死してもなおだ。
- 45 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:30
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目の前に転がっていたのは稲葉貴子の左腕。
肩からばっさりと切断されたそれは傍から見れば玩具の類だと見間違えてしまうように、そこに転がっていた。
少し先には大量の血液がまるで水溜りのようにしてあり、その横には何かを焼いた跡があった。
緩慢な動作でそれに近づく裕子。
床に転がった左腕がより近くに見えるが、それは裕子が膝をついただけで決して左腕が元に戻ったわけではなかった。
その左腕に手を触れ、ゆっくりと持ち上げる。
その際に手首に嵌められたブレスレットが軽い音を立てたが、それを裕子は聞いていない。
ただ、その左腕がやけに軽すぎることだけを感じ取っていた。
「そうか……残ったのはこれだけか」
出てきた言葉があまりにも現実的では無いが、裕子はそれをそのままの意味で受け取る。
なぜならばここは非現実的な世界で、その中へ覚悟を持って進んだからだ。
『違うで、裕ちゃん』
返ってくるはずの無い言葉が返ってきて裕子は驚いて顔を上げる。
目の前にあったのは瓦礫の散乱した廊下で、それはこれまで歩いてきた。
そして、その先に稲葉貴子が立っていた。
「……貴子?」
『そう、ウチは稲葉貴子や』
揺らいでいたのは周囲の空気が揺らいでいたのか、それとも裕子の目に水が溜まっていたからなのかを判断することができないまま、裕子はいるはずのない貴子を見上げる。
『ウチはこれまで、何をしたいんかよう分からんかった。せやけどな、あいつが……田中が教えてくれた。言葉で言ってくれたのもあるが、あいつは自らで行動することによって示してもくれた。せやから、ウチはそれを心で感じることができたんや』
揺らぐ貴子の顔が笑う。
それは裕子の知っている迷い、戸惑い、そして、取り残されていたときの貴子ではなく、すっきりとした別の人間のように見えた。
その貴子の顔を見ながらも裕子は何も言えない。
ただ、何かを感じるだけだった。
- 46 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:31
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『ウチが心で感じたことを無理やり言葉にするなら、守りたいもんがあるっちゅう程度のもんや。せやけど、それを知ったことでウチはすっきりすることができた。それまで蟠っていたいろんなもんが一気に解けて、流れていったんや』
目だけで分かるかと問いかけられたような気がして、裕子は小さく首を横に振る。
貴子の言っていることが良く分からないわけではない。
ただ、それに同意できないだけだ。
「これまで、私は私にできることをしようとした。その気持ちが揺らいだことなど、一度も無かった。でも……それでも、事態は私を置いて先に行ってしまう。それが、悔しかった」
自分にできることは自分を媒体として再びこの世界へと戻ってしまった平家みちよを、この手で再び消し去ることだった。
しかし、その裕子の努力は空回りをするだけで、文字通り取り残されることになった。
自身と繋がっていたはずのみちよからは用済みだと宣告され、ミカとアヤカという不確定要素まで入り込んだ。
その中で感じたのはもはや三年前のように研ぎ澄まされた自分ではなく、完全に錆びつく別の自分だった。
『せやけどな、それでも裕ちゃんは裕ちゃんや。素直に受け止めんといかんで』
ゆっくりと貴子が近づいてきて手を伸ばしてくる。
その伸ばした手は確かに裕子の頬に触れていたが、感触は無い。
だが、声だけは近くで聞こえてくる。
『人が変わろうとするのに時間は必要無い。ただ、気づけば良かったんや。これは奇術師の言う根源なんかやない。それとは全く別の自分のための、自分だけの価値や』
離れた貴子が背を向けて歩き始める。
離れていくたびに薄れていく貴子の後ろ姿を見て、裕子は問いかけた。
「私は、そんなに素直じゃないのかな……?」
『自分のことは自分がよう知っとるやろ?』
振り返らずに答える貴子。
だが、それだけで充分だった。
ついていた膝を離して、埃を払いながらゆっくりと裕子は立ち上がる。
それから貴子に向かって素直に言った。
- 47 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:31
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「ありがとう」
背を向けたまま貴子が右手を軽く上げる。
その仕草がいかにも気障ったらしく思わず笑ってしまった裕子だったが、それに対して貴子が何も言わない。
そして、貴子だった何かは消えた。
「そうか、そうだったんだな……」
一人になった裕子だったが、それまでの張り詰めた感覚はすでに無くなっていた。
軽くなった身体をわずかの間だが見下ろし、そこから視線を上げる。
目の前には瓦礫の散乱した廊下があるだけで、他には何も無かった。
だが、それでも裕子は構わなかった。
それまで漠然とした疑問を感じつつ、それに流され、必要以上に自分を殺してきた。
その最たる例として自身の口調を変化させ、他人に自分の考えを読まれないようにすることだった。
ただ、それも結局は自分自身に自信が持てなかっただけで、周囲を怖がっていただけだ。
「そうか、そうやな……ウチは中澤裕子や」
自然と出てきた言葉が全身に巡るのを感じ、それはすぐさま裕子にある事実を告げてくる。
貴子から受け取った言葉を自分に還元し、自分の言葉として外へ発してみた。
するとどうだろう、身体が軽くなり、気持ちも軽くなったではないか。
そう感じた裕子は、歩き出す前に手にしていた貴子の左腕に自分の想いを伝えた。
- 48 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:32
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触れている部分から燃え始めた左腕はあっという間に全体を炎で包まれ、その形を失っていく。
それはほんの数秒で原型を留めることなく消え去り、残ったのは両手にわずかに火傷の痕を残した自分だけだった。
改めて一人になった裕子はゆっくりと、しかしながら、しっかりと瓦礫の散乱した廊下を歩く。
その頭で少しだけ考えてみた。
兄は絶えず言葉の意味を突き詰め、自身の感覚へと還元した。
だが、それだけでは足りなかったのだ。
言葉の意味だけでは伝えきれないもの、それを貴子が教えてくれた。
廊下の突き当たりは直角に曲がっていて、その先にはドアがあった。
どうやらそこかららしい、それを感じながらも裕子は立ち止まって、先ほどまでいた廊下を振り返る。
「ありがとな、あっちゃん」
本来の自分で、本来の自分の言葉で改めて貴子に礼を言い、そこから視線を外す。
その裕子の耳に貴子からの返事が聞こえてくる。
それを空耳だとは思わず、裕子は再び歩き始めた。
十メートルほどの廊下を歩いて、迷わずドアノブを掴む。
それは何の抵抗をすることなく回り、裕子を中へと誘っている。
だが、今の裕子がそれに逆らわなければならない理由は無かった。
だから、そのまま足を踏み込む。
そして、中にいた彼女へと静かに言い放った。
「そろそろ終わりにしようや、ミカ」
すでに怖いものは存在していない、このときの裕子はそれだけを確信していた。
- 49 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:32
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- 50 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:33
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彼女にとっての関心は、つまるところ一つしかなかった。
だが、それを周囲に話したところで誰かが聞いているわけではない。
それでも彼女は構うことなく、止まった観覧車の上から下を見下ろしながら小さく呟いた。
「大切なのは、この中で誰が死ぬかってことよね」
そう言った瞬間、吹き飛ばされそうなくらいの強風が彼女にぶつかってくる。
が、それを彼女は背中に生えていた翼で遮ると、そのまま観覧車から落ちた。
三十メートルほどの高さから落ちることについて彼女が怖いと感じたことは無く、それは次に大きく羽ばたかせた翼が証明していた。
落下の速度を殺し、音も無くその建物の屋上に降り立つ彼女。
その脇には人が一人通れるほどの穴が開いていたが、そこから彼女が降りることは無かった。
「待つだけで良いってのは、結構退屈だね」
携帯を取り出して時間を確認する。
その際に張られていたプリクラが目に入ったが、そのときの彼女はそれを見事に無視した。
時刻はそろそろ七時になろうとしている。
それを確認した彼女は携帯を収めると、目を瞑って集中することにした。
彼女は見るのではなく、感じることによって事態を把握するのであり、それを有効にするツールも持っている。
だから、そのときの彼女の行動は実に冷静で、冷酷だった。
「さてと……がんがん死んでもらおうかな」
ただ、それをするのは彼女ではない。
勝手に死んでいくのであって、彼女がしなければならない仕事はその後に待っている。
いつもの手順を改めて思い出しながら、彼女はひたすら待つことにした。
- 51 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:33
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- 52 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:34
-
「ようやく揃ったようだな」
周囲の暗闇に溶け込んでいた平家みちよは、そこに入り込んできた異物を感じてすぐさま目を開く。
その視線の先にはみちよにとっては初めて出会う人間が立っていた。
みちよからすればすでに全てを把握したその人間は静かに笑い、みちよに理解不能な言葉を投げかけてきた。
「お久しぶりね、平家みちよさん」
彼女の言葉を理解できず眉を顰めるみちよ。
そして、彼女の言葉を理解してからもその眉が元に戻ることは無かった。
「……どういうことだ?」
気づいたときには抱いていた疑問を素直に口にしていた。
だが、それで笑っていた彼女の表情が戻るわけではない。
それを不快に思ったみちよは知らず知らずのうちに一歩を踏み出していた。
と、笑っていた彼女がそのままの表情で話しかけてくる。
「あなたは知らないだろうけど、私はあなたのことを初めから知っていた。これがどういう意味か分かる?」
彼女の言葉を受け止めしばし考えるみちよ。
しかし、どう考えても結論が出ることは無かった。
「何を言っているのか、分からないな」
緊張していく身体を感じたのはこのみちよにとっては初めてで、直接的な暴力が起こりえないその場所においてそれを感じてしまったみちよはとっさにその右手を彼女に向かって伸ばしていた。
ただ、彼女を直に掴むのではなく、彼女に向かって意識を向けるだけ。
それだけの行為でみちよがしたいことは実現された。
目の前にいた彼女の身体が大きく震え、次の瞬間には身動きが取れなくなった彼女。
その彼女にゆっくりと歩み寄りながらも、緊張した身体が弛緩しないことに苛立ちながらみちよは口を開いた。
「お前、小川麻琴・真琴ではないな?」
確信があったにも関わらず疑問形になったのはそこに立っているはずに人間があまりにも麻琴・真琴に似すぎていたからだ。
いや、外見は麻琴・真琴だったが中身が違う。
そうした違和感がみちよに次なる一歩を躊躇させていた。
- 53 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:35
-
「あの二人なら消えてもらったわ」
そして、あっさりとみちよの言葉を肯定する彼女。
その彼女が唐突に前へと歩いてきたために、思わず近づいていたみちよは大きく飛びのいた。
「なぜ動ける?」
みちよのいる場所はアヤカ・エーデルシュタインによって造られた奇術師における能力を最大限、かつ、有効に引き出すための道具だ。
そして、その道具によって別空間への扉を開くことができたみちよは、作り上げた自分の世界で麻琴・真琴を待っていたのだ。
みちよの疑問に対して、手を口に当てて笑っている麻琴・真琴であるべき人間がゆっくりと口を開いた。
「ここはあなたの空間でしょうけどね、私は私なの。他の誰にも邪魔はさせないわ」
「では、なぜお前はこの空間に入ることができた?あれには、資格が必要なはずだ」
この空間にみちよ以外の人間が到達するには条件が必要で、それをみちよは『鍵を得た人間』として設定した。
みちよにとっての鍵となる人間は小川麻琴・真琴のように一つの身体でありながら二つの思考を持たなければならない。
同じ環境で育ち、同じ状況で立たされ、同じ視点である事象を捉える。
その結果として生じた二つの差異を判断し、あるべき結論を出すのがみちよの結論だった。
そして、その結論がもっとも惨めな場合、最終的にはこの世界ごと消し去る。
それを可能にするのが麻琴・真琴が目にしている存在核だった。
「だけどね、それだと平家道正と同じ道を辿るだけよ」
突然父の名前が出てきたみちよは、目の前にいる彼女がなぜその名前を知っているのかを理解できず、思考が正常に回らなくなる。
わずかなその思考の乱れは瞬く間に全身へと駆け巡り、みちよから冷静さを奪っていった。
それが顔に現われたのか、彼女が自分に対して笑いかけている。
その顔があまりにもむかつくものだったため、みちよは思わず彼女を殴り飛ばした。
あっさりと吹き飛ぶ彼女。
しかし、ダメージは無いようですぐさま横になっていた身体を起き上がらせた。
- 54 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:35
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「あなた達の一族が感じている根源は『虚無』。それがどういうことか、考えたことはある?」
「望めば手に入り、望まなければ手に入らない。私が得た力はそういうものだ」
だからみちよは再び覚醒したあのときに行動をした。
近くにいたわずかな人間達に自分達の望みを叶えられるよう力を与え、その最終的な形を手に入れた。
死につつあった辻希美は極度に結合することを望み、それを実践しようとして挫折した。
ただ、結果はすでに出ていたために、希美が死のうが死ぬまいがみちよには関係の無いことだった。
人と接することを恐れていた柴田あゆみに擬似的な人格を植えつけ、それらを守るためにさらに植えつけた興味本位の三つの守護。
それらが完全に覚醒したのは二度だけだが、その二度だけで満足のいく結果が得られた。
それはみちよにも反映されて、先ほどもその力で稲葉貴子を殺した。
ある特定の人間を自分のものにしたいと望んでいた亀井絵里は、その力を用いてその目的を果たした。
ただ、これは前の二人とは違って直接的な力を持っていたわけではない。
そして、一番致命的だったのがその力を反故にしてまで自分のものにした人間を元の世界へと連れ戻してしまったことだ。
それらの要因があり、絵里の力を吸収することは避けざるを得なかった。
だが、それでよかったのかもしれない。
なにせ、今のみちよはそんな中途半端な状況に置かれているわけではないのだから。
他にも数人、みちよは望んだ結果を得るような力を与えたが、それらは未だに還元されていない。
力を与えたのは加護亜衣ともう一人。
実際にはさらにもう一人接触しているが、その人間からは拒絶されてしまった。
そんなことを思い出しながらも、それをしたところで結果が覆るわけではないことに気づき、みちよは目の前の彼女を改めて見る。
彼女は笑ったままその場に立ち、みちよを見ていた。
- 55 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:36
-
「私がこれからしようとすることは、間違えではない。それは私に与えられた使命であり、私にしかできない特権だ」
「でも、その前提が間違えだとしたらどうする?」
即座に返ってきた彼女の言葉に言葉を詰まらせるみちよ。
なぜ明確な意志を持ちながら躊躇ってしまったのか理解できなかったのは脳だけで、その身体は彼女の言葉を受入れた理由をどこかで理解していた。
「平家道正もあなたと同様に一つで二人の人間を使ってこの世界がどうあるべきかを模索した。だけど、それもおかしな話ね。この世界がどうあるべきかなんて明確な方法は出ていないのに、それをしようとしているんだもの。だから、あなた達がしていることは、単なる自分勝手な価値観を押しつけるということだけなの」
「すでに人間としての感情が無くなった私になら、それも可能だ。父のような無様な真似はしない」
父である道正の記憶に触れたのは三年前のあの日。
それと同時に自身の根源の本当の意味に気づいたみちよは、それをコントロールできずに暴走した。
その結果としてみちよは中澤裕子に殺され、二年半という無為の時間を過ごすこととなったのだ。
「だが、それも間違えではなかった。あのまま、私があのまま平家みちよとして存在していたのならば、私はこのことに気づかなかったのだからな」
「私に言わせればそれも単なる思い込みなの。というより、あなた達がしてきたことは全くの無駄。だって、あなたは前も人間だったし今も人間、そして、これから先も人間のまま。そんな中途半端な状態では、あなた達のしたいことは絶対できやしないわ」
なぜそうだと分かる、そう返そうとしたみちよは言葉が詰まっていたことに気づき、その言葉をそのまま飲み込む。
頭の中では目の前にいる得体の知れない何かの言葉がずっと回っていて、それまでのみちよの行動を振り返らせていた。
自分がしてきたことは何なのか、自分が目指してきた本当の目的は何なのか、それが頭の中で改めて浮かびみちよの中で具体的な像を結んだ。
- 56 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:37
-
「『人間の限界が知りたい』でしょ?」
自分がこの世界へ戻ったきっかけである裕子に向かって言ったその言葉、それが彼女から口からタイミング良く出てきて、みちよは驚いて彼女を見る。
ただ、彼女はそんなみちよの表情に構うことなく、淡々と続けてきた。
「だけど、あなたは周囲へ望む力を与えていくうちにそれを自分の力だと勘違いするようになった。自分がまるで神様にでもなったかのように。まあ、一部はあなたの中に還元されたのだから違ってはいないでしょうけど、それでもイレギュラー要素はあった。例えば、亀井絵里とかね。彼女の力は消し去るだけなのに彼女はそれと相反する力を顕現させてしまった。それを素直に力として吸収しておけば良かったのに、何を思ったのかあなたはそれをしなかった。理由は簡単、あなたが望んだ結果にならなかったから」
出てくる言葉は全てみちよにしか知りえないことなのに、彼女はそれをまるで自分のことのようにすらすらと言ってくる。
それを聞きながらみちよは何も言い返せない。
彼女が話すそれらは全て真実であり、みちよが考えていたことが全て表れていたからだ。
「私に言わせればね、あなた達はいつも他力本願で支離滅裂なのよ。自分では分からないから外へと放り出す。そして、その放り出した結果で満足のいくものだけを回収して、それを自分の力だと勘違いする。それなのにあなた達は人間がどうあるべきかといった大層なことを謳って、それができると信じている。だから、あなたも中途半端だしあの男も中途半端なのよ」
「……では、私達以外にそれができるものはいるのか?」
自分の存在のみならず平家という一族全て、もしくは人間全てを否定されたような気がしたみちよは知らないうちにそう問いかけていたが、それを言った後で問うべきものではなかったと後悔する。
なぜなら、その問いにもし答えでも返ってきたら、それは自分の存在意義が無くなることに他ならなかったからだ。
そして、彼女にはそれをしてしまいそうな雰囲気があった。
- 57 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:38
-
「当たり前じゃない。だから私がここにいるの。中途半端なあなた達から完全に切り離されて独立した私。それだけを目的に生み出された私を、あなた達は越えることはできないわ」
「……お前は一体、何だ?」
このときになってようやくそれを問いかけていなかったことに気づき、口にする。
目の前にいるのは人間ではなく別の何か。
それを本人の口から確かめなければならない、そう思ったみちよの口が意志とは関係無く動き、確証を得ようとした。
「私は精神的な使い魔だと位置づけられてるわ。だけど、それは通常の使い魔のように使役されることを目的としていない。私に課せられた目的はただ一つ。あの男が介入しようとしたことに対する私だけの自己完結。つまり、あなたがこれからしようとしていることよ」
「お前が私の代わりだと……?」
「でも、これは正確ではないわ。だって、私は二十年以上それだけを目的として存在していた。あなたがそれをしようと決めたのはここ半年のことよ。年季からして違う」
それまでの軽い口調が一転し、真剣になった彼女がみちよを見据えてくる。
その視線が全否定を全否定として伝えてくるが、それでもみちよは彼女に向かって問いかけた。
「ならば、私がしてきたことは何だ?なぜ、私はお前と同じ道を辿ろうとしたのだ?」
「簡単なことよ。それだけを目的として存在した道具の私と、途中からそれを目指した人間のあなた。どちらが優れているかを確かめたかったんでしょうね、あの男は」
父の考えていたことは一切理解できずに、理解したくも無かったあのときの自分。
それはこうして再生したみちよの中でも生き続けていたが、それでもみちよは父と同じ道を辿ってしまった。
だが、先を歩いていた父は自身がしたことをさらに加速させ、こうしてみちよとは関係無い別の方法を導き出した。
それが、みちよには気に入らなかった。
- 58 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:39
-
「だが、私はお前を使って為すべきことをする。道具は道具らしく使われろ」
その言葉で自分がされたように父の全てを否定して、みちよは彼女を睨みつける。
しかし、このときのみちよに彼女を支配できるような力は無かった。
いや、元々彼女はみちよに支配されるためにここへ来たのではない。
それを忘れていたみちよは、それでも彼女を支配できると信じきっていた。
そして、それを彼女が一蹴する。
「馬鹿じゃないの?何で私より劣っているあなたに私が使われないといけないの?あなたは私を使ってこれからその判断をする。だけどね、私はすでに結論を得ているの。あなたはまだスタートラインにも立っていない、私はすでにゴールラインを過ぎた。あなたと私の差って、これくらい離れてるのよ」
しかし、このときのみちよはすでに彼女の言葉を聞いていなかった。
ただ、自分がしたいことを拒否するのならば、無理やりにでも分からせるだけだ。
そう思ったみちよはわずかに膝を曲げて、それを伸ばす。
距離にして五メートルほど離れた彼女がみちよのそのわずかな動作で零になり、みちよは彼女に向かって右手を突き出した。
だが、それよりも早く彼女の口が開き、みちよに対して決定的な言葉を投げかけてきた。
「あなたはまだ、分かっていない。なぜ、私が存在核を見ることができるのかを」
眼前にあった彼女の顔が少しだけ歪んで、それが笑っていることを示してくるが、みちよの手はそれで止まることは無かった。
そして、みちよの手が彼女の胸を突き破り……そのまま彼女を通り抜けてしまった。
- 59 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:40
-
「なん……だと?」
一度ついた勢いを殺すことができず、また、何が起こったのか理解できなかったみちよは、彼女から離れていく感覚を味わいながら、彼女とすれ違った瞬間に訪れた決定的な何かに身を任せる。
というよりもそれは強制的であり、それにみちよは抗うことはできなかったのだ。
『私が見ているのはそれを構成している根源そのもの。だけど、この場において私はそれを見ていなかった。つまり、あなたの存在そのものが無かったの』
耳からではなく脳に直接語りかけてくる彼女に対して反論をしようとしたみちよは、声を出して声が実際に出ていないことに気づく。
思考が統一されずばらばらになっていくのを感じながら、みちよはただ何となくだが考えてみた。
(私がこれまでしてきたことは、何だったんだ?)
自分にあった目的も、これからしようとしていたことも、結局は他人の後追いで、しかも、他人よりも劣っていた。
その事実がこうしてみちよ消し去ろうとしている、それは確実だった。
『あなたのしてきたことは、全部無駄。つまり、あなたには存在する価値すらなかったのよ』
無情にもそう告げてくる声にみちよが抗うことはできない。
ただ、事実を事実として受け入れるが、それでもみちよにとっては不本意だった。
(私は、私として在った現実を消しはしない)
強くそう念じることができたのは、あまりにも彼女が傲慢だったからかもしれない。
だが、それを念じたみちよはそのようなことに考えが至らなかった。
自分が存在したという証拠をどこかに残したい、それを薄れいく意識でひたすら念じ、次の瞬間、身体が浮いたような気がした。
ただ、このときにはすでにみちよの身体自体は消えてしまっていて、感覚だけが飛翔していくだけだ。
(それでも構わない。私が私であった、その証を……)
最後にそう強く念じ……
平家みちよはその世界からいなくなってしまった。
- 60 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:40
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――――――――――
- 61 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:41
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事実を事実として伝えるだけで、こうも人は弱くなる。
そして、それを受け入れる強さが無ければ、あっさりと消え去りもする。
「ほんと、人間って間抜けな生き物ね」
目を開いた彼女の視界に入り込んできたのは中途半端な暗闇。
それは平家みちよが構成した、みちよの世界だった。
だが、その世界の主も消えてしまい、この空間も残りわずかな命。
その証拠に、遠くから致命的な音が聞こえてきて、それがだんだんと近づいてきている。
「ようやく、見えてきたわ」
しかし、このとき彼女が見ていたのはそんな見る価値の無い暗闇ではなく、彼女にしか見ることのできない、最終的な結論。
それは人が一人通れるくらいの穴だった。
そこを降りていくことができれば、彼女は目的を達成することができる。
そう思った彼女は、ゆっくりと歩いてその穴へと近づく。
だが、穴はまことが歩いたのと同じ距離だけ離れてしまった。
「まだ、私には無理なのね」
分かりきってはいたが、彼女がすべき最後の目的がそこにあればつい手を伸ばしてしまう。
ただ、今回の場合は足だったが、それでも結論が変わることは無いようだ。
「私にはまだ、無駄なものが多い。それを綺麗にして、私独りにならなければ……」
致命的な音は彼女の耳にガラスの砕ける音として入り込んでくる。
それでも彼女がその場から動かなかったのはそうしたところで穴が近くになるわけでもないし、この崩壊から逃げれるわけでもない。
それに、この崩壊は彼女にとっては何ら意味の無いことで、ただ、身動きが取れないだけだから待っているだけだ。
「必ず、そこへ行くわ」
そう呟いた彼女だったが、だからといって穴が近づいてくるわけでもなく、彼女は目を閉じて空間が完全に消え去るのを待つことにした。
- 62 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:42
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 63 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:43
-
ミカ・エーデルシュタインと対峙しても、中澤裕子は何も感じなかった。
いや、感じることがたくさんあり過ぎてそれらの一つ一つを的確に言葉へと置き換えることができない。
だから、それをすることを諦めてしまったのだ。
裕子が足を踏み入れたその部屋はやたらと広かった。
調度品の類が一切置かれていないということが理由の一つに挙げられるのだろうが、裕子にしてみればそれもほとんど関係ない。
「ようやく、三年前のあなたに戻りましたね」
「……今のウチを見て、よくもまあ三年前と同じやと言えるな」
悠然と構えているのだろうがそのミカから出てきた言葉はあまりにも今の裕子とかけ離れていたため、げんなりとしながら裕子は答える。
それから隣に立っている紺野あさ美へと視線を送ってみた。
あさ美を視界へと収めた瞬間、裕子の中へそれまでと違ったある感覚が流れ込んでくる。
それはあさ美を構成していた根源であり、研ぎ澄まされた今の裕子にはそれがこれまでにないくらいそれが鮮明に見えた。
そして、それはすぐにある一つの結論へと辿り着いた。
「紺野は死んでへんな」
裕子に流れ込んできたのは混乱したあさ美の意識であり、そうなってしまった原因までが鮮明に見えていた。
それを言葉にすれば先ほどの一言に集約され、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「よく、それに気づきましたね」
どうやらミカもそのことにはあまり拘っていないのか、裕子の言葉をあっさりと認めてきた。
ただ、立ったまま手を前へと出す。
その手には拳大の黒い球体が握られていた。
「私が使役する使い魔は人間をベースにします。ただ、私の意のままに操ろうとすれば、その人間だったときの感情が邪魔になってしまいます。ですが、その感情を完全に消し去ってしまうと、その使い魔は単調になってしまうのですよ」
「……」
声高に話し始めたミカに視線を合わせたまま、答えない。
なぜならば、ミカの話していること自体が間違えだと確信できていたからだ。
- 64 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:44
-
ミカの元から逃走したアズラエルは『喰らう』ということだけを目的に行動するはずだった。
だが、なぜか日本で最初に遭遇した保田圭だけは喰らうことを拒否していたのだ。
つまりは、そういうことだった。
「ですから、今度は使い魔が使い魔であることを認識しないよう、力だけを植えつけました。その結果として記憶が混乱してしまったようですが、それも全て計算済みです。使い魔は使役者に対して異常なまでに信頼を寄せる。あさ美さんもその例に洩れることはありませんでしたね」
「分かった、もうええわ」
ミカの声が煩わしくなり、そう短く遮った裕子はゆっくりと一歩を踏み出す。
目指すはもちろんミカだけで、あさ美は関係ない。
そんな裕子の意図に気づいたのか、ミカが持っていた球体を少しだけ撫でる。
すると隣にいたあさ美が裕子と同じくゆっくりと歩いてきた。
そして、裕子とミカを遮るようにして立ちふさがった。
「これは最高傑作です。稲葉貴子もこれには成す術もありませんでした。あなたならどうしますか?」
「うるさいな……」
甲高いミカの声を聞き流そうとするが、それは執拗以上に裕子の中へと入り込んでこようとしてくる。
まるで、その声にミカの全てが込められているかのように。
ただ、それはどこまで行っても単なる声であり、それ以上の価値は持ち得ない。
懐からピースを取り出し、いつもの手順で火を点ける。
思い切り吸い込むのと同時にそれまでろくに感じることのできなかった新鮮な感覚が裕子の中へと広がっていく。
ほんの数時間前には味わうことの出来なかったその感覚に酔いそうになりながらも、裕子は目の前のミカとあさ美を見据える。
それからの行動は実に迅速だったが、同時にそれは単純なものだった。
あさ美の後ろにいるミカが何やら叫んだが、裕子はそれに耳を傾けることなく前進を続ける。
あさ美との距離はゆっくりだったがあっという間に縮まり、あさ美は手にしていたナイフを裕子へと突き出してきた。
ピースを銜えたままの裕子は突き出されてきたナイフを冷静に見据え、そのナイフに合わせるように左手をナイフと自分の間へと割り込ませる。
- 65 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:45
-
音は聞こえなかったが、周囲にはそれが聞こえていたらしい。
それはミカの表情を見れば分かることだし、手のひらを突き破って飛び出していたナイフの刃で一目瞭然だった。
ただ、裕子には刺されたという感覚は無く、まさしく他人事のようにそれを見下ろすだけだ。
視界の隅にあったピースの先端に灰が溜まり、それが首をもたげている。
それを見た裕子は優雅な手つきで銜えていたピースを取り、指先で軽く突いてそれを落とした。
それからゆっくりともう一度銜え直す。
その間にあさ美は持っていたナイフを離して、裕子から少しばかり遠ざかっていた。
「なぜ、そこまで冷静なのです?」
それを問いかけている本人はどうやら冷静さを欠いているらしい、そう思った裕子はなぜ自分がこれほどまでに落ち着いているのかを思案して、すぐに結論を出した。
「なあミカ。あんたから見て、今のウチはどう見える?」
三年前と同じだと言ってきたミカに対し、皮肉るように聞く裕子。
しかし、それに対してミカから明快な答えが返ってくることは無かった。
それもそうだろう、ミカが知っている三年前の中澤裕子など見かけだけに過ぎない。
その本質を知っているのはほんの一握りの人間だけ。
それこそ稲葉貴子に平家みちよ、そして、兄である中澤祐一の三人くらいだろう。
「これまでウチは、誰よりも強くあろうと思った。せやけど、結果はいつもついてこない。いつだってウチは弱いだけで、自分勝手な人間やった」
淡々と言葉が出てくるのは自分がそう振り返っているから。
三年前の自分は絶えず結果だけを求めて、与えられた任務に忠実にあろうとした。
ただ、裕子にできることと言えば対象を壊すことだけで、それ以外の方法を取ることができなかった。
相手が物であれば純粋に破壊するだけであり、相手が人間であれば殺す。
そんなことを繰り返しながら同時に繰り返してきた問いかけ。
- 66 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:46
-
『自分がしていることは正しいのか』
その問いかけを発するきっかけになったのは、紛れも無く兄である祐一が発し続けてきたさまざまな言葉だった。
裕子にとって理解不能な問題を常に考えてきた彼の言葉は、裕子の中で生き、咀嚼されて裕子の言葉として還元された。
それがようやく見えてきたのだ。
「三年前のあの日、ウチが失ったんは平家みちよに稲葉貴子っちゅう親友で、得たのは自身の根源に対する絶対的な認識やった。ウチは壊すことでしか自分を保てない、それをすることでしかウチは相手を理解できない。そう思った」
その根源を意識した結果として裕子はみちよを殺すことになり、それを恐れるあまり、生き残った貴子すらも遠ざけるようになった。
つまるところそれはそれまでの繋がりを拒絶することであり、独りの殻へと閉じこもる行為だ。
そのときの裕子はそれを信じて疑うことは無く、それを忠実に守った。
だが、それでも人同士の繋がりが完全に消えることは無かった。
ひょんなことから知り合ってしまった小川麻琴・真琴に高橋愛、そして、紺野あさ美。
彼女達と関わり合いを持つことでそれまで拒絶していたものが再び繋がってしまい、裕子は独りではなくなった。
田中れいなは自分のことを師匠と呼び、こんな自分を慕ってくれた。
裕子がしたことと言えばれいなが持っていた特別な力を方向づけただけで、それ以上のことは何もしていない。
それでもれいなは裕子の生き様を見て、師匠と呼んでくれた。
「つまり、そういうことや」
すっかり短くなってしまったピースを吐き捨て、改めてミカを見る。
自分の中では完結したが、それはどうやらミカには伝わっていないらしく、それを表情で確認した裕子は刺さっていたナイフを抜きながら言うことにした。
「繋がるっちゅうことは決して悪くは無い。せやけど、それを言葉で確認しようとするのは、どだい無理な話や。言葉では表現しきれんたくさんなもんがあるからな」
目の前にいたあさ美が自分の前で右手を突き出してくる。
それは何かを切るような仕草で、実際、当たっていなかった裕子はそれで何かを切られた。
だが、その程度で裕子が怯むことは無かった。
- 67 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:47
-
「こんな見かけだけで切り離せたとしても、繋がりが消えることは無い。それを、ウチは知ることができた」
なおも右手を突き出そうとしてくるあさ美に近づき、首の後ろを軽く叩く。
極限までセーブした力だったが、それだけであさ美が崩れ落ち、そのあさ美を裕子は抱きとめる。
呼吸は正常で怪我をしている様子は見られない、それを確認した裕子はあさ美をゆっくりと歩いて部屋の隅へ寝かせた。
「さて、そろそろ始めよか」
あさ美を寝かせて戻ってくるまでミカは動かなかったようだ。
だが、これは自分から動こうとしなかったのでなく、動きたくても動けなかったようなのだとその表情から読み取る。
それもそうだろう、なにせ信じきっていた力があっさりと無力化されてしまったのだ。
ゆっくりと歩く裕子をミカはまるで幽霊でも目にしているかのような表情をしている。
ここがどういった趣旨で建てられているのかを考えればそれも面白いのかもしれない、そう考えた裕子は次にすることをぼんやりと頭の中で思い描いた。
(ここでウチらが争えば、眠っている紺野にも被害が及ぶ。せやからどこか別の、ウチらだけになれる場所へ……)
そう強く思った瞬間、裕子の奥底で何かが弾けた。
それは祐一の言葉であり、みちよの言葉。
そして、貴子の言葉であり、れいなの言葉であった。
それらが渾然一体となって裕子の中で別の何かへと変じる。
それは、これまで裕子が感じていた根源である『破壊』とは無縁の、全くの別物だった。
「ウチかて、やろうと思えば何でもできるんやで」
ゆっくりとミカに近づくが、このときのミカは後退することも前進することもしなかった。
ただ、裕子が近づいてくるのを待つだけで、そこには怯えのような表情があるだけだ。
自分が信じていたものがあっさりと打ち砕かれ何を信じたら良いのか分からない、ミカの表情からそれを読み取った裕子は手を伸ばして、ミカの持っていた球体にそっと触れた。
- 68 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由11 投稿日:2005/05/04(水) 10:48
-
ミカが手にしていたその球体は、裕子が触れるのと同時にあっさりと砕け散る。
その直後、背後にいたあさ美の身体が大きく跳ね上がったが、裕子はそれを目視で確認することは無かった。
「あ、あなたは何をしたのか、分かってるのですか?」
「分かっとるで。これで、紺野も自由や」
恐らくその球体がミカとアヤカの植えつけた種の結果であり、それがミカの手元にある以上、あさ美が自由になることは無い。
だから、裕子はそれを壊したのだ。
「不用意にそのようなことをすれば、どういった結果が生じるか、あなたでも分かるでしょう!」
「さぁ、知らんな」
怯えたまま続けてきたミカにさらりとそう答え、裕子は伸ばしていた手でミカの肩を優しく掴む。
恐らく、今のあさ美は制御を失ってしまい、次に目覚めたときには暴走するだろう。
ただ、その暴走がどういった方向で表れるのかは裕子にも分からない。
「せやけど、それを直すのはウチらの役目やないからな」
暴走したあさ美を元に戻すのは裕子やミカの役目ではない、別の人間の役目だ。
そして、裕子の予想が正しければ彼女達もそろそろやってくるだろう。
だが、それもこのときの裕子にしてみれば関係の無いことだった。
「ウチらにはウチらでせんといかんことがある。せやからな……」
何をすべきかを軽く念じるだけで結果はすぐに表れた。
周囲の空気が歪んでいくのと同時にミカの歪んでいた顔がもっと歪む。
それがおかしくて笑った裕子だったが、掴んでいた手に力を込めることだけは忘れなかった。
極限まで歪んだミカの顔に自分の顔を近づけて囁きかけた。
「一緒に行こうで」
ミカの目に水が溜まったようだったが、裕子がそれを止める術を持っているわけではない。
たとえ持っていたとしても、それをわざわざミカのためにすることもない。
そして、中澤裕子はミカ・エーデルシュタインと共にそこではないどこか別の場所へと移動してしまった。
- 69 名前:いちは 投稿日:2005/05/04(水) 11:02
- 更新しました
誰が主役だかよく分からなくなってきました
>>35 通りすがりの者さん
今回もかなり危険なところばかりでした
次回もかなり危険になると思います
次は「想いのなかの迷い、それから得る自由12」です
それでは
- 70 名前:名無し読者。 投稿日:2005/05/11(水) 06:58
- 更新お疲れ様です
遅くなりましたが新スレおめでとうございます
毎回読むのが怖いけど でもこの緊迫感、展開がすごく気になって読まずにはいられません
次の更新も楽しみです
- 71 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/05/11(水) 11:24
-
想いのなかの迷い、それから得る自由12
- 72 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:24
-
一瞬の油断が致命的なミスへと繋がる。
そんなことをまざまざと思い起こさせるタイミングで自分の指示と違う方向へ曲がった運転手に対し、吉澤ひとみは思わず叫んでいた。
「ちょっと安倍さん、そっちは違います!」
「へっ?」
ただ、それはあまりにも遅すぎてひとみが叫び終わる頃には、すでに赤いキャロルは左に曲がり終えていた。
「さっき左って言ってなかったべか?」
「……五回くらい右って言いましたよ」
慌てた声でそう聞いてくる運転手――安倍なつみだったが――に力無く答えるひとみ。
彼女を見てみるとおろおろとしているのが一目で分かってしまい、それを責めるのもどうかと思ったひとみは前を見て凍りついた。
「料金所って初めてなんだよね」
「……」
何も言わないことにしたひとみはしばらく黙ることにして前を見据えることにする。
極端に車の数が少なくなったのは曲がった先が高速道路の入り口であり、なつみも引き返し方が分からなかったためにすんなりとそこを通り抜けてしまったのだ。
本線に合流してすぐに前を見据えると決めたひとみはそれを破って視線を横へと向ける。
そこにはやたらと大きな病院みたいな建物が立っていた。
「私達が向かってるのは、あそこなんですよね」
「あぁ、そうだよ」
後ろに座っている亀井絵里から声をかけられ、それにひとみは答える。
ただ、普段通りに答えることができたかどうかは不安だった。
- 73 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:25
-
何を焦っているのかはひとみ自身にも分からない。
それは以前までのひとみが置かれていた異常な状況と、それを忘れさせるくらいのここ数日の平和ぶり。
だが、ひとみの知らない場所では確実に事態は進行していて、下手をすると取り返しのつかないことになりかねない、そんな焦燥に駆られていた。
「絵里は大丈夫?」
自分よりもはるかに多くの何かを感じ取る絵里のことが心配になり、後ろを振り返って聞いてみる。
周囲の暗闇に絵里の顔が溶け込まないでいたのは、ひとみがそう強く想ったからで、周囲が明るくなったとか、絵里の顔が光ったからというわけではない。
「大丈夫です。でも……」
ひとみと同じようにその建物を見ていた絵里が、一度言葉を区切って息をする。
そして、後を続けた。
「何か、嫌な予感がします」
「……あぁ、そうだね」
絵里の固い声を聞いて、ひとみは後部座席に移動しようかどうか本気で悩み、唸り声を上げる。
その唸り声になつみが肩を飛び上がらせていたが、そのことに気づくひとみではなかった。
- 74 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:25
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 75 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:26
-
「よし、行くか」
古いシビックから降りた田中れいなの父、田中仁志はどこか楽しそうだった。
いや、実際楽しかったのかもしれない。
木刀を肩に乗せて意気揚々と歩いている彼の後ろ姿を見ながら、高橋愛は胸にかかった違和感の元を握りしめた。
愛が握ったのはここへ来る前に仁志から渡された銀の板で、これと同じ物を先に歩き始めた新垣里沙と道重さゆみの二人も首からぶら下げている。
仁志曰く『あらゆる危険からその身を一度だけ守るお守り』だそうだが、愛の目からすればそれは何の変哲も無い単なる板に過ぎなかった。
ただ、この場には仁志を除いて四人いて、最後の一人である田中れいなにはその板は渡されていない。
理由はいたって簡単で、その板が三枚しかなかったからだ。
だが、れいなはそんな仲間外れな状況にも不満を漏らすことなく、さゆみのすぐ隣を歩いている。
その様子がお姫様を守っている騎士のように見え、愛は状況が状況ならば微笑ましくそれを見ることができたのにと心の中だけでため息を吐いた。
しかし、そんなリラックスのできた時間はほんのわずかだった。
前を歩いている仁志がふと立ち止まって上を見上げている。
それにつられるような形になって見上げた愛は、そこでようやく目の前にそびえるその建物を視界へと収めた。
(なんでこんなに気持ち悪いんやろ……)
わずかにライトアップされていたのは周囲の光がここまで届いているからであって、決して自らが光っているわけではない。
だが、それでもそのとき愛はその建物が自分でその異様な光を周囲へ解き放っているのだと確信できた。
「愛ちゃん、大丈夫?」
気がつくと少し前を歩いていた里沙が立ち止まって振り返っている。
心配そうなその顔を見た愛はそんな里沙に対して偏った気持ちを抱いたが、このときはそれを最大限に自制することによって表に出すことは無かった。
- 76 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:26
-
「あーしは平気、里沙は?」
「気持ち悪いのはずいぶん前に通り越したから大丈夫」
にっこりと笑いながら答えてきた里沙に対し何をどう指摘すれば良いのか分からず、愛は一度だけ小さく首を縦に振った。
それがどういった意思表示なのかは分からないが、このときの里沙はそんな愛にもう一度笑いかけて再び歩き始める。
その里沙の後ろ姿を愛は慌てて追いかけた。
「さてと……ここからか……」
一番手で中に入ったのは仁志で、その後を追うように愛達も続く。
ただし、愛を含めた四人はそのあまりの異様さに入った直後にその足を止めてしまった。
入ったすぐのところはロビーのような感じでかなり広い。
ただし、その場所全体を照らす光は無く、非常口を示す緑色の光がわずかに点っていただけだった。
だが、これは先ほど来たときとほとんど変わっていなかったため、愛はその景色はすんなりと認めることができた。
愛が動けなかったのはそれとは別の理由があったからだ。
(ほやけど……空気が違う)
まとわりついてくるそれが先ほどよりも冷たく、そして、尖っていることを肌で感じ、愛は厚着をしているのに震えてしまう。
それは純粋にこの状況が怖かったからで、震えて自分を認識でもしなければその中へとあっさり飲み込まれてしまうと感じたからだ。
横にいる他の三人もそれは同じようで、動けないでいる三人のうち愛は里沙へと話しかけた。
「里沙、どこか変わっとる?」
薄暗いとしか感じ取れなかった愛だが、里沙ははっきりとその違いが分かるのだろう。
しばらく首だけを動かして辺りを見ていた里沙は、ゆっくりと手を上げてある方向を指差した。
「あそこの階段が少し、おかしくなってる」
里沙の指した先には上へと繋がるであろう階段があり、その直前まで愛も里沙も行った。
だが、その先へは行くことができず、引き返さざるを得なかったのだ。
あのとき、降りてきた中澤裕子に止められ、また、先へと進もうとした里沙も見えない壁のようなものに弾き飛ばされてしまった。
そして、今はその壁のようなものも消えているようだ。
- 77 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:27
-
「たぶん、中澤さんが行ったんじゃないかな」
「そうなん?」
同じようなことを考えていたのか、里沙にそう指摘された愛は曖昧に答える。
だが、それ以上に言葉では言い表すことのできない感覚が何かを愛に訴えかけていた。
(絶対、この上に麻琴とあさ美がおる)
確信と言って良いのか分からないが、そう思ってしまったのだから仕方が無い。
そんな変な感覚と共に一歩を踏み出した愛に、すでに数歩先を行っていた仁志が立ち止まる。
同じタイミングで自分とは逆のことをしてきた仁志に対して愛は何かを言おうとしたが、それよりも先に仁志が肩にかけていた木刀を下げるほうが早かったため、結局愛は何も言えなかった。
そして、仁志とれいなが言葉を発するのはほぼ同時だった。
「ようやくお出ましか」
「親父っ!」
前では静かに言い後ろでは叫んでいるこの親子がどう似ているのかは分からないが、強いて言えば、愛には感じることのできない特別な何かを感知できるということだろう。
ただ、仁志はそれを冷静に受け取り、れいなは激昂しながら受け取っただけのことだ。
そう感じた愛は、次の瞬間に出てきたそれを見て、それまでの考えを消し去ってしまった。
というよりも頭の中から消し飛んでしまったと言ったほうが適切だった。
「この程度の演出では、客は喜ばんな」
仁志が静かに言いながら持っていた木刀を構えるが、愛にとっては充分すぎるほどの演出だった。
愛達が向かっていた階段から降りてきたのは、血塗れになったパジャマを着た男やら、腕を失った女、それに脳が半分ほど零れ落ちている赤ん坊などなど……
その建物の本来の役目を果たすべきであろうそれらがぞろぞろと降りてきたのだ。
次の瞬間、愛は腕に衝撃を感じて慌ててその身を強張らせるが、見てみると隣にいた里沙がしがみついているだけで、お化けでも何でもない。
里沙の震える肩を抱きしめることでそれを意識した愛は、外すことのできなかった視線をようやく外すことができ、その勢いで逃げる場所を探す。
そして、それはあっさりと見つかった。
- 78 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:28
-
「れいな、お前は三人を連れてあっちに行ってろ。俺一人で充分だ」
ちょうど良いタイミングでそれを告げてきた仁志が指した先は愛が見ていた先と同じで、そこには受付カウンターのようなものがあった。
事実、そこは受付のようで、細長いカウンターの上には何やら書類が乗っている。
ただし、この状況においては無関係だったため、愛はそれから興味をすぐに失ってしまった。
そんな愛の袖を何かが引っ張ってきて、視線を移すとそこにはれいなが立っていた。
「がきさんと高橋さんも早く避難するとよ」
れいなの腕にさゆみがしがみついているのが目に入り、自分達もようやくそれと同じ状況に置かれていることを察する愛。
だが、答えは声ではなく首を小さく縦に振るだけにして、里沙の肩を抱いたまま歩き始める。
声を出せばそれが震えているのかもしれない、震えていなくてもそれをすることによって自分の意志を確認してしまうかもしれない、そう感じたからの行動だったが、このときは誰もそのことを咎めてはこなかった。
移動してみるとそのカウンターは比較的広く、下は空洞になっている。
そこに素早くとは言えないが移動した愛達だったが、れいなが立ったまま恐ろしいことをさらりと言ってきた。
「たぶんグロくなるから、見たくない人は隠れとるっちゃよ」
「うん、分かった」
れいなの声に素直に反応したのはさゆみだけで、愛はそれを引きつった顔で受け止めるしかできなかった。
すぐ下に見える里沙の顔も同じようだったが、彼女は力尽きたかのようにへなへなと床に座ってしまい、立ったままの愛は一人だけ取り残されてしまう。
正確にはれいなも立ったままだったが、彼女とは微妙に距離が開いていたために愛はそれを近くに感じることができなかったのだ。
そんな不安定な状況で愛は何となくだが視線を正面のフロアに定めて、固定させる。
何がどう働いたのかは分からないが、里沙と同じ行動をしなかったということに意味があるのだと割り切り、次に起こることを見定めることにした。
- 79 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:28
-
まず異変があったのはフロアの中央付近にいた仁志で、彼が霞んで消える。
それは周囲の景色と同じになるといった消えるではなく光が弾けたかの感じで、実際、彼の立っていた場所から光が弾けた。
その光はその場からは消えたが、完全に消失したわけではない。
目に焼きつくような線となったそれはあまりにも速く動いていたために、愛の目では追いきれなかったのだ。
その光はようやく階段を降りてきたお化け達へと一直線で向かい、完全なる狂気へと化す。
男のお化けに光の線が触れた瞬間、それは弾けてしまい、跡形も無くなっていた。
しかし、光の線がそれで止まることは無く、次々とお化け達へと触れていく。
たったそれだけの行為で消えてしまうお化け達を愛はぼんやりと見ていたが、それが現実に起こっているのだと認識するには少しばかり時間を要した。
もし、このお化け達が消える瞬間にでも血を噴き出していたのなら、これが現実だと容易に認識できるが、実際に目にしてしまうと気を失っているだろう。
ただ見えるものだけを視界に収め、結果だけを受け取った愛は、それを肝が据わっているのか、単に鈍感なのかを自問してみたが、結論は出ない。
というよりもこの場で無理やりするべきものでもなかったため、愛はすぐにそれを忘れることにした。
「高橋さん、大丈夫ですか?」
少し離れたれいなから声をかけられ、愛はようやく非現実的な世界から視線を外す。
そこにあったのは薄暗い中でも強烈な意志を貫き通しているれいなの顔で、そんな彼女を見た愛は、今の自分の顔がどういった感じになっているのかを心配した。
が、出てきた言葉はそれとは全く別の、れいなの問いかけに答えるものだった。
「大丈夫、さっきも見たから」
仁志が光の線となって何かを打ち壊す様は里沙と一緒に見ているから問題は無い。
ただ、あのときは相手も化け物みたいな感じだったためにあっさりと受け入れることができたのだ。
そう思い、この場もそう思うことで受け入れようとした愛に、れいながなおも話しかけてきた。
- 80 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:30
-
「高橋さんって見かけによらず、強いんですね」
「……分かんないよ、ただ、立っときたいだけやからね」
的外れなことを言ってくるれいなにそう返し、再び視線を元に戻そうとした愛だったが、れいなの表情が変化してしまったために少しだけ元に戻すのを遅らさなければならなかった。
「それでよかとじゃないですか。人間、素直って大切ですよ」
にやりと笑ったれいなにどう返したら良いのか分からず、ただ曖昧に頷いた愛は、ようやくそこで視線を元に戻す。
だが、視界から入ってくる景色を見ることは無く、れいなの言葉を頭の中で反芻するだけだった。
(あーしは強くない。あーしは正直でもない……)
思いついたのはれいなの言葉に対しての明確な否定で、先ほどそれを分からないと回答した自分もそこにはいなかった。
冷静に事態と向き合い、それに対処する。
しかし、それが終わればまた、愛にはあの日常が待っている。
苦痛としか言いようの無い、あの日常が……
と、それまで縦横無尽に駆け回っていた光の線が止まり、そこに再び仁志の姿が現われた。
消える前と今とでは持っている木刀の長さがだいぶ違う。
それだけが彼の為したことの結果のようで、それを何もいなくなってしまったフロアで漠然と確信した愛だった。
だが、そこに立っている彼の顔は険しく、つけ加えるならば消える前よりもはるかに緊張していた。
「もう終わったの?」
何もいなくなってしまったのに、動く気配を見せない仁志を心配した愛が、それとは全く無縁のことをれいなに聞くが、れいなから言葉が返ってくることは無かった。
ただ、愛の問いかけはすぐさま結果となって現われ、それを目の当たりにした愛は思わず息を呑み込んだ。
- 81 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:30
-
愛からすればそれは突然床の下から這い出てきた意外に表現のしようが無かった。
だが、それを間近で見ていた仁志は、そのことも予想できていたのであろう、特に取り乱した様子は見えない。
だから、愛は心配することを諦めた。
「ちっ、まだ来るのかよ」
床から這い出してきたお化け達は全部が立ち上がることは無かった。
それもそのはず、五体満足なお化けはその中にはおらず、必ずと言って良いほどどこかの部分が欠けていたからだ。
愛の立っている場所にまで大きく舌打ちをした仁志の姿が再び掻き消える。
そして、再びお化け達が消え始めた。
その頃にはすっかり冷静になっていた愛は、消えていくお化け達やそれを掻き消している光の線を見ることは無く、ただ、一点だけに集中していた。
愛が見ていたのは先ほどまで向かおうとしていた階段。
そこは仁志が真っ先にお化け達を消してしまったために、今は何もいなかった。
(行くなら今しかない)
そう強く意識した愛は素早く視線を這わせて周囲の状況を確認する。
カウンターの奥のほうに陣取っていたれいなの足にはさゆみがしがみついているから、とっさには動けないだろう。
そして、愛はわずかな動作で里沙に状況を伝えることができる。
条件が整えば、後は楽だった。
愛がしたことと言えば足をわずかに動かしてすぐ横に座り込んでいた里沙に合図を送ったことだけで、里沙もすぐに愛のしたいことを理解したようだった。
その証拠に里沙が立ち上がり、自分へと視線を送ってくる。
- 82 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:31
-
「がきさん、もう立っても良かったと?」
れいなが立ち上がった里沙に向かって言ってきたその言葉を合図に、愛は唐突にカウンターから踊り出る。
それからすぐに階段へ向かって走り出した。
「田中ちゃん、ごめんね」
すぐ後ろで聞こえてくる里沙の声からも分かるように、愛は一人ではなかった。
少し離れた場所かられいなが何やら叫んでいるが、愛がそれを聞くことは無く、ひたすらに足を前へと踏み出す。
そして、あっさりとその階段へ到達した。
ただ、そこが最終的な目的地でないことはほぼ無関係な愛にでも分かっていたため、走ってきたときの勢いを殺さないまま、階段を駆け上がる。
「愛ちゃん、どこに行くの?」
分かりきったことをどうして聞いてくるのかを疑問に思った愛だったが、浮かんだ頭に浮かんだそれがどうして答えになるのかも理解できなかった。
しかしながら、単なる勘としか言いようの無いその思いつきを否定する要素は一つも無い。
だから、愛は自信を持って里沙に答えることにした。
そこに行けば必ず麻琴とあさ美の二人がいる、そう信じて……
「もちろん、最上階」
それが良い意味で当たっており、また、悪い意味で当たっていることに気づくのはもう少しになるが、そのことまで気が回ることの無い愛だった。
- 83 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:31
-
――――――――――
- 84 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:33
-
「ふう……」
視界が元に戻った瞬間、立っていると思っていた彼女は寝そべっていることに気づき、ため息を吐きながら身体を起き上がらせた。
重力を感じる身体はいちいちその体重を知らしめてくるが、彼女にしてみればそれもほんの少しの辛抱なため、気に留めることも無い。
彼女が先ほどまでいたのはこの場所とは根本的に違う、別世界であったが、それを構成した平家みちよはあっさりと消えてしまった。
正確には彼女に意識されなくなったことでこの世界からいなくなったのと同然で、彼女からしてみればみちよは元からにこの世界には存在していないのと同然だったのだ。
「そうよ、一回死ねば終わり。それすらも分からないなんて、なんて間抜けなんだろう」
口に出してからその言葉があまりにも現実的でないことに至り、彼女は思わず顔を顰める。
そして、それがあまりにも感情的であることに気づき、深呼吸をして彼らの存在を消し去ることにした。
「いけない。もう、感化されてる……」
言葉に出すことのメリットはそれを自覚できるということだ。
実際、彼女はそれを言葉にするまでそうした自覚は無かった。
長い時間を肉体なくして過ごしてきた彼女にとってそれは想定されていたことではあったが、こうして目の当たりにすることはないものだと思っていた。
だから、言葉にしてそれと直面した彼女は、しばらく動くことができずにいた。
- 85 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:33
-
「違う、私はあんなのとは違うわ。私は……私なの」
自身へ向けられたその声を耳から脳へと移動させ、脳内でそれを咀嚼する。
そして、それをしっかりと握りしめた彼女は先ほど抱いたそれが和らいでいるのに気づき、小さく顔を歪める。
ただ、それをしたからといってすでに起こってしまったことが消えてしまうわけでもなく、彼女もそれは認めざるを得なかった。
「早く、消さないと……」
彼女が目にしている穴は依然として実態を感じさせないようにぼんやりとしか見えない。
それは彼女がそこに到達する資格を得ていないことの証明で、今のままでは彼女がその先へ行くことはできない。
そのときの彼女の顔を言葉で表すならば、それは焦燥以外の表現は不適当で、それを見ることのできなかった彼女はそのことに気づくことは無い。
ただ、抱いてしまった気持ちを抱えたまま、彼女は一歩を踏み出した。
広い部屋に無駄な調度品は置いておらず、彼女はまっすぐに外へと繋がるであろうドアへと向かう。
しかし、そのドアに手が届く場所まで辿り着いても、彼女はすぐさまそれを開けるようなことはしなかった。
振り返って必要以上に広がっている空間を見て、それまでの自分を切り離すかのように呟く。
「兵どもが夢の跡って言うしね」
今の自分がそうなのかもしれないし、今までのあの二人がそうなのかもしれない。
だが、これから彼女がしようとしていることだけは譲れない。
その意志をその言葉に込めた彼女は、ゆっくりとドアノブを掴み、外へと出た。
- 86 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:34
-
すぐ近くにある窓から外を見て判断するが、彼女はどうやらその建物の三階付近にいるようだ。
これは漠然とそう思っただけで、二階でも四階でも構うことは無かった。
中途半端な事実を事実として受け止め、彼女は迷わず歩くことにした。
そう、彼女に止まっている時間は無い。
こうしている間にもそれまで保っていた自分が破壊されている。
自分が完全に外の世界と同化してしまわないうちに、彼女にはしてしまわなければならないことがあり、それだけが彼女にとっての存在意義だった。
「用の無い世界なんて、消えるのが当然なのよ」
思わず口からこぼれたその言葉を、彼女は耳にしていなかった。
それは以前から彼女が感じていたことで、それを改めて言葉にする必要など無い。
今だって肌でそれを感じているのだから……
「新垣里沙に紺野あさ美、それとおまけに高橋愛も消して、私は独りになる」
言葉を出してそれを意識し、足を前へと踏み出す。
彼女が向かっている先には彼女達が揃っているだろうし、そこにいる彼女達の驚いた顔を見るのも楽しそうだ。
そう思った彼女は歩いていた速度を少しだけ速めて目的の場所を目指すことにした。
- 87 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:34
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 88 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:35
-
階段を一足飛びに駆け上がっている高橋愛についてくのは、正直困難だった。
五階建てのその建物の階段はやけに暗く、慣れない場所では余計にそれが目立ってしまう。
そんなことを思いながらも新垣里沙は愛の背中をひたすらに追いかけていた。
階段を上りきり、フロアへと出る。
自分が指摘しなくても愛は道が分かっているのか、迷うことなく正面にあった廊下を進み、里沙もその後についていく。
最初にここへ来たときには小川麻琴と一緒だった。
ただ、そのときの名残は全く無く、あるのは瓦礫の山とそれと同じくらい大きな不安だけ。
前を走っている愛は器用にも瓦礫の山をすいすいと通り抜けて奥へと向かっていったため、それを追いかけるだけの里沙にしてみれば実に簡単な作業だった。
そして、廊下を二回ほど曲がり、一番奥にある部屋の前まで辿り着いてしまった。
ドアの前で止まった愛もやはり疲れているのだろうか、肩を上下させて息を整えている。
そんな愛のすぐ横に同じく止まった里沙も、深呼吸をして無理やり息を整えた。
愛を見てみると彼女も自分のほうを見ていて、里沙が小さく頷くとドアノブを掴んで、ドアを一気に押し開ける。
広いその部屋は二十メートル四方はあるだろうか。
窓が見えたのは一番奥の壁側だけであり、そのすぐ脇には……
「あさ美!」
愛が叫んで駆け出したため、里沙も慌ててその後を追う。
そう、そこにいたのは紺野あさ美だった。
彼女は床の上に寝そべって顔は上を向けている。
その彼女の元へと駆け寄り、愛が抱きかかえる。
後ろからその様子を覗き込んだ里沙は、さ美の顔をまともに見ることができずに思わず視線をそこから逸らす。
そして、近くにあった窓から外を眺めた。
(あさ美ちゃんの顔に着いていたのって……血?)
蝋人形の如く白くなったあさ美の、その頬に付着していた二筋の赤。
それがあまりにも鮮明に再生されてしまい、里沙は目を閉じてあさ美の顔ごと自分の記憶を吹き飛ばそうとした。
だが、一度記憶してしまえば、絶対に忘れることのできない里沙には無理なことで、何度でも再生されてしまうあさ美の顔が頭から離れることは無かった。
- 89 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:36
-
「愛ちゃん、あさ美ちゃんの顔、拭いてあげて」
目を閉じたままポケットからハンカチを取り出し、それを愛がいるであろう方向へと差し出す。
持っていたハンカチの感覚はすぐに無くなり、目を開けるべきかどうか迷った里沙は、愛が話しかけてくるまで目を開けまいと決めた。
(ここにあさ美ちゃんはいた。でも、まこっちゃんはいない……)
あさ美を助けに行くと行って走っていた小川麻琴・真琴。
だが、彼女達の姿は調度品が皆無のこの部屋で見つけることはできなかった。
「里沙、もうええよ」
愛から声をかけられ、恐る恐る目を開ける里沙。
それから視線を下に降ろしてみると、そこにあったあさ美の顔から赤が取り除かれていた。
「とりあえず、下におる田中ちゃん達のところまで戻ろうか」
「でも、まこっちゃん達がいないよ」
愛とあさ美の二人から視線を外してもう一度部屋の中を見渡してみるが、この部屋には里沙達三人以外には誰もいない。
だが、愛はそんな里沙に構うことなくあさ美の手を取って、それを肩に回していた。
「もしかしたら、どっかで迷子になっとるかもしれんよ」
「そんなわけないよ」
愛の言葉を流しながら視線は自然と先ほど入ってきたドアへと注がれていた。
なぜだかは分からない。
ただ、里沙の中にある何かがそこを見るように忠告したのだ。
そして、その里沙の視線に合わせて、ドアが開いた。
「あなたの言ってることは、半分当たってるわ」
入ってきた彼女を見た里沙は、それがすぐさま麻琴・真琴であると認識する。
だが、それでも里沙の中にある別の部分がそれを否定していた。
開けたドアから一歩中へと入っただけの彼女を見た里沙は、蓄積していた記憶を探り、自分の知っている彼女ではないことを確信した。
「麻琴、そんなところにおったの?」
あさ美の腕を背中に回した愛がゆっくりと立ち上がる。
それを手だけで制して、愛達と彼女との間に割って入る。
その瞬間、自分の身体に纏わりつくような冷気を感じ、それを素直に怖いと認める里沙。
このとき、緊張しすぎて足が震えていたが、それもろくに思うことができないまま愛が麻琴と言った彼女へと問いかけた。
- 90 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:36
-
「あなた、誰?」
短いが的確な問いかけに彼女の目がわずかに細められる。
それが感嘆を意味していたのか、それとも失望を意味していたのかは分からない。
里沙は目を通して見るものだけしか記憶できないからだ。
「里沙、何言いよ……」
後ろにいる愛から声をかけられるが、里沙はそれを無視して足を前へと踏み出す。
そうした行為が彼女に対して脅しになるのかは分からなかったが、やらないよりかはましだと割り切り、近くなった彼女をじっと睨みつけた。
すると、睨まれた彼女の顔が綻び、それが笑みの形を成していく。
しかし、里沙はそれすらも否定した。
なぜなら、その笑い方を里沙が記憶していなかったからだ。
「直感というものは、ときに理性を飛び越えて真理を射抜く。今のあなたがまさにそうなんでしょうね」
「……麻琴?」
「違う、彼女はまこっちゃん達じゃないよ」
小さな声を疑問として投げかけてきた愛を短く遮り、里沙はなおも彼女を睨みつける。
そうでもしないと彼女を取り巻いているその異様な冷気に飲み込まれてしまいそうだったからだ。
「そう、私はあなた達が知っている小川麻琴・真琴ではないわ。私は私なの」
「なんで……?」
麻琴・真琴にしか見えない彼女から否定の言葉を投げかけられるが、それでもなお愛は信じることができないようなのか、困惑した声を返している。
が、里沙は彼女の言葉をストレートに受け取り、それをすぐさま肯定として処理した。
「まこっちゃん達はどこにいるの?」
彼女が目の前にいることから容易に想像できるが、それは考えない。
それを考えてしまった時点で自分の負けだ、そう強く言い聞かせながらの問いかけだったが、声は意外の正直で、里沙のそれは震えている。
そして、里沙が恐れていたその一言が、返事となって返ってきた。
「あの二人は必要なくなった。だから、消えてもらったわ。今は私だけよ」
「うそだっ!」
とっさに叫んだ里沙だったが、彼女が笑みを作るのを阻止することはできなかった。
普段はあまり叫ぶことのない里沙だったため、その一言だけで息が上がってしまったが、それでも視線は独りだけになってしまった麻琴でも真琴でもない、『まこと』へと向けていた。
- 91 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:37
-
「今日一日だけで、ずいぶん死んじゃったみたいね」
彼女から出てきた『死』という言葉に、里沙は自分の息が詰まるのを他人事のように意識する。
そんな里沙の心境を知っているのか知らないのか分からないが、彼女はなおも続けてきた。
「最初に死んだのは稲葉貴子。これは結果的に平家みちよが殺した。そして、次に死んでしまったのは小川麻琴・真琴。これは私が直接殺したのかな?で、ここにはいないミカ・エーデルシュタインと中澤裕子だけど、彼女達はもうここへは戻ってこないから、死んだも同然ね」
「うそだっ!」
再び叫ぶ里沙。
彼女から出てきた数々の嘘のような事実に対して、全てを否定するかのような勢いがあったが、それも里沙だけの思い込みのようで、彼女がその言葉で動じることは無かった。
「あなたが否定したいのは、私が小川麻琴・真琴を殺したという部分だけのようだけど、全部正しいわ。それに、これからもどんどん死んでいくからね」
「……なんで?」
後ろにいる愛から力の無い声が届き、それが里沙の中へと沁みこんでいく。
それは彼女の言葉が絶対だと肯定するもので、里沙は瞬時にしてそれに抗おうとしたが、それでもこの事実が揺らぐことは無かった。
無情なまでの事実を突きつけてくる彼女は、さらに里沙達へと追い討ちをかけるべく、その口を開き信念を突きつけてきた。
「私にとって邪魔なものには、全て消えてもらうって決めたの。そうしないと、私が私であることを証明できないから。他者から完全に独立し、完璧に完結する。そのためには、あなた達の存在が邪魔なの」
麻琴と同じ身体をしている、全く別の人間から言われた言葉がどうしようもなく里沙の身体へと侵入してきて、心を掻き乱していく。
否定しても否定してもそれは受け入れることを強要してきて、そして、そうすれば楽になると里沙に告げてくる。
が、里沙は楽になるほうを選ばなかった。
- 92 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:38
-
「まこっちゃんは約束してくれた。私のそばにいてくれるって。だから、私もまこっちゃんのそばにいるって決めたの」
静かに言ったのは息が上がっていたからではない。
ただ、それを里沙の中で絶対的な事実へと昇華させ、それをひたすらに信じると決めたからだ。
麻琴が言ってくれた言葉、それを受け取る人間は里沙一人だけ。
だから、里沙も麻琴の言葉に応えることにした。
「私のまこっちゃんを返してよ」
後ろにいる愛がどういった反応をするのかが気になったが、出てきた言葉を止めることはできない。
その言葉にどれだけの力があるのかは、里沙にも分からない。
だが、それでも伝えないことには自己の意志は伝わらないし、伝えることはできない。
しかし、そんな里沙の儚い希望も彼女の前では無力だった。
「そう、それがあなた達の欠点ね。自分と通じ合っている人間しか、受け入れない。世界はそんなに単純ではないわ」
「世界なんて関係ないよ。私と、まこっちゃんだけだもん。それに、まこっちゃんは愛ちゃんやあさ美ちゃんだって大切に想ってるよ!」
自暴自棄としか思えない彼女に対して思わず出た言葉に自分とは別の人間が混ざっていたが、このときの里沙はそれを気にすることは無かった。
ただ、繋がっているということを伝えるべく、里沙が知り得ている全ての事実を彼女へと伝える。
いや、これは伝えるといった生易しいものではなく、里沙にとっては言葉という武器で彼女を攻撃しているのも同然だった。
- 93 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:38
-
「私に言わせれば、それが欠点なの。麻琴が想っているのはせいぜい周囲の人間だけ。真琴にしてみれば紺野あさ美だけよ。ほんと、何でそんな無駄なことをするのかしら」
髪をかき上げため息を吐く彼女に、里沙はなおも言い返そうと口を開く。
この攻撃が彼女の奥底に届かなければ麻琴は帰ってこない、そんな焦燥が里沙の中で大きくなっていたからだ。
しかし、里沙が言葉を発するよりも先に愛が口を挟んできた。
「なんか達観しとるって言うか、諦めとるね。あんたは」
振り返って愛を見てみると、そこにいたのはやはり里沙の知っている愛であり、気絶しているがあさ美だ。
愛と視線が交わされ、愛が小さく頷く。
自分は独りではない、そんな想いが里沙の中で大きくなっていく。
だが、そんな里沙に構うことなく彼女が続けてきた。
「これは諦めではないわ。全てを知っているからよ。あなた達の知らないことまでね。それに……」
それまで里沙の固定されていた視線が離れ、後ろにいる愛とあさ美へ向けられる。
「きゃっ!」
わずかなその動きだったが、里沙の中でそれが危険だと警鐘を鳴らしてくる。
そして、里沙が振り向いたのと愛が悲鳴を上げたのはほぼ同時だった。
「私が直接手を下すまでもないみたい。なにせ、間抜けな奇術師達の置き土産があるんだからね」
後ろから変わることの無い彼女の声が続いているが、それを里沙は聞いていなかった。
視線は愛を突き飛ばしたあさ美へと集中していた。
そして、その視界には彼女が持っていた小振りなナイフが握られていて……
「あなた達は通じ合うことで特別な力を発揮するんでしょ。だったら、今回もそれを使ってみれば良いんじゃない?」
嘲りを含んだその言葉に里沙は答えることができず、あさ美が手にしていたナイフを見続ける。
その刃についた、赤いのか黒いのか良く分からない染み。
それは里沙の目を通して瞬時に記憶され、それが誰の血なのかも何となく分かってしまった。
そして、里沙はぼんやりとした表情でナイフを振り上げたあさ美を見つめることしかできなかった。
- 94 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:39
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 95 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:40
-
目を閉じても目を開けていてもこの景色が変わることは無い。
この、本当の意味での暗闇の中では、人の感覚など無意味だ。
ぼんやりとそんなことを考えた中澤裕子はうっすらとその口元を歪めて笑ってみるが、それをしたという意識は無い。
いや、これは正確にはそれを感覚として認識することができなくなっていたただけであるが、そのときの中澤裕子にはそれを特別に気にすることも無かった。
この上も下も無く、また、前も後ろもろくに定めることのできないこの空間で漂い、裕子はぼんやりと思考を紡ぐ。
それはこれまで生きてきたことの全てであり、それを否定するかのような自分でもあり、同時にそれらを受け止めようとした自分でもあった。
(そう、前を定めるのは自分でしかない。他人にはできんことや)
ようやくそのことに思い至った裕子は、それまでの蟠っていた何かが解けたことを感じ、その澄み渡った気持ちの中で安堵していた。
(これがウチなんや……)
何をどうと聞かれれば答えに窮するが、だからといってそれが間違えだとは思えない。
なにせそれを受け入れた裕子自身がそれを明確に認識し、そう位置づけたからだ。
『破壊』を根源だと認識していた過去の裕子。
それは結局のところ、兄である祐一や平家みちよが言っていたように安易に誘導された結果に過ぎず、それをそうだと信じている間はそれが全てだった。
しかし、それはまさしく砂上の楼閣で、一度認識してしまった違和感は消えることなく裕子の中で蟠り、最終的にこのような結果へと導くことになった。
それは奇しくも兄である祐一と同じ結論に達したことを意味していたが、このときの裕子はそこまで考えが至ることは無い。
ただ、それを素直に受け入れるだけだった。
(それさえ分かれば、ウチは何でもできる……いや……)
自分だけの特権のように感じるその力だが、そうでないことに気づき、すぐさま言葉を選び直して続ける。
(ウチだけやない、誰にでもできることなんや)
結局のところ言葉にすればそれだけのことで、裕子にしてみればそれはそこですでに価値を失ったも同然だった。
- 96 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:41
-
「ほんま、奇術師って必要無いな……」
自然と口から洩れたその言葉は自嘲でも皮肉でもなく、ただ事実を事実として述べただけであり、その後、しばらく感傷に浸る。
しかし、それは長くは続かなかった。
目の前を何かが光り、それで裕子は自分が目を開けているのだと認識するが、それもほんの一瞬ですぐさまその身体をわずかばかりだが上へと移動させた。
そのほぼ直後に通り過ぎる中途半端な赤い色。
それが自分ではない別の人間の炎による攻撃だと気づいたのは、両足がその炎によって?ぎ取られた後だった。
「なんや、ようやく気づいたんか」
振り返ってみると、そこにはミカ・エーデルシュタインが浮かんでいた。
そう、この空間では立つという概念は無い。
なにせ立とうにもそれをするための地面が無いからだ。
そのミカの顔には困惑の色が見えていたが、それでも彼女は奇術師だった。
「中澤裕子、あなたは何をしたのですか」
およそ冷静とは言えない彼女の声だったが、それでもここへ来る前よりかははるかにまともだったし、この空間の特質を見抜いてとっさに炎を具現させたこともミカの能力の高さを証明している。
そんなミカに対して裕子は説明するべくしばし思考を巡らせるが、すぐに面倒になり早く切り上げることにした。
「なんちゅうことはない、単にあそことこことを切り離しただけや」
ゆっくりと右手を上げるが、それには特に意味は無い。
だが、ミカは異常なまでに反応し、裕子が上げた以上の速度でその手を振り上げてきた。
再び暗闇の中に赤い華が咲き、今度はそれが上げた裕子の右腕を肘まで飲み込む。
ただ、そうされたところで裕子にとっての結果が変わるわけでもなく、同じようにミカにとっての結果も変わることは無い。
だから、裕子は平然とミカへと言ってやった。
「残念やけど、こっから出ることはできんで。ウチにも分からんからな」
言葉を受け取ったミカの顔が面白いように歪み、それを見た裕子は思わず笑みがこぼれる。
それが気に入らなかったのだろう、ミカはなおもその手から炎を具現させてきたが、今度は裕子のほうが速かった。
- 97 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:41
-
上げたままの右手から白い光の塊が出てきて、それが裕子の目の前へと広がる。
そして、壁となった白い光はミカから出てきた炎を弾き飛ばしてしまった。
その白い壁は裕子がこれまで使っていたシールドよりもはるかに強固で、また、それを使うことによる疲労も一切無い。
「そう、望めば何でもできるんやで」
言葉にすればそうとしか言えない、そう思った裕子は壁越しににやりと笑ってそう続ける。
だが、それを聞いたであろうミカはその真意に気づくことなく、その顔を歪めたままだった。
それからミカは狂ったように炎を乱発し始めた。
ただ、裕子が展開した光の壁に全てが弾かれているために、裕子としては何もすることが無く、ミカが大人しくなるまで待つしかないようだ。
そんな裕子はミカを見ることに飽き、視線を外して自分の身体を眺めてみる。
足は最初にミカに吹き飛ばされてしまったために両方とも無い。
また、右手も先ほど吹き飛ばされてしまったから本来あるべき場所には何も無かった。
(これであっちゃんと同じか……いや、ウチは消えすぎやな。あっちゃんとは同じにはなれんか……)
ぼんやりと親友のことを思い出し、それはすぐさまここにはいない、もう一人へと繋がっていく。
だが、その彼女とはすでに縁が切れてしまったために、裕子としては何もするつもりにはなれなかった。
(まあ、みっちゃんも諦めるやろ。人間がどういうもんかに気づけば……)
このとき、すでに平家みちよは別の場所でその存在を消していたが、裕子がそれを知ることは無く、それが唯一の心残りとなる。
だが、それでも裕子は割り切ることにして、みちよを意識の外へと追い出した。
その頃にはミカの炎も止んでいて、壁越しから肩で息をしている彼女の姿が見えた。
攻撃しようにもすでに精魂が尽き果てているようも見え、それを哀れに思った裕子は光の壁を取り去ることにした。
再び暗闇の中で対峙する二人。
それも長くは続かないだろうことを知っていたのは裕子だけのようで、それは呆けた顔をしているミカを見ればすぐに分かった。
- 98 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:42
-
「さてと、そろそろ終わりにしようか」
上げていた右肘を下ろし、素早く逆の左手を振り上げる裕子。
炎の使い方はミカよりもはるかに長く、誰よりもそれを使いこなせるという自負もある。
そして、中途半端な華しか咲かすことのできない彼女に向かって、裕子は真紅の華を咲かせた。
悲鳴は無かったと思う。
これは裕子がそう感じただけで、実際はただならぬ悲鳴が聞こえたのかもしれない。
が、それも裕子にしてみれば些細なことに過ぎなかった。
ミカを飲み込んだ真紅の華はその紅を周囲へアピールするかのように爆ぜて消える。
残ったのは裕子一人だけだった。
「ようやく、終わった」
その声に耳を傾ける人間が皆無なその世界でぼそりと呟く裕子。
その顔にあったのは一言で言うと満足で、それ以外に裕子が感じ取ることができた感情は無かった。
自分ができることは全てした。
紺野あさ美を操っていた元は壊したし、操っていた張本人もこの世界から完全に消えた。
だから、裕子にできることはもう無い。
後は、当事者達の問題だ。
(まあ、ウチがおらんくなっても世界は回るしな。考えんでええか)
小さく笑い、小さくため息を吐く。
そんなわずかな動作でも自分が生きているということを感じさせてくれる。
だから、裕子としてはもう、何もする必要は無かった。
ただ、身体が受けたダメージは消えてくれそうには無かった。
?ぎ取られた両足に右手、そこから流れ出ているであろう血を目にしなかったのは単に運が良いのか、それともそれすらも見えなくなっていたのか分からないが、それでも確信はある。
自分に残されているのが死だけということを。
「せやけど、そう思ったところですんなり死ねんもんやな……」
待つだけの時間がこれほどまでに苦しいとは思わず、呟いてみるもそれを返す人間は裕子自身が先ほど消してしまった。
それを象徴するかのように呟いた声がかすかに反響するが、それも裕子の耳には入らない。
いや、入れようとはしなかった。
その内で強く想うだけだった。
- 99 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:43
-
(したいことはなんでもできる。ただ一つのことを除けば……)
裕子がこの空間を作り出すときに課した制約、それはミカが万が一生き残ったときの安全策と言うべきものだったが、ミカを無事消し去ったことでその必要も無くなった。
ただし、こんな状況で外の世界へ戻っても、もう、裕子の繋がるべき人間達は存在しない。
ならば、ここで尽きるのも良いだろう、そう割り切ってさらに考えを巡らせる。
そして、それはあっさりと忘れ去っていた事実へと突き当たった。
(結局ウチは結婚できんかったな。したら自慢してやろうと思ったのにな)
これまで考えることを避けてきたその事実に思いを馳せる裕子。
その瞬間、裕子の意識は暗闇の世界から飛び出していた。
浮かんでいたのは元からだが、肌が感じたのは風を切る感触で、それはやけに冷たい。
ただ、それは耐え切れないものでもないため、裕子はあえてその中を気の向くままに進み、次の瞬間には降りられるはずの無い地面へと立っていた。
見渡してみると、そこはどこかの高台のようだった。
風が冷たいのは先ほどから感じているためにあまり考えなくても良い。
それ以上に裕子が気になったのは、目の前にあるその建物だった。
見上げた先には尖った先端が見え、下にはほっそりとした造りの教会。
白いそれとバックの青い空が同時に視界へと入り込み、そのコントラストの美しさに裕子は思わずため息を漏らす。
だが、それもほんの一瞬で、正面に在ったその扉が開いた瞬間、吐いた息を慌てて飲み込まなければならなかった。
開いたドアから出てきたのは自分だった。
いや、両手両足が揃っている彼女は確かに似ているが、本当の自分はこうして両足に片手が無くなっている。
それを確認しようとして自分の身体を見下ろした直後、裕子は無くなったと思われた身体の箇所が全て元通りになっていることに気づき、さらに驚いた。
- 100 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:44
-
(そうか、ここはウチが見ることのできんかった、もう一つの世界か……)
ぼんやりとしてきた頭が唐突にそんな言葉を浮かび上がらせるが、それもほんの一瞬で、裕子は両足を地面につけたことを自覚したまま、視線をもう一度、前へと移してみる。
そこにいたもう一人の自分は、なぜか白いウエディングドレスのようなものを着て、楽しそうに笑っていた。
そこでようやく気がついたが、どうやらその場には裕子以外にもかなりの人がいるらしい。
それを意識したのと同時に、裕子の周りにも人が現れ、形を成していく。
その中を良く見てみると、兄である祐一や親友である貴子、それにみちよの姿まであった。
正確には彼らも裕子の知っている彼らではないのかもしれない。
(違う、兄ちゃんは兄ちゃんや。それにあっちゃんはあっちゃんで、みっちゃんはみっちゃん。みんな、違うことはないんや)
彼らと裕子の知っている彼らを区別することはこの場では無意味だし、それをしたところで裕子が目にしているこの光景を消すことはできない。
ならば、この場に溶け込んでしまったほうが楽だ、そう意識して裕子は群集の中へと紛れて目の前で行われるであろう催しに見入ることにした。
ウエディングドレスを着ている彼女が外へ出てきたとたん、つまずきそうになり慌ててバランスを取っている。
それを同じように慌てて祐一が駆け寄って受け止め、その後ろで貴子が笑いを堪えていた。
みちよが見ていたのは彼らではなく、別の方向、そこにはろくに舗装されていない道路が続いていて、先には街らしきものが見えた。
立ち上がった彼女が何かを言いながら腰に両手を当てている。
表情から察するに、彼女は怒っているようだ。
ただ、何をどう怒っているのかは、声が聞こえてこないために分からない。
- 101 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:45
-
そこでようやく裕子は欠けていた何かに気づき、みちよが見ていた先を同じように見てみる。
しかし、視線の先には裕子やみちよが待っている当人が現れることは無いようだ。
再び彼女のほうへと視線を戻すと、その彼女は被っていたヴェールを掴んで何やら叫んでいるようだった。
彼女のすぐ脇にいた祐一が何やら話しているが、それをまともに聞く彼女ではないようで、しきりに足を振り上げて、地面へと叩きつけている。
その足が地面へ触れるたびに貴子が飛び上がる仕草をしてみせ、さらに怒った彼女が貴子へと掴みかかろうとしたが、さすがにそれは思い留まったのか彼女は肩で息をしながら貴子を睨みつけるだけだった。
無理やり言葉を当てるとするならば『げらげら』であろう笑っている貴子の横をそれまで傍観していたみちよが通り過ぎて、彼女へと近寄っていく。
そして、何かを言うと彼女は上下させていた肩をがっくりと落としたようだった。
少し後ろにいた祐一が右手で頭を抱えて首を横に小さく振っているのが目に入り、裕子は彼女の待っている相手が来なかったことを自分のように受け止め、大きく息を吐いていた。
「なんや、こっちでもあんたは結婚できんのかい」
小さくツッコミを入れてみるが、それをした瞬間、彼らの動きが止まり、全員が自分のほうへと振り返ってきた。
そのあまりのタイミングの良さに裕子は慌てて周囲を見渡してみるが、そこにいたであろう群衆の姿は無く、裕子が一人だけで立っているだけだ。
自分と思われる人間を含めた四人の視線を受け止め、裕子は身構えるべきかをしばし考え、逆に身体を弛緩させる。
緊張したところで彼らの視線から逃れられる術はないし、第一、彼らに裕子のことが見えているのかも不安だった。
だが、次に一歩前へと出てきた祐一と視線が合い、裕子は自分がこの場にいるということを自覚せざるを得なくなった。
そして、その祐一が自分に向かって手を差し出してくる。
『君も、この中へ入るかい?』
それまで聞くことができなかった兄の声は、裕子が記憶していた以上に優しく、すんなりと裕子の中へと沁み込んでくる。
ただ、彼の言葉を素直に受け取れない自分がいたために、裕子は彼らに向かって聞くことにした。
- 102 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:47
-
「ウチはそこにおるやろ?あんたらから見れば、ウチは単なる他所もんやで?」
言葉にしてからそれがかなり捻くれているのだと気づき、ますます不安になってくる裕子だったが、そんな裕子に対して彼らが動じることは無かった。
小さく首を横に振りながら祐一がもう一歩前へと足を踏み出してくる。
それから言葉を続けてきた。
『君が望めばそこが居場所になる。簡単だろ?』
兄の口から出た言葉に自分ではない裕子が何かを言っている。
これは裕子の耳には聞こえてこなかったが、それでも彼女が何を言っているのかすぐに理解できた。
兄を非難しているのではない、言うまでもないことを言うなと言っているのだ。
『だけどね、言葉にしなければ伝えることはできないし、受け取ることもできない。それに、そこから……』
まだ何かを言おうとしている兄に対して、手を上げて裕子は言葉を遮る。
そして、兄が言うであろう言葉の続きを口にした。
「そこから何を感じるかは、ウチの自由なんや」
言ってから口元だけを小さく歪めてみる裕子。
そんな裕子に対して兄は同じように笑ってくれた。
- 103 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由12 投稿日:2005/05/11(水) 11:47
-
ゆっくりと歩いて裕子は彼らと同じ場所まで辿り着く。
近くで見る兄は裕子が歩いてくる間もずっと笑っていて、差し出した手はそのままだった。
貴子は自分ともう一人の自分とを見比べて何かを言っているが、その内容も大体が分かるため何も言い返さない。
みちよは自分のことを優しく見てくれていた。
そんな彼らを視界へと収め、裕子はもう一人の自分へと視線を移す。
彼女は先ほどやっていたように両手を腰に当て、自分に向かって何かを言っている。
それはつまり、いつまでたっても中へ入ってこようとしない自分に対する苛立ちであり、それが手に取るように分かってしまった裕子は、彼女に向かって笑いかけた。
それを見た彼女は怒ったまま首を縦に大きく何度も振り、それから視線を裕子から外してしまった。
まるで自分のことなど構うものかと言っているような気がして、裕子は自分という人間を改めて実感する。
(そう、したいことを望めば、ウチらは何でもできる……)
この場にいる彼らだけではなく、外の世界でこれから何かに向かおうとしている誰かに対して強く意識する。
それから、裕子は兄へと視線を戻し、彼の手を取るために自分の手を伸ばして……
- 104 名前:いちは 投稿日:2005/05/11(水) 12:06
- 更新しました
>>70 名無し読者。さん
ありがとうございます
緊迫感はもう少し続きますが、お付き合いください
そろそろ終わりが近づいてきましたが、次は「想いのなかの迷い、それから得る自由13」になります
それでは
- 105 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/05/16(月) 20:17
- 更新お疲れさまです。 一回逃してたので、拝見が遅れました。 かなり緊張と不安、興奮が凄いです。 続きがかなり気になります。 次回更新待ってます。
- 106 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/05/18(水) 11:15
-
想いのなかの迷い、それから得る自由13
- 107 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:16
-
「あさ美!」
「あさ美ちゃん、どうしたの?」
自分とそばにいる新垣里沙の必死の呼びかけにも、目の前にいる紺野あさ美が答えることは無かった。
その状況を未だに信じることができないでいた高橋愛だったが、それでもこの現実が覆ることは無い。
ナイフを振り上げているあさ美も事実であれば、その背後にいる小川麻琴・真琴でなくなった彼女もまた事実。
愛はそれに対してなし崩し的に抗っていた。
そう、これは愛が自発的に行ったことではない。
そばにいた幼馴染が必死になっていたから、それを後押ししているだけだ。
「ほら高橋さん。早く逃げないと殺されるわよ」
入り口のところでおかしそうに言う彼女に対して愛は思わず振り返って睨みつけたが、それを彼女はまともに受け止めるつもりはないようだ。
愛にしても彼女を睨むのはほんの一瞬で、すぐ次の瞬間には迫っていたあさ美から飛び退かなければならなくなっていた。
愛の予想通り、飛び退いた瞬間にあさ美の持っていたナイフがその場をなぎ払っているが、やはりそれは現実味を帯びていない。
しかし、その刃に当たれば痛みを感じることだけは分かり、現実とそれ以外の狭間で揺れ続ける愛だった。
「まこっちゃん、何で動いてくれないの?」
少し離れた場所から里沙が叫んでいる。
少し離れたのは愛が飛び退いたのが里沙のいた場所から反対であったからで、その里沙はあろうことかあさ美に背を向けて、彼女に叫んでいたのだ。
「くどいようだけど、あなたの知っている麻琴・真琴はすでにこの世界にはいない。諦めなさい」
「違うよ、まこっちゃんはここにいるよ!」
自分から背を向けた里沙が、その手を上げて胸の上に置くのが分かるが、それを静観できる状態ではなく、愛はあさ美から少し離れたまま迂回して里沙へと近づいていく。
あさ美の動きはいつも以上に緩慢で、その気になればナイフに当たることは無い。
だが、今の里沙はあさ美から完全に注意を逸らしているし、それはあさ美も気づいたようだった。
- 108 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:17
-
直線距離で里沙へと接近するあさ美と、そのあさ美から離れて接近せざるを得ない愛。
どちらが早く里沙に近づけるかは明らかだったが、あさ美の移動速度の遅さを自身の移動速度の速さで補ってどうにか里沙へと駆け寄り、そのままの勢いで突き飛ばした。
「愛ちゃん、邪魔しないで!」
「そういう場合やないやろ!」
倒れたまま叫んでくる里沙に対し、同じように倒れたまま叫び返す愛。
ただ、その直後に里沙のいた場所をあさ美のナイフが通り過ぎたのを確認できたのは愛だけだった。
すぐに起き上がった里沙はなおもあさ美ではなく、愛でもなく、彼女へと視線を固定させたまま、詰め寄るために足を踏み出している。
その里沙の背中目がけてあさ美がナイフを突き出してきたが、それを察知した愛はあさ美に肩からぶつかることによってそれを阻止する。
もつれ合うようにして里沙から離れた愛は、急にバランスが崩れてコケそうになり慌てて手をつく。
それから肩にあったあさ美の感触が無くなったことに気づき、慌てて顔を上げた。
その視界に入ってきたのは銀色の刃ではなく、ところどころが赤黒くなっていた刃だった。
(どっちでも、同じやん!)
手をついた状態からとっさに前転をしてあさ美のナイフをやり過ごし、揺れる頭を無理やり上へと移動させた。
視界が一瞬だけ白くなりそれが貧血からくるものだと気づくが、今はそれにすら構っている暇は無い。
無理やり意識を繋ぎ止めた愛は、見開いた目から入ってきた状況を深呼吸と共に把握した。
入り口付近に詰め寄っている里沙だったが、それ以上は進めないようだ。
彼女から一メートル離れたその場所で必死に何かと戦っているようで、それが表情から読み取れる。
そして、自分の五メートルほど先にあさ美がいた。
相変わらずその手にはナイフが握られているが、それはもう見ないことにして愛は一番離れたその場所から里沙と彼女の二人を観察する。
- 109 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:17
-
「あなたの言ってることが、良く分からないわ。何で、そこまであれに固執するの?」
「まこっちゃん達はあれじゃない。ちゃんとした人間だよ」
苦悶の表情をしたままの里沙だったが、それでもそこから出る声は普段と変わることは無かった。
いや、愛がこれまで耳にした里沙のどの声よりもはるかに強い。
(そうか、これが里沙なんだ……)
迫っているあさ美を視界に収めたまま、ぼんやりと場違いなことに意識を馳せる愛。
その瞬間、自分は里沙には絶対勝てない、そんな気持ちが湧き上がってしまった。
が、その気持ちを愛は暗い、奥底に溜め込んでいた別の気持ちで打ち消す。
(違う、あーしのは元々、勝負にすらなってなかった)
近づいてきたあさ美がナイフを振り上げてきたため、それから逃れるように大きく飛び退く愛。
安全だと思われる距離を保ち、あさ美を感覚だけで把握したまま、愛は視線をドアへと移動させた。
「あなた達がそう思いたいなら、そうすれば良いわ。でもね、真実が変わることは無い。あれは私が創った擬似的な人間で、二人いたのは一人では偏ってしまうから。だからといってあまり大人数いては返って判断が阻害されてしまう。だから、二人が最適だったの。それ以外の理由は無いわ」
「違うっ!」
なおも叫ぶ里沙に対し、それまで笑みを浮かべていた彼女の表情が変化する。
それは怒りというよりも焦りのほうが強い、そう思ったのは愛だけだったのか、当事者である二人はそれに対して何ら言及することは無かった。
彼女は動くことのできない里沙へとゆっくり歩き、顔を里沙へと近づけてくる。
里沙の息を呑む音が離れている自分のところまで聞こえてきたような気がして、愛は自分のことのように身を強張らせるが、異変は唐突だった。
「きゃっ!」
動くことのできなかった里沙が弾かれたように飛ばされ、部屋の中央付近まで転がる。
それをしたのはもちろん彼女以外におらず、愛はあさ美から注意を離して床へ倒れている里沙へと駆け寄った。
- 110 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:19
-
「里沙、大丈夫?」
「……大丈夫」
大きく肩で息をしている里沙の背中を擦るが、効果があるのかどうか自信は無い。
だが、それでも里沙が両手を床に手をついて立ち上がろうとしているのが目に入ったため、愛は少し強引だったが肩を掴んで強引に里沙を立たせた。
「このまま時間を浪費するのは馬鹿みたいね。良い機会だから、なぜ私がこうして存在しているのかをその身体で教えてあげる」
そこで愛は彼女の異変に気づく。
言葉とは裏腹に、それまでの涼しげだった彼女の表情は見る影も無くなり、その代わりに先ほど里沙が浮かべていたのと同じ種類の苦悶がそこにあった。
(里沙の言葉が効いてる?)
すぐ脇にある幼馴染の横顔はまっすぐと彼女を見据え、そこには一歩も退かないといった強い意志が表れていた。
もしかするとそうした意志も彼女には何らかの影響を与えているのかもしれない。
「まこっちゃん、聞いて」
静かに語り始めた里沙に対し、彼女の足が止まる。
それは自分の意志で行ったものではないようで、その表情には驚きが満ちている。
しかし、里沙が言葉を止めることは無かった。
「前にね、家に来たときに言ったよね、『愛してる』って。あのときはね、漫画の見すぎなんかじゃないのかなって思ったんだ」
掴んでいた手が離れ、里沙がゆっくりと歩き始める。
彼女はそんな里沙を見ながらも、それとは別の何かを見ているようで、愛はそんな二人から離れて傍観せざるを得なかった。
その瞬間、愛のすぐ間近で甲高い金属音が響き、直後に何かが倒れる音が聞こえてくる。
その方向を見やるとそこにはあさ美が倒れていた。
次に胸に視線を移動させると、田中仁志からもらった銀の板が無くなっていた。
「それに、今日も言ってくれたよね、『守りたいものがある』って。あのときは素直に嬉しかったよ。あのときね、私、まこっちゃんにお願いしたよね、『どんなことがあっても、私の前からいなくならないでね』って。今思うと、それも自分勝手なお願いだったよね。だからってわけじゃないけど、気づいたんだ」
驚愕を通り越し恐怖と言って良いのだろうか、彼女の表情からそんな言葉を連想した愛だが里沙はそんな彼女に構うことは無い。
切々と語るだけだった。
- 111 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:19
-
「まこっちゃんに守ってもらうだけだと駄目なんだ。だって、それだと不公平でしょ?だからね、私もまこっちゃんのことを守ってあげないといけないんだ……違うか。私もね、まこっちゃんと一緒にいたいんだ」
ゆっくりと彼女へと歩み寄る里沙。
その後ろ姿を見ながら、愛はその言葉に聞き入りながらもそれを受け入れることができない状況へと陥っていた。
だが、里沙はそんな愛に気づくことは無い。
彼女の手を握り、わずかだがその顔を上げる。
愛からは里沙の表情を見ることができないが、彼女のそれは見ることができた。
『止めて』
口はそう動いているが、言葉には出てこない。
わずかなその動きだったためそれをそうだと認識できたのは、おそらくは愛だけだっただろう。
間近で見ているはずなのにそれを見ていない、そんな漠然とした確信があり、それを裏づけるかのように里沙が言葉を続けてくる。
「まこっちゃんみたいにストレートに言うことができないから、不器用になるけど……それでも、言うね」
彼女に向かって投げかけられている言葉なのに、愛はそれを自分に対して向けられているのだと感じてしまう。
それを否定すべきかどうか迷うが、その決断を下すよりも先に里沙の力強い言葉が投げかけられるほうが早かった。
- 112 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:20
-
「まこっちゃんともう一度話がしたいんだ。だから、帰ってきてよ。」
呟くような里沙のその言葉は、彼女と愛にとってみれば致命傷以外の何物でも無かった。
そして、里沙のその言葉を合図に、異変が始まる。
里沙から光が満ち、それが里沙と彼女を徐々に包み込んでいく。
それを目の当たりにした愛だったが、それがどのようにして起こったのか理解できなかった。
ただし、なぜ起こったのかは、理解することができた。
(そうか……これが、あーしと里沙の差か)
それをぼんやりと認めるが、心の奥底ではそれを否定したい。
そんな矛盾した気持ちを抱えた愛を無視するかのようにその光は広がり、最終的には二人を完全に飲み込んでしまった。
眩いばかりのその光の塊を直視することができなくなった愛は、両手を顔の前にかざしてそれを遮る。
しかし、その光はそんな愛の塞いだはずの両手からも侵入してきて、愛に変わることの無い、そして、変えることのできない事実を突きつけてくる。
そんな光を凝視することも逃げることもできず、愛はその場に立ち尽くすしか無かった。
- 113 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:20
-
――――――――――
- 114 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:21
-
このときの彼女の気持ちを一言で表現すれば、それはつまり『計算外』としか表すことができないだろう。
彼女がこれまで描いていた世界はたった一人の人間の前に崩れ去り、それまで抱いていた絶対的な自信まで?ぎ取られてしまった。
そう、彼女はたった一人の人間、新垣里沙に負けてしまったのだ。
彼女にとっては到底受け入れることのできないその事実は、彼女が否定していた『繋がる』ことから発生し、それは言葉を解することによって彼女が封じ込めたはずの彼女達へと確実に届いた。
それを助長したのはアヤカ・エーデルシュタインが構築したその異界であり、その場以外では里沙がいくら言葉を並べようとも、その効果を目にすることは無かっただろう。
しかしながら、その場を最終的に選んでしまった彼女はそのことを考慮していなかった。
だから、『計算外』だったのだ。
それは全てを見下し、それを選別してあるべき姿へと導くために生み出された彼女が、その見下していた人間へと成り下がった瞬間だった。
同じ立場へと落ち、それを自覚できないまま彼女は里沙の光へと飲み込まれ、身体の自由を奪われる。
そして、それは彼女にとっての終わりを意味し、彼女達にとっては始まりを意味していた。
- 115 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:21
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 116 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:22
-
「ありがとう、里沙ちゃん」
目を開けると、わたしの視界には暗闇の中に立っている里沙ちゃんの姿が入ってきた。
だけど、そこにいる里沙ちゃんは実際の里沙ちゃんではなくて、意識だけの里沙ちゃん。
わたしという異物の中にいる里沙ちゃんには、それはきっと苦痛だろう。
でも、里沙ちゃんはそんな苦痛を全く見せることが無く、わたしに向かって優しく微笑んでくれている。
『時間にすれば短かったけど、私にはずいぶん長く感じちゃった』
「うん……」
ごめんね、と続けようと思ったわたしに里沙ちゃんは首を小さく左右に振ってそれを遮ってくる。
そして、笑ったまま言葉を続けてきた。
『こういうときはね、別の言葉だよ』
「……そうだね」
里沙ちゃんの一言で言うべき言葉をすぐさま思いつくけど、それを口にするのはまだ早い。
だって、わたしには……いや、わたし達にはやるべきことが、まだある。
「外で待ってて。必ず帰るからさ」
『大丈夫?』
「大丈夫だ」
その言葉に頷いたわたしだったけど、それに答えたのはわたしとは別のもう一人、真琴だった。
気がつくとわたしのすぐ横に真琴は立っていて、同じように里沙ちゃんを見ている。
里沙ちゃんもわたし達を見て安心したのか、笑いながら背中を向ける。
その姿はゆっくりと、周囲の暗闇に溶け込むようにして消えてしまった。
二人きりになり、わたしは真琴を見てみる。
真琴もわたしを見ていた。
「そんなに不安そうな顔をするなよ。せっかく大事なものを受け取ったのに、気が滅入るだろ?」
「……そうだったね」
笑顔の真琴に言われ、わたしは改めて言葉の力、繋がることの力を思い出す。
里沙ちゃんが語ってくれた想いは、意識の無かったわたしでもこうして覚えている。
それくらい、言葉の力は強いってことだ。
でも、それだけじゃない。
里沙ちゃんがその言葉を伝えたいって気持ちがものすごく強かったから、意識の無くなったわたしや真琴にも響くくらい堅いものだったから、わたし達がその言葉を受け取ることができたんだ。
- 117 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:22
-
「わたしはさ、そんなつもりで言ったんじゃないんだけどね……」
里沙ちゃんみたいに強くは意識したことなんて、一度も無い。
わたしが里沙ちゃんのことを好きだってことを、伝えたかっただけ。
ただ、それだけだったんだ。
「だけど、それが正しいんだ。素直に言う勇気、それさえがあればおれ達でも自分の気持ちを伝えることができる」
いつの間にか伏せていた顔を上げると、そこに力強く頷いている真琴が見える。
そんな真琴を見て、わたしも頷くことで自分の気持ちを確かめた。
そうだ、この気持ちさえ忘れなければ、わたし達でも……
「認めないわよ、そんなこと」
わたしでも真琴のでもない、その声にもう、怯える必要も無い。
だって、彼女はわたし達と同じなんだから……
違うか、彼女はわたし達じゃない。
彼女は彼女で、わたしはわたし、それに真琴は真琴だ。
だからもう、負けはしない。
「他人と関わらず、完璧に自己完結をする。それでしか、私がしたいことはできない。なのに、なぜあなた達が生き返るの?絶対にできないはずなのに!」
「あんたにはできないことでも、実際にこうして起こってる。それが真実なの」
「そうだ。お前が信じていたのはほんの一部分でしかなく、それも不完全だった。当然の結果だよ」
「繋がることで自己を認識しないといけないなんて、私は認めないわ」
「お前が認めなくてもそうした事実はあるんだ、諦めろ」
「そうだよ。こうしてわたし達は戻ってきた。その時点で、あんたの負けは決まったの」
すぐ近くに現れた私の顔は、これでもかってくらいに歪んでいた。
それが怒っているからだと言うのはすぐに分かり、なんで怒っているのかも分かる。
だけど、それであんたの自由にさせるほど、わたし達は弱くないし、現実も甘くない。
それをあんたに分からせてやる。
- 118 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:23
-
「あんたは他の人と繋がることを必要以上に嫌った。その理由もあんたは『したいことができないから』って言った。だけどね、本当は違うんだ。理由は別のところにあるんだ」
「違わないわ。それだけよ」
即座に否定してくる彼女だったけど、もう、それを怖がる必要は無い。
だって、否定してきた彼女の顔はものすごく歪んでいたんだから……
あなた達のことが理解できないって、顔に書いてあったから……
「本当は怖かったんだ、他の人と接することが。他の人に、自分のことを知られるのが。だから、あんたは極端なまでに独りになろうとしたんだよ」
「違うっ!」
「怒鳴ったところで事実は変えることはできない。これはお前が言ってたことだ。まあ……少しくらいは違うかもしれないけどな。でも、おれ達はおれ達だ、お前じゃない。素直に認めろ」
「違うっ!」
わたしにも真琴にも同じ言葉でしか否定できない彼女は、あんまりにも惨めだった。
そんなわたしでもない、そして、真琴でもない彼女が肩を大きく上下させながら続けてくる。
「あなた達は私が判別しやすいように生み出した結果に過ぎないのに、どうして私に逆らうの?道具は道具らしく使われていれば良いのよ」
「お前、ぜんぜん分かってないな」
早口な彼女の言葉を真琴が静かに遮り、ゆっくりと歩き始める。
真琴が近づくにつれて歪んでいた彼女の顔は小さく横に揺れ始め、それを拒否しようとしているのがひと目で分かった。
だけど、自由が利くのはほんの一部分だけのようで、身体のそれ以外は真琴を素直に受け入れようとしているように見えた。
- 119 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:24
-
「お前がおれ達を創った時点で、おれ達はお前から独立したんだよ。何もかも捨ててしまった段階で、お前の役目は終わったんだ」
「…………さい」
「自分独りで生きていけるほど、この世界は単純じゃない。おれや麻琴がいるように、他にもたくさん、それこそ数え切れないくらい人はいるんだ。その中で生きていれば必ず接点が生じてくる。それを避けることなんてできやしない」
「……うるさい」
「何が完璧な自己完結だよ。そんなの自分の勝手な思い込みじゃないか。そうやって思い込んだ結果を勝手に他人に押しつけるな!」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいっ!」
頭を大きく振り、大声で真琴を拒絶する彼女。
でも、わたしからすればそれも惨めにしか見えなくて、それは真琴も同じようだった。
私から一メートルほど離れたところで真琴は止まり、振り返ってくる。
その視線を受け止め、今度はわたしが彼女へとゆっくり歩み寄った。
「他の人と繋がるってことは、あんたが思ってるほどみっともなくも、惨めでもない。わたしからすれば今のあんたのほうが数倍みっともないよ。それにね、繋がることでわたし達はわたし達をより一層はっきりと認識することができるようになる。それを忘れたあんたは、その時点で誰にも認めてもらえない、誰からもその存在を認めてもらえなくなったんだ」
すでに言い返す気力すらも失ってしまった彼女を尻目に、わたしは真琴の隣で止まる。
両手で耳を塞ぎ、全てから逃げている彼女を見下ろしても、特別な感情は芽生えてこない。
それは真琴も同じだろう。
そして、彼女に向かってわたしと真琴は最後の言葉を投げつけた。
「「ここはお前のいる世界じゃない!」」
わたし達のその一言を合図に完全にその場から消え去ってしまった彼女。
暗闇は彼女の痕跡を残すことなくそこに在り、残っていたわたし達だけを取り巻いてくる。
「ほらな、お前が消えて無くなっても、おれ達はこうして残っている。それが何よりの証拠だ」
その闇に包まれた真琴が強く言い放ったけど、彼女を見てみると震えているようだった。
- 120 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:24
-
「真琴?」
普段ならそんな姿を見ることなんて無いのに、このときに限ってそれを目の当たりにしてしまい口から言葉が洩れる。
それに反応したのか、または元からそのつもりだったのか真琴がわたしのほうを振り向いて、小さく笑ってきた。
「さっきはああ言ったけど、あいつのことが何となくだけど分かるんだ」
首を横に振りながらそう告げてくる真琴にいうべき言葉をわたしは持っていない。
だって、真琴から見ればわたしはずっと恵まれている。
こうしてここへ戻ってこれたのも『わたし』のことを想ってくれていた里沙ちゃんのおかげだ。
そこには真琴は関係していない、それを真琴本人も分かっていた。
「おれはおれの中だけでその気持ちを整理させて、それを外へと向けない。それも結局は自己完結だったんだ。だけど、おれの場合はあいつみたいに冷淡にすることはできなかったし、自己完結するにしてもちゃんと相手が存在した。この点では違うのかもしれないけど、根本的には変わらないって思うよ。だって、おれは自分の気持ちを相手に伝えることをしなかったんだからな。あのときだって、勢いだけで不明瞭だった。それで怖気づいたんだ」
「でも、あんたはそれを受け入れるつもりは無いんでしょ?その気持ちさえしっかり持ってれば大丈夫だよ」
「そうでもないよ。まだ怖がってるんだ、あいつの名前を口に出すのが。おれがそれを口にするごとに、あいつに何かとんでもないことが起こるんじゃないかってさえ思えてしまう。意識することが無ければ平然と口にできるたった一言も、おれにとっては怖いものでしかないんだ」
「それは……」
思い違いだと言いそうになり、それを口から言葉として真琴に伝えられない。
それがわたし達の思い過ごしだと断言できなかったからだ。
- 121 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:27
-
わたし達がこうした異常と向き合うきっかけとなったアズラエルとの遭遇。
あのときは単なる偶然だと思ったけど、今ではそれも運命だったのかもしれないと感じていた。
私の言葉が正しければ、わたし達も彼と同じ立場で、違うのは外の世界にいたってことだけだ。
わたし達の勝手な意志で殺してしまった辻希美。
歪な方向で自己満足を得ようとした柴田あゆみ。
この二人もわたし達の犠牲者なのかもしれない。
だけど……
「それでも、わたし達はわたし達を止めることはできなんだ。だったら、それを受け止めて、できることをしたら良いんじゃない?」
これが辻さんにも柴田さんにとっても良いことでないのは分かっている。
それでも事実は消すことができない。
それならばいつまでも振り返らずに、前を見ていたい。
「……そうだな。絶対的なものが一つだけ存在するなら、それは明らかだな」
笑うことを止めてわたしを見据えてきた真琴がそこで一度言葉を切って、何かを確かめるように深呼吸をする。
そして、言うべき言葉を見つけたようだった。
「おれはおれだ。それさえ忘れなければ……」
「そうだよ。それさえしっかり持ってれば、大丈夫だよ」
大きく頷く真琴にわたしも続く。
あんまりこうしてゆっくりしている場合でもない。
なにせ、まだ問題は残っている。
それは真琴が向き合わないといけない問題であって、わたしには何もできないのかもしれない。
だけど、こうしてこの場で真琴に意志を伝えることで、わたしはわたしの役割を果たすことができる。
いや、これはわたしにしかできないだろう。
もっとも真琴の気持ちを分かっている人間として……
もっとも真琴に気持ちを知られている人間として……
- 122 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:27
-
「そろそろ戻ろうか。どれくらい時間が経ったのか分かんないけど……」
「あぁ」
わたし達を取り巻いている暗闇だったけど、どっちの方向へ歩いていけば良いのかは分かる。
だって、この暗闇はすでにわたし達の一部だし、それもわたし達を拒みはしない。
ほら、私の言っていたこととは違うよ。
わたし達が作り物だったら、こうして受け入れられるはず無いんだからね。
真琴が歩き始めたため、わたしも慌ててそれに並ぶ。
こういうときは後ろをついていくんじゃなくて、同じ位置で同じ方向へと進んでいく。
わたしと真琴は同じなんだから。
だけど、それは悪い意味ではない。
同じだけど決定的に違う何かをわたし達は持っている、それさえ分かっていれば充分なんだ。
そう考えた瞬間、頭が一瞬だけくらりとしたけど、すぐに意識は戻る。
そのときには取り巻いていた暗闇は消えて、どこか分からない部屋に立っていた。
わたしは手に感じていた温かい何かにすぐ気づき、そこにいる彼女を見る。
そして、彼女に言うべき言葉を言うために口を開こうと……
- 123 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:27
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 124 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:28
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「ただいま、里沙ちゃん」
「……おかえり」
目の前にあった彼女から、自分の知っている声が聞こえてくる。
それに答えた新垣里沙は、握っていたその手を握り続けるべきか離すべきかを考え、今というときを考慮して後者を選ぶことにする。
手を離した瞬間、小川麻琴が少しだけ寂しそうな顔をしたが、それもほんの一瞬でそれはすぐに真剣なものへと変じていった。
時間にすればほんの数秒だったが、当事者である麻琴と真琴にしてみればその時間で大きな何かが変化したはずだ。
それは麻琴・真琴の真剣な表情からでもすぐに分かる。
そして、里沙はそれについてできることがほとんど無いことにも気づく。
が、それも今の話で、里沙は自分の役目を果たしたつもりだった。
「ま、麻琴なん?」
背後から高橋愛の声が聞こえてくるが、彼女のそれは困惑気味だということに里沙は少し不安になる。
なぜなら、このときずっと一緒にいてくれたこの幼馴染がこの事態をどう処理してくれたのかが気になったからだ。
愛が抱えているさまざまな要因に自分が大きな負担となっていることは分かる。
しかし、それでも里沙は愛に対して引け目を感じることは止めていた。
それをしてしまったのならば、それは麻琴に対して失礼だし、愛に対しても侮辱になるからだ。
「ごめんね、いなくなってさ」
笑った麻琴の顔は里沙がこれまで記憶していた麻琴の笑顔だったし、口調も普段の彼女のものだ。
それを見た里沙は安心して同じように麻琴に笑みを返す。
だが、愛はそんな状態ではないのだと言わんばかりの勢いで里沙と麻琴の腕を掴んできた。
「あんまり悠長に話しとる場合やないやろ?」
焦った感じの愛の言葉を受けて振り向いた里沙は、ようやく自分達の置かれている状況を思い出すが、再び麻琴へと視線を転じて、それが些細なことだと気づく。
麻琴も里沙と愛に向かって大きく頷いてきたため、里沙はこの心配を完全に払拭することができた。
- 125 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:29
-
「大丈夫だ。今からはおれの出番だ」
麻琴から真琴への交代はこれまで里沙が記憶していたどのときよりもはるかにスムースで、違和感らしい違和感は全く無い。
(そう、まこっちゃんは二人いてまこっちゃんなんだよね)
「里沙ちゃん、ゆっくり話をしたいんだけど、それはもうちょっと後になりそう。少し待っててね」
「うん、頑張ってね」
再び出てきた麻琴と、それにこれから向き合わなければならない真琴に対して声をかける里沙。
麻琴・真琴は滑らかな動作で掴んでいた愛の手を離れていくと、その部屋の奥で立ち上がろうとしている紺野あさ美へとゆっくり歩み寄った。
里沙にはその麻琴・真琴の背中が普段よりも大きく見え、それが成長したのだと理解させる。
しかし、里沙はその考えを思い直すことで否定した。
(違う、まこッちゃん達は今からが本当のスタート。だから、生まれ変わったのと同じことだよね)
そう、成長するためには土台が必要となる。
が、今の麻琴・真琴はようやくさまざまなものから解放され、自由になった。
まさしくそれは誕生以外の何物でもなく、里沙やあさ美にも同じことが言えるのかもしれない。
立ち上がったあさ美の手には、先ほどまで自分達に振るわれていたナイフが握られている。
対する真琴は無手だったが、自分や愛のように怯えた表情は一切感じられない。
真琴にとって、あさ美が持っているそれは脅威ではないのだろう。
「あさ美、聞いて欲しいんだ」
二メートルほど距離を取って静かに話し始める真琴。
しかし、あさ美のほうはそんな真琴に構うことなく近寄っていて、ナイフを持っていた右手を振り上げている。
「おれは、ずっと自分の気持ちを騙していたんだ。自分だけで納得すればそれで充分、そう思っていたんだ」
真琴はあさ美だけを見据え、切々と己の気持ちを語る。
そこにあったのはそれをあさ美ヘ聞かせることが自分の役割だという強い意志であり、あさ美もそれを受け止めているのか、振り上げているナイフを未だに振り下ろせていなかった。
- 126 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:30
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「だけど、おれは自分を抑えることができなかった。状況に任せて告白もしたし、押し倒しもした。それが悪いってことは分かっていたのに、結局は自制できなかった。ほんとおかしいよな、それで自分だけが納得すれば充分だって思ってたんだからさ……」
それまで無表情を保っていたあさ美に、初めて異変が訪れる。
わずかばかり歪んだその顔は、真琴を確かに見つめ、それを真琴だと認識しているようだ。
そんなあさ美に対して被せかけるように真琴は言葉を続ける。
「おれ達がおれ達だって分かったときあさ美は言ってくれたよな、『好きになれそうだよ』って。あのときは本当に嬉しかったんだ。だけど、あのときはまだそれを恥ずかしいって思ってたんだ。だから、あれ以上何も言えなかったし、言うつもりも無かった」
真琴がわずかに動いて、振り上げたあさ美の手首を掴み持っていたナイフを弾き飛ばす。
それに反応してあさ美が真琴の前で手刀を放つが、それは宙を切るだけだった。
「でも、あのときこうやってあさ美に糸を切られて気がついたんだ。おれが思っていた気持ちってのは言葉にしても足りないってことに。だから、それとは別の方法でおれの気持ちを伝えるよ」
掴んでいた手首を離し、素早くあさ美の肩を掴む真琴。
まるで、そこを掴めばあさ美に全てが伝えられると確信があるかのようなその行動だったが、里沙がそれを疑問に思うことは無かった。
なぜなら、あさ美のその場所に何があるのかを、麻琴から聞いていたからだ。
麻琴・真琴にしか見えないという存在核。
紺野あさ美にはそれが肩にあるのだと語った麻琴。
それを証明するかのように、肩を掴まれた瞬間、全身を震わせてあさ美はその動きを止めてしまった。
- 127 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:31
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「あさ美、おれを感じてくれ」
最低限の言葉しか投げかけていないが、そこには真琴が言った通り、言葉以上の何かが存在する。
それは自分と麻琴の関係についても同じことだろうかと自問した里沙だったが、それはすぐに愚問の一部へと成り果てていた。
(言葉も有用なツールだけど、それ以外の方法があっても良いよね)
その有用なツールで目的を達成することのできた里沙はそれをあっさりと認め、正面にいる真琴とあさ美を観察する。
真琴が言うとしてもあと一言くらいで、彼女もそれを言おうと肩を大きく上下させていた。
『大丈夫、あんたにはわたし達がいるよ』
(そうだよ。だから、早く言っちゃいなよ)
本来ならば聞こえてくるはずの無い麻琴の声を聞き、すぐさまそれに同意する里沙。
そんな里沙の言葉が通じたのかどうか分からないが、大きく肩を上げた状態で真琴の動作が一時的に止まる。
それを確認した里沙は次に聞こえてくるであろう声を、目を閉じて聞くことにした。
理由は特に無かったと思う。
強いて言えば、それを麻琴より先に言われるのが悔しかったからだ。
が、これ以前にも里沙は麻琴から数々の言葉を受け取っている。
だから、これでイーブン。
そう割り切り、里沙は静かにそのときを迎えることにした。
- 128 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:31
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 129 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:33
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結局、赤いキャロルが快調だったのはエンジンだけで、それ以外は全てが不調だった。
それにはもちろんのこと運転手も含まれている、そうネガティブに意識してしまった吉澤ひとみは、エンジンが完全に止まる前に助手席のドアを押し開けた。
「ちょ、ちょっとよっちゃん。そんなに急がないでよ」
「安倍さんは絵里と一緒に来てください」
背後から聞こえてきたのは運転手だった安倍なつみのもので、ひとみはそんな彼女に振り向かずに答える。
その足はすでに前へと出ていて、目的の場所へと向かっていた。
駆け抜けているその駐車場には古びた白いシビックや緑色のマーチなども停まっていたが、所有者を知らなかったため、ひとみがそれらに気づくことは無かった。
ただ、勘だけを頼りに目的だと定めた場所まで走る。
以前、そこへ来たときには入場料とかいってかなりの額を取られてたが、このときはなぜかそのエントランスには誰もいなかった。
すでに七時半を過ぎているが、まだ閉園時間でもない。
そのことを不思議に思ったのは一瞬で、すぐにそれを好機だと判断したひとみは一気に中へと駆け込んだ。
目的の場所はエントランスから右に曲がり、すぐのところだ。
フェンスで遮られたその先にはひとみ達が先ほど辿り着いた駐車場があるが、そのことまで考慮している暇は無い。
というわけで、ひとみはまっしぐらに目的地――お化け屋敷――へと向かうことにした。
が、そこをあと少しというところまで来た瞬間、ひとみは見えない何かにそれまでつけていた勢いもろとも弾き飛ばされる。
受身を取ったのは反射的なことであり、実際に何が起こったのかは理解できなかった。
もう一度お化け屋敷へと向かおうとしたが、結果は同じで二度目は転がらずに両足で踏み止まる。
- 130 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:35
-
「ひとみさん、どうしたんですか?」
そのときになってようやく追いついたなつみと亀井絵里の二人に、ひとみは困惑したままの表情を向ける。
その瞬間、絵里の表情が強張り、焦点が目の前に定められた。
そこは当然ひとみが弾かれた何かがあり、特殊な力を持ってしまった絵里にはそれが見えているのだろうが、ひとみにはどうすることもできず呆然とそれを見るだけだった。
「変な壁みたいのがありますね」
ゆっくりと歩いた絵里がひとみの少し前で止まった。
そして、手を上げて前に向ける。
動作はそれだけだった。
「これで大丈夫だと思いますよ」
「へっ、そうなの?」
ひとみが間の抜けた声を上げるが、その直後には絵里が一歩を踏み出していたためにひとみも慌ててその後を追う。
「あれ?」
弾かれたであろうその場をあっさりと通り過ぎてしまったひとみは、緊張させていた身体から力が抜けるのを感じつつ、再び間の抜けた声を上げる。
少し前では絵里が振り返って目だけで早く来いと促していたため、ひとみは小さく首を左右に振ってそれまでのことを忘れ、絵里の後に続いた。
「たぶん、あれで関係の無い人を遠ざけていたんだと思います」
「……そうか。私達って、今回は完全に部外者だもんね」
正確には多少なりとも関わってしまったひとみと絵里だったが、今日のこの事態に関しては初めてだった。
そのことを思いながらひとみはそこへと踏み込み……身体を再び強張らせた。
入口からすぐのところにあったホールの床部分に、大小さまざまな穴が出来上がっていたからだ。
床はひとみが普段生活している寮のように木製ではない。
しっかりとした造りのフローリングをどうすればこのように破壊できるのかをしばし思案するが、どうやらひとみが知っている方法ではどれも無理のようだ。
試しにポケットに入れていた特殊警棒を抜き出して力任せに床を殴ってみるが、傷一つつくことは無かった。
- 131 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:35
-
「あれ、絵里やなかとね」
そのときフロアの奥のほうから声をかけられ、ひとみは自分が対象ではないのにその声に反応してしまう。
が、その声に返すのは絵里の役目で、絵里もそのことを知っていた。
「れーなじゃない。どうしたの?」
フロアの奥のほうにはカウンターらしきものが置いてあり、そのさらに奥に田中れいなが立っていた。
薄暗くなっていることで彼女がそこに立っていることに気づけなかったひとみだったが、れいなはそんなひとみに構うことなく姿を消してしまう。
そして、次に立ち上がったときにはもう一人――道重さゆみ――も一緒だった。
「あれ?さゆもいるの?」
「やっほー、元気?」
実のところ、ひとみは二人のことを良く知らない。
だから、このときのさゆみがいかに軽い口調でもそれを見抜けなかったし、指摘することもできなかった。
ただ、困惑気味に視線を向けるだけで、会話は絵里に任せる。
しかし、絵里が二人に向かって話しかけるよりも先に、第三の人物が現われてしまった。
「どうして一般人がここにいるんだ?」
絵里やれいなの声と違うと瞬時で判断できたのは、その声が男のものだったからで、どこにいるのかもすぐに分かる。
ただ、彼が誰なのか、ひとみには理解できなかっただけだ。
「親父、一般人はないやろ?絵里もおるっちゃよ」
「えっ、そうなのか?」
木刀を持った彼からでは自分達の立っている場所は良く見えないのだろうかと不安に感じたひとみだったが、彼が歩み寄ってくるのと同時に、それまでその存在をひたすらに隠そうとしていたなつみから声が上がった。
「あれ、田中さんじゃないですか。どうしたんですか?」
保護者と話すときには限りなく標準語に近づくなつみであり、それはひとみの母親に対しても同じだった。
- 132 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:36
-
「いえ、少し所用があったもんで暴れてました」
あっさりとそう言う彼の姿が一瞬だけ消え、再び現われる。
変化が無いようにも見えたがそれは間違えで、次に現われたとき、彼の握っていた木刀はさらに短くなっていた。
(おいおい、暴れたって一言ですませるのかよ)
初対面の人間、しかもかなりの歳の離れた彼に対して心の中だけでツッコミを入れたひとみは、それとは全く別のことを話すことによって、二人に割り込むことにした。
「それよりも、ここで何があったんです?あっ、すいません、私、吉澤ひとみって言います」
「こりゃご丁寧に。私は田中仁志と言います。一応、れいなの父親ってことになってますんで、そこのところよろしくお願いします」
「はぁ……」
いまいち緊張感が持てないまま曖昧に頷くひとみ。
と、そのときだった。
すぐ近くで聞こえてきたのは何かが崩れる轟音で、それはすぐさま衝撃となって床を伝わってくる。
すぐ隣にいた絵里が大きくバランスを崩したため、それを慌てて支えるひとみ。
少し後ろにいたなつみが小さく悲鳴を上げながら前へと移動しているが、それは支えることができなかった。
「そうだ、すっかり忘れてた」
そこで木刀をぽとりと落とした仁志が拳を手のひらで叩く動作をする。
何かに気づいたときにする仕草だったが、なぜ彼がこのときそれをしているのかがひとみには理解できなかった。
- 133 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:38
-
「実はさっきの寝そべったやつらを倒したときに、間違えて一番でかい柱もぶった切ったんだった」
彼の言葉で理解できたのはほんの一部分だった。
しかもそれも恐らくは致命的な部分だろう。
そして、そんなひとみの考えを象徴するかのごとく、床が大きく振動を始めた。
「小川達はどこにいるんですか?」
彼やれいな、それにさゆみがいたことから、ここに彼女達がいることは明白なのだろう。
その証拠に仁志が階段へ向かって走っているのが見え、ひとみも慌ててその後を追う。
一足飛びで階段を駆け上がったため、すぐさま仁志へと追いつくことができた。
「おそらくあいつらは一番上にいるはずだ」
そんなひとみに向かって前にいた仁志が声をかけてくる。
その言葉にどう根拠があるのかじっくりと聞きたいところだが、それが本当ならば時間は無い。
置いてきた絵里達だったが、ここが崩壊するだろうということは手に取るように分かるだろう。
だから、自分達を追いかけたりはしないはずだ。
それだけが強い確信として中にあり、それだけをしっかりと握り締めたひとみは仁志の背中を追いかけてひたすらに階段を駆け上がる。
その胸中ではここが崩壊しないことを祈っていたが、それが通じるのかどうか甚だ不安だった。
- 134 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:38
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 135 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:39
-
「おれにはあさ美が必要なんだ。だから、おれを置いて行かないでくれ!」
小川真琴がそう叫んだ瞬間、それまで正気を失っていた紺野あさ美の動きが止まり、ゆっくりと崩れ落ちる。
それを大切なものを抱きかかえるようにして真琴が受け止めた。
「まこっちゃん、まだまだだね」
鼻を小さく鳴らしてそう言った新垣里沙に対し、どう言葉を返すべきかを思案する自分――高橋愛――だったが、彼女が三人の元へと駆け寄ってしまったために、言うことはできなかった。
「大丈夫?」
駆け寄った里沙に声をかけられる麻琴・真琴だったが、返事は無い。
ただ、首を大きく上下させているだけで、近寄った愛は不安になって顔を覗き込んだ。
そして、それが自分の杞憂に過ぎないことに気づき、すぐさましなければならないことを頭に思い浮かべる。
「ごめん……高橋…………あさ美を……頼む」
眠たそうにそう言った真琴があさ美と同じように崩れ落ちるが、それよりも先にあさ美を受け取った愛はバランスを取るので精一杯だった。
麻琴・真琴にしても里沙がその身体を受け止めたため、完全には床へと接していない。
その表情は実に満足そうで、それを見てしまった愛はそこで湧き上がってきた別の感情をうまく制御できるのかどうか不安になってきた。
「疲れてたんだね」
自分よりも背の高い麻琴・真琴を支えるのはかなりの重労働なのだろう、里沙が少しだけ顔を顰めて言ってくる。
「疲れてるんはあーしらも同じやん」
悪態の一つでも吐けば楽になるかと思ったが、里沙の寂しそうな顔を結果的に作ってしまったため、愛は居場所が無くなっていくのを感じる。
そんな里沙から視線を外し、苦し紛れに抱えていたあさ美の顔を服の袖で擦ってみるが、その程度のことで気持ちが晴れることは無かった。
- 136 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:40
-
「愛ちゃん、帰ろうか」
「……うん」
耳だけで聞いたその声にぼんやりと返し、愛はあさ美を抱えたままドアへと歩み寄る。
人一人を抱えてのその作業は予想以上に困難で、引き開けるドアに手間取った愛は、一度あさ美を置いてドアに向かわなければならなかった。
ドアを開け、愛と里沙はそれぞれあさ美と麻琴・真琴を抱えて外へと出る。
入ってくるときにはあまり邪魔だと感じなかった瓦礫の山が、このときだけはやけにリアルに見えてしまい、それを前にした愛は思わずその足が震えてしまうのを止めることができなかった。
「愛ちゃん、進まないと帰れないよ」
静かに言ってきた里沙が愛を通り越して、ゆっくりと瓦礫の山を踏み越えていく。
そんな里沙に対して対抗心を燃やすべきか、諦めを持って追随すべきかを悩んだ愛は、結局後者を選んでとぼとぼと歩き始めた。
やけに長い廊下を二人は無言で歩いていく。
前にいる里沙をできるだけ見ようとしなかったのは意識的にだが無意識でもある、そんな矛盾を抱えたまま、愛は廊下を進むしかなかった。
「愛ちゃん、ごめんけど、これだけは言わせてね」
「……なに?」
まっすぐな廊下を半分ほど進んだとき、前を歩いている里沙から声をかけられ、それにぼそりと返す愛。
前を歩いているのだからその表情は当然のことながら見ることはできない。
が、それでも愛にはこのときの里沙の表情が手に取るように分かってしまった。
そして、それを裏づけるかのように里沙の言葉が聞こえてくる。
「まこっちゃんはね、私と一緒に在るんだ。だから、諦めて……」
ごめんと小さく呟いた里沙の口調が震えているのが伝わってきて、想像してしまった里沙の泣き顔を愛はすぐさま消去する。
だが、返事はできなかった。
愛の中に介在するさまざまな感情が歪んで一つの形を成そうとした瞬間、まさにそれ起こってしまったからだ。
- 137 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:40
-
「うわっ!」
「えっ、な、何?」
唐突ともいえるタイミングで大きく波を打った床に足を掬われ尻餅をつく愛。
それは里沙も同じようで、彼女のほうがもっとひどいようだった。
大きくバランスを崩した里沙が麻琴・真琴から手を離してしまい、彼女達の身体が瓦礫の散乱している廊下へと倒れ込む。
しかもそれで終わりではなかった。
まるでそれが始まりだと言わんばかりに勢いを増してくる振動を全身で感じ、すぐさまそれがどうした結論になるのかを導き出した愛は、血の気が引くのを感じて抱えていたあさ美を落としそうになる。
(どうしたら、こっから出れる?)
致命的としかいえないこの衝撃がもたらすのはここが崩れ去るという事実だけで、それに対して愛は必死に思考を巡らせるが、良い考えなどすぐに浮かぶわけでもなかった。
「下にいる田中ちゃん達に手伝ってもらおうよ!」
「ダメ、巻き込まれたらどうするの?」
一瞬浮かんだその案を自分自身で一蹴する愛。
だからといってそれで事態が好転するわけでもなかったが、とりあえずは前進することを選ぶ。
何もせずくたばるよりかは、はるかにまともだったからだ。
それは里沙も同じようで、すぐさま床に倒れている麻琴・真琴を抱きかかえると、再び歩き始めた。
揺れる床は隙があればすぐさま自分達をそこへと飲み込もうとしているように見え、愛はそれに逆らうようにして歩く。
不安定だったにも関わらず転ばなかったのは緊迫したその状況がもたらした強迫観念にも似た気持ちで、その気持ちが廊下を曲がったところで他の誰かに通じたようだった。
「あ、誰か来るよ」
里沙の安堵した声と同時に、それまで緊張していた愛も少しだけそれを緩めることができた。
だが、これで状況が終わったわけではない。
気を抜くのは、ここから完全に撤退してからだ。
- 138 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由13 投稿日:2005/05/18(水) 11:41
-
「大丈夫?」
「あーしらは大丈夫です。ほやけど、麻琴・真琴とあさ美が……」
駆け寄ってきたのは吉澤ひとみに田中仁志の二人。
なぜひとみがこの場にいるのかを聞きたい愛だったが、それをしている暇が無いことは伝わっているようで、二人はすぐさま行動を開始した。
「吉澤さんは紺野さんを頼む。俺は娘を運ぶから」
手短に言った仁志が里沙から麻琴・真琴を受け取り、すぐさま背中に移動させる。
ひとみもそれに習ってあさ美を背中へと担ぎ上げていた。
「よし、行くぞ」
仁志の声を合図に走り始める愛と里沙。
前を走っているのはひとみで、仁志は一番後ろだった。
自由になった身体は一刻も早くその場から逃げ出したいと言っているようで、この振動の中でも順調に進んでいく。
不安定なはずの階段も躓くことなく下りることができたのは、きっと、こうした気持ちが強かったのだろう。
そして、愛達がそこから出た瞬間、辛うじて持ち堪えていたその建物は全てを飲み込むようにして崩れ落ちた。
それはまさしく、その事態のすべてが終息したことを示し、同時にそれは愛達にとってやけに長かった一日が終わったことを告げていたのだった。
- 139 名前:いちは 投稿日:2005/05/18(水) 11:57
- 更新しました
一応の結論に達したつもりです
>>105 通りすがりの者さん
個人的にもかなりはらはらしましたが、何とかけじめはつけることができました
次は「想いのなかの迷い、それから得る自由14」ですが、
『やけに長かった一日』はもう少し続きます
それでは
- 140 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/05/18(水) 21:29
- 更新お疲れさまです。 ついに決着がつきましたね(フゥー でもまだまだこれからなんでしょうね? 次回更新待ってます。
- 141 名前:名無し読者。 投稿日:2005/05/25(水) 06:40
- 更新お疲れ様です
とりあえずホッと胸をなでおろしました
今後どうなるのか次の展開も楽しみです
- 142 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/05/25(水) 13:44
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想いのなかの迷い、それから得る自由14
- 143 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由 投稿日:2005/05/25(水) 13:45
-
こうした静かな夜には特別な会話は必要無く、ただ、大切な人がそばにいるだけで満たされる。
そんなことをぼんやりと考えながら吉澤ひとみは座っていたその場から夜空を見上げた。
住宅地のど真ん中であるそこから見える夜空はひとみが部屋の窓から見上げているものと同じものに過ぎなかったが、それでもこのときだけはそれが特別なものだと認識できる。
夜空が変わっていないのであれば変わったのは別の要素、つまり、それを見上げる人間が変わったということだ。
「ちょっとだけ視点を変えれば、人生なんてすぐに変わるもんなんだ」
口から零れ落ちたその言葉を改めて自分の中に還元し、それを噛み締める。
周囲の冷たく研ぎ澄まされたかのような空気はこのときのひとみには新鮮以外の何物でもなく、全身にそれが巡るのを拒むような無粋な真似はしなかった。
「ひとみさん、その格好で寒くないんですか?」
すぐ脇から声をかけられ、ひとみはそちらへと視線を転じる。
自分が座っているのは縁台のど真ん中で、自分の隣には亀井絵里しかいない。
この家は田中れいなの家――もっとも、本来の所有者は父親である田中仁志だったが、ひとみにはそっちのほうがしっくりしたため、そっちのほうを使っている――であり、れいな達を含めた数人が中にいるはずである。
ただ、『いるはず』という曖昧な表現にならざるを得なかったのは、ひとみが彼女達の姿をろくに確認していないかったからだ。
仁志が小川麻琴・真琴を背負い、ひとみは紺野あさ美を背負ってあの場所から離れ、仁志の車と安倍なつみの車に分乗してここまでやってきた。
と言っても、高橋愛や新垣里沙、それに田中れいなと道重さゆみの四人はあの場所へ向かう前もここにいたらしく、厳密に言えば戻ってきたと言ったほうが正しいようだ。
「今日はそんなに冷え込んでないよ」
薄手にトレーナーだけのひとみから見た絵里はカッターシャツの上ににハーフコートという重装備をしていたため、普段ならば細いはずのその身体も見る影も無くなっていた。
「そんなことないですよ、ほら」
はぁっと絵里は思い切り口を開けて、息を吐き出す。
白い息がそこからほんのわずかだけ見え、宙へと消える。
それをぼんやりと眺めたひとみは、絵里を見たまま小さく笑った。
- 144 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:47
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「ほら、息だってそんなに白くなってないし。コートも脱いだら?」
予想外の結果だったのだろう、絵里はしばらく同じ動作を繰り返していたが、息が続かなくなったのかがっくりと肩を落とす。
それから着ていたコートをすごすごと脱ぎ、それを膝へと乗せた。
「結局、間に合わなかったね」
そんな絵里から視線を離し、再び夜空を見上げながらぼそりと呟くひとみ。
「何言ってるんですか?充分間に合ったじゃないですか」
自分の言葉が意外だったのか、絵里が少し大きな声で言い返してくる。
自分と絵里の認識にズレがあるようだが、それは指摘せずにひとみは絵里にも気づかれないように笑うことで、その話を流すことにした。
ひとみと絵里、それになつみの三人がその場へ駆けつけたときには、すでに事態は終わりを迎えていて、それ以前のことを把握するまでにはいたらなかった。
帰りの車の中で愛と里沙から話を聞いたが、それもどこか要領を掴めないもので、それを素直に信じるべきかどうかを迷ったひとみだった。
「ところで、田中達のところに行かなくても良いの?」
話題をばったりと切り替えて絵里に聞くひとみ。
見上げていた夜空は首が痛くなってきたためそこでおさらばとなったが、絵里の横顔を見たひとみはもう少しだけそれを見ていれば良かったと後悔することになる。
「良いんです、今はそっとしてあげたほうが……」
寂しそうに笑う絵里の横顔から目を逸らすことができず、ひとみはやけに大人びたそれをまじまじと見つめる。
その頭でぼんやりと現状を思い出してみた。
- 145 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:48
-
眠っている麻琴・真琴とあさ美は、ひとみのすぐ後ろにある障子を隔てた部屋で眠っている。
愛と里沙の二人はそんな三人が目を覚ますのを同じ部屋でじっと待っているはずだ。
れいなとさゆみの二人は、ここへ戻ってくるとすぐにれいなの自室へと入ってしまい、外から入って来れないよう鍵をかけられてしまった。
なつみには明日の準備があるため寮に戻ってもらい、詳しい説明は明日することにした。
そして、この家の主である仁志はいきなり増えてしまったひとみ達のために、もう一度古びたシビックに鞭を打って買出しへと出かけてしまったのだった。
というわけで、今のひとみと絵里はあまりにも無防備なこの家から外敵が侵入しないよう見張っているのだが、それも仁志の説明で、つまるところは留守番というわけだ。
隣にいる絵里とは帰りの車が違っていたために、そこでどういったやりとりがされたのかは聞いていない。
その車にはれいなとさゆみも一緒だったからだ。
だが、それをあえて聞くつもりになれなかったひとみは、そのことに深入りをしないよう心がけて、小さくだがつけ足した。
「絵里がそれで良いなら、私は構わないよ」
ひとみの声に対応しているのか絵里が小さく頷き、そこで会話が途切れてしまう。
しばらくは無言のままで時間を消費し、その時間をひとみは物思いに当てることにした。
今回の事態はいつから始まったのだろう。
そして、それを正確に把握できている人間はいるのだろうか。
また、それがいるのなら、一体誰なのだろう。
輪郭すらも掴めていないひとみの頭に浮かんだのは中澤裕子だけだったが、その彼女とも話ができないだろうということを帰りの車の中で仁志から聞かされた。
仁志は裕子を含めた奇術師といった存在をかなり嫌っていたらしく、ひとみがそのことを切り出したときには露骨に舌打ちさえしたほどだ。
だからひとみも深くは聞くことができず、こうして自分だけであれこれ考えなければならなかった。
- 146 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:49
-
頭が痛くなってきたため、ひとみはそこまでの思考を一旦停止させて、周囲に耳を傾けてみる。
聞こえてくるのは目の前の草むらからであろう、か細い虫の鳴き声だけで、それを邪魔する音は皆無だった。
普段は聞くことの無いその音に耳を澄ませながら、ひとみはここにはいない裕子へとしばし思いを馳せてみる。
中澤裕子が何を思って最期に臨んだのかはひとみにも分からないし、おそらくこの世界に理解できる人間は誰一人としていないだろう。
単純な怒りだったのかもしれないし、儚い希望だったのかもしれない、もしくは、それらを全て超越した、ある種の悟りなのかもしれない。
ただし、これは全てひとみの憶測であり、真実はもうどこにも存在しない。
「だけどね……」
自然と洩れたその言葉を意識的に遮り、言葉にする前に改めて確認する。
だが、そうしたところでひとみが知っているその事実が覆ることは無かったし、今でも進行しているそれを止めることはできなかった。
「それでも、世界は回ってるんだ」
そして、その上でこうして残された自分達はこれまでと同じように生き続けていく。
しかし、それを同じだと認識するのは他でもない自分で、それをしようとしなければ、いつまで経っても変わることは無い。
どう変わるのかは個人の自由、それを他人に指図される謂れはないし、束縛されてはいけない。
今日が終われば明日が今日と同じように始まる。
結局はその繰り返しが死ぬまで続くわけだが全く同じときは来ない、そう思いながらひとみは小さく息を吐いた。
- 147 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:49
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 148 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:50
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その日、彼から連絡が来るだろうという予感が何となくだがしていた。
支度はすでに整っていたし、連絡が来なければそれはそれで良かった。
ただ、現実として彼から連絡が来てしまった以上、彼女としても行かなければならないのだろう。
手にしたホープが不規則に煙を立ち昇らせているが、それも気にしようとしない限り意識の中へと入ってこない。
ただ、規則的に口へ運ぶことだけは忘れないようにして、彼女――小川千尋――はぼんやりと立ち昇る紫煙を目で追った。
弟からの連絡を聞いてみると、どうやら電話では話せないような出来事が多く起こってしまったらしい。
電話越しでそれを聞いた千尋はあえて何も問い質さずに、指定された場所へとやってきたのだ。
(きっとこのことを話したら、驚くかもね)
ホープを手にしているのは左手で、以前までの彼女ならば絶対にそっちの手でそれを握ることは無かった。
実際、こうして握っていてもどこか違和感があり、自分でも不自然だと思えるのだが、その感覚もどこか新鮮なものだ。
それもそのはず、彼女はこれまで二十年以上、左半身の感覚が無かったのだ。
田中千尋として存在していた彼女には、もう一人、田中智広という同居人が存在した。
彼はその意味が示すとおり、彼女の身体の中でもう一人の人間として構成され、彼女とは完全に独立していた。
どちらが優位なのかは彼がいたころも分からないし、いなくなってしまった今でも分からない。
ただ、失ってから初めて彼が彼女の身体の中の左半分を担当していたことを知ったのだ。
「だからといって、あなたが消えるわけではないから……」
いなくなってからも続いている彼への問いかけがこのときも口から零れるが、それは以前までのようにどこか虚しい響きは持っておらず、彼女もそれを虚しいと意識することは無かった。
- 149 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:50
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自分たちのことが異常だと認識できたときから対立が始まり、結局、最後の最後でしか完璧な意思疎通はできなかった。
最後の最後、彼は反発していた彼女に対してこう言ってきた。
『おれがいなくてもお前はお前だろ』
あのときはその言葉を素直に受け止めてここまで生きてきたが、今、その言葉を改めて噛み締めると別の結論が出てきていた。
一人になってから思うのは、何もしなければ何もしなくても時間だけは流れる。
そして、流れた時間だけ取り返しがつかなくなるということだ。
彼女が彼と共にいたときにはそんなことは露にも思わず、自分という存在をはっきりさせなければならなかった。
そんなことを繰り返すことでしか彼女は自分を認識できなかったのだ。
「あなたがいたからこそ、私は私だと認識できた。あなたは必要なのよ」
今の彼女なりの結論が零れるが、それをしたところで彼が戻ってくるわけでもない。
できることと言ったら、自分のような人間を作らないようにすることだけだ。
短くなったホープが視界に入り周囲を見渡してみるが、近くに灰皿は無かった。
仕方なく持っていた携帯灰皿に押し込めるが、まだその頃になっても仁志の古びたシビックがやってくる気配は見えず、二本目のホープを取り出して火を点ける。
吸い込んでみれば全身にニコチンが巡るのが分かり、彼女はこれまでの二倍は感覚が鋭くなったような気がして小さく笑った。
「あの娘達はしっかりと自分を認識できる。だから、私達のようにはならないわ」
誰にでもないが、強いて言えば、彼女や彼を単なる道具としか見ていない傲慢な奇術師へのせめてもの手向けだろう。
ただ、彼がその言葉を耳にしたらきっと全力で否定し、己の信念を貫くために再び行動を起こすだろう。
それに向き合っているのは今では彼女ではなく、弟である仁志だ。
そんなことをぼんやりと考えながら千尋はあと少しでやって来るであろう弟を待つことにしたのだった。
- 150 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:50
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 151 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:51
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「あらなっち、いらっしゃ……」
普段通り親友を迎えようとしたのはその部屋の主である飯田圭織だったが、そのあまりの勢いに思わずその言葉を飲み込んでしまった。
ただ、親友にはそんな圭織の緊張が伝わらないようで、ずかずかと部屋へ入ってきた彼女はその部屋に唯一の椅子へと腰を降ろしていた。
「ねえ圭織、のど渇いたべ。なんか持ってきて」
「え、えぇ」
有無を言わせない親友――安倍なつみ――から鬼気迫るものを感じ、素直に頷いた圭織はそそくさと自室を後にする。
廊下がやけに寒かったのは圭織が薄着だったためだが、このときはそれだけが理由でないことはすぐに分かったし、それを言えばどうなるのかも何となくだが分かってしまった。
一階へと繋がる階段を慎重に降りて喫茶『アターレ』の厨房へと出た圭織は、隅にあった食器棚からマグカップを二つ取り出し、冷蔵庫へと向かう。
業務用の大きな冷蔵庫は当然のことながら『アターレ』のものだったが、圭織の私物も多少入っていたため、こうして開けることはたまにあった。
冷蔵庫の中にはパック詰めされた食材が所狭しと並んでいて、扉部分には生クリームのパックが大量に並べられている。
食材に関しても良く見れば野菜系よりも果物系のほうが多く、それはつまり食事よりもデザート系のほうが売れている証拠なのだろう。
そんな冷蔵庫の中をじっと観察し、扉部分の脇に置いてあった生クリームのパックとは別のブツを見つけ、思わず圭織は顔を顰めた。
が、マスターである五郎ならば圭織が言わなければそれを処分しないのだろうと思い直し、恐る恐るそれを持ち上げた。
(良かった、ギリね)
ちなみに圭織が手にしたのは夏に気紛れで買ったアイスコーヒーで、先週の日づけが賞味期限として表示されていた。
一度だけそれを見た圭織はすぐさまその数字を忘れ、マグカップへと注ぐ。
ただ、このまま冷蔵庫の中に戻したら絶対忘れてしまうため、収めることだけは止めにした。
- 152 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:52
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「圭織、遅いべよ」
「ごめん」
部屋へ入るなりなつみの責めるような声が聞こえてきて、反射的に謝る圭織。
それからすぐにマグカップの一つをなつみの前へと置く。
が、それがテーブルの上にあったのはほんの一瞬で、圭織の目にはそれが消えたとしか見えなかった。
実際はなつみが目にも留まらぬ速さでマグカップを掴み取っただけだったが、普段の彼女からはそのような動作ができることが想像できず、内心だけで舌を巻くだけだ。
「ぷはー、ようやく落ちついたべ」
一息で中身を全て飲み干したなつみがテーブルにどすんとマグカップを置く。
かなりの力の入りように何をどう言えば良いのか分からず、圭織はとりあえず脇に置いてあった折りたたみ式の椅子を取り出すことで時間を稼ぐ。
しかし、それもほんの数秒しか時間を与えてくれず、すぐに怒っているのか安心しきっているのか理解しがたい親友の前へと陣取らざるを得なかった。
(ビールのほうが良かったのかしら……)
なつみから並々ならぬ気合を感じ、げんなりと心の中だけで呟いた圭織だったが、次の瞬間、なつみの眼光が唐突に鋭くなった。
何も言わないのに肩を飛び上がらせた圭織は姿勢を正すと、少し下にあった親友へと視線を固定させる。
それが始まりだった。
「ちょっと聞いてよ圭織。よっちゃんってかなりひどいんだよ?」
「そうなの?」
「そりゃ、久しぶりに運転するってことでかなりテンパってたけど、何もあんなに怒んなくても良いべよ。喋んなくても気配でがんがん伝わってきたべよ」
「へぇ?」
「でもさ、車運転できるのってなっちしかいないんだよ?そこのところを考えてほしいんだよね。なっちもさ、一生懸命だったんだよ」
「そうね」
「それなのにさ、無言で圧力かけてくるんだよね。『お前の運転だと早く行けないじゃないか』って感じで。そりゃあ最後のところで失敗したのはまずったかなって思ったけど、ちゃんと行けたんだから、結果オーライだべよ」
「……」
「帰りは一緒じゃなかったから分かんないけど、きっとあのときは愚痴ってたはずだべよ。田中ちゃんちに着いたときに言ったよっちゃんの言葉って分かる?『みんなが心配するといけないんで早く帰ってください』だって。あれって、絶対なっちと一緒にいたくなかったんだべね」
「……」
- 153 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:53
-
適当に相鎚を打っていたがどうやらそれが無くてもなつみは喋るようで、途中から無言で頷くだけにして圭織は自分の世界へと入ってみる。
それと同時に流れ込んできたのはそれまで意識して除外していたイメージの羅列で、それが頭の中で渦を巻いて圭織を飲み込もうとしている。
耐えることはせずに流れに身を任せ、流れてきたイメージをイメージとして一瞬だけ意識して、すぐに忘れていく。
こうした現象は圭織の中で日常的に行われているが、ふと考えることがある。
それはつまり、こうして見ているイメージの全てが本当だったら……と。
イメージだけでは時間を特定することはできないが、与えられている周辺の情報からあらかじめ予測することはできる。
過去であり現在であり、未来であるそれらを位置づけし、それらを正確に並べ替えることができてしまったのなら、自分はどうなってしまうのだろうと。
(つまりは、人間じゃ無くなるってことなのかもね)
浮かんできた言葉を噛み締めるが、自分の素性を知っていた圭織にしてみればそれは皮肉にしかならず、言葉と同様に浮かんできた笑みを感じながら目を開ける。
そして、目の前にあったなつみの顔に驚いて仰け反った。
「ちゃんと聞いてた?」
「なんとか……」
『聞き流していた』と言いそうになり慌てて口を噤むが、それを意識してしまったために不意に伸びてきたなつみの手に反応することはできなかった。
間近にあったなつみの目が閉じ、掴まれている手に力が込められる。
圭織が何をしているのかに気づいたのは、それからすぐに出てきた言葉を聞いてからだった。
「大丈夫、圭織は圭織だから」
「……えぇ、そうね」
大学に入ってから知り合ったこの親友についてあれこれ知っている圭織だったが、どうして彼女が自分の考えを読み取れるのかは分からない。
ただ、それも彼女に言わせれば造作も無いことなのだろう。
そう思って圭織はそれまで考えていた自虐的な考えを忘れ去ることにした。
それからなつみがしていたことと同じことをしてみるが、なつみから感じ取れるのは単純な言葉だけであり、それは圭織の中ですぐさま消化される。
- 154 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:53
-
「そっか、嬉しかったんだね」
手を握ったままなつみが腰を降ろし、こくんと小さく頷く。
目頭に水が溜まっていたようだったが、それは気のせいだと割り切り圭織は静かに立ち上がる。
「ちょっと待ってて」
座ったなつみに笑いかけ、部屋を出る圭織。
このとき置いていたお盆を持って出てきたのはもちろんのことで、再び下へと降りた圭織は冷蔵庫の中から取って置きのワインを取り出した。
グラス二つとカマンベールチーズも忘れずお盆に載せ部屋に戻ろうとしたが、あることを思い出し、ポケットに入れていた携帯を取り出す。
それからメモリに登録してあった番号を呼び出し、プッシュする。
まだこの時間帯ならば、彼女も起きているだろう。
『もしもし〜?』
「あっ、ごっちん。まだ起きてた?」
『うん。でも、そろそろ寝ようと思ってたところ』
電話の相手である後藤真希が、眠そうな声で言ってくる。
しかし、それがデフォルトの彼女なのでそれが本当に眠たいのかどうか、電話越しの圭織には分からない。
「今ね、なっちがここにいるの。で、帰りそうに無いから、明日の朝はよろしくね」
『ん、分かった』
理由らしい理由を聞かずに電話を切る真希。
どうやら本当に眠かったらしい。
(まだ十時じゃない……)
胸中で呟いた圭織はそれから準備万端なお盆を持って二階へと戻り、上に載ったワインを少しもったいぶって見せてみた。
が、なつみはきょとんとそれを見ているだけで、どうやらこのワインが何なのかを分かっていないらしい。
「こんな時間帯に来たんだから、とことん飲まないとね」
お盆をテーブルに載せ、圭織は脇のデスクからソムリエナイフを取り出す。
「何でそんなとこに入れてるべ?」
「何となくね」
圭織にしてもそうとしか答えることができずそれを持ってテーブルへと戻り、普段通りの手つきで封を開ける。
そのころにはなつみもワインの銘柄に気づいたのか、急にそわそわしてきた。
- 155 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:54
-
「圭織、それって流行のボジョレ……」
「安物よ。だけど、安すぎる物でもないわね。だって、なっちと飲むんだから」
圭織が持ち出したそれは、実のところ去年に買ったものだ。
今年のそれはまだ解禁になっていなかったために手にすることができなかったが、それでも構わないだろう。
「私は飲みたい気分なの、つき合ってね」
有無を言わせない圭織の物言いが面白かったのか、なつみが呆けた顔を綻ばせる。
どうしてそこで笑われなければならないのか圭織には理解できなかったが、それでもなつみが笑ってくれたことには変わりなかったため、深くは考えないことにしてグラスへとワインを注ぐ。
「さて、何に乾杯する?」
そう口にして聞いてみた圭織だったが、なつみがどう言うのかは何となく分かる。
その台詞を聞くまでは笑わないと決めていたがどうしても頬が緩んでしまうため、この短い時間は圭織にとってかなり過酷であった。
そのなつみは少し考えていたが、何かを思いついたのかグラスを持ち上げて、圭織をちらりと見てくる。
「『未来のみんなに』………ってのはだめ?」
「照れてるの?」
「からかわないでよ」
ワインの赤となつみの赤とが微妙なコントラストになるが、それについて圭織が言うことは無い。
ただ、親友の気持ちをそのまま受け止めるだけだ。
「なっちが良いなら、それで良いわよ。そういう気分だったしさ」
「圭織、そういう気分って、どういう気分だべ?」
「言わないと分からない?」
挑発的な笑みを浮かべる自分に対して困ったような顔をしてくる親友。
だが、気持ちの切り替えは早かった。
なつみがグラスを前に出してくるのにあわせて、圭織も自身のグラスを前に出す。
「じゃあ、未来のみんなに、乾杯」
グラスが軽い音を立てる。
二人の夜は始まったばかりだ。
- 156 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:54
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 157 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:55
-
自分だけがいる世界など存在することは無く、常に誰かがそばにいる。
そんなことを考えながら、高橋愛は静かに立ち上がった。
少し離れた部屋の中央付近では新垣里沙が舟を漕いでいるようで、首を大きく上下させている。
そんな里沙に気づかれないよう部屋を出た愛は、障子を閉めたのと同時に大きなため息を吐いた。
板張りの廊下が靴下越しに冷たさを伝えてくるが、それをものともしなかった愛はゆっくりと、そして、静かに歩いてその場を後にする。
時間的にはまだ寮に帰ることもできるが、それをしてしまえば負けだと強く意識して暫定的に一人になれそうな場所を探してうろついてみる。
やけに広いこの家ならばそれもすぐに見つかるだろうと思った愛だったが、見つけた縁台には先客がいた。
「小川達の様子はどう?」
「まだ寝てます」
あまり心配していなさそうな吉澤ひとみにぶっきらぼうに返した愛は、送られている亀井絵里からの視線から逃れるようにその場を離れ、再び家の中をうろつく。
途中、田中れいなの自室の前を通ったが、そこには人がいることが分かっていたために素通りをしてさらに歩いた。
辿り着いたのは母屋と離れを繋ぐ廊下で、そこからならば外も見えて、ひとみや絵里の姿も見えることは無いみたいで、愛は緊張させていた身体をそこでようやく弛緩させて、ぺたんと腰を降ろす。
- 158 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:56
-
夜空には月がくっきりと浮かんでいるが、それを見たところで愛の心境が変化するわけでもない。
なぜなら、今夜のように澄み切った気持ちになれないまま、事態は終わりを迎えてしまったからだ。
結局、自分がしたことといえばその場にいるだけで、特別なことは何もしていない。
麻琴・真琴でない別の人間に対して我を通したのは里沙だし、我を失ったあさ美を元に戻そうと努力したのは真琴だ。
事態を傍観するだけだった愛にしてみればそれは羨ましい以外の何物でもなく、それに積極的に関わることができなかったことが、正直悔しかった。
「なして、あーしやなかったんやろ……」
里沙の後ろ姿を思い出しながら、真琴の後ろ姿を思い出しながら呟いてみても、それが覆ることも無い。
気持ちを口にしたことでさらに気持ちが暗くなってきた愛は、それらを忘れるようにため息を吐くが、このときはそれがうまく機能してくれなかった。
奥底にわだかまった気持ちを払拭することができないまま、夜空を睨みつける愛。
できるものならこの夜空の一部になって消えてしまいたい。
それを強く思いながらも、実際ではこの場から逃げ出すこともできない。
そんな矛盾した想いを抱えたまま、愛は彼女達が起き上がるまでの時間を一人で過ごすことにした。
- 159 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:56
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 160 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:57
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暗闇にいることには慣れているつもり。
だけど、そこにずっといるわけではなく、わたしは外へ出ることができる。
それはもちろん、わたしの足でだ。
わたしは自由に歩いていけるし、わたしの言葉をわたしの意志で外に伝えることもできる。
だから、わたしにできないことなんて無いはず。
ほら、この暗闇だって……
「……里沙ちゃん?」
視界の隅に入ってきたのは新垣里沙ちゃんで、目を閉じた状態で首をこっくりこっくりしていた。
眠っている里沙ちゃんに声をかけるのも悪い気がして、わたしは横たわっていた身体をそっと動かして、手を見てみる。
薄暗かったのは部屋の電気が豆球しかついてなかっただけで、決してわたし達がその中へと押し込められたからではなかった。
その次の瞬間、わたしの頭の中に大量の何かが流れ込んでくる。
それら一つ一つは取りとめの無いことで、それらに接したのはわたしじゃない。
『彼女』が接していた記憶の断片だ。
暗く、冷たい暗闇の底で何かをひたすら待つ彼女。
わたしがいて、真琴がいる世界を眺めながら、そこから答えを探そうとしていた彼女。
わたしと真琴が弱いからって全てを壊そうとした彼女。
だけど、その彼女は彼女であってわたしじゃない。
わたしは……わたし。
『何もそんなに思い詰めることもないだろ?』
「なんだ、もう起きたの?せっかくこれから里沙ちゃんの寝顔でもじっくり観察しようと思ったのに……」
「まこっちゃんさ、そういう台詞は私のいないところで言ったほうが良いよ」
わたしのでも真琴のでもないその声を見てみると、里沙ちゃんが首をしきりに押さえながらわたしを見ていた。
「もう起きちゃったの?」
「そりゃ起きるよ。姿勢が変だったもん」
いててと言いながら足を伸ばしている里沙ちゃんに少しだけ笑いながらわたしは起き上がってみる。
節々がぎちぎち鳴っているような気がしたけどそれはあくまで気がするだけのようで、起き上がってみるといたって普通だった。
- 161 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:58
-
「何時か分かる?」
ポケットに入れていたはずの携帯がこのときにはどこかに行ってるようで、時間が分からないわたしは里沙ちゃんに聞いてみる。
ストレッチをしていた里沙ちゃんはわたしの言葉を受けて伸ばした足をそのままに携帯を取り出して、その画面を開いた。
「そろそろ十一時だよ。私も寝ようかな」
「えっ、もう寝るの?目が冴えちゃったんだけど……」
「そりゃ今まで寝てたんだもん。私なんてずっと待ってたんだよ?」
「さっきうたた寝してなかったっけ?」
「……まこっちゃんのばか」
里沙ちゃんのその言葉と同時に視界が再び暗くなる。
だけど、今度のは暗くなるだけじゃなくて息も苦しくなっていた。
『結構心配したんだからね』
その頃になってようやく敷いていた座布団を投げられたのだと気づいたけど、それはすぐには退いてくれることは無く、ずっとわたしの顔に固定されたままだった。
『って、なんでそこまで冷静なんだよ』
「寝起きだからかな……?」
真琴のツッコミにも冷静に対応するけど、わたしにできることはほとんど無いのかもしれない。
でも、全くできないってわけでもない。
だって、わたしはここにいるんだから。
「ありがとう」
素直な気持ちを素直な言葉で言う。
簡単そうで実は結構難しいそれをするのに、わたし達はずいぶん遠回りをしたような気がする。
だけど、それももう終わり。
これからはずっと楽に生きていけるはず。
それを示すかのように座布団がぽとりと落ち、里沙ちゃんが目の前に現れる。
目が赤くなっていたのは、わたしの気のせいじゃないだろう。
「ねえ里沙ちゃん。わたしのお願い聞いてくれる?」
「こんなときにお願いなんてするの?」
「こんなときでなきゃできないお願いなの」
両目をしきりに擦っていた里沙ちゃんが、わたしの言葉を聞いてその動きを止める。
怒っているようでどこかで期待しているようなその顔に向かって、わたしは言ってみた。
- 162 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 13:59
-
「これからもずっと、里沙ちゃんのそばに居ても良い?」
言ってるそばから身体が熱くなってくるけど、それは我慢して正面だけを見るわたし。
そこにいる里沙ちゃんはしばらくきょとんとした顔をしていたけど、それから小さく吹き出した。
「ほんとだ。こういうときじゃないとできないね」
「ねえ、良い?」
駄目押しのつもりで両手を胸の前で組んでくねくね動いてみる。
いつもはしない乙女チックな仕草に、里沙ちゃんもきっとメロメロなはずなんだけど……
「キモいからやだ〜」
……玉砕。
「別にそんなことしなくても良いからさ、まこっちゃんはまこっちゃんのままでいてよ」
「……ありがと」
まあ、自分でも気持ち悪いって分かってたからね、自業自得か。
『って、だったら言うなよ』
「なんかさ、あんたのツッコミってワンパターンだね」
真琴に釘を刺しておいてわたしは改めて里沙ちゃんを見る。
笑ったその顔がいつもよりもはるかに柔らかそうだったのは、わたしがそう思ってるからで、里沙ちゃんが変わったからってわけではない。
それを受け止めるわたし達が変わっただけだ。
- 163 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 14:00
-
「まこっちゃん達が起きたんだったら、そろそろあさ美ちゃんも起きるよね」
里沙ちゃんの視線に促されて隣を見てみると、そこにはさっきのわたし達と同じようにあさ美ちゃんが横たわっていた。
まだ、眠っているようだけど閉じている目の部分が少しだけ動いている。
『あさ美?』
それを合図にわたしは真琴と入れ替わって奥へと引っ込む。
この暗闇も元々は彼女のものだった。
だけど今、ここにいるのはわたしと真琴の二人。
そう、この中で生きていくのはわたし達なんだ。
それさえ忘れなければ、わたし達はこれからもずっとわたし達のままでいられる。
『でもさ、急に代わっちゃうと困っちゃうんだよね』
『じゃあ、今度から代わるぞって言うからさ』
「そんな勝手に言わないでよ」
不安だったから一言だけそう言っておくけど、これを聞いたであろう真琴は何も言わなかった。
あさ美ちゃんから視線を離すことなく、目を覚ますのをじっと待っている。
あさ美ちゃんが目を開けたとき、真琴はどう言うのかな?
目が覚めたとき、あさ美ちゃんは何が起こったのか覚えてるのかな?
そんなことを思いながら、わたしは真琴の目を通して真琴と同じようにじっと待つ。
だけど、このときのその時間はわたしにとって苦痛にはならなかった。
わたしにはわたしでやりたいことがあるし、真琴には真琴でやりたいことがある。
ただ、わたし達の場合は他の人と少し違ってるってだけで、根っこの部分は同じなんだ。
手を握っている真琴から焦ってるって感じは一切しない。
真琴も大丈夫なはずだ。
だから、今は待とう。
目を閉じてみるとそこに広がったのはさっきまでいたのと全く違う暗闇だった。
温かくて、柔らかい。
そんな暗闇に包まれて、わたしは真琴とあさ美ちゃんの時間がやって来るのを待つことにした。
- 164 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 14:00
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――――――――――
- 165 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 14:01
-
建物一つが倒壊したというのに、処置はかなり大雑把だった。
人が入らないよう簡単にロープが張られただけのその場所は無人で、誰もいない。
その中を、彼女は鼻歌を歌いながら歩いていた。
「ほんと、奇術師ってみんな変人ばっかだよね」
誰も聞いていないのは分かっているが、それでも彼女は言葉を口にする。
実のところ今の彼女はかなり怒っていて、そうでもしないと気が収まらなかったからだ。
足元にあった瓦礫の一つを蹴り飛ばしてみても彼女の気が収まることは無く、愚痴はさらに続く。
「死ぬんだったらここら辺で死んでくれたら良かったのに。変な場所に行かれたら回収もできないっての」
憂さ晴らしに使い魔を呼び出してみるが、特別な訓練をしていないがためにそれは実体を伴うことなく中途半端にしか現れない。
さらに腹の立った彼女は間近にあった使い魔の核を掴み、握り潰した。
音も無く消滅した豹の使い魔に対して舌打ちをし、彼女はさらに歩くことにする。
「それに、死ぬなんて逃げることに同じだよ。何かをやり遂げないと、価値なんて存在しないんだからさ」
目を細めて言い放ち、そこでいなくなってしまった全てを否定する彼女が見ていたのは、単なる瓦礫の山ではなかった。
それは彼女を含めたほんの一部の人間にしか見ることができず、その形もさまざまだ。
だが、彼女はそれらほんの一部の人間とは完全に同じではない。
そういった意味で彼女はほんの一部の人間達よりも優位な立場にいるのだ。
『本当にそう思うの?』
誰もいないはずのその場所で問いかけられた彼女は立ち止まって、振り返ってみる。
声がその方向から聞こえてきたわけではないが、勘だけのその動作も彼女にとっては意味のあるものだ。
どこにいるのかは問題ではない。
どこに在るのかを決めるのは彼女で、それに応じて彼女以外のものが現れるからだ。
- 166 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 14:02
-
「あんたって小川の元だったよね。何でこんなところにいるの?」
人間は立っていないが、その場にいることは確かでそれを核で認識した彼女は思わずそこに漂っていたそれに話しかけた。
『あの二人に追い出されたのよ。私は必要ないみたいね』
気配だけでそれが肩を竦めているのだと分かるが、それが分かったところで彼女がすることは無いし、あったとしてもするつもりは無い。
だから、ここはさっさと見切りをつけることにした。
「ふーん、そうなんだ」
『ふーんって、やけにあっさりしてるのね』
「うん、興味無いからね」
軽く手を振ってそれを追い払おうとするが、核だけのそれは彼女がそれをはっきりと意識しなければ触れることはできない。
宙を切る手をまるで他人のそれのように見ていた彼女は、そこで意識を尖らせたら負けだと強く自分に言い聞かせる。
そして、その彼女を誘惑するようにそれが言葉を続けてきた。
『興味無いことはないでしょ?見たところ、あなたは蒐集が目的みたいだし』
「違うよ、目的じゃなくて単なる手段」
自分が消えるということが分かっているのに何がおかしいのか彼女には分からず、思い切り顔を顰めて言い返すが、彼女のはっきりとした意志がそれに伝わることは無かった。
はっきり言わなければ消えそうに無いのならそうするまで、それだけをはっきりと意識して彼女はそれに向ける。
「あんたなんか持っててもつまんないからさ」
この半日、全てを上から見下ろしていた彼女にとって、それはかなり単純な事象だった。
全てを嫌い、全てを突き放し、全てを消そうとしたそれ。
それをしたところで彼女にしてみれば得るものは何も無いし、あったとしても彼女の意に沿うようなものでもなかった。
- 167 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 14:03
-
『他人と馴れ合うことなんて無意味よ。完璧になりたいなら、全てから切り離さないとね』
「私に言わせれば、それ自体がナンセンスなんだよ」
それの言葉をばっさりと斬り捨て、意識をそれから離す。
だが、このときのそれは彼女のそうした努力に反するかのようにそこに在り続け、最後の最後まで言葉を投げかけてきた。
『ねえ、ちょっと聞いても良い?』
答えるつもりになれなかった彼女はそれから呼び止められてもその足を止めるようなことはしない。
相手が突き放しているなら自分も突き放す、それを体現してみたところで感じたのは虚しさだけで、その瞬間にも彼女はそれが不必要なものだと認識する。
ただ、それを放置したままこの場から去るのは負けのような気がして、彼女は意地でそれへと振り返った。
「なに?」
再び意識を先鋭化させ、それを認識する彼女。
そこに浮かんだのは彼女の知っている人間のようで、彼女の全く知らない人間だった。
『私の最後を看取ってくれた、あなたの名前は?』
「私?」
ずうずうしくも自分の名前を名乗ることはせずに相手のだけ聞こうとするそれにそこはかとなく怒りを抱くが、はたしてそれに相応しい名前が残っているのかということに気づき彼女はその怒りを内へ収める。
怒りに代わって浮かんできたのは同情で、彼女の気持ちの変化が伝わっていたのだろう、それは答えを聞くまでは消えないといった気配を発していた。
- 168 名前:想いのなかの迷い、それから得る自由14 投稿日:2005/05/25(水) 14:03
-
「私はね、藤本美貴って言うの」
じゃあね名前を無くした誰かさん、その彼女の言葉を聞いて満足したのかそれは霧散するように消える。
そして、そこに残ったのは彼女だけになった。
すぐに帰るつもりになれなかった彼女は、懐からマルボロを取り出してそれを口に銜える。
火を点けて大きく深呼吸をすると、すっと意識が遠のき、次の瞬間には元に戻る。
が、それは彼女の勘違いのようで、切り替わった思考が周囲の雑多なものから彼女を切り離していた。
銜えたマルボロから見える煙だけを目で追い、他は全て切り捨てる。
そうしなければ得ることのできない彼女だけの世界で、彼女はじっと思考を巡らせる。
独りになって考えるようになったが、彼女がそこから得たものは少ない。
追い詰められているという緊迫感と、到達しなければならないという使命感、それに、絶対手に入れたいという願望。
日々大きくなるそれらを抱えながらも今日まで慎重に行動できたのは、彼女の手にしたいものが本当に必要だったからだ。
それに、今日までで彼女のそれまでの行動が終わることは無い。
「ほんと、無駄足だったね」
いなくなったそれに吐き捨てるように呟いた彼女は、まだ半分ほど残っていたマルボロを挟んだ指で握りつぶして放り投げた。
それからいつもの手順で背中に羽を生やす。
すでに習慣とまでなってしまったそれは快適だったが、日中はあまり多用できない。
目立つことを彼女は嫌っていたからだ。
今は深夜に差しかかっており、彼女の邪魔をするものは何もいない。
そう思うことで少しは気が晴れたようだが、それでもまだ完全では無いようだった。
「私は私のしたいことをする。それで充分なんだ……そうだよね?」
誰に問いかけたのかは彼女にしか分からない。
だが、彼女はそれを口にするほど弱くは無かった。
自然と洩れたその言葉を彼女が認識することはなく、吹き飛ばすかのごとく彼女は背中の羽を大きく羽ばたかせる。
そして、彼女の苛立ちを代弁しているように力強い羽に満足な笑みを浮かべた彼女は、そのまま雲一つ無い夜空へと舞い上がった。
- 169 名前:―― 投稿日:2005/05/25(水) 14:05
-
想いのなかの迷い、それから得る自由 了
- 170 名前:いちは 投稿日:2005/05/25(水) 14:26
- 更新しました
今回でこの話は終わりになります
>>140 通りすがりの者さん
今回の結論はあくまでも一時的なものです
話はもう少し続く予定です
>>141 名無し読者。さん
何とか話がまとまって安心してます
ただ、この後も普通に続いていきます
次回の更新なんですが二週ほど間が開きそうです
すいません
それでは
- 171 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/05/27(金) 10:20
- 更新お疲れさまです。 やっぱりそうですか。 まだまだ謎の深い人物は居ますもんね。 全て見届けさせていただきますよ。 それにあの人も・・・。 次回更新待ってます。 ・・・いつか自分もスレ立てたいです。(タブン
- 172 名前:―― 投稿日:2005/06/15(水) 11:56
-
信じる者は救われる。
そんな言葉を耳にするが、ウチはどうなるんやろう。
ウチは絶えず周りを信頼してきたつもりや。
それなのに、そんなウチの信頼に答えてくれるやつは誰も、何もおらんかった。
信じること自体が無意味やったんか、信じる対象が信じるに値せんかったんかはウチには分からん。
せやけど、それに縋るしかウチに術は無かった。
それなのに、気がつくとウチは独りになっていた。
何がどうなってウチがこうなったのか、それはウチが一番聞きたい。
二人おったはずの親友もあのときを境にして、どっかへ行ってしもうた。
一人はこの世界から、そして、もう一人はウチのそばから……
そばからっちゅうのは単純な距離の問題や無い、精神的なもんや。
『元』親友は今もウチのそばにおる、なのに、あいつはウチのことを名前で呼ぶようになった。
まるでそうしておけばウチから逃げられるって思うとるんかな。
たまに見せる弱い部分はウチの知っとるあいつなのに、あいつはそれを認めてくれん。
まるでそうしておけばウチを含めた全ての過去を否定できるって決まっとるんかな。
切れてしまった糸は繋げることができるが、『絆』っちゅう目に見えんそれは繋げることができんのやろうか。
ウチはそれが見えんでも、また、前みたいに元に戻したいだけや。
なのに、唯一残ったあいつは、そんなウチを拒み続ける。
何でウチはここまで何に対しても関われんかったんやろ。
あのとき、あいつと同じようにあの場所におれば、ウチとあいつは対等になれるはずやった。
たったわずかなあの時間、倒れとったウチをあざ笑うかのように全てが終わり、ウチはそれらから切り離された。
ほんま、ムカつくわ……
なあ、ウチはこれからどうすれば良い?
このまま、ここに残っておればええんか?
このまま、分からんまま生きていけばええんか?
……
……
嫌や、ウチは認めたくない。
なんで、ウチだけが除け者にされんとあかんのや?
なんで、ウチだけ何も知らされんまま、生き続けんとあかんのや?
誰か、教えてくれよ。
ウチにどうすればええのか、何をすればええのかを……
- 173 名前:―― 投稿日:2005/06/15(水) 11:56
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自由への逃避
- 174 名前:自由への逃避 投稿日:2005/06/15(水) 11:57
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自由への逃避0
- 175 名前:自由への逃避0 投稿日:2005/06/15(水) 11:58
-
その日の空気は一段と尖り、彼に少しでも隙があればすぐさまその内へと侵入してきそうだ。
頭の隅にそう意識した彼は、それで自身がさらに研ぎ澄まされるのを感じたが、だからといって不安が完全に払拭されるわけでもない。
すでに何度もした深呼吸をさらに深く、長く行い、自己の中に在る感覚を呼び起こす。
簡単なはずのその作業もこのときに限ってはうまく働いてくれなかった。
(それも分かりきったことなんだ)
自然と開いた目に入っていたのは、たった一人の人間。
通常の人間ならば特別に意識することも無いのだろうが、彼はそのたった一人の人間に緊張していた。
己の内にあったはずの確固たる自信は、そのたった一人の人間を視界に収めたのと同時に全て吹き飛び、丸裸にされた状態で彼はそれと対峙する。
彼が持っていた獲物は木刀であり、それが手にしていたのは槍だった。
心許ないその木刀を手にした彼は息を呑み、それをじっと見据える。
小刻みに震えているその先端が視界に入ってくるが、それは武者震いだと自分に言い聞かせ、彼は無造作に足を前へと踏み出した。
踏み込みの際に生じた音は一度だけ。
彼の足がその元だったが、そのことに彼が気づくことは無かった。
素早く詰め寄った彼は正眼に構えていた木刀をわずかな動作でそれへと突き出す。
だが、それはそんな彼の動作に気づいていたのか、持っていた槍の柄の部分で彼の木刀を弾き飛ばした。
その一撃で彼のバランスはあっさりと崩れ、下の畳に手をついた彼は耳元に迫ってくる音を感知して、そのまま前へと転がる。
後ろへ行こうとする力を無理やり前転で殺したことで身体のいたるところから悲鳴が上がってくるが、それをすることでメリットもあった。
穂先だけに刃のついている槍はその先端部分をかわせさえすれば、勝機を見出せるということだ。
リーチが長い分、振り回すには分が悪いそれに対し、彼の持っている木刀は全体が凶器であり、どの部分にそれを当てられるかが鍵になる。
だが、彼の考えは甘かった。
- 176 名前:自由への逃避0 投稿日:2005/06/15(水) 11:58
-
懐に潜り込み手にしていた木刀を突き上げるが、その先にそれがいることは無かった。
すぐ真上にある槍から手を離し、それは木刀の届く範囲から遠ざかっていたのだ。
大きく弧を描き木刀と共に彼の身体が大きく伸びる。
一度しかないチャンスを物にするため全身全霊を込めたが、当たらなければそれも全くの無意味だ。
そして、そのうかつなまでの動作のツケがすぐさま結果となって表れた。
間近へと迫ってきた手刀から目を逸らさなかったのは彼の意地であり、それに対する唯一の抵抗を示している。
が、それも虚しい抵抗に過ぎず、それの人並みはずれた図太い腕が彼の胸を貫いた。
(今日も駄目だったか……)
大きくため息を吐き、目の前にあるそれを睨みつける。
同時に彼に刺さっていた手刀とそれ自体も消えた。
ここには最初から彼しかおらず、彼が対峙していたそれは彼が作った幻覚に過ぎない。
しかし、彼が幻覚であるそれを越えることは未だにできていない。
結果は常に敗北という形で訪れ、彼に死を与えてくる。
「親父、何しよう?」
不意に背後から声をかけられ、彼は気の抜けていたであろう顔に再び力を入れた。
幸いだったのは彼がその声の主に背を向けていたことだった。
「いつもの修練だよ」
「親父も暇っちゃね。それよかご飯ができたとよ」
親父と呼ばれた彼――田中仁志――は荒くなっていた息を無理やり落ち着け、それを言ってきた娘――田中れいな――に振り返る。
そして、先ほどまでとは別の意味で身体が強張ってしまった。
「親父、何しよう?」
れいなから同じ問いかけをされそれにどう答えるべきかしばし迷った仁志は、ストレート以外にそれを打破する道は無いことに気づき、すぐさまそれを実行した。
- 177 名前:自由への逃避0 投稿日:2005/06/15(水) 11:59
-
「れいな、その格好でどこに行くつもりだ?」
「どこって、知らんの?」
「いや、分からんから聞いてるんだが……」
れいなの格好はつまるところ、似合っていなかった。
全身緑を基調としたアーミールックで、なぜか大きなリュックサックまで背負っている。
仁志がいたのは玄関から外に出たところにある道場だったため正確な時間は分からないが、れいながどこに行くにしても早すぎる時間帯のはずだ。
と、そこで仁志は昨日のれいなの話を思い出し、気づいたときには口を開いていた。
「頼むからその格好で外を歩かないでくれ」
「なんで?」
「その格好で鏡の前に立ってみろ」
手にしていた木刀を肩に担いで道場を出る仁志。
すぐ後ろでれいなが何やら言っているようだったが、彼はそれを見事に無視した。
「ただいま、終わったよ」
台所にいる妻の真理恵に言葉をかけ、仁志は一度自室へ戻るべくそこを後にする。
れいなはぶつぶつ言いながらも自分の部屋に向かっていて、そのドアが完全に閉まったことを確認してから自室へと入った。
着ていたジャージを脱ぎ、トレーナーに袖を通す。
五分後、台所へと向かった仁志は廊下でれいなと鉢合わせになった。
このときにはれいなの格好も普段のそれへと戻っていたため、仁志は内心で大きくため息を吐いて安心した。
- 178 名前:自由への逃避0 投稿日:2005/06/15(水) 11:59
-
午前八時、田中家の朝食が始まった。
「ところでれいな、集合時間は何時なんだ?」
「九時っちゃよ」
「で、麻琴・真琴の他には誰が来るんだ?」
「さゆにがきさん、それに絵里と吉澤さんとね」
「そうか」
話すのは専られいなと仁志の二人であり、同席している真理恵は一切話をしない。
といっても、彼女は会話をしたくても会話ができないのだ。
だからというわけではないが仁志とれいなの二人が今日あることをある程度話しておくというのが日課となっており、それは麻琴・真琴がいるときと何ら変わることは無かった。
二十分ほどで終わった朝食の後、仁志は部屋に戻って今度は胴衣へと着替る。
毎週土曜日は彼が個人的な趣味で開いている剣道の練習があり、数人だがここに通っているからだ。
公務員である仁志がなぜこれほどまでに広い家を構えているのかと言うと、理由はいたって簡単で、彼の両親が残していたからだ。
ただ、彼は両親の顔を見ることなく育ち、両親の顔を見ることなくここを相続してしまったためにその実感が湧くことは無かった。
練習は九時から開始で、それまでのわずかな時間は彼だけの時間だ。
その時間を有効に使うべく、再び先ほど行っていた鍛錬へと集中するが、それを遮るかのようにれいなの威勢の良い声が一度だけ響く。
出かけるだけなのにどうしてそこまで声を張り上げる必要があるのか仁志には理解できなかったが、張り切っていることだけは分かったため、何も言わずに彼は一人の世界へと入る。
そして、それからもう一度自分を殺した幻影を呼び出し、それへと持っている木刀を向けることにした。
- 179 名前:自由への逃避0 投稿日:2005/06/15(水) 12:00
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 180 名前:自由への逃避0 投稿日:2005/06/15(水) 12:01
-
「れーなとさゆは絶対つき合いますって」
「そうかなぁ……」
そのとき、亀井絵里は自分の主張がなかなか相手に伝わってくれず、かなりやきもきしていた。
身振り手振りを踏まえた絵里なりの最大限の努力も今のところ報われておらず気持ちだけが空回りしているようだが、それでも絵里には絵里なりの確信があったために退くこともできずにいる。
「ところで、何で絵里はそこまであいつらの固執してるの?」
「へっ?」
主張をしていた相手である吉澤ひとみにあまりにも基本的な切り返しを受け、絵里は自分でも気づかないまま間の抜けた声を上げる。
正直な気持ちはそのまま顔にも表れ絵里はきょとんとしてしまうが、それもほんの一瞬ですぐさま理由を並び挙げるという作業を開始したのだった。
「まず、れーなとさゆっていつも一緒にいますよね」
「いや、『よね』って言われても、私は見たこと無いし……」
「それにあの二人って幼馴染ですよ。仲悪いわけありませんって」
「幼馴染でも疎遠になることもあるよ」
「二人一緒のときなんか手繋いでることなんてざらだし、腕なんかも組んでますよ」
「特別な意図は無いのかもしれないね」
「……」
ぐったりと重たいものを感じながら、絵里は座ったままこちらを見上げているひとみへと視線を送る。
彼女は持っていた空の缶コーヒーを両手で転がしているが、その顔はどこか意味深な笑みを湛えていた。
「……ひとみさん、何か不服なことでもあるんですか?」
「うん、ちょっとね」
力説していたがどうやらひとみにはそれが伝わってくれなかったようで、どっと吹き出した疲れと共に絵里は彼女の隣へとどすんと座る。
そのまま背もたれに思い切り体重をかけて空を見上げるが、今日は快晴であり雲ひとつ無いことはすでに確認済みだ。
- 181 名前:自由への逃避0 投稿日:2005/06/15(水) 12:01
-
「私から見た、絵里の悪い癖第一」
背もたれに寄りかかったままひとみを見てみるが、前を見ているひとみからはこちらの表情は見えないはずであり、同時にそれは絵里からもひとみの表情を読み取ることはできないことを意味していた。
「何事にも熱心になりすぎるってことだね。自分のことならまだしも、全くの他人にもそれが顕著なところがあるよ」
「具体例を挙げてください」
「例えば私に対して」
すかさず問いかけ、それに即答したひとみに対し背もたれから一瞬で離れた絵里は素早く顔をひとみの前へと移動させ、その顔を覗きこむ。
そのとき、ひとみの顔に在ったのは不必要なまでの能面であり、それがどういった意味を持っているのか絵里には分からなかった。
ただ、ひとみから出てきた言葉に対して否定するため、口だけは開く。
「違います、ひとみさんは他人じゃありませんよ」
「今はね。だけど、前からこうだったわけじゃないだろ?」
「そ、そりゃそうですけど……」
「それに私達の場合はね、他の人と手順が大きく違うんだ。だから、私達と同じことを相手に適用しようとしても無理だし、無茶だよ」
ひとみから言われ、忘れかけていたその事実を絵里は思い出す。
絵里とひとみの関係をひとえに表現するならば『両想い』が適切なのだろう。
ただ、そこにいたるまでの道が少し(というかかなり)違っていた。
- 182 名前:自由への逃避0 投稿日:2005/06/15(水) 12:02
-
「私から見た、絵里の悪い癖第二」
目の前にあったひとみから無情なタイミングで口が開かれ、それから逃れるようにひとみから離れ先ほどとは違った意味で背もたれに思い切り体重をかける。
しかし、それくらいではひとみの言葉が止むことは無かった。
「思い込みが激しいってことかな。『自分達がそうだから相手もそうなんだろう』ってことを信じて疑わないってことだね」
「……」
「さっきの話にもあったけど、田中と道重の二人が手を繋いでる、もしくは腕を組んでるってだけで決めつけるのは、あんまりよろしくないよ」
「でも、私達の場合は……」
反射的にそこまで言葉を発した絵里は慌てて言葉を噤むが、出てしまったそれを消し去ることもできず、ひとみに対して恨めしい視線だけを送る。
それから文句の一つでも言おうとするが、それよりも先にひとみが口を開くのが早かったため何も言えずに言葉だけを受け止める。
「あんまり自分の価値観を相手に押しつけるのは良くない。それに、自分の価値観ってのは、自分の中で大切にするからこそ、意味があるんだ。それにね……」
最後の部分がそれまでよりも近くに聞こえたのはひとみが絵里のほうを向いてきたからで、その一部始終を見ていた絵里は言い返そうとして開きかけた口を閉じざるを得なかった。
その絵里に向かってひとみが近寄ってきて、そのまま耳元で囁いてくる。
「私も嫉妬するしね」
「……言ってて恥ずかしくないですか?」
「誰も見てないだろ?」
ひとみが顔を離したのを合図に周囲を見回してみるが、少なくとも半径十メートルには誰もいなかった。
- 183 名前:自由への逃避0 投稿日:2005/06/15(水) 12:02
-
「で、私から見た、絵里の悪い癖第三」
「えっ、まだあるんですか?」
てっきり今ので終わりかと思った絵里だったが、ひとみはそんな絵里に視線を送らずに正面を見てにやついている。
そちらへ視線を転じた絵里は、目の前にある曲がり角から現れた話題の二人を見つけ、すぐさまひとみを見る。
が、ひとみのにやついた顔が崩れることは無く、半ば睨みつけている絵里を受け流すかのように続けてきた。
「あいつらがああしてても、本音は分からないってこと。もっとも、こうした本音はそっとしておくほうが良いんだけどね」
「はぁ……」
とりあえずそんなひとみの言葉を聞きながらも、絵里はゆっくりとした動作で立ち上がる。
駅前のベンチが待ち合わせ場所であり、絵里とひとみは三十分近くそこで待っている。
二人の背後にあった時計は九時五分前を指していた。
「ねえひとみさん」
「……なに?」
「見た目と本音って意外と変わんないかもしれませんよ?」
「……」
無言のままのひとみから視線を外し、絵里は再び二人へと視線を移す。
大きく手を振っていたさゆみに答えるように絵里もも手を振るが、さゆみのように大きな動作はできなかった。
ただ、その二人を見て自分がしなければならないことを思いつき、それを今のところは心の中へとしまいこむ。
残念ながら、ひとみはこれから絵里のしようとしていることに対してあまり協力的ではない。
だったら、協力的な味方を探し出すまでだ。
そして、絵里にはその協力者に当てがあり、彼女にどう話をつけるかを早速思案し始めたのだった。
- 184 名前:自由への逃避0 投稿日:2005/06/15(水) 12:03
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 185 名前:自由への逃避0 投稿日:2005/06/15(水) 12:03
-
目を開いていても閉じていても感じるものは唯一であり、それを抱えたまま稲葉貴子は静かに集中させていたつもりの気持ちをそのまま前へと解き放つ。
が、結果は見るまでもなかった。
集中していたはずの気持ちは少し離れるとすぐさま形を失い、思い描いたように飛んではくれない。
不定形のままの気持ちはそのまま宙へと霧散し、残ったのはそれを解き放った貴子だけだった。
「やっぱ、ダメか……」
何度繰り返したのか分からないそれを再確認し、小さくため息を吐く。
何もしていないはずなのに疲労だけが溜まり、それと連動して空虚感も身体の中へと蟠っていた。
左手首に嵌めていた真鍮製のブレスレットを外すと少しだけ疲労感が取れたような気がしたが、それはあくまでも気のせいであり、実質的には何も変わっていない。
「フラウロスもダメ、餓鬼もダメ……か」
文字通り無力と化した貴子は呼び出すことのできなくなった使い魔達へと悪態を吐くが、それでも使い魔達が現れてくれることはなかった。
蒐集が目的の貴子には他にも使い魔を所有していたが、それらも全て呼び出せるかを試し、全てが失敗に終わっている。
立っているのも億劫になってきた貴子は、すぐ脇にあったベッドへと腰かけ胸ポケットに入れていたフィリップモリスを取り出す。
手馴れた仕草でそれに火を点けてみるも、味すら感じなくなってしまったそれは今の貴子のように在るのか無いのか全く分からない。
そしてそれを吸うとき、貴子は必ず空いていた手をわき腹へと添えていた。
- 186 名前:自由への逃避0 投稿日:2005/06/15(水) 12:04
-
死んでしまったはずの平家みちよから受けた傷はすでに完治し、その跡がわずかばかり残っているだけだ。
しかし、あそこで受けた精神的なダメージは未だに癒えることなく貴子の中で疑問を投げかけていた。
『何が正しくて、何をすべきか』
向き合ってみても分かるはずの無いその疑問を抱えたまま、貴子はこれまで何もできないまま過ごしている。
唯一答えを知っているはずの中澤裕子にも会う気になれないのは、それを問いかけたところで答えが返ってくることが無いことに気づいているからだ。
それに、こうして奇術師本来の力を失ってしまった貴子にしてみれば、この状態で裕子と向き合うのもどこか屈辱的なことだった。
以前は感じることの無かった劣等感、それを抱き続けたまま自身の力を呼び起こしても思うような結果は導けない。
そんな悪循環の中で貴子はひたすらにその答えを探していた。
「ほんま、何がしたいんやろ……」
呟いたところで返事があるわけでもない。
分かっていながらしてしまった愚行を呪いながらも、貴子は口元から上ってくる煙へと視線を彷徨わせることにして時間を潰すことにした。
- 187 名前:自由への逃避 投稿日:2005/06/15(水) 12:04
-
自由への逃避1
- 188 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:05
-
「というわけで、がきさんはどう思います?」
「いや、そんなフリされても、全然話分かんないし……」
週明けの月曜日、その昼休憩にそう話を切り出してきた亀井絵里に対し新垣里沙はすかさず言い返した。
その里沙の言葉を聞いたであろう絵里はしばし呆然としていたが、箸で摘んでいたタコ型のウインナーを口の中へと放り込み、ゆっくりと咀嚼する。
そして、それを飲み下してからさらに牛乳パック(これは持参ではなくて学校で配っているやつだ)を飲んでから驚いたような顔をした。
「がきさん、私の言いたいことを分かってくれないんですか?」
「いや、その間の意味が分かんないって……」
「私と同じ立場のがきさんになら、伝わってくれると思ったのに……」
しゅんとなった絵里が持っていたパックをかなりの力で押し潰している。
どうやら落ち込んだのではなくて怒ってしまったようだ。
ただ、状況を全く理解できていない里沙にはそれがなぜなのかも検討がつかず、それを素直に聞くしかない。
「亀ちゃんと同じって、何が?」
「だから、私とがきさんって、幸せ街道まっしぐらでしょ?」
「……それってどこにあるの?」
「えっ、がきさんには見えないんですか?」
嫌味のつもりがまともに返されてしまい言葉に窮する里沙だったが、今日の絵里はそれくらいで止まることは無かった。
食べ終わった弁当箱を綺麗に包み直して、近くにあった窓を開け放つ。
すでに十一月に入り、寒くなってきたにも関わらずだ。
そんな中、絵里はどこか遠くを指差して、自信満々で里沙を見てきた。
「ほら、あそこら辺ですよ」
「私には普通の道路にしか見えないよ」
自分の弁当がまだ半分以上残っていたため、それを処理すべく絵里の言葉を流して里沙は視線を下ろす。
その頃には絵里の話から意識が離れ、自分が置かれている状況を再確認していた。
- 189 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:06
-
(まこっちゃん、大丈夫かな……)
先日の混乱ぶりからして、二人の状況が危険なものだとすぐに分かったが、だからといって里沙にできることは何も無い。
こればかりはお互いで解決しなければならない問題だ。
ただ、里沙としては麻琴から何か言われれば答えるだけで、積極的に関わるつもりは今のところ皆無だ。
「残念だけど、私と亀ちゃんってぜんぜん違うよ」
「違うって何がですか?」
「幸せ街道ってところ」
絵里からの視線が怖くなり弁当をしまうフリをして目を逸らした里沙は、次の瞬間に襲いかかってきたかなりの強い圧力に思わず伏せていた顔を上げてしまう。
そして、そこにあったのは案の定、絵里の顔だった。
「がきさん、ぶっちゃけて言いますね」
「えっ、何?」
間近にあった絵里の顔があまりにも真剣だったため里沙も慌てて姿勢を正そうとするが、両肩を絵里に押さえつけられてしまっているため、自由に動くことができない。
だから、頭を大きく縦に動かして絵里に先を促した。
「実は私、れーながさゆみべたっとくっついて『ごろにゃ〜ご』って言ってる姿をそこはかとなく見たいんです」
「いや、無理」
「だけど、ここら辺は私とがきさんの力で……」
「どこにそんな力があるの?」
大体の話は飲み込めたが、だからといってこれは里沙や絵里が口を出す問題ではない。
それ以前にそれを問題として取り上げるかどうかを議論していない絵里にそうした結論を出した里沙だったが、それですぐに絵里が引くことはなかった。
- 190 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:06
-
「がきさん……」
「はい?」
「私、思うんです。あの二人ならこれくらいの障害もあっさり乗り越えてくれるって」
「……どういう考え方したらそういう結論になるの?」
「分かりませんか?」
「全然分かんない」
なおも食い下がってくる絵里をばっさりと斬り捨て机にぐったりとうつ伏せになる里沙。
実際、疲れていたかやけに身体が楽になってきたが、それで絵里の言葉が止むことも無かった。
しかもなまじ距離が近くなってしまったせいか、絵里の声が耳元で囁かれてくる。
「さゆとれーなって仲良いですよね。この際だからあの二人にはくっついてもらっちゃったほうが私的にも都合が良いんです」
「それってどう良いの?」
「ひとみさんに思い知らせるんですよ」
うつ伏せていた顔を上げるとすぐ近くに不適な笑みを湛えた絵里の顔があり、それで里沙は内容のほとんど全てを把握する。
ただ、それだからといって里沙に拒否権は無いようだ。
(結局、私っていつも被害者なんだよね……)
『いつも』というのがいつのことなのか分からないが、自分でそう思っているのだからそうなのだろう。
「それに、善は急げって言いますよね」
(何か嫌な予感……)
すぐさま目を逸らそうとした里沙だったが、不適なままの絵里の顔が間近へと入り込んできたことでそれが失敗したことを悟る。
「まずは外堀を埋めるっていうか、念入りなリサーチが必要です。というわけで、行きましょう」
「えっ、うそっ、今から?」
「当たり前じゃないですか」
腕を掴まれ強引に引きずられる里沙。
そして、後はされるがままというか、なし崩し的に関わらなければならなくなってしまったのだった。
- 191 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:06
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 192 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:07
-
「……それで、ウチに聞きに来たっちゅうわけか?」
「はい、そうなんです」
気の一番緩んでしまった昼休憩に突然襲いかかってきた異常事態。
それに向き合った稲葉貴子だったが、それもどこか漠然として雲を掴むような話だった。
この時間帯の職員室にはほぼ全員の教師が揃っているが、不思議と貴子の周りには誰もいない。
それはここ最近では普通になっていたし、貴子自身もその環境を受け入れていた。
だから、こうして突然誰かに訪ねられても、身体と頭の両方が対応しなかったのかもしれない。
貴子の目の前に立っているのは二人で、亀井絵里と新垣里沙だった。
といっても、入ってきたときの状況を考えてみれば里沙は無理やり絵里に引きずられていたようだったので、実質は一人なのだろう。
だが、それも貴子にしてみれば憶測に過ぎなかった。
齧りかけのあんぱんを口の中へ放り込むフリをして時間を稼ぐが、一度脳裏に浮かんでしまった答えは変えることもできなかったし、変えるつもりの無かった。
それに、それを貴子の口から言ったところで事実が変わることは無いだろう。
「亀井、悪いけどな……」
立ち上がりながら言うが、それをしてしまうことに対して少しばかり罪悪感が過ぎる。
ただ、それも今の貴子にしてみればはるか遠くのものであり、それに直面することなど無かった。
「ウチに聞いても分からんで」
「でも、先生はれーなとさゆの担任ですよね?」
拒絶の意味で放った言葉だったが、それを聞く相手に伝わらなければそれも意味を為さない。
なおも食い下がってきた絵里に対し、貴子の中で苛立ちが湧き上がってくる。
霞のかかった頭に入り込んでくる絵里の言葉は、貴子にとってその慣れ親しんだ環境を壊してしまうイレギュラーな存在だった。
「そんなん、プライベートな問題や。ウチは関係ないで」
強く言ってしまったことを絵里の表情の変化で知った貴子は、いたたまれなくなってその場から文字通り逃げ出すように職員室を出る。
後ろで絵里が何かを言っていたようだったが、それは無視してドアをかなりの勢いで閉めて遮った。
- 193 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:07
-
昼休憩とあって、外のグラウンドでは昼食を終えた生徒がすでに遊び始めている。
だが、貴子の目には彼ら(もしくは彼女ら)の姿が入ることは無く、声も聞こえることは無かった。
周囲の全てから切り離され独りになった貴子が向かうのは、教員の中でも今では一部となってしまった喫煙者のスペースで、そこに入ればこれと違う意味で独りになれる。
そして、それは今の貴子にしてみれば貴重以外の何物でも無かった。
絵里が聞いてきたのは貴子にしてみればどうでも良いことであり、知りもしないことだ。
だが、絵里は筋の違った確信を持っていたようで、自分に聞けば何らかの答えを得られると思っていたのだろう。
だから、貴子は絵里から聞いた些細な話を忘れることにした。
「なんや、先客がおるんかい……」
普段ならば一番乗りのはずだが、今日は絵里の話を聞いているうちに無駄な時間を過ごしてしまったらしい。
時間を確認していなかったことをこのときになって思い出した貴子だったが、だからといって貴重な時間をわざわざふいにするつもりも無い。
というわけで、普段と変わらないことを心がけてそのドアを開けることにした。
「どうも、先客です」
(最悪や……)
中でマルボロを吹かしていたのはF中学の来年退職するはずの教頭であり、つまるところ貴子にとっての上司だ。
その彼に独り言が聞こえていたようで、心の中だけで思い切り舌打ちをした貴子は、小さく頭を下げて部屋へと入る。
それから彼とは一番離れた位置でフィリップモリスに火を点けた。
気まずいと思ったのは自分だけなのか、それとも彼はそうした感情を表に出さないのか分からない。
ただ、彼は部屋に一つしかない椅子に座ってゆっくりとしたペースでマルボロを吸っている。
後から火を点けた貴子のほうが減りが早く、ペースを落とすべきかどうか迷うが、結局それを迷っている間に一本目は消費してしまった。
続けざまに二本目を取り出したのは貴子の勝手な対抗心だけであり、貴子もそれを彼に伝えることは無い。
だが、二本目に火を点けたとき、彼が不意に貴子へと視線を送ってきた。
- 194 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:08
-
「稲葉先生、よろしいですか?」
「はい?」
一度だけ口をつけ、彼を見てみる。
すると、彼は短くなったマルボロを灰皿へと押しつけているところだった。
「授業のほうはどうですか?」
「今のところは順調です」
普段使っている関西弁を意識して封じ込めて何とか標準語を心がけるが、何がどう標準なのかをも同時に意識してしまい、その雑念を慌てて振り払う。
幸い、彼にはそれが伝わっていなかったようで、立ち上がった彼はゆっくりと自分のほうへと近寄ってきた。
「まあ、マイペースでやってください」
「はぁ……」
目前に立った彼は自分よりも少しばかり背が低いようだ。
ほんのわずかだけ見下ろしていた貴子だったが、彼はそれ以上何も言うことなく部屋を出て行ってしまった。
希望通りの環境を手にした貴子だったが、その頭の中では浮かび上がってしまった疑問が渦を巻いて身体中を刺激してくる。
(何であんなことを聞いてきたんや?)
あまり話す機会の無い教頭にしてみれば単なる気紛れだったのかもしれない。
しばらくそのことを考えていた貴子だったが、いくら考えても分からないものは分からない。
それをフィリップモリスから出ている煙で思い出した貴子は、再び意識を切り離して口をつける。
ただし、今度は肺の中まで吸い込みはしなかった。
というよりもじっくりと吸い込む暇が無かった。
喫煙スペースにも備えつけられているスピーカーから、割れんばかりに聞こえてくるチャイムの音。
昼休憩が終わったことを知らせてくる予鈴だ。
そして、貴子には五時間目の授業が割り当てられていた。
- 195 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:09
-
「……」
結局、完全に切り離された独りの世界へと入ることができず、疲れだけを溜め込んで部屋を出た。
その直後に廊下を走っていた生徒が目に入ったが注意する気にもなれず、無言のまま職員室へと戻る。
当然のことながら絵里と里沙の二人は教室に戻っていて、自分のデスクに戻った貴子は素早く次の授業の準備を整えた。
教科書と簡単な資料のプリントを持ってデスクを離れるが、このとき、なぜか気になった貴子は振り返って中を確認してみる。
その視線の先にいた教頭は何やらパソコンで書類を作成しているようで、両目を思い切り細めていた。
ただ、貴子の視線に気づいたようで顔を上げて小さく首を傾げてくる。
その彼に小さく頭だけを下げた貴子は、授業開始のチャイムが鳴るのと同時に職員室のドアを開けた。
(マイペース……か)
ほんの少ししか話していないのに、なぜか彼の言葉が頭について離れない。
そのことを不思議に思いながらも貴子は重たくなった足を無理やり前へと押し出して階段へと向かう。
そして、五時間目の授業は自分が担任を持っているクラスの授業であることに気づいたのはそこのドアを開けたときで、それと同時に自然と愚痴がこぼれようとしてくるが、それは最大限の自制心で押し止める。
ただし、心の中までは自制することができずに、気の向くままに言葉を吐き出させる。
どうせ、その声を聞いている人間はここにはいない。
そのつもりで貴子は思い切り愚痴ることにした。
(ほんま、今日はついてないな……)
- 196 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:09
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 197 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:10
-
実のところ、F中学の女子バスケ部はあまり熱心に活動をしていない。
そのため、練習日も火、木、土の三日だけで、他の日については基本的にフリーだ。
というわけで、道重さゆみの足取りもこの日は普段より軽いものだった。
「あれ?」
いつものように生徒会室のドアを開け、普段と違う様子に小さな声を上げるさゆみ。
それに反応して振り返ってきたのは近くにいた田中れいなだけだった。
「れーな、あの二人どうしたの?」
「さぁ……」
座っていたれいなの隣へと同じように座り、部屋の一角に視線を送ってみる。
そこには亀井絵里と新垣里沙がかなり密着して何やら話をしていた。
ただ、二人だけの会話のようで少し離れた自分達のところまでは聞こえてこない。
れいなはそんな二人に興味を失ったのか、持ってきていた宿題を取り出しているところだった。
「それにしてもさ、さゆ」
「なに?」
れいなと同じ宿題を取り出したさゆみだったが、れいなからの視線を感じて顔を上げる。
そこにあったれいなの顔はどこか怒っているようにも見え、嘆いているようにも見えた。
「なして、こんなに宿題って多かと?」
「私に聞かれても分かんないって」
「それにしても、教科書見れば答えが全部載っとるってのも、微妙にむかつくし……」
「だから、私に言われても……」
今日の授業で渡されたプリントの束を取り出し、教科書も同時に開く。
授業よりも少し先に進んでいたプリントだったが、れいなの言葉通り答えは全て教科書に載っていたため、五枚ほどあったそれらも短時間で終わりそうだ。
先に始めていたれいなにいたってはすでに一枚目を終え、二枚目へと入っている。
と、そのときだった。
「さゆ」
袖を引っ張られて顔を上げると、さっきまで部屋の隅にいたはずの絵里が微妙な表情で立っていた。
その顔に何やら嫌な予感がしたさゆみだったが、呼びかけられたのだから答えないわけにはいかない。
- 198 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:10
-
「どうしたの?」
「ちょっと来て」
普段の絵里には無い強引さで引っ張られたさゆみは、里沙の待っている生徒会室の片隅へと連れて行かれるが、そこでさゆみは二人が好んでその場にいるのではないことに気づく。
なぜそれに気づいたかというと、里沙の表情も絵里と同じく微妙だったからだ。
「ねえ重さん」
「はい?」
「ところで、最近田中ちゃんとはどうなの?」
「どうって、何がですか?」
「いや、だからね……」
いまいち里沙からの問いかけの意味が分からずそれを素直に伝えてみるが、肝心の里沙がぱっとしてくれない。
それどころか真面目だった顔をことさらに険しくさせると、そのまま唸り始めてしまった。
「新垣さん、どうしたんですか?」
疑問が湧くというよりも不審に思ってさゆみが聞くと、里沙は宙を泳がせていた視線をぼんやりと下へと下ろし、さゆみを見てくる。
それから唐突にさゆみのほうへと迫ってきた。
「実はね、亀ちゃんがね……」
「危ないっ!」
絵里の短いが鋭い声と一瞬だけの小気味の良い音が響き、それと同時に里沙がさゆみのすぐ横を通り越して前へ倒れこむ。
「がきさん、フライングですよ」
「えぇ〜」
いつの間にか絵里の手にはハリセンが握られていてそれが里沙を張り倒したことを示していたが、それを知ったところでさゆみはただ驚くしかなかった。
「絵里ってそんなキャラだったっけ?」
「時と場合によるの!」
「そ、そうなんだ……」
テンションがやけに上がった絵里に押し切られ、曖昧に答えたさゆみはどうしたら良いのか分からなくなり先ほどの里沙のように視線を彷徨わせる。
そんなときだった。
「がきさんも絵里もちょっとうるさか。宿題できんとよ!」
「「はい」」
倒れたままの里沙とハリセンを持ったままの絵里が小さく呟き、とぼとぼと机まで戻る。
呼ばれておきながら取り残されてしまったさゆみもそこでようやく二人から解放されて机に戻ることにした。
- 199 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:11
-
れいなはすでに四枚目を終わらせていて、最後の一枚へと取りかかっていた。
さゆみの位置かられいなの字が読めなかったのはれいなの字が汚かったのもあるが、どうせ提出しないのだから適当にやっても良いだろうというれいなの雰囲気がまざまざと伝わってくる。
さゆみも同じように残りのプリントに目を落とすが、それが固定されることは無く、正面でなぜかそわそわしている絵里と里沙とを行き交っていた。
(どうしたんだろ、この二人?)
漠然と観察して分かったのは絵里が絶えず里沙を突いていて、それを里沙が迷惑そうに対応している。
ただ、それが分かったところでさゆみにできることは無く、傍観するしかなかった
がたんっ。
机が一瞬だけ大きく飛び上がり、それが隣に座っているれいなからだと気づく。
慌てて隣にいたれいなを見てみるが、そのときのれいなは思い切り顔を歪ませ、呼吸も浅く、短くなっていた。
そんな彼女にどうやって声をかけるべきかさゆみは迷い、そして、さゆみが声をかけるよりも先にれいなが立ち上がってしまった。
「ちょっと行ってくる」
強張った声をその場に残し、足早に生徒会室を出て行くれいな。
それを呼び止めることができないまま、さゆみはその背中を見送るしかなかった。
- 200 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:12
-
「どこに行くのかな?」
辛うじてその言葉が出てきたのはれいなが完全に部屋から出て行った後のことで、それもどこか気の抜けたものだった。
「ねえ亀ちゃん、大丈夫?」
里沙の言葉を聞いて振り向いていた身体を元に戻すと、そこにいた絵里は小さく震えていた。
先ほどまでのテンションはすでに消え失せ、顔も少し青ざめている。
「…………」
「へっ?」
口元だけがわずかに動き何かを言ったようだが、すぐ隣に座っていた里沙に聞き取れないのなら少し離れたさゆみにはなおさら聞き取れない。
小さく、小刻みに呼吸を繰り返した絵里が何とか落ち着きを取り戻し、ゆっくりと立ち上がる。
どこか不安定だったその動きを里沙が支えていたが、彼女にも絵里の現状が感染したのか、顔を強張らせていた。
「……何かいます」
「そうだね、分かる?」
小さく問いかけた里沙に小さく頷いて答える絵里。
何がどう変化したのかさゆみには分からないが、それでもどこかで異常が起こっているのだろう。
「重さんはどうする?」
生徒会室を出る直前、振り向いた里沙に問いかけられ少しだけ考えるさゆみ。
しかし、結論はすぐに出た。
「行きます」
いつも通りの声を心がけたのに、出てきた言葉はどこか上擦っていた。
何も感じていないのに、周囲の雰囲気にすでに飲み込まれている。
そのことに気づくのは絵里と里沙が手を繋いでいるのを見たときだった。
- 201 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:12
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 202 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:13
-
生徒会室を飛び出した田中れいなは、まっすぐにある場所へと向かっていた。
肌寒いと感じるのは周囲の空気からではなく、彼女だけがそう感じているだけなのかもしれない。
放課後の校舎はところどころで生徒の声がしているが、それも体育館の裏へ回るとぴたっと収まってしまう。
その場所だけは生徒の声すらも侵入できないのか、それともそこまで声を届かせたくないのか、それはれいなにも分からない。
ただし、そんな中途半端な状態で物事を理解するれいなではなかった。
上履きのまま廊下から飛び出し、急停止する。
そのまま突っ込まなかったのはこのまま無防備に飛び込めばどうなるのかが分かっていたからだ。
たった数百メートルしか移動していないのに息が上がっていたため、とりあえずそれを鎮めるつもりでポケットから軍手を取り出す。
そして、二枚重ねにしたそれを両手に嵌めてれいなは改めてそれらに視線を移した。
「ほんとムカつくんよ、あんたら」
れいなの目の前に漂っていたのは、稲葉貴子がかつて語った残留思念の群れだった。
これらと対峙するのはこれで四度目だったが、だからといって慣れるものでもない。
実際、このときのれいなの身体は緊張で震えていて、呼吸も完全に整っていなかった。
「……やけど、今はれなしかおらん」
自分に言い聞かせながられいなは右手を目の高さまで上げ、それを睨みつける。
集中した意識が少しずつ周囲の空気に色をつけて青くなっていく。
それは空の青とも違うし海の青とも違う、れいなしか知らない色だった。
意識が周囲と切り離されるごとに肌を刺すような冷たさが増してくる。
事実、れいなの右手には軍手越しからでも冷たくなるのが分かり、同時に重たくなっていた。
すでに何度も練習した結果であり慣れたつもりだったれいなだが、実戦では初めてだということに気づき、少しだけ震える。
そして、準備は整った。
- 203 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:13
-
「来いっ!」
気合の入った声と同時に、右手に集まった重みが目に見える形で達成された。
右手から伸びた青白いそれは五十センチほどあり、尖った先が今のれいなの心境をまざまざと表している。
それに左手を添えて、れいなは慎重に一歩を踏み出した。
田中れいなには少し変わった特技があった。
それは空気中の水分を任意で溜め込むことができるというもので、溜め込んだ水分は常にれいなの頭の少し上にストックされている。
ただ、ストックする水分の量というのは日によってまちまちで安定しない。
晴れた日であればストックする量を多くしておかなければすぐに無くなってしまうし、雨の日であれば無駄にストックしてしまって逆に身体が重くなるのだ。
そして、れいなはこのストックされた水分をある程度自分の意志で自由に扱うことができた。
ストックした水分をどれくらい使うかを任意で指定し、それを対象へと向かって解き放つ。
水のままでも使用可能だし、形状も変化させることもできる。
実際、以前までのれいなはストックした水分を氷柱状にして相手へと放り投げていた。
だが、それではストックした水分を無駄に消費してしまい、疲労として蓄積されてしまう。
それを解決するためにれいなはストックした水分を手っ取り早く自分の右手へと集めたのだ。
鋭く尖った氷の剣を構えて、ゆっくりと歩くれいな。
すでに一番手前の残留思念に狙いを定め、あとは踏み込むタイミングだけだった。
「あんたらは集まっとるだけでも悪影響だって、言ってたっちゃ」
聞いているのかいないのか分からないが、れいなにしてみればそれも些細なことだった。
なにせ、これから自分はそこに漂っている残留思念を狩るのだから……
大きく息を吸い込みそれを肺に溜め込んだまま、れいなは大きく一歩を踏み出す。
正眼に構えた剣をわずかなモーションで狙いを定めた残留思念へと突き刺すが、手応えは不気味なくらい無かった。
しかし、れいなはそんな消した残留思念のことを考えることなく、剣を一閃させる。
今度は三つほど一瞬にして消えた。
- 204 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:14
-
(行けるっ!)
自分に檄を飛ばしながら、れいなは剣を振り回す。
上段から振り下ろせば袈裟懸けにされて消えるし、突き刺せば風船が破裂するようにして消える。
しばらくは無我夢中に狩りをしていたれいなだったが、内心では不安が蓄積されていた。
(何で、こいつらはここまで抵抗せんと?)
自分がいくら斬り捨てても相手である残留思念は漂っているだけだ。
しかも数が減ったように感じられない。
むしろ増えたと言っても良いだろう。
周囲の空気からそれを感じたれいなは精神的に追い詰められていた。
そして、不安定な状況があっさりと崩れる。
それまで漂うだけだった残留思念が突如動き出したのだ。
それまで残留思念だけを斬っていた剣が宙を斬り、れいなはその異変をとっさに感じ取る。
周囲へと散った残留思念はれいなを取り囲むように展開し、逃げ道を塞ぐ。
気配だけでそれを感じ取ったれいなは目の前にいた三つほどを斬り捨ててみるが、それくらいでは出来上がった壁を壊すことはできなかった。
(こいつらに触られたら、殺される……)
過去に一度、残留思念に触れているれいなにはそれらの恐怖というものが身に沁みついている。
一刻も早くこの状況から逃げ出したいという一心で剣を振り回しているが、効果は全く見えていない。
と、視界の隅で残留思念の一つが動き、れいなへと迫ってきた。
れいなはその場へとっさの薄い水の膜を張って接近を拒むが、中澤裕子の使っている炎のシールドとは違って直接的な攻撃力を持たなかったそれはあまりにも心許ない。
動きが一瞬だけ遅くなった残留思念へ剣を突き刺し、今度は飛び上がった。
- 205 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:15
-
直感だけのその動作だったが、目を下へと向けてみると地面から手が生えていた。
紛れも無くそれらは残留思念のものだと分かり、着地するわずかな時間で地面へと剣を突き立ててそれも消しておく。
そして着地した瞬間、れいなの意識が一瞬だけ途切れる。
一瞬だけですんだのは緊張していたおかげだったが、状況は限りなく悪化していた。
集中していた意識が乱れたことによって握っていたはずの剣は無くなり、気分も悪くなっていた。
再び集中しようとすればかなりの時間がかかるようで、この状況でそれができるはずもない。
(まずいっ、このままじゃ前と同じとよ……)
あのとき味わった冷たく、死を伴った感触がれいなの五感を縛ってくる。
それとともに、それまで考えないようにしていた恐怖が心の奥底で悲鳴を上げ始めた。
どこかへ逃げようにも残留思念が周囲を埋め尽くしている。
逃げ道を作ろうにも意識が集中できない。
集中できなければ残留思念に対して攻撃することができず、どこにも逃げられない。
そんな思考の悪循環の中で振り返ったれいなは、半透明だった残留思念越しに道重さゆみの姿を見る。
そのさゆみはバスケットボールを持っていた。
「さゆ、来たらいかんって!」
叫んだつもりのれいなだったがすでに身体の水分もかなり消費していたため、掠れた声しか出ない。
それでもさゆみには伝わったようだ。
顔を険しくしたさゆみが持っていたバスケットボールをれいな目がけて投げつけてきた。
それと同時にれいなは両手を前に出して、防御の姿勢をとる。
残留思念は見ることができても、実体は無い。
だから、さゆみが投げたボールはそれらを貫通するはず…………だった。
さゆみの投げたボールが残留思念の一つにぶつかって、大きくバウンドする。
ぶつかった残留思念は弾けて消えてしまったが、れいなはそれを見ていない。
れいなの視線はさゆみに釘づけになっていた。
- 206 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:16
-
高く飛び上がったさゆみが宙に浮いたボールを無理やりその手に収めると、それをダンクの要領で思い切り叩きつける。
その一撃でれいなを取り囲んでいた残留思念の一部が見事に消え去っていた。
ボールはれいなの目の前でバウンドして、れいなの上を飛んでいった。
「れーな、早く!」
出来上がった隙間から駆け寄ってきたさゆみが手を伸ばしてくる。
それを呆然としなばられいなは握った。
それからのさゆみは実に迅速だった。
足元がおぼつかないれいなを素早く抱きかかえると、元来た道を来た時と同じ速度で戻っていく。
そして、そのまま体育館の壁際まで後退した。
「重さん、その辺で良いよ。あいつらここまで来れないみたいだからさ」
「ねえがきさん、あれってなんですか?」
そこには新垣里沙と亀井絵里の二人もいるが、この二人には緊張感というものが全く見られなかった。
二人から視線を外したれいなは、すぐ近くにあるさゆみの顔を眺めてみる。
緊張した面持ちはそのままだったが、それもれいなからの視線に気がついて崩れた。
「れーな、立てる?」
本当に心配しているさゆみの声を聞き、れいなの中で劣等感が膨れ上がっていく。
首だけを小さく縦に振りさゆみに意思表示をすると、さゆみはゆっくりとれいなを降ろしてくれた。
ただし、それはこのときのれいなにとって屈辱以外の何物でも無かった。
「……なして来たと?」
押し殺し、そして、擦れた声で静かに呟くれいな。
その場には三人いたが、れいなの視界にはさゆみしか入っていなかった。
そんな視線に気づいたのかさゆみが顔を強張らせていたが、その程度のことでれいなの気持ちが納まることは無かった。
「なしてって、田中ちゃん一人だと大変そうだと思ったから来たんだよ」
さゆみの代わりに里沙が答えるが、それに対してれいなが口を開くことは無かった。
重苦しい空気が周囲を支配していくが、里沙にはそれが感じ取れないのだろうか、言葉を続けてくる。
「あそこに溜まってるお化けってさ、重さんにも叩けるようだけど何でだろうね?」
極めて軽い口調の里沙に対し、それまで抑えていた感情が一気に爆発した。
- 207 名前:自由への逃避1 投稿日:2005/06/15(水) 12:16
-
「れな一人でも十分っちゃ。なのに、なして邪魔したと!」
擦れた声で叫ぶれいなに対し、それまで喋っていた里沙が困った顔をして絵里を見る。
絵里はそんな里沙からの視線に答えることができずに、おろおろしていた。
さゆみはじっと黙ったままれいなを見ている。
そんなさゆみがれいなには羨ましい反面、憎らしかった。
「これはれながすることっちゃ。誰にも邪魔させんとよっ!」
軍手をつけたままの両手を大きく振って踵を返し、三人から離れるれいな。
背後から里沙の声が聞こえてくるが、それは無視した。
結局、今回れいなのしたことは単なる自殺行為で、それは何とか免れることができた。
ただし、それはれいなが望んでしたことではない。
結果的にそうなってしまっただけだ。
こういうときのために自分の能力を日々使い込んでいたのに、実戦においては何の役にも立たない。
ならば、自分のように変な能力を持っていないさゆみはどうだろう。
今の自分よりもはるかに頼もしいではないか。
そのことがこのときのれいなにしてみれば純粋に悔しかった。
疲れ切った身体は気持ちよりも正直で、すぐに立ち止まって休むよう絶えず警告してくる。
ただ、それをしてしまえばさらに自分が自分でなくなってしまいそうで、れいなは止まることなく歩く。
一刻も早くこの場から離れ、独りになりたい。
そんな気持ちで身体を叱咤し、ひたすられいなはさゆみから逃げるようにその足を前へと踏み出した。
- 208 名前:いちは 投稿日:2005/06/15(水) 12:29
- 更新しました
新しい話ですが、実際は前回と同時並行の話になります
>>171 通りすがりの者さん
謎の多い人はたくさんいますが、今回の話でも一部しか解決しないと思います
次は「自由への逃避2」になります
今回の話なんですが、前回同様少し長くなりそうです
それでは
- 209 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/06/18(土) 10:44
- 更新お疲れさまです。 田中チャン複雑でしょうね、誰よりも頑固で努力家なら、他の人よりも劣ると実感したときの悔しさは半端ないでしょうに(;-_-+ 今後の期待が膨らみますよ。 次回更新待ってます。
- 210 名前:自由への逃避 投稿日:2005/06/22(水) 11:32
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自由への逃避2
- 211 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:33
-
ぼんやりと周囲が白くなっているその空間に、独りぽつんと立っていることに気づいた稲葉貴子は小さく首を傾げた。
(ここは……どこや?)
これまで何をしていて、これから何をしようかといったことが全く思い出せないまま、行き場を失った貴子はその場に呆然と立ち尽くすしかない。
と、変化は唐突だった。
それまで立っていたと思っていた白い地面が無くなり、重力とは違う別の力に引かれて落下していく。
落下に逆らおうとしても自由を失った身体ではそれは到底無理で、落ちるがままに身を任せるしかない。
そして、がくんと一度だけ身体が大きく揺れて落下が収まった。
急速に色を取り戻す世界を見た貴子は、そこで言葉を失う。
目の前にいたのは死んでしまったはずの父親であり、今も生きているが疎遠になってしまった母親。
その二人から何かを言われている、過去の自分自身だった。
(そうか、またか……)
すでに何度もこの光景を見ていた貴子は、過去の自分を冷めた気持ちで傍観し、事態が変化するのをひたすらじっと待つ。
あのときの彼女が両親から何を言われて何を感じたのか、今の自分には思い出せなかった。
まだ六歳にもなっていない貴子が両親へと近づこうとするが、それは父親の罵声によって遮られた。
その瞬間、貴子の周囲で餓鬼が具現化して父親へと群がろうとする。
それは貴子の叫び声によって阻まれたが、父親の罵声と母親の恐怖に引きつった顔が消えることは無かった。
(最初に使役したんが、あいつらやったよな)
その餓鬼は平家みちよによって全て消し去られてしまったため、今の貴子にそれを使うことはできない。
そこまで考えた貴子は再び落下するのを感じて、今度は少しだけ身体を強張らせる。
次に出てくる場面が予想できたからだ。
そして、貴子のその予想は当たった。
- 212 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:34
-
気がつくとそこは良く見知った一室だった。
そこに過去の貴子と、今度は過去の中澤裕子と平家みちよが立っていた。
ドアが音も無く閉まったのは現在の貴子に聞こえてこなかっただけで、実際はかなり大きなものだったらしい。
まだ十歳にも満たない裕子が閉まったドアに向かって舌を出していて、それをみちよが服の袖を引っ張ることでたしなめている。
それを貴子は困った顔で見ているしかないようだった。
(あんときは、嫌な理事長がおったしな……)
おぼろけながらに浮かんできたのは上に対しては絶えず媚び、下に対しては絶えず傲慢に振舞う彼の姿だったが、その彼も三年前に消えてしまった。
彼が出て行ったことでそれまで喋ることを禁じていたのか、裕子が何やら貴子に対してまくし立ててくる。
正直、最初の頃はそれが面倒だと思っていたが、今考えてみたら彼女のような積極性は貴重なのだろう。
(せやな……裕ちゃんがおらんかったら、今のウチはおらんしな)
裕子に引っ張られるようにして歩んできたからこその自分で、それは裕子も否定しないだろう。
だが、それも永遠ではない。
それを証明するかのように再び落下を始める身体。
次に見るであろう光景を予想する貴子だったが、今度は身体が強張るだけではすまなかった。
なぜなら、今の貴子にとってみれば原因以外の何物でも無かったからだ。
- 213 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:34
-
熱気を帯びた風が絶えず吹き、それが周囲の炎をさらに強大なものにしていく。
その場にいなかったはずなのに、このときだけはこうして立ち会っている。
そんな不思議な状況の中で貴子は事態が流れていくのを止めることができなかった。
『なあみっちゃん、そろそろ終わりにしようや』
荒れ狂う炎の中、中澤裕子が平家みちよへと話しかける。
しかし、みちよからの返事は無い。
二人の周囲では特使だといったミカ・エーデルシュタインとアヤカ・エーデルシュタインの二人が倒れているが、彼女達のことはどうでも良いだろう。
『ウチらがおる場所はここやない。はよ帰るで』
(なんで、今だけ声が聞こえてくるんや?)
実際にいたわけではないのに聞こえてくるその声に反発しても裕子が話を止めることはできない。
みちよが持っていた長剣を振り上げて、裕子へと斬りかかる。
それを軽くいなしていた裕子だったが、表情には焦りが見えていた。
「あんまりここに長居しとっても、あいつらが死んでしまうで』
『あいつら』に自分が含まれていないのは明白だったが、それを聞いた貴子はそこに自分が含まれているのではないかと不安になってくる。
なぜなら三年前のあのとき、貴子は重傷で臥せっていたからだ。
「違う、ウチはまだここにおるで」
聞こえるはずがないのにそう言い、貴子は裕子とみちよに背を向ける。
その後の展開を見るのは一度だけで良かったからだ。
しかし、声だけは遮ることができず、裕子の次の言葉が貴子の耳から入ってくる。
『頼む、みっちゃん……』
懇願するかのような裕子の言葉に対し、みちよの返答は無い。
縋りついた裕子は文字通り突き放され、その後の選択も一つしか残されていなかった。
- 214 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:35
-
「もう……ええやろ」
呟いた直後、ずぶりという鈍い音とからんという高い音が一度ずつ鳴り響く。
どちらも周囲の熱風で掻き消されても良さそうなのに、それは何度聞いても貴子の耳に強く残っていた。
そして、その音を境にして周囲の景色が変化し、急激に色を失っていく。
「ウチに、何ができたんや?」
暗闇の中で取り残された貴子は腹を押さえて吐き捨てる。
三年前と二ヶ月前に受けた傷はどちらも同じ場所であり、同じ人間からつけられたものだ。
だが、それでもまだ貴子はそれを信じることができないでいる。
目で見たものが全てではないからだ。
気がつくとそこにあったのはすでに見慣れてしまった天井だった。
ゆっくりと身体を起こし、寝巻き代わりのトレーナーの上から腹を擦ってみるが、そこは何とも無い。
だが、別の場所が痛んでいた。
「まだ……引きずっとるっちゅうわけか……」
ベッドの脇に置いてあった時計は七時を指していて、寝坊したことをぼやけた頭に伝えてくる。
ただ、眠ったという自覚は全く無く、重たくなった身体をゆっくりとベッドから降りるが、胸の痛みが取れることは無かった。
「でも、もう元には戻らんやろ?」
頭の隅に浮かんだ旧友の顔に向かって言葉を吐き捨て、すぐに身支度を整えるべくクローゼットへと向かう。
これから急げば八時までの出勤に何とか間に合う。
痛んだ胸は放っておけば良いし、移動している間にもきっと忘れるだろう。
いや、忘れなければならない。
そのことを無理やり意識した貴子は、心の中で自分自身に向かって吐き捨てた。
(どうせ、ウチだけやしな……)
どうやら今日も長い一日になりそうだ。
- 215 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:35
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 216 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:36
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「ねえ亀ちゃん、今って限りなく悪循環してるよね」
「はぁ……」
火曜日の放課後、この生徒会室には自分と彼女しかいない。
だから、新垣里沙は臆面することなく亀井絵里に話しかけていた。
昨日とは微妙に立場が逆転しているがそんなことを気にしている里沙ではないし、絵里もそのことを大きな問題として取り上げないだろう。
「それにしても顔を見てないってのもかなり不安だよね。田中ちゃんも重さんもどうしてるのかな?」
「あっ、れーななら昼休憩のときに早退したみたいですよ」
「えっ、どうして?」
「なんでも気分が悪くなったみたいです」
いつの間に偵察を行っていたのか分からないが、それでも絵里がこう言っているのだから本当なのだろう。
れいながどんな気持ちで早退したのかは里沙にも分からないし、絵里にも分からないようだ。
ただ、不幸中の幸いというか、昨日よりも気が楽だったのはそんなれいなやさゆみを気にすることなく話せる状況にあるということだけだった。
「だけど、あれって喧嘩なんですか?どう見ても、れーなが一方的に怒っただけみたいでしたけど……」
「一方が怒ってる時点で立派な喧嘩だよ。ただ、重さんには悪気が無かったっていうか……田中ちゃんが無茶をしちゃったっていうか……まあ、両方なんじゃないかな」
昨日のれいなの怒りっぷりは里沙も初めてで、何が原因なのかは検討もついた。
それでも里沙や絵里にはどうすることもできず、ただ傍観するしかできない状況なのだ。
「というわけでまこっちゃんに連絡してみたんだけどさ」
「はい」
「全然繋がんないだよね。メールも電話もさ。昨日も、今日も」
「そうなんですか……」
このとき、里沙は小川麻琴・真琴がとても話せる状況にないということを知らない。
それを知るのはもう少し後のことだった。
二人の背後にある生徒会室のドアが小さな音を立てて開く。
今日は他に誰もやってこないだろうと踏んでいた里沙と絵里はその小さな音に過剰なまでに反応してしまった。
- 217 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:36
-
「な、何奴……って、稲葉先生じゃないですか」
「がきさん、何奴っていつの時代ですか?」
振り向きざまに何やら変な格好になってしまい、案の定のことながら絵里に突っ込まれるが、入ってきた人間が笑うことは無かった。
両手に何やらプリントの束を持っていた稲葉貴子はものすごく疲れた顔をしながら生徒会室へと入ってきて、そのプリントの束をどさっと自分達の目の前に置く。
その頃になってようやく里沙は自分がすでに生徒会の人間でなくなっていることを思い出した。
「あのう……私達ってもう生徒会じゃないんですけど……」
急ぎでなかったら明日にでもれいなやさゆみにしてもらうつもりで言ってみるが、それを貴子が聞いているようではなかった。
ぐったりとしたまま自分達から背を向けて近くにあった椅子に座り、机にうつ伏せになる。
「すまんけど、やっといて」
「……はい」
取りつく島を無くしたため、仕方なく作業に取りかかるために立ち上がる里沙。
あらかじめ仕分けされたプリントの束だったが、肝心のホッチキスが見当たらなかったからだ。
生徒会室にあるホッチキスを二つ取ってきて一つを絵里に渡す。
困った表情をしていた絵里だったが、自分がプリントの束に手を伸ばしたことで諦めてくれたのか、作業を開始してくれた。
(なんか嫌な空気かも……)
ホッチキスだけが規則的に鳴る状況が嫌になり、急に叫びたくもなる里沙だったが、何とかそれは自制して目の前のプリントだけに集中しようとするが、気持ちが集中してくれない。
上目だけで絵里を見てみれば、彼女も自分とほとんど変わらないように見えた。
気まずい時間を何とか過ごし、十分後には何とかプリントを整理してホッチキスを元あった場所へと戻す。
その頃には机に伏せていた貴子から規則正しい寝息が聞こえていた。
- 218 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:37
-
「どうしたんでしょうか?」
絵里が身を乗り出して小声で聞いてくる。
視線は貴子のほうへ固定されていたため里沙も自然とそちらへと向いてしまうが、だからといって心の中まで見ることはできない。
できることといえば、憶測を並べるくらいだけだ。
「最近ぼんやりしてることが多いけど、今日はかなりひどいみたいだね」
「やっぱり、あのときのことが原因なんですかね?」
「そうだろうね……」
二学期が始まって間の無く、貴子は大怪我を負った。
その怪我を境にして以前の強い調子ながらも同時に人懐こい貴子は姿を消してしまい、どこか意気消沈してしまった別の何かがそこにいるようになってしまったのだ。
「結局、何があったのか分かんないままだし」
「あのときって、私も自分のことで精一杯でしたからね……」
出来上がったプリントの束が今の自分達から明らかにかけ離れているような気がした里沙は、一番上に置いてある一部を取って見ないようにしていた中身を呼んでみる。
そのプリントには先月に終わった体育祭の実施要綱が書かれていた。
「……で、昨日のことなんだけどさ」
「はい」
無駄な作業を綺麗とはいかないまでも、何とか頭の中で切り離し、小声で話を始める。
絵里もそこのところは分かっているようで小声で答えてくれた。
「田中ちゃんが立ち回ってた相手って、残留思念って言うらしいね。まこっちゃんが前に話してたよ」
「そういえば、あのときも先生の向かっていた相手にいましたよ」
「何であんなのを相手にしないといけないんだろうね」
「さぁ……」
どこか切羽詰ったれいなの背中を思い出した里沙だったが、なぜれいながそこまでムキになって残留思念を相手にしているのかが分からなかった。
ただ、里沙の知らないところでれいなは過去に残留思念に挑み、昨日とほぼ同じ結果になったことを知らない。
- 219 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:38
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知らないまま疑問を取り上げたところで解決するはずもなく、しばらくは絵里と二人で唸ってみるが当然のことながら答えが見えることは無い。
そんな二人に対して、別の声が割り込んできた。
「あいつらはな」
「うわっ、起きたんですか?」
「二人揃って唸られたら嫌でも起きるわ」
うつ伏せたまま顔だけを持ち上げている貴子に対し、少し仰け反りながら問いかける里沙。
顔色が悪そうだったが、それは寝起きだったからではなく、別の原因があると言ったほうが適切な気がした。
「人に限らず、生きてるもんは死ぬな。せやけど、どいつもこいつも満足して死ぬっちゅうことは有り得ん。残留思念っちゅうのはそうしたもんの塊や」
「つまり、恨みなんかが集まったってことですか?」
最近ではあまり話す機会が無かったため、こうして話をしていることが不思議だった里沙は何も言わずに話だけを聞くことに集中する。
その代わりといってはなんだが、絵里が貴子に対して問いを発していたため、特に問題はないようだ。
「まあ、ぶっちゃけるとそうなるが、そうしたもんの集まる場所っちゅうのもあるんや。まあ、なんで集まるかっちゅう話は難しいから省略して……で、一番近くやとここの体育館裏やな。そこで溜まった残留思念は次第に徐々に周囲に対して悪影響を及ぼし始める。せやけど、それはお前らみたいな普通の人間には見えるもんやない。特別な感覚を持っとる人間にしか感じ取れんもんや」
(じゃあ、私達って特別なんですかね……?)
心の中だけで疑問を投げかけた里沙だったが、それを貴子に言っても仕方がないことは分かりきっている。
きっとそれは絵里も同じなのだろう。
何も言い返さない絵里に向かってなおも貴子は話してきた。
- 220 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:39
-
「そんな特別な感覚を故意に身に着けた集団を奇術師っちゅうけど、これはまあ、二次的なもんやな。奇術師にとっての最終目標は別のとこにあるしな」
「はぁ……」
「じゃあ、れーなは何であんなのが見えてるんですか?」
生返事をした里沙に対し絵里がずばりと切り込んで貴子を見つめる。
というよりか半ば睨みつけていると言ったほうが里沙としてはしっくりとした。
その視線が嫌なのか身体を起き上がらせた貴子が大きく伸びをする。
ただ、その間もずっと絵里の視線は貴子に固定されていたわけで、それを肌で感じた貴子が口を開いた。
「あいつはな、奇術師の領域に無断で足を踏み込んだ。せやけどそんな自覚は持ってない。ただ、興味本位で首を突っ込んできただけや」
「違います!」
普段大人しい絵里が珍しく声を荒げているのを目の当たりにし、里沙は目を丸くする。
そのまま貴子を見てみると、彼女も先ほどよりも少しばかり目を見開いてるような気がした。
貴子としては何気に言ったのかもしれない。
それに対して絵里の予想外の抵抗を受け、白かった顔に赤みが差している。
だが、出てきた言葉はやはり、里沙の記憶している貴子のものではなかった。
「まあ、あいつも言ってみれば規格外品やからな。勝手にしとけばええわ」
冷たいを通り越し何の感情も込められていない貴子の言葉を聞き、絶句する里沙。
何をどう切り返せば分からなかったし、何を言っても聞いてもらえないかもしれない。
そんな思いが頭の中でぐるぐると回り、プリントを持って歩いていく貴子を里沙は見送るしかなかった。
だが、そんな貴子もそのまますんなりと生徒会室を出ることはできないようだった。
「『あいつも』っていうことは他にも誰かいるんですか?」
呟くような絵里の言葉に大きく肩をビクつかせて足を止める貴子。
そのまま身体も心も崩れ去りそうだと思ったのはきっと里沙の気のせいではなく、その後の展開が分かってしまったからだ。
- 221 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:40
-
「ここにおるやないか」
振り返った貴子の言葉に対して里沙は何も言えない。
その言葉があまりにも自虐的だったから……
その言葉があまりにも全てを拒否していたから……
さっぱりというよりも諦めきってしまったと言ったほうが適切な貴子の顔を見ることができず、とっさに記憶することを遮断して俯く。
「ウチも惨めな規格外品やで」
「そんなの間違ってます。規格外なんて決めつける必要なんてないじゃないですか」
絵里の強い言葉に対して返ってきたのはドアの閉まる強い音であり、その後の遠ざかっていく少し高めの早めの足音はやけに不規則だった。
残された絵里も貴子が入ってくるまでのときのように話すことも無く、里沙も話す気になれず口を噤む。
気まずいを通り越し居た堪れない気持ちになってしまった里沙は、絵里に悪いと思いながらも彼女の存在自体を切り離して、ひとりの世界へと入る。
(規格外品か……だったら、私もそうなのかな……)
何を基準にして、誰から見た基準で貴子がそう判断してしまったのか、それは何となくだが分かってしまった。
心の中だけで呟き、絵里を見てみる。
その絵里はまだ生徒会室のドアを睨みつけて、身動ぎ一つしていなかった。
「間違ってます。れーなも先生もちゃんとした人じゃないですか」
(こういうところが強いってことなのかもね)
自分と絵里との違いをはっきりと自覚しつつ、里沙は小さくため息を吐く。
それから携帯を取り出して麻琴・真琴へとメールを送ってみるが、返信はおそらく無いだろう。
(私も亀ちゃんみたいになれたら良いのにな)
口に出したら絵里がどんな反応をするのか楽しみだったが今はそれをするときではないみたいで、心の中だけに収めた里沙はカバンの中から参考書を取り出す。
これから帰宅するまでのわずかな時間だが勉強に集中できそうな雰囲気が出来上がったため、里沙は手っ取り早く取り出した参考書を丸覚えすることに集中することにしたのだった。
- 222 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:40
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 223 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:41
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古びたシビックがエンジンを寂しそうに止めて一日が終わったことを自覚した田中仁志は、玄関先で待っていた自分の娘を見て、その考えが間違っていることに気づいた。
「なんだ、今日は出迎えがあるのか?」
できるだけ軽い口調を心がけたつもりだったが、れいなの表情を見ればそれも場違いなものだと気づかされる。
ただし、それくらいで仁志までが緊張することはなかった。
「親父、稽古してほしいっちゃ」
持っていた竹刀を持ち上げたれいなの手は震えているし、わずかだが汗も掻いている。
どうやら今回は単なる気紛れでは無いのだろう。
「道場で待ってろ。着替えたらすぐ行く」
自分の言葉にこくりと頷いたれいなが無言のまま横を通り抜けて外へ出て行く。
その背中に鬼気迫るものを感じた仁志はすぐさま靴を脱いで家に入ったが、彼は自室へ向かう前の日課を忘れることは無かった。
「ただいま」
台所で夕食の支度をしていた自分の妻――田中真理恵――が自分の声でそれまでの作業を止めて振り向く。
表情を見れば何を考えているのか分かるつもりでいた仁志だったが、このときの彼女の表情はあまりにも複雑なものだった。
「何があったか分かる?」
仁志の問いかけに真理恵は無言で首を横に振る。
最小限度のその動きで事態を何となく悟った仁志は、なおも不安そうにしている真理恵に対して小さく笑いかけた。
「大丈夫だって。そんなに心配するなよ」
やはり軽い口調でそう言い、台所を出る仁志。
だが、自分の言葉とは裏腹に一人になった瞬間から全身に緊張が走っていたことを否定することができず、同時にれいなの異様な雰囲気を思い出していた。
(何があった?)
今朝は時間帯が合わずに顔を見ることが無かったが、昨夜のれいなはずっと押し黙ったままだった。
機嫌が悪かったのだろうと思っていたが、どうやらそれだけではないようだ。
自室へと戻った仁志は部屋着に着替えて足早に部屋を出る。
草履を引っかけて道場へ入ると、れいなは畳の上で竹刀を振り回していた。
- 224 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:42
-
(あれだと稽古する前にバテるだろ)
すでに息が上がっているため、両手で握りしめているはずの竹刀が恐ろしく不安定だった。
背後から近づいて背中を軽く押しただけで、今のれいなは簡単に気絶してしまうだろう。
(まあ、それをしたら父親失格だよな……)
自分の気配に未だ気づいていないれいなに対し小さくため息を吐いた仁志は、静かに壁際に立てかけられている竹刀を一本持ち出した。
「待たせたな」
父親としての威厳を放ちながら(といってもどれくらいあるのか分からないが……)言うとそれまで竹刀を振り回していたれいなの動きがぴたりと止まる。
背中を向けたままなのは息が荒れているところを見られたくないのか、はたまた今の表情を見られたくないのか分からない。
ただ、仁志としてはどちらでも大差は無かった。
「何か嫌なことでもあったのか?」
分からないからストレートに聞いてみるが、れいなからの返答はやはり無い。
変なところで意固地になるのは自分の悪い癖であり、それは娘達にも見事に受け継がれてしまったようだ。
「まあいいや。どうせすぐに終わるからな」
「そんなことなか!」
挑発に引っかかったれいなが凄まじい勢いで振り向き仁志を睨んでくるが、彼にしてみればそれはたったそれだけの行為に過ぎなかった。
視線に殺傷能力があるとすればれいなのそれは確実に自分を殺すだろうが、それも現実では単なる威嚇だ。
「足にだいぶきてるみたいだが、大丈夫か?」
「うるさかっ!」
実際、足のふらついていたれいなが仁志の言葉に反発するかのように飛び出してくる。
距離を詰めながら降ろしていた竹刀を切り上げてくるが、れいなの竹刀から風を斬る音はしてこない。
れいなにとっては全力のその動作も、仁志にしてみればあまりにも遅すぎた。
- 225 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:42
-
(減点二、あまりに怒りっぽい)
満点が何点だか良く分からないが、とりあえずれいなの欠点を心の中だけに書き留める。
それからゆっくりとした動作で右手で持っていた竹刀を持ち上げた。
ゆっくりとしたと感じたのは仁志だけで、れいなからしてみればその動作すらも見えなかったのかもしれない。
打ち据えることを確信していたれいなの表情が豹変するのが間近に見えて仁志はわずかに笑うが、次の行動は実に迅速だった。
体勢の崩れたれいなの肩に自身の竹刀を軽く当てて距離を取る。
慌てて体勢を整えたれいなの表情は先ほどよりもさらに険しいものへと変化していた。
怒り心頭なのが赤くなった顔で分かるが、意外なことにそのまま無謀に突っ込んでくるわけでもなく、慎重に距離を測っている。
(迂闊すぎないってことか……)
慎重に自分のタイミングを見計らっているれいなを冷静に見据え、心の中で呟く。
ただし、れいなは相手の存在を考慮していないようだ。
今度はれいなにも反応できるよう、できるだけゆっくりと竹刀を突き出してみる。
動作があまりない突き出しに驚いたのか、れいなはそれまで詰めていた距離をあっさりと放棄して大きく距離を開けてしまった。
(減点一、まだ自分の距離を知らない)
自分に処理できる範囲がどこからどこまでなのか、それを知らなければ相手につけ入る隙を与えるだけだし、自分の攻撃を有効に当てることもできない。
特に獲物を持っている場合においては、近すぎても遠すぎても攻撃は有効なものにならない。
そのことをれいなは気づいていないようだった。
特に激しい動きをしたわけではないが、れいなの息はすでに短く浅いものになっていて、額には少し離れた仁志からでもはっきり分かる玉のような汗が付着している。
ただ、眼光だけは弱まることなく先ほどよりも強くなっていた。
- 226 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:44
-
「……なして?」
見据えたままのれいなから小さくだが、苛立ちの込められた呟きが洩れてくる。
仁志が知っている奇術師の中には、特別な言葉に特別な効力を持たせていた者もいたが、れいなはそうではない。
だから、そこでれいながいくら苛立ちの声を上げようが仁志には関係の無いことだった。
「相手がいつまでもお前のペースに合わせてくれるとは限らないぞ」
無造作に踏み出した一歩でれいなが無理やり開けていた距離はあっさりと縮まってしまう。
呼吸を整えるのに精一杯だったれいなが慌てて竹刀を持ち上げるのが見えるが、仁志にすればその動作も遅すぎた。
竹刀を持っていたれいなの左手目がけて自身の竹刀を軽く突き出す。
たったそれだけの行為でれいなの竹刀はあっさりと吹き飛んでしまった。
「視線だけで相手を倒せると思うなよ」
手にしていた竹刀を突きつけ、静かに語りかける仁志。
その間、れいなはずっと自分のことを睨んでいた。
先ほどまで竹刀があった右手は未だに握れらたままだ。
れいな自身がそのことに気づいていないのか、何か思惑があってそうしているのか分からないが、どちらでも大差は無いだろう。
だから、仁志は突きつけていた竹刀をわずかに押し出した。
声を出さずに後退するれいな。
だが、同時に仁志の手にしていた竹刀の先が畳の上へと落ちていた。
(なんだと?)
心の中だけで驚愕の声を上げた仁志はとっさに一歩後ろへ下がるが、その鼻先を冷たいものが掠めていく。
それは青白く、今のれいなをまさに反映した鋭い刃だった。
「……そいつがお前の力ってわけか」
知らず知らずのうちに出てきた言葉に仁志は顔を険しくして竹刀を放り投げる。
右手からいつの間にか生えていた青い剣を構え、静かに距離を詰めてくるれいな。
表情とは裏腹に身体は震えていて、足もおぼつかなかない。
ただ、前へ出るという意志だけがそこに見えていた。
- 227 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:45
-
静かに剣を振るってくるれいなの動きは、先ほどの無駄な動きが一切見られなかった。
鋭く尖った剣先をフェンシングの要領で突き出してくるのは、以前、仁志がそれと同じ事をしていたのを見ていたからなのだろう。
(だが……この違和感は何だ?)
胸の奥底に浮かび上がった疑問を言葉にし、尖った剣先とれいなを見比べた仁志は、ようやくそこでれいなに起こっていた異変に気づいた。
(まさか!)
れいなから発せられているのは冷たいまでの殺気と、それと正反対の熱く湧き上がった戦うという意志。
同時には抱かないであろう感情をこの場で体現しているれいなは、まさに矛盾の塊だった。
そのことに気づいた仁志はれいなにも聞こえるように舌打ちをし、すかさず前へ出る。
それまでのゆっくりした動作ではなくれいなの捉えきれないほどの俊足で近づき、首の後ろに手刀を叩き込んだ。
最小限に抑えたつもりだが実際に当たってみるまで結果は分からない。
ただし、叩き込まれたほうのれいなは声を出さずに崩れ落ちたため成功したのだろう。
「ふう……」
一人になり安堵のため息を吐く。
畳に倒れているれいなからは先ほどまでの冷たくも熱い雰囲気は感じられず、寝息も実に平和なものだ。
そんなれいなを見下ろしながらも、しかしながら、仁志の中では何かが確実に蓄積されていた。
自分と少なからず同じ道を歩き始めてしまった自分の娘に対する憂慮なのかもしれないし、憤りかもしれない。
もしくはこれまでの自分に対する後悔なのかもしれないが、それだけは即座に否定することができた。
「『完全なる覚醒』……か」
出てきた言葉に自身で驚きながらも、今のれいなならばそうなりかねないことにも気づき、どうすべきかをしばし考える。
だが、すぐに答えが出てくることは無かった。
動くことを止めたため周囲の冷えた空気が肌を通して伝わってくる。
それも先ほどのれいなの刃に比べれば、本当に生ぬるいものだった。
- 228 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:45
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 229 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:46
-
実際のところ、自分の外部に対する価値観は壊れきっている。
それを暗い気持ちで確認した稲葉貴子は帰宅早々玄関先で崩れ落ちた。
「ウチって、結局なんやったんやろ……」
すぐそこにある踏み慣れたはずの廊下を眺め、自然と言葉を漏らす。
疲れ切っているのは身体だけのようで一向に眠気に襲われないため、貴子の頭の中では短いはずの一日がやけに長い時間リプレイされていた。
(違う、あんときだけや)
一日というよりもわずか三十分足らずの出来事が延々と頭の中で回っていることが気に入らず、小さく舌打ちをしてみるが、結果が変わることは無かった。
他から押しつけられた仕事をさらに押しつけるために赴いた生徒会室。
そこで行われた新垣里沙と亀井絵里とのやりとり。
現実を現実として切り捨てようとした貴子に対する絵里の意外なまでの抵抗。
(なんやっちゅうねん……)
絵里の視線を感じてしまいあのときは規格外と言い切ってしまった貴子だったが、本当のところはどうなのかをしばし考えてみた。
奇術師というものの条件はあまり多くない。
あるとすればまず自分の根源を認識し、それに沿った力を使うこと。
だが、本当にそう言い切れるのだろうか。
- 230 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:47
-
(祐一はんに、みっちゃんの二人は……?)
『作成者』として評価を浴びていた中澤祐一。
しかし、彼は『自分の根源が分からない』と常に話していた。
実際、貴子も彼の根源を探ってみようとしたが、肝心な部分が霞んでいたため結局何も分からなかった。
奇術師の実力派として名高かった平家の一族に生まれたというみちよ。
彼女の根源は一族から伝わっていた『虚無』であったが、実のところ、彼女がそれを示すような力を使うことは無かった。
いや、彼女は力を使うことができなかったのだ。
貴子は対照的である二人を描きながら自分とを比較してみる。
『蒐集』という根源を認識し、具体的には使い魔を使役する自分。
二人からすれば貴子は奇術師として完璧な存在であったはずだ。
だが、実際はどうだろう。
祐一は常に自己の存在価値を問い続け、みちよは奇術師全般に対して疑問を投げかけていた。
完成されたあのときの貴子にしてみればなぜそれを問うのかすら分からない疑問だったが、現在では二人の気持ちが少しだけ分かる。
というよりも二人とほぼ同じ状況へ成り下がったと言っても良いのかもしれない。
(奇術師以前の問題としての自分の意味……)
何をしたくて、何をすべきか。
それをずっと考えているが答えどころかとっかかりも見つからない。
まさに五里霧中といった状況が今の貴子を取り囲んでいるが、それに対してろくに対処できないでいるのが現状だった。
- 231 名前:自由への逃避2 投稿日:2005/06/22(水) 11:47
-
「ウチに生きる価値っちゅうのはあるんか?」
誰に問いかけたわけでもない。
強いて言えば自分に対して呟いたその声を他人事のように聞き、それに答えることができなかった。
いい加減玄関先で倒れているのも辛くなった貴子は、軋む身体を無理やり引き起こして中へと入る。
荷物を適当に放り投げてベッドへ向かおうとするが、その放り投げたバッグの中から使い慣れた小さなナイフが転がり出てきたのを見て、その動きを止めた。
そのナイフは餓鬼を封印して使役する媒体として使用するためのもので、実際にそれで物を切るということは少ない。
実際、以前田中れいなの前でそれを振り回したこともあったが、それはナイフに残留思念を吸着させることが目的だった。
そのナイフを何となく手にしていた貴子は、気がつくとそれが左手の手首に添えられていることに気がついた。
あまり物を切ったことの無いそれは、貴子の引く加減によって最高の切れ味を発揮するのかもしれない。
ふとそんなことを思いついてしまった貴子は慌てて出てきたその考えを振り払って、ナイフをテーブルの上へと置く。
それから改めて寝室へと移動した。
「死ぬのはいつでもできる。でも、今はまだ、死にたくない……」
悪いのは貴子ではなく周囲の全てのほうだ。
自分はただ、その場に居合わせなかっただけで、その全てから阻害されている。
そんな都合の良い解釈をした貴子はそれまで溜め込んでいた疲れが吹き出すのを感じ、ベッドへとダイブする。
バネの利いたベッドが貴子を心地良く跳ね返してくれるが、それをそうだと感じたのはほんの一瞬ですぐさま貴子は深い眠りへと落ちていった。
- 232 名前:いちは 投稿日:2005/06/22(水) 11:56
- 更新しました
主役なのに主役視点が一切無いのが気がかりです
>>209 通りすがりの者さん
一人が複雑になるとその周りも複雑になる
彼女の苦悩はもう少し続きます
次は「自由への逃避3」になります
それでは
- 233 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/06/25(土) 22:02
- 更新お疲れさまです。 田中チャンの脅威は一体だれからのモノなんでしょうね?稲葉サンもこの先どの道に進んでいくんでしょう? まだまだ謎は深まるばかりです。 次回更新待ってます。
- 234 名前:自由への逃避 投稿日:2005/06/29(水) 11:56
-
自由への逃避3
- 235 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 11:57
-
朝、身体を揺さぶられて田中れいなは目を覚ました。
頭の中は太鼓を間近で叩き鳴らしているかのようにガンガン揺れ動いているし、空腹すぎて力が入らない。
胸が締めつけられていると感じたが、すぐにそれは苛立っているからだということに気づく。
目の前がぼんやりしているのは気のせいだと必死に言い聞かせて、れいなは自分を揺さぶっている元凶を見据えた。
「お母さん、なん?」
声の最後が擦れてしまったのは自分の意志が弱かったからだろう。
視界に入った母親とは別の彼、もしくは彼女の顔を認識してしまった瞬間、同じ顔をした二人を振り払うようにれいなは素早く起き上がった。
きりきりと締め付けられる痛みが今度は腹からやってきて思わず押さえてみるが、内側が痛んでいるため全く効果が無い。
ただ、痛みがぼやけた視界と胸の痛みを振り払ってはくれた。
『朝ご飯と晩ご飯、どっちを食べる?』
母親である真理恵の後ろにある、自分のデスクの置き時計はすでに七時半を指していた。
いつもなら七時に起きるのに今日はそれができなかったことに気づき、れいなの中でさらに苛立ちが募る。
それは自分に対してでもあり、別の何かに対してでもあった。
「朝ご飯が食べたい」
短くそう言うと、母親は小さく頷いて笑いながら立ち上がった。
自分の苦労を微塵も感じ取っていないその笑顔がムカついたれいなは目線だけを下げ、ごそごそとベッドを降りる。
ばたんと音がした頃には母親も部屋を出て行っていて、れいなは再び独りに戻ることができた。
だが、それでも一度蘇ってしまった様々な感情が消え去ることは無かった。
- 236 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 11:58
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「何で何もうまくいかんのやろ……」
頭の中に浮かび続け、消し去ることのできない顔に向かって吐き捨てるれいな。
それをしたところで彼がれいなの前からいなくなるわけでもないし、れいなが彼を消せるわけでもない。
なぜ唐突に彼の顔が浮かびれいなの心を掻き乱してきたのか、れいなにはすぐに分かった。
「でも、認めんけんね」
消えようとしない彼の顔に向かってなおも吐き捨て、着替えを済ませて部屋を出る。
それから荷物を玄関の隅に置き、台所へ向かう。
そこにはすでに仕事に行ったと思っていた父親――田中仁志――が、まだ座っていた。
「れいな、話がある」
れいなが入った直後、読んでいた新聞から目を上げ、静かな声で言ってくる。
どこまでも落ち着いたその声に再びれいなは苛立ちを覚えるが、深呼吸をすることで無理やり抑えこむ。
目だけで不満を訴えてみても、昨日と変わることなく父親に伝わることは無かった。
「昨日、何があったか覚えてるか?」
父親からじっと見据えられ、れいなは首を縦に振るべきか横に振るべきかどうか迷う。
何がどうあったのか、それはれいな自身も良く分からない。
ただ、追い詰められていく度に気持ちは静まり、思考も単純になっていった。
そのことを素直に気持ち良いと感じ、気がつくと母親に揺さぶられていた。
首を横に振ると父親の顔がみるみるうちに強張っていき、それと連動して周囲の空気も強張ってくる。
その中でれいなは小さく身震いをした。
「だったら話は早い。今後、お前は一切力を使うな」
「……なんで?」
搾り出した声に動じることの無かった父親に別の誰かの顔が重なり、れいなはとっさに右手に力を込める。
そして、睨んだときには彼の姿を見つけることができなかった。
直後、右手が強い力に引っ張られ、身体が宙に浮く。
その眼前に父親の顔を見て、れいなは自分が何をしようとしていたのかに気づき、全身から血の気が引いた。
- 237 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 11:58
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「なまじ力を持つとすぐに使いたがる。その状態が一番危険なんだ。だから、止めろ」
真剣を通り越し、父親の目には怒りのようなものまで込められている。
それが単純に自分へ向けられたものなのか、それとも別の何かに対してなのか、れいなには読み取ることができない。
掴まれていた右手が自由になりれいなは床に両足をつけるが、目だけは父親から離すことができなかった。
「それに、自分自身で制御できない力は力でない。他の何かに縋ってるお前なら、それが良く分かるだろう」
「……」
どう反論しても今の父親にれいなの言葉が通じないのは明白であり、次には実力行使が待っている。
雰囲気からそれを読み取ったれいなは、自分でも驚くくらい素直に首にかけていたペンダントを外して、テーブルに置いた。
外す際、逸らしていた父親に再び視線を戻すと、そこには先ほどまでの真剣、かつ、怒りを湛えた表情は無く、ぽかんとしたものだった。
「別に無いなら無いで構わんよ。だって、無くてもできるし」
視線を逸らしながら言うのは逃げだが、かといって睨み続けることにも自信が無い。
座りながらそう言い放ったれいなは、完全に父親をシャットアウトして目の前に置かれた朝食へと集中する。
だが、食欲は全くもって湧いてこなかった。
視界の隅に牛乳の入ったコップがあり、それを取るが普段よりもかなり重たい。
一口飲んでみるが、やけに水っぽかった。
(何で何もうまくいかんのやろ……)
心の中で再度呟き、目を閉じる。
瞼の裏に浮かび上がった顔はやはりれいなにしてみれば気に入らない顔であり、その顔に向かって大きく舌打ちをしてみる。
だが、れいなの予想通り彼の顔が消えることは無く、いつまでもそこに浮かび続けていた。
その顔を振り払うように席を立ったれいなは背後から父親に呼び止められたような気がしたが、完全にそれを無視して学校へ向かうことにしたのだった。
- 238 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 11:59
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 239 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 11:59
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朝のホームルームの後、稲葉貴子はふらつく足を引きずったまま喫煙室へと向かった。
通常のドアの鍵と南京錠が一つあり、他の教室よりもはるかに厳重であることを窺わせるそこをもたもたしながら開ける。
そして、二つの鍵が開いた瞬間、貴子は文字通りそこへ飛び込んだ。
「あかん……身体がだるい……」
一つしかない椅子にどすんと座る。
職員室の椅子のようにバネが利いていないため座った反動で身体が軽く跳ねるが、痛いとしか感じることができなかった。
そのまま天井を仰ぎ、いつもの感覚でフィリップモリスを取り出して口に銜える。
相変わらず味のしないたばこだったが、何かを忘れるには適当なようで、ニコチンが身体に巡るのが何となく分かった。
一時間目はどこも授業に行く必要がないため、時間はたっぷりある。
そう思った貴子は思い切り羽を伸ばすつもりで大きく伸びをする。
と、そんな油断しきった貴子の背後で喫煙室のドアが開いた。
「あれ、稲葉先生でしたか」
入ってきたのは教頭で貴子は慌てふためいて立ち上がる。
それまで座っていた椅子を差し出してみるが教頭は首を小さく横に振ってやんわりと拒否してきたため仕方なく腰を降ろすが、やはり気持ちが落ち着かずに立ち上がるしかなかった。
教頭はこんな貴子に気づかないのか、はたまた気づいているが放っているのか分からないが、窓を少しだけ開いて愛用しているマルボロを取り出す。
火を点けて満足そうに煙を吐き出したのはそれをじっくりと味わうことができたからで、それが今の貴子にしてみれば少しだけ羨ましかった。
「そうだ、稲葉先生」
「は、はい。何ですか?」
その教頭から声をかけられ少なからず緊張する貴子。
顔も少なからず強張っているのが相手にも伝わっているのか、教頭は苦笑いをしている。
「今年いっぱいでここも閉鎖されるようですね」
「そうですか。肩身が狭くなる一方ですね」
どんな話が出てくるのか分からなかったため緊張していた貴子だったが、聞いてみれば貴子にほとんど関係の無いものだった。
ただ、彼の話に合わせるため適当に言葉を選ぶだけだが、このときの貴子にしてみればそれもかなりの重労働になっていた。
- 240 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:00
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しばらくは彼の話に相鎚を打つだけにしていた貴子だったが、その彼が急に押し黙る。
話をしようにも彼にどういった話を切り出せば良いのか分からない貴子も自然と押し黙り、どこか嫌な沈黙が周囲を支配してしまう。
それが嫌になって新しいフィリップモリスに火を点けるが、それが彼にしてみれば合図になったようだ。
「ところで稲葉先生、最近顔色が優れませんね。体調でも悪いのですか?」
「えっ?」
立ち昇り始めた煙のほうに注意を逸らしていたため、一瞬彼の言葉を理解できなかったが、彼の顔から言葉の内容を把握してどう返すかを考える。
だが、それも彼には通じそうに無かったため、貴子は素直に言うことにした。
「体調は特に問題ないです。強いて言えば個人的な問題ですから」
「ですが、やけに長引いているみたいですね。もう二月近くになりますか?」
彼の言葉に貴子の心臓は跳ね上がり、それと連動して彼を弾かれたようにして見る。
その彼からこれといった特別な気配は感じられなかった。
「……どうしてそれを?」
「これでも一応、教員の体調管理の仕事ですからね」
苦笑いをした彼がマルボロを灰皿へと押しつけ、窓を閉める。
それからゆっくりとした足取りでドアへと向かった。
その教頭を目だけで追っていた貴子は、彼がドアの手前で止まったのを確認して再び身体が強張ってくるのを感じる。
しかし、彼から出てきた言葉は普段と変わらぬ優しいものだった。
「無理に他人のペースに合わせようとしても疲れるだけです。自分のペースでやってください」
「……ペースなんて分かるものなんですか?」
前回から疑問に思っていたことをすかさず言えたのは偶然だったが、それくらいで彼のペースは乱すことはできなかった。
ドアの前で小さく肩を竦めた彼が貴子に笑いかけてくる。
「私なんか見ててもらえれば分かりますよ」
その言葉を最後に教頭は喫煙室を出て行く。
再び一人になった貴子は、それまで緊張していた身体を弛緩させて椅子へ座った。
半分ほどに減っていたフィリップモリスが手にあったが、それを吸う気になれなかった貴子は灰皿へと八つ当たり気味に押しつける。
が、そんなことで気持ちが晴れることは無かった。
- 241 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:01
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「自分のペース言うてもな……」
天井を仰ぎ見たまま呟くが、答えが見つかるどころかますます分からなくなっていることに気づいた。
以前までの自分と今の自分とを比較してみるが、立場的に変わったことは何一つ無い。
誰からも疎外された状態で、自分のしたいことを勝手にやる。
そうしてきたつもりだったが、今ではそれを頷くことができないでいた。
あまり時間を潰していてもどこか虚しくなるだけで、立ち上がった貴子は喫煙室を出ることにする。
ドアの鍵と南京錠の二つをきちんとかけて職員室へと戻ろうとするが、そこでふと先ほど話をした教頭の顔を思い出す。
叱られたわけでもないのにどこか顔を合わせるのが気まずかった貴子は、すぐに職員室へ戻ることはせずに、しばらく外を歩くことにして職員室とは反対方向へ行ってみることにした。
外ではどこかのクラスが長距離走をしているのか、ばらばらと生徒が走っている。
それを尻目にゆっくりと歩いた貴子は体育館へと続く廊下の脇に誰かが座っていることに気づき、次いでそれが誰なのかもすぐに分かってしまった。
「何や田中。今日は休みか?」
「はい、気分が悪かとです」
ぶっきらぼうに言い返してきたれいなが尖っているように見えた貴子は、教頭がしたように小さく肩を竦めてみるが、れいなの視線が動くことは無い。
それ以上話すことが見つからなかった貴子は、肩を竦めたまま踵を返す。
だが、意外なことにれいなから貴子に向かって声が投げかけられてきた。
「先生、なして人間っておるとですか?」
ちょうどれいなから背を向けた状態で良かったと、内心安堵の息を吐く貴子。
それとは裏腹に顔は強張りきって、すぐには元に戻りそうに無かった。
「そんなん簡単やないか。寂しくなりたかったんや」
「えっ、何ですか?」
背を向けたまま小さく呟いたため、れいなには聞こえなかったのだろう。
れいなから再度声をかけられるが、今度はそれすらも耳を貸さずに歩き始める。
たった数回の会話で力を奪われ、職員室までの道のりがやけに遠く感じる。
その短くも長い道のりを忘れたく感じ、貴子は無理やり別のことを考えて足を運んだ。
- 242 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:02
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(最後にはみんな、独りになるんやろ?せやから、ウチも独りになってええやん)
自分から離れていった二人のことを思い出し、気持ちが憂鬱になってくる。
噛み合わなくなってしまったことを寂しいと言えばそうなのだろう。
だが、それを口にすれば虚しくなってしまうだけで、時間は止まることなく進んでいく。
どこへ向かうのか、それは自分にも分からないし他の誰かに示唆されるものでもない。
止まれないから歩くだけだ。
流されることが楽だから、それを受け入れるだけだ。
(結局、そうでしかないんやな……)
そこまで考えて目を上げると、そこは職員室のドアのちょうど前で、通り過ぎなかったことに再び安堵の息を吐く。
少し曲がっていた背中を気持ちだけでも伸ばし、職員室へ入る。
ただ、授業中とあって中は閑散としていた。
自分のデスクに落ち着き、何をしようかしばし迷う貴子。
社会科の授業は三時間目からで、それまでは特に何もすることが無い。
以前ならば顔見知りの教師とも話をしているところだったが、ここ最近、彼らに話しかけたことすらないため、基本的には独りだ。
とりあえず何もしないよりかはましと近くにあった教材を引っ張り出して予習のつもりで読んでみるが、元々日本史が得意だった貴子にとって世界史のその教材はさっぱり頭に入らなかった。
(もしかしてウチがおらんでもええんちゃうかな……)
かなりネガティブなことを考えながらカラー刷りされたページを捲っていく。
できることならこの一部分になって消えてしまいたい。
そんなことを思いつき、我ながら間の抜けた考えだと失笑する。
ただ、こうした質の悪い気晴らしでもだいぶ楽になったような気がした。
- 243 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:02
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 244 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:03
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学校には主に三つの場所が存在する。
一つは自分が行きやすい場所であり、二つ目がそれとは逆に行きにくい場所。
最後の一つはそのどちらにも該当しない場所だ。
一つ目は自分が使っている教室を含めたほんのわずかな部分しか存在せず、二つ目のほうがはるかに多いだろうし、今がまさにそれだ。
そして、三つ目になると全く検討がつかない。
そんなことを思いながら道重さゆみは弁当を持ったまま教室の前でうろうろしていた。
さゆみが来ていたのはいつも使っている二年生の教室ではなく、三年生の教室だった。
女子バスケ部の先輩も多少なりともいるのだが、彼女達とは夏休み前に引継ぎをしたために疎遠になってしまっていたから、入り辛いのだ。
「あれ、さゆじゃん。どうしたの?」
「あ、絵里」
背後から声をかけられ振り向くとそこには亀井絵里が立っていた。
「実はね、一緒にお昼ごはん食べようって思って……」
「……そうなんだ」
状況を理解してくれていた絵里はそれ以上何も言うことなく自分が使っている教室へと入っていく。
その後をさゆみもついて行ったが、先ほどまでの緊張も少しだけ和らいでいた。
「今日は重さんも一緒なんだね」
外から戻ってきた新垣里沙が手にパンを持っている。
どうやら今日は弁当でないようだ。
絵里と里沙が昼食を取るのに使っているのは窓際の席のようで、そこはあらかじめ机が二つくっつけてあった。
里沙がさゆみ用の椅子を調達してきて普段とは少し変わった昼食が始まった。
「でさ、田中ちゃんの様子はどうなの?」
「何かところ構わず怒ってますよ。私でも近づけませんから」
カレーパンの袋を開けながら聞いてくる里沙に大きくため息を吐きながら答えるさゆみ。
今日の田中れいなはこれまで終始無言だったが、存在感だけは人一倍だった。
少し席の離れたさゆみのところにまでぴりぴりとしたその雰囲気が伝わってきたのは、きっと気のせいではないのだろう。
- 245 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:03
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「こんなときは放っておくに限ります」
「そうかなぁ……」
できるだけ平静を心がけたつもりだが、このときだけはそれもどこか浮いてしまっていたため、さゆみは慌てて弁当の封を解いて食べ始める。
気まずいと思ったのはきっと自分だけではなく、この場にいる全員が感じているはずだ。
「でも、来週にはれーなの誕生日ですよ。その頃までには何とかしないといけないですよね」
「あっ、そうだったね。すっかり忘れてたよ」
絵里に言われ里沙が少しだけ驚いた声を上げる。
それを耳にしながらさゆみは箸で茹でたブロッコリーを口の中へと放り込んだ。
時間が経っても柔らかかったそれを咀嚼しながら、れいなもこれくらい柔らかければどれくらい楽だろうか考えてみる。
ただ、ブロッコリーのように食べてしまうわけにもいかなかったため小さく頭を振ってその考えを振り払った。
「というわけでさ、重さんには何か良い考えはない?」
「どうにかできてればどうにかしてますよ」
次に玉子焼きを摘んで同じように口の中へと放り込もうとする。
ただ、里沙からの視線が外されなかったので首を傾げてみるが、里沙にはそれが不服だったらしい。
次の瞬間には里沙が身を乗り出してきたため、さゆみは玉子焼きを中途半端に銜えたまま仰け反らざるを得なかった。
「重さんさ、田中ちゃんにちょっと冷たくない?」
ずいっと近寄ってきている里沙に頭を縦に振るべきか横に振るべきかを悩むが、そのどちらかをする前に今度は絵里が割り込んできた。
「そうそう、さゆがもっとれーなにちゃんと接してあげればここまでひどくならなかったんだよ」
「そ、そんなこと言っても……」
どうにか反論しようとするが、適当な言葉が思い浮かばずに口ごもるさゆみ。
二人はそれを肯定と受け止めたのかさらに言葉を畳みかけてきた。
「こういうときって、さゆがびしっと言ってあげればれーなだってすぐに機嫌直してくれるって」
「びしって、どうやって言えば良いの?」
苦し紛れにそう絵里に聞いてみるが、今度は聞かれた絵里のほうが自分から視線を逸らして何かを考え始める。
- 246 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:04
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どうやら何も考えずに言っていたようだったが、考えたことは考えたのだろう。
そんな絵里の口からぼそりと言葉が洩れてきた。
「『れーな、どーしたの?』ってな感じはダメ?」
「ダメって、全然普通じゃない。それに今のれーなには逆効果だって」
「じゃあ、どうしよう……」
「亀ちゃんさ、それは私達で考えないとダメだよ」
里沙から窘められて大人しくなる絵里。
何がどうダメなのかこのときのさゆみには分からなかったが、それを追求しようとする気にもなれなかったため、とりあえず弁当を食べることだけに集中する。
それからしばらくは里沙と絵里の二人が何やら勉強の話を始めてしまったため、逆に気が楽になったさゆみは、教室に一人残してきたれいなのことを考えてみた。
(せめてごはんのときくらい機嫌直してくれたらな……)
普段二人で食べることに慣れきっていたために、この状況に少なからず不満があったのも否定できない。
機嫌を完全に損ねてしまったれいなをどうすれば元に戻せるかを考えてみるが、良い考えが全く思い浮かばなかった。
(まあ、なるようにしかならないか)
極めて単純な結論を出し、ごはんの真ん中に載っていた梅干を口の中へと放り込んで咀嚼する。
意外とすっぱかったそれに小さく顔を顰めてみるが、他のどれよりもさっぱりしていたため機嫌は悪くならない。
むしろこのくらいさっぱりしたほうが良いのにさえ思ったさゆみは、ふと一人で食べているであろうれいなのことを思い出して呟いた。
「れーなもさ、もう少し素直になってよね」
- 247 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:05
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 248 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:05
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道重さゆみの小さな呟きは当然のことながら田中れいなに届くことは無く、れいながそれを知ることは無かった。
放課後になった直後、校舎を飛び出したれいなはまっすぐに家へと帰るが、玄関は潜らずに道場へと入る。
家の中には母親である真理恵がいるはずで、彼女と顔を合わせるのが辛かったからだ。
昨日は徹底的に痛めつけられ気を失ってしまったそこも、一人だと実に気が楽なものだった。
ひんやりとした空気の道場の隅に荷物を放り投げ、畳の上へと移動する。
ポケットから軍手を取り出してしっかりと装着した。
「よし、やるっちゃよ」
気合を入れるつもりで声を出してみるが、虚しいことに気づいたれいなはすぐさま深呼吸をして気持ちを切り替える。
続いて頭上にあるはずのストックした水を強く意識するが、中澤裕子からもらったペンダントが無かったため普段よりも時間がかかってしまった。
しかも、今日は快晴だったため、普段よりもストック量はかなり少ない。
それでもれいなはそうした要因の全てを無視して、右手を突き出してストックした水のほとんどをそこへと集中させた。
ぎんという音は空気中の水が固まる音なのだろう。
同時に右手が重たくなり、冷たくなる。
いつの間にか閉じていた目を開けると、そこには少し曲がった氷の剣が出来上がっていた。
「道具なんて無くても、れなは独りでできるっちゃ……」
昨日よりもかなり貧弱な氷の剣だったが、れいなにしてみれば誰にも頼らずに自分の力を顕現させたことのほうが重要であり、朝の父親に対する反論でもある。
ただ、今のままでは剣を作るまでの時間がかかりすぎるため、それを短縮することが当面の目標だ。
- 249 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:06
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「さて、これから何しようかな……」
作った剣をすぐに壊すのがどこか可哀想で、しばらくは素振りをしてみるも、相手がいないとどうにも気が入らない。
少し曲がった氷の剣はこれまでれいなが作ったどの剣よりも貧弱で、床に打ち付けるだけで壊れてしまいそうだった。
そう思ったれいなは試しに畳に剣を突き刺してみるが、鈍い感触を残しながらも県は畳に突き刺さる。
れいなが思っているほど貧弱ではないが、だからといって頑強でもないのだろう。
「そういえば、この前、親父が何かしよったとね」
確か、日曜日辺りに道場にいた父親を呼びに行った際、彼はれいなの知らない誰かと対峙していた。
父親や自分と違ってどこか掴み所の無いそれはおよそ人間とは言えず、幻か錯覚の類のようにも感じられた。
「確か、師匠も言っとったとね……」
最近はどこか意気消沈していた裕子は、それでもれいなにしてみれば奇術の師であり、その裕子が以前言っていた言葉を思い出す。
『奇術は何も自分自身が為さなくてもいい。適性のある奇術師は自分自身の力を別の何かに与え、それを自分がいなくなってからでも発動させることができる。そうした間接的な奇術に特化した奇術師を作成者と言う。まあ、私がお前に作ったそいつも作成の一端だが、はっきり言ってそいつは駄作だ。腕の良い奇術師なら力の方向性だけを認識させることなどせず、少し考えただけで力を発現できるような道具を作るだろうな』
自分に渡されたものをはっきりと駄作と言われ、れいなは少しだけ落ち込んだことを覚えていた。
ただ、そのときは同時に考えただけで力を使うことができるということに対して、純粋に怖いという感情も抱いたことも思い出していた。
- 250 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:07
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『私の知ってる腕の良い作成者は二人だけだな。一人は趣味で自分とそっくりなレプリカを作り、自分とは違う人間の思考をペーストして世界中にばらまいている。といっても、今はそいつらも三人くらいまでに減ったか。あと一人は……』
『師匠?』
裕子が躊躇するところをそれまでろくに見たことの無かったれいなは戸惑いながら声をかけるが、その後の裕子の行動は実に単純だった。
小さく肩を竦め寂しそうに笑う。
それだけをして、先を続けてきた。
『いや、なんでもない。あとの一人は、良く分からなかったな。過去と向き合うための呪符だとか、一度だけ絶対に壊れることの無い簡易結界を張るためのピアスとか良く作っていたが、それでもあの人は満足できなかったんだろうな』
「そうか、これか」
その後も裕子は何か言っていたが、必要なことだけを思い出したれいなは素早くその後の展開を切り捨て、目を閉じた。
(過去と向き合うための呪符……)
父親が対峙していたのは過去に出会った誰かであり、ここで呼び出していたということはそれができるということだ。
(親父にできてれなにできんってこと、なかとよ……)
今朝話をしていた父親の顔を強く意識し、目の前を睨みつける。
すると結果はすぐに現れた。
陽炎のようなものが目の前の畳から立ち昇り、その先に誰かが立っている。
その姿形かられいなはそれが誰なのかをすぐに理解し、次の瞬間には持っていた氷の剣を一閃させていた。
無表情だった父親の姿がれいなの剣で煙を散らしながら消えていく。
昨日はろくに当てることのできなかった父親だったが、れいなが思い浮かべた彼は身動き一つしなかった。
だが、それだけで満足しなかったれいなはすぐさま次の獲物をイメージだけで呼び出す。
すると、今度は目の前に小川真琴の姿がぼんやりと浮かび上がった。
- 251 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:07
-
「あんたさえおらんかったら、マコ姉はいつまでもれなのお姉ちゃんやったとよ」
真琴のイメージが手にしていたナイフを無造作に突き出してくる。
自分や父親と良く似たその動作をれいなは冷静に見据え、自分とナイフとの間に氷の剣を割り込ませた。
たったそれだけの動作で真琴が手にしていたナイフがあっさりと弾かれ、どこかへ飛んでいってしまった。
貧弱だと思っていた自分の剣が意外に固かったことをれいな自身驚いていたが、仰け反った真琴の姿が目に入るや否や、お返しとばかりにそれを突き出した。
剣は左の肩へと深々と刺さり、苦しそうに顔を顰めながら真琴は後ろへと下がる。
口が開いて何かを言っているようだったが、れいなは止めとばかりに剣を振り下ろした。
「あんたさえおらんかったら……」
周囲の空気へ溶け込んでいく真琴に対し吐き捨てたれいなは、そこでようやく疲れていることに気づく。
持っていた剣を消して息を整えようとするが足に力が入らず、思わず畳の上に尻餅をついてしまった。
気分が良くなっていたれいなはそのまま畳の上へ仰向けになり、天井を仰ぐ。
自分の部屋よりもはるかに高かった天井が今の自分のように感じられ、思わず笑いたくなる。
だが、それをするよりも先に道場へ誰かが入ってきてしまった。
それを周囲の空気が動いたのを肌で感じて、仰向けのまま入り口を見てみる。
「お母……さん?」
立っていた真理恵の姿を見たれいなは慌てて立ち上がり、近寄るべきか迷う。
なぜれいなが迷ったかというと、彼女の顔は普段のそれよりもはるかに険しかったからだ。
が、真理恵のほうから近寄ってきたため、れいなは止まったまま彼女がやってくるのを待つ。
ただ、れいなにはその時間が異様に長く感じられた。
『帰ってたの?』
口が動くがそこから言葉は出てこない。
口の動きからそうだと判断したれいなだったが、普段からしているはずのその判断もこのときだけは不安だった。
- 252 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:08
-
実のところ、れいなの母親である真理恵は話すことができない。
それは最初から話せないということを意味していない。
ただ、れいなが彼女に聞いても教えてくれることは無く、父親に聞いても同様だった。
そして、慣れてしまえばそれも実にあっさりとしたもので、れいなも日常的にそれを受け入れている。
「なん?」
いつまでたっても口を開こうとしない母親に対して苛立ちを込めたまま告げるれいな。
しかし、それをしたところで真理恵の表情が和らぐことは無かった。
いつもは穏やかなはずの母親から険しい視線を送られ、れいなの中に苛立ちが募ってくる。
完全にそれが八つ当たりだと気づいたれいなはすかさず母親から視線を逸らし、道場を出ようと歩き始める。
幸い、引き止めてくることがなかったため、れいなはすんなりと家に戻ることができたが、それでもざわめいてしまった気持ちは静まらなかった。
「何で誰もれなの気持ちを分かってくれんと?」
自室で制服を脱ぎ捨て私服へと着替え、ベッドへと寝転がる。
天井がやけに低いのは二段ベッドの下だからだったが、そのときのれいなにはそれすらも苛立ちの一因になっていた。
そして、ふつふつと心の奥底から湧き出していた歪んだ感情はれいなから時間を取り去って、別の場所へと移動させていた。
『ごめんね、れいな』
見えたのは玄関先で背中を向けようとしている少し幼い以前の姉。
どこかさっぱりしたと感じたのはれいながそう判断したからではなく、姉が本当にそのような表情をしていたからだ。
そして、れいなはそれを受け入れることができなかった。
- 253 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:09
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『でも、行かないときっといつかれいなにも迷惑かけるかもしれないから……』
(違う、マコ姉がそばにおらんといかんのよ!)
あのとき、なぜそう叫べなかったのかが今のれいなには分からない。
ただ、あのときのれいなは姉の背中にしがみついただけだ。
『ほら、別に泣くことなんてないよ。会おうと思えばいつでも会えるんだからさ』
再び振り返った姉が自分に向かって手を伸ばしてくる。
姉の言葉と頬を擦られる感覚でようやくれいなは泣いていることに気づいたが、れいな自身がそれを止める術を持っていなかった。
『じゃあ、そろそろ行くね』
そう言って自分から手を離した姉が再び背中を向ける。
そして、それがれいなにとってある種の最後を示していた。
「もう、あのときから六年も経ったとね……」
飛んでいた思考が戻ってくるのと同時にぽつりと呟いてみる。
しかし、失った時間が戻ってくるはずも無く、言葉が言葉として流れるだけだ。
急に広くなった部屋。
使われなくなった二段ベッドの上段。
半分空になってしまった本棚に、クローゼット。
そのときからだった。
れいなが寂しさを覚えたのは。
「あんたさえおらんかったら……」
宙に浮かんだ姉と同じ顔をしている兄に対して三度呪詛の言葉を投げつける。
ただし、姉以上に自我の強い兄の顔がれいなの眼前から消えることは無かった。
その兄から逃げるようにして両手で顔を塞ぐれいな。
自分だけの世界に入り込むことで、一人だけの世界に浸ることできっと兄も消すことができるはず。
そんな暗い確信に身を委ね、れいなはしばらくの間、静かに肩だけを震わせて泣くことにした。
- 254 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:10
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 255 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:10
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普段はあまり使われないその応接室で、稲葉貴子は落ち着くことなく右往左往していた。
時刻はそろそろ四時半、時間にうるさい『彼』のことだから間もなく現れることだろう。
「何でウチが焦らんとあかんねん……」
苛立ちを苛立ちとして隠さないまま吐き捨て、ソファに身を投げ出す貴子。
わずかに音を立てて軋んだソファだったが身体に返ってきた反動は意外に少なく、しばらくはそのままの格好でぼんやりとする。
大して動いていないにもかかわらず身体が重たいのはすでに日常へと成り下がっていたし、目を閉じればすぐに眠りも訪れる。
ただ、疲れが取れないだけだ。
事実、このときも頭の中はこれからのことで緊張していたのに、目を閉じただけでまどろむことができた。
「よくもまあ、こんな状況で寝ることができるな」
「へっ?」
目を開けて変な角度になっていた頭を持ち上げると、そこにはいつの間にか待ち人である田中仁志が立っていた。
それを確認して貴子は慌てて立ち上がろうとするが、重力に恐ろしく素直な身体がすぐさま反応してくれることは無かった。
「ノックとかしました?」
「ちゃんと職員室で教頭先生に挨拶してきたぞ」
「……そうですか」
時間を稼ぐつもりで言ったつもりだったが、仁志に即答されて何も言い返せなくなる。
その頃には昼休憩に外線を最初に取ったのが教頭だということを思い出していたが、だからといって身体が軽くなるわけでもない。
「それで、用件ってなんですか?」
気持ちを入れ替えたつもりだったが抱えている重たさが引いてくれることは無く、それを引きずったまま立ち上がる。
逃げるように部屋の隅にあるポットに向かったのはほとんど本能が為したことであり、貴子には責任は無いはずだ。
ポットの横にあったインスタントコーヒーのビンを開けるが、以前は認識できた香りもこのときは微塵も感じられなかった。
- 256 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:11
-
「昨日、れいなが覚醒しそうになった」
仁志の言葉を受けてビンを持ったまま固まる貴子。
全身が一瞬にして緊張で強張ったことを感じながら振り返ってみるが、そこにあった仁志の表情は貴子と同じように硬かった。
「どんな感じですか?」
押し殺したまま声を出したことに気づいた貴子だったが、身体はすでに奇術師としての感覚に切り替わっていたため、それを否定することもできなかった。
この状態が相手に限りなく悪影響を及ぼすことは予想できたが、貴子にしてみてもすでに慣れ親しんだこの感覚を切り離すこともできない。
硬い表情をこれでもかと歪ませた仁志から再び背を向けるが、今度は刺すような気配に身を委ねることになってしまい、仕事を終えてから振り返るべきだったと少しだけ後悔した。
「『完全なる覚醒』なら、お前らのほうが良く知ってるだろ?」
「ですが、あの状況になればウチらだと記憶が飛びます。任意に発動できる田中さんのほうが詳しいんじゃないですか?」
貴子の言葉を受けて刺すような気配に殺気が混じる。
言ってしまった後でさらに後悔を重ねた貴子だったが、ここで折れてしまおうという気にはなれず、被せるようにして言葉をさらに投げかけることにした。
「ウチは奇術師について田中には一切教えてしません。見せはしましたけどね」
粉を入れた紙コップにお湯を入れ、マドラーで静かにかき混ぜる。
とりあえずは相手に出す分だけ用意を整えた貴子はコップを持ったまま振り返ってみるが、仁志はまだ立っていた。
「田中さん、座ってください」
言葉で促しても仁志は動くことが無かったが、冷めた目で彼を見ているとやがて大きく息を吐いてソファへと腰を降ろした。
その仁志の前に紙コップを置き真正面のソファへと座る貴子だったが、近くにある鋭い視線を受け止めることはできなかった。
- 257 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:14
-
湯気を立てている紙コップを静かにかき混ぜるが、最初の緊張はすでに消えていた。
どうやら、コーヒーの湯気と一緒にどこかへ流れていったのだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら貴子は一口コーヒーを飲んでみる。
安物はやはり安物でしかなく、限りなくお湯に近かった色つきお湯をテーブルの上に置いた。
「ウチができることは使役以外ありません。そして、田中がしていることは破壊なんでしょう。だから、田中にできることなんてありませんよ」
もっとも、田中れいなの根源は『闘争』であり、それを達成するための手段として破壊しているだけだ。
中澤裕子のように破壊することだけが目的ではない。
「それに、ウチは奇術が使えなくなりました」
自分の言葉を受けて、仁志の顔が凍りつくのが手に取るように分かる。
肌で感じる空気も一瞬にして冷たくなり、その中心にいるのが自分だと気づいた貴子だったが、それを止めようとは思わなかった。
今のように驚愕に満ちた仁志の顔を見るのが楽しかったからだ。
「せやから……ウチはもう、ダメです」
しかし、ダメ押しのつもりの言葉が口から零れた瞬間にそれがあまりにも自虐的なものだと気づき、貴子は呆然となる。
目の前の仁志もそれは同じようで、所在無さ気に紙コップを持ち上げていた。
しばらくは無言でコーヒーを啜って時間が流れていくのに身を任せる。
互いが互いに視線を合わせようとしなかったが、気まずいという思いが消えることは無かった。
貴子が視線を合わせられなかったのは単純に恥ずかしかったからだったが、仁志は恐らく違うだろう。
何せ、恥じるという感情から一番離れているからだ。
「ダメだと思うのは自分勝手だけどな……」
ぼそりと話し始めた仁志にぼんやりと視線を持っていくが、そこにあったのは意気消沈した顔だけであり、それを一瞬仁志だと認めることができなかった。
どうやら彼も自分のネガティブなオーラに汚染されてしまっているらしい。
だが、言葉だけは紡がれた。
- 258 名前:自由への逃避3 投稿日:2005/06/29(水) 12:15
-
「俺は親らしいことをあいつらにしてこなかった。それに、これから先もするつもりはない。これが何を意味しているか分かるか?」
「……分かりませんよ、そんなの」
親になったことも無いしとは心の中だけでつけ加え、仁志の後ろにある窓を見つめる。
閉じた窓の外からは生徒が動いているのがぼんやりと見えているが、それもどこか別の世界の出来事のようだった。
「俺自身がまだ、自分ってやつを理解していないんだ。そんな状態で他の誰かに何かを教えることなんてできやしない。俺がすることは全て自分勝手で、それを他人が見るのは勝手だ。そして、そこから何かを得るのも、そいつの自由だ」
「開き直りですか?」
「違う、これまで生きてきた結果だよ」
少し優しくなった口調から仁志が落ち着きを取り戻しつつあることに気づいた貴子だったが、逆に貴子の中ではふつふつと何かが煮えていた。
言葉にすれば『嫉妬』なのかもしれないが、それを認めることはできない。
彼と貴子は全く位置づけが異なるからだ。
「羨ましいですね、そういうの」
出てきた言葉の全てが自虐的であり、攻撃的だと感じたのは貴子だけなのかもしれない。
しかし、それを遮ったからといって気持ちが楽になるというわけでもなかった。
実際、言葉にして外へ放り出せばその分だけ身体が軽くなったようで、頭も冴えてきていた。
「だけどな……」
そんな貴子に向かってなおも呟いてくる仁志。
止めることはせずにぼんやりと聞き流そうとした貴子だったが、次に出てきた言葉は容赦無く貴子の中へと入り込んできた。
「俺は違っても、あいつはちゃんとした人間だ。自分の道くらいは選べるだろ?」
自問だということは分かったが、それが同時に今の自分に対しても有効であることに気づき、今度こそ仁志を睨みつける。
寂しそうだと思ったのは貴子の勝手な思い込みのせいで、仁志はきっと別のことを考えているはずだ。
直後、仁志から無理難題を押しつけられ、文字通り辟易とすることになった。
仁志から頼まれたのは一つ、れいなと話をすること。
たったそれだけのことなのに、今の貴子にしてみればそれも単なる重圧に過ぎなかった。
- 259 名前:いちは 投稿日:2005/06/29(水) 12:25
- 更新しました
この辺は一回の更新で一日しか進まないのでとても展開が遅いです
>>233 通りすがりの者さん
今回の話で謎な部分に少し触れたつもりです
ただ、はっきりするのはもう少し後になるかと思います
次は「自由への逃避4」になります
それでは
- 260 名前:自由への逃避 投稿日:2005/07/06(水) 12:17
-
自由への逃避4
- 261 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:18
-
「あぁ、なんて空が高いんだろ……」
見上げていれば自然とそう言葉が洩れてしまったため、新垣里沙はしょぼんとしょげ返って俯いた。
昨日とほとんど変わらない荷物だったにも関わらず余計な力を必要としたのは、今の自分が精神的に追い込まれているからだ。
そう無理やり納得してみるが、抜けてしまった力が戻ることは無かった。
「がきさん、どうしたんですか?」
「あっ、亀ちゃん。おはよう」
いつの間にかそばに来ていた亀井絵里を認めて立ち上がってみるが、不意に意識が遠のく。
急に立ち上がったことで貧血になったのだと気づくが、その頃には絵里に腕を掴まれていた。
「大丈夫ですか、顔、青いですよ?」
「……たぶん、大丈夫」
「それって、大丈夫じゃないってことじゃないですか」
ぼやけた視界が気に入らず目頭を押さえてみるがちっとも元に戻ってくれない。
そのままの視線で絵里を見てみるが、その絵里の表情も今の自分と同じように曇っていることに気づき、遠ざかっていた意識が急に鮮明になった。
「亀ちゃんのほうも、何か困ってるって感じがしてるね」
「そう見えますか?」
普通に話し始めた自分に安心したのか、絵里が掴んでいた腕からそっと離れる。
自由になった身体が座る前よりも軽かったのはきっと気のせいではないのだろう。
ただ、それも長くは続きそうに無かった。
木曜日は吉澤ひとみが朝練をしないため、こうして絵里とは八時に待ち合わせて学校へ向かっている。
ただ、朝のホームルームが八時半からだったため、立ち止まってゆっくりと話している余裕はあまり無い。
- 262 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:18
-
「どうしたの?」
道すがら絵里の顔を覗きこんでみる里沙。
自分の状態も万全とは言えなかったが、話し始めればおそらく止まれないだろう。
だから先に聞いておこうとだけ思って、絵里が話すのをじっと耐える。
「昨日なんですけど、ひとみさんが……」
俯き加減だった絵里が呟くようにして話し始める。
その内容に関して、里沙はにわかに信じることができなかった。
吉澤ひとみが対峙したという人間ではない別の何か。
格好は人間なのに、自分を神さまだと終始言っていた別の何か。
それはひとみによって倒された(実際に見たのは絵里で、その絵里が言うには少し違っていたが自分がそう納得した)が、声だけでなおも語りかけてきたらしい。
そんな話だった。
「だけどさ、たいそうなことを言ってくるね、その人」
「そうなんですよね……」
難しい顔をしながら頷く絵里。
そのときのことを思い出しているのだろうが、里沙にはそれが見えることは無く何も喋らずに静かに待つ。
ただ、互いに情報交換をしていなかったため、この二人はある事実を見逃していた。
絵里が昨夜遭遇したのが平家みちよであり、彼女とは里沙も一度話をしているという事実を。
しかし、絵里も里沙もこの話題にはそれ以上触れなかったため、この場はあっさりと流れてしまい、みちよの存在自体もあっさりと消え去ってしまった。
- 263 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:19
-
「それで、がきさんはどうしたんですか?」
話を切り替えてきた絵里にそう問いかけられしばらくどう言うべきか迷った里沙だったが、聞いた事実を曲げることはできず、素直に話すしかなかった。
「実はさぁ……昨日ね、思い切って愛ちゃんに電話してみたんだよね」
今週に入ってからずっと連絡が取れていなかった小川麻琴。
それを少しでも知るために幼馴染である高橋愛に電話してみたが、そこで麻琴の状況を聞いて正直凹んでいた。
「ずっと引きこもってるんですか?」
「そうみたい。そんな状況じゃ電話もメールも通じないわけだよね」
ふうっと大きなため息を吐いて立ち止まる里沙。
具体的な話がそれだけしか聞き出せなかったため憶測が憶測を呼ぶが、それを止めることもできない。
悪循環している思考を切り替えるべきなのだろうが、問題が山積みになっている現状ではそれも無理だろう。
「それで、がきさんはどうするつもりなんです?」
「どうしようもないよ。とりあえずは目の前にある問題を片付けるだけ……かな?」
首を大きく傾けて空を見上げてみるが、そこは先ほど見たのと同じく、青くて高かった。
視界の隅に入っていた絵里も自分と同様に見上げているようだったが、恐らくは自分のように追い込まれいないだろう。
逢いたいのに逢えない。
それが無理ならせめて声だけでも聞きたい。
そんなことを考えながら里沙は小さく、絵里にも聞こえないように呟いた。
「何でこんなときに気持ち良いくらい高いんだろ、ほんとむかついてくるよ」
- 264 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:19
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 265 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:20
-
朝のホームルームほど気の入らない時間帯は無く、身体もそれを受けていつも以上に重くなっている。
その身体を無理やり前へと押し出しながら稲葉貴子は担任を受け持っている教室へと入った。
「起立っ」
自分がドアを開けることが分かっていたのだろうか、入った瞬間に声をかけられて身体をビクつかせる貴子だったが、その声の主を確認してさらに身体が強張ってしまった。
どこか自棄気味な雰囲気を醸し出している田中れいなが叫んだからか、いつもはあまり揃うことの無い生徒の起立が大きな一つの音で締めくくられる。
それをどう受け止めたら良いのか分からずに貴子は無理やり教壇の前へと歩いた。
「……休みはおらんようやな」
少し高い位置から教室全体を確認して休んでいる生徒がいないことを確認した貴子は、続けて簡単な連絡を済ませて早々にホームルームを切り上げる。
ただ、れいなが素早く立ち上がろうとしたのを手を上げて遮り、続けてれいなを見て手招きをする。
れいなの表情が少しばかり歪んだが、素直に席から立ち上がってこっちへ向かってくれた。
そのれいなの少し後ろに座っていた道重さゆみの表情がやけに重苦しかったが、このときの貴子はそれをあっさりと流しきり、れいなだけに集中する。
そして、どこか緊張した面持ちのれいなを正面に見据えた。
(緊張しとるんはこっちやっちゅうねん)
心の中だけでツッコミを入れてみるが、当然のことながられいなには通じるはずも無く、強張った顔が和らぐことは無かった。
自分とれいながなぜか無言で向き合ってしまい、周囲の雑音がやけに大きく聞こえてくる。
一時間目は教室移動があるからで、れいなもすぐに移動しなければならないはずだ。
「最近調子はどうや?」
「えぇ、絶好調です」
「……」
「……」
互いに目を合わせないまま言葉を交わし、気持ちの悪い無言の時間が流れる。
周囲の雑音が納まったのは生徒が出て行ってしまったからで、残ったのが二人だけなのだと知らせていた。
ふとれいなの表情が見たくなった貴子は少しだけ視点を動かして彼女を中心に据えるが、その直後、思わずその身を強張らせてしまった。
- 266 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:21
-
(噛みつく前のライオンか……?)
貴子が見ているれいなは無表情だったが、全身を静かに緊張させていることをすぐさま気づく。
そのことがまるで、いつでも獲物へと牙を突きたてる準備を終えているかのように感じるが、貴子にできることはほとんど無い。
問題はれいなの内側に存在する、貴子には触れることのできない別の部分だと直感が伝えてきた。
「何か問題でもあるんなら、誰かに相談せえよ」
もしかすると自分に対してその牙が突きたてられるかもしれないという恐怖を抱き、貴子は言葉を発して慌ててそれを打ち消そうとする。
しかし、一度抱いてしまった感覚を消すまでにはいたらず、静かに内へ何かを溜め込んでいるれいなの反応を待つしかなかった。
「……無理ですよ」
「えっ?」
「れなの抱えてる問題は、誰にも分かりません。たとえ、先生や師匠でも……」
搾り出すかのように言ったれいなが小さく頭を下げて貴子から遠ざかっていく。
どう声をかけたら良いのかわからなかった貴子はその後ろ姿を呆然と見送り、やがて独りになった。
れいなの姿が完全に視界から消えたことを認識して、貴子はようやく力を入れていた全身を弛緩させる。
自分だけではその存在感もどこか希薄で目を閉じれば自分の存在すら消し去れそうだった。
(そうか、これが田中とウチとの違いか……)
直面している何かに対して苛立ちや怒りで立ち向かおうとしているれいな。
反面、自分は直面しているという事実から逃げることを選んだ。
立ち向かわない理由があるし、立ち向かえない理由もある。
二重に被せられた理由を盾に、自分は全てから遠ざかろうとしていたのだ。
三年前から捩れてしまった人間関係の全て。
それから逃げようと得ていた教職を生かして教師になったが、結果はどうだろう。
どこが変わったか。
何が変わったか。
- 267 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:21
-
「あんときから何も変わってなかったんか……」
切れたくないと繋がってしまった中途半端が今の自分の正体だと気づきしばし唖然とするが、それを意識してしまったからといって今の自分という在り方を変えることもできない。
自分だけが変わっても周囲の全てが均等に変わらなければ、結局のところは同じ結果へと行き着いてしまうだろう。
冷めた視点で自分を冷静にそう分析した貴子は、近くにあった生徒の椅子を引っ張り出して腰を降ろす。
まだ一日が始まったばかりなのに一日が終わるときのように疲れていた。
(いや、それは違うか)
疲れているのは単に疲れが蓄積されているだけで、認識できていなかっただけ。
何かの拍子で吹き出してくるのは明白で、それが今のこのときだったみたいだ。
「せやけどな、田中……」
れいなが出て行ったドアを見つめ、いないはずの彼女へと小さく呟きかける。
このときの貴子には確かにれいなの後ろ姿が見え、しかもそれはどこまでも小さくなっていた。
そんなれいなの状況が何となく分かると思ったのはほんの一瞬で、次に出した言葉はその一瞬を的確に表現していた。
「誰にも油断できんちゅうのは、限りなく辛いぞ」
今のれいなであれば、いずれ中澤裕子と同じような道を辿るのかもしれない。
あのときの裕子には気を抜ける相手が確かに存在した。
しかし、それが一度豹変してしまえばそれまでの状況が一変してしまい、誰に対しても気を許せなくなる。
直接的という意味からして裕子の力と限りなく近いれいなには、近い将来、それが訪れるかもしれない。
「それでも、ウチには何もできんで……」
出てきた言葉は限りなく今の自分を表現し、すぐさま全身へと浸透していく。
やけにそれが心地良かったのは何かを諦めてしまったのかもしれないし、田中れいなという人間のみならず、奇術師全体から逃げたのだと感じたからかもしれない。
ただ、このときの貴子にしてみればそんなこともどうでもいい話だった。
- 268 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:21
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 269 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:22
-
四時間目終了のチャイムが鳴り終わるのとほぼ同時に、田中れいなは教室を飛び出していた。
わき目も振らずに向かったのは昼休憩のときだけにやっている売店であり、人の少ないうちに昼食をゲットことが目的だった。
階段を二段ずつ飛び降りて廊下を走るが、このときだけは誰も咎めはしない。
自分と似たような状況の人間は他にもいるし、時間が経てばもっと増えるだろう。
だから、れいなはいち早く教室を出てきたのだ。
五分後、狙っていた焼きそばパンとこしあんの詰まった揚げパンをゲットしたれいなは、少しだけ満ち足りた気持ちになりながらゆっくりと階段を上がっていく。
その際、生徒の何人かとすれ違うが、このときのれいなにしてみれば彼らは敗者であり、自分とはすでに無関係だった。
そんなれいなの足は自然と屋上へと向かっていた。
三階までしかないF中学だったが、実はそれよりもさらに高い屋上が存在する。
そこに通じるドアは普段ならば南京錠が三つほどかけてあるほどの厳重な警戒ぶりだったが、れいなにかかればそれらも難なく乗り越えることができた。
三つの南京錠をまとめて凍らせ、無理やり砕けばそれで終わりだった。
錆びついたドアを開ければそこは一人だけの世界であり、今日も誰も来ていないことから、誰もまだここの存在に気づいていないのだろう。
そんなことを思いながら、れいなは若干風の強い屋上へと出ることにした。
殺風景な屋上にあったのは給水ポンプの一つだけで、他には何もない。
転落防止用なのか周囲を囲むように壁が少しだけ高くなっているが、背の低いれいなでも簡単に乗り越えられそうなくらいに低い。
実際、以前にはここで自殺未遂もあったようで、その結果としての南京錠だったが、れいなにしてみればそれこそどうでもいい話だった。
- 270 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:23
-
「死ぬってことは、今の状況から逃げるってことっちゃ。それだけは……許せん」
いなくなってしまった誰かに対して小さく愚痴を言ったれいなはポンプまで歩いていき、適当に腰を降ろす。
今頃教室では牛乳が配られているだろうが、れいなはそれを見事に無視していた。
「牛乳飲んでもぜんぜん大きくならんし……」
急に背が伸び始めた幼馴染が頭に浮かぶが、それを一蹴して手始めに焼きそばパンの包みを破る。
わずか一分でそれを胃袋に収めると、続いて揚げパンの包みも破り、ほぼ同じ速さで胃袋へと押し込んだ。
「さて、準備完了っちゃね」
軽く飛んで立ち上がり、大きく伸びをする。
強張っていた身体が少しだけほぐれた気がしたが、肩に残っていた重たさが消えることは無かった。
しかし、それも慣れてしまえば自分を冴え渡らせてくれる。
そう割り切ってれいなは右手を突き出して目を閉じた。
(感覚は昨日と同じ。でも、もっと早くするっちゃ)
心の中を研ぎ澄まし、自身の頭の上にあるストックした水分を強く意識する。
そこに溜め込むまでは普通の水でしかなかったものが、自分が切り離すことでどこか特別になるらしい。
ぽっかりと宙に開いた自分だけのその空間を隅々まで把握したれいなは、そこから一定量を取り出して、突き出した右手へと移動させた。
軍手をしていない右手が急激に冷えてきて自分のしていることを認識させてくるが、それよりも時間を優先させるために感覚を切り離そうとする。
が、普段からそうした訓練をしていなかったれいなだったため、凍える感触が消えることは無かった。
ぎんという空気の凝縮する音を耳にしてゆっくりと目を開ける。
そこに入ってきたのは昨日よりもはるかに強固で鋭いれいなだけの牙であり、それは昨日よりもはるかに強いものに見えた。
- 271 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:23
-
(昨日は二十秒。で、今日は十秒……まだ、いける)
繰り返せばそれだけ結果が現れることを確認したれいなは、氷の塊と化した右手に左手を添えて、ゆっくりと氷の剣を振り上げた。
目の前に消すべき目標を思い浮かべ、強く意識する。
昨日のようにそこに目標の姿は現れなかったが、感覚はこの身体が覚えている。
どこまでもマイナスな存在感、絶えず相手を自分サイドへと引き入れようとする粘りつくような執念。
そして、相手を殺したいという絶対的な願望。
それらを一身に受け止め、れいなは剣を振り下ろした。
声にならない声、本来ならば聞こえてくるはずのない声を上げて消える残留思念の影。
一刀両断してなおも声を届かせようとする執念は、しかしながられいなが勝手に抱いたイメージであり、本物がそこまで固執しているかどうかは分からない。
しかし、れいなにしてみればそれもどうでも良かった。
しばらくは自分が勝手に創り上げたイメージに対して剣を振り下ろし、なぎ払って、突き刺して剣の感触を確かめる。
天候や気分で性質自体が変化する剣で訓練することについて疑問が無いことも無いが、剣を創り出して叩き降ろすまでの工程を確認したかったため、れいなは思い浮かんだそんな考えをすぐさま消去した。
十分ほど剣を振り回したれいなは、不意に視界が暗くなるのを感じる。
続いて立っているという感覚が消え失せ、次に気がついたときには地面に倒れていた。
荒れていた呼吸が短く、浅くれいなに限界を訴えてくるが、それに反発して立ち上がろうとする。
が、つい先ほどまであったはずの氷の剣が消えていることに気づき、再び倒れこんだ。
- 272 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:25
-
「これが限界か……」
つまり、こうなってしまったら自分は終わりであり、後は相手にされるがままというわけだ。
感覚の無くなった右手以外は火照っていて、下にあった地面がひんやりと存在感を伝えてくる。
ただ、触れている頬がざらつきを訴えてくることを受けて、れいなは身体を反転させて空を仰ぐことにした。
青だけの空をどこまでも高いと感じたのは今の気持ちが冴えているからであり、空は普段と変わらないのだろう。
ただ、冴えている気持ちもほんのわずかな時間だけで、すぐに憂えた時間がやってくるはずだ。
「親父もさゆも、絵里も、がきさんも、何でみんな分かってくれんの?」
蟠っていた言葉を言葉として噛み砕き、自分の中で昇華させようとする。
ただ、それは前向きというよりかは後ろ向きだったため、素直に身を任せることができないでいた。
「れなは自分で何でもできる。それを……明日、証明してみせる」
自分だけの決心を呟き、自身を追い詰めていく。
猶予はあと一日。
それまでに自分自身を氷の剣と同じように研ぎ澄ませなければならない。
そうしなければ田中れいなという人間を周囲へ知らしめることができないし、れいな自身も納得できない。
強くそう意識したれいなは、昼休憩が終わるまでのわずかな時間を何も考えずに過ごすことにして、ゆっくりと目を閉じる。
身体が宙に浮く感覚を味わうがそれもほんの一瞬のことで、次にやってきたのは不必要なまでの疲労感だった。
- 273 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:25
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 274 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:26
-
木曜日の放課後は普段ならば二人きりだったが、この日はどうやら違うようだ。
生徒会室に入ってきた道重さゆみを確認した亀井絵里は、力無くぼんやりと立っているさゆみにどう声をかけるべきか悩んで口を閉じる。
真下には数学の参考書が置いてあるが、それはさゆみの表情を見ると一瞬にして吹き飛んでしまって、記憶の外へと放り出されてしまった。
「重さんさ、部活はどうしたの?」
真正面に座っていた新垣里沙が普段と変わらぬ声を出しているが、その表情も今は少し暗い。
里沙には里沙の事情があり、絵里がどう言ってもそれが解決することは無いのだろう。
「調子が悪いんで、休むことにしました」
大きくため息を吐いたさゆみが、カバンを引きずるようにして部屋に入ってくる。
しかし、それは自分の勘違いだとすぐに気づく。
彼女自身が疲れ切っているのだということをさゆみの足取りから判断し、それにどう言うべきか考える。
が、浮かんだ言葉の全てが単なる気休めにならないだろうことにもすぐさま気づき、やはり絵里は口を閉ざすしかなかった。
自分の隣に座ったさゆみが机にうつ伏せになる。
自分も里沙も何も言わなかったらそのまま眠ってしまいそうにも見えたが、実際にはさゆみが眠るということは無いようだ。
頭だけを少し動かして自分と里沙を見てくるが、その表情が普段のさゆみから笑うということを奪っていたのか、恐ろしく儚げに見えたてしまった。
「何であんなに溜め込んでるんだろ……」
ぼそりと呟いたさゆみに対して適当な言葉が思い浮かばず、絵里は不意にこの場から逃げ出したくなる。
ただ、それをしてしまえば惨めになってしまうと感じ、必死な思いでその場に留まることを選んだ。
さゆみが誰のことを心配しているのか、それはすぐに分かる。
そして、里沙にしてみても問題を抱えていた。
反面、今の自分は抱えていた問題(といってもほんのわずかな時間だけだったが)がほぼ解決していた。
- 275 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:26
-
吉澤ひとみが対峙した平家みちよという、人間なのか良く分からない何か。
幻を見せてきたというみちよからひとみを救ったのは紛れも無く自分なのだろうが、それだけでは不安だった。
あのあと、いなくなってしまったみちよから語りかけられた言葉の数々。
そこには他には感じることができないであろうどこまでも後ろ向きな決意と、それを唯一信じるに値するものだという確固たる意志が見え隠れしていたが、ひとみはそれを一蹴した。
これ以上関わりたくないというのが正直な感想だったが、あのまま放置しておけば他の誰かのところへ行ってしまうのかもしれない。
絵里としてできることといえば、それが自分の周辺にいる人間に行かないように祈ることだけだった。
「たぶんね、田中ちゃんもいろいろ悩んでるんだよ」
「そうですよね……」
小声で同調してきた里沙に対し、やはり小声で返すさゆみ。
難しい顔をしたさゆみに対し里沙の顔は真剣なもので、ぱっと見ではそこにあるであろう里沙自身の問題というものを感じ取ることはできなかった。
「だから重さんがちゃんと言ってあげないとね」
「でも、何て言えば良いんですか?もう、三日も話してないんですよ?」
「だけど、さゆはれーなに言いたいことがあるんでしょ?」
割り込む形になってしまいそれが自然と二人から視線を浴びる結果となってしまったが、それらもどこか期待に満ちたものであれば言わないままではいかないようで、素早く考えをまとめる。
今度はうまく考えがまとまり、言葉にすることも容易だった。
- 276 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:27
-
「何を思うのかってのは人の自由だと思うの。でも、自分だけの想いを表に出さないまま他の人に理解させようとするのはいけない。ちゃんと言葉にしないと、伝わるものも伝わらないからね」
「そんなの分かってるよ。でも、どう言葉にしたら良いのか、分かんないの」
「だけど、言葉でも伝えきれないってこともあるよね」
予想通りの反応を示してきたさゆみに、予想外の反応を示してきた里沙。
前者については答えをすでに得ていた絵里だったが、後者についてはまだ考えがまとまっていない。
だが、前者についての疑問に答えていれば自ずと答えは導き出されるだろう。
「そんなの簡単だよ。素直になれば良いの。私もね、ひとみさんを消しちゃった後で感じたことを、ちゃんと本人に伝えたの。そのとき思ったんだけどね、言葉っていうのはいつでも言える反面、どう言うべきかで意味合いがずいぶん変わってくる。時と場合によったら、同じ言葉でも違う意味で受け止められちゃうからね」
そこでいったん言葉を切って、さゆみと里沙の二人を眺めてみるが、里沙は難しい顔をして口を少し開いて何かを呟いている。
さゆみはぽかんと口を少しだけ開けていて、自分の言葉がちゃんと正確に届いているのかどうか分からなかった。
「それに、自分の気持ちっていうのは常に変わっていて、少しも同じ状況じゃないの。進んでる方向は同じかもしれないけど、時間が経てば別の何かを感じるし他の何かに影響される。それでもちゃんと自分だけの信念……っていうのが正しいのか分からないけど、自分の中にある考えをしっかり持つってことが大切なんじゃないかな?」
言葉を発する人間は常に揺れ動き同じ状況で安定することはできない。
もし安定しているのだと感じるならば、それは見せかけに過ぎない別の何かであり、その奥底にある確実な変化に気づいていないだけだ。
だから、言葉にもそのときそのときで違う意味合いが生じてしまう。
- 277 名前:自由への逃避4 投稿日:2005/07/06(水) 12:27
-
ただ、自分の中に確固たる信念があり、それが揺らぐことさえなければ言葉にも一定の方向性を与えることができるはずだ。
他者から見れば自分勝手なのかもしれないがそれが絵里の感じたことであり、他の人に教えられる唯一の真実だと思った。
「……私の中にある考え……か」
呟いた里沙が大きく伸びをする。
すでに自分の言葉は記憶しきっていたのだろうが、それも気持ちの悪いものではなかった。
むしろ絶えず揺れ動いている自分よりもはるかに正確である里沙に覚えてもらったため、どこか清々しかった。
「あのとき、私はひとみさんと一緒になりたかったんです。あのときは正直にそう言いました。だけど、あの人に私の気持ちが正確に伝わることは無かった。それに私も勘違いしてたんです。ひとみさんを手に入れることことが、ずっと一緒にいることだって。でも、さゆやれーなを見てて気づいたんです。一緒にいるってどういうことなのかってことが分かったような気がします」
ぼんやりとしたさゆみの視線が動き自分へと焦点が合わされた絵里は、さゆみに笑いかける。
今の自分が在るのは新垣里沙の存在が大きかったからだったが、それと同じくらいさゆみやれいなも大きな存在だ。
あのとき、二人が楽しそうに話をしている姿を見てそう感じた絵里だったが、そのことがうまくさゆみに伝わったのかどうかは分からない。
「私の中の……れーな……」
「そうだね、結局はそこに行き着いちゃうんだよね」
さゆみに続いて里沙が小さくぼやくが、さゆみがそれを聞いているようには見えなかった。
そう、これは自分や里沙がどうこう言って解決するものではない。
原因が月曜日にあるのならば、当事者はれいなとさゆみの二人だけだ。
自分にできることは話をすることだけであり、そこで何を感じるかはさゆみの自由。
ただ、それがさゆみにとって、そしてれいなにとっても前向きでありますように……
そう心の中だけで呟いた絵里はやりかけていた問題集を広げ、置いていたペンをそっと持ち上げた。
- 278 名前:いちは 投稿日:2005/07/06(水) 12:35
- 更新しました
ようやく前置き段階が終了した感じです
次回から少しは進展があるつもりです
それでは
- 279 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/07/10(日) 13:09
- 更新お疲れさまです。 田中チャンはあの人に相当な気持ちを持ってますね。 でもそれは自分にとって自虐的行為とも知らずに。 さゆは一体どういった行動をするんでしょうね?? 次回更新待ってます。
- 280 名前:自由への逃避 投稿日:2005/07/20(水) 16:13
-
自由への逃避5−1
- 281 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:14
-
『ねえお父さん。何でわたし達って一人しかいないのに、二人なの?』
姉がそんなことを言ったとき、田中れいなはまだその意味を知ることができなかった。
その当時、姉である麻琴は六歳、れいなにいたってはまだ四歳だから、言っている麻琴もそれを脇で聞いていたれいなも全てを理解することができなかったのも無理は無い。
ただ、周囲の人間達は違っていた。
面と向かって言われた父親は表情を固くしてしばらく押し黙り、やがて部屋を出て行った。
次に戻ってきたときには母親を連れていて、その顔が普段と違っていたことがれいなにとってやけに印象的だった。
なぜ今までそのことに気づかなかったのかという後悔と、自分達が背負ってしまったものの重さにようやく気づかされたという悲壮感。
今もはっきりと思い出せる顔を浮かべようやくその表情の意味に気づき始めたれいなだったが、それでもまだ、完全に納得はいかなかった。
その日を境に急に増えてしまった姉とは違う別の人間。
田中真琴という突然湧いてきた兄に、れいなはどう反応したら良いのか分からなかった。
父からは口で、母からは態度でそのことをれいなに伝えようとしてくるが、れいなにはなぜ二人がそこまでして姉のことを気遣うのか、全く分からなかった。
そのときから姉とは違う、別の誰かが姉の口から声を出すようになった。
姉とは違ってどこか白々しく、れいなからすれば姉の一人芝居にしか見えない。
それでも、れいなは心の奥底で線引きをしている自分がいることに気づいた。
姉には『マコ姉』、姉ではないもう一人には『マコ兄』と区別しようとしている自分に……
だが、れいなからすれば姉は姉でしか在り得ず、兄など存在しない。
一番最初に辿り着いた結論は今もなお、れいなに兄の存在を否定させてくる。
兄が少しずつ自分に対して心を開いているにも関わらず、れいなは完全に認めることができなかった。
- 282 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:15
-
『わたし達って、やっぱりみんなと違うね』
姉の口調で加わることになった『達』という言葉の意味。
れいな以外の人間はそのことをなぜか素直に受け入れ、当然の如く扱っている。
だが、れいなから見れば『姉達』ではなく、あくまで『姉』しかそこには存在しない。
姉がその言葉を口にするたびにれいなから『姉』という存在が離れていく、そんな気がした。
そして、そんなれいなに決定的な出来事が起こる。
『ごめんね、れいな』
姉の十回目の誕生日。
その前日に意を決したという表情の姉から言われた言葉の数々。
結論は単純、姉が姉で無くなるということだけしかれいなには理解できず、そのことはれいなを大いに混乱させた。
自分達がより自分らしくなるための決心。
それを口にする姉は本当に頼もしく見えたし、綺麗にも見えた。
それと同時にれいなの近くから離れ、一生戻ってこないとも感じた。
姉の誕生日の数日後、れいなにも誕生日がやってきて、姉はそれまでと同じように同席した。
だが、そこにいた姉はれいなにとって、すでに遠くの存在でしかなかった。
- 283 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:16
-
近くにいるが、いつでも会うことのできない姉ともう一人。
家から二人がいなくなってかられいなが見たのは、やはり現実でしかなかった。
父や母が姉を二人として扱い、伯母が二人のことを大切に思いやる。
理不尽に思っていてもその現実だけは揺るがすことができず、れいなも認めざるを得なかった。
ただ、心の奥底にある感情がそれを否定し、表面にあるれいなに向かって必死に叫んでくる。
最初はその声を聞き流していたれいなだったが、それは結局のところ、自分にそれを実行するまでの力が無かったから。
自分に力があることさえ分かってしまえば、心の奥底にある声も聞き流せなくなった。
父や姉が異常であるように、れいなもやはり異常。
そのことを教えてくれたのは他でもない中澤裕子であり、彼女はれいなの力を認めてくれた。
ここ数ヶ月で異常な力は見事と言うしかないくらい発達しているし、気持ちもそのことを受け入れている。
夏休みの終わりにはまだ足元にも及ばなかったが、今のれいなならばできるはずだ。
途中から湧いてきた兄を消して、自分だけの姉を取り戻す。
自分のことを見てくれていた姉を、れいな自身の手で取り戻す。
そうすることで、小川麻琴が田中麻琴に戻ってくれるはず。
だから、これからすることが成功したら、兄を消しに行こう。
大きくなったれいなを見てもらって、兄には消えてもらおう。
「だから、がきさんも絵里も……さゆも関係無い」
自分だけの決意を口にして、れいなは起き上がった。
今日は決行日。
もう後には戻れないし、戻るつもりも無い。
それだけが先ほどまでの夢と今とを結びつけていた。
- 284 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:16
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 285 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:18
-
「何でれーなのことばっかり気になるんだろ……」
一人で登校するようになってから多くなった独り言。
それを知らず知らずのうちに言葉にしながら、道重さゆみは普段と同じ時間に家を出た。
さゆみの家からでは自転車通学もできるのだが、それだとあまり話をすることもできないので、時間はかかるが歩いて登校している。
ただ、ここ数日に限ってはその相手になるべき田中れいなも近くにいなかったため、いつもの感覚で話をすれば結果的に独り言になっていた。
「たぶん、れーなのことだから自転車でサーっと行っちゃってるんだろうね」
なら自分もそうすれば良いのだろうが、それをしてしまえばどこかれいなに負けてしまったような気がするため、さゆみは頑なに拒んでいる。
冷戦状態が続いており、どちらが先に折れるかが勝敗の分かれ目となっていたため、できることなら同じことをしたくないというのがさゆみの正直な感想だった。
意地の張り合いと言われればそれまでなのだろうが、自分とれいなの間に横たわっているのはきっと違う感情なのだろう。
さゆみが抱いている感情はれいなが素直になってくれないという率直な怒りだけであるが、れいなにはそれ以外の別物が存在している。
人一倍責任感の強いれいなならば、それも確かなことなのだろうが、肝心の何に対して責任を感じているのかがさゆみには理解できないでいた。
「悩みがあるんだったらそう言ってくれれば良いのに……」
自分は限りなく素直になっているのに、こんな自分に対してすら心を開こうとしないれいな。
感じていたのはもどかしさであり、れいなに面と向かって言えない自分自身に対する後ろめたさだった。
昨日、亀井絵里が生徒会室で何やら難しい話をしてきたが、いきなりそんなことを言われたところでさゆみにできることはほとんど無い。
そもそも絵里と吉澤ひとみが互いに持っている感情と、自分とれいなの持っている感情とでは大きな違いが存在している。
- 286 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:18
-
「……そんなつもりじゃないもん」
自分とれいなとの関係はあくまでも幼馴染。
いつも一緒にいたから惰性で今もそれを続けている。
そう自分に強く言い聞かせたさゆみは、学校へ向かうことだけに集中して歩幅を少しだけ広くしてみる。
だが、それくらいで絵里の言葉が消えてくれることは無かった。
(私の中にいるれーなは、れーなでしかないもん)
信号待ちをしているときにそう心の中だけで言葉を吐き捨て、ぶすっとした表情のれいなを意識の外へと追い出す。
何とか成功したことを落ち着いた気持ちで冷静に判断し、信号が青になるのを待つ。
だが、それもほんの一瞬のことだった。
再び歩き始めると、追い出したはずのれいなの表情が再び浮かんでしまう。
それは一歩一歩を踏み出す度に鮮明になり、大きくなっていた。
『何でこんなに弱かったと?』
「弱い……?」
そんなれいなから出てきたまるで場違いな言葉に思わずさゆみは聞き返す。
今にも泣き出しそうな顔をしたれいなからはその息遣いや身体の震えまでがリアルに伝わってきて、そこにれいなが本当にいるのかと思った。
しかし、今目の前にいるのはさゆみが勝手に浮かべているイメージだったため、それに答えることなくれいなの自問は続く。
『さゆや他のみんなは強いのに、何でれなだけ?』
「私が強いの?」
やはり聞き返したところでそれに対する答えは返ってこない。
自分のどこがれいなよりも強いのか具体的に聞いてみたかったが、それをれいな本人の前で出すつもりになれず、結局は自分の中だけにしまいこむしかなかった。
普段は見ることの無いれいなの顔から逃げるためにはどうすれば良いかをしばし考え、止まっていた足を動かそうとして……
「重さん、どうしたの?」
「えっ?」
と、そんなタイミングで声をかけられ、さゆみは思わず間の抜けた声を上げてしまう。
振り返ってみるとそこには新垣里沙がきょとんとした表情で立っていた。
- 287 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:19
-
「あっ、おはようございます」
「おはよう。で、立ち止まって何してるの?」
「……軽い貧血です」
全くのでまかせだったが、里沙がそれ以上追及してくることはなく先に歩き始めてしまったため、さゆみは里沙を慌てて追いかける。
里沙は一人でゆっくりと歩いているが普段はそこにもう一人いるはずで、その疑問を里沙に聞いてみることにした。
「ところで、絵里は一緒じゃないんですか?」
「亀ちゃんはね、吉澤さんのところ」
「……なるほど」
会話らしい会話はそれくらいで、お互い無言になって歩く。
ただ、里沙の歩調に合わせていたためさゆみにしてみればかなりゆっくりしたものだったが、一人のときのようにれいなの幻影が浮かび上がってくることはなかった。
しかし、頭の中では先ほどれいなから聞いた言葉が未だに余韻を残している。
(私ってそんなに強かったのかな?)
以前、れいなと腕相撲をしたことがあったが、非力なれいなに自分は左右共にあっさりと完勝してしまった。
そのときのことを未だに根に持っているのだろうかと考えてみるが、元々非力なのはれいなも充分承知のはずだ。
「新垣さん、強いってどういうことですか?」
「はい?」
少し前を歩いていた里沙が驚きなのか呆れているのか良く分からない声を上げて振り返ってくる。
表情を見れば自分からそうした疑問が出てきたことがよほど意外だったのだろう、口を鯉のようにぱくぱくとしていた。
それがおかしくて笑ってしまったさゆみだったが、次の瞬間には里沙の表情もどこか怖いものへと変じてしまったために、慌ててその笑みも消さなければならなかった。
「いやね、重さんからそんなこと聞かれるなんて思わなかったからさ」
「えっ、何でですか?」
「だってさ、重さんって充分強いからね」
「どこがですか?私って力瘤もできないんですよ、ほら」
右腕を挙げて力を目一杯入れてみる。
ただ、セーラー服の上からではその努力が里沙には伝わらなかっただろうし、その努力が伝わってしまったらもっと大変だ。
- 288 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:20
-
「重さん、私が言いたいのはそんな感じの力じゃないよ」
「はぁ……だったら、何なんですか?」
苦笑いした里沙に自分の努力がどう伝わったのか聞きたかったが、目の前の里沙が歩きながら頬を右手で突いている。
その仕草から記憶を検索しているのだということが分かったから、さゆみは何も言わずに里沙を待つことにした。
「例えばね、重さんは勉強がどのくらいできるかってのを誰かと比べたことってある?」
「……無いって言えば嘘になりますけど、あまりありません。だって、他の人と比べたって自分が勉強できるようになるわけじゃないでしょ?」
「そうだね……じゃあさ、自分と他の誰か、どっちがかわいいって比べたことは?」
「あるわけ無いじゃないですか、私が一番なんですから!」
里沙の最初の問いかけにはぼんやりと答えたさゆみだったが、その次に出てきた問いにはほぼ即答だった。
「つまりはね、そういうことなんだ」
「へっ?」
立ち止まった里沙に並んで同じように止まるさゆみ。
自分のほうが幾分背が高く見下ろしているのが少しだけ嫌になるが、里沙の表情はどこまでも柔らかかった。
「田中ちゃんはね、そんな確固たる気持ちってのを持ってないんだ……って違うか、これは私にも言えることだね。もしかすると亀ちゃんにも、稲葉先生にも当てはまるのかもしれない。だから、ああやって言い切ることのできる重さんは強いんだよ」
「はぁ……」
どう答えて良いのか分からずさゆみは生返事で受けたが、里沙が「じゃあ行こうか」と歩き始めてしまったために考えをまとめることができなかった。
それからは先ほどとは全く関係の無い話をして、八時十五分に学校へ着いた。
- 289 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:21
-
三階の里沙とは階段の途中で別れ、さゆみは二階にある自分の教室へと向かう。
入る直前、中から何やら得体の知れない感覚が刺さってくるが、それもこのときは気のせいだと流すことはできなかった。
ただ、止まっていても教室に入ることができず、さゆみは少し緊張した面持ちでドアに手をかけ、わずかに力を込めた。
二学期になって席替えが二回あったが、幸い、れいなとは近くになっていない。
れいなは自分の席とはかなり離れた自分の席で何やら本を読んでいるようだった。
その必要以上に無表情を保とうとしているれいなの横顔を見て、里沙との話ですっかり忘れていたさゆみだけのれいなが蘇り、さゆみはそのれいなとそこに座っているれいなを比べてみる。
そして、どういうことか何となく分かったような気がした。
(れーなの言ってた強いって、こういう意味だったんだ……)
無表情のれいなと今にも泣き出しそうなれいな。
どちらからも冷たく刺々しい気持ちが出ていて、近づいただけで凍りつきそうだ。
ただ、それも表面的なものであって、実際は脆いものだとさゆみには一瞬で理解できた。
(でも、言わないと分かってくれないんだよね、きっと……)
誰にも気づかれないよう心の中だけで呟いたさゆみはれいなより前にある自分の席へと向かう。
途中にいた友人達にはいつものように声をかけて席に座ると、ようやく落ち着くことができた。
だが、それはこの瞬間だけではなかった。
つい先ほどまではどうしたら良いのか分からなかったが、勝手に浮かんだれいなのイメージと里沙の言葉、それに実際にいたれいなの姿を並べてようやく浮かんだ自分がしたいこと。
それがこれまで肩に圧し掛かっていた重荷を取り去ったからで、あとはタイミングを見計らうだけだ。
そう判断したさゆみはこの軽い気持ちを言葉に置き換えてみようとしたが、どんな言葉を並べてもしっくりこず、しばらく悩むことになる。
- 290 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:21
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 291 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:22
-
道重さゆみが一人で何やら悩んでいるようだったが、自分には関係無い。
そう割り切った田中れいなは一人で昼休憩まで過ごし、昼休憩のチャイムと同時に教室を飛び出した。
ここまでは昨日と同じだが、向かう場所が昨日と違う。
人目を避けるように階段を駆け降りて向かったのは体育館の裏だった。
昼休憩に入ってすぐだから周囲はまだ騒がしくない。
その静けさを背に受けて、れいなはじっと目の前にいるはずのそれらを見据えた。
力を方向づけてくれるはずのペンダントが無い今ではどれだけ自身が集中できるかによるが、このときはそれがうまくいったようだ。
何も無かったはずの中空からぼんやりと浮かび上がったそれらを見つけ、れいなはわずかに笑った。
(無くてもできるっちゃ)
誰に対しての言葉なのか良く分からないが、吐き捨てることによって落ち着いていくのが分かる。
だいぶ鮮明に見えてきた残留思念はやはり群れを成していて、ある一定の範囲で蠢いていた。
体育館に背を預けている自分のところまではやって来ていないが、自分の存在には気づいているようにこちらへ近づいてこようとしているのが何となく分かる。
それをいくつかの師年賀が自分に対して手を伸ばしていることで確認したれいなは、手を突き出して小さく呟いた。
「でも、あんたらの仲間にはならんよ」
自分でも刺々しいと感じる意識をより一層はっきりさせ、頭上にある自分だけの力を感じる。
突き出した手が冷たく、そして重くなったのを感じて目を開けると、そこには自分だけの力が青白く具現されていた。
出来上がった氷の剣を何度か振り回して感触を確かめ、昨日よりもさらに尖っていることを先端から知ったれいなは、刀身に映った自分を見て笑った。
「これであんたらも終わりっちゃ」
上履きのままだったが構うことなくれいなは限りなく軽い一歩を踏み出し、手前にいる残留思念へと向かう。
手を伸ばしていた男らしい顔に剣を突き刺し、勢いを殺さないまま下げた。
- 292 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:23
-
刺している感触を持たないままその残留思念は消え、地面に突き刺さった剣だけが残るが、れいなはそれを素早く引き抜いて、今度は横に一閃する。
消えたのは三つの残留思念で、男なのか女なのか良く分からない。
もしかすると人間のものでもないのかもしれないが、そんなことに構っている暇は無かった。
二つの動作で消えたのは四つの残留思念だけで、他の残留思念はれいなを取り囲み、その包囲網を徐々に狭めている。
ただ、以前と同じような状況に陥ったとしても、れいなは混乱しない。
それくらいの覚悟を決めたつもりだった。
冷めた感覚で自分が死ぬカウントを減らしながら、剣を最小限の動作で振り回す。
薙げば並んでいた三つが消え、突き刺してもやはり並んでいた三つを消し去る。
消えるごとに残留思念はそこにいた証拠だと言わんばかりに声を直接脳へと反響させていたが、れいなはそれをものの見事に無視した。
思考と身体とを完全に切り離した状態で、ひたすら周囲の残留思念を消し去るれいな。
ぼやけた視界がその光景を包み込んで幻のように見せてくる。
今、ここでこうして暴れているのもどこか虚しいと思ったが、れいなは頭を振って慌ててその考えを振り払った。
少しだけ晴れた視界から見えているのはやはり残留思念の群れだけで、しかもそれらはれいなが飛び込む前よりも増えている気がした。
自分の周囲の残留思念は確実に消えているのに、自分の見えないところでひたすら増殖している。
手ごたえらしい手ごたえを感じられないまま、それでもれいなはひたすらに剣を振るう。
と、そのときだった。
- 293 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:23
-
(なん?)
不意に自分が発している冷気とは別の冷たさを感じ、全身が強張るのを意識しながらも賢明に身体を動かして発している元に目をやる。
そこにいたのは他の残留思念とは明らかに違う、れいながこれまで見たことの無い残留思念だった。
はっきりとしない形の残留思念の中に混じって、一つだけ、やけに形のはっきりとした残留思念が浮いている。
身長二メートルほどの巨体と、それと同じくらい大きな槍。
一瞬見ただけではどちらも本物にしか見えないそれらに対し、本能的に敵だと認識したれいなはとっさにそれに向かって駆け出していた。
「お前ら邪魔っ!」
周囲に取り巻くように漂っている残留思念を一閃で消し去り、実体のようなそいつへと一直線へと向かう。
だが、それでもそいつはれいなへ全く関心を持つこと無く、そこに立ち続けている。
まるでれいなのことなど目に入らない。
そんな感じに取れてしまい、れいなは短く息を吐き出して剣を振り上げる。
そして、あと一メートルという距離でれいなは飛び上がり、上段から構えた剣を一思いに振り下ろした。
がきんという聞くはずの無い金属音を聞きながら、次の瞬間、れいなは前のめりになって慌てて左手を地面につく。
そのときからわずかの間意識が飛ぶが、気がつくとれいなは立ち上がってそいつと再び対峙していた。
(受け流された?)
そいつはそれまで片手でしか持っていなかった槍を両手で構えているが、それでも視線がれいなへと向けられることは無かった。
本当の無表情で槍を構えるその様はこうしてれいなが対峙していても実感が無いし、目を閉じてしまえば存在すらも忘れてしまいそうだ。
ふと思いついたその考えを笑い飛ばし、れいなは握っていた右手にさらに力を込めた。
すると出来上がっていた氷の剣がさらにコーティングされ、一際大きくなる。
それと同時に周囲の空気も冷たくなり、右手にかかってくる負荷も半端ではない。
痺れてきた右手を支えるように左手を添え、大きく息を吸い込んだ。
- 294 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:24
-
(受け流されんよう、今度は思い切り振り下ろす)
先ほどの一撃も本気だったが、今度の一撃はそれを必ず上回る。
そう言い聞かせてれいなは再び前へ飛び出した。
剣が大きくなった分、スピードは落ちるがそれは気にしない。
そいつが微動だにしない今の状況だとそれも無意味。
急速に靄のかかり始めた視界の中、相手の顔を正面に見据え、それに向かって剣を振り下ろした。
二度目の鈍い金属音を響かせ、そいつが槍でれいなの剣を受け止めるが、今度はそこまでだった。
全体重をかけたれいなの一撃をそいつは受け流すことができなかったことに満足しかけていたれいなだったが、まだそいつが無傷だということに気づき、慌てて意識を集中する。
そして、そいつと目が合った。
それまでは一切れいなに構うこと無く立ち続けているそいつの目はあまりにも暗く、同時に冷たかった。
れいなの発している冷気が玩具だと言わんばかりに……
その空気にあっさりと呑まれたれいなは剣を持ったまま硬直し、その目を凝視し続けるしかなかった。
『望むのは力だけか、面白くない』
突如脳裏に響いてきたその声に力が抜けるのを感じ、れいなはとっさに目の前にいるそいつから離れる。
そして、逸らしていた視線を戻して、全身が強張った。
『そいつがお前の力ってわけか』
いつの間にか立っていた田中仁志が全身から殺気を放ちながら言ってくる。
れいなの発している冷気を全て吹き飛ばしてしまいそうなそれを感じるが、それ以上に混乱してしまった頭が状況を忘れさせ、目の前に集中させてしまった。
「そうよ、これがれなの力っちゃ!」
周囲の状況を忘れ、父親であるはずのない父親へと叫び返すれいな。
いつの間にか半透明だった身体に色がつき、視線にも力が込められている。
その視線がれいなにしてみれば気に入らなかった。
- 295 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:26
-
『視線だけで相手を倒せると思うなよ』
「違う、視線だけがれなじゃないっ!」
にやついた顔面に剣を振り下ろし、父親を一刀両断にする。
全身から水蒸気を吹き出しながら消えていく父親はまるで幻のように見えたが、その先に立っている人間に気づき、れいなは再び降ろしていた剣を持ち上げた。
『おいれいな。今のは反則だぞ。あとコンマ一秒遅かったら殺されてたな』
霞のかかった視界に立っている兄から声をかけられるが、れいなは反応しない。
ただ、身体を少しだけ震わせていた。
『ここで殺し合いをするのもいいが……』
「……」
姉と同じ顔なのに、姉と全然違う顔をする兄。
れいなにとってそれは許されない存在で、自分の手で消し去らなければならない存在だ。
それが目の前に現れ、れいなに消してくれと言っている。
れいなにはそう見えて仕方がなかった。
『覚悟を決めてるんだよな?』
「……ははは」
勝手に喋っている兄を尻目にれいなの中で何かがぶつんと音を立てて焼き切れる。
結果として出てきたのは単なる笑い声だとしても、れいなはそのことを不思議にすら思わなかった。
「ははははははははははははは……」
ひとしきり大声で笑い、息が続かなくなったれいなは引きつりながら呼吸を整える。
そのころにはそれまで溜め込んでいた様々な感情もどこかへ消え失せ、恐ろしく素直な気持ちになっていた。
「れなだけが我侭じゃなかったっちゃ。みんな、我侭っちゃよ」
持っていた剣の重みと冷たさが遠のき、身体が軽くなる。
だからといって剣が消えたわけでもれいなが消したわけでもない。
単にそのことを忘れただけだ。
- 296 名前:自由への逃避5−1 投稿日:2005/07/20(水) 16:26
-
「親父やってマコ兄やっていつも我侭やった。そのことに気づいたけん、れながいっつも抑えてきた。やけど、何かバカらしくなったっちゃ」
れいなの意志を反映するかのように突如として現れる巨大な氷柱。
ただ、作った本人もそのことに気づかなかったため、それはあらぬ方向へと飛んで行く。
次の瞬間、巨大な氷柱は体育館の壁へと突き刺さり、轟音を立てて消え失せた。
わずかな間、地響きでバランスが取れなくなるが、れいなは構うこと無く今度は自分の意志で氷柱を作り出す。
無数の細い氷柱があっという間にれいなの周囲を取り囲み、その結果に満足したれいなは静かに笑う。
そして、兄以外の他の残留思念目がけて氷柱を投げつけた。
投げつけた氷柱は全て残留思念を貫き、蠢いていた全てを消し去る。
残ったのは兄モドキの残留思念とれいなだけ。
「れなね、もしかするとマコ姉に気後れしとったのかもしれん。だって、あんたを消せば、マコ姉はショックを受けるから……やけど、もうどうでもええっちゃ。れながマコ姉を元に戻して……れなだけのマコ姉に戻ってもらうから」
自分の言葉が支離滅裂なことに気づかないまま、れいなは一歩を踏み出す。
れいなが近づいても兄の顔をした残留思念はにやつくのを止めない。
ただ、そいつのことを兄ではないと完全に割り切ったれいなにしてみれば、それも全く関係の無いことだった。
「本番でもあんたをちゃんと消す。やから、あんたもちゃんと消えて」
剣を振り上げ、兄と同じようににやつくれいな。
そこに兄に対する感情は一切無い。
兄を殺せば同時に姉も殺すことになる、その事実に気づかないままれいなは剣を振り下ろすべく右手に少しだけ力を加えた。
自分の動作も、殺す相手の表情も全てがスローモーションで流れるほんのわずかな間。
そのわずかな間に視界の隅で何かが素早く蠢き、何かが割り込んでくる。
そして、それを見てしまったれいなは振り下ろしかけていた剣を途中で止め、動くことができなくなった。
れいなと兄との間にどうどうと割り込んできた他の誰か。
それはやってくるはずが無いとれいなが確信していた人間。
道重さゆみだった。
- 297 名前:いちは 投稿日:2005/07/20(水) 16:36
- 更新しました
当分不定期な更新になりそうです
すいません
>>279 通りすがりの者さん
今回もかなり自虐的に行動してしまいました
ただ、そろそろ踏ん切りをつけるころだと思います
次は「自由への逃避5−2」になります
長い一日はもう少し続く予定です
それでは
- 298 名前:自由への逃避 投稿日:2005/07/30(土) 07:13
-
自由への逃避5−2
- 299 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:14
-
「絵里、れーな見なかった?」
「へっ?」
手を洗っていた亀井絵里は背後からそう声をかけられ、とっさに反応できなかった。
振り返ってみるとそこには切羽詰った表情の道重さゆみが立っていて、なおかつ手をばたばたと振っている。
どうやらそれでかなり慌てていることを伝えているようだが、その仕草があまりにも間抜けに見えておかしかった。
「で、れーながどうしたの?」
「どうしたもこうしたもないの。何か、怖い顔して出て行ったから……」
言っているそばからきょろきょろと辺りを見回しているのも、もしかすると田中れいながいるかもしれないなと思う絵里だったが、残念ながられいなが三年生の教室まで上がってきたことは一度も無い。
それを伝えるべきかどうかを迷っていると、さゆみの後ろにある自分の教室から笑顔の新垣里沙が出てきた。
「あれ重さん、今日も一緒に食べるの?」
「違います!」
焦った感じのさゆみがきっぱりと里沙の言葉を拒否し、そのまま二人から遠ざかろうとする。
が、それは素早く近寄ってきた里沙に引き止められることとなった。
「落ち着いてよ。何があったの?」
さゆみの取り乱しようから何かを感じ取ったのか、里沙の笑顔も消え去り硬いものになっている。
そんな里沙に半ば怒鳴るようにしてさゆみが言ってきた。
「今朝かられーなの様子がおかしかったんです」
「おかしいってここ最近は特にそうだよ……で、どんな具合におかしかったの?」
「そんなの分かりませんよ。だから、おかしいんじゃないですか!」
勢いづいたさゆみがぐいっと里沙に近づき、その勢いに押された里沙が仰け反っていた。
それにどう関わろうかを考えていた絵里だったが、口を挟む前に胸が痛み出して思わず蹲る。
「亀ちゃん?」
自分の異変に気づいたのは里沙だけのようで、駆け寄ってきた里沙に背中を擦られていた。
ただ、そのときの絵里にはそれを感じる余裕は無く、身体に入り込んでくる別の感覚と戦わざるを得なかった。
- 300 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:15
-
平家みちよという良く分からない存在から得た力というものを、未だに絵里は明確な言葉に置き換えることができていない。
ただ、漠然と分かっているのは通常の世界とは別のものを感じるということだけであって、それ以上に何ができるのかが良く分かっていなかった。
吉澤ひとみがみちよと対峙しているときにひとみが見ていたという幻を消し去ったことはあるが、それもひとみのことだけを考えていたからできたことであり、再びそれができるという確信は無い。
そして、その絵里にしか知覚できないその力はある場所を告げていた。
「……体育館……?」
「えっ?」
「体育館の裏にれーながいます」
胸の痛みを無視して身体を持ち上げてさゆみを見てみるが、わずかな言葉だけで伝わってくれたらしい。
それをさゆみの背中を見て確認した絵里は自分も続くべく足を前へと踏み出そうとした。
が、ずきりと痛んだ胸が邪魔になり、身体がぐらつく。
それを隣から里沙に支えられ、何とか倒れることだけは免れた。
「体育館の裏って、残留思念ってやつが出てくる場所でしょ?」
「そうですね」
「また行って、何してるの?」
「それは行ってみないと分かりません」
里沙に支えられて階段を途中まで降りるが、それでは先に行ってしまったさゆみに追いつくことができないと考え、痛みを堪えて走っていくことにする。
三年生の教室から体育館の裏手まではかなり離れているが、さゆみの足ならすぐに着くだろう。
「何か嫌な予感がします」
「そうだね、時期が時期だけにね」
意味深なことを言ってくる里沙に顔だけを向けるが、そこにある表情はそれ以上の追求を拒んでいるように見え、絵里は前に進むことだけに集中する。
一階へ降りてみると臨時の売店にかなりの生徒がいたためそこを通り抜けるのに苦労したが、それさえ越えればあとは楽だった。
- 301 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:16
-
誰もいなくなった廊下を里沙の背中を見ながら走り、あっさりと体育館へと着く。
その裏にいち早く回った里沙がそこで止まってしまったため、絵里もその隣で止めた。
その絵里の目に飛び込んできたのは痛々しいくらいに綺麗だったれいなの狂気ぶりであり、そこへ向かうさゆみの健気な背中だった。
「亀ちゃん、稲葉先生呼んでくるね」
「あっ、はい」
残留思念が共に見えている里沙が異常を把握して再び駆け出す。
その背中を見送ることなく絵里はさゆみの背中を追った。
と、そこでれいなの頭上に突如大きな尖った物体が現れ、後ろにあった体育館へと突き刺さる。
轟音というべきそれを耳にした絵里はとっさに耳を塞ぐが、聞いた後で塞いでも音を遮ることはできなかった。
そして、その轟音の中をさゆみは構うことなく進んでいた。
決して遅いとは言えないが、速すぎるとも言えない速度でさゆみは無言のままでれいなへと近づく。
その間にれいなの周辺に残っていた残留思念が消え去り、絵里も知っている顔をした残留思念だけが残っていた。
ただし、さゆみにはそのことが見えていなかったのか一直線へとれいなへ向かい、青白い剣を振り上げたれいなの正面へと回る。
そのれいなが握っていた剣を振り下ろしているにも関わらずだ。
れいながしようとしていることと、さゆみの無謀さが怖くなって絵里は立ち尽くしたまま目を閉じる。
できることなら耳も塞ぎたかったが、自分にならない身体ではそれも無理なことだった。
(れーな、ダメだよ。そんなことしちゃ……)
心の中だけで叫び、次にやってくる嫌な音を待つ。
ただ、いくら待ってもその音を聞くことは無く、恐る恐る目を開けた絵里はその光景を目の当たりにして思わず息を呑んだ。
中途半端に剣を振り下ろしたまま硬直しているれいな。
そのれいなの表情は背中になって見えない絵里だったが、真剣そのもののさゆみの表情だけは見ることができた。
- 302 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:17
-
「何やってるの!」
「……さゆ?」
普段は聞くことの無い厳しいさゆみの声に、聞こえてくるれいなの呟き。
絵里の位置からではさゆみの表情しか見えなかったが、そのさゆみの表情を見て思わず絵里は自分が怒られているような錯覚を覚える。
「……どいて」
「いやっ!」
れいなの呟きに即答したさゆみが唐突に動いて、れいなの頬を打つ。
小気味の良い音だと感じたのは自分だけのようで、打ったさゆみと打たれたれいなにはその音も聞こえていないようだった。
ただ、結果は現れているようで、れいなは打たれた左の頬に手を当てていた。
「……さゆ?」
「あぁもう、めんどくさいっ!」
絵里の知っている顔をした残留思念もいつの間にか消えていたが、そのことに気づいているのかいないのか、さゆみがれいなの手を引いてこちらのほうへと戻ってくる。
その頃になってようやく自分が立ち止まっていることに気づいた絵里は二人の邪魔にならないよう静かに近づくが、二人にはそんな絵里の小さな努力すらも無視しているように見えた。
「れーなさ、最近おかしいよ。どうしたの?」
さゆみが未だ呆然としているれいなの両肩を掴んで大きく揺さぶる。
前後するたびにれいなの頭が大きく動き、そのままどっちかに転げ落ちそうだと思ったが、さゆみがその手を休めることは無い。
むしろ、時間を追うごとにそれは強くなっていた。
「……さゆ、ちょっとタンマ」
「えっ?」
耐え切れずれいなが言ってくるが、さゆみは聞こえない振りをして両手を止めない。
その顔が少し笑っていることからどうやら確信犯だということを悟るが、絵里にできることといったらそこに立ち尽くすだけだ。
「さゆ、気持ち悪かよ」
「ほら、ちゃんと言えるじゃん」
本当に気持ち悪そうなれいなの声を受けてさゆみが唐突に手を離す。
だが、一度着いてしまった勢いはすぐに消えてはくれず、れいなはしばらく大きく前後に揺れていた。
- 303 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:17
-
刺々しいまでの雰囲気は鳴りを潜め、そこにいた彼女はどこまでも小さく、弱々しかった。
頭が止まったにも関わらずその肩が震えているのもきっと気のせいではないだろうということを意識した絵里は、二人から静かに離れる。
何となく二人の邪魔をしたくなかったからだ。
(さゆにもああゆう一面があったんだ)
怒鳴っているさゆみをこれまで見たことの無かった絵里だったが、それが一番堪えているのはれいなであり、きっと今からも何やら怒られているのだろう。
過去にその二人を自分と吉澤ひとみに重ねていた絵里は、自分をさゆみに置き換えてみるが、はたしてそれでひとみに怒鳴ることができるのか自問してみて、すぐさまそれが愚問だと気づく。
(そっか、さゆはさゆで、私は私だもんね)
勝手に重ねていたイメージをやんわりと否定し、体育館の裏から離れた絵里はそこで稲葉貴子を引き連れて戻ってきた里沙と鉢合わせになった。
「あれ、もう終わったの?」
「はい、さゆがびしっと決めましたから」
後ろでは戸惑った表情を隠していない貴子がいるが、それに構うことなく里沙が話したため、絵里も当然の如くそれに返す。
「じゃあ先生、あとはよろしく頼みます」
「はっ?何でウチが……?」
「だって、先生は田中ちゃんや重さんの担任でしょ?」
「……」
里沙の声に返すことのできない貴子を残し里沙が歩き始めたため、絵里も慌ててその後を追う。
その足取りがやけに軽いことに気づいた絵里はやけに嬉しそうな里沙に聞いてみることにした。
「がきさん、何か良いことでもあったんですか?」
「ん、分かる?」
振り返った里沙は満面の笑みで携帯を取り出すと、画面を自分のほうへと見せてくれる。
そして、それだけで里沙がなぜこれほどまで喜んでいるのかも分かってしまった。
携帯の画面にはメールの短い文章。
内容はともかく、重要なのはそれを送ってきた相手。
その相手というのは小川麻琴であり、里沙にしてみれば五日ぶりのメールだということを思い出した絵里だった。
- 304 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:17
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 305 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:18
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新垣里沙に無理やり引っ張られやって来たのは良いが、その里沙は亀井絵里と元来た道を戻ってしまった。
一人残された稲葉貴子はその後ろ姿を見送ることなく歩き、里沙が再三話していた体育館の裏手へと回ってみる。
そして、そこにいる二人を見て何となくだが状況を察した。
(つまり、田中は覚醒したっちゅうわけか……)
田中れいなの根源は『闘争』であり、それが『完全なる覚醒』によって目覚めればどうなるのか。
田中仁志から何度も釘を刺されたがそれを止めることができなかった貴子は、座り込んで動きそうにないれいなとそれに寄り添っている道重さゆみへと近寄った。
体育館の壁に大穴が開いているが、今は気にしない。
「大丈夫か?」
青を通り越して白くなっているれいなの顔を蝋人形だと思わなかったのは、そこにあった表情があまりにも豊かだったからだ。
今にも泣き出しそうで、それでいてそれを良しとせずに逆らおうとして怒っている表情は、蝋人形ではとてもではないが表現しきれないだろう。
そんなことを思いながら貴子はポケットに入れていた保健室の鍵を取り出した。
「道重、田中を保健室まで運んでやってくれや」
「分かりました」
はっきりと受け答えをするさゆみをこのときだけは頼もしいと思うが、それはきっとれいなも同じことだろう。
それをれいなの手を引いて歩いていくさゆみの背中で確認した貴子は、忘れていた一言を思い出して慌ててつけ加えた。
「気分が良くならんようやったら帰ってもええで」
「分かりました」
さゆみが同じようにはっきりと答え、貴子の視界から完全に消える。
それを確かめた貴子は大きくため息を吐いて、視界の脇に入り込んでいた大穴をようやく焦点へと据えた。
- 306 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:19
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体育館の高さは十五メートルほどあるが、その三分の一の高さの穴が開いている。
優に五人は一度に通れそうなその大穴の周辺は綺麗なもので、開けた際に飛び散ったであろう破片が転がっていることは無かった。
「よくもまあ、派手にやってくれたな……」
補修するにしても上に対して理由が必要であり、それをどう説明すれば良いのか皆目見当がつかない。
それ以前の問題として誰にこれを話したら良いのかも分からず、貴子は舌打ちをして後ろを振り返った。
今の貴子には見えないが、そこには確実に残留思念が漂っているはずだ。
いっそそいつらのせいにでもしてやろうかとも思ったが、見えないそれに罪をなすりつけたところで誰も納得しないだろう。
「ほんま、どうしたらええんかな……」
やることを頭の中に並べて優先順位をつけてみるが、どれもこれも似たり寄ったりだったため、結局は最初に思いついたことをするしかなかった。
「設備関係を仕切っとるのは教頭か」
とりあえずは何が起こったのかを報告して指示を仰がなければならない。
何を言われるか分からないが中途半端に関わった手前、投げ出すにもいかず職員室へと戻ることにする。
が、その途中でさらに連絡しなければならない人間を思い出してしまった。
「……今度こそ殺されるかもな」
散々念押しされたにも関わらず、結局のところ貴子にできたことは何一つ無かった。
そのことを知れば田中仁志がどういった反応をするのか容易に想像でき、なおかつ貴子にそれを回避することは到底無理そうだった。
- 307 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:19
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 308 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:21
-
鍵の掛かっていない保健室はやはり無人で消毒液の臭いが充満している。
ドアを開けた瞬間そう感じた道重さゆみは、田中れいなの左腕を掴んだまま窓際へと移動して思い切り窓を開け放つ。
その瞬間、寒いとしか言いようの無い風が部屋に吹き込んでくるが、予想以上に火照った身体にはそれすらも気持ち良いと感じられた。
「さてと……」
小さく呟いてさゆみは改めて部屋の中を見渡してみる。
二人しかいないこの空間がやけに心地良いと感じているのは自分だけのようで、れいなの表情を見れば自分と正反対のことを考えているのが手に取るように分かってしまった。
「ほら、座って」
出てきた言葉に棘を感じながらもさゆみはれいなを二つあったベッドの片方に座らせる。
頷きもしないが拒否もしないれいなはさゆみの言葉どおりに座り、顔を俯けたまま動かなくなる。
一見しただけでは全く動いていないようだが、実際にはかすかに震えている。
ずっと握っていた腕からそれを感じ取っていたさゆみは、れいなに気づかれないように目を閉じて小さく深呼吸をした。
(大丈夫……まだ、大丈夫)
自分自身と、それかられいなに向かって呟き目を開ける。
ただ、れいなの姿は目を閉じる前と全く変わっていなかったことがさゆみにとって少しだけ寂しかった。
隣に座るべきか正面に座るべきか。
以前までのれいなだったら前者を即決していたが、今、それをしてしまえばれいなが遠くへ行ってしまいそうでできない。
だからさゆみはどちらも選ばず、れいなの前にしゃがむことを選んだ。
「れーな、最近変だよね。どうしたの?」
「……さゆには関係なかよ」
顔を覗きこんだ瞬間、それまで全く動く気配を見せていなかったれいながものすごい速さで動き自分から目を逸らす。
少し赤みを帯びた頬がやけにれいならしいと思ったが、今にも泣き出しそうな目を見てさゆみは彼女に触れようと手を伸ばした。
- 309 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:22
-
れいなにしてみれば予想外の行動だったのか、大きく肩をビクつかせて自分の手から離れようとする。
それを残念に思ったのはほんのわずかな時間だけで、さゆみは躊躇無く逃げようとするれいなの手を掴んだ。
「……さゆ、痛い」
「れーなが逃げなかったら私も強くは握らない」
ぶっきらぼうに言ってくるれいなに同じくぶっきらぼうで返す。
掴まれた後もなお逃げようとしていたれいなは自分が言った後もしばらくは抵抗していたが、力では全く歯が立たないことをようやく認めたのか、大きくため息を吐いて大人しくなった。
「言いたいことってある?」
できるだけ平静を装いながら問いかけたさゆみに対し、れいなは首を小さく左右に振ってくる。
明らかに拒否の姿勢を崩そうとしないれいなに苛立ちが募るが、感情に流されてはいけないと自分に言い聞かせて辛抱強くれいなを見上げる。
握った手がやけに冷たかったのは気のせいではないのだろう。
「あのね、れーながなんでそこまで悩んでるのか、私には分かんないの。でもね、それってれーながなんにも話してくれないってのも原因だと思うんだ」
「……」
「ほら、今だってなんにも話してくれないじゃん。なんで?」
「……」
「辛いなら辛いって言ってくれないと分かんないし、悩んでるんだったらなんで悩んでるのか言ってくれないとどう答えてあげれば良いか分かんない。言わないままずっと溜め込んでても、なにも変わらないよ?」
「……さゆには一生分からんちゃ」
「それは違う。れーながちゃんと話してくれれば、私だって分かることができると思うの。だから話してよ」
自分の必死な呼びかけに、わずかに肩だけを動かして反応する。
だが、それはさゆみが思っていたのとは正反対のものだった。
「……何様のつもり?」
「えっ?」
荒々しくれいなが動き、それまで握っていた手が振り解かれる。
しゃがんだままのさゆみはその反動でぺたんと尻餅をつくが、自分の格好などどうでも良い。
そのままれいなを見上げるが、彼女はそれまでの大人しかったときと違い顔を真っ赤にしていた。
- 310 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:22
-
「話しただけで解決するならとっくの昔にしとるっちゃ。それに、さゆに話したところでさゆは絶対分かってくれん」
「だから違うって。れーながちゃんと話してくれれば、私だって少しは分かって……」
「それがムカつくんよ!」
一喝したれいなが素早く立ち上がりさゆみを見下ろしてくる。
ただ、その顔は今にも泣き出しそうなくらい歪んでいて、さゆみにはそれがあまりにも可哀想だった。
「さゆにれなの何が分かるって言うんよ。これはれなしか分からんことなのに、なんでさゆは全部知っとるって顔で聞いてくると?さゆには分からんやろ。れなの気持ちなんて……」
「だから……」
「言えばさゆは解決してくれるの?さゆがれなのお姉ちゃんになってくれるの?」
「……」
「無理っちゃそんなの……さゆはさゆでマコ姉はマコ姉やから……」
(そっか、そういうことなんだ……)
ようやく見えてきたれいなの苦悩の理由。
れいなの言葉通りさゆみには解決不可能であり、そもそも口を出して良い問題でもない。
だが、それでもさゆみには今のれいなに対して言いたいことがある。
だから、口を閉ざすことを選ばず、開くことを選んだ。
「そうだよね、確かに私は私でれーなのお姉ちゃんにはなれない。でもね、肝心なことが抜けてるよ」
分かる、と続けて立ち上がり、今度はさゆみがれいなを見下ろす。
上から見たれいなはものすごく不安そうに首をわずかに傾け、口を開くが何も言えずにいた。
- 311 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:23
-
「れーなも一人しかいないでしょ?れーながどんなに苦しんでるか、悩んでるか、それはれーなにしか分からないし、れーなにしか解決できないかもしれない。でも、言葉にすれば他の人でもれーなのことを理解することができる。れーなからすればほんのちょっとかもしれないけど、れーな以外の人でもれーなに近づくことができると思うの。れーなはこれまで、自分のこと話してくれた?」
「話しても誰も分かってくれんちゃ」
「頭から否定してちゃダメ。みんな違うんだから……言いたいことがあるならちゃんと言って分かってもらわないと、それこそ一生誰にも分かってもらえないよ」
首を大きく左右に振りなおも否定してくるれいなだが、さゆみはすかさず両手で肩を掴んで畳み掛ける。
怯えにも見えたれいなの顔が近くなるがその程度のことで怯むさゆみでもなかった。
「何のために言葉があるのか分かる?私はね、自分の意志を他の人に伝えるためにあると思うの。みんな、自分じゃなくて自分のことを分かってくれないから言葉にする。少しでも自分のことを分かってほしいから。最初から分かってくれないってことは言葉にしないってことと同じで、他のみんなから逃げてるのと一緒だよ」
「じゃあ、なんて言えば良かと?」
「れーなはなんて言いたいの?」
縋るようなれいなの声を一蹴し、じっとれいなを睨みつける。
口を何度もぱくぱくと開け閉めしていたれいなだったが、その動きが唐突に止まり、顔が歪んでいく。
それは泣き出しそうではなく、泣いていた。
- 312 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:23
-
「……怖かった」
擦れて震える声でぼそりと呟くれいな。
わずかなその震えも自分に伝わってくるが、さゆみはじっと止まったまま動かない。
というよりも動けなかった。
「独りにされるのが怖かった。マコ姉がおらんくなって……親父やお母さんがマコ姉しか見んくなったのが嫌だった。一人ぼっちになるのが寂しかった……」
「違うよれーな」
頬に涙が伝っているのを見てようやく動けるようになったさゆみは、顔を俯けて震えるれいなを抱き止めて後ろのベッドへ座る。
「ちゃんとれーなはここにいる。みんなもれーなのことを独りにはしないし、もちろん私だってれーなを独りなんかにしない。だかられーなもちゃんと言おうね。そうすればもっとれーなのことが分かるからさ」
震えて泣いているれいなから声は聞こえなかったと思う。
ただ、座る際にれいなが回してきた両手がやけに強く締めつけてきたことだけが鮮明に残っていた。
そんなれいなにさゆみはもう声をかけず、頭を撫でながら静まるのを待つことにする。
れいなの髪がさらさらしていたのが印象的だった。
五分後、ようやく震えが納まり、れいなが自然と離れる。
目を真っ赤にしていたが顔はやけにさっぱりしていて、今まで見たれいなの中で一番綺麗だとさゆみは思った。
「ごめん、ありがと」
「謝ってるのか感謝されてるのか良く分かんないね」
「……さゆ」
「ごめん、ちょっと言ってみたかっただけ」
軽く睨んでくるれいなに笑ってごまかしながら時計を見てみる。
時刻は一時半、すでに五時間目の授業が始まっている時間帯だった。
「今から戻ってもれーながこれだと私が泣かしたと思われるよね」
「そうじゃなかと?」
「そうじゃないよ。それに、別に授業に出なくても良いって先生も言ってたしね……」
「そんなこと言うとった?」
「帰っても良いってことは授業に出なくても良いったことと一緒だよ」
上履きを脱いで少しごわごわしたベッドに寝転がるさゆみ。
使い慣れている自分のベッドよりはるかに寝心地は悪かったが、寝てしまえばそれも気になりそうではなかった。
- 313 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:25
-
「サボるの?」
「うん、滅多にできないからね。それに先生公認だし」
「じゃあ、れなもサボるっちゃ」
そう言ってきてれいなはなぜか自分が寝ているベッドのほうへと上がってくる。
脇には使っていないベッドがもう一つあるにも関わらずだ。
「一緒に寝るの?」
「ダメ?」
「うーん……良いよ」
嬉しそうな顔をしたれいなは脇に丸めてあった毛布を引っ張ってきて、それを自分とさゆみの上に被せてくる。
仕草が猫っぽいと思ったさゆみだったが、あえて口には出さなかった。
間近で見るれいなの顔が先ほどと違うのは、れいなの中で何かが変わったからなのだろう。
そんなれいなと近くで顔を見合わせるのが恥ずかしく、さゆみはちょっとだけ震えてみる。
ほんの数十分前までは全く感じられなかったものが、今は感じることができる。
そのことがさゆみにしてみても嬉しいことだった。
「れーなさ、今みたいにお父さんやお母さん、それにお姉ちゃんと話したことある?」
「ううん、全然無かとよ」
「じゃあさ、素直に言ってみようね」
「うん」
驚くほど素直に頷いたれいなはすぐに眼を瞑り、静かになる。
あっという間に眠ってしまったことが信じられないさゆみだったが、頬を軽く抓っても全く反応しなくなったため、さゆみは小さくため息を吐いた。
同時に腹が小さく鳴って少しだけ軋み、そのころになってようやくまだ昼食を取っていないことを思い出したさゆみだった。
(ま、お昼ご飯は後でもいっか)
眠くなってきたことを自覚したさゆみは、近くにあった枕を引っ張ってきて頭を載せる。
かなり堅い枕だが、一度眠ってしまえば気にならないだろう。
「おやすみ、れーな」
抓っていた頬を軽く撫でて呟くさゆみ。
疲れていても気持ちは軽く、心地良く眠れそうだった。
- 314 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:25
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 315 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:26
-
「これまで、誰にも話さんことが綺麗って思っとった。独りで抱え込むことで無理やり納得しようとしとった……でも、やっぱれな独りだと荷が重すぎたっちゃ」
夢と現との狭間、何も無いその空間の中で田中れいなはぽつりと呟いた。
白なのか黒なのか分からないのは単に目を閉じているだけで、開けようと思えばすぐにできる。
それでも目を開けなかったのは、改めて独りになりたかったからだ。
「れなにとって親父は怖くて厳しくて、でも、どこか抜けてた。だけど、これもれなの勝手な想像で、本当の親父をれなは知らんかった……違う、教えてくれんかった。そのことが、ものすごい嫌だった。でも、少しだけ尊敬もした」
黙して語らない、そんな父親の後ろ姿に頼もしさを感じていたのかもしれない。
だが、それすらも傍からみれば無知に過ぎなかった。
「親父も怖がってた。れなやマコ姉が自分みたいになるんじゃないかって。だからマコ姉が聞いたときも何も言わんかったし、れなが話したときも無視した」
他人には見えない水の塊をぼんやりと意識したとき、れいなはそれを素直に父親に聞いた。
そのときは単なる気のせいだと一蹴され、その後もその話を持ち出すだけで父親の機嫌は悪くなっていた。
まるで聞いていないことにすれば最初から何も無かったかのように……
「でも、れなは見てほしかった……誰かに知ってほしかった」
れいなにしてみればそのための手段として奇術があったにすぎない。
- 316 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:26
-
『奇術というのは、自分にしか見えない特殊な形を他に示す行為だと置き換えることができる。これが何を意味しているか分かるか?』
初めて中澤裕子に会ったときに彼女がれいなに向かって問いかけてきた言葉。
隣では姉である小川麻琴がいたし、それに付随した小川真琴も一緒だった。
しかし、彼女達は何も言わずれいなにその答えを求めてきた。
『それって単なる目立ちたがり屋じゃなかとですか?』
そのとき裕子から前置きとして小難しいことを聞かされ、ちんぷんかんぷんになっていたれいなは感じたままを素直に答える。
問いかけた裕子はその答えを聞き、しばらく目を丸くしていたが、やがて小さく唇だけを持ち上げ肩を竦めた。
『言われてみればそうだな。自分のことを見てもらいたい、自分のことを知ってほしい。結局は目立つだけだな』
「そう、れなもはっきりと見たかったし、見てもらいたかった。それだけだった」
言葉にすればたったそれだけなのに、今まで言えなかった。
自分のことを突き放してくる父親に対する小さな抵抗。
そちらのほうが強くなりすぎて、これまでそのことを考えることすらできなかった。
「意地って張ってても何もええことなかとよね。ちゃんと言わんのに分かってもらおうなんて……」
閉じていた目を開けるとそこに道重さゆみの顔があったような気がしたが、それはあくまでも気のせいだった。
純白としか言いようの無いその場に立っているのはれいな一人だけ。
ついさっきまでのれいなならばそのことをすぐさま不安に思っていたのに、今は不安にすら思わない。
むしろその逆だった。
「身体が軽いってきっとこのことやろね」
軽く飛び跳ねてみるが、思っていた以上に飛び上がってしまったため慌ててバランスを取る。
苦笑いしながら顔を上げるが、目の前に誰かが立っていることに気づき、これまた慌てて身を少しだけ強張らせる。
そして、誰なのかが分かった瞬間、れいなはそれまでと反対の反応を取っていた。
- 317 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:27
-
「……マコ兄」
呟いてみても以前のように刺々しい口調にはならない。
というよりもなれなかった。
『おれだって少しは努力したつもりなんだ。だけど、気がついたんだ……』
(そうか、マコ兄も一緒だったんだ……)
『おれが一方的に想ったところで相手に伝わらなかったら意味が無いんだ。相手が少しでもおれのことを考えてくれないと……』
寂しそうな顔をし苦しげに呟いてくる兄は今にも蹲りそうなくらい白い顔をしていたが、それでも喋ることだけは止めずに言葉を続けてくる。
そんな兄を意地らしいと思ったれいなは、思った後でそのことを不思議に感じた。
なにせこれまで一度も感じることができなかったからだ。
「マコ兄。れなね、ずっと勘違いしとったみたいっちゃね」
今、自分が目にしているのが本物の兄ではないことはれいなでも分かる。
ただ、現実にいる兄もきっと同じ悩みを抱えているだろうということだけは理解できた。
「マコ兄は冷たくて、高飛車で……自分勝手やと思ってた。だって、れながおるところには絶対出てこんかったやろ?親父やお母さんがマコ姉にはもう一人、マコ姉とは違う人がおるって言われてもれな、信じられんかったもん。でも、違ったとね」
れいなとしては姉がベースであり、兄は突如湧いてきた全く知らない第三者という印象が強く残っていた。
実際、れいなと話をするのは麻琴だけで、真琴とはろくに話をしたことが無い。
「マコ兄も怖かったとね」
常にいた麻琴という姉が遠ざかっていく感覚、それがれいなを締めつけていた原因であり、裏返せばそれは恐怖以外の何物でも無かった。
それまでは普通に話をしてくれていた姉が突如変化してしまう、れいなの全く知らない誰かになってしまう、そんな感覚がれいなに固定観念を植えつけていた。
しかし、姉の裏側では兄もれいなと同じように苦悩していたのだ。
- 318 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:28
-
「マコ兄ともちゃんと話してみるっちゃ」
兄の幻にそう語りかけると兄は嬉しそうに笑い、周囲の白に溶け込むようにして消えた。
再び独りになったれいなはぼんやり立っていることを止め、少しだけ意識を集中させる。
軽くなったのは身体だけではなく意識もそうで、自然と頭の中には自分にしか感じ取ることのできないストックされた水が描かれ、そこから少量ばかりを取り出して剣を作る。
ほんの一呼吸で出来上がった剣からは相変わらずひんやりとしているが、以前までのように刺々しくは無い。
以前までのれいなならば無理やりにでも剣を振り下ろす標的を見つけていたのだろうが、それをすることがバカらしくなり、剣を持ったままわずかに身体を弛緩させた。
「師匠、れなの力ってこういう使い方しかできないってわけやなかとですよね」
ここにはいない師に向かって呟くれいな。
それに対してかすかに声が返ってきたような気がしたが、あくまでも気のせいとして受け流す。
そして、そこにある冷たい剣を見つめて話しかけた。
「壊すだけやなくて……壊したくないから、壊されたくないからこの剣を振るう……って、何か台詞がクサすぎるっちゃね」
自分自身の言葉に背中がむず痒くなるがそれもどこか気持ち良かった。
これまで何かを壊すことで安定しようとしていたれいなが、それと反対のことで安定しようとした瞬間だった。
ただ、次に現れた父親の顔があまりに険しかったのを見て、れいなは思わず笑ってしまった。
「そんな怒らんといてよ。親父からしてみればれなってまだひよっこかもしれんけど、いつかは親父もびっくりさせてやるけんね」
剣で叩き壊すのではなく、これからの自分の意志で父親の幻をやんわりと消し去るれいな。
その意志が通じたのか、怒ったままの父親は大きくため息を吐いたような仕草をして、それから肩を竦めながら消えていく。
そんな父親に笑いかけながられいなは右手を一度だけ大きく振る。
- 319 名前:自由への逃避5−2 投稿日:2005/07/30(土) 07:30
-
手にあった氷の剣がわずかに水を散らしながら消えていく。
はっきりと見えなかったのは水の色が周囲の白と同じ色だったからで、れいなはそのことを自然と受け入れていた。
「まずはさゆに謝らんといかんっちゃね」
目を閉じると、それまで漠然としか感じれなかった道重さゆみという存在が不意に大きくなる。
そのときになってようやくれいなはさゆみの存在がこの白い世界そのものだと気づいた。
(でも、これはれなが勝手に作ったイメージやからね)
意識した瞬間、周囲を囲んでいた白が消え去り、別の意味での白が現れる。
くすんだその白が被っていた毛布の色だとすぐに気づくが、一瞬後にはすぐにそれも意識の外へと飛び去って行く。
(もう、怖いって思わんね)
目の前にあった道重さゆみの寝顔に小さく笑いかけるが、眠っているのかさゆみが目を開けることはない。
ただ、握っていた手が優しく、温かいのがれいなにとってくすぐったかった。
(さゆはさゆっちゃね。そいで、れなもれなやしね)
簡単なことにようやく気づいたれいなは声を出して笑いたくなるが、さゆみがまだ寝ていることからそれは堪えてさらに近づいて額にそっとキスをする。
自分の唇が触れた瞬間、さゆみの身体が少しだけ動くが目を開けるまでには至らず、れいなはゆっくりとさゆみから離れた。
それから布団を被りなおして目を閉じる。
一度意識してしまったさゆみの手に緊張して眠れないかとも思ったが、再び睡魔がやってきてすぐに意識が遠のいていく。
反発するかのように唇の感触だけはやたらとはっきりしていたが、それも慣れてしまえば気持ち良かった。
- 320 名前:いちは 投稿日:2005/07/30(土) 07:33
- 更新しました
ようやく落ち着くことができました
次は「自由への逃避5‐3」になります
長い一日の締めくくりになると思います
それでは
- 321 名前:自由への逃避 投稿日:2005/08/03(水) 18:11
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自由への逃避5‐3
- 322 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:12
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ものすごく息苦しい。
息ができないからだと気づいた道重さゆみは、目を開けてみてその原因をすぐに見つけた。
「……何もしがみつかなくても良いじゃん」
腰にがっしりと手を回している田中れいなは、両手の力とは裏腹にとても気持ち良さそうに眠っている。
されているさゆみとしてはあまり長時間持ち堪えそうに無いため、少し強引に動いてれいなの両手から抜け出した。
そのとたんれいなの両手がぱたぱたと動き、表情がみるみるうちに歪んでいく。
代わりになるかどうか分からなかったが、隣のベッドにあった枕を先ほどまで自分のいた場所へ差し込むとれいなはそれを抱えて再び規則正しい寝息を立て始めた。
「危ない危ない」
眠っているれいなを見下ろしながら安堵の息を吐きその場から離れ、カーテンを閉める。
消毒液臭い保健室は相変わらずだったが、意識しなければすぐに忘れることができた。
「でもなぁ……誰にも話さないってのもどうなんだろ……」
脇に置いてあった丸い椅子を引っ張り出しながら、眠る前のことをぼんやりと思い出してみる。
つい先ほど見た安らかな寝顔からは想像できないくらい思い詰めていたれいな。
それでもさゆみからしてみればそれもどこかずれていた。
「大変ならみんなに言って手伝ってもらえば良いのに……一人で全部こなそうとするからできなくなるんだよね」
そこまでぼやいたとき、保健室のドアが静かに開く。
座ったまま首だけ動かしてそこを見ると、そこには担任の稲葉貴子が立っていた。
「なんや道重、もう起きとったんかい」
「はい、今起きました。どうしたんですか?」
「いや……そのな……」
首を傾げるさゆみに対しどこかぼんやりとしている貴子。
それでも視線が閉まっているカーテンに釘付けになっているのに気づいてしまったため、さゆみは思わず笑ってしまった。
- 323 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:13
-
「れいなならまだ寝てますよ」
「そうか……」
「……先生、何ですか?」
大きく息を吐いた貴子の顔は安心しているような、それでいてどこか怒っているようにも見える。
さゆみにしてみればそれもどこか自分の感覚からずれているような気がした。
素直に口にしてみると、貴子の顔がみるみるうちに変わっていく。
単純にそれが戸惑いだと気づいたのは少ししてからだった。
「……なんて言うとった?」
「れーなですか?」
「そうや」
「それを私の口から言うのはフライングです。れーなから聞いてください」
「……まあ、それもそうやな」
再び息を吐くが、今度はそれが落胆しているからだとすぐに分かる。
色を失った目が自分に合わされること無く宙を彷徨い、口が開くが肝心の言葉が出てこない。
結局沈黙となってしまった間の悪さを感じたさゆみは、ふと貴子が来る前まで考えていたことを思い出した。
「先生、一人で思い詰めることって格好良いものですか?」
泳いでいた視線が一点に固定され、しばらく動かなくなる。
小さく肩が上下しているのが分からなければ彫刻のようにも見えたが、貴子はやはり人間だった。
目に色が戻るのが分かり、それと同時に貴子から貴子の気配が出てくる。
さゆみにはそれが以前のものよりもだいぶ弱いと感じられた。
「時には一人で背負わんといかんときもある。それを格好良いか悪いか判断できるのは、誰でもない」
「じゃあ質問を変えます。背負った何かを他の誰かと分けることって格好悪いですか?」
「それは……」
言葉に詰まり、何かを探すように目を閉じる貴子。
それをじっと見つめながらさゆみは答えが出るのをじっと待つ。
いや、さゆみとしては答えが出ていたから、単に貴子の意見を聞くだけだ。
- 324 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:15
-
「……分けることができてもしたくないときはある。そう思ったならそいつを優先させるべきや」
「でも、それで押し潰されたらもっとみっともないですよ。なら、最初から分ければ良いじゃないですか」
「何でもかんでも相手と共有したいのは自分が子供なだけや。それにそいつの面子ってやつもあるやろ。自分が踏み込まれたくない領域があるように相手にも踏み込まれたくない領域がある。それを踏み荒らすようなことはしたくない」
「そこが間違ってるんですよ」
強く言い切ってしまってからさゆみは自分の言ったことと貴子の言ったこととを反芻する。
貴子の言っていることはもっともであり、さゆみにも理解できた。
ただ、今の話としてはどこかずれているような気がして慌てて言い直すことにする。
「これは私の意見ですけど……私にはそんな領域なんてないつもりです。だから、悩みがあるんだったられーなや他のみんなにも相談するし、できることならみんなからもしてもらいたい。そうしないとみんなが何を考えているのか分からないからです」
じっと聞き入っている貴子に対して必死に言葉を組み立てるが、頭で描いていたことが言葉になると思った以上にうまく伝えられない。
もどかしく思いながらもさゆみは続けた。
「今回特に感じたんですけど、れーなはずっと悩んでました。それを分かってたのに、私は何もできなかった。それがすごく嫌だったんです。独りでいるときに少しでも話を聞いてあげればれーなもここまで思い詰めることは無かった。それが悔しかったんです。確かに先生から見れば私やれーなって子供ですけど、子供でもちゃんと考えます。子供なりに考えます。だから何がどう問題なのか、それをちゃんと知りたいんです。そうしないと考えることもできないじゃないですか」
早口で言い切ってから自分の言っていることが正しいのか不安になる。
- 325 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:15
-
しかし、それも過ぎ去ったこととすぐに割り切って、見つめられている貴子の視線を静かに睨み返す。
再び沈黙が場を支配するが、今度は自分から進んで受け入れているのだから不快に感じない。
「ウチにはそいつも結局はエゴにしか聞こえんけどな……」
「……でも」
「でも、ウチとしてもそっちのほうがずっとましかもしれんな」
反論しようとしたさゆみに対して言葉を被せ、小さく笑う貴子。
皮肉っているわけでもなく、どこかすっきりとしたその笑顔にさゆみは思わず反論するために開いた口を閉じてしまった。
「楽しいことも苦しいことも分かち合う……基本的なことを忘れとったな」
呟いた貴子がゆっくりと背を向け、ドアへと向かっていく。
どうやら話が終わったらしい。
気が抜けるのを感じながら、それでもまだ完全には油断できずじっと貴子が出て行くのを待つ。
すると、案の定、ドアに手をかけたまま彼女は振り返ってきた。
「そうや。もう放課後やから田中も起こしてやってや」
「えっ、もうそんな時間ですか?」
言われるまで時間のことをすっかり忘れていたさゆみだが、時計の針は貴子の言葉通りだった。
慌てて時計から目を離し貴子を見るが、ドアに手をかけた担任の姿はすでに無く、ぽかんとしたさゆみだけが取り残されていた。
「そういえば、最初にもう起きたのかって言ったけど、あれって寝てるところを見てるってことだよね……」
いまさらながらに貴子の言葉を思い出し、早い段階でそれを問い詰めておくべきだったと後悔するが、それをするのもどこか馬鹿馬鹿しくなり、さゆみは丸い椅子から立ち上がる。
向かうのはドアではなくその反対側。
カーテンの向こうにいるれいなのところ。
彼女を起こして生徒会室へ行こう。
だいぶ遅くなったが昼食もとらないといけない。
そんなことを考えながらさゆみはカーテンをやや乱暴に開けてみた。
- 326 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:16
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 327 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:16
-
「がきさん。よっぽど嬉しいんですね」
「そう、分かる?」
「ねえさゆ、出し巻きの中に黒いのがあるけど何?」
「海苔だよ。食べてみる?」
「身体中からそんなオーラが出てますよ」
「でもね返信はしないんだ。いわゆる放置プレイってやつ?」
「……プレイなんですか?」
「ほら、あーんして」
「あーん…………味がするようなしないような変な感じっちゃね」
「電話すれば良いだけじゃないですか?」
「そうなんだけど、あえてここで何もしないの。すると、相手は焦るでしょ?」
「そう?私はおいしいけど……」
「じゃあ、おいしいってことでええっちゃ」
「……」
「……亀ちゃん、どうしたの?」
急に黙り込んでしまった亀井絵里に新垣里沙はようやく携帯の画面から目を離す。
それからやたらと冷や汗を掻いている絵里に対し小さく首を傾げてみた。
「あの二人……ていうか、れーなが特になんですけど……変です!」
「いや、そんなに力んで言い切らなくても分かるから」
「それに、私がこんなにけちょんけちょんに言ってるのに、れーなが叩いてこないんですよ。絶対おかしいですって!」
「……けちょんけちょんって何?」
「だってぇ……」
なおも力説しようとしてくる絵里を軽く睨んで黙らせ、里沙は携帯の画面をそっと閉じる。
それでもぱちんと小さく音を立てたが、目の前の二人にはそれも聞こえていなかったのだろう。
特に反応らしい反応を示すことは無かった。
それから再び絵里へ向かって言う。
「新手のジョークか、それとも何かの罰ゲームと思って諦めたら?」
「……ジョークか罰ゲームってひどくないですか?」
「じゃあ、夢でも見てると思えば?」
「……」
閉口したまま半眼になる絵里の視線が唐突に動き、次に顔が強張っていく。
それにつられるようにして里沙も視線を移してみて、絵里と同じように身体が強張ってしまった。
- 328 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:17
-
「がきさん、ええ加減しとかんとぶつよ」
「田中ちゃん、聞いてたの?」
「それに絵里も絵里っちゃ。大概にしとかんとれなもキレるけんね」
「……はい」
いつの間にか向けられていたれいなの半眼にようやく気づき、慌てて笑顔を作る。
が、それもほんのわずかで隣にいたさゆみから袖を引っ張られるとあっさりと笑顔(ただし、これは里沙の作り笑いとは違う)に戻っていた。
十分後、ようやくさゆみとれいなの昼食が終わり、二人の弁当箱が片付けられる。
それとともにどこか固くなった空気を感じ、里沙も思わず姿勢を正した。
「ほられーな、何か言うんでしょ」
「……うん」
さゆみから言われ小さく首を縦に振るれいな。
その仕草があまりにも女の子らしく思わず吹き出しそうになった里沙は、深呼吸をすることでそれを収める。
同時にこれまで見ていた田中れいなという人間に対する記憶を一掃したかったが、それはできなかった。
「絵里も、がきさんも心配かけてすいませんでした」
ちょこんと頭を下げたれいなに満足そうに頷いているさゆみ。
人様の家の窓ガラスを割って謝りに来た親子のようにも見え、今度こそ小さく吹き出した里沙だったが、それは隣に座っている絵里も同じようだ。
「どうしたの?いつものれーなじゃないね」
絵里の限りなく軽い言葉にもれいなは無反応だった。
からかうつもりで言ったのだろうが肝心のれいなからそれが返ってこず困惑したのだろう。
絵里が助けを求める視線を送ってきたが里沙にはどうすることもできず、れいなを呆然と見るだけだ。
「れなね、やっと気づいたとよ。自分独りだけだと怖いって。ようやく言えて楽になったっちゃ」
『しみじみ』とがベストなのだろうが、それだとどこかの屋台で管を巻いているどこかのサラリーマンのようで、限りなく乙女チックなれいなには不相応だと感じた里沙は、静かにれいなの言葉に耳を傾ける。
その頃には戸惑っていた絵里も落ち着きを取り戻し、どこか心地の良い時間だけが流れていた。
- 329 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:18
-
「何も話さん親父に対してれなのことを認めてほしかったし、れなからマコ姉を盗ったマコ兄を取り返したかった。ずっとそうやって自分だけで納得しようとしとったとね」
「あのさ、ちょっと聞いても良い?」
小さく笑ったれいなにほぼ反射的に話しかけていた里沙。
それをわずかに顔を上げたれいなと視線が交わったことで気づいた里沙は、それまでずっと疑問となり蟠っていた一つをついにれいなへと投げかけた。
「何で田中ちゃんはまこっちゃんのことが嫌いなの?」
里沙の知っている小川真琴という人間像は実に少ない。
無口でどこか怒りっぽく、だが物事を冷静に見つめている。
ただ、里沙としてはそれも自分に正直になっていないだけだった。
無口なのは単に恥ずかしがっているだけであり、怒りっぽいのは自分の意志が周囲に伝わっていないから。
物事を冷静に見つめているというのも言い様だが、結局は麻琴が外に出ているから真琴は中で待つことしかできないため、結果的にそうなっているだけのこと。
「まこっちゃんって二人いるでしょ?だけど、どっちも田中ちゃんのお姉ちゃんじゃないのかな。見た目だってあんまり変わんないし、やってることもまあ、結局はほとんど同じだよね。だけど、何で田中ちゃんは『マコ兄』のことが嫌いなの?」
自分で言っていて二人の『まこと』がややこしくなり、言葉の最後ではれいなが常に呪詛のように呟いていた彼(れいなにしてみればの話だが)の名前を里沙は挙げてみた。
「それがね、れなにも分からんくなってきたっちゃ」
いつもならば彼の名前が出てきた段階で不機嫌になっていたれいなが、今回に限っては困った顔でそう呟いてくる。
その顔を見た里沙は、そこですでにれいなの中で決定的な何かが変化していることに気づくが、当のれいなはまだそれを漠然としか感じ取れていないようだった。
- 330 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:19
-
「れなっていつもマコ姉と話しとったけん、家を出て行くって言ったときはぱっとせんかったとね。でも、良く考えてみたらマコ兄もマコ姉と一緒やもんね」
「食わず嫌いってのが良い表現なのかどうか分かんないけど、ニュアンス的にはそうなるのかな?」
「そうなるっちゃね」
何であんなに意地なんて張ったんやろ、と続けたれいなが小さく唸り声を上げているが、それもどこか平和なもので、見ていた里沙にもそれが微笑ましく映った。
(何だ、私がどうこう言う問題でもなかったのかもね)
結局は自分の知らないところで解決への道筋が見えていて、それをれいなはあっさりと見つけることができた。
その間、里沙は特に何かをしたというわけでもないし、この先も特に何かをする必要も無いようだった。
「あっ、そうだ。忘れてた!」
半ば叫ぶようにして立ち上がる絵里。
とっさのその行動に驚いた里沙はもう少しのところで椅子から転げ落ちそうになり、慌ててバランスを取る。
見上げてみるとどこか必死になった絵里が慌てた様子で携帯を取り出していた。
「え、絵里、なしたと?」
しきりに携帯を動かして唸っている絵里に引いたれいながかなり怯えた声を出してくる。
それでも絵里は唸ったまま携帯をあれこれ動かしていた。
- 331 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:19
-
「あのさぁ、もう一回二人でお弁当食べてよ。ムービー撮るから」
「……なして?」
「ひとみさんに送るの。こんなに二人が仲良いんですよっていう証明ね」
「えっと……なんで?」
れいなとさゆみから同じことを聞かれるが、全く動じる様子も無い。
すっかり自分の世界に浸っていた絵里はそそくさと座っている二人の横に行き、無理やり二人をくっつける。
「ちょ……絵里、痛いっちゃ」
「強引過ぎるよぉ」
二人から抵抗する声が聞こえてくるが、態度を見ていればまんざらでもないような気がして、どこかほのぼのとする。
それをぼんやりと見送った里沙は逃げるように席を立った。
「田中ちゃんは落ち着いたよ。あとは二人の……違うか。三人の問題だからね」
窓を開けて外を眺めてみるが、そこからはやはりいつもの見慣れた風景以外のものは入ってこない。
ただ、見慣れた風景も日々変化はしていて、昨日と同じところはほとんど無かった。
「幸せ街道ってまだ見えないな……」
以前、絵里の話していた言葉を思い出し何となく眺めてみるが、今の里沙にはまだ見えない。
それもそのはず、里沙にはまだ確認すべきことがある。
それを見届けて、ようやく絵里と同じ(もしくはそれに近い)立場になれるのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えながら、里沙は誰にも聞かれないよう小さく呟いた。
「明日には会えるよね……まこっちゃん」
- 332 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:19
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 333 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:20
-
どよんと重く沈んだ空気に嫌気が差し思わず立ち上がったが、幸い彼から何も言われることはなかった。
応接室のソファに埋もれるように座っているのは田中仁志で、彼がそこにいるのは自分が連絡したからだ。
だが、自分のところへ来るよりも前から彼の様子はいつもと違い、どこか沈みがちだった。
今の自分の話でどうやら止めになったらしい。
「大丈夫ですか?」
「……ああ」
冷蔵庫からペットボトルのお茶を持ってきてテーブルに置いた稲葉貴子にぼんやりと答える仁志。
光らしい光の灯っていない空ろな目が貴子を捉えようとしないのはわざとではなく、貴子自体が意識に入っていないから。
そのくらい追い込まれた田中仁志を見たのはこれが初めてだった。
貴子が話したのは田中れいなが『完全なる覚醒』を起こしたようだということだけで、それ以上もそれ以下も話していない。
というよりも貴子がその場にいなかったため事態を把握できていなかったから、話しようが無かったのだ。
れいな自身に聞くのがベストなのだろうが、『完全なる覚醒』に陥ったならば記憶自体も残っていない可能性もある。
それが貴子にしてみればもどかしかった
(結局、今回もウチは役立たずやったな……)
打ちのめされた仁志を横目で見ながらお茶を飲んでみるが、味はおろか温かいのか冷たいのかすらも分からない。
冷蔵庫に入っていたのだから冷たいのだろうと無理やり思い込むことで何とか舌が痺れるが、それもどこか一時しのぎに過ぎなかった。
「とりあえず、今できることはありません。本人からは明日にでも私から改めて聞いてみます」
だから早く帰ってくれとまではとても言えずそこで言葉を区切り、仁志の反応を待つ。
普段よりはるかに緩慢な動作で首を動かし、自分を見てきても表情一つ変えなかったのは今の彼が田中仁志だと認めることができなかったからだろう。
その口がわずかにだけ動いたが、そこからまさか言葉が出てくるとは思わなかった。
- 334 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:21
-
「……さっきな、平家みちよに遭遇した」
「はい?」
唐突に話され、一瞬彼が何を言っているのか分からない。
だが、その短いフレーズをすぐに噛み締めて貴子は顔が強張るのが分かってしまった。
直後、腹に残っていた傷跡が呻いたが、それは何とか無視する。
「……で、みっちゃんはなんて言ってました?」
「一緒だったよ、あいつと」
大きく息を吐いた仁志の目にはいつの間にか光が戻っているが、それは自分の意志で戻したのではない。
つい先ほどの体験が仁志に何かを思い起こし、無理やり引き戻されたといったほうが正しいような気がした。
「純粋すぎる……怖いくらいに」
「……純粋なんですか?」
「そう、平家道正と同じだ。いや、今のあいつは道正の生き写しだな。ただ、どっちも死んでるがな」
自嘲気味に笑った仁志がお茶を一口だけ飲む。
その緩慢な動作を目だけで静かに追い、貴子は彼に気づかれないよう小さく息を吐いた。
平家みちよと遭遇したあの日の感覚が蘇る。
対峙しただけで、数回話をしただけで貴子の理性は焼き切れ、恐怖だけに縛られる。
あのときの感覚が全身に伝わっていくし、それを止める術を貴子は知らない。
あのときと全く変わらない稲葉貴子がここにいる。
「血は争えないってやつだな。あいつもやつと一緒のことを言ってたな。平家道正と一緒のことを……」
「……みっちゃんのお父さんですか?」
仁志の口から平家道正の名前が出てきても、貴子にしてみれば漠然としたものにしか感じられなかった。
いや、貴子だけではない。
おそらく中澤裕子も、もしかするとみちよ自身も彼のことをあまり知らないのかもしれない。
「奇術師が自分の奇術に目覚めた直後、感情が異様に昂ぶることがある。それこそ『世界を根本からひっくり返せる』ってくらいにな。平家道正はそれにずっと取り憑かれていたんだ」
「……そんなのありますか?」
自分のことをぼんやりと思い出すが、嫌なことしか浮かばなかったため慌てて記憶を遮断する。
が、それでも六歳の頃の泣いている自分だけははっきりと思い出されてしまったため、貴子は深呼吸をして過去の自分を心の奥底へとしまい込んだ。
- 335 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:22
-
「基本的に奇術は遺伝だが、ごくまれに突然変異も発生する。お前の場合は隔世遺伝だが、突然変異のほうが強いんじゃないかな」
「そうですね、両親はおろか、祖父母も奇術師じゃ無かったですからね」
「そう、それが協会の悪いところだったんだ。ちょっとでも使えなくなったらすぐに切り捨てる。その後の可能性も全てひっくるめてだ。だから、お前みたいな突然変異が実際に現われてから、慌てて対処することになる。結局は焼け石に水だよな」
「……田中さん、話が逸れてませんか?」
「つまり、平家道正はその感情の昂ぶりをずっと継続させた。『世界をひっくり返せる』じゃなくて、『世界をひっくり返す』ってわけだ」
「それってどこが違うんですか?」
「前者は単なる思い込みで願望、後者は確固たる決意で事実だ」
「はぁ……」
「分からないだろ?」
「そうですね、理解できません」
対峙した貴子から発せられていた絶対的な自信。
あれが決意であり事実であるのなら、それは貴子にとって許されるべきものではない。
うまく言葉にできないが、感覚的にみちよに反発していた。
「だから、俺は教えなかったんだ、れいなにも」
それまで饒舌になっていた仁志が深々とため息をつき、ソファに身体を埋める。
込められていた言葉から力が消え失せ、最初のように弱々しい田中仁志が再び出てくる。
そんな彼が天井を見上げたままぼそりと呟いた。
「なのに、何でお前らは関わってくるんだよ……」
(そうか、子供のことを心配せん親はおらんか……)
奇術によって縛られる奇術師は今においてはほとんど存在しない。
ほんの一部しか残らず組織を立て直せないのであれば、後は消えるしかない。
だから、仁志は必要以上に奇術の存在を隠していた。
それこそ娘である田中れいなにも……
彼自身、未だに自分の力を制御できていない。
そんな危険なことに娘をむき合わせたくなかったのだ。
「だけど田中さん、一人で抱え込むには重過ぎますよ。それだと、いつかは潰れます」
空ろだった仁志の視線が再び自分のほうを見てくる。
その頃になってようやく自分の言った言葉を正確に把握した貴子は慌てて次の言葉を捻り出した。
- 336 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:23
-
「人間ってやつは見た目はどうであれ、世界をどうこうできるほど大きくありません。決意に昇華したって結局は勝手な思い込みでしょう。事実、平家道正は田中千尋・智広に殺されています。だから彼が……何をしようとしてたのかは知りたくないですが……しようとしていたことは成功しません。それがみっちゃんに引き継がれたとしても」
「……」
「あなたが一度消えた平家道正を甦らさないよう努力していることは知っています。でも、一人でそれを続けていくのは困難です。平家道正がみっちゃんに引き継いだように、あなたも誰かに引き継ぐべきだと思います」
「だが……」
「何のために私がいるんですか。それに、みっちゃんのことやったらウチらのほうがよう知っとります。だから、任せてくれませんか?」
どこをどう話したらこういう結論になるのか良く分からないが、それでも言っていて気持ちは良い。
先ほど話をした道重さゆみの言葉を自分なりにアレンジしてみたが、彼女が話している最中にかなり強気になっているのも何となく分かる気がした。
(そうか、これがウチのやるべきことか)
平家みちよと再び対峙して、今度こそ自分の手で彼女を止める。
(違う、それは正しくない。祐ちゃんも一緒や)
殺すことでしかみちよを止められなかった中澤裕子。
あの場にいることのできなかった自分がいれば、今度は殺すことなく止めることができるかもしれない。
そんな希望にも似た感情が湧きあがってくる貴子に、光の多少なりとも戻った仁志が冷たく告げてきた。
「でも、お前って今、奇術使えないんだよな」
「大丈夫です」
自信に満ちた声で即答し、仁志に笑いかける。
ぽかんとした仁志の顔はあまりにも間抜けに見えたが、それでも貴子は言葉を続ける。
「答えは田中にあるような気がします」
「……そうか」
自分と似ているかもしれない彼女の言葉を聞けば、自分に道を示してくれるかもしれない。
そんな希望にも似た確信が貴子にはあった。
- 337 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:23
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 338 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:24
-
午後九時、特に何もすることが無かった田中れいなはベッドに寝転がりぼんやりとしていたが、不意にドアがノックされて起き上がらざるを得なかった。
「お母さん、なしたと?」
出てみるとそこに立っていたのは母親である田中真理恵であり、真剣な表情をしている。
そして、口だけが動いてれいなに用件を伝えてきた。
『お父さんが道場で待ってる。動きやすい服装に着替えて来てだって』
「……分かった、ありがと」
再び一人になったれいなはタンスに向かい、一番上の引き出し、その一番手前にあった赤いジャージを引っ張り出して手早く着替える。
五分後には着替えも終わり、部屋を出ることができた。
「たぶん、先生から連絡が行ってるっちゃね」
道場までの道すがら、夕飯のときに何も話そうとしなかった父親の顔を思い出してみる。
かなり怒られることを予想していたれいなはその父親の正反対ともいえる行動に最初は戸惑ったが、何かを言われるまで何も言うまいと心の中で決めると、あっさりとその父親の姿も忘れることができた。
ただし、それはついさっきまでの話で、母親から間接的にだが呼び出されるとやはり緊張するようだ。
「さぶっ!」
家の外にある道場には当然のことながら一度家を出なければならず、玄関から外へ出てみると思っていた以上に寒い。
吐く息も白く、それを目で追ったれいなは、自然と空を見上げていた。
「……星がきれいっちゃね」
雲ひとつ無い夜空には星が点々としていて、視界の隅には半分になっている月が浮かんでいる。
普段はあまり見上げることもないし、見上げたところで今のように思えるわけでもなかったれいなは、しばらくぼんやりと夜空を眺めてみることにした。
「昨日までのれなやったら、きっとこの空を見ても、何も思わんかったやろうね」
父親に対し、兄に対し、そして自分自身に対しても意地を張り続けていた自分では、きっとこういうすっきりとした気持ちを味わうことはできなかっただろう。
この短い期間で自分がどう変わったのか、それはれいな自身にも分からない。
- 339 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:24
-
「きれいやったらきれいって言わんと、ちゃんと伝わらんしね」
言葉を口に出した瞬間、なぜか道重さゆみの顔が浮かんでしまい、周囲の寒さとは違ったどこか心地の良い熱さが自分の中だけに湧き出てくる。
ここで夜空にさゆみの顔でも浮かび上がればもっと身体が火照るのだろうが、実際はそんなものは浮かび上がらない。
自分の中にある『道重さゆみ』というイメージを思い起こすだけだ。
ただ、今はそれに身を任せている場合ではない。
れいなにしてみればどこか怒りっぽい父親が、すぐ目の前の道場で待っている。
「親父、来たとよ」
すぐ近くにあった入り口を潜り、明るくなった道場へと入る。
中の空気は相変わらずひんやりしているが、どうやらその中にいる人間は違うみたいだ。
それを畳の真ん中に立っていた父親を見て思ったれいなは、本能で逃げ出そうとしている足を理性で何とか押し出す。
父親の周辺は熱気を帯びていて、立っている場所が微かに霞んで見えた。
「何だ、遅かったじゃないか」
「で、話って何?」
熱気を帯びたままの仁志から声をかけられどう答えようか迷うが、結局無視して話を切り出す。
ただ、右手にある木刀を見れば仁志が何をしたいのかが嫌でも分かってしまった。
「前の稽古の続きでもしようと思ってな」
その言葉と同時に仁志の左手がわずかに動き、自分に向かって何かが放り投げられる。
とっさに手で受け止めてみてそれが没収されたペンダントだと気づいたれいなは、唖然として仁志を見た。
ただし、仁志はそんなれいなに構うことなくすでに木刀を構えている。
「奇術に限らず、力ってやつはきちんと制御してこそ価値がある。ただ、成り行きに任せて振り回すだけだと、それは単なる暴力に過ぎない」
構えた木刀が本来の木の色である茶色から、わずかに変化する。
ぼんやりと光り始めた仁志の木刀を見て、れいなは目の前にいる父親が普段の父親でないことに気づき、慌ててペンダントを首にかけた。
かけた瞬間、視界がブラックアウトするがそれもほんのわずかな時間だけで、すぐさま視界が鮮明になる。
そして、その視界から自分の力というものを改めてれいなは実感した。
- 340 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:25
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「俺は生まれてからこのかた、ずっとこの暴力を制御するための方法を考えてきた。ようやく制御できるようになったが、だからといってこれも完璧じゃない。完璧に制御するなんて、土台無理な話なんだ」
何でか分かるか、と問いかけてくる父親に対してれいなは答えずに自分の頭上を仰ぐ。
そこには今までだと漠然としか認識できなかった、れいなだけの力がはっきりと見えていた。
自分の頭上、二メートルほど上にあった丸い透明な塊は、れいながこれまでにストックしている水だった。
直径一メートルほどの丸い球体はまさに今の自分の力であり、そこから何をするかは自分の自由。
そう意識したれいなは、そこからわずかな量を取り出し、自分の右手へと集める。
ペンダント無しで制御していた力は、制御するための補助を得たことでさらに尖った形で現れた。
「使う人間自体が完璧じゃないからやろ?」
出来上がった氷の剣は相変わらず重さを感じず、素振りをしてみても握っているという実感は無い。
ただ、冷たさだけが伝わってきて、剣と同じくらい鋭くなった意識を父親へと向けた。
「だけど、何のために『こいつ』を使うのかは、れなが決めることっちゃ」
「なら何のためにそいつを使うか、お前は決めたのか?」
「れなにとって大切なもんを壊されんためにこいつを使う。それだけっちゃよ」
即座に問いかけてきた父親に対して即答するれいな。
そんな自分を少しだけ笑った父親が白く光った木刀をゆっくりと構え、次の瞬間、だんという音を残してれいなの視界から消えていた。
熱気を帯びた風が音を立てて近づいてくるのを感じとっさに剣を構えるれいなだったが、やってきた衝撃を完全に押さえ込むには至らなかった。
「お前の言ってることも結局は詭弁に過ぎない。それに、言葉を実行するには力も同時に伴わなければならないんだ。だから、俺に教えてくれよ、お前の想いがどれくらいのものなのかを」
真正面にいる父親の言葉はあまりにも涼しげだが、衝撃で震える腕を支えるのに必死だったれいなは無言のまま息を吐き出して全身を前に押し出す。
意外にそれがすんなりいったのは父親が引いたからで、その後に一閃したれいなの剣は宙を斬るだけだった。
- 341 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:27
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(親父、本気とね)
以前、父親と兄が手合わせをしていたのを脇で見ていたれいなだったが、そのときと明らかに違うものを感じてすぐさま意識を集中させる。
自分を中心としたわずかな範囲の中を父親は目にも留まらぬ速さで動いているのが分かるが、それだけでこのときのれいなにしてみれば十分だった。
警戒したまま少しだけ見上げてストックされた水の量を確認してみる。
剣を作るのに使っただけで見た目はそれほど変わっていないようだが、だからといってあまり使いすぎることもできない。
不意に背後から熱気を感じとっさに振り向いて剣を構え、ほぼ同時に二度目の衝撃が襲いかかってくる。
吹き飛ばされそうになったれいなは慌てて両足を畳へと突き立てた。
「お前が何をどう想うのかは自由だ。でもな、それを周囲に撒き散らしただけだと結局は何も変わらないぞ」
三度足音と共に消え去る父親。
が、気配は完全に消えること無く自分の周りに停滞し続けていた。
一瞬でも気を抜けばあの光った木刀が自分に突き刺さるのが手に取るように分かるが、それでも思考だけは必死にめぐらせる。
(どうやって足を止めるか……)
気配だけで居場所を突き止めても、今のれいなの動きではとてもではないが捉えることはできない。消えている父親の足を止め、自分の前に引きずり出さなければならないのだ。
と、そこでれいなは足場である畳に異変が起きていることに気づいた。
(そっか、親父も飛ぶわけやなかとね)
父親は何も自分の周りを飛んでいるのではなく、ものすごい速さでひたすら駆け回っているだけ。
それをぼろぼろになった畳から悟ったれいなはやるべきことを見つけ、実行してみることにした。
ストックした水のほとんどを取り出し最低限だけを残して、それを畳の上へとばら撒く。
ばしゃんという音が道場に響き渡り、その直後、れいなはこれまでで一番慣れきった感覚でそのばら撒いた水に自分の意志を伝えた。
- 342 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:27
-
(凍れっ!)
れいなが一番最初にこの力を使ってしたのは氷柱を作ることであり、つまりは水を凍らせるということだ。
そして、れいなの意志で切り離された水はどこにあっても一定時間内ならば自分の思い通りになる。
それがたとえ、畳に滲みこんで消えたように見えてもだ。
れいなの意志が伝わった水は畳の中で形を変え、一面を氷の絨毯へと変化させる。
ストックしていた水のほとんどを使ってしまったことでれいなの意識も吹き飛びそうになるが、凍った反動で下がった冷たい空気が、かろうじてれいなの意識を繋ぎ止めていた。
「うわっ!」
目の前で声がしたかと思えば、次の瞬間には見事にバランスを崩した父親の姿が視界に入る。
それでも木刀を離さなかったのは父親としての威厳なのか、はたまた単に握っていることすら忘れているのか分からなかったが、そのときのれいなにはあまり関係の無いことだった。
視界が少しぼやけて見えたがすぐに動き、手にしていた剣を振り上げて仁志へと向かう。
しかし、れいなは忘れていた。
自分がしたことは単に畳を凍らせただけで、当然のことながら自分も気をつけないと滑るということを……
「うわっ!」
勢い良く踏み出した足がそのまま前へと流れ、つい先ほどの父親と同様にバランスを崩してしまう。だが、れいなのはさらに性質が悪かったようで、そのまま前へこけてしまった。
こけたと気づき慌てて起き上がるが、一瞬でも意識が途切れてしまったため、それまで自分が必死になって作り上げたフィールドはものの見事に消え失せている。
そして、そんなれいなの前には父親の木刀が突きつけられていた。
「作戦としては良かったが、そいつに自分も引っかかってどうするんだよ……」
呆れているのだろう、突きつけていた木刀を下ろして父親にすぐさま反撃しようとするが、畳一面を凍らせた反動で全身に力が入らない。
ただ、苦笑いをしている父親を見てれいなは思わず笑ってしまった。
- 343 名前:自由への逃避5‐3 投稿日:2005/08/03(水) 18:28
-
「とっさにしてみたんやけど、うまくはいかんもんっちゃね」
「だが、初めてにしちゃ上出来だったな。使い方をちゃんと学べば、おまえ自身の負担も減るみたいだしな」
自分から視線を逸らし、周囲の畳を見て何やら呟き始めた父親の言葉を一瞬理解できず、れいなは何度か言われた言葉を繰り返してみる。
そこでようやく父親の異変に気がついて慌てて立ち上がった。
冷たくなった畳がやけに邪魔くさく感じたが、それをしてしまったのは他ならない自分だ。
だから、今はそれを思い切り無視して気になったことだけを聞いてみることにした。
「親父、さっきなんて言うたと?」
「ん?」
木刀を肩に引っかけた父親が振り返って自分を見てくる。
そのときの姿があまりにも父親らしかったのがれいなにはどこか不自然で、きょとんと見返すしかない。
「何も教えずに暴走するよりかは、何ができるかを知って制御したほうがお前にとっても良いだろ?」
「そ、そうやけど……」
ただ、れいなとしてみればこれまで頑なに自分の力というものに否定的だった父親が手のひらを返したのだ。
戸惑わないはずは無い。
それを自分の慌てた態度から読み取ったのか、父親は苦笑いをして続けてきた。
「それに、どうせ俺のいないところでも何かはしてるんだろ。だったら、俺の目の前でしてもらったほうが都合が良いしな」
肩を竦めた父親は、今日は終わりだとだけ言って道場を出て行った。
れいなは父親の後を追うべきかを迷い、結局追うことができずに取り残される。
ただ、こうして一人になるのも以前と比べて自分を追い詰めるためのものではなかったため、気は楽だった。
道場の電気を全て消し、父親から遅れること五分でれいなは道場を後にした。
外に出てももう寒いとは思わず、吐く息も白くならない。
今度は自分の意志で見上げてみるが、れいなの目に映ったのはやはり先ほどと変わらない、綺麗な夜空だった。
(今度、さゆに話してみようかな)
こういう話をあまりしたことが無いため、さゆみが聞いたらきっと驚くことだろう。
その驚いた顔を想像して少しだけ笑い、れいなは部屋へ戻ることにしたのだった。
- 344 名前:いちは 投稿日:2005/08/03(水) 18:36
- 更新しました
三回に分けた一日がようやく終わりました
これで一応のけじめはつきました
次回は「自由への逃避6」なんですが
一月ほど更新できそうにありません
申し訳ないです
- 345 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/08/09(火) 21:40
- 更新お疲れさまです。 長かったです(汗 でもなんだかスッキリした気分です。 次回更新マッタリ待ってます。
- 346 名前:自由への逃避 投稿日:2005/08/31(水) 15:48
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自由への逃避6
- 347 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:49
-
以前に比べて空気の質が違う。
もっと詳しく言うとすれば中にいても不快にならず、負担にもならない。
そのことが稲葉貴子としては純粋に不思議に思えた。
「つまり、気持ち次第でどうとでもなるっちゅうわけやな……」
「先生、なに一人で頷いてるんですか?」
「えっ?いや、こっちの話や」
目の前に座っている道重さゆみに言われ、曖昧に笑いながら言葉を返す。
その隣にいる田中れいなは終始へらへらしながらさゆみを見ていて、それが貴子にしてみれば少しだけ気持ち悪い。
「で、その様子やと大丈夫みたいやな」
「へっ……あぁ……大丈夫で〜す」
「……そうかい」
へらへらしたままのれいなに言われ、思わず脱力する貴子。
がっくりと首がうな垂れるが、悪い気はしなかった。
「ところで先生、話って何ですか?」
「えっ……?」
「何か話があって呼んだんでしょ?」
「あぁ……まあ、そうやなぁ……」
どう言葉にしてれいなに聞けば良いのかいまいち分からず、口ごもる。
頭の中では整理したはずの気持ちも聞くだけ無駄なような気がした。
「田中、人の繋がりって何やと思う?」
「はい?」
考えていたことと全く別な言葉が出てきて貴子自身も驚くが、目の前のれいなはもっと驚いているようだった。
半開きにした口をおかしいと思うが、笑うこと無くじっと見つめてくるため、貴子もじっとれいなを見つめ返す。
妙な間を嫌だと感じなかったのが果たして自分の意識の変化なのか、れいなから発せられる雰囲気のせいなのか良く分からない。
「見えないけど大切なものだと思います……でも、それ以上に大切なものがあります」
「なんや?」
「繋がっていたいって想うことです。そうじゃないと、繋がりも生まれないと思います」
(そうか……これが、ウチに欠けていたもんか……)
目の前のれいなからさらりと言われ、目から鱗が落ちる貴子。
だが、まだ喉に何かが痞えているようでもどかしい。
- 348 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:50
-
田中れいなが持っていて稲葉貴子が持っていないもの。
言葉にすれば『想い続ける』という単純なものだが、その差は歴然だった。
中澤裕子から突き放され、そこで立ち止まってしまった稲葉貴子。
進むことを選んでいれば今と違う結果が出てであろうのに、それを今まで選ばなかった。
そのことをいまさらながら後悔するが、過ぎ去ったものは取り戻せない。
あるとすれば、これから先を失くさないようにするだけだ。
(奇術も結局は繋がりでしかないのか……)
普段は意識しなかった遺伝するという奇術の基礎。
貴子の場合は少し特殊だが、それでも祖父から受け継いだものだ。
始めからあるから特に気にならない繋がりという意味。
一度失くしてからようやくその意味が分かったような気がした。
「そうか……これがウチか……」
失っていた『使役』という感覚が戻っていることに気づき、ぽつりと呟く。
取り戻したという達成感も取り戻してしまったという後悔もそこには無かった。
「すべてはあるがまま、か」
「先生、いい加減元に戻ってください。ずっと一人で喋ってるやなかとですか」
「あぁ、すまんすまん」
れいなからちゃちゃを入れられ苦笑いをするが、以前までのように意識してしなくても自然にできる。
意外にそれは気持ち良かった。
「というわけで、話は終わりや。もう帰ってもええで」
「「えぇ〜」」
今度はれいなとさゆみの二人から同時に悲鳴を上げられ、思わず指で耳栓をした。
甲高い音は完全にシャットアウトできないが、それでも耳に障らない程度には軽減できる。
「そんな、もう終わりですか?」
「そうやけど、なんか不満そうやな」
「『不満そう』じゃないです。思い切り不満なんですよ!」
両手をばたばたと振って抗議をしてくるれいな。
隣のさゆみも少し不満そうに貴子のことを睨んでいた。
- 349 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:50
-
「せっかく三十分もかけてやってきたのに五分で終わりってなんですか?来る意味なかとよ!」
「れーなのおまけでついてきた私はどうすれば良いんですか?このままだと出番が無いじゃないですか。自己完結されちゃったら反論しようにも反論できないじゃないですよ!」
「……なんやお前ら。なんかウチから言われることを期待しとったみたいやな。説教でもしてやろうか?」
意地悪く言ってみると、今度は二人揃って首を大きく横に振ってくる。
全く同じ仕草に我慢しきれず吹き出すが、二人は何も言ってこない。
というよりも下手に何も言えないようだった。
「まあ、そんなわけで終わり……?」
感覚に鋭く、凍えるものが走る。
久しぶりに感じてみたがやはり心地の良いものではなく、気持ちが悪くなってくる。
「田中、感じたか?」
「……はい、何とか」
目の前のれいなからもふざけた雰囲気は消え失せ、顔を険しくし身体を強張らしていた。
貴子とれいなが感じたのは残留思念が急激に湧き出てくるときの暗く、冷たい感触。
感覚に無理やり侵入してきたそれらは以前にも増して不気味だった。
「この感じ…………怒りか?」
肌から伝わってくる残留思念の気持ちが手に取るように分かってしまい、思わず顔を顰める。
それと同時に立ち上がった貴子は急いで部屋を出て、目的の場所まで向かうことにした。
「先生、大丈夫なんですか?」
「まあ、何とかなるやろ」
切羽詰ったれいなにあくまでも楽観的に返す貴子。
後ろからついてくるれいなの足取りはどこかおぼつかないようにも見えた。
そして、昨日も行った体育館裏へと到着し、思わず口笛を吹く。
「やけに景気がええな」
昨日までは全く見えなかった残留思念が文字通りうじゃうじゃと湧いていて、ぱっと見では真っ黒い球体のようになっている。
しかし、もとをただせば一つ一つが明確な意識を持っているはずで、当然のことながらそれは悪影響を及ぼすはずだ。
- 350 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:51
-
「自分らの住処が荒らされたっちゅうわけで怒っとるのか……?」
少し離れた場所で直径一メートルほどの残留思念の塊を観察していた貴子は、以前とは別の力をわずかだが感じる。
妙に懐かしいと思えたのはほんの一瞬で、深呼吸をしてその感覚は封じ込めた。
「みっちゃん。なんであんたがここまででしゃばってくるんや?」
「へっ?」
「いや、こっちの話や」
強張って動けないれいなに代わって首を傾げてきたさゆみの言葉を流し、一歩前へ足を踏み出す。
すると、黒い塊からいろんな顔が一斉に浮かび上がってきた。
見る角度が違えば同じ顔でも人間に見えたり、動物の顔にも見える。
大小さまざまな顔は人間以外の生き物の顔も兼ねているみたいだ。
「ほんま、気持ち悪いな」
何を間違って一つに固まってしまったのか良く分からないが、それでもそこに浮かんでいる以上消しておいたほうが身のためだ。
そう割り切った貴子だったが、そのときになってようやく武器らしい武器を持っていないことに気づいた。
念のためポケットの中を探ってみるが、以前入れていたナイフは家のテーブルに放り投げたままになっているから当然入っていない。
それでも気落ちすることはなかった。
(ウチは誰や?)
心の中で問いかけ答えを探す。
少し前までならばその問いかけにろくに答えることができなかっただろう。
自分に対する価値観を失い、自分にできることを全て放棄してきた以前までの自分。
それを切り離し、別れを告げた。
(ウチは稲葉貴子。それだけで十分や)
自分の静かな答えに満足し、目を開ける。
残留思念の全ての目から放たれる負のオーラもこのときの貴子には通じない。
自分にできる最善のこと、それを貴子は素直に口にする。
「来い!」
空を見上げ鋭く叫ぶ。
自分の言葉は単なる意思疎通ではなく、特別な力を持つ。
それだけを意識すれば実行するのはいとも容易かった。
- 351 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:52
-
全身から力が抜け、一瞬視界が暗くなる。
が、それでも残った意識が身体を刺激して倒れはしなかった。
直後、目の前がわずかに歪み、何も無かった空間からぽとりと何かが落ちる。
それを視界に収めた貴子は思わず口元を緩めた。
目の前に現れたのは貴子が使役していた豹の使い魔。
元はデカラビアで現在はフラウロスの形をした使い魔。
(ウチにもできることがある……ウチにしかできんこともあるんやな)
自分の意志の結果が目の前に現れ満足する貴子だが、それでもまだフラウロスは自分を長期間放置していた自分のことを信頼していない。
それを気配からひしひしと感じ取った貴子は次に行動すべきことをすぐさま実行する。
奇術における使役者が使い魔と完全な主従関係になるために必要なこと。
それは使い魔から信頼を得ることであり、信頼を得るには自身が使い魔を従えるだけの力を有していることを示さなければならない。
自分のことを試すかのようにじっと動かない使い魔から視線を外し、前へと足を踏み出そうとした。
「先生」
背後から声をかけられ振り向いてみると、目の前に青く細長い刃が浮かんでいて冷気を放っている。
れいなが以前放っていた氷柱にも似ていたが、目にしている刃のほうがはるかに強固に見えた。
「必要なら使ってください」
「分かった」
握るには小さすぎるその刃を人差し指と中指で挟む。
思っていたよりあまり冷たくなく、振ってみても重さは全く感じられない。
だが、ナイフにしてはやけに鋭いことだけは明確に伝わってきた。
「なかなかええ仕事しとるやないか」
小さくれいなに笑いかけ、改めて残留思念の塊に目を向ける。
尖った意志だけはれいなの刃に負けそうに無かったが、それだけでは足りない。
それはれいなが教えてくれた。
- 352 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:53
-
ふっと息を吐き出し、次の瞬間には開いていた残留思念との距離を一気に詰めていた。
顔だけの塊と化していたそれから無数の手が伸びてくるが、それらが貴子を掴むよりも先に刃を上段から叩き降ろす。
刃が触れた瞬間、塊が一瞬にして凍りついてしまった。
(ええ仕事どころやないな)
硬くなった感触だけを確かめながら、それでもなお振り下ろす力は緩めない。
甲高い金属音にも似た音を立てて残留思念の塊が真っ二つになったのは半瞬後のことだった。
それまでは宙に浮かんでいた塊だが斬られたことで力を失ったのか、ぽとりと地面に落ちる。
あまりのあっけなさに貴子は笑ってしまった。
「なんやこいつら、もう終わったで」
「先生、まだです!」
振り向いた貴子に短く叫ぶれいな。
れいなが叫んだ直後、転がった二つの塊が粉微塵に砕け、氷の破片から新たに残留思念が生まれてくる。
仮初に封じ込めても実体を消さなければ残留思念は完全に消滅しない。
基礎的なことを忘れていた貴子は失念していたことを棚に上げ、すぐさま刃を一閃した。
宙を無数に舞う破片は一閃した刃だけでは到底消すことなどできず、あっという間に周囲を囲まれる。
暗幕にでも覆われた視界は終始蠢き、見ていたはずのれいなやさゆみの姿が一瞬で消え去った。
「うっかりやった……」
近づいてくる気配に応じて刃を振るが、全方向からやってくる嫌な気配に気が狂いそうになる。
れいなが何やら叫んでいるようだが、それもどこか遠くの出来事のようにしか思えなかった。
(ウチの弱点……すぐ油断するところ!)
声に出さないまま刃を振り続け、ひたすら残留思念を削る。
迫ってくる顔はどれも歪み、苦痛の表情をしている。
今だからその怨念も跳ね返せるが、少し前だとあっという間に飲み込まれていただろう。
と、目の前に突如、顔が湧き出てくる。
その顔を見つめ、貴子は一瞬動きを止めてしまった。
- 353 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:53
-
(みっちゃん……)
苦痛にも怨念にも歪めること無く浮かんでいる平家みちよの顔。
能面のように白い顔は以前貴子が見たときのままだった。
そして、貴子はその顔に刃を振り下ろす。
刃が触れた瞬間、みちよの顔は小さな白い霧となって消えた。
(何をしようとしとるんか分からんが、ウチにもまだできることがあるなら、やるだけや)
その後も止まること無く刃を振るい続ける。
ちっとも暗闇が晴れないのに気が滅入りそうになるが、それでも止まるわけにはいかない。
そんな暗闇に覆われた貴子だが、唐突に光が差し込んだ。
突然横に現れた気配はすぐに動き始め、周囲に漂っていた残留思念を恐ろしいスピードで削っていく。
削っているのは先ほど現れた使い魔。
それが残留思念を喰らっているのだ。
「信頼っちゅうよりも心配されたようやな」
まるで自分のことを守るかのように現れた使い魔に向かって苦笑いするが、当の本人は気づいていないのか残留思念を喰らうことだけに集中している。
暗闇にわずかに光が差し込み、どんどん強くなってくる。
何やら叫んでいるれいなの声も近くに聞こえ始めていた。
(そっか、裕ちゃんも心配しとっただけか……)
自分で全てを背負い、何も無かったかのように片付ける。
中澤裕子の性格をいまさらながらに思い出しながら、貴子はその親友に向かって呟きかける。
- 354 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:54
-
「せやけど、たまにはこっちにも分けてくれんと潰れるで」
一人だと潰れるような出来事も二人で共有すれば多少は軽くなる。
一人だと思い詰めてしまうが、二人いれば話し合うことができる。
その良い例がすぐ近くにいる。
だから、貴子としても惨めな姿は晒せない。
れいなの力が途切れた刃は急速に形を失っているが、それでもまだ貴子の指に残っている。
一度作ったものは糸が切れてもそこに残り続ける。
たとえそれが惰性であっても受け取る人間がそこにいれば問題ない。
その刃を横に一閃する。
使い魔によってある程度削られた残留思念はその一撃でものの見事に消え去った。
「ウチにも残せるもんはある、きっと……」
手の中に残っていた刃が役目を終えたと言わんばかりにわずかばかりの水となり消える。
残ったのはひんやりとした感覚だけだった。
「先生、大丈夫ですか?」
れいながぱたぱたと近寄ってくるときには残留思念の欠片も残っておらず、貴子と使い魔がぽつんと立っているだけ。
終始使い魔を警戒しているれいなに笑いかけてみたが、貴子も笑える立場に無いことに気づき、足元へと目をやる。
じっと自分のことを見つめていた使い魔と視線を交わすが、折れたのは使い魔のほうだった。
小さく首を横に振り、その仕草がやけに人間くさいと思った瞬間、それの姿が消える。
すぐに現れるがその口には見慣れたブレスレットが銜えられていた。
「何や、使い魔なのにウチの心配をするんかい」
『一度決めた主人。簡単に失うわけにはいかない』
「……そうやな」
使い魔から初めて呼びかけられ、苦笑いをしながらブレスレットを受け取る。
左腕に嵌めた瞬間、身体が以前よりも軽くなったような気がした。
使い魔はそんな貴子を見届け、姿を消す。
それでも気配が完全に消えなかったのは使い魔の気遣いなのかもしれない。
- 355 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:54
-
「終わったみたいやぞ」
改めてれいなとさゆみに振り返り、小さく肩を竦めてみる。
笑ってくれたのはさゆみだけで、れいなからはまだ不安げな表情が残っている。
「先生、よくあんなのと戦えますね」
「まあ、長年やってきとるからな。それに戦うっちゅうよりも、こっちが一方的にやるだけや」
「そうですか……」
どこか不満そうなれいなの声に違和感を抱くが、それはまた別の問題として棚上げする。
それより先に貴子としてはやっておきたいことがあった。
「ちゅうわけで、これからウチは行くところができたから、ここいら辺で解散や」
「師匠のところに行くつもりですか?」
自分の心をある程度読めるのかれいなが鋭く指摘してくるが、それにはあえて何も言わない。
背を向けて軽く手を上げてみると背後で何やら言っていたれいなも静かになった。
駐車場に止めてあったミントグリーンのアルトに乗り込み、二人がやって来る前にスタートさせる。
適度に温もっているから暖房も無理に点ける必要はないようだ。
「さてと、久しぶりに裕ちゃんにでも会ってみるかな」
口から自然と出てきた言葉を耳から聞き、再び笑みが零れる。
今の自分を見て裕子がどんな反応をするのか。
それがやけに楽しみになり、貴子は静かにアクセルを踏み込んだ。
F中を出てしばらく走るが、やけに静かなのが気になり久しぶりにCDプレイヤーをつけてみることにする。
たちまちのうちにスピーカーからアップテンポの低重音が鳴り響いてきて、貴子はそれに身体を預けることにして、交差点を左に曲がるべくハンドルを勢いよく左に切った。
- 356 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:55
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 357 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:55
-
それから三十分後、貴子は裕子と対面していた。
といっても貴取り込んでいた裕子と何かの間に割って入ったといったほうが正確なのかもしれない。
何はともあれ、結果オーライだと思う貴子に対し、裕子の態度はあまりにもそっけなかった。
「で、私に何の用だ?」
「なんや裕ちゃん、つれないな。さっきも話したやろ?」
見渡せば辺りはかなり悲惨な状況になっていた。
地面は見る限り抉れているし、ベンチなんかはへしゃげてガラクタと化している。
数十分前までは公園だったその場所も今は見る影も無い。
その中で裕子は全身から殺気を放出しながらこちらを見据えている。
つい先ほどまで拍子抜けしていたのだろうが、気持ちの切り替えは恐ろしく早い。
殺気を手に取るように感じていたが、貴子はあくまでも自然に受け入れた。
「力の限りウチは関わっていく、何事にも。手始めっちゅうわけやないけど、裕ちゃんの顔が見たくなったから来たのに、その扱いはないやろ?」
「私は助けを呼んでいない」
「せやけど、あのままやといつかはジリ貧やったで」
悪戯っぽく笑うと不意に目の前が熱くなる。
気がついたときには裕子が放った火球が迫っていたが、目の前で爆ぜて消える。
脇に座った使い魔がこちらを見上げてため息を吐いていた。
「いきなり攻撃せんでもええやん!」
「あのままでも私は勝っていた。それを証明してやる!」
「って、なんでそないに急展開なん!」
いきなり突拍子もなく戦闘態勢に入ってしまった裕子に慌てて距離を取る貴子。
使い魔が音もなく腰を上げるのが目に入るが、今度は手で制する。
裕子が一人でくるなら、こちらも一人で応戦しなければならない。
そのつもりで脇に手を入れ、
「武器持ってないやん」
小さくツッコミを入れた。
- 358 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:56
-
そんな肩をこけさせている貴子に向かって裕子がわずかに膝を曲げ、飛び出してくる。
本当に小さな動作だが、昔から変わっていない。
最短距離を最短時間で突っ込んでくる。
そのことを思い出しながら貴子は向かってくる裕子を迎え撃つ。
接近戦が得意なのは裕子のほうだが疲れているのだろう、動きが明らかにおかしい。
ぎこちないというより足を半分もつれさせながら放ってくる手刀はあまりにも遅かった。
元々が万全ではないし、足場も悪い。
それが今の裕子にはマイナス要因にしかならないようだ。
(つまり、裕ちゃんはそんくらい追い詰められとるっちゅうわけやな)
執拗に攻めてくる裕子を軽くいなしながら、周囲に目をやる。
ミカ・エーデルシュタインの結界はまだ利いているようで、この空間には二人(と一匹)だけだ。
というわけで少しお灸を据えてみようと思った貴子は、唐突に前へ出た。
たったそれだけの動作なのに、裕子の表情が極端に変わる。
驚きというのか焦りというのか良く分からないがどっちでも構わない。
その証拠に気がついたときには貴子の右手が裕子の鳩尾に突き刺さっていた。
盛大に咳き込みながら崩れ落ちる裕子。
ただ気を失いはしなかったようで、尖った視線が向けられている。
「あんなぁ、裕ちゃん……」
大きくため息を吐きながら裕子を見下ろす。
ずっと昔に自分と裕子、それに平家みちよの三人で組み手をしていたが、そのときはここまで圧倒することは無かった。
いくら裕子が疲れているからといっても、裕子は常に抜け目無くこちらの裏をかいてくる。
そのときは五回に一度くらいしか勝てなかったが、今だと何回やってもこちらが勝てそうな気がした。
- 359 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:57
-
「そんなに焦っても、余計に疲れるだけやん。もうちっと肩の力でも抜いたらどうや?」
「それができれば苦労はしない」
咳が治まった裕子は静かに立ち上がるが奇術を連発したのだろう、足元がおぼつかない。
慌てて手を差し出すがそれは見事に無視された。
「で、私に何の用だ?」
「……また最初から繰り返すつもりかい」
小さくツッコミを入れるが、限りなくノリの悪い親友は無言でこちらを睨んでいる。
穴があったら入りたい貴子だったが、それをするには周囲の穴は少し浅すぎる。
それにもしかすると照れくさいと思っているのは自分だけではないのかもしれない、そう割り切って続けることにした。
「つまりな、裕ちゃんがこれまで背負ってきたもんを、ちょっとでもええけん、ウチに分けてもらえんか?そうすれば、ちょっとは楽になるやろ?」
ずっと心の中で整理したものがようやく言えたという安堵と、そこはかとなくくさい台詞を言ってしまったという恥ずかしさ。
後者のほうがわずかに勝ったため全身が熱くなってくるが、目の前の裕子はもっと恥ずかしそうだった。
それがなぜ分かったのか。
つまるところ、裕子も顔を真っ赤にしていたからだ。
「よ、よくそんなことが平気で言えるな」
焦った口調でそう言ってくる親友はぎこちないが、その焦り具合はやはり昔から変わっていない。
いくら表面で繕っても、その根本部分は変わらないということだ。
そのことが貴子にとって嬉しかった。
- 360 名前:自由への逃避6 投稿日:2005/08/31(水) 15:58
-
「誰にでも言えることでもないやろ。ウチは裕ちゃんにしか言えんわ。それに、裕ちゃんくらいやろ、ウチっちゅう人間のことを分かってくれるのは」
「だが、昔みたいに戻ることはできない」
「せやけど、それに近いものは取り戻せる。ちゅうか、取り戻す。それくらいの意気込みが必要やと思うけど?」
かなり挑戦的なことを言ってにやついてみると、裕子はしばらくこちらのことをぼんやりと見ていた。
拍子抜けした裕子があまりにもおかしく笑いそうになるが、それをしてしまえば今度こそ本気で攻撃されそうで、それは我慢する。
が、ヒクついた頬に気づいてしまったのか、たちまちのうちに裕子の顔が歪んでいく。
それでも裕子も大人なのか、短絡的な行動はしなかった。
釈然としないが、ある程度の流れは受け入れる。
大人になるということはそういうことだ。
「……そうか」
ピースを取り出した裕子が指先で火を点ける。
以前にもした指摘をそこでもしてやろうかとも思ったが、そこまで裕子も子供ではないからそれは止めた。
何を言っても効果が無いと思ったのか、それ以上は何も言わなくなってしまった裕子に対し貴子もフィリップモリスを取り出して銜える。
火を点けようと思った直後、裕子が炎の灯った指先を差し出しているのが目に入りその好意に甘える。
普段よりも火力が強かったため危うく前髪を焼きそうになるが、それは愛嬌だと思って軽く受け流した。
「取り戻せるかな……?」
こちらに問いかけたのではなく、あくまでも自分自身に対する疑問。
それが分かっていたから貴子は何も言わずにフィリップモリスを銜えたまま黙る。
貴子自身の答えはすでに出ている。
その問いに答えるのはこの場所では一人しかいない。
それはつまり、中澤裕子としての心構えだし決意に他ならない。
自分のように別に口にしなくても良い。
ただ、自分に納得できる何かを得ることができれば良いだけだ。
そう割り切って思い切り吸い込んだフィリップモリスは、いつもよりも心なしかうまいと感じられた。
- 361 名前:いちは 投稿日:2005/08/31(水) 16:10
- 更新しました
今回は先生視点オンリーでした
>>345 通りすがりの者さん
今回の話である程度土台を作っておきたかったのでどうしても長くなってしまいました
すっきりしてもらえてよかったです
あと、今回の後半部分は「想いのなかの迷い、それから得る自由6」の後の話という設定になってます
次回は「自由への逃避7」です
役者もそろったということで舞台があそこに移動します
それでは
- 362 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/09/01(木) 14:43
- 更新お疲れさまです。
一つの決意を固めましたね、この先に期待です。
次回更新待ってます。
- 363 名前:自由への逃避 投稿日:2005/09/07(水) 14:16
-
自由への逃避7
- 364 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:17
-
最初に聞こえたのはやけに大きな音だった。
しかも地響きすらしている。
それが気になってしまい、田中れいなは目を覚ました。
(まだ……六時にもなってなかとよ)
見上げた先にあった置時計を見て毒づいてみるが、何に対して毒づいているのか分からないため再び目を閉じる。
眠れさえすれば忘れることができると思ったからだ。
が、その眠りすらもあっさり遮られることになった。
「れいな、さっさと始めるぞっ!」
怒鳴りながら入ってきたのは父親である仁志だった。
半分以上眠っていたれいなは普段ならば枕の一つでも投げつけるのだが、それすらも忘れて彼のことをぼんやりと見るしかない。
何を言っているのか良く分からなかったからだ。
「……親父、なん?」
寝起きだったから半分声が枯れているが、れいなも仁志もそのことをあまり気にしていなかった。
れいなはまだ眠りたいし、仁志は肩にかけた木刀をやたらと上下させている。
「この前言っただろ。自分の力を制御するには日々の訓練が必要だ。だから、今日から始めるぞっ!」
「まだ六時前とよ。もうちょっと寝かせて」
なぜ朝一から熱血しているのか良く分からない父親を尻目に被り布団を改めて被り直すれいな。
その直後、刺すような殺気が布団の向こうからやってきて、気がついたときにはベッドの隅っこまで避難していた。
どすんという振動がすぐ間近でし、衝撃がすぐにやって来る。
気がついたときにはベッドに大きな穴が開いていた。
「な、なにしようよ!」
さすがに血の気が引き一気に目が覚めたれいなは起き上がり、木刀を振り下ろしたまま固まっている父親に向かって怒鳴りつける。
その表情はあくまでも飄々としていて、掴み所がない。
- 365 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:18
-
「ちょっとは目が覚めたか?」
「覚めるも何も、下手したら死んどるところたい!」
「だがお前は生きてる。これが現実だ」
「訳の分からんことを……」
肝心のベッドが壊れてしまった以上眠るわけにもいかなくなり、仕方なく起き上がるれいな。
それを見届けた父親は『道場で待ってる』とだけ言い残してさっさと部屋を出て行ってしまった。
あらん限りの文句を思いつきながらもれいなはクローゼットに向かい、適当にジャージを取り出す。
真っ赤なジャージは今の自分みたく、いきり立っているように見えた。
道場へ向かう前に洗面所によって顔を洗う。
冷たい水が刺すように顔を刺激してくるのが意外に心地良かったが、熱くなった身体を冷ますほどではない。
台所ではすでに母親が朝食の準備をしていたため、一言声をかけてれいなは外へ出る。
夜とは違って朝は清々しく寒かった。
自分と同じようにジャージを着ていた父親は、無言で木刀の素振りをしていた。
単なる上下運動にしか見えないが、木刀が重いのはれいなも知っている。
それをぶれることなく、しかも規則正しく素振りするのは結構難しい。
「来たか」
自分がやって来たことに気づいた父親が素振りを止めてこちらを見てくる。
そのときになってようやく中に入っていないことを思い出したれいなは、慌てて靴を脱ごうとする。
が、それは父親に止められた。
「まずはランニングからだ。いきなり素振りなんかしても身体を壊すだけだからな」
「え〜!」
「つべこべ言うな。俺もついて行くからな」
というわけで、早朝ランニングをすることになったれいなは、後ろから父親に追いかけられるという格好で、かなり本気で走らざるを得なかった。
いつもなら数十メートル走れば息切れしてしまうが、背後から殺気が近寄ってくるからそうも言ってられない。
気づいたときには三十分ほど走っていたが、思いの外疲れていなかった。
- 366 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:18
-
「よし、次は筋力トレーニングだ」
帰る早々、休む間もなく腕立て伏せやら腹筋やらをやらせられる。
適度に身体がほぐれたといっても、れいなはまだ中学生でしかも女子。
隣で一緒にしている父親から明らかに遅れていた。
「今日十回できたなら、明日は十一回できるよう努力しろ。一日一回増やしていけ!」
「でも、それって一年後には……」
「つべこべ言うな、次は素振りだ」
へとへとになっているが、今度は竹刀を握らされてしまったため慌ててそれを振らなければならなくなってしまった。
いつもは軽いと思っていた竹刀も筋トレ後だと自由にままならない。
振り回すというより振り回されっぱなしだった竹刀に恨みがましい感情が芽生えたが、それは父親に向かわせはしなかった。
何を言われるか大体想像がついてしまったからだ。
「まあ、今日は軽めだが、これくらいにしとくか」
「……」
息を乱していない父親と何も言い返せないれいな。
日頃の鍛錬でここまで差が出るとは思わなかったが、汗をかいている様子にないことが非常にむかついてしまった。
「というわけで、最後のメニューだ」
(まだ、なんかすると?)
心の中だけで毒づき、父親を睨んでみる。
こちらをにやにやしながら見ていた父親が呼吸を止め、目を閉じる。
直後、彼からおびただしい熱気が巻き起こり、思わず吹き飛ばされそうになったれいなは慌てて四つんばいになって畳にしがみついた。
ほんの一瞬なのに生きた心地がしない、それくらい父親の力はすごい。
「何が自分の力で、どこまでが自分で扱えるのか。それを手っ取り早く確認するには、自分を極限まで追い詰めればいい。実戦において疲労は単なる荷物にしかならないが、こういう場面においてはもっとも有効だ。限界の中で自然に感じ取れた力、そいつがあるがままのお前の力だ」
やってみろと目だけで言われ、れいなは頭上にある自分だけの力をぼんやり眺めてみた。
いつもより水の塊が小さいのはまだ起きたばかりで、しかもろくな水分補給をしていないから。
その中から少量を取り出して、剣を作るべく両手に目をやる。
いつもやっているプロセスなのにひどく鈍く感じられた。
- 367 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:19
-
「余計なことは考えるな。ただ、じっとあるがままを受け入れろ」
(そんなこと言うたって、無理やん!)
心の中で叫びながら、それでもひたすら目を閉じて集中する。
変化は不意にやってきた。
全身から力が抜け、一瞬立っているのか寝ているのか分からなくなる。
ついているはずの足から感触が無くなり、空を飛んでいるような(実際に飛んだことは無いが)爽快感に包まれた。
目を開けてみると、両手を前に突き出した自分がいた。
じっと固まり、剣を作り出そうとしている自分。
見れば見るほど弱々しく、風が吹けば倒れてしまいそうだ。
が、そこまで自分は弱くない。
何をしたいのかがようやく分かった。
だから、その想いを大切にすれば良い。
そこまで考え、こうやって自分を見ている自分は何なのかと疑問を抱く。
そして、自分の手を見ようとした次の瞬間、地面に叩きつけられていた。
といってもこれはあくまでも比喩的な表現で、れいなは立ったまま動いていない。
いつ出来上がったのか良く分からないが、剣は無事完成していていつもどおりの冷たさを放っていた。
「どうだ、実感できたか?」
「……なんかよう分からんけど、空を飛んどる感じがして、もう一人のれながおったような気がしたっちゃ」
感じたままを父親に伝える。
爽快感はまだ身体の中に残っていて、握っている拳には冷たさが伝わってこない。
意識していないと剣を握っているという実感すら湧かない。
そのことが不思議だった。
- 368 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:19
-
「つまりはそういうことだ」
「……いや、全然分からんって」
満足そうに頷いている父親にツッコミを入れたれいなは、握った剣を軽く振ってみた。
軽すぎるが思っている以上に堅い剣は、振ると軽い音を立てている。
「限界時にできる最小限のこと、その結果がそいつだ。疲れ切っているから、能力はもっとも負担のかからない状態で解放される。今回はその確認だな」
軽く肩を竦めた父親が木刀を道場の隅に立てかける。
どうやら今日の訓練は終わりらしい。
それを見たれいなも持っていた剣を見て、わずかに力を込める。
ぱりんという音を立てて剣は壊れた。
「俺やお前の力は直接的な暴力に繋がる。だから常にそいつを制御しなければならない。そのためには常に自分自身を見つめ、何ができるかを把握しなければならない。俺が教えるのはこれまで俺がしてきたことで、もしかするとお前の役には立たないかもしれない。そう思ったなら、お前自身が考えて良い方法を見つけろ」
「……良く分からんけど、いつもちゃんとしとかんといかんってことっちゃね」
「まあ、ぶっちゃけるとそうなるな」
自分の力とどう向き合うべきなのか。
それはまだ駆け出しのれいなには良く分からない。
ただ大切な人にだけは向けてはいけない力だということだけは分かる。
ならばそうしないために、自分ができる最善のことを尽くそう。
そう思いながられいなは父親の後に続いて道場を出た。
「そうだ、壊したベッドはちゃんと直しといてね。壊れたままやと寝れんし、今日はさゆが泊まりにくるけんね」
家に入る直前、自分のベッドが壊されたことを思い出し父親の背中に向かってそう言うれいな。
彼の動きが一瞬止まったのはきっと気のせいではなかっただろう。
- 369 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:19
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 370 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:21
-
田中れいなと道重さゆみの二人が先ほどから雑誌を見て何やら話し込んでいる。
その背中を見る限り、自分のように緊張感は一切感じられない。
それもそのはず、自分はまだ何も話していない。
できることなら彼女達の知らないところで決着をつける。
そんな意気込みで稲葉貴子は臨んでいた。
(矛盾しとるのは分かっとるけどな……)
ひとりごちて小さく笑うが、前にいる二人には自分のことに気づかない。
あくまでも楽しむことだけを目的にしているようだ。
元々は待ち合わせをしている中澤裕子と自分の二人だけ。
この二人に声をかけたのは貴子のほうだった。
それについては裕子の同意は得ていない。
というよりも話すらしていなかった。
(裕ちゃんのことやから、絶対怒るやろうな)
れいなとさゆみの二人を無断で連れてきたことか、そのことを自分に話さなかったことか。
どっちにしてもろくな結果になりそうにはなく、静かにため息を吐いてみるが一向に落ち着かない。
それでも後悔はしていなかった。
(これまで裕ちゃんは勝手にやってきた。ウチもこれくらい、大丈夫やろ)
裕子がいればすぐさま反論してきそうなことをぼんやりと思い浮かべながら時計を見てみる。
待ち合わせの十一時まで、あと十分ある。
得意何もすることがなかった貴子はやはりぼんやりと目の前の二人を観察してみた。
今日のれいなの格好はいつにも増して特異だった。
貴子が以前見たれいなの私服はやたらと骸骨の絵が大きくプリントされたトレーナーだったが、今日の服装はその真反対で落ち着いている。
デニムのロングスカートに淡いピンクのワンピース。
がちゃがちゃした飾りが一切ついていなかったのが貴子として驚きだった。
(ま、これも道重の効果っちゅうやつかな……?)
わざわざ今日のためにさゆみと二人で選んだのだという服装。
似合っているが動きづらそうだ。
だが、れいなはそんな雰囲気を微塵も感じさせていなかった。
- 371 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:21
-
そんな落ち着いたれいなとは真逆のさゆみ。
黒いジーンズにやはり黒っぽい無地のトレーナー。
首から下と首から上のギャップが大きいと言えば大きいのだろうが、そんなことはやはり微塵とも感じさせていない。
二人の普段の格好を入れ替えたと言われれば、すんなりと頷けるのだろう。
だから、貴子は服装について一切触れなかった。
「先生、良かですか?」
「ん?」
気がついて意識を元に戻すと、前にれいなが立っている。
一瞬、さゆみだと勘違いしそうになったが、背が圧倒的に低いことですぐに見分けがついた。
そのれいなに目だけで先を促す。
「れなとさゆがついてくるって、師匠に話しました?」
「いんや、全然話してない」
さらりと言うと、聞いたれいなは口だけを歪めていた。
「大丈夫やって。ウチが言えば裕ちゃんも落ち着いてくれる」
「それなら良かですけど……」
裕子が怒ったところを想像したのだろう、肩を大きくビクつかせていたれいなに苦笑いをするが、彼女はそんな貴子のことを見ていない。
さゆみのところへすぐ戻ったのはきっと少しの間でも裕子のことを忘れたかったのかもしれない。
そんなれいなの背中を微笑ましく見ながら、貴子は再び一人の世界へと戻っていった。
今日までの一週間は本当にあっという間だった。
週の初めにれいなの誕生日があってそれに呼ばれたことや、やたらと裕子と喫茶店で話をしていた。
どちらも良い思い出になりそうだ。
(って、何かこれで最後っちゅう感じやな……)
なぜそう思ってしまったのかは分からないが、悪循環を始めそうな考えを笑って否定する。
自分は死にたがりでもないし、死んでも良いほど満足しているわけでもない。
それどころか不満ばかりだ。
こちらからアプローチしても裕子はちっとも友好的にならないし、絶えず自嘲気味に笑うことが趣味になりつつある。
自覚できていない裕子の癖をどうにか直したいが、こればかりは自分ひとりでは足りない。
彼女の存在があるから。
- 372 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:22
-
これから向かう先には、必ずその彼女――平家みちよ――がいる。
自分はそれと対峙するつもりだ。
これは裕子の役割なのかもしれないが、何もできないわけではない。
何もせずに傍観するつもりもさらさらない。
文献で調べるところによれば一度死んでしまった人間を再生させた場合、生きていた人間の記憶をそのまま留めていることはほぼ不可能に近いという。
記憶は単なる情報と成り下がり、再生した人間に最低限度のことしか教えない。
それは同時に再生した人間を縛らないことを意味する。
だから、みちよは貴子のことを知っていても、何の抵抗も無く傷つけることができた。
(それを裕ちゃんはこれまで一人で背負ってきた。せやから、今度はウチの番や)
三年前のあの日から裕子は何かを引きずり、再び平家みちよが現れてから自覚してしまった自分に対する業を与えてしまった。
ずっと引きずっていた裕子が悪いのか、蘇ってしまったみちよが悪いのか貴子には分からない。
ただ、その根本から存在する奇術というものが全ての元凶なのだろう。
「私にできることはたががしれている。でも、何もできないことはない……」
「なんか言いました?」
「いや、何でもないわ」
唐突に出てきた言葉を聞いたのだろうれいなが振り返ってきたが、貴子はそれに対して軽く手を振って答えるだけ。
自分自身、その声が信じられなかったからだ。
- 373 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:22
-
(あかん……奇術師やった稲葉貴子が出てきたか……)
封印したと思っていた感覚が出てきてしまったのは、ここ最近連続して奇術を使っているから。
使い魔を本格的に使役すれば、感覚は昔に戻る。
全盛期だったあの頃に。
(あんときはちゃんとストッパーがおったけど、今はもうおらん……せやから……)
もう、あの頃の自分には戻らない。
あくまでも自分は教師である稲葉貴子だ。
今日はその教え子でもあるれいなやさゆみもいる。
だから、二人に醜態は晒せない。
「まあ、こいつらが仮のストッパーになってくれればええけどな」
目の前にいる平和そのものな二人をぼんやり見ながら呟く。
が、言った後でそれがかなり自分勝手な発言だと分かり、苦笑いする。
直後、れいなが振り返ってきたため、貴子は慌てて表情を引き締めた。
「先生、良かですか?」
「なんや、まだなんかあるんかいな」
声が裏返っていないことを耳で確認しながら意識してれいなを見る。
「先生や師匠ってこれからどこに行くつもりなんですか?」
「ん?」
れいなの素朴な疑問にどう答えようかしばし考える。
が、どう説明してもれいなやさゆみが納得できるとは思えなかった。
「古い知り合いに会いに行くんや」
自分の言葉にきょとんとしているれいなから視線を外す。
その背後にやたらと目立つ、緑の丸みを帯びた車体が入り込んできた。
その良く知った車中には旧友、中澤裕子が乗っている。
- 374 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:22
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 375 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:23
-
自分といっしょにいる裕子は、どこか居心地が悪そうにずっともぞもぞ動いている。
今週に入りいっしょにいる時間が長くなってから気づいたその仕草を何度も指摘しているが、どうも聞き入れてくれない。
本人曰く、『身体がうずうずしている』らしいが、貴子はそうは思わなかった。
むしろその逆で身体が拒否をしている、そんなふうに感じる。
(この話を持ちかけてきたのは裕ちゃん。せやけど、その話を強制したのはウチ……この場合、どっちが悪もんになる?)
ずっと一人で背負い続けようと思っていた裕子に無理やり割り込んだことが悪いのか、貴子に対して何も話そうとしない裕子が悪いのか。
(まあ、この際どうでもええか)
堂々巡りになりそうな思考を無理やり断ち切って周囲を見渡す。
今、この場所には裕子と自分しかいない。
れいなとさゆみは目の前にあるいかにも怪しげなショップへと入っていったばかりだ。
そして、灰皿の置いてあるスペースでピースを吸っていたはずの裕子が唐突に動き始める。
「裕ちゃん、一人で行くつもりか?」
「もともとはそのつもりだった。それに割り込んできたのはお前のほうだ」
「……あぁ、そうですかい」
冷たく刺々しく言い放ち歩き始める裕子。
その背中を咎めること無く貴子はついて行く。
「あの二人は放っておいても良いのか?」
前を歩く裕子がぽつりと聞いてくる。
周囲の人ごみにかき消されそうなその声を何とか聞きとめ、貴子は答える。
「まあ、あいつらが探しよる間に終わらせればええだけの話やろ?」
「そんなに簡単にいくものか」
「短期決戦で片つければええだけやん。裕ちゃんかて好きやろ?」
「……できれば良いがな」
「……」
裕子の肩がわずかに上下する。
笑っているのだろうが笑う理由があまりにも自虐的すぎる。
今は何を言っても聞き入れてくれないだろうから、貴子は頭の隅にとりあえず書き留めることにした。
- 376 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:24
-
それから五分は無言で周囲の人ごみをかき分けながら歩く。
なぜかまばらになっていく人を不思議に思うが、裕子の歩く速度が速すぎるため意識を逸らすこともできない。
気配を消すことがやたらとうまい裕子を先に歩かせることがかなり危険な行為だとは思ったが、実のところ貴子はこの敷地内のことが全く分からない。
入り口のところで大きなパンフレットを配っていたが、れいなやさゆみがそれをもらっているのを見て、なぜか気が引けてしまった。
年齢がモノを言っているのかどうか分からないが、道を知っている裕子さえ見失わなければ特に問題ない、そう割り切って前だけに集中する。
そして、唐突に周囲の人がいなくなった。
「なんちゅうか、まあ……」
自分でも良く分からない声を上げながら、貴子は目の前に現れた大きな建物を見上げる。
一見すればそれが病院に見えるが、貴子や裕子のいるテーマパークにそういった施設は無い。
病院を模したお化け屋敷だ。
周囲に人がいないのは入り口付近に張り巡らされたロープと『休館日』といった札が原因だろうが、それだけではない。
見た目ではなく、貴子が持っている独特の感覚――奇術の感覚――に訴えかけていた。
背筋を走る冷たい殺気。
張り巡らされた絶望。
少しでも気を許せば引きずり込まれてしまいそうだ。
(えらく物騒なもん、造ったな……)
「ここにミカとみちよがいるはずだ」
心の中でぼやいた貴子に構わず喋った裕子が、おどろおどろしい建物に向かって歩き始める。
不安を微塵とも感じさせない物言いと行動に思わず舌を巻く貴子だが、慌ててその後を追う。
近づけば近づくほど背筋がぞっとするが、その裕子が唐突に止まった。
病院の入り口、立て札を越えた先で止まった裕子が、じっと中を見据えている。
彼女の隣で同じように止まった貴子も中を見て、口笛を吹いた。
いたのはフロア一面を覆う、一見すれば人間のようにしか受け取れないグロテスクなオブジェの群れ。
だいたいは血塗れになり五体のどこかが欠けたそれらが、ゆっくりとこちらへ向かってきている。
- 377 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:25
-
「やけににぎやかな歓迎やな」
「そう言える貴子が羨ましいよ」
苦笑いをしている裕子に頬を膨らませてみるが、彼女はそんな自分に一切配慮していない。
すでに全身を緊張させ重心を前へと移動させたのは裕子独特の戦闘態勢だった。
少しでも速く相手に近づき、近距離で奇術を用いる。
必殺だがそれだけリスクも高いその戦法を裕子は好んでいる。
そんな裕子に向かって貴子は手を出す。
まさか止められるだろうと思っていなかった裕子は、殺気だった目をこちらへ向けてきた。
「なにも裕ちゃんがせんでもええやろ。それにゆうちゃんがやるとやたらめったら壊れるしな」
軽く言い切り、言葉と同じくらい軽い一歩を踏み出す。
左手首に嵌めたブレスレットを一瞥すると、脇に音も無く使い魔が姿を現した。
貴子にしか見えない使い魔は状況を察しているのか、いつでも飛び出せるよう身構えている。
使い魔を制し、貴子は周囲の気配を探る。
だいたいの数を把握し、続いてそれらとは違った別の気配を感じ取る。
(まず、近くにある奴らを一掃する。次はこいつらのボスを叩く)
似ているが周囲に散らばっているどれよりも大きな気配。
そいつが大元に違いない。
そう判断した貴子は、懐に忍ばせていた果物ナイフを取り出して構える。
そして次の瞬間、飛び出していた。
遠くからでは人間にしか見えないオブジェも、近づいてみればかなり雑な作りのようだった。
まず気がついたのは、迫っているオブジェがやたらと規則正しいということ。
これは近づかないほうが良く分かるのだろうが、視界に入ってくるオブジェの足並みが行進のごとく揃っている。
もっとも、元がグロテスクなだけに揃っていてもあまり見ていたくはない。
次に分かったことは、流れている血がペンキだということだった。
接近しているのに血の臭いが全くしてこない。
それどころかシンナーの臭いがしてきたのだから、疑う余地は無いのだろう。
- 378 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:25
-
(ちゅうわけでこいつら全部、単なる模型や)
一気に興ざめしていくのを感じながら、貴子はナイフではなく拳を間近にいたオブジェに叩きつける。
胸元を殴られた頭の無いオブジェはもんどりうって倒れ、直後、手足が外れてばらばらになった。
脇を駆け抜けていった使い魔も牙ではなく体当たりでオブジェを粉砕していく。
動くだけのオブジェはろくに攻撃すらしてこない。
バラバラになった手足がどうしようもなく邪魔だった。
「手応えっちゅうか、それ以前の問題やな……」
二十体ほどがばらばらになり、入り口付近のスペースは確保される。
後ろの裕子を見るとピースを吸ってこちらではないどこかをぼんやり眺めていた。
「これでボスもしょぼかったら、本気で怒るぞ」
げんなりしながら奥へ向かうが、正直、オブジェは相手にしていなかった。
軽く小突くだけでバラバラになる相手に気を遣うまでもないし、いちいち遣っていれば疲れてしまう。
とりあえず一番奥にいるらしい大きな気配だけに注意して次のフロアを目指した貴子は、目的の場所に辿り着いた。
「まあ予想はしてたが、これはまた……」
右手を眉間に添えて真剣に唸る貴子。
その目の前にはやたらと大きな熊のぬいぐるみっぽいものが置いてあった。
どのくらいの大きさかといえば天井が頭にくっついているほどで、しかも両手が部屋の両端まで広がっている。
フロアの半分を占拠したそれはのっそりと立ち上がろうとしていた。
「いや、無理やろ」
適度にツッコミを入れながらどう対処すべきかを考える。
いかにもふわふわした感じが今まで壊してきたオブジェと違うが、明らかに今までよりも弱そうだ。
その証拠に使い魔は大きくあくびをして毛繕いを始めていた。
「壊すにしてもどこをどう壊したらええもんか……」
立ち上がろうにもすでに頭が天井にくっついているため根本的に無理なのに、ぬいぐるみはやけにがんばっているようだ。
しばらく足をばたばたさせていたが、どうにもこうにもならないのに気づいたのか、とすんという音を立てて再び元の位置に戻る。
つまり動けそうにないということだ。
- 379 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:26
-
「……適度に分解していったらええか」
手にした果物ナイフが限りなく心細いが、引き裂くにも他に道具が見当たらない。
ため息を吐いてその作業に取りかかろうとした貴子は、不意に目の前が明るくなるのを感じた。
ほんの一瞬だけの光。
危険を感じて飛び退くのと立っていた場所に光線が打ち込まれたのはほぼ同時だった。
「なんか目から光線が出よるで……うわっ」
言っているそばから目が光り、再び光の線が降ってきた。
点滅した直後にやってくる光線はひっきりなしに貴子を追ってくる。
目が光らないと光線は出てこないし、光線自体が遅いこともあるが、絶えず打ち込まれるから面倒なことこの上ない。
このまま近づいても良いのだろうが、他にも隠し玉があるかと思うとどうしても躊躇せざるを得なかった。
「だったらこうすればいい」
背後から声がした直後、ぬいぐるみが突然燃え上がる。
振り返ってみるとそこにはまだピースを銜えたままの裕子が立っていた。
「壊せないなら燃やせばいい。簡単だろ?」
肩を竦めながら言ってくる彼女に文句の一つでも言おうとする貴子だったが、背後のぬいぐるみから轟音が聞こえてきたため、慌ててそちらへ意識を戻す。
それから再び右手を眉間に添えた。
「裕ちゃんどうするんや?暴れだしたで!」
「……すんなり燃えないほうが悪いんだ」
立ち上がった元ぬいぐるみが両手をばたばたさせながらこちらへ近づいてくる。
なぜ立ち上がれたのかというと、最初に燃えたのが頭だったから。
つっかえ棒の役割を果たしていた頭が無くなり、短い足でどしんと歩き始める元ぬいぐるみ。
暴れだしたそいつを沈黙させるのはかなり大変な作業になりそうだ。
- 380 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:26
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 381 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:27
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いかにも怪しげなショップ――つまりはミリタリー関係のグッズが並んでいるが――で買えたものはなかった。
どいつもこいつもやたらと値段が張るし、そもそもそれだけの資金を持ってきていない。
しかも今日はかなり不釣合いな服装でやってきていたことをようやく思い出したれいなは、凹んでいいものやら胸を張っていいものやらかなり迷いながらショップを後にした。
隣にいるさゆみからは安堵の息が洩れている。
「やっぱこの服装だと似合わんっちゃね……」
飾ってあったアサルトライフル(もちろん本物ではない)を持ち、鏡を見たときの浮かびようはまだ記憶に新しい。
それ以上に周囲が引いていたのがかなりショックだった。
「この際だからきっぱり止めてみたら、そんな趣味」
「……考えてみるっちゃ」
さゆみに言われるままミリタリーな趣味を封印しようと強く思ったれいなは、店のことを忘れて周囲を見渡す。
「先生と師匠ってどこにおると?」
「そういえば見当たらないね」
店の前は人がまばらでしかもそれなりの格好をしているため、貴子と裕子を見つけるのは簡単なはずだった。
が、いくら二人が探しても二人は見つからない。
「もしかして思ったんだけどね」
袖を引っ張ってきたさゆみに振り向き、それでもやはり周囲を探してしまう。
そんなれいなに向かってさゆみが言ってきた。
「先生達って別に『待ってる』って言わなかったよね。ただ『言ってこい』って言ってたよね」
「……それって置いてけぼりってこと?」
「……」
静かに頷いてくるさゆみを尻目に、ショップに入る前のやりとりを思い出してみる。
機嫌が良かったのは貴子よりも裕子のほうで、彼女が強く勧めるから入ったのだ。
そこまで思い出したれいなはふつふつと怒りが湧いてくるのを堪えることができなかった。
- 382 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:28
-
「ものすごく卑怯やなかとよ!」
気がついたときにはさゆみの手を引いて走っていたが、れいなは気がついてもそのまま走った。
どこかにいるなら探せば良い。
そう割り切る。
「れーな、どこ行くの?」
「分からんっちゃ。でも、ここのどこかにおるのは絶対っちゃ」
「だったらちょっと考えてみようよ」
後ろのさゆみが止まり、思わずつまづきになったれいなは慌てて急ブレーキをかけた。
走り出してまだちょっとだから息は切れていない。
ただ焦りに似た感情が心臓の音をやたらと強く、そして速く聞かせてくる。
「広いんだから適当に探しても見つからないと思うの。二人がどこに行ったのかちゃんと考えてから探してみよう?」
「分かったっちゃ」
すぐにでも走り出したい衝動を何とか抑えながられいなは考える。
このテーマパークの中で特別になっている場所といえばどこか……
しばらく記憶の中を漁ってみてようやくとっかかりを見つけた。
誕生日の日に語っていた小川麻琴・真琴と新垣里沙の話。
そこで出てきたのは……
「お化け屋敷!」
目に見えるのに存在していない、そんな矛盾を併せ持った異様な空間を三人はそれぞれの口で語った。
真琴にいたっては絶対に近づくなと警告してきた。
そんな場所ならば、あの二人はいるかもしれない。
- 383 名前:自由への逃避7 投稿日:2005/09/07(水) 14:28
-
「そこなの?」
「分からんっちゃ。でも、一番怪しい……って、もうちょっとましなもんもってこんかいっ!」
そこまで言ったれいなは、姉達から誕生日にもらったふざけたパーティーグッズを思い出し叫んでいた。
叫んだ後で何が起こったのかを理解したれいなは、後ろにいたさゆみに慌てて言い訳をする。
「今のってマコ姉とマコ兄に言ったけんね」
「……うん、分かってる」
苦笑いをしているさゆみを見て安心したれいなは、手を引いたまま再び走り出す。
もらったパンフレットにも場所は書かれていたが、見上げればどこにあるのか一目瞭然だった。
ちなみにさゆみからの誕生日プレゼントは手作りのビーズのブレスレット。
もらうにしても心のこもったものがほしい。
その点で言えば姉達からもらったものは最悪に近かった。
気持ちを切り替えて人ごみをかき分けていく。
ふと浮かんだ姉達の顔はお化け屋敷に近づくごとに消えていく。
入れ替わるようにして浮かび上がったのは底知れぬ不安と締めつけられるような息苦しさ。
いつの間にか歩幅が乱れていたがれいなはそれに気づくことなく前へ足を踏み出していた。
なぜそうしたのかははっきりしている。
その中に貴子と裕子の二人がいる。
(れなやさゆはのけ者なんですか?)
心の中で叫んだれいなは目前に見えたお化け屋敷に向かってひたすら突進する。
入り口にあったロープをわずかに屈んでやり過ごす。
その際、近くにあった『休館日』という札に気づくことはなかった。
- 384 名前:いちは 投稿日:2005/09/07(水) 14:41
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更新しました
舞台が移動して最初の部分でした
もうちょっと続きます
>>362 通りすがりの者さん
決心した先生はこの時点ではかなり強いです
かわりに師匠のほうはかなり捻くれてます
次は「自由への逃避8」です
前の話で出てきたあの人やらあの人なんかが出てきます
それでは
- 385 名前:自由への逃避 投稿日:2005/09/14(水) 15:27
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自由への逃避8
- 386 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:27
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奇術には大別して三種類ある。
一つは直接的な力を司る『攻撃』であり、もう一つは間接的に支配することを目的とする『使役』、最後の一つはゼロから何かを生み出す『作成』の計三つ。
ただ、この区別の仕方には未だに疑問の声を持つものがいる。
端的に言えば今の自分だ。
あとの二つ――『使役』と『作成』――をはたしてそうやって明確に区別できるものか。
『使役』をする奇術師にも才能があれば使い魔を『作成』できるし、行動する何かを『作成』した奇術師がそれを『使役』したりすることもできる。
後者の例で自分が知っているのは中澤祐一である。
そして前者の例が、目の前でようやく燃え落ちようとしていた。
(まあ、単なる言葉遊びって言えばそれだけのことやしな)
巨大なぬいぐるみの燃えカスを眺めながら独りごちる稲葉貴子。
隣では三本目のピースを銜えた中澤裕子が燃えカスに近づいていた。
少しでも有効利用するつもりなのか、単にたばこが吸いたいだけなのか貴子には分からない。
どちらでも構わなかった。
「仕事のあとの一服は最高だな」
「……あれって仕事か?」
げんなりしながら聞くが、当の裕子は気持ちよさそうに煙を吐き出すだけ。
燃えながら暴れるぬいぐるみからひたすら逃げ回っていたのを仕事と言い切れる裕子が羨ましかったし、煤だらけになってしまった自分が情けない。
至福の時を味わっている彼女を放っておいて貴子は最初のフロアに戻るべく回れ右をする。
「先生っ!」
振り返った直後、少し遠くから別の誰かの声が聞こえてきた。
否、置いてきた彼女達が自分達に追いついてきたのだ。
「なんや二人とも、もう来たんかい」
言いながら最初のフロアに戻る貴子。
散らばっているはずのオブジェの山はいつの間にか消え失せていた。
「ボスがおらんくなると勝手に消えるっちゅうのはある意味楽やな」
「は?」
「いや、こっちの話や」
フロアのど真ん中に立っている二人に軽く手を上げるが、振り返ってきた二人(特にれいな)の表情はかなり怖かった。
- 387 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:28
-
「それよりどういうことですか。なしてれな達を置いて行ったと!」
「いや、もろもろの理由があってな……」
詰め寄ってくるれいなから必死に目を逸らしながら後ろへ下がる。
顔のすぐ下で何やら捲くし立てているれいなからどう逃げようか考えるが、壁にぶつかったためそれも諦めざるを得なかった。
「田中、私達はこれから忙しくなる。さっさと帰れ」
横から聞こえてきたのは裕子の言葉はいつも以上に冷たい。
見てみると短くなったピースをまだ持ったままの彼女が立っていた。
「忙しくなるって、やっぱりここでなんかするんですね?」
れいなの手を引きながらさゆみが裕子に聞く。
案外すんなりと後ろへ下がったれいなから素早く遠ざかるが一瞥されてしまったため慌てて止まる。
笑ってみたが険しいれいなの表情は崩れない。
「もうすぐここは本格的な戦場になる。中途半端な人間や一般人が紛れると本気で死ぬぞ」
(なにもそんなに脅さんでも……)
心の中だけでツッコミを入れ、どう二人をフォローすべきかを考える。
変化した表情を見る限り、すべき人間は一人だけのようだ。
「師匠、いくら駆け出しだからって中途半端はなかとですよ。れなだってちゃんと戦えます!」
自分に詰め寄ったのと同じ勢いでれいなが裕子へ向かっていく。
さゆみの手はいつの間にか解かれていて彼女を止める人間は誰もいない。
しかし、裕子も負けてはいなかった。
詰め寄られるが表情は一切変えていない。
「だったらお前に聞く。『何』と戦うつもりなんだ?」
「へ?」
静かに問いかけた裕子に、間の抜けたれいなの声。
わずかに見えたれいなの表情が凍りついているのが手に取るように分かる。
「言っておくがお前がいつも相手にしている残留思念はここにはいない。いるのは人間だ。そして、戦うということは相手を殺すということだ。お前にその覚悟はあるのか?」
「ちょっと裕ちゃん……」
「貴子、お前にも聞きたい。お前は殺すつもりでここにいるのか?」
止めに入ろうとして今度は自分に話が振られてくる。
冷めた視線を送られ、貴子は何も言い返せなかった。
- 388 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:28
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「中途半端にしか覚悟ができていないのなら、単なる足手まといだ。私一人で行く」
(なんでそこまで思い詰めとるんやろ……)
心の中で呟き、いざ声に出そうと前に出た直後、それはやってきた。
ざーっというスピーカーから流れる雑音。
それは一瞬で鳴り止み、次に聞こえてきた声に思わず閉口してしまった。
『みなさん、ご機嫌いかがですか?』
やたらと甲高い声に耳を塞ぎたくなり、素直に実行する。
スピーカーを探していたのだろう、きょろきょろしていた裕子の顔が突然止まる。
同じように視線を送り、その先にスピーカーを発見する。
『せっかく来て頂いたのです。最後まで楽しんでください』
「ミカめ……」
高笑いを始めたスピーカーに対して裕子の口がわずかに開き、呪詛の言葉を漏らす。
次の瞬間、スピーカーが火を噴いていたが、声が止むことはなかった。
他にも設置されているのかもしれない。
もしくは近くにいるのではないかと思って気配を探ってみるが、フロアには自分を含め四人以外の気配は感じられない。
「つまり、ここはあいつの城っちゅうわけやな」
「あぁ、限りなく悪趣味だがな」
「田中、道重」
それまでなかった危険がいきなり目の前に現れ萎縮したのだろう、れいなとさゆみが素直にこちらへやってくる。
それから入り口を指差した貴子は、そのまま固まった。
ぶうんという低い音と共に遮られる明るい光。
入り口が塞がれた瞬間だった。
『入り口を塞いでいるのはアヤカ特製の結界です。生半可な力では壊れませんからよろしく。ちなみにこの建物の外壁も同様です。無駄な努力はしないでくださいね』
さらりと告げてくるスピーカーを貴子も睨んでみるが、やはり効果はない。
つまるところ敵に先手を打たれてしまったのだ。
『私は上にいます。そこまでみなさん、無事でやってきてください』
ぶつんという耳障りな音を残してミカ・エーデルシュタインの声が途切れる。
異様な静寂の中で貴子はフィリップモリスを取り出して銜える。
ライターを擦る音だけが小さく、そして小気味良く響き渡った。
- 389 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:28
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 390 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:29
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「師匠、これってなんですか?」
薄暗い階段を上っていく間、無言になるのが苦しくなったれいなが話しかけた。
手を握ったさゆみに話しかけても分からないだろうし、貴子は前を歩いている。
その程度の理由で裕子を選んだが、彼女は暗闇でも分かるくらい顔を歪めているだけだった。
恐ろしく機嫌が悪いようだ。
「悪趣味な人間の、悪趣味な嫌がらせっちゅうやつやな、これは」
自分の声を聞いてくれていたのだろう、前にいる貴子から声が返ってきた。
緊張感の無い先生の声に同意できたのは後半の部分だけ。
悪趣味な人間というのをれいなはまだ見たことがなかった。
スピーカーから聞こえた声のとおり、入り口は見事に塞がれていた。
途絶えた直後、裕子が入り口に向かって炎の塊を投げつけているが、それでも壁には傷一つつかなかった。
裕子は入り口横の壁に同じように炎をぶつけるが、今度は炎が跳ね返ってきてしまったのだ。
慌てて飛び退いた裕子が面白かったが、師の炎の威力はれいなが良く知っている。
だから笑うに笑えなかった。
というわけで、残されたのはスピーカーの声に従って上を目指すしかなく、今、れいな達四人は階段を昇っている。
五階ある建物のどこに声の主がいるのか分からないが、どうやら貴子は一番上を目指していることだけは分かった。
直接聞いていないが、何となく雰囲気でそれを察する。
「ちょっとみんな、来てみ」
先を歩いていた貴子から声をかけられ、れいなは顔を上げる。
だいぶ前にいるものかと思ったが実際はすぐ目の前にいるようで、曲がった先から声が聞こえている。
階段を昇りきったところで貴子の背中を見つけ、同時になぜ彼女がそこで声を出したのかをれいなは知った。
- 391 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:30
-
「どうやらこっからは横着するなっちゅうことらしいな」
何やらこざこざした荷物に塞がれた階段を前にしてうめいている貴子。
細長い筒だとかやたらと大きな木箱の中身が気にならないでもれいなだが、触って変なことが起こっても嫌だし中を見て後悔するのも嫌だからあっさりと諦める。
『4F』と書いてあるプレートのとおりそこは四階なのだろうが、実際のところ本当に四階なのかどうか良く分からない。
壊れたエレベーターの表示を見てもちっとも参考にならないため、れいなは握っていたさゆみの手を少しだけ強く握ってみた。
今見ているどんなことよりも、さゆみの手のほうがずっと現実味を帯びている。
温かいとも冷たいとも感じさせない周囲の建物のほうがずっと異常なのだ。
「さゆ、大丈夫?」
無言だったさゆみに小声で聞いてみる。
それまできょろきょろしていたさゆみはすすっとれいなに顔を近づけてきた。
「なんか生きてる心地がしないね」
「うん」
的確なことを言ってくるさゆみに小さく頷くれいな。
病院という設定からしてそうなのかもしれないが、他にも原因はあるようだ。
目の前で派手な音がして、何かが転ぶ音が続いて聞こえてくる。
慌てて意識を外へ戻すと、そこには床にうつ伏せになった裕子がいた。
顔から床に倒れている裕子を見るのは初めてだった。
- 392 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:30
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 393 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:32
-
「裕ちゃん、なんで転ぶんや?」
隣を歩いていた裕子が突然転んでしまったため、貴子も続いて止まる。
といっても転んだ分歩いているため、自分と裕子との間には一メートルほど距離が開いていた。
「……ぶつかったぞ、なにかに」
むくっと起き上がった裕子が叫んでこちらへ向かってくる。
が、彼女が貴子の隣へやってくることはなかった。
目前で何かに弾かれた裕子が今度は足を浮かせて背中から倒れる。
どこをどうみても芝居には見えないが、貴子は思わず笑ってしまった。
「なにをそんなに景気良く吹っ飛びよるねん」
今度は仰向けに倒れた裕子に近づき、手を差し出す。
叩かれるだろうと思っていたが、裕子が素直に握ってきたため、軽く引っ張って起こしてやる。
立ち上がった裕子は身体についた埃をぱたぱたと払っていたが、その顔は腑に落ちないという感じだ。
視線は先ほどまで貴子が立っていた場所に固定されている。
睨みつけるといっても良いくらいの眼光を秘めているが、なぜそこまでしなければならないのかが貴子には理解できなかった。
そんな裕子の前をわざと歩いて、先ほど吹き飛ばされた位置を越える。
それからさらに三歩ほど歩いて振り返ってみると、そこには眉を顰めた裕子が立っていた。
「じゃあ、次はれなが行きます!」
裕子の後ろにいたれいながやけに威勢の良い声を出してこちらへ向かってくる。
そして、あっさり吹き飛ばされた。
ころころと二回転ほどしたれいなはさゆみに受け止められすぐに立ち上がった。
その顔にはやはり腑に落ちないという感じが張りついている。
一人だけならまだしも二人が揃って吹き飛ばされたのを見てようやくおかしいことに気づく貴子が行ったり来たりしてみるが、やはり異常は感じられない。
三回ほど同じ動作を繰り返し二人のところへ戻ろう、そう思った直後、貴子にも分かるような異変がやってきた。
- 394 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:32
-
『そこにあるのは選別するための装置です。有用な人間だけが通れて、それ以外は弾かれてしまう。そういった仕掛けですよ』
「それで、なんでウチだけが通れたんや?」
スピーカーから聞こえてきたものと同じ声に聞き返してみるが、他の三人が不思議そうにこちらを見ていることに気づき、慌てて周囲を見回す。
今度はスピーカーらしきものも全く見当たらない。
『そういうことです。あなたは選ばれました。ということで、ここからは別行動です』
「へっ?」
ミカの声と同時にやってくる落下感。
下を見てみるとそれまであったはずの床がごっそり消え失せていた。
(うーん、これってなんか叫ぶべきやったんかな?)
驚くタイミングを逸してしまったため何も言えず、特別なリアクションすらできずに落ちていく。
下を見れば床が間近に迫っているのが分かり、体勢をわずかだが変えた。
といっても瞬間的にできたことと言えば足を少しだけ曲げることくらい。
あとは覚悟を決めるしかできなかった。
着地は意外と綺麗に決まった。
曲げた両足で衝撃を緩和しながらもそれだけでは不十分だから転がる。
じんじんする両足のことは無視して三回転ほどしてから立ち上がると、そこは思いのほか広かった。
最初のフロアと同じくらい広い部屋だったが、最初のフロアではない。
違いを挙げるとすれば部屋全体が明るいし、カウンターも置いていない。
F中の体育館くらい無駄に広いその部屋に、貴子はぽつんと立っていた。
「落ちるなら落ちる言うてくれんと、どうリアクションすればええか分からんやろ」
誰にどう抗議しているのか分からないが、とりあえず喋ることで許すことはできた。
少なくとも落とされたということについては。
他に抗議するならこれから現れる誰かにすれば良い、そう勝手に決めつけて貴子は少しだけ身体を緊張させた。
- 395 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:33
-
先ほどの巨大ぬいぐるみのときに収めた使い魔を再び呼び出す。
身体を透過させて登場した使い魔は四足をしっかりと床につき立てて周囲を警戒している。
それを見て貴子も同じように気配を探ってみる。
どうも使い魔がいればそれに頼ってしまう。
使役する奇術師にとってそれはもっとも油断しているときであり、無力になる瞬間だ。
だから、少なくとも自分に降りかかる災難にだけは最大限の注意を払う。
しばらくそんな状態が続き……
「これで誰も出てこんかったら、それこそお笑いやな」
呟いてみても何も現れなかった。
どこかで誰かが監視しているのかもしれないが、少なくとも自分には近づいていない。
集中力が途切れるのを待っているのか、本当に誰も現れないのか。
どちらが賭け率が高いかを考え、少しだけ後者のほうに期待していることに気づく。
(つまり、今が油断したっちゅうときやな)
頭の中で考え、次の瞬間には飛び退く。
ほぼ直後、貴子がそれまで立っていた場所に鋭い何かが生えてきた。
少しでも判断が遅れていれば自分があのグロテスクなオブジェの仲間になっていたのかもしれずぞっとするが、そこに生えているのが何なのか分かってしまうともっとぞっとしてしまった。
生えていたのは異様に長い腕。
ただ本来ならば手のある部分に蛇の頭があるとしても、それを腕と呼べるのかどうかが疑問だったが。
その蛇の頭には見覚えがあった。
「まさかあんたがウチの前に出てきてくれるとはな」
「一撃で殺せるとは思わなかった」
床から生えてきたのは平家みちよだった。
床を全く傷つけず現れた彼女にどうツッコミを入れるべきか思案するが、蛇の頭のついた両手をくねくねとこちらへ向けているのが見えてそれどころではなくなる。
もう一歩後ろへ下がると、その直後には二つに増えた蛇の頭が床にめり込んでいた。
「ヒュ〜」
あまりの速さに思わず口笛を吹いてしまう貴子だったが、当然みちよの攻撃はそれで終わりではなった。
- 396 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:34
-
めり込ませた蛇の頭がもぞもぞと動き、床を抉りながら再びこちらへと向かってくる。
と思ったが、今度はみちよ本体もこちらへと接近していた。
背中から大きな羽を生やし、地面すれすれのところを飛びながらやってくる。
およそ人とは思えない姿だが、貴子も混乱はしない。
使い魔に指示を出していたのでは間に合わない。
冷静にそう状況を見据え、もう一歩後ろへ下がった。
「なかなか当たらんな」
「下がっている限り当たらないなら繰り返すだけだ。空間は有限でしかない」
挑発してみるが、どうやらみちよはこちらの意図を汲み取ってくれない。
あっさりスルーしてさらに踏み込んでくるみちよを見ながら、貴子はさらに後退する。
(下がっている限り当たらんっちゅうのは正解やな。で、空間に限りがあるっちゅうのも正しい。でもな……)
横を通り過ぎた蛇を無視してぼんやりと考える。
その頃には後ろへ伸ばしていた左足を唐突に止めていた。
そのまま曲げて姿勢をわずかに前へ倒すと、頭の上をもう一つの蛇が通り過ぎていく。
(いつまでも後ろへ下がると思うのは間違えや)
だんっという鋭い音と同時に前へ飛び出す貴子。
間近に見えたみちよの顔が驚きで歪んでいるのが分かり思わずにやつく。
が、身体は的確に動き右手を突き出していた。
前へ出る勢いとこちらへ向かってくる勢いとが相乗効果を生み出すが、無防備になっていた鳩尾は思いの外柔らかかった。
ぐらりとみちよの身体全体が揺れ、わずかに後退する。
追撃すべきか引くべきかを一瞬だけ迷い、次の瞬間には後者を選んだ。
軽く飛んで距離を取ると二人の中間点――前に進んでいれば立っていた場所だが――に蛇の頭が割り込んでいた。
「ウチかていつまでもやられとるわけにはいかんしな……それに、いい加減あんたの動きも読めるようにはなったで」
過去に混乱して一方的にやられてしまったことがあったが、そのときのことは忘れていなかった。
注意すべき点はすでにまとめてある。
再びこちらへ向かうため身体を前に倒したみちよを静かに見据えながら、心の中だけで呟いた。
- 397 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:35
-
(みっちゃんの弱点その一。力に頼りすぎて、ワンパターンになりがちなところ)
姿の掻き消えたみちよを気配だけで察し、後ろへ一歩下がる。
先ほどと同じように次の瞬間には蛇が床に突き刺さっていた。
(弱点その二。前に出ることが倒せることだと信じていること)
懐に忍ばせていた果物ナイフを素早く引き抜き、突き刺さった腕にこれまた素早く切りつける。
もともと実戦向きではない武器だが、使う状況が状況であれば相手を十分威嚇できる。
(弱点その三。みっちゃんはウチを見くびっている)
姿を消していた使い魔はこちらの狙いどおりみちよの背後へと回り込んでいた。
使役者ということで周囲を警戒していれば良いのに、みちよは見事に背中をがら空きにしている。
使い魔への指示は思うだけでよかった。
みちよを叩き伏せたい。
ほんのちょっとだけ思い、直後、みちよは顔から倒れていた。
倒れ方が先ほどの裕子と同じで、貴子は小さく笑う。
「なんや、ほんまに気づいてなかったんかい」
使い魔がしたことといえば、みちよの背後から飛び掛っただけ。
それだけであっけなくみちよは倒れてしまった。
「ウチが使役者ってことが分かっとるんやったら、使い魔がおらんことに少しは疑問を抱かんかい。それとも今のあんたはそれすらも忘れたっちゅうわけか?」
使い魔に頼ることはよろしくないが、信頼することは大いに歓迎だ。
事実、使い魔は貴子が指示するまでじっと待機していたし、指示されるより前にすでに場所取りを終えていた。
そんなことを一切無視していたみちよに呆れながらも貴子は近づく。
両手足を四足で組み塞がれ、たちまちは無力と化したみちよ。
抑え込んだ使い魔をどけるのは容易で無いことを知っているのか、全く身動きをしない。
そのことが逆に不安になるが、不安にいつまでも浸っている状況でもない。
はぐれた裕子他二名のことが気になり問い詰めようとした貴子だが、それもできなかった。
なぜできなかったのかというと、みちよの身体が小さく震えていたから。
見下ろして分からなかったが、彼女が顔を持ち上げてどうしてなのかが唐突に分かってしまった。
- 398 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:35
-
みちよは笑っていた。
声を出さず、顔の造形を全く崩さず、静かに笑っていた。
そのみちよがゆっくりと話し始める。
「植えつけた力を力と認識して己の願望のためだけに使ったのは、今のところ柴田あゆみと辻希美の二人だけ。柴田あゆみは直接的な力を発現させたし、辻希美は間接的に力を発現させた」
「?」
言っている意味が分からず貴子は眉を顰める。
が、みちよはそんな貴子のことを全く見ずに、思いつくままに語っている。
「直接的な力は単純で他を排除することに関しては秀でている。それでは間接的な力はどうか。辻希美は結合することを望んだが、それだけしか望まなかった。ゆえに間違えを犯した。辻希美はプロセスの全てではなく、一部の結果だけに囚われたのだ。結合させるには分離させる必要がある。それに気づかないまま、力を行使した」
「……なにが言いたい?」
置き去りにされたことに苛立ちながら聞き返すが、すでにみちよの視界には貴子は入っていなかった。
空ろになり目の色を失ったみちよはすでにその場所にはいない。
「つまり辻希美は力を全て解放することなく消えた。分離させることに気づかないまま死んだのだ。そのプロセスが存在することに気づいていれば、もっと違う結果を得ていたであろうに……」
「フラウロス!」
本能的に危険を察知して使い魔の名前を叫んだ直後、みちよの身体がぼろりと崩れ落ちた。
同時にみちよの身体から黒い靄のようなものが噴き出し始める。
飛び退こうとした使い魔があっという間に靄の中に消え、さらに広がってくる。
これはもう後退してやり過ごすといったレベルの問題ではなかった。
(なんやこれは……)
貴子にできたことといえば、顔を両腕でカバーすることくらい。
その隙間から見えたのは首から上をぼろりと床に落としながらも維持している、みちよの乾いた笑み。
そして貴子は黒いみちよの悪意の塊に飲み込まれて……
- 399 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:36
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 400 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:36
-
「先生!」
目の前にいた貴子が突如消え、れいなは慌てて前へ飛び出していた。
そしてすぐに見えない壁のようなものにぶつかって弾き飛ばされる。
ついさっきもしたのにすっかり忘れていたことを心の中で呪いながらすぐに起き上がった。
自分には見えない変な壁。
たしかにそれは自分と貴子とを隔てている。
(だったら壊せばいいっちゃ!)
すかさず両手を前に突き出し、頭上の水の塊を睨みつける。
普段と変わらずそこにある塊から少量を取り出し、両手にコーティングするとあっという間に氷の剣が出来上がる。
その剣を振り上げ、いざ目の前にある見えない壁に向かおうとして……
踏み出した足がずぼりと床に飲み込まれた。
前のめりになりながらとっさに両手を前に出すが、その頃にはせっかく作った剣も台無しになっていたがそれどころではない。
床がスカート越しに粘りついてくる。
「田中、道重!」
声のするほうを見てみると、そこにはすでに下半身が床に飲み込まれた裕子がこちらに手を伸ばしていた。
れいなも必死に手を伸ばしてみるが、距離が開きすぎて届かない。
「れーな!」
横から伸びてきた手がれいなの二の腕を掴む。
見るとそこにはやはり下半身が床に飲み込まれたさゆみがいた。
さゆみがもう片方の手を伸ばし、裕子の手を握る。
「師匠、これってなんですか!」
「知るかっ、私に聞くな!」
叫んだれいなに叫び返す裕子。
そして三人は床に完全に飲み込まれてしまった。
- 401 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:37
-
……
……
「あれ?」
いつの間にか閉じてしまった目をおそるおそると開け、れいなはぽつりと呟いた。
何の変哲もない、やたらと無駄に広い部屋。
二十メートル四方はある閑散としたその部屋に、れいな達三人は立っていた。
「ここ、どこ?」
窓もドアもない閉じ込められた閉塞感なのか、部屋自体から圧迫感がしてきて息苦しくなる。
深呼吸をしても空気を吸い込んでいるのかどうかも分からない。
裕子は何もない部屋の中を動き回っている。
壁を叩いたり殴ったりしているのは、もしかすると壊れるかもしれないと思っているのだろうか。
異常を異常としてすぐに受け流すことのできる師を羨ましく思いながら、れいなもそれに追随しようとする。
が、それもできなかった。
ふっと目の前が真っ白になり、頭の中がぐらりと揺れる。
次に気がついたときには倒れていて、開けた目にさゆみの顔が入っていた。
「れーな、大丈夫?立てる?」
声に出さず頭だけをこくんと小さく縦に動かす。
枯れた声を聞かれるのが恥ずかしかったから。
手伝ってもらって立ち上がるが、そのときにはなぜ自分が倒れたのかが分かってしまった。
これから何が起こるのかを……
「田中、道重、気をつけろ。来るぞっ!」
叫んだ直後、裕子が斜め後ろに飛んでいく。
自発的に飛んだのではない、何かに吹き飛ばされたのだ。
驚いた師の顔を初めて見たれいなだったが、目の前から熱気を感じてそれどころではなくなる。
掴んださゆみの手を思い切り引き寄せ、二人分の水の膜を全力で張った。
床に転がった裕子の身体が視界から消え、じゅっという音とともに水蒸気が立ち昇る。
それでも水の膜は消えること無く二人の目の前にあった。
水蒸気の立ち昇る音が消え、水の膜を取り去ったれいなは息を呑む。
れいなとさゆみの二人が立っていたのは一方の壁際。
裕子は反対側の壁際に立っている。
そして、その裕子を五人の男達が取り囲んでいた。
「くそっ、何でこいつらが生きてるんだ!」
叫んだ裕子の目の前で小さな赤い華が爆ぜる。
一人がそれを真正面から受けるが、びくともしないのか身動き一つしない。
逆に爆発の衝撃で裕子が押し戻されていた。
- 402 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:38
-
『どうです、懐かしいでしょう?彼らにはこのときだけ生き返ってもらいました。まあ、衰えたあなたにはこれくらいがちょうど良いでしょう』
再び聞こえてきた声に見上げたれいなだったが、やはりどこにもスピーカーらしきものは見つけられない。
どこを睨みつけて良いのか分からず、目の前の裕子を見る。
ちょうど真後ろへ吹き飛ばされた裕子が壁に当たって跳ね返っていた。
『奇術師が三人も揃えば出来ないことはありませんよ。まあ、揃う人間も考えなければならないですがね』
何がどう良いのかを分かっているのは声の主だけのようで、乾いた笑い声が部屋中に響き渡る。
その中を壁から跳ね返った裕子が反動を利用して一人に近づく。
腹に当てた手が再び爆ぜるが、今度も効き目は出なかった。
苦々しく舌打ちをした裕子が退こうとするが、そこでがくんと動きが止まる。
その足元には草の蔓のようなものが巻きついて、裕子の動きを封じているようだった。
直後にその場を別の、人間とは思えないくらいごつい男が横殴りにする。
かわしようのない裕子はそれを直に受け、横へ飛んでいった。
『彼らと同じ身体はアヤカが作成しました。みちよさんがなぜ特定の残留思念を呼ぶことができるのか疑問ですが、できることをしないのは愚かなことです。そして、その呼び寄せた残留思念を私の種に封じ込め、アヤカの作成した身体へと埋め込みました。残留思念だけでも良かったのですが、それでは味気ないでしょう。どうせ殺されるなら、実体を持った人間に殺されるべきです』
乾いた声から伝わってくるのは裕子を殺そうという唯一明快な意志だけで、そのあまりの鋭さに離れていたれいなですら身震いをしてしまう。
それでも身体は引くことを選ばず、前へ出ようとしていた。
「さゆ、ちょっとの間、一人でおって」
ストックした水から半分ほどを取り出して、さゆみの前に広げた。
先ほど張った水の膜よりもはるかに分厚い水の壁がさゆみの姿を隠す。
気配だけでそれを確認したれいなは続けて軍手をつけて、意識を集中させた。
- 403 名前:自由への逃避8 投稿日:2005/09/14(水) 15:38
-
明らかに無防備なのに誰も自分のところには向かってこない。
そのことが単純にムカついたれいなは朝のときとは違い、全力で剣を作る。
一瞬とは言わないまでもかなりの時間を短縮してできた氷の剣は、いつもどおり鋭かった。
裕子に向かっている五人にうち、裕子に近づいているのは三人。
他の二人は裕子とある程度距離を保って、近づこうとしない。
そんな二人のうちの一人に狙いを定めたれいなは、思い切り駆け出す。
足音を出さないよう努力するとか気配を消すとかは一切しない。
小手先だけの技術だけでどうこうなる相手だと思わなかったからだ。
一直線で突き進んだれいなは氷の剣を振り上げ、上段から狙った一人に振り下ろす。
が、そいつは音も無く右へ一歩移動することによってかわしてしまった。
しかもれいなのことを見向きもせずに、距離を開けようと遠のいている。
「ふざけんなっちゃっ!」
目に見えて遅い一歩を踏み出しているそいつに向かってすかさず飛び出したれいなだったが、その目の前を鋭く赤い何かが通り過ぎて大きく肩をビクつかせる。
床に突き刺さっていたのはれいなが以前まで使っていた氷柱だった。
ただしれいなの青とは違い、その氷柱は禍々しい赤をしている。
「田中!」
裕子の叫び声と同時に振り返るが、そのときにはすでに遅かった。
目の前に迫っていた十本近い赤い氷柱を弾き落とし、捌けないのは身を捩ってかわす。
しかし、そのうちの一本がれいなの足首をかすめ、体勢を崩したれいなは転んでしまった。
倒れた衝撃で作っていた剣は壊れてしまうが両手は自由になったため、れいなは素早く起き上がる。
が、それが致命的だった。
いつの間にか至近距離へと踏み込まれた別の一人が赤い剣を振り上げている。
すでに振り下ろすだけだけのそいつに、れいなができることは何一つ無い。
今から剣を作っていても間に合わないし、防御のための膜を張ったところで直接攻撃には無力。
「れーなっ!」
遠くから叫んでいるさゆみの声に応えたいと思うれいなだったが、それよりも目の前のそいつが剣を振り下ろすほうがほんのわずかに早かった。
- 404 名前:いちは 投稿日:2005/09/14(水) 15:46
-
更新しました
戦闘部分がかなり多くなりました
次回は「自由への逃避9」になります
それでは
- 405 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/09/19(月) 14:03
- 更新お疲れ様です。
気になります。
絶対絶命の危機ですが、このさきどう切り抜けるのでしょう?
次回更新待ってます。
- 406 名前:自由への逃避 投稿日:2005/09/21(水) 11:26
-
自由への逃避9
- 407 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:27
-
剣を振り下ろしたそいつが吹き飛んだのは、本当に唐突だった。
突然巻き起こった爆発にあっさりと飲み込まれ、あさっての方向へと飛んでいく。
が、自分も爆発の余波で吹き飛ばされていたため、気にしている暇はない。
その途中で誰かに腕を掴まれ、抱きとめられていなかったら今頃壁に激突していただろう。
「……師匠?」
呟いた田中れいなを抱きとめていたのは他でもない中澤裕子で、彼女にもその余裕は無かったはずだ。
その証拠に裕子の腹には一筋に赤い線が走っている。
「かすり傷だ、気にするな」
平然と言ってのけている裕子だが、額からは脂汗が流れている。
少し青くなった顔も今の状況が良くないことをまざまざと知らせていた。
それでも裕子の目は鋭く、つい先ほどまで相手をしていた五人に向けられている。
「田中、お前のことだから私が言っても出てくるんだろう。だからもう止めはしない」
「は、はいっ!」
「お前はさっきのやつを相手にしろ。あいつは『液体を操る』能力を持っている」
「えっ、でも……」
裕子の言葉に辺りを見回すれいな。
閑散とした部屋の中には水らしい水は一切置いていない。
れいながストックしている水があるが、それはれいなだけが使うことができるわけで、他の人間には見ることすらできないはずだ。
「血も液体だ。だからあいつの攻撃は全て赤い」
さらりと言った裕子に思わず血の気が引くが、すでにそのころには迫っていた三人に向かって裕子が駆け出していた。
「あいつは『液体を操る』能力だ。落ち着いて戦え。私が助けるなどと思うな!」
同じことを繰り返し叫んだ裕子がれいなとは別の方向へ飛んでいく。
自発的に飛んだのか吹き飛ばされたのか分からないが、れいなはそれどころではなくなっていた。
裕子を追いかけていったのは二人で、残りに一人がこちらへ向かってくる。
ついさっきれいなに向けて剣を振り下ろしてきたやつだ。
- 408 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:28
-
(落ち着いて……戦う)
師の言葉を反芻し、右手を前に出して剣を作る。
一呼吸の間に作った剣は先ほど作ったものよりも頼りないが、負担は感じない。
今朝作った限界時の最小限、それが今の剣だった。
じっと相手を見据え迫ってくるのを待ったれいなは、相手の突き出して剣を冷静に自分の剣で受け止める。
頼りないと感じていた剣だが、相手の剣をまともに受けてもびくともしない。
ただし、粘りつく嫌な気配が剣を通してれいなの中へ入ってくる。
この辺は残留思念独特なもので、やはり実体を持っていても基本的には変わらないのだろう。
全力で一歩を踏み出すと相手はあっさりと引き、再び距離が離れる。
といってもほんの二メートルほどだ。
一歩踏み出せばあっさり無くなる間合いを詰めるべく前に出たれいなだったが、相手が剣を持っていない左手を振り上げたため急ブレーキをかける。
指先から血の滴っていた左手は不気味なくらい白いが、血のにおいだけは離れたれいなのところまで届いていた。
無表情だった相手がわずかに表情を歪める。
おかしくて笑ったのか苦痛で顰めたのか良く分からない。
が、次の瞬間、滴っていたはずの血がこちらへ向かってきたため、れいなはそれどころではなくなってしまった。
一滴一滴が意志を持っているのか、一直線ではなく変な動きで迫ってくる。
目を凝らしてようやく全体の数を把握したれいなは、防御用の水の膜を張ること無く剣で叩き落とすことにした。
ストックした水はすでに半分以上消費していてこれ以上の無駄な消費は避けたい。
それに自分の意志の塊である水に相手の血を混ぜたくなかった。
変則的な血の線を全て捌ききり、今度はれいなから距離を詰める。
捌く際に多少距離が開いてしまったが、そんなものは一歩を大きく踏み出せば消えてしまう。
実際、駆け出しながらの一歩は普段よりもはるかに大きく、れいなと相手との距離はすぐに無くなった。
振り下ろしてくる相手の剣をれいなは半歩横にずれてかわし、がら空きになった横腹目がけて剣を突き出す。
が、相手もそのことを読んでいたのか勢いを殺さずそのまま前へ行ってしまったため、結局は空振りになってしまった。
- 409 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:29
-
「田中!」
離れた場所から裕子が叫び、危険を感じたれいなはすかさず水の膜を展開する。
直後にやってきた熱風と水とがぶつかり再び水蒸気が宙に舞うが、それに構うこと無く振り返ってさゆみの姿を確認した。
自分から切り離して展開した水の膜は急速に力を失っているようで、さゆみの前の膜もかなり薄くなっている。
(このぶんだとせいぜいもってあと一回分だけ……)
それまでに目の前にいるこいつを片付け、熱風を放つやつも片付けないといけない。
そこまで考えたとき展開した膜が唐突に壊れ、血でできた剣を振り上げたそいつが目の前に現れた。
裕子が展開する炎のシールドのようにれいなの展開する水の膜には直接的な防御効果はない。
あくまで間接的なものを防ぐだけだ。
迫った相手の大振りな動作にコンパクトに反応したれいなは身を屈めて一歩近づき、相手と接触するかしないかまで詰め寄る。
ここまで接近すれば相手の剣の範囲外となってしまうため、振り下ろした剣も当たらない。
ただ、いくら小柄なれいなとしても動ける範囲が狭いため剣を振り上げるとか突き刺すとかの動作はできない。
自由な左手を相手の鳩尾に添え、すでにあった前へ出る勢いにさらに一歩を加える。
力を入れていない腹筋はかなり柔らかく、自分の手がどのくらい相手の中へ入っていったのかも分かってしまった。
二メートルほど吹き飛び、相手は起き上がらない。
ただし気配は消えること無くそこに在り続けている。
(まだ、こいつはやられてない)
その証拠に、倒れたままの相手のすぐ上に今度は赤い氷柱が現れる。
氷柱の唐突な出現にれいなもすかさず自らの氷柱で応戦しようとするが、ストックした水を意識する前に氷柱が飛んできたため、回避しなければならなくなった。
- 410 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:31
-
(これが師匠の言ってたことか)
迫ってくる氷柱を回避し叩き落しながら師の言葉を思い出す。
相手は『液体を操る』能力で、れいなは『自分にしか感じ取れない水をストックできる』という能力だ。
だから相手はダイレクトに氷柱を作れるし、れいなは作れない。
れいなができるのは自分が意識的に溜めた水だけで、どう使うのかはれいながさらに意識しなければならない。
だから相手と同じことをしようとしても遅くなってしまうのだ。
(だったらこのまま接近戦で片をつけるっちゃ)
起き上がった相手が無手だと気づくが、そんなことは気にしない。
どうせ一瞬にでも剣を作るのだったらあってもなくても一緒だ。
そう割り切ったれいなは開いた距離を詰めるべく駆け出す。
顔の横を赤い氷柱が通り過ぎたような気がしたが、それは無視した。
血を固めた剣を振り回している相手と打ち合うこと数回、何となく相手の癖が分かってきた。
上段からの振りおろしがやたらと多く、その際のモーションがかなり大きい。
れいながある程度近づいたら剣を大きく振り上げ、頭目がけて振り下ろしてくる。
が、れいなもそんなにのろまではないから当たらない。
そのことが気に入らないのか、相手の動きは大きくなり雑になっていった。
れいながほんのわずかだけ大きく踏み込むと、読みどおり相手は大きく剣を振りかぶってきた。
そして次の瞬間にはそれを振り下ろしてくる。
が、踏み込み自体を甘くしていたれいなは振り下ろしてきた剣を目の前でやり過ごし、そのまま自分の剣を叩きつけた。
相手の振り下ろす力と自分の叩きつける力と一緒になり、赤い剣が床に突き刺さる。
- 411 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:32
-
そのときの相手の顔を一言で表現するなら『しまった』という感じなのだろう。
実際、顔を小さく歪めて手から剣が消え失せる。
それから慌てて距離を取ろうとしたのか、後ろへ大きく飛び退こうとしていた。
が、
「けど、遅いっちゃ!」
すでに懐に潜り込んだれいなが剣を胸の部分に突き立てていた。
人間なら血を噴き出して倒れるはずなのに、相手からは血が一切出てこなかった。
ここまでに血を多く流しすぎていたのかもしれない。
それを確認してみようかとも思ったが、床に倒れる直前、それは砂のように崩れて、消えてしまった。
「あんたがどんだけすごいのか分からんけど、れなも負けるわけにはいかんたい」
それにさゆが見てるから、とは口の中だけで呟く。
「それより師匠!」
いつの間にか広い部屋の片隅で打ち合っていたれいなが振り返った直後、部屋の中央付近から一際大きな爆発が巻き起こった。
裕子の炎なのだろうが、これまでのものと違って威力が明らかに大きすぎる。
見るとそこにいたのは裕子だけだった。
「リミットを外すことができるのは敵にも有効というわけか……」
戦闘の際についたのだろう、埃を払いながら裕子が呟く。
どうやら残りの敵は裕子が今の一撃で片付けてしまったらしい。
不適に笑ったその顔を少し怖いと思ったれいなだったが、大きく息を吐いて剣を収めることにした。
「さゆ、大丈夫?」
「何回かあったかい風が吹いたけど、それ以外は何も無かったよ」
まともに浴びれば溶けてしまいそうな熱風を『あったかい風』と言ってのけるさゆみがすごいのか、自分の作った水の膜が意外と強固だったのか分からないが、それでもさゆみに怪我一つなかったことにれいなはとりあえず安心する。
そのころには多少ぼろぼろになった感の裕子も近寄っていた。
- 412 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:32
-
「師匠、さっきのあれはなんだったとですか?」
「あぁ、あれか?あいつらの一人に作成者がいてな、そいつが『自分の周囲何メートルかの他の奇術師のリミットを故意に外すことのできる』装置とかを作ったらしい」
「……良く意味が分かりません」
「つまりだな、自分以外の奇術師の能力を普段の数倍引き上げるってやつだ。ただ、そいつには敵味方の区別はつけようがないらしい。だから、私にも限界以上の効果を発揮させてしまったんだ」
「はあ……」
機嫌良く話していた裕子に分かったような分からないような返事をしたれいなは、改めて部屋の中を見回す。
さきほどまで激しい戦闘を(特に裕子が)していたが、部屋には傷らしい傷が一つもついていない。
「これだけ暴れたのに傷がついてないか。ミカめ、まさか放置したりしないだろうな」
小さく毒づいた裕子にようやく上から聞こえていた声がなくなっていることに気づく。
普通、片がついたら何やら言ってきそうなのに、それが全く無い。
「ということは、このままここにいろってことですか?」
「私に聞くな」
ほんの数秒前は機嫌が良かったのに、とたんに機嫌の悪くなった裕子が大きく舌打ちをする。
わずかに上を向いた視線から逃れるべくれいなはゆっくりと後退する。
さゆみを見てみると自分と同じようにどうしたら良いのか分からないのか、苦笑いをしていた。
「先生ってどこに行ったのかな?」
「分からんっちゃ……」
ここにいるのは自分を含め三人だけ。
どこか別の場所に落ちてしまった稲葉貴子はきっとどこかにいるはずだ。
(先生は大丈夫ですか?)
いない稲葉貴子のことが心配になり、胸中の中だけで呟く。
そして心なしかその自分の声を頼りないと感じてしまい、れいなは大きく身震いをしてしまった。
- 413 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:32
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 414 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:33
-
目を開けるとそこはすでに見慣れてしまった、薄気味悪い廊下だった。
遮られた視界からそう判断して貴子はだるくなった両腕をそろそろと下ろす。
ぼんやりとした頭の中を振り払おうと必死に揺さぶってみるが、あまり効果はない。
「夢……?」
呟きながら貴子はすぐさまそれを否定する。
自分が先ほどまで対峙していた平家みちよ。
ぼろりと崩れ落ちる彼女の身体。
そこから出てきた黒い靄。
全てをまざまざと思い出し、現実だと認識した。
さらに言えばみちよの鳩尾に突き刺した右手にもまだ感触が残っている。
「なにがどうなった?」
全身を見回してみるがどこにも異常は見当たらない。
もしかしたら背中とか顔面とか見えない場所にあるのかもしれないが、少なくとも痛みは感じない。
五体満足で立っていることに首を傾げながらも貴子は静かに歩き始めた。
みちよと遭遇するまでは部屋を右手に見ていたから、今度はその逆で歩いてみる。
入り口の案内では廊下の両端に階段があるようだったが、位置を把握したいため最初の場所へ戻りたいというのが本心だった。
もしかするとはぐれてしまったれいなやさゆみ、それに裕子もいるかもしれない。
そんな小さな希望があったのだろう。
「まあ、そんなふうに都合良くいくわけないか……」
『4F』と書かれたプレートを見上げ呟く。
落ちたところに戻ってきたらしいことを確認し、周囲の気配を改めて探ってみる。
普段なら多少なりとも裕子の気配を感じ取れるが、この場所だとそれも期待しないほうがいいらしい。
均一に感じてしまう暗く、限りなく後ろ向きな負の感覚だけを感じ取った貴子は大きくため息を吐いて上を目指すことにする。
裕子の性格を考えれば下で待つよりも上で待つはずだ。
しかも先ほど来たときのようなこざこざした障害物も消えていた。
- 415 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:34
-
「つまりは向こうの思い通りっちゅうわけか……」
その中へ入り込んでしまったことをいまさらながらに後悔するが、言っても仕方ないことが分かり息を吐く。
五階へ向かう階段は先ほどのように四人で上っていたときよりも気が重い。
それは単なる気のせいではなく、確かな重圧として自分を取り込もうとしているようだ。
「フラウロス」
階段を上がりきり、出口のところで使い魔を呼び出す。
みちよと一戦を交えてから呼び出していなかったが、特に問題なく現れたことからとりあえずは胸を撫で下ろした。
「ここのどっかにおる裕ちゃんらを見つけて、ウチのところまで連れてきてくれんか?」
もう少し小柄だったら単なる猫にしか見えない使い魔が、自分のことを見上げて首を傾げる。
心配されているのだと気づいた貴子はそれに向かって笑い返した。
「ウチの心配はせんでもええで。ウチのことを一番知っとるのはウチやからな。危なくなったら素直に逃げるって」
頭を多少強く撫でてみると嬉しいのか使い魔がわずかに目を細めている。
その使い魔に続けた。
「それに迷子になったまま終わったら、裕ちゃんはそれこそ怒るで。そのほうが危険やと思わんか?」
頭から手を離し使い魔を見てみる。
しばらく何かを考えていたのだろうか、じっと貴子のことを見つめていた使い魔は、やがて小さく肩を竦めた。
それからすぐに使い魔の姿は消えてしまった。
諦めたのか信頼してくれたのかは分からない。
が、それでも自分の言う通りにしてくれたのだから貴子は満足することにした。
「ちゅうわけで、これからが本番ってやつやな」
エレベーターホールの手前、階段の出口で深呼吸をした貴子は静かに足を踏み出した。
ホールに入った直後、ぞくりという何とも嫌な感触が全身に走るが、それは最大限の自制で無視する。
麻痺した感覚でどれくらい向こうの気配を感じ取れるのか分からないが、それでも目いっぱい警戒して歩く。
- 416 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:35
-
何事も無くホールを抜け、四階と同じような廊下に続けて入る。
違っていたのは四階ではずっと薄暗かったのに、この階では勝手に電気が点いたということくらい。
おそらくセンサーか何かで点く仕掛けになっているのだろうが、肩を飛び上がらせるのには十分な演出だった。
「親切設計なんか、単なるおせっかいなんかよう分からんな」
「親切でもおせっかいでもないですよ。単に私が血を見たいだけです」
まさか独り言を返してくる人間がいるとは思わなかったため再び肩を飛び上がらせるが、少し先の曲がり角から現れた人間を見て少なからず安心する。
入り口のようにグロテスクなオブジェでもなく、平家みちよのように生きているのか死んでいるのかも良く分からないものでもない。
相手は正真正銘の生きている人間だった。
「まさかあなたが最初に来るとは思ってもいませんでしたよ、稲葉貴子」
「ウチは最初に来る気でおったけどな、ミカ・エーデルシュタイン」
十メートルほどの距離を開けて対峙する貴子とミカ。
どちらも奇術師の使役者だが、二人には決定的な違いがある。
使役者には実のところ二つの種類がある。
一つはベーシックな使役者で、この世界にある使い魔と主従関係を結んで使役することができる。
そしてもう一方の使役者は特別で、自分で作った『種』をすでに出来上がったものに対して植えつけ、強制的に自分の支配下に置くという強引な手法を使うものだった。
前者の典型的な例が貴子であり、後者がミカであると言ってもいいのだろう。
貴子が使役するフラウロスは命令に素直に応じないが、ミカが使役する場合ではそれが全く無い。
それもそのはず、使役されるほうには意識が全く残っていないのだから、命令を判断する必要も無い。
与えられた命令を忠実に実行するだけだ。
- 417 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:35
-
「単なる使役者でしかないあなたがここまで生き残れたことが疑問です」
「人間その気になれば何でもできるっちゅうわけや。それにあんたが特殊な使役者やからって、基本はウチと変わらんっちゅうことも忘れるなよ」
おかしそうに笑っているミカに対しにやついて答える貴子。
見たところミカの周囲には使い魔の姿は無い。
が、姿を消すくらい使い魔としてみたら造作も無いことだろう。
「その様子からするとあなたは私の使い魔に警戒しているようですね。ですが、残念なことにまだ私にはその準備ができていません」
「せやから入り口のところでちゃちい歓迎でもしたんか?」
「入り口のはつい先ほど思い浮かんだことです。退屈しなかったでしょ?」
「そういう問題やないと思うが……」
そこまで言った貴子の背後から小さな音がわずかに聞こえてくる。
振り向いてみると自分の少し後ろ、一メートルくらいのところに白く半透明な壁が出来上がっていた。
「最初にここへ来た人間を感知して結界が作用するように仕掛けたのですが、あなただったため全くの無駄になってしまいました。あくまで中澤裕子を逃がさないためのものでしたからね」
「その割には嬉しそうやないか」
作戦が少なくともおじゃんになったならそれを表に見せるはずだが、今のミカは笑い続けているだけ。
不思議というよりも不気味に思ってしまった貴子は笑い続けているミカへ距離を詰めた。
ある程度接近戦に慣れている貴子と違い、ミカにはそうした心得が無いのか動きがかなりぎこちない。
最初の手刀を避けるのに精一杯で次に繰り出した足払いにあっさりと引っかかり転んでしまう。
相手が裕子やみちよならすぐさま追い討ちをかけるところだが、ここまで手玉に取れてしまったことが気持ち悪くなって貴子は軽く後ろへ飛んで距離を開けた。
- 418 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:37
-
「なんや、真面目に戦うつもりはないんか?」
「私はあなた達のように殴りあうほど野蛮ではありません。それに私は使役者ですよ、本人が戦うことは無意味です」
「せやけど、最低限自分の身ぐらいは守れんと困るやろ?」
「なぜ殺せるのに殺さないのですか?」
「別にウチは殺すつもりで来たわけやないからな」
「そこが甘いのですよ」
にやつくミカに対し、貴子は反射的に距離を詰める。
本気になった裕子と比べればはるかに遅いはずなのに、ミカはろくな抵抗をすることなく真正面から貴子の拳を受け止め、床に転がっていた。
それでもなおにやついているミカの首元にナイフを突きつけ、顔を近づける。
その際、これでもかと怖い表情をするよう努力しないといけなかったのが少し嫌だった。
「甘いも甘くないも全部ウチや。お前にどうこう言われる筋合いはないぞ」
「私からすればあなたの存在自体が甘いのですよ」
「……ウチからすればここまで固執するあんたの気持ちが分からんわ」
「これは私のプライドの問題です。あなたに分かってもらう必要はありません」
「捨ててしまえ、そんなプライド」
大きくため息を吐きながらミカから離れる。
単純にナイフを突きつけていることが辛くなっただけだったが、それでも常にミカに焦点はあわせておく。
だが、それ以上に何かをしようという気にはなれずにいた。
(つまり、これが裕ちゃんの言うとった中途半端な覚悟っちゅうわけやな……)
自分ひとりでは何もできない。
そんな無力感をいまさらに味わいながら貴子は座り込んだままのミカを見下ろす。
それくらいしか今の貴子にはできそうになかった。
- 419 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:37
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 420 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:39
-
握った自分の手が汗ばんでいるのは気のせいではないだろう。
ぼんやりとそう考えたれいなは直後にやってきた大規模な爆発音に全身で驚いた。
防御用の水の膜の向こうでは裕子が何度やったのか分からない舌打ちを繰り返している。
殺風景でしかもだだっ広いその部屋に閉じ込められてすでに三十分近くが経過していた。
途中、裕子が壁目がけてたばこの吸殻を投げつけて爆発させていたが、壊れるどころか傷の一つもつかない。
ムキになった裕子が爆発の威力を強くすればするほど、れいなの水の膜は厚くなっていた。
「師匠、そろそろ限界なんですけど……」
「こっちだってそうだ、我慢しろ」
「……」
冷たく言い放ってきた裕子を睨みつけてみるも背中を向けた彼女には一切届いていないようだった。
苛立った様子の裕子が再びたばこの箱を開けて小さく上下に振る。
魔法のように一本だけ出てきたたばこを口に銜え、ライターで火を点けたのは力を温存しているのかもしれない。
「あれって吸い終わってから投げないといけないものなの?」
「単にもったいないだけって感じがするとね」
忙しそうにたばこを吸っている裕子から視線を外し、れいなはさゆみを見てみる。
何とか落ち着いていられるのはさゆみがこうして落ち着いているからに他ならない。
裕子と自分だけだときっと取り乱していただろうと考えていると、またもや大きな音がして地面が揺れる。
すっかり裕子から意識を外していたれいなはやはり身体を大きくビクつかせ、半分さゆみにしがみついていた。
「ちょっと怯えすぎじゃない?」
「怯えんさゆのほうが不思議っちゃ」
「私なら二回目くらいでもう慣れちゃったから」
苦笑いをしているさゆみを見ながら、れいなは心の中だけで舌を巻く。
どちらかといえば肝は据わっているほうだと思っていたのに、今のさゆみのように堂々と構えることができない自分を情けないと感じてしまった。
- 421 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:40
-
そんなさゆみとれいなの前に突如何かが現れた。
最初は裕子が倒したうちの生き残っていたやつかと思ったが、そこにいたのは少し大きめの猫。
それが以前貴子の使役していた豹だと分かってしまえば、警戒する必要もなかった。
「師匠、先生から救助が来たみたいですよ」
「なに?」
豹が現れたことに気づかなかったのか、振り向いた裕子が驚いた表情をしている。
その頃にはおそるおそる近寄っていたさゆみが豹の頭を撫でていた。
「近くで見ると結構かわいいよね」
「……そうか?」
疑問の声を出しながらもさゆみと同じように撫でようと手を伸ばした裕子だったが、豹がその手をひょいと避けてさゆみの脇に座った。
どうやら嫌われたらしい。
苦々しく舌打ちをした裕子に思わず笑ってしまうが、すぐに睨まれてしまいれいなは慌てて視線を外す。
「それよりも貴子はどうしたんだ?」
嫌われたことについては何も触れず、とりあえず現実的なことを聞く裕子。
口調はおろか身体中から苛立っているという空気を醸し出していたのが伝わったのか、さゆみの隣に座っていた豹がゆっくりと立ち上がる。
集まっていた三人からするりと抜け出て、壁を一瞥する。
するとそこにぽっかりと穴が開いた。
「……私の苦労は何だったんだ」
「まあまあ、良いじゃないですか」
がっくりと肩を落としている裕子に声をかけ、豹の後に続いているさゆみの後を追う。
穴を出てみると普通に廊下が広がっていた。
元の場所か分からないが、とにかく移動はできるようになったようだ。
- 422 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:41
-
「先生はどこにいるんですかね?」
「私に聞くな、そいつに聞け」
最後に出てきた裕子に聞くが、拗ねてしまったのかまともに取り合ってくれない。
代わりに豹が止まった三人の前を静かに歩き始めた。
「どうやら連れて行ってくれるみたいですね」
「いちいち聞くな」
「……」
話せば話すほど拗ねてしまいそうで、口をつぐんだれいなはさゆみの横に並んで豹の後をついて行く。
しばらく無言で進み、薄暗い階段へ辿り着いたときだった。
目の前にいた豹が突然走り出した。
階段を二段飛ばしで上がっていく豹に戸惑いながらもれいなも駆け出す。
少し遅れてさゆみが駆け出し、その後を追うように裕子も走り出した。
階段を上りきり、明るくなっているエレベーターホールを一気に駆け抜ける。
すでに豹の姿は見えなくなっていたが、そんなことを気にしている暇は無い。
れいなの目の前にはすでに稲葉貴子の姿が見えていたのだから。
れいなの知らない誰かと対峙しながらもこちらを振り向いている顔は、いつにもまして間の抜けたものだった。
その貴子が口を開く。
「あかんっ、来るなっ!」
「止まれっ!」
「へっ?」
前と後ろから同時に叫ばれ、思わず間の抜けた声を上げる。
と、そんなれいなの目の前にぼんやりと光る白い壁が突如として現れた。
止まるにしてもすでに目の前に迫っていた壁に対してスピードを殺すことができない。
そしてれいなはあっさりとその壁に激突してしまった。
- 423 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:42
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 424 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:43
-
どたんという派手な音を立てて吹き飛んだれいなはさゆみともつれながら転がり、後からやってきた裕子の足元で止まった。
起き上がらないところを見るとすでに気絶してしまっているらしい。
「裕ちゃん、二人は大丈夫か?」
「……あぁ、単に気絶しているだけだ」
壁越しに会話をするが、その間、ミカが割り込んでくることは無かった。
終始にやにやしているその顔を殴りつけたいと思いながらも、貴子は最大限の自制を課して状況を把握する。
使い魔であるフラウロスはすでに手元へ戻ってきたが、どうやらあの結界までを壊すことはできないらしい。
壁の直前で勝手に戻ってきたフラウロスは貴子が召喚するよりも先に勝手に出てきて脇で身構えている。
「その結界はどうやら今は壊せんらしい。そこで裕ちゃんにお願いや」
「この二人を連れて逃げろとかいうのは無しだ」
振り向き様に言う貴子に裕子が即効で言い返してくる。
自分の考えを見抜かれていたことを苦笑いするが、それでも今の状況を考えればそれくらいしかできない。
「そう言わんといて頼まれてくれよ。それにあんたも怪我しとるやないか」
「こんなもの、唾でもつけとけば治る」
「相変わらずやな……」
強情もここまでくれば逆に気持ち良いが、それだからといって気絶した二人をそのまま放置しておくわけにもいかない。
どう説得すべきか考えてみるが、今の裕子を止めるにはどの言葉も説得力不足だった。
「そうそう、忘れていたのですが……」
そんなタイミングでミカが割り込んでくる。
振り返って睨みつけてみると少し怯えた表情をしていたが、それでもすぐに笑顔になって付け足してきた。
「その結界なのですが、実は移動させることもできます。アヤカがそういう設定で作りましたから」
「なんやと!」
直後、それまで動く素振りすら見せていなかった結界が動き始める。
というよりも動く結界など初めて見た貴子は驚いて何をどうすれば良いのか分からなかった。
が、もっと大変だったのは裕子のほうだった。
動き出した結界は裕子と気絶している二人へと迫っている。
- 425 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:44
-
「通さないという設定は変わりませんから、そのままだと二人は押し潰されてしまいますね。実はスピードアップなんかもできます」
「裕ちゃん!」
「分かってる!」
慌てた裕子が二人を何とか抱え、こちらを見てくる。
不安だと暗に言わしめているその顔に向かって、貴子は小さく笑いかけた。
「はよその二人を置いて戻ってきてくれよ」
「……分かった」
呟いた裕子が二人を抱えて離れていく。
納得はしていないのだろう。
それでも自分に出来ることを最優先させた裕子の背中を見送り、貴子は改めてミカに視線を向けた。
「フラウロス!」
「マルコキアス!」
二人の奇術師が同時に叫び、それまで姿を消していた二つの使い魔が同時に現れる。
貴子の豹に対し、ミカの使い魔は鷲の翼を持った狼だった。
「なんや、やっぱ隠しとったわけやな」
「ですが、これが私の全てではありません」
使い魔同士がけん制している間に貴子はミカへ詰め寄り、持っていたナイフを突き出す。
先ほどと同じように際どいステップで避けているミカの顔はやはり笑っていた。
足払いをかけてみるが、ミカも学習しているのかそれは飛んで避ける。
が、直後に放った下からの掌底はもろに受けていた。
「悪いがこのまま倒させてもらうで。このまま放っておいてもええことないからな」
吹き飛んだミカとの距離はわずかに五メートル。
少し全力で駆ければすぐにでも消えてしまう距離だ。
「もう遅いですよ」
立ち上がったミカが両手を広げる。
まるで何かが自分のところへやって来る。
それを受け止めるかのように……
危険を感じた貴子は距離を詰めようと前へ出る。
その直後だった。
突然目の前の天井が崩れ、瓦礫の山と一緒に何かが振ってくる。
急ブレーキをかけながらもそれを見据えた貴子は、そこにいた何かを初めは信じることができなかった。
- 426 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:46
-
「何でこんなところに一般人がおるんやっ!」
天井を突き破って降りてきたのは貴子の知らない一人の少女。
それは紺野あさ美だった。
無表情を保ったまま、彼女は貴子に向かって左手を伸ばしてくる。
が、距離が全然足りず宙を切るだけだった。
ぶつんっ。
あさ美の手と同時に貴子の中にある何かが切れる。
それまであったはずの大切なものがそこで急に途切れ、力を失った身体が床へ倒れてしまった。
(何を……された?何で倒れてる……?)
自問を繰り返すが答えはやはり見つからない。
体力的にも気力的にも問題は見当たらない。
ただ、自分の中の何かがぽっかりと消え去っている。
「実は、彼女には人と人との繋がりである糸が見えるような種を植えつけました。そしてそれに触れることができるようにも。つまり彼女が先ほどしたのはあなたと他との繋がりである糸を切ったのです。その証拠にあなたの使い魔は消えてしまいましたよ」
頭の上から聞こえてくるミカの言葉を確かめるべく、かろうじて動く首を動かして使い魔がいたであろう場所を見てみる。
そこにはミカの使い魔しかおらず、貴子の豹はどこにもいなかった。
(違う…………そんなんやない……そんなに簡単に切れるもんか)
頭の中でそう叫びながら立ち上がろうとするが、一度失った力を元に戻すのは意外に難しく指すらも動きそうにない。
こんなときに動くのが頭だけというのをものすごく歯痒く思いながら、それでもミカを見上げ睨みつけた。
- 427 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:46
-
「まあ、これはあなた側の糸を強制的に排除しただけですから、相手側にはいまいち効果が伝わりきらないという欠点があります……が、それも今のこの状況ではほとんど意味はありませんね。なにせあなた一人だけですから」
にっこりと笑ったミカは満足そうに頷きながら、糸を切ったあさ美に近づく。
まるで彼女がそのわけの分からない糸に操られているのではないかと思えるくらい無表情で、じっとその場に立ち尽くしたまま。
そんな彼女の横に立ったミカがうっとりとした表情で見上げている。
正直言って貴子からすればそんなミカがものすごく気持ち悪かった。
「……ふざけんなよ」
気がつくと言葉にしてそう言い、ゆっくりと立ち上がった。
床に着いた両手はじっと汗ばんでいるが、意識して全ての力を伝えると意外と素直に伝わる。
踏みしめた床がしっかりしているのは貴子自身がしっかり立っているからで、そのことを意識しながらにやついてみるとミカの表情が凍りついていた。
「ひ、非常識にもほどがあります。あさ美さんが糸を切ったのです。だったら素直に死んでください」
「『死んでください』って言われて死ぬアホがどこにおるかいっ!」
立ち上がる際に拾ったナイフを左手で持ち、できるだけ素早く前へ出る。
身体の感覚は麻痺しているが、指令は素直に受け入れるらしい。
引きつったミカの顔が順調に間近へと迫っているのを自分の目でしっかりと確かめながら、貴子は持っていたナイフを突き出そうと左手に指令を出す。
が、その左手に貴子の指令が届くことは無かった。
- 428 名前:自由への逃避9 投稿日:2005/09/21(水) 11:48
-
ざくりという鈍い音と共に宙を舞う自分の左腕。
それが自分の左腕だと分かってしまったのは他でもない、フラウロスを封じ込めているはずの真鍮のブレスレットがしてあったから。
その左腕が自分の意志とは別の力で吹き飛ばされ、その余波で貴子自身も吹き飛ばされる。
横の壁に頭から激突してしまったのはどうしようもなく致命傷だった。
「みちよさん、助かりました。危うく稲葉貴子に殺されるところでした」
「今お前に死なれてはこの城が消えてしまう。それでは私が困るだけだ。助けたくて助けたわけではない」
ミカの声とは別の、貴子の良く知っている声。
だが、それも以前までの話だ。
今の彼女の声は貴子の知っているものではない。
根本的に違っている。
朦朧とする頭を持ち上げ、声をしたほうを見る。
そこには先ほど対峙した平家みちよが平然と立っていた。
相変わらずの無表情を崩さず、両手の蛇がうねうねと変な動きをしている。
「なんで……」
出てきた言葉はあまりにも弱々しく、自分がもう永く無いことを告げていた。
心臓の音と同時に抜けていく血の量もすでに弱くなり始め、意識が遠のき始めている。
それでも言葉にしたのは疑問のほうが大きかったからだ。
「さっきも言ったはずだ。結合させるには分離させる必要がある。その結果としてあのときの私がいたし、ここに私がいる」
(そう言われてもさっぱり分からんで……)
浮かんだ言葉を心の中にだけ吐き捨て、ゆっくりとこちらへ向かってくるみちよを睨みつける。
両手の蛇が同じようにこちらを見ながら、細長い舌をしゅるしゅると出したり引っ込めたりしている。
もう自分には動く体力も気力も残っていない。
そしてみちよは自分を確実に殺すだろう。
それでも貴子はみちよを睨み続ける。
到底受け入れられない突然の死。
それに対して最後の最後まで抵抗するため、貴子は睨み続けた。
- 429 名前:いちは 投稿日:2005/09/21(水) 11:56
- 更新しました
>>405 通りすがりの者さん
絶対絶命の危機でしたが、あっさりと切り抜けてしまいました
ただその後の展開は危機だけでは終わりません
次回は「自由への逃避10」になります
この話も最後になるかと思います
それでは
- 430 名前:自由への逃避 投稿日:2005/09/28(水) 11:09
-
自由への逃避10
- 431 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:10
-
ゆっくりと開けた目に入った場所を、最初、田中れいなは理解できなかった。
どこかで見たことがあるようで、実は初めて見るのではないか。
そんな疑問をぼんやりと浮かべながら、次の瞬間には被り布団を跳ね除けていた。
「なしてれなは寝とうよ!」
自分がさっきまでどこにいたのかをすぐに思い出す。
こんな落ち着いた空間ではなく、緊迫感と殺気の入り混じったろくでもない世界。
そんな圧迫した中にいたはずなのに、なぜ自分がこんなところにいるのか……
「……ここって家じゃなかとね」
住み慣れた自分の家の一室。
普段は寝ることも無い客間の一つにいるのだと気づく。
横を見てみると道重さゆみが同じように眠っていた。
「先生は?」
ぐらついている記憶を必死にたぐりよせ、何が起こったのかを把握する。
最後に見た稲葉貴子がこちらに向かって何かを言っているようだったが、れいなには分からなかった。
焦った表情でこちらを見てきて、口を開いている。
その光景まで思い出せるのに、なぜかその先が全く思い出せない。
もどかしいを通り越して苛立ちのほうが強くなっていたれいなは、布団を乱暴に蹴飛ばし立ち上がる。
「……れーな?」
が、あまりに乱暴すぎたのか、隣のさゆみがそこで起きてしまった。
無理やり起こしたことをいまさらながらのように後悔するが、それも表には出さない。
だいぶ暗くなっていた周囲に紛れてさゆみの顔もほとんど見えなかったのが、れいなとしても幸いだった。
「ここ、どこ?」
「れなの家みたいっちゃ」
少し声がかすれているのはさゆみの特徴だし、れいなもその声が結構好きだったが、あまりそれに酔いしれている暇も無い。
まだ寝起きでぼんやりしているさゆみが起き上がるのを待っていたれいなは、思わず身構えてしまった。
それまで穏やかだった空気が突如変化して、低く圧迫感を伴っている。
締めつけられるその感覚は残留思念が現れるときの変化と全く同じだった。
- 432 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:11
-
「さゆ!」
ようやく起き上がったさゆみに駆け寄り、敷布団をとりあえず部屋の隅っこに蹴飛ばす。
普段は広いと感じられる八畳間がこのときだけはやけに狭く感じられてしまった。
れいなのそんな心配を他所に、残留思念はゆっくりと形を形成していく。
が、そこでれいなは目の前にあるそれが普段見ているそれと違っていることに気づいた。
攻撃的な意志が全く無いことも驚きだったし、それよりも目立っていたのは残留思念の姿。
不定形なはずのそれは、れいなやさゆみの良く知っている誰かに似ている。
「先生……?」
隣のさゆみが呟き、その言葉でれいなは肩を飛び上がらせる。
さゆみと同じように思ってしまったからだ。
見た目もそうだし、感覚も貴子のものに他ならない。
『良かった。お前らなら気づいてくれると思ったわ』
目の前の残留思念からそう声が聞こえ、形がしっかりと固定される。
そこに立っていたのは、紛れも無く稲葉貴子本人だった。
「でも……それじゃあ……」
残留思念の特徴を思い出し、思わず言葉が洩れる。
目の前にいる貴子がそれを否定してくれるはずだと、わずかに期待しながら……
しかし、
『どうやら、ウチは死んだみたいやな。それも途中で』
貴子本人の口からあっさりと事実を告げられ、思わずれいなは絶句する。
隣のさゆみも同じように何も言えずに、呆然と立ち尽くしているだけ。
『裕ちゃんの言うとおり、ウチは最後の最後まで中途半端やったな。せっかく忠告してくれたのに、申し訳ないで』
小さく肩を竦めながら笑う貴子は生きているとしか思えないが、それでも現実は違うのだとすぐに気づく。
そしてれいなから言葉が洩れる。
「……なして先生はそんなにさっぱりしとるんですか?殺されたんでしょ?納得できるんですか!」
『せやけどな、それを言うとったら、どっから納得すればええのか分からんくなるで。最初がよう分からんからな』
最後にはほとんど叫んでいたれいなに、あくまでも穏やかに貴子は返してくる。
掴みかかりたいとも思ったが、なぜか足が動かない。
じっと貴子を見据え、れいなはなおも口を開こうとする。
が、それよりも貴子のほうが少しだけ早かった。
- 433 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:12
-
『今回の出来事の最初はどこやったのか。裕ちゃんがあそこに行って決着をつけたいって言ったとき?その原因になった、みっちゃんが復活した半年前か?でも、みっちゃんが死んだのは三年前の奇術師協会が消滅したときや。それ以前の問題としてウチら三人がつるみ始めたのは、結局奇術っちゅうもんがあったからやな。その奇術が生まれたときか?』
「……」
『つまりやな、最初がどこやったのかなんて、もう誰にも分からんのや。裕ちゃんにしてもみっちゃんにしても、それにミカにしても同じやろ。それでも見えるのが前だけやから、みんなそっちへ向かって歩くしかない。自分が知ってることだけで判断して行動するしかないんや。その結果としてこうなったなら、それはそれで受け入れるしかないやろ』
「でも、それだとあんまりです。なして先生が……」
『そう、そこが問題やな』
「?」
れいなとしてはなぜ貴子が死ななければならなかったのかに疑問が集中していたのに、当の本人はどうやらそうではないようだ。
そのことを疑問に抱いたれいなが首を傾げると、貴子は小さく笑いながら付け足してきた。
『死ぬ直前、ウチは確かにあった『繋がり』を切られた。それはミカも言うとったし、ウチ自身もそう感じた。せやけど、今はどうや?ウチはこうして残留思念になってまでお前らに会いに来とる。それが何よりの反論っちゅうやつやな』
「……どういう意味ですか?」
言っている意味が全く分からず、れいなは知らず知らずうちに聞き返していた。
その顔がよほどおかしかったのだろう、貴子が小さく吹き出していたがそれは少し睨んでみるとすぐに収まる。
『そないに難しいことやないねん。ただその誰かに対して、ウチは教えてやりたい。ウチがこれまで得たもんは、そう簡単に切れんっちゅうことをな』
れいなとさゆみから視線を逸らした貴子がわずかに上を見上げ、少しだけ語気を強める。
どこかにいる『誰か』に対して届かせるつもりなのだろう。
- 434 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:12
-
『人っちゅう生きもんはみんな繋がりたがる。せやけど、完璧にそれをしてしまうとそいつはそいつや無くなるんや。みんな自分っちゅうもんを持って繋がっとかんと、周りに飲み込まれてあっさり自分を見失うわけや。正直、ちょっと前のウチも自分を見失ったままやった……ウチの場合は周囲と自分とをくっきり分けすぎて逆に見えんくなっとったけどな。まあ、それはええとして、そんな稲葉貴子っちゅう人間を再び稲葉貴子やって認めさせてくれたのは、他でもなくお前らや』
「……さゆ、何かした?」
「……覚えてない」
お互いに顔を見合わせて首を横に振る。
それから再び貴子を見ると、困ったように頭を掻いていた。
『そこのところは分からんでええわ。とまあ、そんなわけで再びちゃんと繋がった稲葉貴子の糸なんか切ろうとしても、結局は無駄なことや。複雑に絡まった糸は切れたと思っててもどこかで繋がっとる。事実、ウチがこうしてお前らのところに来れたしな。ウチとしてはそれで十分や』
「でも、まだ納得できません」
『複雑なんは糸だけやなくて世界も同じや。その複雑さを受け入れるのも大人っちゅうやつやぞ』
そこまで言った貴子の顔が、笑みから苦痛のそれへと唐突に変化する。
苦しそうな声が口から洩れてくるのを聞き、れいなはそれまで固まっていた足を無理やり動かして前に出た。
「先生、大丈夫ですか?」
すでに残留思念になっているのだから大丈夫も何も無いとも思ったが、れいなにも異変が伝わってくる。
貴子が出てくるときには感じなかった、残留思念を拒否する苦痛が襲ってきていた。
『そろそろ時間か……』
ぼそりと呟いた貴子の言葉が耳からではなく、頭の中に直接流れ込んでくる。
貴子の声だと認識できなかったら、れいなはとっさに剣を振り回していただろう。
そのときになってようやくれいなは貴子の身に何が起こっているのかを理解する。
- 435 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:13
-
「先生……もしかして……」
『そう、このままやとウチは本物の残留思念になるな』
れいなの予想通りの答えを返してきた貴子だが、顔は穏やかなものに戻っていた。
そしてこれまで見たことが無いくらい優しいまなざしで続けてくる。
『せやから、最後はお前らに自由にさせてもらいたい。ウチが完全な残留思念になる前に……』
「嫌ですっ!」
最後という言葉に思わず叫ぶれいな。
視界の中にある貴子の姿がぼやけるが、それでも貴子が視線を逸らすことは無かったし優しく笑い続けている。
『そないなこと言うなって。それに、今お前らに泣かれたら、ウチは絶対成仏できんくなる。それだけは勘弁してくれよ。綺麗に逝かせてくれよ』
さっぱりとした、でも涙とは別の意味でぼやけ始めている貴子の笑顔に向かって、れいなは小さく頷く。
両目を擦って無理やり涙を拭き取ると、両手を前に突き出して意識を集中させた。
が……
(駄目だ、水が足りない……)
意識を取り戻した直後だったしその前に普段よりも激しく消費していたため、れいなが普段からストックしている水はほとんど空だった。
消費量が少ないはずの剣すらも作れない状態だった。
(あとちょっとなのに……)
目の前の貴子が苦しそうに顔を歪めているのを尻目に、焦りだけが募る。
と、頭の中で気を失うまでの記憶が一瞬だけリピートされた。
(そうか、これならできるかも)
客間の隅にあるタンスからハサミを取り出し、刃の部分を左の手首に押しつける。
一度だけ深呼吸をしてから決心し、次の瞬間には勢い良く刃を引いていた。
「れーなっ!」
「さゆ、ちょっと待って」
慌てて自分に飛びついてきたさゆみを何とか押し止め、自分から流れ始めた血を意識して見る。
最初は下へ流れていた血が途中で蒸発して消え始めたのを確認したれいなは、改めてストックした水を意識した。
先ほどよりも量が多くなっている。
- 436 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:14
-
「大丈夫、ちゃんと止血はするから」
心配そうにこちらを見てくるさゆみに何とか笑いかけ、自由な右手にいつものプロセスでゆっくりと確実にストックした水を集める。
貧血なのと急に力を使ったのとで足がふらつくが、さゆみが支えてくれたから大丈夫だった。
出来上がったのはいつもの青く冷たい刃ではなく、赤く熱を持った刃。
氷の刃のときにはぎらぎらとした存在感があったが、この赤い刃ではそれが全く感じられない。
穏やかな温かさを放っている。
「まるで今のれなみたいっちゃ」
自分の血が通っている刃から目を離し、もう一度貴子を見る。
その貴子は穏やかな顔のまま、目はもう閉じていた。
そしていざ刃を振り上げようとしたそのときに、横から不意に手が伸びてくる。
見てみるとさゆみが少し困った顔で立っていた。
「なんかこのままだと置いていかれそうだったから」
「……うん」
さゆみの左手がれいなの右手に添えられ、今度は二人で赤い刃を振り上げた。
そして振り上げたままの勢いで刃を振り下ろす。
貴子の左肩にそれが触れた直後、貴子が無数の光の粒へと変化して弾ける。
部屋中に舞い散った光の粒はどれもれいなの刃と同じくらい温かかった。
「綺麗……」
「うん」
呟いたさゆみに小さく頷くれいな。
舞い散る粒の一つ一つには稲葉貴子という人間の、存在した証が残っている。
- 437 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:15
-
剣をそのままにしてれいなは近くを漂っていた粒に自由な左手を伸ばしてみる。
粒が手のひらに触れた直後、れいなの中に貴子の意識が流れ込んできた。
言葉では語りつくせないくらいの貴子の全てがそこには込められていて、れいなもできる範囲でそれらを記憶する。
光の粒の乱舞はしばらくれいなとさゆみを取り巻くように行われていたが、やがてゆっくりと消えていく。
ほんの数秒で無数にあった粒が数えるほどになり、一呼吸している間にそのわずかな残りも消えてしまった。
『ありがとな』
不意に貴子の声を聞いたような気がして、再び涙腺が緩んだれいなだったが息を止めて堪える。
いつの間にか消えていた赤い刃に気づき、振り返ってみるとさゆみがまだうっとりと宙を眺めていた。
(泣くのはあとにしよう)
それだけを固く決心し、静かに部屋を出る。
ひんやりとした廊下に出ると、遠くのほうから声が聞こえてきた。
少し聞いていてそれが新垣里沙のものだと気づいてれいなは小さく首を傾げるが、反対側に顔を向けてそこに父親の姿を見つける。
彼の表情からしてまだ全てが終わったわけではないようだと察したれいなは、彼に向かって小さく頷きかけた。
- 438 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:15
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 439 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:15
-
それから先のことはれいなからしてみれば、拍子抜けするほどあっさりしたものだった。
再び向かったお化け屋敷には姉や兄もいたようで、降りてきたときにはぼろぼろになって気を失っていたが、れいなはそれを心配しなかった。
何よりも生きてここへ戻ってきている、それだけで十分だと思ったから……
高橋愛や新垣里沙が駆け出したときも父親が賢明に走り回っている最中も、れいなは貴子や裕子の気配を探り続けていた。
もっとも、正常な状態に保たれていなかったその場でそれをしても効果らしい効果は無かったが、それでもれいなは探し続けた。
そして冷たいまでの現実をようやく受け入れることにした。
これが貴子の言っていた『大人』というものなのかもしれない。
そう心の中で思ったれいなだったが、それは即座に否定する。
受け入れることができても、納得したくなかったから。
こういうところがまだ子供なのだろう。
瓦礫の山となったお化け屋敷を眺めながられいなは何となくそう思った。
- 440 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:16
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 441 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:16
-
帰りの車の中は、どこか沈んだ空気だった。
それを意識した亀井絵里はできるだけ話さないでおこうと心の中だけで誓う。
安倍なつみの運転する車の前を走っている古びたシビックには、小川麻琴・真琴、紺野あさ美、高橋愛、それに新垣里沙が乗っている。
そして、自分と吉澤ひとみ、田中れいなに道重さゆみはなつみの車に乗っていた。
ただし後部座席には三人が座っていたため、少しばかり窮屈だったが。
「よっちゃん、まだ怒ってるべ?」
運転手なのに顔をしきりに横へ向けているなつみに、絵里は背筋が冷たくなる。
そのたびに車が揺れるからだ。
これが昼間ならば事故になりかねないと思うが、怖くて何も言えない。
「安倍さん、前見てください」
冷たい声のひとみに言われ、なつみは慌てて顔を正面に戻す。
そのときもやはり車は横に大きく揺れた。
横にあったドアに半分しがみついていた絵里は何とか耐えることができたが、真ん中に座っているれいなが心配だ。
乗り物酔いがひどいのに真ん中に座ってしまった彼女のことが心配になって見てみるが、意外と平気そうな顔をしている。
ただしほとんど暗かったため自分の勘違いだったのかもしれない。
「れーな、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「……そう」
「……」
前を向いたまま再び無言になってしまったれいなから視線を外し、今度は外を眺めることにした。
どうせならもうちょっと話を引き伸ばしたかったが、隣にいるれいなからはとてもできそうにない。
そのさらに横にいるさゆみからもだ。
しかしそんな状況でも居心地とか雰囲気が悪いとは感じられない。
逆にこのまま目を閉じてしまえば誰もいなくなってしまいそうにさえ感じてしまう。
(だけど、そうじゃないんだよね……)
心の中で独りごちながらすっかり暗くなった外に灯っている街灯を見やる。
ぽつんぽつんとしかないそれらもきっと寂しいのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えた。
- 442 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:17
-
「ねえ絵里」
れいなが話しかけてきたのは、車が赤信号で止まったときだった。
相変わらず暗い車内では彼女の表情すらろくに分からない。
かろうじて声音で気持ちを読み取ろうとするが、普段と比べてどこか無機質っぽい喋り方をする彼女からは何も読み取れなかった。
「人って死んだらどうなると思う?」
「……」
静かに呟いてくるれいなにどう返したら良いのか分からず、絵里は思わず沈黙する。
声が震えていると思ったが、それは気のせいかもしれない。
「みんな素直に消えていくのかな?それとも……」
何が消えるのかがはっきり分からないが、肉体的なことを言っているのではないだろう。
それを意識して絵里は答えを必死に探す。
「簡単に消えはしないよ」
答えに窮した絵里に代わって、前に座っているひとみが答えてくる。
れいなと同じように静かで、ちょっとでも意識を逸らせば聞き取れそうに無い。
「でもね、それはあくまで受け取る側の話なんだ。死んだ本人のことなんて考えてないし、考える必要も無い。だって私は私であって、死んだ本人じゃないからね。私がその死んだ人間のことを忘れたくないと思えば、ずっと残り続けるんだ」
「ずっと残ってて……たくさん背負い続けて、それで大丈夫なんですか?」
「大丈夫も何も、人間ってやつは多かれ少なかれそうしたものの積み重ねでできてると思うね。死ぬとか生きるとかは大して関係ないんだ。何かのきっかけで残したいと思えば、それで十分だと思うよ」
静かな中にも穏やかさが混じったその声に絵里は小さく頷く。
最後にひとみは小さく付け加えてきた。
「私達にある気持ちはそうやって出来上がっていくんだ。塵も積もれば山となるってやつだね」
前にいるひとみが小さく肩を上下させている。
どうやら自分で言っていておかしかったのか笑っているようだ。
隣にいるれいなの表情や動作は全く分からないのに、前にいるひとみの行動が全て分かってしまった絵里は笑っているひとみから意識を外してれいなを見てみる。
近くにいるのにやはり気持ちは暗くて読み取れなかった。
- 443 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:17
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 444 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:18
-
家に戻り姉達を布団に寝かした後、れいなは自室へと戻った。
外ではなつみとひとみが何やら言い争いをしていたが、聞いていて関係無いことだったため無視する。
さゆみも一緒だったため途中で台所に寄り何か食べるものを補充しようと思ったがめぼしいものが見つからず、結局はお茶とコップだけを持って戻ることにした。
「何かいろいろあった一日やったと」
「お化け屋敷も壊れちゃったしね」
「……」
「……先生、やっぱりいなかったね」
「先生だけじゃなくて、師匠もおらんかったっちゃ」
「そう……」
「……」
ちびちびとお茶を飲みながらぽつりぽつりと話をするが、どうにも長続きしない。
何かを話したいのに、いざ口にしてみると言葉にならない。
漠然と頭の中に描いている気持ちを、ずっと言葉にできないでいる。
帰りの車の中、絵里に聞いてひとみから出てきた答え。
聞きたかった答えの一部かもしれないが、それだけでは足りない気がする。
「ねえさゆ、さっきの吉澤さんの話だけど……」
「うん」
「山になった後、どうなるのかな……?」
「……」
「山になって、それで終わりなんかな?」
さゆみを見てみるが彼女は自分ではなくて少し上の、何も無い場所を眺めたまま止まっている。
そんなさゆみから視線を外したれいなは自分だけで考えをまとめてみることにした。
いろいろな気持ちが積み重なって、今の自分を形作る。
嬉しいと思ったり寂しいと思ったり、はたまたもどかしいと思ったり怖いと思ったりもした。
そんなものを全部ひっくるめて今の自分はある。
ひとみの言葉を借りればそれが『塵も積もれば』の状況なのかもしれないが、本当にそうなのだろうか?
- 445 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:19
-
「たぶんね、吉澤さんの話みたいに山にはならないと思うよ」
ぽつりと洩れてきて視線を戻してみると、さゆみがこちらを見ていた。
「ずっと残り続けるってことは無いと思うの。だって人間って自分勝手にできてるでしょ?それに忘れっぽいし勘違いだってする。そんな人間にずっと同じ形で残るってことはできないと思うの」
「うん。それで?」
「積み重なって山になるんじゃなくて、自分の都合の良いように解釈してすっきりするような形でしまうんじゃないかな。思い出として自分が取り出しやすくさ」
「……山じゃなくて引き出しに収めるわけっちゃね」
「それに山になったままだといつかは崩れちゃうかもしれないからね」
「……それはそれで怖いっちゃ」
さゆみの言うほうが何となく理解しやすかったので、それで納得してしまったれいなは満足気に息を吐く。
外の様子が気になり立ち上がろうとするが、ちょうどタイミングよく再びさゆみが話しかけてきた。
「そうだ、あと一つ気になったことがあるんだけど……」
「なに?」
「先生が最後に言ってたよね、大人って云々かんぬんって。あれってどうなんだろ?私的にはまだ納得できないんだけど……」
「……うん」
「でね、れーなも同じみたいだから言うんだけど、あれって無理やり納得するものなのかな?」
「へっ?」
「先生の言ってる糸っていうのもいまいち分かんないし、世界なんて言われてももっと分かんない。だったらそれで良いんじゃないかな?分かんないままでさ」
「……」
「納得することが大人なんだったら、私はしないほうがいいな。だってまだ子供なんだもん」
そこまで言ってさゆみが小さく笑う。
いつものようではなかったのはもしかすると貴子に遠慮していたのかもしれない。
そう思ったれいなもつられて笑ってしまった。
- 446 名前:自由への逃避10 投稿日:2005/09/28(水) 11:19
-
「そうっちゃね、思ってみたらまだれならって子供やしね。まだ分からんでもええっちゃ」
「そうそう。それに年取ったら自然に分かっちゃうかもしれないからね」
二人でしばらく笑い、収まると元の静けさが戻ってきた。
空になったペットボトルを部屋の隅に放り出しれいなは新しいお茶を調達しに台所へ行くが、あいにく父親の飲んでいるビールしか入っていなかったため素直に諦めて部屋へ戻る。
途中、姉達が寝ている部屋の前を通ったが、話し声とかは聞こえてこなかった。
まだ寝ているらしい。
「何か眠くなってきたっちゃ」
「いろいろ忙しかったもんね」
「寝ようか」
「……そうだね」
ベッドが一つしかなかったため二人で一緒に入るが、どちらもそれについては何も言わない。
壊れたはずのベッドはちゃんと直っているが、少しだけ軋んだ音を立てているのが気になった。
「おやすみ、れーな」
「おやすみさゆ…………先生に師匠、おやすみなさい」
自分達とは別のところへ行ってしまった二人に呼びかけるれいな。
聞こえはしなかったが、それでも確かに自分の声に返ってくるものがあって少なからず安心する。
閉じた瞼の裏にはぼんやりと二人の姿が映っていて、今度はそれに向かって話しかける。
(次に会うときまでちゃんと修行しときますから、もう足手まといって言わんといてくださいね)
二人とも笑っていたと思ったのはあくまでれいなの気のせいだったのかもしれない。
すぐに消えてしまった二人の影から意識を外し、今度こそ眠るべく遮断させる。
そして、れいなは夢の世界へゆっくりと入っていった。
- 447 名前:後日談 投稿日:2005/09/28(水) 11:23
-
十一月最後の日曜日。
久しぶりに張り詰めた緊張感に浸りながら田中れいなは、道場の片隅でそっと静かに目を閉じた。
座った畳はずいぶん古いが、少し離れた場所からは真新しいい草の良いにおいがしている。
そこには父親が業者から大量に購入した畳が重ねて置いてあった。
そして、その父親と小川真琴がれいなの前にある畳の上で対峙している。
「おい真琴、確か俺は九時にはここに来いって言ってたよな。いま何時だ?」
「だから悪かったって。寝坊したんだよ」
ぶっきらぼうに答えた真琴に父親が苦い顔をしながら木刀を持ち上げる。
ちなみに今の時刻はすでに十一時を過ぎていた。
寝坊するにも限度があるかと思ったれいなだが、それは口にしない。
きっと今の父親も同じことを考えているから。
「お前が来ないかられいなから先に稽古しちまったぞ。しかもかなりきつめに」
「その割には堪えてないみたいだな」
「れいなはずいぶん鍛えたからな。たぶん、今のお前よりかはましだろうよ」
「言ったな親父」
目を開けてみると二人から見られていたためれいなは慌てて視線を逸らす。
兄からの視線は疑心暗鬼だったし、父親のそれはどこか自信に満ち溢れている。
れいな自身としてはどっちでも良かったため、できるだけ忘れてほしいと思いながら逸らしていたが、大して効果は無いようだった。
「で、結局おれなんか呼んでどうしようっていうんだよ」
「だから、お前にも稽古をしてやろうって思ったんだ。ありがたく思え」
「この前ので懲りてないのかよ……」
大きくため息を吐いた真琴が首を左右に振りながら呟く。
もし今のをれいなが目の前で見ていたら、きっとすぐに飛び出していただろうが、そこは父親らしく全く動じない。
右手に持った木刀で肩をぽんぽんと叩きながら、真琴を鷹揚に眺めているだけだ。
- 448 名前:後日談 投稿日:2005/09/28(水) 11:24
-
「確かに、夏休みのときは俺が全面的に油断していた。というわけで、今回はちょっぴり本気になってやる。全力の一割だ」
「それって本気って言うのか……?」
「安心しろ、前のは全力の0.1%くらいだったからな。百倍ってところだ」
「……笑えねぇな」
呆れたのだろう、真琴が父親の正面から外れて歩いていく。
てっきり帰るのかと思ったがそれは違ったようで、彼女は竹刀を持ってすぐに戻ってきた。
どうやらやるつもりらしい。
「さっさと始めよう。明日から期末テストなんだよ。いい加減勉強しないとやばいだ」
「余裕こいて後で泣くなよ」
畳の上、三メートルほどの距離で対峙している二人は対照的だった。
真琴は殺気をみなぎらせて睨みつけてのに対し、木刀を降ろしたまま父親は余裕の表情でそれを受け止めている。
竹刀をすでに構えている真琴にはそんな父親の姿が無防備に見えたのかもしれない。
「いやぁっ!」
短いかけ声と共に飛び出した真琴が竹刀を上段から一閃させる。
自分なら正面から受け止めるなと思ったれいなだったが、父親はわずかに半歩だけ横にずれてそれを避けていた。
しかも今度は笑っている。
「まだ始めとも言ってないのに不意打ちか?」
「稽古だと思ってるのは親父だけだろ。おれはおれで勝手にやるさ」
「よくぞ言ったぁ!」
左手に持った木刀をゆっくりな動作で持ち上げ、真琴が反応して竹刀で受け止める。
が、次の瞬間、持っていた竹刀がめきりという音を立ててあっさりと折れてしまった。
これには真琴はともかく、傍から見ていたれいなも吹き出さずにはいられなかった。
振り上げた木刀を同じようにゆっくりと振り下ろしてくるが、その前に真琴は木刀の範囲内から逃げ出している。
それから半分ほどになった竹刀を後ろに放り投げながら叫んできた。
- 449 名前:後日談 投稿日:2005/09/28(水) 11:25
-
「ちょっと待てよ、竹刀が折れるなんて聞いてないぞ!」
「聞いてないも何も、実戦だと誰もそんなこと教えてくれないぞ」
「っていうか、そんなの卑怯だ!」
「卑怯だと思ってても現実は変わらないぞっと」
叫びならが逃げ惑う真琴に向かって父親がにやつきながら木刀を振り下ろす。
紙一重で何とかかわした真琴だったが、この前のような機敏な動きではなかった。
明らかに遊んでいる父親と違って、余裕の余の字すら見えない真琴が不意にこちらへ手だけを伸ばして叫んできた。
「れいな!そこの木刀を貸せ!」
「……はいはい」
脇に置いていた木刀を手に取って立ち上がるが畳の中まで入る気になれず、真琴に向かって適当に放り投げる。
コントロールの悪いれいなが投げた木刀は、真琴の手からだいぶ離れた落ちてしまった。
それでも真琴はすぐさまその木刀に飛びつき、慌てて構える。
その頃には足音すらさせなかった父親が真琴の間近で木刀を振り上げていた。
逃げ腰になった真琴が慌てて顔の前に木刀を持っていくが、今度はばきっという音を立てて木刀が二つに折れてしまう。
「うわぁぁ、やっぱりぃ!」
真っ二つになった木刀を放り投げながら真琴が再び逃げ出す。
それを無理に追わず、父親は木刀を振り下ろしたままの格好で止まっていた。
「ちっ、なかなか当たらんな。当たれば粉々になるのに」
「……ひどいかよ親父」
ここが道場でなかったら単なる通り魔にしか見えない父親にげっそりと呟いたれいなだったが、畳の端っこにいる真琴はまだ諦めたわけではないようだ。
大きく肩を上下させながら、それでも父親を睨みつけている。
- 450 名前:後日談 投稿日:2005/09/28(水) 11:25
-
「そっちがその気なら、おれだって本気になってやるぞ」
「だから本気のいちわ……」
「こうなったら『核』を掴んでそのままあっちの世界へ送ってやる!」
(なんで手の内をあっさり明かすっちゃかねぇ……)
馬鹿正直なのか他に作戦があるのか良く分からないため、心の中だけで一人ごちるれいな。
が、すぐにどっちか分かってしまった。
(マコ兄、あんた馬鹿正直すぎるよ……)
右手を無造作に伸ばしたまま突進する真琴はあまりにも無防備すぎて、今のれいなでも簡単にかわせそうだ。
事実、父親は余裕の表情で真琴が近づいてくるのを待っている。
そして真琴の手が父親の胸元に迫ったそのときだった。
ずだんという大きな音を一つだけ残して、父親の姿が掻き消える。
同時に発生した熱風に、思わず離れていたれいなもあとずさりしてしまった。
『元の人間が見えなくなれば『核』も見えなくなるだろ』
「消えるなんて聞いてないぞっ!」
『手の内を晒すほうが間抜けだ』
どこからともなく聞こえてくる父親の声に叫び返す真琴だが、その間にも畳の上に次々と小さな穴が出来上がる。
父親の移動した跡だとすぐに真琴も気づいているようだが、それが畳の上のどこにもでもあればそこから場所を特定することはできそうにもない。
- 451 名前:後日談 投稿日:2005/09/28(水) 11:26
-
(持ってあと一分くらいっちゃね)
自分のときとははるかに移動速度が違うため、畳がぼろぼろになるのも一段と早くなっていた。
真琴の周辺の畳からは変な煙すら上がっている。
正直な気持ち、あそこに立っていなくて良かったと思ったのもつかの間、真琴の後ろに父親の姿が現れた。
顔はにやついたまま背中に右手を添えている。
れいなからはほんの少しだけ力を入れたようにしか見えなかったが、押された真琴はそれどころの話ではなかった。
「うわっ」
勢い良く前へ飛び出した真琴だが、出来上がった無数の穴の中に足先を引っかけ、顔から派手に倒れる。
しかもそれで止まったわけではなく、ころころと五回ほど転がってようやく止まった。
「しょ〜うり」
ぼろぼろになった畳の真ん中で悦に入っている父親を無視してれいなは真琴へと近寄る。
うつ伏せになった彼女のわき腹を突いても全く反応しない。
「完全に気絶してるっちゃね」
「なんだ、あれくらいで」
「あれくらいって言う親父も親父っちゃ」
「さてと、それじゃあ新しい畳にでも張り替えるか。れいな、真琴を頼む」
「……分かってる」
すでに気絶した真琴に興味を失ったのか、父親が脇に置いてあった畳の山へと歩いていっていた。
それを尻目にしながられいなは真琴の腕を取る。
このまま寒い道場に放置しておくわけにもいかないからだ。
気絶した真琴の身体は予想以上に重たく、抱えようと思っていたれいなはすぐに断念して引きずって行くことにした。
どうせ気絶している間のことは覚えていないだろう。
そう割り切ってれいなはえっちらおっちら道場を後にした。
- 452 名前:後日談 投稿日:2005/09/28(水) 11:26
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 453 名前:後日談 投稿日:2005/09/28(水) 11:27
-
「あれって絶対反則だって」
寮へ戻る道すがら、とぼとぼ自転車を押していた麻琴がぽつりと呟く。
横でそれを聞いていたれいなは特に何も言わなかった。
反則だと思っていてもそれで事実が変わるわけが無い。
だったら前を見据えてあの親父にどうしたら勝てるかを考えてほうがましだ。
気絶した真琴は意外と早く気がついた。
昼食直前に起き上がった彼女だったが、父親の顔を見るのが嫌なのか麻琴と入れ替わってしまい、それ以来、表へは出てきていない。
今は不貞腐れて寝ているらしい。
「ていうかさ、重さんちってこっちで良いの?」
「えっ?あぁ、ちょっと走って行くけん気にせんでええっちゃ」
意識が逸れていたれいなは話しかけてきた姉に適当に答え、無言になる。
明日から期末試験が始まるのは麻琴・真琴だけではなくれいなも同じだった。
頭を動かすよりもどちらかといえば身体を動かすほうが性に合っているため、どうも一人だと集中できない。
そんな理由でこれから道重さゆみのところへ行くつもりだった。
といっても運動神経があまり良くないれいなにしてみればそれもあまり関係ないのかもしれない。
ただし、さゆみの家は麻琴・真琴が暮らしている寮とは正反対にある。
こうして麻琴にくっついているのにはれいななりに理由があった。
- 454 名前:後日談 投稿日:2005/09/28(水) 11:27
-
「マコ姉、渡すもんがあるっちゃ」
そうれいなが切り出したのはいよいよ寮が間近に迫ったときだった。
持っていたカバンの中からビニール袋を取り出し、麻琴へ押しつけるようにして渡す。
渡された麻琴は不思議そうな顔をしていたが、中をのぞいて動きを止めてしまった。
それもそのはず、中に入っている物はもともと麻琴・真琴のものだったのだから……
「それね、親父があの場所で探してきたっちゃ」
がさごそと袋に手を入れた姉の身体が一瞬だけ震えたように見えたのは気のせいだろうか?
聞いてみようかどうか迷っているうちに麻琴が袋に入っていた物を取り出してしまったため、結局は聞けなかったが、そのほうが良かったのだろうと彼女の顔を見て無理やり納得する。
麻琴が取り出したのは一本のナイフだった。
とある事件をきっかけに知り合った中澤裕子からもらったというそのナイフも、今はぼろぼろになっていた。
刃の部分はぼろぼろに欠けているし、先っぽは変な具合に折れ曲がっている。
お化け屋敷が崩れた際にできたものなのか、それとも別の理由があってできたものなのか分からない。
そんなナイフをしげしげと眺めていた姉がぽつりと呟いた。
「……良く見つけてきたもんだね」
「親父がね夜な夜なでっかい金属探知機みたいのを持って探しに行ってたっちゃ。で、三日くらい前にようやく見つけたと」
「そうなんだ……」
「あと、親父から『ぼろぼろになった刃の部分も新しくできるけどどうするか』だって」
口早に言い切り、姉の反応を静かに待つ。
しかし、姉からすぐに反応があった。
- 455 名前:後日談 投稿日:2005/09/28(水) 11:28
-
「いいや、このままで」
「でも、直さんと使いもんにならんっちゃよ?」
「うん。だけどこのままが良いんだ」
柄の先の部分についた汚れを拭きながら麻琴が笑う。
その笑い方があまりにもあっさりしていたため、れいなは疑問に思っていてもそれを口にすることができなかった。
が、麻琴もそれに気づいているのかすぐに付け足してきた。
「あの日、何が起こったのかってのを忘れないための記念かな……違うか、わたし達に対する戒めだね」
「……」
「いろいろ大変だったけど、あのときようやく自由になれた気がするんだ。そりゃあまだまだ問題は残ってるけど、少なくとも前みたいに自分達だけで抱え込んだりはしない。ちゃんと話せる人がいるんだからね」
「……そうっちゃね」
何となく少し前の自分と姉とを重ねてみながられいなは頷く。
「ねえマコ姉、自由ってどんな感じ?」
「……口で言っちゃえば軽くなったっていうくらいかな。もしかしたらこのまま空でも飛べるんじゃないかって思えるくらいね」
「ぷっ」
ぱたぱたとナイフを持った手を上下させている姉がおかしくつい吹き出すれいな。
すぐに麻琴が頬を膨らませて手を伸ばしてきたが、もう片方の手で支えていた自転車がバランスを崩してしまったために何とか難を逃れた。
倒れるか倒れないかの際どい状態で何とか自転車を支えながら、それでも自分に向かって文句を言っているのが逞しい。
そんな姉を放っておいてれいなは空を見上げた。
全体的に白い雲が出ているが、途切れ途切れの向こうには青空が見えている。
もしかすると今の姉もこうした気持ちなのかもしれない。
(先生はちゃんと自由になれましたよね?)
ふと思いついて心の中で自問してみるが、直後に一瞬だけ強い風が吹いてきて思わず首を竦める。
風と一緒に誰かの声が聞こえたような気がしたが、れいなはそれを気のせいだとは思わなかった。
- 456 名前:―― 投稿日:2005/09/28(水) 11:29
-
自由への逃避 了
- 457 名前:いちは 投稿日:2005/09/28(水) 11:43
- 更新しました
長かったですがようやく終了しました
前回との話を含めて大きな区切りをつけたつもりです
次ですが本編の話から逸れて他の人たちの話なんかをするつもりです
いろいろ問題を抱えたあの人やらあの人なんかが一応のメインです
が、本来の主役もちゃんと出てきます
あと次回の更新ですが二週間ほど先になるかと思います
それでは
- 458 名前:―― 投稿日:2005/10/19(水) 11:01
-
泣けない夜も、泣かない朝も
- 459 名前:泣けない夜も、泣かない朝も0 投稿日:2005/10/19(水) 11:02
-
その日、亀井絵里は珍しい人間と出会っていた。
本当なら喫茶『アターレ』に行きたかったが、それでは都合が悪いということで彼女から別の喫茶店を指定されて、そこに絵里はいる。
遠い親戚である彼女は今年から警察官になり、生活保安課という場所に配置されたらしい。
名前からはぱっとしないが、どうやら拳銃や麻薬に関係することを取り扱う部署らしい。
それ以上のことを絵里は知らない。
というよりもあまり知りたくなかった。
およそ五年ぶりだというのに、絵里は彼女のことを一目でそうだと理解することができた。
覚えている彼女の特徴といえばやけに派手だということで、私服を着た彼女は特にそれが顕著だったからだ。
が、相手のことを気遣って絵里は言わないようにする。
というよりも内心どうでもよかった。
「……それでどうするつもりですか?」
控え目に見上げて言うが、彼女の踏ん反り返った姿勢は直らないし荒くなった鼻息も納まらない。
雰囲気からして押されているのがわかるが、絵里にはどうしようもできなかった。
「どうするって、実行するしかないのよ。そのつもりでちゃんと台本も作ってきたし」
「そんな計画立てたって実際にやってみるとうまくいきませんよ」
「大丈夫、こいつは私だけの台本だから。ほかにはほかの都合があるの」
「……そうですか」
なにを言っても聞いてもらえないような気がするが、ここまで話が進むまでの最善の努力は尽くした。
だから、この先なにが起こっても絵里の責任にはならないだろう。
「というわけでちゃっちゃと話を進めるわよ。あんまり時間がないんだから」
「はぁ……」
気圧されたまま彼女の言いなりになる絵里。
台本すらできていたのだからあらかじめどういった進行なのかもシミュレーションしていたのかもしれない。
事実、打ち合わせも彼女に任せきりでスムースに進んでいった。
- 460 名前:泣けない夜も、泣かない朝も0 投稿日:2005/10/19(水) 11:03
-
「ここで適当に悲鳴を上げてね」
「ひ、悲鳴ですか?」
「そう、あんまり作った感じじゃなくて本当に切羽詰ったってやつがいいわ。そのほうがリアルになるから」
「……そのときまでに考えときます」
二十ページほどある台本だが絵里の関わる部分は意外に少なく、ほとんど彼女の言っていることを聞き流すしかない。
ただ、終わりに近づくにつれて過激になる内容にどうつっこみを入れるべきか考えるが、どう言っても聞いてもらえそうにないため止める。
当の彼女は自分が聞き流しているとは思っていないのだろう、えらく事細かに説明していた。
「……とまあ、大まかなところはこんなところね。即興で作った割にはかなり出来がいいと思うんだけど、あなたはどう思う?」
「ものすごい一生懸命だってのは伝わってきます」
「そう。気に入ってもらえてよかったわ」
(いえ、そこまで言ってません。というか、むしろ逆です)
なにをどう間違って解釈したのかわからないが、上機嫌になっている彼女に言うのも気が引け、押し黙る。
苦し紛れに台本の最後の部分をぱらぱらと捲ってみるが、明らかにおかしい箇所があったためそこで手を止めた。
「すいません……なんで最後の部分が白紙なんですか?」
開いたページは見事に空白になっていて、なにもいっさい記入されていない。
前のページを見るが、そこまではちゃんとなにか書いてある。
最後の最後の部分だけ、見事になにもなかった。
- 461 名前:泣けない夜も、泣かない朝も0 投稿日:2005/10/19(水) 11:04
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「ああ、そこは無理に台本書かなくても大丈夫……というよりかはなにを書いても予測できないんだから、無駄って言ったほうが正確ね」
「予測できないんですか?」
「そう、私が予定しているのは少なくとも二通り。だけど、それ以外にもいろんな要素が混ざってくるから、実際はもっと複雑になる。だから、そこのところはぶっつけ本番ってやつね」
「そんなのでうまくいきますか?」
「大丈夫。成功したら丸く収まるし、失敗しても『あいつ』が駄目になるだけ。私にとってデメリットはないから」
「そんなのあんまりです!」
反射的に怒鳴った絵里はテーブルをかなり強く叩きながら立ち上がっていた。
それでも彼女は絵里に冷ややかな視線を送りながら、コーヒーを啜っている。
どこまでも人を舐めた仕草になおも言い返そうとした絵里だったが、それよりも先に彼女が口を開く。
「『あいつ』がこれまでしてきたことを考えれば、絶対なんらかの報いがやって来るはず。私がやろうとしてるのはそれを故意に早めるだけのこと。私がしなくてもほかの誰かが、別のなにかが『あいつ』に知らしめるはずよ。それに、私だって『あいつ』のことを中心にやってるわけじゃない。助っ人の助っ人なんですからね。最大限動いてその台本に書いてあることだけ。あとはサポートに回らないといけないから、それ以外のことは面倒見れないわ」
「だからってなにもここまでしなくても……」
「じゃあ、本音を聞かせてあげる」
手が伸びたかと思うと、絵里は強引に座らされていて彼女の顔を目の前にする。
それまでの舐め切った仕草は消え去り、真剣そのものの彼女に絵里はなにも言えず、唾だけを静かに飲みこむ。
- 462 名前:泣けない夜も、泣かない朝も0 投稿日:2005/10/19(水) 11:05
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「『あいつ』がやってきたのは明らかに『向こう』の意に反すること。今回は『向こう』を潰すから、私もある程度『向こう』に信頼されないといけない。『向こう』も『あいつ』のことをえらく嫌っていたし、だけど、いきなり殺すこともできない。だから、適当に殺さない程度に懲らしめる役割を持った人間が必要なのよ」
「その役割を……?」
「そう、私がやる。一度『あいつ』とはやりあってみたかったから」
「だからってこんな計画は無茶です。それに第一、私、受験生ですよ?」
そろそろ年が変わる今日この頃。
年が完全に変わってしまえば、絵里にとって最大の難関である受験がやってくる。
それを万全の体制で迎え撃つためには少しでも時間が必要だ。
「わかってるって。だから、あなたには最低限の負担で済むように計画したんだからさ」
「……後で怒られても知りませんからね」
「大丈夫だって、安心なさい」
それから再び細かい詰めの作業を行い、彼女は慌しく去って行った。
残された絵里は立ち上がる気にもなれず、目の前に置いてあったココアの入ったカップを手に取る。
すでに冷めたココアほど不味いものはないが、なにも飲まないよりかはずいぶんまし。
そう割り切って飲んでみるが、やはりまずかった。
「大丈夫って言われても……」
彼女の笑った顔を思い出すが、その目は笑っていなかった。
獲物を狩る鷹の目。
漠然とそう浮かんでしまったことを激しく後悔しながら、絵里は深々とため息を吐いた。
伝票は彼女が持って行ったから、絵里はお金を支払う必要はない。
それも当然のことだろう。
これから先のことを考えれば安いものだ。
(ひとみさん、大丈夫かな……)
最愛の人間に対して隠し事をする。
少しばかり後ろめたい気持ちを感じながら、絵里は残っていたわずかなココアを一息で飲み込んだ。
- 463 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:06
-
「おがわぁ〜おれのはなしを聞いてくれよぉ〜」
「なんでぐでんぐでんに酔っ払ったおっさん口調なんですか?」
突然首に絡まってきた腕を必死に振り解きながら、小川麻琴は吉澤ひとみを睨んだ。
彼女は夜になると元気になるのか、こうやって出歩くときは必ずといっていいほど絡んできている。
「テンションが上がってるんだ。気にするな」
「だからって親父にならなくてもいいじゃないですか」
着ていたコートをばたつかせて抗議してみるも、彼女は一向に気にする気配を見せない。
実際、今もほんのちょっと気を許した隙を突いてきたのだから、麻琴にしては手のつけようもなかった。
幸いなのは、ひとみが麻琴に絡んでくるのは二人きりのときだけで、ほかに人間がいるときは絶対手を出してこない。
だから、二人きりというこの状況では性質が悪くなっている。
「ところで小川、真面目な話をしよう」
「えっ、はい。なんですか?」
歩きながらいきなり改まってくるのもひとみらしいが、麻琴としてはかなりやりづらい。
なにを話してきても会話にならないような気がしたからだ。
「がきさんが塾に行き始めてはや一ヶ月。こうやってお前も毎回迎えに行ってるわけだが、お前にどうしても言っておきたいことがある」
「えっと……なんでしょう?」
立ち止まったひとみに続いて立ち止まる麻琴。
無視してそのまま行きたかったが、ひとみから出ている特殊な雰囲気がそれを許してくれそうにはなかった。
しばし無言で向き合うひとみと麻琴。
麻琴にしてみれば実に居心地の悪い時間だが、ひとみから言われるまでじっと待つしかない。
『待て』と言われている犬の気持ちが少しだけわかるような気がした。
- 464 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:06
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「がきさんを家に送ってからちゃんと寮に帰る。実に真面目だ……だけど真面目すぎる。少しくらいは破目を外せ!」
「だ〜か〜ら〜、またその話ですか?」
「その話しかないだろ。もう一月だぞ? その間、いくらチャンスがあったと思う? みすみす見逃すのもいい加減にしろよ!」
「泊まるにしても安倍さんの許可がいるじゃないですか。許してくれませんって!」
「そこが真面目だって言うんだよ。迎えに行くのにいちいち外出許可取らなくてもいいし、外泊許可も必要ない。朝めしのときまでに帰ってれば問題ないんだよ!」
「だからって、首は締めないでください」
両手を伸ばしてきたひとみからなんとか逃げる。
掴みそこなったひとみは小さく舌打ちをしていたし、隙あらば締めてやるといった空気が全身から出ていた。
そのまま逃げようかとも思った麻琴だが、それをすれば地の底まで追ってきそうな気がしてうかつに動けない。
「安倍さんだってそこまで鬼じゃないんだ。話せばわかってくれる。私がいい例だろ?」
「先輩のはばれただけじゃないですか! わたしが言わなかったら絶対隠したでしょ」
「そりゃそうだ。だって、ばれてないんだからね」
「……はぁ」
いつになく強気なひとみに嘆息し、麻琴はゆっくりと歩き始める。
完全に開き直っていることが妬ましかったし、ある意味羨ましかった。
「先輩ってやっぱ男っぽいですね」
「ん?」
歩きながらぽつりとつぶやく麻琴に首をかしげるひとみ。
言葉が聞き取れなかったのではなく、その意味がわからなかったのだ。
「だってそうじゃないですか。そうやってぐいぐい引っ張っていくところなんてすごく逞しいですよ。亀ちゃんが羨ましいです」
「……なんだ、そういう意味か」
率直に言う麻琴に対し、ひとみは小さく笑う。
それは麻琴の言葉を素直に受け取ったというよりもむしろその逆。
受け入れ難いといった笑みだ。
- 465 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:07
-
「私が求めてるところは違うよ。私はね、中性がいいんだ」
「中性……ですか?」
「そう」
言っている意味がわからないのだろう、麻琴がぼんやりと口を半開きにしているのを見て今度こそ笑うが、麻琴も特に怒らない。
目だけで先を催促しているのがわかったひとみは言葉を慎重に選び、口を開いた。
「男でもなく、女でもない。どっちにもなれないんじゃなくて、どっちにもならない。あくまでも両方を兼ね備えたまま。そんな真ん中の存在に憧れるんだ」
「……よくわかりません」
「だろうね。私もよくわかんない」
不満そうに言ってくる麻琴を適当に流し、ひとみは先を歩く。
言葉ではわからないと言っていても、その意味は自分なりに解釈している。
ただ、相手にどう伝えても理解されないだけだ。
(だって、そのほうがミステリアスだしね)
心の中だけでつけ加え、満足気に息を吐く。
時計を見てみるとすでに塾の終わる時刻が迫っていた。
「うわっ、もうこんな時間か。急いで行かないとがきさんになんか言われるな」
「そういう先輩だって亀ちゃんになにか言われますよ」
「……走るか」
「……ですね」
着ていたコートがやけに鬱陶しかったが、それを脱げばとたんに寒くなってしまうから文句も言えない。
それに文句を言う間も惜しく、二人は無言で走った。
- 466 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:08
-
「まこっちゃん、急いで来たみたいだけど五分遅刻だね」
「ご、ごめん」
「じゃあ、いつものところでポテトを食べて行こうね」
「……はい」
塾に着いた二人を待っていたのは新垣里沙の一人だけだった。
そのことを不思議に思ったひとみは息を整えながら周囲を観察してみる。
すでに終わった塾にはまだ人がまばらに残っているが、そこに亀井絵里の姿は見えない。
それ以前にいつもなら里沙と一緒に待っているはずだ。
「ちょっとがきさん。絵里はどうしたの?」
「あれ、吉澤さん。いたんですか?」
「……絶対嫌味だろ、それ」
「ち、違いますよ。単に気づかなかっただけですよぉ」
ずっと麻琴の横にいたにもかかわらず、相手にすらされないひとみ。
いつもならそこでフォローを入れてくるのが絵里の役目だが、その彼女も今はいない。
「亀ちゃんならさっきものすごい勢いで帰っていきましたよ。てっきり吉澤さんと待ち合わせでもしてるのかと思いました」
「……? 聞いてないな」
「おかしいなぁ。どこ行ったんだろ……」
里沙とひとみが首をかしげる間、麻琴は終始へらへらしていたが、それについては誰もつっこまない。
というより誰も麻琴のことを見ていなかった。
「がきさん、絵里がどっちに行ったのかわかる?」
「わかりませんよ。塾の中でわかれたんですから」
「そうか……」
しばらくあれこれ考えてみるひとみ。
出した結論は一つしかなかった。
「なんか危険な香りがする……」
「どんな香りなんですか?」
すかさずつっこみを入れてくる里沙を無視してひとみは携帯を取り出す。
リダイヤルボタンを押して絵里の番号を素早く呼び出すが、いくら待っても通じることはなかった。
「やっぱりなにかがおかしい」
「あっ、吉澤さん!」
「先輩?」
里沙や麻琴が呼び止める間もなく、ひとみはもと来た道を走っていく。
残された二人はそんな彼女を呆然と見送るしかなかった。
- 467 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:09
-
「どこに行くつもりだろ?」
「まあ大丈夫でしょ。それより、早くおやつ食べに行こうよ」
「おやつって……夜食の間違えじゃない?」
袖を引っ張る里沙に控えめに言う麻琴だが、拒みはしない。
正直なところ麻琴もお腹が空いていたからだ。
里沙や麻琴、それにいつもは絵里やひとみが通いつけているファーストフード店は駅前にある。
塾のある場所から五分とかからないし、十一時まで営業しているからけっこう便利だ。
だが、二人がその店に入ることはなかった。
というより入れなかった。
『きゃ〜っ!』
「……なに?」
「さぁ……」
遠くから聞こえてきた声に二人は立ち止まる。
辺りを見渡してみても声の主は見当たらない。
というよりも上から聞こえてきたような気がして麻琴は見上げてみたが、電球のぱちぱちしている街灯しか見えなかった。
「悲鳴……かな?」
「あれって亀ちゃんの声じゃない?」
「えっ、そうなの? いまいち緊張感がなかったからわかんなかった」
「そうだよね……ってそういう問題じゃないから」
首をかしげている麻琴を軽くこづいた里沙がきょろきょろと見回しているうちに、二度目の悲鳴が聞こえてきた。
『きゃ〜っ!』
「なんかあっちから聞こえるっぽいね」
里沙が指さしたのは塾があった方向。
不幸なことにひとみが走っていったのとはまったく正反対だった。
が……
「絵里、待っててっ!」
が、どこをどう走ってきたのか、ひとみがかなりのスピードで駆け抜けていく。
声だけが遅れてやってきたのは気のせいではないようだ。
「先輩、どこからわいてきたんですか?」
「そんなことより、行ったほうがいいよね」
ひとみにつっこみを入れている麻琴を促す里沙。
釈然としない表情をしたままの麻琴も里沙に引っ張られて移動する。
が、どうしても魚の骨がのどにつかえたような気持ちの悪さだけは取れることがなかった。
- 468 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:10
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 469 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:11
-
麻琴が首をかしげている間も、ひとみは懸命に走っていた。
いつもの三倍はあるかの速度に自分自身で喝采を送るが、それを見てくれるはずの絵里はいない。
しかも今はその絵里が悲鳴を上げている。
ただ事ではない。
本来の待ち合わせ場所である塾の入り口を走り抜け、さらに道を何回か曲がっていく。
止まったのは駅前とはとても呼べない、街灯の数がめっきり減ったどこにでもある裏通りだった。
「またここに来るとはね……」
道の隅でひとみは小さくつぶやき、苦笑する。
コートではなく、下に羽織っていたジャンパーに忍ばせていた特殊警棒を取り出し、取っ手についているボタンを押した。
じゃきんという音を立てて伸びた警棒は状態がよければショック機能が働くが、あいにくそれは壊れている。
数回警棒を軽く振って感触を確かめる。
久しぶりに振った警棒は思いのほか重たく、ずしりと手の中に納まっていた。
続いてひとみはコートのポケットに手を入れ、中にあるパチンコ玉の数を感触だけで確かめる。
ひとみがここを歩くには危険がつきまとうため、自己防衛の手段は必要だ。
そのためのパチンコ玉は二十個ある。
右手に警棒を握ったままコートの中へ、左手はコートのポケットに入れ、いつでもパチンコ玉を弾けるようスタンバイする。
深呼吸をしてから、ゆっくりと裏通りへと足を踏み入れた。
「やっぱり、私一人がやっても、効果はないみたいだね」
暗がりを選んで座り込んでいるどこかの人間や、それにたむろする比較的若い人間。
その光景を見てつぶやいてみるが、誰もひとみに興味を抱くことはない。
むしろ避けているように見えた。
(ここだと私は単なる厄介者。絶対いい歓迎はされない……)
いつでも動けるよう全身を緊張させ、全方向に危険信号をキャッチするアンテナを張る。
久しぶりに張ったそのアンテナも穴だらけでどこまで有効なのか心底不安だったが、今はそいつに頼るしかない。
それに下手にきょろきょろして相手を興奮させても効果的ではない。
そう割り切っていつもの速度で歩いていく。
そして、ひとみの張ったアンテナがひときわ強い信号をキャッチした。
- 470 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:11
-
(前からくる……一人か?)
生きる気力をいっさい見せない売人の横を通り過ぎ、前方に全神経を集中させる。
鳥肌が立つくらいの危険にこれまで一度だけ対峙したことがある。
そのときの相手は生きている人間ではなく、別のなにか。
だが、今回の相手は明らかに人間。
生きているという感覚をあえて隠さない。
それくらい無謀な人間に思えた。
さらに十メートルほど進んだ直後、ひとみの周りをなにかが素早く動いて取り囲んでいく。
気づいたときには十人ほどの男から敵意のある視線を送られていたが、ひとみはそれを脅威と感じなかった。
それよりもさらに危険な気配は、すぐ正面にある。
「これだけの人数を前にして怖気づかないっていうのは感心するわ。でも、こんなところにぬけぬけとやって来たのは感心しないわね」
「するのかしないのか、どっちなんだよ」
真正面から聞こえてきたのは女の声。
驚くほどよく通るその声は裏通りの全てに響き渡っていたが、相手はそんなことに構うつもりはないようだ。
普段は大きいと思っていた自分の声もその声には不釣合いで、どこか弱々しい。
その不足分を敵意のこもった気配で相手に叩きつける。
「私はどっちでも構わないわ。あなたの問題だから」
女のその声を合図に、取り囲んでいた十人が一斉に動き始める。
しかし、とても統制の取れているとは言えない彼らの動きよりも、あとから行動を開始したひとみのほうが速かった。
ポケットに入れていた左手をすばやく抜き出して、一番手近にいた男の顔面目がけてパチンコ玉を三つ弾く。
この裏通りではひとみのその動作も相手方には周知済みで、狙われた一人は大きく仰け反ってパチンコ玉をやり過ごした。
が、大きく仰け反った身体は隙だらけで、ひとみの軽い足払いで男は簡単に倒れる。
そのみぞおちに警棒を突き刺すと蛙を潰したような声を出して沈黙した。
- 471 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:12
-
背後からやって来た二つの気配をひとみはしゃがんでやり過ごし、警棒を持った右手に力を込める。
伸びてきた腕を完全に無視した地面すれすれの横なぎは四本の足に当たり、ひとみ目がけて倒れてきた。
一人には左手をみぞおちに、遅れてやってきたもう片方には後頭部付近にかかとを叩きこむ。
どさりと一人目の上に倒れるのはかかとを叩き込んだほうで、突き刺さった左手にはまだ男がもたれかかっている。
身動きが取れないと思ったのか残りの数人が近寄ってくるのが気配でわかり、とりあえず一番人数が多いほうへもたれかかった男を突き飛ばした。
気絶した男を真正面で受け止めたのは二人、両手がうまいこと塞がれたそいつらの顔面に警棒を叩き込んでひとみは離れる。
(これで五人か……あと、半分)
ほぼ一分の間で半分を無力化したひとみだったが、そこに余裕の色はない。
絶えず気配だけを出してくる女に集中し、どこかにいるはずの絵里の気配も同時に探す。
そのころには絵里がここにいる、そうした確信がひとみの中にできあがっていた。
「やっぱり、ここら辺のごろつき程度だと話にならないわね」
より一層濃くなった女の気配に思わずたじろぐひとみ。
真正面からやってくるどす黒い気配を全身で受け止め、引くことも前へ出ることもできない。
そして、その女がようやくひとみの前へ現れた。
赤い派手なドレスをまとい、高いヒールを履いた、ぼんやりとした月明かりでもわかるやけに化粧が濃い女。
どこをどうやったらそこまで気色悪くなるのか問い詰めたいひとみだが、彼女が掴んでいるもう一人を確認してそれどころではなくなった。
「絵里!」
「ひ、ひとみさん……」
乱暴に腕を掴まれ逃げ出すことのできない亀井絵里。
終始おどおどしていたのは腕を掴んだ女が怖いからだろう。
そう判断したひとみは思わず前へ出るべく足を踏み出す。
が、それよりも女が空いている手を上げるほうが早かった。
- 472 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:13
-
「あなたのことはだいたい調べてある。だから、この娘のことも知ってるわよ」
「だからって、絵里に手を出すことはないだろ」
「ひとみさん、ごめんなさ……」
「絵里は黙ってて。すぐに助けるから」
なにかを必死で言おうとする絵里を押し止め、女だけに集中する。
左手をポケットにつっこみ、パチンコ玉を握りしめる。
少し前までのひとみなら躊躇なく女の顔目がけて弾いていたが、今はその自信もない。
自分よりも女のほうが躊躇しない、そんな感じがしていた。
「あのですね、ひとみさん。実は……」
「てりゃっ!」
なにかを言おうとしていた絵里の首筋に女が手刀を叩きこむ。
小さな声を出して崩れ落ちる絵里を強引に腕だけで引っ張り上げた女に、ひとみはすかさず前へ出た。
「絵里!」
「余計な会話は必要ないわ。それにこいつは人質なの、身分は弁えてもらわないとね」
いつの間にか残った五人は消えていて、女の後ろに男が一人だけ立っている。
鋭い目つきがほかの男たちとまったく別物だという雰囲気を醸し出していた。
その男に絵里を多少乱暴な手つきで手渡す。
小言でなにかを言った女に男は小さく頷き、絵里を抱えたまま闇へ溶け込んでしまった。
「ちょっと待てよっ!」
「あなたの相手はこの私。彼女を助けたかったら私を倒してみなさい」
一瞬目を離しただけなのに、女との距離が著しく縮まっている。
隙を見せてしまったことを激しく後悔したひとみだが、それでも危険に対する反応だけは忘れない。
伸びてきた女の手刀を、首を大きく振ることでなんとか回避する。
無駄のない動きとそこに込められた殺気は半端ではなかった。
「どけよ。いい加減私もぶち切れるぞ」
大きく後ろに飛び退き、周囲を確認するひとみ。
完全に二人きりとなった裏通りはやけに広く感じられたが、だからといってここで引くわけにもいかない。
女が『倒せ』と言った以上、なんとしてでもその女を叩きのめさなければならない。
- 473 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:14
-
「ぶち切れたらどうなるの? 私を殺すつもり?」
「半殺しが嫌なら、全殺しにでもしてやるよ」
「冗談っ!」
女の声を合図にひとみは前へ飛び出す。
低くした姿勢から素早くパチンコ玉を取り出し牽制の意味を込めて撃ち出すが、相手に当たらない。
半歩動くだけで全てを回避していた。
ひとみの狙いが正確なだけに、回避するほうも弾道が読めてしまえばある程度余裕ができてしまう。
そのことに途中で気づくが、走った勢いを殺すことが嫌だったためひとみは構わず前へ突き進んだ。
至近距離へと近づき、小さな動作で警棒を突き出す。
が、それすらも女には当たらない。
相手は左へ一歩ずれることによって警棒をやり過ごしていたのだ。
視界の隅に突如現れた女を捉え、左足で急ブレーキをかけるひとみ。
止まった反動で全身がきしむが、それを無視して今度は裏拳の要領で警棒を女の顔面目がけて横なぎにする。
前を閉じたコートが邪魔だと思ったのはこのときが初めてだった。
「残念だけど、あなたの攻撃は当たらない」
女の声が下から聞こえ、横にないだ警棒が大きく宙を斬る。
次の瞬間、軸足にしていた左足をすくわれたひとみは転倒していた。
(こいつ、私よりもできる!)
頭の中だけで悲鳴を上げ、顔から地面に落ちるがすぐに左手を突いて起き上がる。
口の中に入った砂がやけにざらざらしているが、それはきっぱり無視して相手を睨むことだけに全神経を集中させた。
しかし、上下左右に揺れた頭は思いのほかぐらぐらして気持ちが悪い。
目の前の女は激しい動きをしたはずなのに、まったく息を乱していない。
それどころかまったく動いていないようにも感じられた。
(どっちにしても関係ない。私の絵里に手を出した。それで決まりだ)
揺れる地面を踏みしめ立ち上がり、コートの中へ左手をつっこむ。
何個取り出したかわからないが、握ったパチンコ玉を全て相手へと弾くが、これもまた全て外れた。
- 474 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:14
-
(くそっ!)
口の中だけで呪詛の言葉を吐き捨て、再び相手へ詰め寄る。
大きく振りかぶった警棒は最初のときよりもはるかに遅く、ぶれている。
だが、それを握っているひとみが気づかなかった。
気づけなかった。
何度警棒を振っても相手に当たることはなく、自分が地面に転がるだけ。
そのたびに起き上がって追撃するが、必要以上に熱くなった身体が言うことを聞かない。
どんどん鈍くなる自分の身体を叩き壊したくなる。
「くそっ!」
口の中だけの呪詛が外にもれ、ほぼ同時に右手首へ衝撃が走る。
それまで足だけを狙っていた女の手刀が当たった瞬間だった。
正確としか言いようのないその一撃はひとみから握力を奪い、握っていた警棒をはるか遠くへと弾き飛ばしていた。
衝撃はあまりに小さく、それでいて手首だけを貫いた痛みは激しい。
自分の鈍くささを毒づきながらもなおも前へ出ようとしたひとみは次の瞬間、目の前を暗闇で覆われた。
それまで感じていた月明かりすら遮り、いっさいの視界を封じ込める暗闇。
圧迫感と息苦しさ。
その両方を感じた直後、視界は暗転していた。
「くっ!」
背中にやってくる衝撃に思わず溜め込んでいた息が吐き出される。
閉じていた目を思い切り開きそこにあった夜空を眺めるが、なにがどうなったのかを理解しきれない。
混乱した頭が事実を事実として受け入れてくれなかった。
- 475 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:15
-
(どうしたんだ?)
「つまりはこういうこと」
自問したひとみの視界を遮るように顔が一つ、現れる。
相変わらず化粧の濃いその女のその顔をすかさず殴りつけようとしたが、したたかに打ちつけた身体は言うことを聞いてくれない。
睨むこともこのときだけはどうしようもなく無力だった。
「残念だけど、あなたがこれまでそうやって生活できたのは単に運がよかったから。あなたがそうやって満足してきたのは、単に周りの連中があなたより弱かったから。そんなのでよくもまあ、あの娘を助けるなんて言えたもんね」
(くそっ、こんなところで終われるか!)
必死に自らを鼓舞するが、反比例して身体は休むことを受け入れている。
動くことを拒否した身体をもう一度動かすことは無理なことに等しい。
頭の中でそのことを考えてしまった瞬間、ひとみの目に膜が覆われた。
(まだ、絵里も助けてないのに……)
「さてと、武装解除させてもらうわよ」
どこまでも軽い口調で、女がコートのポケットに手を入れてくる。
明らかに自分とは違うその手を拒否したのは頭だけで、そこ以外の部分はされるがままの状態を受け入れていた。
もう疲れた、早く眠りたい。
不意に浮かんだその言葉を口だけで反芻し、自分で驚く。
どこでそんなことを考えていたのか、なぜ考えてしまったのか。
受け入れるつもりは毛頭ないのに、どうして身体が言うことを聞かないのか。
悔しい……
「ほら、これであなたは無力になった」
立ち上がった女の手から零れ落ちるパチンコ玉が、今の自分みたくものすごく惨めに見える。
そう思ってしまったひとみは下唇を思い切り噛んで、心の中だけでもう一度大きく毒づいた。
- 476 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:15
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 477 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:16
-
(おい、なにかやばくないか?)
「言われなくてもわかってるって」
走っている間、小川麻琴は独り言のようにつぶやいた。
少し前を走っていた新垣里沙は小さな交差点のようなところでどっちに行けばいいのかを考えているようだ。
合流するまでまだ少し時間がある。
「でも、おかしいって感じもするね」
(……だな)
もう一人の自分も同じように違和感を持っていることに安心した麻琴は慎重に歩を進める。
ただでさえも暗い裏通りなのに、さらに今は雲が出ていて空を覆っていた。
ほとんど見えない足元に注意しながらゆっくりと里沙のところへ追いつく。
どちらへ行けばいいのか決めかねているのか、里沙はまだきょろきょろと辺りを見渡していた。
「まこっちゃん、どっちに行く?」
「うーん……」
どっちに行っても外れを引きそうに思った麻琴はうなりながら里沙と同じように見てみる。
すぐ脇に街灯があったが電球が切れているのか明かりは灯っていない。
いまさらながらこんなところまで来たことを後悔するが、それでも相方が多少前向きだったのが幸いだった。
(あっちのほうが、なんとなくにおうな)
「たぶんあっちだと思う」
相方である真琴の感覚に素直に従って指を差す。
それでも麻琴にはそっちが正解なのかまだ信用できずにいた。
- 478 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:16
-
「どっちに行っても危険そうだけど吉澤さん、本当にいるのかな?」
「いなかったら急いで戻ろう。探せばどこかにいるはずだからさ」
「ていうかこれでいなかったら私たち、本当に無駄足だね」
「そうなったほうがいいかも……」
着ていた上着のポケットを探ってみるが、以前はあったはずのナイフも今はない。
そのことを不安に感じた麻琴は自然と横にいた里沙の手をとっていた。
止まった空気がやけに気になり深呼吸をしてみるが、どうにも落ち着かない。
そんな麻琴のつま先になにかが当たった。
割と甲高い音を立てて転がったそれを探すと、少し前に細長いものが落ちているのに気づく。
そこまで行って屈んでみてはじめてそこにあるものがなんなのかわかった。
「なに?」
「……先輩の使ってる警棒だよ、たぶん」
伸びきった警棒を拾い上げる麻琴。
取っ手の部分に二つのボタンがついているが、一つは押してもなにも起こらない。
それもそのはず、壊れているからだ。
壊れた警棒を持ったまま立ち上がる。
寒いと感じるがそれは単に気温が下がっているからではないようだ。
握った里沙の手が温かいことでなんとか取り乱さなかった麻琴は目を細めて前を見る。
(なんでだろ、緊張する……)
必死に目を凝らし、前を見すえる。
ようやく暗闇に慣れてきたのか足元が見えているが、それでも少し離れてしまえばほとんど見えなくなってしまう。
そして、不意に握った里沙の手に引っ張られた。
- 479 名前:泣けない夜も、泣かない朝も1 投稿日:2005/10/19(水) 11:17
-
「まこっちゃん、あそこ」
「えっ?」
里沙に言われ指さされたほうに目を凝らす。
そこに誰かが横たわっていた。
暗いがなにを着ているのかよくわかる。
先ほどまでそれを見ていたからだ。
「……先輩?」
呼びかけてみるが、倒れた彼女はびくともしない。
おそるおそる近づこうとした麻琴だったが、不意に周囲が明るくなり足を止めた。
というよりも反射的に止まってしまった。
着ていたコートはグレーだったのに、今は白っぽくなっている。
周囲にはひとみが使ったのだろう、パチンコ玉がところどころに転がってわずかに光っているのがわかる。
が、それ以上に気になったのは彼女の表情だった。
普段は見ることのない彼女のうつろな顔。
倒れたままぼんやりと向いていた空をつられて見上げると、そこには月が浮かんでいた。
途切れた雲から差し込む月明かりの、あまりのタイミングの悪さに麻琴は小さく舌打ちをする。
すぐにでも隠れてしまえばいいのにとも思ったが、意外とゆっくりな雲が隠すのにはもう少し時間がかかりそうだ。
(なんでぼろぼろになってるんですか……?)
浮かんだ疑問を口にすることができず、かといって彼女に近づくこともできない麻琴はそこで立ち尽くすしかなかった。
隣にいた里沙が握っていた手に少しだけ力をこめてくるが、それにすら反応できない。
視線はずっとひとみに固定されたまま。
それもそのはず、泣いている吉澤ひとみを見たのはそのときが初めてだったから……
- 480 名前:いちは 投稿日:2005/10/19(水) 11:33
-
更新しました
最初のターゲットはこの人です
タイトルはGARNET CROWから拝借しました
なんとなく意地らしいこの人に合ってると思ったので
それでは
- 481 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/10/20(木) 23:34
- 更新お疲れ様です。
やっと長い日々が終わったと思いきや、今度はこの方ですか。
なんだか凄いことになりそうな予感ですね。
次回更新待ってます。
- 482 名前:泣けない夜も、泣かない朝も 投稿日:2005/10/26(水) 13:15
-
泣けない夜も、泣かない朝も2
- 483 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:16
-
後藤真希は熟睡していた。
といっても熟睡していたと感じるのは決まって起きた後でしかなく、その間の心地よさはあまり残っていない。
それでも普段ならばその心地よさを多少なりとも引きずって起きるのに、このときは心地よさをいっさい引きずることなく胸が詰まったのを感じて目を覚ましていた。
「なんで起きちゃうんだろ……」
意外と軽いまぶたを開け、頭の先に置いてあった時計を確認する。
まだ十二時前。
真希が寝たのは九時ちょっと過ぎだった。
「全然寝足りないのに……」
再び枕の中に頭を埋め込んでみるが、どうにも寝つけない。
寝返りを打って時間を潰してみたが、やはり一向に眠気はやってこなかった。
「お腹減った……」
ベッドからもぞもぞと起き上がり、デスクの引き出しを開ける。
そこには真希が三年近くかけて作った寮のあらゆる箇所の鍵がしまってあった。
どうやって作ったかは言わないし、それ以前に誰にも聞かれない。
こうやって行動するときは完全に個人で、ひとみにすらこのことは知られていない。
だから、このときの真希はかなり油断していた。
がらっ。
「うわっ、なに、よしこ……?」
ルームメイトの吉澤ひとみが出て行った窓は、基本的には次の日の朝にならないと開くことはない。
その窓が急に開いたことで真希は慌ててデスクの引き出しを閉めた。
そして、振り返ってみてひとみとは別の人間がいることに眉をひそめる。
「えっとぉ……誰だっけ?」
「新垣です。新垣里沙っ!」
小声でそう言ってきた里沙が『おじゃましま〜す』と言って入ってくる。
が、すぐに背を向けて手を伸ばした。
どうやら彼女以外にも人を連れているようである。
- 484 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:17
-
「後藤先輩、ただいま戻りました」
「うわっ、まこっちゃん。どうしたのそれ?」
続いて窓から入ってきた小川麻琴だが、その背中には大きななにかを背負っている。
ぱっと見、それが人間だとは到底理解できなかった。
「もしかして、そのボロ雑巾みたいなのって、よしこ?」
「……はい」
丁寧に靴を脱いで窓から入った麻琴は、吉澤ひとみを背負ったまま部屋を見渡している。
どこに彼女を置けばいいのか考えているのだろう。
いすを引っ張り出して置いてみると、麻琴はそこにひとみを丁寧に乗せた。
そのひとみを観察した真希は、大きく息を吐いている麻琴に小声で聞く。
「よしこ、どうしたの?」
「わかんないです。ただ、うわ言のように亀ちゃ……亀井ちゃんのことをつぶやいてるだけですから」
「そっか……」
慌てて言い直している麻琴から視線を外し、ボロ雑巾に目をやる。
打ちひしがれたひとみを見るのはこれが初めてで、どう声をかけたらいいのかわからない。
その視界の中に三人分の靴を持って立ち尽くしている里沙が入り込み、ようやく真希は言うことを見つけた。
「あとは私がなんとかするから、二人は部屋に戻ってていいよ」
「えっ、でも、私は……」
「なっちには私から話しとくから、大丈夫」
「……よろしくお願いします」
二人が出て行き、いつもの二人に戻る。
普段ならばここで嫌味の一つでも言うところだが、それを言っても大して効果がないのは目に見えていたため、続けて真希は携帯を取り出した。
メモリから番号を呼び出し、発信ボタンをプッシュする。
「……もしもし、あやや? ごめんけど、私の部屋まで来てくれる? そのついでといっちゃなんだけど、なっちもつれてきて…………あ、うん、ちょっと立て込んでて動けないんだ、お願い」
半ば強引に電話を切り、耳をすませる。
すると、電話が切れてしばらくしてから隣の部屋のドアが勢いよく開き、やけに大きな足音がそのさらに横にある階段を上がっていくのがわかる。
夜中なのにそういうはた迷惑な行動ができる人間は極めて限られる。
- 485 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:18
-
「こりゃそうとう怒ってるね……」
寝起きだったらしい松浦亜弥に苦笑し、真希は近くにあった自分のいすを引っ張り出した。
それから背もたれのほうを前にして座り、ひとみを正面から見すえる。
うつむいた彼女はこちらがなにを話してもいっさい口を開きそうになかった。
「あのさ、あややが部屋に来るんだけど、その前になにがどうなってそうなったのか話してくれる?」
自分が寝巻きでひとみが外出用の服装。
ギャップが大きくて笑いそうになるが、ひとみの着ているコートが砂まみれなので笑えない。
外でなにがあったのか、このときの真希にはまったく想像できなかった。
が、ひとみはなにも喋らず、目すら合わせようとはしない。
そのことに腹を立ててみようかと思ったが、タイミングよくドアがノックされたため真希は立ち上がった。
「で、どうしたの?」
ぶすっとした亜弥に、真希と同じく寝巻きの寮母である安倍なつみ。
自分がなぜ呼ばれたのかわからないといった二人を部屋に招き入れ、座ったままのひとみを指さす。
二人同時にぎょっとして立ち止まったのを見て小さく笑ってみたが、ちっとも気分は晴れなかった。
「よっちゃん、どうしたんだべ!」
疑問形ではなく半ば問い詰めるかのように詰め寄るなつみ。
着ていたコートを脱がせたのは見事だと思ったし、それまでそのことを放置していた自分のことも少しだけ呆れる。
亜弥はなにがどうなっているのかわからない、そんな表情をしてずっと立ち尽くしたままだった。
- 486 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:18
-
「今日も出かけて行ったんだけど、ついさっき戻ってきたと思ったら、ああなってたんだよね」
なにをどう説明したらいいのかわからず、今まであったことをとりあえず説明する。
が、真希がわかっていないことを亜弥にわからせるのは無理だった。
かしげた首をさらに大きくかたむけ、ひとみとその周りであれこれしているなつみを観察している。
その亜弥と一緒になって真希も傍観することにした。
手際のいいなつみはひとみの着ていたコートを脱がせ、続いてそのコートの砂を払う。
もちろん窓の外に出して行ったその動作を拍手したかったが、コートのポケットを探っていたなつみの手が止まったのが目に入り、同じように真希の動きも止まる。
なつみが取り出したのは小さな紙くずとしか言いようのないなにか。
コートを丸めた彼女がそれを訝しげに見つめ、おもむろに開く。
それから首をかしげて戻ってきた。
「よっちゃん、なにか紙が入ってたけど、知らない?」
ひとみに向かって見せている紙の内容が気になり、後ろからそっと近づく真希。
隣にいた亜弥も同様に忍び足で近寄っていた。
それから二人揃って紙に書いてあった内容を読み取る。
「……どこ?」
「……さぁ」
その小さな紙に書かれてあったのは真希や亜弥の知らない住所と時刻らしき数字が一行。
それだけがぽつんと記されていた。
- 487 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:18
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 488 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:19
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「あのね、さっきの話を整理したんだけど、どうもしっくりこないんだよね。スペードの9っと」
「しっくりこないもなにも、話が飛びすぎてるよ。先輩になにがあったの? スペードの10ね」
「それがわかれば苦労しないよ。でも、なんか亀ちゃんがいなくなったって感じのことは言ってたよね。ハートの4」
「おらんくなってどういうこと? まさか、さらわれでもしたん? ハートの3」
「わかんない。でも、亀ちゃんとは連絡がつかないんだよね、さっぱり」
「それに、あんなにぼろぼろになった先輩も初めて見たよ。なにがあったんだろ……ってパス」
並べられたトランプと手札のトランプとを見比べながら小さく小川麻琴がつぶやいた。
それを隣にいた高橋愛が見ながら言ってくる。
「それでもパス二回目やよ麻琴。次なかったら終わりやけんね」
「終わりって言われても……だって中途半端にスペードのJで止めちゃってくれてるから出せないんだって」
「じゃあもう一週我慢しとけばいいんだ」
「……しまった」
愛の正面にいた紺野あさ美がにやりと笑い、麻琴が舌打ちをする。
次に回ってきても麻琴には出せるカードがなかった。
「にしてもまあ、よくスペードだけ集まったもんやね」
「誰かの陰謀なんじゃない?」
「でも手札配ったのってまこっちゃんだよね」
「……くすん」
けっきょくその七並べで最初に上がったのはあさ美で次に愛が上がり、新垣里沙が三番目だった。
- 489 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:20
-
「ところで里沙、亀井ちゃんとは連絡とれた?」
どべになった麻琴がぶつぶつ言いながらトランプを切っている間、暇になった愛が聞いてみる。
それを受けて里沙が脇に置いてあった携帯を取って画面を見てみるが、小さくため息をついてすぐさま顔を上げてきた。
「ダメ。さっきからずっとメール送ってるけど、ぜんぜん返ってこないや」
「そのわりにはさっきから携帯いじっとるみたいやったけど……」
「あれ? ずっと同じメール送ってたの。心配で心配でしかたなかったから」
「どれくらい送ったん?」
「かれこれ三十回かな。数えてないからよくわかんないけど」
「それって心配って言うよりも嫌がらせのような……」
ぼそりとつぶやく愛を尻目に、里沙は再び携帯を見下ろしてメールの画面を開く。
この間に送ったメールを数えてみるとぴったり三十回だったが、構わず三十一回目を再送信する。
「あのさぁ、亀ちゃんも心配なんだけど、吉澤先輩は大丈夫なのかな?」
あさ美が唐突に二人の間に割り込んできた。
目をしきりにこすっているのはもしかすると眠いからかもしれない。
それに答えたのは麻琴だった。
「大丈夫だって。後藤先輩がちゃんと起きてたから、なんとかしてくれるよ」
「そうだよね、普段はぜったい起きてないよね」
「そうそう、運がよかったんだよ」
と、そこでドアがノックされる。
この時間帯、起きていることを知っているのはごくわずかな人間だけ。
その音に素早く反応した麻琴が立ち上がり、ドアへと向かった。
開けたドアの向こうにいたのは、後藤真希。
眠たそうな表情はデフォルトだが、もしかすると本当に眠いのかもしれない。
- 490 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:20
-
「なんか変な紙が出てきたんだけど、見覚えない?」
「えっ?」
投げやりっぽく聞こえた声にうながされるまま真希から紙を手渡され、それを見てみる。
それは先ほどひとみの着ていたコートのポケットから出てきたメモだった。
もっとも真希が持ってきたのは内容だけを書き写したもので、オリジナルは部屋に置きっぱなしになっている。
「なんですか、これ?」
「なんですかって言われても……どこかの住所ってくらいしかわかんないよ」
「うーん……」
麻琴が見てもその住所には見覚えがなかった。
寮があるのと同じ市の住所が書いてあるのだから遠くはないのだろうが、おそらく近くでもないのだろう。
唸り声を上げている麻琴の背後に残りの三人もやってきて紙を順番に回してみるが、同じように唸り声を上げるしかなかった。
「で、これを見たよしこがさぁ……」
「はい」
「なんか急に動き出して――それまではぐったりしてたんだけど――『絵里、絵里』って独り言をぶつぶつ言いながら部屋を出て行きそうになったんだ」
「えっ? 吉澤さん、行っちゃったんですか?」
寮に戻る途中、うわ言のように絵里の名前を連呼していたひとみに鬼気迫るものを感じていた里沙が後ろから声を上げた。
が、真希はその里沙に目を合わせようとはせず、ばつが悪そうに頭を掻いている。
それからぼそりとつぶやいた。
「いや、今は寝てる。というか気絶中」
「は?」
「だってさ、なっちがボディーブローを思い切り叩き込んだからね。こう『くいっ』と捻りながらさ」
そう言って右手を前に出しながら捻る真希。
なにをどうやったら気絶するのかわからないが、それを見ていた麻琴は自分がされたわけでもないのに思わず自分の腹を両手で覆い隠していた。
- 491 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:21
-
「あれでもなっちの実家は怪しい武術をやってるみたいで、なっち自身もけっこうすごいよ」
「……怖い」
「まあ、そんなわけで私の役目は終わりかな。よしこも寝ちゃったし……よくわかんないから、後はそっちで考えてね」
そう言って大きく伸びをした真希がふらふらとドアから離れていく。
が、途中でなにか思い出したのか、振り返ってきた。
「そうだ愛ちゃん」
「はい?」
「今日さ、あややの部屋で寝るから愛ちゃんもどっか別の場所で寝てね」
「えっ……」
「おやすみ」
後ろ手で軽く手を上げた真希がそのまま階段を降りていく。
けっきょくなにも言えなかった愛は小さくため息を吐きながらそれを見送った。
「なんか、謎が謎を呼ぶって感じだよね」
「それよりも安倍さんのボディーブローのほうが気になるんだけど……」
「で、これ、どうしようか」
「それに捻りも……」
ドアノブを握ったまま、もう片方の手で腹を擦っている麻琴をスルーし、愛と里沙は部屋の中に戻る。
紙を持っていち早く戻ったあさ美はすでに自分のデスクに置いてあるノートパソコンのスイッチを入れたため、二人もそちらへ意識を向けていた。
なんとなくへこみながら麻琴も戻るが、パソコンが立ち上がる頃にはすっかり気を持ち直していた。
「まずはそこの住所がどこかを調べないとね」
打ちこむだけで検索してくれるサイトに飛び、住所を打ちこむあさ美。
出てきた画面を自分が判別しやすい縮尺まで拡大する。
「意外と近いんだ」
「どこ?」
「なんか倉庫みたいなのが並んでるんだけど……」
「わかったっ! つまりはこういうことだよね!」
後ろでモニターを覗き込んでいた里沙が突然大声を上げる。
すぐ隣にいた麻琴は驚いて半歩あとずさり、愛は耳を押さえて里沙のことを見ていた。
- 492 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:23
-
「『ぐへへへ、よく時間通りに来たな。吉澤ひとみ』」
「『くそぅ、絵里を返せ!』」
「『お前はまぬけか。これだけの人数を相手によくもそんなことが言えるな』」
「『うるさいっ! 力ずくでも絵里は返してもらうからな!』」
「『返り討ちにしてくれる。てめえら、やっちまえっ!』『わらわら』ってやつじゃない?」
「いや、『じゃない?』って言われても……そもそも一人何役したん? それに最後の『わらわら』ってなに?」
「吉澤さん以外は全部違う人で、最後のは控えてたたくさんの人がわいてきた音だよ」
「あっそ……で、けっきょくなにが言いたかったん?」
指を折って数えていた愛が半眼で里沙に聞く。
里沙の一人芝居を見てもなにをしたかったのかがよくわからなかったからだ。
「つまり里沙ちゃんが言いたいのは、亀ちゃんをさらった誰かがそこで待ち伏せして、吉澤先輩をいたぶるってやつだよね」
「ほやけど、亀井ちゃんがさらわれたっていう前提からして怪しくない?」
「怪しいもなにも、私がずっと連絡してるのに取れないってのがおかしいよ」
「ほやったら、警察に連絡したほうが……」
「駄目だよそんなことしたら。ことが大きくなったら亀ちゃんだって無事にすまないよ。だから、吉澤さんが単独で助けに行くんだよ!」
「それってかなり大変じゃん」
「大変ってレベルじゃないような……」
里沙の言葉を鵜呑みにしている麻琴とは逆に半信半疑の愛とあさ美。
ただ、あまりに自信満々な里沙にどう指摘したらいいのかわからなかったし、おろおろしている麻琴を見てどう落ち着かせればいいのかわからなかった。
- 493 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:23
-
二人は口を閉ざして再び紙を見下ろす。
住所と時刻らしきものしか記されていないその紙にどのくらい信頼を置けばいいのかわからないが、知ってしまったからにはどうにかするしかない、そんなことをぼんやりと二人揃って考えていた。
「『6:00』って、つまり朝の六時ってことだよね」
「それって明日……てかもう今日か……のことなんかな?」
「そうじゃないかな……日づけが指定してないってのが気になるけど、吉澤先輩のことだから気がついたらすぐにでも行くんじゃないかな?」
なにやら力説している里沙に終始戸惑っている麻琴を尻目に会話をする二人。
あさ美は再びパソコンに向かい、今度は駅の時刻表を呼び出す。
寮から指定された場所に一番近い駅を検索し、なおかつ歩く時間などを考慮した結果、始発以外では六時に間に合いそうになかった。
「でもさ、これってなにかおかしくない?」
「そうだよね……なにか親切っていうか、よくできてるっていうか……」
「いかにも『こっちの都合に合わせました』って感じがする」
「……でも、これって行ったほうがいいんだよね、たぶん」
「今のところあーしらしか知らんのよね」
「うん」
騒いでいる里沙と麻琴を呼び、電車で行くには始発に乗るしかないことと、こちらの都合に合わせてあることがおかしいとを伝えるが、
「じゃあさ、助っ人を呼んどいたほうがいいよね」
とあっさり麻琴にスルーされてしまった。
携帯を取り出し、メールを作成した麻琴が素早く送信ボタンを押す。
あさ美が時計を見ると、すでに時刻は一時前。
相手が誰であっても起きていないような気がした。
「大丈夫だってあさ美ちゃん。れいなのことだから、すぐに電話でもかかってくるから」
軽く手を振っている麻琴の言葉どおり、五分後にはメールの送信先である田中れいなから電話がかかってきた。
- 494 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:24
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――――――――――
- 495 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:25
-
真夜中とも早朝ともいえない時間帯、村田めぐみはこっそりとその場所へやってきた。
重たくなった身体はひたすら休息を訴えていたし、すぐにでも横になりたい。
だが、眠るにはまだ早いだけだ。
そこはごく平凡な高層マンションだった。
今回、めぐみのパートナーはここを陣取ることにしたのだ。
ただ自分の立場はあくまでも部外者なので、そこにはあまり出入りはしたくなかった。
それに今回が初めての訪問だ。
携帯に送られたメールにはマンションの名前とその部屋の番号らしき三桁の数字しか記されていない。
あまりにもぶっきらぼうな内容に思わず怒った絵文字を一つだけ載せて返信したが、それは見事に無視された。
二十階建てのマンションの八階にその部屋はあった。
メールの番号とかかっていた番号とを何度も見比べ、自分でも嫌になるくらい確認してからノブを回す。
一応辺りを見渡してみたが、周囲に人らしい気配は感じなかった。
予想通り、中は暗かった。
せめて玄関の電気くらいは点けておけばいいのにと腹を立ててみるが、人を出迎える様子が伺えないため、諦めてパンプスを脱ぐ。
真正面にリビングらしき磨りガラスのドアを見つけ、そこを躊躇なく開ける。
(ほんと、いい気なもんだ)
フローリングのど真ん中に置かれていたソファに、パートナーが寝転がって眠っていた。
見た感じ、ソファは三人がけのようで、彼女はそこに足まで伸ばしている横たわっている。
隅に置かれたテレビは点けっぱなしだったし、ソファの前のテーブルにはハーフボトルのワインが口を開けたままだった。
明らかに『適当に置きました』という家具の配置に文句が次々と浮かぶが、入ってすぐのところに冷蔵庫があったため、めぐみは全てを飲み込んでそこへ向かう。
正直なところ喉が渇いていたからだ。
一番近くにあった未開封のミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
一口で半分ほどを飲み干したとき、不意に背後が明るくなった。
- 496 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:25
-
「早かったのね」
振り返ってみるとさっきまで寝転がっていたパートナーが立ち上がってこちらを見ていた。
ソファの隅に真っ赤なドレスが投げてあるが、彼女がそれを本当に着たのかどうか不安になる。
今の彼女がすでに地味な黒いTシャツに着替えていたからだ。
元々パートナーは暗い色、地味な色が好きだった。
あの派手なドレスを着ると言っていたことは強がりだとわかっていたが、誰に対しての強がりなのかがよくわからない。
自分に対してだったら、明らかに無駄なことだ。
「早かったもなにも、もう三時過ぎよ。時間的にぎりぎりだわ」
それだけ言うと、めぐみは持って来た書類の中から紙を二枚抜き取ってパートナーに渡す。
足音をまったく立てない彼女にやはり文句の一つでも言おうと思ったが、適切な言葉が思い浮かばなかった。
「なんであんたはそこまで執着してるの? はっきり言って、今回のことは部外者を巻き込みすぎよ」
文句の代わりにあらかじめ用意していた疑問を口にする。
てっきり今回の面倒な計画は上の誰かが提案したものかと思っていた。
が、ここまで計画が捩れたのはこのパートナーが提案したものだということを、めぐみは今日知った。
それを事前に見抜くことができなかったまぬけさに呆れるが、それ以上に不満が募っている。
「私たちが全部解決すべきでしょ? それに誘拐まがいのこともしてさ。下手したら私たちが捕まるわよ?」
「大丈夫よ。あっちには『従姉の優しいお姉さんが一晩勉強をみっちり教えてあげる』ってことで話してるから」
「……どこをどう歪曲したらそうなるわけ?」
パートナーの物言いに思い切り脱力しためぐみは、それまで彼女が座っていたソファに倒れこむようにして座る。
立ったまま書類を眺めていた彼女をぼんやりと見上げるが、彼女はめぐみに対してまったく注意を払っていない。
無防備とも無警戒ともいえるその背中だが、自分ではその背後を取れはしないだろう、そうめぐみは思った。
- 497 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:27
-
「で、さらってきたお姫様はどこにいるの?」
「玄関近くの部屋に寝かしてるわ。私が出た後でいいから、様子でも見ておいて」
「……わかった」
玄関の近くに部屋があったのかどうか思い出してみるが、暗かったためすぐに諦める。
彼女を見送るときにでも確認すればいい、そう割り切る。
「ねえめぐみ。あなた、『共存』ってどういうものだと思う?」
自分が考えていたこととはまったく違うことを、唐突に切り出してくるパートナー。
どう答えたらいいのかわからないし、彼女も答えを期待していなかったのだろう。
口を開きかけためぐみを無視して続けてくる。
「私はね、あの娘たちの在り方は共存ではないと思うの」
「だったら、なんだと思うの?」
どうせなら『共存』の定義を最初にしてくれればいいのにと苛立ちながらも、めぐみは先を促す。
それに気づいたのか、振り向いたパートナーは小さく笑っていた。
「私が思う『共存』ていうのはね、一方的に相手に依存しない関係。あくまで対等。これが私の思う『共存』。でもね……」
途中まで喋ったパートナーの顔が引き締まり、口調も静かなものへと変化する。
空気すらも一瞬で変えた彼女に舌を巻きながらめぐみは見上げるしかなかった。
「『あいつ』は一方的に『あの娘』と溶け込もうとしている。そして安定することをよしとしている。それが許せない」
「なぜ共存じゃないといけないの? 相手に依存することだって一つの選択肢じゃない。それをあなたが奪っていいって決まりでもあるの?」
パートナーの言う『あいつ』とは吉澤ひとみだし、『あの娘』とは亀井絵里のこと。
だが、なぜ彼女がこれほど二人のことを気にしているのかがわからなかった。
今回の計画を極秘裏で進めてきた非難も含めて、めぐみは冷たく言い放つ。
見知らぬ相手の関係にこれほど深く首をつっこむパートナーではなかったはず。
どこに彼女を執着させるものがあるのか、それだけが気になる。
- 498 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:27
-
「吉澤ひとみは勘違いをしている。なぜ自分があそこにいて、行動していたのか。自分の行動を相手に依存することで薄れさせている。それが、私には許せない」
「だから、なんであなたがそこまで執着してるの?」
重ねるようにして聞き、じっとパートナーの言葉を待つ。
しばらく宙を見つめて考える様が格好になっていたが、緊張した雰囲気は消えることはない。
むしろその逆で尖っていく彼女のことを、めぐみは静かに見すえる。
「……なんて言えばいいのかしらね」
雰囲気とは逆に声音は落ち着いている。
宙を眺めるというよりもどこか遠くを眺めているパートナーのことがどこか弱々しく見えた。
「私と似てるのかしら」
「……」
あまりに拍子抜けしてしまって、なにも言えなくなる。
資料でしか見たことのない吉澤ひとみと目の前にいるパートナー。
見た目も性格もまったく違う(とめぐみは思っているし、違っているほうが助かる)この二人のどこに共通点があるのだろう。
それを考えてみてすぐに見つけた。
- 499 名前:泣けない夜も、泣かない朝も2 投稿日:2005/10/26(水) 13:28
-
(そうか、目がまっすぐなのか)
弱々しく見えるパートナーだが、その意志はあくまでもまっすぐだ。
それは単なる職業精神だけではない。
彼女自身にある正義感だけでもない。
彼女を突き動かすなにかがあるはずだ。
「よくわからないし、他人のプライバシーにも関わりたくないからここまでにしとくわ。でもあなたも相変わらず不器用ね。もっと別の方法があったでしょ?」
「別の方法でもよかったけど、私としてはこれがベストだったの。だって、直にやりあえるからね」
「けっきょくそっちなんだ」
そう言って肩をすくめるパートナーに苦笑いをし、持っていたペットボトルをかたむけるめぐみ。
一度言い出したら聞かないこのパートナーだからこその苦しみをそこに見たような気がした。
が、これはあくまでもめぐみの勝手な思い込みに過ぎない。
それでも彼女のことを理解できるのは、ある程度の年月を一緒に過ごしてきたからなのだろう。
「だってそのほうが適任でしょ? 私はどっちかって言うと悪役のほうが楽なのよ」
「そうね、その容姿じゃあ正義の味方ってわけにもいかないわね」
めぐみの一言にパートナーが声を殺して笑う。
その様がおかしくてめぐみも笑ってしまった。
二人して息が続かなくなるまで笑い、ようやく落ち着く。
腹を擦りながらパートナーは小さくつぶやいてきた。
「それに悪役だって信じる道はある。だって私にはちゃんとあるんだから……」
そのつぶやきには強力な意志が込められており、めぐみはパートナーを止めることはできないのだと改めて感じた。
- 500 名前:いちは 投稿日:2005/10/26(水) 13:37
-
更新しました
今回は嵐の前の静けさと感じでした
>>481 通りすがりの者さん
ところどころで主役みたいな感じになっていましたが
今回は思い切りこの人が中心になりました
前の話だとなんとなく整理がついてないような気がしたのでそのつもりです
次回は「泣けない夜も、泣かない朝も3」です
かなりどたばたな感じになります
それでは
- 501 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/10/26(水) 17:45
- 更新お疲れさまです。
かなり気になる方が居ますが、ここで少し質問。
このお話は前のお話が全て解決したあとのですよね?
次回更新待ってます。
- 502 名前:いちは 投稿日:2005/10/27(木) 00:14
-
レス返しだけしときます
>>501 通りすがりの者さん
前回までが十一月の中旬までで
今回がそのあとの十二月の話になりますが
前回までの話で全てが解決したわけじゃないです
あくまで一区切りついただけで、引きずってる人は引きずっています
時間の流れで主役がこの人になったので本編とは別の形で置いてみました
これから先なんですが
こんな形でだらだら書いているので
少し整理して本編のほうに組み込もうかと思います
答えになってなかったらすいません
- 503 名前:泣けない夜も、泣かない朝も 投稿日:2005/11/02(水) 13:00
-
泣けない夜も、泣かない朝も3
- 504 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:01
-
気がついてみると、意外にどこも痛くなかった。
起き上がってからそこが自分のまったく知らない場所だと知る。
そして、それまで夢だと思っていたことが津波のように押し寄せてきた。
(そうか、始まったんだ)
ため息を吐いてベッドから立ち上がった亀井絵里は、近くにあった窓に向かう。
気を失う直前に見ていたのは、暗がりでもわかってしまった吉澤ひとみの焦った表情。
その原因が明らかに自分だったことが悔しいが、あれは予定されていたこと。
事前に抗議してみたが、それはやはり無視された。
窓から見える景色はいつもよりも高く、遠くまで見渡せる。
薄っすらと明けていく空が綺麗だが、素直に綺麗だと思えない。
それ以上に罪悪感が絵里の中で大きくなっていた。
「だめ、気持ちを切り替えないと……」
自分自身に言い聞かせながら窓を閉め、周囲を確認してみる。
昨日着ていた私服がそのままだったことから、まだ風呂にも入っていないのだろう。
それに携帯やら財布といった所持品が無くなっていることに気づいた」。
近くのデスクに自分のカバンが置いてあるが、その中にも入っていない。
(ここで時間を潰せってことなのかな……?)
どうやら彼女は絵里の言葉を聞いてはいたらしい。
といってもこんな状況では勉強する気になれない。
できることならメンタルな部分にも気を遣ってくれればいいのに、そう愚痴をこぼしてみたがどこかむなしかった。
続いてドアに向かうが、そこはあまりにも無防備だった。
かかっていると思っていた鍵は開いているし、外には見張りらしい見張りもいない。
もっとも、絵里みたいな素人に悟られるようならば、それはそれで問題があるような気もする。
それが気になってしばらくドアを開けたままで周囲を探ってみるが、薄暗い廊下に変化は起きなかった。
(これってすごく無用心じゃない?)
すぐ横にある玄関からすぐ外に出れるが、それをしてしまえば逃げ出すことと同義なため、絶対にしないと決めて逆のリビングへと向かった。
真っ暗だと思ったリビングからは明かりが少し洩れていたが、それは電気のものではない。
誰かがパソコンに向かっていて、その明かりが洩れていただけだ。
- 505 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:02
-
「うっ」
入った直後、強烈なアルコールのにおいで思わず息が詰まってしまう。
咳き込んだが鼻から入ってくるにおいだけはシャットアウトできない。
こんなにおいのきつい場所にいるならさっきまでいた場所で待っていたほうがいいに決まっている、そう決めつけて部屋を出ようとしたが、それよりも先にペットボトルを差し出されるほうが早かった。
「もう起きたの?」
「……はい」
絵里は知らないが、相手は自分のことを知っているのだろう。
至極当然といった感じで聞いてきて、絵里もそれにできるだけ自然に答える。
咳き込んでなみだ目になったが、それは完全に無視した。
「私は飲んでないわ。あいつが仕事前なのに飲んでったのよ」
やけに尖ったメガネをじっと睨みつけてみると、彼女は鼻の前でぱたぱたと手を振った。
どうやら彼女もこのにおいに耐え切れないらしい。
「におうならなんで換気しないんですか?」
「だって寒いでしょ?」
質問に質問で返され、むっとした絵里は目の前にあったペットボトルを押しのけて冷蔵庫を開く。
それから中に入っていた未開封だった別のを取り出し、勝手に開けた。
苦笑いしている彼女はそのまま無視して一息で半分ほど飲み干すとようやく落ち着いた気持ちになるが、それも単なる気休めでしかない。
「ところで、ここってどこなんですか?」
「ん?」
ちょうどペットボトルをかたむけていた彼女がこちらを見てきて次の瞬間、むせて咳き込んだ。
水が器官に入ったらしいが、正直なところ絵里には関係ない。
げほげほと言っている彼女を適当に無視しながら近くにあった窓を開けてみるが、やはり小さくなった街並みは絵里の知っているものではなかった。
- 506 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:02
-
「……どこって言われても、説明がしづらいね。単なるマンションだって言えば納得してくれる?」
「……」
ハンカチを口に当てた彼女が呼吸を整えながら言ってくるのを耳だけで聞き、あいまいに頷く。
理解できないことはないが、納得できるわけでもない。
どっちつかずといった表現が一番適当だった。
「まあ、心配しなくてもいいよ。あいつはちゃんと仕事をするからさ」
肩に手を置いてきた彼女が静かに言ってくるが、絵里にはどうでもいいことだった。
計画を持ちかけた彼女のことよりも、絵里には心配している人間がいる。
「だから、終わるまでここを出ないことね。私もすぐに消えるからさ。あと、シャワーとかも使っていいよ。私たちは使ってないから」
彼女の言葉を適当に聞き流し、部屋を出る。
出る直前、たばこの臭いがしたため咳き込んでみたが、些細な抵抗に過ぎなかった。
気がついた部屋に戻り、ベッドに寝転がる。
置いてあった時計はまだ六時にすらなっていない。
その頃になって絵里は大事なことを思い出し、慌ててベッドから起き上がって部屋を出た。
「今日って何日ですか?」
「……二十三日だよ」
かなり荒々しくドアを開けたのに、彼女は微動だにしなかった。
ぼんやりと答えてきた彼女に小さく頭を下げ、絵里はたばこ臭いリビングを後にする。
鬱になった気持ちを引きずりながら部屋に戻る。
まだ一日しか経っていないという安堵と、もう一日が始まってしまったという不安の気持ちが混ざってどうしていいのかわからなくなる。
窓を開けてみるとさっきよりも幾分暗くなっていた。
太陽は昇っているが、それを覆うように黒い雲が出ていたからだ。
- 507 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:03
-
(前途多難ってこういう場合に使うのかな……)
言うべき相手が見つからず、仕方なく自分自身に向かって絵里はつぶやく。
自分にできることといったらここで大人しく待つか、無防備なドアから外へ出てどこかにいる吉澤ひとみと合流することくらいか。
どちらが自分にとって最善かを考える。
といっても考えてみるまでもなかった。
(今、ひとみさんがどこにいるのかはわからないし、誰も教えてくれない)
リビングにいたメガネはきっと教えてくれないだろう。
絶望的になりながらも絵里はなにができるかを必死に考える。
ようやく思いついたことは、あまりにも単純すぎることだった。
「けっきょく、私にできることって言ったら、信じて待つことしかないのかな……?」
開けた窓から外の景色が少しだけ明るくなっているのが見える。
途切れた雲から日の光が差し込んできたからだが、絵里はそうだとは思わなかった。
(ひとみさん、待ってますから)
眼下に広がる街を睨みながら、静かに呼びかける。
すぐにでも答えが返ってきそうな気がしたが、それはあくまでも気のせい。
一瞬だけ吹いた強い風で髪が乱れるが、そんなことは気にしない。
絵里が見続けるのは単なる街並みではなく、そのどこかにいるであろう吉澤ひとみ。
探し続ければいつかは見つかる、そんな気がした。
- 508 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:03
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 509 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:04
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早朝の駅はこんなにも寂しい。
改札の前にあるベンチでそれを痛感していた田中れいなは、丸くなりそうな身体をさらに縮まらせた。
できることといえばそれくらいしかないからだ。
「なしてマコ姉もマコ兄も来んとよ……」
持っていた携帯をひたすら確認するが、メールや電話は受けつけていない。
こちらから何度かメールは送っているが、その返信すらもきていない。
そのことがれいなをさらに苛立たせていた。
「時間を決めたら先にこんかいっ!」
小さくつぶやいたれいなは時計を見上げる。
時刻は五時十分。
姉が指定した時間は五時二十分だった。
膝を抱えて座ることに飽き、立ち上がって伸びをする。
その際、脇に立てかけてあった細長い袋に手が当たってしまい舌打ちをした。
中には姉に指定された竹刀が入っている。
護身用に自分のも持ってこようか迷ったが、自分には竹刀よりも強力な武器があるためやめた。
いつもは人がたくさんいるはずの駅にも、まだ人がまばらだ。
都会の駅のように自動改札が導入されていない地方都市の小さな駅。
普段ならば立っているはずの駅員の姿も今はまだ見ることができない。
それくらい時間的に早いということらしい。
竹刀を入れた袋を肩に担ぎ外へ出てみる。
家を出るときは暗かった空も少しは明るくなっていた。
といっても太陽の周りを雲が囲んでいて、すぐにでも暗くなりそうだ。
「こんなことやったらもうちょっと寝とけばよかったと……」
いつもは待たせるほうなのにいざ待つ側に回ってみると意外と気が短い。
まあ気が短いのはほかのことに当てはめてもそうなのだろう。
かなりマイナス思考に陥るが、それを止めてくれる道重さゆみもここにはいない。
- 510 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:05
-
「ひゃっほ〜いっ!」
遠くから聞こえてきた奇声に思わず肩が大きく飛び上がる。
早朝だからよく響くこともあるが、その奇声の主がなんとなくわかってしまったからだ。
「がきさん?」
声のしたのは駅前にある小さなロータリーの角の先。
そっちのほうに姉たちが暮らしている寮があったが、なぜそこから新垣里沙の声がしてきたのかがよくわからない。
が、そこから現れた四人を見つけたとき正直れいなは頭を抱えたくなってしまった。
「やぁたなかっち、元気にしてた?」
「元気にしてるもなにも昨日学校で会ったばっかやなかとよ。それにたなかっちってなん?」
いち早くこちらへやってきた里沙へ冷静につっこみを入れるが、当の本人はまったく気にしていないのか首をかしげている。
少し後ろでは高橋愛がやたらと息を切らせながらこちらへ向かっているのが目に入り、そのさらに後ろには小川麻琴・真琴が紺野あさ美の手を引っ張っていた。
「その呼び方ってなんかに似てるよね。なんだったっけかなぁ……」
里沙が考え込んでいる間に愛が辿り着いたため、れいなはとりあえずそちらに挨拶をする。
乱れた息を整えるのが先なのか、彼女は軽く手を上げただけ。
とそこでそれまで考え込んでいた里沙が大きく頷き、ぽんと手を叩きながら言ってきた。
「あれだほら、たまごっ……」
「ストップ!」
愛の手刀が頭のてっぺんに直撃し、声をなくした里沙がその場にうずくまる。
ぜえはあと喘いでいた愛が満足そうに頷いているのがよくわからないため、れいなはとりあえず二人を無視することにした。
姉たちがやってきたからだ。
- 511 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:05
-
「ほらあさ美、着いたから起きてくれ」
「も〜ちょっとだけ〜」
絶えず頭をぐらんぐらんさせているあさ美に真琴が話しかけているが、どうにも反応が鈍い。
半分閉じた目を見てようやくあさ美が寝ていることに気づいたれいなだったが、それについては特になにも言わなかった。
それとはまったく別のことを口にする。
「なんでこんなにバラバラなんやろ……」
頭のてっぺんを押さえながら立ち上がった里沙が愛になにやら抗議している。
愛はそれをいっさい聞き流して近くの自動販売機でお茶を買っていた。
近くのベンチではあさ美が前のめりになりながら眠っていて、真琴が必死に肩を揺すっている。
とりあえずそれら全部をスルーすると決めたれいなは足音を忍ばせて真琴へ近寄った。
「それでマコ兄、けっきょく昨日の話はなんだったと?」
竹刀の入った袋で真琴の背中を突きながら訪ねる。
正直なところ半分眠っていたれいなは話を半分も聞いていなかった。
麻琴がなにやら必死にまくしたてているからただ事ではないと思ってこんな時間にやってきたのだが、いまいち思い出してみても雲を掴むような話だったということくらいしか覚えていない。
竹刀も家を出る直前に思い出し、慌てて持ってきただけのことだ。
「おれにはよくわからない。その時間帯は寝てたからな」
「マコ姉は?」
「あいつなら四時くらいに眠っちまった。だからおれが起きたんだ」
「……もしかしてみんな徹夜?」
「寮を出てくるまでずっと大富豪をやってたからな。ちなみにおれと麻琴がかなり負けた」
「どれくらい?」
「とりあえずは『アターレ』のパフェを一人頭十個分くらいかな。軽く小遣いが半年飛んでくな」
「……あっそ」
自分自身のことながらやけに楽しそうに言ってくる真琴から視線を外し、里沙を見てみる。
くくった二つの髪の束がやたらと上下していたのは彼女が飛び跳ねていたからで、そんな彼女をれいなは見たことがなかった。
- 512 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:06
-
(徹夜明けってテンションが上がるもんって聞いたけど……)
里沙の跳ね具合からそう判断したれいなは真琴から離れる。
ちょっとでも静かになりたかったからだ。
いっそこのまま帰ってやろうかとも思うが、それをしてしまえばさらにむなしくなりそうでかろうじて思いとどまる。
その間、真琴はこっくりこっくりしているあさ美をそのままにして券売機の前まで移動していた。
どうやら切符を買うらしい。
その作業を眺めながら、きっと今の真琴も引いているのではないかとぼんやり思ってしまった。
「ほら、れいなの分」
「あ、ありがとう」
真琴から切符を受け取り、それを見てみる。
行き先は書いてなかったが、値段からしてだいたいどこかを想像する。
その頃には真琴が号令をかけて、再びあさ美を引っ張っていた。
里沙は真琴を追い越してすでに改札をくぐっている。
いつの間に前を横切ったのかわからないが、きっと見落としていたのだろう。
それからえっちらおっちら真琴があさ美を引っ張って駅員に二枚分の切符を渡している。
最後にやってきた愛は比較的まともそうだったため、彼女に声をかけてみた。
「高橋さん、れならはなにをしに行くんですか?」
「あぁ、それはね……」
そう言って愛が告げてきた駅名をすぐにれいなは思い出せなかった。
普段よく使う列車とは反対方向に行くためわからないこともあったが、そもそもどうしてそんなへんぴな場所に行くのかもよくわからなかった。
そんな自分の表情に気づいたのか、愛が苦笑いをしながらこちらを見ている。
少しだけむっとしながら前を歩こうとしたが、愛に先を越されてしまったため仕方なくそのあとをついて行くしかなかった。
「けっきょくは野次馬精神旺盛ってわけなんやろね」
「は?」
いまいちよくわからなかったれいなは、愛のつぶやきに首をかしげることしかできなかった。
- 513 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:06
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 514 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:08
-
小川麻琴・真琴ら五人が始発に乗った頃、吉澤ひとみはひたすら自転車をこいでいた。
別に寝坊をしたというわけでもなく、駅の場所がわからなかったからというわけでもない。
安倍なつみのボディーブローであえなく気絶したが四時前には目覚めることができたし、わずかな時間である程度武装することもできた。
警棒は麻琴が回収してくれていたし、パチンコ玉のストックも残らず身に着けている。
昨夜着ていたコートは脱いで、そのかわりに革ジャンを羽織っている。
下のジーンズだけは替えていないが、特に問題視していない。
つまるところ、ひとみは始発まで待ちきれなかったのだ。
場所は武装する間に地図で調べたし、自転車は寮に置いてあるやつを勝手に拝借した。
場所については詳しくないがまったく知らないというわけでもない。
裏道程度なら知っているし、電車で行くよりもそっちのほうが早いはずだ。
そう判断してひとみは必死にペダルをこいでいた。
寮を出たのは五時少し前、道に迷いさえしなければ三十分程度で着けるはず。
(私がしていたことといえば、けっきょくは単なる弱いものいじめだった)
裏通りで女に言われたことを思い出しながら、ハンドルを左に切る。
しゃっという鋭い音を立てて自転車が斜めになり、ポケットからパチンコ玉の何個かが落ちたようだが気にしない。
いちいち拾っているのが面倒だったからではない。
それよりも女の言葉が頭にこびりついて離れなかったからだ。
- 515 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:08
-
(だけど私がしてきたことは間違ってはいない。だって私が止めてなかったら誰かが不幸になってたんだ。それを事前に止めてなにが悪い)
シンナーを吸っている高校生に注意をしたり、もっと年上の連中に警告なんかもした。
最初から手を出していたわけではなく、何度か注意をしてから手を出した。
その点で言えば素直に注意を聞き入れなかったほうが悪い。
口で言ってわからないなら身体で覚えさせるしかない。
シンプルかつスマートな方法だ。
ひとみが目をつけたのは売るほうではなく買うほう。
モラルさえしっかりしていればそんなものに手を出さなくてもいいはずだという信念がひとみの中にはあった。
(でも、なんでそれを始めたんだっけ……)
きっかけがあったはずなのに、なぜかその部分だけが抜け落ちていてわからない。
が、きっとどうでもいい部類のことなのだろう。
なにせ思い出せないのだから……
(それを私じゃなくて絵里に向けるってのは筋違いだし、卑怯だ)
目の前の信号が赤になっていたため止まる。
車通りの少ない道ならばあっさり無視していたところだが、大きな交差点ではそういうわけにもいかない。
足を休める間、ひとみは胸ポケットにねじ込んだ地図を引っ張り出していた。
破り取った地図の隅っこに赤く丸をしてあるのが昨夜、自分のポケットに入っていた住所だ。
どこかの会社が所有しているらしい倉庫が群れをなしていた。
ひとみにはそれが挑戦状のようにしか感じられなかった。
つまりいくらでも暴れていいわけだ。
信号が青になった直後、再びペダルを思い切りこぎ始めた。
- 516 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:09
-
地図上で倉庫が建っているとわかっていたが、実際に見るとどこか異様な圧力を放っていた。
息苦しいというのか、むさ苦しいというのか……
革ジャンの下に着ていたトレーナーの襟を少しだけ開いて風を通すが、風はちっとも冷たくない。
襟を直したときにポケットからパチンコ玉がこぼれ落ちるが、そっちはやはり気にしなかった。
祝日ということもあって人は誰も見当たらない。
少なくともひとみが立っている場所からでは確認できなかった。
が、倉庫の入り口を観察して、すぐにどこがパーティー会場なのかを知る。
普段は閉まっているであろう入り口が開いている倉庫が一つだけある。
たった一つだけだ。
「どこまでも舐めてるね」
内ポケットにしまっておいた警棒を取り出し、取っ手についているボタンを押す。
かなりすべりが悪くなっているが、警棒はなんとか伸びてくれた。
警棒を右手で握り、外側のポケットに入れていたパチンコ玉を左手で取り出す。
何個取り出したのかわからないが、邪魔だったらばらまいておけばいい。
どうせ相手は大人数だろうし、それくらいしても迷惑することはないだろう。
倉庫へ向かう間、深呼吸を何度もする。
これから先、亀井絵里を取り戻すまでは一人で乗り切らなくてはいけない。
それを意識したひとみは心の奥が痛むのを感じた。
でも止まるわけにはいかない。
「うっしゃぁ!」
入り口の前で気合の入った声を上げ意識を引き締めたひとみは、倉庫の中へと一直線に駆け込んでいった。
- 517 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:11
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 518 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:11
-
(おい麻琴、そろそろ着くぞ)
「……うん、わかった」
起きてみて自分は歩いているのだと自覚する。
なぜそう思ったのかといえば直感としか言いようがなく、経験とか学習とかは関係ない。
もっとも少しは関係しているのだろうが、どっちでもいいくらいにしか思っていなかった。
自分の目の前には里沙と愛、それにれいなが歩いている。
少し身体が重たいと感じるが、それはあさ美を引っ張っているからだとすぐに気づいた。
後ろを振り向いてあさ美を見てみると、頭を大きく左右に振っているのが分かる。
その頃にはそれまでのことをだいたい把握していた。
(さっきからずっとこんな調子なんだ。いい加減疲れた)
「あんたも大変だね」
心底疲れているといった感じで言ってきた真琴に同情し、すぐさま入れ替わる。
奥へ引っこむ際、真琴が大きくため息を吐いているように感じたが、それはすぐに忘れた。
麻琴が意識を保てたのは午前四時くらいまでで、そこで真琴へむりやりバトンタッチした。
それから今まで寝ていたのだから、多少なりとも休息はできたのだろう。
夜中みたいにテンションは高くなかったし、だいぶ落ち着いていた。
「真琴、あそこの倉庫じゃない?」
前を歩いていた愛が止まり、こちらを振り向いてくる。
まだ入れ替わったことに気づいていない彼女にどう言うべきかを迷うが、替わってしまったものをいつまでも言わないわけにはいかない。
愛に言われるまま見てみると建ち並んだ倉庫の一つが口を開けていた。
「じゃあ、そろそろ準備しようか」
自分の一言で愛がわずかに顔をしかめる。
入れ替わらなかったほうがよかったのかもと少しだけ思うが、真琴が外へ出たがらないため諦める。
その代わりに竹刀の入った袋に手をかけた。
- 519 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:14
-
「れいなに里沙ちゃん、ちょっと来て」
両手が塞がっているから手招きできないが、二人は案外素直にやってきてくれた。
怪訝そうな顔をしているれいなにいつもよりも明らかにハイテンションな里沙。
緊張した面持ちをわかってくれたのはれいなのほうだった。
やたらと飛び跳ねている里沙にあさ美を任せ、自分は袋から竹刀を取り出す。
顔を上げるとれいなが両手に軍手をしているのが目に入った。
「高橋さんから聞いたけど、絵里がさらわれたってほんと?」
「わかんないけど、状況から考えてそれが一番わかりやすかったよ。それに亀ちゃんとは連絡がとれないんだ」
「で、絵里をさらったやつらがあそこにおるっちゃね」
「……おそらく」
だいたいの話は愛や里沙から聞いているのか、れいなはそれ以上なにも聞き返してこなかった。
軍手をした両手をぱんぱんと叩き、小さく気合を入れている。
そんなれいなを尻目に麻琴は時計を確認してみた。
時刻は五時五十分。
記された時刻の六時には少し早いが、それは気にしなかった。
ひとみのことだからもう着いているはずだ。
入り口の開いた倉庫に近づくにつれ、なにやら声が聞こえてくる。
大半は怒声や悲鳴だったが、中にはちゃんと聞き取れる声なんかもしている。
麻琴が聞いたのは『たった一人だからさっさと始末しろ』だとか、『囲んで袋叩きにしろ』だとか、どれにしても穏やかではなかった。
それでもまだ落ち着いていられたのは、一人ではないというのがあるのかもしれない。
- 520 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:15
-
(ねえ真琴、魔法って信じる?)
(なんだ、えらく唐突に)
(ちゃちゃ入れなくていいから、どうなの?)
からかい口調の相方に心の中だけで言いながら、麻琴は持っていた竹刀を見下ろす。
れいなの持ってきてくれたそれはよく見ると竹ではなく、カーボン製らしかった。
どうせ使うなら壊れてもいいやつを持ってきてくればいいのにと思いながら、麻琴は小さく深呼吸をする。
予想以上に冷たかった風に全身に鳥肌が立つが、それもどこか心地よかった。
(お前の思う魔法ってのがなんなのかよくわかんないけど、おれはあると思う。空を自由に飛んだり、天気を操ったり、なにもないところに火なんかを起こせるってのもできたらいいな……最後のはできるやつがいたな)
(……そうだね。でもね、わたしが思う魔法ってのはあんたのとはちょっと違うんだ。で、もしかすると先輩がそうなのかもしれないってずっと思ってた)
(なんでそう思ってたんだ?)
真琴の問いかけにすぐ答えず、とりあえず乾いた唇を湿らせる。
深呼吸をしてみるといつも以上に冷たい風が全身にすぐさま広がった。
少し前を歩いている里沙たちはなにやら話しているが、それもここまでは聞こえてこない。
それくらい小さなボリュームだった。
(わたしが思う魔法ってのは、自分の欲しいものをいつも持てるってことだったんだ。先輩はいつもちゃんとしてて、迷うことがない。そうした自分を持ってるってことが魔法じゃないかって思ってたんだ……でもね)
最後の部分でわざと言葉を切り、外に意識を戻す。
すでに倉庫の入り口にさしかかっていて中の様子が見えたからだ。
倉庫の中は、ひとことで言えば賑やかだった。
ただし、それは麻琴だけの感想で、本人たちは決して楽しんでいないのだろう。
- 521 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:15
-
(魔法使いってのはいないのかもしれないね)
(まあ、みんな万能ってわけじゃないからな)
(でもね、やっぱり先輩がそういうのに一番近いって思うんだ……違うか。そういうのになってほしいのかな)
竹刀を何度か握りなおすが、湿った手にそれがなじんでくれることはなかった。
もともと汗っかきなのか目の前の光景に一気に緊張してしまったのかわからないが、それでもまだ焦ってはいない。
「ねえねえ『ぐへへへ』って言ってたの、あそこに大の字で倒れてる人っぽくない? なんかありえないくらいごっついサングラスなんかしてるし」
「はいはい、危ないから下がってて」
指をさしてひそひそと話しかけてくる里沙を後ろに下げて静かに麻琴は竹刀を構える。
意外と感じない重量と見るからに屈強そうな背中にそこはかとなく不安を感じるが、その中心で大立ち回りをしている人間を見つけるとすかさず駆け出していた。
「れいな、里沙ちゃんたちを頼むね!」
「えっ、でもこれってれなが行ったほうがいい状況じゃぁ……」
「あんたのは手加減できないでしょっ!」
正直なところ、れいなが使っている剣だと威力がありすぎる。
相手が生きていなければそんなことは構わないのだろうが、今回の相手はあくまでも生身の人間。
力任せに剣を叩きつけて嫌なオブジェができたら洒落にならない。
しかしながらこれだけの人数だと手に余る。
だかられいなに護衛を頼んだのだ。
実際、大立ち回りをしているひとみも苦戦しているようで、群がってくる大男たちをちぎっては投げちぎっては投げている。
音もなく(といっても多少大きな物音がしても相手は気づかないだろうが)駆け寄った麻琴は、一番近くにいたいかにもがたいのいい男の後頭部に竹刀を叩きつける。
もともと前へ出ようとしていたらしく、無駄にいきおいをつけたその男は顔から地面に倒れて動かなくなった。
その頃にはようやく麻琴の存在に気づいたのか、近くにいた五人ほどがいっせいにこちらを振り向いてくる。
いかにも『鍛えています』と主張したいのか、やたらとタンクトップが多い。
- 522 名前:泣けない夜も、泣かない朝も3 投稿日:2005/11/02(水) 13:16
-
(息が詰まるっていうか……なんかいや)
(鍛えすぎると見栄えが悪くなるっていう教訓かな……)
麻琴と真琴、二人同時にげんなりしながらそれでも前へ出た。
その際、倒れた男を踏みつけたが気にしない。
柔らかいのか堅いのかよくわからないが単なる足場だと思えばすんなり忘れることもできた。
背を低くしていれば高すぎる彼らには見えづらいと思ったが、実際はそんなこともなかった。
伸びてくるずぶとい腕をなんとかすり抜け、輪の中心まで移動する。
そこで見つけたひとみはちょうど一人に警棒を突き刺しているところだった。
「小川?」
気配に気づいたのか左手のパチンコ玉でけん制しながらこちらへひとみがやってくる。
けがらしいけがはしていないようだが、時間が経てばきっと危なかっただろう。
それにまだ危険からは切り抜けていない。
「どうしてきたんだっ!」
「思い切り苦戦してるみたいですから」
脇から伸びてきた手を紙一重で避け、カウンター気味に竹刀を突き出す。
ぐえっという声を残してさらに一人が倒れるが、麻琴もひとみも気にしない。
伸びてくる手はほかにもあるから。
「先輩、とりあえず話がしたいので、この場をなんとかしましょうよ!」
「あぁそうだね。私もお前にいろいろと聞きたい」
するりと男の懐に飛び込んだひとみが警棒を突き刺す。
刺されたほうは音もなく崩れ落ちようとするが、ひとみはそれを蹴って向こうへ押し出す。
二人ほどが巻き込まれて倒れるが、それらに向かってひとみは警棒を一突きずつ食らわせていた。
(ああいうのをスマートっていうのかな……)
(いや、言わないだろ)
手際の良さに舌を巻きながら麻琴はひとみに背を向ける。
自分がそっちを向いていても大して役に立ちそうになかったから。
だったらほかの場所をきれいにすればいい。
というわけで目の前に現れた顔面に竹刀を叩きつける。
変な声を出しながら倒れる一人を横目にしながら、ひとみのように悲鳴を上げさせないということがいかに難しいか、麻琴はわかったような気がした。
- 523 名前:いちは 投稿日:2005/11/02(水) 13:28
- 更新しましたがミスがありました
>>516の頭に入るはずの文が抜けてました
それから十分後、閑散とした港に到着した。
いっそのことこのまま乗り込もうかと思ったが、寮の備品をスクラップにするわけにもいかず仕方なく降りる。
適当な場所に置いて、またあとで回収しにくればいい。
というわけで自転車は電柱の脇に放置することにした。
その際、チェーンをしっかりかけることは忘れなかった。
補って読んでもらえると助かります
次は「泣けない夜も、泣かない朝も4」になります
それでは
- 524 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/11/04(金) 17:39
- 更新お疲れ様です。
ご説明ありがとうございました。
なんだか計画的なものの様ですが、このさきには一体何が待ち受けていることやら。
次回更新待ってます。
- 525 名前:泣けない夜も、泣かない朝も 投稿日:2005/11/09(水) 11:22
-
泣けない夜も、泣かない朝も4
- 526 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:22
-
「ボス、ボス。聞こえてるっすか?」
トランシーバーをひったくっていったその男を端的に言えば、目立ちたがり屋だった。
自分が先頭に立って全てを指揮しないと気がすまない。
そんな男がリーダーだったのだから仕方ないのだろう。
雑音しか伝えてこなくなったトランシーバーを放り出したくなるが、小さくため息を吐くことでなんとか堪える。
「ボス。俺らはどうしたらいいんすか?」
(まあ助っ人が何人なのかわからないけど、あまりもちそうにないわね。せいぜい十分ってとこかしら)
初動で集まったのは約二十人で、彼らはすべて隣の倉庫で叩きのめされているのだろう。
増援がくるのはおそよ十分で、あらかじめ連絡しておいた警官隊がくるのがそのさらに十分後。
つまり彼女が自由にできる時間はそう多くないということだ。
だが、彼女は気にしない。
どうせ使うとしても数分か多くても十分程度。
それまでにケリをつけてしまえばいいだけの話だ。
「ボス〜、いい加減こっちの話を聞いてくださいよぉ」
「……」
伏せていた目を開けると、目の前にはぞろりと同じ背格好をした角刈りが五人立っていた。
野球部の部員が並んでいるのかとも思ったが、彼らはみんな彼女よりも年上だ。
顔のパーツもほとんど同じ彼らを無理やり見分けようとすれば、着ているタンクトップくらいしかない。
赤、青、黄、緑、それに五人目がなぜかピンクなのが気になるが、聞く気になれなかった彼女は別のことを口にする。
「ボスって私のこと?」
「そうっす」
真ん中にいる赤のタンクトップが言い、ほかの四人がこくこくと大きく頷いている。
彼らは昨日、彼女が吉澤ひとみを襲ったときにいた十人のうちの倒されなかった残りだが、そのときはまだ名前で呼んでいた。
それがどうなって『ボス』に変わったのかわからない。
- 527 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:23
-
「えっと……ボスってのは止めてくれる? 私はあなた達の頭ってわけじゃないでしょ?」
「……わかりました」
赤タンクトップが寂しそうに頷き、ほかの四人を引き連れて離れていく。
銃弾の如くの勢いで彼女のそばから離れていく彼らをぼんやりと見送りながら、彼女は彼らのことを鉄砲玉と呼ぼうと心の中だけで決めた。
一分ほどして彼らが戻ってきた。
赤タンクトップ改め鉄砲玉Aだけがずいっと一歩、彼女に近寄ってくる。
「多数決で『あねさん』になりましたがいいっすか?」
「……まあいいわ」
なぜ小声なのか気になるし、少数意見も気になる。
が、それには決して触れない。
もし『あねご』とでも呼ばれたら即座に殴っていたが、とりあえず危機は回避できたため彼女は気を取り直した。
彼女の言葉にA以下BからEまでの五人全員がほっとした顔をしているが、それは無視する。
「で、どうしたの?」
「なんか隣が静かになったみたいっすけと、もう終わったんすかね? 様子でも見てきましょうか?」
Aに言われるまま耳をすませてみると、たしかにさきほどまで慌しかった隣は静かになっていた。
が、これは彼らが思っているのとは逆で、そこにいるであろうひとみ(とその仲間たち)が彼らを無力化したはずだ。
「行かなくていいわよ。それにあんたたちって私の監視役でしょ? 私を一人にしてもいいの?」
「別に構わないっす。あねさんがいれば大丈夫っすから」
(答えになってないような……)
つっこみたくなるが満足そうに頷いているAにそれを言うのもどこか気が引けてしまい、彼女は口を閉ざす。
そこへ後ろからピンクタンクトップ改め鉄砲玉EがAに近寄ってきた。
なにやらごそごそと話をしていたが、彼女のところへやってきたのはやはりAだけだった。
Aが五人の中で一番格上らしく、ほかの四人はまずAに話をしてから彼女のところへやってくる。
傍から見て入れば明らかに二度手間だが、今のところ彼女自身が迷惑したわけではないからなにも言っていない。
- 528 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:24
-
「あねさん、どうやら電話みたいっすよ」
「そういうのは早く言いなさい!」
反射的にAを殴りつけて彼女は隅に置いていたカバンに駆け寄った。
どうやらAの言っていたのは正しいらしく、一定間隔でかすかに震えているカバンの中から携帯を取り出す。
こんな朝早くから電話をかけてくる人間といえば、思いつく限りで相棒ともう一人くらい。
おっくうだが取らないわけにもいかず仕方なしに移動する。
かけてきた相手は相棒ではない、もう一人からだった。
「朝っぱらから仕事? やけに精が出るわね」
『そういうあんただって十分早いじゃない。普段だとこの時間には起きてないでしょ?』
電話の向こうでも機嫌が悪いとわかってしまうのは、彼女が相手のことをよく知っているから。
旧知の仲である大谷雅恵からだった。
Aがこちらをじっと見ているが、それは手で追い払って自らも倉庫の隅へと移動する。
うまいこと物陰に隠れればよかったが、そういった障害物はあらかじめ排除していたためできるだけ声をひそめて話すしかない。
『最近やたらと忙しそうだけど、なにしてるの?』
「なにってそう簡単に言えるもんでもないわ。守秘義務ってやつがあるからね」
『そう言うと思った……ちょっと待って』
がさごそと雅恵が動き、話が途切れる。
耳を澄ましてみると雅恵のほかにも誰かいるようだった。
相手は女のようだがなにを話しているのかまではわからない。
『単刀直入に聞く。吉澤ひとみって知ってる?』
「……さぁ、誰?」
雅恵の口からまさか目的の人間の名前が出てくるとは思っていなかったが、それでも冷静に反応する。
肩がわずかにはねたがそこまで電話では伝わらないだろう。
『いま、得意先の子がここに着てるんだけど……その話だと吉澤ひとみが早朝出て行ったきり戻ってきてないんだって』
「ふうん」
『どうも昨夜なにかあったらしいんだけど……』
「そうなの。あんたも大変ね」
雅恵の話に割り込みながらもこの探偵もどきの勘のよさに舌を巻く。
昨夜、吉澤ひとみに接触したのはほかでもない自分だし、おそらくは隣の倉庫にいるのだろう。
が、雅恵は知らないはずだ。
なにせ彼女が話していないのだから……
- 529 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:25
-
『なんか知ってるでしょ』
「さぁ……そろそろ仕事しないといけないから、もう切るわ」
これ以上話していれば雅恵がなにか感づくかもしれない。
そうなればもっと部外者が増えてしまい話がこじれてしまう。
そう思いながら電話から耳を離そうとした瞬間だった。
『吉澤良太』
雅恵の口から出てきた言葉に思わず動きが止まってしまう。
頭の中が真っ白になり、上下がわからなくなる。
呼吸が荒くなり、めまいがしてくる。
混乱しているのだとすぐに気づくが、自分ではどうしようもない。
気づいたときには自然と言葉がもれていた。
「……なんでそれを」
『私の職業を考えてみな。調べようと思えばいくらでも調べられるんだからさ』
電話の向こうから鼻を鳴らす音が聞こえてくる。
聞いているだけむかついてくるが、そのときの彼女は動くことができなかった。
そのわずかな隙を縫って雅恵が畳みかけてくる。
『十四年前、住宅街で立てこもり事件が発生した。犯人は麻薬づけになったどうでもいいやつだったけど、そいつはある家に立てこもった。そのときの事件を担当したのが吉澤良太警視だった。粘り強く説得する警視だったけど相手は麻薬常習犯で、そのときにはほぼ致命傷な錯乱状態だった。犯人は人質になっていた当時十歳の少女を羽交い絞めにして表に出てきて逃亡用の車両を要求、その後のわずかな隙を突いて警察側はなんとか人質を解放。その際、警視がわき腹を刺され重傷。人質のほうは幸い無傷だった。で、その少女ってのが……』
「わかったからもう止めて」
自分らしくもない、みじめな声で雅恵を遮る。
かすれて今にも消えてしまいそうな小さな声はまぎれもなく彼女の声だったが、彼女自身がそれを信じていなかった。
「その少女ってのは私。だけど、それとこれとは関係ないわ」
『で、吉澤良太には娘が一人いた。名前がひとみ。これって偶然?』
「……そんなところまで調べてたのね」
あきらめの意味を込めて大きく息を吐き出す。
雅恵が無言だったため彼女のほうで言葉を探すが、出てきたのは頭で考えていた言葉とは別のものだった。
- 530 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:25
-
「けっきょく、私はなりたいものになれた。そしてあの娘はそれを忘れている。だから私がやってきたの」
その言葉を最後に電話から耳を離す。
向こうではひときわ大きな声がしていたが、それも彼女の耳には入らない。
電話を切り、隅のカバンの中へと放りこむ。
気がつけばすでに十分が経過していた。
「だってそうじゃないと、あの人が報われないでしょ……」
自分らしからぬ緩慢な動作でなんとか所定の位置まで戻る。
鉄砲玉AからEは彼女が電話している間、彼女の言いつけをしっかり守ったのかまったく近寄っていなかった。
どたどたと彼女の元へやってきたAは不安そうな顔をしている。
そんなAに向かって彼女が言えたのはわずか一言だけだった。
「ごめんけどひとりにして」
弱々しい声にAの肩が大きく飛び上がるが、すぐに小さく頷いて離れていく。
再びひとりに戻れた彼女は意識を切り替えるべく目を閉じて努力をする。
雅恵の電話のタイミングも最悪だったが、それに応じてしまった彼女にも非はある。
雅恵を責めることはできない。
責めるとすれば自分自身だ。
(思い出すのはまだ早い。だってもう目の前にいるんだから……)
彼女の標的はただひとり。
きっとくるはずだ。
だから万全の状態で望まなければならない。
大きく息を吸い込むと冷たい空気がたちまちのうちに全身に行き渡る。
が、予想以上に火照った身体を冷やすのにその空気は少しだけ物足りなかった。
- 531 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:26
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 532 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:27
-
最後に残った男はやたらと頑丈だった。
吉澤ひとみがいくら警棒をみぞおちに突き刺しても倒れないし、小川麻琴・真琴が竹刀で頭を殴っても気絶しない。
足がずぶといため払おうにもびくともしないし、腕がごついため掴んでひきずり倒すこともできない。
そんな大男もようやく地面に崩れ落ちたところだった。
決め手は麻琴・真琴が彼の『存在核』を掴んだため。
いくら身体が丈夫でもそれだけは鍛えようがない。
そしてそれを掴むことができるのも麻琴・真琴だけだ。
「手品にしか見えないな……」
ひとみが肩を大きく上下させながら呼吸を整えている。
それを横で見ながら麻琴・真琴も同じように全身で息を吐いた。
「手品かもしれませんけど、けっこう疲れるんですよ」
『核』を掴んだ左手を見つめながらつぶやく麻琴。
重たくなった頭を振ってみるも、急激にたまった疲労はとれそうになかった。
『核』を掴むということはかなりリスクが大きい。
下手に握りつぶしてしまえば相手を殺してしまうことになるために細心の注意を払う必要がある。
それと同時に『核』にはその相手のそれまでがあますことなく凝縮されている。
集中すれば遠くからでもある程度の情報が読み取れるが、掴んだ場合の情報の量は半端ではなかった。
大量の情報を瞬時にして読み取ることは麻琴・真琴にとっても負担だし、頭で考えていない情報までわかってしまうことは鬱にさせる。
さっきまでいかつい顔をさらにいかつくさせて飛びかかっていた大男の子供の頃の夢が『おまわりさん』だとしても、この場にいる誰も信じないだろう。
「それよりも先輩、なにがあったんですか?」
後ろから声がして麻琴が振り返ると、いつのまにかそこには高橋愛がやってきていた。
その少し後ろでは田中れいながものすごく顔をしかめながらこちらへ向かっている。
どうやら倒れている男たちのことがかなり嫌らしい。
入り口のところでは新垣里沙が紺野あさ美の手を引っ張っているが、立ったまま寝ているあさ美はびくともしないようだ。
- 533 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:28
-
「さあね、私にもよくわからないんだ」
伸びた警棒の先に手のひらを当て、無理やり押しこむ。
がきりという嫌な音を響かせて縮まった警棒をポケットにねじこみながら、ひとみは倒れた男たちを見回す。
麻琴・真琴とひとみを中心として倒れていたのは全部で十八人。
そのひとりひとりをじっくりと眺め、やがて小さく舌打ちをした。
「ここにはいないか……」
「誰がですか?」
麻琴の問いかけにひとみはすぐに答えない。
口を小さく開いてなにかを言っているのは自分自身に対してなのかもしれない。
なんとなく嫌な予感を覚えた麻琴・真琴はさらに疲れてしまうことを考慮しながら、少しだけ意識を集中させた。
ある程度離れていれば『核』から読み取れる情報は制限される。
それは主に対象がなにを強く考えているのかであり、なにをしたいのかだった。
ひとみが考えていたのはやたらと化粧の濃い、派手な赤いドレスを着た女。
麻琴と真琴の知らないその女はひとみになにかを言っている。
なんと言っているのかまでは読み取れない。
その後、ひとみの意識に突如ノイズが入りこむ。
近づくにつれてはっきりしていく女の顔。
焦りをいっさい見せない余裕の表情で立つ女に真正面から向かうひとみ。
再度ノイズが割り込んできて、今度は空が見えた。
ビルの合間から見えるわずかな星空が意外にきれいだと思ったのは麻琴だけで、ひとみはそう思っていない。
(そうか……これだったんだ……)
昨夜、倒れていたひとみを見つけたときのことを思い出すが、それに対して麻琴はなにも言えない。
古傷をえぐられているように顔をしかめている今のひとみを見ながら、それでも言葉を探す。
探さずにはいられなかった。
「男と……女に絵里がさらわれた」
「本当ですか!」
しかめ面のひとみに思い切り叫ぶ愛。
離れた里沙を振り返っていたが、彼女にはひとみの声が聞こえていなかったのか顔をきょとんとさせている。
- 534 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:28
-
「絵里をさらわれて……あの女にうちのめされた…………手がかりはわけのわからない紙だけで……来てみればこんなありさまだ。なんだよ、くそっ!」
「亀ちゃんは見つかりましたか?」
「そんなヒマなんてあるわけないだろ」
「……そうですよね」
髪をかきむしり始めたひとみを尻目に、麻琴はもう一度意識をさせてみる。
倉庫の中はすでに自分たちしかいないから、少し範囲を広げてみた。
なにを考えているのかを知るためには近くで集中する必要があるが、単に誰か人がいるのかだけを探る場合だとその必要もない。
人間にはいろいろたくさんな意識が流れているから、ほかのものよりも核がはっきりわかるからだ。
そしてそれはあっさりと見つかった。
「隣の倉庫なんか怪しいですよ。そんなにおいがぷんぷんしてます」
「……どんなにおい?」
「しかもあそこの扉が開いてるってのも変じゃないですか?」
つっこんできた愛に構わず麻琴が指さした先にはドアらしきものがあった。
入り口とは違って一回り小さいそこは裏口かなにかなのだろうが、そこは見事に口を開けている。
『いかにもここですよ』という感じが気にならないわけではないが、今のところ手がかりはそれくらいしかない。
「ねえねえマコ姉、こんなん見つけたっちゃ」
後ろから話しかけられ振り向いた麻琴は、れいなの持っている物を見て思わず固まる。
というのも持っていたのがトランシーバーだったからだ。
「あの変なグラサンのポケットから出てきたっちゃ」
「あぁ、あいつなら『ぐへへへ』とかっていやらしい声出してたから、最初に倒したんだ」
指さしたひとみの言葉に思わず顔を見合わせる麻琴と愛。
ちなみのその男は里沙の言っていたごついサングラスだった。
「……ってなに人のポケットなんかあさってるの!」
「でもあさってなかったら見つからんかったし……」
「いいからっ!」
半ばひったくるようにれいなの手からトランシーバーを取り上げる麻琴。
恨めしそうに睨んでくるれいなを軽く睨み返してみると、ぶつぶつ言いながら離れていった。
もしかしたら物色を再びするつもりなのかもしれない。
が、麻琴は特になにも言う気になれなかった。
- 535 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:29
-
手のひらにすっぽりと収まったトランシーバーを改めて見てみる。
黒く長方形なそれにはアンテナらしきものとツマミがついていた。
回せば周波数が変わったりするのだろうが、そこのところの操作が一切分からない麻琴は触れないことにして表面を見てみる。
電卓のように数字のついたボタンとそれらの脇にある英語の書いてある別のボタン。
それらとは別に赤いボタンがあったので、とりあえずそれを押してみた。
『…………たの? 聞こえてる?』
「あっ、もしもし。ちゃんと聞こえてますよ」
突然聞こえてきた知らない声に慌てて反応する麻琴。
愛の顔がどこか呆れたように見えたのはきっと気のせいではないのだろう。
同じタイミングで真琴にも『もしもしはないだろ』と突っ込まれていたから。
反論したいことがたくさんあるが、とりあえずはトランシーバーから聞こえてくる声とやりとりすることを選んだ。
「えっと……誰ですか?」
『私がわからないってことは、吉澤ひとみじゃないようね』
「先輩ならすぐそこにいます。ところで誰なんですか?」
『彼女に伝えておいて。私は隣にいる、裏口からきなさい』
「だから誰ですか…………って切れちゃった」
雑音しか流さなくなったトランシーバーから耳を離し、嘆息する麻琴。
名前すら言わなかった相手にそこはかとなく腹が立ったが、それでも聞き出したことはちゃんと伝えた。
「私を指名してきたってことは、昨日のやつだな……」
顔を険しくさせたひとみが裏口に視線を送る。
が、あくまで視線を送り続けるだけ。
いつものひとみならすぐにでも飛び出しそうなのに、今の彼女からはその気配すら感じられない。
そのことが気になった麻琴は反則だと分かっていながら、意識を集中させてみた。
- 536 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:31
-
ひとみから感じ取れたのは主に二つの気持ち。
一つは今すぐにでも絵里を助けに行きたいという気持ち。
しかしそれはあまりにも小さく、もう片方に押し潰されかけていた。
そのもう片方とは助けに行ってもどうせ助けられない、助けられないのだったら意味はないという気持ち。
限りなく後ろ向きなその感情が助けたいという気持ちを押し潰そうとしている。
そして助けたいという気持ちがそれに対して抵抗する素振りを見せていない。
「……めだ」
「えっ?」
「私じゃだめだ」
弱々しくつぶやいたひとみが小さく首を横に振る。
助けたいという気持ちが失せてしまったひとみはあまりにもみじめで、麻琴はなにも言えなかった。
それは真琴も同じ。
救いを求めるように愛へ視線を送るが、こちらは固まって動けないようだった。
ここまでネガティブなひとみを見るのは、もしかすると初めてなのかもしれない。
「万全の状態でやって勝てなかったんだ。今の私じゃかないっこない」
「……」
どう言葉を返せばいいのかわからず、視線だけで愛に助けを求めるが、彼女もどうしていいのかわからないのか、うつむいていた。
ついさきほどまで激しく動いていたのがうそのように静まり返る。
嫌な雰囲気になり、やけに息苦しくなった空気を打ち壊したのは、麻琴の後ろからだった。
- 537 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:31
-
「あんたねぇ、いい加減にするっちゃ!」
叫び声とともに振り返ってみると、そこには顔を真っ赤にしていたれいなが立っていた。
明らかに怒っている顔と口調から思わず麻琴は自分が怒られていると勘違いして視線を逸らすが、れいなはそんな姉のことを完全に無視していた。
どこから拾ったのかわからないがれいなは木刀を振り上げ、なおも叫んでくる。
「絵里がさらわれたってことでここまで来たんなら、さっさと助けに行かんかい!」
「いや、でもねれいな……」
「あんたがこんなとこでずっとうじうじしとったら、待っとる絵里がかわいそうやろ! 絵里が学校であんたのことなんてのろけとるのか知っとう? 『いつでもかっこいい、頼りになる人』って言っとるっちゃよ。いつもそんなこと言うよるけん期待しとったのに、今のあんたは単なるかっこ悪い、みじめなやつたい。あんたにその気がないなられなが行って、絵里をさらったやつを始末してきてやるっちゃ!」
「始末ってちょっとやりすぎじゃぁ……」
ぶつぶつとつっこみを入れる麻琴はれいなから睨まれ慌てて口を閉じる。
入り口付近にいた里沙が驚いた顔をこちらへ向けているが、なにも言わなかった。
あさ美はこの状況でもまだ寝ている。
「でもね、絵里はあんたが助けにくるって思っとるっちゃ。心細くてもあんたのことを思ってきっと耐えとるはずたい。それなのにあんたが行かんかったら、絵里はあんたのことを見損なうっちゃよ!」
「……」
れいなに視線を向けているひとみの顔を見て麻琴と真琴が思ったのは『おもちゃを買ってもらえず今にも泣き出しそうな駄々っ子』だった。
別にひとみが泣きそうな顔をしているというわけではない。
それにれいなも助けに行くなとは言っていない。
むしろ逆のことを言っているはずなのに、麻琴・真琴はなぜかそうした光景を思い浮かべてしまった。
「さっさと行くと!」
れいなの怒鳴り声に押し出されるようにひとみが駆け出していく。
その後ろ姿はあっという間に裏口に吸い込まれてしまい、見えなくなってしまった。
- 538 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:32
-
「もしさゆがさらわれたら、全部なぎ払ってでも助けに行くたい……ってマコ姉、なんで頭抱えとう?」
「こういうのを熱血って言うのかな……」
「違うと思う」
愛からさらりとつっこまれた麻琴はこれからどうしようか考える。
ひとみの後を追うのはもってのほかだが、だからといってこんなところにいてもすることがない。
と、そんなときだった。
「まこっちゃんまこっちゃん、大変大変!」
あさ美の手を引いた里沙がこちらへやってくるが、その顔はものすごく焦っている。
なんで寝ているのにあさ美が走れるのか気になった麻琴だが、それはとりあえず無視することにした。
視界に入ったれいなはどこで買ってきたのかペットボトルのお茶を飲んでいる。
「なんか黒いおっきな車が五台くらいやって来て、中からごっついアロハを着たおっさんたちが二十人くらい出てきたよ!」
「そんなにたくさんっ!」
「そうそう、こんなにさっむいのにみんな半袖のアロハなんか着てるんだよ。どうかしてるって」
「いや、そっちじゃなくて……」
「うっしゃぁ、今度こそれなの出番たいっ!」
つっこみを入れる麻琴に割り込むようにれいなの雄たけびが聞こえる。
さきほどまで両手にしていた軍手はいつの間にか右手だけになっていた。
ちなみに木刀が足元に十本ほどがきれいに並べられている。
「みんなまとめてれなの必殺技の餌食にしてくれるっちゃ!」
「必殺技?」
「今日のために一生懸命開発したとよ」
「今日のためって……」
隣の愛がつぶやいているのが聞こえてくるが麻琴はもう何も言わなかった。
持っていた竹刀を放り投げたいとも思ったが、それをしてしまえば万が一の場合に困るかもしれない。
万が一、れいなが取り返しのつかないようなことをしでかすようなら止めないといけない。
そう堅く決心しながらも麻琴はれいなと同じように倉庫の入り口を見つめる。
里沙の言ったとおり、『ごっついアロハを着たおっさんたち』がやってきたのはそのほんの数秒後のことだった。
- 539 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:32
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 540 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:33
-
入り口よりもはるかに小さなドアを駆け抜け、ひとみはすぐさま右へ折れた。
幅が一メートルほどの殺風景な通路は思った以上に冷たく、吐く息が白く見える。
(私はいつも格好よくないし、頼りにもならない。それは絵里の勝手な思い込みだ……でも、そう思わせたのはほかでもない私自身。こういうのを因果応報って言うのかな……)
心の中で独りごちながら、それでも止まることなく足は動かす。
目の前にはすでに扉が見えているのに一向に着く気配がしない。
扉が逃げているのかそれとも自分の足が凍りついてしまったのかわからないが、どちらにしてもいい気分にはなれなかった。
(私は自分以外の誰にもそう見られるように努力したし、結果としてそんな評価も得るようになった。だけど、そんなもの手に入れてどうなった? 私はどう変わった?)
しても意味のない自問を繰り返し、一歩進む間に答えを得る。
むなしいというよりもどこか後ろめたいといったほうが正確なのかもしれない。
(前よりももっと息苦しくなった。けっきょく、自分で自分の首を絞めたんだ。だけどなんで……?)
今度の疑問には答えがでなかった。
というよりも開いた扉にたどり着いてしまったため、そんなささいな疑問も吹き飛んでしまった。
入り口から駆け込んだ直後、五人ほどのタンクトップが襲いかかってくる。
が、昨日の雑魚とほとんど同じ彼らをひとみは意識しなかった。
気がつくと五人は文字通り床に這いつくばって気を失っていたが、それすらも無視してひとみは意識を前だけに集中させる。
さきほどまでひとみがいた倉庫とはうってかわり、物が置かれていない倉庫。
その真ん中に女は立っていた。
昨日の派手なドレスから一転、黒の無地のトレーナーを身に着けているし、化粧も昨日見たものと比べてあまり濃くはない。
それでも気配だけは消せないでいるようだ。
- 541 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:34
-
(違う、消さないんだ)
自分が自分であるという自信をみなぎらせている空気を周囲に撒き散らせながらそこに立っている女を見すえ、ひとみは静かに呼吸を整える。
安倍なつみに殴られた腹がまだ痛むが、三回ほど深呼吸をしているとその痛みもどこかへ飛んでいった。
次に意識してゆっくりと懐に収めた警棒を取り出し、引き伸ばす。
がきりと嫌な音を立てているのがまさに今の自分だが、それも全部含めて準備は整った。
「鉄砲玉って行ったきり戻ってこないのよね」
「……なんの話?」
「そこにいる五人のことね、ついさっき鉄砲玉って名づけちゃったの。戻ってこないところなんかまさにそのとおりだと思うけど、あなたはどう思う?」
「知らないよそんなこと」
おかしそうに笑う女を黙って見すえ、乱れそうになった呼吸を無理やり鎮める。
挑発になっていない言葉にすら応じそうになっている自分に驚きながらも、頭の中で冷静になるよう何度も指示を出す。
が、身体は言うことを聞いてくれない。
わずかに踏み出してしまった足に調子を全て持っていかれ、たちまち呼吸が乱れてしまう。
自分の身体のはずなのに制御できない。
普段のひとみからすればまったくもって考えられないことだった。
(混乱してる……相手の空気にのまれたくらいで?)
ちぐはぐな行動を笑ってしまうが、それすらも意識してではない。
身体が勝手に笑ったのだ。
そして混乱したままのひとみが女に向かって言った。
「絵里はどこにいる? まさかこんなところにはいないだろ?」
この女に出会ったら遅かれ早かれ聞かないといけないが、まだそのときではない。
それをするにはもう少し後、ひとみが彼女を叩き伏せてからだ。
頭の中で考えていたことを身体が勝手に言い、当然のことながらそれを受けた女は笑っていた。
- 542 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:35
-
「こことは別の場所だけど、教えてあげない。だって私がまだやられてないんだからね」
「そうだね」
冷静としかいいようのない制御を失った、頭とは完全に切り離された身体の部分がそう言い放ち、前に出る。
一番単純で、もっとも最短な距離を全力で走っている。
これも頭の中で考えたことではない。
(だめだ、こんな単調な攻撃じゃあ……もっと綿密に、からめ手を使わないと)
かろうじて保っている頭の中で必死に考えてみるが、身体にはそうした意志はまったく伝わってくれない。
一メートルほどに迫ったからようやく振り上げた警棒を自分ではすばやく振り下ろしているが、女の移動速度からすればあまりにも遅すぎた。
がつんという音を立てて警棒が床にぶつかり、その反動で体勢が崩れる。
うかつというより無謀といったほうが良いのだろう。
無防備になった背中を相手に見せた次の瞬間には、上からの衝撃で床に叩き伏せられていた。
「バカの一つ覚えってやつかしら。単純に打ち込んできても相手のほうが早ければ無意味……ってそんなことは昨日で勉強したはずよね」
大げさにため息を吐きながら言ってくるそいつを睨みつけながら、ひとみは立ち上がる。
なつみから受けたのとよく似た、いつまでも残り続ける痛みを無視しようとするが、身体は正直でふらついてしまう。
攻撃回数の割には蓄積されたダメージが半端ではないし、普段のひとみならここまで攻撃されたりもしない。
全部が思い上がった自分自身に対する戒めのようだ。
それでもひとみは前に出ることを選んだ。
これは身体だけが選んだことではなく、頭の部分も賛成している。
この女を自分と同じようにしなければ気がすまないという点では両者とも一致していた。
- 543 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:36
-
今度は不用意に踏み込みすぎず、かといって離れすぎずの距離を保つ。
警棒がぎりぎり届くかどうかだから、無手の相手にとっては踏み込まざるを得ない微妙な距離だ。
ひとみ自身、普段はそんな戦い方をしないためじれったいと思うが、それでも懸命にその距離を保って警棒をできるだけ最小限で動かす。
が、それでも警棒はかすりもしない。
「ところで、一つ聞きたいんだけど」
「こっちからはなにも言いたくない」
突き出した警棒をムカつくくらいきれいなステップでかわした女から言われるが、即座に言い返したひとみは警棒を女めがけて横にすべらせる。
そんななぎ払いもわずかに身体を屈めるだけでかわされてしまった。
女はそのままバックステップでひとみのせっかく作った距離から抜け出てしまう。
それから続けてきた。
「あなたのその趣味って、いつからなの?」
「……言ってる意味がよくわからない」
攻撃の意志がないのか、両手をあげて無防備な姿をさらしている女に飛びかかろうかとも思ったが、それは自制する。
見た目でだまされるほどひとみもまぬけではない。
慎重に呼吸を整えながら、わずかに前進する。
が、女はそれに反応して同じ分だけ後退していた。
「つまりね、あなたがこれまで趣味でしていた『説得』っていつからなのってこと」
「……?」
言われた言葉に疑問を感じて首をかしげてみると、女が真剣な顔でこちらを見ていた。
いや、どちらかと言えば怒っているのかもしれない。
その静かな怒気に呑まれて、ひとみは疑問を疑問として改めて咀嚼する。
そしてあっさりと答えに辿り着いた。
- 544 名前:泣けない夜も、泣かない朝も4 投稿日:2005/11/09(水) 11:38
-
(そうか……これだったんだ……)
「ようやく思い出したみたいね。よかった」
自分の顔から変化を読み取ったのか、女がこちらへ向かってくる。
突き出してきた手刀はこれまで見たなかでも一番遅い。
明らかに手加減しているのだと分かっていても、そのときのひとみはそれすらもろくにかわせなかった。
ふらつく足でなんとかバランスをとり紙一重で避けるが、次にやってきた掌底を胸で受けて仰向けに倒れる。
打撃を受けた身体は悲鳴を上げているが、それもどこか他人事のようにしか感じとれない。
(私が説得を始めた理由……なんでこんな大切なことをいままで忘れてたんだろう……)
津波にように押し寄せてきた断片的な記憶をひとつひとつたしかめ、かみしめる。
不意に叫びたいと思ったが、息の詰まった身体がそれをしてくれることはなかった。
起き上がったのは普段からの意識なのか、単なる意地なのかわからない。
すぐ目の前にいた女は、そんな自分のことを無表情に見ているだけだった。
「ごめん絵里、私が間違ってた……けっきょく、私の勘違いだったんだ」
つぶやいた直後、女の姿が目の前から消える。
それに構うことなく、ひとみは自分自身に対する言い訳を続ける。
そんなひとみを打ち倒すことは女にとってはまさに赤子の手(この場合は首にもなりそうだったが)を捻るほど簡単で、ひとみの後頭部へ向かう女の回し蹴りを止める人間はもちろんその場には誰もいなかった。
- 545 名前:いちは 投稿日:2005/11/09(水) 11:51
- 更新しました
>>524 通りすがりの者さん
計画した張本人っぽいあの人の名前はまだ出てないですが
この話が終わるまでにはちゃんと出す予定です
次は「泣けない夜も、泣かない朝も5」になります
それでは
- 546 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/11/12(土) 14:16
- 更新お疲れ様です。
なにか色んな事が揺らめいているようですね。
どんなことがあったのか、かなり気になる所。
次回更新待ってます。
- 547 名前:泣けない夜も、泣かない朝も 投稿日:2005/11/16(水) 12:58
-
泣けない夜も、泣かない朝も5
- 548 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 12:59
-
目の前にあるディスプレイはすでに真っ暗になっていた。
どれくらいぼんやりしていたのかわからないが、時間は相当経ってしまったのだろう。
ぼんやりを引きずったまま村田めぐみはゆっくり立ち上がった。
おそらく今日提出することになるであろう書類も作成したし、ここも撤退しようと思えばいつでもできる。
ただ、彼女を一人にして行くことになんとなく気が引けているのだ。
「でも、すぐ消えるって言っちゃったしね……」
めぐみが彼女に言ってからすでに一時間以上が経過している。
当の本人はあれから目立った行動をすることなく、大人しく部屋に閉じこもっている。
自分に対する抵抗のつもりらしく、めぐみにはやけに微笑ましかった。
部屋と不釣合いな大きい冷蔵庫、棚には口の開いたワインとミネラルウォーターが横たわっているだけ。
ドアの部分を見れば玉子とか置いてあるのがわかるが調理する気になれず、めぐみはミネラルウォーターを取り出してすぐさま閉めた。
(まあ、来週くらいにはここも撤収するし)
ここ二日ほど徹夜していたため、テンションが上がることもなくだらだらと時間だけがすぎている。
少し前にワインに負けて居眠りをしたが、睡眠時間には入れなかった。
ふと見上げた時計がすでに六時半を回っていたため、めぐみは小さく気合を入れ直して撤収準備を始める。
そんなときだった。
がたんという大きな物音がこことは違う、別の部屋から聞こえてくる。
尋常ではないと本能的に察しためぐみは、とっさに立ち上がって部屋を飛び出していた。
狭い廊下を三歩で移動し、目的の部屋へ辿り着く。
ドアを開ける際、気になって脇の玄関を確認するが、靴は二人分ちゃんと置いてあった。
- 549 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:00
-
「どうしたの?」
できるだけ優しい声を心がけたのに、出てきたのはやたらと硬い声だった。
舌打ちを心の中だけでしながらドアを開けるが、冷たい風が顔に吹きつけて驚いてしまう。
しかし、部屋の中を眺めて慌てて飛び込んだ。
「何階だと思ってるの? 落ちたら死ぬわよ!」
部屋に一つしかない窓を全開にして身を乗り出している亀井絵里に飛びつき、思い切り引っ張る。
窓枠を掴んだ指は思いのほか強く、並大抵の力で引き剥がせない。
なんとか指を引き剥がし、渾身の力を込めて部屋の中へと放り投げる。
半分吹き飛んでいた絵里は運よくベッドの上に着地をする。
そのさい真新しいベッドがぼすんという音を立てて非難してきたが、めぐみはきっぱりと無視して窓を閉めた。
暖房をがんがん利かせたリビングと違いめっきり寒くなってしまった部屋をめぐみは観察する。
ベッドの上にいる絵里は力なくうなだれていて、しばらく動きそうにはない。
最低限の調度品しか置いていないこの部屋の中だと絵里もその仲間に入ってしまいそうだ。
と、入り口付近にあったデスクが目に入る。
上には問題集らしき本が何冊か開いたままになっていて、すぐ近くにはいすが倒れている。
音の原因らしきそいつをめぐみは律儀に元へ戻した。
「………と」
「えっ?」
背後から聞こえてきた声に慌てて振り返ってみると、うつろな顔をしたままの絵里がベッドの上で立ち上がっていた。
少し上を見上げ、なにかを呟いている彼女はベッドから転げ落ちるようにして降りてこちらへ向かってくる。
声は目と鼻の先くらい近づかないと聞こえてこなかったが、聞いてめぐみの背筋は凍ってしまった。
「行かないと行かないと行かないと行かないと行かないと……」
表情を変えないまま同じリズムでつぶやいている絵里の肩に手を置くが止まってくれない。
まるで自分のことなど目の中に入っていないのか、視線すら交わらない。
- 550 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:01
-
「どこへ行くつもり? ここからだと三十分はかかるわ。そのころには終わってるはずよ」
たしなめるつもりで強い口調になるが、絵里に通じたのかどうかわからない。
今度は自分の耳にも聞こえるよう舌打ちをしながらめぐみは正面へ回る。
口で言ってわからないなら身体で教えるしかないと思い、当て身を食らわせようと身構えたときだった。
「このままじゃダメだ」
うつろな顔を一転させて鋭くささやいた絵里が、上がったあごを勢いよく元に戻す。
自分のことをにらんでいると思っためぐみは、怖くなってとっさに肩から手を離してしまった。
直後、目の前がまぶしくなって差し出していた右手で光を遮る。
数秒後、手をどけてみるとめぐみの前から絵里の姿が消え去っていた。
「どこに行ったの?」
絵里が光ったように見え、姿がなくなってしまったのがめぐみには理解できなかった。
もちろんめぐみの目がおかしくなっていることも否定できないが、自分の身体は普段と変わらず快調だ。
寝不足の疲れが溜まっているのかとも思っためぐみだったが、バカな考えだとすぐに思い直して部屋の中をくまなく探してみる。
が、もともと隠れるような場所などないし、あったとしても隠れる意味がない。
念のために玄関を見てみるが、絵里の靴はちゃんと置かれてあった。
「……なんで?」
一人きりになってしまった部屋の中でぽつんとつぶやいてみるが、一人なのだから返事は当然ない。
突然わいてきた異常事態に、めぐみはパートナーに電話することもできずに立ち尽くす。
不可解としか言いようのないこの事態をどう説明すればいいのかわからず、めぐみは部屋の置時計を眺めるしかできなかった。
- 551 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:01
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 552 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:03
-
「はーはっはっはっ!」
猛吹雪の中、聞こえてきたのは田中れいなのやけにはっきりした笑い声だった。
羽織っていたコートをしっかり抱きしめても、すき間から絶えず冷気が入ってきて意識をもうろうとさせてくる。
しかしれいなの後ろにいたからこの程度ですんだ話で、彼女の前にいたらもっとひどい目にあっていたのだろう。
事実、先ほどまで聞こえていたずぶとい悲鳴はすでになくなっている。
一分以上続いた吹雪がようやく収まり、肩の力を抜いた高橋愛は目前の光景をうんざいした思いで眺めた。
「勝利の味ってむなしかよね」
「……そういう問題かなぁ」
ガッツポーズのれいながしみじみとつぶやき、小川麻琴が小さくつっこみを入れている。
れいなが吹雪を起こしたことについて触れないのはあきらめているのか、はたまた当然のことなのかわからない。
どっちにしろ愛はあまり理解したくなかった。
れいなの正面には彼女の数倍はあろうかという大男たちが全員、床に倒れていた。
直に吹雪にさらされたのが原因だろうが、よく見ると彼らの間には僕と乳母ちらほらと落ちている。
対照的にれいなの足元に並んでいたはずの木刀がなくなっていたことから、吹雪に紛れて飛んでいったのだろうと推測してみる。
すぐ後にわざと紛れさせたのではないかとも思ってしまい、寒気とは違った震えが出てきた。
「吹雪だけだと不安だったからちょっと小細工してみたと」
「……」
悪気なくあっけらかんと言っているれいなになにも言い返さなかった愛だったが、自分と入れ替わるようになにかが通り過ぎていく。
見てみると肩をいからせた新垣里沙だった。
「ちょっとたなかっちっ、吹雪起こすんなら最初にそう言ってよ! 髪の毛が半分凍っちゃったじゃん!」
れいなへと詰め寄る途中、握っていた紺野あさ美が放り出されたため、愛が慌てて受け止める。
ちなみにこんな状況になってもあさ美はまだ眠っていた。
- 553 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:04
-
「がきさん、奇襲はなにも言わんけん奇襲って言うとよ。しかも凍ったっていっても先っぽだけっちゃ。ごちゃごちゃ言わんでもええやん。それにいい加減その呼び方も止めると!」
「うわっ、もしかして恥ずかしいの? じゃあ連呼しちゃお。たなかっちたなかっちたなかっちたなかっち」
「なして連呼すると! めっちゃ恥ずかしいと!」
「ほんとだ、顔まで赤くなってきた。面白いからもうちょっと言ってみようか。たなかっちたなかっちたなかっち〜」
「やめいっちゅうに。しかも途中から変なメロディーまでついとるけんよけいに恥ずかしいっちゃ!」
里沙の言うとおり、顔を真っ赤にしているれいなの横で麻琴が頭を抱えてしゃがみこんでいる。
見るに耐えないというよりやかましいと思った愛は、あさ美を強引に引っ張って二人の間へ割り込んだ。
「二人ともええかげんにしいよ。で、麻琴。これからどうするの?」
「えっ、あ、うん……どうしよっか……」
突然話を振られた麻琴は慌てて立ち上がり、正面の裏口と背後の入り口とを交互に見やる。
どっちへ行こうか迷っているのだ。
入り口に向かえば帰るということだし、裏口だとひとみの援軍に行くということになる。
愛としては入り口のほうがよかったためずっとそちらのほうだけを見ていると、案の定、麻琴は困った顔をして見てきた。
「愛ちゃん、やっぱ先輩のところには行かないほうがいいのかな?」
「麻琴はどっちにしたい?」
わかっているくせに聞き返してしまい、内心だけで舌打ちする。
が、表面にいっさい表れないと続けて気づき、すぐさまため息に変わってしまう。
「前の先輩だったらこのまま帰ってもいいかなって思った。でも、今の先輩だとものすごく不安なんだ」
「で? 援軍に行くん?」
「うーん……」
けっきょく、聞かれたことをそのまま聞き返していたが、当の本人は気づいていないのかうつむき気味でうなり声を上げている。
少し離れた場所ではまだ里沙とれいなが言い争っていたが、愛は耳を傾けずに続けた。
- 554 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:06
-
「冷たいようやけど、あーしとしてはどっちでも構わんよ。麻琴がしたいようにすればええと思う。ほやけど、あーしはもう帰るわ」
「……愛ちゃん?」
「なんか疲れたし、正直、あーしなんかおっても役に立たんやろ」
疑問ではなく断定だと気づいたのは言った後で、さすがにまずいと思って顔をしかめる。
冷静を通り越して冷淡ともいえる自分の態度を他人事のように眺めてみて後悔するが、後の祭りだった。
「ごめん……里沙みたくテンションが上がらんの。あーしの場合、逆やから」
言い訳にすらなっていない言い訳をするが、寂しそうな視線を送ってくる麻琴に耐え切れず逃げるように逸らす。
油断しきった視線の先に突然、顔を真っ赤にしたれいなが現れればなおびっくりで、愛はよろめきながら後ろへ下がった。
「もうよか!」
短く叫んだれいなが愛と麻琴の間をのっしのっしと歩いていく。
顔はまっすぐ、はっきりと裏口へ固定されていた。
「さっさと隣へ乗り込んで、残りの敵も倒すっちゃ!」
「でもさっきは吉澤さんだけに行かせたじゃん」
「気が変わった。調子がいいけん、このまま乗り込むと」
「ちょっとれいな!」
つぶやいた里沙ととがめるような口調の麻琴が強気なれいなの後を慌てて追っていく。
目だけで見送った愛は帰るべきかどうか本気で迷う。
すぐ近くのあさ美がいなければできるが、いまだに起きない彼女をこのまま放置するのもなんとなく後ろめたい。
第一、こんな汚い床に寝かせるのは嫌だった。
「れいなっ!」
悩みを遮るかのような麻琴の叫び声に愛は慌てて振り返る。
耳に入ってきたのはどさりという音で、原因はすぐに見てわかってしまった。
- 555 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:07
-
さっきまでは悠然と歩いていたれいながいまは床に転がっている。
同時に身体をやけに仰け反らせた麻琴の顔が見えてしまい、愛はあぜんと口を開けることしかできなかった。
逆さまになった麻琴は驚いた顔をしながら、スローモーションのように床へ沈み、二度ほど跳ねる。
ほとんど一瞬だったのにはっきり驚いているとわかってしまった愛は二人とは別の、そこにわいてきた人間を凝視した。
「あれだけの人数をやったんだからって期待してたんだけど、外れだったようね」
倒れた二人の間に立っていたのは一段と化粧の濃い女だった。
もちろん愛の主観だが、倒れたまま動かないれいなや麻琴、いつの間にか倉庫の隅に避難していた里沙に聞いても同じだろう。
それでも隙がないことくらい、素人目の愛にもわかった。
「下手に動かないで。これ以上、犠牲は出したくないから」
姿と同じくらい尖った声に、あとずさりしようとした愛は思わずこわばってしまう。
それで満足したのだろう、わいてきた女が横を通り過ぎていく。
かろうじて動いた首を回してみると、小さく笑った女の横顔が目に入った。
「まこっちゃん!」
倉庫の隅いた里沙が叫んで走っていく。
忠告を無視した形になったが、離れていたため女はなにもしなかった。
女の視界には愛や里沙は入っていなかったのかもしれない。
「先輩、なんですかこの体たらくは。こっちのことは任せておけって言いましたよねぇ」
「……そう言うなって。状況もろくにわからずに不意打ちされたんだ。俺のせいじゃない」
あきれているのか怒っているのかよくわからない女の口調に返事があった。
それから倒れたアロハの中から、一人がむくっと起き上がる。
やたらとごっつい他のアロハと比べ、立ち上がったアロハはかなり小柄だった。
ただし周囲に転がった対象があまりにも大きすぎるため、小さく見えるだけだ。
- 556 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:08
-
「それでもこちらの目的は達成できた。よしとしよう」
「そうですね。こいつら全員を足止めすることが目的でしたからね。気絶してくれて助かります」
「こちらもいろいろ小細工を用意していたけど、使う機会がなかった。まあ、逆にそのほうがよかったけどね」
「でも結果論ですよ。こいつらだけがやられただけじゃあ上までしょっぴけません」
「……まあそれはおいおい考えるとしよう。ところでそっちはどう?」
「えぇ」
アロハの言葉に女がうなずく。
傍から見ていた愛には自信満々としか受け取れなかったし、本人もそのつもりなのだろう。
続けて出てきた言葉は愛の予想を見事に裏づけていた。
「吉澤ひとみなら私がちゃんと無力化しました」
「……まあ君が本気を出したんなら、誰も勝てないだろうね」
肩をすくめながら言う男になにも言い返さずに立っている女。
二人とも小さく笑っていたが、笑う原因は明らかに違っていた。
男のほうはあきれているという感じだが、女はそうじゃない。
ついさっき愛が見たときの顔に似ていた。
期待していたのに大したものではなかったという、当ての外れてしまったときに出てくるような失笑。
女はそれを隠さないまま立っている。
なにもできないままぼうぜんと立ち尽くしている愛の横を、唐突に風が通り過ぎた。
やはり首だけ動かして見ると、床に倒れているはずの麻琴が竹刀を構えているのが目に入った。
低くした姿勢で足音をできるだけ出さないように気を遣っていたようだが、女は麻琴が竹刀を振り上げたのと同時に飛び退いていた。
空を切った竹刀はそのまま床を叩き、短くて鋭い音を出す。
- 557 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:08
-
「手加減はしたけど、なんでこんなに早く起き上がるのよ!」
「あいにくわたしの場合は一回だけじゃだめなんです」
戸惑い気味の女ににやつきながら麻琴がこたえる。
しかし、表情は緊張してこわばっていた。
女から出ている雰囲気にのまれそうになっているのだろうが、それでも麻琴は動いている。
愛からすればうらやましかったし、同時にうとましかった。
「なんだかさっぱり状況がわかんないんですけど、一つだけ忠告しておきますね」
竹刀を構えたままの麻琴が静かに言う。
同じように静かに構えていた無手の女は真正面から麻琴の言葉を受け止めていたが、戸惑った顔は元に戻りそうになかった。
もしかすると単純に勘定を露骨にする性格かもしれないという考えが愛の頭の中をよぎるが、ほとんど関係なさそうだったので黙っておいた。
「先輩をやっつけたと思ってるんでしょうけど、甘く見ないほうがいいですよ。あの人、けっこうしぶといですから」
「でも実際問題、彼女は気絶してるわ。もう使えな……」
「それが違うんですよ」
女の声を遮るように麻琴が割り込む。
別段強いとも思えなかったが、女のほうはそれに気圧されてなにも言い返せなかった。
「先輩はひとりじゃないです。だから、ここからが本番です」
言い切った麻琴に女はともかく、愛もなにも言えなくなる。
隣に困惑気味の里沙がきていたが、愛は構わずに対峙している二人を見続ける。
(麻琴も先輩もひとりじゃない……ほやけど、あーしは?)
思わず問いかけたくなったが、この場で出してもどうしようもないという理性が先に働いてしまい、やはりなにも言えない。
愛に対しては無駄に気を遣ってくるはずの麻琴もこのときだけは気づいてくれず、じっと前だけを見すえている。
そのころにはうらやましいという気持ちはどこかへ消えていて、うとましいしか残っていなかった。
- 558 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:08
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 559 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:09
-
最初、吉澤ひとみは目をちゃんと開けたのかどうかわからなかった。
しばらく瞬きを何度もしてからようやく周囲が暗いのだと気づき、首だけを動かしてみる。
あったのはどこまでも続く暗闇だけで、ひとみはその中をぼんやりと一人ぼっちでただよっていた。
(そうか、またきたんだ……)
初めてではな感覚を全身に引きずりながら心の中だけでつぶやく。
起き上がろうかとも思ったが、上下感覚のないこの空間では無意味だと思ってすぐにあきらめた。
続けて自分の身体がどうなったか確認してみる。
以前は自分の身体と周囲とははっきり区別されていたが、今回はそうでもないようだ。
暗闇と完全に同化してしまった意識は思いのほか心地よく、目を閉じてこのまま逃げ出そうかとも思う。
『でも、そんなことしちゃだめですよ』
ネガティブに考えた自分をいさめるようなタイミングで聞こえてきた声に、半分閉じていた目を慌てて押し開く。
意識の外へ放り出した暗闇にはいつの間にか、別のなにかが光の粒になってただよっていた。
ここまでは前回までとまったく同じ。
しかし、ひとみから出てきた言葉は以前と違ってあまりにも弱々しかった。
「だめだ……こないで」
つぶやいた自分の声に背筋が凍るが、すぐに感覚がマヒしてわからなくなってしまう。
以前はうれしかったのに、いまは逆になってしまった同じ光景。
自分の言葉とはうらはらに光の粒が人になっていくのを見ることができず、押し開いた目を今度は強く瞑る。
息苦しくなり、胸も苦しくなるのを自覚したひとみは振り払おうと必死に頭を振ったがダメだった。
- 560 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:10
-
『いやですよ。せっかくここまできたんですから』
「……だめ」
優しさと強さをいっしょくたにした絵里の言葉に力なく言い返すが、無駄な抵抗だった。
目を開けてみると、普段よりもいくぶん大きな絵里が怒った顔をこちらへ向けていた。
原因は自分にあるのになにも言えないひとみは、黙ったまま絵里を見続けるしかできない。
『ひとみさん、ここがどこかわかりますか?』
「ここは私の心の中だね」
絵里から静かに問いかけられ、ひとみはあきらめ半分の投げやりな気持ちになりながら答える。
暗闇に溶け込んだということは自分がそうなることを認めたことだし、絵里が暗闇と違って光になったのも自分とは違うから。
中にいて自分は安心するが、絵里は怒ってしまう。
いつの間にかできてしまった壁をいまさらながらに痛感したひとみだったが、絵里の反応は意外だった。
『違いますよ』
首を左右に振った絵里がつぶやく。
弱いのか強いのかよくわからないが、黙ることしかできないひとみにしてみれば大した問題ではなかった。
事実、絵里はひとみのことを無視して続けてくる。
『ここは誰もが持ってる心のすき間です。あのときは私とひとみさんとで同じ心の中にいて同じ光景を見ていましたけど、いまは違いますよね。ひとみさんには私のことがどういうふうに見えますか?』
「……まぶしすぎるよ。私にはもったいないくらいに」
絵里の表情がくもるのでさえはっきりとわかってしまうが、特になにも感じなかった。
以前ならば原因である自分自身を叩き壊したくなるのに、そんな気持ちも一切わいてこない。
- 561 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:11
-
『私にはすごく小さく見えます。それに黒く見えます』
「そうなんだ。それが私なんだ。いままでずっと背伸びをしてて、自分を繕って、理想の人間だって思われてたんだ……でもね」
そこまで言って右手を上げてみる。
同化して見えないと思ったが、嫌味なのかこのときだけはやたらとはっきり見えてしまった。
いままでの自分が凝縮されている、とてもみじめな手。
手だけではなき、吉澤ひとみ全体がとてもみじめなのだ。
「絵里。私はまだ君に話してなかったことがあるんだ。でもいままでそのことを私自身が忘れてた。思い出せたのは、癪だけどあの女だった」
自分と対峙していながら、自分のことを見ていなかった彼女。
その彼女からの問いかけでようやく思い出せたのは、彼女が特別な存在だからではない。
単純すぎる問いかけをいまのいままで忘れていたからだ。
「私には警官の父親がいたんだ。娘の私が言うのもなんだけどその人は本当に真面目で、どうしようもなく熱血漢で、ひたすらまっすぐだった」
『はい』
独白に絵里は静かに頷くだけでなにも言い返してこない。
こんな話をしているという心地よさと、いまさらしているという後ろめたさとがいっしょくたになり、どこを見ているのかひとみはわからなくなった。
目の前にいるはずの絵里もぱったりと消えてしまいひとりぼっちになった思ったが、一度開いた口は閉じなかった。
- 562 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:11
-
「そんな親父にあこがれてたのかもしれない……というよりもあこがれてたんだ。それに尊敬もしていた。だから、そんな親父がずっと続けていた薬物関係にも首をつっこんだんだ」
『はい』
「でも、私にできることっていったら、せいぜい買おうとしてるやつを止めるくらいしかなかった。それも本当に中途半端になってさ。買うほうからも売るほうからも疎まれて、やっかい者扱いされる。私みたいな人間なんかほかにいないから、私がいないときにやればいい。そうやってみんな私を避けるようになった。親父のように本当にやる気があるんだったら、私みたいに中途半端にはならない。どこまでも追いかけていって、首根っこをつかまえてでも止めさせる。私はそれができなかった。やる勇気がなかった」
息が続かなくなり、無理やり深呼吸して整える。
いつの間にか閉じていた目を開けると、絵里は先ほどと変わらない姿で立っていた。
絵里を見て怒りに似た感情が芽生えていることに気づき、ひとみは驚く。
『そうですね。そんなときに私が出てきちゃったんですから』
「ちがう!」
自嘲気味に言った絵里へ反射的に叫び返したひとみは、無意識のうちに彼女へ近づいていた。
浮かんだ怒りを絵里ではなく、自分自身に投げつける。
「絵里は関係ない。本当に大切なものだったら、どんな状況になっても忘れたりするはずがないんだ。それなのに私は絵里のせいにして安心しようとしていた」
『だけどあのときは……』
「想いは積み重なるって言ってたけど、それを言った私自身ができてなかった。積み重なってなんかなかった。土台が丸ごとなくなっていたのに、私は気づけなかった。ほかの誰かに言われてようやく思い出してる。それが許せないんだ!」
ひとみは力いっぱい叫び、肩を大きく上下させて息を整える。
父のように自立した人間を目指していたのに、いまの自分はあきらかに違っていた。
誰かに依存したまま、自分自身すら忘れようとしている。
ひとみにしてみれば一番嫌なことにためらいもなく進んでしまった。
そのことに対して怒りが芽生えたのだ。
- 563 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:12
-
気づくと右手が絵里に触れようと勝手に伸びていた。
頭と身体がまだ切り離されていることを歯痒く思ったひとみは、左手で思い切り叩いて無理やり右手を下ろす。
俯いていまにも泣きそうな絵里の顔が目に入ってくるのに、ひとみはなにも言わない。
言えないことをもどかしいと思ったが、同時に言うことが依存になると考えていた。
だから黙って絵里を見続けるしかできなかった。
『……なら、どうしたいんですか?』
俯いたままの絵里がつぶやいてから顔を上げる。
その顔を見てひとみは自分が勘違いをしていることに気づいた。
絵里は泣きたいのではなくて、怒っているのだと。
『このまま終わっちゃっていいんですか!』
叫んでいたのが自分だと特になにも感じなかったが、逆の立場に置かれてみると効果はてき面だった。
いままで聞いたことの絵里の短く、鋭い声。
これまでさんざん殴られたり蹴られたりしたのとは違い、絵里の言葉は直接にひとみの心を抉った。
『自分を責め続けて、あきらめてなにが残りますか? 残ったものを引きずって、満足できるんですか?』
「でも私は……」
『ひとりで抱え込まないで、誰かといっしょに背負えばいいじゃないですか。それとも私はそういう立場にはいないんですか? 誰もひとみさんのことを知ることはできないんですか?』
「……」
近づいてきた絵里になにも言えず黙りこくるひとみ。
すでに絵里は光の粒の集合ではなく、人間の色をしていた。
まだ大きく見えてしまうのはひとみが負い目を感じているから。
さらに怒鳴られるだろうと身構えたひとみだったが、予想に反して絵里は強くは言ってこなかった。
真っ赤になった目でしっかり見てきて、呟いてくる。
『人間、みんな完璧なんてありえません。どこか必ず欠けているんです。だからほかの人がいるんじゃないですか』
先ほどまで熱くなっていたのが嘘のように引き、いまは逆に寒いくらいだった。
同時に安堵していることにも気づき、ひとみはわずかに下がってため息を吐いた。
身が清められたという表現があまりにも安っぽく聞こえるが、いまの心境を正確に表現するには適切だった。
- 564 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:13
-
(そうか……この言葉を待ってたんだ)
誰に対して見栄を張ったというわけではない。
誰にも頼ろうとしなかっただけだ。
結果としていまの自分になったとすれば、これほど間抜けな話はないだろう。
「……そうだね。だから私は絵里を選んだんだ」
出てきた言葉はいままでのどれよりも頼りなく、小さかった。
しかしこれが本当の吉澤ひとみだ。
強い部分だけではなく、弱い部分も全部含めて自分の中にある。
さらけ出すことをためらう必要はない。
軽くなった気持ちを放っておけばこのまま飛んでいってしまいそうで、ひとみはなんとか自制して絵里を見つめる。
いつものサイズに戻っていた絵里はやはりひとみの知る絵里だった。
「絵里、まだ君にも話してなかったことがたくさんあるんだ。でもここじゃなくて、ちゃんと会ってから話したい。待っててくれる?」
下から見上げる絵里は、いままでにないくらい大人びている。
その顔がようやく笑ってくれて、大きくうなずいていてくれた。
『待ってます。だから早くきてくださいね』
「うん、すぐ行くよ」
周囲の暗闇に溶け込むようにして絵里の姿が消えた。
笑った顔が残像で残っているのをしっかりと見て、同じ目でひとみは自分の両手を見てみる。
自分のこれまでを全て知っている両手。
これからも自分の全てを吸収していくだろう両手。
握ってみるとなぜか生きているという実感がして、ひとみは一人で思わず笑ってしまった。
- 565 名前:泣けない夜も、泣かない朝も5 投稿日:2005/11/16(水) 13:14
-
「……そうだ。だから私はここにいたいんだ」
自分自身に言い聞かせるようにつぶやき、続けて視線を上へと持っていった。
暗闇に覆われたこの世界では意味のある行為ではなかったが、飛ぶには上を見なければならない。
もうここも怖くないが、こんなところでぼやぼやしていても絵里に会うことはできない。
だから出て行く必要がある。
「そろそろ起きるか」
その言葉を最後に、ひとみは小さく反動をつけて飛び上がった。
うまく飛べたと思ったが、回りが同じ暗闇だったので本当に飛んでいるのかどうかわからない。
意識が薄れ始めているから失敗していないのだろう。
薄れていく意識はかなりしぶとくいつになっても途絶えることはなかった。
しかしそのおかげで暗闇が変化していく様子がちゃんと見えていた。
真っ黒から濃い灰色に、それから薄い灰色へと変化し、だんだんと白っぽくなっていく。
いよいよ元の世界に戻るのかと思ったひとみは、ふと気になって見下ろしてみた。
上からはかなり小さくなっていたが、誰かが丸くなっていた。
いたのは暗闇の中で安心しきったもう一人の自分。
絵里の言葉からも逃げだした彼女は、ここから二度と出られないのかもしれない。
でも自分は選ばなかった。
(じゃあね、もう一人の私)
もしかするとなっていたのかもしれない吉澤ひとみに別れを告げ、心機一転、上だけに視線を固定する。
飛んでいるイメージを強く描いてみると、白になる割合が一気に早くなった。
戻れば忙しくなりそうだが悪くない。
そこまで考えた直後、ひとみの意識は完全な白に包まれて、ぷっつりと途切れてしまった。
- 566 名前:いちは 投稿日:2005/11/16(水) 13:22
-
更新しました
>>546 通りすがりの者さん
どんなことがあったのかの一部ははっきりしました
残りに部分ももうすぐわかる予定です
次は「泣けない夜も、泣かない朝も6」です
おそらく最後になります
それでは
- 567 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/11/18(金) 21:54
- 更新お疲れ様です。
あの空間は希望なのか絶望なのか・・・。
でもコレでようやく先に進めますね。
次回更新待ってます。
- 568 名前:泣けない夜も、泣かない朝も 投稿日:2005/11/23(水) 12:08
-
泣けない夜も、泣かない朝も6
- 569 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:09
-
「なにか食べたいものがあったら言って。注文するから」
「はぁ……」
渡されたメニューを眺めながら、松浦亜弥はぼんやりと返した。
純粋に眠かったため目をこすってみるが、一向に眠気が飛んでいくことはない。
目の前にある唯一のソファには後藤真希がべっとりと寝そべっているが、亜弥にはどうでもよかった。
「このモーニングセットでいいです」
「ほいきた」
亜弥と同じくらい眠そうな声で答えた大谷雅恵が受話器を持ち上げる。
慣れた手つきで番号を押しているが、亜弥の手元にあるメニューには電話番号など書いていなかった。
もともと出前用ではないのだろうが、雅恵は電話先の相手と二言三言やりとりをして電話を切ってしまった。
「こういう商売してると出前もとらないといけないからね」
肩をすくめている雅恵にどう答えたらいいのかわからず、小さく首を上下するだけにしておく。
その雅恵も自分のいすにどっしりと腰を据えて目を閉じてしまったため、亜弥は取りつく島を失ってしまった。
ぼんやりしたまま見回した探偵の事務所は、やたらと散らかっていた。
原因のほとんどは紙切れの類だったが、部屋の隅には明らかに使っていない収納ボックスがやけに自己アピールしている。
よく通販で見かける『五個セットいくら』とからしい。
(買うともう1セットおまけでついてくるけど、あれって採算取れてるのかな……)
うつろなまま目をふと右に送ると同じものがもう1つ入ってきたため、うんざりして大きく息を吐く。
どうでもいいことから離れた亜弥は、寝ている真希のお腹の上に乗っている紙の束をなんとなく手にした。
その間、真希はまったく動じなかった。
雅恵も同様に目を閉じたまま動かない。
- 570 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:09
-
三枚ほどになっている紙の一番上には顔写真と氏名、住所や連絡先などが載っている。
知らない人間の個人情報にまったく興味のなかった亜弥は、二枚目をめくる。
さきほど雅恵が電話していたときこの紙束を持っていたが、だいたいはこの二枚目を見ていたからだ。
傍から聞いていてそっちのほうに興味があったため、亜弥は眠気に負けそうになりながらも眺めてみた。
箇条書きになっていたのは一枚目にあった顔写真の人間のこれまでも軌跡なのか、いつ生まれてから今日に至るまでがかなり詳細に書かれている。
電話で話したことはほんの一部分らしく、全部読んでいたのではとてもではないが時間が足りない。
その内容をざっと斜め読みしながら、亜弥はある部分にピントが合ってしまった。
「安倍流……?」
一枚目の彼女が通ったという道場の名前だが、直前の項を見てみると北海道に移り住んでいることが書かれている。
亜弥の脳裏に浮かんだのは昨夜、吉澤ひとみのみぞおちに正拳づきをかましていた安倍なつみの『うっかり』した顔だった。
「そこの道場なんだけどね、なんか怪しいを通り越してみんな変なんだよ」
眠っていたはずの雅恵から突然声をかけられ、顔を上げると少しにやついた彼女が亜弥を見ている。
気まずくなって紙を置こうかとも思ったが、特別なにも言わなかったため亜弥は彼女を見つめ返した。
「なんでも極意が『空気の流れを読み取る』ってことらしいんだけど、師範っていうんだっけ? おじいちゃんなんだけどさぁ、ものすっごく変人なんだよね」
「はぁ……」
亜弥は話がよくわからなず、生返事だけをして雅恵の言葉を待つ。
雅恵は亜弥ではなく少し上のほうを見て右の人差し指で輪を描いている。
- 571 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:10
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「私が見たのは門弟っていうのかわかんないけど……五人くらいに竹刀やら木刀とかでいっせいに袋叩きにされたんだけど、動きもしないで全部避けっちゃったんだよね」
「……で?」
「おじいちゃん曰く、『調子がよければ銃弾でも避けれる』ってことらしいんだけど、あんたは信じる?」
雅恵の言葉どおり想像してみて、嫌な光景が浮かんでしまった亜弥はぶるぶると頭を振って打ち消す。
それからまだ自分を見ている雅恵に返した。
「……撃たれるってことがまずありえないですよね」
「そりゃそうだ」
くつくつとおかしそうに笑っている雅恵から意識を離した亜弥はこれまた昨夜、慌てふためきながらなにやら言っていたなつみの顔を思い出していた。
『なっちだからまだよかったものの、うちのじいちゃんに殴られたらまず生きてないべ』
その後、詳細に説明を始めたなつみは三十分ほどしゃべっていたが、亜弥はろくに聞いていなかった。
というよりも、倒れたままのひとみがずっと放置されていたのが気になっていたからだ。
ちなみに亜弥が忠告するまでなつみは話し続けていたが、亜弥にはどうでもいいことだった。
それよりも気になることがある。
「あのぅ……そこの道場に一人娘みたいなのっていませんでした?」
「あぁ、いるよ。一人娘じゃないけど孫だって。安倍なつみって言うらしいね。今はあんたのとこの寮母をやってるみたい」
どちらかといえば他人の空似であってほしいと思ったのに、雅恵からは逆のことが告げられてしまって言葉を失ってしまう。
もたれかかった壁が『ペンキ塗りたて』だったときくらいへこんだ。
- 572 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:10
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一気にテンションの下がった亜弥は、視線の真下にあった真希の両足を強引に折り曲げて作ったスペースに無理やり腰を降ろす。
多少の乱暴をしても眠り続けることは知っているが、ここへ来なければならない原因を作った張本人だけに釈然としないものを感じる。
そう思った直後、真希がもぞりと動いてつぶやいた。
「だめだってぇ、こんなにたくさんえびシューマイがあってもさぁ……」
(なんでえびシューマイ?)
おおかた今の真希はえびシューマイに埋もれている夢でも見ているのだろう。
うれしそうな顔をしているのが癪に障った亜弥は、そこらへんに散らばっている紙切れで真希の顔を埋め尽くす。
トドメとばかりに分厚い辞書を腹あたりに乗せると、苦しそうに呻き始めた。
「ちょっと、あんまり職場を散らかさないでよ。片付けるのが面倒なんだから」
「最初から散らかってたでしょ。なんなら私がきれいに片づけましょうか?」
強気に、しかも睨みながら言ってみると雅恵は気まずそうに視線を逸してしまった。
少し大人気ないなと思ったが、なにも言い返されなかったためしかたなく持っていた紙に視線を戻す。
その際、一枚目の一番上にある、ほかのとは少しだけ太くなっている字が目に入った。
『斉藤瞳』
それが彼女の名前らしい。
- 573 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:11
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- 574 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:11
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対峙している小川麻琴と彼女――斉藤瞳――はほぼ同時に顔をある方向へと向けていた。
二人とも弾かれたように見た先にあったのは倉庫の壁だったが、二人とも壁なんかを真面目には見ていない。
向こうにいるはずの人間――吉澤ひとみ――のことを見ていたのだ。
「そんなのうそでしょ!」
瞳にとって吉澤ひとみの覚醒は唐突な、嵐とも呼べる風の逆流だった。
これは直接的なものではなく彼女が今まで培ってきた、彼女にしかわからないであろう風だ。
しかし、瞳本人が風の正体に疑問を持ってしまった。
回し蹴りはたしかにひとみの後頭部を直撃したし、直後に気を失ったのも確認した。
五分や十分でおいそれと回復できるような気絶のしかたではないのは瞳がよく知っている。
自信があったのにあっさりと覆されたという驚きと戸惑いは予想以上に大きかった。
「ほら、言ったとおりじゃないですか。あの人って転んでもただじゃ起き上がらないって感じがしますよね?」
「……」
真正面から降りかかってきた麻琴の言葉は疑問形だったが、瞳は聞いていなかった。
というよりもすでに瞳の意識からは麻琴など消え失せていた。
「久住先輩!」
勢いよく振り返りながら言うが先輩は入り口から外をながめ、あまつさえたばこを吸っていた。
すでにこっちのことはどうでもいいのか、ぼんやりした顔を向けてくる。
「ん? 行ってきていいよ」
あっさりと許可を得た瞳はすぐに走り出す。
すれ違い様に麻琴を殴っていたが、当たらなかった。
(そんなわけないじゃない)
数分前に気持ち軽やかに通ったはずの裏口を全力で駆け抜けながら、心の中にだけ吐き捨てる。
瞳にしてみれば希望や願望ではなく歴然たる事実として横たわっているはずなのに、脆くも崩れ去った。
浮かんだ考えをすぐさま舌打ちで消し去った瞳は、無理やり別のことを引っ張り出して忘れることにした。
- 575 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:12
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瞳が会得した武術は、雅恵の言うとおり『空気の流れを読み取る』ということだった。
が、人の使う武術が完璧であるはずはない。
空気の流れを読むなんてとうてい無理なことだし、できたとしても限界がある。
風が強ければ相手を知ることが難しくなるし、自分もそっちに気がかかってしまった動けなくなる。
だから瞳は倉庫という閉鎖された空間を選んだし、むやみに打ちかからなかったのだ。
その点で言えば昨夜の襲撃が一番問題だったが、無風だったこととひとみの攻撃が雑だったことが幸いしてなんとか成功してくれた。
もちろん瞳自身の自信も成功要因としてあるが、それは考慮の外へ追いやった。
さらに言えば、瞳は『待ち』を主とするこの武術を好んでいなかった。
できることなら積極的に打ちかかり相手を粉砕すべきだとしていて、そのための訓練も独自にやった。
が、やはり相手の不意をつくというカウンターの威力のほうが勝っているため、しかたなくこの戦法を続けている。
なにごとも忍耐が必要だということなのかもしれない。
倉庫に戻れってみれば、まだ鉄砲玉ーズ(これはいま作った)がきれいに並んで倒れていた。
目の前にいたピンクのタンクトップの背中をまたぐのが面倒で思い切り踏みつけてみるが、彼はうんともすんとも言わない。
むしろ踏まれた直後、気持ちよさそうににやついたのが怖くて瞳は目をそらした。
そのままひとみが倒れていた場所を眺めてみると、そこにひとみの姿は見つからない。
これがもしテレビの戦隊ものならば、相手はなぜか無傷になってこちらがやってくるのを待っているのだろう。
しかし瞳にとってこれはあくまで現実。
もちろんひとみにとっても現実だ。
- 576 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:13
-
「そうだね、完全回復ってわけにはいかないみたいだね」
視線とは別の場所から声をかけられ慌ててそちらを見てみると、ひとみが壁にもたれながらこちらを見ていた。
大きく肩を上下させている彼女には、満身創痍という言葉がぴったりだった。
だがそれでも瞳は油断しない。
先ほどよりもさらに意識を集中させて、ひとみを睨みつける。
そんな瞳の威圧が効いたのか、背中を壁から離しひとみがこちらへと向かってきた。
ふらふらと前のめりになっているのが攻撃の効いている証拠なのに、彼女はそれでも安心できなかった。
(さっきのあいつといい、こいつといい、なんで私の思い通りにいかないのよ!)
気絶したはずの麻琴はあっさりと回復して竹刀を振り回したし、さらに強力な一撃を加えたひとみはこちらへやってきている。
瞳としては一撃における威力を信条としていたし、事実として本気を出した瞳は滅多なことで負けることはなかった。
彼女が本気を出して負けたのははるか昔、姉弟子とやりあったときだけだ。
自分の右足が目に入り、無意識に前進しているのだと気づく。
顔を上げるとひとみは倉庫の中央付近で止まり、こちらを見ていた。
まるでついさっきまでの自分のように見えてしまい、瞳は知らず知らずのうちに舌打ちをしていた。
「よくあの状態から持ち直せたわね」
ひとみに自分の動揺が悟られないよう、意識して言葉を発する。
自分のものとは思えないほど上ずっていたことに瞳自身も気づけなかった。
「持ち直せたなんてよく言えたもんだね。ふらふらだっていうのにさ」
小さく笑ったひとみの視線は、さきほどまでと打って変わって静かだった。
焦ったり苛立ったり、怒ったり泣いたりしていない。
そのことが逆に不安で瞳はうかつに近づけないでいた。
- 577 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:13
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ひとみの目と鼻の先には警棒が落ちているが、彼女がそれを意識している様子は見られない。
もしかすると気づいてすらいないのかもしれない。
「ありがとう」
ほぼ棒立ちといってもいいくらいのひとみから発せられたのは、唐突すぎるくらいの言葉で、瞳はなにも言えずに立ち尽くす。
ひとみのわかっているのか、こちらの返事を待つことはなかった。
「あんたのおかげでいろんなことに気づけた。それだけ」
ぶっきらぼうに言ったひとみが、左足をわずかに後ろに下げる。
直後、瞳は風の逆流を再び感じて思わず身構えていた。
「そう。で、どうするの?」
「絵里がどこにいるのか聞かないと迎えに行けないからね。待ってたんだ」
「そう。でもそんな状態で大丈夫なの? 私は教える気なんてないのに」
「だってこれが私なんだ。やるしかないよ」
「……そう」
先ほどまでと違って、どこか清々しくさえ感じてしまったのは気のせいではないのだろう。
ごくりと唾を飲みこみ、静かに呼吸を整える。
軽く殴っただけで倒れそうなのに、それがいかに難しいかをひとみは空気で瞳にぶつけていた。
「……悟ったというわけね」
「違うよ。そんなに大きくはない」
軽く握った拳が汗ばんでいるのが、文字通り手に取るようにわかる。
乾いた唇を舐めて湿らせても、瞳の中から焦りが消えることはなかった。
(一度目は軽く打ち倒しただけ。二度目は抵抗すらしなかった……三度目の正直ってやつを信じてみるのもいいかもね)
不意に村田めぐみとの会話がよみがえる。
あのとき瞳は彼女に向かって『悪役』と言っていたが、おいそれと簡単に成り下がるつもりはない。
本気でやって納得すればの話だ。
そして今はまだ納得できていない。
(だから、絵里も恨まないでね)
心の中だけで亀井絵里に言い訳をし、軽くだった拳に力をこめる。
あとはタイミングだけ。
それを意識した瞳は静かに深呼吸を繰り返し、ひたすら自分の中にある信念を練り続けた。
- 578 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:13
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 579 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:14
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嵐のように現れ、嵐のように去っていった女――瞳だが、けっきょく名前を聞いていないのでわからなかった――の背中を見送りながら麻琴はほっと胸をなで下ろしていた。
正直な話、彼女と打ち合って勝てる自信はなかったからだ。
不意をつかれたとはいえあっさりとやられてしまったのだから、まともにやりあっても勝てそうにはない。
『核』を掴めばなんとかなるのだろうが、できることならやりたくなかった。
「愛ちゃん、大丈夫?」
固まって動けないでいる高橋愛に話しかけても、彼女は小さく頷いただけでなにも言ってくれなかった。
少し寂しいなと思い、同時にどうすることもできないとわかってしまった麻琴は、ひたすら寝ている紺野あさ美を愛に任せ、気絶したままのれいなへと駆け寄る。
先にやってきていた新垣里沙はれいなの頬をしきりに叩いていたが、れいなは目を覚ます気配を見せず、気持ちよさそうに眠っていた。
「なんで叩くと気持ちよさそうな顔するんだろ?」
「さぁ……」
二人でぺしぺしと左右の頬を叩くが、さっぱり起きない。
徐々に強くしても効果がないため、麻琴は竹刀でわき腹をつついてみたが、やはりダメだった。
「彼女の一撃をもらったんだ。そう簡単には起きないよ」
ふと上から聞こえてきた声に顔を上げるとそこにはアロハを着た、ちょっとばかり貧相な男が立っていた。
もちろんこれは麻琴や里沙の印象だけで、実際は二人よりもはるかに体つきもしっかりしている。
周りの倒れている男たちがはるかにごつかったためそんな印象しか持てなかったのだ。
「これから忙しくなりそうだからね……って、なにもそんなに警戒しなくてもいいだろ?」
睨んでいた里沙に軽く笑った彼は倒れているれいなの両肩を持ち、左膝を背中に当てた。
続いて大きく息を吸い込んだ彼は、息を止めたままなにやら変な具合に力を加える。
ごきりという音がれいなのどこかからするが、その後の変化は目に見えて現れた。
- 580 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:14
-
「うーん……」
「かなり大雑把だったけどなんとか気付けは成功したみたいだ」
低いうなり声を上げているれいなを里沙に渡し、よっこらせと立ち上がる男。
年寄りクサイと思ったし、実際、ここにいるどのメンバーよりも年上なのだろう。
もぞもぞ動き始めているれいなを介抱している里沙や麻琴から離れた彼は、立ち尽くしている愛へと近づいた。
一瞬身構えてしまった愛だったが、やや困ったように笑っている彼を見て敵ではないと確信する。
「あまり詳しく話をしている余裕はないんだ。あと十分くらい……正確には八分三十秒後にはぞろぞろと彼らを捕まえるために警官隊が押し寄せてくる」
彼の見た先にはまだ倒れたまま、気づいていないアロハが転がっている。
「で、あなたは誰なんですか?」
こわばったままの声で愛が問いかけてみると、彼は困った顔をしてポケットから黒い手帳を見せてきた。
最初、なんだかわからず近づいて見ると、どうやら警察手帳のようだった。
もちろん愛としても見るのはこれが初めてである。
「というわけで、今回のことは彼女の独断だったんだ。もちろんこの話を漏らした俺にも問題はあるんだけど、このままいけばとりあえずはなんとかなりそうだね。君たちは明らかに無関係そうだから、このまま帰ったほうがいいよ。参考人として一緒に行きたくないだろ?」
『警察』とか『参考人』とかの物騒な単語が矢継ぎ早に出てきて焦った愛が振り返ってみると、ようやく気がついたのかれいなが立ち上がっていた。
麻琴や里沙が引きつった顔でこちらを見ているが、愛にはどうすればいいのかわからない。
- 581 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:16
-
「裏口を左に行けば非常口があるから、そこから離脱するといい。警官隊も最初は彼らを捕まえるのが精一杯だから、そこまで目がいくのは当分後になるだろうからね」
「麻琴、里沙!」
必要な情報を得るや否や叫んだ愛は、この期に及んでも寝ているあさ美の手をひときわ強く握って小走りになる。
「えっ、なん?」
「逃げろってこと!」
ぼんやりとした顔をきょろきょろとあちこちへ向けていたれいなへ、単純明快に答えた麻琴が走り出していた。
先行した里沙に続いて裏口を左に曲がり、彼の言った非常口へと向かう。
遅れてしまったという不安感が後ろのあさ美を通じてより大きくなるが、足だけは動いていた。
「なんでこんなときに変な荷物がいっぱい置いてあるの!」
里沙から叫び声が聞こえてきたときには愛にも様子がわかってしまし、しかたなくせわしなく動かしていた足をゆっくり目にしてしまった。
里沙の言葉どおり、嫌がらせとしか思えないドラム缶は非常口の前でどっしりと腰を降ろしている。
麻琴が一つを必死に押したり引いたりしているがビクともせず、大きく肩を上下させながら後ろへ下がっていた。
「そうだ田中っち。その変な超能力で壁抜けとかできないの? もしくはみんな一緒に瞬間移動とか、空間転移とか。時間を止めてもいいけど、それだと自分の足で逃げないといけないからできることならすんなり楽できるように……」
「まだ言うかがきさん……それにそんな器用なことできんと」
あたふたと意味不明なことを言っている里沙を遮るように、れいなが前に出てくる。
麻琴と同じようにしばらくはドラム缶を押したり引っ張ったりしていたが、やはりビクともしないためため息を吐いて後ろに下がる。
が、れいなはそれだけでは終わらなかった。
- 582 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:16
-
「壁抜けとか瞬間移動とかできんけど、目ぇ、閉じとって」
言われるまま目を閉じる里沙以下四人(ただし、あさ美はもともと目を閉じている)。
目を閉じた愛の耳に入ってきたのは、れいなの小さいながらもしっかりとした深呼吸だった。
三回ほど続いた深呼吸は突如止まり、次の瞬間、ごおんというかなり大きな音が響き渡る。
驚いて目を開けると非常口の少し手前にやや不器用な出口が顔を開けていた。
もちろんそこは少し前まで壁だったはずだ。
その前でれいなは、先っぽのぼこっと丸くなった(ハンマーのつもりらしい)氷の塊を消していた。
「とりあえず出口はできたと」
「問答無用で力技なんだ……」
ぼそりと呟いた麻琴をひと睨みで黙らせたれいながそそくさと自分の作った穴から外へ出ていく。
愛も続こうとしたが、それまでずっと順調に引っ張られてきたあさ美が突如倒れてしまった。
「なんでこんなときにぃ!」
「高橋っ!」
いつ入れ替わったのかわからないが、まかせろと言わんばかりの勢いで出てきた真琴から竹刀を渡され、愛は譲るつもりで前に出る。
それでも不安になって振り返ってみると真琴はうつ伏せになったあさ美をひっくり返して両膝の下に左手を、首の下に右手を入れていた。
いわゆる『お姫さまダッコ』をするつもりらしい。
愛にはバーベルを持ち上げる動作にしか見えなかった。
「私、バーベルじゃない!」
「えぇっ」
心の中で、しかもほんのちょっとだけ考えてしまったことに声高で反論しながら唐突にあさ美が起き上がる。
しかも運が悪かったことに、真琴は中腰になってあさ美を持ち上げようとしていたときだった。
- 583 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:17
-
ごきりっ
どすん
離れた愛に聞こえたのはその二つの音で、後ろのほうははっきりとなんの音なのかわかった。
真琴があさ美を抱えたまましりもちをついた音だ。
(なら最初のは?)
「愛ちゃ〜ん」
嫌な予感が頭の中をかけ回った直後、変な格好で座った麻琴から情けない声がしてきた。
声で予感が見事的中してしまったらしいことに気づいた愛は、その場で泣きたくなってしまった。
「なんか激しく腰が痛くて動けないんだけど……これってぎっくり腰?」
「あほやろっ!」
瞬間的に叫んだ愛は、『あほちゃうよ』と叫び返している麻琴を無視して右腕をかなり乱暴に掴む。
思い切り引っ張り上げると大人しくなったため、愛は半分引きずって走り始めた。
引っ張り上げる際、麻琴が変な悲鳴を上げたとか、斜め上を見上げたまま空ろな目をしていたとか、口がずっと半開きになっていたとかはいっさい無視する。
というよりもその直後、かなり近い場所でいきなりパトカーのサイレンが鳴り始めたため、それどころではなくなってしまった。
「あさ美、さっさと撤収するよ!」
いまいち状況が飲み込めていないのか、辺りをきょろきょろしているあさ美を急かしてすぐに移動を開始する。
言いたいことが山ほどあったが、とりあえずは落ち着けるところまで避難してからにしようと心に強く言い聞かせてから、愛は後ろから呻き声を上げている『お荷物』を引きずることに集中したのだった。
- 584 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:17
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 585 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:17
-
静寂に包まれていた二人にとって、少し離れた場所から聞こえてきた轟音――れいなが壁を壊した音だがどちらも知らない――はまさにうってつけだった。
音を合図に瞳は前に、ひとみは後ろに飛ぶ。
立っているのがやっとのひとみにはこれが限度だが、別に逃げているわけではない。
(パワー、スピード、テクニック。どれをとっても相手のほうが数段上。付け焼刃程度だと歯が立たない)
ひとみは突き出されてくる拳を後ろに下がりながら静かに考える。
適当にさばいているが、数が多すぎて全部は無理だった。
だからというわけではないが、ひとみは慌てずに致命的な拳だけを見極めてさばく。
両手のすき間から見えた瞳の顔は、今までにないくらい動揺していた。
さっきまであった自信はどこかへ飛んでいったらしい。
(相手の隙をついて、動きを止める)
コンパクトに流れる動作で殴り続けている瞳の身体が視界から唐突に消える。
本能で危険を察したひとみはすかさず一歩、大きく後ろに下がった。
直後、目の前を黒いなにかが通り過ぎ、半瞬後には瞳のつま先だと気づく。
前髪をかすって消えたつま先の次には無防備な背中が現れるが、構うことなくひとみはさらに後ろへ下がる。
直感はまさに正しく、瞳は空中でどうやったのかわからないがくるりと一回転してきれいに着地していた。
(あれでも隙がないもんな……)
あんな動きをしたら頭がぐらぐらしそうなのに、瞳はそんな様子を見せることなくすぐさま拳を突き出してくる。
心なしか先ほどよりも速くなったと感じたのは、ひとみだけなのだろう。
思わず口笛が洩れるが、これが見事に相手を挑発したのか、瞳からの拳はさらに強くなった。
- 586 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:18
-
さすがにこのまま受けに回っていたらやばいと思いとっさに身を引こうとするが、棒切れになった足は動いてくれなかった。
と、それまでがんがん迫っていた拳が消えてなくなる。
気づいたときには三メートルほどの距離まで離れた瞳が、大きく肩を上下させていた。
(こいつと私って似てるよね)
とりあえず窮地を脱したひとみは、深呼吸している瞳をじっと観察しながら思い浮かべた。
言葉遣いや行動パターンはまるで同じ。
直情的なところやすぐ暴力に訴えるところなんかはいい例だし、じっくり探せばほかにも出てきそうだ。
(だけど私はあそこまでケバくはないから)
ネガティブになりかけていた自分に対して言い訳をして、小さく笑う。
すると深呼吸を続けていた瞳の肩が大きくはねて、顔がゆがんだ。
ほんの些細な仕草でも相手を挑発できてしまうことがおかしく、声を出して笑いたかったが堪える。
笑う体力が残っているなら別のことをする力へ回したほうがよっぽど効率的だ。
瞳のやっていたのと同じように深呼吸をしてみると、気分がかなり楽になった。
「今度はやけに粘るわね。どう攻めたらいいのかわからなくなったわ」
以前までの口調を心がけているのがわかるが、少し裏返っていたから逆効果だった。
小さく吹き出してしまうと、たちまちのうちに瞳の顔は怒りのそれへと変わってしまい、ひとみは完全に逃げ場を失ってしまったことに気づく。
が、そうなっても気が楽だったことは唯一の救いだった。
- 587 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:19
-
「安っぽい挑発なんかしないで、全力でやれば一発だろ?」
挑発を挑発で返すと、すぐさま瞳が飛び出してきた。
獰猛としか言いようのない笑みを浮かべ、瞳の顔が間近へと迫ってくる。
そのあまりの速さに後ろに下がることもできなかったひとみは、息をできるだけ吸い込んで止めた。
足に力が入っていたが、すでに意識から外れている。
突き出してきた拳を顔面の前に両腕を出して防ごうとしたが、それが本命でないことにはひとみも気づいていた。
自分はろくに動けないから真正面から攻撃するメリットはない。
それに瞳にはひとみよりも速く動けるというメリットがある。
予想通り、半瞬たっても前からの衝撃はやってこなかった。
ほんの一瞬だけの風でそれを悟ったひとみは、すぐさま全神経を後ろへ集中させる。
といっても気配らしい気配はろくに感じず、勘だけを頼りに頭を大きく右へ振った。
直後、後ろから左肩へ杭で殴られたような、シャレにならない衝撃がやってきた。
足だけでは支えきれない衝撃をなんとか足だけで補おうとするが、右ひざがあっさりと悲鳴を上げて折れる。
その後のことはひとみにもよく理解できなかった。
ほんの一瞬の間にひとみがしたのは、簡単でいて、実に難しい作業だった。
左肩へ食い込んだ瞳の右足を比較的自由だった右手で固定し、同時に左足をやや斜め後ろに放っていた。
左足は運よくそこにあった瞳の左足をすくい、バランスを崩した瞳が大きく頭を後ろへ傾ける。
それから右手で持っていた瞳の右足を思い切り引っ張った。
悲鳴はなかったと思う。
それ以前に衝撃で身体がばらばらになりそうだったひとみには聞こえておらず、倒れたのは感覚だけで判断した。
受身を取れず、頭からまともに床に落ちていれば楽なのだろうが、運がよくないことはひとみ自身が知っている。
だからひとみも無意識で身体を後ろへ倒していた。
もちろん狙い目は瞳のみぞおちで、感覚のマヒした左肘を突き出したりもしていた。
- 588 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:20
-
気がつくとケバイ顔が目の前にあり、すぐさま飛び退く。
といってもぼろぼろだった全身がやったことと言えば、少し後ろへぺたんとしりもちをつくことくらいだった。
しばらくはぼうっと瞳を観察するが、動こうとする気配を見せなかったためようやく安堵の息を漏らした。
「気絶させたら絵里の居場所が聞き出せないね」
ようやく当初の目的を思い出したひとみはつぶやき、のっそりと立ち上がる。
うかつに近づいていいものやら考えているとだいぶ時間が経ってしまったのか、瞳がもぞもぞと動き始めてしまった。
「気絶してたの?」
言葉の直後、がばっと起き上がったためひとみは身構えるが、上半身だけ起こした瞳からはすでに攻撃する気配は消えていた。
その代わりに腕時計を見てなにやら小さく頷いている。
「そうか、私は負けたのね」
あえぎながら言っているのが彼女の現状なのだろうが、ひとみにしてもあまり大差はない。
「いや、あんたは負けてないよ」
無意識のうちにそう言ってしまい、顔をしかめる。
勝たないといけない勝負なのに、なぜそこで負けてないと瞳を弁護したのかよくわからなかったからだ。
だから慌ててひとみは言葉を付け足した。
「相打ちってやつだ」
「言い訳っぽいわね」
少し下に見えた瞳の顔がわずかにゆがむのが見え、ひとみから舌打ちが洩れる。
洩れてからうかつだったと気づいたが、以前よりも素直になった身体と頭は特になにも言わなかった。
そこへ突然、パトカーのサイレンが鳴り響く。
あまりに近くで聞こえてしまったため、耳と頭が痛くなったひとみはふっと目の前が白くなるのを感じた。
「大丈夫? ぼろぼろじゃない」
「あんたがそれを言うのかよ」
支えられていたことを恥ずかしいと思ったひとみは、どすを利かせて言ってみる。
が、これも瞳には大した効果を与えてないことはひと目でわかってしまった。
- 589 名前:泣けない夜も、泣かない朝も6 投稿日:2005/11/23(水) 12:21
-
「ほら、これがあの娘のいる場所よ」
さっぱりした顔つきの瞳から紙と鍵を差し出され、ひとみは逆にとまどってしまう。
欲しいと思っていたものが出てきたことに安心と、まだ勝ってないという意地が張り合い、意地が勝ってしまったからだ。
素直に受け取れないままでいると、瞳が押しつけるように二つを渡してくる。
にらんでみるがそこにはすでに瞳の顔はなかった。
「まあいろいろ話したいことはあるけど、これから仕事だから止めとくわ。機会があったらお茶菓子でも持って遊びに行くから」
「はぁ?」
逃げるように離れていく背中に向かって、後ろから思い切り不満の声をぶつけてみる。
すると倉庫の入り口で立ち止まった瞳がこちらを振り返ってきた。
相変わらず笑った顔がムカつくが、にらむだけで止めておいた。
「とにかく早く行って絵里に謝りなさい」
口調が年寄りクサイと感じたが、すぐにそのとおりだと思い直して小さく頷く。
「こっちから出たら直に警察が来るからそっちの裏口から行きなさい。右に行けば出口があるから」
その言葉を最後に、瞳は倉庫の入り口をこじ開けて出て行ってしまった。
一人になってようやく名前も聞いていないことに気づいたひとみは、ため息を吐いて気持ちを切り替える。
それから忠告どおり裏口へと向かった。
「この身体で行けってのもかなりハードだな……」
言った直後、全身に電気が走るように痛みが伝わってきて思い切り顔をしかめる。
足を止めなかったのは絵里を少しでも早く迎えに行きたいのと、外がいよいよ騒がしくなったからだった。
相変わらず寒い裏口を三十メートルほど進み、ようやく外へ出る。
雲の切れ目から見える太陽はまだ昇りきってなく裏口よりも寒かったが、それでも止まるわけにもいかず、足を前へ出す。
そのころには一緒にいたはずの麻琴たちのことはすっかり忘れていた。
- 590 名前:泣けない夜も、泣かない朝も 投稿日:2005/11/23(水) 12:21
-
泣けない夜も、泣かない朝も7
- 591 名前:泣けない夜も、泣かない朝も7 投稿日:2005/11/23(水) 12:22
-
「しくしく…………めそめそ……」
「ぐぅー」
隣のテーブルではうつ伏せになった小川麻琴と新垣里沙が、それぞれ声を上げている。
傍から見ていた紺野あさ美はどうしたらいいのかわからず、黙ったままカフェオレをすすっていた。
麻琴が『めそめそ』泣いているのが激しく気になるが、触れてはいけないような気がする。
「紺野さん、気分はどうですか?」
前から聞こえてきたのは田中れいなの声で、ホットミルクの入っているカップを両手でしっかり握りしめている。
質問の意味がよくわからなかったため、あさ美は首を小さくかしげて答えた。
「さっぱりしているけど、なんで?」
「うわっ、なんも覚えてないとですか?」
「うん」
至極あっさりと答えたあさ美は、引いてしまっているれいなから目を離して再び隣の席を見る。
二人とも特に変化はなかった。
里沙から出ている『糸』は同じようにテーブルにうつ伏せていたし、麻琴からは一本だけが先を下に傾けている。
どちらも今の二人の状況をはっきりと表していた。
気がつくとあさ美は寒い外で麻琴を下敷きにしていた。
直前に誰かがバーベルと言っているように聞こえて、思わず声を上げたが、誰が言ったのかはよくわからない。
しかも運が悪かったことに、間近にいた高橋愛がものすごくご機嫌斜めだったため、彼女の言うとおりなにもわからないまま走らざるをえなかった。
あれから三十分後、近くにあったこの喫茶店に落ち着いている。
「その回想ってやけにはしょりすぎてませんか? 特に最初のほう」
「だからさ、それから前のことは覚えてないんだって」
だれかれ構わず自分を引っ張り回していたとか、一時的にものすごく寒くなったとかはなんとなく覚えているが、はっきりしないため無視する。
落ち込んだれいなの顔がすぐ近くにあったが、あさ美はなにも言わなかった。
- 592 名前:泣けない夜も、泣かない朝も7 投稿日:2005/11/23(水) 12:22
-
がちゃっというややあっけない音とともに、入り口が開いて愛が入ってくる。
カレンダーを眺めていたあさ美はようやく今日が十二月二十三日だということに気づき、同時に冬休みが始まったことを思い出していた。
「安倍さんには連絡がついたから」
ぶっきらぼうにそう言った愛が、年季の入ったいすにどすんと座る。
ぎしりといすから軋んだ音がしていたが、あさ美もれいなも聞いていなかった。
ぶすっとしたままの愛は、頭をあさっての方向へ向けてコーヒーを飲んでいる。
どうやら隣のテーブルでうつ伏せている麻琴と里沙を見ないようにしているらしい。
隣にいたあさ美にはなにもしなくても、愛が機嫌を損ねていることに気づいていた。
それからやってきた、トーストが三枚もついているモーニングセットを食べる間も、ろくな会話はなかった。
愛は一枚目のトーストを端だけかじっだけでコーヒーのおかわりをもらいに立ってしまい、残ったあさ美とれいなも無言だった。
そのころには里沙は静かになり、麻琴の小さなうなり声だけがバックで流れていた。
あまりに見かねた喫茶店のオーナーだったおじいちゃんから湿布を分けてもらっていたが、限りなくおばさんクサクてあさ美には見れなかった。
「あのさぁ、吉澤先輩ってけっきょくどうなったの?」
三人ともあらかた食べ終わってそれぞれのカップをテーブルに残したとき、思い切ってあさ美は聞いてみた。
あさ美が覚えている限りでは、吉澤ひとみの応援に行こうという話になってれいなに連絡したのが昨日の夜。
ここにれいながいるのだから、ひとみの応援に行ったのだろう。
その間、ずっと寝ていたことをあさ美自身信じられなかったが、愛から、
「まあ、便りがないのは元気な証拠っていうしね」
と投げやりに言われ、ちょっとばかりへこんだ。
- 593 名前:泣けない夜も、泣かない朝も7 投稿日:2005/11/23(水) 12:23
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「さてと、そろそろ出発しますか」
愛が立ち上がったのは、それから十分ほどしてからだった。
てっきりなつみはここまで迎えに来てくれるものかと思っていたあさ美は、立ち上がった愛とまだ寝たままの里沙と麻琴とを交互に見比べながら聞いてみる。
すると、
「方向オンチな安倍さんにここまで来てもらったら、今度は帰れんくなるよ」
というごもっともな意見が返ってきた。
「愛ちゃ〜ん、もうちょっと休憩していこうよ〜」
「あんまり安倍さんを待たせるのもいかんやろ」
麻琴から不満の声がしてくるが、愛はあっさりと受け流して腕を掴む。
ひときわ高い悲鳴を最後に静まった麻琴をそのまま引きずったまま愛は全員分の会計をすませ、店を出る。
あさ美も里沙をつついてみたが、こちらはすんなりと起きてくれたため引っ張らずにすんだ。
「ねえ紺野さん、ほっんとーになんも覚えてないとですか?」
「だから覚えてないんだってば、ごめんね」
駅までの道中、交わした会話はそれだけで、れいなはずっとぶつぶつ言いながら歩いていた。
少し後ろをかなり引いた様子で里沙が眺めていたが、あさ美にはさっぱりわからなかったので触れることもなかった。
駅へ着いたのは喫茶店を出てから三十分後。
ぐったりした麻琴はいかにも燃えカスといった感じがしたが、気の毒すぎてあさ美はなにも言わずにそばにいるだけにした。
なにはともあれ無事終わってくれたからよしとしよう。
状況が飲み込めないなりに納得したあさ美は、愛のふくれた横顔を見ながらなつみを待つことにした。
ただし愛やあさ美の予想に反して、なつみがやってきたのはさらに一時間後のことだった。
- 594 名前:泣けない夜も、泣かない朝も7 投稿日:2005/11/23(水) 12:23
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 595 名前:泣けない夜も、泣かない朝も7 投稿日:2005/11/23(水) 12:24
-
紙に書いてあった住所は、幸いにも倉庫から近くにあった。
といっても電車でさらに一駅ほど移動しなければならなかったため、とりあえず近くの駅へと向かう。
紙には丁寧にどこの駅まで切符を買えばいいのかまで書いていたため、ひとみは迷わず買うことができた。
電車に乗る前、駅のトイレで顔を何度か洗った。
上着やジーンズを強く叩いて砂を落とし、身なりをチェックする。
きれいとまではいかないが、だいぶましになった自分の姿を見て満足したひとみは、それから電車へ乗った。
地図にあったマンションは二十階建てで、鍵を見ると八階のようだった。
止まっていたエレベータに乗り、目的地のボタンを押してからようやく、ひとみは息を吐いた。
がくんと大きく揺れて動き始めたエレベータに行き先を任せる。
身体の痛みはすでにどこかへ飛んでいた。
エレベータを降りてから、キーナンバーのあるドアまでの間、ひとみはずっと深呼吸をしていた。
いつも会っているはずなのに、そのときだけは特別だった。
会ってなにを話したらいいのか、どういう顔をすればいいのか。
ずっと考えていたのに、ドアノブを握っても答えは出なかった。
突如、開けたくても開けられなかったドアが開いて、ひとみはドアに思い切り顔面を打ちつける。
目の奥で火花が散っていたが、構うことなく顔を引き離してみると、そこには焦った顔の亀井絵里が立っていた。
「……ひとみさん?」
「えっと……迎えに来たよ」
前のめりになった絵里がつぶやき、ひとみは慌てて言葉をひねり出す。
もっと気の利いた言葉にすればよかったのに、できなかった自分をそこはかとなく恨みながらひとみは絵里を見下ろした。
- 596 名前:泣けない夜も、泣かない朝も7 投稿日:2005/11/23(水) 12:25
-
しばらくぽかんと見上げていた絵里だったが、肩にかけていたカバンがぼとりと床に落ちる。
直後、飛びついてきた絵里を全身で受け止めたひとみは、あまりの勢いのよさに格好悪くもしりもちをついてしまった。
抱きついてきた本人は、顔を胸にうずめたまま小さく肩を震わせている。
泣いていることに気づいたひとみは、絵里が落ち着くまでなにも言わずに背中を何度も撫でていた。
五分ほどしてようやく落ち着いた絵里は、それでも目を真っ赤にしたまま立ち上がる。
ひとみは絵里に引っ張ってもらって立ち上がり、そのまま外へと出た。
持っていた鍵でドアをロックし、鍵は新聞受けから中へ入れておいた。
「遅くなってごめん」
帰る道すがら、会話らしい会話がなく、耐え切れなくなったひとみは無意識のうちに謝っていた。
知らず知らずのうちに立ち止まっていたが、絵里はそんなひとみに構わず進んでいく。
五メートルほど進んだとき、ようやく気づいたのか、はたまたわざとなのかわからないが、絵里は振り返ってきた。
「ほんと、遅かったですね。何時だと思ってるんですか?」
「……もう十時か」
絵里に言われるまで時間を気にしていなかったことを恥じるが、出てきたのは苦笑いだけだった。
腕時計から顔を上げると、絵里も同じように笑っていた。
「お腹ぺこぺこなんですよ」
「まだ食べてなかったの?」
いたずらっぽく言ってくる絵里に返しながら、自分も食べてないことに気づく。
意識してしまったのがいけなかったのか、腹の虫が鳴ってしまう。
あまりのタイミングの悪さに赤面していると、前にいた絵里が小さく吹き出した。
仕草がいつもの絵里で、それを見たひとみは安心していることに気づいた。
- 597 名前:泣けない夜も、泣かない朝も7 投稿日:2005/11/23(水) 12:25
-
「腹の虫も絵里に会いたかったんだ」
「赤くなってると言い訳も説得力がないですね」
せっかく気の利いた言葉が浮かんだのに、笑いながら言ってきた絵里に全部おしゃかにされてしまった。
少し怒った顔をしてみると、絵里は小さく悲鳴を上げながら逃げ始める。
ひとみもすぐに後を追ったが、ぼろぼろだった身体には予想以上の重労働だ。
しかし同時に清々しくもある。
ゆっくり走る絵里を捕まえるのは意外と簡単だった。
もちろん絵里も本気で逃げようと思ってないし、ひとみも逃げられるとは思っていない。
十メートルほど進んで絵里を捕まえると、弾んだ息をそのままにして絵里が笑っていた。
「さっきのあれって、夢じゃなかったんだね」
「はい、夢なんかじゃないですよ」
「そう……」
夢のようにしか思えなかったのに、そこにはちゃんと絵里がいた。
嬉しいのと恥ずかしいのとが一緒になって、なにをどう言ったらいいのかわからなくなる。
ふと腕を引っ張られたので伏せていた顔を上げると、そこには笑ったままの絵里の顔があった。
「無理しなくてもいいと思います。ゆっくりいきましょうよ」
「……そうだね」
絵里の言葉を聞き、ようやくひとみは肩の荷が下りるのを感じた。
それから二人は手を繋いだまま歩く。
雲の切れ目から差し込んでくる陽の光が温かく、頭が少しぼんやりした。
- 598 名前:泣けない夜も、泣かない朝も7 投稿日:2005/11/23(水) 12:26
-
「ひとみさん。今日って私の誕生日なんですけど、ちゃんと覚えてくれてましたよね?」
「えっ?」
駅に着いたとき、絵里から言われひとみは思わず上ずった声を上げる。
慌てて時計を確認してみると、デジタルでたしかに『12月23日』と表示してあった。
「もう、本当に忘れてたんですか?」
「ごめん、うっかり忘れてた」
「言い訳にもなってません!」
強く言った絵里の頬が膨らみ、ひとみは何度も頭を下げたが、機嫌を直すには相当な労力が必要だった。
「じゃあ、これからちょっと街にでも行って二人だけで祝おうか。昼飯食うついでにさ」
「ついでなんですか?」
「逆だった。祝うついでに昼飯でも食おう」
慌てて言い直しながら、ひとみは財布の中身をチェックしてみる。
普段はあまり入れていないのに、このときだけはやたらと福沢諭吉が多かったので、少しだけ安心した。
ひとみが券売機で二人分の切符を買い、改札をくぐる。
人気のないプラットホームに二人は寄り添ってベンチへ腰掛けた。
「なんかいいにおいがするね」
「出てくる前にシャワー浴びましたから」
「……そう」
言われてようやく髪の毛が完全に乾ききってないことに気づく。
どこのメーカーなのかわからないが、普段使っているものではないのだろう。
ぼんやりと考えながら、意識しないうちにひとみはしっかりと絵里の肩を抱きしめていた。
ベンチから見上げた空はもう雲が途切れ途切れにしか残っておらず、ブルーが視界のほとんどを占めている。
差し込んでくる陽の光は相変わらず温かく、目を閉じればそのまま眠ってしまいそうだ。
できることならこのまま時間が止まってしまえばいいのに。
そんなことを考えながら、ひとみは目を閉じて至福のときを味わうことにしたのだった。
- 599 名前:泣けない夜も、泣かない朝も 投稿日:2005/11/23(水) 12:27
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後日談2
- 600 名前:後日談2 投稿日:2005/11/23(水) 12:28
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「どこか誤解があるようだから言っておくけど、うちの親父はまだ死んじゃいない。ちゃんと生きてる」
「は?」
年末も差し迫った十二月二十八日。
入ったこともないファミレスで緊張していたが、口を開くといつもと変わらない口調だった。
目の前の相手にもちゃんと伝わっているようで、固まってしまった斉藤瞳を見て、吉澤ひとみは心の中だけで小さく笑った。
「依願退職して、いまは友人の考古学をやってる大学教授とかと一緒に、どこかの秘境とかに行ってるよ」
自分でもいまいちよくわからない説明をするが、瞳には関係なかったらしい。
ちょうどコーヒーのカップを持ち上げて停止していた彼女からは、完全に目から色が消え失せている。
心ここに在らずというよりも、意識自体が吹き飛んでしまっているようだ。
瞳の隣では村田めぐみと彼女たちの先輩――久住とか言っていたが名前は聞いていない――が、平気な顔をしてコーヒーを飲んでいる。
しかしながら、それまで瞳がしゃべっていたために会話が完全に止まってしまったのが嫌だったのだろう。
「俺のところにも小学生の妹がいるんだけど、こいつみたいに危険な真似はさせられないね」
「そうですね。あんなにかわいいのに、ひとみんみたいになったら嫌ですよ」
肩をすくめるようにして言ってきた久住に対して、やはり同じようにめぐみが肩をすくめて返していた。
その際、めぐみから出てきた言葉にひとみは思わず身震いするが、すぐに自分のことじゃないと言い聞かせて落ち着く。
それから隣の瞳を見てみるが、こちらはまだ動く気配を見せていない。
(ニックネームにしても、もうちょっとましなのがあったんじゃないの?)
心の中だけで毒づきながら、ひとみは昨日のことを思い出していた。
- 601 名前:後日談2 投稿日:2005/11/23(水) 12:28
-
昨夜遅くに寮を訪ねてきた瞳だったが、最初に対応したのは寮母の安倍なつみだった。
ちょうど寝ようと思って部屋に上がろうとしていたひとみは、そこで運悪く二人のやりとりを見てしまったのだ。
『久しぶりだべねぇ、ひ〜ちゃん』
『なちみも元気だった?』
小学生のときからの知り合いらしく、それらしいやりとりを傍から見ていたひとみは、気持ちが悪くなって無言で去ろうとした。
が、さらに運悪く瞳に見つかってしまったため、こうして呼び出されてしまったのだ。
はじめは乗り気ではなかったし、次の日は実家に帰るということもあって、疲れたくなかった。
相当ごねてみると、お茶だけだったのがプラス昼飯になったため、ひとみはこうして我慢することになったのだ。
(つまり、身から出たサビってやつだね)
つくづく自分の行いを嘆くが、してみたところでむなしくなるばかりで、すぐに止める。
すでに昼食用に頼んだオムライスは食べ終わっていたし、電車の時間もあと一時間ほどだ。
「ところで、君と一緒にいたほかの娘たちってちゃんと寮まで帰れた?」
久住から会話を振られ、先日のことを思い出してみる。
といってもひとみが寮へ帰ったのは夕方になってからで、あのときのメンバーが具体的にどうなっていたのかを知ったのもそのときだった。
「帰ってくるには帰ってましたけど、小川がなぜかぎっくり腰になってました」
「……そう、悪いことをしたね」
「えぇ、あいつ曰く『これじゃあ寝クリスマスに寝正月ですよぉ』ってことらしいです」
「寝クリスマスはともかく、寝正月ってのは意味がちょっと違うような……」
「まあ、動けないってことで同じじゃないですか?」
動かないのと動けないのとでは大差があるが、どのみちひとみには縁の遠い話だ。
ちなみに小川麻琴・真琴は今朝、母親に迎えに来てもらって、厳重に車の後部座席へ固定されて帰って行った。
- 602 名前:後日談2 投稿日:2005/11/23(水) 12:29
-
「高橋がやたらと疲れてましたね。あと、あややは怒ってました。帰ったらものすごい剣幕で怒鳴られましたよ」
「まあ、誰にも迷惑をかけないようにって配慮したつもりだけど、やっぱり無理だったか」
「そりゃそうですよ、なにせひとみんが計画したんですから」
大きく息を吐き出している久住とめぐみ。
年寄りクサイ仕草だと思ったが、ひとみは口にはせず、別のことを言った。
「誰にもって、まず絵里に迷惑をかけたじゃないですか。それに私も立派な被害者です」
「まあ、こいつにしてみたら君たち二人はもともと巻き込むつもりだったみたいだね。亀井さんのほうには事前に話をしてたみたいだ」
「……そうですか」
絵里からだいたいの事情は聞いていたので、ひとみとしてもそのときほど腹は立たなかった。
苦笑してからコーヒーを飲みながら、今度はこちらから話を切り出す。
「なんでこの人はあんな無茶なことをしたんですか? 私にはさっぱりわかりません」
「そうだろうね。俺たちも全部わかってるわけじゃない。でも、想像はつくよ」
いったん言葉を切って、楠井が隣に座っている瞳を一瞥する。
が、彼女はそんな彼の視線に気づいていないのか、まだカップを持ったまま止まっていた。
「つまり、吉澤良太元警視がダンディーだったってことかな」
「……」
それから久住は瞳が遭遇した過去の話をした。
内容は以前、大谷雅恵が松浦亜弥に行ったものと同じで、ひとみにも少しだけ記憶が残っていた。
「たしかあのときは捜査一課の理事官とかっていうのになったばかりで、やけに意気込んでいたっけ」
「それと熱心な性格も手伝って、内部ではけっこう人気があったらしいね。あの人の武勇伝なんていまだに残ってるよ」
「どんなのがあるんですか?」
仕事中の父親を知らないひとみは反射的に聞いていたが、切り出したはずの久住はなぜか乗り気ではなかった。
- 603 名前:後日談2 投稿日:2005/11/23(水) 12:30
-
「それは本人から聞くといいよ」
「……はぁ」
けっきょくなにも教えてもらえなかったが、落胆するひとみではなかった。
昨日、実家へ電話してみると、年末年始は父親が帰ってくるらしい。
寮へ入ってからはろくに会っていなかったため、実に二年ぶりだ。
これで退屈することはないだろう。
「そんなこんなで立派な人だったけど、辞めるときも実にすぱっと辞めたらしいね。それからは事実上連絡が取れなくなったから、一部の人間にはその内容が歪曲して伝わったのかもしれないね」
「そんな単純な問題なんですか?」
「まあ、こいつが人見知りで、極度の勘違いで、しかも変なところで行動力があったのがそもそもの間違えかな」
冷めた視線が久住から瞳へ注がれるが、当の本人には通じていないのか、ぐったりしていた。
カップはすでにテーブルに置かれていたが、意気消沈して肩を落としている。
「私も似たようなものですよ。見事に引っかかってたんですからね」
「だけど、ついうっかり俺も話を漏らしたのがいけなかったんだ。まさか元警視の崇拝者だとは思ってなかったからね。亀井さんをさらったときは後悔してたよ」
「そう思ってくれる人が一人でもいればだいぶ違ってきますよ」
よくよくあのときあった出来事を振り返ってみると、変なところはいくらでもあった。
状況に呑まれて正常な判断がつかなかったひとみにも原因はあるのだろう。
「でも、あの計画もおじゃんになったよ。もともとあれは別地区とも連動して、一網打尽にするつもりだったんだ。俺たちの独断専行でやっちゃったから、ほかの場所は実施すらできなかった」
「……万事うまくいくってことはないってわけですね」
やけに達観した物言いがおかしかったのか、久住は小さく笑っていた。
- 604 名前:後日談2 投稿日:2005/11/23(水) 12:30
-
それから十分ほどして、ひとみは席を外れることにした。
電車の時間にはまだ三十分ほど余裕があるが、実家に持って帰る土産を選ばないといけなかったからだ。
「ま、後日、改めてこいつのほうから挨拶に行かせるよ。ショックが大きすぎていまはなにも言えないみたいだから」
「別にいいですよ」
すっかり白くなっていた瞳に小さく会釈をしてみるが、予想どおり反応はなかった。
外へ出てみると年末らしく寒くて、着ていたロングコートをしっかり抱きしめて歩く。
コインロッカーに荷物を預けてあるから、回収して移動する時間も考慮すると二十分ほどで買い物をすませないといけない。
信号を待つ間、頭の中で時間配分をしていたひとみは、ふと思い出してつぶやいた。
「『お前はなにをやりたい?』……か。いままで考えてなかったな」
高校へ入るときの問いかけに、まだ答えが見つかっていない。
そのことを驚きながらも、ひとみはまだ焦っていなかった。
なぜなら輪郭がぼんやりと見えていたからだ。
「まだはっきりと言葉にはできないけど、答えは出せそうだね」
父親の後ろ姿だけを追いかけていただけで、いままでは自分のやりたいことをしていないような気がした。
そのきっかけを瞳が与えてくれたのだろう。
白くなった瞳が脳裏に浮かび、いまさらながらに可哀想だと思ったが後の祭りで、すぐに忘れた。
帰ってから父親に対してどう話を切り出そうか考えながら歩く。
けっこうしんどい作業のはずだったのに、そのときのひとみには意外と苦にはならなかった。
- 605 名前:―― 投稿日:2005/11/23(水) 12:31
-
泣けない夜も、泣かない朝も 了
- 606 名前:いちは 投稿日:2005/11/23(水) 12:43
-
かなり長かったですが、最後まで更新できました
この話はこれで終わりです
本当はもう少し長かったんですが、ところどころ省略してしまいました
そこのところは想像しながら読んでもらうと助かります
>>567 通りすがりの者さん
前進した人もいますし、逆に後退した人なんかもいます
明らかに割に合わない人がいましたが、ご愛嬌だと思って流してください
あの空間については当事者がどう思うかで変わってくるので
今回はたまたまうまくいったということです
別の人だと別の結果になってしまうかもしれません
次回の更新ですが
ちょっと立て込んでいて年内は厳しい状況です
年明けには再開できるよう努力しますが
予定としては本編に戻ろうかと考えています
それでは
- 607 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/11/29(火) 22:55
- 更新お疲れ様です。
一気に解決となりましたね。
なんだか皆さんさっぱりとなったようですし(一部は除きまして 笑)
次回はマターリと更新待たさせて頂きますよ。
- 608 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 04:18
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
- 609 名前:―― 投稿日:2006/02/15(水) 13:51
-
因果応報
その言葉の意味がようやくわかった……
- 610 名前:―― 投稿日:2006/02/15(水) 13:53
-
逃避、そして虚無へ
- 611 名前:逃避、そして虚無へ 投稿日:2006/02/15(水) 13:53
-
逃避、そして虚無へ0
- 612 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 13:54
-
間近で見てみると、その建物は意外と大きかった。
もしかすると、周囲が一軒家しかないためそう見えるだけなのかもしれない。
しかしすぐに大した問題ではないと思い直し、加護亜衣は小さく息を吐いた。
「ここか……」
声に出してみるが、まだ夢見心地という感じが拭いきれない。
自分がN大付属高校の編入試験に合格したのも、明日から目の前にあるこの第三女子寮に入らなければならないことも、亜衣にしてみれば夢としかいいようがなかった。
ふわふわする感覚を引きずったまま寮をしばらく見上げ、亜衣はゆっくりと頭を元へ戻す。
直後、風が少し強く吹くが、三月中旬にもなれば温かい。
亜衣は寮へ入ってみようかとも思ったが、入り口のすぐ横に守衛所があったので気が失せてしまった。
そこにいてもすることがなかったため、帰ることにする。
土地勘のない亜衣にとって頼りになるのは、合格通知と一緒に入っていた地図だけ。
が、中途半端な地図だったので、はたして駅まで辿り着けるのか甚だ不安だった。
「まずい、迷子になった。どないしょ……」
数分後、不安は見事に的中する。
住宅地のど真ん中でぽつりと漏らしてみるが、誰もいないためむなしいだけだった。
建っている家はどれも似たり寄ったりで、目印になってくれそうにない。
役立たずの地図は、いつの間にかくしゃくしゃに丸まっていた。
- 613 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 13:54
-
「そういえば、まだ昼飯食ってなかったな」
ゴミになった地図を握りしめたままさらに歩くこと数分。
そのころになってようやく昼食を取っていないことを思い出し、立ち止まる。
「別に食べんでもええけど、一度気になったらずっと気になるし……」
ぼそりとこぼして辺りを見てみるが、相変わらず景色は変わらない。
手当たり次第に服をあさってみたが、食べるものは出てこなかった。
「喫茶店でもええから、なんか見つからんかい」
ぶつぶついいながらも、再び歩き始める。
足どりは止まる前よりもかなり不安定で、ぎこちない。
亜衣が喫茶『アターレ』を見つけたのは、その五分後だった。
- 614 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 13:55
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 615 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 13:55
-
午後二時、飯田圭織はいつものように起きたが、気分は優れなかった。
胸の辺りがむかむかしているが、原因はわかっている。
ふらつく足でなんとか階段を降りて『アターレ』に入るが、軽く頭を下げてきた五郎には見向きもしない。
その代わり、彼の脇にいた矢口真里がカウンターの中から出てきた。
「ねえ圭織、なんか新メニューができたんだけど知ってる?」
「パフェのこと?」
「そうそう。スペシャルパフェ『DXT』ってやつなんだけど……」
「『デラックスツイン』だって。昨日試食させられたわ」
「ツインって二つついてくるの?」
「そう。おかげでずっと胸焼けしてるの」
「ご愁傷さま」
笑った真里をひとにらみで黙らせ、圭織は特別苦いコーヒーを注文する。
それから適当に席に移動するが、途中で道重さゆみの背中を見つけて止まった。
「あら、今日は一人?」
「おはようございます、飯田さん」
普通の声の圭織に対し、さゆみは小声だった。
それもそのはず、さゆみの膝の上で田中れいなが寝ていたからだ。
二人の席はちょうど窓際にあり、陽がいい具合に差し込んでいる。
「なんか、今日の訓練は一段と厳しかったみたいです」
「……そうなの?」
奇術の訓練を父親としているらしいが、圭織は実際にそれを見たことはない。
だからといって、奇術に関してほとんど興味がなかった圭織にしてみれば大した問題ではなかった。
それよりも気になったのは、さゆみの手にある油性の太いマジックだった。
「ところでさぁ、なにやろうとしてるの?」
「いい機会なんで、れーなを猫にしてみようかと……」
「せめて水性にしときなさい」
「じゃあ、書いてもいいんですね?」
揚げ足を取られ、圭織は苦い顔をしたままさゆみから離れる。
そのあと、れいながどうなったか知らない。
- 616 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 13:56
-
窓際でまったりとしたかったが、あきらめて今度は店の奥へ向かう。
すると今度はやけに沈み込んだ高橋愛が視界に入り込んできて、気が重たくなった。
肘をついてぼんやりと店の壁を眺めている姿は、やけに哀愁を誘っている。
「高橋さぁ、そろそろ桜が咲く季節よ。だからってわけじゃないけど、もう少しぱっとしてみたら?」
「……あ、飯田さん」
顔を戻した愛はどこかぼんやりしていて、言葉にも覇気が感じられない。
話しかけた手前、放っておくわけにもいかず圭織は愛の正面に座る。
「このごろ元気がなかったけど、今日はまた特別ね。どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないですよ。これからのことを考えると憂鬱にもなります」
「なにかあるの?」
「あーしってもともと人前でしゃべるのが苦手なんです。それなのに松浦先輩から生徒会長なんか押しつけられたんですよ?」
「……それって半年くらい前の話じゃない?」
「しかも、生徒会長が寮長も兼任しないといけない規則はおかしいですって」
「生徒会長よりかは寮長のほうが楽そうね」
「あれこれ世話するよりも、どうせなら世話してもらうほうがいいです」
(それって単なるわがままじゃ……)
出てきた言葉をなんとか飲み込み、圭織は小さく息を吐く。
愛はそんな圭織に気づいていないのか、ぶつぶつ続けている。
その間に真里がコーヒーを持ってきたが、苦笑いしていた。
「圭織、今日の高橋には近づかないほうがいいよ」
「それなら早く言って。おかげで優雅なブランチが台無しになったわ」
「優雅って、コーヒーだけで?」
「気持ちの問題よ」
コーヒーをブラックのまま啜り、愛に視線を戻してみる。
真里と話していることにも気づいていないのか、まだ続けていた。
背中から暗いオーラが出ているようにも見える。
真里がカウンターに戻ろうとしていたが、すかさず捕獲する。
必死に逃げようとしているらしいが、圭織からみればささいな抵抗にすぎなかった。
- 617 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 13:56
-
「でも、困ってる人を見ると放っておけない性格なんです。これって明らかに損ですよね」
「……ふーん。でも、それだけじゃないわよね」
圭織の言葉に愛が大きく肩を飛び上がらせる。
驚いたという顔がはっきりとわかり圭織は小さく笑うが、言葉はちゃんと続けた。
「私がなっちからなにも聞いてないと思う?」
「うっ」
言葉につまった愛ががっくりと肩を落としてうつむく。
大きなため息が出ているが、言葉は出てこなかった。
顔を上げると、なにやら興味津々といった感じで真里がこちらを見ている。
しかし、わざわざ本人の目の前で説明しなくてもいいだろうと判断した圭織は、カップを持ったまま立ち上がった。
「ねえ圭織、なっちからなんか聞いてるの?」
「明日、新入生がくるんだって」
「がきさんとか亀ちゃんとかがくるんだ……で、なんであそこまで落ち込んでるの?」
「居場所がなくなるって思い込んでるのよ」
話はそれで終わり、圭織はカウンターでコーヒーのおかわりをもらって二階に戻ろうとした。
と、そんなときだった。
入り口から小さな鈴の音がして、誰かがやってきたことを知らせてくる。
振り向いてみると、圭織の知らない誰かが立っていた。
(誰かしら……)
圭織は、入り口できょろきょろしている彼女をじっと見つめる。
人間観察がいい趣味だとは言えないが、それでも彼女を見てわかったことがあった。
(いい感じがしないわね)
パフェの胸焼けとは別の嫌な感じが身体全体に広がり、気分が悪くなってくる。
粘り気のある感覚は、同時に暗いオーラを放っていた。
愛のオーラとはまた違った感じがしている。
(なにかに固執されて、自分を追いつめてる……? 思い込みかもしれないわね。疲れてるし)
ぱっと浮かんだ気持ちを言葉にするが、頭を軽く振って忘れる。
直後、忘れていた胸焼けが再びやってきて、気分がさらに悪くなった圭織はすぐに二階へと上がる。
しかし、自室に戻っても嫌な感じが消えることはなかった。
- 618 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 13:57
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- 619 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 13:57
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(なんや、やけに辛気臭いな)
店に入った直後、亜衣は息苦しいのを感じ、心の中だけで毒づいた。
もっとも顔にはそんな気持ちをまったく見せず、席を探す素振りでごまかす。
席はがらがらで、どこにでも座れそうだった。
とりあえず一番近い席に座り、メニューを手に取る。
ぱっと見る限りでは、どこにでもありそうな普通の喫茶店だ。
「いらっしゃいませ〜、ご注文はお決まりですかぁ?」
「えっと……お腹が減ってるので、なにかお腹にたまりそうなのってないですか?」
水を持ってきた、亜衣と同じくらい背の低い店員に聞いてみる。
すると彼女はなぜか亜衣のほうに詰め寄ってきた。
「それだったら新メニューのパフェなんかどう? がっつりたまるよ?」
「……それっていくらするんですか?」
「今ならお試し期間で、半額の千円。しかも全部食べればタダっ!」
「……じゃあ、それで」
「毎度ありっ!」
「……」
けっきょく押し切られる形で注文が決まってしまい、亜衣は無言で店員を見送るしかできなかった。
軽い足どりの店員になんとなくいらつき、小さな背中を凝視する。
傍からはにらんでいるようにしか見えないが、亜衣にとってはそれ以上の意味があった。
そしてそれを示すかのように、異変が亜衣の視界の中だけに現れてくる。
店員の背中からどろりとかなり濃いオレンジがにじみ出てきた。
もちろん、亜衣にしか見えていないため、店員本人も気づいていない。
(……こいつは世話焼きか)
心の中だけで毒づき、口の中だけで舌打ちをする。
赤系の色をしている人間はおせっかい焼きで、色が濃いのはその度合いが強いということだ。
もっとも、赤系には怒りやすいという性質もあるため、どちらなのかは断定できない。
知るためには店員本人ともっと話さないといけないが、亜衣はあえてそれをしなかった。
- 620 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 13:58
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濃いオレンジで目がチカチカしてきた亜衣は、目をこすりながら水を飲む。
外の景色でも見ようかと思って窓に視線を移すが、そこにいた一人が視界に入ってきた。
濃いピンクをしていたそいつは、マジックを持って膝の上で寝ているもう一人になにやら書き込んでいる。
濃いピンクで気分が悪くなった亜衣は目を閉じ、色を見るのを止める。
次に目を開けたときには、なんとか普通の視界に戻っていた。
(なんでここにおる連中はどいつもこいつも濃いやつらばっかやねん)
心の中だけで愚痴を吐き捨てる。
見てしまった他人の『色』について忘れようとするが、インパクトが強すぎて消えてくれない。
目頭を押さえてみるが、視界の隅にはまだオレンジやらピンクやらがちらほらと残っていた。
(それにしても、ようわからん能力やな)
亜衣には『他人の心を色で見る』という能力がある。
中学のとき美術で習った、色の三原色である赤、青、黄を基調として、心を分析するというものらしい。
ただし人によって色は千差万別なため、似ている色の人間はいるが、まったく同じ色の人間というのはいない。
それに一つの色にもたくさん意味があるため、一概に色だけで心を分析できるものではなかった。
(でも、それも憶測でしかないしな……)
亜衣がこの能力を身に着けたのはほんの半年ほど前で、別の人間から無理やり押しつけられたものだった。
しかもその別の人間は、亜衣に能力の押しつけたまま、なにも説明しないまま消えてしまった。
最初は能力自体がわからなかったし、心を色として見えるというのもけっきょくは推測でしかない。
さらに、心を色で見たからといって、それから先の使い道がいまいちよくわからなかった。
(これも全部、『あの女』が悪いんや。中途半端な能力なんかくれるから……どうせならもっと派手で、わかりやすいのにしてくれればよかったのに……)
出てきた愚痴を愚痴だと気づいて、すぐに止める。
あまり長く続けているとむなしくなるからだ。
目を閉じるとすべてを忘れることができたので、亜衣は目を閉じてひたすら待つことにした。
- 621 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 13:58
-
「おまたせしました〜」
「うっ」
背の低い店員の声で目を開けた亜衣は、目の前に置かれたとびきり大きなパフェに絶句してしまう。
つっこみどころがたくさんありすぎてなにから聞けばいいのかわからないが、一つだけ聞いてみた。
「なんで二つあるんですか?」
「なんでって、ツインだからね」
「……はぁ、なるほど」
よく見ると逆三角になった器の下半分に片方は普通のプリン、別のはコーヒーゼリーが埋まっている。
言われてみれば双子に見えないこともないが、だからといってどうすればいいのかわからない。
「制限時間は三十分だからね。ごゆっくり」
ちぐはぐなことをいって店員がさっさと離れていく。
残ったのはやけに威圧感を放ってくるパフェと自分だけで、思わずため息がもれる。
いっそのことテーブルをひっくり返して逃げようかとも思ったが、そこまでの度胸がないためあきらめる。
どうやら千円を払わなければいけないらしい。
「ねえ、顔が青いけど大丈夫?」
ふと脇からかけられた声に顔を上げてみると、店員とは別の人間が立っていた。
見た目はひょろっとしていて、風が吹けばそのままどこかへ飛んでいきそうだ。
しかも言っている本人の顔が少し青い。
彼女に気づいた直後、亜衣は反射的に能力を使っていた。
そして見えてきた色に息を呑む。
(こいつ、ぐちゃぐちゃやな……)
心配そうにこちらを見てくる彼女の色は少し赤っぽいが、全体的にグレーだった。
赤っぽいのも亜衣に話しかけているからで、普段ならば本当にグレーなのだろう。
こうした人間には自主性がないとか、他人に依存したがるとか、いい特徴はない。
- 622 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 13:59
-
「ちょっと量が多いんでびっくりしただけです」
一瞬で嫌いだとレッテルを貼った亜衣は、とりあえず愛想笑いをしてその場をごまかす。
が、なにを思ったのかそいつは亜衣の正面へと座ってきた。
「あーしでええなら手伝ってあげようか?」
「……あなた、誰ですか?」
「あぁ、ごめんごめん」
警戒心を丸出しにしている亜衣に対して、そいつはどこか寂しそうに笑う。
亜衣にはそれが自分のことを聞かれるのがうれしいのに、説明するのが恥ずかしいといった感じに見えた。
事実、そいつはどこから話そうか迷っているのかなかなか口を開かない。
「あーしは高橋愛っていいます。四月からN大付属高校の三年になります。で、君は?」
「加護亜衣です。今度、N大付属高校に編入することになりました」
『編入』というのに抵抗が残っているが、表面には決して出さない。
出てしまえばよけいなことを追及されかねない。
最大限の自制を課して、亜衣は無表情を保った。
「ほほ〜、編入ってすごいね。で、どこの寮に入るの?」
「第三女子寮ってところらしいです」
「奇遇やね。それってあーしらのおるところやん」
そこまで自制していた亜衣も、さすがに驚いて顔を上げる。
こちらを見ていた高橋は、さきほどよりかは少し楽しそうに笑っていた。
亜衣は色を見てみたいと思うが、そこはさらに自制して我慢する。
「なら、なおさら放っておけんわ。手伝ってあげる」
「……ありがとうございます」
上辺だけのお礼でもうれしかったのか、高橋がよろこびながらスプーンを取る。
自分が白けた視線を送っていることに気づいていないようだ。
(ある意味扱いやすいな)
先輩ということだから、困ったときには使ってやろう。
心の中だけでそう考えた亜衣は、とりあえず目の前のパフェだけに集中する。
高橋のことは少し大きな置物だと思えば気にならなかった。
- 623 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 13:59
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――――――――――
- 624 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 13:59
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次の日、亜衣は珍しく朝寝坊をした。
遅れた理由は単純で、誰も起こしてくれなかったからだ。
単身赴任している父親とは一年以上会っていないし、母親は仕事の都合でほとんど家にいない。
目覚まし代わりの携帯も、なぜかこの日に限って鳴ってくれなかった。
「よりにもよってこんな日にっ!」
適当に着替えをすませ、まとめてあった荷物を抱えて家を飛び出す。
近くの駅まで全速力で走り、目についた電車に飛び乗った。
時間を確認すると十二時十分。
新入生歓迎会とやらが一時からあるため、その時間までには寮にいかないといけない。
電車が三十分かかり、その後の移動を考えるとぎりぎりのタイミングだった。
それでも無事電車に乗れたことで安心し、亜衣は適当な席に座る。
なにも考えないようにしていたが、気がつくと昨日のことをぼんやりとだが思い出していた。
けっきょくパフェは食べ切れなかったが、千円は払わなかった。
あのあと高橋が店員を説き伏せたからだ。
が、帰れると思ったのもつかの間、高橋がコーヒーを二つ頼んでしまったため、帰れなくなってしまった。
そのあとの高橋の話を亜衣は正直なところ、ほとんど聞いていない。
内容といえばほとんどが愚痴で、やたらと人の名前が出てくる。
やたらと多く出てきたのが『あさみ』であり、『りさ』であり、『まこと』だった。
もっとも亜衣はその中の誰も知らないため、単に軽く頷くだけでその場を流した。
それでも高橋は満足したのか、一時間ほどで解放してくれた。
駅まで見送ろうとしていたが、それは丁重に断った。
- 625 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 14:00
-
目的の駅で降りて、第三女子寮へ向かう。
歩きながら昨日の高橋の話を思い出す。
といっても寮のシステムに関する、ごく一部だったが。
(二人一部屋っちゅうことは、もう片方に気を遣わんといかんってことやろ? 気が重いな……)
どうせなら一人になる時間が欲しかったが、ここの寮では許してくれそうにない。
学校で神経をすり減らすのに、寮に戻ってからも神経はすり減り続けていく。
もしかするとそう長くは耐えられないかもしれない。
ネガティブに考えながら、それでも足は現実的に前へと進んでいた。
(どうせなら昨日、会いに行っとけばよかったな)
寮がいよいよ目の前に迫ってきたというときに、大事なことを思い出す。
大切な親友のところへ行ってなかったのだ。
いまさらながらに後悔するが、時間は戻ってこない。
空を見上げてみるが、雲ひとつない晴天だったため、亜衣はため息を吐いた。
- 626 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 14:00
-
「ちょっとカメ、さっさと歩く! 遅刻しちゃうじゃん!」
「がきさん、ちょっと落ち着いてくださいよ〜。もう目の前じゃないですかぁ」
寮の入り口に着いたとき、脇から怒声と間延びした声が割り込んできた。
声のするほうを見てみると、自分と同じようにやけに大きな荷物を二人は抱えている。
どうやら目的地は同じらしい。
「私の予定としてはもう三十分前には到着してたの」
「三十分も早く着いて、なにするんですか? ヒマなだけですよぉ」
「カメはヒマかもしれないけど、私はヒマじゃないの!」
二人は道路の隅に立っている亜衣に気づかないのか、かなりのスピードで追い越していく。
一人は黄緑で、前髪をヘアピンで無理やり留めていておでこをやたらとアピールしている。
もう片方は薄い紫をした、どこか存在感が薄そうだった。
(あかん、また無駄なところで無駄な力を……)
反射的に他人の色を見てしまったことに苛立ちながら、目頭を押さえる。
小さく深呼吸をして目を開けると能力は消えていたが、やはり色の残像が残っていた。
そしてそのまま顔を上げると、薄い紫をしていたほうと目が合ってしまった。
- 627 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 14:01
-
「がきさんがきさん」
薄い紫がこちらを見たまま黄緑を引き止める。
止められた黄緑は後ろに倒れかかりながら回れ右をして、薄い紫をにらんでいた。
「どうしたの! なに?」
「なにじゃないですよ、ほら」
薄い紫の視線で黄緑もこちらを見てくる。
二人と目が合ってしまい、とたんに亜衣は居心地が悪くなるのを感じた。
「えっと……こんにちは。あなたも今日からここに入るんですか?」
「え、えぇ、そうです」
黄緑が『ここ』と指差したのは目の前にある寮で、亜衣は小さくうなずく。
その間に薄い紫は肩を大きく上下させながら呼吸を整えていた。
「そうなんだ。だったら一緒だね。私は新垣里沙。あなたは?」
「加護亜衣です」
「なら加護ちゃんだね。よろしく」
「はぁ……」
「ほら、カメちゃんも自己紹介しなよ」
「か、亀井絵里です」
なれなれしく呼ばれることに内心腹を立てながらも、表面上は笑顔を保つ。
黄緑――新垣――と握手をして後ろにいる薄い紫――亀井――を見る。
亀井は一瞬だけこちらを警戒したような素振りを見せたが、すぐになんともない顔をして握手する。
手を握った瞬間、嫌な感覚が全身を走るが、それは亀井も同じだったらしい。
互いに互いを探るような目で見ていると、横から新垣が割り込んできた。
「そろそろ時間だから、中に入ろうよ」
「……そうですね」
新垣に言われ、亀井が手を離す。
それでもこちらを見ていたのが嫌で、亜衣は視線を逸らして荷物を担ぎ直すことでごまかした。
- 628 名前:逃避、そして虚無へ0 投稿日:2006/02/15(水) 14:02
-
新垣に促されて亀井が寮に入り、亜衣も後に続く。
玄関スペースも下駄箱以外に珍しいものはなく、亜衣は二人に指示されるままにスリッパに履き替える。
なぜこの寮について詳しいのか気になったが、二人は亜衣を置いたまま先へ行くため、慌ててついていく。
目の前の階段を上がらず左に曲がると、そこに誰かが立っていた。
そいつはくすんだ青紫をしている。
「あさ美ちゃん、そんなところでなにやってるの?」
「なにって、新入生の誘導に決まってるじゃん。マメと……カメと」
青紫は持っていた書類になにやら書きこみ、二人を中に入れる。
残った亜衣はどうしようかと迷ったが、先に自己紹介することにした。
「加護亜衣です。編入生の」
「加護さんね……オッケー、チェックできたよ」
前の二人と同じように書き込んだのを確認し、亜衣は中へ入ろうとする。
が、青紫に再度呼ばれて立ち止まった。
「紺野あさ美です。よろしくね」
「……よろしくお願いします」
軽く頭を下げてきた青紫――紺野――に亜衣も同じように返す。
握手を求めてこなかったのが救いだった。
それでも近距離にいるといい感じはしない。
「じゃあ、歓迎会を始めようか」
ドアを開けてくれた紺野に小さく頭を下げて中に入る。
そして部屋に入った直後、亜衣は奥にいる一人を見て硬直した。
全身に電気のような、鋭くて痛いなにかが走り回っている。
(こいつ……こんなところにおったんか)
奥にいるそいつのことはよく知っている。
しかし亜衣ではない。
走った電気も正確にいえば、亜衣が感じたのではない。
辻希美が感じたのだ。
(こいつが……のんを消した)
「加護さん、隅っこの席しか空いてないんだけど、我慢してね」
後ろで紺野がいうが、このときの亜衣には届かない。
亜衣の視線は一点だけに集中していた。
- 629 名前:いちは 投稿日:2006/02/15(水) 14:20
-
久しぶりの更新です
本編の続きになります
>>607 通りすがりの者さん
かなり時間があいてしまい申し訳ないです
これから少しずつ更新していくのでよろしくお願いします
次回は「逃避、そして虚無へ1」になります
それでは
- 630 名前:通りすがりの者 投稿日:2006/02/16(木) 18:37
- 更新待ち侘びておりました。
ついにこの方のご登場ですね。
なにやら波乱の予感がしますよ(汗
ちなみに、「亜衣」ではなく「亜依」と呼びます。
次回更新待ってます。
- 631 名前:逃避、そして虚無へ 投稿日:2006/03/01(水) 13:02
-
逃避、そして虚無へ1
- 632 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:02
-
高校に入ってすぐの四月。
席替えで隣になったのはちょっと、というかかなり変わった人間だった。
名前は辻希美というらしいが、亜依にはそれ以上のことがわからない。
「ねえあいぼん、放課後、ヒマれすか?」
席替えをしてから一週間ほど経ったある日、希美がいきなりそう切り出してきた。
昼休憩直後でかなり油断していた亜依は、話しかけてきた希美をまじまじと見返す。
一週間経つが、話しかけられたのはそのときが初めてだったからだ。
亜依の席は教室の一番後ろの窓際。
典型的な不良の指定席に納まることのできた亜依は辺りを見てみるが、半径一メートル以内には自分と希美しかいない。
それでも納得できなかった亜依は、なにから聞くかをできるだけ簡潔にまとめた。
「あいぼんって誰のこと?」
他にも聞きたいことは山ほどあったが、とりあえずそれだけに的をしぼる。
突拍子もなく放課後ヒマかと聞いてくるのも気になるし、語尾もかなり気になる。
しかし気になることを全部聞いていたら、せっかくの昼休憩も台無しになりそうだ。
「誰って、あいぼんはあいぼんれすよ」
「ごめん、聞き方が悪かった。なんでうちが『あいぼん』なん?」
どうやら『あいぼん』というのは自分のことらしいが、亜依にしてみれば不意打ち以外のなにものでもなかった。
中学以前にはそんなあだ名で呼ばれたことはなかったし、高校に入ってからも呼ばれたことはない。
「なんか『ぼん』って感じがしませんか?」
「意味わからん」
「ちなみに私は『のの』って感じがするれしょ?」
「さっぱりわからんわ。意味ないやろ?」
「そうれす、ないれすよ」
とまあよくわからないやりとりをしているうちに昼食もいっしょになってしまったが、不思議と不満はなかった。
- 633 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:03
-
話をして気づいたが、希美はかなり舌足らずだった。
しかも早口で話しているため、自分のことすらまともに言えてない。
「ねえ、『のの』か『のん』か、どっちで呼べばええの?」
「どっちでもいいれすよ。別にこだわってないれすから」
かなり脱力したが、希美はそんな自分のことを笑っていた。
あっという間に放課後になり、特に予定のなかった亜依は希美につきあうことにした。
連れて行かれたのは高校から少し離れた山にある小さな神社。
希美はその神社の裏へ回るが、途中にあった『立入禁止』の看板が激しく気になった。
「ここってお気に入りなんれすよ。あいぼんもきませんか?」
「こっからでも見晴らしがいいってのはわかるから」
転落防止のガードレールの向こうに座っている希美の下には、急斜面が広がっている。
ガードレールを越えるのが怖かった亜依は、希美の後ろから同じように景色を眺める。
下から見上げる校舎は大きいが、ここからだとやけに小さく見える。
なにか感じるものがあるが適当な言葉が思いつからなくて、もやもやしていた。
「大丈夫れすって。ちょっとやそっとじゃ落ちないれすから。それともあいぼんはどんくさいんれすか?」
「……」
いつもならすぐに否定するが、風を受けた全身が怖いといって動こうとしないため、無言になる。
高いところが苦手な亜依にしてみれば、崖に足を放り出して座っている希美がうらやましかった。
「一つ聞いてもいいれすか?」
「……なに?」
「なんで学校にいるときは、つまんなさそうな顔をしてるんれすか?」
「なんでっていわれても……つまらんのは事実やろ」
「そうれよね」
もっといろいろ聞かれると思ったが、希美はそれ以上聞いてくることはなかった。
実際、亜依は授業を真面目に受けていない。
授業中は常に外か持ってきた漫画を見ているが、耳だけは授業に参加している。
当てられたときはなんなく答えられたし、質問自体もそれほどレベルの高いものではなかった。
- 634 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:03
-
会話が止まり、亜依は景色をぼんやりと眺める。
希美はずっと前ばかりを見ていて、振り返ったりしない。
どんな表情をしているのか気になったが、ガードレールを越える勇気は出てこずに立ち尽くすだけ。
小さくなった校舎の中には小さくなった生徒が見えるが、亜依は特になにも感じなかった。
五分ほどして希美が前のめり気味になってから立ち上がる。
そのまま落ちるかと思った亜依は少し慌てたが、希美が振り返ってきたため慌てて表情を消した。
「ねえあいぼん、なんでここがのんのお気に入りなのか、教えてあげる」
「……」
別に聞いたわけではないから拒否することもできるが、逆らわずに待ってみた。
ガードレールに腰掛けた希美は再び前を見るが、今度は横顔が見える。
言葉にするなら、『清々しい』というのが一番適しているようだ。
「ここから見下ろしてると、いろんなものが小さく見えるれしょ?」
「うん」
「見ててすごく気持ちがいいんれす」
「……うん」
「ざまぁみろって言いたくならないれすか?」
振り返ってきた希美は満面の笑みだった。
そのときの亜依といえば、きっと唖然としていたのだろう。
すぐに希美は指を差して笑ってきたが、不思議なことに機嫌が悪くなることはなかった。
(そうか、これか)
さっきのもやもやがすっかり消えているのを感じ、亜依は大きくうなずく。
希美の背後にある青空が、目の奥でちかちかしていた。
- 635 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:04
-
――――――――――
- 636 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:04
-
あのときと同じ場所に立っていても、あのときと同じ高揚感はなかった。
春らしい陽気が降り注いでいるが、別に温かいとは思わなかった。
意外と強い風が原因かもしれない。
全身が冷たくなっているが、それでも亜依はその場から動かなかった。
眼下には古巣であるA商業高校が広がっているが、亜依の視界に入っていない。
高校よりもさらに向こうにある景色と、その上にある青空と、ぽつんと浮かんでいる雲しか見ていなかった。
「あいつが見つかった……のんを消したあいつが見つかったよ」
真っ白だった希美を消したあいつは小川麻琴というらしい。
そいつは今でも生きている。
希美を消したのに、まだ消えていない。
「あいつはのんを殺してない。それよりもっとひどいことをした」
殺すということは殺された人間の形が残ること。
しかし希美はあのとき、たしかに亜依の前から消えてしまった。
息をしなくなったのと同時に、この世界から消えてしまった。
あるのは亜依の中にある真っ白な感触だけ。
真っ白な希美は今では白い雲になって浮かんでいる。
「でもね、うちはのんを消したように、あいつを消すことができんわ……」
雲から視線を離し、亜依は自分の手を見下ろす。
希美と触れた、あのときの柔らかさは本物で、希美がいなくなったあとも消えずに残っている。
それだけが加護亜依が唯一感じることのできる、形のなくなった辻希美の残骸だった。
「ねえ、うちはどうしたらいい?」
見下ろした手につぶやく。
声がかすれていることに気づくが、希美からの返事はなかった。
浮かんでいた雲が空の彼方に消えていくのを見届け、亜依は帰ることにした。
歩いていると足が地面に触れているのがよくわかる。
どうしようもなく重たくて、鈍くて、苦しい。
希美みたく空に浮かぶことができればいいのにと思うが、亜依はまだ希美と同じ場所に行けない。
- 637 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:05
-
駅に着くと、時間が悪かったのかA商業高校の生徒とはちあわせてしまった。
部活の帰りなのかかなりの数がたむろしている。
中には見知った顔もいくつかあったが、亜依からは声をかけなかったし向こうからも声をかけられなかった。
電車がくるまで特にすることのなかった亜依は、座ったまま少しだけ能力を使ってみた。
プラットホームの隅っこに座っていたため、前を見たままでもほとんど全員が視界に入っている。
ぼんやり浮かんできたのは薄い灰色で、プラットホームにいるほぼ全員を包み込んでいた。
(ざまぁみろ)
ごちゃ混ぜになった個性のない色に吐き捨て、そのまま空を見上げる。
屋根と屋根の間からは青しか見えなかったが、灰色と同じくらい薄い。
透き通るというのは言葉のあやで、ここにいる連中みたいに個性がない。
白い雲があって初めて空にも役割ができる。
白い雲を引き立てる、単なる脇役だ。
(ざまぁみろ)
空にも同じように吐き捨て、視線を降ろす。
すると不意に目の前が鮮やかな黄色に染まった。
見える色の中でも純粋な黄色は珍しく、今のところ亜依は一人しか知らない。
「加護ちゃんやない、どないしたの?」
「えっと……岡田ちゃん?」
点滅している目をそのままにして、色の感覚でとりあえず答える。
一呼吸すると色は消えて、かなり近くに元クラスメートの顔があった。
「なんかぼけっとしとったけど大丈夫?」
「……ぼけっとしてるのはいつものことやから」
「そういうと思った」
笑いながら岡田唯が自分の隣に座ってくる。
隅っこに座ったのが裏目に出たらしい。
逃げ出したくなったが、相手は常に自分を見ていて下手に動けない。
こういうときに限って電車がこないのが疎ましかった。
- 638 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:05
-
「で、今日はどないしたん?」
居心地が悪いのが言葉に出ないよう自制する。
ある一定の人間になると亜依が意識しないのに色が見えてしまう。
そういう人間達をピックアップしてみるとどうやら自己主張の強いらしく、どいつもこいつも色が濃い。
色を見ないようにするには姿を見ないようにすればいいため、亜依は顔を前に固定した。
「先輩と街までショッピング」
岡田の口から出てきた行き先は、運の悪いことに亜依と同じ駅。
そこから先は話をほとんど聞いていなかった。
空に浮かんでいる雲をずっと眺める。
しかしその雲は少し黒ずんでいた。
電車がきて、乗り込んでも岡田は相変わらずなにかを話しかけてきた。
生返事をしていることに気づいていないのか、はたまた気づいていてもかまわないのかわからない。
どちらにしろ亜依にはあまり重要な話ではなかったので、すぐに忘れた。
たかだか三十分ほどの時間を一日くらいに感じながら、亜依は目的の駅で降りる。
岡田が横にいてまだなにかを言っていたが、無視していた。
改札をくぐり、ようやくおさらばできるかと思ったのもつかの間、この期に及んで岡田は亜依に話しかけてきた。
「そうだ、写真を整理してたらね加護ちゃんが写ってたのもあったねん。焼き増しして送ったげる」
「うん、ありがと」
岡田から今の住所を聞かれ、まだ住所を覚えていなかった亜依は寮の名前だけを言って別れる。
空に白い雲が浮かんでいたので、それをずっと眺めながら帰った。
- 639 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:06
-
(そうやった、寮に戻っても一人やないんや……)
大切なことを思い出したのは、寮の入り口がいよいよ見えるというときだった。
二人一部屋が原則らしいこの寮で、亜依のパートナーは高橋だった。
もっともこれは高橋のほうから亜依に提案してきたことで、亜依も拒否しなかった。
高橋の心の色がグレーになっている原因を探ってみたかったし、高橋は学校での地位が高い。
たかが学校といっても地位が高い人間が近くにいればなにかと便利だし、用がすめば捨るだけだ。
鬱になりかけた気持ちをなんとか持ち上げながら玄関をくぐるが、嫌な人間と鉢合わせになってしまった。
そのとき無表情でいられたのは他人がいたからで、一人だけだったらつかみかかっていたかもしれない。
「マコ姉、さっさと歩くと!」
「ちょっと待ってよ、聞いてないって」
「昨日マコ兄には連絡したと。知らんとは言わせんけんね!」
「知らんもなにも、初耳だって言ってるじゃん」
「あっ、加護ちゃん。おかえり」
小川麻琴に怒鳴っているのは一昨日、喫茶店で見かけた人間だったが名前は知らない。
そんな二人の後ろにいた新垣に声をかけられ、亜依は小さく会釈をした。
どうやらこいつらはこれから出かけるらしい。
どたばたしている三人がうるさかったが、亜依は怒鳴ることはせずに靴を脱ぐ。
亜依が階段に差しかかるころには三人は外に出て行ったが、まだ声は尾を引いていた。
(このまま部屋に帰ってもすることないし……)
おそらく部屋には高橋がいるだろう。
なにかと話しかけてくるのが面倒なのを思い出した亜依は、階段を上らずにもう一度靴を履いて外へ出る。
三人の声はすぐ近くでしていたから、後を追うのは比較的楽そうだ。
(なにもせんよりかはずっとましやろ)
中身があるのは夜だけの守衛所を通り抜けると、新垣の背中が先の曲がり角に消えるのが見えた。
尾行するのが仕事だというのは探偵は、もしかするとこんな気持ちかもしれない。
そんなことを思いながら亜依は小川麻琴、もとい、ターゲットの後を尾行することにした。
- 640 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:06
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 641 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:07
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今日のれいなはいつにも増して忙しいみたい。
目の前で『わー』とか『このやろうっ』とか叫んでるのを見れば誰でもわかる。
だけどわたしとしてはちょっとつまんない。
これが『にゃー』とか『うきー』とかならちょっとはおもしろいかな。
言ったらかなりきつくしばかれそうなので絶対に口にできなけど、心の中で思うだけならいいでしょ。
「なにぶつぶつ言うとるよ! ぼけっと突っ立ってないでさっさと掃除せんかいっ!」
「……うるさいなぁ」
今日のれいなはかなり怒りっぽくなってるけど、わたしだってぼけっとしてるわけじゃない。
久しぶりに力なんて使うから、感覚が取り戻せないだけ。
真琴だったらわたしよりも力を使う感覚に慣れてるんだけど、今はあいにくのところお昼寝中。
でもわたしだってできるはず。
前にやってたことを繰り返すだけなんだから。
ほら、見えてきた。
「てりゃっ」
ぽっかりと浮かんでいた残留思念の核に、わたしは持っていた借り物の竹刀を突き出す。
感触はしなかったけど竹刀が触れた瞬間、核と元になってるなにかの残留思念がきれいに消えた。
なんの残留思念なのかわからない今の状態ってのは、精神的にかなり楽だ。
「なに一つ潰したくらいでため息ついとうよ。まだたくさんおるけんね!」
「わかってるって」
慣れてきた感覚でれいなの周りを見てみると、うっすらと残留思念が浮いているのが見えた。
それと同じくらい核もぼんやりと浮かんでいる。
真琴と違って、わたしはかなり集中してもこれが限度。
わたし一人だとこれくらいの力しかない。
れいなは残留思念のど真ん中で、暴れまわっていた。
持っていたのはわたしの持ってる借り物の竹刀じゃなくて、氷の剣。
れいな特製のそれを両手に持ってるけど、右手の剣のほうが長くて左手の剣の倍くらいはある。
曰く、『これが一番使いやすいと』ってことらしい。
- 642 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:07
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ここはれいなが通っているF中の体育館の裏。
使われなくなった焼却場があるスペースなんだけど、れいなやわたしにとってはまた別の意味があった。
残留思念が溜まりやすい場所らしく、残留思念は放っておくと混ざって別のものになる。
お父さんはこういう場所を『スポット』って言ってたけど、れいなにすれば気持ちのいいもんじゃないみたい。
れいなは定期的に溜まった残留思念を消してるみたいだけど、それを『掃除』って言っている。
「小川さん、またなにか考えてるんですか? れーなが怒りますよ?」
「……重さん、あんまり前に出てくると危ないよ」
「大丈夫ですって。それにれーなが疲れるころなんで、レスキューしないといけないですし」
「危ないから止めときなって。わたしがなんとかするから」
うーん、この二人って普段からけっこうスリリングなことやってるんだね。
危ない残留思念の中に飛び込んでいくれいなもれいなだけど、あっけらかんと助けるって言う重さんも重さん。
この際だから二人には止めさせたほうがいいのかな……
「マコ姉、手伝う気がないならとっととどっかに行くと!」
「また怒鳴られた」
「……」
後ろから里沙ちゃんがしてくる。
明らかに笑ってるんだけど、わたしはなにも言い返さずに前だけを見すえた。
集中力がとぎれたせいで、また核が見えなくなったからだ。
今度は五回深呼吸する間に見えてきて、前よりも少しだけくっきりしている。
せっかくの集中力をなくさないように努力して、わたしも外側かられいなに加勢することにした。
- 643 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:08
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しばらくはわたしもれいなも残留思念を消すことだけに集中していた。
こういうときは重さんも里沙ちゃんも口をはさんでこないから助かる。
れいながときどき叫ぶけど、そういうときはたいていわたしが助けてるから大事にはなっていない。
こうやって残留思念の核をじっと見てると、だんだん変な気持ちになってくる。
ここにたしかにいるんだけど、もうここにはいてはいけない存在なんだってよくわかる。
浮かんでる核には生きてるって感じがしないし、自分ってものがなくなってる。
れいなの核ははっきり見えてきたのに、周りの残留思念の核はやっぱりぼんやりしたまま。
こういうところが生きてる人間と、それ以外の違いなのかもしれない。
十分くらいで残留思念はいなくなり、ようやくれいなも静かになった。
よっぽど疲れているのか、れいなは立ったまま肩を大きく上下させている。
「れーな、おつかれ〜」
重さんがペットボトルを持ってれいなのところへ走っていく。
用意がいいっていうか、慣れてる感がちょっと怖い。
「れいなさ、こういうのってやっぱ危ないでしょ? お父さんにはちゃんと説明した?」
「……親父がくると、よけい危なくなるけん、止めたっちゃ」
お茶を飲みながられいなが指を差す。
その先には体育館の壁があった。
「あれ? ここって田中っちが前に壊したとこでしょ?」
里沙ちゃんが壁の一部に触れる。
他の部分は少し黒くなってるのに、その部分だけ白い。
よく見てみると他にもところどころ色の違ってる部分があった。
「親父って残留思念が嫌いなんかよくわからんっちゃけど、見たらやたらと暴れると」
「暴れて壁に穴でも開けてるの?」
「穴ですめばええけど、下手すれば体育館がなくなると」
「つれてきたら危険になる父親ってのも怖いね」
「……」
後ろの里沙ちゃんから言われ、わたしとれいなは同時にため息を吐いた。
- 644 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:09
-
「マコ姉、師匠からもらったペンダントってなしたと?」
れいながわたしの変化に気づいたのは、学校を出る直前だった。
わたしと里沙ちゃんは自転車を押してるんだけど、れいなはそんなわたしをずっと観察していたらしく、ようやく気づいてくれた。
普段から服の中に入れてるってのもわかりにくい原因の一つなんだけど、首元を見てわかったらしい。
「なしたって、今は中澤さんのところに返してあるよ。ナイフといっしょにね」
「なして返したと?」
「……なしてって聞かれると困るけど、心境の変化ってのが一番の理由かな」
「心境の変化ってなんかあったと?」
「うーん……」
正面に回り込んできたれいなから見上げられて、答えに困る。
心境の変化っていうよりかは、最近になって見るようになった別の『私』が原因だから、話してわかってもらえないと思う。
わたしでも真琴でもない、最初にいたもう一人の『私』は、核を見る能力を一番うまく使っていた。
ものすごく集中しないと見えないわたしや熱くなったときだけにしか見えない真琴とは違って、彼女はいつでも、どこにいても見ることができた。
しかもそこにいる人間の核を見ないようにして、強制的にこの世界から消してしまうなんて離れ業なんか使っていた。
実際、平家みちよって人はそれで消えちゃったし、『私』がいなくなっても元に戻ってこない。
わたし達は核をそこにあるものとして見てるけど、考え方を変えただけで核ごと消してしまう『私』が怖かった。
- 645 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:09
-
「力を使うのが怖くなったんだ」
出てきた言葉はけっこうシンプルだったけど、れいなにはうまく伝わらなかったみたい。
首をかしげているれいなにどう説明しようか悩んで、慎重に言葉を選ぶ。
「核が見えてさわれるってことは、相手の心の中に土足でふみ込むようなものだと思うの。人間だったら誰にも見せたくない一面ってあるだろうけど、核を通して全部わかっちゃう。それっていけないことだと思うんだ」
「でも、元から見えるんじゃなかったと?」
「見えたことは見えたけど、はっきりとは見えなかった。そういう状態で核をさわっても、全部はわかんなかった。わかるようになったのは、中澤さんがくれたペンダントで力が強化されてたからなんだ」
「マコ姉、それは違う」
前にいるれいなの表情が変わって話に割り込んでくる。
中澤さんのことが出てくると、とたんに真剣になるのがすごいと思う。
中澤さんの弟子(っていうのが正しいのかわかんないけど……)は、れいなだけってことだ。
「師匠の道具は力を強化するんじゃなくて、方向づけるためのものっちゃ。どこにでも散ろうとする力を前だけに固定して、安定させる。師匠がしてくれたのはそれだけで、力自体は強化されたわけじゃなかと。それに力はちゃんと制御されんといけない。それを怖いって理由だけで放り出すのは間違っとうよ」
れいなは怒っているのか、口調がやけに尖っていた。
でもわたし達にはわたし達なりの考え方があるから、ここは引けない。
- 646 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:09
-
「人の心が勝手にわかるってことは反則だと思う。わたしはわたしの力だけでみんなの気持ちがわかりたい。だから力は使いたくないの」
れいなの力っていうのは『水をストック』するってやつで、ストックした水は自由に使える。
さっきの残留思念を消すときも、ストックした水を取り出して氷の剣を作ったわけ。
つまりれいなはちゃんと力の使い道を知ったってことになる。
使い道を知ったうえで、ちゃんと力を使ってる。
だけどわたし達の場合はそれとは逆になる。
使い道がわかったからこそ、使わないほうがいいって気づいた。
そこがれいなとわたし達の違ってる部分だ。
もしかするとこうした溝はこれから先も埋まらないかもしれない。
「ねえ、なんか難しい話をしてる途中で悪いんだけど、そろそろ移動しない? お腹減ってきちゃったんだけど」
ちょうどいいタイミングで里沙ちゃんが割り込んでくれて、この話は無事に終わることができた。
こういうときに里沙ちゃんがいてくれると助かる。
「これから二人はどこかに行くんですか?」
「もちろん、いつものところにピクニック。そのためにちゃんと自転車も二台借りてきたしね。しかも今日は安倍さん特製お弁当もあるんだ」
「さっき中見ましたけど、ごく普通の、一般的なサンドイッチですよね」
「それは言わない約束。重さんは作れないでしょ?」
「そういう新垣さんだって作ってないじゃないですか」
「おいしく作ってくれる人がいるんだもん。おまかせしちゃうのは当然だって」
里沙ちゃんと重さんが話してると、いつの間にかれいなからは真剣な気配が消えていた。
スイッチが入るのはいいけど、すぐに切り替わってくれるからけっこう楽だ。
門を出たところでれいなと重さんの二人と別れて、里沙ちゃんといつもの岬へ向かう。
気が少し重たくなってたけど、すぐに元に戻りそうだったのが救いだった。
- 647 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:10
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――――――――――
- 648 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:10
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尾行するというのは初めてだったが、ターゲットはやたらと遅かったので比較的楽だった。
しかもうるさいというのもあったため、適度に距離をおいた。
そのおかげでうまいこと気づかれることなく、尾行することができた。
ターゲットが向かったのはどこかの学校らしいが、亜依は名前を知らない。
そこへ入っていったターゲットだったが、そこへはすぐに入らなかった。
尾行する際に観察した色の気配をたどり、三人がどこへ行くのかを探る。
おおよその場所を特定した後は、気づかれないような場所を確保するために少しばかり走り回った。
亜依が陣取ったのは学校のグラウンド沿いにある堤防の上だった。
そこからだとターゲットがよく見えるが、逆にこちらも見つかりやすくなってしまう。
そのせいでうかつに近づくことができなかった。
が、近づかなかったほうがよかったらしい。
「なんやのあれ」
なにやら話していたターゲット達だったが、やがてその辺りが真っ黒な塊で覆われてしまった。
ターゲット達はそれを消すのが目的なのか、時間が経つごとに塊が減っていく。
その過程を亜依は見ていなかった。
「……気持ちわる」
使っていた能力を無理やり閉じ込め、座り込む。
しかし自分の能力は余韻を残していて、黒い残像が目の奥に残っていた。
生きている心地のしなかった残像に吐き気がして、目を閉じる。
深呼吸を何度もして気を落ち着かせるのに、しばらく時間が必要だった。
- 649 名前:逃避、そして虚無へ1 投稿日:2006/03/01(水) 13:11
-
次に目を開けて立ち上がってみると、すでにターゲット達はいなくなっていた。
けっきょくなにをしにきたのかよくわからないまま、亜依はその場から動かずうつむく。
(で、うちはどうすればいい?)
必死に考えてみるが、案が浮かばない。
それ以前に自分がどうしたいのかがわからなかった。
「なにやらお困りのようだね。私だったら君を助けてあげられるよ」
「は?」
一人しかいないはずなのに、どこからともなく声がしてくる。
前を見てみても海しかなく、人の気配はしない。
直後、目の前になにかが振ってきた。
あまりの至近距離のせいで座ったままでもめまいがして、一瞬だけ気が遠くなる。
一呼吸で視界が元に戻るが、そこには別の人間が立っていた。
「君は今、親友の仇が目の前にいてもどうすればいいのかわからない。でもね、答えは簡単なんだ。親友が消されたんだったら、君が仇を消せばいい。そう思わない?」
「……あんた誰?」
唐突に目の前に出てきたそいつは、なぜか自分のことを知っているらしい。
心の中を見透かされたような気がして再び気持ちの悪くなった亜依は、こわばったままの声で聞いてみる。
「私は藤本美貴。君の言う『あの女』に最初に会って、能力を受け継いだ。つまり、君の同胞ってわけ。なにも知らない君のために一から手取り足取り教えてあげる」
(……うさんくさいやっちゃな)
勝ち誇った感じで言ってくる藤本美貴に対する、亜依の第一印象はそんなものだった。
- 650 名前:いちは 投稿日:2006/03/01(水) 13:22
- 更新しました
>>630 通りすがりの者さん
間違いを指摘してくださってありがとうございます
あの人に関してはこの後もかなり波乱を呼んでもらうつもりです
次回は「逃避、そして虚無へ2」になります
それでは
- 651 名前:逃避、そして虚無へ 投稿日:2006/05/03(水) 17:42
-
逃避、そして虚無へ2
- 652 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:43
-
深夜の住宅街はひっそりと静まり返っていた。
目を閉じていれば周りが消えて、自分だけになる。
このまま放っておいたら自分も消えてしまいそうだ……
「……ってうっかり寝るところだった」
危うく眠りそうだった藤本美貴は慌てて飛び起きた。
座っていた古ぼけたソファがぎしりときしむが気にしない。
どうせ壊れたところで困る人間が皆無だったから。
「中澤裕子のアジトだってわりには本当にものがおいてないな」
つぶやいた美貴は薄暗い部屋を見回す。
目立った調度品といえばさきほどまで座っていたソファと窓際にあるデスクだけ。
吸収した稲葉貴子の情報を頼りにやってきたが、このままだと無駄足になるかもしれない。
デスクの上には小川麻琴・真琴のものだろう、ペンダントとナイフがおいてあるが、彼女は無視していた。
「オリジナルのくせに力を使わないなんてふざけてるな」
苛立ちをそのままに吐き捨て、なんとか落ち着きを取り戻す。
四月目前のわりにはやけに寒い部屋の空気が、ちょうどいい具合に頭を冷やしてくれた。
「丸腰同然のあいつらを吸収しても意味がない。というわけで加護ちゃんには噛ませ犬になってもらおうか」
ひとりごちて美貴は静かに笑う。
窓越しに自身の姿が映るが、彼女の胸の辺りに浮かんでいる核は歪んでいた。
彼女自身の核だけではなく、そこには別の人間の核もある。
力を吸収するとはつまり、別の人間の核を自分の核にくっつけて無理やり制御することだ。
これまでに美貴は辻希美に柴田あゆみ、アヤカ・エーデルシュタイン、稲葉貴子の核を吸収している。
本当なら加護亜依の力も吸収したいところだが、まだそれをしていなかった。
『核を吸収する能力』は吸収した核を制御するだけで、力をそれ以上発展させられないというデメリットがある。
亜依の力が『他人の心の色を見る能力』だけなら使い道はない。
後になって進化した柴田あゆみの例があるのを考えて、彼女はしばらく様子見を決め込んでいた。
- 653 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:43
-
気を取り直した美貴は一階の探索をすることにした。
ここへ来た目的は、中澤裕子が残した奇術に関する道具を探すこと。
彼女には無用なものだが、無力だと思いこんでいる亜依ならきっと使うことになるだろう。
亜依は彼女のことを信用していないが、彼女もそれは同じ。
自分の代わりになりそうだから使うだけだ。
一階も二階と同様、平均的な一軒家の間取りだった。
気になったのは、人が一人生活するにはあまりに物がなさすぎるということ。
無趣味というよりも、別のところに理由があるのかもしれない。
そして台所へ入った美貴は、そこに違和感があるので立ち止まった。
「この感じ……奇術?」
つぶやき、それまで解放していた核を見る力をさらに強く解放してみる。
違和感の元はなんの変哲もない単なる茶色い壁。
触れてみるとその元であろう、複雑な模様をした紙が浮かび上がってきた。
「隠し扉ってわけか。なかなか粋なことをしてくれるね」
紙を剥がしてみようとするが、壁と一体化したかのようにぴったりとくっついている。
貴子の情報を検索してみても、作成に関する情報はほとんど見当たらない。
それでも美貴は落ち込まずに、続けてアヤカの情報を検索することにした。
貴子の情報ではわからないことも、アヤカの情報を引き出せばある程度わかる。
それによると紙を張った壁は扉になっていて、そこから先に秘密の部屋があるらしい。
紙は鍵代わりになっていて、別の人間が開けられないようになっている。
しかし作りはかなり雑で、一回きりの使い捨てタイプのようだった。
作成者としてのアヤカにとって、裕子は赤ん坊程度の技術しか持ってなさそうだ。
- 654 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:44
-
「だからってこのまま放っておくわけにもいかないな」
壁から少し離れ、今度は柴田あゆみの力を解放する。
あゆみの本来の力は『自分の殻に閉じこもる能力』だが、それがどんなものなのかは吸収した美貴も知らなかった。
というよりどうでもよかった。
力に付随して得られた別の三つの力、それらのほうがずっと使い勝手がいい。
『猫』は人並み外れた機敏な動きを可能とさせ、『蛇』は両手に噛み砕くための牙を与えてくれる。
中澤裕子のアジトであるここに来るために『鳥』である翼が役に立ってくれた。
三つの中から今回は『蛇』の力だけを集中的に取り出す。
やろうと思えば三つの力を併用することもできるが、併用するだけ力が分散してしまう。
それに『蛇』が美貴の持っている力の中ではもっとも破壊力があった。
「開けられないんだったら根本から壊しちゃえばいいんだ、よっ!」
語尾と共に蛇と化した右手を美貴は壁へと突き出す。
もはや人間の手ではなくなり独自の意思を持った蛇は、彼女の意思と疎通して壁へと一直線へと伸びていく。
が、彼女の考えは甘かった。
その蛇が壁と張ってある紙に触れた直後、暗い室内が昼間のように明るくなる。
続けて蛇越しに伝わってきたショックに、彼女は成す術もなく吹き飛ばされてしまった。
「……いたた。なんだよあれ」
痺れる全身をなんとか起き上がらせ、壁をにらみつける。
壁は相変わらず茶色いが、紙がうっすらと光っていた。
『この手のタイプには相手を判別し、作成した人間以外が開けようとすれば危害を加えるものもある』
アヤカの情報を検索してそうした知識を引っ張り出したが、すでに後の祭りだった。
「これじゃ殴り損じゃないか」
苛立ちを吐き捨て、美貴は再び壁へと近づく。
触れるだけなら普通だが、無理に開けようとすれば抵抗してくる。
なんともやっかいだが、紙の核を壊してしまえば問題ない。
もっと楽なのは作成した本人に開けさせることだが、裕子はすでにこの世から消えていたからできない。
- 655 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:44
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核を消すことによって紙も消え、扉が開く。
ほかにも仕掛けがあるのかと思い警戒していたが、あっさりと開いてしまったため拍子抜けする。
扉の先には地下へと続く階段が続いていた。
「核を消すのってどこか地味なんだよね。加護ちゃんじゃないけど、もうちょっとぱっとしてればいいのに……」
ぼやいた美貴はさらに周囲に仕掛けがないかを確認してから階段を降りる。
地下にあった部屋は上よりもはるかに物が充実していた。
デスクの上にはデスクトップのパソコンがあるし、雑誌も何冊かおいてある。
その中に先ほど消した紙と同じものも紛れていた。
「ここは中澤裕子のプライベートルームってやつなのかな」
散らかったままの部屋からは当分の間、誰もきていないことが伝わってくる。
裕子のことを師だと仰いでいた田中れいなも、ここの存在を知らされていないのだろう。
そんなことを考えていたが、どうでもいいことだと思い直し、すぐに作業を開始することにした。
「さてと、奇術師の残したお宝でも漁ってみようか」
手始めに美貴はパソコンの電源を入れた。
直後にハードディスクが動き出し、低い音だけが周囲に響き渡る。
立ち上がる間、特にすることのなかった彼女は目を閉じて待つことにする。
ひんやりとした空気が彼女自身と似ていて、妙に心地よかった。
- 656 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:45
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――――――――――
- 657 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:45
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三月末日、特に予定のなかった亜依は高橋と共に喫茶『アターレ』に来ていた。
客は今のところ自分達だけだが、これが昼下がりだからなのか、普段からそうなのかわからない。
正面にいる高橋は亜依の些細な心配をよそに、店においてあるファッション雑誌をぱらぱらとめくっていた。
しかし数秒おきに視線がこちらへ向けられているので落ち着かない。
「明日から四月だっていうのに、相変わらず寒いね」
「そうですか? 先週に比べればずいぶんあったかくなったと思いますけど……」
「ほ、ほーやね、言われてみればあったかくなったね」
慌てて言い直してきた高橋に亜依はなにも言わず、すぐ脇にあった窓から空を見上げる。
十分近くこんな会話が続いているが、注文したはずのコーヒーはまだ来ていない。
それでもこのときは不思議と苛立つことはなかった。
空を見上げていると、流れている雲と同じように時間もあっというまに流れていくような感じがする。
白い雲が窓の外へ流れていくのを見届け、亜依は中へ視線を戻す。
高橋はまだ雑誌を見ていたが、いつのまにかコーヒーが目の前におかれていたので、とりあえずそれを飲んだ。
前に一度飲んだが、ここのコーヒーは相変わらず必要以上に濃い。
ブラックで飲んだのは最初の一口だけで、脇にあったスティックシュガーとミルクを入れる。
三本ほどシュガーを入れるとくどくなったが、それでも飲めるようになった。
「ねえかぁちゃん、ちょっといい?」
「……なんですか先輩」
高橋から呼ばれ、持っていたカップをソーサーにおく。
上目遣いにこちらを見てくる高橋の顔はどこか困惑しているように見えた。
「その先輩って言い方はやめてくれん? なんか落ち着かんからさ」
「でも先輩は先輩ですよね」
自分でも冷たいと思いながらも、亜依は真正面から高橋を見つめ返す。
一週間ほど同じ部屋になって気づいたが、高橋は真正面から見られるのにあまり慣れていない。
このときもすぐに視線を逸らして雑誌に落ちたが、意識はやはりこちらへ向けられたままだった。
- 658 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:46
-
途切れ途切れの会話に退屈になった亜依は、今度は店の中へ注意を向けてみる。
少し離れたテーブルには自分と同じくらい小さな店員の矢口真里がいて、念入りに拭いていた。
顔を上げた彼女と目が合い笑いかけられるが、亜依は無視してカウンターを見る。
そこでは寡黙なマスターがやたらと大きな器を磨いていた。
「ここっていつもこんなに静かなんですか?」
店員がヒマそうに見えたので、退屈紛れのつもりで高橋に聞いてみる。
すると高橋は弾かれたように顔をあげ、こちらを凝視してきた。
亜依もどちらかといえば見られるのにあまり慣れていなかったので、このときは静かに耐える。
じっと見返せば高橋はすぐに視線を逸らすはずだ。
「おるメンバーによるけど、ここってだいたいこんな感じやね」
「限られたお客さんだけで経営って成り立つんですか?」
普段は一言二言で終わってしまう会話をできるだけ続かせるよう努力してみる。
聞きたくもなかったことを長引かせるのは意外とおっくうだが、高橋は気づくことなく会話を続けてくれた。
「経営がどうなってるのかあーしは知らんけど、強力なパトロンがおるのはたしかやよ」
「パトロン……?」
聞き慣れない単語を頭の中で調べてみるが、いまいち意味がわからない。
途切れてしまった会話にどこか気まずさを覚え、亜依は視線を泳がせる。
その先にはあまり動かないマスターがいたが、その後ろからもう一人、別の誰かが出てきた。
「あれがここのパトロンだよ」
自分の視線に気づいたのか、高橋が振り返ってそう言う。
出てきたのはごく平凡そうに見える、単なる女だった。
彼女はマスターとなにやら会話をし、首だけを回してこちらを見てくる。
それからゆっくりした足どりでやってきた。
- 659 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:46
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「飯田さん、おはようございます」
「おはよう、ところで今、私の話をしてなかった?」
「してましたよ。飯田さんは強力なパトロンやって」
「パトロンってまた変な言い方ね。私は単なるオーナーよ」
高橋が飯田と呼ばれる彼女とやりとりをしているが、その間、亜依はじっと彼女のことだけを見ていた。
といっても見ていたのは顔ではなく胸の辺り、彼女の色を見ることだけに集中していた。
(こいつは青、また原色の人間か)
空の青とまったく違う青から、冷静沈着という感じを受ける。
事実、飯田の話し方を見ているとそういう感じが似合いそうだった。
高橋が席を一つずれ、飯田が座ってくる。
すぐにやってきた矢口に簡単な注文をすませこちらを見てくるが、どこか怖い感じがした。
「前にここへ来たとき私は見てたんだけど、覚えてる?」
「いえ、全然」
「じゃあ初めましてでいいわね。私は飯田圭織、ここの二階で占い師をしているの。興味があったら来てみて」
「……はぁ」
「まあ、信じてない人にはいまいち理解されないんだけどね」
占いには興味がなかったし、彼女みたいに怖そうな人間には占ってほしくない。
心の中でそう思った亜依だが、どうやら彼女には伝わってしまったらしい。
苦笑した彼女に少しだけ苛立った亜依は、くどくなったコーヒーを飲んでその場をごまかした。
「でも飯田さんの占いってけっこう当たりますよね。過去のこととか未来のこととかずばずば言い当てるし」
「あれはたまたまよ。絶対的なものじゃないわ」
「今ってなんか見えてますか?」
「あなた達が見えてるわよ」
「そうじゃなくて、未来とか過去とか……とりあえずそんな感じのもんですよ」
「そうねぇ……」
高橋の言葉に少しだけ嫌そうな顔をした飯田だったが、断ることなく宙を見上げる。
まるでそこになにかあるようにも見えたが、亜依が見てもそこは単なる宙にすぎなかった。
- 660 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:47
-
飯田はしばらく宙を眺めていたが、やがて視線を降ろしてこちらを見てくる。
探るというよりもむしろ見透かされた感じのした亜依はとっさに色を消すが、うまく消えてくれなかった。
広がってしまった青が一時的に視界を埋め尽くす。
「……消えてしまったものを取り戻そうとしても無理だということはわかっている。同じように消すことしかできない。でも実行する前にちょっとは考えてみなさいよ。消されたことの意味と消すことの意味を」
濃い青の向こうから聞こえてきた言葉に、亜依は電気が走るのを感じる。
全身が一瞬のうちにこわばってしまい、動けなくなる。
二呼吸もすると濃い青は消えたが、その先の見透かしたような飯田の視線は同じようにそこにあった。
「なんですかそれ? さっぱりわからないですよ」
「そうね、世の中はわからないことばかりよ。ま、戯言だと思って聞き流して」
飯田は矢口の運んできたコーヒーを受け取り、ゆっくり飲む。
その間も視線は亜依のほうに固定されていて、居心地の悪くなった亜依は立ち上がっていた。
「かぁちゃん、どうしたん?」
「……すいません、ちょっと気分が悪くなりました。帰ります」
「ほやったらあーしも帰るわ」
高橋が慌てて残っていたコーヒーを飲み干して立ち上がる。
自分のカップにはまだ半分以上残っていたが、亜依は飲む気になれずそのままにしておく。
「そうだ言い忘れてた」
割り勘で会計をすませ店を出る直前、飯田に呼び止められる。
亜依はにらみつけるように飯田を見てみるが、あまり効果はなかった。
「これは二人への忠告よ。ルームメイトっていうのは近くて遠い存在よ。焦って結論を出さないことね」
「はぁ……ありがとうございます」
高橋が飯田に礼を言って頭を下げているが、言葉からしてあまりわかっていないような感じがする。
それよりも亜依は早くそこから逃げ出したかった。
飯田に本性を見られたかもしれない。
そんな危惧で亜依の頭の中は真っ白になっていた。
- 661 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:47
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 662 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:48
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「ひとみさん、助けてください!」
「絵里、危ないから動くんじゃない!」
「え、なに? どうしたの?」
裏庭へ回ってすぐに聞こえてきたのは、亀ちゃんの黄色い声と吉澤先輩の緊迫した声。
裏庭の真ん中辺りにいた先輩は安倍さんと真剣な顔をして対峙している。
なんだかよくわからない状況にあさ美ちゃんが困惑の声を出していたけど、それはわたしも同じ。
すぐ近くに里沙ちゃんがいたので、とりあえずわたし達はそこまで移動した。
「ねえ里沙ちゃん、あれってなに?」
「……なんに見える?」
真剣な三人を尻目になぜか笑いを堪えてる里沙ちゃん。
直後、先輩がかなりの勢いで安倍さんへ殴りかかっていった。
けど大きく振りかぶった先輩の拳は、安倍さんの顔のすぐ横を通り抜けてしまう。
ほぼ同時に安倍さんが先輩の胸の辺りに手をおいて軽く押すと、先輩は殴りかかったときと同じくらいの勢いで吹き飛んでいた。
「えっと……発情した先輩が見境なくなって安倍さんに襲いかかってる?」
「なるほど、そういう見方もあるか。そっちのほうがなんとなく正解っぽいよね」
「『っぽい』って言ってる段階で違うでしょ」
ぽんと手を叩いた里沙ちゃんに小さくつっこみ、改めて先輩達を見る。
吹き飛ばされた先輩は膝をついて安倍さんをにらみつけていた。
カッコいい感じがするけど、なぜか安倍さんの後ろにいる亀ちゃんは不満そうにしている。
「ひとみさん、さっきから同じじゃないですか。このままだと私、またさらわれちゃいますよ」
「絵里はちょっと黙ってて。私も必死なんだから!」
亀ちゃんにはいつも優しいはずの先輩から出てきたのは怒った声。
そのやりとりだと差し迫った感じがしているんだけど、やっぱり状況はよくわからなかった。
- 663 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:48
-
「けっきょくどうなってるの?」
「そうだった。あやうく忘れるとこだった」
そう言って里沙ちゃんがポケットからがさごそと茶封筒を取り出し、渡してくる。
茶封筒のあて先はこの寮で、宛名は先輩になっていた。
で、裏返して差出人の名前も確認してみる。
「この斉藤瞳って……」
「そう、前に会ったあの女の人だね。中も見てみなよ」
里沙ちゃんに促され、中に入っていた三つ折になった紙を取り出してみる。
そこには筆でなにか大きく書いてあったけど、わたしには読めなかった。
「ミミズの踊ってるような字ってなんて読むの?」
「『果たし状』だってさ」
「はぁ?」
さらりと言った里沙ちゃんに思わず変な声がもれる。
でも横にいたあさ美ちゃんもわたしと同じなのか、ぽかんと口を開けていた。
紙を開いて見てみるけど、やっぱり筆で書かれていたので読めない。
なんで封筒はボールペンなのに中身が筆なんだろ……
「内容なんだけど、吉澤さんの好きなときでいいから決着をつけましょうってことらしいんだよね。で、今の吉澤さんは斉藤さんに勝てないと悟り、安倍さんの特訓を受けるのであった」
「なんでナレーション口調? それに亀ちゃんが悲鳴上げてるのもいまいちわかんないし」
「吉澤さん曰く、『雰囲気が大切』ってことで、あのときの再現をしてるらしいよ」
「へえ……」
前に亀ちゃんが斉藤さんにさらわれるって事件があったけど、どうやらそれを真似てるらしい。
里沙ちゃんに言われ改めて見てみるけど、わたしにはやっぱりよくわからなかった。
「強くなるには逆境に打ち勝たなくちゃいけないんだって」
「そういうもんなの?」
「ま、傍から見る側にとったら下手なコントにしか見えないんだけどねぇ……」
里沙ちゃんがそこまで言ったときだった。
それまでわたし達のことなんて気づいてないって感じだった先輩が、首をぐるりとこっちへ向けてくる。
その顔は怒っていた。
- 664 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:49
-
「そこの外野! さっきからぼろくそに言いすぎだ! 発情とか下手なコントとか好き勝手言うな!」
「うわっ、聞こえてたんですか?」
「聞こえてたもなにも、あそこまで大声で言ってれば嫌でも聞こえてくるわ!」
顔を真っ赤にしながら先輩は怒ってるけど、安倍さんは苦笑いしていた。
安倍さんの後ろの亀ちゃんはため息を吐いている。
「よっちゃんさぁ、稽古っていってもなっちとだと相性が悪いって。もうやめにしない?」
「なに言ってるんですか。まだ始めたばかりですよ!」
さっきの真剣さが消え、今はどちらかといえばあんまり乗り気じゃない安倍さん。
それに対して先輩がすぐさま怒鳴り返す。
ちなみに今日の先輩は真っ赤なジャージの上下だった。
どうやら気合が入ってるってことらしいけど、どこか空回りしている感じがする。
「特訓するんならなっちじゃなくてもいいっしょ。戦うスタイルが似てるしひ〜ちゃんのほうがいいべ」
「あのクマ女とは決着をつけないといけないんです。その相手に師事なんてできません!」
かぶりを振った先輩が拳を二つ作って、再び安倍さんへ突進していく。
でもやっぱり安倍さんには当たらずに空ぶっていた。
先輩にとって斉藤さんは『クマ女』らしい。
「あ、愛ちゃん」
あさ美ちゃんの声で振り返ってみると、そこには愛ちゃんと加護さんの二人が立っていた。
お昼ごはんを食べてからすぐに出かけていったけど帰ってきたらしい。
「ただいま……ってなにやってるの?」
「なんだと思う?」
「えっと……発情した先輩が……」
「だから私は発情してない、いたって正常だ!」
愛ちゃんの言葉に割り込むようにして先輩がすかさず叫ぶ。
直後、前にいた安倍さんに足払いをかけられて転んでいた。
「特訓するんだったら注意を逸らしちゃいけないべよ」
飄々と安倍さんは言うけど、先輩はうつ伏せになったままなにも言わない。
というよりも言えなかったみたいだった。
- 665 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:49
-
里沙ちゃんがわたし達にしたように、愛ちゃんにも説明をする。
すると愛ちゃんは苦虫を潰したように顔をしかめた。
大変だったってのを思い出してるから当然なんだろう。
加護さんはそんな愛ちゃんの少し後ろで黙ったまま立っている。
「よっちゃんの悪いところって、殴るときに必要以上に力むってところかな。近づくまでのモーションは小さいのに、殴るときのモーションが大きくなるから相手にかわされやすくなる。気づいてた?」
「……そうですね、意識しないとできないのがすごく悔しいですよ」
淡々と言う安倍さんに向かって、先輩が地面から顔を引き剥がしながら立ち上がる。
満身創痍っていうのが全身からにじみ出ているような気がした。
でも土に汚れた赤のジャージのほうが先輩には似合ってるって感じがする。
そんなことを言ったら顔を真っ赤にして怒られそうだから、静かに二人のやりとりを見守ることにした。
「なんで今日は警棒を使わないの?」
「武器には頼らないって決めました。あのクマ女とは素手でやりたいですから」
「でも使い慣れた武器ってのは自分の一部だべ。それを使わないのは感心しないな」
「感心してもらわなくてもいいです。これが私ですから」
少しだけ顔をしかめる安倍さんに向かって先輩がきっぱりと言い返す。
すぐに殴りかかっていったけど、結果はさっきと同じだった。
言ってることは格好いいと思うけど、実を結ばないってのもどうなのかな……
「使わない武器って無駄ですよね」
後ろから聞こえてきた声に、思わず肩が飛び上がった。
ぼそりとしか聞こえてこなかったのに、ものすごく冷たく感じる。
振り返ってみると、そこに加護さんが立っていた。
無表情な顔の中にどこか冷めた印象を受ける。
「武器がないと相手を倒せないなら、素直に使えばいいじゃないですか。理想を抱えて実行できないんじゃまるっきり無駄ですよね」
「加護さん、それって違うと思うよ」
気がつくと勝手に言葉が出ていて、わたし自身驚く。
けど加護さんから刺すような視線を感じて、すぐさま頭を回転させた。
- 666 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:50
-
「先輩が必要としてるのは相手を倒すための力じゃなくて、自分と身近にいる人を守るための力じゃないかな」
「守る……ですか?」
「そう、先輩らしくあるための力、先輩の大切な人がその人であるための力だけを必要としてる。だから武器を手放したと思うよ。無駄とか無駄じゃないとか、そういう話じゃないと思うな」
ほとんど当てずっぽうに言ってるけど、きっと先輩ならそう思ってるはず……だといいけど。
加護さんはなにか言いたそうだったけど、けっきょくなにも言わなかった。
その代わりににらんできたので、気まずくなったわたしは先輩達のほうを見てごまかすことにする。
「そうだ、二人ともどうしたの?」
「ヒマなら遊びに行こうかって誘いにきたの」
タイミングよく話しかけてくれた里沙ちゃんにすかさず答える。
あやうく最初の目的を忘れそうになってたけど、なんとか思い出せた。
「そうだね行こうか、いい加減飽きてきたし。愛ちゃん達はどこに行ってたの?」
「いつもんとこ。ちょうど誰もおらんかったし」
愛ちゃんが言いながら後ろにいる加護さんのほうを見る。
さっきまでにらんでいた彼女は無表情で小さく頷いていた。
「だったら私達もアターレでいいんじゃない? なんか暑っ苦しいのを見てたら小腹が空いちゃった」
「亀ちゃんはどうする?」
「ほっといていいじゃん。あの顔、悦に入るって感じがしない?」
「そうかな……なんかつまんないって顔してるような気もするけど……」
「気のせいだって」
とまあそんなわけで先輩達を放っておいてわたし達は出かけることにする。
愛ちゃん達はもう少し先輩達を見てから部屋に戻るってことにしたらしい。
加護さんとすれ違うとき、やっぱり視線が怖かったので、わたしは地面を見ながらやり過ごす。
- 667 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:50
-
そのときだった。
ぞくりとする感じがしてすぐさま振り返り、見上げる。
その視界の中でなにかがかすかに動いたような気がした。
「……柴田さん?」
つぶやいてからすぐにそれが違うことを思い出す。
だって柴田さんにはすでに力は残っていない。
あのときちゃんと全部消したはずだから……
(だけどおれもちゃんと感じたぞ)
「あんたも?」
頭の中から真琴の声がしてきて、思わずつぶやき返す。
どうやらわたしだけの思い違いってわけじゃないらしい。
感じたのは前に柴田さんが使っていた力。
だけどあのとき向かっていったときよりもずっと怖い感じがした。
なんだろあれ……
「まこっちゃん、どうしたの?」
「う、ううん、なんでもない」
遠くから呼ばれ、わたしは慌てて後を追う。
里沙ちゃんとあさ美ちゃんの二人はすでに外に出ていて、あれこれ話を始めていた。
まあ、あさ美ちゃんがなにも感じてないみたいだから大したことじゃないんだろう、きっと……
- 668 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:51
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――――――――――
- 669 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:51
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「先輩、用事を思い出したので出かけてきます」
小川達が出て行ってすぐ、亜依もまた寮を飛び出していた。
亜依に向けられて投げられた異様なプレッシャー。
それは藤本美貴のものだった。
近くにいた小川もなにか感じているようだったが、誰のものかまではわかっていないらしい。
亜依にしても前に感じたことがあったから思い出せただけのことだ。
異様なプレッシャーは駅前まで続き、行き着いたのはごく平凡な喫茶店。
その一番奥に藤本は陣取っていた。
踏ん反り返って座っている姿はどこか滑稽じみている。
そんな藤本の前に亜依は座るが、直前に気づかれないよう深呼吸をするのを忘れなかった。
「ちゃんときてくれたんだ。初めてのわりには上出来だったね」
「あんだけ露骨にされたら、アホでもわかるわ」
メニューを差し出してきた藤本に対し、亜依は無言で一番上にあったコーヒーを指差す。
藤本が店員を呼び、コーヒーを二つ注文した。
「で、どないしたん?」
注文したコーヒーがやってくるまで互いに無言だったが、痺れを切らした亜依から話を切り出す。
コーヒーの中へ角砂糖を三つほど落としていた藤本はなにも言わず、コーヒーの中へミルクを入れている。
じっくりとかき混ぜて飲んでいたが、亜依は砂糖の量を見て胸焼けしていた。
「君に最低限度の知識を身に着けてもらおうと思ってさ。今のままだとろくな使い物にならないからね」
「だったらはよして」
亜依はコーヒーをなにも入れないまま飲む。
初めて飲んだブラックは今の自分と藤本の関係くらい薄味だった。
「『あの女』は奇術師って言う、普通の人とは違う力ってのを持ってるんだ」
「……普通、『あの女』の名前とかから始めるんちゃう?」
「君にとって『あの女』の名前なんて大した問題じゃないでしょ?」
見透かされたような答えに亜依は舌打ちをする。
少しだけ笑っている藤本に苛立ちを覚えるが、口には出さなかった。
- 670 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:52
-
「奇術師っていうのは『破壊』、『使役』、『作成』の三つのタイプに分類される。だけど『あの女』はこれらのタイプとは少し違った。どのタイプにも分類されない力だったんだ。そして君を含めた数人がその力を受け継いだってわけ」
「その中にはあんたも含まれるんやろ?」
「そう、『あの女』から力を受け継いだのは全部で五人。私は最初に力を受け継いだ。力は『すべての根源である核を見る』ということ。これはね……」
そこまでで言葉を切った藤本がこちらに向かって笑いかけてくる。
もったいぶっているとしか思えなかった亜依は無言でにらみつけたが、藤本には通じなかった。
たっぷり時間をかけてコーヒーを飲み、こちらをじっと見てくる。
しかし視線は合わず、こちらの胸の辺りを見ているようだった。
「この力はね、小川麻琴と同じなんだ」
藤本の言葉に亜依は息を呑む。
希美を消した小川にはやはり尋常ではない力があった。
その事実が亜依の中に広がっていく。
「だけど私の力にはオプションがついててね、核を見るだけじゃなくて、吸収することもできるんだ」
「……わかった。もういい」
広がった事実は不安に変わり、表に出てくる。
藤本はまだ話したがっていたようだが、小さく息を吐いただけで話を先へ進めた。
- 671 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:53
-
「私達が受け継いだこの力なんだけど、奇術師の三つのタイプには分類することができない。私の力、辻ちゃんの『心を混ぜ合わせる力』、君の『心の色を見る力』、どれも不完全。他の人間の力も知ってるけど、それらも不完全。三つのタイプには分類できないんだ」
自分の能力のことを言われ思わず使いたくなったが、力いっぱい自制する。
学校にいるときと同じ要領で希美のことを考えながら、耳だけを藤本へと向ける。
藤本の後ろに窓があればまだ気持ちが楽になったが、茶色い壁だけだったのでよけい気が重たくなった。
「でも受け継いだ力には共通点がある。人間に限定してって条件があるけど、内面だけに焦点を当てる力だってこと。つまり『あの女』は直接的な力っていうのには興味がなかったってわけ。君はもう少し直接的な力が欲しかったみたいだけど、それは誰も受け継いでいない。だからあきらめることだね」
「そこまでわかった。なんで『あの女』はそんな力なんてうちらに与えた?」
「さぁ、そこまではわからないよ。『あの女』は消えちゃったからね。小川麻琴が消したんだ」
また小川の名前が出てきた。
しかも希美だけではなく『あの女』も消している。
自分の気に入らないものはなんでも消してしまう性格らしい。
「小川麻琴っていうのは私達と似た力を持ってるけど、それは生まれつきだった。しかもあいつは力の使い方を完全に把握してしまった。だから今の君だと敵わない。辻希美みたいに消されるのがオチだね」
「なあ、なんであんたはうちだけやなくて、のんのことまで知っとる?」
「そりゃ知ってるさ。ずっと見てきたんだからね。君達だけじゃなくて、奇術師に関連する人間達はある程度監視してきた。だから力がどういうものかってのはわかってるつもり」
「……ストーカー」
亜依の皮肉にも藤本の笑顔は崩れなかった。
- 672 名前:逃避、そして虚無へ2 投稿日:2006/05/03(水) 17:54
-
それからしばらくは藤本が一方的に奇術師とやらについて話してきて、亜依は聞き役に徹する。
話が飛躍しすぎているが、自分の能力と照らし合わせてみるとなんとなくわかるような気がする。
自分さえ納得できれば、それだけで十分だ。
「つまり従来の奇術師とは違う力を私達は与えられた。そこに私達の存在する意味があるんだと思う。私達だけの力がこの先どうなっていくのか。それを知るのは私達自身なんだ」
「別にうちはあんたとつるみたくはない。一人で十分や」
「それでいいと思うよ。これは私が一方的にやってるおせっかいだからさ」
「なら、あんたにいいことを教えてやるわ」
そこまで言って今度は亜依が言葉を止める。
それから今まで自制していた能力を解き放ち、目の前にいる藤本をにらみつける。
藤本からにじみ出てきたのは黒。
残留思念とは違い、漆黒と言ってもいいくらいだ。
「あんたはほんまに腹黒いやっちゃな。そんなやつは信用できんわ」
「へえ、そうなんだ。君からはそういうふうに見えるんだ。ま、それでもいいけどね」
自分の色について言われたのに、藤本の表情はまったく変わらなかった。
まるで知っているかの口ぶりに苛立った亜依は、なおも話を続けてくる藤本を無視して立ち上がる。
支払いをせずに店を出るが、藤本は呼び止めてこなかった。
帰りは地面を見ながら帰る。
空に浮かんでいる希美を見ると泣きそうだったから。
「力は使ってなんぼのもんやろ。使いもんにならん力は単なる無駄や」
小川の言葉を思い出し、我知らず吐き捨てている亜依。
能力について知ったのに、未だ自分は無力で無駄なまま。
それが一番歯痒かった。
- 673 名前:いちは 投稿日:2006/05/03(水) 17:57
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二ヶ月以上間を空けてすいません
更新しました
まだ序盤ということもあってほとんど進展ないです
次は「逃避、そして虚無へ3」になります
それでは
- 674 名前:逃避、そして虚無へ 投稿日:2006/05/10(水) 16:53
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逃避、そして虚無へ3
- 675 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 16:54
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亜依は体育の授業が一番苦手だった。
身体を動かすことが嫌いだったし、運動神経もかなり鈍い。
他の授業では人並み以上にできるのに、体育だけは人並み以下になってしまう。
努力しても埋まらない溝は放っておくに限る。
ただじっとして流れていくのを待つだけだ。
「あいぼん、やけに落ち込んでるみたいらけど、大丈夫?」
「……大丈夫。落ち込むのは慣れてるから」
隣で準備体操をしている希美に話しかけられるが、亜依はいつも以上に元気がなかった。
というのもその日の体育が長距離走だからだ。
今は男子がグラウンドをぐるぐる走っていて、女子はそれを傍から眺めている。
男子が終われば今度は女子に順番が回ってくる。
「体育の中でも長距離は特に嫌。じっとできんもん」
「じっとしてみたら? きっと先生に怒られるから」
「……なんかムカつくな」
言葉にしてみるが、言葉ほどムカついていない。
むしろ体育になると意気揚々となる希美が微笑ましく見えた。
「ねえ、なんでのんはそんなに運動神経がええの?」
「食後に毎回プロテイン飲んでるからじゃないかな?」
「うそっ、マジで?」
「うそ」
「……」
もう少しでプロテインに走りそうになった亜依は、希美が舌を出しているのを見てがっくりとうなだれた。
- 676 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 16:55
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「なあなあ、ちょっとええ?」
少し離れた場所で屈伸をしていた岡田唯がこちらへやってきた。
彼女だけがハチマキをしているのが気になるが、誰も追及していないので亜依もそれに習っている。
「こうやって二人が並んでるところを見ると、双子って感じがするなぁ」
「そうれすか?」
希美がうれしそうな声を上げているが、亜依はいまいちわからず希美を見る。
背丈はだいたい同じだし、髪も同じように二つのお団子になっている。
唯は外見だけでそう判断したらしいが、かなりの誤解が含まれていた。
希美といっしょにいるようになって、彼女の人となりがわかってきた。
希美は正直すぎる。
なにに対しても率直で、露骨に言葉に表れてしまう。
周囲がそれをときどき『わがまま』だと陰口を叩いていたが、亜依はそうだと思わなかった。
むしろその逆で、純粋だと思っていた。
自分は希美のように正直でもないし、純粋でもない。
他人の顔色はうかがうし、見えない空気だってある程度読める。
怒られないよう立ち回って、誰からもほめられるよう努力する。
怖いだけの父親にしつけられれば、誰もがこんな風になるだろう。
包み隠そうとしていない希美と自分はこんなにも違う。
- 677 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 16:55
-
唯はそれからもなにやら言っていたが、亜依は半分以上を聞き流していた。
希美がこと細かに唯に言い返していたし、その中に亜依の意見もちゃんと入っていたから。
阿吽の呼吸というのはこういうことを言うのかもしれない。
「ところでプロテインってムキムキになるんちゃうの? そのわりには辻ちゃんってムキムキやないよね?」
話がひとしきり終わったとき、唯が唐突に話を元に戻してきた。
視線は希美の胸の辺りへいっていたため、亜依も自然とそちらを見てしまう。
運動神経で負けていてもそこなら勝てそうだ。
「なんで二人そろって見てるんれすか!」
「あっ、いや、その……ところで岡田ちゃんはやけに大きいな。なんか詰めとるんやないの?」
「強引に逸らさないれくらさいよ!」
「まさか、自然と大きくなったんやって」
「怒ったのれす〜」
男子が終わり、今度は女子の番になる。
二十人ほどがスタートラインにたむろしていたが、亜依は一番後ろで控えめにしていた。
逆に希美は一番前で前のめりになっている。
直後に響いたピストルの音は、まるでそんな希美のためだけにあるような感じがした。
「いきなりダッシュー!」
「えぇ?」
先頭集団とか一切関係なく希美はどんどん先へ走っていく。
とろとろ走っている亜依からすぐに希美の背中が消える。
あのときなぜか不安になってしまい、亜依は動悸が激しくなるのを感じていた。
- 678 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 16:56
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- 679 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 16:56
-
(あんときってけっきょくのんは最初にゴールしたんやっけ?)
一年前と同じことをしていると、つい希美のことを思い出してしまう。
違うのは着ている体操服と走っている場所、それにそこにいる人間。
すべてが違うといえばそれきりだが、亜依としてはそれ以上の意味があった。
最後尾をマイペースで走りながら、注意は常に周囲へと向けている。
力を完全に解放してしまえば気持ち悪くなって走れないが、誰がどこにいるのかといった最小限度のことを把握するだけならまだマシだ。
把握している色の一部が自分の後ろに迫り、すぐに追い抜いていく。
すでに二回ほど抜かれている先頭集団だった。
同じ場所をぐるぐる回るのに飽きもせずに走っている。
その中には紺野あさ美の姿もあった。
二年生のクラスは前評判のとおりで、寮のメンバーが同じだった。
自分の反対側では小川麻琴が走っているが、なにやらつぶやいていた。
表情がころころ変わり、怒っているのか笑っているのかよくわからない。
小川麻琴にはもう一人、別の人間がいるらしいが、亜依はその説明を聞いてようやく納得できた。
小川の色を見ていて疑問に思ったこと。
それは一人なのに色が二つあったことだった。
一つの色はミカンのような色をしていて、別のは青紫をしている。
共通点がなさそうに見えるが、それらは同じ場所にあって混ざっていない。
初めて見たときからずっと抱いていた疑問は藤本の説明で解決できたが、状況は変わらない。
自分は未だ無力。
あの二つの色を消すことができない。
色を観察して、分析することしかできない。
- 680 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 16:57
-
クラスでは来週から始まるゴールデンウィークの話題で盛り上がっていたが、亜依は他人事のように眺めていた。
連休中に家へ帰っても誰もいない。
単身赴任している父親はもちろん帰ってこないし、母親も友人と長期旅行へ出かけてしまう。
あそこにいてもいなくてもなにも変わらない。
かと言ってここへ残っても高橋がずっと部屋にいる。
自分が連休中も残ると言ったときにはうれしそうな顔をしているが、色は相変わらずグレー。
高橋の本心がまったく見えてこないのが、まどろこっしい。
(しゃあない、連休中に落としとくか)
今は距離を置いて接しているため、馴れ馴れしくされてはいない。
今のままのほうが亜依としては都合がいいが、このままではどう使えばいいのかわからない。
どうせ高橋のことだから、こちらが適当に相づちを打っておけば勝手に落ちるだろう。
使いたいときだけ使って、必要ないときは無視しておけばいい。
リサイクルできる使い捨てカイロみたいなやつだ。
周囲を見てみると先頭集団がゴールしていた。
ゴールしたなら自分の分も走ればいいのに。
恨めしそうににらんでいたのに気づいた亜依は、慌てて顔をそむけようとする。
が、先頭集団の中にいないはずの顔を見つけて、思わず息を止めてしまった。
(のん?)
先頭集団の中に混じって、希美がなにかを話している。
そう見えた亜依が心の中でつぶやいたときには、すでに希美の姿は消えていた。
疲れすぎて幻覚でも見たのかと目をこすってみるが、まだそこまで消耗しきっていない。
その証拠に足は前に出るし、スピードを上げることもできる。
数分後、亜依も無事にゴールした。
すぐに希美の姿を探してみるが、やはりどこにも見当たらない。
気のせいかと思って空を仰いでみると、雲がぽつんと一つだけ浮いている。
それは今の自分みたいに孤独だった。
- 681 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 16:58
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 682 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 16:58
-
新学期早々、体育でマラソンをするのがうちの高校では毎年恒例らしい。
おかげで膝が笑ったまま、元に戻らない。
「まこっちゃん、なんか元気ないけどどうしたの?」
「里沙ちゃん、見ててわかんない?」
「体育でマラソンして、運動不足なのを改めて実感したって顔してるね」
「……ちゃんとわかってんじゃん」
昼休憩、集まった食堂で里沙ちゃんからそう言われ、わたしはため息を吐く。
食欲のなかったわたしは売店で焼きそばパンとコーヒー牛乳だけを買ったけど、食べれないかもしれない。
横でカツ丼を食べているあさ美ちゃんがものすごくたくましく見えた。
同じテーブルにはわたしと里沙ちゃん、あさ美ちゃんに亀ちゃん、それに愛ちゃんと加護さんもいっしょだった。
最近はこのメンバーで昼ごはんを食べることが多い。
「それってまこっちゃんがひ弱なだけじゃないの?」
「そうですね、なんか色が白いっていうか青白く見えますよ」
「亀ちゃん、それちょっとひどくない?」
「色の白い小川さんって好きですけど、青白いとキモいですね」
(おい、ちょっと替われ)
一方的に言われてかなりへこんだわたしの頭の中で、真琴の声が聞こえてくる。
かなりご立腹な感じがしてるから迷うけど、けっきょく交代する。
亀ちゃんにどう言うのか少し気になったから。
『なああさ美、今日から夕食後に走ることにしたからつき合ってくれ』
『うん、いいよ』
それだけを言って真琴はすぐさまわたしと入れ替わる。
青白いってところだけじゃなく、亀ちゃんについては一切触れなかった。
かなり自覚してるってことらしい。
- 683 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 16:59
-
食べてみると意外に焼きそばパンってボリュームがなかった。
追加であんぱんを買ってきたけど、あさ美ちゃんのカツ丼はまだ半分以上残っている。
いつものことなんだけど、あさ美ちゃんは昼休憩全部を使ってごはんを食べる。
一口一口に全力投球してるって感じだ。
わたしを含め、ほかのみんなはすでに食べ終わっておしゃべりタイムに入っていた。
「青白いって表現は不健康って感じがしますね」
「まだ言ってんの? わたしはもともと色が白いの。お日様に当たればすぐ元に戻るから」
「すぐ元に戻るって言ったら乾燥ワカメなんかもあるよね。あれと同じなんだ」
「里沙ちゃん、ワカメはお湯につけるんでしょ? それにものすごく増えるじゃん。ぜんぜん違うって」
「たしかにちょっとだけって思っててもいっぱいになるときってありますよねぇ」
「……二人とも、話がずれてる」
わけのわかんない方向へ行く里沙ちゃんと亀ちゃんに言ってみるけど、あんまり効果はなかった。
結論として、『まこっちゃんが十人に増えたらそれなりに大変だ』ってことで落ち着いたみたい。
ってなんだそりゃっ!
(悲しいな、言わずにノリつっこみしてると……)
(……はぁ)
案外冷静な真琴に言われ、ため息を吐く。
あさ美ちゃんのカツ丼はあと三分の一くらいまで減っていた。
休憩時間がまだ十分くらい残ってるから、なんとか食べ切れそうだ。
- 684 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 16:59
-
「そうだまこっちゃん、今日の放課後なんだけど予定ある?」
「特にないよ」
「だったらいつものところでお茶しようよ。どうせ寮に戻ってもヒマだからさ」
「うんいいよ」
「うっし、メンバーゲット」
小さくガッツポーズをした里沙ちゃんが、続けて横に座っている亀ちゃんに同じことを聞く。
「私ですか? ひとみさんのところに行くので、お茶には行けません」
そこまで言った亀ちゃんの顔がほんのりと赤くなる。
亀ちゃんは吉澤先輩の話をしているとたいていこうなる。
それに最近だと外出したまま帰ってこないってのも多くなっていた。
寮に入ってまだ一月も経ってないのに、かなり大胆。
「あんまり外泊ばっかしてると、温厚な安倍さんでも怒っちゃうよ。せめて晩ごはんまでには帰ってこないと」
「……努力します」
顔を赤くしたままの亀ちゃんからは説得力がまったくなかったけど、とりあえず話を打ち切る。
なんか話してもあまり意味がないような感じがしたから。
「あさ美ちゃんは来るでしょ? それで愛ちゃんはどうする? 来る?」
「ほーやね……」
黙々と食べ続けてるあさ美ちゃんがうなずくのを尻目に、里沙ちゃんが愛ちゃんに聞く。
少し前までなら即座に『行く』って言ってたんだけど、最近の愛ちゃんは少し変わっていた。
「……かぁちゃんはどうする?」
しばらく考えていた愛ちゃんが正面に座っている加護さんへ聞く。
最近の愛ちゃんはずっと加護さんといるし、どこにいても気を遣ってるってのがわかる。
過剰じゃないかって思うけど、なんとなく言いにくいから誰も指摘はしてない。
「宿題が出てるので遠慮しときます」
「ほやったらあーしも今日はやめとくわ」
今回も愛ちゃんは加護さんを優先させて遠慮してきた。
加護さんを見てみるとにらまれていたので、わたしは慌てて視線を逸らす。
なんか加護さんにはにらまれっぱなしでやりにくい。
しかもその後なぜか胸が痛くなっていた。
なんでそんなににらんでくるのか知りたいけど、怖くて聞けそうにないからひたすら我慢する。
きっといつかはなくなると思うんだけどね。
- 685 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 16:59
-
――――――――――
- 686 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 17:00
-
ようやくホームルームが終わり、放課後になる。
掃除当番だった亜依は廊下を掃きながら、誰にも気づかれないよう静かにため息を吐いた。
することはたくさんあるのに、やっても効果があるのかどうかわからなかった。
藤本からは常に使っていないと力は強力にならないと言われているが、色を見ているだけでかなりの負担になる。
教室にいるときも力を使っているが、個々の色を判別するにはかなり意識を集中しなければならない。
そのせいか最近は一日一日がやけに長く、重たく感じる。
昨日を引きずったまま今日がやってきて、今日を引きずったまま明日を迎える。
単調な繰り返しのはずなのに、亜依にとっては苦痛以外のなにものでもなかった。
(のん……)
口の中だけでつぶやき、亜依は先ほどのことを思い出す。
体育の時間、幻のようにほんの少しだけ見えた希美。
気のせいかと思ったが、その割にはやけにリアルすぎた。
自分が話しかければいつものように返してくれそうなくらいに……
持っていた箒が止まっていることに気づき、亜依は慌てて掃除を再開させる。
もう希美はこの世にはいない。
そのことだけを強く意識してみるが、いまいち現実味を帯びていなかった。
十分ほどで掃除を終わらせて、教室を出た。
部活をしている声が学校のあちこちから聞こえてくるが、無視して歩を進める。
この中にずっといたら気がおかしくなってしまいそうだ。
校舎から出た亜依はそこで意識を上に集中させて、色を探してみる。
藤本がいるとすれば上しかなかったからだ。
そのときは藤本の色を感じ取ることができず、安堵の息を吐いた。
この一週間に三回ほど藤本から呼び出しを受けたが、そのたびにわけのわからない話をされるのが面倒だった。
具体的にどうすればいいのかといったアドバイスは皆無で、行くたびに失望しているような気がする。
しかも部屋に高橋がいれば、出て行くための言い訳を毎回しなければならなかった。
藤本に頼ろうとしたのは間違えだったのかもしれない。
やはり自分の力を知るのは自分だけということだ。
- 687 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 17:00
-
高橋は校門のところで待っていた。
遠くから彼女のことを観察してみても、顔を伏せていたので表情が読み取れない。
近寄っても顔を上げることなく、地面を見つめたまま。
陰鬱な気持ちが津波になって押し寄せてきたが、亜依は抵抗せずに受け入れた。
「先輩、お待たせしました」
自分の言葉でうつむき加減だった高橋が顔を上げる。
控えめに笑っているが、そこから気持ちは読み取れない。
グレーの色をした彼女から、未だに気持ちらしい気持ちを読むことができていない。
複雑すぎて亜依の理解の範疇から外れているのだ。
なんで複雑なのかは、無駄なので考えたことがない。
「掃除当番だった?」
「はい、先に連絡しておけばよかったですね」
「ええよそれくらい。待つのには慣れてるから」
「……そうですか」
目で先に行くよううながされ、仕方なく亜依は歩き始める。
いつもは人の後ろにいるのに、高橋と二人だと前を歩かなければならない。
そのためどう話しかければいいのかわからなかった。
なにをどれくらい待っているのか気になるが、やはり今回も聞きそびれてしまいそうだ。
話らしい話をしないのが気まずく天を仰ぐが、薄い青空に気持ちがさらに重たくなる。
「ねえかぁちゃん」
「はい?」
高橋から声をかけられて振り向く。
一メートルほど離れた彼女からじっと見つめられ視線を合わせるかどうか迷うが、見つめ返す。
寂しそうに笑っている彼女の顔が、亜依の心の中に余韻を残していた。
「かぁちゃんってよく空を見とるよね。そこになにかあるっていうか……」
高橋が薄い青空を見上げる。
同じように見上げることができなかった亜依は、そのまま高橋を見たまま止まっていた。
なにかを探しているように目が動き、頭がわずかに揺れている。
同時にそれは嘆いているようにも見えた。
「……誰かがそこにいるって感じがするね」
顔を戻してから出てきた高橋の言葉に、思わず亜依は息を呑んだ。
的を射ていて、どう返せばいいのかわからない。
まさか観察していた相手から逆に観察されているとは思わなかった。
混乱した頭で言い訳を探していても、適当な言葉が見つからない。
- 688 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 17:01
-
「空には親友がいます。白い雲になって」
気がつくと口が勝手に動いて、言葉が出ていた。
亜依自身も驚くが、動き出した口はまるで別の生き物のようで、止まってくれなかった。
「前の高校にいたとき、彼女といっしょのクラスになりました。彼女はとても素直で、純粋でした。素直すぎるのとおっちょこちょいだったところが玉に瑕だったけど、好きでした」
言葉にしていてわかったが、亜依は希美のことをあまりにも知らなさすぎた。
性格を表すのに言葉が出てこない。
ほかにもたくさん言いたいのに、言葉が見つからなくてもどかしくなる。
亜依がしゃべっている間、高橋は黙ったままだった。
その後も亜依は思いつくままにしゃべったが、内容を覚えていない。
ただ支離滅裂で、感情的だったのが気の昂りからしてなんとなくわかった。
「うちみたいにひねくれてる人間にも、好きって言ってくれました。それまで他人からそんなこと言われなかったから、とてもうれしかったんです」
そこまで言い切り、亜依は乱れた呼吸を整えるべく全身で深呼吸をする。
疲れたという感想はあるが、不思議とそこに不快感はない。
重たく溜まった感情が少なくなって、身体が軽くなったような気がした。
いつの間にか伏せていた顔を上げると、目と鼻の先に高橋が立っていた。
逸らそうとしない視線を間近で受けて亜依は引こうとしたが、彼女が手を伸ばしてくるほうが若干早い。
その手は亜依の手を握ってくるが、このときの亜依は拒否せずに受け入れていた。
「ねえ、ちょっと寄り道していこっか」
近くで笑いかけられ、亜依は小さくうなずく。
希美以外の人間と手を繋ぐのは久しぶりだったが、高橋の手は希美と同じくらい温かい。
同時に亜依は自分の手が冷え切っていることにも気づいた。
- 689 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 17:01
-
高橋に連れられてやってきたのは、寮の近くにある公園だった。
終わりかけの桜が最後の花吹雪を舞わせていて、絶えず薄いピンクの花びらが宙に踊っている。
その光景を亜依は高橋と二人でベンチに座って眺めていた。
「どう? きれいでしょ?」
「……はい」
問いかけてきた高橋に答えてから、亜依は彼女を見る。
ところどころに花びらのついた彼女の横顔は、いつもよりも大人びている。
その横顔を眺めていると彼女がこちらを見てきて、小さく笑いかけてきた。
「初めて見たよ、かぁちゃんの呆けた顔。けっこうマヌケって感じがする」
「……マヌケじゃありません」
憮然としながら答えるが、苛立つことはなかった。
それ以前に指摘されるまで自分が呆けた顔をしていることに気づかず、亜依は一人で驚く。
笑った高橋は驚いたままの亜依から視線を外し、花吹雪を眺めながら言葉を続けてきた。
「ここってね、前のルームメイトだった松浦先輩に教えてもらったんだ。散り際の桜がきれいな場所だってね」
「……」
「そのとき言われたんだけどね……」
途中まで話した高橋が突然止まり、動かなくなる。
間近でそれを見ていた亜依はなにが起こったのかわからず、声をかけることもできずに見つめるしかなかった。
「……止めとこ、ここでする話じゃないから」
止まったままの高橋が搾るように声を出し、うなだれる。
が、それもほんの少しの間で、次の瞬間、なにかを振り切るように立ち上がっていた。
「それより今日はありがと、いろいろ話してくれて。少しだけかぁちゃんのことがわかったよ」
振り返ってきた高橋にそう言われ、亜依は思わず面食らう。
礼を言うのはこちらのはずなのに、先に言われてしまったためどう返せばいいのかわからない。
それでも直後に差し出されてきた彼女の手を、亜依は自然に取っていた。
- 690 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 17:02
-
「ねえ先輩、さっきなんで言うのを止めたんですか?」
寮までの帰り道、亜依は気になったことを聞いてみる。
横に並んだ高橋は困った顔をしていたが、亜依のほうを見てくるころには笑っていた。
「せっかくなのに雰囲気を壊したくなかったから。覚えてたらいつか話すよ」
「……わかりました」
「でね、あーしからかぁちゃんにお願いがあるんやけど、聞いてくれる?」
彼女から顔をのぞきこまれ、わずかにたじろぎながら亜依はうなずく。
「『先輩』ってのは止めてくれん? なんか慣れてなくてさ」
「でも先輩は先輩じゃないですか」
以前言われたことを亜依は以前と同じ答えで返すが、彼女は苦笑いか照れ笑いかよくわからない顔をしていた。
「じゃあ、なんて呼べばいいですか?」
「適当でええよ、『先輩』ってのを止めてくれれば。あと敬語も止めにしよう? 堅苦しいからさ」
しばらく考えてみるが、適当な呼び方が見つからない。
亜依は期待しているような顔をしている彼女に、少しだけ申し訳ないと思いながら言った。
「ベタだけど愛ちゃんでいい?」
「……ベタやけど、やっぱそれがええわ。変なので呼ばれたらどうしようかと冷や冷やしとった」
ほっとしたのか笑いかけてくる彼女に向かって、亜依も同じように笑いかけた。
まだ本当の自分を曝していないが、それでも少しだけ距離が縮まったような気がする。
そのとき不意に背後から特有の気配を感じた。
すぐに藤本からのものだと気づいたが、亜依は無視することを選んだ。。
(別にあっちの都合にあわせんでもええやろ、一度くらい)
もう少しだけ彼女といっしょにいたい。
その気持ちが伝わったのか、藤本の気配は少し経ってから溶けるようにして消えた。
- 691 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 17:02
-
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 692 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 17:03
-
相変わらず『アターレ』には人がいなかった。
店員の矢口さんは奥のほうで雑誌を見てたし、マスターはカウンターで使わないグラスを磨いている。
客席には飯田さんが座ってたけど、なにやら交信中だったのでわたしたちが挨拶しても反応がなかった。
窓際の席に座り、それぞれメニューを手に取る。
少し前から新メニューがいくつか増えたから、選ぶのにけっこう迷う。
「で、なにを注文するか決めた?」
「えっと……この前食べた白玉入りぜんざいがおいしかったから、それでいいや」
「まこっちゃんって意外とおばさんチックな注文するね、このパフェとか食べてみたら?」
「このDXTってやつ? 無理だって、二つ出てくるんでしょ?」
矢口さんから説明された内容を思い出し、げんなりしてくる。
なんで一人分なのに二つやってくるのかが、いまいちよくわからない。
前に里沙ちゃんが食べてたけど、けっきょく完食できなかった。
わたしと里沙ちゃんが話している間、あさ美ちゃんは黙ったままメニューをにらんでいた。
こういうときはたいてい集中していて、誰にしゃべりかけられても聞こえていない。
わたしたちは決まるまで待つしかなかった。
「ところで里沙ちゃんって、加護さんと話をしたことある?」
「入寮式ってやつ? の前に話しただけだけど、どうしたの?」
「どんな印象だった?」
「うーん……なんかクールって感じがしたかな。プリティークールってやつだね」
「なにそれ?」
「見た目がプリティーで中身がクールってこと」
「なんの捻りもないね」
そこまで言ったとき、あさ美ちゃんがおもむろに顔を上げる。
それからメニューを指差して言った。
「じゃあ私はこのあんかけスパの大盛りを」
「「それってごはんじゃん」」
わたしと里沙ちゃんからつっこまれ、あさ美ちゃんはまたうなり始める。
埒が明かないと思ったわたしは注文を変更して、コーヒーをあさ美ちゃんの分を合わせて二つ注文した。
ちなみに里沙ちゃんは新メニューのミニミニパフェを頼んでいた。
- 693 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 17:04
-
注文してから十分。
矢口さんがコーヒーとミニミニパフェを持ってきた。
パフェが小さく見えるけど、スペシャルパフェが大きすぎるから、きっと普通のサイズなんだろう。
「矢口さん、今日の飯田さんはどこと交信してるんですか?」
なにを思ったのか、里沙ちゃんが少し離れた場所にいる飯田さんを指差して聞く。
聞かれた矢口さんは苦笑いしていた。
「おいらにそんなこと聞かないでよ、わかるわけないじゃん」
「そりゃそうですけど……」
「だけど最近は特に交信時間が長いんだよね。ありゃ地球外生物と交信してるんだよ、きっと」
「……」
かなりひどいことをさらりと言っってくる矢口さんに、咳払いが割り込んでくる。
見るとマスターがグラスを磨く手を止めて、こちらを見ていた。
もちろん視線は矢口さんに固定されていて、お盆を抱えて矢口さんは慌てて戻っていった。
「飯田さんの友達には火星人とかいるのかな?」
「いや、そこは聞くところじゃないから」
なぜか興味津々なあさ美ちゃんに静かにつっこみ、わたしはコーヒーを啜る。
相変わらずここのコーヒーは濃かった。
「そうだよね、聞いたら長くなりそうだよね。聞かないでよあさ美ちゃん」
「わかってるってマメ」
「くぅ、マメって言うな」
『マメ』って言われた里沙ちゃんがうなってから、横のあさ美ちゃんをにらみつける。
最近、あさ美ちゃんはよく里沙ちゃんのことをそう呼んでいた。
最初に言い出したのは矢口さんで、『なんかマメっぽい顔してるから』ってのが理由だった。
あさ美ちゃんも矢口さんに習ってるらしい。
「そこっ! 笑うところじゃない!」
「えぇっ?」
怒ったままの里沙ちゃんがいきなりわたしを指差してきて、にらんでくる。
膨らんだ頬がかわいいと思ったけど、とても言えるような雰囲気じゃなかった。
「私のどこがマメっぽい? もしかしてこの眩いばかりのデコのことを言ってる?」
「ち、ちがうって、小顔だってことじゃない?」
「そうか、このデコか……」
それから里沙ちゃんはしきりにおでこを気にしていたけど、わたしはなにも言えなかった。
- 694 名前:逃避、そして虚無へ3 投稿日:2006/05/10(水) 17:05
-
「ねえあなたたち、ちょっといい?」
コーヒーとパフェがきてから三十分後、飯田さんがやってきた。
どうやら交信は終わったらしいけど……
「どうしたんですか? 顔が青いですよ」
あさ美ちゃんの言うとおり、飯田さんの顔は真っ青だった。
立っているのもやっとって感じがする。
わたしは空いていた隣の席を勧めてみたけど、それは断られた。
立ったままの飯田さんはわたし達ではなく、わたしだけを見てくる。
座っているのにめまいがして、変な気持ちになる。
のぞかれているような、見透かされているような、そんな感じがしてちょっとだけ嫌だった。
しばらく無言で見つめあっていたけど、やがて飯田さんが首を小さく横に振ってきた。
「やっぱりいいわ。それよりあなたたち、今は楽しい?」
「楽しくないと楽しいの二つにわけるんだったら、楽しいですよ」
「そう……ならいいわ」
飯田さんは少しだけ笑い、去って行った。
その背中はわたし達より大きいはずなのに、やけに小さく見えた。
「なんだったんだろうね?」
「……さあ」
パフェを食べながら首をかしげる里沙ちゃんにわたしは生返事をする。
間近で見た飯田さんの顔がなにかに苦しんでいるような気がして、胸の奥がちくりと痛んだ。
- 695 名前:いちは 投稿日:2006/05/10(水) 17:17
-
更新しました
次は「逃避、そして虚無へ4」になります
それでは
- 696 名前:通りすがりの者 投稿日:2006/05/15(月) 16:01
- 更新待ち詫びておりました。
お疲れ様です。
どうやら重大な事を悟ったようですね。
気になります。
次回更新待ってます。
- 697 名前:逃避、そして虚無へ 投稿日:2006/05/17(水) 16:08
-
逃避、そして虚無へ4
- 698 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:09
-
「あぁどうしよう……加護ちゃんに無視されちゃったよ」
今回初めて加護亜依の呼び出しに失敗した藤本美貴は一人、中澤裕子の私室で嘆いていた。
といっても彼女にしてみれば単なる独り言の延長線上でしかなく、言葉以上に落ち込んではいない。
その証拠に作業は捗っていた。
「調子に乗って脱線しすぎたからかな。反省反省っと」
週三回のペースで呼び出していたが、話していたのは美貴だけで亜依はほとんど無口だった。
不機嫌そうなのは傍から見てもわかったし、落ち込んでいるのもわかっていた。
無力な自分という状況がよほど堪えているらしい。
だがそれも昨日までの話だった。
「けっきょく愛ちゃんは邪魔者か。早いところ消しておけばよかったな」
せっかく亜依は独りで辻希美の仇を取ろうとしていたのに、そこに愛が割り込んでしまった。
他人の介入があれば成し遂げようとする気持ちが弱まってしまう。
それにいずれ情報が漏れてしまうだろう。
その意味では彼女には時間的な猶予はほとんどなかった。
なんとしても短期決戦に持ち込む必要がある。
「だけどようやく準備ができた。こいつらがあればなんとかなるでしょ」
中澤裕子の私物を漁り、使えそうなものを物色していたが、八割は失敗品だった。
残りの一割は興味のない道具であり、最後の一割だけがなんとか使い物になりそうだ。
その一割は今、彼女の手の中にある。
美貴が手にしていたのは少し大きめの紙。
紙は輪ゴムで束ねられ、三つに分けられていた。
上の一つを手に取り、下手なという表現がぴったりな模様を眺める。
が、彼女の知識ではどうにもならず、すぐさまアヤカの情報を呼び出す。
しかしアヤカの情報をかなり深くまで検索しても手元にある模様と一致するものはなく、美貴は眉をひそめた。
埒が明かないと思った彼女は別の束を見て、同じように情報を検索してみる。
すると同じように複雑な模様としか見えなかったものが、今度はすんなりと理解することができた。
- 699 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:10
-
「擬似空間……この下手さからするとせいぜい半径五メートル、持続時間は十分ってところか」
擬似空間とは元の空間とそっくりの空間を作り出すもので、効果が発生すると範囲内にいる人間は切り離された空間に取り残される。
裕子のように奇術師でも素人が作成すると効果は極めて限定的になるが、プロがそれなりに準備して作成するなら話は別になる。
実際、アヤカは過去に擬似空間の技術を織り込んだ建築物を一つ組み立てていた。
今の美貴でもやろうと思えばできるが、そんなお金はなかったし時間の無駄なので試していない。
輪ゴムを外して下の紙を見てみると、同じような模様をした紙が続いている。
しかし下へいくほど模様はきれいになり、そして整然と並んでいた。
秩序を守ることによって効果は向上し、時間も格段に延びる。
アヤカの情報からそう読み取った美貴は、それでも失笑してしまった。
「そうは言ってもしょせんは紙切れだからね。あんまり期待しないほうがいいか」
擬似空間の効果が付してある束をおき、次の束を手に取る。
それらには擬似空間のように複雑な模様はなく、直線が数本引いてあるだけだった。
「簡易結界、それも一度きりの使い捨て。あの宝石箱に入ってたやつの紙タイプってわけか」
美貴が見つけた道具の中で八割は使えない代物であり、一割はこうして多少なりとも使えそうだ。
残りの一割は興味のない道具であり、そこに先ほど見つけた宝石箱は分類されていた。
中は宝石の類が入っていたが、どれもイミテーションで安物しかなかった。
しかしよく見ると細かい模様のようなものが彫られていて、それが意味していたのが簡易結界だった。
ただし裕子のは壊すことで一定時間効果が発生するタイプで、使い勝手を考慮した結果、興味がなくなった。
簡易結界の束も下へいくほどまともになっていたが、それでも相手の攻撃を一度止められればいいというくらいの効果しかない。
いっそのこと破ろうかとも美貴は思ったが、最後の紙の意味が気になり、念のために持っておくことにした。
- 700 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:10
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「で、けっきょくこいつの意味がわかんないのか。どうしたもんかなぁ……」
二つの紙の束は比較的すんなりわかったのに、最初の一つだけがどうしてもわからない。
つまりアヤカも知らない効果が付してあるというわけだ。
しばらく思案していた美貴だったが、やることは一つしかなくため息を吐きながら部屋を出た。
「わかんないんだったら実際に使ってみればいいんだよね」
単純な答えに決して満足したわけではないが、実験台が自分しかいないのだからしかたがない。
そう割り切った美貴は殺風景な庭へ出て、まずは簡易結界の紙を一枚取り出した。
二の腕に近づけると服の上からぴたっとくっつき、はがれなくなる。
効果が発揮されれば自動的に消えるため、彼女は特に気にすることなく作業を続けた。
次に擬似空間の紙の束から、あまり効果の持続しそうにない一番上の紙を選ぶ。
それを置くと地面にぴたりと張りつき、剥がれなくなる。
直後、めまいに襲われるが、ほんの一呼吸で意識は元に戻り、彼女は元いた庭にそのまま立っていた。
ただしそこはすでに先ほどまで立っていた庭ではないはずだ。
「切り離した空間を擬似的に再構成し、再配置する、か」
アヤカの情報と照らし合わせた美貴は、自身の手を蛇にして近くにある塀目がけて伸ばす。
単なる塀ならば蛇の力で粉々になってしまうが、そのときの塀は蛇の力ではびくともしなかった。
「まだこの空間を壊すだけの力はないか。あるとすれば田中れいなの父親くらいか」
奇術師が擬似的に空間を作るのにはさまざまな理由があるが、やっかいなことには変わりない。
しかし田中れいなの父親にはこの擬似空間もほとんど無力に等しかった。
擬似空間の塊と言ってもいいアヤカの建物の中で暴れた田中仁志は、最終的にはその建物を破壊している。
あれほどの力があればどんな奇術師による擬似空間も打ち破れるだろう。
「あの一家はいずれ吸収しておかないといけないな」
ひとりごちた美貴は、本命である最後の紙の束を取り出す。
どこに配置すればいいのかわからず、擬似空間の紙と同じように地面に置いてみた。
- 701 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:11
-
息をひそめて待ってみるが、いっこうに異変は起きなかった。
しばらくじっとしていたが、やがて痺れを切らした美貴は剥がしてみようと試みる。
が、地面と一体化してしまった紙は彼女の言うことを聞いてくれなかった。
「なんだよこれ、失敗作?」
変化の起きない紙をにらみつけてみるが、何も起きない。
息を吐いた美貴は気を取り直して擬似空間の効果を調べることにする。
紙から離れるようにして歩いてみると、すぐに壁にぶつかった。
ただし彼女の歩いていた先にまだ庭が続いているはずだし、視覚的にもちゃんと続いている。
振り返って中心点を見てみるとまだ三メートルほどしか歩いていない。
「予想以上に使えないな」
隔離された空間の端に立ったままつぶやく。
そのときだった。
独りだけの空間に突如、別の何かが現れる。
核を見る力は常に使っているのに、現れる前兆は一切感じ取れなかった。
(なんで? 背後を取られることなんてないのに!)
湧き出てきた別の気配に慌てて振り返ってみるが、その眼前が突如赤く染まる。
続けてやってきた衝撃に全身を叩かれ、美貴は背後の何もない壁に叩きつけられた。
(何に攻撃された?)
明るい赤に視界を奪われているが、彼女は気力でなんとか立ち上がり、すぐさま核のある場所を探る。
突如発生した核は意味不明の紙を置いた場所にあるみたいだが、攻撃される意味がわからない。
焦りと苛立ちの混ざった彼女は無理やり目をこすって視界を取り戻す。
視界の隅に映った二の腕には、巻いたはずの紙がなくなっていた。
そして立っていたそれを見て息を呑む。
同時にそれまで不明だった紙の意味がわかってしまった。
「そうか、そういうことだったんだ」
出てきた声は震え、頬は引きつっていた。
そこに立っていたのは、すでに死んだはずの中澤裕子。
空ろな顔をした裕子は美貴の動揺を無視したまま右手をおもむろに持ち上げる。
直後、彼女の視界に鮮やかな赤が爆ぜた。
- 702 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:11
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 703 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:11
-
せっかくのゴールデンウィークだっていうのに、わたし達はものすごく寝不足だった。
というのも真琴があさ美ちゃんの誕生日プレゼントに悩んでいて、ほぼ毎日わたしもプレゼント選びにつき合わされたから。
真琴とあれこれ話したり、実際に街へ見に行ったりしたけど、前日の今日までまだ決まっていない。
「あんたさぁ、いい加減決めないと買いそびれるよ?」
『でもなんにすればいいのか悩むじゃないか』
いつもは即決即行動の真琴がこんなに優柔不断なのは、いつもわたしでも初めてのことだった。
わたしが悩んでるときはすぐにああしろとかこうしろとか言うのに、自分のことになるとつくづく悩むらしい。
そのことを面白半分に言ってみたら、ものすごい剣幕で怒鳴られた。
悪いのは真琴のほうだと思うけど、まぁ、どっちもどっちってやつなのかな……
外に出ている真琴は今、あさ美ちゃんのノートパソコンをかなり真剣に見つめていた。
で、見ていたのは通信販売のホームページ。
だけどそのホームページの内容は、わたし的にはかなりやばい感じがする。
「さ、さすがにあさ美ちゃんでもそんな服は着ないと思うよ?」
『そうか? 個人的にはかなり気に入ったんだけど……』
いつもと違ってやんわりと言ってくる真琴に思わずわたしは鳥肌が立つ。
真琴が見ていたのはやけに膨らんだスカートや、大きなフリルつきの、着るのがかなり恥ずかしそうな服を取り扱っているホームページ。
ゴールデンウィーク中、ずっと悩んでいたのが災いしたのか、真琴が変な趣味に目覚めてきてるのが怖かった。
油断していた真琴と素早く入れ替わったわたしはこれまた素早くホームページを閉じる。
それからパソコンをシャットダウンさせて立ち上がった。
(何やってるんだよ。まだ終わってないじゃないか)
「あのままだといくらやっても終わらないって」
急に入れ替わって怒ったのか、真琴がつっかかってくるけど、気にせず時計を見る。
もう朝の八時をすぎていた。
- 704 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:12
-
ゴールデンウィークになるとほとんど寮に人はいなくなった。
本当だったらわたし達も家に帰りたかったけど、お義母さんが単身赴任したお義父さんのところまで行っちゃったため、しかたなく残っている。
ほかにもこんな理由で数人が残っているだけだった。
「おう小川、今日はやけにゆっくりだな。寝坊か?」
「逆です、徹夜です」
食堂で声をかけてきた吉澤先輩に軽く手を振って答える。
先輩はゴールデンウィークになっても実家に帰らず、寮へ泊り込んでいた。
ここへいる間、ずっと安倍さんに特訓してもらっているらしいけど、ほとんど誰も取り合わなかった。
で、早起きをするとこうやって朝ごはんを作ってくれていた。
「安倍さんはどうしたんですか?」
「あぁ、安倍さんなら出かけたよ。なんでも飯田さんに呼ばれたとかで」
「そうですか」
カウンターでお盆を受け取って、席を探す。
人のいなかった食堂にはテレビの音だけがしていて、わたしはそのテレビの近くに座ることにした。
この時間帯はニュースしかやってないけど、何も見ないで食べるよりかはずっとまし。
一人で手を合わせて、小声でいただきますを言ってからわたしは朝ごはんを食べ始めた。
ここ数日の朝ごはんは普段と比べて静かだった。
しゃべる相手がいないといつもと同じ食事でも少し味気ない。
真琴に話しかけようにも部屋を出てからずっと無口になっていたので、どこか気が引けた。
もしかすると寝ているのかもしれない。
- 705 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:12
-
ごはんを半分くらい食べ終わったとき、先輩がわたしの横にやってきた。
同じようにお盆を持っているから、これから食べるらしい。
「絵里から聞いたんだけど、お前ら今日、出かけるんだよな?」
「出かけますよ。それがどうかしたんですか?」
里沙ちゃんが前に髪を切りに行くって言ってて、今日がその髪を切りに行く日だった。
わたしもそのことを知ったのは昨日で、美容院の都合で今日しか空いてなかったってのを電話で聞いた。
美容院は駅の近くにあるみたいで、その後、お昼ごはんでも食べようってことになったってわけ。
「私もヒマだからついてくよ。絵里もいっしょに」
「く、来るんですかぁ?」
「なんだよ、文句でもあるのかよ」
「別にないですけど……あさ美ちゃんのプレゼントでも買おうかなって思ってるんですよ」
もうあさ美ちゃんの誕生日が明日に迫ってるんだから、かなり焦る。
その証拠に寝てたらしい真琴が飛び起きていた。
「だったら好都合じゃないか。私達も手伝ってやるよ。なんかお前らのセンスはやばそうだからな。ほら、前に田中の誕生日プレゼントにパーティーグッズを買ってただろ? あれはかなりやばかったぞ」
「やばいって、あのときはたしか先輩があれを押しつけてきませんでしたっけ?」
「押しつけてきたって言っても普通は断るだろ。それに田中も怒ってたって聞いたしな」
「……あのときはさすがに死ぬかと思いましたよ」
「で、絵里が今日のことを田中と重さんにも話したみたいで、あの二人も来るってさ」
せっかく二人(本当は三人だけど)で選ぼうと思ってたのに、おまけが四人もついてくるなんて……
「そんなに嬉しそうな顔をするなよ」
笑顔の先輩に肩を叩かれたけど、痛いとしか感じなかった。
- 706 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:12
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少し憂鬱な気持ちになりながらごはんを食べ終え、食堂を出る。
それから部屋へ戻ろうとしたけど、その途中で愛ちゃんとばったり出会ってしまった。
「おはよう麻琴、なんか今日はゆっくりやね」
「そ、そうかな? いつもが早すぎるんだよ」
笑顔の愛ちゃんに言われ、どもりながら答える。
だけどどもった原因は、笑顔のほかにもあった。
「ねえ愛ちゃん、その顔……それに服ってどうしたの?」
「あぁ、これ? お人形さんみたいでかわいいやろ?」
本当に真っ白な顔をした愛ちゃんがわたしの近くでくるりと一回転する。
膨らんでいたスカートが当たってきたので、わたしは思わず一歩引いてしまった。
愛ちゃんが着ているのは紺の段々のフリルのついているスカートと、前にひもなのかリボンなのかよくわからないくらいごちゃごちゃしている、スカートと同じ色のカットソー。
そう、さっきまで真琴がホームページで見ていたのとほとんど変わらない衣装だ。
それが今、目の前にある。
(か、かわいい……のか?)
頭の中で真琴がぼそりとつぶやく。
思いっきり引いているって感じがしたけど、それはわたしも同じだった。
「愛ちゃんさ、そんな服、持ってたっけ?」
かわいいかどうかについては言わず、とりあえず疑問に思ったことを聞いてみる。
今まで愛ちゃんがこんな格好をしているのを見たことがなかった。
私服でスカートを履くにしても、たいていはロングの落ち着いた感じでまとめている。
でも今日の愛ちゃんからはそんなイメージが微塵も感じられなかった。
「これ? 昨日かぁちゃんに選んでもらったんよ」
「加護さんが?」
「そう、それにこのお化粧もかぁちゃんがしてくれたんよ」
愛ちゃんが自発的に選んだんじゃないのはわかったけど、選んだのが加護さんってのがこれまた驚きだった。
こんな格好をしてると、加護さんはどんな格好するんだろ……
普通の服だと釣り合いがとれないよ、きっと。
- 707 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:13
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「愛ちゃ〜ん。まだ?」
ちょうどそのとき、上から加護さんの声が聞こえてきた。
すぐ後にはその姿が見えたけど、わたしは大きくあとずさってしまう。
真琴にいたっては驚愕のあまり、固まっているのが気配でも伝わってきた。
加護さんの今日の格好は、五分丈のズボンにワンピースみたいな感じでまとまっている。
だけど単なるズボンとかワンピースとかとはかなり違っていた。
じゃらじゃら鎖のついたズボンはふとももの部分に布がなく、露出している。
ワンピースのお腹の部分にはリボンがなぜかくっついていた。
でも、一番気になったのが……
(く、黒い、黒いよこいつら……)
頭の中で真琴が半分泣いてる声で言ってくるけどまったくその通りだったため、わたしは何も言わなかった。
そう、今日の加護さんは全体的に黒かった。
ワンピースにはワンポイントなのか赤い十字架なんかの刺繍がしてあり、よりいっそうダークな感じがしている。
「ごめん、すぐに戻るわ」
加護さんに振り返った愛ちゃんだけど、わたし達みたいに驚くことなく、普通に話している。
加護さんと目が合うけど、ほんの一瞬だけだった。
すぐに愛ちゃんへと駆け寄り、くっつく。
加護さんが愛ちゃんにくっついている光景はよく見るようになったけど、このときは逆って感じがした。
「ねえ愛ちゃん、さっきからこの前髪だけど、ずっとはねたままなんだ。どうしたらいい?」
「じゃあ部屋に戻ろうか」
二人が寄り添ったままわたし達から背を向ける。
完全に省られたって感じがしたけど、このときだけはそれでよかったなって思った。
「おい小川」
後ろから声をかけられ振り向くと、そこに驚いた顔をした先輩が立っていた。
口をぱくぱく開け閉めしているのがなんとなくあさ美ちゃんに似ている。
「なんだ? あのパンクにゴスロリは?」
つぶやいた先輩にわたしは小さく首をかしげる。
そんな呆然としているわたし達を置いて、愛ちゃんと加護さんは部屋へ戻っていった。
- 708 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:13
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- 709 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:14
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ゴールデンウィーク中、亜依は愛と連れ立ってほぼ毎日どこかへ出かけていた。
歩いて行ける範囲には映画館とか百貨店くらいしかなく、前半ですでに遊びつくした。
そんなわけでここ数日は電車に乗って遠出をしていた。
ちなみに最終日である今日は動物園へ行くことになっている。
出かける一時間ほど前、身支度を整えていた亜依はどうしても前髪がはねていたのが気になり、外へ出ていた愛を探しに行った。
そのとき少しだけ見た小川の表情が亜依には痛快だった。
まず愛の格好に引いていたのか、しどろもどろになっているところへ亜依が割り込んでみると、全身を硬直させていた。
小気味よくて笑ってやりたいと思ったが、さして興味を示さないフリをして愛といっしょに部屋へ戻る。
後ろから視線を感じたが特にどうこう思わなかった。
部屋へ戻ると愛はすぐにストレートアイロンを持ってきて、座った亜依の前に屈みこんだ。
すぐに前髪の処理を始めてくれた愛を、亜依は至近距離で見上げる。
その顔は真剣で、数日前のように恥ずかしいといった表情は伺えなかった。
前髪が整い、今度は亜依が愛の前に屈みこむ。
その手にはヘッドドレスと帽子が握られていた。
どちらも黒を基調としているが、どちらをつけるのかで迷っている。
五分ほど迷った亜依は、ヘッドドレスを選んで頭へつけた。
「愛ちゃん、できたよ」
声をかけると、それまで目を閉じていた愛がゆっくりと瞼をあげ、亜依を見る。
単なる私服とは違い特別な格好をしていると、愛の色気が五倍くらい増したように思えた。
「おぉ〜、これもかわいいね」
鏡で自分の姿を見た愛が声を上げて喜んでいるのを見て、亜依はほっと息を吐く。
最初は乗り気ではなかった愛をその気にさせるのに、それなりに苦労していたからだ。
- 710 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:14
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寮を出るとき、小川達とばったり出会ってしまった。
愛がそこにいた二人(小川と吉澤)に駅までいっしょに行くことを提案していたが、二人の返事はどこか曖昧だった。
顔を見れば理由は一目瞭然で、自分達の格好に引いているのだ。
駅に近づけばそれなりに人も多くなり奇異の視線を浴びるが、亜依は特に気にすることなく、いつものように愛にくっついていた。
駅の改札で引きつった顔の二人に見送られて電車に乗る。
快速電車に乗ること一時間、昼前にはなんとか動物園に到着することができた。
ゴールデンウィーク最終日でも、その日は晴天だったため、動物園にはかなりの人がたむろしていた。
入場するのにも時間がかかってしまい、けっきょく三十分くらい並ぶはめになってしまった。
それでも亜依はその時間を長いと感じなかった。
無事中へ入ってから二人で適当に見て回るが、特に珍しい動物はいなかった。
強いて上げるとすれば、入場してからすぐにあったサル山が異様に大きかったくらいか。
その猿山のてっぺんにいたボスザルがなんとなく愛に似ているような気がしたが、それは言わないでおいた。
ゾウ、サイ、クマ、シカにトナカイ、それにフラミンゴ。
二時間くらいかけてゆっくり回った。
途中、『爬虫類館』というのがあったが、そこは素通りする。
亜依も愛も爬虫類が苦手だったから。
ライオンがいる近くに軽食の売店があり、そこで昼食にする。
すでに二時をすぎていたため、席は比較的楽に確保できた。
メニューはホットドックとドリンクしかないため、愛に座ってもらい亜依が買いに行く。
ホットドック二つとコーラ二つを注文するとすぐに出てきて、亜依はお盆を持ったまま引き返す。
席のすぐ横には雌のライオンが寝そべっていたが、陽気のせいなのかやたらと生あくびを繰り返していた。
- 711 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:14
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「ぽかぽか陽気で気持ちがええね」
ホットドックにかぶりつく亜依に対し、愛は小さくちぎってから口へ運んでいた。
服装と同じくらいおしとやかなのは意識しているからで、傍から見ていても違和感はない。
亜依は内心だけで、愛に着てもらってよかったと胸をなで下ろした。
実は希美にも一度だけ、愛と同じような服を着てもらったことがある。
そのとき今と同じように食事をしたが、希美は構わずにがっついていた。
それ以来、学校の外で希美と遊ぶとしても普通の服装にすることにしていた。
(……のんと比べてる?)
そこまで考えて亜依は愕然とする。
いつの間にか亜依は希美と愛を比べていた。
そして希美の割合が減っていることにも気づいてしまった。
少し前までなら絶えず希美を意識できていたのに、今では白い雲を見上げてもそこにはいなくなっていた。
上品に食べている愛を尻目に空を見上げてみるが、やはり雲は単なる雲でしかない。
愛と手を繋ぐようになってから、愛のことを愛と呼ぶようになってから、希美の姿は消えていた。
(それでも安心してる……)
胸中だけでつぶやき、見上げた空からテーブルへと視線を移す。
一月前まではたしかにあったはずの気持ちが、希美を消した小川を消したいという気持ちが今ではすっかりなくなっている。
小川のことは相変わらず嫌いだったが、寮にいても意外と話す機会がなかった。
すれ違っても軽く頭を下げる程度だし、そもそも住んでいる階が違うため、すれ違うこともほとんどない。
ゴールデンウィークにもなると食事時でも会うことがなかった。
唯一の例外が今日のほんの短時間の出来事くらいか。
「……ちゃん、かぁちゃん」
「えっ? 何?」
伏せていた顔を上げるとそこに愛が立っていて、両手にソフトクリームを持っていた。
そのうち一つを亜依へ差し出してくる。
「食後のデザート。食べよ?」
「う、うん」
少しだけ首をかしげた愛にどぎまぎしながら答え、亜依は受け取る。
しかし食べている間も、食べ終わった後も混乱した頭が正常に戻ることはなかった。
- 712 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:15
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考えなければずっとよかったのにと後悔してみるが、それも後の祭り。
駅で帰りの電車を待つ間、プラットホームから空を見上げてみると、白い雲が希美になっていた。
意識してしまったことで希美の姿も再び見えるようになったらしい。
よけいに混乱してしまいそうな亜依は雲を見ることをやめ、握っていた愛の手に力をこめる。
ちぐはぐなことをしているが、亜依自身、どうすればいいのかわからなかった。
「かぁちゃん、どうしたん? 顔が青いよ」
「……大丈夫。大丈夫だから」
心配そうな愛が言ってくるが、亜依は小声で繰り返すようにつぶやくだけで、それ以上話せない。
電車に乗っても希美の顔と愛の顔が目の前で絶えず交互に入れ替わっていて、めまいがした。
隣には愛がいるし、空には希美がいるはず。
それなのに目の前に出てきてしまうのは、亜依が二人のことを意識しているから。
狂ってしまったのかとも思い無理やり振り切ろうとするが、ずっと二つの顔はつきまとっている。
行きは短く感じた一時間が、帰りは半日、一日くらい長く感じてしまった。
電車を降りて寮まで歩いて帰る途中、それはやってきた。
上から降ってくるようなドス黒い感覚は藤本美貴で、今までで一番強い。
亜依に拒否する権利はないことを知らせていたが、亜依にとってはむしろ好都合だった。
「ねえ愛ちゃん、ちょっと用事があるから、先に帰ってて」
「ほやけど……」
「ごめん、お願い」
愛は自分の上目遣いに弱いということを亜依は知っていて、このときもしてみるが、いつもより効果は薄かった。
しばらくお互いに見つめあうが、亜依は視線を逸らさない。
逸らしてしまえば負けだと思ったからだ。
そして亜依の目論見どおり、勝つことができた。
「早く帰ってきてね」
心配そうな声の愛に小さく頷き、亜依は走り出す。
すると上にあった藤本の気配も移動していた。
いつの間にか追い越されているが、気にしない。
走っている亜依の心の中では唯一つ、ある決心がはっきりと出来上がっていた。
- 713 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:15
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 714 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:15
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『今どこにいる?』
昼前、里沙ちゃんからそういうメールがきて、わたしは、
『駅前のロータリーのとこ』
とだけ打って返信する。
すると、
『これからすぐ行く』
と返ってきた。
どうやらイメチェンは無事に終わったらしい。
これから里沙ちゃんが合流するってことをほかのみんなに伝えて、わたしは静かに端っこへ移動した。
というよりもれいなから少しでも離れたかったからだ。
先輩の言ってたことは本当で、途中から亀ちゃんに重さん、それにれいなも加わってきた。
誕生日に駄洒落みたいなプレゼントを買われた(っていうか買ったのはわたし達だけど……)れいなは、終始いきり立っていて、ものすごく怖い。
しかも性質の悪いことに、れいながつっかかってきても重さんやら亀ちゃんやらが止めにきてくれることはなかった。
「ま、日頃の行いが悪いからだろ」
「むっちゃいいじゃないですか、日頃の行い。どこが悪いんですか?」
至極当然って感じの先輩に思わず声を大きくして言い返すけど、すぐにれいなににらまれて口をつぐむ。
突き刺さるような視線はいつまでも痛い。
- 715 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:16
-
メールでやりとりをしてから五分、里沙ちゃんが商店街のほうからぱたぱたと走ってきた。
元気いっぱいなのは今までと同じなんだけど、違っていたのは髪が上だけじゃなくて、前も揺れてるってことだ。
『前髪を切る』って言ってたけど、本当に切ったらしい。
髪を降ろした姿なんてあんまり見てなかったから、ものすごく新鮮に見える。
「どう? ちゃんとイメチェンできてる?」
「大成功じゃん。ぱっと見、誰だかわかんなかったよ」
「うそだぁ、さすがにそれはないでしょ」
小さく飛び上がった里沙ちゃんに背中を叩かれ、わたしは咳き込む。
かなり強かったから。
叩いた里沙ちゃんは咳き込んでいるわたしを尻目に、近くにいた先輩へと笑顔で近づいていった。
「吉澤さん、どうですか? この前髪?」
「ん、かわいいかわいい」
極端に近づいた里沙ちゃんに先輩が鬱陶しそうに答えるけど、里沙ちゃんは笑顔のまま少し離れた重さんとれいな、それに亀ちゃんのところまで歩いていった。
どうやら気づいてないらしい。
その証拠にれいなが露骨に顔をしかめていたけど、里沙ちゃんは文句を言わなかった。
「で、これからどうする?」
やけにテンションの高い里沙ちゃんを見ながら、ぶっきらぼうに先輩が聞いてくる。
時計を見てみると十二時を少し過ぎていた。
「お昼ごはんを食べたいですけど人が多そうなんで、先にプレゼントを見に行ってもいいですか?」
「また見に行くの? さっきもずっと見てたのに?」
「見てただけで買ってません。明日はもう誕生日なんでよ?」
里沙ちゃんと合流するまで百貨店や商店街をうろついてはみたんだけど、真琴の気に入った物は見つからなかった。
それについてきたれいな達(これにはもちろん先輩も入る)がけっこううるさくて、それどころではなかった。
しかもれいなにいたってはちゃっかり自分の買い物をすませているんだから、抜け目がない。
今も里沙ちゃんに買ったばかりの派手目の服を広げて自慢していた。
- 716 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:16
-
ひとしきりれいなが服の自慢をした後、移動することになった。
だけど、どこで何を買えばいいのか、未だに結論が出てない。
真琴も迷っているのか、ほとんどしゃべりかけてこなかった。
「あさ美ちゃんのプレゼントってまだ買ってなかったの?」
「うん……迷いだすと決まらないっていうか、真琴が決めてくれないんだよね」
「それって昨日電話したときにも言ってたよね。まだなんだ」
「そう、お手上げ状態ってやつ?」
言ってから本当に両手を挙げてみる。
いつもならすぐに真琴がつっこんでくるけど、今回は無視された。
「だったら早いところすませちゃおうよ。そんなところで手なんて挙げてないでさ」
「う、うん」
先に歩き始めた里沙ちゃんに促され、とりあえずついていく。
後ろかられいな達もぞろぞろとついてきていた。
「で、今回はどんなコンセプトでプレゼントを選ぶの?」
「真琴が言うにはベタすぎず、それでいてあんまり色物じゃなくて、しかも値が張らないってことかな」
「かなりわがままだなぁ……」
そこまで言った里沙ちゃんがうなり始めて立ち止まる。
つられてわたしも止まるけど、他のみんなもいっしょになって止まっていた。
わたしはともかくとして、他のみんなはどこまでついてくるんだろ……
「ねえマコ姉、ちょっとええ?」
「えっ、何?」
いきなり声をかけられて振り向くと、目の前にれいなが立っていた。
だけどさっきまでみたいに怒ってはなく、真剣な顔をしている。
「最近、師匠のところに行った?」
「行ってないけど、どしたの?」
「昨日行ったけど、マコ姉達が置いてったナイフがなくなっとうよ」
言われてもわけがわからず、首をひねる。
中澤さんのところへ行ったのはずいぶん前で、ナイフを置いてからはもちろん行ってない。
「いや、マコ姉が知らんのやったら別によかと」
不満そうだったけどれいなはそれだけ言って少し後ろへ下がった。
なんだったんだろ……?
- 717 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:17
-
「そうだ、一つ思いついた」
れいなの言葉の意味を考えてると、里沙ちゃんからぽんと手を叩く音が聞こえた。
何か思いついたみたいで、叩いた手ですぐさまわたしの手を握ってくる。
突然のことなので、心の準備ができてなかったわたしは思わずあとずさりしそうになった。
「見てみたいのがあるから、ちょっとつきあってよ」
「も、もちろん」
大きく頷くと笑顔の里沙ちゃんが率先して歩き始める。
すぐ顔を逸らしてくれたからよかったけど、もうちょっと見られてたらきっと赤面してただろう。
そんなわたしの動揺を察したのか、先輩が音もなくわたしの横にやってきた。
「小川、まだ慣れてないのか?」
にやにやした先輩に言い返そうとしたけど、先輩はちゃっかり亀ちゃんと手を繋いでいて言葉に詰まる。
亀ちゃんの顔はもちろん赤い。
その亀ちゃんを横目で見ながら、ぼそっとだけつけ足しておいた。
「慣れてるのは先輩だけですから」
言うと先輩は小さく笑っていた。
里沙ちゃんにつれられて行ったのは、商店街の本当に端っこだった。
商店街にはかなり通ってるつもりなんだけど、さすがに端っこまではあんまり行ったことがない。
というよりも今日が初めてだった。
「ここってなんのお店なの?」
かなり古ぼけた店を見上げながら聞いてみた。
上にあった看板には『清麗堂』という字が達筆な感じで書かれている。
前に見た斉藤さんの達筆に比べてなんとか読めた。
「入ってみればわかるよ」
慣れた感じでドアを開ける里沙ちゃんの後を、わたしは慌てて追っていく。
- 718 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:17
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店の中はけっこう狭く、五人も入れば身動きがとれそうもない。
壁にはたくさん棚があって、そこに並んでいたのはオルゴールだった。
「こんなお店があったんだ……」
「つい最近できたばっかみたいだよ」
「いらっしゃいませ」
店の奥のほうから声がしてまた振り返ってみると、そこにはどこかで見たような人が立っていた。
「……誰でしたっけ?」
「覚えてなくて当然か。あのときは本当にパシリで脇役だったからね」
苦笑いをしているその人を見てようやく誰なのかを思い出す。
前にあった斉藤さんの絡んだ事件にいっしょにいた男の人だった。
後ろにいる先輩を見ると、どこか気まずそうな顔をしている。
それもそのはず、先輩はこの人を含め、けっこういろんな人をやっつけちゃっていたから。
「久住と言います。そういえばまだ自己紹介をしてなかったね」
「えっと……あのとき久住さんって警察官でしたよね? 辞めちゃったんですか?」
「別に辞めてはないよ。ここは叔父がやっていてね、非番のときは手伝ってるんだ。あの事件以降内勤に移されて、しかも非番も多くなったから、ここに立つ機会も増えたってわけさ」
「はぁ、そうなんですか」
警察の事情とかよくわからず生返事をしていると、横から里沙ちゃんが割りこんできた。
「前にカメと歩いてたらたまたま見つけてさ。そのときもこの人が立ってたんだ。ヒマ人っぽいよね」
「……否定できないのが痛いな」
ずばずば言う里沙ちゃんに引きつった笑いをしながら、久住さんがカウンターから出てくる。
「それで今日はどういった品を探してるんだい?」
「と、友達の誕生日プレゼントを探してるんです。何かいいのってありませんか?」
里沙ちゃんから背中を押されて前に出たわたしは、慌てて事情を説明する。
本当だったら真琴がしないといけないんだけど、すでにプレゼント選びを始めていたので止めた。
「それだったらいくつか思いつくのがあるから見てみようか。値引きとか勝手にできないけど、できるかぎり力になるよ」
それからがさごそと棚を漁り始めた久住さんの背中を見ながら、わたしは目を閉じる。
もう替わってもいいでしょ。
そう意識してみると俄然やる気が出たのか、真琴が勢いよくわたしと交代した。
- 719 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:18
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- 720 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:18
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気配からして怒っているのだろうと思ったが、思いのほか藤本は普通に見えた。
駅前にある古びた喫茶店の一番奥、そこに藤本はいつものようにいたが、どうしても気になることがあるので、亜依はそれからまず聞いてみることにした。
「なんであんたそんなに絆創膏だらけなん?」
「ん? あぁこれね。ちょっとした事情ってやつ。だから気にしないで」
軽く手を振って答えてきた藤本に答えを窮し、亜依は仕方なく正面に座る。
すでに何度も経験しているはずなのに、このときだけはいつもよりも緊張していた。
いつもは受けに回って話を聞いているため、自分から進んで話を切り出すことがなかった。
これが最初で最後。
あとはタイミングの問題だ。
「それで今日うちを呼び出した理由は?」
「そのことなんだけどね……」
やけに沈んだ声で搾り出すように告げてくる藤本。
手を振ったときの軽い表情はすでに消え、彼女は真剣な顔をしていた。
これまで何度となく会っているが、その表情を見るのは初めてだった。
「こういうのは今回限りで終わりにしようか」
続いて出てきた藤本からの言葉に、思わず亜依は息を詰まらせる。
亜依がしようとしていた話も同じだったからだ。
意味のないことは止めよう、そう言うつもりで来たのに、それを相手である藤本から言われ逆に混乱してしまう。
テーブルに置いてあったカップを手に取り、口へ運ぶ。
一切味のしないカップの中を見てからブラックのコーヒーだということがわかった。
「本当だったら今日は君にこういうのを渡そうと思ってたんだけどね」
そう言って藤本が取り出したのは少し大きめの紙の束が三つに、黒く細長い何かだった。
「この紙の束は奇術師が使う道具で、このナイフを小川麻琴・真琴が使っていたナイフなんだ」
藤本が細長い何かを持ち、先っぽへわずかに力を込める。
言葉のとおり刃の部分が現れるが、やけに刃こぼれして、ぼろぼろになっていた。
- 721 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:18
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「このナイフで小川麻琴・真琴は辻ちゃんを消した。でもあいつらが消したのは本当の辻ちゃんじゃなくて、力を使ってできた、別の存在としての辻ちゃんだった」
抜き身で渡されるが、なんの変哲もない普通のナイフ。
ただし刃の部分はぼろぼろで光ってすらいなかった。
「辻ちゃんは『心を混ぜ合わせる力』を持っていた。混ぜ合わせるにはまず心を取り出さないといけない。その力を辻ちゃんは自分自身に使っていたんだ。だけど自分自身を完全には切り離せない、辻ちゃんは一人だからね。辻ちゃんは中途半端な分身を作り出し、分身は本当の辻ちゃんの元から離れてしまった。そして、その分身はあいつらに消されることになった。その後、本当の辻ちゃんに不幸が襲いかかった」
静かに語る藤本の意図がわからず、亜依は生唾を飲む。
その際ごくりとのどが鳴るが、その音がやけに大きく聞こえた。
「あいつらは辻ちゃんの分身を完全に消すことができなかった。あのときはまだあいつらも力の使い方を知らなかった。消された分身の意識は完全には消えず、本当の辻ちゃんの元へと戻った。でも一度別れてしまった存在が元に戻ることはできない。すでに分身はちゃんとした個人になって、存在も一人前になっていた。それが本当の辻ちゃんの中へ戻るってことは、辻ちゃんって存在が二つ、一つの身体で共有されることになる。二つの精神が宿るってことは、一つの身体にとっては想像以上の負担であり、本当の辻ちゃんはそれに耐え切れずに息絶えてしまった。辻ちゃんがいなくなってしまった真相はこうなんだ」
伏せがちな顔から痛々しいといった表情が伝わってくる。
が、この突拍子のない話は亜依にとってわからないことばかりだった。
「なんで今さらそんなことを言う? わけわからん」
苛立ちをそのままにして言うと、顔を上げた藤本と視線が交わる。
まっすぐな視線が意外で、亜依はその瞳に吸い込まれそうな印象を受けた。
- 722 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:19
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「息絶えてしまった人間でも、すぐに存在が消えてしまうことはない。根源を司る核はしばらく残留するんだ。そして私がその辻ちゃんの残留している核を保護した」
言葉の直後、亜依はナイフを握っていた手に力を込めていることに気づいた。
最期に希美を会話した後、いなくなってしまった空虚感。
その原因は目の前にいるこいつだったのだ。
「勘違いしてほしくないんだけど、私は辻ちゃんを一時的に保護しただけ。いずれ会うだろう君のために辻ちゃんをそのままにしておいたんだ。だけどね、私の中にいる辻ちゃんがね、最近言うんだ」
慌ててつけ足してきた藤本が目を閉じ、一度だけ深呼吸をする。
それから目を開けるが、そこにいたのは藤本ではなく別の誰かだった。
『もういいよあいぼん、無理しなくても』
その声を聞き、亜依は頬が引きつるのを感じる。
藤本の口から出てきたのは、まさしく希美の言葉だった。
声音、イントネーションが希美とまったくいっしょで、悲しそうな表情も稀ではあるが見たことがあった。
「辻ちゃんは君が幸せそうだから、もう止めてって言ってるんだ。私もそれに賛成する。だから今日で終わりにしようってことなの。辻ちゃんはこのまま静かに消えることを望んでいる。だからこの後、辻ちゃんを供養しようと思うんだ」
すでに元に戻ったのか藤本が言ってくるが、それを亜依はまともに聞いていなかった。
ただ混乱した頭で考えていたのは希美のことだけだった。
(のんが消える? もううちは会われへんの?)
縋るように藤本を見るが、すでに無表情になってしまった彼女から気持ちらしい気持ちは読み取れなかった。
その彼女がテーブルに置いてあった紙の束をしまい始める。
それが終わると亜依に向かって手を差し出してきた。
「君はこれから愛ちゃんといっしょに生きるんでしょ? そっちのほうが前向きでいいよね」
言葉とは無関係に視線だけでナイフを返せと告げられるが、亜依は動けなかった。
ナイフを手放すことを全身が拒否していた。
- 723 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:19
-
「ちょっと待て」
自然と出てきた声は静かだが、意志はどこまでも強い。
にらむように藤本を見ると、彼女が驚いた顔をして見返していた。
先ほど藤本がしたように深呼吸をしてみるとすぐに頭の中はクリアになり、言葉が浮かんでくる。
「このままのんを消したくない。あんたがのんといっしょにおりたくないなら、うちがのんといっしょになる」
「それこそ待ってよ。さっきも話したでしょ? 一つの身体で二つの精神を共有することはできない。同じ辻ちゃんでもそれに耐え切れなかった。ましてや辻ちゃんとは他人の君ができるわけないじゃん」
「でもうちはのんといっしょになりたい!」
短く叫び、亜依は肩を大きく上下させる。
なぜここまで必死になっているのかわからなかったが、心の奥でそうしろと言っているから従う。
それに希美が静かに消えることを選ぶはずがないという確信もあった。
しばらく互いに無言でにらみあい、愛にしている以上に強く意識する。
負けたくない、負けるはずがない、そんな意志を視線で藤本へ叩きつけた。
「……わかった。辻ちゃんの核は君に譲る。でも並大抵のことじゃないよ、二つの精神を共有するってことは」
折れた藤本に亜依はにらんだまま小さく頷く。
それから藤本がしたのは、ごくわずかな動作だった。
胸の前で何かを掴むように拳を作り、それを差し出してくる。
すぐに拳が開かれるが、中は当然のことながら何もない。
と思った次の瞬間、亜依の中へ何かが流れ込んできた。
熱く大量の何かに苦しくなった亜依は思わず持っていたナイフを落として、胸に手を押しつける。
大量の何かは胸の辺りで弾けていて、亜依を押し潰そうとしている。
それに耐えながら涙ぐんだ目を開けると、揺れる視界の中に希美が立っていた。
- 724 名前:逃避、そして虚無へ4 投稿日:2006/05/17(水) 16:20
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熱く大量の何かとはつまり、希美の生きてきたこれまでの軌跡だった。
生まれてから死ぬまでにあったことが津波のように流れ込んできたが、正体がわかるのと同時に亜依は耐えるのを止め、すべてを受け入れていた。
十六年とちょっとしか生きていないはずなのに、大量の情報が記憶として希美には蓄積されている。
生まれてから順を追って記憶は新しくなるが、時間の早さが微妙に変化していた。
生まれたときの記憶はうっすらとしていてほとんど何も感じなかったが、年を重ねるごとに記憶は重たくなり、画像として鮮明になっていく。
中学になってからの記憶はやけにゆっくりで、三年間の記憶が手に取るようにわかってしまった。
そして記憶の最後の部分になって、ようやく亜依自身が登場した。
希美の記憶が通りすぎた後も、亜依はしばらく何も言えなかった。
全身は長時間正座した後のように痺れていて、指一本動かせそうにない。
それでも亜依は満足しながら深呼吸を繰り返していた。
(なんでこんな大切なことを忘れとったんやろ)
希美の記憶を得るまでいろいろなことを忘れていた自分が恥ずかしいが、取り戻したのだから問題ない。
これから先は失わないだろう。
自分がこうしてここにいる限りは。
希美がこうなってしまった原因は藤本ではなく、やはり小川麻琴・真琴。
あいつらをちゃんと消しておこう。
そう決意して顔を上げると、そこには引きつった笑みをしていた藤本がいた。
「私以外でこれに耐えた人間なんて初めて見たよ」
「そんなことはどうでもええから、さっきの紙の束を出せよ。あれを使えばええんやろ?」
笑った亜依に引きつったままの藤本が紙の束を取り出すが、よほど慌てていたのかばさりと下へ落とす。
しゃがみこんで紙を集めている彼女を無表情に見下ろしながら、亜依はコーヒーを飲む。
今度はちゃんと味がわかるが、ブラックのままでも飲むことができた。
- 725 名前:いちは 投稿日:2006/05/17(水) 16:24
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更新しました
ようやく折り返し地点に着いた感じです
>>696 通りすがりの者さん
お待たせしてすいませんでした
8月末までには完結させる予定なので
それまでおつき合いください
次は「逃避、そして虚無へ5」になります
それでは
- 726 名前:通りすがりの者 投稿日:2006/05/20(土) 00:46
- 更新お疲れ様です。
いよいよですか。。。
作者様の文才はさすがですね。
次回更新待ってます。
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