続・出逢いと別れ
- 1 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:35
- 章の途中で限界になるとは・・・・・・○| ̄|_
私が愚弟よりアフォな事したと思うと泣けて来ます。
ダラダラ書き始めて、そろそろ一年ですね。
何とかしないといけません。
ちょっとペースを上げないと。
- 2 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:41
- 〔修学旅行・8〕
石黒先生の旦那、山田真矢さんの寿司は美味かった。
本格江戸前の寿司ってのは、ネタがヅケになってる。
つまり、ネタを醤油やタレに漬け込んであるそうだ。
勿論、真矢さんの寿司もヅケで、美味いのなんのって。
江戸時代には冷蔵庫が無かったから保存が効かない。
だから、少しでも生魚を長持ちさせようと、
酢飯やヅケが考案されたそうだ。
「美味しかったべさー」
「ったく、石黒先生の冗談ってキツイね」
結局、石黒先生と旦那の真矢さんは私達に、
オレンジジュースとラフランスをサービスしてくれた。
出来ればエビスビールを飲みたかったけど、
まさか石黒先生の前で飲むわけには行かねーもんなァ。
「赤ちゃんも可愛かったべね」
赤ん坊って、あんなにちっちゃいんだなァ。
石黒先生は、まだ首も据わってない赤ん坊を抱かせてくれた。
あんなに軽いんだなァ。生まれたばかりの赤ん坊って。
石黒先生や真矢さんは、すげー嬉しそうだったけど、
やっぱり私なんか、まだ子供なんだろうなァ。
とてもじゃねーけど、母親になんかなれやしない。
それにしても石黒先生は三人目ともなりゃ、
もう余裕っていうか貫禄すらあったなァ。
- 3 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:42
- 「さてと、東京江戸資料館だべさ」
この東京江戸資料館ってのは、単なる博物館じゃなくて、
有名国公立大学の発掘や研究成果まで公表してる。
私達は満腹を摩りながら信号を渡ると、東京江戸資料館に入って行った。
すると、なっちは受付で何やら話をしながら料金を払って、
奥の部屋から分厚い本を何冊も借り出すじゃねーか。
そして、予約してた部屋を借り、用意して貰った数冊の本を持って行く。
私は首を傾げながら、重そうな本を半分持って、なっちの後をくっ付いて行った。
「ここで何するの?」
「勿論、予習だべさ」
この小さな会議室みてーな部屋は、やけに綺麗だから、
普段はあまり使われてないみてーだなァ。
なっちは持って来た数冊の本をテーブルの上に積み上げて、
その中から重い百科事典っぽいやつを引っ張り出す。
どうでもいいけどよ。そんなに予習が必要なのかなァ。
江戸時代の何を勉強すりゃいいんだろう。
「これは太田道灌が江戸に城を築いた頃の絵だべさ」
へえ、江戸城って半島の先っちょにあったんだ。
なっちが言うように、これじゃ本当に水城だなァ。
戦国時代は北条氏に使われたっぽいけど、
これといった大役を担ったわけじゃねーらしい。
城っていうのは、今の感覚だと砦なんだよなァ。
それと、居館まで『城』なんて言われるようだ。
- 4 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:42
- 「江戸は家康が移って来てから栄えたんだよね」
家康は秀吉に、関八州を任されたんだったっけ。
太閤検地によると、関八州は二百八十万石もあった。
これって、単純に計算して七万人の兵を雇えるらしい。
奥羽には伊達政宗なんて油断出来ない相手がいたから、
秀吉はその阻止線として家康を関東に置いたんだろうなァ。
「家康は廃城状態だった江戸城を本拠に選んだんだべね」
それは、数件の漁村だった江戸が、関八州の中心だった事。
物資輸送で一度に大量に運べる水運に便利だった事。
そして、ちょっと手を加えれば、堅牢な水城になった事が理由だろう。
きっと家康はこの頃から事務方連中と話をして、
江戸城を中心としたメガロポリス計画を練ってたんだと思う。
慶長時代(一五九六〜一六一四)の江戸は造成や建築ラッシュで、
かなり多くの人間が集まって来たらしい。
「江戸城を改築するのに、大勢の人足が必要だったんだね」
家康は干潟を埋め立てて、城を大きくし始めたんだ。
そのためには、多くの土木技術者や建築技術者が必要。
更に、堅牢な石垣を造るのに石工や、壁塗りに左官も必要だった。
物資を輸送するにも、船頭や船をチャーターしないといけない。
家康は浜松から一族郎党を引き連れて来たんだから、
そういった人達が住む武家屋敷や足軽長屋も必要だなァ。
土木や建築技術を持つ連中を、きっと家康は必死で探したんだろう。
- 5 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:43
- 「その人足の家も必要だったっしょ?」
人足だって素手で仕事は出来ねーから、職工が集まり出す。
そうすると、人足や職工相手に、商売人が集まって来たんだ。
これまでの土地だけじゃ集まった人を収容しきれなくなって、
森を切り開いて材木を確保するのと同時に平地にしたんだろう。
その際に出た余分な土を処分する必要もあったわけだし、
それが自然に海の埋め立てって方向に進んだんだろうなァ。
「そうこうしてる内に、家康は天下を取っちゃったっしょ?」
家康は秀吉のように、江戸に各大名の屋敷を造らせたらしい。
そうすると、更に人が集まって、町はどんどん大きくなって行った。
山を削って埋め立てを続ける内に、江戸城は自然と平城になっちまう。
でも、その頃には、もう家康に逆らう大名なんていなかったんだ。
不満を持つ者や浪人達は、秀吉の遺児・秀頼を掲げて家康と対決しようとした。
当時、日本で最も堅牢と言われていた大坂城に、数万の兵で立て篭もり、
家康と二度も対決したけど、もう勝負は最初からあきらかだったんだよなァ。
「江戸の建築ラッシュは、かなり長い期間あったべさ」
そりゃそうだろうなァ。秀忠の代になると参勤交代が始まるから。
秀忠〜家光時代が、江戸の建築ラッシュじゃなかったのかなァ。
巨大な水壕の周囲に大名屋敷が林立して、その周囲を直参旗本が囲んだ。
その外側に市場や大店が出来て、寺や神社が建立されて行く。
そして、平民の住む住居や長屋が出来上がって行くと、
かなり大きな都市になったそうだ。
- 6 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:43
- 「人足が集まれば、トラブルも起こるっしょ?
だから、町奉行所が出来て、江戸市中の治安を維持したんだべね」
町奉行っていうと、北町奉行の遠山左衛門尉、南町奉行の大岡越前守が有名。
北町奉行所が北部エリア、南町奉行所が南部エリアを担当したんじゃなくて、
交代で江戸城下町全体を受け持ったって話だよなァ。
町奉行といえば、治外法権とされていた神社と寺院を担当する寺社奉行、
海運の監視を行っていた船奉行と並んで治安の三大奉行職。
町奉行の下には馬と徒侍を持った与力が数人いて、
その与力は下っ端の同心を何人か管理してたそうだ。
「十手持ちってのは?」
「ああ、銭形平次なんかの『岡引』だべね?」
十手持ち=『岡引』ってのは、今でいう自治会長みてーなもんらしい。
奉行所から任命された『岡引』は、何と無給だったって話だから驚いた。
どうやって生きてたのかっていうと、同心や与力から小遣銭を貰って、
何とか生活してたって事だから、本当の名誉職だったみてーだなァ。
みんなから『親分』と呼ばれてたから、地域の顔役だった可能性が高い。
「ようするに、顔役。つまりヤクザだったって事?」
「ヤクザっぽい一面もあったのかもね。岡引は」
岡引は平民だから、帯刀は許されなかったんだ。
だから十手を持って、刀代わりにしてたって話だなァ。
でも、十手を武器や防具として使う事は無かったそうだ。
更に治安が悪化すると、凶悪犯を担当する火付盗賊改という役職が登場する。
今でいう警視庁捜査一課ってとこだろうなァ。
- 7 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:44
- 「ところでさ。一定期間はバブルでも、いつかは弾けちまうじゃん」
建築ラッシュが終われば、補修をする連中が少しいればよかった。
だけど、江戸はずっと日本の中心になってたんだよなァ。
これには、いったいどういった秘訣があったんだろう。
江戸は町が完成しても、人口はどんどん増加して行った。
確かに消費力が大きかったから、それなりの経済状態はあったろう。
だけど、建築が下火になれば、人足があぶれちまうよなァ。
「ところが、江戸は火事が多発したんだべよ」
『風が吹けば桶屋が儲かる』ってのは、火事の事だったらしい。
とにかく木造家屋だった当時、風が吹けば寒いから火で暖を取る。
ところが、失火や放火が起きると、関東の季節風に煽られて、
長屋なんかは一気に燃え広がっちまったんだ。
実際、江戸城に類焼した『明暦の大火』なんてのもあったくれーだし。
その事から『火事とケンカは江戸の華』だなんて言われるようになる。
大火事が起きれば、儲かるのは桶屋だけじゃねーってわけだな。
当然ながら大工や材木屋が儲かり、それに付随する商売も儲かるんだ。
「それで町火消しが組織されたのか」
町火消しっていうのは、今でいう消防団ってとこだなァ。
それを生業にしてたのもいれば、手伝ってた輩もいたそうだ。
もはや、役人の手だけじゃ足りなくなっちまったんだなァ。
町火消しの主な仕事は、火を消す事じゃなくて、
延焼を食い止めるために、周囲の建物を壊しちまったらしい。
- 8 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:45
- 「火を消せなかったのは、江戸が慢性的な水不足にあったんだべさ」
確かに江戸の大半が埋立地だから、井戸を掘ったとこで水なんか出ない。
まァ、海に近けりゃ海水で消火する事くれーは出来ただろうけど。
けど、問題は飲料水や生活用水だったんだよなァ。
だから、下町には水を売りに歩いた商売すら誕生したんだそうだ。
火事に水不足と来れば、とにかく水の確保が先決だよなァ。
幕府は用水路を掘って、多摩川の上流に堰を作ったんだ。
そいつが有名な玉川上水ってわけなんだよね。
多摩川の水を江戸中に上水道として引いたんだから、
その事業費は莫大なものになったって話だ。
今じゃ工業用水くれーにしか使われてねーけどなァ。
玉川上水っていえば、太宰治が心中した場所だったっけか?
「こうした公共事業が、江戸を活性化させたんだね」
ところが、この事業は全て幕府ではなくて、大名にやらせていたんだ。
参勤交代と公共事業、江戸城の修繕等、これは大名の自己負担だったらしい。
こうした制度を作ったのは、とにかく臆病な秀忠だったんだよなァ。
家康があまりにも偉大だったから、その死後を物凄く警戒してたっぽい。
秀忠は『武家諸法度』『禁中並公家諸法度』を公布して、
天皇をただのお飾りにして京に封じ込め、大名にはカネを使わせた。
特に外様大名に、徹底した弾圧をしたんだったっけ。
外様大名ってのは、関ヶ原の戦い以降に家康へ臣従した大名だったよなァ。
そうした大名は、わざと遠方に配置されてたんだっけ。
これだけカネを使わせておいて、幕府じゃ何もしねーんだから、
島津や前田、毛利、伊達なんかは、よく我慢したよなァ。
- 9 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:45
- 「各大名が江戸市民のために、莫大なカネを使ったんだべよ」
首を横に振れば、何かと言い掛かりを付けて取り潰しが横行した秀忠時代は、
特に外様の大名にとっては、暗黒の時代だったと言ってもいいだろう。
その多額の出費のために、外様大名は藩の財政が厳しくなり、
武器を買ったり多くの兵を雇えないようにしたんだ。
そうしたシステムが動き出すと、幕府は政治の中枢へと移行する。
軽犯罪者を佐渡に送って金山を掘らせ、江戸の金座・銀座で造幣をした。
全国統一の貨幣が誕生した事で、最低限の単一国家としての基礎が固まったんだね。
「それで元禄時代の好景気になるのか」
江戸の街造りが始まって百年もすりゃ、あちこちに修復するところが出て来る。
そういったものを、各外様大名が江戸の職人達に依頼してたんだよなァ。
幕府による外様大名の締め付けは、江戸城下を活性化させて行ったらしい。
江戸っ子達の金銭が流通して、桃山時代に匹敵する好景気がやって来たんだ。
ただし、好景気に沸いたのは平民だけで、幕府はこの頃から財政難になる。
将軍・吉宗が最初の改革をしたのも、この頃だったっけか。
「今みたいにマスコミが発達してなかった当時、
かわら版や歌舞伎、講談で庶民に情報を提供してたんだべさ」
かわら版ってのは、今でいう新聞みてーなもんだろう。
木板を使って印刷したってんだから、かなりの技術だよなァ。
歌舞伎は庶民の娯楽だったんだけど、当時の世相を反映させてた。
歌舞伎作家は印象的な事件等を、今でいう再現ドラマみたいにして、
かなり脚色を交えながら上演してたらしい。
- 10 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:46
- 「歌舞伎っていうと『仮名手本忠臣蔵』や『女殺油地獄』が有名だね」
元赤穂藩浪人達による吉良邸討ち入り及び上野介殺害事件は、
『仮名手本忠臣蔵』っていう鎌倉時代の話にアレンジされて上演されてる。
さすがに、実際の事件の実名を使っちゃったりすると、
幕府や町奉行所の顔に泥を塗る事になるからなァ。
ちなみに『仮名手本』ってのは、浪人達四十七士を、
『いろは歌』四十七文字に引っ掛けてるんだけど、
実名じゃなくて仮名っていうような憎い題名になってるんだ。
「とにかく、幕府は謀叛の引鉄になる事を全て排除したってわけか」
関所もそうだし、治安維持三大奉行の設置、抜け荷の取締り、
そしてキリシタンの徹底した虐殺がそうだった。
『島原の乱』ってのは、幕府の弾圧を受けたキリシタン達が、
天草四郎っていう少年の指揮の下、島原に立て篭もった事件。
幕府は大軍を送って、一人残らず惨殺してるんだ。
家康がキリスト教を禁じたのも、若い頃に一向一揆を経験して、
宗教の持つ恐ろしさを痛感したからに違いねーだろう。
「抜け荷やキリシタンは、謀叛の引鉄になるっていう解釈だべね」
幕府じゃ遠方の大名を監理するために、目付という役職を作った。
これは江戸に常駐してて、なにか不穏な動きがあれば、
大名の江戸屋敷は勿論、領地にまで行って調査したらしい。
宇都宮吊天井事件や佐賀藩の化け猫騒動、松の廊下刃傷事件等は、
事件を起した大名の領地まで、目付が出張したんだろうなァ。
- 11 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:47
- 「秀忠の臆病なまでの政策が、幕府を二百五十年近くも支えたってわけだね」
これで、江戸時代前半の要点は掴んだんだよなァ。
次には何を勉強すりゃいいんだろう。
なっち先生の授業は、すげー判りやすくていいなァ。
さすがに社会科教師の卵だけあって、よく知ってるよ。
幕府の直轄地に配置したのが代官。奉行とは仕事が違う。
江戸城内には大老を筆頭に、老中、若年寄がいた。
大老ってのは事務方のボスで、将軍に次ぐ権力を持ってた。
それとは別に、お側役っていう役職もあって、
要するに秘書みてーな人も大勢居たって話だ。
「それじゃ、まず時代考証してみるべさ」
「時代考証?」
私は二木謙一や小和田哲男みてーな大学教授じゃねーぞ。
時代考証なんて大それた事なんて、出来るわけがねーだろうがよ。
そういった事は、専門分野の第一人者に任せればいいじゃねーか。
私みてーな普通の女子高生が、いったい何の時代考証が出来るっての。
そりゃ、なっちは女子大生だろ? 私は高校生なんだよ!
「そんなに難しい事じゃないべさ」
なっちは本を開けて、時代劇と史実との相違を提案しやがる。
私は『水戸黄門』とか『暴れん坊将軍』くれーしか知らねーっての。
そういえば、オヤジが『子連れ狼』とか『三匹が斬る!』のファンだったなァ。
死んだじいちゃんは、『銭形平次』『人形町の佐七』みてーな岡引物が好きだった。
- 12 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:47
- 「へえ、この本には、江戸時代の庶民の事が書いてあるなァ」
江戸時代前半、瓦屋根の家は皆無に等しかった。
江戸にある大名屋敷ですら、板葺や茅葺の屋根だったらしい。
だから、水戸黄門や銭形平次、遠山の金さんに出て来る瓦屋根は、
時代考証から行くと不自然なものになっちまうそうだ。
当時、瓦は城に使われていて、それは耐火性を向上させる目的がある。
そんなもんを外様の大名が江戸屋敷で使おうものなら、
すぐに謀叛の嫌疑を掛けられる羽目になっちまうだろう。
まして、瓦は当時貴重なもので、平民が買えるような代物じゃない。
一般に瓦屋根が普及するのは、江戸時代後期になってからだったんだ。
「身分制度も士農工商だけど、本当は細分化されてたべさ」
武士は将軍を筆頭に大名・旗本がいたし、家老から足軽までが武士だった。
農民も庄屋制度が普及すると、小作人や大地主といった階級が出来てる。
当然、大工なんかも棟梁がいて、弟子といった図式が成り立つし、
商人も大店や卸問屋から、行商人といった身分制度があった。
それとは別に、『非人』と呼ばれる江戸市中に出入すら出来ない人達もいる。
その多くは、朝鮮から強制連行された人達だったという。
「最下層の非人は、人間として扱われなかったんだべね」
彼等は獣肉を食べる事から、かなり偏見や差別を受けてたらしい。
当時、日本人は肉っていうと、鶏肉や魚肉しか食べなかったそうだ。
地方によっては、ウサギを食べる習慣もあったみてーだけど。
それにしても、半島から無理矢理連行して非人扱いは酷いなァ。
- 13 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:48
- 「吉原や岡場所でも、階級があったみたいだね」
江戸市民男性の大半が、生涯独身だったと言われている。
それは江戸にいる女性の数が少なかったからじゃなくて、
金持ちが女性を独占してたっていう事実があるんだ。
そうなると、どうしても性風俗の需要が多くなって、
吉原に一大歓楽街を造る事になったらしい。
品川にあった岡場所は、幕府非公認の売春宿の事。
「吉原大店の花魁ともなると、凄まじい料金が必要だったみたいだべよ」
当時、吉原のあった千住界隈は森で、有名な処刑場もあった。
吉原を造った事で、幕府は江戸市中での売春を禁止してたらしい。
でも、フリーの売春婦もいたらしくて、彼女達は夜鷹って呼ばれてた。
もっと低料金の売春婦は『びんしょ』と呼ばれてたそうで、
無人の舟の中や河川敷なんかで事に及んだらしい。
そこまで落ちぶれると、もう一般人には戻れなかったそうだ。
女ってのは、いつも悲しい性を背負ってるんだなァ。
「農家で口減らしの対象になった娘や非人の娘は、吉原や岡場所に売られるのか」
客が付かない娘は、あっちこっちに売り飛ばされて、
やがては夜鷹の元締に引き取られちまうって話だ。
そこで使い物にならなくなると、びんしょになるか捨てられる。
そこ頃には、もう身体がボロボロで、すぐに死んじまったって話だ。
詳しい資料が無いから判らないけど、売られた娘の平均寿命は、
恐らく三十代前半くれーだと思う。
- 14 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:48
- とりあえず、江戸時代前半の予習をすると、資料館内の見学をした。
江戸の町造りから大政奉還までを、一通り判りやすく見る事が出来る。
一通り見学すると、ロビーで缶コーヒーを飲みながら休憩。
それから、また例の部屋に戻って、江戸時代後半の復習をした。
「江戸時代後半は、とっても大切な部分だべよ」
過去のセンター試験の問題でも、江戸時代後半からの出題が一割以上を占める。
大塩平八郎の乱が勃発すると、幕府の衰退が始まるんだっけ。
特に開国関係になると、ペリー率いるアメリカはもとより、
イギリスやフランスの介入まで話が込み入るから厄介だ。
国防に重点を置いた朝廷の動きや幕府の見解が一致してた時まではいい。
ところが、そこから一気に薩摩藩と長州藩の倒幕思想まで話が進む。
「参勤交代を廃止して国防に重点を置いた決断が、
倒幕にまでなっちまったって事なんだなァ」
それ以前にも、東北地方を大飢饉が襲い、未曾有の被害が出てるし、
寛政・天保(失敗)の大改革、安政の大獄、桜田門外の変と事件が続くんだ。
幕府の威信が地に落ちる否や、太閤記ものが数多く出版される。
これは、幕府に対する庶民の気持ちの表れじゃねーかなァ。
「また、事件と年号、人物をコラボレーションさせればいいっしょ」
なっちは簡単に言うけど、それがどれだけ大変な事か。
一七一九年=享保の改革=財政再建=徳川吉宗。
一七八三年=天明の大飢饉。
一七八九年=寛政の改革=商業抑圧=松平定信。
- 15 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:49
- 「うげー、頭が混乱するぞ」
要するに、外国の船がやって来るようになったから、
幕府が『みんなで日本を守ろうよ』って言ったんだよなァ。
結果的に島津や毛利が力を付けて、幕府だけじゃ倒せなくなっちまった。
倒幕の勢いが増すと、よせばいいのに英国が後押しを始めたんだなァ。
反対に幕府側には、当時英国と対立してた仏国が支援を開始。
「苦手意識を持つんじゃないべさっ! ここが大切!」
ベトナム戦争と同じで、大国同士の代理戦争だったのかァ?
まァ、ベトナムには米軍が直接参戦したけど、
倒幕にイギリスとフランスは直接参戦はしなかった。
・・・・・・駄目だァ! これじゃ世界史から見た明治維新じゃねーか!
「よっC、薩長はイランとイラクと同じだべさっ!」
「うん、敵の敵は味方って発想だろう?」
勅命が出た限り、幕府は賊軍って事になるなァ。
薩長を中心とした官軍に、幕府軍は各地で敗北。
将軍・慶喜はケツを捲っちまって、水戸に逃げちまう。
新撰組なんかは、幕府にいいように使われて全滅。
白虎隊で有名な会津藩じゃ官軍の猛攻を受けて落城。
女子供に至るまで、全員が自刃して果てたって話。
幕府軍は五稜郭まで敗走して、ついに全滅しちまった。
倒幕の功労者・西郷隆盛も、眼の上の瘤として、
西南戦争で敗死しちまったんだっけ。
な、何とか流れは掴めたぞ。アハハハハ・・・・・・。
- 16 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/04/29(金) 07:51
- 今日のところは、これにて失礼致します。
またレスでも頂ければ、俄然やる気が出て来ます。
今後とも、ひとつ宜しくお願い致します。
- 17 名前:名無し 投稿日:2005/04/29(金) 11:52
- 更新乙です。
江戸時代はあまり興味がなかったもんで
色々と勉強になります。
次の更新も楽しみにしてます。
- 18 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 09:53
- >>17
ありがとうございます。
私も江戸時代以降は苦手で困りました。
帝国ホテルや赤プリにも泊まったことがありません。
ほとんど想像の世界で書いています。
- 19 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 09:54
- 〔修学旅行・9〕
両国の東京江戸資料館を出ると、私達は周囲を警戒した。
またリムジンが待ってるかもしれねーからだ。
こんなとこでリムジンに乗るのは、かなり恥ずかしい。
『秋の陽はつるべ落とし』というように、
このところ、めっきり日が暮れるのが早くなった。
まだ午後四時だってのに、太陽はビルの谷間にまで落ちてる。
とりあえず、どこかでエネルギーを補給しねーとなァ。
「なっちさん。ちょっと遅くなったけど、おやつでも食べようよ」
「いいねえ!」
こうした誘いには、なっちって物凄く弱いんだよね。
ケイタイで検索してみると、近くに安い甘味処があった。
高級店の和菓子もいいけど、無性に甘味処に行きたくなる。
若い女の子っていうのは、そういった生き物なんだよね。
でも、実際、脳のエネルギーには砂糖が最適なわけだし。
「『甘味処・しゅう』って店だよ」
「何となくロリコンがいる気がするべさ」
なっちは大人なんだけど、見方によっては中学生くれーに見えるからなァ。
こうして往来を歩いてると、ロリコン趣味のオタク男が寄って来そうで心配になる。
まァ、私はなっちの用心棒って事で、危ない男ならヤキでも入れてやろう。
オフクロから教わった鋭角度のブレンバスターなら、まず昏倒しちまうだろうし。
すげー強そうな男だったら、自慢のキックを股間に入れてやるからよ。
- 20 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 09:55
- 「お、ここだよ。『甘味処・しゅう』って暖簾が出てる」
最近は飲みに行っても甘いサワーしか飲まねー男が多いから、
こうした甘味処にも遠慮なくいやがる。
オヤジやオフクロが若かった頃、つまり昭和の頃は、
こうした店には女の子の客しかいなかったそうだ。
それだけ、最近の男は女性化しつつあるって事なんだろうなァ。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「そ、そうだけど」
な、何だ? この服装は。
このウェイトレス、ミニ浴衣に襷を掛けていやがる。
しかも、ノーブラで、屈み込むと胸の谷間が見えちまう。
ここって、もしかして風像営業の店じゃねーのか?
でも、ちゃんとアベックや若い女の子の客もいるぞ。
私達は狐に抓まれたように、指定された座席に着いた。
「若い男の子には眼の毒だべねえ」
なっちは溜息をつきながら言った。そりゃそうだ。
でも、こうしたエロティックなものがねーと、
最近の男は見向きもしねーからよ。
だから、眼の毒っていうか、これが売り物なんじゃねーの?
こうした甘味処には、独自のアイデアが必要なんだよなァ。
どうせメニューなんか、たかが知れてるんだからよ。
いくらメニューに凝っても、味が悪けりゃ話にならねーし。
- 21 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 09:55
- 「オレは善哉を貰おうかなァ」
「それじゃ、なっちはクリーム餡蜜」
クリーム餡蜜かァ。蜜豆ってのもいいんだけどね。
私はどうしても、あの豆が好きになれねーんだよなァ。
寒天・餡・フルーツ・アイスクリームみんな好きだよ。
でも、あの豆だけが、味を駄目にしちまうんだ。
「さてと、よっC。江戸幕府の三大改革は?」
「え? えーと、『享保』『天保』それから・・・・・・『生類憐れみの令』かな?」
「『寛政の改革』だべさァァァァァァァー!」
そう言った途端、なっちは私の頭をメニューで叩いた。そうだった。
確か『享保・天保・寛政』の改革は、どれも根底にあるのは同じ。
どれも幕府の財政再建と威信を失墜しないようにするため行なわれたんだっけ。
でも、何で外様大名にカネを使わせてるのに、幕府が財政難になるんだよ。
享保の改革は将軍・吉宗が、寛政の改革は老中・松平定信が行なったんだ。
ところが、天明の大飢饉で幕府が何もしてくれないと、大名や農民が怒った。
松平定信は商業を圧迫して、財政面からの改革をしようとしたんだっけ。
ところが、城内の勢力争いで更迭されちまったようだ。
「憶えたべか? 憶えたべか? この頭は」
なっち、痛いよ。何で爪楊枝で頭を刺されるわけ?
そうか! これがなっちのいう『おしおき』なのかァ。
まァ、いかにも女の子らしくて安心したぜ。
それにしても、ちょっと陰湿な『おしおき』だぞ。
- 22 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 09:56
- 「判ったよ! ったくいてーなァ」
「それじゃ、参勤交代の目的は?」
「遠方に配置した外様大名にカネを使わせて、謀叛を予防するため」
「半分当たり。後は、幕府の威信の維持が目的なんだべよ」
そうだった。幕府は江戸の改修や架橋を命じたんだった。
そのためには、身近に大名がいる必要があったんだなァ。
これだけ外様大名のカネを使っても、幕府の累積赤字は増え続ける。
確かに色々な叛乱があったし、途中で将軍家が途絶えるハプニングもあった。
反対に家斉みてーに、やたらと子供を作る絶倫将軍もいたわけだし。
江戸市中を守るためには、大勢の人間を雇う必要もあった。
平安時代の検非違使みてーに、自分の荘園を持ってれば話は別なんだけど、
旗本や奉行連中は、全て幕府から給料を貰ってたからなァ。
「安政の大獄で処刑されたのは?」
「ええっと・・・・・・桂小五郎だったっけ?」
「吉田松陰だべさァァァァァァァァー!」
痛い! 今度はゲンコツかよオイ!
幕府は最後の威信を懸けて、反体制派を処刑したんだった。
そうか、そうだったよなァ。吉田松陰や橋本左内が死刑になったんだ。
でも、これには重要な伏線が隠されてるんだよなァ。
元々はハリスの提示した不平等条約に、朝廷の勅命が必要だといって、
幕府が時間稼ぎした事に原因があるんだ。
苛ついたハリスは、軍艦を東京湾近くまで乗り入れて、
『早くせんかゴルァ!』って脅したんだったっけ。
幕府は尊皇攘夷の筆頭親藩大名だった水戸藩を疑い、
将軍後継問題も絡んで、空前の粛清をしたんだった。
- 23 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 09:56
- 「それじゃ倒幕の引金になった要因は?」
「外国からの圧力と、参勤交代の廃止かな?」
幕末になると日本に、アメリカやイギリス、オランダが開国を求めた。
幕府と朝廷は国防が重要課題だとして、参勤交代を廃止して、
各藩に沿岸を防衛するように命じたんだったっけ。
その内、薩摩や長州等の外様大名が、倒幕を主張するようになったんだ。
そこに坂本竜馬みてーなやつが現れて、日本の民主化を主張するようになる。
王朝復古が目的だった朝廷は、一気に倒幕の勅命を出したって寸法だ。
「そうだべね。もう、幕府には国を守る力が無かったんだべよ」
親藩・譜代の大名に日和見をされて、幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで惨敗。
江戸が無血開城されると、幕府軍は会津〜函館まで抵抗するんだった。
幕府側の軍事顧問であるフランス人将校は、五稜郭で死ぬ覚悟だったという。
でも、土方歳三達に『これは我々の戦いだ』と言われて、
後ろ髪を引かれる思いで脱出したって話だよなァ。
土方も漢なら、フランス人軍事顧問も漢じゃねーかよオイ!
「でもさ。いいように使われて捨てられた西郷さん。可哀想だね」
「そういう時代だったんだべよ。もう、武士の時代は終わってたの」
薩長同盟の立役者だった西郷隆盛。今は上野公園に像がある。
でも、どう見ても武蔵丸が犬連れてるようにしか見えないなァ。
西郷どんは『征韓論』で大久保利通や岩倉具視達と衝突して下野。
明治九年の廃刀令・秩禄処分に憤慨した武士達が各地で叛乱を起こす。
そして、最終的に西郷隆盛が総大将として担ぎ出されたけど、
南九州で政府軍に鎮圧されちまったんだっけ。
- 24 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 09:57
- 「西南戦争で武士の組織的な叛乱が終わったんだよなァ」
幕府を倒すのには武士が必要だった。
だけど、新しい国を創るのに武士は邪魔だったんだなァ。
それは、近代国家を誕生における産みの苦しみだったのかもね。
庶民は右往左往しながらも、何とか時代について行った。
でも、少しだけ権力を持った人達は、自分の利害関係を追及するんだ。
だから、明治時代は多くの暗殺事件が起こってる。
まだ、人間でいえば赤ん坊の時代。多くの病気に感染しちまったんだ。
「日清・日露戦争は、日本の実力を量るための陰謀説もあるべさ」
当時、日本に最大の影響力を持ってたイギリス。
イギリスとしては、日本軍がどこまで戦えるか試したかった。
それが第一次世界大戦へと繋がっているんだよなァ。
日露戦争なんてロシアにしてみれば、ちょっとした地域紛争くらいなもの。
国内に革命が起こって、それどころじゃなかったんだ。
「まだ、世界レベルじゃねーのに、朝鮮併合〜日中戦争なんて始めた」
「その結果が敗戦だべさ。日本はこれまで、勝てる戦争しかしてなかったの」
日本の台頭を危惧した国がアメリカだった。
太平洋の支配をめぐって、日本と対立するようになる。
アメリカはイギリスやフランスを味方につけて、
日本を経済的に圧迫して行ったんだよなァ。
だから、日本は欧米に植民地とされてた東南アジアの国と、
連合王国を創って鎖国しようとしたんだ。
- 25 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 09:58
- 「そうか。だからパールハーバーが誤算だったのか」
「よっCもこれで、日本の歴史の流れが判ったみたいだべね」
大正から昭和に入った頃の日本は、人間でいうと少年時代。
大人達と対等に付き合える力すら無かったんだよな。
地域のガキ大将になるくれーの力しか無かったんだ。
そんなガキが、大人のアメリカと戦ったんだからなァ。
アメリカって国は、日本とドイツを敵にして勝てる国だったんだ。
もっとも、ソ連なんていう伏兵がいたのが敗因でもあるんだけど。
「戦後史は大丈夫だべね?」
「勿論さ」
戦後の復興は、朝鮮戦争の軍需景気だよなァ。
日本は農業国から工業国に変化して行ったんだ。
典型的な加工貿易の国として、造船では世界一になる。
赤軍事件やオイルショック等の苦難を乗り越えて、
日本はバブル期に突入して行ったんだ。
「お待たせ致しました。善哉とクリーム餡蜜でございます」
やったー! こうして甘いものを食うのが女の子なんだよなァ。
善哉の中身は餅が基本だけど、小麦団子を入れる店もある。
私は餅の方が好きだけど、小麦団子のあっさりした味が好きな子も多い。
こうした店ってのは、甘さの加減ってものが難しいんだよなァ。
ギトギト甘くてもいけないし、かといってあっさりし過ぎても駄目。
注文した品で満足させる甘さってものが必要なんだよなァ。
- 26 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 09:58
- さてと、今日のお宿は赤プリだったよなァ。
半蔵門線で永田町まで戻れば、歩いて二、三分の距離だ。
地上に出たら、まさかリムジンなんて事はねーだろうから、
今日のところは安心していられそうじゃねーか。
「東京は縦横無尽に地下鉄が通ってるから便利だよね」
東京の地下には、旧営団の『東京メトロ』や都営地下鉄が走ってる。
地上には山手線と中央線が走ってて、本当に便利なんだよなァ。
これが郊外になると、途端に不便になっちまうからよ。
「(カチン)札幌だって地下鉄くらい走ってるべさっ!」
何が癪に障ったんだろう。なっちは頬を膨らませた。
・・・・・・地下鉄。英語でいうと Sabway だよなァ。
昔、地下鉄漫才の熟年夫婦がいたらしいけど、
私が生まれる前の事らしいから知らない。
ところで、なっちは何を怒ってるんだろうなァ。
「アハハハハ・・・・・・。札幌は政令指定都市だしね」
「どうせ室蘭は過疎化が進んでるべよーだ」
室蘭は鉄鋼で日本の高度経済成長を支えた地方都市。
でも、もう日本で精鉄なんてする時代じゃねーもんなァ。
これまで日本でやってた事を、アジアの国々が分担してやってる。
中国は繊維産業が盛んだし、弱電関係はマレーシア。
インドネシアやインドシナ三国も、工業化を進めようとしてる。
この先、日本はどういった分野で邁進すればいいのか。
- 27 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 09:59
- 「室蘭か・・・・・・。行ってみてーなァ」
室蘭は札幌や旭川と比べて、かなり暖かいらしい。
確かに太平洋に面してるし、積雪も少ないそうだ。
私は温暖だから行きたいんじゃない。
室蘭はなっちの生まれ故郷だから・・・・・・。
「半分、ゴーストタウン化してるべさ。悲しいけど」
ゴーストタウンかァ。直訳すると『お化け街』だもんなァ。
工場の撤退や移転で、室蘭は人口がどんどん減ってるらしい。
そんな斜陽の町に、なっちは生まれたんだなァ。
室蘭の人って、みんななっちみてーに純朴なのかなァ。
まァ、東京生まれでも、純朴な奴は純朴だしね。
なっちは室蘭でも特別なのかもしれねーなァ。
私には故郷って呼べる場所が無い。三鷹生まれの三鷹育ちだもんね。
首都のベッドタウン。味気も素っ気もねーよ。
「オレ、小さい頃、地下鉄って大嫌いだったんだ」
「ほえ? 何で?」
あの独特の臭いの風が嫌だったし、とにかく物凄い音で怖かった。
当時、銀座線なんかは、かなり昔の車両を使ってたから、
次の駅が近付いてパンタグラフから通電を停めると、
車両の中が一瞬だけ真っ暗になっちまったんだよなァ。
息苦しいっていうか、地下を鉄道が走るって事が怖かった。
オフクロと一緒に地下鉄に乗ると、私はいつもしがみ付いてたっけ。
- 28 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 09:59
- 「何となくね。ところでなっちさん、酒屋に寄っていいかなァ」
「また飲むんだべか? 高校生っしょ!」
赤プリにワインやウイスキーはあっても、純米酒があるなんて聞かないし、
今は秋刀魚やブリ大根、戻り鰹の美味い時期じゃねーか。
どんな食事か判んねーけどよ。日本酒ってのは、どんな料理にでも合うんだぜ。
江戸時代なんて、かけそばで日本酒を飲んだくれーだからよ。
まァ、赤坂に行っちゃ買えねーから、こっちで買っちまおう。
「うん? 『日本酒ソムリエの店』だってよ。寄ってみようよ」
私達は店の中に入って驚いた。
まるで農家の土間のような場所が店だから。
しかも、どこかカビ臭くてひんやりしてる。
こんな店に、美味い酒なんてあるのかなァ。
「いらっしゃいませ。どうようなものをお探しでしょうか」
ソムリエっていうから、首から何か下げた人かと思いきや、
単なるエプロンしたおっさんじゃねーかよ。
変な日本酒売りつけたら、タダじゃおかねーぞ。
こう見えても、私は日本酒にはうるさい方なんだ。
「スッキリ味のと、ドッシリ味の二種類なんだけど」
私が注文すると、店の主は冷蔵庫から試飲用の酒を出して来た。
それぞれ三種類の酒が並べられて、私が試飲する事になった。
小さなグラスに酒が注がれ、それはまるで宝石のように輝く。
- 29 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 10:00
- 「スッキリした方は、『真澄』の純米吟醸、『滝の白糸』の純米、『越後杜氏』の純米です」
どれも香りがよくて、飲むと余韻を残しながら消えて行く。
私はクセの無い『越後杜氏』の純米に決めた。
いい麹と質のいい軟水で造られた酒なんだろうなァ。
次はドッシリした味の酒で、どっちも少し琥珀っぽい色が着いている。
主人は二種類の酒と、奥から少し白濁した酒を取り出した。
「『菊水』の純米吟醸、『神鷹』の純米大吟醸、そして『美少年』の生搾りです」
大吟醸にもなると、まるで果実酒みてーな香りになる。
玄米を七十パーセント以上も削っちまうんだから、
本当に良質の澱粉が、この香りを作るんだろうなァ。
こういった酒は、食前酒としちゃ最高なんだよね。
食前酒に梅酒なんてのは、在り来たりで面白くねーもん。
どうせだったら、美味い日本酒の方がどれだけ新鮮か。
「うわっ、『美少年』はきついなァ」
「生搾りですから、アルコール度数が二十あります」
確か普通の日本酒が十五度くれーだから、
こいつは安物の焼酎並のアルコールが入ってる。
熊本の『美少年』は、最南端で醸造する日本酒で有名だったっけ。
これより南になると、麹が上手く出来なくて酢になっちまうそうだ。
だから、鹿児島の芋焼酎や黒酢なんて、超有名だもんなァ。
最近じゃ酢を飲んでダイエットする連中もいるけど、
身体を動かさないと、締まって来ねーんだよなァ。
- 30 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 10:00
- 「それじゃ、『越後杜氏』と『神鷹』をくれや」
辛口だけどフルーティな『神鷹』の純米大吟醸は食前酒に、
クセの無い『越後杜氏』は料理を味わいながら飲む。
赤プリのソムリエには悪いけど、ワインは遠慮しておこう。
「承知致しました」
最近の若い男は、ほとんど日本酒を飲まない。
日本酒が敬遠されるのは、サワーみてーに甘くねーからだろう。
ワインなんてファッションで飲む連中が多いし、
ウイスキーも水割りじゃねーと飲めない奴等がほとんどだ。
以前はトリスとかニッカ、サントリーにしても、
かなりいい加減なものしか製造してなかった。
だけど、物品税が廃止されてからは、外国製品に対抗して、
安価で美味いウイスキーを造ってるんだよなァ。
私は国産じゃニッカの『モルトクラブ』や、
サントリーの『北杜十二年』なんて大好きだよ。
「よっCはお酒が好きなんだべね」
「うん」
何で飲むのか。って訊かれる事がある。
飲む人っていうのは、だいたい二種類いるんじゃねーかなァ。
私みてーに美味しいと思うから飲む人と、酔いたいから飲む人。
会社の人間関係や鬱憤を晴らすために飲むなんて、
どう考えても悲し過ぎるよ。
- 31 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 10:01
- 「これ、美味しそうだべねえ」
なっちは酒饅頭に眼が行ってる。
そういえば、死んだばあちゃんが酒饅頭を作ってくれたっけ。
中身は粒餡もいいけど、私は甘味噌が好きなんだよなァ。
そういえば、死んだじいちゃんは、酒饅頭を肴に日本酒を飲んでたぞ。
まァ、ウイスキーやブランデーの肴にチョコなんてのも合うからなァ。
「丁度、五千円になります」
二升で五千円、こいつはは安い。
ワインなんか気に入ったのになると、
赤と白で一万円くれーはザラだもんなァ。
なっちは千円分の酒饅頭を買って店を出た。
「デザートが増えたべさ」
赤プリっていったらフランス料理なんじゃねーか?
でも、酒饅頭なら、どんな食事のデザートにも合いそうだ。
日本の本格菓子っていったら、世界に通用する味だもんなァ。
しかも、ヘルシーと来てるから、欧米じゃちょっとしたブームらしい。
ただ、習慣的に紅茶やコーヒーの感覚からか、
緑茶に砂糖とミルクを入れて飲むっていうからすげーよなァ。
さて、赤プリで美味いもんでも食って気持ちよく酔うか!
- 32 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/01(日) 10:02
- 今日のところは、これにて失礼致します。
またレスでも頂けたら幸いです。
今後とも、ひとつ宜しくお願い致します。
- 33 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/03(火) 14:49
- 〔修学旅行・10〕
赤プリは帝国ホテルと違って、割にオープンな雰囲気。
フロントでチェックインをしても、そんなに緊張する事は無かった。
建物も然る事ながら、従業員にも清潔感があっていいじゃねーか。
すでに外には夕闇が降りて来ていて、全体にブルー系に見える。
連休って事もあるけど、引っ切り無しにタクシーがやって来ては、
幸せそうな、またはそうでもなさそうなアベック達を降ろして行く。
「安倍様でご予約頂いております。それでは、お荷物をベルボーイへ」
広いロビーの中で、私達の荷物はベルボーイに持たれちまった。
荷物っていっても、私の荷物なんかバーキンのバッグだけだし、
なっちにしても、ヴィトンの小さなバッグだけだった。
こんなもの、小学生のガキでも持てるってんだよ。
私が「いいよ」って言ってバッグを奪い返すと、
ベルボーイは困ったように、ただ立ち尽くしてた。
「いいからルームキーをくれよ」
私達の目的は宿泊であって、従業員に歓待される事じゃない。
歓待されたいんなら、有名女将のいる旅館にでも泊まるってんだ。
ようやく日本にも、本当の意味での『サービス』が浸透しつつある。
これまで、日本人はサービス=無料って考えしか無かった。
でも、本来の意味は、有料・無料なんて関係ない活動の事。
よく温泉旅館や何かで『サービス料』なんて項目があるけど、
どんなサービスを受けたのか釈然としない事が多いよなァ。
- 34 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/03(火) 14:50
- 「かしこまりました」
フロント係は軽く一礼すると、カウンターの下からカードを取り出した。
今や日本でも、ホテルのルームキーはカードに変わりつつあるみてーだなァ。
ピッキング等の窃盗犯罪対策なんだろうけど、こんな磁気なんてコピーは簡単。
その道のプロなら、無用心な客のカードキーから情報を盗み出して、
全室のドアを開けるの事の出来るマスターキーだって作れるだろうし。
「お食事はルームサービスとお伺い致しましたが」
「そうだべさ。お腹すいたから早くね」
私達はカードキーを受け取ると、真っ直ぐエレベーターへ向かう。
丁度、アベックがベルボーイと一緒に乗り込むとこだった。
いいタイミングだから、私達は小走りにエレベーターへ駆け込む。
エレベーターを揺らすと、地震センサーがはたらいて、
途中で止まってしまうと勘違いしてる奴が多い。
そりゃ、ロープが切れるほど揺らせば止まるだろうけど、
地震のセンサーはコントロールルームにあるんだよなァ。
箱自体を揺らしたところで、いちいち止まってたら大変だよ。
「どうぞ」
ベルボーイは私が持ったカードキーを見て、最上階のボタンを押した。
ロイヤルスウィートのカードは、きっと色が違うんだろう。
派手気味のアベックとベルボーイは、煙草の臭いを残して四階で降りて行った。
念願の赤プリに連れて来て貰って幸せかァ? 男も男だよな。やりたいだけで。
いつから赤プリが、お泊り専門のえっちホテルになっちまったんだよ。
- 35 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/03(火) 14:50
- 「どんな部屋だべねえ。帝国ホテルは最高だったっしょ?」
そりゃ最高だよ。それを売り物にしてるホテルなんだからさァ。
しかし、えっちする目的だけで赤プリに来るなんて、
男も女も恥ずかしいとは思わねーのかなァ。
ちょっと郊外に行けば、一泊たった一万円で、
絢爛豪華なえっち専用ホテルがいくらでもあるのに。
「赤プリは初めてだよ」
まァ、女子校だから、連れて来てくれる男もいねーし。
そういえば中学ん時、ラブホってどんなのか興味があって、
梨華ちゃんと何人かで覗きに行った事があったっけ。
あの時は従業員が援交だと思って通報しやがってよ。
パトカーが来て、みんなで走って逃げたっけかなァ。
あの時の梨華ちゃん、私より速かったから驚いた。
「ワクワク」
なっちって、こんな事にも期待っていうか感動しちゃうんだなァ。
確かに北海道の片田舎から上京した『おのぼりさん』だけどね。
私が中坊の頃、こんなに純真だったっけかなァ。
明けても暮れてもバレー三昧で、恋愛なんてした事が無い。
そんな私を梨華ちゃんが一回だけ罵った事があったっけ。
『恋愛も出来ないなんて、人間として最低よ!』
親友の梨華ちゃんに罵倒されて、私は心底落ち込んだ。
それ以来、私は恋愛を探すようになってたと思う。
でも、私には恋愛が見付からなかった。
- 36 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/03(火) 14:51
- エレベーターが最上階に着くと、そこはもう他の階とは異質な空間。
ゴージャスっていうか、とっても上品で落ち着いた感じがした。
嬉しそうな顔をしたなっちが、私の腕にしがみついてる。
何か胸がドキドキして口の中が渇いて、どこか貧血みたいな感じがした。
「あ、開けるよ」
カードキーを差し込むと、電子音がしてロックが解除された。
これは帝国ホテルでもそうだったけど、窓のカーテンは必ず閉まってる。
何でカーテンが開いていないのかっていうと、それは防犯上の理由らしい。
政府要人が宿泊した場合、カーテンが開いてると狙撃される可能性がある。
『ゴルゴ13』じゃあるまいし、日本でそんな暗殺なんかねーよ。
「オシャレな部屋だべさ」
さすがに赤プリのロイヤルスウィートだなァ。
ブルーとピンクを基調としたデザインの部屋。
こうしたハーフトーンが柔らかな感じを醸し出すんだ。
バスルームも広くて清潔。勿論、部屋全体も。
「へえ、オレはこっちの方が・・・・・・」
げげーっ! キングサイズのダブルベッドじゃねーか!
ツインじゃねーのかよォ! どうする?
なっちと抱き合って寝なきゃいけねーんだなァ。
何だ? どうしたんだ? この胸のときめきは。
なっちは好きだけど・・・・・・同性じゃんか。
- 37 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/03(火) 14:51
- 「よっC、このベッド、幅が百五十センチもあるべよ」
そりゃそうだろうなァ。スウィートルームならキングサイズが当然。
いくら何でも普通のダブルベッドじゃ、宿泊客が納得しねーだろう。
っていうか、何でなっちがメジャーなんて持ってるわけ?
なっちのバッグは、ドラえもんの四次元ポケットかよ。
『どこでもドア』とか『スモールライト』なんて出て来るんじゃねーか?
そういえば、なっちの体型はドラえもんに・・・・・・。
「矢口だったら、横になって寝ても大丈夫っしょ」
しかし、こんなに大きなベッドなんて初めて見るなァ。
うちのオヤジとオフクロが使ってるのは、普通のダブルベッドだし。
私のなんか幅は九十センチ、縦は二百センチのシングルだもんなァ。
そういえば、なっちのベッドって、えらく小さかった気がするぞ。
なっちの部屋って、あんまり入った事が無いけど、
小さなベッド以外は、机と本の山だったっけ。
その小さなベッドが、やけに印象に残ってるんだよなァ。
「なっちさんのベッドって小さいよね」
「うん、マットは七十五×百八十。女性専用だべね」
そうだよなァ。女の子じゃねーと、そんな小さなベッドは使えない。
身長が百八十センチもあったら足が出ちまうだろうし、
体重が百キロもあったら、寝返りなんてうてねーもんなァ。
私が寝たとしても、かなり小さく感じるんじゃねーか?
きっと、寝返りをうったままベッドから落下するよ。
- 38 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/03(火) 14:52
- 「大山先輩なんか、寝れねーじゃんか」
大山先輩は身長が百八十八センチ、体重が八十二キロもある。
最近は日本人も大柄になったけど、ここまで大きな人は男でも珍しい。
私みてーに標準的な体格の女性だけじゃねーからなァ。
栗原先輩みてーに細けりゃ、横だけは大丈夫だろうけどよ。
「何で大山加奈が出て来るんだべかねえ」
そんな事より、なっちを抱いて寝るんだろう?
ポヨポヨのなっちを・・・・・・ポヨポヨのなっち・・・・・・。
ポヨポヨ・・・・・・ポヨポヨ・・・・・・ポヨポヨ・・・・・・。
「ポヨポヨ・・・・・・」
「ほえ?」
いけね! ついつい口に出ちまったなァ。
なっちのポヨポヨのほっぺ。
ポヨポヨ・・・・・・ポヨポヨ・・・・・・ポヨポヨ・・・・・・。
お腹もポヨポヨだったっけかなァ。
あっと! 私も最近はポヨポヨだった。
「い、いや、オ、オレの腹がポヨポヨって」
「そうだべか? ちょっと太った?」
太ったかなァ。体重は変わんねーんだけど。
確かに筋肉が落ちて、その分は脂肪になりつつある。
丁度、肉でいうとサラミってとこかなァ。
- 39 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/03(火) 14:52
- 「さ、さて、復習しようよ。なっちさん」
今日は内容の濃い一日だったなァ。
国会図書館で明治から昭和の勉強をしたんだっけ。
その後、両国の江戸資料館で江戸時代の勉強。
しかし、まさか石黒先生に遭うとは災難だったなァ。
「ご飯が先っしょ?」
なっちがそう言うや否や、ドアがノックされてルームサービスがやって来た。
ダイニングの大きなテーブルに、次々と豪勢な料理が並べられて行く。
その量たるや半端じゃねーよ。予備のテーブルまで使ってるし。
コンソメスープにサラダ、パスタ、サーモンのフライ、軽く炙ったフランスパン。
そしてメインディッシュは、四百グラムのヒレステーキだぞっ!
「うわぁ! 凄いべさっ!」
今日は風俗っぽかったけど甘味処に寄ったから、
昨日みてーに滅茶苦茶に飢えてはいない。
それでも、こんなすげー料理が並ぶと、
どういったわけか食欲が湧いて来るんだよなァ。
「食前酒はシェリー酒で宜しいでしょうか」
「いや、日本酒を買ってあるから、それで食うよ」
「承知致しました」
ソムリエは静かに礼をして部屋を出て行った。
ワインの用事がなけりゃ、ソムリエは必要がない。
- 40 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/03(火) 14:53
- 「なっちはウーロン茶だべさ」
「食後酒には『白州』をロックで」
サントリーの白州蒸留場で製造されてる『白州』は、
国産のシングルモルトウイスキーの中じゃ、美味い方に入る。
天然水と一対一の水割りもいいんだけど、やっぱりロックがいい。
ロックがきつい。なんてやつは、本当の美味さを知らない連中だ。
サワーなんて清涼飲料水みてーなもんしか飲まねーから、
本当のウイスキーの味ってもんを知らねーんだろう。
氷は溶けちまうから、ロックは早く飲まないといけない。
ゆっくり味わうなら、ストレート&チェイサーだろうなァ。
ウイスキーをストレートで飲みながら、平行して水を飲む方法。
米国西部のカウボーイ達は、こうやって飲んでたって話だ。
「承知致しました」
日本には食後酒っていう習慣がねーんだよなァ。
欧米じゃ食後酒っていうのが普通なんだけどね。
だからブランデーなんてもんが造られたんだ。
蒸留酒は日本にも焼酎なんてあるけど、
食後酒として味わうもんじゃねーし。
「早速、食べるべさ」
「まァ、待ちなってば」
私はワイングラスに『神鷹』の純米大吟醸を注いだ。
梅酒のように甘くはねーけど、ワインみてーに渋くもない。
おおよその料理に合うのが日本酒のいいところだなァ。
- 41 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/03(火) 14:53
- 「なっちは飲めないべさ」
「まァ、一口だけ」
私はなっちのワイングラスに、半分くらいだけ注いでみた。
限りなく透明に近い琥珀色の液体が、果実のような匂いを漂わせる。
その香りを嗅ぐだけで、私の舌と胃は、それを要求して止まない。
続いて私のグラスに三分の二くらい注いで瓶を置く。
「乾杯」
グラスをぶつけると、なっちは苦笑しながら匂いを嗅いだ。
不思議そうに首を傾げるなっち。どうしたんだろう。
私は『神鷹』の純米大吟醸を一口だけ飲んでみた。
別に何も変わらない。酒屋で飲んだ時と同じ香りと味じゃん。
「ワインの匂いが残ってるんだべかねえ」
「そう? それで水を飲む人だっているのに」
私はなっちのグラスを取って、匂いを嗅いでみた。
別にワインの匂いなんか残ってねーじゃん。
芳醇な純米大吟醸酒の香りがするだけだった。
「これがこの酒の匂いなんだよ」
「ほえ? 日本酒って、こんな匂いだったべか?」
料理酒や醸造用アルコールの入った安物は、確かにもっと臭いけどなァ。
ケシ粒くれーになるまで精米して、しっかりした麹で作った日本酒は、
まるで果実酒みてーな匂いがするもんなんだ。
- 42 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/03(火) 14:54
- 「凄くいい匂いだべさっ!」
これが本来の酒の匂い。嗅いで臭いのは日本酒じゃねーっての。
香しい匂いに誘われたなっちは、思わず一口だけ飲んじまった。
この驚いたようななっちの顔。本当に可愛いなァ。
「どう?」
「美味しい! お米の味がするべさ」
当たり前じゃねーか! 日本酒ってのは米と麹で造るんだよ!
でも、最近は高そうな瓶や箱に入れて、安物の酒を高く売る業者もいる。
変な混ぜ物をした酒を『日本酒』っていう名前で売る事自体おかしい。
だから良心的な業者は、大きく『純米酒』って書いてあるんだよなァ。
純米酒と混ぜ物をした酒を、同じ日本酒で括るのは犯罪に近い事じゃねーか?
だって、味や香りだって全然違うし、根本的に違う飲み物じゃんか。
「これが本当の日本酒なんだよ」
だいたい日本酒ってのは、米と米麹で造るんだから、米の味がしないとおかしい。
同時に美味しい天然水で造れば、見事に米と水の味がマッチするんだよなァ。
日本酒の強みってのは、どんな料理にも合うって事じゃねーかな。
特に、魚介類や醤油といったフランス料理の弱点を、見事に克服出来るんだ。
ワインみてーに、生魚や生貝を肴にしても、口の中に生臭さが残る事は無い。
「美味しい! 美味しいべさ!」
良かった。なっちに喜んで貰えて。
こうして日本酒ファンが増えて行くって事は、
酒飲みの私にとっては、物凄く嬉しいんだよなァ。
- 43 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/03(火) 14:54
- 「こっちは『越後杜氏』だよ。スッキリして飲みやすい」
別のワイングラスに『越後杜氏』を注ぐと、ほとんど無色透明だった。
『神鷹』の純米大吟醸に比べると、水質が少し硬いせいか、
スッキリと口の中に未練を残さず消えて行く潔さがある。
油っこい料理には、こういった酒が合うんだよなァ。
「香りは少ないけど・・・・・・へっ? これが同じ日本酒だべか?」
マリネに白ワインを選ぶ人は多いけど、私なら迷わず日本酒だな。
キャビアやカラスミになると、もう日本酒が最高の組み合わせ。
ロシア人なんかは、キャビアっていうとウォッカって相場が決まってるけどね。
とにかく、魚介類に果実酒は合わないんだよなァ。
「鮭のフライには、見事にマッチしてるべさ!」
米を食べる日本人には、日本酒が合うのは当たり前の事だ。
ただし、『本当の日本酒』じゃないと、全てが台無しになっちまう。
たかが日本酒。されど日本酒。本当の日本酒を見分けるのは難しい。
最近じゃ酒屋も勉強してるから、探しやすくなって来てるけどね。
「美味しいべさ。美味しいべさ」
なっちさん、そんなに飲んで大丈夫かよ。
そういえば、下戸じゃなかったっけか?
ちょっと、飲むペースが速い気がするけどよ。
もう少し、酒と料理を味わった方がいいんじゃねーの?
まァ、なっちさんも子供じゃねーからいいけどよ。
- 44 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/03(火) 14:55
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また、宜しくお願い致します。
- 45 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/06(金) 10:24
- 〔修学旅行・11〕
赤プリのフルコースだって、日本酒には敵わねーなオイ。
メインディッシュである松坂若牛のヒレステーキも、
いくらソースギトギトでも、『神鷹』の純米大吟醸なら最高に味わえる。
ワインで楽しめる料理ってのは限定されちまうからよ。
赤は肉料理で白が魚料理なんてのは、ほとんど意味の無い事。
本来、ワインは魚介類には合わねーんだよなァ。
特にキャビアやイクラなんて、ワインとの相性は最悪。
やっぱり、ワインはチーズやバターと合う。
「よっひー、おいひいべさー」
な、なっち! 眼の焦点が合ってねーぞ!
どうもピッチが速いって思ってたら、
思いっきり酔っ払ってんじゃねーかよォ!
そこまで酔っ払ったら、料理の味なんて判んねーだろ。
しかし安上がりだよなァ。これだけで酔えるんだから。
「よっひー、おかはりー」
呂律がまわってねーぞオイ。
おかわりって言ったって、グラスを持てねーじゃんか。
私も最初は、こんな感じで酔っ払ったのかなァ。
大山先輩と栗原先輩に飲まされたんだっけ。
でも、ここまで乱れなかったような気がするぞ。
酔っ払ったなっちも可愛いんだけど、
やっぱり、これ以上は危険だよなァ。
- 46 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/06(金) 10:25
- 「もう、やめとけって! なっちさん」
こりゃ、なっちがゲロ吐く前に、何とかしねーとなァ。
なっちが下戸だとは知ってたけど、まさかこんなに弱いとは。
そういえば、お酒は私が一番強かったっけかなァ。
次がごっちんで、美貴ちゃん梨華ちゃんの順。
なっち、もう二十二だってのに、梨華ちゃんの半分も飲めねーじゃん。
私が中坊の頃の方が、もっと飲めたっての。
「ウヒャヒャヒャヒャー! 気持ちいいべさー」
そうだろうなァ。もう、恍惚っていった表情だぜ。
でも、ダブルベッドだし、頼むから吐かないでくれよ。
朝起きたら、二人ともゲロ塗れなんてのはゴメンだ。
しかし、よく食うなァ。酔っても食欲だけはあるのか?
オードブルなんか、あらかた食っちまったじゃねーか。
でも、さすがにメインディッシュのヒレステーキは無理だな。
何しろ四百グラムもあるんだからよ。
「なっちさん、少し休んだ方がいいよ」
もう、なっちの視線は左右違ったとこを見てる。
まるでカメレオンのように、右目は右上左目は左下。
まともに座ってる事も出来ねーで、ゆっくり円を描いてる。
要するに三半規管が麻痺しちまって、平衡感覚が無くなってるんだ。
ここまで神経が麻痺しちまうと、失禁する奴もいるから厄介だぜ。
それにしてもなっちは、ほとんど無重力状態になってるなァ。
ほとんど見えてないし、聴こえてないし、感じてないと思う。
- 47 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/06(金) 10:25
- 「ウヒャヒャヒャヒャー! よっひーらべさー」
しょうがねえなァ。
とりあえず、ソファにでも寝かしておくか。
国立大生でも、合コンくれーやるんじゃねーの?
こんなに酒が弱かったら、思い切り危険じゃんか。
猫の群れに鰹節を放り込むようなもんだぜ。
もしかして、なっちって男達の餌食になっちゃったのかなァ。
「・・・・・・なっちさん」
そりゃもう二十二にもなりゃ、男くれー知ってるだろうけど。
中には男との経験人数を自慢するアフォな女もいるけどよ。
セックスなんて面倒なだけじゃん。・・・・・・セックスなんて。
・・・・・・ちょっと興味はあるけど。・・・・・・ちょっとだけだよ。
「ふにゃ〜」
とりあえず、楽なようにしとかないといけねーなァ。
面倒だから素っ裸にして、バスローブでも着させとくか。
私はなっちの洋服を剥ぎ取ると、バスローブを着せた。
もう、なっちは意識が朦朧としてるみてーだなァ。
「これでよしと」
オヤジが言ってたけど、アルコールも麻酔の一種らしいからよ。
ちゃんと麻酔としてアルコールを使う事も出来るらしい。
ただ、それには大量に使用しないといけないし時間も掛かる。
だから、病院じゃ麻酔にアルコールを使わないって話だ。
- 48 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/06(金) 10:26
- 「さてと、食事の続きだなァ」
なっちをソファに寝かせると、私は食事の続きを始めた。
酔い潰れたなっちの分も頂いちまう事にしよう。
私は日本酒一升くれーは飲めるからなァ。
アハハハハ・・・・・・。美味い。美味いなァ。
「ふう、さすがにステーキは腹に溜まる」
なっちが半分残した分まで、私は自分の腹に詰め込んだ。
デザートはマンゴープリン。これもまた私が二人分頂く。
これだけ食べると胃拡張になっちまうのが心配だけど、
今日のところは、それはそれでいい事にしちまおう。
私は食後酒の『白州』を飲みながら、なっちの寝顔を覗き込んだ。
寝顔はその人の心を映し出すとも言われているらしい。
純真無垢ななっちの寝顔は、そんな話を信じたくなるようだ。
「もしもし、食事が終わったよ。片付けてくれや」
フロントに電話して、ルームサービスの食事を片付けさせる。
これだけ綺麗に平らげれば、厨房の連中も喜ぶってもんだ。
私は酔い潰れたなっちを抱いてベッドルームに移る。
ルームスタッフが食器を片付け終えて部屋を出ると、
私はシャワーを浴びて今日の復習を始めた。
江戸の建設ラッシュ。外様大名への締め付け。
開国から倒幕、そして明治維新、自由民権運動。
日清・日露戦争に第一次世界大戦、日中戦争。
第二次世界大戦、軍需景気、オイルショックと。
- 49 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/06(金) 10:26
- どのくらい時間が経っただろう。もう、時計は午前0時を回ってる。
私はレポート用紙に復習した分をまとめて、そろそろ寝る事にした。
『白州』を飲みながら書いたから、ちょっと字が乱雑にはなってるけど。
日露戦争を想定して、八甲田山で雪中行軍訓練した部隊は、
記録的な寒波と吹雪に襲われて、ほぼ全滅しちまったらしい。
でも、この犠牲があったからこそ、日露戦争で勝利を得られたんだ。
「ふぁ〜、寝るかァ」
適度に酔いがまわったし、そろそろ眠くなってきた。
睡眠障害で苦しんでる人なんて、本当にいるのかなァ。
私がベッドルームに行くと、大の字になって熟睡するなっちがいた。
あれだけ泥酔してたんだから、ほとんど身動きしてねーなァ。
あまり姿勢を変えないと、エコノミークラス症候群になっちまう。
特にアルコールを飲んだ時は、血液中の水分が少なくなるから、
どうしても血の塊が出来やすいって話だからなァ。
なっちを脇に寄せて、私が入るスペースを・・・・・・。
「・・・・・・よっひー」
「え? ・・・・・・寝言か」
薄暗い明かりの中、なっちが僅かに微笑んだ。
その天使のように純真無垢な寝顔に、私は思わず見とれちまう。
なっちって色々な表情をするんだなァ。夕日の船上での綺麗な顔。
子供みたいに唇を尖らせる可愛らしい顔。そして・・・・・・。
どうしたんだろう。自分で自分を制御出来ないよ。
そんなに・・・・・・こんなに、なっちを求めたくなるなんて。
私だけのなっちでいて欲しい。私だけの・・・・・・。
- 50 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/06(金) 10:27
- 「・・・・・・なっち」
アルコールが入ったせいもあったのか、私は我慢出来なくなって、
気が付いたら熟睡するなっちの唇に自分の唇を重ねてた。
柔らかいなっちの唇の感触。梨華ちゃんにキスされた時とは違う。
心臓が破裂するくらいドキドキして、眩暈がするくらい緊張してた。
それは、気持ち悪いくらいに興奮し、そして感動が伝わっている。
私はなっちが好き。同性だなんて事は、もうどうでもいいんだ。
「大好きだよ。・・・・・・なっ」
私が小声でそう言った時だった。
なっちの腹筋に力が入ったと思ったら、何とも言えない音がする。
あの時の音と同じだ。船酔いで海に向かって、みんなで撒餌をした時と。
つまり、なっちは今、ゲロを吐こうとしているわけだ。
「グェロゲロゲロゲロゲェェェェェェェェェー!」
間一髪、私はなっちの顔を横に向け、ゴミ箱でゲロを受けていた。
プラスチック製のゴミ箱で助かったぜ。籐編だったら意味ねーもん。
さすがのなっちも、これには眼を覚まして苦しそうに喉を鳴らす。
私はなっちの背中を擦りながら、吐き気が収まるまで吐かせた。
「アハハハハ・・・・・・。眼が回ってるべさ」
笑ってる場合じゃねーだろオイ!
とりあえず、ゲロを捨てに行かねーと。
でも、また吐くんじゃねーかなァ。
水でも汲んでおいてやろう。
- 51 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/06(金) 10:27
- 「なっちさん、このペットボトルに水が入ってるからね」
どうしても、飲むと喉が渇くんだよなァ。
アルコールと一緒に水分まで小便になっちまうから、
酔った時の水分補給は、とっても大切な事なんだ。
それを怠ったりすると、脳血栓でお陀仏って事もある。
女性の場合、血液が濃くなって同じ姿勢でいると、
エコノミークラス症候群になっちまう事があるんだ。
「水、飲むべさ」
でも、どうして酔った時の水って美味いんだろうなァ。
砂漠の中を放浪して来たように、水がとても美味く感じる。
体内に吸収させるにはスポーツドリンクの方がいいんだけど、
酔った時は冷たい水が物凄く美味いんだよなァ。
よくジジイ連中が言ってる「甘露」って味だね。
でも、調子よく飲むと下痢しちまうから厄介だ。
「お水が美味しいべさー」
なっちは水を飲むと、すぐに寝息をたて始めた。
ったく世話のやけるカテキョだぜ。
でも、私がキスした瞬間に吐くんだもんなァ。
何となく面白くねーな。
まあいいや。なっちを抱いて寝てやるかァ。
頼むから吐かないでくれよ。
私も酔いがまわってきたんだからよ。
眠くなって来た。おいで・・・・・・なっち。
なっちの身体は柔らかいなァ。
- 52 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/06(金) 10:28
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また、宜しくお願い致します。
- 53 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/08(日) 19:26
- よっちぃガンガレ
- 54 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/12(木) 13:38
- >>53
ありがとうございます。
今後も是非、ご贔屓にお願い致します。
また少しですが更新します。
- 55 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/12(木) 13:39
- 〔学園祭・1〕
連休が終わると、すぐに推薦入試組が試験に出掛けて行く。
聖ダルセーニョ学園高等部・美少女三人組の中じゃ、
美貴ちゃんとごっちんが推薦入試だったっけ。
美貴ちゃんは東京工芸大学の建築科だったっけ?
ごっちんが赤坂大学の環境衛生学科だったような気がする。
まァ、国立一本の私には、あんまり関係ねー話だけどよ。
「ねえ、よっC。帰りにマック寄ろうよぉ」
ああ、そういえば、梨華ちゃんも一般入試だったっけ。
東京女子工科大って、推薦入試が無かったもんなァ。
梨華ちゃんだったら、まず大丈夫じゃねーか?
確か旺文社の全国テストで、悠々安全圏内だったし。
私なんか東京医科歯科大の合格率、四十二パーセントだぜ。
「ちょっと待った。えーと、ミトコンドリアは寄生してるんだよなァ」
「細胞に寄生してるんだよぉ。それがどうしたのぉ?」
ちゃんと生物もやっておかねーと、センター試験に出るもんなァ。
物理に化学と生物。地学がねーのだけは、まだ救いだぜ。
数学と日本史、国語と英語は、ほぼ大丈夫だけど、
問題は理科と政治経済なんだよなァ。
日本国憲法くれーは、しっかり憶えておかねーと。
憲法じゃ九条なんて曖昧なもんは、絶対に出ねーだろうから、
他のところから憶えりゃいいってわけだな?
日本人の三大義務は教育・労働・納税だったっけ。
- 56 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/12(木) 13:40
- 「ちょっとぉ。よっCったらぁ」
何だァ? いくらキスしたからって、私はもうなっちと・・・・・・。
えへへへへ・・・・・・。梨華ちゃんには悪いけど、私はなっちが好きだもん。
そりゃ梨華ちゃんも好きだけど、親友としての『好き』なんだよね。
そろそろ、はっきり言った方がいいのかなァ。
「まァ、マックだったらいいかな」
「決まりぃ!」
何だろうなァ。変な予感がするんだけど。
私はなっちと違って、霊感ってもんがねーんだけど、
どうもこの『予感』ってのは的中するんだよなァ。
中坊の頃、電車の中でチカンに遭った時もそうだった。
電車に乗る前から、何か嫌な予感がしてたんだよね。
千葉市でやったバレーの試合の帰りだったっけかなァ。
四十過ぎくれーのオッサンが、私のジャージの中に手を入れて来た。
私が裏拳を入れると、オッサンは鼻血を出してたっけか。
「梨華ちゃん、変な予感しない?」
「べべべべ・・・・・・別にぃ」
梨華ちゃんって、本当に判りやすいなァ。
何か企んでるのは事実なんだけど、どうしようかなァ。
締め上げたところで、梨華ちゃんは意外に強情だし。
騙された振りをして、とりあえずマックに行ってみるか。
もし、何かあったら、自慢の足で逃げちまえばいい。
親友の梨華ちゃんを置いて逃げるのは抵抗あるけど、
仕掛けて来たのは私の方じゃないからなァ。
- 57 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/12(木) 13:40
- どうも普通じゃない。梨華ちゃん、何かに怯えてるみてーだ。
通い慣れたマックに入っても、いつもの雰囲気とは違って、
店全体が何て言うか、張り詰めたような感じになってる。
私は周囲を窺いながら安いハンバーガーセットを頼んで、
いつものように席に着こうとして躊躇った。
どうもおかしい。何でこの時間に、こんなに空いてるんだろう。
いつもは聖ダルセーニョ学園の女の子で満員な筈なのに。
私は店の入口が見える場所に座って梨華ちゃんの様子を見た。
「フッ、梨華ちゃん。そろそろ話してくれよ」
「なななな・・・・・・何がぁ?」
オイオイ、何年の付き合いになると思ってんだよ。
小学校からだから、もう十年近くになるんだぞ。
いったい何を隠してやがんだ? それにしてもこの雰囲気。
何となく視線を感じるのは私だけなのかなァ。
「何でマックに誘ったの?」
私は周囲を注意深く見るけど、これといった不審人物はいない。
店にいる客といったら、入口には小さな女の子を連れた女性が、
こちらに背を向けて座ってるだけだ。
「アハハハハ・・・・・・。いつもの事じゃん」
店の入口が見える場所で、しかも裏から逃げられる場所。
海外ではこうした場所に陣取るのがいいとされている。
不審人物が店に入って来れば、すぐに見付ける事が出来るし、
もし、武器を持ってたら、裏から逃げる事が出来るからだ。
- 58 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/12(木) 13:41
- 「・・・・・・おかしい事がある。まず、何でうちの生徒が一人もいねーんだよ」
「そそそそ・・・・・・それはぁ・・・・・・」
いったい何があるんだ?
マックに入りそうになった文系クラスのやつも、
何かに怯えるみてーに逃げて行っちまった。
私はポテトにケチャップを付けて口に運ぶ。
梨華ちゃんは蒼い顔して、飲み物も口にしてねーじゃんか。
この梨華ちゃんのオドオドした態度は何なんだァ?
「次に、梨華ちゃんは何かを隠してる」
「(ギクッ!)そそそそ・・・・・・そうかしらぁ」
ほらほら、眼が泳いじゃってるぞーだ。
こんなに判りやすい性格してるから、
梨華ちゃんは小坊の内から虐められるんだよ。
ふふふふ・・・・・・。何を隠してやがんだァ?
まさか、妊娠したから責任とれなんて事はねーだろうな。
私は梨華ちゃんが妊娠するような事した覚えがないし。
っていうか、女同士じゃ妊娠しないじゃん。
だったら何を隠してやがんだ? このブリッ子女が。
「正直に言えよ。オレ達親友だろ?」
「う・・・・・・うん。実はぁ・・・・・・」
ようやっと喋る気になったみてーだなァ。
最初から目的を言えば、私だってこんなに警戒しねーのに。
ったく、これだから優等生梨華ちゃんは・・・・・・。
- 59 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/12(木) 13:41
- 「聖ダルセーニョ学園高等部三年、吉澤ひとみ。買い食いの現行犯だ」
うげげー! 何で石黒先生がいるんだよォ!
この前のビールの件かなァ。とりあえず逃げよう。
確か、こっちから行けば、ドライブスルーに行けた筈。
私は抜群の反射神経でテーブルを飛び越えると、
唖然とするアルバイトのお姉さんをよそに、
一直線にドライブスルーのドアに走って行った。
カウンターを飛び越えれば、すぐそこがドア。
「アハハハハ・・・・・・。ざんねーん」
げげー! こっちには保田先生が先回りしてやがったか!
これって、俗にいう『一網打尽』ってやつだなァ。
登下校中の買い食いは、校則で禁止されてる。
でも、そんな校則なんて誰も守ってねーじゃんかよ。
くそう! やられた! 嵌められた!
「きたねーよ! 囮捜査なんてよ!」
私は囮捜査の餌食になったのか?
どうりで誰もいねーはずだ。
出入口でこっちに背を向けてた子連れの女こそ、
泣く子も黙る聖ダルセーニョ学園の恐怖教師・石黒彩だった。
ちくしょう! だからみんな店に入ろうとしてやめたのか。
梨華ちゃん、親友だと思ってたのに私を売りやがって。
こうなったら、もう二度と口なんてきいてやんない。
石川梨華のばっきゃろー!
- 60 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/12(木) 13:42
- 「まあまあ、席に戻りなさい」
保田先生はさすがに温厚だなァ。
びっくりしたマックの従業員に頭を下げながら、
私の襟首を掴んで席まで連れて行く。
人のこと売りやがって! この女、許せねー!
私が睨み付けると、梨華ちゃんは俯いたまま。
そりゃそうだろうなァ。コクった相手を売ったんだからよ。
そこまでして、自分の評価点を上げてーのかよ。
見損なったぜ! 親友だと思ってたのに!
「おったおった」
何だよ。平家のみっちゃんまで来るのか。
そうか、私が捕まったから学校に連れて行くんだろ?
って事は、担任の裕ちゃんも来るってか。
こうなったら、開き直ってやろうじゃねーか。
あれ? あいつは文系クラスの焼銀杏じゃねーかァ。
何で理科の教師の平家のみっちゃんが、
文系クラスの焼銀杏なんて連れてるんだァ?
「今日は手入れじゃないよ。相談があってね」
「へっ? 相談すか?」
何だろう。学校じゃ話せない事なのかなァ。
石黒先生はまだ産休中じゃなかったっけ。
出産が終わったから育休になるのかなァ。
でも、手入れじゃねーって事は、いったい何?
それ以前に、何で私がここにいるわけ?
- 61 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/12(木) 13:42
- 「これでメンバーが揃ったわね」
「メンバー? 平家先生、メンバーって何よ」
私が訊くと、途端に石黒先生の表情が厳しくなる。
このこえー顔に、私は何回泣かされた事か。
でも、私と梨華ちゃん、焼銀杏、石黒先生、
みっちゃんと保田先生でメンバーって?
このメンバーで、何かおっぱじめようってのか?
石黒先生とみっちゃんがいれば、ケンカは勝てそうだ。
そうか! 都立高校にケンカしに行くんだな。
「吉澤さんは譜面が読めたよね」
そう言うと保田先生は、バッグの中から譜面を出した。
何だろう。何の譜面なんだろうなァ。
譜面って事は、著作権か何かでトラブってんだな?
都立校の生徒を二、三人拉致って交渉するのかァ?
こいつはかなりヤバイ橋を渡りそうだなァ。
中坊に毛が生えたくれーの連中なら、いくらでも相手になるぜ!
オフクロにはプロレス技を伝授されてるしよ。
「福田さんはこれね。石黒先生はこれ。平家先生はいらないわね」
えーと、キイが Dm7 だから、ニ短調って事になるなァ。
スラーで一音上げるのか・・・・・・これってギターの譜面っぽい。
チョーキング(正式にはベンド)すりゃ弾きやすそうだ。
ギターはタブ譜が有名だけど、慣れちゃえば譜面の方が楽。
しかし、十六ビートかよ。こいつはメタルっぽいじゃんか。
この譜面が、何のトラブルを誘発したんだろう。
- 62 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/12(木) 13:43
- 「保田先生。ツーバスでハイハットは使えません」
「いけない。そうだったわ」
そうだよなァ。ツーバスでハイハットは使えねーもんなァ。
最近になって、連結した器具も出て来たんだけどね。
でも、ツーバスでハイハットなんて反則だよ。
やっぱり、故コージー=パウエルみてーにやんなきゃ。
未だに故コージー=パウエルのビジュアル的功績は、
メタルの連中の間じゃ神話化されてる。
これまで『裏方』っぽかったドラムってパートを、
初めて『見せる』ことをしたんだからなァ。
「ところで、これって何ですか?」
「二週間後、学園祭があるだろ? あれに出るんだ」
学園祭? そういえば、学園祭なんてあったっけかなァ。
私はバレー部だったから、学園祭なんて関係なかったもん。
テキトーに模擬店で買い食いして終わりだったっけか。
そうかそうか。その学園祭に・・・・・・もしかして私が?
「あの、もしかしてオレも出るんですか?」
そんなこたーねーやなァ。
私は聖ダルセーニョ学園始まって以来、
初めて東京医科歯科大を受験するんだからよ。
譜面を渡されたって事は、誰かにギターを教えるのかァ?
そんな余裕なんてねーっての。
私は泣く子も黙る受験生・・・・・・。
- 63 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/12(木) 13:43
- 「当たり前だろ。ギターなんだから」
何てこった! 私は泣く子もびびる受験生だぞ。
それなのに、学園祭に参加しろだと?
これって、かなり無責任な気がするんだけど。
ったく、石黒先生にしろみっちゃんにしろ何を考えてんだか。
私がピアノとギターやってる事、保田先生は知ってるけど、
何で石黒先生やみっちゃんにまで話が行くんだよ。
これって、プライバシーの漏洩じゃねーのか?
「一応、有志って形だけどね」
「出来れば代わりの子にでも・・・・・・」
「お前しか出来ねーんだよ」
うっ! 石黒先生に言われちゃ逆らえねーなァ。
しかし何だ。みっちゃんがヴォーカルで、私がギター?
石黒先生の譜面はヘ音記号だったからベースだよなァ。
焼銀杏がドラムっぽいから、保田先生はキーボードか。
で、何で梨華ちゃんがいるんだ?
「梨華ちゃんは何するの?」
「あたしはマネージャーよぉ」
マネージャーか。そうだよな。梨華ちゃんは音楽が苦手だから。
アマチュアのバンドってのは、まずマネージャーから見付けねーと。
余程バイタリティのあるやつがいねーと、自然消滅しちまうんだ。
プロにしたって、『音』を管理する人間が必要になるもんなァ。
クィーンなら故フレディ=マーキューリーだったし、
KISS ならジーン=シモンズ、X-JAPAN ならYOSHIKI。
- 64 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/12(木) 13:44
- 「この『ジンギスカン』と『バビロンの城門』を足して二で割ったようなコード進行。
どこかで見た気がするんだけど、どうしても思い出せないなァ」
オフクロが若い頃、原宿から代々木で流行った竹の子族。
彼女達のスタンダードナンバーが『ジンギスカン』だったらしい。
『バビロンの城門』は、レインボーの有名な曲だったよなァ。
確か中世の城を借り切って録音したんだっけか?
リッチー=ブラックモア、ロニー=ジェイムス=ディオ、
そして伝説のコージー=パウエルがメンバーだったからなァ。
・・・・・・何でこんな古い話を知ってるんだろう。
まるで、インターネットで調べたみたいに。
「これは『恋のダンスサイト』略して『恋ダン』だよ」
そうだ。確か『恋ダン』は Dm7 から始まる。
リッチー=ブラックモアばりの変則コードだったっけ。
まるでベリーダンスのバックミュージックみてーな音を取ってる。
そうなると、やっぱりストラトキャスターじゃねーとな。
確かオヤジがラージヘッドのフェンダーUSAを持ってたっけ。
って、もう私はプレイする気になっちまってるなァ。
「こういう事なのぉ。ごめんねぇ」
どうもこうも、もう断れねーじゃんか。
みっちゃんはノリノリだし、石黒先生には弱味があるし。
保田先生だけだったら、こんなもんスッパリ断っちまうけど。
でも、何か安心したよ。梨華ちゃん、私を売ったんじゃないかった。
もし梨華ちゃんが囮だったら、私は絶対に許さなかっただろう。
それにしても、こんな時期にバンドなんかやるのかよ。
- 65 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/12(木) 13:44
- 「このジャンルはマイナーだけど、浸透しつつある・・・・・・」
「『ムスメタル』っていうのよ」
保田先生が身を乗り出して言った時、石黒先生の裏拳が入った。
鼻血を出して悲鳴を上げる保田先生。何があったんだよ!
「保田ァァァァァァァァァー! お前が言うんじゃないよ!」
「ここここ・・・・・・こえーよォォォォォォォー!」
確かに石黒先生は保田先生より先輩だけど、
ここには二十世紀の遺物というべき階級闘争があった。
聖ダルセーニョ学園には、そうした伝統が残ってるらしい。
階級闘争を否定して全共闘した団塊の世代。
彼等は今、定年間近になって、役職にしがみ付いてる。
人間ってもんは、こんなに軟弱な生き物だったのか。
「いしいしいしいし・・・・・・石黒先生。暴力は・・・・・・」
あのみっちゃんが。あのみっちゃんがびびってる。
聖ダルセーニョ学園・恐怖教師三人組の一人であるみっちゃんが。
そういえば、二人の先輩に当たる裕ちゃんですら、
石黒先生を怒らせないようにしてるくれーだもんなァ。
「吉澤と福田は、明後日までに出来るようにしろ」
「そんな! 無理っすよ」
「やれ」
「はい!」
どうなっても知らねーぞ。梨華ちゃん、えらい事をしてくれたなオイ。
- 66 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/12(木) 13:45
- 今日のところは、これで失礼致します。
また、宜しくお願い致します。
- 67 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:27
- ちょっとマニアックな展開になりますので、早目に更新します。
どうも前回の短編コンペで『Woman From Tokyo』を読んでから、
洋楽のDVD等を観るようになりまして、随分と影響されてしまいました。
- 68 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:27
- 〔学園祭・2〕
私に寝る暇なんて無かった。
なっちに相談しても無意味もいいとこ。
「それと勉強は別問題だべさ」だってよ。
夜十一時まで勉強して、それからギターの練習。
まず、コードを頭に叩き込んでからユニゾン。
間奏も考えておかねーといけねーしなァ。
「よっC、眼の下に隈が出来てるべさ」
そりゃ二晩も徹夜すりゃ隈くれー出来るよ。
でも、あの石黒先生が『やれ』って言うんだぜ。
断ったりしたら、どんな仕打ちをされるか判ったもんじゃねー。
殴られるくれーならいいけど、殺されるかもしれねーじゃん。
「黙って! コード進行を忘れるとまずいから」
えーとGだったっけ? G7だったっけ?
G7は先進七ヶ国首脳会議の略・・・・・・ちがーう!
歌にF(ファ)の音がねーから、Gでいいんだな。
問題はDm7 の次がCかC7だったっか。
ブドウ糖はC6H12O6だったなァ。これもちがーう!
だからDm7 ジスプロリウム+マグネシウム・・・・・・。
Bはホウ素、Fはフッ素、Cm はキュリウムってか?
Fm フェリウム。Am アメリシウム。Hは水素だもんな。
って、いつからドイツ音階になったんだ?
アハハハハ・・・・・・ちげェェェェェェーう!
- 69 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:28
- 「コード進行? 電源コードだべか?」
「それはケーブルだヴォケ!」
何で日本は『ハニホヘトイロ』なんだよ。
おまけにイタリア語の『ドレミファソラシ』も覚えなきゃいけねーし。
最近じゃ英語の『CDEFGAB』も覚えねーとなァ。
ドイツ(バロック)音階の『CDEFGAH(H=B♭)』もあるし。
ちなみにドイツ語だと『ツェー、デー、エー、エフ、ゲー、アー、ハー』だ。
「『ヴォケ』はないっしょ!」
エイトビートだったら、小節の中でコードを変えてやれば、
わざわざ難しい事なんかする必要ねーんだけどなァ。
十六ともなると、頻繁にコード変更出来ねーし。
7(セブンス)ってのは7番目の音を入れてやるって意味。
だから Am7 になると、『ラドミ』の和音に『ソ』を入れてやる。
理論なんてのは、数学に比べたら簡単もいいとこだ。
「間違えたら、石黒先生にヤキ入れられるんだぞ!」
まだオルガンの方が良かったなァ。
何しろ指を十本も使えるからよ。
ギターじゃ基本的に四本しか使わねーし。
掟破りの親指ってのもあるけどね。
とりあえず、私はギターって事だから、
フェルナンデスのテレキャスターモデルを持って行こう。
ギターアンプは軽音楽部のやつを借りればいいし。
シールド(ギターケーブル)とストラップ、ピックがありゃOK。
- 70 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:29
- 「判ったべさ」
「飯はまだかよ!」
「今、お味噌汁を・・・・・・」
「もういいよ!」
私はバッグとギターを持って、家を飛び出しちまった。
何かなっちに悪い事したなァ。でも、私だって余裕ねーし。
なまじギターなんて弾けるから、ターゲットにされちまった。
ったく、私は受験生だから、それどころじゃねーってのに。
「よっC、おはよぅ」
「・・・・・・みんなてめーのせいだゴルァ!」
そう、みんな梨華ちゃんが悪い。
石黒先生に命じられて、私をマックに誘ったりしたから。
親友だから今回だけは我慢してやるけどよ。
次にこんな事したらヤキじゃ済まねーからな。
「あちゃー、またご機嫌ナナメぇ?」
「当たり前だろうがよ!」
私は少なくとも梨華ちゃんより勉強する時間が必要なんだからよ。
数学と英語、理科をやってりゃいいわけじゃねーんだ。
政治・経済や国語、日本史まで勉強しねーといけねーんだぞ!
おっと、Dm7 の半拍前から始まるんだったよなァ。
ギターソロのアドリブはブラックモア風にすべきなのか、
それともクラプトン風にすべきなのか。
こればっかりは石黒先生の好みだろうなァ。
- 71 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:29
- 放課後になると石黒先生がやって来て、視聴覚室で音合わせが始まった。
私が軽音楽部から借りて来たフェンダーのサンダーリバーヴを用意してると、
石黒先生はジャグボックスの二段積みを用意して、音を鳴らし始める。
音で負けちまうじゃんか。次はPVの二段積みじゃねーとなァ。
「どいてどいてー」
おっと! 保田先生はハモンドオルガンを台車に載せて来たよ!
おまけにYAMAHAのC7もあるじゃねーか。
それから・・・・・・。こいつはケーブルパッチのミニムーグだ!
さすがアナログ派人間の保田先生だけあるなァ。
「オイ、おめー、それじゃ前が見えねーだろ」
焼銀杏は二十二インチもあるバスドラムを二個並べて、
おまけにメロタムを四個も付けてやがる。
フロアタムも二個で、シンバルがトップ、サイドともう一枚。
まるでイアン=ペイス+コージー=パウエルだなオイ。
しかも、太鼓はパールで、シンバルはジルジャン、
スネアはラディックじゃねーか!
「てめーはジョー=ウォルシュか吉澤ァァァァァァァァァァー!」
「すすすす・・・・・・すいませーん!」
こいつはまずい。石黒先生はブリティッシュロックマンセーだ。
こうなったら、次はオヤジのストラトキャスターのラージヘッドに、
ローランドのJC−120をを繋いでやる。
家の物置を探してみよう。何か他にもギターがあるかもしれねー。
うーん、石黒先生はフェンダーのプレジションベースか。
- 72 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:30
- 「今日のところは、マイクで拾ったるで」
石黒先生に比べれば、平家のみっちゃんは仏様だなァ。
しかし、うちの学園もカネがあるもんだぜ。
天井埋め込みのスピーカーはBOSEだし、
視聴覚室の巨大なスピーカーはJBLだもんなァ。
だいたい、マイクがシュアーの58USAだぜ。
まァ、視聴覚室の音響設備だけで一千万はするね。
「それじゃ、やってみるぞゴルァ!」
保田先生のハモンドオルガンもマーシャルに繋いでる。
まるでジョン=ロードみてーな音を出してるぜ。
こいつは興奮して来たなァ。まずは Dm7 で・・・・・・。
「吉澤ァァァァァァー! 何だその音はァァァァァァー!」
石黒先生こえー! 巨乳になって迫力が増したなァ。
音って言われても、フェンダーのサンダーリバーヴと、
フェルナンデスのテレキャスターじゃこんなもんだよ。
何しろ二万円くれーの安物なんだからよォ。
「ゲージは?」
「エキストラライトっすけど」
メーカーによっても異なるけど、エキストラライトゲージは、
一弦から09、11、15、26、34、42 くれーだよなァ。
これくらいが一般的なんじゃねーのか?
それとも、もっと細くてシャープな音を?
- 73 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:30
- 「ヘビーゲージにしろ」
「それじゃチョーキング出来ねーよォ!」
「それぐらいじゃないと、いい音は出ないんだよ」
今はエフェクターマンセーの時代だけど、
チューブアンプにデジタルエフェクターなんて無意味。
アンプ直結か、アナログエフェクターじゃねーとなァ。
デジタルで作った音ってのは、レコーディングにはいいけど、
ライブになると薄っぺらで芯の無い音になっちまう。
最初からデジタル音で慣れちまうと、そこから音作りが始まっちまうんだ。
「自分の音を作れ」
自分の音を作れればプロになれるっての!
この音を聴けばリッチーだ。ペイジだって具合に。
クラプトンやギルモアなんて、未だに音を探してるし。
こいつは困ったぞ。いったいどうすべきか。
石黒先生は自分なりにベースの音を作ってるもんなァ。
「わわわわ・・・・・・判りました」
自分の音を作ってから、初めてリズムやメロディか。
シングルコイルのピックアップになると、音が細くなっちまうんだよなァ。
でも、石黒先生のベースの音だと、フロントがハムバッキングじゃ合わない。
デリケートな音色を出せるのが、シングルコイルの魅力なんだけど。
そうか! だから太いゲージを使わないといけないんだ。
クリアで張りのある音は、シングルコイルで太いゲージを使うしかねーや。
音の歪ませ方も、ある程度は手元で出来ないといけねーわけだから、
アンプのゲインにも気を使わないといけねーってか。
- 74 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:31
- 「今日はいいけど、明後日までに何とかしろよ」
こんなに本格志向だとは思わなかったぜ。
こいつはすげーステージになりそうだなァ。
視聴覚室の防音設備は、かなりしっかりしてる。
これだけガンガンに鳴らしても大丈夫なんだから。
「それじゃ、最初から行ってみようか」
最初は保田先生のシンセから始まる。
すぐに私の軽いソロが入るんだ。
ドラムが入って、石黒先生のベース。
うげー! すげー迫力だァァァァー!
こんだけパンチの効いた音出す人も珍しい。
クリアな音なんだけど、物凄く攻撃的な感じ。
石黒先生は『自分の音』を持ってるんだなァ。
「平家先生、そこの音はCですよ」
「Dちゃうの?」
さすが保田先生。私には音のブレにしか感じなかった。
こうした人がいると、物凄く良くなって行くんだよなァ。
Dm7 だから『レファラド』の和音になる。
だから、ちょっと音が取りにくいんだなァ。
絶対音階のある保田先生だからこそ判ったんだろう。
平家もみっちゃんも、歌わせてみると凄いの一言。
パワフルで、いかにもロックヴォーカルって感じ。
焼銀杏のドラムも意外に重くて、それでいて抜ける音。
みんなすげーんだなァ。
- 75 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:32
- 八時過ぎに練習を終えて、私は家で物置を漁った。
しかし、三人家族だったってのに、何でこんなに物置が広いんだァ?
駐車場の奥に、十二畳分のプレハブが建ってる。それがうちの物置。
どうせガラクタしか置いてないんだろうけど、
オヤジも若い頃はバンドやってたって話だからなァ。
物置を開けると、何とも言えない埃の臭いが鼻をつく。
電気のスイッチを入れると、もったりと蛍光灯が点いた。
「えーと、オヤジのギターがあったっけか」
オヤジが客間に飾ってるストラトキャスターは、
一九七〇年代のヴィンテージ物らしいから百万近くするそうだ。
かなり前に、オヤジは他にもギターを持ってるって言った。
そうなると、そのギターを置いてるのはここしかねー。
「あったあった。あんな上かァ」
棚の上の方に、四角いハードケースが三個ばかり積んである。
えーと、何か踏み台になる物は・・・・・・あった脚立があったぞ。
しかし、この中央のダンボールの山は、みんなオフクロの古着だろう?
よく、バザーなんかで古着を持って来るおばさんがいるんだけど、
そんなもの、今の時代に売れるもんじゃねーっての。
そりゃ高級ブランドの服なら別だけどよ。
「ひゃー、埃塗れだぜ。マスクでもして来れば良かった」
とりあえず、三個のギターケースを降ろしてみた。
埃塗れの上に、金具が錆び付いてやがる。
私はポケットの中にあるティッシュで埃を取ると、
錆び付いた金具を抉じ開けて中身を確認してみた。
- 76 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:32
- 「へえ、アイボリーのストラトキャスターかァ」
スモールヘッドのフェンダージャパンだから、
そう高級品じゃねーみてーだなァ。
でも、何となくピックアップがディマジオっぽい。
これなら、石黒先生も許してくれるかなァ。
次のケースは・・・・・・またストラトかよ。
「へえ、『グリコ』って菓子メーカーじゃなかったのかァ?」
そこには、ピックガードが変色した古いサンバーストのギターがあった。
『グリコ』なのかなァ? それとも『ガラコ』なのかなァ?
『ガラコ』っていったら、ソフト99が発売してる撥水剤だっけか。
・・・・・・そういえば、遥か昔に『グレコ』っていうメーカーがあったって聞いた。
確かアイバニーズとフェンダージャパンの前身が、グレコだったっけ。
そうなると、このストラトは、フェンダージャパンになる前のもんかァ。
「古過ぎて価値が判らねーや」
確かに国産のオールドモデルの需要はあるらしい。
だから、そこそこ値段が付くらしいけどなァ。
まァ、このストラトも使えなくななさそーだ。
さてと、最後のケースはと・・・・・・またストラト。
しかもスモールヘッドじゃ・・・・・・違う!
ここここ・・・・・・これは一九六〇年代前半の超ヴィンテージ物だ!
しかも、ネックがスキャロップになってるし、新品同様じゃんか。
ぺグはクルーソンだし、ナットは象牙じゃねーか!
こいつはネットオークションにかけりゃ、百万以上は確実だぜぇ。
- 77 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:33
- 「よっしゃー! こいつを使ってやろうじゃねーか!」
これで石黒先生を驚かせる事が出来るなァ。
後はアンプを何とかしねーといけねーぞ。
オヤジもアンプくれーは持ってんだろうなァ。
あそこにギターがあったんだから、この当たりかァ?
えーと・・・・・・このでけーのは何だろう。
スピーカーにしては細い感じだけどなァ。
カバーが掛かってて判んねーぞ。
「あれ? 横になってんのかァ?」
棚の一番下に、カバーの掛かった同じ大きさの箱が四個。
その横には同じ黒いカバーの掛かった小さな箱が二個。
でけー方は重いから、小さい方を引っ張り出してみる。
やっぱり埃塗れで、私は咳をしながらカバーを取ってみた。
「こいつはマーシャルじゃねーか!」
小さい箱の方は、マーシャルのヘッドユニットだった。
っていう事は、こっちのでけー方はスピーカーユニット?
私が力任せに引っ張り出してみると、やっぱりそうだった。
しかも、五インチスピーカー四発のフルスケールじゃねーか!
「やったァァァァァァー!」
これで問題無しってなもんだよなァ。
後はエフェクターだけど、何かあるのかなァ。
ワウペダルとブースター類しかねーか。
- 78 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:34
- 「待てよ。こいつをどうやって運ぶかだなァ」
ギターなんてのは軽いもんだけど、問題はマーシャルアンプだ。
三段積みが二個だから、少なくとも二百キロはするだろうなァ。
ベンツには積めねーし、病院の救急車を使うってのもまずいし。
仕方ねーからレンタカーでハイエースでも借りて・・・・・・。
待てよ。確か麗奈とさゆみのオヤジが、自動車のリース会社を経営してたっけ。
とりあえず電話して、扱ってるかどうか確認だけしてみるか。
〈うすっ! 吉澤さん。その節はどうも!〉
「あのよー、おめーんとこで、ハイエースのロングタイプ扱ってる?」
麗奈、久し振りだけど元気そうで何よりだなァ。
あの時は、本当に腹が減ってたみたいで、
マジでよく食ったっけかなァ。
変な男に引っ掛からなくて、本当によかった。
〈ハイエースロングっすね? 調べたら折り返し電話します!〉
「おう、頼んだぜ」
さてと、後は弦だけど、いったいどうしたもんかなァ。
いくら何でもヘビーゲージは無理ってなもんだしよ。
とにかく、低音弦を太くしねーとなァ。
後はピックも、もっと硬いタイプじゃねーと。
駅前の楽器屋は午後十時までやってたっけか?
よし、ちょっくらチャリンコで行って来るかァ。
駅まではチャリンコなら、ほんの五、六分だし。
とりあえず、二千円くれーは財布に入ってるし。
そうと決まればレッツゴー!
- 79 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:34
- 「よっC! どこ行くべさっ!」
いけねー! なっちに見付かっちまったかァ。
今日は見逃してくれねーかなァ。
なっち、玄関の前で腰に手を当ててるよ。
そりゃそうだよなァ。なっちは私のカテキョだもん。
「ちょっと、駅前の楽器屋まで」
「よっC、ここんとこ寝てないっしょ?」
そりゃ寝てねーよ。勉強とバンドなんてやったら。
だいたい私だって好きでやってんじゃねーよ。
石黒先生が強引だから、仕方なくやってんじゃねーか。
それを何だっての! ったく面白くねーなァ。
「オレの事は放っといてくれよ!」
「そうは行かないべさ。なっちは心配なんだべよ」
心配してくれるのは嬉しいんだけどさ。
親切で言ってくれるのは嬉しいんだけどさ。
なっちの事は大好きなんだけどさ。
私には余裕がねーんだよ。
「ちゃんと勉強するからいいだろ!」
背後で「よっC!」って声を聞きながら、私はチャリンコのペダルを漕ぎ始めた。
何で素直に言えねーんだろう。もっと、他に言い方ってもんがあるだろうになァ。
いくら余裕が無くても、私が大好きななっちじゃんかよ。
ああ、私って何でこうなんだろう。ったく超自己嫌悪!
- 80 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/14(土) 08:35
- 今日のところは、このあたりで失礼致します。
また、近日中に更新致しますので、宜しくお願い致します。
- 81 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/16(月) 19:48
- 〔学園祭・3〕
し・・・・・・しまった。今日は定休日だった・・・・・・。
私とした事が、定休日だってのに来ちまうなんてよ。
疲れてんのかなァ。そりゃ疲れるよ。二晩徹夜だし。
仕方ねーな。ギター弦は明日って事にしようじゃん。
・・・・・・電話だ。おう! 麗奈からじゃねーかァ。
「もしもし、どうよ」
〈古くて良ければあります!〉
「よっしゃー! 明日取りに行くからよ!」
〈うす! 待ってます!〉
やった。これでマーシャルを運べるなァ。
・・・・・・って、いったい誰が運転するんだよォ!
オヤジやオフクロはアテにしてねーし、
なっちはベンツくれーで大騒ぎしたから問題外。
免許を取ったばっかりのごっちんで平気かなァ。
とりあえず家に戻るとするかァ。
「さてと」
駅から私の家までは、裏道を使うと早いけど、
そこは暗くて寂しい場所だから、歩く時は利用しなかった。
でも、今日はチャリンコだから平気だよー。
この辺りは住宅街で、変質者が出たなんて事も無い。
東京近郊の割に、事件が少ない都市なんだよなァ。
それだけ自治体がしっかりしてるんだろうね。
- 82 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/16(月) 19:48
- 「ん?」
滅多に人もクルマも通らないってのに、なぜかバイクがやって来る。
結構大きそうなバイクだなァ。原チャリは音で判るからよ。
しかし眩しいなァ。ライトを上向きにしてんじゃねーの?
確かに広い道じゃないけど、ちょっと寄って来るみてーだな。
何か嫌な予感が・・・・・・。
「危ねー!」
案の定、バイクは私にぶつかりそうになった。
私はブレーキをかけて片足を着いたくれーだもん。
ったく、どこの小僧か知らねーけど迷惑な話だぜ。
万が一、接触〜転倒なんて事になったら、怪我しちまうじゃんか。
「ゴルァ! ・・・・・・へっ?」
どうしたんだァ? バイクがUターンして来るぞ。
ここここ・・・・・・こいつはヤバイ! 私を狙ってるみてーだ。
わーん! 私は三千円くれーしか持ってねーぞ!
引ったくりするんなら、もっと金持ちにしろよー!
「ここここ・・・・・・怖いよォォォォォー!」
私がダッシュで逃げると、バイクが追っ掛けて来た。
いくらダッシュしても、バイクには敵わねーよォ!
内装三段ギアをトップにして思い切り漕いでるけど、
これじゃせいぜい四十キロくれーしか出ねーじゃんか。
制限速度しか出ねーんじゃ、相手になんねーよォ!
- 83 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/16(月) 19:49
- 「あァァァァー!」
蹴りを入れやがった! この野郎!
ってハンドルがァァァァー!
いてェェェェー! コケちまった!
・・・・・・ヤバイ! バイクの野郎ブレーキターンしやがった。
ここここ・・・・・・こいつマジだぜ。マジで私を・・・・・・。
逃げないと・・・・・・逃げなきゃ殺されちまう!
「ひゃァァァァー!」
チャリンコより足で逃げた方が、加速がいいってもんだぜ!
でも、私なんかが全速で走ったところで、時速三十キロが限界。
何とかバイクを避けれても、じきに追い詰められちまう。
おまけに、どうやら足首を捻っちまったらしい。
助けを呼ぼうにも、誰もいねーじゃんかよォォォォー!
「ひえー!」
危ねー! やっぱりマジで轢く気だぜこいつ。
どうしようか・・・・・・とにかく誰かに助けを・・・・・・。
・・・・・・ケイタイ! ケイタイがあったじゃんかよ!
こういった時のために、ケイタイってもんがある。
運転中にメール打つ馬鹿がいるから禁止に・・・・・・。
「どわァァァァー!」
えーと、いけねー! 二回もクリックしちまった!
バイクの爆音で、コールする音が掻き消されちまう。
- 84 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/16(月) 19:50
- 「誰でも・・・・・・誰でもいいから出てくれよォォォォー!」
誰に電話してるのなんか、全く判らなかった。
だって、そんな余裕なんてねーもんよォ!
着信あたりをクリックしたから麗奈あたりかァ?
いや、二回クリックしちまったから、
誰が出るのか判んねーよォォォォー!
〈もしもし? よっC? もう知らないべよーだ〉
「たたたた・・・・・・助けてー!」
〈ほえ? どうしたんだべか?〉
「ババババ・・・・・・バイクに轢き殺される!」
電話に出たのはなっちだけど、バイクは何度も私を襲って来た。
どこへ逃げようにも、バイクは執拗に私を追い駆けて来る。
足首が痛いけど、とにかく走らねーと殺されちまう。
でも、何でなっちが出たんだァ? 着信かリダイヤルした筈なのに。
そうか! 私が二回もクリックしちまったからだな。
〈どこにいるんだべさ! よっC!〉
「駅から・・・・・・家までの・・・・・・」
〈待ってるべさ! よっC!〉
待てるわけねーっての!
いくら足が痛くても走らねーと轢き殺される。
おわっと、また轢かれそうになった。
バレーやってて良かったなァ。
大山先輩や栗原先輩にシゴかれたからよ。
って、わァァァァーん! ケイタイがすっ飛んだ!
- 85 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/16(月) 19:51
- 「ハァハァハァ・・・・・・も、もう駄目だ・・・・・・」
いくら体力には自信があっても、相手がバイクじゃ無理だ。
私は道路の中央に座り込み、もう動けそうにない。
このまま、私はあのバイクに轢かれて死んじまうんだろうなァ。
そうか・・・・・・これまであいつが私を襲ってたんだな?
いったい誰なんだよ。何で私を狙うんだよ。
もう終わりか。くそっ! なっち、さようなら。
「てめーは誰だゴルァ!」
バイクのヘッドライトがあるから逆光で、野郎が誰だか皆目見当が付きゃしねー。
ここまで私を追い詰めるんだから、きっと何か恨みでもあるんだろうなァ。
だけど、私にはさっぱり恨まれたりする憶えがねーってんだ。
あれだけのバイクだったら、フェンダーが当たっただけでも死ぬだろうな。
「オレが何かしたってのかよ!」
何で襲われるのか、それが知りたかった。
だって、わけも判らずに死んじまうなんて嫌だ。
私が悪いんなら、諦めもつくってもんだからよ。
私が何をしたのか説明しろってんだ!
「・・・・・・」
ここまで来ても野郎は無言だった。
もう、こっちは無抵抗だってのによ。
もしかして、人違いなんじゃねーの?
それだけは勘弁して欲しかったなァ。
- 86 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/16(月) 19:51
- その時だった。バイクの後方に眩しいヘッドライトが見えたのは。
驚いたのはバイクの野郎で、酷く動揺してるみてーだった。
あの音は・・・・・・メルセデスじゃねーか! まさか、なっち?
バイク野郎は驚いて、私の脇を逃げて行った。
「よっC! 大丈夫だべか? 乗って!」
私が助手席に転がり込むと、なっちはバイク野郎の追跡を始めた。
息が上がっちまった私は、シートベルトをするのが精一杯。
コーナーで離されても、直線じゃ S600Long の方が速い。
「ナンバープレートが見えないべさ」
「VFRみてーだなァ」
私を襲ったバイクは、どうやらVFRっぽい。
黒いライダースーツを着たやつは、かなり華奢な身体つきだ。
だから、私と正面から勝負しなかったんだな?
なっち、逃がすんじゃねーぞ!
「あれは女の子だべね」
「何で?」
なっちはヘッドライトでバイクを照らし、身体つきを見てそう言った。
言われてみると、どうも女っぽい身体つきをしてるみてーだ。
しかし、いったい誰が私を殺そうとしやがるってんだァ?
そりゃ私だって人間だから、ソリが合わねーやつもいるけどよ。
そのくらいで殺そうと思うか? 常識的に考えて。
・・・・・・ここは通れない! 車幅が1.7メートル制限だァァァァー!
- 87 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/16(月) 19:52
- 「ちっ! 取り逃がしたべさ」
なっちはクルマをバックさせると、方向を変えて停車した。
私の中に恐怖が蘇って来る。マジで死ぬと思った。
マジであいつに轢き殺されると思った。
あとちょっと、なっちが来るのが遅かったら、
きっと私は轢死体になっていただろうなァ。
「よっC、怪我しなかったべか?」
「怖かったよォォォォー!」
私はなっちに抱き付いて号泣しちまった。
このところ、二晩も寝てねーし感情がコントロール出来ない。
なっちの胸に顔を押し付け、心音が聞こえると落ち着いて行く。
これはまだ胎児だった頃、子宮の中で聞いていた音らしい。
だから人間って、人の心音を聞くと安心するんだそうだ。
「さあ、自転車を回収して帰るべさ」
こんな時でも、なっちは優しいなァ。
あんなに憎まれ口を叩いた私なのに。
もし私がなっちの立場だったら、一発殴ってるよ。
それ以前に、電話で呼ばれても来やしねーよ。
「足首捻っちゃった」
なっちは私の足を心配して、自転車をトランクに入れてた。
ちゃんとなっちの言う事を聞いてれば・・・・・・。
何で私って、こんなにガキなんだろうなァ。
- 88 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/16(月) 19:52
- 病院で手当を受けてから、私はオフクロとなっちの三人で警察に行った。
いくら何でも、あれには黙っていられないし、とにかく殺意を感じたもん。
目撃者は私となっちだけだし、私を襲ったバイクがVFRとしか判らない。
警察ではナンバーが判らないと、この手の捜査は難航するとの返事だった。
幸いにも私が軽傷だったから、警察も『ながら捜査』になるんだろうなァ。
警察なんてのはそんなもんだ。凶悪事件じゃないと動いてくれやしねーよ。
「一応、届けは受理しましたけどね」
「一応って何だべさ」
そうだよなァ。『一応』じゃ困るんだよ。
私は三度も殺されそうになったんだからよ。
いくら説明したって、前の二件は関係が薄いって言われた。
確かに前の二件から比べると時間が経ってるけどね。
「そりゃ、まあ、あの・・・・・・」
「ちゃんと捜査する気あるんだべか? 捜査状況を見に来るべよ! アアン!」
何もそこまで言わなくても・・・・・・。
確かに警察は凶悪事件しか捜査してくれねーけどよ。
ただ、あのバイクだけは事故扱いにして欲しくねーよなァ。
あのバイクに乗ってたやつは、あきらかに殺意があったもん。
「だから受理したって・・・・・・」
「署長呼んで来るべさァァァァァァァァァァァー!」
警察官といえどサラリーマンだから、上司に怠慢が発覚するとまずい。
特に公務員世界ってのは、何でもかんでも責任の所在を追求したがる。
だから、公務員ってのは、当たらず触らずって事しか考えねーんだよなァ。
- 89 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/16(月) 19:54
- 「私が約束しましょう。捜査課長の村井国夫です」
「マンジュシュトリ=ミトラ正大師! 約束だべよ!」
なっち、マンジュシュトリ=ミトラは言い過ぎだろ。
日本全国の村井さんが、きっとそう呼ばれたんだからよ。
それに、何だかんだ言っても、もう故人じゃねーか。
しかし、あの事件も、かなりいい加減だよなァ。
公安じゃ、随分前からマークしたっていうじゃねーか。
松本サリン事件で、ほぼ確証が得られたっていうのに、
少しでも事件を大きくするために動かなかったって話だ。
「気分悪いべさっ! よっC! 帰ろう!」
「え? ああ、うん」
気分を悪くしたのは、あの村井っていう捜査課長じゃねーか?
何しろなっちにホーリーネームで呼ばれたんだからよ。
私だったら二、三発ヤキ入れてるところだけどなァ。
そういえばオフクロもいつだったか、凄かった事があったっけ。
看護師に猥褻行為をしたチンピラ患者に、卍固めを決めて失神させてた。
患者相手にオクトパスホールドだぜ。信じられねーよ。
「待ってよ。なっちさん」
警察署の正面に横付けしたベンツに、私とオフクロが乗り込んだ。
でも、警察署の正面に横付けするやつもいねーぞ普通。
しかも、こんなに馬鹿でかいメルセデスベンツ S600 LONG だもんなァ。
アハハハハ・・・・・・。横のパトカーが小さく見えるぜ。
何か安心したら、眠くなっちまって・・・・・・。
なっち・・・・・・ありがとう・・・・・・。
- 90 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/16(月) 19:55
- 今日のところは、このあたりで失礼致します。
また、近日中に更新致しますので、宜しくお願い致します。
- 91 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/19(木) 09:11
- 〔学園祭・4〕
翌日は五時限で終わりだったから、早速ごっちんと立川へ行った。
ロングサイズのハイエースは、うちのベンツと同じくれー長さがある。
内輪差を考えて運転しねーと、スライドドアをぶつけちまう。
リース会社の事務所で待ってると、麗奈とさゆみが走って来た。
「うす! 吉澤さん、お久し振りです!」
「そうだなァ。あれ? おめー背が伸びたんじゃねーか?」
ちょっと見ない間に、さゆみの背が伸びてるのに驚いた。
夏の砂浜じゃ、私よりかなり小さかったような気がする。
そんな話をしてると、整備工場から麗奈のオヤジさんが出て来た。
「いやあ、娘から話を聞きました。その節はありがとうございました」
「いえいえ、そんなに気にしないで」
「もう車検が一ヶ月しかないんですけど、充分に使えますから」
麗奈のオヤジさんは、ガソリン代だけでいいって言った。
情けは人のためならず。『巡り巡ってわが身に幸あり』だなァ。
ネイビーブルーのハイエースは、お世辞にも乗り心地がいいとは言えない。
どうしても業務用のクルマだから、運転手の事は二の次みてーだな。
「ごっちん、悪いね。運転手なんかして貰って」
「アハハハハ・・・・・・。次のマック、よっCにゴチんなるから」
マックくれーならいいけどよ。
カニでも食わせろなんて言われたら困ったからなァ。
でも、ごっちんがいてくれて助かったぜ。
- 92 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/19(木) 09:12
- 立川から三鷹までなんて、道が空いてれば十五分くれーなもんだ。
私とごっちんはベンツをどかして物置にハイエースを寄せると、
中からマーシャルのアンプやギターを積み込む。
これだけ重いもんだから、私とごっちんじゃなかったら無理だったろうね。
梨華ちゃんには学校で手伝って貰う事にしてある。
どうしても梨華ちゃんはマネージャーだからなァ。
「ふえ〜、重かったよー。よっC、ビッグマックセットね」
「はいはい、判りました」
次は三鷹の駅前の楽器屋に行って、ヘビーゲージを買わねーとなァ。
しかし、いくら何でもヘビーゲージなんて冗談じゃねーっての。
ジャズみてーにチョーキングしねーんならいいけどよ。
保田先生の楽譜だと、三弦を中指一本で一音チョーキングしないといけない。
だって、ヘビーゲージとかなると、半音のチョーキングだって難しいぞ。
「ごっちん、握力どのくらい?」
「三十八キロぐらいかなあ」
駅前に向かいながら、私は腕を組んで考えてた。
私だって四十キロからあるけど、ヘビーゲージなんて不可能だ。
だいたいヘビーゲージなんて使うのは、アメリカ人の大男って相場が決まってる。
アメリカ人は栄養がいいから、握力が八十キロくれーなんてザラにいるみてーだ。
女子高生が使うゲージじゃねーぞ。どう考えたってよ。
「ヘビーゲージを使えなんて言われちまってよ」
ごっちんにヘビーゲージなんて言ったとこで、きっと理解不能だろうなァ。
どうしたもんか。ヘビーゲージは無理だし、石黒先生には逆らえないし。
- 93 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/19(木) 09:13
- 「エレキギターって、太いの三本だけが巻弦だよね」
「そうだよ」
「それじゃ、巻弦だけ太くするとか」
その手があったかァァァァァァァァー!
そういえば、あのリッチーさんもそうしてたっけ。
何もセットで買う必要なんてねーわけだしなァ。
自分に合ったもの。曲に合ったものにすればいいんだ。
「さすが、ごっちんだね! その手があったか」
「アハハハハ・・・・・・。アップルパイも付けてねー」
アップルパイだろうが梨華ちゃんのおっぱいだろうが、
好きなもんを要求していいぞ。ごっちん!
やっぱり、私は余裕が無くて視野狭窄になってたんだなァ。
二晩も徹夜してイライラしてたし、なっちには悪い事した。
昨夜は最悪だったけど、今日は何だかハッピーな気分だ。
「そういえば、足はもう大丈夫なの?」
「うん、ちょっと捻っただけだし」
「女性だったんでしょう? 犯人」
「うん。でも何で?」
「別に・・・・・・」
それっきり、ごっちんは昨夜の話題に触れなくなった。
もしかして、ごっちんは何か知ってるのかなァ。
でも、このポーカーフェイスじゃ、何を考えてるのか判らない。
ごっちんも梨華ちゃんくれー判りやすいといいんだけどなァ。
- 94 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/19(木) 09:13
- 学校に着くと、アンプは台車に乗せてエレベーターを使う。
そうじゃねーと男だってきついぜ。この重さは。
ごっちんは運転してるのが学校にバレるとまずいから、
荷物を降ろし終えると、そのまま家に帰っちまった。
私と梨華ちゃんで視聴覚室にアンプを運ぶと、
もう保田先生が練習の準備を始めてた。
「凄いアンプね。マーシャルの三段積みが二本」
「これで石黒先生を圧倒してやるんだ」
梨華ちゃんにアンプのセットを任して、私はギターの弦を張り替える。
一弦から 09 10 14 36 46 54 のスペシャルバージョンだぜ。
太いシールドだと音が太くなるから、アンプにはトレブルブースター。
これでリッチー=ブラックモアサウンドの出来上がりだゴルァ!
「このギターも凄いわね。ここまで鳴るなんて」
そりゃそうだ。フェンダーUSAの六十年代ビンテージだぜ。
四十年も経ったボディは、適度に乾いて鳴るんだよなァ。
さて、弦を張り終えたら、チューニングして音を作らなきゃ。
いくらマーシャルでも、個体によって音が違う事が多いし、
前面に音を出すには、いくらかコントロールしないといけない。
「遅くなっ・・・・・・」
石黒先生はマーシャルの三段積み二本を見て仰天した。
そりゃそうだろうなァ。ミニスケールじゃなくてフルだからよ。
私の身長より高いんだから、こいつは威圧感があるだろ。
このチューブのオーバードライブは最高だぜ!
- 95 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/19(木) 09:14
- 「石黒先生! どうよ。これで」
「凄い! 凄過ぎる!」
あの石黒先生が、マーシャルとフェンダーUSAヴィンテージに仰天してる。
アハハハハ・・・・・・。苦労した甲斐があったってもんだなァ。
でも、マーシャルのアンプってのは、かなりデリケートなんだよね。
気に入った音を作るのに、少しばかり時間が掛かっちまった。
「みっちゃんと福田も来たし、それじゃちょこっと合わせようか」
しかし、『ムスメタル』なんてジャンルがあるとは知らなかったなァ。
アニメエージの『アニメタル』は聞いた事あるんだけどね。
根本的に『娘。』って十六ビートだから、メタルに不向きだと思うけどなァ。
でもまあ、そこが保田先生の腕だよね。巧くアレンジしてると思う。
基本的には保田先生の楽譜で行くけど、プラスαが求められるんだよなァ。
「吉澤! ガンガン行け!」
石黒先生のOKが出たぞ。それじゃ遠慮はしませんよってんだ。
ベースとのユニゾン。まるでひとつの楽器みてーに合ってる。
ちょっとスコーピオンズっぽいけど、このユニゾンは好きだ。
さて、ギターソロは、フロントとリアのピックアップを使い分けてっと。
「アームじゃァァァァァァ!」
ロックナットじゃない悲しさ。アームを使うと音が狂っちゃう。
でも、そこはちょっとしたコツがあるんだよなァ。
アームを使ったところで、半音までは狂わないから、
ユニゾンは軽くチョーキングしながらやるんだよね。
- 96 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/19(木) 09:15
- 「うーん、五弦が戻ったな」
隙をみてアームを動かすと、音が戻る場合が多い。
そうしたら、その弦で最後までやり通せばいいってわけ。
曲の音の穴を埋めるには、和音じゃなくてもアクセントでいい。
決まったァァァァァァー! すげー気持ちいい!
「負けるか!」
おっと! 石黒先生、ベースラインを動かし始めた。
ジャズっぽくなるけど、これはこれでいい感じ。
保田先生もキース=エマーソンが降臨しちゃってるし、
焼銀杏はツーバスのイアン=ペイスになっちまった。
「重低音ー♪ わァァァァァァァァァー!」
みっちゃん、すげー! まるでロバート=プラントだぜ。
Bz’なんて足元にも及ばない原始の声だァァァァァー!
これで最後さえ決まれば、文句なんか言わせねーぞゴルァ!
「行け! 吉澤!」
「ん?」
EとBだけの単調な連続。
これってもしかして、カリフォルニアジャムのエンディング。
ええと、まずはギターを身体に擦り付けてと・・・・・・。
高いギターは壊さないで、安物を持って来るのか。
フェルナンデスのテレキャスターがあったっけ。
よーし、こいつでテレビカメラを・・・・・・。
- 97 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/19(木) 09:16
- 「はーい、ストップ!」
何だよ。ここで止めるか? せっかくギタークラッシュモードだったのにィ!
テレビカメラがねーから、ピアノでネックを叩き折ろうとしたのがまずかったか。
いくらYAMAHAのピアノでも、グランドピアノは高いからなァ。
でも、高いっていったところでたかが知れてるよ。
だって、MRI一台で、グランドピアノが百台以上は買えるんだから。
・・・・・・そういった問題じゃねーか。
「よっC! 凄かったよぉ」
「うん! この音は最高だな!」
滅多に人を褒めない石黒先生が、今日は大絶賛だった。
みっちゃんが保田先生が焼銀杏が、みんなが凄く興奮してた。
リズム・メロディ・ハーモニーといった音楽の三要素が、
ギュッと凝縮されたような感じだったよなァ。
「凄かった。みんなリズムに乗ってましたよ」
焼銀杏もいい事言うじゃねーか。
そうだよ。みんながリズムに乗ってたんだ。
リズムを合わせるのは簡単だけど、乗るのは最高に難しい。
いかに乗れるかがリズム感であって、合わせられるのは違う。
「選んだ音も哲学的で」
保田先生は冷静だなァ。私は本能が赴くまま指を動かした。
頭の中はトランス状態だったから、ほとんどイタコだったんだけど。
うーん、保田先生や焼銀杏が太安万侶なら、私は稗田阿礼ってとこだ。
- 98 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/19(木) 09:16
- 「これなら、何とかなりそうやね。何せ大トリやし」
げげーっ! 大トリっていったら最後って事じゃねーか。
学園祭の大トリは、いつも大観衆を前に演奏してるぞ。
確か昨年は吹奏楽部が、マーチのメドレーをやってたっけ。
帝国海軍時代から、ブラスバンドは花形だったもんなァ。
「何でトリなんか?」
「文句でもあるの?」
「ああああ・・・・・・ありません!」
ったく石黒先生は、いったい何を考えてるんだか。
学園祭の大トリなんていったら、私は朝から三十回はトイレに行くぞ。
教職員はほぼ全員、生徒も中等部・高等部合わせて千人はいる。
それでもって、一般客も入るんだから、軽く千五百人はいるじゃねーか。
そんな大人数の前でライブやるのなんて、生まれて初めてだぞオイ。
「この曲の前に、軽く何か欲しいな」
「石黒先生、『恋レボ』なら譜面にしてありますけど」
「よし、それで行こう」
『恋レボ』から『恋ダン』かよ。
そんでもって、最後はギタークラッシュ?
これは単なるパフォーマンスじゃなくて、
チャンスオペレーションという音楽なんだよなァ。
だからリッチーやポール=スタンレーがギタークラッシュしたり、
ジミヘンが燃やしたりエマーソンがナイフ刺したりするんだ。
しかし、よりによって大トリかよ。心臓がバクバクいっちまう。
ここまで来たら、もう後戻りなんて出来ねーんだよなァ。
- 99 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/19(木) 09:17
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近日中に更新致します。
- 100 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/23(月) 07:10
- 〔学園祭・5〕
学園祭の練習は一日おきに、合計七回行なわれた。
最初は『恋ダン』だけの予定が『恋レボ』もやる事になり、
最終的にはオープニングに『ハイウェイスター』までやる事になっちまった。
そして、学園祭の前日、バスケのコートが三面も取れる大きな体育館で、
私達と出演する連中がゲネプロ(リハーサル)をする。
天井の鉄骨にワイヤーが張られ、鳶さんが大きなスピーカーを取り付けていた。
「よお、また会ったな」
偶然にも鳶さん達は、海で隣になった人達だった。
オヤジ達が若い頃は、ステージにスピーカーを積んだらしいけど、
今じゃこうして天井から吊るのが常識になってるんだよなァ。
もう、スピーカーの箱を共鳴させて音を出す時代じゃねーんだ。
どこのコンサートでも、スピーカーを吊り上げるのは鳶さんの仕事。
音屋さんは調整卓(ミキサー)やケーブル類だけ扱ってればいい。
「おじさん、また宙返り見せてよ」
出初式での花形は、梯子上での鳶さんだって相場が決まってる。
高所作業従事者だから、失敗なんて絶対に出来ねーんだよなァ。
十メートル以上もある梯子の上じゃ、失敗なんてしたら、
それこそ『痛い』どころの話じゃねーもん。
しかし、鳶さん達はすげーよなァ。体育館の天井だぜ。
そこの鉄筋を、まるで猿みてーに、ひょいひょい渡って行く。
高層ビルなんかだと、外装屋なんかがいるから足場を組むんだけど、
こうした体育館じゃ命綱も無しで、平気な顔をして仕事をしてる。
さすがに高所作業のプロだよなァ。
- 101 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/23(月) 07:12
- 「よし、今降りるから待ってろ」
そう言うと鳶さんは、するするとロープを降りて来る。
それ自体が私達にとって、まるで曲芸のように見えた。
こんなとこで上海雑技団みてーなもんを観れるとは。
ついでに言うと、今はあんまりステージ上に、
モニタースピーカーってもんは置かねーんだよなァ。
だいたいフロントのモニタースピーカーくれーだぞ。
その代わり、無線で飛ばした音を補聴器みてーなもんで拾ってるんだ。
「吉澤病院、増築するんだって? オヤジさんに話しておいてくれよ」
「判ったよ。でも、半分は国からカネが出るから、合同企業体になっちまうかも」
さすがに耳が早いなァ。
まあ、スポンサーはうちの病院だから、
ある程度は業者を推す事も出来るんじゃねーかなァ。
優秀な職人のいる鳶さんがあるって言えば、
どこの建設会社も指名してくれると思う。
こうした繋がりってもんが必要なんだよなァ。
「よし、よーく見てろよ」
鳶さんは何度も連続で宙返りを見せてくれた。
これで作業着を着てなかったら、どこから見てもヤクザだけど、
本当に気のいい職人さん達だよなァ。
体育の中田先生も、この連続宙返りには驚いてる。
そりゃそうだろう。ここまで出来るのは体操選手くれーなもんだ。
四十過ぎのおじさんが、こんな技を持ってるなんて奇跡かもね。
- 102 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/23(月) 07:14
- 「それじゃ、トリからお願いしまーす」
リハってのは、必ずトリからやる事になってる。
だからトップバッターが最後っていうわけだ。
その方が、全ての設定を変えずにスタート出来るから。
マーシャルの三段積み二台を油圧式の台車で運んで来て、
私はこのステージに合った音を作ってみる。
その間、焼銀杏はドラムをセットして他の三人も用意してた。
「スネアから音下さい」
だいたいドラムってのは、ハイハットとスネアで一本、
フロアタムで一本、バスドラで一本マイクを使って、
後は上から全体をカバーするようにするんだよなァ。
だけど焼銀杏はフロアが二個だしツーバスだから、
もう二本、合計七本のマイクが必要になるんだ。
だいたいベースは一本で、ギターはアンプが二台だから二本。
キーボードもアンプが二台だから二本って事になる。
コーラス用のマイクが三本でみっちゃんのマイクだから、
私達は合計で十六本のマイクを使うんだなァ。
「OKです。全体に音下さい」
慣れた音屋さんだと、ハイハットとスネアだけで調整して、
後は全体のバランスを見ながら素早くセットしちまう。
ドラムが決まればベース、キーボードとギターといった順になる。
ヴォーカルってのは最後になるから、この間は暇なんだよなァ。
グランドピアノを使うバンドがねーから、マイクの数は私達が最多だろう。
余裕を持ったスピーカーとアンプだし、どこでもハウリングする事はない。
- 103 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/23(月) 07:15
- 「ギターとキーボードお願いします」
私はフィードバックする位置を決めて、そこからゲインを調節した。
三段積みマーシャルが二台だから、ソロ以外はマイクで拾う必要が無い。
電圧も二百ワット用だから、こうしたステージだとアダプター不要。
保田先生はハモンド用のマーシャルと、シンセ用のブギーアンプ。
どっちも大きな音はしねーから、最初からマイクで拾う必要があった。
「ギターはモニターしますけど、ソロ以外は前に出しません」
さすがミキサーさんはプロだよなァ。
これで前から出したら、ギターの音だけしか聞こえねーぞ。
コーラス用のマイクとみっちゃんのマイクのチェックが終わると、
ようやく一曲だけ演奏する事が出来るみてーだ。
さて、ようやっと一曲だけ演奏出来そうだなァ。
慣れて無い『ハイウェイスター』からだな?
G→F→C→Fの繰り返しから始まるんだよなァ。
みっちゃんは、ちょこっとばかり歌詞を変えてる。
『Oh,His The Killing Macine』なんて歌ってるんだ。
この歌詞、かなりヤバイんだけど英語だからいいか。
「吉澤、『ジョニーBグッド』をやれ」
「へっ?」
『ジョニーBグッド』なんて、やる予定もないし練習もしてねーじゃん。
まあ、簡単なコード進行だから、やれって言われれば出来ねー事もない。
それより『ハイウェイスター』はどーすんのよ。まだ未完成なんだけどさ。
私が困ってると、みっちゃんが耳元で『Bでお願い』って言った。
- 104 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/23(月) 07:16
- 「こうなったら、何でもやってやろうじゃねーか!」
保田先生は勿論、石黒先生や焼銀杏にしても、
これだけ単純な曲なら突然でも合わせられるだろう。
私がイントロを弾き始めると、他の三人が集中する。
ロックンロールは、入るとこさえ外さなきゃ何とかなるもんだ。
「うっ!」
ピッチがBだと、スリーコードはBEG♭になる。
これだとリフで開放弦を使えねーんだよなァ。
ネックがスキャロップだからまだいいけど、
普通のフレットだったら握力が続かねーよ。
とにかく、石黒先生のコード進行について行かねーと。
「指が痛い!」
初めての曲って事もあったけど、極太の弦を使ってるから左指が痛くなる。
そりゃそうだよなァ。54なんていったら、ほとんどベース弦と同じだから。
それを一オクターブ近く上に張ってるんだから、指くれー痛くもなるってんだ。
二弦と三弦は緩いからいいけど、四弦以上は地獄もいいとこじゃん。
「OK!」
みっちゃんの声で『ジョニーBグッド』が終わった。
私は何とか弾き終えたけど、指が痛くてかなわない。
それに、数人のスタッフしかいねーってのに、
妙に緊張して、腹が痛くなるとこだった。
- 105 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/23(月) 07:17
- 「ええ感じやんか」
裕ちゃんがリハを覗いていて、私達に声を掛けて来た。
私はギターをケースに仕舞いながら、相槌を打ってみる。
いきなりの『ジョニーBグッド』に、私はまだ動揺してたけど、
保田先生は笑顔で裕ちゃんと話をしてた。
「吉澤、ちょっと走ってたぞ」
石黒先生だけが、妙に冷静で当たり前のように言った。
走るも何も、いきなり『ジョニーBグッド』をやれなんて、
私にはそこまで実力があるわけじゃねーっての。
そりゃ、簡単なロックンロールだから、何とかなったけど。
いったい石黒先生は、何を考えてるんだか。
いきなりやった事もない曲をやらせるなんて。
「次の準備をお願いします」
私達の前にやるのは、軽音楽部の連中だ。
女子高らしくポップなナンバーをやるらしい。
ドラムもバスドラを外してスタンダードスタイルに変更。
アンプもサンダーリバーヴを使うみてーだった。
「先に楽屋に行ってるからね」
焼銀杏はスティックケースを持って、用意されてる楽屋へ向かった。
楽屋っていっても、体育館に近い教室を使ってるだけ。
教室の真ん中に机と椅子で壁を作り、半分だけ私達が使用出来る。
出演者に合わせて、こうした教室が四室用意されていた。
- 106 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/23(月) 07:18
- 私が楽屋に行くと、石黒先生と保田先生が、
みっちゃん、裕ちゃんと一緒に、職員室へ行くところだった。
私は三本のギターを椅子に立て掛け、大の字になって転がる。
もう足首は治りかけてるし、ここんところの睡眠不足も解消されてた。
でも、私には石黒先生の意図が判らなくて、どうも釈然としない。
「ねえ、何でだろうね」
焼銀杏はポツリと言った。
それが、いきなり『ジョニーBグッド』をした事なのか、
私達が選ばれた事なのか、私には判らなかった。
きっと彼女は私に「何が?」という返事を期待してるんだろう。
でも、私はそこまでお人好しなんかじゃない。
「知るか」
こう言った時には、だいたい二通りの反応がある。
以心伝心だと思って嬉しそうに話を続けるやつと、
発言を否定されたと感じて、それ以上は話さないやつ。
恐らく前者はポジティヴで、後者はネガティヴなんだろう。
「そう言うと思った」
焼銀杏。こいつはわけの判らねーやつだなァ。
どこか冷静で、客観的に自分を見詰めてるタイプだ。
ドラムの腕はいいけど、どうも馴染めない雰囲気を持ってる。
それはマネージャーの梨華ちゃんも言ってたっけ。
そういえば、こいつは文系進学クラスだったよなァ。
手に職を付けないんなら、文系の大学で遊ぶのもいいだろう。
- 107 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/23(月) 07:19
- 「おめー何を考えてんだ?」
「石黒先生、やけに冷静でしょう?」
そういえばそうだなァ。
石黒先生ってのは、もっと感情を表面に出す人。
プライベートじゃ優しいお母さんって感じだけど、
学校内じゃ別人のように怒鳴りまくってる。
それが、今回は楽しむわけでもなく、
冷静に淡々と演奏してるんだよなァ。
「確かにそうだなァ。まあ、親方(リーダー)だけどよ」
「あたし、筑波大の教育学部を受験するの」
筑波大? そういえば、そんな大学があったっけか。
・・・・・・って国立じゃなかったか? 筑波大って。
そうか、私の他にも国立を受験するやつがいたんだなァ。
でも、文系と理系じゃ、倍率も勉強の内容も違う。
私は本当は文系の大学に行きたかった。
「そうかよ。オレは東京医科歯科大」
「国立なんだ。私立かと思ったら」
私だって私立だったら、こんなに苦労はしてねーよ。
でも、圭織さんの仇を討つためにも、私は東京医科歯科大を受ける。
私には誰よりも強い味方がいるんだ。最愛のなっちが。
なっちがいれば、どんな困難にでもぶつかって行ける。
私が全てを曝け出して甘えられるのが、なっちなんだよなァ。
なっちは家族。いや、私にとってはそれ以上の存在。
- 108 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/23(月) 07:20
- 「それが何かあるのかよ」
「保田先生から聞いたの。今年国立を受験するのは二人だけだって」
二人だけ? そりゃそうだろうなァ。
こんな三流高校じゃ、国立なんて受験するやつなんかいねーよ。
凄まじく優秀なやつか、かなりドン=キ=ホーテのやつだな。
私? 私は今、その中間あたりにいるんだよね。きっと。
「オレとおめーがそうか。国立受験組にバンドやれとはなァ」
国公立の大学受験だと、私立に比べて教科が多いんだよなァ。
人の倍は勉強しねーと、センター試験の成績いかんで門前払いをくらう。
この時期にバンドなんてやってる暇なんかねー筈だぜ。
石黒先生の一方的な話に、担任の裕ちゃんも何も言わねーし。
「息抜きって考えてるのかな。先生達は」
「オレが知ったこっちゃねーよ」
考えてみれば、石黒先生も育休中だってのに、こうして学校に出て来てる。
新生児なんて保育園じゃ預かってくれねーだろうから、旦那の親に任せっきりだろう?
胸が張って痛い。なんて言ってたし、そこまで無理する必要なんてあるのかァ?
確かに焼銀杏のパワフルなドラムは、間違いなく超高校級。
保田先生は鍵盤のプロを目指してたくれーだから本物だしなァ。
これだけハイレベルなバンドってのも、そう多くはねーだろう。
「とにかく、明日が終われば」
そうだ。明日が終われば、ちゃんと寝る事が出来るっての。
受験勉強とギターの練習じゃ、まともに眠れねーからよ。
- 109 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/05/23(月) 07:21
- 今日はこのあたりで失礼致します。
また、近日中に更新致します。
- 110 名前:激動の二学期 投稿日:2005/05/30(月) 08:20
- 〔学園祭・6〕
よく、ドラム叩きは体力が必要。なんて話を聞くけど、
ドラマーに求められるのは、手先の器用さなんだよなァ。
それと、冷静に小節の数を数えて、他パートをフォローする。
まァ、バレーボールでいえばセッターみてーな役割なんだ。
リズムの中心はベースになるから、さしずめリベロってか?
実際、ヴォーカルなんてのは、バンドではバックセンターみてーなもん。
保田先生が変幻自在のセンタープレーヤーだとすると、
私はさしずめ、レフトって事になっちまうんだなァ。
事実、ギターやピアノってのは、絶対にパワーが必要だ。
「よっC、少しは寝れたべか?」
「うん、三時間くれーだけどね」
学園祭なんていっても、私達の出番は午後四時近くになる。
それまで、私は模擬店で買い食いしながら息を抜くとするか。
私が新聞を読みながらテーブルに着くと、いつもと違う匂いに気付いた。
普段なら味噌汁や焼き魚の匂いがするんだけど、今日はパンの匂いがする。
和食党のなっちにしては、朝からパンなんて珍しいんじゃねーかなァ。
「今日はパンなの?」
「よっCは疲れ気味で胃が弱ってるっしょ?
フレンチトーストとホットカルピスにするべさ」
そうか、さすがになっちは懐が深いなァ。
何て言うか、私と幾つも違わないのに、大人なんだよね。
高校生と大学生って、そんなに違うものなのかなァ。
私も少しだけでいいから、もっと大人にならないとね。
- 111 名前:激動の二学期 投稿日:2005/05/30(月) 08:20
- 「模擬店で買い食いばかりしてちゃ駄目だべよ」
「判ってるって」
なっちの作るフレンチトーストって、凄く優しい味がして好きなんだよね。
おかずには、豚肉とほうれん草のソテーを作ってくれた。
温野菜は消化にいいし、豚肉は胃への負担が少ない食材なんだ。
こうした眼に見えない優しさって、江戸っ子の私は大好きなんだよね。
「ちゃんと生物部や化学部、歴史研究会なんかを見学するんだべよ」
そうなんだよなァ。学園祭ってのは、意外に勉強する機会があるんだ。
どうしても模擬店の方に眼が行くけど、一年間の成果を発表する場でもある。
聖ダルセーニョ学園ってのは、何か知らねーけどカネがあるんだよね。
歴史研究会には『群書類従』や、有名な古文書、多くの史料の写本があるし、
天文部には一千万円もする反射型望遠鏡があるもんなァ。
生物部なんて電子顕微鏡から遠心分離機まであるから凄い。
「オレ、世界情勢に疎いから、国際政治学研究会を覗いてみようと思うんだ」
「それはいい事だけど、見るなら覚悟するなんだべね。現実は非情だべよ」
私にはなっちの言う意味が判らなかった。
だって、私にとって世界っていうのは欧米だったわけだし。
こう見えても、地理は得意なんだけどなァ。
ベルギーの首都はブリュッセル。オランダはアムステルダム。
デンマークはコペンハーゲンで、ノルウェーがオスロ。
スウェーデンがストックホルムで、フィンランドはヘルシンキ。
意外に知られてないのが、アイスランドの首都がレイキャビックって事。
オーストラリアも首都はシドニーじゃなくて、メルボルンなんだよなァ。
・・・・・・違ったァァァァー! キャンベラだったァァァァー!
- 112 名前:激動の二学期 投稿日:2005/05/30(月) 08:21
- 「なっちは午後から行くべさ。よっCのステージを観ないとね」
なっちにそう言われると、何か照れ臭いよなァ。
でも、フロントウーマンはみっちゃんだし、
私には多少のソロがあって、少し目立つだけだもんね。
それにしても、ライブの事を考えるとソワソワするなァ。
「そうそう。今日の学会が中止になったから、おじさんも行くって言ってたべよ」
そうか、オヤジも来るのか・・・・・・。ってそりゃまずいなァ。
何しろ、オヤジに内緒で機材を借りてるんだからよ。
勝手に使ったら怒られるかなァ。まあ、事後承諾って事で。
私はO型のせいか、大雑把な性格だからなァ。
「農家の長男が小学校に入学するわけじゃねーんだからよ。
一族郎党引き連れて、観に来たりするんじゃねーぞ」
都会じゃ考えられねーけど、田舎に行くと物凄いって話だからなァ。
少子高齢化が進む田舎だと、農家の長男が入学しようものなら、
両親や祖父母が来るのはまだいい方で、叔父叔母から従兄弟まで来るらしい。
入学児童が四十人なのに、クルマが百台を越すのも珍しくないって話だ。
「横断幕とボンボンを作ろうかと・・・・・・」
「駄目! NHKののど自慢大会じゃねーんだからよ!」
体育館は暗幕で暗くするから、せめてサイリウムにしてくれよ。
でも、ピンクとか黄色はやめてくれよ。アイドルじゃねーんだから。
どうせだったら、ブラックライトのサイリウムにでもして欲しいなァ。
アハハハハ・・・・・・。でも、ブラックライトのサイリウムなんてあったっけ。
- 113 名前:激動の二学期 投稿日:2005/05/30(月) 08:22
- ギターとステージコスチュームを担いで学校に行くと、
まだ八時前だってのに、もう模擬店の連中が準備を始めてやがる。
模擬店なんて面白いのかねェ。テキ屋の真似してるだけじゃん。
タコヤキにヤキソバ、綿アメにお好み焼き。ワンパターンだなァ。
そんな事だから聖ダルセーニョ学園なんて・・・・・・京風懐石料理?
まじかよ! 先着五十名限り。一人前五千円! すげー!
「よっC、おはよう」
声を掛けて来たのは、もう推薦で合格通知が来たごっちんだった。
そういえば、美貴ちゃんは推薦入試で落ちたって言ってたっけ。
美貴ちゃんの成績でも駄目だなんて、聖ダルセーニョ学園のレベルが落ちたのか?
残りは一般入試だけど、美貴ちゃんの事だから、どこかの大学に入れるだろうなァ。
「ああ、おっはよー! ごっちん、今日も可愛いね。アハハハハ・・・・・・」
高校三年にもなると、最高学年だから気を遣わなくていい。
バレー部の後輩達は、私を見るなり大声で挨拶するんだけどね。
そういえば、私達も一年の頃は、先輩達に大声で挨拶してたっけ。
梨華ちゃんと話をしてて大山先輩に気付かなかった時は、
栗原先輩に呼ばれて注意されたっけかなァ。
『加奈に気付かないなんてあり得ないからね』
そりゃそうだ。身長が百八十七センチもある女子高生なんて、
大山先輩以外にはいねーもんなァ。
「吉澤さん、例の絵なんだけど、展示するわよ」
私の背後から声を掛けて来たのは、石井のリカちゃんじゃねーか。
そういえば、ピーチとはそれこそ『裸の付き合い』をしたんだっけ。
- 114 名前:激動の二学期 投稿日:2005/05/30(月) 08:22
- 「石川おらへんか?」
誰かと思えば、今度は裕ちゃんかよ。
そういえば、うちのクラスじゃ有志で模擬店やるって話だったっけ。
私と梨華ちゃんはバンドがあるから、裕ちゃんが総指揮を採ってた。
何でも茶道部とタイアップして、京風和菓子を売るって話だったなァ。
「そういえば、朝も見掛けなかったよなァ」
「寝坊してたりして。アハハハハ・・・・・・」
梨華ちゃんは絶対に寝坊したりしねーよ。
だいたい、小中高って皆勤賞だからなァ。
中学二年の時、梨華ちゃんは盲腸で手術したんだけど、
どうしても学校に行くから土日だけで自主退院したくれーだ。
「見掛けたら、うちんとこ来るように言っといて」
さてと、私達の出番は最後だから、それまで学園祭を楽しむとでもするかァ。
そういえば、ごっちんはいるのに、梨華ちゃんと美貴ちゃんがいねーなァ。
でもまァ、いくら勝気な美貴ちゃんでも、推薦入試で落ちたらショックだろうなァ。
私なんて一発勝負だからよ。下手すりゃ浪人になっちまうもんな。
「ごっちん、理科系のクラブから見ようよ」
理科系っていっても、生物部や化学部、地学部と天文部しかねーんだよなァ。
この中で面白そうなのは地学部。硫黄や木炭を使って、火山隆起のデモをやる。
ちゃんと造山運動してカルデラまで出来るから、見てて面白れーんだよなァ。
後は生物部が解剖なんて気持ち悪い事やってるし、化学部は香水研究会と化してる。
天文部に至っては、ほとんどUFO研究会みてーなもんだからなァ。
- 115 名前:激動の二学期 投稿日:2005/05/30(月) 08:23
- 「よっC、生物部は三時くらいに行くと、鯉こくが食べられるよ」
そうだった。生物部じゃ解剖した鯉を、みんなで食っちまうんだった。
もう天高く、馬肥ゆる秋だもんなァ。鯉こくの美味い季節になった。
山椒と胡椒で少しだけ香りを付けると、鯉こくを肴に日本酒が進むんだよなァ。
いけね。ここで飲んだら停学になっちまうじゃん。
「よっしゃー! 三時になったら家庭科室だね」
生物部は鯉の解剖をやるから、水周りのある家庭科室を使ってる。
香水同好会みてーな化学部や、UFO研究会の天文部は普通の教室だ。
理科室を使ってるのは、活火山による造山活動のデモをやる地学部。
ここには消火器が嫌ってくれーあるから、万が一の時も安全ってわけだ。
まァ、普通の女子高じゃ、こういったクラブなんて超マイナー。
だから私達は、本当に眼の前でデモを観る事が出来た。
「日本は環太平洋火山帯に属し・・・・・・」
退屈な説明をしながら、二年生の部長が火山の薀蓄をたれる。
そんなもんを聴きに来たわけじゃねーから、私とごっちんは、
『そんな話はいいから早くやれ』って急かしてやった。
なっちと黒色火薬の実験をした時もそうだったけど、
人間ってのは、どうも火薬を使った事が本能的に好きみたい。
「おお、すげーなァ」
そこには、まだ生物が発生する前の古代の地球があった。
地上のあちこちで、こうした造山活動と共に多量のガスが発生したらしい。
そうした原始の地球と酷似してるのが、お隣の金星ってわけだ。
- 116 名前:激動の二学期 投稿日:2005/05/30(月) 08:24
- 「さてと、ごっちん。次は文化系の方に行ってみようか」
「でもさ。何で美貴ちゃんと梨華ちゃんがいないんだろうね」
そんな難しい事言われたって、私にだって判んねーっての。
まァ、私にしてみれば、梨華ちゃんとは長い付き合いになるけど、
すぐにくっ付いて来るから、正直なところうざってーもんなァ。
ごっちんみてーにマイペースな方が、こうしていると安心出来る。
「文系のクラブは楽屋の近くだから、ギターを置いておくかァ」
「文系って退屈そうじゃん」
文系のクラブで面白いのは、演劇部と美術部くれーなもんだなァ。
そういえば、茶道部が一服点てるって話だから、そっちに行ってみるか。
そこには、いったいどんな一期一会が待ってるんだろう。
確か茶道部の顧問は、国語の小湊先生だったよなァ。
実家が裏千家だかの家元だって話だけど本当かな。
「だったらよ。茶道部に行ってみない?」
「いいねえ」
ごっちんの目的は和菓子に決まってる。
しかし、茶道や華道ってのは人の道を極めるんだよなァ。
そういったところでは、柔道や剣道と同じなんだよね。
「木村麻美って茶道部だったのか」
「二年生の斎藤美海もいるよ」
二人は和服を着て、訪れた大人達にお茶を振舞ってた。
いくら私立でも、茶器は安物みてーだなァ。
- 117 名前:激動の二学期 投稿日:2005/05/30(月) 08:24
- 「おい、オレにも一服くれよォ」
茶器は安物でも、このお茶は最高級品じゃねーか。
いい水を使うと、最高に美味いんだよなァ。
こうしたお茶を買うのは簡単なんだけど、
いい水を手に入れるのが最高に難しいんだ。
「生徒は午後からよ。並んでも駄目」
「何だそれ!」
私は小湊先生に反発した。
ここは茶道部じゃねーのかよ。
いつから接待担当部になったってんだ?
そりゃ、女子高生の綺麗どころがお茶を点てれば、
鼻の下を伸ばしたオヤジ連中が集まって来るだろう。
でも、それじゃ『甘味処・しゅう』と同じじゃねーか。
「午前中は来賓が多いから、仕方ないでしょう?」
これが二年生の斎藤あたりだったら、私も怒らなかっただろう。
でも、小湊先生は家元の娘だっていうじゃねーかよ。
この女、いい歳こいて、茶道の原点ってもんを見失ってる。
来賓の接待にお茶を使うようになったら、その時点から堕落が始まるんだ。
「茶道の本髄から外れてんじゃねーかよ!」
お茶ってのは、誰もが平等に歓待されるためにあるんだ。
一部の人間のためにあるのなら、そんなものは茶道じゃねーっての。
馬鹿馬鹿しい。そんな考えの家元なんて、クソ喰らえってんだ。
- 118 名前:激動の二学期 投稿日:2005/05/30(月) 08:25
- 「ごっちん、行こうぜ。気分悪りーな」
「待って下さい!」
私を呼び止めたのは、次期美少女候補の斎藤美海だった。
ちょっと地味な感じがするけど、意外に和服が似合うなァ。
小湊先生は来賓との話しに没頭中。
こんな茶道部には、もう用なんてねーよ。
「何だよ」
「お茶を一服飲んで頂けませんか?」
斎藤は私達に、その直向きな視線を向けた。
私達の周囲には、その来賓とやらが溢れてる。
偉い人が優先で、私達は後回しじゃねーのか?
顧問がそういった考えだと、部員もそうじゃねーかと思えて来る。
ところが、斎藤は私達を客人として迎えようとしていた。
「いいのかァ?」
「お茶の世界に身分なんて関係ありません」
こいつは驚いた。斎藤、ちゃんと判ってんじゃねーか。
さすがは次期美少女候補だけあるよなァ。
聖ダルセーニョ学園の美少女ってのは、
外見だけじゃなくて内面も美しくねーとよ。
「判ってんじゃねーか」
私達は斎藤にお茶を御馳走になった。
斎藤は誠心誠意の御馳走をしてくれる。
- 119 名前:激動の二学期 投稿日:2005/05/30(月) 08:26
- 「この菓子は仕事してあるなァ」
「よっC、これって枇杷ゼリーじゃないかな」
どうやら、この菓子は斎藤が丹精込めて作ったものらしい。
お世辞にも京菓子ほどの完成度はなかったけど、実に丁寧に作ってあった。
そして、斎藤の専用ブースには、萩の花が一房だけ生けてある。
その感性やもてなしの心。これこそが茶道なんだよなァ。
「どうぞ」
「うん・・・・・これは!」
こいつは美味い。
私も何度かお茶を飲んだ事はあるけど、
これだけ美味しいお茶を飲むのは初めてだ。
確かに抹茶も高級品だけど、こいつは水が違う。
「斎藤、この水は?」
「高尾の湧き水です」
斎藤はお茶を振舞うために、早起きして高尾まで水を汲みに行ったんだ。
昨夜もこのブースを用意してから、きっと夜遅くまで菓子を作ってたんだろう。
そうなんだ。これこそが茶道の根本思想なんだよなァ。
「えらい御馳走だ。斎藤、ありがとうな」
「恐縮です」
茶を点てるだけなら、それこそ幼稚園児だって出来る。
斎藤はみんなをもてなすために、自分の出来る精一杯の事をした。
これこそが『御馳走』なんだけど、果たして来賓の連中に判るのか?
- 120 名前:激動の二学期 投稿日:2005/05/30(月) 08:27
- 「高校生にしちゃ、中々のお点前ね」
「靴を脱ぐのか? 面倒だな」
この程度の連中が来賓なのかよ。
これじゃ、もてなす側が可哀想だ。
どれだけ偉い連中か知らねーけどよ。
これだけの御馳走でもてなされたら、
相応の態度になるのが普通ってもんだ。
「御馳走の意味も判らねー連中なんか、いくらもてなしても無駄だっての!」
私が大声で言うと、『来賓』連中が一斉に私に注目した。
眼を剥いた小湊先生が、えらい剣幕でやって来る。
ちょっと言い過ぎたかなァ。ごっちん・・・・・・ってお茶飲んでるよ。
こうした時も、ごっちんは絶対に動じたりしねーもんなァ。
「吉澤! 何て事を・・・・・・」
「御馳走?」
「本当。あの子、どうかしてるわね」
来賓連中が取り違えた解釈をして私を非難する。
バブル期に飽食の限りを尽くした来賓連中は、
絢爛豪華なものじゃねーと御馳走とは思わねーらしい。
こんな連中をもてなすために茶道があるんじゃない。
「小湊先生! 千利休は何て言った?」
私は困惑するごっちんを連れて、茶道部の部屋から飛び出した。
何がお点前だ。何がこんな菓子だ。腐れきった連中が!
- 121 名前:激動の二学期 投稿日:2005/05/30(月) 08:28
- 今日のところは、このあたりで失礼致します。
また近日中に更新致しますので、どうぞ宜しくお願い致します。
- 122 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/02(木) 10:50
- 〔学園祭・7〕
頭に来て茶道部を飛び出した私達は、梨華ちゃんと鉢合わせした。
梨華ちゃんは私を見ると、眼にウルウルと涙を溜め出すじゃねーか。
どうしたんだろう。また、誰かに虐められたのかなァ。
梨華ちゃんって、根本的に虐められやすいタイプだからなァ。
「よっC、あのね・・・・・・」
「梨華ちゃん、裕ちゃんが探してたよ」
ごっちん! 梨華ちゃん、何か言おうとしてたぞ。
ったく、ごっちんはマイペースっていうか何ていうか。
梨華ちゃんは寂しそうに「そう」って言って、
職員室の方に走って行っちまった。
でもまァ、ごっちんはある意味天然だから、
どこか憎めねーんだよなァ。
「吉澤ァァァァァァァァー!」
どわァァァァァァァァァァァァー!
石黒先生じゃねーかァァァァァー!
この人は黙ってるだけでこえーからよォ。
ごっちん、どうしよう・・・・・・ってもういねー。
「なななな・・・・・・何ですか?」
私の方が幾らか背が高いのに、石黒先生には見降ろされているみたい。
それだけ石黒先生には、人を威圧する不思議な力があるんだよなァ。
人間はみんな女性から産まれるから、これは母親としての威厳なのかも。
- 123 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/02(木) 10:51
- 「平家先生の喉の調子が悪い。今日は半音下げるからな」
「はははは・・・・・・はい!」
それだけ言うと、石黒先生は無表情のまま行ってしまった。
半音下げるって事は、ギターで行くと一フレットだけなんだけど、
単に一フレットだけ下を押えればいいってわけじゃないんだよね。
あの音を維持するには、チューニング自体を半音だけ下げないと。
そうなると、全体の張りが弱くなるからボディ裏のスプリングも、
いくらか弱めてやらないとバランスがとれなくなっちまう。
「仕方ねーなァ。楽屋で調整するか」
私は仕方なく、人ごみを掻き分けて、用意されている楽屋に向かった。
楽屋は一階だから、階段を・・・・・・えっ?
あの時と同じだ。・・・・・・歩道橋から突き落とされた時。
悪意を持った手の感触・・・・・・気が付いたら眼の前に階段があった。
「ぬおォォォォォォォォォー! 股が裂ける!」
こんなとこで怪我してらんねー!
だから、私は思い切り前に足を踏み出した。
私はバレーやってたけど、バレエは経験ねーっての。
前後に百八十度も開いた脚の腱が切れそうだァァァァー!
「くそっ! 誰だゴルァ!」
これだけ脚が開いちまったら、手で身体の左右を支えてねーと。
畜生! これじゃ振り返れねーじゃんかよ!
今度こそ誰だか正体を・・・・・・あいてててて・・・・・・。
- 124 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/02(木) 10:52
- 「よっC先輩なのれす」
「何やってるんですか?」
「これ、ストレッチちゃうの?」
「私達は新美少女四人・・・・・・」
「麻琴、おめーはちげー! っていいから起こしてくれ」
辻は馬鹿力があるから、軽々と私を抱き起こした。
あぶねー、もうちょっとで脚の腱が切れるとこだったぜ。
いてててて・・・・・・肉離れしてねーだろうなァ。
一応、人並み以上に身体は柔らかい筈なんだけど、
まさか、ここまで脚を開けるやつなんか・・・・・・。
「ふん、不細工でも、これくらいは出来ますよ」
「麻琴、おめー身体柔らけーなァ。って加護! おめーもか」
二人とも脚が前後に百八十度も開いちまってる。
こんなに身体が柔らかいやつなんて、まじでいるんだなァ。
そういえば梨華ちゃんも柔らかかったっけか。
って、こんな事してる場合じゃねーっての!
「おい、おめーらオレを突き飛ばしたやつ、見なかったか?」
「よっC先輩、突き落とされたのれすか?」
「・・・・・・そういえば!」
オイオイオイ! 初の目撃者かァ?
これまで私を襲ったやつ、初めて手掛かりかよ。
こ、これが固唾を飲むって事なんだなァ。
私は虚空を見詰める金魚顔を覗き込んだ。
- 125 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/02(木) 10:52
- 「そ、そういえば?」
緊張のせいか脚の痛みなんか感じなかった。
耳鳴りがして、まるで肉食獣のように瞳孔が開いて行く。
犯人は誰なんだ。自分の心臓の鼓動だけしか聞こえなくなった。
そういえば、こうした緊張感は、初めてバレーの試合に出た時以来。
「たこ焼き食べるの忘れてました」
「たこ焼きかよォォォォォー! この金魚!」
気が付いたら、私は紺野の首絞めて振り回してた。
私はこうした冗談が大っ嫌いなんだ!
よく覚えとけ! この金魚がァァァァー!
「よ、よっC先輩! ちょっとまずいのれす」
「あかん! あさ美ちゃん白目剥いとるで!」
「ここここ・・・・・・こえーよォォォォォォー!」
「あ」
白目を剥いて痙攣する紺野を放すと、彼女は階段を頃がって行った。
たまたま通り掛った二年生が悲鳴を上げたけど、紺野は大丈夫だって。
私も経験があるけど、これって俗にいう『落ちる』ってやつなんだ。
首を絞めて窒息死させるのには、かなりの時間が必要だからなァ。
「紺ちゃん!」
三人が駆け寄ると、紺野は金魚そっくりの顔で起き上がる。
しかし、いったい誰なんだ? 私を狙ってるやつは。
あの雑踏の中だから気が付かなかったけど、どうもここの生徒っぽいぞ。
- 126 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/02(木) 10:53
- あーいてー。まだ脚の筋が伸びた感じがする。
半音下げるチューニングは、直前にやりゃいいな。
それまで、模擬店でも回って腹ごしらえでもするか。
たこ焼きにお好み焼き、焼きそば、りんご飴、チョコバナナ。
これじゃ、まるでテキ屋みてーだよなァ。
女子高の学園祭なんて、まァこんなもんだろうね。
「えーと、ここは美術室だったなァ」
聖ダルセーニョ学園の美術部は、都内でもかなり有名。
それっていうのも、版画をやる部員が多くて珍しいからだ。
毎年、必ず入選するやつがいるくれーだもんなァ。
中には版画をやりたくて、聖ダルセーニョ学園に入って来るやつもいる。
版画ってのは、量産するために考えられたものなんだよなァ。
「へえ、こいつは一年坊の作品かァ」
入口近くに飾ってあるのは、一年坊の絵や版画だ。
近代アート的な作品もあって、中々面白そうだぞ。
二年生や三年生になると、個性を前面に押し出して来る。
抽象画なんてのもあって、そこそこ楽しむ事だ出来た。
「こ、これは!」
立派な額に入れられた色白の裸婦像がある。
その下には、東京都美術大会佳作受賞作品なんて書いてあるぞ。
しかも、作者は石井里佳。ピーチじゃねーかよ。
題名は『健康な乙女』だってよ。
ってオイ。これは思い切り私じゃねーかよ!
- 127 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/02(木) 10:53
- 「吉澤さん、金賞は逃したけど佳作に入ったわ」
ピーチ! まさかここまでリアルに描いて出品するとは。
これじゃ、どう見たって私じゃねーかよォ。
これって、児童ポルノ法違反なんじゃねーのか?
って、私は十八歳になっちまってたァァァァァー!
「これじゃモデルがオレだって・・・・・・」
「ヒソヒソヒソ・・・・・・」
こんなに写実的な油絵じゃ、モデルが判っちまうじゃんか!
しかも、ホクロまでリアルに描きやがってよォ。
いくら絵でも、裸の写真を撮られたみてーで恥ずかしい。
わァァァァーん! みんな見るなァァァァァァー!
(こんなところに飾る事ねーじゃんかァァァァァァー!)
「あら、ちゃんと許可は得たつもりだけど?」
まさか、学園祭で飾るなんて聞いてねーよ。
展覧会に出品するってのは聞いたけどよ。
こうなったら、報復に私が描いたピーチの絵を・・・・・・。
駄目だ。あれはジリアン=アンダーソンになっちまってる。
「とにかく、これは外してよォ」
私が懇願すると、ピーチは不満そうに絵を外した。
不満も何も、ここまで写実的だとモデルが判っちゃうじゃん。
いくら何でも、女子高生を裸婦像のモデルにするんじゃねーよ。
もっと知らない人の前だったらいいけどさァ。
- 128 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/02(木) 10:54
- 「やっほー、よっC。来たべさ」
なっちは相変わらず、呑気な顔でニッコリ笑った。
何で私が美術室にいるって判ったんだろうなァ。
確かに近代美術には弱い私なんだけどさ。
「あら、安倍さん。お久し振りね」
「石川先生。その節はお世話になったべさ」
「私は石井です! 同じ『リカ』でも、あそこまで歌は下手じゃありません!」
アハハハハ・・・・・・。そうか、ピーチと梨華ちゃんは一字違いだもんなァ。
だいたい、ピーチは一年生の担任だから、なっちとはあんまり面識が無い。
しかしピーチもきついなァ。確かに梨華ちゃん、歌は下手だもんね。
お陰で保田先生に特訓を受けたり、補習したりしてたもんなァ。
そんなに努力しても、梨華ちゃんの歌は全く上達しねーってんだから凄い。
「ご、ごめんなさい」
ピーチは私に絵を外せって言われて機嫌が悪いんだ。
こうした時は、早目に退散するに限る。
ったくなっちは何をやってんだよ。ピーチに何度も頭下げて。
もしかして、自分が田舎者だからって、卑屈になってんじゃねーのか?
いいんだよ。ピーチだって威張れた土地出身じゃねーんだからよ。
「なっちさん、こっちこっち」
ったく世話がやけるなァ。こっちは脚がいてーってのに。
私は梨華ちゃんみてーに、Y字バランスなんで出来ねーんだからよ。
その代わり体力には自信があるぞ。大学行ったらフットサルでもやるかな。
- 129 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/02(木) 10:54
- 「石井先生に悪い事したべさ」
「そんなもん、気にすんなっての。それより飯にしようぜ」
どこの学園祭も同じで、アトラクションの大半を模擬店が占める。
まァ、テキ屋と違って儲け主義じゃねーから、良心的な値段だからいい。
それでも、お好み焼きとヤキソバ、タコヤキを買うと五百円近くになる。
でも、なっちと二人で千円くれーなら、安いって思った方がいいんだろうなァ。
「ここの芝に座ろうか」
中等部はあっても女子校だし、あちこちにある芝はきれいなもんだ。
これが公立の中学にでも行くと、アフォな中坊どもが汚すんだよなァ。
それがカッコイイと思ってるんだろうから、何を言っても無駄ってもんだ。
芝生に座ると、校庭の中央のスペースで、ダンス部が踊ってるのが見える。
よく、あれだけ踊れるもんだよなァ。私はダンスが苦手だ。
「なっちさん、クレープとチョコバナナ、リンゴ飴かよ」
「アハハハハ・・・・・・。甘いもんばっかりだべね」
しかし、せっかくの学園祭だってのに、梨華ちゃんは裕ちゃんに呼ばれてるし、
ごっちんはどこかに逃げちまって美貴ちゃんは行方不明だもんなァ。
まさか、美貴ちゃんは彼氏と一緒だったりしてね。可能性あるぞこれ。
でも、あの美貴ちゃんの彼氏って、いったいどんな人なのかなァ。
美貴ちゃんは、かなり難しい性格してるからなァ。
ところで、ごっちんは彼氏とか・・・・・・あの性格じゃ面倒臭がって作らねーか。
私だって彼氏なんて出来たら、面倒臭いだけだと思うなァ。
それに、私には大好きななっちが傍にいてくれればいいし。
眼の色を変えて彼氏を作る子もいるけど、どうなのかね。
- 130 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/02(木) 10:55
- 「そういえば、また襲われたんだ。さっき階段で」
「本当だべか!」
もう、これで四度目になるから、少しは慣れて来た。
だけど、やっぱり怖いし、犯人が誰なのか凄く気になる。
あの雑踏の中には私服の人もいたけど、制服姿が多かった。
そうなると、やっぱり聖ダルセーニョ学園の生徒が怪しい。
「確かにオレも大山先輩や栗原先輩みてーに、バレー部の後輩をしごいた事はあったよ。
でも、辻なんか懐いてくれてるし、そのくれーで殺そうとまではしねーよなァ」
後輩の顔を思い出しても、そんな事をするやつなんていない。
途中でバレー部を辞めた後輩も、人間関係が原因じゃなかったし。
いったい誰が、どんな恨みで私を殺そうとするんだろう。
私はタコヤキを食べながら、ぼんやりとダンス部を見てた。
「もしもし。三鷹警察だべか? 捜査課の村井さんをお願いするべさ。
えっ? 村田じゃなくて村井だべさ! マンジュシュリ=ミトラ正大師!」
「な、何やってんだよ!」
「マンジュウが責任持って捜査するって言ったべさ。来て貰おうよ」
なっちはケイタイから三鷹警察に電話して、
あの村井って刑事を呼ぼうとしてる。
そこまでしなくてもいいのに!
だって、もし同級生なんかだったら。
でも、私もこれ以上、命を狙われるのはご免だしなァ。
ここは思案のしどころなんだけどよォ。
- 131 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/02(木) 10:55
- 「もしもし! マンジュシュリ=ミトラ正大師だべか?」
とうとうやっちまったな。これで完全に警察沙汰になっちまう。
こんなとこにパトカーが来てみろよ。学校中大騒ぎになっちまうぞ。
私はどうすりゃいいんだ? 被害者は被害者だけど事情聴取があるし。
これでライブも出来なくなるってわけか。
まずい! 石黒先生、まじでブチキレるぞ。
「へっ? 容疑者が割れた? 本当だべか?」
容疑者が割れたって事は、もうじき警察が来るって事かァ?
私はどうなっても知らねーぞ。どうすんだよ! ったく!
「ほえ? 私服が?」
どうやら、私服警官が張り込んでるみてーだなァ。
確かに傷害事件だから大掛かりな捜査なんてしねーんだろうけど、
もしかすると、私が殺されるかもしれねーからなァ。
辺りを見回してみると、それらしい男が二人いた。
どうせいたんなら、何でさっき助けてくれなかったんだよ!
「成る程、現行犯で引っ張るつもりだべね」
なっちはケイタイをしまうと、眼を細めながら辺りを見回す。
イヤホンをしたブルゾン姿の男が二人、それと私の近くには、
眼つきの鋭いスニーカーを履いた中年の女がいた。
そうか。ここで私が殺されるのを待ってるんだな?
殺されてから文句を言え。それが日本の警察だ。
- 132 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/02(木) 10:56
- 今日のところはこれにて失礼致します。
- 133 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/02(木) 22:05
- 気・・・気になりますよ〜〜〜〜
- 134 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/06(月) 09:38
- >>133
ありがとうございます。
犯人はいったい誰なんでしょうね。
そして、その動機とは・・・・・・。
学園祭が終わったら期末テストとクリスマスです。
一気に三学期〜卒業式になっちゃいますね。
- 135 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/06(月) 09:39
- 〔学園祭・8〕
私は午後三時になると、なっちと一緒に生物部へと行った。
ここでは平家のみっちゃんが、美味い鯉こくを作ってくれる。
生物部のデモストレーションで解剖された鯉だって、
こうしてみんなに食べられれば、うかばれるってもんだ。
気が付くと、いつの間にかごっちんが鯉こくを食べてる。
石黒先生に遭遇して、瞬間移動したみてーに消えたのに。
「うめーなァ。伊勢にも鯉こくがあるの?」
「当たり前やろ。伊勢は何でもあるで」
そういやーそうだよなァ。
伊勢海老ってくらいで、伊勢湾では何でも獲れるし、
沢山の河川があるから川魚も豊富だった。
おまけに松坂牛なんて、世界にも通用する牛の名産地。
みっちゃんも料理が上手いから、きっといい奥さんになれるよ。
「吉澤、そろそろ楽屋で準備しろ」
うげげー! 何で石黒先生までいるんだよォ!
あんまりいいもん食うと、母乳が出過ぎて大変だぞ。
まあ、最近じゃ母乳をパックに入れて冷凍保存するらしい。
そうすりゃ、母乳が出なくなってもストックがある。
母乳が出る内に搾乳するってのは、何か牛みてーだなァ。
そういえば、石黒先生は鼻にも穴が開いてるし。
アハハハハ・・・・・・。これじゃまじで乳牛だぜ。
- 136 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/06(月) 09:39
- 「はーい」
ドラムやキーボードなんてのは、セットしちまえば楽なんだよなァ。
でもギターなんてのは、温度や湿度に影響されてピッチが狂っちまう。
ピアノも照明なんかの熱で弦が膨張してピッチを狂わさないために、
コンサートピッチといって、最初からA=445ヘルツにするんだった。
頑丈なピアノなら五ヘルツくれーで済むけど、ギターは華奢だからなァ。
あの細いネックで、数百キロもの力に耐えてるんだからよ。
「ごちそうさまー」
私は鯉こくを食べ終えて、その足で楽屋に向かった。
まず、ステージコスチュームを着てメイクしねーとなァ。
メイクかァ。面白そうだからキャッツメイクでもしてみるか?
劇団四季のキャッツメイクは、誰もが一度はしてみたくなる。
ただ、コスチュームが黒の上下だから黒猫になっちまうなァ。
クロネコヤマトの宅急便ってか?
「それじゃ早目に楽屋入りしようか」
私となっち、みっちゃんの三人で楽屋に入ると、それは物凄い事になってた。
コスチュームは散乱して、ギターの弦が全部切られてるじゃねーか。
不思議な事に私のスポーツバッグの中の荷物が一番酷い状態で、
焼銀杏の紙袋やみっちゃんのバーキンは荒らされてない。
石黒先生のシャネルに至っては、手も触れていないようだった。
こいつは空き巣にしちゃ、どうも様子が変だよなァ。
無人になる楽屋に金目の物は置いていないけど、
こんな荒らし方は尋常じゃねーよ。
- 137 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/06(月) 09:40
- 「ちょ、ちょい待ち。石黒先生呼ぶで」
みっちゃんはケイタイで石黒先生を呼んだ。
石黒先生が来る前に、梨華ちゃんと焼銀杏がやって来る。
やっぱり楽屋の状況に、かなり驚いているようだった。
いったい誰がこんな酷い事をしたんだろうなァ。
「よっC、早く着替えてギターの弦を張り替えるべさ」
そうだ。出演時間まで、もう三十分しかない。
着替えてメイクする時間しか考えてなかったから。
でも、ギターの弦を張り替えなきゃいけねー。
もう時間がねーじゃんか!
「なっちさん! コスチュームを着たら、メイクしてくれるかなァ」
「判ったべさ」
私は慌しくコスチュームに着替えると、椅子に座って弦の張替えを始めた。
この弦の張替えというもんは、意外に時間が掛かるんだよなァ。
ただ張るだけなら誰でも出来るんだけど、弛みが無いようにしねーと。
特にアームを使うストラトキャスターは、ちょっとでも緩みがあると命取りだ。
「吉澤、どうしったっていうの?」
梨華ちゃんと石黒先生も困惑した表情でやって来た。
そこで私は、これまでの事件の詳細を話したんだ。
でも、刑事が張ってる事だけは伏せておいた。
あまり多くの人が知ると、犯人にも判ってしまうから。
- 138 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/06(月) 09:40
- 「サポートはテレキャスターだったね」
石黒先生は自分のベースが無事だと判ると、
私のテレキャスターの弦を張り替えてくれた。
それでもやっぱり、ベースとギターじゃ違う。
後で自分自身が、きっちり調整しないといけない。
「よっC、あたしに出来る事、無い?」
梨華ちゃんに出来る事? ・・・・・・ねーよ。
ギター弦の張替えなんて、やった事なんかねーだろうし。
マネージャーなんて、こんな時は何も出来ねーんだなァ。
本番中はミキサーさんの横で、ソロのきっかけを指示するくれーだ。
「福田と石川と保田、みっちゃんと一緒に楽屋を片付けろ」
ようやく姿を見せた二人と右往左往する梨華ちゃんに、
石黒先生は流石に的確な指示を出した。
しかし、ギターの方が無事で良かったぜ。
ネックでも折られてたら、使いもんになんねーもんなァ。
なっちにメイクを任せて、私は黙々と弦を張り替える。
そうこうしてる間にも、時間はどんどん経ってしまう。
「石黒先生、スタンバイをお願いします」
進行係がやって来て、私達にスタンバイを促した。
でも、私はまだ巻弦しか張り終えていない。
これじゃ、時間までに間に合わねーよォ。
- 139 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/06(月) 09:41
- 「メイク完了! これでいいっしょ?」
なっちが手鏡で私の顔を見せる。
へえ、やっぱり女子大生にもなると巧いもんだなァ。
私の魅力を八割方引き出してるじゃねーか。
なんて、それどこじゃねーっての!
とにかく弦を張らないと。
「吉澤、もう音の方はいいな?」
「はい、頭の中に入ってます」
マーシャルの三段積み二台さえ用意しておいてくれりゃ、
自分で作った音は頭の中に入ってるから問題なし。
シールドをぶち込んで、十秒もすれば自分の音を出してみせるぜ。
シングルコイルのピックアップは、かなりデリケートだけどね。
「それじゃ、四人で少し場を繋ごう」
さすがは石黒先生だなァ。こうしたハプニングでも落ち着いてる。
流石に母親になると、多少の事じゃびくともしねーってか。
子供が熱性痙攣を起こした時、母親がパニックしてたら死んじまう。
熱が四十度以上になると、子供は熱性痙攣を引き起こす事が多い。
そうした場合、とにかく身体を冷やしてやらねーと駄目なんだ。
でも、判ってねー親は、熱があるからって毛布で包んじまう。
そんな事してたら、熱が逃げないで大変な事になっちまうんだ。
それはそうと、こっちはまだ時間が掛かりそうだぞ。
軽く場繋ぎにアドリブでブルースでもやっててくれたら、
じきに合流出来ると思うんだけどなァ。
- 140 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/06(月) 09:41
- 「だ、大丈夫やろか」
ヤバイぞ。みっちゃん、かなり緊張しちまってるなァ。
みっちゃんをリラックスさせる意味で、
ジャニス=ジョプリンの『Bye Bye Bye』でもやっててくれねーかな。
焼銀杏に石黒先生、保田先生の三人だったら、
エマーソン・レイク&パーマーでもいいし。
フリーの『ハートブレイカー』でもいいじゃん。
「もう時間が無い。吉澤、急げよ」
「よっC、あたしも行っちゃうけどぉ・・・・・・」
「大丈夫だって」
五人は私に心配そうな視線を送りながら、ステージへと向かって行く。
一曲目は『ハイウェイスター』だったよな。キイはGだったっけか?
いや、みっちゃんの喉の都合で、半音下げたからG♭になるんだった。
まァ、チューニングを変えちまうからポジションは同じだけどね。
ハモンドオルガンも、最近のはそういったチューニングが出来る。
パソコンと楽器ってのは、本当に日進月歩なんだよなァ。
「ふう、後はチューニングだけだ」
私はチューニングメーターにシールドを差込んで、
一弦からE♭・B♭・G♭・D♭・A♭・E♭に合わせる。
まずはテレキャスターから、弦を引っ張りながら狂わないようにと。
フェルナンデスのテレキャスターなんて、こんなもんでいいだろ。
さてと、問題は次のストラトキャスターだよなァ。
アームを使って狂う分を計算しておかねーと。
- 141 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/06(月) 09:42
- 「ここから音が聞こえるべよ」
なっちは楽屋の窓を開けて、石黒先生達の場繋ぎの音を聴いていた。
流石は石黒先生。焼銀杏のドラムに合わせて、ブルーノートのベースラインを刻んでる。
保田先生もハモンドオルガンで、ブルースっぽいアドリブを入れてた。
この調子なら、何とか時間を引き延ばして・・・・・・。
「YHE! YHE! みんな! 行くで!」
み、みっちゃん、やけにハイテンションだけど平気か?
まさか、このまま『ハイウェイスター』に行くんじゃねーだろうな。
馬鹿! 焼銀杏までスネアをテケテケ始めやがった。
何やってんだよォ! こっちはまだチューニングが済んでねーっての!
「Song Call『Highway Star』This one!」
「よっC、何となく始まったみたいだべさ」
「あいつら・・・・・・」
馬鹿野郎! 勝手に始めやがって!
こっちは、まだチューニングが終わってねーんだよ!
ストラトキャスターのチューニングが終わってねーってのに。
急いでやんなきゃ。早く・・・・・・早く!
ヤバイ! もうワンコーラス目が終わっちまった!
えーと、ツーコーラス目が終わるとハモンドのソロだな。
ま、まだギターソロまでは、何とか時間があるぞ。
ここは慎重に。慎重にチューニングしねーと。
クルーソンのデリケートなチューンが可能なペグは、
六個セットで三万円はするもんなァ。
- 142 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/06(月) 09:42
- 「なっちさん、テレキャスターをスタンドごと持って来てよ」
ハモンドソロが終わる頃には、何とかチューニングが終了した。
スリーコーラス目が終わると、そのままギターソロに突入しちまう。
背後でなっちの「判ったべさ」の声を聞きながら、私はステージに走った。
仕方ない。ここまで引っ張ったんだから、ギターソロから登場するか。
これじゃまるで、誰かのラストパフォーマンスライブみてーだなァ。
「落ち着け、落ち着くんだ」
私は深呼吸してから、ゆっくりとステージに足を踏み出した。
それにしても、ここの体育館のステージはだだっ広い。
卓球部が使用するからって、こんなに広くする必要はねーのに。
だいたい、バレーコートくれーの広さがあるんだ。
下手な市民会館の舞台より、確実に広いんだよなァ。
やっぱり、ここはあくまで体育専用の施設であるから、
多目的利用の講堂じゃない分、ステージも卓球が出来るように工夫されてる。
とはいっても学園祭ともなりゃ、演劇部と軽音楽部の専用ステージになった。
さて、そろそろいいかな? そんじゃ行って来るぜ。なっち。
「よっしゃー!」
私は一気にライブモードに突入して、ステージへと踊り出た。
ピンスポはヴォーカルのみっちゃんに当たってるから、
私がステージの端から出て来ても、あまり気付く人はいねーだろう。
さて、ここからが本番だぜ。ごっちんじゃねーけど、鼻血が出るかなァ。
思い切り『どす〜ん!』ってやってみてーなオイ!
- 143 名前:激動の二学期 投稿日:2005/06/06(月) 09:44
- 今日のところは、このあたりで失礼致します。
また近い内に更新致しますので、どうか見捨てずに宜しくお願い致します。
- 144 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:16
- 〔学園祭・9〕
マーシャルにシールドをぶち込むと、私はゲインを上げてステージ中央まで出た。
リッチーさんがバッハのアルペジオをパクッたというメロディを弾き始める。
ピンスポ(ピンスポットライト)が眩しいけど、私は今千人の観客から注目されてる。
気持ちは焦ってたけど、ステージに出ちまうと、そんなに緊張はしなくなった。
リズムに乗って何だかすげー嬉しいし、エクスタシーに近いものを感じるなァ。
さて、ここからがソロの見せ場、四連符の連続じゃァァァァァァァァー!
「よっC!」
客席から大きな声で声援が来る。
いいなァ。これこそがライブの醍醐味だぜ。
そんな時、私の眼に紙コップが映った。
こいつはみっちゃんが使ってるもんだな。
くそっ! 勝手に始めやがって!
「ったく!」
私は水が入った紙コップを右手で掴み、
コンガを打ち続けるみっちゃんに投げ付けた。
あれ? この光景、どこかで見た気がするなァ。
ディジャヴ? なんちゃって、んなわけねーか。
・・・・・・それにしても石黒先生は、やけに冷静だなァ。
あの保田先生ですら、汗だくでハモンドを叩いてるってのに。
私はアームを使ってオクターブ近いビブラートをかけた。
これこれ。これこそがストラトキャスターのいいとこなんだ。
ロックナットじゃねーとチューニングが狂うのがネックだけどな。
- 145 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:17
- 「All lihgt hold tite I'm a Haywey star! Oh!」
やった! 焼銀杏のドラムと、ぴったり息が合った。
最後に保田先生がハモンドオルガンのスイッチ入れながら揺らして、
下部に付いてるリバーヴスプリングを『ガシャーン!』と鳴らす。
私は途中からだったけど、これまでで最高の出来じゃねーかよオイ。
石黒先生のベースもスピード感があったし、保田先生のハモンドは最高。
焼銀杏も意外にリラックスしてるみてーで、音にバラつきがなかった。
「どうもありがとー!」
みっちゃんがノリノリでトークサービスして間に、
私は保田先生のハモンドに合わせてチューニングをする。
ナットにグリスを付けてるけど、やっぱりこれが限界なんだなァ。
ステージ上みてーに音が大きな場所じゃ、ハーモニックスは使わない。
EとGの和音だけで、だいたいチューニングする事が出来るんだなァ。
それに、わざわざハーモニックスでチューニングしたらダサい。
そんな私の肩を、石黒先生が軽く叩いてニッコリ笑った。
「よくやった。偉いよ」
怖い怖い石黒先生だけど、こうして誉められれば嬉しくなる。
頭に来て水入りの紙コップを投げ付けたんだけど、
みっちゃんはテンションが上がっちゃって関係ないって感じ。
そりゃそうだよなァ。これだけの観客が大声援をおくってるんだから。
みっちゃんはどこで用意したのか、客席に缶コーラをばら撒いてる。
これじゃウッドストックのジャニス=ジョプリンみてーじゃんか。
- 146 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:18
- 「みんなー! ノッてるー?」
「イェー!」
観客の大声援が起こると、焼銀杏がドラムでリズムを刻み出した。
こいつは思い切りブルースだな。まァいいや。付き合おう。
私がAコードでリフを始めると、石黒先生まで付き合って来た。
そうそう。このアドリブがライブでの醍醐味だよ。
保田先生がミニムーグで四小節だけアドリブを入れた。
「保田圭! キーボード!」
あれ? こんなとこでメンバー紹介だったっけ?
まァいいや。ちょっと段取りと違う気がするけど。
八分の六といった典型的なブルースだからF#mで止めてみる。
流石石黒先生。ちゃんとベースで音の穴を埋めてくれた。
最近は宇多田ヒカルでR&Bが有名になったけど、
基本的にブルースってのは、八分の六拍子じゃねーと。
「ほな、次行くで!」
あらららら・・・・・・。メンバー紹介じゃなかったのかよ。
まあいいや。次は散々練習した『恋レボ』だったな。
この曲は一人じゃ歌いきれねーから、私と石黒先生、
そして保田先生の三人がコーラスでサポートするんだ。
石黒先生と私は声質が似てるから、保田先生が目立つなァ。
まァ、歌い方は私と石黒先生とは違うんだけどね。
おっと、焼銀杏のドラムがスタートしたぞ。
マイクスタンドに貼り付かなきゃいけない時はまだ先。
- 147 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:18
- 「イエーィ!」
保田先生のアレンジで、歌が始まるまでの十六小節は、
石黒先生のベースソロっていう形を採っていたっけ。
石黒先生はピック弾きなんだけど、硬めの音を出してるから、
高音になってくるとピアノの音に近くなって来る。
石黒先生の器用なベーステクはジーン=シモンズで、
音はチョッパーに近くてグレッグ=レイクってとこだ。
ギター用をそのまま太くしたような弦だから、
指先がカチカチになるまで弾き込まないと痛いだろうなァ。
「石黒『デビル』彩! ベース!」
アハハハハ・・・・・・アハハハハ・・・・・・。腹がいてー。
石黒先生には『デビル』がピッタリじゃねーか。
本人の石黒先生も、思わず失笑しちゃってるよ。
みっちゃんのセンスは、とにかく最高にいいなァ。
それじゃみっちゃんは「平家『サタン』充代」ってとこか?
裕ちゃんなら「中澤『雪女』裕子」なんちゃってなァ。
「乾杯Baby 紙コップでいいじゃない♪」
この曲はスコーピオンズみてーなユニゾンじゃなくて、
変則コードに音を加えたかなり複雑なリフを使ってる。
どうしてもコードを少なくしてメタルにすると、
こうした複雑な音まで加えなきゃ面白味が無くなるんだ。
親指から小指まで、五本全てを使ってリフを刻む。
コードが変われば、音階に応じて指の順番が変わるんだ。
- 148 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:19
- 「Oh Yes! 気持ちが大事!」
「大事」
「大事」
私と石黒先生で、王様の『ウ−マンフロムトーキョー』の真似してみた。
ちょっとマニアック過ぎて、思ったよりウケがよくなかったなァ。
そこは平家のみっちゃん。得意じゃないけどダンシングで見せてくれたよ。
マイクスタンドを持ちながら、デビッド=カヴァーデイルみてーに吼えた。
「間奏行くよ!」
『恋レボ』の間奏じゃ、演奏は焼銀杏と保田先生に任せちまう。
保田先生はフットベースとハモンドを使いながら、必死で演奏に集中してる。
焼銀杏がドラムを叩きながらラップを歌い始めると、私達は三人で踊り始めた。
ギターなんか背中に回しちまって、とにかくここは三人で踊りに集中した。
「Top it!」
「超超超いい感じ。超超超いい感じ」
八方手裏剣を投げるような仕草で徐々に立ち上がって行く。
ここからが、私達三人の最も目立つところだから、
何としてでも呼吸を合わせないといけねーんだよなァ。
まずはストップモーションから、みっちゃんが動き出して、
それから私と石黒先生が動き始めるんだ。
観客は一緒になって踊るやつ、大きく拳を突き上げるやつ、
サイリウムを振るやつ、ピンクの豚の風船を飛ばすやつ。
・・・・・・っていつからピンクフロイドのコンサートになったんだァ?
後ろの壁にレーザーで何か書いてはねーだろうな。
- 149 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:20
- 「この星は」
「美しい」
私と石黒先生、そしてみっちゃんの見せ場だ。
焼銀杏のドラムも、音を小さくして巧い演出をしてる。
そういえば、リムショットをしたりしたせいか、
焼銀杏はさっきから、もう三本のスティックを折っていた。
このスティック消耗度は、イアン=ペイスかボンゾクラスだぜ。
それにしても、あの八点留めのスネアから、
焼銀杏は魔法のように色々な音を出してた。
「みんなで恋愛革命YHE!」
ミニムーグが唸って、最後の盛り上がりになって行く。
こんな十六ビートの曲を、保田先生はよくメタルにしたなァ。
しかし、これでみんな女だからいいけど、
男が『ムスメタル』なんてやったら気持ち悪いだけ。
っていうか、もうそれだけで犯罪だよなァ。
「うりゃー!」
最後は保田先生のハモンドの『ガシャーン!』で決めた。
でも、このハモンドオルガンってやつは、えらく重いんだよなァ。
最近のは樹脂を使ってるから軽量化されてるけど、
それでも最低でも百キロ以上はあると思う。
保田先生はその重いハモンドを、軽々と揺らすんだから凄い。
このよっC様でも、あのハモンドを揺らすのは大変だもんなァ。
馬鹿力のある辻あたりだったら、苦もなく揺らすだろうけど。
- 150 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:21
- 「OK! まだ時間はあるからね!」
石黒先生も楽しそうだなァ。
次は血の滲むほど練習した『恋ダン』だな。
スコーピオンズを彷彿とさせるユニゾン。
リッチーさん風の変則コード。
この曲でのソロは私の見せ場でもある。
バビロニア風のギターアレンジは徹夜で考えた。
そういえば、私が生まれる前だったと思うけど、
東北地方で死者が出たレインボーのコンサートがあったっけ。
「そんじゃ次行くで!」
みっちゃんはコーラを投げ終えると、マイクスタンドを持ち上げて叫んだ。
保田先生のミニムーグが唸りを上げ、石黒先生がリズムを取り始める。
『ムスメタル』の代表的な曲である『恋ダン』は、最も気合が入るってもんだ。
石黒先生のベースに合わせて、焼銀杏が慎重に裏でリズムを取り始める。
ドラムとベースは裏でリズムを取る。それが難しいんだよなァ。
裏で取れると、完璧にリズムに乗る事が出来るようになるんだ。
「オォォォォォォォォー! ウッ! ハッ!」
エスニックなメロディは、私と保田先生の担当だ。
ムスメタルだけあって、ベースもシャッフルしないし、
スコーピオンズばりの十六ビートでユニゾンする。
シャッフルするのは焼銀杏のバスドラだけで、
えらくスピード感のある曲に仕上がった。
- 151 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:21
- 「恋をするたび胸BON BOBABON」
「ウッハッウッハッ、アヤヤ〜アヤヤ〜♪」
楽器を弾きながら歌うのは、思ったよりも難しいもんだ。
コードをガチャガチャ鳴らしながら歌うのは誰でも出来る。
難しいのは楽器と歌が、違うメロディになった時なんだ。
そういった点で石黒先生は、かなり器用な方なんだろうなァ。
もっとも、ベースはギターより二オクターブも下の音だから、
女性が歌う場合、あんまり邪魔にはならないよなァ。
「セクシービーム!」
やっぱりフロントマンは、美味しいとこを持って行けるからいいなァ。
ピンクフロイドでロジャー=ウォーターズが嫌われたのも、
ベース担当なのにフロントマンになろうとしたからだろう。
だいたい、ベース弾きが銅鑼を鳴らすなんて事自体考えられねー。
ドラムとパーカッションは違うけど、ベース弾きが兼ねるのは異常だ。
あくまでピンクフロイドのフロントマンはギルモア爺さんなんであって、
たった四人しかいない中でのツートップなんて事は、
きっと英国人のプライドが許さなねーんだろうなァ。
「恋の重低音〜♪」
石黒先生は痺れるような音階でベースを弾いた。
ヴォーカルはユニゾンなのに、この器用なテクはアマの域を越えてる。
この攻撃的なベースの音は、私のモチベーションを高揚させて行く。
心のどこかに反骨精神があるのか、石黒先生に負けないように、
私は大きなゼスチャーでギターを弾くようになっていた。
- 152 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:22
- 「石黒先生最高!」
学生時代はベースを弾きながらフロントマンだった石黒先生。
やっぱり、こうして見ると、カッコイイっていうか実に映えてる。
クリーム時代のジャック=ブルースがそうだったように。
黄金期ディープパープルのリッチーさんがそうだったように。
そしてX−JAPANのYOSHIKIがそうだったように。
石黒先生には他のメンバーが束になっても敵わない華があった。
「同じ人なら踊ろぜワイヤイ!」
でも、私は絶対にジョン=ポール=ジョーンズにはならない。
かつて広島東洋カープを優勝させた古葉竹識監督のように、
いつも壁からチラリとしか映らないのなんて御免だぜ。
石黒先生が長嶋茂雄なら、せめて私は星野仙一になってやる。
渾身のストレートで勝負してやろうじゃねーか!
「吉澤『よっC』ひとみ! ギター!」
おおっ! 私がソロに入った瞬間、みっちゃんが私を紹介した。
こういったメンバー紹介ってのも、なかなかいいもんだなァ。
ピンスポが私に集中して、鳥肌が起つくれー気持がちいい。
このエスニックなコード進行のギターソロは私の提案で、
レインボーの『バビロンの城門』を意識した。
多少アップテンポでも三十二小節からある長いギターソロには、
私の知識や感覚のエッセンスを凝縮させてある。
約四オクターブの音の中からそれを探すように、
私の指がまるで踊るようにフレットの上を走った。
- 153 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:22
- 「よっC!」
保田先生以上の黄色い声が体育館内に響き渡った。
やっぱり私の人気はバレーだけじゃねーや。
私は聖ダルセーニョ学園美少女四人組の一人だし、
そういえば、今年のバレンタインデーには、
風呂敷が必要なくれーチョコが集まったもんなァ。
でも悲しいかな、みんな同性からだった。
って当たり前だ。ここは女子校だっての!
「福田『焼銀杏』明日香! ドラム!」
私のギターソロが終わると、焼銀杏がドラムを乱打し始める。
どうしても時間の都合上、ドラムソロとまでは行かねーけど、
メロタムから頭しか見えない焼銀杏が目立つようになってんだ。
しかし、二十二インチのツーバスにシックスタムだぜ。
私や石黒先生、みっちゃんはともかく、焼銀杏の身長だったら、
バスドラと同じサイズのチャリンコに乗ってても不思議はねーだろ。
「ソレソレソレソレ!」
「ソレソレソレソレ!」
焼銀杏のドラムは、まるでイアン=ペイスみてーに十六を刻む。
保田先生は髪を振り乱し、ハモンドの鍵盤を殴っていた。
すでに冷静に進行を見詰めているのは石黒先生だけになってる。
全員がトランス状態のように、楽器を仇のように殴っていた。
たった五人だけで演奏し、歌っているというのに、
その音は可聴周波数を全てカバーしてるみてーだ。
- 154 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:23
- 「恋の重低音ー! あ、何だ!」
五人の息がピッタリと合い、難関だった『恋ダン』は無事終了した。
拍手と歓声、観客は床を踏み鳴らし、体育館全体に鈍い音が響く。
この快感といったら、他の何にも例えられねーよ。
すげー嬉しいし、小便ちびりそうな緊張感と充実感。
「ありがとー! もう時間になってもうたわ」
さあ、いよいよラストの曲『ジョニーBグッド』だぜ。
チャック=ベリーが初めてロックンロールをやって半世紀。
彼の意思は今ここで、私達若い世代に受け継がれたんだ。
ロックは永遠だ。これまでも、これからも。
「最後の曲やで! ジョニーBグッド!」
私はストラトキャスターからテレキャスターにチェンジ。
同じアイボリーだから、観客の中には気づかない人もいるだろう。
みっちゃん、そろそろ喉が限界じゃないかな。
声が裏返らないように、ここはAで行こうじゃねーの。
私がそれとなく石黒先生と保田先生に告げると、
二人とも同じ事を考えていたようで納得してくれた。
「行くぜ!」
この曲は私のギターから始まる。
ジミ=ヘンドリックスがジョニー=ウィンターが。
フランク=マリノがキャロルがコピーした曲だ。
- 155 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:23
- 「Oh,Well ・・・・・・」
この曲は早口で、何を言ってるのか判らねー。
英語は苦手じゃねーけど、ヒアリングなんて出来ねーよ。
唯一判るのは『Go Go! Go Jonny Go Go!』んとこだけ。
だからってわけじゃないけど、そこだけ私も一緒に歌った。
歌のメロディなんかスリーコードだけの曲だから、
先が読めてメッチャ簡単だもん。
「よっしゃー! 平家『みっちゃん』充代! ヴォーカル!」
私が叫ぶと、会場から割れんばかりの拍手。
理数系オールマイティで怖いみっちゃんだけど、
可愛らしいところもあるからか、生徒からは人気がある。
いつだったか、サツマイモの発酵実験で出来た焼酎を、
みっちゃんがこっそり飲んでるのを見た事があった。
「WOW! WOW! WOW!」
私のギターソロが始まると、みっちゃんはコンガを叩き始める。
ピッキングハーモニックスで高音を出しながら、
私はテレキャスターを身体に擦り付け始めた。
ベルトの金具に弦が当たると、これまた凄まじい金属音がする。
ストラップを外してボディを持ち、マイクスタンドにも擦り付けた。
丁度ボトルネックみてーな音になって、これはこれでおもしれー。
焼銀杏の激しいドラムが入ると、例のEとBの連続になった。
これこれ! これこそが最後のギタークラッシュモードだ。
- 156 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:24
- 「よっC! よっC!」
会場からは私を応援する声が凄まじい。
保田先生と焼銀杏は上手く私を盛り上げる。
私はギターを床に置き、靴の裏で弦を鳴らしてみた。
足ってのは手の数倍も力があるから一弦が切れちまう。
こうなったら、もうクラッシュ! クラッシュ行くぜ!
「おりゃァァァァァァァー!」
ステージの角にギターのネックを叩き付ける。
この際、弦が張ってある方をぶつけないと大変な事になるんだ。
弦がこっちを向いてたりしたら、折れたヘッドが顔面に飛んで来る。
これだけ太い弦だから、その張力はかなりのもんだろう。
そんなもんが顔面を直撃したら、お嫁に行けない顔になる。
それでころか、頭蓋骨骨折とか失明の危険性もあった。
「もう一丁!」
こんなに小さなテレキャスターのヘッドでも、一撃で折れたりはしねーんだなァ。
私は力を込めて二回三回と、テレキャスターをステージの角に叩き付けた。
三度目に鈍い感触と共に、テレキャスターのネックが折れてヘッドがぶら下がる。
私は褐色のモンスターケーブル製シールドを持って、テレキャスターを床に叩き付けた。
マーシャルアンプからは、テレキャスターのボディから伝わった振動が、
まるで雷か爆弾のような轟音を響かせてる。
何度も何度も床に叩き付けると、ボディにも亀裂が入って来た。
いくら頑丈なマーシャルでも、これだけ大きな電気信号を受けたからか、
一台のヘッドのチューブが切れてしまったらしい。
- 157 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:24
- 「今日はどうもありがとー!」
すでに原型を留めないテレキャスターを、私は客席に放り投げた。
大観衆に手を振りながら、私達は爽やかな汗をかきながら楽屋へ戻る。
一応、耳栓はしてるけど、あれだけの大音量だから耳鳴りがしてた。
梨華ちゃんとなっちも楽屋に来て、私達に飲み物を配ってくれる。
この充実感、達成感っていったら、他に例えようもねーよ。
「吉澤、最高だったね」
石黒先生は嬉しそうに言った。
すると、みっちゃんや保田先生もニコニコし出す。
こいつは何か裏でもあるのかなァ。
私が訝しげにしてると、みっちゃんが話してくれた。
「ほんまはな。あんたがどこまで出来るか見たかったんよ」
「へっ?」
何? 何を見たかったって? 私のギターテクニック?
そんなもん、私くれーのやつは、そこらにゴロゴロしてる。
まァ、うちの学校じゃ、あんまりいねーみてーだけどよ。
「東京医科歯科大の重圧は、こんなもんじゃないよ」
石黒先生は真剣な顔で言った。
東京医科歯科大? 私が受験するんだよなァ。
そうか! 圭織さんが倒れた試験会場の重圧。
あれに耐えられるかどうかを見たかったのか。
- 158 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:24
- 「でも、吉澤なら大丈夫だ。きっと」
石黒先生が言うには、圭織さんは重圧に弱かったそうだ。
あんまり身体も丈夫じゃなかったみてーだしなァ。
彼女は人前で話をするのも苦手だったらしい。
まァ、バレーでもやってりゃ、嫌でも神経は図太くなる。
いちいちミスを後悔してたら、あっという間に負けちまう。
コンビが上手く行けば勝てるし、上手く行かなきゃ負ける。
それがバレーボールってもんだしなァ。
「そ、それじゃ・・・・・・あたしって・・・・・・」
「や、焼銀杏! しっかりしろ!」
オイオイ、焼銀杏は私のためだけに、
ドラムを叩かされる事になったのか?
いくら何でもそれは酷いよなァ。
こいつだって国立を受験するんだぜ。
マイペースで典型的なB型だけどよ。
行き当たりばったりのB型だけどよ。
「筑波大。あそこのプレッシャーもかなりのもんだよ」
筑波大っていえば、遷都を考えて創られた大学だったっけ?
もし、日本の首都が筑波になったとしたら、
東大・京大と並んで三大国立大になるんだろうなァ。
・・・・・・って、東京医科歯科大なんかよりすげーじゃんか!
焼銀杏って見た感じより、かなりすげーんだなァ。
まァ、とりあえず、ライブが終わってホッとしたよ。
- 159 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/16(木) 17:26
- 今日のところは、これにて失礼致します。
せめて一週間に一回は更新したいのですが。
- 160 名前:ふぇいく 投稿日:2005/06/19(日) 11:45
- 全然レス出来なくてすみませんm(__)m
最近ちょっと来れてなかったんですけど、
凄い更新量でビックリしました。
楽しみにしてるんで頑張ってくださいね!
- 161 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/20(月) 18:47
- >>160
ありがとうございます。
もう少し更新速度を上げたいのですが、どうも上手く行きませんで申し訳ありません。
明後日には何とか更新出来ると思います。
どうぞ、お見捨てにならず、お付き合い頂ければ幸いです。
- 162 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:25
- 〔悪夢〕
無事に学園祭も終わって、私も勉強に本腰を入れる事が出来る。
代休の月曜日、私は朝からなっちと本格的な勉強を再開してた。
もう数学の時間を減らして、その分を理科や社会に費やして行く。
それにしても、受験生ってのは憶える事が山のようにあって、
それこそ片っ端から整理券を配りたいくれーだ。
「細胞膜は浸透圧の・・・・・・」
「石黒先生、本気でよっCを心配してるんだべね」
私はシャープペンを置いて伸びをすると、凝っていた首の骨を鳴らした。
梨華ちゃんに嵌められてバンドに強制加入させられた時には参ったよ。
石黒先生に保田先生、みっちゃんはいるし、いったいどうなる事かと思ったぜ。
今思うと石黒先生は怖いけど、絶対に人を陥れるような卑怯な人じゃない。
でも、いきなり保田先生の顔面に裏拳が入った時にはびびったぜ。
教師といえど、先輩後輩っていうのは絶対的なんだなァ。
「なっちさん。オレ、もう一度圭織さんに逢ってみるよ」
「ほえ? どうして?」
「決意・・・・・・かな?」
みんなでここまでしてくれたんだ。
私は絶対に東京医科歯科大に受かってやる。
そして、石黒先生の教え子だった圭織さんの仇を討つ。
大丈夫だよ。私にはなっちという強い味方がいるし。
その決意を自分でも確認して士気を上げるために、
私はもう一度だけ圭織さんに逢っておきたかった。
- 163 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:25
- 「判ったべさ。それじゃ、これから行く?」
「うん!」
圭織さんとの面会時間も合わせて、往復二時間半あれば充分だ。
今から行けば昼前には帰って来る事が出来るだろうなァ。
午後になってから勉強したって遅くはねーもん。
第一、憶える事が山のようにあって、私には息抜きが必要だ。
「クルマのキーと免許証、財布は持ったべさ」
「レッツゴ・・・・・・って、クルマがねーよ」
私が二階から車庫を見ると、いつも置いてあるベンツが無かった。
クルマを使うとしたら、オヤジかオフクロくれーなもんだぞ。
オヤジ、何かの用事で出掛けてるのかなァ。
でも、今日は月曜日で病院は忙しい筈なんだけど。
「なっちさん、オヤジに訊いてみるね」
私がケイタイから電話すると、すぐにオヤジが出た。
って事は運転中ってわけじゃねーんだな。
いったい何時くれーに帰って来るんだろう。
「ねえ、どこに行ってるの?」
〈病院だけど〉
病院? 病院ってうちの病院だよな。
そうすると、オフクロが使ってるのかなァ。
でも、クルマのキーはオヤジとなっちしか持ってないし。
って事は? どうしたんだろ。
- 164 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:26
- 「クルマがねーじゃん」
〈な、なにー! 盗まれたかァァァァァー!〉
「うげげー! 盗難かよ!」
あのメルセデスベンツ S600LONG だったら、中古でも一千万で売れるぞ。
こいつは最近都内で頻発してる高級車狙いの窃盗団の仕業じゃねーか?
一千万で売れれば、五人いたって一人当たり二百万だもんなァ。
でも、クルマってそんなに簡単に盗めるもんなのかなァ。
特にベンツはセキュリティにカネかけてるはずなんだけど。
「ちょっと探すべさっ!」
「どこを?」
「近所だべさァァァァァァァー!」
いくら近所を探したって、逃げた犬じゃねーんだからよ。
うわっ! こういう時だけ、なっちって足がはえーなァ。
なっちは階段を駆け降りると、サンダルを履いて飛び出して行った。
私もスニーカーをつっかけて後を追ったけど、なっちの足に追い付かねー。
なっちは凄まじい速さで、病院の前の道を左に曲がって行った。
そういえば、人は利き足と逆の方が走りやすいんだっけか。
だから競技場ののトラックは、時計と逆回りなんだよなァ。
「どわァァァァァー!」
道を曲がった所でなっちが立ってたから、私は危うく激突するとこだった。
なっちにしても決して軽くはねーから、激突すりゃ双方怪我しちまうだろう。
私の運動神経が保田先生並だったら、間違いなく激突してたぞ。
何だってこんなとこに突っ立ってんだよ!
あれだけ凄まじい速さで走ってたのに。
- 165 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:26
- 「・・・・・・あったべさ」
「へっ?」
どういったわけか、うちのクルマが路上に駐車してあった。
幸運にも駐禁を切られる前だったから、私達は素早く乗り込んで移動させる。
でも、駐車場に停めてあるクルマが、何であんな場所にあったんだろうなァ。
オヤジかオフクロが使って、駐車場に入れるのが面倒だったみてーだ。
「オフクロが使って放置しやがったんだよ。きっと」
「・・・・・・そうみたいだべねえ」
何か釈然としないものを感じながらも、私達は靴を履き替えて、
入院してる圭織さんと逢うために相模湖へ向けて出発した。
平日の午前中という事もあってか、道路の混雑が凄まじい。
三鷹市もそうだけど、都下の道路はどこも混雑してる。
行政の対応が遅れたから、こういった事態になるんだ。
それと、大阪ほどじゃねーけど、違法駐車が渋滞の原因。
いくらだだっ広い片側二車線の道路を作ったところで、
一車線を駐車車輌に取られたら意味がねーっての。
「なっちさん、中央道で事故渋滞だってさ」
「談合坂付近で二キロっしょ? 問題無いべさ」
談合坂で二キロなら、相模湖インターまでは無問題。
最悪は大垂水峠越えすりゃいいわけだしなァ。
カーブの多い大垂水峠も、前にトレーラーとかがいなきゃ、
意外とスムーズに越えられるらしいからよ。
以前は走り屋のメッカだったけど、最近じゃそうでもないらしい。
- 166 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:27
- 「高速に乗るべよ」
私達は二十号線から中央自動車道に入って行った。
学園祭も終わったし、もう私が担ぎ出される心配はねーな。
やっぱり高速道路は大きなエンジンを積んだクルマで走るに限る。
パワーがあるからエンジンが唸る事もなくて全然うるさくない。
だから、ハイパワーのカーオーディオなんて必要ねーんだ。
「高尾山の紅葉は、来週あたりが見頃だろーなァ」
紅葉ってのは寒い地域の方が綺麗なんだよなァ。
箱根みてーに暖かい場所じゃ、紅葉なんて見れたもんじゃない。
高尾山ってのは、あの寒くて有名な八王子の更に奥だから、
麓から山頂まで見事に紅葉するんだよなァ。
「よっC、ここんとこ睡眠不足っしょ? 大丈夫だべか?」
「うん、まあね」
学園祭に出演する関係で、私は徹夜続きだったからなァ。
でも、まだ私は若いし、昨夜は六時間以上は眠れたし。
石黒先生や保田先生、みっちゃんは疲れてるだろうなァ。
まして石黒先生なんか子育てもしねーといけないんだから。
「努力は必要。でも無理だけは駄目だべよ」
無理と努力は似てるけど全く違う。
根性と強情、自信と傲慢、指導と教育もそうだ。
論理と理論、習慣と慣習、それから・・・・・・。
- 167 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:27
-
- 168 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:28
- 吸い込まれそうなほど抜けるような晩秋の青空の下、
落ち葉が点在する聖ダルセーニョ学園の駐車場にパトカーが停まる。
勿論、中から出て来たのは、制服を着た警官二人と村井刑事だった。
女子校にパトカーが来るのなんて、まず無い事なだけに、
授業中であるのにもかかわらず、ほぼ全員が窓から顔を出す。
大政奉還の授業をしていた裕ちゃんも、何事かと窓から顔を出した。
「あれ? マンジュウじゃねーか」
「何? よっC、知ってるのぉ?」
梨華ちゃんが訊いて来たけど私は黙ってた。
村井刑事が来たって事は、きっと犯人確保のためだろう。
この聖ダルセーニョ学園の中の誰かが私を襲った犯人なんだ。
それがいったい誰なのか、私には全く見当が付いてない。
いくらなっちが捜査状況の説明を求めたところで、
警察はプライバシーを楯に公開しやしねー。
「ええから席に着き! 授業中やで!」
裕ちゃんもかなり動揺してるみてーだけど、
とにかく犯人が捕まるんなら、私にとっては嬉しい事だ。
裕ちゃんが額に青筋たてて怒鳴ったせいか、みんなゾロゾロと席に戻って行く。
気持ちを切り替えて授業だよな・・・・・・って切り替えられるかっての!
「ちょっと失礼しますよ」
おっと、マンジュウが教室まで来やがった。
こいつは私に何か用事でもあるんだろうなァ。
容疑者の面通しか? いいぜ。面白そうじゃんか。
- 169 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:28
- 「後藤真希さんは?」
「は・・・・・・はい」
何で? 何でごっちんに用事があるんだろうなァ。
そうか。学園祭の時に、私が階段で突き落とされそうになった時の事か。
あの時は直前まで、ごっちんと一緒にいたんだったっけ。
参考人の事情聴取ってやつだな? すげー面白そう。
私も一緒に尋問されるのかなァ。ワクワクするぜー。
「後藤真希、殺人未遂及び傷害容疑で逮捕する」
「ちょっと待ってくれよォ! ごっちんが犯人なわけねーだろ!」
そんな馬鹿な! 警察はアフォじゃねーの?
私は何とかして、ごっちんを守ろうと思った。
もし、ごっちんが犯人だったとしても。だ。
俯いたまま小刻みに震えるごっちんの前に、
私は両手を広げて立ちはだかった。
「逮捕状も出てるからねえ。どきなさい」
「やめろ! マンジュシュリ=ミトラ正大師!」
ごっちんは友達だ! 友達を見捨てるなんて私には出来ない。
そうだろ? そうだろ梨華ちゃん。そうだろ美貴ちゃん。
・・・・・・何だよ。何だよ! その冷徹な眼付きは。
ごっちんは友達だろ? みんなでバーベキューしたじゃん。
みんなで海に行ったじゃん。みんなで・・・・・・マックに。
そういえばごっちん、教習所に通ってたっけ。
でも、バイクはVFRだから自動二輪だよなァ。
まさか、ごっちんは自動二輪の教習所に?
- 170 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:29
- 「ごっちんがオレを襲うわけねーだろう!」
「しょうがないじゃん。逮捕状があるんだからさぁ」
梨華ちゃん! いつから・・・・・・いつからそんな冷たい人間になったんだよ!
ごっちんが・・・・・・ごっちんが逮捕されちまうんだぞ! 美貴ちゃん!
そうだ! 私が事件を引き下げれば何とかなるかもしれない。
被害届を白紙にして貰えば、ごっちんが逮捕されずに済むんじゃねーかな。
「ア、アハハハハ・・・・・・冗談。オ、オレが襲われたのはジョークだったの」
「馬鹿を言うな。逮捕状は裁判所から発行されるんだ。警察には逮捕する義務がある」
「うちの生徒に手出すなや! 冗談やないで!」
裕ちゃん! さすが担任じゃねーか!
そうだ! ごっちんを守ろうじゃねーか!
みんなも一緒に! 上戸、小倉、木村、宮里!
私は戦うぞ。教室にはスチール椅子って武器がある。
相手はたったの三人じゃねーか。
「お前は黙ってろ!」
「うがっ!」
こいつ、何て事をしやがんだ! 裕ちゃんの腹を警棒で突きやがった。
校長や教頭は何やってんだ? 学園長は? 警備員は? 用務員は?
他の先生も何やってんだよ! 早くしねーと、ごっちんが逮捕されちまう。
そうだ! 矢口さんが法科を専攻してるって言ってたっけ。
こういった時、どうやって対応すりゃいいんだろうなァ。
いくら逮捕状が出ても、証拠の隠滅や逃亡の危険性が無けりゃ、
違法逮捕って事になるんじゃなかったっけ?
面倒臭い! この三人を昏倒させて、何とかごっちんを逃がさねーと。
- 171 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:30
-
- 172 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:30
- 「よっC、どうしたべさ。よっC」
「うっ!」
ここはクルマの中だ。
そうか、私は疲れてて眠っちまったんだな。
眼前に相模湖の水面がキラキラと輝いてる。
そうだ。私は圭織と逢うために相模湖まで来たんだ。
「凄く魘されてたべよ」
「あ、ああ、凄く嫌な夢を観た」
ほんの数十分の眠りだったけど、やけにリアルな夢だった。
それにしても、ごっちんが犯人だなんて事、まずありえねーもんなァ。
だいたい動機ってもんがねーもん。犯行には動機が伴うのが常識。
ああ、夢で良かった。こんな悪夢を観るのなんて久し振りだ。
しかし、読者には馬鹿にされる夢オチで本当に良かった。
「もうじき相模湖・藤野インターだべさ」
それにしても、私を襲った犯人って誰だったのかなァ。
聖ダルセーニョ学園の誰かって事は確実なんだけどよ。
もしかして、これも石黒先生が仕組んだ事なのかなァ。
でも、何でそんな事をするんだろう。
私に東京医科歯科大を受験させないために?
だけど、あんな卑怯な手を石黒先生が使うかなァ。
ギターの弦を切ったりしたのも、きっと私を襲った犯人の仕業。
それほどまでに私を憎む理由って何なんだろう。
私は襲われた事よりも、そっちの方が気になった。
- 173 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:31
- 「ん?」
「そこのベンツ! 左に寄って停まりなさい!」
何やら騒がしいと思ったら、パトカーが二台もいるじゃねーか。
前後を挟まれちまって、これじゃ路肩に停まるしかない。
もう、ほとんど相模湖・藤野インターの減速車線上だった。
まさか、またなっちが二百五十キロ出したのかァ?
ここは自動車専用道路でも、ドイツのアウトバーンじゃない。
一応、時速八十キロ制限の標識が出てるからよ。
ところで、イタリアのフェラーリはテストコースを持ってないから、
一般道で二百五十キロとか出して試験運転するらしいなァ。
「何だべね。何も違反してないのに」
私達が訝しげに見てると、三人の交通機動隊員が警棒を持って降りて来た。
こっちは女の子二人だってのに、警棒なんて凶器を持つ必要があるのかよ。
こうした威圧的な態度が、国民の反感を買うって事を理解出来ねーのかなァ。
あれ? どうでもいいけど白バイまで来るじゃねーか。
「降りろ!」
「何でだべさ。そういった言い方はないしょ!」
「引き摺り出せ!」
「何すんだよォ!」
警官がなっちの腕を掴み、無理矢理窓から引き摺り出そうとする。
さっきの悪夢が蘇って、私はなっちが逮捕されちまうと思った。
だから、何が何でも引き戻そうと必死になってたんだ。
その直後、助手席のドアが開いて、私が外に引き摺り出される。
こんな時にこそ、空手でもやってればよかったと思っちまう。
- 174 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:31
- 「窃盗容疑で逮捕する!」
「何を盗んだってんだ馬鹿野郎!」
私が暴れると警官は手錠をかけやがった。
今時、テレビでもモザイクかけるんだぞゴルァ!
いたいけな女子高生に手錠なんかかけやがって!
畜生! 訴えてやる! 絶対に訴えてやるぞ!
「こちら高速機動隊移動。ベンツ窃盗の容疑者確保」
警官が無線で本部に連絡してやがる。
ベンツ盗難? 誰が盗んだってんだよ!
これはうちのクルマだってのに。
・・・・・・ってまさかオヤジのやつ!
「こいつは間違いだよォ! オヤジが盗難届を出しちまったんだ」
「何ィ! 免許証と車検証の名前が違うだろうがよ!」
「だからオヤジのクルマなんだってば! オレのケイタイからオヤジに電話してみろよォ!」
「よっCに手錠かけたべね? かけたべね? 違法逮捕だべさァァァァァー!」
私となっちは無理矢理パトカーに押し込まれ、
相模湖・藤野インターから津久井署に連行された。
しかし、津久井署の遠い事ったらありゃしない。
ベンツは証拠物件とかで警官が運転してるけど、
ぶつけたりしたら修理代が半端じゃねーぞ。
「悪夢だべさァァァァァァァァァァァァァー!」
前を走るパトカーから、なっちの絶叫が聞こえて来た。
- 175 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/22(水) 09:32
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近日中に更新致しますので、宜しくお願い致します。
- 176 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/23(木) 19:24
- これからどぉなるんでしょう…
楽しみです
- 177 名前:第二章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:48
- >>176
ありがとうございます。
まだまだ続きます。
あと数回の更新で、ようやく二学期が終わります。
こんなに話を広げてしまって、自分自身でびびっています。
- 178 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:50
- 物凄い間違いに気付きました。
第二章ではなくて、第三章でしたァァァァァー!
こんなアフォですが、最後までお付き合い頂ければ幸いです。
- 179 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:51
- 〔エスパー圭織〕
疑いはすぐに晴れたものの、警察の対応は悪かった。
あくまで自分達に手落ちが無かった事を何度も強調する。
確かに警察としては、当たり前の事をやったのかもしれない。
でも、過ちなら過ちとして、素直に謝罪すべきじゃねーか?
「いきなり引き摺り出して手錠をかけたんだべよ。しかも未成年に」
なっちは警察が痛いところを、次々に指摘して行った。
問答無用の誤認逮捕を強調して抗議するなっちに対し、
警察側はあくまで話を訊くだけだったと主張。
でも、私も『窃盗容疑で逮捕』って聞こえたしなァ。
話は平行線で、業を煮やしたなっちは矢口さんに電話した。
電話を切って数分後、いきなりなっちのケイタイが鳴った。
どうやら人権擁護センターから電話が掛かって来たらしい。
なっちは数分間電話で話をした後、足を組んで警察官を一喝した。
「そっちがそういう態度なら、人権擁護センターに話を移すべよ」
人権擁護センターといえば、検察官OBの弁護士がいたりして、
警察としては、最も避けたい相手みてーらしい。
急遽、私達の居る場所が取調室から応接室に移され、
相模原警察や近くの検事局から大勢の人間がやって来た。
ただでさえ狭くて不便な津久井署の駐車場には、
所狭しと関係者の車輌が鮨詰め状態で並んでる。
強制的に連行したならまだしも、手錠まで掛けたんだから、
完璧な誤認逮捕と言っていいんじゃねーかなァ。
もはや津久井署の署長あたりじゃ手に負えない問題だ。
- 180 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:51
- 「相模原警察署次長です」
「横浜地方検察庁相模原支部長です」
「弁護士協会相模原支部長です」
それから人権擁護センターの担当員から、民生委員、教育長、
そして、なぜか津久井町自治会協議長までやって来て、
ああでもないこうでもないと、今回の誤認逮捕について話を始めた。
こうした田舎に来ると、それぞれの立場や人脈がモノを言うらしい。
「結論から申し上げると、ここは示談って事にして頂けないでしょうか」
「示談? 警察が示談なんかするんだべか? オレオレ詐欺みたいっしょ」
示談って言われても、逮捕されたんだから腹の虫が収まらねーよ。
でも、考えてみりゃオヤジが被害届なんて出したのがいけねーんだよなァ。
きっと誰かがクルマを動かしたんだから、本当はそいつが悪いんだけど。
警察・検察の話では、ここで話を大きくすると、大量の処分者が出るとか。
弁護士も示談を勧めるし、自治会長のじいさんは少しならカネを捻出出来ると言う。
「安倍さんは家庭教師で吉澤さんが学生ですよね。
拘束時間が二時間ですから、まず損害賠償分が七千五百円です。
それからベンツのガソリン代として、約五百円ですね。
次に慰謝料なんですが、手錠をかけたという精神的苦痛は一万五千円ですね。
安倍さんは手錠をかけられませんでしたが、連行された事で五千円。
合計すると二万八千円という事になりますけど」
「本当は五万円くらい欲しいとこだけど、まあいいっしょ」
私達が示談書に署名押印してると、作業着姿の警官が飛び込んで来た。
続いて太った女性警官が、数枚の書類を持って駆け込んで来る。
これはいったいどういった事なんだろう。やけに真剣な表情が気になった。
- 181 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:52
- 「署長、ベンツのブレーキオイルパイプに穴が開いていました。人為的なものです」
「吉澤ひとみさん。三鷹警察署で被害届を出されていますね」
警官の話によると、あと数キロ走ってたらブレーキが効かなくなってたそうだ。
もう、ここまで来ると悪さの粋を越して、犯罪と言っていいだろうなァ。
警察に経緯を話すと、これは確実に私を狙った犯行だと言うじゃねーか。
そうなると、誰かがベンツを移動させて、ブレーキオイルパイプに穴を開けたのかァ?
「これは警視庁の管轄だしな。どうすんべ」
また、ああでもない。こうでもない。と話が始まる。
こうした議論が好きなのは、ユダヤ人だけじゃねーんだな。
業を煮やしたなっちは、三鷹署のマンジュウに電話を掛けた。
こんな田舎で、じいさん達の話に付き合ってる暇なんてねーからよ。
「もしもし。村井さんお願いするべさ。村田じゃないって言ってるっしょ!
村井! マンジュウだべさ! マンジュシュリ=ミトラ正大師!」
ここまで来ると、受付のお姉さんも狙ってるとしか思えねーなァ。
村井刑事が『マンジュシュリ=ミトラ正大師』って言われるのが面白いんだろう。
でも、国家転覆を企んだ危険な宗教団体の幹部だったんだろ?
そんな人のホーリーネームで呼ばれるのって、かなり嫌だろうなァ。
私なんかサッカー選手と同じ名字ってだけで、嫌な思いをする事があるし。
「署長! 三鷹署から電話です!」
なっちが電話で話をしたら、すぐにマンジュウが動いてくれたみてーだ。
どうやら証拠写真を撮って、出来れば部品交換して欲しいとの事らしい。
しかし、こんな山の中で、部品交換なんて不可能だろうがよ。
- 182 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:53
- 「川上部落の繁蔵の惣領(長男)がベンツ持ってたべ。
あいつの駐禁揉み消してやっから、部品よこせ言うてみな」
「でも、S600LONG ですよ。部品が合うかどうか」
でも、さすがに警察はクルマの情報には精通してるから、
すぐに部品が一致する事が判明する。
このまま走ってたら事故を起こすところだったから、
誤認逮捕された事に感謝しねーとなァ。
ところで、この辺りだと『部落』って差別用語じゃねーんだなァ。
普通に集落の事を『○○部落』って呼んでるし。
三鷹辺りで迂闊に『部落』なんて口にしようものなら、
えせ人権擁護団体からカネを毟り取られるのがオチだ。
「そんじゃ課長。この人達、相模湖記念病院まで送れや」
「はい!」
ってな事で、私達はベンツを修理してる間、
パトカーで相模湖記念病院まで送って貰った。
それにしても相模湖記念病院はきれいな佇まいだなァ。
遠くからも見えるこの病院は、まるでリゾートホテルみてーだ。
「相模湖記念病院っていったら精神科専門だよね。誰かのお見舞い?」
運転手の警官が、どこか不思議そうに訊いて来た。
そりゃそうだろうなァ。うちの病院にも精神科があるし。
なっちは「まあ、そうだべさ」って言ったまま口を噤んだ。
別に圭織さんに逢うためだから隠す必要は無いんだけどね。
でも、こうした田舎だと、まだまだ精神病に対する偏見がある。
今やメンタルな部分を病んでる人は物凄い数になるらしい。
- 183 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:54
- 圭織さんは二階の廊下で、この前と同じように窓から外を見ていた。
精神を安定させる薬と、恐らくはブドウ糖を点滴に入れてるらしい。
傍にいるケースワーカーが、数人の患者に眼を光らせてる。
圭織さんは暴れたりしないだろうけど、それがここの『規則』なんだろう。
「か、圭織さん」
私が呼び掛けると、圭織さんは少しだけ反応したけど、
窓の外の景色から眼を離す事はなかった。
圭織さんは長く伸ばしていた髪を切ったせいか、
以前にも増して青白く痩せたように見える。
また、あんまり具合が良くないのかなァ。
「私を呼ぶのは誰?」
「吉澤です。吉澤ひとみ。以前、石黒先生と一緒に来た」
清潔だが無機質な病棟には、愛情も温もりも何も感じられない。
圭織さんを覗き込むと、彼女は私を横目で見て微笑んでくれた。
どうやら圭織さん、今日は具合が悪くなさそうだなァ。
うちの病院にも精神科病棟があるけど、そこはボケ老人の巣窟。
徘徊による事故防止のため、エレベーターを呼ぶにも暗証番号が必要。
階段にもドアが付いてて、非常時以外は鍵が掛かってる。
そこは人生の終着駅で。退院=死が常識の世界だった。
「あっちで何か飲みませんか?」
私は圭織さんの乗った車椅子のロックを外した。
ケースワーカーが飛び出して来るのとほとんど同時に、
何かが恐ろしい速さで私の頭の上を通り過ぎて行く。
- 184 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:55
- 「ひでぶっ!」
圭織さんの長い手が鞭のように撓り、その手の甲がなっちの顔面を捉えてた。
顎に命中したなっちは、まるで独楽のように回転しながら崩れ落ちる。
その返す手を握り、圭織さんは私の顔面に拳を繰り出していた。
ダテにバレーボールをやってたわけじゃねーっての。
この程度の動体視力は、バレーの選手なら誰でも持ってるってもんだ。
「暴力は駄目」
圭織さんの拳を掴んだ私は、ニッコリ笑いながら言った。
拘束しようとするケースワーカーを阻止して、私は静かに圭織へ話し掛ける。
鈍臭いなっちだから殴られたけど、私だったら殴られる前に回避出来るからだ。
「ごめんなさい。ここに居たかったんだね」
「判ってくれるんだ。圭織、嬉しいな」
なっちは顎を殴られて、軽い脳震盪を起こしてた。
幸いにもここは病院だから、医師と看護師による治療も敏速だ。
病院内での事故であるためか、なっちは無料で診察して貰えた。
それにしても、こんなに大人しそうな圭織さんが、いきなり殴るとは驚きだなァ。
私が午後ティーとコーヒーを買って圭織さんに見せると、
彼女は少し考えてから午後ティーを受け取った。
「外を見るのが好きなんですね」
圭織さんは私には答えず、美味しそうに午後ティーを飲みながら、
のんびりと相模湖の上空を旋回するトンビを眺めていた。
圭織さんは強制されるのが嫌いなんだ。そういったとこじゃ私と一緒。
- 185 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:56
- 「憶えてますか? オレの事」
「判んない。私は憶えてない事が多いの」
先日の圭織の様子じゃ、私の事を憶えてなくても当然かな?
あの時は会話になってなかった感じだったしなァ。
今日の方が、まだ会話はスムーズってとこだろう。
それに、今日の圭織さんの眼は、先日よりまともだ。
「圭織さんに訊きたい事があって・・・・・・」
「東京医科歯科大の事。違ったかしら?」
圭織さんは午後ティーを飲みながら、私の顔をチラリと見た。
何て事だ! 圭織さんには、人の心を読む力があるのか?
だとしたら、これはエスパーという超能力じゃねーかよ。
昔の人は山に『サトリ』という妖怪が住んでいると思ってた。
人の心を読み、邪悪な人は谷底へ落とすとして恐れられてたそうだ。
「さっき、石黒先生の名前が出たから」
そうか。そうだよな。エスパーなんてSF世界の話だし。
圭織さんも国立大を受験したんだから、それくらいの推理は出来るだろう。
「な、何だ。オレ、圭織さんがエスパーだと思っちゃったよ」
私がそう言うと、圭織さんは可笑しそうにケタケタと笑った。
いくら精神に障害があるといっても、圭織さんは凄く美人だ。
このまま街の中を歩いていれば、きっとナンパされるだろう。
これだけの美貌を持っているのにもかかわらず、
彼女はこの病院から出る事を許されないんだから可哀想。
- 186 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:56
- 「数的推理の延長だけじゃなくてよ。私は可哀想じゃないわ」
「うげげー! やっぱりエスパー!」
圭織さんは自由を失った代わりに、この超能力を得たんだ。
だからこそ、彼女はこの病院を出る事が出来ない。
エスパーがあれば便利だろうけど、それはとても悲しい事だ。
人を信じる信じないといった次元を超越しちまってるわけだから。
「もう、仕方ないのよ。これだけはね」
こりゃ困ったぞ。変な事を思ったら、圭織さんに筒抜けじゃねーか。
『無』にならないと。うーん・・・・・・色即是空空即是色。
かしこきもかしこくも。天にまします我等が主よ。アッラー!
えーと、ヒンズー教は何だっけか? うわー、判んねー!
「アハハハハ・・・・・・」
余程可笑しかったのか、圭織さんは腹を抱えて笑う。
どうも私が思ってる事を見透かされてると思うと怖くなる。
別に圭織に対して悪意は無いから、そういった点では安心だけど。
さっきのなっちに放った裏拳は、実に見事だった。
私が殴ろうとしても、きっと圭織さんは事前に察知して避けるだろう。
例え車椅子に乗った状態でも。だ。
「東京医科歯科大の話だったわね」
圭織さんは東京医科歯科大を受験した時の様子を、ポツリポツリと話し出した。
その時は試験会場の外から、重苦しい空気に包まれていたという。
それはまるで毒ガスのように、肺の中を酸欠状態にするような空気だったらしい。
- 187 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:57
- 「あそこの魔物は、自分自身の弱さに附け込んで来るの」
そういえば石黒先生も言ってたっけ。
圭織さんは数学が苦手で、そこから魔物に冒されたと。
でも、私は大丈夫。数学は得意になったし、英語もバッチリ。
後は理科を徹底的に勉強すれば、きっと何とかなるだろう。
「甘いわよ! まず己を鍛えなさい。あなたにはまだ弱味があるわ」
「弱味? オレにはどんな弱味があるっていうの?」
また具合が悪くなったのか、圭織さんはそれ以上何も言わなかった。
ぼんやりと窓の外を見詰め「鳥になりたい」って呟いてる。
私だって鳥になりたい。鳥になって自由に生きていたい。
でも、人間に生まれちまった以上、生業ってものが必要だ。
永久就職なんて言葉があるけど、私に主婦なんか向いてない。
「まだ、足元がふらつくべさ」
なっちは手摺に捉まりながら、ヨロヨロとやって来た。
あの顎の先端を擦るような一撃は、梃子の原理で小脳から延髄に作用する。
その影響で三半規管が麻痺して、一時的に平衡感覚を失ったんだ。
いくら圭織さんが撓るような一撃を繰り出したとしても、
一撃で人を沈めるには力不足というもんだろう。
そこを補った(?)のが、顎先を掠るような一撃だったんだ。
「今日はもう無理みたい。帰ろう」
私はなっちを抱えるように、相模湖記念病院から出た。
あれ? うちのベンツが停まってるじゃねーか。もう直ったのか。
- 188 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:57
- 「これ、カネ入ってるだから。どうもすいませんよ」
津久井署の署長が、なっちに封筒を渡した。
そこで私はピンと来たね。オヤジにもカネをせびろう。
オヤジのせいで手錠まで掛けられたって言えば、
きっと一万円くれーは出すだろう。
「証拠品の方は、三鷹署に送っとくで」
「判りました。それじゃ」
注射が効いて来たのか、なっちも元気になって、私達は帰路に着く事になった。
でも、もう一時になっちまったから、どこかで昼食でも摂る事にしてーなァ。
どうせなら、八王子あたりで美味い和食でも食えたらいいんだけどね。
さて、どうしたもんか。なっちは何て言うかなァ。
「なっちさん、八王子あたりで昼飯にしようよ」
「・・・・・・そうだべねえ」
それなら高速に乗るより、二十号線で大垂水越えした方がいい。
大垂水を越えたあたりに、確か美味しそうな店が並んでるんだ。
この時期ならシシ鍋もいいし、戻り鰹が美味いんだよなァ。
三万円から小遣いがあるんだから、かなりいい店に入れるぞ。
「圭織さんと、どんな話したんだべか?」
そうかァ。なっちは脳震盪でダウンしてたから、話の内容を知らないんだ。
いくら国道っていっても、この二十号線は首都圏じゃ難所として有名。
道幅は狭いしカーブは多いし、高速料金をケチる大型車は通るし。
前をトレーラーなんかが走ってたら最悪。時速二十キロくれーしか出せねーんだ。
- 189 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:58
- 「受験の話だよ。東京医科歯科大の」
「この間は感じなかったけど、あの子にはエスパーがあるっしょ」
さすがになっちは霊能者だけあるなァ。
圭織さんにエスパーがある事を瞬時に見抜いてた。
でも、それが東京医科歯科大で倒れた事が原因なのか、
それとも持って生まれたものなのかは判らない。
いずれにしろ、それだけ感受性が強かったから、
受験中に倒れたんじゃねーかなァ。
「うん。すげーびっくりした」
「それから?」
別に隠す必要もねーから、なっちには全部話をした。
試験会場に入る前から重苦しい空気が満ち溢れてた事。
そして、石黒先生が言ったように魔物が棲んでいて、
弱味に附け込んで来るといった事。
「それで、オレにも弱味があるんだってさ。だから己を鍛えろ。って」
「ふーん」
なっちは運転しながらも、小首を傾げて私の話を聞いていた。
私自身の弱味って、いったい何なんだろうなァ。
圭織さんはそれっきり壊れモードになっちゃったし。
自分を知るっていう事は、物凄く難しい事なんだよね。
常識だと思ってた事が、実は非常識だったりするし、
価値観や生活観、人生観までもが千差万別と言っていいし。
東京医科歯科大受験に向けて、何かヒントになるものが欲しい。
私が持ってる弱味って、いったい何なのか。
- 190 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 10:58
- 「それで、よっCは何だか判ったんだべか? 弱味」
「判るわけねーじゃん」
これまで、なっちを信じて勉強して来たわけだし、
そういった部分での弱味は無いと思ってるんだけどなァ。
横目で見ると、なっちは運転に集中しながらも、
何かを考えてるみてーだった。
「なっちさんには判るの?」
「まあね」
「教えてよ。何がオレの弱味なのか」
なっちは困ったように笑いながら、何かを言おうとして躊躇った。
それは、もしかして私の人格に達する問題なのかなァ。
もしそうだとしたら、何とかして克服しねーとヤバイぞ。
どうすりゃいいんだよォ! 私は東京医科歯科大で人生を終えるの?
「よっC自身の問題っていうより、環境だべかねえ」
「環境?」
「口で言うのは簡単だべさ。でも、それじゃ真髄が判らず仕舞いって事になるし・・・・・・」
うォォォォォォー! 何が弱味なのか知りてェェェェェェェェー!
こういうのって、蛇の生殺しって言うんだっけかァ?
蛇でも蜥蜴でもいいからよォ。何が私の弱味なのか教えてよォ。
ちなみに、蛇っていうのは歯があって、蜥蜴には歯がねーんだよなァ。
だから手足の有無で蛇か蜥蜴って決まるわけじゃねーんだ。
でも、毒蜥蜴っているよなァ。どこから毒を出すんだろう。
エイリアンみてーに、口の中にまた口があったりして。
ともかく、何が私の弱味なのかを、キッチリ教えて貰おうじゃねーか。
- 191 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/06/25(土) 11:00
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また、近日中に更新出来ると思いますので、宜しくお付き合い下さい。
- 192 名前:ふぇいく 投稿日:2005/07/04(月) 15:31
- 更新乙です。
楽しみにしてます。
- 193 名前:偽みっちゃん 投稿日:2005/07/09(土) 11:38
- >>192
ありがとうございます。
ちょっと体調を崩しまして、なかなか更新出来ずにすみません。
これからも宜しくお願い致します。
- 194 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/09(土) 11:39
- 〔弱味〕
なっちは大垂水を越えると、道端で売ってた焼トウモロコシを買った。
焦げた醤油の香りが、何とも言えず食欲をそそるってもんだ。
そのアツアツのトウモロコシを、なっちは半分に折って私に渡した。
一本たったの三百円。そんなトウモロコシでも、空きっ腹にはご馳走だなァ。
「これで昼食は終わりにするべさ」
「へっ? 冗談だろ?」
じょ、冗談だよなァ。まさか、こんなもんが昼食だなんて。
もう少し行くと、シシ鍋をやってる店があるんだよなァ。
シシ鍋を突付きながら、日本酒でもグイッとやりてーもんだ。
まずは端麗辛口のスッキリ味。次がドッシリ味の純米酒。
やっぱりシシ鍋は併せ味噌だから、日本酒じゃねーと合わねー。
「よっCはひもじい思いって経験ないっしょ?」
「ひもじい? 腹減る事はしょっちゅうだよ」
「そうなんだべよね」
なっちはペロリと舌を出すと意味有りげに頷く。
そして食べ終えたトウモロコシを袋に入れてクルマを出した。
どうしたんだよ。腹減る事がひもじいんじゃねーの?
私だって空腹で泣きそうな事もあったよ。
なっちは確信に満ちた眼をしてる。
いったい何を確信しやがったんだァ?
なっちがこうした顔をする時は、何かしら意味がある。
これがもしかすると、私の弱味って事なのかなァ。
空腹が弱味だとしたら、腹いっぱい飯を食えって事なのか?
- 195 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/09(土) 11:40
- 「よっCはカンボジアの少女売春の実態を知ってるべか?」
そういえば、カンボジアの少女売春はユニセフで問題になったっけ。
でも、それとこれとが、いったいどういった関係があるんだろう。
ロリコン野郎がいるから、少女売春なんてもんが横行するんだ。
以前はチャンマイとかタイ北部の町が有名だったけど、
官憲の監視が厳しくなって今や少女売春のメッカはカンボジアって話だ。
「学校へ行かせてやるとか嘘つかれて、人買いが売っちまうんだろ?」
「ユニセフの発表ではそうだべね。でも実際は違うべさ」
カンボジアで売春をさせられる少女は、主に農村部から連れて来られる。
連れて来られる少女の親は、二束三文で実の娘を売っちまうそうだ。
これには悲しい実態があって、口減らしに子供を売らないと生きて行けないらしい。
貧しい農家では、一本のトウモロコシを十人が食べて生きているそうだ。
そんな状況の中では、生産性の低い娘を売る事が生きて行く術になる。
もし、娘が売れなければ、親は泣く泣くわが子を殺すしかなくなるんだ。
「ほとんどの子がHIVに感染してるらしいべさ」
「HIVってAIDSだよね」
狂犬病、ペストと並んで、発症したら助かる見込みの無い病気がAIDSだ。
後天性免疫不全症候群。身体の免疫機能が徐々に壊れて行っちまう病気だっけ。
だから、直接の死亡原因が肺炎とか、肝臓不全といった感染症なんだよなァ。
親に殺されるかHIVに感染するか、二者択一ってとこだろう。
でも、実の親に殺されるのは、子供にとっても親にとっても不幸な事だ。
いくらHIVに感染しても短い寿命を生きた方がいいんじゃねーかなァ。
実際、もし少女売春が無くなったら、幼い女の子は親に殺されちまう。
少女買春なんて許される事じゃないけど、仕方ない事なんだろうなァ。
- 196 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/09(土) 11:40
- 「女の子達は知ってるんだべよ。長く生きられない事を」
「そんな!」
何でそんな少女が、早死にするって判ってるんだよ。
ユニセフの写真に写ってる少女達は、みんな明るい顔をしてる。
とても自分の死を知ってる顔には見えねーよなァ。
でも、そういえば筋ジストロフィー患者の子供達は、
みんなすげー明るいって聞いた事があったっけ。
悲しいよなァ。だって死んじゃうんだぜ。
「別によっCが知る必要は無いんだべけどね」
「だったら何でそんな話するんだよっ!」
そんな悲しい話をされたら、私だって悲しくなる。
後進国の女の子達には、生きて行く権利もねーのかよ。
ロリコン野郎の玩具になって、感染症で死んで行くなんて。
悲しいのは、それを少女達が知ってるって事なんだよなァ。
「男の子は畑で働くか、町に出て働くんだべよ」
そうだ。男の子は幼い頃から働いてる。
工場や小間使いなんかをやって、家族の生計を助けてるんだ。
社会保険制度の整ってないカンボジアなんかで病気になったら、
それこそ一般庶民は病院になんて罹れねーもんなァ。
だから、だからこそ、幼い頃から一生懸命働いて、
少しでも金持ちになって長生きしようとしてる。
ポル=ポト政権時代からの、それがサバイバルなのかなァ。
まあ、当時のカンボジアは愚民化政策を推進中で、
眼鏡をかけてるだけで頭がいいと思われて殺されたそうだ。
- 197 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/09(土) 11:41
- 「なっちさんの言いたい事は判った。要するにハングリー精神だろ?」
「正解」
私は物心付いた時から、物質的な意味で何も不自由していない。
洗面所で蛇口を捻れば、いつでも温かいお湯が出て来たし、
プラズマテレビや冷蔵庫、エアコン、クルマ、隣は病院。
新聞奨学生みてーなハングリー精神とは無縁だったよなァ。
でも、そうした境遇を美徳化した映画やドラマは大嫌い。
『太閤記』みてーに、向上心がある方がずっと好きなんだよなァ。
「頭では判ってても、本当の意味でよっCにはハングリー精神が無いべさ」
「そんなこたーねーよ!」
「だったら、水道管に異物が詰まりました。さあ、どうするべさ?」
「そりゃ、水は大切だから水道屋を呼ぶに決まってんだろ」
「ふーん」
何だ。この『ふーん』ってのは。気分わりーなァ。
水が出なくなったら、米も炊けないし食器も洗えない。
風呂やトイレだって大変じゃねーか。
水道屋を呼んで直して貰うしかねーだろっての。
「違うの?」
「それでいいんだべさ。でも、ちょっと考えてみると、違った答えも出るっしょ」
違った答え? そんなもんがあるのかよ。
上下水道の工事は、自治体の認可がある業者しか出来ねーはず。
自由競争なんて言ってるけど、誰でも参入出来るわけじゃねーんだ。
認可制じゃなくなったら、それこそ水道屋ばかりになっちまう。
談合なんて新聞に出てるけど、そうしねーと共存共栄出来ねーんだよなァ。
- 198 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/09(土) 11:41
- 「わかんないよ。そんなもん」
「そうだべね。それじゃ、こう考えたらどうだべか?
よっCは稲作農家で、用水路が詰まったとしたら」
「そりゃ自分で・・・・・・そうか!」
用水路が詰まったら、それこそ稲は台無しになっちまう。
そんな時に誰かに頼むのは、それこそ無責任ってもんだ。
死活問題ともなれば、嫌でも自分で作業するしか無い。
つまり私も、他力本願で生きていちゃ駄目って事なのか。
そうだよなァ。私はなっちを頼りにし過ぎてるのかもしれない。
「なっちも頼りにされるのは嬉しいべさ。おじさんやおばさんだってそうだと思う」
そうなんだ。この豊かさは、決して私自身で得たものじゃない。
オヤジが開業医だからこそ、これだけの暮らしが出来てるんだろうなァ。
まあ、何て言うか、それほど贅沢はしてねーと思うけどね。
それでも、カンボジアの女の子に比べたら、まるで天国みてーな暮らしだ。
「そうなんだよね。受験するのはオレなんだから」
「そうだべさ! 会場じゃ誰も助けてくれないよ」
それならどうするか。私はいつもそう考える。
出来る出来ないじゃなくて、工夫出来ないかと考えるんだ。
織田信長だって長い槍から鉄砲へと、有利な戦法を考えていたし。
同じ人間なんだから、私にだって色々な工夫が出来る筈だ。
そういえば圭織さんが言ってたっけ。自分自身に打ち勝たないと。
今更、寺で荒行したところで、私にとってプラスになるとは思えない。
こいつだけは、誰の手も借りないで自分で考えねーとなァ。
私は今、『自立』の第一歩を踏み出そうとしてる。
- 199 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/09(土) 11:42
- 翌日から私が始めた事は、まず誰よりも先に起きる事。
そして、上手くはないけど、朝食を作る事にした。
もう、私は恵まれた環境で育っただけのガキじゃない。
与えられるのが当然だった生活とは縁を切って、
これからは私が与える立場にならないといけない。
凄く単純な事だけど、私はそう思った。
「おはよう。よっC、もう起きてたんだべか?」
「もうじき御飯が出来るよ」
正直なところ、私は料理が苦手なんだよね。
だから、朝食はなっちみたいにレパートリーが無い。
目玉焼きにウインナー、サラダぐらいしか作れなかった。
明日は和食で、味噌汁でも作ってみようかな。
「今日はパンだべか? クロワッサン! 大好きだべさァァァァァァー!」
そうだなァ。私もクロワッサンやベーグルが好きだなァ。
こうしたパンを作った人って、まじで天才だよね。
日本人が魚のマジシャンなら、西洋人は小麦のマジシャンだな。
だって日本食で小麦粉なんて、揚げ物とかうどんにしか使わないもんなァ。
西洋人はパンやピザ、ビスケットといった食品を開発して行った。
「よっC、このフライドエッグ(目玉焼き)美味しいべさ」
そうだろう。そうだろう。私が腕に選りを懸けて作ったからな。
半熟の黄身は、カマンベールチーズより少し柔らかい程度。
よく『半熟』なんて言ってても、黄身が流れ出るケースが多い。
要するに加熱時間を短くしたくて、強火でやるから表面だけ固まるんだ。
- 200 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/09(土) 11:42
- 「よっC自家製のソースはいかがかな?」
「美味しいべさ!」
洋食という事で、ケチャップをベースにバターと生クリーム、塩胡椒で味を調えたんだ。
ウインナーはドイツ風に、皮付きを茹でてケチャップか胡椒入りマスタードで食べる。
これがウインナーの一番美味い食べ方じゃねーかなァ。まあ、焼いても美味いけど。
こんなになっちが喜んでくれるなら、明日はもっと早起きしてポトフでも作るかなァ。
ポトフは何て事ない野菜と肉の煮物だけど、弱火でコトコト煮るから時間が掛るんだ。
ポトフを煮ながらボイルドエッグ(ゆで卵)と、野菜サラダでどうだろうなァ。
「よっC、意外と料理が上手だべさ」
「アハハハハ・・・・・・。ちょっとは見直した?」
私だっていつかはお嫁に行くんだから、料理くれーは憶えておかねーと。
いくら何でも、カレーとハンバーグだけじゃ、旦那が逃げちまうからよ。
今の内になっちから、美味しい惣菜の作り方を教えて貰わねーとなァ。
・・・・・・ちょっと待てよ。私は一人っ子だったような気がするぞオイ。
って事は、養子をとるのか? 養子まで行かなくても同居が条件ってか?
今時、次男坊三男坊なんて言葉自体が死語に近いからなァ。
都合よく同居を快諾してくれる男なんて、そう滅多にいねーぞ。
オヤジが見込んだ医師とでも結婚させられるのかなァ。
しかし、ここの病院の医者は理科系のオタクっぽい連中ばっかりだし。
「これからの時代、男も女も料理くらいできないと駄目だべさ」
そうだよなァ。今や共稼ぎなんてのは当たり前の時代だし。
家事労働は男女参画しないと、家庭なんて成り立たねーよ。
女は夫の留守を守るなんてのは、時代錯誤も甚だしいぜ。
私も炊事・洗濯・掃除くらいは出来るようになんねーと。
- 201 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/09(土) 11:43
- 「なっちさん、もっと料理を教えてよ」
「いいべよ。ただし、大学に合格してからね」
なっちは料理こそ上手だけど、部屋の中は凄まじい事になってる。
卒論を書くのって、そんなに大変な事なのかなァ。
そういえば、JFKの卒論って本になって出版されたそうじゃねーか。
教育学の卒論ともなると、きっと難しい本とか読むんだろうなァ。
私のカテキョから食事の支度までして、きっと時間が無いんだろう。
こうなったら、私も勉強の合間に手伝う事くれーしねーとなァ。
「とりあえず、大学合格か・・・・・・」
「よっC、今からでも遅くないべよ。私立の方が安全だべさ」
「東京医科歯科大って言ったのは、なっちさんじゃねーかよっ!」
まずはセンター試験に向けての勉強だよなァ。
そろそろ、過去の問題を調べて研究と対策をしねーと。
しかし、大学受験をする上で必須のセンター試験ってのも、
人間の脳細胞がどれだけ使われてるか調べてるんじゃねーの?
だいたい、数学なんて社会に出てどれだけ役にたつのか。
数学者が貧困に喘いでるのを見ると、大して役にたちそうもない。
英語にしたってそうだ。どんなに英語が喋れたところで会社じゃ役にたたない。
今や帰国子女なんて五万といるんだから、そういった部署に空きがねーわけだし。
「もう、知らないべよ。本当に」
なっちが心配してくれるのは嬉しいけど、これは私が決めた事だ。
私はどんな重圧にも耐えて、東京医科歯科大に入ってやる。
そして、壊れてしまった圭織さんの仇を討ってやるんだ。
もう、私の中じゃ医者になる事なんて二義的な問題になっちまってる。
- 202 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/09(土) 11:43
- 「オレ、自分だけのためだけじゃなくてさ。
あそこを受験しなきゃいけない使命感みてーなもんがあるんだ」
私が力説してると、なっちは溜息をつきながら箸を置いた。
いくら私が心配でも、そんなに深刻になんないでも平気だよ。
このよっC様が、そう簡単にストレスに押し潰されるなんて事は・・・・・・。
「それが甘いんだべさっ!」
「へっ?」
何が甘いって? 話の流れからすると、私の作ったソースじゃねーみてーだ。
なんてボケかましてる雰囲気じゃねーみてーだぞ。オイ。
どこが甘いんだよ。私のどこが甘いって? ふざけやがって。
いくらなっちでも、事と次第によっては許さねーからな。
「よっCは幼い頃から満たされ過ぎてるべさ。だから自分の事は後回しっしょ?」
「え? あ・・・・・・うん」
「受験生は利己主義でいいんだべさ。そうじゃないと合格なんて出来ないよ」
「そんな・・・・・・。何もそこまで・・・・・・」
「これは戦争なんだべさっ!」
戦争? そういえば以前、受験戦争なんて言われた時代があったっけ。
丁度、うちのオヤジなんかが若い頃の話だったような気がするなァ。
階級闘争を否定した団塊世代も、結局は学歴社会に埋没しちまった。
でも、もう学歴なんかの時代じゃねーんだ。何が出来るかで就職が決まる。
帝王学を学ぶのは、一握りの経営者達だけでいいわけであって、
従業員は適材適所で会社を動かして行く時代に突入したんだ。
もっとも、今の時代はまず営業。とりあえず営業だからなァ。
居酒屋に入って飲み物を注文するのと同じ事みてーだ。
- 203 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/09(土) 11:44
- 「わ、判ってるよ」
「相手を蹴落とす。それが受験だべさ」
そうだ。受験に共存共栄なんて事はあり得ない。
受験は勝負なんだ。勝つか負けるか。ただそれだけ。
競争率が三倍なら、私は少なくとも二人を倒さないと負ける。
それはまるで、戦国時代の合戦よよく似てるような気がするなァ。
北条氏康が川越城の夜襲で扇谷上杉氏を破った時のように、
毛利元就が厳島で陶晴賢を奇襲した時のように。
「だから、そろそろセンター試験に向けた勉強を・・・・・・」
「センター試験なんか、最低のボーダーラインでもいいんだべさ」
確かにセンター試験では、一定の点数を取らないと門前払いになる。
でも、門前払いにならない点数を取っておけば、後は各大学の受験だ。
聖ダルセーニョ学園でも、進学クラスでは一般入試に向けて、
授業に過去のセンター試験問題を取り入れ初めてたっけ。
「成る程、学校でセンター試験勉強。家では大学受験の勉強」
「それでいいっしょ」
そうだよなァ。なっちにしても、センター試験の勉強まで付き合いきれないだろうし。
センター試験は受験科目が多いけど、大学受験とダブるとこ以外を学校でやればいい。
でも、他人は『敵』っていうのも、何かちょっと悲しくなるよなァ。
そうした試練を乗り越えないと、社会に出て行けねーって事なんだろうね。
何も不自由なく育って来た私の、それこそ最初のサバイバルが受験か。
弱肉強食の言葉通り、強い者だけが残って行くというわけなんだな。
私はライオンになれるのだろうか。ヌーやガゼルになっちまうかもしれねー。
とりあえず、天衣無縫・国士無双・馬耳東風・鼓腹撃壌、四文字熟語なんちゃって。
- 204 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/09(土) 11:46
- 今日のところは、このあたりで失礼致します。
また、近い内に更新致しますので、どうぞ宜しくお願い致します。
- 205 名前:ふぇいく 投稿日:2005/07/10(日) 21:33
- 乙です。
よっすぃには頑張って欲しいです。
- 206 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/12(火) 10:49
- >>205
ふぇいくさん、どうもありがとうございます。
期末テストが終わると、クリスマスやお正月になります。
あと数回で、ようやく第三章が終わりそうです。
今後とも、拙い物語ですがお付き合い頂けると幸いです。
- 207 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/12(火) 10:49
- 〔矢口ふたたび〕
いよいよ正念場の二学期の期末テストがやって来たぞ。
数学・物理・化学・英語・日本史・国語には自信がある。
問題は政経・美術・保体・家庭科ってとこだなァ。
しかし、何で理数系進学クラスに家庭科なんて授業があるんだ?
まァ、聖ダルセーニョ学園じゃ、良妻賢母の育成をモットーにしてるからなァ。
「えーと、子供の創作意欲を育成するには、ブロックがいいのか・・・・・・」
「そういえば、紙おむつは子供が気持ち悪くて泣かないから良くないべさ」
「そう言うけどね。小児科医の話じゃ、どっちでもいいらしいぜ」
私が作った数学の問題を解きながら、なっちは思い出したように言った。
小児科の医者が言うには、中学生になってもお漏らしする子はいない。
だから、そんな細かな事は気にしないで、もっと余裕を持って子育てしろってさ。
確かにそうだよなァ。親があんまり神経質だと、子供も緊張しちまうからよ。
「お医者さんは子育てのプロじゃないべさ。子育てのプロはお母さんっしょ?」
「そりゃそうだけどね。まァ、いいじゃん。まだ先の話しだし」
「そうだべね。っと。出来たべさ」
さすがになっちは国立大の現役だけあるなァ。
私が懸命に考えた問題でも、そう難しくなく解いちまう。
かなり引っ掛けた問題でも、なっちは慎重なんだよね。
私もなっちも母親になるまで、あと十年くれーかなァ。
なっちなんか意外に再来年あたり妊娠してたりしてね。
やっぱり女に生まれた以上、子供を産んでみてーもんなァ。
昔は十代で子供を産んだらしいけど、私にはまだ母親になる自信がない。
あと十年くれーしたら、私も少しは大人になってるのかなァ。
- 208 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/12(火) 10:50
- 「救急車だべさ」
「本当だ」
まァ、第二次救急に指定されてるから、吉澤病院にも救急車が来る。
ほとんどの患者がジジババの脳疾患か心疾患、或いは転倒事故だけど、
今日はやけに病院の近くまでサイレンを鳴らしてるなァ。
近くまでサイレンを鳴らしてるってのは、かなりの重症か事故だっけ。
MRIが二台もあるせいか、ちょっとした交通事故なんかも搬送されて来る。
私は何気なく窓から覗いてみた。私の部屋の窓からは救急口が丸見えなんだ。
「わーん! 痛いよォォォォォォォォー!」
うわァ、子供かなァ。可哀想に、交通事故みてーだ。
足と・・・・・・ああ、首まで固められてるよ。
ストレッチャーが地面に着くと、また悲鳴を上げてる。
どうしたんだろうなァ。下校中にクルマにはねられたのかなァ。
「あの声は矢口だべさァァァァァァー!」
「矢口さん? そんな!」
なっちは窓から身を乗り出して、危うく転落するとこだった。
エリマキトカゲみてーに首を固められてるけど、
確かにあの茶髪は、どう見ても小学生じゃねーよなァ。
でも、茶髪の女性なんて、この辺りじゃかなり多いぞ。
それに、何で矢口さんが吉澤病院に搬送されて来るわけ?
だって矢口さんの家って横浜じゃなかったっけ。
まさか、横浜から搬送されて来たなんて事はねーよなァ。
救急車の横には東京消防庁って書いてあるからよ。
・・・・・・チラッと顔が! 矢口さんだァァァァァァー!
- 209 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/12(火) 10:50
- 「矢口ィィィィィィー! どうしたべさァァァァァァー!」
なっちが部屋を飛び出して行くと、私も矢口さんが心配で続いた。
普段は鈍臭いなっちだけど、今は矢のように走って行く。
そりゃ、妹みてーに可愛がってる矢口さんが救急車で搬送されて来たんだから、
なっちが慌てて疾走して行くのも判るような気がするなァ。
「矢口ィィィィィィィィィー!」
なっちは訝しげに見る消防隊員を突き飛ばし、
苦痛に顔を歪める矢口さんの手を握った。
あの小さな身体で事故に遭ったみてーだから、
こいつは可哀想だよなァ。
「なっち。・・・・・・うわーん! バイクでクルマと衝突しちゃったよー!」
バイクでクルマとケンカしても、ちょっと勝てねーだろうなァ。
何しろバイクにはシートベルトもエアバッグも付いてねーからよ。
ちゃんとヘルメットとライダーススーツは着てたみてーだから、
脊椎や頭部損傷の可能性は少ねーとは思うんだけどね。
「すぐMRIを撮るべさっ!」
「まずは処置室で・・・・・・」
「内臓破裂があったらどうすんだべさァァァァァァァー!」
なっちの迫力に負けて、医師は矢口さんをMRI室へと直行させた。
大出血も無いし、これだけ痛がるのは打撲による骨折かなァ。
右足を痛がってるから、もしかすると足首が折れてるかもね。
クルマのバンパーは、時によってライダーには凶器になるからよ。
- 210 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/12(火) 10:51
- 結局、矢口さんは全身数箇所に打撲があって、足首の脱臼だけで済んだ。
一応、矢口さんは交通事故って事で、念のために数日の入院をする事になる。
外れた骨が入っちまえば、捻挫と同じで簡単に固定しとけばいい。
生憎、外科病棟の大部屋が空いてないから、矢口さんは個室に入れられる。
まァ、相手も保険で支払うんだから、医療費なんて高くても構わねーし。
「しかし、何でスズキのDR−Z400Sなんか乗ってたんだべか?」
「友達に借りたんだよ。でもなー、壊しちゃってどうしよう」
矢口さんの身長で、DR−Z400Sなんか乗るのが間違いだっての。
だいたい、あのバイクのシート高は九十センチ近くあるんだぜ。
そりゃ、いくらかサスが効いて沈むだろうけど、矢口さんの体重じゃね。
チャリンコじゃねーけど、足の届かないバイクには乗らない事だな。
しかし、信号の時なんてどうしてたのかね。縁石に足を着いてたのかな。
「まあ、打撲と脱臼だけで良かったべさ」
矢口さんの話によると、道路の左側を走行中に、
対向車線を右折して来たクルマと衝突したらしい。
これはバイクと乗用車の事故で最も多いタイプ。
乗用車の運転手はバイクが遠くに見えちまうんだ。
特にバイクの免許を持ってない運転手に多いらしい。
だから、このまま右折出来ると思って発進しちまう。
そうしたら、いつの間にかクルマの横に激突してる。
これで死んだ人も多いのに、矢口さんは運がよかった。
それでも警察の話だと、十一メートルも飛ばされて、
八から九メートルばかり滑走してるそうだからなァ。
ちゃんとした服装とヘルメットの装着が、
こうした怪我を少しでも軽傷にしてくれるんだ。
- 211 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/12(火) 10:51
- 「交差点だから双方に過失があるんだよね。でも、相殺しても儲かるかな?」
直進車と右折車の事故で、しかもクルマとバイクだから過失の度合いが違う。
まァ、これまでの話によると、だいたい八対二くれーになるのかなァ。
きっとバイクはフレームまで行っちまってるから新車になるんだろうけど、
バイクは対物保険に入ってなかったみてーだから、矢口さんも出費があるだろう。
入院保険とか何だかんだで、浮いたとしても雀の涙ってとこじゃねーかなァ。
「そうだ。矢口は法律家の卵だから、社会科が得意だべよ」
「そうだなァ。矢口さんから出題されそうなとこを聞こう」
なっちも博学だけど、やっぱり矢口さんの方が政治・経済に詳しい。
面倒な事を嫌う矢口さんだったけど、食事にデザートを付ける約束で快諾して貰えた。
そうと決まったら、どうせ矢口さんは暇なんだから、私は病室に教科書を持ち込む。
矢口さんはパラパラと教科書を捲りながら、大体の出題範囲を頭に入れたみてーだ。
この頭の回転の速さはなっちの数十倍。セレロン300とペンWくれーの差がある。
しかも二次キャッシュが倍だから・・・・・・ってそんな事はどうでもいいか。
「参議院の任期と選挙の概要は?」
「えーと、任期が六年で三年ごとに半数ずつ改選だったよね。
地方選挙区と比例代表制度があるんだよね」
「正解。それじゃ、衆議院は?」
「任期四年。任期満了又は内閣総理大臣が解散させて選挙が行われる。
選挙の方法は・・・・・・えーと・・・・・・何だっけ?」
「小選挙区比例代表並立制。こいつは複雑な選挙方式なんだよ」
矢口さんの話によると、小選挙区で選出されるのは一人だけど、
比例代表の名簿順位で上位にあれば、落選者が当選出来るなんて変な制度。
どうやら自民・公明両党が有利になるような選挙制度らしい。
- 212 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/12(火) 10:52
- 「そんじゃ次、ここからはオイラの得意分野。内閣総理大臣の任命は誰が行う?」
「内閣総理大臣は議員選挙で決まるから、国会で任命されるんじゃないの?」
「選出と任命は違うじゃん。選出は国会だけど、任命するのは天皇なんだよ」
そうだったの? それじゃ日本の国家元首は天皇で間違いないじゃん。
何で内閣総理大臣が国家元首って説があるんだ?
政治に対して国民の参政権としては、議員選出ともうひとつ。
最高裁判事の国民審査って制度があるんだよなァ。
いくら法律が体制に有利なように出来てるからって、
全て国家を擁護するような判事は国民が許さないってわけか。
任命権を持つ内閣としても、人選に微妙なところだなァ。
「労働者の『労働三権』って?」
「団結権と団体交渉権。それから・・・・・・」
「争議権でしょう? ただ、争議権を認められていない人もいるんだよ」
公務員には争議権つまりストライキをする権利がないらしい。
確かに警察がストライキなんてしてたら泥棒だらけになっちまうし、
消防署員がストライキしてたら、火事になっても消す人がいない。
自衛隊がストライキしてたら、外国が攻めて来ても戦う人がいない。
「でも、そんなに重要な仕事をしてる人だけじゃないじゃん。公務員って」
「大昔だけどね。『スト権スト』ってのがあったんだよ」
国鉄(現JR)や郵政等の三公社五現業が『争議権』を得るためにしたストライキ。
その頃は全共闘時代とも呼ばれて、総評系と同盟系の労組が協力してたそうだ。
今は『連合』なんて名前になっちまって、もはや労組としての力もない。
日本は経営側と労働側が切磋琢磨して、今日の繁栄を創って来たんじゃねーのか?
今やその労働三権すら、危機的状況に追い込まれてるんだよなァ。
- 213 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/12(火) 10:52
- 「でもさ。何で国鉄は民営化されたの?」
「今の日本道路公団と同じ。鉄建公団ってのがあったの」
鉄建公団ってのは文字通り鉄道を造る事業体で、
政治家が自分の選挙区での人気取りに利用したらしい。
その挙句、採算の取れない路線が激増しちまったって話だ。
もはや手に負えなくなったのと、眼の上の瘤だった国労を潰す意味で、
ほとんど無理矢理に民営化したって事らしい。
田中角栄の『日本列島改造論』に従って道路を先に造れば、
国鉄の負債だって、ここまで膨大な数にはならなかった筈だ。
「オレ、経済はさっぱりなんだよね」
「高校で習う経済なんて、そんなに難しく考える事はないよ」
矢口さんは図に描いて、私に好景気不景気の話をしてくれた。
円高ドル安になると、輸出が滞って不景気になるって事。
原料も安く入って来るから、デフレになるって事なんだよね。
金利を下げれば、企業は借金して設備投資するから景気がよくなる。
逆に景気がいい時は、企業も儲かってるから金利が高くてもいいんだ。
「でもさ。結局は雇用でしょう?」
「そう、当たり」
景気を回復させるためには、雇用を充実しないといけない。
だけど、経済学者は口を揃えて銀行のせいにしてるんだ。
もう銀行を虐めたとこで、どうしようもない状態なんだよね。
年配者が現金に頼らず、保険なんかに投資すればいいんだ。
そうすりゃ、人口の四分の一を占める老人がカネを使い始める。
実際、今の老人はカネ持ってるからなァ。
- 214 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/12(火) 10:53
- 「共産主義と資本主義は?」
「共産主義は計画的に生産。資本主義は自由に生産でしょう?」
「理論はそうなんだけどね」
矢口さんが言うには『資本論』の著者、
マルクスの言う共産主義を実践した国家はないのだそうだ。
世界で最初に革命が起きたロシアにしても、
共産主義思想は周辺国家や国民支配の手段に過ぎなかった。
レーニンにしろ毛沢東にしろ、扇動家・支配者であり、
真の意味での革命家・政治家じゃなかったんだよね。
「共産主義国って呼ばれてる北朝鮮やキューバ。あれが平等だと言える?」
「いや、金正日、カストロの王国じゃん」
つまり、共産主義は理論上こそ存在するけれども、実践された事が無い。
逆に『資本論』が書かれた時代には、ブルジョアジーが存在したけれど、
今や企業の株主は企業だから、マルクスの言う資本主義も過去のものだ。
かえって国家が景気を操作するように動いたり、銀行に資本注入するのは、
ある意味では共産主義に近いものかもしれねーよなァ。
「よっCは世界史を選択してないから判らないかもしれないけど、
中世封建国家から近代民主国家になる過渡期に、絶対君主制国家になるの」
「成る程。それを近代化したのがイギリスって事?」
「うん。でも、絶対君主制を暴力的に崩したのがロシア革命ってわけ」
ヒトラーが共産主義を否定したのは、政治的な背景があるんだけど、
日本での『赤狩り』は、単に帝国への反逆的な意味合いが強い。
当時、「あいつは赤だ」と密告されれば、問答無用で連行され、
次の日には『病死』名目の死体となって帰って来た時代だ。
- 215 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/12(火) 10:53
- 「王家の血統の無い支配者は、それを『革命』として美化したんだね?」
「共産主義は平等じゃないといけないから、みんな等しく貧乏になったの」
中国では共産主義の理念を持ちつつも、確実に近代化を始めてる。
GDPが一兆ドルを超えたんだから、立派な近代国家じゃねーか?
まァ、国民一人あたりの生産は低いけどね。
何しろ人口が十二億だからなァ。日本の十倍も人がいるのか。
「あとは・・・・・・時事ネタで、郵政民営化なんかは勉強した方がいいかも」
「簡保なんかの特別会計が無くなれば、自治体が無駄な借金を背負わずに済むんでしょう?」
「そういう事になるんだけど、貧しい自治体は厳しくなるんだよ」
これまでは国の予算の中から、自治体へ補助金を出してた。
でも、特別会計が無くなれば、財源委譲しか選択肢が無くなっちまう。
過疎化した郡部なんかじゃ、年金を支払うのさえ苦労するだろうね。
だから市町村合併が盛んに行われているわけだよね。
あと十年もすれば、人口の三分の一が老人っていう事になる。
それが郡部に行けば、半数以上が老人ってのも珍しくないだろうなァ。
大都市の人口ばかりが増えて行くのは、火を見るより明らかだぜ。
「あれ? 電話だ」
私のケイタイが『横浜蜃気楼』を奏で始める。
この着歌は誰だっけ? そうだ。ごっちんだったなァ。
最近は病院内でも、ケイタイを使えるところが多くなった。
ケイタイくれーの微弱な電波で、医療機器が狂うわけがねーもんなァ。
まァ、かなり旧式のものは、影響を受けるかもしれねーけど。
- 216 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/12(火) 10:54
- 〈アハハハハ・・・・・・。よっC、数学教えてよ〉
「うん、それで何が判らないの?」
ごっちんが言うには、どうしても数列が判らないらしい。
数列なんて、コツさえ掴めば簡単なのになァ。
数列か・・・・・・。何か教材があれば、凄く判りやすいけど。
算盤とかビー玉とかあれば、判りやすく説明出来るのにな。
〈そんじゃ、あと十五分くらいで行くから〉
「OK! 待ってるよー」
矢口さんと少し話をしたあと、私はとりあえず家の方に戻った。
まだ、経済の方は判らない部分があるけど、政治の方は何とかなりそう。
ごっちんが来るまで、とりあえず日本国憲法でも暗記しておくか。
今の憲法はGHQの監督下で、占領軍の顔色を窺いながら作成された。
だから物凄い矛盾があって、どう解釈するのかで意見が分かれるとこだなァ。
特に憲法九条の自衛権及び集団的自衛権の放棄ってあるけど、
これは単純に「武器を持つなゴルァ!」って言ってるような気がする。
集団的自衛権ってのは軍事同盟の事だから、こいつは理解出来るけど。
護憲派の連中は、まだ日本が占領されてると思ってるらしいなァ。
だったら、いつになったら独立国になるんだよ。先進七ヶ国なのによ。
- 217 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/12(火) 10:55
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近日中に更新致しますので、宜しくお願い致します。
- 218 名前:ふぇいく 投稿日:2005/07/16(土) 23:52
- 更新乙です。
やぐ、軽いケガで良かったです。
なんか・・・色々勉強になりますよ!
- 219 名前:名無し 投稿日:2005/07/17(日) 14:38
- 更新乙です。
狩のころから思ってましたけど
作者さんは雑学王ですね。(w
- 220 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/18(月) 17:19
- >>218
ありがとうございます。
私も数年前にバイクで怪我をした事がありますが、あれは二日目から痛くなって来るんです。
私の時は砂利でハンドルをとられて横転、膝の半月板の亀裂骨折でしたけど、
自爆した時はちょっと休んでバイクで帰ろうかと思ったくらいですから。
私の物語で勉強になるんですか? 短編では下位から上に昇れませんけど(w
>>219
狩板から読んでいて下さっているとは! どうもありがとうございます!!!
私に雑学なんてありませんよ。今回、どうしても苦手な近代史を書かなくてはいけなくて、
図書館で色々と本を読んだりインターネットで調べ物をしたりしただけなんです。
でも、こうした資料が集まって行くと、何となく嬉しくなってたりします。
- 221 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/18(月) 17:20
- 〔麻雀〕
「しかし、何でこうなるんだべかねえ・・・・・・」
「まァ、いいじゃん。次は南入だよね」
物置の奥から全自動麻雀卓を持って来て、矢口さんの病室で始めた。
パソコンに詳しくないごっちんは、麻雀した方が数列を理解しやすい。
すかさず点ピン(千点=百円)で賭けてるとこが矢口さんの凄さだ。
ごっちんは麻雀もあまり知らないみたいだけど、まァ、授業料だなァ。
「ドラは三筒かよ」
と言いつつ『北』を切る私。配牌は物凄くいい。
ダブ南の私に『南』が暗刻で来てやがった。
おまけに『一萬』と『九萬』が二枚ずつと『一筒』が二枚。
上手くすると、ダブ南・三暗刻で満貫(八千点)だぜ!
「よっCのダブ南潰しだべさっと」
そう言いながら西家のなっちが『南』を切った。
ここで聴牌なら鳴いてもいいんだけどなァ。
まァ、ここは黙って見送る事にしちまおう。
私は二順目に『九筒』を引いて『二萬』を切った。
これは終盤に『一萬』を振らせるダミーってわけ。
それから場を見ながら私は適当に牌を回して行く。
そして五順目に『九萬』六順目に『九筒』を引いた。
更に八順目で念願の『九筒』を引き『中』と『一萬』の両面待ち。
これでどっちか引いて来たら役満(三万二千点)だァァァァァァァー!
でも、三千点くれーは浮いてるし、ここはあがってナンボの世界。
- 222 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/18(月) 17:21
- 「ひゃーっ! 嫌なとこ引いて来ちゃったよォ!」
西家のなっちは二五八筒かな? 対面のごっちんは三六萬あたり。
東家の矢口さんは早あがりしたくて『白』を鳴いたけど、
ドラを持ってたから欲を出して混一色を狙ってるみてーだ。
私の場合、かえってリーチをかけた方が出るかもしれない。
でも、役満の可能性がある限り、ここではダマを決め込むしかない。
「ごっちんに通るかなー」
矢口さんは素人のごっちんから、少なくとも一万二千点は取ってる。
誰が独り勝ちさせるかっての! 出せよ! どうせ低めの萬牌だろ?
矢口さんも聴牌してるみてーだからな。ここは勝負だろうね。
「勝負!」
「ロン!」
「げげーっ! よっCかよー!」
ハネマン(一万二千点)になっちまった。
『中』が来れば倍満(一万六千点)だったのになァ。
まァ、これで最低でも二位は確定だろうね。
何だかんだ言ってもファミリー麻雀だから、
ごっちんに振ってやって平均に均しちまおうっと。
「ロン。えーと、リーチ・平和・ドラ一」
ごっちんに計算出来るかなァ? この場合は三十符計算だよ。
子だから四を掛けて、それを倍の倍の倍の倍の倍って事なんだけど。
ごっちんは指を折りながら計算して「三千九百」って言った。
- 223 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/18(月) 17:22
- 結局、矢口さんがトップでも、たったの五百円しか勝てなかった。
私が百円勝ちでなっちが二百円負け、ごっちんが四百円負けで終わる。
たったの五百円じゃバスカードも買えねーからなァ。
なっちとごっちんが飲み物を買うという事で、現金の授受はしない事にした。
「もう半荘くれーやったら、点数計算はOKだよね」
「うん。倍々になって行くのが面白いね」
「こういった規則性を持ったのが数列の基本なんだ」
Aを点数でBを役にすると、B=A、2B=2A、3B=4A、4B=8Aになる。
これに符を当てはめて行くと、麻雀の点数計算が成り立つって寸法だ。
とりあえず指が七本立てば満貫で、八本がハネ満って事を覚えておけばいい。
六本の時は満貫の場合と七千七百(子)の場合があるから注意が必要だ。
「本場の中国じゃ、アールシーアール・ルールなんだべよ」
アールシーアール・ルールってのは、二十二符であがれるルールの事。
数字の二十二を中国語で「アールシーアール」って発音するんだよね。
つまり、誰にでも基礎点の二十点があるから、どんなにポンやチーをしても、
頭が最低でも二符はあるんで、あがる事が出来るってわけだ。
ちなみに中国の麻雀は、フリテンっていうルールが無いんだよね。
「日本公式戦ルールは、ゲーム性を重視してるからねー」
矢口さんは麻雀まで分析してるのか?
っていうか、点ピンでも賭ければ賭博じゃん。
法律家の卵が違法行為してどうするんだっての。
まァ、矢口さんも弁護士にでもなりゃ、
これくらいは許容範囲って弁護するんだろうなァ。
- 224 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/18(月) 17:22
- 「確かにゲームだよ。オレはチンチロリンの方が・・・・・・」
いきなり病室のカーテンが開いたと思ったら、そこには額に青筋をたてたオフクロが。
看護部長だから一応は白衣を着てるけど、動きやすいようにいつもジャージを穿いてる。
看護師の象徴でもある白冠なんかはしないで、ポニーテールにしてるオフクロ。
そりゃ、仕事が看護っていうより人事や経理が主だからなァ。
「病室で麻雀するたーいい根性してんなオイ!」
「ちちちち・・・・・・違うんだ。これは勉強の・・・・・・」
「何の勉強だゴルァ!」
うがっ! ネックハンギングを決められた!
何で私だけが怒られないといけねーんだよ!
数列の基礎を麻雀で教えようって提案したのは私だけど。
それに反対しなかった矢口さんやなっちだって共犯じゃねーか!
「おばおばおばおば・・・・・・おばさん! これは数列の基礎を教えてたんだべさ!」
意識はあるんだけど、真っ暗になってクラッと来た。
平衡感覚が無くなって、オフクロが手を放したら崩れ落ちた。
どうやら白目でも剥いてるみてーだなオイ!
娘を平気でおとす親がどこにいるってんだゴルァ!
「麻雀するのはいいけど、隣はICU(集中治療室)なのよ。家の方でやりなさい!」
そうか。そうだよな。ICUの隣で麻雀はよくねーや。
身内が生死の境を彷徨ってるのに、こんなとこで麻雀やられたらね。
私とした事が、何て迂闊だったんだろう。
でも、矢口さんが歩けないから仕方ねーじゃんか。
- 225 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/18(月) 17:25
- まァ、そんなこんなで、場所をデイルームに移して麻雀の続きを始めた。
ここの階は外科系だから、割と元気な入院患者も少なくねーんだ。
特に女性は術後に同じ姿勢をしてるとエコノミークラス症候群になるってんで、
まだ血が滲む服を着たまま、トイレに行かされたりしてる。
デイルームまで来れる患者は、もう退院が近いか軽症だから、
私たちが麻雀をやっていても、訝しそうに見てるだけだった。
「ポン! えへへへへ・・・・・・。ダブ東だぜ!」
矢口さんが二順目に、なっちの切った『東』を鳴いた。
まだ判らないけど、対々和か混一色っぽい感じだなァ。
なっちはっていうと、セオリー通りに一九字牌から切ってる。
対面のごっちんは・・・・・・。何で最初からドラの『六萬』を切ってるわけ?
考えられるのは一色系かチャンタ系だよなァ。
「『八索』ポン!」
ごっちんも鳴いて早あがりかァ?
私も『白』が二枚あるから鳴きたいんだけど、
今のところ混一色にもチャンタにも行かない。
さて、どうしたもんかなァ。
「『六索』ポン!」
ごっちんは混一色か対々和ってとこだな。
・・・・・・矢口さんの背後に、腕を組んだ患者が三人も?
何だろう。いったい何があるんだろうなァ。
あれ? ごっちんの背後にも男の患者がいやがるなァ。
ここは様子をみて『七索』でも切っておくか。
- 226 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/18(月) 17:26
- 「『四索』チー!」
うげげー! なっちの切った『四索』をチーするなんて、
思い切り緑一色の可能性が高いじゃんかよ!
この場合、絶対に切れないのが『二索』と『四索』。
緑一色を警戒しながら、混一色の可能性もあるってか。
ちょっと『索子』は切れねーな。
「これは・・・・・・共通安全牌だべね」
なっちはそう言いながら『中』を切った。
こいつは私も降りた方がいいみてーだな。
・・・・・・矢口さんが考えてる。どうしてだろう。
いくら親でも、ここは降りた方が懸命だってのに。
「勝負! 『二索』」
ここで『二索』を切るか?
勝負かけるなら、まだ『伍索』だろう。
矢口さん、そんなにいい手なのかなァ。
親だからあがりたいのは判るけどさ。
ちょっと『二索』はリスクが高いぞ。
「ロン! 『緑一色』」
「やられたー!」
東場一局で、矢口さんがハコテンになっちまったァァァァァァー!
しかし、何であそこで『二索』なんて切っちまったんだろう。
捨て牌は混一色って感じだけど・・・・・・そういえば、もしかして!
- 227 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/18(月) 17:27
- 「『九策』単騎待ちの『大四喜』じゃねーか!」
「ここは勝負しかなかったんだよー」
そうだよなァ。『大四喜』だったら私でも絶対に勝負するぞ。
しかも親のダブル役満だもんなァ。ツモでも全員がハコテンだもん。
ごっちんはギャンブルの才能があるのかもしれねーなァ。
私は可能性と確率で打って行くけど、ごっちんには野生の勘があるみたい。
案外、こうした人の方が賭け事には向いてたりするよなァ。
「矢口は潔く切り過ぎるべさ。まあ、性格だから仕方ないけど」
そうだよなァ。矢口さんって意外に潔く決めちゃうとこがある。
もし、彼氏でも出来たら、突っ走っちゃうかもしれないね。
まァ、それで自分が後悔しなきゃ、別にいいと思うけど。
こればっかりは、周りで何を言ったとこで仕方ないからなァ。
「矢口がぶっ飛んだとこで、麻雀は終わりにするべさ」
麻雀はごっちんに数列の基本を教える意味だったからなァ。
本音を言えば、もっとやりたいんだけど仕方ないってか。
落胆する矢口さんを病室に戻して、私達は全自動卓を片付ける。
それから家のリビングに行くと、ごっちんに応用問題を解かせてみた。
「演算が入ると解らないよ」
数列の規則性に演算が入ると、ごっちんが困ったように首を振った。
ちょっと難しいけど、先に演算を片付けちまえば簡単じゃん。
ちょっとしたコツなんだけど、私が説明するとごっちんは理解した。
元々、ごっちんは理解するのが早い方だからなァ。
- 228 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/18(月) 17:28
- 「それで、推薦の方はどうなの?」
「うん、ギリギリで推薦して貰えるみたい」
ごっちんは西海大学で原子工学を専攻したいそうだ。
原子工学って何をするんだか、私には理解出来る範囲じゃない。
核融合の実験でもするのかなァ。かなり危険そうな気もするけど。
数学を教えてあげか代わりに、今度は私が化学を教えて貰った。
なっちとは違う勉強方式だから、ちょっと刺激にになって面白い。
「よっCは国立でしょう? 国語も社会もあるし推薦がないじゃん」
「だから、てーへんなわけ」
なっちが国立大じゃなかったら、数学や理科はお手上げだったもんなァ。
っていうか、下手すれば理科系進学クラスから追い出されてたよ。
なっち様々だぜ。料理も教えてくれるし、可愛いし・・・・・・。
「よっC、何で赤くなってるの?」
「へっ?」
私とした事が、なっちの事を考えただけで赤面しちまった。
そういえば、酔ってたとはいえ、なっちとキスしちまったもんなァ。
梨華ちゃんに無理矢理されたキスとは違って、物凄く幸せだった。
「あ・・・・・・いや、その・・・・・・アハハハハ・・・・・・。暑いなァ」
「そうだべか? なっちは寒いくらいだけど」
私はとりあえず、トイレへ逃げる事にした。
狭いけど、こうした個室で頭を冷やすのがいいと思った。
恥ずかしいのと嬉しい想いが交錯して、少し興奮してたみたい。
そういえば、今日は涼しいっていうか寒いくらいの気温だ。
- 229 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/18(月) 17:28
- (私の中で、なっちの存在が大きくなってる)
のび太がドラえもんを頼るように、どろろが百鬼丸を慕うように、
そして、ピノコがブラックジャックを愛するように。
私にとって、なっちは姉であり片想いの相手なんだよなァ。
誰かが言ってたっけ。女性同士ってのはスキンシップがとりやすい。
それというのも、男女問わず最初にスキンシップするのが母親だからだ。
(もっと仲良くなりたいけど、こんな生活も楽しくていいや)
私が東京医科歯科大に合格したら、一番喜ぶのはなっちだろう。
オヤジやオフクロよりも。石黒先生や圭織さんよりも。
そのなっちの満面の笑顔を見るために、私は石に噛り付いても勉強する。
なっちが喜んでくれるんなら、私は何だってやるんだ。
「あれ?」
どうした事か、いきなり鼻血がポタポタと。そんなに興奮しちまったのかなァ。
そういえば、大山先輩のスパイクを顔面で受けて、大出血した事があったっけ。
出血には慣れてるんだけどなァ。一応は女だし。アハハハハ・・・・・・。
- 230 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/18(月) 17:34
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近い内に更新致しますので、どうぞ宜しくお願い致します。
―――――――――― 暑中お見舞い申し上げます ―――――――――――――
いつも私の拙い物語を読んで頂いてありがとうございます。
暑さの厳しい折、皆様のご健康を祈っております。
by偽みっちゃん
- 231 名前:219 投稿日:2005/07/21(木) 22:04
-
- 232 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/24(日) 09:02
- 〔期末試験・前編〕
二学期の期末テストは、推薦組にとって最後の難関だ。
聖ダルセーニョ学園としても、一人でも多く大学へ入れたいから、
かなり甘い評価にはなってると思うんだけどね。
空気も乾いた師走の寒空に、朝だってのに月が出てた。
「よっC、おはよぉ」
私が玄関を出ると、必ず梨華ちゃんと出くわすんだよなァ。
まァ、私の家の前が通り道なんだけど、待ち伏せされてるみてーだ。
電柱とブロック塀にアンブッシュして、いきなり銃撃なんてやめてくれよ。
こっちには M1911A1 半自動拳銃すらねーんだからな。
「おはよう。梨華ちゃんも推薦組だよね」
「うん、でもぉ、ちょっと危ないかも」
学級委員で数学の鬼と言われた梨華ちゃんでさえ、
志望校への推薦は厳しいみてーだなァ。
まァ、東京女子工科大は、入れば就職確実だけどね。
特に大学で生産工学なんか専攻すれば、
こことぞばかりに海外の工場へ派遣される事もあるらしい。
「オレも体育系の大学にすりゃ良かったなァ」
バレーで意思表示をすれば、リベロくれーで取ってくれる大学もあったろう。
そこで運動生理学とかを専攻すりゃ、スポーツ系疾患の療法師になれる。
俗に言うテニス肘とかジャンパー膝は、完治が難しい疾患だからなァ。
日本のスポーツも世界レベルになって来た事だし、こうした需要はある筈だ。
- 233 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/24(日) 09:02
- 「何言ってるのよぉ。よっCはお医者さんになるんでしょう?」
日本では専門分野を勉強するんじゃなくて『医師免許』さえ取得すりゃ何だって出来る。
外科を名乗ろうが内科医を名乗ろうが、それは『医師』の自由になっちまうんだよね。
でも、やっぱり専門医っていうのが必要なんじゃねーのかなァ。
運転免許だって色々あるんだからよ。外科を専攻すると脳外科と皮膚科が付いて来るとか。
まァ、最近じゃホームドクターなんていって、町医者制度が普及しつつあるけどね。
ホームドクターが異常を感じたら、うちの病院みてーなとこで検査すりゃいいんだ。
「どうでもいいけどさ。腕を組むなよ腕を」
梨華ちゃんは油断してると、やたらと私にくっ付いて来るからなァ。
無理矢理迫られたけど、私は梨華ちゃんを恋愛の対象にはしてねーから。
幼馴染の親友としてしか見られねーからよ。悪いけどね。
「今日から期末テストよぉ。少しは心配してよぉ」
「梨華ちゃんなら大丈夫だって。数学の鬼の異名をとるくれーだし」
あっという間の晩秋から、もう商店街じゃクリスマスの準備が始まってる。
今日はちょっと底冷えがするから、夜は鍋物で熱燗をやりてーなァ。
カツオと昆布で出汁をとって、みりんと醤油で味を調えてやる。
そこに練物と白菜、大根、鱈、春菊、ネギ、豆腐、白瀧を入れて出来上がり。
練物は竹輪麩とツミレ、イカ天、薩摩揚げとハンペンだよなァ。
最後にうどんでもいいし、雑炊にしても美味いんだ。
「・・・・・・よっC、何ニヤけてんのぉ?」
いけねえ! ついつい美味い物を想像すると、顔がニヤけちまうからなァ。
今晩は絶対に鍋! 鍋ったら鍋だから、なっちにメールしとかねーと。
- 234 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/24(日) 09:03
- 今日のテストは、数学と物理、化学と英語の四教科。
明日が国語と日本史、政治経済、音楽の四教科。
明後日が家庭科、美術、保健の三教科だったっけか。
国立受験の私には、こんな試験なんてどーでもいいんだよなァ。
まァ、センター試験の予行演習とでも思ってやりゃいいんだ。
「今回、十一教科の合計点が千点以上の生徒には、無償の奨学金が出るそうやで」
奨学金ね。小遣いだったら欲しいけど、入学金の補助なんていらねーよ。
うちはカネに困ってるわけじゃねーし、国立の入学金なんかたかが知れてる。
理科系の大学は、それでなくてもカネがかかるし忙しいし。
だから企業じゃ世間ずれしてねー理科系の学生を欲しがるんだよなァ。
それで営業させるなんて、どういった神経してるのかね。
「総額で十万ドルやで」
十万ドルって・・・・・・何で日本円じゃねーんだァ?
それに、総額って事は、条件を満たしたら、その人数で分けるんだよなァ。
でも、約千二百万円も出すなんて、聖ダルセーニョ学園も太っ腹じゃねーか。
どうせ法人の税金対策だとは思うんだけどね。
「対象者は一週間以内に、指定された郵貯の通帳に振り込むしな」
まてよ! 授業料の引き落としはUJF銀行だったよなァ。
もしかしたら、私の通帳に振り込まれるかもしれねーじゃんか。
こいつは勝負する価値がありそうだなオイ!
総取りになったとしたら、メルセデスの S500 くれーは買えるぞ。
伊豆高原あたりの別荘と、どっちにするか迷うところだなァ。
こいつは気合を入れて、全神経を集中してやろうじゃねーか!
- 235 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/24(日) 09:04
- 「ほな、一時間目は数学やで。あんじょうきばりや」
おう! きばってやろうじゃねーかよオイ!
石黒先生は産休明けで、そんなに難しい問題は作らねーだろ。
特に推薦組にしてみれば、ここで数学の点数が悪いと一大事だ。
聖ダルセーニョ学園としても、経営を円滑化するためには、
少しでも多くの生徒を大学に押し込みたい筈だからよ。
(数学は得意になったもんね)
何だこれ? 石黒先生もつまんねー問題作りやがってよォ。
こんなもん、二十分もありゃ余裕で終わっちまうじゃねーか。
えーと、2X+3Y−4Zの位置は、3DCGが判ってれば簡単。
そのソフトには、そ〜と〜はまったからなァ。
8X+4Y−2Zとの距離は・・・・・・つまんねー問題。
(何だよ。あと二十五分もあるじゃねーか)
私は見直しを終えると、数学の問題用紙の裏に、物理の公式を列記してみた。
物理の公式も憶えちまったしなァ。そうだ! 化学式でも書いてみるとするか。
特に元素記号は、まだ全部憶えちゃいなかったしなァ。
H=水素、He=ヘリウム、Li=リチウム、Be=ベリリウム、B=ホウ素、
C=炭素、N=窒素、O=酸素、F=フッ素、Ne=ネオン、これで十個だな。
この中で典型金属元素はリチウムとベリリウムで、半金属元素がホウ素と炭素。
非金属元素は水素と窒素、酸素、フッ素。希ガスがヘリウムとネオンだったっけ。
元素ってのは大半が遷移金属元素だったっけかなァ。
Sc=スカンジウム、Ti=チタン、V=バナジウム、Cr=クロム、Fe=鉄、
Co=コバルト、Ni=ニッケル、Cu=銅、Zn=亜鉛、Y=イットリウム、
Zr=ジルコニウム、Nb=ニオブ、Mo=モリブデンなんかがそうだ。
- 236 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/24(日) 09:05
- 「さすがに吉澤は余裕やね」
私の近く歩いて来た裕ちゃんは、小声で嬉しそうな顔をした。
あたぼうよ! これから東京医科歯科大を狙うんだからな。
・・・・・・そういえば、滑り止めの願書を取り寄せねーとなァ。
医大に入っちまえば、後は医師免許の取得だけに専念すりゃいい。
昔はドイツ語が必修科目にあったらしいからなァ。
ドイツ語かァ。「グーテンターク」が「こんにちは」だっけ。
「ダンケッシェン」が「ありがとうございます」だったよなァ。
「アウフビーターゼーエン」が「さようなら」だった気がする。
ドイツ語が関西弁だとしたら、ロシア語が東北弁くれー似てるらしいな。
「あと五分で終了や。名前だけは忘れたらあかんで」
統一通貨を使う事で、ヨーロッパはひとつの国になろうとしてる。
そういった考えに否定的な人もいるけど、貨幣の発行を単一の機関が行い、
首長を選出すれさえすれば、それが例え条件の異なる連合体であっても、
貧富の差こそあれ国家としての条件を満たす事になるんだ。
そうなったら、やっぱり英語あたりが標準語になるのかなァ。
英語だったら貿易相手国のアメリカにも通用するし。
「はい、終了! 後ろから解答用紙だけ集めや」
数学はひとつの指標みたいで、テストが終わると急に教室が騒がしくなる。
ヤマが当たったの外れたので一喜一憂するのが女子高生ってものなんだよなァ。
さてと、聖ダルセーニョ学園美少女四人組の様子はどんなもんだ?
梨華ちゃんは、まあまあって感じだなァ。おお! ごっちんが珍しく嬉しそうだ。
何しろほとんど笑わない子だから。問題は美貴ちゃんだけど・・・・・・。
この投げやりな表情! きっとヤマが外れたんだろうなァ。
- 237 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/24(日) 09:05
- 「み、美貴ちゃん。どうだったぁ?」
さすがに学級委員だけあって、梨華ちゃんが話し掛けたぞ。
私は間違っても、あんな顔してる美貴ちゃんには話し掛けないけど。
美貴ちゃんは機嫌が悪いと、意外に暴力的になるんだったよなァ。
一個下の高橋の声がうるさいってだけで、後頭部に踵を入れたからよ。
「駄目。半分は解ったけど」
あれれ・・・・・・。何だよ。意外に機嫌がいいじゃんか。
他の連中は・・・・・・上戸と宮里は涙目になってるぞ!
すでに石黒先生の補習を覚悟してるみてーだ。
木村は無表情だし、小倉は世の中舐めきってるからなァ。
「次は物理。美貴ちゃんの得意な物理じゃん」
「・・・・・・」
な、何で睨むわけ? 梨華ちゃんと態度が違うじゃん。
美貴ちゃん、元ヤンキーって本当だったのかなァ。
私はごっちんと顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
美貴ちゃんもきつい性格なのは判ってたけど。
「あんまり話し掛けない方がいいよ」
美貴ちゃんの性格をよく知るごっちんは、そう私に忠告してくれた。
機嫌がいい時は、物凄く積極的に話すんだけどなァ。
まァ、石黒先生の補習なんて事になったら緊張が続くからね。
それを考えるだけで、機嫌が悪くなるのは当たり前かもしれねーな。
もし、私が美貴ちゃんの立場なら、きっとそうだと思うからよ。
- 238 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/24(日) 09:06
- 「よっC、げっちょ!」
「わっと! 何でみっちゃんが?」
「席に着かんかい。物理のテストやで」
そういえば、聖ダルセーニョ学園って、朝くれーしか挨拶がねーんだよなァ。
授業が始まる時も終わる時も、挨拶する習慣ってものが無い。
まァ、校風に『生徒と教師が同じ目線』っていうのがあるからなァ。
昔は挨拶に厳しい学校だったらしいけど、そんなものは出来て当たり前だし。
クラブに入ってれば、自然と先輩後輩の関係で挨拶するようになるからなァ。
「今回の試験は、公式を憶えてないと解けへんよ」
みっちゃんは嬉しそうに解答用紙から配り始めた。
しかし、数学と理科全般の教員資格を持ってて歌も上手い。
この学校には変わった教師が物凄く多い気がするのは私だけ?
っていうか、普通の先生が一人もいないような気がするなァ。
これも校風の『画一的より個性的』のせいなのか?
「な、なんじゃこりゃァァァァァァァァー!」
その問題の量ったら半端じゃねーよ。
だって、問題用紙じゃなくて冊子になってるんだもん。
数学ですらB4一枚だけだったのに、この量は何だっての。
B5で十二ページもありやがるじゃねーか!
「アハハハハ・・・・・・。時間との勝負やろ?」
確かにこれだけ多けりゃ時間との勝負だよなァ。
一ページ当たり、平均三分でやらないと見直しすら出来ねー。
- 239 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/24(日) 09:07
- 「ほな、始めたってちょー」
そうか、みっちゃんは出身が三重だから、名古屋弁と関西弁の中間みてーなんだなァ。
って問題を解かねーとなァ。ガンガンやんねーと、時間が無くなっちまう。
等加速度運動の公式は、位置を時間で微分したのが V=dr/dt だったよな。
微分の逆操作が積分だから、V=∫adt つまり、運動方程式の ma=F で求められる。
加速度はなっちと勉強したから、もう大丈夫な筈だけどなァ。
放物線を描いた場合の自由落下速度は・・・・・・あれ? 何だっけ。
「何やっとんの?」
「へっ?」
あの実験をした時は、野球の軟式ボールで実験したんだったっけ。
なっちを座らせて、私がピッチャーになってボールを投げたんだった。
4シームのストレートだと、ほとんど落下しなかったけど、
2シームになると、速度が変わらないで数センチだけボールが落ちた。
だったらフォークはどうなるのかと試したら、三十センチから落差がある。
おもしれーからスライダーを投げたけど、伊藤智仁みてーには曲がらなかった。
カーブはまあまあ、シンカーは高津並によかったんだけどよォ。
「いやあ、何となく」
私は無意識に、ボールを投げる仕草をしてたみてーだ。
シンカーってのは、右バッターのアウトハイからインローに落ちる変化球。
つまり、バッターは『線』じゃなくて『点』でしかボールをミート出来ない。
基本的にカーブはバッターのタイミングを外すのが目的で、
シュートやスピリットは芯を外すのが目的の変化球なんだよなァ。
そういえば低めのフォークが直前でバウンドして、なっちの顔面にヒットしたっけ。
「痛いべさァァァァァァー!」なんて大騒ぎしてたなァ。
- 240 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/24(日) 09:07
- 「早くやらないと、終わらないと思うんやけど」
「アハハハハ・・・・・・。そうっすねー」
公式さえ憶えてれば、計算は算数で出来るから物理は簡単。
ただ、その公式を憶えるまでが一苦労なんだよなァ。
次は電気の計算か。こいつはA(電流)×V(電圧)=W(電力)が基本。
抵抗(Ω)が小さくなれば、それだけ電流が流れやすくなる。
つまり、家庭用のアンプやスピーカーが八Ωや六Ωなのに対して、
クルマのオーディオは、四Ωが基本になってるんだった。
少ない電圧で音圧を上げるには、抵抗を少なくするしかねーんだ。
(フレミングの法則か・・・・・・)
こいつは関数で計算すると瞬く間に解けちまう。
電磁力をX磁界方向をY電流方向をZで計算すりゃいいんだ。
数学が判れば、こうした物理の公式にも応用出来るからなァ。
しかし、レンズ付フィルムを分解して実験した時には参った。
あれってストロボがスタンガンになっちまうんだからよ。
なっちが昏倒した時は、まじでびびったっけ。
「後十分で終わりやで」
うげげー! 見直しする時間がねーじゃん。
何とか終わりそうだけどよ。
余計な事を思い出してたからいけねーのか?
ここからスパートしねーと。
ぬおォォォォォォォー!
鬼のように計算したァァァァァー!
- 241 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/24(日) 09:07
- 「はい、終わり」
「間に合った!」
この知能指数テスト並の問題量は、まじで反則じゃねーのかァ?
・・・・・・そうか! 総額十万ドルの奨学金を出させないために。
聖ダルセーニョ学園も、随分とこすからいじゃねーかよオイ!
こうなったら、絶対に十万ドル貰おうじゃねーか!
「全部は終わらなかったよぉ」
「ネガティヴになるなって」
あんな問題、全部出来たら化け物だっての。
平均点は六十点くれーじゃねーかなァ。
物理でこんなに苦戦したんだから問題は化学だぞ。
やっぱりみっちゃんが問題作ってるからなァ。
美貴ちゃんは全部出来たみてーだけど、
梨華ちゃんとごっちんが頭を抱えてる。
「次の試験官は誰だっけ?」
「あたしだけど」
どわァァァァァァァー! 石黒先生じゃねーか!
この人は居るだけで、何か緊張しちまうんだよなァ。
とりあえず席に着いて、静かに瞑想しておこうじゃねーか。
また凄まじい数の問題が出るんだろうなァ。
水素・ヘリウム・リチウム・ベリリウム・ホウ素・酸素。
この化学が終われば、今日は英語で終わりだ。
そうしたら家に帰って鍋を食って明日の英気を養う。
うーん。気合が入って来たぞ!
- 242 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/07/24(日) 09:10
- 今日のところは、このあたりで失礼致します。
また近日中に更新致しますので、どうぞ宜しくお願い致します。
それはそうと、地震、怖かったよォォォォォォォォォー!
- 243 名前:219 投稿日:2005/07/24(日) 13:10
- 更新乙です。
震度5ですもんね。
あと三重県は北勢の方は名古屋弁と関西弁が混じりますが
津より南になるとあきらかに関西弁です。
細かいこと言ってすいません。
- 244 名前:ふぇいく 投稿日:2005/07/26(火) 11:57
- 更新乙です。
地震、家もかなり揺れました。
>膝の半月板の亀裂骨折
大丈夫ですか?!いやー・・・痛そう。。
気を付けてくださいね。
- 245 名前:偽みっちゃん ◆OaK4nRw27I 投稿日:2005/08/01(月) 21:05
- HDDが壊れまして、二、三日は更新出来ません。
今週中には更新致します。申し訳ありません。
- 246 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/05(金) 18:58
- 〔期末試験・後編〕
一日目の期末テストは、なっちから要点を教わっていたせいか無事に終わった。
物理こそ見直しの時間が無かったものの、数学と化学、英語はほぼ満点に近い。
特に数学は刺激が無くて、むしろつまらない感じすらしたっけかなァ。
私は家に帰って自己採点してみたけど、数学は満点だったし物理もほぼ満点。
化学と英語は一問づつ間違ってたみてーだった。
「ここは『Yes』じゃなくて『Sure』が正解だべね」
日本で言う「勿論」という返答なんだけどね。何かを訊かれて「はい」と言う返答。
私は迷わず空欄に『Yes』って書いたんだけど、なっちは『Sure』だって言うんだ。
そういえば、文語と口語とは少し違ってた気がするような。
確か『Yes』っていうのは『全面的に肯定する』という意味だったような気がするなァ。
日本語みてーに曖昧な『はい』とは、確かに違っていたような気がするぞ。
「『Yes』と『No』は、もっと断定的だったっけかなァ」
クリントン前米大統領に当時首相だった細川さんが初めて『No』って言ったんだっけ。
これに知日派のクリントンが大激怒して、円高ドル安で日本を苦しめたんだったなァ。
えーと、円高ドル安になると、日本国内で生産したものを売りにくくなるんだった。
加工貿易国の日本じゃ原料こそ安価で入って来るけど、人件費の問題が解決出来ない。
結果的に海外に工場を移して、何とか人件費を浮かせようよしたんだったっけ。
だから国内では生産人口に余剰が生じて、やたらと営業職ばかりの仕事になった。
「これはおかしいべさ」
何だろう。なっちが問題用紙を見ながら、しきりに首を傾げてる。
私はなっちに「ここ」って言われても、何の事だか判らなかった。
- 247 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/05(金) 18:59
- 「ここは先生のミスみたいだべね。よっCは判ったべか?
キャッシーがブラウンさんの子供だとは判っても、未婚者か既婚者か不明だべさ」
そうか! 養子縁組って場合もあるんだよなァ。
子供でもミセスかミスか判らない時は『Ms』だったっけ。
米国や英国の都会じゃ通じるけど、田舎では通用しづらい。
確かに田舎だと、みんな顔見知りだから必要ねーってか。
「性同一性障害だと、これは『Mr』でもOK?」
「そうだべね。これは確実に先生のミスだべさ」
アハハハハ・・・・・・。両方とも『MISS』ってスペルだもんなァ。
なっちのオヤジギャグも、ついにここまで来たってか?
性同一性障害っていえば『3年B組・金八先生』で鶴本直がそうだったなァ。
どうでもいいけど、Z1の他のメンバーはどうなったんだァァァァァァー!
オカマの大御所のカルーセル麻紀は、戸籍上も女になったんだったっけか?
美川憲一やピーターは男なのか女なのか、かなり難しいとこだと思うけどなァ。
逆に長与千種や孤高の天才アタッカー・佐々木選手の割れた腹筋も難しいとこだ。
「科学者かもしれないから『Dr.』でもOKじゃん」
「それを言っちゃ、修道女かもしれないから・・・・・・」
今の世の中、人を見掛けで判断なんか出来ねーんだよなァ。
まして、会話文なんかじゃ余程情報がねー限りは断定不可じゃん。
日本の法律だと、未成年の場合は性転換手術は出来ねーんだった。
しかし、戸籍の訂正が生殖機能の放棄と交換だから、
日本の法律ってのも残酷なもんだよなァ。
女に生まれたからには、やっぱり子供くらい産みてーじゃん。
でも、タブー視されて来た部分にメスが入るのはいい事だ。
- 248 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/05(金) 19:00
- 「もう英語は終わりだべさ。問題はこの化学の問題」
そうだよなァ。何で化学で天動説と地動説が出て来るわけ?
確かに当時は科学に多くの分類なんて無かったわけだし、
数学に音楽を取り入れたりしてたくれーの時代だからなァ。
これは地学・・・・・・いや、天文学の範疇じゃねーのかよ。
地動説なら地学で天動説なら天文学? あれ? 逆かァ?
「天動説を提言したのはガリレオじゃないべさ。コペルニクスっしょ」
確かそうだった気もするけど、ここらが曖昧なんだよなァ。
ダーウィンも晩年には『進化論』が間違ってたって言ってたみてーだし。
『相対性理論』で説明がつかねー部分を克服したのが『量子学』だったよなァ。
それはそうと、ほんの一瞬しか存在しねー元素を発見したから何だっての!
キュリー夫人やレントゲン、マザー=テレサと同じ土俵に立てるのかよ。
・・・・・・って、佐藤○作とは同じ土俵以上かもしれねーけど。
「そんなもん知らねーよ」
「これは理科じゃなくて常識っしょ」
じょじょじょじょじょ・・・・・・常識ィィィィィィィィー?
もしかして、私って物凄く常識外れって事なわけ?
えーと、リベロの反則はフロントエリアでオーバーハンドパス。
オーバータイムスの反則は、フォアヒットって名称に変更された。
INFは国際通貨基金。WHOは世界保健機構。NATOは北大西洋条約機構。
PKはペナルティキックの略。PCはパーソナルコンピュータ。
NHKは日本放送協会。BBCはイギリス国営放送。ATSは自動制御装置。
FAはフリーエージェントじゃなくて、ファイナンシャルアドバイザーの略なんだ。
良かった。私って常識人だよね。ね? ねっ!
- 249 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/05(金) 19:00
- 「そ、そりゃ、なっちさんはオレより四年多く生きてるし」
「そう来たべか。言ったべね? 言ったべね? ね?
じゃあ、よっCはこれから四年間で、なっちと同じ知識を学ぶんだべか?」
こいつはヤバイ事言っちゃったかなァ。
同じ国公立でも東京学芸大と東京医科歯科大って、
いったいどっちがレベル上なんだろ。
っていうか、文系と理系を比べるのもどうかと思うんだけど。
だって、私は医師っていう科学者になるわけだし、
なっちは教員って事になるわけで、要するに比べられない。
「理系と文系じゃ比べられねーだろうがよ」
「これだけは言っておくべよ」
この時のなっちの顔を、きっと私は生涯忘れないだろう。
童顔で可愛らしいなっちに、私は戦慄を覚えたのだから。
それは恐らく、彼女がこれまでに経験した事なんだろう。
だからこそ、私は絶対にそうならないと自分に誓った。
「学者馬鹿にだけはなるんじゃないべさ」
何かに秀でる事は必ず社会の役に立つ筈だ。
でも、自分自身を見失うようじゃ元も子もない。
信長も秀吉も、晩年には自分自身を見失ってた。
最後まで自分を見失わなかった家康が天下を取ったんだ。
そんな事は判ってる。判ってるからこそ恐怖なんだよ。
医師というものは、患者の自然治癒力の手助けをする仕事。
だから医師は患者のパートナーであって、先生なんて呼ぶ必要はない。
別に技術屋なんだから、偉くも何ともねー仕事なんだよなァ。
- 250 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/05(金) 19:01
- 「それは小さい頃からオヤジに言われて来たよ」
オヤジは一代で、この吉澤病院を立ち上げた。
だからって、全く成り上がり者って感じじゃねーもんなァ。
メルセデスの前はカローラに乗ってたくれーだし。
「それじゃ院長としての威厳が」って言われて渋々買ったメルセデス。
それに庶民意識というか、せこいというか、脱・・・・・・節税に余念がねーし。
若い医師が新しい治療法を試したいと言った時、オヤジは叱り付けてたっけ。
「君は吉澤病院の患者を実験に使う気か!」ってね。
新しい治療法を習得するのに一朝一夕じゃ済むわけがない。
オヤジが未だに腹腔内手術をしないのも、その辺りに理由があるそうだ。
「おじさんは立派なお医者さんだべさ」
「うん!」
新しい治療法が開発されたなら、患者に情報提供をするのが医師の仕事だ。
どういった治療を選ぶのかは、医師じゃなくて患者なんだもんな。
患者が望むのなら、新しい治療をする病院を紹介してやればいい。
吉澤病院は虫垂炎の外科手術だけは日本・・・・・・東京・・・・・・三鷹一なんだ!
しかも、CTやレントゲンは一台だけど、MRIが二台もあるんだぜ!
・・・・・・じきにMRI専門病院になったりするかも。ちょっと不安だなァ。
「よっCなら平気だと思うけどね」
「オレは科学者っていうか技術屋になる感覚だよ」
医師は当然の仕事をするのだから、必要以上に感謝されるのはおかしい。
ただ、患者側からすれば、放っておいたら死んじまうのを助けてくれた。
そう考えちまうみてーなんだよなァ。そこら辺が今の医師達を堕落させた。
医師ってのは患者の身体を治す技術屋にすぎねーんだよ。
- 251 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/05(金) 19:02
- 「ところで、今日の鍋は?」
「なっち特製の寄せ鍋だべさっ!」
この時期、鍋だったら鱈と大根、葱、白菜は必需品だよなァ。
練り物も必需品だなァ。竹輪麩にイカ天、薩摩揚げ、ハンペン。
おっと、ナルトはいらねーよ。眼が回っちまうからよ。
浴衣のなっちはススキの簪、熱燗徳利の首つまんで、
もう一杯いかが? なんて妙に色っぽいね。ってか。
「腹減ったー!」
「それじゃ、ご飯にするべさ」
私となっちが競って階段を駆け下りると、もうレンジの上には土鍋が乗ってた。
なっちが火を点けてる間、私は徳利に『神鷹』の純米酒を注いで電子レンジに。
たった二分我慢すれば熱燗の出来上がり。カップラーメンより早いんだぜ!
どうも温い酒ってのは、私には合ってねーんだよなァ。
熱々の熱燗か、そうじゃなかったら冷たく冷やした日本酒がいい。
だからおちょこで飲むなんて、どう考えても急速に冷却してるだけ。
保温性の高い容器で飲むのが、熱燗は最も美味いと言っていいだろう。
それには、湯に浸けて温めた肉厚の湯呑みが最高にマッチするんだよなァ。
「また飲む気だべか? 受験生っていうのを忘れてるっしょ」
「ワクワク」
鍋が沸騰して来ると実にいい匂いが漂う。
なっちは出汁を小皿に取って私に手渡した。
得意そうななっちの顔に、私の味覚を試そうとする気が覗える。
おのれ! この吉澤ひとみの味覚を試そうというのか!
- 252 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/05(金) 19:02
- 「むう、この琥珀色した出汁は、羅臼昆布がベースに使われている。
そして、煮酒と醤油、味醂で味を整え砂糖は一つまみも入っていない。
だが、このさっぱりとしていて、それでいてコクのある味は何だ?
これは塩だ! そうだな! 天然塩。しかも赤穂産の天然塩だな!
・・・・・・いや! この味は伯耆の天然塩とのブレンドだ!」
「塩の産地まで当てるとは! さすが吉澤ひとみだべさ」
アハハハハ・・・・・・。ほとんど当てずっぽうだっての!
なっちは天然塩にこだわってるから、これくれーは判るよ。
天然塩にはミネラル。特にカリウムが多く含まれてるから身体にいい。
オゾン層が破壊されている昨今、昆布に含まれるヨウ素は、
有害放射線に汚染された身体にとって、唯一の解毒物質でもある。
おまけに食物繊維が多いから、とってもヘルシーなんだよなァ。
どうしても練物を入れると魚の味が出るから、鰹出汁を使うのは邪道。
「実は新巻鮭が手に入ったから、石狩鍋も作ってあるべさ」
石狩鍋には鮭を入れるんだけど、なっちは他にもマトンで肉団子を作ってた。
マトンの臭みが苦手って人は多いけど、肉団子にすれば全く気にならない。
豆腐もちゃんと焼いてあるし、三種類の蛋白質が摂取出来る理想的な料理だぜ。
脳の栄養になるのは糖類だけだから、酒や炭水化物が効果的だったよなァ。
「さて、ガンガン食ってガンガン飲むぞ」
鍋と熱燗の組み合わせは、私に時間の概念を失わせる。
気がついたら午後十時を過ぎてて、オヤジとオフクロも鍋を食ってた。
熱燗ながら五合も飲んだ私は、物凄く幸せな気分でいっぱい。
私は何とかベッドに辿り着くと、そのまま倒れ込むように熟睡した。
- 253 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/05(金) 19:03
- 二日目は国語と日本史、美術、音楽の四教科。
日本史は出題範囲を完璧にカバーしてあるからOK。
国語も漢文に少しばかり不安はあるけど何とかOK。
音楽はピアノとギターをやってた私だから全くOK。
問題は美術なんだよ美術。ピーチの美術!!!
「よっC、おはよぉ」
ほとんどストーカーに近い梨華ちゃんが、挨拶も早々に抱き付いて来る。
まァ、女の子同士だから、多少のスキンシップはあっていいとは思うけど、
梨華ちゃんの場合は、どっちかっていうと性的な接触に近いもんがあるからなァ。
私にとって梨華ちゃんは親友であって、それ以上でもそれ以下でもねーんだけど。
「腕を組むな! お尻を触るなっての!」
ほんの少し二日酔い気味の私は、朝からちょっと機嫌が悪い。
明日は政経と家庭科、保健体育、キリスト教概論の四教科。
フッ、朝の太陽が眩しいぜ。っていうか二日酔いだなァ。
それにしても師走に入った途端に寒くなって来たなァ。
私は寒くなると生理痛が酷くなるんだよなァ。
特に腰が痛くなるから、卵巣膿腫でもあるのかもしれねーなァ。
「よっC、最近冷たいじゃん。キスした仲なのにぃ」
「あれは梨華ちゃんが無理矢理したんじゃねーか!」
朝っぱらから路上で、ヤケになって声を荒げる私。
こっちは二日酔いだってのに、梨華ちゃんのアニメ声は頭痛の種。
何とかテスト前には復活出来そうだけど、ちょっと辛いんだなァ。
昨夜は少しペースが速かったから、その報いが私を襲う。
- 254 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/05(金) 19:04
- 「私さくらんぼぉ〜♪」
「もう一回。はいいから!」
黄色いビー玉が笑ってるよォ。
国語と日本史、音楽と美術だったよなァ。
歌麿は浮世絵。水墨画は中国だっけ?
陶磁器は・・・・・・益子焼き。今川焼きは違ったっけ?
東京だと『もんじゃ焼き』が有名だよなァ。
京都だと『大文字焼き』で、ドラえもんが好きなのはドラ焼き。
ステーキの焼き加減は、レアが一番なんだけどなァ。
・・・・・・って、ちげー!
「よっC、国語は川端康成よねぇ」
「あうっ! そうだったっけ?」
川端といえば『伊豆の踊り子』だったっけ?
旅芸人の女の子とやりたい学生(川端本人か)の話。
確か十七歳の踊り子だったよなァ。
十四歳の方じゃなかっただけましな話だ。
十四歳の方じゃ、単なるロリコン野郎の話だからよ。
「ノーベル賞を貰った文学者なのよぉ」
「ノーベル賞なら大江健三郎も貰ってるだろうがよ!」
メジャーなとこじゃ、川端康成は『伊豆の踊り子』と『雪国』が有名。
『雪国』っていっても、主人公は吉幾三じゃねーからな。
何だかんだ言ったところで、川端も太宰や三島と同じナルシスト。
作家なんて商売はナルシズムの延長線上に存在するんだ。
とにかく純文学ってもの自体が、エロ小説みてーなもんだし。
- 255 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/05(金) 19:05
- 「『万葉集』の編纂者はぁ?」
「大伴家持じゃなかったっけ」
『万葉集』ってのは『古今和歌集』や『新古今和歌集』なんかと違って、
平民、防人(さきもり)やその家族なんかの歌まで載せてるんだよなァ。
よく小倉百人一首と勘違いする大馬鹿野郎がいるけど、
もっとヘビーで深刻な内容の歌ばかりなんだ。
「『源氏物語』が清少納言だっけぇ?」
「紫式部だよっ!」
このくれー常識だと思うけどなァ。
理数系の人間にとっちゃ雑学の範疇に過ぎねーし。
光源氏が紫の服着て夜這いをかける。って憶えればいい。
そうすりゃ自然に『徒然草』=清少納言って事になる。
日本は歴史のある国だから、国語で文学史まで勉強しなきゃいけない。
『古事記』の編纂が太安万侶、『土佐日記』が紀貫之。
ここら辺は文学史っていうより、一般常識として知っておかねーと。
『戦争と平和』がトルストイ。『トムソーヤーの冒険』がマーク=トゥウェイン。
『変身』はカフカ。『マクベス』『オセロ』はシェイクスピア。
おっと、外国文学にまで話が及んじまったぜ。
「あたしぃ、理数系じゃなかったらぁ『源氏物語』の研究したかったなぁ」
「そんなミーハーはいいから、早く学校に行こうぜ!」
仮名で書かれた『源氏物語』を研究するなんてミーハーな輩は、
漢字を勉強しないで済むと思ってるアフォな連中が多い。
なっちの話によると、厳しい教授だと論文に誤字脱字があるだけで、
ろくに採点もしねーで突き返すそうだからなァ。
- 256 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/05(金) 19:07
- また近日中に更新する予定です。
そのときは、よろしくおねがいします。
暑い日が続きますね。
- 257 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/08(月) 11:51
- 〔クリスマス〕
「よっC、またトップだよぉ!」
数学百点・物理九十八点・化学九十八点・英語九十八点・国語九十二点
日本史百点・政経八十点・音楽九十八点・家庭科八十二点・保健体育九十点
そして苦手だった美術も、何とか八十点の大台に乗せたから助かった。
十一教科の合計が千十六点で、奨学金対象になってる千点はクリア出来た。
「吉澤、何とかクリアしたけど、ここからが勝負だよ」
石黒先生は私の成績に満足しながらも、ここで油断しないように言った。
確かにそうなんだよなァ。ここで油断して苦手なものが出来たら致命的。
きっと私は圭織さんのように、東京医科歯科大に潜む魔物に襲われる。
まずはセンター試験で、それなりの成績を残さないと門前払いだからなァ。
「アハハハハ・・・・・・。化学に地学の問題出してもうたわ」
「だったら正解にしてくれよォ!」
「あかん。天動説がコペルニクスくらい常識やろ!」
理数系進学クラスで千点を超えたのは私と梨華ちゃんだけだった。
梨華ちゃんはこれで、間違いなく推薦枠に入れるだろうなァ。
音楽と家庭科、保健体育と美術は実技も入って成績表に載る。
私立の場合は、この成績表が重大な意味を持って来るんだよなァ。
梨華ちゃんの場合、テストで満点を取っても、音楽は実技に問題があるし。
保田先生もあれでいてシビアだから、きっと十点満点は付けない筈だ。
でも、かえってそうした個性が重視される大学って以外に多いんだよなァ。
音楽は苦手だけど、数学に関しては絶対的な自信があるとかね。
ピーチもきっと、いいとこ七点か六点しか付けねーだろうなァ。
- 258 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/08(月) 11:52
- 「よっC、英語で助かったよ」
背後から声を掛けられて、いったい誰かと思えばごっちんか。
ほぼ全員が『Miss』って書いたけど、中には空白の奴もいた。
私が性同一性障害や既婚か未婚か判別不能だと言うと、
先生は仕方なく全員に二点をプレゼントしてくれた。
ごっちんは英語が六十八点で、推薦枠まで二点足りなかったそうだ。
まァ、こんな事でクラスの役に立てるなら、いくらでもゴネてやるぜ。
ただし、石黒先生だけは勘弁して欲しいけどよ。
「藤本、どないしたんや。ここんとこ苦戦しとるようやけど」
裕ちゃんは元気の無い美貴ちゃんを心配してた。
美貴ちゃんは第一志望が、ほぼ絶望的になっちまったらしい。
かなり大学のレベルを下げないと、推薦すらして貰えそうにない。
そういえば、美貴ちゃんの家は、あんまり裕福じゃなかったっけ。
でもまァ、まだ推薦で入れる学校があるからいいじゃんか。
私なんて国立を受けるから、推薦なんてして貰えねーもん。
滑り止めも全部、一般入試に懸けるしかねーってんだからよ。
「ちょっと・・・・・・疲れてるだけです」
最初からレベルの低い大学で楽しようとするごっちんと違って、
美貴ちゃんはそういった面でのプライドが高いからなァ。
十一教科には入ってないけど、キリスト教概論で満点は美貴ちゃんだけ。
その手の大学なら、個性を買ってくれるかもしれねーけどなァ。
何とかして美貴ちゃんを励ましたいよ。
きっと梨華ちゃんやごっちんも、そう思ってる筈。
だって、これまで仲良くして来た友達だもん。
- 259 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/08(月) 11:52
- 「今回、奨学金の対象になったんは、吉澤と石川、福田の三人や」
三人もいやがったか。そうなると、一人当たり三万三千ドルだよなァ。
BMWやポルシェは無理でも、フーガ辺りは買えそうじゃねーか。
まァ、最初に乗るクルマだったら、マークUでもいいんだけどね。
「ほな、小切手を渡すよってな」
「小切手? 振込みじゃねーの?」
「大した金額やないしな。ほれ」
確かに聖ダルセーニョ学園の小切手だよなァ。
額面にも三万三千三百三十三ドルって書いてあるし。
・・・・・・何だ? このジンバブエってのは。
どこかの国だったような気がするけどなァ。
「裕ちゃん! これって米ドルだろうな」
「誰が米ドル言うた? ジンバブエ・ドルや」
「ジ・・・・・・ジンバブエ・ドル?」
思い出したぞ。確かアフリカ大陸の南東部に位置する国。
旧ローデシアっていって、白人政権だったような気がする。
モザンビークの西にある国で、首都はハラーレだったっけ。
地下資源の豊富な国で、日本とも貿易があった筈だなァ。
「いったいジンバブエ・ドルっていくらなんだよっ!」
「一米ドル=五十五ジンバブエ・ドルや」
「そんなァァァァァァァァァァァー!」
私は苦笑する梨華ちゃんの横で、小切手を握り締めて叫んだ。
- 260 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/08(月) 11:53
- 二学期の期末テストも終わって、理科系進学クラスじゃ、
もう、半分以上が進路を確定しちまった。
私達、聖ダルセーニョ学園美少女四人組は、
まだまだ、ここからが正念場といったとこだなァ。
「ねえねえ、クリスマスパーティやろうよ」
ごっちんは、相変わらずのマイペース。
そりゃ、私だって、みんなで楽しくやりたいよ。
でも、私達は泣く子も黙る受験生じゃん。
特に私は、ここで物理と化学の追い込みをしねーと。
それは、なっちからも言われてるんだよね。
「たった七万円だからよ。たかられたって無駄だぜ」
しかし、よくもまあジンバブエ・ドルなんて調べたもんだよなァ。
普通、ドルって言われりゃ米ドルだって思うじゃねーか。
せめてオーストラリアドルだったら、クルマくれー買えたのに。
やる事がせこいんだよ。まァ、聖ダルセーニョ学園が考えそうな事だぜ。
「そぉねぇ。マックだったらいいわよぉ」
「だったら決まり」
何だ。マックでやるのかァ。だったらいいかな。
てっきり私は、どこかの会場でも借り切って、
豪勢なクリスマスパーティをやるのかと思ってた。
梨華ちゃんと合わせりゃ十四万円はあるからよ。
マックならたかが知れてるし、これでパーッとやるとするか。
そういえば、ごっちんには学園祭の時の借りがあるし。
- 261 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/08(月) 11:54
- 「ナゲットは大を二つでいいわよねぇ。シェークは何にしようかなぁ」
ごっちんは推薦入試の西海大に絞ったから、もうセンター試験を受けなくていい。
仮に西海大を落ちたとしても、原子工学のある常陸大にも推薦して貰えるらしい。
梨華ちゃんは東京女子工科大の生産工学じゃなくて、生物学に志望変更した。
そのお陰で推薦して貰える事になって、やっぱりセンター試験を受けなくていい。
問題は美貴ちゃんで、どこの志望校にも点数が足りずに推薦して貰えなかった。
「二人とも、年明け早々に試験だったよなァ」
私達はマックで、ささやかなクリスマスパーティを始めた。
どうしても受験が近くなって来ると、こうした話題が中心になっちまう。
梨華ちゃんの成績なら、東京女子工科大の生物学部は確実だって話だし、
ごっちんも西海大の原子工学科は、ほぼ間違いないと言われてる。
それとは反対に、全て一般入試になった私と美貴ちゃんは、
まずはセンター試験で篩いにかけられるんだよなァ。
「美貴もランク下げないと駄目かな・・・・・・」
うっ! こんな弱気な美貴ちゃんを見るのは初めてだ。
最悪は半年間英会話の勉強して、留学って手もあるんだよなァ。
美貴ちゃんくれー英語が話せたら、米国の大学でもついて行けそうだし。
私なんて、英会話より中国語の方が得意なくれーだからよ。
「東京女子工科大の生物学部って、出来たばかりだから定員割れの可能性もあるらしいわよぉ」
「だったら美貴も受けてみようかな」
そうだよなァ。可能性があるんだったら、どこでも受けてみりゃいい。
美貴ちゃんは経営工学なんて、漠然とした目標しかなかったわけだし。
- 262 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/08(月) 11:54
- 「よっCは東京医科歯科大の他は、どこを受けるの?」
「南里大と帝都大、西海大の三つ」
ごっちんにそう答えると、西海大が入ってたせいかニッコリ笑った。
東京医科歯科大に落ちれば、西海大に行く可能性だってあるもんなァ。
っていうか、なっちは修士・博士まで行けって言ってたし、
もしかすると、西海大の修士課程・博士課程を専攻するかもしれねー。
こればかりは私の希望より、教授の顔がものを言う世界だしなァ。
場合によっちゃ、修士課程に進めないかもしれねーし。
「大学が決まっても馬鹿騒ぎしないように。オレと美貴ちゃんはこれからなんだから」
「判ってるわよぉ」
本当に判ってんのかなァ。梨華ちゃんが一番不安なんだけど。
私はいいけど、美貴ちゃんはかなり深刻な状況なんだからよ。
裕ちゃんから志望校を変更するように指摘されちまったんだからなァ。
聖ダルセーニョ学園が一般入試を嫌うのは、進学率という数字があるから。
だから、とにかく安全圏内の大学に推薦入試で押し込みたがるんだよなァ。
でも、私や焼銀杏みてーに、国立を受けるとなると話は別なんだ。
もし受かれば、それだけで大きな宣伝になるからよ。
「でもさ、何でごっちんは原子工学なんてやりたいの?」
「んあ? ああ、放射線技師になりたいの」
放射線技師は、これから需要が増える事はあっても減る事は無い。
なぜなら、手術不可能の場所に出来た癌には、放射線治療が効果的だからだ。
これまで不治の病だった癌も、発見時期や場所、種類によって助かるケースが増えてる。
新生物との戦争は、全世界が一丸となって驀進している最中なんだ。
私も医師になるんだから、どうしても癌との戦いは避けて通れない。
- 263 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/08(月) 11:55
- 「でもぉ、今はX線じゃなくてMRIの時代でしょぉ?」
「MRIは身体の中を見るだけで、治療には使えねーんだよ」
確かにMRIは磁気を使うせいか、身体が温かくなるんだけどね。
放射線技師の仕事は、何もX線写真を撮る事だけじゃねーんだ。
それはそうと、あのMRIってのは、何であんなに狭いのかね。
何か棺桶に入れられるみてーな気がして怖いんだけどよ。
「放射線を扱えるって事は、原発なんかでも需要があるらしいよ」
ごっちんは無表情のまま淡々と言った。
そうだよなァ。優秀な技師がいねーと日本も危ない。
特に関電系の原発じゃ、放射能漏れ事故ばかり起こしてる。
いつチェルノブイリの二の舞になっても不思議じゃねーもん。
福井あたりの原発で爆発事故が起きれば、北陸はみんな汚染されちまう。
場合によっちゃ、偏西風で新潟や東北の穀倉地帯がやられちまう。
そうなったが最後、米なんて食えなくなっちまうからよ。
「まァ、高校受験も何とかなったんだから、大学も何とかなるさ」
何とかなる。Let it be の精神で行けばいいんだ。
何も欲しがらなけりゃ、カネが無くても生きては行ける。
理想は高く持って、それに近付くように努力すりゃいい。
達成出来るような目標なんて、そんなものは目標じゃない。
死ぬ時になって、どれだけ目標に近付けたのかが大切なんだ。
中には目標と指標を取り違えてる馬鹿もいるんだけどね。
指標は達成出来なきゃ意味ねーけど、目標は達成出来ちゃいけねーんだ。
私の指標は医師になってオヤジを越す事だろーなァ。
目標はまだ決めてない。だって私の人生なんてこれからだからよ。
- 264 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/08(月) 11:55
- 終了式が終わって家に帰ると、なっちが忙しそうにしてた。
何かと思って訊いてみると、今日は病院でクリスマス会をするらしい。
それで病院の厨房だけじゃ間に合わなくて、家のキッチンまで使ってる。
患者によっては高脂肪のケーキやチキンなんか食えねーから、
それに合わせた食事を提供しねーといけない。
「よっC、ちょっと手伝って欲しいべさ」
「OK! 何すりゃいいの?」
なっちがやってたのは、低カロリーのケーキ作りだった。
ケーキといえばスポンジに生クリーム、チョコといった高脂肪高カロリー。
そいつを低カロリーにするには、物凄く大変な事なんだよなァ。
なっちはメレンゲを澱粉で作って、ノンカロリーの甘味料で甘くしてる。
スポンジも油分を使わず、ノンカロリーの甘味料を使って焼いてる。
それだけで、カロリーが三分の一以下にまでなるっていうから凄い。
「なっちさん、ちょっと甘味が勝っちゃってるね」
「そうだべね。もう少しビネガーを使うべさ」
味見をしながら、少しでも美味しいケーキを作ろうと努力してる。
こうした直向な性格だから、なっちは誰からも愛されるんじゃないかな。
私は患者から感謝された時のなっちの笑顔が見たくて、とことん手伝うつもりだ。
香りを付けるのに、ブランデーのアルコールを飛ばしたものを加える。
まァ、見てくれはわりーけど、そこそこ美味いケーキになったじゃねーか。
「なつみちゃん。プレゼントは用意出来てる?」
サンタ服姿のオヤジが、BINGOを持ってソワソワしてる。
クリスマス会の目玉は、何といってもBINGO大会だった。
- 265 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/08(月) 11:56
- 「そこにあるべさ。患者さん全員分と、プラス二十個あるっしょ?」
毎年の恒例行事とはいえ、オヤジは私の結婚式みてーにソワソワしてる。
患者全員と二十個のプレゼントだから、そんなに高価なものは用意出来ない。
それでも、プレゼントを受け取った患者達は、とっても嬉しそうだった。
余分な二十個は患者からのプレゼントで、病棟の看護師達に配られるらしい。
「ひとみ。今年もピアノを弾いてくれないかな」
そういえば、毎年私が『きよしこの夜』の伴奏をするんだった。
ロビーの片隅には、安物の電子ピアノが置いてある。
黒い布を掛けてあるせいか、それがピアノだと判る患者も少ない。
このピアノが活躍するのは、年に一回限りなんだけどね。
「判った。そのかわり何かくれよなパパァ」
「あうっ! パパはやめてくれ!」
オヤジは全く飾らないし、気さくでひょうきんとまで言われてる。
それでいて腕は確かだから、今日の吉澤病院があるんだと思う。
オヤジのすげーとこは「ヤブ医者」って言われるのは褒め言葉だと思ってる事。
ヤブだろうが何だろうが、医者として認めて貰っているわけだからだそうだ。
えらく能天気な医者だけど、いかにもオヤジらしくていいや。
「受験が終わったらスキーにでも行って来い。カネは出してやるから」
やったー! 受験が終わったら、みんなでスキーに行こうじゃねーか!
春スキーが楽しめるとこだから、白馬か蔵王あたりになるかなァ。
どっちも温泉があるし、食べ物のそこそこ美味いもんがありそうだ。
よし! 今日は昨年以上に頑張っちゃうぞ!
- 266 名前:第三章・激動の二学期 投稿日:2005/08/08(月) 11:57
- 第三章・激動の二学期 終
- 267 名前:偽みっちゃん ◆OaK4nRw27I 投稿日:2005/08/08(月) 12:04
- 長々と二学期を書いてしまいましたが、これで二学期は終わりです。
次の章は年明けから受験までの騒動を描いてみようと思います。
実際、本当に色々な事が起こりますよね。私だったら心労でおかしくなるでしょう。
まあ、何か起こらないと物語にはならないのですが。
次の章ではHappyな事ばかりではありません。悲しいお別れもあります。
第三章が長過ぎたので、半分くらいに要約したいと思っています。
まだ何も書けていませんが、これからも宜しくお願い致します。
お盆明けには、何とか再開したいと思っています。
- 268 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/15(月) 04:04
- 面白いし、読んでて勉強になります!
三学期楽しみです。
- 269 名前:ふぇいく 投稿日:2005/08/19(金) 00:57
- 更新乙です。
>悲しいお別れ
気になります・・・。
- 270 名前:偽みっちゃん ◆OaK4nRw27I 投稿日:2005/08/20(土) 10:35
- >>268 ありがとうございます!!!
勉強になりますか? 私は頭が悪いので、間違ってるかもしれません。
一応、文献を調べてはいますけど、活字を見ると条件反射で眠くなります。
先日も図書館で本を読んでいたら、二時間ばかり熟睡したようでした。
本にファンデーションや口紅が付いてしまって、悲鳴を上げそうになった私です。
>>269 ありがとうございます!!!
平家のみっちゃんが、何者かに殺されます。
よっCは酷く嘆き悲しみ、復讐を誓うのでした。
その事件を、なっちが矢口と一緒に解決します。
冗談です。
- 271 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/20(土) 10:37
- 〔初詣〕
クリスマスが終わると、一週間で正月がやって来る。
一月の下旬には大学センター試験が待ってるんだよなァ。
いよいよ夜も寒くなって来て、私はファンヒーターのお世話になる。
これから三月いっぱいは、このファンヒーターが必要だろうね。
「よっC、お蕎麦を食べたら初詣に行くべさ」
初詣かァ。そういえば中坊の頃、夜に外出出来るから嬉しかったなァ。
大晦日から元旦にかけては、日本の法律も条例もへったくれも無い。
中学生が深夜に出歩いていても、警察に補導されるなんて事はねーんだ。
こうした宗教的儀式に関して、警察は介入を控えるとこがあるからなァ。
何かイケナイコトしてるみてーで、妙に興奮した記憶があるぞ。
「いいねえ!」
家の近所の神社じゃ、初詣に行くと自治会のオヤジ達が甘酒を振舞うんだよな。
もっとも、高校を卒業したくれーの連中からは、『甘』抜きの本当の酒を飲んでた。
私も出来れば『甘酒』じゃなくて『お神酒』の方がいいんだけどね。
まさか、吉澤病院の一人娘が、正月から飲んだくれたらまずいもんなァ。
「そんなこんなで・・・・・・ズズー」
「この海老美味いね・・・・・・ズズー」
年越し蕎麦を食いながら、この一年にあった事を話し合った。
なっちとの出逢いから、頭突きによる実験や川原での黒色火薬実験。
クルージングや圭織さんとの出逢い。なっちと行った修学旅行。
そして、胃が痛くなるくれー興奮した学園祭。
- 272 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/20(土) 10:38
- 「そういえば、マンジュウは何やってんだべかね」
「ああ、容疑者が見付かったなんて言ってたけどなァ」
容疑者が見付かったんなら、さっさと逮捕しろっての。
こっちは迂闊に夜道も歩けねーんだからよ。
それにしても、この海老は美味いなァ。
こんなに大きな車海老なんて滅多に見れねーぞ。
車海老じゃなかったら、異常にでかいブラックタイガーかな?
「この海老は美味しいっしょ? 伊勢海老だべよ」
「伊勢海老! 年越し蕎麦の具にしちゃ贅沢過ぎねーかァ?」
昔はそこら中の海に伊勢海老がいたって話じゃねーか。
乱獲と汚染で野生の伊勢海老なんか、もう本州近海にいねーもんなァ。
それでも小笠原や沖縄あたりの珊瑚礁には、かなり生息してるみてーだ。
海老や蟹の類は食物連鎖の底辺にいるから、物凄い数の卵を産むんだったっけ。
確か九十九パーセント以上が、大人になれずに他の生物に食われちまう。
まァ、幼生がプランクトンクラスだと、それが仕方のない事なんだ。
「おじさんとおばさんは、まだ病院だべね」
「仕方ねーよ。腹膜炎を併発した重症患者がICUにいるんじゃ」
矢口さんが退院すると、どうも病院の中が暗くなっちまったし。
虫垂炎手術後の患者のとこに遊びに行っては笑わせてたっけ。
切腹後の患者は、咳やくしゃみ、笑う事が辛くて仕方ねーんだ。
筋肉を抉じ開けて手術するんだから、腹筋を使うと激痛が走る。
これは筋肉痛の比じゃねーそうだから、想像を絶する痛みらしい。
それを知っててやるんだから、矢口さんも酷いやつだなァ。
でも、矢口さんがいると明るくなるから、どこの病室でも大歓迎されてたっけ。
- 273 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/20(土) 10:38
- 年越し蕎麦を食い終えると、遠くから除夜の鐘が聞こえて来た。
壁の時計を見ると、もう午前0時になってるじゃねーか。
私となっちは互いに新年の挨拶をすると、防寒対策をしてから初詣に出掛けた。
「なっちさん、神社はこっちだよ」
「そっちじゃないべさ。向こうの神社」
近所の神社の方が、屋台が出てて面白れーんだけどよ。
でも、何であんな閑散とした神社になんか行くのかね。
もしかして、牛の刻参りでも見に行くのかなァ。
それはそれで、スリルがあって面白そうなんだけど。
「ふーっ、寒いべさ」
「道産子じゃねーのかよ」
いくら室蘭が暖かくても、こっちに比べりゃ寒い筈なんだけど。
だいたい、東京で積雪が三十センチもあったら交通網が麻痺しちまう。
東京にはラッセル車もなけりゃ、道路の除雪車も数に限りがある。
富良野あたりじゃ、一家に一台はスノーモービルがあるかもしれねーけど、
東京じゃスキーやスノーボードがあればいい方だからなァ。
「防寒対策が違うべさ」
北海道で雪を甘くみたら命にかかわるだけに、道民は慎重に防寒対策するそうだ。
でも、東京で完璧な防寒対策なんて必要ない。どこにでも暖を摂れる場所がある。
昼間なら百貨店や銀行に入れば暖かいし、夜になってもコンビニに行けば暖かい。
そうした密集度の違いもあるし、江戸っ子は粋じゃねーといけねーから薄着なんだ。
昔から江戸っ子が暖を摂る場所といったら、夜鳴き蕎麦屋なんてのがあったらしい。
今で言う焼芋屋なんかと同じなのかなァ。あれは呼び止めると何度でも来るから困る。
- 274 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/20(土) 10:39
- 「うおっ! すげー幟だなァ」
「そりゃそうだべさ。ここは諏訪神社だべよ」
普段は無人で、初詣と七五三くれーにしか人がやって来ない。
それでも、ちょっとした広場になってるせいか、子供達の遊び場になってる。
今日は初詣客で、ちょっとした混雑になってるみてーだなァ。
数軒の屋台は、自治会で運営してるみたいで、そんなに高くはない。
私はどうしてもたこ焼きが食いたくなって、なっちと二人で買った。
「ちゃんとお参りするんだべよ」
「っていうか、何で諏訪神社なわけ?」
「というと?」
「学問の神様は天神様じゃねーの?」
普通に考えれば、学問の神様である天神様じゃねーとなァ。
天神様ってのは、菅原道真公を祀ってあるんだったっけ。
菅公は独学で出世した日本史に残る秀才だったんだよなァ。
そうした神様に肖るのが、私達受験生ってもんじゃねーのか?
「諏訪神社は戦の神様だべさ。受験は戦なんだよ」
「あちちち・・・・・・このたこ焼きうめー」
「人の話聞いてんだべかァァァァァァァー!」
そりゃ、受験が戦いだって事は判るよ。
でも、最大の敵ってのは、自分自身なんじゃねーのかなァ。
自分自身の甘えが、運から見放されたりするような気がして。
絶望は愚か者の結論なり。って昔から言われて来たっけ。
人は追い込まれると希望を捨てちまうもんだけど、
希望は決して人を捨てたりしねーんだ。
- 275 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/20(土) 10:40
- 「聞いてるよ。ったくうるせーなァ」
昔は誕生日っていうものを祝う事がなかったし、ゼロの概念がねーから、
生まれた瞬間から一歳になっちまって、正月が来ると二歳になったそうだ。
だから大晦日に生まれた子供は、次の日に二歳って事になっちまったらしい。
まだ、日本人の寿命が短かった頃、少しでも長生きしたという事にしたくて、
どうしても数え歳ってものが出来たんじゃねーのかなァ。
「オレも今年で十九になるんだなァ。成人式に合わせて髪でも伸ばそうかなァ」
「このたこ焼き、美味しいべさっ!」
「人の話、聞いてんのかゴルァ!」
でも、やっぱり食べ物っていうのは、寒いとこで熱いのを食べるのが一番だ。
人間が火を道具として使い始めて以来、寒さから開放されたんだよなァ。
ただし、火ってものは油断すると、物凄い暴れ方をするから注意しねーと。
人間の歴史ってのは、それこそ火事との戦いの歴史だったのかもしれない。
「もう三週間でセンター試験っしょ? 勉強方法を変更するべさ」
「えっ? どんな勉強をするの?」
「これからはテストに慣れる勉強方法だべさ」
そうか、大学センター試験は、確かマークシートだったからなァ。
HBの鉛筆と消しゴムの使い方で、そのテスト全体が変わって来る。
まずはカッターナイフで、鉛筆を楔型に削らねーと話にならねーな。
しかし、何でマークシート方式なんて使うのかね。
選挙の開票作業は全部手作業だってのによ。
採点の合理化をするくれーなら、試験官を減らしてもいいんじゃねーの?
どこの会場にも、驚くほど沢山の試験官がいるそうじゃねーか。
機械を使ったところで、そうした人件費だけは減らねーんだよなァ。
- 276 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/20(土) 10:41
- 私達は初詣を終えると、近所にあるドーナッツショップに寄った。
普段なら閉店してる時間だけど、今日は特別に営業してるらしい。
蕎麦とたこ焼きだけじゃ、どうしても甘いものが欲しくなっちまう。
それが今時の女子高生ってもんなんだよなァ。
「冷えて来ると、生理痛が酷くなるんだよ」
「腰だべか? お腹だべか?」
「オレは腰の方かなァ」
なっちが言うには、性器自体が完全に成熟していない可能性もあるそうだ。
それならそうでいいんだけど、卵巣膿腫でもあると不妊になったりする。
受験が終わったら、一度診て貰った方がいいかもしれねーなァ。
幸いにも吉澤病院の産婦人科医は女医だから、安心して股を広げられる。
こう見えてもデリケートなお年頃なんだよ。私は。
「寒い時に痛むんじゃ、温めた方がいいっしょ」
「やっぱりそうだよなァ」
これから毎月、使い捨てカイロでも貼り付けて行くかなァ。
カイロなんて言うとエジプトの首都か、えらくババ臭くなった気がする。
それでも、あんまり痛み止めの薬って飲みたくねーしよ。
これから体育のねー日には、ババシャツ着て行く事にするかァ。
「でも、ちゃんと検査して貰うんだべよ。受験が終わったら」
「そうだね。オレも安心してーし」
こうした婦人科系の病気を患ってる人は、意外に多いらしいからよ。
子宮筋腫・子宮内膜症・卵巣膿腫と来れば、婦人科系三大疾病だなァ。
最近じゃ若年層の乳癌も増えてるって話だから、なっちもそろそろ気を付けないと。
- 277 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/20(土) 10:41
- 「聖ダルセーニョ学園の先生達も、ちょっと不健康そうな人がいるべさ」
「誰?」
「平家先生は甲状腺だべかねえ」
あの眼つきは確かに危ない感じだけどなァ。
でも、あの眼つきをからかった先輩は、それっきり学校に来なくなったって話だ。
普段は仏のみっちゃんだけど、怒らせたら何するか判ったもんじゃねーからよ。
骨格標本の頭蓋骨を投げるのは、まだ余裕がある状態らしいからなァ。
変にブチキレさせたら、メチルアルコールをぶちかけられて火炙りにされそうだ。
「みっちゃんの眼つきと裕ちゃんの厚化粧は禁句だよ」
「ブヒャヒャヒャヒャヒャー!」
「笑い過ぎだっての」
みっちゃんと裕ちゃんと来れば、恐怖の教師・石黒彩がいるなァ。
でも、石黒先生が怒ったとこって、なぜか私は見た事がねーな。
ていうか、あの石黒先生を怒らせた事のあるやつっているのかなァ。
怖いもの知らずの辻が「どうやって鼻をかむのれすか?」って訊いても、
石黒先生は困ったように説明してただけだし。
「なっちさん。究極の選択」
「ほえ?」
「トライアスロンに出場するのと、石黒先生を怒らせるのじゃどっち?」
「もももも・・・・・・勿論、トライアスロンに出場するべさ!」
そうだよなァ。私だってトライアスロンを選ぶよ。
水泳三キロ、バイク百キロ、フルマラソンの方がどれだけましか。
でも、私がやったとしても、きっと八時間から掛かるぞ。
なっちがやった日には、果たして一日で終わるかどうか。
- 278 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/20(土) 10:42
- 「でもさ。石黒先生だから、みんな勉強するんじゃないかなァ」
「そうだべね。怖いから・・・・・・それもどうかと思うけど」
聖ダルセーニョ学園には、これまで理数系進学クラスなんて無かった。
石黒先生や平家のみっちゃん達が新規採用されてから、
急に理数系にも力を入れるようになったって話だ。
考えてみれば、理数系が苦手な私でも、ギリギリついて行けたんだからなァ。
怖いだけじゃなくて、ちゃんと指導力ってものがあるんだよ。
「違うよ。石黒先生は怖いだけじゃない」
「確かに教員としての指導力は凄いべさ」
いくら少子化が進んだっていっても、聖ダルセーニョ学園の進学率は高い。
何かの資料で見たんだけど、十年前は進学希望者が四割しかいなかった。
それが今じゃ、進学希望者は九十パーセントを超えたんだからなァ。
今年は三年振りに国立大受験者がいるせいか、職員室の空気が違ってる。
意欲的に補習授業を開いたり、マンツーマンでも喜んで教えてくれる雰囲気だ。
「そういえば、二年後にはよっC、成人式だべねえ」
「さっき言っただろうがよ!」
ったく、なっちは何か食ってる時は、味覚に没頭しちまうんだから。
成人式ね。オフクロの成人式の時の写真を見せて貰ったっけかなァ。
私が「カラーじゃん」って言ったら、えらく怒ってたような記憶がある。
オフクロは自分の髪で、きれに結ってたっけかなァ。
私は振袖を着るのかなァ。振袖なんて歩き辛そうだし。
それに、成人式って寒い時期だから、振袖じゃつれーだろうなァ。
吉澤病院の一人娘が、まさかスーツってわけには行かねーだろうし。
何かいいアイデアってねーのかなァ。
- 279 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/20(土) 10:43
- 「なっちは袴を穿いたんだべよ」
「ええっ! 裃姿になったの?」
本来、正装の袴ってのは、遠山の金さんが奉行所で穿いてるやつ。
つまり、松の廊下の浅野匠頭の服装が武士の正装って事だ。
踝まであるのは半袴っていって、略礼服扱いなんだよなァ。
半袴ってのは、間違っても半ズボンの事じゃねーんだ。
「女の子が裃着るわけないっしょ!」
「そりゃそうだよなァ」
なっちが言いたかったのは、半袴の事なんだろうなァ。
まァ、巫女でもねー限り、一般の女性が袴なんて穿くようになったのは、
明治になって女学校が出来てからじゃねーかなァ。
そういえば、聖ダルセーニョ学園も、明治時代は半袴姿だった。
「そうかァ。袴ってスタイルもあるんだよなァ」
袴だったら、中に何を穿こうと外からじゃ見えないしなァ。
振袖みてーにお尻のラインを気にしなくてもいいんだ。
女性用の袴はトイレが面倒臭そうだけど、背に腹は変えられねー。
あのスタイルに合うのは、長いストレートヘアだよなァ。
「今はそんなに髪が長くなくても、美容院でやってくれるっしょ」
振袖みてーにうなじを出さねーから、その分暖かいって事になる。
聖ダルセーニョ学園美少女四人組の中では活動的なよっC様だ。
袴スタイルでバシッと決めてやろうじゃねーか。
まァ、記念写真は振袖でもいいんだけどね。
- 280 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/20(土) 10:46
- 浅野内匠頭が正解ですね。すみません。
今日のところは、これにて失礼致します。
また、近日中に更新致しますので、どうぞ宜しくお願い致します。
- 281 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/25(木) 00:28
- サブタイが気になりつつ更新乙です
- 282 名前:偽みっちゃん ◆OaK4nRw27I 投稿日:2005/08/26(金) 10:21
- >>281 ありがとうございます!!!
結末といっても、物語は次の章へ続いて行きます。
どうもお話が長くなって、今年中に終わるのかどうか不安ですね。
根気が無くなっているのが最大の原因なのですが。
- 283 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/26(金) 10:22
- 〔酒乱〕
正月ってのは、未成年でもお屠蘇を飲めるから大歓迎だ。
神聖な日本酒をアルコールなんていう近代的な定義で、
未成年が飲んじゃいけねーなんてどうかしてる。
ワインは嗜好品だけど、日本酒は神事に欠かせないもの。
清めるという意味もあって、日本酒の事を清酒って言うんだ。
「おせち美味しいなァ」
忙しいオフクロに代わって、今年はなっちがおせちを作った。
とは言っても、梨華ちゃんの家から黒豆と栗きんとんを貰ったし、
お煮しめはごっちんの家から貰ったんだよなァ。
でも、なっちはナマスや酢蓮を作って交換したんだった。
我が家のおせちに酢蛸と紅白カマボコは必需品。
カマボコはやっぱり小田原鈴廣のやつじゃねーとなァ。
「それはお屠蘇じゃなくて、完全な日本酒だべさ」
「いいじゃねーか正月くらい」
「日本酒一合のアルコールで、脳細胞が百個近く破壊されるそうだべよ」
「その分、糖質を摂ればいいもーん」
スッキリ味の純米酒を飲む時はコップでもいいんだけど、
ドッシリ味の純米酒だと、ちょっと辛くなって来る事もある。
そういった時は、ヒノキの一合枡で飲むと味と香りが変わるんだ。
朝から飲めるなんて最高じゃねーかよ。正月マンセーだな。
昼まで飲んで、それから雑煮を食って、一升瓶を枕に昼寝。
眼が覚めたらまた飲んで、餅を焼いて醤油で食べる。
正月からテレビ観るやつは、なんて不幸なんだろう。
- 284 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/26(金) 10:22
- 「おめでとうございまーす! なっちー、おめでとー」
誰かと思えば矢口さんじゃねーか。
まあ、座ってくれや。まあ、飲んでくれや。
旧年中は世話になったなァ。
「矢口、どうしたんだべか?」
「家族で明治神宮に初詣の帰りだよ。はい、お土産」
「おおっ! タコヤキじゃねーか。矢口さん、まァ一杯」
正月に人の家に来る以上、飲めないとは言わさねー。
とにかく日本酒の好きなやつは、正月が嬉しくて仕方ねーそうだ。
そういった輩は正月になったら何軒もハシゴするっていうじゃねーか。
年賀回りってのは、飲みてーやつのためにあるような言葉だ。
「お屠蘇に天狗舞の純米大吟醸? 凄過ぎる!」
お屠蘇ってのは薬酒だから、何かと漢方っぽい味がするんだけど、
そんなもんは形式だけだから、一杯飲めば事は足りるんだよなァ。
ようやっと酒の相手が出来て、私は嬉しいぞー!
「おっとととと・・・・・・。零しちゃ勿体ない」
矢口さんは少し大きめの杯に注いだお屠蘇を一気に飲み干してニッコリ笑った。
リビングの隅に出した炬燵に入って、おせち料理を肴に飲み会だっての。
さすがに元気な矢口さんだけあって、私と一緒に日本酒をグイグイ行った。
私はこれでも東奔西走して、正月用の酒を調達して来たんだよ。
『久保田』『八海山』『天狗舞』『白糸の滝』『菊水』『真澄』
まァ、私が飲むんだけど、支払いはオヤジがするんだけどね。
- 285 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/26(金) 10:23
- 「よっC、ウイスキーな無いの?」
「えへへへへ・・・・・・。オヤジが持ってたよ」
「出たァァァァァァー! シーバスリーガル二十年もの!」
おせちに雑煮を食っちまうと、暫く日本酒は飲めなくなる。
そこで食後酒に、ウイスキーを飲もうって事になった。
高尾の天然水を冷たく冷やした水をチェイサーに、
シーバスリーガル二十年ものをストレートで飲もうって話だ。
「このまったりとした味とコク。そしてモルトの練れた香りが最高!」
まったりかもったりか知らねーけど、食後酒にウイスキーもいいなァ。
こうなったら、ウイスキーの品評会をやっちまおうじゃねーか。
戸棚に入ってるウイスキーを並べて、どれが美味いのか味わってみる。
まずはホテルでも飲んだ『白州』だぞゴルァ。こいつはロックが美味い。
「へえ、日本にも美味しいウイスキーがあるんだね」
「ト○スやサ○トリーオールドなんて、ウイスキーじゃねーよなァ」
安くても意外に美味かったのが、ニッカのモルトクラブだった。
やっぱりウイスキーの旨味ってのは、モルトに左右されちまうな。
勿論、それ以前に健康な麦と美味い水、いい樽が必要なんだけどね。
『白州』なんかは南アルプス天然水で造られてるから超イイ感じ。
「ウイスキーの肴だと、チョコやクッキーも合うべよ」
あまりにも甘いミルクチョコは合わねーけど、生チョコのビター味なんて最高。
クッキーも隠し味で入れる塩が合うんだよね。ウイスキーって不思議だよなァ。
やっぱり果実酒じゃなくて穀類酒の蒸留酒だから、肴は合うものが多いんだ。
- 286 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/26(金) 10:23
- 「キャハハハハ・・・・・・。よっひー、次はビール行ってみよー!」
「オウ! エビスビールの黒もあるし、ハイネケンだって買ってあるぜ!」
日本じゃどうしてもエビスビールが最高峰だろうなァ。
スターチ(澱粉)なんて使ってるのはビールなんかじゃねーよ。
○ントリーモ○ツも美味いけど、エビスビールには敵わない。
外国のビールじゃ、オランダのハイネケンがお勧めだなァ。
「うーん、やっぱりエビスは美味いよォ」
「ハイネケンは少し優しい感じだよね」
「ビールには揚げ物っしょ。クリスマスのチキンが残ってたべさ」
そうそう! ビールを最高に美味く飲めるのは、チキンの唐揚げなんだよ。
おせちと雑煮で腹がいっぱいだってのに、どういうわけかチキンは食える。
このカリッと揚がった唐揚げは、最高に美味いんだよなァ。
照焼と違って、鶏の旨味を全部閉じ込めるからかもしれねーなァ。
おっと! 矢口さんはウイスキーのチェイサーにビールを始めたぞ!
「麦には麦を。だ。ギャーハハハハー!」
「そんじゃ、オレは米には米を。だ」
泡盛の古酒(クースー)を飲みながら、チェイサーで日本酒を。
これは来る! 物凄く来る! 視力や聴力が麻痺して来たぞ。
おまけに声のコントロールも出来なくなって来るから、
酔っ払いってのは自然に声がでかくなっちまうんだ。
こんなにチャンポンして、果たして私は大丈夫なのか。
・・・・・・まァ、正月だし。正月だから飲んでもいいじゃんか。
そのために酒を買って来たんだからよォ。
- 287 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/26(金) 10:24
- 「やい! 吉澤ひとみ! 『六法』って何だか判るか?」
「憲法と刑事訴訟法、民事訴訟法、憲法と刑事訴訟法、民事訴訟法の六つだ」
「ギャーハハハハー! 当たり!」
「二人とも飲み過ぎだべさっ」
あれ? 憲法・民事訴訟法・刑事訴訟法・五家宝・国宝・重要文化財?
違ったっけ? 拳法・空手・柔道・剣道・ボクシング・レスリング?
・・・・・・日本・中国・アメリカ・韓国・北朝鮮・ロシアが六カ国協議?
ショウロンポウは肉まんの小さなやつだったっけか?
「それじゃ、G7は?」
シ・レ・ソ・ファの和音ってボケても面白くねーし。
ドイツ製のアサルトライフルG3の発展系ってのも面白くねーなァ。
この際、G13なら判る。なんてボケかましてみようかなァ。
・・・・・・駄目だ。酔ったかなァ。いいボケが浮かんでこねーや。
「先進七カ国首脳会議」
「正解だべさ」
なっちはシラフなんだからよォ。ここでボケてくれなきゃ。
・・・・・・なっちに期待しても無理だろうなァ。
北海道の片田舎出身のおのぼりさんじゃあね。
「そうかい。先進七カ国首脳会議ってのは、そんなにすげーのかい」
そりゃすげーよなァ。世界経済を左右する大国の首脳が集まるんだからよ。
後進七カ国首脳会議があっても、飢餓問題だけしか語られないだろうし。
それなら、OPEC七カ国首脳会議の方が面白そうじゃねーか。
- 288 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/26(金) 10:25
- 「あたぼうよ! 何せ世界経済を牛耳る七ヶ国の首脳が集まるんだ」
「江戸っ子だってね」
「オウ! 三鷹の生まれよ」
なっちはかくし芸大会なんてテレビを観てるけど、正月なんだから飲まねーとなァ。
正月は酒を飲むためにあるんだぜ。二月は豆まきで酒を飲むわけだし、三月は雛祭り。
四月は花見で酒を飲んで、五月はバーベキューで酒を飲むんだ。
六月は梅雨の鬱陶しい時期を、酒を飲んで紛らわすわけだし、七月は海に行って酒を飲む。
八月はお盆で酒を飲んで九月は彼岸で酒を飲むんだ。
十月は運動会で酒を飲んで十一月は勤労感謝で酒を飲む。
十二月は何といったって忘年会で酒を飲むんだから一年中酒の飲み通し。
「それじゃ訊くが、先進国の中で一番すげー国はどこだい?」
「そうさね。まァ、一番と来りゃアメリカだろうなァ」
「・・・・・・そうか。アメリカがGDPにしろ戦力にしろ世界一だからな。
それじゃ、二番目にすげー国ってのは、どこになるんだい?」
「アメリカの元宗主国のエゲレスだろうがよ」
「三番目は!」
「外人部隊のいるフランス!」
「ぬォォォォォォー! 四晩目は!」
「ドイツだろうなァ。それからイタリア、カナダって順だろうよ」
何だァ? 矢口さんは妙に赤くなって来たぞ。
そんな、オレに惚れられてもなっちがいるしねェ。
そりゃ、こんな美少女だから、宝塚も黙っちゃいねーだろうけどよ。
ちょっと宝塚は遠いから、劇団四季あたりなら、スカウトされれば考えるぞ。
まァ、二年目くれーで『キャッツ』の主役でもやりゃ、マスコミが黙っちゃねーだろ。
そこからが問題なんだよなァ。テレビドラマに行くか、それとも映画に行くか。
映画に出りゃ、カンヌやベネチアで主演女優賞を貰える可能性もあるわなァ。
- 289 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/26(金) 10:26
- 「肝腎な国を忘れちゃいませんか? ってんだゴルァ!」
「何ィ? アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・カナダ・に・・・・・・。
米・日・英・仏・独・伊・加・・・・・・。ごめん! 大切な国を忘れてたよ」
「江戸っ子だってねー」
「三鷹の生まれよ!」
「で、その大切な国ってのは?」
「おうよ。アメリカに続く国っていったら、この日本しかねーじゃんか」
「へえ、日本ってのは、そんなにすげーのかい」
「おうよ。後進国にアメリカ以上の有償・無償援助を行ってる国だぜ」
「飲みねえ飲みねえ。酒飲みねえ。いや、気に入ったね」
「ただ、日本人は馬鹿だからよ。行政の言いなりなんだ」
「・・・・・・んだとこの野郎!」
ん? どうしたってんだァ?
いきなり矢口さんが興奮し始めたぞ。
いくら愛国者でも、日本人は世界で馬鹿にされてる。
だいたい国会議員には船頭が多過ぎるってんだ。
二大政党が互いに政権確保のために切磋琢磨しねーと、
国民の意識が向上しねーってんだよ。
「長嶋茂雄のサインボールじゃねーかゴルァ!」
「そんなもん、東京ドームに行けば腐るほど売ってるし」
「いいかゴルァ! シンカーってのはな。人差し指と薬指で挟むんだ!」
確かにシンカーは、人差し指と薬指で挟むよなァ。
中指は少し人差し指側に添えるんだったっけか?
挟まないと落ちないし、中指でシュート回転を与えてやらねーと。
スリークォーターで投げると、バッターはシュートと区別出来ない。
サイドスローになると、回転まで見ねーとカーブとも区別が難しいんだよなァ。
- 290 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/26(金) 10:27
- 「中指の力加減で、変化のコントロールまでするのが高津だ!」
矢口さんはそう言うと、十二時間ドラマを観てるなっちにむかって、
セットアップから高津そっくりのモーションでシンカーを繰り出した。
本当に切れのあるシンカーは高津や潮崎のシンカーみてーに、
外角へスライドするように伸びて行って、ストンと落ちるんだなァ。
「ブギャァァァァァァァァァァー!」
なっちの顔面にヒットした硬球は、サイドボードの角に当たって天井にぶち当たる。
矢口さんはそれを見事にシングルハンドキャッチして雄叫びを上げた。
矢口さんみてーに小さな手でも、シンカーなら何とか投げられるみてーだなァ。
「伊藤智仁の高速スライダーは、この人差し指が命なんだ!」
スライダーってのは、親指と人差し指+中指で挟むんだよなァ。
手首の回転と人差し指の強さで、物凄い高速スライダーが投げられるのか。
よく、投球の基本で、最初はカーブを内角高めに投げるなんてのがある。
バッターは頭に向かって来るボールで、打つどころじゃなくなっちまう。
次にまた内角高めにストレートを決めると、バッターが起きて来るから、
アウトローにスライダーかストレートで三振が奪えるっていう事らしい。
「カーブも二種類は持ってないと、バッターに読まれちまうんだろ?」
最近の野球では、緩い斜めのカーブと沈む高速のカーブが要求される。
これにストレートがあれば、バッター一巡くれーは何とかなるらしい。
でも、キャッチャーが古田ならいざ知らず、バッターの心理が読めねーと。
ジャイアンツの工藤はホークス時代、城島を育てるのに徹底してたそうだ。
サイン通りに投げて打たれたら、何で打たれたのかベンチで説明したって話。
- 291 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/26(金) 10:28
- 「いや、ストレートだけで勝負は出来るんだ!」
そりゃ五十嵐みてーに速球を持ってりゃ話は別だろうけどよ。
・・・・・・そうか! ツーシームとフォーシームで芯を外すんだ。
縫い目(シーム)が二個しかない方でストレートを投げると、
それだけ逆回転の空気抵抗が減るから、少しだけ引力に負ける。
逆にフォーシームだと倍の空気抵抗があるから真っ直ぐ行くんだ。
「ツーシームとフォーシームだろ?」
それはプレートアンパイアの視点が変わったからなんだよね。
かなり昔は大きなプロテクターを使ってたから上からコースを見れた。
でも、今のアンパイアは服の下に簡素なプロテクターしか付けてないから、
自然にキャッチャーの後方からコースを見る事になっちまう。
つまり、ストライクゾーンの全部を見れてはいないんだ。
「急速が百三十キロくらいのピッチャーだと、
ツーシームとフォーシームで五センチから違って来るそうだよ」
なるほど。ツーシーム自体がカットボールって事になるわけだ。
それでコーナーを攻められたら、ちょっと打てないかもなァ。
実際、シュートやスピリットってのはバットの芯を外すボールだし、
カーブやパームはタイミングを外すボールなわけだし。
「それじゃ、最も効率がいいのは?」
矢口さんが言うには、カーブとシンカー、ストレートがあれば充分だそうだ。
そういえば、球種を山ほど持ってるピッチャーってあんまりいねーなァ。
野茂なんてストレートとフォークくれーしか持ってねーもん。
- 292 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/26(金) 10:29
- 「痛い・・・・・・痛いべさ」
痛い? 何が痛いんだァ? 痛いのは太った過去だろうがよ!
ってオイ! 地震かァ? 妙に揺れてねーかァ?
あぶねーなァ。座って酒でも飲んでた方がいいや。
「矢口さん、座って飲もうよォ」
「よっしゃー! 今日は無重力になるまで飲もう!」
無重力かァ。よく夢で観るんだよなァ。
私は無重力になって大空をプヨプヨ泳いでる。
地面が近付くと指でチョコンと押してやれば、
また数十メートル上にまで登っていられるんだ。
何となく幽体離脱みてーで怖い気もするんだけどね。
「で、オレは未成年だけど、酒飲んじゃ駄目なの?」
「原則的にはいけないんだけど、地域や民族としての慣習や行事であればね」
日本の法律だと、男は十八歳で女は十六歳で結婚出来るよなァ。
結婚式の三々九度は、日本古来の慣習だからいいって事なのか。
お通夜のお清めも、慣習的行事だから許されるわけになる。
日本酒ってのは、昔から慣習的なものにくっ付いてるんだなァ。
「今日は元旦だから、未成年の飲酒もOK?」
「ギャーハハハハー! オイラが許す!」
アハハハハ・・・・・・。矢口さん、眼が据わってるぞ。
私も何か、眼が回りだしたみてーだぞオイ。
天井が回ってらー。アハハハハ・・・・・・ハ・・・・・・。
- 293 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/08/26(金) 10:30
- 教のところは、これにて失礼致します。
また近日中に更新致しますので、宜しくお願い申し上げます。
- 294 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/02(金) 18:22
- 〔二日酔いと書き方〕
あうううう・・・・・・。頭いてーよォ。昨日は矢口さんと飲み過ぎたなァ。
だって日本酒・ウイスキー・ビールって順番で、途中から意識が飛んでるし、
どうやって自分の部屋に来たのかも憶えてねーんだからよ。
胃がムカムカして気持ち悪い。これって、典型的な二日酔いの症状じゃん。
と、とりあえずトイレに行って、それから病院で中和剤でも注射して貰うかなァ。
私がトイレに向かうと、苦しそうな鼾が聞こえて来るじゃねーか。
こっちの部屋は物置になってる筈だけど・・・・・・。
「矢口さん?」
ドアを開けてみると、矢口さんが一升瓶を枕に、たった毛布一枚で熟睡してた。
確かにエアコンのスイッチは入ってたけど、これじゃ風邪ひいちまうじゃんか。
カーテンから朝日が差し込む部屋の中、その眩しさが私の頭痛に拍車をかける。
いったいなっちは何を考えてるんだかなァ。
「矢口さん、これじゃ風邪ひいちゃうよ」
大の字になって眠る矢口さん、スカートじゃなくて良かったね。
かなりロングのスカートじゃねーと、いつの間にか捲れ上がってる。
それにパンツだと、下にタイツとか穿いてても判らねーし。
「・・・・・・はっ! ね、寝顔を見られた!」
そういえば、矢口さんってちょっとメイクが濃かった気がするけど。
別にスッピンでも、大して変わらないじゃん。
そりゃそうだよなァ。そうした顔をしてるんだからよ。
それはそうと、確か布団があった筈だけど・・・・・・。
- 295 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/02(金) 18:26
- 「オイラ、いつもすっぽんぽんで寝てるから、寒くないんだよ」
矢口さんは笑顔で起き上がった。
ところが、その瞬間に眩暈のように足元がフラつく。
慌てて私が身体を支えて、矢口さんは倒れる事がなかった。
そういえば昨夜は矢口さんも物凄く飲んだからなァ。
こんなに小さな身体の、いったいどこに入るんだろう。
血液の代わりにアルコールが流れてるんじゃねーか?
「大丈夫?」
「あったりまえー!」
それにしても矢口さんは元気だよなァ。
私なんか二日酔いで死にそうだってのによォ。
いったい矢口さんの肝臓はどうなってんだ?
朝からこんなにハイテンションで、よく疲れねーなァ。
私なんか、さっきから喉が渇いて脱水症状寸前だよ。
ポカリスウェットでも飲まねーと、脳血栓起こしちまう。
「矢口さん、スッピンの方が可愛いじゃん」
「アハハハハ・・・・・・。寝顔を見やがって。酒持って来いゴルァ!」
げげー! 矢口さん、まだ眼が据わってるし酩酊状態じゃねーかよォ。
そうだよなァ。二人で日本酒二升、ウイスキー二本、ビール十本は飲んだし。
・・・・・・思い出して来た。矢口さん、昨夜は暴れたんだったっけ。
長嶋のサインボールを「シンカーはこうやって投げるんだ」なんて言って、
高津並のサイドスローフォームで、思い切りなっちの顔面にぶつけてた。
いくらサインボールでも硬球だから、なっちは大丈夫だったのかァ?
- 296 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/02(金) 18:27
- 「ったく、しょうがねーなァ」
私は暴れる矢口さんを小脇に抱えて病院に行った。
そこで物分りのいい看護師、北条政子さんに内緒で中和剤を打って貰う。
最初は暴れてた矢口さんも、じきに大人しくなって寝息をたて始める。
私も注射を打って貰ったら、一時間くれーで体調が戻って来た。
中和剤っていっても一種の覚醒剤だから、頻繁に使うと人格が崩壊しちまう。
「なっちが日本酒一合で脳細胞が百個死滅するって言ってたっけ」
そうすると、私は昨夜だけで脳細胞を三千個くれー死滅させた事になる。
脳細胞ってのは他の器官と違って再生したりしねーから、ちょっと勿体無い気もするなァ。
まァ、百五十億って数の脳細胞があるんだから、死滅したところでほんの一部分。
脳細胞全体が死滅するまで飲み続けるには、千五百万升の日本酒が必要になる。
一日一升飲んだとして千五百万日。約四万年からかかる計算だ。
いくら頑張って生きたとしても、だいたい百歳が限界だろうから、
死滅する細胞なんてものは、四百分の一って事になるんだなァ。
蜘蛛膜下出血で脳の三分の二が死滅しても生きてる人がいるんだからよ。
日本酒一合で百個の脳細胞が死滅するんだったら、全身麻酔なんてしたら、
脳の死滅する細胞は数十倍、数百倍になるだろうしなァ。
「い、痛いべさ」
私はなっちを見て仰天した。だって、なっちの右目がお岩さんみてーになってる。
そういえば、矢口さんの投げたボールが、なっちの右眉あたりにヒットしたっけ。
詰まった当たりみてーに、鈍い音がしてたっけかなァ。
肩慣らしもしねーで投げた硬球だから、そんなに速いもんじゃねーけど、
あの近距離で顔面直撃だから、それこそ痛いなんてもんじゃねーだろう。
- 297 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/02(金) 18:27
- 「なっちさん、大丈夫かよォ!」
「眼は見えるけど、開かないんだべさ」
そりゃ、こんだけ腫れてたら、自力で瞼なんか持ち上がらないだろうなァ。
私も一年坊の頃、顔が倍くれー腫れ上がっちまった事があったっけ。
あれは大山先輩のストレートをブロックしようとして顔面で受けた時だった。
みんなは「あんぱんまん」なんて馬鹿にしやがったけどよ。
「冷やすか血を抜くかすりゃ、腫れは引いて来るよ」
ここは病院だからよ。何もロッキーみてーに外から血を抜かなくてもいい。
瞼の裏から血を抜けば、大切な顔に傷を付けなくてもいいし。
今日の当直医は誰だっけかなァ。眼科医じゃなくても外科医か内科医なら。
えーと・・・・・・オヤジじゃん。まァ、オヤジなら外科医だし大丈夫だろ。
「オヤジを呼んでくれよ。まだ寝てるかな?」
政子さんにオヤジを呼んで貰ったんだけど、どうも様子がおかしい。
出来れば眼科医か形成外科医がいりゃいいんだけどなァ。
外科医ってのは根本的に切った貼ったの世界だからよ。
脳外科の医師も器用だから、こうした事には精通してる。
オヤジは外科医だけど、あんまり器用な方じゃねーからなァ。
「しかし、なっちさんは動体視力ってもんがねーのかよ」
いくら矢口さんが野球理論に詳しくても、せいぜい八十キロくれーの球速だぞ。
大山先輩のアタックなんて、それこそ新幹線並のスピードだからなァ。
動体視力を鍛えておかねーと、レシーブなんて出来たもんじゃねーもん。
- 298 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/02(金) 18:28
- 「あんなに変化するなんて思わなかったんだべさ」
そうだよなァ。シンカーってのは内角に落ちて来るからなァ。
でも、うちのリビングって、そんなに広かったっけか?
まァ、なっちは根本的に鈍いからよ。変化した事にしておこう。
っていうか、なっちは十二時間ドラマなんて観てたじゃん。
あれじゃ、シンカーだろうがカーブだろうが気付くわけがねー。
「アハハハハ・・・・・・。なつみちゃん、どこかで打ったの?」
「オヤジ! 当直だってのに飲んでんのかよ!」
このクソオヤジ! 顔が真っ赤だぞ! 朝っぱらから酒なんて飲みやがって!
一応、ここは第二次救急病院だから、交通事故の重傷患者が搬送されて来たりする。
第三次救急病院は救命救急センターだから、生死の境を彷徨う患者が来るんだ。
そういった点ではまだいいんだけど、救急病院の医者が朝から飲んでてどうするよ。
「そりゃ飲むさ。正月なんだから」
「そういった問題じゃねーだろうがよ!」
せっかく私が跡取りになろうってのに、酔っ払い医者病院なんて評判になったら、
いくら名医でも今後の経営に差し支えるのが判らねーのかよ。
ちょっとした判断の誤りが、重大な医療ミスを引き起こしてるんだぞ。
「大丈夫。今日は医師のやり繰りがつかなくて救急から外して貰ってるから」
そういえばICUの患者も安定してるし、入院患者も危なそうな人はいない。
でも、こんな酔っ払いオヤジになっちを任せて大丈夫なのかァ?
眼科の織田先生はスキーに行ってるし、形成外科の豊臣先生は温泉だっけ。
脳外科の徳川先生は浜松に里帰りしてるしなァ。
- 299 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/02(金) 18:29
- 「骨は大丈夫だから、冷やせば一週間もすれば腫れは引くけど」
「それじゃ困るべさ。論文を仕上げないといけないし」
「だったら、睫毛の間から注射針で血を抜くよ」
おいおいおい! 大丈夫なのかァ?
こんな酔っ払いオヤジより、オフクロにして貰った方が確実だろ。
看護師に消毒とルーペを要求するオヤジ、何か不安だよなァ。
ちゃんと見えるのかァ? なっちにもしもの事があったら許さねーからな。
「アルコールを持って来てどうするんだ! 眼の消毒だぞ!」
うっ! オヤジ、家じゃまずこんな声なんて出さないぞ。
あの政子さんが謝りながらホウ酸水を用意してる。
ここにいるのは、私の知ってる酔っ払いオヤジなんかじゃない。
吉澤病院の院長であり、外科医の立派な科学者だ。
「ちょっと痛いけど、すぐ終わるからね」
オヤジ、ドサクサに紛れてなっちにキスするんじゃねーぞ。
そういったセクハラは、私が絶対に許さねーからよ。
確かに顔を近付けないと、狭い場所に針なんて刺せねーけど、
その前にオフクロが黙っちゃいねーってか。
「おじさん、お酒臭いべさ」
そういえば、なっちは下戸だから、昨夜は酒を飲んでねーんだ。
だからオヤジの酒臭い息が気になるんだろう。
自分でいくらか冷やしたんだろうけど、これだけ腫れてたら、
それこそ痛くて眠れなかったんじゃねーかなァ。
- 300 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/02(金) 18:29
- 「アハハハハ・・・・・・ごめんね」
凄い。これこそ『仕事』なんだ。
オヤジはなっちが不安にならないように笑顔だけど、
その眼はキッチリ睫毛の間を見据えてるじゃねーか。
プチッて音がすると、注射針の下にある脱脂綿が赤く染まって行く。
うわっ! かなり出るもんだなァ。見てるだけで痛そう。
あれだけ腫れてたんだから、血が出るのも当たり前か。
しかし、矢口さんもいくら酔ってたからって、
なっちに硬球ぶつけるこたーねーだろ。
「洗眼と目薬を用意して!」
政子さんがなっちの洗眼している間、オヤジは一応カルテを作っていた。
でも、酔っ払ってるもんで、その字の汚い事ったらありゃしねー。
一応眼帯をして、今日一日は冷やした方がいいらしい。
しかし、これこそプロの技なんだなァ。何かオヤジを尊敬しちまった。
「オヤジ、オレが書こうか?」
「ん? ああ、そんじゃ頼む。その下に『消毒用点眼液』って書いてくれ」
「先生、目薬です」
「ああ、ご苦労さま」
『仕事』が終わると、元のニヤケたオヤジに戻っちまう。
普段は優しいけど、仕事となると厳しいんだなァ。
だからこそ、こんなオヤジでもみんなから一目置かれてるんだ。
腕がいいだけじゃ医師にはなれねーんだなァ。
人間として大人じゃないと、患者なんか治せねーってか。
- 301 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/02(金) 18:30
- 「おお、丹羽君。一杯やらないか?」
丹羽さんってケースワーカーだったっけか?
今日は出番らしいけど、外来がいねーんじゃ暇だろうなァ。
病棟の方は看護師とヘルパーがいるから問題ねーし、
精神科の患者も、ほとんどが外泊してるからよ。
「でも、仕事が」
「仕事なんかねーだろうがよ。さあ、家で一杯やろうじゃないか」
そういえば、丹羽さんは増築の責任者になってたっけか?
もう駐車場の上には、第二病棟が出来上がりつつあるなァ。
そこの一部がなっちの職場になるのか。
ああ、あの酔っ払いオヤジ、丹羽さんを拉致しちまったよ。
「よっC、今日から勉強再開だべよ」
「うん!」
三学期が始まれば、すぐにセンター試験が待ってる。
私にとってセンター試験なんてものは通過点に過ぎない。
今はセンター試験よりも、魔物の棲む東京医科歯科大を見据えてる。
センター試験なんかは、受験資格ギリギリの点数でもいいわけだ。
「なっちは卒論の清書があるから問題集をやっとくべさ」
なっちの方針に間違いはない。私は今それを実感してる。
苦手だった数学や理科を克服させてくれただけじゃなく、
自覚出来なかった私の弱点まで指摘してくれたんだからなァ。
まァ、教育学のプロを目指してたわけだし当然といばそうなんだけど。
- 302 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/02(金) 18:30
- なっちが用意してたのは、各大学で過去に出題された問題集だった。
中には小論文を書かせる大学もあって、これには苦戦しちまった。
自分の知識の範疇で書かないといけないし、うろ覚えのものは書けない。
そんなこんなで苦戦してると、隣の部屋からなっちと矢口さんの声がした。
「ノートで論文を打つつもり? それに、何でそんなに遅いのよ」
「うるさいね! これしか無いんだべさっ!」
そういえば、なっちはノート型パソコンしか持ってねーもんなァ。
ノートは場所をとらないし、持ち運びには便利だけど打ち辛い。
ワープロとして使うのなら、ちゃんとしたキーボードじゃねーとなァ。
それに、何だかんだ言っても、ノートの画面は見にくいんだよ。
「もう見てらんないよ! なっちはご飯でも作って来い!」
アハハハハ・・・・・・。親友同士の会話だよなァ。
そういえば、なっちと矢口さんの関係を疑ったりしたっけ。
なちまりかァ。可愛いよなァ。二人とも小さくて。
私が鉛筆を咥えながら文章を考えてるとドアがノックされた。
「アハハハハ・・・・・・。よっC、パソコン借りるねー」
「ああ、うん」
矢口さんが入って来て私のパソコンを立ち上げる。
昔のケースにマザーボードとCPU、メモリを買って来て自作したもんだ。
OSはMeだけどカスタムしてあるし、CPUはセレロンの二ギガだぜ。
メモリも256(ニゴロ)が二発入ってるから、端末としちゃ充分なスペック。
DVD‐RWがあるから、そんなにHDDは大容量じゃなくてもいい。
それでも、最低二十ギガはねーと、何かと不便なんだよなァ。
- 303 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/02(金) 18:31
- 「す、すげー!」
矢口さんはWORDを立ち上げると、凄まじい速度で打ち始めた。
これは間違いなく一分間に四百字以上は打ってるぞ。
変換も混ぜてだから、実際の打つ数は一秒間に十個以上だ。
この速度はM60(ランボー機関銃)くれーの連射速度だぜ。
いくらブラインドタッチとはいえ、人の書いたものを読みながらだからなァ。
「カチャカチャうるさくてごめんね。・・・・・・きたねー字だなオイ」
矢口さんは文句を言いながらも、凄まじい速さで打って行く。
そして一時間もしない内に、いきなり印刷を始めたじゃねーか。
これだけ速く打てれば、議会の書記官や裁判の記録員も出来る。
新聞社や出版社なんかだと、テープ起こしには打って付けの人材。
企業はこうした優秀な人材を求めてるんだよなァ。
「何やってるのー?」
印刷に入ると暇になるんで、矢口さんは私の方へやって来た。
どうも私は文章を書くってのが苦手なんだよなァ。
頭の中のイメージを、どうやって文章にしたらいいのか判らない。
難しく考え過ぎるのか、単に才能が無いだけなのか。
「小論文ね。まず起承転結から考えないと駄目だよ」
矢口さんはレポート用紙に『起』『承』『転』『結』と書いた。
そして、各所に箇条書きで内容を書いて行く。
それを接続詞や言い回しを変えて書けば、立派なものになっちまった。
更に矢口さんは、どうやって箇条書きを導き出すのかまで教えてくれた。
- 304 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/02(金) 18:31
- 「まずは現状分析をして、目的に近付けるためにプロセスを考えるの」
何かを工夫するには、現状を知らないといけないってわけか。
現状を認識したら、その逆を考えて行けば工夫に繋がる。
そして目的に近付ける方法を、出来るだけ具体的に考えて行く。
幾つかの方法を実施するに当たって、本当に出来るのかどうか。
まずは何をすべきなのか。というところを探り出して行くそうだ。
そこまでは理論であって、後はセンスや慣れの問題らしい。
文系の学生って、こんな事まで勉強してるんだなァ。
でも、医師になっても学会に提出する論文とかがあるから、
ちゃんと書き方を勉強しておく必要があるぞ。
「例えば、ここの『提案する』ってのはファジーだよね」
そうか。もっと具体的に考えないといけないんだ。
『提案する』っていうのは、まだ多くの方法があるからなァ。
確実性のあるものを、もっと具体的にすればいいわけだろ?
『私が書いたレポートを通して先生に提案する』でどうかなァ。
「これでどう?」
「よくなって来たじゃん」
矢口さんは基本的に論文というのは読んで貰うためのものであるから、
出来るだけ判りやすいように、読みやすく書くべきだと言う。
専門用語を羅列したものが論文だと勘違いしてる連中が多いのだそうだ。
また、ファジーな言い回しで、突っ込まれるのを警戒する輩も多いらしい。
自分の知りえた事柄を整理するんだから、突っ込まれないように書けばいいんだ。
そういった理論さえ解れば、後は好きに書けばいいって事になる。
そうか。判りやすく書けばいいのか。今日はいい勉強をしたな。
- 305 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/02(金) 18:35
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また、近日中に更新したいのですが、どうやらマザーボードに限界が来てるようです。
秋葉原に行って、安いマザーボードを買って来る事にします。
来週中には復旧するとは思うのですが。
- 306 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/04(日) 19:06
- 〔The Battle of センター試験〕
冬休みが終わると、たった二週間でセンター試験がやって来る。
私は一番近くの小金井にあるなっちの母校、東京学芸大学会場を選んだ。
聖ダルセーニョ学園じゃ何人かはセンター試験を受けるらしいけど、
この会場には私以外の誰も来ていなかった。
「軽い気持ちで受ければいいべさ。よっCなら余裕っしょ」
「そうでもねーんだよ。始まっちゃって腰がいてーのなんのって」
このところ、寒いせいか生理になると腰が痛くなる。
まだ、試験開始まで三十分以上あるんで、
なっちがコンビニで使い捨てカイロを買って来てくれた。
ティーシャツに貼り付けると暖かくて気持ちがいい。
「こんなもんより、白金カイロの方が効くべさ」
そういえば、最近はあの鉄製のカイロを見掛けなくなったなァ。
でも、病院に行けば似たようなものがあるんじゃねーか?
今日、家に帰ったら政子さんに訊いてみようっと。
「それじゃ、なっちは研究室に行ってるべさ」
「うん、一緒に帰ろうね」
卒論の提出も終わったなっちは、もう卒業証書を受け取るだけだ。
卒業後の就職先も、吉澤病院の院内学級に決まってる。
とりあえず、ケースワーカーとボランティアで始める事になるらしい。
オヤジの考えじゃクラスを二つに分けて、一般のクラスと障害児のクラス。
- 307 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/04(日) 19:07
- なっちはボランティアの保健婦さんと、障害児を担当する事になりそうだ。
「ふう、まずはトイレに行っておくか」
そういえば、美貴ちゃんもセンター試験を受けるって言ってたなァ。
美貴ちゃんの家は川崎だから、近くの会場で受けるんだろうね。
焼銀杏は大田区だから、そっちの会場だろうし。
先に決まった梨華ちゃんやごっちんが羨ましいぜ。全く。
「えーと、トイレはどこかなァ」
私がトイレを探していると『関係者以外立入禁止』の札が出てる先にあった。
この『関係者』ってのが意味不明だよなァ。いったい何の関係者なのか。
まァ、私は試験を受ける関係者だから、きっと入ってもいいんだろうね。
私は張られたロープを跨いで、女子用のトイレに入った。
妙に空いてて少し不安になったけど、待たずに用が足せてよかったなァ。
「ん?」
私がトイレから出て来ると、ネームプレートを下げた中年の男と鉢合わせする。
そのネームプレートには『試験官』と書かれてあり、どうやら試験スタッフみてーだ。
私が何気なしにロープを跨ぐと、そいつは威圧的な態度で私を呼び止めた。
- 308 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/04(日) 19:08
- 「この札が見えないのか? ここは受験者立入禁止だ」
いつもだったら私も「そいつは失礼」くらい言っただろうけど、
今日は体調も良くないし、気分も憂鬱だからカッとなっちまった。
よせばいいのに、その男を睨みつけてロープが掛かってるポールを蹴り倒す。
物凄い金属音が響き渡り、その男は一瞬だけ怯んだように見えた。
ご機嫌斜めのよっC様に、何て口の利き方しやがんだっての。
これだから日本人は欧米人に舐められるんだよなァ。
「ちょっと! 何だその態度は」
「態度? てめーの方こそ紳士的に話が出来ねーのかゴルァ!」
ロープで首を絞めてやろうかと思ったけど、今日はケンカしに来たわけじゃねーし。
向こうが先に手を出したら、ポールで殴り倒してやるところなんだけどなァ。
こんな中年オヤジ、凶器を使わないまでも、一撃で沈めてやるけどよ。
運動神経が悪そうだから、掌底を鼻の下に入れれば一撃で沈むだろうなァ。
肘を顎の先に決めても、一発で昏倒しそうなタイプだぜ。
「関係者以外立入禁止って書いてあるだろう?」
この『関係者』ってくれー曖昧な日本語の表現はねーよなァ。
私だって一応『受験関係者』だから、立ち入る権利がある。
まだ『立入禁止』とした方が、誰も立ち入らないだろう。
こんな曖昧な貼り紙をしといて、この威圧的な態度は気に入らねー。
- 309 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/04(日) 19:09
- 「馬鹿かおめーは。だったら『受験者立入禁止』って書くべきだろーがよ!」
私は筋が通らねー事は、絶対に納得出来ねーんだ。
女だからって甘くみると、アバラ二、三本折れると思えよ。
ダテにオフクロに落とされてたわけじゃねーんだ!
「いや、でも常識的に考えて・・・・・・」
常識的に考えてだと? 人の人格を否定するような事を言いやがって!
この試験を受けねーと大学に入れねーから受けるのによ。
いかにも『受けさせてやってる』といった態度が気に入らねー。
聖ダルセーニョ学園美少女四人組の中じゃ武闘派で通ったよっC様だ。
ここで引いたら女が廃るってもんだぜ!
「何ィ? オレが非常識だっての?」
このオヤジ、私に謝らせたいみてーだけど、間違ってるのはどっちだっての。
ちゃんとした日本語も使わないでおいて、罠に嵌められたみてーで気分悪い。
この騒ぎに野次馬が集まって来るし、試験官も数人が走って来た。
相手が複数だとちょっと不利だなァ。ポールを使えば三人くれーは相手出来るか?
最悪は逃げるしかねーけど、生憎今日は腰がいてーしなァ。
「どうしました?」
意外に丁寧じゃねーか。こう紳士的に出られれば、何とか話になるってもんだ。
それを生活指導教諭みてーな言い方されると、何で他人にそこまで言われる?
って事になっちまうんだよなァ。年下だろうが年上だろうが、口の利き方ってのがある。
やたらとフレンドリーでも気持ち悪いけど、ひとりの人間として扱えよ。
- 310 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/04(日) 19:09
- 「どうもこうもねーよ! ここのトイレ使ったら、このオヤジが文句つけやがって」
このクソ親父は人間として最低だな。いったい何様のつもりなんだ?
公務員や関連法人だと年功序列なものだから競争原理ってものがない。
そんな微温湯に浸かったカス野郎は、責任と権力を誤解してやがる。
若いやつの方がまともだったりするのは、役職にしがみ付かねーからだろう。
「ここからは受験者が入れないんです。札が見えませんでしたか?」
若い試験官は紳士的だった。こうした男こそ世界で通用するんだっての。
まず、弱い立場の女性の話を聞いてから、事態の解決を考えるのが紳士だ。
それ以前に私は受験生なんだから、少しでも思いやりのある態度で接して貰いたい。
だって、こんなとこで気分悪い思いをしたら、試験にだって影響するじゃんか。
私が事の成り行きを説明すると、若い男は札を手に取って苦笑した。
「確かに曖昧な表現ですよね。早速、書き換える事にします」
こいつはいいやつだなァ。こうした紳士が多くなると、
ようやく日本も世界に通用出来るだろう。
明治政府はイギリスから多くの事を学んだけど、
女性に親切にする事だけは理解出来なかった。
そこが騎士道と武士道の違いなんだよなァ。
- 311 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/04(日) 19:10
- 「いいよ。そんなの間違える方がおかしい!」
「んだとゴルァ!」
私が中年オヤジに掴み掛かると、若い男が羽交い絞めにしやがった。
まずい! 急所がガラ空きじゃねーか! 水月やレバーを攻撃されちまう。
このっ! バレー選手の力を甘くみるんじゃねーっての!
私は渾身の力で腕を戻して急所をガードした。
「試験官に暴力を振るうと退場ですよ!」
「いくら法律が体制に有利に出来てても、こんな理不尽が罷り通るのかよっ!」
「こんなガキに舐められてたまるか!」
「上等じゃねーか! てめー後でヤキ入れてやるからな! 逃げるんじゃねーぞ!」
いくら力はあっても、悲しいかな女性は体重が軽いから、
私は若い男に抱きかかえられて排除されちまった。
どうしても腹の虫が収まらない私はゴミ箱を蹴っ飛ばす。
こんなに頭に血が昇っちまったら試験どこじゃねーぞ。
もういいや。今日は家に帰るとするかな。
もう、試験なんてどうでもいいや。くそっ!
私が会場を出ようとすると、誰かが横から抱き付いて来た。
「誰だゴルァ! 今オレは・・・・・・ 矢口さん!」
いきなりしがみ付かれたもんで、もう少しで肘を入れるとこだった。
矢口さんの身長だったら、鋭角度で肘が入っちまうってもんだぜ。
いくら矢口さんがスライダーやシンカーを投げる事が出来ても、
体重の乗った私の肘が入れば間違いなく昏倒しちまうだろう。
- 312 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/04(日) 19:10
- 「落ち着きなよ。よっC!」
矢口さんに止められちゃ、振り払って帰る事出来ねーなァ。
でも、何で試験を受けに来て、こんなに嫌な思いしねーといけねーんだ。
畜生、あの野郎に蹴りでも入れておけばよかったなァ。
「うるせーなァ! 何で矢口さんがここにいるんだよ」
「だって、オイラ試験官のバイトするんだもん」
矢口さんの姿を見ると、何となくリクルートスタイルで、
胸に『試験官』というプレートをぶら下げてるじゃんか。
しかし、矢口さんは色々とバイトする人なんだなァ。
ジェットスキーのレンタルショップのバイトをしてるかと思ったら、
いくらシーズンだからって今度は試験官のバイトかよ。
「一部始終見てたよ。ここでキレちゃ全部無駄になっちゃうじゃん!」
「そりゃそうだけど、あんな気分悪い事されちゃなァ」
矢口さんは私を引っ張って、廊下にある椅子に座らせた。
私がふてくされて座ると、矢口さんは横にチョコンと座る。
矢口さんは小柄なだけじゃなくて、こうしたとこが可愛いよなァ。
私には出来ない仕草だね。したいとも思わないけど。
- 313 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/04(日) 19:11
- 「なっちの気持ちを踏み躙る気?」
「そんな!」
「この試験を受けないと、大学の受験は出来ないんだよ」
そうだった。ここで私がブチキレたら、なっちの苦労が報われない。
東京医科歯科大だけじゃなくて、滑り止めの大学だって受けられねー。
冷静になって考えれば、この試験は絶対に受けないといけないんだ。
どうも、このカーッとする性格は、やっぱりオフクロ譲りだよなァ。
「そうだったよね。ありがとう。矢口さん」
「アハハハハ・・・・・・。判ってくれたー」
矢口さんって、やっぱり大人なんだなァ。
すぐに頭に血が昇るなんて、私はやっぱりガキなんだ。
医者になるんだったら、もう少し人間として成長しねーと。
患者相手にケンカするわけにはいかねーからよ。
「ふう。冷静になったら、何であのくらいの事で・・・・・・」
「ゴルァ! 矢口! こんなとこでサボってんじゃねー!」
何だ? いきなり偉そうなやつに矢口さんが怒鳴られてる。
矢口さんは私のために、貴重な時間を割いてくれたんだ。
ここで黙ってたら女が廃るってもんだ。
- 314 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/04(日) 19:12
- 「ちょっと待ってくれよォ。矢口さんは私のために・・・・・・」
「誰に口きいてんだゴルァ! バイトだからって舐めるんじゃねー!」
うわっと! クルーザーと接触しそうになった時の矢口さんと同じだ!
矢口さん、このくれーの事でブチキレるなんて大人気ねーよォ。
「さて、そろそろ時間だから、オレは会場に入るよ」
「うん、頑張ってね。よっC」
矢口さんに見送られながら、私は試験会場入りした。
ここは仲のいい連中と一緒に来たりするやつがいたりして、
それほど重苦しい空気がねーからいいや。
それでも、この試験である程度の成績を残さないと、
滑り止めの大学すら受験出来ねーからなァ。
今日は英語と日本史、理科が三科目だったっけ。
「試験を始めるに当たって・・・・・・」
試験官が注意事項を説明するけど、そんなもんはプリントを読めば判る。
マークシート用に削った鉛筆と、よく消える消しゴムが必需品。
まずはしっかりと、解答用紙に試験番号と名前を書くんだったなァ。
そいつが書かれてないと、センターの方でも採点の仕様がねーもん。
最初は英語かァ? 試験官が解答用紙と問題用紙を配り始める。
- 315 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/04(日) 19:13
- 「では、時間になったら始めますので、それまで少々お待ち下さい」
私は解答用紙に受験番号と名前を書き、試験官の合図を待っていた。
別に緊張はしていない。物凄くリラックスした精神状態。
家でなっちと勉強してる時と、ほとんど変わらないなァ。
こんな試験は私にとって通過点だから、当然と言えば当然なんだけど。
「それでは始めて下さい」
問題用紙を開くと、みんな英語じゃねーか。って当たり前か。
単語と文法さえ出来れば、こんな試験なんか大した事ねーや。
(前置詞ね『to』『of』『for』『by』『will』)
『will』に決まってんだろーが。こんなつまらねー問題作りやがって。
会話文にしたって、親友だってのに杓子定規な会話になってやがる。
これだから日本の英会話ってのは駄目なんだよなァ。
もっとスラングがバリバリじゃねーと、親友同士の会話としておかしい。
(うげげー! 会話文で『Parade Rest』ってどういう意味だ?)
えーと、彼は『Achtung』と言ったが、誰も理解出来なかった。
それで、慌てて『Attention』と言い換えたのか・・・・・・。
なぜならば、彼はドイツ人だったので・・・・・・『Attention』は注目?
そうか! 『Attention』は『気をつけ』で、『Parade Rest』は『休め』だ。
だから『私は手を後ろに組み、足を広げた』んだな?
こいつは軍隊用語だから、主人公の『私』は軍人なんだ。
- 316 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/04(日) 19:14
- (つまり、軍曹より階級が下だから『プライベートライアン』の Private が正解だよな)
しかし、あの映画みひでーもんだよなァ。何で二等兵が空挺部隊にいるんだよ。
空挺部隊っていったらエリート部隊だから、最低でも伍長以上じゃねーのかァ?
それにノルマンディの上陸だって、艦砲射撃の援護が皆無じゃねーか。
確かロケット艦があったから、凄まじい砲撃の後に上陸したんじゃねーのかよ。
(まァ、いいや。今日はこの後に理科があるし、集中しようっと)
こんな調子で英語が終わり、日本史と理科も中々の出来で一日目が終了した。
試験が終わるとなっちと自己採点しながら家に帰って、色々と分析してみた。
まだ結果こそ判らないけど、ここまで出来れば国立大はほぼ確実ってとこ。
全ては明日の数学と国語で決まるんだよなァ。まァ、大丈夫だけどね。
- 317 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/04(日) 19:24
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近日中に更新しますので、宜しくお願い致します。
- 318 名前:偽みっちゃん ◆OaK4nRw27I 投稿日:2005/09/09(金) 23:55
- 右手親指捻挫しました・・・・・・。
副木を当てられてるので、暫く更新出来そうにありません。
左手だけで打つのって物凄く大変です。泣)
- 319 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/11(日) 11:27
- うわぁ〜。
更新楽しみにしているのに…
でもゆっくり治してくださいね
- 320 名前:偽みっちゃん 投稿日:2005/09/17(土) 13:52
- >>319
ありがとうございます。お陰さまで副木が取れました。
親指の捻挫っていうのも、ちょっとお恥ずかしい話でして、詳しくはその内、
自サイト(虎板=なっち探偵の事件簿・会議室)ででもカミングアウトします。
- 321 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/17(土) 13:53
- 〔美貴の悲劇〕
センター試験は無事終わり、私は束の間の休息を味わった。
二月になると自由登校になるから、すぐに期末テストがある。
まァ、期末テストなんて言ったところで、ほとんど形式上の話。
数学や理科、英語はノート持込可だったし国語は辞書もOK。
音楽や家庭科、美術は、レポートの提出だけで試験は無し。
これは特に進学が決まっているやつへの配慮だった。
「よっC、美貴ちゃんだけどぉ」
「美貴ちゃんがどうしたの?」
梨華ちゃんの話によると、美貴ちゃんから電話が掛かって来て、
何でも高熱を出したとかでセンター試験に行けなかったらしい。
そういえば、美貴ちゃんは月曜日も火曜日も休みだった。
センター試験を受けられなかったとなると、大学入試はほぼ絶望。
まァ、別に大学へ行くだけが選択肢じゃねーしなァ。
これからは高齢者の介護が大きなビジネスになって来る。
だから、専門学校で介護士の免許を取るのもいいかもしれない。
「何て言葉を掛けたらいいのかな」
あのごっちんですら、美貴ちゃんに同情して悲しそうだった。
そりゃそうだよなァ。美貴ちゃんはプライドが高いからね。
変に同情すると、美貴ちゃんは思い切り傷付くと思う。
いっその事、海外の大学にでも留学すればいいかもね。
美貴ちゃんくれー英語が出来れば、アメリカの大学でも平気じゃねーかなァ。
確かアメリカって九月から始まるから、今から準備すりゃ丁度いい。
まァ、選択肢は色々とあるけど、決めるのは美貴ちゃん本人だ。
- 322 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/17(土) 13:54
- 「でもよォ、もうじき期末テストだからマックにも行けねーしなァ」
「学校に出て来ても、暫くはきついと思うわよぉ」
そうだよなァ。センター試験に行けねーくれーの熱出したんだからよ。
もう少しうちに近けりゃ、解熱剤と抗生剤でも打ってあげられたのに。
精神的ショックも大きいだろうから、出来れば数日間は入院した方がいい。
もしうちの病院に入院するんだったら、差額ベッド代なんていらねーし。
って私が決める事じゃねーけど、オヤジなら話が判るからなァ。
「おいら、それとなく電話してみるよ」
仲のいいごっちんなら、美貴ちゃんも癒しになるだろうなァ。
私みてーに大雑把な性格だと、逆に傷付けちまうかもしれねーし。
遊びに行く時は、美貴ちゃんと意外に気が合うんだけどよ。
「あたしも電話してみるぅ」
「そうだね。頼んだよ梨華ちゃん」
そうこう話をしてる間に、裕ちゃんがやって来て授業が始まった。
隣に空席があると、どうも殺風景でいけねーよなァ。
聖ダルセーニョ学園・美少女四人組だもんなァ。私達。
バーベキュー・・・・・・黒色火薬の実験や海は楽しかったなァ。
美貴ちゃんの進路が決まったら、みんなで卒業旅行してーな。
三月になっちゃうだろうけど、伊豆高原あたりで一泊してーなァ。
「っちゅう事で、今日は戦後史や」
戦後ねェ。朝鮮戦争やベトナム戦争の軍需景気。
中東戦争絡みのオイルショックだったよなァ。
- 323 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/17(土) 13:55
- 「ええか? 戦後の昭和最大の事件は日中友好条約やで!」
日中友好条約ってのは、田中角栄と周恩来が念願としてたもんだったっけ。
日本が中国に接近した事で、アメリカはソ連を牽制する事が出来たんだ。
冷戦時代のソ連にしてみりゃ、青天の霹靂だったろうなァ。
まァ、ベトナム戦争も終わりに近付いてたし、米中の均衡を保つ役割にもなった。
「周恩来と田中角栄。日中で最後の政治家やな」
日本にしても中国にしても『政治家』って呼べるのは、この二人が最後じゃねーかなァ。
毛沢東は革命家としては一流だけど、政治家としては三流もいいとこだったし。
角さん失脚後の福田・三木なんてガキ大将の延長線みてーな存在だったしなァ。
角さんの最大の失敗は、後継者を作っておかなかった事に尽きるだろうね。
「次いで国鉄の民営化や」
国鉄の民営化を期に労働組合は骨抜きにされて行った。
もはや、鉄道会社で争議権を行使するのは京成電鉄くれーだ。
民営化されれば自動的に争議権が付いて来るってのになァ。
少しでも労働条件を良くしたい。少しでも多くの賃金が欲しい。
こうした組合員の切実な要望が、今や組合上層部で握り潰されてる。
ったく、何のための労働組合か判ったもんじゃねーな。
「そして平成! まずは消費税導入や!」
ものを買うのに税金がかかるという凄まじい法律。
自民党は福祉目的で導入すると公言したというのに、
実際は一般歳入になってるから全く意味のないものになっちまった。
福祉以外では使わない目的税にすべきなんだよね。
- 324 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/17(土) 13:55
- 「阪神淡路大震災もそうなんやけど・・・・・・」
倒壊家屋の大半が手抜き工事が原因だったという。
あれが相模トラフで同規模の地震が発生したとしたら、
被害は十分の一で済んだとも言われているから恐ろしい。
元々、近畿地方は昔から地震が多く発生してるんだよなァ。
「オウム真理教の事件もそうやね」
オウム真理教が画策したのは、間違いなく国家転覆だったんだけど、
東京地検では殺人事件として立件したに過ぎなかった。
日本では過去に破防法(破壊活動防止法)を適用したのは赤軍だけだ。
国家転覆を企んだ組織に対して、何で破防法を適用しねーんだろう。
「あの、何で破防法が適用されなかったわけ?」
「ええ質問やね。確かに不自然やろ?」
不自然も不自然。だってサリンを作ったりAK47を作ったりしてたんだぜ。
赤軍派みてーに、猟銃やピストルで武装するのとは大違いじゃねーか。
大量の有毒ガスを発生させれば、偏西風に乗って東京が全滅しちまうとこだ。
何で破防法適用を見送ったんだろうなァ。
「はっきりした事は言えへんけど、政治絡みなのは確かやろね」
なるほど! 公明党の支持母体は創価学会だし、自民党は立正佼成会だ。
宗教団体に破防法を適用するのに、政治的圧力がかかったわけか。
同時に「破防法適用は共産主義だけ」という公安の意思表示でもある。
福田内閣時代に、ハイジャックされて赤軍を釈放したんだっけか。
「人命は地球より重い」なんて、単に弱虫の戯言じゃねーか。
- 325 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/17(土) 13:56
- 「そして平成大不況やな」
この平成の大不況は、韓国や東南アジアにも飛び火した。
必要以上のリストラをして、かえって会社を潰した間抜けな経営者もいる。
会社を私物化したのが原因とも言えるんじゃないかなァ。
生き残った会社は、常に人員削減より経常利益を考えてた。
リストラで生き残ったと言われる日産にしても、
ゴーン社長はしっかり経常利益を追求してたわけだし。
「全ては銀行に責任があるんよ」
不良債権の金額は公表したら世界がひっくり返るとまで言われてる。
自己資本率が一パーセント未満になると、その銀行は破綻した扱いになるらしい。
でも、その数字ってのもいい加減で、不良債権を自己資本として計上するそうだ。
どう考えても回収出来ない不良債権は、自己資本なわけがねーんだけどよ。
確かに大手の銀行が破綻したら、世界中が大騒ぎになっちまうからなァ。
「そして最大の争点は郵政民営化やね」
これまで自治体に貸付してた分を、全て民間に流して運用すれば、
それこそ凄まじい金額が流通する事になるんだよなァ。
運用能力のある会社へ貸付すれば、郵政も安泰だし景気もよくなる。
東南アジアの石油採掘権やアフリカの鉱物採掘権を買えばいい。
今のところアメリカと歩調を合わせれば、互いに豊かになれる。
「それと、対テロの時代が来た」
テロがどうのこうの言ったところで、自衛隊は軍事目的で使えねーじゃん。
いったい、どうやってテロと戦うのか、その内容を教えて貰いたいもんだ。
- 326 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/17(土) 13:57
- 「だから、どうやってテロと戦うんだよ」
「アハハハハ・・・・・・。日本は口だけや」
イスラム原理主義者によるテロに、アメリカは武力で報復した。
それに同調したのが、イギリスと日本だったよなァ。
日本は軍事派兵が出来ねーんだから、経済制裁しかねーじゃんか。
イスラム教を国教としてる国への有償・無償援助を全て打ち切る事だ。
そんな事したら石油が買えなくなる? 心配ねーよ。イラクから買える。
っていうか、イラクにはアメリカの会社が入ってるからなァ。
「自衛隊を軍隊にして派兵するか、新しく外人部隊でも創るか」
「外人部隊は面白そうやね」
フランス外人部隊は中世の傭兵部隊が前身になってるんだけど、
日本で組織するとなると、自衛隊からの移籍が少なくないだろう。
韓国やタイでは徴兵があるから、そういった国からも集まって来る。
海外に拠点を置けば、維持費は国内より安価になるだろうしなァ。
「よれより、テロの標的にならないようにするべきですぅ」
「そやな。何でもかんでもアメリカの言いなりじゃあかんわ」
日本はアジアのスイスになるべきなんだ。
どこかの国で災害が起きれば二十四時間以内に出発して、
医療活動や救助活動、雑役を行う。
そして、他国に脅威を与えるだけの軍備を持ち、
憲法九条を遵守して、決して防衛以外に武器は使わない。
非武装中立なんてものは、絶対に存在しやしねーんだ。
世界で非武装中立を自慢してる国もあるけど、
戦略的価値の無い国か、他国の庇護を受けてる国だ。
- 327 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/17(土) 13:57
- 結局、美貴ちゃんが学校に出て来たのは、期末テストの初日からだった。
いくら体調が悪くても、この期末テストを受けないと卒業させて貰えない。
美貴ちゃんはマスクをして来たけど、眼が落ち窪んで元気がなかった。
そりゃそうだろうなァ。受験に失敗しちまったんだからよォ。
でもまァ、大学も経営工学なんて漠然とした学科を希望してたわけだし、
それなら専門学校で、手に職を付ける方が今の時代はいいんじゃねーか?
「み、美貴ちゃん、大丈夫ぅ?」
「あ、うん。まだ熱っぽいけどね」
美貴ちゃんって梨華ちゃんにだけは、いつも笑顔で受け答えするよなァ。
まァ、梨華ちゃんは何て言うか、いかにもって顔するからよ。
考えてる事なんか、私やごっちんと大して変わらねーんだけど。
・・・・・・ごっちんは違うなァ。ちょっといっちゃってるし。
「あの、何て言うか・・・・・・その・・・・・・」
「・・・・・・」
って無視かよオイ! 私だって心配してんだぞ。美貴ちゃんの事。
そりゃ梨華ちゃんみてーに、いかにもって顔なんか出来ねーけどよ。
いっちゃってるごっちんは別として、私はマジで心配なんだからね。
いくら美貴ちゃんが生意気でも。いくら美貴ちゃんが貧乳でも。
「アハハハハ・・・・・・。何とか卒業出来そうじゃん」
ごっちん! てめーにはデリカシーってもんがねーのかよ!
卒業ってのは、次へ進むためにあるものだろうがよ!
美貴ちゃんは次が決まってねーんだっての!
もう少し言葉を選べよ。いくら豊乳だからって。
- 328 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/17(土) 13:59
- 「ほなテスト始めるで。・・・・・・席に着かんかゴルァ!」
うおっ! みっちゃん、いつもに増して眼がきついじゃねーか!
彼氏にふられたのか? それともあの日なのか?
今日は機嫌が悪そうだなァ。骨格標本の大腿骨持ってるし。
あれは中に金属の芯が入ってて、石膏で形を造ってあるんだ。
しかも、樹脂でコーティングしてあるから、殴られると凄く痛い。
「物理のテストやしな。ノートだけは見て構へんよ」
みっちゃんがそう言うんだから、一応、私もノートだけは出しておこう。
もう何十回、何百回と見たノートだから、全部頭の中には入ってるんだけどね。
これを開けなければならないという事は、まだまだ勉強不足という事になるんだ。
こいつは東京医科歯科大受験にとって、一種の目安になるんじゃないかなァ。
「配り終わったら始めて構へんよ」
あれ? 解答用紙がねーぞ。っていうか、何だこれ?
B4の普通紙に問題が四つだけ書いてあるぞ。
問一、核融合について述べよ。
問二、加速度について述べよ。
問三、万有引力について述べよ。
問四、雷について述べよ。
「何となく習ってねーのがあるじゃんかよ」
「黒板に書かんでも、うちは必ず話しとるで。ええから始めんかい!」
こいつは逃れ様のない究極の問題じゃねーか。
よし! 書き方は矢口さんに教わったからな。
- 329 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/17(土) 13:59
- 物理・化学・生物の三教科が、みんな例の論文式だった。
あれにはまともに国語をやっていない連中は四苦八苦しただろう。
私は幸か不幸か矢口さんに文章の書き方を教えて貰った。
みっちゃんは意地悪で、こんな問題を出したわけじゃねーよ。
理数系の学生は、文章を書く事が出来なくて困る。
きっとみっちゃんは、そんな話しを誰かから聞いたんだろう。
「美貴ちゃん、これからどうするのぉ?」
「判らない。・・・・・・判んないよ」
ここまで自信を失った美貴ちゃんを見るのは初めてだなァ。
色々と選択肢があるのは事実だから、先生に相談すりゃいいのに。
もしかすると、大学センター試験を受けていなくても、
二次募集する大学だってあるかもしれねーし。
定時制の大学や通信大学って選択肢もあるはずだよなァ。
「美貴ちゃん、先生に相談・・・・・・」
「梨華ちゃん、話しがあるの。付き合ってくれない?」
「いいわよぉ」
そこには、私やごっちんが入り込む隙間すらなかった。
いや、下手に介入したら、美貴ちゃんが怒りそうな気がする。
だから、私とごっちんは何も出来ずに茫然としてた。
まるでお地蔵さんになった気分だったなァ。
「ごっちん、たまにはマックにでも行く?」
「アハハハハ・・・・・・。行く行く」
ってなわけで、私達は試験中だってのにマックへ寄った。
- 330 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/17(土) 14:00
- 今日のところは、このあたりで失礼致します。
また近日中に更新致しますので、どうぞ宜しくお願い致します。
- 331 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/24(土) 16:57
- 〔出陣〕
期末テストも終わり、二月になると受験シーズンの到来だ。
私の場合、西海大と南里大の二ヶ所が滑り止めって事になる。
だから自由登校になっても、毎週末は受験に出掛けてた。
いよいよ寒さも本番になって、防寒対策をしとかねーと風邪をひく。
もし、こんな時期に風邪なんてひいた日には、
本命の東京医科歯科大受験会場に棲む魔物につけ入られるだろう。
勿論、秋からインフルエンザの予防注射を打ってたし、
スタミナをつけるためにドーピングまでやってた。
「今日は西海大の受験だべね。一般枠が多いから落とすんじゃないべよ」
多くの私立大医学部は推薦枠を重視して、一般枠は十人くらいが普通。
ところが、西海大は一般枠に二十人もあり、ここは何としてでも落とせない。
新聞の情報によると、西海大医学部の競争率は五倍くれーだった。
つまり、西海大には百人くれーの受験者が来る事になる。
各模擬テストの結果では、西海大医学部の合格率は六十四パーセント。
南里大学に至っては四十九パーセントという厳しいものだった。
ところが、どういったわけか、東京医科歯科大の合格率は八十パーセント。
模擬テストなんてものは、かなりいい加減なんだなァ。
「まず、これを食べるべさ」
なっちが食卓に出してくれたのは、どうやら貝のステーキみてーだった。
どんなもんかと思って食べてみると、こいつは物凄く美味いじゃねーか!
ローストビーフみてーに薄切りにしてあるけど、こんなに大きな貝となると。
貝は蛋白質やミネラルが豊富で、古代人も常食してたくれーだもんなァ。
いや、朝から美味いものを食わせてくれて嬉しいぞ。
- 332 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/24(土) 16:57
- 「すげー美味い!」
「次はこれだべさ」
なっちが出してくれたのは、なぜか栗きんとんだった。
栗ってのは、あんまり消化によくねーと思ったんだけどなァ。
まァ、私の胃袋なら全く問題なしだぜ。
「アハハハハ・・・・・・。美味い」
「最後はこれだべさ」
最後になっちが出したのは、鰹出汁で煮た昆布だった。
醤油と味醂の塩梅が最高。こいつは美味いなァ。
朝からこんなもん食うと飲みたくなっちまうじゃねーか。
「杯?」
私はこれから試験だってのに、なっちは白い杯に少しだけ日本酒を入れた。
あれ? これってもしかして、何かの儀式だったような気がするなァ。
鮑と栗と昆布・・・・・・鮑と栗と昆布。そして白杯に日本酒!
打鮑・勝栗・喜昆布! こいつは出陣の儀式じゃねーか!
そうか! なっちは私に死ぬ気で戦って来いって言うんだな!
「合戦じゃァァァァァァー!」
私は唇を濡らすと窓を開け、庭石に白杯を叩き付けて割った。
太刀の代わりに筆記用具を持ち、甲冑の代わりにコートを着る。
そして馬の代わりにスイカを持ち、私はスニーカーを履いた。
玄関を開けると、左右に盛り塩がしてある。
なっちはここまで私の事を考えてくれていたんだ。
- 333 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/24(土) 16:58
- 「勝って来るぜ! なっちさん」
「武運を祈ってるべさ!」
私はバッグを担ぐと、なっちに火打ち石で火花を散らして貰い出陣した。
西海大学キャンパスまでは、吉祥寺で京王井の頭線に乗り換えて、
更に下北沢で小田急に乗り換えねーとなァ。そこから急行で約一時間半。
とにかく小田急ってのは、成城学園前から新宿までの間が凄まじく時間が掛かる。
上りだと通勤時間に当たると最悪らしい。何しろ町田から新宿まで急行でも一時間。
成城学園前まで三十分くれーだけど、そこから更に三十分も掛かるってんだからなァ。
京王線なんか橋本から新宿まで直通で四十分ちょっとしか掛からねーもんなァ。
東急田園都市線も中央林間から四十分で渋谷に着くんだから、
いかに小田急が遅いのかが判るってもんだぜ。
「かーっ! 寒い!」
西海大は駅から歩いて十五分くれー掛かるから、それも計算しとかねーとなァ。
三鷹から吉祥寺はすぐだけど、京王井の頭線と小田急の時間が読めねーからよ。
三時間みとけば着くと思ったから、家を六時に出発しちまった。
駅まで歩く中、朝日が顔を出して絶え難い寒さが私の身体を攻撃する。
マフラーと毛糸の帽子が、幾らか寒さを緩和してはいるけど、
これだけ寒いと少しの風でも、体感温度は三度くれー下がっちまう。
「あっ! よっC先輩なのれす!」
私が駅に着くと、いきなり背後から声がした。
何事かと思って振り返ると、そこにはジャージ姿の辻がいる。
大きなバッグを担いでるから、きっとこれから試合に行くんだろう。
こいつも身長が低くて、セッターかリベロしか出来ねーからなァ。
そういった点じゃ、ちょっと可哀想だけどなァ。
- 334 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/24(土) 16:59
- 「おう、これから試合か?」
「そうなのれす。ののはレギュラーになったのれす」
辻がセッター? そうか、ツーセッターで行く気なんだなァ。
辻はレシーブもいいし、松浦あたりとツーセッターも面白い。
でも、大山先輩と栗原先輩が卒業してからというもの、
頼りになるのは木村沙織しかいねーからよ。
「そうかァ。オレも今日は試験だ。敵の首を取って来るぞ」
「さ、殺人予告なのれす! 大変だァァァァァァー!」
あいつ・・・・・・どこまでが冗談で、どこまでがマジだか判んねーなァ。
とりあえずMDでも聴きながら、士気を鼓舞させようじゃねーか。
えーと、どれがいいかなァ。何かグチャグチャでどれがどれだか。
気分を高揚させるんだから、エリック=クラプトンでも・・・・・・。
『I am God's child この腐○した世界に○とされた〜♪』
ちげー! 私が聴きたいのは『○光』じゃねーっての!
こんな曲聴いてたら、気分が沈んで仕方ねーちゅうの!
どうもO型なもんで、キチッと整理するのが苦手なんだよなァ。
えーと、こいつがエリック=クラプトンだったかな?
『笑顔○く君と幸せの空、隣○士あなたとあたしさくら○ぼ〜♪』
・・・・・・いいんだけど。いいんだけどね。
ちょっと軽い。っていうか軽過ぎる気がするなァ。
それに、何度も聴くとイライラして来るし。
『もう一回!』「もういいよ!」ってなっちまう。
- 335 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/24(土) 17:00
- 「どれがそうだっけか?」
私がバッグの中をガチャガチャしてると、ホームに電車が滑り込んで来た。
仕方なく電車に乗って、ドアに寄り掛かってバッグの中を物色してみる。
困った事に、MDは全部○ニーのやつだし、インデックスも付けてねーからなァ。
えーと、エリック=クラプトンは、比較的古いMDだから・・・・・・こいつか?
『Nobody gonna teke my car♪』
・・・・・・もういいや。パープルでも聴いて行く事にしようっと。
そういえば、学園祭でこの曲をやったっけかなァ。
この頃ののイアン=ギランの声は最高じゃねーかなァ。
今なんか凄く苦しそうだし、観ててこっちが疲れちまう。
『次は吉祥寺、吉祥寺、お出口は左側でございます』
さて、乗り換えだなァ。まァ、これだけ時間が早いと空いてる。
始発駅だし土曜日だし、下北沢までは座って行けそうだぞ。
下北沢も数十年前まではドヤ街みてーな感じだったらしいけど、
今じゃ駅前を中心に開発が進んで、お洒落な街に変貌を遂げてる。
しかし、井の頭線の駅の間隔は、バス停並に短けーんだよなァ。
「すげー!」
明大前になると、京王線からの乗り換えがあるせいか急に混んで来た。
まだ七時前だってのに、もうこんなに人がいるんだなァ。
交代勤務やサービス出勤のサラリーマン達なんだろうねきっと。
しかし、イアン=ペイスのツーバスはヘタクソだよなァ。
やっぱりツーバスっていったら、故コージー=パウエルだ。
- 336 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/24(土) 17:00
- 『下北沢、下北沢でございます』
よっしゃー! ここで乗り換えれば、後は一本で乗り換え無しだぜ。
えーと、小田急線の下り方面だよなァ。・・・・・・意外に人が多いぞ。
まァ、読売ランドとかあるし、今日はアイドルのイベントでもあるのか?
妙にオタクっぽい野郎どもがゾロゾロとホームに向かいやがる。
きっと、これはロリ系のアイドルだな。危なそうなやつが多いもん。
『電車が参ります。危ないですからホーム中程でお待ち下さい』
えーと、前六両が急行箱根湯本行きで、後ろ四両が急行片瀬江ノ島行きか。
そんじゃ、もうちょこっと前に行くとするか。・・・・・・しかし混んでやがるなァ。
私がバッグを抱えながら前に歩き出すと、いきなり横からぶつかられた。
そいつは百キロはありそうな巨漢で、私はよろけてしまったくらいだ。
「いてーなこの野郎!」
反射的に出てしまった言葉に、私は少し後悔しちまった。
こんな巨漢にキレられたら、私はそれこそ殺されちまう。
恐らく贅肉だとは思うけど、明大のラグビー部なんていうと、
こんな身体で百メートルを十二秒台で走るからなァ。
「す、すみません!」
よかった! ただのオタクだったのか。
意外にこうした凄い身体の持ち主に限って、
妙に気が小さかったりするんだよなァ。
確かにこんな身体ですぐブチキレるやつだったら、
機動隊に出動して貰わないと鎮圧出来ねーもん。
- 337 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/24(土) 17:01
- 「気をつけろよ」
「は、はい!」
まァ、素直なオタクで良かったぜ。
しかし、何でオタクってのはリュックなんだろう。
中にすげーカメラが入ってるのかと思いきや、
超小型のデジカメだったりするもんなァ。
いったい、あの中身って何なんだろうね。
一度でいいから見てみてーもんだなァ。
「うへっ! 何でこんなに混んでるわけ?」
到着した電車は、まるで通勤時間並の混雑をしてた。
私はオタク達に押されるまま、電車の中央までめり込んだ。
これだけ混んでたら、もう吊革に掴まる意味なんてねーや。
それでも、何とか手摺に掴まろうと、私はドアの近くまで移動した。
レジャー客や受験生、クラブの試合がある中高生、そしてオタク。
ったくいい迷惑だぜ。私はこれから合戦に出陣するってのに。
私の初陣は聖ダルセーニョ学園受験。だから今度こそ敵の首を取るんだ。
「ん?」
ドアが閉まって電車が動き始めて少しすると、
どうもドアの近くに立ってる女性の様子がおかしい。
どうしたんだろうと思ってると、彼女の胸に一本の手が伸びていた。
私はそれが何なのか、少しの間理解する事が出来なかったんだよね。
だって、私は電車で通学した経験ってもんがねーからよ。
彼女は嫌がってるけど、恥ずかしいのか少し抵抗するだけだった。
これが噂に聞く『チカン』ってやつなんだな?
- 338 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/24(土) 17:01
- 「やめろ」
私はその手を掴むと合気道の要領で捻り上げた。
ここまでしっかり入ると、立っていられねーんだよなァ。
その手の持ち主は、唸り声を上げながら床に跪いた。
バレーを引退したって、握力四十五キロはあるんだ。
「な、何もしてねーよ! 手を離せ!」
「このクソ野郎! 現行犯だ。これで勘弁してやらァ!」
膝を顔面に入れてやると、男は鼻血を出して唸った。
私の膝の感触だと、きっと鼻骨骨折って感じかなァ。
警察に突き出されねーだけありがたいと思えっての。
こうしたクソ野郎がいるから、日本人は舐められるんだ。
「チカン? アハハハハ・・・・・・。自業自得だね」
シルバーシートに座ってた婆さんが言うと車内から失笑が漏れた。
男は暫く激痛に唸ってたけど、成城学園前に着くと逃げるように出て行く。
そんなに女を触りたかったら、風俗にでも行けばいいのに。
鼻骨骨折だと本人負担三割でも、完治まで数万円は掛かるぞ。
「ど、どうもありがとうございました」
チカンに遭ってたねーちゃんは、そう言うと私にペコリと頭を下げた。
どう見ても男がムラムラ来るような身体じゃねーけど意外に美人だ。
チカンってのは、こうした大人しそうな子を狙うんだろうね。きっと。
私みてーな子にチカンするのは、まァ、初心者といったところかなァ。
でも、受験と関係ねーやつの首取ってどうするんだ?
- 339 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/24(土) 17:02
- 「いいって事よ。こうした事はお互い様だぜ」
「あの・・・・・・受験ですか?」
「そうよ。今日は合戦みてーなもんだ」
向ヶ丘遊園になると、いきなり車内が空いて席が空いた。
私と彼女は話しをしながら、ガラガラになった席に座る。
色々と話をしてると、彼女も次第に落ち着いて来た。
彼女は里田まいといって、西海大学を受験するらしい。
何となく私と同じ大学みてーだけど学部は違うだろうなァ。
「ひとみさんは何学部を受験するの?」
「オレは医学部。オヤジも医者だしね。まいちゃんは?」
「お、同じ医学部なの」
げげー! 偶然と言えば偶然だけど、こんなとこに敵がいるとは。
こいつが医学部を受験するなんて判ってたら、助けたりしねーのによ。
でもまァ、同じ女性として、ああいった連中は許せねーもんなァ。
それに西海大は、受かって当然の滑り止めなわけだしよ。
「本命はどこ?」
「東京大学」
「ええっ!」
「って言いたいとこだけど、『東京』と『大学』の間に『医科歯科』が入るんだ」
あれ? これって確か、なっちが言ってなかったけか?
さすがに師弟関係っていうか、似たとこがあるのかなァ。
まいの反応は・・・・・・それでも眼を剥いてるじゃねーか。
確かに国立だけどよ。私は西海大よりも合格率がいいんだぜ。
しかし、医師になるには六年間だもんなァ。長いもんだぜ。
- 340 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/24(土) 17:02
- 「国立? しかも、あの東大に次ぐ」
「まあね。何の因果か知らねーけど」
まいは西海大学と帝都大、南里大、八王子女子医大を受けるらしい。
まァ、彼女は私立だけだから、必要以外のセンター試験を受けてない。
それでも、数学や理科の成績は、私よりも上だったから驚いた。
確かに私はセンター試験より、東京医科歯科大の受験に合わせてる。
だから、センター試験の成績なんて全く気にしてねーんだけどね。
「あたしは西海大が第一志望。癌専門医になりたいの」
癌専門医かァ。吉澤病院でも初期癌の手術なんかはするよなァ。
でも、末期癌なんかは専門病院に紹介しちまうんだった。
基本的に患者に告知するのが、今の医療なんだよね。
患者によっちゃ、絶望のあまり安楽死を要求するのもいる。
でも、治る癌と治らない癌ってもんがあるんだよなァ。
「癌専門医ね。絶対数が不足してるもんなァ」
切った貼ったの外科医じゃ細胞除去に重点を置くし、
薬物専門の内科医だと免疫治療や抗癌剤治療を勧めて来る。
本来ならこうした医療チームで、癌と戦わないといけねーんだ。
だけど、今の医療現場は、船頭ばかり多くて困ったもんだぜ。
ちゃんと癌と戦うのなら、専門医が中心になって行かねーとなァ。
「ひとみさんは?」
「オレ? やっぱり外科かなァ。オヤジも外科医だし」
そんな話をしていると、もう西海大学前に着いちまった。
- 341 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/24(土) 17:03
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近日中に更新致しますので、どうぞ宜しくお願い致します。
- 342 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/29(木) 18:36
- 〔格闘・前編〕
西海大と南里大の試験を終え、私は東京医科歯科大対策のまとめに入っていた。
もう、数学には絶対的な自信はあるけど、確認の意味で過去の問題をやってみる。
英語も理科も全問正解で、なっちと私は確かな手応えを掴んでた。
この分なら会場に棲む魔物も、私に入り込む余地なんかねーだろう。
後は平常心を保つために、一日に数時間は瞑想する事にした。
もう、大学が決まった梨華ちゃんは、毎日遊んでるんだろうなァ。
ちょっと羨ましいけど、私には私の人生というものがあるんだ。
「レタックスだべよ」
「西海大学かァ? どれどれ・・・・・・受かってる」
「やったべさァァァァァァァァー!」
西海大学といえば、外科の中でも救命救急の本場だったよなァ。
同時に癌医療の先端を行く大学でもあるんだったっけか。
後は超心理学。つまり心霊心理学を研究してる筈だったよなァ。
日本じゃ超心理学は遅れてるけど、欧米じゃ立派な学問とされてる。
中でもサイコキネシスを物理学で解明しようとしてるそうだ。
「南里大や西海大なんか前哨戦だよ。本丸は東京医科歯科大」
これは私にとって、小泉純一郎の郵政民営化と同じだ。
東京医科歯科大を攻略しないで、受験もへったくれも無い。
ただ、私はなっちに丸投げしたわけじゃない。
私は自信が湧くまで、なっちの指導に従って勉強したんだ。
勿論、東京医科歯科大合格が最大の難関ではあるけど、
それは私にとっての通過点に過ぎないんだなァ。
私は外科医になってオヤジを超えるんだ。
- 343 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/29(木) 18:36
- 「ん? メールだ」
珍しく、ごっちんからメールが入った。
どうやら美貴ちゃんが、酷く落ち込んでるみてーだ。
まだ諦めるのは早いと思うんだけどなァ。
センター試験必須の大学ばかりじゃねーし、
定員割れした大学じゃ二次募集をかけるとこもある。
今からでも定時制を含めて検討する余地はあるよなァ。
「美貴ちゃんの事だべか?」
「うん、落ち込んでるらしい」
美貴ちゃんは経営工学を専攻して、いったい何になりたかったんだろう。
確かに工業系大学の就職率は、文系に比べて遥かにいいよなァ。
でも、専門職でもねー限り、会社が求めてるのはセールスマンなんだよね。
工業系の大学を出てセールスマンなんて、会社は何を考えてるんだか。
プライドの高い美貴ちゃんには、ちょっと向かない仕事だと思うけど。
「浪人って手もあるべさ。女の子でも珍しくないよ」
今や少子化の時代。受験生の数より募集人数の方が多い。
これは仕事でも言える事で、選ばなけりゃ仕事は幾らでもある。
中高年の仕事だって、それこそ幾らでもあるんだよなァ。
ただ、管理職をしてたから、管理職じゃねーと嫌だとか、
そんな贅沢を言ってるから仕事がねーんだよ。
ニートにしたってそうだ。働かざる者食うべからず。
いくら親の扶養でも、国保と年金、地方税は納めるべきだ。
当然、収入がなけりゃ親が支払う事になるんだけど、
だいたい、そんなガキにしたのは親の責任なんだからよ。
- 344 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/29(木) 18:37
- 「学歴が欲しいだけなら、どんな大学だってあるじゃん」
いくら学歴があったところで、仕事を出来る体力が無ければ話にならねー。
社会に出たら、まず体力だって誰かが言ってた。次に能力って話。
もう、学歴が云々言う時代は終わったのかもしれねーなァ。
つまり、階級闘争の終焉を意味してるって事なのかもしれない。
帝王学を学ぶのは、本当に必要な人間だけで充分なんだよなァ。
「そうだべね。大学に入るのが目標なんて小さ過ぎるべさ」
大学で何を学び、どういった仕事で社会に貢献して行くか。
高校在学中から、そうしたビジョンを持っているべきだと思う。
誰にも負けない立派なセールスマンになるのもいいだろう。
徹底的に語学を勉強して、通訳になるのもいいと思う。
本気で日本を変えたいと思うなら、政治学を勉強するのもいい。
「十年後の自分を見据えてないと、明確なビジョンなんて生まれて来ない」
私は今、最低限医師になるための勉強をする資格を得た。
でも、私が望む勉強の環境ではないんだ。
だからこそ、東京医科歯科大を目指す事になる。
それに、私が圭織さんのリベンジをするんだ。
「言う事が哲学じみて来たべさ」
哲学者になるには悪妻を持てばいい。ってソクラテスが言ってたっけ。
そういえば仏教哲学ってのも聞いた事があるなァ。
ここは精神集中するために、写経でもやってみる事にするか。
漢字の勉強にもなるし、字が上手くなるって話だからなァ。
- 345 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/29(木) 18:37
- 東京医科歯科大の試験会場は、あまりに犠牲者が出る事から、
ついに代々木の某予備校を使って行われる事になっちまった。
それでも万が一に備えて、東京消防庁は三台の救急車を配備。
都立広尾病院の救命救急センターと連携を採っているらしい。
どういったわけか試験には前期と後期というのがあって、
大学センター試験を受けた私は前期で受験となる。
定員数は僅かに六十五人だから、こいつは難関だよなァ。
「さあ、今日が本番だべよ」
なっちは代々木まで着いて来てくれた。
打鮑・勝栗・喜昆布という難しい料理を作ってくれたのに。
代々木の駅を降りると、さすがに平日と違って人が少ない。
東京医科歯科大受験生は、その背中を見ればすぐに判る。
ほぼ全員が実に重苦しい空気を背負っているからだ。
「駅前からこの調子じゃ、会場内は凄まじいべさ」
「ちょっと怖くなって来たんだけど」
駅から歩いてほんのすぐの某有名予備校は、
まるで私達を嘲笑うかのように聳え立っていた。
今日、ここで全力を尽くすために私となっちがいる。
それにはこの数ヶ月間の全てが凝縮されているんだ。
「今日も日本晴れだべさ。よっC、明るく行こうよ」
寒い寒い季節だけど、なっちが傍にいるだけで暖かいなァ。
私は青い空を見上げてから、なっちの顔を見てニッコリ笑う。
某予備校の前では、試験官が受験生の誘導を行っていた。
- 346 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/29(木) 18:38
- 「それじゃ、行って来るよ」
「うん。よっCなら大丈夫だべさ」
私はなっちを抱き締めると、試験会場の某予備校に向かった。
すでに救急車が待機してて、救急隊員と若い医師が談笑してる。
不思議な事に最高学府である東大では、受験生に被害者は出ていない。
なぜ東京医科歯科大なんだろう。私にはそれが判らなかった。
「オレの受験番号はと・・・・・・二階か」
ジーンズにスニーカー、ジャンバー姿の私は、周囲と全く違和感がない。
反対にスカートを穿いてたり、赤やピンクの服は会場内で浮いてた。
そりゃ、性別不問の大学だから、女の子がいたって不思議じゃねーけどなァ。
今でも女性医師のニーズが多くて需要に供給が追い付いてねーんだ。
階段を昇って行くに従って、次第に空気が重くなって行くのが判る。
そういえば、東京医科歯科大受験会場の空気は特別だって言ってたなァ。
「うっ!」
会場内に入った途端、凄まじく重い空気に背筋が凍った。
それはまるで生き物のように、私の身体に纏わり付いて来る。
この異様に重い空気は、いったいどこから発生してるんだろう。
大きな窓には明るい代々木の景色が映っているというのに。
「ふう」
私は自分の受験番号の席に着くと、頭の中で般若心経を唱えながら瞑想した。
自分に得意な問題を解くといったポジティヴなイメージを思い浮かべる。
しかし、どこからか、それを覆すようなネガティヴな気が発せられていた。
- 347 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/29(木) 18:38
- (あのデブがそうか・・・・・・)
私の席から数メートル横に座った大柄の男。
この季節だってのに、ハンカチで額の汗を拭ってる。
この間、下北沢にいたデブもそうだが、巨漢には小心者が多い。
確かに会場は変わっても、東京医科歯科大の試験会場には魔物が棲んでる。
どうやら今年は、このデブに何か起こりそうな雰囲気だな。
私は平常心。この平常心さえ保てれば、何も恐れるものなどない。
「そろそろ時間だな」
私がバッグから筆記用具を出すと、なっちからメールが入った。
駅前のマックで待ってるとの事だけど、すげー時間が掛かるぞ。
私は『諒解』とだけ打って返信すると、ケイタイの電源を切った。
その途端、妙に息苦しい空気に包まれた。
「試験開始前に注意事項があります」
試験官がやって来て、黒板に幾つかの注意事項を書いた。
ケイタイの電源は切る事。筆記用具以外は使用しない事。
試験開始後三十分以内の退室が出来ない事。
そして最後に、体調が悪くなったらすぐに手を挙げる事。
それだけが黄色のチョークで書かれ、赤で囲まれていた。
「毎年、なぜか病人が出ます。少しでも気分が悪くなったら手を挙げて下さい」
病人だけならまだいい。都電に飛び込むやつまでいたんだからな。
暖房が効いているというのに、背筋に悪寒が走って武者震いする。
私は念のために今朝は五時に起きて、抗生剤入りの点滴をして来たからなァ。
- 348 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/29(木) 18:39
- (そろそろテンションを上げてくか)
高見盛じゃないけど、両手で自分の頬を叩いて気合を入れる。
私の横に座った軟弱そうな男が、何事かと私の方を見た。
こいつは内科医か精神科医くれーしか無理だろうなァ。
こんなに軟弱じゃ、何時間にも及ぶ手術なんて出来そうにない。
「見世物じゃねーぞゴルァ!」
ちょっと睨んだだけで軟弱男は俯いた。
そりゃ、私は聖ダルセーニョ学園美少女四人組の一人だから、
見惚れちまうのは判るけど、ジロジロ見られると気分が悪い。
この場で勝てるのは、私にガン飛ばして来るくれー根性のあるやつ。
そんな弱っちい神経で、よくこの試験会場まで来れたもんだ。
「それでは答案用紙から配ります。必ず受験番号と名前を記入して下さい」
この試験官も裕ちゃんと同じような事を言うよなァ。
いくらこの重苦しい空気の中で緊張してたとしても、
自分の受験番号と名前を書かないアフォがどこにいる?
これは戦いなんだ。私の人生を決める大切な戦い。
それと、重圧に耐えかねて壊れてしまった圭織さんのリベンジ。
「・・・・・・『吉澤ひとみ』と」
受験番号と自分の名前を書いてみたけど、心なしか普段より大きな字になってる。
やっぱり少し緊張気味なのかなァ。そう思うと、なぜか失笑しちまった。
そんな私を、また隣の軟弱小僧が見てやがる。ったく気分悪いやつだなァ。
何気に裏拳でも入れてやろうかなァ? 脛に踵を入れてやってもいいし。
- 349 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/29(木) 18:39
- 「ジロジロ見るんじゃねーよ。タイマン張るなら相手になるぜ」
「すすすす・・・・・・すみません!」
こっちはテンションが上がって来てるんだからよォ。
極楽トンボの加藤だろうが、一撃で沈めるくれーの気分なんだ。
それこそ、千代大海をブレンバスターするくれーになってる。
今の私がラグビーをやったら、どんなタックルでも倒れない。
ゴールの真下にトライを決めるくれーの気が入ってる。
てめーなんか踵落しで昏倒させてやるぞゴルァ!
「それでは始めて下さい」
よっしゃー! これだけハイテンションならOKだろう。
いきなり分数の因数分解かよ。これなら得意中の得意。
答えは三番だな・・・・・・三番・・・・・・何だ? この空気!
ネットリと身体に纏わり付くような、物凄く嫌悪感のある空気。
これが・・・・・・これが東京医科歯科大受験会場の空気なのか?
「くそったれ!」
それは真夏の湿った空気でも、真冬の乾燥した空気でもない。
春の暖かな草の匂いのする空気でも、秋の爽やかな空気でもねーや。
貧しい一家のために医師になって一旗揚げようとする悲痛な思い。
無医村に骨を埋めようとするボランティア精神の自己満足。
私立に行くカネのない苦学生。挫折を知らないドン=キ=ホーテ。
人を切り刻む事に性的興奮を覚える屈折した精神異常者。
そんな連中の『気』が渦巻き、この異常な空気を創ってるんだ。
圭織さんは数学に対する苦手意識に魔物が入り込んで来た。
私には数学の苦手意識なんてない。なっちと二人で克服したんだ。
- 350 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/29(木) 18:40
- 「負けるもんか!」
まるで水飴の中のように、腕を動かすだけでも精一杯。
数学が得意になった私でも、この空気の中では苦戦する。
問題を作ったやつの意図を察するだけの余裕すらねーんだ。
これは戦い。私は戦いに勝って選ばれた人間になる。
この日のために、私は必死になって勉強して来たんだ。
「あうあうあう・・・・・・」
オットセイみてーな声を出して、例のデブが椅子から転げ落ちた。
試験官は慣れた手付きでデブを担ぎ、廊下へ連れ出して行く。
あれは多呼吸による血中酸素の上昇で、緊張し過ぎるとなる症状。
暫く息を止めるか、ビニール袋を鼻と口に当てて呼吸すれば治る。
出産時のラマーズ法で、よく起きるって聞いた事があったっけ。
「うわァァァァァー! 死神だァァァァァー!」
私の横に座ってた貧弱小僧が、いきなり前に向かって走り出した。
黒板に激突して昏倒した貧弱小僧。この重圧に耐えられなかったんだろう。
確かにこの重圧は凄まじく、気が狂ってしまうかもしれないけど、
これに耐えられないやつは東京医科歯科大には向いてない。
「あぐぐぐぐ・・・・・・」
今度は後ろの方の女の子だ。見るからに顔色が悪かったからなァ。
癲癇の発作でも起こしたように、泡を吹いて白目を剥いちまった。
これが・・・・・・これが東京医科歯科大の受験会場に棲む魔物なのか。
上等じゃねーか。この吉澤ひとみが魔物なんか退治してやるよ。
- 351 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/09/29(木) 18:41
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近日中に更新致しますので、どうぞ宜しくお願い致します。
- 352 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/29(木) 22:25
- ついにきましたねぇ。
次回楽しみにしてますっ
- 353 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/04(火) 22:48
- >>352
ありがとうございます。
第五章からが佳境の予定なのですが、まだ色々と思案中です。
- 354 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/04(火) 22:48
- 〔格闘・後編〕
たった一教科のテストだけで、三人も魔物にやられちまった。
でも、魔物はランダムに受験生を襲うわけじゃない。
魔物が入り込む隙があるやつだけ。つまり弱者が餌食になる。
これだけのプレッシャーは『蒲田行進曲』の階段落ち以上だ。
「今年は三人か。さすがに会場が変わったから少ないね」
試験官達はコーヒーを飲みながら、そんな話をしてた。
私は次の教科に備えて、数学の知識を側頭葉にしまう。
そして、側頭葉の引き出しから英語の知識を用意した。
もう数学なんて、ほとんど使う事はないだろうなァ。
私は引き出しのずっと奥へ『数学』を押しやった。
「次は誰だろうなァ」
英語には中学時代から自信がある。
ただし、会話なんてのは、からっきし駄目。
っていうか、会話なんて無意味だった事を知ってた。
幾ら英会話が出来たところで旅行の時に使うだけだし、
最近じゃ日本語が通じるホテルも多くなって来てる。
私にしてみれば、英会話なんて邪魔なだけなんだ。
「それでは、英語の試験を始めます」
試験官は開始早々、三人が昏倒したというのに、
そんな事は当たり前のように試験を進めようとしてる。
以前に死者すら出した試験だというのに試験官は事務的だった。
- 355 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/04(火) 22:49
- 「それでは始めて下さい」
へえ、こいつは驚いたな。
設問自体が英語で書いてあるじゃねーか。
英語の文法はパターンで憶えればいい。
後は単語力がどれだけあるかで勝負が決まる。
勿論、熟語にも精通しておかないといけない。
「おーらい! しゅあー! おふこーす!」
まただ。今度は前の方の席のやつ。
この重圧に耐えられずに、脳内がスパークしちまった。
なまじ喋れちまうと、英語の勉強が疎かになっちまう。
そうした隙に付け込んで来るのが魔物なんだ。
奇声を上げた体育会系の男は、机に何度も頭を打ち付けた。
「駄目だ。医務室へ運ぼう」
額が割れて大出血を起こしてる。これは一種のサバイバルと思っていい。
サバゲかァ。中学以来やってねーなァ。サバゲは単に戦争ごっこじゃねーんだ。
あのゲームは基本的に、攻めたいやつと守りたいやつに分かれる。
だいたい電動ガンの射程は三十メートルだけど、中にはカスタムした狙撃銃で、
百メートル近く離れてるのに狙って来るやつもいるからなァ。
「気分が悪い人はいませんか?」
試験官が訊ねると、数人が蒼い顔をしながら手を挙げる。
ここでリタイヤしても、まだ来年があるってもんだぜ。
怪我したりしねー内に諦めるのもいいかもしれねーなァ。
- 356 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/04(火) 22:49
- 「大事にならない内に棄権された方がいいですよ」
その通りだ。私もそう思うし、こっちはそれだけ倍率が減って嬉しい。
ケアレスミスさえしなけりゃ、この問題なら大丈夫だと思う。
数学じゃノープロブデム。英語で一問だけ迷ったのがあった。
後は理科さえ何とかなれば、魔物なんて怖くも何ともねーや。
「ふう・・・・・・」
それにしても、かなり人数が減ったなァ。
『蒲田行進曲』でも階段落ちを立候補したのは、
呑み込みのヤスさんだけだったわけだしよ。
命にかかわる事だったら、誰だって尻込みするよなァ。
今回、この会場に来ている受験生の多くも、
東京医科歯科大の試験会場の噂は聞いてるだろう。
四年前の受験は最悪で、都電に身を投げたやつもいた。
圭織さんも魔物に魅入られて、精神を壊しちまった。
「少しだけ窓を開けて貰えますか?」
息苦しさを感じたのか、受験生の一人が言った。
そうだ。窓を開けりゃ、少しは重い空気も解消されそうだし。
新しい空気を入れるだけで、いくらか気分的にも違うもんだ。
「規則ですので開けられません」
規則だァ? そんなもんは前例が出来ちまえばOKなんだっての!
しかし、何で窓くれー開けねーのかなァ?
・・・・・・そうか! 気が変になって飛び降りるやつがいるからだ。
- 357 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/04(火) 22:50
- 「時間です。鉛筆を置いて下さい」
よっしゃー! 数学と英語は手応えがあったぜー!
さて、伸びでもして、咽を潤しにでも行くかなァ。
入口んとこのロビーに、ダイドーの自販機があった。
缶コーヒーでも飲むかな。ビター味のがいいや。
さてと、コーヒーコーヒーっと。
「冷たいやつはあるかなァ」
私はルンルン気分で財布を持って一階に降りて行った。
すると、救急隊のストレッチャーに乗せられて、
心臓マッサージされながら運ばれて行く受験生がいる。
こいつは久し振りに心肺停止なんて重症患者を見たなァ。
「早くしろゴルァ!」
自販機の前では、とろ臭そうな女が突っ立ったまんまで選んでる。
こうした自分の事しか考えねーやつがいるから女が馬鹿にされるんだ。
・・・・・・普通は決めてから買うだろう。常識的に考えてよ。
まだかよ。まだ決まらねーのかよ! イライラするなァ。
「決めてから買えゴルァ!」
私は迷惑な女を押しのけると、冷たいビター味のコーヒーを買った。
これだけとろ臭いやつなら、会場内の重い空気なんて感じねーだろうなァ。
しかし、医師ってのは慎重にて大胆じゃねーといけねーんだ。
自分の眼の前しか見えないやつなんか医師には向かねーっての。
でも、こうした図太いやつが生き残るもんなんだよなァ。
- 358 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/04(火) 22:50
- 「美味い!」
火照った身体に冷たいビター味のコーヒーは格別だ。
出来ればビールでも飲みてーとこだけど、まだ試験中だからなァ。
このコーヒーがエビスビールだったら、どれだけ美味い事か。
さて、理科が終われば試験は終了。どこかの寿司屋で一杯やりてーなァ。
「うへっ! 二階は空気が違うよ」
ただでさえ重苦しい空気が輪をかけてる感じ。
私は自分の席に着きながら英語を側頭葉の奥に仕舞い込み、
その代わりに理科を引っ張り出して来た。
生物に物理、それから化学だったっけかなァ。
あれ? 何となく地学が引っ掛かってるぞ。
何で試験に出ねー地学なんかが引っ掛かってるんだァ?
「もしかして・・・・・・」
そういえば、平家のみっちゃんが地動説を出題したっけ。
でも、天動説って地学か? 天文学じゃねーのかァ?
まァ、どうだっていいんだけど、コペルニクスだったよなァ。
相対性理論がアインシュタインで核融合を理論化した人。
重水素と三重水素一グラムで、石油八トン分のエネルギーだったよなァ。
「化学反応させるには・・・・・・」
比較的安定した重水素と三重水素を化学反応させるには、
高温のエネルギーでプラズマ化させる必要があるんだな。
そのためにプルトニウムを使うのが一般的な核兵器だっけ。
- 359 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/04(火) 22:51
- 「火薬でプルトニウムをプラズマ化させて、重水素と三重水素を化学反応させる」
つまり、火薬が起爆剤になって、プルトニウムが雷管代わりになるんだ。
すっかり旧式化したトマホーク一発でも、広島型原爆の数十倍の威力がある。
しかし、数百キロ離れた場所を狙って、誤差が数メートルだっていうんだからなァ。
地形解析センサーとプログラム、衛星からの情報で驚異的な命中率を成功させた。
もっとも、最近の巡航ミサイルは、途中で敵陣を攻撃しながら最終目標に命中する。
要するに巡航ミサイル母艦が、小さな巡航ミサイルを発射しながら目的地に向かう。
しかも、トマホークと違って、恐ろしい速度で飛行するから迎撃も難しいそうだ。
全くアメリカって国は恐ろしい兵器を開発するもんだなァ。
「では、時間ですので席に着いて下さい」
試験官も慣れてるっていうか、もうこの空気が普通だと思ってるみてーだ。
私にも弱点があったなら、きっと圭織のようになっちまうだろうなァ。
数学なんてのは戦車みてーなもんで、私がAH-64(アパッチ)ってとこだろう。
対戦車攻撃ヘリに勝てる戦車なんて、そう滅多にはいねーもんだぜ。
けど、理科となると、まさか戦車対AH-64なんてわけには行かねーだろうなァ。
まァ、キングタイガーとシャーマン戦車くれーの差はあるけどよ。
「気分が悪い人は重症にならない内に帰った方がいいですよ」
こいつはマジだぜ。この空気だけでも、気を張ってねーと気持ち悪くなる。
まして、あの窓側のやつなんかマスクしてるけど平気なのかァ?
この試験には学力だけじゃなくて、体力と精神力も要求されるんだからよ。
いくら勉強が出来たところで、この試験会場に棲む魔物というのは、
精神力の弱い部分とか体調の悪さにつけ込んで来るんだよなァ。
もし、私がバレーをやっていないガリ勉だったとしたら、
きっと体力的な部分に魔物が入り込んで来るんだろうね。
- 360 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/04(火) 22:51
- 「それでは始めて下さい」
うっ! いきなり空気が重くなって来たじゃねーかよ!
確かに難しい。こんなに難しい問題なんて、どこの大学でも出してねー。
まずいなァ。このままじゃ、この空気の重圧に押し潰されちまうよォ。
こういった時は、判る問題から解いて行けばいんだったっけ。
物理学・・・・・・最初は現象を証明してたんだけど、最近では理論が先行してる。
すでに人間では出来ない範囲の計算や、物凄く小さな物体まで及んでるんだ。
(磁気型記録媒体? フロッピーやテープがそうだなァ)
これらは磁気の距離的変化の応用で記録するんだけど、
かなり古いメディアだと言えるじゃねーかなァ。
最近では光学式のCDやDVD、MO、MDに移ってる。
それというのも、磁気テープは速度が少し変わっただけで、
その記録内容を読み取る事が出来なくなったりするからなァ。
今や家庭内データサーバーでも、テラの領域に達してるし。
(・・・・・・電気ね。直流は簡単)
クルマの配線なんかの場合は、ボディアースの方を太くするのが常識。
水の流れと同じで、逃がす方に余裕を持たせてやるとトラブルが起き難い。
・・・・・・やっぱり交流の問題が出て来たな? 六十ヘルツと五十ヘルツか。
最初に購入したのがドイツ製の発電機とアメリカ製の発電機だからだったよなァ。
モーターなんかは交流のままだと回転数が変わっちまうんだったっけ。
だから、アダプターで直流にしてやるのが一般的な方法なんだよなァ。
そうすりゃ、周波数なんてもんは関係なくなるからよ。
しかし、五十ヘルツも六十ヘルツも、音にしてみたら重低音だもんなァ。
ウーファーのドンドンって音が、これくらいに相当するんだっけか?
- 361 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/04(火) 22:52
- 「うわァァァァァー! 虫だァァァァァー! 虫がいるー!」
何だよ。どうしたってんだよ! いきなり叫びやがって!
もう少しで飛び上がるとこだったぞ。どこにも虫なんていねーだろうがよ!
だいたい、この時期に虫なんているわけがねーだろうが!
虫ってのはなァ。春になって啓蟄にならねーと出て来ねーんだっての!
彼岸過ぎだよ。彼岸過ぎ。それまでは寒くってなァ。
「何かやってるだろ? 覚醒剤っぽいな」
試験官が抱え上げると、そいつは焦点の定まらない眼をしてた。
覚醒剤? 覚醒剤を使うなんてドーピングじゃねーか!
っていうか、覚醒剤なんて使っただけで犯罪だろうがよ!
私も家が病院だから抗生剤とブドウ糖の点滴を受けたけど、
これは頼めばどこの医者でもやってくれる事だからね。
しかし、これじゃまるで金八先生の丸山修みてーじゃんか。
戦後は『ヒロポン』っていって、あちこちで手に入ったそうだ。
そりゃそうだろうなァ。覚醒剤とモルヒネってのは戦争の必需品。
それこそ武器・弾薬・薬剤って言われたくれーだからよ。
「虫だァァァァァー!」
ったく覚醒剤中毒野郎が! いくら寝ないで勉強したってなァ。
覚醒剤で頭の方がいかれちまったら終わりじゃねーか。
受験なんてもんは最終目標じゃなくて、あくまで通過点なんだ。
それを教えない大人が悪い。子供は親の見栄の道具なんかじゃねーんだ。
だけど、幻覚まで観るようになると、かなり重症らしいからなァ。
長期間に渡って治療しねーと、フラッシュバックを起こす事がある。
麻薬・覚醒剤・シンナー。みんな人格を崩壊させるものだ。
- 362 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/04(火) 22:52
- 「外へ連れ出そう」
試験官達は慣れた手付きで、幻覚の虫を払う理科系の顔したやつを連れ出した。
いくら寝ないで勉強しても、本番で幻覚を観ちまったら終わりじゃねーか。
そういえば、大麻取締法・覚醒剤取締法・麻薬取締法ってみんな違うんだったっけ。
大麻(マリファナ)は大麻を乾燥させたものだから、一番罪が軽いんだったよなァ。
でも、同じくトリップしちまう麻薬は、かなり罪が重いんだから面白い。
(ベトナム戦争は覚醒剤とモルヒネ、阿片の戦争だったって聞いたなァ)
それにしても、理科系の大学を受験するやつって、本当に眼鏡してるのが多い。
それは男女共通で、七割は眼鏡をかけてるみてーな感じがするなァ。
とにかく芸術系と理科系の男は、かなり危ないやつが多いって話だ。
ポケモンでも、ちょっと危なそうな理科系の男が出て来るもんなァ。
(ムンクはロリコンだったし、エジソンやアインシュタインも紙一重ってか)
いけない! 時間のロスだ。ここは集中しなけりゃいけねーところだ。
とにかく平常心。平常心さえ保っておけば大丈夫。・・・・・・なはずだけど。
こんな事なら般若心経でも写経して精神集中するんだったな。
(くっ! また重い空気が充満して来やがったぜ)
しかし、この重圧ったらねーぜ。負けるか! 負けてたまるかゴルァ!
私はバレーボールで根性と体力を培って来たんだ。誰が負けるか!
貧しい家の次男坊が無医村に骨を埋めるなんて、そんな奇麗事がどうした!
この東京医科歯科大は、そんな人材を集めてるわけじゃねーんだ。
これからの医学界を背負って行く優秀な人材を集めてる。
私は負けない! 誰のためでもねー。自分のために!
- 363 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/04(火) 22:53
- (へっ?)
精神を集中させて行くと、何かが吹っ切れた気がした。
それは音速の壁を超えた時のソニックブームのようで、
それでいてどこか懐かしさのある匂いがするようだった。
戦闘機で音速を超えるとエンジンが後ろに付いてるから、
聞こえて来るのは風を切る音だけだって話。
(私は今、限界を超えたのかなァ)
そんな事が頭の片隅に浮かび上がって来る。
でも、決して魔物にとり憑かれたわけじゃねーみてーだ。
これが仏教用語で言う『無心』って事なのかなァ。
これまでネットリと身体に纏わり付いていた空気も、
全く気にならないでスラスラと問題を解いて行ける。
もしかしたら、私は『試験』と融合したのかもしれない。
(魔物は自分の中に棲んでるんだ)
そういえば、なっちが言ってたっけかなァ。
『勉強なんて苦しんでやるもんじゃないんでないかい?』
そうだよなァ。私は苦しみ抜いて勉強したわけじゃない。
私はなっちと二人で楽しみながら勉強をしたんだった。
(だったら試験も楽しまなきゃなァ)
判り切った問題に全力で集中しながら解くのは、
DQの世界でスライムにイオナズンをするくれー無意味で楽しい。
武闘家さんよ。頼むから『はぐれメタル』に『会心の一撃』をしてちょうだい。
- 364 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/04(火) 22:56
- 今日のところは、これにて失礼致します。
東京医科歯科大受験は、よっCにとって通過点です。
これからが、本当の悲劇の始まりです。
また近日中に更新致します。
稚拙な物語ですが、どうぞ暖かい眼で見守ってやって下さい。
- 365 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/10(月) 10:37
- 〔兵(つわもの)どもが夢の後〕
自分では試験と融合して楽しんだつもりなんだけどなァ。
私は体力と精神力を使い果たして、三日間も寝込んじまったんだ。
東京医科歯科大の受験自体は、私にとって通過点に過ぎないんだけど、
その疲労たるや生半可なものじゃねーっての。
二日目は昏睡状態で、オヤジが心配してブドウ糖の点滴をしたくれーだ。
「ふう、腹が減った」
四日目になって起き出した私は、冷蔵庫に入ってたソーセージを齧る。
一緒になって冷えてた白ワインを飲みながら、身体が癒えて行くのを感じた。
ソーセージを齧りながら、ソファに座って白ワインをラッパ飲みしてみる。
手応えは充分にあったから、きっと合格通知が来るだろうなァ。
御茶ノ水にある東京医科歯科大へ、私は六年間も通う事になりそうだ。
御茶ノ水といえば、中古楽器のメッカだったっけかなァ。
あれも暴利というか足元を見るというか、定価の一割で買い取って、
売値は定価の半額という凄まじいものだったっけ。
最近じゃそんなに暴利を貪る店は少なくなったみてーだけど。
「よっC、もう大丈夫なんだべ・・・・・・また飲んでる!」
「えへへへへ・・・・・・。頑張った自分へのご褒美だよ」
なっちは四月から始まる院内学級の事で大忙しだった。
卒論にも文句が付けられなかったようで、無事卒業出来そうだなァ。
なっちは学習障害児への教育が主になるみてーだから、
私は普通の子に勉強を教えながら時間給を貰うとするかなァ。
中坊や高坊の数学の勉強なら、私は自信を持って教えられる。
それというのも、なっちのお陰なんだけどね。
- 366 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/10(月) 10:37
- 「あんまり飲むんじゃないべよ」
「へいへい。半分で止めておくよ」
新館がオープンすると、実に五十人もの子供が移転して来る。
その中だけでも学習障害児が十人もいるという事で、
ボランティアからケースワーカーまでもが受け入れ準備に東奔西走してた。
難病と戦いながらも一生懸命に勉強する子って、物凄く応援したくなる。
どんな子供達が来るのかなァ。今からワクワクするぜ。
なっちは私の対面のソファに座ると、疲れたように溜息をつく。
「ふーっ! ようやく一休みだべさ」
「で、どうよ。院内学級の方は」
「もう、院内学級のレベルを超してるっしょ」
オヤジも子供達の症状に合わせて各方面から医師を集めてたし、
アレルギー専門医に小児科部門の統括を任せる事にしたらしい。
アレルギーは現代病だなんて言われてるけど昔からあったんだ。
そうした事が判らなかった時代には、子供の死亡率が高かった。
今や少子高齢化時代だからよ。子供は大切にしねーとなァ。
もっと子供を育てる環境が整えば、出生率が上昇するだろうに。
「学習障害って具体的にどういった感じなの?」
「ケース・バイ・ケースだべね。トム=クルーズも一種の学習障害っしょ?」
そういえば、あのイケメン俳優も台本を読めねーっていうじゃねーか。
そういった障害者の話だとダスティン=ホフマン主演の映画もあったっけかなァ。
何て題名だったか忘れたけど、小銭が床に散らばって、その金額をピタリと言い当てる。
有名画家(貼絵が有名)の故・山下清も、確か知的障害を持ってたっけ。
何かに劣ると何かに優れる。人間って案外そんなもんなのかもしれねーなァ。
- 367 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/10(月) 10:38
- 「それで、スタッフは何人になるの?」
「看護師が二人、ケースワーカーが一人、ボランティアが三人」
合計七人でスタートするらしいけど、まだ何もかも模索中らしい。
そりゃそうだろうなァ。院内学級だって珍しいってのによ。
一応、院内学級の時間は、回診時間を考えて午前十時から正午までと、
午後一時から五時まで、夕方は午後六時から八時までって事らしい。
オヤジや市議・都議の一部が東京都の私立中高にかけ合って、
院内学級でも単位が取れるように交渉してる最中だそうだ。
「学校からの要望もあるわけだろ?」
「これが嫌ってほど多いべさ」
院内学級カリキュラムの提出や定期的な生徒のノート提出。
そして教師免許を持つなっちの責任下による中間・期末テスト。
要するに私学では準通信制にしたがっているんだ。
何しろ前例の無い事ばかりだし、学校側も困惑してるらしい。
都立高校の単位に関しては見送られるらしいけど、
来年度からは認められる可能性が高くなりそうだ。
しかし、役所ってとこは本当に対応が遅いんだよなァ。
「ったく、教育者なんてロクなもんじゃねーな」
「なっちも教育者の端くれだべさっ!」
「アハハハハ・・・・・・。じょ、冗談だよ」
いけね! なっちも教育学を専攻した『先生』だったっけ。
でも、障害児教育でどれほどの効果が出るのかなァ。
だって、親の方が先に死んじまうのが順序ってもんだろ?
これから成年後見人制度が普及するなんて言われてるけどよ。
- 368 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/10(月) 10:39
- 「そういえば、美貴ちゃんは決まったんだべかねえ」
美貴ちゃんは大学センター試験を受ける事が出来なかった。
だから、センター試験の成績が関係ない大学になっちまう。
今のところ、ほとんどの大学がセンター試験の成績を重視してるからなァ。
美貴ちゃんの事だから、きっとどこかの大学に滑り込んでるとは思うけど。
「オレもそれを心配してたんだよ」
このところ、美貴ちゃんのケイタイに電話してもメールしても応答無し。
辛うじて梨華ちゃんだけが、幾らかの連絡をとる程度だった。
私は聖ダルセーニョ学園高等部美少女四人組の一人として、
美貴ちゃんの事が心配でならなかったんだよね。
「ちょっとデリケートな問題だべね」
「うん」
デリケートもデリケート。迂闊に聞ける話じゃねーっての。
もし、どこの大学も受かってなかったら、美貴ちゃんを傷付けるだけだし。
美貴ちゃんはプライドが高いから、人に同情されるのを嫌がるだろうし。
・・・・・・そうだ! ごっちん! ごっちんがいたじゃねーかよオイ!
「なっちさん。ごっちん経由でそれとなく聞いてみようか」
「そうだべね。元々、美貴ちゃんはごっちんと仲良しだったんっしょ?」
そうだったよなァ。二年生までは別のクラスだったわけだし。
三年生になってから、何となく仲良くなったんだったっけか。
梨華ちゃんが学級委員で、出来もしねーのにクラスをまとめようとして、
美貴ちゃんとごっちんが協力する形になったような記憶があるぞ。
- 369 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/10(月) 10:39
- 「こうなったら『膳は急げ』と・・・・・・」
「『膳』じゃなくて『善』だべさァァァァァー!」
へっ? 『膳』じゃなかったの?
急いで食事を持って行かないと怒られるって意味じゃなかったんだ。
私はこれまで、そのように解釈してたんだけどなァ。
ま、まァ、理数系なわけだし・・・・・・。アハハハハ・・・・・・。
「もしもし。ごっちん?」
〈よっC? どうしたの?〉
うわっ! 電話したのはいいけど、物凄く聞きづらいなァ。
でも、相手が美貴ちゃん本人ってわけじゃねーし、
ごっちんはどこかいっちゃってるから、そんなに緊張しなくても。
まずは深呼吸してから、それとなく声を作って心配そうに。と。
「美貴ちゃんの件なんだけどさ」
〈・・・・・・かなりショックだったみたいよ〉
「あの・・・・・・何て言うか・・・・・・その・・・・・・」
〈大学は全滅。専門学校に行くらしいけど詳しくは聞いてないの〉
「そうかァ・・・・・・」
電話に耳を付けて聞いていたなっちも、ごっちんの話に溜息をついた。
それから少し話をしてから、やりきれなくなった私は電話を切った。
辛いだろうなァ。悲しいだろうなァ。口惜しいだろうなァ。美貴ちゃん。
やっぱり同情しちまうし、美貴ちゃんが心配だよ。だって友達だもん。
大好きななっちと一緒に居たって、どうも口数が少なくなっちまう。
本来、私はいくら女の子でも、それほど饒舌に喋る方じゃねーし。
ごっちんと私は、どっちかっていうと聞き役って事が多かった。
- 370 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/10(月) 10:40
- 「何とか・・・・・・何とか励ませられねーかなァ」
「・・・・・・難しいとこだべさ」
確かに難しいとこなのは承知してる。
だけど、友達として何かしてやりてーじゃんか。
何も出来ねーのは、こっちの方も辛いんだよ。
何かいいアイデアはねーのかよ。アイデアは。
「梨華ちゃんに相談してみようかなァ」
「なっちは放っておいた方がいいと思うべよ」
なっちが言うのも判るけど、どうも私はO型なんだよなァ。
行動力・野性的勘が働くO型。大雑把なO型。ってちげー!
私は白ワインを一口飲むと、早速梨華ちゃんに電話してみた。
こうした状況を意外に打破出来るのが梨華ちゃんなんだよなァ。
もっとも、ほとんどが笑って誤魔化すんだけどね。
「梨華ちゃん。美貴ちゃんの件なんだけど」
〈・・・・・・よっC、あたしって罪な女なのねぇ〉
「はァ? 何を言ってるわけ? オレは美貴ちゃんを励まそうと・・・・・・」
〈話があるのぉ。いつだったら逢えるぅ?〉
何となく梨華ちゃんまでブルーになってるじゃねーかよオイ。
別に明日だっていいけど、出来ればもう少しだけ休みたい。
私はあの試験会場の重苦しい空気に、すっかり中てられちまった。
あの会場で何とか最後まで試験を乗り越えた連中も、
きっと私と同じようになってるんだろうなァ。
とりあえず、今日は寝たり起きたりして、
明日は病院で向精神薬とブドウ糖でも点滴して貰おう。
- 371 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/10(月) 10:41
- 「ちょっと疲れてるから、こっちから連絡するよ」
〈判ったぁ〉
梨華ちゃんは少しブルーになってるくれーが丁度いい。
あまりハイテンションだと、あのアニメ声が耳に障るからよ。
これまで何度も、首でも絞めてやろうかと思ったし。
あれで親友じゃなかったら、きっとヤキでも入れてるだろうなァ。
私は電話を切ると、一気に半分くれーまでワインを飲んだ。
「よっC! 昼間っから!」
「いいじゃんかよォ! 受験は終わったんだから」
「合格通知が来るまでが受験なんだべよ!」
まるで小学校の遠足みてーだなァ。
家に帰るまでが遠足。だなんて校長先生が言ってたっけ。
しかし、今はほとんどがバスなのに、何で遠足なんて言うんだろう。
まァ、最近ではよく『足は?』なんて言葉があるけど、
バスが足の代わりなのかもしれねーなァ。
昔は二本足だったけど、今は四本のタイヤが足ってか。
「判ったよ! もう寝る!」
私はワインにコルクで栓をして冷蔵庫に入れた。
それにしても、本当によく眠れるものだと感心しちまう。
これだけ眠ったのは、赤ん坊の頃以来じゃねーかなァ。
これまでフル回転してたPCが、ようやくデフラグするって感じだ。
私にはちょっとメモリオーバーなとこがあったからね。
側頭葉のHDDも、一時ファイルの削除や古いファイルの圧縮をしねーと。
人間が夢を観るってのも、そうした記憶のメンテナンスらしい。
- 372 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/10(月) 10:41
- 結局、美貴ちゃんは大学は尽く玉砕したらしい。
そりゃそうだろうなァ。センター試験を受けてねーんだからよ。
得意な学科がキリスト教概論じゃ、どこの大学も敬遠しちまうよ。
大学が駄目でも、専門学校だって選択肢はあるわけだしね。
これからでも専門学校へ行く事だって不可能じゃねーよなァ。
これからはコンピュータに詳しいといけねーから、
情報処理の専門学校なんていいんじゃねーのかなァ。
「もしもし、梨華ちゃん? 卒業旅行なんてどうかなァ」
美貴ちゃんを慰める意味でも、卒業旅行なんていいんじゃねーかなァ。
伊豆高原あたりのペンションなんて、どうせ閑古鳥が鳴いてるんだからよ。
今からでも余裕で予約が取れるってもんだぜ。まじな話。
どうせ伊豆高原あたりじゃ、城ヶ崎海岸くれーしか見所がねーし。
〈よっCはいいわよぉ。でも美貴ちゃんは全滅なのよぉ〉
「だから、それを慰める意味でさ」
私と梨華ちゃんの話は最後まで並行線だった。
梨華ちゃんは美貴ちゃんの事を考えて、そうした事は自粛。
私は少しでも元気になって貰いたいから、企画実行派なんだよね。
確かに女の子の浪人は格好悪いけど、問題は大学で何を学ぶかだ。
「ごっちんに話してみて、旅行に行きたいっていうなら即実行だからね」
ごっちんは美貴ちゃんを一番よく知ってる人物だよね。
そのごっちんが、どうすればいいのか一番よく判るってもんだ。
普段は少しいっちゃってるごっちんでも、たまに正気に戻るからなァ。
きっとごっちんなら、卒業旅行に賛成するだろう。
- 373 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/10(月) 10:42
- 〈それより、聞いて欲しい事があるのぉ〉
また梨華ちゃんは、面倒な事を言って来るんだろうなァ。
梨華ちゃんと関わると、ったくロクな事にはならねーからよ。
ここは遠まわしに断るのが最良の方法だろうなァ。
謝恩会で何かさせれらるのも嫌だし、逃げておくのがいいだろうね。
「とりあえず、ごっちんに電話してみるから。じゃあね」
あのアニメ声に付き合ってたら、こっちまでヲタ気分になって来る。
まァ、梨華ちゃんとは腐れ縁だから仕方ねーんだけどよ。
いっその事、男でも出来てくれた方が、こっちとしては楽なんだよなァ。
私としても、滑り止めの西海大と南里大が合格しちまってるから、
後は東京医科歯科大の結果待ちって事になる。
別に忙しくはねーんだけど、梨華ちゃんとじっくり話す気にはなれなかった。
「もしもし、ごっちん?」
私はベッドに横になり、リラックスした体勢で話を始めた。
ごっちんに卒業旅行の事を話すと、大筋で賛成はしたんだけど、
やっぱり美貴ちゃんの事が引っ掛かってるみてーだった。
やっぱり美貴ちゃんの進路が決まらない内は、浮かれない方がいいみてーだ。
「それじゃ、美貴ちゃんの進路が決まったらにしようよ」
これから大学によっては二次募集もあるし、専門学校に行くって方法もある。
女の子が五人くれーならこの時期、土日でもねー限りは当日でも宿は取れるだろう。
『家宝は寝て待て』って言う事だしなァ。あれ? 『果報』だったっけか?
まァ、どっちでもいいや。私は医師になるわけだし。アハハハハ・・・・・・
- 374 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/10(月) 10:46
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また、近日中に更新致しますので、どうぞ宜しくお願いします。
- 375 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/15(土) 15:13
- 〔涙の卒業式〕
そろそろ合否の通知レタックスが来る頃だ。
まァ、もし受かってなくても西海大学や南里大学があるし。
私の『戦争』は終わったんだから、静かに結果を待っていればいい。
もし、東京医科歯科大に受かってたら、圭織さんに逢いに行こう。
出来れば石黒先生と一緒に、圭織さんのリベンジが成った事を報告に。
「吉澤さーん。電子郵便、レタックスでーす」
私がパジャマ姿で新聞を読んでると、チャイムの音と人の声がした。
昔は電報だったけど、今は全国ネットを利用したファックスの配達、
つまりレタックス(電子郵便)が主流になってるんだったなァ。
確か電報は字数で値段が決まるんだったっけか?
「はーい」
私が玄関のドアを開けると、危なそうな中年の郵便屋が立ってた。
いきなり襲い掛かられた時の事を予想して、私は真鍮製の靴べらを持つ。
靴べらは薄いから殴っても効かないけど、これで突いたらかなり痛い。
脇腹か肩甲骨に一撃を入れてやれば、かなりの確率で戦意を喪失させられる。
ヘルメットを被ってるから頭への攻撃は無意味になっちまうなァ。
蹲ったところを顎でも蹴り上げてやれば、きっと昏倒しちまうだろう。
「ひとみさんにレタックスです。・・・・・・可愛いなァ」
こ、このエロオヤジ! 舐めるように私を見やがって!
うげげー! 何となくノーブラだったような気がするぞ。
これって、もしかしてセクハラなんじゃねーのかァ?
- 376 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/15(土) 15:14
- 「み、見るな!」
「ごめん。俺はキティちゃんが好きでさー」
・・・・・・! そういえば、このパジャマは誕生日に梨華ちゃんから貰ったやつだ。
何だ。このオヤジはキティちゃんを見て『可愛い』って言ったのか。
てっきり、私のノーブラの胸でも見て言ったのかと思ったぜ。
躊躇して良かった。もう少しで、郵便屋に怪我さすとこだった。
「うちの娘にも買いたいんだけど、ここらじゃ売ってないんだよね」
「そうだろうなァ。多摩センターにでも行けば売ってると思うけど」
サンリオピューロランドなら売ってるんじゃねーのかァ?
確か梨華ちゃんも、多摩センターで買ったような事言ってたし。
私は自分が勘違いしちまって、少し恥ずかしかった。
レタックスを受け取ると、謝罪の意味も込めてニッコリ微笑んでやった。
「では、失礼しまーす」
「ごくろうさ・・・・・・」
郵便屋の後姿を見た私は、そこで声が止まっちまった。
なぜなら、颯爽と赤バイクに向かう郵便屋のヘルメットの後頭部に、
大きなキティちゃんのシールが貼ってあったから。
あいつ、本当は自分が着たいんだろう。私はそう思った。
「おおっ! 東京医科歯科大からじゃねーか!」
私はレタックスを開けると、中にある紙を取り出した。
広げてみるとA4の紙で、そこには合格者の受験番号が印刷されてる。
私の受験番号は『05020122』だったっけかなァ。
- 377 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/15(土) 15:14
- 「0502・・・・・・」
恐らく『05』ってのは二〇〇五年の意味だろーなァ。
次の『02』ってのは、代々木の試験会場名だったはず。
うへっ! 代々木からは四人しか合格者がいねーのかよォ!
こいつはいくら私でも駄目だったろうなァ。
まァ、あの空気で壊れなかっただけ良しとするかァ。
「05020109・・・・・・05020122・・・・・・。へっ?」
待てよ。私の部屋に受験番号の控えがあったっけ。
そいつと照合してみねーとなァ。
ここには確かに『05020122』ってあるけど、
もしかすると、西海大や南里大と混同してるかもしれねー。
自然と階段を駆け上がる私。・・・・・・いてっ! 脛ぶつけた!
「05020122、05020122」
私は部屋の壁に画鋲で止めた受験番号と照合してみる。
05020122だよな。05020122だよ。
これはきっと合格。・・・・・・合格? ま、まじだぜ!
「やったァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァー!」
私はレタックスを握り締め、快晴の三鷹市中に吼えた。
東大の医学部に次ぐ東京医科歯科大学医学部だぜェ!
オヤジみてーな三流大学じゃねーぞゴルァ!
無いとは思うけど将来的に国会議員に立候補した時だって、
学歴に正々堂々と『東京医科歯科大卒』って書けるじゃねーか。
- 378 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/15(土) 15:15
- 「よっC! どうしたべさァァァァァァァー!」
なっちが転がるように・・・・・・いや、ほとんど転がりながらやって来た。
その後に続いてオヤジとオフクロ、ケースワーカーの丹羽さんまでが。
気が付いたら私はなっちを抱き締めて思い切り振り回してた。
もし、なっちがいなけりゃ、私は東京医科歯科大どころか、
どこの大学にも入れなかっただろうなァ。
「合格! 合格したよ! 東京医科歯科大!」
「やったな、ひとみ。おめでとう」
「うわァ、おめでとうございます!」
「どうでもいいけど、なつみちゃん白目剥いてるわよ」
「あ」
私が渾身の力で抱き締めて振り回したせいで、
なっちは呼吸が出来なくて白目を剥いて痙攣してた。
オフクロは苦笑しながら、なっちの背中に膝を当てて活を入れる。
するとなっちは正気に戻り、驚いたように周囲を見回した。
「なっちさん、大丈夫?」
「合格・・・・・・したんだよね?」
「なっちさんのお陰だよ」
興奮して涙目になった私に、なっちは満面の笑顔で何度も頷いた。
そんな私の感激をよそに、オヤジは大喜びで電話をしまくった。
そして寿司を取れだのお頭付きの鯛を注文したりと大騒ぎ。
なっちは忙しい時間を割いて、私のために赤飯を炊いてくれた。
私は勝ったんだ。東京医科歯科大受験という強敵に。
感無量と言いたいとこだけど、今日は大っぴらに酒が呑めるぞ!
- 379 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/15(土) 15:16
- それから数日して、卒業式で久し振りにみんなと逢った。
相変わらずベタベタして来る梨華ちゃんとマイペースごっちん。
だけど、美貴ちゃんはまるで人相が変わっちまった。
眼の下に隈を作り、数キロ先の針の穴を見詰めるような眼をしてる。
やっぱり、受験全滅がショックなんだろうなァ。
私は何て声を掛けていいのか判らなかった。
「吉澤ァァァァァァァァー!」
「げげー! 石黒先生!」
どうも、このおばさんだけは苦手なんだよなァ。
裕ちゃんやみっちゃんも怖いけど、石黒先生みてーな迫力はない。
あの保田先生に平気で裏拳を入れる恐ろしさったらなかったぜ。
個人的には優しいお母さんって感じなんだけどね。
「東京医科歯科大、合格おめでとう」
「ありがとうございます!」
私がペコリと頭を下げると、石黒先生は抱き締めてくれた。
そうだった。圭織さんにリベンジ成功の報告がまだだった。
石黒先生とそんな話をしてると、裕ちゃんが私を呼びに来る。
薄暗い学園長室に通され、焼銀杏と一緒にソファに座らされた。
「よくやったねえ。君達は聖ダルセーニョ学園の誇りだよ。アハハハハ・・・・・・」
いきなりハイテンションで入って来た学園長の北村に、
油断していた私達は驚いて悲鳴を上げそうになった。
そうか・・・・・・。国立に受かったのは私と焼銀杏だった。
そんなに喜んでくれるなら、まァ、悪い気はしねーなァ。
- 380 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/15(土) 15:17
- 「私は日本司祭連盟東京支部長だからねえ。
アハハハハ・・・・・・。君達に『シスター』の称号を与えちゃうから」
そういえば、うちの学校はカトリック系だったっけか。
その『シスター』ってのは、どのくれー偉いもんなのか?
直訳すると『姉妹』って意味だけど、私に姉妹はいねーよ。
キリスト教概論なんて、ほとんど睡眠時間だったしなァ。
特に数学の次の時間だったりすると物凄くよく眠れた。
石黒先生の授業の後だと、一気に神経の糸が切れちまうんだよなァ。
(よォ、焼銀杏。『シスター』ってのは偉いのか?)
(修道女。つまり、神に仕える立場って事)
どうやら、カトリックでは教会で働ける立場って事らしい。
俗に言う尼さんってわけだ。尼さんに萌える危険なやつも多い。
まァ、『シスター』なんて仏教でいえば、寺の小坊主ってとこだろう。
もっと偉くなると『マザー』の称号が与えられるらしい。
そういえば、マザー=テレサって婆さんがノーベル賞を貰ったっけ。
もはや『マザー』っていうより『グランドマザー』だったけどよ。
見た感じ皺くちゃの婆さんで、限りなく神に近い立場だったみてーだ。
「吉澤君には『クリス』福田君には『マリー』の洗礼名をあげちゃうよ」
そんなもんいらねーよォ! 洗礼するならカネをくれ!
って、何となくロリ顔の女優みてーな台詞だなァ。
・・・・・・だからシルバーのロザリオなんていらねーよォ。
せめてプラチナだったら高く売れるだろうに。
今の金やプラチナ相場は幾らだったっけかなァ。
一万円だけでも、カラオケで大騒ぎ出来るじゃねーか。
- 381 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/15(土) 15:18
- 「それでは、卒業式に吉澤さん福田さんともに、特別学園長表彰をするからね」
表彰するならカネをくれ。表彰するならカネをくれ!
卒業式で表彰されたとこで、私は嬉しくも何ともねーんだ。
第一、私は三年間皆勤賞だから、それだけで表彰されるはず。
だから、表彰なんかいいから何かくれってーの!
「学園長、オレは辞退します。大学全滅した子だっているんだから」
「偉い! 吉澤ひとみ十八歳! 私は今、猛烈に感動している!」
感動でも何でもしろよ。このイカレジジイが!
特別表彰もいらなけりゃ、その『シスター』ってのもいらねーや。
またジンバブエドルでいいから金一封くれっての!
そうすりゃ、美貴ちゃんを励ますために使えるじゃねーか。
「学園長。『特別学園長表彰』じゃなくて、『特別表彰』にしたらどうですかね?」
「それじゃ私の立場はどうなっちゃうのよ。副学園長」
「では、『特別学園表彰』ではどうでしょう」
学園長と副学園長との論議の間に、私達は裕ちゃんやみっちゃん、
ピーチや保田先生達に撫で回されて祝福された。
特に東京医科歯科大の重圧に耐えた私に、みっちゃんは涙目になってた。
みっちゃんも東京医科歯科大の重圧を、きっと石黒先生から聞いてたんだろう。
「ほんま、よくやったな」
私も頑張ったけど、やっぱりなっちの力が大きいよ。
東京医科歯科大に受かったのは、私となっちの成果なんだ。
喉まで出掛かった言葉を呑み込み、私は笑顔で頷いた。
- 382 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/15(土) 15:18
- 「どうだろうねえ。とりあえず『特別表彰』って事で・・・・・・」
「表彰するならカネよこせ!」
とうとう言っちまった。こいつはヤバイかなァ。
そうしたら、意外に学園長は金一封という事にしてくれた。
だいたい、卒業式なんてのは来賓・迎賓の話ばかりだからなァ。
卒業証書の授与なんてのは教室で担任からだからよ。
それでも私は三年間皆勤賞を貰い、金一封を貰った。
教室で中を見てみると太っ腹だぜ。三万円も入ってたぞ。
「梨華ちゃん、美貴ちゃん、ごっちん。カラオケ行こうよォ」
三万円もあれば、飲んで食って思い切り歌えるじゃねーか。
そのために、私はヤバイと思いながらも学園長に言ったんだ。
表彰するならカネをくれ。・・・・・・こいつは名言だよなァ。
名誉で飯が食えるほど、世の中甘くはねーんだっての。
「やったー! アハハハハ・・・・・・。カラオケ」
ごっちんはすっかりカラオケモードだなァ。
こう来なくちゃ、せっかくカネを貰った意味がねーもん。
嫌な事は忘れて、カラオケでパーッと盛り上がろうじゃねーか。
もう卒業したんだからよ。制服でカクテルくれー飲んでもいいだろう。
三万もあるから、寿司でも取ってガンガン歌おうじゃん。
一人十曲平均で三時間くれーってとこだなァ。
頼むから中島みゆきとテレサ=テンだけは歌うなよ。
中島みゆきは暗いし、テレサ=テンを歌うのは四十代のおばさんだからよ。
昼に入れば三時には終わり。丁度いい時間じゃねーか。
ベロベロになっても、なっちが迎えに来てくれるって。
- 383 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/15(土) 15:19
- 「よっC!」
「・・・・・・美貴は行かない」
美貴ちゃん・・・・・・。どうしたんだよォ。
まさか、私が同情してるのが判っちゃったのかなァ。
でも、いいじゃんか。私は美貴ちゃんが心配なんだ。
梨華ちゃんは私の顔を見ながら首を振った。
「いいじゃん。カラオケ行こうよ」
「放っといてよ!」
・・・・・・美貴ちゃん。そんな顔しないでよ。
私達、友達だろう? 睨まないでよ。
何でだろう。物凄く悲しくなって来た。
私は茫然と立ち尽くしたまま涙が止まらない。
「アハハハハ・・・・・・。カラオケ」
すっかりカラオケモードのごっちん。
でも、眼の前には対照的に私を拒む美貴ちゃん。
そんなに・・・・・・そんなに大学受験失敗がショックなの?
私の気持ちを理解する余裕すら無いっていうの?
「帰る」
美貴ちゃんは人が変わったように、私を睨みつけて教室を出て行った。
オロオロする梨華ちゃんと、カラオケモードのごっちんが滑稽だなァ。
でも、私は立ち尽くしたまま涙を止める事が出来なかった。
良かれと思ってした事が、時に人を傷付けてしまうのか・・・・・・。
- 384 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/15(土) 15:20
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近い内に更新しますので、どうぞ宜しくお願い致します。
- 385 名前:本当にごめんなさい!!! 投稿日:2005/10/18(火) 00:34
- 【ごめんなさい!!!】
私は数人の関係者に駅前の喫茶店に呼び出されました。
いったい、私が何をしたというのでしょうか。
約束の時間に喫茶店に入ると、そこには三人の女性が座っています。
どうやら、なっちとよっC、里田まいちゃんのようでした。
「オウ、ちょっとここに座れや」
「何? 私が何かしたとでも?」
そこへ注文を取りに着たので、私はオレンジペコを頼んだ。
ブレンド紅茶ではあるものの、ダージリンほど当たり外れがない。
氷が入った水を一口飲むと、なっちは困惑した口調で話し出した。
「あんたね。自分でやった事に気付いてるべか?」
「何の事? あたしが何かした?」
私が首を傾げてると、なっちはノートPCを取り出してケイタイと繋ぐ。
そして、事もあろうか飼育白板の『出逢いと別れ』をクリックした。
これは確か私が書いている物語だったような気がする。
いったい三人は私に何を言いたいのだろう。
「ごめん。更新が遅かったね」
「そんなこたーどうだっていいんだゴルァ!」
よっCがテーブルを叩くと、大きな音をたててグラスが宙に浮いた。
何とか倒れずに着地したグラスから、少しばかり水が零れる。
私はこの物語の主人公であるよっCにいきなり怒鳴られて、
驚きながらも零れた水をペーパーナプキンで拭った。
- 386 名前:本当にごめんなさい!!! 投稿日:2005/10/18(火) 00:35
- 「これを見るべさ。『里田まい』ってキャラがダブってるっしょ」
「そんな馬鹿な・・・・・・うげげー! 本当だァァァァァァァー!」
私は事もあろうか、よっCのクラスメイトに『里田まい』がいるのに、
電車の中でチカンに遭う少女も『里田まい』にしてしまっていた。
こんな初歩的なミスをするとは、私もヤキが回ったのか・・・・・・。
どうしよう・・・・・・。いったいどうすればいいんだろう。
「まあ、あたしは脇役だからさ。読者さんの中には気付かない人だっているでしょうよ」
「あうううう・・・・・・。すみません」
「ホントすまねーよ!」
「なっち、あたしどうしたらいいの?」
私には幾つか選択肢がある。まず、このまま放置してしまう。
次に、顎さんに頼んで削除して貰う。また、この際、筆を折る。
そして、何とか言い訳をしながら、更新を続けて行く。
「筆を折るべさっ!」
「ええっ! そんなァァァァァァー!」
「なっちさん。何もそこまでしなくてもいいじゃんか」
「よくないべさ! この偽みっちゃんは『なっち探偵の事件簿』でもやらかしてる」
ま、まずい! このままじゃ、筆を折るか指を詰めさせられるか。
絶対に放置しないと宣言したから、このまま逃げるわけにも行かない。
確かに術後熱で脳みそが湯豆腐になったけど、ここまで自分がアフォだったとは。
里田まいちゃんには、本当に申し訳ない事をした。
うううう・・・・・・。情けなくて涙が出て来る。
こうなったら、セラミックの包丁で割腹自殺するとか。
- 387 名前:本当にごめんなさい!!! 投稿日:2005/10/18(火) 00:36
- 「まいちゃんに謝っても仕方ねーだろう! 読者さんに謝るんだよっ!」
そ、そうだった。とにかく、この失敗を読者の方々にお詫びしないと。
しかし、灯台下暗しっていうのは本当なんだな。
先を考えてたせいか、何気なく里田まいちゃんを使ってしまった。
「読者の皆さん。どうもすみませんでした」
「偽みっちゃんも反省してる事だから、これで手打ちにしようよ」
あうううう・・・・・・。まいちゃんは優しいな。
こんな無能な私に同情してくれるとは・・・・・・。
「うーん、どうだべね。ここは偽みっちゃんも反省してるし、許してくれないべか?」
「そうだなァ。うちのクラスに居たのは『まい』でも倉木麻衣って事で」
「とにかく、今回だけは特別だよ」
「はい。胸に刻んでおきますです」
というわけで、本当にすみませんでした。
今後もこれに懲りず、どうか『出逢いと別れ』を可愛がって下さい。
この物語は某なちよしヲタさんへのプレゼントですから、
ちゃんと校正したものをお贈り致しますので、ご容赦のほどお願い致します。
- 388 名前:名無し 投稿日:2005/10/18(火) 20:19
- 言わなければ気ずかなかったのに・・・
ちなみに自分はなっち探偵の事件簿で柴田さんと平家さんの
間違いを指摘したものです。
- 389 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/23(日) 09:56
- >>388
そうでしたか。その節はどうもありがとうございました。
今回、こんなに長い期間で書くのは初めてでして、一度脳内リセットをして、
それから書き始めようとしたのですが、その時に発見してしまったのです。
なぜバレーボールの場面でまいちゃんを使ったのか、自分でも判らなくなってしまいました。
木曜日から風邪をひきまして、咳と微熱に苦しんでおります。
今日は天気がいいのに外出出来なくて残念です。
- 390 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/23(日) 09:57
- 〔怖い人が迎えに来る〕
空は快晴、ちょっと寒いけど清々しい朝。
だけど、私は生理痛で思い切りブルーになってる。
彼岸も過ぎれば暖かくなるなんて、いったい誰が言ったんだよ。
私は両腰にカイロを当てて、少しでも痛みを緩和させてた。
だけど、この白金カイロってのは大発明品だよなァ。
一度綿に染み込ませたベンジンに火を点けるんだけど、
それは触媒が始まるための起爆剤って理由だけで燃焼させてるんじゃない。
だから、有害なガスは出ないで二酸化炭素と水だけしか発生しねーんだ。
こうしたクリーンなエネルギーは、クルマの触媒なんかにも利用されてる。
たった二十五CCのベンジンで、十二時間も暖かいからスグレモノだぜ。
「ん? 電話だ」
何かの勧誘かと思ったら、駅前の本屋からの電話。
なっちが注文してた難しい名前の本が入荷したとか。
きっと私が読んでも理解出来る代物じゃなさそーだなァ。
受験も終わっちまったから、私はマンガ本ばかり。
マンガだって最近は馬鹿に出来たものじゃねーんだぜ。
世界の名作文学をマンガにしてたりするからなァ。
「しかし、卒業旅行。行きたかったなァ」
私は本屋からのメモをコルクボードに画鋲で刺すと、
リビングのソファに転がってクッションを抱く。
美貴ちゃんが浪人って事になっちまったから、
とりあえず卒業旅行は取り止めって事になっちまった。
まァ、仕方ねーな。私達だけが浮かれてるわけにも行かねーし。
- 391 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/23(日) 09:57
- 「でも、美貴ちゃん。本当に怖かった」
あんな美貴ちゃんを見るのは初めてなんじゃねーかなァ。
その後、すっかりカラオケモードのごっちんを置いて、
私は逃げるように家に帰って来ちまったんだったっけ。
何て言うか、私の言い方がちょっと無責任だったのかなァ。
私は自分が希望校に受かって浮かれてたのかもしれねー。
何とかして美貴ちゃんを励ましたかっただけなんだけどなァ。
「なっちは忙しいしなァ」
なっちを誘って卒業旅行ってのも考えたんだけど、
今のなっちには、そんな時間なんてとても作れそうにない。
朝食こそ一緒に食べるけど、なっちが戻って来るのは深夜。
数百万円も掛けた先行投資は、国と自治体からの補助もある。
これだけ大掛かりな規模の院内学級創設だから、
まさか失敗するわけには行かねーからなァ。
「小休止だべさー」
溜息をつきながら病院から帰って来たなっちは、かなり眠そうだった。
夜遅くまで仕事をしてるから、昼間はたまに居眠りしてる事もある。
なっちが戻って来たから、私は痛い腰を摩りながらコーヒーを煎れてやった。
そういえば、冷蔵庫の中にシュークリームがあったっけかなァ。
疲れた時には甘いものが一番。脳の栄養分である糖質の補給が理想だ。
パリッとしたシューに、甘味を抑えたカスタードと生クリームが入ってる。
こうした美味いものを出すと、なっちは最高に嬉しそうな顔をした。
私もお相伴に与かりながら、シュークリームにかぶり付く。
自分のコーヒーを煎れるのが面倒だったから、なっちのを一口貰った。
- 392 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/23(日) 09:58
- 「どうよ。進んでる?」
何だかいつの間にか話が大きくなっちまって、
院内学級のはずが通学者も受け入れるようになった。
確かに学習障害だけじゃ入院なんて出来ねーしなァ。
学習障害ってのにもランクがあって医師が認定するらしい。
重度の知的障害だと、前頭葉がほとんど活動してねーそうだ。
最低限度の学習能力しか無い子供もいるらしい。
そういった子供を少しでも自立させるのが目的なんだ。
まァ、自立出来ねー大人ってのも最近じゃ多いらしいけどよ。
「うん。何とか四月からスタート出来そうだべね」
なっちは忙しくて、自分の卒業式にも謝恩会にも出られなかった。
クタクタになりながらも、なっちはこれからの仕事に眼を輝かせてる。
五里霧中といったところから、何となく骨格が見えて来たんだろう。
でも、大変なのはこれからだってばよ。何しろ日本で初めてだからなァ。
きっと、医学界や教育界が注目してるんだと思う。
そんな重責を担うのは、まだ大学を卒業したばかりのなっちにはきつい。
だからこそ、総力を挙げて援助体制を組んでるんだよなァ。
「オヤジやオフクロも、何だか物凄く気合が入ってるしなァ」
吉澤病院始まって以来の大事業に、オヤジやオフクロも医学書に眼を通しながら、
入院患者の障害の程度に応じたカリキュラムを考えてた。
柔軟な発想から生まれるアイデアもあって、発育不良の子供には、
小学校を八年間掛けて卒業させるとか、中学に五年間を掛けるというのもある。
義務教育を九年間と決めたのは、あくまで健常者に対してであって、
障害のある子供には、柔軟な対応が求められているんだよなァ。
- 393 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/23(日) 09:59
- 「そういえば、本屋から電話があったよ」
私は転がったまま、コルクボードを顎で指した。
こうした本。っていうか雑誌でも全部病院に領収書を回す。
そんな細々したものでも、節税対策には必要不可欠だそうだ。
何も課税を誤魔化して私腹を肥やすわけじゃねーからいい。
オヤジは稼いだカネで、こうした施設を建ててるんだから。
だいたい老後の不安なんてもんは、ほとんどが医療費なんだ。
政治家連中は自己中だから、テメエの感覚の物差しか持ってねー。
だから年金を削ろうとするわ。医療費を上げようとするわ。
まず、議員年金を廃止してから物を言えってんだよなァ。
「やっと来たべね。夕方にでも取りに行くべさ」
夕方かァ。私も暇だし、ちょっと身体でも動かそうかなァ。
駅まで歩けば二十分だけど、散歩には丁度いい距離だ。
なっちの話によると、矢口さんに紹介して貰った法律の本らしい。
教育に当たって、国が決めたガイドライン等が書かれているそうだ。
障害のレベルによって、どこまで教育出来るのかが試されようとしてる。
これって、もしかすると物凄い事なのかもしれねーぞ。
「なっちさん、散歩がてら一緒に行こうか」
「うん」
そういえば、梨華ちゃんと話をしねーといけなかったっけ。
ついでだから、駅前の喫茶店ででも話を聞いてやるとするか。
なっちと一緒で構わねーのかなァ。私はその方がいいけど。
だって、梨華ちゃんは隙をみせるとキスしようとするし。
ちょっと気を緩めると、顔を近付けてたりするからなァ。
- 394 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/23(日) 10:00
- 「そういえば、梨華ちゃんが逢って直接話したいって言うんだ」
出来ればなっちにも同席して欲しいよなァ。
梨華ちゃんにとって、かなり深刻な話らしいし。
まァ、私は親友だから話を聞いてやるけどよ。
これが他のやつだったら、面倒なんてごめんだぜ。
梨華ちゃんも、もう少しポジティヴになりゃいいんだけどよ。
ったく小学生の頃からマイナス思考なんだよなァ。
「今度は正式に交際を申し込むんだべかねえ」
「無責任な事言うんじゃねーよ!」
私が声を荒げると、なっちは辻みてーに「てへてへ」と笑った。
こうなったら、何が何でもなっちを同席させてやろうじゃねーか。
親友にコクられた身にもなってみろってんだよ!
コクられたならまだしも、いきなりキスされて胸まで触られたんだからよ。
相手が男だったら、間違いなく首を絞めてるとこだったんだぜ。
あの時はサマーランドから町田まで全力疾走した挙句、
崖からまっ逆さまだったしなァ。
「とりあえず、よっCはクルマの免許でも取るべさ」
そうだった。私ももう十八だし、クルマが無いと何かと不便。
いつまでもなっちに運転手させるのも悪いしなァ。
っていうか、これから本格的に院内学級がスタートしたら、
なっちはそう簡単に外へ出られなくなっちまうだろう。
そうなったら、とりあえず私が運転出来ねーとなァ。
まァ、日本車ならベンツの助手席の位置が運転席だし、
車幅の感覚さえ掴めば何とかなりそうだぞ。
- 395 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/23(日) 10:00
- 「そうだね。近くの教習所にでも申し込むかなァ」
「よっCなら一発で受けに行くべさ」
一発? ああ、試験場で仮免取って、路上試験を受けるって事か。
まァ、なっちの横に乗ってたし、それなりの自信はあるんだけどね。
問題は学科試験だよなァ。私は交通規則ってよく判んねーしよ。
・・・・・・待てよ。確かオフクロが先月免許の書き換えで本を貰って来たっけ。
あれで勉強すりゃ、学科は何とかなりそうじゃねーか。
後は仮免の取得か・・・・・・。夜になったら駐車場が空くから練習しよう。
とりあえず、ごっちんに協力して貰わねーとなァ。
確か卒業祝いに、セリカのGTOを買って貰ったらしいから。
よっしゃー! やる気になって来たぞ!
オヤジは私に何のクルマ買ってくれるのかなァ。
「あれ? また電話だ」
それにしても、今日は電話の多い日だよなァ。
普段なら留守って事が判ってるから、電話は病院の方に掛かって来る。
自宅の方に電話して来るなんて、かなり珍しい事なんだよね。
だいたい、こっちの電話番号自体、電話帳には載せてねーし。
お陰で電話のセールスが来ないってのがいいね。
「はい、吉澤です」
でも、どこで調べたんだか、教材のセールスの電話が掛かって来たっけ。
これまでは売り込まなくても売れたものが、少子化で売れなくなっちまった。
だから、とにかく手当たり次第に電話を掛け捲ってアポを取りだがる。
アポなんて取ったが最後、相手は販売のプロだからよ。
何だかんだで売り付けられて終わっちまうんだろうなァ。
- 396 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/23(日) 10:01
- 〈聖ダルセーニョ学園の石黒です〉
「げげー! 石黒先生!」
石黒先生の名前を聞いたなっちは、条件反射で逃げ出そうとする。
その襟首を捕まえながら、私は石黒先生からの用件を聞いた。
やっぱり、なっちは石黒先生が苦手なんだろうなァ。
確かに怖いもん。でも、プライベートじゃ優しいお母さんらしいけど。
〈これから空いてる? 圭織のとこに行こうと思うんだけど〉
「オレは大丈夫っす。なっち・・・・・・安倍さんも空いてますから」
「ちょっとー! 何を勝手に・・・・・・」
〈それじゃ、一時間くらいで迎えに行くね〉
「はい。待ってます」
私が電話を切ると、恨めしそうな顔のなっち。
このところ忙しいのは判ってるけど、たまに昼寝してるの知ってるんだぞ。
本当に忙しくなるのは、来週からだってオヤジも言ってたし。
今は机や電話なんかの搬入が終わって、一段落ついたとこらしい。
なっちとしては、ここらで少し羽根でも伸ばしたいはず。
だから、石黒先生と一緒に相模湖までドライブしようよ。
「何でなっちも行かないといけないんだべさ」
石黒先生と二人っきりでドライブなんて、とてもじゃねーけど心臓がもたねー。
逃がさないぜ。絶対に逃がさねーっての! 首根っこをひっ捕まえても連れてく。
でも、連れて行くとなると、それ相応の大義名分が必要になっちまうなァ。
戦国大名の上杉謙信だって、合戦がしたくても大義名分がねーと手も足も出なかった。
ここはひとつ、なっちを持ち上げて大義名分を作ってやろうじゃねーか。
大義名分さえ突き付ければ、なっちは断れねーだろう。
- 397 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/23(日) 10:02
- 「だって、東京医科歯科大に受かったのは、なっちさんのお陰だもん」
本当の事を言ったつもりでも、なっちは嬉しそうに微笑んだ。
少し持ち上げたけど、こいつだけは絶対にお世辞じゃねーんだよ。
私も頑張ったけど、なっちがいなけりゃ絶対に合格出来なかった。
っていうか、どこの大学も全滅だったんじゃねーかなァ。
なっちは家族だけど、本当に恩師と言っていい存在なんだ。
「石黒先生は怖くて・・・・・・圭織さんも怖いし・・・・・・」
「オレだって同じだってばよ!」
石黒先生は黙ってるだけで迫力があるし、圭織さんはエスパーだしなァ。
でも、私が東京医科歯科大に合格した事を、やっぱり圭織さんに報告したい。
だって、私は・・・・・・いや、私達は力を合わせてあの重圧を克服したんだから。
圭織さんのリベンジが成功した事を、やっぱり自分の口から報告したい。
あれだけの重圧、そう簡単に体験出来るもんじゃねーよ。
きっと私にも魔物が付け入るような隙があったとしたら、
酸欠の金魚みてーに口をパクパクさせて昏倒してたところだ。
「なっちはそれでなくとも忙しいし・・・・・・」
「たった二時間半だよっ!」
私は柱にしがみ付いて嫌がるなっちを無理矢理に、
迎えに来た石黒先生のクルマの助手席に押し込んだ。
逆らいさえしなけりゃ、私が助手席に乗って人身御供になったのに。
日産サニーの助手席だから、なっちは石黒先生のすぐ隣。
まるで、お地蔵さんみてーになって固まってるなっちに、
私は思わず吹き出しちまったくれーだ。
- 398 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/23(日) 10:03
- 「安倍さん。どうかした?」
「べべべべべべ・・・・・・別に何でもないべ・・・・・・ありません」
アハハハハ・・・・・・。なっち、物凄く緊張してる。
首を傾げながらハンドルを握る石黒先生。
黙ってるとマジでこえー顔してるんだよなァ。
きっと、これが石黒先生のリラックスした顔なんだろうけど。
ニッコリと微笑んだ顔は凄く綺麗なのになァ。
「それでさ。うちの病院で院内学級を始めるんだ」
私は石黒先生に、なっちが担当の院内学級の話をした。
かなり大規模な病院とか小児専門病院じゃないと、
こうした院内学級なんてもんは、ほとんど無いんじゃないかな。
だからこそ、中規模で試験的に行える個人病院の中で、
うちの病院がターゲットになったんだろう。
さすがに自分中心で進めてる院内学級の話になると、
お地蔵さんだったなっちも話に参加して来る。
なっちの話に石黒先生も感銘を受けたようだった。
「さすがに教育学を専攻しただけあるわねえ」
「まだまだボランティアが足りないんだべさ」
障害児教育の方は何とかなりそうだけど、入院患者の方が手薄って話だ。
アレルギーの有名医師を呼ぶんだから、相応の小児患者が来るはずだよなァ。
中学生くれーのアトピー性皮膚炎患者が来たら、どうやって対応するんだろう。
重症のアトピー性皮膚炎になると、髪の毛まで抜けちまうからよ。
学校に行きたくても行けないし。女の子だったら特に可哀想なもんだぜ。
そうした子のためにも、今回の院内学級には大きな意味があるんだ。
- 399 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/23(日) 10:03
- 「誰かいないかしらね」
石黒先生は教師と主婦じゃ大変だもんなァ。
まァ、泣く子も黙る石黒先生がいれば、
きっと物凄く静かな授業が出来そうだけどよ。
みっちゃんは来年度の理科系進学クラスの担任だろうし、
裕ちゃんは社会科以外は苦手そうだしよ。
保田先生やピーチは芸術系の先生だったっけか?
「探してるけど、中々見付からなくて」
「教員じゃないといけないんでしょう?」
「別に資格じゃなくて、自習の手助けが出来ればいいんだべさ」
出来れば教員がベターだけど、指導力があれば素人でも可。
・・・・・・待てよ。カテキョの延長で考えればいいわけだよなァ。
そうなれば、梨華ちゃんやごっちん、美貴ちゃんでもOKだ。
特に美貴ちゃんは、幸か不幸か大学が全滅だったし、
浪人生だから時間もあるしバイト感覚でやってくれねーかなァ。
「なっちさん。美貴ちゃんにバイト感覚でやって貰うのは?」
「まあ、週に数時間だったらいいけど、美貴ちゃんも受験生っしょ?」
週に数時間でも、美貴ちゃんなら中坊の数学や英語、
国語や理科なら何でもOKじゃねーかなァ。
私も時間を捻出して参加するつもりだけど、
どこまで時間が作れるか、まだ五里夢中だからなァ。
新聞の折込広告を出したけど、ほとんど反応がねーし。
やっぱりボランティアなんて無理があるのかもなァ。
時給千円くれーで募集するのがいいと思うんだけどね。
- 400 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/10/23(日) 10:05
- 今日のところは、これにて失礼致します。
風邪が治りましたら更新したいと思っています。
更新が遅くてすみません。
- 401 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/06(日) 18:43
- 〔圭織が得たものと焼肉定食〕
相模湖インターから国道二十号線に出て、少し八王子方面に戻る感じ。
そうすると、山の中腹に圭織さんの入院してる相模湖記念病院が見えて来る。
私となっちは来るのが三回目だけど、石黒先生は何度も来てるんだろうなァ。
餌付けされて人を怖がらないトンビが、ほんの数メートル上を飛んで行く。
数日前に降った雪が、この辺りではまだ所々に残っていた。
「大垂水越えしなくて正解だったね」
石黒先生はニッコリしながら言った。
一応は国道だから除雪くれーするだろうけど、
日陰には雪や氷が残ってるかもしれない。
ABS(アンチロックブレーキシステム)が付いてねーと、
いくらスタッドレスでも下手すりゃ崖から転落。
ベンツならまだしも、国産車は華奢に出来てるからなァ。
「石黒先生。圭織さんってエスパーっしょ?」
「・・・・・・判らない。私には」
『エスパー』ともなると相手の考えてる事が判るんだから、
これは科学で絶対に証明出来ない完全な超能力って事になる。
でも、果てしなく五感が敏感で感受性が強ければ、
ある程度の能力は得られるんじゃねーかなァ。
確かエジプト考古学の権威でもある吉村作治教授は、
超能力じゃなくて『高能力』って言ってた。
私も吉村先生の考えに賛同しちまうなァ。
人間って磨けば光るものを持ってるんだと思う。
よし。今日こそ圭織さんがエスパーかどうか確かめてみよう。
- 402 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/06(日) 18:43
- 「到着ー」
駐車場にサニーを停めると、私達は雪の点在するアスファルトに降りた。
まるでお約束のように、なっちが溶けかかった雪に足を滑らせる。
小さな悲鳴を上げたなっちを、私が支えながら玄関へと向かう。
いくら雪が残っていても、ここは南向きで陽が当たれば暖かい。
鉄格子じゃなくて強化ガラスを使った構造の精神科専門病院なんだけど、
以前からどこかリゾートホテルみてーな感じがしてた。
「圭織さんに何て話そうかなァ」
「判ってるんじゃない? 勘の鋭い子だから」
勘が鋭いというのは、この場合は適切な表現じゃねーかなァ。
エスパーっていうより、圭織さんは勘が鋭いんだ。
眼が見えない人は、聴覚や臭覚が健常者より発達するらしい。
圭織さんの場合、精神が壊れてしまった分、
五感が健常者の何倍も発達しちまったんだろう。
あのヘレン=ケラーも、そうした部分があったらしい。
「飯田圭織は二階ですね?」
受付で自分の名前と面会患者の名前、時刻を記入する。
何度来ても、ここが病院とは思えねーんだよなァ。
ロビーのソファはホテルのそれと全く同じだしよ。
パームツリーに大型テレビまであるからすげー。
スカイブルーの壁に掛かった立派な額のある絵は、
どこかルノアールを思わせる色合いだった。
石黒先生が質問すると受付の女性は笑顔で答えて、
とてもチャーミングな仕草で頷いた。
- 403 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/06(日) 18:44
- 「はい。いつもの場所だと思いますよ」
そういえば、圭織さんはいつも廊下の突き当たりで、大きな窓から外を見ていたっけ。
温度管理が徹底されているせいか、私達は暑くなって上着を脱いだ。
石黒先生は妊婦の時と違って、身軽な足取りで階段を昇って行く。
「・・・・・・いた」
圭織さんはいつものように、車椅子に座ったまま窓から外を見てる。
こっちからじゃ逆光で、その容姿から辛うじて圭織さんだと判断出来た。
三人で歩いて行くと、近くにいたケースワーカーが軽く会釈をする。
いつもより眩しく感じるのは、所々に残ってる雪のせいじゃないかな。
私達が背後まで来ると、圭織さんは振り返りもせずに言った。
「石黒先生・・・・・・ひとみちゃん、それからあのコロコロした子ね」
「コロコロ・・・・・・なっちは安倍なつみだべさァァァァァァァー!」
振り返りもせずに相手が判るのは、きっと足音や匂いなんじゃねーかなァ。
犬なんかは飼主の足音や匂いは絶対に聞き逃さねーもん。
逆に敵対する相手の足音は憶えてて、鎖で繋がれていようとすっ飛んで来る。
やっぱり圭織さんはエスパーじゃなくて『高能力』を身に付けたんだ。
「合格したのね。おめでとう」
「ありがとうございます」
この時期に私達がやって来れば、東京医科歯科大に合格したんだって予想がつく。
とにかく圭織さんは五感が敏感だから、迂闊な言動は出来ねーんだよなァ。
しかし、今回は三人だから、圭織さんの高能力にも限界があるはずだ。
超能力は存在しない。確か早稲田大学の大槻教授も言ってたっけ。
- 404 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/06(日) 18:44
- 「何か飲みませんか? 買って来ますよ」
確か圭織さんは強制されるのが嫌いだったんだっけ。
勝手に車椅子を動かすと、あの裏拳が飛んで来るんだった。
そのせいか、なっちは圭織さんの射程外から様子を覗ってた。
あの程度のスピードなら、私の動体視力で充分に見切れる。
いくら予想外だったとしても、なっちは鈍臭過ぎるなァ。
せめてヒットする場所を急所から避けるくれーは、
瞬きするみてーに人間の本能として存在するんじゃねーの?
それすら出来なかったなっちの防衛本能は・・・・・・動物以下?
「ありがとう。あたしはバナナオレがいいな」
圭織さんはそう言いながら、ニッコリと微笑んで私と眼を合わせた。
ノーメイクでも本当に綺麗な人だなァ。何だか羨ましくなったぞ。
一瞬だけ私と眼を合わせただけで、圭織さんは再び窓へと眼をやる。
透き通るように白い肌は、とてもきめ細やかで美しい。
その綺麗な手に触れると、私より少しだけ冷たく感じられる。
人間の体温は代謝や筋肉の量が大きく影響するらしいからなァ。
「安倍さん。これで買って来てくれる?」
「はい」
石黒先生が財布を渡すと、なっちはニッコリして自販機へ向かった。
旦那な寿司屋で共稼ぎだから、石黒先生はかなりリッチなはずだ。
石黒先生はサニーでも、旦那はジャガーあたりを乗ってるのかなァ。
常連客のいる寿司屋ってのは、かなり儲かるって話だしね。
ここじゃ聖ダルセーニョ学園・数学教師としての石黒彩じゃなくて、
以前、圭織さんのカテキョだった頃の顔になってた。
- 405 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/06(日) 18:45
- 「温かいのね。あなたの手」
「眠いのかなァ。やっぱり疲れたし」
もし、圭織さんがエスパーを持つ超能力者だとしたら、
手を触れただけで私の記憶をスキャンするだろう。
私は受験当日を思い出し、圭織さんの様子を覗ってみた。
でも、圭織さんは窓から視線を外す事はなかった。
やっぱり私の勘違いっていうか・・・・・・。
「勘違いじゃなくてよ」
「へっ?」
まままま・・・・・・まさか、私の思った事に対してじゃねーよなァ。
眠い。って言った事が勘違いじゃねーって事なんだろう。
そうじゃねーと、これまでの科学を覆すだけじゃなくて、
人間には五感以外にもう一個の感覚が存在する事になっちまうじゃんか。
そうした超心理学について、日本は思い切り後進国だったっけ。
「今年はオットセイみたいな声を出しながら、過呼吸症で倒れた人がいたのね」
「ここここ・・・・・・これは本物だァァァァァァー!」
圭織さんって、まじで本物のエスパーじゃねーか!
大槻教授は圭織さんを見て何て言うんだろう。
科学が万能ではない事は科学者が一番よく知ってる。
この飯田圭織というエスパーを使える人の存在が、
人間には六番目の感覚がある事の証明になるじゃんか。
担当医師は誰なんだ? 是非とも話を聞いてみてーじゃん。
今度、圭織さんの力を科学的に研究してみてーなァ。
果たしてエスパーは科学的に証明出来るのか?
- 406 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/06(日) 18:45
- 「あたしは嫌だな。実験台になるのは」
そ、そりゃそうだよなァ。圭織さんは病人だし。
きっと圭織さんに科学者が何を質問したところで、
無視を決め込むか、噛み合わない話をするだろう。
圭織さんは柵の中にいるけど、その心は自由なんだ。
だからこそ、勝手に車椅子を動かされるのが嫌い。
そう考えれば、全てが合致するじゃねーか。
「ありがとう。判ってくれて」
・・・・・・もしかして、圭織さんが倒れた原因はここにあるのかも。
圭織さんは試験会場に棲む魔物にやられたんじゃない。
あまりに勘が強かったせい。いや、エスパーだったせいで、
魔物にやられて苦しんでる人の意識を飲み込んじまったんじゃないか?
その多くの他人の意識に、圭織さんが耐えられなかったのでは?
「そうかもしれないわね。でも、あたしは満足してるわ」
圭織さんはそのお陰で精神を壊しちまったんだろう?
それなのに、何で満足なんて出来るんだよ。
医師になるために東京医科歯科大を受験したんだろう?
精神を病んじまっちゃ医師になんてなれねーもんなァ。
「なぜ?」
圭織さんは籠の中の鳥だ。自由に大空を羽ばたく事を禁じられてる。
いったいいつになったら、この籠から外へ出して貰えるのか判らない。
だというのに、何を満足しているんだろう。私には判らない。
- 407 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/06(日) 18:46
- 「自分を知ったからよ」
・・・・・・圭織さんは正気なんだ。ここでは患者のふりをしてる。
その意味を知りたいが、きっと圭織さんは言わないだろう。
この籠の中の生活で、圭織さんが得たものって何なんだろう。
徘徊する老人にケースワーカー、そして白衣の看護師達。
圭織さんが知った自分って、いったい何なんだろうなァ。
「肉体的な自由と精神的な自由。あなたはどちらを選ぶ?」
どういった意味だ? 自由ってのは行動が伴うものじゃねーのか?
誰だって籠の中の鳥に自由があるなんて思わねーだろ普通。
肉体が伴わないと精神的な自由なんて存在しねーんじゃねーの?
こんな哲学的な事、私には判んねーよ。
「精神的な自由は、全てを超越するものなの。ちょっと難しいかな」
「ちょっとどこじゃねーんだけど」
圭織さんは精神的に壊れちまってるから、そんな事を言うんじゃねーかなァ。
行動を制限される事の、いったい何が自由だと言うんだろう。
肉体と精神の分離なんて、私には全く理解出来ねーっての。
仏典を読破して哲学書を読破しねー限り、私には理解不能だなァ。
「無理に理解する必要はないわ」
そう言ってくれるとありがたい。こういった話は苦手だからよ。
私は外科医になるつもりだから、精神科は専門外ってとこだ。
でも、ひとつだけ言える事は、圭織さんはここで何かを発見した。
それが全てに勝る快感なのかもしれない。私には判らないけど。
- 408 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/06(日) 18:46
- 圭織さんとの面会が終わると、私達は石黒先生のクルマに乗り込んだ。
圭織さんがエスパーだった事は私にとって驚愕であり、
籠の中の鳥が全てを超越した精神的自由という価値観は衝撃だった。
相模湖インターまでの曲がりくねった国道を走りながら、
私達三人はごく自然に圭織さんの話をしてた。
「石黒先生はどう思う? 圭織さんのエスパー」
「あたしの専門は数学だよ。心理学じゃない」
そりゃそうだ。石黒先生は数学教師だもんなァ。
いくら数学の演算を駆使したところで、エスパーを証明するなんて不可能。
横須賀にある自衛隊幹部養成施設の防衛大学なら超心理学を研究してるから、
そういったとこじゃねーと圭織さんがエスパーなのかどうか判らないか。
「生き物には五感以外にも、危険予知能力が存在するんだべさ」
そういえば、大地震の前にネズミの集団が現れたとか、
カエルが鳴くと雨が降る確率は、気象予報士より上だって話だ。
人間は直立歩行した時から手が使えるようになって、
そうした危険予知能力が退化していったって話を聞いた事がある。
言語を持たない動物達には、互いの意思を伝える能力があるのかも。
石黒先生の話じゃ、圭織さんは以前から勘が強かったというから、
そうした原始的な能力が蘇ったのかもしれない。
「これだけは言えるわ。圭織は失ったものと得たものがある」
失ったものと得たもの。これが何か判るのは、私が死ぬ頃だろうなァ。
もしかしたら、死ぬまで判らないのかもしれねーぞ。
難しく考えるのはやめにしよう。そうじゃねーと気が狂っちまう。
- 409 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/06(日) 18:47
- 「この先に定食美味しい店があるの。奢るわよ」
「やったべさっ!」
ったく。なっちは食い物の話になると、途端に元気になるんだからよ。
石黒先生は相模湖インターを通り越しても、そのまま国道を走り続けた。
ここは藤野町だったっけかなァ。近い内に相模原市と合併するんだったっけ。
暫く走って行くと『日連』なんて信号が出て来た。
あの『南無妙法蓮華経』で有名な日蓮宗と関係あるのかァ?
・・・・・・何だ。『日連』って書いて『ひづれ』って読むのか。
「ここを左折っと」
日連交差点を左折すると、相模湖に架かる大きな橋があった。
そこを道なりに進んで行くと、急に辺りの景色が変わって来る。
窓ガラスが曇り出して、外気温が低くなった事が判った。
こんなとこにも温泉があるんだなァ。看板が出てるぜ。
「また橋だべさ」
「ここらは昔『牧野(まぎの)村』っていったのよ」
中世以前の『牧』っていうのは、馬を養殖してた場所の事。
こんな山間部じゃ田畑なんて微々たるものだろうから、
きっとそうした歴史のある土地なんだろうなァ。
藤野町は幾つかの村が合併して出来たって聞いた事がある。
しかし、神奈川県っていうのも、湘南の海からこんな山まで、
全くもって自然が豊かなところだよなァ。
・・・・・・うわっ! こんなに雪が残ってるよ!
すげー! 道路は除雪してあっても、辺りは雪だらけだ。
こんなに積もったら、それこそスキーでも出来そうじゃんか。
- 410 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/06(日) 18:47
- 「えーと、ここを右に入って少し行ったとこなんだ」
石黒先生のクルマもスタッドレスタイヤだけど、
この辺りじゃチェーンの方がいいんじゃねーの?
ほとんど民家の無い寂しい場所に、その店がポツリと建ってた。
どうやらこの雪じゃ他に客は居そうにねーな。
「いらっしゃいませ」
どことなくログハウスを思わせる造りになってて、何となくおもしれー。
カウンターとテーブル、座敷もあるのか。いいなァ。窓も広くて明るいし。
雪が白いせいか、窓から入って来る光が眩しいくれーだ。
夜は暗そうだけど、日中は明るい雰囲気でいいなァ。
「石黒先生。何が美味しいんだべか?」
私達は三人だけだから、ストーブの近くにあるカウンターに座った。
ふと座敷の窓の方を見ると、ここで飼ってる猫なのかなァ。
気持ちよさそうに昼寝してるじゃねーか。
そりゃ、こんなに暖かな環境だったら猫じゃなくても眠くなっちまう。
「安倍さんはボリュームのある方がいいでしょう? なら焼肉定食」
「オレも焼肉定食がいいなァ」
「決まり! 焼肉定食三つね」
こうした田舎だから、どうしても少し高いみてーだなァ。
焼肉定食くれーで九百円もするんだからよ。
三鷹駅前の食堂なんかじゃ、六百五十円ってとこだ。
でもまァ、美味けりゃいいじゃん。
- 411 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/06(日) 18:48
- 「『五感の湯』『やまなみ温泉』『東尾垂の湯』ここらで温泉が出るなんてなァ」
「最近は各地で温泉が出てるっしょ? ボーリングの技術が向上したんだべよ」
基本的に深い部分に地下水があれば、地熱で温められて温泉って事になるんだ。
今の老人はカネの使い方を知らねーから、こうした温泉巡りを楽しむんだよなァ。
温泉っていったとこで結局は風呂だろ? 風呂が楽しみなんて寂しい人生じゃねーか。
私が老人になる頃には、どういった事で楽しむようになるのかなァ。
「この先には温泉病院っていうのがあって、リハビリに利用してるらしいよ」
リハビリに温泉を使うっていうのは、厚木の七沢温泉がそうだったけかなァ。
温泉で温めてからリハビリすると、かなりの効果があるって話だ。
ただし、ラジウム泉は摂氏二十五度を超えるとラドンになっちまうんだったけか?
癌の抑制効果を得るためには、冷たい水に浸からないと駄目って事だ。
「お待ちどう様です」
焼肉定食が来たぞ! ・・・・・・ってすげーボリュームじゃんか!
敷いてあるコールスローが見えないくれーだぜ!
しかも、ご飯はドンブリに山盛りじゃねーかよオイ!
ここまでボリュームのある焼肉定食は滅多にお眼に掛かれない。
「いただきますっ!」
へえ、これ豚肉じゃねーか。でも、この味付けは美味いなァ。
美味いものを食うと、人間ってのは不思議と無口になるもんだ。
味噌汁と漬物の他に、豆腐とヒジキの煮物まで付いて来る。
こいつは美味い。私は空腹だったせいか、ガツガツと食っちまった。
そんな私よりガツガツ食ったのが、他でもないなっちだった。
- 412 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/06(日) 18:48
- 「おかわりだべさっ!」
「はい、どうぞ」
「オレもおかわり!」
美味い。確かに美味いんだけど、この料理には欠点がある。
それは美味過ぎて、ついつい食い過ぎちまう事だった。
鬼のようにガツガツと食べる私達を見て、石黒先生は驚いたように笑った。
こんなに美味いもの食わせやがってよ。太ったら石黒先生のせいだ。
「あれ? メールだ」
こんな山の中でも私のケイタイに着信があった。
辛うじてアンテナが一本だけ立ってる。
石黒先生となっちのケイタイは圏外だった。
「梨華ちゃんからだ。三時に駅前のマックに来いってさ」
「今からだと、丁度くらいに着くわよ」
ったく、親が死んでも食休み。って言うのによ!
梨華ちゃんはいつも私の足を引っ張るんだよなァ。
人に無理矢理キスしといて、何が相談なんだっての!
だいたい梨華ちゃんは・・・・・・いかん! 食い過ぎだ。
「く、苦しいべさ」
「ありがとうございました」
私となっちはポッコリと膨らんだ腹を擦りながら石黒先生のクルマに乗り込む。
後部座席に寝転がる私と、リクライニングを倒して腹を撫でるなっちを見て、
石黒先生は可笑しそうに「クスリ」と笑った。
- 413 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/06(日) 18:50
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近日中に更新致しますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
- 414 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/12(土) 00:26
- 〔ジュピター〕
満腹でクルマに揺られたせいか、私は熟睡モードに入ってた。
反対に石黒先生との話し相手になって緊張してたのがなっち。
睡魔と戦いながらも石黒先生との会話を続けてたそうだ。
石黒先生が運転するクルマの助手席に座ったら、
ちょっと眠っちまうわけには行かねーもんなァ。
なっちには可哀想な気もしたけど、まあこれも人生経験だよ。
「ふう」
なっちは石黒先生のクルマから降りると、緊張が解けたのか溜息を漏らした。
石黒先生は笑顔で手を振ってくれたけど、なっちは引き攣りながらの笑顔。
私は眠かったけど、そんななっちが可笑しくて笑いが止まらなかった。
誰にでも苦手な人は居るとは思うけど、なっちにとっては石黒先生かァ。
「か・・・・・・肩が凝ったべさ」
「さァ、本屋に寄ってマックだよね」
三鷹の駅前も早くから開発が進んだせいで、かなり近代的な感じがする。
そういった点では、阿佐ヶ谷や中野よりは綺麗な感じがするなァ。
でも、相変わらずビルの一階には、小さな商店や事務所が軒を並べてる。
これは新宿なんかでも同じ事。別に珍しい風景なんかじゃない。
「焼肉定食、美味かったなァ」
美味いもんで腹が膨れると、この上ない極楽気分なんだよね。
あれでビールでもあったら最高なんだけど、石黒先生と一緒じゃまずいよなァ。
またあの店に行ってみてーよなァ。そうだ! 今度はみんなと一緒に。
- 415 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/12(土) 00:27
- 「うん!」
ようやく笑顔が戻ったなっちと一緒に、本屋に寄ってからマックに向かう。
本屋からマックまでは眼と鼻の距離。隣の花屋の次のビルにマックが入ってる。
彼岸を過ぎたっていうのに、まだ午後の日差しは弱々しく感じられた。
そんな風景も雑踏の中に消えて行っちまう。それが大都会・東京だった。
っていうか、ここは都内じゃなくて都下なんだけどね。
「よっCもこれから本におカネがかかるべよ」
そうだよなァ。医学部だから、やっぱり専門の本が必要になるだろうし。
あらゆる病気や怪我の症状。その治療方法や人体解剖の本なんかも必要。
まァ、とりあえず国家試験の問題集を徹底的にやるんだろうなァ。
そういえば、医学部は人体解剖実習があるんだったっけ。
ちょっと怖い気もするけど、人体解剖しねーと医師にはなれなーもんなァ。
「なっちの友達が北海道大の医学部にいるんだべよ」
「あのさー、やっぱり人体解剖とかするの?」
私が恐る恐る訊くと、なっちは当たり前のように頷いた。
そうか。やっぱり解剖しねーといけねーのか。
人体模型あたりで終わりってわけには行かねーよなァ。
呪われたりはしねーよなァ。怖い。怖いよォ!
「最初はカエルとマウスの解剖からするそうだべよ」
そうか。それで慣れさせて、人体解剖なんかやっちゃったりするのか。
でも、相手は人間だぜ。いくら死んでるっていっても人間だもんなァ。
内臓ドバーッ! 脳味噌グチャー! こえーよォォォォォォー!
- 416 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/12(土) 00:27
- 「うっ!」
右背後から誰かにぶつかられた私は、左にいたなっちとぶつかる。
思わず「いてーな!」と言おうとしたけど、妙な違和感に襲われた。
熱いものが私の尻の方へと広がって行くじゃねーか。
何かと思って振り返ると、そこには物凄い形相の美貴ちゃんがいた。
「み・・・・・・美貴ちゃん!」
「何か入れてるなんて・・・・・・反則だよ」
美貴ちゃんが離れると、その手にはバックマスターナイフが握られてた。
何でアメリカ海兵隊制式採用のコンバットナイフなんて持ってんだよ。
その直後、私の下半身が薄青い炎に包まれてた。熱い! っていうか痛い!
手で炎を消そうとしても、そんなものは何の効果もなかった。
「よっC! 水! 水だべさァァァァァァァー!」
そうか、私は美貴ちゃんにナイフで刺されたんだなァ。
温めてると気持ちいいから、白金カイロをしてたんだっけ。
美貴ちゃんは私を刺したんだけど、カイロに刺さっちゃったんだ。
お陰でバックマスターはカイロを貫いたけど、
私に致命傷を負わすくれー深くは刺さらなかった。
「げげー! 燃えてる!」
その代わり、カイロからベンジンが溢れて静電気で引火。
カイロに入ってたベンジンは、私のパンツの表面から燃え始める。
そうか。皮膚に近い方は酸素の供給量が少ねーからなァ。
でも、何で私が美貴ちゃんに刺されないといけないの?
- 417 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/12(土) 00:28
- 「花屋の店先で良かったべさ!」
熱いのと痛いのと冷たいのと驚愕が私の頭を支配してる。
なっちに転がされて、頭からホースで水をかけられてた。
何とか下半身の火は消えたけど、私は寒さに震えが来ちまった。
でも、私の視線は狂気を感じる美貴ちゃんの眼から離れない。
それはまるで、蛇に睨まれた蛙みてーな感じ。
美貴ちゃん、もうまともじゃねーよォ!
この震えは水をかけられて寒さから来るものなのか、
それも美貴ちゃんの狂気の眼を見たせいなのか。
「おばさん! 救急車だべさァァァァァァー!」
救急車? 私ってそんなに重傷なのかなァ。
ちょとした火傷と、刃先が少しだけ刺さったくれーなんだけど。
こんくれー、うちの病院でちょこっと治療して貰えば。
それより、美貴ちゃんを。美貴ちゃんを何とかしねーと。
こんな風に歩道に転がされてちゃ何も出来ねーわけだし、
とりあえず起き上がって美貴ちゃんからナイフを取り上げねーと。
美貴ちゃんくれーだったら、真正面から突いて来られても平気。
軽くかわしてナイフくれーは奪えるだろう。
「藤本美貴。殺人未遂の現行犯だ」
この声はマンジュウじゃねーかよオイ。
マンジュウは美貴ちゃんを尾行してたのかァ?
って事は、これまでの犯人ってもしかして美貴ちゃん?
何で? 何で私を襲わないといけなかったの?
いったい私が何をしたっての?
- 418 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/12(土) 00:28
- 「来ないで!」
美貴ちゃんはマンジュウにバックマスターを向けた。
ランボーじゃねーんだからよ。抵抗するなっての!
バイクを奪って極寒の山に逃げ込むのがランボーだったっけ。
でも、普通の女子高生の美貴ちゃんには、
グリーンベレーのサバイバルノウハウなんてねーじゃんか。
M60を片手で撃てねーとランボーにはなれねーんだからよ。
「ナイフを捨てろ!」
ここは大人しく捕まっちゃった方がいいって。
きっと何かの間違いだろうからさ。すぐに釈放されるよ。
だって私は誰にも刺されるような憶えが無いし、
美貴ちゃんも表情からして尋常な神経じゃない。
こういった事は矢口さんが詳しと思うんだけど、
きっと心神喪失ってやつで無罪になるだろう。
っていうか、何でマンジュウしかいねーんだ?
「容疑者が判ってて何で放っておいたんだべさァァァァァァー!」
「いや・・・・・・相手が未成年なもので、つい・・・・・・」
『つい』って、そういった問題じゃねーだろうがよ!
このマンジュウは美貴ちゃんを前科者にしてーってのかァ?
ちょっと待てよ。これまで私を襲ったのって、まじで美貴ちゃん?
もっと早く手を打ってれば、こんな事にはならなかったのによ!
これは警察の怠慢じゃねーか! それとも、事件を大きくしたかったのか?
まさか、私が殺されるのを待ってたんじゃねーだろうなオイ!
それにしても寒いし冷たいし痛いし、このままじゃ凍死しちまうよォ!
- 419 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/12(土) 00:29
- 「あっ! 待て! 待ちなさい!」
昭和三十年代のテレビドラマじゃねーんだからよ。
ストレートに『待て』なんて言って待つんだったら、
警察なんてもんは必要ねーっての!
美貴ちゃん、きっとどうかしてたんだよ。
これは何かの間違いだから逃げられるといいなァ。
・・・・・・って非常階段を昇ってどうするんだよっ!
怪盗キッドみてーにハンググライダーを持ってたり、
屋上にヘリでも待ってりゃ話は別だけどよ。
キャッツアイの泪・瞳・愛の三姉妹もそうだったっけ。
そんなこたーどうだっていいんだっ!
「来ないでー!」
下から見上げると、美貴ちゃんは五階と六階の間の踊り場で、
手に持ったバックマスターをマンジュウに向けてた。
マンジュウ! 何やってんだよ! 早く取り押さえろっての!
美貴ちゃんは興奮してるんでからよ。ナイフくれーで何をびびってんだ。
相手は泣く子も萌える女子高生なんだぜ。おまけに美少女と来てるし。
マンジュウ! 上着を脱いでナイフを掴めっての!
「美貴ちゃん、やめるべさ!」
ホースで私に水をかけてたなっちは、手元が狂って野次馬に水をかけた。
見世物じゃねーってんだよ! こんなとこで立ち止まって見てるんじゃねー!
なっち、もっと水をかけてや・・・・・・それどころじゃねーっての!
美貴ちゃんを何とかしねーと! このままじゃ美貴ちゃんに不利だし。
まさか! マンジュウ! 拳銃なんて出すんじゃねーぞ!
- 420 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/12(土) 00:30
- 「そうだよォ! 美貴ちゃん、どうかしてるんだ」
すると、いきなり美貴ちゃんは柵を乗り越えた。
まさか! まさかそこからダイブする気じゃねーだろうな。
そんなとこからダイブしたら「痛い」じゃ済まねーぞ。
空挺部隊の降下兵でも骨折しちまうに決まってるじゃん。
「美貴ちゃん。もう終わりにするべさァァァァァー!」
こんな事で骨を折るより進学に骨を折れよ。
今からだって募集してる大学だってあるんじゃねーの?
最悪は通信制の大学だってあるんだしよォ!
「よっCには美貴の気持ちなんて判らないくせに!」
「いったいどうしたんだよォ! オレの何が悪いんだよォ!」
私には美貴ちゃんに恨まれる記憶なんてねーもんよォ!
そりゃ、美少女四人組の中じゃ扱い辛い感じだったけど。
でも、私達って友達じゃん。違うの? 友達だよね。
川原でバーベキューやったじゃん。海に行ったじゃん。
みんなで・・・・・・みんなでマックに行ったよなァ。
「ナイフを捨てるんだ。みんな判ってるんだぞ」
その調子だマンジュウ! 何とか説得しねーとなァ。
誰かレスキュー呼んだかな? 高所救助ってのは危険だからよ。
どうもマンジュウだけじゃ頼りねーからなァ。
現役刑事でこれくらい頼りねーやつってのも珍しい。
いくら威勢を張ったところで、全く迫力がねーじゃん。
- 421 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/12(土) 00:31
- 「ま、まさか、これまで私を襲ったのって美貴ちゃん?」
これだけは、どうしても訊かないといけねー事だ。
もし私に否があるのなら、まずそれを謝らねーと。
私にはどうしても、美貴ちゃんから恨まれる心当たりがない。
もしかして、美貴ちゃんは精神的な病気なのかも。
「・・・・・・そうよ。みんな美貴がやったのよ」
プールで溺れそうになったのも、歩道橋で突き落とされたのも。
そして学校で階段から突き落とされそうになったのも?
バイクで私を轢こうとしたのも美貴ちゃんだったわけ?
でも、でも、何で私が美貴ちゃんに襲われなきゃいけねーんだよォ。
何が理由で私の事を恨んでたっていうの?
「よっC!」
誰かと思えば梨華ちゃんじゃねーか。
そういえば、梨華ちゃんと待ち合わせしてたんだよなァ。
何が何だか私には判らなねーよォ!
美貴ちゃんに刺されたみてーだけど傷は浅い。
火傷の方も大した事ねーみてーだしよ。
「よっCはクラスの太陽だったよね。いつだって。どこだって」
美貴ちゃんはバックマスターを握り直して、そう言った。
私が太陽? 太陽ってあの昼間に空で光ってるやつだよなァ。
専門用語で言うと恒星ってやつだったっけか?
これってもしかしたら、物凄く誉められてるのかもしれない。
- 422 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/12(土) 00:31
- 「いやァ。それほどでも・・・・・・」
「そういった場面じゃないっしょ!」
何だよ。誉められてるわけじゃねーっての?
私が照れてると、なっちは泣きそうな顔で言った。
そうだ。そうだよなァ。美貴ちゃんを助けねーと。
でも、何て言ったらいいのか私には判らないよ。
「いい子だからナイフを捨ててくれるかな? 他に何もしないからさ」
このマンジュウが嘘つくんじゃねーっての!
さっき傷害の現行犯って言ったじゃねーかよ!
ナイフを捨てたら飛び掛って逮捕する気なんだろ?
そんな事、小学生のガキでも判ってるっての!
「美貴は木星。よっC! 木星の気持ちが判る?」
何言ってんだァ? 木星の気持ちなんて判るわけねーだろ!
惑星の気持ちが判るやつがいたら、いっちゃってるとしか思えねー。
まだ犬や猫の気持ちくれーなら、ある程度は判ると思うんだけど。
ところで、木星にも土星みてーな円があるんだったっけか?
アメリカが打ち上げた惑星探査機のボイジャーが発見したんだった。
「頑張ってみたけど、火星や金星の気持ちも判らねーや」
これはきっと、なっちや頭のいい矢口さんでも判らないと思う。
理数系オールマイティ教師のみっちゃんでもどうかなァ。
階級闘争が続く聖ダルセーニョ学園で苦労してる保田先生はどうだろ。
やっぱり、これって圭織さんくれーしか判らないんじゃねーかなァ。
- 423 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/12(土) 00:32
- 「木星は・・・・・・太陽系で唯一、恒星になれなかった星なのよ!」
そういえば、どこかの本で読んだ記憶があるぞ。
木星は恒星に成り得る要素こそあったんだけど、
質量が足りなくて太陽になりきれなかったんだったっけ。
確か外惑星の土星、天王星や海王星もガスの塊だった気がする。
土星の質量は意外に軽くて、水に浮いちまうって話だ。
外惑星の中じゃ冥王星だけが地表を確認出来たんだったっけ。
「美貴ちゃん! やめてぇ!」
「梨華ちゃん・・・・・・。梨華ちゃんは向日葵なのよ!」
美貴ちゃん、いったい何を言ってるんだァ?
梨華ちゃんが向日葵みてーにポジティヴなわけがねーだろうっての!
どっちかっていうと、紫陽花みてーにネガティヴでジトーっとした感じ。
いくら笑ってても、心の中じゃ草食獣みてーにオドオドしてる。
石川梨華って女は、昔からそういうやつなんだよなァ。
私は小学生の頃からの付き合いなんだからよ。間違いない。
「どんなに・・・・・・どんなに頑張っても、向日葵は木星なんて見てくれない」
「・・・・・・だから向日葵って言うんじゃねーの?」
理論的に向日葵だって植物だから光合成をするわけだろう?
植物は光合成をして成長して行くんじゃなかったっけ?
木星相手に光合成が出来る植物なんているのかなァ。
美貴ちゃん、これが常識なのに本当にどうかしてるよ。
まァ、中には食虫植物なんて反則するのもいるけどね。
ウツボカズラなんて植物がそうだった気がするぞ。
ったく生態系ってのも時には逆転しちまうって事か。
- 424 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/12(土) 00:35
- 今日のところは、ちょっと尻切れトンボみたいですが、ここで失礼致します。
また近日中に更新致しますので、どうぞ宜しくお願い致します。
風邪が流行っています。皆さんお身体を大切にして下さい。
- 425 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/16(水) 10:30
- 〔負傷〕
どう考えても、花が太陽の方を向いてるから向日葵って言うんだよなァ。
でも、月見草ってのは、別に月を向いてるわけじゃねーから不思議だ。
向日葵・蒲公英・石楠花・薔薇・秋桜。みんな書けるぞ。理科系なのに。
「違うのよぉ。美貴ちゃんは・・・・・・美貴ちゃんはね!」
梨華ちゃんは泣きながら、必死になって私に何か言おうとする。
だけど、ネガティヴな上に動揺しちまってるから何が言いたいのか判らない。
くっ! 面倒臭い女だな梨華ちゃんは! これだから困るんだよ。
人間には二通りのタイプがある。大切な時になって開き直れるやつ。
それと、オロオロして何も出来なくなっちまうやつ。
梨華ちゃんは間違いなく後者の方だよなァ。
「美貴は・・・・・・美貴は梨華ちゃんが好き! でも、あんたがいたのよ!」
・・・・・・話を整理すると、美貴ちゃんは梨華ちゃんを好きなんだろう?
私はなっちが好きだから、梨華ちゃんさえ妥協すりゃ一件落着じゃん。
・・・・・・そうか! 梨華ちゃんは私が好きだったんだっけ。
要するに三角関係。・・・・・・いや、四角関係になるのかなァ。
四角でも五角でもいいからよ。もう終わりにしようぜ。
「オレと梨華ちゃんは親友! し・ん・ゆ・う!」
親友以外の何ものでもねーっての!
何しろ小学校の時から一緒なんだぜ。
ほとんどクサレ縁って言った方がいいかも。
何の因果か知らねーけどよ。
- 426 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/16(水) 10:31
- 「何言ってるのよぉ。キスしたのにぃ」
このアフォが! こんな時に何て事言いやがるんだ!
こんな大勢の前でキスしたなんて言うんじゃねーよ!
いい機会だから、この際はっきりしておくけど、
私と梨華ちゃんの関係は、あくまで『親友』であって、
絶対にそれ以上でも未満でもねーっての!
とりあえず訂正してくれると物凄く助かるんだけど。
「あれは梨華ちゃんが勝手に・・・・・・」
「火に油注いでどうするべさっ!」
そうだよ! この際、親友だろうが何だろうがいいじゃんか!
とりあえず、今は美貴ちゃんを助ける事が先決なんじゃねーの?
ここはちょっと気分を変えねーとなァ。さて、どうするか。
この張り詰めた緊張を打破するには、何かアクションを起こさねーと。
私が梨華ちゃんを張り倒すってのもいいんだけどなァ。
・・・・・・そうだ。なっちがいいものを持ってるじゃん。
「見世物じゃねーぞゴルァ!」
私はなっちからホースを奪うと、野次馬連中に水を振り撒いた。
この日陰にはまだ雪が残ってるくれーの寒い季節だけあって、
まるで蜘蛛の子を散らすように野次馬が遠ざかる。
通報で駆け付けた警官が、私の撒いた水で滑って転がった。
そのすぐ背後から来た救急隊員に踏まれて悲鳴を上げてる。
ったく警視庁にはろくな警官がいねーなァ。マンジュウしかり。
ついでだから、そのストレッチャーで轢いてやれっての。
- 427 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/16(水) 10:31
- 「美貴は全て・・・・・・全てを失ったわ」
「アハハハハ・・・・・・。ナイフを捨ててくれるだけでいいから」
よせばいいのにマンジュウが余計な事を言うと、
美貴ちゃんは「うるさい!」って言いながらナイフを振った。
マンジュウのネクタイがスッパリと切れちまったじゃねーか。
さすがのマンジュウも、これには戦術的退却をせざるを得ない。
ナイフを捨てるだけで何もしねーんなら美貴ちゃんも応じるだろう。
でも、ナイフを捨てたら最後、マンジュウが飛び掛るに決まってる。
「失ってないっしょ! 美貴ちゃんが生きてるって事自体が重要なんだべよ!
美貴ちゃんが生きてるって事は、お父さんとお母さんが存在した意味でもあるべさ」
そうだよなァ。父母のDNAを半分づつ引き継いでるわけなんだから。
そのDNAで美貴ちゃんが構成されてるわけで、更に後世へと遺伝して行く。
つまり、存在こそが生きている最大の目的であるわけなんだよなァ。
だから、絶対に自殺なんて事は・・・・・・。
「さようなら梨華ちゃん。あんたは許さない」
美貴ちゃんは私にバックマスターを投げつけると、
そのまま薄笑いを浮かべながら飛び降りた。
私は向かって来たナイフをよけながら、
落ちて来る美貴ちゃんに向かって猛ダッシュする。
あの高さから落ちて来た人間を受け止められるわけがない。
だから、とりあえず体当たりして落下エネルギーを横方向に持って行けば。
私はバレーをやってたから、落ちて来るものに反射しちまうんだ。
こう見えてもリベロの経験だってあるんだぜ!
- 428 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/16(水) 10:32
- 「いてェェェェェェェェェー!」
かなりいいタイミングで体当たり出来たんだけど、
私は物凄いショックで三メートルも弾き飛ばされた。
野次馬の中に転がった私は、なかなか止まらずに転がる。
私の身体に足元をすくわれた連中が倒れ掛かって来た。
いいからどけ! どけっての! いてーな! 邪魔だゴルァ!
私から離れろ! 美貴ちゃん! 美貴ちゃんは大丈夫か?
どこだ? 美貴ちゃん、どこに行った?
「頭部損傷! 出血あり! 呼吸なし!」
「多発性外傷あり! 救助活動開始!」
私が立ち上がると、美貴ちゃんは五メートルも離れた場所に倒れてた。
かなり激しく全身を打ったらしく、右腕と左足が折れてるみたい。
呼吸がない? こいつは一刻を争う状況じゃねーか!
何とかしねーと、美貴ちゃんが死んじまうよ!
「くそっ! オレも足をやっちまった」
右足の踵を付くと、どうも脛の辺りが痛いぞ。
こいつは変形こそしてねーけどヒビくれー入ってるだろう。
そんなこたーこの際どうでもいいんだ。
とにかく美貴ちゃんに人工呼吸と心マをしねーと。
心肺停止状態でも一分以内に蘇生を始めれば、
かなり重傷でも助かる可能性が高いんだよなァ。
待ってろよ! 今・・・・・・今、行くからよ。美貴ちゃん!
くそっ! この足が・・・・・・。いてーな! このっ!
- 429 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/16(水) 10:33
- 「もう駄目だよ。現場を荒らすな」
私が足を引き摺りながら美貴ちゃんに駆け寄ろうとすると、
さっき転んだ鈍臭い小太りの警官が私を止めた。
現場を荒らすな? こいつ、人の命を何だって思ってやがるんだ?
人命が最優先だろうがよ! 私はこういった時の応急処置を知ってる。
だからこそ、救急隊の手伝いをしようとしてるんだよ!
くそっ! 邪魔だ! このノロマ警官がァァァァァァー!
「どけ! このヴォケ!」
私は左の肘を邪魔する警官の顔面にヒットさせると、
這うように痙攣する美貴ちゃんに駆け寄った。
こいつはショックで心臓が微細動してる証拠じゃねーか!
救急隊員が救急車に電気ショックの機械を取りに走った。
まずい! 美貴ちゃんは白目を剥いてチアノーゼを起こしてる。
顔色が紫になって行くのは、酸欠になった脳の悲鳴だ。
呼吸で得る酸素の二十パーセントも消費する脳細胞は、
酸欠になると真っ先にに壊死しちまうんだった。
どうしよう・・・・・・。救命救急士じゃ治療は出来ねーし。
「そうだ!」
私はケイタイを取り出してオヤジを呼び出した。
オヤジは医師だから、救急隊員に指示する事が出来る。
気道内送管や注射の指示をして貰えば鬼に金棒。
鼻血を出しながら怒って殴り掛かって来た警官を、
私はストレッチャーで突き飛ばしてやった。
- 430 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/16(水) 10:33
- 「オヤジ! 美貴ちゃんが転落したんだ。多発性外傷。救急隊員に代わるからね」
救急隊員は電話の相手が私のオヤジだと判ると、
重症である美貴ちゃんの症状を伝えて指示を仰いだ。
とにかく救急指定の外科医からの指示があるから、
救急隊員は出来る限りの応急処置と治療が出来る。
高電圧の電気ショックで美貴ちゃんの鼓動が回復すると、
救急隊員は指示通り気道内送管をして呼吸を助けた。
そして、応急処置で身体中を固定された美貴ちゃんが、
救急隊のストレッチャーに乗せられて行く。
「梨華ちゃん! 一緒に救急車に乗ってあげてよ!」
美貴ちゃんが搬送されるのは間違いなく救命救急センターだけど、
今頃はオヤジが症状と処置した内容をメモしてファックスしてるだろう。
私は梨華ちゃんと違って美貴ちゃんの精神的な支えにはなれない。
だって美貴ちゃんは言った。「あんたは許さない」って。
梨華ちゃんは躊躇ってたけど、私に促されて救急車に乗り込んだ。
今の美貴ちゃんを支えられるのは梨華ちゃんしかいねー。
梨華ちゃん、美貴ちゃんの折れてない方の手を握ってやっててよ。
「こ・・・・・・こいつ、公務執行妨害の現行犯だ」
肘で殴ってストレッチャーで突き飛ばしたというのに、
小太りのノロマ警官はヨロヨロと立ち上がった。
今更ながらマンジュウは困ったように非常階段から降りて来る。
どいつもこいつも、警察ってのは何の役にもたたねーじゃんか!
こういった現場を仕切るのは、警察じゃなくて救急隊に任せろっての!
警察なんかに任せてたら、助かる命も助からねーっての!
- 431 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/16(水) 10:34
- 「うるせー! テメエは寝てろ!」
私は近くにあった十キロくらいの重い消火器を持つと、
うるさい警官の顔面にチェストパスしてやった。
ボーリングのボール同士が衝突するような鈍い音がすると、
警官は白目を剥いて崩れるように倒れて動かなくなった。
邪魔する野郎は私が命に代えても阻止してやる。
それが私の美貴ちゃんへ対する友情なんだ。
「か、過激だべさっ!」
いくら鈍そうなやつでも毎日身体を鍛えてる警官だから、
このくれーの事で死にはしねーだろう。
私が美貴ちゃんと梨華ちゃんを乗せた救急車を見送ってると、
なっちは泣きそうな顔で私に抱き付いて来た。
これが都会の事勿れ主義なのか、野次馬は少なくなったみたい。
野次馬ってのも普段、余程退屈してるんだろうなァ。
こうした刺激を堪能すると、一人二人と次第に散って行った。
「大丈夫。美貴ちゃんは助かるよ。そう信じようぜ」
「そ、そうだべね」
あれだけ重傷だから、このまま死んでもおかしくはねーだろう。
でも、私達には美貴ちゃんが助かってくれる事を祈るしかねーもん。
私がなっちを強く抱き締めると彼女の背骨が鳴った。
いつの間にか私も、かなり興奮してたみてーだ。
ようやく何台もパトカーがやって来て、現場検証が始まろうとしてる。
現場検証もクソもねーっての。これは事件じゃねーよ。
無駄な税金なんか使うんじゃねーっての!
- 432 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/16(水) 10:34
- 「あのー、お話中に悪いんですが、公務執行妨害ですねえ」
「何だと?」
誰かと思えば役立たずのマンジュウじゃねーか。
この馬鹿も沈めてやろうかなァ。腹が立つったらねーぞ。
もっと早く手を打ってれば、こんな事にはならなかったのに。
私がマンジュウを睨みながら転がってる消火器を拾うと、
それを阻止してなっちが一歩前に出た。
「人命救助の妨害は未必の故意だべさ!」
なっちが鼻の穴を広げてもっともな抗議すると、
それっきりマンジュウは借りて来た猫みてーに大人しくなった。
これだけ野次馬が目撃者としているんだから、
人命救助を阻止しようとした警官の立場は悪い。
それで逮捕されるのなら別に構いやしねーよ。
そんなもん法律自体が間違ってるじゃねーか。
って、どうでもいいけど足がいてーなァ。
「なっちさん、ちょっと痛くなって来た」
「だ、大丈夫だべか?」
とりあえず火傷と刺し傷と足がいてーから、
私はなっちとタクシーで家に帰るとでもするかなァ。
その旨を項垂れるマンジュウに伝えると、
彼は俯いたまま「はい」と弱々しく返事をする。
サイレンを鳴らして遠ざかって行く救急車を見送りながら、
私は寒さと怒りと恐怖で震えが止まらなかった。
- 433 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/16(水) 10:35
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近日中に更新致しますので、宜しくお願い致します。
- 434 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/16(水) 17:49
- もうスレの限界ですね。あと一回の更新を残して以下へ行きます。
全くアフォな私です。○| ̄|_
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