テクノの娘
- 1 名前:円 投稿日:2005/05/16(月) 22:36
- 田中れいな+85年組。アンリアルです。
- 2 名前:金星 投稿日:2005/05/16(月) 22:37
-
二人でいようか。
いつまで?
いつまでも。
永遠に?
永遠に。
でもそれって、一瞬でもひとつにはなれないって事だね。
- 3 名前:Prologue 投稿日:2005/05/16(月) 22:37
- 大きなヘッドフォンをすっぽりはめて、れいなは人でごった返す街なかを歩く。
ヘッドフォンの大きさには似つかわしくない、ジーンズに下げた手のひらサイズの
プレイヤはエンドレスで流行の曲を垂れ流している。耳障りな雑踏と己の聴覚を
隔絶するためだけに流しているその音は、だからといって聴き心地がいいわけでもない。
ポケットで携帯電話が震えて、れいなの手がそれを取り出す。
友人からのメールに当たり障りのない返事をして、また戻した。
アドレス変更のメールを手当たり次第に送ったのはひと月ほど前だが、既に届くメールは
その時の半分以下になっている。別に、構わない。
音は遮断されているが、視界の方はどうしようもない。これまた大きめのレンズが
ついたサングラスをくいと押し上げ、その裏で眉をひそめる。
れいなは服でもなんでも、若干サイズが大きなものを好む傾向にあった。
腰のオーディオプレイヤも二世代ほど前の製品で、最新のものより一回り大きい。
それが自身の成長芳しくない体格から来るコンプレックスのせいなのか、単純な
趣味嗜好の問題なのか、そんなものは誰にもわからない。
- 4 名前:Prologue 投稿日:2005/05/16(月) 22:38
- 数ヶ月前に高校生になったれいなだが、バスや映画館は子供料金で通用する。
何度か試していたが、別に毎月の小遣いに不満は無かったので、割合すぐにやめた。
やめた日は人より随分遅れて『赤飯を炊いた』日の翌日だったが、多分あまり関係ない。
「つまらん……」
我知らず、呟きが洩れた。
退屈な学校生活、退屈な親との会話、退屈な友人、退屈な自分。
今日は土曜日で高校は休み。明後日になればまた退屈な授業かける6。プラス、退屈な
休み時間かける5、プラスアルファ。
だからといって、自分から行動を起こす気力も湧かず、結局、れいなには
「つまらん」と無気力に呟くしか出来る事がないのだった。
その事実もまた、れいなはつまらない。
「おーい、れいなー」
コーヒーショップのオープン席から声をかけられた。見れば、顔なじみである友人が
こっちに向かって手を振っている。
気付かないふりで通り過ぎようかと思ったが、目が合ってしまった。
仕方なく、適当に手を振り返して、れいなはそちらに向かった。
- 5 名前:Prologue 投稿日:2005/05/16(月) 22:38
- ヘッドフォンを外した途端、ザーザーとノイズが眉間を貫き、無意識に指で押さえた。
「やほ」
「やほ。買い物?」
「うん。服買いに来てた」
「ふーん、そうなんだ。これからどうすんの?」
空いていた席に腰掛けて(自分の飲み物を買いには行かなかった)、れいなは口元に
笑みを浮かべながら会話を合わせる。
「渋谷でもぶらつこうかなって。れいなも一緒する?」
「あ、ごめん。あたしこれから用事あって」
嘘だった。こういう付き合いの悪さがメールの数に響くんだろう。
絵里は予想していたのか、「そっか」だけで終わらせて、すぐに別の話題を持ってきた。
「ね、ね、昨日『チェケ』のチャット行った?」
「行ってない。絵里入ってたの?」
れいなの返答に、絵里は微かに目を輝かせた。自慢話をひけらかす直前の顔だった。
「よっすぃの事なんだけどさ……」
絵里が間を取るように口を閉じる。れいなが訝しげに眉を歪めた。
- 6 名前:Prologue 投稿日:2005/05/16(月) 22:38
- 『チェケ』というのは、『よっすぃを要 Check it out!』というウェブサイトの
通称である。『よっすぃ』は数年前からウェブ上で絶大な人気を誇っている
ネットアイドルの名前。その彼女の私設応援サイトで最大の大手だった。
よっすぃはネットアイドルには珍しく、男に媚びたような雰囲気がなく、つまり性欲を
扇情するような画像などは一切載せないスタンスで、中世的な顔立ちやテキスト
(日記みたいなものだが毎日は更新されない)の自然体ぶりで女の子にも人気がある。
それほど有名なものではないが、雑誌で取り上げられた事も一度や二度ではない。
といっても、本人がそういったメディア上に登場する事はなかったが。
れいなは大概のことに興味が薄かったが、よっすぃだけは別で、かれこれ三年ほど
熱狂的なファンをしている。
だから勿論、その『チェケ』にも入り浸っていて、絵里とはそこで知り合った。
チャットで話しているうちに気心が知れて、年齢と住んでいる場所が近かったために
オフラインでも顔を合わせるようになった。一年位前からだ。
「よっすぃが、なに?」
食いつきのよさに絵里がにんまり笑った。
れいなのそれには理由があった。少し前から、ファンサイトで不穏な噂が流れていたのだ。
- 7 名前:Prologue 投稿日:2005/05/16(月) 22:38
- 発端は更新頻度が下がったこと。以前はほぼ毎日、五枚程度の画像とよっすぃ本人の
コメントが載せられていたのに、最近は週に一度くらいの割合で申し訳程度の画像が
アップされるだけで、コメントもどこか事務的な、「今日の夕飯はカルボナーラ」とか
そんな感じのものしかなかった。
だから、ファンの間では「事故に遭って顔に大きな傷が出来た」とか、「太ってとてもじゃ
ないけど画像なんか載せられなくなった」とか、そんな話がまことしやかに囁かれて
いたのである。
絵里はコーヒーで喉を潤して、両手を顎の下で組んだ。
「昨日、チェケのチャットによっすぃを見たって人がいたの」
「それで?」
顔に傷はあったのか、体型が変わっていたのか、れいなは訊きたい気持ちをぐっと
押し込める。
「普通だったって」
「は?」
「だから、普通だったんだって。傷もなかったし、普通に痩せてたって」
「……なにそれ」
拍子抜けして、れいなが大きな溜息をつく。
- 8 名前:Prologue 投稿日:2005/05/16(月) 22:39
- だったら、噂は単なる噂で、更新頻度が下がったのも就職して時間がなくなったとか
そういうことなんだろう。彼女は(プロフィールを信じるなら)今年で成人している。
学生時代より時間がなくなっても不思議じゃない。
「でもさ、変じゃない? 仕事とかならテキストにそういう事書いてもいいじゃん」
「……仕事とプライベートは分けるタイプなんじゃない?」
「そっかなあ。書くことないならそういう話とか載せてもいいと思うけど」
「あんま、人に言えない仕事だとか」
どういう仕事かは想像がつかなかったが、れいなは適当に言った。
絵里は納得していないようで、コーヒーを一気飲みしてかられいなに迫った。
「だって、ライブカメラも全然動いてないし」
「……まあ」
よっすぃの行動をリアルタイムで見られるライブカメラは、『Missing』(当のサイトの
名称である)でも人気コンテンツだった。それはもう二ヶ月以上ブラックアウトしたまま
動く気配がない。
- 9 名前:Prologue 投稿日:2005/05/16(月) 22:39
- 「壊れてんじゃない?」
「それだったら連絡のひとつくらいあってもいいじゃん。
ごっちんって機械に詳しそうだし、カメラなんかすぐに直せちゃいそうだし」
「忙しいんじゃないの?」
サイトの管理人であるごっちんは、更新作業からよっすぃのスケジュール管理から、
閲覧者への連絡やら、メールの対応やら、とにかく『Missing』とよっすぃに関する
全てを取り仕切っている人物だ。『管理人』の名に相応しい仕事振りは有名だが、
どういった人物なのか知る人は少ない。年齢も性別も本名も、よっすぃとの関係すら
知られていない。ウェブ上では非常に珍しいことである。
「別にどうでもいいよ。怪我とかしてないなら安心じゃん?
時間が出来たらまた更新されるようになるんじゃないの?」
「そうだけどぉー」
絵里は不満そうに頬を膨らませている。自慢げに振りかざしたネタが空振りして
つまらないのだろう。悪いね、という表情を作って、れいなは立ち上がった。
「じゃね。またチャットにも顔出すから」
「……じゃーね」
ひらひら手を振って、絵里とは別れた。首にかけていたヘッドフォンをはめ直す。
静かなところに行きたい、と思った。
行ったところで、退屈なのは変わらないだろうから、行く気にはならなかったけど。
- 10 名前:Prologue 投稿日:2005/05/16(月) 22:39
-
- 11 名前:Prologue 投稿日:2005/05/16(月) 22:39
- 自室に入るなり、ノートパソコンを開けて電源をオンにする。
起動画面が出ている間に部屋着へ着替え、飲み物を準備して椅子に落ち着いた。
ブラウザを立ち上げ、ブックマークから『チェケ』をクリックする。
よっすぃのアップとロゴが表示され、れいなはその下にある『Enter』をクリックして
中へ入り、チャットルームへ進んだ。
表示されているチャットに「エリザベス」の文字を見つける。絵里はもう入っているようだ。
絵里だからエリザベス。安直だと、れいなはいつも思う。人の事は言えないが。
- 12 名前:Prologue 投稿日:2005/05/16(月) 22:40
- (0^〜^)>Rayさんが入室したYO!
Ray>どもー。>ALL
yagu145>でもオフラインで見た人いるんでしょ?
リカ>こんばんは>Ray
yagu145>あ、どもー>Ray
エリザベス>やほー。>Ray
K>こんばんは。>Ray
K>ごめん、落ちるわ。>ALL
(0^〜^)>Kさんが退室したYO!
エリザベス>昨日の更新見た? 三番目のよっすぃカッコいいよね。
Ray>見た見た! サッカーのユニフォームのやつでしょ?>エリザベス
yagu145>おいら犬抱っこしてるの好き
リカ>あれカッコいいよねー>エリザベス
(0^〜^)>和田さんが入室したYO!
和田>ちーす>ALL
yagu145>神きたーw
リカ>こんばんは。ホントによっすぃ見たの?
和田>マジで見たよ。新宿のショップにいた。普通に可愛い子だった
リカ>ホントに見たんだ! すごい!>和田
- 13 名前:Prologue 投稿日:2005/05/16(月) 22:40
-
絵里が言っていた、よっすぃを見た人の登場でれいなのテンションが上がる。
ひとまず挨拶をしてから質問しようと、キーを打ち始めた時、母親が部屋に入ってきて
思わず舌打ちした。
「またゲームばっかりして。宿題は? 終わってるの?」
ゲームじゃなくてインターネットのチャットなのだ、と言ったところで何の意味もない。
れいなは渋々キーボードから手を離し、「もうやった」とぶっきらぼうに答えた。
「じゃあお風呂洗っておいて。それから洗濯物たたんで。まったく、言われるまで
やらないんだから……」
「わかった、わかりました」
長くなりそうな小言を無理やり遮り、れいなは母親を部屋から追い出そうと
その背中を両手で押した。「ちゃんとやっておくから」母親はまだ何か言いたそうな
顔だったが、そのまま部屋を出て行った。
ブラウザをリロードしてみると、「和田」がみんなから質問攻めにあっていた。
しかし、彼(彼女かもしれない)もたまたま見かけただけで、話をしたわけでは
ないらしく、返答はどれも要領を得なかった。
れいなは諦めて、「親がうるさいから落ちるね」とだけ入力してチャットルームを抜けた。
- 14 名前:円 投稿日:2005/05/16(月) 22:40
-
初回終了。
説明文が多くてすいません……。
- 15 名前:円 投稿日:2005/05/16(月) 22:41
-
- 16 名前:円 投稿日:2005/05/16(月) 22:41
-
- 17 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/05/16(月) 23:27
- 円さん キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!!
- 18 名前:名無しJ 投稿日:2005/05/17(火) 02:03
- 円さんキタワァ:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。
やばい円さんかなり好きです!!楽しみが増えましたw
- 19 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/05/17(火) 02:07
- 円さんキタキタキタキタ━━━(゚∀゚≡(゚∀゚≡゚∀゚)≡゚∀゚)━━━━!!!!!!!!!!
見つけちゃった見つけちゃった!主役はれいなですか。
何かこーいうスタイルの小説に出会ったことが無いので不思議な感じがします。
次回更新も楽しみにしています。
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/17(火) 02:23
- 円さんきたききたきあtかいたきたきたい!!!!
何気なく惹かれたタイトルをクリックしたらなんと・・・。
ご馳走様です。
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/17(火) 21:06
- 円さんお帰りなさい。
やばいぐらい好きですわ。
更新楽しみにしてます。
- 22 名前:電光浴-1 投稿日:2005/05/18(水) 00:52
- 照明を落とした部屋の中は、ディスプレイの明かりのみを光源としているため、
仄かに青い。
AV機器が乱雑に置かれた室内の隅に、後藤真希は座っている。
彼女の手はキーボードの上をそれなりの速さで動いていて、それに連動して、
ディスプレイに文字が打ち出されている。全て英数字だった。Perlという、比較的
初心者にも扱いやすいプログラム言語で、ウェブサイトの作成でよく使われている。
彼女はそれを独学で学んだ。
藤本美貴はベッドに寝そべって彼女の背中を眺めている。変わり映えのしない背中だ。
初めて会った時から彼女の背中は変わらない。彼女と過ごす時間のうち、こうして
背中を眺めている時間というのはかなりの割合を占めているが、そのほとんどがほぼ同じ
形をしていた。
彼女の背中を思い出したとして、それが『いつ』の背中か、美貴は判らないだろう。
手にした棒つきの氷菓をかじる。氷の粒をさらに噛んで、ひんやりした空気を吸う。
ここは暑い。空調がないわけではないが、所狭しと置かれた機器が放出する熱によって
全くといっていいほど用を成していないのだ。
- 23 名前:電光浴-1 投稿日:2005/05/18(水) 00:52
- 美貴はタンクトップとショーツ姿という、まあ、少々はしたない格好でいる。
とはいえ、他に誰がいるでもなし、たった一人存在している真希もいないと同じような
もので、外に出ているわけでもないのだから構わないのだろう。
伸ばし始めて一年が過ぎた髪が、よじれたシーツと一緒に首筋へ絡んでくる。
鬱陶しくて、美貴は氷菓をがぶりと咥えて押さえ、首を持ち上げて両手で髪をかき上げた。
溶けた氷菓の水滴が落ちないよう、じゅぅっと吸い込んで、立ち上がり真希へ近づく。
シーツにうっすらと汗染みがついていた。
「ごっちん、暇?」
「暇じゃないよ」
「ちょっと休憩しない?」
「しなーい」
彼女は取りつく島も無い。
真希の首筋へ腕で纏わりつき、丸まった背中に少々心許ない胸を押し付ける。
「美貴ちゃん、邪魔」苛立ちもなく、平板な口調で真希は咎め、シッシッとキーボードから
上げた手を振った。
- 24 名前:電光浴-1 投稿日:2005/05/18(水) 00:52
- 素直に離れる美貴。しかしその口元は不満げに曲がっている。
「冷たい」
「アイス?」
「違うってば。ごっちんが冷たいっつってんの」
「じゃあセックスでもしようか? 優しくしてあげるよ」
「誰もンなこと言ってないよ」
美貴が顔をしかめる。ただでさえ鬱陶しい熱気が渦を巻いているのに、これ以上
暑苦しくなる事なんてしたくない。
第一、彼女の台詞は100パーセント冗談だ。
ディスプレイから逸れる事のない真希の、その口へ棒つきアイスを突っ込む。
真希は口をもごもごさせている。噛まない主義らしい。
「冷たい?」
「んーん、普通に冷たい」
首を振り、溶けきらないアイスのせいか覚束ない呂律で答える真希。
「どっちだよ」美貴が苦笑してアイスを取り返す。
- 25 名前:電光浴-1 投稿日:2005/05/18(水) 00:52
- 暇潰しに画面を覗き込んでみたが、何がなんだか全く判らなかった。これがどうして
画像を動かしたり掲示板になったりするのか、美貴にとっては不思議でしょうがない。
まるで魔法のようだ。そう言ったのはどこぞの作家だったか。
真希は魔法使いとしてはかなりレベルの高い方であったが、それでも判らない事は
あるらしく、時折キーボードの脇に置いてある参考書をひもといて調べている。
そうでなければリファレンスサイト(ややアンダーグラウンド的なものも含まれているが、
美貴は知る由もない)を開いて調べていた。
アイスを食べ終え、残った棒をゴミ箱代わりのコンビニ袋へ放り投げた美貴が
真希の肩に手を置く。
「よっすぃは元気?」
「うん。最近、また食べ過ぎてるみたい。調整しとかないと」
「食べ過ぎはまずいよね。よっすぃ太りやすい体質だし」
「そうなんだよねー」
真希の機嫌が上向いてきた事を、美貴は敏感に感じ取っている。
表情は無に近いし、相変わらず口調は平板だが、小鼻が少しだけ膨らんでいた。
なによりの証拠だった。
- 26 名前:電光浴-1 投稿日:2005/05/18(水) 00:53
- もう一度、真希の背中に凭れかかり、首を覆うように腕を廻して、慈しむように
その頬を撫でた。
真希は拒まない。機嫌が良くなったからだ。
それはただの戯れだったが、とても重要な戯れだった。
スキンシップは大切だ。たとえいくつになったとしても。
そうすれば、いつか彼女も気付いてくれるんじゃないかと、そういう微かな望みを
抱いたうえでの、切実さを含んだ触れ合いだった。
回りくどい事この上ないが、他に方法が浮かばない。
長く伸びた髪も、うっすらと汗が滲む肌も、わざと首筋や頬に吹きかけている吐息も、
下着姿同然の格好も、この時ばかりは、全てそのためだけの手段だった。
「ごっちん、もうすぐ誕生日だよね。プレゼントは何がいい?」
「んー……」
キリのいいところまでプログラムを組んで、真希は小さく唸り声を上げた。
- 27 名前:電光浴-1 投稿日:2005/05/18(水) 00:53
- 「外付けのハードディスク。そろそろ容量ヤバいから」
「……おっけ。100ギガくらいでいい?」
「足りないかも。もうちょい」
げんなりした顔で、美貴は一層強く胸を押し付けた。
「200?」
「そんくらいあればしばらく持つかな」
「じゃ、買っとくよ」
「ありがと」
小鼻がさらに膨らむ。胸を押し付けたせいでは絶対にない。
虚しくなってきて、美貴は彼女の背中から離れた。虚しかろうがなんだろうが、
諦めるわけにはいかないのが辛いところだ。
足元に転がるプリンタを蹴飛ばしたくなったが、真希が怒るだろうし、蹴った足が
痛くなるのも嫌だったので、代わりにベッドへダイブしてシーツを滅茶苦茶にした。
- 28 名前:_ 投稿日:2005/05/18(水) 00:53
-
- 29 名前:コヨーテ 投稿日:2005/05/18(水) 00:53
- れいなは『チェケ』のプライベートチャットを表示させた。
二人から三人で使用するコンテンツで、使用者は事前にパスワードを決めておき、
そのパスワードを入力した者だけがそのチャットルームに入れるというシステムだ。
管理人はこのコンテンツに限って発言ログを取らないと宣言している(真偽は不明)し、
自分たち以外は入ってこないという安心感から、気心の知れた相手と腹を割って
話したい時や、あまり信憑性のない噂について意見を交換する時などに使われていた。
チャットにいるのはれいなと絵里である。オフラインで会うとか、電話で話すのでも
いいのだが、なんとなく文字だけのやり取りの方が話しやすい時もあるのだ、現代っ子は。
昨日、絵里から携帯メールでプライベートチャットに誘われた時は気乗りしなかった。
また絵里の「特ダネ」を披露されるのかと思うと、なんだか気が重くなったし、それで
悔しい思いをするのも嫌だった。
それがどんな些細な、下らないものであっても、やはり抜け駆けされていい気持ちは
しない。
しかし、何度か交わしたメールの、彼女から届くものがやけに真剣な風だったので、
好奇心に負けて誘いに乗った。
使用時間とパスワードを決めて(事前申請制なのである。使用時間以外はパスワードを
入力しても入室できない)、約束を取り付けたのが昨日の晩。
- 30 名前:コヨーテ 投稿日:2005/05/18(水) 00:54
- 【『チェケ』プライベートチャット】
《ユーザ名とパスワードを入力してください》
>ユーザ名:Ray
>パスワード:********
《プラチャへようこそ》
- 31 名前:コヨーテ 投稿日:2005/05/18(水) 00:54
- >Rayさんが入室しました。
Ray>おつー
エリザベス>おつー
Ray>どしたの? プラチャやんのって久し振りじゃない?
エリザベス>普通のチャットだと荒れそうだから
Ray>また変な噂?
エリザベス>噂っていうか
エリザベス>更新されてるじゃん、わりと
Ray>うん いいことじゃん
エリザベス>うちの学校にパソコンとか詳しい人がいるんだけど
エリザベス>なんか変なこと言ってて
Ray>なに?<変なこと
エリザベス>みっしんぐ見せたら、加工してるって
- 32 名前:コヨーテ 投稿日:2005/05/18(水) 00:54
-
れいながフンと鼻を鳴らした。別に変な話でもないだろう。
最近では、雑誌のグラビアとかでも肌の色を調整したりするそうだし、これだけ
技術が進化した今、アマチュアが趣味で公開しているサイトでそういった事が行われて
いたって、なんら不思議はない。
画像ソフトを使って、明るさとかを変えたり、くすみを消したりくらいはするだろう。
- 33 名前:コヨーテ 投稿日:2005/05/18(水) 00:55
- Ray>別におかしくないよ。雑誌とかでもやってるじゃん
Ray>ほくろ消したりとか。よっすぃはそれやっちゃ意味ないけど(笑)
エリザベス>そういうのじゃないよ。体型変えてるんだって
Ray>どういうこと?<体型変えてる
エリザベス>だから、細くとか
Ray>だって和田って人が痩せてたって
Ray>言ってたじゃん
エリザベス>その子は昔の写真加工してるんじゃないかって
エリザベス>今更新されてるの、全部そうだって。今までのもそうかも
Ray>ありえない。今痩せてるんなら、そんなことしないで今の写真載せればいいじゃん
エリザベス>そうだけど。あと、日記も違うって
Ray>別の人が書いてるってこと?
エリザベス>ううん
- 34 名前:コヨーテ 投稿日:2005/05/18(水) 00:55
- エリザベス>プログラムだって。学習機能を持った人工知能みたいな文章だって
Ray>そんなの素人が作れんの?
エリザベス>けっこう簡単らしいよ。よくわかんないけど
Ray>なんでそんなことすんの?
エリザベス>知らないよ。ほんとかどうかもわかんないし
Ray>じゃ、よっすぃって本当はいないってこと?
Ray>見た人いるのに
エリザベス>最初は本人がやってて、もうやめちゃったのかも
Ray>ごっちんがうちら騙してるの?
エリザベス>だから知らないってば
- 35 名前:コヨーテ 投稿日:2005/05/18(水) 00:55
-
れいなは呆然とディスプレイを眺めていた。20秒ごとにオートリロードが走って
画面が点滅した。催眠術師が揺らす振り子のように、規則的なそれがれいなを麻痺させた。
よっすぃはいなかった?
いたけど、今はいないかもしれない?
騙されてた?
裏切られていた?
いや、そもそも自分たちと彼女の間に信頼関係などあったのか?
彼女(たち)は単に遊びでサイトを公開していて、そこには責任感もなにもなく?
自分たちが、勝手に神のように崇めていただけで?
絵里になんの挨拶もなく、ブラウザごと落としてチャットを抜ける。
ファイル操作のアプリケーションを起動し、フォルダを辿って、保存しておいた
『Missing』のファイルをダブルクリックした。
よっすぃのコメントページだ。何度も何度も何度も何度も呼び出して読んだページ。
- 36 名前:コヨーテ 投稿日:2005/05/18(水) 00:55
- 『20xx/4/12
誕生日だー! ハッピー? いやアンハッピー? ちょっと判らないね。
でもお祝いは大歓迎! プレゼントはこちらまで。ナンチャッテ(笑)
世間が決めた大人まであと少し。ちょっと恐い。
あたしは大人になるのが恐い。
だからって逃げるわけじゃないけど。「ボクはピーターパンなんだ」とかって、
年とってく限り言えないでしょ(笑)
大人になりたくないわけじゃない。
あたしは大人でい続けなきゃいけない未来が来るのが恐い。
まっ、あとちょっとあるし、10代のうちは青春を謳歌しますよ!(笑)
というわけでこれからもヨロシク!』
- 37 名前:コヨーテ 投稿日:2005/05/18(水) 00:56
- 特にどうということもないコメントだった。彼女はこんな風に、ちょっとだけ本音の
ような弱音のようなものを書く事があって、大抵の閲覧者はそれに対して「頑張って」とか
「自分も同じ気持ちです」とか、そんな感じのレスポンスをして彼女と何かを共有する。
それこそが彼女の人気を支えているのかもしれない。
ただ、れいなは妙に心に残った。これ以外にも、もっと楽しそうな文章や共感できる
ものはいくらでもあったが、これが一番引っかかった。
その当時、れいなはまだ初潮を迎えていなかった。早ければ小学生の中学年くらいで
迎えるはずのそれが、中学校を卒業してもやってこなかった。
それは大変なコンプレックスだった。中学二年生からは「来ている」ふりをして
体育を休んでみたり、形ばかりにポーチを持ち歩いたりしたくらいだ。
だからこそ、「大人になるのが恐い」という彼女の言葉が引っかかったのかもしれない。
大人になれないと焦る自分と、大人を拒むような彼女と、真逆のはずなのに、何故か
妙な親近感を覚えた。
そして、親近感とは本来相容れないはずの、畏怖に似た尊敬。
「無理して大人にならなくていいんだよ。大人になるのは誰だって恐いから」と、
まるで免罪符をもらったような気がして、れいなは彼女にハマっていった。
それが嘘かもしれない。
それが彼女自身の言葉だと、誰も証明などできない。
プログラムが作り出した、贋物の言葉なんかじゃないと、誰にも言えないのだ!
- 38 名前:コヨーテ 投稿日:2005/05/18(水) 00:56
- 「――――、…………」
だらんと、れいなの両腕が落ちた。
ぽたんと、れいなの涙が落ちた。
『Missing』を見ていた人間のほとんどにとって、それは大した問題じゃあないだろう。
嘘だったと証明されたって、ショックは受けるだろうが、こんな風にはならないだろう。
れいなの悲しみは誰も理解できないだろう。
れいなの苦しみは誰も共有できないだろう。
れいなの。
想いは。
誰にも。
届かない。
だろう。
れいなが。れいなの。れいなを。
守っていたモノは、あっさりとその像を消した。
実像なんて、最初からなかったのかもしれない。
アイドルとはつまり、偶像であって、偶像とは、実体のないものを表したものなのだから。
- 39 名前:円 投稿日:2005/05/18(水) 00:56
-
2回目終了。
- 40 名前:円 投稿日:2005/05/18(水) 00:57
- レスありがとうございます。
>>17
来ちゃった(笑)
>>18
ありがとうございます。
少しでも楽しみにしてもらえるよう精進します。
>>19
はい、れいな主役です。多分。そのはず(苦笑)
>>20
お粗末さまです。というのは早すぎますが(笑)
えーと、スレタイはおろかサブタイトルも曲m(ry
>>21
恥ずかしながら帰ってまいりました(敬礼)
- 41 名前:円 投稿日:2005/05/18(水) 00:57
- では、また次回。
- 42 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/18(水) 01:10
- 面白そうなストーリーですねぇ。。前半の二人には萌え死にましたw
マターリがんがってくださいヽ(0^〜^0)ノ
- 43 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/18(水) 01:19
- 円さんお帰りなさい、そして更新お疲れ様です。
やっぱりというか相変わらず面白いですね。
とても引き込まれます。
次回も楽しみにしています!
- 44 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/18(水) 02:56
- 最初の2人大好物です!w
ストーリーに引き込まれました!
次の更新楽しみにしています。
- 45 名前:課題が見出される庭園 投稿日:2005/05/19(木) 18:43
-
二人の少女が会話をしている。
- 46 名前:課題が見出される庭園 投稿日:2005/05/19(木) 18:44
- やっばい、れいな絶対怒ってる。
そんなに好きなの、そのよっすぃとかってネトアイ。
変な略し方しないでよ。大体、元はといえば里沙ちゃんのせいなんだから!
そう言われても……。わりと上手いけど、どう見ても加工してるよこれ。
ほら、ここのほっぺの影とか不自然じゃん。もうちょっと輪郭が広がってないと
こうならないよ。
そんなことどうでもいいの! よっすぃが贋物だったってのが、れいなにとっては
大ショックだったんだから。
でも、本物はちゃんといるんでしょ? 痩せてて、可愛かったんでしょ?
そっちが本物なんだから、画像くらい……。
ちっがうんだなあ。れいなにとってはネットの『よっすぃ』が本物なの。
『Missing』の中だけがホントでそれ以外は全部嘘。そういう考えなわけ。
え、変じゃんそれ。逆だよ、現実があってネットのよっすぃがいるわけだから。
- 47 名前:課題が見出される庭園 投稿日:2005/05/19(木) 18:44
- そうじゃないんだって。ナントカ戦隊みたいなヒーロー見てる、ちっちゃい子とおんなじ。
ヒーローは見せかけの着ぐるみなんかじゃなくて、中に違う人が入ってちゃいけないし、
ロボットでもいけないわけ。
うん、ホント……パソコンの中によっすぃが『いる』って感覚なんだよね、あの子。
まあ、頭じゃ判ってるんだと思うけど。
……マジで?
マジで。
恐いね。現実が嘘なんだ。現実なのに。
れいなはネットの方が現実だから。
ふーん。なんか悲しいよね、そういうの。
わりとね。
- 48 名前:課題が見出される庭園 投稿日:2005/05/19(木) 18:44
- あ、もうすぐ予鈴鳴るよ。
うん。
絵里ちゃん、パソコン隠さないと。また没収されるよ?
判ってる。
今度改造してあげよっか?
いらないよ、壊されたら困るもん。
壊さないから。性能上がるよ。そんな標準仕様のまんまじゃダサいって。
あーやだやだ、機械オタク。
なにおぅ?
実はごっちんって里沙ちゃんだったりすんじゃないの?
ンなめんどくさい事しないよ。
さっきだって加工が上手いとか言っちゃってさー。自慢?
違うってば。私だったらもっと上手くやるし。
うわー。
で、どうすんの?
れいな?
うん。
ケータイ切ってるし、どうしようもないよ。落ち着いたら連絡来るんじゃない?
ふーん。なんか哀しいよね、そういうの。
結構ね。
- 49 名前:_ 投稿日:2005/05/19(木) 18:44
-
- 50 名前:狙撃手 投稿日:2005/05/19(木) 18:44
- 無気力に、無気力に、無気力に、今までよりも無気力に、れいなはフラフラと
雑踏をすり抜けていた。
ヘッドフォンからはなんの音も流れていない。携帯電話は電源を切っている。
サングラスに隠された瞳は何も映さない。足は動いているがどこにも向かっていない。
無気力な、無気力な、無気力という無気力を集合させた無気力が、今のれいなだった。
絵里からの謝罪メールはれいなの携帯に届くことなくセンターに留まっている。
母親の小言は右から左へ抜けるどころか、耳穴の入り口で回れ右をしている。
担任教師はやる気がないなら出て行きなさいという。れいなは出て行くほどの気力も
ないのでぼうっと座り込む。すると教師は諦める。
学校帰りなのに制服を着ていないのは、着替えたのではなく着て行かなかったからだ。
制服はどうしたのかと学年主任が訊いてくる。答えない。応えない。
叱りつけてくる。堪えない。手応えがないので学年主任は諦める。
まるで見えない。まるで聞こえない。まるで味がない。
静かな世界だった。荒廃した世界だった。世界という世界を失った世界だった。
静かなところに行きたいと願っていたが、れいなはそれも失っていた。
れいなは当て所もなくフラフラと歩く。
フラフラと。
フラフラと。
フラフラと。
グイ、と。
誰かが後ろから口を押さえつけ、強く引き寄せられたが、れいなは抵抗しなかった。
- 51 名前:_ 投稿日:2005/05/19(木) 18:45
-
- 52 名前:魂のふる里 投稿日:2005/05/19(木) 18:45
- 出された紅茶を一口含み、美貴はほう、と息をついた。
「いやー、やっぱり院長先生の淹れてくれるお茶はいつでもおいしいですねー」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
「このクッキー、手作りですか? うわー、すごい、感動」
「うちの子たちが作ってくれたんですよ。なかなかの出来でしょう?」
「うん、おいしいです。なんか素朴な感じ」
お茶請けのクッキーをパクつきながら、美貴はニコニコと笑っている。
ここを訪れるのは半ば義務である。そして、浮かべた笑みもまた、ほとんどが義務感に
よるものだった。
「元気そうでなによりですよ。みんなはどうしてるの?」
「美貴は相変わらずバイトで。ごっちんはソーホーっていうんですか?
うちでデザイン系の仕事やってます。よっちゃんは……ま、フリーターですけど」
「そう、みんなそれぞれ頑張ってるのね」
「いやよっちゃんは……はあ、そうですね。とりあえず元気でやってます」
自ら藪をつついて蛇を出すこともないかと、美貴はニコニコしたまま適当に話を
合わせた。還暦を過ぎて十数年経っている院長は、どうも人の話を全て都合よく
解釈するきらいがある。「フリーター」を何かの職業と勘違いしたのかもしれない。
- 53 名前:魂のふる里 投稿日:2005/05/19(木) 18:45
- 自分たちの実質的な故郷であるここを訪ねるのは、三人の中で美貴一人だけだった。
あとの二人がどう考えているのかは知らないが、誘ってみてもいい返事をもらったことが
ないので、今は気が向いた時、ふらりと一人でやって来る。
カップが空になると、院長がすぐにお代わりをそそいでくれた。
美貴も当たり前のようにそれを受け、軽く頭を下げて口をつける。
「院長先生も元気そうで安心しました。先月でしたっけ? お倒れになったって
聞いたもんだから。お見舞いに行けなくてすみません」
「いいえ、大したことじゃないんですよ。美貴ちゃんたちにまで連絡が行っていたの?
大げさにしないようにってお願いしてたのに」
頬に手を当てて「困ったわね」とでも言いそうな顔をする院長に、美貴は首を傾げて
「みんな院長先生が大切なんですよ」といたわるように言った。
その中に、彼女たちが入ってるかどうかは別として。
- 54 名前:魂のふる里 投稿日:2005/05/19(木) 18:45
- 「みんな、大変でしょうけど、何かあったらすぐに言ってね。
力になりますから」
「ありがとうございます。心強いです。
……身寄りのない美貴たちにとって、院長先生とかここの人たちが家族みたいな
もんですから」
笑みに含まれた嘘が、少しだけ膨らんだ。
言葉にも、嘘が入り込んでしまった。
仕方がない。大人になれば、嘘をついた方がいいケースもあるのだと、もう美貴は
知ってしまっている。
『美貴たち』と、複数形にするくらいの嘘は、罪にはなるまい。
- 55 名前:魂のふる里 投稿日:2005/05/19(木) 18:46
- 院長室をあとにして、美貴は廊下をひた歩く。
子供たちの笑い声が聞こえた。バタバタと走り回る音もする。
鬼ごっこか何かをして遊んでいるのだろう。
興味本位でレクリエーションルームを覗くと、やはり、五人の子供が鬼ごっこをして
駆け回っていた。
知ってる顔は一人だけだ。あとは最近入った子供なのだろう。溶け込む速さは
子供ならではか、と顔を綻ばせ、みんなを先導している少年に声をかけた。
「あっ、美貴ねーちゃん!」
「久し振り。元気してたかー?」
足元に纏わりついてきた少年に、内心「安くないぞ」と思いながら、美貴は小さな頭を
乱暴に撫でた。
「美貴ねーちゃんも入る? おっきいから美貴ねーちゃんが鬼ね!」
「へ? いや、美貴は……」
「そこの柱で十数えんだよ!」
すっかり鬼ごっこの参加者にされてしまった。
まあ、ちょっとだけ付き合うか、と美貴が言われたとおり柱に身体を向け、両手で
目の部分を覆って数をかぞえ始める。
- 56 名前:魂のふる里 投稿日:2005/05/19(木) 18:46
- 「いーち、にーい、さーん……」
ワーワー騒ぐ子供の声が少しだけ遠ざかる。
こんな事してる暇あんのかよ。自分に向けた忠告は子供の無邪気なパワーにかき消された。
「……じゅーう」
くるり振り返り、捕まえられそうな子供を探す。こういう時、大人だからとすぐに
捕まえてしまってはいけない。あとちょっとで捕まらないというスリルを味わわせて
あげなければならないのだ。これもまた、大人としてついておく必要のある嘘である。
「ほーら、捕まえるぞー!」わざと声を上げてスリルを増大させる。
キャーと喚いて逃げる子供たちを追いかけ、すんでのところで逃がしてみたり、
頃合を見て一人捕まえてみたり、「指きり」の邪魔をしてみたり、邪魔しきれずに
捕まえた子供を逃がしてみたり。
いい加減恥ずかしくなってその場に座り込んで頭を抱えた。
「美貴ねーちゃん? 頭痛いの?」
「う、うん、そう! お姉ちゃんちょっとお薬もらってくるね!」
心配して近づいてきた少年へ元気一杯応え、美貴は脱兎の如く逃げ出した。鬼なのに。
- 57 名前:魂のふる里 投稿日:2005/05/19(木) 18:46
- 「……危なかった」
流れてもいない汗を拭い、美貴が大きく嘆息する。
レクリエーションルームを逃げ出し、そのまま外へ出たところで立ち止まった。
振り返れば人生のほとんどを過ごした白い建物が構えている。
様々な事情で身寄りを失った子供の、保護施設である。
美貴も、ここで幼少期を暮らした。あの二人とはその頃からの腐れ縁だ。
年齢が近かったせいか(というか、ほぼ同い年と言ってもいいのだが)、わりに行動を
共にする事が多く、三人ともそれが楽だったので、施設を出てからも離れる事は
なかった。
美貴は彼女たちを妹のように思っていたし、今でも思っている。
彼女たちは美貴を姉のようには思っていなかったし、今も思っていないだろう。
冷たいよね、と、美貴は肩を竦めた。
不満があるわけではなかったが、少しだけ……寂しかった。
- 58 名前:魂のふる里 投稿日:2005/05/19(木) 18:46
- 家族になれない事は判っていたけど、家族ゴッコくらい、してくれてもいいのに。
それくらいの嘘を、ついてくれてもいいのにと、思う。
嘘がつけない彼女たちは。嘘を悪い事だと思っている彼女たちは。
だから、すれ違ったのか。
美貴と。
彼女と、
彼女は。
「ごっちん……それは、寂しいことだよ」
ここは、自分たちが、家族でいられた場所なのに。
- 59 名前:円 投稿日:2005/05/19(木) 18:47
-
3回目終了。
導入部が終わりましたので、これから更新頻度は下がります。
- 60 名前:円 投稿日:2005/05/19(木) 18:47
- レスありがとうございます。
>>42
前半の二人は、この話で最大のエロシーンかもしれません。
あまりマターリとした更新速度じゃないですが(笑)頑張ります。
>>43
ありがとうございます。勿体無いお言葉です(ホロリ)
>>44
あの二人は……えーとえーと。
まあ、この先どう転がっていくかは判らないという事で(苦笑)
- 61 名前:円 投稿日:2005/05/19(木) 18:47
- ではまた次回。
- 62 名前: 名無飼育さん 投稿日:2005/05/19(木) 22:29
- おもしろい
85年組とれいながどう絡んでいくのか楽しみです。
- 63 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/19(木) 22:54
- あらら、どうなっちゃうんでしょう。
面白過ぎます。。
- 64 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/20(金) 16:06
- おぉ円さんだ!おかえりなさい!
てか完璧出遅れた…しかしながら今回も期待大です。
- 65 名前:世界タービン 投稿日:2005/05/24(火) 19:49
- 眩しくて目を覚ました。
意識は戻ったが、今度はその眩しさのせいで目を開けられない。
目が慣れるまで待って、恐る恐る瞼を上げる。無骨な、屋根の裏側そのままな天井が
見えた。少しだけ肌寒い。首を廻らすと、コンクリートの打ちっぱなしである壁が
四方を取り囲んでいる。広いせいもあって随分と殺風景だ。
起き上がろうとしたら腕を誰かに引っ張られた。
と思ったのだが、両手を「バンザイ」の形に上げられ、何かで固定されているようだった。
自由が利かないうえに感覚も薄いので、おそらくロープで縛られているのだろう。
誘拐殺人、という言葉が頭をよぎった。
それもまあ、悪くないかなと思った。彼女が贋物だった以上、この世界に未練はない。
もう既に、壊れているのだし。
「……起きた?」
声に顔を向ける。自分をさらったのは勝手に変態中年オヤジだと考えていたが、
その声の主はまだ若い女だった。
- 66 名前:世界タービン 投稿日:2005/05/24(火) 19:49
- 「…………ぁ……」
れいなの喉から、掠れた、慟哭のような感慨のような声が洩れた。
「恐がらなくていい。別に殺そうとは思ってない」
どことなく中性的な、無理をして感情を押し殺しているような口調だった。
しかし、れいなが驚いたのはその声でも口調でもなかった。なにしろ、れいなは
『彼女』の声を知らなかったのだ。
れいなの口が、音を作らないまま何度も開いたり閉じたりする。
彼女はれいなが恐怖していると思ったのか、ストローを差したパックジュースを
口元に持ってきた。
「飲め」
「…………」
れいながおずおずとストローを咥える。ズ、と吸い込むと、横向きで飲んだせいか
器官に入ってむせた。
彼女はれいなの咳が治まるまでじっとしていた。
- 67 名前:世界タービン 投稿日:2005/05/24(火) 19:49
- ようやく喉が落ち着き、れいなは上目遣いに彼女の顔を見上げた。
「よっすぃ……」
呟きに、彼女が軽く顔をしかめる。
「なんだ、アレ見てんのか」
忌々しげな、目の前に苦手な動物を持ってこられた時のような顔だった。
その表情を変えないまま、彼女はおもむろにれいなの顎を鷲掴みにして、
きつく締め付けた。
鈍い痛みにれいなの眉が歪み、うっすらと涙が浮かぶ。
「……ぐ……ぅ」
「その呼び方をするな。あたしは吉澤。今度その呼び方したら、殺すよ?」
ついさっき言った事と真逆の発言だった。情緒不安定なのかもしれない。
簡単に言っている事を覆すのは動揺の証拠だと、れいなは知っている。
そういった人間はネット上に溢れている。
「……よ、しざわ、さん……」
「そう。間違えるなよ」
れいなの顎から手を外し、吉澤が頷く。
- 68 名前:世界タービン 投稿日:2005/05/24(火) 19:49
- 吉澤だからよっすぃか。ぼんやりとそんな事を考えた。
やっぱり、どこもかしこも安直だ。人の事は言えないけど。
部屋の中は清々しいほど物がなかった。バッグがひとつと、ジャンクフードが入った
スーパーの袋、無造作に転がる携帯電話、れいなが縛られているパイプベッド。
これは多分、普段は彼女が使っているんだろう。なるほど、ここ以外、人を縛り付けて
おける場所がない。
「お前は?」
「え?」
「名前。別に本名じゃなくてもいいけど。名前ないと呼ぶ時不便だろ」
そこでれいなは、本当なら素直に答えるつもりだった。
名字はさすがにいらないだろうと、ただ普通に、「れいな」と、そう返答するつもりだった。
しかし、どうしても緊張してしまったのか、喉が変な風に引き攣れて、最後の音が掠れた。
「れい……」
「レイ? ふぅん」
「あっ……」
吉澤の勘違いを訂正しようと口を開く。「あの」「あ、思い出した」れいなの声に吉澤の
それが被さり、れいなは思わず喉を詰める。
- 69 名前:世界タービン 投稿日:2005/05/24(火) 19:50
- 「メールくれただろ、何回も。ごっちんが見せてくれたことある」
「あ、はあ、はい……」
「Rayって、そっか、あんたか。ホントに若いんだ。中学生?」
「高校生です!」
誘拐された身でよく噛み付けたな、と後になって思ったが、その瞬間だけは、
そんな事はどうでもよくなっていた。吉澤の言葉はれいなのコンプレックスの最も
大きな部分を土足で駆け抜けていったのだ。
「あ、わり……」気圧されたのか、存外素直に吉澤が謝ってきた。
なんだかこっちの方が申し訳ない気持ちになって、れいなは小刻みに首を振った。
叫んだせいか喉が痛くなって、れいなは何度も咳をして、唾を飲み込んだ。
吉澤が先程のジュースを差し出してくる。ストローを咥え、今度は慎重に吸い上げた。
さっきは味を感じる余裕も無かったが、それはイチゴミルクの味がした。
パッケージにもそう書いてある。
甘党なのか、最初かられいなに飲ませるつもりで買ってきたのか。
後者だとしたら子供扱いされたようで気に入らない。
吉澤はれいなの横たわるベッドへ腰掛けると、ソフトキャンディの包みを開いて
一粒口に入れた。それから、同じものをれいなの口に放り込んで、壁に目を向ける。
- 70 名前:世界タービン 投稿日:2005/05/24(火) 19:50
- 「初潮は来た?」
「はあ!?」
唐突な質問に、れいなが上ずった声をあげる。
そういえば、いつかのメールにそういった事を悩みとして書いた記憶がある。
あの時はまさか直接顔を合わせる機会が訪れるなんて思っても見なかったし、
友達には絶対できない相談だからと、ちょっと愚痴のような感覚で書いたのだった。
こんなところで、こんな辱めを受けるとは思わなかった。
「それで覚えてたんだ。中学生で初潮来てないとか珍しいべ。
んで、来たの? 来ないの?」
「……き、来ました」
「そっか……。来たんだ、ふぅん……」
どうしてなのか、彼女の口調には「残念だ」という響きがあって、それはサイトに
載っていた「大人になるのが恐い」という言葉と関係があるのかもしれなくて、
れいなはそう思ったのだが、なんとなく、訊けなかった。
- 71 名前:世界タービン 投稿日:2005/05/24(火) 19:50
- ソフトキャンディが溶ける頃、吉澤がれいなのバッグを漁り、携帯電話を取り出した。
自分が使っているものと機種は違うだろうが、何度かキーを操作して難なくアドレス帳を
呼び出し、自宅への番号を見つけ出す。
通話ボタンを押す前にれいなの耳元へそれを当て、低くした声で指示をする。
「二、三日出かけるって伝えろ。旅行でもなんでもいい。
助けてとか、そういう事は言うなよ。少しでも変なそぶり見せたら殺す」
逆の手で腰に提げたナイフを引き抜き、見せてくる吉澤。
鈍く光る金属に、れいなは口元を引きつらせる。
小さく頷くと、吉澤が通話ボタンを押した。
数コールで母親が出て、れいなは唾を飲み込んでから話し出す。
「もしもし、あたし。……ちょっと、友達と遊びに行ってるから。うん――――。
泊りがけになるんだけど……三日くらい。
あ、学校は、月曜が創立記念日だから……。はい、はーい。うん、お土産ね。
買ってきます。はい。じゃあね」
- 72 名前:世界タービン 投稿日:2005/05/24(火) 19:50
- 目線で吉澤に告げ、彼女が終話ボタンを押し、そのまま電源も切った。
「上出来」満足そうに耳元で囁かれ、ぞわりと妙な感覚がれいなの背筋を走った。
恐怖、だったのだろう。
彼女は既に、ナイフを腰に戻している。大振りのサバイバルナイフだった。
れいなの細っこい首なんて、簡単に分断できそうだ。そんな事態は御免被りたい。
「創立記念日? ラッキーじゃん」
「……嘘に決まってるじゃないですか」
「なんだ」
素直なのか馬鹿なのか。そんな都合のいい事がそうそうあるわけないのに、彼女は
れいながでっち上げた言い訳をあっさり信じたらしい。
ナイフが上着に隠れて見えなくなったからか、命の危機は感じなくなっていた。
「おなか空きました」ぽろりとこぼしてから、さらわれた立場で言う事でもないなと
己に呆れる。
そういえば長いこと食事を取っていなかった気がする。おそらく、ショックが大きすぎて。
無気力なままではあったが、なんとはなしに、生気、みたいなものがそこはかとなく
戻っていた。彼女の顔のせいだろう。
- 73 名前:世界タービン 投稿日:2005/05/24(火) 19:51
- 彼女は自分を「よっすぃではない」と明言したし、れいなにとってもそうだ。
勿論、理屈では理解している。れいなが『よっすぃ』に宛てて送ったメールの内容を
知ってるのなら、目の前にいる彼女はやはり、オリジナルの『よっすぃ』なのだろう。
だがれいなはどうしても、彼女と彼女を同一視する事が出来なかった。
『よっすぃ』は、ディスプレイを通してでしか会えない、触れることも出来ない、
だからこそ清潔な、そう、れいなにとっては本当に、神のような存在だった。
対して、吉澤はあまりにも人間くさすぎる。すぐに怒ったり、触れてきたり、動く度に
服の裾がひらめいたり、ソフトキャンディを食べたり、デリケートな話題をずけずけと
聞いてきたり。
しかし、人間の脳というのは自らに優しくするのが好きなようで、『よっすぃ』と
同じ顔をしているおかげで、なんとなく安心というか、気分が上向いていた。
『よっすぃ』の存在はどこにもいなくなった。
『よっすぃ』と同じ顔をした彼女はここに存在している。
同じ形をした、別物。
そこに救いを見出すくらい、したっていいだろう。
- 74 名前:世界タービン 投稿日:2005/05/24(火) 19:51
- 吉澤が袋からベーグルを取り出し、一口分ずつ千切ってれいなの口に入れた。
チョコレートが練りこまれたもので甘かった。さっきから、彼女に与えられるのは
甘いものばかりだ。
ベーグルとイチゴミルクを交互に飲み込みながら、これらはやはり、れいなのために
用意されたものなのだと考えた。
これもまた、視覚効果ということか。
子供は甘いものが好きに決まってる。彼女はきっと、そう考えたのだろう。
ずいぶんと馬鹿にした話だが、れいなは文句ひとつつけず、黙って千切られたベーグルを
食べ続け、甘ったるくなった口へ更に甘いイチゴミルクを流し込まれても、ただ、
おとなしく飲んだ。
吉澤は機械的に、れいなへベーグルとミルクを与えた。
親鳥が雛へ餌を食べさせるように。
- 75 名前:世界タービン 投稿日:2005/05/24(火) 19:51
-
4回目終了。
- 76 名前:世界タービン 投稿日:2005/05/24(火) 19:51
- レスありがとうございます。
>>62
微妙に絡み始めました。他にも色々と絡まり合います。
>>63
今回、最初の転がりですね。
さてどうなるんでしょうか(笑)
>>64
まだ初めの部分ですんで、全然出遅れてませんよー(笑)
- 77 名前:世界タービン 投稿日:2005/05/24(火) 19:51
- ではまた次回。
- 78 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 20:22
- Σ(゚Д゚;エーッ!
どうなっちゃうんでしょ・・・。(*´д`*)モット激しく!!期待
- 79 名前:43 投稿日:2005/05/24(火) 22:30
- 更新お疲れ様です。
おーっ、これはますます面白い事になってきましたね!
次回の展開の予想をしながらマターリと更新を待ちます。
今後どう絡み合い、縺れ合っていくのかがとても楽しみです。
- 80 名前:名無しJ 投稿日:2005/05/26(木) 17:25
- 楽しみです。どうなるんでしょうか…
- 81 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 16:11
- ぅわ、円さんだ!どんだけ乗り遅れてるんだよorz
今回のもすげー面白いっす。めちゃくちゃ引き込まれる…尊敬
- 82 名前:仕事場はタブー 投稿日:2005/05/31(火) 07:55
- 空パッケージに「貸し出し中」の札をつけ、ずらり並んだラックへ収めていく。
平日の日中である今、客は少ない。
蟹歩きで移動していき、機械的にパッケージをしまっていく中で、ふと手が止まった。
棚の中がまるまる一段、空っぽになっている。そこに納めるべきケースを持ったまま
しばらく固まって、それから小さく舌打ちをした。
そうだ、今日からここの商品は入り口付近に特設コーナーを作ってそっちに
移動したんだった。
ケースへ目を落とす。ドラマのおかげでいきなりブームが起こった、異国の映画である。
だったらそっちを先にやっておけばよかったと、美貴がごく小さく眉を歪めた。
バックルームからならそちらの方が近い。
「藤本さん」
踵を返して特設コーナーに向かおうとした美貴へ声がかかる。
振り向くと、「研修中」のプレートを胸につけた同僚が、申し訳なさそうな顔で美貴を
見ている。バイトとして入ってきてから三週間は経っているので、いくらなんでも
ネームプレートを見る前に彼女の名前は頭に浮かんだ。
- 83 名前:仕事場はタブー 投稿日:2005/05/31(火) 07:55
- 「なに? 梨華ちゃん」
「これってどの辺の棚かな……? ごめんね、判んなくなっちゃって」
梨華が手にしたビデオケースを掲げてみせる。
「懐かしのなんちゃら」とかいうテレビ番組でよく見る、昔のアニメだった。
「ああ、それならあそこのポップの二つ右の棚の、世界名作劇場コーナーの下から
三番目の段だよ」
「……ごめん、もう一回お願い」
梨華が説明された場所を目線で探したが、やがて申し訳なさそうな口調で頼んできた。
美貴は力ない苦笑をして、梨華に手招きしながらさっき説明した場所まで歩き出した。
口で言うより一緒に連れて行った方が早いのは自明の理である。
コーナーへ案内し、歯抜けになっていた箇所へケースを埋めて、お役御免とばかりに
自分の仕事へ戻ろうとしたら、梨華に引き止められた。
- 84 名前:仕事場はタブー 投稿日:2005/05/31(火) 07:56
- 「あの、藤本さんも次休憩だよね。よかったら一緒に……」
「ん、別にいいけど?」
「あっ、じゃあ、こっち手伝うねっ」
何故か緊張した面持ちの梨華が、美貴の抱えているパッケージをひったくる。
「はあ……」美貴は半ば呆然と応え、せかせかと作業をし始めた梨華の横顔を眺めた。
手伝ってくれるのはありがたいのだが、おそらくは……。
梨華が決まり悪そうに笑って、美貴を窺ってきた。
「……これ、どこに戻せばいいのかなぁ……」
やっぱり。美貴が自分でやった方が早い。
口の中でひとりごち、美貴はゆったりと彼女へ近寄る。
- 85 名前:仕事場はタブー 投稿日:2005/05/31(火) 07:56
- 石川梨華。同い年。バイトの後輩。わりと可愛い。スタイルも良い。お尻とか触り心地が
よさそうだ。声が高い。地黒なせいか「遊んでるっぽく見られる」のが悩みと本人談。
痛々しいまでにポジティブシンキング。それが真なのか偽なのかは判断に迷うところだ。
どっちであれ、『空を飛べる薬』とか渡したら喜んで飲むに違いない。
それで腹を壊しても、「今度はうまくいくといいねっ」とか笑顔で言えるタイプだ。
基本的に空回り。呆れるほど空回り。時々分けてもらいたくなるほど、元気に空回り。
そして、暇さえあれば(なくても)美貴の周りをカラカラ回る。
入りたての頃、判らなくてオロオロしてるところへ何度か手を差し伸べていたら、
いつの間にやら自分から寄ってくるようになった。
正社員よりも気安いし、他に年齢の近いバイトもいないから、必然的にそうなったの
だろう。
「休憩入りまーす」
梨華に手伝ってもらいながら作業を終え、時間が来てからスタッフルームへ入る。
少し遅めの昼食を梨華と一緒にとりながら、しばらく黙っていたが、何か言いたそうな
視線に耐え切れず彼女へ眼を向けた。
「なに?」
「え、なんでも」
梨華がふるんと首を振った。「あ、そう」美貴は視線を外し、食事の続きを再開する。
- 86 名前:仕事場はタブー 投稿日:2005/05/31(火) 07:56
- ゆるゆる視線を動かしていた梨華は、上目遣いに美貴を見遣り、顔色を窺い、それから
口を開いた。
「藤本さん、映画好きなの?」
「うん、わりと。なんで?」
「よく借りて行ってるでしょ、昼番の帰りとか」
「そうだね」
コンビニで買った焼肉弁当をつつきながら、美貴は気さくに受け答えする。
「どんなのが好きなの?」
「けっこう色々観るよ。気に入ってんのはキョンシーとか、グリーンマイルとか」
「恋愛ものとか、あんまり観ないのかな」
「ううん、そういうのも観る。でも、そうだね。感動できるやつとかの方が好きかも」
「そうなんだ」
会話が途切れた。いい加減、質問の手もなくなったのだろう。
味付けが濃すぎる肉を咀嚼して、美貴が割り箸を梨華へ向けた。
「てか、別に名前で呼んでいいよ。同い年なんだし、そんな他人行儀にしなくても」
堅苦しいの苦手なんだよね。清涼感溢れる、嫌味のない笑顔で言ってやる。
その台詞こそが『他人行儀』の象徴みたいなものだったが、梨華は嬉しそうに
何度も頷いた。
なんだか予想以上に喜ばれて、美貴は内心ギョッとする。
- 87 名前:仕事場はタブー 投稿日:2005/05/31(火) 07:56
- 「じゃあ、美貴ちゃんって呼んでいい?」
「いいよ別に。だいたいそう呼ばれてるし」
梨華は照れ臭そうに笑いながらシュリンプサラダサンドにかぶりついた。
ひょっとして友達いないのかな、と失礼な事を考えたが、さすがに表へ出したりはしない。
言葉は勿論、表情さえも。
美貴の笑みは、大変凡庸な言い方だが仮面であって、それは概ね周囲の人間をうまく
騙す事ができた。
最初は真剣な顔で向き合って、それから不意に笑ってみせるのだ。
顔立ち自体はわりにクールなので、大抵、そのギャップに騙されてくれる。
正直言って、美貴にとって必要なのはあの二人だけで、あとは無駄な厄介事を
呼び起こさないように当たり障りのない付き合いをしているだけだった。
だからこそ礼儀に則って「さん付けなんてやめてよ」と言うし、判らない事があれば
教えてやるし、昼食も一緒にとるのだ。頼まれたらトイレに付き合ってあげてもいい。
誰に対してもそうだ。
彼女たち以外、誰であっても。
美貴の心は動かなかった。
心安らぐのも、心痛むのも、彼女たちのためだけだった。
嘘をついて嘘をついて嘘をついて嘘をついて、嘘という嘘を嘘つき続けた。
それの何が悪い?
- 88 名前:仕事場はタブー 投稿日:2005/05/31(火) 07:57
- 「美貴ちゃん、て、一人暮らし?」
「あぁ、や……友達、と二人で。もう四年目かな」
『友達』という単語に微妙な据わりの悪さを感じながら、美貴は答える。
梨華は美貴が一瞬言葉を詰めたことには気付かなかったようで、大きな反応も無かった。
「ふぅん。あたし実家だから、そういうのちょっと憧れちゃうな」
「ああでも幼なじみっていうか、ちっちゃい頃からすぐ近くにいたから、
あんま変わんないかも」
ずっと一緒だった。でもきっと、真希はどうでもよかったのだろうと思うけれど。
一人でも二人でも三人でも、どれでもよかったんだろう、彼女は。
彼女は最初から(そしておそらく最後まで)ひとりでしかなかったのだから。
真希がそんな風だから、美貴は彼女を一人にできなくて、彼女たちが施設を出ると
決めた時、行動を共にした。
いつか、もう一人の、そう、真希にとってとても重要な意味を持っていた『彼女』が、
真希の元を離れる日が来るだろうと予感していたからだ。
そしてその予感は少し前に現実となり、今も美貴は、真希から離れられずにいる。
- 89 名前:仕事場はタブー 投稿日:2005/05/31(火) 07:57
- 焼肉弁当を食べ終え、デザートのヨーグルトを入れ替わりに持ち上げる。
二個パックになっているそれの一つを梨華へ差し出すと、彼女は少しだけ目を丸くした。
「いっこあげる」
「あ、ありがと……」
梨華はなにか神々しいものに触れるみたいな手つきでヨーグルトを受け取り、
蓋を開け、透明なプラスティックのスプーンで中身をかき混ぜた。
紙容器の中でナタデココとアロエが浮き沈みしている。梨華は何度もスプーンで
かき混ぜる。そのうち摩擦熱で温かくなるんじゃないだろうか。
グルグルグルグル、ヨーグルトとナタデココとアロエが空回りする。
どれだけかき混ぜたところで、融けてひとつのものになったりはしない。
「食べないの?」痺れを切らした美貴が問うと、梨華は頷いて、ようやく掬い上げた
中身を口へ運んだ。
「おいしい」
「よかった。なかなか食べないからヨーグルト嫌いなのかと思ったよ」
「ううん、大丈夫」
二人向かい合って、もそもそヨーグルトを食べる。このメーカのヨーグルトは
美貴の好物だ。他のものより値段が張るが、その分たしかに味はいい。
実はポテトチップスを細かく砕き、ご飯にかけて食べると美味しいと知っている美貴だが、
だからといって貧乏性なわけではない。
そこまで生活に窮してはいないし。
- 90 名前:仕事場はタブー 投稿日:2005/05/31(火) 07:57
- ヨーグルトを食べ終え、梨華が小さく呟く。
「……今日はラッキーだったな」
「え? なんで?」
「なんでもないけど」
「ふぅん? あ、もう戻んなきゃだね」
休憩時間が終わりそうな事に気がつき、美貴がゴミをまとめ始める。
梨華もそれに続いて、店内へ戻ろうとドアノブに手をかける。
「美貴ちゃん」
「ん?」
「今度、なんか観てみたい映画あったら教えてね」
「うん」
にこやかに目を細め、美貴は頷いた。
結局、美貴にとって必要なのは世界に二人だけであり、どうこう言っても他の誰にも
興味はないのだ。
興味のない対象に、気を回す事は出来ても、気を付ける事は出来なかったという、
それだけのことだった。
- 91 名前:円 投稿日:2005/05/31(火) 07:57
- 5回目終了。
前回名前欄を変え忘れてるとかorz
- 92 名前:円 投稿日:2005/05/31(火) 07:57
- レスありがとうございます。
>>78
今回はちょっと違う人が出てますが(苦笑)
あの二人はどうなるんでしょうねえ。
>>79
こんな感じで絡んでいきます。
とはいえ、複雑に編み込んだりはしてないんですけども。
>>80
さてはて、どうなります事やら。
>>81
あわわ、ありがとうございます(照)
- 93 名前:円 投稿日:2005/05/31(火) 07:58
- では、また次回。
- 94 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/31(火) 13:18
- 更新乙でつ!
ケータイからガマン出来ずに読みました
いやもう素晴らしいっす!
- 95 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/31(火) 14:46
- も、萌えていいですか・・?
こりゃでっかい話になりそうな悪寒。
- 96 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/05/31(火) 21:50
- 更新お疲れ様です。脱帽…
- 97 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/06/01(水) 23:21
- 更新お疲れ様です!
くっきりと画が浮かびました。
その巧みな文章力分けて欲しい位ですw
- 98 名前:静かの海 投稿日:2005/06/04(土) 23:24
- 静かで平和な朝だった。ちょっと肩や手首が痛いが、大したものでもない。
吉澤は床に毛布を敷いて眠っていた。上掛けは何もない。寒い季節じゃないから
それでも平気ではあるだろう。
こうした朝を迎えるようになって、三日が過ぎていた。親へ連絡した日数は過ぎている。
しかし、彼女はれいなを解放しようとはしなかった。
れいなが目を覚まして十数分後、携帯電話のアラームが鳴って、吉澤の右手がそれを
止めた。電話を押さえつけたまま四つんばいのような姿勢で身体を起こす。
四足動物に似た伸びをする。手足が細長いからなんだか格好いい。サマになってる。
緩くウェーブした短い髪はボサボサだった。手櫛で適当に後ろへ流し、逆の手を
ソフトキャンディの袋に突っ込んで、摘んだ一粒を含む。
「おはようございます。いい朝ですね」
「悪い朝ってどんなの?」
ジョークのつもりが真面目に返された。
「……遅刻確実な時間に気持ちよく起きて、朝ご飯がビーフステーキで、
テレビの星座占いが11位で、お父さんに自分のコップ使われてた朝ですかね」
「全部ビミョウ」
吉澤が小さく笑った。腰にナイフが提げられていた。彼女はクチャクチャ音を立てながら
ソフトキャンディを食べていた。多分わざとだ。
- 99 名前:静かの海 投稿日:2005/06/04(土) 23:24
- れいなの手を拘束しているロープの具合を確かめてから、吉澤は部屋の隅に
取り付けられたドアの向こうへ消えた。トイレだろう。結び目は全く緩んでおらず、
この僅かな時間に逃げ出す事は不可能だった。
吉澤は戻ってかられいなの片手側だけロープを外し、それを自分の手に何重にも
巻きつけてからもう片方をほどいた。
「……どこ行くんですか?」
「トイレだよ。行きたくないの?」
きょとんとした顔で問い返されて、れいなは「あぁ……」と生返事をした。
たしかに、行かせてもらえなくても困るが、今まではこっちから言い出していたから、
今日も当然そうなのだと思っていた。
この三日で、パターンが構築されたのか。
そして吉澤は、そのパターンを忠実にこなそうとしている。
生真面目な人なのかも、と口の中で独り言を転がした。
吉澤は後ろを向いていたけど、音を聞かれるのはさすがに恥ずかしい。
- 100 名前:静かの海 投稿日:2005/06/04(土) 23:24
- ちゃんと手を洗わせてもらって、ベッドに括り直される。今度はパイプベッドの脚に
ロープを結んだので、自然、れいなは床に座り込む形になった。
朝食を与えられ(おにぎりだった。手作りではない)、それから吉澤はれいなを
ほっぽって何か雑誌を読み出した。角度の関係でよく見えないが、ガイドブックの
類と思われた。
「あの、吉澤さん」
「なに」
「……目的は、なんですか?」
「目的?」
「あたしさらった、目的」
「ないよそんなもん」
あっさり答え、雑誌に目を戻す吉澤。れいなはぽかんとして、思わず「はぁ?」と
非難するような声を上げた。
「目的もなしに、こんないたいけな子供さらうんですか」
「うん」
「犯罪ですよ」
「判ってるよそんなの」
「お金とかいらないんですか。わりと金持ちですよ、うち」
「金とかそういうの、別にいらないし」
「じゃあ吉澤さんロリコンですか」
「いたいけっていうより、ナマイキだよお前」
- 101 名前:静かの海 投稿日:2005/06/04(土) 23:24
- 呆れ顔をれいなに見せながら、吉澤が腰へ手を延ばした。れいなが息を呑む。
彼女の腰にはナイフが収められている。
スラリと抜き出した刃の先端が、れいなの鼻先へ突きつけられた。
ゆっくりと、中心線を辿るように刃が降りる。喉元まで来て止まり、軽く押しつけられた。
「そうしてもいいんだよ? 服剥いで犯して殺して身代金要求しても」
「……犯すのは、無理なんじゃ」
「できなかない」
「やめて下さいお願いします何でもするからそれだけは勘弁して下さい」
くつ、と吉澤が喉を鳴らし、ナイフを引っ込めた。
「なにビビってんの?」腰に付けたホルダーにナイフをしまい、刃を当てた喉へ
親指を滑らせる。
このまま首を絞められる気がして、れいなは微妙に唇を引きつらせた。
しかし、彼女は単に傷がついていないか確認しただけのようで、軽く喉を撫でると
すぐに手を下ろした。
――――なんなんだ、この人。
冷たい汗を背中に浮かせながら、れいなはゴクリと唾を飲む。
- 102 名前:静かの海 投稿日:2005/06/04(土) 23:25
- 滅茶苦茶だ。いきなりさらって、ロープで縛って、食事を与えて、家族に心配を
かけないよう電話させて、ナイフで脅して、トイレに連れていって、後ろを向いて、
貞操と命の危険を知らしめて、怪我していないか確認して。
バラバラだ。電子分解されたみたいに、彼女はバラバラだった。
まるで道標を失った旅人の足跡みたいに、バラバラだった。
れいなの混乱など全く気付いていない吉澤は、開いたままの雑誌を膝に乗せて
また読み進めだした。
「なあRay、京都って行った事ある?」
「は?」
「京都だよ、寺とか舞妓さんとかの京都」
「や、ないです。修学旅行は韓国だったし」
「なに中坊が海外進出してんの。やっぱお前ナマイキ」
「私立ですもん。大体、韓国なんて最近じゃ下手な国内旅行より安いですよ」
れいなはどこか言い訳のような口調で答えた。
吉澤は雑誌から顔を上げないまま、ナマイキだナマイキだと繰り返している。
海外旅行の経験がないのか。たしかにれいなも、パスポートを手にした時はなんとなく
偉くなったような気がしたものだったが。
- 103 名前:静かの海 投稿日:2005/06/04(土) 23:25
- 「吉澤さんはどこでした? 修学旅行」
「行ってない」
「そうなんですか? 病気してたとか?」
「じゃなくて、学校行ってないんだ。義務教育だから書類上はどっかの中学卒業した事に
なってるだろうけど」
またしてもあっさりと、吉澤は答えた。
特に辛そうでもなく、それまでと変わらない、むしろ今までの感情を押し殺した声よりも
自然な響きをした台詞だった。
だかられいなも、気を遣ったり心配したりなんて事はなく、話の延長として尋ねた。
「なんでです?」
「あたし孤児なんだけど。まあ勉強好きじゃなかったし、最初の頃ハブにされたりして
ムカついたから行かなくなった。別にそれで困ったりとかなかったしなあ。
知らない事はごっちんが調べて教えてくれたり、美貴に訊いたりしてたから」
ごっちん。その名前は覚えがありすぎる。
もう一人の方は知らなかった。
- 104 名前:静かの海 投稿日:2005/06/04(土) 23:25
- 吉澤が開いた本を平手で叩いた。こっちに意識を向けろ、という意味だろう。
「だから、京都だよ京都。行ってみたくない? 新幹線で二時間ちょっとじゃん」
「はあ……」
ほらほら、と、吉澤がガイドブックを見せてくる。ホテルや食事処の紹介が何ページも
続いている、ありふれたタイプのムックだった。れいなは義理で開かれたページを覗く。
『京都食べ歩きマップ』と見出しのついた、見開きのコーナーだった。
「あ、あたしあそこ行きたいな、清水寺」
「舞台から飛び降りるんですか」
「それもいいかもね」
彼女は冗談を冗談として受け取ってくれない。こっちも彼女の冗談はとてもじゃないが
冗談とは思えないので、おあいこなのかもしれない。
「でも、ホントは清水の舞台ってそんなに高くないらしいですよ。
三階から落っこちるのと同じくらいだって」
「それで死ぬのも、馬鹿っぽくていいんじゃない?」
「馬鹿っぽく死ぬのは嫌です。カッコよく死にたい」
「死に方にカッコいいもカッコ悪いもあるかって。馬鹿っぽいか馬鹿っぽくないかの
どっちかだよ」
「なんか同じような意味な気がするんですけど」
- 105 名前:静かの海 投稿日:2005/06/04(土) 23:26
- 二人は雑誌を覗く。ルートを考えたり、ホテルはここがいいとかこっちがいいとか
言い合ったり、夜ご飯はここで食べようとか、じゃあ次の日の昼はこの辺にしようとか
計画を立てたりした。
どう考えても誘拐犯と被害者の会話ではなく、無論、ネットアイドルとファンの
会話なんかでもなく、しかし友人同士の気ままなお喋りとも言えず、それを言い表すと
したら、「れいなと吉澤の会話」以外の他になかった。
「やっぱ生八つ橋は食べておきたいよなー」
「あー、あたしあれ苦手なんですよね、変な匂いして」
「え、食ったことあんの?」
「親戚かなんかが、お土産でくれたんだったかな。昔食べましたよ、小学校の頃」
「子供の味覚じゃ判んないんだよ、絶対うまいんだって」
「食べた事ないのに断言しないで下さいよ」
吉澤は甘味処をまとめたページを探し、生八つ橋が食べられる店を探し始めた。
ご丁寧に赤ペンでチェックをつけたりしている。やっぱり生真面目だとれいなは思う。
土産も八つ橋になるんだろう。誰にあげる土産なのか、よく判らなかったけど。
やっぱりごっちんだろうか。それから、さっき言っていた美貴という人にも渡すかも
しれない。
自分は誰にあげようか。家族は確定として、………………。
「…………」
一人として浮かばない事が、ちょっとだけショックなれいなだった。
- 106 名前:静かの海 投稿日:2005/06/04(土) 23:26
- ――――あ、絵里、絵里がいた。
必死になって土産を渡す相手を探し、ようやく見つけて安堵する。
それで思い出した。プライベートチャットを飛び出して、すぐ後に携帯電話の電源を
切ってしまったから、あれ以来一度も連絡を取っていない。
メールが届いているかもしれないと考えるに至り、れいなは鼻歌混じりにチェックを
つけている吉澤へ声をかけた。
「あの、吉澤さん。ちょっとだけあたしの携帯見せてもらえませんか。
友達からメール入ってるかもしれないんで」
「……携帯?」
途端、吉澤が不機嫌そうな顔つきになる。れいなの携帯電話は、家族に連絡してから
ずっと電源が切られている。電波で居所を突き止められるのを恐れているのでは
ないはずだ。そういう事態にならないよう、電話を入れさせたのだから。
それなのに、吉澤はぐずって携帯を見せようとしない。
疑問符を浮かべながら彼女の顔を見つめていると、吉澤は溜息をついて、転がしていた
携帯のストラップを指に引っ掛けて持ち上げた。
「――――とうっ」
かけ声ひとつ、吉澤は壁に向かって携帯電話を投げつけた。
コンクリートの壁にぶつかり、携帯がガシャンと鳴き声をあげる。
れいなが驚きに目を瞠った。
- 107 名前:静かの海 投稿日:2005/06/04(土) 23:27
- 「あー! なにすんですか! こ、壊れたらどうす」
「今のお前はあたしのもの。お前のもんをあたしがどうしようがあたしの勝手」
「そんな、勝手な……」
「だからそう言ってんだろ」
柔らかくなりかけていた吉澤の口調が、初めの頃みたいに硬度を増す。
ナイフを出されるかもしれないと、れいなが気休めに後退する。ロープがあるから、
10センチも動けないのだけれど、どうしても、本能的に。
頭ではあの鈍く光る刃が自らに突き刺さる事はないと判っている。正確に言えば、
確信している。彼女は絶対にそんな事は出来ない。こんな臆病者に、こんな弱者に、
そんな芸当が出来るはずがない。
それでも恐い。鋭いものに対する本質的な恐怖だ。昔、何の気なしに飼い犬の口を
無理やり開けて、牙を覗いた時の感覚に似ていた。
中型犬でれいなによく懐いていて、もちろん噛まれた経験なんて一度もないのに、
今と同じように恐怖を味わった。
そうしてれいなは逃げる。牙は他人の手の中だ。犬の口を閉じるように簡単にはいかない。
- 108 名前:静かの海 投稿日:2005/06/04(土) 23:27
- だが、吉澤は腰に手を延ばすことはなかった。
その代わりというように立ち上がり、自分が投げた携帯電話を拾いに行く。
「……壊れてないよ」
携帯を開き、電源を入れていくつか画面を呼び出してみて、吉澤はそう言った。
言い訳めいた口調のそれに、れいなは激しい何かを覚える。怒りとか哀しみとかだろう。
「……ひどいじゃないですか」
震える声で囁くように言い、れいなは唇を噛み締めた。
俯き、小刻みに肩を震わせているれいなに、吉澤が少しだけ息を詰めた。
れいなが感じていたのは圧倒的な暴力だった。肉体を傷つけられるよりも、手の中に
収まる程度の、小さな機械を手荒に扱われた事が悔しくて仕方なかった。
それはただの機械で、道具で、それ以上の意味はないはずなのに、「携帯なんてただの
ツールだ」という言葉のどこにもおかしいところなどないはずなのに、れいなにとって、
ロープが締め付けてくる痛みよりも、吉澤の腰にあるナイフよりも、その道具は
厳格な現実だった。
『現実』を蹂躙された悔しさに、れいなは涙を落とす。
二度目だった。二度も、あの顔をした誰かに、現実を乱暴された。
- 109 名前:静かの海 投稿日:2005/06/04(土) 23:27
- 「友達のメアドとか、いっぱい入ってるのに。サイトもいっぱい登録してんのに。
壊れちゃったら、全部消えちゃうのに。なんでそんなことすんですか」
「……わり、ごめん」
吉澤が携帯電話を折りたたんで、れいなの膝にそっと乗せた。
長い腕がれいなの身体に廻されて、それはどう考えても拘束の意味を持っていなかった。
背中をやさしく叩かれる。泣き止ませようとする吉澤の肩に、れいなが目のあたりを
押し付ける。
「ごめん。ごめんね」
オロオロと、吉澤は謝る。
滅茶苦茶でバラバラだった。
彼女はれいなに乱暴なことをしたくてしょうがないのに、
れいなが傷つくのが嫌で堪らない。
吉澤にくるまれて、前のめりになったせいで手首が痛くて、そんな事はどうでもよくて、
れいなはただ、ひとつの事柄についてずっと考えていた。
彼女は、どうしてこんなにも温かいのだろう。
- 110 名前:円 投稿日:2005/06/04(土) 23:27
-
6回目終了。
- 111 名前:円 投稿日:2005/06/04(土) 23:27
- レスありがとうございます。
>>94
携帯からだと、さぞかし読みにくかったと思いまつ……。
そこまでして頂けるとは、果報者です。
>>95
でかいといえばでかく、小さいといえば小さい、そんな話です(笑)
いややっぱり小さいかも。
>>96
ありがとうございます。あ、お帽子をどうぞ。
>>97
目指してるのが「漫画みたいな文章」ですんで、画が浮かぶというのは
ほんとに嬉しいです。ありがとうございます。
- 112 名前:円 投稿日:2005/06/04(土) 23:28
- ではまた次回。
- 113 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/06/05(日) 01:53
- 更新お疲れ様です。本当に引き込まれる。
流石だなーと思いました。私的にこの二人の場面が一番好きかも…
- 114 名前:konkon 投稿日:2005/06/05(日) 03:18
- ん〜、引き込まれますね〜。
一体何が目的なのか、今後の動きが楽しみです。
- 115 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/06/09(木) 01:02
- 何て感想を書いたら良いのやら…
上手い言葉が見つかりません。
圧巻とでも言いましょうか。
- 116 名前:円 投稿日:2005/06/09(木) 22:55
- ちょっこす宣伝を。
したらば構築しました。いやスクリプト作ったわけじゃないですが。
今のところ、自分がべらべら語ったり、飼育に載せるのはちょっとな
短編を置いたりしてます。
暇な時などにどうぞ。(でも荒らしちゃイヤン)
ttp://jbbs.livedoor.jp/music/13292/
- 117 名前:円 投稿日:2005/06/09(木) 22:56
-
- 118 名前:Echos 投稿日:2005/06/09(木) 22:56
- ハンバーガーショップで、クラスメイトである里沙と向かい合わせに座り、
絵里はチーズバーガーをかじっている。
里沙の方は「ダイエット中だから」との言葉通り、カップサラダにドレッシングを入れて
それを激しく振っていた。
「昨日、あのサイトうちでも見たけど。やっぱ加工してるよ」
「もういいよそんなの」
ドレッシングがサラダ全体に行き渡った辺りで手を止め、おもむろに口を開いた里沙に、
絵里がうんざりだ、という表情で答える。
あれから何度かセンターに問い合わせているが、れいなからメールはない。
これはよほど怒っているのか、と鬱々しい気分になって、里沙の話に乗る気にも
ならなかった。
「言わなきゃよかった」
「喧嘩してる子?」
「別に喧嘩じゃないけど……うん。あの子、ホントによっすぃのこと好きだったから」
「ふぅん……。だって、別に知り合いでもなんでもないし、ネットアイドルなんて
言ったって結局は普通の人じゃん。
そんなに入れ込むもんかね」
判ってないなあ。絵里が首を振る。
- 119 名前:Echos 投稿日:2005/06/09(木) 22:56
- 「普通の人でもなんでも、好きになったらその人しか見えなくなるもんだって。
『好き』って、わりと絶対だよ」
「あはは、なんかかっこいー。好きって絶対だよ」
里沙がニヒルな表情をつけ、渋い口調で絵里の台詞を繰り返す。
からかわれて、絵里がムッとしたような顔になった。
チーズバーガーとポテトを交互に食べ、喉に引っかかった欠片をオレンジジュースで
流し込んでから、絵里は表情を和らげないまま話し出す。
「そんだけ好きな人がだよ、贋物だったってんだもん。
すごいショックだったと思う」
「ふーん」
サラダをつつき、「でもさ」と話をつなげる里沙。
- 120 名前:Echos 投稿日:2005/06/09(木) 22:56
- 「贋物ったって、言っちゃえばパソコンに映ってんのはデータの集合体なわけで、
分解しちゃったら0と1のカタマリでしかないわけじゃん。
つまりその本人そのものではないわけでね、加工されてなくても『それ』は贋物って
ことになんない?」
「……なに?」
「だから」
里沙が携帯電話のカメラで絵里を撮影する。不意打ちだったせいか絵里はポテトを
食べようと口を開けたところで固まって、それから我に帰って「あーッ」と非難の
声を上げた。
「勝手に撮んないでよーぉ」
「まあまあ、すぐ消すって。とりあえずこれ見てよ」
携帯の上部を回転させ、里沙がディスプレイ部分を絵里に見せる。
さっきのポテトを食べようとしている絵里がその中にいた。
「……可愛くなぁい。絵里、こんなに目つき悪くないもん」
「そんなもんだけど……まあいいや。
これ、さっき撮ったばっかだから、当然加工もなにもしてないよね」
「そりゃそうだよ」
うん、と絵里が頷く。
印籠のように携帯を構えたまま、里沙は少しだけ得意そうに笑った。
- 121 名前:Echos 投稿日:2005/06/09(木) 22:57
- 「さて問題です。この絵里ちゃんは本物でしょうか?」
「は?」訝しげに絵里の眉が上がり、まじまじと携帯の画像を見つめる。
疑いようもない。ちょっと目つきが悪いし、半端に開いた口が間抜けだが、
たしかに絵里自身の画像だ。
第一、里沙が写真を撮るところを絵里は見ているのだから、当たり前だ。
「そりゃ、本物だよ」
「へえー。じゃあ今そこにいる『アナタ』は誰?」
ますます得意げな風に里沙の口元が上がった。
その指先は、向かい側に座る自分の胸元を指している。
「誰って……絵里だよ」
「絵里ちゃんはここにいるよ」
里沙が携帯を振る。してやったり、という顔だった。
ようやく言いたい事が判って、絵里は「降参」という感じで両手を頭の横に持っていった。
- 122 名前:Echos 投稿日:2005/06/09(木) 22:57
- 「写真とか動画とか、そういうの全部『データ』になった時点で贋物ってこと?」
「そうそう、絵里ちゃん頭いいよ。
まあ、こんなの単なる言葉遊びだけどね。
でも私としては、ネットの情報で『本物』『贋物』って騒ぐのがちょっと理解できない」
「全部贋物だから? 本当のことはネットにないの?」
「本当のことはあるけど、本物はないって感じかな」
うーん、と絵里が唸る。
「どこまで本物で、どっから贋物なのか判んなくなってきた」
「なりすましとかを贋物って言って、本人を本物だって言うのも間違いじゃないしね。
でもそれってつまり、『データ』そのものについてじゃなくて、現実の人間のことを
言ってるわけだから」
「ディスプレイの向こう側ってやつ?」
「絵里ちゃんってわりと詩的な言い回し好きだよね。私も嫌いじゃないけど」
柔和な笑みでそう言って、里沙はサラダを半分残したまま立ち上がった。
- 123 名前:Echos 投稿日:2005/06/09(木) 22:57
-
- 124 名前:Echos 投稿日:2005/06/09(木) 22:57
- 塾の時間だという里沙と別れ、絵里は自宅へと帰った。
パソコンを起動し、日課のようになっているチャットルームへとログイン。
全てが贋物のライブ。現実が存在するディスプレイの向こう側とこちら側は、
贋物を介して虚実の別を失う。
れいなはいないようだ。普段使っているのと違うハンドルネームでログインしている
可能性も捨てきれないが、それでも文章のクセとかでなんとなく判るものだ。
実際、れいなが悪戯で別名を使い、「初めまして」とか白々しく書き込んでいた時、
絵里は一目で看破して、後日それをネタにからかった事がある。
それでれいなは怒ったが、翌日にはいつも通りのメールを送ってきていた。
わりと無気力な子だから何日もメールがない事なんてザラではある。
しかし、あんな別れ方をしてなんのアクションもないのは、彼女の性格的に考えにくい。
無気力だし、面倒臭がりなところがあるが、なかなか小心者なのだ。
気まずくなってそのまま自然消滅というケースを、彼女はよく思わない。
気まずくならないまま、自然に関係が切れるのはいいらしいけれど。
絵里はれいなのメールアドレスと携帯電話の番号以外、彼女の個人情報を
持ち合わせていない。だから、携帯の電源を切られている今、こちらから彼女へ向けて
リンクの手を伸ばす手段は何もなかった。
「……それって、けっこう哀しいよね」
頭をひとつ振ってリセットする。この状態で考えても意味はない。
下手な考え休むに似たり、だ。
- 125 名前:Echos 投稿日:2005/06/09(木) 22:58
-
(0^〜^)>エリザベスさんが入室したYO!
エリザベス>こんばんは。今日は少ないね>ALL
和田>どもっす。>えーちゃん
和田>最近、いい話少ないしね。みんなROMってんでしょ>えーちゃん
リカ>こんばんは。入れ替わりになっちゃうけど、あたし落ちるね
エリザベス>デート?(笑)>りかさん
和田>マジで!? ネゲットの夢が断たれたかw<デート
リカ>違うよ(^-^; 友達とレイトショー観に行くの>エリザベス、和田
- 126 名前:Echos 投稿日:2005/06/09(木) 22:58
- エリザベス>映画?>りかさん
リカ>うん。じゃあね、おやすみなさーい>ALL
和田>ノシ 誰も寝ないけどw>リカ
エリザベス>おやすみなさーい。友達によろしく(笑)>りかさん
(0^〜^)>リカさんが退室したYO!
和田>二人だけか。平日だしなー。
エリザベス>更新もされてないしね。
和田>今度は週末か? そろそろショートのよっすぃ載せんのかな。
エリザベス>よっすぃ髪切ったの? テキストにもそんな話なかったよ
和田>この前見かけた時、短くなってたよ。かなりショートで、パーマだった。
(0^〜^)>よっすぃさんが入室したYO!
- 127 名前:Echos 投稿日:2005/06/09(木) 22:58
-
和田へのレスポンスを書き込もうとしていた絵里の手が止まる。
「え……?」
何度も目をしばたたかせた。
リロードボタンを連打しても、その一行は消えなかった。
「うそ……」
今まで、絵里がこのチャットに来るようになってからは勿論、それ以前でも
本人が登場した事など一度もない。そんな話は聞いた事がない。
目まぐるしく、消えるには近すぎる過去の会話が逆回転する。
- 128 名前:Echos 投稿日:2005/06/09(木) 22:59
- 嫌いじゃないけどディスプレイの向こう側ってやつは現実の人間がデータになった途端
贋物にどこまでがどこからが本当のここにいるのは誰アナタは誰携帯の画像が加工されて
いないのは当たり前に可愛くなくて目つきが悪くないからすぐに消すって撮んないでよ
ポテトを食べようと分解したら0と1の集合体になるから贋物に。
- 129 名前:Echos 投稿日:2005/06/09(木) 22:59
- 頭を振る。頭を振る。カップに入ったサラダみたいに激しく振る。
攪拌された冷たいドレッシングが全体に行き渡る。
止められない。止まらない。その疑問を、絵里は振り払えない。
理詰めでいくら分析したとて、当然に、当然として、当然だから絵里は疑問を
打ち消す事が出来ない。
ぐいぐいと、それだけがドレッシングみたいに絵里の頭を覆う。
彼女は、『本物』だろうか?
- 130 名前:円 投稿日:2005/06/09(木) 22:59
-
7回目終了。
いまさら更新配分の間違いに気付くとか……。
- 131 名前:円 投稿日:2005/06/09(木) 22:59
- レスありがとうございます。
>>113
ありがとうございます。一応、主役の二人なのです。
>>114
目的ってのは往々にして、見えなかったり隠されてたりします。
だからええと……た、たぶん普通に読むと拍子抜けしちゃうかも……。
>>115
ありがとうございます。
評価してもらえるだけのモノを書いていきたいです。
- 132 名前:円 投稿日:2005/06/09(木) 22:59
- ではまた次回。
- 133 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/10(金) 01:02
- いいです。毎回うならされますねぇ。
この作品に出会えたことに感謝です。
- 134 名前:カウボーイとインディアン 投稿日:2005/06/15(水) 00:26
- 休憩時間に入り、スタッフルームに行くと、同僚の青年が声をかけてきた。
「藤本、この前言ってたやつ」
「あ、ありがと」
彼が渡してきたのは数冊の文庫本だった。以前ちょっと話をした時に勧められ、
試しにシリーズの一作目を借りて読んだら面白かったので、続きを貸してくれるよう
頼んでいたのだ。
美貴よりも少し年上のこの青年とは、特に親しくしているわけでもない。
お互い、本を読むのがわりと好きでそういう話をよくする、という程度だ。
美貴はそれ以上の繋がりを持つつもりなど毛頭無いし、彼も特にそういった期待は
抱いていないらしかった。
彼との距離感は美貴にとって丁度良い。
「こないだ借りたやつでさ、主人公が女の子助けるシーンあったじゃん。
アレ結構好きだった」
「ああ、あそこってラストの伏線なんだよな。しかもタイトルの意味も判るだろ」
「そうそう。気付いた時、すげーみたいな」
受け取った文庫片手に盛り上がる。その本がいかに面白いかという点にのみ特化した、
まったく色気の無い会話だった。
おそらく、彼にとって美貴は男友達と大差ない存在なのだろう。
美貴が意識的にそういう位置へ立つように調整したからだ。
- 135 名前:カウボーイとインディアン 投稿日:2005/06/15(水) 00:27
- 真希を守るうえで何が障害になるかといえば、圧倒的に色恋沙汰である。
纏わりつかれたり迫られたりしたら、結果的にそれは真希から引き離される事に
なってしまう。
だからこそ、美貴は意図的に男性を近づけないようにしていたし、またそういった
キャラクターを演じてきた(ほとんど素の状態でもあったが)。
目の前の彼もそれに騙されている。
「この人、他の話も書いてんの?」
「ああ、一作きりのやつとか、短編集とか出てるよ。そっちも貸そうか?」
「これ読み終わったら貸して」
「おう」
ふわり笑って彼が頷く。
その笑みがぶれて、美貴は一瞬目が眩んだ。
「え?」
「美貴ちゃん、ご飯一緒しよ」
左腕の痛みに脇を見れば、梨華が美貴の腕を強く掴んで、引っ張ってきていた。
普通に声をかければいいのにと内心で舌打ちしながら、美貴は「そうだね」と答えた。
- 136 名前:カウボーイとインディアン 投稿日:2005/06/15(水) 00:27
- 彼もまた、小さく目を瞠っていた。
それからチラリと時計に目を落として、美貴へ視線を送る。
「じゃあ、俺戻るわ」
「うん。これありがと」
「ああ」
文庫を振りながら礼を言う。彼は軽く手を上げてそれに応じ、スタッフルームを
出て行った。
「びっくりした」
「ごめんね。ドアに背中向けてたから気づかなかったの?」
美貴が驚いたのはむしろ、腕を引く力の強さの方だったのだが、訂正するまでもない
ことだったので適当に頷いた。
スタッフルームには二人きりである。だからどうという事もないはずなのだが、美貴は
微妙な危機感を覚えていた。
梨華は、腕を掴んで離さない。
「ご飯買ってあるの?」
「美貴ちゃんは?」
「適当にパンとか買ってるけど」
「あたしも」梨華が後ろ手にしていたコンビニ袋を出してみせる。
- 137 名前:カウボーイとインディアン 投稿日:2005/06/15(水) 00:27
- 「さっき、なんの話してたの?」
「ん? これ。こないだ借りてみて、面白かったから」
「ふぅん。どういう感じの話?」
「ミステリだよ」
梨華が興味を引かれたように、美貴が持っている本の表紙を眺めた。
その視線は特に危険なものを含んでいない。
ただ単純な、ちょっとした好奇心以外のものを秘めていない。
なのに、どうしてだろう。
さっきから掴まれている腕。
そこから、もっと別の何かが、流れ込んでいるような気がする。
これは、なんだろう。
「梨華ちゃん、腕」
「あ、ごめんね」
言われてようやく気付いた、という表情で、梨華が手を離す。
自由になった腕を、身体を捻って梨華から遠ざけた。
――――?
自身に訪れたその感覚に、美貴はぎくりと硬直した。
- 138 名前:カウボーイとインディアン 投稿日:2005/06/15(水) 00:28
- 『自由』って、なんだ?
そんなものは持ち合わせていない。
それを失って、もう二年が経とうとしている。
不意に訪れた気詰まりを隠すように、美貴は無意識の中で口元の笑みを作った。
「仲いいんだ?」
その質問が、先程の彼について聞いているのだと、気付くのに数瞬かかった。
「そういうわけでもないよ。本の趣味合うから話してる程度だし」
嘘ではない。嘘という嘘をついている美貴だが、それは本当の事だった。
彼女に嘘をつかない理由はないのに。
いや、これは単に、嘘をつくまでもない事だと判断したからだ。
「えー、なんか盛り上がってるみたいだったよ。
あたしもお邪魔しちゃいけないかなって思ったんだけど、早くしないと
休憩終わっちゃうし、ちょっと困ってみちゃったりして」
「あはは、そんな気にする事ないって。ホントにそんなんじゃないから」
半ば言いがかりのような梨華の言葉を、美貴は笑って受け流す。
何故、彼女が言いがかりをつけてきたのかは疑問だったが。
- 139 名前:カウボーイとインディアン 投稿日:2005/06/15(水) 00:28
- ひょっとしたら、あの彼に淡い恋心でも抱いているのか。
だとすれば協力してあげてもいい。彼の好みを聞き出すとか、シフトを調べるとか、
そのくらいの手助けをする事になんの抵抗もない。
そういった事を口にしようとした美貴を遮るように、梨華が小さく呟いた。
「あたし、あの人苦手なんだ」
「え、なんで?」
「うーん、大した理由はないんだけど。波長が合わないって感じかなあ」
美貴の予想は外れたらしい。理由もちょっと理解できない。彼は性格的にも外見的にも、
大きな欠陥があるようには見えないし、その辺によくいる普通のバイト学生だ。
まあ、人の好き嫌いなんてそれぞれだろうし、美貴には気にならない部分でも、
梨華にとってはどうしても受け入れられないという事もあるだろう。
「あ、ねえねえ美貴ちゃん」
「ん?」
「今度の日曜、シフト入ってる?」
唐突に聞かれ、美貴は多少面食らいながら、自分の勤務予定を記憶から引き摺り出した。
- 140 名前:カウボーイとインディアン 投稿日:2005/06/15(水) 00:28
- 「……ううん、休みだけど。なんで?」
「あのね、あたしちょっと観たい映画があるんだけど、レイトショーだから一人で
観に行くの、ちょっとヤで。
美貴ちゃんがよければ二人で行かないかなって」
梨華は拝むように両手をすり合わせている。聞けば上映する映画館は日が暮れると
ちょっと治安が揺らぐ地域にあって、女の子が一人で歩くには不安があるのだという。
一人が二人になったところで、危険が迫ったら大した違いはないんじゃなかろうかと
思ったが、おそらく気分的な問題なのだろう。
とりあえず、支えになるような何かが欲しいのだ。
美貴は用事がないか思い出すふりをして、真希の事を考える。
レイトショーなら出かけるのは夜遅い時間だ。彼女はほとんど外に出ないし、
食事も適当に済ませるだろう。
心配なのは眠る時だが、一日くらいなら大した影響もあるまい。
- 141 名前:カウボーイとインディアン 投稿日:2005/06/15(水) 00:29
- 頭の中で一気に組み立てて、美貴は人懐こく笑った。
「いいよ。特にやる事もないし」
「ホント? よかったあ」
すり合わせていた両手を、祈りのポーズみたいに組んで、梨華は声を弾ませる。
いったい、何がそんなに嬉しいのか、美貴には理解できなかった。
「じゃ、待ち合わせの場所と時間決めよっか」
「うん。映画の時間はね……」
「10分前で間に合うかな。えっと……」
「それじゃ、待ち合わせの場所は映画館の中で……」
食事がてら、待ち合わせについてと、基本の行動予定を決めたところで休憩が終わる。
スタッフルームを出る時、梨華は待ち遠しさを全身から放ちながら、ひとりごちた。
「うふ、楽しみだなあ」
美貴はさすがに頬を引きつらせた。
「うふ」って。
- 142 名前:円 投稿日:2005/06/15(水) 00:29
-
8回目終了。
- 143 名前:円 投稿日:2005/06/15(水) 00:29
- レスありがとうございます。
>>133
なかなか話が進みませんが、のんびりお付き合い下さい。
- 144 名前:円 投稿日:2005/06/15(水) 00:29
- ではまた次回。
- 145 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/15(水) 00:50
- なんかハリケーンのよかん・・・。
毎回毎回楽しみにしてますよ〜。
- 146 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/15(水) 20:42
- ちょいと話が動いたー。
どうなるんだろう。。
- 147 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 05:19
- やや。彼女がヒートアップしてきましたな。
どう展開するかどきどきです。
- 148 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/06/18(土) 15:38
- 更新乙です。
あの人がどういう行動を起こすのかが
楽しみでもあり、少し怖くもあります。。。
- 149 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:05
- 飽きもせず、美貴は真希の背中に張り付いてる。
今日の格好はキャミソールにハーフパンツ。真希の私物を勝手に拝借した。
一時間ほど前にブレーカーが落ちて(パソコンを三台ほど起動させていたので、真希が
半狂乱になって宥めるのが大変だった)、ちょっと電力を控えようといくつかAV機器の
電源を切っているのでそれほど暑くはない。
真希の背中に覆い被さりながら、美貴は前方のディスプレイを覗きこんだ。
「へえ、よっちゃん髪切ったんだね」
「……ふぅん」
気のない返事に美貴が苦笑する。都合の悪い事は全部そうやって興味のないふりをする。
彼女の悪い癖だ。
「ごっちんも伸びてきたね。美貴が切ってあげよっか」
「別にいいよ。そんなに邪魔じゃないし」
真希がパソコンデスクの上に手を這わせ、ソフトキャンディを探し当てて口に入れる。
口の中にある一粒が溶け切らない内に二つ目を、更に三つ目を放り、次の一粒を
取ったところで美貴が手首を掴んで止めた。
- 150 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:06
- 「口ん中ベタベタになるよ」
「……んー」
大人しくキャンディを袋に戻す真希。
やれやれと息をついて、美貴は背中にしなだれかかる。
ソフトキャンディは、髪を切ったらしい彼女の好物だ。普通の飴だとガリガリ噛んで
すぐに飲み込んでしまうから、長く味わえるようにと院長がソフトタイプのものを
与えたら、いたく気に入ったらしく施設を出てからもよく食べていた。
しかし、その頃の真希は、それほど好んでソフトキャンディを食べていなかった。
「ごっちん、美貴これからちょっと出かけるけど、先に寝てていいよ」
「どっか行くの」
「映画に誘われてね。レイトショーだから帰ってくるのは朝近くになっちゃうよ」
「ふぅん。行ってらっしゃい」
まだ準備もしていない内からそんな事を言う真希に、美貴が身体を起こして肩を竦めた。
ハーフパンツを脱ぎ、ストレートタイプのジーンズに履き替えて、パーカを羽織る。
バッグに必要最低限のものをしまって、ドアの脇に置いた。
準備といってもそれくらいだ。恋人とディナーをするでもなし(そんな相手はいないが)、
夜だからよく見えないだろうとメイクもしない。
- 151 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:06
- 約束の時間まではまだ余裕がる。コーヒーの一杯も飲んでいこうか。美貴はキッチンで
一人分のインスタントコーヒーを作った。
「コーヒー飲む?」
「いらない。寝れなくなるから」
「っそ」
リキッドシュガーをいやほど入れ、ミルクも多すぎる割合でカップに注いでから
口をつける。「太るよ」見もせずに言ってきた真希へ舌を出した。
美貴が飲むコーヒーはいつもこういう構成になっている。
カップ片手に真希へ近づき、その首筋へ鼻を寄せる。吐息がくすぐったいのか、
真希が小さく笑った。
「匂いフェチ」
「そーそー。美貴、ごっちんの匂い好きなの」
「変なの」
「お日さまみたいな匂いがするね」
「変なの」
甘えるように鼻を摺り寄せる美貴に笑いながら、真希の視軸はディスプレイから
少しも離れない。
- 152 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:06
- 真希は、無意識ではあるだろうが美貴を愚弄し続けていた。美貴の方も気にして
いなかった。美貴はただ、見返りがないと知りながら真希に与え続けるだけだった。
彼女に不足しているものを少しでも補おうとしているだけだった。
一言で言えば「献身」だった。身を捧げるだけの行為だった。セックスをした事はないが
(誘ってみたところで彼女は絶対に乗ってこないだろう)、それに近い事を、二人きりに
なってから美貴はずっと続けていた。
感動的な話だった。
そして、美貴は感動できる話が好きだった。
「……そろそろ行くね。寝る時はちゃんと鍵かけなよ」
「ん」
コーヒーを飲み干し、シンクへ置いてから部屋を出る。
803号室。2LDKのそこが真希の城だった。二人の、ではない。
美貴はせいぜいがとこ、姫を守る騎士だろう。もっとも、その役割はほとんどと言って
いいほど果たせていないのだが。
- 153 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:06
- 現状は、魔王に連れ去られようとしている姫の手を必死に掴んでいる程度か。
その腕の確かさだって、もはや怪しいものになっている。
「……早いとこ勇者さんが来てくれるといいんだけどねぇ」
デジタルの世界に巣食う魔王に、美貴は太刀打ちできない。
それを打ち壊せるのは、運命で定められた伝説の勇者だけだろう。
美貴は出かけ間際に失敬してきたソフトキャンディを手の上で転がし、エレベータに
乗り込んだ。
エレベータのドアが閉まる直前、キャンディを通路へ投げ捨てる。
キャンディはコロコロ進んで通路の真ん中で止まった。
何かの目印みたいだった。
スゥ、と落ちていく感覚の中、美貴は天井を見上げて目を細めた。
「早くしないと手遅れになるよ、よっちゃん」
魔王は勇者と同じ顔をしている。
- 154 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:07
-
- 155 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:07
- 待ち合わせ場所にしていた売店の前に、梨華は立っていた。美貴が来た事にはまだ
気付いていないようで、数秒ごとに時計を見たり、周囲に目をやったりと落ち着かない
様子だった。
「梨華ちゃん」
梨華がこちらの姿を見つける。途端に表情が華やいで、その切り替わりの速さに美貴は
内心で舌を巻いた。
「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃった」
「ううん、あたしもさっき着いたばっかりだから」
まるで初々しいカップルの会話だ。気持ち悪いなと思った。
チケットは梨華がもう買っていた。座席指定が出来るタイプの映画館なので、
渡されたシート番号と座席表を見比べる。
おや、と美貴は小さく眉を上げた。
だいたい、こういう時に人気があるのは、全体の中央に近い部分で、美貴もてっきり
その辺を押さえているのだと思っていた。
しかし、渡された番号の席は出口と逆側の壁際だった。不思議に思ってチケット売り場の
空席状況を調べてみたが、公開期間の終わりに近いレイトショー、それほど混雑は
していない。
- 156 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:07
- 「はじっこなんだね」
「あたし、人が多い席って苦手で」
「へえ」
自分たちの席は、周りがぽっかりと空いている。空席状況はそこを中心にすると
半円の形になっていた。
さて、どういう事かな。美貴は微かな戸惑いを覚えている。
苦手って、まさか集団に囲まれると吐き気がしてくるとか、じんましんが出るとか、
突然歌いだす奇病にかかっているとかいうわけでもあるまい。
普通、初めて遊ぶ友人と観る時にこんな席を選ぶだろうか。
「何か買っていく?」
「や、美貴はいいよ。梨華ちゃんは?」
「それじゃ、あたしもいいや」
自分で決められないんだね。
言いかけて、慌てて口を閉ざした。
警戒している?
どうして?
空回りばかりする、痛々しいが悪い奴ではないこの友人の、何を恐がっている?
- 157 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:07
- 「ちょっと早いけど、もう席に行っちゃおっか」
「あ、うん」
壁際の席へ二人並んで座る。梨華が端の席に、美貴はそのもうひとつ奥に。
「レイトショーって初めて」「そうなんだ」美貴はなぜか気もそぞろになっている。
なんとなく落ち着かない。やはり飲み物を買うべきだったかもしれない。
喉が渇いて仕方ない。
梨華は席を立とうとしない。
据わりが悪く何度も身を捩っているうちに、アナウンスが流れ、照明が落ちた。
公開間近の映画の予告編が流れる。
ここまできたら、席をはずす事は出来ない。
「楽しみだね」
「あぁ、うん」
- 158 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:08
- これから上映される映画は、以前公開されて好評だったもののアンコール上映である。
タイプの全く違う二人の少女が出会い、時にぶつかり合いながらも、様々な経験を
共に積んで友情を深めていく物語だ。
梨華に、そういった映画が好きだと言った覚えはない。
ひょっとしたら感動できる話なのかもしれないが、やはり自分が言ったものとは
明らかに趣が違う。
美貴が好きなのは、家族愛みたいなふんわりした愛情が見えるものなのだ。
隣の彼女はそれを理解していないのか、それとも何か意図があってこの映画を選んだのか。
映画が始まる。いきなり、スクーターに乗った少女がトラックに跳ね飛ばされた。
……趣が、違いすぎる。
- 159 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:08
-
- 160 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:08
- 友人の危機に主人公が駆けつけた場面で、梨華が肘掛けに置かれた美貴の手を取った。
美貴は拒まない。
させるがままにして、スクリーンから目を逸らさない。
熱中していたわけではない。ただ、面倒臭かっただけだった。
隣の彼女の、前向きでゆるやかな侵蝕をするりとかわして、空回らせてしまうのが
ちょっと忍びなかっただけだ。
場面が切り換わるごとに、梨華は侵蝕の度合いを深めていく。
左腕で頬杖をつきながら美貴は迷う。
彼女は手を握り返してほしいのだろうか。
自分はそうするべきなのだろうか。
……そうしたいと、思っているのだろうか。
雲行きが怪しくなってきた。こんなはずじゃなかった。男でも女でも、どんな関係の
相手でも、美貴は一定の距離を保っていられるはずだった。
そうじゃないのはあの二人だけだった。
否、あの二人がいたからこそ、美貴はそうせざるを得なかったのだ。
- 161 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:08
- ――――ああ、そっか……。
もういないから、か。
今は半分になってしまったから、その分だけ、美貴を抑制する力が弱くなっているのか。
嫌な兆候だ。全てが悪い方向へ進んでいる気がする。
誰も彼も好き勝手に動いて、それぞれは独立しているのに確実な影響が存在し、それらは
共鳴して更に大きな影響を及ぼす。
迷い続けていた美貴の手は、気付けば握り返すまでもなく彼女のものになっていて、
その事に多少の不快感を覚えたものの、表に出した変化といえば僅かに唇をすぼめた
程度で、スクリーンを注視している梨華はその変化を知らない。
彼女の行動は消極的な前向きさに満ちている。
厄介だと思った。
スクリーンでは可愛らしい洋服を泥で汚した少女が啖呵を切っている。
梨華の左手とよく似ていた。
ギャップが激しいという意味で。
- 162 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:08
-
「面白かったね」
「うん」
「最初、びっくりしなかった? え、終わっちゃうの?って」
「そうだね」
あれから、美貴は手を握り返すこともなく、梨華もそれ以上侵蝕はしてこなく、
エンドロールが流れ終わると自然に二人の手は離れた。
その後はずっと離れたままで、触れ合うどころか掠りもしなかった。
「これからどうしよっか」
「んー、終電も過ぎちゃったし、ファミレスとかで時間潰す?」
「あっ、そうだ」
かなりわざとらしい口調で言い、パチンと手を叩く梨華。
「この前、ビデオいっぱい借りてきたの。よかったらうちで一緒に観ない?
パパに迎えにきてもらうから」
梨華の提案よりも、美貴は「こんな夜中に呼び出しても怒らないなんて、ずいぶんと甘い
お父さんなんだな」とかそっちの方に意識が向いて、少しの間、返事をしなかった。
- 163 名前:サイレン〜siren〜 投稿日:2005/06/19(日) 20:08
- 美貴が答えないので、梨華が不安そうに顔を覗き込んでくる。
慇懃無礼な視線の先で、美貴はとりあえず笑ってみせた。
彼女の家にお邪魔して、お喋りをしながらビデオを観て、眠くなったら多分、彼女の
部屋で一緒に眠ることになるんだろう。夜通し起きているのも悪くない。
それはきっと楽しいだろう。
楽しくなるに違いない。
だから美貴は、そうならないように気をつけてきたのだ。彼女に限らず。
ゆるやかで前向きで消極的な空回りする侵蝕。
きっと彼女は何も考えていない。
美貴は侵された左手を上げることに躊躇する。
細く長く、静かに息を吐き出した。
――――『幸せを勝ち取ることは』……。
なるほど確かに、勇気がいる。
- 164 名前:円 投稿日:2005/06/19(日) 20:09
-
9回目終了。
映画については、判る人だけ笑ってください、という事で……。
- 165 名前:円 投稿日:2005/06/19(日) 20:09
- レスありがとうございます。
>>145
グルングルン回ります。誰がどこにいるかは別問題ですが(ニヤリ)
>>146
こっちだけ動いちゃってますね(苦笑)困ったもんです。
>>147
彼女に関しては、燃え尽きるほどヒートです(ダメじゃん)
>>148
さて、どうなりますか。行動と言えるほどのものがあるかどうかも不明です(笑)
- 166 名前:円 投稿日:2005/06/19(日) 20:09
- ではまた次回。
- 167 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/19(日) 20:34
- 更新お疲れ様でした。こらからどうなるのでしょうか?
サブタイトルになんだか嬉しくなったw
- 168 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/19(日) 20:57
- なんとなくわかりましたw<映画
- 169 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/19(日) 23:09
- これによっちゃんはどう絡んでいくんでしょう。
気になりますねぇ。
- 170 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/19(日) 23:26
- 久々に娘。小説でヤラレました。
面白いです。
- 171 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/20(月) 01:21
- しもつm(ry
いやいや、なんでもないです(w
あぁ、とてもいいですね
独特の世界観がなんとも
- 172 名前:舵をとれ 投稿日:2005/06/25(土) 17:02
- 九日目の昼過ぎ、吉澤がれいなを拘束していたロープをほどいた。
「帰っていいよ」ロープをまとめながら告げる。
れいなは跡のついた手首をさすり、俯く横顔に憐憫のような視線を送った。
顔を上げない吉澤。
目を逸らさないれいな。
「いいんですか」
「いいって言ってんだろ。さっさと帰れよ」
「警察に言うかもしれませんよ」
「もういい。もういいんだ、どうでも……」
彼女の中で何が起こったのか、それとも何も起こらないから解放しようと決めたのか、
れいなには一つとして判らなかったが、少なくとも、彼女が諦めた事だけは、なんとなく
感じ取れた。
――――このひと、たぶんしぬきなんだ。
それだけ、思った。
- 173 名前:舵をとれ 投稿日:2005/06/25(土) 17:02
- 「……じゃあ」
バッグと携帯電話を受け取り、れいなが立ち上がる。
ドアを閉めるまで、彼女はうな垂れたままだった。
外は見覚えのない景色だった。まさか県境は越えていないだろうが、少なくとも
れいなの行動範囲内には収まっていない場所だ。
標識を頼りに方向だけ決めて、何か交通手段を得られるところまで歩くしかなさそうだ。
振り返り、閉じ込められていた建物を見上げる。
家というより倉庫みたいな外観だった。というか、本当に倉庫なのかもしれない。
中もそんな感じだった。広い一間に、急ごしらえで取り付けたようなキッチンとトイレ、
そして浴室。防寒を全く考えていないコンクリートの壁。重い鉄製のドア。剥き出しの
天井。生活感のない空気。
二日目の夜、どうしてこんなところに住んでいるのかと吉澤に聞いた。
「かっけーだろ」彼女はそう答えた。
「……どこがだよ」
『普通の世界』に、いられなかっただけじゃないか。
贋物だから。
ネットワークが張り巡らされた、本物の世界に対応できなかっただけの弱者が、
なに寝ぼけたこと言っているんだ。
れいなはフンと鼻を鳴らし、倉庫に背を向けて歩き出した。
- 174 名前:舵をとれ 投稿日:2005/06/25(土) 17:03
-
電車にしばらく揺られ、やっと見覚えのある地域に辿り着いて、量販店で買い物をした。
また電車に乗り込み、記憶を辿りながら歩いて、目的地のドアを開けた時、
彼女は目を瞠ってあんぐりと口を開けていた。
「なん……っ」
わななく指でれいなを指し、吉澤は声を荒げる。
「なにフツーの顔して戻ってきてんだ! しかも思いっきりトラベルルックで!」
彼女の言葉に嘘はなく、れいなはいっぱいに膨らんだ旅行用バッグを肩から提げている。
バッグも量販店で買ったものだ。会計を済ませてすぐ、店員にタグを切ってもらって、
その中に他の購入品を詰め込んだ。
中身はほとんど着替えで、あとは洗面用具とか整髪料とかインスタントカメラとか。
ついでに電車の時刻表も買ってきた。
「あたし、親にお土産持ってかなきゃなんないんですよ」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを口元に乗せながら、れいなは軽く首を傾げた。
- 175 名前:舵をとれ 投稿日:2005/06/25(土) 17:03
- 「なんで、やっぱ旅行に行っとかないとまずいじゃないですか」
「……一人で行けばいいじゃん」
「未成年ですもん。誰か保護者がいないとホテル泊まれないですよ」
「日帰りで行って来い馬鹿!」
重いのでバッグを下ろし、れいなは自身の首筋を掻く。
「日帰りじゃ、八つ橋食べる時間ないんですよね」
「嫌いなんじゃなかったのかよ」
「いま食べたら美味いかもしれないじゃないですか」
バッグのファスナーを開け、中身を取り出していく。
「ハサミありますかね」呆けている吉澤に尋ねると、彼女は呆けたままのろのろ立ち上がり、
雑貨が詰め込まれた収納ボックスからハサミを取り出して床を滑らせた。
滑ってきたハサミをキャッチしたれいなは、それを使ってタグを取り外しにかかる。
輪の形になっているものは簡単なのだが、靴下とかは棒状の留め具で束ねられているので
気をつけないといけない。うっかりすると布地まで切ってしまう。
シャツが入っていたビニール袋に外したタグをまとめる。
「ありがとうございます」と吉澤にハサミを返して、れいなはまたバッグへ詰め始めた。
- 176 名前:舵をとれ 投稿日:2005/06/25(土) 17:03
- 綺麗にたたまれていた時と違って、適当に詰めたから嵩が増してしまった。
最後の方は力尽くで押し込むようにして、両側から押さえつけながらファスナーを締める。
試しに肩へかけてみる。膨らみすぎててちょっと邪魔だった。
まあ、四六時中背負っているわけでもなし、それほど困らないだろう。
「ちょ、Ray! お前どういうつもりで、そんな……」
「どういうって、ただの暇つぶしですよ。
家に帰ったって退屈だし、学校もつまんないし。だったら京都行って観光してきた方が
得じゃないですか」
「いや、得とかそういう問題じゃ……」
まだ何か言いたそうにしている吉澤へ、れいなはバッグのサイドポケットから引っ張り
出したものを差し出した。きょとんとした顔で吉澤が視線を移す。
封筒である。手紙を送るためのものではなく、もっと薄くて表にイラストが入っている。
吉澤が受け取り、封のされていない口を開けると、中身を摘んで引き出した。
一瞬にして、吉澤が気色ばんだ。
「これ……」
「27万8千円。大事に使って下さいよ、小学生の頃からコツコツ貯めたんですから」
ふと笑みを消し、れいなは抑揚の無い声で言う。
- 177 名前:舵をとれ 投稿日:2005/06/25(土) 17:04
- 封筒の口を閉じ直した吉澤がつき返そうとしてきたが、れいなはそれを無理やり
彼女のポケットに押し込んだ。
何があっても、これは受け取らせなければならない。
どうあっても、れいなはそうしなければならない。
そうでなければ、彼女の『共犯者』には、なり得ないのだ。
「今から出れば、夕方には向こう着きます」
「……なに考えてんだ」
「別に、なにも」
「家出したいなら一人で……」
言いかけて、吉澤は途中で言葉を切った。
本当にそうされたらどうなるか、考えたのかもしれない。
それはもう吉澤には関係のない話になるはずだが、少しでも関わった相手のことなら、
やはりちょっと気持ちの据わりが悪くなってしまうんだろう。
「親とか、心配するんじゃないの」
「可愛い子には旅をさせろって言うじゃないですか」
「自発的に出るのとは違うだろ」
「ナニゴトも経験ですって」
- 178 名前:舵をとれ 投稿日:2005/06/25(土) 17:04
- れいなは飄々と答え、バッグを持ち上げた。
吉澤はしばらく悩んでいたが、結局、身の回りのものをまとめて、れいなに導かれる
ように、その小さな身体に続いてドアをくぐった。
実のところ、れいな自身、彼女をどこへ導こうとしているのか判らなかったのだけど。
- 179 名前:舵をとれ 投稿日:2005/06/25(土) 17:04
- 「そういえば吉澤さん」
「ん?」
「なんであたしさらったんです?」
駅までの道すがら、れいなが問う。
彼女にこの質問をするのは二度目だった。れいなは返答に何か変化があるかもしれないと
期待していた。
吉澤が遠くへ目を遣った。
「ひょろっとして弱そうだったし、なんか死んだみてーなツラしてたから」
一度、言葉を切り、通り過ぎた大型トラックが上げる砂埃に顔をしかめながら、吉澤は
続きを接ぐ。
「殺しても恨まれないかなって思ったんだよ」
嘘だろうと思った。
最初から、彼女はれいなを殺す気なんてなかったし、そんな度胸もない。
嘘をつくのは本当の事を言いたくないからだ。何を隠しているのか知らないが、
まやかしの理由をでっち上げるのなら、無作為に選んだわけではないのだろう。
何か、彼女にとって重要な理由、れいなでなければならない理由が、あるはずだった。
- 180 名前:舵をとれ 投稿日:2005/06/25(土) 17:05
- 一旦口を止めたのは、砂埃のせいではなく迷ったからだ。
どんな嘘をつくか悩んだから、一瞬、言葉が止まってしまったのだ。
だからきっと、最後の部分が嘘になっている。
数日前の街中を歩いていた自分がどんな顔をしてたのか、もちろん本人であるれいなには
判らないのだが、「死んだみてーな」と彼女が言うからには、翳りのような、何かよくない
ものが表面に浮かんでいたんだろう。
それを見た吉澤が何を思ったかなど、れいなには推し量る術も無い。
「そーですか」
「そーでっす」
吉澤のジーンズにはナイフのホルダーが取り付けられており、それは空ではない。
上着の裾が長いから、パッと見では判らないが、れいなはそこにそれがある事を
知っている。
- 181 名前:舵をとれ 投稿日:2005/06/25(土) 17:05
- 使うあてもない物を、なぜそうやって持ち歩くのか(れっきとした銃刀法違反だ)、
れいなはそれも不思議だったが、返ってくる答えの予想はついたので、そっちについては
聞かないことに決めた。
どうせ、れいなに対する威嚇目的とか、そんな感じの返答しかないだろう。
れいなが本当に知りたいのは一つだけだった。
彼女の持つ温かさの秘密を、理由を、根拠を、理屈を知りたいだけだった。
だからこその逆戻り。知りたい事があるなら観察するのは当然だった。
もしその秘密を知ることが出来たなら、隠されたナイフで身を貫かれてもいい。
壊れた贋物の世界に、それ以外の未練はない。
- 182 名前:舵をとれ 投稿日:2005/06/25(土) 17:05
-
四日目には、連絡した日を過ぎても帰ってこない娘を心配した両親によって、公的機関へ
捜索願いが出されていたが、事前に連絡があった事と、不審な電話の一本もない事から
事件性がないと判断された。
れいなの名前といくつかのプロフィールは、年間で数万人にのぼるという行方不明者
リストの一項目として登録され、そこから抜け出すことはなかった。
- 183 名前:円 投稿日:2005/06/25(土) 17:05
-
10回目終了。
- 184 名前:円 投稿日:2005/06/25(土) 17:05
- レスありがとうございます。
>>167
あ、この後のサブタイトルが読まれた予感(笑)
>>168
思いっ切り時期外れなんですけどね(苦笑)
DVDで観て面白かったもんですから。
>>169
絡むどころか、は、離れゲフンゲフン。
>>170
ありがとうございます。面白いって言われるのはやっぱり嬉しいですねえ。
>>171
シーッ!(笑)
世界観……独特なんでしょうか(苦笑)
- 185 名前:円 投稿日:2005/06/25(土) 17:06
- ではまた次回。
- 186 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/25(土) 21:42
- ぐっと動きましたね。いやぁ続きが気になります
- 187 名前:171 投稿日:2005/06/26(日) 01:21
- 更新乙です
あぁ、やっぱよっちゃんはHETAREなんですね(w
ってかれいな強っ!
- 188 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/26(日) 02:11
- すばらしい展開力・文章力ですね。圧巻です。
更新が楽しみです。この待っている時間も楽しかったりw
- 189 名前:Siren〜セイレーン〜 投稿日:2005/07/02(土) 17:23
- 徹夜で薄ぼんやりした頭に、コーヒーはよく染みた。
大体、このコーヒーは苦すぎる。梨華がミルクポーションとスティックシュガーを
ひとつずつしか出してくれなかったのだ。
しかしここでそれ以上要求しようものなら「美貴ちゃんって結構子供っぽいのね、ウフフ」
とか言われるのは目に見えている。そんなのはプライドが許さない。
というわけで、美貴は苦すぎるコーヒーを我慢して飲んでいる。
「美貴ちゃん、今日はなにか用事あるの?」
「別に無いけど。でも一回うち帰って、ごっちんの様子見てこないと」
「そうなの。ごっちんって、ルームメイトの?」
「うん」
同じように徹夜したはずの梨華は妙に元気だ。どれくらい元気かというと、朝日が
昇ると同時に「今日もポジティブ、ポジティブ!」とか気持ち悪いかけ声を上げるくらい
元気だった。
美貴はそれを聞いて思わず「キショ」とか呟いてしまったのだが、幸いにして梨華には
聞こえていなかったらしい。
彼女のアレは、おそらく暗示だろう。基本的には後ろ向きな性格なのかもしれない。
それを打開するために、毎朝ああやって声を出す事で自己暗示をかけているのだ。
- 190 名前:Siren〜セイレーン〜 投稿日:2005/07/02(土) 17:23
- 結構、結構。美貴は苦味に顔をしかめながら心の中で呟く。
その程度の暗示なら可愛いものだ。少なくとも自分よりは健康的である。
「美貴ちゃん、目の下クマすごいね」
「ああ、出やすい体質みたいなんだよね。てゆーか梨華ちゃんもすごいよ」
自身の目元を指して言うと、梨華が「おそろいだね」となかなか背筋が寒くなる事を言った。
コーヒーに息を吹きかけて冷ますふりをしつつ、美貴がこっそり溜息をつく。
梨華に付き合ってしまったのは失敗だったかもしれない。
こんなところで、のんびりモーニングコーヒーを飲んでいる場合じゃないのに。
真希が心配だった。美貴が与えるものの有効期限は短い。ほぼ、与えている時間だけ
有効だと言ってもいい。即効性が高いものは、大概持続性が低いものだ。
世界はそうしてバランスを取っている。
なにか妙な事になっていなければいいが。彼女は携帯電話を持たない。回線は引かれて
いるが、インターネット専用で使っているため電話機がない。だから、電話連絡は
出来ないのだった。
パソコンへメールを送る事は可能なものの、メールチェックはあまりマメな方ではない。
サイトの閲覧者からメールが届くのはほとんどが夕方から夜の間だった。
新しい朝が来たばかりのこの時間、彼女はメーラーを立ち上げてもいないだろう。
- 191 名前:Siren〜セイレーン〜 投稿日:2005/07/02(土) 17:24
- 「コーヒーのお代わりは?」
「や、もういいよ。ごちそうさま」
苦労して飲み干したのに、またそそがれては堪らない。
美貴は人懐こい笑みで首を振り、空になったカップを梨華へ渡した。
梨華がカップをキッチンへ戻しに行っている間、美貴は散らばったビデオテープを
ケースにしまっていった。DVDプレイヤはない。家で映画を観る事はそんなにないから
必要ないそうだ。
あらかた片付けて、大きく伸びをする。
徹夜なんて久し振りだった。昔は彼女たちと三人で夜更かしをして遊んだりもしたが、
ここ二年くらいはバイトと真希の世話に明け暮れていたから。
本当に、久し振りだった。
誰かと映画館で映画を観て、誰かの家にお邪魔して、一緒にビデオを観ながら感想を
言い合って、コーヒーを淹れてもらって。
そんな、『普通の人』みたいな行動は。
「――――っ」
鼻の奥が奇妙に痺れて、美貴はそこを手のひらで押さえた。
これは、まずい。
こんな時に、こんな状態になってしまうのは、非常に望ましくない事態だ。
タイミング悪く戻ってきた梨華が息を呑む気配
- 192 名前:Siren〜セイレーン〜 投稿日:2005/07/02(土) 17:24
- 「美貴ちゃん……どうしたの?」
「……鼻血出てきたぁ」
鼻を押さえているせいでくぐもった声で情けなく告げ、美貴が助けを求めるように
梨華へ視線を送った。
ティッシュを鼻に当てて下を向き、そのままじっとする。
これはもう本当に不思議で仕方ないのだが、幼い頃から鼻の粘膜が弱くて何もないのに
鼻血が出てくるのである。
おかげでちょっと色気づいてきた年齢になると、「スケベなこと考えてる」とか
全くもって不愉快なからかいを受けたりしたもので、どうにかして体質改善しようと
頑張ってみたが、その成果は兆候すら現れていない。
「びっくりしたぁ。どうしたの、いきなり」
「や、美貴も判んないんだけどね……」
本当になんの前触れもなく、『コレ』はやってくるのである。
ティッシュを離し、血が止まった事を確認して、赤く染まったそれをビニール袋へ捨てた。
丸ままゴミ箱に捨てるのは梨華も嫌だろう。
「ごめん、驚かせちゃって」
「気にしないで。すぐに止まってよかったね」
「はは……」
気まずく笑い、美貴は鼻の下を乱暴に擦った。
「あ、触んない方がいいんじゃない?」梨華がやんわりと美貴の手を下ろさせる。
- 193 名前:Siren〜セイレーン〜 投稿日:2005/07/02(土) 17:24
- ギョッとして、美貴は逃げるように手を引いた。
梨華の方も少し驚いたようで、行き場を失った手を中空に止めたまま、美貴の顔を
注視してきた。
「え?」
「あ……、汚いし」
美貴の手は所々に血が染みていた。血なんて見るだけでも感じのいいものではないし、
指を切ったとかならまだしも、ものは鼻血なんである。余計にイメージが悪い。
梨華は不思議そうに首を傾げた。
美貴が何を気にしているのか判っていないようだった。
その反応こそ、美貴には不思議だった。
「汚くないよ?」
胸元へ置いていた手を取られる。気を遣っているわけでもなさそうだった。
このまま触れていたらいけないような気がして、美貴は離させようと腕に力を込めた。
梨華はあっさり離した。
点々とついた血の跡から、ぬるりとした侵蝕。
それは、無邪気の近似色な顕示欲。
- 194 名前:Siren〜セイレーン〜 投稿日:2005/07/02(土) 17:24
- 美貴が今まで守ってきた、つかず離れずの関係は脆くも崩れ去ろうとしていた。
「……手、洗わせてもらえるかな」
「うん。階段降りて、右側のドアが洗面所だから。タオルはかかってるの使って」
「ありがと」
教えられた洗面所で、美貴は丁寧に手を洗う。
お湯も出るようだったが敢えて冷水に両手を浸した。
熱が、一緒に流れてしまえばいいと思った。
彼女の熱が、排水溝を伝わって流れて、どこか自分の知らない処に行ってしまえば
いいと願って、美貴は何度も冷水を当てた。
厄介なのは、自分自身が彼女の侵蝕を不快に感じていないことだった。
まるで空回りなはずの、どうにも的外れな彼女の行動に、どこか惹かれている自分が
いることだった。
――――そんなものは、望んじゃいないのに。
望んじゃいけないのに。
- 195 名前:_ 投稿日:2005/07/02(土) 17:25
-
- 196 名前:電光浴-2 投稿日:2005/07/02(土) 17:25
- テーブルに頬杖をつき、真希は呆れた顔をしている。
「よっすぃ、朝ご飯にはまだ早いよ。美貴ちゃんも帰ってきてないのに」
「だって腹減るんだもん。しょうがないじゃん」
「せっかく痩せてきたのに。戻ったらどうすんの」
「大丈夫だって、動いてるから」
はあ、と、真希が小さく嘆息する。そんな事をしてみせても、ベーグルを食べる手は
止まらない。
これは一度、ガツンとやっておいた方がいいだろう。管理しているこっちの身にも
なってほしいものだ。
今現在、彼女の趣味はフットサルである。元々、身体を動かすのは好きなタイプなので、
誘ってみたら簡単に乗ってきて、どんどんのめり込んでいった。
近頃は一人でボール遊びしているのがつまらなくなってきたらしく、真希と顔を
合わせるたびに、「チームを作りたい」とか「試合がしたい」とか無邪気に要求してくる。
チームメイトを集めるのも対戦相手を探すのも、全部真希の役目なのである。
これまた、こっちの身にもなってくれと思う。
いっそサイト上で練習相手を募集しようか。なんだか訳の判らない噂が流れ始めたせいで
一時期よりアクセス数は減ったが、それでも日に数千のユニークアクセスが記録されて
いる。その中にはスポーツが好きな閲覧者もいるだろう。
- 197 名前:電光浴-2 投稿日:2005/07/02(土) 17:25
- それか、一時しのぎではあるが練習プログラムを変えてみるという手もある。
二ヶ月くらい同じメニューを続けていたら飽きもするだろう。
「新しいメニュー考えてみよっか」
「料理の?」
「違うよ、練習の」
「なんだ」
ベーグルを食べているからか、そんな見当違いの返答が来て、真希は思わず苦笑する。
そういえば、久しく料理をしていないな。真希は頬杖をつきながら思う。
最近は食事といえばピザの配達とか、美貴が作ったレトルト食品とか(彼女は料理が
得意でない)ばかりで、外食に出かける事もほとんどない。
「美貴ちゃんが帰ってきたら、あたしがご飯作ろっかな」
「あっ、あたしも食いたい」
「だから食べすぎだって」
くすくす笑声をこぼし、真希はそれでも「じゃ、よっすぃも一緒にね」と頷いた。
「やりっ」嬉しそうな声と表情に真希の表情がさらに和らぐ。
- 198 名前:電光浴-2 投稿日:2005/07/02(土) 17:25
- 真希にとって彼女は絶対の一人だった。彼女の全ては真希のものである必要があったし、
真希の全ては彼女へ捧げなければならなかった。
今、それは過不足なく叶えられている。彼女の全ては真希に委ねられ、真希の全てを
彼女は欲していた。
素晴らしい幸福だった。何ものにも代えがたい充足だった。
時々、はっきりとは判らない何かについて、「ちょっと足りないかも」と思うような瞬間が
あったりしたが、美貴と話したりしていればすぐにどこかへ消えて、だから真希は
全体的にみれば大変に満足していた。
幸福だった。幸福で幸福で幸福で最大の幸福を最大限に幸福だと感じていた。
――――でもそれって、ひっくり返せばいつも最小の不幸と隣り合わせって事だね。
判ってるとも、そんなこと。
- 199 名前:円 投稿日:2005/07/02(土) 17:26
-
11回目終了。
色々書いてますけど、石川さん好きですよ。
- 200 名前:円 投稿日:2005/07/02(土) 17:26
- レスありがとうございます。
>>186
やっと動き出してくれました。こっちも……(苦笑)
>>187
吉澤さんはHETAREでナンボです(笑)
二人の力関係は、これからもうちょっとはっきりしてきます。
>>188
とりあえず、週一ペースは崩さずに更新していきますのでー。
まったりお待ち下さい。
- 201 名前:円 投稿日:2005/07/02(土) 17:26
- ではまた次回。
- 202 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/02(土) 20:23
- 更新お疲れ様でした。
このところ一番乗りレスを連続してつけています。(チェックしすぎだっつーの、自分w
いやぁ、りかみきいいですねー。
この二人の場面も好き。結局どの場面も好きってことでw
- 203 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/03(日) 03:29
- 最後のフォローに笑ってしまいました。
後藤さんの内側もだんだん見えてきて、これからの展開がますます楽しみです。
- 204 名前:不吉の前兆 投稿日:2005/07/09(土) 22:15
- 発車ギリギリ滑り込み、グリーン車の広い座席に並んで落ち着く。
吉澤は窓際を譲れと主張し、れいなは景色を眺めて騒ぐほど可愛い性格をしていない。
ので、席順はさして争う事もなくそんな感じになった。
「おっ、見ろRay、電線がこんなギリギリまで張ってあるよ。
すごいなー、ぶつからないのかな」
「ちゃんと設計されてんですよ」
「でも風とかでさあ」
「吉澤さん、今までそういう事故のニュースとか聞いたことあります?」
「ないよ」
キヨスクで買ったソフトキャンディを噛みながら、吉澤は迷惑なくらいはしゃいでいて、
あまりの大根役者ぶりにれいなは「やれやれ」と息を吐く。
吉澤はれいなに対して微妙な心境になっている。端的に言って、気味悪がっている。
行動を理解できないんだろう。せっかく逃がしてやったのに、どうしてまた戻って
きたのか不思議で仕方ないのだ。
だから、吉澤はれいなを幽霊みたいに思っている。
いなくなったはずなのに、同じ場所に戻ってきたから。
- 205 名前:不吉の前兆 投稿日:2005/07/09(土) 22:16
- 彼女が判らないのも無理はない。
自分がどれだけ温かいかなんて、改まって考えた事がある人間などそんなにいない。
いつまで続くか見当もつかないこの小旅行で、れいなが彼女の秘密を見つけられるかと
いえば、その可能性は低かった。
れいなはまだ、ヒントのひとつも掴んでおらず、そもそも正解が存在するのかどうかも
はっきりしていない。
れいなが抱く疑問の答え。吉澤が抱くれいなへの感情。れいなと吉澤の距離。
全てが曖昧で、曖昧で曖昧で曖昧であまりにも曖昧な曖昧さが複雑に相まっていた。
「とりあえず、着いたらホテル行きましょうよ」
「なんで?」
「疲れちゃったんで。歩き回ったんですよ、駅の場所わかんなくて」
「ああ……そう」
吉澤が微妙な表情をした。
放り出したことに対する後ろめたさでも感じているんだろう。
土地勘のないれいなは標識だけを頼りに一時間近くも歩き回り、そうしてようやく
駅を見つけたのだが、実は徒歩十分程度の距離に最寄り駅は存在し、なんとれいなは
二つも駅を通り過ぎていたのだった。
- 206 名前:不吉の前兆 投稿日:2005/07/09(土) 22:16
- それを知った時はさすがに腹が立って、吉澤に駅の場所くらい教えてから解放しろと
怒ったのだ。彼女はまだそれを気にしているらしい。
「ホテル、どこがいっかなー」
誤魔化すようにわざとらしい独り言を洩らして、吉澤がガイドブックを開く。
「こことかどうですかね」れいなが1ページ丸々使って紹介されているホテルを指差す。
「たけーよ」
「足りますって。すごいっすよ、ジャグジーとかついてますよ」
「しかもスイートかよ!」
口では文句をつけているが、吉澤もちょっと心惹かれているらしい。
「ジャグジーってあれだよね、泡とか出るやつ」「そうですねえ」紹介文を熱心に
読んでいる吉澤の隣で、れいなは思いつく限りの誘い文句を彼女の耳元に囁きかけた。
「気持ちいいでしょうねー、めっちゃ広いし。あっ、お湯が出るとこ、ライオンの口に
なってますよ。すげー」
「ホントだ。これってドンキとかで売ってるけど安っぽいんだよな」
「こっち本物ですよ。どうですか吉澤さんっ」
「んー……よっしゃ決めたっ。ここにする」
「やりぃっ」
とかなんとか言ってみたところで、代金はれいながコツコツ貯めた中から出されるのだが。
だからこそ無責任に吉澤を煽ったというところもある。
- 207 名前:不吉の前兆 投稿日:2005/07/09(土) 22:16
- 吉澤の懐からソフトキャンディを失敬して口に含む。
特に何も言われなかった。まるで気付いてない風だが、遠慮なくゴソゴソやったので
気付かないわけがない。
まさか、気を、許しているのだろうか。
キャンディを取るふりして、腰のナイフを奪うかもしれないのに。
それを彼女の腹に深々と突き刺すかもしれないのに。
まさか。
「全部食うなよ」
ガイドブックから目を上げないまま吉澤が釘を刺してくる。
やはり気付いている。なのに、れいなの行動そのものについては言及しない。
吉澤のポケットに袋を戻したれいなが、馬鹿にしたように鼻を膨らませた。
「食いませんよ」
「昔、よく食われてたんだよ」
「誰にですか?」
「……お前の知らない人」
ごっちんかもしれない。
- 208 名前:不吉の前兆 投稿日:2005/07/09(土) 22:16
- どうしてだろう、彼女は昔の話をする度に、少しだけ表情が曇る。
それと同時に彼女を取り囲む温度も心持ち低くなるような気がして、だかられいなは
あまり昔の話をしてほしくない。
座席に戻って背凭れに埋まる。
「吉澤さん、猫背ですよね」
「背が高いもんでね」
「なんですかそれ、嫌味ですか」
「そう聞こえた?」
「いえ別に」
「Ray、耳悪いんじゃないの?」
くつくつ、吉澤が笑う。魅力的な笑みだ。本質的に人を惹き寄せる笑い方だった。
不意にウェーブのかかった短い髪に触れてみたくなって、腕を延ばした。
ふわっと手のひらを乗せると、彼女は「うん?」と視線をれいなに合わせた。
「……なんでもないです」触ったからといってどうという事もなく、れいなは自分の行動を
理解できないまま手を下ろした。
変な奴、と笑ったまま呟き、吉澤は視線を膝元に戻す。
- 209 名前:不吉の前兆 投稿日:2005/07/09(土) 22:16
- 「髪型、よく変えるんですか」
「飽き性なんでね。切るのは結構ペース速いよ」
「あたしずっと長いんですよ」
「ふぅん」
「吉澤さんみたいにしてみよっかな」
「似合わないからやめといた方がいいよ」
「吉澤さんだって似合ってないですよ」
れいなは頬を膨らませて憎まれ口を叩いた。
なんだか、あのふわふわの髪がとてもいいものみたいに思えたのだ。
けれど触ってみたら大した感動もなくて、れいなは拍子抜けしてしまったのだが、
それでもなんとなく、そう、羨ましくなってしまったのだった。
自分の真っ直ぐな髪を摘んでみる。
時々、ドライヤーで癖付けて外ハネにしてみたり、飾りのついたゴムで結んでみたり
しているにせよ、基本的にここ数年、髪型を変えていない。
「長くて真っ直ぐなの、好きだよ」
唐突に吉澤が呟いたが、前動作のひとつもなかったので、れいなは一瞬、それがなんの
ことを言っているのか理解できなかった。
きょとんとした顔を吉澤に向け、一拍置いてから口を開く。
- 210 名前:不吉の前兆 投稿日:2005/07/09(土) 22:17
- 「好きなんですか」
「うん。触り心地いいじゃん」
れいなは吉澤に髪を触られたことはない。
抱きしめられたことはあるが、彼女の手が触れていたのは背中だけだった。
誰の事を言っているんだろう。
誰の事を思い出しているんだろう。
彼女の表情には影が差している。
「……じゃあ、吉澤さんといる間は、切らない事にします」
「そりゃあどーも」
吉澤はやんわりと微笑み、ガイドブックのページをめくった。
れいなは一瞬だけ交わった視線の余韻を振り切るように、前方の電光掲示板へ目を向けた。
掲示板は休むことなく文字列を送り出している。目的地の天気、各地方のニュース、
政治の話題にプロ野球(揉め事が起こる話題トップ2だ)、大きな事件の速報などなど。
れいなは目だけくれているが、それらを見ていない。
吉澤もまた、れいなを見ていない。
- 211 名前:不吉の前兆 投稿日:2005/07/09(土) 22:17
- 肘掛けにもたれ、れいなは首の後ろあたりから不機嫌を放出していた。
長い髪に隠されているため、吉澤はれいなの不機嫌に気付かない。
誰を思い出しているんですか。
誰を重ねているんですか。
誰を、見ているんですか。
別に、はっきりとした不満があるわけではなかった。
彼女に好かれたいなどとは思っていないし、れいなの方も、特に彼女を好いているという
わけではない。
しかし気に入らなかった。知り合いに声をかけたのに無視された時みたいな感覚だ。
つまり、礼儀の問題だった。
本来は穏やかな性格なのだろう、彼女の瞳はゆるやかな曲線を描き、その視線は
膝に置いたガイドブックへそそがれている。
しかし意識はここにない。身体は確かにれいなの隣で佇んでいるが、彼女の核にある
ものはどこかへ飛んでしまっている。
- 212 名前:不吉の前兆 投稿日:2005/07/09(土) 22:17
- どこにいるのか、れいなには判らない。
もしかしたら、どこにもいないのかもしれない。
彼女はどこにもいけないのかもしれない。
だったら。
そうだとしたら、彼女はここにいるべきだ。
れいなの隣にいて、あやふやな核を確としたものにするべきなのだ。
なのにどうしてあんな顔をするんだ。
まったく、本当に。
気に入らない。
――――『やっほー。今京都に向かう新幹線の中。高級ホテルに泊まる予定(笑)
でも一緒に行くヤツちょっとムカつく』
頭の中でメールを打ち、絵里に送信した。
現物は吉澤が(強制的に)預かっている。電源は入っていない。
夢の紀行はのっけからケチがつき、れいなは不機嫌に電光掲示板を睨んでいた。
- 213 名前:円 投稿日:2005/07/09(土) 22:17
-
12回目終了。
- 214 名前:円 投稿日:2005/07/09(土) 22:18
- レスありがとうございます。
>>202
連続一番乗りおめでとうございます(笑)
現状、なんとなく浮いているりかみきですが、まあ見守っていてください。
>>203
いや、ホントに好きなんですよ!
後藤さんはねえ……どうなんでしょうか。
- 215 名前:円 投稿日:2005/07/09(土) 22:18
- ではまた次回。
- 216 名前:名無しJ 投稿日:2005/07/10(日) 09:52
- 完結するまでレス我慢出来ませんでした。
面白すぎます・・・
待てません待てませんけど待ちますw
- 217 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/10(日) 16:23
- あいたたー。一番乗り記録早くも終了w
今回も見事な文章っぷりでした。やっぱりこの二人はいいですね。惹きこまれる。
- 218 名前:ヴァーチュアル・ラビット 投稿日:2005/07/16(土) 04:46
- 「――――というわけで、結局梨華ちゃん家で寝ちゃって、
こんな時間になってしまいました」
深々と頭を下げながら、美貴は言い訳のような説明を終えた。
眠気覚ましのコーヒーを飲んだ後、ビデオを一本観て、それから朝食までご馳走になり、
挙句の果てには睡魔に勝てず梨華と雑魚寝状態で昼過ぎまで寝こけてしまった。
慌てて帰ってきたのだが、到着する頃には午後のおやつの時間すら過ぎていた。
なんとも不幸なことに、こんな日に限って真希が一緒に食事をしようと待っていたのだ。
それを聞いた瞬間、美貴の身体は嫌な汗がダラダラ流れ、なんというか色々なことに
観念して額を床につけたのである。
真希は拗ねた顔で唇を尖らせ、
「いいんだけどねー? よっすぃと遊んでたから暇じゃなかったし?
でもごとー、美貴ちゃんとご飯食べようと思って、朝からなんにも食べなかったんだけど」
全然「いいんだけど」とは思えない口調で言った。
美貴はさらに深く頭を下げる。
- 219 名前:ヴァーチュアル・ラビット 投稿日:2005/07/16(土) 04:46
- 「ホントごめん。おわびに、ごっちんの言う事なんでも聞く」
「えー。どうしよっかなー」
座っている椅子をグルグル回しながら、真希は口元に人差し指を当てた。
「じゃあ、肩揉んで」
「はい」
素直に真希の肩を揉み始める美貴。これでは騎士ではなく執事だ。
いや、女だからメイドになるのだろうか。
「あー、極楽極楽」年よりくさい独白に、美貴は情けない気持ちになる。
苛立ちが募って、さっきから面白そうに二人のやり取りを見物している傍観者へ
じっとりと恨みがましい目を向ける。
視線を感じ取ったのか、一瞬のタイムラグがあってから、ニヤリとした笑みが返ってきた。
「自業自得ってやつだよ、美貴」
「うっさい、美貴の前でしゃべんな」
「美貴ちゃん、よっすぃ苛めちゃダメだよー」
真希が困ったように注意してきた。美貴は聞こえないふりをする。
- 220 名前:ヴァーチュアル・ラビット 投稿日:2005/07/16(土) 04:47
- 真希を真ん中に挟んで、はす向かいに対峙している彼女たちは、絶対に相容れない
関係だった。
少なくとも、美貴の方は全くと言っていいほど好意的な感情はない。
顔を見るのも嫌で、声を聞くのも嫌で、救いといえば決して近寄ってこない事くらいだ。
向こうも嫌われている事は判っているようで、というか、これだけ刺々しく接していて
気付かないなら、それはどこかに明らかな問題があるという事だが、割合、美貴が部屋に
いる時は姿を現さない。
真希はなんとか仲良くやってほしいと思っているようだ。一度ならず、そういう事を
願われた。美貴は一度としてその頼みを聞き入れなかった。
だって、どうして聞き入れられる?
その願いを受け入れるという事は、他ならぬ彼女を忘れる事と同じなのに。
そんな残酷な事が、あまりにも罪深い事が、美貴に出来るはずがなかった。
『家族』を殺すという所業は、美貴にとって最悪の罪悪なのだから。
- 221 名前:ヴァーチュアル・ラビット 投稿日:2005/07/16(土) 04:47
- 「……不毛だよ」
「なにがー?」
「いろいろ」
「でもその何分の一かは、美貴ちゃんのせいだよ」
知っているとも。それはもう、嫌になるくらい。
自分たちを繋いでいた鎖は、所々が切れてしまって縛めの意味を失っている。
原因の一端を担っているからこそ、美貴は自らを戒めるためにここへ留まっている。
「あたし、そろそろ帰るね。練習の時間だし」
魔王が屈託のない笑みで真希に告げ、二人の視界から失せた。
「ばいばーい」真希が手を振りながら見送る。
律儀なことだ。美貴は心の中で嘲笑した。
アレは約束を破らないし、スケジュールを逸脱した行動を取らないし、何もかも、
真希の望んだとおりに動く。
過たず、裏切らず、道標は確かで道も真っ直ぐである。
とても素敵だった。
素敵な傀儡だった。
- 222 名前:ヴァーチュアル・ラビット 投稿日:2005/07/16(土) 04:47
- 真希が椅子を回転させて、ディスプレイと正対する。
画面には、彼女が運営しているウェブサイト『Missing』のトップページが
表示されていた。
「梨華ちゃんてさあ、どういう子?」
音楽を奏でるようにキーボードを打ちながら真希が問う。
美貴はマッサージの手を止めずに答える。
「別に普通の子。性格は良くも悪くもなくて、たまにキショいこと言ったりやったり。
バイトで一緒になれば、教えてあげたりご飯食べたり」
「楽しい?」
「……さあ。楽ではあるけど」
「いい子なんだね」
「そうなんじゃない? よく判んないけど」
曖昧な返答ばかりする美貴。しかし真希は特に不満そうな様子もない。
興味が無いんだろう。
彼女が執心しているのは魔王ひとりだ。幼い頃から付き従っていた美貴にすら、
今はもう感心を持てなくなっている。
かけがえのないものを失って、かけがえのないものを作り出すしかなかった彼女は、
代わりにそれ以外のものを捨てなければならなくなっていた。
- 223 名前:ヴァーチュアル・ラビット 投稿日:2005/07/16(土) 04:48
- 真希が片っ端から捨てるそれらを、隣に付き添いながら拾い続けて、少しずつでも
返そうとしているのに彼女は決して受け取ろうとせず、結果すべてを抱え込む羽目に
なった美貴の両手は、そろそろ容量オーバーを迎えようとしていた。
「よっすぃの練習相手さがしてあげなきゃ」
「練習?」
「フットサルの。上手いよー。美貴ちゃんもやってみる?」
「暇があったらね」
途切れ途切れに、一音だけの音楽が鳴る。
美貴はいっそ、この場で彼女を消滅させてしまおうかと思った。
(それはとてもとても簡単な事だった)
今まで何度もそういう事を考えた。
そして今回も、今までと同じようにその考えを振り払った。
耐えていれば、いつか報われると信じていた。
困難に直面した場合、全てのケースにおいて立ち向かう必要はない。
逃げられるなら、逃げてしまえばいいのだ。それを臆病と罵るのは本当の困難を
知らない愚か者だけだった。
三十六計逃げるに如かず。昔の人はいい言葉を残したものだ。
- 224 名前:ヴァーチュアル・ラビット 投稿日:2005/07/16(土) 04:48
- 今まで、逃げ道がないから美貴は耐えていた。
今はどうだろうか。
今、自分に逃げ道は、存在しているのだろうか。
自問の必要はなかった。
確かに存在している。これまでだってその気になれば逃げ道を作れただろう。
これまでは壁の前に真希がいたから、一人だけ逃げ出すわけにはいかなかっただけだ。
今はどうだろうか。
美貴は迷っていた。
真希の肩から手を離し、そっと、足音を忍ばせて後ろへ下がる。
何も気付かない真希は振り向きもしない。
右足の踵がベッドの縁に当たって美貴は足を止めた。
そのまま、重力に逆らわず仰向けに倒れこむ。
シーツからは、美貴自身と、真希の匂いがした。
そろそろ洗濯をしなければいけないと思った。
そろそろ選択をしなければいけないと、美貴は覚悟していた。
- 225 名前:ヴァーチュアル・ラビット 投稿日:2005/07/16(土) 04:48
- 「……ごっちん」
「なに?」
「美貴はごっちんを愛してるよ」
真希からの返答はなかった。
美貴も返答なんて期待していなかった。
それは独り言のようなもので、決意表明のようなもので、対象は自分自身だけだったから、
真希が聞いていても聞いていなくても関係なかった。
「美貴は、後藤真希っていう存在を愛してる」
その愛情に到達点はなく、ただただ、意味もなくずっと続いていくだけで、
どこかに繋がっているわけでもなく、何かと交差するわけでもない、永遠に伸び続ける、
直線の愛情だった。
どこかで捩れることも、曲がることもない、真っ直ぐな一方通行の愛情だった。
- 226 名前:ヴァーチュアル・ラビット 投稿日:2005/07/16(土) 04:49
- 「梨華ちゃんがね」
「うん?」
「ビデオ戻す棚の場所が判らなくて、美貴に聞いてきたんだ」
「うん」
「タイトル、なんだと思う?」
「さあ」
美貴が目を閉じ、身体を反転させてシーツから香る匂いをいっぱいに吸い込んだ。
「……『母をたずねて三千里』。昔のアニメだよ」
「へえ」
「よっちゃんが一番嫌いだったアニメ」
身体を捻った形でシーツに顔を埋める美貴を、椅子から立ち上がって近寄ってきた
真希が引き起こす。
上半身だけを起こした美貴の口にソフトキャンディを入れて、真希は微笑んだ。
美貴は泣きたくなった。
こんな風に慰めてくれる程度には、彼女はまだ優しい。
何もかも捨てたくせに、彼女はまだ留まっている。
彼女がいっそ、狂ってくれていたらよかったのに。
独りぼっちが寂しくて死んでしまうくらい、狂っていたら。
そうすれば、自分ひとりが罪を被るだけで済んだのに。
- 227 名前:円 投稿日:2005/07/16(土) 04:49
-
13回目終了。
- 228 名前:円 投稿日:2005/07/16(土) 04:49
- レスありがとうございます。
>>216
どっちなんでしょうか(笑) 昔は週二ペースで更新してたんですけどねー。
>>217
実は、すごく書きやすい人と、すごく書きにくい人の組み合わせです。
でもなぜか、狂言回しは書きにくい人の方っていう……。
- 229 名前:円 投稿日:2005/07/16(土) 04:49
- ではまた次回。
- 230 名前:名無しJ 投稿日:2005/07/16(土) 06:58
- 更新乙です。
引っかかる一文発見しました。…なんか二重なかんじですね。一週間が長いです。
- 231 名前:Day Scanner 投稿日:2005/07/23(土) 21:39
- どう思う?と、おはようの挨拶も済ませないうちから息せき切って尋ねてきた絵里に、
里沙は少々うんざりとした顔で落ち着けと肩を押さえた。
「どうって、本人のサイトなんだからそういう事もあるでしょうよ。
芸能人とかだって、ファンのサイトでチャットに出てきたりするじゃん」
「でも、初めてなんだよ。よっすぃがチャットに来るのって」
「暇だったんじゃない?」
絶対におかしい、と主張する絵里に対して、里沙は冷静さを失わない。
絵里はなんとか自分が抱いている違和感を伝えようと、頑張って言葉を探した。
「違うのーっ、よっすぃってそういうキャラじゃなかったんだって。
すごい親しみやすい感じなんだけどさ、ファンとはちゃんと距離を置いてるっていうか、
そんな簡単に近づいてくるような人じゃなかったのっ」
「なんか知り合いみたいな言い方だね」
微かに棘を含んだ呟きを洩らし、里沙がバッグからモバイルパソコンを取り出して
ネットワークに接続した。
- 232 名前:Day Scanner 投稿日:2005/07/23(土) 21:39
- 「他の人はどうだったの?」
「あ、よっすぃが来た時は絵里と和田さんって人の二人だけだったんだけどね。
ロムってた人も入ってきて、本物だって人と贋物だって人が半分くらい。
……あ、そういう話ヤなんだっけ、里沙ちゃんは」
「ううん、言いたい事は判るよ。……ああ、やっぱそんな感じみたい」
里沙の操るパソコンを、絵里が横から覗き込む。
不特定多数の人間が匿名でやり取りをする掲示板だった。絵里はその存在は知っていたが、
システムがよく判らなくて利用したことはない。
サクサクとスクロールする画面の中では、やはり本物か贋物かで議論がされていて、
中にはちょっと眉をひそめるような文章もあって、絵里は「うえ」と気味悪そうに呟いた。
無表情に視線を走らせ、里沙があきれた調子で呟く。
「どっちでもいいじゃん、て思うけどね。
疑わしきは信じよって言葉もあるし」
「逆だよ。疑わしきは罰せよでしょ?」
「信じた方が夢があるでしょ」
その言葉は皮肉だったが、絵里はそれに気付かず、薄ぼんやりと里沙の横で画面を
見ながら、「里沙ちゃんって意外と楽天的だなあ」とか思っていた。
- 233 名前:Day Scanner 投稿日:2005/07/23(土) 21:40
- 里沙は既に別のサイトへ飛んでいた。どこかと思えば『Missing』である。
メニューの中からよっすぃのテキストをクリックして、過去のものから順に
読んでいるようだった。
何をしているんだろう?と絵里が窺うように里沙の頬辺りに視軸を合わせる。
視線に気付いた里沙が画面から目だけを外した。
「最近のしか見てなかったから」
「うん……。で、なにしてんの?」
「ちょっとね」
里沙は結構なスピードでテキストを読んでいく。速読法でもマスターしているのか。
たまに画面を離れて瞼を指で揉んだ。
「うーん……」
「なに?」
「私、別によっすぃのファンでもなんでもないから、率直に言っちゃうけど」
マウスの動きを止め、伺いを立てるように絵里へ視線をくれる。
了承の意味を込めて絵里が頷いた。
- 234 名前:Day Scanner 投稿日:2005/07/23(土) 21:40
- 里沙は自身の髪をいじりながら、言いにくそうに口を開いた。
「本物だと思う」
「え、ホント?」
「うん」
絵里がきょとんとする。言いにくそうにしている彼女の様子から、てっきり悪い話が
来るのだと思っていた。
もしかして、絵里が「怪しい」と言っていたから、逆の結論が出た事に後ろめたいものを
感じたんだろうか。
それなら取り越し苦労というものだ。なんだかんだ言っても、絵里はチャットに
現れたのが本人だったらいいなと願っていたのだから。
ホッとしたように笑う絵里に、里沙も戸惑いがちな微苦笑を返した。
ネットワークを切断し、パソコンの電源も落とす。タイミングよく予鈴が鳴ったので
絵里はその行動をもうすぐ教師がやってくるからだと勘違いした。
学校に電子機器を持ち込む事は禁止されている。
もっとも、大概の生徒が携帯電話程度ならバッグに入れているし、里沙のように私物の
パソコンを持ってきたり、小型のゲームウェアで休み時間とかに遊んでいる生徒もいる。
- 235 名前:Day Scanner 投稿日:2005/07/23(土) 21:40
- 絵里は軽い足取りで自分の席に戻り、それからは隣の席の友人と話したりしていた。
彼女の中ではもう、チャットの件は解決したものとして扱われているようだ。
その様子を横目にしながら、里沙は溜息をついた。
――――絵里ちゃん、『本物』の意味わかってないんだろうなぁ。
つい先日、そういう話をしたばかりなのに。
「本物はない」と断言した里沙が、あえて『本物』という単語を使ったその意味を、
絵里はきっと理解できていないのだろう。
現実を電子データに変換した時点で、全ては贋物に変わるという自論を披露した里沙が、
『本物』と評するそれは、つまり。
現実にないもの。『嘘』の存在証明。さかしまのリアル。
それに、絵里はさっきの言葉をチャットに現れた『彼女』についてのものだと
判断したようだが、里沙はそんな風には言っていない。
絵里から目を逸らし、もう一度溜息をついた。
- 236 名前:Day Scanner 投稿日:2005/07/23(土) 21:41
- ――――本物と贋物、か。
確固として存在する、『本当のこと』を知った時、
絵里は『彼女』を本物と言うだろうか。
それとも、贋物だと言い切るのだろうか。
つまり、彼女が何を真とし、何をもって偽とするか、という問題なのだが。
いずれにせよ、里沙は真実を暴き立てていい気になるつもりはない。
ただひっそりと、素直な人柄である友人が、早めに飽きてくれる事を祈るばかりだった。
興味がなくなれば、ショックも少なくなるだろう。
好きなものほど、失った時の衝撃は激しいものだから。
よく使われる言い回しだが、『好き』の反対語は『無関心』なのである。
これ以上傷つきたくはない故の自己防衛本能だ。里沙はそれに文句をつける気は
さらさら無い。
裏切られたと憤るより、興味を失ってしまう方が、精神的には安定するだろうから。
――――目を覚ませ、てやつかねえ。
ちょっと見れば判るはずなのだが。連続的に見続けているから変化に気付かなかったのか。
実際、里沙がそういう結論を見出せる程度なのだから、ウェブ上では同じ意見が
我がもの顔で居座っていた。それを追い出そうとする逆の意見も大した勢力を持っていた。
- 237 名前:Day Scanner 投稿日:2005/07/23(土) 21:41
- 平行線なのだろう。
二つの線は交じり合う事もなく、途切れる事もなく、最も近くて遠い位置で伸び続け、
それは根本が消えない限り続くだろう。
誰もが己の正義を信じて、誰もが誰かを傷つけて、誰もが何かを求めていて、
誰も彼もがそれを必要だと判じて疑わないのだろう。
――――ねえ絵里ちゃん、そんなの、本物でも贋物でもいいじゃん。
現実をもっとよく見るべきだ、と里沙は絵里に対して思っていた。
里沙にとってパソコンはただの機械であり、道具であり、ネットワークは距離の短縮に
すぎず(時は金なり。そして距離なり。今や時間は金で買えるのだ)、それらを使って
世界中で空想しているにすぎない。
ヴァーチャルという言葉が浸透して久しい。
つまりは仮想ということだ。仮初めの時間と空間とコミュニケーションがあるだけだ。
そこには確かなものなど無く、リンクは切れている。
さっき見ていたサイトのタイトルを思い出し、里沙は皮肉げに微笑った。
『Missing』。
その通り、ヴァーチャルは紛失と消失と途切れた鎖で出来ている。
- 238 名前:Day Scanner 投稿日:2005/07/23(土) 21:41
- 絵里を見るとよく判る。
れいなという友人と、彼女は確かに繋がっている。名前を知り、顔を知り、声を知り、
確固として『絵里の友人のれいな』は存在しているはずなのに、今、その存在証明を
行う手段は失われていた。
携帯電話の番号は紛失され、れいなという人間が存在する証拠は消失し、二人の間に
あるはずのリンクは切れている。
そんな、ミッシングと、ミッシングリンクで出来ている。
絵里が顔をしかめた掲示板についても同じことだ。
誰も彼も名前を持たず、個々の区別はなく、誰かが言うべきことは誰かが言うし、
誰かが調べるべきことは誰かが調べる。その結果は誰かが一瞬の「リンク」を作り、
誰かがそこに繋がるが、それが誰かはわからない。
名のない、実体のないものの集合だった。
それはつまり「無」ということである。不在がいくら集まったところで、不在であることに
変わりはない。
実体はすべてネットワークの外にある。
ごまかしのきかない真実が外側に集約されているのだから、どれだけ内側に入り込んでも
不在の証明しかできることがない。
- 239 名前:Day Scanner 投稿日:2005/07/23(土) 21:41
- 里沙はそれらを理解していた。
だからこそ、ヴァーチャルに取り込まれることなく、それに精通していった。
――――そんなのは現実には勝てないよ。
仮想に勝つ手段などいくらでもあった。
それはとても簡単な手段だった。
そう例えば。
里沙は頬杖を外し、右手で左腕を掴んでみた。
右手に左腕の、左腕に右手の感触が伝わり、体温が通い、里沙の身体はいびつな輪を作る。
こんな風に、手を、繋いでみるとか。
- 240 名前:Day Scanner 投稿日:2005/07/23(土) 21:42
-
14回目終了。
グダグダ書いてるあたりは、技術的な話ではなく、概念的なものです。
考慮しなければならないものをサクッと無視してたりするので、あんまり深く考えないで
ください……。
ついでに、正しくは「疑わしきは罰せず」だと思います。
- 241 名前:Day Scanner 投稿日:2005/07/23(土) 21:42
- レスありがとうございます。
>>230
わーい引っかかった(嘘)
二重、なるほど。
- 242 名前:Day Scanner 投稿日:2005/07/23(土) 21:42
- ではまた次回。
- 243 名前:円 投稿日:2005/07/23(土) 21:43
- 名前欄、変え忘れた……_| ̄|○
- 244 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 00:37
- 最近、ネットにおける意見交換について色々考えることがあったので、今回のは
そういう意味でもすごく興味深いものでした。そういう考え方もあるんだな、と。
まだまだ先が読めなくて、次がとても楽しみです。
- 245 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 06:39
- 何か元ネタとかあるんですかね?
オリジナルだとしたら、すごいですね!
スケールのでかい話になりそう!
- 246 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 07:05
- >>245
ageんなよ
つか失礼くないかい?
本物…奥が深いです
ガキさんかっけー
- 247 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/26(火) 22:28
- ああ、すみませんageてましたね・・・^^;
以後、気をつけます。
- 248 名前:MOON TIME 投稿日:2005/07/31(日) 20:16
- 「うわぁー……」
「すげー……」
客室係に案内されて、部屋に足を踏み入れた途端、れいなと吉澤は圧倒されたように
ぽかんと口を開けてその場に立ち尽くした。
「こちらが館内の案内図となっております。フロントへは内線9番でダイレクトコールが
出来ます。朝食は二階のレストランで七時より利用可能です」
二人の様子に微かな苦笑を洩らしながら、客室係の女性がテキパキと説明する。
「あ、は、はい」何度も小刻みに頷く吉澤の上着の裾を、れいなはずっと握っている。
タクシーで乗り付け、その巨大さに怖気づきながらフロントでチェックインを済ませ、
案内されたのは当然スイートルームである。しかも最上階。
客室係が出て行ってから、吉澤は早速カーテンを開けて外の景色を眺めた。
「すっげー! ちょっと見なよRay、この辺で一番高けーよ、ここ!」
「あー、そっすねー」
馬鹿と煙はなんとやら。れいなはむしろ内装の方に興味を引かれたので、生返事で
済ませて部屋の中を検分し始めた。
- 249 名前:MOON TIME 投稿日:2005/07/31(日) 20:17
- ベッドは二つ。一つがセミダブルくらいの大きさである。
家族旅行の時などは普通のツインルームで、れいなは子供だからという理由で
一回り小さいエクストラベッドに寝かされていたので、感動もひとしおだった。
ソファやテレビが置かれている方の部屋はゆったりと家具が配置され、ここだけで
一晩過ごせそうだ(そんな勿体無い事はしないが)。
しかもテレビがでかい。以前、電器屋さんで見た50インチのものがこれくらいだった。
自宅のリビングに置いてあるものが確か32インチだから、つまり……とにかく大きい。
次に、れいなはバスルームへ向かった。勿論トイレとは別付けになっている。
「おぉ、風呂が広いですよ吉澤さん!」
自宅の窮屈な浴室とは比べものにならない。湯舟はれいなならゆったりと足を伸ばせる
大きさだし(吉澤だとちょっと難しい)、それ以外の部分はシングルベッドが余裕で置ける。
吉澤がれいなの後ろから顔を出し、一直線にアレを探した。
- 250 名前:MOON TIME 投稿日:2005/07/31(日) 20:17
- 「おー! ちゃんとライオンじゃん!」
そう。給湯口のライオンである。素材は判らないが、重厚な質感で、ちょっと間違うと
趣味が悪くなりそうだがその他の調度といい感じに相まって、清潔な高級感を出していた。
吉澤はいっそ感動すら見える面持ちで、ライオンを眺めていた。
それから、ぐるりとバスルームを見回して、感嘆の息を吐く。
「ホントに広いなあ。二人一緒に入れそうじゃない?」
「あっはっは、じゃあ吉澤さんの背中流しますよ」
「うん、ひとつ頼むよ」
上機嫌に吉澤が頷く。
勿論、れいなは冗談で言ったのだ。
「……吉澤さん、本気にしないで下さいよ?」
「え?」
階段を一段踏み間違えたような表情で吉澤がれいなを見遣る。
彼女は、とことん冗談を冗談として受け取ってくれない。
れいなはその反応に少しばかり焦って、「いやいやいや」と首を振った。
- 251 名前:MOON TIME 投稿日:2005/07/31(日) 20:17
- 「シャレに決まってるじゃないですか。なんで吉澤さんと一緒にお風呂入んなきゃ
いけないんですか」
「え、あ、そうなの?」
「そう、ですよ。普通入らんでしょ」
身も心も引きながら、訝しげに眉を上げて応える。
どこかがおかしい。
ずっと感じていたことだが、吉澤はどこかチグハグだった。
最初は生真面目すぎて冗談を解さないのかと思っていたが、そういうのよりもっと、
次元の低い場所にチグハグの原因があるような気がした。
彼女は、ひょっとして。
『嘘』が、嫌いなんじゃないだろうか。
「なんだ。つまんね」
吉澤が拗ねたように呟いて、れいなの背中を軽く蹴った。
蹴られた箇所をさすり、バスルームのドアを閉める。機嫌を損ねたのかと心配したが、
彼女の表情は凪のままだった。ソファに埋まってテレビをつけている。
- 252 名前:MOON TIME 投稿日:2005/07/31(日) 20:18
- ここに来る前買ってきた缶ジュースを開け、地元局のローカル番組を見るともなく見る。
「Ray、本物の京都弁だぞ、京都弁」ジュースを持った手の人差し指で画面を指し示し、
吉澤は愉快そうに笑った。
「……はあ、京都弁ですねえ」
京都に来ているんだから当たり前だろうと思いながら、れいなは適当に相槌を打つ。
「どすえとか言わないのかな」
「ああいうのって、舞妓さんとかしか言わないんじゃないですかね。
ホテルの人もあんま訛ってなかったし」
「ふーん。じゃあ明日は舞妓さん見れるとこ行こう」
そんなにベタベタのお国言葉が聞きたいんだろうか。首をかしげ、吉澤の隣に座る。
テーブルに置かれたジュースを取り上げて口を開ける。行儀悪くソファの上で胡坐を
かくと、吉澤に膝をペチンと叩かれた。
素直に足を戻し、吉澤と一緒にテレビを見る。
- 253 名前:MOON TIME 投稿日:2005/07/31(日) 20:18
- 「……一緒に、お風呂入りましょうか」
「さっきシャレだって言っただろ。もう騙されてやんねえよ」
「本気ですって」
「なんで」
吉澤さんがあんまり寂しそうな顔したからですよ。
れいなはジュースを飲む動作で返答をキャンセルした。
迷子みたいなその顔に、同情のようなものを覚えたからだと、それを言うには
吉澤が弱すぎたし、れいなもそこまで強くなかった。
テレビを見ながら、吉澤はポケットからソフトキャンディを取り出した。
一粒取り出したはいいが、少しの間それを眺めて、結局もとに戻してしまった。
れいなは袋からジュースを取り出して一気飲みした。
カフッと小さく息をついて、また別の缶を取り出して開ける。
吉澤も己の分を勢い良く飲み始めた。
ゴッゴッゴ、と二人の喉が低く唸り続ける。
そのうち二人、競い合うようにジュースを喉の奥へ流し込んでいった。
炭酸の時はさすがに辛くてペースが落ちた。
何度か休憩を入れながら、二人は黙々とジュースを飲んでいた。
これを飲み終えたら風呂に入るのだと、言葉を交わすことなく二人は決めていた。
そこに特別なものは何もないのに、どうしてか二人とも、真剣な表情で、これから
死地に向かうような面持ちで、炭酸のせいで涙目になりながら、ジュースを飲んでいた。
- 254 名前:MOON TIME 投稿日:2005/07/31(日) 20:18
-
- 255 名前:MOON TIME 投稿日:2005/07/31(日) 20:18
- ちょっと恥ずかしかったので背中を向けて服を脱いだ。
吉澤は何も気にしていないようで、さっさと裸になってバスルームへ入っていった。
チラッと見えた曲線は綺麗だった。
「……お邪魔します」
備え付けのタオルで身体を隠しつつ中へ入る。
吉澤はかけ湯を終えてバスタブに浸かっていた。
「くはー」とか言いながら身体を沈ませている吉澤。おっさんくさい、と思った。
なんとなくコソコソしているれいなに、吉澤は眉を上げながら笑って、バスタブのお湯を
手でれいなにかけてきた。
「隠してんなよー」
「……や、一応」
何が一応なのか説明しろと言われたら困るが、とりあえず、一応、隠しながら
シャワーを浴びた。
- 256 名前:MOON TIME 投稿日:2005/07/31(日) 20:19
- 吉澤は不思議そうな顔で小首を傾げた。女同士なんだから恥ずかしがる事ないだろう、
という表情だ。
しかし、思春期真っ盛りのれいなとしては、例え同性であってもなんだか気恥ずかしい
ものがあるんである。
そもそも、吉澤自身が気恥ずかしさを増幅しているのだ。
延ばした手足はスラリと長く、背中の曲線は女性らしい柔らかさを持っていて、
しかも出るとこ出てて引っ込むとこ引っ込んでいる。
れいなはタオルで隠した起伏のない自分の身体に、がっくり肩を落とした。
「ひょろっちいなあ」
「ほっといて下さいよ」
「もっと食え」
「食ってるんですけどね」
身になって欲しいところにつかないんです。とは、情けなさ過ぎるので言わなかった。
吉澤が開けてくれたスペースに入り込む。ザブンとお湯が溢れた。
バスタブからすくったお湯で顔を流した。そのまま前髪を上げて、背中をもたせかける。
- 257 名前:MOON TIME 投稿日:2005/07/31(日) 20:19
- 「気持ちいいな」
「そうですねぇ」
「上がったら、ルームサービス頼んじゃおうよ」
「いいですねぇ」
「酒とか頼んじゃおうかな」
「飲めるんですか?」
「さあ。飲んだ事ないから」
珍しい話だった。アルコールなんて大概の未成年が経験しているだろうに。
うっとりと目を細めている吉澤の顔を、れいなは横目で観察する。
メイクもしていないのに綺麗なものだ。ちょっとほくろが多すぎるが大した問題ではない。
ウェーブがかかった髪は濡れてぺったりしている。
額が露わになって、そこから水滴が伝っていた。
その喋り口調や姿勢から、中世的というか男性的なような気がしていたが、
こうしてじっくり見てみると、なかなかどうして、なんともいえない女性の色気を
持っている。
身体も、なんというか、うん、やっぱり、結構……。
自分だって、あと数年したらあんなふうになる。のではないだろうか。
きっとなるはずだ。なったらいいな。
- 258 名前:MOON TIME 投稿日:2005/07/31(日) 20:19
- というようなことを考えていたら、頭をポンと叩かれた。
ハッと顔を上げるれいなに、吉澤は人懐こい笑みを見せた。
「Ray、頭洗ってやるよ」
「え? はあ」
バスタブから出て、吉澤に背を向けた形で座り、頭からシャワーを浴びせられる。
シャンプーが目に入らないように固く目を瞑っていると、トロリとした感触が頭皮に
伝わって、それからゆっくりと指先の気配が流れてきた。
長いから洗いにくいだろうと思ったが、吉澤は慣れた手つきでシャンプーをした。
「かゆいところございませんかー」
「ありまっせーん」
わしゃわしゃ洗われて、シャワーで泡を流される。お湯が入らないように耳を押さえられ、
れいなはくすぐったくて少しだけ笑った。
- 259 名前:MOON TIME 投稿日:2005/07/31(日) 20:19
- 吉澤の手がトリートメントをれいなの髪に馴染ませる。丁寧に、ゆっくりと。
美容室以外で誰かに髪を洗ってもらうなんて、親と一緒に入浴していた頃以来だ。
気持ちがよくて、れいなは俯いた顔を緩ませる。
今度はこっちが彼女の髪を洗ってあげよう。背中も流してあげよう。
そう思いながら、れいなは吉澤の感触を愉しんでいた。
二人の位置関係では、れいなに吉澤の顔は見えない。
だかられいなは、彼女が少しだけ懐かしそうな、同時に寂しそうな色を、その瞳に
浮かべている事を知らない。
触れている手が、哀しそうな熱を含んでいる事にも、気付かなかった。
- 260 名前:円 投稿日:2005/07/31(日) 20:20
-
15回目終了。
- 261 名前:円 投稿日:2005/07/31(日) 20:20
- レスありがとうございます。
>>244
自分もそのへんをウダウダ考えていて、なんとなく出してみた感じです。
>>245
前回分に関しては、特に元ネタはないですね。(全体的にはあるし、小ネタもいくつか
入ってますが)
>>246
ぶっちゃけ、かっこいいガキさんを書きたかっただk(ry
いや嘘です。ガキさんはある意味で重要な人物です。
もう出てこないけ(ry
- 262 名前:円 投稿日:2005/07/31(日) 20:20
- ではまた次回。
レスは基本sageでお願いしますが、間違って上げちゃってもあんまり
気にしなくていいですよ。
(自分もいちいち上げるのが面倒でsage更新してるだけなので)
- 263 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/31(日) 20:50
- お疲れ様です。
謎がいっぱいありますね。
この二人好きです。
- 264 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/01(月) 20:28
- 長い髪に懐かしそうな瞳…激しく気になるネタを振りまいてくれましたね
ムキムキしながら続きを待ってます
- 265 名前:嵐の海 投稿日:2005/08/05(金) 03:13
- 軽く助走をつけ、膝の屈伸でダイブ。
わずかに身を捻ることで、伸ばした両手からベッドへ飛び込んだ。
「ふっかふか!」
「騒ぐなって。近所迷惑」
「聞こえませんて。壁厚いですもん」
ベッドの上で跳ねる。柔らかいスプリングが軋む。
申し訳程度のマットを敷いただけの、自宅のベッドとは大違いだ。
しばらくぼわんぼわんやって、飽きたら枕の感触を楽しんで、そうしている間に吉澤は
フロントへ電話をかけてルームサービスを頼んでいた。
「Ray、なんか食いたいものある?」受話器を離して聞いてくる。
れいなはちょっとの間悩んで、「肉が食いたいです」と答えた。
吉澤は呆れた顔をしたが、律儀にメニューからサイコロステーキを見つけ出して
注文していた。
バスルームから出た二人は、備え付けの夜着に着替えていた。
羽織って腰紐を結ぶ形で、柔らかい布地のせいか、浴衣というよりガウンみたいな
見た目をしている。
その裾がめくれ上がらないよう気をつけながら、れいなはベッドの上を転がった。
ゴロンゴロンとベッドを往復していると、頭上からあきれた声が届いた。
「ガキ」
「ガキでーす」
20歳と比べたら、15歳はまだまだ子供である。
- 266 名前:嵐の海 投稿日:2005/08/05(金) 03:13
- 散らかしていた空き缶を片付け始める吉澤。やはり生真面目だった。
転がしていた身体を止め、ふかふかの枕を抱き込んで、犬の『おすわり』みたいな姿勢に
なったれいなが生真面目な背中に声をかける。
「吉澤さん、A型ですか?」
「いや、O型」
「おんなじだ」
そのわりに、たまに出てくる『片付けマン』のおかげで、なんとか足の踏み場を
確保している自分とはえらい違いだ。
血液型ひとつで人の全ては判断できないにせよ、その辺は似通ってもいいのになあと
れいなは思う。
抱えていた枕を元に戻し、吉澤の手伝いをするべくベッドを下りる。
一緒になってゴミをまとめていると、吉澤はれいなをねぎらうように頭を軽く撫でてきた。
片付け終わったところでルームサービスが届き、二人はテーブルにそれを並べる。
れいなのリクエストであるサイコロステーキと、クリームチーズが乗ったクラッカー、
籠に盛られたフライドポテトに、氷へ浸かったシャンパン。
「お酒だ」
「Rayも飲んでみる?」
「えー、いいんですかぁ」
れいなは遠慮する素振りを見せながら、期待に満ちた目でえへへと笑った。
飲酒喫煙と未成年は、切っても切れない絆があるのである。
- 267 名前:嵐の海 投稿日:2005/08/05(金) 03:14
- 空腹なうちに飲むと悪酔いすると言われ、れいなはまずステーキを食べ出した。
ナントカ牛とかご大層な名前がついているわけでもないのだろうが、それは適度に
柔らかく、ぎゅっと噛んだ途端口の中へ一気に肉汁が溢れ出た。
「うわ、肉汁がヤバいっ」
そういえば肉を口にするのは久し振りだ。吉澤は進んで肉類を摂るタイプではないらしく
(人生の半分を損しているとれいなは思う)、彼女から与えられる食事はパンやおにぎり
ばかりだった。
その彼女といえば、れいなの隣でゆったりとクラッカーをかじっている。
れいなもひとつ摘んでみたが、パサパサしていてそれ以上食べようとは思わなかった。
クリームチーズは甘くて美味しかったのだが。
こんなものばかりじゃエネルギーにならないだろうと、フォークにステーキを刺して
吉澤へ差し出した。彼女はそれを一瞥してから首を振った。
「食わんのですか?」
「太りやすいんだよ。こんな時間に肉とか食ったらやべーっしょ」
「え、あたし普通に夜中とか食いますよ」
「うん、お前はどんどん食え」
ひょろんとしたれいなの腕を取り、左右に振りながら、吉澤は言い含めるような口調で
答えた。
- 268 名前:嵐の海 投稿日:2005/08/05(金) 03:14
- 結局、ステーキは全てれいなの胃袋に収まり、フライドポテトも八割方がひょろんとした
身体の糧となった。油ものばかりだったのでちょっと胃が重い。
「じゃ、開けっか」
吉澤がシャンパンの栓を捻り、半分ほど引っ張り出した辺りで逆の手で栓を覆った。
れいなとしてはポンと飛ばしてほしかったのだが、床を汚してしまうので黙っていた。
軽い音と共にシャンパンが開けられる。シュウ、と気の抜ける小さな音が続いた。
グラスはひとつしかないので、れいなの分はインスタントのお茶を飲むためのカップへ
そそがれた。両手で受け取り匂いを嗅ぐ。甘い匂いの中に、少しだけ刺激の強い
アルコール臭が混じっていた。
「んでは、乾杯」
「かんぱーい」
ゆるやかにグラスとカップを合わせた後、ちびりと舐める程度のれいなをよそに、
吉澤は半分くらい入っていたシャンパンを一気に飲み干した。
その飲みっぷりにれいなは思わず目を瞠る。
- 269 名前:嵐の海 投稿日:2005/08/05(金) 03:14
- 「吉澤さん、一気なんかして大丈夫なんですか? 初めて飲むんですよね?」
「ん、わりと大丈夫。あんま苦くないし」
どこまでも平静に吉澤は頷き、手酌で二杯目をそそぐ。
実は酒豪なんだろうかと、れいなはその様子を感心の面持ちで見ている。
「けっこう美味いね」気に入ったのか、吉澤が上機嫌に言った。湯上りの火照りは
消えていたが、また別の赤みが彼女の頬に差す。
れいなはチビチビとシャンパンを舐めた。
うん、なんていうかコーラの方がいい。
二口分くらいしか減っていないカップをテーブルに戻した。
- 270 名前:嵐の海 投稿日:2005/08/05(金) 03:14
- 「ポカポカしてきた」
「アルコールまわってきたんですよ。ちょっとペース落とした方がよくないですか?」
「そうかも。うん、そうだな」
言いながら三杯目を空ける吉澤。全然納得してないじゃないかと呆れながら、れいなが
グラスを取り上げようと手を延ばす。
「取んなよー」
吉澤は拗ねた顔でそれを避け、れいなの頭をぺちっと叩いた。さっきは撫でてくれたのに。
「や、吉澤さん真っ赤になってますよ。ヤバいですって」
「頭ははっきりしてるから平気だよ。自分のことなんだから自分で判るって。
ヤバそうだったら止めるから」
確かに呂律も回っているし(むしろいつもより流暢なくらいだ)、視線が泳ぐような
こともない。顔が赤いだけで、他に酔っているような気配はなかった。
第一、れいなはどこまでいけば『ヤバい』のか判らないのだ。父親はほろ酔い程度で
晩酌を終えるし、母親は飲まない。
友人がアルコールを摂っているところも見た事がなかった。そういう空気の中には
入らないからだ。
- 271 名前:嵐の海 投稿日:2005/08/05(金) 03:15
- れいなが困っている間も、吉澤は調子よく杯を空けていく。
「サラリーマンとか仕事帰りに飲みに行くのって、なんか判るなあ。
ヤなこと全部忘れそう」
「はあ、そんなもんですか」
「細かいことがどうでもよくなるっていうかさあ。
――――このまんま、今の状態で、帰っちゃいたいなぁ……」
来たばかりで帰りたくなったのか。いくらなんでもホームシックには早すぎるだろう。
それに、あの殺風景な倉庫に帰ったって、何か面白い事や楽しい事があるとも思えない。
「帰りたい、なあ……」吉澤は僅かに潤んだ瞳を壁に向けて、もう一度呟いた。
れいなは首を捻るばかりだった。
結果として、シャンパンは四分の一を残して吉澤の体内へ流れ込んでいた。
一本空けるのは難しかったようで、グラスにそそいではみたものの、どうしても口を
つけられず、残った四分の一は哀れ、排水溝へと消えていった。
それから二人ともすぐにベッドへ入り、目を閉じた。
- 272 名前:嵐の海 投稿日:2005/08/05(金) 03:15
-
広いベッドに横たわり、旅の疲れもあってか深く眠っていたれいなだったが、
ふと目が覚めて枕にうずめていた顔を上げた。
訪れた生理現象と眠気が真っ向勝負でつばぜり合う。
ベッドから出るのは億劫だが、一度認識してしまうと無視して眠ろうと思っても
なかなかうまくいかない。
入浴前にジュースを飲みすぎたせいだろう。明らかに二人分をオーバーしているのに
大した時間もかからず飲みきってしまったのだから。
これは困った。ある意味で究極の選択である。選択なんて、どれも究極ではあるが。
シーツに地図を描くほど幼くはないものの、このままではもう一度寝入るのは
不可能に思われた。
しばらくベッドの中で身じろぎしていたが、結局れいなは諦めてトイレへ向かった。
個室に入り、ふか、と欠伸をする。
水を流してベッドに戻ると、入れ替わりに吉澤がトイレへ入っていった。
さっきの水音で起きてしまったんだろう。れいなは構わず毛布へ深く潜り、再度眠りの
体勢に入った。
ドアの向こうで水音が聞こえた。そっとドアが開き、吉澤が近づいてくる気配。
れいなの意識は沈みきるかどうかという瀬戸際にいる。
小さく、スプリングが軋んだ。
- 273 名前:嵐の海 投稿日:2005/08/05(金) 03:15
- 「――――?」
眠い目を片方だけ開け、れいなは訝しげに毛布から顔を出した。
「吉澤さん……?」
どういうわけか、吉澤はれいなのベッドに片手をついて、こちらを覗きこんでいた。
目が冴えて眠れなくなったんだろうか。自分に暇潰しの相手をしろという事か。
そうだとしたら面倒臭い。れいなは彼女の視線を遮るように、枕へ突っ伏した。
遠慮もなく、入り込んでくる手。這うような動きで肩に触れられ、れいなはさすがに
彼女の様子がおかしいと気付く。
「どしたんですか……?」
吉澤は無言だった。
「ちょ……吉澤さん!?」
こっちの方こそ目が冴えた。
吉澤の手が、腕が、脚が、腰が、胸が、肩が、全てが、れいなに触れる。
圧し掛かられ、れいなはじわりと浮かんでくる驚愕に目を見開いた。
- 274 名前:嵐の海 投稿日:2005/08/05(金) 03:16
- 「……お前さあ、もっと太った方がいいよ」
でないと、こういう時たのしくないだろ。
いっそ甘やかすような口調で、吉澤がれいなに囁く。
彼女が何を言っているのか、何をしようとしているのか、その事に、そうとしか思えない
現状に、れいなは身体を強張らせた。
「なんっ、冗談……」
「本気も本気」
押し退けようとするれいなの手首を吉澤が掴み、逆にベッドへと押し付ける。
体格差がありすぎる。体重をかけられ、れいなはそれ以上抵抗できない。
「立場忘れてた?」
低く冷たい、しかしやはり甘い声に、背筋を電気のような刺激が一気に上った。
- 275 名前:嵐の海 投稿日:2005/08/05(金) 03:16
- そうだ、彼女は、その気になれば自分をどうとでも出来るのだ。
今まではその気になっていなかっただけだ。
彼女は、れいなに対して乱暴な事がしたくて堪らないのだ。
今まではそれを抑えていただけだ。
どうしてそこまでのサディズムを抱くのか、れいなは知らない。
どうしてそこまでの抑制をするのか、れいなには皆目見当がつかない。
しかし、それらは多分、非常に危ういところで均衡を保っていたのだろう。
果たして、均衡を崩したのはなんだったのか。
アルコールだろうか。自分が起きた事だろうか。吉澤が起きた事だろうか。
そのどれでもあり、どれでもないのかもしれない。
つまり……『間が悪かった』というだけの事だ。全てが。
れいなは抵抗をした。吉澤はそれを押さえ込んだ。れいなは悲鳴のように声を張り上げた。
吉澤はその口を手で塞いだ。
厚い壁に阻まれて悲鳴は外に洩れない。他ならぬれいなが証明してみせた事だ。
- 276 名前:嵐の海 投稿日:2005/08/05(金) 03:16
- 吉澤の指が舌が唇がれいなの身体を這い回り引き絞られた悲痛な声がれいなの喉から
洩れるそばから吸い取られひょろんとした弾力の無い身体は固く緊張した中に誤魔化しの
きかない緩やかな涙をぬめる舌先が魔法のように拭い去るのは優しくもなく諦めにも似た
眼差しがどちらともなく絡みつく夜着の衣擦れは密やかな静寂を誘うのはお膳立てされた
悪夢にうなされながられいなの下腹部が焼き付く瞬間世界が崩壊する音を薙ぐ絶叫。
- 277 名前:嵐の海 投稿日:2005/08/05(金) 03:16
-
おやすみ、良い夢を。
- 278 名前:円 投稿日:2005/08/05(金) 03:17
-
16回目終了。
更新配分の調整のため、次回は週半ばに。
- 279 名前:円 投稿日:2005/08/05(金) 03:17
- レスありがとうございます。
>>263
謎っぽいけど実は謎じゃなくなってるものも、たくさんあります(笑)
好きって言ってくれてありがとうです。
そう言ってもらえた矢先に、こんな展開ですけどもorz
>>264
ああ、そこを気にしてもらえると、とても嬉しいです。
ムキムキ、いいですねムキムキ。
むしろムッキー!とさせてしまったような気もしますが(苦笑)
- 280 名前:円 投稿日:2005/08/05(金) 03:17
- ではまた次回。
- 281 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/05(金) 16:38
- これは…この先どうなるのか。
- 282 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/05(金) 20:47
- さ、最後の締めがいいー!!
- 283 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/06(土) 02:05
- やばい。すげー良い…
- 284 名前:名無しJ 投稿日:2005/08/08(月) 21:40
- …おや(ryどころじゃないっすよ先生!w
…ああ週末が待ち遠しい…
あ 今回は半ばか…
- 285 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/09(火) 19:26
- 最後、シアターっぽいですねぇ。うん。良い。
- 286 名前:HIDDEN PROTOCOL 投稿日:2005/08/10(水) 01:56
- 偶然にも梨華が美貴の家の方向へ用があると言うので、なんとなく流れで一緒に
帰り道を歩く事になった。
本当なら帰りの電車で借りた本を読もうと思っていたのだが、誰かといる時にそんな
無神経な真似は出来ず、美貴は続きを知りたい気持ちを抑えて梨華と話をしている。
「友達のうちがこっちにあってね」
「へえ」
「注文してたCDが届いたから、持ってってあげなきゃいけなくて」
「ふぅん。どんなの?」
話を広げるために、興味も無いCDのことを尋ねる。
梨華はバッグからシールが貼られただけのCDを取り出し、ジャケットを美貴に見せた。
最近人気が出てきたインディーズバンドのアルバムだそうで、あいにく、グループ名を
聞いても美貴は知らなかった。
「結構いいよ。トランスって知ってる? ちょっと前に流行った。
あれっぽい感じで」
「ああ、クラブとかでかかってるやつでしょ?」
「クラブとか行くの?」
「んー、たまに付き合いで」
本当に『付き合い』でしか行った事はない。元々、積極的に外へ出るタイプでもないのだ。
- 287 名前:HIDDEN PROTOCOL 投稿日:2005/08/10(水) 01:56
- 家で静かに読書をするか、映画を観るかしている方が色々と都合がいいし、自身としても
性に合っている。
しかし人付き合いをするうえで、最低限しておかなければならない類の事だった。
今こうして、梨華と一緒に電車に乗っているのと同じレベルの作業だ。
梨華がCDをバッグへ戻し、膝に置いて両手で支えた。
車内は空いていた。エアポケットのような時間なのか、座席はチラホラ埋まっているが
二人の周りには誰もいない。男性などは意識して二人の側を避けているようだ。
不用意に近づいて痴漢と思われたら困るのだろう。
バリアでも張っているような空間の中心で、梨華は始終嬉しそうにしているし、
美貴の方も涼やかな微笑みを浮かべて梨華へ向いている。
二人の間には拳ひとつ分ほどの隙間があった。その隙間は狭まる事も広がる事もなく、
ただひたすらに、一定の幅を保ちながら存在していた。
「そういえば、この前の映画さあ」
美貴が何気なく話題を持ち出す。
- 288 名前:HIDDEN PROTOCOL 投稿日:2005/08/10(水) 01:57
- 「なに?」
「なんであれ選んだの?」
美貴としてはカマをかけたつもりだった。
しかし梨華はきょとんとした眼で美貴を見つめ、「なんでって、面白そうだったから」と、
なんの他意も無く答えた。
肩透かしを食らい、美貴は仮面を外さないまま拍子抜けする。
ふむ、考えすぎだったのだろうか。あの映画には何か、彼女からのメッセージが
込められているんじゃないかと思っていたが、梨華は別に深いことなど考えていなかった
みたいだ。
ただ単に評判を聞いて観てみたくなっただけか。
「あ、美貴ちゃんの趣味じゃなかった?」
「ううん、面白かったよ」
「いっけないっ」とでも言いそうな、口に手を当てて不安そうな表情をする梨華に、
美貴は誤魔化すような笑みで首を振る。
女の子二人の友情物語だから、彼女が自分たちになぞらえているんじゃないか、なんて、
あまりに穿った見方だったろうか。
- 289 名前:HIDDEN PROTOCOL 投稿日:2005/08/10(水) 01:57
- 妙な警戒心を抱いていたことに、美貴は情けないような申し訳ないような気分になり、
表面に貼り付けていた、空間とは別のバリアを解く。
「原作も面白いんだって。今度読んでみよっかな」
「へー」
安心しきって、美貴は適当に相槌を打った。
梨華は両手を胸の前で組み、にっこりと天使のような笑みを浮かべて、美貴を真っ直ぐに
見つめてきた。
「あたしたちも、どっちかがピンチになったら何があっても助けに行くような友達に
なろうねっ」
あれ?
おかしい、今なにかおかしかった。
かなり空回っている台詞だったが、それはいつもの事だ。
そうじゃなくて。そうじゃないだろう。
そんな関係、美貴はまったく望んでいない。
彼女は何を期待しているというんだ?
- 290 名前:HIDDEN PROTOCOL 投稿日:2005/08/10(水) 01:57
- 「……あの、梨華ちゃん」
思わず呼びかけてから、美貴は己の失態に気付く。
ここは頷いておくべきだった。
適当に、「そうだね、梨華ちゃんに何かあったら美貴は必ず駆けつけるよっ」とか
話を合わせておけば済む話だった。
しかし、我慢できなかったのだ。「何があっても助けてみせる」のは、もう手一杯だ。
これ以上望まれたって、美貴の両手は空いていない。
失敗を取り返すことも、取り繕うこともできないまま、確かな焦燥感を感じたまま、
美貴は口を開いた。開いてしまった。
「梨華ちゃんさあ……」
「うん。なぁに?」
天使みたいに無邪気な笑みで、梨華は美貴の言葉を待っている。
- 291 名前:HIDDEN PROTOCOL 投稿日:2005/08/10(水) 01:57
- 突き落とすのか。また、無邪気に近寄ってきた無垢な存在を奈落へ突き落として、
手離して、罪を被って被害者面して、それでも健気に耐える自分に酔って。
繰り返すのか。そんな愚かな行いを。
「…………」
「美貴ちゃん?」
車内に人はいない。いるがいないと同じことだ。
美貴の目には誰も映り込まない。
彼女が自分を睨んでいる。
美貴が追い出した、突き放した、あの彼女がこっちを怒りに満ちた眼で睨んでいる!
――――繰り返すのか!!
- 292 名前:HIDDEN PROTOCOL 投稿日:2005/08/10(水) 01:58
- 美貴は恐怖より先に、その幻視をいとおしく思った。
幻想の中にあっても、彼女は相変わらず優しく、正義感が強く、何より……生真面目だ。
ゆらりと、崩れかけていた視野が正常に戻る。
さざめいた心が凪となり、それはここにいない彼女への愛しさで無理やり蓋をしただけ
だったけれど、今のところは十分だった。
剥がれかけた仮面を付け直し、美貴は幼子へ語りかけるような口調で梨華に問う。
「梨華ちゃん、ひょっとして美貴のこと好きなの?」
「え?」
またしても、梨華はきょとんとした眼をして、不思議そうに小首を傾げた。
「てゆっかあ、美貴ちゃんがあたしのこと好きなんじゃないの?」
「…………はい?」
予期せぬ返答に美貴の顔が歪む。どこをどう取ったらそうなるのか、美貴自身には
まったく理解できない。
一応、自身の言動を顧みたりしたが、やはり、問題はなかったように思えた。
- 293 名前:HIDDEN PROTOCOL 投稿日:2005/08/10(水) 01:58
- 「……なんで、とか聞いてもいい?」
「だってえ、よく声かけてくるし、あたしが困ってると助けてくれるし、ご飯誘ったら
断んないし、お泊まりとかしてくれるし」
おいおい、と美貴は心の中で梨華に裏手ツッコミを入れた。
それだけで判断されてもこっちとしては困ってしまう。
声をかけるのも、助けるのも、誘いを断らないのも、全て交友関係を丸く収めておく
ためだ。泊まったのだって睡魔に勝てなかっただけだし。
別におかしくはないだろう。それなりに付き合っていれば、そういうことが起きても
不思議はないはずだ。
そこまで都合よく受け取られても。
――――あ、そっか。
気付く。
彼女は友達がいない。少なくとも、女友達は。
そして多分、恋人はたくさんいる。少なくとも、相手はそう思っている。
つまり、彼女はとても厄介な性格をしている、ということだ。
突き落としてしまってもよかったかもしれない。
そうしたところで、おそらく、彼女はダメージを受けなかっただろう。
- 294 名前:HIDDEN PROTOCOL 投稿日:2005/08/10(水) 01:58
- 「いや、好きっていうかねえ……」
どう答えたものか迷い、美貴は曖昧に語尾を濁す。
梨華は相変わらず笑っていた。
「好きになってもらえるのは嬉しいよ。美貴ちゃんが好きになってくれたから、
あたしも美貴ちゃんを好きになれるし、話したり出来ると楽しいの」
「……はあ」
「だってそうじゃない? 自分のこと嫌いな人より、好きになってくれた人といた方が
自分の心も豊かになると思うんだ」
梨華が豊かなのは想像力のような気がする。
――――好きに、ねえ。
美貴は微妙な角度に首を曲げたまま、胸中で静かに溜息をつく。
それなら、自分の心はどんどん枯渇していくんだろう。
自分の事が嫌いどころか、見もしない相手と四六時中一緒にいて、報われる事がないと
知りながら側を離れない自分は、身体中から何かを垂れ流して乾いていくんだろう。
誰にも気付かれないまま、内側だけを干からびさせて、そうしていつかは崩れるのだろう。
それが罰だ。美貴が負った罰だ。
美貴が美貴に与えた罰だった。
- 295 名前:HIDDEN PROTOCOL 投稿日:2005/08/10(水) 01:58
- 「愛されるより愛したい、ってよく言うけど。
あれって嘘じゃないかなあと思うの。誰だって愛されたいって思ってるよ。
そうじゃなかったら、好きでいる意味ないじゃない」
「……そう、だね」
意味もなく、意義もなく彼女を、彼女たちを愛し続けている自分は。
きっと、どこかおかしいのだろう。
突き落としたくせに。追い出したくせに。
涙も出ないほど乾いてしまったのに。
「だから、あたしは美貴ちゃんが好きよ?」
ふんわりと、天使みたいに笑って梨華が言う。
天使だからといって、簡単に救いを求めたりはしないけれど、美貴は彼女の手を取って
しまいたくなる誘惑に包まれていた。
そうしたくないから、距離をおいていたのに。
彼女は、美貴の警戒心が張り巡らせた網をスルリと抜けて、複雑に編まれた思考の隙間に
スルリと入って、あっさりと侵蝕してみせた。
- 296 名前:HIDDEN PROTOCOL 投稿日:2005/08/10(水) 01:59
- 彼女はきっと何も考えていないだけだ。他の誰に対しても、こんな風にスルリスルリと
入り込んでしまうんだろう。
ただ、今まではスルリと入ったその先に何もなく、結果として空回りになってしまって
いただけで。
美貴の『そこ』には何かがあった。本来なら望む必要などない、当たり前に手に入る
ものを欲する心がそこにあった。
カラカラに乾いた心の、その中心にはひとつの願望があった。
望んではいけないと思っていた事だった。
望んでしまえば全てが崩れる。そう確信していた。
だからこそだ。
彼女の言葉は容易に『それ』を叶える力を持っていた。
美貴が、嘘という嘘を嘘つき続けて隠していた願望。
『誰か、ここから出して下さい。』
- 297 名前:円 投稿日:2005/08/10(水) 01:59
-
17回目終了。
- 298 名前:円 投稿日:2005/08/10(水) 01:59
- レスありがとうございます。
>>281
今回はわりと肩透かし風味で(笑)
>>282
実は『武○錬金』八巻ラスト手法です。
整合性よりノリを重視するこのアバウトさ。
>>283
確かにやばいです。まさかこの二人でこんなシーンを書く日が訪れようとは。
外しました。すみません。ありがとうございます。
>>284
予告どおり週半ばに更新してみました。
「先生」は勘弁したってください。そんなに偉くないので(苦笑)
>>285
おお、そうなんですか。
シアターは完結したら読みたいと思います。
- 299 名前:円 投稿日:2005/08/10(水) 02:00
- ではまた次回。
- 300 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/10(水) 08:07
- 更新乙です
だ、ダメだみきてぃ!堪えてくれぇ
よっちゃんとれーなが激しく気になります
あ、ごっちんも
- 301 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/10(水) 23:51
- 更新お疲れ様です。
段々と彼女達の内面が浮き彫りにされてきましたね。
続きを楽しみにしています。
- 302 名前:konkon 投稿日:2005/08/11(木) 01:16
- ミキティ・・・一体どうなってしまうのでしょうか?
れいなの方も気になりますね。
彼女達の繋がりがどうなっていくのか楽しみです。
- 303 名前:残骸の舟 投稿日:2005/08/13(土) 07:04
- 「……最悪、最低」
ベッドに横たわった姿勢で、れいなは何度も毒づいている。
吉澤は続き間のソファでミネラルウォータを飲みながら、気まずい顔をしていた。
酔った勢いとかで彼女が覚えていなかったら今より悪い事態だったが、あの様子を見るに
ちゃんと記憶は残っているようだった。
事が済んだ後、吉澤はすぐに自分のベッドへ戻って寝てしまった。
れいなは身体中の痛みと屈辱感でなかなか寝つけなかったが、それでも夜が明ける頃に
浅い睡眠を取って、昨日のうちにフロントへ頼んでいたモーニングコールで起こされた。
吉澤も同じ時間に起きて、それから一度もれいなと眼を合わせない。
会話もなかった。逃げるように向こうの部屋へ行ってしまって、れいなの恨み言も
聞こえないふりをしている。
「……は、初めてだったんですよ!?」
小声ながら、はっきり吉澤へ向けて告げると、彼女の肩がピクリと動いた。
しかしそれ以上のリアクションはなく、テレビをつけると順番にチャンネルを回し始める。
れいなはその背中をじっとりと睨んでいたが、後ろからでは吉澤も気付かないのだろう、
それとも気配を感じてはいるが無視しているのか。反応はない。
- 304 名前:残骸の舟 投稿日:2005/08/13(土) 07:05
- このままではチェックアウトの時間まで何も変わらないだろう。
れいなは吉澤を睨んで、吉澤はテレビを注視したまま、時間だけが過ぎていく。
仕方なく、れいなはベッドから脱け出して夜着を肩から落とし、下腹部の異物感に
顔をしかめながら普段着に身を包むと、ゆっくり歩いて吉澤の隣に腰を下ろした。
吉澤はソファに深く凭れ、テレビから目を離さない。
「……吉澤さん」
「………………」
「どういうつもりなんですか」
吉澤は答えない。神経質そうな手つきで、ミネラルウォータのキャップを開けたり
閉めたりしている。はっきりと動揺していた。
れいなはソファに踵を乗せ、体育座りの格好になって膝へ顎を乗せた。
横目で吉澤の緊張した頬を見遣る。唇が乾いていた。
「吉澤さんて、『そういう人』なんですか」
「……違う」
「じゃ、なんで」
キャップを閉めたミネラルウォータをテーブルに置き、言い訳をするように唇を尖らせ、
吉澤がちらりとこっちを見てくる。
- 305 名前:残骸の舟 投稿日:2005/08/13(土) 07:05
- 「……パスタが好きだからって、うどんを食わない理由にはなんないでしょ」
「は?」
突然の比喩にれいなが眉を上げた。
「どういう意味ですか」
「だから、どっちでもよかったんだよ、別に」
「どっちも好きって事ですか?」
それは選択の幅が広くていいと思うべきなのか、節操が無いと呆れるべきなのか。
れいなは判断に迷っていたが、吉澤は否定の意味を込めて首を振ってきた。
「そうじゃなくて……」
言いにくそうに声を詰まらせ、困った顔で下を向く。
「どっちも駄目っていうか……」今度はさっきと真逆の事を言ってきた。
前々から思っていたが、彼女はその場その場で思いついた言葉をそのまま出して
しまうから、発言の矛盾が目立つ。しかし、彼女にとってそのどれもが嘘ではないのだ。
適切な言葉を見つけられないから、一見矛盾しているように感じるだけで、ちゃんと
聞いていけばそのうち彼女が本当に言いたかった事を理解できる。
れいなも最初のうちは戸惑っていたが、この数日間で随分学習した。
- 306 名前:残骸の舟 投稿日:2005/08/13(土) 07:05
- 「ヤマアラシのジレンマって知ってる?」
「ああ、ヤマアラシは自分の針で相手を傷つけちゃうし、自分も傷ついちゃうから
密着して温め合う事ができない、とかいう話ですよね」
「うん。
でもヤマアラシだって、普通のネズミとだったらくっつけるんだよ」
「……はあ」
つまり、れいなは『普通のネズミ』だと言いたいのか。
心外である。どちらかといえば猫っぽいと評価される事が多いのに。
説明終わり、とでも言うように、吉澤が立ち上がった。
ベッドサイドのテーブルへ向かい、引き出しから聖書を持ち出して、れいなの隣に
戻ってから真ん中あたりのページを開いた。
どこのホテルにも、と言えるほど利用した事はないのだが、少なくともれいなが宿泊した
ホテルには全て、サイズや装丁は違えど聖書が置いてあって、どうしてこんなものを
置いておくんだろうと毎回首を傾げる。どうせなら漫画でも置いていた方が楽しめるのに。
吉澤だって、単純に読むものが他にないから持ってきただけだろう。
彼女はどう見てもクリスマスにパーティーをして正月には初詣をするタイプだ。
- 307 名前:残骸の舟 投稿日:2005/08/13(土) 07:05
- もしかして、今だけ、ちょっと神様というものに頼りたくなったのだろうか。
救いを、求めたかったんだろうか。
「……ねえ、吉澤さん」
「あん?」
れいなは口を開けたが、一度閉じて聞こうとした事を押し戻し、代わりに別の質問を
吉澤に投げた。
「面白いですか?」
「いや別に。大体、聖書って面白がるもんじゃなくない?」
「そりゃそうですけど」
「こういうのは、ありがたがって読まなきゃなんないんだよ」
「んじゃ吉澤さん、今ありがたがってます?」
「そうでもない」
くっくと笑い、吉澤が聖書を閉じる。「つまんないな」不信心にもそう呟き、目の前の
テーブルにそっと置いた。
「今日は旅館に泊まってみたいな。温泉とか」
「あー、いいですねえ」
- 308 名前:残骸の舟 投稿日:2005/08/13(土) 07:06
- 長袖のシャツに隠れた身体を意識しながら、れいなは合わせるように相槌を打った。
昨夜、ひどく抵抗したせいか、れいなの手足にはいくつも青痣が出来ている。
吉澤に殴られたというわけではない。強く押さえつけられたり、暴れた拍子に壁に
ぶつけたりしたせいだ。
表には出していないが、実は今もけっこう痛い。
ここらでひとつ、湯治としゃれこむのもいいかもしれない。
「あっ、その前に八つ橋ですよ」
「ああ! そうだった!」
れいなに言われ、大仰に反応する吉澤。いそいそと、短期間で随分くたびれた
ガイドブックを取り出し、チェックを入れておいた店の住所を地図で探し始める。
「このバナナおたべって食ってみたいなあ」
「いや、まず普通の食いましょうよ」
変り種ばかりチェックしている吉澤に、れいなは苦笑混じりに突っ込んだ。
- 309 名前:残骸の舟 投稿日:2005/08/13(土) 07:06
- ガイドブックを見れば、バナナ以外にもイチゴやチョコなどが包まれたものが
写真つきで載っている。
れいなが以前食べたのはニッキとか抹茶とか、なんとなく渋いものばかりだったのに、
いやはや、時代は変わったものだ。
これなら美味しく食べられるかもしれない。さくらおたべというのは春だけなのか、
残念だなあとか口に出さずに独白する。
隣の吉澤もワクワクしてるみたいだった。
ちらりと時計を見る。それと同時にチェックアウトの時間を思い出して、十分に時間が
ある事を確認した。
「吉澤さん、支度する前にシャワー浴びてきたらどうです?」
「え?」
「昨日、汗かいたし」
そこで吉澤は棒を飲み込んだような顔になった。
絵里の真似をしてにんまり笑い、れいなはガイドブックを見るために近づけていた
身体を起こす。
- 310 名前:残骸の舟 投稿日:2005/08/13(土) 07:06
- 「八つ橋で忘れないで下さいね。あたし、まだ許したわけじゃないんで」
こういう事を言っても、彼女が激昂しない自信があった。
彼女が昂ぶるのはれいなが反抗した時だけだ。こちらから先に手を出せば、彼女はそれを
素直に受ける。
そっちの方が傷つくと、知らないわけでもないだろうに。
「……わーったよ」
親に叱られた幼子のように、れいなから目を逸らし、吉澤は拗ねた様子で頷く。
吉澤が洗面用具を持ってバスルームへ消えた後、れいなはソファに寄りかかり、
半分くらい瞼を下ろした。
「……ヤマアラシ、ねえ」
それが彼女の矛盾の秘密だろうか。
身体を覆うトゲトゲと、その内にある柔らかさという、相反した二つがそのまま彼女の
表面に浮き出されて、これまでれいなが受けた痛みと心地良さに直結しているのか。
- 311 名前:残骸の舟 投稿日:2005/08/13(土) 07:06
- 不思議に、身体の痛みとは違ってれいなの心は痛んでいなかった。
色々な仕打ちを受けているのに。言ってしまえば彼女がした事は傷害と強姦である。
それなのに、れいなはどうしても吉澤に対して恨みや憎しみを覚えられなかった。
彼女は無邪気ではなく、また、無垢でもない。
深く、底が見えないほど深い何かが潜んでいて、しかしそれはどこまでも透明だった。
ただ、深すぎてれいなの眼が追いつかないだけだった。
その見えないものがれいなに憎しみを抱かせず、そして、今以上の好意を持つ事も
許さなかった。
バスルームから水音がする。
れいなは膝を抱え、その音に聞き入った。
- 312 名前:残骸の舟 投稿日:2005/08/13(土) 07:07
- 「……別に、痛かったわけじゃないんですよ」
心は。
「……ちょっとだけ恐くて、そんで……悲しかっただけです」
心が。
彼女の例え話を聞いた時も。
「……誰なんですか……?」
お互いに傷つけ合ってしまう、もう一匹のヤマアラシ。
その誰かは、彼女の秘密を知っているのだろうか。
れいながヒントすら見つけられない、あの、いっそ泣きたくなるような温もりの秘密を。
- 313 名前:円 投稿日:2005/08/13(土) 07:07
-
18回目終了。
- 314 名前:円 投稿日:2005/08/13(土) 07:07
- レスありがとうございます。
>>300
はてさて、堪えきれるのかどうか。何を、とは言いませんが。
>>301
そうですねえ。それぞれ何かしらを内側に持ってます。
約一名、なにも考えてない人がいますけど(苦笑)
>>302
とりあえず、こっち側はこんな感じで。
- 315 名前:円 投稿日:2005/08/13(土) 07:07
- ではまた次回。
- 316 名前: 投稿日:2005/08/13(土) 23:57
- 更新乙です
れいながものごっついかっけー
よっちゃんはやっぱりヘタレなんですね(w
なんだか関連性なものが見えた気がしました
- 317 名前:ななしひとみ 投稿日:2005/08/16(火) 07:46
- 円さん、発見。
全部作品読ませていただいてます。
何回も読み返してます。
これもお気に入りに登録。
- 318 名前:ナ・カ・ヨ・シ 投稿日:2005/08/19(金) 19:05
- ――――いいお友達をさせていただいてます。
ワイドショーでよく聞く台詞を、美貴は口の中で転がしている。
とはいえ、この場合は本当に言葉通りの意味なのだが。
近場にある遊園地で、着ぐるみキャラクターと一緒に写真を撮ったりしつつ、美貴は
梨華が戻ってくるのを待っている。
こういう場所は嫌いじゃない。
人で溢れかえり、だからこそ誰もが必要以上に近づいてこない。
みんな自分たちの世界を作り上げていくのに忙しいのだ。他人の世界なんて
知った事ではない。
梨華は15分ほどで戻ってきた。両手にポップコーンのカップを持っている。
「お待たせっ。キャラメルとカレー、どっちがいい?」
これはまた、極端な選択肢である。甘いのと辛いの。せめて普通の塩味だったら無難な
センということで選べるのだが。
美貴は少しの間迷ってから、譲歩して「カレー」と答えた。梨華が尋ねながらチラチラと
キャラメルポップコーンのカップを見ていたからである。
それはここの定番とも言うべき人気フードだ。
- 319 名前:ナ・カ・ヨ・シ 投稿日:2005/08/19(金) 19:06
- カレー味のポップコーンを手渡され、その場で一口食べて見せる。
「辛い」「うそぉ」梨華が唇を尖らせながら美貴のポップコーンを一つまみ口に入れた。
「嘘つき。全然辛くないじゃない」
「キャラメルよりは辛いよ」
「当たり前だよっ。
しょうがないな、あたしのと半分こしてあげる」
ふふん、と偉そうに笑い、梨華は自分の手にあるカップを差し出した。
クルクル、クルクル、梨華はよく表情が変わる。
いつも一生懸命です。人に笑われたって構いません。
自分が信じてるからいいんです。ちょっと迷う時もあるけど、それでもいつでも
ポジティブに生きていきたいんです。
そうして選んだ選択に、後悔はありません。
彼女はどんな時であっても、そんなような事を全身で叫んでいる。
彼女のそんな姿勢が、羨ましくもあり、恨めしくもあり、呆れていながらちょっとだけ
好ましくも思っている美貴だった。
- 320 名前:ナ・カ・ヨ・シ 投稿日:2005/08/19(金) 19:06
- 梨華が美貴のポップコーンを奪って口の中に放り込んだ。
間髪入れず自分の分を食べる。「うええ」二つの味が混じり合った結果は芳しくなかった
らしく、情け無いくらい顔を歪めて呻く。
「なにやってんの?」
「一緒に食べたらどんな味になるかなって思って」
「まずいに決まってんじゃん、カレーとキャラメルなんか」
「食べてみたら美味しいかもしれないでしょぉ?」
「いや絶対まずいしそれ。てゆーか実際まずかったんでしょ」
早口で言うと、梨華は何故か嬉しそうな顔になった。
「ツッコミキティ!」
「は?」
「美貴ちゃんはいっつもあたしにツッコミ入れるから、キャッチフレーズ考えたの。
ツッコミのミと、美貴のミがかかってるんだよ。面白くない?」
別に面白くない。そんなので笑うのは梨華だけだ。今も笑っている。
そもそも、一昔前のアイドルじゃあるまいし、どうしてキャッチフレーズなんて
付けられないといけないのか。
そして後ろの「ティ」ってなんなんだ。
突っ込むポイントが多すぎて、美貴は逆に何も言えなくなってしまった。
- 321 名前:ナ・カ・ヨ・シ 投稿日:2005/08/19(金) 19:06
- 半ば呆然と、梨華を見つめる。不躾な視線に、梨華は「うふふっ」と笑声を洩らした。
「うわキモい! 『うふふっ』ってなんだよ、どっかの少女漫画かよっ」
「あ、またツッコミキティ!」
両手が空いていたら手を叩いて喜びそうな勢いで、その代わりということなのか
その場で何度も回転して見せながら、梨華は「キモい」と言われた笑い方を繰り返した。
なんだか、とても楽しそうだ。
彼女はどんなに下らないことでも、本当に楽しそうに笑う。
表情に、潤いがあった。
「……楽しそうだよね」
嘘をついてばかりいる、枯渇した自分が、とても矮小な存在のように思えて、
美貴は思わずなじるような口調で呟く。
梨華は気付いていないのか、表情を変える事なく頷いた。
「楽しいよ。美貴ちゃんと遊べるから」
なんの他意もなく。
丁度いい距離を保つためでも、無駄な諍いを起こさないためでも、とりあえず「いい奴」の
地位を得るためでもなく、相手に好かれようとしているわけでもなく、かといって
揶揄しているのとも違う。
それはただの笑みだった。
笑いたいから笑うだけの笑みだった。
- 322 名前:ナ・カ・ヨ・シ 投稿日:2005/08/19(金) 19:06
- 美貴は引きつり気味の、泣きそうな笑みを返す。
こんな風に、ただ相手を安心させるためだけの笑みしか浮かべる事が出来なくなったのは、
いつからだったろう。
「ねえ美貴ちゃん、今日は遅くなると困るのかな」
「え……、あ、そうだね。今日はちょっと」
「そっかあ」
特に残念がっている様子もなく、梨華は相槌を打つ。
彼女は何も知らない。知ろうともしていない。
ただ、美貴が自分を好きだと勘違いしていて、それを単純に喜んで、だから自分も
美貴を好きになって、休日には遊んで、バイト中におしゃべりをして、休憩の時は
共に食事を摂る。
それだけだった。梨華は美貴にそれ以上を求めていない。
二人の間にはそれ以上もそれ以下もなく、ああつまり、『友達』なのだ、本当に。
今はもう、単なるバイトの同僚とか、そんな気楽な関係は崩れてしまった。
暇があれば誘い、暇だったら受け、そうでなければ断り、一日に何度かメールを
送り合って、それは面倒になったら終わり、次の日にはまた始まっている。
シフトが合えば顔を合わせ、そうでなければ声を聞く事もなく、誰かに取られる心配も
なく、そもそもどちらも相手の何一つ所有してなどいない。
- 323 名前:ナ・カ・ヨ・シ 投稿日:2005/08/19(金) 19:07
- 痛みもなく、切なさもなく、問題はなく、混乱もなく、執着もなく、終着もなく、
癒着もなければ吸着もない。
それは二人という事だった。どこまでもひとつにならない二人だった。
厳然たるその事実は、乾いて枯れた美貴の心を、少しだけ潤していた。
同時に、厳然たるその事実は、美貴を確実に更なる罪へと導いていた。
梨華は何も知らない。
知らないのだ。
「パレード見てたら間に合わないかな」
問いに、美貴は隙間なく答える。
「大丈夫。別に予定が入ってるわけじゃないから」
「そう? あ、一緒に住んでる子?」
「ん、今日はご飯作って待ってるって言われてるんだ」
軽く肩を竦めながら頷いた。
映画の時のことを根に持っているのか、真希はやたらとしつこく、しかも嫌味ったらしく
言ってきていたのだ。
さすがにそれを無視はできない。
- 324 名前:ナ・カ・ヨ・シ 投稿日:2005/08/19(金) 19:07
- 「そっか。一人でご飯食べるのも寂しいしね」
真希を気遣うような声音の言葉に、美貴は無言で首肯した。
言葉が見つからなかったのだ。
忘れようとしたって忘れられない。
一人でいる彼女の事を。
美貴が一人にした彼女の事を。
「じゃ、とりあえず、これ食べちゃおっか。これくらいじゃ夜ご飯入らなくなったり
しないよね」
「へーきへーき、帰る頃には腹ペコになってるよ」
梨華に奪われ続けたせいで、彼女の分より減っているポップコーンに目を遣り、
それから彼女のポップコーンに手を伸ばした。
- 325 名前:ナ・カ・ヨ・シ 投稿日:2005/08/19(金) 19:07
-
- 326 名前:ナ・カ・ヨ・シ 投稿日:2005/08/19(金) 19:07
- 無事、パレードを前列で見るための整理券を手に入れた二人は、目の前で繰り広げられる
煌びやかな見世物に心奪われ、年甲斐もなく(と、美貴は後で思った)はしゃいで、
浮かれついでにマスコットキャラクターの頭部を模した帽子まで買って、揃ってそれを
頭に乗せていた。
「似合うー?」
「きもーい」
きゃらきゃら笑う美貴に梨華が頬を膨らませ、携帯電話のカメラ機能を鏡代わりにして
帽子の具合を確かめだした。
「可愛いじゃなーい」
「はいはーい。可愛いかわいい」
「やだ、すっごい適当」
梨華が腕を延ばしてきた。美貴は避けようともせず捕まえられる。
肩を組んで、梨華が構えている携帯電話のフレームを確かめながらピースサインをして、
「いちたすいちはー?」「にーっ」とか古臭い合図でシャッターを押す。
梨華の携帯電話には、こうして撮った画像がいくつも保存されていた。ポップコーンを
持って笑っている二人とか、アトラクションを降りた後の興奮冷めやらぬ二人とか、
さっきのパレードの様子とか。そして今、新たに一枚が加わった。
どれもこれも、楽しそうだった。
梨華も美貴も、楽しそうだった。
嘘みたいに。
まるで嘘みたいに、楽しそうな現実だった。
- 327 名前:ナ・カ・ヨ・シ 投稿日:2005/08/19(金) 19:07
- 「面白かったねー」
「うん、こんな遊んだの久し振り」
「また遊びに行きたいねっ」
「……うん、そうだね」
これ以上望んじゃいけないと、どこかで自分がブレーキをかける。
「今度はどこいこっか?」
「そうだねー……」
どこに行けるんだろう。
どこにでも行けるんだろう。
きっと、最初から美貴の脚に枷などなかったし、だからどこに行ったって構わなかった
はずなのだ。
梨華がいなくたって、美貴が決めてしまえば、それで済んだ話だったのだ。
だからきっと、美貴はそれを言い訳にしたいだけだ。
梨華の存在を本当より大きなものにして、「だからしょうがないんだよ」と彼女たちに
言い訳をしたいだけだったのだ。
- 328 名前:ナ・カ・ヨ・シ 投稿日:2005/08/19(金) 19:08
- 「……ねえ、梨華ちゃん」
「ん?」
「ホントはね、美貴って梨華ちゃんの友達になれる資格なんて無いんだよ」
梨華はきょとんとしていた。
マスコットキャラクターの帽子の下で、美貴は力なく笑っていて、それはどう見ても
自嘲だったのだが、梨華はその表情には言及しなかった。
「すごい酷いこととか、平気でしてるんだ。
すごく大事だったのに、大事なはずなのに、簡単に捨てちゃったり、自分が辛くなったら
戻ってきて欲しいって思ったり、逃げ出したくなったり」
「……そっかぁ」
「よっちゃんもごっちんも、美貴のこと怒らないんだ。
悪いのは美貴なのに、よっちゃんは自分のせいだって思ってるし、ごっちんは誰の事も
責めらんなくて歪んじゃった。二人が美貴を嫌いになってくれたら、全部うまくいく
はずだったのに」
どうしてこうなっちゃったんだろう。
梨華には判るはずもない事を、美貴はうわ言のように呟く。
それはただの懺悔だった。事情なんて知るはずのない神父に罪を告白して、無条件に
許しを請うように、ただ梨華を逃げ道にして今まで表に出せなかったものを無様に
吐き出しているだけだった。
- 329 名前:ナ・カ・ヨ・シ 投稿日:2005/08/19(金) 19:08
- 梨華は少し困ったような顔で、美貴の肩を優しく撫でていた。
「あのね、よく判らないんだけど」
戸惑いがちにかけられた声に、美貴が顔を上げる。
理解できていないながらも、なんとか理解しようとしている瞳があった。
「悪い事しちゃったなら、ごめんねって謝ればいいんじゃないかなあ……?」
優等生の模範解答みたいな言葉を受けて、美貴は小さく笑う。
そうできたらよかった。しかし、もう遅すぎた。
嘘という嘘を嘘つき続けて、もう美貴には本当の事が判らなくなってしまった。
開きかけた美貴の口が、突如鳴りだした携帯電話に邪魔されて閉じる。
- 330 名前:ナ・カ・ヨ・シ 投稿日:2005/08/19(金) 19:08
- 「ごめん」
梨華に断りを入れ、携帯電話を取り出す。
美貴の動きが止まった。
無意識に梨華の腕を掴む。梨華が痛みに少しだけ顔をしかめた。
恐る恐る、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『元気?』
その声に、美貴はその場に崩れ落ちた。
変わりようのない声と、こんな事態になってもまだこっちの身を案じる言葉に、
彼女のその優しさに、脳天をハンマーで殴られたような衝撃を感じていた。
……愛しくて愛しくて堪らない、その声に。
- 331 名前:円 投稿日:2005/08/19(金) 19:08
-
19回目終了。
- 332 名前:円 投稿日:2005/08/19(金) 19:08
- レスありがとうございます。
>>316
自分としても、小生意気な田中さんを書けて満足です。
吉澤さんはヘタレです。むしろヘタレは吉澤さんのためにある言葉とか(未確認)
>>317
ありがとうございます。読み返すたびに粗が見つかると思いますが、
何度も楽しんでいただけるなら、書き手としてこんなに喜ばしいことはありません。
- 333 名前:円 投稿日:2005/08/19(金) 19:09
- ではまた次回。
- 334 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/19(金) 20:26
- 更新乙です
あー、いいっすねぇ・・・
なにやら起こりそうなヨカーン
- 335 名前:名無しの吉オタ 投稿日:2005/08/23(火) 12:55
- 更新乙です。
いっきに読みました。
面白かったです。更新楽しみにしてます
- 336 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/24(水) 19:06
- ageちゃだめですよ。(でも、更新に気付けてたからちょっと感謝(ぇ
毎度毎度、円さんの作品に惹きこまれっぱなしです。
これからの展開にますます目が離せませんね。
次回の更新待ってます。
- 337 名前:ななしじぇい 投稿日:2005/08/26(金) 17:19
- 好きです(告白)w
- 338 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:44
- 京都に滞在して一週間が経つ頃、吉澤が「帰っか」とおもむろに言った。
「へ?」
すっかり吉澤の相手にも慣れたれいなだったが、あまりにも唐突過ぎたため、思わず
聞き返してしまった。
そもそも、温泉にゆったり浸かってくつろいでいる時に言う言葉でもないだろう。
吉澤は両肘を湯殿の縁に乗せ、露天の上に広がる空を見上げながら、「だから、帰っか」と
繰り返した。
「はあ、吉澤さんが帰りたいなら、別にいいですけど」
「なに、Rayはまだ帰りたくないの?」
「どっちでもいいです」
「もっと自分てもんを持とうぜー」
からかい混じりに言ってくる吉澤へ、れいなは小さく首を竦める。
身体中についていた痣はすっかり見えなくなっていた。
吉澤はそれを待っていたのかもしれない。
- 339 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:44
- 浴衣に着替えて部屋へ戻る。
すっかり夜具の整えられた室内で、れいなは布団へ寝転がり、吉澤の方は胡坐をかいた。
「なんで帰ろうと思ったんです?」
「八つ橋も食ったし、金もなくなったし。……まあ、頃合じゃないですかね」
「はあ」
確かに、軍資金だった27万8千円はかなり目減りし、というかほとんど底をついていた。
二人分の新幹線代を考えれば、そろそろ優雅に物見遊山というのも難しくなってくる。
れいなは両手で頬杖をついて、ガイドブックで自身を扇いでいる吉澤を見上げた。
「ねえねえ吉澤さん、なんで京都に来たかったんですか?」
「だから、八つ橋食いたかったんだって」
「嘘つかないで下さいよ。今時、全国の名産品はネットで買えますって」
「あー……」
ガイドブックで扇ぐ手を止めないまま、吉澤が喉で低く唸った。
胡坐を崩し、れいなに身体を向けて横になると、
「別に、大した理由があったわけじゃないんだよ」
固く糊付けされたガイドブックの角で顎をつつく。
れいなは生乾きの髪を気にしながら、吉澤をじっと見ていた。
- 340 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:44
- 「ただ……どっかに行ったら、なんか見つかるかもしれないと思ったんだ」
「なんか?」
「……なんかだよ」
「でも、どこに行っても自分なんか見つかりませんよ」
見透かすようなれいなの言葉に、吉澤が苦笑のような形を唇に乗せた。
「あはは」乾いた響きが届くと同時に、鈍いが尖った視線がれいなを貫く。
視線でなく物質だったら、鋭いナイフを突き立てられるより痛かっただろう。
「お前、ナマイキ」
「そうですか」
れいなは痛みに耐えながら応える。
おそらく、吉澤の方も痛がっているだろう。
ちょっと『痛いところ』を突きすぎたようだ。
吉澤はつまらなそうな顔をして、れいなから眼を逸らした。
「無気力無関心、なんにも興味ないような顔して実は独りになんのが嫌でしょうがない。
自分は何でも知ってるって顔して実はなんの経験もない。
頭でっかちのガキなんだよ、お前」
- 341 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:45
- 嘲笑のように言う吉澤に、れいなが不満を露わにする。
「し、知った風な口利かないで下さいよ」
「知ってんよ」
吉澤はごろりと寝転がり、腕枕をして目を閉じた。
逆にれいなは身体を起こし、吉澤の方へ近づいてその傍らへ座り込んだ。
「厭世的なのがカッコいいとでも思ってんだろ。一生懸命なのはカッコ悪いと思ってんだ」
吉澤が目を開け、真正面かられいなを見据えた。
「あたしはお前みたいなヤツが大ッ嫌いだ」
ピクリと、れいなの頬が引きつった。
今までの色々を全否定するような言葉だった。確かに、最初から友好的だったわけでは
ないが、大方は平和に過ごしていたのに。
第一、彼女にれいなの何が判るというのだ。たかだか二週間ちょっとの付き合いで、
そんな風に断じられるほど理解が深まったとでも言うのか。
厭世的なのがカッコいいと思っていて、一生懸命をカッコ悪いと思ってるだとか。
――――ああ。
その通りだとも。
- 342 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:45
- 流行りモノを追いかけるだけの連中をカッコ悪いと思っていた。
そのくせ、毎日インターネットで最新ニュースをチェックしていた。
スポーツに青春をかけているような、青臭い連中を馬鹿馬鹿しいと思っていた。
そのくせ、そういうのがなんとなくイイモノみたいに見えていた。
「お前みたいなヤツ、よく知ってるよ」
「……だからって」
『だからって』なんなのか、れいなは言えなかった。
その知り合いと一緒にするなと言うのは、自分は自分だと言うには、れいなは自己の
確立が曖昧なままだった。
「お前、ごっちんにも美貴にも似てる」
半ばうつ伏せるように身体を反転させ、吉澤は呟いた。
「ああ、そうだ……だからさらったんだ」
「え……?」
「懐かしかったから。三人でいる時みたいだったから」
うつ伏せているから、れいなには彼女の表情が見えない。
なんとなく泣いているような気がして、吉澤の肩を引っ張って起こそうとした。
- 343 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:45
- 「なんだよ」
顔を上げた吉澤は訝しげに眉をひそめていたが、泣いてるわけではなかった。
れいなはちょっとだけホッとして、吉澤から手を離した。
さりげなく、吉澤からわずかに距離を置いてから、れいなはもぞりと身を捩らせた。
「あの……。前に、その……したの、って」
「……うん」
「その人達の代わり、とかですか……?」
吉澤は答えにくそうだった。
枕を引き寄せて、それに顔を埋めるように頭を乗せ、地鳴りのような唸り声を上げる。
「ごっちんの代わり」
「……はあ」
「そうなんだよなー。結局そうなんだよ。
どんだけ離れてたって無理なんだよ。判ってたよ判ってんだよそんな事」
水泳の練習でもしているのかと思わせるバタ足を布団の上でしながら、吉澤は唸っている。
傍らでその様子をぼんやり見ながら、れいなは、だから帰りたいんだろうかと思った。
無理な事が判ったから、思い知ったから戻ろうと決めたんだろうか。
- 344 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:45
- 「お前見てるとムカつく。ごっちんみたいで、美貴みたいで。
あの二人のヤなとこ集めたみたいで苛々する。でもあの二人みたいでホッとする」
「言いたい放題ですね」
呆れた風に呟いたが、れいなはようやく合点がいっていた。
彼女の持つ暴力性と優しさの理由はそれだったのだろう。
どこの誰かは知らないが、彼女が大切に思っている誰かの嫌な部分とれいなが重なり、
耐え切れずに乱暴をするのと、大切な誰かと重なるから優しくするのが同時に訪れる。
れいなにしてみればいい迷惑だが、かといって吉澤を責める気にもならなかった。
腰を吉澤につけるような形で座りなおし、溜息をつく。
「吉澤さん、変なの」
「変か」
「そんな寂しいなら、その人達のとこに行けばいいじゃないですか」
「……ああ、そうだね」吉澤が消え入りそうな声で肯定し、身体を丸めた。
「なあ、Ray」
「なんですか」
「『Missing』って、まだあるの?」
ギクリとれいなの身体が強張る。
それは、二人の間でタブーになっている単語だった。
- 345 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:46
- 初めて出会った頃、吉澤の強い態度に『それ』を話題に出してはいけないとれいなは
察していたし、彼女の方も口にする事は一度もなかった。
しばらく迷い、れいなは微かに頷いた。
「ふぅん、まだあるのか……」
「あの、でも、最近はあんま更新してなくて」
「ああ……、ネタが無くなったんだよ、多分」
意味が判らず、吉澤の顔へ視軸を移す。
吉澤は「しょうのない奴だな」とでも言いたそうな顔で、鼻から息を洩らした。
おそらくその表情は、れいなに対するものではない。
腰の辺りを叩かれたので、れいなは少しだけ位置を移動し、場所を空けた。
ガシガシ頭を掻きながら上体を起こした吉澤は、一瞬だけ遠くを見つめ、「ふぅー」と
憂鬱な仕事に向かうサラリーマンみたいな溜息をついて、微かに口元を引きつらせた。
「あれの『よっすぃ』ってさ、どんな感じ?」
「どんなって……、こういう……」
これ以上明確な説明方法もないだろうと、れいなは目の前にいる人物を指差す。
「あはは、ふざけるなよ」吉澤がれいなの頭を掴み、指先に力を込めてきつく締め上げた。
「あだだだ!」
「髪の長さとかあるだろ」
「あ、えっと、このくらいで……」
アイアンクローを受けたまま、れいなが自身の肩辺りを手で示した。
- 346 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:46
- 「真っ直ぐで、ちょっと金髪っぽい……」
「やっぱそっか」
吉澤が手を離す。れいなは痛みにひんひん泣いた。
そうだ、れいなが初めに驚いたのもそこだったのだ。
『Missing』に載っている彼女の画像は、すべてストレートのロングヘアで、
れいなの髪もいくらかはそれを真似していた部分がある。
目の前にいる彼女と絶対的に違うのがそこだった。
だから、完全に同一視する事はなかったのだ。たとえ顔が同じでも。
「それさあ、二年くらい前のなんだよね」
「へ?」
「だから、『Missing』に載ってるヤツ。全部そうだよ」
「……なんで」
「そりゃあ、あたしがいなくなったからだよ。新しい画像なんて手に入らないっしょ」
吉澤はなんでもない事のように答えたが、れいなにとっては驚愕の新事実である。
「ええぇー?」思わず吉澤に詰め寄った。いったいどういう事だ。
「最初はあたしもやってたんだ。日記とか書いてて。Rayもメールくれたりしてただろ。
そういうの読んでたよ」
ニヤニヤした笑いの奥にからかいを見つけ、れいなは口をへの字にした。
初潮がどうとかいう話を思い出しているんだろう。
- 347 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:46
- 「そりゃまあ、遊びとしては面白かったよ。その頃、けっこう暇だったし。
けど……ごっちんが、変になってきてさ」
「変?」
「前にも言ったじゃん、あたし太りやすいんだよ。
で、いっぺんかなりキちゃった時があったんだよね。
こりゃやべーだろーとか美貴と話したりしてたんだけど、ごっちんだけ全然気にして
ないの」
自嘲気味に笑い、それから溜息。
「やばいよねってごっちんに言ったらさ、ごっちんは『何が?』って顔してるわけ。
『よっすぃはいっつもカッコいいよ』って、パソコンの中の『あたし』見ながら
言うわけ」
両手を広げ、視線をそれに落とす。
「よく判んないけど、写真に手ぇ入れて、細っこくした『あたし』見て、
カッコいいって言うわけ、ごっちんは」
さて問題です。
じゃあ、ここにいる『あたし』は誰でしょう?
自嘲みたいな笑顔のまま、吉澤は己の頬を指差して問う。
れいなは答えられない。
- 348 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:46
- 「美貴に、ごっちんから離れた方がいいって言われて、あたしはそうしたんだ。
美貴は落ち着いたら戻ってこいって言ってくれたけど、戻れなかった。
だって恐いじゃん、ごっちんが『向こうのあたし』のがいいって思ったまんまだったら、
あたしが戻ったって意味ないんだもん。
……あたしの居場所が、ホントになくなっちゃうんだよ」
独りになっちゃうんだ。
膝を抱え、蹲る吉澤。
呆けたような表情でそれを傍観しているれいな。
何度か目にした彼女の身体を思い出した。
とても綺麗だった。
憧れるくらい、綺麗だったのに。
「画像とか、全部昔のだよ。
日記だってあたしがごっちんに送ってたメール写してるだけなんだ。
ごっちんにとってはそれ全部『本物』なんだよ。全部」
「……ライブカメラ、とかは」
「ビデオに決まってんじゃん。美貴が初めてのバイト代で、ごっちんにデジカム買って
あげてさ、みんなして撮りまくってたから」
ネタがなくなった、というのはそういう意味か。
「……ピーターパンなんだよ」
- 349 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:47
- 年を取らない夢の国で、逃避して逃避して逃避して逃避した末に手にした幸福。
誕生日のメッセージは自分に宛てたものではなく、管理者である、夢の国を支配していた
ごっちんへ対する警鐘だったのか。
免罪符でもなんでもなかったのだ。
「大人にならなくてもいい」などと、彼女は一言も言っていなかった。
あれはやはり、言葉通り「恐くても大人にならなければいけない」と警告していたのだ。
それなら……。
れいなも、吉澤に付き合ってやる義理はない。
彼女はあまりにも矮小だ。
幻滅だ。あの神のごとく崇めていた、絶対で絶大で神話的で親和的な『よっすぃ』とは
似ても似つかない。
この『人』は……あまりにも、脆弱だ。
幻滅した。
幻は、滅びた。
- 350 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:47
- 「吉澤さん、帰った方がいいですよ」
のろのろと、吉澤が顔を上げる。
「帰るべきだと、思います」
「……だね」
吉澤が自分のバッグから携帯電話を取り出した。れいなのものではない。
彼女の私物だろう。今まで、それを使っている場面は一度も見た事がなかった。
ショートカットから番号を呼び出し、吉澤が誰かに電話をかける。
「……元気?」
覇気のない声だったが、それ以上に優しかった。
「今さ、京都に来てんのよ。うん、明日には帰る。
お土産は八つ橋でいいよね。……あんこだけじゃないから大丈夫。
バナナとかオススメ」
『バナナ!? なにそれあり得ないんだけど!』電話越しにそれだけ聞こえた。
吉澤が苦笑する。
- 351 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:47
- 「いや、わりと美味いんだよ。まあとりあえず買っていくから。
……ごっちんにも言っといて。
――――うん、そうだね。たぶんそういうことになると思う。
だから、美貴も自分の好きなようにしていいよ」
シーツの端をいじりながら、吉澤はしばらく無言でいた。
相手がなにか話しているんだろう。
何度か相槌を打ち、また口を開く。
「そうじゃないよ。間違ってたのはあたしたちの方なんだ。
気にしなくていいとは言えないけど、……気に病まないで」
通話を終え、携帯電話を折る吉澤の背中に、れいなはおずおずと声をかけた。
「……どうでした?」
「どうもこうもないよ。まあ、美貴はあたしに怒ってほしいみたいだから、
あんま強く言えないって感じだし」
「はあ」
「悪かったね、こんな事に付き合わせて」
「……別にいいですよ。旅行楽しかったし」
損得で計算すれば、損の方が多いような気もするが、取り繕うようにそう言った。
- 352 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:48
- 結局、彼女のぬくもりの秘密も判らず終いだったし、コツコツ貯めた27万8千円は
泡と消えたし、家出人のレッテルを貼られてしまったし、なんとなく、女の子として
大切なモノを失ってしまったような気がするし。
「……あ、ホントにいい事ない」
ずーんと沈むれいなの顔を、吉澤が覗きこんでくる。
それから、いい子いい子と頭を撫でられた。それくらいで救われるなら、最初から
落ち込んだりしていないのだが。
仏頂面を続けるれいなに、吉澤は苦笑をすると、れいなの身体を抱きこむように
腕を廻して、その背中を柔らかく叩いた。
ぺらぺらの布を通して伝わる熱が絡み着いてくる。
れいなは鼻先を彼女の肩に押しつけた。
「吉澤さんはあったかいですね」
「ん? 風呂上がりだからかな」
「……そっか」
これはただ、別物の温度が吉澤に染み込んでいるだけのものか。
なら……このぬくもりは、少なくとも今は、贋物なのか。
そうだとしたらきっと、ちょっとだけれいながもらってしまっても、構わないだろう。
- 353 名前:ダイジョブ 投稿日:2005/08/26(金) 20:48
- 音もなくれいなの腕が上がり、遠慮がちに彷徨って、吉澤の脇腹辺りに添えられた。
ただのネズミに針はなく、ヤマアラシも今は針を仕舞っていて、だからどちらの腕も
かすり傷ひとつ付かなかった。
「……Rayには、あたしのこと覚えててもらいたいな」
「え?」
「お前は、最初から最後まで、あたしを見ててくれたから」
その言葉に含まれたものを読み取ることができず、れいなは首を傾げてみせたが、
吉澤はふんわりと笑っただけで、それ以上の説明をしてくれなかった。
- 354 名前:円 投稿日:2005/08/26(金) 20:48
-
20回目終了。
- 355 名前:円 投稿日:2005/08/26(金) 20:48
- レスありがとうございます。
>>334
起こるどころか……という。
なんかいきなり進んでしまいました。
>>335
ありがとうございます。一気読みではさぞや目も疲れたことでしょう。
目薬ドゾー つ凸
>>336
やっぱり上げた方がいいですかね(苦笑)
ここから急転直下です。
>>337
イヤン(照) お、お友達からお願いします……(そっと手を取り)
- 356 名前:円 投稿日:2005/08/26(金) 20:48
- ではまた次回。
- 357 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/26(金) 23:07
- う、うわわなにやらヤバイ、自分の中でなにやらヤバイっすw
更新乙でした
- 358 名前:336 投稿日:2005/08/27(土) 01:45
- 更新お疲れ様です。
いやぁっ、すごいですね。もう、なにがすごいって、ねえ、何もかもですよ。
何もかもっ。この作品を読むと、人間ってムズイなあって思わされます。
独特の雰囲気、相変わらず好きです。 次回も楽しみにしてます。
わざわざ上げてもらって、ほんとすいませんっ。もちろん下げでもいいです。
いや、ほんと。気ぃ遣って頂いて。ありがたいです。
- 359 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/01(木) 06:28
- 更新お疲れ様です。
ずっと読んでいたのに、最後まで我慢しようと思っていたのに。
堪えきれずに初レスです(汗)
怖いよぉ……でも素敵です。
- 360 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:18
- 目覚めると、よっすぃが覗いていた。
真希は寝惚けまなこを擦りながら、パソコンデスクに突っ伏していた身体を起こした。
「んあぁ、おはよ」
「おはよ。ごっちん、最近無理しすぎじゃないの? ちょっと休んだ方がいいよ」
「大丈夫だよ」
伸びをして、背中の骨を鳴らしながら後ろを振り返る。
眠っているのだと思っていた美貴は、壁に寄りかかる形でベッドに座り込んで、
こちらを見ていた。
「あれ、美貴ちゃん起きてたんだ。珍しいねー、いつもはギリギリまで寝てるのに」
ほにゃほにゃした笑みを浮かべたが、対照的に美貴の表情は固い。
「ん?」問うように、小さく唇を曲げる真希へ届いた言葉は非情だった。
「美貴、ここを出るよ」
突然の申し出に、真希は笑みを消すのも忘れて、しかし戸惑いはしたから、なんとも
中途半端な引きつりだけが口元に残り、それを誤魔化すように口を開けた。
「なんで?」
「……さあ、なんでかな」
- 361 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:19
- 長く伸びた髪を無造作に下ろし、いつも出かける時の格好と変わらぬ姿で、美貴は傍らの
バッグを手に取る。
それは、いつも出かける時に持っていた物より、二回りほど大きなボストンバッグだった。
ポケットからソフトキャンディの包みを取り出し、一粒を真希へ渡した。
落とさないようにしっかり握りこませ、そのまま、彼女の額へキスをした。
「美貴ちゃん?」
こんなキスをされたのは初めてだった。
「美貴はごっちんを愛してる」
手を離し、呟く美貴の視線が、ふと遠くなった。
「でもごっちんは、いっこも美貴を愛してくれなかったね」
寂しそうな微笑と慈しむような視線。
真希は戸惑う。
「それが罰なら、それでもよかったんだけど。
違うんだもんね。ごっちんは、判ってないだけなんだもん」
「美貴ちゃん、なに言ってんの? ごとーが悪いの?」
「ううん、ごっちんは何も悪くないよ。でもホント……」
美貴が少しだけ視線を揺らす。
- 362 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:19
- 「気付いてほしかったよ、美貴がここにいる内に」
ソフトキャンディが手の中で温まっている。そのうち、溶け出してべたつくだろう。
真希が呆然としている間にも、美貴はドアを開けて、身体を半分外に出して、それでも
寂しそうに微笑っていて、慈しむような視線は真希を包み込んで。
パタンとドアが閉まる音と共に、それはあっさり消えた。
残された真希は状況が飲み込めず、助けを求めるようによっすぃへ目を遣って、
「どうしたのかねえ?」と問いかけた。
よっすぃもまた、困ったような顔で首を傾げている。
「あたし嫌われてたしなー」
「よっすぃのせいじゃないよ」
「そうかな?」
「そうともー」
手の中のソフトキャンディを口に放り、もごもご食べる。
- 363 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:19
- よっすぃはギクシャクした動きで両手を頭の後ろ側に回し、指を組んだ。
「まあでも、ごとおはよっすぃがいればそれでいいよ」
にっこりと、無垢な笑みを満面に広げて、真希はディスプレイに向かってそう言う。
ディスプレイの中にいる彼女は、大量の画像ファイルから最適の一枚を探し出すまでの
タイムラグののち、同じような笑い方をした。
肩に届くくらいの髪がブツブツと途切れながら揺れる。
処理速度が追いついていないのだ。やっぱりハード面の改良が必要だなと、真希は
ディスプレイを見ながら思う。
「よっすぃ、この前チャット入ったでしょ」
「うん。面白そうだったから」
「駄目だよー。よっすぃはそんな事しないんだから」
やんわりたしなめると、よっすぃはしゅんと頭を垂れた。
彼女にとって真希の言葉は絶対である。三原則なんて知らないが(真希も知らない)、
三つも守るべきものは必要ないのだ。
ただひとつ、真希の言う事に絶対服従していればいい。
それはとても簡単なことで、とても幸福なことだった。
- 364 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:19
- 「……もう行かない」
「そうしといてー。よっすぃにはかなりの権限あげてるけど、あんまり勝手しちゃ
駄目だかんね」
「判ったよ」
真希が「よし」と言うように頷いた。
これが幸福だと信じて疑わなかった。完璧な彼女が存在し、自分は望むままに彼女を
作り上げ、そうしてずっと、彼女と二人でいるのだ。
- 365 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:19
- ――――でもそれって、やっぱずっとひとりってことだよねえ。
そう、その通り。
- 366 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:20
-
- 367 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:20
- インタフォンを鳴らしてから、その必要はなかったなと美貴は苦笑をした。
迎えてくれた養母は、突然出て行って突然戻ってきた美貴に小言のひとつもこぼさず、
ただ「おかえり」とだけ告げた。
音信普通だったわけでもないし、週に何度か顔を見せてはいたので、それほど深刻に
受け止めてもいなかったんだろう。
単純に若いうちは色々経験していた方がいいと思っていたのかもしれない。
美貴は15になったばかりの頃、子供のいない老夫婦に引き取られた。
施設にいられるのは中学卒業までだったから、彼らがいなければ後ろ楯もなくひとりで
生きていかなければならないところだった。その点に関しては心底感謝している。
率直に言って、美貴は世渡りが上手かった。ついでに老夫婦は自分たちの年齢から
あまり幼すぎる子供では成人まで面倒を見きれるか判らないということで、ある程度
成長した子供を欲しがっていた。
美貴が気に入られたのは当然といえば当然だった。
夫婦は比較的裕福であり、高校を卒業してから定職にもつかないでいる美貴の事も
口うるさくは言わない。
ある意味、すべてがラッキーだったのだ。
運が良すぎて、美貴はあの二人を切り捨てられなかった。
- 368 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:20
- もっと逼迫した状況だったら、それを言い訳に彼女たちを見捨てる事が出来た。
しかし美貴には自由が与えられてしまった。だから、その分彼女たちに関して不自由で
いる事が出来た。
たった一年で家を出ると告げた時、笑って送り出せたはずがないのに。
どこまで不実を働けば気が済むのかと、美貴は内心で自分に唾を吐いた。
リビングで、養母はいそいそとお茶の準備をしている。
「丁度スコーンを焼いてたところだったの」
「ホント? お母さんのスコーン好きなんだ」
顔を出すたびにスコーンを出されていて、美貴はその度に大げさなほど喜んでいたから、
養母はすっかりそれが美貴の好物だと思っているようだった。
それは嘘ではなかったが、本当のところ、手を叩いて大喜びするほど好きなわけでもない。
けれど、養母の喜ぶ顔が見たいからそうするのも、本当だ。
- 369 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:20
- 「お仕事の方はどう?」
「うん、楽しいよ。仕事だからちゃんとやるとこはやってるけど。
おんなじバイトで梨華ちゃんっていう子がいてね、最近よく遊んでる」
養母が「あら」と顔を綻ばせた。
「初めてじゃないかしら、美貴ちゃんの口からひとみちゃんと真希ちゃん以外の
名前が出るの」
「そうだっけ? けっこう色んな子と遊んでるんだけどな」
「じゃあお母さんの覚え違いかしらね」
スコーンを頬張りながら、美貴は微妙な表情をした。
おそらく初めてだろう。話題になるほど深い付き合いをした友人などいなかったのだ。
だから自然、口にのぼるのはあの二人の事だけで、まあこれは、美貴の油断と言っても
いいかもしれない。
玄関の開く音が聞こえた。養母と揃って振り向くと、年のわりにはカジュアルな服装の
養父が入ってきて、美貴の姿を見止めると髭に隠れた口元を緩ませた。
「帰ってたのか」
「うん。ただいま」
「病気してないか?」
「大丈夫だよ」
養父は近所の互助会で将棋をさしてきたらしい。アマチュア何段とか、強いのかどうか
よく判らないランクの持ち主だが、だいたい勝ってくるので将棋の後は機嫌がいい。
- 370 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:20
- 美貴も以前、付き合って教えてもらった事があるが、ルールが難しすぎて諦めた。
それからはもっぱら、養父の暇潰しに詰め将棋の相手をするか、趣向を変えてオセロで
対戦したりするだけになっている。
専用のソファに落ち着いた養父が、軽く養母を手招いた。
「母さん、美貴が帰ってきたんだからアレだよ、焼肉の用意しないと」
こちらは正真正銘の好物である。
ピク、と美貴の耳が動いたが、ここで飛びつくのは二十歳にもなってちょっとないだろう。
スコーンをミルクティーで流し込みながら、じっと成り行きを見守る美貴だった。
「まだ三時ですよ。早すぎるんじゃありませんか」
「いや、予約とかしないといかんだろ。ほら、この前行った店にな、予約の」
「はいはい」
どっかり落ち着いた風に見せたいらしいが、どう見ても浮ついている。
そんな養父の様子に、養母とこっそり忍び笑いを交し合って、美貴は久し振りに味わう
安寧へと浸った。
- 371 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:20
- 自分がやれる事はなくなってしまった。
彼女が戻ってくるのなら、そこでなんらかの決着がつくのだろう。
それが破滅なのか、もっと違う帰結なのか、美貴には判らない。
できれば、彼女たちが救われたらいい。。
それだけを、今の美貴は望んでいた。
何も望まなかった美貴が、密やかに、心の奥底で願っていた真実だった。
だから、そう。
解放を。
――――よっすぃは納得すんのかな。
考えてみれば、彼女こそが最大の被害者だろう。
あの顔でカクカク動くのが、どうやっても好きにはなれなかったが、可哀想だと
思わなくもない。
デジタルの存在であり、そこに感情など無いと判ってはいるが、あんな風に人間の顔で、
合成されたデジタル音声とはいえ喋り、人と会話をする事が出来る――――つまり、
コミュニケーションが可能な存在というのは厄介だ。
- 372 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:21
- 実体のない、そう、幽霊みたいな存在のくせに、簡単な会話能力を持ち、学習もすれば
成長もする。所詮データでしかないものの、彼女は身体能力すら持ち合わせているのだ。
ついこの前も、リフティングが連続100回出来るようになったと喜んでいた。
全てデータの集合だと言ってしまえばそれまでだが、それでもなんとなく……。
美貴は別に、彼女が好きじゃないが、それでもやはり、あのディスプレイに住まう
彼女を『人間みたい』に捉えている。
犬や猫の前脚を『手』と呼ぶ思考によく似ている。
頭があり、腕を持ち、足を備え、中心には胴体。
そして言語(しかも厄介なことに日本語だ)を操ることが可能。
犬や猫より始末が悪い。
それは、自分と同じ構成だと錯覚することで生まれる感情だった。
美貴の心情としては絶対に認めたくない事ではあったが、実を言えば、真実を告白して
しまえば、彼女に親近感のようなものを抱いていた。
それは、同属嫌悪と酷似した感情だった。
- 373 名前:サイエンスの幽霊 投稿日:2005/09/02(金) 22:21
- 幼い頃から、あの二人と共に過ごしていた。
その間、時に親代わりとなり、またある時は姉のように振る舞い、場合によっては
妹のようにも子のようにもなった。
ただし、恋人にだけはなりえなかった。
それは絶対の存在があったからだ。オリジナルが確かにいるなら、代替品など必要ない。
彼女はその、美貴が絶対に代わりを出来なかった恋人の、代替品である。
身代わり同士、通じるものがあった。
一方通行ではあったけれど。
――――本物が戻ってきたら。
きっと、彼女は。
その役割を、終えるだろう。
美貴が家族ゲームから脱落したように。
彼女が、彼女にとっての終末を迎える時。
果たして、納得するのだろうか?
- 374 名前:円 投稿日:2005/09/02(金) 22:21
-
21回目終了。
- 375 名前:円 投稿日:2005/09/02(金) 22:21
- レスありがとうございます。
>>357
おおお落ち着いて!(自分が落ち着け)
>>358
いやぁ、ありがとうございます。
今後、上げるかどうかは気分で(笑)
>>359
恐がらなくて大丈夫ですよー。たぶん。
- 376 名前:円 投稿日:2005/09/02(金) 22:21
- ではまた次回。
- 377 名前:名無しJ 投稿日:2005/09/03(土) 22:22
- ドキドキです。
デジタルな彼女に(倒置法)
- 378 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:04
- れいなが眠っている隣で、吉澤は昔の事を思い出していた。
といっても、それほど遠い過去ではない。たかだか二年程度の過去だ。
真希がディスプレイの中と外の区別をつけられなくなり、美貴とほぼ同時期に気付いた
頃だった。
――――ごっちんのアレ、おかしいよ。
――――……そう、だね。
はす向かいに座り、苛々とした仕草で爪を噛む美貴を、どこか冷静に眺めていた。
真希はディスプレイの中を『実』としながら、同時に現実の吉澤を『真』と認識していた。
要はふたつ揃って初めて、彼女にとっての『真実』になるのであって、だからこそ、
彼女はスキンシップをよくとりたがった。
起きている時も、眠っている時も、自分が何をしていても、吉澤が何をしたがっていても、
吉澤が自分の側を離れることを許さなかったし、逆らうとヒステリックに喚いた。
電子データでは絶対に得られないものがあり、真希は無意識に現実の吉澤でそれを
補完していた。だから、吉澤はいなければならなかったのだ。いくら自分の理想と
離れた姿になっても。いくら理想の吉澤を作り出しても。
- 379 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:04
- 美貴が苦痛に顔を歪め、大きく嘆息する。
――――このまんまじゃ駄目だよ。
――――判ってるよ。
――――……よっちゃん、ここ出た方がいいと思う。
そこでピクリと吉澤の指が動いた。
美貴がそういった予想をするのは、ある意味で当然のことだった。
ずっと自分たちのことを考えてくれていた、馬鹿馬鹿しいほど大事にしてくれていた
美貴が、そんな簡単な方法を見つけ出せないはずがない。
吉澤も考えなかったわけではない。揃っているから『真実』になってしまうのであって、
どちらかが欠ければ真希はそれを虚構だと判ってくれるかもしれない。
しかし、どこまでもそれを認めず、他ならぬ真希自身が壊れてしまう危険性もあった。
そして、それ以前に、彼女と離れた自分が正常でいられる自信がなかった。
――――よっちゃんの気持ちも判るけど。ごっちんは美貴が守ってみせるよ。
だから、お願い。このままじゃ二人とも駄目になっちゃう。
守る、か。吉澤はその単語を口の中だけで転がし、苦笑と共に吐き出した。
出来るわけがない。所詮、自分たちを家族としてしか見れない美貴には、出来るはずが
ない芸当だった。
- 380 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:04
- 吉澤は曖昧に笑い、どうにか彼女のプライドを刺激しない返答をしようと考えたが、
結局はうまい言い方を見つけ出せずに、率直な言葉を吐いた。
――――無理だよ。
――――無理じゃない。
――――美貴にはわかんないんだ。
――――判らないから、最初から諦めたりしない。
素敵な回答だった。こうなったら彼女は絶対に自分の意見を覆さない。
彼女の表情は苦渋に満ちている。
真希の気持ちも、吉澤の想いも彼女は知っている。
そして、心はおろか、身体すら通じ合っていることも。
さすがに美貴がいる前でするなんて暴挙には出なかったが、どうしても雰囲気とかで
判ってしまうものだ。
だから彼女は苦痛を感じている。しかしそれを選ぶ。
愛し合ってるものたちを引き裂くなんて、とても悲劇的で……感動的だからだ。
前髪を吹き上げながら、吉澤は小さく頷く。
- 381 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:05
- ――――でも、もし美貴にとってあたしたちが重くなったら、すぐに投げ出して。
ごっちんと美貴、両方いなくなったらあたしは耐えられない。
――――そんなこと絶対にしない。
――――美貴のそういう嘘つきなとこ、あたし結構好きだよ。
やんわり笑って言ったら、美貴は不満そうな顔をしたが、反論はしなかった。
言ってしまえば美貴は偽善者だったのだが、その奥底で真実、正義みたいなものを
信じていた。
だから相手を傷つけないように嘘をついて、それが嘘とばれないように努力していたし、
嘘だと見抜かれた時はとことんまで自分を責めた。
一周まわって損な生き方だと吉澤は思っていた。
自分たちのように、嘘を疎んじて正直に己だけを愛していればよかったのに。
そうしたら、新しい家族と一緒に幸福な生き方ができたのに。
家族は二つもいらない。
連なっているのならともかく、全く別のコミュニティなら一つで十分だ。
そしてそのどちらもが贋物なら、少しでも説得力のある方を選ぶべきだったのだ。
過ごした時間の長さなど、他者が定めた契約の前にはなんの効力もない。
どうして素直にあっちを選んでくれなかったんだろう。
美貴の嘘つきなところは好きだったが、その点だけは納得しかねた。
そうしてくれたら、自分たちはなんの迷いもなく堕ちていけたのに。
いくら考えても、詮無いことではあるのだが。
- 382 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:05
- 月明かりだけの室内だが、吉澤の眼はすでに暗闇に順応している。
うっすら見えるれいなへ側寄り、その髪を撫でた。
判っていたことだ。どれだけ離れてみたって、それで元通りになるなんて事はないのだ。
真希に会いたいという気持ちは常にあった。離れてから一日だって、彼女の事を
思わない日はなかった。何をしていても思考は彼女に結びついた。
耐え切れなくて一度だけ顔を見に行ったことがあった。
こっそり、気付かれないように向かい側のビルから、窓と双眼鏡を挟んで彼女の姿を
覗き見した。
幸福そうだった。どこかへ出かけていたのか、美貴の姿は見えなかったが、
彼女はたったひとりで幸せに生きていた。
哀しかった。寂しかった。どうして、と思った。
どうしてそんなに幸せなの、どうして平気な顔をしてるの、どうして?
吉澤がいないのに。
理由は考えるまでもなかった。
彼女はまだ囚われていた。真実を見つけ出していなかった。
パソコンの前に陣取った真希はそこを動かなかった。
彼女は、時を止めたままだった。
吉澤がいないから。
- 383 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:05
- 絶望だった。そこで吉澤は初めて己がひとりであることを実感した。
辛くて苦しくて毎日泣いた。何日かに一度は啼いていた。
哀しくて寂しくて仕方が無かった。限界が訪れていた。
もうひとりでいるのは嫌だった。誰かにそばにいてほしかった。
だから、最後に自分のそばにいてくれる誰かを探しに、街へ出た。
誰でもよかったはずなのに、無気力そうな、大事なものを失って、今にも死んでしまい
そうな顔をした……。
吉澤が、真希にしてほしかった顔をしていた女の子を見つけた。
衝動的に連れ去っていた。どこの誰とも知らないのに、どう考えても犯罪行為なのに、
その子を彼女の代わりに助けようとしてしまうほど、己の心は切羽詰っていた。
直後は難しい事なんて考えていなかった。
死の恐怖を植えつけて、生への執着を思い出させて、判っていないらしい事を
理解させて、その子を助けたかった。
そうして、この子に自分のことを覚えていてほしかった。それが出来たら十分だった。
恐怖と共に深く記憶に刻み付けて、それで満足して、全てを終わらせるつもりだった。
- 384 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:05
- それがどういうわけか京都くんだりまで来て、普通に観光をして、清水寺で飛び降りる
こともなく、バナナおたべが意外に美味しかったとか発見して、そして、帰ろうとしている。
それでもやはり、吉澤の取るべき行動は変わらない。
この子のおかげで少しだけ予定が延びただけだ。
この子に刻み付けた記憶は、どれだけ有効なんだろう。
出来るだけ長ければいいなと願っていたが、それはさすがにエゴイズムが過ぎるだろうか。
手探りにソフトキャンディのパックを漁ったが、空になっていた。
「ヤマアラシ……か」
呟いて、小さく苦笑する。
本当に彼女とは、愚直なほど傷付け合っていた。
お互いに針を持っている事など気付きもしないまま、傷付けていたし傷付いていた。
丁度いい距離なんて存在しない。
『距離』が存在しているのなら、それは絶対に丁度良くなんてならない。
――――けど、いくらヤマアラシだっていっても、腹んとこには針なんてないよね。
そういう事だ。
- 385 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:05
-
- 386 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:06
- 帰りの車中、吉澤はやたら饒舌だった。眼に映るもの全てを語り、トンネルの中とか
目新しいものがない時は自分の思い出話をした。
思い出に現れるのは、「ごっちん」と「美貴」ばかりだった。それは他に友人がいないという
事ではなく、彼女の中で占める割合が殊更多いのだとれいなは思った。
「美貴はわりと、思ったことズバズバ言っちゃう感じでさ、でもごっちんはぼけっと
してるから、怒られてても気付かなかったりするんだよね」
「はあ」
「そんであたしが間に入ってくわけ。ごっちん、あたしに注意されるとめちゃくちゃ
ヘコむんだよ。なんてーの、あたし愛されてたからさー」
「そうなんですか」
「そうなんだよ。そりゃもう馬鹿馬鹿しいくらいにね。
でもごっちんが愛してたのは『理想のあたし』なわけ。よく言うだろ、付き合ってみて
『こんな人だとは思わなかった!』とか。でもごっちんは自分が思ってるあたしが
ホンモノなのよ。すごくない? もう自己愛の世界だよ」
「そうですねえ」
れいなにはごっちんの理屈がよく判った。
自分にとっても、やはり目の前の彼女は贋物なのだ。
『よっすぃ』はこんな風に自らのバックグラウンドをベラベラ喋ったりしないし、
年下のひょろっちい女の子に乱暴なことなんかしないし、もっと硬質で無機質だ。
本当に、全然違う。
どうやったらここまで異なれるのか不思議なくらいだ。
- 387 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:06
- 「まーアレだな。小学生の何パーセントだかが死んだ人間は生き返ると思ってるような
世の中だし、情報社会が生んだ黒い闇っていうの?」
「吉澤さん、適当に言ってるでしょ」
「うん」
相手にするのが面倒くさくなってきたので、れいなはキヨスクで買った漫画を開いて
読み始めた。
「そういえばあたし、青春みたいなモン経験してないなー。
Rayはどう? カレシとかいんの?」
「いません」
「そりゃもったいないだろー。せっかく可愛いんだし、ネットばっかやってないで
そういうお楽しみも経験したら? うん、恋はいいよ、恋は」
「恋で身を滅ぼす人もいますよ」
抑揚のない声で返事をすると、吉澤は「へっ」と鼻で笑った。
「身を滅ぼすような恋ができりゃあ上等でしょ」
「なんのメリットもないじゃないですか」
「うわ、かわいくないなー」
恋を損得で語るなよ、と不満げに言う吉澤へ、れいなは軽く眼を上げて呆れ顔を
してみせる。
- 388 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:06
- 「今時ハヤんないですよ、そういうの」
「流行り廃りでも語るなよ。やだねえ、経験もしてないくせにアタマだけで知ったような
こと言っちゃうお子様は」
「無理やり経験させられた事ならありますけど」
憮然とした表情で言い返すと、なんの事を言っているのか悟った吉澤が、なにかに
追い詰められたように身を引いた。
「ま……そりゃ、うん」ゴホゴホとわざとらしい咳をしてから、小声で取り繕うように
呟き、視線を落とす。
やっと静かになった、とれいなは溜息をついた。
- 389 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:06
- それからは大した会話もなく、東京駅に着いてから電車を乗り継ぎ、吉澤が暮らす
倉庫へ帰ってきた。
もちろん、「帰ってきた」のは吉澤だけであって、れいなにとってはここも途中なのだが。
「やっぱり我が家が一番だー」
鍵を開ける前からそんな事を言う吉澤に、れいなが忍び笑いを洩らした。
「……あれ?」
シリンダ錠に鍵を差し込んで、何度かガチャガチャやっていた吉澤が戸惑い気味に
ひとりごち、それから鍵を抜いてドアを開けた。
「あ、お帰り。遅かったね、どこで遊んでたんだよ」
中では知らない人がくつろいでいた。
小柄で髪が長く、甘めな声とは裏腹にその話し方はサバサバしている。
れいなは唖然としている吉澤とその人を交互に見比べた。
「……美貴」
「うん、美貴だよ。やだなー忘れちゃったの?」
からかいじみた笑みで答える彼女は、吉澤が何度も話題に出していた美貴らしい。
美貴は所在無げに立っているれいなを見つけると、訝しげに首を捻ったが、特に言及は
してこなかった。
- 390 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:07
- 「なんで中にいんの? 戸締りは確認したつもりだけど」
「よっちゃん、ここは誰の持ち物?」
「……美貴のお父さん」
「そう。というわけで、マスターキーはうちにあるんだな」
チャリと小さな音を立てて、美貴がポケットから出した鍵を摘みあげて見せてくる。
なるほど、持ち主の娘ならマスターキーを手に入れる事など簡単だろう。
れいなにはそれだけしか判らないが、吉澤はもうちょっと何かを悟ったようだった。
「帰ったんだ」
「うん。結局、よっちゃんの言う通りになっちゃったね」
「あたしは美貴のそういうとこ、好きだよ」
「美貴は大ッ嫌いなんだけど」
顔を歪めた不自然な微笑で美貴は言い、鍵をポケットに戻した。
「お土産」吉澤が八つ橋の箱を美貴へ投げる。
受け取った美貴は包装に書かれた説明を見て、苦笑みたいに唇を曲げた。
「美貴、あんことか苦手なんだって」
「お父さんとお母さんにあげなよ」
「どうせなら他のもんにしてくれたら良かったのに」
「美貴に嫌がらせすんのは、吉澤のアイデンティティですから」
「ヤなアイデンティティだな」
鼻から息を洩らし、申し訳程度の礼をして、美貴が立ち上がる。
- 391 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:07
- ゆっくりと歩み寄り、吉澤の腰に両腕を廻して抱きしめ、少しだけ背伸びをして
頬へキスをした。
吉澤は微かに辛そうな表情でそのキスを受け、返礼として同じように美貴の頬へ
唇を押し当てた。
れいなはアメリカ人みたいだなと思いながら、その光景を見ていた。
抱き合ったままの姿勢で、吉澤がそっと囁く。
「決めたの?」
「それ、美貴が聞くことだろ」
「覚悟がいるのは美貴だけでしょ」
れいなには全く意味の判らない会話だったが、彼女たちはそれで通じ合えるらしい。
美貴は小さく眉を歪め、「決めたよ」と掠れた声で答えて、吉澤から離れた。
生活感のない広々とした室内に、容姿の整った二人が対峙している図はよく似合った。
それ以外のすべては邪魔のような気がした。もちろん、れいな自身も。
だからそっとその場を離れようと、足を後ろへ下げたのだが、吉澤の腕が延びてきて
止められてしまった。
- 392 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:07
- 肩を抱きこまれ、少しだけ居心地悪くなりながら吉澤を見上げると、彼女は穏やかな
眼で美貴を見据えていて、対する美貴は表情のない、つるんとした瞳を吉澤に向けていた。
「その子は?」
「遅いよ」
「どうでもよかったんだもん」
はっきり言われてさすがに傷つく。初めから美貴はれいなを眼中に入れていなかった。
それくらいは判るが、一応、礼儀でも尋ねるものだろうし、そんなにはっきり言わない
ものだ。
吉澤は呆れたように苦笑して、抱き込んでいるれいなの肩を二回、優しく叩いた。
「見物人だよ、ただの」
彼女の言い草も随分なものだった。
内心でむくれていると、美貴は「ふぅん」と心底興味なさそうに呟いて、れいなに向かって
「ごめんね」と謝ってきた。
- 393 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:08
- 「よっちゃんが巻き込んじゃって」
「……いえ」
どちらかと言えば、れいなの方から首を突っ込んだのだ。
本当なら、今頃はとっくに家に帰っていたはずだったんだし。
「帰してあげなよ」
「もちろん帰すよ。もうちょっとしたらね」
「……よっちゃん?」
「丁度いいや。これからみんなでごっちんとこ行こっか。お土産渡さないと」
れいなの肩を包む手に、いつの間にか力がこもっていた。
気付かないくらいゆっくりと、痛みに意識が向く頃には脱け出せないほど強く。
美貴が訝しげに片目を細めている。吉澤の表情は変わらない。
感触としてはどこまでもソフトな、しかしその内側には確固とした強固さがある微笑で、
吉澤は美貴を見つめていた。
- 394 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:08
-
22回目終了。
- 395 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:08
- レスありがとうございます。
>>377
あー、デジタルな彼女ってなんか響きがカッコいいですね。
タイトルそれにすればよかったかなあ(笑)
- 396 名前:我が心の鷲よ月を奪うな 投稿日:2005/09/09(金) 21:08
- ではまた次回。
- 397 名前:円 投稿日:2005/09/09(金) 21:08
- また……_| ̄|○
- 398 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/09(金) 21:53
- うわぁ・・・
ヒャクマミピートゥーパー状態ですよ。
乙です
- 399 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/09(金) 21:57
- 更新乙です
なんか全てがかっけーですよ
れいながいると余計に大人に見える85年組の方々w
- 400 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/09(金) 22:05
- 乙です。
やばいしか言いようがないっす。
- 401 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2005/09/09(金) 23:41
- 続きが気になって眠れません!!
他のメンバーが出てくることはないんですかねえ?
- 402 名前:名無しJ 投稿日:2005/09/10(土) 10:56
- この先どうなるやら…!!
れいなの絡み、楽しみです。
- 403 名前:名無しさん 投稿日:2005/09/10(土) 22:16
- 続きが気になって朝も起きれません
- 404 名前:名無しの吉ヲタ 投稿日:2005/09/14(水) 17:31
- とても気になります。
更新楽しみに待ってます
- 405 名前:夢見る力に 投稿日:2005/09/16(金) 23:19
- 五箇所に設置されたカメラから、リアルタイムで送信されてくる映像データを、
よっすぃがつぶさに解析していく。
カメラのレンズは全て真希に向いており、多角的に捉えられた彼女の座標を計算し、
その姿勢、呼吸の規則などをデータとして蓄積していく。
それらこそが、よっすぃにとって真希を知っていくという事だった。
己がデータの集合体であるように、創造主でありマスターであり最愛の恋人である彼女も、
構成する全部がデータである。
真希は机に突っ伏して居眠りをしている。これまでの三時間で行った観察によれば、
特に体調を崩しているという事もない。ただ単純に眠っているだけだ。
しかし、こんな姿勢では腰や肩、枕になっている腕や首に負担がかかりすぎる。
よっすぃは真希を起こしてベッドへ行かせようと、自身の持つ機能を使って派手な
ビープ音を鳴らした。
「……ん――っ」
不機嫌を示す唸り声を上げ、真希が身体を起こす。
- 406 名前:夢見る力に 投稿日:2005/09/16(金) 23:19
- 「ごっちん、こんなとこで寝ちゃ駄目だよ。ちゃんとベッドに入んないと」
「……ん」
頷いたものの、真希はその場を動く気配がない。
よっすぃは言語ライブラリにアクセスし、彼女の状態を表す語句を探した。
――――怠惰? 胡乱? それらはちょっと表現として固すぎる。
もう少しくだけた感じの……『かったるい』、だろうか。
「かったるそうだね」
「ああ……うん、そっかな。いやかったるいわけでもないんだけど」
「あたしにはそれ以上適切な語句をサーチできなかったよ」
「サーチしなくていいよ」
しなくていい、と言われたので、よっすぃはライブラリへのインデクスサーチを
中断した。通常の、こちらに向けられた言葉を解析してからアクセスする方法へ戻す。
「なんだろ、寝てないわけじゃないんだけど。眠りが浅いのかな」
「睡眠中のごっちんの呼吸も反射速度も心拍数も、外見から測定できる範囲じゃ
目立った異常はないよ。
なんだったらプリントアウトしようか?」
「いらない」
「判った」
- 407 名前:夢見る力に 投稿日:2005/09/16(金) 23:19
- 真希は大きく伸びをして、凝った関節をコキコキ鳴らし、ディスプレイの中から
心配そうにこちらを見ているよっすぃへ無邪気な笑みを向けた。
「ありがと。よっすぃ」
「どういたしまして」
眠気覚ましにコーヒーを淹れる。インスタントの粉とポーション型のミルクを適当に
カップへ落として、電気ポットのお湯をそそぐだけだ。
お湯がぬるくなっていたせいでうまく溶けてくれなかった。真希は構わず小さな塊ごと
コーヒーを飲む。
今はまだ夕暮れにも早い。カーテンを閉め切っているので天気は判らないが、緩やかに
光が差し込んでいるので雲は厚くないだろう。
部屋の中はAV機器の放熱がこもっている。ぬるいコーヒーはその点では丁度いい。
「サーモグラフィでもあれば、もっとごっちんの事が判るんだけどな」
「え?」
よっすぃの独白に、真希はきょとんと動きを止めた。
初めて気がついたという顔だった。
サーモグラフィがどうという話ではない。よっすぃに体温関連の情報を与える事で
分析がより細かくなるとか、そんなことではなかった。
- 408 名前:夢見る力に 投稿日:2005/09/16(金) 23:20
- 確かに存在するはずなのに、真希の中から『それ』がごっそり抜け落ちていた。
知識としても、実感としても知っていたのに、どういうわけか、彼女にはその概念が
綺麗さっぱり消えていた。
大きな事故に遭った人が、ショックでその時の事を忘れてしまうとか、幼少期の辛い
経験や記憶に蓋をして封印してしまうとか、そういうものに近いのかもしれなかったが、
真希の場合はもっと簡単に言い切る事ができた。
切り捨てたのだ。
「もういらない」と捨ててしまって、それで何か困る事もなく、ずっと過ごしていた。
そう、多分、二年くらい。
美貴は捨ててしまったそれを拾って、何度も真希に押し付けていたが、真希はそれに
気付かないできてしまった。
真希が手元のカップに眼を落とす。
ぬるいコーヒー。
温みのないコーヒー。
室内に視線を廻らせた。
AV機器の放つ熱。美貴がいつも暑い暑いとぼやいていた。
そっと自身の額に手を当てる。
汗ひとつ浮かんでいなかった。
- 409 名前:夢見る力に 投稿日:2005/09/16(金) 23:20
- 「……あは」
真希の中で、何かに亀裂がひとつ走った。
「よっすぃ」
「どうしたの?」
幾分、気遣わしげな表情と口調を選び、よっすぃは応える。
真希の心拍数が多少上がっていた。珍しいことだ。珍しいとはつまり、異常事態である。
カップを置いた真希が、両腕で自らを抱きくるむ。
力なく開いた口は笑みを作っていたが、いやに自虐的だった。
「しくった。すっかりしくったよ」
「ごっちん、もっと判りやすく言って」
「いやー、これはまいったねえ。後藤、こんなに馬鹿だったかな。
最初から判ってるか、最後まで気付かないでいればよかったのに、
なんで気付いちゃったんだろ」
あはは、と真希の口から乾燥した笑声が連続的にこぼれ落ちた。
- 410 名前:夢見る力に 投稿日:2005/09/16(金) 23:21
- 「ごっちん、落ち着いて」
「落ち着いてるとも。落ち着きすぎてヤんなるくらいだよ」
「心拍数が上がってるし、呼吸も乱れてる。それを落ち着いてるとは言わないよ」
「うるさい!」
「あたしはスピーカの音量を上げてないよ」
「黙って」
よっすぃが発言を止めた。彼女にとって真希の命令は至上である。
しばらく、真希は自身を抱いたまま静止していた。色々な感情がない交ぜになった表情で、
二の腕部分を強く握り、視線の確かさは失われないもののひどく不安定になっていた。
よっすぃは彼女の異常を認識していたが、黙れという命令が解除されないので黙っていた。
やがて、小さくすぼめられた唇から細い息が吐き出され、解かれた手の片方が前髪を
かき上げた。
視線は相変わらず確かだが僅かに鋭い。
殴られて、それからどうしようかと計算している強者の表情だった。
- 411 名前:夢見る力に 投稿日:2005/09/16(金) 23:21
- 「……美貴ちゃんのせいか。ふぅん、なるほど」
頭の回転の速さは、時に可愛げがない。
ふてぶてしいオーラを全身から放出する真希に無邪気な笑みはなく、誰かを誘惑する
ような色めかした瞳で虚空を見つめている。
「やれやれだねぇ」
自身の奥底から、何度も届いていた忠告を無視しきれなくなったのか。
『なんの意味もない』という警鐘を鳴らし続けていたもう一人の真希を、いい加減
なんとかしなければならない時期が来ていた。
ぬるいどころかすっかり冷めたコーヒーを口に運ぶ。温度を感じる能力を取り戻した
真希にとって、それは不味かった。
「よっすぃ、美貴ちゃんから連絡とか来てない?」
指示を受け、よっすぃが転がっていたボールを蹴り上げ、メーラーを立ち上げた。
彼女を経由してアプリケーションを起動する時、そういうアニメーションを流すように
設定している。
- 412 名前:夢見る力に 投稿日:2005/09/16(金) 23:21
- 新着メールをチェックしたよっすぃが頷いた。
「昨日メールが届いてるよ。本文読もうか?」
「お願い」
「……『ごっちんへ。よっちゃんが帰ってきます。』」
「それだけ?」
「これだけ」
ふむ、と真希が小さく息を吐く。
「帰ってくる、ね」
眉を歪め、苦笑じみた呟きを落とした。
「どのツラ下げて、ってやつかな」
別段、真希は怒っているわけではなかった。
ただ理不尽を感じていただけだ。
それは漠然とした失望だった。
だからこその独白だったし、帰ってきた彼女と顔を合わせる必要を確信していた。
- 413 名前:夢見る力に 投稿日:2005/09/16(金) 23:21
- 「ごっちん、どうしたの?」
「ん? なにが?」
「顔がこわい」
思わず自身の頬を手のひらで撫でさすった。
それから、「こわい」というのが「恐い」なのか「強い」なのか考えたが、どちらにしても
大した違いはないだろう。
よっすぃに向かって大仰に肩を竦めてみせ、「こわい後藤は嫌い?」と意地の悪い
質問をする。
「嫌いなわけないじゃん。愛してるよ」
予想通りの、というか指示通りの返答が来る。「あはっ」むなしくて我知らず笑声が洩れた。
これほど無味乾燥な「愛してる」も、そうない。
ディスプレイの右下に視線を遣り、時刻を確認する。
美貴からのメールには日時の類は何もないが、多分今日中だろう。吉澤は几帳面な性格を
している。連絡してから時間を空ける事はない。
- 414 名前:夢見る力に 投稿日:2005/09/16(金) 23:22
- 真希は吉澤の所在を知らない。探す必要がなかったからだ。
真希にとっての『彼女』はここにいた。それでなんの不都合もなかった。
「美貴ちゃんにでも訊くか……」
面倒臭かった。夢を見ていた今までは、探すまでもなく現れてくれたのに。
微かな嘆息と共に椅子へ腰掛け、よっすぃのウィンドウを小さくしてから、
起動しっぱなしのメーラーを前面に持ってくる。
ウィンドウが縮小される時、よっすぃが「ぎゃー、狭い」と呻きながらウィンドウ枠を
支える仕草をした。
それは彼女一流のジョークだったのだが、真希は相手にしなかった。
- 415 名前:夢見る力に 投稿日:2005/09/16(金) 23:22
- 「ごめんくださーい。後藤さん、お届けものです」
新規メールを作成している途中、ドンドンとドアを叩く音に混じってそんな声が聞こえた。
インタフォンくらい鳴らすものだ。一体どこの無作法者だ。
それとも、そんな他人行儀な事はしなくていいと思っているのか。
真希がメーラーを終了させて立ち上がる。小さな窓の中からよっすぃが無表情に
眺めていた。
ドアを開けると、でかいのと中くらいのと小さいのが、でかいのを先頭に三角形を
取って立っていた。
真希は無言のまま静かに微笑し、真正面に立つ吉澤は悪戯坊主のような笑みを浮かべた。
- 416 名前:夢見る力に 投稿日:2005/09/16(金) 23:22
- 「やあごっちん。殺しに来たよ」
二人は同時に、無垢なほど破顔した。
- 417 名前:円 投稿日:2005/09/16(金) 23:22
-
23回目終了。
- 418 名前:円 投稿日:2005/09/16(金) 23:23
- レスありがとうございます。
>>398
言葉の意味はよくわかりませんが、大丈夫きっと大丈夫。
>>399
なんだかんだ言って、もう二十歳ですから。少しは大人っぽいとこを見せないと。
>>400
ありがとうございます。ナウなヤングにバカウケ!(退行してみました。NOT誤字)
>>401
他メンは出てきません。というか出す余地がありません(苦笑)
>>402
れいにゃ……れいにゃの絡みは……ゲフンゲフン。
>>403
そりゃ大変です。早めに寝てみるといいかもしれません。
>>404
ありがとうございます。一応、更新は一定ペースで。
- 419 名前:円 投稿日:2005/09/16(金) 23:23
- ではまた次回。
ライブラリアクセスのくだり、変なこと言ってますが気にしちゃ駄目です。
- 420 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/17(土) 00:13
- 更新乙です
ラストに向けて一直線って感じですね
ただならぬ気配になぜか鼻血が出てきた自分ですが止まらなくても最後までついていきますw
- 421 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/17(土) 06:44
- 更新お疲れ様です。
最後の台詞が…あーどうなるんだろ??
すっごい期待して待ってます。
- 422 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:13
- 不穏な発言に一瞬肝を冷やしたが、真希は普通に吉澤を迎え入れ、その吉澤に手招きを
されたので、れいなは「お邪魔します」の代わりに軽く頭を下げてから中へ入った。
最後に美貴が玄関へ進んでドアを閉め、鍵をかける。
物珍しいので、思わずキョロキョロと辺りを見回してしまう。
銀色の棒で組まれた無骨なラックに、れいなには何をするものなのか判らないような
機械がたくさん乗せられていた。ビデオデッキとか、DVDプレイヤとかも混じっている。
れいなは唖然として、そして全部合わせたらどれくらいの金額になるんだろうと、
現代っ子らしい俗物的な事を考えた。
「コーヒーでいいかな」
「いや、お構いなく」
「あっそ」
「ごめん、ちょうだい」
あっさり引いた彼女に吉澤が苦笑し、右手をひらめかせた。
「ちょっと待ってね、後藤のカップ洗ってくるから」
後藤というのは彼女自身のことだろう。自分のことを名字で呼ぶのも珍しいな、と
変な感想を抱く。
三人は部屋の中央に置かれているテーブルを囲んで座った。
れいなの隣には美貴が落ち着いていて、二人から少し離れたところに吉澤が
どっしり構えている。まるで自分の家にいるような雰囲気だ。
- 423 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:13
- 湯気の立つカップをトレイに載せた後藤が戻ってきて、それぞれの前に置いていく。
砂糖と粉タイプのミルクが入ったポットも一緒に置かれた。れいなは内心でほっとする。
申し訳程度のポーションとスティックシュガーだったらどうしようかと思った。
苦いからコーヒーは得意じゃない。
吉澤はブラックのまま飲んだが、れいなの隣に座っている美貴は、ポットから
何度もミルクと砂糖をすくってカップに入れていた。
なるほど、彼女のためか。
れいなも多少は遠慮しながら、しかし自分が飲めるギリギリの甘さになるまで
調節して、カップに口をつけた。
「よしこだけ来るのかと思ってたよ」
「一人じゃ寂しいでしょ」
「別に、そんなことないけど」
「ごっちんの話じゃないよ」
眼を伏せながら吉澤が言い、コーヒーで濡れた唇を親指で拭った。
「髪、切ったんだ」
「うん。かっけーっしょ」
「似合ってないよ」
やっぱり似合わないよなあと思いながら、れいなは心の中だけでうんうん頷く。
不満そうに吉澤が口を曲げ、「あっそーですか」と拗ねた口調で言い捨てた。
口だけじゃなく、へそも曲げてしまったらしい。
- 424 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:13
- 「久し振りだねえ、こうやって三人集まんの」
「まあね」
「なんか一人多いけど」
水を向けられたれいなは、驚いて少しだけむせてしまった。小さく咳をするのに、
美貴が背中を撫でて落ち着かせてくれる。
吉澤がコーヒーを飲み干し、斜めにれいなを見る。
「あんま気にしないで。こいつはただの見物人だから」
美貴に言ったのと同じ説明を、吉澤は後藤に向けてする。
まあ、確かにその通りではあるのだが、何となく引っかかる言い方だった。
『見物人』を、わざわざ用意する必要があるのだろうか?
背中を撫でていた手は、そのまま下がってれいなの腰辺りで止まっている。
さっきから言葉少ないが、美貴はさりげなく、れいなに気を遣っているようだった。
「パソコン見せてもらっていい?」
「駄目」
「ケチケチすんなよ」
後藤の制止も聞かず、吉澤がパソコンデスクに近づいて、まず本体からしげしげと
眺める。「一段とごっつくなっちゃって、まあ」どこか感心したように呟いて自身の
顎を撫でた。
- 425 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:13
- 「で……」
マウスを操作してウィンドウを呼び出す。
自分と同じ顔が現れて少しだけ口元を引きつらせたが、それは微笑で隠された。
「初めまして。なんとなく懐かしいけどね」
腰に手を当て、前屈みになっている姿勢はいっそ紳士的にすら見える。
喧嘩を売っているとしか思えない視線を覗けば、だが。
よっすぃは人当たりのいい笑顔で「初めまして」と応じていた。
「よしこ、勝手にさわんないでよ」
「別に変なことしないって。使い方判んないし」
言葉の証明という事なのか、吉澤はすぐにマウスから手を離して、ディスプレイに
背を向けた。
れいな達から見れば正面を向いた吉澤に、後藤が呆れ顔を差し向ける。
「あのさあ、よしこって神経細いけどたまに図太いよね」
「褒められてんのかな」
「けなしてんだよ」
もう、と膨れてみせた後藤が、立ち上がって吉澤と対峙する。
美貴と吉澤が向き合っていた時も思ったが、美形が並ぶとなかなかの迫力である。
れいなは何となく美貴に寄り添った。
- 426 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:14
- パソコンデスクに両手をついて、気だるげに身体を弛緩させている吉澤は、しかし、
まっすぐに後藤を見据える視線だけは揺らがせない。
「そろそろ思い知った?」
「微妙かな。ついさっき気付いたんだし」
「おせーよ」
「文句は美貴ちゃんに言って」
「人のせいにすんな」美貴が小声で苦々しく呟いたが、それには誰も反応しなかった。
れいなは訳が判らなかったし、あとの二人はそんな事どうでもいいらしかった。
「それじゃあ、自力で気付いたごっちんに、ご褒美でもあげよっかね」
両手を離し、吉澤が身体を伸ばす。
後藤へと歩み寄り、両手を緩く広げた。
視線だけは外れる事がない。
直線的に見つめ合ったまま、吉澤は後藤を抱擁した。
後藤の眉が少しだけ下がった。
二人とも苦行に耐える修験者みたいな表情になっていた。
ヤマアラシだ。れいなが内心で独白する。
もう一匹のヤマアラシは、きっと彼女だったんだ。
吉澤は、美貴に抱きしめられた時よりも、ずっと痛そうな顔をしている。
それでも、彼女たちの目にはお互いしか映っていないのだ。
- 427 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:14
- 痛い。
痛い。
痛い。
こんな愛情は、痛いだけで綺麗でもなんでもない。
れいなは、言動のおかしな知り合いを揶揄する時と同じ意味で、この二人を『痛い』と
思ったし、自虐なのか他虐なのか判別しにくい二人の愛情を気味が悪いと感じた。
顔をしかめるれいなに気付いて、美貴が宥めるように腰を叩いてくる。
視線を向けると、彼女は「入り込んじゃ駄目だよ」と真摯な口調で諭してきた。
「あの子たちの事は、本人にしかわかんない」
「……わかりたくもないです」
「冷静だね」
美貴は小さく笑い、「それでいいよ」と首肯した。
目の前の二人は、れいなが感じた『痛さ』の姿そのままに、息をひそめて抱き合っている。
「ねえよしこ。後藤はつまんなかったよ」
「ふん?」
「吉澤ひとみがいないと、後藤真希は退屈でしょうがない」
何かの宣言みたいに告げて、後藤は吉澤の背中に廻していた両手を腰へと下ろしていった。
- 428 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:14
- 一瞬、光が走って、れいなは眼球を通り過ぎた痛みのような感覚に思わず眼を瞑った。
目を閉じる直前に見ていたのは吉澤の凪みたいな微笑で、痛みが引いて視界が戻った後も
その残像がちらついていた。
そうだから少しの間、気付かなかったのだ。
煌いた光の正体がなんだったのか、どうして光が走ったのか。
目を開けた後に入ってきた光景がどういう意味だったのか。
「…………は……」
吉澤の口から熱の高い吐息が洩れて、ゆっくりと右手が腹部に移動して、それを眼で
追っていたれいながようやく事態を把握する。
「――――っ!」
漫画やドラマではこういう時、居合わせた誰かが悲鳴を上げるものだが、実際には
とてもじゃないが声なんて出せない。
吉澤の腹にナイフが突き立っていた。
他ならぬ彼女がいつも腰に提げていたものだ。大振りの、銀色に光るナイフ。
ナイフ。ナイフが。
いつも、彼女が肌身離さず持っていたナイフ!!
- 429 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:14
- 「――――吉澤さん!」
駆け寄ろうとしたら美貴に取り押さえられた。怒りに任せて怒鳴ろうとしたれいなを、
激しく首を振ることで美貴は制止する。
覚悟。彼女の表情はそれで満ち満ちていた。
強く押し留められ、れいなはきつく歯を食い縛って腰を下ろした。
気付いてしまったからだ。
あれは、そのために在ったものなのだ。
あのナイフが吉澤の腹を切り裂くために存在していたのなら、れいなにそれを否定する
権利など、どこにもない。
ゆるりと、ナイフが抜き取られる。
用済みになった鈍い金属は後藤の手から落ち、床に寝そべって静かに眠った。
吉澤は後藤に凭れかかるようにして、己の腹部を押さえている。
唇がわなないていた。元々白い顔がさらに白い。
それなのに。
その表情だけは、穏やかなのだった。
「……容赦ないなあ」
苦笑混じりに呟く。脂汗が顎を伝って落ちた。
- 430 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:14
- 後藤は吉澤を支えながら、幾分満足そうなニュアンスを込めて言う。
「これは後藤からの罰だよ。吉澤ひとみと後藤真希の約束を破った罰。
判るかなあ、後藤は怒ってるんだ。よしこがいなくなった事じゃないよ、
よしこが約束を破った事、そのものに対して怒ってるんだよ。
ねえよしこ、後藤は何回も言ったよね、嘘つかれるのが嫌いだって。
『ずっと一緒にいる』なんて最初っから守れるわけない、嘘だって判る嘘を
よしこがついた時、後藤と約束したよね。よしこだけは絶対に嘘つかないって。
だからよしこは後藤のとこにいなきゃいけなかった。それなのに――――」
言葉の途中で、吉澤が左手を使って後藤の口を塞ぐ。
そしてやおら真顔になり、後藤を睨みつけた。
- 431 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:15
- 「うるさい。愛してる」
血の気の失せた唇と、それに相反する強い言葉だった。
後藤は口を塞がれたまま、吉澤を見つめる双眸をすっと細めた。
- 432 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:15
- れいなは呆然と二人を見ていた。
なんて勝手な二人だ。なんていうエゴイズムだ。
後藤の行動も、吉澤の言葉も自分勝手すぎる。
勝手にお互いを傷つけて、勝手にお互いを愛して、勝手に満足しているだけだ。
それは……愛し合ってるくせに、己だけで一人相撲をとっているようなものだ。
吉澤が後藤から離れ、れいなに近づいてきた。
れいなは初めの頃みたいに逃げようと後退するが、美貴に当たって止められた。
ガタガタと身体が震えている。吐き気をもよおすような、うっそりとした匂いが
立ち込めていた。れいなは吉澤を異形のものみたいに感じていた。
理解ができなかった。今まで一緒にいた吉澤と、目の前に立つ彼女がうまく繋がって
くれなかった。
彼女が何をしようとしているのか予測もつかなかったが、そんなことより彼女の存在
そのものがれいなに恐怖を呼び起こさせていた。
「……くそ、思ってたより辛いわ」
吉澤が苦々しい呟きを洩らして、大きく息を吸い込む。
うまく呼吸が出来なくなっているのか。
腹部はすでに紅く染まっている。
- 433 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:15
- 及び腰になっているれいなの手前、簡単に触れられる位置に、吉澤が片膝をついた。
「Ray、お前にいっこ、現実を教えてやる」
腹を押さえていた右手が延ばされる。それもまた、真っ赤になっていて、独特の匂いが
ますます強く鼻について、れいなの恐怖が増大する。
硬直しているれいなの頬に吉澤の右手が押し付けられた。
紅くひどい匂いのねっとりした熱い液体がべったりとれいなの頬に塗りつけられて
鼻や口から否応なしに侵入してくる気配と手のひらから伝わるぬるぬるした感触が
気持ち悪くて熱くて熱くて熱くて熱い――――。
「――――ぁ……」
唐突にれいなは理解をした。
ずっと知りたいと思っていた事を知る事ができた。
彼女が持つ温もりの秘密が。
それは彼女だけが持っていたわけではなかった。
生きていれば誰もが持っているものだった。
そう、その、身体の内側を絶えず巡る真っ赤で熱い液体こそが。
『生身』であるという、それだけの事が。
- 434 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:15
- 「いきものは、怪我すりゃ血が出るんだ」
ニッ、と、自信満々な笑みを蒼白の顔に乗せ、吉澤が言った。
美貴に抱き寄せられ、何か柔らかいものが頬に当てられた。
タオルで血を拭ってくれているのだと、少しして気付いた。
「荒療治すぎるよ」
「美貴がいたからね」
「その何でもかんでも美貴に頼る癖、なんとかしてくんない?」
怒りを込めて美貴が告げる言葉に対して、吉澤は軽く眉を上げるだけの反応しか
見せなかった。
「あー、ちょっと辛いな……」
「ごっちん、膝貸して」その場にへたり込んだ吉澤が、甘えるように呼びかけて、
後藤が言われたとおり吉澤の頭を膝に乗せてやる。
吉澤の右手は腹部に戻っていた。
傷が深いのか、押さえた程度では出血が止まらず、指の隙間から生命の象徴は
流れ続けている。
「二人とも、もう帰っていいよ」
やっぱり自分勝手だ。吉澤の言葉にれいなは苛立ちに近いものを覚える。
れいなの表情を見とめたのか、吉澤が気まずげに手を振った。
- 435 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:16
- 「てゆっか、ごっちんと二人にして」
最後だから。吉澤が消え入りそうな声量で言った事が、れいなの耳にははっきりと
聞こえてしまって、そう言われたら逆らうわけにもいかず、美貴に手を引かれて
静かに腰を上げた。
玄関で靴を履いてから、どうしても気になって振り返る。
「吉澤さん、あたし、田中れいなっていうんです」
ずっと、贋物の名前で呼ばれていた事が、ちょっとだけ苦痛だった。
彼女は本当の事を教えてくれたから、全くの等価ではないだろうが、こっちも、彼女に
ひとつくらい、本当の事を知ってもらいたかった。
吉澤は「ん?」という風に目を向け、「そっか」と小さく頷いた。
「でもあたし、Rayっていうの、いい名前だと思うよ」
「……そうですか」
「Rayって、『光線』とかそういう意味だろ」
「はい」
「お前は、あたしにとって一筋の光だったよ」
目を閉じて告げて、満足そうに息を吐く。
- 436 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:16
- れいなは身体の中がじんわりと熱を持っていくのを感じていた。
感動したのではなく、嬉しかったのでもなく、おそらく、最も近い表現を探せば、
『恥ずかしかった』のだ。
どう答えていいか判らず、れいなは顔を紅潮させたまま立ち尽くした。
「あ、忘れもん」吉澤がポケットかられいなの携帯電話を取り出して、放り投げてきた。
れいなはそれを無造作に受け取った。
すっかり忘れていた。
もうこんなものはどうでもよかった。
あったら便利だが、なくても別に困らないと知った。
「そんじゃあ、元気でね、れいな」
「はい。吉澤さんも、……元気で」
口元だけの、小さな苦笑が見えた。
頭を下げ、ドアを閉める。
これで本当に終わりだ。もう二度と、彼女と会う事はない。
閉じたドアを見つめていたら、涙が出てきた。
美貴がそっと頭を撫でてくれた。
吉澤の撫で方に似ていて、ますます涙が出た。
- 437 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:16
-
- 438 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:16
- 二人きりになった部屋の中で、吉澤ひとみは荒ぐ呼吸を慎重に繰り返している。
「……さて、最後のけじめをつけないと」
出血で意識は半ば朦朧としていたが、自分に活を入れるようにひとりごちて、
後藤の膝から起き上がる。
壁に手をつきながらゆっくりと足を進め、パソコンデスクまで辿り着いた。
止めるだろうかと思っていたが、後藤は吉澤を支えるために隣へ来ただけで、これからの
事に関しては何も言及しなかった。
吉澤がマウスを適当に動かして、スクリーンセーバーをキャンセルする。
浮かんできたよっすぃを無表情に見つめると、よっすぃはデフォルトである柔和な
笑顔になった。処理できるケースにない場合はこの表情をするようになっている。
「……悪いね」
「なにが?」
「返してもらうよ」
「なにを?」
焦点のぶれる瞳を懸命に合わせ、吉澤は震える言葉を紡ぐ。
「――――言ってもわかんないと思うけど」
呆れたような笑みで呟いた。きっと、自分自身に呆れていたのだろう。
- 439 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:16
- 「あたし結構、独占欲強くてね」
「……もっと判りやすく言ってほしいんだけど」
「だから、消えてもらうんだ。あんたは贋物だから」
よっすぃが吉澤の発言を解析し、その文脈から意図を判断する。
「それは、あたしを構築してるシステムを消去するという意味かな」
「そうだよ」
「ふぅん。それってごっちんの意思?」
「……そうだ」
ここで後藤が否定すれば、よっすぃはどうにかして自分を守ろうとするだろう。
ネットワークにバックアップを退避させるとか、アクセス権限を操作するとか、
その程度のことなら出来た。
しかし後藤が何も言わなかったから、よっすぃの思考プログラムは吉澤の言葉を
後藤の意思と判断し、なんの抵抗もしなかった。
結局、どれだけ『人間みたい』だといったところで、そこに迷いだとか自分可愛さだとか
本能だとかいうものは存在しないのだ。
そういった煩わしいものは、全て吉澤が引き受けていたから。
「……バイバイ、『よっすぃ』」
吉澤が、雑貨の入っていた小型ラックを持ち上げ、よっすぃ自身とも言えるパソコンへ
振り下ろした。
派手な音の中で本体の中心がベコリとへこむ。
吉澤は何度もラックを叩きつけ、中身が飛び出すまで破壊と破壊と破壊と破壊を繰り返し、
破壊という破壊を達成するまで破壊した。
- 440 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:17
- ディスプレイにノイズが走り、激しく揺れ動いた後、暗黒。
勇者は光を失い、魔王は闇へ堕ちていった。
こうして吉澤は、訪れた時に宣言した通り、よっすぃを殺した。
ずるりと、力の抜けた手からラックが落ちる。
両手は痙攣を始めていた。
「……よっすぃ、か」
「美貴ちゃんは判ってなかったよ」
後藤の呟きに、吉澤は視線を移すことなく、唇の端を小さく上げた。
「教えてやればよかったかな」
独白に後悔の色はなかったが、少しだけ自嘲が込められていて、後藤は同じような響きで
「そうだね」と応えた。
『よっすぃ』というのは、施設にいた頃、自分たちより二つ三つ年上で面倒見のよかった
少女が吉澤につけたニックネームだった。
時間が経つにつれ、『家族』みんなが吉澤をそう呼ぶようになって、後藤を含め、誰もが
その愛称を使っていた。
だから、それくらいには……『三人』が『家族』でいられた頃を懐かしむくらいには、
二人とも愛着を持っていたのだ。彼女に対して。
- 441 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:17
- それは、とてもじゃないが愛情なんて呼べるものではなかった。
あまりにもおこがましくて、吉澤も後藤も、彼女に「愛してる」なんて言えなかった。
だからすれ違ってしまったのだろう。
自分たちと、彼女は。
本当は繋がっていたのに、小さなすれ違いでそれが見えなくなってしまっていた。
三人の間には、そんなミッシングリンクがいくつも挟まっていた。
後ろに倒れこみかけた吉澤を後藤が慌てて支え、それから静かに横たえさせる。
「……あー……、瀕死の重傷でこれはきっつい……」
「ここまでやんなくていいのに」
「だってあたし、パソコンの事なんか判んないし。そしたらもう原始的な手段に出るしか
ないじゃん」
「そうだけどさあ」
吉澤の顔に、ポトポトと何かが落ちて、それはいやに熱く、冷え切った頬には
心地良かったけれど、吉澤は辛そうに顔を歪めた。
- 442 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:17
- 「……ごめんね」
それくらいは予想ができていた。
誰がどれだけ理屈を並べようとも、後藤自身がどれだけ理解していようとも、
彼女が悲しまないはずがなかった。
それだけの、それほどの存在だったのだ、後藤にとって彼女は。
実体が有るか無いかなんて、『どちらが先だった』かなんて、些細な問題だった。
涙を拭ってやりたかったが、もう腕を上げる力もなくて、吉澤はせめてと笑ってみせた。
「泣かないで。ひとつになっただけなんだよ」
「……ひとつに?」
「うん。あたしとアイツは、ほんとはひとつだった。いつの間にか分かれちゃったけど、
元に戻ったんだ。だから寂しくなんかないんだよ」
後藤はそれが詭弁だと判っていただろうが、それでも微笑をして「うん」と頷いた。
全身が心臓になったような感覚に襲われながら、吉澤はあくまで穏やかな表情を保って、
ゆっくりと息を吐き出して、吸った。
「あたしは、ちゃんと、ここにいるから。それじゃ駄目?」
逆向きになった顔を合わせ、優しく、言い含めるように告げると、
後藤は小さく吹き出した。
- 443 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:17
- 「よしこってさ、結構ロマンチックなの好きだよね」
「うん、意外とロマンチスト」
それはお互いさまだったけれど。
「もうちょっと、大人にならないとね」
「……うん」
「もうハタチだし」
「うん」
それもお互いさまだったけれど。
声を出すのが辛くなってきた。
精密機械を扱うように、慎重に、注意しながら呼吸する。
これで最後だ。この一言が言えたら、もう悔いはない。
「誕生日、おめでと」
遠い場所から、「ありがとう」と聞こえた気がした。
思考が混濁してくる。
後悔はない。未練もない。やりたい事は全てやり終えた。
とことん満足だった。後藤と会えない二年間は辛かったが、今は一緒にいられるから
それでいい。
自分の体温が下がってきているのか、触れている後藤の肌がいやに温かく感じられた。
素晴らしく幸福だった。間違いなく自分は今、世界で一番の幸せ者だと信じていた。
- 444 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:18
- 曲がりくねって、歪んで、網のように複雑に絡んだ愛情はようやくほぐれ、互いの想いを
チグハグにしていた痴愚を剥ぐと、それは「君が好きです」というシンプルな告白で
すべての片が付く単純なラインへと様変わりした。
そうして、お互いに伸ばされたラインは先端同士が結び合って輪を作った。
見えない部分はどこにもなく、途切れた部分もありえなくて、ただ彼女の存在だけを
感じられて、彼女に存在を伝えられて、完全な、完璧な、一点のほころびもない
円環が完成した。
それは対による完全だった。三点では不完全だった。
ひとりだったのは後藤でも吉澤でもなく、他ならぬ美貴の方だったのだ。
それが忍びなくて、二人とも彼女を慈しんで、嘘をつき続ける彼女を責めることも
できなくて、彼女の意思を尊重し、彼女が気付くまで待っていた。
追い出したのはこっちの方だ。
ひとりでいられない彼女を突き放したのは自分たちだ。
罪悪はこちらにあった。
- 445 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:18
- だが、彼女は他のものを選んでくれた。
吉澤と後藤が望んでいたように、自分に素直になって、本来選ぶべきものを選び、
解放への一歩を踏み出してくれた。
きっと彼女はこれから、本当の幸福を手に入れるだろう。
ゲームじゃなくて、ヴァーチャルでもなくて、血が繋がっていなくても心の通った、
本物の『家族』を愛していけるだろう。
自分たちのように、弱さと同一線上にある優しさではなく、厳しさを兼ね備えた優しさを
持った彼女のことだ、たくさんの人に愛されるだろう。
偽り続けてきた彼女の本当を見つけてくれる誰かが、その中には含まれているに違いない。
歪み、ねじれ、無意味なまでの複雑さを持った自分たちが惹かれたのだ。
シンプルに彼女を愛せる人間が、いない道理はない。
だから、吉澤は本当に満足していた。願いは全て叶えられ、何一つとして不満はなかった。
- 446 名前:救済の技法 投稿日:2005/09/23(金) 00:18
-
――――恋で身を滅ぼすなんて、流行んないですよ、吉澤さん。
最後までナマイキだなあ、お前。
- 447 名前:円 投稿日:2005/09/23(金) 00:19
-
24回目終了。
後藤さん、お誕生日おめでとうございます。
- 448 名前:円 投稿日:2005/09/23(金) 00:19
- レスありがとうございます。
>>420
藤本さんからレス来たー!(違います)
>>421
最後のは……まあ、こんな感じで。これが全部でもありませんが。
- 449 名前:円 投稿日:2005/09/23(金) 00:19
- では、次週、最終回にて。
- 450 名前:ひろ〜し〜 投稿日:2005/09/23(金) 18:40
- なんか、ホッとしたような。
ゾッとしたような。。
まぁ、形はどうあれ二人が和解(?)したからイイのでしょう(謎
お疲れ様です。
最終回さみしいですけど、期待して待ってます。
- 451 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/24(土) 09:30
- なるほど、そうですか……
んっと……次週、楽しみに待っています。
- 452 名前:421 投稿日:2005/09/24(土) 14:56
- そういうことでしたかー。でもまだ何か…?
最終回、寂しいですが期待してます。
- 453 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/26(月) 23:28
- やっぱすごいですね・・
脱帽ですよ
- 454 名前:ソーラ・レイ 投稿日:2005/09/30(金) 21:32
- 何食わぬ顔でひょっこり帰ったら、案の定両親にこっぴどく叱られ、一緒に警察署へ
行って平身低頭で捜索願を取り下げて、学校にも連絡をして、それでようやく
一区切りがついた。
母親の泣き腫らした顔を見た時はさすがに神妙にもなったが、次の日にはそれまでと
まったく変わらぬ様子でいたので、そんなもんかとこちらも元に戻った。
『Missing』は閉鎖されていた。
ブラックアウトしたような、真っ黒な背景に、一言「バイバイ」と白文字で書かれただけの
簡単なトップページが表示された時、なんとなく『らしい』なと思って笑ったが、それが
誰に対しての『らしい』なのかは微妙なところだった。
ファンサイトも同じように閉鎖していった。
最大手であり、閲覧者同士の交流も盛んだった『チェケ』だけは、コミュニケーションを
主目的とした新サイトへ様変わりしていた。
それくらいだ。
あんな経験をしたところで、現実として変わったのは、そんなものだった。
現実はいつだって夢よりつまらない。だからこそ、みんな夢を見るのだ。
それでも、つまらないからと現実を切り捨てるわけにもいかないのだ、本当は。
- 455 名前:ソーラ・レイ 投稿日:2005/09/30(金) 21:32
- 吉澤が教えてくれた、つまらなくて血なまぐさい現実と、これからは付き合って
いかなければならない。
どれだけ苦しかろうが、辛かろうが、『ここではないどこか』に逃げ出そうが、
結局は自分から逃げることなんてできないのだ。
それは随分と気の滅入る事実ではあったが、れいなはとりあえず、目の前にある課題の
山という現実と向き合っている。
「……ああ、もう駄目だ」
勢い良くテーブルに突っ伏し、低く唸る。
気分転換にちょっと出かけようかと考えて、それからふと思い出して携帯電話を
取り上げた。
絵里のメモリを呼び出して電話をかける。色々と忙しくてすっかり忘れていたが、
まだ一度も彼女へ連絡を入れていなかった。
結果的に数週間もコンタクトを取っていなかったわけで、いくらなんでも不義理が
すぎるだろう。
- 456 名前:ソーラ・レイ 投稿日:2005/09/30(金) 21:33
- コールが途切れて、絵里が電話に出た。
「あ、もしもし、絵里?」
『れーなー!』
開口一番に叫ばれて、れいなは顔をしかめる。
嫌がらせだろうか?
「ちょ、声でかい」
『よかったぁー! れいなずっと電話もメールもしてくんなかったから、
絵里んこと嫌いになっちゃったのかと思ってたー!』
「だから声でかいって!」
『あ、ごめんね』
テンションが上がっている絵里に怒鳴りつける。それでようやく声を抑えた絵里に、
れいなは深々と嘆息した。
久し振りに聞く彼女の声は僅かに潤んでいる。泣くほどの事じゃないだろうと呆れたが、
向こうは向こうで色々と考えてしまったのかもしれない。
とはいえ、本当の事を全部説明しようとしたら何時間かかるか判らないし、要らぬ心配を
かけてしまう可能性もあるので、れいなは「クラブ活動の合宿に行っていて、それで
連絡できなかった」というような方便で誤魔化した。
- 457 名前:ソーラ・レイ 投稿日:2005/09/30(金) 21:33
- 『そっかぁ。ちょっと心配してたんだよ、なんか危ない目にあってるんじゃないかって』
落ち着きを取り戻した声に、思わず小さく笑った。
危ない目になら遭遇している。
ベラベラ喋ることじゃないから、絵里には言わない。
『でもよかった、元気みたいで』
ほっとした口調で、絵里が重ねる。
不意に頬をなにかが撫でた。
「……心配、してた?」
『え、だってほら、携帯つながんないし』
インターネットで知り合った彼女は、れいなのことを心配していた。
『れいな』の、『身を案じていた』のだ。
存在しなかったのに。この数週間、ネットワークに『Ray』はいなかったのに。
なんてことだ、とれいなは手のひらで自身の額を覆った。
あったのだ。確かに、絵里の世界にれいなは存在していたのだ。
そして、れいなの世界にも絵里は存在し続けていた。
ないと思っていたものは、とっくに出会えていたのだった。
そうだ、彼女はずっと。
「れいな」と、呼んでくれていたじゃないか。
- 458 名前:ソーラ・レイ 投稿日:2005/09/30(金) 21:33
- 『? おーい、もしもし?』
黙り込んだれいなを訝しんだのか、戸惑い気味の声が届く。
「聞こえてる。ちょっとジュース飲んでた」
ひっそりと感動しながら、れいなは意図的になんでもないような口調で応えた。
そういえば、お土産を渡さないといけない。
八つ橋は生ものなので、賞味期限の長い煎餅にしてみた。
というのは照れ隠しの言い訳で、本当は以前、好物は煎餅だと聞いていたからだ。
「んで、久々だから、どっか遊びにでも行かない?」
『えー、めずらしー。てゆっか初めてじゃない?』
「なにが?」
『れいなの方から誘ってくんのって』
言われてみればそうかもしれない。どこかに出かける時は、大抵が絵里から誘われて、
こちらに断る理由がなかった時だった。
- 459 名前:ソーラ・レイ 投稿日:2005/09/30(金) 21:33
- 初めて顔を合わせた時は、なんだか子供っぽくて苦手なタイプだと思っていた。
それでも何度か遊びに出たり、メールを交わしたりして、付き合いも長くなって、
お互いの価値観や嗜好なども把握しかけている。
絵里は連絡がつかなくなったれいなを心配し、れいなは絵里に心配をかけないよう
方便を使い、土産に彼女の好きな物を選ぶ。
結局、そういうことなんだろう。
京都土産を渡すためというのも、やはり照れ隠しだ。
絵里に会いたいんだ、と言ったら、彼女はどんな反応をするだろう。
- 460 名前:ソーラ・レイ 投稿日:2005/09/30(金) 21:34
- 「……ま、別にいいじゃん」
『うん、全然いいよー。どこ行こっか?』
ふんわりした声で絵里が承諾し、時間と待ち合わせ場所を決めて通話を終える。
携帯電話をたたんだ後で、『Missing』の話題が出なかったなと気付いた。
れいなにしてみれば『Missing』は閉鎖に関係なくもう「無い」ものだったし、わざわざ
話題にするほど特化した存在ではなくなっていたというだけだが、絵里の方は
ひょっとしたら妙な気を遣っていたのかもしれない。
よっすぃが本物なのか贋物なのか、れいなには境界線がない。
本物でもあり、贋物でもある。
ただ、現実じゃなかったというだけの事だ。
正直に言えば、現実である吉澤に、より強く惹かれていたという事だった。
「……よしざわ、ひとみ」
初めて口にした音の連なりは、思ったより具体性がなかった。
最後の最後でお互いのフルネームを知るような、なんだか変な関係だったが、
彼女と過ごした日々は楽しかったし、それ以上に色々な思いをした。
頬に触れる。勿論、すでに血など洗い去られて、一滴たりとも残っていないけれど、
残像みたいに感触だけは生々しくこびりついていた。
- 461 名前:ソーラ・レイ 投稿日:2005/09/30(金) 21:34
- 彼女は生身だから温かかった。考えて見れば当たり前の事なのに、気がつくまで随分と
時間がかかってしまった。
今まで、人に触れた事がなかったからだ。経験がないからこそ想像すら出来なかった。
経験したから、もうデジタルの世界をリアルと混同する事も無いだろう。
吉澤がそのために自分をさらったはずがないが、なんとなく、彼女と一緒にいた
あの何日間かは、そのためにあったような気がした。
そっと、己の下腹部に手のひらを当てる。
初潮が来ていなかったら、彼女に恋心を抱いていたかもしれないなと、ふと思った。
「れいな、ちょっと」
母親が部屋に入ってきて、れいなに分厚い封筒を差し出してきた。
「なに?」
とりあえず封筒を受け取って、何の気なしに眺める。
封筒の表書きには『田中れいな様』となかなかの達筆で書かれている。住所はない。
ひっくり返したが、そちらには何も書いていなかった。
消印もない。おそらく、郵便受けに直接投函されたんだろう。
- 462 名前:ソーラ・レイ 投稿日:2005/09/30(金) 21:34
- 「悪戯かもしれないけど、一応あんたの名前書いてるでしょ」
勝手に開けてれいなが怒っても困る、という事か。
ありがと、と礼を言って、母親が部屋を出て行ってから手で封筒の上部を千切った。
封筒には、一万円札が28枚とソフトキャンディが一袋入っていた。
「…………」
中身を抜いた封筒を逆さにしてみたが、他にはメモの一枚も入っていない。
ふふっと小さく吹き出して、れいなは封筒を握り締めた。
「……あぁ……」
れいなは片手で顔を覆う。
無論、これだけで吉澤が生きている証明にはならない。後藤が今わの際の吉澤に
頼まれたのかもしれないし、美貴がなんらかの手段で事情を知ったのかもしれない。
それでも、彼女が生きているかもしれないと思える事が、とても嬉しかった。
本当に。
笑えるくらい。
- 463 名前:ソーラ・レイ 投稿日:2005/09/30(金) 21:34
- 「吉澤さん……」
どうか、元気で。
れいなのその想いは誰にも届かないし、誰も共有できないし、誰も理解できないだろう。
そんな事はどうでもよかった。
ただ想い、ただ願い、彼女の『生』を望んだ。
二度と会えなくても、あのあたたかな身体が今もどこかで息づいていることを、祈った。
れいなは次々と込み上げてくる笑いに肩を震わせた。
一人うずくまり、両手を顔に押し当てながら笑った後、ソフトキャンディを口に
放り込んだ。それはミルク味で、れいなにはちょっと甘すぎた。
ひとつ大人になってしまったれいなには、ちょっと子供っぽすぎた。
クチャクチャと音を立てながらキャンディを噛み、れいなは出かける準備を始める。
大きめの服を着て、腰に少し古いオーディオプレイヤをぶら下げて、耳にはごつい
ヘッドフォン。
外に出ると、強い日差しに目を射抜かれた。
れいなは手のひらを空にかざした。
- 464 名前:_ 投稿日:2005/09/30(金) 21:35
-
- 465 名前:ナチュラル 投稿日:2005/09/30(金) 21:35
- 「藤本」
バイト先で出勤簿にチェックしていたら、後ろから声をかけられた。
「ん?」
声をかけてきたのは、例の小説仲間の青年だった。今日は同じシフトで入っていたから、
彼ももう上がるはずだ。
「この後、暇?」
「ん、特に用事とかないけど」
彼は自分のバッグから何か長方形の紙切れを二枚取り出すと、美貴に見えるように
表面を上にして差し出してきた。
印刷されている内容を美貴が眺める。以前借りたシリーズ物の挿絵を担当している
イラストレーターの、初めての個展が開催されているらしい。
彼が持っているのはその招待券だった。
「アンケートの抽選で当たったんだけど」
彼は一度言葉を区切り、招待券の一枚を押し出した。
- 466 名前:ナチュラル 投稿日:2005/09/30(金) 21:35
- 「よかったら、一緒に行かない?」
美貴が背の高い青年の顔を見上げる。
普段からあまり感情の起伏が見えないタイプではあるが、今はまったくの無表情だ。
ひょっとして緊張しているのか、と少しだけ微笑ましくなった。
油断していたのだろうか。
そうならないように気をつけていたはずなのに、どこかに気のゆるみがあったのか。
嘘という嘘を、彼はくぐり抜けてしまったのか。
切り抜けるべきだろうか。
切り抜けなくてもいいんだろうか。
どちらにしても、美貴の取る行動は変わらなかったけれど。
美貴はわずかに苦笑をして、「ごめんね」と首を振った。
「今ちょっと、遊びに行ったりとかしたい気分じゃないんだ」
「あ、そうか。いや、悪かったな、いきなり」
「ううん、こっちこそごめん」
あっさりと招待券を引っ込め、彼はそのまま帰って行った。
特にショックを受けた風でもなかったが、床に置いていた掃除用のバケツに足を取られて
転びそうになっていたので、実は相当ダメージを受けていたのかもしれない。
- 467 名前:ナチュラル 投稿日:2005/09/30(金) 21:35
- 美貴は彼が見えなくなってから溜息をついた。
彼の事は嫌いじゃあない。どちらかといえば好きだ。
今回は回りくどい手段を取ってきたが、面と向かってはっきり告白されたら
恋人になる事も可能だろう。
その程度には好きだった。
ただ、今はちょっと、そういう気になれないのだ。
あんな事があって、自分だけがそんな風にしているのは気が引ける。
引けているから、手を延ばされても、届かない。
「見ーちゃったっ」
ぐい、と首を捕まえられ、耳元に浮かれた囁き。
美貴はさっきよりも深い溜息を吐き出した。
「フっちゃったのぉ? もったいないじゃん、仲いいのに」
「別にフってないし」
「だって今の、どう見てもデートのお誘いだよ? それなのに『そういう気分じゃない』
とかって、それ絶対『ごめんなさい』だと思われちゃうよ」
「ごちゃごちゃうるさいなあ。いいじゃん、ヒトゴトでしょ」
「ヒトゴトだから楽しいんじゃない」
- 468 名前:ナチュラル 投稿日:2005/09/30(金) 21:35
- 梨華は美貴の首を捕まえたまま、楽しそうに笑っている。
身長が同じくらいなので、近すぎて声が大きいし、吐息とか直接かかって気持ち悪い。
べりっと引き剥がし、美貴はさっさと帰り支度を済ませた。
「あ、美貴ちゃあんっ」梨華が慌てて追いかけてくる。
仕方なく、梨華が追いつくまで待ってやって、美貴は半ば睨むように彼女を見つめた。
「だいたい、梨華ちゃんあいつ苦手だって前に言ってたじゃん。
美貴とあいつが出来上がっちゃってもいいわけ?」
「ん? あれ嘘」
「は?」
だってえ、と唇を尖らせ、梨華は両手を胸の前で組んだ。
「あの人に美貴ちゃん取られちゃうみたいでヤだったんだもん」
「つーか別にあんたのもんじゃないしね」
「でもほら、人って自分が幸せだと周りの人にも優しくなるじゃない?」
「聞いてねえのかよ」
組んだ両手が更に強く握り固められ、それと同時に梨華は遠い目をする。
なんなんだ、と美貴が首を傾げた。
- 469 名前:ナチュラル 投稿日:2005/09/30(金) 21:36
- 「副店長に誘われちゃった」
「……へ?」
何やら感慨深そうな梨華が言う副店長とは、考えるまでもなく二人がバイトしている
レンタルビデオショップの副店長だろう。
確か20代後半で、まだ独身。
中肉中背、際立った美形ではないが温和でバイト店員には人気がある。
「だからね、美貴ちゃんにも春が来なきゃいけないと思うのっ」
両手がほどけて、唐突に美貴の手を包んできた。
ずっと組んでいたせいか、微かに汗ばんでいてそれが不快だった。
振りほどこうと力を込めてみた。梨華は離してくれなかった。
言いたい事は判る。しかし理解りたくない。
それは明らかに、余計なお世話のありがた迷惑である。
そもそも、自分に春が来たからといって、美貴も同じように春を得る必要があるという
理屈はどこにもない。
そう言ったら、梨華はきょとんとして、
「だって、自分が幸せだったら親友も幸せにしてあげるのが親友でしょ?」
と『世界の常識』みたいに応えた。
- 470 名前:ナチュラル 投稿日:2005/09/30(金) 21:36
- てゆーかいつの間にか親友にされてるし。美貴は口の中だけでげんなりと呟き、
梨華が一瞬だけ力を抜いた瞬間に自身の手を脱出させた。
「うん、たぶん、美貴にもいつか春が来るから、梨華ちゃんは気にしないで」
「そーぉ?」
「そうそう。だから梨華ちゃんはとりあえず、自分の春を追っかけといて」
「美貴ちゃん、応援してくれるの?」
「いや別に」
無感動に首を振ると、梨華は途端に不機嫌そうな表情になった。
「ひどぉい」「だって美貴関係ないし」すたすた歩きだした美貴を追いかける梨華の頬が、
ぷっくり膨れていた。
梨華に春が来ようが来まいが、美貴には関係のない話だ。とはいえ、うまくいったら
おめでとうくらい言ってあげるし、そうじゃなかったら慰めるくらいはしてもいい。
要するに、結果が出るまでは面倒臭いから関わりたくない、というのが本音だった。
「親友って、親友が悩んでたら助けてあげるのが親友よ?」
「じゃ、そういう親友探せば?」
「だからぁっ、あたしの親友は美貴ちゃんでしょっ?」
確認口調で言われても、美貴は頷くつもりはない。
無言のまま歩く美貴の腕を取って、梨華は拗ねた顔で美貴を斜めに睨んだ。
- 471 名前:ナチュラル 投稿日:2005/09/30(金) 21:36
- 「美貴ちゃん冷たい。冷たい冷たい冷たいっ」
「はいはい、どーせ冷たいですよ」
「嘘だよっ。ホントは優しい子だって知ってるもん」
「…………」
「あ、美貴ちゃん照れてる」
「……別に」
さっきまでの不機嫌ぶりはどこへやら、梨華は相好を崩して美貴の頬をつついてきた。
鬱陶しそうにそれを止める美貴。
つつくのをやめ、ついでに掴んでいた腕を離した梨華はそれから、他愛もない話題へ
スイッチしていった。
駅まで並んで歩きながら、美貴はこっそり溜息をついた。
これからを憂慮して出た嘆息だった。
この、友達のいない、なんとなく信頼の置けない、心配の尽きない、心外にも親友と
認定されてしまった、唯一無二の親愛なる友人との、これからを。
- 472 名前:_ 投稿日:2005/09/30(金) 21:36
-
- 473 名前:QUIT 投稿日:2005/09/30(金) 21:37
-
二人でいようか。
いつまで?
二人でいられる間だけ。
二人でいられる間はずっと?
二人でいられる間はずっと。
でもそれって、絶対にひとつにはなれないって事だね。
そんなもんだよ、現実なんて。
つまんないね。
そうかな。
そうとも。ひとつになれなくて、なんかいい事ある?
二人だから、言える事があるよ。
なに?
「ただいま」。
《Original Live.》
- 474 名前:QUIT 投稿日:2005/09/30(金) 21:37
-
- 475 名前:円 投稿日:2005/09/30(金) 21:37
-
25回目終了。
以上で『テクノの娘』は完結です。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
- 476 名前:円 投稿日:2005/09/30(金) 21:38
- レスありがとうございます。
>>450
あの二人の形は、あえてどうとも取れる感じにしてみました。
>>451
どんなもんだったでしょうか。期待を裏切っていなければいいのですが。
>>452
「何か」は明示的に書いてません。てへ。
>>453
ありがとうございます。敬礼。
- 477 名前:円 投稿日:2005/09/30(金) 21:38
- では。
- 478 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/30(金) 23:58
- きれいに終わりますね・・・。
言葉もありません。感動いたしました。
円様の作品を見つけたらまた読みたいです。
- 479 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/01(土) 00:23
- 読みました。なんかもう何て言えばいいのか…。
とりあえずこれだけは。円さん、お疲れ様でした。
色々と考えさせられるお話でした。
なんとなく一つ賢くなった気がします(アホっぽい)。
- 480 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/01(土) 00:35
- なんかすげーって圧倒されっぱなしでした。
難しいけどどこか身近で大切なことが散りばめられていて、
自分としては「ほぉー!」の連続でした。
毎週楽しみにしていて、こうやって読めてよかったです。
おつかれさまでした。
- 481 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/01(土) 07:17
- 期待以上の最終回でございました。
なぜだかちょっと泣けてきて……困りました、はい。
いつも良質なお話をありがとうございます。
また、次の機会を楽しみにしています。
- 482 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/02(日) 11:24
- 満を持して初レスです(汗)
ずっと初めから読ませていただいていました。
ラストを読み終えた後、デスクに突っ伏して5分程放心。
ネットの中でこんなリアルを感じたのは初めてで、頭を打たれました。
作者様の世界と表現力に降参です。素敵な物語をありがとうございました。
- 483 名前:名無しJ 投稿日:2005/10/03(月) 15:58
- 遅ればせながら
お疲れさまです。・゚・(ノД`)・゚・
なんか3人の微妙な関係とかソ(ryとかもうなんか円さん
大 好 き で す w
- 484 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/05(水) 23:51
- 完結お疲れ様でした
読み終わった後、静かな涙が流れてきました
やっぱ円さんスゲーや!ありがとう!!
- 485 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/05(水) 23:52
- ageてしまいました…スミマセン
- 486 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/08(土) 00:44
- やっぱすげぇ・・
次回作も期待
- 487 名前:円 投稿日:2005/10/08(土) 21:47
- レスありがとうございます。最後までお付き合いいただき感無量です。
>>478
綺麗好きなもので……(ここに嘘つきがいます)。
>>479
なにかを考えていただけたなら僥倖です。答えは人それぞれだと思うので。
>>480
身近なものほど大切なのだ、と考えています。
なぜって、自分の力でどうにかできることだからです。
>>481
そう言ってもらえると嬉しいです。ありがとうございます。
>>482
記念すべき初レス、ありがとうございます(笑)
>>483
ソ……ロコンサート? ごめんなさい。
ど う も で す。
>>484
ありがとうございます。
さあ、これで涙を(と、ハンカチを差し出し)。
このネタは何度もやった気がします。
>>486
ありがとうございます。
次回作については下のレスをご参照下さい。
- 488 名前:円 投稿日:2005/10/08(土) 21:47
- しばらくしたら、このスレに中編を載せる予定です。
テクノとは関係ありません。
たぶん、リアルになると思います。(言い方が曖昧なのは、まだ書いてないからです。)
がしかし、人によっては非常に不愉快な思いをされるかもしれない話なので、
ochi進行でやっていきます。
時期はまったくの未定です。まあ、次のログ整理までには(笑)
- 489 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/11(火) 07:11
-
- 490 名前:円 投稿日:2005/10/24(月) 23:32
- 前言撤回。
思うところありまして、新スレにしました。
ttp://m-seek.net/cgi-bin/test/read.cgi/wood/1130163911/
こっちはこれにて終了です。
- 491 名前:名無飼育 投稿日:2005/12/09(金) 01:42
- 天才や
天才がおるで
びっくりしたわ
- 492 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 03:25
- 突然失礼します。いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
Converted by dat2html.pl v0.2