デューファー
- 1 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:23
-
"Dewphr" must grant only one wish.
("デューファー"は願いを一つだけ叶えなければならない)
"Dewphr" must never meet the person who granted the wish.
("デューファー"は願いをかなえた人と決して会ってはいけない)
"Dewphr" must ....
("デューファー"は...)
- 2 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:24
- <1.Hope>
その日は雨だった。
天気予報では、高気圧に押し上げられた前線の影響だとか、説明を始めた途端、プチンとTVの電源が切られた。
「最悪」
胸元まで垂れ下がる髪を、両手で掻き上げ、この世の悪を凝集したような声で真希は言った。
だいたい、雨というのが大嫌いだった。
四国や沖縄に住んでいるわけでもない彼女にとっては、雨は鬱陶しいものでしかなく。
とりわけ、冬も近づいたこの時期の雨は、真希の神経を逆撫でるには十分だった。
「あーもう最悪」
バイトを休もうかなという考えが、頭によぎる。
そういえば、そんな歌があったよね。
「風が吹いたら遅刻して、雨が降ったらお休みで」ってね。
休みたい衝動が余計に大きくなるけれども、雨の日に限ってやたらと混み合うのが自分のバイト。
ショッピングモールの中に入っているファーストフード店なんて、雨で行き場の失った学生の宝庫なのだから。
- 3 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:24
- 「あーあ」
リモコンをソファの上にポンと投げて、真希は支度を始めた。
後になって考える。
自分がここで、バイトを休んでいたのなら。
きっと、あの子にも会うことは無かったし、きっとあんな別れも味わうことがなかったのにと。
彼女との出逢いは、遅刻ぎりぎりにバイトに滑り込んだ今日という日だった。
- 4 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:24
- ◇
「ったく、ほんと最悪」
雨の日に、国道沿いの歩道を使うのが嫌だったから、回り道して行こうとしたら思ったよりも時間がかかった。
結局、遅刻しそうになり雨の中を走りだしたから、車が跳ね上げる水しぶきに打たれるのと変わらないくらいに濡れてしまっていた。
「まぁまぁ……そんな日もあるって」
ぶつくさと着替えを始める真希の横で、着替え終えた亜弥が宥めていた。
「てかさ、まっつーはどうして濡れてないわけ?」
「え?私?」
そう答えながらも、亜弥の顔はどんどん笑顔に変わっていく。
それを見て、真希は察した。
「あぁ、そっか。うん、わかった」
亜弥に話をさせまいと会話を打ち切ろうとするが、その努力もむなしく亜弥は話し始める。
- 5 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:24
- 「そう、ね、聞いて聞いて、たんたらさぁ」
たんと言うのは亜弥の恋人、藤本美貴を指すことくらい、真希は承知している。
本人に会ったのはここに食べに来た数回だけで、特に会話を交わしたことは無い。
ただ、事あるごとに亜弥の惚気話を聞かされている真希にとっては、最初に会うまではすごく色んな想像をしていた。
けれども、会ってみれば、亜弥の言うような人には全く見えず。
どちらかといえば、正反対の冷たい印象だった。
受け答えも少なく、口元だけで笑う姿がすごく印象的だった。
「『雨降ってるし、亜弥ちゃんが事故にあったら、美貴生きていけないから』なんて言ってさ、わざわざ車で送ってくれたんだよ」
その物真似すら、どこまで似ているか真希にはわからない。
真希が思うに、全く似ていないというよりも、あの人がこんなことを言っている姿が想像できないと言った方が正しかった。
更に続いていく亜弥の惚気話に「よかったね」とか相槌を打ち、真希は着替えを終える。
- 6 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:25
- そんな、いつもどおりのバイト。
レジに出れば、亜弥目当ての男の子達が「スマイル」とか注文していたり。
もちろん、亜弥がウインク付きでそれに答えるのが悪いのだが……
混み合った店内はお昼を過ぎているにも関わらず、人が増えていく一方で。
そのラッシュは夕方まで続くこととなった。
真希もいつしか雨が降っていることの憂鬱さを忘れていった。
ここがモールの中だから、直接雨を目にすることがないというのも理由の一つ。
駅に隣接する大型ショッピングモール。
その割に、映画館やボーリング場といった施設が無いため、学生はここに集まることになるんだと、真希は勝手に分析する。
中途半端な規模の街にある、中途半端なショッピングモール。
だからこそ、真希はここにいるのかもしれないって思った。
大学にも行かず、かといって就職するわけもなく。
一人暮らしの家賃と生活費くらい、アルバイトでどうにでもなる。
そんな中途半端な自分だから……と、自虐的に真希は微笑んだ。
- 7 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:25
- 「ごっちん、どした?」
視界に急に入った亜弥の顔。
真希はバツの悪そうに目をそらした。
「ん?なんで?」
空気が読めないのか、それとも思っていることをすぐに口にするだけなのか。
少なくとも、亜弥は両方に当てはまっているのかもしれない。
思ったことを溜め込んでても伝わらない。
周りにある芝を叩き続けるのは、亜弥にとって無駄以外の何者でもなかった。
「なんで、目、そらすの?」
口を尖らせて亜弥は言う。
無言のままでいても、彼女は絶対に許さない。
端正に整った顔の中で、一番印象に残るであろう意志の強そうな目。
それがしっかりと真希の顔を捉えていた。
- 8 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:25
- 「びっくりしただけ」
「嘘だ」
「ほんとだよ」
「嘘だ!」
「……」
びっくりしたというのは本当だ。
だけど、それは嘘でもあった。
亜弥は高校3年生。
いわゆる近くの進学校に通ってて、成績も優秀。
明るくて可愛くて、異性にも同性にも好かれる人間。
真希にとっては、一番苦手とする人種。
クラスメイトだったら1年間話さない自信があった。
けれども、社会という場とバイト仲間という関係は、二人の仲をうまくつないでいた。
亜弥はあまり学校のことを話さないから。
余計に二人は上手くいっていたんだろう。
だからこそ、ふとしたときに亜弥との絶対的な立場の差を感じることが、真希にとって一番つらかった。
まさしく今がそれなのだ。
何事にも中途半端な自分と正反対な亜弥。
それが、真希に目を逸らさせた一番の理由。
太陽はまぶしすぎて目にすることはできない。
雲がかかっていないと、それはできないのだ。
- 9 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:26
- もちろん、そんなことを亜弥に言えるわけもない。
幸いにして客が来たので、真希は逃げるように注文を受け始めた。
亜弥はとても不服そうな顔でそれを見ていた。
結局、高校生の亜弥のバイトの時間は真希のそれよりも短いから。
そのことにはもう触れることはなかった。
「お先に失礼します」と言う亜弥の声が聞こえ、真希は安堵する。
まさか、次にシフトがかぶったときまで追及されることはないだろうと思っていた。
事実、亜弥は追求することはしないのだけれども。
だからといって、問題が解決されたかと問われれば、先送りにしているだけのことであって……
- 10 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:26
- 「ごっちん、亜弥ちゃん怒らせた?」
亜弥と入れ違いにバイトにやってきた梨華が言った。
「ん……」
言葉に詰まる時点で、肯定しているようなものだった。
「駄目だよ、喧嘩しちゃ」
「喧嘩じゃないよ」
子どもをたしなめるような言い方に、少しムカッとした。
確かに、自分よりも年上だったが、梨華がバイトを始めたのは真希よりもはるかに遅い。
自分の方が先輩なんだという変な意地が、いまだに真希にはあった。
- 11 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:26
- 「亜弥ちゃん怒りっぽいからね。ごっちんは大人なんだから」
怒りっぽいだけじゃない。
すぐ笑うしすぐ泣くし、すぐ落ち込むしすぐ元気になる。
自分の頭の中で、亜弥が百面相を始める。
何をするにしても感情いっぱい。
冷めてるふりして、一生懸命なんて馬鹿みたいっていうスタイルが、相当格好悪いってのはわかっている。
だけど、真希はそういう態度が染み付いてしまっている。
だから、だからこそ……やはり真希にとって、亜弥は眩し過ぎるのだ。
梨華はそれ以上何も言わなかった。
梨華自身、亜弥と真希を比較すると、真希に少し近い人間だったから。
亜弥のようになりたいと、無意識のうちに感じている人間だったから。
- 12 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:26
- ◇
バイトが終わっても、まだ雨は止んでいなかった。
着替えた服はまだ湿っぽく、真希の心まで同じように湿らせていく。
帰りに何か食べて帰ろうかなとふと思った。
料理の好きな真希は、一人暮らしとはいえ、自炊をモットーにしていた。
バイトで疲れていても、夕飯時を過ぎていたとしても。
唯一人に誇れるであろうそれをやる間が、真希にとってはすごく幸せな時間でもあった。
けれども、食べている間に雨が止むかもしれないという誘惑。
それは一種の賭けだった。
食べ終わっても雨が降っていたなら、今以上に憂鬱になるだろう。
逆に、今帰って、後で雨が止んだなら。
それはそれで憂鬱なことになる。
いっそのこと止まないほうがいいんじゃない?なんて考えを頭に浮かべ、傘を差して歩き始めた。
街灯がさほど多いわけでもない道を歩き続ける。
時折、車のライトが地面の水溜りに反射する。
雨は、少し霧がかったものに変わり、まとわりつく様に頬に感じる滴が鬱陶しかった。
- 13 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:27
- 気を紛らわすように、今日の夕食は何にしようか考え始める。
冷蔵庫の中身は、朝に確認していた。
トマト、卵、ピーマン、鶏肉……
羅列していく中、特売で買い込んだジャガイモを消費しなくてはいけないことを思い出す。
コロッケでも作ろうかな?
少し手間だったが、雨の中帰って冷え切った体に、揚げたてのコロッケという組み合わせがすごく魅力的に思えてきた。
足りない材料がないことをもう一度確認。
さっきよりも少し軽くなった足取りで、真希は家へと帰る。
- 14 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:27
- その途中だった。
この角を曲がれば、家に着くというところ。
そこで、出会ったのだ。
自分は"デューファー"だと言う少女に。
時は晩秋。
雨さえ降らなければ、綺麗な月が拝めたであろう夜。
"デューファー"は、紺野あさ美と名乗った。
- 15 名前:_ 投稿日:2005/09/23(金) 01:28
- >>1-14 今日の更新は以上です。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/26(月) 09:24
- うわぁ…きっちり作り込まれてる感じが
すでに伝わってきます。
先がとても楽しみ。
期待してます。
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/28(水) 23:52
- なんか面白くなりそう…
このメンツ好きだし、頑張ってください。
次回も楽しみにしてます。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/30(金) 23:33
- 後紺すきなので楽しみにしています♪
ゆっくりがんばってください!
- 19 名前:_ 投稿日:2005/10/02(日) 22:40
- ◇
「で?あんたは誰?」
「その質問はもう3回目です」
「や、だってさ……」
"デューファー"と彼女は名乗った。
"デューファー"なんて単語を、少なくとも真希は聞いたことがない。
雨に打たれて濡れた黒いマント。
それだけで十分怪しいのだが、あさ美の顔を見ていると、なぜかそう言った不安は持たなかった。
だから、こうして家に上げて話を聞いているのだけれども。
茹で上がったジャガイモの皮をむきながら、説明されたことを反芻する。
"デューファー"は願いを一つだけ叶えなければならない。
たったそれだけのこと。
そんな都合のいいものが存在するなんて、信じられなかった。
突然出会って、願いを叶えてくれる。
そんな存在を信じろという方が無理だった。
- 20 名前:_ 投稿日:2005/10/02(日) 22:40
- 「本当なら、この鬱陶しい雨をなんとかしてよ」
真希はそう言った。
一つだけの願いを、こんなことに使うのは、本当なら馬鹿らしいことだ。
だけど、真希は冗談だと思っていたから。
「それはできません」
「どうして?」
「その人が心から願うことしか、叶えられないんです」
「ふーん」
口ではなんでもない風に言った。
剥き終わったジャガイモをマッシャーで潰しながら、考える。
- 21 名前:_ 投稿日:2005/10/02(日) 22:40
- 自分の今、一番の願いってなんだろう?
小さい頃は、万人がそうであるように、アイドルに憧れていた。
輝かしいステージで、キラキラの衣装で、歌って踊って。
自分が小さな頃の写真の中に、リモコンをマイク代わりにもって歌っているものがいくつかある。
あの頃は、何も考えていなかった。夢ばかり見ていた。
いや、違うか。
マッシャーにこめる力が少しだけ強くなる。
今も、何も考えてない。
その日のことしか考えていない。
明日の朝、何を食べよう?
おもしろいTVはあるかな?
今日のバイトは忙しいのかな?
そんなことばかり。
少し先のことを考えたとしても、冬服をそろそろださなきゃいけないなとか。
その程度のこと。
やりたいことなんて、見つからない。
見つからないから考えることを止める。
見つからない、自分にはないって知るのが嫌だから。
先を見ない振りして、今を生きてる振りをして将来を先送りしてたら。
とりあえず今日は楽しめるのだから。
- 22 名前:_ 投稿日:2005/10/02(日) 22:41
- 「後藤さんは、何を作ってるんですか?」
「ん、コロッケだよ」
「コロッケですか。お料理得意なんですね」
その言葉に続いて、あさ美はコロッケが好きだという話を続ける。
もちろん、この子の分まで考えて作っている。
その旨を伝えると、満面の笑みを浮かべた。
こういうの、久しぶりだった。
ちょっと嬉しかった。
自分の存在が、誰かに認められているようで。
そんなことを考えながら、コロッケを揚げ始めると、油が飛んで人差し指を火傷した。
「火傷治して」って冗談っぽく差し出すと、あさ美は「無理です」と半笑いで言う。
そして、次の瞬間、真希の指先を生暖かい感触が包んだ。
あさ美が真希の指を加えていた。
- 23 名前:_ 投稿日:2005/10/02(日) 22:41
-
「……何してるの?」
「火傷の応急処置ですよ」
指を加えたまま、口元をもぞもぞと動かして言う。
「それって耳たぶじゃないの」
指を抜いて真希は言った。
あさ美は「そうでしたっけ?」とちょろっと舌を出した。
「そうだよ」といいながら、自分の耳たぶを指でつかむ。
けれども、真希の指先の痛みはもう引いていた。
- 24 名前:_ 投稿日:2005/10/02(日) 22:41
- 揚げたコロッケを盛り付け、キャベツをきざんでいる段階になって、ようやく真希はご飯を炊いていないことに気づいた。
あさ美に気を取られて、完全に忘れていたのだ。
「白いご飯が欲しい」
本日3度目の真希の願いも、あさ美は叶えはしなかった。
仕方なく、戸棚からレトルトのご飯を取り出す。
蓋を開けてレンジでチンすればいいだけの簡単なもの。
実際に炊いたものとの味の違いをうるさく言うほど、真希は白米にこだわりは持っていないから。
その便利さに魅かれて、こうしていくつかストックをしていた。
「お米はきらら397が一番ですよ」
「何それ?」
「北海道のお米です」
「北海道出身なの?」
「いえ、私たちはこの世界のものではないので」
「じゃあ、何でそれにこだわるの?」
「前に願いを叶えた人が、北海道の人だったんですよ」
「ふーん」
そういうことにしておこう。
自分の前の子が、北海道出身の女の子だろうが、どこか異世界の何かだろうが、真希にとってはどうでもよかった。
会話の終わりを告げるように、電子レンジが音を立てる。
取り出してお茶碗に盛った。
- 25 名前:_ 投稿日:2005/10/02(日) 22:41
- 「いただきます」
この部屋に、二つの声が響くのはいつ以来だろう?
真希は考える。
部屋に入ってくるような友達はいた。
過去形なのは、真希が実家から離れたこの土地にいるせいだ
今、この場所には知り合い以上友達未満という方が正しいような関係の人間しかいない。
だから自分の部屋に上げるということはしない。
寧ろ、あさ美が例外的なのだ。
プライベートを共有することを好まない真希が、いくら雨が降っていたとはいえ、初対面の人間を部屋にあげるなんて。
食事の間も、外の雨は止むことはしなかった。
見ているこっちがお腹一杯になりそうなほどに、おいしそうに食べるあさ美の姿を、真希はお箸を止めて見ていた。
居心地がよかった。すごく。
理由はわからない。
ただ、一緒にいることで自分の気持ちが和らぐような、不思議な気持ちだった。
- 26 名前:_ 投稿日:2005/10/02(日) 22:42
- 「あのさ」
「はい?」
「一つだけってことはさ、もしその願いを叶えちゃたらどうなるの?」
食事を終え、食器を洗おうとスポンジを握って尋ねた。
「"デューファー"は願いをかなえた人と決して会ってはいけません。また別の人の願いを叶えるためにどこかに行きます」
「ふぅん……」
蛇口をひねりながら言われた真希の言葉は、勢いよく流れる水の音に飲み込まれていった。
そう、この時はまだ、この言葉の意味を深く考えることはしなかったんだ。
少しも、考えなかったんだ……
- 27 名前:_ 投稿日:2005/10/02(日) 22:42
- >>19-26 今日の更新は以上です。
- 28 名前:_ 投稿日:2005/10/02(日) 22:45
- レスありがとうございます。
>>16 期待にこたえられるようにがんばりたいです。
>>17 登場人物少ないので、気に入っていただけるとうれしいです。
>>18 本当にゆっくりですがお付き合いください
- 29 名前:名無し読者 投稿日:2005/10/08(土) 23:12
- こんごま発見!
好きなCPなので続き楽しみにしてます。
- 30 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 21:55
- <2.Wish>
携帯のアラームとともに始まるいつもの朝のはずだった。
しかし、目を開けて映った天井は、いつもと少し勝手が違った。
寝起きがいいほうではない。
寝るのは大好きだけど、起きるのは大嫌い。
学生時代、遅刻の常習犯だったのは、そんな理由。
さすがに、バイトを始めてからは寝坊することはなくなったのだが。
手だけ伸ばして携帯のアラームをとめる。
携帯電話というものはとても便利だ。
一人暮らしだから、家に電話を置く必要もない。
腕時計は必要なくなったし、手帳もいらなくなった。
簡単な情報はインターネットで調べることができるし、電卓もカメラもついている。
加えて、目覚まし時計もこれで事足りるのだから。
自分の生活の全てがこれに詰まっていると思うと、不安に思うときもある。
これがなくなれば、何もできないんじゃないかって錯覚すら覚えてしまうのだ。
- 31 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 21:55
- 携帯のディスプレイに映った時間は7時21分。
今日は朝からバイトだから、いつまでも寝ているわけにはいかない。
布団に入ったままノビをすると、手をガツンと壁にぶつけた。
「痛っ」
思わず声が出る。
一人暮らしの部屋でつぶやくそうした言葉は、余計に自分が一人であることを実感させるものだ。
痛いと言っても、嬉しいと言っても、誰とも共有することはできない。
部屋に響いては消えていくその言葉。それは孤独を十分に演出する。
だが、今日は違った。それに答える声があったのだ。
「大丈夫ですか?」
突然の声に、痛みで起きかけた真希の意識が完全に目覚める。
- 32 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 21:55
- 「あんたか……」
起き上がり、あさ美の姿を確認すると、思わず声が漏れた。
昨日、あのまま家に泊めたことを思い出す。
そう、だから私はベッドで寝ずに床に寝ていたんだ。
だから、いつもと天井の様子が違っていたし、ぶつかるはずのない壁に手をぶつけたのだ。
「おはようございます」
にこりと笑うあさ美は、黒いマントを再び着ていた。
寝るときには外していたのだが、マントの下は特に変わった服装ではなく。
英語のプリントされたシャツとジーンズというもの。
つまり、マントがおかしいだけで、彼女のセンスというものは間違ってはいないのだ。
- 33 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 21:56
- 手早く着替えを終えて、リビングにでる。
「パンでいい?」と尋ねると、あさ美は頷く。
寝起きの悪さから、朝から白いご飯を食べるのは、真希にとってはつらかったから。
「パンでいい?」ではなく「パンしかないよ」と尋ねるべきだったのかもしれない。
トースターにパンをつっこみ、TVをつける。
天気予報のチェックは日課となっている。
多くの人は、占いまで見て一喜一憂しているのだろうけど。
真希は自分の星座がおとめ座かてんびん座か正確にはわかっていなかったから。
星座占いを見ることはなかった。
天気予報は今日も雨であることを告げる。
昨日同様に、TVを消したい衝動に駆られたが、あさ美がじっと画面を見ていたのでやめた。
その代わり「晴れにしてよ」と無駄とわかっている願い事を口にした。
- 34 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 21:56
- 「駄目ですよ。もっと真剣に考えてくださいよ」
「かなり切実な願いなんだけど」
「いえ、そんなんじゃ駄目です。後藤さんは、願い事ってないんですか?」
「だから言ってるじゃん。晴れにしてって」
「そういうのは駄目です」
「じゃあ、どういうのならいいの?紺野は今までどんな願いを叶えてきたの?」
何気なく言った言葉だった。
会話の流れででてしまったようなもの。
でも、あさ美の顔からは、それまでの笑顔は消えていて。
それに気づいた真希からも笑みが消えた。
「後藤さんは、願い事がないんですか?」
「……」
「好きな人とか、やりたいこととか、大事なものとか、無いんですか?」
「……」
「私が今までに叶えてきた願いには、病気のお母さんを助けたいという願いや、アイドルになるチャンスが欲しいという願い、喧嘩別れした友達ともう一度会いたいとか、たくさんありました。
後藤さんは、どうなんですか?家族とか友達とか夢とか、そういう……」
「黙れ!」
目を閉じて、あさ美の言葉をさえぎって真希は叫んだ。
ビクッとあさ美の体が動く。
睨みつける真希の視線は、あさ美が今まで味わったことのないようなものだった。
- 35 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 21:56
- 部屋に響くほどに激しくなった雨音と、アナウンサーの明るい声だけが変わらずに続く中、トースターのチンという音が、浮いたように部屋に響いた。
乱暴にパンを取り出してマーガリンとジャムを塗る。
マーガリンのふたをバンと閉め、テーブルの上をあさ美のほうへと滑らせた。
あさ美は恐る恐るそれを手にし、パンに塗っていく。
何度もちらちらと真希の顔を見るが、テーブルに向けられた視線は、交わることはなかった。
- 36 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 21:56
- あさ美には、真希がどうして怒ったのかわからなかった。
願いというものは、誰しもがもっているはずのもので。
誰もが願いを叶えたいと思って生きている。
それが、今までの経験上、あさ美が学んできたことだ。
だから、願いがないと言う真希が、あさ美には理解できなかった。
「バイトあるから。ここからでてってくれる?」
最後に真希が告げたのはその言葉。
雨の中、部屋から出た二人。
真希は傘を差して、走っていった。
あさ美はその後姿を見ているだけ。
「いってらっしゃい」という言葉に対する返事はなかった。
雨音にさえぎられて聞こえなかったんだと、あさ美は思うことにした。
- 37 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 21:57
- ◇
「好きな人とか、やりたいこととか、大事なものとか、無いんですか?」
その台詞が頭に何度も繰り返された。
バイトしながらも、どこかうわの空だということは自覚していた。
おつりを間違えたり、ポテトとナゲットを取り間違えたり。
普段なら決してしないようなことを、真希はやっていた。
もちろん、周りもその異常に気づかないわけもなく。
「体調悪いなら早く帰っていいよ」と言われるたびに「大丈夫です。すいません」を繰り返していた。
ただ、不思議ともうイライラはなかった。
あさ美に言われたことは、正しいことだ。
それをどこかでわかっているからかもしれない。
あさ美に悪気はない。
彼女は、自分の願いを叶えてくれようとしている。
願いがないのは自分自身。
だからといって、刹那的に考えた願いでは、あさ美は満足してくれないことはわかっている。
- 38 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 21:57
- はぁ……
ため息が出る。
紺野はもういないのかな……
それを期待している面も、そうでない面もあった。
いなくなれば、もう煩わされなくて済む。
だけど、いなくなってたら、今朝のことを謝れない。
私だけが悪いわけじゃない。
だけど……
髪をくしゃくしゃとかき上げた。
少し湿った髪が指に絡みついた。
きっと、この場に亜弥がいたのなら、簡単に答えを出してくれるのかもしれない。
なぜか、真希の頭に亜弥の顔が浮かんだ。
- 39 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 21:57
- 彼女にとって、願いなんて簡単な事なのかもしれない。
どんな願いなのか、真希にはわからない。
美貴とずっと一緒にいたいとか。
おいしいものを食べても太らない体になりたいとか。
もっとかわいくなりたいとか。
たとえ、そんな願いだったとしても、あさ美はきっと叶えるだろう。
亜弥の願いなら、叶えることができるだろう。
それは想像の中のことだが、確信だった。
自分になくて、亜弥にあるもの。
余りに多すぎて何かわからないそれが、真希に確信させていた。
- 40 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 21:58
- もう一度ため息をつく。
どうも、バイト中に考え事をするのはよくない。
どうしても、亜弥の影がちらつくこの場所だから。
亜弥が思考に入ってきてしまう。
だからといって、このバイトを辞めるつもりはなかった。
亜弥のことをまぶしく思うが、嫌いだと思ったことは一度もない。
自分に無い物を持っている彼女だからこそ、真希は自分の理想像を年下の彼女に投影していたのだから。
そういう意味では、真希は実は亜弥が大好きだということを、彼女自身は全く気づいていなかった。
帰るときにも雨はまだ降っていた。
昨日のような葛藤はなかった。
雨宿りしていたら雨が止みますよと神様に教えられても、真希は家に帰っただろう。
答えが知りたかった。
あさ美がいるのかいないのか。
自分にとってはどちらでも、さして変わりは無いことだが、答えを知りたかったのだ。
- 41 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 21:58
- 早足で雨の中を進んでいく。
ジーンズの裾にはねる泥。
傘がゆれて肩にかかる雨粒。
水溜りにはまるスニーカーも気にはならなかった。
答えが欲しい。
胸の中にもやもやしたこれを、早く取り除きたかった。
最後の角を曲がる。
昨日、あさ美がいた場所だ。
今日は、いない。
あさ美の姿はどこにもなかった。
真希は足を止める。
いなかった。
どちらでもいいと思っていた答えだが、真希の心はぽっかりと穴が空いたようだった。
「どっちでもいいじゃん」
強がるように呟いた。
傘に当たる雨音は変わらないリズムを刻んでいた。
- 42 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 21:59
- >>30-41 今日の更新は以上です。
- 43 名前:_ 投稿日:2005/10/10(月) 22:01
- レスありがとうございます
>>29 こんごまいいですよね。満足していただけるようなこんごまをがんばって書きたいです。
- 44 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 23:27
- ほんの数秒だけ立ち止まった真希は、再び足を進める。
その足が次に止まったのは家の前に立ったときだ。
アパートの1階にある自分の部屋。
そのドアの横に黒い物体があった。
どこかほっとした。
心に空いた穴に丁度はまるものが見つかったから。
けれど、癪に障ったのも事実だった。
自分が彼女の存在に振り回されているようで嫌だった。
「おかえりなさい」
朝と何一つ変わらない笑顔であさ美は言う。
真希は答えずに、鍵を取り出した。
両手を空けるために肩に置いた傘が斜めになり、真希の視界からあさ美は消える。
傘を閉じながら家に入るとき、あさ美の顔をチラッと見た。
- 45 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 23:27
- びしょびしょに濡れた髪が額に張り付き、唇は青ざめていた。
涙なのか雨なのかわからない。
ただただ濡れていた。
黒いマントがテカテカと光り、水を吸い尽くして張り付いたそれは、立ち上がったあさ美の体のラインをくっきりと浮かべていた。
バタンと逃げるようにドアを閉めた。
見ていられなかった。
あさ美の姿を見ていると、胸が痛んだ。
だけど、閉じてしまったドアの向こうに感じる気配が、いっそう胸を痛めていることに真希はすぐ気づいた。
「ったく……なんなのよ……」
ぎゅっと拳を握った。
わけがわからなかった。
自分の考えと行動と気持ちが全部ばらばらだった。
- 46 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 23:27
- 紺野がいてもいなくてもどっちでもいい。
だけど、いないと寂しい。
おかえりなさいって言われて嬉しかった。
笑顔が、うれしかった。
だけど、ドアを閉めた。
私は家に一人でいたい。
だけど、一人になると苦しい。
紺野にいて欲しい。
だけど、いたら鬱陶しい。
私はどうしたい?
紺野を家にいれたい?
紺野と話したい?
話したくない?
ねぇ?
どうしてこんなに苦しいの?
答えはでている。
認めたくないだけ。
今まで、何度もそれで失敗してきた。
一時的な見栄とかプライドとか、そんなもののためにいくつものことを犠牲にしてきた。
守りたいものは、結局自分のそんなちっぽけなものだけ。
それでも、いいと思ってた。
思ってた。
だけど……そんな自分を変えたいと思わないわけはなかった。
- 47 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 23:28
- 耳に戻る雨の音。
ドアの隙間から見える黒い背中。
「風邪引くから中に入んな」
それが真希の精一杯。
振り返ったあさ美の頬と同じくらい、真希の頬は濡れていた。
- 48 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 23:28
- ◇
「おはようございます」
朝の光を感じるとともに、耳に飛び込んできた言葉。
「おはよ」
体を起こしながら、真希は言った。
だけど、目は合わせていなかった。
あさ美はベッド、自分は床で寝ている。
そのことにももう慣れ始めていた。
あさ美が来てからもうすぐ二週間。
一向に願いを言おうとしない真希にいらいらしているのかと思えば、催促する素振りもなかった。
代わりに、寝る時間を頂戴とか、おもしろいTV番組見たいとか、冗談交じりの願いを、真希はいつしか口にすることを止めていた。
どこか、お互いに触れてはいけない部分となっていた。
「願い」という言葉が、禁句になっていた。
ただの同居人。
そういった割りきりが真希の中にはあった。
いつまでいるのかわからない。
それでもいいと思ってた。
今までよりも、ちょっと家に帰ってくるのが楽しみになっている自分や、ちょっとお芋を使った料理を作る回数が多くなった自分が、嫌なわけじゃなかった。
その些細な変化は真希よりも周りの方が意外と気づいていて。
亜弥や梨華に「彼氏できたの?」とからかわれた。
その度に真希は「ペットを飼った」と返していた。
- 49 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 23:28
- 誰にも言っていなかった。あさ美の存在を。
本人から口止めされているわけでもなく、あさ美も真希がいない間、外出している形跡があるから、存在を隠そうとする意志が無いと考えられる。
とはいえ、「どこいってるの?」と尋ねても「お外を散歩していただけです」としか答えない。
本当なのか嘘なのか。
どちらにしろ、後をつけていく趣味も無いし、どっちでもいいことだから、真希は気にはしなかった。
しかし、真希がそれ以上に気になっているのは、あさ美の存在自体についてのことだった。
明らかにあさ美に対しての態度が他の誰かへのものとは異なっていること。
それに気づき始めたのはつい数日前から。
一旦気づき始めてしまえば、気になって仕方がなかった。
名前を呼ぶことさえ、亜弥や梨華の名前を呼ぶときと違うのでないかと考えてしまい……
「紺野」と名字で呼ぶことが、真希にできる唯一の抵抗だったのかもしれなかった。
- 50 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 23:28
- そう言った経験が真希には今までにないほど、子どもではない。
逆に、そういうことを子どもっぽくてバカみたいと思っていた真希だったから。
無理に押し殺してなんでもない風にしてきた真希だったから。
だから、認めたくないというのが本当。
自分がどうしてあさ美に惹かれているのかわからないから。
例え、その答えが用意されていたとしても、それを認めないであろうが……
「いってらしゃい」
「……うん」
にっこりと笑顔のあさ美と対照的に、消えそうな声で答える真希。
とはいえ、バイトにいく足取りが前よりも少し軽くなっている。
あの日以来雨は降っていないが、きっと雨の日だって、それほどいらいらせずに通勤できるだろう。
それがわかっているだけに、真希は最初の角を曲がると、立ち止まってアパートの屋根を振り返って見るのだ。
- 51 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 23:29
-
「だから、亜弥ちゃんはもう少し美貴ちゃんのことを考えてあげないといけないと思うよ」
着替えを終えて、バイトを始めようとすると耳に飛び込んできた言葉。
今日は、梨華と亜弥と3人の日だったなと、真希はシフト表を思い返した。
「だってさ……あ、ごっちんおはー」
「おはよ」
少し不満げだった顔が、真希の姿を見つけると、瞬時に完璧なスマイルに変わった。
「ちょっと、ごっちん聞いてよ。亜弥ちゃんたらさ」
そこからさっきの言葉が導かれるまでの過程を、梨華の口から聞くことになる。
平日のお昼前で、まだ店内に全然客が居ないから。
こうした立ち話も許容されているのだった。
- 52 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 23:29
- 梨華の話した亜弥と美貴の話はなんでもない痴話げんか。
自分の約束よりも大学の友達の約束を優先させた美貴に怒って、亜弥が自分も同じことをしたということ。
ただ、決定的に違うのは、美貴は友達の約束のほうが先に成立していたのに、亜弥は後から無理やり約束を入れたということだ。
亜弥がやったのはあてつけなのだから、明らかに悪いのも当然といえば当然だった。
そこで怒らずに一方的に謝れるほど、美貴は亜弥との付き合いが浅いわけでもない。
深いからこそ、美貴は亜弥の頬を叩いたのだ。
結果、亜弥は一方的に美貴を罵り、連絡を取らなくなって3日目。
「わかってる。悪いのは私だったよ……でもさ……」
亜弥は言う。
頭の冷えた今なら、自分が一方的に悪かったことくらいわかっている。
どれだけ悪いかわかっているからこそ、亜弥は美貴へとメールを送ることができなかった。
信じていないわけじゃない。だけど、それは確信ではなかった。
- 53 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 23:29
-
「そっか」
話を聞いた真希はそう言った。
少し安心している自分がいたから、できる限り表情には出さないように努めた。
真希の安心は、亜弥にもそういう失敗があるんだなってことに対して。
きっと、美貴は亜弥を許してくれる。
それは梨華も同じ。ちらっと美貴と会ったことのある二人でもそう思うのだ。
きっと亜弥と美貴を知っている人なら誰もがそう思うことだろう。
だけど、本人はそれを信じきれないでいる。
一番、美貴のことをわかっているであろう亜弥が、美貴を一番信じていなかった。
「大丈夫だよ。美貴ちゃんなら」
亜弥の肩をパンパンと叩いてあげる。
複雑そうな顔の亜弥。
自動ドアの開く音がしたのはその時だった。
- 54 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 23:30
-
「いらっしゃいませ」
反射的に3人とも声をだす。
だけど、亜弥は「しゃ」あたりで言葉が止まっていた。
丈の短いジャケットと薄茶色のシャツ。ジーンズに通した細い足。
肩にかからないくらいの長さでそろった髪。
長いまつ毛の奥の睨みつけるような鋭い瞳は、人から誤解を受ける唯一の欠点と言ってもいい。
奥に下がろうとする亜弥の背中を、梨華はポンと押した。
- 55 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 23:30
- >>44-54 今日の更新は以上です。
- 56 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/05(土) 22:02
- 良スレ発見
続きに期待
- 57 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:12
- 「いらっしゃいませ」
後ろに下がる真希と梨華に入れ違うように前に出て、亜弥は言った。
いつもの声とは全く違う、低くてこもった声。
視線をレジに向け、目を合わせようとすらしていなかった。
「チーズバーガーのセット」
メニューをチラッと見ただけで、そう告げた。
亜弥は、じっとレジの画面を見て、処理を進める。
チーズバーガーに、ポテト、飲み物はウーロン茶。
「あのさ、店員さん」
「はい?」
「美貴は、飲み物ウーロンにするなんて言ってないよ」
亜弥の手が止まる。
炭酸はあんまり好きではなく、こういうところのコーヒーは安っぽくて嫌だというのが、美貴がいつも言っていることだ。
だから、いつも美貴はウーロン茶を頼むのだ。
- 58 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:13
- 「失礼しました。お飲み物は何になさいますか?」
マニュアルどおりに言葉を読み上げる。
視線はいまだに合わせない。
頭を下げることもしない。
「ん、やっぱりウーロン茶」
「やっぱりそうじゃん!」
思わず反論して顔を上げる。
視線がぶつかった。
吸い込まれるような瞳。
いつも、自分だけを見てくれた瞳。
だけど、今はそれに見つめられるのが痛い。
逸らしてしまいたいと思う。
自分がその視線に耐えられないことは、十分にわかっていた。
- 59 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:13
- 「た……ん……」
「……さっさと帰ってきてよ。その……亜弥ちゃんいないと……つまんない」
二人のやり取りを、真希はウーロン茶を入れながら見ていた。
さっきまで、あれだけ怒っていたのに。
こんなに簡単に戻れてしまう。
藤本さんだから。亜弥ちゃんだから。
二人の姿をそれぞれ見る。
もし、もしも、亜弥ちゃんが自分なら。
紺野が、藤本さんなら……
今この瞬間、どこで何をやっているのかさえわからない彼女のことを思い浮かべる。
そう言えば、結局謝ってない。
なぜかそのままあさ美が自分と一緒にいるから、特に疑問を思わなかった。
けれどもよく考えてみれば、いつまであさ美は自分と一緒にいるんだろうか。
- 60 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:13
- 「"デューファー"は願いを一つだけ叶えなければなりません」
あさ美が最初に言ったことだ。
私が願いを言っていないから、彼女は私と一緒にいるだけなの?
それとも、彼女はどこかに行ってしまえるのに、私と一緒にいるの?
叶えなければならない、という言葉を冷静に考えたのなら、どちらの可能性のほうが高いのか、小学生の国語の問題だった。
だからこそ、真希は考えたくなかった。
かといって、あさ美に聞くこともできない。
もしも彼女の答えが、単に願いを叶えるためだけに自分と一緒にいるということだったら……
考えが深まりそうになり、ブンブンと首を振った。
あさ美のことを考えると、どんどんおかしくなる。
惹かれていくことに気づいているから認めたくない。
ただそれだけ。
子どもじみた意地を張っているだけだった。
- 61 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:14
- 「亜弥ちゃん、今日は暇っぽいから早く上がったら?」
梨華ちゃんが耳打ちしているのが聞こえた。
美貴は奥の席に座って、窓の外を見ていた。
注文したものは全て食べ終わり、飲み終えて氷ばかりになったウーロン茶を片手に持ち、ズルズルとストローで吸っていた。
「マネージャー、亜弥ちゃんお腹痛いそうです。病気かもしれないですー」
梨華の白々しいほどに甲高い声が聞こえる。
普段の勤務態度がモノをいうのか、それとも亜弥がみんなに好かれているからなのか。
マネージャーは二つ返事で亜弥に早退を促した。
すぐに着替えを終え、美貴と手をつないで店から出て行く亜弥の表情は、いつも真希や客の男子高校生にみせるものとは全く違う、落ち着いた笑顔だった。
そんな二人を見送った梨華と真希は、二人同時にふぅっとため息をついた。
梨華も真希も、お互いにある人の顔を思い浮かべたからだ。
梨華は、自分には釣り合わない人だと、あきらめようとしている人の顔を。
真希は、惹かれていることを認めたくないあさ美の顔を。
だが、二人とも亜弥に対してうらやましいとは思っても、それ以上の負の感情に変わることは無い。
二人とも、亜弥のような人間になれたのなら、自分たちが思い浮かべた人が、隣にいてくれるんだろうと思っていた。
自分たちは、亜弥ではない。
亜弥のようにはなれない。
それが、二人の心のブレーキでもあり、言い訳でもあった。
- 62 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:14
- そして、世の中はうまくいかないもので。
亜弥が去った後、思い出したかのように仕事が忙しくなる。
余計なことを考える暇もないほどに、目の前に次々と舞い込んでくる人の波。
「亜弥ちゃんの分、二人ともがんばれよ」
そう言ったマネージャーの口調から、亜弥が仮病だというのがばれていることを理解する。
これが日ごろの行いってやつなんだ。
真希は妙に納得した。
けれども、真希は気づいていない。
例え自分が、亜弥の代わりに仮病を使っていたとしても、マネージャーは同じように許してくれたということを。
真希は気づかない。
自分が思っているよりも、周りが自分を好きでいてくれるということを。
自分は一人、自分は何もできないなんて思い続けているうちに、真希は人の好意にひどく鈍感になっていた。
だから、気づかない。だから、恐れるのだ。
恐れるから人を信じ切れない。信じ切れないから、気づけない。
長い年月を経て構築された悪循環は、真希の全てを蝕んでいた。
- 63 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:14
- <3.Plea>
吐く息も白くなり、吹き付ける風は湿気と温度を失っていった。
赤く色づいた葉は、冬支度を始めるために次々とその身を地面に投げ出した。
寒くなると服を脱いじゃうものなんだ?なんてなぞなぞを、あさ美は投げかたことがある。
自分の腰くらいまでしかない女の子は、散々考えた後「わからない」って泣き出した。
懐かしい……
ふと、つい数ヶ月前にいた北海道の地を思い出す。
9月ごろから紅葉の始まるあそこは、どこか懐かしい空気を感じる場所だった。
デューファーであるあさ美は寒さを感じることは無い。
寒さも暑さも痛みも、感じることは無い。
一年を通して外にでればマントを身に着ける彼女は、目立つことこの上ないのだが、幸いにして願いを叶える対象にしか姿が見えないという点で、その問題はクリアしている。
- 64 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:15
- 「あさ美ちゃん、まだなの?」
落ち葉の絨毯に腰を下ろし、ぼーっと人のいない公園をみていた時、頭の上から声をかけられた。
「ん……もうちょっと……」
「だけど、もう1ヶ月近いんだよ」
木の上に座り、自分と同じ黒いマントを羽織った少女、高橋愛は言った。
「わかってる。もうちょっと……」
「もうちょっと」が1時間後なのか明日なのか、一週間後か一ヵ月後か、あさ美にはわからない。
ただ、「もうちょっと」という漠然としたことしか言えなかった。
周りの落ち葉が少し浮いたかと思うと、愛が自分の横に座った。
- 65 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:15
- 「後藤真希さん」
「……」
自分を見るあさ美の目が変化するのがわかった。
「……好きなの?」
ぴゅぅっと吹きぬけた風が、落ち葉をカサカサと鳴らした。
誰もいない公園で、ピンと張り詰めた夕暮れの空気。
その中を風とともに通り抜けた愛の問いかけに、あさ美は答えなかった。
好きという感覚がわからない。
一緒にいたい。後藤さんの願いを叶えてあげたい。
だけど、叶えて欲しくない。
叶えてしまえば、もう後藤さんには会えない。
後藤さんと一緒にいれば、願いは叶えられない。
私たち、デューファーって何?
願いを叶えるための存在。
それだけのもの。
だから、願いを叶えないといけない。
それに、願いを叶えないと、私たちは……
- 66 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:15
- 「私たちと人間が、恋なんてできるわけ―――」
「言わないで」
空気が乱れるほどの大声に、愛は驚いた。
ぎゅっとつぶったあさ美の瞳が、少しずつ開いていく。
まぶたの間に光る涙。
本人以上に、愛のほうが理解していた。
あさ美が真希を好きだということに。
それを確信したからこそ、愛は何も言えなかった。
自分にできるのは、泣いているあさ美の頭を撫でてやることだけ。
もし、この場に真希がいたのなら、もっと簡単にあさ美に笑顔を戻せるだろう。
そんなことを考えて、愛はいらだった。
- 67 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:16
- デューファーになった時から、ずっとあさ美を見てきた愛だからこそ。
ぶらっと現れて自分以上にあさ美の心を占有する真希に嫉妬を抱いていた。
デューファーでもないただの人間に。
願い事の一つもいえないただの人間に。
さっさと言ってしまえばいい。
そうして、さっさとあさ美の前から消えてしまえばいい。
デューファーは願いを叶えた人の前に現れることができない。
その誓いは絶対だ。
デューファーである以上、絶対にして破ることのできないタブーだった。
- 68 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:16
- 「紺野」
不意に聞こえた声に、あさ美の頭を撫でていた愛の手が止まった。
いつの間にか公園の入り口に真希が立っていた。
あさ美は、すっと顔を上げると、手の甲で涙をふき取って振り返った。
自分の手の中から、小走りで真希の方へと歩いていくあさ美。
その間、愛が見ていたのはあさ美の背中ではなく、真希の目。
そして、真希も愛の目を捉えていた。
「友達?」
「いえ、知り合いです」
あさ美と同じ姿をしていることから、愛もデューファーであることは容易に予想できた。
あさ美よりも背の高い真希だから、頭越しに愛を見ていられる。
「もうアルバイト終わったんですか?」とか「今日のご飯はなんですか?」といったあさ美の質問に受け答えしている間にも、視線は動かなかった。
視線を動かしたのは、振り返ったあさ美の顔を見た一瞬だけだった。
その一瞬であさ美の目の端が光っているのがわかった真希には、愛を敵視する理由が十分にできていた。
- 69 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:16
- 「後藤さん?」
「ん……行こうか」
自分を見ていないことに気づいたあさ美が弱々しい声を上げると、真希は愛に背を向けて歩き始めた。
そっと握ったあさ美の手は小さくて冷たくて。
体温の感じられない死人のような手だったが、真希にとってはカイロよりも暖かいものだった。
二人が去った後、愛は一人公園に残された。
もうこれ以上、ここにいる意味は無いのに、動くことができなかった。
自分よりも真希を選んだあさ美。
感づいていたことだが、改めて認識させられると苛立ちが募る。
そうした感情を爆発させることは無意味だ。
そもそも、そうした感情を抱くこと自体が浪費に違いない。
両手をパンと胸の前で鳴らす。
どの道、時間が経てばあさ美は自分のところに戻ってくるのだ。
一緒にいる時間は、確実に自分の方が長い。これまでも、これからもだ。
あさ美が願いを叶えさえすれば、もう真希と会うことはできないのだから。
- 70 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:16
- そこまで考えが及んだときに、愛はもっとも重大な事実に気づいた。
あの時はカッとなって気づかなかったことだが、カッとなった原因こそが一番重要なことだった。
真希に、自分の姿が見えていた。
その事実を今更ながらに認識した。
一人の人間に二人のデューファーが付くなんてこと、聞いたことも無かった。
それは、単純に確率の問題で起こりえなかっただけなのかもしれない。
この世にデューファーが何人いるか、愛は知らない。
そんなことは誰も知らないことだった。
けれども、明らかに人間よりも数が圧倒的に少ない。
愛が今までに出会ったデューファーは、両手の指で数えるほどなのだから。
だが、前例があるとかないとか、珍しいとかよくあることだとか、そう言った問題ではもうなかった。
実際に、真希に自分の姿が見えていたのだから、真希の願いを叶えなければいけない。
叶えなければ……自分の命が危ういのだから。
- 71 名前:_ 投稿日:2005/11/12(土) 21:18
- >>57-70 更新終了。あと2回の更新で終わります。
>>56 期待にこたえられるようにがんばります。
- 72 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/13(日) 00:46
- 更新お疲れ様です。すっげー惹きこまれる!
- 73 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/16(水) 19:40
- 更新お疲れ様です!
今後の展開がすごく楽しみです!
- 74 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:26
- ◇
「いってきます」
真希が愛に会ってから二週間ほど経っていた。
あの日以来、愛は真希の様子を観察していたが、接触することはなかった。
あさ美とは何度か話をしたが、結局平行線をたどるのみ。
「もうちょっとだから」
そのあさ美の言葉を信じて待っていた愛だったが、そろそろ限界だった。
何より、最近は自分の調子が少し悪い。
ぼーっと意識の飛ぶことがあるのが自覚できた。
自分でもそうなのだから、あさ美はもっとひどいのだろう。
真希を見送ってから部屋に戻るあさ美の後姿が、心なしか弱々しく見えた。
- 75 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:26
- 真希は、あさ美の変化には気づいていなかった。
真希にとっては普段からボーっとしていて考えの読めないあさ美だから。
例えぼーっとしている時間が少し増えたことに気づいても、さして気に留めなかっただろう。
タイムリミットは近い。
危機感を感じているのは愛だけだった。
- 76 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:27
- バイト先のショッピングモールは、先週からクリスマス仕様に変わっていた。
平日の昼という人がそれほど多くない時間帯での、きらびやかな装飾が妙にアンバランスだった。
クリスマスとはいえ、ファーストフード店では何か変わるということは無い。
メニューもいつもどおり、人の流れもいつもどおり。
店内に装飾がなされるくらいで普段と変わらなかった。
それは、真希にとってもそうだった。
クリスマスとかいう行事には、長らく参加した覚えが無かった。
ケーキを買うわけでもなく、プレゼントを貰うわけでもなく。
ただのバイトが少しだけ忙しい日。
そう言った認識だった。去年までは。
- 77 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:27
- 「ごっちんさ、プレゼントとか買わないの?プ・レ・ゼ・ン・ト!」
亜弥は最近ずっとこんな調子だった。
クリスマスに浮かれている女子高生といった表現がぴったり当てはまった。
まだ一ヶ月近くも先なのに、今から浮かれていて大丈夫なのかと真希は疑問に思ったが、本人が言うには「楽しいものは長く楽しんだほうがいいじゃん」ということらしかった。
「亜弥ちゃんらしいね」
真希は自分がそうコメントしたことを覚えている。
亜弥らしい。全てはそれで片付けてしまえた。
「ん……プレゼントなんて何年も買ってないよ」
「嘘?あげる人いないの?ねぇ?」
「あげる人……」
思い浮かぶのはあさ美の顔だった。
- 78 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:27
- 「あ、いるでしょ。ほら、いるんだ。いいなーごっちん」
「そんなんじゃないよ」
「まぁまぁ。じゃさ、今日バイト終わったら買いにいこ。私もたんの買いに行くからさ」
「いや、買いに行くとか言ってないし」
「いいお店知ってるからさ。はい、決まり。じゃー後でね」
そんな経緯で、真希の手元にはプレゼントの包みがあった。
中身は雪の結晶をモチーフにした、ビーズの小さなペンダント。
亜弥の勢いに押されて買ったというのは、自分を納得させるための言い訳に違いない。
包みが折れないよう、カバンの一番上にそっと入れていた。
その帰り道だった。愛が真希の前に現れたのは。
- 79 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:27
- 「後藤さん」
愛が声を掛けたのは、バイト先と真希の家の中間地点だった。
あの時の公園に近い、大きな道路に面した歩道だった。
もちろん、真希は愛のことを覚えていた。
あの日以来あさ美も真希も愛のことについて話すことはせず、忘れかけていた存在であったが、特徴的な黒のマントがすぐさま記憶を呼び起こした。
「何か用?」
できる限り敵意を隠して尋ねた。
- 80 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:28
-
「私はデューファーです。あなたの願い事を一つだけ叶えなければなりません」
「じゃあ、私の目の前から消えてくれる?」
「それは私には叶えることができない願いです。尤も、そんな口先だけの願いしかできない人の願い事なんて叶えるにも値しませんが」
「何が言いたいの?」
「あさ美ちゃんをいつまでそうしておくつもりですか?」
「あんたには関係ない」
「関係ありますよ。だって、私たちデューファーは―――」
- 81 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:28
- ◇
「紺野、ご飯できたよ」
湯気の立つコロッケを大きなお皿に並べながら、真希は言った。
あさ美がお気に入りということで、最近は週に1度はこれを作っているだろう。
そのせいか、コロッケを作る材料だけは冷蔵庫に常に揃っているようになった。
「しまった……キャベツ買ってくるの忘れた」
お皿に盛り付けた段階でそのことに気づいた。
殺風景にお皿に並べただけのコロッケが、妙に寂しかった。
それもこれも、愛に出会ったせいだった。
愛からの話を聞き、考え事をして帰ってきた真希は、買い物をするのを忘れていた。
彼女の話が信じられないって思いはあった。
だけど、完全に否定しきれなかったから……決めなければいけない。
自分たちのこれからと、自分の願いを。
- 82 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:29
- 「紺野ー」
返事が無い。やってくる気配も無い。
声が届かないほど広い家のはずがない。
なのに、返事が無い。
「紺野?」
声は、部屋の中に響くだけ。
それはまるで、一人暮らしの人間がする独り言のように。
むなしく響く音が、孤独をいっそう強めていった。
心臓の動きが早くなる。
嫌な予感というものは、こういうものなんだと思った。
そして、それは間違いなく当たってしまうものだった。
- 83 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:29
- ベッドにもたれかかるようにしてうずくまったあさ美。
真希の呼びかけにも少しも反応しない。
蒼白の顔とぴたりと閉じられた瞳。
氷のように冷たい体。
かろうじて上下している胸が、生きていることを知らせる唯一のシグナルだった。
真希は、べっとりと自分の背中にシャツが張り付くのがわかった。
あさ美をつかむ手は震え、喉からでる音は、言葉にならなかった。
救急車を呼ばないといけない。
そう思えただけでも、奇跡的だった。
携帯を探すが、なかなか見つからない。
いつも携帯を置いているテーブルの上には、お茶碗とコロッケのお皿しかなかった。
コロッケのお皿を置くために、椅子の上に移動させたのだ。
だが、そんなことを思い返す余裕は無かった。
携帯を探すために乱暴に払ったお皿のコロッケは、床に落ちてクシャっと衣が破れた。
- 84 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:29
- 「何やってるんですか」
その時、怒気をたっぷりと含んだ言葉が、真希の耳に届いた。
振り返ると見えたのは愛。
「紺野が……紺野が……」
「私は忠告しましたよ。あなたが悪いんです。あなたが、もっと早く願い事を言っていれば―――」
淡々と語られる言葉。
言い終わるのを待たずに、真希は告げた。
「お願い。紺野を、紺野を助けて」
- 85 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:29
- ◇
- 86 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:29
- ◇
- 87 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:30
- ◇
- 88 名前:_ 投稿日:2005/11/17(木) 16:32
- >>74-84 次回でこのお話はおしまいです。日曜くらいには更新します。
>>72-73 あと一回の更新で最後になりますが、読んで頂けると幸いです。
- 89 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:42
- <4.Desire>
真っ暗闇の中で、あさ美は目覚めた。
体の上の乗っている布団と、背中に感じる柔らかな感触で、ベッドに寝ていることを理解した。
そう、私……
思い出そうとするが、記憶があやふやになっていた。
後藤さんが帰ってきて……そう、ご飯を待ってて……
時計を見る。
デジタル時計の3という文字が見える。
それが昼間ではなく夜中だということは、窓から差し込む光が無いことでわかった。
- 90 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:42
- 私、寝ちゃったんだ……後藤さんは……
ベッドから降りようとすると、足に何かが当たった。
ようやく慣れ始めた目で見てみると、誰かがいるのがわかった。
いや、誰かではない。この部屋にいる可能性があるのは一人だけだった。
後藤さん……
両腕を枕のようにして眠っている真希。
起こさないように、あさ美はゆっくりとベッドから体を下ろし、部屋の電気をつけた。
「ん……紺野?」
「あ、起こしちゃいました……ごめんなさい」
「紺野?紺野、無事だったんだね」
「無事?」
続く「死んじゃうかと思った」という言葉で、あさ美は理解した。
自分が倒れたことを。
- 91 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:44
- でも、どうして私は、今は大丈夫なの?
疑問がいくつも頭に流れ込んできたが、突然顔に感じた真希の髪の感触に全て吹き飛んだ。
「ご……とう……さん」
ぎゅっと回された両手。
全身で感じる真希の体温。
あさ美が欲しいと言えずにいたものだが、手に入ってしまうと、何も考えられなかった。
思考が完全に凍結したあさ美は、壊れたカセットのように断片的な言葉しか発することができなかった。
――関係ありますよ。だって、私たちデューファーは人の願いを糧に生きているんだから――
「ちょっと早いけど、紺野にクリスマスプレゼントをあげるね」
体を離した真希は、カバンの中から包みを取り出した。
- 92 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:44
- 「あ……りがとうございます」
消え入りそうな声で、あさ美は礼を言って受け取り、チラッと真希の目を見る。
「開けていいよ」と言う代わりに真希は頷いた。
――私たちの正体は人間が幽霊だと思っているものです。志半ばで死んだ少女の思い。それが私たちなんです――
「わぁ綺麗」
包みから取り出されたそれを目の前に掲げるあさ美。
真希はそれを手にとってあさ美の首につけた。
「うーん、やっぱり黒のマントじゃ目立ちすぎちゃうな」
「そんな……選んだのは後藤さんでしょ」
「いや、わかってたんだけどさ。やっぱり……うーん」
「いいです。後藤さんがくれたものだから、大事にしますよ」
にっこり微笑むあさ美から、真希は目を逸らした。
これ以上、あさ美を見ているのが、真希にはつらくなっていた。
- 93 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:45
-
――生きていた時の記憶なんてない。だけど、願いを叶えられなかった私たちは、願いを叶えたいという、人の思いで生きている。そして、その思いの力で願いを叶えることができるんです――
「願い事、できたんだ」
真希はポツリと言った。
水面に水を一滴だけ落としたような、静止した時間を乱す言葉だった。
「でも……」
「言わないでください」とは言えなかった。
真希が願いを言えば、一緒にいられなくなるのだから。
だけど、真希の願いを叶えてあげたいとも思う。
だから、喜ばなくてはいけないことなのだ。
自分が、真希の一番望むことをしてあげられるのだから。
浮かんでくる涙を必死にこらえ、あさ美は真希の願いが告げられるのを待った。
- 94 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:45
-
――だから、あさ美ちゃんのように、数ヶ月の間、願いを叶えないデューファーは命をつないでいくことができないんです――
「私のことを」
あさ美は、自分に力が集まってくるのがわかった。
今の真希の願いなら、叶えることができる。
そう言った確信がもてるほどに、大きな力を感じることができた。
「私のことをね……」
再度、真希は言った。
頬に涙がつたう。
言わなければいけないことは他にもある。
だけど、真希は言わなかった。言えなかった。
答えを聞きたくなかった。だから……真希は願うのだ。
あさ美が、これからもデューファーとして生きていくために。
そして、自分が淡い期待を抱かないために。
- 95 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:45
-
「全部忘れて」
- 96 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:46
- ◇
その日は雨だった。
天気予報では、高気圧に押し上げられた前線の影響だとか、説明を始めた途端、プチンとTVの電源が切られた。
「あーあ、今日は雨か」
雨の日のバイトも悪くないなんて思うようになったのは、いつからだろう。
冷蔵庫の中に、コロッケを作る材料だけはいつも欠かさずにあるのは、いつからだろう。
その答えを、真希はそっと心の中にしまった。
バイトに行けば、変わらずに亜弥がいて梨華がいて。
家に帰ってくれば、一人で部屋にいる。
何も変わらない生活の中で、変わり始めてきたこと。
ほんのささいなことだけど、それがあさ美が真希に残したことだった。
手に持ったカバンの口から見える調理学校のパンフレット。
それも、彼女が残してくれたものかもしれなかった。
- 97 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:46
-
「好きだよ」
ポツリと真希はつぶやいた。
決して届くことの無い思いだけど。
届くことが無いとわかってから、ようやく認めることのできた思い。
忘れてしまえば楽だけど、忘れたくない思い。
心から願う事。
誰かのために。自分のために。
その思いは、大きな力になるって教えてくれた彼女への、思い。
- 98 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:47
- ◇
少し肌寒い風と暖かくなり始めた日差し。
桜がようやく花を咲かせる準備を始めた頃、彼女はお昼休みに出会った。
黒いマントを身に着けた女の子に。
「私はデューファーです。あなたの願いを一つだけ叶えることができます」
言い終えたデューファーの胸元に、春の日差しが反射してキラリと光った。
- 99 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:47
-
「デューファー 第一部 完」
- 100 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:47
- ◇
- 101 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:48
- >>89-100 以上でこのお話はおしまいです。
- 102 名前:_ 投稿日:2005/11/20(日) 21:52
- レスをくださった方、読んでいただいた方、ありがとうございました。
また時間が出来れば何か書くかもしれませんし書かないかもしれません。
書くとすれば、このお話の別のストーリーになるか、それとも全く別の同じくらいの長さのお話になると思います。
- 103 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/21(月) 00:08
- んああああああー!!切ない・・・
作者様、すんごく感動しました。
次回作も期待してお待ちしてます。
あ、でもご無理はなさらぬよう。
- 104 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/21(月) 15:54
- 完結おめでとうございます!
良かったです。
もし次回作書かれるのならまた読ませてください。
- 105 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/25(金) 01:24
- 目頭が熱くなりました。よかったです。
- 106 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/28(月) 00:35
- 今日はじめて読みました。
よかったです。素敵なお話ありがとう!
次回作。気長にまっています。
- 107 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/05(月) 06:31
- 完結お疲れ様です
最後まで惹きこまれました
よかったです
- 108 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 03:51
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
- 109 名前:_ 投稿日:2005/12/31(土) 14:32
- >>103-107
たくさんの感想を頂き、嬉しい限りです。ありがとうございます(平伏
次作ですが、1月の下旬くらいにはUPしていけたらと思っています。
今年一年お世話になりました。来年もぜひともよろしくお願いします。
- 110 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/12(木) 09:37
- あけましておめでとうございます。
デューファーすごく感動しました。
次回作も楽しみにしてます。
- 111 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:05
-
"Dewphr" must grant only one wish.
("デューファー"は願いを一つだけ叶えなければならない)
"Dewphr" must never meet the person who granted the wish.
("デューファー"は願いをかなえた人と決して会ってはいけない)
"Dewphr" must ....
("デューファー"は...)
- 112 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:05
-
デューファー 第二部 「Snow」
- 113 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:08
- <1.snowfall>
音が消えた。
その瞬間だけ、音が消えた。
音だけじゃない。
目の前の景色も何もかもが消えた。
数秒、いや、あさ美にとってはとても長い時間だっただろう。
それは、恐怖に近かった。
何も感じることの無い世界が突然に訪れたのだから。
だけど、頭だけは冷静に考えている。
この時間が終わった後に自分に降りかかる激痛のことを考えていた。
- 114 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:08
- 雪が大地をすっぽりと覆いつくし、暦の上での春の接近はこの北の台地には無縁なものだった。
大地を溶かす太陽も寒さから逃げるように地平線の向こうへと消えていき。
変わりに空から落ちてくるのは真っ白な贈り物。
それらは木々や電線に体を預けては不意に落下し、不意に不気味な音を響かせる。
そんな北海道の冬。あさ美は一人でベッドにいた。
雪を思わせるような真っ白なシーツと布団の中に、体を起こして座っていた。
窓の外は真っ暗だというのに、あさ美は寝ることはしなかった。
かといって、本を読むでもなく、TVを見るでもなく。
文字通り座っていた。
ぼーっとした目で、ただただ座っていた。
それが、睡眠不足のせいであることを、あさ美は薄々感づいていた。
人間にとって一番の休息は睡眠だ。
ご飯をいくら食べたとしても、体力は回復しないのだ。
- 115 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:08
-
けれども、あさ美は寝るのが怖かった。
あの時の状況を何度も何度も夢に見た。
それが、あさ美の熟睡を阻んでいた。
幸いにして個室だから、病院の消灯時間は問題なかった。
年頃の女の子だからと、両親が気を利かせて個室に入らせたから。
だが、それが逆にあさ美に思考の時間を与えている結果となる。
電気がついている事に気づいた看護士がやって来て、あさ美に寝るように促し、ようやく横になる。
横になったとしても、寝ることには直結するわけではない。
何かを見ていたわけではないあさ美には、闇というものはさして意味が無い。
目が慣れるまでの暗闇に、あさ美は怯えることは無い。
心の問題だ。
闇が怖いのではなく、目を閉じるのが怖いのかもしれなかった。
次第に月明かりが差し込む部屋に目が慣れる。
あさ美は今日もまばたき以外は目を閉じずに一日を過ごした。
- 116 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:08
- ◇
十字靭帯断裂と半月板損傷。
一昨日、あさ美に告げられたのはそれだった。
手術後一ヶ月の入院と、それに伴うリハビリ。
それでも、完治するかどうかといったところ。
スポーツは趣味の範囲と考えてもらった方がいいというのが医者の意見。
そのことを聞いた時、あさ美は泣くことは無かった。
それは、決して悲しくないからではない。
あさ美が中学の3年間と高校2年間を費やしてきたものは陸上競技。
それも長距離走だった。
昨年の全国大会では惜しくも4位だったが、それでも決してスポーツに重点を置いているわけではない公立の高校にとっては、快挙といって差支えが無いものであった。
実際にあさ美に先着した3人は有名私立校の3年生だったのだから。
だからこそ、3年生として臨むことのできる今年こそはと練習に励んでいた、その矢先の事故だったから。
あさ美は泣くことすら出来ないほどにショックだったのだ。
- 117 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:09
- 誰が悪いというものではない。
運が悪かった。
そういうしか無いような事故。
教室移動中に忘れ物に気づき、自分の教室に走って取りに帰ったとか、地面が濡れて滑りやすかったとか、たまたまそこに段があったとか、角のラバーが禿げて鉄がむき出しになっていたとか、そこに丁度膝を打ち付けたとか。
偶然がいくつも重なっただけのこと。
それでも、あさ美の選手生命を奪ってしまえるのだ。
恨み辛みを言う相手がいるのなら、少しは気が晴れたのかもしれない。
相手を罵りながら、涙を流せたのかもしれない。
だけど、恨む相手は自分しかいない。
自分が足を滑らせたこと、それが全てなのだ。
ぼーっとした目で今日も変わらずベッドの上に座るあさ美。
両親は仕事だから、夜にならなければ来ない。妹も今は学校だ。
携帯電話はベッドの傍に置かれたまま。
ときどきそれが揺れてはいるが、大半が友達からのメールだとわかっているから、あさ美は出ることは無かった。
どうでもよかった。
自分が死ぬことさえも、問題ないように思えた。
走れないことが、嫌だった。
- 118 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:09
- 走り始めたのがいつからとか覚えてない。
気づけば学校で一番で。北海道で一番で。
そして、一番であることを必要とされた。
一番であるために毎日走り続けた。
それでも、やっぱり自分は走ることが好きだったんだと、今になってわかる。
だからこそ、走ることの出来ない自分は、自分ではないと、あさ美は思った。
「そんな目してると、ほんとに死んじゃうよ」
空耳にしては、はっきりと聞こえる声だった。
この部屋には自分以外に誰もいないはず。
少なくとも、ドアは開いていないはずだった。
いくらあさ美がぼーっとしていたとしても、ドアの方に視線を向けてはいるのだから、誰かが入ってくれば気づくはずである。
けれど、声が聞こえたのは逆側。窓の方からだった。
- 119 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:09
- 振り返ったあさ美は心臓が飛び出しそうなほどに驚いた。
そこには、人が立っていた。
モデルのように整った顔と、全身を覆う黒いマントが、窓越しに背負った雪景色の前で際立っていた。
「あ……あの……」
「あー怯えないでね。別にごとーは取って食ったりしないから」
笑みを浮かべてあさ美を見る。
どこかぎこちなく、だけど可愛さを含む笑みだった。
「ごとーさん……ですか」
「そうそう、ごとー。普通の後藤だよ。後ろの藤ね、ごとー」
宙に向かって指を動かしてはいるが、真希は自分の側から書いているのだから、言葉以外ではあさ美には少しも伝わっていなかった。
- 120 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:10
- 「あ、あの……」
「うん、知ってる。紺野あさ美さんね。17歳の高校2年生。自己紹介はいらないから」
ついと差し出された一本の指。細くて長い指。
なぜそんなことを知ってるのかと疑問に思うが、有無を言わさない何かがそこにあった。
まるで地球が丸いのと真希があさ美のことを知っているのが同義であるかのようだった。
「あの……」
「あの、って多いよね」
「すいません」
「すぐ謝るし」
すいませんともう一度口から出そうになるのをグッとこらえた。
「もっと自信持てば?走ってる紺野はもっともっと自信ありげで、格好い……」
「もう走れませんから!」
真希の言葉をさえぎるようにあさ美は叫んだ。
初めてかもしれない。
自分が走れないということを口に出したのは。
- 121 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:10
- 「走れないからって、ウジウジいじけてるんだ」
「あなたには関係ないです」
「関係ないけどさ。ウジウジしてたら治るものも治らなくない?病は気からって言うでしょ?」
「お医者さんが無理って言ったんです」
「お医者さんは神様じゃないよ」
「だけど、あなたよりは知識があります」
「あ、確かにそだね」
ぽん、と手を叩く真希。
突然ゼロになった勢いに、あさ美は思わず噴出した。
一生懸命に膨らませていた風船が突然割れたような、そんな滑稽さがあった。
数日振りにあさ美は笑った。
表情を緩めたのすら、病院に来てから初めてだった。
そんなあさ美を、真希は何も言わずにジッと見ていた。
- 122 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:10
-
「笑ってたほうが可愛いよ」
真希は、ひとしきり笑い終えたあさ美にそう告げた。
可愛いなんて言われるのは小学生以来だった。
それも、親戚の伯母さんが言ってくれただけ。
自然と顔が熱くなった。
それを悟られないように、あさ美は下を向いた。
「絶対に治してあげるから。私が、絶対にね」
そっと手をとられ告げられる。
雪のように冷たい手だった。
けれども、言葉は夏の日差しのように力強く、暖かく。
さっきまでとは違う、確かな説得力があった。
顔を上げて、目をジッと見る。
決して大きくは無いが、吸い込まれそうなほどに真っ黒な瞳。
そこに映る自分と目が合った。
- 123 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:11
- 「また、来るね」
真希はにこりと笑う。
黒いマントを少し引きずりながら、ドアから出て行った。
パタンと閉められたドア。
夢だったんじゃないかと思う暇もなく、ドアがすぐに開いた。
「後藤さん」と口にでそうになるが、入ってきたのは対照的に白衣に身を包む看護士さんだった。
「食事の時間ですよ」
顔はにこやかにわらってはいるものの、どこか自分を警戒していることを感じた。
当然だ。
まだ入院して二日ほどしか経っていないが、自分が問題児でないわけがないとわかっている。
夜も寝ない、ご飯も食べない。
看護士さんも、仕事じゃなければやってないと、あさ美は思う。
- 124 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:11
- 「ありがとうございます」
当たり前のように答えたつもりだった。
クラスメイトがプリントを自分の分まで取ってきてくれたら、ありがとうという。
その程度の当たり前の受け答え。
だけど、自分がここにきてやっていなかったこと。
だから、看護士さんの表情が一瞬驚いた後に、ぱぁっと明るくなるのも当たり前のことだった。
味が薄くて、少量のご飯だったけれど。
久々に食べるあさ美にとっては、十分に美味しいものだった。
- 125 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:11
- ◇
「ごっちん」
病院を出たところで後ろから呼び止められる。
「ん、まっつーか」
「ん、じゃない」
頭をこつんと小突かれる。
そのまま、足を止めずに並んで歩く。
雪の上を歩いているが、足跡はつかない。
真っ白なキャンパスを汚すことなく歩いていく二つの黒。
道行く人も、彼女たちの存在に気づいていない。
真希に負けず劣らず、亜弥も整った顔をしているから。
二人が歩いていて周りの視線を集めないわけはないであろうのに。
- 126 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:11
-
「調子どう?」
「ぼちぼちでんなー」
「まっつーって関西人だっけ?」
「そだよ。いっつもそうゆーてるやんか」
わざとらしく使われた関西弁は、真希がTVで耳にするものとどこかズレていて。
本当に関西人かどうかは怪しい。
そもそも、真希は自分の生まれを知らない。
生まれた頃の記憶がない。
いや、記憶はあるはずだと自分では思っている。
何も思い出せない。気づけば真希は今の真希であって。
そう、霧の中闇雲に歩いて森を抜け出たように。
森を通ってきたことということはわかるのだが、どの道を通ったとか、どんな草木があったとか思い出せないのだ。
- 127 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:12
- 「で、ほんとのところはどうなのよ?」
「まぁ……うん……」
「女の子だっけ?」
「そう……4月から大学に行くから、ここを離れるんだって」
「ふぅん」
「ごっちんは?」
「ん?」
「あの子に会いに行ってたんでしょ?」
あの子があさ美を指していることはすぐにわかる。
否定する理由もないから、真希は頷いた。
「よかったじゃん、ずっと気に掛けてた子でしょ」
亜弥は知っている。
真希が去年の全国大会の中継を見ているときから、あさ美に興味をもったことを。
どこか真希には似つかわしくない北海道って土地に留まっているのも。
あさ美が走っている姿を見たいからであり。
放課後に走るあさ美の姿をじっと見ている真希の姿を、亜弥は数回見かけている。
- 128 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:12
- けれど、真希は頷かなかった。
自分と関わりのない方がよかったと思っているから。
元気に走ってくれればそれでいい。
自分は見ているだけでよかったのだから。
それに……会ってしまったのなら、絶対に別れが訪れる。
別れてしまえば、もう二度と会うことはできないのだから。
そう、自分はデューファー。
あさ美は、人間なのだから……
- 129 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:13
-
- 130 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:13
-
- 131 名前:_ 投稿日:2006/01/22(日) 22:13
- >>111-128 更新終了です。
遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。
>>110 ありがとうございます。次の作品もそう思っていただけるようがんばります。
- 132 名前:名無し猫 投稿日:2006/01/23(月) 10:43
- 更新おつかれさまです。
第二部開始うれしいです♪
今回のこんこんとごっちんも楽しみです。
- 133 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/25(水) 23:45
- うわぁ、また切なげな感じですね
第二部もいきなり引き込まれてしまって次回の更新が
待ちきれません
- 134 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:02
- ◇
一週間が過ぎた。
決して真希の言葉を信じたわけではない。
だけど、毎日のように訪れる真希のせいで、あさ美が変わったのも事実で。
夜にぐっすり眠ることができるようになった。
友達の励ましのメールにも目を通したし、お見舞いに来てくれた友達とも話すことができた。
そして、あさ美の体調が戻ったこともあり、明日に手術を行うことになった。
決して難しいものではない。
それでも、物々しい文章で書かれた同意書を目の前にすると、不安になってくる。
リハビリ次第で80%くらいには戻るからと医師は言う。
それが何の慰めにもなっていないことは医師にもわかっていた。
母親が署名をするのをじっと見ていると、涙がこぼれそうになるから。
あさ美は目を逸らし、窓の外を見た。
昨夜からの雪はすっかり止み、太陽が雲の間から覗いていた。
この雪が融けるころには自分は走れるようになる。
真希の顔を思い浮かべる。
- 135 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:02
- 今日も、来てくれるのかな。
今日は、会いたい。
そう思った。
後藤さんが来てくれたなら。
大丈夫だよって言ってくれたなら。
きっと私は安心して眠れると思う。
母親が夕飯の支度をするために家に帰り、日もすっかり落ちた頃、あさ美の望みどおり真希はやってきた。
「明日、手術なんです」と言うあさ美に、真希は「無事に終わるといいね」と答える。
それから、いつもどおり他愛もない話を始める。
話すのはもっぱらあさ美の方。
話すことがあまり得意ではないあさ美だったが、真希がうまく尋ねることで色々なことを話していくのだった。
そして、質問はするけれども自分のことを話すことはしない真希。
「後藤さんはどうですか?」と振られても、適当な受け答えで濁すだけだった。
年はいくつかと聞かれれば、「紺野より少し上」と答え。
どこに住んでるのかと聞かれれば、「この近く」と答える。
退院したら行ってもいいですか?と聞かれれば、一瞬言葉に詰まってから「うん」と答えるだけのこと。
- 136 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:02
- あさ美と話しているのは楽しい。
だけど、合間合間に感じる自分との違いに、真希は胸を痛める。
どうして、私なんだろう。
私以外のデューファー、そう、まっつーならよかったのに。
彼女が紺野の足を治してくれたのなら。
私は今までどおり、紺野をずっと見ていることができたのに。
出会ってしまったから。
会話をしてしまったから。
タイムリミットができてしまったから。
神様は残酷だ。
もう会えなくなるのに、どうして私と紺野をこんなに近づけたの?
だから、私は言い出せない。
もう一度走りたいと私に向かって強く願えば、足が治ることを。
紺野と別れたくないから。
もう少し、紺野と一緒にいたいから。
- 137 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:02
- 「後藤さん?」
「ん、あぁ……ごめんごめん、ちょっと考え事してた」
笑顔を作って答えるが、あさ美とは目を合わしていなかった。
目を見るのが怖かった。
自分が紺野を騙してるんじゃないかと罪悪感をおぼえるから。
「後藤さん」
「何?」
「もし私の足が治ったら、試合見に来てくださいね」
「試合?陸上の?」
「はい」
「……ん、わかった。約束ね」
胸が痛んだ。
目の前で喜ぶあさ美。
走れることはない。
真希は知っている。
あさ美のいないところでの母親と医師の会話を聞いたから。
リハビリをしても、長距離という足の負担を強いるものはもうできない。
それほどまでに、あさ美の怪我は重いものだった。
あさ美に告げれば、彼女はまたふりだしに戻ってしまうかもしれない。
「絶対に治るんです」と、あさ美が看護士にうれしそうに語っていたことも、ナースステーションでの看護士同士の会話で真希は知っているから。
- 138 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:03
- だからこそ……
走る時のことを話すあさ美の目は輝いている。
本人が思っている以上に走るのが本当に好きなんだなって見ていればわかる。
だから、告げなければいけないのかもしれない。
自分がデューファーだということを。
わかってる。
言わなきゃいけないことはわかってる。
あさ美の病室をでて、廊下を歩く。
途中であさ美の母とすれ違ったが、向こうは気づくわけもない。
真希の会釈はサラリと流された。
「言わなきゃ、いけないんだけどね」
外に出ると、いつしか雪が降ってきた。
黒のマントにつもる雪を払おうともせずに、真希は歩き続けた。
- 139 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:03
- ◇
あさ美の手術は成功した。
機能が完全に回復はしないのだから、それを成功と判断していいのかどうかはわからないが、医師の想定どおりに済んだということは確かだった。
包帯を巻かれ、完全に固定されたままで、すぐにはリハビリを開始できないけれども、あさ美に落ち込んだ様子は無かった。
かといって、周りが痛々しいと思うほどの空元気でもなく。
あさ美はただただ信じていた。
宗教といっても間違いではないかもしれないほどに、真希の言葉を信じていた。
もちろん、真希も自分を見るあさ美の視線に気づいてはいるが、いまだに言い出せていなかった。
怖かった。
別れるのが怖いと、真希は自分では思っていた。
二度と会えなくなるのが怖いと。
- 140 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:03
- けれど、本心は違っていたのかもしれない。
あさ美が自分を捨てることが怖かったのかもしれない。
足が治るのと引き換えに、自分とは会えなくなると告げても、あさ美は何の迷いも無く足を治すことを選ぶんじゃないか。
足が治れば、すぐに自分のことを忘れてしまうんじゃないか。
その恐怖が強かった。
見ているだけでよかった。
近づいたが故に、求めてしまうから。
求めてしまうから、裏切られた時に余計に傷つくのだから。
- 141 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:03
- 「明日からリハビリを始めるんです」
あさ美がそう告げたときが、真希の中でのリミットだった。
最近、あさ美と話していても、自分の意識が飛んでいる瞬間が何度かやってくる。
もう、長くは持たないかもしれないと、真希は思った。
だからと、何度も言おうとするが、言葉はでなかった。
どうして今まで黙ってたんですか?と尋ねられれば、答えられない。
どうしてもっと早く治してくれなかったんですか?と問われれば、答えることはできない。
「紺野と一緒にいたかったから」なんて、自分のエゴだ。
言ったところで紺野に拒絶されたらおしまい。
逆に、万が一「私も」と言われたところで、待っているのは別れだけ。
考えれば考えるほど袋小路に迷い込んでいく。
結局、真希は今日も他愛も無い会話を終えて病院をでるのだった。
- 142 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:04
- 雪はまだまだ解ける気配すらみせていなかった。
傾いた夕日それを橙色に染める。
伸びた真希の影の先に、同じ黒いものが立っていた。
夕日に照らされた彼女はじっと真希を見ている。
いつもと様子が明らかに違うことに、すぐに気づいた。
何も言わないまま、近づいていく。
近づくにつれて、彼女が涙を浮かべているのがわかった。
「終わったの?」
肩をポンと叩いて、真希は尋ねた。
終わった。
願いを叶えたということ。
自分よりも一月ほど早く相手が見つかった亜弥。
最初の頃はよく話を聞いてた。
亜弥がその子のことが大好きだっていうことは、話を聞いていてわかった。
一度だけ見たことがある。
自分が見えていないはずなのに、鋭い目つきで睨まれたからよく覚えている。
亜弥が言うには、いつもそうだという。
思ったことをズバズバと言う性格や、目つきの悪さで誤解されていると。
- 143 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:04
-
「でも、私に対してはすっごく優しいんだよ」
そう言った亜弥は幸せそう笑った後、表情を曇らせた。
今なら、その時の亜弥の気持ちがよくわかる。
そんな亜弥が答えを出したのだ。
次は自分の番だと、真希は覚悟しようとしていた。
だけど、現実は違った。
亜弥は真希の問いかけに首を横に振ったのだ。
- 144 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:04
- 「どういう……こと?」
「いつからだろうね、私がごっちんとこうやって話すようになったのは」
「さぁ……」
「ありがとう。ごっちんがいてくれて楽しかった」
「まっつー?」
「バイバイだよ」
にこりと亜弥は笑いかける。
- 145 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:04
- 「ちょっと……訳わかんない」
「規則なんてさ、破るためにあるんだよ。だけど、破った人が捕まったら罰を受ける。私は、捕まらずに逃げてやるんだ。絶対に」
「意味わからないよ、全然」
「わからない方がいい。きっと、ごっちんは悩んじゃうから。だけどね、最後にお礼だけ言っときたかったの」
「まっつー……」
「ごっちんも、幸せになって」
「バイバイ」と最後にもう一度言って、亜弥は走り去った。
そして、真希はこの先、亜弥の姿をこの街でみることはなかった。
- 146 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:05
-
- 147 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:05
-
- 148 名前:_ 投稿日:2006/02/04(土) 01:07
- >>134-145 更新終了です。
あと二回くらいの予定です。
>>132 引き続きお楽しみいただけるとうれしいです。
>>133 ありがとうございます。できるだけ早く書けるようにがんばります。
- 149 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/09(木) 17:25
- 一気に読ませていただきました。第一部の終わりで思わず涙。これからも期待しています。
- 150 名前:takatomo 投稿日:2006/02/11(土) 00:30
- ◇
「後藤さん」
いつもどおり、あさ美は真希に呼びかける。
その一言が、どれだけ真希を苦しめるかも知らずに。
けれども、真希も知らない。
自分の名前を呼ぶことで、あさ美が正常に保っていられるということを。
「今日からリハビリを始めたんです」
「そう」
そっけなく真希は言った。
ベッドの上に座るあさ美は、膝をポンと叩く。
「私、いつくらいから走れるようになるんだろ」
ポツリと漏れた言葉は、真希の心を切り裂くのに十分な刃。
そして、それは自分の存在を消してしまえる消しゴムのような言葉。
諦め、ではない。
認め、に近いのかもしれない。
真希が必死に否定しようとしていた考え。
- 151 名前:takatomo 投稿日:2006/02/11(土) 00:30
- 真希自身に向けられるあさ美の笑顔は、遠くで走っているあさ美に対する笑顔。
飼い犬が、餌をもらうために主人に尻尾を振る。
それとの違いを真希は見つけられなかった。
そう、代償を求めているのは自分。
餌を与えて可愛がることで癒されているのは自分。
鎖でしばって散歩をさせるのは自分。
鎖を切れるのも自分。
それでも、少し考えればわかったのかもしれない。
飼い犬は、主人の帰りをじっと待っているということ。
家を飛び出しても行方不明にならずに戻ってくるということ。
しかし、真希にはそこまでの頭は回らなかった。
自分が好きだったあさ美。
走る姿が格好よくて。
デパートの家電売り場でたまたま目にした番組だったのに。
その前を立ち去ることができなかったほどに、心を奪われた彼女の姿。
それが、真希の嫉妬の対象だった。
- 152 名前:_ 投稿日:2006/02/11(土) 00:31
- 「後藤さん?」
明らかに変わった雰囲気に、あさ美は真希の顔を覗き込む。
勝てるわけは無い。
勝負することすらおこがましい。
大好きだった紺野。
だけど、目の前にいる紺野も大事な大事な紺野。
どっちをとるの?
紺野が欲しい。
ずっと、紺野と一緒にいたい。
紺野がいれば、何にもいらない。
だけど私は、紺野にとってのその他大勢。
特別にはなれない。
だから、言わなくちゃいけない。
それがデューファー。
デューファーは、人の願いを叶えて生きていくもの。
紺野は人間。
私とは違う。
明日になれば、紺野は私なんて忘れちゃうんだ。
でも……
- 153 名前:_ 投稿日:2006/02/11(土) 00:32
- 「キス、していい?」
答えを待たずして、じっと覗き込んだままのあさ美の口をふさいだ。
突然のことだったから。
体の間に入ったあさ美の両手が真希の体を押す。
ほんの数秒の快楽の後の拒絶。
真希にはそれで十分だった。
「あ……ご、めんな……さい」
あさ美は俯く。
頭に血が上っていくのが自覚できた。
対照的に、すぅっと血液がなくなっていくのは真希。
彼女たちに血が流れているのかといえば、それはわからないのことだけれど。
溢れる涙が頬を伝った。
- 154 名前:_ 投稿日:2006/02/11(土) 00:32
- 「私は、紺野の願いを一つだけ叶えることができる。紺野が強く願えば、その願いを叶えてあげることができる」
事務的に述べた。
あさ美が今まで聴いたことの無い、無機質な冷たい声。
はっと顔を上げるあさ美の目に映るのは、涙を流して立っている真希だった。
「それって……」
「紺野はもう一度走れる。足は治るんだ」
あさ美の表情が変わる。
喜びと驚きの混同の中に、確かな不安がある表情だった。
だけど、真希には喜びしか見えない。
やっぱり、そうなんだよね
目を一度しっかりと閉じる。
溢れた涙が睫毛をつたい、開いた瞬間はねた。
- 155 名前:_ 投稿日:2006/02/11(土) 00:32
- 「後藤さんは、どうして、泣いてるんですか」
ゆっくりと立ち上がる。
上手く動かせない足を引きずるようにして、真希の前に立った。
真希は答えない。
黙ったまま、涙を拭いた。
言えるわけは無かった。
言ったところで意味は無い。
真希はそう思っているから。
大きく息を吐いて、あさ美に笑いかけた。
「ほら、願うんだ」
両手をとって握る。
温かい手。
冬の終わりを告げる春の日差しのように。
ぽかぽかと、真希の手の中で春の息吹が芽生えた。
少しずつ、力が集まってくる。
- 156 名前:_ 投稿日:2006/02/11(土) 00:33
- 「後藤さん、絶対見に来てくださいね。約束ですよ」
答えられなかった。
だから、せめて首だけは縦に動かした。
不意にあさ美の顔が近づく。
春は、真希の唇にも訪れた。
- 157 名前:_ 投稿日:2006/02/11(土) 00:33
- ◇
- 158 名前:_ 投稿日:2006/02/11(土) 00:33
- 雪解けを終えた大地は、うっぷんを晴らすかのように緑の葉を空に向かって伸ばしていた。
桜にはまだ少し早い時期に、あさ美は桜並木の下を走っていた。
アスファルトの上を勢い良く踏み込む両足。
ブランクを感じさせないほどに活き活きとあさ美は走った。
あの日以来、真希は自分の前に現れていない。
夢だったかと思った。
入院していたことも、怪我したことさえも夢だったのではと。
だけど、あの日、唇に残ったやわらかくて冷たい感触は、夢なんかじゃなかったと確信していた。
真希はいた。
自分以外、誰も知らないといっていても、あさ美は信じていた。
- 159 名前:_ 投稿日:2006/02/11(土) 00:33
- 首にかけたタオルで額に浮かぶ汗をぬぐう。
もう一度会いたかった。
名前以外、具体的には何も知らない真希に、もう一度会いたかった。
病院をぐるりと一周するのを自主練のコースにいれたのは、真希がこの近くに住んでいると言っていたから。
それでも、あさ美は会えていない。
雨が降ってもあさ美は毎日朝と夕に同じコースを走っているのに。
真希は、決してあさ美の前に現れなかった。
- 160 名前:_ 投稿日:2006/02/11(土) 00:33
-
- 161 名前:_ 投稿日:2006/02/11(土) 00:33
-
- 162 名前:_ 投稿日:2006/02/11(土) 00:34
- >>150-160 更新終了です。
次で完結です。
>>149 ありがとうございます。二部終了時にもそう思っていただけるとうれしいです。
- 163 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/11(土) 21:18
- >>162
>>149です。更新されていて嬉しいです。既に胸がいっぱいですが、しっかりと見届けさせていただきます。
- 164 名前:konkon 投稿日:2006/02/11(土) 22:21
- 感動の一言ですね。
ごっちん・・・最終回楽しみに待ってます!
- 165 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/12(日) 00:43
- ( ´ Д `)<ぽ!
- 166 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/13(月) 23:34
- 切ない・・・
作者さん、あんたは罪な人だよ・・・(何
- 167 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:14
- ◇
北の大地に訪れた桜の季節は、終わりを告げようとしていた。
いつものように、真希はぶらぶらと街をさまよっていた。
あの日以来、真希は誰の願いも叶えていない。
願いを叶えるものにしか認識することのできない彼女にとって、それは孤独を意味した。
亜弥すら隣にはいない。
厚い雪に閉じ込められた草木と同じ。
真希の周りには誰もいない。
場所を変えても、季節が変わっても。
あさ美がいない事実が、真希の中の雪を溶かすことは無かった。
- 168 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:14
- 風に吹かれて舞った桜が、真希のマントを彩っていく。
黒とピンクの調和は決して綺麗なものではない。
いくら花びらがマントにくっついても、それはマントを汚すだけ。
そして、パンと手で払えば地面にヒラヒラと落ちてしまう。
たったそれだけのこと。たったそれだけのことだった。
だから、このまま死んでしまうのもいいかもしれない、なんて真希はずっと思った。
このまま願いを叶えなければ自分は死ぬ。
紺野がいないなら、私に生きている価値は無い。
私たちは、人の願いを糧に生きている。
つまり、私たち自身の願いは叶えられない。
だったら、私たちの生きている意味は何?
私の願いは何?
私の願いは………
- 169 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:15
- ふっと気づいたとき、真希はあさ美の入院していた病院の前に立っていた。
雪のように真っ白な外壁。
見上げた先の窓は、あさ美のいた病室。
あそこの窓から、紺野は何を見ていたんだろう。
私は、あそこで何を考えていたんだろう。
問いかけというより、愚痴に近かった。
答えを考えようともしない。得ようともしない。
ただ、ただ、その言葉を口に出すだけ。
- 170 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:15
- 「藤本さん、美貴ちゃんは向こうで元気にやってるの?」
「さぁねぇ……あの子ったら全然連絡しないから。便りが無いのは元気な証拠って言いますけど、どうなんでしょうね」
「でも、美貴ちゃんはしっかりしてるじゃない。うちの子ったら、ほんと……」
目の前でいつの間にか繰り広げられていた他愛も無い会話。
彼女たちに真希は見えない。
だから、目の前で立ち止まったまま、女性二人は井戸端会議に終始していた。
お互いの子どものことから、知り合いのこと。
飼っている犬がどうとか、マンションがこの先にできるかもとか。
話は多岐に富み、洪水のように次々と押し寄せる言葉が、真希には少し心地よかった。
TVを見ているときと同じ。
次々と情報が与えられるから、それの処理に手一杯で余計なことを考えなくて済むのだ。
- 171 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:16
- ボーっと聞いていたとき、真希はふと一枚の紙に目が留まった。
電信柱に貼り付けてある明らかに手書きとわかる文字。
紙一杯に書かれた日付が今日のものだったから、真希は少し気になったのだ。
「あら、今日は小春ちゃん、これに?」
真希の背中越しにさっきの女性の声が聞こえた。
「そうなのよ。今日も朝早くからお弁当作ってたのよ」
「応援にいかないの?」
「ううん。あの子は補欠だって。本当は出れるはずだったんだけど、怪我してた先輩が出れることになってね」
ゾクゾクっと何かがこみ上げてきた。
- 172 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:16
- それ以上、言って欲しくない。
だけど、言って欲しい。
怪我をしてた先輩。
紙に書かれた今日の日付と陸上競技大会という文字。
違うって思いたかった。
違うって。
彼女じゃないって。
彼女じゃないって、言って欲しい。
会えない。
だって会えないから。
会えないなら……もう……
- 173 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:17
- 「あ、あの子、学校に大きな幕張ってたわね」
「そうそう、紺野さんでしょ。いつもこの辺りを一人で走ってる子」
心臓がはじけそうになった。
聞いてしまったから。
「後藤さん、絶対見に来てくださいね。約束ですよ」
笑顔で自分に口付けた彼女を思い出す。
もう、会えない。
だけど……
- 174 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:17
- どうして、彼女は私を信頼してくれた?
どうして、まっすぐに私を見てくれた?
どうして……どうして、彼女は口付けた?
もしかしたら、なんて考えたくも無い。
考えてももう仕方ない。
だけど……だけど……考えたい。期待したい。
紺野となら……紺野がいてくれたら……私は……
会いたい。
走っている紺野を見ていたい。
遠くからでいい。その他大勢でいい。
紺野が走っているなら。
だけど……
- 175 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:17
- "Dewphr" must never meet the person who granted the wish.
あの時聞こえた声を思い出す。
暗闇の中で私を導いてくれた声。
そう、守らなくちゃいけない。
私はデューファーだから。
禁忌を犯してはいけない。
なのに……
「規則なんてさ、破るためにあるんだよ」
にこりと微笑む亜弥の顔。
「破った人が捕まったら罰を受ける」
最後に見た、亜弥の顔。
涙一つ見せずに言い切った亜弥の顔。
特別に綺麗だなんて思ってしまった亜弥の顔。
そう……
罰なんていくらでも受けていい。
紺野に会えないことが、一番の罰だ。
どんな目にあってもいい。
- 176 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:18
-
私は…………もう一度紺野に会いたい。
- 177 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:18
- 気づけば真希は走り出していた。
改札を潜り抜け、電車に飛び込む。
向かった先は競技場。
あさ美が走っているそこへ。
扉が開くのを待ちきれないかのように電車から降り、全力で走った。
競技場付近は、休日だというのに人はまばらだった。
揃いのジャージ姿の選手と思われる集団がストレッチを行っていたり、軽く走っているのが目につくくらい。
その中を真希は全力で駆け抜けた。
肺が空気を次々と欲する。
痺れそうになる四肢を懸命に動かした。
今、あさ美も走っていると思いが、真希の体を動かしていた。
- 178 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:19
- 会いたい。
紺野に会いたい。
階段を駆け上る。
あさ美の走っているトラックはこの中。
昼というのに少し暗い通路を駆けて、たどり着いたスタンド。
ぱぁっと広がる日の光に目がくらみながらも、真希は最前列の柵まで走った。
それから、あさ美の姿を探す。
それはあさ美を探すという行為とは少し違ったのかもしれない。
予感がした。
真希が探したのはゴール地点。
それはすぐに目の前にあり。
そして、予感どおりに真希の視界はあさ美を捕らえたのだった。
- 179 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:19
-
「紺野!」
名前を叫ぶ。
走ってる。
紺野が走ってる。
あの時と同じ。
自分が一番大好きな、大好きな紺野がそこにいる。
自分が泣いていることを自覚はしていなかった。
あさ美の姿を目に焼き付けるように流れる涙すら拭わず、真希はただただ見ていた。
真希のすぐ目の前、一番でゴールしたあさ美は、真希の方を見て、にこりと笑った。
- 180 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:19
-
それから……
目の前で起こった光景に、激しく動いていた真希の心臓は、トクンと一度鳴った後、急停止したかのように音が無くなる。
糸が切れたように目の前でゆっくりと倒れていく様子が、コマ送りを見ているようだった。
パタンと倒れる音が聞こえてくるかのように、綺麗に倒れたあさ美。
次いで耳に入るのはスタンドの異様なざわめき。
トラックに倒れこんだあさ美。
動こうとしないあさ美。
名前を呼べなかった。呼ぶことはできなかった。
真希には確信があった。
あさ美が、もう二度と動くことは無いことを。
罰を受けるのは、自分ではないということを。
- 181 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:19
-
ざわめきの中、切り取ったようにクリアに聞こえた一つの言葉があったから。
"Dewphr" must never meet the person who granted the wish.
真希の耳にその言葉が届いたから……
- 182 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:20
- ◇
- 183 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:20
- 真っ暗闇の中、あさ美は立っていた。
どちらが上で、どちらが下かもわからなかった。
ただただ居心地が悪く、不安と恐怖の入り混じった感情が胸の中にうずまいていた。
"Dewphr" must grant only one wish.
声が聞こえた。
落ち着いた、ずっしりと重い声。
けれども、人が話しているようには思えない、硬質な声。
"Dewphr" must never meet the person who granted the wish.
"Dewphr" must ....
淡々と、次々に読み上げられていく言葉は、あさ美の心に深く入り込んでいく。
たった一度告げられただけなのに、絶対に忘れることのできないような言葉だった。
- 184 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:20
- どれくらいの時間だったかはわからない。
ふっと目の前に光が差し込んだかと思うと、あさ美は知らない土地に立っていた。
知らない、というのは正しいのか彼女にはわからなかった。
知っていた土地というものがわからないのだ。
どこもみたことがあるような、ないような。
ズキンと痛んだ頭を手で押さえたとき、自分が真っ黒なマントを身に着けていることを知った。
「紺野、あさ美さん……あさ美ちゃんって呼ぶね。よろしく」
目の前に現れた自分と同じ格好をした女の子。
あさ美は彼女の手を取った。
- 185 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:20
- デューファー 第二部「SNOW」完
第三部へ続く
- 186 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:21
-
- 187 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:21
-
- 188 名前:_ 投稿日:2006/02/16(木) 17:33
- >>167-185 第二部終了です。
>>163 ありがとうございます。ご期待に添えているか少し心配です
>>164 最後にもう一度そう思っていただければうれしい限りです。
>>165 川o・-・)<ありがとうございます!
>>166 えぇ……一番罰を受けるべきなのは作者自身だと思われます。
遅くなりましたが、飼育投票の方に投票していただいた方、ありがとうございました。
これからも少しでもご期待に添えるようなものを書いていけたらと思っています。
読んでいただいた方、本当にありがとうございました。
- 189 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/02/17(金) 00:54
- 第二部終了お疲れ様でした
なんか「えぇ!?」って感じです
第三部もお待ちしております
- 190 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/17(金) 23:49
- ネタバレになってしまうので細かい感想がかけませんが、作者さんGJ
切なさを秘めつつ、第三部への期待が膨らむばかりです。
- 191 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/18(土) 22:51
- >>188
>>163です。今回はイイ意味で期待を裏切られました。まさか!という展開。ますます今後が楽しみです。
- 192 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/20(月) 22:07
- なんといえば、いいのか…
ドキドキしました。
第3部がんばってください!
- 193 名前:_ 投稿日:2006/04/02(日) 18:46
- >>189-192
たくさんのレス、ありがとうございました。皆様のレスがすごく励みになっております。
まとめてのレス返しになりまして申し訳ございません。
第三部のことですが、今月中か遅くてもGW中には始めたいと思っております。
更新せずに報告だけですが、第三部開始後も引き続き読んでいただければ幸せに思います。
- 194 名前:_ 投稿日:2006/04/13(木) 23:58
-
"Dewphr" must grant only one wish.
("デューファー"は願いを一つだけ叶えなければならない)
"Dewphr" must never meet the person who granted the wish.
("デューファー"は願いをかなえた人と決して会ってはいけない)
"Dewphr" must ....
("デューファー"は...)
- 195 名前:_ 投稿日:2006/04/13(木) 23:59
-
デューファー 第三部 「Spring」
- 196 名前:_ 投稿日:2006/04/13(木) 23:59
- 連日のように降り続く雨と風が、窓を打ち付けていた。
梅雨には一月以上早いこの時期に、満開の桜を散らすために降っているかのようだった。
カーテンを勢いよく閉めて、美貴はソファに腰掛けた。
真っ白なソファだった。
彼女の地元である北海道の雪を思わせるような白。
もっとも、美貴はだからこそ白のソファを選んだわけだが。
北海道を離れて一年が過ぎていた。
日本に雪の積もらないところがあるなんて、知識としては知っていたが、やはり実際に住んでみると色々と面食らう。
一度だけ、雪が積もった日があったが、たったそれだけのことで都市機能が麻痺してしまう。
都市いうほどの街ではないけれども。大学にいつも通りいくと、休講だと知らされてひどく驚いた。
こんな調子じゃ、北海道の大学なんて、1年の半分近くは休講になっちゃうじゃんって、毒づきながら帰ってきたこともあった。
- 197 名前:_ 投稿日:2006/04/14(金) 00:00
- だからといって、美貴はここでの生活に不満があるわけではない。
寧ろ、満足していた。
と、こんな風に考えていることを今現在キッチンで調理をしている彼女に言ったのなら、きっとこう言うに違いない。
「たんは、あたしが居るからそう思うんでしょ」と。
確かに、否定することはできなかった。
だけど……と美貴は思う。
「できたよー」
湯気の立つご飯と、盛り付けられたコロッケ。
エプロン姿の女の子は、テーブルの上にそれらをおき、再びキッチンに戻ると、すぐにまた両手にご飯とコロッケを持って戻ってきた。
「ありがと、亜弥ちゃん」
ソファから腰を上げて、テーブルへと向かう。
亜弥は先に椅子に座り、お茶をコップに注いでいた。
- 198 名前:_ 投稿日:2006/04/14(金) 00:00
- 「頂きます」と二人で声を揃える。
亜弥の作る料理はどれもおいしいものだった。
ハンバーガーショップでバイトしているのが、少しもったいないと思うほどに。
ただ、彼女が料理人になれないと思うのは、片付けと準備はもっぱら美貴の仕事であることだった。
買い物は二人で行くのだけれど、ご飯を炊いたり、洗い物などは全て美貴の仕事。
確かに、そのせいで美貴も亜弥に料理を作ってもらうことに引け目は感じないのだけれど。
「おいしい?」
「うん」
じーっと美貴の口にコロッケが運ばれ、おいしいと言うのをを待ってから、亜弥は自分のものに手をつける。
それは、最初の頃から欠かさずにやっていることだった。
不味いと言えばどうなるのか、美貴は知らない。
少なくとも、どんなに新しい料理を作ってもおいしくないということはなかったから。
- 199 名前:_ 投稿日:2006/04/14(金) 00:00
- 食事をしながら、亜弥は色々なことを話す。
バイトのことや学校のこと。
学校では優等生である亜弥だった。
自分とこうしていつも一緒にいるのに、いつ勉強をしているのか不思議になるほどに。
高校三年生になったばかりのこの時期であるのに、亜弥は一向に変わらない。
一度、春休みの時にそのことを言ったことはあったが、亜弥は頑なに聞かなかった。
「成績、下がんなきゃいいんでしょ?」
そう言い放った亜弥は、休み明けのテストの結果を美貴に見せた。
結果は以前と変わらずに、全くもって優等生の点数だった。
それ以来、亜弥の成績のことには全く何もいえない。
美貴自体、優等生とは言えなかったから余計にだ。
- 200 名前:_ 投稿日:2006/04/14(金) 00:00
- だから、こうして変わらず亜弥は、美貴の家で夕飯を食べるのだ。
亜弥は自分の家でめったにご飯を食べない。
母親はすでに他界しており、父親は会社人間であり、帰りがひどく遅かったから。
お金だけを与え、娘が問題を起こさなければそれでいい。そういう人間だったから。
だから、毎日のように亜弥は美貴の下へとやってくる。
もちろん、美貴もそれは拒みはしない。
一人暮らしの美貴としても、一人でご飯を食べるよりこうして亜弥と二人で食べた方がおいしいに決まっている。
それは亜弥だって同じことだった。
話題はバイトのことへと変わっていく。
亜弥のバイト先へは、美貴は何度か足を運んだことがある。
「ごっちん」が「後藤さん」だということも名札を見て知っている。
最近になって「梨華ちゃん」という子が入ったと、亜弥は前に言っていた。
バイト先の制服姿の亜弥は可愛かった。亜弥目当てでくる男の子もいると聞く。
そういうことを、ちょっとだけ自慢げに話す亜弥に、毎度のことながら美貴は最初の方は軽い嫉妬心を覚えた。
亜弥自身にはちっともその気がないのは十分に承知しているが、それでもやはり抱いてしまうのだ。
もっとも、これが逆になったときの亜弥の拗ね様は、普段の優等生と言われている彼女からは想像できないようなものであり。
それゆえに、美貴は決してそういう話題を口にしないのだが……
- 201 名前:_ 投稿日:2006/04/14(金) 00:01
- そこから、話は更に多岐に飛んでいく。
つけっぱなしのTVに流れるクイズ番組の答えを二人で考えたり、開幕したばかりの野球をルールもよくわからず見ていたり。
話は尽きることは無かった。
特に、亜弥がどんどんと話していくタイプだったから。
美貴はそれに対して時につっこんだりしていくというパターンが多かった。
こんな風にして過ごすようになったのはいつからだろう。
TVを見る亜弥の横顔を見て、ふと思う。
自分の前に、亜弥の姿があって。
こうして毎日のように、一緒にご飯を食べる。
「藤本美貴っていうんだ。ふぅん……じゃー私は『たん』って呼ぶね」
最初に会ったときに言われた台詞がそれだった。
藤本美貴→美貴→美貴たん→たん という流れで『たん』に至ったことを美貴はわかっていた。
けれども、敢えて尋ねてみたら、案の定、その答えが返ってきた。
- 202 名前:_ 投稿日:2006/04/14(金) 00:01
- 「よろしくね、たん」
そう言って差し出された手を取るときに、美貴は一瞬ためらった。
なぜなら……この街で亜弥に出会う前に同じことを言われたことがあったから。
美貴は思い出す。
1年ちょっと前、北海道で出会った一人の女の子のことを。
自分のことを「たん」と呼んでいた、もう一人の女の子のことを……
「よろしくね、たん」
雪の降る中、そう言って自分に手を差し出した女の子のことを……
- 203 名前:_ 投稿日:2006/04/14(金) 00:01
-
- 204 名前:_ 投稿日:2006/04/14(金) 00:02
-
- 205 名前:_ 投稿日:2006/04/14(金) 00:02
- >>194-202
第三部開始です。
二部までとは主役が変わっていますが、引き続き読んでいただけると嬉しいです。
- 206 名前:konkon 投稿日:2006/04/14(金) 00:17
- 第三部感想一番乗り!
キターッ━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━!!!!!!
ずっと待ってましたよ♪
新しい場面になって、面白そうです。
今後も楽しみにしております!
- 207 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/15(土) 23:20
- 好きです
- 208 名前:あお 投稿日:2006/04/17(月) 23:16
- 祝復活!待ってました!
- 209 名前:_ 投稿日:2006/04/23(日) 20:14
- ◇
お正月というものは、受験生にとっては邪魔なものだとよく言われる。
さまざまな特番が組まれ、初詣などの家族行事も存在し。
何より、本番まで1ヶ月といった時期は、一番気持ちが切れやすい時でもあった。
もちろん美貴も例にもれず。
新年早々お昼過ぎに母親に叩き起こされたのも、勉強をしていたからでは決してなく。
紅白を見終わった後にぼーっとTVをつけていたせいだった。
「あけましておめでとうございます」なんてあいさつをすっかり忘れ。
着替え終わってリビングに下りた美貴の第一声は「おはよう」だった。
目の前に並ぶおせち料理にお箸をつけながら、つけっぱなしのTVを見る。
- 210 名前:_ 投稿日:2006/04/23(日) 20:15
- 去年の今頃には、来年はこんなにゆっくりできないんだろうなと思っていたことが懐かしい。
来年のことを言うと鬼が笑うとはよく言ったものだった。
笑うどころか大爆笑だろう。腹筋を抑えてヒーヒー言っている赤鬼を想像し、美貴は苦笑した。
さすがに、夕方も近くなると母親から勉強しろとの催促が行われる。
「お正月くらい」と言いかけた父親に味方できるような雰囲気でもなく。
美貴は部屋に戻った。
ぼーっとした頭を起こそうと、窓を開けてみる。
外は一面の雪景色。
コタツでほてった体に、北海道の冷気がピリピリと襲い掛かる。
その白の中に、美貴は一つの黒を見つけた。
唯一だからこそ目立ってしまう。
一点の曇りは、まっさらの硝子でないと目立たない。
美貴は、それに目を奪われた。
白の中を歩く黒い人。
- 211 名前:_ 投稿日:2006/04/23(日) 20:15
- 肉眼で表情が確認できるほどに近づいた黒。
奪われていく体温を忘れるほどに、美貴は魅入っていた。
にこりと、それが笑ったように思えた。
幼さの残る端正な顔立ち。
芯の強そうな目と、少ししゃくれた顎。
肩まで掛かる黒髪が、着ているマントと同化して見えた。
「見えるんだ」
黒は言った。
空気を切り裂くように、耳に届いた声。
つぶやくように、だけどはっきりと聞こえる言葉。
その意図を、美貴はこれぽっちも理解できなかった。
ただ、その後にはっきりと笑う彼女の顔が、美貴の中の何かを駆り立てた。
「そこにいて」
なぜ、自分がそんなことを言ったのかわからない。
窓から体を乗り出してそれだけ告げると、コートをつかんで外に飛び出た。
開きっぱなしの窓や、母親の声なんて気にせずに。
- 212 名前:_ 投稿日:2006/04/23(日) 20:15
- 雪に足を取られながら、道ならぬ道に足を踏み出していく。
視線の先に捉えた黒を目掛けて。
たどり着いた時には、肩で息を繰り返し、言葉をすぐには出せない。
そんな美貴を、彼女は不思議そうに見るわけでもなく。
ただただ、待っていた。
穏やかな目を向けて、ただ美貴の言葉を待っていた。
「あの、さ……」
繋げるためにそれだけ言って、美貴は一度大きく息を吸い込み、吐き出した。
呼吸を整える。
ドクンドクンと音立てる心臓は、決して四肢に酸素を送り込むためだけではなかった。
- 213 名前:_ 投稿日:2006/04/23(日) 20:16
- 「名前、何ていうの?」
「松浦亜弥」
「まつうら、あやね。私は藤本美貴」
「ふじもと、みき?」
そっと差し出した手。
亜弥はそれを一度見て、それから再び美貴と目を合わせる。
それから、手を握って言った。
「よろしくね、たん」
「たん?」
聞きなれない単語が耳に届いた美貴は、思わず繰り返した。
亜弥はそれが通じないことがおかしいかのように、美貴を不思議そうに覗きこんだ。
「たん、どうしたの?」
さすがに、「たん」が自分のことを差している事を、美貴は理解はしていないが認識はした。
自分は「たん」。
藤本美貴のどこをどうしても、「たん」という単語が生まれそうに無いのだが、目の前の彼女はそれで納得をしている。
「ねぇ、どうして私が『たん』なの?」
- 214 名前:_ 投稿日:2006/04/23(日) 20:16
- ◇
「な−に考えてるの?」
ふっとTVとの間に亜弥が割り込んできた。
ドキッとしたが、平静を取り繕って「ん、別に」と答える。
見れば、亜弥のお皿からコロッケはすっかりなくなっていた。
対照的に、美貴のお皿にはまだ1個半残っている。
亜弥が早食いだとか、美貴がよく噛む子だとかそういうことはない。
単純に美貴の手が止まっていただけのことであり。
その事実を「ん、別に」という言葉で納得するような亜弥ではなかった。
何でもそうだ。
亜弥は疑問をすぐ口にする。
ごまかそうとしても、決して諦めない。
頑なに、自分の知りたい事を相手に尋ねて答えを求める。
人との付き合いにおいて、それが決して良いこととは言えないが、少なくともそれでも亜弥の周りには人が絶えないという事実も存在している。
- 215 名前:_ 投稿日:2006/04/23(日) 20:16
-
「ちょっと考え事してただけだよ」
「何?」
「いいじゃん別に」
「よくないよ」
「何?美貴は亜弥ちゃんに思っていることを何でも言わないといけないの?」
「そーゆーのじゃない」
ムキになっている自分に嫌悪した。
じっと自分を見つめる亜弥は、自分を心配してのことなのに。
だけど、美貴は亜弥には告げていなかった。
彼女の同じ名前をした亜弥のことを。
言えないわけではない。
亜弥はもういないし、亜弥はずっと自分の隣にいてくれるだろうって思う。
ただ、怖かった。
いてくれるだろうという推測が、いてくれるという断言に変わるまでは、怖かった。
もしかしたら。
万が一。
そう、万が一だ。
万分の一でもその可能性が残っているのなら……
亜弥が、自分の前から消えてしまうのなら……
- 216 名前:_ 投稿日:2006/04/23(日) 20:17
- 美貴はできなかった。
あんな思いは、もう二度としたくなかった。
もう、亜弥を失いたくは無かった。
- 217 名前:_ 投稿日:2006/04/23(日) 20:17
-
- 218 名前:_ 投稿日:2006/04/23(日) 20:17
-
- 219 名前:_ 投稿日:2006/04/23(日) 20:19
- >>209-216 更新終了です。
>>206 場面がかなり変わっておりますが、引き続きよろしくです。
>>207 ありがとうございます(照
>>208 更新が相変わらず遅いですががんばります
- 220 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/27(木) 11:54
- 第3部はじまりましたね!
今回も楽しみにしています。
- 221 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:24
- ◇ ◇ ◇
「たん、こっちこっち〜」
公園の手すりに座った亜弥は、美貴の姿を見つけると立ち上がって手を振った。
誰にも踏み荒らされていない公園は、一面の白。
滑り台はすでに意味をなさず。ブランコは子どもの代わりに雪を乗せ、ただ静かに止まっていた。
センター試験も終わり、次は私大の受験を控えてはいたが、美貴は毎日のように亜弥とこうして会っていた。
図書館で勉強をした後の帰り道。
ここで、亜弥と美貴は会っていた。
誰にも邪魔されない、静止した時間。
それは、静止した時間の中に生きる亜弥にとって、ふさわしいものであったのかもしれない。
そして、このまま時が止まってしまえばいいのにと思う、美貴にとってもだ。
数ヵ月後に桜を身にまとう木々は、ただただ白い雪を見にまとい。
時折、ドサドサッと雪を落とす音が、二人の会話を邪魔するだけ。
そんな空間で、美貴は日を重ねた。
- 222 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:24
- 亜弥がいれば他はどうでもいいだなんてドラマで言うような台詞を本気で思っている美貴。
会った時間なんて関係ないだなんて、ばっかみたいだなんて鼻で笑っていたのに。
亜弥のことをもっと知りたいとは思うが、彼女は多くを語らない。
話す言葉は美貴よりもずっと多いのだが、そのせいで彼女は上手く自分への質問を流すのだ。
「亜弥ちゃんっていくつなの?」
一度、美貴は問いかけたことがる。
「何歳に見える?」という亜弥は言葉を返す。
美貴は「23歳」と即答した。
「はぁ?」
ポカンと開けられた亜弥の口。
よほど想定外だったのだろう。
だけど、美貴は23歳と言われても余り驚かないくらいには、そう思っていた。
自分と話している姿は、10代の自分と同じくらいの女の子。
だけど、時折ふっと見せる表情は、落ち着いた大人の女性のそれだったから。
- 223 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:24
- 「全然違います〜」
「じゃあいくつなの?」
「私は永遠の18歳なんだよ」
「何それ?」
「アイドルは年を取らないの!」
「アイドル?誰が?」
「私に決まってるじゃん。私はたんのアイドルでしょ」
気持ちの良い程に自信満々に言い切った亜弥の態度に、美貴は反論を諦める。
否定しないのは、少しだけの同意の気持ちがあったから……
なぜか、自分でもわからない。
初めて会った時から。会えば会うほどに亜弥に惹かれていく自分がいる。
まるで、そうあるのが当然かのように、美貴は亜弥を好んだ。
もちろん、亜弥にとっても同じ。
自分と会話できる人物。
亜弥にとってはそれだけでもトクベツだったが、美貴は更にトクベツだった。
だから、こうしている時間が、美貴にとっては心地よく。
だが、亜弥は日が暮れる頃には言うのだ。
「お勉強、がんばってね」と。
それが、美貴を瞬間的に現実に引き戻す。
たった二人の空間が、たちまちに図書館の帰り道の公園になる。
- 224 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:25
- 一度だけ「もう少しだけいいじゃん」と美貴は言ったことがある。
しかし亜弥は首を振った。
それは拒絶では決して無い。だが、有無を言わさぬものがあった。
「帰りなよ」
言い聞かせるように発せられた言葉に、美貴は抗えなかった。
「帰るね」
半ば意地になって美貴は歩き出す。
「また、あした」なんて約束はしない。
約束なんてしなくても、また明日会えるんだから。
それは、少し矛盾したような思いだったのかもしれない。
明日になれば、またこうして会える。
だけど、別れたくない、と。
亜弥がいない時間と亜弥がいる時間。
美貴の一日が分かれるとすれば、もうその二つでしかなかった。
もちろん、それが良い方向に進むとは限らない。
特に、受験という不条理なものに直面していた美貴にとっては……それは甘美な誘惑でしかなかった。
- 225 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:25
- だからこそ、一月ほど経った後に突きつけられた現実を、美貴は素直すぎるほどに受け止めていた。
勉強していなかったから。
図書館にいる間、亜弥とどんな話をしようかとしか考えずに。
いつも亜弥と会う時間まで、時計の針を目で追ってばかり。
受かるわけも無い。
でも、それでよかった。
亜弥がいるのなら。
亜弥とこうしているのなら。
それは、周りから見れば酷く馬鹿げた考えだったけれど。
美貴にとってはそれが全てで。
美貴が落ち込んでいると思って、叱ることもできない両親と教師とも相まって。
美貴は、ただただ亜弥との時間を過ごしていた。
- 226 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:26
- 「この公園はね、春になると桜が満開になるんだよ」
いつか、美貴は言った。
雪を纏う木を指差しながら。
「そしたら、二人でお花見しようね」
にっこりと笑う美貴。
亜弥も笑顔で返した。
自分は、きっとそこまでは生きていられないのかもしれない。
その思いが確かにあった。
すでに美貴と出会って一月が過ぎていた。
一日の中で空白の時間を自覚できるほどになった。
美貴の前では気づかれないように、懸命に意識を保っているがそれもいつまで続くかわからない。
それでも、亜弥は自分の正体を美貴に決して言おうとはしなかった。
願いを叶えることができる。
もし、それを告げたのなら。
美貴が、即座に願いを自分に告げるかもしれない。
もう二度と会うことが出来ないと言ってとしてもだ。
そうなれば、もう自分は美貴とは……大好きな人と、二度と会うことが出来なくなるのだから。
もちろん、美貴にそのことを告げたとしても、願いを言わないのかもしれない。
それどころか「亜弥ちゃんとずっと一緒にいれますように」だなんて願いを口にするかもしれない。
それでも、「かもしれない」可能性が存在するのなら、亜弥は美貴に打ち明けられなかった。
- 227 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:26
- 大好きな人の願いが叶ったとしても。
自分の願いは決して叶わない。
なら……
亜弥は思う。
本来、自分達の力なんて無いものだ。
デューファーが何人いるかはわからないが、自分達と出会った人だけが願いを叶えることができる。
何も苦労することなく、強く願えばいいのだ。
デューファーが何をもってその人を決めるか、亜弥自身にもわからない。
亜弥にとって、美貴は3人目……いや…初めての……
記憶が混乱している。
自分が数人の願いを叶えた記憶はあるのだけれど、それと同時に誰の願いもかなえていないかもしれないという
気もする。
自分がいつからデューファーなのか、自身には全くわからない。
それと同じく、どうして美貴が亜弥を見ることが出来たのか、その条件も全くわからなかった。
- 228 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:26
- だから……要するに、自分たちは宝くじみたいなもの。
たまたま、自分達が見える人が願いを叶える権利を持つ。
なら、無くたっていいじゃないか。
無かったことにすれば、損だと思うことも無い。
買った覚えなのない宝くじは、忘れてしまっているのだからどうでもいいのだ。
それは、亜弥の完全なるエゴ。それも、命を賭して貫こうとしたエゴ。
本当なら四六時中一緒にいたいと思う。
それを言い出せないのも、美貴の拒絶が怖いから。
ほんの少しの時間。
美貴の勉強の邪魔にならないように。ほんの1時間ほどだけ。
たったそれだけでも、亜弥にとってはとても長い時間だった。
60年近くの人生を残す美貴と、数ヶ月しか残されていない亜弥。
同じ1時間でも、その貴重さは亜弥の方がはるかに勝っていた。
それだけに、1時間という時間でも亜弥は満足だったのだ。
- 229 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:26
- ◇ ◇ ◇
「もう帰る」
黙った美貴に対して腹を立てた亜弥は、机をバンと叩いた。
「何?亜弥ちゃん、何が気に入らないの?」
「たんが、隠し事してるんじゃん」
「……」
しっかりを自分を射止める亜弥の視線から逃れるように、美貴はTVを見た。
だが、次の瞬間にプチンと切れる。
「ちゃんと言ってよ」
「亜弥ちゃん、もう帰るんでしょ」
美貴は立ち上がってソファに座る。
その前に亜弥は立ち、無言で美貴を見下ろす。
視線が重りのように頭にのしかかり、美貴は顔を上げることができなかった。
- 230 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:27
- 「どうして言ってくれないの」
亜弥ちゃんにはわからない。
亜弥ちゃんが好きだから。
「たん、ねぇ、なんで隠し事するの?」
亜弥ちゃんに傍にいて欲しいから。
だから言えない。
「なんか悪い事した?嫌なことがあった?」
言いたくない。
だからどこにも行かないで。
「私は、いつでもたんの味方だよ。たんが、どんなになっても、絶対にたんの―――」
「信じられない」
美貴の言葉は、瞬間的に亜弥を凍りつかせた。
肺に少し残った空気をゆっくりと吐き出す。
- 231 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:27
- 「亜弥ちゃんにはわからない。亜弥ちゃんはなんでもできるから。
亜弥ちゃんには、美貴がいなくても誰かがいるでしょ。でも、美貴には亜弥ちゃんしかいないのよ」
「そんなこと―――」
再度、亜弥を凍りつかせたのは見上げられた美貴の視線。
透き通ったガラスのような、鋭くて冷たい目。
「なら、証明してみせてよ?」
ぐいと引っ張られた腕。
倒れこむようにソファに座った亜弥。
美貴の唇が自分に向けられる。
反射的に亜弥は右手を振った。
- 232 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:27
-
パチン。
「そうだよね……そうなんだもんね」
熱を持つ自分の頬に手をあて、美貴は呟いた。
拒絶。
やっぱり、亜弥ちゃんには言えない。
拒絶。
亜弥ちゃんはどこかに行ってしまう。
拒絶。
頬をつぅっと涙がつたう。
焦点の合わない目は、亜弥の顔すら捉えることが出来なかった。
- 233 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:27
- 「もう、帰りな」
「た……ん?」
「帰って!」
亜弥は、ソファから起き上がり、自分の荷物に手を掛ける。
「帰るね」
美貴は何も言わない。
変わらずにソファに座って明後日の方向を向いていた。
「おやすみ」
そう言い残して、亜弥は部屋を出て行った。
パタンと閉められたドア。
それは、美貴が一人ぼっちになる合図。
もう、これで一人ぼっち。
この街に来たときと同じ。
亜弥ちゃんに出会う前と同じ。
- 234 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:27
-
- 235 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:27
-
- 236 名前:_ 投稿日:2006/05/03(水) 02:30
- >>221-233 更新終了です。
卒業発表ということもあり……早めに3部を終わらせて、こんごまである4部を早く始めたいと思っています。
おそらく7月のそのときまで、中断無しに更新をすると思います。
と、それだけご報告です。
>>220 ありがとうございます。キャストが全く変わっておりますが、引き続きお楽しみいただけるとうれしいです。
- 237 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/07(日) 21:34
- 切ない…
胸がしめつけられるような思いです
- 238 名前:あお 投稿日:2006/05/08(月) 08:49
- 改めてこの設定好きだなぁ、と思う、今日この頃です。
作者様、いつもお疲れさまです。
- 239 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/14(日) 17:18
- 切ないですね
なんだかとても胸に響きました
続きまってます
- 240 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:26
- ◇ ◇ ◇
2月も半ばに入った頃。
亜弥が美貴の前に現れない日があった。
連絡する手段を持っていないことに、ようやく美貴は気がついた。
携帯の番号も、住所も……血液型や年齢すら、自分は知らないということに。
人が、親しくなったと感じるのに必要な時間は24時間だと言われる。
24時間、一緒に過ごせば相手に十分な親しみを感じるというのだ。
亜弥との1日1時間を既に24日以上続けている。
いや、それは違う。
最初の1時間にして、亜弥は美貴にとってかけがえの無いものとなっていた。
- 241 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:26
- けれども……
美貴の頭によぎるのは不安だった。
亜弥が病気だとか事故にあったとか、そういった不安より先に湧き出てくるのは自分が嫌われたのではないかという不安。
昨日の亜弥の笑顔を思い出す。
あれは本当に笑顔だった?
愛想笑いじゃなかった?
自分が何か変なこと言った?
気に障るようなことを言った?
ううん、それ以前に、亜弥ちゃんは……
- 242 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:26
-
私のことが好きじゃなかったんじゃ……
翌日に亜弥と会うまで、その不安はどんどんと大きくなっていく。
ずっと考えているのは亜弥のこと。
亜弥が、もう自分には興味が無いんだと。
亜弥は、自分の事をなんとも思って無いんだと。
そう考えているのに。
もう、亜弥は自分を見てくれないって思うのに、考えているのは亜弥のこと。
しかし、亜弥に嫌われたんだという、そのマイナス思考は、亜弥と会うことで一時的に消失する。
「ちょっと用事があって……昨日はごめん」と亜弥は言う。
「いいよ。全然」と返す美貴。
無表情に言い放ったその言葉は、自分の心の中の動揺を隠すためのもの。
- 243 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:27
- 用事って何?
自分以外の誰かと会っていたんじゃないの?
自分よりも、大事な人がいるんじゃないの?
そんなことは口には出せるわけも無い。
だけど、それは亜弥も同じ。
怒ってるかもしれないと、寧ろ、怒って欲しいとすら思っていたのに、美貴は無表情に「大丈夫」と言った。
亜弥にとって、それは自分の存在が無くても大丈夫という意味に捉えるには十分だった。
大事に思っているのは自分だけ。
亜弥もそう感じる。
- 244 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:27
- だからこそ……
お互い、まだ相手が好きだと伝えたことは無かった。
お互いに、相手に伝わっていると思っていた。
お互いに、相手の口から聞きたいと思っていた。
だからこそ……
静止した空間での静止した思いは、お互いをそこにとどめるだけ。
どんなに本気な言葉でも、相手の耳に入る頃には空虚なものになっている。
それでも……
それでも、美貴は亜弥と離れたくなかった。
亜弥も美貴と一緒にいたかった。
- 245 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:27
- 自分の意識をとどめておくことすら、辛いと感じるようになった今でさえ。
意識が飛んでしまえば、昨日のように美貴に会う時間も過ぎてしまうかもしれなかったから。
ゆえに、亜弥は常に気を張っていた。
意識を失うということは、亜弥にとっての自己防衛でもあった。
力の消費を抑えるために、一時的に活動を停止するということだ。
けれども、亜弥は今は全力でそれに抗い、美貴の前で笑顔を作り続けた。
美貴に心配を掛けたくない。
美貴と一緒にいたい。
その思いだけが亜弥を支えていた。
美貴と会っていないときでも、休むことを許されずに。
ただただ自分の体と戦い続けている亜弥。
- 246 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:28
- もちろん、美貴は気づかない。
気づかないことに亜弥は全力を注いでいるのだから。
本当は気づいて欲しいのかもしれない。
このまま、何も無く最後の時がくるのを亜弥は待っていたくない。
だけど、それ以上に美貴に心配を掛けたくは無い。
ずっと、このままだったらいいのに。
そう望むだけで、今日もまた美貴との1時間が過ぎていく。
「帰りなよ」
「うん」
お互いに、笑顔という仮面を被って手を振った。
触れれば簡単に外れそうな仮面なのに。
手を伸ばすことを恐れているから外せない。
- 247 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:28
- 外して涙を見せたいのに、決して外せない。
そうして取り繕った静止した時間。
大好きだからこそ、取り繕った気持ち。
一言、たった一言だけ言えばいいのに。
冗談で他人に口にしたことのあるような言葉なのに。
それが禁句であるかのように、たった2文字の言葉は二人の口からでることはなかった。
- 248 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:28
- ◇
季節は暦の上では春になろうとしている。
閉ざされた雪は、いまだに衰えを知らず。
二人の関係も変わらない。
変わったことといえば、亜弥の体調が更に悪くなったことと……
美貴が大学に合格したことだ。
「信じらんない」
母親から封書を手渡されたとき、美貴は呟いた。
既に封は切られており、笑顔で母親が渡してきたのだから、内容はとっくに想像はついていた。
けれども、改めて見てみるとそう言わざるを得なかった。
- 249 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:29
- ペンで上に「不」と付け足してもバチが当たらないんじゃと美貴は思う。
けれども、合格してしまえばもう勉強はしなくて良い。
それは、亜弥に会える時間が増えるということだ。
「帰りなよ」と促す亜弥に「もう勉強しなくていいから」と答えることが出来る。
図書館にいくことはもうしない。
だから美貴はいつもよりも1時間ほど早くにウキウキしながら公園に行った。
そこで、美貴が見たのは倒れこんだ亜弥の姿だった。
真っ白な大地に黒い塊。
それは、最初に会った時のことをどこか連想させた。
- 250 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:29
- 「亜弥ちゃん」
叫んで近寄る。
いつからこんなところに倒れていたんだろうか。
通りかかった人はいなかったんだろうか。
そんなことが一瞬頭によぎるが、それ以上に考えることは無い。
肩を叩いて呼びかける。
亜弥は少しだけ目を開けてかすかな声で「たん」と言った。
「亜弥ちゃん!」
再度呼びかけて手をとる。
初めて触れた亜弥の手は冷たかった。
雪のように冷たかった。
それが意味することを、美貴は雪国に住んでいてわからないわけはない。
どうしてか、救急車という考えよりも、自分の家に連れて行くという考えが先に出た。
亜弥を抱き起こして背負う。
- 251 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:31
- 亜弥の意識が戻りつつあったため、比較的楽に背負うことが出来た。
軽かった。
背負ったまま、雪の中を全力で走っていけるほどに軽かった。
家には誰もいなかった。
母親は買い物。父親はまで仕事から帰っていなかった。
鍵を開けて階段を上り、自分の部屋に入って亜弥を寝かせる。
亜弥がものすごく軽いと、その時になってようやく美貴は気づいた。
「ありがとう」
少し息を吐きながら作られた笑顔の後に、小さな声で言った。
- 252 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:34
- 「いつから、いたの?」
「わかんないな」
「いっつも、ずっと前からあそこで待ってたの?」
美貴の問いかけに亜弥は困った顔をした。
いつも、美貴が来る1時間ほど前からあそこで待っていた。
けれど、美貴に尋ねられると今来たところだと答えていた。
「そうなんだ……」
「違うよ!」
はっきりした声で言う。
じっと見つめる美貴の目。
何もかも見透かされてしまいそうな目。
「違うから……」
そう言って亜弥は美貴からの視線を外すように布団を被った。
- 253 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:35
-
- 254 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:35
-
- 255 名前:_ 投稿日:2006/05/15(月) 00:46
- >>240-252 更新終了です。
>>237 もう折り返しを過ぎましたが、最後までそう思っていただけるようにがんばります。
>>238 設定だけが命の作品ですので、そう言っていただけるとうれしいです。
>>239 ありがとうございます。二つの時間軸が混じってごちゃごちゃしていますが、どちらのこともそう思っていただけるとうれしいです。
- 256 名前:_ 投稿日:2006/05/21(日) 02:10
- 手を伸ばせば届く距離なのに。
布団から出る亜弥の指先が、自分の想いのように見えた。
少しだけ、様子を見るように小出しして、相手の様子を伺っていく。
もしかしたら、だなんて甘美な想いが胸を突く。
亜弥ちゃんも同じなんだったら、だなんて可能性はゼロではないが100でも無い。
美貴は100を求めた。
自分の気持ちは100だと思っていたから。
けれども、口にすら出せないその想いは100からは程遠い。
亜弥の100の気持ちが掛かってこそ、美貴の1の気持ちは100になることができるのだ。
- 257 名前:_ 投稿日:2006/05/21(日) 02:10
- 沈黙を破ったのはドアの開く音。
「美貴、靴くらいちゃんとそろえて脱ぎなさい」
「あ……」
それどころではなかった。
亜弥をこの部屋に運ぶことしか頭が回っていなかった。
それとともに、母親の視線がベッドへと移る。
「あ、あの…友達。ちょっと具合悪いからって……」
説明を始める美貴。
母親の目には亜弥の姿は見えない。布団の膨らみすらも、彼女にはなかったことになっている。
「今日の夕飯、少し遅くなるから」と言い残して部屋を出て行く。
「見えないんだよ」
母親が出て行くのを見ていた美貴の後ろから声が聞こえた。
首を戻すと、亜弥が被っていた布団を外していた。
- 258 名前:_ 投稿日:2006/05/21(日) 02:11
- 「何、言ってるの?」
「私は、たんのお母さんの目には映らないよ……ねぇ?たんはもう気づいてるでしょ?」
亜弥は言う。
どこか自嘲的な言い方だった。
自分は化け物だ。
好きな人の口からその言葉が出るのが怖いから、逆にこっちから出してしまう。
自分は化け物。化け物なんだと言い聞かせるように。
美貴は思い返す。
最初に「見えるんだ」といった亜弥の言葉。
決して、自分のことを話さない亜弥の態度。
そして、先ほど感じた空気のように軽い亜弥の体。
- 259 名前:_ 投稿日:2006/05/21(日) 02:11
- 亜弥が何者か、聞いてみたいと思う。
亜弥が何者でも、好きでいることは変わらないと思うけれど、その質問はスルリと口からこぼれた。
「亜弥ちゃんは……何者?」
驚きの表情ではなかった。
恐怖でもなかった。
ただただ、無表情。
表情を作ることを忘れたかのように、ゼロだった。
「デューファー」
「デューファー?」
「そう。幽霊みたいなんだよ。たんにしか見えない。たんしか触れることが出来ない」
差し出された亜弥の手をとってみる。
変わらず、雪のように冷たい手。
真っ白になった頭の中に、死んでるから体温が無いの?という考えが湧き出た。
その考えを消すかのように、亜弥の手が離れる。
- 260 名前:_ 投稿日:2006/05/21(日) 02:11
- 「もう、バイバイだね」
亜弥はベッドから起き上がった。
その響きを自分の胸にしまいこむように、「バイバイだよ」と小声で繰り返した。
「どうして?どうして美貴は亜弥ちゃんとバイバイしなきゃいけないの?」
わかることなんて無い。
亜弥が何者なのか。
デューファーが何なのか。
亜弥の口から出たことの全てが意味不明だった。
わかるのは、亜弥が自分の前からいなくなろうとしていること。
まだ亜弥の冷気の残るこの手は、もう二度とつながれないということ。
そして……自分が亜弥と離れたくないということ。
それでも……
それでも美貴は言えなかった。
- 261 名前:_ 投稿日:2006/05/21(日) 02:11
- 「たんは、私とどうして一緒にいたいの?」
問いかけられた亜弥の言葉に、答えることは出来なかった。
どうして、だなんて決まっている。
でも、亜弥ちゃんはどうなの?
亜弥ちゃんは、私と一緒にいたくないの?
その言葉を押しとどめるように、美貴は奥歯を噛んだ。
言うべきことはそれではない。
だけど、言えなかった。
亜弥と一緒にいたいのに。
一緒にいたいがゆえに、一緒にいたいということが出来ない。
美貴はそこで止まっている。
- 262 名前:_ 投稿日:2006/05/21(日) 02:12
- けれども、亜弥は逆だった。
彼女は逆になることで、はるかに容易にその言葉を自分から引き出すことができた。
もう、美貴と会えないのだから。
振られた方が、諦めがつく。
だからこそ……亜弥は言うことができた。
「たん、ありがとう。大好きだったよ」と。
頬を伝った涙。
それを隠すように美貴の前を通り過ぎて部屋を出ようとする。
その手をグイと引っ張られた。
振り返った亜弥をぎゅっと抱きしめる美貴。
ひんやりとした体が、自分と一つになる。
「バカ……美貴も亜弥ちゃんのこと好きに決まってるじゃん」
- 263 名前:_ 投稿日:2006/05/21(日) 02:12
- 我ながら情けなかったと、暗闇の中で美貴は嘲った。
結局そうだった。
自分は安全なところから、じーっと待っていただけ。
その過ちをまた繰り返そうとしてるの?
美貴は恐れていた。
亜弥と時間をどれだけ重ねても、寧ろ重ねれば重ねるほどに膨らんでいった。
亜弥を求めれば求めるほどに、いなくなった時のことを考えてしまう。
亜弥とそっくりな亜弥が、突然自分の前から消えてしまった時のように。
ずっと、一緒にいると約束していたのに。
ある日、突然に消えてしまった亜弥。
だから、亜弥もある日突然、同じように消えてしまうんじゃないか。
常にそのことを考え続ける頭。
ささいなシグナルを、全てそっちの方向に解釈してしまう頭。
- 264 名前:_ 投稿日:2006/05/21(日) 02:13
-
自分の口から好きだと言うことができないのに、亜弥の口から「好き」という言葉を求める。
そして、与えられた「好き」を今度は疑っていく。
だからこそ、亜弥を追いかけもせずに、ただただ留まっているだけ。
亜弥が戻ってくるのを、子どものように待っているだけ。
- 265 名前:_ 投稿日:2006/05/21(日) 02:14
-
- 266 名前:_ 投稿日:2006/05/21(日) 02:14
-
- 267 名前:_ 投稿日:2006/05/21(日) 02:16
- >>256-264 更新終了。あと2回ほどの予定。
>>263の前に
◇ ◇ ◇
をコピペミスで飛ばしていますが気にせずに…あそこで時間軸が戻ってると思っててください
- 268 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:51
- 携帯を手に取る。
暗闇の中に光るディスプレイの光。
着信履歴を開いても、リダイアルを開いても、並んでいるのは亜弥の名前。
ボタン一つ押すだけで、亜弥につながる。
亜弥と話が出来る。
けれど、親指は凍りついたように動かない。
ディスプレイの光が消える。
再び部屋は闇に包まれる。
携帯を閉じることも、電話を掛けることもできない。
手に収まったそれとにらめっこ。
待ちうけ画像の亜弥とにらめっこ。
- 269 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:51
- 考える。
このままだと、亜弥は二度と戻ってこないかもしれない。
こんなことで別れてしまっていいの?
別れの辛さは、あなたが一番しているはずでしょ?
もう一人の自分が問いかける。
うるさい。
髪の毛をかきむしる。
あの時のこと、忘れたことなんて無い。
ずっと一緒にいようよって言ったのに。
ずっと、一緒にいられるって思ってたのに。
- 270 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:51
- ◇ ◇ ◇
その日以来、美貴は亜弥とともに過ごした。
亜弥の体調もどんどんとよくなっていった。
まるで、それまでが嘘のように。
しかし、後になって美貴は思う。
消える前の最後の灯火だから、あんなに綺麗だったんだと。
だが、その時の美貴にとって、当事者の亜弥にとってもそれは、永遠への始まりだと思えた。
からりと晴れた青空と、冷たく張った空気の中、手を繋いで歩く二人。
このまま、どこまででも歩いていけそうな錯覚すら覚えるほどに。
「たん、あれ見て!」
指差した先で、ドサドサと枝から落ちる雪。
糸を引くように連続的にドサドサと、数秒間落ち続ける雪に二人は声をあげて笑った。
なんでもないことだが、亜弥がいれば全てが変わってしまえる。
今日まで何度も往復したこの道も、亜弥とならばまるで遠く離れた異郷の道のように。
見るもの全てが新鮮で。感じるもの全てが新しくて。
- 271 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:52
- 冷たい亜弥の体にぬくもりを感じそうになるほどに。
美貴はギュッと亜弥を抱きしめた。
幽霊でもなんでもいい。
亜弥ちゃんだから。
周りから見れば、異様な光景だったのかもしれない。
道の真ん中で見えない何かに捕まるように立ち尽くす美貴。
そのことを認識していたとしても、美貴は止めなかっただろう。
一切何も考えたくは無かった。
亜弥のこと以外は何も。
それでよかった。
それでも、よかった。
亜弥が何者でも。
隣で笑っていてくれたなら。
それだけで、美貴は何も要らなかった。
- 272 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:52
- ◇
異変に最初に気づいたのは亜弥だった。
自分の体に起こったことなのだから、当然のことだった。
勢いよく出ていた水道の蛇口を閉めたように。
プツンと以前のように動けなくなった。
荒い呼吸と、平行感覚すら感じない体。
何かに捕まっていなければ、立っていられなくなった。
限界、ってこと?
いや、本当ならもっと早く限界に来てもおかしくなかったんだと思う。
デューファーに課された縛り。
それは、簡単に断ち切れるものではない。
断ち切ろうとすればするほどに、重くのしかかってくるものなのだ。
- 273 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:52
- 「規則なんて、やぶるためにあるんだよ」と、亜弥は元気になった時に言った。
自分と同じように、迷っている彼女に最後に贈った言葉だ。
美貴が現れるまで、ずっと自分といてくれた人。
同じデューファーだから、というのは建前かもしれない。
本当は、一緒にいて心地よかった。
美貴とはまた違う、そんな人だった。
どうしているのかなんて、わからない。
彼女には彼女を必要としている人がいる。
自分にも必要としてくれる人がいる。
だから、こんなことに負けていられない。
- 274 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:52
- もしも、自分がこれに打ち勝つことが出来たのなら。
それは、きっと同じデューファーであった彼女も幸せになれるという証明となるのだから。
美貴はまだ目覚めていない。
気づかれないように、ゆっくりと座り込む。
視野が安定しない。
手足は小刻みに震える。
体温なんて存在しない自分だが、寒気を感じた。
背中を駆け抜けて頭のてっぺんに駆け抜けるような寒気。
次いで起こるのは神経を握られているかのような痛みだった。
- 275 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:52
- 「いっ……」
思わず声が漏れた。
必死に意識を保とうとする。
呼吸を意識的にゆっくりと深く。
対照的に全身には力をこめる。
このまま、死んじゃうの?
禁忌を犯したデューファーがどうなるかなんて、教えてもらったことは無い。
だけど、もうわかりかけている。
死。
最も単純で最上の罰。
- 276 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:53
- 願いをかなえてしまえばいい。
たんも願いを叶えられて喜ばないわけはない。
そんな誘惑が頭の中に住み着き始める。
それじゃダメだ。
ここで乗り越えられなかったら。
もう規則を破ることなんてできない。
たんと会ええなくなるくらいなら、死んだ方がマシ。
だから、賭けてみよう。
私の命が続く限り。
破ってみせる。
たんとずっと一緒にいたいから。
チクチクとした痛みは、体を動かすたびに襲い掛かる。
ぎゅっと口を結んでいないと声が漏れそうなほど。
- 277 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:53
- 「ん、もう起きてたんだ」
美貴は起き上がる。
時計はまだ5時を過ぎたところ。
太陽の光すらまだ無い時間だった。
目をこすりながら、美貴は電気をつける。
ぱぁっとまぶしい照明で目がくらむ。
その間に、必死に亜弥はいつもの表情を作ろうとする。
けれど、それは間に合わない。
そもそも、いつもの笑顔を作ることはもう難しかった。
口角を上げただけで痛みが全身を駆け抜ける。
痛がるそぶりを隠すことだけで精一杯だった。
- 278 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:53
- 「亜弥ちゃん!」
異変にすぐさま気づく。
これで2回目。
自分の前で亜弥がこんなに苦しんでいるのは。
ベッドから降り、亜弥をそこに寝かせる。
変わらない軽い体。
両手で簡単に抱え上げることができるという事実が、余計に美貴の心を痛めた。
様子を尋ねる美貴に、亜弥は「大丈夫だから」としか告げない。
美貴は自分を悔やんだ。
亜弥が、ずっと元気だった時も、もしかしたらとずっと気に掛けていた。
少しの体調の変化も見逃さないようにと、気にしていたのに。
明らかに、前に倒れた時よりも酷い状況であることはわかる。
- 279 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:53
- 笑顔すら作れずに自分を見つめる亜弥の視線が痛かった。
だけど、それから逸らすことはできなかった。
ぎゅっと亜弥の手を握る。
自分は医者ではない。
自分ができることなんて、それくらい。
そして、それが亜弥にとっての一番の薬であることを美貴は自覚していなかった。
まるで、美貴のエネルギーを吸い取っているように、美貴と手を繋いでいると亜弥の痛みは引いていく。
痛みがやがてしびれに変わり、それからもう一度痛みを感じ始める。
体中に刺さった針が少しずつ外れていくように。
美貴がいれば、一緒に乗り越えられるんじゃないかと、亜弥の心を強くする。
不安も徐々に消えていった。
- 280 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:54
- たんさえいれば。
亜弥の心にそう深く刻み込まれ、そのことで勇気付けられた亜弥の視界が元に戻ってくる。
ぼーっとしか見えなかった美貴の顔が、はっきりと見える。
泣きそうな顔でじっと見つめる美貴に、なんとか笑顔を作ってあげたかった。
安心させてあげたかった。お礼を言いたかった。
- 281 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:54
-
ありがとう。たんがいてくれてよかった―――
動かした口からは、声は出てこなかった。
少なくとも、亜弥の耳には自分の声は聞こえていなかった。
ただ、美貴はそれに答えるように頷いた。
それが亜弥の見た最後の映像だった。
- 282 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:54
- ◇
それから、美貴はどうしたかよく覚えていない。
塞ぎこんでいても、時は容赦なく過ぎ去っていく。
入学の手続き、引越しと立て続けに起こる作業を、どこか他人事のように見ていた。
ずっと、美貴の世界は曇りだった。
飛行機に乗って、今の街にやってきた時も、ずっと同じだった。
雪の無い世界でも、美貴の心は雪に埋もれたままで。
心配をした母親が、少しの間は美貴と一緒にいようかと提案したが断った。
いて欲しいのは母親ではない。
亜弥だ。
- 283 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:54
- それ以外は、いてもいなくても一緒。
死のうと思わなかったことが、自分でも不思議に思う。
もしかしたら、そこまで頭が回らなかったのかもしれないとも思う。
呆然と重ねる日々は、どんどんと過ぎていく。
大学が始まって、友達もそれなりにできた。
授業にもきちんと出た。
だけど、ただそれだけ。
そこに心を動かされることなんて何一つ無い。
ただただ日々を重ねているだけ。
今日が何日か、何曜日かなんて……今が何時かすら気にならなかった。
色を失った世界。
そこにピンク色が飛び込んでくるまでは……
- 284 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:55
- 立ち止まったのは、桜の下だった。
一月近くも灰色の世界で過ごす美貴に飛び込んできたピンク色。
舞い散るそれに、美貴は足を止めて見上げた
思い出すのは亜弥との約束。
桜を一緒に見ようね。
もう叶えられない約束。
ぐっとこみ上げてくる涙を邪魔するかのように、背後から声を掛けられた。
- 285 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:55
- 「桜、綺麗ですね」
聞き覚えのある声。
耳を疑った。
聞こえるはずの無い声。
聞き間違えるはずの無い声。
そして、一番聞きたかった声。
振り返った先には彼女がいた。
世界に色が戻っていく。
声すら出すことの出来ない美貴に、彼女は尋ねた。
「お名前、なんていうんですか?」
- 286 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:55
- ◇ ◇ ◇
ジャーっというかすかな音がどこかで響いていた。
カーテン越しに光が見える。
ぼーっとする頭で、美貴は自分がいつの間にか寝ていたことに気づいた。
手には携帯を握り締めたまま。
そのことで、状況を再び思い出す。
亜弥ちゃん……
考える。
最初は、そうだったかもしれない。
- 287 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:55
- 亜弥ちゃんの代わりに、亜弥ちゃんを好きになったのかもしれない。
だけど……違う。
亜弥ちゃんは亜弥ちゃんじゃない。
亜弥ちゃんも大好きだったし、今の亜弥ちゃんも大好きだ。
離れたくない。
絶対に……
だから……
携帯を開く。
固まった指をゆっくりと動かしていく。
- 288 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:55
- その時だった。
「おはよう」
扉が開いて、声が聞こえた。
思わず指を止めて振り返る。
聞こえるはずの無い声。
聞き間違えるはずの無い声。
そして、一番聞きたかった声。
亜弥は、いつもとかわらない調子でそこに立っていた。
- 289 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:56
- 「何でここにいるの?」
つい、とげとげしい言い方になってしまった。
亜弥が戻ってきてくれて一番うれしいのは自分なのに。
「洗い物、してなかったから」
それは、いつも私の仕事じゃん。
ったく……
無言ですくっと立ち上がる。
亜弥は、目に不安の色を灯して、そんな美貴の様子をじっと伺っていたが、自分の前を通り過ぎて、部屋を出て行くと、思わず声をあげた。
- 290 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:56
- 「どこいくの?」
「洗い物。二人でやってさっさと終わらせよ。亜弥ちゃんに、聞いて欲しいこともあるし」
ふっと亜弥の表情が柔らかくなる。
いつもの美貴がそこにいた。
- 291 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:56
- 「デューファー 第三部 完」
- 292 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:56
- ◇
- 293 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:56
- ◇
- 294 名前:_ 投稿日:2006/05/29(月) 00:02
- >>268-291 更新終了。一度に上げてしまいました。
これで第三部まで終わりです。
次の第四部で最後になります。
紺野さんの卒業までには終わる予定ですので、もう少しだけお付き合いいただけるとありがたいです。
一応まとめ
第一部>>1-100
第二部>>111-185
第三部>>194-291
感想などいただけるとうれしいです。
- 295 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/29(月) 09:37
- いい作品ですねぇ…
お疲れ様でした
よりいっそうあやみきが大好きになりました
第四部も楽しみにまっています
- 296 名前:_ 投稿日:2006/06/11(日) 00:48
- long,long time ago...
- 297 名前:_ 投稿日:2006/06/11(日) 00:48
-
デューファー 第四部 「Start」
- 298 名前:_ 投稿日:2006/06/11(日) 00:48
- 半刻ほど前から降り始めた雨は、次第に細かな粒になった。
霧のように舞うそれとともに、真希は山道を進んでいた。
足元の草木に纏う雨粒は、歩くたびに足にしみこんでいく。
草履も足袋も水を含み、水溜りに足を踏み入れても何ら気にならないほどだった。
手に持った灯り以外の光は無い。
雨に濡れた樹皮に光が反射して不気味に光る。
ガサガサと風に揺れる葉が奏でる音は、物の怪の仕業かと思えるほどに異様な音を奏でていた。
それでも、物怖じすること無く真希は歩いていく。
闇が怖いのは、何かが出てくるかもしれないという恐怖心の賜物。
わからないものを人は一番恐れる。
幽霊も鬼も物の怪も。
理解できないから恐れるのだ。
額に張り付く髪をかき上げて、真希はため息を一つついた。
これだけ雨が降っているのに、喉が渇く。
- 299 名前:_ 投稿日:2006/06/11(日) 00:49
- ぼーっと見上げて口を開いてみる。
舌に感じるわずかな雨の感覚。
雨の味を一点に与え、すぐに唾液と混じる。
けれども、口の中に雨がたまっていくわけでもなく。
しばらくするば、葉から落ちた滴が真希の喉にストンを落ち、真希は思い切りむせた。
「最悪」
咳き込みながら真希は短く吐き出す。
結局、そのまま水を飲む気にもならなくて、歩き出す。
手にした灯りがゆらゆらと、いくつもの影を生み出す。
踊っているようにも見えるそれは、恐怖というよりも滑稽であって。
ピチャピチャと音をたてながら真希は進んでいく。
- 300 名前:_ 投稿日:2006/06/11(日) 00:49
- 雨は、再び勢いを増し始めた。
葉に当たる雨音が大きく強くなっていく。
すでにぐっしょり濡れている真希には、雨宿りの必要は無いがそれでも雨宿りのできる場所を探した。
程なくして見えたのは、社だった。
山の途中に場違いなほどにポツンと立っていたそれは、まるで狐にでも化かされているのかと思うほどに浮いていた。
濡れた朱塗りの瓦が、持っている光に照らされて血の様に見える。
さすがの真希も少し躊躇った。
けれども、他に選択肢はない。
それに、狐狸の類とは親近感に近い感情を抱いていたから。
そう、自分と同じく人に恐れられ虐げられるモノなのだから。
- 301 名前:_ 投稿日:2006/06/11(日) 00:49
- 「こんばんはー」
ギィと音を立てて戸を開く。
返事は無い。
鼻に掛かる花の香り。
何の花かはわからないが、明らかに人為的なもの。
「だ……誰ですか」
弱々しい声。
雨音に消されそうなほどに。
だけど、全神経を集中させていた真希には聞き取ることが出来た。
驚きは無かった。
足を踏み入れた瞬間にわかっていた。
誰かがいるであろうことは。
ただ……
真希は灯りを向ける。
照らされて映ったのは一人の少女。
場違いなほどに真っ白な着物を身につけて、佇んでいた。
幽霊のようにも見えるそれに、真希は思わず視線を下にずらした。
- 302 名前:_ 投稿日:2006/06/11(日) 00:49
- 足はある。
ゴクリと唾を飲み込んだ。
固まったように動けない。
一歩、自分の方に近づいてくる。
ギィと小さく床が軋んだ。
「一夜だけでいいから雨宿りさせてくれないかな?朝になればすぐに出て行くから」
真希は早口でまくし立てた。
少女は首を少しだけ傾げ、無言のまま真希をじっと見つめていた。
「盗人でもなんでもないよ。食べ物に困ってる生活をしてるわけじゃない。何もしないでただ寝るだけ」
灯りを置いて、真希は両手を広げて、何ももっていないことを示した。
腰周りにも何も差して無いこと示すために、くるりと回った。
- 303 名前:_ 投稿日:2006/06/11(日) 00:49
- 「いいでしょ?」
ダメといわれても、何とかしてここにいるつもりだったけれど。
その必要は無く、少女は恐る恐る首を縦に振った。
「ありがとう。私は後藤真希。あなたは?」
じっと真希を見つめる大きな瞳。
灯りが映りこんで橙色を帯びた瞳は、太陽を思わせるほどに圧倒的な何かがあった。
全ての行いを天から見ているような。
幽霊や物の怪の類ではなく神様なのかもしれないと、真希は思った。
「……紺野あさ美です」
不意に雨音の合間をすり抜けて届いた名前。
目の前の彼女が発したとすぐには理解できなかった。
- 304 名前:_ 投稿日:2006/06/11(日) 00:51
- >>296-303
更新終了。これで最後のお話です。
>>295 ありがとうございます。あやみきもこんごまも、好きになっていただけるとうれしいです。
次で最後ですがよろしくお願いします。
- 305 名前:konkon 投稿日:2006/06/11(日) 21:38
- ぬぉぉっ!
ついに最終章・・・ですか?
えっと、もう一回読み直してきます(汗)
- 306 名前:あお 投稿日:2006/06/19(月) 00:03
- 久々にきたら大量更新!
パラレルで話を進めていくのは難しそうですねぇ。よく書けているなぁ、と感心してます。
先が未だに読めませんので、最後までワクテカしてたいと思いますw
- 307 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:52
- ◇
社の中は、外から見るよりもずっと狭かった。
天上が低く、奥行きもさほど無く。
ちょっと手を伸ばせばあさ美の髪を撫でることができるほどの距離。
数箇所で雨漏りをしているのか、天上にじんわりと黒い染みが増えていく。
こんなところで何をしているんだろうという疑問はお互い様だ。
人里からずいぶんと離れた山奥。
こんな社があることさえ、不自然なほど。
やっぱり、化かされてるのかな?
真希は思う。
朝になれば森の中に寝ているんだ。
こんなことを亜弥に言えば笑われるだろう。
きっと、ケラケラと笑うに違いない。
- 308 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:52
- あさ美は無言だった。
無言でどこかを見ていた。
そもそも、真希が灯りを持ち込むまで、ここには光がなかった。
寝ていた風にも見えず、真希が来る前からこうして壁をぼーっと見ていたのかもしれない。
くしゅん!
そんなことを考えていると、くしゃみがでた。
体が冷えているのかも知れない。
そりゃそーだ。
夏が近いとはいえ夜はまだまだ肌寒い。
雨のせいで服もびしょびしょ。
ふと顔を上げると、あさ美がきょとんとした目でこっちを見ていた。
- 309 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:52
- 「あ、ごめんごめん」
「大丈夫ですか?」
彼女が動くと、ジャラリという音がした。
お金でも入れているのかなと真希は思った。
「大丈夫大丈夫」
そういいながら、袖を手で絞る。
じんわりと手の平から溢れて腕をつたっていく水。
「すっごい雨だね」
「そうですね」
雨足は止まるどころか勢いを増すばかり。
屋根に打ち付ける雨の勢いで灯りが揺れていた。
- 310 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:53
- 会話すら聞き取りにくいはずなのに、あさ美の声は真希に聞こえていた。
消えそうな声なのに、それがゆえに雨音にぶつからずに、うまくすり抜けて耳に届くような。
奇妙な感じだった。奇妙といえば最初から全てが奇妙だったから、今更そんなことを考える必要は無いのだけれど……
あさ美は、再び首を元に戻した。
見つめる壁に何があるんだろうと、真希は目を凝らしたが、打ち付けられた板目に歪に伸びた自分の影が映っているだけ。
「ねぇ?紺野?」
「はい?」
視線を動かさないままに言葉だけを放つ。
彼女に少し興味がわいた。
こんなところにいる少女。
真っ白な……まるで死に装束を纏っているかのような彼女。
何を思って何を見ているんだろうか。
それを口に出すなんて、自分らしくなかったけれど。
そう思ったときには言葉にし終わっていた。
「こんなところで、何をしてるの?」と。
- 311 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:53
- ◇
鼻をつく生薬の匂いで目が覚めた。
パチパチという囲炉裏の音と、その上にくべられた鍋。
それに向かうように座っている人。
「まっつー、起きてたんだ」
ぼーっとする頭で、彼女の名前を思い出す。
頭が痛い。喉も痛い。フラフラする。
二度ほど咳き込んだ。
そりゃそーだね。
あれだけ雨に打たれてたんだから。
- 312 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:53
- 「『起きてたんだ』じゃない」
思い切り怒った顔。
自分が何かやってしまったのかと反芻する。
とはいえ、帰ってきてからの記憶が曖昧だ。
頼まれていた植物を渡して、それからずっと寝ていた気がする。
「誰のせいで寝れなかったと思ってるのさ」
湯飲みを差し出される。
一段ときつくモワッとした匂いが立ち込める。
「臭い」
「贅沢いわないの。匂いも効くんだから」
「あ、それ柴胡ね」と亜弥は付け加える。
咳と熱と言えばこれって以前に教えてもらった気がする。
フーフーと冷ましてから、ちょびっとずつ、ズズズと音を立てて飲む。
舌に感じる苦味が、意識をはっきりとさせる。
- 313 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:53
- 「で、なんでまっつーは怒ってるの?」
「ごっちん、それ本気で言ってるの?」
ジロリと睨まれる。
だけど、真希にも怒られる理由がわからなかった。
山奥に薬となる植物を取りに行って、無事に持って帰ってきた。
あ、もしかして間違って持って帰ってきたとか?
それは十分にありえる可能性だった。
あさ美と別れた後、寝不足のままに見つけたモノだったから。
それに、真希は薬師の亜弥と違って、植物には詳しくは無い。
どこどこに生えている、これと同じものを持ってきてと言われただけ。
- 314 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:54
- だったら最初からまっつーが行けばいいじゃん。
心の中で毒づくが、そんなことは口に出せない。
亜弥は、自分の恩人だ。
亜弥がいなければ、きっと死んでいたに違いない。
「ごめん」
「ったく、どれだけ心配したと思ってんの」
「え?」
思ってもみない言葉に驚く。
その意味がわからないほどに、真希は愚鈍ではない。
「ごめんなさい」
先ほどの口先だけの「ごめん」を謝罪する意味も含めて。
亜弥は「いいよ、もう」といい、薬を飲むように真希を促す。
- 315 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:54
- 熱さと苦味を堪えて一気に飲んだ。
「でさ、どうしてこんなに遅くなったの?」
空になった湯飲みを受け取って亜弥は言う。
あぁ、と真希は呟く。
亜弥なら知っているのかもしれない。
あの社で聞いた、あさ美がそこにいる意味を。
そして……あさ美をあそこから連れ出せるのかもしれない。
- 316 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:54
- ◇
「私は、祈っているんです」
「誰に?」
「この山の神様にです」
まっすぐな目をして言った。
神様なんて、この世にいないんだという持論を挟みこむ余地の無いほどに。
「紺野が?」
「はい。私たちの村から選ばれた人が、ここで祈りを捧げるんです」
「紺野は、選ばれたんだ」
「はい」
少し、自信を持ったような顔をした。
選ばれた、って言葉に大嫌いだ。
選ばれた人間は、選ばれなかった人間を虐げる。
選ばれなかった人間は、自分達の中から選んだ人間を虐げる。
自分は、その後者の方の選ばれた人間なのだから。
- 317 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:54
- 『薄汚れた奴が、入ってくんじゃねぇ』
『お前らに売るものは無いんだよ』
幼い頃から投げかけられた言葉を思い出して、肩が痛む。
振り下ろされた棒を体に受けてまでも、懇願するしかなかった。
それでも、一握りの米すら手には入らなかった。
けれども、彼らは私たちを恐れていた。
それは後ろめたさからか、単に私たちの力のせいなのかわからない。
狐付き。
そう呼ばれる私だったけれど、彼らが思っている力なんてものは何一つなかった。
もしかしたら、自分がそれに気づいていないかもだなんて期待を込めて思うこともあったが……
- 318 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:55
- 「私は、山の神様がお怒りを静めるまで、こうしてここで祈りを捧げるんです」
「この雨がやむまで?」
「違います。長老様が山の神様とお話して、お怒りをお沈めになったことを知らせてくれるまでです」
「ふぅん……」
否定はしないけれども、話半分で聞いている。
そういうシステム自体がおかしいんだと、真希は亜弥からずっと言い聞かされていた。
薬師である亜弥は、「鬼」の部類に属する人種だ。
特に、植物を煎じて病を治すという行為はまさしく鬼道と呼べるだった。
ゆえに、周りの人間は亜弥を恐れていたが、病に罹ると頼らざるを得ないという事実でもって、亜弥は村人から普通以上の扱いを受けていた。
- 319 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:55
- 「別にこんなの、知ってれば誰でもできるんだけどね」と言うのは亜弥の弁。
真希はよくわかっていなかったが、植物にはそれぞれに含まれる力があって、症状に応じてそれを選んで、煎じることで力を取り出せば、病が治るということらしい。
煎じるっていうのは、単に煮ているだけだから、要するに「選ぶ力」さえあれば誰でも出来るらしい。
「色々と試してみて、覚えるだけだよ」と簡単そうに亜弥はいい「ごっちんもやってみる?」と言い出したが、真希は断った。
部屋中にずらっと並べられた植物を、亜弥は全て把握している。
同じ空間で一緒にいるのに、真希はそれの区別すらうまくつかないのだ。
「選ぶ力」と亜弥はいうけれど、それは十分に選ばれた「特別な力」だ。
選ばれていない自分には困難なことだった。
- 320 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:55
- 気づけば、雨は雷を伴っていた。
雷光が隙間から入り込み、瞬間的に私たちを照らす。
山の神様はお怒りってわけだ。
ふっと笑いがこみ上げてくる。
あさ美が祈りもせずに、自分と話しているから、って考えた自分がそれに毒されているんだなとおかしかった。
汗と雨のまじった服は、休まって冷えていく体から更に体温を奪っていく。
ぴっちりと体に張り付いたそれを乾かすには、真希の持っている灯りだけでは弱すぎた。
- 321 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:55
- 「向こう、向いてて」
あさ美にそう告げる。
袖を引っ張って腕を抜いた真希に、その意図が気づいたのかあさ美は頷いて再び壁を見た。
脱いで絞った服からは、鍋いっぱいになるかと思うほどに大量の水が溢れてきた。
すでにほつれがたくさん見えている服だから、服が傷むことは今更という感もある。
それでも、亜弥に買ってもらった服だからと考えると、少しだけ心が痛む。
バンッバンッと両手で広げて振って、再び着る。
目に見えてしわしわだったが、さっきよりも明らかに暖かかった。
「いいよ」
真希は言うが、あさ美は真希のほうを向かない。
ただただ、壁を見ていた。
白い着物が雷光を受けて輝いて見える。
金色を纏った、まるで仏様のようだった。
- 322 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:55
- そう言えば……
真希は決定的な違和感を覚えた。
この社には祭るべきものが何も存在していなかった。
外見は明らかに社なのに、中はただの四角い部屋。
いるのはあさ美だけだった。
どうして?
その問いかけをすることはできなかった。
あさ美が知っているとも思えなかった。
どうせ、長老とかいうのの考えに決まってる。
諦めににも似た結論で、真希はそれ以上考えるのをやめた。
- 323 名前:_ 投稿日:2006/06/28(水) 21:58
- >>307-322 更新終了です
>>305 一応最後の予定になっております。わざわざ読み返していただきありがとうございます。
>>306 不定期な更新で申し訳ないです。最後までワクワクしていただけるようがんばっていきます。
- 324 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/28(水) 23:51
- これは…
なんか今までで一番ドキドキしてます
- 325 名前:konkon 投稿日:2006/06/29(木) 00:32
- 更新乙です!
いやいや、まさかあちらの小説も作者様が書いていたとは
思いもしませんでしたよ。
どちらも楽しみに待ってます♪
- 326 名前:_ 投稿日:2006/07/09(日) 22:09
- ◇
パチンと囲炉裏の火が弾けた。
眉一つ動かさずに、亜弥は真希の話を聞いていた。
自分の思っていることが本当なら。
真希に告げなければいけない事実は、彼女を悲しませることになるだろう。
『優出れば和ならず』
この言葉を真希は知らない。
そもそも、知っている人間の方が稀だった。
とある信仰の一つ。
ひどく馬鹿げた、ひどく利己的な思想だった。
- 327 名前:_ 投稿日:2006/07/09(日) 22:09
- でも、もしかしたら違うかもしれない。
亜弥はそう思った。
思ったのではない、願っていた。
違う。
真希が、それ以上の興味をあさ美にもっていないことを願っていたのだった。
だから、亜弥はまだ言わなかった。
言うのは、確信してからでいい。
確信……何を?
あさ美がそうではないことを?
それとも、真希があさ美に興味を持っているということを?
- 328 名前:_ 投稿日:2006/07/09(日) 22:09
- 馬鹿げてる。
亜弥は首を振った。
真希はどこにもいかない。
自分から離れるわけが無い。
それは自信でも慢心でもなく、確信だった。
彼女の面倒をみてきたのは自分。
冷めているようにみえるけど、そういった恩は決して忘れないのが彼女でもあった。
だから、もうしばらく彼女の話を聞いていよう。
それから考えればいいことだ。
- 329 名前:_ 投稿日:2006/07/09(日) 22:09
- ◇
雨音の中、ぐーっと、響いた真希のお腹。
考えてみれば、もう半日以上何も口にしていない。
流れ込んできた雨水だけでは、とてもじゃないが空腹は満たされない。
幼い頃は、数日の飢えに耐えたこともあった。
道端の草を食べて、お腹を壊したこともあった。
細い腕は、小枝のようにぽきりと折れそうで。
けれども、それ以上に自分の食いぶちを自分に与えてくれた母は、細かった。
病を患い、帰らぬ人となるその瞬間も、自分よりも真希の食事を優先させた。
- 330 名前:_ 投稿日:2006/07/09(日) 22:09
- そんな自分が、たった半日で空腹を感じるというのは酷く滑稽だった。
しかし、それは亜弥と暮らし始めてからの食生活が十分なものだったという証でもあった。
やせ細った四肢は、太く肉付き。
ポコリと餓鬼のように出張ったお腹は、胸が大きく目立つほどに戻った。
「こんなものしかないですが」
ジャリっという金属音とともに、そっとあさ美は手を差し出した。
手にあるのは小さな実。
見たことのあるような、ないような。
けれど、その赤は鮮やかで、魅かれるように真希はそれを口に運んだ。
少し硬い皮を破ると口内に広がるほのかな苦味。
しゃりしゃりと音のでるような果肉に歯を立てると、ほどなくカチンと硬いものにぶつかる。
それを残すように口の中で動かしながら果肉をそぎとっていく。
残ったのは種。
- 331 名前:_ 投稿日:2006/07/09(日) 22:10
- 「種は食べないでくださいね」
いつの間にか、自分も口にそれを入れたあさ美が告げる。
真希はそれに従い、手に吐き出した。
中の種は、皮よりも一層真っ赤なものだった。
まるで、血を連想させるように、鮮やかというよりもくすんだ紅だった。
カリッとあさ美の口から音が響く。
歯が折れたのかとも思うほど。
「ここで、祈りを捧げるものだけが、種を食べることを許されているんです」
あさ美は続ける。
この実は、彼女達の主食であるという。
しかし、絶対にこの種だけは食べてはいけないと。
それは神に祈りを捧げるものだけが口に出来る神秘の種だと言った。
- 332 名前:_ 投稿日:2006/07/09(日) 22:10
- 「ふぅん」
口を少し尖らせて真希は答えた。
その実は手品のようにあさ美の手から次々とでてくる。
おいしいとは決して言えない物だったが、食べるのをためらうほど不味いわけではない。
夜が明ければここをでて、帰ることを考えれば、お腹を満たしておくにこしたことはなかった。
あさ美も、カンと小刻み良い音をたてながら食べ続ける。
ふと、彼女の口元に目が留まった。
まるで蛇が蛙を飲むように、指先にあった実が口の中へと吸い込まれていく。
少しだけ伸ばした舌でペロリと指先を舐める仕草と相まって、妖艶ですらあった。
蛇は水神の化身である。
だとすれば……
- 333 名前:_ 投稿日:2006/07/09(日) 22:10
- 真希は考えた。
祭られるべきはあさ美ではないか。
ともすれば、蛇に飲まれるのは私。
ここにきたのは、偶然なんかではなくて。
彼女が私を呼び寄せたのかもしれない。
尚も遠くで轟く雷鳴は、その考えを肯定しているかのようで。
それと共にドクンドクンと、心臓の音が頭に響く。
体の中から出してくれといわんばかりの心臓。
まるで、彼女への捧げ物になろうとしているかのように。
馬鹿げてる。
そう思いつつも、あさ美の口元から目が離せない。
実が入っていくだけで、種も何もでてこない。
井戸に物を投げ入れているかのように、それはどんどんどんどんと入っていった。
- 334 名前:_ 投稿日:2006/07/09(日) 22:10
- 喉に響くゴクンという音で、自分が無意識に唾を飲んだのがわかった。
あさ美に聞こえているわけは無いが、聞こえているかのようなタイミングで、彼女の指は止まった。
「どうかしました?」
そういった彼女の顔は、最初見たときとどこか違う感じがした。
ドクドクとなる心臓は、一向に落ち着きを見せない。
あさ美が座ったまま、自分の方へと身を寄せる。
ジャリジャリとまた音がする。
動けない自分がいた。
恐怖心と好奇心と……そしてわずかながらに存在する別の感情。
ドクン、ドクンと動くのは心臓だけ。
蛇に睨まれた蛙のように、自分を見つめるあさ美の目から逃れられなかった。
- 335 名前:_ 投稿日:2006/07/09(日) 22:12
-
- 336 名前:_ 投稿日:2006/07/09(日) 22:12
-
- 337 名前:_ 投稿日:2006/07/09(日) 22:13
- >>326-334 更新終了です。
来週更新して23日に最終更新するか、それとも23日にまとめてあげてしまうか未定ですが、あと1,2回で終わりですので、最後までお付き合いいただけると幸いです。
>>324 今までと少し感じを代えているので、そう言っていただけるとうれしいです。
>>325 あちらのスレも覗いてくださっていてありがとうございます。こちら優先ですが終わればそちらのスレも頑張らせていただきます。
- 338 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/07/10(月) 12:29
- このようなこんごまは珍しいですねw
それとも、もしかしてあやごま・・・?
待ってます(爆)
- 339 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:00
- 先に返レスをさせていただきます。
>>338 ありがとうございます。さてさて……最後はどっちになるでしょうか……
最終更新をお楽しみいただけるとうれしいです。
- 340 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:00
- 尚も高鳴り続ける心臓。
それは、自分があさ美に魅かれているのではないかと錯覚させるほど。
錯覚?
違う。
ここに入ったときから?
それも違う。
触れたい。
なぜかそう思った。
触れてしまえば、もう止められないかもしれない。
その想いがブレーキとはならなかった。
ふっと思い出した亜弥の顔も。
小石のように軽く蹴飛ばされて、障害にすらなりはしなかった。
- 341 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:00
- トク、トク、トク……
規則正しくなり続ける心臓。
とても早くそれでも規則的に、真希の四肢に血液を送り込んだ。
ゆっくりと手を伸ばした。
真っ白なそれに。
自分の汚れた手が触れる。
ビクッとしたあさ美。
指先から離れた着物には、黒い汚れがついた。
それが、何かしらの征服感を真希の中に芽生えさせた。
静かな水面に、波紋を立てたように。
一転の曇りも無いものを汚したことが、それ以上の汚れへの抵抗を薄れさせる。
- 342 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:01
- 驚いたあさ美だったが、抵抗はしなかった。
なされるがままに、真希に唇を重ねた。
深い意味は無い。
ただ、そうしたかったから。
真希もあさ美も。
ぎゅっと抱きしめる真希は、気づいていない。
自分の心臓のほんの数センチ前で、あさ美の心臓も高鳴っていることを。
心臓同士が共鳴するように、どんどんと高鳴っていくことを。
そして、真希はようやく気づいた。
ジャリジャリという音の正体に。
壁に沿う柱とあさ美の足を繋ぐ鎖に。
- 343 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:01
- その事実は、真希の動きを止めるには十分すぎた。
見てはいけないものを見てしまったような。
けれども、それから目を逸らすことは出来なかった。
確かに、足首につなげられた鎖。
黒いそれが、灯に照らされて赤みを帯びて光る。
「どうかしましたか?」
上目遣いで真希に問う。
あさ美にはわかっていない。
見つめるあさ美の目に映る真希の顔。
だけど、真希の目とは交わらなかった。
「あ…し……」
触れられなかった。
指を差すことが精一杯。
真っ直ぐに伸ばすことすら出来ない人差し指で、真希はそれを示していた。
- 344 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:01
- 「あぁ」とあさ美は言った。
殊更、何でもないことのように言った。
「私は選ばれましたから」
続く言葉はそれ。
それ以上の詮索は許さないかのように、ばっさりと切り落とされた言葉。
「だから仕方の無いことなんです。私で済むなら、もういいんです。みんなの願いが叶うのなら、私なんて……」
ふっとあさ美の表情が変わった。
諦めにもにた虚ろな表情だった。
- 345 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:01
-
あぁ、こうして彼女は壁を見続けていたんだ。
真希は思った。
自分の方へ向けられて、ようやくわかった空っぽな視線。
『私で済むなら』
何が済むのか、真希にはわからない。
彼女が祈っていれば済むということなんだろうか?
それにしては、余りにも儚さを覚え始めるあさ美の表情。
たまらず真希は口に出してしまった。
「一緒にここから出ていかない?」と。
「ダメです。私はここで祈りを捧げないといけませんから」
目を閉じ、首を振ってあさ美は言った。
それは、どこか自分の表情を悟られたくないからのようにも見えた。
- 346 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:01
- そうだよね。
そういう代わりにため息一つ。
そんなことは最初からわかってる。
だけど、不意にそんな提案をしたくなってみたのだ。
彼女をここから連れ出せるかもしれない。
空っぽな目を、何かで満たせるかもしれないと。
らしくない……
たかが、数時間前に会っただけの子に、何を考えているんだろうか。
嘲るように浮かぶ笑みを殺す。
けれども、彼女の存在が、初めて会っただけの人とは違うのも事実だった。
- 347 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:02
- 「もう、休んだ方がいいですよ。きっと朝になれば雨は止んでいます」
「あぁ……」
そういえばそうだった。
改めて思い返す。
自分がここに雨宿りのためにいるんだと。
眠ることに対する不安は、もうほとんどなかった。
あさ美もただの人間だと。
鎖につながれているのを見た瞬間、そう確信をしていた。
- 348 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:02
- 考えてみれば妙なことだ。
鎖につながれているだなんていう不自然な出来事が、彼女を人間だと確信させるのだから。
もう、何が正しくて何が間違っているのかわからなかった。
近づきすぎて把握できないような。
妙な気味悪さがまとわりついて。
全てのことが異常すぎて何が正常なのかわからなくなっていたのだった。
「おやすみなさい」
あさ美は言う。
雨中の山道を歩き続けた真希の体は、少しだけ気を抜けばすぐに闇へと堕ちて行った。
- 349 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:02
- ◇
夢を見た。
自分が母親といた頃の夢だった。
もうずいぶんと昔に思える自分の住んでいた家。
家、なんて立派なものでは無いけれど。
雨をしのぐことができたのなら、それは立派な家だった。
下に敷いた藁は湿気を十分に含んでいた。
誰も住もうとしない沼地の近くだけが、自分達に与えられた場所だった。
少し雨が降れば、地面がどろどろになるような。
そんな場所で真希は暮らしていた。
- 350 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:02
- 母親は床に臥していた。
病気だと直感的にわかった。
そう、これは母親を見た最後の時だ。
何度も何度も繰り返し見た夢。
だけど、いつかしら、全く見ることのなくなった夢。
どうして今更?
懐かしさよりも戸惑いが先だった。
夢の中で、これは夢だと気づいてしまうバツの悪い思いとともに、真希は母親に近づくことができなかった。
このまま、母親は動かなくなる。何度も何度も見た夢だった。
- 351 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:02
- じーっと母親の背中を見ていた。
きっと、昔の自分もそうだっただろう。
食料すら満足に手に入らない自分が、薬を手に入れるなんて夢のまた夢だった。
無力さを痛感することはなかった。
生まれた時から、それが当たり前なのだ。
だから、どこか冷静に母親がもう助からないとわかっていたのかもしれない。
それは、もちろん母親自身のほうが、よっぽど理解していただろう。
だから……
「真希」
自分を呼ぶ声がした。
それに、素直に「お母さん」と答えることは躊躇われた。
これは夢。夢なのだから。
- 352 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:03
- 動かないのか動けないのか。
真希自身には判断できなかったが、息を殺して止まっていた。
「真希」
再度、声が聞こえると、母親がすくっと背中を向けたまま立ち上がった。
それはまるで天井から糸で操られたかのように不自然なものだった。
母親の手に黒いものが見える。
さび付いた包丁だった。
鋭さというよりも力で切り落とすような刃こぼれのひどい包丁。
それでも、自分の家にある唯一の包丁だった。
- 353 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:03
- すっとそれを握った右手が上がる。
そして、それは彼女の左手に振り落とされた。
「ぎゃっ」という短い悲鳴。
それは、上手く腕を落とせなかったからのものであり。
骨に当たって包丁は止まっていた。
錆とともに滴り落ちる血液。
尚も、力を込め、のこぎりのように刃を前後させて自分の腕を切り落とそうとする母親。
強烈な吐き気が真希を襲う。
それでも、その異様な光景から目を離すことができなかった。
悲鳴の一つも口から出ずに、真希はただただそこに変わらず止まっていた。
- 354 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:04
- 何度、母親の体が激しく動いただろう。
しばらくすると、急に動きが止まった。
それも、ゴクンと真希が唾を飲み込む間だけ。
すぐさま振り返った母親の顔は、血でまみれ。
狂気を帯びて爛々と輝く目に、歯茎の浮いた口を開き。
こう言ったのだ。
「お腹がすいてるでしょ?私を食べなさい」と。
包丁を捨て、切り落とした左手をもって自分に迫ってくる母親。
恐ろしいほどのスピードに、ようやく真希は悲鳴を上げた。
けれども、その開いた口に無理やりつっこまれる。
動くことのない5本の指が、真希の口の中に血の臭いとともに広がった―――
- 355 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:04
-
「大丈夫ですか?」
猛烈な吐き気とともに、その声で目を覚ます。
そう、あれは夢だったんだ。
視界に入るあさ美の顔が、眠りにつく前と違って見えることに気づいた。
真っ白だった着物は、汚れきって黒ずんでいた。
もう、朝か……
「ちょっと嫌な夢を見ただけ」といい、起き上がる。
まだ少し湿った衣服が、雨のせいか自分の汗のせいかはわからなかった。
それでも、まだ口の中に広がる嫌な感覚を忘れようと、真希は口を袖で押さえて小さく唾を吐いた。
- 356 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:04
- 「雨、上がりましたね」
真希の様子を気に留めないようにあさ美は言う。
「そだね」
耳に届くのは鳥の鳴き声だけ。
雨音も雷鳴もどこかにいってしまった。
「無事に帰ってくださいね」
そう言った瞬間だけ、あさ美はどこか寂しそうな目をした。
けれども、真希はそれに気づかなかった。
「あ、あぁ……ありがとうね」
「いいえ」
たったそれだけのやりとりで社を出る。
真っ赤なそれは、暗闇の中で見るよりも、太陽の下で緑に包まれてある方がよっぽど不自然に思えた。
- 357 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:04
-
◇
パチッと火がはじけた。
それは、亜弥の心の苛立ちを表しているかのようだった。
誰に苛立ってる?
紺野あさ美?
後藤真希?
それとも……
「で、ごっちんはどうしたいの?」
少々怒気まじりで亜弥は問う。
これでも十分に抑えた方だった。
- 358 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:05
- 「え?」
亜弥の問いかけに、真希は戸惑った。
自分はどうしたい?
紺野をあそこから連れ出したい?
わからない。
よくわかってない。
だけど、もう一度会って話してみたいって思った。
だから、それをそのまま亜弥に告げた。
「優出れば和ならず」
「は?」
「『出優不和信仰』って言ってね。そういう考え方を持った人がいるの」
「それが……紺野と関係あるの?」
問いかけに肯定する代わりに、亜弥は説明を続けた。
- 359 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:05
- 優出れば和ならず(ゆういずれば、わならず)
優秀な人の出現が、平和な世の中を乱していく。
誰もが平等ならば、争いなどは起こらない平和な世が続くということだ。
「元々、反逆を起こさせないために作った信仰なんだ。
優秀なものを排除していけば、自分達の地位は揺るがない。
支配層が、平民を上手く操るために、徹底した思想なんだよ」
ふっと亜弥は口先だけで笑って続ける。
「第一、優秀な人間を排除とかいうなら、支配層が真っ先に殺されるべきでしょ。
まぁ彼らは優秀とは言えないかもしれないけれどね」
亜弥は半笑い。
対照的に真希は、亜弥の言葉の意味を必死に考えていた。
- 360 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:05
- 優秀な者が排除……殺されていくということ。
トクンと胸がなった。
『はい。私たちの村から選ばれた人が、ここで祈りを捧げるんです』
『紺野は、選ばれたんだ』
『はい』
選ばれた。
紺野は選ばれた。
選ばれた。もしかして……彼女は、私と同じで……
「つまり、一緒なんだよ。狐付きや鬼とね。自分達よりも下位のものを作りだして、上への反抗を抑える方法と……」
「嘘だ!」
亜弥の言葉を遮って真希は叫んだ。
- 361 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:06
- 「嘘じゃないよ。ごっちんが食べていた実、たぶん羅須の実だよ。
種は毒で、その実にもその毒が染み出して、食べると心臓の動きが活発になる。
普通は実を元気の無い人に使うものでね。種を食べると効果が強すぎて死んでしまう。
きっとさ、その紺野さんはずっと実を食べ続けてきたから、慣れているんだろうけど……
それでも、種を食べ続けているのなら……」
逃げないための鎖。
与えられるのは毒。
あれは……死に装束みたいじゃなくて……
「嘘だ……死ぬなんて、嘘だ……」
改めて口に出すと、声が震えた。
亜弥は否定をしなかった。
ただ、黙って真希を見ていた。
- 362 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:06
- 「そんなの……馬鹿げてる」
「馬鹿げてるとかそういう問題じゃないの。
信じているか信じていないか、ただそれだけ。
信じる人にとってはそれは事実なの」
「私は信じない」
「ごっちんが信じなくても変わらないよ」
「どうして、どうしてまっつーはそんなこと言うの?」
反論する真希。
けれど、それに対する亜弥の視線は、とても冷たいものだった。
「わかってるでしょ?自分がされたこと。狐付きとか、鬼とか、馬鹿げてる。馬鹿げてるけど、みんな信じてるのよ」
「私は、信じてない」
「嘘?ごっちんはどこか、信じてたでしょ?自分に何か力があるって。
それがあったから、あれだけの仕打ちに耐えられてた。違う?」
「うるさい!」
「そういうものなの。信じる人にとってはそれは事実なの」
「だからって……」
- 363 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:06
- 「もう、忘れな」
「どうして?どうしてそういうこというの?」
「だって、ごっちんはもう忘れるんだよ」
「え?」
ふっと亜弥の表情が優しくなった。
違う。それは優しさなんかではなかった。
安心したといった方がいいのかも知れなかった。
次いで感じるのは地面が揺れる感覚。
ぐるりと一回転して戻る視界の中で、亜弥は穏やかに笑っていた。
- 364 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:06
- まさか……さっきの……
その考えが頭によぎった時には、思考力が低下し始めていた。
「ごっちんが昨日見た夢って、夢じゃないんだよ」
「え……」
差し伸べられる手。
かすかな記憶が頭に戻ってくる。
奥底に沈められて鍵を掛けられたそれが、ゆっくりと開き始める。
母親の最期。
病気で死んでいく母親を背中越しに見ていただけではなかった事実。
- 365 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:06
- 「おやすみ。ごっちん」
懸命に亜弥の手を払おうとするが、左手は残像を残しながら空を切る。
肺が脳にあるかのように、呼吸音が頭に響く。
「どうしようかと思ったけど、やっぱり寝ている間に昨日のことは全部忘れさせてあげる。ごっちんと私が最初に会った時みたいにね」
勝手だ。
自分勝手だ。
みんなみんな信じない。
「まっつ……バカ……」
痺れ始めた舌は言葉を紡ぐことは無い。
視界が上下から圧迫されて闇へと変わった。
- 366 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:07
- ◇
- 367 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:07
- ◇
- 368 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:07
- ◇
- 369 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:08
-
夢を見た。
雨の中、もう一度紺野と出会う夢。
真っ白な衣装とは正反対の、真っ黒な衣装に身を包んだ紺野と出会う夢。
そして、紺野は私に言ったんだ。
「私は、あなたの願いを一つだけかなえなければいけません」って。
- 370 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:08
- < FIN >
- 371 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:11
-
- 372 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:11
-
- 373 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:21
- 最終更新>>340-370
以上でおしまいです。
9月23日開始ですから、丁度10ヶ月でしょうか。お付き合いいただきありがとうございました。
他にもいくつかお話はありましたが(石川関係とか別パターンのこんごまとか)今日が一つの区切りの日なので、このお話で最後とさせて頂きます。
言い残したこと一つだけ。
デューファーという言葉は完全な造語です。
「願い」という言葉を和英辞典で引くと
desire entreaty wish pray hope request が出てくるので
それぞれの一文字目を取ってdewphr。
それを無理やり発音しただけのお話でした。
以上、読んでいただいた皆様、温かいレスを頂いた皆様、本当にありがとうございました。
願わくば卒業する彼女が、自身の願いを叶えられますように。
2006年7月23日 takatomo
- 374 名前:_ 投稿日:2006/07/23(日) 00:24
- 第一部>>1-100
第二部>>111-185
第三部>>194-291
第四部>>296-370
- 375 名前:知つぁん 投稿日:2006/07/23(日) 18:10
- おもしろかったです。
やっぱりこんごまはいいですねww
- 376 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/23(日) 19:01
- 素晴らしい作品をありがとう
- 377 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/24(月) 23:23
- 全てはここからか
脱稿乙
面白い作品をありがとう
- 378 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/25(火) 18:39
- こんごま最高でした。
これからもこんごま書いていただけたら嬉しいです。
- 379 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/28(金) 21:08
- デューファーって、そういう言葉だったんですねぇ。
とても面白かったです、ありがとうございました!
- 380 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/30(日) 14:32
- 始まりがここだったと考えると、これまでの話がなんか明るく見えてくる
まっつーは強いな…
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