カーニバル

1 名前:    投稿日:2005/10/09(日) 16:46

  
2 名前: カーニバル 投稿日:2005/10/09(日) 16:47


「5階、紳士服・小物のフロアでございます」


ゆっくり、はっきり、正確に。ちゃんと意識して口に出す。
エレベーターが静止してからドアが全開になるまで、フロアガイドに与えられた時間を
しっかり使い切るようなスピードで。

しゃべるたびに思い出す注意事項が頭を回る。


昔から正しい音で喋るのは苦手だった。

普通に暮らしている分にはさして問題にならないことだけど、前の仕事では
それが許されなかった。多くの人に音の出し方を注意されて、
教えてもらったいろんな訓練方法を実践した。
それでも私の発音はちっとも良くならなかった。

また人前でしゃべる仕事に就いてしまったのは、どういう因果なのだろう。
個性を言い訳にできない今の職場では、前の仕事以上に滑らかなしゃべりを要求される。
何度となく口にしているフロア説明だけど、いまだに毎回緊張する。

3 名前: カーニバル 投稿日:2005/10/09(日) 16:49

無事に言い終えたことで、ささやかな安堵にひたる。

開ききったドアの安全装置の部分を、左手で軽くおさえるのは忘れない。
これがエレベーターガールのマナー。入ったときにやたら強調された。
何でも、小さな心遣いをさり気なく演出することに意味があるらしい。
おかげで制服の白い手袋は、左手の第二間接のところだけがうっすらと汚れてしまった。



1階から乗ってきた、年配の男性。
エレベーターから降りるとき、私に小さく会釈をしてくれた。

こういうのが、実は一番うれしかったりする。
自分のサービスを認めてもらったような気持ちになるから。


ボタン操作とフロアの説明。それだけのために、こんな仰々しい制服で
エレベーターに同乗している必要なんてない。
エレベーターガールなんて、百貨店の中で一番いらない仕事。
ここにいる誰もがそう思っていることだろう。それに気がつかないのは本部の上層部だけ。

4 名前: カーニバル 投稿日:2005/10/09(日) 16:51

けれどだからこそ、ベストを尽くしたいと思う。
邪魔にならないように存在感を示す。印象に残るようなサービスを提供したい。



自分の置かれた状況を嘆くより、その中で何ができるか考えよう。

前の職場でさんざん言われてきたこと。
私が初めて親元を離れて就いた仕事は、思っていた以上に上手くいかなかった。
自分の存在がいくらでも代替のきくものであるという事実を突きつけられる日常は、
まだ若かった私には相当に堪えるもので、逃げ出したいと思うことは何度もあった。
そんなとき、年下の同僚がかけてくれたこの言葉が、私を踏みとどまらせた。

辞めてからもこの言葉に頼ることがあるなんて、あの頃は思いもしなかったけど。



「ありがとうございました」

小さく口に出して、営業用のスマイルを浮かべる。
プロってかんじ? うん。そんなかんじ。
 
5 名前: カーニバル 投稿日:2005/10/09(日) 16:51

今日はちょっと寒いな。

西側はガラス張りになっているエレベーター。
エアコンはお客さんが暑さ寒さを感じない程度に設定されている。
蛍光灯の照明に頼らない自然な明るさと、ビルの奥に見える富士山はなかなか好評。

けれど中で働いている人間にとっては、けっこう過酷な設計。
この時間は西日が容赦なく差し込んできて、頭が熱る。
その反面、空調の風が届かない足元は冷える。
姿勢や立ち居地を限定されたエレベーターガールは、じわじわと体力を奪われる。


目に見えて日が短くなってきている今日この頃。
空は湿りがちだけど、たまに晴れた日のこの日差しは私たちを苦しめる。
 
6 名前: カーニバル 投稿日:2005/10/09(日) 16:53

「9階、レストランフロアでございます」

20代と思しきカップルに、3人連れの中年女性。
居合わせた全員が、私が言い終わる前に、足早にエレベーターを後にする。

何か急いでいるのか、それともこの空間の居心地が悪いのか。
きっと後者だろう。密閉された狭小空間は、気持ちがいいものじゃない。
私はもう慣れてしまったけれど。


空が近いなぁ。

お客さんがいなくなったのをいいことに、エレベーターの後方へ移動。
前方のオペレーションスペースから四歩半。2〜3メートルというところ。
いつもは気にならない自分の靴音も、誰もいない密閉空間ではよく響く。
 
7 名前: カーニバル 投稿日:2005/10/09(日) 16:53

手垢ひとつついていないガラスが私の顔をうつす。
手を当てると、ひんやりした感触が伝わってくる。


遠くに見えるのは、2駅先にある高層ビル群と、もっと先にある富士山。
そしてバックに広がる大きな空。
この季節には珍しく、今日の空は雲ひとつなく晴れ渡っている。

視線を下ろした先に見えるのは、見慣れた町並みの縮小版。
建物は消しゴムのサイズで、道行く人々はボールペンの芯ほど。
年齢も性別も、ここからだと判別が難しい。


東京の街には、人もモノも多すぎる。
そんな事実を、ここからだとより切実に感じる。

昔はその雑多な様子が新鮮で、とても美しく魅力的なものに見えた。
今はゴミゴミと無秩序に並ぶコンクリートの塊と、その間をせわしなく動く人間を、
とてもキレイだとは思えない。
それがこの街の刺激に慣れたからなのか、年齢を重ねたからなのか、それとも
もっと他の理由によるのか、そんなことは分からないのだけれど。
 
8 名前: カーニバル 投稿日:2005/10/09(日) 16:55

「村田さん?」
「ああ、どうも」

ぼんやり感傷に浸っていると、軽い金属音と共にエレベーターが止まった。
開いたドアの向こうには、私と同じ格好をした女性。
取り繕ってはみたものの、私がサボっていたところはばっちり見られただろう。
まぁ、別にいいんだけど。

「そろそろチェンジです」
「そうですか。ありがとうございます」
「お疲れです」



エレベーターから3ブロック。
トイレの横にある通用口を入って右に曲がると、そこは従業員用の更衣室。
一番奥の列の右から2番目が私のスペース。
顔見知りの社員さんに、失礼にならない程度のあいさつをして、自分のロッカーへ。

窓のない更衣室は陰気な感じがして、あまり好きではない。
制服を脱いで着慣れた私服に袖を通し、靴を履き替えると、私は足早に更衣室を出た。
 

9 名前: カーニバル 投稿日:2005/10/09(日) 16:56

足の裏はもう感覚がないし、腰も背中も動かすと鈍い痛みが走る。

今日もよく働いた。
良いのか悪いのかわからないけれど、ともかく、そういうことだ。


通用口でIDカードを出そうとカバンを開けると、中で携帯電話が光っていた。
開いてみると、メール受信のお知らせ。
いつもの相手を思い浮かべてボタンを押した私の予想は、見事に裏切られた。

メールの送り主は、思いがけない人だった。
 
10 名前: カーニバル 投稿日:2005/10/09(日) 16:56

 
11 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/10/15(土) 00:03
エレベーターガールな村さんキタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!!
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 04:34
突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。

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