the others
- 1 名前:円 投稿日:2005/10/24(月) 23:25
- 期待すると裏切られるかもしれません。
- 2 名前:_ 投稿日:2005/10/24(月) 23:25
- 転んだだけだ、とマネージャは言った。
リハーサル中に足を滑らせて、ステージのけして高くはない段差を落ちただけだと。
跡が残るような外傷もなく、倒れた時に気を失ったのも、軽い脳震盪でも起こしたの
だろうと思ったそうだ。
原因は判らないと言われた。
「なにも、憶えてないんですか……?」
美貴の消え入りそうな問いかけに、マネージャはほとんど目を伏せただけ、というような
頷きを返した。
二人が立っているドアの向こう側には亜弥がいる。
連絡を受けて、安静にさせていた方がいいという忠告を振り切って、美貴はひとりだけ
病院に駆けつけた。
病室の前の廊下で放心したように立ち尽くしていたマネージャから、意識を取り戻した
彼女が、自分の名前もなにもかも忘れてしまったのだと、聞いた。
ひゅう、と、美貴の喉が鳴った。なにかが詰まった喉を空咳で戻し、美貴はまっすぐに
マネージャを見つめる。
- 3 名前:_ 投稿日:2005/10/24(月) 23:25
- 「会わせてください」
「……その、まだ本格的な検査とかもしないといけなくて、それまでは刺激を与えない
ようにって言われてるんだ」
「会わせて!」
落ち着かせようと肩をつかんできた両手を振り払い、激昂のままに叫ぶ。
「亜弥ちゃんに会わせてよ!」
逆にマネージャへつかみかかり、その身体をガクガクと力任せに揺さぶった。
「落ち着け、藤本!」苛立ちか苦痛か、マネージャは顔を大きく歪めながら美貴の腕を
つかまえる。
「一日待ってくれ。ちゃんと許可をもらってからじゃないと、勝手なことはできない。
頼む、判ってくれ。松浦にもしものことがあったら、お前だって辛くなるだろう」
年の功か、マネージャはつとめて冷静な口調で、理性的に美貴を諭した。
亜弥の状態が悪化するかもしれないと言われては、美貴も引き下がるしかない。
まるで脅迫だ、と美貴は胸の内で吐き捨てる。
- 4 名前:_ 投稿日:2005/10/24(月) 23:26
- ドア一枚だ。あの銀色のノブをつかんで回して、少しだけ力を込めて押してやれば、
その向こうに彼女がいる。
そんな簡単な行動すら許されないのか。どうして。他の誰でもない、自分がなぜそれを
阻まれなければならない。
「……明日、面会できるようだったら必ず連絡を入れるから。
今は帰ってくれないか」
「……………………はい」
身体の最奥から絞り出すような心持ちで答えた。
唇を噛み締め、きびすを返す。「心配なのは、判るんだ」背中にすまなそうな声が届く。
美貴は反応しなかった。
判るものか。自分の気持ちが、想いが、どれだけ彼女を深く愛しているか、他人に
理解できるはずがない。
それをひとかけの洩れもなく理解できるのは、この世にただ一人だけだ。
- 5 名前:_ 投稿日:2005/10/24(月) 23:26
-
◇ ◇ ◇
- 6 名前:_ 投稿日:2005/10/24(月) 23:26
- 翌日、約束通り亜弥のマネージャから連絡が入り、時間の制限はあるが、
彼女に面会できると伝えられた。
その日のスケジュールをすべてこなした後、矢も楯もたまらず一目散に病院へ向かい、
マネージャと共に病室へ足を踏み入れる。
「………………」
待ち受けていたのは。
戸惑いと、動揺と、怯え。
得体の知れない生物に出くわしたような、ジャングルの奥地で飛行機を見つけたような、
不安定な表情。
亜弥はベッドの上に座り込み、毛布を(それが鎧だとでも言うように)身体全体に
巻きつけた格好でこちらを凝視していた。
わずかに表へ出た指先から、彼女が震えているのだと知れた。
本当なんだ。美貴の両腕が脱力し、だらんと下がる。
ひょっとしたら冗談なんじゃないかと思っていた。以前放映された、テレビ番組の
大脱出マジックみたいに、自分に内緒で企画が進行していて、実はどこかで隠しカメラが
回っていて、こっちが心配で泣き出したあたりでひょっこり司会者が出てくるとか、
そんなことがあるんじゃないかと思っていた。
- 7 名前:_ 投稿日:2005/10/24(月) 23:27
- 希望は砕かれた。
彼女の表情は、瞳の色は、演技なんかじゃない。
ずっと一緒にいたのだ。誰も見た事がないような表情もたくさん見ている。
あんな瞳に、見覚えはない。
「あの……」
口を閉じたまま立ちすくんでいる美貴に対して、有効な対応を思いつけないのか、
亜弥は視線だけを動かしてマネージャを見やった。
掠れた、一瞬の悲鳴のような笑声が美貴の口元からこぼれる。
敏感に反応した亜弥はその場でビクリと痙攣した。
恐がっている。おそらく、美貴が来る前にマネージャとは顔を合わせていたのだろう。
初対面の、正体が判らない(!)相手より、いくらかでも面識のある方に、助けを求めた。
そういうことだ。
「思い出せないかな、藤本だよ。一番仲よかったんだぞ?」
安心させようとしているのか、マネージャはわざとらしい笑顔で美貴の肩を抱きこみ、
亜弥に向かってそう説明した。
説明。『説明』!
最も美貴のことを知っていたはずの彼女が、何も知らないマネージャに説明を受けている。
こんな侮辱も、そうそうない。
- 8 名前:_ 投稿日:2005/10/24(月) 23:27
- 「……亜弥ちゃん」
彼女の名前を、こんなにも哀しい声で呼ぶ日が来るとは思わなかった。
「ご、ごめんなさい、ほんとに判らないんです……」
毛布の鎧を脱がないまま、亜弥は小さく頭を下げる。
美貴はゆっくりとかぶりを振った。
静かに、深呼吸をする。
「すいません、少しだけ、二人にさせてもらえますか?」
顔を向けないままマネージャに告げる。返答は鈍かった。しばらくの間があって、
「10分したら戻るから」と囁いて、マネージャは病室を出て行った。
美貴は目線でそばに行ってもいいか、と尋ね、亜弥が頷いたのを確認してから、
備え付けられている丸椅子に腰かけた。
「えーと、とりあえず、自己紹介しよっか」
「お、お願いします」
亜弥の警戒は解けない。
それを無視するように美貴は軽快な口調で話す。
- 9 名前:_ 投稿日:2005/10/24(月) 23:27
- 「藤本美貴。亜弥ちゃんと同じお仕事してんの。最初はソロでデビューして、
なんでか今はモーニング娘。に入ってる。
モーニング娘。知ってる?」
問いかけに返ってきたのは、曖昧な首の捻りだった。
美貴はバッグから雑誌を取り出す。新曲のインタビュー記事が載っているものだ。
出版社からもらったものを、片付けようと思いながら面倒でそのままにしていた。
なにが幸いするか判らないものだ。
ページを開き、亜弥に見せてやる。メンバー全員が集合している写真が、1ページの
半分ほどを埋めている。その下部にインタビューの文章が並ぶ。
亜弥はそれを覗き込んで、「多いですね」と呟いた。
その反応に、美貴が思わず吹き出す。
「もっと多い時期もあったけどね」
「あ、これ藤本さんですか?」
写真の中央あたりを指で押さえながら亜弥が言い、美貴はそれに頷いた。
呼び方に、なにかを思わないでもなかったけれど、それを口にするのはあまりにも傲慢だ。
- 10 名前:_ 投稿日:2005/10/24(月) 23:27
- 「わー、アイドルなんてすごいですねぇ」
「つーか亜弥ちゃんもだから。すっごい人気あるんだよ」
「はあ……」
さすがに実感も湧かないのだろう、彼女は困惑した顔で相槌を打った。
メンバーの名前を一通り教えて(亜弥は覚えきれていないようだったが)、雑誌を閉じる。
バッグへ戻してから、別にこんなのは教えなくてもよかっただろうかと思った。
まだ、己のことすら満足に説明していないのに。
「でね」
仕切りなおしとばかりに一拍置いて、美貴はまた話し出す。
「亜弥ちゃんと知り合ったのは四年くらい前かな。松田聖子さんのコンサートで
一緒になってね、メアド交換して」
「はぁ」
「それからずっと仲良くしてて……」
美貴の瞳がわずかに揺れる。毛布は少しずつはがれてきている。
それを、もう一度まとわせてしまうかもしれない。
もしかしたら、逆に武装を完全に解かせることができるかもしれない。
二つに一つ。オールオアナッシング。
- 11 名前:_ 投稿日:2005/10/24(月) 23:28
- 逡巡ののち、美貴はおずおずと口を開く。
「あのね、ちょっと驚かせちゃうかもしれないんだけど」
「なんですか?」
きょとんとしたまなこの中に、己の顔が映る。
喉の奥がヒリヒリした。無理に声を出すと裂けてしまうかもしれない。
かまうものか。もう決めた。
「美貴と亜弥ちゃん、恋人同士なんだよね」
停止。そして驚愕。その後……振り出しに戻った。
下がりかけていた毛布を大慌てで引っ張り上げ、亜弥はその中に頭までくるまる。
「な、なんですかそれ!」毛布の奥から動転した金切り声。
美貴は毛布をつかもうとしたが、思い直してベッドのシーツへ手を置いた。
「や、あの、驚くとは思ったんだけど。やっぱ言っといた方がいいかなって。
周りのみんなには内緒にしてるんだけどね。うん、なんかほら、わりとビミョウだし」
「び、ビミョウって……」
丸い毛布がますます小さくなる。彼女の心境いかがなものか。
- 12 名前:_ 投稿日:2005/10/24(月) 23:28
- 口元の引きつった、歪みのある苦笑を浮かべながら、背中を思しき箇所を軽く叩く。
最初の一打で大きく震えたが、すでにベッドの端まで来ているから、それ以上は
逃げられない。
根気良く、宥めるように亜弥の背中を叩く。その間、何度か「亜弥ちゃん」と優しく
呼びかけて、彼女が落ち着くのを待った。
やがて、硬直していた毛布がほぐれ、こちらを窺うような気配が伝わってくる。
なんだか野生動物を手なずけているようだ。亜弥から見えないのをいいことに、
美貴は声を抑えながら笑った。
残念ながら、亜弥の武装が解ける前にマネージャが戻ってきてしまい、それと同時に
面会時間の終わりが訪れた。
「それじゃ、今日はもう帰るね」毛布越しに一声かけ、美貴は椅子から立ち上がる。
マネージャも一緒に病室を後にした。面会時間は向こうにも設けられていたらしい。
- 13 名前:_ 投稿日:2005/10/24(月) 23:28
- 「……松浦な、しばらく病気休養させることになった。明後日には退院させて、
自宅に戻そうって話になってる」
「そうですか」
二人の靴底が擦れて音を立てている。
その音にかき消されそうな声量で二人は会話をする。
「あの」
「ん?」
「美貴が、亜弥ちゃんの面倒みましょうか」
「なに?」
唐突な申し出にマネージャは面食らい、眉を片方上げて美貴へ眼を移した。
「うちの人が来たって、今の亜弥ちゃんには知らない人じゃないですか。
それよりだったら美貴んとこに置いといた方が、亜弥ちゃんも気が楽じゃないかなと
思うんですよ。
美貴のお母さんなら、別に他人行儀にしたって変じゃないし」
マネージャが「ふぅむ」と小声で唸った。
そのまま黙ってしまったので、美貴はじっと返答を待つ。
- 14 名前:_ 投稿日:2005/10/24(月) 23:29
- 「……そうだな、それも手かもしれないな。
いや実は、一度実家に帰そうかって話も出てたんだが、それだとこっちも状況が
判り辛いってのがあって……」
「それだったら、うちにいた方がすぐに連絡つくし、なにかといいんじゃないかと
思うんですけど」
「ああ……。ちょっと、上と相談してみるか」
「よろしくお願いします」
その提案が、最弱個体となった彼女に対する保護欲なのか、ただ単に離れたくないという
我がままから来たものなのか、美貴自身にも判らなかった。
ただ、本当にふと思いついただけで、今までだってちょくちょく遊びに来て泊まってたり
していたんだし、その期間が少し長くなっただけ、といった感覚だった。
幸いにして、自宅には彼女が暮らすのに困らないくらい、生活雑貨などが揃っている。
そういう存在なのだ。それが自然であるとすら思えるくらい、彼女はごく深いところまで
入り込んでいた。
だから、そうしたらいい。
それが一番いい。
- 15 名前:円 投稿日:2005/10/24(月) 23:29
-
続く。
- 16 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/10/25(火) 00:13
- 円さんの新作だ♪ドキドキしますね(*´д`)ポ
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/25(火) 01:22
- 期待して裏切られようと思います。いい意味で。
- 18 名前:読み屋 投稿日:2005/10/25(火) 01:59
- 最近このCP衰退しててもう駄目かなって思ってたんですが
復活の兆しが見えてきたように思えます
ものっすごい期待しておりますので、がんばってください
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/25(火) 07:39
- 期待以上のモノが読めると確信しながら待ってます♪
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/25(火) 20:24
- 新作だぁ!楽しみに待ってます。
- 21 名前:円 投稿日:2005/10/25(火) 21:58
- レスありがとございます。
下手に返レスするとネタバレしてしまいそうなので、控えさせていただきますが、
むちゃくちゃ嬉しいです。うぃずらぶです。
- 22 名前:円 投稿日:2005/10/25(火) 21:58
-
◇ ◇ ◇
- 23 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 21:59
- 事務所としても色々と都合がよかったのか、美貴の提案はあっさりと通り、
美貴はマネージャに連れられた亜弥を玄関先で迎えた。
「まだ一人で出歩くのは危ないから、松浦の家から持ってきたい物があったら
藤本と一緒か、誰か事務所の人間についてもらいなさい」
「はい」
「ああ、大丈夫ですよ。美貴が行けば、大体どこに何があるか判るし」
「そうか? じゃあ藤本に頼んでおけば問題ないか」
マネージャがくすりと笑い、「お前たちはほんとに仲がいいね」と続けた。
そりゃあもう、と美貴は大きく頷いた。
亜弥は困ったように首を傾げた。
「それじゃ、よろしく頼むよ」
「はーい」
玄関までで帰って行ったマネージャを見送り、ドアを閉める。
- 24 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 21:59
- 「というわけで、いらっしゃい」
来賓を迎えるように、片手でリビングを示す。「お邪魔します」亜弥は小さく言ってから
靴を脱いだ。
まだどこか怯えたふうに首を竦めている亜弥へ手を差し出す。
亜弥は顔面にクエスチョンマークを浮かべながら、その手と美貴の顔を交互に見た。
伝わらなかった意図に思わず苦笑して、美貴が手を下ろす。
そうだ、彼女はもう、何も言わなくても通じ合えた彼女ではないのだった。
それでもいい。ここに、己のそばにいてくれるなら、それで十分だ。
先導して歩く美貴の背中を、亜弥は戸惑いの混じる瞳で見つめている。
「……藤本さん」
「ん?」
ふ、と息を吐く。先日、美貴から聞いたこと。
ずっと気になっていた。自分のことも、誰のことも判らないのに、いきなり聞かされた
驚きの事実(らしき事柄)。あまりにも実感の伴わない、彼女の存在。
- 25 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 21:59
- 「こないだ言ってたのって、ホントなんですか……?」
「え? なに?」
「だから、あたしと藤本さんが、その……」
「あ、あぁー……」
美貴はバツが悪そうな顔で振り返り、言葉を濁した。
「あ、やっぱり冗談なんだ」
はっきりしない彼女の態度に少しだけホッとする。なんだ、こっちが記憶喪失だからって
ちょっとからかってきただけだったのか。
まったく、それならその日のうちに言っておいてほしい。
「違うよ」
安堵したのも束の間、届いたのは、鋭ささえ覗かせた返答。
亜弥は思わず息を詰める。
真剣な、切れそうな視線が突き刺さってくる。
身動きが取れないほどの圧迫感に、亜弥は呼吸さえ止めて硬直した。
「ホントだよ。美貴は亜弥ちゃんを愛してる。本気で。誰にも負けないくらい」
その瞬間に湧き上がった感情を、なんと言えばいいのか。
恐怖ではない。嫌悪でもない。だからと言って喜悦や恍惚でもない。
- 26 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:00
- 非常にニュートラルな、「無」に近い、しかし確かに存在する感情。
――――後悔、の、ような。
悔やむ過去などないのに。
悔やめるほどの記憶など、失われているのに。
「まあでも、いきなり言われたって困っちゃうだろうからさ、あんま気にしなくていいよ。
今は記憶戻すのと、うちで暮らすのに慣れることだけ考えてた方がいいと思う」
美貴がふっと表情を緩める。切りつけるような鋭さは霧散し、穏やかな、警戒心を
起こさない空気に切り替わる。
全身を覆っていた戒めが解けたみたいに、亜弥は解放感を覚えた。
よく判らないが、彼女は自分にとって強い影響力を持っているらしい。
仲が良かったという話だし、なにか、お互いの磁場みたいなものが干渉し合って
しまうんだろう。
- 27 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:00
- 「お母さん、今出かけてんだけど、亜弥ちゃんが来るって言ったら張り切っちゃって。
今日は焼肉だってさ。やったね! いえい!」
わざとらしくおどける美貴に、亜弥の表情も綻ぶ。
きっと彼女も、「失敗した」と悟ったのだ。まだ見せるべきでないものを不用意に
現出させてしまったと気づき、それをごまかすために、意識的に冗談みたいな調子で
笑ってみせた。
「藤本さん、焼肉好きなんですか?」
「大好き。もう美貴、焼肉だけで生きていけるね」
「へー」
マネージャに見せてもらったプロフィールによれば、彼女は二十歳だという。
それにしては、ずいぶんと子供っぽい。
- 28 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:00
- リビングに通され、紅茶をいれてもらって、二人向かい合わせに座る。
「けっこう落ち着かないな」美貴が洩らした独り言の意味が、亜弥には判らなかった。
問いかけるような視線を送ると、彼女は気まずそうに目を細めて、首をかすかに揺らした。
「そうだ、亜弥ちゃんのビデオとか見てみよっか。確か、録画したのがあったはずだから」
カップを置いた美貴が言う。そういったものを見せて、何か思い出せれば、という
気遣いなのだろう。
亜弥は遠慮がちに頷き、ビデオテープを別室へ取りにいった美貴を待った。
戻ってきた美貴は、両手に一本ずつテープを持っていた。
「最近のはこのへんかな。歌番組のと、ドラマに出た時のやつ。
どっちから見る?」
判断は、亜弥にはできなかった。「藤本さんの好きな方で」と答えると、苦笑とともに
「どっちも好きだけどね」と少しはずれたような返事をされた。
ひとまず、歌番組に出演した際の映像を見る。
隣に座っている美貴が、どうかな、という目でこちらを見遣る。
亜弥は申し訳なさそうに首を振った。
- 29 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:00
- 画面に映るその姿は、確かに鏡を覗いた時に見える己の姿と違わないのだが、
どうしても、それが自分だという感覚をおぼえることはできなかった。
「なんか、そっくりさんでも見てるみたい……」
「そっか……」
無駄だと判ったからか、美貴が映像を停止した。亜弥の頭をひとつ撫でて、
「大丈夫だよ」と優しく囁く。
恋人同士らしいのに、こうして面倒をかけてしまうことが申し訳なかった。
顔を合わせた時から抜けない敬語や呼び方にしても、彼女はなにも言わない。
なにも思っていないわけがないのに。
しゅんとこうべを垂れる亜弥に、美貴が微苦笑を浮かべた。
「まあ、ゆっくりしようよ。亜弥ちゃんは亜弥ちゃんなんだし」
「すいません……」
「大丈夫だって。今まで忙しすぎたから、休めてちょうどいいんじゃない?」
彼女の言葉は気休めだろうし、自分にしてみれば「忙しすぎた」時期のことなんて
憶えていないのだから意味はないが、こうして気遣ってもらえるのは嬉しかった。
「はい」小さく頷き、笑いかける。美貴が微笑み返す。
- 30 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:01
- どこまでも柔らかくてなめらかな、硬度も棘も存在しない微笑だった。
理由もなく安心する。理屈じゃなく安息する。
ビデオチャンネルから切り替えると、最近人気が出てきたお笑いコンビのコントが
放映されていて、なし崩し的に見ながら二人で笑っていた。
彼らと、共演したこともあるらしい。一緒にコントをしたのだとか。
ちょっと自分のやってきたことが判らなくなった亜弥だった。
「わりといろんなことやってるからね。でも、やっぱ亜弥ちゃんっていうと歌かな。
美貴、亜弥ちゃんの歌すごい好き」
「は、はあ」
おそらく彼女にしてみれば、いつも通り思ったことを口にしているだけなのだろうが、
亜弥にとっては、この間からほとんど面識のない相手に褒めちぎられたり、面と向かって
「好き」だと言われたり、どうにも据わりの悪い気持ちになる。
褒められているのが、自分ではなく同じ顔をした他の人間で、相手がそれに
気づいていないような、後ろめたさにも似た感覚。
- 31 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:01
- 美貴は亜弥の内心などまったく読めていないようで、亜弥のコンサートを見ていて
泣いてしまった話とか、久し振りに会えた時はすごく嬉しかったとか、そういった、
亜弥自身はなにひとつ実感のない思い出話をした。
「……って、いきなり言われたってわかんないか」
ひとりで喋り続けた後、ようやくそれに思い至った美貴が、執り成すようにひとりごちる。
「あ、でも、楽しいです。そういうの聞いてるの」
「……うん」
実を言えば、美貴としては、話しているうちに亜弥と『思い出を共有』している気に
なっていた。
自分が知っていることは全て彼女も知っていることとして話し、彼女の相槌を
同意と勘違いしていた。
そうではない。そうじゃなかったのに。
急に気恥ずかしさが沸き起こり、美貴は視線を壁へと逃がす。
- 32 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:01
- 「ごめん、美貴ばっか喋っちゃって」
「いえ、面白かったですよ」
亜弥のフォローはなんの効力もない。むしろ、ますます美貴を突き落としたにすぎない。
少し浮かれてしまっていたようだ。彼女が以前の彼女ではないのだと、頭では判って
いるが、どうしてもこれまでの延長線上として、彼女に接してしまう。
それを、己が望んでいるから、余計に。
亜弥は落ち込む美貴を見つめながら、どうにかしてこの奇妙に歪んだ空気を直そうと
言葉を探した。
なぜかは知らないが、彼女が塞いでいると、自分がなんとかしなければいけない気になる。
他に誰もいないからといった、外的な理由ではなく、それが己の使命なのだ、とでも
言いたくなるような義務感だった。
「あのっ、写真とかないですか? 見たらなんか思い出すかも」
「え? ああ、結構あるよ。見てみる?」
亜弥が忙しなく首肯する。
「じゃ、持ってこよっか」また美貴が別室へ向かい(おそらく彼女の自室だろう)、
小ぶりのフォトブックを何冊か重ねて持ってきた。
- 33 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:01
- 開いてみると、美貴と二人で映っているものがことのほか多い。
彼女の持ち物だから当たり前だろうが、それにしても多い。何か機材やステージが
バックに映っているものもあった。コンサート中に撮ったものだそうだ。
残念ながら、亜弥にはなにひとつ見覚えがない。
「あ、これ。一緒に北海道行った時の」
「へー」
美貴が示した一葉の日付は新しい。ほんの数ヶ月前だ。
手をつなぎ、ぴったりくっついて、笑顔でピースサインをしている二人。
今、二人の間には遠慮がちな距離がある。
もっとそばに寄った方がいいだろうか、と思ったが、うまく行動に移せなかった。
- 34 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:02
-
◇ ◇ ◇
- 35 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:02
- 帰ってきた美貴の母親と、三人で夕食をとった。
どういうわけか、食べている間じゅう、両脇の二人が亜弥に話しかけてきて、
どちらに答えたらいいのか判らなくて困った。
なんとなく、競うようにというか、最終的にはけんか腰になっていた気もするが、
たぶん仲がいいんだろう。
食事の後、もっと亜弥と話したがっている母親から逃げるように美貴の自室へ
連れて行かれ、ドアを閉めたところで「えへへ」とお互いにごまかし笑いをする。
気まずい笑声の余韻も消えると、あとには重力の増した沈黙が広がった。
美貴の視線が泳ぐ。こちらの頭上数十センチのあたりをゆらゆら漂って、それから
なにか話題を見つけたのか、ふっと視軸が亜弥の顔に定まる。
「そうだ、亜弥ちゃん、お風呂……」
明らかに言葉の途中で、美貴は一度、口を閉じた。
「さ、先入る? 疲れちゃったでしょ?」
なぜ口ごもったのだろうと不思議だったが、それについて尋ねることはしなかった。
彼女はきっと、うまい答えを返せないだろうと思ったからだ。
- 36 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:02
- 「それじゃ、お先に」
「うん。はい、着替え」
美貴がタンスからてきぱきと着替えを取り出して渡してくれる。
「………………」
パジャマはわかる。タオルもわかる。
なぜ下着まで。
初日から、驚きと戸惑いの連続だった。
- 37 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:02
- 「じゃ、じゃあ、失礼します」
「ゆっくりしていいよ」
亜弥を送り出し、美貴はクッションへ仰向けに倒れこんだ。
「あー……つらい」
眉を寄せながら目を閉じ、ひとりごちる。
手をつなぎもしないどころか、隣にすら来ない。
触れ合えない。今の彼女との間にある、膨大な距離。
調子が狂う。仕方のない事だと判ってはいるが、どうしても、以前の彼女がちらつく。
我がままで、面倒見がよく、なぜか自分にだけは居丈高な、何度となく「好き」と言って
くれた彼女が。
部屋の中には思い出が溢れている。彼女に見せた映像や写真、揃いで買った洋服、
一緒に遊んだゲームセンターで手に入れたぬいぐるみ。
数え上げればキリがないほど、溢れかえっている。
- 38 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:02
- それなのに、彼女にとってはそのすべてが存在しないのだ。
有形無形問わず、彼女はすべてを失って、頼れるものもなく、縋れる存在もなく。
それは哀しいことだ。想像すらできない悲哀だった。
だから美貴は守らなければならない。
彼女が失ったすべてを、美しき過去を。
そうでなければ……。
ここにいる、意味がない。
- 39 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:02
-
- 40 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:03
- 亜弥の後に美貴も入浴を済ませる。パジャマはおそろいだった。
以前からそうだったのだろうが、亜弥の心境はちょっと奇妙なものになった。
修学旅行で、直接の知り合いではない人と偶然同じものを持ってきてしまったような、
なんともいえない気まずさがある。
美貴の方はなにも気にしていないらしい。それはそうだろう、彼女にしてみれば
当たり前のことなのだ。
「今日は早めに寝た方がいっか。美貴も明日、けっこう早いし」
「はい。で、あの……」
「ん?」
きょとんと見つめられ、亜弥は喉になにかつかえているような感覚をおぼえる。
「どこに寝たらいいですか?」
不意に、美貴が身体を折った。
まるで見えない拳にボディーブローを受けて、その痛みに耐えているような姿勢だった。
どうしたんだろう、と亜弥がその顔を覗きこむ。
気づいた美貴は、いかにも無理やりな笑みを浮かべた。
- 41 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:03
- 「うん、あの、美貴はお母さんと寝るから、亜弥ちゃんベッド使っていいよ」
「そうですか。ありがとうございます」
「……いや、気にしないで」
なんだろう、彼女の顔がますます苦痛に歪んだ気がする。
「そ、それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
美貴がフラフラと部屋を出ていってから、ベッドに入りこんだ。
ベッドはシングルサイズより大きめだった。セミダブルと言える、ギリギリの大きさか。
妙に広い気がするその中へ身体を横たえ、細長く息をつく。
こめかみのあたりが痛い。色々なことがあって、身体に軋みが出てきたようだ。
目を覚ましたら全然知らない人たちに囲まれていて、アイドルだとかなんだとか、
わけの判らないことを説明されて、見知らぬ女の子の家に厄介になって、しかも……。
「……あ」
察してしまった。
さっきの妙な反応と、大きめのベッド。
- 42 名前:_ 投稿日:2005/10/25(火) 22:03
- 「そ、そっか。恋人なんだもんね……」
自分の独白に赤くなる。だから、要するに彼女はそういうつもりでいたんだろう。
これはなんとも、申し訳ないことをしてしまった。
上体を起こし、迷うようにドアへ目をやる。
「……無理」
いくら親しかったといっても、自分の中では知り合ったばかりの相手なのだ。
呼びに行って「一緒に寝よう」なんて、言えるわけがない。
心の中で美貴に謝りながら、亜弥は再度、身体を横たわらせた。
- 43 名前:円 投稿日:2005/10/25(火) 22:03
-
続く。
- 44 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/25(火) 23:30
- 更新乙です
も、もどかしいぃw
大人しくて他人行儀・・・・あぁ、なぜかツボですw
- 45 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/26(水) 00:48
- 円さん新作キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!!!
なんか円さんのあやみきだと安心して読めます。
北海道旅行とか細かいトコでツボをついてくる感じがすごい心地いいですw
- 46 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/26(水) 01:00
- なんじゃこりゃーー面白い。色々と面白過ぎる。
0と100かカワイソス…でも面白い。
不謹慎ですまん、率直な感想です。
- 47 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:53
-
◇ ◇ ◇
- 48 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:54
- 一週間もすると、次第に美貴と暮らす生活にも慣れて、敬語も少しずつ抜けてきた。
しかし、どうも呼び方だけは変えきれない。自宅から必要そうな物を持ってきてもらって、
その中に携帯電話もあったのだが、メモリに登録されている「たん」というのが
美貴のことだと聞かされて驚いた。一文字もかかっていない。いったい、どういった
経緯でこんな呼び方をするようになったんだろう。
さすがにそんな恥ずかしい呼び方は出来ず、今でも「藤本さん」と呼んでいる。
呼ばれるたびに、彼女は微妙に眉を歪めるが、特になにかを言ってくることはない。
ついでに言えば、一緒にも寝ていない。どうにも自分の方からは言い出せないし、
美貴も初日のことがショックだったらしく、あえてその話題を避けているようだ。
美貴は色々と手を尽くしてくれる。二人の間に起こった出来事を話してくれたり、
亜弥が歌っているという曲を聴かせてくれたり(それが己の声だと、どうしても
思えなかったのだが)、時間が許す範囲内で、よく一緒に遊びに行ったという
場所へ連れていってくれたり。
- 49 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:54
- そして今朝、朝食をとりながら出された提案は、「仕事場を見てみよう」というものだった。
「一応、マネージャーさんには許可もらってるからさ。うちらのこと見てたら
思い出せるかもしんないじゃん」
記憶を失ってからというもの、外に出る機会といえば美貴と買い物に行く程度で、
少々気だるさも感じていた亜弥は、その提案に飛びついた。
とにかく退屈だったのだ。きっと本来の自分は、身体を動かしたりするのが
好きな人間なのだろう。
知らない人達と会うのは不安だったが、美貴もいてくれるし、何度か様子を見に来て
くれているマネージャもそばについていてくれるらしい。
それなら大丈夫のような気がした。
準備を済ませ、美貴と一緒に迎えに来たマネージャの車に乗り込む。
普段は電車で移動するのだが、亜弥が同行するということで、特別だそうだ。
「亜弥ちゃんのおかげで得しちゃった」と美貴が笑った。
- 50 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:54
-
- 51 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:54
- 辿り着いたスタジオでは、十人くらいの女の子たちが、めいめいに時間を過ごしていた。
本を読んでいる人あり、なにか話し込んでいる人あり、私物らしいインスタントカメラで
セルフ撮りをしている人あり。
その中で、談笑していた二人が美貴に気づいて声をかけてきた。
「もっさーん! 遅いよー」
「っさいなー。遅刻はしてないんだからいいじゃん」
聞こえるように大きな声で答える美貴。
前に写真と照らし合わせながら説明された子だった。名前は、なんだったか。
「ガキさん。新垣里沙ちゃんね。隣にいんのが高橋愛ちゃん」
「あ、はい」
表情で察したのか、美貴がそれぞれを指差しながら教えてくれる。
ニイガキリサちゃん、タカハシアイちゃん。亜弥は呪文のように口の中で繰り返した。
美貴が二人に向かって手招きをした。里沙と愛が、それに従って近づいてくる。
- 52 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:55
- 「美貴、ちょっと準備とかしてくるから。ガキさんと愛ちゃん、よろしく」
「はいよ」
「あいよー」
なんともお気楽に答えた二人をひとつ睨みつけ(なぜだろう)、美貴がその場を去る。
残された亜弥は、不安げに里沙と愛を見遣った。
視線を受けた里沙が、いたわるように目を細める。
「一応、事情は聞いてますんで。早いとこ、記憶戻るといいですね」
「そうやよ。あたしとのあっつぅい夜とか、さっさと思い出してもらわんと」
「は、はぁ?」
愛の顔面を、里沙の両手が思い切り押し退けた。
「この子の言うことは気にしなくていいです。
愛ちゃん、松浦さん今大変なんだから、そんな冗談言ってる場合じゃないでしょ?」
「なんやガキさん、やきもちか。ちゅーしたろか? ほれほれ」
「やめろ変態キモイ」
里沙の手を逃れ、んー、と唇を突き出してきた愛を、里沙はこれ以上ないほど
上半身を反らせて避ける。
スキンシップなんだろう、たぶん。
- 53 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:55
- 里沙にかわされた愛は、さして傷ついた様子もなかった。
「それはいいとして」にわかに真剣な表情を作り、腕組みをする。
「ほんまになんも覚えとらんの?」
「……はぁ、全部」
「転んだだけって聞いたんで、もっさんから教えてもらうまで、そんなことに
なってるって全然知らなくて。
なんか困ったことがあったら言ってくださいね。あたしらもできる限りのことは
しますんで」
「はい。ありがとうございます」
深々とお辞儀をすると、里沙は口元を引きつらせ、愛は自分の身体を掻きむしった。
「……これ、もっさんはキツいだろうなあ」
「やろねえ」
感慨深げに頷きあう二人。その様子に、亜弥の脳裏でなにかが閃く。
「あの」切羽詰ったような気分になっていた。
ずっと誰かに確かめたかったことが、あったのだ。
- 54 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:55
- 「あたしと藤本さんって、その……仲、良かったですか?」
問いかけに、二人はきょとんとして、意味ありげな視線を交わし合った。
その反応に亜弥は不安なものを覚える。
なにか変なことを聞いてしまったんだろうか。直接的に尋ねるのは気が引けたし、
美貴が内緒にしていると言っていたから、婉曲な聞き方になってしまったものの、
特に不審には思われないと判断したのだが。
「仲いいっていうか……ねえ?」
「なあ? そんなもんやなかったで」
亜弥へ返答する、というより、お互いに確認し合うような口調で二人は言い、
困ったように頭をかきながらこちらへ向き直った。
「いやもう、べったりですよ。一緒にいる時はこの世に二人しかいないみたいな感じで、
ホント、見てる方が照れるくらいの」
「そうそう。美貴ちゃんなんか、なんや他のもん目に入っとらんでな」
里沙に追随して愛が答える。
予想以上の回答に、亜弥は軽く目眩を覚えた。
- 55 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:56
- なんの実感もなかったが、やはり彼女とはそういう関係らしい。
第三者の証言により、その事実が一層重く、両肩にのしかかってくる。
おまけに、プライベートを見ているわけでもないだろう人たちにここまで言われて
しまうのだ、自分たちがどんなふうだったか、想像に難くない。
別に疑っていたわけじゃない。
彼女はいつだって亜弥を優先していたし、大切に扱ってくれたし、その根源に、
愛情のようなものを、見出していなかったわけじゃない。
憶えていないのに。
思い出を、過去のすべてを、彼女に抱いていたであろう感情さえも、忘れてしまったのに。
きっと、傷ついているのに。
どこまでも、彼女は優しいのだ。
- 56 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:56
- 「……あたし……どうしよう」
自分が気づいていないだけで、これまで何度も、彼女へひどい仕打ちをしているのかも
しれない。
ふとした拍子に見せる、翳った表情。
あれは、彼女がひとりで耐えているという、証拠なのではないだろうか。
あんなにも優しいのに。
それほどまでに、愛されているのに。
なにも判らない。
――――忘れてしまったのだ、なにもかも!
- 57 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:56
- 「うおぉ!? ちょ、松浦さん!?」
パタパタと、雫が落ちる。
里沙が手近にあったティッシュペーパを当ててくれる。
涙は止まらない。
「あわわ、そんな、泣かんでもええって! 事故なんやから、しゃあないやろぉ?」
「そうそう、別に松浦さんが悪いんじゃないんですから」
慌てふためいた二人は、口々に亜弥を宥める。
それに首を振った。そうじゃない。そういうことじゃなかった。
誰が悪いとか、なにが悪いとか、そんなことで片付けられるものじゃなかったし、
そんな簡単な理由がつけられる涙でもなかった。
歯がゆかったし、悔しかった。憤ってすらいた。
なにも持たない己が、いかに無力であるか痛感した瞬間だった。
悲痛だった。悲しくて、痛かった。
そうであるがゆえの涙だった。
里沙が丁寧に背中を撫でてくれる。その動きはぎこちなく、美貴の手とはまったく
違っていて、余計に彼女を思い起こさせた。
- 58 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:56
- 「もっさんだって、こんなことくらいで松浦さん嫌いになったりしませんよ。
もう激ラブですんで」
だからこそだ。
彼女があまりにも想ってくれているから、辛くて腹立たしいのだ。
いっそ、彼女も忘れてくれたらいいのに。
- 59 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:56
- 「おい! お前らなに亜弥ちゃん泣かしてんだ!」
届いた怒号に、里沙と愛の全身があわ立つ。
恐る恐る顔を上げると、怒り頂点に極まれり、という風情の美貴が、大股に歩いてくる
ところだった。
二人は機械人形を思わせる仕草で、首を激しく振る。
「待ってもっさん落ち着いて。これたぶん、うちらのせいじゃないと思うんだ」
「う、うん。なんや、美貴ちゃんの愛情を知って感極まったっちゅーかな?」
「『ちゅーかな?』じゃねえよ!」
奪い取るように亜弥の手を掴んで引き寄せ、さきほどより更に強く睨みつける。
二人は肉食動物に出くわした草食動物のように、揃って身体を縮こまらせた。
「ちが、違う……」
「亜弥ちゃん?」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、亜弥が美貴の手を引っ張る。
戸惑いの気配を受け、亜弥は必死に首を振った。
- 60 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:57
- 射すくめられていた二人は、視線が外れたのをこれ幸いとばかりに、そっと後ろに
下がると、くるりと身を翻らせて脱兎のごとく逃げ出した。
美貴としても追いかける意思はなく、そんなものは些事でしかないので放っておき、
最重要である亜弥へと視軸を置いている。
「あの子たちが悪いんじゃないの。怒らないであげて」
「でも、じゃあなんで……」
「……わかんないけど。藤本さんがいなくて、ちょっと恐くなったのかも」
「あ、そ、そっか……」
その理由は嘘だったが、美貴は軽く照れ笑いを浮かべた。納得してくれたようだ。
そっと、涙が落ちる頬に手を添えられる。拒まずにいると、指先がゆるやかに涙の跡を
たどった。
「今日はもう帰る?」
「……ううん。藤本さんと一緒にいる」
「……ん」
亜弥の指先が迷う。持ち上がって、少しだけ中空に留まり、それから意を決したように
涙を拭ってくれる彼女の腰へとまわした。
ことん、と額を肩に乗せると、かすかに震えたのが判った。
- 61 名前:_ 投稿日:2005/10/27(木) 03:57
- 美貴の方も、迷いながら腕をまわしてきた。
暗闇の中、お互いに手探りで相手の存在を確かめているような抱擁だった。
安全距離まで逃げた里沙と愛は、その様子を並んで見物している。
「……いつものことっちゃ、いつものことなんだけどさあ」
「うん、なんかなあ、照れんなあ」
隣にいる愛も困った困ったと苦笑している。所詮は他人事、別に二人が困る理由は
ないのだが、家族でドラマを見ていたらいきなりラブシーンが流れた時みたいな、
妙に気まずい空気に包まれていた。
今、おっかなびっくり抱擁している二人には、そこはかとなく微妙なよそよそしさが
あって、それがなんとなく、背徳感にも似た雰囲気をかもし出していた。
目を自身の手で覆い、里沙は溜息をつく。
「恥ずかしくなってきた」
「そうやな。しゃあない、うちらもラブラブすっか」
「わけわかんないこと言わないで」
最近、愛のスキンシップはあの二人みたいに過激である。
そんなものにいちいち付き合ってられない。
- 62 名前:円 投稿日:2005/10/27(木) 03:58
-
続く。
- 63 名前:名無しさん 投稿日:2005/10/27(木) 04:29
- 見つけましたw
すんげえ面白いです!!
- 64 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/27(木) 09:35
- 愛ちゃん、ガキさん、良いですね(笑)
勿論、核の二人も……あぁ、楽しみで仕方がないです。
- 65 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/27(木) 18:03
- 更新お疲れさまです。
こっ、こっ、こっ恥ずかしい。
この2人は誰ですかw
地団駄踏みながら続き待ってます。
- 66 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/28(金) 00:48
- 愛ガキ(・∀・)イイ!!
あやみきの距離感がたまらないです。
- 67 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/28(金) 02:12
- 確かに何かいけないものでも見ているような気分に(w
あやみきに対して忘れかけていたときめきが。
なんかとても懐かしい感じだなぁ。続きが楽しみです。
- 68 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 18:39
-
◇ ◇ ◇
- 69 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 18:40
- 番組収録の様子を見学してから、亜弥は一足先に帰っていた。彼女は忙しく、帰宅は
深夜になると言われたからだ。
美貴の母親と食事をして、しばらく話し込み、今はもう、その深夜になっている。
携帯電話には、数十分前に「これから帰るよ」とメールが入っていた。
だから、そろそろ帰ってくるだろう。
美貴の部屋で、亜弥はずっと座り込んでいる。
チクタクチクタク、時計の音だけが部屋に響く。
馴染みきらない部屋。思い出が詰まっているらしい部屋。
まとわりついてくる違和感は、きっと以前の自分なら感じなかったはずのもの。
静かに深呼吸する。自分はここにいていい存在のはずだと、心の中で言い聞かせる。
ここから――――彼女から、排除されてしまったら、本当に、どこにもいられなく
なってしまう。
そんなことはないと、もう理解していたけれど。
絶対にそんな事態は起こらない。断言できる。
- 70 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 18:40
- ドアが開く。「おかえり」亜弥は微笑んで言った。
「ただいま。なにしてんの?」
「ん、ぼーっとしてた」
「ふはっ。なにそれ」
音になりにくい、吐息だけの笑い方が彼女の癖だと、もう知っている。
「先に寝ちゃっててもよかったのに」
「ううん。待ってたかったの」
ふぅん、と相槌を打って、美貴が目の前に座り込む。
手が延びてくる。薄布を撫でるように、指先が頬に触れる。それが、二人の見つけ出した
距離。手探りで確認したボーダーライン。
けれど。
それはおそらく、正しくない。
- 71 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 18:40
- 「すごいんだね」
「え?」
「あんな、カメラとかいっぱいあるとこで歌ったりして」
美貴は苦笑いとともに首を傾げた。
「亜弥ちゃんにそう言われんのって、なんか変な気分」
「そうかな」
「そうだよ。だって亜弥ちゃんの方が、美貴より先にデビューしてんだし」
「だってあたし憶えてないもん」
少し拗ねたような口調で言い返すと、美貴は瞬時に表情を強張らせた。
「ごめん」痛ましく告げられた謝罪を否定するために、亜弥は淡く笑む。
「平気だよ。憶えてないのはホントだし。藤本さんも気にしないで」
「……つってもさぁ」
「ほんとに平気なんだよ。そりゃ、思い出せたらその方がいいけど、このままでも
大丈夫かもって思えてきた」
微笑んだまま、美貴へと身体を倒す。不意打ちに驚いたようだが、彼女はしっかりと
亜弥を支えた。
- 72 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 18:40
- 受け止められた姿勢のまま、顔を上げて悪戯に見つめる。
「ね?」
「へ?」
「こういうふうに、藤本さんがあたしのこと守ってくれるから」
美貴は辛そうに唇を噛んだ。
予想とは違った反応に、亜弥は訝しげに眉を寄せる。
抱きしめられる。力が強くて、彼女の表情は見えない。
「守るよ。なにがあっても、美貴が亜弥ちゃんを守るよ」
「……うん」
「だから……どこにも行っちゃ駄目だよ。美貴のそばに、いてくれなきゃヤだよ」
「うん。あたしも、ここにいたいし」
わずかずつ縮まっていく距離。
亜弥はそれが心地良かった。安心できた。
きっと、彼女のそばが己の在るべき場所なのだと思った。
近づかなければならない。
その思いは義務にも通じるものではあったが、中心にあるのはもっと純粋な何かで
あるような気がしていた。
- 73 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 18:41
- 「あの」
「ん?」
美貴の腕がゆるむ。顔だけを上げた亜弥は、それでもまっすぐに見つめる事はできず、
わずかに目を伏せた。
「きょ、今日、一緒に寝よ?」
「……え?」
「今日っていうか、今日、から」
チクタクチクタク、時計の針が美貴の返答をせかしている。
しかし、当の本人は固まったまま動かない。
早まっただろうか、と、亜弥が気まずさに俯く。だって恋人同士なんだし。今までは
ずっとそうしてきたみたいだし。たぶん、そうしたがってるんだろうし。
心の中で言い訳しながらも、口からは何も出てこない。
- 74 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 18:41
- 「……い、いいの?」
「う、うん。別に、戻るだけ、だと思うし」
美貴が亜弥から身体を離して横を向いた。
手のひらで口を覆い、亜弥から逃げるみたいに背中を見せる。
「藤本さん?」指先で背中をつつく。「や、ごめん」ぼそぼそとした返答があり、首を回して
こっちを見てきた。
「ちょっと、顔が笑っちゃって……」
いまだ口元は隠されているが、その目はくっきり三日月になっていて、抑え切れていない
笑みがはっきりと判る。
そこまで嬉しいんだ、と少しだけ呆れたが、とりあえず、その背中に抱きついた。
- 75 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 18:41
- 「でも、変なことしないでね?」
「し、しないしない。だいじょうぶ」
「いま噛んだぁ」
「え、噛んでないってば」
美貴が慌てた様子で首を振る。「にゃはは」あまりにも焦っている彼女がおかしくて、
思わず笑った。美貴は困り顔で苦笑している。
「んじゃ、美貴ちょっとシャワー浴びてくんね」
「うん」
「……寝てていいから」
「いいよ。待ってる」
くたん、と美貴の身体から力が抜けた。亜弥がどうしたのかと首をひねる。
「相変わらず無意識だなぁ」という呟きが聞こえた。意味がわからない。
- 76 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 18:41
-
- 77 名前:_ 投稿日:2005/10/28(金) 18:41
- 美貴が戻ってくるのを待って、一緒にベッドへ入り込む。
二人とも真上を向いた姿勢で動かずにいる。
かすかに、手の甲へなにかが触れた。条件反射のようにピクリと震える。
感触はすぐに消えた。
後悔が訪れる。嫌がったわけじゃなかったのだ。ちょっと神経過敏になっていただけで。
あがなうように、今度はこちらから彼女に触れる。遠慮がちに指先をさまよせてから、、
静かに手を握る。
すう、と、美貴が小さく息を吐いた。
「……このまんまでいい?」
「うん。なんか安心する」
「安心?」
「ひとりぼっちじゃないって感じ、すんの」
「……そう」
絡んでいるわけでもなく、ただ手のひらが触れ合って、お互いの指が挟み込むように
やわらかく掴んでいるだけだったけれど、確かに『つながっている』と思えた。
そのまま、『静』がつく単語のすべてが当てはまるようなたたずまいで、二人は
眠りについた。
- 78 名前:円 投稿日:2005/10/28(金) 18:42
-
続く。
- 79 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/10/28(金) 19:03
- ハァ━━━━━━ *´Д`* ━━━━━━ン!!!!!
ってゴメンなさいw こんなレスで
- 80 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/29(土) 00:09
- …なんかすごく恥ずかしいんですけど。
誰も見てないのに周りを見渡してみたり。
このお話を読むと挙動不審になってしまいます(w
- 81 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/29(土) 01:57
- 連日更新お疲れ様です。
悶えまくりです。
- 82 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/29(土) 19:26
- 更新乙です
くたんくたんのへろんへろんになりました
ってなんかやらしいなw
いいなぁ新鮮だ
- 83 名前:_ 投稿日:2005/10/29(土) 20:06
-
◇ ◇ ◇
- 84 名前:_ 投稿日:2005/10/29(土) 20:06
- いっそ不気味だ。
しばらく前、マジックを見ている時を除けば不機嫌そうにしていた美貴は、
最近では常にご機嫌である。嬉々としてゲームに参加し、嬉々としてコントを演じ、
嬉々としてロケ弁を食べている。
だからこそ、一個人としての新垣里沙は、不気味だ、と思わざるを得ない。
「もっさん、最近楽しそうだねー」
収録の合間、コントの台本を読んでいる美貴に、なかば皮肉で声をかける。
顔を上げた美貴はヘラヘラとした笑みで「そう?」と答えてきた。
「そうっすよ。まあ、原因は聞かなくてもわかるけど」
「いやー、やっぱ毎日亜弥ちゃんと会えると調子よくなるよねー」
「そんなのもっさんだけですって」
やれやれと嘆息する。単純というのか一途というのか。
- 85 名前:_ 投稿日:2005/10/29(土) 20:06
- いつも鬱陶しくまとわりついてくる愛は、道重さゆみと遊んでいる。こちらには
来ないだろう。
里沙は美貴の隣に腰を落ち着けて、アメリカンナイズに大きく肩を竦めた。
「もっさんはそれでいいかもしんないけど。仕事のこととか松浦さん本人のこと
考えたら、今ってけっこうまずい状況なんじゃないの?」
「……そ、そりゃ判ってるよ」
「だったらいいけど」
あれだけべったりだった彼女のことだ、この状況は願ったり叶ったりだろう。
朝から亜弥に会えて、帰宅すれば亜弥が待っていて、そしてその彼女は美貴をとても
頼りにしている。
出会った頃のようだ。
まるで、数年前に始まった出会いから今までを、もう一度やり直そうとしている
みたいだった。
リセットというよりリプレイ。実際はどこにも戻ってはいないし、ただなにかしらの
区切りがついて、その次に移っただけなのだが、あの二人の様子を見る限りでは
タイムスリップでもして過去に立ち返ったような風情だ。
けれど、世界はあの頃と同じではない。
- 86 名前:_ 投稿日:2005/10/29(土) 20:07
- 亜弥はデビューしたての頃より不自由になっている。
美貴だって、グループのサブリーダとして、さらには年長者としてみんなをまとめねば
ならない立場となっている。
なにもかもが同じではなく、戻ったのではなく失われているこの現状。
少なくとも、里沙はリプレイの条件を満たしているとは思わない。
「病院には行ってんの?」
「んー、週二日くらい。なんか色々検査とかしてるみたいだけど、原因は判ってないって」
「ふぅん」
美貴はまるきり焦っていない。彼女の記憶が失われたことなど些細な出来事だと
言わんばかりだ。
里沙は傍らに置いてあった干し芋をつまんで口に入れた。おそらく紺野あさ美の
ものだろうが、ひとつもらったくらいで喧嘩になるような仲ではない。
里沙はあさ美のように干し芋へ人並みはずれた愛着など持っていないが、付き合いで
食べることもあるし、別に嫌いではない。特別に好きでもないが。
しかしこの干し芋は美味だった。ほどよい甘さと柔らかさ、それなのに咀嚼しても
歯にくっついてこない。例の彼女の言を借りれば、「完璧です」といったところだ。
- 87 名前:_ 投稿日:2005/10/29(土) 20:07
- もちろん、美食家に食べさせたらそんな感想は出てこないだろう。
干し芋研究家(そんな人間がいるかは知らないが)に言わせたら、こんなものは
まだまだなのかもしれない。
里沙は悪食ではないが美食家でもない。干し芋にも大した執着はない。だからそれを
美味しいと思った。
なにごとも、ほどほどが大事ということだろうか。
むぐむぐと咀嚼していると、美貴が「ひとくち」と口を開けてきた。里沙はそこに
歯型のついた干し芋を突っ込んでやる。
「これおいしいね。あさ美ちゃんどこで買ったのかな」
「さー、いろんなとこで見つけてくっから、あの子は」
「干し芋センサーとかついてるんだよ、きっと」
他愛もない会話をしながら、二人は干し芋を食べる。
- 88 名前:_ 投稿日:2005/10/29(土) 20:07
- 「……もしさあ」
「うん?」
「松浦さんの記憶が戻んなかったら、どうなんのかなあ」
「……さあ」
半分に減った干し芋を、手で更に分割して、一方を自分の口に、残りを美貴の口に入れる。
美貴はすでに、台本を脇に置いてしまっていた。里沙との会話が楽しいのか、亜弥の
ことに話が及んだから集中し始めたのか。まあ後者だろう。
「そのうち、影武者で前田健さんがテレビに出たりして」
「ンなわけねえだろ。全然似てねぇよあんなの」
「ジョークだよ」
まったく、やれやれだ。単純で一途な彼女には、こういったジョークが通用しない。
あまりにも柔軟性がなさすぎる。
あるいはスポーツやなにやらに熱中するのであれば話は別だが、たった一人の人間に
それを向けるのは、少し危険な気もする。
ジョークに怒る程度なら可愛いもの、と言えるかどうか。
- 89 名前:_ 投稿日:2005/10/29(土) 20:07
- 同じ話題を引っ張ると面倒なことになりそうなので、里沙はさっさと打ち切って、
話の本筋に戻した。
「ああいうのって、薬とか手術で治るもんでもないだろうし」
「まあね」
「いつまでもこのままにしてるわけにいかないじゃん、やっぱ」
美貴の相槌はない。それはそうだろう、彼女にとって今の状況はけして悪くはない。
消極的な独占欲というか、子供じみた我がままというか。彼女を取り巻く問題を
把握してはいるものの、大好きな友人と思い通りに過ごせて楽しいという、単純な
メリットを優先してしまう心情は理解できなくもない。
週明けに試験があるとわかっているのに、土日を遊んで過ごしてしまうようなものだ。
先にある困難と目先の享楽。
里沙にとってはどちらも他人事、母親みたいに試験を忘れるなと釘を刺すのに抵抗はない。
- 90 名前:_ 投稿日:2005/10/29(土) 20:07
- 「やっぱ実家に戻ったりすんのかな」
「……させない」
先ほどのジョークに対する返答より数段冷たい声に、里沙は思わず目を瞠る。
美貴はどこを見ているのか判断できない視線を中空に飛ばしながら、腕組みをして、
きつく眉を寄せていた。
ゾクリと、里沙の背中に悪寒が走る。ナイフの刃に指先を当てたような、潜在的な
恐怖だった。
「そんなことさせない。亜弥ちゃんはどこにもやらない」
「………………」
これは。
この言葉は、危険だ。
里沙の脳裏でレッドランプが明滅している。
赤いシグナルは、危険と緊急を告げる最大級の警告である。
- 91 名前:_ 投稿日:2005/10/29(土) 20:08
- 「も、もっさんはホントに松浦さん好きだねえ!」
冷静に受け止める精神力も、彼女を押さえ込む力量も持ち合わせていなかった里沙は、
あえて冗談じみた口調で言うのが精一杯だった。
ふと、美貴の視線が緩む。
「好きだよ。たぶん、一生」
「へ、へえ……」
隣にいる彼女が、どれだけその想いを大切にしているか、その対象である亜弥を
大事にしているか、知らないわけでもない。
きっと自分が知っている「好き」の何倍も、彼女は彼女を想っている。
それは里沙には判らない類のものだった。そこまで一人の人間を愛したことなどないし、
おそらく己が持っている中で最も近いのは、仲間たちに対する愛情だろうが、しかし
それとこれとは比べられるものではない。
判らないから何も言えないし、比べられないから分析できない。
- 92 名前:_ 投稿日:2005/10/29(土) 20:08
- 「そしたら、松浦さんの記憶戻った方がいいよね。ほら、やっぱ二人だけの思い出とかも
あるだろうしさ」
手のひらに汗をかいていた。美貴が放つ空気は穏やかなものになっていたが、
その中に含まれているものはけっして穏やかとは言えない気がしていたからだ。
冷たい手のひらを、里沙は擦り合わせて必死にあたためる。
「そうだね。……戻れば」
その先を美貴が口にする前に、スタッフから収録を再開する旨が告げられて、
二人は席を立った。
「…………ね」
「え?」
ほとんど聞き取れないくらいの独白が美貴の唇から洩れた。
里沙は聞き返したが、美貴はそれに気づかないような素振りで、スタジオに向かって
しまった。
- 93 名前:_ 投稿日:2005/10/29(土) 20:08
- 「……もっさん?」
戸惑いながら、彼女を捕まえて問い質すこともできず、里沙は仕方なく、彼女に続いて
スタジオへの廊下を歩いた。
里沙が聞き逃した美貴の独白。
誰にも聞こえなかったその呟きは、誰かの耳に届くべき言葉だった。
そうしたら、何かが変わっていたかもしれない。
今この時は誰も気づかず、全てが終わってからも、誰も後悔しなかったその独白は。
――――次は美貴の番だね。
- 94 名前:円 投稿日:2005/10/29(土) 20:08
-
続く。
- 95 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/29(土) 20:40
- お疲れ様でした
なんて意味深な…ゾクリとしました。
ええかええんかええのんかーー!
取り乱し失礼。
- 96 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/29(土) 23:58
- やっぱりこのままじゃ終わらないんですね。
楽しくなってきました。色々想像して待ってます。
- 97 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/30(日) 10:03
- ううん……記憶よりも深いキモチ。
記憶よりも強いオモイ。
ううん……すごいなぁ。
- 98 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:39
-
◇ ◇ ◇
- 99 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:39
- あれから何度か、美貴の仕事についていった。本当の事情を知っている人物は少なく、
一応、名目上は病気療養中ということになっていたから、顔見知り(らしい)に出会って
どうしたのかと聞かれることがあったが、「調子がいいのでちょっと遊びに来ました」と
でも言っておけばみんなすんなり納得してくれた。
もちろん、亜弥の方は誰かわからないのだが、意外に名前など出さなくても会話は
成立するものだ。
最初のうちはマネージャが同行していたが、そのうち一人でも大丈夫だと判断したのか、
美貴に任せてしまうようになった。色々と、事務処理とかで忙しいらしい。
その気負いもあってか、美貴は自由になる時間のほとんどを亜弥に割いてくれた。
里沙や愛もなにかと声をかけたりしてくれて、気を配ってくれているようだ。
後になって聞いたのだが、記憶喪失のことを知っているのは、美貴を除くとこの二人だけ
だそうだ。
たしかに、他のメンバーは記憶についてを話題にしてこない。
- 100 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:39
- 記憶を失ってからひと月が経とうとしている。元に戻る気配はない。
いつしか、こういった生活にも慣れて、ずっとこんなふうに生きてきたような気さえ
してきていた。なにをするでもなく、毎日をゆったりと過ごし、美貴とともに在って、
それですべてが満たされる在り方。
世間的には、休業が発表された時の騒ぎも治まり始めていた。
最初の頃は色々な噂が飛び交っていたものだったが、今はもう、それも落ち着いている。
だから、時々。
このままでいいんじゃないだろうか、と、思うことも、ある。
- 101 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:40
-
「お待たせー」
新曲に合わせて発売される生写真用のスナップを撮り終えた美貴が、亜弥のもとへ
歩み寄ってくる。「お疲れさま」亜弥は微笑とともに彼女を迎える。
強いライトをずっと当てられていたせいか、美貴の額には汗が浮かんでいた。
ハンカチを取り出して拭ってやる。「へへ」美貴が照れ臭そうに笑った。
「おーお」遠くから、愛のからかいじみた声が聞こえて、亜弥も照れ笑いをした。
美貴を、大事だと思う。
初めのうちは他に頼れる相手が(つまり、「守る」と明示的な意思表示をしてくれた人が)
いなかったせいだが、今は、もっと違う想いが己の中にある気がする。
言葉にしてもいいのだろう。きっとそれは、二人を元通りにするためのピースのひとつだ。
- 102 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:40
- 変わるんじゃない。戻るのだ。マイナスからゼロへ。そして、ゼロからプラスに。
そこへ行きたいと思っているのは本当だ。たとえ、記憶が戻ればゼロにまた還って
しまうのだとしても。
寝食をともにするうちに、粛々と自然に芽生えた(それとも取り戻したのか)感情は、
けして責められるものではないし、彼女もそれを望んでいたのだろう。
想いひとつで何ができるわけでもないが、彼女は想いひとつでここまでやった。
それなら応えなければならない。応えたい。
「今日はこれで終わりなんだ。時間あるし、どっか遊びに行こっか」
「んー、おうちでゆっくりしてたいかな」
「そっか。じゃ、まっすぐ帰ろ」
「うん」
己の意思だ。誰に命令されたわけでもない。
ひょっとしたら過去の自分が主張しているだけなのかもしれないが、その違いなんて
今の自分には判らない。
思い出ならすでに溢れている。
- 103 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:40
- 他のメンバーと一緒になってスタジオを後にする。
美貴と並んで最後尾を歩いていたら、田中れいながチョロチョロとまとわりついてきた。
「松浦さん、身体のほう大丈夫なんですか?」
「うん、最近は調子いいんだ」
「そっかあ。そんならよかったです。れいな、松浦さんの歌大好きやけん」
その台詞は、「もうすぐ復帰できるんですよね」と同義だった。
亜弥は曖昧に微笑んで、そっと美貴のシャツをつかんだ。
気づいていないれいなは、テンション高くまとわりつき続ける。
「あっ、れいな物真似できますよ。やって見せましょうか?」
「え?」
「いいですか、いきますよ」
咳払いで喉を整えてから、れいなが仮想のマイクを構える。
歌い出すために息を吸い込んだところで、美貴がれいなの頭頂部をぺふんと叩いた。
「こらぁ。勝手に話しかけんな」
れいなが叩かれた箇所をさすりながら、不満げに美貴を見遣った。
- 104 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:40
- 「えー、藤本さんばっか松浦さんとおってずるか。れいなも松浦さんと話したいっちゃ」
「うっさいあっち行ってろ」
なんとも横暴な言い方である。れいなは慣れているのか、亜弥に向かって苦笑して
みせてから、ずいぶん先に行ってしまったメンバーたちを追いかけた。
非難するように視線を送る。美貴は気まずげに唇を尖らせる。
「あんな言い方しなくてもいいじゃん」
「……下手に喋って、記憶喪失のことバレたら困ると思って」
あからさまな言い訳だった。溜息をひとつ落として、亜弥は美貴の頭を叩く。
さっき、れいなにしたことへの戒めだった。
「藤本さんはあたしに優しいけど、それだけだね」
「……なに、それ」
「なんでもない」
彼女はなんて不器用なのだろう。力を分散させることができないのか。
己の持っているものを、一点に集中させるしかできなくて、他のものに対しては
なおざりになってしまう。
- 105 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:41
- 別段、美貴だけではなく、人間だれしもそういった面はあるのだろうが、彼女はそれが
あまりにも顕著だ。
彼女がこんなふうだからこその亜弥が抱く愛情だったし、それと同時に覚える
不安定だった。
自分のことだけ見てくれるという喜びと、それだけではいけないという危惧。
「きっと藤本さんは、迷わずあたしを選ぶんだね」
「そりゃそうだよ。亜弥ちゃんが一番大事なんだから」
即答される。亜弥はそれを当然のものとして受け入れる。
亜弥の愛情はすでに傲慢の域に達しており、しかしそれは美貴にとって当たり前の
深さだった。
足がつかないどころか、底が計れないほどの深さ。
美貴が抱いている愛情と等価の愛情。
二人とも崖から落ちそうになった時、互いに互いを助けようと掴まっている手を離し、
結局どちらも落ちてしまうような、愚直で深い愛情だった。
愚かで、他のすべてをおろそかにして、相互に防護しながら交互に攻撃しているような。
痛ましく、いじましい。
けれど、仕方がない。
- 106 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:41
- もう形はできあがってしまった。それ以外の何もなく、そうする以外に術はない。
不要なものは殺され、必要なものは必要最小限に解体され、規則正しく並べられ、
順序だてて揃えられ、二人の前に晒されている。
準備は万端。
あとはただ、下らなく、愚かしく、夢見るような戯言を亜弥が口にするだけで、
失われた最高傑作は再びまみえる。
「なんか、藤本さんって可愛いよね」
「へ? な、なに?」
唐突な感想に、美貴はぎょっとしたように目を白黒させた。
「可愛い」という形容は、どんなものにも使える多様性を持っており、そして誰とも
共有できない閉鎖性を内包していた。
- 107 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:41
- 美貴の戸惑いも当然といえる。その「可愛い」は亜弥にしか持ち得ないものだったし、
たとえ他の誰かが彼女の容姿や声や性格について同じ感想を口にしたとて、それは
やはり唯一であって普遍ではないのだ。
単語の普遍性と、定義の不明瞭。
亜弥はぎゅっと美貴の手を握り、感覚の不明瞭さを他のなにかに変換しようとした。
「明日は、もっと幸せだといいね」
「……亜弥ちゃんって、わりと言うこと変だよね」
「キオクソウシツのせいかな」
「いやそれ絶対ちがうよ」
- 108 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:41
-
◇ ◇ ◇
- 109 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:41
- 美貴の母親が布団を干しておいてくれたおかげで、ベッドはいつもよりフカフカしている。
お日さまの匂い、なんてロマンチックなものは判らなかった。逆に、染み込んでいた
香りが薄まってしまって、ちょっとだけもったいないと思う。
亜弥は美貴の部屋で一人、パソコンをいじっている。使い方を教えてもらって、
インターネットで適当なサイトを閲覧していた。なにか興味のあるものを検索して
探してみるといいよ、と言われて最初に検索バーへ入力した文字列は「記憶喪失」だった。
検索結果には本の紹介ページや現役医師のサイトが表示され、亜弥はそれを一番上から
順繰りにクリックしていく。
分野的にはかなり歴史の長いものらしい。しかし、認知度に反して理解度は低い。
ニュースで報じられた記憶喪失の青年が実は演技をしていた、という情報に対して、
反応は「やっぱり」というものが多かった。
世間的に記憶喪失は、非現実的な、エンタティメントの中にしか存在しないような
ものであるらしい。
世界の薄情さを垣間見た気がした。
- 110 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:42
- とはいえ、「記憶がないことを証明してみせろ」と言われたらたぶん無理だろう。
出来ることを証明するのは簡単だが、本当に出来ないと証明するのはとても難しい。
科学的に言えば、証明できないものは、非現実の空想だ。
そして医学的に言えば、現象がある以上は名称をつける資格がある。真偽に関わらず。
亜弥が陥った状況は、そういった、非現実的な現実にとりあえず名称をつけただけの
曖昧模糊とした中間点だった。
世界のちょうど真ん中に落ちてしまったような、何かに捕らえられて全てを奪われ、
どこにも行けなくなってしまったような、不安感。
その不安も、きっともうすぐ終わる。
どこにも行けないなら、どこにも行かなければいい。
このひと月で亜弥が見極めた、終盤戦が始まろうとしていた。
- 111 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:42
- 母親となにか話していた美貴が戻ってきたので、亜弥はアプリケーションをすべて
終了させてからマシンをシャットダウンした。
世界とのリンクを切り、ただ一人、美貴とだけ向き合う。
選んだのは自分だ。先のことなんて知らない。過去のことも知らない。
『いま』の己が、決めた。
「お待たせー」
彼女が身につけているのは揃いのパジャマ。それにももう慣れた。
ちょいちょいと手招きして、自分の手前に座らせる。
口元に笑みが浮かんでいるのが、自分でも判った。
美貴はその微笑をどう解釈したのか、合わせるように、かすかな笑顔になっている。
胸を貫かれるような鋭さも、胸を締め付けられるような苦しさもなかった。
情熱もなく、強烈ではなく、ふと気を緩めたら消滅してしまいそうな、暗闇の中で
光るともし火にも似た静かな愛情だった。
「なに? どしたの?」
「うん。あのね」
- 112 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:42
- 戯言を。
深くて浅い、気恥ずかしくなるような甘言を換言。
迷う。
彷徨う。
手を取る。
手間取る。
迂闊。
穿つ。
見据える。
水得る。
還元。
断言。
- 113 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:42
-
「恋人らしいこと、しよっか」
- 114 名前:_ 投稿日:2005/10/30(日) 18:43
-
世界に、暗がりが群がる。
- 115 名前:円 投稿日:2005/10/30(日) 18:43
-
続く。
- 116 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/10/30(日) 19:57
- どああああああああああああああああ!!!!1
今ごろ円さん発見。激しく続きが気になります。
というか、2人になにやら闇らしきものが見え隠れするのですが・・・。
次回更新も楽しみにしています。
- 117 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/30(日) 20:24
- だんだん恐くなってきましたね。
覗いてはいけないような気分になります。
それでも続き期待。
- 118 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/30(日) 20:34
- ハァ━━━;´Д`━━━ン!!
あああああああああ!!
- 119 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/31(月) 00:13
- 初めてレスします。
いつ読んでも円さんの描き出す物語にはそれ自体が引力を持つみたいに引き込まれますね。
これからどう展開していくのか楽しみです。
- 120 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/31(月) 02:14
- うわ…色々とやばいなー
言葉遊びが好きです
音は似て意味は違うものなのに、意味がなんだか互いに似てくるような不思議な感覚が。
この2人みたいだ
上に同じくどうなるのか楽しみだああ
- 121 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/31(月) 08:27
- あぁ……強すぎるオモイは人をどこへ運ぶんでしょうね。
続き、楽しみにお待ちしています。
- 122 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:08
-
◇ ◇ ◇
- 123 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:08
-
キスは甘く、指先は浅かった。
- 124 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:08
- 美貴は亜弥の身体をひどく丁寧に扱った。極限まで薄くのばされたガラスで作られた、
精巧な細工物をいらうように、果てのない慎重さでおずおずと触れる。
呼吸にも、身体からのぼる芳香にも荒々しさはなく、支配しようとする強さもなく、
独善的な独占欲もなく、ただただ、壊れてしまわないかと不安になりながら触れている。
時折、美貴は「大丈夫?」と弱々しく尋ねる。その声に、安心させてあげようといった
余裕はなく、亜弥が代わりに「大丈夫」と断定して安堵させる。そうすると、美貴は
ほっと小さく息を吐いて、行為を再開する。
手厚いもてなしはいっそ怯えてさえいるようで、それでも亜弥には「大丈夫」という
一言以外に持っているものはない。
- 125 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:08
- 指先や舌先などといった、身体の末端だけでなく、全身全霊全力無心で扱われる。
まるでかしずき忠誠を誓うような態度で、美貴は亜弥を扱う。
触れているこの身体は、自分自身よりもずっと高価なものなのだ、とでも主張している
ようだ。
かといって、亜弥のほうはなにも感じないわけでもなく、微に入り細をうがつ
なめらかな触れ方に確実な熱を引き出されている。
触れ合っている肌がやけに熱く、それだけが二人の生と性を主張しているような
状態で、他にはなにも与え合えず、しかしそんなものはどうでもいいと言わんばかりに
お互いへ与し、次第に高まっていく情熱へ全身を預ける。
絶対感覚。本能による一瞬の拒絶と、直後の理性による受容。
- 126 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:09
- 積乱雲のイメージ。
縦方向へのまい進と濃厚な密度。
かたく拳を握る。
ギリギリとねじられる。
切れ切れになる呼吸。
勝手に出てくる嬌声。
弾ける。
- 127 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:09
- 瞬間的なスパークに精神を焼かれ、飛散したそれを集めて元通りに組み立てなおす。
下半身に脱力感と重みがある。自分の身体じゃないみたいだった。
ゆるゆると、刺激を与えない程度に撫でる手があって、そうされるごとに全身を覆う
拘束具をはずされていくみたいに身体が軽くなった。
お返しに、美貴の首元へ腕をまわして抱き寄せる。撫でる手は止まらない。
熱はいまだ留まり、左胸が溶けてしまいそうで、死にそうだ、と思ったけれど口には
出さなかった。
粘度の高い気体が周囲を取り囲んでいる。目を閉じて、粘質な空気を吸い込む。
喉の入り口に引っかかって、うまく呼吸ができない。軽く咳き込む。大気と己の肉体は
境界線が曖昧で、口から押し出されたのが気体なのか固体なのかよく判らない。
美貴が触れてくれている箇所だけが、自分自身の肉体だと明確になっている。
やさしく輪郭線をたどる手のひらは熱い。上から下、一定方向へ毛並みを整えるみたいに
さすり続ける手。亜弥は目を開けない。
- 128 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:09
- 前髪をかきあげられ、額にキスをされる。祝福。神様よりは現実味のあるキスだった。
「喉乾いてない? なんか持ってこよっか?」
さきほどの咳を心配したのか、美貴がいたわるように問いかけてくる。
亜弥は一度だけ首を振り、力なく、潤んだ瞳で彼女を見上げた。
「いいよ、平気。ここにいて」
「う、うん」美貴は照れ臭そうに頷く。きっと、顔を合わせているのが恥ずかしいのだろう。
けれど、それくらいで離してなんかやらない。
喘いでいた喉は確かに少しだけ痛んでいたが、我慢できないほどでもない。
それよりも、彼女の身体から離れる方が嫌だった。
まだ満足はしていない。つまり、精神的な部分において。
- 129 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:10
- 美貴が隣にどこうとする。亜弥は腕を解かないことでそれを阻む。「うん?」と訝しげに
見つめてくる視線へ、笑み混じりの視線を返す。
「気持ちいいんだよね。こうやってんの」
「そう? 重くない?」
「大丈夫。全部あずけられてる感じして、なんか幸せ」
「ふぅん」
そんなもんかな、という顔をして、美貴は脱け出すことを諦める。
気持ちがよかった。すべてを委ねられている感覚。
彼女のすべてが己のものになったような錯覚。
けして失うことのない、永遠絶対の誓言結界。
ここにいれば確実に安全なのだ、という保障を得られた気になる。
片肘で自身を支えながら、美貴が髪を撫でてくれる。亜弥も同じように彼女を撫でる。
頬に唇を押しつけてやると、へへ、と笑って、唇にキスをしてきた。
- 130 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:10
- 「可愛かった」
「あ、やっぱり?」
「うわー」
「嘘だよー。変な顔してないかなって、ちょっと気になってたり」
「全部可愛かったよ」
幸福に満ちた閨の睦言を交わし、熱のこもった毛布の下、なにか小さな粒子を
選り分けるような手つきで触れ合う。汗が次第に引いていく。部屋の中へ拡散している
のか、それとも身体の内側に吸い込まれているのか。
ぽつんと、すべらかな背中に一箇所、突起のような感触があった。
ニキビだろうか。周囲を探ってみても、そこ以外に突起は見つからない。
不意に、その尖った一点がいとおしくなって、ひとさし指の腹で何度もそこをなぞった。
「亜弥ちゃん、ちょっとくすぐったい」
笑声混じりに言われて、亜弥はそれから離れた。
気がつけば美貴の手も止まっている。
- 131 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:10
- 美貴は少しだけ身体を起こして、亜弥と目を合わせてきた。
「あの、明日、辛かったりしたらゆっくり寝てていいから」
「んー。たぶん平気だよ。……初めてじゃ、ないんだと思うし」
記憶にはないけれど。
「あ、うん……」美貴はわずかに目を逸らした。あまり照れられても困る。
彼女の両頬を挟みこんで、その鼻先に噛みつく。「ふにゃ」間の抜けた悲鳴が上がった。
予期せぬ攻撃に戸惑うのも構わず、もう一度噛みついて、それから舌先で鼻頭を舐める。
美貴は意味が判らずきょとんとしている。亜弥だって行動原理は判っていない。
なんとなくしたくなった。ニキビをなぞるのと同じだ。
きょとんとしたままの美貴に、にひひっと笑いかける。
「藤本さんこそ、寝坊すんなよー。明日ってロケ行くんでしょ?
遅刻しちゃったら大変だよ」
「ああ、大丈夫だよ。まだ早いし。これから寝たら充分休めるから」
今はまだ日付の変わる手前。確かに、いつもの就寝時間と比べれば、宵のうちと言える
時間だった。
- 132 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:10
- 言ったそばから、美貴が小さくあくびをする。甘えるようにもたれかかってきて、
むにゃむにゃとうごめく唇を、亜弥の首筋に当ててきた。
亜弥は寝かしつけるように優しく美貴の背中を撫でてやる。彼女の両瞼はすでに
下りきり、上がる気配はない。
そうして慈しんでいるうちに、自分も眠気が広がってきて、朦朧と世界が揺れ始める。
服を着ないと風邪を引くかも、と思ったが、動くだけの気力がなかった。
- 133 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:10
-
◇ ◇ ◇
- 134 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:11
- ぎゅむ、とした圧迫感に目を覚ました。首を回すと、美貴が抱きついている。
やわらかな身体。相反して強い腕。吸着剤でも使ったかのように離れない。
しょうがないなあ、と亜弥は美貴の頭を撫でる。
それで少しだけ腕が緩んだが、解かれることはなかった。
「……恐い夢でも見てんのかね」
ある日突然、恋人の記憶がなくなるとか。
考えて、ちょっとブラック過ぎるジョークだなと自分でも思った。
美貴の表情は見えない。暗闇だから当たり前だ。瞳が順応するにはもう少しかかるだろう。
手探りのまま、眠っているせいで乾いた唇へ自身のそれを押し付ける。愛情。
実像同士のリンク。愛しているという証。戯言の有無に関係なく、それだけの行動で
示すことができるもの。できることの証明。不可視の概念の存在証明。
- 135 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:11
- 「へへ、可愛いなぁ」
小さく聞こえた唸り声に、思わずそんな独白が出る。
意識がない状態で、なお甘えてくる身体。求めてくる無意識。
離れないでと全身を使った訴え。二人とも裸身なので、遮蔽物はなく、ダイレクトに
亜弥へ願いが届く。
はじめは亜弥を外敵から守る最も頼りない鎧だった毛布は、今、二人以外のものが
侵入するのを防ぐ最も強固な外壁となっていた。
彼女の身体があり、声があり、鼓動があり、心がある。
もう充分だ。それらが揃ってくれるなら、必要分は満たされる。
世界を構成するのに、なんの不足もない。
「いい夢見ろよ」
テレビで見たタレントの口調を真似しながら言って、また、眠りに戻る。
- 136 名前:_ 投稿日:2005/10/31(月) 21:11
- 目が暗闇に順応していなかったから、亜弥は彼女がどんな表情を浮かべていたか
認識することはなかった。
誰にも気づかれないまま消えてしまったピース。本当のかけら。
すべてが終わった後も、誰も後悔しなかった。誰も知らなかった。
誰かが気づいていたら終末は訪れなかったかもしれないのに。
あの、正当な終末は。
裁かれるべき罪は。
- 137 名前:円 投稿日:2005/10/31(月) 21:11
-
続く。
- 138 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/31(月) 21:27
- リアルタイム、ゴチでした。
いつも気になる言葉を残して更新を終了されていますが、それにまんまと嵌まり毎日覗かせて頂いております(苦笑
- 139 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/31(月) 21:59
- 骨抜きになるってこういうことをいうのか納得…だめだタイピングがw
てなことであばよっw
次回もおまちしてます
- 140 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/01(火) 08:38
- うあぁぁ……
すごく気になる。
すごく楽しみで仕方がありませんよぅ。
- 141 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:52
-
◇ ◇ ◇
- 142 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:52
- 漫画やアニメなどで、約束事をひとひねりした展開として、世界征服を狙う魔王に
勇者が「征服してからどうするのか」と問うことがある。
そういった場面において、魔王は大抵、返答に詰まって勇者に勝ち誇られる運命に
あるのだが、しかし実はそんなロジックなどまったく益体もなく、『世界を征服すること』
それ自体が目的であるのだからその先のことなど論じる必要はない。
目的とはつまり終着点である。世界を征服した後もなにかが続くというならそれは
ただの余りカス、不要で無用のジャンクでしかない。勇者のロジックはそういった
ジャンクを無意味にありがたがって目的と手段を入れ違えただけだったりする。
食事をした後、「よし、ではこれから胃袋と腸で食べた物を消化するぞ」と意識的に
消化活動を行う人間はかなりの高確率でいないだろうし、アイドルのブロマイドを
購入して、その果てに記念館を作る人間もいない。
腹が減ったから食事をする。アイドルが好きだから写真を購入する。そこで完結。簡潔。
途中にはなにもない。始まった瞬間に終わって間欠はない。
- 143 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:52
- パズルを作ったところでそれがなにかしらの役に立つわけもなく、なにかしらの役に
立てようと思って作るわけでもなく、たとえば作っている間は暇が潰せるとか
精神統一できるとか単純に面白いとかの理由はあげられるだろうが、いざ完成して
しまえばあとは部屋に飾るくらいしかない。とはいうものの、飾ってみたところで
どうなるものでもない。
完成したパズルを前に、いつまでも悦に入ってるとか、いつまでもいつまでも完成前の
苦労を思い出して浸るとか、いつまでもいつまでもいつまでも出来あがった絵の
素晴らしさに見とれているとか、そんなことをしていたらそれはそこでどん詰まり、
ひとつの終わりがすべての終わり。以上終了。以後はない。
物事万事、終わるために始めるのであって、結果の先を訊かれて魔王が困るのも
むべなるかな。
- 144 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:53
- すべてが結果で成果がすべて。結果が出た時点で成果が出ていないのなら明らかな
力不足だ。それではどうしたらいいかといえば、もちろん成果が出るまで結果を
出し続けるのである。
そして、目的を果たした時点で成果はあらわれる。結果が成った果てが成果。
成果をおさめる、それがつまり目的達成ということだ。
すでに目的が達成された事柄に対して「What Next?」と訊ねるのはあまりにも野暮だ。
完結しているのだから、他者ができることは他の世界に移るぐらいだろう。
「CMの後もまだまだ続くよ!」と言われたって、「まだまだ」は実は余りものでオマケ、
益体もないジャンクをほんの少し垂れ流してすぐに次の番組が始まる。
終着点の連続。到達点の減速。
階段をのぼるように段階を踏み、そのすべてが終着。踊り場は存在せず踊り手もいない。
ステップは独立し、クラップはむなしく響き、クランクアップは訪れない。
完成し続ける映画に栄華は与えられない。
- 145 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:53
- 手に入れるという目的を達成し続ける、手中に収めて掌中にくるんで胸中に隠し通す、
前提も選定も限定もない、理論も議論も試論もない、結論を結論づけて結論とする、
それこそが世界征服。
だからこそ。
「What Next?」に対する返答はひとつしかない。
――――「You just watch!!」
- 146 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:53
-
◇ ◇ ◇
- 147 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:54
- 相変わらず、美貴はご機嫌だ。ロケバスの通路を挟んだ向かい、吉澤ひとみと並んで
座っている美貴の様子に、里沙は不気味どころか薄ら寒いものを覚え始めている。
なにをしているわけでもない。ひとみと他愛もない話をしていたり、MDウォークマンを
取り出して音楽を聴いていたり、頬杖をついてちょっとうたた寝をしたり、それくらい。
しかし、そのいずれの場合でもニヤニヤ笑っている。いつもならはしゃいで騒ぐ年下の
メンバーに「うるさい」と一喝する彼女は、かなり騒々しい車内でも何も言わない。
- 148 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:54
- 「ガキさんガキさん、これちょお聴いてやー」
隣の愛が耳にイヤフォンを突っ込んでくる。途端に流れる歌声。愛の憧れだという
女性のものだ。と、愛が一方的に説明してきた。里沙は聴いても、そして聞いても
判らない。
いつもなら我慢して一緒に聴いてやり、愛のご高説も辛抱強く聞いてやる里沙だが、
今ばかりはそういうわけにいかない。
「愛ちゃーん、勘弁してよ、あたし今考え事してんだから」
「考え事なんかいつでもできるわ」
「それだっていつでも聴けるでしょー」
イヤフォンを抜き取り、愛につき返す。「なんや、ガキさんは意地悪やのぅ」不満げに
呟く愛を無視して、里沙は視線を美貴に戻した。
- 149 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:54
- 気づいた美貴が目の動きだけで里沙を捉える。なに?という視線に、漠然とした不安を
おぼえて、里沙は少し居住まいを正した。
「いや、なんか機嫌いいなーと思って」
「あ、判る? 判っちゃう? いやーまいったなぁ」
美貴の表情が、一気にでれんと崩れた。
隙間から顔を出したひとみが、一瞬だけ目を光らせた。視線の先には里沙がいる。
「なにガキさん、ミキティと話したいの? じゃあこっち来なよ、通路あると
話しにくいでしょ?」
「へ? いや別に……」
断ろうとした里沙の言葉尻を遮るように、ひとみは満面の笑みで座席を立ち、
通路に出てきた。
そして、おもむろに里沙の肩をつかみ、至近距離まで顔を近づける。
- 150 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:54
- 「お願い、席代わって。なにがあったか知らないけど、今日のミキティ、なんか変で
気持ち悪いんだよ」
「は、はあ……」
そういえば、この人は松浦さんの事情を知らないんだった。
思い至って納得する。だから、美貴もあまり『ご機嫌の理由』を話せなくて
フラストレーションが溜まっていたのだろう。
ということは、自分は明らかに人身御供である。できれば逃げたい。
しかし、眼前で迫っているのは我らがリーダー。己を含めたこのグループを世界最高峰と
位置づけている里沙としては、そのトップに迫られると、なんとなく逆らい辛い。
仕方なく、里沙は座席をひとみと交換した。揺れる車内にバランスを崩されながら、
よっこらしょ、と美貴の隣へ座る。
ひとみは愛にイヤフォンを押しつけられて迷惑そうな顔をしていた。
- 151 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:54
- 「……で?」
「え?」
どうせ亜弥となにかあったのだろう、と話すよう促したが、美貴はきょとんとしたまま
話し出す様子はない。
「昨日とか、なんかあったんじゃないの?」
「あー、あったよ。あったけど、オコサマなガキさんには言えないなっ」
「………………」
なんなんだこの人。
「そんなら、あたしは戻りますよ」
「待って待って」
呆れ返って席を立とうとしたら、シャツの裾をつかまれた。
引き止める手のままに、浮かせた腰を下ろし、浅い溜息をつく。
「ま、いいことかなーとは思うけど。もっさんやっぱりカメラ回ってる時は笑ってた方が
いいって。スマイル、スマイル」
「あははガキさんって最近愛ちゃんに影響されてんじゃない?
なにいきなり英語になってんの」
ツッコミすらも上機嫌だ。これはこれでなんだか新鮮である。
- 152 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:55
- 二人の間になにが起こったのか知らないが、いい方向に誘導するための起爆剤でも
投下されたんだろう。お揃いのものを買ったとか、一緒にお風呂に入ってくれるように
なったとか、呼び方が「みきたん」あたりに戻ったとか。
以前の二人を思い起こしただけなのだが、里沙はなんだか首を捻りたくなった。
この二人って。
「ガキさんはさー」
思考を遮られ、里沙は慌てて頭を切り替える。
「なんです?」
「愛ちゃんの記憶がなくなったら、どうする?」
予想していなかった問いに里沙の顔が歪む。
以前、愛とそういった話をしたことがあった。もしも自分たちに同じようなことが
起きたら。そうなったらどうしよう?と。
- 153 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/01(火) 20:55
- 円さんの新スレ発見。完結まで全力でついて行きます。
- 154 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:55
- 里沙は、その時と同様の結論を、動揺を見せないまま答える。
「どうもしないよ。キミはうちらの大切な仲間ですって教えるだけ。
記憶なくしたって、愛ちゃんは愛ちゃんだし」
「……ふぅん」
「もっさんだってそうでしょ? 今までとおんなじように、松浦さんと一緒にいるし」
「……まあね」
どういうわけか、美貴の瞳が亡羊とし始めた。顔を前方に向け、何かを考え込んでいる
ような、焦点の定まらない目を、どこへともなく泳がせている。
里沙はどうしたのかと怪訝な表情をしながら、更に言葉を重ねる。
「死んじゃったりするわけじゃないしさ、そのうち治るかもしれないんだし。
お医者さんじゃないんだから、治療みたいなこともできないし、そしたらまあ、
忘れちゃったこと教えてあげるとか、今までどおりに付き合っていくとかしか
ないんじゃない?」
「……そうかな」
「へ?」
「死んだわけじゃないけど、今までの『愛ちゃん』はどこにもいないんだよ?
そこにいるのはなんにも知らない、生まれたばっかの赤ん坊みたいな『愛ちゃん』で、
だったら、だったら……」
- 155 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:55
- 視線を前に向けたまま、美貴はたとえ話を披露する。
「ガキさんにとって都合のいいように、『愛ちゃん』を作り変えることも、
できるんじゃないかな」
「なん……」
「そうだな、宝塚なんて好きでもなんでもないって教えるとか。
ね、そしたらさっきみたいに、宝塚のうた聴かせられることもないよ」
美貴はクスリと笑った。冗談のつもりだったのだろうか。
まただ。レッドランプ。危険信号。
前回のものとは違い、恐怖とか焦燥感は覚えていないが、それでも確かに迫る危険。
理屈などない。理念などない。本能で感じる危険。
ぐ、と美貴の肩をつかむ。
「……なに考えてるの?」
それは忠告だった。こちらにはレッドランプが点いているぞという忠告。
イエローカード。割に合わない手札だったが、あいにくこれしか持ち合わせがない。
- 156 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:56
- カメラのレンズがピントを合わせるみたいに、美貴の瞳が焦点を取り戻す。
そして、里沙に向かって呆れたような顔をして、げんなりと溜息をついた。
「別になにも? 軽いジョークだよ」
「そういうふうには見えなかったよ。もっさんどうしたの、松浦さんのことがあってから、
なんかずっと変だよ?」
「そりゃあ、美貴だって心配だったりするわけさぁ。最近はいい感じだけど、やっぱ
色々と大変なこともあるんだよ」
肩をすくめ、美貴は眉を片方上げた。
心配は心配だろう。あんなにも大事にしていた相手だ、突然こんなことになって、
心配しない方がどうかしている。
それでも、里沙の頭上ではレッドランプが回転している。
齟齬がある。どこかになんらかのズレが生じている。それがどういった差異であるのか、
里沙にはまだ判らない。
元栓をすべて閉めているのに、ガス警報機が鳴っているような感じだった。
原因は判らないがどうしようもなく不安を煽られる。
- 157 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:56
- 「もっさん、妙なこと、してないよね?」
思いがけず真剣な口調になった。里沙はそれを取り繕う気はない。
美貴は少し沈黙してから、「なに言ってんの?」と皮肉げに笑った。
「相変わらず、美貴は亜弥ちゃんとラブラブで、お仕事頑張って、アンくんの世話して、
たまにお母さんと喧嘩してるよ」
言葉に嘘は一片もなく、それきり、美貴はMDウォークマンのイヤフォンを耳に入れて、
里沙を己の世界から断絶した。
シャットダウンされた里沙はそれ以上踏み込むことができず、溜息をついて、窓に頬を
押しつけた。
景色は順調に流れている。ロケバスは高速道路をひた走る。滞りなく、スケジュールを
守ってやるべきことをこなしている。
自分がやるべきことは、なんだ?
里沙は自問する。答えはない。
- 158 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:56
- 己の意思に関係なく流れていく景色。自分に一切かかわりのない、世界の回転。
スクリーンの向こうで展開されている映画のように、突っ込まれたイヤフォンから流れる
華美な音楽のように、圧倒的な他者の世界を無理やり体感させられているような、奇妙で
据わりの悪い思いだった。
映画は誰かがなにをするまでもなく進行するし、録音された音楽は、こちらの意思に
関係なく、優美に流れ続けていく。
そういうものだ。
自分がするべきことなど、なにもない。
勝手に流れ、勝手に進み、そして勝手に終わるのだろう。
黙って見ていて、終わってから感想を言うのが関の山だ。
窓ガラスから頬を離し、横目に美貴を見つめる。
- 159 名前:_ 投稿日:2005/11/01(火) 20:56
- 「ねえもっさん。あたし結構、もっさんのこと好きなんだけど」
ウォークマンで音楽を聴いている美貴は、聞こえなかったのか、反応しなかった。
里沙は落胆の溜息をつく。
こんな台詞、イエローカードにすらならない。
イエローカードは一枚であればただの忠告。
二枚出せなければ、征裁の赤い札には成れない。
- 160 名前:円 投稿日:2005/11/01(火) 20:56
-
続く。
- 161 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/02(水) 09:17
- ヤバイヤバイヤバイ……色々な意味で。
スキです。うん、楽しみで。
- 162 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:00
-
◇ ◇ ◇
- 163 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:01
- 意外にも起きた時、わずかばかり調子が悪かった。
下腹部にはりついている残滓と、のどの痛み。やはりちゃんと服を着るべきだった。
それでも臥せってしまうほどではない。ちゃんと朝食をとり、美貴を送り出して、
その際には恋人のマナーにのっとって、いってらっしゃいのキスもしてみた。
美貴はものすごく照れていたが、まあそれはそれで可愛らしい。
少し離れたテーブルに座っていた美貴の母親にばっちり見られたりしたものの、
特筆するような反応はなかった。公認なのだろうか。心の広いお母さんである。
- 164 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:01
- 今日は病院で検査を受けなければならない。初めのうちは誰かについてきてもらって
いたが、場所は覚えたし、外に出ることにもそれほど抵抗はなくなっていたので、
前回から一人で行くようになっていた。
午前中は休んでおき、病院へ行ってくると告げてマンションを出る。
帽子を深くかぶっていると案外見つからないもので、電車に乗っていても道を歩いて
いても声をかけられたりはしない。
毎日のように世界中から最新ニュースが配信され、亜弥のことはその中に埋もれて
しまっている。人の記憶なんて、ゆるやかに喪失されていくものなのだろう。
- 165 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:01
-
- 166 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:01
- 受付に診察券を預け、待合所のベンチに座りながら雑誌をめくる。
少し古いファッション雑誌だ。表紙にでかでかと病院名が書かれている。
アップで映っている少女の笑顔が台無しだと思った。
「28番の方」
アナウンスで呼ばれた。受付に行くと、銀行とかで見るような番号札を渡され、
呼び出しの際はその番号で呼ばれる。個人情報保護法に対する過剰反応だ。
しかし、自分のような立場の者にとってはありがたい。
番号札を見せて検査室へ向かう。消毒液のにおい。リノリウムの床。壁の色はアイボリー。
年配の看護師が先導してくれている。胸元にはカルテかなにかを挟んだバインダーを
抱えている。こちらを振り向きもしない。話すと気さくだが、そうでない時はこちらを
遮断するようだ。
人に聞いた美貴の印象と似ている。亜弥が抱く彼女の印象とは全然違っていた。
- 167 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:02
- こちらです、とドアを開けられる。一礼して検査室へ入る。
中では女性の医師が待っていて、機器のセッティングを始める。
亜弥は貫頭衣のような服に着替え、指示された場所に横たわる。
検査の間、ずっと美貴のことを考えていた。
安息地。絶対の一人。世界そのものと言っても過言ではない存在。
たとえすべてが無に帰しても、彼女だけは残っているんじゃないかという、漠とした
安心感。元始の味方。夢のように心地良く、うねるように規則正しい。
好きな人。
昨晩のことを思い出しても、胸が高鳴ったり気恥ずかしくなったりはせず、ただ、
彼女の腕に身体全体を包まれているような安堵感だけが広がった。
正しいのだと、信じた。
ここが在るべき場所だと、それが正しい答えだと、信じて疑わなかった。
- 168 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:02
-
この時は。
間違って、信じていた。
- 169 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:02
-
機器による検査のあと、問診を受けて薬局で薬を受け取る。種類がひとつ増えていた。
飲めば記憶がよみがえるというわけではなく、精神安定剤のたぐいだという。
増やされる心当たりはないのだが。精神なら薬に頼るまでもなく、とっくに安定している。
まあ、医者には自分で判らないようなものも判っているのだろうと、亜弥は特に何も
言うことなく白い袋を受け取った。
「さてと……」
外に出て、手首を返す。そこにはまっている腕時計で時刻を確認。まっすぐ帰ったら
夕方にもならない。美貴は泊りがけでロケをするそうだから、今日は帰ってこない。
身体の不調はすっかり消えていた。このまま帰宅したところで退屈なだけだろう。
道端に立ち尽くしたまま、どうしようかと頭を巡らす。美貴がいないのだから、
同じグループである里沙と愛も一緒だろう。他の友人もいるのだろうが、携帯電話の
メモリに登録されている名前は、どれも見覚えがないものばかりだ。
- 170 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:02
- 「……あ」
あった。ひとつだけ、見覚えのある名前。
マネージャである。なかなか忙しそうなのだが、とりあえず聞いてみるくらいは
いいだろう。
メモリから番号を探し出し、コールする。
何度目かのコールでマネージャが応対に出た。
『松浦か? どうした?』
「あー、あのですね……」
暇なので相手をしてください、というような用件を、亜弥は非常に婉曲した形で告げた。
さすがに率直な言葉で言うのは憚られた。
受話口から、困ったような唸り声が聞こえた。
『といってもなあ……こっちもちょっと忙しくて』
「ですよね。すいません、大丈夫です」
『あっ、待った』
マネージャは携帯電話の送話口を手でふさいだらしい。ゴソゴソとした音の後ろから、
会話らしきものが雑音みたいに聞こえてくる。
- 171 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:02
- 『もしもし? ダブルユーが今日オフらしいから、電話してみたらどうだ?
あいつらなら、一緒にライブしたりして仲良かったし』
「だ、だぶるゆー?」
珍妙な名前を、亜弥が怖気づいた声で復唱する。
『辻希美と加護亜依。ああ、事情は知らないから、そのへんはうまく誤魔化してくれよ』
本当に忙しいらしく、マネージャーはそれだけ言って電話を一方的に切ってしまった。
亜弥は呆然と携帯電話を見つめる。
「ええと、辻ちゃんと、加護ちゃん」
そういえば、美貴が見せてくれた写真にそんな名前の二人がいたような。
自分も一緒に写っていたから、きっと仲のいい子たちなんだろう。
よし、とひとつ気合を入れて、携帯電話のメモリをひとつずつ表示させていく。
なぜか『加護亜依』はなかったが、『辻ちゃん』というのが見つかった。
- 172 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:03
- ずっと道端に立っているのもなんなので、手近にあったファストフードの店へ
入って、改めて電話をかける。
『もしもーし!』
「あ、辻ちゃん?」
『うん、のんだよー』
なにやら背後が騒々しい。ゲームセンターとかカラオケ店とか、そういった場所に
いるようだ。オフということで遊んでいたんだろう。
亜弥はボロを出さないように注意しながら、希美との会話を進めていく。
「あの、どっかで遊んでんの?」
『うん。あいぼんとボウリングしてんの。前に亜弥ちゃんと美貴ちゃんと来たとこ』
言われても、もちろん亜弥には判らない。
ついでに「あいぼん」というのも誰だろうと首を捻った。
微妙に焦りながら、「そうなんだ」と当たり障りのない相槌を打つ。
- 173 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:03
- 「それってどのへんだっけ?」
『なんだよ、忘れちゃったのかよー』
希美はからかい混じりに言って(実はからかいになっていないのだが)、自分たちがいる
ボウリング場への道筋を教えてくれた。
「あー、あそこか。わかったわかった。アイボンと二人?」
『そうだよ。モーニングのみんなロケ行ってっし、かおりんもなちみも捕まんなくて』
「そっかあ」
もうお手上げだ。そっかあ、くらいしか言える事がない。
『あいぼんに代わろっか?』
「え、あ」
『あいぼーん、亜弥ちゃんから』
亜弥が答える前に、希美はアイボンに電話を渡してしまったらしく、さっきとは違う声が
受話口から聞こえてきた。
『はいどうもー。かっごちゃんでっす』
なぜか妙な節をつけて自己紹介された。なにかの決まり文句だろうか。
しかし、おかげで誰なのか判った。加護ちゃんだ。おそらく、『亜依』→『あいぼん』と
変換された愛称なのだろう。
- 174 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:03
- 「もしもしー、久し振りー」
『ひっさしぶりー。なんか病気してんだって?』
「ああ、うん、ちょっとね。でも今日は調子いいから、どっか遊びに行こうかと
思ってたんだけど」
『あー。ミキティおらんもんね』
説明するまでもなく、美貴の名前が出てくる。思わずうーんと唸る亜弥だった。
これはまた、なんというか、ちょっと照れくさい。
『それやったら、亜弥ちゃんも一緒に遊ぼ。加護たちも来たばっかだから』
「えへへ、ありがとー」
それじゃあそっちに向かうから、と告げ、通話を終える。
念のためにメモリを探してみると、果たして、『あいぼん』の名前を見つけた。
先ほどは『加護亜依』もしくはそれに類する名前で探していたから、見落としてしまった
ようだ。
ボウリング場の名前と最寄の駅を頭の中で繰り返しつつ、亜弥は駅までの道を辿る。
- 175 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:03
-
- 176 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:03
- 「あ、亜弥ちゃーん! こっちこっち」
レーンを覗きながらウロウロしていると、希美か亜依のどちらかがこっちを見つけて
声をかけてくれた。よかった、気づいてもらえなかったら、こちらからは絶対に
合流できない。
とはいえ、声をかけてきたのがどちらなのか判らないのは、小さなピンチである。
「やっほー」
「やっほー」
背中にうっすらと冷や汗を浮かび上がらせつつ、亜弥はつとめて平然と挨拶をする。
……どっちだろう。
- 177 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:04
- 「一人なの?」
「あ、あいぼんはちょっとトイレ行ってる」
神様ありがとうございます。両手を組んで祈りたい気分だった。
いまの言葉から、消去法で彼女は希美だと判断がつく。
希美はポニーテイルで、長袖のシャツの上にパーカを羽織っていた。ボトムはジーンズ。
格好と顔立ちが相まって、なんとなく活動的な印象のある子だ。
ほどなくして亜依も戻ってきた。こちらは、うなじのあたりでひとつに縛った髪を
右側に流している。ピンクを基調としたブラウスとカーディガン、フレアジーンズで
なかなかフェミニンな雰囲気だった。
こうも細かく観察したのは、ほかでもなく、覚えるためと間違えないためである。
しかし、これほど対照的なら、覚え違えることもなさそうだ。亜弥は内心でほっとする。
戻ってきた亜依は亜弥に向かって両手のひらを掲げてみせて、それに合わせて上げられた
亜弥の手をパチンと叩き鳴らした。
- 178 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:04
- 「病気大丈夫?」
「うん、別に動けなくなったりするわけじゃないから。
ただちょっと、歌ったり踊ったりはね」
「ふうん。そんじゃお仕事もできんなぁ」
亜弥が困り顔で首肯する。
嘘ではない。歌ったり踊ったりできないのは本当だ。
忘れてしまったから。
記憶はなくても身体は覚えてたりするんじゃないかと、ビデオを観ながら試したりしたが、
そんな都合のいいことはなく、初めて見聞きしたのと変わらない状況だった。
「んでも、休めてラッキーかもよ。こないだまでツアーやってたしさ」
「あはは、そうかもね」
希美の気楽な言葉に、こちらも気楽な口調で応えた。
慰めなのだろうが、色んな人に同じようなことを言われていた。
どれだけ働いてたんだろうと、少しだけ苦笑するような、微妙な心境になる。
「じゃあ今日は遊ぼうぜー。ミキティいないから物足りないかもしんないけど」
一番手の希美が元気よく立ち上がり、ボールを両手で持ち上げた。
- 179 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:04
- それにしても、どこまでも美貴の名前がついて回る。そんなにあからさまだったのか。
いくら仲がいいといっても、ここまで一心同体ぶりを見せつけられると、
自分のことながら感心してしまう。
もしかしたら二人の関係は周知の事実になってたりするんだろうか。
「ね、ねえあいぼん。あたしと……みきたんって、そんなベタベタだったかな」
スコア表示用のディスプレイを適当にいじって遊んでいる亜依に、小声で尋ねる。
しかしこの呼び方は慣れない。というか恥ずかしい。過去の自分はなにを考えて
こんなあだ名を思いついたのか。
亜依はディスプレイから顔を上げると、「へ?」と訝しげに眉を寄せた。
「なにゆーてんのぉ。ベッタベタでラッブラブやったやんかぁ。
美貴ちゃん、ラジオで『カップルみたい』とか言いまくっとったし」
「そ、そうだねぇ……」
やはり公然の秘密なのか。美貴はあまり隠し事とかできなそうな感じだし。
直接的に言うことはなくても、なにかそういう雰囲気でも出していたのか。
- 180 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:04
- 「あー! 惜しい!」
唐突にレーンの方向から大声が届く。亜依とそろってそちらを見遣ると、希美が
地団太を踏んでいる。
希美のボールは、ピンを8本倒して下に落ちて行った。
返ってきたボールを、希美が備え付けのタオルで丁寧に磨く。おそらく意味は判って
いないのだろう。ただ単に、周りのプレイヤーの真似をしているだけだ。
「のん、頑張れー」
「頑張ってー」
「おう!」
かけ声勇ましく、希美はボールを持ち上げてレーンへと向かった。
真剣な表情で2本のピンを見つめ、照準を定める。
「……とぁー!」
勇ましいのだが、投げるときは両手持ちで足の間から転がすような投げ方である。
まあ、なんというか、微笑ましい光景だった。
ボールはゆるくカーブを描きながら転がって、見事に残ったピンをなぎ倒した。
- 181 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:04
- 「おっしゃー!」
「おー、すごいすごい」
スペアマークがスコア表に表示され、希美が得意げな様子で帰ってくる。
「まっ、のんが本気出せばこんなもんよ」どっかと椅子に腰を下ろし、大げさなほど
ふんぞり返った。
その鼻っ柱をへし折ってやりたくなったのか、亜依が意気揚々とレーンに立った。
投げ方は希美と似たようなものだったが、残念、3本しか倒れない。
「そいえば亜弥ちゃん、あいぼんにピアス返した?」
「え?」
「ほら、こないだのコンサートであいぼんに借りたやつ。これとお揃いの。
あれってごっちんからもらったやつだからさ、早めに返してあげて」
- 182 名前:_ 投稿日:2005/11/02(水) 22:05
- 自身の耳に填まっているピアスを指し示しながら、希美が言う。
これもまた、当然のように亜弥には覚えがないのだが、彼女がそう言ってくるからには
ピアスを借りていたのだろう。
二人にお揃いでプレゼントされたものらしく、亜依も希美もそれを大切にしている
ようなので、近いうちに必ず返す、と約束した。
たぶん、自宅のどこかに保管しているはずだ。まだ訪れた(というか、帰った)ことは
ないのだが、住所は知っているし、折を見て探しに行こう。
亜依の二投目はガターで、結局、彼女の1フレーム目は3ピンで決定してしまった。
ますます大きくふんぞり返る希美の頭に、亜依が本気でチョップを打ち込んだ。
あれもまた、仲がいいということなんだろう。
なお、亜弥は一投目でストライクを出して、亜依から喝采を受け、希美に拗ねられた。
- 183 名前:円 投稿日:2005/11/02(水) 22:05
-
続く。
- 184 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/02(水) 23:04
- 更新乙です
な、何か伏線を見つけた気がします
- 185 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/03(木) 09:10
- ドキドキ……
- 186 名前:名無し読者 投稿日:2005/11/03(木) 14:16
- この小説は文章にも話の設定にもめっちゃ引き込まれますね、続き楽しみにしてます!!
- 187 名前:_ 投稿日:2005/11/03(木) 20:37
-
◇ ◇ ◇
- 188 名前:_ 投稿日:2005/11/03(木) 20:37
- 記憶をなくしてすぐの頃から、亜弥は日記をつけている。
こうしていれば、後々になっても読み返して思い出せるから、一日も欠かさずに
その日の出来事を書き記していた。
今日は色々なことがあったから、書くことがたくさんあって思わず興が乗ってしまった。
ボウリングのあとに二人と撮ったプリクラもページに貼り込む。亜依と希美の頭上には
『あいぼん』『のんちゃん』と書き込みがされていた。これでもう忘れない。
ピアスのこともちゃんと記しておいた。ついでに、記憶とプリクラの希美を頼りに
借りているというピアスのイラストもつけておく。
我ながら上手に描けた。意外な才能を発見。このまま記憶が戻らなかったら、画家を
目指すのもいいかもしれない。第二の人生。文字通り。
- 189 名前:_ 投稿日:2005/11/03(木) 20:38
- 熱中しすぎていたのか、ドアが開いたことに気づかなかった。
ぽふ、と背中に重みがかかり、亜弥はペンを走らせる手を止めた。
「ただいまー」
「あ、おかえり」
背中に抱きついている美貴へ、半ば無理やり首を回して答える。
かなりお疲れらしく、ぐでんともたれかかっている身体は起き上がる素振りもない。
日記帳を閉じ、ペンをケースに閉まってから身を転じる。
正面から受け止めなおした美貴の身体は力が入っておらず、亜弥は小さく呻きながら
バランスをとった。
「大変だったの?」
「ロケ自体はそうでもなかったんだけど、夜とか帰りとか、子供チームがうるさくて。
ほら、二十歳すぎてんの美貴とよっちゃんしかいないからさ、二人で手分けして
おとなしくさせて。もう疲れたよー」
言葉に覇気はないが、別にうんざりしているというわけでもなさそうだった。
ただちょっと愚痴りながら甘えてきているだけだ。
亜弥は「おつかれさま」と美貴をねぎらい、その背中を優しく撫でた。
- 190 名前:_ 投稿日:2005/11/03(木) 20:38
- 予兆もなく、瞬時にして切り替わったスイッチ。二人の関係は以前のようには戻らない。
戻ったから、戻らない。マイナスからゼロへ、そしてプラス。
進行方向は一定で、上にも下にも向かわずに、ただ前へ前へと進んでいく。
波紋が広がるように、小さな力が一点に加えられたことで一転した水面。
さざめきはひどく穏やかで、おとなしく、朝もやにけぶる空のように爽快。
「変だね、一日会えないだけで、亜弥ちゃんに会いたくてしょうがなくなっちゃった。
前は一ヶ月くらい顔見ないこともあったのに」
「そうなの?」
「うん。やっぱツアーとかやってると、なかなか会えなくて」
「あ、辻ちゃんと加護ちゃんに聞いた。あたし倒れる前、ツアーやってたんだってね」
「あの子たちと遊んでたの?」
「マネージャーさんが、今日あの二人オフだって教えてくれて。
ボウリングしてきたよ。藤本さんとも行ったことあるとこ」
「ああ、あそこか」
美貴が身体を離し、額だけを亜弥の肩に置く。どこかしら触れていたいようだ。
その首を抱きこむように腕を回し、耳元に頬をすり合わせる。
- 191 名前:_ 投稿日:2005/11/03(木) 20:38
- 「どこ行っても藤本さんのこと言われんだよ。すごいね、そんだけつながってたんだね」
「……うん」
美貴の口元に微笑が浮かんだ。目を閉じて、子猫が母猫の腹にうずまるように
すり寄ってくる。
甘ったれ全開なしぐさに苦笑しながらも、亜弥はそれを無条件に受け入れた。
グループでは一番年上なので、なかなか誰かに甘えるのが難しいのかもしれない。
彼女は末っ子なせいか、割合甘えたがりな性質である。
まあ、年齢の話を出せば、亜弥の方が年下ではあるのだが。
「時々ね」
「ん?」
美貴が閉じていた瞼を上げる。
顎のあたりに視線を感じながら、亜弥はゆるやかに目を細めた。
「このままでいいかなって、思うよ」
「……なに?」
「記憶戻んないまま、ずっと藤本さんと一緒にいて、一緒におばあちゃんになって、
にゃんこ膝に乗せて、縁側でお茶飲んじゃったりすんの」
困ったように笑う声が聞こえた。「それ、飛びすぎだよ」苦笑の消えきらない返答に、
亜弥も「そっかな」と苦笑いする。
- 192 名前:_ 投稿日:2005/11/03(木) 20:39
- けれど本当に、そういうのもいいな、と思ったのだ。
彼女とともに在る世界で、彼女がいなければ成立しない世界で、ただ毎日を穏やかに
過ごして、ともに年老いて、静かに生を消費していくような生き方も。
以前の自分は、そんなことを望んでいなかったかもしれないけれど。
「でも、そうできたら、いいかもね」
「ね」
「そうなったら、幸せだね」
「うん」
19年分の記憶と引き換えに、彼女とこれからの数十年を手に入れられるなら。
それなら割に合わないこともない。
もちろん、そうするには問題が多すぎて、実現する確率は低いと判っている。
だから、ほとんどがただの空想で、鳥のように空を飛びたいとか、どこでもドアが
ほしいとか、そういう馬鹿馬鹿しい願いとなんら変わるものではなかった。
誰も信じないような、誰も本気にしないような、だからこそ純粋な望みだった。
美貴が顔を上げて、軽くキスをしてくる。
壊れないように気をつけた、ビロードみたいな柔らかいキスだった。
- 193 名前:_ 投稿日:2005/11/03(木) 20:39
- 「あ、亜弥ちゃんのマネージャーさんに会ったよ」
「なんで?」
「いっぺん事務所に行ったから。なんかげっそりしてた。大変みたいだね」
「そっかぁ。じゃあやっぱ、記憶戻った方がいいのかな」
「周りのこと考えるとね」
目を眇め、美貴は小さく肩をすくめた。
当たり前だが、世界は二人だけで回っているわけではない。
確実に、亜弥のことは誰かへ影響を与えているし、そのすべてを放り投げてしまえるほど
子供ではなくなっている。
とはいえ、自分の力で記憶を戻せるなら、一ヶ月以上ものんびりしていない。
焦ったところで仕方がないし、申し訳ないとは思うが、どうしようもない。
マネージャは、美貴とは違う部分で支えになってくれている。
それに報いる術を、亜弥は持ち合わせていなかった。
- 194 名前:_ 投稿日:2005/11/03(木) 20:39
- 美貴が離れたことで軽くなった身体から力を抜いて、亜弥は小さな嘆息をする。
宥めるような手のひらが頬に触れた。
「亜弥ちゃんは美貴が守るよ」
「こないだからそればっかだね」
「だって、そうしたいんだよ。亜弥ちゃんの一番近くにいたいし、亜弥ちゃんに悪さする
ヤツはみんな美貴がやっつけてあげる。そしたら、亜弥ちゃんは幸せでしょ?」
なんとも幼い言葉だった。年齢不相応な台詞に、亜弥はクスッと笑声を洩らし、
疲労の溜まった美貴の目元を親指で撫でた。
「そんなことしなくても、藤本さんがいてくれたらあたしは幸せだよ」
美貴は微妙な表情になった。
それから、「へへっ」と子供っぽく笑い、鼻先が触れ合うほど顔を近づけてくる。
- 195 名前:_ 投稿日:2005/11/03(木) 20:40
- 「じゃあ、二人で無人島にでも逃げよっか」
「えぇ? なにそれ」
「うちらのことなんか誰も知らない、遠いどっかの島でさ、いつまでも幸せに暮らすの」
「駄目だよー、藤本さんは別に記憶なくなってないし、お仕事だってしてんだから」
諭す言葉に美貴は苦笑いして、
「判ってるけどね。またガッタスの大会も始まるし。美貴が抜けちゃうと厳しいか」
ゴロンと寝転がり、頭を亜弥の膝に乗せる。
ガッタスというのが、彼女の所属しているフットサルチームの名前だということは
知っていた。試合やファン交流イベントのビデオを見せてもらったことがある。
初めのうちは亜弥も加わっていたそうだが、スケジュールが合わなくなってメンバーを
はずれてしまったらしい。
チームの中で、美貴は得点を決めるためのポジションにいるそうで、敵陣に突っ込んで
行ったり、相手チームとのぶつかり合いも多いから、大会が始まると身体じゅう怪我が
絶えないのだと聞いた。アイドルとスポーツ。両立しているのはすごいなと素直に
感心する。
- 196 名前:_ 投稿日:2005/11/03(木) 20:40
- 「大会あるんだ?」
「うん。前の大会で準優勝だったから、今度は優勝するって、よっちゃんとか
めちゃくちゃ張り切ってる」
「ふぅん。あんまり怪我とかしないように気をつけてね?」
「んー、どっかなあ。やっぱ大会とかだと夢中になっちゃうから」
「スポーツとか好きなんだね」
美貴は目を閉じている。亜弥は膝の上にある髪をずっと撫でている。
自分たちのこれからを話すのもいいが、彼女の過去を聞くのも楽しかった。
少しずつなぞっていく彼女の輪郭。ブラックボックスに入った物を感触だけで当てる
ゲームのように、次第に明らかになっていく形。
知りたかったのだ。
あまりにも密接な他人である彼女の輪郭を知っていけば、同時に己の形も浮かび上がって
くるんじゃないかと、そんなふうに感じていた。
- 197 名前:_ 投稿日:2005/11/03(木) 20:40
- 似てはいないと思う。しかしまったく当て嵌まらないかというと、そうでもない。
きっと、融合している部分と乖離している部分が、同じくらいあるんだろう。
空を写したパズルのピースみたいに、同じ模様の違う形。
願うものはそっくりで、持ちえるものは別個であるような、同一性と独自性の共在。
「応援してんね」
「……ん」
「試合の時とか、見学に行ってもいい?」
「…………うん……」
段々、美貴の反応が鈍くなっていく。眠くなってしまったのだろう。
起こしてしまうのも可哀想なので、亜弥はそのまま無言になり、美貴の髪を優しく撫でた。
部屋の中は静かだ。時折、美貴が身じろぎをする際の衣擦れさえ響く。
こうしていると、世界に二人しか存在していないようだ。
それはただの空想であり、ただの勘違いであり、ただの錯覚であり、そんなことは
誰に言われなくも判っていたのだけれど。
この数時間だけ、亜弥にとっては真実だった。
空想で、勘違いで、錯覚だったからこそ、幸福だった。
- 198 名前:_ 投稿日:2005/11/03(木) 20:40
- 幸福だと、空想して、勘違いして、錯覚してしまった。
- 199 名前:円 投稿日:2005/11/03(木) 20:40
-
続く。
- 200 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/03(木) 20:44
- リアルタイムでいただきました。
毎日たのしみでしょうがないです。
- 201 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/04(金) 07:01
- なんでだろう……ゾクッとするのは。
更新ありがとうございます。
- 202 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:22
-
◇ ◇ ◇
- 203 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:22
- いつものように美貴を送り出し、自分も出かける準備をする。
ピアスの話をした時、美貴は一緒に探してあげるよと言ってくれたのだが、いかんせん
彼女は忙しい身であるため、なかなかまとまった時間が取れず、一週間も経ってしまった。
このままでは日が経つばかりなので、亜弥は一人で探す決心をした。
マネージャが書いてくれた住所のメモを頼りに、自宅を探す。自宅なのに探さなければ
ならないというのもちょっと悲しい。
幸い、それほど迷うこともなく辿りつけた。
ドア前に立ち、キーホルダーに何種類かぶら下がった鍵の中からひとつを選び出して
差し込む。
「お、お邪魔します……?」
自分の家に入るのに、「お邪魔します」もないだろうが、亜弥の気分としては人さまの
家に勝手に侵入するのと大した違いはなかったので、半ば無意識に口をついて出た。
- 204 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:22
- 定期的に母親が掃除をしに来てくれているため、あまり散らかった感はない。
しかし、どうしても人が生活していない部屋というのは荒れてしまうもので、少しだけ
埃っぽかった。けほ、と亜弥がひとつ咳をする。
自分の部屋なのだが、どこになにがあるか、まったく判らない。
これは手当たり次第に開けていくしかないかな。口の中でひとりごちる。
室内を見渡し、これからの作業量を予想したら、我知らず嘆息が落ちた。
美貴が一緒に行くと主張した理由も察しがついた。何度も遊びに来ていた彼女なら、
きっと今の自分より、物の場所が判っているだろう。
やっぱり都合がつくのを待っていた方がよかったかもしれない。そう思ったところで
来てしまったのだから、このまま帰ってはもったいない。
後悔先に立たず。ならば後悔しないように自分の力で現状を打破するしかない。
「よしっ」
気合ひとつ、まずは手近にあったラックを漁る。ピアスなんて失くしやすいもの、
まさか裸のままそのへんに置いておくわけがない。借り物だし。そこまでズボラな
人間ではないはずだ。たぶん。そう願う。
- 205 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:23
- 通常なら、ピアスホルダーにまとめているか、ケースに入れているだろう。
ぐるり見回しても、ホルダーらしきものは見つからない。
それならケースに保管しているのか。表からは見えないので、ちょっと条件が厳しくなる。
それらしきケースを見つけた端から開けていく。それにしても多い。なんだか宝探しの
ゲームをしている気分だ。あながち間違っていないが。
蓋が開いたままの様々なケースが、そこかしこに散らばっていく。あとで片付けるのが
面倒そうだが、そんなことは気にしない。
「……ないよぉ」
大小織り交ぜたケースを、見つけた分すべて開けてみたが、ピアスの入ったものは
どこにもなかった。
- 206 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:23
- 「どこにしまってんの、あたし……」
ピアスなんて日常的に使うもの、そんなに難しい場所へ置いているはずがないのに。
いやしかし、人間の考えることは案外わからないものだ。いかな自分自身であっても、
憶えていないのであれば他人と同じような条件である。
タンスでカイワレ大根を作る人もいるそうだし(バラエティ番組で見た)、なにか、
普通に考えては思いつかないようなところにしまっているのかもしれない。
- 207 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:23
- 突然、床に置いていたバッグから携帯電話の着信音が響いた。
「んわっと」メロディで美貴からの電話だということはすでに判っている。
携帯を取り出し、耳に当てる。
「もしもーし」
『どう? ピアス見つかった?』
「まだー。藤本さん、あたしがピアスしまってた場所って知らない?
疲弊した声で尋ねると、美貴はしばらく唸って、
『どっかから出してきたのは見たことあるんだよね。どこだっけなぁ』
なんとも自信なさげな答え方をした。
うぅむ、美貴も知らないのか。それではそろそろお手上げだ。また美貴と一緒に訪れて
探しなおした方がいいだろうか。じかに部屋を見たら、彼女も思い出すかもしれない。
『あ、なんか鍵がかかってる引き出しから出してた気がする』
「鍵?」
『うん。わりと高いのとかもあるからって』
- 208 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:23
- それは盲点。そういえば、三段重ねになっている引き出し型のカラーボックスの、
一番下のものだけに鍵がかかっていた。開かなかったから諦めたのだが、もしやそこか。
「ありがと、探してみる」
『頑張って。美貴も終わったらそっち行くから』
「うん」
携帯電話をバッグに戻し、先ほど諦めた引き出しを引っ張ってみる。
さっき開かなかったものが開くはずもなく、ガチンとなにかが引っかかる音が鳴るだけで、
それ以上は手前に出てこない。
これはどうしたものか。開けるための鍵がどこにあるかなんて、亜弥にわかるはずもない。
部屋の中央に座り込み、腕組みをして考え込む。
鍵。鍵だ。鍵穴の形状を見るに、本格的なものではない。おもちゃよりはいくらか上等、
という程度だろう。バッグやポケットなんかに入れていたら確実に失くしてしまうような、
小さいもののはずだ。
- 209 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:24
- 「……あ」
呟き、自分に対して呆れる。
別に仰々しく考えることなどない。
鍵なのだ。
キーホルダーにつけているに決まってるじゃないか。
先ほど閉じたバッグを再度開いて、キーホルダーを取り出す。
果たして、明らかに他とは異彩を放つ、簡素な金色の鍵が紛れていた。
指先でつまんで、鍵穴に差し込んでみる。ピッタリはまった。回す。回る。
カチャンと小さな音を立てて、鍵が開く。
引き出して中を覗くと、一目でアクセサリケースと判断できる、長方形の箱が一番上に
置かれていた。
これに違いない。亜弥はケースを取り出して蓋を開けた。
- 210 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:24
- 「あったっ」
希美が見せてきたものと同じデザインのピアス。いくつかの部屋に仕切られた中で、
特別扱いのように一組だけ端の部屋を占領していた。
よかった、と息をつき、用意しておいた別の小型ケースにピアスを入れる。
これで今日の任務は完了だ。目標を無事捕獲。これから帰還します。
と、いくわけもない。ここに辿り着くまで散らかしたものを片付けないといけないのだ。
振り返ると、室内は散々たるありさまだった。うぅ、と喉の奥から唸り声が洩れる。
現実逃避のために引き出しの中へ視線を移した。目的があったわけではない。
単純に、散らかっている箇所から目をそらすには、そこを見るしかなかっただけだ。
「ん?」
引き出しの奥、隠すように本のようなものが入れられている。
なんだろう、アダルトな本だろうか。いやまさか、男子高校生じゃあるまいし。
手を突っ込んで引っ張り上げてみる。幸い、アダルト本ではなかった。
日記帳だ。もちろん、亜弥が今つけているものとは違う。
どうやら記憶を失う前も日記を書いていたらしい。
- 211 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:24
- なるほど、隠していたのも納得がいく。日記なんてプライベートの集大成だ。
人に見られたら困るだろう。
亜弥が書いたものなら、亜弥が見たって構わないだろう。
ひょっとしたら、なにかを思い出せるかもしれない。
そうでなくても自分しか知らないことを知る、いい機会だ。
表紙をめくる。特に目立ったことは書いていない。その日の仕事の感想や、面白かった
テレビ番組についてメモ程度に書き記している。
パラパラとめくっていくが、日が経つにつれて空白が多くなっていた。
毎日つけている今とは違い、どうも飽きっぽい性分だったようだ。まあ、この頃は
記憶喪失になるなんて思いもしていないだろうから、仕方がないと言えばそれまでだが。
- 212 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:24
- 当然と言うべきかどうか、穴だらけの日記でも、美貴の登場頻度はずば抜けて多かった。
カラフルな色使いと、ハートマークや星印がこれでもかと散りばめられた文章の中は、
『ミキタン』とか『タン』とかばかりだ。ここまで来ると、我ながら清々しい。
「うわー、あたしホントに藤本さんのこと好きだなー」
一人、感想を口にしながらどんどん日付を進めていく。新鮮な追体験とでも言おうか、
己のことなのに別の誰かの体験を共有しているような感覚。
- 213 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:25
- 『ミキタンと久しぶりにプリクラとった。』
『タンと焼肉。やっぱり牛タンとレバ刺しばっか食べてた。』
『ちょっとだけミキタンとけんかした。
あの子のことだから明日には忘れてると思う。』
『モーニングさんに新しい子が入った。浮気すんなよー。』
- 214 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:25
- 「いや、13歳の子に嫉妬しないでよ」
思わず過去の自分にツッコミを入れた。くだんの『新しい子』とは、見学の時に
顔を合わせたことがある。
確かに美貴に懐いているようだったが、まさかそれはないだろう。
亜弥はさらに日記を読んでいく。
- 215 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:25
- 『新曲のカップリング、あたしとタンにピッタリ! 今度タンにきかせてあげよう。』
『最近、ミキタンに会えない。さみしー。』
『………………………………』
『………………………………』
『………………………………』
- 216 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:25
- 不意に、亜弥の手が止まった。
視線も止まっている。
そこに書かれていた文章。黒一色の、記号のたぐいは何もない、簡素な文章。
- 217 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:25
- 『タンに告白された。友達じゃない好きだって言われた。』
- 218 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:26
- 『一日かんがえたけど、やっぱりタンのことは友達としか思えない。』
- 219 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:26
- 『タンに、あたしの正直な気持ちを言った。
それから、電話しても出てくれない。』
- 220 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:26
- 『ぜんぜん話もできない。どうしたらよかったんだろう。』
- 221 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:26
- 『なんでこうなっちゃったんだろう。』
- 222 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:26
-
『もうゼンブ忘れちゃいたい。』
- 223 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:26
- 亜弥の顔から、表情は消えている。
双眸がかすかに揺れて、最後の文章を書いた日付を確認する。
記憶を失う、前日。
「――――な……」
なんだろう、これは。
これは――――存在しては、いけないものだ。
あまりにも非合理だ。ふざけるなと言いたいくらい不条理だ。
あまりにも非情で、ふざけるなと言いたいくらい不毛だ。
あってはならない。在ってはならないし、有ってはならない。
それが、そこが、己の還る場所なら、ここにあるものは。
亜弥の手が、自身の左胸を握りこむ。
存在するべきでないのは……。
- 224 名前:_ 投稿日:2005/11/04(金) 18:27
- どちらだ?
どちらが、本当だ?
- 225 名前:円 投稿日:2005/11/04(金) 18:27
-
続く。
- 226 名前:円 投稿日:2005/11/04(金) 18:34
- 明日は更新できません。
- 227 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/04(金) 21:41
- 一体なにが書いてあったんですか!?
気になって8時間しか眠れない・・・・・_| ̄|○
- 228 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/04(金) 22:04
- こ、こう来るとは……
- 229 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/04(金) 22:07
- 主導権と独占的の行き交い……
ドキドキです
- 230 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/05(土) 00:35
- やばい…おもしろい。
こんな展開ですか。はぁー。
これは目が離せないですね。
- 231 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/05(土) 02:23
- 円さんは飼育の財産ですよ。。
こんな名作者さんがいるんだから娘小説はやめられない
- 232 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/05(土) 02:53
- まさかなぁと思って想定から除外していました
いやそう思いたくなかっただけだ…
でも目の当たりにした瞬間驚いて飛び上がったw
うわぁ面白いなー楽しみにしています
- 233 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/05(土) 11:54
- サイコーだよあんた‥‥
今すぐあんたんとこ行って抱きしめてあげたい気分だよ‥‥
- 234 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/05(土) 17:20
- こういう風な展開で来るとは。
今までの円さんの話で一番驚かされたかも…
これからどうなってしまうんだろう。ハラハラしっ放しです。
とりあえず、次回更新お待ちしています。
- 235 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/06(日) 12:51
- 今日見つけて読みました
なんかすごいことになってきましたね・・・
今日更新するのを楽しみに待ってます頑張ってください
- 236 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:03
- なにが嘘かは自分で決めればいい。
大丈夫、世界にしてみればどちらでも変わらない。
- 237 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:03
-
◇ ◇ ◇
- 238 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:03
- 収録をすべて終えて、口々にスタッフへ「お疲れさまでした」と声をかけていく。
美貴はスタジオから出たところで伸びをして、楽屋へ戻るために早足で廊下を歩いた。
「もっさん、お疲れー」
「おー、ガキさんと愛ちゃんもお疲れ」
追いついてきた里沙に肩を叩かれ、笑顔を交わす。
里沙と愛は手をつないでいた。ふむ、仲良きことは美しきかな。
「仲いいよね、キミらも」
「あーそっかな。まあ、いいんじゃない?」
「ガキさん、照れんでもええって。うちらやって美貴ちゃんと亜弥ちゃん並にラブラブ
やでなあ」
「うるさい、くっつかないで」
心底いやそうな顔で、里沙が抱きついてきた愛を押し返す。
- 239 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:03
- 「いやでも、もっさんたちもすごいよね。ほんとにカップルみたい」
「そう?」
「そうそう。なんかファンの人に恋人とか言われてんでしょ?」
「あはは、そういうハガキとか来るね、ラジオで」
「ね。このごろはあんま遊んでないみたいだったけど、松浦さんのアレがあってからは
前みたいにべったりだし」
美貴は唇の右端だけを上げた奇妙な笑い方で、「かもね」と曖昧な相槌を打った。
そうだ。それでいいんだ。
元に戻って、そこから更に進んだだけだ。
マイナスからゼロ。そしてプラス。
なにも間違ってなんかいない。
亜弥だって、今が幸せだと言ってくれた。ともに在ることが、己の幸福だと告げてくれた。
やり直しただけだったのだ。彼女が選択肢をひとつ誤って、それでは正しくないから、
誰かがもう一度チャンスをくれた。そして、今度は正しい選択肢を引き当てた。
こちらが正しい道だ。
その証拠に、こんなにも幸福じゃないか。
- 240 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:03
- 「吉澤さんとかもちょっと心配してたよ。収録の時とか不機嫌なこと多かったし。
もしかして松浦さんと喧嘩でもしたのかなって」
「ううん、そんなんじゃないよ。つーか別に不機嫌だったわけじゃないんだって」
「あれが美貴ちゃんの素やで。あたしとラジオやっとる時なんかいっつもあの顔だし」
「そういうこと」
里沙はふぅんと声を洩らして、またさりげなく腕に絡みついてきた愛を押し退けた。
「そんならいいんだけど。もっさん、今日はまっすぐ帰るの?
よかったら一緒にご飯食べない?」
「ごめん、ちょっと用事あるんだ」
ピアスのことを、かいつまんで説明する。二人は特に食い下がることもなく、
そういう事情なら、とあっさり引き下がった。
楽屋に戻り、携帯電話を開く。留守番電話もメールも入っていなかった。
もしピアスが見つかったら、なにかしら連絡を入れてくるだろうから、亜弥は今も
自宅にいるのだろう。
それなら、早く行ってやらなければ。美貴は手早く帰り支度をすると、その場にいた
面々へ軽く挨拶をしてから楽屋を飛び出した。
- 241 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:03
-
◇ ◇ ◇
- 242 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:04
- ドアノブを回してみたが、さすがに鍵がかかっていた。それはそうだろう、鍵を開けた
ままにしておくなんて無用心すぎる。
合鍵を取り出して開錠する。ドアを開けても物音はない。
漫画でも見つけて読みふけっているか、それとも探し疲れて、うたた寝でもしてしまって
いるのか。
「亜弥ちゃん?」
彼女の私室へ入ると、亜弥は部屋の中央に、こっちへ背を向ける形で座り込んでいた。
声をかけても微動だにしない。まさか、座ったまま眠っているのだろうか。
手前へ回り込んで顔を覗きこむ。眠ってはいなかった。
しかし、意識の見えない表情をしていた。
にこやかだった美貴の表情が、にわかに真剣みを帯びる。
「……亜弥ちゃん、どうしたの?」
反応がない。「ちょっと、亜弥ちゃん!」肩を掴み、強くゆさぶる。
それでようやく亜弥の瞳に光が入り、美貴の姿が捉えられた。
- 243 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:04
- 「……あ…………」
「どしたの? 具合悪い? ちょっと休んでなよ、ピアスは美貴が探しといてあげる」
気力を根こそぎ奪われてしまったような亜弥の様子に、美貴は気遣いの言葉と表情で
彼女に接する。
ゆっくりと、亜弥の首が横に振られた。
「……と」
「ん?」
「…………ともだち、だったの……?」
美貴の双眸に、一瞬だけなにかが走った。
それを隠すように目を細め、「なんのこと?」と問いかける。
足元に、固い何かが当たった。眼を落とすと冊子のようなものが亜弥の膝から
滑り落ちている。
拾い上げ、それが日記であると気づいて、美貴は迷いながらそれを傍らに置いた。
本人の前で中身を読むなんて悪趣味すぎるし、彼女の様子を見れば、読まなくても
内容の見当はつく。
- 244 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:04
- 美貴のシャツを、亜弥の両手がきつく握り締めた。
その手が震えていることに気づいた美貴は、そこから目を逸らした。
「嘘だったの? 恋人だったって、あたしが、藤本さんのこと好きだって、
全部嘘だったの!?」
「……嘘じゃない。亜弥ちゃんは好きって言ってくれてたよ」
「でもそれは!」
シャツを握る手だけでなく、声までも鳴動を始める。
「それは、藤本さんと同じ好きじゃなかったんでしょ!?」
濡れた眼差しが美貴を射抜く。
美貴は否定のために首を振り、落ち着かせようと亜弥の腕を掴んだ。
それを振りほどき、亜弥はなおも叫ぶ。
「嘘だったんでしょ!? みんな藤本さんが仕組んで、あたしを騙して!
なんでそんなことしたの? なんで」
「ちがう、騙してなんかない。美貴は亜弥ちゃんを愛してる。亜弥ちゃんも美貴を
好きなんでしょ? だったらそれでいいじゃん、なにもおかしくなんかないよ」
- 245 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:04
- 以前は間違っていただけだ。そんなものは消えてしまったのだ。
正しくない選択のために亜弥は生まれ変わり、最初からやり直して、今度は正しい形に
なっただけなのだ。
美貴には、どうして彼女が激昂しているのか理解できない。
鋭い呼気が亜弥の口元から発せられ、きつく食い縛られた唇は痛ましく歪んだ。
「そうじゃない……。ちがう……。今のあたしは、藤本さんが好きだよ。
でも、前はそうじゃなかった。今とは違う好きだったの」
ゆらゆらと、亜弥の瞳の中で、美貴が揺れている。
どうしてこんなに歪んでいるのだろうと、美貴はいっそ呑気とも言える鈍感さで
考えていた。
もっと澄んだ瞳で、いつも見つめてくれていたのに。
三日月に細まった双眸の奥に、幸福は確かに存在していたのに。
今はそれが見えない。
彼女は、その瞳に映る己は、どうしてこんなにも、不安定なのだろう。
- 246 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:05
- 「それなら、あたしは……。
藤本さんを好きな『今』のあたしは、『今』の気持ちは、いったいなんなの!?」
戻りたかった彼女。やり直したかった自分。
その齟齬が、今までは稚拙に隠されていた齟齬が、あらわになっている。
確固とした不安定。事実を知った彼女は、前提を崩壊させられ、選定を覆され、限定を
解除され、マイナスもプラスもなく、ゼロという『有』の概念すら失って、名のない
『無』へと帰してしまった。
それが真実。本当のスタート地点。
だから美貴は。それを。
「あたしは、『どこ』にいるの!?」
――――違う。
こんなことを、言わせたかったんじゃない。
「……泣か、ないで」
彼女を、泣かせたくなんてなかったのに。
『無』である彼女の、居場所になりたかったのに。
- 247 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:05
- 泣いている。
亜弥が泣いている。
降下。
硬化。
墜落。
水圧。
落下。
悪化。
メッキ。
滅私。
剥がれる。
暴かれる。
結界の決壊。
泣かせてしまった。
守りたかったのに。
- 248 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:05
- 「あたしは戻りたかっただけなのに! 藤本さんを好きになって、それで元通りに
なるって信じてたのに! そうするのが幸せだって信じてたのに!!」
美貴は力の限りに亜弥を抱きしめた。亜弥は逃れようともがいた。
絶対的に違ってしまった。限界値までに間違ってしまった。
取り戻そうと美貴は彼女を抱きしめた。
取り壊そうと亜弥は彼女を拒絶した。
守るはずだった者。守られるはずだった者。
越えてはいけないライン。越えてしまったライン。
越えてしまった、その内側にさえいれば安全だった、絶無の蒼い死線。
誰がなにをどうするべきだったのか正解は誰にも判らず、ただ間違ったことだけを
目の前に突きつけられて、もうすでに打つ手はなく、握った拳はお互いにしか届かなくて
いたずらに傷つけ合い、そうすることで身体よりも心が傷つき、それはゆるやかに二人の
距離を遠いものにしていく。
美貴はそれを望まず。
亜弥はそれを望んだ。
- 249 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:05
- 「ごめん、ごめん亜弥ちゃん。
ただ亜弥ちゃんと一緒にいたかったの。前みたいに、亜弥ちゃんの一番近くに
いたかっただけなんだよ」
抱きしめた腕をゆるめないまま、美貴は必死に謝罪する。
今なら、他のすべてを投げ打ってもかまわないと思った。
彼女を失わずに済むのなら、己が持つありとあらゆる有形無形を差し出してもいいとさえ
思っていた。
本当にそうしてしまっても後悔しないと言い切れた。
後悔なら、今、全身で感じている。
美貴の腕の中、亜弥はぐったりと脱力して、抱きしめているおかげで彼女の表情を
見ずに済む。
「じゃあ……なんで最初に、あんなこと言ったの?」
判っているのだ、答えなど。きっと、亜弥は答えを知っていて、それでもなお、
美貴の口から言わせようとしている。
それは告発だった。
- 250 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:05
- 乾いた呼吸は意識して行わなければすぐに止まる。
美貴は止まりそうな呼吸をなんとか続行して、その間隙から言葉を紡いだ。
「…………亜弥ちゃんが好きで」
それは原罪のエゴイズムと。
「亜弥ちゃんが、ほしかったから」
現在のカニバリズム。
「そっか……」
ずるりと、亜弥が離れる。
亜弥の身体にも声にも、瞳にも。
どこにも力はなく、むしろそうであるからこそ、彼女のすべてが美貴を傷つけた。
お互いに満身創痍。それをもたらしたのは、お互いの慢心相違。
「けど、信じて。
美貴が亜弥ちゃんに言ったことで、それ以外に、嘘はなかったよ」
愛してる。守りたかった。一番大事でどこへもやりたくなかった。
- 251 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:06
- ゆっくりと、亜弥の瞼が下ろされる。
なにかを堪えるように震え、再び目を開けた時、そこにあるものはひどく痛々しかった。
「……今更、なにを信じろっていうの?」
ひどすぎる断罪だった。どこまでも容赦の無い最後宣告だった。
美貴の表情は絶望に歪み、それを隠すことすらできずに凝り固まる。
償いの方法などないと告げられて、ここで終わりだと、もう以後はないと断言されて、
そうされてしまってはもう、言葉にできる想いなどない。
亜弥の両手が、美貴の身体のラインを(形を確かめるみたいに)たどりながら上がり、
頬に到達して止まる。
指先が濡れる。濡れる。固体と液体は触れ合っても溶け合いはせず、どこまでも乖離
したまま、一方は流れ、一方は留まった。
唇が、唇に触れる。触れ合う。愛情表現。それ以上も以下もなく。
祝福もなく、信頼もなく、忠誠もなく、感謝もなく、贖罪もなく、ただ触れるだけの、
接触。接続。
- 252 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:06
- 「愛してる」
- 253 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:06
- 最初から、意図的にすり替えられていたピース。つまらない悪戯だったそれは、
時間が経つにつれてズレを大きくしていき、完成形を知らない亜弥が気づかないまま
作り続けて、間違った真実が出来上がってしまった。
それでも、それは、『これ』は、間違いなくひとつの真実だ。
同時に存在してしまった、形の違う、ふたつの真実。
選ぶ権利は美貴にない。
亜弥に、二人の世界のすべてを統べている彼女にこそ、選択権は与えられている。
最初からそうだった。最後だって同じことだ。
『選ばない』なんて逃げは打てない。
そう。
二つに一つ。オールオアナッシング。
- 254 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:06
- 「――――だから、もう一緒にいれない」
- 255 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:06
- 美貴は小さく頷いた。
判っていたことだ。いくら途中をやり直しても、待っている結末はひとつしかない。
無駄だったし、無意味だった。
気づいていたのに、止められなかった。
見抜いていたのに、期待してしまった。
すべてが間違っていた。
己の選択も、失うべき人物も、亜弥の想いも、なにもかも。
取り返しはつかない。
やり直しはきかない。
これが正しい終わり方。正当なる終末。
失うべきはこちらだった。そして今、すべてを失った。
ゲームオーバー。
さようなら。
- 256 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:07
-
◇ ◇ ◇
- 257 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:07
- 空気すら動いていなかった室内に、なにかが動く気配。
小声で「お邪魔します」と聞こえたが、美貴は応じなかった。
「もっさん? いたら返事して」
戸惑ったような呼び声。何度かドアの開閉音が聞こえて、すぐ後ろから人の気配が届く。
「あ、やっぱりここだったんだ。おうちに電話したら、まだ帰ってないって言われたから、
ここだと思った」
里沙は「となり座るね」と断って、すぐそばに腰を下ろした。
美貴の視線は動かず、里沙の方も、しばらく黙ったままだった。
やがて、小さな咳払いのあとに、おずおずと里沙が口を開く。
- 258 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:07
- 「松浦さんから、聞いた。今、愛ちゃんが松浦さんのとこにいるんだけど。
なんか……色々あったみたいだね」
「……なにもないよ」
「うん、そうだね。なんにもなくなっちゃったね」
それは里沙の誤解釈だったが、偶然にも的を射ていた。
あるいは、美貴の言葉ではなく、その意思、想いについての感想を口にしたから、
整合性が取れていたのかもしれない。
亡羊とした瞳。里沙のレッドランプは点かない。
もう終わった。エンドロールも流れきり、最後の一音も消えてしまっている。
美貴の唇がかすかに動いた。
里沙が聞き逃さないように耳を近づける。
「亜弥ちゃんを、好きなだけだったんだ」
「……うん」
悲しそうな微笑で里沙は頷き、お互いの肩を触れ合わせながら、視線を床に落とす。
- 259 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:07
- 「やり直せるならって、思っちゃうよねぇ……。
それは、誰だって思うよ。好き、だから一緒にいたいとか、そういうの、当たり前だよ。
一回駄目になってさ、でも、もっかいできたらって思うのも、当たり前だよね。
ほんとに好きなんだもん。そんな簡単に、諦めらんないよね」
静かに語る里沙に、美貴は反応をしない。
かまわず、独白のような調子で、責めるでもなく、なじるでもなく、里沙はあくまで
落ち着いた声を崩さないまま言葉を……感想を伝える。
「あたしもさ、愛ちゃんにまとわりつかれたりして、正直うざいなって思うことも、
たまにあるんだけど。うん、ほんとたまにね」
立てた膝を両腕で抱え、里沙は淡々とした口調で話す。
「でも、愛ちゃんってあたしが本気で嫌がるとすぐにやめるのよ。
そういう……好きでもさ、やっぱ、しちゃいけないことって、あると思う」
「…………」
「あたしはまだオコサマだから、もっさんみたいな気持ちってわかんないんだけど」
ふぅ、と溜息をひとつ。
- 260 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:08
- 「……好きってだけじゃ、駄目なんだよ、たぶん」
絶対の正解。
誰でも知っていて、誰もが判っていて、それでも、どこかで誰かが誤ってしまう選択。
理屈だけで動けたら、それほど楽なことはないが(きっと誰も傷つけずに生きることすら
可能だろう)、人間の中には理性と本能が混在していて、どちらが正しいということも
なく、ケースバイケースで移り変わり、両方が正しい場合も、両方が間違っている場合も
たしかにあって、だから――――。
今回は、すべて間違っていて、誰も悪くなかった。きっと。
自分が悪いと言うのは簡単で、そうすれば他人を傷つける痛みを味わわなくて済むから
実は一番簡単で、けれどそれは単なる逃げ口上でしかない。
たとえ誰かの代わりに自分を傷つけたとて、それで誰も傷つけていないなんて言える
わけもなく、実際に傷を負わなくても、怪我をした人間を見たら、心痛める存在が必ず
どこかに現れるものだ。
- 261 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:08
- 自分が悪かった。誰かが悪かった。タイミングが悪かった。運が悪かった。
どこに責任の所在を問おうが、それで世界が許してくれる由もない。
甘えたがりの、甘ったれの美貴が出した答えを、里沙は甘えるなと一蹴した。
好きだというだけでは駄目だった。
それだけの話だったのだ、結局。
「……ガキさん」
「うん? なに?」
「ガキさんは、まだ、美貴を好きかな……?」
里沙はくにゃりと顔を歪めて、涙が落ちるのを必死に堪えながら、頷いた。
「好きだよ。あたしも、愛ちゃんも、みんなもっさんが好きだよ」
優しい言葉に、美貴は少しだけ唇を震わせて、小さく小さく、呟いた。
ありがとう。
ごめんね。
- 262 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:08
-
◇ ◇ ◇
- 263 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:08
- すべて失い、終わりを迎えたところで、そこで止まりはしない。
人生は終わり続けていく。終わりの続きが終わりながら進んでいって、終わりの終わり、
つまり最期が来るまで終わり続ける。
亜弥はあのまま、芸能界を引退した。故郷に戻ったのか、それともどこか美貴の知らない
ところ(たとえば無人島とか)に移ったのか、美貴はなにも聞いていない。
接続はすでに切られている。
彼女の口から、そして美貴からも、マネージャへはすべて伝えたが、美貴に対して
なにかお咎めがあったわけでもなく、今までと変わらず同じ場所に留まっている。
- 264 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:09
- マネージャは、里沙とともに事務所へ赴いた美貴の頭をポンと撫で、
「こっちはそんなにヤワじゃない」と頼もしい言葉をくれた。
それは嘘ではなく、事務所は確実な支柱であるはずの亜弥を失っても傾きはせず、
みごとな手腕で事態を収拾して、これまでと変わらぬ様子を見せている。
影響は世界に対して驚くほど少なく、あっけないほど何も変わっていなかった。
きっと亜弥の存在は、ゆるやかに世界から忘れられていき、いつしかどこにも残らずに
消え去ってしまうのだろう。
それが世界だ。薄情で非情でそれでも逃れられない、すべてを、征服者すら内包した
無限大が世界と呼ばれるのだから。
- 265 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:09
-
- 266 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:09
- 「ガキさーん。らぶー」
「おわぁ!? ちょっともっさん、重いっす」
「ああっ、美貴ちゃんやめてやー、ガキさんはあたしのガキさんやろー」
里沙の背中にのしかかって押し潰していると、愛がそれを阻止しようとぐいぐいシャツを
引っ張ってきた。
美貴の下で、里沙は無理やり顔を上げ、表情でうんざりしていることをアピールした。
「いや勝手なこと言わないでくれる? それからもっさんはどいてください」
言われたとおり、里沙の上からどいた美貴は、「じゃあ愛ちゃんらぶー」と今度は標的を
愛に変えて抱きつこうとする。
「おお!? 美貴ちゃん節操ないなー」
「でも愛ちゃんはうざいからよっちゃんにしよう」
「あれ? ちょっと美貴ちゃん」
直前で身を翻す美貴。受け止めようとして空振りし、愛は自らを抱きしめているような
格好で、ちょっとばかり寂しそうな顔をした。
- 267 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:09
- 美貴は宣言したことを守ろうと、ひとみの姿を探したが、どこかへ出かけているのか
楽屋の中にはいなかった。
興ざめしてしまい、ふざけるのをやめてソファに腰を下ろす。
まだ油断すると亜弥のことを思い出してしまうから、できるだけ騒いでいたいのだが。
忘れたいわけじゃない。むしろ逆だ。
ゆるやかに忘れられていく彼女のことを、自分だけは憶えておこうと決めている。
どんなに辛くても、彼女に関係するすべてを憶えておいて、絶対に忘れない。
終わり続けていく世界の中で、辛くても苦しくても悲しくても喘いでも絶望しても
止まってくれない非情な世界で、たとえすべての記録が失われたとしても、ずっと、
彼女のことを記憶にとどめていく。
いつまでも続くはずだった、友人として過ごした日々も、不安定だった眼差しも、
ほんのわずかな間得られた、恋人としての夢のような時間も、最後に突き刺さった痛みも。
憶えている。憶え続ける。
- 268 名前:_ 投稿日:2005/11/06(日) 19:09
- 「もっさーん、ミーティング始まるってー」
「あぁ、今行く」
立ち上がる。みんなが待っている。あそこへ行かなければならない。
美貴はまっすぐに足を進める。
仕草に淀みのひとつもなく、瞳に濁りの一点もなく、呼吸に迷いの一瞬もなく。
在るべき場所へ向かいながら、願う。
ともに終末を迎えた彼女の、この先の幸福を。
《THE END.》
- 269 名前:円 投稿日:2005/11/06(日) 19:10
-
以上、終了。
- 270 名前:円 投稿日:2005/11/06(日) 19:12
- というわけで、『the others』これにて完結です。
なんというか……ラブラブーなあやみきを期待されてた方、ホントすみません_| ̄|○
- 271 名前:名無し 投稿日:2005/11/06(日) 20:36
- ありがとうございました。
泣きました。
なんか大切なこと思い出させてもらったみたいな。
ありがとうございました。
- 272 名前:知つぁん 投稿日:2005/11/06(日) 20:47
- 完結おめでとうございます!
感想は書いていなかったんですが楽しくみていました。
あやみきも期待していたんですが、こういう展開も他とは違って
とてもおもしろかったですw
- 273 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/06(日) 23:47
- 読みながら、無い頭で色んなことを考えました。
うまく言えないですけど何か心にくるものを感じました。
妙にすっきりした気分です。
お疲れ様でした。
- 274 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/07(月) 00:47
- 正直、ラブラブーなあやみきを期待してたうちの一人ですがw
なんか……こういうのもあやみきっぽいのかなって感じました
今のリアルのあやみきとどことなくシンパシーを感じるような関係、
円さんの作品には心にグッとくるやつが多いですね
この読後に押し寄せてくるせつなさとやるせなさが心にしみます
いい作品、ありがとうございました。
- 275 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/07(月) 01:30
- 哀しい、ただただ哀しいです。結末も、円さんの作品がまたしばらく読めないであろうことも。
完結お疲れ様でした。すごく良かったです。
- 276 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/07(月) 03:35
- 完結お疲れさまです
悲痛だ…でも良かった、愛が溢れている
ただ一つ、救いが欲しいなって
個人的に凄く思ってます
本当にお疲れさまでした
またの機会に巡り会えたらいいな
- 277 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/07(月) 08:40
- 完結お疲れ様でした。
良質なお話、ありがとうございます。
『others』……はあ、そうでしたか。
いつも思います。タイトルも重要だなぁって。
また次の作品を読める日を待ちたいとます。
- 278 名前:名無しJ 投稿日:2005/11/07(月) 17:22
- なんか胸が痛くなりました。亜弥ちゃんのその後が気になります。。。
もっさん。・゚・(ノД`)・゚・
- 279 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/07(月) 23:42
- 何だかチクチク胸が痛みます…けれど切ない読後感が凄く良いです。
しばらく余韻に浸ってしまいそうです。
ガキさんの言葉一つ一つが身に染みました。
人を想いやる上で、本当は何が大切かって事を
思い出せたような気がします。
このような素敵な作品を毎日拝読させて頂いて、とても幸せでした。
素晴らしい日々を、どうもありがとうございました。
- 280 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/23(水) 00:44
- あぁ・・・素敵な時間をありがとう
- 281 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/07(水) 17:37
- 展開が予想できなくて、すごくドキドキしながら読みました。
ココロの中で泣きました。
- 282 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 04:39
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
- 283 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 16:51
- かなり感動しました!
まったく想像のつかない展開ばかりでついつい引き込まれていきました!
ストーリーはかなりすばらしかったと思います!
次は甘いのなんて書いていただけないでしょうか?
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