続々・出逢いと別れ
- 1 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/16(水) 17:48
- あと一回の更新で第四章が終わったのに・・・・・・。
まあ、こんな事もあるさっ! ○| ̄|_
- 2 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/18(金) 21:48
- 〔生きてさえいれば〕
私の怪我はベンジンによる低温火傷と二針程度の切り傷、
それと右足腓骨(脛骨の外側にある細い骨)の単純骨折だった。
副木で足を固められたけど、もう痛みはほとんど無かった。
一応、踵を付かないように金具で固定したけど杖があれば平気。
どれも軽傷で、二、三週間もすれば完治しちまうらしい。
ただ、美貴ちゃんは頭蓋骨骨折にクモ膜下出血と脳挫傷。
両手足の複雑骨折と骨盤、背骨まで折れていたそうだ。
おまけに内臓破裂と来てるから重体といったとこだろう。
「美貴ちゃんの容態、どうなんだべかねえ」
リビングのソファに座ったなっちは、お茶を啜りながら言った。
相変わらず美貴ちゃんは意識が戻らず、救命救急センターのICUにいる。
すぐに応急処置が出来たのと、オヤジの的確な指示が項を奏したらしい。
でも、美貴ちゃんが生死の境を彷徨ってる事は紛れも無い事実だった。
私の心には悲しみより驚愕、嘆きよりも動揺が支配してた。
「梨華ちゃんの話じゃ、意識が戻っても障害が残る可能性が高いってさ」
あれだけ多発性の外傷を負ったんだ。即死しなかった方が不思議だろう。
美貴ちゃんは脳神経外科の手術を受けた後、外科による内臓手術。
そして整形外科による手足や骨盤、背骨の手術を行ったって話だった。
脳外科の医師が言うには、意識が回復する可能性は極めて低いらしい。
かなり深刻な脳挫傷らしくて、脳の半分近くが死滅してるそうだ。
もし、奇跡的に意識が戻っても社会復帰は絶望的。
それどころか、いつ脳死状態になっても不思議じゃない状況。
私は自分でも、かなり混乱してるのが判った。
- 3 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/18(金) 21:48
- 「そうだべか・・・・・・」
しかし、まさか美貴ちゃんが犯人だったなんて、
まるで意外っていうか予想外だったなァ。
美貴ちゃんは梨華ちゃんを好きだったんだけど、
私がいたからコクれなかったらしい。
ったく! 私と梨華ちゃんは、そんな関係じゃねーってのによ!
だけどあの眼つきったらなかった。
もう美貴ちゃんは正気を失ってたんだなァ。
狂気の眼っていうのは物凄く恐ろしいもんだ。
「何でこんな事になっちまったんだろうなァ」
重い木のテーブルを蹴ってみても、副木で固められてるから痛くない。
マンジュウも警察の手落ちを認めて、事件としては取り扱わない事を約束した。
被疑者が生死の境を彷徨ってるんだから、事情聴取なんて事は出来ねーしなァ。
ただ、私が邪魔した警官を沈めた事は、厳重注意という事になっちまった。
あのまま地面に激突してりゃ、美貴ちゃんは即死したに違いないだろう。
だけど、私は体当たりしたりして美貴ちゃんを助けてしまった。
それは果たして美貴ちゃんにとって良かったのか悪かったのか。
「よっCのせいじゃないべさ」
自分を責めちゃいけねーって事は判ってるけど、やっぱり私が関与してるのは事実。
あれで美貴ちゃんが正気だったら、きっと私は気が狂っちまうだろうなァ。
私は何とか乗り越えられるだろう。なぜなら、傍になっちがいるから。
絶対に自殺なんてするもんじゃない。自殺したところで何も解決なんかしねーんだ。
それどころか、両親の存在すら否定する背徳的な行為なんだよね。
だって、なっちも言ってたように、人は両親のDNAを受け継いでるんだから。
- 4 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/18(金) 21:49
- 「でもよ。美貴ちゃんは夏休みからオレを狙ってたんだぜ」
あの頃から美貴ちゃんは梨華ちゃんに好意を持ってた。
だから、親友の私を亡き者にすれば想いが叶うと思ったんだろう。
そういえば、三年になってから美貴ちゃんが仲間になったんだ。
きっと梨華ちゃんと同じクラスになって、仲良くなりたかったに違いない。
私達と一緒に遊ぶようになると、梨華ちゃんともっと仲良くなりたかった。
だけど、そこには私という存在と同性という壁があったんだろうね。
梨華ちゃんが教育実習の初日、同性の恋愛を質問したっけ。
あれで美貴ちゃんは、自分の気持ちに確信を持てたんだろう。
それからは・・・・・・。私という邪魔者を排除する事を考えてたんだ。
「正面からじゃ、よっCに勝てなかったんだべさ。美貴ちゃんは」
そうだろうなァ。私の方が一回りでかいし、力だって比べもんにならねーし。
一回目はプールで私の足を浮き輪に結びつけて溺死させようとした。
二度目は歩道橋の階段から突き落として殺そうとしたんだったっけ。
三度目はバイクで轢き殺そうとしたし、四度目は学校の階段だった。
学園祭の楽屋で私の荷物やギターだけが荒らされたのも、
きっと美貴ちゃんがやったんだろうなァ。
「警察がもっと早く何とかしてくれてれば・・・・・・」
マンジュウは傷害じゃなくて殺人未遂で検挙したかったみてーだ。
確かにその方が事件は大きくなるからよ。ったく、警察なんて!
まァ、三鷹みてーに治安のいい都市なら、警察も暇だってか?
マンジュウも欲張ったせいで、手柄を逃がしちまったってわけだ。
あれだけの騒ぎになったから、マンジュウは上司や検察から突付かれるだろう。
どんな報告書を出すのか見てみてーもんだなァ。
- 5 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/18(金) 21:49
- 「それを言っちゃ終わりだべさ」
確かに起きてしまった事は、何を言ったとこで仕方ねーもんなァ。
美貴ちゃんの両親は、菓子折を持ってうちまで謝罪に来たけど、
オフクロさんなんか泣きっ放しだし、本当に気の毒ったらありゃしねーっての。
実際、子供が死にかけてるってのに、義理を通すなんて中々出来ねーぞ。
うちのオヤジやオフクロだったら、あそこまで立派には出来ねーだろうなァ。
「梨華ちゃんもショックだろうしなァ」
私もお茶を飲みながら、テーブルの上にあるクッキーをつまんだ。
こんな時、なっちが居れば安心だけど、誰かもう一人一緒に居て欲しい。
いくら親友でも、酷くネガティヴになってる梨華ちゃんは勘弁。
そうなると・・・・・・。
「ん? 誰だァ?」
玄関のチャイムが鳴ったって事は、うちに誰かが来たって事だよなァ。
こんな時にセールスマンが来たら、私は松葉杖で殴るかもしれねー。
私は今、足が不自由だから、なっちが「はーい」と言いながら玄関に向かう。
私の部屋にカスタムしたカラシニコフの電動エアガンがあるからよ。
しつこいセールスマンだったら、それで撃ってやればいい。
「ほえ? ごっちんだべさ」
そうだった! 誰か忘れてると思ったら、スーパーマイペースギャルのごっちん。
あれでいて、こんな時には傍に居ると少しは気持ちが楽になりそうだ。
なっちも私と同じ事を考えてたのか、快くごっちんを家に迎え入れた。
ごっちんはシックな黒っぽい服装で、ピアードパパのシュークリームを持ってた。
- 6 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/18(金) 21:50
- 「よっC、えらい事になったね」
そりゃ大変な事だよ。私は骨折したし、美貴ちゃんは重体だからなァ。
さすがにマイペースなごっちんは、シュークリームをなっちに渡すと、
勝手にキッチンに入って行って自分で紅茶を煎れ始めた。
他のやつにこんな事をされたら嫌だけど、ごっちんは何だか当たり前。
紅茶を匂いで探し当てると、冷蔵庫から生クリームまで持って来た。
「もう、脳内がスパークしちまってよ。ようやく修復開始ってとこかなァ」
ごっちんは一旦ソファに座ったんだけど、どうも冷蔵庫を気にしてる。
なっちも首を傾げながら、ごっちんの奇妙な行動を見てた。
テーブルの上にはビアードパパのシュークリームが姿を現したんだけど、
ついにごっちんはソファから立ち上がると、足早に冷蔵庫へ向かって行く。
そして、冷やしてあったエビスビールを一本取り出して、その場で一気飲みした。
「ごっちん、どうしたんだべさ」
なっちも心配しながら、ごっちんの不可思議な行動を見守った。
人の家に来て、いきなりビールを一気に呷る女の子も少ないだろう。
いったい何があったのか、私となっちはごっちんが口を開くのを待った。
「正直に言うよ。おいら、美貴ちゃんの件は気付いてたの」
「まじ?」
何で? 美貴ちゃんの様子がおかしくなったのは、
私の記憶が確かなら三学期になってからじゃなかったか?
なのに、何でごっちんは気付いてたんだろうなァ。
まさか、美貴ちゃんから話を聞いてたのか?
- 7 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/18(金) 21:50
- 「ごっちん! 何で早く言わなかったんだべさっ!」
鼻の穴を膨らませながら興奮するなっちを宥めてみる。
ここはひとつ、ごっちんの話を聞いてみようじゃねーか。
怒るのはそれからだって遅くはねーんだからよ。
ごっちんは大きなゲップをしてから、あらためてソファに座りなおした。
「おいらと美貴ちゃんは、二年生の時に同じクラスになったんだよ」
ごっちんの話は二人の出逢いから、三年生の理科系進学クラスに入るまでの事。
別にごく普通の女の子と、これといって変わったところはなかった。
だけど、話が三年になると、少しづつ核心に触れるような話へと変わって行く。
そうなんだよね。ごっちんは美貴ちゃんと仲が良かったんだからよ。
「美貴ちゃんは梨華ちゃんに特別な感情を抱くようになったの」
ごっちんの話によると、そのために私と梨華ちゃんに接近して来たらしい。
私もクサレ縁の梨華ちゃんだけじゃ不満だったから、丁度良かったんだよなァ。
四人で遊ぶようになると、美貴ちゃんは梨華ちゃんが私しか見てない事に気付いたそうだ。
その決定的なものが、あの海での出来事だったらしい。
「ベッドの中で二人がいちゃついてるのを見て、美貴ちゃんは歯車が狂っちゃったの」
そういえばあの時、美貴ちゃんが抗議するように咳払いした記憶がある。
私は眠いのにうるさい。っていう抗議だったと思ったんだけどなァ。
そういえば、あの海から帰ってから、私は美貴ちゃんに襲われるようになった。
ごっちんも最初のプールだけは、美貴ちゃんの仕業だとは思わなかったらしい。
でも、私が歩道橋から突き落とされた時、ごっちんは美貴ちゃんに疑念を抱くようになる。
そして、あのバイクで轢き殺されそうになった時に確信したんだそうだ。
- 8 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/18(金) 21:51
- 「そういえばオレに訊いた事があったよね。『犯人は女性だったんでしょう?』って」
「・・・・・・うん」
学園祭の準備でアンプを運ぶのに、ごっちんに運転を頼んだ時の事だ。
あの時は私も余裕が無かったから、ごっちんの態度にまで気が回らなかった。
でも、今考えてみると、ごっちんはかなり怪しい事を言ったんだよなァ。
あの時、ごっちんは犯人が美貴ちゃんだって確信したんだろうね。
「警察もVFRで所有者を絞ったんっしょ」
そうか! 女の子でVFRなんて乗ってる子は少ねーだろうしなァ。
警察が動かなかったのは・・・・・・っていうか動けなかったんだ。
動機が判らなかったから逮捕状を請求する事が出来なかったのか。
・・・・・・何だかマンジュウに悪い事をしたな。
「もっと早く言っておくべきだったね。どうして・・・・・・こんな事に・・・・・・」
「ごっちんのせいじゃないべよ。悪いのは警察っしょ」
ごっちんが・・・・・・あのごっちんが泣いてるよォ。
今回の事は誰も悪くねーよ。悪い事が重なった結果なんだ。
なっちは怒りの矛先を警察に向けてるけどね。
マンジュウだってもっと早く解決したかっただろうに。
「なっちさん。警察にも限界があったんだよ」
動機不明じゃ逮捕状も請求出来ねーし、おまけに相手が未成年じゃなァ。
だからマンジュウにしても、現行犯で逮捕するしか選択肢が無かったんだ。
きっと四六時中、美貴ちゃんを尾行してたんだろうなァ。
これはマンジュウにしても、恐らくやりきれないだろうね。
- 9 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/18(金) 21:51
- 「でも・・・・・・まあ、それはそうだべけど・・・・・・」
こんなの嫌だ。美貴ちゃんは私を恨んだまま死ぬの?
せめて誤解だけでも説明させて欲しいよォ!
いくら恨まれてたって、美貴ちゃんは私の友達だもん。
もっと冷静な時に、じっくり話をしたかったなァ。
「ん? メールだ! 梨華ちゃんから!」
梨華ちゃんのメールによると、美貴ちゃんの自発呼吸が始まったそうだ。
心拍も安定して来て、意識こそ戻ってないけど回復傾向が覗えるらしい。
やっぱり現場に救急隊がいたのと、オヤジが処置を指示した結果だろう。
それと救命救急センターの緊急手術が上手く行ったからだろうなァ。
私が声を出してメールを読むと、なっちとごっちんは大喜びだった。
「良かったべさ! ・・・・・・良かった」
なっちとごっちんは、安心して力が抜けた私に抱き付いて来た。
ちょっとー! 私は怪我人なんだから、もう少し優しく抱き付いてよォ!
いててててて・・・・・・。傷口は縫合したんだから開いちまうって!
嬉しいのは判るけどさ。・・・・・・いててててて・・・・・・。
「いてーよ!」
私が突き飛ばすと、二人は顔を見合わせて笑い始めた。
ったく泣いたと思えば笑いやがって忙しい連中だぜ。
まァ、いくら回復傾向にあるといっても予断は許さない状況。
意識が回復しても死んじまったってケースがあるらしいし。
仮に助かったとしても、どこまで美貴ちゃんが回復するのか判らない。
- 10 名前:第四章・受験と悲惨な結末 投稿日:2005/11/18(金) 21:52
- 「ひとみ、美貴ちゃんの件だけどな。やあ、いらっしゃい」
入って来たのは白衣を着たオヤジだった。
ペコリと頭を下げるごっちんにオヤジは鼻の下を伸ばす。
いくら何でも娘の同級生に萌えたりするなっての!
確かにごっちんは美少女四人組の一人だけどよ。
「梨華ちゃんからメールが来たんだよ」
「俺のとこにも救命救急センターから電話があったよ」
オヤジの話によると、脳外科の徳川医師の恩師が優秀な執刀医らしい。
確か徳川医師は南里大だったよなァ。相模原市の大病院だったっけ。
美貴ちゃんの容態が安定したら、南里大学病院に転院させるそうだ。
そこで再び外科手術をすれば意識が回復するかもしれねーらしい。
「ありがとう。パパァ」
「あうっ! そのパパはやめてくれ!」
どこまで回復するか判らねーけど、リハビリはうちの病院でもいいじゃん。
なっち達で院内学級を始めるんだから、きっと美貴ちゃんにも効果あるよ。
救命救急センターで緊急オペをやって、南里大学病院でも手術となると出費が凄い。
その点、うちなら格安料金で面倒をみる事が出来るもんなァ。
大切な友達からボッタクリなんてしたら、私がタダじゃおかねーからよ。
「ただ、側頭葉と海馬に脳挫傷があるから、助かっても記憶喪失って可能性が高いんだよ」
記憶喪失だっていいじゃねーか。また新しく友達になればいい。
生きてさえいればいいんだ。生きてさえいれば奇跡も呼べる。
美貴ちゃんはまた「よっC」って呼んでくれるのかなァ。
- 11 名前:偽みっちゃん 投稿日:2005/11/18(金) 21:56
- 今日のところは、これにて失礼致します。
次からは、よっCの大学生活が始まります。
このスレで終わりにしたのですが、どうなる事やら・・・・・・。
第五章は来週中に始められる予定です。
寒い日が続きます。皆さん、お身体だけは大切になさって下さい。
- 12 名前:偽みっちゃん 投稿日:2005/11/27(日) 12:36
- もっと早く再開するつもりでしたが、第五章でどこまで描くのか考え疲れました。
とりあえず第五章では、よっCが医師になるまででいいじゃん。なんて思いまして。
六年間の大学生活を、かなり簡素化して(手抜きじゃん)描いてみたいと思います。
梨華ちゃんと疎遠になるかと思いきや、美貴ちゃんの転院で腐れ縁は続いてしまいます。
忙しいなっちと、それに寂しさを感じるよっC。
・・・・・・まだまだ続いてしまいそうです。○| ̄|_
- 13 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/11/27(日) 12:37
- 〔教習所と落第生〕
私の大学生活は順調だった。家からは中央線一本で通えるし。
とは言ってもここは国家試験のための予備校みてーなもんだからよ。
色々なクラブや同好会、研究会があったけど、私は何にも参加しなかった。
それは、とりあえず運転免許を取らないといけなかったから。
そんな日々の中でも、美貴ちゃんの事は忘れようにも忘れられなかった。
あの狂気に満ちた眼で「あんたは許さない」って言った美貴ちゃん。
まだ予断を許さない状態で、救命救急センターのICUにいる。
彼女は果たして生きているのか。生かされているのか。
美貴ちゃんは私を殺そうとしたけど、やっぱり友達だもんなァ。
「左折して下さい」
私は四月下旬から自動車教習所に通うようになってた。
なっちは試験場に行って一発で免許取れなんて言ってたけど、
オヤジやオフクロがしっかり教えて貰った方がいいって言うからよ。
そりゃそうだよなァ。クルマなんて歩行者にしてみりゃ走る凶器だし。
いくらアーネット=ホーストでも、一撃で即死って場合もあるからなァ。
まァ、ボブ=サップあたりだと軽自動車なら勝てそうな気もするけど。
「次はS字ですよ。ここは角度を付けて曲がりましょうね」
まァ、私もなっちの横に乗る事が多かったから、おおよその感覚はあった。
うちのクルマは左ハンドルだから、助手席にハンドルが付いたようなもんだ。
S字カーブだァ? こんなもんは余裕のよっCだっての。
ところで教習車はトヨタの二千CCスカイブルーカラーのマークUで、
かなりの安物な上に、いかにも趣味が悪いって感じだなァ。
せめてフーガやクラウンあたりを用意しろっての!
- 14 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/11/27(日) 12:38
- 「そうですね。いい感じですよ」
頭の禿げ上がった教官が、私を嫌というほど持ち上げる。
最近は自動車教習所も過当競争の時代だからなァ。
以前はハンコを押す代わりにセクハラした教官がいたって話だ。
私にそんな事しようものなら、アバラの二、三本は覚悟しとくんだな。
バレーのアタックじゃ左腕の肘を素早く折って勢いを付ける。
そのエルボーが脇に入れば、いくら男でも骨折しちまうだろう。
まァ、こうして評判をよくしねーと利用者が減っちまうんだ。
それにしても、まるで太鼓持ちみてーにおだてられるのもなァ。
「クランクはS字とは逆に、アウトインアウトで行きましょう」
「こ、こうか?」
ハンドルは返る余裕を考えて切らないといけねーからなァ。
おっと、ここじゃ数学の応用が出来そうじゃねーか。
回転半径をRとすると九十度曲がるわけだから、
タイヤの向きをAとして移動距離をBで表せばいいのかなァ。
それにしても、もっと若くて綺麗なお姉さんの教官はいねーのかよ。
いる事はいるけど、中年ババアが指名しちまうからなァ。
セクハラとは無縁といった風貌のババアに限って女性教官を指名するんだ。
「うーん、いいんですけどね。クルマの中心を考えてハンドルを切りましょう」
そうか。どうしても内輪差があるから、大回りしねーと駄目なんだ。
逆に言えばクルマが半分以上前に行くと、内輪差は気にしなくていい。
問題は左の前って事になるんだけど、理論上はハンドルを切る位置で決まる。
理想的な形としては、クランクのカーブ上でクルマが四十五度に向いた時に、
ハンドルが一番深く切れてる事なんだろうなァ。
- 15 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/11/27(日) 12:38
- 「こればかりは感覚ですから、もう一回やりましょうか」
くそっ! 曲がりきれずにハンドルを切り返ししちまった。
半クラッチで減速と加速を繰り返さないといけねーしなァ。
どうも足に気が行くと、ハンドルの方が疎かになっちまう。
両手両足にまで神経を使うってのは意外に難しいもんだなァ。
まァ、なっちも免許を取れたんだから不安なんて事はねーけど。
「よっしゃー! 今度は決めてやるぞ!」
教習所のクランクはかなり狭いように見えるけど、
確かクルマの幅の倍以上あるんだったっけ。
頭の中にクルマの移動の軌跡を描いてイメージしてみる。
運動神経と理論が合わされば怖いもんはねーってんだゴルァ!
前後左右からクルマを見てるようにイメージすりゃいいわけだ。
「おおっと! このクランクは完璧だァァァァァァァァー!」
こいつ、まるで古舘伊知朗みてーな言い方するぜ。
前田にサソリ固めが決まったみてーだなオイ!
ただ、あいつは人間じゃねー化け物だからよ。
いくら完璧に決めても引き摺ってロープまで行っちまう。
「あたぼうよ! 理論と運動神経が合わさったんだからよ」
『何本目のポールが見えたら』なんてアバウトなもんじゃねーんだ。
と前後左右と上からクルマを見てるイメージ。これが大切だ。
CGソフトを研究した私にしては、このくらい出来て当たり前。
全てがXYZの座標軸で計算されてるんだからよ。
- 16 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/11/27(日) 12:39
- 「車線変更ですよ。判ってますね?」
確か車線変更は左車線から右車線に出るんだったな。
高速道路なんかの右側車線は基本的に追い越し車線だから、
いきなり出ると後ろから突っ込まれる。
軽トラックでも運転しててトレーラーに突っ込まれたら、
それこそ『マッドマックス』の暴走族のボスみてーになっちまう。
毎年一万三千人に一人の割合で交通事故死者が出るんだったっけ。
「オ、オウ!」
ルームミラー、サイドミラー、目視の順番だったっけか?
ウインカーは三十メートル手前から出すんだったよなァ。
でも、実際の道路に出たら、そんな悠長な事やってられねー。
もっと実践的な教習って出来ねーもんなのかなァ。
教習所の中じゃ、せいぜい二十メートル先を見てりゃ充分だけど、
実際の道路で時速四十キロだと百メートルくれー先を見る事になる。
初心者や年寄は五十メートル先しか見てねーから止まれねーんだ。
「おおっ! 今の進路変更はいいですよ」
今度は山本小鉄になりやがった。次は誰になるんだァ? この禿げオヤジが!
間違っても具志堅にはなるなよ。あいつのジャンルはボクシングだからよ。
ちなみに野球の解説だと、野村以外のキャッチャー出身者が面白い。
野村の解説も理論的だから野球をしてるやつには勉強になるかもしれねー。
けどよ。私みてーな素人じゃ、あんな解説は面白くも何ともねーっての。
大矢明彦の解説なんて解りやすくて好きだったよなァ。
ピッチャー出身者は偏屈なのが多いし、野手は野手の目線でしか語れない。
やっぱり、配球から打撃、バッターの心理まで知るキャッチャーだよなァ。
- 17 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/11/27(日) 12:39
- 「さあ、時間ですからクルマを戻しましょう」
学科と違って実技の方は時間が経つのがはえーなァ。
まァ、それだけ気を張ってるからなんだろうけどよ。
毎日、学科を二時間、実技を二時間やると帰るのは遅くなる。
そりゃそうだよなァ。夕方の五時からやるんだからよ。
まァ、家からチャリンコで五分の距離だしね。
ただ、未だにバイクとすれ違うと、あの時の事を思い出す。
あの時、もう少しなっちが来るのが遅れてたら、
私は美貴ちゃんに轢き殺されていたんだろうな。
「ただいまー」
数ヶ月前までは私が帰って来ると、なっちが笑顔で迎えてくれた。
でも、なっちは今、院内学級で忙しいから深夜にねーと帰って来ない。
私はなっちが来る前の生活に戻って、自分で何かしらを作って食べる。
そして入浴後、一人で自室に入って勉強。眠くなったら寝る生活。
元に戻っただけなんだけど、何か寂しいんだよなァ。
「背骨の数と間接はと・・・・・・」
医師になるためには、まず人間というものを知らないといけない。
獣医に比べれば、人間だけなんだから楽と言えば楽なんだけどよ。
五臓六腑の病気だけでも、百科事典が出来るくれーの種類がある。
色々な文献を調べて、毎週レポート提出が義務付けられてるんだ。
「寝ようっと」
ベッドに横になれば、すぐに睡魔が襲って来る。疲れてるんだな・・・・・・。
- 18 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/11/27(日) 12:40
- いくら東京医科歯科大とはいっても、一、二年の間は教養の講義が多くなる。
まァ、物理や化学、生物は判るけどよ。何で数学なんて必要なわけ?
ベクトルが病気を治すのか? 因数分解が怪我人を治療出来るのかよ!
数学なんて大半が高校までの復習みてーなもんだし、私にはつまんねーよ。
「退屈そうね。そこの一年」
後ろから突付かれて振り返ると、そこにはちょっと派手系の女が座ってた。
私がフッと笑うと、彼女はニコッと笑顔を返して来る。
数学の講義なんていい加減なもので、三百人から入る講堂で行われてた。
だいたい医学部は八十人しかいねーんだからよ。
こんな無駄な事をするのも、さすがに親方日の丸だけあるぜ。
「って、オイ」
気が付くと、後ろの席に座ってた女が私の横にいた。
いつの間にワープしやがった? この瞬間移動女。
しかし、私の知り合いには変なのが多いよなァ。
泣く子も黙る石黒先生しかり、エスパー圭織さんしかり、
エロい身体のくせにブリッ子の梨華ちゃんしかり、
最終的には東京で四年も暮らしてるのに方言丸出しのなっち。
「あなた吉澤ひとみでしょう?」
げげー! この女もエスパーなのかァ?
まァ、あの重苦しい空気の試験会場を経験した猛者だからな。
常人じゃねーって感じはしてたんだけどよ。
こうして見ると、こいつも意外に可愛い顔してるなァ。
私に次ぐ美貌って感じかな? ってちょっと意識過剰な私。
- 19 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/11/27(日) 12:41
- 「なぜ知ってる?」
「あたし、柴田あゆみ。『柴ちゃん』って呼んで。宜しくね」
確かに女子学生は少ねーけどよ。
いきなりフレンドリーにされてもなァ。
そういえば、遥か昔にこんな場面があった気がする。
どういったわけか、私の隣りの席に色黒で太った子が・・・・・・。
りりりり・・・・・・梨華ちゃんだァァァァァァー!
「断っとくけど、オレはノーマルだからな」
また町田まで走った挙句、キスされて崖から真っ逆さまなんてご免だ。
私は医師になるために苦労してこの大学に入ったわけであって、
バイセクシャルの相手を探すわけでも、相手にになるためでもない。
「カスタムしたの?」
そう、百九十パーセントのバネ入れてアルミフレームにして、
精密バレルに可変ホップアップをしたから五十メートルは真直ぐに。
・・・・・・ってベレッタM92FSエアガンのカスタムじゃねーっての!
待てよ! もしかしたら、カスタムって美容整形の事かなァ。
私が美し過ぎるから? 私って罪な女だったのか。
「質問に答えてねーけど」
私はこの女がなぜ私の事を知ってるのか、それが知りたかった。
なぜなら、私はこの女を知らないし、面倒に巻き込まれるのもご免だ。
代々木の試験会場にも居なかったような気がするし、
こいつはいったい何者なんだろう。
- 20 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/11/27(日) 12:41
- 「得意な攻撃はCクイック。アタック決定率が七割を超えるエース」
何だ。バレー関係で知ってるのか。
それなら、首都圏のバレー部員なら知ってるかもしれねーなァ。
大山先輩や栗原先輩が超有名だったから、その関係で知ってるのかも。
私は二年の時にはリベロで何回か試合に出たけど、
三年になってからチームは意気消沈しちまったからなァ。
レギュラーのポジションはライトだったから、
私はそんなに有名じゃねーと思ってたけど。
「おめーもバレー部だったのかァ?」
「まあね。よっCよりも一年先輩だけど」
って事は、こいつは浪人しやがったのか。
まァ、東京医科歯科大にストレートで合格するもの大変だしなァ。
私だってなっちがいなけりゃ、ストレートで合格なんてしてねーだろうし。
それにしても馴れ馴れしいやつだなァ。
こいつは私を知ってるかもしれねーけどよ。
私にとっては初対面なんだよなァ。
「・・・・・・」
「あたし、数学を落としちゃったのよね」
そうか。数学の単位を落としたから一年の講義に出てるのか。
まァ、私にとっては関係のねー事だけどよ。
しかし、東京医科歯科大ってのは女子学生が少ねーなァ。
あの受験会場の雰囲気じゃ当然かもしれねーけど。
私のいた会場の部屋内でも六人が倒れたくれーだしよ。
そういえば、心肺停止状態で運ばれた一階のやつは助かったのかなァ。
- 21 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/11/27(日) 12:42
- 「って事は落第?」
「落としたのは数学だけだっての!」
話によると柴ちゃんは、合コンに精を出し過ぎちまったらしい。
出身が都会ならまだしも、彼女は神奈川の田舎の出らしいからなァ。
抑圧された高校生活から解放された反動で、そういった道に走るのも判る。
なっちみてーな田舎出身者に、よくある都会の落とし穴ってやつだ。
「ところで、今週の金曜日に合コンがあるんだけどさ」
合コンかァ。私は行った事がねーし、どんなもんか好奇心もある。
まァ、話の種に、一度くれーは行ってみてもいいかもなァ。
柴ちゃんの話じゃ女の子は三千円でいいって話だしよ。
最近、なっちがかまってくれないから浮気しちゃおうかな。
私好みのイケメン男はいるのかなァ。少しワクワクするぜ。
「相手が東大生?」
柴田さんの話によると、合コンの相手は東大医学部の連中だそうだ。
どうも人数が釣り合わなくて、方々の知り合いに話をしてるらしい。
歯学部の連中や他の大学にも知り合いがいるらしいから、
この柴田さんって人は顔が広いんだなァ。
「詳しくは昼食の時に話をしようね」
東京医科歯科大なんて学部や学生の数が少ない事もあって、
聖ダルセーニョ学園みてーな立派な学食がねーんだ。
だから、私はコンビニや近所のファーストフード店を利用してた。
まァ、こんな時代だから仕方ねーのかもなァ。
- 22 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/11/27(日) 12:48
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近日中に更新致しますので、宜しくお願い申し上げます。
まだ咳が続くので強い薬を処方して貰ったのですが、
この薬を飲むと眠気に襲われまして、四六時中うつらうつらしています。
一日がこんなに早く過ぎてしまうとは。って感じです。
- 23 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/02(金) 18:52
- 〔合コンデビュー〕
柴ちゃん幹事の合コンは、ゴールデンウィーク直前に決まった。
どうやらカップルが出来たら、GWを一緒に過ごさせる魂胆らしい。
確か東大の男連中が来るんだったっけかァ?
最高学府の男共ってのを拝見してやろうじゃねーか。
将来的には財務官僚になって甘い汁を吸う連中だろう。
「柴ちゃん、居酒屋の予約席かよ」
「しょうがないじゃん。東大生って意外に貧乏なんだから」
東京医科歯科大からは私と柴ちゃんだけで、東京女子医大から三人来てた。
男の方は全員が東大らしいけど、私には秋葉系のオタクにしか見えねー。
しかも、マイルドセブンライトなんかをバカバカ吸いやがって煙い。
全くスマートな奴等じゃねーよなァ。私を舐めてんのか?
「どうも〜、遅くなりました〜」
柴ちゃんは合コン慣れしてて、初対面の相手でも平気だった。
だけど、私って意外にシャイなのかなァ。ちょっと抵抗がある。
とりあえず、私は柴ちゃんの横の端っこに座った。
「この子は吉澤ひとみ。みんな『よっC』って呼んでるの」
「うす。吉澤っす」
柴ちゃん意外の男女八人の視線が私に注がれる。
女子高だったから、こうした場所には慣れてないんだよね。
とりあえず、ここは聞き上手になって話しに参加しねーと。
しかし、こんな安い店じゃ私が飲みたい酒なんてあるのかなァ。
- 24 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/02(金) 18:53
- 「よっC? ボーイッシュで可愛いね」
私に気に入られようと、牛乳瓶の底みてーな眼鏡をかけた男が言った。
こんな表面上のお世辞なんて聞きたくもねーんだけどなァ。
とりあえず「ありがとう」と言って愛想笑いをしてみる。
柴ちゃんからメニューを貰って、まず飲み物を注文しねーとなァ。
「おっ! 『八海山』の純米吟醸がある。オレはこれを貰おうかなァ」
「日本酒? サワーじゃないの?」
柴ちゃんが驚いたように私を見る。
何? 何かまずかった? 飲みたいものを注文してーんだけど。
慌ててテーブルの上を見ると、みんなの飲み物はサワーばかりだ。
サワー? あんな清涼飲料水みてーなもん飲んでられるかっての!
「駄目?」
「ううん。お酒、強いんだ」
全員が驚愕というか、まるで異質なものを見るような視線を送って来る。
いきなり日本酒ってのがまずかったか? それなら何にしようかなァ。
ビールは・・・・・・せめて○ントリー○ルツならいいんだけど、
ここに置いてあるのは、みんな発泡酒みてーじゃんかよ。
「ああ、やっぱりワインにする。デリカメゾンの白」
デリカメゾンの白ワインは安いけど意外に美味いんだよなァ。
他の安い白ワインは、みんな甘ったるくて飲めたもんじゃない。
まァ、デリカメゾンでも赤ワインは・・・・・・ちょっと好みじゃないけどね。
こういった席だと、シャトーリオンでもあると無難なんだけどなァ。
- 25 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/02(金) 18:54
- 「食べたいものを注文しなよ」
男のリーダー格が言った。しかし、居酒屋の料理なんてなァ。
白ワインに合うとなると、チーズを使った料理あたりが無難かな?
とりあえずカマンベールチーズとピザでも頼む事にするか。
「ご注文ですか?」
「おう! デリカの白、カマンベール、ミックスピザ、オイルサーディンをくれや」
これでラムステーキでもあれば、かなり満足出来そうなんだけどなァ。
ビーフジャーキーと白ワインってのも、意外とマッチするんだよね。
醤油を使わないものじゃねーと、有機酸の多いワインにはどうしても合わない。
あと、生の魚介類はワインに合わない事が多いからなァ。
「白ワインが好きなの?」
「うん。赤ワインって渋くってさ。味の濃い料理にしか合わねーじゃん」
何か私が話のネタを提供したみたいで、やれ赤ワインは身体にいいとか、
ポリフェノールがどうのこうの、魚料理には白ワインって相場が決まってるとか。
東京女子医大のお姉様方は、赤ワインじゃねーとお洒落じゃねーと仰る。
こういったミーハーが集まるのが合コンって場所なのかァ?
私は次元の低い会話にイライラして来ちまった。
「デリカの白とカマンベールです」
ワイングラスがあったけど、私はラッパ飲みで一気に半分くれー飲んだ。
それからカマンベールチーズを一口齧って、またワインをラッパ飲みする。
行儀のいい事じゃねーけど、冷やしたワインを飲むのはこれが一番美味い。
まァ、家じゃいつもこうして飲んでるわけだしよ。
- 26 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/02(金) 18:54
- 「・・・・・・柴ちゃん。凄い子だね」
凄い? どういった意味で凄いんだゴルァ!
割と美味い塩味のオイルサーディンを食ってると、
すぐに一本目のデリカメゾンが空いちまった。
解凍してレンジでチンしただけのピザが出て来ると、
私はすかさずデリカメゾンの二本目を注文する。
しかし、こいつらの食いもんったらねーよなァ。
何で焼きソバとチャーハンがあるわけ?
江戸時代の蕎麦屋じゃねーんだからよ。
「よっCは何学部なの?」
何学部って言われても、東京医科歯科大なんだからよ。
確かに歯学部とか教養学部とかもあるけどなァ。
私は医師になるために入学したんだから医学部医学科。
別に他の大学でも良かったんだけどね。
まァ、東大はちょっと無理だったと思うけどよ。
「オレ? 医学部医学科だけど」
そう言うと東大生達が仰け反った。どうやら、この男共は文系の連中らしい。
いくら東大でも文系なんて卒業したところで、就職には役にたたねーだろう。
矢口さんみてーに法律でも専攻して、とにかく資格でも持ってねーとなァ。
それで強力なコネがあれば、新人の国会議員の政治秘書になれるだろうけどよ。
せいぜい学生時代に、カテキョとかでカネを稼いでおくんだな。
もう中央官庁は採用制限に入っちまってるし、そう簡単に就職出来ねーぞ。
今の時代は、とにかく手に職を持ってねーと駄目だなァ。
そうでもねーと、セールスばかりやらされて鬱病で首を括るのが関の山。
- 27 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/02(金) 18:54
- 「だ、だったら解剖とかしてるわけ?」
臆病そうで、いかにも貧弱な男が質問して来る。
そういえば二年になったら解剖実習なんてのがあったっけ。
今は蛙の解剖でメスやピンセットなんかの使い方を習ってるところだ。
両生類の内臓なんて模型みてーに簡単に出来てるからよ。
まァ、皮が薄いから、剥がすのが面倒だったっけかなァ。
「一年の内は蛙とマウスの解剖なの。人体解剖は二年になってから」
柴ちゃんが説明すると、貧弱な男は少しばかり手が震えてた。
東京女子医大の三人は医学部看護科の二年生で、
今週から人体解剖の見学を始めたとか。
家が病院のせいか、私自身人の死体には慣れてるんだけど、
実際に解剖とかなったら、やっぱり気味が悪いだろうなァ。
「やっぱり気味悪いっすか?」
医師になるためには、どうしても避けて通れねーのが解剖だよなァ。
生きてる人間にメスを入れる前に、強さ加減とか慣れておく必要がある。
解剖さえ終わっちまえば、医学書でも動画でも何でもあるからよ。
「最初はね。でも、まだ皮を剥いでるだけだから」
「それに、自分が触るわけじゃないし」
解剖される死体ってのは、生前に献体を申し出た人達。
多くが病死らしいけど、中には死刑囚の死体もあるらしい。
死刑囚が献体を申し出れば、それはそれで当たり前だもんなァ。
解剖用の死体は腐敗防止処理されてるから腐らないらしい。
- 28 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/02(金) 18:55
- 「そうかァ。看護師は解剖しねーんだ。いいなァ」
死体ってのは死後硬直の後、弛緩して腐敗して行くんだよなァ。
硬直は死後数時間くれーから始まって、数日で弛緩するんだったっけ。
人為的に弛緩させる事も可能らしいけど、解剖用の死体ってどうなってるんだろ。
お姉様方の話によると、どうやら死体をホルマリン漬けにするんじゃなくて、
何とかっていう腐敗防止剤を注入するそうだ。
「俺は文学部。将来は・・・・・・」
「柴ちゃんも医学科だったよね」
「うん」
私は東大野郎の話の腰を折ってやった。
どうせ、直木賞を狙うとか芥川賞を狙うとかいった退屈な話だろう。
今や二十歳の女の子が芥川賞を取る時代なんだぜ。
東大野郎が文学賞をゲットしたところでネタにもならねー。
学費の値上げに反対しながら赤い旗を靡かせて、
安田講堂に立て篭もるくれーのバイタリティがねーとなァ。
「マウスの解剖って難しい?」
「うん。蛙よりかはね」
一応、マウスだって哺乳類だから、限りなく人間に近いはずだ。
細かい作業だから、ルーペなんかを使うんだろうなァ。
でも、蛙やマウスは骨も細いから切断なんかも楽そうだ。
蛙の脳細胞なんてのは、ほとんど神経の束みてーなもんだしなァ。
あれだけ大きな頭蓋骨でも、ほとんどが口だからよ。
しかし蛙ってのも凄まじい生物だぜ。
エラ呼吸から肺呼吸になっちまうってんだからよ。
- 29 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/02(金) 18:55
- 結局、二時間の間に私は白ワイン三本を空けた。
かなりいい気分で、腹もそこそこ膨らんで満腹。
東京女子医大のお姉様方は、軟弱東大生とカラオケに行くらしい。
女性側幹事の柴ちゃんは迷ってたけど、私は行く気になれなかった。
「柴ちゃん、よっCも行こうよ」
「オレはいいや。明日は一番で講義があるし」
勘定を済ませてからも、男達の誘い方はしつこかった。
初めの内は柔らかく断ってたんだけど、
男達は柴ちゃんの腕を掴んで離さない。
これには柴ちゃんも迷惑そうだったんで、
私はついつい乱暴な口調になっちまってた。
「しつけーんだ馬鹿野郎!」
私が一喝すると軟弱小僧達は眼を剥いてびびり出す。
東大の文学部ってのも、いつから軟弱になっちまったのかなァ。
東大生と東京女子医大のお姉様方は、逃げるように行っちまった。
これが合コンってもんなのかァ? つまらねーったらありゃしねー。
まァ、三千円で飲んで食ってだから安いと言えば安いけどよ。
「アハハハハ・・・・・・。さすがよっCね」
柴ちゃんは可笑しそうに腹を抱えて笑った。
あんな退屈な男達と無駄な時間を過ごすなんて迷惑。
東大にはもっと芯のある男はいねーのかよ。
バリバリの硬派なんてのも面白そうだなァ。
でも、硬派は合コンなんて見向きもしねーってか。
- 30 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/02(金) 18:56
- 「ごめんね。折角の合コンを・・・・・・」
「いいの。あたしも退屈だったし」
どうも東大野郎の人を見下したような態度は好きになれねー。
あんな奴等がこれからの日本を動かして行くと思うと情けなくなる。
こっちは切った貼ったの世界だからよ。頭より体力勝負なんだ。
しかし、何となく柴ちゃんに悪い事しちまったなァ。
「柴ちゃん。ドーナツでも食いに行こうか」
酔い醒ましには甘いドーナツとコーヒーって意外に合うんだぜ。
アルコールを摂取すると、胃壁から水分と一緒に吸収されちまう。
だからトイレは近くなるし、とにかく喉が渇いて仕方ねーんだ。
こういった時の冷たい水は最高に美味いんだよなァ。
でも、冷水の大量摂取は出来るだけ避けた方がいい。
なぜなら、水分は体温まで温まらないと吸収されないからだ。
アルコールと同じでコーヒーにも利尿作用があるけど、
そういったわけで水分は温かい状態で摂った方がいい。
それが痛んだ胃壁を守る事にも繋がるらしかった。
「くーっ! そういった誘いには弱いなー」
「Lassen Sie uns damit gehen(それじゃ行こう)」
第二外国語にドイツ語を選択した私。
うちの大学だと、ほとんどがドイツ語か中国語だった。
中にはロシア語を選択する変わった連中もいて、
私は彼等を『タス通信』って呼んでる。
ゴルバチョフからエリツィンを経てプーチン大統領。
今じゃロシアもかなり民主化されたみてーだけどよ。
- 31 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/02(金) 18:56
- 「Warten Sie gerade etwas. Ist es in Zeit fur den letzten Zug」
「わかんねーよ!」
私はドイツ語を始めて、まだ半月なんだからよォ。
文法はだいたい英語と同じだけど単語が判んねーっての!
それに、ドイツ語やロシア語は巻舌で喋るから聞き取りにくい。
そういえば、ヒトラーの演説なんて怒ってるみてーだったもんなァ。
「Wait just a little. Is it in time for the last train」
「それなら判る。終電かァ・・・・・・。柴ちゃんは厚木だっけ?」
「是。我的家是厚木」
「うげげー! 柴ちゃんは北京語も判るんだ」
「Juste, mais juste(ちょっとだけだけどね)」
こいつはフランス語だよなァ。柴ちゃんって何ヶ国語を喋れるんだろう。
面白れーじゃんかァ。そんじゃ私のインチキポルトガル語が通じるかなァ。
発音はほとんどローマ字読みだから、意外に慣れやすい外国語なんだよな。
「Se fica ao interior?(うちに泊まれば?)」
「E bom? Obrigado(いいの? ありがとう)」
つ、通じちまった・・・・・・。私って意外に語学が堪能なのかも。
しかし、柴ちゃんの発音は本物じゃねーか。
いったいこの人は、どういった環境で育って来たんだよ。
日本語、英語、ドイツ語、北京語、フランス語、ポルトガル語。
これで優秀なスナイパーだったら、まるでデューク東郷じゃねーか。
まさかオヤジさんがブラジル出身の華僑か何かで、
オフクロさんが日系ベネルクス人じゃねーだろうなァ。
柴ちゃんって変わってるよ。私も変わってるってか?
- 32 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/02(金) 18:57
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近日中に更新致しますので、どうぞ宜しくお願い致します。
- 33 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/03(土) 00:17
- 更新お疲れ様です。
いつも楽しく読ませてもらってます。
- 34 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/10(土) 20:36
- >>33
ありがとうございます。やっぱりレスを頂けると励みになります。
よっCの大学生活は、なるべく端折って短くするつもりです。
そうでないと、このスレでも終わらなくなりそうで・・・・・・○| ̄|_
- 35 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/10(土) 20:37
- 〔なっち入院〜チゲの朝〕
柴ちゃんを家に連れて来ると、もう一時近いってのに電気が点いてる。
その電気の点いてる部屋は、二階の西側だからなっちの部屋に間違いない。
医学的見地から指導するのが小児科医なら、なっちは教育学的に指導をする。
両者のコミュニケーションが大切なのは勿論なんだけど、
個人差のある障害だから、その対応が難しいんだそうだ。
「ただいまー」
私が玄関に入ると、パジャマ姿のなっちが二階から降りて来た。
わざわざ降りて来る事はねーのによ。なっちは義理堅いからなァ。
スタッフも増えて行って、なっちは通いの障害児を相手にしてる。
院内学級の方は土日のどちらかだけ石黒先生が来てくれてた。
「遅かったべねえ。あんまり羽目を外しちゃ駄目だべよ」
「はいはいっと」
私はなっちを見て間が悪そうに挨拶する柴ちゃんをよそに、
リビングに入って電気を点け、二人を呼んでみる。
ドーナツを見るや否や、なっちは疲れているだろうに、
満面の笑みを浮かべてすっ飛んで来たから笑えた。
「初めまして。柴田あゆみです」
「安倍なつみだべさ。『なっち』って呼んで」
形式的な自己紹介が終わると、なっちは美味しそうにドーナツを頬張る。
私と柴ちゃんは食べたからいらないけど、何となく腹が減って来たなァ。
アルコールが分解される過程で血糖値が下がるから、この空腹感は一時的なものだ。
- 36 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/10(土) 20:37
- 「なっちさん。ラーメンでも食いてーなァ」
「なっちが作るんだべか?」
「だって、なっちさんのラーメンって美味いんだもん」
こうしておだてると、なっちは嬉しそうに作り出すから面白い。
どうしても北海道出身のなっちは、生麺で味噌味が好きみてーだな。
自分でマイ調味料を持ってて、味噌や出汁を調合してスープを作る。
醤油に近い味のする黒味噌と赤味噌、そして白味噌を調合して行った。
一時的な空腹感とは知りながらも、なぜかラーメンなんだよなァ。
「あゆみちゃんも医学部なんだべか?」
「そうでーす。これでも医者の卵ですよー」
医学部全員が医師になるわけじゃなくて、中には看護師を目指す学科もある。
基本的に医師は科学者だから、患者の症状に応じた治療をするのが仕事。
だから、とにかく憶える事が山のようにあるんだよなァ。
HIVについても、ほんの四半世紀前までは不明の病気だったし。
更に精神疾患への偏見も多くて、最近になってようやく世間で認められ始めた。
「Ist sie Ihre Schwester?(彼女はお姉さん?)」
「Gutes, solches Stuck(まあ、そんなとこかな)」
何で柴ちゃんはドイツ語でなんか訊くんだろうなァ。まァ、複雑な家庭もあるし。
ドイツ語を知らないなっちは、私達が何を言ってるのか判らないはずだ。
なっちが判るのは日本語と英語、そして室蘭語くれーなもんだったっけか?
ああ、そういえば室蘭って北海道だから日本語の方言って事になるのか。
なっちはとろいからいいけど、あんな方言を早口で言われたら理解不能。
南九州の方言なんて、ほとんど外国語に近いものがあるし、
沖縄の琉球語は日本語とは全く別の言語だったっけかなァ。
- 37 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/10(土) 20:38
- 「おまちどうさまー。なっち特製の味噌ラーメンだべさ」
どういったわけか、なっちも私達に付き合ってラーメンを食べる。
まァ、なっちの作るラーメンは野菜が多くてヘルシーだからなァ。
もやしと白菜、ニラ、キノコ、挽肉を炒めて、それをラーメンの上に盛る。
これが味噌ラーメンのスープと、実にいい塩梅にマッチするんだよなァ。
「美味しい!」
「そう、よかったべさ」
私と同じで食い意地の張ったなっちは食べるのも好きだけど、
自分が作ったものを人から『美味い』と言われるのが大好きなんだ。
柴ちゃんに『美味しい』と言われたなっちは、物凄く嬉しそうな顔してる。
この、なっちのニッコリした顔を見ると、私の方まで嬉しくなるから不思議だ。
「あっと、忘れてたべさ。今日、美貴ちゃんが転院して来たべよ」
「美貴ちゃんが! それで? 容態は?」
あの自殺騒動から二ヶ月。美貴ちゃんは順調に回復してた。
でも、脳挫傷の影響で、全身が麻痺したままで意識も戻ってない。
たまに身体を動かすそうだが、それが反射なのか脳からの命令なのか。
それは脳外科の徳川医師にも判らなかったそうだ。
「Vielleicht ist es・・・・・・(それって、もしかして・・・・・・)」
「Wusten Sie?(知ってたの?)」
ドイツ語が判らずに首を傾げるなっち。可愛いよなァ。
柴ちゃんは美貴ちゃんの件を知ってるみてーだ。
ニュースにはなったけど死者がいなかったから忘れ去られたと思ってたのに。
- 38 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/10(土) 20:38
- 「Weil Zeitung bekommen worden war in・・・・・・(新聞に出てたから・・・・・・)」
別に柴ちゃんに隠す必要もねーし、ここで話したとこで問題ねーかな。
でも患者のプライバシーに関する事だから、何て話をしたらいいのか。
こいつは柴ちゃんが、いったいどこまで知ってるか訊いてみねーとな。
事と次第によっちゃ、黙ってた方がいい場合だってあるからよ。
「柴ちゃんは、どこまで知ってんのよ」
「あの事件はほとんど知ってる。でも被害者が誰なのかまでは」
うわっ! 物凄く微妙なとこだよなァ。
あれは警察が叩かれるのを警戒して揉み消した形になった。
もし私が柴ちゃんに話して、それが緊急連絡網で回ったら大変。
ここは少しファジーな話し方の方がいいのかもしれねーなァ。
「怪我をしたのはオレの同級生だったんだよ」
「それが藤本美貴でしょう? でも、彼女に狙われた同級生って?」
そこまで話したら、この事件の全容を話さないといけなくなる。
ここはひとつ、患者のプライバシーを守るといった事で、
テキトーに話をはぐらかさねーといけねーよなァ。
さて、何て話をしようかなァ。
「よっCだべさ。美貴ちゃんは精神的に不安定だったんだべよ」
「なっちさん! 患者のプライバシーだろうがよ!」
これにはさすがの私も愕然としちまった。
まさか、なっちの口から実名が出るとは思わなかったよ。
なっちはいったい、どういうつもりで私の名前を出したんだ?
- 39 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/10(土) 20:38
- 「柴ちゃんにも知る権利があるっしょ!」
そうだ。誰にでも知る権利ってものがあるよなァ。
でも、この場で言うか? 常識的に考えてよォ。
確か成迫正則の件に関して金八先生が言った。
「事実を知るという事は、その人と一緒に背負う事だ」と。
だけど、柴ちゃんに私の苦しみを一緒に背負わすのは酷だよ。
「まじ? 物凄く居辛いんだけど」
一旦口から出た言葉を撤回する事なんで出来はしない。
柴ちゃんは困ったようにラーメンを突付き出した。
いけない! この雰囲気を何とかしねーと。
私はあの受験会場の異常なまでに重い空気に耐えたじゃねーか。
でも、いったい何て言ったらいいのかなァ。
「なんちゃって。でも、何で引き取ったりしたの?」
「へっ?」
この時ばかりは、隣で呑気にラーメンを啜る柴ちゃんの首を絞めてやろうかと思った。
思わず私の肘が柴ちゃんの顔面にヒットし、鼻血を出して昏倒する彼女を妄想したぜ。
軽い! それにしても柴ちゃんって、こんなに軽いやつだったのか。
きっとこの能天気な軽さが、あの受験の重圧に耐えたんだろうなァ。
「・・・・・・オレと美貴ちゃんは仲良しだったんだ」
私がポツリポツリと話し出すと、柴ちゃんは眼を大きく見開いて話を聴き入った。
現実というのは残酷なもので、知る権利とはその枷を一緒に背負う事。
柴ちゃんは軽いと思ってたけど、意外にしっかりしたとこがあるんだなァ。
- 40 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/10(土) 20:39
- 「それで、オレは何とか助けようとして体当たりし・・・・・・」
「よっC。柴ちゃん、寝てるべさ」
私が覗き込むと、柴ちゃんは頬杖を付いて熟睡モードに入っていた。
酷過ぎる。私の脳内で何かが切れ、柴ちゃんの顔面の肘が飛んでいた。
「柴ちゃん、起きるべ・・・・・・ひでぶっ!」
「あ」
私の肘は柴ちゃんを覗き込んだなっちの頭に炸裂してた。
後頭部を強打したなっちはテーブルの上で昏倒しちまって、
なっちの顔に押された柴ちゃんは床に倒れて悲鳴を上げる。
や、やばい! なっち、白目を剥いちまってるよォ。
「うるさいなあ。寝られないじゃないか」
「オヤジ! いいとこに来た! なっちが!」
私は詳細を話しながら、なっちを診察するオヤジを見守った。
オヤジは完全に意識を失ったなっちをソファに寝かせ、
脈を採りながら懐中電灯で瞳孔反射を調べてる。
続いて患部と首に手を当てて、骨に異常がないか調べてた。
「あれ? この人、どうしちゃったの?」
「てめーのせいだろがよっ!」
オヤジの診断だと、骨に異常はないが脳震盪を起こしてると言う。
念のために病院へ運んで、心拍数と呼吸数をモニターする事になった。
ナースセンターには二十四時間体制でモニターする看護師がいるから安心。
家が病院で助かったぜ。危うくなっちを撲殺しちまうとこだった。
- 41 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/10(土) 20:40
- 「ったくオテンバなんだから」
「ありがとう。パパァ」
「あうっ! パパはやめろ!」
病院から自宅に戻って来ると、ソファに寝転がって熟睡する柴ちゃん。
この酔っ払い女のお陰で、なっちに怪我させちまったじゃねーかよ!
その頬に、よっC必殺のエルボーでも入れようかと思ったけど、
また騒ぎになってオヤジが起き出すといけないんでやめた。
「ったく!」
私は二階から毛布を持って来て、大口を開けて熟睡する柴ちゃんに掛けてやった。
正体も無く熟睡する柴ちゃんの横顔。こうして見ると意外に美人じゃねーか。
ちょっと危なそうな理科系の男の巣窟でもある東京医科歯科大学。
そんな中に咲く可憐な花なのかもしれねーなァ。私達は。
「さてと、シャワーでも浴びるかな」
テーブルに眼をやると、そこには冷めてしまったラーメンが。
私のラーメンはほとんど食べ尽くしていたけど、
柴ちゃんとなっちのは、まだ半分以上残ってた。
せっかくなっちが作ってくれたんだ。食っちまおう。
「冷めてもうめー!」
私は立ったまま、なっちのラーメンを食べ尽くすと、
ほとんど手が付いていない柴ちゃんのラーメンまで食っちまった。
さすがに三人前はこたえる。うげー! く、苦しくなって来た。
同時に例えようのない睡魔が襲って来て、私はシャワーを浴びながら居眠りをする始末。
- 42 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/10(土) 20:40
- 翌朝、私は目覚ましの音と共に眼が醒めた。
「春眠暁を覚えず」の諺通り、すっかり熟睡してたみたい。
昨夜のワイン三本が少し残ってたけど、今日は大切な講義がある。
意を決してベッドから出ると、とりあえずドレッサーの前で髪を梳かした。
もう高校生じゃないんだから、ボサボサの髪は人に見せられない。
「ふわ〜。眠い」
通常の睡眠と違って、アルコールを摂取すると眠気こそ来るが、
実際には深い眠りに就いていないという研究結果がある。
肝臓はアルコールという毒物を浄化するために徹夜で活動しているんだ。
更に、酔って脳細胞が麻痺すると、自己防衛本能に基づいて覚醒しようとする。
それが安眠を妨害する原因になっているらしい。
「喉は渇くし、オシッコはしたいし」
私が一階へ降りて行くと、ツーンと酸っぱい匂いが充満してる。
こんな匂いは、これまでの人生の中で経験した事がねーなァ。
ラテンエスニック風でもあり、オリエンタルエスニック風でもある。
とりあえず水でも飲まねーと、脱水症状を起こしちまうからよ。
「何か物凄い匂いなんだけどさ。なっ・・・・・・。柴ちゃん?」
そういえば、昨夜はラーメンを食ってたんだよなァ。
私のエルボーがなっちの後頭部を直撃したんだったっけ。
なっちは昏倒しちまって、念のために病院に運ばれたんだった。
私の眼の前にはエプロン姿の柴ちゃんがいて、
お玉を持ってニッコリ笑ってるじゃねーかよオイ。
しかし、この匂いの正体は何なんだァ?
- 43 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/10(土) 20:41
- 「おはよー。チゲでも食べて二日酔いを醒まそう!」
「チゲー」って何が違うんだよっ!
って、どこかで聞いた事のある名前だなァ。
私はコップにアクエリアスを注いで一気に飲み干した。
そうすると、更に酸っぱい匂いが増したような気がする。
私がグツグツ煮える鍋の蓋を取ると、そこには真っ赤な色が。
「チゲって韓国風の鍋物だったっけ?」
「うん。二日酔いには一番効くよ」
柴ちゃんはお玉でアクを取りながら出汁を小皿に入れた。
この赤い沈殿物は、どう見ても赤唐辛子なんだけどなァ。
それに、浮かんでる脂は、どこかラー油を想像させた。
私は口から炎を吐き出す姿を想像しながら一気に飲んでみた。
「へえ、意外に辛くねーんだなァ」
このチゲには消化のいいものと、どこか怪しい薬草が入ってた。
まァ、舌も痺れて来ねーし、これなら食っても大丈夫だろう。
とりあえず、トイレに行ってアルコールの残骸を排出するとしよう。
私の肝臓くん、お疲れ様でした。っと。
「美味しそうな匂いだべさァァァァァァァー!」
ん? あの声はなっちじゃねーか。
そうか、腹が減って病院から戻って来たんだな?
あの調子なら、なっちの怪我も大した事ねーだろ。
さてと、私もチゲを味わうとするかな。
- 44 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/10(土) 20:41
- 「なっちさん、おはよう。大丈夫みてーだな」
「ちょっと痛いけど、もう大丈夫だべさ」
は、速い! 何という早業なんだろう。
もう、なっちはテーブルに着いてチゲを食ってた。
そんじゃ私も柴ちゃんのチゲを食べるとするか。
えーと・・・・・・ああ、冷凍ミートボールを使ったのか。
こいつはミズナだし、長ネギに春菊かな?
「うめー!」
出汁は昆布と鰹節、それに醤油で、赤唐辛子と味醂が少しだけ入ってる。
この胃壁に染み込むような感覚は、何とも例え難い気持ちよさなんだよなァ。
お椀に一杯だけチゲを食ったら、胃の中が火照って食欲が湧いて来た。
おかわりをしようとしたら、柴ちゃんはご飯にチゲをかけてくれた。
「こいつは美味い!」
アルコールで疲弊していた私の五臓六腑が、次第に起動して行くのが判った。
朝の肌寒い時間だからこそ、こういった熱い食べ物が美味いんだよなァ。
あの焼肉定食を食ってから、私となっちはすっかり胃拡張。
この私達の食欲に、さすがの柴ちゃんも眼を丸くしてた。
「汗かいたべさ」
辛いんだけど味が濃厚で美味いと来てる。
だから、ついつい食っちまうんだよなァ。
これだけ暑くなって来たのは新陳代謝が活性化した証拠。
いや、チゲってのは二日酔いの薬より効くみてーだな。
- 45 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/10(土) 20:42
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近日中(一週間以内には)更新致しますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
- 46 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 03:16
- 突然失礼します。いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
- 47 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/15(木) 21:32
- >>46
いえいえ。新しい企画ですので楽しみにしています。
この物語も今年中には終わらせたかったのですが・・・・・・○| ̄|_
とりあえず、節分までには・・・・・・春分の日までには・・・・・・GWまでには終わらせようかと。
- 48 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/15(木) 21:33
- 〔美貴の回復と試験場〕
美貴ちゃんの意識が戻ったのは、ゴールデンウィークが明けた頃だった。
実に二ヶ月近くも昏睡状態が続いて、一時は脳死の検査まで行われたくれーだ。
オヤジから吉報を聞いたんだけど、私は美貴ちゃんと会うのを躊躇っちまった。
だって、私は美貴ちゃんに『あんたは許さない』って言われたんだから。
心の準備が出来るまで嫌がる私を、なっちは無理に連れて行った。
「美貴ちゃん。なっちだべさ」
「あうあうあう・・・・・・」
深刻な脳挫傷の後遺症らしくて、美貴ちゃんは話す事が出来ない。
包帯だらけで、これがあの美貴ちゃんなの? って感じだった。
意識が戻った今でも、まだ美貴ちゃんは予断を許さない状況。
飯を食えるようになると、かなり回復した証拠らしいけどなァ。
「よっCも何か言ってあげるべさっ!」
私だって何か言ってやりてーけどよォ。
どうやって接したらいいのか。何を言ったらいいのか。
正直なところ、私は美貴ちゃんが怖かった。
嫌な言い方だけど、このまま意識が戻らない方がよかった。
「オ・・・・・・オス。よ、よかったなァ。意識が戻ってよ」
「・・・・・・お・・・・・・い・・・・・・い・・・・・・」
美貴ちゃんは側頭葉の一部と海馬が深刻な脳挫傷を起こして、
記憶喪失どころか、思考する力が無いのではないかと言われてた。
でも、私には確かに聞こえたんだよね。『よっC』って。
- 49 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/15(木) 21:33
- 「美貴ちゃん。怪我なんかに負けるんじゃねーぞ」
私には僅かに美貴ちゃんが頷いたように見えたんだよね。
そんな事もあってオヤジに話をしたら、何か物凄い話になって来た。
それは美貴ちゃんのために、回復プロジェクトチームを組むって話。
オヤジを筆頭に脳外科の徳川医師、ケアワーカー、精神科の医師や看護師。
勿論、全員が兼務なんだけど、一日に三十分ほどミーティングをするそうだ。
「美貴ちゃんの生命力次第なんだけどね」
美貴ちゃんが『生きよう』とする力が全てなんだそうだ。
そりゃそうだよなァ。本人が死を望んでたら絶対にいい結果なんて出ねーもん。
何か今日はオヤジに後光が差してる気がするぞオイ!
「さすがパパァ」
「あうっ! パパはやめてくれー!」
オヤジは回復プロジェクトの話を、美貴ちゃんの両親にしたそうだ。
実際は健康保険の枠の外で行うものだから、物凄くカネが掛かるらしい。
でも、美貴ちゃんの家は決して裕福じゃないし、そんなカネを払えるわけがねー。
そんなにカネの掛かる事を平気でやろうっていうんだから、
オヤジはまるで赤ひげみてーな人間だよなァ。
「オレ、オヤジを見直したよ」
自宅に戻ると、お茶を飲みながらなっちと話をした。
税務署が来るっていうんで蒼くなってたってのに、
こうしたところには惜しげもなくカネを使うんだからよ。
私も医師になったら、オヤジみてーな・・・・・・。
- 50 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/15(木) 21:34
- 「ああ、美貴ちゃんの事? 節税対策っしょ」
何ィ! いくらなっちでも、オヤジを悪く言うと許さねーぞゴルァ!
天涯孤独のなっちを引き取って、大学まで卒業させたのは誰だってんだよ!
いくら何でも言っていい事と悪い事の区別くれーしろっての!
いったいどこが節税対策だってんだよっ! この田舎者!
「健保外診療は青天井。支払いを受けてなければ負の財産になるべさ」
うげげー! 確かに言われてみりゃそうだよなァ。
凄まじい金額だって、美貴ちゃんは瀕死の重傷だったんだからよ。
それこそ助けるためには、高度な医療を受けたって不自然じゃねーもん。
そして回復プログラムも特別なものだから、いくらでも計上出来る。
・・・・・・一瞬でもオヤジを尊敬した私が愚かだった・・・・・・。
「それに、おじさんは、もっと大きな夢を持ってるべさ」
「あのオヤジが?」
オヤジが抱く夢なんて、ハーレムを築くくれーじゃねーのかァ?
吉澤病院も経営が悪化したんて話は聞かねーしよ。
学習障害の治療・訓練施設を作っただけでも充分なのに。
いったいオヤジには、どんな夢があるんだろうなァ。
「センター(院内学級)の打ち合わせの時だったべさ」
なっちが言うには、オヤジは自然の豊かな場所にホスピスを作りたいらしい。
同時に認知症患者の収容施設、精神科病棟等も併設して、
人生の終焉を迎えるに相応しい場所を提供したいそうだ。
それには莫大な資金が必要だし、吉澤病院の利益だけじゃ無理な話。
- 51 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/15(木) 21:34
- 「そうだったのか。それで新しい事を始めやがったんだな?」
なっちの話は更に続いた。私の苦手な経済の話だったけど。
田舎にそうした施設を建設すれば、そこに新たな雇用が生まれる。
地元にも恩恵を与える上で、欠かす事の出来ない雇用という条件。
そういえば、藤野なんて自然が豊かでいい場所なんだけどなァ。
あのトンビの餌付けには、ちょっと引くけどよ。
「団塊の世代が老齢化すれば、これまでの施設だけじゃ収容出来なくなるっしょ?」
そうか。そういったビジネスチャンスもあるわけだよな。
いくら相模原市と合併したところで、藤野には何の産業もない。
そうなったら、医療施設の誘致が手っ取り早いってわけだ。
新宿から中央線一本で行ける場所だし、自然は多いし最高じゃん。
「おじさんからは口止めされてるんだけど・・・・・・」
なっちはそう言いながらも、相模湖記念病院の買収が視野に入ってる事を語った。
何て事だ! 相模湖記念病院っていったら、圭織さんの入院してるとこじゃんか。
オヤジが先陣を切って開拓すれば、次々に医療施設がやって来るだろう。
そうなれば、在宅介護から医療タクシーへと、どんどんビジネスが広がって行く。
雇用があれば人が集まるわけだし、どんどん人口も増えるに違いない。
「それって、もはや自治体や国家的なプロジェクトだぜ」
相模原市がお荷物になりそうな藤野や相模湖と合併するっていうのも、
恐らくはこうした構想があるからなんだろうと思う。
特に相模原市には南里大学病院っていう大きな医療施設があるわけだし。
それに東京のベッドタウンとして手付かずなのは、あの地域くれーだし。
- 52 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/15(木) 21:35
- 「おじさんは全部を考えてるから凄いんだべよ」
これだけの事が、たった一人の医師で出来るものなのかなァ。
だとすれば、オヤジは人の病気や怪我を治すだけの医者じゃなくて、
地域の問題を治す事にも挑戦しようとしてる事になる。
そのための脱・・・・・・節税なら、どんどんやるべきじゃねーか。
「相模原市も政令指定都市を視野にいれてるしなァ」
津久井郡を合併したところで、相模原市の人口は七十万人くれーだっけ。
鉄道沿いに活性化すれば、それだけ民家が増えるのは当然だから、
人口の自然増で政令指定都市になれるって事になるんだろうなァ。
そうなれば、神奈川県で三番目の政令指定都市になるって事か。
全国だと札幌・仙台・千葉・さいたま・特別区・横浜・川崎、
名古屋・京都・大阪・神戸・広島・福岡・北九州に続いて十五番目だな。
「郵政民営化に伴って、自治体の借金は減るっしょ?」
そうか! 押し付け補助が無くなると、自治体は無駄な借金をする必要がない。
その分を福祉や公共事業に使う事が出来るって事なんだよなァ。
その一環として未開発の津久井郡に福祉施設の建設という事になれば、
公共事業と雇用を同時に生み出せるわけだし、一石二鳥ってわけなんだな?
「ますます一極集中型の国になっちまうなァ」
アメリカは首都(ワシントン)と経済都市(ニューヨーク)が完全に分離してる。
中国にしても首都(北京)と経済都市(上海)は遠く離れてるってのになァ。
日本は税金の大部分を国が管理してるから、どうしてもこういった図式になるんだ。
地方自治体に財源委譲をしたところで、いったいどれだけ緩和されるんだろうなァ。
- 53 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/15(木) 21:35
- 「よっC、今日は試験場に行く日っしょ?」
「いけね! 忘れてたァァァァァァァー!」
私は五月晴れの中、チャリンコに飛び乗って試験場へ向かった。
内装三段ギアだけど、このチャリンコは気合を入れればスピードが出る。
渋滞してる道路も、チャリンコならクルマを縫うように走れるんだ。
しかし、いい天気だよなァ。こんな陽気に渋滞でイライラするのなんて不幸だ。
「よっしゃー! 何とか間に合うぞゴルァ! ・・・・・・へっ?」
全速力で爆走する私の横を、呑気に鼻歌混じりで追い越すやつがいた。
しかも、内装ギアも無い普通のママチャリじゃねーかよオイ!
っていうか、そんなに激しく漕いでねーじゃんかよっ!
何でそんなにスピードが出るんだよ。ほとんど反則じゃねーか。
「よっC先輩なのれす」
「つ、辻!」
確かにこいつは背が低いくせに、ブロックやツーアタックを決める。
そんな脚力があるからなのか? いや! それにしてはおかしい。
だって、辻はゆっくり漕いで時速四十キロから出てるじゃねーか。
こいつはサイコキネシスでチャリンコを動かしてるのかァ?
「よっC先輩も試験場れすか?」
「お前、何で・・・・・・ハァハァハァ・・・・・・そんなにスピードが・・・・・・ハァハァハァ」
私にはブランクこそあるけど、まだまだ辻なんかに負けるわけねーのに。
この若干の上り坂を、私は毎分三百回は漕いでるっていうのに、
だいたい辻は六十回くれーしか漕いでねーじゃんかよ。
- 54 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/15(木) 21:36
- 「この自転車は、ギアを交換してあるのれす」
「ギ・・・・・・ギア?」
辻はどうやらチャリンコのギアを弄ってあるみてーだった。
こいつみてーに筋肉の塊なら、いいトレーニング道具になるだろう。
バレーの基本は足だ。とにかく足が駄目になったら何も出来ない。
あんまり膝に負担をかけずに鍛えるには、チャリンコなんていいかもなァ。
「よっC先輩は普通車の免許れすか?」
「そうだよ。おめーは原チャリかァ?」
「普通自動二輪なのれす」
普通自動二輪? そういえば、自動二輪免許は十六歳から取れるんだったなァ。
クルマの免許を取ると、原チャリと小型特殊がセットで付いて来るんだっけ。
そういえば、美貴ちゃんも普通自動二輪免許を持ってたっけ。
矢口さんが持ってたのには驚いたなァ。あの身長でバイクなんて乗るんだから。
「そうかァ。オレも自動二輪取ろうかなァ」
「取ったら、一緒にツーリングに行くのれす」
そうかァ。バイクでツーリングってのもいいよなァ。
これだけ爽やかな季節になったんだからよ。
院内学級を手伝いながら自動二輪の免許でも取るか。
それはそれとして、私も何かクルマを買わねーとなァ。
メルセデスはオヤジとオフクロ、なっちが使うわけだし。
「うげげー! もう五分前」
私と辻は全速力で試験場に向かった。
- 55 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/15(木) 21:37
- 今日のところは、この辺りで失礼致します。
なるべく早く更新致します。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
- 56 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/16(金) 12:46
- 長く読んでいたいっていう気持ちもあるので
そんなに早く終わらせようとしないでくださいw
なんつって。次も楽しみです。
- 57 名前:偽みっちゃん ◆.1dlFwG0vU 投稿日:2005/12/21(水) 20:50
- >>56
ありがとうございます。こんなにとろい私に勿体無い(感涙
連休明け頃から狩板で、もう一本連載を始める予定です。
宜しかったら、そちらも可愛がって頂ければ幸いです。
- 58 名前:偽みっちゃん ◆.1dlFwG0vU 投稿日:2005/12/21(水) 20:51
- 〔院内学級と二輪教習所と私のクルマ〕
私は医大に通いながらも、時間があれば院内学級の手伝いをした。
障害児への接し方が判らない私は、もっぱら入院児童の勉強を手伝う。
中には中学生の子もいるから、勉強が遅れないようにサポートするんだ。
中学生くれーの勉強なら、私でも充分に教える事が出来るってもんだぜ。
「ひとみ先生。南京大虐殺って本当にあったの?」
そう私に訊いて来たのは、小学六年生の久住小春といった。
膠原病の一種で、もう何年も入院してる気の毒な子だ。
いつ治るか判らない病気と戦いながらも実に前向きだよなァ。
私はこういった前向きに生きてる子が好きだ。
「その『ひとみ先生』はやめようや。『よっC』でいいよ」
私はこの子達より先に生まれたけど『先生』じゃない。
医師になっても『先生』じゃなくて『ドクター』って呼ばれたいし。
あれ? これって私となっちの最初に似てる。
やっぱり師弟関係なのかなァ。
「よっCさんでは?」
「まあ、不満もあるけどいいかなァ」
南京大虐殺には今も肯定派と否定派が分かれてる。
中国が主張するように数十万人も殺せるわけがねーし。
かといって、戦争なんだから人を殺すのは当たり前だし。
特に正規兵じゃないゲリラは捕虜になる資格なんかねーんだ。
拷問の果てに公開処刑なんてのは、当たり前なんだよなァ。
- 59 名前:偽みっちゃん ◆.1dlFwG0vU 投稿日:2005/12/21(水) 20:52
- 「あったとも無かったとも言えるんじゃねーかなァ」
私は虐殺の定義が曖昧な点や、ゲリラの処刑等の話をした。
そういえばベトナム戦争当時の報道フィルムで、
ゲリラの幹部を国警長官が撃ち殺すやつがあったっけ。
後ろ手に手錠を掛けられたゲリラ幹部の頭を撃ち抜くやつ。
「えーと、このサイトだったっけかなァ」
私はインターネットで、その映像を置いてあるサイトを検索した。
・・・・・・あった。こいつだ。・・・・・・この動画を再生っと。
国警長官は嬉しそうに笑ってる。そりゃそうだろうなァ。
それとは逆に、ゲリラの幹部は完全に観念しちまってるぞ。
「酷い!」
「そいつは違う。こいつは、もっと酷い事をやったんだ」
南ベトナムじゃ教師や警官、役人なんかがゲリラに殺された。
北はそうやって、政府の末端から崩す作戦に出てたらしい。
もし、これを虐殺だと言うのなら、南京大虐殺はあっただろうなァ。
戦争では『疑わしきは殺せ』が合言葉なのは、今も昔も同じだ。
「裁判にもかけられないの?」
「ゲリラは即刻処刑されるんだ」
ゲリラを裁判にかけてたら、それこそ無数に裁判所が必要だ。
それに、軍服も着ないで不利になれば民衆に紛れ込む。
そんな卑怯な手を使うんだから処刑されて当たり前。
勿論、ゲリラ達だって捕まれば殺されるのは判ってんだ。
- 60 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/21(水) 20:53
- 「戦争って怖い」
「うん。だから二度と戦争なんてやっちゃいけねーんだよ」
私は小春に憲法の話をしてやった。
憲法の三大原則は『国民主権』『戦争放棄』『基本的人権の尊重』で、
日本は昭和二十五年以降、一度も戦争をした事のない国。
憲法九条には、自衛権及び集団的自衛権を持たないとあって、
つまりは・・・・・・これは解釈が難し過ぎるんだよなァ。
日本が再軍備宣言したら、米国の安保は必要なくなっちまう。
「日本は戦争をしないの?」
「っていうか、今のままじゃ出来ねーんだよ」
排他的経済水域に不審船が侵入した場合でも、
今の法律じゃ軽装備の海上保安庁が対応するしかねーんだ。
二十ミリ機関砲なんかじゃ装甲が分厚い船には豆鉄砲だぜ。
自衛隊の護衛艦や潜水艦が出動出来れば、
それこそ簡単に拿捕するんだろうになァ。
拉致被害者やその家族のためにも、
ここは是非とも検討して貰いてーよ。
「平和が一番だね」
ニッコリと笑う小春の可愛らしい事ったらねーなァ。
さて、他の子にも算数を教えてやらねーと。
九九が出来ねーと割算も出来ねーからよ。
もっとも、最近はケイタイにも電卓が付いてる。
どっちかって言うと、電卓の使い方を教えた方が実用的だけどなァ。
まァ、基本は基本として憶えておいての話だけどよ。
- 61 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/21(水) 20:53
- やっぱり私はバイクの免許を取る事にした。
普通自動二輪の免許でも持っておけば、
とりあえず四百CCまでのバイクに乗れる。
オヤジやオフクロは私がバイクの免許を取るのに反対だった。
そりゃそうだよなァ。医師ってのは身体が商売道具だからよ。
確かにバイクは四輪と違って事故った時の危険度は大きい。
だけど、その危険を回避する運転さえしてれば、
そんなに危険な乗り物じゃねーんだ。
「えーと、吉澤ひとみさんですね? 女性の方には小型限定をお勧めしています」
家から一番近いのは、南武線の近くにある教習所だった。
スーパーモータース・スクールオブミタカなんていう名前。
二輪専門の教習所では、厳しくて有名なところらしい。
家からはバスで十五分くれーのとこで便利だった。
「んだとゴルァ! オレじゃ四百は無理だってのかよっ!」
受付の姉ちゃんに怒鳴ると、奥から教官姿の男が出て来た。
この私にケンカでも売ろうっての? 上等じゃねーか。
いくら現役は退いたってな。てめーみてーなオヤジは一撃で沈めてやるよ。
伊達に握力四十五キロ、背筋力百二十キロじゃねーんだぞゴルァ!
「いいですか? バイクってのは重いもんなんだ。こっちへ来てごらん」
綿引勝彦みてーなオヤジは私を外に連れ出すと、
CB400SUPERFOURを持って来て倒して見せる。
まァ、バンパー付きだからよ。転がった感じになった。
どうもバイクってのはバンパーがあると白バイみてーに見えるぞ。
- 62 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/21(水) 20:53
- 「起こしてみなさい」
何ィ? この私を試そうってのかァ?
上等じゃねーかよ! こんなもん起こせなくてどうする。
でも、どうやって起こせばいいんだろうなァ。
とりあえず、ハンドルを持って起こしてみるか。
チャリンコじゃいつもこうやって起こしてるし。
「よっこらしょっと。意外に重いなァ」
「ハ、ハンドルだけ持って起こすなんて!」
まァ、バンパーもあるし、こいつは二百キロくれーはあるなァ。
こいつを持ち上げろって事になると、かなり大変みてーだけどよ。
上手く背中に担げれば、脚の力で何とか持ち上がりそうだけど。
あの大山先輩の力はまじで凄まじかったよな。
三百キロからあるグランドピアノを持ち上げたんだからよ。
ところで、この起こし方じゃまずかったのかなァ。
「ハンドル持っちゃ駄目なの?」
「い、いや。凄い力だと思って」
綿引みてーな教官は、バイクの起こし方を教えてくれた。
シートの後ろにあるとこと、ハンドルを持てばいいのか。
どれどれ。なるほど、こうして起こせば簡単じゃねーか。
馬鹿な奴は腰を支点にして持ち上げて痛めちまう。
腰に負担が掛からないように腕と脚で持ち上げればいい。
この力の入れ方は、看護師のオフクロから教わったんだ。
看護師ってのは、患者を持ち上げたりするからよ。
ちゃんとした持ち方をマスターしねーと腰をやっちまう。
- 63 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/21(水) 20:54
- 「こうすりゃ楽に起こせるよなァ」
教えて貰った通りにすると、さっきの半分くれーの重さに感じる。
やっぱり、基本を教えて貰わねーと、こうしたもんはよくねーな。
よく、バイクとチャリンコは同じようなもんだと思ってる奴がいる。
でも、チャリンコとバイクとは全くの別物だと考えた方がいい。
まァ、原付はチャリンコとバイクの中間みてーなもんだけどよ。
「君ならナナハンでも軽いだろうな」
そうそう。女性だからどうのこうのって時代じゃねーんだよ。
華奢な男なんかより、私は力に自信があるからよ。
腕相撲だってオヤジといい勝負するんだからなァ。
外科医っていうのは、とにかく肉体労働者だから力が強い。
「そんじゃ、限定無しでOK?」
「勿論」
綿引勝彦似で渋めの教官は笑顔で頷いた。
受付に戻って入学の話を再開すると、面白い事が判って来る。
この教習所の教官の大半が、元神奈川県警のホワイトエンジェルス出身。
つまり、女性の教官ばかりだという事らしい。
「なるほどね。だから人気があるのか」
やりたい盛りの高坊にしてみりゃ、優しいお姉様に指導して貰いたい。
まァ、私は男でも女でも、しっかり教えてくれれば文句はねーんだ。
評判もいいみてーだし、ここに決めちまうかなァ。
こうして私は自動車免許に続いてバイクの免許も取る事になった。
- 64 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/21(水) 20:54
- そんな忙しい中、オヤジは私のクルマを買ってくれるらしい。
私が国立東京医科歯科大に入学しちまったもんで、
七百万円も掛けてた簡保の学資保険が余ったんだそうだ。
リビングのテーブルの上に、夥しい数のパンフレットが積まれてる。
私としては赤いキューブなんて可愛くていいんだけどなァ。
「おやつだべさっと」
相変わらずなっちは、午後三時になると何かを食べに帰って来る。
冷蔵庫からハムとチーズのサンドイッチを出して食べ出した。
確かに体力を使う仕事だろうけどよ。そんなに食って平気かァ?
私も最近は贅肉が増えた気がするから気を付けてるんだぜ。
「なっちさん、オレのクルマどれがいいと思う?」
オヤジは危険だからって理由からRV車を推してるんだよなァ。
確かにRV車なら、ちょっとぶつけたとこで頑丈だからね。
ただ、いかにもゴツクて、女の子の乗るクルマじゃねーよ。
フォルクスワーゲンのニュービートルも可愛いんだけどなァ。
「このワインレッドのクルマなんていいべさ」
なっちは私にBMWのパンフレットを見せた。
630iはクーペタイプでスタイルはいいんだけどね。
直列六気筒3リッターツインカムだから速いけど、
こいつはちょっと燃費が悪そうだなァ。
おまけにガソリンはハイオクだから単価が高いしよ。
でも、このクルマっていったいどの位の値段なんだろう。
えーと、価格表は・・・・・・あった。
- 65 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/21(水) 20:55
- 「ちょっと高いなァ。もう少し安いクルマじゃねーとよ」
いくら太っ腹のオヤジでも、さすがに630@は買わねーだろう。
まァ、BMWはベンツと並んで安全性を重視してるけどな。
国産車に比べたら、搭乗者の安全性は数段違うって話だ。
安全性の高いクルマだと、スウェーデンのボルボも有名だっけ。
アメリカ製のクルマも頑丈でいいって聞いた事があるなァ。
それでもキャディラックくれーじゃねーと最近はアメ車もヤワだからね。
まァ、BMWでも116@くれーなら、オヤジも買ってくれそうだけどよ。
「高いべか? 百八万円なら安いっしょ」
「なっちさん、桁が違うよ」
「へっ? 一、十、百、千、万、十万、百万、一千・・・・・・・べ、べさァァァァァァー!」
BMWでも軽自動車があれば、そのくれーの値段で売るだろうけどなァ。
ただ、軽自動車はドイツの安全基準に適合出来ねーんじゃねーか?
でもキューベルワーゲンなんて、1131t 24.5馬力で重量は七百二十五キロしかねえ。
もしかすると、軽自動車に千tのエンジンを積んで安全基準さえクリアすれば、
ドイツ国内でも販売が出来るようになるかもしれねーなァ。
「あのメルセデスの三分の二だよっ!」
「なっちの田舎だったら、敷地面積二百坪の家が買えるべさ」
「どこの国だよっ!」
二百坪なんていったら、かなり大きめの家が四軒分だぞ。
それこそ東京近郊の格安物件なんて二十坪しかねーもんなァ。
それも中古で二千万円はするだろうし。
だいたい、土地だけで坪当たり五十万なんて安い方。
上物だって最低一千万からするってのによ。
- 66 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/21(水) 20:55
- 「室蘭は土地の値段が安いべさ」
確かに室蘭は鉄鋼や木材も豊富だからなァ。
それでも一千万ちょっとで二百坪の家が買えるわけがねーよ。
いくら何でも坪当たり五万円って事はねーだろう。
・・・・・・でも室蘭だよなァ。不景気で喘いでる町だし。
中古の家なら可能性はあるかもしれねーな。
「オレは国産車で充分なんだけどよ」
「『マッドマックス』のクルマなんてカッコイイっしょ」
『マッドマックス』なんて四半世紀以上昔の映画じゃねーか!
しかも、あのクルマはフォード・ファルコンXB‐GTをベースに、
V8のスーパーチャージャーがボンネットから飛び出してる。
映画的にあのスーパーチャージャーはダミーなんだけど、
あれが本物だとしたら、凄まじい速さの出るクルマになるぞ。
「もう売ってねーっての」
もう、大排気量に鋼鉄ボディのクルマなんて時代遅れなんだよ。
今はアメリカですら、軽量化して燃費のいいクルマが売れる時代。
日本のエコ技術は世界的に注目されてるんだよなァ。
「バイクも良かったべさ。あれって日本製っしょ?」
暴走族のリーダーが乗ってたバイクは、カワサキのZ‐1000だったっけ。
当時、日本国内じゃナナハンだったから、あれは輸出用のもんだろう。
カワサキのZ‐400をベースにゼファーが設計されたって話だ。
ちなみに、カワサキのゼファーは、一昔前の暴走族がよく乗ってたなァ。
- 67 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/21(水) 20:56
- 「そういえば、フェアレディZが発売されるらしいなァ」
長い間、日産のスポーツタイプとして君臨して来たフェアレディZ。
アメリカでも大人気だったんだけど、ゴーン社長が生産を中止させた。
でも、ここに来て多くのニーズに応えて再生産を始めるそうだ。
今でもツインカムマニアの間で260Zなんかはプレミアが付いてるらしい。
「なっちもフェアレディZなら賛成だべさ」
今度は完全にツーシーターで、最高級グレードだと四百五十万円くれーだ。
ちょっと丸っこくなったけど、赤いフェアレディZなんかいいじゃん。
V型六気筒だからよ。走りの日産に恥じないクルマじゃねーか。
排気量が三千五百CCでハイオクだから燃費こそ良くねーけどなァ。
「よし! Zに決めた!」
ごっちんのセリカGTOに対抗する意味でも、このフェアレディZなら申し分ない。
オーディオも凝っちゃって、アルパインかケンウッドで統一してみようかなァ。
どんなもんがいいのか○エローハットかオート○ックスで相談してみてもいいし。
中にはJBLやBOSEのスピーカーを付ける人もいるみてーだしよ。
「フェアレディZならロックンロールが合うっしょ!」
「・・・・・・合わねーよ」
何でフェアレディにロックンロールなわけ?
普通だったらメタルかハードロックだろうがよ。
ディープパープルの『ハイウェイスター』とか『スピードキング』だな。
レインボーの『キルザキング』なんてのも最高じゃねーか。
私のクルマはフェアレディZに決まった。
- 68 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/21(水) 20:57
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また近い内に更新致しますので、どうぞ宜しく申し上げます。
- 69 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/28(水) 19:03
- 〔マンジュウ再び〕
クルマは赤いフェアレディZに決めたものの、
私もオヤジも知り合いのディーラーがいない。
そこで、私は麗奈のところに紹介して貰う事にした。
リース会社ならディーラーに顔が利くだろう。
電話してみしたら意外な答えが返って来た。
〈リースにしたらどうっすか?〉
麗奈の話だと、クルマ自体は安く入って来るので、
原価の均等割りでリースしてくれるという。
諸費用や保険なんかを含めても定価を割るくれーだ。
まァ、支払いはオヤジだから私はどっちでもいいんだけどね。
「おめーんとこは、それで儲かるのかよ」
〈微々たるものっすけど、マージンがあるんすよ〉
麗奈が言うには卸価格とは別に、購入台数に応じたバックマージンがあるらしい。
保険にもマージンがあるらしくて、損しないように出来ているとか。
麗奈の家が損しねーんなら、渡りに舟ってもんだぞ。こいつは。
私が決める事じゃねーけど、オヤジに承諾させちまおうじゃねーか。
「判った。オヤジに言ってみるよ」
早速オヤジに話してみると、すんなりOKを貰えた。
どうやら、これも病院で使う名目にしちまうらしい。
だから、あくまでも名義はオヤジかオフクロにしろってさ。
まァ、私はフェアレディZに乗れればいいんだけどよね。
- 70 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/28(水) 19:03
- フェアレディZの納車待ちの間、私は大学・教習所・院内学級と大忙し。
最近は土日でも教習所が開いてるから助かるんだよなァ。
柴ちゃんからの合コンの誘いを断りつつ、私は教習所に通った。
バイクってのは、クルマよりも運転の仕方が難しいんだよね。
基本的に停止すれば足で支えなきゃ倒れちまうんだ。
それに、クルマよりも制動距離が長いからブレーキングも難しい。
カーブを曲がるには、身体を内側に倒さないといけねーし。
「今日はスラロームをやります。とりあえずパイロンで練習しましょう」
私の担当は杉本彩という教官だった。
彩という名前には条件反射しちまうけど、
この人は若くねーけど綺麗な人なんだよなァ。
私達は教官が用意したパイロンでスラロームの練習。
体重移動さえしっかりすれば、スラロームなんて簡単。
「吉澤さん、いいですよ。その調子よ」
鈍臭い小僧と一緒にされちゃ困るってんだよっ!
人間には二種類いて、転ぶのが怖い奴とそうじゃない奴。
私はバレーをやっていたせいか、転ぶのに恐怖は感じない。
リベロなんてやった日にゃ、転びながら拾うわけだからよ。
「どわァァァァァァァー!」
さっきから鈍臭いと思ってた小僧が派手に転びやがった。
一人が転んじまうと、どうしてもつっかえちまう。
教官はガソリンが漏れ出したバイクを起こすと、
痛そうに左腕を押さえる小僧に近寄ってヘルメットを脱がした。
- 71 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/28(水) 19:04
- 「痛い? 痛みの果てに快楽があるのよ」
眼が据わった杉本教官。こ、これってSMの世界じゃねーか!
・・・・・・待てよ。この教習所の名前はスーパーモータース・スクールオブミタカ。
頭文字がSMSMじゃねーかよォォォォォォォォォォォー!
ここは、そういった教習所だったのかァァァァァァァァー!
「さあ、もっと痛くなるわよ。これでどう?」
杉本教官は小僧の股間を触りながら左腕を踏みつけた。
小僧の悲鳴とも喘ぎとも判らない声が響いてる。
恍惚状態の小僧は、完全にマゾ野郎じゃねーか!
こんな教習所、設置するんなら五反田にしてくれよォ!
「みんなはコースのスラロームに入ってね」
何て教習所に入っちまったんだろう。
転倒小僧が恍惚状態の中、私達は違う教官に連れられてコースに入った。
スラロームの中じゃ、足を着いたらいけねーんだったな。
公道じゃ散らばった危険物を回避する意味があるんだっけ。
バイクってのは制動距離が長いけど、クルマに比べて車幅がねーんだ。
だからブレーキで停まるか、体重移動で避けるか判断が難しい。
「足を着くんじゃねー!」
長与千草教官が足を着いた小僧に踵を決めた。
この教習所はスパルタだとは聞いてたけどよ。
秋葉系小僧に人気があるのは、こういった意味だったんだ。
蹴られた小僧は嬉しそうだ。・・・・・・こえーよォォォォォォォー!
- 72 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/28(水) 19:05
- 私はクルマの免許を持ってるから、バイクが始めての連中より早く終わる。
学科が数時間でいいのが得した気分になるんだよなァ。
大学の帰りに教習所に寄っても、午後七時には家に帰って来れた。
食事もそこそこに、私は院内学級の手伝いをする。
いつの間にか、それが私の日課となっていた。
「よっCさん。この図形が解らないの」
小春が問題集を持って来た。図形はコツなんだけどなァ。
えーと、一辺が八センチの正方形の中に円があるのか。
正方形内で円以外の部分の四分の一の面積を求めるんだな?
簡単な問題じゃねーか。さて、小春にどうやって教えるかな。
「正方形の求め方は判る?」
「一辺×一辺」
そうそう。だから、この場合は六十四平方センチメートルになるんだ。
こんなもん、九九が出来れば誰でも判るってもんだよなァ。
しかし、こんな面積を求めたところで、いったい何になるってんだろう。
まるで相撲の土俵みてーじゃんかよ。だけど朝昇龍はつえーよなァ。
「円の面積は?」
「半径×半径×円周率」
そうだよな。だから、この正方形の中の円は50.24平方センチメートル。
ここまでヒントをやっても、小春は首を傾げながら考えてる。
こいつは鈍い奴だよなァ。とりあえず、同じ部分を斜線で埋めてやろう。
これで解らなかったら、小春は頭の中まで危ねーじゃんか。
正解は(64−50.24)÷4=3.44なんだけどなァ。
- 73 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/28(水) 19:05
- 「正方形の面積から円の面積を引いて四で割ればいいの?」
「正解」
こんな簡単な問題なら、いくらでも持って来いってんだ。
何しろ私は理数系だからよ。学生の中には学習塾でバイトしてる奴もいる。
おまけに国立大だから国数理社英、何でも来いってんだ。
ただ、古文は駄目だからな。「ら」行変格活用なんて無理。
漢文の返り点くれーなら、まだ出来るかもしれねーけどよ。
「ひとみさん。この漢文なんだけど」
今度は梅田えりかかよ。漢文だァ? 私は理科系だっての!
中学生になったばかりだってのに、もう漢文なんか勉強してんのかァ?
どうせ五言絶句か七言絶句だろうがよ。そんなもんは返り点さえ打てば簡単。
見せてみろよ。どれどれ? えーと・・・・・・。
「臣安萬侶言夫混元既凝氣象未敦無名無爲誰知・・・・・・」
こいつは漢文じゃなくて真名だなァ。どうも古代の文献らしい。
えーと、「臣安萬侶」だろ? えーと、臣は家来って意味だよなァ。
次が名前らしいけど「アンバンリョ」っていうのか?
とりあえず、解る範囲で訳してみようじゃねーかよ。
「臣(やっこ)安萬侶(?)言。ここで句読点だな」
こいつは最上級の人間へ「伝える」って意味みてーだ。
最上級の人間? それに「アンバンリョ」って中国人かなァ。
気象がどうのこうのって・・・・・・こいつはどこかで読んだ気がするぞ。
えーと・・・・・・。「陰陽斯開二靈爲君羊品之祖」陰と陽を分けて・・・・・・。
- 74 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/28(水) 19:06
- 「こいつは『古事記』の序文じゃねーか?」
「凄い! ひとみさん理数系なのに!」
このくれー判らなくてどうする。日本人だってのによ。
どうも「アンバンリョ」に引っ掛かってたけど、
あれは「やすまろ」って読むんだったっけ。
確か『古事記』の編纂者は太安万侶だからなァ。
「何で『古事記』原文なんて読んでるんだよっ!」
「将来的に学習院大学で『古事記』を研究したいの」
・・・・・・確かに学習院大学なら『古事記』を勉強出来るかもしれねー。
いくら何でも中学生の内から原文を読めるようにしてどうするよ。
しかし、えりかが学習院大学で『古事記』の研究ねえ。
古文が得意な女の子の九割は『源氏物語』だってのに。
「まァ、日本神話だよな。『古事記』ってのは」
稗田阿礼をイタコにして編纂した『古事記』は神話の域を出ない。
地球が誕生したのは、だいたい四十六億年前だったっけか?
太陽や他の惑星も、ほぼ同じに誕生したと言われてるんだよなァ。
だいいち、矛の先から落ちた雫が日本列島になったわけじゃない。
「そりゃそうだけど」
太古の地球は今の金星みてーな状態だったらしいよなァ。
硫化水素の大気と、熱せられた大地で地獄さながら。
その後、大雨が降って地表が冷えて大地と海が出来た。
原始生命が誕生したのは、地球が出来て六億年後だっけか。
- 75 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/28(水) 19:06
- 「ひとみちゃん。お客様よ」
誰かと思えば北条政子さんじゃねーか。私に客って誰だろう。
もう午後九時近くになるから、梨華ちゃんやごっちんじゃねーと思うけど。
まさか、柴ちゃん? このところ、合コンの誘いを断ってるからなァ。
・・・・・・それともフェアレディZが来たのか!
「オレに?」
「ええ、男の人よ」
おおっ! こいつはフェアレディZが来たみてーだなァ。
しかし、たった三日で届くとは、リース会社ってのは強いぜ。
十日から二週間は待たされると思ってたのによ。
それとも、いきなりキャンセルになったものかなァ。
まァ、どっちにしても早い事に越したこたーねーや。
「お前等、そろそろ就寝時間だから、その辺にして部屋へ戻りな」
私は隣の部屋で日誌をつけてるなっちを呼んだ。
もう、なっちが受け持ってる障害児は部屋に戻ってる。
この時間になると、ボランティアやケースワーカーも帰っちまう。
どうせだったら、二人で近所のガソリンスタンドまで行こうじゃねーか。
「納車だべか? ワクワク」
初めてのクルマという事もあるせいか、とにかく嬉しくて仕方がない。
しかも、ポリマー加工した真紅のフェアレディZなんだからよ。
オーディオはケンウッドで統一。カーナビだってケンウッドだぜ!
私達は病院内でありながら自然と小走りになっていた。
- 76 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/28(水) 19:07
- 「その節はどうも」
「ママママ・・・・・・マンジュウ!」
廊下を曲がったところに立っていたのは、何とマンジュウだった。
そういえば、美貴ちゃんの意識が戻ったから事情聴取なのかなァ。
私が思わず「マンジュウ」と言うと、苦笑しながら鼻を掻いた。
「美貴ちゃんとは面会出来ないべよ」
なっちは鼻の穴を膨らましながら腰に手を当てた。
何もそこまで肩を怒らせなくてもいいと思うんだけど。
マンジュウだって無理に事情聴取なんかしようとは思ってねーだろ。
だって、あの件は無かった事になったんだからよ。
もし、また事件として扱う事になったら私が黙ってない。
「いや、そうじゃないんです」
マンジュウが言うには、美貴ちゃんの件で困った事があったら、
何でも遠慮なく相談して欲しいという事だった。
彼自身、あの事件を気にしてるみてーだなァ。
もう済んだ事だし私は大丈夫。だって、なっちがいるから。
「では失礼します。お力になれなくてすみませんでした」
マンジュウは少しだけ笑顔で言ったけど、どこか寂しそうだった。
困惑するなっちと私に頭を下げると、マンジュウは疲れた背中を見せる。
いつの間にか、なっちが私の腕に抱き付いてた。
きっと、予想外の話に、頭がパニックになってるんだろう。
そりゃそうだ。私だってマンジュウが、こんな好漢だとは思わなかった。
- 77 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/28(水) 19:07
- 「村井さん」
それは私の意思というより、ごく自然に声が出た。
疲れた背中が立ち止まって何事かとマンジュウが振り返る。
別にマンジュウに心を許したわけじゃない。
ただ、人として、どうしても言っておきたかった。
「何でしょう」
「酷い事を言ってすみませんでした」
マンジュウは少し首を傾げた後、ニッコリ笑って「気にするな」と手を振る。
刑事なんて仕事をやってると、人から恨まれる事もあるんだろうなァ。
こんな事には慣れてるかもしれねーけど、ちゃんと謝った方がいいに決まってる。
マンジュウを見る私の顔を、腕に抱き付いたなっちが見てた。
「美貴ちゃんが未成年だから、ギリギリまで待ってたんですよね」
「よっC・・・・・・」
なっちの訴えるような視線を感じる。
誰が悪いわけでもない。美貴ちゃんは心を病んでしまっただけ。
それに気付いてあげられなかったのは、他でもない私自身だった。
警察が悪いって思い込んだ方が楽だったに過ぎないんだ。
「判って頂けただけで私は嬉しいですよ」
マンジュウは満面の笑みでそう言い残すと、
少しだけ元気になった背中を見せて歩いて行った。
マンジュウを見送った私は、何かこみ上げるものがあって、
気が付いたらなっちを抱き締めてた。
- 78 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/28(水) 19:08
- 「よっC、大人になったべさ」
なっちが嬉しそうに私を見上げた。
大人? だって、もう十九になったんだぜ。
合コンデビューも果たしたし、クルマの免許も取った。
来年になりゃ選挙権だって・・・・・・逮捕されると実名報道されちまう。
法律的に少女でいられるのは十一ヶ月しかねーじゃん!
「まだまだ子供だよ」
私はまだまだ子供。白馬に乗った王子様に憧れ・・・・・・たりしねーなァ。
だいたい白馬ってのは、どうも鈍臭いイメージしかねーもんよ。
やっぱり、速い馬ってのは葦毛や栗毛じゃねーとなァ。
真っ黒なアラブ馬ってのも嫌いじゃねーんだけどよ。
「いや、成長したべよ」
「オレ、子供だから、おっぱいが恋しい!」
胸を触ると笑いながら逃げ出すなっち。
なっちは私にとって、永遠のカテキョなんだよ。
いくら逃げたところで、私の足に勝てると思ってんのかァ?
多少、衰えはしたけど、まだまだ走れるぜ!
「待てー! オレのおっぱ・・・・・・」
「病院の廊下を走るなヴォケェェェェェェー!」
「ふげっ!」
首に凄まじい衝撃があった直後、私の両足が天井を向く。
薄れ行く意識の中で、私はオフクロにラリアットをくらった事を自覚した。
- 79 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2005/12/28(水) 19:09
- 今日のところは、これにて失礼致します。
次の更新は年明けになると思います。
読者の皆様、よいお年をお迎え下さい。
- 80 名前:名無し 投稿日:2005/12/31(土) 16:13
- 更新おつです。
ドS教官杉本に笑わせて頂ました。
作者さんも体に気をつけて良いお年を迎えてください。
- 81 名前:ふぇいく 投稿日:2006/01/07(土) 00:14
- お久しぶりです。年明けましたね。
「出逢いと別れ」今年も楽しみにしています。
個人的にはよっすぃのなっちへの気持ちの行方が気になります。
あと美貴ちゃんも・・。
- 82 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/01/07(土) 16:34
- 明けましておめでとうございます。
って、もう七日でした・・・・・・○| ̄|_
>>80
>>81
どうもありがとうございます。
年末年始、何かと忙しくて更新出来ていません。
連休明けには何とか更新したいと思っております。
どうもすみません。
- 83 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/01/11(水) 17:35
- すみません。今週末から再スタートします。
- 84 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/01/15(日) 17:52
- 〔あゝ、乙女峠・1〕
愛車のフェアレディZが納車された頃、私は普通自動二輪の免許も取得した。
以前からオヤジやオフクロは、私がバイクに乗る事には大反対だった。
特に外科医というのは、何よりも身体が資本なわけだからだろうなァ。
バイクって運転の仕方さえ間違わなけりゃ、そんなに危険な乗り物じゃない。
だけど、昭和三十年代生まれに何を言ったとこで暖簾に腕押しってなもんだ。
そういった理由から、私は自分のカネでバイクを買わなくちゃいけねー羽目に。
でも、フェアレディZを買ってくれただけでも良しとしなきゃな。
「ってなわけで、自分でバイクを買おうと思うんだ」
私はキャンパス内のベンチで、ハンバーガーを食いながら言った。
柴ちゃんは飽きもせず、またコンビニのレディスランチを食ってる。
コンビニ弁当もたまにはいいけど、毎日だと飽きちまうんだよなァ。
私はハンバーガーとかナンカレーとか、食べたいものを食べる主義。
別に太ったりするなんてネガティヴな事は考えねーようにしてる。
まァ、そんな事はどうでもいいんだ。バイクだよバイク。
ちなみに英語で「バイク」はチャリンコの事を意味するんだったっけ。
トライアスロンはスイム三キロ、バイク百キロ、フルマラソンだからよ。
「よくぞ、この柴田あゆみに相談してくれたなオイ!」
柴ちゃんはスカートばかり穿いてるからバイクとは無縁と思ってた。
ところが意外や意外。柴ちゃんの趣味はツーリングなんだそうだ。
ホンダのVTR‐250ブラックメタリック仕様が愛車だとか。
確か二百五十CC以下のバイクには車検がねーんだよなァ。
本当は四百のバイクがいいんだけど、本体価格も馬鹿にならねーしよ。
維持費とかを考えると、やっぱり二百五十CCクラスがいいかなァ。
- 85 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/01/15(日) 17:52
- 「二百五十CCだと、どんなバイクがいいかなァ」
「カワサキなんかだとバリオスU、価格で行くならスズキのST250なんていいかも」
昼食もそこそこに、私達は図書館へ行ってインターネットで検索した。
カワサキのバリオス‐Uは、Zシリーズの流れを汲む逸品らしい。
『マッドマックス』で有名なZ‐1000は輸出仕様だったっけ。
バリオス‐U。このチタニウムカラーが気に入ったなァ。
「これだと、どんなスーツが合うかなァ」
どうしても女の子はファッションを気にしちまうんだよね。
ブラックスーツ(ツナギ)に白のデザインがいいかなァ。
それに合わせてフルフェイスヘルメットにも同じデザイン。
グローブやブーツも粋なデザインがいいよなァ。
「上野に行けばバイクショップが多いよ」
「よっしゃー! そうと決まれば善は急げ」
私は柴ちゃんの腕を掴んでキャンパスを後にする。
午後の講義なんてものは一日くれー休んでも平気。
事がバイクだから、やけに柴ちゃんも積極的だった。
私の頭の中は、バリオス‐Uに乗って颯爽と走る自分でいっぱい。
「スーツは脊椎パッドが入ってるやつを選ぶの」
柴ちゃんが言うには、ヘルメットとスーツ、ブーツだけはケチらない事。
自分の身体を守るためのものだから、高くてもいい物を買った方がいいらしい。
頭部を守るためのヘルメットと、脊椎を守るためのパッド入りスーツ。
このふたつだけは、絶対に妥協しない方がいいって言われた。
- 86 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/01/15(日) 17:53
- 「よっCも医学部だから判るよね。脳挫傷と脊椎損傷は後遺症が怖いの」
脳挫傷や脊椎損傷を受けると、身体に麻痺が残ったりする。
特に脊椎が完全にやられちまうと、手足が全く動かなくなっちまう。
人間の脳を移植出来ねーのも、脊椎を繋ぐ事が不可能に近いからだ。
私は外科医になるんだから、手足も重要な商売道具って事になる。
この手足を守る意味でも、ブーツやグローブも重要なんだよなァ。
「ヘルメットだとARAIやSHOEIが有名だよね」
どっちも三万円くれーのもんだと、かなり安全基準が違うそうだ。
ヘルメットってのは、強打した時には無意味なんだそうで、
放り出されて滑走した時、ヤスリのようなアスファルトから頭を守るもの。
そうじゃねーと、大切な頭が磨り減っちまうってもんだ。
「よっCならSHOEIの方が合ってるかもね」
ブラックベースに白いデザインのあるヘルメットがいいなァ。
しかし、昔のパッドなんてのは、金属に綿が付いただけだったらしい。
最近じゃ硬質樹脂や衝撃吸収素材が進歩したから、
軽くて良質のパッドが安く手に入るようになった。
「カッパも買わねーとなァ」
スーツは牛革製だから、濡れるとゴワゴワになっちまう。
だから、ちゃんと防水出来る雨具が必要になって来る。
雨が降ったら全身をすっぽり包んじまう事になるんだなァ。
ゴアテックスも安くなって来たから通気性はいいんだけどね。
ビニールなんかじゃ蒸れちまって大変だからよ。
- 87 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/01/15(日) 17:53
- 「着いたよ」
おお! これがバイク関連ショップってやつか!
店頭には大幅値引きの商品がズラリと並んでる。
えーと、とりあえずヘルメットとスーツだよなァ。
それにしても、アメリカンバイクが流行のせいか、
店内には星条旗まで飾ってあるじゃねーか。
「おい、にいちゃん。オレのスーツが欲しいんだけどよ。服は九号なんだ」
「は?」
こいつ、日本語が通じねーのかなァ。
九号っていったら一般的なサイズじゃねーのか?
だいたい七号から十一号までが普通サイズだった気がするぞ。
私は十一号でもいいんだけど、少し大きい感じかなァ。
「よっC、ここじゃ試着した方が早いってば」
男の店員に服のサイズを言っても判らねーってか?
えーと、バストとヒップのサイズで選べばいいんだな?
ウエストってのは、男女で場所が違うからよ。
私に合うのはSサイズって事になるのかなァ。
「これなんていいじゃん。・・・・・・重い」
さすがにレザーのツナギになると重いもんだなァ。
早速、試着室で着てみると、ちょっときつい感じだった。
レザーは身体に馴染んで来るらしいけど、私はワンサイズ上にする。
ツナギの下はブラとパンツってわけには行かねーからよ。
- 88 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/15(日) 17:54
- 「柴ちゃん、どうよ。これ」
私は良さそうなスーツを着てみた。
何となく着ぐるみに入ってる感じだなァ。
少し余裕があった方が、寒い時期には下に何か着れるしよ。
「似合ってる。いい感じだよ」
黒地にシルバーの柄が入ったやつで、そこそこいい感じがするなァ。
定価五万八千円のところが、特売価格の四万九千八百円になってた。
スーツを決めちまうと、それに合ったヘルメットとブーツを揃えればいい。
バイク用の合羽も種類が豊富で、似た感じのやつを選んでみた。
「こんなもんかなァ」
あまりにも重いから、宅配便で送って貰う事にした。
スーツが四万九千八百円、ヘルメットが三万九千八百円。
ブーツとグローブ、雨具、ツーリングバッグで四万九千八百円。
全部で十三万九千四百円もするけど、だいたいこんなもんだろ。
私はレジで郵便貯金のカード(デビットカード)を渡して清算した。
「さすがに開業医の令嬢だけあるわねえ」
柴ちゃんは羨ましそうに言ったけど、それ、違う。絶対に違うっての。
私はメイクもしないし、ブランド品なんかに興味がねーもん。
そういったお洒落(身だしなみ?)をしねーから懐が暖かいんだよ。
確かに小遣いは少なくねーし、院内学級のバイト分も貰ってる。
しかし、オヤジは私に月五万円のバイト料をくれてるけど、
帳簿上じゃ十万円なんてセコい事になってるんだよなァ。
- 89 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/15(日) 17:55
- 「ついでだから、バイクも買いに行こうぜ」
柴ちゃんの話によると、バイクは量販店が安いらしい。
でも、メンテナンスは意外に街にある小さな店の方が信用出来るそうだ。
確かに個人経営の店で不具合が出たりしたら信用問題だからよ。
柴ちゃんに量販店を案内して貰って、個人経営の店は自分で探すかなァ。
「本当にリッチなんだから」
リッチーもイングウェイもねーよ。
こっちは稼いでも使い道が無かっただけの話。
そういえば、洋服なんて全く買ってねーもんなァ。
どうしてもスカートよりパンツの方が私に合ってる。
っていうか、中坊の頃に買ったジーンズを今でも穿いてるし。
洋服なんて着てりゃいいんだっての!
「定価の二割引くれーで買えるの?」
「うん。そんなもんかな」
柴ちゃんの話だと、税金や保険をひっくるめて定価くれーで収まるらしい。
バリオス‐Uだと五十四万五千円くれーだったかなァ。
結局、何だかんだで七十万くれーになっちまうけど、
これがくれーがバイクの値段ってとこなんだろうなァ。
「四百クラスになると、全部で百万くらいになるんだなァ」
百万なんていったら、安いクルマが買える値段だぞオイ。
でも、まァ、バイクで楽しめるんなら安いかもしれねー。
スリーシーズンはバイクでツーリング。冬はドライブだぜ。
- 90 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/15(日) 17:55
- 「ここはチェーン店で、バイクの値段は安いよ」
ズラリと並んだバイクを見ると、何だかウキウキして来るなァ。
中には中古もあったけど、どうせ乗るんなら新車の方がいい。
前の持ち主が事故死なんて事になってたら、ちょっと恐いもんなァ。
「おい、にーちゃん。バリオス‐Uをくれや」
ズラリと並んだバイクの他にも、バックヤードにストックがある。
ここまで大きなバイクショップってのも珍しいんじゃねーかなァ。
街中の個人経営の店なんて、ほとんどが取り寄せだからよ。
だから、どうしてもメーカー側が安価で卸さねーんだろう。
「カワサキのバリオス‐Uですね? こちらへどうぞ」
バイクの購入ってのは、クルマと違って意外に簡単だった。
印鑑証明も実印もいらねーし、三文判で充分だって事だ。
陸運局でナンバーが発行され次第、納車って事になっちまった。
こんなに簡単だとは思わなかったなァ。
「よっC、バイクが来たらツーリングに行こうよ」
「いいねえ!」
これからは、うっとうしい梅雨なんて時期になっちまうけど、
まさかその間、ずっと雨が降るってわけじゃない。
梅雨の晴れ間を利用して出掛ければ、意外に降られずに済みそうだしよ。
まァ、降ったら降ったで合羽もあるし、次の日に洗ってやれば問題ねーし。
そうと決まれば、どこまで行くのか打ち合わせをしようじゃねーか。
勿論、バイクが来ねー内は無理だから、最低でも一週間は先になるなァ。
- 91 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/15(日) 17:56
- 「よっCだったら、乙女峠なんていいかもね」
「乙女峠?」
柴ちゃんの話によると、乙女峠ってのは神奈川県西部にあるらしい。
曲がりくねった道なんで、土日の深夜には走り屋が集合するそうだ。
でも、私達が行くのは平日の昼間になるから、安心して走る事が出来る。
柴ちゃんの家が厚木だから、私と待ち合わせすればいいんだな。
私達は近くのマックで、都合の良さそうな日時を打ち合わせした。
「ビッグマックセット? 本当にリッチなんだから」
そうかなァ。こうした時くれーは、いいもんを食いてーじゃんか。
確かに昼食は摂ったけど、歩き回ったせいか腹が減ったからよ。
柴ちゃんはアップルパイとコーヒーだけか。もう三時だもんなァ。
「六月の中旬がいいんじゃねーか?」
そういえば、矢口さんも免許を持ってたっけか。
なっちは忙しいし、矢口さんも誘ってみようかなァ。
- 92 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/15(日) 17:58
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また来週末を目途に更新したいと思います。
今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
- 93 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/19(木) 15:35
- 柴ちゃんもなかなかカッコイイですね
ツーリングが楽しみです
- 94 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/21(土) 22:57
- >>94
ありがとうございます。温泉から帰って来て、高熱が続きました。
行き着けの病院で診て貰ったら、インフルエンザ(鳥ではありません)でした。
月曜日に病院へ行って、また血液の数値が悪いと入院になるそうです。
そういえば、これから花粉の季節。憂鬱な日が続きますね。
- 95 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/21(土) 22:58
- 〔あゝ、乙女峠2〕
柴ちゃんとツーリングに行く事になったのは、六月の梅雨の合間だった。
待ち合わせ場所は、国道二百四十六号線沿いにある厚木文化福祉会館前。
平日だから国道はトラックで渋滞してやがる。困ったもんだぜ。
私は相模川沿いを走って来たせいか、約束の二十分前に着いちまった。
「まだ時間があるなァ。コーヒーでも買おう」
私が自販機に歩いて行くと、バイクスーツを着た子供が飲み物を買ってる。
相模川の河川敷じゃ、モトクロスのコースなんかもあったっけかなァ。
ああいったバイクと公道を走るバイクとは、完全に違う乗り物と言っていい。
レース用のバイクっていうのは、とにかく頑丈に出来てるんだよなァ。
ちょっと転んだだけでフレームが曲がるような華奢には出来てない。
「ああ、よっC! おはよう」
「ふえっ? 矢口さんだったの?」
てっきり子供かと思ったら、飲み物を買ってたのは矢口さん。
相変わらず明るくて、まるで太陽が降臨したみてーだ。
柴ちゃんと約束した時間は九時だから、まだ十五分もある。
その間、矢口さんと話をしてたけど、この人は人を退屈させない。
「でもさー、まじで嬉しいよ。ツーリングに誘ってくれるなんてさ」
矢口さんはスズキのジェベル250XCに乗ってた。
白と黒のツートンで、スーツも同じツートンで統一されてる。
そういえば、うちの病院に運ばれて来た時もオフロードに乗ってたんだっけ。
矢口さんはオフロードタイプのバイクが好きなんだなァ。
- 96 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/21(土) 22:58
- 「それで、美貴ちゃんの具合はどうなの?」
「意識は戻ったんだけど会話はまだ。まだ眠ってる事の方が多いし」
美貴ちゃんは先週、集中治療室から個室に移された。
様子を診ながら、もう一回開頭手術をするんだそうだ。
手足の痙攣は、脳内から間違った信号が出されているから。
だから、その間違った信号を出してる細胞を殺すらしい。
「早く退院出来るといいね」
「そうだなァ。また一緒にクルージングしたいよ」
美貴ちゃんは助かった事が奇跡だからなァ。
どうせだったら、全部忘れてくれてればいいんだけど。
そうすれば美貴ちゃんに障害が残っても、
きっと仲良くやって行けると思うんだけどよ。
「お見舞いは、まだ無理かー」
主治医になる脳外科の徳川医師の話だと、
美貴ちゃんの脳細胞は三分の一から四分の一が死んでるらしい。
眠ってばかりいるのは、脳の損傷が大きかったからだそうだ。
赤ん坊がよく眠るのも、脳細胞が未発達だからだったっけ。
「ちょっと怖い気もするけどなァ。美貴ちゃんが完治するのってさ」
いくら徳川医師だって、美貴ちゃんの心までは治せないわけだし。
動けるようになったら精神科に罹ってくれるといいんだけどなァ。
まァ、それ以前に、地獄のようなリハビリが待ってるんだけどよ。
どこまで回復して、果たして社会復帰が出来るのか誰にも判らない。
- 97 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/21(土) 22:58
- 「・・・・・・判るよ。判る」
矢口さんはそう言うと、遠くを見ながらウーロン茶を飲んだ。
私は美貴ちゃんに殺されそうになったんだからよ。
もしあの時、私が生理痛で腰にカイロを当ててなかったら、
美貴ちゃんのナイフは腎臓に突き刺さってた。
「人間って怖いなァ」
幽霊が怖いなんて言う人が大勢いるけど、
なっちはいつも本当に怖いのは人間だって言ってる。
欲や恨み妬み、そんな事から同胞を殺すのが人間だ。
人類の歴史は殺戮の歴史だって言った人がいる。
その人が言うには、人間は根本的に殺し合う生物らしい。
そんな怖い生物なんて他に聞いた事がねーぞ。
「お待たせー!」
BTRのブラックメタリックに乗った柴ちゃんが現れた。
柴ちゃんはライダースパンツに黒の皮ジャン。
フルフェイスのヘルメットには『AYUMI』のシール。
おおっ! バイクのガスタンにも『AYUMI』のシールだ!
「どうもー、矢口でーす」
矢口さんの凄さは、初対面でも全く物怖じしねーとこだよなァ。
これには柴ちゃんも呑まれちまって、旧知の仲みてーになっちまう。
ごっちんも物怖じしねーんだけど、ちょっとタイプが違うんだよなァ。
いつの間にか馴染んでるのがごっちんで、みんなが笑顔になるのが矢口さん。
- 98 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/21(土) 22:59
- 「柴田あゆみです。宜しく」
こうして美人が三人集まってツーリングってのもいいじゃねーか。
柴ちゃんの話だと、乙女峠を越えた麓に美味い豆腐料理屋があるらしい。
そういえば、この辺りは大山豆腐で有名な場所だったっけか。
胡麻豆腐、抹茶豆腐、揚げ豆腐、笊豆腐・・・・・・食いてー!
「それじゃ、あたしが先頭で矢口さんが殿軍でいい?」
ドライブもそうだけど、ツーリングでは二番目に走るのが経験の浅い奴。
私も運転には自信があるけど、ここは私が真ん中を走るのがセオリー。
軍隊のリーコン(偵察)でも、こうした配置になってるんだったっけ。
矢口さんのバイクじゃコーナーが厳しいけど、熟練したテクニックがある。
柴ちゃんのBTRと私のバリオス‐Uでも平気でついて来るだろうなァ。
「OK! 出発進行!」
口惜しいけど矢口さんや柴ちゃんに比べると私には経験がねー。
しかし、矢口さんは自分の身長に合わないバイクが好きだよなァ。
オフロードタイプはシートが高いから、まるで子供がしがみ付いてる感じ。
信号待ちの時も、矢口さんは道路に爪先で立ってた。
足の裏全体を付けるまで傾けると、恐らく自力で起こせねーんだろう。
「おおう! こいつは気持ちいいなァ」
初夏の柔らかな空気の中、私達は田舎道を制限速度前後で走ってた。
ここらは旧家が多く点在してて、納屋や蔵のある家もあるじゃねーか。
停まると暑いけど、まだ汗をかくほどの暑さじゃねーのがいい。
水が入った田んぼからは、蛙の大合唱が聞こえていた。
- 99 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/21(土) 22:59
- 厚木市街地から小一時間。ようやく乙女峠の麓に着いた。
眼の前には千メートル級の山々が連なる丹沢山塊がある。
この乙女峠の上からは、相模平野が一望出来るってんだから凄い。
陽が照ってる割には風があるせいか、こんなレザースーツでも意外に涼しいぞ。
「ここから頂上まではノンストップだからね」
まァ、幾ら峠道って言っても、まさか日光の『いろは坂』みてーじゃねーだろう。
小学校の修学旅行じゃ、梨華ちゃんがバスの中で吐きまくったからなァ。
よせばいいのに、酔いやすいバスの最後尾になんて座るからだ。
って梨華ちゃんの隣にいた私も、必死に我慢してたわけなんだけどね。
「よっC、柴ちゃんと同じコースを走れば大丈夫だから」
矢口さんは私を心配してくれてるみてーだけどよ。
いくら初心者だからって、コーナーの曲がり方くれーは知ってるっての!
コーナーリングの基本はブレ―キング+アウトインアウトだろーが。
基本的に曲がってる最中はアクセルを回してる状態だったっけ。
「Es past nicht besorgt (心配すんじゃねーよ)」
「Ich finde, das es unempfindlich ist, aber (大丈夫だろうけどね)」
うげげー! 何で矢口さんがドイツ語なんて判るわけ?
矢口さんは法科じゃねーのかよォ!
第二外国語でドイツ語を選択するのは医科くれーだぞ。
柴ちゃんも語学に長けてるけど矢口さんもすげーな。
しかも、ちゃんと巻き舌で発音もいいと来てる。
確か駅前留学では、ドイツ語なんて無かったような。
まァ、フランス語よりかは判りやすいけどよ。
- 100 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/21(土) 23:00
- 「Abreisefortschritt!(出発進行!)」
ったく、これじゃ日系ドイツ人のツーリングじゃねーか。
おっと、オーストリアやポーランドの一部もドイツ文化圏だけどな。
まァ、ドイツ語とポーランド語なんてもんは、
日本でいう標準語と関西弁くれーの差らしいけどよ。
「ワクワク」
制限速度は三十キロだけど、四十キロまではメーター誤差。
バリオス‐Uならセカンドで四十キロまで出ちまうってんだ。
私が後ろにつけると、柴ちゃんは更にスピードアップ。
って五十キロ超えてるっての! スピード違反だよっ!
「うげげー! すげーコーナー!」
何だよ! こんなにすげーコーナーがあるなんてよォ!
確かに直線じゃ傾斜がきついから、峠道ってのはジグザグに登ってる。
それにしても、ここのコーナーは大垂水どこじゃねーっての!
こいつはニーグリップをしっかりしておかないと。
「負けるか!」
柴ちゃんは更にスピードを上げやがった。
もう、コーナーじゃ膝を擦りそうな感じ。
ブレ―キングとシフトダウン、スロットル、
両手両足を駆使して何とかついて行くしかない。
矢口さんは? 何だ? あの曲がり方は。
バイクを倒しながら足を出してるぞ。
- 101 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/21(土) 23:00
- 「す、すげー!」
忙しくてチラチラとしか見えねーんだけどよ。
矢口さんは後輪をドリフトしながら曲がって来る。
足を付いて滑らせながら、かなり鋭角に曲がってるんだ。
足を擦ると金具から火花が飛んでるじゃねーか。
小柄な矢口さんでも、あんなにすげー走りが出来るんだね。
やっぱりバイクってのは力じゃねーんだなァ。
「ん?」
矢口さんのバイクの後方に、チラッとヘッドライトが見えた。
次のコーナーを曲がって直線に入った瞬間、矢口さんのクラクションが聞こえる。
何かと思ってミラーを見ると、矢口さんはウィンカーを左に出して減速してた。
その矢口さんの背後には、真っ赤なバイクがくっ付いてた。
「速いバイクだなァ」
私はクラクションで柴ちゃんに知らせると、矢口さん同様にウィンカーを左に出した。
その私の横を、真紅のバイクが風のように走り去って行くじゃねーか。
そいつはバイクも赤ならスーツやブーツ、グローブ、ヘルメットまで真っ赤だった。
あのバイクはナンバーに緑の枠があるから二百五十一CC以上なんだよなァ。
「あれ?」
柴ちゃんは私のクラクションに気付かねーのかなァ。
私がもう一回クラクションを鳴らした時、真横に矢口さんが来た。
何か知らねーけど、矢口さんは必死の形相で何か言ってる。
私は更に減速しながらヘルメットのシールドを上げた。
- 102 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/21(土) 23:01
- 「柴ちゃん、勝負しようとしてる! 止めないと!」
「勝負?」
私はわけが判らないまま停車させられて、矢口さんとバイクを交換した。
すると、矢口さんは猛スピードで走り出したじゃねーか!
私は置き去りかよ! 待てよ! 何だよ。勝負って。
くそっ! 乗りにくいバイクだなァ。こいつは。
「待てー!」
幾つかのコーナーを曲がったところに、三台のバイクが停まってた。
っていうか、柴ちゃんのBTRが転がってウインカーなんかが散乱してる。
これは、どう見ても柴ちゃんが事故ったって事じゃねーのかオイ!
ここはとにかく、矢口さんのジェベルを道路脇に停めて、
私は道路に投げ出された柴ちゃんに駆け寄った。
「痛い・・・・・・痛いよう」
柴ちゃんは全身を強く打ってた。
ヘルメットは道路を滑走して物凄く傷付いてる。
慌ててヘルメットを脱がしてみたけど、
これといった大出血もねーからひとまず安心。
「チッチッチッ・・・・・・」
真っ赤な奴は人差し指を振ると、そのまま走り去って行った。
どういった転び方をしたのか判らないから、とりあえず首だけ固定してみる。
あくまで応急処置だから、なぜか矢口さんが持ってた携帯エア枕を使った。
BTRのミラーを外して瞳孔反射を診るけど、ほとんど正常みてーだなァ。
- 103 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/21(土) 23:01
- 「VFRに勝負するなんて無謀だよ」
VFRはV4ツインカムで総排気量が七百八十一CCの大型マシン。
BTRの三倍以上も排気量があるんじゃ勝負にならねーよ。
とりあえず救急車でも呼ばねー事には仕方ねーよなァ。
私は柴ちゃんの様子を診ながら救急車を呼んだ。
「右足と左腕、折れたかもしれない」
柴ちゃんが痛がるから、とりあえず近くの木を折って副木にしてみる。
救急車を待ちながら、どういった状態になったのかを二人に訊く。
胸や腹を強打してると、場合によっては命取りになり兼ねないからよ。
柴ちゃんの胸と腹を触診してみたけど、私に判る異常は無かった。
「よっC! 口惜しいよ。・・・・・・仇討ちを・・・・・・たの・・・・・・む・・・・・・がくっ!」
「がくっ!」って何だよ。「がくっ!」って。
まァ、愛車がクラッシュ。スーツやヘルメットもボロボロ。
これじゃ現実逃避したくなるのも判るけどよ。
ここは失神しちまった方が楽かもしれねーなァ。
「柴ちゃんはコーナーでリアが滑ったの」
コーナーへの侵入速度が速過ぎたんだろうなァ。
柴ちゃんはリアタイヤが滑って慌てて体勢を立て直した。
そうしたら、今度はタイヤがグリップしちまって飛ばされたらしい。
まァ、BTRの下敷きにならなかっただけ運がよかったぜ。
対向車も無かったし、崖下にも落ちなくて済んだんだから、
幸運だったって思った方がいいんじゃねーかなァ。
- 104 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/01/21(土) 23:03
- 今日のところは、このあたりで失礼致します。
体調次第ですが、来週中には更新したいと思います。
これからも、どうぞ宜しくお願い致します。
- 105 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/23(月) 16:04
- おー、新たな登場人物かな?気になりますね〜。
柴ちゃんも作者さんもお大事に。
- 106 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/23(木) 23:17
- 作者さん大丈夫ですか?
- 107 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/03/02(木) 22:44
- すみません。今日、退院して来ました。長らくお休みして申し訳ありませんでした。
ちょっと大丈夫じゃありませんけど、この物語は絶対に終わらせますので。
- 108 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/03/02(木) 22:45
- 〔あゝ、乙女峠3〕
結局、柴ちゃんは右足首の捻挫と左肘の亀裂骨折。
ただ、背中を強打してたから、吉澤病院にまで搬送した。
MRIの結果は、背骨の一部が少しだけ変形してるらしい。
まァ、これは放っておけば治る程度のものだそうだ。
「さてと、二人にはお説教だな」
柴ちゃんのいる個室で、私達はオヤジから説教を受けた。
医師は何があっても健康でいないといけないらしい。
そうでないと、患者を治す事なんて出来ねーわけだし。
特に外科医なんていったら指まで大切にしねーとなァ。
まァ、今回は私達に責任があるんだから我慢して説教を聴いた。
「つまり、医師が怪我したら患者はどうなるんだ?」
オヤジは私と柴ちゃんを、医師になる人間として説教した。
うざってー話だけど、ちゃんと的を得た話になってるじゃねーか。
確かに開業医になれば、相応の収入ってもんがあるだろう。
でも、医師という仕事には、慎まなくてはならないものもある。
だからこそ、普通のサラリーマンより収入が多いのかもしれねーなァ。
「だから、バイクを乗るのを反対したんだ。判るよな?」
オヤジの言う事はもっともだけど、バイクって危険な乗り物じゃねー。
そこだけが、どうしてもオヤジとは平行線なんだよなァ。
クルマに比べると身体が露出してるから危険に感じるだろうけど、
今のクルマなんて、ほとんどプラスチックで出来てるからなァ。
- 109 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/03/02(木) 22:46
- 「オヤジの言う事は判った。だけどオレはバイクに乗るよ」
私がそう簡単にバリオス‐Uを諦めたりするかっての!
これからはバイクで通学して、少しでも上手くならねーと。
しかし、あの赤いVFRには頭に来たよなァ。
こっちが二百五十だって判ってて勝負して来やがった。
「頑固な奴だな。誰に似たんだか」
「両親どっちかに決まってんだろーがよ!」
科学者には科学で対抗するに限るぜ。
子供ってのは両親のDNA情報を半分ずつ受け継いでる。
いわば、両親二人が作ったコピーとも言えるんだよなァ。
兄弟姉妹でも顔つきや血液型が違ったりするのは、
両親から貰う遺伝子情報が違うからだそうだ。
例外は一卵性双生児だけだって話だったっけか。
「よっC、ごめんね。折角のツーリングを台無しにして」
柴ちゃんは私に謝るけど、確か『敵討ちを頼む』って言ってなかったっけか?
敵討ちも何も、相手がVFRじゃどうしようもねーんだよなァ。
バリオス‐Uは問題外だし、いくらフェアレディZでも、
あのコーナーの多さじゃVFRに勝てるわけもねーってか。
「いいって事よ。柴ちゃんは早く治る事だけ考えてろよ」
だけど、あの赤いVFRに乗った奴って、いったい何者なんだろうなァ。
確かにVFRは最高峰のバイクなんだけど、あのテクニックも凄かった。
まるで、VFRを自分の身体みてーに乗りこなしてたもんなァ。
- 110 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/03/02(木) 22:47
- 次の日の夜の事だった。私に矢口さんからメールが届いた。
そこには例のVFRの情報が得られるHPのアドレスが添付されてる。
私はケイタイじゃなくてパソコンから、そのHPを覗いてみた。
そこには例のVFRが写った画像が貼られてるじゃねーか。
「乙女峠では『真紅の隼』と呼ばれてる。・・・・・・か」
『真紅の隼』だろうが『紅の豚』だろうが私の知った事じゃない。
柴ちゃんの仇と言うより、私には奴のとった仕草が許せなかった。
勝てると判ってる二百五十のバイクを挑発した挙句に事故らせて、
指を振りながら薄ら笑いすら浮かべてやがったっけ。
柴ちゃんが怪我してたから、どうしてもそっちが優先だったけど、
今度逢ったらタダじゃおかねーってんだ。
「よっC、何か真剣だべねえ」
誰かと思ったらなっちかよ。このところ忙しそうだなァ。
まァ、なっちにしてみれば、全く関係ない話だろうけどよ。
私にとっては重大な事なんだよなァ。
柴ちゃんの仇であると同時に、まじで舐めた真似しくさって。
とっ捕まえてヤキでも入れねー事には腹の虫が収まらねーよ。
まァ、殺しはしねーよ。腕の一本でもへし折らせて貰うかなァ。
「柴ちゃんを事故らせた相手だよ。こいつが」
なっちは唇を尖らせながら、画面を食い入るように見詰めた。
風呂上りのなっちか・・・・・・。石鹸のいい匂いがするぜ!
色白の頬が紅を差したように色付いてるじゃんか。
気が付いたら、なっちに抱き付いて首の匂いを嗅いでた。
- 111 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/03/02(木) 22:47
- 「VFRだべか・・・・・・。って、くすぐったいよ」
そういえば、VFRは美貴ちゃんが私を轢き殺そうとしたバイク。
勿論、美貴ちゃんのは四百CCだから、真紅の隼とはわけが違う。
総排気量七百八十一CC水冷V型ツインカム四気筒エンジンだからよ。
こんなモンスターバイクに勝てるわけがねーっての!
「やっぱり排気系をカスタムしてるなァ」
バイクもクルマも、まず改造は排気系からスタートするって話だ。
違法じゃねー限り、改造する事に問題はねーんだよなァ。
エンジンは水の流れと一緒で、排気をよくしてやると吸気もよくなる。
早い話がマフラーの中身を取っちまえば、エンジンにとっては最高。
だけど、それじゃ凄まじい音が出ちまうから車検ギリギリのものを選ぶ。
「それ以外には、外観じゃノーマルだべさ」
VFRはツインカムで発熱量が多いから水冷式なんだよなァ。
そういえば、最近は水冷式のバイクも増えたんだけどね。
・・・・・・確かにVFRはモンスターマシンだけど重いんだよなァ。
でも、スピードが出れば、多少の重さなんか関係ねーってか。
「なっちさん。オレのバリオス‐Uで勝てないかなァ」
「うーん・・・・・・。スーパーチャージャーを着けても無理っしょ」
スーパーチャージャーってのは、零戦に使われてた方式だったっけか?
エンジンのファンベルトを使って無理矢理吸気させちまう方法。
無理に吸気させられたエンジンは、それだけ高回転になるんだよなァ。
ちなみにターボってのは、排気筒にファンを着けて吸気と連動させる仕組み。
- 112 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/03/02(木) 22:48
- 「それなら大型自動二輪免許を取って勝負するまでよ!」
向こうがVFRなら、こっちはBMWで対抗してやろうじゃねーか。
V型エンジンと水平対抗エンジンの勝負ってわけだなオイ!
同じ条件なら、ピストンの自重が掛からない水平対抗が有利だぜ。
麗奈のオヤジの会社で、BMWは手に入らねーかなァ。
「短絡的だべさっ!」
なっちは呆れた顔でベッドに座った。
確かに大型バイクで勝負しようってのは短絡的だなァ。
でも、普通自動二輪でVFRに勝てるバイクなんてあるのかよ。
世界のHONDAが最先端の技術で造ったマシンだぜ。
「どう考えてもVFRには勝てねーじゃん」
「勝負を諦めるのが一番っしょ?」
「そうは行かねーんだよっ!」
バイクでの勝負はクルマと違って、どちらかが必ず怪我をする。
免許を取りたての私が、どう頑張ってみても勝てるわけがねー。
外科医ってのは五体満足じゃねーと仕事にならねーしなァ。
でも、ここで逃げたら女が廃るってもんじゃねーのか?
「まじでやるんなら、まず矢口に相談するべさ」
矢口さんに相談? そういえば、矢口さんはバイクに詳しいよなァ。
でも、矢口さんって、オフロードバイク専門じゃねーのかァ?
ダートコースだったら無敵かもしれねーけどよォ。
乙女峠ってのは全部アスファルトで舗装されてるじゃねーか。
- 113 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/02(木) 22:49
- 次の日は雨だった。だから私は愛車のフェアレディZで通学。
近所のコインパーキングに停めて、大学で午後四時まで講義を受ける。
それから矢口さんと待ち合わせた渋谷のファミレスへ向かった。
矢口さんは広いテーブルに地形図とノートを広げて、
何やらノートパソコンに打ち込んでるじゃねーか。
「悪い! 待たせちまった?」
「ううん。オイラもさっき来たばかりだから」
そう言うが早いか、矢口さんはケイタイを取り出して電話を始めた。
その間、私はテーブルに広げられた地形図を眺めてみる。
どうやら、この地形図は乙女峠付近のものみてーだなァ。
いったい矢口さんは、こんなもんで何をしてたんだろう。
「それじゃ、これから行くから宜しくね」
矢口さんは思い詰めたように、そう言って電話を切ると、
地形図を丸めてノートパソコンと一緒にバッグに入れた。
オイ! 私はまだ何も注文してねーっての!
これからどこに行くって? 私を飢え死にさせようってのかァ?
「テイクアウトを頼んであるの。詳しくはクルマの中で」
矢口さんはそう言うといきなり席を立って、
チョコチョコっと走って行って支払いを済ませる。
そしてテイクアウトの箱を貰ってニッコリと微笑んだ。
まァ、どうでもいいけどよ。食い散らかさねーでくれよ。
私のクルマは食堂車じゃねーんだからよ。
ところで、テイクアウトの中身は何かなァ。
- 114 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/02(木) 22:49
- 「カーナビに住所を入れて。横浜市泉区・・・・・・」
助手席に座った矢口さんは、やっぱり物凄く小さく見える。
なっちも小柄だと思ってたけど、まじでそれ以上じゃねーか。
目的の場所は矢口さんの家の近所みてーだなァ。
ここからだと、東名を使った方が早いみてーだぞ。
「好きなものをどうぞ」
「そんじゃ、空揚げ貰ったー!」
私は運転しながら空揚げを口に放り込んだ。
予想時間は一時間ちょっとだから、六時前には着きそうだなァ。
環八から東名に乗ると、もうワイパーは必要ない。
ポリマー加工されたフロントガラスは雨を弾いちまう。
スポーツタイプだからサスが硬くて揺れるけど、
フェアレディZの中は意外に静かなんだよなァ。
「『真紅の隼』に勝つ事なんだけどさ」
いよいよ本題に入って来て、私は次の言葉を待った。
矢口さんはいつになく、まじな声をしてるじゃねーか。
いつもみてーに、もう一個太陽があるような存在感がない。
私は耐え切れずにアイスコーヒーを一口飲んだ。
「知識、技術、マシンの三つが揃わなきゃ無理だからね」
知識? 東京医科歯科大の知識じゃ足りねーってのかァ?
まァ、技術ってもんは磨いて行くもんじゃねーの?
問題はマシンだよ。バリオス‐UじゃVFRには勝てねーっての!
- 115 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/02(木) 22:50
- 「まず、乙女峠を熟知する事。全部のコーナーのRと直線距離、勾配を頭に入れるの」
そういえば、相模湖畔の国道二十号で、えらくカッ飛んでる郵便屋がいたっけ。
たかだか九十CCのカブで、走り屋のソアラが追いつけなかったなァ。
その道路を何十回、何百回って走ってる内に、コーナーを全部憶えちまうんだ。
『このコーナーは六十キロなら曲がれる』なんて風に身体が憶えちまうんだろう。
「それがクリア出来れば、かなり有利に勝負が出来るなァ」
「違う。『真紅の隼』と同じ知識レベルに到達するだけ」
そいつは厳しいなァ。確かに『真紅の隼』は乙女峠を熟知してそうだからよ。
『真紅の隼』が勝負をかけるのは、大きく車幅のある右コーナーだったっけ。
前のバイクがアウトインアウトする時、素早く立て直してインから追い越す。
次は鋭角の左カーブだから、ここでみんな減速に失敗してコケちまうんだ。
「何で『真紅の隼』はコケないの?」
「シフトダウンと同時にダブルクラッチを使ってたわね」
ダブルクラッチはマニュアル車で使うテクニックだったっけ。
滑りやすい道では、シフトダウンと同時にアクセルをふかす。
そうすれば、ごく自然にギアチェンジが出来るって寸法だ。
矢口さんの話によると、柴ちゃんは一気にシフトダウンして滑ったらしい。
「そいつは高度なテクニックだぜ」
スムーズにギアチェンジするのは、かなり難しいもんだ。
オートマチックのクルマでも、ギアチェンジには反動があるもんなァ。
機械でもスムーズに行かねーのを人間がやろうってんだからよ。
こいつは生半可なテクニックじゃねーぞオイ!
- 116 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/02(木) 22:50
- 「ダブルクラッチが出来ないと、乙女峠じゃ命取りだよ」
確かにブレ―キングはエンジンの回転を落とさないようにしねーと。
どんなバイクにもパワーの出る回転数ってもんがあるんだよなァ。
四速から三速へのギアチェンジはそうでもねーんだけど、
三速から二速まで落とすとなると、かなりふかさねーといけねーってか。
「乙女峠のコーナーとテクニックをマスターすれば、VFRに勝てる可能性があるよ」
ちょっと待てってばよ! いくら研究したとこでバリオス‐Uじゃ無理だっての!
VFR四百なら軽量な分だけ有利かもしれねーがな。相手は七百八十一CCだぜ。
しかも、ツインカムで凄まじいパワーを持ったバイクじゃねーか。
『マッドマックス』に出て来たカワサキのZ‐1000なら勝負出来そうだけどよ。
「よっCなら、あのじゃじゃ馬を乗りこなせるようになると思う」
じゃじゃ馬? まさか、額に星マークのある葦毛馬じゃねーだろうな。
サラの三歳なら乗った事はあるけど、それでも四百キロから馬重がある。
やっぱり、レースで頭角を現すのは四歳馬からじゃねーかなァ。
アラブ馬も好きなんだけど、もうレース自体がねーもん。
「じゃじゃ馬?」
そんな話をしてると、もう東名横浜インターに着いちまった。
ここからはカーナビ通りの道を通って行けばいいんだよなァ。
それにしても、カーナビってのは大発明なんだよね。
助手席で地図を見ながら唸る奴を見ないで済むってもんだ。
それにしても、じゃじゃ馬っていったい何の事なんだろう。
まさか、本当の馬なんかじゃないよね。ね?
- 117 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/03/02(木) 22:54
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また、入院しなければ、近日中に更新すると思いますので、
どうぞ宜しくお願い申し上げます。
- 118 名前:名無し 投稿日:2006/03/04(土) 13:49
- 更新乙です。
どうか、御体に気をつけて
こちらはいくらでも待ちますから。
- 119 名前:♀ ◆OaK4nRw27I 投稿日:2006/03/13(月) 21:05
- >>118
ありがとうございます。お陰さまで、このところ体調もいいようです。
おかしなもので、大量の薬を摂取しているせいか、持病の花粉症が全く出ません。
土筆を炒めて食べると花粉症に効果があるそうです。
花粉症で苦しんでいる方は、試してみたらいかがでしょうか。
- 120 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/13(月) 21:06
- 〔あゝ、乙女峠4〕
矢口さんの言った住所に着いたのは、もう夕闇が訪れる時間だった。
どうやら、クルマやバイクの解体工場みてーなもんが集まってる。
恐らく、ここで資源ゴミとして分類して破棄したり、
中古パーツを販売したりしてるんじゃねーのかなァ。
「そこの店がそうだよ」
こんな殺伐とした景色の中に、一軒のバイクショップがポツンと建ってる。
きっと、ここの経営者は廃棄処分になるバイクからパーツでも集めて、
走れるものとして売るような阿漕な商売でもしてるんだろう。
しかし、何で矢口さんがこんな店に縁があるんだろうなァ。
「ジジイ! 居るかー?」
相変わらず元気な矢口さんだけど、ジジイは言い過ぎだろう。
せめて『おっさん』とか『ヲサーン』みてーに呼べねーのかなァ。
矢口さんがフェアレディから飛び降りて店のドアを蹴ると、
中からヘミングウェイそっくりのじいさんが出て来た。
「相変わらず無作法な子じゃな。真里は」
私はクルマから降りると、雨の中を店の中まで走った。
店の中はコンクリートのタタキになってて少し寒い感じがする。
きっと、このヘミングウェイが吸うパイプの煙を逃がすために、
雀荘にあるくれー大きなファンが回っているせいなんだろうね。
こっちはオフィスといった感じで、机の上にノートパソコンがある。
その隣にはバイクショップにしては大きな作業場があるみてーだ。
- 121 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/13(月) 21:07
- 「よっC、その辺の椅子に座ってて」
矢口さんは奥に入って行くと、勝手にコーラとポテトチップを持って来た。
いったい、このヘミングウェイの正体は? 矢口さんとの関係は?
まさか、このヘミングウェイが矢口さんの彼氏だったりして?
しかし、どう見ても、こいつは七十近いじいさんだぞ。
「ほお、ボーイッシュだが美人じゃのう。真里の友達かい?」
「え、ええまあ。・・・・・・ところで・・・・・・」
オフィスの片隅にハーレーダビットソンが飾ってある。
かなりカスタムしてあるみてーだけど、こいつは動くのかなァ。
アメリカンバイクスタイルってのは、皮ジャンにサングラス。
ジェットヘルメットでシールドがクリアなのがポイントだよなァ。
「真里とはもう六年の付き合いになるかな」
このヘミングウェイに似たじいさんの話によると、
矢口さんはここでバイクを買ってメンテナンスしてるらしい。
そういえば、矢口さんはバイクの整備士免許も持ってたっけ。
・・・・・・って事は、矢口さんは高校時代からここに来てたんだ。
「真里にバイク整備を教えたのが、このわしなんじゃよ」
バイク整備ってのは、まずパンク修理から始めるそうだ。
アメリカンタイプのスポークタイプはタイヤの中にチューブがある。
チャリンコの修理と同じで、ゴムを宛がって穴を塞ぐ方法らしい。
バリオス‐Uみてーなホイルタイプのチューブレスは、
開いた穴に爪楊枝みてーなゴムを差し込んで接着するそうだ。
- 122 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/13(月) 21:07
- 「ジジイ、XJRのバンパー付きがあったろ?」
「この子に乗せるのか。そうだな。お前はもう峠攻めは・・・・・・」
「いいから!」
うっ! こんな矢口さんの顔、私は初めて見るぞ。
矢口さんが峠を攻めるのをやめたって事なのかァ。
何か訳アリって感じだけど、訊く雰囲気じゃねーぞ。
ところでXJRって、YAMAHAのマシンだったっけ。
YAMAHAのXJR‐400Rっていったら、かなりパワーのあるバイクだ。
HONDAのCB400SUPERFOURと同等のスポーツタイプじゃんか。
しかし、バンパーっていったら、どうも教習車を思い出して仕方ねーなァ。
「よっCは、XJRで乙女峠の全てを憶えるの」
矢口さんの話だと、まずクルマで走ってビデオを撮るらしい。
その後、歩きながら細かい部分の傾斜を測量してデータを集める。
それと矢口さんが作ったCGと合体させて研究するそうだ。
つまり、まずRを何キロで曲がれるかという分析。
それから具体的な作戦に移行するようだけどよ。
「でも、XJRなんかじゃVFRに勝てねーぞ」
「XJRは、あくまで身体で憶えさせる道具だよ」
そうか。それでバンパー付きなんだな?
このバンパーってのが、バイクを倒せるギリギリのライン。
それ以上、バイクを倒しちまうとタイヤが流れちまう。
とりあえず、XJRで体感させようって事なんだろうなァ。
それにしても、いくらバンパー付きでも四百CCクラスだろう?
私に扱えるかどうか自信がねーぞオイ。
- 123 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/13(月) 21:08
- 「XJRもオイラオリジナルのスーパーチャージャー搭載だから、
普通のVFRとは互角に勝負出来ると思うけどね」
スーパーチャージャー付きのバイクなんて聞いた事ねーぞオイ!
スーパーチャージャーっていったら、確か零戦のエンジンにも採用されてる。
ベルトドライブでタービンを回して無理矢理加給するんだよなァ。
つまり、エンジンを無理矢理に回転させるサディスティックなもんだ。
こいつがベルトじゃなくて排気ガスでタービンを回すのがターボチャージャー。
「真里、加給圧を調整しとけよ」
だいたい、スーパーチャージャーなんて重いからバイクに不向き。
でも、小さくしようと思ったら、それなりのもんを作ればいい。
矢口さんとヘミングウェイじいさんなら作っちまうだろうなァ。
スーパーチャージャーもターボも、そう難しいもんじゃねーからよ。
バイクのスーパーチャージャーなんていったら低加給圧で、
バンパーで重くなった部分を補う意味で付けたんだろうなァ。
「そうだね。とりあえず半分くらいでいいかな」
「だったら、XJRで勝負してもいいじゃんか」
「『真紅の隼』にXJRじゃ勝てないよ。絶対に」
何だろう。矢口さん、いったい『真紅の隼』の何を知ってるんだろう。
もしかして、矢口さんは『真紅の隼』の正体を知ってるんじゃねーのかァ。
それにしても、以前は矢口さんも峠を攻めてた事があったみてーだ。
まさか、オフロードタイプで峠を攻めたりしねーよなァ。
未舗装の峠だったら、さすがにオフ車じゃねーと無理だろうけどよ。
やっぱりフルカウルのレーサータイプじゃねーと無理だろ。
オフ車はアスファルトとの接地に限界があるんだったっけ。
- 124 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/13(月) 21:08
- 「だったら、いったい何で勝負するんだよ」
「・・・・・・よっCに見せたいものがあるんだ」
私に見せたいもの? まさか位牌なんかじゃねーだろうな。
位牌や遺影を見せられたところで、意気消沈しちまうだけだ。
どうせだったら、力の湧くようなもんが見てーよなァ。
矢口さんはそう言うと、私を連れて隣の作業場へ入って行く。
へえ、カワサキのZ400があるじゃねーかァ。
それと、こいつがバンパー付きのXJRだな?
ん? 奥にシートが被ったバイクがあるぞ。
「よっC、これが何だか判る?」
矢口さんは埃の被ったシートを取った。
アイボリーのカウルにブルーのラインが入ったバイク。
こいつは確か、YAMAHAのRZ‐250じゃなかったか?
環境汚染対策で、どこのメーカーもツーサイクルは造らなくなった。
かなり昔に、カッパが出て来るCMがあったような気がするぞ。
ツーサイクルエンジンは、燃焼オイルとガソリンを一緒に燃やすから、
有毒の排気ガスが出て、ちょっと環境に良いとは言えねーんだよなァ。
二百五十クラスじゃ、このRZ‐250が最後だったんじゃねーか?
「RZ‐250じゃねーの?」
「普通はそう思うよね」
普通も何も、こいつはRZ‐250じゃねーのかよ。
確かにRZ‐250は噴き上がりのいいエンジンだけどよ。
相手がVFRじゃ焼け石に水ってやつだよなァ。
待てよ。もしかしたら、これはRZ‐350かもしれねー。
- 125 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/13(月) 21:09
- 「今から二十五年くらい前に、YAMAHAはRZ‐350を発売したの。
でもさ、何で三百五十CCなんて半端になったと思う?
それはね。四百CCだとパワーが有り過ぎたかならんだ」
そういえば、RZ‐350はナナハンキラーって呼ばれてたらしい。
その凄まじい加速で、ナナハンでもブッちぎったって話だ。
でも、もう当時の加速なんて出ねーだろう? 四半世紀も経ってんだからよ。
バイクのエンジンってのは、どれだけ回転したかによって寿命が決まるんだ。
「だけど、四百CCのエンジンも試作されてたんだよね」
試作? そうか。元々RZ‐350はRZ‐400で考案されたんだろうな。
でも車重の割にエンジンのパワーが凄すぎて自主規制したんだろうね。
だいたい大型バイクを超える速度を持つエンジンに対して、
ブレーキやシャフト、最終的にはフレームまで追い付かなくなったんだ。
「これが幻のRZ‐400なんだよ」
「あ、RZ‐400・・・・・・」
本来RZ‐350でもナナハンキラーと呼ばれた凄いバイクなのに、
RZ‐400になるとどれだけすげーのか想像もつかねーよなァ。
たった五十CCの違いなんだけど、それが大きく影響するらしい。
しかし、こんなお宝は、いったいいくらの値がつくんだろうね。
「オイラの祖父がYAMAHAのエンジン開発主任だったの」
凄まじいパワーの四百CCのエンジンは破棄されたらしいけど、
技術主任だった矢口さんのおじいさんは破棄されるのが嫌で、
一個だけエンジンを持って来て自宅に保管してたらしい。
- 126 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/13(月) 21:10
-
「わしの上司じゃった」
その後、おじいさんは亡くなってしまったそうなんだけど、
高校生になった矢口さんは、このエンジンを偶然に発見。
このヘミングウェイじいさんと一緒にパーツを集めて作ったそうだ。
試作エンジンといっても、しっかり検査は合格してるもんだから、
矢口さんは物凄い逸品を手にしたって事になる。
「一応、RZ‐350として車両登録してあるから公道も走れるんだ」
矢口さんは排気系を改造して、混合気を調整するコンピュータを取り付けてた。
ツーサイクルエンジンってのは、どうしても不完全燃焼するのがロスになるからなァ。
混合気のバランスと着火ポイントをコンピュータで制御出来れば鬼に金棒だぜ。
何でも一週間に一回は、ヘミングウェイじいさんがエンジンをかけてるらしい。
そうじゃねーと、キャブがやられちまって走らなくなっちまうからなァ。
「こいつはオイラじゃ扱えないモンスターマシンだよ」
そういえば、ちょっとカウルの形状が妙だよなァ。
前から風を当てた場合、揚力が逆に効くようになってるぞ。
つまり、このバイクは前輪を地面に押し付けるような感じ。
バイクは後輪が駆動するってのに、何でこんなカウルにしたのか。
「運動神経の良さそうな子じゃな。きっと乗れるようになるじゃろ」
ヘミングウェイじいさんは、パイプに火を点けながら言った。
こいつはどうやら、もう後戻りが出来そうな状態じゃねーなァ。
しかし、こんなお宝をオシャカにしちまったら大損害じゃねーか。
相手はVFRだぞ。カローラでポルシェに挑むのと同じ感じ。
- 127 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/13(月) 21:11
- 「明日、オイラがXJRをよっCの家に届けるから」
そう言うと矢口さんは、作業場の隅をゴソゴソを漁り出した。
矢口さんが重そうに引き摺り出したのは、見た事もねー服だった。
そして、今度はそれを私に装着し始めたじゃねーか。
金属と樹脂で出来たリハビリで使うような妙なもんだった。
「このプロテクターを使えば、派手に転んでも大丈夫だなァ」
どうやら内側に衝撃を吸収する素材を使ってるらしい。
また、どうやっても無理な姿勢にならないように出来てるんだ。
ちょっと首が不自由な感じだけど、これなら思い切り転がっても平気。
こいつは人間の間接を徹底的に研究してある装具だぜ。
「判ってると思うけど、雨の日だけは無理しないでね」
雨の降り始めは、道路上の埃やオイルで物凄く滑りやすくなる。
本格的降ったら降ったで、今度はアスファルトとタイヤの摩擦が少なくなっちまう。
そんな状態で高速走行したら、いわゆるハイドロプレーニング現象が起きる。
逆に言えば雨あがりで路面が乾いた状態こそが最高なんだよなァ。
もっとも、砂が浮いてたりする場合もあるから要注意なんだけどよ。
「まずは身体で憶えろってか?」
とりあえず、昼夜問わずに乙女峠を走ってみようじゃねーか。
面白いもんで、昼と夜とではコーナーの見え方が違って来る。
それでも地殻変動でも起きねー限りは同じコーナーなんだよなァ。
身体で憶えるってのは、いい言葉じゃねーかよオイ!
理科系で体育会系の私は、かなり珍しい存在なのかもしれねーなァ。
- 128 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/13(月) 21:13
- 今日のところは、このあたりで失礼致します。
また近い内に更新する予定ですので、宜しく申し上げます。
- 129 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/25(土) 13:18
- 〔あゝ、乙女峠5〕
それから私と矢口さんは別々に行動した。
私は梅雨の天気の合間を見計らって乙女峠を走る。
矢口さんは徒歩で乙女峠を歩きながら何やら書き込んでた。
本来、私は順応性が高いのか、このXJRにも慣れて来た。
スーパーチャージャーのスイッチを入れると物凄い噴き上がり。
四百CCということもあって、直線はご機嫌なスピードが出る。
しかし、やっぱりバイクってのはブレ―キングが命なんだよなァ。
「ヤッホー! 矢口さん」
「よっC、調子はどう?」
たまたま出逢った矢口さんに声を掛けてみた。
今日は珍しく、YAMAHAのTW225に乗ってる。
まァ、スポーツタイプだけど、燃費優先のモデルかなァ。
あのヘミングウェイじいさんのとこのバイクみてーだけど、
こんなパワーの無いのじゃ、一緒に走る事も出来やしねー。
「まァ、感じは掴めたけどね」
「ふーん、それじゃちょっと走ってみようか」
「そのバイクで?」
「うん」
よっしゃー! よっC様の走りを後ろから見てろってんだ。
いくら何でも二百二十五CCじゃ、XJRに負い付けるわけがねー。
おまけに、こっちにはスーパーチャージャーが付いてるんだからよ。
バイクの経験は矢口さんの方が上だけど、マシンの性能が違うっての。
コーナーは苦手だけど、直線でぶっちぎってやろうじゃねーか!
- 130 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/25(土) 13:19
- 「へっ?」
確かに直線でスーパーチャージャーを使って離したはずなのに、
矢口さんは右カーブでアウトに膨らんだ私のインから抜いてった。
その後、直線で背後まで迫れるけど、コーナーであっさり引き離される。
下り坂になったら、もう矢口さんのスピードについて行けねー。
「そ・・・・・・そんな馬鹿な!」
私が必死になって追い駆けて行っても、もう矢口さんの姿は見えなかった。
何とか麓まで降りると、矢口さんはチェーン脱着所にバイクを停めてる。
私は矢口さんの横にバイクを停めてヘルメットを脱いだ。
信じられるかよ。スーパーチャージャー付きのXJWがTW225に負けるなんてよ。
「ごめん。ついついマジになっちゃった」
矢口さんは例の如く右目を細めて笑うけど、このTW225はどういったカスタム?
スーパーチャージャーとターボチャージャーでも付いてるんじゃねーの?
だいたい、下りはR五十もねー右カーブを百キロ以上で曲がってたぞ。
どれだけバイクを傾ければ、あんなに速く曲がれるんだっての!
「な、何であんな走りが出来るわけ?」
私には、そう言うのが精一杯だった。
いくらバイク歴があっても、あの走りは尋常じゃねーよ。
しかもコーナーの途中で、私のインから抜いて行ったもんなァ。
矢口さんはオフロードタイプのバイクだけじゃなかったんだ。
しかし、これだけの腕があっても、あのRZ‐400は扱えないのか。
いったい、どんなモンスターマシンなんだよ!
- 131 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/25(土) 13:20
- 「パワーの無いバイクは、コーナーで抜く事しか出来ないんだよ」
矢口さんが言うには、コーナーで内回りをして相手の前に出て、
その後はコースを渡さないようにするんだとか。
それと、高速コーナーリングは、尻をずらして体重移動するらしい。
もはや、タイヤの扁平率と勘の勝負って事になるよなァ。
「って事は、このTWはノーマル?」
「まさか。排気系と加給圧を弄ってあるよ」
試しに乗ってみたけど、私にはこのTWでXJRを抜くなんて不可能。
こんなにパワーの無いバイクで、よくあれだけの走りが出来るもんだ。
確かに矢口さんの方が小さくて軽いし空気抵抗も少ねーけどよ。
でも、矢口さんはこれだけの腕があって、何でオフ車しか乗らねーんだろ。
「ねえ、矢口さん。何でオフ車しか乗らないの?」
私は何気なく訊いてみたんだけど、矢口さんは一瞬だけ凍りついたような顔をした。
思わず私が凝視すると、矢口さんは普段の笑顔に戻ってたんだけどね。
さっきまでは晴天だったのに、どういったわけか雲が出て来たじゃねーか。
こいつは一降りありそうな気配だぜ。どこかで雨宿りでもしねーとなァ。
「降って来そうだね。この先の食堂に避難しようか」
そういえば柴ちゃんが言ってたっけか?
乙女峠を越えたところに豆腐料理屋があるって。
この流れの速い雲の感じだと夕立かなァ。
夕方には晴れそうな気がするのは私だけ?
私の前を走る矢口さんは、TWに乗ってても小さく見えた。
- 132 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/25(土) 13:21
- 豆腐料理屋は目立った看板もなくて、ちょっと寂れた感じ。
それでも中は明るくて、老夫婦と嫁らしき人が動き回ってた。
事情通の矢口さんが言うには、この豆腐料理屋は穴場らしくて、
かなり遠方からも食べに来る常連客がいるそうだ。
「腹も減ったし、おまかせの豆腐料理でも食うかなァ」
豆腐は高蛋白低カロリーで、日本人には合った食い物なんだ。
平日って事もあるけど店は空いてて、私達の他は別のライダー達だけ。
それもそうだよなァ。こういった店にはカップルで来るところじゃない。
葬式や法事の会場としては、かなり合った場所だと言えるけどよ。
「よっCの未熟なところは、ニーグリップとクラッチ操作だよ」
ううむ。鋭いところを突いて来やがるぜ。さすが矢口さんだ。
バイクを安定させるには、何をおいてもニーグリップなんだよなァ。
それとダブルクラッチだけど、いくらやっても難しい。
回転数を落とさずにギアを入れるんだけど、そこが上手く行かねーんだよなァ。
「それと、バイクを身体で傾けようとしてる。違う?」
「違わねーけど、バイクって身体で傾けるんじゃないの?」
「基本的にはね。でも、ハンドルを使えば、もっと簡単でしょ?」
そうか! バイクってのは右にハンドルを切ると左に傾くんだ。
それを事前に考えて体重の移動を考えてやればいいんだな?
更に傾けないといけない場合、尻をずらして膝で支えるのか。
矢口さんが言うには、柴ちゃんがこれで転んだらしい。
百キロ以上のスピードが出てないと、尻をずらすのはかえって危険。
理論と実技がコラボレーションして、初めて峠を攻められるようになるんだなァ。
- 133 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/25(土) 13:21
- 「そういえば、昨日も『真紅の隼』が出たらしいぜ」
「まじかよ。あいつに煽られたら、道を譲るしかねえもんな」
三人のライダーが豆腐料理を食いながら『真紅の隼』の話をしてる。
どうやら、こいつ等は『真紅の隼』について詳しいようじゃねーか。
いったい『真紅の隼』って何者なんだ? 何で乙女峠に出るんだよ!
気が付いたら、私は一人のライダーの胸倉を掴んでた。
「おい! 『真紅の隼』って何者なんだよ!」
「なななな・・・・・・何ですか。いきなり」
びびりまくるライダーを突き放すと、私は三人の席に座って話を訊いた。
『真紅の隼』が出没するようになったのは、この半年くらいの事らしい。
その神業とも言えるテクニックには、これまで誰も勝った事がねーそうだ。
後は性別不明・年齢不詳。ただ、身長が百六十センチくらいって話だから、
もし男だとしたら、かなり小柄な奴だって事だよなァ。
「『真紅の隼』と勝負しない方がいいっすよ。これまで何人も怪我人が出てるし」
怪我人? そんなもん、うちの病院に行けばゴロゴロいるっての。
怪我が怖くてバイクに乗れるか? テメエらキンタマ付けてるくせによっ!
「VFRに悪魔的なテクニック。敵うわけがないっすよ」
そこまで言われたら、私の性格からして絶対に勝負したくなっちまう。
東京医科歯科大の試験会場に棲む魔物とも、私は真っ向から戦ったんだ。
相手が人間なら尚の事、私は絶対に柴ちゃんの仇を討つ!
勉強はなっちが面倒をみてくれた。バイクは矢口さんが面倒をみてくれる。
外科医の卵を舐めんじゃねーって事を『真紅の隼』に判らせてやろうじゃねーか。
- 134 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/25(土) 13:22
- 「『真紅の隼』か『紅の豚』か知らねーけど、このオレが潰してやるよ」
安請け合いした事を、ちょっぴり後悔したけど、まァいいや。
どっちみち、いつかは『真紅の隼』を退治しねーとなァ。
なーに、殺しはしねーよ。手足の一本でもへし折らせて貰うまでよ。
その前に練習が必要だよなァ。富士スピードウェイの開放日にでも行ってみるかな。
「よっC、料理が来たよ」
矢口さんに呼ばれて私は自分達の席に戻った。
おおっ! こいつが豆腐尽くしってやつだな?
豆腐サラダに胡麻豆腐、茶豆腐、あんかけ豆腐、
そして揚げ出し豆腐に豆腐の味噌汁で終わりか。
おっと、デザートには杏仁豆腐が出て来やがったぞ。
「なァ、矢口さん。オレなら『真紅の隼』に勝てるかなァ」
本当に何気なく訊いたんだけど、矢口さんは箸を止めて俯いた。
そういえば、さっきも凍りついたような顔をしてたじゃねーか。
もしかして、矢口さんは『真紅の隼』を知ってるんじゃねーの?
いや、こいつは何かワケアリって感じなんだけどよ。
「今のよっCなら百パーセント無理。でも、よっCには素質があるのよ」
百パーセントとは断言してくれたもんだなァ。
でも、矢口さんにですら追いつけなかったわけだし。
そうか! 矢口さんは自分では勝てない事を知ってる。
だから私に期待するんじゃねーのかなァ。
でも、こいつは気になるぞ。帰ったらなっちに訊いてみよう。
- 135 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/25(土) 13:23
- 雨が止んだのは午後五時過ぎ。だから私が家に着いたのは七時近かった。
これから一風呂浴びて、院内学級の方を手伝わねーとなァ。
なっちは相変わらず、右往左往する毎日。ったく学習性がねーなァ。
もう入院患者だけだってのに、昼間の障害児教育の日誌を書いてる。
先生って仕事は、こんなに大変なんだなァ。
「ひとみさん、この問題なんだけど」
小春が数学の教科書を持って来た。
公約数と公倍数じゃねーか。こんなもん簡単。
九九が出来れば、誰だって出来る問題じゃねーか。
整数の公約数なら両方で割り切れる数字って事。
「やり方が判ったら、自分で問題を作ってみな」
数学を理解するには、まず自分で問題を作ってみるに限る。
そうすりゃ、嫌でも実力が着いて来ちまうもんなんだ。
ここに、その生き証人がいるんだから間違いない。
公約数は素数が出ちまったら、そこで約分出来なくなる。
素数っていったら、1・3・5・7・11・13・17・19なんかがそうだ。
偶数は必ず2で割り切れるし、末尾が0か5なら5で割り切れる。
数字を全部足した数が3の倍数なら3で割り切れるんだよなァ。
「重水素と三重水素を核融合させるために必要なプルトニウムの量は?」
えりか? 何で核融合に興味なんて持ってるわけ?
プルトニウムをプラズマ化させる必要があるから、
かなり熱量の多い火薬を使う必要があるんだよなァ。
C4プラスチック爆薬1ブロックだとプルトニウムが・・・・・・。
- 136 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/25(土) 13:24
- 「重水素と三重水素は作れてもなァ。プルトニウムは絶対に手に入らねーから安心しろ」
理論的に考えて、スーツケースに入る大きさで核爆弾が作れる。
ただし、プルトニウムの放射線から身を守るには二十キロ近い鉛が必要。
プルトニウムをプラズマ化させるだけのC4爆薬があれば、
後は重水素と三重水素を密閉して固定すればいいんだよなァ。
そのスーツケース一個だけで、広島型原爆の数十倍の破壊力を持つ。
人間ってのは、平和利用には絶対に優先なんかしねーよなァ。
「・・・・・・放射性物質を集めてプルトニウムの代わりにするとか」
「ラジウム掘ってみるかァ? その前に被爆死するっての!」
待てよ。底引き網漁船をチャーターして日本海を漁ればどうだ?
旧ソ連とか中国の沈没原潜や、核廃棄物が見付かるかもしれねーぞ。
そうしたら、プルトニウムは勿論、重水素と三重水素まで付いて来る。
日本で核爆弾を製造するのって、意外に簡単なのかもしれねーなァ。
「日本海の排他的経済水域外なら、核爆弾の原料がゴロゴロしてるかもしれねーけどな」
日本の原発なんて警備が甘いから、冷却水の取水口を壊しちまえば物凄い事になる。
季節風を考えて原発をメルトダウンさせれば、チェルノブイリ以上の大惨事だろう。
同時多発でやられた日には、日本なんて全滅するくれーの事になっちまうだろうなァ。
メルトダウンの二次被害は、貯水林の木々や生物まで死滅させちまう事だ。
木々が枯れて大雨でも降れば、各地で大規模な土砂災害が発生しちまう。
「核兵器、日本も持つべきだよね」
日本が核兵器? 『持たない。作らない。持ち込まない』の三原則はどうなった?
日本は核兵器なんて持ってはいけない。核兵器を迎撃する武器を持つべきなんだ。
- 137 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/25(土) 13:24
- 「いくら北朝鮮が核開発しても、日本は持つべきじゃねーだろ」
核に核で対抗すれば、冷戦時代と同じ事になっちまう。
経済不況のロシアにしても、バブルを全土に広げたい中国にしても、
北朝鮮なんて足枷にしか過ぎねーんだよなァ。
六ヶ国協議で中国とロシアが北朝鮮に背中を向けたとしたら、
内戦が起きるか自滅しちまうってくれーの国なんだ。
核兵器の放棄と拉致問題の誠意ある対応、話はそれからだ。
「ところで、劣化ウラン弾は核兵器にはならないの?」
再処理不能にまで劣化したウランを、アメリカは対戦車砲弾として使用した。
セラミックを使った複合装甲には、昔ながらの徹甲弾が威力を発揮する。
だけど、昔の戦車みてーに装甲が薄くないから、強力な弾頭が必要なんだ。
硬い外枠の中身に比重の重い劣化ウランを入れれば貫通力が増すって話だ。
「核兵器とまでは言えないけど、中身はウランだから被爆する」
だから、限りなく灰色の兵器って言っていいんじゃないかな。
大量殺戮兵器じゃねーけど、放射性物質を使ってんだからよ。
いわば日本国内のエアガンにしても、あれで金属球を撃てれば立派な鉄砲。
「そういえば、湾岸戦争では米国軍兵士が被爆したんでしょう?」
敵の戦車を撃破すりゃ、次は歩兵が占領に来る。
この時、歩兵が劣化ウランの放射線を浴びて被爆した。
当然ながらイラク軍兵士も被爆したんだけど、
勝てば官軍の諺通り、米国軍兵士にしかスポットは当たらない。
日本は劣化ウラン弾なんか使うなよ。唯一の被爆国なんだからよ。
- 138 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/03/25(土) 13:25
- 今日のところは、このあたりで失礼致します。更新が遅くてすみません。
- 139 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/05(水) 13:05
- 〔あゝ、乙女峠6〕
就寝時間が近付いて院内学級の子供達が帰った後、
私は障害児の記録をチェックするなっちの横に座った。
なっちは黙々とボランティアの書いた日誌を読んで判子を押して行く。
院内学級の方は大した事じゃねーけど、通院の障害児の方が大変だ。
その日、三十人もの子供全員の顕著に表れた変化をマーカーペンで塗り、
それを小児科の医師に渡して明日の朝にチェックして貰う。
足りないところを補足して、明朝ボランティアに注意するのもなっちの仕事。
「まだかかる?」
「うん。何だべか?」
本当になっちは仕事熱心だよなァ。私だったら休憩ばかりしてると思う。
でも、これが『社会に出る』って事なんじゃねーのかなァ。
一応、小児科の医師が看板になってるけど、実際に動かしてるのはなっち。
応援のケースワーカーや看護師、ボランティアを指揮するのも彼女の仕事。
それでいて、自分からも積極的に子供と接するから、こんなに遅くなっちまう。
「矢口さんの事なんだけどさ」
「矢口? 矢口がどうしたんだべさ」
書類から眼を離さずに私と会話するなっち。
そんな他愛も無い事で、少しばかり不機嫌になっちまう私。
やっぱり、会話をする時は、相手の眼を見るのが普通。
それを『ながら』でやるのは、ちょっと失礼じゃねーのかァ?
なっちが忙しいのは判るけどよ。ちょっとムカッと来た。
こいつは少し脅かしてやって、なっちが驚く顔でも見てみよう。
そうだなァ。どんな事を言ってやろうか・・・・・・。
- 140 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/05(水) 13:06
- 「矢口さん、おめでただってさ。八月に結婚するらしいよ」
「ふーん、矢口がおめ・・・・・・・べべべべ・・・・・・べさァァァァァー!」
なっちの驚き様ったら、まるで子供みてーに飛び上がった。
可笑しい。こりゃ可笑しい。可笑しくて笑いが止まらない。
なっちは机の上のケイタイを取ると、転びながら眼を剥いてる。
なっちがここまで動揺するのって、いつ以来だったかなァ。
「し、知らなかったべさ。矢口が・・・・・・矢口が・・・・・・」
なっちは泣き顔になって検索を始めた。
ここまで来たら冗談だって打ち明けるしかねーな。
矢口さんに電話されちまったら私が怒られるからよ。
私はなっちのケイタイを取り上げて机の上に置いた。
「冗談だよ」
「じょじょじょじょ・・・・・・冗談?」
まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして私を見るなっち。
親友の矢口さんが妊娠したなんて聞いたら驚くのも当然だぜ。
私だって梨華ちゃんや柴ちゃんが妊娠したなんて聞いたら、
それこそ腰が抜けるくれー仰天するだろうなァ。
「脅かすんじゃないべさァァァァァァー!」
「なっちさんが、なかなか話を聞いてくれねーからだろうが」
私は罪滅ぼしにコーヒーを煎れてなっちに渡した。
少々、機嫌が悪いみてーだったけど、私を無視しやがったんだからよ。
でもまァ、冗談にしちゃ悪乗りし過ぎたかもしれねーなァ。
- 141 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/05(水) 13:06
- 「それで? 話って何だべさ」
「ああ、例の『真紅の隼』の件なんだけどさ」
首を傾げたなっちの様子じゃ、こいつは何も知りそうにねーなァ。
そういえば、矢口さんは高校時代の話をしたがらなかったっけ。
なっちなら何か手掛かりになるような事を知ってるかもしれねー。
なっちはとろいから、それが直接『真紅の隼』に繋がるとは思ってねーかも。
「『真紅の隼』っていえば、柴ちゃんを怪我させた奴っしょ?」
そうそう。柴ちゃんは順調に回復してるし、もうじき退院だ。
問題は美貴ちゃんだよなァ。まだ眠ってる事の方が多いし。
徳川先生の話じゃ、社会復帰するのは難しいかもしれねーそうだ。
「うん。実は矢口さんと『真紅の隼』の関係を知らねーかなァ。って思ってよ」
なっちは腕を組んで考え始めた。こうした真剣な顔もカッコイイ。
きっと、矢口さんと出逢ってからの記憶をスキャンしてるんだろう。
あれだけ頭のいいなっちだからよ。きっとCPUがフル回転してるはず。
・・・・・・あっと! なっちのCPUはセレロン300だったっけ。
で、でもメモリは・・・・・・PC‐100の32メガだった・・・・・・。
頼りになるのはHDDだけど色々詰まってるから、そろそろデフラグしねーとなァ。
「そうだべさっ! 矢口は牛乳が嫌いなんだべよ」
「へっ?」
牛乳が嫌い? これが何かの意味なのか? 牛乳が嫌い・・・・・・。ミルク嫌い?
ミルクギライ。見る釘雷。釘に雷が落ちたのを見た? どういった意味だろう。
落雷? 落雷の仲? そんなわけねーか。私の頭じゃ判らねー。
- 142 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/05(水) 13:07
- 「だから、矢口は牛乳を飲まないから小さいんだべよ」
「誰が矢口さんの牛乳嫌いの話を訊いたんだよっ!」
首でも絞めてやろうかと思ったけど、なっちは疲れてるんだな。
だいたい、全て自分で背負い込むから、こんな事になっちまうんだ。
もう少し、みんなで分担出来るようにしねーと倒れちまうぞ。
まァ、なっちの性格じゃ、譲れない部分も多いだろうけどよ。
「えーと、矢口の話だったよね。違ったべか?」
「矢口さんの高校時代の話だな」
再びなっちは腕を組んで考え出した。
今度はボケかましたりするんじゃねーぞ。
あまりにもくだらねーボケだったらソバットが入るから覚悟しろよ。
大丈夫。脳挫傷を起こしても、今日の当直医は脳外科の徳川先生だから。
「そういえば、矢口はあまり高校時代の事を話さないべね」
「訊いた事はあるの?」
「そりゃ親友だもん。訊いた事くらいあるべさ。でも・・・・・・」
「でも?」
「話したがらないのを無理に訊くのも悪くて」
なっちは優しい顔で、どこか済まなそうに言った。
いかにもなっちらしいじゃねーか。なっちってそういう人なんだよなァ。
人には二種類いて、他人の痛みを判る奴と判んねー奴。
なっちは他人の痛みを判る人なんだ。だから私は尊敬してる。
そうだよなァ。人に話したくない過去なんて誰にでもあるもんだ。
私にだって話したくない過去がある。特に梨華ちゃんの件。
挙句に美貴ちゃんに刺されて、本人は飛び降り自殺だもんなァ。
- 143 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/05(水) 13:08
- 「でも、何でそんな事を訊くんだべか?」
「実は・・・・・・」
私はなっちに、これまでの事を話してみた。
矢口さんをよく知るなっちなら、何か知ってるかと思った事。
そして、あの『真紅の隼』の話になると口数が少なくなる矢口さん。
私は矢口さんと『真紅の隼』が過去に何があったかは知らない。
例え知っていても、柴ちゃんの仇だけは絶対に討つつもりだ。
「そのアーネット=ホーストじいさんに訊いてみればいいっしょ?」
「ヘミングウェイだっての! そこまで無理にボケるなよ!」
いくらファーストネームが似てるからって、
K‐1選手と作家を一緒にするなっての!
ホーストとヘミングウェイ。かなり風貌が違うぞ。
片やテクニックで頂点を極めた格闘家の黒人。
片や行動派でノーベル賞に選ばれた気鋭の作家。
共通点はアメリカ人って事とファーストネームだけじゃねーか。
「そうだなァ。あのヘミングウェイじいさんに訊いてみるか」
日本でも開高健や落合信彦みてーな行動派作家はいるけどよ。
どうしても、ヘミングウェイみてーなバイタリティに不足してる。
ヘミングウェイは行動を執筆のステップにしてると思うんだよなァ。
だからこそ、命懸けの登山はするし、ハンティングもやったわけだ。
それがヘミングウェイであって、誰かが真似したところで、
決してそれが執筆の糧になるとは限らねーんだな。
それはそうと、どうやらヘミングウェイじじいなら何か知ってそうだ。
矢口さんのの居ないところを見計らって襲撃してみるか。
- 144 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/05(水) 13:08
- 翌日は土曜日だったけど生憎の雨。私はフェアレディで横浜に向かった。
やっぱり土曜日のせいか道も空いてて、八時に家を出たんだけど九時には着いちまった。
まだ『準備中』の看板が出てたけど、私は勝手に中へ入って行く。
タバコの匂いとオイルの匂い。そこは本当のモーターショップだった。
「まだ店は開けとらんぞ」
相変わらずマイペースなヘミングウェイじじい。
トーストとコーヒーを持って奥の方から出て来やがった。
私は椅子に座って脚を組み、正面からヘミングウェイじじいを見る。
それにしても、日本人だってのに本当にヘミングウェイに似てるなァ。
「朝早くからわりーなァ。ちょっと訊きてー事があってよ」
「真里といい、あんたといい、本当に礼儀知らずじゃのう」
そう言うとヘミングウェイじじいはカラカラと笑った。
そして椅子に座り、ベーコンが乗ったトーストを齧る。
もう七十歳近いと思うんだけど、こういった仕事のせいか、
身体の方は健康そうなじいさんだよなァ。
「あのスーパーチャージャーはすげーな」
「気に入ったかい?」
ヘミングウェイじじいはトーストを食べ終わり、美味しそうにコーヒーを飲む。
大して儲かっていねーような店だし、年金暮らしじゃ贅沢は出来ねーよなァ。
最近では、こうした店を利用する連中がいねーんだろうな。
バイクの性能だけに頼りきったライダーが多過ぎるのかもしれない。
違法改造しないで、バイクの性能を極限まで引き出すのには、
こういった信用出来る店ってのが必要なんだと思う。
- 145 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/05(水) 13:09
- 「なァ、じいさんよ。矢口さんと『真紅の隼』とは何があったんだ」
ヘミングウェイじいさんは、少し考えてから徐にパイプに火を点けた。
甘い匂いのする煙が立ち昇り、変色した裸電球へ向かって行く。
矢口さんの走りはオフロードのそれじゃなかったし、
何となく以前は峠攻めをしてたような言葉尻だったよなァ。
「お前さんが『吉澤』っていうのも、これは何かの縁かもしれんのう」
ヘミングウェイじいさんの話では、矢口さんが高校二年の時仲良しの後輩が出来たらしい。
矢口さんはその子を可愛がり、一緒にツーリングに連れて行ったりしていたそうだ。
その頃、このヘミングウェイじいさんの店に出入りしてた若い男性がいたらしく、
矢口さんと後輩は、その人へ密かな恋心を抱いていたのだという。
「おおっ! 話が面白くなって来たじゃねーか!」
国立大学を目指す矢口さんは、ついに後輩と彼について話し合う事に。
いくら矢口さんが秀才でも、バイクで走り回ってばかりいたら合格は不可能。
この店のこの場所で、矢口さんと後輩は掴み合い寸前の口論になったとか。
そりゃそうだろうなァ。憧れの彼を奪い合う女同士の戦いだからよ。
「そして、ついに・・・・・・」
「後輩がナイフを出して止めに入った彼を誤ってブスリ?」
「話を最後まで聞かんかゴルァ!」
矢口さんと後輩は、勝負して勝った方が彼を取る事にしたらしい。
場所は乙女峠、矢口さんがXJR400に対し彼女はVFR400。
その勝負したXJRが、バンパー&スーパーチャージャー付きのヤツらしい。
どっちも速いバイクだから、かなりデットヒートしたんだろうなァ。
- 146 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/05(水) 13:10
- 「勝負は初めから判ってたんじゃよ。真里が勝つってのう」
案の定、後輩の子は転倒して怪我をしたらしい。
矢口さんは義理堅いから、かなり複雑な心境だったと思う。
これで矢口さんと彼が結ばれれば、何も問題が無かったんだよなァ。
ところが、彼は矢口さんじゃなくて後輩の子を選んじまったそうだ。
「勝負だったんだろう? 何で矢口さんは文句をつけなかったの?」
「そういう娘なんじゃよ。真里は」
女の子にとって恋敵との戦いは熾烈を極める。
それを、あっさり身を引くなんざ浜っ子の鏡だね。
私が矢口さんの立場だったら、きっと二人を血祭りにするだろうなァ。
それとも、矢口さんは気が小さいって話だから、文句を言えなかったのかも。
「その男が『吉澤直樹』というのじゃよ」
「げげー! オレと同じ苗字じゃねーか!」
もしかすると、私の親類かもしれねーなァ。
でも、身近な親類で該当しそうな男なんていねーし。
まァ、『吉澤』なんて苗字は、そう珍しくはねーからよ。
『佐藤』や『鈴木』に比べたら、圧倒的に少数派だけどな。
「『真紅の隼』の正体は、恐らく紗耶香じゃろうな」
「そ、その紗耶香って人が矢口さんの後輩?」
私が訊くとヘミングウェイじいさんは、こっくりと頷いた。
それにしても、何で矢口さんは紗耶香さんの事を話さなかったんだろう。
確かに後輩に男を取られちゃ、いくら矢口さんでも話せねーってか?
- 147 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/05(水) 13:11
- 「以来、真里は峠攻めをしなくなって、オフローダ―になったんじゃよ」
矢口さんにそんな辛い過去があったとは・・・・・・。
それで乙女峠でのあの走りが出来たのか。
矢口さんの事だ。私情を挟み込みたくなかったんだろうな。
「それで矢口さんは、自分で勝負したくなかったのか」
「女の子同士じゃからのう。考えは単純でも心は複雑なんじゃろう」
話としては面白いんだけどよ。矢口さんが絡んで来ると話は別。
だけど、紗耶香さんは矢口さんと勝負がしたいんじゃねーかなァ。
もし、私が紗耶香さんの立場だったら、今度こそ勝って関係を修復したい。
何となく私と梨華ちゃん、美貴ちゃんの三角関係みてーな話だぜ。
「なァ、じいさんよ。オレが紗耶香さんと勝負してもいいのかなァ」
「これはお前さんのリベンジなんじゃろ? 真里とは別の話」
そうか。矢口さんは、もう紗耶香さんと勝負をしたくないんだ。
今更勝負をしたところで、人の心を変えられるわけじゃなし。
でも紗耶香さんは『真紅の隼』になって、矢口さんが現れるのを待ってるのか。
こうなったら、私は矢口さんの無念も背負って『真紅の隼』と勝負しようじゃねーか。
柴ちゃんと矢口さんの無念を背負う。その方が気合が入るってもんだぜ。
「明日からRZを使ってみたい」
「真里と相談するんじゃな。わしは預かってるだけじゃからのう」
そうか。それなら矢口さんの許可を取らねーとなァ。
でも、私にあのRZを制御する事が出来るんだろうか。
ちょっと不安だけど、まァ、何とかなるさ!
- 148 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/05(水) 13:12
- 今日のところは、これにて失礼致します。
- 149 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/23(日) 21:31
- 〔あゝ、乙女峠8〕
矢口さんは意外にも、すんなりRZに乗る事を許可してくれた。
その前に矢口さんのいる東京学芸大学に来て欲しいって話。
私は月曜日の講義が終わると、フェアレディで東京学芸大学へ行った。
場所は小金井だから、ほとんど隣町って感じだよなァ。
私がキャンパスへ入ろうとすると、警備員のオヤジに止められた。
「何の御用ですか? クルマの乗り入れには許可が無いとね」
「んだとゴルァ! オレは吉澤病院の・・・・・・」
「お医者様でしたか。これは申し訳ありません。どうぞ」
・・・・・・何だ? 医師ってのは、そんなにフリーパスなのかなァ。
確かに助手席には、実習で使う白衣を置いてあったけど。
まァ、いいや。教職員用の駐車場に停めちまおうじゃねーか。
えーと、矢口さんのケイタイに電話しないと。
私が矢口さんに電話して暫くすると窓をノックされた。
「よっC、よく入って来られたね」
「警備員がオレを医師と間違えたみてーなんだ」
「ああ、ここの教授は年配者が多いからね」
私達は苦笑しながら職員用の駐車場で少し話した後、
矢口さんの案内でキャンパスの中を歩いた。
大学四年になった矢口さんは、かなり有名人らしくてみんなから声を掛けられる。
かなりイケメンの男からも、矢口さんは丁寧に挨拶されてるじゃねーか。
もしかして、矢口さんって凄い人なのかもしれねーなァ。
だいたい、何でなっちと親友なのかが判らねーもん。
それにしても矢口さんは小さいなァ。
- 150 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/23(日) 21:32
- 「ここだよ。亀梨、出来たかよ」
「はい。こんな感じでいいっすか?」
そこは狭い部屋で、何かの研究室みてーだった。
大画面のパソコンには、3Dで何やら線が描かれてる。
かなりイケメンの亀梨って男をどかして、
矢口さんは画面に何やらドラッグアンドドロップした。
すると、驚いた事に線ばかりだった画面が絵になったじゃねーか。
「これが、午前十一時の感じかなー」
太陽の影まで取り込み、そこは完全に乙女峠になっている。
矢口さんは測量をして、更に地形図と照らし合わせて乙女峠を再現してた。
そこに理想的な走行軌跡と速度をインプットして行く。
こいつは本格的な峠攻めの研究になって来たぞ。
「ここが柴ちゃんの事故現場。拡大しようか」
そこにバイクの絵を置いて、どういった転び方をしたのかアニメーションにする。
そのアニメーションを別角度から捉えて、道路の傾斜を弾き出して説明してくれた。
確か柴ちゃんはタイヤが滑って、それがいきなりグリップし直したから転んだ。
矢口さんは、そう説明してくれたんだったよなァ。ここでスリップ?
「よっC、このコーナーは右に傾いてるじゃん。だから柴ちゃんは滑ったの」
そうか! フラットだと思ってたコーナーも、こうして見ると僅かに傾斜してる。
普通、コーナーってのは逆に傾斜してるもんなんだよなァ。
遠心力でスリップしないように設計されてるはずなんだけどよ。
こいつは業者の手抜きか、そうせざるを得ない状況だったんだろう。
- 151 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/23(日) 21:33
- 「ここが難しいコーナーだって事、よく憶えておくんだよ」
他にも複合カーブや勾配、傾斜等を細かく計算してあった。
VFRにとっての理想的な軌跡とRZの軌跡とは僅かに違う。
それは大きさや重さ、加速の性能が違うから当然だろうな。
RZの軌跡で計算すると、その走行距離が五千五百七十一メートル。
VFRだと五千七百十七メートルと百四十六メートルも差が出た。
「VFRと勝負出来るのは、この頂上付近しか無いね」
「何で?」
「RZは加速が凄すぎるの。カウルで押さえてあっても登り坂での急加速は危険」
矢口さんの話だと、セカンドあたりで急加速すると前輪が浮き上がっちまう。
つまりウイリーしちまうって話なんだけど、そんな事なんてあるのかなァ。
確かに登り坂になると、重心は後方に持って行かれちまうけどよ。
力学的に矢口さんの言う事は、正しいと言えば正しいんだけどね。
「フラット或いは下りなら、どんなに加速しても大丈夫」
「だったら下りで勝負すれば?」
「下りじゃVFRと変わらないよ」
古いツーサイクルの弱味で、エンジンブレーキの効きが悪いらしい。
コーナーの立ち上がりで引き離しても、次のコーナーでは接近される。
やはりVFRはホンダの技術を結集したモンスターマシンだなァ。
RZも凄いバイクなんだけど、いかんせん時代が違うから限界がある。
まして、相手は『真紅の隼』・・・・・・いや、紗耶香さんだからね。
とりあえず、どうやった練習方法がいいものなのか。
矢口さんは全てのデータをDVDに落として私にくれた。
これを家でシュミレーションしろってか?
- 152 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/23(日) 21:34
- 「そう簡単にRZは使いこなせない。オイラがXJRで伴走するよ」
矢口さんが伴走してくれたら、それこそ心強いってもんだなァ。
しかし、そろそろ卒論と就職に向けて忙しいんじゃねーのか?
それでも矢口さんは、この勝負の方を優先したいだろうなァ。
って、私が頑張らねーといけねーんじゃんか!
「あの、RZって、あのRZ‐250っすか?」
「うるせーな! どうでもいいだろーがヴォケ!」
イケメン亀梨を怒鳴り飛ばす矢口さん。
いくらイケメンでも矢口さんとは器が違うよ。
紗耶香さんの件、そう潔く身を引けるかね。
見た感じは小柄だけど、その器はでかいぞ。
「それじゃ、明日は天気よさそうだから、早速やろうじゃねーか」
「判った。オイラは明日の午後の講義が無いから、RZでよっCの家まで行くよ」
いよいよだ。いよいよ念願のRZ‐400に乗れる日がやって来たぞ。
じゃじゃ馬だって話だけど、このよっC様が乗りこなしてやろうじゃねーか。
ツーサイクルエンジンは、環境に良くねーんだけど噴き上がりがいいんだっけ。
何か河童が怒りそうな話だなァ。オイ!
「そこの色白でセクシーなホクロのあるカノジョ。これから暇?」
「暇なわけねーだろう! テメエはノブタでもプロデュースしてろ!」
胸倉を掴むと、亀梨は私の手首を握った。
へえ、こいつは何かスポーツでもやってた手だな。
上等じゃねーか。このよっC様を甘くみるんじゃねーぞゴルァ!
- 153 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/23(日) 21:34
- 「ぼ、暴力はやめよ。ね?」
「こっちは命張ってんだゴルァ!」
こんなひょろいのに負ける私じゃない。
バレーをやってると、いつの間にか全身に筋肉が付いちまう。
こういったナンパ男は、ちょっと眠ってて貰うとするかな。
私は左手で亀梨の襟を持って右下に引いた。
「ふへ?」
亀梨は一瞬で気を失って、その場に崩れ落ちた。
どうやら落ち癖があるみてーだなァ。
落ち癖があると、ちょっと脳に酸素が行かないだけで失神しちまう。
簡単な事だ。頚動脈を圧迫して脳へ行く血流を止めればいい。
窒息させるよりも、はるかに短時間で落とせる必殺技だ。
「矢口さん、こいつどうする?」
「放っておけば? それより、よっCの家まで乗せてってよ」
「なっちさんに用事?」
「っていうか、院内学級の見学」
薄情な先輩もいたもんだけど、まさか矢口さんが院内学級に興味があるとは。
そうか! 法律的な面で、どういった解釈が出来るのか研究するんだな?
そういえば、教員免許を持ってるのって、なっちしかいねーんだっけか。
ボランティアで来てくれてる石黒先生なんかは別だけどね。
「そうと決まればレッツゴー!」
矢口さんは元気溌剌だ。ポジティヴなのかもしれねーなァ。
- 154 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/23(日) 21:35
- 私と矢口さんが院内学級に来た頃には、通学の子達はみんな帰ってた。
だから入院してる子が勉強してるわけなんだけど、今日は平日には珍しく、
なっちがびびりまくる石黒先生が来て熱心に数学を教えてる。
飴と鞭とはよく言ったもんで、石黒先生の指導方法がまさにそれだった。
「∴ X=3」
「そう! 出来たじゃない。偉いわ。その調子!」
石黒先生に褒められた小春は、嬉しそうにニッコリと笑う。
どうも石黒先生の前だと萎縮しちまうけど、矢口さんは全く関係ない。
いつもの調子で明るく元気に、えりかや小春の頭を撫でた。
「ちわーっ! オイラ矢口真里っていうんだ。宜しくね」
「ほえ? 矢口? どうしたんだべさ」
矢口さんの声を聞いて、隣の部屋からなっちが出て来た。
「安倍さんのお友達?」と石黒先生に訊かれて元気に返事する矢口さん。
でも、その直後、なっちを見る矢口さんの表情に私は驚いた。
唇を震わせ、今にも泣きそうな矢口さんの顔。
・・・・・・そうか。矢口さんはなっちに甘えに来たんだ。
「矢口さん。勤務管理表は、そっちの部屋だよ」
ここはひとつ、なっちを貸してやろうじねーか。
あの『真紅の隼』が、矢口さんの恋敵だったんだからよ。
矢口さんもああ見えて、かなり気の小さい方だからなァ。
可愛い後輩であると同時に、憎い恋敵でもある紗耶香さん。
そして結果的に矢口さんは愛しい彼の両方を失った。
そんな想いがこみ上げて来るんだろうなァ。きっと。
- 155 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/23(日) 21:36
- 「吉澤、小学生の算数をみてあげてくれる?」
「は、はい」
どうも石黒先生には苦手意識があるんだよなァ。
えーと、小学生は梨沙子だったっけか?
梨沙子は図形になると、途端に苦手意識が出ちまう。
まァ、私も図形は得意な方じゃねーんだけどよ。
「ひとみさん、完全にお手上げなの」
「ホールドアップ? アハハハハ・・・・・・」
どうやら面積の出し方で困ってるらしい。
直方体の表面積の出し方なんて簡単なんだけどなァ。
学校の教科書じゃ、直方体をバラして説明してあるけど、
これがかえって理解しにくくしてるんじゃねーのかなァ。
「直方体っていえば、キャラメルの箱と同じだろ?」
「うん」
直方体になれば上面と下面、右面と左面、前面と後面が同じ面積。
つまり、上面×2+側面×2+前面×2が答えになる。
しかし、何で教科書は立方体から教えるんだろうね。
だって、基本的に立方体は一面×6っていう計算になるからよ。
「直方体に面は幾つあるんだ?」
ヒントを与えると、梨沙子は賢いから瞬く間に解いちまった。
図形を完璧にマスターするには、自分で問題を作るしかねーんだ。
私はなっちに教わった通り、梨沙子にも自分で問題を作らせてみた。
- 156 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/23(日) 21:36
- 「安倍式復習法ね? 自分で問題を作るのが一番よ」
石黒先生は、そう言いながらニッコリと笑った。
一時的に理解出来たとしても、それはすぐに忘れちまう。
だから自分で何個も問題を作ってみて他の人に解いて貰う。
そうする事によって、本当に憶える事が出来るんだよなァ。
「石黒先生。何で数学を勉強しないといけないの?」
うーん、いかにもえりからしい質問だなァ。
石黒先生は何て答えるんだろう。数学教師として。
裕ちゃんだったら「余計な事考えんでええんや!」で終わりだろうなァ
オールマイティみっちゃんだったら何て言うかなァ。
保田先生なんかは親切に教えてくれそう。
私がこんな質問したら、胸倉でも掴まれそうだけどよ。
「物理学や化学、天文学の基礎になってるからなの」
さすがは石黒先生だ。いい事言うじゃねーかオイ!
普通に生活する分には、数学なんて必要ねーもんなァ。
だけど、今やコンピュータの世界も数学なんだよなァ。
早い話がプログラミングの基礎は数学って事になる。
「それにね。数学っていうのは、とっても面白い学問なのよ」
数学の面白さってのは、自分で問題を作れるからなァ。
他の学問は、あくまで先人の発見したものを踏襲するしかない。
そうした点において、数学は一種の芸術と言っていいかもしれねーな。
創作出来るのは、音楽や美術に通じるところがあるからよ。
- 157 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/23(日) 21:37
- 「多角的なものの見方の学習にもなるしね」
文豪はみんな数学が得意だったって話は本当なのかな。
中には勢いで有名になった輩もいるけど、ほとんどが一発屋だもんなァ。
特に推理小説なんかは、計算され尽くしたものがないと面白くない。
コナンじゃねーけど、答えはいつもひとつ! なんてね。
「ところでひとみさん。再処理したプルトニウムをプラズマ化させるには・・・・・・」
「えりか! おめーはいい加減に核を諦めろっての!」
ったく、えりかは何で核になんか興味があるのかね。
冷戦時代にはICBM(大陸間弾道弾)をいかに迎撃するか研究された。
レーガン大統領は人工衛星から迎撃するスターウォーズ計画を推進したっけ。
それでも迎撃出来なかった分に関しては、航空機からミサイル攻撃するらしい。
長距離から高速で迎撃出来るのが、アメリカの誇るフェニックスミサイルだ。
「だって、実際に北朝鮮がテポドンを撃って来たら?」
テポドンだァ? アルフセインのコピーじゃねーか。
核ミサイルを発射出来るような根性は北朝鮮にねーよ。
仮に発射されても、韓国から日本の迎撃体勢は万全なはず。
「自衛隊と米軍のパトリオットミサイルで迎撃されるよ」
恐らく排他的経済水域近辺上空で迎撃されるだろうなァ。
ただし、その後は安保条約に基づく制裁措置として、
米軍四軍が徹底した報復作戦を採るに違いねーだろう。
核を使わないまでも、偵察衛星で得た情報で基地をトマホークで攻撃。
対空ミサイルを破壊した後にB‐52が平壌を爆撃するだろうなァ。
- 158 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/23(日) 21:37
- 「それじゃ、何で核開発なんてするの?」
そんなもん、六ヶ国協議で少しでも虚勢を張りたいからだろうが。
靖国神社参拝をやめて田中真紀子が訪中すれば中国は弱腰になる。
中国は面子の国だから、北朝鮮を無理にでも説得するだろうなァ。
ロシアにしても北朝鮮なんて最初から相手にしてるわけじゃねー。
ロシアが参加してるのは、あくまで北方領土問題があるからだ。
「核の平和利用は、エネルギー問題を克服するわ。でも・・・・・・」
「使用済み核燃料の問題があるんだよなァ」
アメリカは劣化ウラン弾なんて、第二の核兵器を平気で使った。
日本でも水力発電の稼働率が半分くれーだからよ。
その気になりゃ、原子力発電なんか今の三分の一で済む。
要するに補助金と癒着の問題。日本は唯一の被爆国だってのによ。
「何か社会科の授業になっちまったなァ」
「いいんじゃない? これは数学にも関係する事だし」
石黒先生は水力発電の実態を話し始めて数式に表した。
後進国が先進国に電力を売る事で、原子力発電は無くす事が出来る。
更に火力発電でもゴミを高温で燃やす方式を利用すれば、
ダイオキシンと二酸化炭素発生を減らせるんだ。
今や世界規模で考えないといけない地球温暖化。
「ダムの建設は、後進国の念願でもあるのよ」
ダムは発電するだけじゃなくて、洪水を抑止する手段でもある。
更に水の安定供給は、農業には必要不可欠なものだからよ。
- 159 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/04/23(日) 21:38
- 今日のところは、これにて失礼致します。
更新が遅くて申し訳ありません。
- 160 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/05/31(水) 20:36
- 〔あゝ、乙女峠9〕
あれから二日雨が続いて、私がRZに乗れたのは三日後だった。
矢口さんの話だと、かなりエンジンを高回転でふかしても、
コンピュータで最適な混合気を供給出来るように改造されてるらしい。
矢口さんはスーパーチャージャー付きのXJRに乗って伴走するそうだ。
こいつがRZ400かァ。思ったよりレトロな雰囲気。
それにしても、このカウルは妙な形をしてるじゃねーか。
私の知ってるRZは、こんなカウルじゃなかったような気がするぞ。
もっと、こう流線型というか、カッコイイ感じなんだけどなァ。
「矢口さん。このカウル、純正品じゃねーだろ」
「純正品だったら、このじゃじゃ馬がウイリーするよ」
カウルは複雑な形状で、上部は見事な流線型だけど下部は妙に弧を描いてる。
これって何だったけか? 物体が移動すれば前面から空気を浴びるよなァ。
飛行機の主翼は断面図だとカマボコ型をしてるんだったっけ。
主翼上部を流れる空気の量と、下部を流れる空気の量は同じはず。
でも、上部の空気は下部よりも長距離を移動するから気圧が低くなる。
つまり、航空機の主翼は気圧に引き上げられるって事なんだよなァ。
そうする事によって揚力が発生して機体が浮くって事だったっけか。
「そうか! こいつは航空機の逆だ!」
「アハハハハ・・・・・・。あったりー!」
RZ400はハイパワーの割に車重が軽いから、低速ギアで回転を上げると危険なのか。
特に登り坂の場合、車重のバランスが後方に来るから危険極まりない。
オフロード車でなら出来ても、こうしたバイクがウイリーしたらフェンダーに当たる。
その結果、仰向けにひっくり返るって事になっちまうんだよなァ。
- 161 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/05/31(水) 20:36
- 「ああ、もしもし? 無線は通じるね」
矢口さんとは無線で連絡を取り合う事にしてた。
このモンスターマシンがどんなもんか、この私が試してやろうじゃねーか。
とりあえず、慣らしてからじゃないと癖が掴めねーからよ。
どんなバイクでもそうだけど、最初は癖を知った方がいい。
「そんじゃ、オイラの後を着いて来てよ」
XJRも速いマシンだからなァ。何しろスーパーチャージャー付きだからよ。
XJRにバンパーがあったのは、ウイリーを防止する役目もあったみてーだな。
何しろ、あのスーパーチャージャーは物凄い加速だったからよ。
私はキックしてエンジンをかけ、RZに跨って矢口さんの発進を待った。
確かこのRZは五速までしか無かったよなァ。
「制限速度で行くからね」
乙女峠の制限速度は四十キロ。勾配を加味しても原付で出る速度だ。
私はクラッチを握り、ギアをローに入れてスタンバイする。
ネイビーブルーのマーチがタイヤを鳴らしながら走って行く。
私達は制限速度だから、そんなクルマには眼もくれず、
ゆっくりと走り出して行った。
「三千回転を超えないようにギアチェンジね」
いわゆる省エネ運転。三速に入れると、もう四十キロになってた。
ツーサイクルエンジン特有の金属音が、やけに耳について離れない。
柴ちゃんがすっ飛んだコーナーへ来ると、矢口さんはかなりバイクを倒す。
ここは逆勾配のコーナーだから、四十キロでも倒さないと曲がらない。
- 162 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/05/31(水) 20:37
- 「たった四十キロで、ここまで倒さないといけねーんだなァ」
「ここでのアウトインアウトは鉄則。間違えばすっ飛ぶよ」
このコーナーを曲がると、二百メートル近い直線に出る。
『真紅の隼』こと紗耶香さんは、ここで引き離しに来るだろう。
矢口さんが言うには、ここでは我慢。我慢しなきゃいけない。
なぜなら、ここはかなりの急勾配だから、急加速したらウイリーしちまう。
VFRのすぐ後ろを離れなけりゃいいって感じらしい。
空気抵抗が少なくなる分、気持ちだけ走りやすくなるそうだ。
「次のコーナーでは絶対に無理しないでね。油断するとガードレールに激突するから」
この右コーナーでも、まだ我慢しなきゃならねーって話。
バンク角度がきついから、あまり回転数を上げられない。
勝負が出来るのは次の直線とコーナーだって話だった。
ほぼ無勾配で三百メートル近い直線。次いで広い左コーナー。
矢口さんの話だと、この直線でVFRと並んでコーナー勝負。
コーナーが広いからセンターインアウトで前に出るって事だった。
「ここが勝負のコーナーかァ」
VFRの前に出れば、もうほとんどフラットだし、次のコーナー以降は下りに入る。
RZの方が軽いから、ブレ―キングとギアチェンジの勝負になるだろうなァ。
下りの直線ではパワーのあるVFRが有利だけど、加速じゃRZの方が上。
ウイリーの危険さえなけりゃ、ガンガン飛ばしてブッチギリだぜ。
下り坂は車重のポイントが前に来るから、思い切り急加速しても大丈夫。
ホンダの技術の結晶であるVFRと、ヤマハの意地の競り合いって事だなァ。
ただ、問題はマシンの性能よりかは、運転技術にあるんだっけか。
私はまだ、免許を取得して三ヶ月のヒヨッコなんだよなァ。
- 163 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/05/31(水) 20:37
- 「下りはエンジンブレーキの効き具合を確かめるんだよ」
最近じゃ、ほとんどのクルマはエンジンブレーキを使うと、
燃料供給がストップするように作られてるんだったよなァ。
勿論、VFRだって燃費を考えて、そう作られてる。
だけど、RZの時代には、そんなハイテク技術ってもんが無かった。
それにRZシリーズはツーサイクルエンジンだから、
シリンダー内に供給されるのはガソリンだけじゃない。
「うわっ! 効き悪い!」
一気に二速まで落とすと、真っ白な煙がマフラーから噴き上がる。
アクセルを回さないでエンジンが高回転になってるから、
こいつは燃焼オイルが燃えちまってるんだろうなァ。
こりゃ、ちょっとした煙幕みてーじゃんか。
「それでもプラグは発火してるからスムーズに加速出来るよ」
矢口さんの言う通り、アクセルをふかすと・・・・・・。
三千回転を超えたあたりから、凄まじい加速がやって来た。
こ、こいつは凄い! 身体が引き剥がされそうな感じ。
危うく矢口さんに追突するところだった。
「矢口さん! 凄い加速だね!」
乙女峠でVFRと勝負出来る最後のポイントは、
三百メートル近いなだらかな下りの直線。
もうじき、その勝負ポイントがやって来る。
この左コーナーを曲がったら、その直線だ。
- 164 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/05/31(水) 20:38
- 「よっC。ガードレールにギアチェンジのポイントを貼ってあるから」
「よっしゃー! このじゃじゃ馬の凄さを体感するぜぇ!」
コーナーを曲がりきると、遠くに黒いガムテープで『3』と書いてある。
要するに、そこまで二速で引っ張って、回転数を落とさないで三速に入れるんだ。
私は少し早目に立ち上がると、フルスロットルで矢口さんを追い越し、
『3』マークのポイントまで思い切り引っ張ってみる。
凄まじいGが掛かって、RZが宙に浮きそうな感じがするじゃねーか!
「すすすす・・・・・・すげー!」
レッドゾーンに入る寸前で『3』マークを通過する。
私は回転数を落とさないで三速に入れて更に引っ張る。
またレッドゾーンギリギリで今度は『4』マーク。
私が回転数を落とさずに四速へ入れると、
すでに速度計は百八十キロに貼り付いてるじゃねーか。
「よっC! 減速しないと! 次のコーナーは緩いけど」
よっしゃー! シフトダウンしてエンジンブレーキ・・・・・・減速が足りない。
このままだと、私にとっては未知の領域。でももう曲がるしかねーじゃん。
何とかアウトインアウトで曲がってみるけど、バイクが倒れてくれねーぞ。
こうなったら左足に体重をかけて無理に倒してみようじゃねーか!
「へっ?」
その瞬間、私の尻の右半分がシートから外に出る。
もう、私の肩と地面とは二十センチも離れてないと思う。
うわっと! マフラーを地面に擦っちまったよォ!
- 165 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/05/31(水) 20:38
- 「ふえ〜。すっ飛ぶかと思ったよ〜」
私はコーナーを曲がると、バイクを左に寄せて停止した。
さすがに矢口さんだけあって、すぐに追い付いて来る。
これだけパワーのあるバイクじゃ、矢口さんでもお手上げだろうなァ。
私だって、どこまで扱えたものが自信がねーもんよ。
私は冷や汗をかきながら、たった今のコーナーに身震いした。
「よっC! 凄い進歩じゃん! あのコーナーを百十キロで曲がるなんてさ」
「いやその・・・・・・。アハハハハ・・・・・・」
「理想的なコーナーリングだったよ。オイラより上って感じ」
あれは半分マグレなんだけどなァ。
あんなコーナーリングを何度もやってたら、
それこそ命がいくつあっても足りやしねーっての。
「しかし、凄まじいパワーだよなァ」
RZ350がナナハンキラーって言われてたくれーだからよ。
十四パーセント排気量が増えただけでも、そのパワーは凄まじい。
混合気の供給コンピュータを搭載して、排気系をカスタムしただけ。
ツーサイクル独特の金属音よりも、少しだけ太い音がするのはそのせい。
「オイラが思った通り、よっCなら、このじゃじゃ馬を乗りこなしてくれる」
矢口さん、そんなウルウルした眼で見ねーでくれよォ!
XJRで何度も転んで限界を知ったから、あの緊急避難が出来たのかもなァ。
でも、あのくらいを自由に出来ないと、紗耶香さんには勝てねーぞ。
こうなったら、RZを乗りこなして、何とかタイムを縮める練習だ。
- 166 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/05/31(水) 20:39
- 私は大学と院内学級をこなしながら、乙女峠でのタイムラップに挑戦してた。
最初は厚木側から豆腐屋まで、十七分三十九秒も掛かっていたんだけど、
ここに来てRZの癖やコーナーリングをマスターしたせいだろう。
昨日の矢口さんの計測じゃ十二分五十八秒にまで短縮する事が出来た。
「乙女峠を十二分台なんて奇跡だよォ!」
興奮気味の矢口さんをよそに、私はもう少し短縮出来ないか考えてた。
なぜなら、ここまでタイムが縮まった理由は下りのコーナーリング。
つまり、下りのコーナーリングに私自身の限界が来てるから、
これ以上の時間短縮は不可能に近いんじゃねーかなァ。
「矢口さん! コーナーリングだけど何とかならねーかなァ」
「このタイヤだと限界じゃないかなー」
そうじゃなくて、何ていうかもっと私に合ったカスタムが必要。
私にはこの暴れ馬を押さえ込むような鞍と鐙、手綱が必要だった。
その事を話すと矢口さんも少しは納得してくれた。
何をどうするのかは、私でも漠然としたものしか判らない。
「ジジイのとこで何かやってみようか」
矢口さんの案としては、シートとハンドルを交換、レーシングスタイルにする。
更に前後のタイヤをホイルごと交換、リアもディスクブレーキにするらしい。
ステップも後方に移動して、常に前傾姿勢で運転出来るように改造するそうだ。
つまり、レーサータイプのバイクに改造しちまおうって話らしい。
確かに私にとっては、その方が押え込みやすくなると思う。
もう、バイクに乗るなんていう感覚じゃなくて、
これは私とRZとの戦いと言ってもよかった。
- 167 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/05/31(水) 20:39
- 「よっCがスーツとブーツ、ヘルメットを装着した時の体重を五十キロとして・・・・・・」
矢口さんはノートパソコンで、車重のバランスを計算し始めた。
そうなると、車重の中心が五センチほど前に移動する事になる。
この五センチはRZにとって、この上ないメリットになるはずだ。
なぜなら、それだけウイリーしにくくなるからなんだよなァ。
「サスを硬めにして車高を下げれば・・・・・・マフラーも変えないと」
基本的にマフラーってのは、音を小さくするためのもの。
こいつがねーと暴走族のバイクみてーな音になっちまう。
ただ、消音効果と同時にエンジンに抵抗を与えてるんだよなァ。
整備不良にならない程度の改造なら問題はねーんだけどよ。
「タイヤホイールは、最軽量のタイプでワンランク上のを付けてみるか」
RZのフレームに入るギリギリの太さのタイヤにするらしい。
矢口さん計算だと、両側とも一センチ以内というシビアな状態。
こいつをチューンするだけで骨の折れる作業になりそうだなァ。
「早速ジジイのとこに持って行こう」
RZをレーサータイプにチューンすると、かなり高速化出来ると思う。
登りでVFRを煽れるくれーまで行けば、何とか勝つ自信が出るだろうなァ。
相手はホンダのVFRで、伝説の『真紅の隼』こと紗耶香さんだからよ。
いくらRZでも排気量はVFRの半分しかねーもんなァ。
しかも四半世紀以上も前のバイクで勝負するってんだからよ。
かなりの前傾姿勢になるから、しっかりニーグリップしないと腕力が持たない。
これから毎日、腕立て伏せでもやって腕力をつけるとでもするかなァ。
- 168 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/05/31(水) 20:40
- ヘミングウェイじいさんの店に来ると、矢口さんは早速部品を集めだした。
まずはマフラーを外して中身を取り出し、少しだけ角度をつけて溶接してる。
次にハンドルを外してセパレート型ハンドルを取り付けた。
軽量アルミホイールのタイヤとディスクブレーキを取り付ける。
ここまで、小一時間でやっちまうんだから、矢口さんのテクニックはすげーなァ。
「ジジイ、バックステップにしたいんだけどさ」
「RZのバックステップ用部品なんて手に入らんぞ」
「だったら作るまでよ!」
矢口さんはガラクタを集めて来て、瞬く間にバックステップ用の部品を組み立てた。
ステップとギアコントロール、リアブレーキをフレームにくっ付けると、
そいつにギアボックスとブレーキパッドのケーブルを繋ぐ。
こんな作業を短時間でやっちまうんだから、矢口さんはすげーなァ。
その気になれば、バイクチューンの店でも開けるんじゃねーか?
「相変わらず、こういった事は器用じゃな」
ヘミングウェイじいさんも、矢口さんの手付きに感心してるみてーだ。
小柄で力も無い矢口さんでも、こうした仕事は出来るんだなァ。
最後にブレーキ調整とホイルバランスを確かめて終了。
「オイラの計算だと、約二キロ軽量化出来た事になる」
早速跨ってみると、以前よりも車高が低くてイイ感じ。
センタースタンドを立てて、ニーグリップを確かめてみる。
これだけ前傾姿勢になれば、かなり空気抵抗も違うんじゃねーかなァ。
それでも、シートを替えてステップを五センチほどバックさせて、
セパレートハンドルにしただけなんだけどね。
- 169 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/05/31(水) 20:41
- 「これなら登りでも、三速で引っ張れそうな感じだなァ」
「うん。二速で引っ張らない限り、ウイリーはしないと思う」
このバイクなら、あの紗耶香さんと勝負出来そうな気がして来た。
ただし、向こうはホンダの技術の塊であるVFRだからよ。
こっちはヤマハのエンジンと根性で戦うしかねーじゃんか。
薄暗い中から外に出してエンジンを始動すると、
これまでより低めで大きなエンジン音になってた。
「これじゃ誰が見てもRZとは思わねーだろうなァ」
コーナーリングに関しては、回転半径くれーしかVFRに勝つ要素がねー。
って事は、直線でどこまで引き離せるか。って事が重要になって来る。
それと回転数を維持する事。回転数が落ちれば向こうの馬力がモノを言う。
スロットルとクラッチ、ブレ―キング、ギアチェンジ。全く大変だなァ。
「違法改造はしてないから、このまま公道を走れるはずだよ」
「ところで矢口さん。このRZの最高時速って?」
私が訊くと矢口さんは困ったように首を傾げた。
最高時速を算出するには、エンジンのトルクとギア、
それから車重で計算出来ると思うんだけどよ。
ただし、平地で無風状態の場合に限ってだけど。
「百九十五キロでリミッターが作動するの。それを外せば・・・・・・」
「外せば?」
矢口さんの計算だと二百五十キロから二百七十キロ近い速度らしい。
こんなモンスターマシン。よく開発したもんだよなァ。
- 170 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/05/31(水) 20:42
- このあたりで失礼します。また更新致します。
- 171 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/04(火) 08:58
- 〔あゝ、乙女峠10〕
RZを改造してから、私は何度か乙女峠を走ってみた。
ニーグリップを怠ると腕に来るけど、この方が私にしっくり来る。
矢口さんは高台から私の走る様子を撮影してた。
「矢口さん、十秒は縮まったよ」
私が無線で言うと、矢口さんは小さく唸った。
それがどういった意味なのか、私には判ってる。
要するに、私が理想的な軌跡で走ってないんだ。
理想的な軌跡を走れば、もっと確実にタイムを縮められる。
勘と数字の誤差を少しでも修正する必要がありそうだ。
〈今日はこのくらいにして、近くでお茶でもしようよ〉
近くでお茶って言っても、例の豆腐屋くれーしかねーし。
お茶はお茶でも、本当のグリーンティーになりそうだなァ。
雲が流れて来て、天気の方も下り坂って感じだから、
このあたりでブリーフィングに入るのもいいかもね。
「豆腐屋?」
〈逆側だって! 三キロ走るとマックがある〉
矢口さんは私のフェアレディを運転して私が前を走った。
ちょっとした「マッドマックス」ごっこといった感じかな?
あれはカワサキのZ‐1000だったっけかなァ。
暴走族のアタマが乗ってて、トレーラーと正面衝突するバイク。
故コージー=パウエルもホンダ好きだったし、日本のバイクは世界的に有名。
- 172 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/04(火) 08:58
- 「本当だ。マックが見えた」
私が駐輪場にRZを停めると、矢口さんは慎重にバックしながらZを停める。
矢口さんは背が低いから、私とはかなり視界が違うんだろうなァ。
一応、座布団を三枚敷いてるんだけどね。子供が運転してるみてーだもんなァ。
「いらっしゃいませ。こちらでお召し上がりですか?」
「オウ! ビッグマックセットくれや」
極度の緊張と暴れ馬を押さえ込むような走りをすると物凄く腹が減る。
事実、私が乙女峠を攻め出してから、かなり身体が搾れて来た感じ。
本皮のライダースーツは、私の身体に馴染み出して来ていた。
アップルパイとコーラを注文した矢口さんはハンディカムの映像を、
パソコンのポリゴン画面に重ねて私の通った軌跡を弾き出した。
「よっC、このブルーのラインが理想的な軌跡」
「この赤いのがオレの軌跡ってわけだな?」
矢口さんが距離を出すと、赤い軌跡の方が六百メートル近く長い。
つまり、この六百メートルが紗耶香さんとの差とも言えた。
いくらRZをカスタムしたところで、六百メートルも多く走ったら負ける。
どうするべきなのか。私は頭を抱えちまった。
「シフトダウンのポイントが問題かな?」
「ポイントかァ」
ダブルクラッチに慣れていないせいなのかなァ。
せめて、シフトダウンするポイントが判ればいいんだけど。
後は加速とコース設定を間違わない限りは大丈夫なはず。
- 173 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/04(火) 08:59
- 「とりあえず、ガードレールにポイントを貼ってみようか」
「そいつはいいなァ」
理想的な軌跡に近付くには、目印をした方が早道ってもんだ。
矢口さんと話し合った結果、シフトダウンのポイントには赤いガムテープ。
加速するポイントには青、ギアをアップするポイントには黄色を貼る事にした。
しかも、テープの本数でギアのポジションを指定する方法。
「後はよっCが理想的な軌跡を走るように頑張るだけだね」
「心理作戦も考えておかないとなァ」
私の考えでは、柴ちゃんがすっ飛んだカーブで、紗耶香さんの真後ろに付ける。
しかも、出来ればナンバーを前輪で擦るくらいの近距離にするんだ。
これで紗耶香さんは驚くだろう。次の右カーブを曲がったら真横に付けてやる。
これだけプレッシャーをかければ、紗耶香さんだって冷静でいられない。
勝負は矢口さんの言ってた次の次の比較的広い左カーブ。
紗耶香さんはアウトインアウトを狙うから、私はセンターインアウトを狙う。
ここで抜かせば、後はなだらかな勾配だし、私の得意の下り坂になるってもんだ。
「『真紅の隼』に心理作戦は効かないよ」
「へっ?」
「どんな時でも沈着冷静。だから強敵なのよ」
そうか・・・・・・。柴ちゃんがすっ飛んだ時も、重傷じゃないと判断した。
だから、そのまま走り去って行っちまったんだろうな。
もし、あの時、柴ちゃんが瀕死の重傷だったら、応急処置をしたんだろう。
こいつは奥が深い。単に柴ちゃんのリベンジだけじゃ済みそうにねーぜ。
もしかしたら、私はとんでもないドン=キ=ホーテなのかもしれない。
だいたい、相手は向かうところ敵なしの猛者だもんなァ。
- 174 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/04(火) 08:59
- 「勝負はこのコーナーでセンターインアウト」
「ここで駄目なら、この直線しかねーな」
僅かに右にカーブしたほぼ直線の四百二十六メートル。
ここの勾配は緩いから、三速で思い切り加速出来る。
最悪はポンピングブレーキで次のコーナーに備えれば何とかなりそうだ。
「この直線は危険かもね。三速でフルスロットルにした場合、前輪が浮く可能性があるわ」
「四速じゃラグがあって抜けないかもしれねーじゃん」
相手は馬力のあるVFRだからよ。三速で加速して来るだろうしなァ。
それに次のカーブは、安全速度が七十キロで、限界速度が百十キロになってる。
・・・・・・待てよ。このカーブを百二十キロでクリアすればいいんじゃん。
この右カーブ。どこまでバイクを倒せるかで決まって来るはずだ。
「矢口さん。このカーブを百二十キロでクリアするよ」
「駄目! それは危険過ぎる」
例の左カーブをセンターインアウトで抜かして、直線を三速ですっ飛ばす。
ギリギリまで加速してポンピングブレーキで百十キロまで落とす。
百十キロで入って百二十キロまで加速しながらコーナーをクリアする。
きっと紗耶香さんは九十キロくらいまで減速するはずだ。
VFRは馬力があるから立て直すのも簡単だからよ。
「矢口さん、出来るよ。あのRZならね」
私は自信があるわけじゃない。もしかすると柴ちゃんの二の舞。
そうなったら、もうオヤジがバイクに乗せてくれねーだろうなァ。
でも、一か八かやってみるしかねーじゃんか。
- 175 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/04(火) 09:00
- 「ったく頑固なんだからっ!」
膨れっ面する矢口さんに、私は精一杯の笑顔で答えた。
確かにRZはじゃじゃ馬だけど、私には可愛く思えて来た気がする。
最近じゃエンジンの音が、私に語りかけてるような気がしてよォ。
バイクなんてただの鉄の塊なんだけど、私っておかしいのかなァ。
「オレは信じるよ。RZを」
これは本音。矢口さんとRZがいれば紗耶香さんに勝てる。
私はそう信じる事にしたんだ。
おっとヘミングウェイじいさんを忘れてたなァ。
あのじいさんが矢口さんの師匠だからよ。
「そんじゃ、オイラの出来る事は、コーナーを掃除するくらいだね」
そう。コーナーに石ころ一個あれば、私はRZもろともぶっ飛ぶ。
恐らく百二十キロでコーナーを曲がれば、膝が地面と擦れるはず。
場合によっちゃ膝から腰にかけて擦れる可能性もある。
タイヤの限界まで倒す必要があるからなァ。
「今日は百キロでやってみるよ。直線の加速も試してみてーし」
もう矢口さんは何も言わなかった。
『真紅の隼』との勝負は単に柴ちゃんのリベンジだけじゃなくて、
矢口さんと紗耶香さんの確執を解消するチャンスになればいいと思ってる。
そんな事、矢口さんには口が裂けても言えねーけどよ。
なっちだったら何て言うかなァ。
そういえば、最近、なっちと逢う機会が減った。
- 176 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/04(火) 09:00
- 「オイラは町でガムテープと竹箒を買って来る」
矢口さん、マジでコーナーを掃除するらしい。
そう言うと、矢口さんは私のZに乗って買い物に行っちまった。
そんじゃ、私は疲れた身体を休めてポテトでも食ってるか。
『真紅の隼』こと紗耶香さんが現れるのは土日の昼間。
しかも隔週だっていうから何か意味でもあるのか?
まァ、そんなこたーどうでもいいや。
デザートにサンデーでも食おうかなァ。
・・・・・・でも、何で隔週なんだろうなァ。
「毎週来れない理由・・・・・・生理が関係してるのか?」
生理と排卵日の関係に酷似してるよなァ。
最高の走りをするために、そういった日を避けてる?
その可能性は極めて高いって感じだぞ。こりゃ。
私のと比較すると、コンディションがいいのは来週かァ。
勝負するなら来週しかねーな。問題は天気だけど。
しかし『真紅の隼』のファンクラブまで出来てるから、
私が勝ったらブーイングの嵐なんじゃねーか?
「アイドルか・・・・・・」
そう。今や紗耶香さんは乙女峠のアイドルになってる。
その真紅のフルフェイスのヘルメットで素顔は見えないけど、
華麗な操作技術とVFRの性能を極限まで引き出した走り。
つまり、紗耶香さんは普通のアイドルなんかじゃなくて、
美貌と実力を兼ね備えたアイドルなんだよなァ。
天は二物を与えてんじゃねーかゴルァ!
- 177 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/04(火) 09:01
- 乙女峠での練習を終えて帰宅すると院内学級のバイト。
小学生に算数を教えながら、私の頭の中は乙女峠の事でいっぱいだった。
そんな私に気付いたのが泣く子も黙る石黒先生だった。
石黒先生の洞察力には、超能力に近いものを感じるぜ。
「ねえねえひとみさん。三十二って数字、何だか知ってる?」
いきなり、えりかが私に訊いて来た。
三十二は素数でもねーし、2の4乗だよなァ。
ツインカム八気筒エンジンだとカムシャフトが三十二。
三十二小節は一般的な曲のパターンだし。
「三十二? 女の厄年じゃねーのかよ」
「三十二個の面から、燃焼速度の速い爆薬と遅い爆薬を使ってプルトニウムを・・・・・・」
「てめー、いい加減、核兵器から卒業しろっての!」
プルトニウムを圧縮して核融合させるには、平均的に圧力が掛からないといけない。
そうじゃねーと、プルトニウムはバラバラになるだけなんだよなァ。
未だに核弾頭のプルトニウムを圧縮するところは三十二面体になってるって話だ。
プルトニウムが核融合を起こせば、重水素と三重水素も核反応が起きるって寸法だ。
「この三十二面体が公表されたから北朝鮮でも核ミサイルが製造出来るんですよ」
日本だったら、どこのメーカーが核ミサイルを作るのかなァ。
川崎製鉄あたりで三十二面体を作って、組み立ては三菱重工だろうね。
でも、三十二面体が同時に爆発しないとプルトニウムは核融合しない。
この中の一個だけを先に爆発させるレーザーとか電子ビームを作れば、
核の脅威なんてものはなくなるんだけどなァ。
核が平和利用されれば、私達は素晴らしい恩恵を受けられるのに。
- 178 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/04(火) 09:01
- 「てめー、アインシュタインの理論を悪魔に利用する気かゴルァ!」
核燃料で発電するのが、一番クリーンなエネルギーなんだよなァ。
問題は劣化した核燃料の再処理で、放射性物質のゴミが出る。
そのゴミをどうやって処理するのかが人類の問題って事だな。
アメリカみてーに兵器として劣化ウラン弾を製造する国もあれば、
地下数十メートルに埋める国もあり、更には海に捨ててるらしい国もある。
放射性物質の管理を安全に行えば、日本は温泉ブームなんだからよ。
癌に効く温泉でも考えればいいじゃねーか。
「今は核が核を牽制してるんでしょう?」
「おめーは二十世紀の遺物か? もう冷戦は終結したんだぜ」
冷戦中は米ソで核開発競争が激化したんだったっけ。
世界中の人間を何回も殺せるだけの核爆弾を作っちまったから、
冷戦終結直前から戦略核ミサイルの削減を始めたんだった。
アメリカは原発で核を再利用出来るけど、問題はロシアだよなァ。
何しろソ連崩壊のきっかけになったのがアフガニスタン侵攻と、
チェルノブイリ原発事故だったって話もある。
再利用が面倒で危険だったら、欲しい奴に売っちまうのが一番。
「それは知ってるけど、テポドン2号は核搭載を目的に・・・・・・」
「北朝鮮が核ミサイルを発射したら、あの国は終わっちまうんだよっ!」
これまで面子だけで北朝鮮を支援してた中国にしても、
核ミサイル発射なんて事をしてくれたら、お荷物を捨てられるいい機会。
多国籍軍が一気に攻め込んで、北朝鮮なんて国はなくなっちまう。
その際には韓国の基地だけじゃ手狭になるから中国も基地の提供をする。
物資や外貨の獲得に余念のない中国にしてみれば濡れ手に粟ってわけだ。
- 179 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/04(火) 09:03
- 今日はここで失礼します。体調が悪くて入院していました。
徐々に弱って行くみたいですね。みなさんもお身体は大切にして下さい。
- 180 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/05(水) 00:42
- 病み上がりの更新お疲れ様です。
バイクのことはよくわかりませんがでも面白く読んでいます。
ところどころに出てくる雑学も楽しいです。
- 181 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/16(日) 09:40
- >>180
ありがとうございます。レスを頂けると励みになります。
今は半月入院、半月自宅静養といった感じです。
更新が遅くてすみません。
- 182 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/16(日) 09:41
- 〔あゝ、乙女峠11〕
昨夜はよく眠れなかった。自信と不安が交互に現れては沈んで行く。
そんなこんなで私は寝不足のまま、待ち合わせ場所の厚木警察署前に行った。
矢口さんは、いかにも怪しいワンボックスに乗って現れた。
ハイエースのハイルーフロングで、何が積んであるのかスモークガラスで見えない。
しかもボディカラーまで黒いから、交通検問があったら絶対に止められそうだ。
「よっC、おはよう。昨夜は眠れた?」
「あんまり・・・・・・。っていうか、この怪しいクルマは何?」
「ここじゃ何だから、例のマックに行こうよ」
私は矢口さんについて例のマックに向かった。
その時、このクルマが8ナンバーって事に気付く。
8ナンバーって事は、何か改造してあるって事。
恐らく中に秘密があるんだろうなァ。
だって、外見じゃ屋根にキャリアが付いてるだけだもん。
この、かなり内輪差がありそうなワンボックスを、
矢口さんは慣れた感じで運転してた。
そういえば、矢口さんは大型自動車免許も持ってるんだ。
「お着き〜」
矢口さんは慣れた手付きで白線内に停めると、ヘルメットを脱ぐ私を呼んだ。
この怪しいワンボックスには、いったいどんな仕掛けがあるんだろう。
私は興味津々で、ヘルメットを抱えると矢口さんに駆け寄った。
今日は晴天だから、絶好の勝負日和。緊張して来たなァ。
それはそうと、このクルマにはどんな仕掛けがあるってんだァ?
私がスライドドアを開けると、その積載物に唖然としてしまった。
- 183 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/16(日) 09:42
- 「な、なんじゃこりゃー!」
運転席側にはテーブルがあって、そこにはパソコンや妙な機械が並んでた。
そして床には、いかにも妖しい紫色のマットレスが敷いてあって、
大きなアンテナやラジコンの飛行機、そして竹箒が積んである。
これでいったい何をするのか、私には皆目見当がつかなかった。
矢口さんはニヤリと笑って、私と一緒にマックへと入って行く。
「いらっしゃいませ。こちらでお召し上がりですか?」
「オウ、ビッグマックセットくれや」
「オイラはアップルパイとコーラ」
いっつもビッグマックって待たされるんだよなァ。
私は番号札とアイスコーヒー、ポテトを持って窓際の席に着く。
今日は晴天だから寝不足の眼には少し眩しかった。
「山間部に入るから、ああした無線アンテナが必要になるのよ」
いくら私だってアンテナは判るよ。
私が知りたいのは、あのパソコンとラジコン。
おまけにHDD録画のDVDレコーダーまであったじゃんか。
ノートパソコンの横に、プラズマテレビまで設置してあったし。
「番号札五番でお待ちのお客様」
こういった時に限って、お約束みてーに邪魔が入るんだよなァ。
スーパーのレジに並んでも、合計の金額が出てから財布を取り出すババア。
急いでる時なんか、思わず首を絞めたくなるもんなァ。
つり銭をそのままポイントにして、次回の買い物で利用出来るようにすりゃいいのに。
- 184 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/16(日) 09:43
- 「オイラはラジコンに搭載したカメラから見守ってるからね」
「ラジコンにカメラを搭載したの?」
矢口さんの話だと、五十CCのエンジンを搭載した時速百二十キロは出る飛行機らしい。
小型のカメラを搭載して、それをテレビモニターに写すつもりだそうだ。
ラジコン飛行機はジョイスティックで操作して、コンピュータ制御も出来るって話。
矢口さんのすげーところは、空母をヒントに離着陸の滑走距離を縮める工夫。
ワイヤーで止めておいて、エンジン全開になったらフックを外す。
着陸の時もフックにワイヤーを引っ掛けて短距離で止める方法だ。
こんなもんを作れるんだから、矢口さんは法律家じゃなくても食って行けるよ。
「ラジコンからの映像で、オイラが少しでもサポート出来ればいいと思ってさ」
おおっ! まるで本格的なレースみてーだなァ。
私は思わずポテトを三本一緒に口の中に押し込んだ。
バイクの速度と軌跡が自動的にコンピュータにインプットされる。
それで限界速度を弾き出して私に警告を出すつもりらしい。
もし、百二十キロで私がすっ飛べば、柴ちゃんどころの怪我じゃなくなる。
矢口さんなら人工呼吸と心臓マッサージくらい出来ると思うけど。
「そいつはいいなァ」
「オイラが出来るのはそこまで」
私はビッグマックに噛り付いて、アイスコーヒーで胃に流し込む。
バイクの性能はVFRを超えてるはずだから、問題はメンタルな面だよなァ。
そこをサポートしてくれるとは、物凄く心強いってもんだぜ。
でも、ただ勝つだけじゃ駄目なんだ。問題はそこから始まる。
何とか紗耶香さんと矢口さんの蟠りを解消してやりてーしよ。
これが上手く行けば自信が出ると思う。私と美貴ちゃんの件も。
- 185 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/16(日) 09:43
- 紗耶香さんとの勝負の用意は万全だった。
ガードレールに貼った三色のガムテープ。タイヤもいい具合。
リアブレーキが少しだけ甘い感じだったから矢口さんに調整して貰った。
混合気調整用のコンピュータもバッチリ作動してる。
後は『真紅の隼』こと紗耶香さんを待つだけだなァ。
「オイラは頂上近くのパーキングにいるからね。先に行ってるよ」
あの怪しいワンボックスで走りながら各コーナーをチェックして、
小石があったりしたら積んである竹箒で掃くつもりなんだろうなァ。
それにしても、今じゃいい私の相棒のRZ‐400。
やっぱり矢口さんじゃ扱いきれねーだろうなァ。
ニーグリップの位置や押さえ付ける感覚は矢口さんじゃ無理。
矢口さんは『じゃじゃ馬』って言うけど、だからこそすげーんだ。
「・・・・・・」
いかにも怪しいワンボックスがマックの駐車場から出て行く。
あれだけ怪しいクルマってのも、そう滅多にあるもんじゃない。
まァ、メルセデスのS600LONGも、かなり怪しいクルマだけどよ。
私はゆっくりと、矢口さんに続いてマックを出た。
「うん?」
徐行する私をツーリングの連中が追い越して行く。
みんな『真紅の隼』が目当てなんだろうなァ。
華麗なテクニックにVFR、そして二十歳そこそこの美貌。
今や彼女は、この乙女峠のアイドルだもんなァ。
実力と美しさを兼ね備えたアイドルか・・・・・・。
- 186 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/16(日) 09:44
- 「な、何か緊張して来た」
このくらいの緊張が何だっての! 大したこたーねーや。
あの東京医科歯科大受験会場の重苦しい空気だって耐えたんだ。
中には都電に飛び込んだ奴もいるっていうあの空気。
圭織さんは試験会場で心肺停止状態になって以来入院生活。
それからすりゃ、こんなもんは緊張に入らねーっての!
「うっ! あの音は・・・・・・」
排気量のあるバイク独特の重圧感のある響き。
も・・・・・・もしかして!
私の心拍数は、きっと二百くらいまで上がったと思う。
ニュートラルを示す青緑が、やけに眼につく。
背中を冷や汗が伝って行くのが自分でも判るくれーだ。
「ち、違ったか」
大型のバイクは黒っぽくて、そのままマックに入って行った。
私はバイクから降りて屈伸をしながら待ち続けた。
もしかすると、今日は現れないかもしれない。
紗耶香さんに都合を訊いたわけじゃねーからよ。
〈よっC、頂上に着いたよ。今からラジコンを飛ばすからね〉
いきなり無線から矢口さんの声が聞こえて来た。
そう。私は一人じゃねーんだ。矢口さんっていう強い味方がいる。
しかも、矢口さんはラジコンで私を見守ってくれてるんだ。
クルマのラリーで言えばナビゲーターだもんなァ。
- 187 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/16(日) 09:45
- 「見えたよ」
私がラジコンに向かって手を振ると、それに応えて一回転した。
しかし、矢口さんも器用なもんだよなァ。
ラジコンに小型カメラを積んで、映像を電波で飛ばしてるんだからよ。
発電機は重いから、ラジコンの羽根がソーラーパネルになってる。
今や湾曲したソーラーパネルもあるんだなァ。
だって、揚力を得るには羽根の上部が湾曲してねーといけねーんだ。
ラジコン本体の推進力は五十CCのツーサイクルエンジンだけどね。
〈・・・・・・よっC、来たみたいよ。ズームしてみるから・・・・・・間違いない!〉
「よっしゃー! いよいよ勝負だな!」
私がエンジンをかけてミラーで見ると、赤いバイクが近付いて来た。
ギアをローに入れた私は、三十キロまで引っ張って二速に入れる。
もう紗耶香さんは私の後方、十メートルに迫っていた。
ギアを三速に入れて柴ちゃんがすっ飛んだカーブを曲がる。
そこから一気に加速して百キロまで持って行く。
アウトインアウトでコーナーを抜けると、紗耶香さんはすぐ後ろにいた。
「わざと抜かせて、あそこで勝負だ」
〈よっC、いい感じだよ〉
この矢口さんの声が、どれだけ励みになる事か。
上り坂を四速で加速してると、紗耶香さんは一気に追い抜いて行った。
私は三速にシフトダウンして、ガードレールの目印を見ながらVFRを追尾する。
ここは慎重に行かないと、馬力の差で離される危険があるからなァ。
さすがに『真紅の隼』って呼ばれるだけあって、実に見事なコーナーワークだぜ。
私は油断してるVFRの三メートル後方に付けた。
- 188 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/16(日) 09:45
- 〈よっC! 次のコーナーだよ! センターインアウト!〉
「よっしゃー!」
紗耶香さんがアウトに出た時、私はセンターからインに入った。
予定速度より十キロばかりオーバーしてるせいか、左膝が地面に擦れてる。
そして回転数を落とさないまま立ち上がって一気に加速だ!
ホンダの技術とヤマハのプライドがデッドヒートする。
ここは意地と意地の勝負。私はヤマハのツーサイクルを信じる!
〈よっC! 危ない! 前輪が浮きそうだよ!〉
「オレとRZを信じろってばよ!」
なんて強がりを言ったところで、今にもウイリーしそうな感じ。
でも、この直線で紗耶香さんを完全に引き離したぞ!
そろそろガードレールに貼り付けた限界点のマークが見える。
シフトダウンとポンピングブレーキ。
百二十キロまで落ちたから、ここが最後の勝負!
「うわっ! 熱い!」
〈け、煙が出てるよ!〉
右脚の膝から尻にかけてアスファルトと擦れてる。
いくら熱いからって、ここで戻せばひっくり返るだろうなァ。
ここを無事に立ち上げれば、もう勝負は見えたも同然。
また回転数を落とさずにギアを繋いで直線で引っ張った。
物凄いGがかかって、本当に一瞬前輪が浮いた気がする。
このじゃじゃ馬め。ついに勝ちやがったぜ!
直線でVFRを一気に引き離した。
後は普通にコーナーを曲がるだけ。
- 189 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/16(日) 09:46
- 〈よっC、勝負はついたね〉
「ああ、さすがRZだぜ」
私が左にウインカーを出すと、紗耶香さんもそれに従った。
邪魔にならない路肩に停車させてエンジンを止めると、
私はヘルメットを脱いで紗耶香さんに近付いて行く。
紗耶香さんはVFRに跨ったまま、ヘルメットを脱いでニッコリ笑った。
「RZ‐350か・・・・・・。あたしの負けね」
そう言うと紗耶香さんは俯いて口惜しそうに手を握り締めた。
本当に素直な人なんだなァ。それに、思ってた以上に美人。
これだけ美人でVFRの華麗なテクニックを見せりゃ、
乙女峠のアイドルになるのも不思議じゃねーよなァ。
「あの・・・・・・ツーサイクルは反則だって判ってたんだけどさ」
「次は負けないわよ!」
私を真正面から見据えて、紗耶香さんは再びニッコリ笑った。
そして真っ赤なヘルメットを被り、帰ろうとしていた。
ここで・・・・・・ここで止めないと!
「紗耶香さん!」
私が大声で叫ぶと、彼女は驚いてヘルメットを脱いだ。
今度は真正面から私を見ずに、驚きを隠せないでいる。
何で自分の名前を知ってるのか。そういった感覚なんだろうなァ。
きっと今頃、彼女の脳内では、知人の顔をスキャンしてるはず。
プライドが高く、負けず嫌いなんだけど、紗耶香さんは素直な人。
- 190 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/16(日) 09:49
- 「何であたしの名前を知ってるの?」
「そんなこたーどうでもいいんだよ。逢って貰いたい人がいるんだ」
〈よっC?〉
私がヘルメットを被って走り出すと、彼女も私の後をついて来る。
そして頂上近くのパーキングに停まってるワンボックスの前に来た。
私はエンジンを切ってヘルメットを脱ぐ。
紗耶香さんは、まるで狐に摘まれたような顔をしていた。
「オレ、吉澤ひとみっていうんだ。市井紗耶香さんだろ?」
〈違うよ。もう吉澤紗耶香〉
ワンボックスのスライドドアが開いて、矢口さんが降りて来た。
矢口さんを見た紗耶香さんは、思わず俯いちまった。
上空ではラジコンが正確に円を描いて飛んでいる。
きっと矢口さんがコンピュータで制御させてんだろう。
「おい、『真紅の隼』だぜ!」
パーキングで一服してた連中が、ケイタイで写真を撮ろうと集まって来た。
私が「見せもんじゃねーぞゴルァ!」と言うと、慌てて引き返して行く。
「久し振りだね。紗耶香」
「・・・・・・矢口さん」
ま、まずい! あの矢口さんが今まで引き摺ってたのかァ?
どうしよう・・・・・・。余計な事をしちまったんじゃねーかなァ。
矢口さんは横目で私を睨むと、すぐにクスリと笑った。
良かった! さすがに矢口さんは大人なんだなァ。
- 191 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/16(日) 09:51
- 「紗耶香、メールもよこさないで。もう!」
「矢口さん!」
紗耶香さんは眼に涙を溜めて矢口さんに抱き付いた。
よ、よかったァァァァァァァァァー!
形式だけでも仲直りが出来れば、蟠りが氷解するのは時間の問題。
ふえ〜、冷や汗をかいちまったよォ。
あっと! このスーツ、もう駄目だなァ。
右脚の膝に穴が開いちまったじゃねーか。
「オイラ、ずっと許せなかった事があったんだよ」
「彼の事?」
「違うよ。あの時、紗耶香はわざとオイラに負けた」
えっ! そいつは知らなかったぞ。
ヘミングウェイじいさんは、最初から勝負は見えてたって。
あのジジイ、何であんな事を言いやがったんだろう。
胡散臭いジジイだとは思ってたけど、何を根拠に言ったんだろう。
確かに矢口さんのバイクの腕は凄いもんがあるよ。
でも、紗耶香さんのテクニックが一朝一夕に磨かれたとは思えない。
わざと負ける理由? 彼を賭けての勝負だったんだろ?
「それは・・・・・・」
「最初は彼が紗耶香を選ぶって自信からかと思った。
でも、本気で勝負出来ない理由があったんだよね」
本気で勝負出来ない理由だァ?
私には判らねーぞ。何で勝負出来なかったんだ?
きっと矢口さんは死ぬ気で勝負に挑んだんだろう。
- 192 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/16(日) 09:51
- 「矢口さん・・・・・・」
何となく話を聞いちゃいけねーような気がする。
物凄くプライバシーに突っ込んだ話っぽい。
こういった時のために個人情報保護法があるんじゃねーか?
住所や名前が漏洩しただけで大騒ぎしてるけどよ。
金融機関の本人確認は、警察庁に情報が流れてるって噂。
公僕は個人の生活情報まで監視を始めたのかァ?
でも、あのジジイが何で? 知りてー!
「知ってたの?」
「ううん。後から知った。お腹に赤ちゃんがいたって事」
「そうだったんだ」
そうだったのかァァァァァァァァァァァー!
転倒して怪我したんじゃなくて、流産しそうになって倒れたんだ!
きっと紗耶香さんは本気で勝負する気だったに違いない。
そして、何が何でも勝たなきゃいけないって思ってたはずだ。
こんな形で彼を奪う自分を許せなかったんだろうなァ。
「あたし、何度も矢口さんに電話しようと思ったの。・・・・・・でも、勇気がなくて」
「何言ってんだよ。紗耶香はオイラの後輩じゃん。これまでも。これからも」
くそっ! 何ていい場面なんだ。思わず貰い泣きしそうだぜ。
ヘミングウェイじいさんは、全部知ってやがったんだな?
柴ちゃんの件もあったけど、私は上手く嵌められたみてーだなァ。
でも、こうして二人の蟠りがなくなったんなら、
私は嵌められたとしても嬉しいじゃんかよ。
今日は祝杯をあげたい気分だ。帰りに白ワインでも買って帰ろう。
- 193 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/07/16(日) 09:53
- 今日のところは、これにて失礼致します。
更新が遅くて申し訳ありません。
- 194 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/08/06(日) 18:05
- 〔美貴の再手術〕
あの自殺未遂から九ヶ月。三鷹の駅前もクリスマス一色になって来た。
美貴ちゃんは記憶喪失・言語障害・半身麻痺から少しづつ快方に向かってる。
それでも脳に受けたダメージが大きくて、一日の半分以上は眠ってた。
食べられるようになって、身体の方は順調に回復してるらしいけど、
問題は半分近くが機能していない脳の方なんだよなァ。
私は医師の卵って事で、医局の会議に出席させて貰った。
「美貴ちゃんですが、水頭症の方は、もう問題がありません」
徳川先生は吉澤病院三大看板医師の一人。
脳外科手術では親父も舌を巻く名医って話だ。
脳外科手術ってのは、物凄く繊細で困難とされてるから、
ここで話だけでも聞けて勉強になるなァ。
「これまで食道に逃がしてたんだっけ? チューブを外してみようか」
これで脳圧が上がらなけりゃ、水頭症は完治って事になって一歩前進だ。
美貴ちゃんの場合は壊死した脳ってのは少しだけで、
神経の伝達経路が遮断されている状態らしい。
運がよくて血管の損傷が少なかったのが幸いしたそうだ。
「賛成です。それと、麻痺を何とかしたいですね」
脳性麻痺ってのは二種類あって、脳内で伝達神経が切断されてしまってる場合。
こいつは脳梗塞やクモ膜下出血なんかが典型的な例だよなァ。
それと、脳内の関係のない部分で誤った信号を送ってしまっている場合。
こいつは内出血なんかで起こる場合や、脳萎縮の際に発症する事があるそうだ。
- 195 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/08/06(日) 18:06
- 「何か方法があるのかい?」
「検査の結果、この内出血が原因で右脳の神経が問題を起こしています」
MRIの写真を見ると、確かに右脳内部に幾つかの小さな血腫がある。
これ以上大きくなっていないのは、血管が塞がったからだろう。
ただ、これは物凄く微妙な位置にあって、脳幹と海馬の近くだよなァ。
変に手術をすると、記憶喪失が戻らないばかりか最悪は死んじゃう。
もし手術をするんなら、ミクロ単位の正確さが要求されそうだぞ。
「これは一九八〇年代にドイツで行われた脳外科手術の方法です」
徳川先生が持って来た資料は、脳に注射針を刺して内出血を取り除く方法。
ただし、これは物凄く危険であるため、X線で確認しながら作業するらしい。
確かに内出血の位置が毛細血管に近い太さのところだから内視鏡が入らない。
こいつは本当に厄介な箇所に出来たもんだぜ。
「それで、やった場合は期待出来るのかい?」
「やらないよりはマシです。それで効果がなかった場合ですが」
徳川先生は電気による治療を提案した。
外科的な部分で出来る限りを尽くしたら、
今度は療法的分野から治療をして行くって考え方。
でも、もう二回も開頭手術をしてるのに気の毒だなァ。
「内科的には高圧酸素とブドウ糖、プロテインでやって行きます」
親父は美貴ちゃんのMRIとCT写真を見ながら考え込んでいた。
いったい、何が引っ掛かるんだろうなァ。素人の私には判らない。
親父はどうも美貴ちゃんの後頭部に注目しているらしかった。
- 196 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/08/06(日) 18:07
- 「徳川先生。この影は何だと思う?」
親父が指し示したのは、中脳の隅にあるボヤッとしたもの。
私が見た限りじゃ、内出血のようには見えなかった。
中脳といえば、手足を動かす部分で大切な場所らしい。
どうしても私は大きな大脳皮質に眼が行っちまうんだけどよ。
「塞栓ですね! 何で気付かなかったんだろう」
「医師だって人間だ。見落とす事くらいあるさ」
親父の話によると、最悪は右目・右耳が機能しなくなるらしい。
脳外科医としては実力のある徳川先生でも、この手術には二の足を踏む。
また、中脳は平衡感覚等を司ってる器官でもあって、
歩行が困難になる可能性もあるっていうじゃんか。
「中脳除去手術をしても、社会復帰した臨床例もあるんだ。最善を尽くそう」
徳川先生は不安なのか、任天堂大学病院の上杉医師を呼びたいと言う。
上杉医師は徳川先生の先輩で、脳外科一筋二十年のベテランだそうだ。
親父も上杉医師を知ってて、スケジュールが合えば是非とも来て欲しいらしい。
医学界なんて狭いところだけど、こうした人脈が人を救うんだよなァ。
「院長、脊椎損傷の方ですが、順調に回復しています」
そうだった。美貴ちゃんは脊椎神経が切れる寸前だったんだ。
下半身の骨折は無事に治ったけど、脊椎の方が心配だったんだよなァ。
こいつは何とかすれば、美貴ちゃんを社会復帰させられそうだぞ。
後は精神科でカウンセリングを受ければ、美貴ちゃんは元通りだぜ。
そのためには、何とか脳外科手術を成功させて貰わねーとよ。
- 197 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/08/06(日) 18:08
- 「ただ、困った事がある。この脳外科手術は健康保険の適用外なんだ」
「そうですね。五百万くらいは覚悟して貰わないと」
それだけリスクがあるからなんだろうけど、五百万は高過ぎねーか?
それに、美貴ちゃんの家は決して裕福なわけじゃねーもんなァ。
家族と相談するにしても、サラ金になんて手を出したら終わりだぜ。
いくら生業だからって、法外な金銭を要求するのが医者なのか?
「冗談じゃねーよ親父! 散々脱税しときながらよっ!」
「馬鹿、あれは節税っていうんだよ」
「五十万でやりな。そうじゃなかったら税務署の人間連れて来るぞ!」
これには親父もびびったみてーだ。
親父も節税したカネを着服してるわけじゃねーんだよなァ。
病院を大きくして、困った人を助けたいって気持ちがある。
そうじゃなくて、ただの守銭奴だったら親子の縁を切ってるところだ。
「一般の患者の場合はそうだ。でも、ひとみが関係してるからなァ」
「そうだよ。その上杉先生のギャラだけでやってよ。パパァ」
「あうっ! パパはやめろって」
他の医師が苦笑する中、親父は仕方なく五十万で手術する事を約束した。
五十万くれーなら、美貴ちゃんが入ってる保険を解約すりゃ戻って来る。
私が関係してるからって事で、ここの入院費から差額ベッド代までタダ。
これが一般の入院患者だったら、すでに一千万は超えてるはずだもんなァ。
「それじゃ、上杉先生のスケジュールに合わせて手術を」
これで美貴ちゃんの件は終わりになった。
- 198 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/08/06(日) 18:08
- 二週間後、美貴ちゃんの両親の承諾を得て手術となった。
私には医師の卵として、こうした手術に興味があったから、
親父に頼み込んで脳外科手術を見学させて貰う事にした。
腕まで洗って消毒。それから手術着を着てマスクをする。
そして、ようやく手術室に入る事が出来るんだ。
「これより、開頭中脳一部摘出術及び血腫吸引術を行う」
執刀医は徳川先生と上杉医師。それと親父が万一に備えてる。
麻酔や酸素、脈拍、血圧は外科の武田医師が行う。
手術看護師には北条政子さんとオフクロも参加してる。
それと予備に二人の看護師。これは吉澤病院始まって以来の大手術。
「レーザーメス」
丸坊主になった美貴ちゃんの頭にメスが入って頭皮を剥がして行く。
薄っぺらな筋肉を裂いて、そこから頭蓋骨を露出させた。
上杉医師は中脳の方を、徳川先生は血腫吸引のためにドリルで穴を開ける。
注射器とX線造影装置を準備して、徳川先生は上杉医師の手術を待った。
「徳川、こいつは血栓なんかじゃない。静脈からの出血だよ」
「それで脳圧が? 水頭症じゃなかったのか!」
「中脳は・・・・・・ところどころ痛んでるけど止血すりゃ大丈夫だ」
上杉医師の判断は早いなァ。瞬く間に静脈に人工組織を被せて接着しちまった。
その後の仕事も早い事。あっと言う間に頭蓋骨を接着して筋肉を戻す。
後頭部の方は、もう親父が皮膚の縫合を始めてる。
そして、上杉医師は徳川先生の吸引作業を見守り始めたじゃねーか。
徳川先生も脳外科医では優秀らしいけど、この上杉医師はその更に上。
- 199 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/08/06(日) 18:09
- 「駄目だ。角度が悪い。もう一度計算しろ」
注射針は固定器具を使って動かないようにして挿入されるんだけど、
その角度が悪いと健康な組織まで駄目にしちまうらしい。
上杉医師と徳川先生は、コンピュータで針の挿入角度を再確認する。
組織を傷付けない挿入角度の中に、動脈のすぐ横を通るものがあった。
「こいつが一番いい角度だ。これで行こう」
「でも、動脈を掠めますよ。危険です」
「お前はこの子を社会復帰させたいんだろう? 自分の腕を信じろ」
注射針が固定され、造影剤でX線画面に動脈の位置が出る。
それをコンピュータが3D画面にして、注射針の侵入が示された。
本当に動脈ギリギリのところ。恐らくミクロの世界だと思う。
確かに動脈は丈夫だけど、傷が出来ればそこが脆くなるのは当然。
将来的に致命的な脳内出血の原因になるかもしれない。
「いいぞ、動脈には触ってない。あと一ミリってとこかな」
徳川先生は汗塗れで、精密機械技師のように慎重に針を送って行く。
本当に小さな血腫だけど、熟練した脳外科医は指先の感覚で判るらしい。
どうやら何とか血腫に到着したみたいで、徳川先生は大きく溜息を漏らした。
今度は本当に少しずつ、血腫だけを吸い取って行く作業に移る。
徳川先生は注射器の中の気圧を少しだけ下げて、ゆっくりと血腫を吸い出して行く。
「こっちは俺がやる」
上杉医師は安心したのか、他の血腫に取り掛かり始めた。
拡大鏡とコッフェル、注射針の芸術が始まったじゃねーか。
- 200 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/08/06(日) 18:10
- 「徳川! いつまでやってんだよ。こっちは終わったぞ」
「先輩、もう終わりました。で、この脳幹近くのやつが問題なんですよ」
「こいつは無理だ。他の手を考えるしかない」
そんな! でも他の手って何か方法があるのかなァ。
上杉医師は凄い早さで頭蓋骨を塞いで行く。
その後はお決まりのように親父が皮膚を縫合した。
美貴ちゃんの頭に消毒液を塗り、包帯でグルグル巻きにする。
念のために後頭部と右側頭部に型枠が当てられた。
「術式終わり。徳川、内視鏡で試してみたらどうだ? お前、得意だろ?」
上杉医師の話によると、内視鏡を使って動脈の血流を三分間だけ止める。
それで動脈に穴を開けて、そこから血腫を吸出し、穴を塞ぐんだそうだ。
三分を過ぎると脳の壊死が始まるから、何が何でも時間厳守じゃないといけない。
頭部を冷やして壊死を遅らせる方法もあるけど、三分が五分になるわけじゃない。
最近の研究によると、体温そのものを一度下げると十五秒程度の余裕が出るそうだ。
「穴を開けるのに三十秒。吸出しに一分。穴を塞ぐのに九十秒。ギリギリですね」
「お前なら出来るよ。口惜しいけど内視鏡の方はお前の方が上手いからな」
どうやら頚動脈から内視鏡を入れるらしいけど、これも時間との戦い。
脳外科手術ってのは、こんなにデリケートで指先の器用さが要求されるのか。
しかも、内視鏡を使っても、今度は時間との勝負になるんだから奥が深い。
美貴ちゃんの体温を下げるにしても、三度くらいが限界なんじゃねーかなァ。
十度も下げたって実験データもあったけど、患者のその後には触れられていない。
徳川先生の腕を信じて、何とか美貴ちゃんを救うしかねーなァ。
どうも、ここの血腫が言語障害なんかの原因らしいからよ。
しかし、今日はいい勉強になったなァ。これで解剖実習も怖くねーぞ。
- 201 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/08/06(日) 18:10
- 今日のところは、これにて失礼致します。
- 202 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/07(月) 01:48
- 更新お疲れ様です。
美貴ちゃんの社会復帰を願ってます。
- 203 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/05(火) 09:12
- >>202
ありがとうございます。間を空けてしまってすみません。
次はもう少し早く更新するつもりです。
- 204 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/05(火) 09:13
- 〔美貴の回復とえりかの首を絞めた日〕
あれから徳川先生による内視鏡の手術も成功して、
美貴ちゃんの意識が完全に回復したのは夏休みも終わりの頃だった。
私はゼミのレポートを書いていて、オフクロからの内線電話で知った。
どうも一人で会いに行くのは抵抗があるから、
昼休みになるのを待ってなっちを連れて行く。
なっちにしてみれば、いい迷惑だったけど背に腹は代えられねー。
「み、美貴ちゃん」
美貴ちゃんの頭にはバンダナが巻かれてて、傷と髪を隠してた。
つるつる坊主になった自分の頭を見てショックを起こさないようにと、
こいつは北条政子さんがやってくれたんだろうなァ。
頭の芯まで筋肉のオフクロじゃ、こんな事を思い付くわけがねーもん。
「よっC、あたしに何があったの?」
「聞きたい?」
コックリと頷く美貴ちゃん。
なっちはデザートのプリンを食べながら、
息を呑んで私の言葉に注目していた。
「どこまで憶えてる?」
「判らない・・・・・・マックに行った事や、河原でバーベキューした事」
なるほど。自己防衛本能で、嫌な記憶は前頭葉が開封しないでいるみたい。
心拍数・血圧・酸素量。どれも異常がねーから、ちょっと嚇かしてやるか。
きっと、全部を受け入れられれば、全ての記憶が戻った時のショックは少ないはず。
- 205 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/05(火) 09:14
- 「言いにくいんだけど、美貴ちゃんはレイプされたんだよ」
「えっ! ・・・・・・そうだったの」
「しかも妊娠しちまって、中央線に飛び込んだんだ」
「べさっ! ゴホッ! ゴホゴホゴホ・・・・・・」
なっちはプリンを気管に入れちまって物凄い咽せ方をした。
私はなっちの背中を叩きながら、美貴ちゃんの様子を覗う。
気の強い美貴ちゃんは、唇を噛み締めてたけど辛そう。
これ以上は可哀想だよなァ。転落事故にしておこう。
「なんちゃってー! 美貴ちゃんは転落事故で頭を強打したんだよ」
「よっC、冗談きついよー」
ちょっと美貴ちゃんの血圧と心拍数が上がったけど、
このくらいは問題のない通常範囲だな。
膨れっ面する美貴ちゃんは、すぐに笑顔になった。
問題は全ての記憶を取り戻した時。果たして美貴ちゃんは・・・・・・。
「ようやくゴホゴホ、眠れる森の美女がゴホゴホ、眼を覚ましたべさゴホゴホ」
「なっちさん、大丈夫かァ? 誤飲性肺炎になっちまうぞ」
「よっCの冗談がきつ過ぎたんだべさァァァァァー!」
私は頭に巻いてたタオルで、なっちの涙を拭ってやった。
その様子が可笑しかったのか、美貴ちゃんはケタケタと笑う。
ここまで元気になれば、もう大丈夫だよなァ。
美貴ちゃんの眼には生きるっていう活力があるしよ。
この調子なら普通食になったら、車椅子で移動も出来そうだ。
これからブドウ糖の点滴と高圧酸素の量を減らしながら、
徐々に口からの栄養摂取と弱ってる心肺のトレーニングを始めるんだなァ。
- 206 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/05(火) 09:14
- 私は美貴ちゃんとの面会が終わると、梨華ちゃんやごっちんにメールを送った。
ゼミのレポートを書き終えたら、今度は院内学級のアルバイトに精を出す。
無知な小春や相変わらず核に固執するえりかに手を焼きながら数学を教えた。
夜になって石黒先生がやって来ると、美貴ちゃんの意識が回復した事を告げる。
これには石黒先生も喜んでくれて、裕ちゃんやみっちゃんにも連絡してくれた。
「それで、彼女は全部の記憶が戻ったの?」
「いや、オレを殺そうとした事は思い出してないっす」
美貴ちゃんが全ての記憶を取り戻した時、いったいどうなっちまうんだろ。
私は「記憶を失った直前の行動をする場合がある」という事が一番心配。
だって、美貴ちゃんは自殺しようとしたんだぜ。
石黒先生は少し考えて、バッグの中から名刺ホルダーを出した。
「相模湖記念病院の佐々成政医師。カウンセリングにかけては日本屈指の精神科医よ」
相模湖記念病院っていえば、圭織さんが入院しててオヤジが買収を計画してる病院。
身体的なリハビリが済んだら、美貴ちゃんを相模湖記念病院に転院させるのもいい。
すでに吉澤病院の資本注入が始まってて、オヤジは事務長を経営に参加させてる。
ああいった精神・神経科の専門病院は、国や自治体からの補助で成り立ってるからよ。
そうした補助金が打ち切られて行く中、どうやって生き残るかノウハウを提供してる。
美貴ちゃんと圭織さんを逢わせてみてーよなァ。こいつは私の好奇心だけどね。
「相模湖記念病院とうちは共同経営状態なんだ」
「あら、そうだったの」
オヤジは三鷹市の開業医と連絡会を組織してるから、ここを総合病院として継続。
精神・神経科関係の入院施設は相模湖記念病院を考えているらしい。
こうした都会と違って、患者がリラックス出来るだけの条件が揃ってるもんなァ。
- 207 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/05(火) 09:16
- 「オヤジも精神的なカウンセリングは、うちじゃ無理だって判ってますから」
それから西高尾の閉鎖寸前の病院も買収に乗り出したって話だったっけかな。
確かあそこは基本的に老人病院だけど、オヤジは緑に囲まれた立地条件が気に入って、
緩和ケアセンター、つまりホスピスにするつもりらしい。
近所の廃校を利用して老人福祉施設を計画してたりと、
オヤジはここに来て、ついに経営の多角化を始めてた。
「それにしても、この国の精神系疾患者の数は異常だよね」
石黒先生は溜息をつきながら名刺ホルダーをバッグにしまう。
日本は今、やっと自立してヨチヨチ歩きを始めたと思うんだよなァ。
そうした状態の歪みは、ストレス社会になって国民が犠牲になってる。
ニートの問題にしても、どんなに仕事があったって彼等は働く気なんてない。
国民の義務である労働や納税を拒否してるわけだから、
それ相応の制裁があってもいいんじゃねーかなァ。
「甘い環境で育ったガキが社会に出る。結局は親の責任かな」
「へえ、吉澤も大人になったじゃない」
うげげー! 私ったら何て生意気な事を言ったんだろ。
石黒先生にしてみれば、私なんか本当にガキなんだろうなァ。
とにかく変わった教師の多い聖ダルセーニョ学園の中で、
自分の教育姿勢を決して崩さない石黒先生の信念は物凄い。
「あの、石黒先生は、何であの学校の教師になったんですか?」
石黒先生の教育理念や指導力、洞察力は他教師の群を抜く。
これだけ優秀な教師なら、公立の中学・高校でも欲しいはず。
- 208 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/05(火) 09:16
- 「あたしは不器用だからね。今の職場でしか自分の力を発揮出来ないの」
そう言うと石黒先生は、いたずらっぽく笑った。
勿論、私は石黒先生が不器用だなんて事は信じられない。
だって、ここでこうしてボランティアの教師をやってくれてる。
聖ダルセーニョ学園とは、全く違った教え方をしてるもんなァ。
「石黒先生が不器用だなんて信じられない」
「そう? でも、本当の話だから」
石黒先生はニッコリ笑うと、子供達のところへ向かった。
ここじゃ子供達は『彩先生』って呼んでるんだったっけ。
子供達は『彩先生』が大好きで、週末が来るのを楽しみにしてる。
中学生の子供にも人気があって、話を訊くと優しい先生だって口を揃えた。
私は隣の部屋で日誌を書くなっちに、その事について話を訊いてみた。
「なっちさん、何で石黒先生は、ここじゃあんなに優しいんだろう」
「そんな事も判らないんだべか? ・・・・・・ごめん。よっCは教育者じゃないもんね」
なっちが言うには、学校ではみんなの成績を上げるという責任がある。
でも、ここでは個人の能力に合わせたペース配分で教える事が出来た。
そうなんだよなァ。石黒先生の素顔って物凄く優しいお母さんだもん。
学校じゃいつも緊張してるんだろうなァ。それが石黒先生という人。
「吉澤、中学生の数学をみてあげてくれる?」
中坊の数学だったら簡単だからいいや。
意外に難しいのが小学生。どこまで理解出来たか判らないところがある。
だから問題を作らせて、本当に理解出来たか確認してるんだよなァ。
- 209 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/05(火) 09:17
- 「はい! 小春、見せてみろ。イコールの反対側は±が逆になるんだろ?」
「あ、そうですね」
数学は積み重ねだから、どこかで躓くとチンプンカンプンになっちまう。
中学までの数学をクリアしとけば、高校へ行っても苦労しねーんだよなァ。
高校でやる数学は、先進国でもトップクラスの内容だからよ。
その基本となるのが中学の数学で、更にその基本が算数なんだよなァ。
「ひとみさん。理科の問題なんですけど」
「えりか、また核だったら許さねーぞ」
「結晶の事なんですけど」
結晶なんて懐かしいなァ。塩の結晶って四角形だったっけ。
イオンや分子が規則正しく集まった固体の事を結晶って言うんだけどね。
アンバー(琥珀)は植物性タールの結晶だったっけか?
面白い事に水晶は結晶だけど、ガラスは結晶じゃねーんだよなァ。
科学的に再結晶させる事で、不純物を取り除く事も出来るんだっけ。
「結晶は固体だけど?」
「これ、何の結晶か判りますか?」
「紺色の結晶? えーと、コバルトだったっけ」
ウラン鉱石も緑っぽい青だった気がするけど、
これだけ鮮やかなコバルトブルーだからコバルト。
元素番号二十七番で記号はCoだったけかなァ。
融点が千四百九十二度で沸点が二千七百四十七度。
元素の中じゃ、かなりの高温にも耐えうる物質だよなァ。
発見は十六世紀で、山の怪物って意味だった気がするぞ。
で、何でコバルトなんかの結晶が問題なんだァ?
- 210 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/05(火) 09:17
- 「そうです。凄いな」
「コバルトが何か?」
「いや、これを精製して放射性物質を作れないかなと思って」
「えりかァァァァァァー!」
気が付いたら私はえりかにネックハンギングをやってた。
背は高いけど所詮は子供。四十キロ未満なら私の腕力で軽く持ち上がる。
慌てた小春と石黒先生が私に抱き付いた。
こんな危険な奴、殺しておいた方が世のためじゃねーか!
って殺しちゃまずいよなァ。私は仮にも医者の卵だからよ。
「いいか? 日本は世界唯一の被爆国なんだ! その事を忘れるんじゃねー!」
被爆した人達のDNAは傷付き、孫子の代まで影響が出てるんだ。
全ての癌の原因は喫煙だとかぬかすヴォケ医者もいるけどよ。
孫子の代まで影響が出てるんだから、こいつは間違いなく遺伝。
私は絶対に喫煙だけが癌の原因だなんて馬鹿な医者にはならねー。
複合的要素があって、初めて癌が発症するんだっての!
「よ、吉澤! 死んじゃうよ!」
「えりか! てめーのためにDVDを用意してやったから観ろ!」
私が手を離すと、咳き込みながら怯えた顔をするえりか。
小春や飛んで来たなっちまで震えてる。そんなに迫力あったかなァ。
私はえりかの眼の前に『はだしのゲン』のDVDを置いた。
たった一発の原爆が、どれだけ多くの人を殺して苦しめたのか。
確かこの作者も被爆者だったような気がする。
広島型原爆なんて、今の核から比べれば可愛いもの。
それを念頭に置いて観て貰いたいんだよね。
- 211 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/05(火) 09:18
- 今日のところは、これにて失礼致します。
出来れば来週にでも更新する予定です。
- 212 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/06(水) 00:34
- 更新お疲れ様です
美貴ちゃん・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
今さらですが吉澤のオヤジさんはけっこうやり手ですねw
- 213 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/13(水) 11:35
- >>212
ありがとうございます。レスを頂くと本当に励みになります。
美貴ちゃんは死んでしまう予定だったのですが、
終盤を考えた時、生きていた方がいいと思いました。
よっCのお父さんは影が薄いと思ったので頻繁に出してみました。
私としては高橋英樹さんのイメージなんです。
ちなみにお母さんはジャガー横田さんのイメージでした。
- 214 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/13(水) 11:36
- 〔医者の卵〕
美貴ちゃんは順調に回復して、車椅子で院内を移動する事も出来るようになった。
まずは生活復帰のリハビリだから、とにかく腕の筋肉を復活させる事から始まる。
腕力・握力をつけておかないと、身体を支える事が出来なくなっちまうからだ。
そのため徳川先生はベッドで脚を動かしながら、車椅子での移動を推奨してる。
それからリハビリ室にあるトレーニングマシンで身体を支えられるだけの脚力養成。
さすがに一ヶ月は辛そうだったけど、負けず嫌いな美貴ちゃんは根性を見せた。
秋も深まった頃、美貴ちゃんは突然、院内学級に姿を現した。
「よっC」
「美貴ちゃん!」
美貴ちゃんも意外に忙しくて、午前中二時間と午後二時間はリハビリ。
その他にも診察を受けてるし、最近じゃ何やら勉強を始めたらしい。
指先の運動や勉強なんかは、かなり脳への刺激になるそうだ。
まだ少ししか杖をついて歩けないけど、徳川先生は奇跡的な回復だって。
元々、根性だけは人一倍ある美貴ちゃんだからよ。
どんなに辛くても笑顔でリハビリやってるんだろうなァ。
この調子で行けば生活復帰は勿論、社会復帰も夢じゃない。
「美貴にも手伝わせて。復習にもなるし」
美貴ちゃんは英語が得意だし、こりゃ願ってもねー事だ。
最近じゃ高校受験も英検や数検、漢検を持ってた方が有利。
特に理科系大学進学校じゃ、数検の準二級は持ってた方がいい。
英検は文系・理科系に関係なく、最低でも三級は必要。
私みてーに漢検しか持ってねー医大生ってのも珍しいだろうなァ。
合コン女王の柴ちゃんですら数検三級を持ってるってのに。
- 215 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/13(水) 11:37
- 「ふ、藤本!」
「げげー! 石黒先生!」
そうだよなァ。美貴ちゃんの記憶は高校在学中で停止してるからよ。
この怖い石黒先生のトラウマは、きっと一生引き摺ると思う。
なっちですらリビングでうたた寝してる時、石黒先生の夢を観るらしいから。
本当は凄く優しい人なんだけど、学校じゃ厳しいからなァ。
「良かったね。ここまで回復してさ」
「はははは・・・・・・はい」
石黒先生が宝物を触るように美貴ちゃんの両頬に手を当てる。
これにはさすがの美貴ちゃんも、顔を引き攣らせながら笑った。
社会科の裕ちゃんとオールマイティみっちゃん、そして石黒先生は、
聖ダルセーニョ学園高等部の怖い教師三羽烏だからよ。
「ひとみさん『はだしのゲン』観ました」
えりかが私の貸したDVDを持って来た。
被爆者の子や孫の発癌率は物凄い数字になってる。
あと二週間早く降伏してれば、こんな悲劇はなかったんだ。
罪は米国だけじゃなくて日本にもある事を忘れちゃいけない。
「あたし、西海大学で原子工学の勉強をしたい」
「何ィィィィィィー! えりか! てめー!」
「違います。もっと核を知って、平和利用を考えたいんです」
うーん、ちょっと危ない気もするけどなァ。
でも、このDVDを観て、えりかの考えが変わったのはいい事だ。
- 216 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/13(水) 11:37
- 大学も一年、二年の間は教養の講義が多い。
勿論、カエルやマウスの解剖実習もあるけど。
英語とドイツ語、そして何より大切な国語を学ぶ。
それと数学、理科の復習も欠かせないもんだった。
今日も朝から生物学の講義で教授の話のメモを取る。
「地球に生物が誕生してから活発な進化が始まるのに三十五億年も掛かりました」
生物学は苦手な分野だけど、こいつをクリアしねーと医師にはなれない。
医師ってのも科学者の端くれだから、人間まで進化して来た過程も必要。
四十六億年前に地球が誕生して、僅か六億年で生物が現れたんだよなァ。
その生物が三十五億年も息を潜めていたのは、数々の試練があったため。
火山の大噴火や隕石の衝突、そして全球凍結なんて凄まじいものもあった。
「発掘の結果から脊椎動物の祖先は魚類だという事が判っています」
魚類は背骨を持った事で、強力な筋肉を支える事が出来るようになった。
つまり、速く泳ぐという最大の武器を手に入れたんだよなァ。
でも、背骨が果たした役割ってのは、そればかりじゃなかったんだ。
淡水にまで居住範囲を広げていた魚類は、そこで深刻な状況と直面する。
海では豊富だったミネラルが、淡水では充分に摂る事が出来なかった。
「背骨は筋肉を支えるだけじゃなくて、カルシウムを蓄積する事が出来たのです」
人間の祖先は骨の中でコラーゲンを作り、成長に必要なミネラルを溜め込んだんだ。
背骨が出来てから、より速く泳げるように鰭が出来て、それが手足の原型になる。
やがて肺魚のように鰓呼吸から肺呼吸へと進化して行くんだよなァ。
陸上に上がった私達の祖先は、これから一億年後には凄まじい進化を遂げてる。
六千万年前までは恐竜が地球の支配者だったけど、滅びた説が幾つもあるんだった。
- 217 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/13(水) 11:38
- 「恐竜が滅びた頃、哺乳類は原始的な猿くらいまで進化していました」
猿人が姿を現したのが、たったの二百万年前だからよ。
私は四十億年かけて徐々に進化したのかと思ってた。
ダーウィンはガラパゴス諸島を訪れて『進化論』を書いたけど、
発掘調査が進むにつれて、それが間違いだった事に気付いたらしい。
甲殻類が進化を終えた後でも、特に哺乳類は躍進的な進化を遂げる。
「人類の祖先が二足歩行をした事によって、前足が手に進化したのです」
人類は手を得た事によって、道具を作るようになったんだ。
美貴ちゃんのリハビリと同じで、指先の刺激は脳に刺激を与える。
更に頭蓋骨を背骨に乗せる事によって、重くても耐えられるようになった。
原人は猿人を食料にしていた可能性があるらしくて、
これが人間の持つカニバリズムの本能だって学説もあるそうだ。
「猿人が滅びたのは、原人と居住地域が競合してたためだと思われます」
石器という強力な兵器を持った原人は、猿人の殺戮を始めたんだろう。
そして猿人が滅びた時、その殺戮本能は同朋に向けられたんだ。
以来、人類は何万年も互いに殺し合いを続けて来てるんだよなァ。
いくら人類が進化しても、この殺戮本能だけは消える事がない。
「では、次までに遺伝子のレポートを書いて来て下さい。内容は何でもいいです」
遺伝子かよ。そういえばヒトゲノムの解析が進んでるそうだなァ。
もう、ほとんどが解析されたって話だけど、私は何を書こうかな。
幸か不幸か、うちは病院だから医学書は腐るほどあるけどよ。
まァ、来週までじっくり考えても遅くはなさそうだなァ。
- 218 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/13(水) 11:39
- 私がバリオスUに跨ってヘルメットを被ろうとすると肩を叩かれた。
振り返ってみると、そこには笑顔の柴ちゃんがいるじゃねーか。
相変わらず柴ちゃんは合コンとバイクに青春を懸けてるみてーだなァ。
「よっC『真紅の隼』の話をしちゃっていい?」
「駄目だってば!」
柴ちゃんには『真紅の隼』に勝った事は話したけど、
矢口さんと紗耶香さんの話はしてねーからよ。
それに、変に噂になっちまうのも困るしね。
しかし、この柴ちゃんの笑顔、何か企んでやがるな?
「ふーん、勿体無いな。で、来週なんだけどさ」
「もう、合コンは勘弁。面白くないし」
柴ちゃんの話によると、来週の飲み会は女の子だけらしい。
それにスペシャルゲストが来るっていうから興味が湧くよなァ。
でも、いったいスペシャルゲストって誰なんだろう。
そういえば大学祭も近い事だし、有名人でも来るのかな。
女の子だけってのも、うざってー男がいないだけマシかも。
「判った。金曜日は空けとくから」
私はそう言うと駐輪場から走り去った。
それにしても、ちょっと太ったのかなァ。
このライダースのレザースーツ、少しきつくなって来た。
肩や腹の辺りはいいんだけど、腰と背中に圧迫感がある。
初めて着た時は、それこそピッタリフィットしてたのによ。
体重は変わってねーのに不思議な事もあるもんだなァ。
- 219 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/13(水) 11:39
- 「飲み会か。まずはレポートだなァ」
『遺伝子』つまり『DNA』だよなァ。そんな映画があったっけ。
卵子と他の細胞の核を結合させて胚を作るのが今のクローン技術。
生殖細胞以外で他の個体から胚を作るのが困難なんだったっけ?
着床させると免疫細胞が攻撃しちまうんだったっけ?
だから生まれて来るのは、みんな雌なんだったっけかァ?
「クローンは誰かが書くね。きっと」
クローンなんて調べたところで、医師になる上で必要なのかなァ。
確かにコラーゲンで細胞を培養して臓器を作るバイオ技術が注目されてる。
肝臓みてーに四分の一が残ってりゃ再生する臓器はいいんだけどよ。
それ以外の臓器は提供者を待たねーといけねーのが現状だよなァ。
「移植手術には興味があるけどなァ」
ドナーと患者が適合すれば、簡単なとこから行くと骨髄移植手術だよなァ。
角膜移植も簡単らしいし、肝臓移植も感染症を併発しなきゃ簡単そうだ。
腎臓移植は意外に難しいらしいし、心臓移植や肺移植なんて成功する方が少ない。
火傷の時に皮膚移植をするけど、そのほとんどが自分の皮膚を使うんだよなァ。
そうすりゃ抗体不適合なんて事態を避けられるわけだし。
「移植か・・・・・・」
何で移植が必要になるんだろうなァ。肝硬変や白血病、腎機能障害。
心筋梗塞もそうだし、火傷みてーに外傷性のものもあるんだよなァ。
うーん・・・・・・。・・・・・・! そういえば、肝臓や腎臓、骨髄、肺の移植。
共通する疾患は新生物(癌)だよなァ。でも、癌って何なんだろう。
- 220 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/13(水) 11:40
- 私は家に帰ると、院内学級の手伝いをしてからオヤジに訊いてみた。
すると、オヤジは「自宅に戻ってろ」なんて言うじゃねーか。
これから裏金の勘定でもするのかァ? いつか税務署に追求されるぞ。
申告漏れで追徴金なんて恥ずかしいと思わねーのかなァ。
まずは腹ごしらえでもするかァ。冷蔵庫の中には必ずなっちが作ったものがある。
マカロニサラダと手作りコロッケがあるじゃねーか。
余った米でオニギリが作ってある。こいつは頂き!
「味噌汁くれーは自分で作ってみるか」
ワカメと豆腐があったから、こいつとダシ、味噌で作れるはずだ。
まずはワカメを水で戻して、お湯を沸かしてダシを入れるんだよなァ。
豆腐を賽の目に切って、戻したワカメと一緒に入れて沸騰する前に味噌。
これで出来上がりだから、意外と簡単なスープだよなァ。
コロッケとオニギリを電子レンジで温めれば美味しい夕食になった。
「ひとみ、これに癌について書いてある。最近の論文もコピーしといてやったぞ」
私が温めたオニギリにパリパリの焼き海苔を巻いて食べてると、
オヤジが医学書と数枚のコピーを持ってやって来た。
五枚のコピーの内、二枚は英語とドイツ語じゃねーか。
英語は判らなくもないけど、専門用語が多くて困るんだよなァ。
「何だよ。教えてくれるんじゃねーのかよ。オヤジは外科医だろう?」
「お前も医者の卵なら、自分で調べなきゃ駄目だ」
・・・・・・確かにオヤジの言う通りだなァ。
私は医者の娘だから、少し甘えてたのかもしれない。
患者の命を任されるのが医師の生業だもんね。
- 221 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/13(水) 11:41
- 「うん! でも、どうしても判らないとこは訊いてもいい?」
「勿論だ」
私は夕食を済ませると二階の風呂に湯を張る。
こうした操作もキッチンから出来るから便利なもんだ。
私は食器を洗浄機に入れて部屋に行こうとする。
そんな私を、まだ白衣姿でオニギリを食べるオヤジが呼び止めた。
「一階の風呂の調子が悪いんだ。今日は二階の風呂に入れてくれよ」
「ああ、いいよ」
二階の風呂はなっちも入るから、出来れば男は入れたくねーけど、
まァ、オヤジだったらいいんじゃねーか?
私を形成する遺伝子の半分はオヤジから引き継いだもんだしよ。
きっとなっちも気にしないと思うし。
「一年生なのに遺伝子のレポートで癌を選ぶ着眼点はユニークだな」
医師としては大先輩のオヤジに褒められて、私は少し嬉しくなった。
しかし、これが論文じゃなくてレポートで助かったぜ。
何しろ私は限りなく高校生に近い医師の卵なんだからよ。
風呂に入って今日の復習をすると、もう日付が変わっちまう。
明日も朝から講義があるから、オヤジから貰ったコピーを見ながら寝るとするか。
「この頃、身体を動かしてねーなァ。たまにはバレーでもやりたいぜ」
外科医ともなれば、手は商売道具だから大切にしねーとなァ。
でも、小学生の頃からバレーをやってたんだからよ。
たまには高校のバレー部に顔でも出すかなァ。
- 222 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/13(水) 11:42
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また来週にでも更新する予定ですので、
どうぞ宜しくお願い致します。
- 223 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/14(木) 01:10
- 自分も生物が苦手でした。
よっちゃんがどんな医師になるのか楽しみです。
てか、ジャガー横田に噴いたw
- 224 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/19(火) 13:38
- >>223
ありがとうございます。
生物学って考古学や化学によって実証されたものが多いですよね。
考古学には物理学や地学が使われていますし。
理数系は誤爆だらけだった私ですので、間違って理解しているのもありそうです。
難しいものは避けているつもりなのですが。
- 225 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/19(火) 13:39
- 〔日本酒モード〕
とにかく締め切りが迫ってるから、何とかレポートを書かねーと。
オヤジの時代は原稿用紙で提出したらしいけど、今じゃPCかワープロだもんなァ。
これからは医師もPCを使えねーと話にならねーわけだし、
要点だけメモっておいて、後から校正出来るってのが便利だぜ。
私はオヤジがくれたコピーと医学書を読みながら、広告の裏に要点をメモして行く。
運良く休講の時間があったから、それを利用して形にして行った。
「悪性新生物(癌)の概念か・・・・・・」
癌細胞の発生は、いわゆるコピーの失敗から始まるらしい。
人間の細胞は寿命に達するとコピーをして新しく生まれ変わるんだけど、
たまに失敗して出来損ないや間違った情報を持った細胞が出来ちまう。
そういった細胞は異物として免疫細胞の餌食になっちまうんだよなァ。
でも、免疫細胞の攻撃から逃れ、DNA塩基配列の末端にあるテロメア遺伝子。
こいつは細胞が再生するに従って短くなって行くんだけど、
何かの原因で変異しちまうと、短くならない不滅の細胞になっちまう。
つまり、細胞が増殖し続ける状態になって、それが大きくなると癌ってわけだ。
「変異した癌細胞は毒素を排出するのか・・・・・・」
この毒素で正常な細胞が弱り、転移しやすくなっちまうらしい。
一部の癌細胞のDNAでは、遺伝子の一個が欠如している事が発見されてる。
だから、それを補ってやれば、癌細胞に変化が起こると考えられてるそうだ。
要するに遺伝子治療って事になるんだろうなァ。こいつは面白い発見だぞ。
でも、問題は何で癌細胞の発生原因になるコピーミスが発生しちまうのか。
ウイルス、遺伝、化学物質、放射線、活性酸素、食生活、ストレス。
多くの説があるけど、どれも決定的なもんじゃねーみてーだぜ。
- 226 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/19(火) 13:39
- 「偶発的に変異するって考えた方が自然?」
確かに六十兆からの細胞があれば、ある程度の確率で変異体が発生するよなァ。
地球の人口六十億の内、一人に異変が起こる確率で計算すると一万個にもなる。
この内、九十九パーセントが消滅しても、百個の細胞が野放しになるってか。
これだけの数がありゃ偶発的要素は絶対に否定出来ねーだろうなァ。
「偶発的要素も含めて考えるべきなのかなァ」
癌の発生率が急増してる事実もあるわけだし、そこも含めて考えねーと。
ただ、長寿社会になったわけだから、相応のリスクは否定出来ねーよなァ。
老化すれば細胞自体も弱くなってるし、免疫機能だって低下してるからよ。
どの医学書や論文にも決定的な発生原因が書かれてねーんだよなァ。
「喫煙が原因だなんて、こんなの売名行為だしよ」
全ての癌は喫煙が原因であるなんて論文を発表したアフォがいるけどよ。
それなら禁煙国家のシンガポールの平均寿命は飛躍的に延びるわけだよな。
だけど、平均寿命は日本の方が上っていう歴然とした事実がある。
タバコが日本に入って来たのは室町時代だけど、それ以降の平均寿命は、
下降するどころか、食料の安定供給に比例して伸びてるんだよなァ。
「喫煙は発癌促進要因の一部でしかない」
そう考えた方が自然だし、統計という裏付けがないものは科学的根拠に乏しい。
日本では男性の喫煙人口が減少してるのに、発癌率は増加してるもんなァ。
やっぱり、複合的要因が自然なような気がするぞ。こいつはオヤジに訊いてみよう。
本来、一億年くれー前の哺乳類ってのは短命な生物だったんだよなァ。
だからこそ、短期間で世代交代をして、環境に順応する進化が出来たんだ。
- 227 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/19(火) 13:40
- レポートの方も順調で、いよいよ飲み会の金曜日になった。
そういえば、梨華ちゃんやごっちん、美貴ちゃん達と河原でバーベキューしたなァ。
あの時は美貴ちゃんが泥酔して、なっちが持った黒色火薬にブランデーを掛けた。
その途端に次々に誘爆して、さながらアクション映画のワンシーンみてーだったっけ。
今日は新宿で飲み会だから、ちょっと早目に家を出て電車を使って大学まで来た。
しかし、飲み会に来るスペシャルゲストって誰なんだろうなァ。
柴ちゃんに訊いても「内緒」って言って教えてくれねーんだ。
「よっC、行こうか」
「うちの大学は二人だけ?」
柴ちゃんの話によると、今回の飲み会は極秘裏に行われるから、
本当に仲のいい友達しか誘ってないって話だった。
そんなにスペシャルゲストってVIPなのかなァ。
まさか、皇室の人が来るなんて事はねーだろうな。
ナマズの長女は、まだ中学生だから有り得ねーか。
「西海大の友達が来るよ」
西海大っていえば、ごっちんが行ってる大学だったよなァ。
ごっちんは放射線の研究をしたくて西海大に入ったんだっけ。
柴ちゃんの関係なら、きっと医学部なんだろうけどよ。
ただ、高校時代の関係までは知らねーからなァ。
「まさか、そいつがスペシャルゲストじゃねーだろうなァ」
西海大っていえば、スポーツにも力を入れてる大学だからよ。
特に女子陸上じゃ有名だし、アーチェリーなんてマイナースポーツも盛ん。
マイナースポーツのチャンプなんて紹介されても困るだけだしなァ。
- 228 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/19(火) 13:40
- 「違うよ。それから矢口さんも呼んであるから」
矢口さん? 柴ちゃんと矢口さんは、あれから何度かツーリングに行ったらしいけど。
でもいいのかなァ。矢口さんは私達と違って就職活動中なんだから忙しいだろうに。
だけど要領のいい矢口さんの事だから、上手く面接日を避けて来るんだろうなァ。
あれから何度か電話では話したけど、乙女峠以来、逢ってなかったっけか?
ヘミングウェイじいさんは元気かなァ。紗耶香さんとは連絡してるのかなァ。
「この分だと六時前には着きそうだなァ」
大学から新宿までは、十五分もあれば着いちまうから便利なもんだ。
新宿の飲み屋は、怪しい店以外は駅から歩いて五分以内の場所が多い。
歌舞伎町は風俗店が多いし、新宿三丁目方面はゲイエリアだしよ。
昔は西口方面にも多くの飲み屋があったんだけどなァ。
「今日の居酒屋は、日本各地の地酒が有名なお店なの」
そいつはいいなァ。スッキリ味の純米酒から始めてドッシリ味の純米吟醸酒を飲む。
矢口さんも好きだから、こいつは正月以来の泥酔状態になっちまうかァ?
最近、更に肝臓が鍛えられたらしくて、ワインの一気飲みも平気になって来た。
特に夏なんて、ビールよりワインの方がグイグイ行っちゃうんだよなァ。
本当は汗をかいた時、ちゃんと水分を摂らないと脱水症状になっちまうんだよね。
アルコールは美味いけど、水分補給から考えると百害あって一利なしなんだ。
「秋から冬は魚が美味いからなァ。酒が進むってもんだぜ」
日本酒に合わない料理ってのは、本当に少ないんだよなァ。
特に日本は島国だから、海の幸とは物凄く相性がいいんだ。
私達は御茶ノ水駅で乗車券を買って、居酒屋のある新宿に向かった。
- 229 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/19(火) 13:41
- 柴ちゃんが予約してた店は、駅から東に三分ほど歩いたところにあった。
飲食店が入ってるビルの三階で、木目調の入口の雰囲気がいい。
私と柴ちゃんが予約した部屋に入ると、そこには矢口さんがいた。
どうやら待ち切れずに、お通しを肴に日本酒を飲んでるじゃねーか。
「遅いよ。よっC、柴ちゃん」
どうやら店の予約は六時かららしいけど、矢口さんは五時半には来てたみてーだ。
部屋の大きさと座布団の数からすると、今日は全部で六人って感じだなァ。
私と柴ちゃんと矢口さんって事は、他に三人来るって事になる。
一人は西海大学の学生って事だから、スペシャルゲストは二人なのかなァ。
「ったく、矢口さんは我慢出来ねーのかよ」
「呑兵衛に我慢させる方が無理だっての」
矢口さんは相変わらずだなァ。酒好きなのは私も同じだけどよ。
さてと、私は何を飲もうかなァ。三人揃ったから注文してもいいよね。
淡麗辛口の純米酒がいいんだけど、やっぱり北の方の酒になるだろう。
こうなったら、北の方から日本制覇してやろうかなァ。
「もうじき、みんな揃うと思うから注文しようか」
「OK! オレはこの『ねぶた』から飲んでみようっと」
柴ちゃんは苦笑しながら店員を呼んで注文を始めた。
そうか。注文って、つまみの事だったのか。
だったら美味そうなもんをガンガン頼もうぜ。
えーと、『焼き蟹 時価』『伊勢海老の生作り 時価』
『アワビの蒸し焼き 時価』『しし鍋 時価』
『ヒラメの縁側 時価』『近海マグロ 時価』うひゃー!
- 230 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/19(火) 13:41
- 「遅くなりましたー」
おっと、スペシャルゲストのご登場かァ?
何だ? こいつ外人みてーだなァ。
日本語を喋ったような気がしたけどよ。
欧米系の顔してるけど、どこの国の人だろう。
よっC様の語学力で母国語を探ってみようじゃねーか。
「Ist der Absolvent wer? (出身はどこよ?)」
「はァ?」
うーん、ドイツ語が通じないからゲルマン系じゃねーって事だな。
フランス語は苦手なんだけど、とりあえずポルトガル語で訊いてみるか。
しかし、私のポルトガル語は半分インチキだからなァ。
果たしてどこまで通じるかが不安なんだけどね。
「O diplomado e quem? (出身どこよ?)」
「・・・・・・?」
やっぱりフランス系なのかなァ。
眼がグレーだから北欧系かもしれねーけど、
こうなったら英語で訊いてみるしかねーか。
これで中国人だったら笑えるんだけどなァ。
「Is your graduate who? (出身どこよ?)」
「ああ、神奈川県だけど」
何て流暢な日本語なんだ! 下手な日本人より上手いぞ。
BoAやインリンより、ずっと日本語が上手いじゃねーか。
- 231 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/19(火) 13:42
- 「日本語、上手いね」
「一応、日本国籍なんだけどさ」
うげげー! こいつ、日本人だったのか。
それにしても、かなり日本人離れした顔してるなァ。
私の視線が気に入らなかったのか、いきなり睨みつけて来た。
気の強い奴だなァ。このよっC様を睨むとは上等じゃねーか。
大山先輩にワンハンドネックハンギングされて二十秒も耐えたんだ。
その点、荒木先輩は優しかったっけ。
「にらめっこ? オイラもまぜてよ」
「ふえ?」
一触即発モードから、矢口さんが入って来た事で一気に和みモードになった。
私を睨み付けてた女は、それが可笑しかったのかケタケタと笑う。
思わず私も笑い出すと、それから急に親近感が湧いて来た。
やっぱり、矢口さんってすげーんだなァ。とにかく器がでかいよ。
「オレは吉澤ひとみ。柴ちゃんと同じ大学なんだ。『よっC』って呼んでくれよ」
「あたしはレベッカ=英里=レイボーン。亜細亜大学なの。『ベッキー』って呼んで」
ベッキーはイギリス人とのハーフらしいけど、かなりアングロサクソンの血が濃い。
だから日本人の感覚が少ねーんだよなァ。でも、話や仕草はどう見ても日本人だ。
そういえば、うちに入院してる核娘のえりかも、生粋の日本人だってのに、
よくハーフに間違えられるなんて話してたっけかなァ。
で、このレベッカ何とかがスペシャルゲストなのか?
どこがスペシャルゲストなのか判んねーじゃんかよ。
亜細亜大学経営学部のハーフがスペシャルゲストなんて、
まさか、そんなオチって事はねーだろうなァ。
- 232 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/19(火) 13:42
- 「柴ちゃん、始めちゃおうよ」
「そうだなァ。四人揃った事だし」
みんな異口同音に始めたがってる。
どうやらレベッカ何とかと柴ちゃんは空腹らしい。
せっかく日本酒の美味い店に来て食べてばかりじゃ勿体ねー。
矢口さんは『白糸の滝』を飲んでて、柴ちゃんは『天狗舞』、
レベッカ何とかは『真澄』の純米酒を注文してた。
「それじゃ、かんぱ・・・・・・」
「ごめん、柴ちゃん。遅くなっちゃった」
オイオイ、いいから早く注文しろっての!
こいつが東海大学の・・・・・・どこかで見た顔だなァ。
えーと・・・・・・誰だっけ。思い出せねーぞ。
どこかで逢った気がするんだけどなァ。
こういうのって物凄く気持ち悪いんだよね。
素早く脳内スキャンしてみるけど検索結果は『該当なし』だ。
「初めまして。里田まいっていいます」
「そうかよ。いいから何か注文・・・・・・あー!」
思い出した。小田急線の中でチカンに遭ってた奴だ。
私は滑り止めに西海大学を受験したんだよな。
その受験日にチカンに遭って私が撃退してやった記憶がある。
私は東京医科歯科大が受かったから西海大には行かなかった。
って事は、まいちゃんも受かったんだ。医学部に。
確か「癌専門医になりたい」なんて言ってたっけか?
こいつは丁度いい。癌について話を訊いてみるか。
- 233 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/19(火) 13:43
- 「ひとみちゃん?」
「何よ。知り合いだったの?」
世間って狭いもんだよなァ。柴ちゃんの知り合いがまいちゃんだったとは。
とりあえず、早く飲みてーんだけど。もう身体が日本酒モードだからよ。
酷暑の夜にはキリキリに冷やした白ワインが最高に美味いんだけど、
身体の芯まで冷え切った日は、やっぱり熱燗で鍋物を突付きたくなる。
でも、今は店に充満してる米の香り。日本酒モードなんだよなァ。
「まいちゃん、早く注文しろよォ。オレ、飲みてーんだから」
「何が美味しいのか判らないの」
「だったら『越後杜氏』なんかいいかも。スッキリしてて飲みやすいよ」
さすが矢口さんだなァ。日本酒初心者にはスッキリ味がお勧め。
特に白身のサッパリした魚には、スッキリ味の日本酒がマッチする。
反対にハマチみてーに脂がある魚は、ドッシリ味の方がいいかも。
『越後杜氏』は値段も手頃だし、私もお勧めの日本酒なんだよなァ。
「オウ、あんちゃん。『越後杜氏』くれや」
「『越後杜氏』ですね? はい、少々お待ち下さい」
早くしろよ! これ以上待てねーぞ。
もうスペシャルゲストが誰だろうが飲みてーんだ!
よし! まいちゃんの『越後杜氏』が来たぞ。
今度は何が何でも飲んでやる!
これでまた飲めなかったら暴れてやるからよ。
今度こそ乾杯だゴルァ! 待ってろよ『ねぶた』
さあ、みんなグラスを持て! 持つんだ!
ようやっと乾杯だ! 一気に飲んでやるぞ!
- 234 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/19(火) 13:45
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また来週にでも更新致しますので、どうぞ宜しくお願い致します。
- 235 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/20(水) 00:29
- うわー、こちらまで呑みたくなってきましたw
昨日飲み過ぎたばかりだというのに。
スペシャルゲストの登場にワクワクしてます。
- 236 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/26(火) 13:55
- >>235
ありがとうございます。
二日酔いになると「もう二度と飲まない」なんて思いますよね。
でも、すぐにそんな事は忘れて飲んでしまうものなんですよね。
大学生って事で、こんなスペシャルゲストにしてみました。
- 237 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/26(火) 13:56
- 〔スペシャルゲスト〕
やっと乾杯が出来て、私は一気に『ねぶた』を飲み込んだ。
うーん、この米の香りがたまらねーなァ。
それから一合枡に残った分をグラスに入れて味わってみる。
なるほど、こいつは硬水を使ってるからツルッと入っちまう。
潔く胃の中に消えて行くから、余韻は楽しめないけど美味い。
「ガルルルル・・・・・・」
「よっC、何を唸ってんのよ」
犬も猫もお預けくえば唸りたくもなるってんだ。
そりゃ、矢口さんは飲んでたからいいよ。
私は全国の地酒が置いてある店って聞いてから、
ずっと日本酒モードになってたんだぜ。
淡麗辛口の日本酒をチビチビ飲んでんじゃねー!
だからチビのままなんだよ!
「貰った!」
「あーっ!」
私は矢口さんが飲んでた『白糸の滝』を横取りしてやった。
うーん、こいつは何度飲んでも美味いよなァ。
膨れっ面をする矢口さんの横で私は大満足。
そんな私達を見て、柴ちゃんとまいちゃん、
それからレベッカ何とかが笑い出した。
矢口さんとなら、こうしたイタズラも楽しめる。
なっちは食い意地が張ってるから食べ物は駄目。
変に横取りすると泣き出すから始末が悪いんだよなァ。
- 238 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/26(火) 13:57
- 「矢口さん、『久保田』を半分づつしねーか?」
「いいね! 交渉成立」
こうして和気藹々のムードが出て来ると、
驚いた事にレベッカ何とかが暴走を始めたじゃねーか。
気が強い奴だと思ってたら、思い切り明るい明るい。
それによく見ると、かなりの美形じゃねーかオイ!
「えっ? レベッカ何とかは矢口さんと同い年なのかァ」
「『ベッキー』だっての! よっCは物覚えが悪いんだから」
私とベッキー、矢口さんのハイテンションに、
柴ちゃんとまいちゃんも追い付いて来たじゃねーか!
そうそう。酒は楽しく飲むもんだからよ。
私はカレイの刺身を食べながら『久保田』を飲んでた。
「ん? 柴ちゃんのケイタイじゃねーの?」
「本当だ。・・・・・・もしもし? あやか?」
あやか? 誰だろうなァ。もしかしてスペシャルゲストか?
どうやら相手は店の近くにいるらしいぞ。
だとしたら、やっぱりスペシャルゲストなんだろうなァ。
でも、『あやか』っていったい誰なんだろう。
「・・・・・・そうそう。そこの三階。あたしの名前で予約してあるから」
柴ちゃんはそう言うと電話を切った。
相変わらずベッキーと矢口さんはハイテンションで、
私とまいちゃんは顔を見合わせて首を傾げちまった。
- 239 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/26(火) 13:57
- 「ねえ、よっCは家で何してるの? やっぱり勉強?」
ベッキーが私に質問して来た。まァ、勉強もするけどね。
夕方から就寝時間までの三時間は、院内学級のバイトなんだけど。
何て説明したらいいのかなァ。元々はアウトドア派なんだけどね私。
あんまり家が病院だって事は言いたくねーしなァ。
「バイトしてる。まァ、カテキョみてーなもんだけど」
「へえ、聖ダルセーニョ学園のエースがカテキョ?」
「え? ひとみちゃんって聖ダルセーニョ学園だったの?」
うっ! ベッキーも私がバレー部だった事を知ってやがる。
確かに私の一個上の先輩までは強かったんだけどね。
春高バレーの常連校で、私が二年の時には全国制覇した。
レフトに大山先輩と栗原先輩がいたし、センターは荒木先輩。
セッターには大山先輩の妹の未希がいたし、私はライトだった。
一個下の木村沙織は、何でも出来るオールランドプレーヤー。
ツーセッターの時には私が荒木先輩の対角、つまりセンターに入った。
沙織の調子がいい時は、私が未希の対角でライトに入ったんだっけ。
身長から行けば、私がセッター体格なんだけどね。
「オレは体格に恵まれなかった。残念だけどね」
「何言ってんのよー。オイラよりずっと背が高いくせに」
矢口さんが話し出すと場が和むよなァ。
私も身長が百八十センチあればアローズに呼ばれただろうに。
やっぱり私はバレーが好きなんだよなァ。
あと十六センチ背があれば、好きなバレーで食って行けた。
そうすれば医者になるなんて考えなかっただろうね。きっと。
- 240 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/26(火) 13:58
- 「柴ちゃん、ごめんね。遅くなって」
声の方を見ると、どこかタヌキ顔の女がいた。
こいつがスペシャルゲストなのかァ?
どんな凄い奴か知らねーけど、あんまり美人じゃねーな。
スッピンのせいか、かなり地味な感じじゃねーか。
「先に始めちゃったけど」
「いいの。あたしが遅れたんだから」
矢口さんとまいちゃんは、この女を見ながら首を傾げてる。
いったい誰なんだろうなァ。ベッキーも驚いた顔してるじゃねーか。
私はこんな顔の女なんか見覚えが・・・・・・あれ? どこかで見たなァ。
誰だったっけ? ・・・・・・どうも写真で見た気がするんだけどよ。
「本日のスペシャルゲストだよ」
「初めまして。平原綾香といいます」
平原綾香だァ? バレー選手にそんな名前はねーしよ。
でも、どこかで聞いた名前だぞ。ピアノ弾いて歌うおばさん。
あれは綾戸智絵だ。どうも「あや」って付くと石黒先生を連想する。
こいつも数学教師になるのかなァ。そうは見えねーけど。
「やっぱり!」
「オ、オイラ、CD全部持ってます!」
ベッキーも矢口さんも、いったいどうしたっての?
CD? CDってコンパクトディスクの事だよなァ。
キャッシュディスペンサーじゃねーって事は確実。
- 241 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/26(火) 13:59
- 「洗足学園音楽大学でサックス吹いてます。たまに歌うけど」
へえ、こいつは音大なんだ。サックスなんて粋じゃねーか。
えーと、洗足学園音楽大学っていったら、誰かが在籍してたよなァ。
誰だっけ? 大塚愛じゃなくて・・・・・・新人賞を争った奴?
確か『Jupitor』がデビュー曲の・・・・・・平・・・・・・原綾香?
うげげー! 本物だァァァァァー!
「し、柴ちゃん! 何でそんなに顔が広いの?」
「ナイショ」
すげー! 超有名人と一緒に飲めるなんて!
確か私も『オデッセイ』持ってたっけ。
この人は三オクターブくれー軽く出るんだよなァ。
ストラトキャスターが四オクターブ弱だから、
ギター一本分の声が出るってのはすげーよな。
「『酔心』の純米酒にしようかな」
『酔心』っていえば、某画家が食事代わりに飲んでた酒だ。
さすがに芸術系の人間ともなると、ああいった酒が好みなのかなァ。
スッキリしてるけど、それでいて芳醇な酒だったっけ。
「オウ、あんちゃん! 『酔心』くれや」
「はい、少々お待ち下さい」
平原綾香は私の顔を見てクスリと笑った。
何? 私の顔に何か付いてる? ホクロがあるのは知ってるけど。
何か緊張するなァ。果たして彼女が私達のハイテンションをどう思うか。
- 242 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/26(火) 14:00
- 「聖ダルセーニョ学園のよっCでしょう? 春高バレー見てたわよ」
「こ、光栄っす」
ベッキーといい平原綾香といい、みんな隠れバレーファンじゃねーか。
確かに一個上の先輩は、スター選手が揃ってたからなァ。
私達の代は健闘虚しく、フルセットの上、八王子実践に惜敗した。
レフトに沙織、セッター未希、事もあろうか私がセンターだったもんなァ。
普通、センターっていうと背が高くて器用な奴のポジションなんだけどね。
私はクイック専門だったから、消去法でセンターになっちまった。
「よっCも有名人なんだね。オイラ知らなかったよ」
「オレだって知らなかったよ」
日本代表の大山・荒木両先輩が超有名だったからなァ。
私の代でも注目は未希だったわけだし、後輩は沙織がスター選手だった。
理科系進学クラスに入ったから、私は春高でバレー部を引退しちまったし。
でも、あの未希の手から離れた瞬間に打つCクイックは面白いように決まったっけ。
下に向かってのジャンプトスなんて、常識じゃ考えられねーもんなァ。
相手は未希のツーアタックと沙織を警戒したブロックだから、
意外にノーマークの私の決定率がよかった。
「セッターより小さい人が決めてるって印象があったの」
確かにそうだよなァ。未希は私より十四センチも背が高い。
身長差の克服はクイックとブロックアウトしかねーんだ。
大山先輩達はパワーで捻じ伏せたけど、私達はスピードで勝負。
どこの高校も私達のスピードについて来れなかったっけ。
だけど八王子実践だけは、私達のスピードに対応したんだ。
何だか、またバレーをやりたくなっちまったなァ。
- 243 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/26(火) 14:01
- 「凄い。今日は有名人が二人もいるんだね」
まいちゃんは眼をキラキラさせてるけど、私は有名人なんかじゃねーっての。
過去は過去。私は今、しがない医大生の一人に過ぎないんだからよ。
その点、平原綾香はじいさんの代から音楽をやってるサラブレッドだからなァ。
宇田多ヒカルといい辺見エミリといい、芸能界も二世三世が活躍する場所。
政治の世界だって今や血統がステータスになってるもんなァ。
もっとも、政治の世界は血統=金持ちだから当然なんだろうけどよ。
「ねえねえ、綾香ちゃんはどのくらいの声域があるの?」
うん、さすが矢口さん。いい質問じゃねーか。
私の勘からすると、三オクターブ半くれーかなァ。
三オクターブ半っていうとレインボーの二代目ヴォーカル、
グラハム=ボネットの声域に相当するからよ。
「うーん、四オクターブちょっとだと思う」
「すげー!」
さすがに音大だけあるよなァ。四オクターブも出ればオペラ歌手になれるぞ。
私なんていくら頑張っても二オクターブまで出ねーんだからよ。
ちなみに四オクターブのミュージシャンは故フレディ=マーキュリーがそうだった。
まァ、中にはマライヤ=キャリーなんて凄まじい声域を持つ人類も存在するけどよ。
「でも、綾香は歌こそ有名になったけど、顔は知られてないんだよね」
し、柴ちゃん! 何て失礼な事言うんだ!
確かに大塚愛に比べれば顔は知られてねーよなァ。
しかもスッピンだと、本当に普通のねえちゃんだ。
- 244 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/26(火) 14:01
- 「営業用の顔は作ってるから」
平原綾香が言うには、CDのジャケットに印刷されてる顔こそ、
何百枚も撮った中で最も自分らしくないそれだって事だった。
だって、本当にそこらにいる女の子と同じだもんなァ。
芸能人だっていうオーラがねーっていうかよ。
でも、それでいて、こうして見ると平原綾香なんだよなァ。
私が持ってる『明日』のCDジャケットとは全く別人の顔してるんだけど。
「よっC、次は何を飲むの?」
「そうだなァ。『天狗舞』にすっか」
スペシャルゲストも然る事ながら、今日は日本酒を味わいに来たんだ。
私は『天狗舞』を頼み、矢口さんは『菊水』を頼む。
こんなに早くから濃厚な『菊水』なんて矢口さんもやるなァ。
そういえば、肴も刺身から空揚げになって来てる。
今日は飲みに来たんであって食べに来たわけじゃない。
だから肴は肴。今日の主役は日本酒だっての!
「よっC、ピッチ早くない?」
「平気平気」
柴ちゃんは心配してくれたけど、あの正月の事を思えば大した事ねーよ。
矢口さんと二人で凄まじい量を飲んだんだからなァ。
あの時は二日酔いで大変だったっけ。矢口さんなんか起きても酔ってたから。
矢口さんのこんなに小さな身体に、よくあれだけの酒が入ったもんだ。
って、ベッキーも何気にピッチがはえーよなァ。
アルコールってのは、その九十九パーセントが肝臓で分解される。
コーカソイドにはアルコールを分解する酵素が多いらしいけどよ。
- 245 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/26(火) 14:02
- 「ところでまいちゃん。遺伝子のレポートを書いてるんだけどさ」
私は癌について彼女が知ってる事を聞きたかった。
癌については未だに知られていない部分の多い病気だし。
理論的には判ってても、発生原因になると未知と言っていい。
誰にも発癌する可能性があっても、物凄い個人差があるしよ。
まいちゃんは癌専門医になりてーって言ってたから、
きっと何かを知ってるんじゃねーかなァ。
「珍しいね。遺伝子のレポートで癌を書くなんて」
そう言うとまいちゃんは、バッグの中からスクラップブックを出した。
それには癌に関する新聞の切り抜きや、論文のコピーなんかが貼ってある。
そして重要な部分にはピンクのマーカーペンで色が付けられてた。
かなり古い新聞記事もあって、まいちゃんが高校時代から集めた事が判る。
こいつはいい資料だなァ。出来れば借りたいんだけど。
「あのさ、これ・・・・・・」
「悪いけど貸せない。だから、これをあげるわ」
まいちゃんは私に一枚のフロッピーをくれた。
どうやら、このフロッピーの中にスクラップブックの内容が収まってるんだろう。
そりゃそうだよなァ。こいつは癌専門医になるまいちゃんの宝物だからよ。
「ありがとう」
きっと、みんなこのスクラップブックを借りたいんだろうなァ。
だからこそ、まいちゃんはいつもフロッピーを用意してるんだ。
何か私と比べると、まいちゃんは目標に向かって驀進してるよなァ。
- 246 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/09/26(火) 14:03
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また来週にでも更新致しますので宜しくお願い致します。
- 247 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/18(水) 14:45
- 〔逮捕された日〕
まいちゃんがくれたフロッピーには圧縮されたPDFが入ってた。
私はなっちのノートパソコンも借りて、本格的にレポート作成に入る。
オヤジが用意した資料だけじゃ、どうしても書けなかった部分も補えた。
それにしても、まいちゃんは本当によく勉強してるよなァ。
こうなったら、私も週に一回は外科医の論文を読む事にしよう。
六年間かけて論文を蓄積して行けばいいわけだもんね。
私は土日を利用して、WORDで約二十ページのレポートを書いた。
「あれ? なっちさん、オヤジは?」
一階に降りて行くと、なっちがソファに寝転がってテレビを観てる。
今日は当直でもねーのに、家にはオヤジの姿がなかった。
車庫を見るとベンツがあるから外出でもねーみてーだし。
普段は家でゴロゴロしてやがるくせになァ。
オフクロもいねーし、二人揃って買い物だったりして。
あの歳でラブラブなのはいいけど、世間体ってもんがあるぞ。
子供なんて出来たら、思い切り恥じかきっ子じゃねーか。
「病院じゃないべか? それよりレポートは終わった?」
「うん、だから見て貰おうと思ってさ」
「なっちに見せるべさ」
なっちが読んでも判るのかァ? 遺伝子のレポートだぜ。
しかも癌についてだから、意外に専門用語を使ってあるし。
いくら国立入試で理科も勉強したからって、それとは違う。
私はこう見えても、東京医科歯科大の学生なんだぜ。
文系のなっちが読んだところで、恐らくチンプンカンプンだろう。
- 248 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/18(水) 14:46
- 「どうよ。なっちさんには解んねーだろ?」
「こんなんじゃ、誰も読んでくれないべさ」
「へっ?」
なっちは、ざっと眼を通しただけで、そう言って私にレポートを返した。
いったいなっちは何を考えてんだか。大学で生物なんか専攻しなかったくせに。
それにしても気に障るなァ。何で誰も読んでくれねーってんだ?
面白いじゃねーか。何でだかハッキリ聞かせて貰おうじゃねーか!
「何を根拠に?」
「難しく書き過ぎてるんだべさ」
「でも、医大のレポートなんて・・・・・・」
「誰かに読んで貰おうとと思ったら、とにかく解りやすく書くの」
充分、解りやすいじゃねーか。
これ以上、どうやって解りやすく書くんだァ?
なっちはレポートって書いた事ねーのかなァ。
文系の大学でもレポートくれーありそうなもんだけど。
特に教育学なんて専攻してたらレポートくれー書くだろうに。
「生物学の教授は医師なんだべか? 癌細胞専門の学者なんだべか?」
「・・・・・・違うけど」
「解りやすく書くのって大切なんだべさ」
うーん、判ったような判らないような。
なっちが言いたいのは、もっと素直に書けって事なんだろうなァ。
確かに私は、まいちゃんの資料に影響されたところがある。
学会論文っぽく書くのがいいのかと思ってたからなァ。
ちょっと背伸びをしちまったのかもしれねーな。
- 249 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/18(水) 14:47
- 「書き直すから待ってろよ。室蘭の偶蹄目!」
「偶蹄目? ・・・・・・ベコ(牛)だべか?」
ブタのつもりなんだけど、まあいいや。
日本史と国語は得意中の得意だからよ。
私は階段を駆け昇って自分の部屋のPCを点ける。
Windows Meは起動が早いから好きだぜ。
最初はメモリ食いまくりで不安定なんだけど、
カスタムすりゃ2000やXpより使いやすい。
「えーと、あった。こいつだ」
私はWORD文書を開いて訂正を始めた。
ところで、ネアンデルタール人は何で絶滅したのか。
私達の祖先に殺されたって説もあるし、隕石直撃説、
中には今の人類はネアンデルタール人との混血なんて説もある。
私はまいちゃんの資料の片隅にあった免疫細胞の差を支持するなァ。
ネアンデルタール人は肉食から雑食になって癌細胞が活性化した。
つまり、癌細胞を免疫細胞が攻撃出来なかったってワケ。
だから一気に平均寿命が縮まって、繁殖する事が出来なくなった。
それに対して私達の祖先は、癌細胞を攻撃出来る免疫を持ってたらしい。
「まァ、論文じゃねーから、調べた事を丁寧に書いて行けばいいか」
それにしても、公文書や生命保険の約款は解りづらいよなァ。
甲だの乙だの今の時代に適してねーのは確実なんだけどよ。
まァ、生命保険なんて会社は保険金を支払いたくねーから、
わざと小さな字で難しく書いてあるらしいけどなァ。
最近じゃ消費者契約保護法が出来て変わりつつあるそうだけど。
- 250 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/18(水) 14:47
- 「『・・・・・・によって証明されている。』っと」
後は誤字・脱字をチェックしてOKだな。
考えてみりゃ、学者なんてのは何かに長じてるだけ。
専門外のものは、こうやって解りやすく書かないと駄目だろう。
まして、医者なんてのは、もっと頭の悪い連中だからよ。
小学校の高学年くれーまでレベルを下げないと読めねーってか。
「よっしゃー! 出来たぞゴルァ!」
私は自信満々で印刷し、階段を駆け降りてなっちに見せた。
なっちはソファに寝転がったまま読み始めると、
何が可笑しいのか、たまに声を出して笑ってるぞ。
遺伝子のレポートを読んで笑う奴なんて聞いた事がねーなァ。
「よっC、物凄くよくなってるべさ。読んでて面白いし」
「おもしれーかァ? 遺伝子のレポートだぜ」
「もしかしたら、よっCは物語を書く才能があるかもしれないべさ」
オイオイ、物語を書く才能だァ?
医師を目指す私には全く褒め言葉じゃねーんだけど。
私が文学部だったら、それこそ最高の褒め言葉だろうなァ。
いくら国立大でも、文学部出身の奴等なんか就職が厳しいらしい。
今や大手出版社なんか、その大半が派遣社員だしよ。
「おじさんに見て貰うべさ。本業だからね」
初めっから、そのつもりだっての!
でも、いい勉強をしたな。解りやすく書くのって大切なんだ。
- 251 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/18(水) 14:48
- オヤジにも好評だったし、私は自信を持ってレポートを提出出来た。
大学の帰りになると、もうかなり寒くなって来た気がする。
そろそろバイクじゃなくて、電車かクルマで通学しようかなァ。
「さてと、今日は甲州街道も空いてるなァ」
秋になると本当に陽が落ちるのが早い。
まだ四時だってのに、もう太陽は私の前方にあった。
私の計算通り、大学から三十分で三鷹市に入った。
ここから家までは五分くれーだぞ。っと。
「そこのバリオス、左に寄って停まりなさい」
何だ? 白バイじゃねーか。私は違反なんてしてねーぞ。
っていうか、ここは駐停車禁止なんだけどいいのかなァ。
仕方ねーから私は左にウインカーを出して白バイの後ろに停まった。
いったい何だっての。眼の前にある金物屋のオヤジが私を見てる。
こっちは院内学級もあるし、勉強もしないといけねーんだ。
暇な交機の相手なんて出来ねーってんだよ。
「免許証と自賠責保険証を見せなさい」
「何のために?」
この高飛車な態度が気に入らねーなァ。
人間ってのは組織の力と自分の力を混同しちまう。
特に男って生き物は、そういった意識が強いんだよなァ。
どこそこの誰々といった肩書きが欲しく仕方ねーんだ。
組織ってのは人間なのに、とにかく『長』から考える愚かな連中。
その最たるものが公務員じゃねーかなァ。
- 252 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/18(水) 14:49
- 「いいからエンジンを切れ!」
勝手にエンジンを切られて私のブチキレレベルが上がった。
この野郎、下手に出てりゃいい気になりやがってよ。
でも、ここは我慢。こんな事でブチキレたらガキだもんなァ。
医師を目指す人間として短気は禁物なんだ。短気は。
患者にヤキ入れちまったら、開業医としちゃ終わりだからよ。
それ以前に、患者は医者を頼って来るわけだし。
「・・・・・・」
「早く出せよ。いつまでも跨ってるんじゃねえ!」
私は腕を引かれてバイクから転げ落ちた。
くそっ! 頭の血管がブチキレそうだぜ。
で、でも、ここでブチキレたらいけない。
冷静に冷静に。とにかく冷静にならねーと。
警官とケンカしたとこで得にはならねーし。
免許証は持ってるけど、用もねーのに見せる義務なんかない。
どういった理由で私を止めたのか説明して貰わねーと。
「何でオレを停めたのか説明してからだ」
「このガキ! バリオスの盗難届が出てるからだよ!」
私は白バイ警官に胸を突かれて転びそうになった。
この野郎! せめて肩なら許してやったのに。
女の子の大切な胸を突くとは横暴過ぎる。
私はグローブを取って警官に投げ付けると、
ヘルメットまで脱いだついでに投げ付けてやった。
私の顔を見て警官の顔色が変わった。
- 253 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/18(水) 14:49
- 「へっ? 女の子だったの?」
私のヘルメットは警官の肩に当たって軌道が逸れ、
警官の後ろにあった白バイの回転灯を破壊した。
この野郎、絶対に許せねーぞ。どうしてくれようか。
私は免許証と自賠責保険証を叩き付けると、
ケイタイで矢口さんに相談してみようと思った。
「ちょっと酷くないですか? 女の子に対して」
金物屋のオヤジが警官に抗議してくれた。
こいつはいいな。目撃者がいるんだからよ。
この警官の暴力は、かなり行き過ぎだよなァ。
私がライダーススーツじゃなかったら怪我してたかも。
「いや・・・・・・これは勘違いで・・・・・・」
「あれ? 吉澤病院の娘さんだよね」
どうやら金物屋のオヤジは私の事を知ってるらしい。
そういえば、このオヤジは三鷹市議だった事もあった。
確かうちのオヤジの患者じゃなかったかなァ。
身体の方が思わしくなくて一昨年の選挙には出馬しなかったんだったけか?
ここは矢口さんに対応の仕方を訊いてみようかなァ。
「ちょっと、どこに電話する気だ!」
警官が私のケイタイを取り上げようとする。
私はケイタイを胸ポケットに入れて警官を睨み付けた。
さすがにこの場所からケイタイを抜き取るなんて出来ねーだろう。
- 254 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/18(水) 14:50
- 「あー! こ、壊れてる!」
警官は何とか自分の立場を回復しようと白バイの回転灯を指差す。
上等じゃねーか。器物破損で逮捕するならしてみろってんだ。
こっちは婦女暴行と強制猥褻で訴えてやるからよ。
こっちには元市議の証人だっているんだ。
「な、直せ! 今すぐ直せ!」
警官のヒステリックな声に、私のブチキレレベルは限界に達した。
割れたもんが今すぐ直るわけがねーだろうっての!
この警官をちょっと突き飛ばせば、トラックと激突するんだけどなァ。
さすがに殺しちまうとヤバイよな。殺しちまうと。
「判った。おじさん、ちょっと道具を貸してくれや」
私は金物屋に飛び込むと、ツルハシとハンマー、
そしてバールを持って白バイのところへ戻った。
白バイ警官の罵声を浴びながら、私はニッコリ笑ってやる。
私に『直せ』なんて言った事を後悔させてやらねーとなァ。
「近くにいると怪我するぜ!」
「な、何をす・・・・・・」
私はツルハシの柄で警官の顔面を突いてやった。
隙を突かれて無言でその場に昏倒する警官。
女だからって甘く見るんじゃねーっての!
てめーは背後から刺された事なんてねーだろう。
それから手に唾を付けると私はツルハシを振り上げた。
- 255 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/18(水) 14:51
- 「せーの!」
うーん、さすがはツルハシだなァ。一撃で白バイのエンジンに穴が開いた。
私はツルハシで穴だらけにすると、ハンマーに持ち替えて白バイを叩き潰す。
ガソリンやエンジンオイル、バッテリー液がアスファルトに広がって行く。
ハンマーに疲れると、今度はバールで徹底的に白バイを破壊してやった。
このよっC様を怒らせると、どうなるか判ったかっての。
私は汗だくで完全にスクラップと化した白バイを蹴飛ばした。
「ふー、直らねーや」
私がバールを放り投げると、いつの間にか辺りはパトカーで埋め尽くされてる。
金物屋のオヤジの通報で駆け付けた警官も、私の破壊活動を見て応援を呼んだらしい。
私が縁石に座ると、いきなり二人の警官が後ろ手に手錠を掛けやがった。
くそっ! たった一人に大の大人が十数人がかりかよ!
「器物破損、公務執行妨害の現行犯! 署に行って事情聴取だゴルァ!」
「上等じゃねーか! この野郎は婦女暴行、強制猥褻だぞ! なァ、おじさん」
金物屋のオヤジは困ったように頷く。
二人の警官が私の腕を持って立ち上がらせようとした。
こうなったら、とことんやってやろうじゃねーか!
裁判でも何でも受けてやるぞゴルァ!
「触るんじゃねーよ! セクハラで訴えるぞ!」
二人の警官に体当たりすると、今度は女性警官に掴まれちまった。
えーと、女性警官だとセクハラで訴えられねーし。
くそっ! 考えてる内にパトカーに乗せられちまった。
- 256 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/18(水) 14:52
- 今日のところは、これにて失礼致します。
- 257 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/19(木) 00:39
- ハラハラしてますw
- 258 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/31(火) 11:09
- >>257
ありがとうございます。とても励みになります。
このところ、季節の変わり目でしょうか、ちょっと体調を崩していました。
- 259 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/31(火) 11:09
- 〔釈放〕
私は三鷹署に連行されると、取調室にぶちこまれた。
交通課の警官が二人で尋問を始めたけど私は何も話さない。
こっちには黙秘権ってものがあるんだからよ。
こうなったら裁判で白黒つけようじゃねーか。
「何で罪を認めないんだ!」
「・・・・・・」
「警官に怪我させてるし、白バイ壊してるし、有利な証言しないと実刑になるよ」
「へえ、いつから警察が裁判官になったんだよ」
こいつ等、何が何でも私を送検しようとしてるなァ。
何が現行犯だっての。事の次第なんて見てねーくせに。
こいつ等が脅して来るとしたら、次は大学に連絡するって事。
この逮捕自体が誤認逮捕なんだから、いつでも復学出来るっての。
私が官憲の暴力と戦わなくて、いったい誰が戦うんだ?
「罪を認めなよ。そうすれば帰れるからさ」
「嘘つくんじゃねーよ。送検するくせに。それにオレは被害者だっての」
「だったら、何の被害を受けたの?」
「金物屋のオヤジから訊けよ」
警察は自供がないと送検しにくいらしい。
自供なしで送検すると、検察から文句を言われるそうだ。
だからこそ、何が何でも自供させたがるわけなんだよな。
そんな事は、とっくにお見通しだっての。
とりあえず、弁護士でも呼んで貰うかなァ。
弁護士と話をしないと何も話せねーしよ。
- 260 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/31(火) 11:10
- 「弁護士と話しさせろ。そうじゃないと何も喋らないからな」
「それじゃ弁護士を呼ぼう。その前に大学に連絡するけどね」
来やがったぜ。これで脅したつもりなのかァ?
所轄の交通課なんて、こんなもんかもしれねーなァ。
世間知らずっていうか、逮捕=退学になると思ってやがる。
有罪にならねー限りは退学なんて無理だってのに。
「私大でもあるまいし。逮捕だけで除籍になると思ってんの? 本当におめでたいね」
「舐めやがって!」
「へえ、拷問かよ。裁判官がどう思うかね」
警察の弱味なんて矢口さんから聞いて判ってるっての。
私は未成年だから、夜中まで尋問なんて出来ねーはずだ。
尋問が中止されれば、嫌でも弁護士と会わせないといけない。
まずは、弁護士に保釈の手続きを取らせねーとなァ。
「黙ってても器物破損、傷害、公務執行妨害の容疑で、君を六日間まで拘留出来るんだよ」
「そんな事は知ってるよ。いいから弁護士を呼べっての」
「何も喋らないのに呼べるわけがないだろう」
「そいつは違法だな。裁判が楽しみだ」
こっちが裁判を前提にしてるから、警察でも尋問の仕方が慎重になる。
裁判に持ち込むには、警察で充分な証拠を集めないといけないはず。
今回のような場合、何より自供調書が重要視されるに決まってる。
金物屋のオヤジの他にも、病院に罹ってる患者が何人かいたからよ。
弁護士に話をすれば、即刻釈放になるのは間違いねーだろう。
あの警官への傷害も、先にちゃんと警告してるわけだし、
直らないものを直せって強要されたんだから私の責任じゃない。
- 261 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/31(火) 11:10
- そろそろ八時になるなァ。なっちが来てくれる頃じゃないかな。
これで弁護士が来てなかったら、きっとなっちが大騒ぎするはず。
なっちの事だから矢口さんに電話して来て貰うかもしれねーなァ。
警官の罵声を聞き流してたら、ドアが開いて誰かが入って来た。
「やっと弁護士かァ? ・・・・・・マンジュウ」
取調室に入って来たのは弁護士じゃなくて捜査課長の村井じゃねーか。
そうか、まだこいつ、三鷹署にいたんだなァ。あの時は世話になった。
マンジュウは私の対面に座って腕を組み、深く溜息をつく。
成る程。傷害容疑だから捜査課が出て来るってわけだな?
「ちょっとは、まともなのが来たなァ」
「・・・・・・手錠を外せ」
さすがマンジュウじゃねーか。やっぱり、こいつは話が判ると思った。
そうだそうだ。こんなに可憐な少女に手錠なんてしやがってよ。
いったい警察は何を考えてやがる。誤認逮捕で訴えてやるぞ。
「それから女性の警官を残して出て行け」
「で、でも・・・・・・」
「言われた通りにしろ!」
捜査課長に命令されたら従うしかねーってか?
それにしても、しがない中年だと思ってたけど、
マンジュウもちゃんと管理職してるじゃねーか。
手錠を外したって事は、きっと釈放だろうなァ。
そりゃそうだろう。私が悪いわけじゃねーんだから。
警官達はゾロゾロと取調室を出て行った。
- 262 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/31(火) 11:11
- 「さすが村井さんだなァ。判ってんじゃねーか」
「あの時・・・・・・私はとても嬉しかった」
「へっ?」
「君が病院の廊下で私を呼び止めた時だよ」
そういえば、美貴ちゃんの件で病院にマンジュウが来たっけ。
マンジュウなりに慎重に捜査してた事が判って、
私は酷い事を言ってしまった事を謝ったんだった。
それが嬉しかったのかァ。マンジュウも人間なんだなァ。
「ああ、あの時の・・・・・・」
「馬鹿な事して! 私は君がもっと大人だと思ってたよ!」
「ふえっ?」
なななな・・・・・・何を怒ってるんだ?
マンジュウの横にいる女性警官もびびってんじゃねーか。
いきなり大声はよそうや。こんなに狭い部屋なんだからよ。
ああ、驚いた。まだ心臓がバクバクいってやがら。
「君が殴った警官にも事情聴取したし、金物屋さんからも話を訊いたよ」
「だったらオレが悪くないって事も判ったろ?」
「そういった問題じゃないだろ! 自分中心で物事を考えるな!」
こ、こえー! マンジュウって、こんなに怖かったのか。
考えてみりゃ、刑事なんだから怖いのも当たり前だよなァ。
しかし、迫力あるなァ。隣のねーちゃん、びびりまくりだぜ。
でも、自分中心って言ったってよ。悪いのは向こうだし。
何も事情すら訊かねーで、いきなり逮捕した警察が悪い。
私は筋の通らない事が大嫌いだからよ。
- 263 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/31(火) 11:11
- 「あの警官だけどね。行き過ぎを認めてるし、君に謝罪したいって言ってる」
「ふーん・・・・・・えっ? 謝罪?」
「公務上の過失だし、きっと彼は処分されるだろうね」
「・・・・・・処分?」
マンジュウが言うには、労働組合もない警察だと、意外に重い処分が出るそうだ。
問題は行き過ぎた職務質問じゃなくて、白バイがガラクタになっちまった事らしい。
交機ってところは、白バイを傷付けたりパトカーを擦っただけで処分されるそうだ。
いったい何のための処分なのか。警察って馬鹿馬鹿しい組織なんだなァ。
「懲戒免職にはならないだろうけど、減給は間違いないだろうね」
「減給かァ。そいつは大変だね」
「それを判ってて彼は謝罪したいって言ってるんだよ」
何となく私も悪かったような気がして来たなァ。
思い込みなんて誰にでもある事なわけだしよ。
白バイを壊したのは確かに行き過ぎだったかも。
減給なんて可哀想じゃん。きっと家庭もあるんだろうし。
「オレも白バイの件は行き過ぎだと思ってる。でも『この場で直せ』なんて言われてさ」
「彼は数日前、盗んだバイクで事故死した少年を見てるんだよ」
そうだったのか。それであんなに厳しい態度をしたんだなァ。
今思うと、つまらねー事でヘソを曲げたもんだぜ。
きっと素直に応じてれば、あの警官だって感情的にならなかったろう。
警察が何でもかんでも正当化するのは、処分なんてものがあるからなのか。
処分を恐れちゃ何も出来ねーし、かと言って犯罪を野放しには出来ない。
警官ってのは、そうした狭間で生きてるんだなァ。
一般市民とは背負ってるものが違う因果な商売だぜ。
- 264 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/31(火) 11:12
- 「謝罪はいらない。お互い様だったわけだし」
「君のいいところは、そういった素直なとこなんだな」
こ、こいつ、何を言うかと思ったら・・・・・・照れるじゃねーか。
そりゃ私は素直だよ。親には伸び伸びと(放任?)育てて貰ったし。
大山先輩には下手に逆らうと頭を噛まれた事もあったからよ。
でも、やっぱり素直になったのは、なっちと住むようになってから。
だって、もうなっちのいない生活なんて考えられねーもんなァ。
やっぱり、なっちのお陰なんだろうね。きっと。
「それほどでも・・・・・・」
「出来れば内々で片付けたいんだよ」
マンジュウが言うには、警視庁監察部が動き出す前に、白バイを何とかしたいらしい。
私を器物破損で送検するのは簡単だそうだけど、そうなると隊員の過失も問われる。
出来れば修理に出しているという形で、私に弁償して欲しいと言って来た。
そうなれば隊員の処分は軽くて済むし、私を送検する必要もなくなるって話。
「判った。何とかカネを作ってみるよ」
「来年の三月で私は転勤になるだろう。そうしたら、もう庇えないからね」
「・・・・・・」
何か気に障る言い方だなァ。私は被害者だってのに。
まァ、いいや。百五十万くれーなら何とかなるだろ。
オヤジに頭を下げるのは嫌だけど背に腹は換えられねーや。
最悪はなっちから借りるって手もあるからなァ。
それにしても腹減ったなァ。カツ丼でも取って欲しいぜ。
今日はラーメンでも食いてー気持ちなんだけどよ。
なっちの作ったラーメンは美味いからなァ。
- 265 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/31(火) 11:12
- 「それじゃ行こう。お姉さんが待ってるよ」
「姉ちゃんじゃねーっての。同居人だよ」
私が意気揚々と階段を降りて行くと、一階の長椅子になっちが座ってた。
少し傷付いた私のヘルメットを抱き締めて、何か意地らしい仕草だなァ。
こういった何気ない可愛らしさが、なっちの魅力なのかもしれないね。
勿論、なっちスマイルは最高なんだけどよ。
「なっちさん、お待たせ」
「よっC・・・・・・」
何だよ。そんな顔しないでくれよォ。
別に拷問を受けたとか、虐待されたわけじゃねーからよ。
何か、こう・・・・・・リアクションが欲しいじゃんか。
笑うとか泣くとか怒るとかよ。
でも、それがなっちなのかもしれねーなァ。
「すまねーなァ。忙しかっただろうによ」
何で無表情なわけ? 無表情って意外に怖い顔なんだよなァ。
だから化粧するわけだし、人前じゃ表情を作るんだ。
「村井さんから話は聞いたべさ。帰ろう」
どうも、調子が狂うよなァ。いったいどうしたってんだァ?
私はヘルメットを受け取ると、なっちと一緒に三鷹署を出た。
えーと、なっちはベンツだよなァ。私のバリオスはどこだァ?
しかし、百五十万かよ。オヤジ、出してくれるかなァ?
出してくれるよな。可愛い娘のためなんだからよ。
- 266 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/31(火) 11:13
- 「なっちさん、何か食って帰ろうか」
「・・・・・・うん」
何だァ? いったいどうしたってんだよ。
オフクロに知れたら折檻されそうだけどなァ。
まァ、足には自信があるから、いざとなったら逃げりゃいい。
そんな事まで心配してくれてるのかなァ。
「それじゃ、オレが前を走るからさ」
「判ったべさ」
バイクとクルマで走る場合、ちょっとしたルールってもんがある。
それは必ずバイクが前を走るって事なんだけどね。
なぜかっていうと、それはバイクの方が小さく見えるって点が第一。
次に制動距離が違うっていうのが理由なんだよなァ。
「あったあった」
私はヘルメットを被るとバリオスに跨った。
クルマが前を走ってると、急ブレーキを踏まれた時が危険。
車間距離を充分に確保してねーと追突しちまうからよ。
車間距離が空いてると、馬鹿なドライバーが平気で割り込んで来る。
油断してると、それだけで追突しちまうからなァ。
「えーと、この先にカツ丼のあるファミレスがあったっけ」
どうも取調室に入れられると、カツ丼が食いたくなっちまうぜ。
でも、刑事ドラマだと何でカツ丼なのかなァ。
まァ、そういった事は、大した問題じゃねーけどよ。
- 267 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/31(火) 11:14
- 「左右確認、出発っと」
おおっ! さすがにベンツS600LONGだなァ。
あれだけ加速がいいクルマは滅多にねーからよ。
おまけに最高水準の安全性があるからなァ。
やたらと軽量化して安全性を無視したクルマとは違う。
この先だったっけ。ああ、あそこだぜ。
「左折っと」
ファミレスの敷地に入ると、なっちは駐車場に私は駐輪場に停車させた。
ヘルメットを脱ぎながら空を見上げると、月が笠を被ってぼやけてるなァ。
こいつは明日、雨になりそうな気がするぞ。明日は電車で行くかな。
二人で中に入ると、もう夕食時の混雑が去って、かなり空いてた。
「お二人様ですか? 喫煙席と禁煙席がございますが」
「どっちでもいいよ」
「では、お席の方、ご案内致します」
いつも思うんだけどよ。「お席の方」って日本語は間違ってねーか?
正しくは「お席へ」じゃねーのかなァ。支払いの時だってそうだ。
よく「一万円からお預かり」なんて言うけど、正確には「一万円をお預かり」だろう。
もしくは「一万円、お預かり」の方が、文法として正しいはずなんだけどなァ。
「ここのカツ丼、美味いらしいぜ。なっちさんも食うだろ?」
カツ丼はカロリーが高いけど、今の私の胃袋はカツ丼モードだからなァ。
しかし、カツってのも、どういうわけかヒレよりロースの方が脂があって美味い。
逆に鶏肉はササミの方が美味いのは何でだろうなァ。不思議なもんだぜ。
- 268 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/31(火) 11:14
- 「・・・・・・なっちはコーヒーでいいべさ」
「えっ? 食べないの? って電話だ」
胸ポケットに入れたケイタイがブルブルと、何か胸を触られてるみてーだなァ。
えーと、誰からだァ? うわっ! オヤジじゃねーか。怒られるかなァ。
出来れば出たくねーんだけど、白バイのカネを出して貰う事もあるしよ。
「はぁーい。ひとみちゃんですよー」
〈何をやってんだよ。警察から電話があったぞ〉
「えへへへへ・・・・・・。白バイを壊しちまってさー」
〈白バイを壊した? 過激な奴だな〉
過激だァ? オフクロが過激なんだから仕方ねーっての!
せこいオヤジと過激なオフクロの遺伝子を引き継いじまったからなァ。
こいつばかりは遺伝だと思って諦めて貰うしかねーじゃんか。
「それでさー、百五十万必要なんだけど出してよ。パパァ」
〈だからパパはやめろって。とりあえず出て来れたんだな?〉
「うん、なっちさんと一緒だよ。ファミレスで食事して帰る」
〈ったくオテンバなんだから。じゃあな〉
助かった。オヤジ、怒ってねーみてーだぜ。
問題はオフクロだよなァ。サソリ固めくれーは覚悟しとくか。
でも、遺伝なんだからよ。それで怒られてもなァ。
一度、オフクロには遺伝って事を話さねーといけねーかも。
「・・・・・・よっCに教えないといけない事が残ってたべさ」
はァ? 私に教えなきゃいけねー事? 何の事なんだろうなァ。
- 269 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/10/31(火) 11:15
- 今日のところは、これにて失礼致します。
また来週にでも更新致しますので、どうぞ宜しくお願い致します。
- 270 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/11/08(水) 10:36
- 〔二年生になった〕
美貴ちゃんが相模湖記念病院に転院すると、いよいよ私も二年生。
二年生になると後期から解剖実習が待ってるんだよなァ。
死体を見るのは慣れてるけど、解体しないといけねーからよ。
いくら献体だからって、人を解体するのは嫌だよなァ。
「でも、ボランティアなんだから」
私はオヤジに石黒先生への謝礼金を支払うように言った。
石黒先生は一、二年の数学を担当する事に決まったらしい。
つまり、一、二年でしっかり数学を身に着けておかないと、
三年生になって苦労するからという事だった。
彼女はこれからも院内学級に出てくれるっていうから、
それなりの謝礼をしないといけないんじゃないかなァ。
「気持ちの問題だろ? 月に十万も払えなんて言わないよ」
石黒先生は子育ての時間を割いて来てくれてるんだ。
現金は失礼かもしれないけど、お礼の気持ちなんだよなァ。
もし、現金を拒むんだったら、何かお礼の品を渡したい。
これは人として当たり前の事なんだと思う。
「それもそうだな。『教育研究協力費』の名目で振込みしてみようか」
石黒先生が嫌がったら節税対策って事にしちまおう。
聖ダルセーニョ学園外でのアルバイトになっちまうんだったら、
旦那さんの口座に振り込んでもいいわけだしね。
最悪は矢口さんに相談すりゃ、何かしら解決策が見付かると思う。
- 271 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/11/08(水) 10:36
- 「それと、問題は昼間の人手不足なんだけどさ」
私が休みの時は応援に入れるけど、通学の方で精一杯の現状がある。
だから自習ってかたちになっちまって、復学しても勉強について行けないだろう。
ボランティアに任せるなんてのは、もう限界に来てるからよ。
国や自治体から補助金が出てるんだから、そいつを使い切らねーと。
まァ、オヤジの事だから、きっと何かしらの対策はしてるんだろうけど。
「なつみちゃんの話だと、国語を教えられる人材が必要らしいな」
「そうだなァ。国語と英語だね」
裕ちゃんや石黒先生のツテで、予備校の教師でも紹介して貰うか。
でも、出来れば若い人の方が子供達も親しみやすいだろうし。
何かいい方法はねーもんかなァ。どうすればいいんだろ。
私は院長室にある人事記録を片っ端から見たけど適当な人材がいない。
「日中は募集をかけても集まらないよ」
「オヤジ、教職員再教育センターはどうなんだろ」
教職員再教育センターは、教育者として不適格と思われる人材を再教育する場所。
でも、実際のところは、辞表を出させるための制裁施設的要素が強い。
つまり、日教組弾圧の公的機関であると言ってもいいんじゃねーかなァ。
だいたい、卒業式で日の丸に頭を下げなかったり、君が代を歌わなかっただけで、
教職員再教育センターに送られた教師もいるって話だからよ。
「うん、タダなら賛成」
このクソオヤジ、首でも絞めてやらねーと判らないみてーだな。
私が睨み付けると、オヤジは笑いながら頭を掻いた。
- 272 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/11/08(水) 10:37
- 私は石黒先生がやって来ると、昼間の人材難の事を相談してみた。
なっちは石黒先生を怖がって、あんまり相談とかしねーからよ。
これまでは美貴ちゃんがいたから何とかなったんだよなァ。
でも、これには石黒先生も困惑してた。
「再教育センターの教師は避けた方がいいと思う」
石黒先生が言うには、無理に頼み込むと自治体を敵に回す事になるらしい。
そりゃそうだよなァ。辞めさせたい教師を集めてる部署なんだからよ。
でも、このままじゃ子供達が可哀想だ。何とかしてやらねーと。
「ちょっと待ってね。・・・・・・ああ、保田? 斎藤は何してるか判る?」
石黒先生はケイタイで保田先生を呼び出した。
聖ダルセーニョ学園の教師には、体育会系並の先輩後輩の規律がある。
保田先生は石黒先生の後輩だから、絶対服従を要求されるんだよなァ。
石黒先生の裏拳が入って保田先生が鼻血を出した事が思い出されるぜ。
「何ィ! ファミレスでアルバイト? とんでもない話だ!」
斎藤って誰かな。もしかして、茶道部だった美海かな。
そういえば美海の家は、あんまり裕福じゃないって聞いたっけ。
就職出来なかったのかなァ。根性はある奴らしいけどよ。
電話を終えた石黒先生は、ニッコリ笑いながら話を始めた。
「ねえ、時給九百円出せる?」
時給九百円かァ。千円くれーなら出せるんじゃねーかなァ。
オヤジが文句を言ったら、また税務署を連れて来るって脅かすかな。
- 273 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/11/08(水) 10:37
- 「大丈夫ですよ。千円くらいなら」
「お前の一個下の斎藤美海って知ってる?」
石黒先生の話によると、斎藤は立川女子大学の夜間に通ってるらしい。
立川女子大は、確か教育学部しかねーんだったっけか。
何でも斎藤は特待生で学費が免除されてるらしいけど、
交通費や昼食代を稼ぐためにファミレスでバイトしてるそうだ。
「昼食なんか整外の入院食でよかったら、うちで提供出来ますよ」
院内学級は昼の一時からだから、実質三時間になっちまうけど、
それでも日給三千円。月二十日で六万円にはなるもんなァ。
午前中は自分の勉強も出来るだろうし、いい条件じゃねーか?
私は早速、なっちと相談してみた。
「面接してみないと何とも言えないべさ」
「安倍さん、あたしが推薦してるんだけどさ」
「べべべべ・・・・・・べさァァァァァァァー!」
石黒先生に睨まれて、なっちは顔面蒼白になった。
斎藤にしても、ファミレスでバイトするよりいいだろう。
まァ、石黒先生の事だから無理にでも連れて来るに決まってる。
問題はうちのオヤジだよなァ。何しろケチだからよ。
「それじゃ、来週から来るように言うから」
斎藤が来てくれたら、子供達は自習なんてしなくていい。
私よりも、なっちからオヤジに頼んで貰った方がいいかなァ。
オヤジは院内学級をなっちに預けたんだからよ。
- 274 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/11/08(水) 10:38
- 「ところで石黒先生」
私は例の『お礼』について話を切り出した。
案の定、石黒先生は断ったけど、それじゃ私の気が済まない。
あんまりしつこくすると怒るかもしれないから、
『教育研究協力費』での振り込みについて話をしてみた。
「だから微々たるもんっすけど、これで教育関係の本でも買って貰えれば」
「だったら図書券にして貰えない? その方が目的が明確だし」
いかにも石黒先生らしいよなァ。
そんなに本を読んでる時間なんて無いはず。
きっと、数学を頑張った子にあげるんだろう。
でも、それが石黒先生の意思ならそれでいい。
「そうそう。みっちゃんが一年の担任になったから、ここに来たいって言ってた」
「それは願ってもない事だべさっ!」
平家のみっちゃんは、数学・理科の教員免許を持ってるし英語も堪能。
石黒先生が来られない時でも、みっちゃんがいたら鬼に金棒だぜ。
いよいよ手狭になって来たから、隣の倉庫を使う事も考えねーとなァ。
この別棟には旧式化した医療器具なんかの倉庫もあるから、
そいつを処分すれば部屋が二個も増えるしよ。
「実は裕ちゃんも来たいって言ってるの」
裕ちゃん? ここに独身の男は少ねーぞ。
独身っていったら、ケアワーカーの丹羽さんくれーかなァ。
どうも裕ちゃんは、そういった方向に考えそうだからよ。
- 275 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/11/08(水) 10:38
- オヤジは斎藤を気に入って二時間も話をしてた。
まさか、自分の娘より若い子に手を出すんじゃねーだろうなァ。
もし、そんな事になったら、石黒先生に合わせる顔がねーじゃんか。
こうなったら、私が命懸けでオヤジの毒牙から守らねーと。
「通学も受け入れた院内学級が評価されてね」
オヤジは国や自治体からの補助金が増えた事を話した。
パートだけど、院内学級専門の事務員を雇う事も考えてるそうだ。
そうなれば、なっちへの負担もかなり軽減されるだろう。
私も何だか院内学級が楽しくなって来たんだよね。
「美海ちゃんは卒業したら、どうするつもりなんだい?」
「やっぱり教育者になりたいです」
オヤジは腕を組んで何やら考え始めた。
まさか、オフクロと離婚して斎藤と一緒になろうってんじゃねーだろうな。
いくら何でも、私より年下を「お母さん」なんて呼べるわけがねーだろ。
そんな事になったら、絶対に親子の縁を切ってやるからよ。
「どうだろうねえ。正式に就職しないかい?」
「待てよオヤジ。斎藤はまだ大学一年なんだぜ」
「判ってないな。大学を出て教育者の資格を取るのは仕事だ」
オヤジの話によると、将来的になっちの片腕になって欲しいそうだ。
確かに四年後には、この病院も大きくなってるだろうし、
今から人材を確保しようっていうオヤジの先見性に驚いたなァ。
こういうのを先行投資っていうんだろうね。
私にも、もう少しだけ先行投資してくれてもいいのになァ。
- 276 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/11/08(水) 10:39
- 「願っても無いお話ですけど、将来的に希望が変わるかもしれませんから」
「そんな事は構わないよ。それでお母さんなんだけど事務は出来るのかい?」
斎藤のお母さんには喘息の持病があって、働きたくても働けないそうだ。
だから亡くなったお父さんの遺族年金で細々と暮らしてるらしい。
事務は出来るのか。って、オヤジはいったい何を考えてるんだか。
喘息の持病があったら、外出するのさえ厳しいんじゃねーの?
まァ、近所に買い物くれーは何とかなるだろうけどよ。
「厳しいと思います。発作が出た時の事を考えると」
「ここは病院なんだけど」
「あっ・・・・・・」
オヤジもしたたかなもんで、空いてる看護師の独身寮を提供するらしい。
一緒に住んでるのが看護師だから、斎藤のお母さんにとっては好都合。
また、若い看護師にしても、自分の母親くらいの人がいれば心強い。
これがオヤジの考えなのか。奥が深いっていうか欲が深いっていうか。
まさか、オヤジは未亡人である斎藤のお母さんを狙ってるのかァ?
「遺族年金の件もあるし、お母さんの年齢だとパートになっちゃうけどね」
斎藤は眼に涙を浮かべて頭を下げたけど、オヤジは募集広告をケチっただけの話。
パートの事務員っていえば、院内学級の事務員って事かァ?
それなら少しでも長く一緒にいられるから、きっと斎藤も安心だろう。
こうして恩を売る事で、何とか斎藤を繋ぎとめておきたいみてーだなァ。
でも、ここにいれば三食付いて来るからよ。悪い条件じゃねーと思う。
そういえば、うちの病院の看護師さんって、あんまり辞めないよなァ。
かなり厳しい職場なんだけど、みんな元気に明るく仕事してるイメージがある。
北条政子さんなんて、私が物心付いた時には、すでにいた看護師さんだもんなァ。
- 277 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/11/08(水) 10:39
- 「特待生だけは守ってくれないと、学費までは出せないからね」
「ケチ臭い事言うんじゃねーよ」
まァ、オヤジの言う事だから、その時はその時で考えるんだろうね。
それでオヤジの税金対策は、いったいどうなってるんだろうなァ。
詳細な内容はオフクロから説明があるらしいけど、
斎藤を使った税金対策があるのは間違いねーぞ。
「な、何だよ。その懐疑的な眼は」
「いや、オヤジが何を企んでるのかなって」
このところ、税金対策で購入した二台目のMRIも稼動してる。
近所の町医者から紹介された患者を検査するのと同時に、
待ち時間を短くする目的で効率よく稼動してるんだよなァ。
別棟が出来てから、第二手術室を作ったりICUを広くしたりしてる。
カネにならない老人医療は、ほとんど別の病院を紹介してるから凄い。
「何も企んでないさ」
「だったら、何でそんなに斎藤を気に入ったんだよっ!」
「それは・・・・・・だから・・・・・・」
「手を出したらオレが許さねーからな!」
「な、何を言い出すんだ! お前って奴は!」
半分冗談なのに何でそんなに狼狽するんだよ!
まさか、オヤジは本気で斎藤を毒牙かかける気かァ?
その時は私からオフクロに言いつけてやるからよ。
こいつは金属バットを磨いて用意しておかねーとなァ。
グリップは皮製だと血糊で滑るから、綿のテープでも巻いておこう。
とにかく不倫は命懸けだって事を判らせねーとよ。
- 278 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2006/11/08(水) 10:40
- 今日のところは、これにて失礼致します。
- 279 名前:偽みっちゃん ◆u0TEdpNUXw 投稿日:2006/12/09(土) 22:14
- 一応、まだ生きてます。
- 280 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/12(火) 01:13
- 続き楽しみにしてます
- 281 名前:♀ ◆u0TEdpNUXw 投稿日:2006/12/18(月) 15:50
- >>280
ありがとうございます。ただ、体調がすぐれません。
申し訳ありませんが、もう少し休ませて頂きたいのです。
どういった事なのかは、私達の掲示板(虎)を見て頂ければ。
必ず戻って来ますので、もう少しお休みを下さい。
I come back by all means!
- 282 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/01/30(火) 10:52
- 〔なっち、オヤジの毒牙に?〕
斎藤がやって来ると、日曜日に私と二人で院内学級の隣にある倉庫を整理した。
旧式化した医療機器でも充分に使えるからユニセフに持って行って貰う事にする。
こんなもんを処理業者に頼むと、それこそ凄まじい費用が掛かっちまう。
でも、日本ユニセフが欲しいのは現金だから、かなり嫌々持って行った。
「先輩、壁紙は必要ないですよね」
「その『先輩』ってのはやめろよ」
「それじゃ吉澤さん」
「ここには吉澤が三人いるんだけど」
「だったら何て呼べばいいんですか!」
うっ! 斎藤が逆ギレしちまった。
こいつも意外と短気なとこがあるからなァ。
でも、何て呼んで貰ったらいいんだろう。
まァ、無難なとこで『ひとみさん』かな?
だから私も『斎藤』じゃなくて『美海』って呼ぶかなァ。
「愚図愚図しないで掃除するぞ! このホクロ女!」
「んだとゴルァ! てめー誰に向かって口きいてんだ!」
「先にケンカ売って来たのはどっちだよ!」
「もう許さねーぞ! このよっC様を甘くみるんじゃねー!」
私と斎藤は互いに胸倉を掴み合ってケンカを始めちまった。
しかし、斎藤は思った以上に力が強くて、取っ組み合いのケンカに発展。
それは互いに殴ろうと拳を握り締めた時だった。
まず、斎藤の顔面にセロハンテープカッターが直撃。
驚いて振り向いた私の眉間に大型の電卓がヒットして気が遠くなった。
- 283 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/01/30(火) 10:54
- 数分後、私と斎藤は事務室のなっちの前に正座させられてた。
私は眉間に湿布して貰い、斎藤はティッシュを鼻に詰めてる。
なっちは威嚇するように私と斎藤を交互に睨みつけた。
「す、すみませんでした」
「なっちさん、ごめん」
「いったいケンカの原因は何だべさ」
私が事の成り行きを説明すると、斎藤も異口同音に話した。
なっちは腕を組んで考えてたけど、いきなり立ち上がって私を指差す。
あんまりいい感じはしねーなァ。指を差されるのって。
「よっCが悪いべさ。美海ちゃんに謝りなさい」
確かにそうだ。私が回りくどい言い方をしたから斎藤は怒った。
何で最初から「ひとみって呼んでくれよ」って言えなかったんだろう。
高校では先輩後輩でも、斎藤は半人前ながら社会人としてスタートしてる。
最低でもあと五年は学生をする私は、彼女に敬意を払っても良かった。
「うん、ごめん。オレが悪かった」
「いいんですよ。もう済んだ事ですから。あたしの方こそ・・・・・・」
「それから美海ちゃんは、もうここに来なくていいから」
「な、何言ってんだよ。なっちさん!」
私は自分の耳を疑った。なっちがこんなに厳しい事を言うなんて。
ちょっとした事でケンカになっただけじゃねーか。
確かに取っ組み合いになるなんて大人気なかったけどよ。
なっちの厳しい言葉に事務仕事の応援に来てた北条政子さんも、
さすがに言葉を失って成り行きを傍観してた。
- 284 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/01/30(火) 10:58
- 「こんな事で怒るなんて、美海ちゃんは教育者に向いてないべさ。
我慢出来ない人に教育の仕事は無理。今の内に諦めた方がいいっしょ」
「そんな・・・・・・」
「さあ、荷物まとめて出て行くべさ!」
「待ってくれよォ!」
私はなっちの足に抱き付いた。
斎藤が追い出されたら、オフクロさんの立場はどうなる?
それも判ってて言ってんだろうなァ!
私のせいで斎藤を辞めさせるわけには行かない。
そんな事になったら、きっと私は一生後悔するだろう。
「なっちさん! 自分の言ってる事が判ってんのかよ!」
「馬鹿!」
なっちは私と斎藤の頬を平手で引っ叩いた。
何これ。次から次へと痛みが増して来る。
なっちの力なんてたかが知れてるのによ。
何でこんなに痛いんだろう。
「よっC、美海ちゃん。これが人の痛みなんだべよ」
なっちは大粒の涙をポロポロ零しながら言った。
そうか。痛いのは頬じゃなくて心だったんだ。
だから、バレーのボールが当たったより痛いんだなァ。
そういえば、私は一人娘のせいか殴られた経験がない。
待てよ! そうか。斎藤も一人娘なんだったっけか。
なっちは私達に『人の痛み』を教えるために?
傍らにいた北条政子さんがなっちの頭を撫でた。
- 285 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/01/30(火) 10:59
- 「なっちさん!」
「安倍さん!」
私も斎藤も涙が止まらなかった。
この痛みはオフクロに折檻された時よりも堪える。
気が付いたら二人でなっちを抱き締めて大泣きしてた。
やっぱり、なっちは私の先生なんだよなァ。
「判ってくれればいいべさ。判って・・・・・・べべべべ、べさァァァァァー!」
何事かと思ったら、斎藤の鼻に詰めたティッシュが取れてる。
なっちは頭から斎藤の鼻血を浴びて、それに驚いたみてーだ。
泣いて血圧が上がったせいか、斎藤はかなり出血してる。
慌てた北条政子さんが斎藤の鼻に脱脂綿を詰めた。
「わ、判ったら隣を・・・・・・なっちはお風呂に入って来るべさ」
べそをかきながら走り去って行くなっちは面白過ぎる。
何か、いかにもなっちらしくて、私は泣いたまま笑ってた。
しかし、何てくだらねー事でケンカなんてしたんだろうなァ。
それにしても茶道部だった斎藤が、こんなに強いとは思わなかった。
「吉澤先輩、すみませんでした」
「いやァ、オレの方こそ悪かったなァ」
結局、私を『ひとみさん』と呼ばせる事にした。
すると、斎藤も『美海』って呼んでくれって言う。
そうだよなァ。彼女のオフクロさんも来るわけだし。
私と美海は似た性格なのかもしれねーぞ。
- 286 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/01/30(火) 11:00
- 美海は身体も大柄だし、かなり力もあるからよ。
私と二人でやれば、倉庫の片付けなんて屁でもねーさ。
それは、私達が作業を再開して数分後の事だった。
「キャアァァァァァァァァァァァァァー!」
いきなりの叫び声。誰だァ? 騒いでやがるのは。
ここは病院なんだからよ。中には重症の患者だっているんだぜ。
っていうか、あの声は何となくなっちのような気がするけどなァ。
なっちは風呂に入ってるんじゃなかったっけか?
「なっちの声だよなァ」
「まさか! 襲われたんじゃないですか?」
「何ィィィィィィィィィィィー!」
私と美海は全速力で自宅に戻り、二階の風呂場に駆け込んだ。
脱衣所には湯桶で股間を隠したオヤジがいるじゃねーか。
思わず顔を背ける美海とは違って、私は二十年もオヤジの裸を見てんだ。
バスルームを覗いてみると、なっちが片隅に蹲ってる。
こいつは許せねー行為だ。強姦未遂じゃねーか!
「てめー! よくもなっちを!」
「ごごごご・・・・・・誤解だよ! 下のシャワーが壊れててさ」
私がオヤジの首を掴んで顔面にパンチを決めようとしたら、
どういったわけか美海に羽交い絞めにされちまった。
離せっての! 嫁入り前の娘に手を出したらどうなるか。
この私が鉄拳制裁をして教えてやるんだからよ。
まして、家族同然のなっちを襲うなんて畜生にも劣る奴だ。
- 287 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/01/30(火) 11:00
- 「五階も六階もねー! この変態野郎!」
「よ、よっC、なっちは大丈夫だべさ。ちょっと驚いただけ」
「ひとみさん! お父さんを殴るなんて駄目ですよ!」
「まさか、なつみちゃんが入ってるとは思わなかったんだよ」
本当かなァ? どうも怪しいぞ。だって不自然じゃねーか。
真昼間から何で風呂になんか入ろうと思ったんだァ?
もしかしたら、かなり以前からなっちを狙ってたのかもしれねーし。
私のDNAの半分はオヤジのものだし、好みが似るって事も有り得る。
オヤジが描いたハーレムの夢は、この私が打ち砕いてやろうじゃねーか!
「いい歳こいてサカリづきやがって! こうなったら去勢してやる!」
「うちうちうちうち・・・・・・うちの病院じゃ、ひひひひ・・・・・・避妊手術はやってない」
「だったらオヤジが第一号だ! 美海! ハサミ持って来い!」
あっ! オヤジの奴、逃げ出しやがって! くそっ! 卑怯者!
こうなったら、とにかく三百万くれーは慰謝料を取らねーとなァ。
なっちに二百万、美海の口止め料に百万くれーが適当だろう。
吉澤病院のスキャンダルが公表されればオヤジは致命的だからよ。
「くそっ! 逃げ足の速い野郎だぜ。なっちさん、何もされなかったかァ?」
「当たり前っしょ! びっくりしただけだべさ!」
まァ、なっちが無事ならオヤジを殺すまでもねーな。
でも、最近のオヤジはどうも危ねー感じがするから、
念のためにチョン切った方がいいと思うけどよ。
白バイの修理費用も出して貰ってるし、三百万でカタをつけてやるか。
・・・・・・そうだなァ。倉庫の方も片付いたし、私も一緒に入ろうかな。
私が服を脱ぎ出したら美海まで? 二階の風呂は狭いのに。まァいいか。
- 288 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/01/30(火) 11:01
- 三人で風呂に入ったら、何だかとっても爽やかな気分になった。
後はデスクや電話、ファックスにパソコンの引越しで終わりだからよ。
美海には私のスウェットを着させた。どうせ、もう着ないからなァ。
三人で遅い昼食を摂ってると、白衣に着替えたオヤジがやって来た。
「な、なつみちゃん。すまなかったね。ゴルフ場で入って来ればよかったんだけど」
「すまなかったね。で済むか! この色情中年!」
「よっC! もういいべさ。おじさんも悪気はなかったんだし」
これだから田舎っぺは困るんだ。ここで許したら、つけ上がるだけじゃねーか。
いくら謝罪の言葉を並べたところで、なっちの全裸を見た事は許せねーぞ。
まずは誠意ってもんを見せて貰わねーとよ。誠意だぜ誠意。
つまり、数字の入ってねー小切手とか、オヤジのキャッシュカードとか。
「処女の肢体を舐めるように見たんだ。相応の賠償はあっていいんじゃねーか?」
「ひとみさん、お父さんを強請ろうっていうんですか?」
「示談にするなら、なっちに二百、美海に百は必要だな」
「OK! はい二百ドルと百ドル。アハハハハ・・・・・・。じゃあね」
・・・・・・何でオヤジが米ドルなんか持ってるんだ?
ゴルフ場? オヤジはゴルフに行ってたんだなァ。
アメリカ人とでも握ったってのか? って、もういねーし。
それにしても、あのセコさといったらねーぜ。
「おじさんを強請るなんて非常識っしょ!」
「被害者はなっちさんだろうがよ!」
まァ、なっちもショックは受けてねーし、合計三百ドルで勘弁してやるかァ。
白バイの修理代の弱味を一気に逆転出来たから、私としては満足だけどよ。
- 289 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/01/30(火) 11:03
- また来週にでも更新致します。
- 290 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/06(火) 15:33
- 〔引越し〕
GWになると美海の家の引越しが始まった。私は麗奈に電話して二トントラックを借りる。
母娘二人だけの引越しだから、とにかく荷物が少ないのがいいじゃねーか。
大きなもの冷蔵庫に洗濯機、箪笥、食器棚、布団くれーなもんだからよ。
私と美海で大きなものを運ぶと、おばさんが小さなものを運んで来る。
製薬会社や事務用品メーカーのダンボールに、細々したものを入れてあった。
「おばさん、無理すんなよ。オレと美海でやっちまうからよ」
私も美海も力はある方だから、一時間足らずトラックに積み終えちまったぜ。
まァ、この自宅を貸すらしいから、家賃収入もあるだろうし、
院内学級の事務仕事はパートだけど、美海の学費はタダになった。
なっちの裸を覗いた事を突っついて、オヤジに美海の小遣いくれー出させるかなァ。
「よし、片付いたぜ。後はハウスクリーニング業者に任せるかァ」
美海のおばさんはクルマ酔いをするってんで、寮まで電車で来るらしい。
私と美海は一足先に、引越し先である病院の寮へと向かった。
私もトラックの運転は初めてだけど、内輪差を考えてやれば簡単。
かえって狭い道なんかは、ボンネットがねー分、見通しがいいぜ。
こいつは私も救急車を運転出来そうだなァ。
「随分と大切そうに抱えてるじゃねーか」
「これ、茶道具なんです。私の宝物。安物ですけど」
そういえば、美海は茶道部だったよなァ。茶道か・・・・・・私も少ししか知らねーからよ。
興味はあるんだけど、習うのにもカネが掛かるしなァ。
どうせだったら、美海に茶道を習っちまうか。そうすりゃ安上がりだぜ。
- 291 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/06(火) 15:34
- 吉澤病院の寮は歩いて五分くれーの所にある。
元々、親戚が持ってた土地で、空き地だったのをオヤジが使うようになった。
地主の親戚が死んじまうと、ウヤムヤの内にオヤジの土地になってたらしい。
オヤジはアパート経営を考えてたらしいけど、ちょうど病院が大きくなるのと同時期。
この空いてる土地を看護師の寮にしようと思ったって話だ。
もう、築十五年になるけど建材が当たりだったせいか、大したメンテナンスもしてない。
美海の引越しで初めて中に入ったけど、1DKでダイニングと和室は六畳分づつの広さがある。
こんな部屋が十室もある建物が二棟あって、計二十人が入れるようになってた。
今のところ三部屋ばかり空室があるけど、独身の看護師は、ほとんどが入寮してる。
そりゃそうだろうなァ。これで家賃が一万五千円なんだからよ。
確かに駅から離れてるけど、普通なら最低でも三倍はするもんなァ。
「おばさん、この冷蔵庫じゃ小せーだろ。病院に眠ってるのがあるぜ」
病院用の冷蔵庫は凄まじくでかいけど、看護師の仮眠室にあるのは家庭用だからよ。
あんまり使ってねーけど、型が古いから新しいのにしちまったって話だ。
他にも古くてよけりゃ、ベッドから椅子からソファからテーブルまであるぜ。
そういえば、病院の倉庫も片付けねーと、どんどんいらねーもんが溜まって行くからよ。
「でも、これで何とかなったし」
「働くようになったら、毎日買い物なんて出来ねーじゃん」
病院から寮までの間には、これといった店がねーんだよなァ。
タバコ屋とか自販機はあっても、食料品を売ってる店がない。
コンビニでもあればいいんだけど、ここらは住宅街だからよ。
仕事の帰りに買い物するなんて、ちょっと無理じゃねーかなァ。
まァ、三食を病院で食えば問題ねーんだけどよ。
それでも休日とかには食事を作るわけだからなァ。
せめて二百五十リットルくれーの冷蔵庫は欲しいだろ。
- 292 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/06(火) 15:35
- 「押入れが二間もあるから収納が楽ですね」
「美海、病院からテーブルと椅子を持って来ようぜ」
私は一通り荷物を運び込むと、トラックに美海を乗せて病院へ向かった。
地下の倉庫には病院のラウンジや食堂で使ってた椅子とテーブルがあるし、
ちょっと古いけどスチール製のデスクや肘掛付の椅子もあるからよ。
大学生が机もねーんじゃ、ちょっと考えもんだしなァ。
そういえば、古いパソコンもあったっけ。あれは使えねーかなァ。
「本当にいいんですか? 持ってっちゃって」
「ああ、産業廃棄物が減って大助かりだぜ」
個人名義以外のものは、全て産業廃棄物になるからよ。
医療廃棄物以上に、産業廃棄物を処分するにはカネが掛かる。
だから、どこの会社でも使えなくなるまで使おうとするんだよなァ。
ゴミが減っていい事なんだけど、結果的に景気が低迷しちまう。
地球環境を考えるのか、それとも生活を考えるのか。難しいところだなァ。
「到着!」
私は病院に着くと、美海を連れて地下の倉庫へ向かった。
病院の地下には放射線室と倉庫しかねーんだよなァ。
以前は霊安室があったけど、今じゃ一階の裏の方に移ってる。
やっぱり、地下だと搬出に不便だからよ。
「ここだぜ。・・・・・・すげー埃だなオイ」
私と美海は使えそうなテーブルと椅子、冷蔵庫、付き添い用ベッドを引っ張り出した。
スチールデスクと肘掛付椅子は重かったけど、こいつがあると何かと便利だからよ。
- 293 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/06(火) 15:35
- 「美海、おめーパソコン持ってねーだろ? 使えそうなのはあるかなァ」
「そんな! パソコンなんて高価なもの」
「アハハハハ・・・・・・。三年も経てばガラクタだよ」
えーと、パソコンはどこかなァ。出来ればデスクトップの方が・・・・・・あった!
・・・・・・一応はメーカー品だけどよ。このプロセッサーはデュロンの600Mhzじゃねーか?
ちょっと開けてみるかな。えーと、HDDはウエスタンデジタルの15Gだけどよ。
メモリは・・・・・・。うひゃー! PC‐100の64メガじゃねーかァ。
こりゃ、同じタイプから抜き取って倍の128メガにしねーとよ。
HDDも15Gじゃ不便だから、二発揃えておいた方がいいなァ。
CD‐RWもあるけど、こいつは今時SCSIだから驚くぜ。
ドライバはダウンロード出来るけど、OSとライティングソフトが必要。
このスペックじゃ98SEが、せいぜいMeが限界だろうなァ。
「ひとみさん。パソコンの中なんて解るんですか? 凄い!」
「こんなもん簡単だってばよ。問題はソフトだなァ」
HDDの中身は物理フォーマットしてあるから、起動DiskとOSやソフトが必要だぜ。
きっと書類関係の倉庫だろうなァ。私はエレベーターで荷物を上げてトラックに積み込んだ。
それからオフクロに言って、使ってねーOSとソフト類を貰う事にした。
書類倉庫は鍵が掛かってるからよ。勿論、カルテ等の個人情報は鉄庫に入れて施錠してある。
オフクロが言うには、書類倉庫内で施錠されてねーもんなら、持って行ってもいいらしい。
「ここが書類倉庫かァ。オレも初めて入るぜ」
書類倉庫なんていっても、ほとんど施錠されてる鉄庫だけじゃねーか。
中央に棚があって、そこには印刷用紙や伝票なんかが置いてある。
古い医学書なんてのもあるなァ? 古本屋に売れねーか?
おっ、棚の下のダンボールの中にパソコン関係の本が入ってやがった。
- 294 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/06(火) 15:36
- 「98SE、Office2000、ライティングソフト・・・・・・Meがあるじゃねーか」
そういえば、あのPCはメモリが64Mだったっけ。
Windows 98までは32Mだから、あれはMeが純正OSなのか?
って事は・・・・・・。あった! 起動Diskとドライバもあるじゃねーか。
Officeのガイドブックもあるし、こいつは至れり尽くせりだなァ。
「とりあえず、インターネットは病院でやりゃいいか」
美海専用のデスクとPCもあるし、そっちには最新機種が入ってるからよ。
家でインターネットをするのに関しては、美海の方でやって貰うしかねーな。
レポートなんかの印刷も病院のプリンターを使えばいいし、
メモリスティックとCD‐RWメディアでもプレゼントしてやるかァ。
とりあえず引越しを終わらせて、こいつをインストールしようじゃねーか。
パソコンくれーならフェアレディでも運べるからよ。
「ひとみさん、SEとかMeって何なんですか?」
「・・・・・・OS。っていっても判んねーか。パソコンを動かす基本的なソフトだよ」
「む、難しそう・・・・・・」
「オレと一緒にインストールしようぜ。おめーなら、きっとすぐに憶えるよ」
院内学級の雑務はパソコンに依存してる部分が多いからよ。
嫌でも憶えなきゃいけなくなる。っていうか、パソコンが使えねーと致命的。
今はどこに行ってもコンピュータで管理してるからなァ。
とりあえず、私と美海はパソコンを院内学級に運ぶと、
再びトラックに乗って寮に引き返した。
しかし、この冷蔵庫の重さには参ったなァ。
部屋が一階で助かったぜ。こんなもんを二階まで運んだら腰をやっちまう。
冷蔵庫に椅子とテーブルを置くと、ダイニングらしくなったじゃねーか。
- 295 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/06(火) 15:36
- 「何から何まですみません」
「おばさん、いいんだってばよ。こっちも助かってんだから」
そうだ。いっその事、寮に椅子とテーブルを備え付けにすりゃいい。
ベッドも無償貸与って事にすりゃ、それこそ一石二鳥だぜ。
パソコンだって、まだまだ使えるから、部屋が空いたら搬入しちまおう。
倉庫から十セットもなくなりゃ、かなりスペースが空くからなァ。
産業廃棄物の有効利用ってのは、こうしたとこから始めねーとよ。
「手伝いに来たべさ。っと」
「終わってから来てどーすんだよっ!」
「何言ってんだべか? これからが大変なんっしょ?」
大変? 何が大変なんだァ? 私は引っ越した事がねーからよ。
するとなっちは、おばさんから説明を受けて、箪笥の中に衣類を入れ始めた。
そうか! そういった作業があったのかァァァァァァー!
えーと、美海は食器棚をやってるし、私は何をすりゃいいんだ?
ダンボールはみんな開いちゃってるしなァ。
「美海ァ。オレ、何すればいい?」
「もう六時ですから、何か食事の支度でも」
「だったら寿司を注文しよう。引越し祝いだ」
私は近所の寿司屋に電話して、とりあえず特上十人前を注文した。
勤務の人もいるだろうから、このくれーでいいだろう。
それから寮の看護師達に声を掛けて、近所のスーパーへ買い物だ。
唐揚げとサラダ、焼き鳥はタンとハツ、ネギマは必需品。
蛋白質は魚肉豆を摂るのがいいから、冷奴でも買おうかなァ。
こういったもんを買う気になると、どうも飲みたくなるじゃねーか。
- 296 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/06(火) 15:37
- 「えーと、純米酒は・・・・・・『久保田』があるじゃねーか!」
そういえば、ここのスーパーは日本酒が充実してるんだよなァ。
財布に三万円は入ってるけどよ。デビットカードは使えるかな。
おおっ! 『神鷹』の純米吟醸もあるし『丹沢山』の山廃仕込みもある。
こいつは日本酒モードになっちまったなァ。
それでも、看護師さん達のためにビールと酎ハイも買わねーと。
「葛桜かァ。デザートにはいいかも・・・・・・」
待てよ。美海は茶道部だったじゃねーか。
とりあえず、お点前でも披露してくれねーかなァ。
外科の看護師なんて切った貼ったの世界で生きてるからよ。
お茶なんて癒しがあれば喜ぶんじゃねーかなァ。
「もしもし、なっちさん? 美海に換わってよ」
〈はい、何ですか?〉
「寿司が届くまで時間があるだろ? 看護師さん達にお茶を振舞ってくれねーかなァ」
〈判りました。南アルプスの水を買って来て下さい〉
私は葛桜と水羊羹を十二個ずつ買った。
しかし、ビールと酎ハイが十二本ずつ。
一升瓶が四本、天然水が二リットル二本。
食後酒でブランデーまで買っちまったからなァ。
「お、重い!」
こいつは二十キロ近くあるんじゃねーか?
まァ、最近は身体が鈍ってるからトレーニングって思おう。
- 297 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/06(火) 15:37
- また更新します。
- 298 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/07(水) 00:18
- 引越しパーティーって感じですね。ワクワクします。
- 299 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/13(火) 15:06
- >>298
どうもありがとうございます。
みうなちゃんの引っ越し祝いという事で、
看護師さん達を豪華にしてみました。
笑って頂ければ幸いです。
- 300 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/13(火) 15:07
- 〔御馳走〕※豪華キャスト版
今日は力仕事もしたし、筋肉疲労になっちまってる。
こいつは明日にでも筋肉痛になるんじゃねーかなァ。
現役でバレーやってた頃は、これくれーは平気だったのによ。
「ただいまー、ふえー。重かったぜ」
「それじゃ、お湯を沸かしますから」
美海は天然水を土瓶で沸かし始めた。
看護師さん達が八人来たから人数はピッタリ。
さすがに看護師さん達は引越しに慣れてるなァ。
あれだけあったダンボールは、畳んで縛ってある。
中身も全部片付いちまってて、いかに私が引越しを知らなかったか。
「ひとみちゃんも来年成人式か。年取るわけよねえ」
「凪子さんだって若い・・・・・・」
いけね! 遠野さんは二十七歳だったっけ?
まだ独身だったよなァ。整外の中堅看護師。
っていうか、吉澤病院で一番怖い看護師だって話。
黙ってても迫力あるもんなァ。
「イメージ出来る? 成人って」
うげげー! 外科病棟主任看護師の天海祐希さんじゃねーか!
この人はでけーからよ。見降ろされると怖いんだよなァ。
祐希さんは四十近いって話だけど、まだ独身だったんだ。
昏睡してる患者に「いい加減目覚めなさい」って言うと意識が回復するらしい。
- 301 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/13(火) 15:07
- 「ひとみちゃんが買って来たのを並べましょう」
内科病棟のアイドル佐藤江梨子さんかァ。
二十代後半で独身の看護師って多いんだね。
まァ、今は晩婚が当たり前の時代だからよ。
私は何歳で結婚するのかなァ。
「江梨子、お皿取って」
小児科看護師の伊東美咲さんじゃねーか。
この人も黙ってると怖い顔してるんだよなァ。
確か美咲さんもバレーやってたって聞いた。
そういえば、うちの看護師ってみんな背が高い。
そのせいか、患者によるセクハラは皆無だって話。
「でもさァ。看護師っていいよね。白衣の天使でさ」
「よくないわよ!」
うわっ! みんな口を揃えて否定しやがった。
外科医なんて切った貼ったの世界で天使とは無縁だもんなァ。
女の子なら絶対に外科医より看護師に憧れるよ。
「低賃金、過酷労働、男いない。どこがいいの?」
脳外の片瀬那奈さん、そこまで言うか。
大きく頷く耳鼻科外来の原沙知絵さん。
確かに、あのケチオヤジが高給を払うとは思えない。
白衣の天使を使って搾取してやがるな?
争議権発動を提案してみようかな。
- 302 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/13(火) 15:09
- 「あたしも白衣に憧れて看護師になったけどさ。思ったよりきついよ」
内科病棟のマドンナ米倉涼子さん。この人も眼がちょっと怖い。
まァ、祐希さんに比べて背が低いから、それほど圧迫感はねーけどよ。
そりゃ病棟も外来も看護師は大変だよ。患者の世話だけが仕事じゃねーからなァ。
医療器具が更新されれば、その扱い方をマスターしないといけねーし、
医療事故撲滅のために、医学知識も豊富じゃねーとよ。
「そうかァ。特に独身にはシフトがきついからなァ」
看護師のシフトを敷くのはオフクロなんだけど、
どうしても夜勤は独身が中心になっちまうもんなァ。
妊婦や子持ちの看護師を外来に回したりしてる。
せめて保育所でもあれば、子持ちの看護師にも夜勤させられるのに。
「イメージ出来る? みんな辞めないから、何とか回ってるのよ」
そうだよなァ。祐希さんが言うように、ここの看護師は辞めないって評判。
オフクロは看護部長だけど、事実上の看護部長は北条政子さんだもんなァ。
北条政子さんの性格で辞めない看護師も多いんじゃねーか?
他の病院はよく知らねーんだけどな。
「凪子さんは辞めようと思った事ないの?」
「辞めたくても、彼氏もいないんじゃね。アハハハハ・・・・・・」
そうなんだ。この職場には男が少ないんだよ。
うちの大学には腐るほどいるってのになァ。
相模湖記念病院にも独身の男は少ないみてーだし。
かといって、結婚して辞められても困るしなァ。
- 303 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/13(火) 15:09
- 「あたしはここで三軒目だけど、職場環境はいい方だよ」
泌尿器科外来の小雪さんかァ。みんなモデル並のスタイルだからよ。
きっとオヤジが好みで選んでやがるんだろうな。
共通してるのは貧乳って事くれーだ。オヤジは貧乳が好きなのか?
「そうだね。続き番が少ないもん」
助産婦の稲森いずみさんじゃねーか。
産科なんていったら、かなり忙しいだろうによ。
生まれて来る子供は待ってくれねーからなァ。
帝王切開にするかどうか、ほとんど稲森さんが決めてるらしい。
産科の医師って誰だっけ? 女医だったと思うけど顔が出て来ねー。
夜間に出産の時は、オヤジか当直医が母子を診るらしいけど、
ほとんど稲森さんに頼りきってるらしいぞ。
「あたしは子供を生んでも、看護師にはしたくないな」
祐希さん、まだ子供を生む気なのか。
この少子化の時代に高齢出産に挑むとは見上げた根性だ。
早いとこ頑張らねーと、そろそろ更年期じゃねーか?
ジョン=レノンとオノ=ヨーコの例もあるけどよ。
「天海さん、まだ結婚する気なんですか?」
「・・・・・・」
サトエリ! こいつは怖いもの知らずだな。
うちのオフクロだって一目置く天海祐希さんだぞ。
みんな固まっちまったじゃねーか。
- 304 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/13(火) 15:10
- 「あの、スカートじゃない人は足を崩して下さい」
「でも、お茶を点てて貰うのに、胡座なんか出来ないべさ」
「なっちさん、お茶ってのは、そんなに堅苦しくねーんだよ」
茶道の極意はもてなしの心。それに応えればいい。
美海は引越しを手伝ってくれたみんなをもてなしてる。
だから、リラックスして美海のお茶を味わえばいいんだ。
「どうぞ」
「は、はい」
なっち、そんなに緊張してどーする?
っていうか、先に菓子食わねーでどーすんだっての。
これが煎茶だったら、まだここまで緊張しねーだろうに。
煎茶も抹茶も同じなんだけどね。
「けけけけ・・・・・・結構なお点前で。御馳走様でしたべさ」
遠野さん、堪えなくていいから。爆笑しちゃっていいから。
御馳走ってのは、走り回って用意したものの事なんだよね。
だから、このお茶は私と美海の御馳走ってわけだからさ。
おおっ! あの祐希さんが笑ったじゃねーか!
「そういえば学園祭の時、美海に一服御馳走になったんだよなァ」
「憶えててくれたんですね」
形式化された茶道部じゃ、美海は異質な存在だったかもしれねーなァ。
美海は短気で気が強いけど、ちゃんと茶道の本質を理解してるぜ。
もっと人生経験を積んだ時、美海のお茶は最高の味になるだろうな。
- 305 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/13(火) 15:10
- 「松寿司です! 遅くなりました」
「本当に遅いんだよっ! 支払いは月末にオヤジのとこに行け」
「へい! 毎度!」
美海のお茶を全員が飲んだ頃だったからタイミングはよかったけどよ。
ひいきにしてやってるのに、一時間半も待たせやがって。
さあ、寿司だビールだ唐揚げだ日本酒だ。
美海母娘の引越し祝いだから、ガンガン飲もうじゃねーか。
美味い日本酒を仕入れて来たし、ビールはエビスだからよ。
酎ハイなんてのは、なっちと美海に飲ませときゃいい。
「よっC、飲み過ぎるんじゃないべよ」
「もう二十歳になったんだけど」
ビールじゃなくて、いきなり日本酒で乾杯するのは私くれーだなァ。
日本人なんだから麦じゃなくて米の酒を飲めや。
それでも、みんなビールから日本酒に移行してるなァ。
二十代後半の人は、意外に日本酒が好きだったりするからよ。
最近の若い男は、みんな酎ハイを飲みたがるからな。
飲めねー男も多いし、だいたい味覚が子供なんだよ。
まァ、なっちと美海は酎ハイだろうなァ。
「でも、助かります。これまで、あたしが寮で最年長でしたから」
「喘息持ちのおばさんなんて何の役にもたちません。宜しくお願いします」
祐希さんと美海のおばさんじゃ、十歳まで違わないんじゃねーか?
それでも、やっぱり『母親』っていうイメージが違うんだろうな。
サトエリくれーだと、マジで自分の母親と同じくれーだもんなァ。
美海のおばさんは、私のオフクロより少し年上だった気がするからよ。
- 306 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/13(火) 15:11
- 「天海さんと、そんなに歳なんて違わないじゃん」
「・・・・・・」
ま、またサトエリ? 祐希さんにケンカ売ってるのかなァ。
おおっ! あの遠野凪子さんが怯えてるじゃねーか!
こいつは血の雨が降るかもしれねーぞ。
女同士でK‐1かプライドの試合になりそうだ。
稲森さんは強いって聞いたけどなァ。
「ね、ねえ、ひとみちゃん。院長先生って家じゃどんな感じ?」
一触即発の空気を和ませたのが美咲さんだった。
祐希さんは身体が柔らかいから、サトエリの脳天に踵落としが決まるかもな。
問題は止めに入った稲森さんのミドルを、祐希さんがどうやってガードするか。
・・・・・・で、何だっけ? ああ、オヤジの事だったっけか?
「どんな感じ? うーん、普通のオヤジだよ」
みんな、あのオヤジを厳しいって言うけど、確かに仕事には厳しいなァ。
オヤジが厳しいのは、とにかく医療事故を警戒してるからなんだ。
うちみてーに急激に大きくなった病院は、必ずと言っていいくれー医療事故がある。
ここに来て看護師の数も充実したけど、気が抜けるのが一番怖いんだよなァ。
「最近の院長は、ちょっと近寄りがたいわ」
稲森さんでもそうなのかァ。こいつは私からオヤジに言ってみるか。
いい意味の緊張感なら必要だけど、看護師が萎縮しちまったら話しになんねーよ。
オヤジが大きな壁になって、それを乗り越えるための強さを教えてるのかなァ。
・・・・・・そんな事が出来る男じゃねーよ。余裕がねーのかなァ。
- 307 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/13(火) 15:11
- 「おじさんは病院の信用を大切にしてるんだべよ。気軽に話し掛けたら?」
「そうだよ。あんなセコいオヤジにびびってどーする」
「そういう意味じゃないっしょ。きっと忙しいだけだべさ」
挨拶代わりに助走つけてエルボーでも決めてやりゃいいんだ。
待てよ。私が疑うから、オヤジは看護師と距離を置いてるのかなァ。
そうだったとしたら、私がいけねーのか? 原因は私?
・・・・・・まずい! ここは謝っておいた方がいいかなァ。
「天海さんにも怖いものがあるんですか?」
「・・・・・・江梨子ちゃん。『仏の顔も三度まで』って言葉、知ってる?」
「知らなーい」
「・・・・・・」
ヤバイ! とりあえず、稲森さんを祐希さんの横に行かせよう。
次にサトエリのアフォが何か言ったら、祐希さんは遠慮しねーぞ。
せっかく美海達の引っ越し祝いなのによ。
でかい女達が乱闘になったら洒落になんねーよォ。
「あ、あのさ。江梨子さん、さっきから祐希さんを挑発してる?」
「アハハハハ・・・・・・。判っちゃった? 天海さんが怒ったらどうなるのかな。って思って」
「イメージ出来る? 鼻骨骨折と眼球破裂。血の海の中でのた打ち回る自分の姿を」
うわっ! 凪子さんだけじゃなくて、美咲さんに涼子さんも小雪さんまで怯えてる。
私も祐希さんが怒ったとこは見た事ねーけど、何しろあの身長だからなァ。
不測の事態を考えて、稲森さんと那奈さんが祐希さんの脇を固めたぞ。
なっちは根性が据わってるのか単に鈍いだけなのか、微動だにしねーじゃんか。
この辛うじて髪の毛一本で繋がってるような緊張ったらねーぜ。
こうなったら、とにかく飲まなきゃ。飲んで酔った方が勝ちってもんだ。
- 308 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/13(火) 15:12
- また来週にでも更新致します。
今日のところは、この辺で失礼致します。
- 309 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/14(水) 00:10
- ホントに豪華だw
こちらを読んでいると酒が飲みたくなります
- 310 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/15(木) 10:33
- >>309
ありがとうございます。
天海祐希さん、遠野凪子さん、佐藤江梨子さん、小雪さん、稲森いずみさん、
米倉涼子さん、原沙知絵さん、伊東美咲さん、片瀬那奈さん。
八人なのに九人になってました・・・・・・。○| ̄|_
すみません!!!
- 311 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/19(月) 10:22
- 〔動揺とインストール1〕
翌日、私はなっちと二人でトラックを返しに行った。
麗奈もさゆみも高校生だからなァ。しかも聖ダルセーニョ学園。
担任がみっちゃんらしいからよ。怒らせると骨格標本が飛んで来るぞ。
保田先生とは飴と鞭だなァ。アハハハハ・・・・・・。
「先輩! お役にたてて光栄です!」
「また何かあったら頼むぜ。それじゃ元気でな」
昨夜は少し飲み過ぎたみてーだぜ。途中から記憶がねーもんなァ。
あの緊張した雰囲気。いつまで続いたんだろう。
朝は自分のベッドで寝てたから、何とか家まで帰ったんだよな。
そういえば、なっちと手を繋いで帰ったような気がするぞ。
「まあ、昨夜はびっくりしたべさ」
「・・・・・・何が?」
私はフェアレディのハンドルを握り、甲州街道を疾走してる。
白バイやパトカーはいねーし、ここらはオービスもねーからよ。
今日は昨日とうって変わって曇天模様じゃねーか。
せっかくの行楽日和だってのに、雨が降って来そうな気配。
「憶えてないんだべか? いきなりキスなんかして」
「えェェェェェェェェェー!」
私は驚きのあまり、急ハンドルを切りながら急ブレーキを踏んじまった。
三車線の内、二車線を跨いで真横になって何とか停止。
あぶねー! もう少しで自爆するとこだったじゃねーか!
- 312 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/19(月) 10:23
- 「危ないべさ! 何て運転するの!」
「だだだだ・・・・・・だってよォ!」
まだ心臓がバクバクいってるのは、自爆しそうになったからじゃない。
まさか、ついつい酔いに任せて、なっちにキスしちまったのかなァ。
懸命に思い出そうとしても、なっちとは手を繋いだ記憶しかねーや。
あの緊張した雰囲気から脱出して、気持ちが緩んだのかもしれねーぞ。
「ふー、驚いたべさ」
「そそそそ・・・・・・そんな事したっけ?」
「うん。よっCに抱き締められると、なっち、身動き出来なくなるんだべよ」
ヤバイ! こいつはマジでなっちにキスしちまったらしいぞ。
何て言って謝ろうかなァ。私とした事が、酔ってなっちの貞操を。
って、オーバーだなァ。キスしただけの話じゃねーか。
・・・・・・でも、なっちはショックだったかもしれねーぞ。
「・・・・・・ごめん。酔ってたとはいえ」
「なっち、・・・・・・悲しかったの」
そんな! そんなに傷付けちまったのかァ?
ん? クラクションを鳴らされたじゃねーか。
私は窓を開けると、後ろと横のタクシーを睨み付けた。
この状態じゃ、バックしねーと戻れねーだろうがよ!
「うるせー! ちょっと待ってろ馬鹿野郎!」
何とか切り返して、ようやく車線に戻れたけどよ。
もう、快調に飛ばす気にもなれねーや。
- 313 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/19(月) 10:24
- 「・・・・・・」
そういえば、帝国ホテルでなっちにキスしたっけかなァ。
あれでなっちがシラフだったら、とんでもねー事になってた。
それにしても、なっちは本当に悲しいのかなァ。傷付いたのかなァ。
笑って誤魔化しても許して貰える雰囲気じゃねーしよ。
この重い空気を何とかしねーと、なっちとの関係が壊れちまう。
「よっCが強引だったから、口の中が切れたんだべよ。痛くて食べられないべさ」
「へっ?」
まさか! ただ食べられない悲しいのか?
私がキスした事で傷付いて悲しいんじゃねーっての?
動揺したせいで信号を見落としそうになったじゃねーか!
いったい、なっちはどっちが悲しいってんだよっ!
「キスした事はいいべさ。親愛の印なんだから。でも、食べられないのは悲しいよ」
「・・・・・・」
何て奴だ! 危うく事故りそうになったじゃねーかよ!
何だか腹がたって来たぜ。裏拳でも入れてやろうかなァ。
とりあえず失神させてやるかァ? 室蘭の偶蹄目が!
なっちくれーなら、私の左手だけで落とせるからよ。
「朝食のお味噌汁が熱くて飲めなかったんだべよ」
次の信号で停まったら覚悟してろよ。
でも、クルマの中で失禁されても困るしなァ。
しかし、食い意地の張った奴だぜ。
- 314 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/19(月) 10:24
- 「うるせー!」
「何怒ってんだべさァァァァー! 怒りたいのはなっちだべさっ!」
面白くねーなァ。全く面白くねーぞゴルァ!
余計な心配して事故りそうになってよ。
ちょっと怒りが収まるまで黙っていよう。
くそっ! 飛ばして帰ろうっと。
「何となくスピードが出過ぎてるような気がするべさ」
そりゃそうだろうよ。メーターは百五十キロを指してるからなァ。
制限速度の三倍だ。恐れいったか!
でも、さすがにフェアレディはブレねーなァ。
うちのベンツは、もっと静かなんだけどよ。
おっと、ここを右折だったよなァ。
「ヒャアァァァァァァァァー!」
ドリフトして右折したら、なっちは左ドアに貼り付いて悲鳴を上げた。
全くうるせー女だなァ。フェアレディの旋回性能はベンツより上だっての!
「き、気持ち悪くなって来たべさ」
「クルマの中で吐くんじゃねーぞ! もうじきだから。急ぐからよ」
「間に合わないべ・・・・・・グェロゲロゲロゲロゲロゲー!」
間一髪、窓を全開にしたから、なっちは外に吐いてくれた。
それでも左後部のボディは、なっちのゲロ塗れになってる。
雨が降って来たなァ。どうせなら土砂降りになりゃいい。
なっちのゲロを洗い流してくれるだろうからよ。
- 315 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/19(月) 10:25
- 家に帰ると、なっちは気分が悪いって寝込んじまった。
私は美海が来る時間まで、院内学級でパソコンの準備を始める。
モニターを繋いでキーボードとマウスも。それからLANケーブル。
スピーカーも繋いで、オンチップのサウンドが生きてるか確認しねーと。
最後に電源ケーブルを繋いで準備完了ってか。
「おはようございます」
「よォ、これからインストールするからよ」
ハードディスクは物理フォーマットしてあるから、工場出荷時と同じ状態。
まずは電源を入れてBIOS画面。こいつはDeleteを押せばいい。
ブートからフロッピーを削除しちまって、CD‐ROMをファーストブートに。
これでいいはずなんだけど、何しろ機種が古いからなァ。
「もしかしたら、フロッピーを使う必要があるぞ」
「はい!」
美海は私の横でメモを始めたじゃねーか。
こんなもん、メモするほどのもんじゃねーけどなァ。
まずは慣れる事。半年に一回くれーはインストールし直した方がいい。
「駄目だな。こいつはフロッピーから始めねーと」
また再起動してBIOSでフロッピーをファーストブートに設定。
それから起動Diskを押し込んで再起動。
選択画面は『3』を選択して、キーボードタイプの確認。
『A\:_』ってなったら、まずは『FDISK』って入力。
これでMS‐DOSの領域やパーテーションを決められる。
造作もねー作業だぜ。こいつが終わったら再起動してフォーマット。
- 316 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/19(月) 10:26
- 「これは、何をしてるんですか?」
「OSをインストールする下準備だな」
再起動して『A\:_』になったら『format c:』って打ち込んでやる。
確認画面で『はい』を選択すりゃFAT32のフォーマットが始まるんだ。
デュロンの600MhzとPC‐100のメモリが128Mだから、
いくら十五ギガしかねーハードディスクでも三十分は掛かる。
ふう、腹が減ったなァ。二日酔い気味で朝食抜きだったからよ。
「美海、カップラーメンでも食わねーか?」
「放っておいていいんですか?」
「こっちは三十分からかかるからよ」
私達は自宅に行ってキッチンでカップラーメンを食べた。
もう昼近いから美海も腹が減ってたんだろうな。
腹が膨れたところで、また院内学級に戻ってフォーマットの様子を覗う。
・・・・・・何だよ。まだ半分じゃねーか。このハードディスクは回転数が遅いな。
「意外と時間が掛かるんですね」
「ああ、何しろ古いからなァ」
もう、マザーボードもCPUもSocketAなんて売ってねーもんなァ。
メモリにしてもDIMM2が主力で、DIMMのマザーボードを探すのだけで一苦労。
こいつは更に、その前のメモリタイプだからよ。
最近じゃintelもSocket478からLGA775に移行しちまってるし、
モデルチェンジの回転が速くなって来た気がするなァ。
そうでもしねーと、この業界は頭打ちになってるからよ。
CPUの回転数よりチップセットの性能を上げろってんだ。
おっ? かなり降って来たぞ。なっちのゲロは流れたかなァ。
- 317 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/19(月) 10:26
- 「OS自体は、どのくらいの容量なんですか?」
「八百メガくれーじゃねーか? でも、何だかんだで二ギガ近くになるさ」
余計なもんは削除しちまうけど、とにかくアップデートが多いからよ。
他にドライバセットアップやOffice、ライティングソフトのインストールもある。
圧縮解凍ソフトや画像閲覧ソフト、年賀状作成ソフトはフリーウェアで充分。
まァ、Cドライブはたった十五ギガだからよ。データはDドライブだな。
「これでミュージックCDも作れるんですか?」
「ああ、CCCD対応ツールがあれば、プロテクトされてても大丈夫だ」
もう音楽業界も、新しい売り方を考えねーとなァ。
いくらプロテクトされたCDを発売したところで、
すぐに対応ツールがフリーソフトで出回っちまうからよ。
このイタチごっこは、クルマの制限速度と似てる。
国内の道路じゃ百キロまでしか出せねーんだから、
それ以上の速度は出ないクルマしか認可しなきゃいいんだ。
「インターネットをするとウイルスに侵入されるんですか?」
「変なもんを開かない限りは大丈夫だな。ちょっと、そこのパソコンを使ってみろ」
「えっ? どうやって使うんですか?」
「いいから、そこのスイッチを押せ」
美海専用のパソコンで、OSはXpが入ってた気がするぞ。
電源を入れて、認証画面は・・・・・・仕事で使うんだからセキュリティは必要ねーか。
ルーターにファイアウォールも入ってるし、こいつはシマンテックのソフト付きだ。
ポートを開放しねー限り、トロイ系のワームが入っても大丈夫なはず。
子供達の情報を管理するパソコンだから、外部からの侵入は不可能に近い。
でも、何事にも『絶対』って事はねーからよ。注意するに越した事はねーな。
- 318 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/19(月) 10:27
- 「画面が開いたら、Internet Explorerをクリックしてみな」
「こ、こうですか?」
すぐにプロバイダーに接続される。ここからの検索で注意しねーと。
表記の揺れをなくして、怪しいサイトを踏まねーようにするんだ。
何かあればノートンが反応するだろうけどよ。
「ウイルスが入ったところで、パソコンが壊れるわけじゃねーから安心しろ」
「そうなんですか? でも、よく壊れたって聞きますけど」
壊れるのはシステムだっての。金属の塊がウイルスで壊れるわけがねーだろう。
この手の古いパソコンは、ウイルスよりブラクラに気を付けた方がいいな。
メモリオーバーで固まっちまうと、リセットするしかなくなるからよ。
OS起動中にリセットするんだから、ハードディスクに深刻なダメージが出る事もある。
BIOSを書き換えるウイルスもあるらしいけど、ジャンパーピンで対応出来るからな。
「機械が壊れるわけじゃねーんだ。システムがやられちまうわけよ」
「システム・・・・・・ですか?」
「OSの心臓部だな。みんな泣くのはデータのバックアップをしてねーからさ」
そのためにFDDやCD‐R、DVD‐R、MOってのがあるんだ。
そういったソースが面倒なら、Dドライブに自動コピーするソフトもある。
パソコンを知らねー奴は、起動出来なくなっただけで壊れたと思い込む。
壊れそうなのはハードディスクだけど、本当に壊れると異音がするんだ。
「大切なデータは必ずバックアップしとくんだ」
こうしておくと、OSが重くなって来た時も、楽に再インストール出来るからよ。
慌ててバックアップを取ったりすると、必ず漏れて泣く羽目になるからなァ。
- 319 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/19(月) 10:29
- また来週にでも更新致します。
- 320 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/27(火) 09:57
- 〔動揺とインストール2〕
美海はOSのインストールが、こんなに時間の掛かるものだとは思わなかったらしい。
そりゃそうだよなァ。メーカー品のパソコンには、初めからOSが入ってるんだからよ。
おまけに使いもしねーソフトが腐るほど入ってやがるから困ったもんだぜ。
最近じゃ、やっとスッキリしたPCを売るようになったけどなァ。
「あの、ちょっと出掛けて来てもいいですか?」
「うん、いいよ。やっとくから」
「人と逢う約束があるんで、すみません」
そんなに気を遣うなっての。これから嫌でも一緒にやってくんだからよ。
雨が降ってるけど、人と逢うのか・・・・・・。おっ! さては!
奥手そうな顔しやがって。でも気を付けろよ。羊の皮を被った狼なんて事もあるし。
羊と狼? まるで『あらしのよるに』みてーだなオイ。
「カレシ?」
「ち、違います!」
どうやら逢うのは男だけど、まだ彼氏じゃねーってか?
いい男ってのは早い者勝ちだからよ。モタモタしてんじゃねーぞ。
「いいんだよ。別に隠さなくても」
「違うって言ってるでしょう!」
ヤバイ。これ以上言うと、美海の奴ブチキレちまう。
ったく短気な奴だなァ。これで院内学級なんて務まるのか?
私なんて、何度えりかの首を絞めようかと思った事か。
でも、ここはちょっと釘を刺しておかねーとなァ。
- 321 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/27(火) 09:58
- 「美海。オレやなっちにならいいけど、子供には寛大じゃねーとよ」
「そ、そうでした! すみません! すみません! すみません!」
こいつのいいとこは、とにかく素直な性格だろうなァ。
磨けば角が取れて光る・・・・・・オヤジはそれを見抜いた?
なっちにしても、何で新参者の美海を殴ったのか。
単に仲直りさせるためじゃねーのは判ってたけどよ。
「いいんだけどな。ここの子供は健常者とは違うからよ」
「そうですよね。それだけは心して接しないと」
院内学級ってのは物凄くデリケートで奥が深いもんなんだなァ。
なっちが忙しいのも判るぜ。たった一言で子供を傷付けちまう。
まァ、あの核娘だけは、ちょっと傷付いて欲しいんだけどな。
「早く行って来いよ。待たせちゃ悪いだろ?」
「はい! ・・・・・・本当に彼氏じゃないですからね」
「判ったよ」
美海はニッコリ笑うと、何やら大きなバッグを持って出掛けて行った。
あいつの性格からして、男にコクられるのを待つタイプじゃねーし、
ちょっと、からかい過ぎたかもしれねーなァ。
「さてと、OSが終わったから、今度はドライバのセットアップか」
必要なもの以外はインストールしないようにしねーとなァ。
チップセット、VGA、サウンド以外は必要ねーってか?
Meくれーになると、ほとんどのSCSIをサポートしてるし。
美海がmp3プレーヤーでも持ってりゃ、USB2も必要だけどよ。
- 322 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/27(火) 09:59
- 「えーと、障害児教育の本は・・・・・・よっC、何やってんだべか?」
「ああ、美海にPCを渡すんで、インストールしてんだよ」
なっちもようやくクルマ酔いが治ったみてーだなァ。
しかし、あんなもんで酔うとは情けねーぜ。
大垂水峠でも攻めれば酔うだろうけどよ。
そういえば、クルージングの時も酔ってたっけ。
「ふーん、美海ちゃんにだけは優しいんだね」
何だそれ。気に障る言い方だなァ。
そりゃ、美海は後輩だし可愛いと思うけどよ。
ただ、あいつの性格はきついからなァ。
石黒先生に『教育』して貰った方がいいぜ。
「オレは誰にでも優しいだろうがよ」
「なっちには痛い事したくせに」
ったく、いつまで根に持たれたらいいんだよっ!
確かに私が正体を無くすまで飲んだのがいけねーんだけどよ。
これだけは代わってやりたくても、そうは行かねーからなァ。
口の中が痛いと、熱いもんやしょっぱいもんは無理。
でも、それくらいで、ここまで引っ張るかァ?
「アハハハハ・・・・・・。妬いてんのかァ?」
おおっ! なっちが赤くなったじゃねーかァ。
なっちは色白だから、赤くなるとすぐ判る。
中学生の女の子みてーで可愛いじゃんか。
- 323 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/27(火) 10:00
- 「もう! よっCなんて嫌いだべよーだ」
・・・・・・そんな悲しい事、言うなよ。幾ら恥ずかしいからってさ。
これまで、ずっと一緒に暮らして来たんだからよ。
もう家族の一員じゃねーか。オヤジに肢体を見られてもさ。
「オレは好きだよ!」
「そそそそ・・・・・・そんなマジになる事ないっしょ!」
マジもヘッタクレもねーんだ。私は本当になっちが好き。
きっと私に姉がいても、なっちくらい好きにはならないと思う。
殴られても楊枝で刺されても、私はなっちの事が好きなんだ。
何で判ってくれねーんだよ! 悲しくなっちまうじゃねーか!
「何で嫌いなんて言うんだよ!」
私はなっちを抱き締めた。
何でだろう。自分の感情をコントロール出来ない。
こんな事、今までなかったってのによ。
「そんな事言われたら、嫌いになれない・・・・・・く、苦しいべさ・・・・・・」
「なっちさん!」
「くくくく・・・・・・ぎぎぎぎ・・・・・・がくっ!」
気が付いたら、私は思い切りなっちを抱き締めてた。
自分の腕が痛くなるくれー本気で締め上げちまったぜ。
なっちは小さいから、床に足が着いてねーじゃんか。
ってヤバイ! なっちが白目剥いちまった!
ちゃんと息は吐いたよなァ。そうじゃねーと気胸になっちまう。
- 324 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/27(火) 10:01
- 「わァァァァーん! なっちさーん!」
私はなっちを小脇に抱えて、とにかく病院に走った。
顔色は蒼白だけど、チアノーゼは起こしてない。
って事は、何とか心臓だけは動いてるんだよなァ。
わっ! 何で病院の中に蝶なんているんだよっ!
「うっ!」
コツコツコツ・・・・・・。硬いパンプスの音が聞こえて来るじゃねーか。
逆光でよく見えねーけど、あの背の高さとスレンダーな身体は・・・・・・。
間違いねー! 外科病棟主任看護師の天海祐希さんじゃねーか!
「何やってるの?」
「なななな・・・・・・なっちが白目剥いちまってよォ!」
しかし、この人は笑わねー人だよなァ。
まさか、胸に大きな傷があったりしねだろうなァ。
さっき蝶が飛んでたしよ。
最後に原沙知絵さんが真似したりしねーよなァ。
「いい加減、目覚めなさい」
「・・・・・・べさっ?」
うげげー! 噂は本当だったんだァァァァァァー!
何で目覚めちまうんだよ! 超能力じゃねーの?
と、とりあえず、ラウンジの長椅子になっちを寝かせるか。
祐希さんは聴診器で、なっちの心臓と肺を診てくれた。
そーか。私も聴診器があれば、そのくれーは判るってもんだ。
- 325 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/27(火) 10:02
- 「心臓と肺は正常よ。貧血かもしれないわ。じゃあね」
コツコツコツ・・・・・・。不思議な人だなァ。
サトエリが怒らせたくなるのも、ちょっと判るような気がするぜ。
でも、うちのオフクロですら、かなり気を遣う人だからよ。
鼻骨骨折、眼球破裂。血の海の中でってのも説得力があるなァ。
「よっC、なっちを殺す気だべか?」
「ごめん! つい・・・・・・」
そういえば、なっちは私に抱き締められると身動き出来ねーって言ってたなァ。
いくら鍛え方が違うからって、もう少し力つけた方がいいんじゃねーの?
これからの時代、か弱い女なんて通用しねーっての。
でも、女性は筋肉が付きにくいから、男の倍は努力しねーとなァ。
「何で痛い事ばかりするの?」
「わざとじゃねーんだからよォ」
そんなに悲しそうな顔するなよ。私はなっちが好きなんだからさ。
こうなったらシラフでもいいや。また、なっちにキスしちまうか。
そうすりゃ、なっちだって判ってくれると思う。
チュッとキスして「好きだよ」って抱き締めてみるか。
「なっ・・・・・・(ゴツン)・・・・・・ヒィィィィィィィー!」
いてェェェェェェー! 何でいきなり俯くんだよォ!
なっちは小さいから、私の唇に頭突きした形になった。
うっ! ポタポタと? ・・・・・・げげー! 出血してる!
わァァァァァーん! 物凄く痛いよォォォォォー!
- 326 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/27(火) 10:02
- 「よ、よっC! 大丈夫だべか?」
「大丈夫なわけねーだろ!」
うわっ! 唇まで切れたみてーだぜ。
私はなっちと違って唇が薄いんだからよォ。
嫁入り前の顔に傷が付いたら大変じゃねーか!
縫わないと駄目かなァ。とりあえず診て貰おう。
「よっC!」
私は口を押さえながら医事課に走った。今日は形成外科医はいたっけかァ?
血塗れの私が走って来たから、遠野凪子さんが驚いて駆け寄って来た。
凪子さんはでけーんだから、ちょっと怖いんだっての!
「出血は大した事ないわ。ちょっと院長を呼んで来るわね」
オヤジ? オヤジに縫合して貰うのかァ?
てめーの娘だからって手を抜かねーだろうなァ。
嫁入り前の娘にとっちゃ、顔はひとつの財産だからよ。
それにしても、歯が折れてなくてよかったぜ。
「院長! ひとみちゃんが怪我を」
「何ィィィィィー! ひとみ! どうした! 大丈夫か? 誰にやられた!」
何を狼狽してやがんだァ? てめーは医者だろうが!
いいから早く診察しろっての! 痛くてたまんねーんだからよ。
大山先輩のストレートを顔面レシーブした時くれー痛い。
消毒液でゴリゴリするのが痛いんだよなァ。
それにしても、口の中まで血塗れだぜ。
- 327 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/27(火) 10:03
- 「お、おじさん。ごめんなさい。なっちの頭が当たったんだべさ」
「なんだ。てっきり誰かに殴られたのかと思ったよ」
安心するんじゃねーよ! 一人娘が怪我したってのによ。
・・・・・・まさか、なっちにキスしようとして。なんて言えねーぞ。
ちょっと、何て説明すりゃいいのか考えようじゃねーか。
とにかく診察が先だ。下唇の方がいてーんだけどよ。
「いいから早くしてくれよォ!」
傷は上唇の内側と下唇。凪子さんが唇を捲ってオヤジが診察。
下唇は大した事ねーけど、上唇はザックリ行ったみてーだ。
オヤジは私の上唇の内側を縫い始めたけど、チクチクしていてーなァ。
でも、ザックリ行った上より、下の方が痛いんだけど。
「ったく、お前はオテンバなんだから」
「うるせー! 半分はオヤジのDNAだろうがよ!」
凪子さん、堪えなくていいから。笑っちゃっていいから。
こんな中年オヤジ、ちっとも怖くねーからよ。
・・・・・ちょっとちょっと! 何で原沙知絵さんと小雪さんが来るんだよ。
みっともねーから、暫くマスクでもするようだぜ。
「ひとみちゃん、怪我したの?」
「アハハハハ・・・・・・。まあね」
「早く洗わないと落ちないわよ」
そういえば、服にも血が付いちまってるなァ。
まァ、もう古い服だから、捨てちまってもいいんだけど。
- 328 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/27(火) 10:04
- 「へえ、ひとみを心配してくれるなんて」
「そういう言い方はねーだろ? オヤジだったら『お騒がせしました』って言うの!」
「お騒がせしました」
オヤジが言うと、とうとう凪子さんが爆笑しちまったぜ。
沙知絵さんも小雪さんも笑い出した。な? オヤジなんて怖くねーだろ?
脱税&セクハラ疑惑のセコイ中年なんだからよ。
「なァ、オヤジ。最近のオヤジは近寄りがたいってよ」
「そうなの? まあ、医療事故には過敏になってたかも」
「凪子さん、挨拶代わりに踵落としでも決めてやれっての」
「いやあ。遠野君にだったら殴られてみたいなあ。アハハハハ・・・・・・」
マジ? みんなマジで引いてるぞオイ。
オヤジ、いつからMキャラになったんだァ?
っていうか、それってセクハラじゃねーか?
「オヤジ! 凪子さんにセクハラするんじゃねーよ!」
「そそそそ・・・・・・そんなつもりは・・・・・・」
何を動揺してやがるんだァ? オヤジはセコイからなァ。
でも、よかった。みんなオヤジの事を誤解してたみてーだからよ。
- 329 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/02/27(火) 10:08
- また、来週にでも更新致します。
- 330 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/06(火) 09:52
- 〔梅雨明け〕
連休が終わって少しすると、鬱陶しい梅雨の季節。
去年はバイクの練習が出来なくてウズウズしてたっけかなァ。
柴ちゃんは相変わらず合コンに東奔西走してるしよ。
それにしても、お茶の水は若い奴が多いぜ。
大学や専門学校が多いし、楽器屋もあるからなァ。
「あのー、もしかして吉澤さんですか?」
駅の自動改札を出たところで、若い女の子に声を掛けられた。
確かに私は「吉澤」だけどよ。っていうか、何で私を知ってるの?
この際「違いまーす」なんて言ってみようかなァ。
宗教の勧誘やキャッチセールスだったら嫌だしよ。
基礎化粧品を売り付ける奴もいるって話だったなァ。
私の家は病院を経営してるし、皮膚科だってあるんだ。
東京医科歯科大の学生なんだから、科学的根拠を示すように脅してやるか。
生物学上のコラーゲンの発生を知らねーで、セールスなんかするんじゃねーっての。
「春高、残念でしたよね」
「何だ。バレーで知ってたのかァ」
私の代は未希がスターだったし、一個下の木村もそうだった。
どっちかっていうと、私は影の薄いセンターだったからなァ。
そうだよなァ。身長が百七十センチもねーセンターなんてよ。
っていうか、私が二年の時はリベロだったんだけどなァ。
サイドアタッカーに大山先輩と栗原先輩、木村がいたからよ。
未希と荒木先輩、この五人がスタープレーヤーだったから、
どうしてもリベロなんて眼が行かねーんだろうなァ。
- 331 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/06(火) 09:52
- 「私は富士見学園の・・・・・・」
「鮎原こずえかァ?」
「・・・・・・」
彼女は山梨県にある富士見学園女子高バレー部で、私より一個下だった。
山梨県は早くに出場校が決まっちまうから、都大会の予選を観てたらしい。
未希や木村が有名なのは判るけど、私まで名が知られてるとはなァ。
柴ちゃんといい平原綾香さんといい、私を知ってたからよ。
意外に有名人なのかなァ。こいつは悪い事なんて出来ねーぞ。
「一緒に写真撮らせて下さい」
嬉しいじゃねーか。バレーをやってると、こういった交流もあるんだなァ。
立川実践の奴等だけじゃねーんだなァ。私を見てた奴は。
彼女は御茶ノ水女子大で、何でも大月の実家から通ってるらしい。
大月から御茶ノ水まで通学じゃ、本当にご苦労な事だぜ。
まァ、バレーをやってた体力があれば、苦にならねーだろうけどよ。
「ありがとうございました」
「オレは東京医科歯科大だからよ。また逢おうぜ」
梅雨の季節。道路は混んでるしバイクは危ないからよ。
電車で通学すると、こういった出逢いってのもあるんだなァ。
電車通学なんて、かったるいだけかと思ってたけどよ。
これからは電車通学も、ちょくちょくやってみようじゃねーか。
「おっと、一時限目が始まるぜ」
私はバッグを担ぐと、傘をさして走り出した。
- 332 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/06(火) 09:53
- 院内学級の方は、美海が来てから充実して来たぜ。
やっぱり、なっちの他に昼間に軸があると違うよなァ。
ボランティアの人も美海を頼るようになったしよ。
なっちの負担が減った分、自分の仕事が出来るらしい。
「だから、3の公倍数は、足した数字が3で割り切れるかどうかなんだ」
「つまり、111は3の公倍数ですね?」
「そう。37で割り切れるだろ?」
2の倍数は偶数、5の倍数は末尾が5か0。
私は基本を教えて愛理に問題を作らせてみた。
石黒先生曰く『安倍式学習法』ってやつで、
私はこれで力が付いたんだよなァ。
問題を作るには理解してねーと不可能だし。
「ひとみさん、これは?」
「24792は、一桁だと2、3、4、6、の公倍数だ」
「当たり! すごーい!」
可愛いもんじゃねーか。こうやってゲーム感覚で勉強するのが一番だ。
石黒先生は中学生に数学、みっちゃんは英語を教えてくれてる。
国語と社会は私だって教えられるし、理科はみっちゃんが本職だからよ。
その間、なっちと美海のおばさんは、明日の仕事の打ち合わせ。
「ただいまー」
石黒先生とみっちゃんが、笑顔で美海を迎えた。
美海は夕食がまだだから、整外の食事を一人前残して貰ってる。
そいつをレンジでチンして、食べながらなっち達と明日の打ち合わせ。
- 333 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/06(火) 09:54
- 「みちよ先生。この場合は Yes, I am. でいいの?」
「うーん、髪の毛に人格はないやろ? Yes,it is. が正解やろね」
最近じゃ金髪の日本人も珍しくねーからなァ。
髪とか身体の一部とか、人格のねーもんは It is だっけ。
だけど、犬とか猫に He や She を使うから英語は難しい。
極端な話、羊は家畜だから『物』だけど、
牧羊犬には名前があるから『人』として扱うらしい。
英文科になんて行かなくて正解だったなァ。
「みちよ先生。高校受験の相談に乗って下さい」
「ええよ。えりかは何の勉強をしたいんや?」
えりかは核娘なんだから、西海大に入りやすい高校だっての。
でも、みっちゃんが来てくれて、本当に助かってるぜ。
何しろ理数系のオールマイティだからなァ。
今日は石黒先生もいるけど、いねー時は頼りになる。
高校の先生だから、小中学生が可愛くて仕方ねーらしい。
「ひとみさん、『検非違使』って何ですか?」
「ああ、平安京の治安を任された武士の事だな」
実際に働いてたのは検非違使の家来なんだけどよ。
平安中期に発生した関東の叛乱には検非違使が派遣されてる。
平忠常を説得した源頼信も、確か検非違使だったよなァ。
要するに国司の手に負えない相手をやっつけるのも仕事だったわけだ。
小春には難しいかなァ。当時の武士の身分なんて、凄く低いもんだった。
だから、都合のいいように、貴族達に利用されてたんだよなァ。
一人のヒーローが出現するまでは。
- 334 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/06(火) 09:55
- 「平安京って、そんなに物騒だったんですか?」
「今の東京だって物騒じゃねーか。いつの時代も同じだよ」
平城京から大津京へ遷都して、すぐに平安京だからなァ。
桓武天皇も罪な事をしたってもんだぜ。
突貫工事だったから、あちこちに不具合が出るのは当たり前。
だから、色んな職人や商売人が集まって来たってわけだ。
人が集まれば貧富の差が出来て、自然と犯罪が横行するようになる。
近衛府だけじゃ手一杯だから、検非違使が出来たって事だな。
「平安後期になると、叡山(天台宗)の僧兵が暴れ出すだろ?」
「ああ、薙刀を持った」
「あれは長巻っていうんだけどな」
平安京が危うくなった時に現れたスーパースターが平忠盛ってわけだ。
瀬戸内の海賊を一掃。僧兵を叡山に押し込めた救世主ってわけだなァ。
平安中期のスーパースターが源頼光だとしたら、後期は平忠盛って事になる。
伊勢平氏出身の平忠盛は、武士としては異例の殿上人にまでなった。
息子の清盛は忠盛の威光があったからこそ、第二の藤原道長になれたわけ。
「ひとみさん」
平氏が清盛の死の直後に滅亡しちまったのは、重盛の急逝があったからだろう。
もし、重盛が生きてたら、源頼朝が兵を挙げられたかどうかも判らねーもんなァ。
「ひとみさん、自分の世界に入ってませんか?」
「へっ?」
いけね! 最近、どうも小春に指摘されるようになっちまうぜ。
- 335 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/06(火) 09:56
- 院内学級が円滑に回り出すと、都に研究会が発足して定例会が開かれる。
オヤジとなっちは大忙しで、研究会の資料作りと見学者の対応に追われた。
いきなり都に研究会が発足しちまったから、驚いたのは三鷹市長だぜ。
寝耳に水ってのは、この事って感じで、毎日のように病院にやって来た。
そんな忙しい毎日が一段落したのは、もう梅雨が明ける頃だったなァ。
「よっC、なっちと一緒に室蘭へ行かないべか?」
「いいねえ! 連れてってくれるの?」
室蘭の近くには登別って日本有数の温泉もあるしよ。
今年は忙しくて遊びに行けないと思ってたけどなァ。
北海道はこの時期、トウモロコシと乳製品くれーだけどよ。
生ハムと焼きトウモロコシでビールってのもいいなァ。
近海物の寿司や刺身も食ってみてーしよ。
それから、何ていってもラーメンだよなァ。
「七月下旬から八月上旬。お盆前で混んでないべさ」
「よっしゃー! スケジュールを空けておくぜ!」
美海も夏休みになったら、ある程度は院内学級を任せられる。
それは石黒先生やみっちゃんも同じだから、私達にも時間が出来るって事だ。
私もゼミがあるし、今年の夏はこれで終わりかなァ。
「まずは航空チケットを予約しねーとなァ」
私はなっちと相談して、行きは七月二十八日、帰りは八月六日にした。
なっちの目的は墓参りだけど、私の方はバカンスだからよ。
ホテルはどこがいいのかなァ。なっちはどこに泊まってるんだろう。
レンタカーも借りなきゃいけねーし、こいつは忙しくなって来たぜ。
- 336 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/06(火) 09:56
- 「言っておくけど、向こうじゃ三日間は潰れるべさ」
「何で?」
「だって、友達と逢いたいっしょ?」
そりゃそうだよなァ。でも、なっちの友達なら私の友達みてーなもんだ。
もう、なっちは家族なんだからよ。室蘭かァ。今からワクワクするぜ。
もしかしたら、矢口さんも連れてったのかなァ。
そんなわけねーか。矢口さんはバイトで忙殺されてたみてーだし。
「チケット予約OK! 後は宿泊先とレンタカーなんだけどよ」
「友達が迎えに来るべさ。その子の家は登別の温泉宿」
なっちの話によると、その友達からクルマは借りられるし、
料理は有料だけど、宿泊料や入湯料は無料って事らしい。
ただし、ちょっと宿の手伝いをしねーといけねーって話。
仲居さんは出来ねーけど、布団を敷いたり片付けるくれーなら。
掃除するのも嫌いな方じゃねーからなァ。
「他に逢う人は?」
「先輩に逢わないといけないんだべさ」
なっちの高校の先輩かと思ったら、どうやら大学の先輩らしい。
今は室蘭に住んでて、障害児施設の教員をやってるそうだ。
そんな偶然もあるんだなァ。でも、なっちにしてみりゃ勉強出来る機会。
何しろ障害児教育の現場で働く先輩から話が聞けるんだからよ。
他に、もう一人逢う人がいて、それから墓参。
それが済めば、後は思い切りエンジョイ出来るらしい。
私はそれでもいいし、なっちはどこに連れてってくれるのかなァ。
まァ、なっちと一緒にいれば、それだけで楽しいんだけどよ。
- 337 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/06(火) 09:57
- また来週に更新致します。
- 338 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/07(水) 00:33
- 旅行が楽しみです
- 339 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/13(火) 09:29
- >>338
ありがとうございます。本当に励みになります(^▽^)
- 340 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/13(火) 09:49
- 〔ささやかな夏休み1〕
飛行機に乗るのは久し振りだなァ。
新千歳から室蘭までは時間が掛かるから、
ゆっくり出掛けられる午後の便にした。
銀座辺りでインド風カレーでも食おうじゃねーか。
「あった! 銀座のインド風カレー店」
私はインターネットで検索して、銀座のインド風カレー屋を見付けた。
勿論、登別周辺の面白そうな場所もチェックしてプリントアウトしてある。
そういえば、新千歳の北の方には、財政破綻した夕張市があるんだよなァ。
かつては炭鉱の町として栄えたってのに、今は見る影もねーってか。
雄別炭鉱茂尻鉱の大事故が原因かどうか知らねーけど、
夕張炭田が前面閉鎖されちまったら、後に残ったのは借金の山だった。
「夕張を再生させるには、ギャンブルしかねーだろうによ」
私だったら安価で出来る競馬場や牧場を作るけどなァ。
『名馬と逢って競馬を楽しもうツアー』なんて企画してよ。
まずは札幌から行楽客を呼ばねーと駄目だろうなァ。
「三歳馬は夕張」なんて事になりゃ面白いけどよ。
「競馬で儲けたカネなんて、ほとんど遊興費に消えるそうだしよ」
競馬の事業収入だけでも凄い金額になるんじゃねーかなァ。
その前にJRAを説得しねーと始まらねーんだけどな。
かつての大事故があった茂尻鉱を見学させてもいいし、
低予算で活性化させる事は不可能じゃねーんだよなァ。
- 341 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/13(火) 09:53
- 「そうなると、いわゆる利権絡みで・・・・・・結局救われねーかァ」
稲取でも温泉協会が事務局長を公募したって話だけどよ。
ある程度投資して目玉を作らねーと人なんて来ねーっての。
料理や露天風呂でリピーターなんて期待出来るわけがねーし、
私なら女性が「また来たい」って言えるような事を考えるなァ。
やっぱり美肌やダイエット効果なんだろうけどよ。
女が集まれば男は嫌でも付いて来るっての。
婦人服売り場じゃねーんだからよ。
「行きてー奴は多いんだろうけどよ」
ここまで賃金格差があると、一般労働者にはカネと暇がない。
口先じゃ景気が回復してるなんて言ってるけどよ。
低賃金で酷使されてる一般労働者に支えられてるんだっての。
まずは税率改正で、高額所得者から納税させねーと意味ねーよなァ。
うちのオヤジなんか、半分は税金でもいいくれーだぜ。
「さてと、今日はこのくらいで寝るかァ」
明日は十時過ぎに出発すりゃいいからなァ。
八時頃に起きて荷物をチェックすりゃいいってもんだ。
それにしても、なっちの友達って、どんな人かなァ。
やっぱり、なっちみてーに色白でポヨポヨしてるのかなァ。
登別辺りでも「べさっ!」なんて言うのかなァ。
なっちの方言は判りやすいけど、言葉が通じなかったら困るぞ。
明日の今頃は、温泉旅館で舌鼓打ちながら、ほろ酔いだぜ。
焼きトウモロコシと生ハムで、ビールを飲んで・・・・・・。
それから・・・・・・それから・・・・・・。ZZZ・・・・・・。
- 342 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/13(火) 09:56
- 新千歳に着いたのは午後二時過ぎだった。
荷物を受け取って旅客ターミナルに出ると凄い女がいる。
髪がレインボーカラーじゃねーかァ! ちょっと怖い顔してるし。
水商売でもやってる人なのかなァ。眼を合わせないように・・・・・・。
「なっち!」
「へっ?」
レインボー姉ちゃんがなっちを呼んだじゃねーかァ!
この凄い女が温泉旅館の娘だってのかァ?
化粧も濃いし、ちょっと怖いんだけどよ。
まさか、こんな怖そうな人が、なっちの友達だなんて。
「マサオ! 一年振りだべねえ」
「この子が病院の一人娘? へー、可愛い子じゃない」
「ど、どうも。吉澤ひとみです」
彼女の名前は大谷雅恵。なっちとは高校時代の同級生。
クルマの中で色々話したけど、意外に優しくてよかったぜ。
やっぱり、人は見掛けで判断しちゃいけねーよなァ。
何でも札幌医大の六年生で、小児科医を目指してるそうだ。
「よっCも医大なの? 二年生? それじゃ、これから解剖実習だね」
「うげっ! そうだった」
カエルやマウスの解剖はしたけどよ。今度は人間だぜ。怖いよォ!
行政解剖のビデオを観せられたけど、私は失神寸前だったからなァ。
でも、解剖しねーと医師にはなれねーわけだし、困ったもんだぜ。
特に外科医ともなると、人体の全てを知っておく必要があるからよ。
- 343 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/13(火) 10:03
- 「えーと、どこかで見た気がするんだけど、ちょっと思い出せないな」
「きっと春高じゃない?」
「そうそう! 聖ダルセーニョ学園のライトだったでしょう」
「二年の時はリベロだったんだけど・・・・・・」
レフトには大山先輩と栗原先輩。センターには荒木先輩と木村。
私も未希の対角で練習してたけど、中田先生にリベロにされちまった。
三年の春高じゃ「日本一背が低いセンター」なんて呼ばれたっけ。
マークは木村と未希だったから、私は面白いようにクイックを決めた。
結局、予選落ちしちまったんだけど、一個上が凄過ぎたからなァ。
「へえ、よっCって有名なんだべねえ」
「知らねーとこで知られてるから怖いんだっての!」
大谷さんは私の事を気に入ってくれて、何だか凄く嬉しかった。
札幌医大と東京医科歯科大との違いも教えてくれたし、
大谷さんの話を夏休みのレポートにでもするかなァ。
「そういえば、高校に入った頃、なっちは凄く痩せてたんだよ」
「ええっ! 本当?」
「その懐疑的な声は何だべさァァァァァァー!」
大谷さんの話だと、なっちは高校の時、三十八キロしかなかったらしい。
この間、顔面に頭突きされた時、持ち上げた感覚からすると四十キロ代後半。
もしかして、十キロ近く太ったってか? アハハハハ・・・・・・。何だか嬉しい。
「人の体重をバラす事ないっしょ!」
膨れっ面のなっち。そんな顔も可愛いんだよなァ。
- 344 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/13(火) 10:07
- そんなこんなで笑いの絶えないクルマの中。
やっぱり、東京と違って、こっちは涼しいよなァ。
エアコンなんて使わなくても充分快適って感じ。
私達が大谷さんの実家に着いたのは五時近くになってた。
「お母さん! よっCだよ! よっCが来たよ!」
「よっC? よっCって?」
「ほら、一緒に春高バレー観たじゃない」
「ああ、あのセッターより小さい子?」
うげげー! 大谷さんのオフクロさんにも知られてるじゃねーかァ。
小さいっていうけど、これでも百六十四センチはあるんだぜ。
菅山かおるより少し低いだけじゃねーか。他の連中がでけーんだっての!
すぐにカメラ持って来るんじゃねーよ。林家ペー・パー子じゃねーんだから。
「なっち、いらっしゃい」
「また、お世話になるべさ」
夏休みだってのに、あんまり客がいねーなァ。
温泉ブームが去ったって事もあるけど、やっぱり賃金格差だろうぜ。
登別っていったら、日本有数の温泉なんだけどよ。
まァ、熱海に比べれば、まだ救われるってもんだ。
「宜しくお願いしまーす」
私達が通された部屋は、母屋に一番近い部屋だった。
ほとんど、すぐ横に大谷さんの部屋があるみてーだぜ。
こうした人達に支えられて、なっちはこれまで生きて来たんだなァ。
なっちの人生の一部を見たような気がして、少しだけ嬉しくなった。
- 345 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/13(火) 10:20
- 「さてと。忙しくなるべよ」
私はなっちに連れられて、とりあえず厨房に向かった。
頭巾を被った大谷さん達が、かなり慌しく動いてるぞ。
これが噂に聞いた旅館の厨房。忙しそうだなァ。
やっぱり、温泉宿ってのは料理に重点を置くからよ。
えーと、何をすればいいのかなっと。
「なっち、盛り付け手伝って!」
「ほーい」
「よっC、これ『楓の間』だから、お母さんに渡して!」
「は、はい!」
大谷さんの家じゃ、大勢の仲居さんを雇う余裕がねーらしい。
だから、シーズンになると家族総出で手伝う事になるみてーだなァ。
北海道は冬がピークだから、その時は大谷さんの友達が来るんだろう。
今日は客が少ないっていっても、八部屋は埋まってるからよ。
しかし、たった八部屋の客だけでも、こんなに大変なんだなァ。
「よっC、『桜の間』に純米酒! コップと枡で! 出来る?」
「何とか」
ヒノキの枡にコップを入れて、冷蔵庫から純米酒を出して注ぐ。
それを板の上に乗せて、天然塩を少しだけ盛っておくんだよなァ。
『椿の間』には生ビールが二杯、『柊の間』にはキリンラガーが二本。
生ビールを注ぐのは、ちょっと自信があるんだよなァ。
ジョッキの角度で泡を調節するんだけど、ちょっとしたコツがいる。
さっきから料理を作ってる板さんは、どうやら大谷さんのオヤジさんらしい。
本当に家族総出でやってるんだなァ。楽な仕事じゃねーや。
- 346 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/13(火) 10:31
- 「よっC、『柊の間』は?」
「ああ、ラガーのやつ」
大谷さんも仲居さんとして料理を運んで行く。
後は『蘭の間』と『榎の間』『菊の間』『梅の間』で終わり。
『菊の間』にはワインの白と赤が一本ずつだったなァ。
懐石料理にワインなんて合うのか? まァ、いいや。
どうしても食事時間は、六時から七時に集中しちまうからなァ。
何とか大谷さんとオフクロさんで乗り切ったから凄い。
「なつみちゃん、九時くらいになるけどいいべ?」
「お腹空いたべさ」
九時? さすがに九時じゃ腹が減っちまうなァ。
なっちは勝手に近くにあった握り飯を取ると齧り付いた。
なるほど。こうしておけば、腹が減っても簡単に食える。
私も小さなやつを一個だけ食べた。せっかくの料理が食えねーと困るし。
さすがに中身は鮭だぜ。北海道だけあるよなァ。
「『桜の間』食事終わり。なっち、よっC」
「ほい来た。よっC、出番だべさ」
大谷さんが食器を持って戻って来た。
どうやら布団を敷く事になるらしいなァ。
まァ、布団を敷くくれーなら大した作業じゃねーからよ。
確かに忙しいけど、やってみると意外に面白い。
うわっ! 『菊の間』の客は不倫カップルっぽい。
これから×××なんてするのかなァ。興味津々。
さすがにジロジロ見ちゃマズイけど気になるぜ。
- 347 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/13(火) 10:32
- 八部屋の布団を敷き終わると、次は私達の部屋だなァ。
なっちは汗だくになってるけど、私なんて息ひとつ乱れてねーぞ。
やっぱり鍛え方が違うからよ。まだまだフルセットは行けるぜ。
・・・・・・確かに高校時代みてーなパワーはなくなったけどな。
「やっと終わったべさ。疲れたっしょ?」
「全然」
「・・・・・・」
体力も体格も違うっての! 夏掛け布団なんて軽いもんじゃねーか。
これが冬だったら、敷布団や掛け布団も重いんだろうけどよ。
私にしてみれば、軽い準備体操みてーなもんだぜ。
「雅恵を誘ってお風呂に行くべさ」
もう八時半かァ。やっぱり食事は九時になっちまうぜ。
でも、意外に面白かったし、お客さんが「ご苦労様」なんて言ってくれる。
私は接客に向いてるのかなァ。外科医は内科医とは違うんだけどな。
内科医は接客が上手くねーと、色々と面倒な事になるけどよ。
私達が厨房に行くと、大谷さんが食洗機に食器を入れてるとこだった。
「お疲れさまー! お風呂にしようか。お父さん、お願いね」
「はいよ」
大谷さんのオフクロさんは、これから館内のスナックをやるらしい。
旅館の女将ってのは、本当に大変な仕事なんだなァ。
オヤジさんもオフクロさんも、寝られる時間は四時間くれーだ。
だから昼寝をしねーと身体がもたないそうだぜ。
こいつは客の入りで判断しねーと、外食なんて出来そうにねーなァ。
- 348 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/13(火) 10:33
- 「女性客が三人だけだから、誰も入ってないべさ」
私達は貸切状態で、この登別の温泉を楽しんだ。
露天風呂は最高じゃねーか! 打たせ湯まであるしよ。
へえ、大谷さんって、メイクを落とすと可愛い顔してるなァ。
そういえば、私達三人とも色白だぜ。
梨華ちゃんは本当に色黒だったからなァ。
「さすがに鍛えた身体してるね」
「でもさー、オレは大谷さんみてーな女性らしい身体つきに憧れるなァ」
外科医になっても結局は体力勝負だから、
大谷さんみてーな身体つきにはなれねーだろうなァ。
って、なっちは泳いでるし。子供じゃないんだから。
「暑くなって来たべさ」
「泳げば当然だってばよ!」
露天風呂の打たせ湯は効くなァ。ツボに入ると身体の中心にまで響いて来る。
成人式に合わせて髪は伸ばしてるんだけど、ストレートだから洗髪も簡単。
これが冬なら、すぐドライヤーで乾かさないと風邪ひいちまう。
だけど、この季節は自然に乾燥させちまった方がいいだろ。
ドライヤーをかけ過ぎると、どうしても髪が痛んじまうからよ。
「なっちとよっCって姉妹みたいね」
大谷さんはニッコリ笑いながら言った。そうかもしれねーなァ。
なっちは家族なんだから、私の姉と言ってもいいかもしれねーぞ。
これからは「お姉ちゃん」って呼んでみるかァ? ・・・・・・私には無理。
- 349 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/13(火) 10:33
- また来週、更新致します。
- 350 名前:サンプル・後編 投稿日:2007/03/20(火) 22:10
- 〔ささやかな夏休み2〕
風呂から出ると、浴衣を着て厨房に直行。
大谷さんのオヤジさんが料理を用意しておいてくれた。
厨房なんて殺風景な場所だけど、この料理は豪勢だぜ。
うー、見てるだけで涎が出ちまうなァ。でも、この料理で一人三千円?
材料費だけでも、そのくれーは行きそうな感じだけどよ。
「よっC、飲み物はガンガン行っちゃっていいから」
「よっしゃー!」
なっちも大谷さんも、後で髪を乾かすみてーだなァ。
そんじゃ、お言葉に甘えて生ビールから行こうじゃねーか。
さすがにビールのサッポロだぜ。北海道だけあるなァ。
大谷さんと私が生ビール。なっちは梅酒サワーにした。
サワーなんて美味いかなァ。味覚は人それぞれってか?
サッポロの生ビールを一気に半分くれー飲むと、
渇いた胃が驚きながらも嬉しい悲鳴を上げる。
美味い! 美味過ぎる! こんなに美味くていいのかァ?
空腹でアルコールの摂取は胃に負担をかけるから、
とりあえず、何かを食わねーとなァ。
「鹿刺しうめー!」
大谷さんのオヤジさんの腕は一流だなァ。
どの料理も仕事してあるから、素材の味を損なわずに味付けがしてある。
特に天麩羅なんか、これは職人級の腕じゃねーかなァ。
それでいて、ラムのレアステーキなんて西洋風のものもあるしよ。
若い頃はかなり苦労したんじゃねーかなァ。勉強熱心みてーだし。
- 351 名前:サンプル・後編 投稿日:2007/03/20(火) 22:12
- 「いつ食べても、おじさんの料理は美味しいべさ」
大谷さんは食べ慣れてるせいか、小首を傾げてニッコリした。
風呂上りのビールうめー! 私はすでに二杯目を飲んでる。
まァ、中ジョッキだから、三杯飲んで日本酒にするかァ。
しかし、私も酒飲みだよなァ。何でも先祖にコーカソイドがいるらしい。
どうやら、私はそのDNAを引き継いだみてーだぜ。
モンゴロイドやネグロイドにはアルコールを分解する酵素が少ないそうだ。
何にしても下戸ってのは、本当に可哀想だと思うなァ。
「ふーっ、ようやく一息つけるべ」
「おじさんも一緒に食べるべさ」
「それじゃ、可愛い愛娘、雅恵ちゃんの横に座るべ」
大谷さんのオヤジさんも一緒に食卓を囲む。
これから朝食の仕込みをしなきゃいけねーからなァ。
何でも朝はバイキングにしてるらしい。
バイキング? ホテルなら珍しくねーけどよ。
確かにそうすりゃ、オフクロさんが用意するだけでいい。
その間、オヤジさんは市場に仕入れに行くらしいからよ。
「雅恵の友達が休みだから困ってたんだべ。助かったよ」
「そーか、オレを誘ったのには、そういった理由があったんだな?」
ここでバイトしてた大谷さんの友達も、少し暇なこの時期に休んだのか。
どうやら、彼女達は私達の予定に合わせて休みを取ったらしい。
まァ、無料で泊まれるし、温泉は入り放題、朝食付きだからなァ。
おまけに、この料理がたった三千円で食えて飲み放題は最高じゃねーか。
しかし、こういったアットホームな雰囲気はいいな。
- 352 名前:サンプル・後編 投稿日:2007/03/20(火) 22:13
- 「雅恵、馬刺しがあったべ」
「ああ、昨日貰ったやつね?」
大谷さんは冷蔵庫から、一口サイズに切った馬刺しを出した。
鹿刺しに馬刺しかァ。奇蹄目と偶蹄目の刺身ってのもすげーぞ。
おおっ! 馬刺しうめー! イカそうめんと鮭のルイベ。
こっちは純米酒で頂くとするかァ。
「なつみちゃんもよっCも可愛いなァ。雅恵とは大違いだべ」
「お父さん!」
アハハハハ・・・・・・。まったく愉快な父娘だぜ。
いけね! ピッチが早すぎた。酔って来ちまったぞ。
それにしても、このオヤジさんの人格はすげーぜ。
ここまで人に優しく出来るのは、色んな痛みを知ってるからだろうなァ。
どうもうちのセコいセクハラ疑惑オヤジと比べちまう。
「本当にいいオヤジさんだなァ。うちのオヤジとは大違いだぜ。なァ、なっちさん」
「・・・・・・肯定なんて出来るわけないっしょ! お世話になってるのに!」
「何ィィィィィィィィィー!」
私は酔ってるせいか、なっちの胸倉を掴んで睨み付けちまった。
だって「お世話」って何よ。そんな気でいやがったのか?
狼狽するなっちは滑稽だけど、何か悲しくなって来たぜ。
「なっちを家族だって思ってたのはオレだけかよ。なんだよ・・・・・・」
「そういった意味じゃないべさ。なっちの上司って事! よっC、飲み過ぎっしょ!」
城址? ああ、上司かァ。そういった意味かァ。安心したら完全に酔いが回ったぜ。
- 353 名前:サンプル・後編 投稿日:2007/03/20(火) 22:13
- なっちが泣いてる。何でだろう。何でなっちが泣いてんだよ。
私が起き上がると、なっちは半裸になって部屋の隅に蹲ってる。
しゃくり上げたりして、いったいどうしたんだろうなァ。
また、私が何かしちまったって事はねーと思うけどよ。
「よっC・・・・・・信じてたのに・・・・・・」
何を言ってやがんだァ? 私だってなっちを信じてるっての!
っていうか、何でなっちの浴衣が乱れてるわけ? しかも太腿に血が。
・・・・・・まァ、女だから毎月出血するのは仕方ねーんだけど。
でも、何で泣くんだァ? いくら個人差があるからって初めてってわけじゃ・・・・・・。
まさか! だだだだ・・・・・・だって、いくら男っぽくても私は女だし。
なっちをレイプするなんて事が出来るわけが・・・・・・。
な、何だ? 股間に何かあるぞ。ここここ・・・・・・これって男の!
「うわァァァァァーん! 男になっちまったよォォォォォォー!」
「うるさいべさっ!」
はっ? 夢? ・・・・・・股間に何もねーだろうなァ。
ちょっと怖いけど、確かめねーと心配だぜ。
・・・・・・ない。アハハハハ・・・・・・。よかったー。
しかし、何て嫌な夢を観ちまったんだろうなァ。
なっちをレイプする夢なんて観るか? 普通。
「ふーっ! 夢でよかった」
「五時半だべさ。もう起きる時間だよ」
朝食の支度があるからなァ。確かバイキングだったっけ。
温泉旅館で朝食にバイキングってのも珍しいよなァ。
- 354 名前:サンプル・後編 投稿日:2007/03/20(火) 22:14
- 「なっち、起きた? 宜しくー」
大谷さんがドア越しに声を掛けて、足早に立ち去る音が聞こえる。
とりあえず、顔を洗ってうがいをすると、眠い眼を擦りながら厨房へ向かう。
もう、大谷さんとオフクロさんが、早送りみてーに忙しく動き回ってた。
温泉旅館の女将ってのは本当に大変だなァ。こんなに朝早くからよ。
何となく昨夜より忙しいような気がするのは私だけかなァ。
昨夜はオヤジさんと仲居さんもいたわけだしよ。今朝はたった四人。
「なっち、レタスを千切ってくれるかしら」
「よっC! これをテーブルの上に置いて!」
大谷さんが冷蔵庫から、冷たいトレーに入ったパスタやフルーツを出す。
私はそれをテーブルの上に乗せて行く。こうした単純な仕事だったらOK。
だけど、いきなり「ポトフを作れ」なんて言われたらお手上げだからなァ。
なっちはレタスを千切り終わると、今度はパンをトレーに入れ始めたぞ。
昨夜、あれからオヤジさんが下拵えしたってのに、まだ仕事があるんだなァ。
「コールスロー、キュウリ、トマトは完了だべさ」
「雅恵、炒め物やって!」
「お母さん、コーヒー沸かしてないじゃん! よっC、スクランブルエッグをお願い!」
「よっしゃー!」
スクランブルエッグは、玉子を割ってカラザを取る事から始まる。
それから、よーく掻き混ぜて牛乳を少しだけ入れるのがポイント。
牛乳を入れると、固くならないでフンワリするんだよなァ。
私の横では大谷さんが、カリカリベーコンとウインナーを炒め始めた。
なっちは慣れてるなァ。コールスローとキュウリを刻み始めてる。
オフクロさんはコンソメスープの味付けに入ったところだ。
- 355 名前:サンプル・後編 投稿日:2007/03/20(火) 22:15
- 「なっち! 茹玉子お願い!」
「雅恵! 鮭の切身を焼きなさいよ!」
「ザルがないべさァァァァァー!」
まるで戦場じゃねーか! たった八部屋の客の朝食だぜ。
スクランブルエッグ完成! これ以上焼くと焦げちまう。
私は巨大なフライパンを持って、用意してあった大皿に盛った。
えーと、コーヒーがまだだったよなァ。そんじゃ私が煎れるか。
私となっちで食器を用意して、業務用のワゴンで食堂へ運んだ。
「よっC、厨房からジャーを持って来て欲しいべさ」
「OK!」
食器を並べるのはなっちに任せて、私は厨房へジャーを取りに行く。
バイキングである以上、絶対に不足したら困るから凄まじい大きさ。
重い! こいつは最低でも十五キロはあるぜ。
いったい何升入ってるんだよ! この感じだと四升はあるぞ。
衛生面を考えて、ここじゃ割箸を使ってる。
だけど、捨てないで夕飯の飯炊きの燃料の一部にしてるらしい。
「雅恵! お茶とジュースの用意! ・・・・・・はまだいいか」
「お味噌汁がまだじゃん! 下拵えするよ!」
私が食堂にジャーを担いで行くと、なっちがコンセントを指差す。
なるほど、ここに差し込めば、冷めちまう事がねーってわけか。
なっちがテーブルを拭き始めたから、私はワゴンを押して厨房へ。
サラダとドレッシング、パン、ジャムから運んで行けばいいんだな?
冷たいものとアツアツのものは、直前になってから持って行く。
海苔と納豆も、そろそろいいんだろうなァ。
- 356 名前:サンプル・後編 投稿日:2007/03/20(火) 22:15
- 「お母さん! もう六時二十分だよ!」
「急いで運びましょう。何とかなったわ」
私がワゴンを運んで行こうとすると、大谷さんに呼び止められた。
何かと思うと、冷蔵庫から何やらシェーカーを出したじゃねーか。
オイオイ! 朝っぱらからカクテルかァ? 嫌いじゃねーけどよ。
「バター作りお願い」
バター? そういえば、バターがなかったよなァ。
って事は、この中身は生クリームってか?
よーし、自慢の体力と腕力で見事に分離させてやろうじゃねーか。
私は五分間、汗だくになってシェイクしてやった。
見事に分離したバターに、大谷さんが塩を練り込んで完成。
低脂肪の牛乳になった方は、大瓶の牛乳に入れちまう。
「なっちと雅恵は食堂。よっCは氷を運んで頂戴」
六時半を過ぎた頃、ぼちぼちと人がやって来る。
一風呂浴びて来たじいさんもいて、朝から生ビールの注文だぜ。
あのじいさんはクルマを運転しねーんだろうなァ。
飲酒運転だけはやめてくれよ。人を轢いてからじゃ遅いからなァ。
「お待たせしました。おクルマじゃないですよね」
「当然だわ。運転は嫁だがや」
じいさんは皺くちゃの顔を綻ばせて言った。
この名古屋のじいさんも、ちゃんと判ってんじゃねーか。
そういう事ならガンガン飲んでくれや。・・・・・・死なない程度にな。
- 357 名前:サンプル・後編 投稿日:2007/03/20(火) 22:16
- 朝食は八時半までだから、九時には客が食堂からいなくなった。
しかし、こんなに余っちまってどうすんだよ。
私達だけじゃ食いきれねーぞ。捨てちまうのかなァ。
世界には全人類が充分に食べられるだけの食料がある。
でも、この瞬間にも餓死して行く人がいるってのによ。
「雅恵! 急いで!」
「なっちとよっCは片付けをお願い!」
何かと思えば、二人は弁当を作ってるじゃねーか。
なっちが言うには、登別の温泉協会で弁当もやってるらしい。
温泉協会の配送が十時過ぎには来るそうだぜ。
オフクロさんが弁当の数を配送センターに報告。
注文に応じて振り分けて行くみてーだなァ。
「ここのお弁当は美味しいから評判がいいんだべさ」
私達が片付けを終えて食器を食洗機に入れると、
もう弁当十八個が完成してるじゃねーか。
この手際のよさには感心するよなァ。
オフクロさんはパンとスープを持ってフロントに。
私達が朝食にありつけたのは九時半になってやがった。
「このバターうめー!」
やっぱり新鮮なバターって美味いなァ。
コンソメスープも美味いし、余り物でも御馳走だぜ!
それに北海道だけあって、この牛乳もうめー!
朝から食い過ぎ注意だなァ。
- 358 名前:サンプル・後編 投稿日:2007/03/20(火) 22:17
- 「ふーっ! 腹減ったべ」
オヤジさんが市場の仕入れから帰って来た。
三人で冷蔵庫に押し込みながら、朝食を食べ続ける。
片付くとオヤジさんも一緒に朝食を摂った。
チェックアウトが終わったら、布団を干して掃除だなァ。
「十時過ぎたら、なっちとよっCは掃除をお願い」
「ほい来たべさ」
大谷さんが事務仕事で、オヤジさんとオフクロさんが布団担当らしい。
やっぱり×××の関係で、嫁入り前の娘には抵抗があるんだろうなァ。
朝食を終えた頃、近所のおばさんが電話番にやって来た。
「食い過ぎたー!」
労働の後の飯は美味いなァ。本当に来てよかった。
オヤジさんは食休みもしねーで、オフクロさんと布団を片付けに行く。
シーツや枕カバーは、そのまんまクリーニングに出しちまうらしい。
洗濯から糊付けまでしてたら、それこそ寝る暇もねーからよ。
「よっC、掃除するべさ」
私となっちは大きな掃除機二台を駆使して、
各部屋と廊下、ロビー、浴室、食堂、厨房を掃除した。
それが終わると、なっちと二人で温泉に浸かりながら掃除。
男風呂の方は、オヤジさんとオフクロさんでやってるみてーだ。
私はティーシャツとジョギングパンツで生ビールを。
風呂上りのビールうめー!
- 359 名前:サンプル・後編 投稿日:2007/03/20(火) 22:17
- なっちは先輩と逢うとかで、大谷さんのクルマで出掛けた。
私は大谷さんと話しながら、三杯目の生ビールを注ぐ。
一応はメモしてるんだけどよ。ちょっと酔って来たからなァ。
大谷さんもチーズを食いながらビールを飲んでた。
「へえ、中学生までは小児科なのかァ」
「うん。成長段階の疾病もあるからね」
勿論、内科でもいいんだけど、テリトリーは小児科。
大谷さんは色んな事を知ってて、すげー人だと思う。
矢口さんもすげーけどなァ。本当に人は見掛けによらない。
「保育園って何歳まで入れるか知ってる?」
「えーと、就学までじゃないの?」
「十八歳まで入れるのよ」
マジ? そいつは知らなかったなァ。
両親が働いてて、どうしても子供の面倒をみられなけりゃ、
十八歳までは保育園に預ける事が出来るらしい。
もっとも、十八歳にもなって保育園に入りたい奴はいねーだろうけど。
「でもさァ。アレルギーを熟知してねーと駄目だし、小児科医は大変だよ」
「だからこそ必要なの。このままじゃ日本は大変な事になるでしょう?」
「少子高齢化かァ」
今の政府じゃ少子高齢化を何とか出来るとは思えねーもんなァ。
生まれて来る子供が少ないんなら、その数を減らさないようにしねーと。
政党の票集めなら老人福祉だけど、これは日本国の存亡に関わるからよ。
小児医療が充実しないと、産みたくても産めない現実があるもんなァ。
- 360 名前:サンプル・後編 投稿日:2007/03/20(火) 22:18
- 「小児科医は親のケアまで必要なの」
「ああ、それ判る。ガキがガキを産む時代だもんなァ」
「アハハハハ・・・・・・。よっCって本当に歯に衣着せないね」
最初は凄まじい人かと思ったけど、大谷さんは優しくていい人だぜ。
貴重な子供を虐待死させる現実。私に言わせれば男より女が悪い。
子供より男を取るから、あんな悲惨な事件が頻発する。
だいたい、好いた惚れただけで一緒になるから別れちまうんだ。
「虐待死なんてさー。本当に可哀想で仕方ないよ」
「そうね。社会が病んでるなんて詭弁で、病んでるのは人間なのよ」
小児科医って、ここまで広範囲の知識が必要なのかァ。
内科や外科、皮膚科は勿論、精神科医の知識までねーとよ。
おまけに儲からないんじゃ成り手が少ねーわけだぜ。
うちの病院でも小児科を縮小しちまったからなァ。
以前は小児科病棟もあったけど、今じゃ内科病棟と一緒だし、
外来もアレルギー関係内科と一緒に一緒になっちまった。
こいつは、ちょっと小児科について調べてみようかなァ。
「あ、ところで、今晩はうちで夕食お願い。一組キャンセルが出たの」
「どーしよーかなー」
「食・べ・て・く・れ・る・わ・よ・ね?」
「はははは・・・・・・はい!」
すげー! 大谷さんの迫力に呑まれちまったじゃねーか!
ニッコリしてる大谷さんは、優しいお姉さんって感じなんだけどよ。
今の迫力、あれは修羅場を潜って来たような雰囲気があるぞ。
自己防衛本能が働いたぜ。石黒先生と大谷さんは怒らせたらいけない。
- 361 名前:サンプル・後編 投稿日:2007/03/20(火) 22:19
- また来週に更新する予定です。
- 362 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/27(火) 09:19
- うわっ! 思い切り『名前』を間違えてましたね。
続けて更新したのが失敗でした。今後、気をつけます。
- 363 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/27(火) 09:20
- 〔ささやかな夏休み3〕
今日の宿泊客は四部屋八人だけだって話。
金曜日だってのに、こんなに少ない客数で大丈夫なのかァ?
売り上げで約十万円。粗利でも五万円くれーなもんだぜ。
維持費とか考えると、ほとんど利益が出ねーんじゃねーか?
私達も正規の料金を払えば、何とかなると思うんだけどなァ。
変に言うと「見縊るな!」って怒られそうだしよ。
大谷さんを怒らせでもしたら、とにかくこの迫力だからなァ。
「大谷さん。言い辛いんだけど、オレ達も正規の料金払おうか?」
「アハハハハ・・・・・・。心配してくれるの? 余裕はないけど何とかなってるわ」
大谷さんの話だと、宿を指名した客以外は組合で割り振っちまうそうだ。
今日は他の旅館に団体客が入ってる関係で、仲居さんをシフトするらしい。
しかも、明日は土曜日だから弁当の注文もねーって話。
だから、土日の朝はバイキングをやらねーそうだ。
明日には大谷さんの友達も帰って来るみてーだしなァ。
「それじゃ、ここでも団体客の対応をするの?」
「勿論。その時は組合経由でスタッフをシフトして貰うの」
よく出来た組合だよなァ。共存共栄を絵に描いたみてーだぜ。
客を取り合うんじゃなくて、お互いに協力し合って成功してるなァ。
大谷さんの話だと、組合に入ってねー温泉旅館は潰れたところが多いらしい。
バブル後の大不況で何とか生き残ろうと、どこの温泉でも必死になってた。
ある温泉街じゃ客を取り合った挙句にゴーストタウン化しちまってるし、
また、ある温泉街じゃ活性化に失敗して莫大な負債を抱え込んじまってる。
でも、ここでは、みんなでじっくり話し合う道を選んだ。
- 364 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/27(火) 09:20
- 「みんなで助け合ってるんだね。あったかいところだなァ」
みんなで話し合った結果が、この助け合いってわけなんだなァ。
ある意味、共産主義的な合理性があるようにも思えるけどよ。
基本的に助け合うって理念は変わらねーから何でもいいや。
経営者だけじゃなくて従業員も積極的にシフトしてるしよ。
みんな、この街が大好きだんだろうなァ。ひとつの家族みてーだぜ。
幾つかの温泉街じゃ、自分の街よりも客が落とすカネの方が好きだった。
だから酷い有様になっちまったんじゃねーのかなァ。
「やっぱり旅館は旅館であるべきだと思うの。ホテルや民宿の真似をしてもね」
「そうだよなァ。でも、バイキングってのは驚いたよ」
「あれも賛否両論なのよ。うちでは積極的にやってるけどね」
実際、オヤジさんくれーの腕があると、朝食も自分の料理で満足させてーだろうなァ。
好きな物を客に選ばせるってのに抵抗がある料理人も少なくねーはずだぜ。
ただ、組合としても事業をやって各旅館に還元したいんだそうだ。
それでバイキング&弁当作戦が始まったらしい。
まだ、導入してる旅館は四分の一くれーらしいけどよ。
「でもさァ。弁当の収入も馬鹿にならないじゃん」
「そうなのよ。売り上げだけでも月に三十万近いからね」
確かに利益は少ねーだろうけど、捨てちまうよりかはいいだろう。
バイキングの目的が弁当だったとは、さすがに判らなかったぜ。
計算され尽くされた量だから、ほとんど弁当の数は一定らしい。
そういえば今朝のじいさんの笑顔。「満足してるよ」って言ってるみてーだったなァ。
ここでは真の意味での客。物を買う客とはわけが違うってんだ。
精一杯のもてなしで御馳走を提供してるんだよなァ。
- 365 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/27(火) 09:21
- 「大谷さん、茶道をやってるの?」
「休みで帰って来ると週一で行かされるのよ。組合主催のやつに」
「やっぱりなァ」
今度は美海を連れて来てーよなァ。ここには茶道の精神がある。
バイキングに関しては、ちょっと難しいところだけどよ。
なっちより美海の方がパワーはあるし、もてなしの・・・・・・。
でも、あいつは短気だからなァ。それを克服させてからじゃねーと。
ブチキレて客にヤキでも入れたら、かなり大変な事になるからよ。
冬休みに計画してみようかな。・・・・・・って私は成人式じゃん。
来年の夏には柴ちゃんと美海を連れて来てーなァ。
バイクで来るのもいいかも! よっしゃー! 美海にバイクの免許を取らせよう。
問題は資金だよなァ。冬休みに取らせるとしたら・・・・・・。
クルマの免許と一緒に取らせればいいか。オヤジと交渉だなァ。
クルマの免許は美海に必要。何しろなっちの片腕だからよ。
「ねえ、来年も来ていいかなァ」
「大歓迎よ。あたしはどうなってるか判らないし」
そうか! 大谷さんは卒業しちまうからなァ。
どこかの病院でインターンしてる時期だぜ。
後輩なんかもいるんだろうけど、大谷さんがいないと大変だなァ。
なっちは飛行機。私と柴ちゃんと美海はフェリーでバイク。
問題はセコいオヤジがカネを出すかどうかだよなァ。
なっちの強姦未遂、美海に汚いものを見せた事で突付いてみるか。
バイクの方はヘミングウェイじじいの方で何とかなるだろう。
そういえば矢口さんはどうなんだろうなァ。
休みが合えば一緒にどうだろう。あの人は要領がいいからよ。
厨房で司令塔になってくれると助かるんだけどなァ。
- 366 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/27(火) 09:22
- 「連れて来てー奴がいるんだけど、ちょっと短気でさ」
「なっちから聞いてるわよ。美海ちゃんでしょう?」
「大丈夫かなァ。ちょっと心配なんだけど」
「ファミレスのバイトしてたくらいだもん。大丈夫よ」
大丈夫ならいいんだけど、ちょっと心配だなァ。
あいつは身体もでかいしパワーがあるからよ。
最悪は私が本気で決めればいいかなァ。
まァ、接客しねー仕事だってあるわけだしよ。
「スケジュールが合えばなんだけど、他にも連れて来たい奴等がいるんだ」
「助かるわ。仲居さんも高齢化してて繁忙期は大変なのよ」
こいつは事前にオフクロさんと連絡してスケジュールを決めた方がいい。
なっちと美海が一緒じゃまずいかなァ。そういったシフトも組まねーと。
誰か看護師を就けてくれるといいんだけど、そうも行かねーもんなァ。
これから美海の仕事量も増えて行くだろうしよ。
「それで、大谷さんの友達は今日から?」
「明日の午前中に帰って来るわ。だから今晩と明日の朝食だけはお願いね」
「うん、やってて楽しいし」
明日はバイキングがねーってのが助かるよなァ。
それでも何かと忙しいんだろうなァ。
こういった温泉旅館は暇になっちまったら終わりだしよ。
それにしても大谷さんとの話はためになったぜ。
大学でもサークルに入ってねーと先輩と話す機会がねーからなァ。
うちが病院だってのは強味だけど実際の医大生と話す事は稀。
まだ二年の内は半分以上が一般教養だからよ。
- 367 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/27(火) 09:22
- 私が部屋で居眠りをしてると、なっちが帰って来た。
時計を見たら、もう四時近くになってるじゃねーか。
風呂にでも入って夕食の準備の手伝いをするかァ。
「なっちさん、一風呂浴びようや」
「うん」
今日の客の夕食は六時半が一組と七時が二組、七時半が一組だから楽だぜ。
オフクロさんと大谷さんだけで、まァ、何とかこなせるだろう。
今日も女性客が二人だけだから、この大浴場は貸切状態だなァ。
私となっちが露天風呂に浸かってると大谷さんが入って来た。
「お先に入ってま・・・・・・うん?」
「どうしたべさ」
「静かに!」
・・・・・・視線を感じる。まさか、誰かが覗いてるのかァ?
嫁入り前の娘の肢体を覗くたーいい根性じゃねーか。
私は湯桶を掴むと神経を集中して出歯亀野郎の位置を探った。
どうやら左手の柵の低くなったところみてーだなァ。
私はお湯の中で片膝を着いて、ゆっくりと湯桶を右肩に近付けた。
「そこだ!」
盗塁を刺すキャッチャーと同じフォームで湯桶を繰り出す。
私の投げた湯桶は緩い弧を描いて出歯亀野郎の頭にヒット。
何だ? 「オォォォォォーン!」なんて妙な声出しやがって。
っていうか、枝が動いて行くじゃねーか。
出歯亀野郎は頭に枝を挿してカモフラージュしてやがったのかァ?
- 368 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/27(火) 09:23
- 「アハハハハ・・・・・・。よっC、鹿だよ」
「鹿? あの偶蹄目の鹿?」
そういえば、北海道じゃ鹿が増えて困ってるらしいからなァ。
鹿ってのは意外に繁殖力が高くて、放っておくとすぐに増えちまうそうだ。
それによって農作物の被害や原生林の環境も破壊しつつあるって話。
財政破綻した夕張に鹿牧場でも作ればいいのになァ。
鹿肉ってのは東京じゃ滅多に手に入らねーからよ。
鹿刺やステーキ、シャブシャブなんかで観光の目玉にする手もあるぜ。
「よく気が付いたべねえ」
「なっちさんが鈍いだけだろうがよっ!」
「その勘と身体能力。さすがよっCね」
湯桶ってのはバレーボールと同じ要領で投げりゃいいんだ。
こう見えても中一、高一は球拾いしてたんだからよ。
ちゃんと投げ返さないと先輩に怒られるからなァ。
嫌でもコントロールがよくなっちまったんだっての。
私は鹿の頭にヒットして転がって来た湯桶を拾い上げた。
「鹿に覗かれるほど美人が集まったんだべさ」
「何言ってんだよ! 最初はオレを男だと思ったくせに」
「アハハハハ・・・・・・。昔の事は忘れたべさ」
そういえば、なっちは何で大谷さんを「マサオ」って呼ぶんだろう。
大谷さんの名前が雅恵だから、そこから付いたニックネームかなァ。
ちょっと怖いとこもあるけど、大谷さんってこんなに女らしい人なのに。
うーん、ボーイッシュといえばボーイッシュに見えなくもねーけど、
私と一緒にいたら数百倍は女らしく見えると思うんだけどよ。
- 369 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/27(火) 09:23
- 「さて、そろそろ厨房に行こうか」
私となっちはティーシャツにジョギングパンツだけど、
大谷さんは仲居さんの着物を着る事になる。
オフクロさんは電話のヘッドセットをしながらかァ。
こいつは大変な仕事だぜ。女将は接客の顔だしよ。
大谷さんは洗い晒しの髪に仲居さん風の布を巻いた。
「う〜、喉渇いた」
「しょうがないわね。ビール一杯だけよ」
「へへへへ・・・・・・。さすが大谷さん」
大谷さんは優しいなァ。それとも、ここのみんなが優しいのかなァ。
優しい人達だから協力するようになったのかもしれねーぞ。
私は急いで厨房に駆け込むと、ジョッキにビールを注いで一気に飲んだ。
この胃が爆発しそうになる刺激と喉越しの美味さったらねーぜ。
「こんなにサッポロビールが美味いなんて思わなかったぜ!」
「もうやってんの? これは地ビールだべ」
「へえ、地ビールかァ」
オヤジさんの話だと、このビールを製造してる会社が近くにあるらしい。
何でもサッポロビール退職者が中心になって作った会社だそうで、
あのエビスビールと同じ工程、同じ原料を使ってるそうじゃねーか。
成る程、それでこのドッシリとした味とコクがあるんだなァ。
「今日は昨日みたいに忙しくないからね」
客の食事時間も違うし、オヤジさんものんびり構えてるぜ。
- 370 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/27(火) 09:24
- 私達は布団を敷き終えると、また軽く温泉に浸かった。
温泉に浸かってビールを飲む。こいつが極楽ってもんだぜ。
今日はじっくりと地ビールを味わおうじゃねーか。
大谷さんに食べるように言われたから今日は遠慮なく・・・・・・。
って、昨日も遠慮なんてしてなかったんだけどよ。
「なっち、先輩と逢って何を話して来たの?」
「ほとんど情報交換だべね。障害児教育の」
うちの病院じゃ、すでに院内学級の域を越えてるもんなァ。
周囲の障害児福祉施設の協力もあったけど、ほとんど手探りで始めた。
なっちは協力関係のネットワークを作ってたっけ。
うちの病院に来る障害児は医療支援の必要な子供達。
つまり、もう先の長くない子供達なんだよなァ。
「あたしも興味あるんだ。障害児教育」
「マサオは小児科医志望だもんね。でもアレルギーは憶えたんだべか?」
「アハハハハ・・・・・・。まだ」
小児科医はアレルギーとの戦いだっていう噂だからよ。
蕎麦アレルギーで死んだ子供がいたのはいつの話だっけ?
小麦粉や柑橘系アレルギーなんてのもあるからなァ。
今のところアレルギーの特効薬ってもんがねーからよ。
「よっCは外科医志望っしょ? 麻酔アレルギーなんてのもあるべさ」
麻酔アレルギー? そんなもんがあったら仕事になんねーじゃん。
外科医なんてのは切った貼ったの世界なんだからよ。
・・・・・・待てよ。東洋医学の針麻酔なんてのもあったっけ。
- 371 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/27(火) 09:25
- 「西洋医学で克服出来ねーもんがあるから東洋医学があるんだよっ!」
「うわァ、よっCは東洋医学までやってるの?」
「そうじゃなくて、これから勉強するの」
西洋医学は症状の緩和に主眼を置いてるけど、
東洋医学は気の流れが全てだっていうよなァ。
つまり『気の流れ』ってのは神経の事だろうぜ。
自律神経を治す事で免疫力が向上するのは実証されてるし。
あの「病は気から」ってのは、あながち間違えじゃねーみてーだ。
「個人的に勉強しないと東洋医学は習得出来ないわよ」
「げげっ! そうなの?」
大谷さんの話だと東洋医学をマスターするのに四年は掛かるそうだ。
これから少しずつでもやらねーとなァ。確か選択科目であったような。
大谷さんは医師をしながらも東洋医学を勉強するってんだからよ。
私も大学で勉強しきれなかった分は医師をしながら勉強するかァ。
「よっCは大学院の研究室で勉強すればいいべさ」
「大学院に行くんなら医師をしながら勉強出来るしね」
「何か忙しそうだなァ」
忙しいのは嫌だけど医師を生業とする以上は仕方ねーかァ。
外科医ってのは皮膚科の知識も必要だからアレルギーは避けて通れない。
まァ、専門的な知識は必要ねーんだけど術後の事も考えないとなァ。
薬品や軟膏のアレルギーなんてのもあるわけだしよ。
三年になったらアレルギーの講義も出て来るからなァ。
以前は発見されてねーアレルギーなんてのもあったからよ。
その頃に医師になった奴は楽が出来たってもんだぜ。
- 372 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/27(火) 09:26
- 入院の時期がずれたので来週には更新出来そうです。
今度は名前を間違わずに更新親します(苦笑
- 373 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/28(水) 02:06
- 旅館ライフ?を満喫してるようですねw
楽しそうでなによりです
作者さん、お体お大事になさってください
- 374 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/29(木) 08:36
- >>373
ありがとうございます。誠に勝手ではございますが、続きは以下の場所で書く事にしました。
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/2807/1175124305/
出来ればこちらで書いていたかったのですが、諸事情ございまして申し訳ありません。
また、お気軽にレスでも頂ければ幸いです。
アドレスを匿名化するページへのリンクも貼ってあります。
長い間、飼育にはお世話になりました。感謝の気持ちでいっぱいです。
- 375 名前:第五章・大学そして医師へ 投稿日:2007/03/29(木) 08:40
- うげげー! リンクを貼り間違えました。
こちらが正解です。
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/2807/1175124135/
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