マージナル
- 1 名前:チキン 投稿日:2006/01/29(日) 12:22
- …毎度ありぃ
- 2 名前:(1) 投稿日:2006/01/29(日) 12:24
-
ずっと誰かを捜していて、きっと誰かになっていた。
「さゆみ、日曜やからって寝すぎやで。いい加減起きいや」
ある街のある一角にある大きいとは言えない一軒屋。
学生には休みである日の昼に響き渡る、関西なまりの起伏の激しい声。
「いま起きます、中澤さん」
さゆみと呼ばれた少女が自室のある二階から一階へ
転がるように階段を降りてくる。
丁度その下に陣取って構えていた家の主と鉢合わせになった。
「まったく、あたしはあんたのお父ちゃんにあんたのこと
頼まれてるんやからな。うちに来て怠けるようなことはさせへんで」
「はーい」
道重さゆみ、十六歳。
進学の都合上、父の妹である中澤裕子の家に下宿中。
- 3 名前:(1) 投稿日:2006/01/29(日) 12:24
-
「あのー、中澤さん」
さゆみは裕子のことを中澤さんと呼ぶ。
父親の妹であるのだから、おばさん、と呼ぶのが適当であるはずなのだが、
以前そう呼んだときひどいお叱りを受けたのでしばらく裕子さんと呼んでいた。
中澤さんと呼ぶようになったのは、ある彼の影響である。
「かめぞ、まだ来てませんよね?」
さゆみがその彼の名前を出して、裕子に尋ねる。
裕子はひらひら手を振りながら答える。
「まだや。朝ごはん、もうほとんど昼飯やけど台所にあるで。
はよ食べえや」
「はい」
さゆみは安心したような表情で台所へ向かった。
さゆみが食事を終え膳を置いた丁度そのあと、
玄関のインターホンが音を鳴らした。
- 4 名前:(1) 投稿日:2006/01/29(日) 12:25
-
「お、来たんちゃうか?」
裕子が微かに笑顔を浮かべながら玄関に向かう。
さゆみも流しに食器を置いて後に続いた。
「どちら様?」
ドアの向こうの人物に裕子が尋ねると、
乾いたような甘いような声が返ってきた。
「どうもー、ハロプロ物産です」
ハロプロ物産とは最近確実に力をつけつつある企業で、
中略、中澤家は毎週といっていいほどこの会社から商品を購入している。
「ハロプロ物産のエリック亀造でーす」
この少しいかがわしい名前の新人セールスマンから、である。
裕子は、はいはい、と躊躇いなくドアを開けた。
そこには、向けられた方が戸惑ってしまうくらいの笑顔を振りまく
スーツ姿の若い男が立っていた。
- 5 名前:(1) 投稿日:2006/01/29(日) 12:26
-
「あんたなあ、その詐欺くさい名前なんとかせんと
うち以外と契約取れへんで」
裕子が毒づいた口調で言う。
しかし亀造は微笑を崩さない。
裕子もさゆみも最初はそれをセールスマンだからだと思っていた。
しかし最近、もともと彼はそういう顔なのだ、と感づいてきた。
「名前はしょうがないじゃないですか、中澤さん」
目鼻立ちが端正に整ったきれいな顔つきなのに
口元に残った笑みは親近感を感じさせる、それがエリック亀造だった。
彼が中澤家と商売人と客以上に親しくなったのにはあるいきさつがあった。
「わかった、今日も商品案内聞いちゃるから階段の電球取り替えてえや」
中澤家には男手が足りなかった。
初めて亀造が中澤家を訪れたとき、丁度裕子が
大風で壊れた雨どいを直している最中だった。
その危なっかしい様子を見た亀造は快く、自分が直そうと申し出た。
裕子も傍で見ていたさゆみも初めは彼を疑ったが、
口元に微笑を浮かべながらも真剣な亀造の姿に心を許し始めた。
作業が終わるころには裕子はもう、彼が毎週商品を売りにくることに
契約しようと決めていた。
それから亀造は毎週商品を売りに、そして中澤家の家の不備を直すために
この家を訪れるようになったのであった。
- 6 名前:(1) 投稿日:2006/01/29(日) 12:28
-
「はーい」
亀造は相変わらずニコニコと理不尽とも思える裕子の頼みを引き受ける。
さゆみはその笑顔に吸い込まれるように彼を見つめていた。
ふと亀造がさゆみの方を向き、二人の目が合った。
「こんにちは、さゆ」
「うん。こんちは、かめぞー…」
亀造が中澤家を行き来するうち親しくなった二人はもう、
くだけた愛称で互いを呼び合う仲になっていた。
「この奥の電球や。はよ来てや、かめぞう」
裕子にいたってはすでに、あごで使うような段階である。
それでも亀造はほがらかに頷いて、裕子が手招きしている方へ急いだ。
- 7 名前:(1) 投稿日:2006/01/29(日) 12:28
-
「よし、出来ました」
さゆみが押さえている小さな脚立の上で亀造がはじけるように言った。
「ありがとうね、さゆ」
脚立を降りてさゆみの目を見ながら優しく亀造が囁く。
それだけで胸が締め付けられてしまったさゆみは
くぐもった声で、うん、としか言えなかった。
「おー。サンキューな、亀ちゃん」
亀造はにこやかに、いえいえ、と答えた。
- 8 名前:(1) 投稿日:2006/01/29(日) 12:29
-
「そうや、さゆみ。あんたの部屋のエアコン調子わるなってたやろ。
ついでに亀ちゃんにみてもらいや」
思い出したように裕子が言葉を発する。
さゆみは少し困惑したように返す。
「え。いいよ、別に…」
「いい、ってあんた。あれはうちの家のもんなんやから。
直るもんなら直してもらっといた方がええがな」
「うーん…」
さゆみは曇った表情のまま横目で亀造を見る。
亀造は相変わらず笑顔のままだった。
さゆみは顔をやや赤らめる。
「なあ、亀ちゃん。やってくれるか?」
「僕に出来るんなら、頑張ってみます」
さゆみは一つため息をついて言葉を発した。
「それじゃあ、お願いします…」
- 9 名前:(1) 投稿日:2006/01/29(日) 12:30
-
亀造はさゆみに連れられ二階の彼女の部屋に入った。
さゆみらしい女の子の匂いがする部屋である。
さゆみは、昨日掃除しといて良かった、と一人胸を撫で下ろしていた。
「これがそのエアコン?」
その問いにさゆみが頷くと、彼はすぐに作業に入った。
やっぱり忙しいのかな、などとさゆみは思った。
せっかく二人きりなのに、とも。
「ああ、ここに埃がたまってるだけだね。
ちゃんとこういうところも定期的に掃除しないとだめだよ、さゆ」
「ねえ、かめぞ…」
亀造の注意には反応せずに、さゆみは口を開いた。
そして彼が自分を振り返る前に続ける。
「どうしてかめぞーは私たちに優しくしてくれるの?」
「え?」
「だって、一応私たちってお客さんだけどここまでする必要はないじゃない?
かめぞは便利屋じゃないんだから」
さゆみの目は何時になく真剣だった。
彼はやや眉をしかめて考えるような仕草をした後に答えた。
- 10 名前:(1) 投稿日:2006/01/29(日) 12:30
-
「うーん、そういえばなんでだろう?」
「は?」
「よく解らないや」
さゆみはがくりと肩を落とした。
だけど彼は笑っていた。
だからさゆみも溜息をもらした後に笑った。
「お茶、淹れたでー」
「はーい。ありがとうございます」
階下からの裕子の声で、さゆみと亀造の境界は閉じられる。
さらに追い討ちをかけるような裕子の声がさゆみの部屋に飛び込んでくる。
「さゆみは上に残ってしばらく勉強せえ。
この間のテストみたいな結果はあんたの父ちゃんに面目ないわ」
さゆみは顔を赤らめ、苦笑している亀造の背中を
名残惜しそうに見送った。
- 11 名前:(1) 投稿日:2006/01/29(日) 12:31
-
茶の間での一服が済むと亀造は、ごちそうさまでした、と
席を立ち、玄関へ向かった。
「こちらこそ、いつも助かるわ」
と言い、裕子も彼を見送りについてくる。
「それじゃあ、失礼し…」
亀造の言葉はそこで止まる。
靴を履き終えた彼の頬を裕子が右手で覆い、自分と向かい合わせていた。
亀造がきょとんと裕子を見つめると、彼女は口を開いた。
「やっぱりあんた、似てるわ」
彼は玄関下に、彼女は段の上に立っているため、
当然裕子は亀造を見下ろすような状態になる。
しかし彼女の表情には今までにないような穏やかなものがあった。
「…誰にですか?」
この明らかに常とは異なる状況においても、静かに亀造は尋ねた。
「死んだ、私の旦那に」
- 12 名前:(1) 投稿日:2006/01/29(日) 12:32
-
裕子は未亡人だった。
七年前、裕子の夫は事故で命を落とした。
結婚して間もないころのことだった。
今二人を包んでいるこの一軒家も、元は裕子の夫のものなのだ。
「へえ…」
亀造は平生と同じく絵に描いたような微笑を口元に浮かべていた。
「中澤さんって意外に男の趣味いいんですね」
いつもと違う悪戯さが含まれてはいたが。
「…うるさいわ、アホ」
裕子はそういうが早いか亀造の唇と自分のを重ね合わせた。
ほんの一瞬間のことだったが、はっきりと。
- 13 名前:(1) 投稿日:2006/01/29(日) 12:32
-
「今のはサービスや」
裕子は白々しく言った。
その仕草が滑稽だったのか、亀造は少し息を漏らした。
「しょうがないなあ、中澤さん」
ぐい、と亀造は中澤の体を抱き寄せ、口づけを交わした。
先程よりもほんの一瞬間長い時間だった。
「サービスは、こっちの本業やで」
彼のぎこちない関西弁が裕子の耳に響いた。
力が抜けたような彼女に首をかしげる程度の礼をして、
亀造は玄関をすり抜けていった。
- 14 名前:(1) 投稿日:2006/01/29(日) 12:34
-
(1) 終
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/29(日) 20:29
- 新作キター!!
どんな構成・展開モノなのかまだ分かりませんが
(1)だけでも引き付けられました
今後が楽しみです
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/30(月) 01:49
- 未亡人ゆうちゃん、すてき〜!!
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/30(月) 07:53
- かめぞキタコレ!!!
うーん、どうなるんだろう…
- 18 名前:チキン 投稿日:2006/02/01(水) 18:57
- レスありがとうございます。
前作で結構たくさんの方に気づいて頂けたので
今作は12時23分に始めようとして一分早まりました。
更新します。
- 19 名前:(2) 投稿日:2006/02/01(水) 18:58
-
「なあ、さゆみ。
あんた、亀ちゃんのこと好きなんか?」
さゆみが下校し裕子が帰宅してからの、
いつもと変わらない食卓のことであった。
裕子は箸を持つ手を止めなかったが、
さゆみは彼女の詞に完全に動きを封じられてしまった。
「な、なん…」
「あんたのかめぞうを見る目でわかるわ。
正直に話してみい」
テーブルを挟んで向かい側に座っていた裕子の体が
さゆみに近づく。
迫られた彼女は、目を伏せたまま小さく口を開いた。
「…わからない、です」
「は?」
間が抜けたように裕子が聞き返す。
さゆみは堰を切ったように喋りだした。
- 20 名前:(2) 投稿日:2006/02/01(水) 18:59
-
「よくわからないんだもん。好き、とか、恋、
とかクラスのことかもみんな言うけど、
それがどんな気持ちかよく解らないんです」
「さ、さゆみ?」
「おかしいですか?だって、恋、とか、愛、とか
何が基準なんですか?みんな、そういうの、
どうやって判るんですか?」
思いがけないさゆみの問いに、今度は裕子が押し黙ってしまう。
それに気がついたさゆみは、口調を整えて言葉を発した。
「すみません。急におかしなこと言って…」
裕子は、静かに首を横に振った。
「おかしなこと、ちゃうよ。さゆみの言うことわかるで。
なあ、多分なにが基準とか難しいこと考えてる人、
おらんと思うんや。きっと、さゆみがすごいねん。
恋、とか、愛とか、ずっと難しいことやのに、
口で言うのは簡単なことのように思ってるんや。
さゆみの言う、みんな、っちゅーのは」
「中澤さん…」
「さゆみ。あんたの思うこと、もっと聞かせてくれへんか?
今日、なんかあったんと違う?」
- 21 名前:(2) 投稿日:2006/02/01(水) 18:59
-
裕子の指摘は隙間がないほど的確で、思わずさゆみは
目を丸くした。
裕子は髪をかき上げ、照れたように少し笑った。
「…今日、学校から帰ってる途中で偶然
亀造に会ったんです」
さゆみが細く話を切り出すと、
裕子は口角を元に戻し、真っ直ぐさゆみを見つめた。
「挨拶して別れただけだったんですけど、一緒に帰ってた子たちが、
あの人格好いいね、とか盛り上がっちゃって…」
さゆみは膝の上に置いた手を見つめながら話を続ける。
「そのとき、恐くなったんです。
私もその友達と同じなんじゃないかって。
本当にかめぞのこと好きな訳じゃないんじゃないかって…」
- 22 名前:(2) 投稿日:2006/02/01(水) 19:00
-
彼女の話はそこで止まった。
沈黙の食卓が、意図せず作られていた。
裕子は、湯気の消えかけた味噌汁を口にして立ち上がり、
さゆみの横についた。
驚いた表情で見上げるさゆみの頭を、
裕子は強く、優しく撫でて口を開いた。
「あほ、同じな訳あるかい」
さゆみの瞳が揺れる。
「さゆみは、そないに真剣にかめぞうのこと考えとるやないか。
少なくとも、かめぞうのこと大事に考えとるんやろ?」
さゆみの頭に、先刻見たばかりの彼の笑顔が浮かんだ。
「…はい」
そして彼女は、はっきりと頷いた。
裕子はそれを見て力強く微笑んだ。
- 23 名前:(2) 投稿日:2006/02/01(水) 19:00
-
「よっしゃ、とりあえず食べろっ。
ご飯、おかわり要るか?」
裕子は炊飯器を指差して言う。
今の時勢で言うと、いささか旧式のものである。
「中澤さん…」
「ん、何や?」
さゆみは、やや視線を散らした後、首を横に振った。
「何でもありません。
おかわり、お願いします」
「おお、そうか」
夜が更けるには、まだ早い時分のことであった。
- 24 名前:(2) 投稿日:2006/02/01(水) 19:01
-
(2) 終
- 25 名前:初心者 投稿日:2006/02/03(金) 18:24
- 読ませていただきました
エリックでのこの3人は大好きだったのでうれしいですね
この先どうなるのか楽しみに待ってます
- 26 名前:チキン 投稿日:2006/02/03(金) 23:29
- レスありがとうございます
更新します
- 27 名前:(3) 投稿日:2006/02/03(金) 23:30
-
ハロプロ物産本社ビル、秘書課。
「今日はやけに重役たちが動くじゃない。
何かあったの?」
早朝からの平常とは異なった社内の雰囲気を感じ取り、
口紅たちのおしゃべりが始まる。
「知らないの?営業課で何かミスがあったんだって」
「営業課?なんでまたそんなとこで」
「詳しくは解らないんだけど。ほら、知ってるでしょ?
営業課にいるハーフの可愛い顔してる男。
彼が何かやらかしたらしいわよ」
部屋の一角で、ひそひそと展開された会話だったが、
隣で寡言に作業している女性が聞き取るには十分なものだった。
その彼女は、話の大まかな概要を傍受すると手の動きを止めた。
彼女の様子を不審に思った傍らの社員が声をかける。
- 28 名前:(3) 投稿日:2006/02/03(金) 23:31
-
「れいな、どうしたの?恐い顔して…」
「べ、別にそんな顔してないっ」
冷たいわだかまりが生じる。
れいな、と呼ばれた彼女は唇を噛んで俯いた。
同僚は溜息をついて口を開く。
「れいな。そういうきついところ直さないと
仕事に影響してくるよ」
れいなは、うん、とだけ答えた。
「田中くん、専務の車について」
少しの間の後届いた声は、れいなに仕事を求めるものだった。
立ち上がり際、れいなの瞳がやるせなく揺れた。
- 29 名前:(3) 投稿日:2006/02/03(金) 23:31
-
やがて社内の時間が慌しく過ぎていき、
時計の針が社員それぞれに帰宅を促す頃合いになった。
ビルから人ごみが吐き出され、
数えるようにビルの中から照明が消えていった。
静まりのうちで、非常口の灯りがやけに眩しく目に付く。
「まだ、残ってたの」
夜景の行列が見下ろせるガラス張りのロビーの前で、
れいなが呟いた。
壁に背を預けて外を見ている彼の耳に届くように。
「…れいな」
細かい髪の毛を揺らして彼は振り返った。
れいなのハイヒールの音が彼に近づく。
「れいなこそ、こんな時間まで社内にいるなんて…」
「かめぞう」
彼、亀造の言葉は
れいなの直線的な眼差しと呼びかけで封じられた。
亀造がれいなの視線に応えると、彼女は会話を始めた。
- 30 名前:(3) 投稿日:2006/02/03(金) 23:32
-
「また、誰かのミスでも被ったの?」
彼の頬が、ぴくりと動いたのを彼女は見逃さなかった。
しかし彼は、表情の変化を打ち消すように微笑む。
「違うよ。僕だって疲れてたらミスくらいするよ」
「嘘。あたしにはすぐばれるのよ。
聞いたら簡単なミスらしいじゃない。
かめぞうがそんな失敗するはずないでしょ」
れいなの目線は、彼の心裏を追い込んでいった。
「…逃げ場ないな。れいなは」
彼は観念したかのように、ふっと笑った。
れいなは、胸をくすぐる何かを感じた。
「れいなの考えてることは、大体合ってるよ。
でも、今回は僕に非がない訳じゃない。これは本当だよ。
なんとか今日のこれまでの残業で結構取り戻せたけど」
亀造は首もとのネクタイを緩めるように指で撫でながら
れいなの問いに答えた。
- 31 名前:(3) 投稿日:2006/02/03(金) 23:33
-
「…そう。ねえ、疲れてる、っていうのは本当?」
「へ?」
「疲れてたらミスする、ってさっき言ったじゃない。
やっぱり営業課、大変そうだもの」
どうかな、と亀造は外に目を向けた。
図星だから聞かないで、とれいなは彼の意思を解釈した。
同時に何故かれいなの頭に、昼間から浮かんでいた
実体のない重りがよぎった。
れいな自身の思考はないまま、それは直ぐに詞になった。
- 32 名前:(3) 投稿日:2006/02/03(金) 23:34
-
「ねえ。あたし、性格きついかな」
亀造は驚いたように視線を彼女に戻した。
れいなは、先程までとは違い、
自ら彼の目を逃れようと下を向いた。
しかし、唇の動きは続いたままだ。
「…知らないうちにみんな、あたしのこと、きつい、
とか印象うけてるの。
自分でもたまに気づくんだ。自分さっき嫌な言い方した、とか。
だけど、言ってしまったものは取り返しがつかないし
上手い言い訳も思いつけないから、結局、きつい子、って
枠組みに入れられちゃう」
彼女の声が、僅かではあったが、震えているのに彼は気づいていた。
窓の向こうの街の輝きは、随分遠くの出来事だった。
「きつい子、って分類はね、強い子、って所と似てるの。
自分がひどいこと言ってるんだから何言われても
平気だろう、って見られから。
でもあたしは、そういうのに耐えられるほど強くない。
弱いの。自分で自分が嫌なやつだって思えるよ…」
れいなの声は、もはや割れてしまいそうだった。
薄暗い夜のロビーは彼女の瞳を隠していた。
- 33 名前:(3) 投稿日:2006/02/03(金) 23:35
-
「…僕は好きだけどな、れいな」
れいなの長い髪が、さらりと揺れた。
「強いとか弱いとか、きっとないよ。
僕は、れいな、のこと好きだよ」
彼女の涙が一粒こぼれ、その代わりに上ヘ向かった視線は
彼をしっかりと捕えた。
「でも、あたし、本当のれいなはこんなだよ。
弱いんだよ。ねえ、泣いてるんだよ」
ぎゅっ、と彼のスーツの裾を掴む。
彼はその強張った手を静かに強く包んだ。
「全部が、れいな、でしょ。
泣いてるのも、意地張ってるのも全部、れいな、だから」
れいなは吸い込まれるように彼に抱きついた。
彼女の小さな頭に彼が自分の顔の乗せると、
れいなは完全に亀造の中に入り込んだ。
「…ばかだよ、かめぞう」
れいなは彼の胸に深く顔を埋めた。
彼はそっと彼女の薄い背中に腕を回す。
彼女の肩の震えが、わずかずつでも小さくなった。
- 34 名前:(3) 投稿日:2006/02/03(金) 23:36
-
「…かめぞう」
彼女の涙の筋道が乾いた頃、
れいなは彼の腕に包まれた声で自分の頭の上に呼びかけた。
彼は、うん、と応えて耳を傾けた。
「あたしもきっと、かめぞう、の全部が好きだから。
全部、見せてくれていいよ」
彼女は彼の胸から隙間ほど顔を離し、彼の顔を見上げた。
彼は目を細めて、彼女を見ようとはしていなかった。
れいなはすぐに目を伏せた。
「…ありがとう」
静けさの後に、彼女にそんな詞が降りそそがれた。
れいなのハイヒールが、こつん、と鳴った。
「ねえ。本当のれいな、がいるとしたら、
きっとそのれいなの心はすごく綺麗なんだと思うよ」
- 35 名前:(3) 投稿日:2006/02/03(金) 23:37
-
今きっとかめぞうは微笑んでいる、と
れいなは何となく感じとった。
彼女は握り拳を作って彼の肩にぶつけた。
ゆっくりだが、力を込めて。
「…ずるいよ」
かめぞうはずるい、とれいなは繰り返した。
彼は静かに微笑むだけだった。
「かめぞうって全然変わらないんだね。
そういうとこ、好きだけど。
だけど…そういうとこ嫌いやけん」
緊張が解けると、彼女は自分が生まれ育った地の
慣れ親しんだ言葉遣いを出す。
- 36 名前:(3) 投稿日:2006/02/03(金) 23:38
-
「れいなだって、変わってないね」
彼女は握り拳を力なく開いて、彼の頬に触れる。
れいなの唇は柔らかく、
彼の舌は何を考えているかわからなかった。
夜の闇に隠れた交わりの中、二人は何も言わずそんなことを考えていた。
- 37 名前:(3) 投稿日:2006/02/03(金) 23:39
-
(3) 終
- 38 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/04(土) 01:28
- こんな大人なロッキーズを初めて見た気がします
とてもよいです
- 39 名前:チキン 投稿日:2006/02/06(月) 18:54
- レスありがとうございます
自分は小説書いてるんだなあという実感が湧きます
更新します
- 40 名前:(4) 投稿日:2006/02/06(月) 18:55
-
「こんにちはー、ハロプロ物産です」
いつもの昼下がり、中澤家に聞きなれた声が響く。
「こんちは、かめぞー」
「あれ。さゆ、一人?中澤さんは?」
玄関で出迎えたのは普段着に身を包んだ高校生のみ。
平生では彼女の横に、この家の主が立っているはずである。
「中澤さんは高校の同窓会で明日までお泊りなの」
「へー。さゆ、お留守番かあ。
もしかして今日は無駄足だったかな?」
「えっとお、中澤さんからの伝言で、
洗濯機の調子が悪いから何とかしてくれ、と、
新商品の案内とかは受け取るから、って」
さゆみがゆっくりと裕子の旨を伝えると、
抜け目ないなあ、と亀造は笑った。
- 41 名前:(4) 投稿日:2006/02/06(月) 18:55
-
「…直る?」
しゃがみ込み真剣な表情で指定された家電と対峙する亀造に、
彼の後ろからさゆみが声をかける。
「うーん、ちょっと古いタイプだから
よく解らないとこが多くて…」
「中澤さん、あんまり家具とか変えないんだ。
おじさんが亡くなってから…」
声を低めて発されたさゆみの詞に、亀造は手を止めた。
「おじさん、って、中澤さんの…」
「うん、旦那さん。七年前に事故で亡くなったんだ」
「…そっか」
会話にしばしの沈黙が生まれると、亀造は再び
修理を頼まれた洗濯機に視線を戻した。
さゆみが、ぼうっとそれを見送ったのと同時、
亀造がニ、三度頭を横に振った。
不審に思ったさゆみは、彼の顔を覗きながら尋ねる。
- 42 名前:(4) 投稿日:2006/02/06(月) 18:56
-
「どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
洗濯機の内部を見つめる亀造の眉間に
しわがよっているのを、さゆみは確認した。
彼はしきりに瞬きをし、家電の複雑な構造を見ていた。
「目、見えにくいの?」
「うーん、ちょっとね…」
「いつもは、見えてるよね。エアコン直してくれたときとか…」
亀造は、歳かな、と苦笑した。
さゆみは彼の背中をいつもより小さく感じた。
「…疲れ、てるんじゃない?」
さゆみは、そっと確かめるように口を開いた。
亀造は驚いたように彼女の方を向いた。
「かめぞ…お仕事、大変なんだよね」
二人の視線の交わりは、かつてないほどに近い。
さゆみは、その瞳に配慮の憂えをのせて彼に囁いた。
- 43 名前:(4) 投稿日:2006/02/06(月) 18:56
-
「…休んでいく?」
二人の周りには、何かしらの空間が出来ていた。
さゆみは、おぼろげに感じるそれが何であるか理解できず、
彼に詞を捧げたあとは閉口していた。
つと、亀造の口がほころんだ。
「ありがとう、さゆ」
さゆみの唇にも白い歯が浮かんだ。
「でも、お客様の家で休む訳にはいかないから」
「そんな、いいのに。だって、私たち亀造に
いっぱい家のことお手伝いしてもらってるし…」
さゆみはそこで口の動きを止めた。
彼女の頭には、微笑む彼の手のひらが静かに置かれていた。
- 44 名前:(4) 投稿日:2006/02/06(月) 18:56
-
「さゆ、優しいね。ありがとう」
彼の声を耳元で聞いたさゆみは、胸が高鳴るのを
感じずにいられなかった。
そんなことない、などと普段どおり言い返したい意思はあったが、
身体は中枢のしたいようにはならなかった。
「あ、あのねっ。洗濯機、いいから。
直さなくていいからっ」
さゆみがやっと繰り出した詞は、二人が創り上げた、空間、には
あまりそぐわないものだった。
「え、でも…」
「いいから。亀造疲れてるんだから、
本当のお仕事とは違うことまでさせられないよ。
中澤さんには、ちゃんと言っておくから」
そのまま亀造の体は運ばれるように玄関に向かっていく。
ドアを開ける前に彼は、鞄から薄い束になった冊子を取り出し、
「これ、中澤さんに」
と、さゆみに商品案内を手渡した。
- 45 名前:(4) 投稿日:2006/02/06(月) 18:57
-
「じゃあ、また」
「うん…バイバイ」
ばたん、とやたら重々しく扉が閉まり、亀造は去っていった。
さゆみは、表層をはがすような溜息をついた。
亀造から手渡されたそれを両手で包み込んだ瞬間、
もったいないことをした、と誰かに呟かれた気がした。
「何がよ、もー…」
本当は彼女のそのふくれっ面を、誰も見ていない。
- 46 名前:(4) 投稿日:2006/02/06(月) 18:57
-
(4) 終
- 47 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/09(木) 01:11
- おー!新作だー!!
亀ちゃんなんかありそうですね。続き楽しみに待ってます。
- 48 名前:チキン 投稿日:2006/02/09(木) 22:28
- レスありがとうございます
更新します
- 49 名前:(5) 投稿日:2006/02/09(木) 22:28
-
裕子不在の中澤家で一夜過ごした明くる日、
日曜の陽気に包まれてさゆみは友人と遊びに出かけた。
午後を過ぎると、ぽつりぽつりと雨が降ってきたので、
予定より早めに解散して帰宅する運びとなった。
天気予報によれば、今夜の空模様は大いに荒れるようだった。
- 50 名前:(5) 投稿日:2006/02/09(木) 22:29
-
夕方が終わった程の頃、さゆみは裕子からの電話を受けた。
予定を変え新幹線で帰ってきていたが、嵐のため家まで帰るのが困難らしい。
幸運にも帰路を共にしていた同級生の自宅が近くにあるので、
今晩はそこに泊めてもらい、明日の朝帰ってくるということだった。
「さゆみ、もう一晩だけしっかり留守番頼むで」
「はい、わかりました」
雨が窓を打つ音がだんだんと騒がしくなってきていた。
「…風、強くなってる」
裕子との電話を終えると、さゆみは一人で呟いた。
- 51 名前:(5) 投稿日:2006/02/09(木) 22:30
-
裕子のものには劣るがとりあえずの夕食を済ませたさゆみは、
一階の居間で雑誌に目を向けていた。
「きゃ…」
突然に家の外が光り、どがどがと激しい音が鳴り響く。
風に吹かれた窓が、がたがたと震えるのも、
一人きりのさゆみには格段に恐ろしく感ぜられた。
「もう、やだ…」
普段より時計が一回りも二回りもしていない時刻だが、
さっさと布団に入ってしまおうと思いたったさゆみは、
テーブルに手を着いて立ち上がる。
丁度そのとき、一際大きな雷鳴と共に
さゆみの視界は真っ暗になった。
「うそ、停電?」
さゆみの顔から、さあっと赤みがひいていった。
彼女は自分自身すら見えない闇の中、立ち尽くした。
相変わらず打ち付ける雨と風により、家中から奇怪な音が上がる。
「やだ、怖い…」
目の前に広がる闇と共鳴するように不安は恐怖へ変わっていく。
やがてそれはさゆみを縛りつけ、彼女は動けないまま
瞳に溢れそうな涙を溜めていた。
- 52 名前:(5) 投稿日:2006/02/09(木) 22:30
-
「すみ…せん、ハロプ…物産のエ…ック亀造です」
さゆみの頬に冷たい筋が流れた瞬間だった。
彼女の耳に聞き覚えた声が届いた。
雨音に遮られてはいたが、声の主の名も確認できた。
「中澤さん、入れてもらえませんか?」
「かめぞう…」
亀造の頭に響いたのは、彼の予想に反して、
自分を呼ぶ少女の声だった。
彼は少々気兼ねをしたが、さゆみが鍵をかけ忘れた
ドアをくぐり、家の中へ入った。
「さゆっ?」
先程までただの暗がりだった世界に、さゆみは安心感を覚えた。
そこには、彼の携帯電話の灯りに照らされた、
亀造のスーツ姿があったからだ。
- 53 名前:(5) 投稿日:2006/02/09(木) 22:30
-
「かめぞ、どうして…?」
「日曜出勤から帰ってたんだけど、傘が折れちゃって。
中澤さんの家の近くだったから悪いと思ったんだけど
おじゃまし…」
亀造の説明を最後まで聞かずに、さゆみは彼の胸に飛び込んだ。
「怖かった…」
彼の衣服は雨に濡れて冷たかった。
亀造はさゆみの頭を二、三度なでたあと、
「濡れるよ、さゆ」
と、彼女の肩を支えて自分と距離を開けた。
「さゆ、一人だったの?」
「中澤さん、明日帰ってくるって…」
「そっか。大変だったね」
彼の手は実際には冷たかったのだが、
さゆみは自分の両肩に暖かさを感じた。
「今までこの家で停電にあったことなかったから、
どうしていいか解らなくて…」
さゆみは僅かにしゃくりあげながら話した。
亀造は、うん、と頷くと、もう一度さゆみの頭の上に手を乗せた。
- 54 名前:(5) 投稿日:2006/02/09(木) 22:31
-
「とりあえず、ブレーカーを見てみよう。
さゆ、どこにあるかわかる?」
「ごめん、わかんない…」
心もとない灯りの中で、さゆみは俯いた。
「大丈夫。それなら僕が探してくるから」
「やだ、行かないでっ」
さゆみは彼の服の裾を掴む。
彼は出そうとした足を、そのまま止めた。
「一人に、しないで…」
彼女の甘えたような声が、暗闇に消え入る前に、
どうにか彼の心に届いた。
「…わかった。どこにも行かないよ」
おぼろげに照らす光の中に、さゆみは彼の笑顔を見た。
「ありがと、かめぞう…」
彼は頷いて応えたあと、彼女に、
とにかく座ろう、と提案した。
さゆみは意を同じくし、二人はテーブルに背を預け
並んで腰を落とす。
肩が触れるか触れないかの間隔があった。
- 55 名前:(5) 投稿日:2006/02/09(木) 22:31
-
「かめぞ?」
「うん…」
「かめぞが来てくれて、嬉しかった。
かめぞがいてくれたら、って心の中で思ってたら
本当に亀造の声がするんだもん」
「…不思議だね」
そのまま二人は、じっとそこで互いの存在を感じていた。
随分と長い時間だった。
おそらくブレーカーを上げれば復旧する停電なのだろうが、
そんなことはどうでもいい、と部屋の中の微かに青い暗黒が
言っているようだった。
「あ…」
やがて彼の携帯電話の力がなくなり、再び部屋から光が失われた。
しかし、目が慣れてきたのか、彼にも彼女にも
相手の顔かたちが、ぼんやりとは確認できた。
それだけで、先程は止めることが出来なかった涙も、
さゆみの目には浮かんでこなかった。
- 56 名前:(5) 投稿日:2006/02/09(木) 22:32
-
「雨、止むかな?」
未だに耳に入ってくる空模様の音を遠目に、さゆみは呟いた。
「たぶん、朝になればね」
彼女の声を拾い、彼は応えた。
「ねえ、かめぞう…」
「大丈夫。側にいるから」
彼女の不安に、彼は鍵をかけた。
「一緒に、ここにいるよ」
さゆみは彼の方を向き、首を縦に落とした。
彼が微笑んだのを合図に、彼女は瞳を閉じた。
そして、まるで揺りかごにするように、
彼に心身を預けて眠りに落ちた。
- 57 名前:(5) 投稿日:2006/02/09(木) 22:32
-
嵐が丁度通り過ぎた頃に夜は明け、太陽は平穏な朝を迎えた。
「う…ん…」
朝の日差しは彼女の眠りを覚ますには十分だったらしく、
さゆみは目を開いた。
しばしの間、頭は状況を理解しきれず、隣にいる彼の存在に気がつくと
思わず彼女は、わ、と驚嘆の声を上げた。
それで、すぐには彼の異変に気がつかなかった。
「か、かめぞう?」
さゆみが動くと、彼は倒れこむように彼女の方へ
体を預けてきた。
昨夜は冷えきっていたであろう彼の体は、妙に熱かった。
さゆみは即座に彼の額に手を当てた。
「ひどい熱…」
さゆみは、彼が雨に打たれた体のまま一晩中自分の側を
離れなかったことを、改めて知った。
自分の愚かさを悔い、彼の優しさが胸に広がった。
- 58 名前:(5) 投稿日:2006/02/09(木) 22:32
-
「さゆみー、元気にしとったか?
今、帰ったでー」
さゆみがうろたえていると、玄関から裕子の声が響いた。
「鍵、開いてたで。どないし…」
「中澤さんっ。かめぞうが…」
だんだんと近づいてくる裕子の声に、さゆみは呼びかけた。
裕子はさゆみの言葉とその慌てた口調に顔色を変えた。
「何や、どないしたんや。大丈夫か、かめぞうっ」
居間に入り、その光景を目にすると、
裕子はさゆみの腕の中の彼に声をかけた。
しかし彼は、赤く染まった頬に苦しそうな表情を見せるだけで
返事はない。
- 59 名前:(5) 投稿日:2006/02/09(木) 22:33
-
「かめぞ、熱がひどくて、私のせいで…」
「説明はあとでいいわっ。
とりあえず布団の準備せえ、さゆみっ」
困惑していたさゆみは、裕子のはっきりとした声に我に返り、
彼の体を裕子に任せて立ち上がった。
「しっかりせえよ、かめぞう」
裕子は彼の介抱にまさに血相を変えていた。
自身では、基準、をつけられない気持ちを抱えたままに。
- 60 名前:(5) 投稿日:2006/02/09(木) 22:33
-
(5) 終
- 61 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/09(木) 22:37
- ナイスタイミング
- 62 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/11(土) 21:09
- かめぞーがメッチャカッコイイです。
大人の恋愛が書ける作者様が素敵です。過去にも作品を書かれていたのですね。ファンになったんで探してみます。
- 63 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/12(日) 17:11
- あのサービス以来、やっと2人がご対面
どーなるんだろう 続きが楽しみです
- 64 名前:チキン 投稿日:2006/02/12(日) 23:06
- レスありがとうございます
更新します
- 65 名前:(6) 投稿日:2006/02/12(日) 23:10
-
目が開いてすぐには、体のけだるさに戸惑うことしか出来なった。
見覚えの薄い天井に亀造は、自分が横になっているという実感も
あまり持てずにいた。
「お、目が覚めたか?かめぞう」
聞きなれた関西弁のする方へ、彼は視界を移した。
「中澤さん…」
「ああ、動かんでええ。まだ、くらくらするやろ」
体を起こそうとする亀造を、裕子は少し慌てて制した。
彼は、すみません、と言って枕に頭を落とす。
裕子はそっと彼の布団をかけ直した。
ここで彼は自分が、テーブルを隅に寄せた中澤家の
居間に臥していることに気がついた。
「さゆは、どうしたんですか?」
昨夜自分の隣にいた彼女の不在が気にかかり、
彼はかすれた声で裕子に尋ねた。
「学校や。もう月曜やからな」
「そうですか…」
呟くと、どうやら頭の回線が平常通り繋がったらしい彼は
一気に上半身を起こした。
- 66 名前:(6) 投稿日:2006/02/12(日) 23:10
-
「そうだっ。会社…」
「あほっ、動くなっちゅーてるやろ」
彼女のお叱りの平手を頭に受けた亀造は、
「痛いです、中澤さん…」
と、また布団の上に寝転んだ。
裕子は、やれやれ、と口を開いた。
「あんたの会社には、あたしから連絡しといたわ。
さゆみから昨日あったことを聞いてたから、
それをいい具合にまとめて伝えといた。
せやから、心配せんでもええ」
亀造は額に当てていた手を離し、裕子を見た。
「中澤さんは、お仕事は…」
「ああ、あたしはええねん。
今日は切羽詰ったことないし」
裕子は着物の仕立てで生計をたてている。
- 67 名前:(6) 投稿日:2006/02/12(日) 23:11
-
「本当にすみません、何から何まで…」
「何言うてんのや。あんたがさゆみの為にしてくれたことや。
あんたには、こっちがなんぼお礼言うても足りひんくらいや」
彼は、微笑を浮かべて首を横に振った。
「あの子…さゆみ、あんたが熱出して気が動転してもうて。
自分のせいや言うて泣いとった。
あんたのことが心配やから学校行かへん言うてたけど、
どうにか説得したら渋々出かけてったわ」
「そんな、さゆが気にすることないのに。雨に打たれただけで
風邪ひいたわけでもないと思うし…」
亀造がそこまで言うと、裕子は布団に手をつき
彼の顔を上から覗きこむようにして見つめる。
「さゆみがあんたのことを好きなん、わかってるやろ?」
亀造は、彼女の視線に弱く応えた。
「…薄々、は」
「あの子は純粋やから、恋、とか、好き、とか判ってへん。
せやけど、うちから見たらあの子の気持ちは本気や思う」
彼は何も言わなかった。
裕子は間近の彼から顔を離し、
「それであんたにどないせえとも言えへんけどな」
と呟いた。
- 68 名前:(6) 投稿日:2006/02/12(日) 23:11
-
「そや。お腹すいたやろ?
おかゆあるで。持ってくるから食べや」
そう言って裕子が立ち上がると、亀造は礼と侘びを込めて、
すみません、を発した。
居間を出るところになって裕子は、ふと立ち止まる。
床から不思議そうに見つめる彼の顔は見ずに、裕子は言った。
「偉そうなこと言うても、あたし自身、なにが、恋、で
何が、好き、なんか判ってへんのかもしれんけどな」
再び歩き出した裕子の髪が揺れるのが、
彼の目に鮮やかに映った。
- 69 名前:(6) 投稿日:2006/02/12(日) 23:11
-
「どうや、美味いか?」
裕子が運んできた粥を口に入れた亀造に、
彼女は好奇の色をのせた笑みを浮かべ尋ねた。
「はい、とても」
「そうか、よかった」
彼の、まだ熱を持った頬が落ちるのを確認し、彼女は満足そうだ。
「あの、中澤さん。僕のスーツは…」
二口、三口ほお張ったところで、彼は先程から抱いていた疑問を
彼女に投げかけた。
昨夜雨に濡れた彼のスーツはいつの間にか体を離れ、
彼は現在、薄い水色をした男物らしきパジャマを着せられている。
「ああ。あんたのスーツ、随分濡れてもうてたから
着替えさえてもろたで。あとでクリーニングに出そう思て
向こうに干してあるわ」
- 70 名前:(6) 投稿日:2006/02/12(日) 23:12
-
亀造は裕子の指差した方を細めた目で見つめた後、
頭を下げた。
「本当にすみません。このお粥ご馳走になったら
とりあえずあのスーツを着て帰ります…」
「あかんっ。無理するな」
突然声を荒げた裕子に、彼は驚きの目を向ける。
裕子はその視線に気づいて頭を下げ、
小さく、囁くように言う。
「大したことない、と思ってても、何があるか解らんもんやねん。
なあ、不安にさせんといて…」
「…このパジャマ、もしかして旦那さんの?」
裕子は力なく頷き、
「うちに、あんたが着られるような服、それしかあらへん」
と、答えた。
「あんたと、あのひとを一緒にしとる訳やない。
せやけど、やっぱりあんたは、あのひとに似てる」
「そんなに、ですか?さゆはそんなこと一度も…」
「あの子とあのひとは、さゆみが小学生のときに一度会ったきりや。
顔までちゃんと覚えてへんやろ」
亀造は静かに目を伏せた。
粥の入った器はまだ十分に暖かい。
- 71 名前:(6) 投稿日:2006/02/12(日) 23:12
-
「なあ、ただの甘えたがりやと思ってくれて構へん。
でも心配になんねん、おらへんようになるのが。
自分でも解れへんけど、とにかく今、あんたのことが…」
「…わかりました」
亀造は、そっと微笑んだ。
「もう少しお邪魔させてもらいます。
体の方も、まだちょっとだるいので…」
「そうや。最初からそうすればええねん」
裕子は、平生どおりの強気な顔つきになり、
旅行中の荷物の片付けに取り掛かる為、立ち上がる。
「あ、中澤さん…」
彼女が視界から消える寸前、彼はさじを持つ手を止めた。
裕子が、なんや、と振り返る。
- 72 名前:(6) 投稿日:2006/02/12(日) 23:13
-
「修理を頼まれた洗濯機、僕ではすぐに直せそうにないんですけど、
どうします?買い換えるのが一番早いと思うんですけど…」
亀造の問いに、裕子はあまり思案した様子もなく答える。
「ええわ、まだ使えることには使えるし。
亀ちゃんがどうしても直せへんようなら、
電気屋にでも見てもらうわ」
亀造は、まるで彼女の返答を予期していたような表情で
頬を持ち上げた。
裕子は何も言わず居間の扉に手をかける。
- 73 名前:(6) 投稿日:2006/02/12(日) 23:13
-
「…新しいのは、要らないと思いますよ」
「は?さっき、あたしがそう言ったやん」
亀造は、そうですね、と言い、粥を一口ほお張った。
裕子は疑問を残した表情のまま、作業に取り掛かる。
「簡単に忘れられるはず、ないんですよ。
…ねえ、父さん」
一人呟いて、亀造は軽く咳き込んだ。
裕子は鞄から荷物を取り出しながら、彼女の夫のことを
思い出していた。
彼女は、彼の写真を家に飾っていなかった。
それでも彼女の心の中には、彼の笑顔がしばしば浮かぶ。
彼女と彼が結婚した頃より流石にくたびれた洗濯機が、
さゆみが溜め込んだ洗濯物と裕子の持ち帰った衣類を入れ、
がたがたと音を立てながらも仕事を果たしている。
- 74 名前:(6) 投稿日:2006/02/12(日) 23:13
-
(6) 終
- 75 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/14(火) 22:41
- 意味深な呟き、気になります
どんどん惹きこまれていきます
- 76 名前:チキン 投稿日:2006/02/15(水) 21:16
- レスありがとうございます
更新します
- 77 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:17
-
「か、かめぞ。大丈夫っ?」
学校から帰宅したさゆみは一目散に居間へ入り、
床に臥す亀造の枕元へ駆け寄った。
彼が微笑んで頷くと、さゆみは今にも泣きそうな表情で、
ごめんね、を繰り返した。
亀造は肘をついて体を起こし、さゆみの頭を撫で、
「さゆのせいじゃ、ないよ」
と言った。
さゆみは瞳を濡らしたまま口を結んだ。
「こらこら。さゆみ、うるさくしたらあかんで」
裕子は溜息混じりに言葉を発し、
さゆみが開け放したままの扉から中へ入ってくる。
「あっ、ごめんなさい…」
さゆみが、はっとしたように亀造と距離をとる。
彼は相変わらず目を細めたままであった。
- 78 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:17
-
「さ、あたしは夕飯の準備するか。
亀ちゃん、なに食べたい?」
「中澤さん。僕、本当にそろそろ失礼します。
気分も大分よくなりましたし…」
裕子は、自分の問いに対する彼の返答に眉をしかめる。
「あんなあ、あたしは本当に、
迷惑や、なんて思ってへんねんで。遠慮せんと…」
「お気持ちはすごく嬉しいんですが、できるだけ早く
会社にも出社しなければならないので…」
亀造は上半身を完全に起こし、頭を二、三度横に振った。
その様子を見つめ、さゆみは重々しく口を開く。
「駄目だよ、無理しちゃ。
かめぞ、疲れてるんだから…」
彼は意識の中に虚をつかれたように目を丸くしたが、
記憶の過去が頭をよぎり、すぐに穏やかな表情をさゆみに向ける。
「たくさん休ませてもらったから、大丈夫だよ」
さゆみは何か言いたげだったが、言葉が出てこないようだった。
- 79 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:17
-
「まあ、何にせよ、帰るときはあたしが送って…」
裕子の声に重なって、玄関からチャイムの音が鳴り響いた。
「なんや。誰や、こんなときに」
裕子は不服そうにその場を後にする。
しばしの後、来客者のものと思われる声が居間にも届いた。
「すみません。ハロプロ物産の田中と言いますが、
こちらにエリック亀造がお世話になってると聞きまして…」
それは、彼には聞き覚えのあるものだった。
「れいなっ?」
彼の様子にさゆみが困惑していると、居間の扉が再び開かれる。
「かめぞうっ…」
さゆみが振り返った先に立っていたのは、
大きな紙袋を持った、田中れいなだった。
さゆみには見知らぬ女性であったが、
れいなは彼女のことを気にもとめず亀造に近寄る。
- 80 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:18
-
「ばか。何やってるのよ、携帯にかけても全然出ないで…」
「電池、切れてたから。
れいなこそ、なんでここに?」
「営業課で話を聞いて、顧客名簿見せてもらったの」
彼女はそこで裕子の方を向き直り、声の高低を整える。
「お客様にご迷惑をおかけして、すみません。
彼は私が彼の家まで送りますので…」
「はあ…」
れいなは早口だ。
「かめぞう、部屋から適当に服持ってきたから着替えて」
「うん。ありがとう、れいな」
「そのパジャマは、借りたの?もともと着てた服は?」
亀造が答える前に、裕子が二人のやり取りに口を挟む。
「ああ、かめぞうのスーツ、濡れてもうたから向こうに干してあんねん。
あとでクリーニング出そう思て」
「いえ、それには及びません。私が引き取ります。
お気遣い、ありがとうございます」
- 81 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:18
-
さゆみは、どんどんと進んでいく眼前の動向を傍観している。
れいなは再び亀造の方を向き、紙袋を手渡す。
「さっさとこれに着替えて。
あたしはスーツの支度するから」
「うん…」
こっちや、と案内する裕子に導かれ、れいなは居間を出て行く。
さゆみも、パジャマのボタンに手をかけた亀造に気を遣い、
廊下へ出た。
やがて、スーツで膨らんだ紙袋を持ったれいなと裕子が現れ、
居間の前に三人が集まった。
さゆみは、どうしてもれいなに目が行ってしまう。
さゆみは割と背が高い方であるため、小柄なれいなを見下ろす状態であるが、
彼女の眼光に鋭いものを十分に感じた。
さゆみが気にするれいなの視線の先は、真っ直ぐ裕子に向けられていた。
裕子は、それに気づいているのかいないのか、
あさっての方向を見て押し黙っている。
- 82 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:18
-
やがて扉が開き、落ちついた雰囲気の普段着に身を包んだ亀造が
姿を見せた。
「中澤さん。パジャマ、どうしましょう?」
「ああ、それな。
置いといてくれれば、ええ」
丁寧にたたまれた薄水色を見せながらの亀造の問いに、
裕子は腕組みをして答える。
れいなはその様子を見て、呆れたように口を出す。
「洗ってお返しするのが当たり前でしょ。貸して…」
「ええ、っちゅーてるやろっ」
突然荒げた裕子の声に、れいなの肩が、びくりと揺れる。
裕子は真っ直ぐにれいなを見つめていた。
「…わかりました。失礼します」
れいなが頭を下げて玄関に向かうのを追うように、亀造も歩き出す。
こほこほ、と咳き込む彼にさゆみが、
「大丈夫?」
と尋ねると、彼はいつものとおりに笑い、頷いた。
さゆみは、なんらかの意味も折り重なって、安心、した。
- 83 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:19
-
「…あのパジャマ、ご主人の形見なんだ。
悪く思わないであげて」
玄関口で、ハイヒールに手間どるれいなにだけ聞こえるように、
亀造は言った。
彼はそれを誰にも気づかれないように彼女の方を見ておらず、
れいなは彼の横顔を一瞬間見つめただけだった。
そんな、やりとりだった。
- 84 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:19
-
「本当にありがとうございました。おやすみなさい」
その言葉を最後に、亀造とれいなは中澤家を後にした。
さゆみは、閉じられたドアから目を離せないでいた。
「あれは、恋人とかそういう類と、ちゃうで」
ぽつりと呟いた裕子を、さゆみは素早く見つめた。
その視線には、一つの心境から派生する様々な疑問が乗せられていた。
「女の勘や」
裕子は、その一言で片付けてしまう。
さゆみは、彼らの出て行ったドアをもう一度見つめた。
その向こうが見える訳ではないのは、解っていたのだけれど。
- 85 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:19
-
「ねえ、れいな…」
ほぼ亀造の自宅マンションに着く頃、
彼は閉じたままだった口を開放する。
「よく教えてもらえたね、僕の居場所」
「高校の同級生だったって言えば、簡単にね。
長いことお客様の家に社員をお邪魔させておく訳には
いかないだろうし」
「…ただの、高校の同級生、だと思われたままだといいな」
二人並んだ靴音が、微かに遅いリズムになる。
「人にどう思われようと、あたしたちはそれ以上にも
それ以下にもならないでしょ?
かめぞうにその気があれば、別だけど…」
彼の足が止まり、れいなの体が半身、前に出る。
「…れいなには、あるの?」
「冗談」
はは、と苦笑すると、亀造は深く咳き込む。
「お喋りが過ぎるからよ」
と、れいなが無愛想な口調で諫めた。
彼女の表情は、彼の位置からは見えなかった。
- 86 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:20
-
「相変わらず、何もない部屋よね」
ドアを開けた亀造の部屋を見渡し、れいなは言う。
そこには最低限の家具類が無造作に置かれ、
仕事の書類が隅の方で積み重なっているだけだった。
「一度ものを置くと捨てられなくなる性分だから、
最初から何も置かないんだって、前に言ったでしょ?」
彼は、届けられたままの新聞やらを片付けながら応えた。
「…部屋に置いてなくたって、捨てられないもの、
あるんじゃないの?」
れいなの口調は強かったが、彼女の目には少しおびえたような
緊張感が灯っていた。
さあ、と彼は受け流して、部屋の奥へ行ってしまう。
れいなは、きゅっと唇を噛んで、声を張った。
「さっさと布団に入って。
本当はまだ、ふらふらするんでしょ?」
彼女に押し込められるように、彼の体は色の統一されたベッドに入る。
- 87 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:20
-
「…明日もまだ、休みなさい。
有休つかったことないなら、どうにかなるわよ」
「いや、明日は行くよ」
かめぞう、と彼女は怒気を込める。
彼は微笑み、口を開く。
「疲れからきた風邪だし、丸一日休んだから、
明日会社に行くくらい大丈夫だよ」
れいなは胸のうちに生じた違和感に気付き、目を丸くした。
- 88 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:20
-
「かめぞう…」
「ん?」
「…ばか」
「へ?」
れいなの声は荒くなる一方だ。
「ばか、ばか。かめぞうのばかっ」
言葉の弾丸と同時に、れいなは手に持っていた小さな包みを、
ベッドで横になっている亀造に投げつけた。
「いった…」
れいなは、そのまま素早く部屋を出ていった。
エレベータを使わずに、階段で彼の部屋から遠ざかる。
彼は、自分を襲ったあと床に落ちた包みを拾い上げた。
れいなの渾身の攻撃は、市販の風邪薬だった。
「ばか、か…」
彼は、すっと立ち上がり、コップに水を注いだ。
- 89 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:21
-
階段を中腹まで降りると、れいなは糸が切れたように立ち止まる。
壁に背を預け、誰も自分の存在に気付かぬ場所で、呟く。
「あのときはごまかしたくせに、なんで今は簡単に、
疲れたって言うのよ…」
亀造の穏やかな瞳を思い返す。
「…なんで、あんな顔するのよ」
れいなは、彼の部屋の鍵を握り締めた。
「なんで、れいなじゃ駄目っちゃね…」
彼女の心の底が声となり、淀んだ夜の街から
空へと消えていった。
- 90 名前:(7) 投稿日:2006/02/15(水) 21:21
-
(7) 終
- 91 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/18(土) 22:41
- やばい、れいなが可愛すぎです。かめぞーは笑顔の下で何を考えているのでしょうか……今後の展開が楽しみです。
- 92 名前:チキン 投稿日:2006/02/20(月) 06:21
- レスありがとうごさいます
俄然やる気が出てきました
あの人に「俄然」とは正しくはこういう風に使うんだと一度言いたいのですが…
更新します
- 93 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:21
-
あの嵐の夜から三日が過ぎていた。
「こんにちは」
裕子が、夕飯の買い物がてらに街通りを散歩していたときである。
彼女は後ろから声をかけられ、振り返った。
「ああ、あんた…」
「ハロプロ物産の、田中です」
れいなは無表情で軽く頭を下げた。
「ハロプロ物産の、か…」
裕子は意地悪く微笑む。
「あんたにとって重要なあたしとの接点は、
かめぞう、やろ?」
れいなは相変わらず顔色をそのままに、何も答えない。
裕子は薄い微笑を打ち消し、続ける。
- 94 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:22
-
「あんた、かめぞうの恋人か?」
ここで、れいなもやっと口を開く。
「…だったら説明が楽でいいんですけど」
「説明が楽で、ええんか?」
実際よりもかなり距離があるかのように、
二人はお互いを見つめ合う。
「お茶しません?」
れいなが自身の視界に入った喫茶店を指差すと、裕子は、
「…手間かかることやなあ」
と、苦笑して頷いた。
- 95 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:22
-
二人の注文したコーヒーが届くまで、裕子もれいなも何も言わなかった。
裕子は、れいなが話を切り出すものと思っていたし、
れいなも自分がそうすべきだと気付いていた。
裕子が一口コーヒーを飲むと、れいなは口を開いた。
「先日は、失礼しました」
「ん?かめぞうのことか?」
「彼が着ていたパジャマのことです。
私は、ご主人のことを存じておりませんでしたので」
「…ああ、気にせんでええよ。
あたしも、きつい言い方してもうて悪かった」
裕子は再びコーヒーに手をかける。
れいなは拳固を膝の上に乗せたまま、その様子を見ている。
- 96 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:22
-
「…かめぞうは、亡くなったご主人の代わり、ですか?」
裕子は、口元に届きかけたコーヒーカップを止めた。
れいなの握り締めた拳が、さらに小さくなる。
「失礼なことを言ってるのはわかっています。
あなたが、かめぞうを絶対的に想っているなら
私は何も言いません。
でも、ご主人のいない寂しさを紛らわしているだけなら、
彼に近づかないで欲しいんです」
裕子はコーヒーカップをテーブルに戻した。
「かめぞうから聞いたんか?」
「…あなたのご主人が亡くなっていることは、そうです。
あなたとかめぞうの関係については私の推測です」
苦いな、と言い、裕子はシロップの口を開けた。
れいなは少々苛立ちを隠せないでいる。
- 97 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:23
-
「で、あんたは何が知りたいねん?
自分の推測の当たりはずれか?」
「…あなたとかめぞうに何があったのか、です」
「そんなん聞くなら、あんたはかめぞうの何やねん?」
裕子は、ぐるぐるとスプーンで黒を茶色に変えていく。
「…彼は、あたしが辛いときや苦しいときに慰めてくれる人です」
「男と女として、体で、か?」
「…あたしの暗い部分を包んで消してくれるんです」
「あたしも似たようなもんかもな。あいつの気持ちに甘えさえてもろてる。
肉体関係はあらへんけど」
「似たようなもんのはず、ないんですっ」
れいなの荒げた声に、コーヒーが微かに揺れた。
裕子は、すっと顔を上げる。
見つめた先のれいなの顔は興奮が読み取れた。
「…あたしは」
れいなはだんだんと自制心を失ってきていた。
- 98 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:23
-
「あたしは、高校の頃からかめぞうを知っています。
でも、あの夜、今まで彼があたしに見せてくれなかったような
表情をしていたんです。あなたの家で一日過ごしたあとの
あの夜に」
裕子は手を置き、れいなを見つめる。
「かめぞうは優しいんです。だから、あたしが苦しいときには
側にいてくれるし、あなたが望むなら
あなたのご主人の代わりにだって喜んでなるんです」
れいなの湧き上がっている気と裏腹に、彼女の声は
だんだんと細くなっていく。
「でも、それはかめぞうにとって幸せな訳ないんです。
あたしは、かめぞうに本当の恋愛をしてほしいんです」
「本当の、ねえ…」
「彼は自分の感情を隠してるんです。
人の痛みを理解して傷を癒してくれるくせに、
自分の痛みは絶対に人に見せたり触らせたりしないんです。
だから、本気で恋愛しようとしない。
誰も彼の仮面をとることができないから」
うんと弱めた声でれいなが、
「少なくとも、あたしにはできんかった」
と言うのを、裕子は聞き逃さなかった。
- 99 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:24
-
「だから、あなたが本当にかめぞうを想ってるなら
人の思いやりを避けてる彼に…」
「あたしには、わからへん」
裕子は静かで、かつ、したたかな声を発した。
「あいつが、かめぞうが仮面みたいなもん被って生きてるんは
なんとなく気付いとった。その下で、よう息ができんで
苦しがってるんもな」
「だったら…」
「けど、その仮面をあたしにとれるかなんて、わからへんねん」
「…かめぞうは、ご主人の代わり、ってことですか?」
れいなは鋭い目で裕子を睨むように見つめる。
裕子はそれに応えようとはしない。
「かめぞうな、あたしの死んだ旦那に
顔が似てんねん」
れいなの目が、いっそう見開かれる。
今にも飛び掛りそうな豹のように。
それでも裕子は淡々と語る。
「せやけど、中身はまるで別人や。
うちの旦那は素直に自分の思ってることを顔に出す人やった。
あたしはかめぞうを、あの人の代わり、なんて思ってへん」
つい姿を重ねてしまい、亀造に精神的に甘えたり彼の体を心配することがあっても、
裕子の愛した人が、亡くなった夫ただ一人なのは、彼女にとって事実だ。
- 100 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:24
-
「…けど、うちのかめぞうに対する気持ちが
寂しさを紛らわすためやないとは、言い切れへん。
自分では、わからんねん。
たぶん、あいつの仮面はがすんは、あたしとちゃう」
「そんな…」
「ここ払っとくわ」
裕子は、荷物をまとめて立ち上がる。
れいなは慌てて後を追おうとする。
「コーヒー、もったいないから最後まで飲みや。
あたしは姪っ子の餌付けせなあかんねん」
れいなはそのまま着席させられてしまった。
裕子の堂々とした後姿を見送り、れいなはコーヒーカップを手に取る。
「…本当、ちょっと苦いわ」
呟いて、れいなはシロップをかき混ぜた。
- 101 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:25
-
裕子とれいなが会話をしてから数日後、
彼が熱を出したあの日以来、初めて亀造が中澤家を訪れた。
「先日は、本当にすみませんでした」
「おう。もう、体は治ったんか?」
「はい。お陰さまで、すっかり」
「そうか、良かった」
玄関先で裕子と亀造が談話する。
裕子の横に立っていたさゆみも、彼に神妙な顔を向ける。
「本当に、ありがとう。ごめんね、かめぞう」
彼は静かに微笑んで、
「そんなに気にしないで、さゆ」
と、囁いた。
- 102 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:25
-
「洗濯機、もう一度見ましょうか?」
靴を脱いで廊下に上がると、さっそくに亀造が
先日頼まれていながら出来なかった家電の修理を申し出る。
「ああ、今日はセールスだけでええよ。
病み上がりやねんから」
「いえ、僕自身が気になってたことなんで、やりたいんです」
亀造は、自分を気遣う裕子に笑顔を向ける。
「そうか?ほんなら頼むわ」
「はい」
さゆみは彼の笑顔を、ぼんやりと見つめていた。
- 103 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:25
-
「あ、しもうた」
亀造が洗濯機と対峙する一方で、彼に出すお茶などの準備を台所でしていると、
裕子が突然顔をしかめて声を上げる。
「どうしたんですか?」
隣で皿を取り出していたさゆみが、不思議そうに尋ねた。
「お茶の葉が切れてたの忘れてた。
昨日、仕事の関係で急なお客さんがあってなあ。
どないしよか。かめぞう、日本茶の方が好きやし」
裕子が腕組みをしたのを見て、さゆみは口を開く。
「私、買ってきますよ」
「え?わざわざ面倒やろ」
「大丈夫です。かめぞう、まだまだ時間がかかるだろうし」
さゆみの胸は、出かけてくる気持ちですでにいっぱいである。
「ほな、お願いしよかな」
裕子は目を細めて微笑み、言った。
- 104 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:26
-
「直るか?」
さゆみが出かけた後、裕子は
洗濯機の修理にあたっている亀造の背中に近づき、声をかける。
「はい、なんとか」
「…そうか」
裕子は、そっと足を踏み出し彼に近づく。
「なあ…」
そのまましゃがみ込み、彼の首から手を回すようにして
軽い力で抱きつく。
彼は修理する手を止めた。
「あんたって、クールやねんな」
「…そうですか?」
「ああ、失礼なほどにな」
裕子は彼の、さらさらと心地よい髪の毛に頬を乗せた。
「この間の、サービス、は、なかったことになったん?」
あの日、玄関で、口づけを交わしたこと。
- 105 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:26
-
「…それは、中澤さんの方でしょう?
僕が熱出してここでお世話になってたときに、
さゆのこと持ち出して、僕にけしかけるようなことして」
「どきどきしてたんやで。あのとき、ほんまは」
裕子は、ほんの少しだけ腕の力を強めて続ける。
「いや、あのときだけやない。
あんたとキスしたときかって、同じや」
「…今も、そうなんじゃないですか?」
亀造の背中に伝わる裕子の胸の鼓動は、大きく、速い。
「うるさいわ」
彼は小さく微笑み、可愛いですよ、と囁いた。
- 106 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:27
-
「…あの人とおるときも、どきどきしたもんや」
裕子が、ぽつりと一言こぼした。
「あの人って、ご主人ですか?」
「そう。何に対してもすぐ笑ったり怒ったり、忙しい人やった。
けど、あたしまで疲れるくらい楽しませてくれた」
彼は、何も言わず裕子の細い指先を見つめていた。
「…なんで、こんなに早く、いなくなってしもたんやろ」
彼女の声が震えている。
彼はそっと彼女の腕に自分の手を当てる。
「ごめん、こんなん言うて…」
裕子は彼の手を払うようにして、自分の目元を指でぬぐう。
彼は、すっと裕子の方を向く。
二人の顔の距離は、測るのが億劫なほどに近い。
「泣きたいときに泣かないから、もっと寂しくなるんじゃないですか」
彼の目に、彼女の潤んだ瞳が映しこまれる。
- 107 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:27
-
「さゆから聞きました。中澤さんがあまり家の家具を換えないこと。
ご主人と過ごした思い出のある家だから」
七年前のあの日から、少しくらい勝手が悪くても、
中澤家の家具やその配置は変わらない。
「洗濯機、頑張って直しますから…ご主人とのこと、
大事にしてください。
ご主人のために、たくさん泣いてあげてください」
彼女の頬をつたう涙は、どこからか差し込まれてくる光に
照らされ、きらきら輝いている。
「…ありがとう、かめぞう」
子供のように床に座り込んだまま、
裕子は彼の胸に包まれ、声が出そうなほど涙を流した。
彼は、ゆっくりと彼女の波打った髪をなでる。
「なあ…」
裕子が顔を上げると、呼吸の音が聞こえるくらいの距離で
二人は向かいあう。
「サービスして、ええ?」
頷く代わりに彼が唇を押し当てると、裕子は瞳を閉じ、
彼の舌に素直に甘えた。
熱く、強く、絡み合う。
二人のいる部屋のドアが僅かに開いていて、
その向こうに、持ち忘れた財布を握り締めている少女がいるとも知らずに。
- 108 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:28
-
「…今ので、最後や」
二人の唇が離れる頃には、さゆみの姿は中澤家になかった。
「このまま続けても、あんたのために良くない」
裕子は、髪の乱れを整えて立ち上がる。
「僕は…」
「れいなって子に、二人で会ったで」
亀造は驚いたように裕子を見上げる。
「あの子、本気であんたのこと考えてるやんか。
応えてやる気、あらへんのん?」
彼は押し黙ったまま、口元に相変わらず静かな笑みを浮かべている。
- 109 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:28
-
「最近、あの子に会ったか?」
「いえ。ここから僕の家まで送ってもらった日から全然…」
「ほんなら、近いうちに会いに行き。
心配性なんやろ?あの子、たぶん」
彼は抽象的に、はい、と頷いた。
「自分の幸せ、早よう見つけえや」
裕子は溜息をつき、部屋を出て行く。
「修理終わったら、お茶にするで」
お茶の葉を買いに行った彼女は、まだ戻ってきていない。
- 110 名前:(8) 投稿日:2006/02/20(月) 06:28
-
(8) 終
- 111 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/20(月) 20:41
- あー、続きが気になるっ〜
- 112 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/21(火) 03:05
- きゃあ〜、裕子さん、亀造、いい展開〜〜〜!
- 113 名前:チキン 投稿日:2006/02/21(火) 21:22
- レスありがとうございます
更新します
- 114 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:23
-
週明け特有の憂鬱な雰囲気が漂う日、
ハロプロ物産の呆れるくらい長い廊下を、
れいなはハイヒールを鳴らしながら歩いていた。
「あ…」
思わず声を漏らす。
反対側から自分の方へ歩いてくる亀造の姿が、視界に入ってきたからだ。
勤務時間中に彼がこの辺りを歩いていることはないから、
自分に会いに来たのだと、れいなには察しがついた。
しかしれいなは、彼を避けるように目を伏せ、
そのまま通り過ぎようとする。
「今夜、いつもの店で待ってる」
すれ違い様、れいなの耳に、ひっそりとした彼の声が届いた。
彼女は返事をすることはおろか、足も止めずに歩いていく。
五、六歩進んだ後、れいなは彼の方を振り返った。
彼の後ろ姿は、すでに遠かった。
れいなは一人、唇を噛みしめた。
- 115 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:23
-
亀造とれいなの、いつもの店、は、
ありふれた感じだが落ちついた雰囲気のバー。
二人とも酒に飲まれるタイプだが、
れいなが悪酔いしたいときや深刻な話し合いがなされるときは、
いつもこの店で落ち合う。
「待ってる、って言ったくせに…」
先に店に着いたのは、れいなだった。
彼女自身、自分が早く来すぎたのはなんとなく解っていた。
彼に誘われたあと、そわそわして仕方がなかったので、
仕事が片付くと早足で店を目指したのだから。
湧き上がる不機嫌な気持ちに任せ、れいなは適当に酒を注文した。
先のとおりアルコールにはめっぽう弱いため、
彼が来るまで飲むつもりはなかったけれど。
- 116 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:23
-
「ごめん、れいな。遅くなった」
しばらくすると、慌てた様子で亀造が姿を現した。
「別に、待ってない」
れいながぎこちなく応えると、彼は微笑んでもう一度、
ごめん、と言った。
「それで?なんなの、急に呼び出して」
彼がいつも通りの弱い酒を頼むと、れいながせかすように本題に入った。
「…うん。れいな、中澤さんに会ったんだって?」
彼の言葉を、れいなは予想していなかった訳ではなかった。
「会ったわよ。それが?」
突き放すような口調になったことを、れいなは少しだけ悔いた。
しかし、亀造は気にすることなく彼女に目を向ける。
- 117 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:24
-
「ごめんね、れいな。いつも心配させて。
それで、ありがとう」
れいなが彼の方を見ると、真っ直ぐな彼の視線にとらわれた。
慌てたように、彼女はまた目をそらす。
「べ、別に、お礼言われるようなことしてないわ。
ただ、その、中澤さんのことが気になって…」
「うん、ありがとう」
ちぐはぐな会話に、れいなの方が耐え切れなくなりそうだった。
「あたしたちがどんな会話したかまでは、
中澤さんから聞いてないんでしょ。
かめぞうに、お礼言われるようなことは本当に何もしてないのよ?」
「中澤さんは、れいなが僕のこと心配してる、って言ってた」
飲めない酒の入ったグラスを、亀造が、ちらちらと揺らす。
れいなは眉をひそめた。
「あのときの会話は、あたしが一方的に中澤さんとかめぞうの関係を
彼女に訊いたようなものなの。
くだらない、あたしの独占欲みたいなものだわ。
…かめぞうは、あたしのものなんかじゃないのに」
- 118 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:24
-
れいなは焦っていたのかもしれない。
あの嵐の次の夜、自分の知らない亀造を見せられてから。
彼が自分から離れていく運命にあるのを、認められなくて。
とにかく彼女は話し続ける。
「中澤さんは、自分とかめぞうとの関係は
あたしと似たようなものだって言ってた。
ねえ、かめぞうは?かめぞうはどう思ってる?」
「…中澤さんはご主人のことを想い続けてるんだ。
たぶん、これからもそうだよ。
僕と中澤さんは、セールスマンとお客様、それだけだよ」
「そうじゃない。かめぞうは、かめぞう自身は中澤さんのこと
どう思ってるの?」
「僕?」
れいなが、ゆっくりと頷く。
亀造は苦笑し、
「れいなが深刻に考えてるほどには、特別な感情は持ってないよ」
と、静かに答えた。
れいなはこのとき、確実に気がせいていた。
隠し抱き続けてきた疑問を、思わず口に出してしまうくらいに。
- 119 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:24
-
「中澤さんに、お母さんの影を重ねてたり、しないの?」
彼は目を見開いて、一気にれいなの方を向く。
彼女は彼の視線に応え、弁ずる。
「ごめん。あたし前に、かめぞうの部屋にあった手紙、
こっそり見たことがあるの。
…かめぞうの実家からだった。
だからあたし、かめぞうの気持ち、なんとなく察してて…」
どんっ、という音をたてて亀造は握り拳をテーブルにぶつけた。
鮮やかな色の洋酒が、グラスから少しこぼれた。
彼の口元に笑みはなく、突き刺さるような冷たい表情になっていた。
れいなは彼の形相に驚き、彼の名を無意識に呼んだ。
「かめぞう…」
その声で、れいなの怯えたような表情に気づいたのか、
亀造は握り拳を解き、彼女を見る。
彼の口元には、いつも通りの笑みがあった。
「…ごめん。ごめん、れいな」
そう繰り返すだけの彼が、れいなの胸には苦しすぎた。
- 120 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:25
-
「謝らんで、謝らんでよかとっ」
れいなは叫ぶように言い、手元にあったグラスを飲み干した。
最後の一滴が喉を通ると、彼女は亀造の胸へ倒れこんできた。
「れ、れいなっ?」
彼は、慌てて抱きとめる。
覗き込んだ彼女の顔は、真っ赤だった。
「マスターっ。れいなが飲んだの、何?」
彼の耳に届いたのは、れいながとても飲めないほど
アルコール度数の高い洋酒の名だった。
- 121 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:25
-
同じ頃、さゆみは学習塾から帰宅するために、
夜の街を一人歩いていた。
洒落た雰囲気があり物騒なことからは程遠いような街並だが、
遅い時間と呼べる時刻にはもうなっていた。
普段はこのような時間まで塾で勉強していることはなかったのだが、
最近、彼女は学習に熱心だ。
それは、さゆみなりに事情があってのことだった。
- 122 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:26
-
亀造と裕子が最後に交わした口づけの日、
彼が洗濯機の修理を終える頃、さゆみは買い物袋を手に持ち、
ふらりと帰ってきた。
裕子に頼まれていたものを手渡すと、勉強するから、と
そのまま二階の自室にこもってしまう。
「おかしな子やな」
裕子はそう呟いたきりで、
亀造は茶を飲み干すと、そのまま中澤家を後にしたのだった。
それ以来、さゆみは裕子と自然に顔を合わすことが出来なくなり、
可能な限り彼女を避けるようになっていた。
幸い、定期試験前ということもあり、
さゆみが部屋にこもったり、塾に入り浸って勉強することを、
裕子はあまり気に留めていない様子だった。
- 123 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:26
-
「…はい、今から帰ります」
携帯にかかってきた裕子からの電話に、一言、二言応える。
さゆみは裕子に対する不信感を募らせていた。
自分の亀造に対する想いを受け止め、励ましてくれたのに、
彼女はあの日、彼に抱きすくめられていた。
嘘だったならば、どこまでが本当だったのか。
考えていくうちにさゆみは胸が苦しくなり、
ノートにペンを走らせることでそれを紛らわそうとしていた。
電話を切り、それを鞄に放り込むと、顔をあげてさゆみは歩き出す。
しかし彼女は、再び足を止めた。
自分の目に飛び込んできたある光景に、
体を縛り付けられてしまったのだ。
- 124 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:26
-
「れいな、大丈夫?」
映画の背景のような、オブジェのある小さな広場のベンチに、
足元のおぼつかないれいなを亀造はゆっくりと座らせた。
「…大丈夫」
言葉と裏腹に、彼女の表情には気分の悪さが見てとれる。
彼は溜息をつき、彼女の隣に腰掛ける。
「ちょっと、ここで休んでいこう。
歩けるようになったら、れいなの家まで送ってくから」
乱れたれいなの髪の毛を、そっと指で整える。
「…ありがとう」
いつもと同じ優しい亀造が嬉しい反面、
れいなは先程見せた彼の冷たい表情をもっと言及したかった。
しかしれいなは、それを恐怖した。
彼がどこか遠くへいなくなってしまいそうな気がしたから。
「かめぞう」
不意打ちのように、自分の心を彼の唇に押し当てる。
行かないで、と強く、強く。
- 125 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:27
-
「…れいな、お酒の臭いがする」
「うん…いや?」
「やじゃないけど、まだかなり酔ってる?」
「なんで?」
「だって…」
オブジェやらに遮られ視界は狭いものの、
現在二人を囲む環境が街の中であることに変わりはなく、
れいなが普段好んでキスをするような状況ではない。
「あたし、かめぞーのこと好いとうけん」
酔った勢いで素直になれるなんて、
と、寝て起きたあとのれいなは大抵後悔している。
「…好いとうけん」
もう一度、絡み合わせる。
彼の舌が求めているのが自分ではないと解っていても、
れいなはこの心地よさについ身を任せてしまう。
天邪鬼、と世界中から蔑称されたとしても。
- 126 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:27
-
さゆみの頭の中は、混乱の渦が総てを飲み込んだまま
吐き出す気配を見せなかった。
とにかく彼女は、走り出していた。
先日裕子と口づけを交わしていた亀造が、
今度はれいなと、という解けない謎のような現実。
それでも最もさゆみの頭をよぎるのは、
あの嵐の夜、暗闇に浮かび上がった彼の優しい笑顔だった。
- 127 名前:(9) 投稿日:2006/02/21(火) 21:27
-
(9) 終
- 128 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/21(火) 23:15
- さゆぅうう・゚・(ノД`)
こんなに何度もタイミングの悪い子がいるだろうかってくらいタイミングの悪い…
幸せになって欲しいです。
- 129 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/22(水) 20:03
- かめぞうの真意が知りたい。。。
- 130 名前:チキン 投稿日:2006/02/23(木) 20:41
- レスありがとうございます
緑板にさよならなのが少し寂しいです
更新します
- 131 名前:(10) 投稿日:2006/02/23(木) 20:41
-
昼過ぎ、学園通りの繁華街を少し離れた、住宅街近くの車道沿い。
定期試験を終えたさゆみは、とぼとぼと歩いている。
数日前に亀造が中澤家にセールスに来たときも、
勉強するから、と二階にこもったきりだった。
しかし、一階で、自分の知らない所で
亀造と裕子が何をしているかと考えると、胸が苦しくなる一方だった。
このところ、ぐっすりと眠れた記憶はない。
さゆみは下を向き、
自分の右足と左足が交互に動くのを見ながら歩いていた。
- 132 名前:(10) 投稿日:2006/02/23(木) 20:42
-
「さゆ、危ないっ」
突然で、一瞬の出来事だった。
さゆみは腕を後ろに引かれ、
二、三歩あとずさりをする格好となった。
転びそうになったところを、彼女の腕を持つ人物が抱きとめる。
次の瞬間、さゆみの目の前をトラックが通り過ぎていった。
「さゆ、どうしたの?信号、青だよ」
さゆみの胸の鼓動は、どきどきと速い。
顔を上げた途端、それはさらに強まった。
- 133 名前:(10) 投稿日:2006/02/23(木) 20:42
-
「大丈夫?」
さゆみを助けたのは、外回り途中の亀造だった。
彼女は慌てて彼の胸の中から逃れる。
彼は不思議そうに、さゆみを見つめた。
「あ、ありがとう…」
「うん」
彼は、普段と変わらない笑顔だった。
「さゆ、顔色悪いよ?
あんまり勉強のしすぎは体に良くないから」
そのとき、さゆみは、彼は何も知らないのだと知った。
何が自分をこんなに悩ませているのか、を。
「何よ、かめぞが悪いんだから…」
「え?」
「かめぞのせいなんだからっ」
こんなに、胸が焼けるほど熱いのは。
- 134 名前:(10) 投稿日:2006/02/23(木) 20:43
-
「さゆ?」
「そうやって誰にでも優しくして…中澤さんや
あの、田中さんって人にキスして…」
「見てたんだ、さゆ…」
「なんで?なんで、二人の女の人にそんなことできるの?」
少なくともそれは、さゆみには理解できないことだった。
「かめぞの優しいところ好きだけど、でも、
誰にでもキスとかするのは、違う」
彼は何も応えない。
- 135 名前:(10) 投稿日:2006/02/23(木) 20:43
-
「最低だよ、かめぞう」
最後にそう言い放ち、
さゆみは青信号の点滅している横断歩道を駆けていく。
彼はその場に残ったまま、動かなかった。
止まれ、を命じる赤い光に従うように。
- 136 名前:(10) 投稿日:2006/02/23(木) 20:43
-
(10) 終
- 137 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/23(木) 23:22
- >緑板
なるほど 気が付きませんでした(ノ∀`)
- 138 名前:チキン 投稿日:2006/02/27(月) 18:20
- レスありがとうございます
初めての夢板は少しだけ緊張しますね
更新します
- 139 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:21
-
「今日、エリックの奴何か変じゃなかった?」
退社しようと玄関ロビーを歩いていたれいなは、
おそらく営業課と思われる社員の会話に、足を止めた。
「ああ。外回りから帰ってきてから、ぼーっとしてたな」
「何かあったのかな?」
耳に入ってきた言葉は、それだけだった。
というよりも、それだけ聞いて
れいなは社内へ駆け足で戻って行ったのだった。
- 140 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:21
-
残業する社員のいないフロアのロビーは、がらんとしている。
「かめぞう…」
そんな凄然の中にいる彼に、れいなは声をかけた。
返事はない。
れいながより近づいて、もう一度呼ぶと、
彼は彼女の方を向いた。
やはり、どこかおかしい。
視線はれいなを向いているのに、彼は彼女を見ていないようだった。
「ねえ、かめぞう。どうしたの?」
れいなが、薄暗いロビーに飲み込まれそうな声で言う。
窓の外は、いつかと同じに輝いている。
流れている沈黙と、不似合いにも。
- 141 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:22
-
「…うん、いいよ」
突然発せられた亀造の言葉に、れいなは困惑した。
無表情だった彼が、微笑んでいる。
そして、れいなの方へ、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「か、かめ…」
彼女の唇は、彼によって強引に奪われる。
「ちょ、ん…」
抗議は許されない。
静かな社内に、接触の僅かな合間に漏れる息の音やらが響く。
彼の腕から指先が、れいなを刺激する。
一瞬力の抜けた彼女を、亀造はソファに押し倒した。
「や…」
それでも彼は彼女の口を塞ぎ続ける。
「何も…何も言わないで」
彼の悲痛な声が、彼女の耳に
やけに、はっきりと届いた。
涙の浮かんだれいなの瞳に、どこか苦しんでいるような色の彼が映った。
- 142 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:22
-
「ん…」
彼は、れいなのシャツのボタンを一つ外した。
彼女は驚いて、目を見開く。
「大丈夫。しようよ」
彼が次のボタンに手をかけたときには、
れいなは彼の頬を平手で打っていた。
無意識の反撃が、彼に届いたのである。
「かめぞう…」
彼の動きは、完全に停止していた。
- 143 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:22
-
「どうしたの…?」
やっと解放された呼吸を整えながら、おそるおそる、
れいなは尋ねる。
彼は、彼女を通り越すような眼差しをしていた。
「だって、さゆが…」
呟いた瞬間、彼の目に光が灯るのをれいなは見た。
彼は眠りから覚めたように起き上がり、れいなと距離をとる。
- 144 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:23
-
「かめぞう?」
れいなも、首元を押さえながら体を起こす。
「ご、ごめん…」
彼は、動揺しているような鎮まりのない仕草で
頭に手を当てる。
「ごめん、れいな」
そして、彼女に背を向けて歩き出す。
「かめぞうっ」
ソファの彼女が、彼のスーツを引きとめようとする。
「今度、ちゃんと話すから」
コンクリートの壁の向こうに、彼の背中は消えた。
「今度、なんて…」
そんなものは、きっとない。
れいなの望むかたちでは、こない。
彼がちゃんと話してくれる、今度、は。
- 145 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:23
-
ただ彼は彼女に、手がかりを残した。
「…さゆ?」
れいなは必死に記憶の糸を手繰り寄せた。
- 146 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:23
-
「さゆみ、ご飯やでー」
中澤家の階段下から、裕子が、二階の自室にいるさゆみに声をかける。
応答はない。
さゆみは昼間に定期テストから帰ってきたきり、
一度も裕子に顔を見せていない。
「さゆみー」
裕子は階段を一歩一歩、上っていった。
「入るで」
さゆみの部屋は、灯りが点いていなかった。
奥の方に置かれたベッドに、さゆみはうつ伏せで横たわっている。
「ご飯、食べへんのん?」
裕子がここまで足を運んでも、さゆみは答えない。
溜息をつき、裕子はベッドの縁に腰を落とした。
- 147 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:24
-
「何かあったんか?
最近、元気ないやんけ」
裕子が、ぽんとさゆみの背中に手をやると、
彼女の体が僅かに応えた。
「ほんまは、何かおかしいと思ってたんやで。
いくらテスト前かって、
さゆみがこんなに勉強するはずないもんなあ」
裕子は、相変わらずの状態でいるさゆみに笑いかける。
「悩んでんのやったら、話してみいや」
裕子の声は、優しかった。
「…ない」
「へ?」
「話したくないです」
さゆみはシーツに手をついて、一気に起き上がる。
「中澤さんになんか、話したくないっ」
さゆみの頬には涙のあとがあり、
今も、激しい口と重なるように瞳は濡れている。
- 148 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:24
-
「中澤さんは私の悩みを聞いて、どうするんですか?
心配する振りして、心の中では笑ってるんじゃないですか?」
「なに言うてんねん。落ち着きや、さゆみ。
どないしたんや」
「私がかめぞうへの自分の気持ちが判らないって相談したときも、
本当は心の中で笑ってたくせにっ」
「そんなん違うやんか。あたしはちゃんと、あんたのこと考えて…」
「考えてるなら、なんでかめぞうとキスなんかするんですか?」
裕子の表情が、青いくらいに固まった。
「なんで…」
「…私がお茶の葉を買いに行った日、偶然見たんです」
さゆみの頬には、新たな冷たい筋が出来ていた。
「出てってください。
一人に、一人にしてください」
裕子は黙って立ち上がり、さゆみの部屋を後にする。
さゆみが再びベッドに臥そうとしたとき、
裕子は、手に何かを大事そうに持って、戻ってきた。
古い、写真のようだった。
- 149 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:24
-
「かめぞう?」
白い縁の中の人物を目にすると、さゆみは思わず声を上げる。
裕子は、口に静かな微笑を浮かべた。
「似てるやろ?これ、あたしの旦那や」
さゆみは驚いた様子で、写真から裕子に視線を移す。
「性格は全然ちゃうねんけどな。
…でも、あの人を思い出させるには十分やった」
「中澤さん、やっぱりかめぞのこと…」
裕子は、下を向いた首を横に振った。
「あたしが好きなんは、この写真の人だけや。
それを、かめぞうが気づかせてくれたんや」
「でも、キスして…」
「あれは、あたしの最後のわがままや」
裕子が彼に求めるものは、もう何もない。
- 150 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:25
-
「あたしが亀造に甘えてただけやって、はっきりわかった。
この間のキスは、お礼みたいなもんやねん。
さゆみの思う、恋愛、は、あたしと亀ちゃんにはない」
さゆみの頭に、裕子の手のひらが柔らかく乗せられる。
「ごめんな、さゆみ。
軽はずみに、あんたを傷つけるようなことしてしもて」
さゆみは、ゆっくりと首を横に振った。
「私も、すみませんでした。生意気なこと言って」
「ええんよ。ちゃんと、かめぞへの気持ち大切にし」
「…わからないです、それは」
「ん?」
裕子はさゆみの頭から手を離し、彼女を見つめる。
- 151 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:25
-
「かめぞには、田中さんがいるから」
「田中?」
「…かめぞとキスしてるとこ、見たんです。
中澤さんとかめぞが何にもなくても、かめぞには田中さんがいるんです」
「ああ、あんなん気にせんで構へん」
「気にせんで、って知ってたんですか?」
さゆみは、耳に薄く響く声を上げた。
「知ってたというか、なんちゅうーか。
とにかく、あれもあたしと似たようなもんやで」
「似たような?」
「甘えさせてもろてるだけなんやって、亀ちゃんに」
「キスすることが?」
「そういう形の、そういうのもあるんや」
裕子は、口調を強めて続ける。
- 152 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:25
-
「けどな、そういうことは
あたしらには良くても、かめぞうには絶対良くない。
せやから、あたしらはかめぞうに
ほんまの恋愛してほしいと思てんねん」
「ほんとうの、恋愛…」
「亀ちゃんて、どことなく自分の本音隠そうとする感じあるやん。
あれは、あいつにとって幸せなこととは違う思うねん」
彼の仮面は暖かいようで、冷たい。
「さゆみ。亀ちゃんを好きなら、ちゃんと想い続けるんや。
そんで、あたしらには見せへんかった亀ちゃんの心の中、
見つめてあげて」
「…無理です」
下を向いたさゆみに、裕子は眉をひそめる。
「私さっき、二股かけるなんて最低、みたいなこと
かめぞに言っちゃったんです」
「さっき、て?」
「帰る途中に、偶然会ったんです」
「なるほど。それで今日は、帰ってから特におかしかったんやな」
裕子は溜飲が下がったような表情で
さゆみの頭をなでる。
- 153 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:26
-
「そんなん、謝りに亀ちゃんに会いに行くための
絶好の口実やと思えばええやんけ。
なんなら今からでも行ってきいや」
「ええっ?そんな…」
「うそや。とにかく、そんなん気にするな、っちゅうことや。
あんたが惚れたかめぞうは、そんなんすぐ許してくれる奴やろ?」
「…はい」
「あいつのことが好きで好きでしょうがないんやろ?」
「もう、やめてくださいよー」
さゆみは顔を真っ赤にしている。
裕子は、可愛い子やなあ、と先より力を入れて彼女の頭を撫でる。
「とりあえず、今からご飯や。
涙拭いて、手洗って、台所に来いや」
「はーい」
中澤家に、いつもどおり、が戻ってきた。
ほんの、つかの間ではあったけれど。
- 154 名前:(11) 投稿日:2006/02/27(月) 18:26
-
(11) 終
- 155 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/28(火) 20:58
- 毎回、最後の文章で続きが気になってしまいます。。。
- 156 名前:チキン 投稿日:2006/03/01(水) 22:40
- レスありがとうございます
更新します
- 157 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:41
-
亀造とれいなは、高校のときからの付き合いだった。
―かめぞう。晩御飯、何がいい?
―うーん。れいな、作ってくれるの?
―今日、朝かめぞうが起こしてくれて遅刻しなかったから、お礼。
二人は共に一人暮らしで、マンションの部屋が隣だった。
小さなきっかけで知り合い、同級生でもあった二人は
食事を一緒にしたり、男女になったりする仲であった。
学生であるので、不穏な噂が立たないような範囲であったが。
―おいしい。やっぱり、れいな料理上手だよね
二人で食事をするときは
たいてい、家具類が少なくて広い亀造の部屋。
彼は彼女の作った酢豚に舌鼓を打つ。
まあね、と、れいなの反応はいつも平静を装いながらで、短い。
彼は、にこにこと箸を動かすだけ。
- 158 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:41
-
―あ、れいな。携帯、鳴ってるよ
彼女の鞄の端から覗いているそれを手渡してやる。
れいなは、ありがと、と受け取り、呼び出しに応えた。
彼女の顔は強張っており、彼はいぶかしみながら口を動かしている。
―そんな言われんでも、わかっとるばい。
ちゃんと、やっとうけん。絶対帰らんっ
ひと際大きな声で言い、れいなは電話を叩くように切った。
―どうしたの?れいな
彼の言葉には答えずに、れいなは目の前の食器を持って立ち上がる。
そして、ほのかに湯気が立っているそれを、流し台にぶち込んだ。
- 159 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:42
-
―れいなっ
コンロに乗っている鍋の中身まで
同じ道をたどらせようとしている彼女の腕を、亀造が慌てて掴んだ。
―離してっ
―れいな、落ちついて。どうしたの?
―あたしの料理なんか、ごみと同じなんだからっ
―なんでそんなこと…とにかく、鍋おろして
―うるさいっ。あ…
亀造の腕から強引に逃れようとしたれいなの手から、
まだ十分に熱を持った鍋が滑り落ちた。
―あつっ…
―かめぞうっ
ひっくり返ったものとその中身は、彼の腕にすべて降りかかった。
れいなをかばって身をのり出した彼の左腕に。
- 160 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:42
-
―つ…れいな大丈夫?
―なに言ってるのっ。かめぞうが早く腕冷やさないと…
れいなに引っ張られるように、赤くなった彼の腕は
水道水に晒される。
―ごめん、かめぞう。あたしのせいだ…
―違うよ。れいなの気持ち考えずに無理した僕が悪い
―あたしのせいに決まってるじゃない。なんで…
彼はいつもこんな風に、静かに微笑んで、優しいんだろう。
- 161 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:42
-
―…あたしね、親と喧嘩して福岡からこっちの学校に来たの
亀造の腕に包帯を巻きながら、れいなはおもむろに口を開く。
彼は何も言わず、れいなを見つめる。
その視線に横顔で応えながら、彼女は続けた。
―あたしの家、地元じゃ結構有名な高級料理店なの。
お父さんはもちろん板前で、小さい頃からあたしに
継がせるために料理を仕込んでくれてた。
でも、あたしが小学5年になる頃になって弟が生まれたら、
お父さんが手のひら返して、
お前は女なんだから板前になんかなるべきじゃない、って言ってきて。
それから、料理の修業も何もかも弟にべったり。
あたし、きれちゃってさあ、お父さんと大喧嘩。
一人で東京で暮らす、って言ったら、好きにしろ、って言われたの。
お前なんか一人で暮らせるわけない、やってみればわかる、ってさ。
こっちでの生活費も、借りる、ってかたちで、
今はバイトしながら、それで働くようになったらまとめて返すつもり
彼女がそこまで話した頃には、彼の手当てはほとんど終わっていた。
- 162 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:43
-
―さっきの電話、お父さんからだったの。
帰ってくる気になったか、なんて、偉そうに。
最後には、弟の方が料理人として筋がある、とか
調子よく言ってくるから、むしゃくしゃしちゃって…
彼の腕に巻かれた白さをいたわしそうに見つめ、れいなは呟く。
―だからって、かめぞうに怪我させていい訳ない。
本当に、ごめん…
彼は、このくらい大丈夫だよ、と、笑った。
- 163 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:43
-
―ねえ、れいな。…お父さんのこと、本当にまだ許せない?
唐突な彼の質問に、れいなは肝を潰したような表情になる。
―当たり前でしょ
―本当に?
彼の目は真っ直ぐれいなの瞳を追った。
緊迫した雰囲気ではなく、それでいて逃れようのないような、眼差し。
―…わからない。もう、怒ってるって訳じゃないのは確かだけど
れいなは、彼に降参を告げる。
―板前の仕事が女にはきついから、あたしに辛い思いさせたくなくて
お父さんがあんな風に言ったんだってことも、もう理解してる。
だけど、もう意地になっちゃってるから。あたしもお父さんも
仲直りはできそうもない、とれいなは顔を落とした。
―…できるよ
れいなの髪の毛が、さらりと揺れる。
―喧嘩するくらいお互いのことを考え合ってるなら、
仲直り、できると思うよ。
本当の気持ち、通じ合えるはずだよ
れいなが悲しい顔をする理由はないんじゃないんかな、と彼が微笑み、
彼女はそっと、涙を流した。
その雫を隠すように、二人は唇を重ね合う。
いつのときも、彼がくれる暖かさは、変わらなかった。
- 164 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:43
-
―もしもし、お父さん?来週、帰るけん。
ううん、違う。…みんなの顔、見たいだけやけん
れいなは、頑固だった。
それでも、一人暮らしは続けたままではあるが父親と
とりあえずの仲直りをし、休みには実家に顔を出すようになった。
- 165 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:44
-
れいなは、思う。
いつだって自分は、亀造に救われてきたということを。
すっぽりと身体を包む抱擁と、心地よく絡む口づけ。
それは総てれいなのため、で、彼の傷口は布に覆われたまま、
なんの処置も施されていない。
先程の出来事で、れいなはそれを痛感した。
高校時代から変わっていない二人の関係。
彼を想う気持ちを不器用に隠し続けるれいなと、
それを知っていながら巧みにかわすだけの彼。
彼女は、何度も抱き寄せられた彼の優しい胸の内側を
見ることができなかった。
それでも、彼を救い出してあげたい。
どこからなのかは、わからない。
それでも、それでも。
れいなは中澤家の呼び鈴を押した。
- 166 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:44
-
「夜分にすみません」
れいなは居間に通され、裕子がお茶を出す。
「ええねん。ええと。田中さん、下の名前何やったっけ?」
「れいな、です」
「れいなさん。今日はどないな用件ですか?
いうても、かめぞうのことやろうけど」
裕子は、テーブルを挟んでれいなの向かい側に腰を落とし、
さゆみはその横に並んで座っている。
心底をどぎまぎさせながら、彼女はれいなを見ていた。
そこに、れいなもさゆみに目を向けたため、
二人の視線がまともにぶつかった。
「あなたが、さゆみ、さんよね?」
「え…はい」
突然の問いに、さゆみは辟易してしまう。
れいなは、そう、と短く呟いた後、話を進める。
- 167 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:45
-
「今日、かめぞうが暴走したんです」
「は?」
裕子が、呆けたような声で返した。
「さっき仕事が終わったあと、彼に会ったんです。
彼の様子がおかしくて、近づいたらいきなり、
焦点の合ってないような目で私を襲ってきたんです」
「おかしい、とは?」
「まるで、私じゃない誰かを見てるようで、
とにかく彼の意識の様子は尋常なものではありませんでした。
無理矢理シャツに手をかけた瞬間に、私が頬を叩いたら、
はっとしたような感じで普段の彼に戻って、私に謝りました」
「それで?なんで、すぐうちに?」
れいなは、ここで再びさゆみを見た。
茫然とれいなの話を聞いていたさゆみも、驚いて彼女を見返す。
「元に戻る直前に、彼、あなたの名前を呼んだのよ」
「え?」
「さゆ、って」
さゆみは困惑し、思わず裕子の裾を掴んだ。
- 168 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:45
-
「以前ここにお邪魔したとき、聞いた名前だと思い出して、
お伺いしたんです。
彼が心の内を見せたきっかけみたいなものが気にかかったんです」
「なるほど。かめぞうの、暴走、が今日のことなら、
さゆみに思い当たる節がない訳でもないな」
れいなは裕子の言葉を聞き、さゆみに意を求めた。
さゆみは不安げに裕子を見つめる。
「中澤さん…」
「大丈夫。ゆっくりでええから、このお姉ちゃんに話したりや。
あんたの気持ちや、今日、亀ちゃんに会ったこと」
重く頷くと、さゆみは口を開いた。
亀造への自分の想いや、最近自分にふりかかった動向を
ひとつひとつ確かめるように紡いでいく。
そして、昼間の彼に言った詞のことも。
- 169 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:45
-
「そっ、か…」
れいなはそれきり目を伏せ、黙ったまま何か考えこんでいる。
「なあ、れいなさん。あんたは何か知ってるんやろ?」
「え…」
「亀ちゃんについて知ってること全部、
話してくれてもええんちゃう?」
裕子が言うと、れいなは真っ直ぐ頷いた。
「はい、今日はそのつもりで来ましたから」
さゆみの瞳も、真剣だ。
亀造のことを知りたい。
単なる好奇心ではないからこそ、さらにその気持ちは強い。
- 170 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:46
-
「彼と私は高校の同級生で、互いに一人暮らしをしていて
部屋が隣同士でした。そのときから、今と同じような交際をしてました。
高校を卒業したあとのある日彼の部屋で、
彼の実家からの手紙を見つけたんです。
彼、家に来た手紙とかすぐに捨てちゃうんで、
捨てる前にたまたま机に置いてあったんだと思います。
彼はそのとき買い物に行っていて、あたし一人だったんで、
思わず中身を読んでしまいました」
れいなは、そろそろと語り始める。
裕子もさゆみも、彼女の口元を見守るように聞いていた。
「かめぞうのお父さんのお父さん、つまり彼のおじい様が
亡くなったという件の話でした。
彼に、葬式には顔を出すな、って書かれていました」
「葬式に?」
「その手紙を読んで、あたしが推測したことなんですけど…」
れいなの心に浮かんだ、ある確信の話。
- 171 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:46
-
「かめぞうは、たぶん、隠し子なんです」
裕子とさゆみは驚愕の色を隠せない。
「隠し子、っちゅーと…」
「かめぞうのお父さんが外でつくった子供ということです。
彼は、父親がラテン系で母親が日本人のハーフで、
父親の本妻は、外国人なんだと思います。
彼のお父さんは、その前の代から日本で活躍している
企業家らしくて、日本で不倫してできた子なんです、かめぞうは。
最初は本当のお母さんと暮らしてたから、亀造、っていう
日本名がつけられてて、だけどお母さんが亡くなられて」
「父親が引き取ったんか」
「ええ、おそらく」
「でも、なんでそんなことがわかるような手紙なんや?」
「おじい様が亡くなられて、お父さんが不安になられたんでしょうか、
自分が死んだときの遺産相続について書かれてたんです。
最近民法が改正される、されないだので
遺産相続での非嫡出子の扱いに違いがありますから、
かめぞうにそのことについて話しておきたかったんだと思います」
「なるほど」
- 172 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:46
-
「…お父さん、かめぞうには一銭もやるつもりはないって
書いてました」
れいなが搾り出すような声を出す。
裕子もさゆみも、彼女の発した言葉の意味に悲痛な表情になる。
「彼の兄弟、つまり本妻の子供に総ての遺産を相続させるよう
手配しておくから、あてにしても無駄だって。
かめぞうは、自分の息子じゃない、ただの厄介者だ、って
酷く汚い言葉でつづられてました」
唇を噛み締めなくては耐えられないほどの歯がゆさが皆に生じる。
「そんなの、そんなのってないよ。
かめぞうは、かめぞうは…」
目を真っ赤にしているさゆみの肩を、裕子が抱いてやる。
強く、痛いほどに。
「彼、実家に居辛くなって高校から一人暮らしをしてるんじゃないかと
思うと、すごく不憫で。
かめぞうがどんな気持ちで今まで育ってきたのか、考えると…」
「れいなさん、落ちつきや。
亀ちゃんの辛さは、あたしらみんな感じとる。
あんたは、あんたの思うところを、あたしらに話してくれ」
裕子の詞に、れいなは顔を凛と上げて、続ける。
- 173 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:47
-
「あたしは、かめぞうが女性に、母親の影を求めてると思ってたんです。
…本当の母親の姿を」
「母親…」
「だから、あたしや他の女の人にも恋愛関係じゃなく
親子みたいな絆を求めてるから、本気で恋愛しないんじゃないかって。
…もしかしたら、母親みたいな女性と恋に落ちるんじゃないかって。
だから年上である中澤さんが、それ、にあたるんじゃないかと思って
先日のようなお話をしたんです」
喫茶店での、裕子とれいなの会話のことだ。
- 174 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:47
-
「まるで、母親に褒められたい子供みたいに、女性に尽くすことで
母親の代わりになる人を探してたんじゃないかって思ってたんです。
でも、そうじゃないって今日の出来事でわかりました」
自分を通り越す、彼の眼差し。
「さっきのかめぞうは、すごく強引だった。
まるであたしに何か言われるのを恐れて口を塞ぐために
キスしてるみたいだった」
「どういうことや?」
「わからないんです。それが、彼の
隠し続けてる部分なんだと私は思うんです。
…さゆみちゃん?」
「はい」
さゆみは、思案の波から引き上げられたといった表情だ。
「動きを止めた彼に理由を聞いたらね、彼、さゆが、って言ったの。
そこですぐに正気に戻って何も言わなかったけど、
あなたが彼の心の傷に触れたのは確かだわ」
「それって…」
「決して悪いことじゃないわ。いつまでもしまったままの方が
ずっと彼にとって良くないと思う。
今、彼を救えるのは、きっとあなただわ」
「私…が」
「そう」
れいなは、懇願するように頷く。
- 175 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:47
-
「そうかもしれへんな。あたしはもちろん、
れいなさんにすら見せへんかったかめぞうの姿を
さゆみは引き出しだわけやし」
「中澤さん…」
「どうや、さゆみ。あんたは、どない思う?」
「私は…」
さゆみは、ここで一瞬押し黙る。
彼女の頭の中を巡るのは亀造の笑顔ばかりであることを、
彼女自身が気づくまでの間。
そして、さゆみは大きく息をつく。
「私は、好きとか恋愛とか、あんまり考えられないけど、
かめぞうが苦しんでるなら、助けてあげたいって思います。
私にできるなら、何だってやりたいです」
裕子は、そうか、と目を細めた。
- 176 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:48
-
「ありがとう、さゆみちゃん」
「れいなさん?」
れいなは、床に手をつき深々と頭を下げた。
「かめぞうのこと、よろしくお願いします」
「れいなさん。顔、上げてください」
「お願いします」
れいなは思う。
これで彼が幸せになれれば、それでいい、と。
自分には、どうしようもできなかったのだから。
彼に自分を見て欲しいと何度願っても、それは叶わなかったのだから。
ただ、彼が辛い何かを抱え続けるのだけは、耐えられない。
彼にしてあげられることに、身を捧げたい。
彼のためにできることなら、尖った針を飲み込むことだって、
今にも折れそうな木の枝に掴まることだって、なんてことはない。
彼が心の底から笑えるのなら、その笑顔の向かう先が
自分じゃなくたって、構わない。
だから。
「お願い、します」
「れいなさん…」
さゆみは、礼を返して応えるしかなかった。
- 177 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:48
-
「それでは、失礼します」
「ちょっと雨降ってるやん。傘貸すで」
「いえ。このくらいの雨なら、濡れます。
もうすぐ、止みそうですし」
いつの間にか雲から滴りだしていた雫が、
玄関先をそんなやりとりのなされる場にする。
「本当に、これで」
湿った空気の夜にとけるれいなの姿に、さゆみは恍惚とした。
- 178 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:48
-
「あ、れいなさん」
「はい」
しばらく彼女が歩いたところで、裕子が声を出した。
「あ、いや、何でもない。気つけてな」
「はい。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
夜のすすり泣きは、止みそうで止まない。
- 179 名前:(12) 投稿日:2006/03/01(水) 22:49
-
(12) 終
- 180 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/05(日) 00:31
- かめぞう……。・゚・(ノД`)・゚・。
- 181 名前:チキン 投稿日:2006/03/05(日) 14:16
- レスありがとうございます
更新します
- 182 名前:チキン 投稿日:2006/03/05(日) 14:17
-
翌日も、雨が降っていた。
いっときは止んでいたのだが、本来なら太陽が最も照る頃に
また、雲行きが怪しくなったのだった。
しとしと、と、そんなに激しい振り方ではないが、
身に突き刺さる程やたらに冷たい雨だった。
そんな中さゆみは、亀造の住むマンションの前に立っていた。
所在地は昨日、れいなに教えてもらっていた。
放課後、友人たちとの語らいを早めに切り上げて
そのまま訪れたのだから、彼が帰宅していないことは解っていた。
なんとなく、彼を待ちたい思いがしたのだ。
彼に少しでも早く会いたかったからかもしれない。
- 183 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:17
-
「…さゆ?」
待ち人は現れた。
驚いたような、面食らったような、そんな表情で
さゆみの前に立ち尽くした。
質素で、それでいて上品な雰囲気の傘をさしながら。
いざ彼を目の前にすると、さゆみも動けなくなり、
何も言わず俯いてしまう。
そんな彼女の右手に、ぬくもりが触れた。
スーツから覗く、彼の手のひら。
「さゆの手、冷たい」
傘から弾かれた雨の粒が濡らし続けたせいだろうか、
その柄を持つさゆみの手は凍えていた。
「とにかく、中に入ろう。
そんなに冷えたままじゃ、体に悪い」
最低、の別れ以来の再会。
相変わらず自分を気遣ってくれる彼に、さゆみは胸が苦しくなった。
- 184 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:17
-
「こんなものしかないけど…」
彼が差し出したのは、インスタントのコーンスープだった。
少し粉っぽい舌触りが、さゆみはなんとなく好きだ。
「ありがとう」
しばらくの沈黙。
さゆみは目だけで、彼の部屋を見回す。
自分が座っているソファと、その前に置かれたテーブル。
やや布団のはだけたベッド。
部屋に付属の、大きめなクローゼット。
台所には、一人暮らしには丁度良いくらいの調理用品。
片付いているというよりも、極端に物の少ない彼の部屋。
- 185 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:18
-
「どうして、ここに?」
その問いの真意は、どうして彼の住むアパートをさゆみが
知っていたのか、という疑問。
「…れいなさんに、教えてもらったの」
「れいなに?」
「昨日、家で会ったの」
昨日、と亀造は口の中で呟いた。
眉間にはしわが寄っている。
「今日はね、謝りに来たの」
さゆみは、ゆっくりと言葉を発していく。
彼は何も応えない。
「昨日かめぞに、最低、って言っちゃたでしょ?
ひどいこと言って、ごめん」
亀造は、指に髪を巻き込んで頭を押さえている。
- 186 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:18
-
「かめぞ?」
眉尻を下げ、心配と不安を織り交ぜて
さゆみは小指から彼の肩に触れる。
亀造は、そっと彼女の手を掴んだ。
「きゃ…」
思わずさゆみは声を上げる。
彼はただ、さゆみの、方向、を見つめていた。
昨夜、れいなに向けたのと同じ眼差しで。
「か、かめ…」
さゆみの白く儚い指先は彼の手を滑りぬけ、
彼女はソファから立ち上がった。
その姿を、薄く微笑んだ亀造が追う。
「や…」
さゆみは、彼の腕の中に抱きすくめられていた。
突然の状況の変化に、彼女の思考はついてきていない。
そのままさゆみの体は、傍らのベッドに押し倒された。
信じられないほどに強い、彼の力によって。
昨夜、れいなに為されたそれと同じ。
シーツに沈んだ彼女の肢体を、上から彼が見下ろしている。
寂寞を憂うような、悲痛な表情で。
何もかも、昨夜と同じ。
違うことがあるとすれば。
- 187 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:19
-
「かめぞ…」
少女の頬に、涙が伝った。
怯えているのだろうか。
しかし、恐怖とは違う何かが彼女の表情にはあった。
少なくとも彼はそう感じ取ったのだろう、
落としかけた唇を止めた。
「そんな苦しそうな顔、しないで…」
動きを封じられる直前にあった彼女の唇が発した、細い声。
冷えた空気に、蔦のように絡みつく。
「優しいかめぞが、こんなに苦しがってるなんて、おかしいよ」
濡れた頬が震わす、彼女の詞。
涙雨は窓の外の同胞と共に止むことはなく、
彼女の黒く長い髪や、シーツにも降りかかる。
- 188 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:19
-
「…優、しい?」
彼は、ぐらぐらとベッドの縁に起き上がる。
さゆみの視線を避けるかのように。
「違うっ。違う、俺、は…」
俺。
「俺はっ…」
さゆみが、苦しがっている、と形容したのが頷けるような表情で、
彼は叫ぶように声を上げる。
「かめぞう…」
さゆみも、指で涙を拭きながら、起き上がる。
「俺は、優しいんじゃない。俺は、ただ…」
彼は両手で髪をかきあげるようにして頭を抱え込んだ。
まるで深い闇の森に投げ込まれ
一人の境界を創ってしまったかのように、彼は周囲と異世界に居た。
優しくなんかない、とひたすらに繰り返して。
普段の亀造ではないのは明らかで、ほんの子供のようにさえ感じられた。
「…かめぞう」
彼の手を引いたのは、子供の母親ではなかった。
- 189 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:20
-
「なんで、そんなこと言うの…?」
黒みを帯びた赤黄に埋もれていた彼の指先に、温もりが触れる。
そしてそれは彼の掌全体を包み、彼の髪を離れ、
シーツの上に静かに落ち着いた。
さゆみと亀造は、手を繋いで見つめ合った。
「かめぞは、優しいよ」
「違う」
「違わない。中澤さんもれいなさんも、
かめぞの優しさに助けてもらった、って言ってた。
私も、そうだよ。
かめぞに優しくしてもらって嬉しかった」
亀造は、さゆみの握っていない方の手を、頭から下ろした。
「違う。俺は、優しい、って言われるために
中澤さんやれいなの望みを叶えてただけなんだ。優しさなんかじゃない。
俺は、優しくなんか、ない」
「かめぞ…」
中澤家に施したサービス、れいなへの抱擁、そして。
「さゆにしたことだって、同じだ」
彼は、冷たく口角をつり上げる。
その手は、さゆみと繋がれたまま。
「私は…私は、そんな風に思わない」
さゆみの目は再び潤んでいた。
- 190 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:20
-
「かめぞ、優しかったじゃん。
一生懸命、洗濯機直してくれたり、電球換えてくれたり、
いっぱい助けてくれたよ」
「だから、それが嘘なんだ…」
「嘘なんかじゃないっ。
私が一人きりで停電になった大雨の日だって
かめぞ、熱出してまで私の側に居てくれた。
嘘なんかじゃ、そんなことできないよ」
「さゆ…」
「嘘なんかじゃ、誰もかめぞのこと優しいなんて思わない。
かめぞがどう思ってても、みんな、かめぞに助けられてた。
それは、嘘なんかじゃないよ」
彼は目を伏せたまま、何も言わない。
「みんな、かめぞのことが好きなの。
きっとそれは、かめぞが抱きしめてくれるから、とか、
キスしてくれるから、とかじゃないと思う」
だからこそ裕子もれいなも、彼を救いたいと願った。
「ねえ。なんでかめぞは、そんな風に思うの?
なんで、そんな苦しそうな顔して、そんな辛いこと言うの?」
何が彼を悩ませ、心を頑なに締め付けるのか。
- 191 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:20
-
「俺は…俺は…」
「大丈夫。ちゃんと、教えて?
私、力になるから。力になりたいから」
彼は下に向けていた目線を、さゆみに合わせた。
彼女の潤んだ瞳は、強く輝き、彼を映し出している。
「かめぞのこと、助けたい。
かめぞが優しくしてくれたからじゃないよ。
私は、かめぞのことが…」
亀造のことが。
「大切だから」
窓の外の曇った空模様に、ほんの少し光が差して
冷たい雨が、きらきらしている。
- 192 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:21
-
ベッドに完全に上がりこみ、隣接している壁に二人、背を預けて座る。
あの嵐の夜と、似たような体勢。
ただあのときよりも互いの距離は近く、
手をしっかりと繋ぎあっている。
「俺は、生まれてきちゃいけない人間なんだ」
彼の扉が、開かれた。
- 193 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:21
-
―お前なんかいらない
―お前がいると俺の体裁が悪くなる
「そんなことばかり、父さんは俺に言っていた。
でも、それも仕方ないと思ったよ」
「仕方ないって…」
「父さんは、親に決められた婚約者がいながら、
俺の母さんと付き合っていた。
決して、誰にも知られないように。
やがて父さんが婚約者と正式に結婚することになったとき、
俺の母さんは身を引いた。
父さんも母さんも、楽しく付き合った時間があっただけで
十分だったんだと思う。
でもその頃、母さんはすでに俺を身ごもっていた。
結局父さんは金を援助することで、
母さんに隠し子として俺を育てさせることにした。
…俺さえいなければ、父さんは何もかも上手くいったのに」
彼は、笑った。
それがさゆみには信じられなかった。
- 194 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:21
-
「いや、それでもしばらくは上手くいってたのかな。
俺が六歳のときに、母さんが死ぬまでは。
母さんは酒におぼれるばっかりで、あんまり思い出はなかったけど
それでも少しは悲しいと思った気がする」
自分の母親の死なのに、
と、さゆみは彼の横顔を見る目を細めた。
「とにかく俺は、父さんの家に引き取られることになった。
父さんの家はでかくて、最初は迷うんじゃないかって心配だった。
でも、そんな必要なかった。
俺が出入りできる場所は限られてたから。
すでに父さんと、父さんの本妻の間にも子供がいて、
俺以外のやつは全員純血のラテン人。
ハーフの俺の存在は、いやでも目立った。
俺は食事も何もかも自分の部屋で済ませて、
風呂も、父さんたちが使ってるものじゃなくて、
使用人用のものに入ってた。
俺は、あの家に要らないから」
- 195 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:22
-
―おい、馴れ馴れしく近づいてくるなよ
―何、見てんだよ。あっち行けよ
「腹違いの兄弟たちは、年下ながらに俺を煙たがって
最初はいじめまがいに絡んできてたけど、
結局俺に関ることすら禁じられたらしくて、
一緒の家にいるのに一日中無視されるようになった」
でも、それも仕方がない。
そう繰り返す亀造に、さゆみは唇を噛み締めた。
「俺は、要らない人間だった。
だけど義理のかあさんは、ちょっと違ったんだ。
義母さんは、俺にこう言った」
―私はあなたが憎いわ。
でも、あなた次第では、愛してあげる…
「最初の日は、俺が小学校三年生のときだった。
俺は体がでかい方で、普通の日本人と比べたら
小学校高学年に見えるくらい成長してたと思う。
義母さんは俺の部屋に入ると、俺に、
服を脱げ、って言ってきた」
さゆみはこのとき、亀造が何を言い出すのか解らなかった。
しかし、続けられた彼の話す事実に、言葉を失った。
- 196 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:22
-
「訳がわからず立ち尽くしてると、義母さんは
服が破れるくらいの力で、俺のシャツを脱がした。
怖くなって逃げようとすると、革のベルトみたいなもので
義母さんは俺の背中を打った。
直に衝撃を受けた背中は、声にならないくらい痛んで、
俺はベッドに倒れこんだ。
痛みに悶えている俺のズボンを、義母さんは脱がしていた。
俺はとうとう裸にされた。
義母さんは、俺の陰茎にしゃぶりついた。
驚いて、俺は身をよじろうとした。
でも、義母さんは一瞬間口を離し、俺にこう言ったんだ」
―愛してるわ
「俺はその詞の持つ心地よさに、抵抗する力を失った。
愛している、と言われたんだ」
さゆみは、こみ上げてくる涙に、むせていた。
彼は何かを間違えていると、強く思った。
「そのまま、義母さんの為すままに体中にキスされて、
俺も何回か同じことを返して、その日は終わった。
次に義母さんが部屋に来たとき、俺は抵抗しなかった」
打たれることが怖かった訳ではない。
「義母さんは定期的に俺の部屋に来て、服を脱いだ。
俺は義母さんの胸を揉んだり、唇で体をなぞったり。
義母さんは俺にしゃぶりつきながら、愛してる、って言い続けた」
その詞が彼にとって、快楽だったから。
- 197 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:23
-
「中学に入る前くらいから、義母さんは俺にセックスを求めた。
やり方は、義母さんが丁寧に教えてくれた。
俺は義母さんの望むままに、応えた。
義母さんの体は外人独特の美しさがあって、
顔つきもかなり端正に整ってた。
次第に、義母さんが部屋に入ってくると
俺の方からキスを仕掛けるようになった。
そうすれば義母さんは、愛してる、としか言わなくなるから」
まるであたしに何か言われるのを恐れて口を塞ぐために
キスしてるみたいだった、というれいなの言葉が
さゆみの頭をよぎった。
なんとなく、昨夜の彼の行動を理解した。
さゆみに、最低、と言われ、愛されている、と実感できなくなった彼は、
目の前に現れたれいなに、無意識にその詞を求めたのだろう。
彼にとって、至福の詞、を。
不要、と言われることを恐れながら。
「義母さんが俺に求めることは、性交と
吐き気がするくらい深いキスだけ。
でも俺は、その一つ一つにきちんと応えた。
だって、俺は…」
さゆみの頬を伝った涙が、雫となって落下する。
- 198 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:23
-
「望みを叶えてあげないと、愛されない人間だから」
亡くなった主人の代わりになることで裕子に愛されてると感じ、
抱擁と口づけで励ますことで、れいなに愛されてると感じる。
誰かの望むままに、誰かを演じるように生きていく。
- 199 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:23
-
「父さんにばれたのは、俺が中三のときだった。
たまたま鍵をかけ忘れたドアから父さんが入ってきて、
俺は、壁に激突するくらいの力でぶん殴られた。
口いっぱいに広がる血の味には、気分が悪くなったよ」
―お前たち、いったい何をやってるんだっ?
―違うの。この子が無理矢理、私に…
「義母さんの弁明を、俺は否定しなかった。
だって、義母さんがそう望んでる、って思ったから。
俺は当然、もう一度父さんに殴られた。
そして高校に入ったら、俺は家を追い出された。
マンションに、一人で暮らすことになったんだ」
そこでれいなと知り合った。
「家とは、ほとんど音信不通。
もちろん義母さんもなんの連絡もよこさないし
あれから一度も会っていない。
でも、それも当たり前のことだから」
相手の望みには逆らわない。
- 200 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:24
-
「ねえ、さゆ…」
そんなに辛い過去を語っているのに。
「なんで泣いているの?」
彼は、平然としていた。
「だって、かめぞ…」
さゆみは溢れる粒に、なかなか喋ることができない。
「かめ…ぞ、苦しそうだもん」
「苦しい?俺が?」
さゆみは、声を出さず頷く。
「俺は苦しくなんかないよ。
愛してる、って言ってもらえれば、俺はそれだけでいいんだ。
義母さんだけじゃない、中澤さんやれいなにだって…」
「お義母さんと、中澤さんやれいなさんは違うっ」
彼女の声は裂けてしまいそうなほど震えていた。
- 201 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:24
-
「お義母さんは、かめぞのことをかばおうともしなかったし、
別々に暮らしてから何も言ってくれていないんでしょう?
でも、中澤さんやれいなさんは違う。
かめぞに優しさをもらって、だけど自分たちはかめぞに
何もしてあげられないって悩んでた。
かめぞのこと、本気で心配してた。
私だって、かめぞのこと心配で、助けたくて。
そんな人たちの想いと、お義母さんのことを
一緒にしちゃ駄目だよ」
「けど、俺…」
「かめぞは、愛されてる、って簡単に言うけど、
愛、って人によっていろいろ違うと私は思うの」
「人に、よって?」
「私も、まだまだ解ってないんだけど。
ううん、だからね…」
涙に輝く表情で、さゆみは笑う。
- 202 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:24
-
「一緒に見つけにいこう?」
亀造が思う、愛されている、は
さゆみにとっては疑問が浮かぶばかりだ。
しかし、どこが間違っていて、正しいものは何なのか、
自分にはまだ教えてあげられないと、さゆみは思った。
だから、言うのだ。
「私、かめぞと見つけてみたいんだ」
恋、とか、愛、とか判らないと考えていた少女が
心の底から搾り出した、今現在の答え。
「見つけ、に?」
さゆみは頷いて彼に応えた。
- 203 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:25
-
「ねえ、かめぞ。教えて。
お義母さんと過ごした時間は、本当に楽しかったの?」
彼は首を横に振った。
「…嫌だった。早く終わってくれ、って、助けてくれ、って
ずっと思ってた」
辛かったね、と、さゆみは彼の手を強く握った。
「中澤さんや、れいなと過ごした時間は?」
彼は微笑んだ。
瞳も、うつろではなく、しっかり灯っていた。
「すごく、暖かかった」
確かに、義母と、裕子やれいなは違う。
- 204 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:25
-
「それに、さゆはね…」
呟きながら、彼女の手を握り返す。
「さゆといる時間は、すごく大事に思う。
なんだか、真ん中にある感じ」
「真ん中?」
「うん。特別に感じる」
さゆみは、ふうん、と歯がゆく微笑んだ。
「俺も、さゆと見つけにいきたい。
愛されてる、ってこと、見つかるかな」
「かめぞとなら見つかる、って私は思うの」
「俺も、さゆとなら、って思うよ」
亀造は、さゆみの肩に顔を埋めた。
- 205 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:26
-
「俺、今、すごく嬉しいよ」
「ほんと?」
「うん。何かわからないけど、嬉しい」
「私も」
「だからさ、さゆ…」
「ん?」
彼は、小さな小さな声で言う。
- 206 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:26
-
「ほんの少しだけ、泣いていいかな?」
さゆみは彼にキスをした。
額の上辺りの彼の髪の毛に口づけるだけの、精一杯の勇気。
「いいよ」
彼は声を押し殺して泣いた。
さゆみは何も言わなかった。
時々上下する彼の肩を、ゆっくりと撫でながら、
要領悪く彼を抱きしめた。
そうしてるうちに窓の外は、雨があがっていた。
ビルの街の向こうには、虹でも架かっているのだろう。
見えない虹を二人で渡っている姿を、
さゆみは鮮やかに思い描いていた。
- 207 名前:(13) 投稿日:2006/03/05(日) 14:26
-
(13) 終
- 208 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:41
-
「俺、明日、実家に行ってくるよ」
中澤家の居間。
商品案内を終えた亀造は、さゆみの目を見て言った。
「大丈夫なんか?」
最初に返したのは、裕子だった。
彼女もれいなも、さゆみから大体の事情を知らされていた。
さゆみと亀造が会うのは、あのマンションの日以来だった。
「はい。父にも連絡を入れておきました」
彼の表情は、以前とは変わっていた。
優しそうな笑みを浮かべているのは相変わらずだが、
何か意思のようなものも感じ取れる、積極的な雰囲気があった。
「…行って、どうするの?」
さゆみは、不安げな上目遣いで彼を見た。
「わからない。でも俺は今まで、実家から逃げてたんだと思う。
だから、逃げないで話をしてみたいんだ。
そうしないと、いつまでも引きずってしまうだけだから」
「…うん、そうだね」
「義母さんとも、会ってみようと思う。
会って、俺があの人を今どう感じるか、
あの人は俺をどんな風に見るか、確かめてみたい。
それで、できれば…」
彼は、しっかり前を向いていた。
- 209 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:42
-
「あの家で過ごしたことを、過去のものにしたい。
もう、あの家や…義母さんに捕らわれずに生きていけるように」
微笑むさゆみに囁くように、
「さゆとの、恋愛、が見つけられるように」
と亀造は付け加えた。
- 210 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:42
-
「ねえ、かめぞ。何かあったら一番にここに来てね」
帰り際、さゆみは彼をそんな言葉で見送った。
彼は、ありがとう、と手を振り、中澤家を去っていった。
「上手くいくと、ええねんけどな」
裕子は、そっとさゆみに呟いた。
「…きっと、大丈夫です。かめぞは、きっと」
彼を信じることが、二人にできることだった。
- 211 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:42
-
外観からすでに洋風な豪邸。
亀造は、およそ十年ぶりの実家の前に立ち尽くしていた。
呼び鈴を押そうとする右手を一進一退させていると、
目の前のドアが内側から開いた。
「…入れ」
彼に対する父親の声は、冷たく棘があった。
- 212 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:43
-
「二度と帰ってくるな、と言ったはずだ。
まあ、いい。用件だけ話して、さっさと帰れ」
父子の会話は、玄関先のロビー。
相変わらず綺麗に保たれているものだ、と亀造は目を細めた。
「おい、聞いているのか」
明後日の方向を向いたままの彼を、
父親は白の混じった怒髪をなびかせながら言う。
青色の瞳は、ぎらぎらと息子を捕えている。
「俺は、あの事を許していないのだからな」
あの事。
亀造と妻が一つのベッドで行った行為。
「…許されることではないと、俺もわかってます。
だけど父さんに一つ、言っておきたいことがあって
今日はここに来ました」
「何?」
父親は、眉を大げさに吊り上げる。
ひるむことなく亀造は続けた。
あの時、あの場で、目の前の父に言えなかった言葉たち。
- 213 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:43
-
「あれは、俺がやろうと言い出したことではありません」
あの時、亀造をベッドに押し込んだのは。
「なんだと?」
「俺は、あんなことしたくなかった。
義母とはいえ、自分の、はは、と関係をもつなんてこと」
亀造に無理矢理、性行為を迫ったのは。
「俺にあんなことをさせたのは、本当は…」
孤独な路頭に迷わせたのは。
- 214 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:43
-
「…カメゾウ」
父が背中を向けていた奥の扉が開かれ、そこから声が届いた。
亀造にとっては懐かしく、忘れられない声色。
彼に性的関係を強要した、西洋らしい顔立ちの女性。
「義母さん…」
父越しに彼は、彼女と再開することとなった。
「こら。お前は出てくるなと言っただろう」
「ですが…」
とっさに父親は彼女に近づき、小さな文句の言い合いが生じる。
ぐらり、と亀造の視界が揺れた。
彼は襲ってくる眩暈に、すでに立っているのがやっとの状態になっていた。
脳裏には、義母との交わりの記憶が鮮明に思い出されていた。
何年も真空状態で保存されていたものが、一気に解けだすように。
さゆみに話したときよりもそれは、はっきりしていた。
頭の割れそうな痛みに、彼は耐え切れそうもなかった。
しかし彼は思った。
この壁を乗り越えなければならない、と。
そして改めて感じ取った。
義母と過ごした時間は苦痛でしかなかった、と。
自分をこんなにも苦しめているのは。
- 215 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:44
-
「義母さんだ…」
亀造の突然の発言に、父も義母も口を止めた。
「義母さんなんだ。
義母さんが俺の部屋に入ってきて、俺の服を脱がせた」
「何を言ってるんだ、貴様は」
「義母さんは夜、俺の部屋で自分から服を脱いだ。
セックスの仕方を教えたのも、義母さんだ。
性行為を無理矢理、強要したのも。
小学の頃から、ずっと…」
「黙れっ」
父の右拳が頬を射抜くように、息子を殴った。
義母の顔は真っ青だった。
亀造は足元をふらつかせ壁に背をぶつけたものの、
すぐに体勢を立て直し、父を見る。
- 216 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:44
-
「いいかげんな嘘をつくと、ただじゃ済まさんぞ」
「嘘なんかじゃない。嘘をついてたのは、
あのときの俺と義母さんだっ。
俺は、本当は…」
「なんだと言うんだっ」
父はもう一度拳を振り上げた。
しかし今度はその腕を亀造が掴んだ。
「この…離せっ」
「俺には、殴られる理由なんかない。
あの時、心身を束縛される理由も…」
「今更なんだ?財産でも欲しくなったか」
「違うっ」
そんなものが欲しいわけではない。
しかしそれならば、自分は今なにを望んでいるのか
亀造は解らなくなっていた。
父親の両手を掴んで動きを封じた。
自分に為された、性的虐待、ととれる事実も洗いざらい述べた。
それでもその目的は見えなかった。
亀造の頭の中にいまだ繰り返される、義母の回想。
「うわ…」
もみ合いの末に、亀造は父親に馬乗りの状態になり、
彼を上から見下ろした。
ひどく息は荒れていた。
- 217 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:44
-
「もう…やめて」
家具類も巻き込んだ派手な取っ組み合いの終止符は、
神経に触るほど高い女性の声。
「カメゾウの言うとおり、私がしたことよ」
空間が凍りついた。
「お前、お前…」
「私が自分でカメゾウの部屋に行って、それで…」
「うるさい、うるさいっ」
激しい怒鳴り声と共に父親は跳ね起きる。
呆然としていた亀造の体は、吹き飛ばされるようにしりもちをついた。
「なぜ、そんなことをっ?
信じられたものか。義理とはいえ、あいつはお前の息子…」
「あなたは、いつもそう言って…結局
自分の体裁しか考えていないんだわっ。
私のことなんてこれっぽちも想っていないくせに」
義母の口から語られる、真理。
- 218 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:45
-
「あなたは、私と結婚したときから
ずっと外で女の人と関係をもってばかり。
私に気づかれないようにやっていたつもりなんでしょうけれど、
そんなに鈍い女、いりゃしないわ。
ずっと耐えてきていたのに、あなたの浮気で出来たような
子供であるカメゾウと暮らすことになったとき
私の中でなにかが切れたように感じたの。
カメゾウが悪いんじゃないってわかっていても、
憎いと思う気持ちは抑えられなかった。
そしてあの時、私の精神は間違いなく病んでいたわ。
…次第に憎しみが心の隅に追いやられ、
なかなか自分を見てくれない夫であるあなたの代わりに
あなたの息子であるカメゾウを欲するようになってしまった」
涙を流しながらの義母の言葉を、床に座り込んだまま
亀造は聞いていた。
義母は顔を上げ、自分を見ている彼に向かって言う。
「ごめんなさい。あなたには何を言っても
何を償っても許されることのないことをしたわ。
今なら、今ならわかるの。
でも、当時の私には自分を止める術がなかったのよ。
本当に、ごめんなさい…」
義母はただ、他の語を忘れてしまったように謝罪を繰り返す。
亀造は、その姿に目を細めた。
- 219 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:45
-
「この…なんてみっともない行為をしてくれたんだっ」
父は癇癪に任せてよく手の出る類の人間だった。
今度の平手を振り下ろす先は、自分の妻だった。
「やめてくださいっ」
二人の間に入り込んだのは、亀造の声と体だった。
「やっぱり、悪いのは俺です」
「カメゾウ…」
「俺がこの家にいたのがいけなかった」
俺の居場所は、この家にはない。
「父さん、義母さん。俺は今日、この家に来ていません。
かねての望みどおり、もともと俺はこの家のものじゃない
ことにしれくれて、構いません」
「亀…」
「他の息子さんたちは?」
亀造の、異母兄弟のことだ。
「みんな、出かけている」
「よかった。今日のことを知られることはなさそうだ」
彼は乱れた服装を整えて、玄関扉を開く。
- 220 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:45
-
「それじゃあ、さようなら」
門をくぐり、一歩一歩、歩いていく。
自分が背を向けた家の中はこれから先どうなるだろう、
と亀造は考えた。
おそらく父は相変わらず不倫まがいの女遊びをやめないだろうし
義母はそれを止めないだろう。
元々策略結婚のようなものだから、致し方ない。
義母の亀造に対する行為にしても、
明るみに出ることを恐れ、父は深く咎めないだろう。
自分がこれ以上この家をかき乱すことも、意味はない。
ただ。
亀造はこの日、わかったことがある。
自分の居場所は、実家にはない。
しかし。
自分にはずっと、恋しいと思える空間がある。
亀造はこの日、はっきりと気付いたのだった。
- 221 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:46
-
「かめぞうっ?どないしたんや、その顔」
中澤家の玄関先、亀造が呼び鈴を押す前に
買い物に出かけようとした裕子と丁度出くわした。
「あ…やっぱり腫れてます?」
父に殴られた左の頬と唇に、じんじんと痺れるような感覚があるのを
亀造自身気がついていた。
実際、その箇所は青紫色に腫れ、血が見えていた。
「いえ、大したことありません。
中澤さん、さゆは…?」
「ああ、そうや。おーい、さゆみ」
裕子はドア口から家の中へ叫ぶ。
さゆみは、急ぎ足で姿を現した。
「かめぞ…」
さゆみは、小さく彼の名を呼んだ。
そして彼を見るなり、涙を流す。
亀造は目を開いて驚き、戸惑っている。
- 222 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:46
-
「えっとね、さゆ。うん…あ、
この頬は全然痛くないんだ。うん。
どこもなんともないし、平気なんだ。
父さんや義母さんのことは、ちゃんと片付いたよ。
だから…泣かないで?」
しどろもどろで、伝えたいことは最後の方で、聞き取りにくい。
「さゆ。泣いてたら、亀ちゃんが困るやんか。
なんか、言ってあげや」
さゆみが贈る、彼への詞。
- 223 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:46
-
「おかえり、かめぞお…」
とてもとても優しく、あの家にはない、暖かさ。
もし天変地異が起きたら、もし地球が滅びるとしたら、
自分は真っ先に彼女の元へ駆けつけるだろうと亀造は考えた。
そこが、その場所が彼の、家、なのだから。
「ただいま、さゆ」
彼はさゆみの頬にキスをした。
涙に濡れ、赤く染まった柔らかさに、そっと。
さゆみは、はにかみながら微笑んだ。
- 224 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:46
-
「あ、もしもし。れいなさん?
うん。今、あたしの家やねんけど、
ああ、かめぞうのことやで」
裕子は居間の入り口の前で、携帯電話を繋げた。
「上手く、いったみたいやで」
その報告に対し、良かった、と繰り返すれいなに、
裕子はひとつひとつ丁寧に頷いた。
「ああ、かめぞうか?」
彼と話したい、とれいなは当然主張した。
裕子は声がもれるくらいに微笑み、その依頼に応対する。
- 225 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:47
-
「寝てるわ」
裕子の視線の先には、片付けかけていた着物の布地。
その上に並ぶ、二つの寝顔。
さゆみと亀造は、並んで微かに笑顔を浮かべている。
しっかりと、手を繋いで。
- 226 名前:(14) 投稿日:2006/03/08(水) 19:47
-
(14) 終
- 227 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 00:18
- ちょっと見ない間に怒濤の展開にw
かめぞうよかったねかめぞう
- 228 名前:あお 投稿日:2006/03/09(木) 01:06
- 第7話ぐらいに名無しでレスして以来、レスは久々ですが、小説の方はずっと拝見させていただいてました。
今はただ、かめぞーに拍手してあげたいです。かめぞー、よく頑張った!
- 229 名前:チキン 投稿日:2006/03/12(日) 23:55
- レスありがとうございます 僕も頑張ります
更新します
- 230 名前:(15) 投稿日:2006/03/12(日) 23:56
-
さゆみが彼の指した方向を見ると、
きまり悪そうに知らぬふりをする裕子の姿が確認できた。
「もう、中澤さん…」
抗議を始めようとしたさゆみは、すぐに動きを止める。
亀造が、不意打ちのように彼女の唇を奪っていた。
裕子からは見えないように、カメのぬいぐるみで隠して。
「またね」
呆然と立ち尽くすさゆみにぬいぐるみを手渡し、
彼は手を振りながら去っていった。
- 231 名前:チキン 投稿日:2006/03/12(日) 23:57
- ↑これコピーミスしました
読んでしまったら忘れてくださいごめんなさい
- 232 名前:(15) 投稿日:2006/03/12(日) 23:58
-
亀造が実家を訪問した翌日、早朝。
週明けの、うっとおしい朝の光もまだうつろな頃合。
「れいな、パジャマ着てる」
亀造は、れいなの自宅マンションに来ていた。
高校時代は同じマンションに住んでいた二人だが、
大学を卒業する頃に別々に引っ越したのだった。
「当たり前でしょう。
今、何時だと思ってるのよ」
「へへ」
不平をもらすれいなに、亀造は無邪気に微笑んだ。
- 233 名前:(15) 投稿日:2006/03/12(日) 23:58
-
「…ずい分、すっきりした顔してるのね」
「そう?うん、そうかな。
気持ちのほうも、なんか、いいから」
「なんか、ねえ…」
れいなの部屋の中にも、涼しい朝の光が差し込み始めていた。
「うん。前より、きらきらして見えるよ、かめぞう」
寝起きのまま、れいなも微笑んだ。
「最初に会ったときも、
れいな、パジャマ着てたね」
二人が出会ったのは、高校一年生の春。
入学して、ほんの間もない頃。
- 234 名前:(15) 投稿日:2006/03/12(日) 23:59
-
―あんた暇っ?ちょっと来てっ
パジャマのまま、れいなはマンションの自室から飛び出してきた。
亀造が、中学時代の友人との付き合いで
偶然帰りが遅くなった日のことである。
―え、なに?
―いいから、早くっ
無理矢理れいなの部屋に押し込まれた亀造。
彼女を怯えさせていたものは、小さなごきぶりだった。
―よし、処分したよ
亀造は嫌そうな顔ひとつせず、れいな家のくせ者を退治した。
―あ、あり…ありがと…
―うん?
―あんた、迷惑じゃなかったと?
―なにが?
―なにがって…
―同じクラスの、田中さん、だよね?
―へ?ああ。そういえば見たことあるよ、あんた
―僕、エリック亀造
―…変な名前
それが、二人のきっかけである。
- 235 名前:(15) 投稿日:2006/03/12(日) 23:59
-
「れいな、強引なんだもん」
「うるさいなー。
でも、本当に嬉しかったのよ。
福岡から出てきていろいろ不安だったところに
かめぞうと知り合えて」
「今日、素直だね」
「そんなんじゃなかとっ」
にこにこと微笑む亀造に、れいなは顔を赤らめる。
「俺も、れいなに会えて良かった」
ずっと彼を見ていて、
不器用ながらに彼を気遣い続けた彼女。
「れいなに会えて、
ほんとうにほんとうに嬉しかった」
亀造は優しく包むように、れいなの左手をとった。
そして、白い手の甲にそっと口づける。
- 236 名前:(15) 投稿日:2006/03/13(月) 00:00
-
「ありがとう、れいな」
彼は笑みを浮かべたまま、れいなを後にした。
その背中を、れいなは黙って見つめていた。
彼の姿が見えなくなってから、
れいなは彼の最後のキスに目を落とした。
「…かめぞう」
れいなは、そっと彼のキスの場所に自分のそれを加えた。
「良かったね」
口調も表情も、何もかもが暖かい。
ただ、れいなの頬には冷たい雨が降る。
亀造の幸福が、れいなにとっても嬉しいことであるのは確かだ。
それでも。
「だからって、簡単に諦められるって訳じゃないわ…」
れいなはただ泣き、立ち尽くした。
- 237 名前:(15) 投稿日:2006/03/13(月) 00:00
-
日曜日、朝九時五十分。
「さーゆ」
待ち合わせの駅、約束の時間十分前に亀造は現れた。
そのさらに五分前に到着していたさゆみは、彼に手を振り応えた。
「ごめん、待たせたね」
「ううん。まだ十時になってないし」
「そ?じゃ、行こうか」
「うん」
彼の左手がさゆみの右手を優しく捕える。
さゆみは少し驚いたが、平静を装って彼についていく。
顔はしっかりほころんでいたけれど。
- 238 名前:(15) 投稿日:2006/03/13(月) 00:01
-
最近やや話題になった洋画を鑑賞するのが
二人の初めの目的だった。
「さゆ、飲み物なにがいい?」
「かめぞと同じのでいいよ」
亀造は頷き売店に向かう。
さゆみは彼の後姿を目で追い、そのまま気づかぬうちに見つめていた。
彼の仕草ひとつひとつに目尻が下がった。
- 239 名前:(15) 投稿日:2006/03/13(月) 00:01
-
場内はすでに大方の席が埋まっていた。
やや後ろの席に、二人並んで腰を落とす。
映画の展開はどことなく単調だったが、映像の迫力はあった。
しかしさゆみは、映画の内容などあまり頭に入ってはいない。
隣に座っている亀造の暗闇のシルエットが気にかかり、
ちらちらと横目で見てしまっていたからだ。
彼女の顔の真横には彼の肩。
怒らないよね。
さゆみは胸のうちにそう呟いて、頭を彼の方へ傾けた。
そしてそのまま彼の首元に落下する。
彼から反応はない。
不審に思ったさゆみは、彼の寝息を聞いて落胆した。
彼女は、ばか、と頬を膨らませ、彼の肩を借りたまま
ふて寝を始めてしまった。
映画が中盤から最後の見せ場に迫るころ、亀造が目を開いた。
傍らにさゆみの寝顔を発見し、やや驚く。
そしてすぐに微笑み、彼女のみずみずしい髪の毛を撫で
額に自分の唇を落とした。
スクリーンには赤黄色の夕日が輝いている。
- 240 名前:(15) 投稿日:2006/03/13(月) 00:01
-
映画が終わり場内が明るくなると、さゆみも目を覚ました。
「おはよう、さゆ」
間近にある彼の顔に、さゆみは彼にすがったまま
寝てしまったことに気付く。
「ご、ごめん…」
さゆみが素早く起き上がると亀造は、いいよ、と微笑んだ。
「俺も途中寝ちゃってたし。
そろそろ出て、ご飯にしよう」
彼は落ちついた表情で相変わらずに優しい。
さゆみは少し悔しい思いをしていた。
- 241 名前:(15) 投稿日:2006/03/13(月) 00:02
-
「え。営業部から異動?」
街どおりを眺める店で昼食をとりながらの亀造の言葉に
思わずさゆみは声をあげる。
「うん。来月から企画開発部に。
前々からあった話だったんだけど、今回は受けることにしたんだ」
企業の内部になど詳しくない学生身分のさゆみにも、
彼がセールスマンではなくなることくらいは解った。
「そっか。うちに来ることはもうないんだね、かめぞう」
「うん、お仕事ではね」
沈んだ表情のさゆみに、彼は笑顔で言う。
「ときどき、遊びに行かせてもらっていいかな?」
さゆみの顔も一気に明るくなる。
「うん、いいよ。
そうだ、ご飯とか食べに来てよ。私、作るから」
「え。さゆ、作れるの?」
「作れるよ。失礼だなー」
料理経験などほぼ皆無にもかかわらず、
自信は満々のさゆみだった。
- 242 名前:(15) 投稿日:2006/03/13(月) 00:02
-
「きれー…」
魚をトンネルをくぐり抜けながら、さゆみが呟く。
「ねえ、かめぞう。イルカ見よう、イルカ」
はしゃぐさゆみを眩しそうに見つめ、
亀造は彼女を追いかけるように歩き出す。
最初は、デート、という響きに緊張していたさゆみも、
普段どおりの快活さを取り戻していた。
「あ、かわいい」
最後に立ち寄ったのは、ぬいぐるみなどが主に並ぶ
水族館の土産店。
さゆみはたちまち中へ進んでいってしまう。
「かめぞ。カメがいる、カメ」
彼に手招きをしたあと、さゆみはそれを手に取る。
人間の赤ん坊くらいの大きさがある、緑色をしたカメのぬいぐるみ。
「本当だ。俺、なんとなくカメって好きなんだよね」
「名前が、かめ、ぞうだから?」
「そう」
「単純だー」
可笑しそうにさゆみが笑うと、彼は照れたようにはにかんだ。
- 243 名前:(15) 投稿日:2006/03/13(月) 00:03
-
「でも、このぬいぐるみ可愛い。欲しいなー」
「じゃあ、買おっか」
「え?」
「さゆにプレゼント」
彼はさゆみに笑顔を向け、そっとさゆみの手から亀をとり
カウンターへ持っていく。
「ありがとう、かめぞう」
彼から贈られた柔らかい動物を抱きしめ、さゆみは微笑む。
「かめぞだと思って大事にするね」
「なんか、俺がいなくなっちゃうみたいじゃん」
「違うよー。本当に嬉しいんだもん。
かめぞからのプレゼント」
「うん。それなら良かった」
カメの丸く黒い瞳が二人の笑顔を映した。
- 244 名前:(15) 投稿日:2006/03/13(月) 00:03
-
夕日も落ちた頃、さゆみが乗ろうと言い出した観覧車に揺られ、
何となく無口な気分が流れてきた。
さゆみは窓の外の景色に目を奪われており、
亀造もその彼女越しにやはり下界を望んでいた。
「かめぞ?」
二人の乗るゴンドラがちょうど一番高いところへ着いた頃、
さゆみがおもむろに口を開いた。
「私、今日すごく楽しかったよ。
かめぞといると、なんだか胸がどきどきして、
それで、楽しい」
「俺も、さゆといると楽しいよ」
「本当?」
「うん。今までに感じたことないくらい楽しいよ」
「私も、こんな気持ち初めてだよ」
さゆみが亀造の手を握る力を強めると、彼もそれに応えた。
「また一緒に出かけようね、さゆ」
「うん。今度は観覧車だけじゃなくて
絶叫系が乗れるところとかがいいなあ」
「ごめん。俺、絶叫系苦手なんだ」
「えー。私のために克服してよ」
「無理です」
「もー…」
ゆっくり回っていた観覧車のゴンドラも、
名残惜しく地上にたどり着き、二人は中澤家を目指した。
- 245 名前:(15) 投稿日:2006/03/13(月) 00:04
-
見慣れた路地を、亀造とさゆみは少し遠回りをしながら歩く。
さゆみが疲れるだろうから、と
先のぬいぐるみは亀造が抱えている。
雑談の段落が二つ、三つ終わると、
とうとう中澤家の前まで到着した。
「送ってくれてありがとう」
「ううん。また、電話するね」
「うん、待ってる」
「…さゆ」
亀造は繋いでいた手を離し、さゆみの肩の上に乗せた。
そしてそのままさゆみの頬に触れ、彼女を見た。
夜でもはっきり輝いているさゆみの瞳も
彼を真っ直ぐに映している。
風の通る隙間もない至近距離で、二人は見つめ合った。
亀造とさゆみの唇が近づく。
彼女の口をふさぐためではなく、愛情を伝えるための大切な口づけ。
さゆみはゆっくり目を閉じた。
- 246 名前:(15) 投稿日:2006/03/13(月) 00:04
-
「え?」
違和感をもち、さゆみはすぐに目を開く。
眼前にあったのは、亀造ではなくカメのぬいぐるみだ。
「ちょっと、かめぞ…」
「ごめん、ごめん。
カーテンに隠れて家の中から中澤さんが見てたから」
さゆみが彼の指した方向を見ると、
きまり悪そうに知らぬふりをする裕子の姿が確認できた。
「もう、中澤さん…」
抗議を始めようとしたさゆみは、すぐに動きを止める。
亀造が、不意打ちのように彼女の唇を奪っていた。
裕子からは見えないように、カメのぬいぐるみで隠して。
「またね」
呆然と立ち尽くすさゆみにぬいぐるみを手渡し、
彼は手を振りながら去っていった。
- 247 名前:(15) 投稿日:2006/03/13(月) 00:05
-
中澤からの冷やかしまがいの質問攻めを受け流し、
パジャマに着替え、さゆみは自室で就寝しようとしていた。
ベッドの上には、亀造からのプレゼントであるカメが
ちょこんと乗せられている。
「おやすみ、かめぞお」
電気の消えた部屋の中で、さゆみは彼に口づけをした。
亀造とのキスを包んだ、贈り物の彼に。
自分でしたことながらさゆみは顔が赤くなり、
なかなか眠りにつくことができなかった。
- 248 名前:(15) 投稿日:2006/03/13(月) 00:05
-
(15) 終
- 249 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/13(月) 00:31
- 可愛い可愛い可愛いぃぃぃぃ!!!
………取り乱しました、すみませんorz
- 250 名前:あお 投稿日:2006/03/15(水) 23:54
- かめぞー!カッコ良すぎるぞ!何て罪な男なんだ……さゆは可愛すぎる!!
でも、れいにゃ……・゜・(Pд`q。)・゜・
- 251 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2006/03/18(土) 21:59
- れいな・・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
- 252 名前:チキン 投稿日:2006/03/18(土) 23:26
- レスありがとうございます
本当は昨日更新する予定だったんですが無理でした
今日こそ更新します
- 253 名前:(16) 投稿日:2006/03/18(土) 23:27
-
休日は大抵一緒に過ごし、平日もたまに夕食を共にするという
交際を続けている亀造とさゆみは、
最初のデートの日に交わした約束を果たすことになった。
さゆみの作った料理を中澤家で晩餐するというものだ。
そのため、帰宅したさゆみは裕子と共に
早々と夕食の準備にとりかかった。
「さゆみ、こげてるで」
「え…あーっ」
さゆみの手つきは実際のところかなり危なっかしい。
しかし彼女はあくまで自分の手でこしらえることにこだわるので、
裕子は手順を確認してやることしか出来ない。
そのことが事態をさらに悪い方向へ導いていた。
- 254 名前:(16) 投稿日:2006/03/18(土) 23:28
-
「あ、かめぞから電話だ」
鍋で具材を煮込んでいる間に鳴った携帯を手に、
コンロを裕子に任せてさゆみはいったん台所を出て行く。
裕子はその隙にそっと味噌汁の入った鍋を開き、味をみる。
「…なんや、これ」
裕子は顔をしかめ、小声でその出来を評した。
「なんで味噌汁が甘いねん。
しかも和食特有の甘さとはちゃう不愉快な甘さや…」
彼女の感想はまさにだった。
そして、難しいからやめておけ、と一度は裕子が止めたにも関わらず
さゆみが強行して作った肉じゃがの出来は
試食の必要なく想像がついた。
「かめぞう、短い付き合いやったけど
あんたのことは一生忘れへんで」
裕子はさゆみの料理を食したあとの亀造の冥福を祈り始めていた。
- 255 名前:(16) 投稿日:2006/03/18(土) 23:28
-
「お邪魔しまーす」
さゆみへの電話で伝えた通りの時刻に亀造はやってきた。
部署が異動になって以来、久しい中澤家への訪問である。
「いらっしゃい。あがって、あがって」
さゆみは嬉しそうに彼の背を押す。
彼は微笑んで彼女に流されていった。
裕子の顔を苦痛色に染めた料理の並ぶ台所へ。
「へー、すごい。これ、さゆが作ったの?」
さゆみの指示があってか、さゆみの料理は
見た目だけならほぼ完璧だった。
亀造が感心して彼女に賞賛の言葉を贈るほどに。
裕子は複雑な表情でその光景を黙視していた。
- 256 名前:(16) 投稿日:2006/03/18(土) 23:28
-
「いただきます」
そして三人分の白飯も盛り付け、いよいよ食事が始まった。
さゆみは興味津々な様子で、裕子は不安げな面持ちで
亀造の一口目を見守った。
彼が最初に手に取ったのは味噌汁だった。
「ん…」
口に含んだところで彼の動きが止まる。
さゆみと裕子は先に述べた雰囲気をおのおのに強め、
彼の言葉を待った。
「なんか、アップルティーみたいな味がする」
亀造の例えは、よくわからなかった。
- 257 名前:(16) 投稿日:2006/03/18(土) 23:29
-
「ア、アップル?」
裕子は目の前の味噌汁を今一度味わっても
彼の言うところを理解できない。
果たして彼はこの味噌汁を不味いと言っているのか、
それとも奇跡的にお気に召しているのかさえも迷宮入りだ。
ぽかんとしていたさゆみも我に返り、
自分の手元の器を取り口をつける。
「…まずい」
さゆみはぽつりと小さく呟く。
真横に座っていた裕子はその声を耳に拾った。
裕子は、やっと気づいたか、とでも言いたげな表情になっている。
しかし亀造は箸を持つ手を止めていない。
もう全体の半分は体に入れたのではないだろうか。
裕子や、張本人のさゆみすらも、信じられない、といった
様子で彼を見つめている。
さゆみは思わず彼に声をかけた。
「か、かめぞ?」
「ん?」
「あの…ううん、なんでもない」
「肉じゃがも、頂いていいかな?」
盛り分けられたそれを指差しながら、彼は言う。
さゆみは深く考えぬうちに頷いてしまった。
- 258 名前:(16) 投稿日:2006/03/18(土) 23:29
-
亀造は、ぱくぱくと肉や野菜を口の中へ運んでいる。
さゆみと裕子もつられて自身のそれに箸をつけた。
しかし二人とも口に入れた途端に顔を歪める。
はっきり、まずい、と思った。
しかし亀造は相変わらず食べ続けている。
さゆみはその彼の手を切なげな瞳で掴んだ。
「食べなくていい。
無理してまで食べなくていいよ、かめぞう」
その声には多少怒気がこもっていた。
「無理して?」
「そうだよ。こんなまずいの普通に食べられる訳ないじゃない。
まずいなら、こんなの不味いから食べられない、って
はっきり言ってくれたほうがまだいいよ」
「さゆ…」
さゆみの頬に流れている涙を掬おうと亀造が手を伸ばすと
彼女は拒むように顔を背けた。
亀造は少し悲しそうに微笑んで口を開く。
「まずいから食べられないなんてこと、あるわけないよ」
さゆみは彼を視界に戻した。
- 259 名前:(16) 投稿日:2006/03/18(土) 23:29
-
「大切な人が作ってくれた料理は、
美味しいから食べる、とか、まずいから食べない、
なんてこと俺はできないと思うんだ。
俺はさゆが作ってくれた料理なら、俺のために作ってくれたなら
絶対に食べたいと思うから」
アップルティー味の味噌汁は、
やはり彼の口に合っていなかったらしい。
しかしそんなことは彼にとってはとても小さなこと。
「それでさゆが傷ついたなら、ごめん」
さゆみの頬にはますます大粒の涙が溢れる。
「違う、違うの。かめぞが悪いんじゃない。
かめぞに美味しいご飯に食べさせてあげられなかった
自分のことが嫌なの」
亀造は、俯いて泣きじゃくりだしたさゆみの頭を
ゆっくりと撫でる。
「料理なんて、そのうち上手になるよ。
誰も最初から何もかもできるって訳じゃないんだから。
さゆも、ゆっくりできるようになれば大丈夫だよ。
だからさ、泣かないで。
食事は楽しくするのがいいんじゃないかな」
彼の言葉に頷き、さゆみは涙を拭いた。
- 260 名前:(16) 投稿日:2006/03/18(土) 23:30
-
「私、頑張る。
かめぞのために料理うまくなりたい」
彼は照れたように歯を見せて微笑んだ。
裕子はその様子に目を細める。
「よーし、とにかく食べよ。
デザートも買うてあるし、ぱーっとな」
食卓に笑顔が戻ってきた。
- 261 名前:(16) 投稿日:2006/03/18(土) 23:31
-
ひとしきり夕食を終え、三人ともテーブルに集まり
食後の会話を楽しんでいた。
「あ、すみません。携帯が…」
亀造は背広を振動させるそれを取り出し画面を見ると、
どうやら公衆電話からのようだった。
「え…?」
電話に出たとたん表情の曇った亀造を、
さゆみと裕子は心配そうに見つめる。
「れいなが、倒れた?」
- 262 名前:(16) 投稿日:2006/03/18(土) 23:31
-
(16) 終
- 263 名前:(17) 投稿日:2006/03/21(火) 00:23
-
亀造に電話をかけてきたのは、れいなの同僚らしかった。
彼は手短に弁明して中澤家を飛び出し、
タクシーで一人指定された病院へ向かう。
れいなの病室の前まで来ると、
亀造に視線を送るスーツ姿の女性と目が合った。
「エリック…さん、ですよね?」
彼は彼女と面識はなかった。
しかし、彼女が自分に連絡をくれた人物だということは
容易に想像がついた。
「そうです。あの、あなたはれいなの…」
「同僚で、友達です。
今日、一緒に退社しようとしていたら、
れいなが青い顔して倒れたんです」
「それで今、れいなは…」
「病室のベッドで眠っていて、まだ面会は出来ません」
「そうですか…」
一通りの説明を終え、れいなの同僚である女性は
間をおいて少々迷いながら再び話し始める。
- 264 名前:(17) 投稿日:2006/03/21(火) 00:24
-
「あなたを最初にここに呼んだのは、
れいなが倒れた原因はあなたにあると私が思ったからです」
彼女の単刀直入で思いがけない発言に、亀造は戸惑った。
「俺、が?」
女性は頷き、話を続ける。
「れいな、ここのところ気を張り詰めて仕事し続けてて
毎日の残業はもちろんだし、他人のミスもいち早く気がついて
カバーしてたり、とにかく仕事への入れ込みは過剰なくらいでした。
それで私見てられなくなって、気分転換を兼ねて
理由を聞くためにれいなを食事に誘ったんです。
そうしたら、れいなお酒飲めないはずなのに
とにかく飲み続けて、私が止めるのも聞かないで
最後には店で酔いつぶれちゃったんです。
その勢いで、最近様子がおかしかった理由みたいなところを話してくれた」
亀造は唇を噛んだまま、彼女の言葉に耳を傾けている。
- 265 名前:(17) 投稿日:2006/03/21(火) 00:24
-
「一番好きな人の幸せを一番に願っていたはずなのに
自分以外の人が彼を幸せにするのが許せなかった、
って、れいなは一言そう呟きました。
そのまま寝ちゃって、寝言でれいな、あなたを呼んだんです。
かめぞう、って、切なそうに」
静かな院内に女性の声が、押し黙った亀造の頭にれいなの声が、
それぞれ響きわたる。
「れいなは毎日辛くて、その辛さを紛らわすために
仕事に没頭して、過労で倒れたんです。
あなたが会いにくるべきだと思って、
れいなの携帯を頼りに私がここからあなたに連絡しました。
私は、れいなとあなたの間に何があったのかまでは知りません。
だけど今日は、あなたがれいなの側にいて、
あの子とちゃんと話をしてください。
このままじゃ、れいなが可哀想です」
亀造は、しっかりと頷いた。
れいながそんな状況になるまで彼女の近況を知らなかった
自分に対する憤りと共に。
- 266 名前:(17) 投稿日:2006/03/21(火) 00:24
-
「それじゃ、私は帰ります」
れいなの同僚は、一礼をして亀造に背を向ける。
「あの…」
亀造の知らないれいなの友人。
彼女はれいなのことを親身に考え、心配をし、
れいなの不幸を拭い去ろうとしている。
そんなれいなの友人の存在が、亀造にとって嬉しいことだった。
れいなが思っている以上に、
周りの人間はれいなのことを見てくれている。
「ありがとうございました」
ここからは、亀造がれいなに応えなくてはならない。
- 267 名前:(17) 投稿日:2006/03/21(火) 00:25
-
音を立てぬよう、慎重にれいなの病室に入る。
れいなの寝顔をこんな風に見下ろすのは初めてかもしれない、と
亀造は彼女との過去を思い出しながら考える。
自分が眠る前に見るれいなの寝顔は真横にあり、
朝起きるとれいなはすでにベッドの中にいなかった。
病院のシーツは、薄暗い部屋でも判るくらい清潔な色だった。
傍らの椅子に腰掛け、少々青いれいなの顔を見つめる。
「ごめん、れいな」
ただ、自然にそんな詞が溢れ出た。
彼がそのまま俯いていると、れいなの大きな瞳が薄く開かれた。
「れいな?」
「…かめぞう」
はっきり彼女と目が合うと、亀造は溜息がもれるほどに安堵した。
「気分はどう?大丈夫?」
彼の問いに、れいなは小さく頷いた。
- 268 名前:(17) 投稿日:2006/03/21(火) 00:25
-
「れいな、仕事の帰りに倒れたんだよ。
同僚の人がさっきまで付き添ってくれてて、
連絡もらった俺が…」
「かめぞう」
亀造のたどたどしい説明を聞き終えぬうちか、
それとも最初から聞いていなかったのか定かではないが、
れいなの声が彼を遮る。
「かめぞうがいてくれて、嬉しい」
れいなは顔色の悪い笑顔を浮かべ、
ベッドから体を起こそうとする。
体調はまだ完全にはほど遠いため、ほんの少し頭を上げただけで
ふらふらしている。
「れいな。寝てなくちゃ駄目だよ」
慌てて彼女を支えた亀造の腕に絡みつくように、
彼は彼女に抱きついてきた。
- 269 名前:(17) 投稿日:2006/03/21(火) 00:25
-
「かめぞう、好いとうよ」
亀造は、何かが狂っていると思った。
れいなはもっと、素直じゃなくて、意地っ張りで、
強情で、真っ直ぐに気持ちを伝えられない人間だ。
こういう、れいな、は、不安定なのだ。
その、れいな、を、亀造はこれまで口づけなどで避けてきた。
しかし、それは解決には至らない。
このままれいなを抱きすくめ、唇を奪うことなど簡単だ。
しかし、それではれいなの病を癒すことは出来ない。
彼はそっと、れいなの小さな背中を撫でた。
とりあえずの、応急処置。
今回は時間をかけて、ゆっくりれいなと話し合わなければならない。
「ごめんね、れいな」
自分は自分のことばかり考えていた、と亀造は悔いた。
- 270 名前:(17) 投稿日:2006/03/21(火) 00:26
-
「うん、そう。過労だから数日で退院できるみたいなんだけど」
れいなが再び眠りに落ちると、亀造は電話をかけた。
中澤家で不安げに連絡を待ち続けていたさゆみに。
「…しばらく俺、れいなについてようと思う」
彼の言葉に、さゆみは受話器の向こうで固まった。
「れいなが倒れたのは、俺のせいなんだ。
俺が自分勝手でれいなの気持ちを考えなかったから
れいなは無理をして、体こわした。
だから、れいなが元気になるまで…っていうより
俺がれいなを元気にさせるまで、れいなの側にいたいんだ。
それじゃ、駄目かな?」
さゆみは、しばし黙り込んだ。
さゆみと亀造が会う機会は、確実に減ることになるだろう。
しかし彼の真面目に優しい気持ちを、踏みにじられなかった。
「うん、わかった。れいなさんの側にいてあげて」
れいなが亀造を大切に想っていたことを、
さゆみも深く知っていた。
「ありがとう。
必ず、さゆのところに戻ってくるから」
がちゃり、とやたら大きな音を立てて、公衆電話が切れる。
亀造は一つ息をつき、迷うことなく歩き出した。
- 271 名前:(17) 投稿日:2006/03/21(火) 00:26
-
さゆみはベッドに携帯電話を投げ出した。
その傍らには、亀造に買ってもらったカメのぬいぐるみが
間抜けに首をかしげて置かれている。
「かめぞお…」
さゆみは震えた声でカメに呼びかける。
カメは相変わらずの表情で
さゆみとは交わることのない方向を向いている。
- 272 名前:(17) 投稿日:2006/03/21(火) 00:27
-
(17) 終
- 273 名前:チキン 投稿日:2006/03/21(火) 00:28
- 訂正です
>>268の最後の行
彼は彼女に→彼女は彼に
です ごめんなさい
- 274 名前:あお 投稿日:2006/03/21(火) 22:55
- >>269ぐらいから読んでいて胸が物凄く痛くなってきました。人を好きになる、って単純な癖に本当に難しいですね。
- 275 名前:チキン 投稿日:2006/03/24(金) 00:20
- レスありがとうございます
更新します
- 276 名前:(18) 投稿日:2006/03/24(金) 00:20
-
「昨日のことは、忘れて」
れいなが入院して一夜明けた朝、
彼女は亀造に対して初めにそう言った。
「忘れて、って…」
この日は祝日であったため、
彼は最初かられいなに付き添うつもりでいた。
「昨日、あたしがかめぞに言ったこと
全部忘れて欲しいの。
あれ、嘘だから」
彼のことを未だに好きだということ。
「…本当に?」
「本当よ」
「本当に、本当?」
「しつこいわよ」
れいなは彼と目を合わせようとしない。
この、れいな、は、意地を張っているれいな、だ。
しかし、そういうれいなは大抵、彼女なりの気遣いで出来ている。
そのことを亀造は十分に知っていた。
- 277 名前:(18) 投稿日:2006/03/24(金) 00:21
-
「…わかった。今日はれいなの看病するよ」
「は?なに言ってるのよ」
「高校のときからお互いが風邪引いたときは
看病しあってたじゃん」
「あの頃と今は違うじゃない」
亀造には現在自分よりも側にいるべき人がいる、と
れいなは口調で彼に訴えた。
「…その心配は、しなくていいよ」
彼は彼女の気持ちを受け止め、言葉を発する。
「とにかく俺は、れいなの看病するって決めたから」
「ばか。あたしが勝手に入院したことなの。
かめぞうには関係ないじゃない。
あんたがあたしの看病する義理なんかないわよ」
興奮して力の入ったれいなの肩を
亀造の右手が押さえるように触れる。
彼の鋭い視線に、れいなはたじろいだ。
- 278 名前:(18) 投稿日:2006/03/24(金) 00:21
-
「じゃあ、なんで、体壊して倒れるまで働き通したりしたんだよ」
「それは…」
「俺は、今までれいなにしてもらったこと、すごく感謝してる。
だかられいなが辛そうにしてると、胸が苦しくなるし、
助けたいって思うんだよ。
れいなが入院したなら、俺は側で看病したいんだ」
れいなは首を横に振った。
「違う。かめぞうに助けてもらってたのは、あたしの方よ。
だからあたしの看病なんてする必要ないわ」
「必要とか、そういうことじゃないだろ」
一際声を荒げた亀造は、驚いた表情のれいなに、
ごめん、と一言謝り、話を続ける。
「こんな風にいつも、れいなは俺のこと想ってくれるし、
俺だってれいなのこと考えてる。
だけど俺は、さゆのことが大切だ。
格好悪いけど、どうしたらいいのかわからない。
だから、時間が欲しい。
れいなの側にいて、どうすべきかしっかり考えたい」
「考えるも何も、悪いのはあたし…」
「そういうの、なんか駄目だろ」
そうやって自分の非を信じても、辛くなるだけ。
- 279 名前:(18) 投稿日:2006/03/24(金) 00:21
-
「とにかく、俺を信じてよ。
…今は、れいなの側にいたいんだ。
そしたら、答えが出せると思うから。
それまで俺を信じて、俺に任せてくれ」
彼はれいなの瞳をまっすぐ見つめたままだ。
「ばか」
れいなは短く、繰り返す。
ベッドの端にいる彼の肩に、顔を埋めながら。
- 280 名前:(18) 投稿日:2006/03/24(金) 00:22
-
れいなが入院して三日ほど経ったころ、
さゆみは亀造に会えずに不安を抱きながら毎日をこなしていた。
気を紛らわせるために打ち込んだ塾の学習で、
少々帰りが遅くなってしまっていた。
電灯のうるさい街を急ぎ足で中澤家を目指す。
「さゆ」
突然に呼び止められ、辺りを見回す。
振り返ったさゆみの真後ろには、やはり亀造の姿があった。
「かめぞ、どうしたの?」
「うん、偶然。さゆはこんな時間に一人?」
「塾の帰りだったから…」
「ああ、そっか」
久しぶりに見る亀造の笑顔は、どこかやつれているように
さゆみの目に映った。
「一人じゃ危ないから、家まで送るよ」
彼は微笑んだまま、さゆみの手をとった。
- 281 名前:(18) 投稿日:2006/03/24(金) 00:22
-
「れいなさんの看病、行ってたんだよね。れいなさん、
具合どうなの?」
「うん。仕事終わってからや休憩のときに会う感じ、
体力は順調に回復してるみたい」
「よかった…」
同時に、亀造の疲れているような表情の理由が少しわかった。
目の下には薄っすら、くまが出来ている。
さゆみは彼の顔を、眉間にしわを寄せながら見つめた。
- 282 名前:(18) 投稿日:2006/03/24(金) 00:23
-
さゆみが近況を報告するうちに、中澤家に到着した。
といっても、疲れている亀造を気遣って
さゆみの口数は通常より少なめだった。
せっかく彼に会えたのに。
「今日、さゆに会えて嬉しかった」
玄関先、さよならの前に亀造が口を開いた。
さゆみは、ぼうっとした後、彼に応える。
「私も。私も、嬉しかった。
かめぞに、会いたかったから」
亀造のことばかり、考えていたから。
「ありがとう」
さゆみの頬に口づけ。
薄闇に頬を赤らめるさゆみに手を振り、彼は去っていく。
さゆみは彼の背中が見えなくなるまで
その場に立ち尽くしていた。
- 283 名前:(18) 投稿日:2006/03/24(金) 00:23
-
(18) 終
- 284 名前:(19) 投稿日:2006/03/24(金) 22:17
-
さゆみが亀造に送ってもらってから初めての休日が訪れた。
彼女は、れいなのお見舞いに行くための準備を
朝から進めている。
本当のところ、自分は行くべきではないのではないかと
昨晩悩んでいた。
しかし亀造の姿を見たときに自分にも何かできることがあるなら
力になりたいと強く思い、それが彼女の動力となった。
「さゆみ、これあたしからのお見舞いや」
出かけ際に裕子が果物の盛り合わせを手渡した。
はい、と返事をし、さゆみは玄関に立つ。
「気をつけて行きや」
扉が閉まる瞬間、裕子はさゆみに声をかけた。
さゆみの返事は聞こえなかったが、おそらく軽い会釈があったように思う。
裕子は難しい表情で腕組みをした。
- 285 名前:(19) 投稿日:2006/03/24(金) 22:18
-
「よし、準備できたね」
亀造が荷物のつまった鞄を肩にかけ、れいなに声をかける。
彼女はこの日退院することになっていた。
そのことを、さゆみは知らない。
「うん。いろいろありがとう、かめぞう」
れいなの顔色は入院当初よりもかなり良好だ。
「それじゃ、帰ろうか」
「ねえ、かめぞう。さゆみちゃんに会いに行ってよ」
病室を出ようとした亀造に、れいなは明るい声で提案した。
彼は眉をしかめる。
「でも…」
「あたし、元気になったし。もう、大丈夫」
「そういうことじゃないって、この間話したでしょ。
ちゃんと、俺は俺なりに考えたい…」
「あたしだって、自分の気持ちに整理つけたいの」
れいなの声は、強かった。
- 286 名前:(19) 投稿日:2006/03/24(金) 22:18
-
「あたしも、一人になってもう一度考えたい。
…さゆみちゃんのところに行く亀造を見送って、
それからの自分の気持ちを確かめたい」
答えの見えない二人の新たな宿題。
「…わかった。とにかく荷物もあるし、
れいなのことは家まで送っていく。
さゆには、それから会いに行くよ」
れいなは、ひとつ頷いた。
- 287 名前:(19) 投稿日:2006/03/24(金) 22:18
-
病院の前まで来ながらも、
さゆみは再びためらってしまい足踏みを続けていた。
自分が赴いたことで室内が重苦しい雰囲気にならないか、
あるいはそうなったときにどう対処すべきか、
考えれば考えるほどさゆみの足は重くなった。
「やっぱり、帰ろうかな…」
さゆみが独り言を呟いたそのときだった。
玄関の自動ドアが開き、中から亀造とれいなが現れた。
さゆみは反射的に身を物陰に隠してしまう。
「少し風が強いみたい。れいな、大丈夫?」
「うん。かめぞうこそ、荷物…」
「落とさないから安心して」
「そういうことじゃないわよ」
背の低いれいなの歩幅に合わせる亀造。
吹き荒れる風のため下を向いてはいるが、
亀造の肩を掴み彼に頼ることで前に進んでいるれいな。
さゆみには、二人の姿がとても調和しているように思えた。
「邪魔なのは、私なんだ…」
さゆみは、亀造とれいなが来る前にその場を立ち去った。
- 288 名前:(19) 投稿日:2006/03/24(金) 22:19
-
「なんや、さゆみ。帰ってたんか」
中澤家の居間で呆然としているさゆみに、
台所から来た裕子が声をかける。
さゆみは頷いただけだった。
見舞いにと持たせた果物は、そのままテーブルに置かれている。
「…どないしたん?」
裕子はさゆみの横に座りながら尋ねた。
さゆみは、ゆっくりと口を開く。
「私は、かめぞの側にいちゃいけないんじゃないか、って
思うんです」
裕子は目を丸くして、声を高める。
「あほ、なに言うてんねん。
さゆみは、亀ちゃんの心を開かせることが出来たんやで。
あんたが亀ちゃんの側にこれからもおらな
どないすんねん」
「だけどっ、れいなさんだってかめぞのこと大事に考えてる。
私までいたら、かめぞがたくさん悩んで…苦しんじゃう。
かめぞ、優しいから。
病気になったれいなさんを放っとけないから」
「せやかて…」
さゆみの頬に涙が伝っているのに気がつき、裕子は口ごもる。
- 289 名前:(19) 投稿日:2006/03/24(金) 22:19
-
「私、かめぞが困ってるのを見てられないんです。
だけど、かめぞと一緒にいられなくなるのも怖くて…」
「さゆみ…」
「中澤さん。私、賭けをしようと思うんです」
「賭け?」
「それが上手くいったら、かめぞのこと想い続けます。
駄目だったら、かめぞのことは諦めます」
「…諦め、られるんか?」
さゆみは、こくりと頷く。
「もう、決めたことですから」
裕子は溜息をつき、
「あんたが固く決めたことなら、あたしは何にも言えへんけどな」
と、さゆみの頭をなでた。
「出かけてきます」
さゆみは先程と同じ靴を履き、中澤家の玄関をくぐる。
裕子に見送られた後、彼女は携帯電話を取り出した。
- 290 名前:(19) 投稿日:2006/03/24(金) 22:19
-
「なんか、家にいるのが変な感じ」
自宅マンションに到着し、れいなは部屋を見回して言う。
「久しぶりに帰ってくると、そんなものかもね」
亀造は荷物を下ろしながら応えた。
「ねえ、れいな。トイレ借りていいかな」
「うん」
ごめん、と亀造はれいなの前から姿を消した。
丁度そのとき、れいなの目の前に置かれた亀造の携帯電話が
着信バイブを鳴らした。
ほぼ無意識にれいなはそれを手に取っていた。
亀造が気がついて戻ってくる気配はない。
開いた画面に映し出された、さゆみ、の文字にれいなは心を揺らす。
どうやら、メールが届いたようだった。
受信ボックスを素早く開き、れいなは中身を一読した。
- 291 名前:(19) 投稿日:2006/03/24(金) 22:20
-
大切なカメと一緒に待ってる。
本文はそれだけだった。
れいなはその意味が読めず、困惑した。
水洗トイレの音がし、亀造が戻ってくると感じ慌てたれいなは、
震えがくるほど冷酷な行動に出る。
簡単なボタン操作で、さゆみのメールは消去されてしまった。
亀造の目に、触れることなく。
- 292 名前:(19) 投稿日:2006/03/24(金) 22:20
-
「ん?俺の携帯どうかした?」
彼が部屋に戻ったとき、
れいなはまだ彼の携帯電話を持ったままだった。
「うん…待ちうけとか買ったときのままっぽくて、
かめぞうらしいなって思って見てたの」
嘘は、すらすらと出てきた。
「はは。面倒くさいじゃん、携帯かまうのって」
彼も特に彼女を疑う素振りはない。
れいなは、ひどく落ちついた気分だった。
自身のしたことの重要性など、気にもとめない。
亀造はさゆみによって幸せになると、頭ではわかっている。
しかし、体が反射的にそれを拒む。
亀造からさゆみを排除しようとしてしまう。
自分の中身が、支離滅裂状態だった。
そのれいなの心情が、
さゆみの、賭け、に大きな影を落としていた。
- 293 名前:(19) 投稿日:2006/03/24(金) 22:21
-
(19) 終
- 294 名前:あお 投稿日:2006/03/25(土) 10:31
- おわー、れいな何しとー!それはいかんばい!
そして何よりも、一日に2回更新の作者様に脱帽。
- 295 名前:チキン 投稿日:2006/03/25(土) 18:04
- 今までレスありがとうございました
最後の更新始めます
- 296 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:05
-
さゆみは歩く。
大きなバッグを両手で持ち、ゆっくりと。
いつか、彼と歩いた道を。
- 297 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:05
-
「それじゃあ俺、行くよ」
荷物を一通り片付け、亀造はれいなに声をかける。
病院でのれいなとの約束どおり、さゆみに会いに行くために。
「うん、行ってらっしゃい」
今は、こんな風に言える。
本当に不安定だと、れいな自身も感じた。
「…れいな?」
「なに?」
「手…」
れいなは亀造の視線をおう。
彼女の手は、彼のシャツの裾を掴んでいた。
「あ、ごめん…」
この行動も、れいなにとっては無意識なものだった。
- 298 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:05
-
「れいな、本当に大丈夫?」
「当たり前でしょ。早く行ってよ」
「うん…でも、手を離してくれないと行けないから」
れいなの右手は頑なに彼に絡んだままだった。
「…かめぞうが力ずくで外してよ」
「そんなことできないよ」
「なんで?」
「…ねえ、無理しなくていいんだよ」
「自惚れないで。腹が立つから」
「さゆのところには、今日、どうしても行かなくちゃ
いけない用事はないんだから」
彼は、先のれいなの行動を何も知らない。
れいなもまた、さゆみからのメールの意味を理解していないため、
あまり省みていない。
- 299 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:05
-
「れいなが落ちつくまで、俺はれいなの側にいるって
決めてるから」
亀造はれいなをソファに座らせ、自分も横に腰掛けた。
「かめぞう…」
れいなは、そっと彼に口づける。
深く口を交じらせる前に、亀造はれいなの肩を抱え、
顔と顔の距離をとった。
「こういうことはもう、さゆとしか出来ない」
そして、静かに彼は言った。
れいなは目をふせ、瞳を揺らす。
「…ごめん。しばらく側にいてくれれば、それだけで十分よ」
その後は特に会話はなく、ただ二人並んでいた。
- 300 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:06
-
「何か、食べる?」
日が落ちてきたころ、亀造が口を開いた。
明かりをつけていない部屋は、やや薄暗い。
「いい。食べたくないもの」
「でも少しくらい体に入れないと。
適当なもの買ってくるよ」
「かめぞう」
「すぐ戻ってくるから」
彼は財布だけを身につけ、部屋を出て行った。
- 301 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:06
-
彼がいなくなると、れいなは何をするでもなく
ソファから立ち上がった。
窓の側まで歩き、ぼんやりと外を眺める。
ほんの間もないうちに、電話のコール音が鳴り響いた。
れいなの自宅のものだ。
やや億劫な気もしたが、れいなは受話器を手に取った。
「もしもし、れいなさんか?」
裕子からだった。
「はい。中澤さん、どうして…」
「病院に連絡したら、退院したって言われてな。
なあ、かめぞうがどないしてるか解るか?」
「…あたしを部屋まで送って、今は買出しに行ってます」
「やっぱり、あんたと一緒か。
あいつ、携帯見てるか?メールが入ってるはずなんやけど」
さゆみから届いたメールのことだと何となく感じた。
れいなは唇を噛み、口調を整えて答える。
- 302 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:06
-
「さあ、わかりません」
裕子は、溜息をつく。
「そうか…」
「どうかしたんですか?」
「いや、なんでもないねん」
「教えてください」
れいなの受話器を握る手が強くなる。
「…さゆみが亀ちゃんにメール送ってん。
それな、さゆみの最後の賭けやねん」
「賭け?」
「うちは知ってることを話すだけやから
あんたは気を悪くせんと聞いててや。
さゆみな、あんたが倒れてから亀ちゃんと自分が
付き合うことについてずっと悩んでてん。
自分がいなくなって亀ちゃんとれいなさんが一緒におれば
丸く収まるんちゃうかって考えもしたみたいや。
でも、亀ちゃんと別れるのも辛いから
なかなか自分からそうすることができんかった。
せやから、運に任せてみることにした」
「運、ですか?」
- 303 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:07
-
「なんかな、亀ちゃんとの思い出の場所があって
そこで亀ちゃんが来るのを待ってるんやって。
でも、そこで待っていられる時間は限られてて
その時間までに亀ちゃんが来たら
なにが何でも亀ちゃんのことを諦めないことにして、
来えへんかったら別れるつもりらしいわ。
その場所のヒントを亀ちゃんにメールしておいて、
それを亀ちゃんが見て解ってくれるか、来てくれるか、
運命に賭けてみるんやって。
せやからあたしも直接かめぞうに連絡とるのはやめた。
…もう、自分では答え出せへんみたいや」
裕子の話を聞くうち、れいなは頭が真っ白になった。
- 304 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:07
-
「あたし、大変なことしちゃった…」
「れいなさん?」
「あたしが消しちゃったんです、
さゆみちゃんからのメール。かめぞうが見ないうちに」
「なに。なんでそないなこと」
「わからない、わからないんです。
かめぞうがいなくなるのが、怖くて…」
「さゆみに、かめぞうのことを頼む、って
あんた言ったやないか。
どないしんや。あれは嘘やったんか?」
「そんなことない。
かめぞうには幸せになって欲しい。
だけど、だけど…」
それをずっと願っていたのはれいなであり、
それを何よりも嬉しく感じるのもれいなだ。
だけど、目の前にいる彼から手を離せずにいる。
彼が側にいないと生きていけない、と
れいなの本能が叫んでいるから。
- 305 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:07
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「…あたしも亀ちゃんに幸せになって欲しい。
そのためには多分、あんたやのうて
さゆみの力が必要なんやと思う。
せやけど、あたしはあんたのことを責められへん」
裕子の声は、受話器越しでも暖かかった。
「辛い、からな。
好きな人が側におらへんようになるのは、耐えられへん。
自分が情けなくなるほど、なんにもできんようになってまう。
亀ちゃんは優しいから、あんたがどんなでも
受け入れてくれるんやろ?」
れいなは、震えた声で肯定した。
「そんなかめぞうやから、離れたくないんやもんな」
彼が冷たくあしらえば、れいなはすぐに諦められるが、
彼女の愛した亀造は、悲しいほどに優しい。
- 306 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:08
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「せやけど、かめぞうが好きなのは、さゆみやねん」
れいなの心に突き刺さる真実。
「かめぞうがあんたをほんまに愛することは
ないんやで」
亀造からは、はっきり伝えられなかった詞。
「きっと、側にいる方が辛くなるで」
言葉から感じられるほど裕子の声は厳しくなく、
むしろ、れいなの心を解いていく。
「中澤さん…」
れいなは涙を流した。
胸の、ずっと奥の方から。
- 307 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:08
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「たまには、うちに来て一緒に飲もうや。
あたしがとことん相手したるから」
「…はい」
裕子の酒の強さに、おそらくれいなはついていけないだろう。
それでもれいなは嬉しかった。
自分では認められない事実を、誰かに
はっきりさせて欲しかったのかもしれない。
「…さゆみちゃんの賭け、負けさせるわけにはいかない」
れいなが電話を切ると、ちょうど亀造が戻ってきた。
- 308 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:08
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「かめぞう。買ってきたもの、そこに置いて
すぐに出かけて」
「は?どうしたの、急に…」
「思い出の場所で、さゆみちゃんが待ってるから。
早く行かないと、間に合わなくなる」
「え、なにが?」
「時間までにかめぞうが行かないと、さゆみちゃん
かめぞうと別れるつもりなの。
さゆみちゃん、私のことで悩んでて、
自分が身を引こうと考えてるのよ」
「え…」
「とにかく、早く行って。
さゆみちゃんと別れることになってもいいの?
あの子、本気よ」
「れいな…」
「あたしのことなんて、どうでもよかとっ。
かめぞうが好きなのは、さゆみちゃんでしょ。
さゆみちゃんと別れることになったら、
あたし、許さんけんねっ」
れいならしい、と、彼は思った。
彼女に、自分のさゆみに対する想いを代弁され、
亀造はれいなの病の回復を見た気がした。
- 309 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:09
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「さゆみちゃん、大事なカメと一緒に待ってる、って。
あたしには何のことか解らなかったけど、
かめぞうならわかるでしょ?
さあ、早く行って」
れいなに背中を押されながら、亀造は部屋を出る。
彼は、最後まで優しく微笑んだ。
「ご飯、ちゃんと食べなよ」
彼の置いていった買い物袋は、れいなの好物でいっぱいだった。
「こんなに食べられないわよ、ばか」
彼の去った部屋で一人、れいなは呟いた。
すっきりとした表情で、微笑みながら。
- 310 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:09
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さゆみの待っている思い出の場所は、
亀造には一つしか思い当たらなかった。
カメ、をさゆみにプレゼントしたあの水族館。
夜の灯りが目立つ街を、彼は一直線に走った。
「さゆ…」
愛しい人を、ただ想って。
- 311 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:09
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「閉館…」
水族館は、すでに開館時間を終えていた。
亀造は構うことなく締め切られた扉から
強引に中へ入ろうとする。
「ちょっと、何やってる」
傍らから水族館の従業員が止めにはいった。
亀造は勢いをそのままに彼に尋ねた。
「中に、女の子いませんか?」
「もう、閉館だ。中には誰もいないよ」
「大きな荷物を抱えてると思うんですけど…」
大切な、カメ。
「ああ、その女の子ならさっきまでいたよ」
別の従業員が、横から声をかける。
「売店の前で、じっと立ってたけど
閉館の時間になったら寂しそうに帰ってったな」
亀造は、その場を飛び出した。
- 312 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:10
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中澤家のある住宅街の裏手にあたる通り。
川に沿った道を、さゆみは遅い足取りで歩いていた。
抱えた鞄から、カメの瞳が覗く。
十字路まできて、彼女は立ち止まった。
柵の向こうにはすぐ、川の水が流れている。
「バイバイ、かめぞう」
明日、電話で、亀造に別れを告げよう。
彼がどんな反応をしても、二度と彼には会わない。
そう、決めた。
さゆみは川にカメを投げ入れた。
- 313 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:10
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「え…」
人影が横を通った気配がし、さゆみは声をあげる。
気のせいではない。
川に水しぶきが上がり、膝まで水につかる人の姿があった。
「かめ、ぞ…」
さゆみが呟くころには、彼は彼女の放ったカメを拾い上げていた。
ここまで走ってきたせいか、亀造の呼吸はかなり荒れている。
「大切にする、って、言ったじゃん」
途切れ途切れに、彼は言葉を紡いでいく。
「捨てないでよ」
カメを抱きかかえている亀造は、とても幼く見えた。
- 314 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:10
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「かめぞ、どうして…」
「俺は、さゆとずっと一緒にいたい。
れいなのことは、もう、落ちついたから」
流れる川に足を揺られながら、彼はさゆみを見上げる。
「さゆ」
その声を遮るものは、何もない。
「愛してる」
さゆみは通りから飛び降り、彼に抱きついた。
- 315 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:11
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「さゆまで濡れちゃうよ?」
「…だけど、離れていたくないもん」
お互いの存在が、かけがえのないものだから。
ぴったりと、感じていたいから。
「好き。かめぞうのことが好き」
何度も何度も、さゆみは繰り返す。
亀造はさゆみの頬や額に口づけながら頷く。
「好きだよ、さゆ」
唇が触れ合う。
- 316 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:11
-
「愛、って何か、少しだけ見つかった気がする」
続きはきっと、まだまだこれから見つかるだろう。
「大好き」
二人に抱かれ、カメが幸せそうに笑った。
- 317 名前:(20) 投稿日:2006/03/25(土) 18:11
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(20) 終
- 318 名前:マージナル 投稿日:2006/03/25(土) 18:13
-
マージナル 完
- 319 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/25(土) 20:38
- 一番乗り?
完結おめでとうございます。
素敵な物語をありがとうございました。
またハロモニでエリック亀造が見れることを祈って・・・
- 320 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/25(土) 21:39
- 毎度ありぃ ノシ
ハロモニで亀造が見なくなったのに、
この小説でまだ亀造という存在が感じられて嬉しかったです
ありがとうございました
この物語の中の中澤さんが素敵でした
- 321 名前:あお 投稿日:2006/03/26(日) 13:20
- 作者様、素敵な作品をありがとうございます!
主要人物全員が、人間らしくて好きでした。
さゆと亀造に幸あれ!
- 322 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/26(日) 21:53
- 作者様お疲れ様でした!
素敵な物語でした。ふとその辺りにもあるような身近な物語が
逆に新鮮でとても良かったです。
しかし亀造罪な男だよ亀造
- 323 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/29(水) 17:59
- 完結おめでとうございます!!
そして今までお疲れ様でした。
亀造やさゆ、れいな、中澤さんの言葉ひとつひとつが
意味の深く毎回感動しておりました。
ほんとにありがとうございました。
- 324 名前:駆け出し作者 投稿日:2006/03/29(水) 23:52
- 最初に見つけて亀造キターと叫び、それからずっと追わせて頂いてました。
今まで読んだことのない独特の雰囲気に惹かれました。
一人一人がいい味を出していて、本当に楽しかったです。
今までお疲れ様でした、そしてありがとうございました。
- 325 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/04(火) 18:16
- 完結おめでとうございます。
初レスです。とても面白くて毎回更新が楽しみな作品でした。
人を好きになることの酸いも甘いも書かれていて奥深い作品でした。
いやー、ほんとにいいもの読ませてもらった。ありがとう作者さん。
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