凍える鉄槌 2
- 1 名前:カシリ 投稿日:2006/02/12(日) 21:01
-
アンリアル。能力モノ。
主演は飯田。
この板で書いていた続きです。
- 2 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:03
- ――――
窓側の席から見える街並みのなかに、葉の落ち始めた街路樹が燃え立つように並んでいる。
傾いた太陽に照らされた街もそのなかを歩く人々の装いも、
秋の匂いを感じさせるものに変わっていた。
窓の外へ難しい顔を向けていた新垣は、目の前のテーブルに視線を移した。
乗っている3つの水の入ったコップも、夕陽を受けて茜色に光っている。
「別に悪気があってやったわけじゃないんですよ……たぶん」
しばらくの間コップを見つめていた新垣が意を決して顔を上げ、
窺うように向かいの席を見ながら言った。
向かいの席に座っている飯田は、テーブルに片肘をついて頬杖をついている。
ふてくされたような表情で窓を向いていた飯田が、視線だけを新垣に向けた。
「ふ〜ん」
バンソウコウが貼られた右手の指で、テーブルを何度か軽く叩く。
いまは見えないが、裏側にも同じように貼ってあるはずだ。
「圭織だから良かったけど……悪気がなくてあんなことするんだ?」
取り付くしまも無い飯田の口調に、新垣は頭を抱えた。
ファミレスに入るまでの間、新垣が間に入っての会話が続いている。
席を外したいまならと思い、それまで触れないようにしていた話題に触れたが、失敗した。
飯田の機嫌は直らない。
新垣は溜め息を吐いて、店の奥に視線を向けた。
待ち合わせに遅れてきたのは2人の方だ。
理不尽な状況に湧き上がってきた怒りを込めて睨んでいたトイレの扉が、
タイミングよく開いた。
新垣は慌てて手に持った携帯に視線を落とす。
待ち受け画面を見ながら、新垣は誰にも聞こえないように再び溜め息を吐いた。
- 3 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:03
-
凍える鉄槌 -Third season-
プロローグ
- 4 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:03
- ――――
晴天の午後。
透き通るような空は、うっすら赤みを帯び始めている。
新しい建物も多いがもともとは川だったところに作られた道の両側に残る古い建物は、
本来の裏側を見せて並んでいた。
それほど道幅が広くない道路を挟んだ街並みは、どことなく奇妙な印象を与える。
飯田は両側に並ぶショップを外から覗きながら、ゆっくりと歩いていた。
小さな店は1階部分だけでなく2階や地下、さらに小さな路地を探せばいくらでも見つけられる。
都内でも有名な通りだった。
別に目的の物があるわけではないが、見ているだけでも面白い。
飯田は気になるものがあると、ときどき立ち止まりながら、歩いていた。
「だいたいこんな場所で待ち合わせってのが、間違ってるよ」
ショーウインドを覗いていた飯田は、1人つぶやいた。
会わせたい人がいると新垣から呼び出されたが、すでに待ち合わせの時間には
30分以上遅れている。
しかしそれほど急いでいるようではなかったし、相手が新垣だということもある。
飯田は散歩を楽しむように、寄り道を続けていた。
- 5 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:04
- 覗いていた店の前から離れて歩き始めた飯田がふと、立ち止まる。
道路を挟んで反対の歩道にいる制服姿の少女が、目に止まった。
少女はなにかを探すように周囲を見渡しながら小走りで、飯田のいる方に向かってくる。
飯田の視線に気が付いたように突然立ち止まった少女は、
少し驚いたような顔を飯田に向けた。
大きな目に長い髪、顎が形良く尖っている。
着ているブレザーは、新垣が通う高校の物と同じだった。
短めのスカートと、ボタンを2・3個外したシャツからは白く細い首が覗いている。
左手に竹刀でも入っているのか長い布袋を持っていた。
下校時刻は過ぎているのか、先ほどから制服姿も多くなっている。
少女の姿は街に溶け込んでいて、別段目立ったところはない。
道路を挟んで見詰め合っていたのは、ほんの数瞬だった。
すぐに視線を外した少女は飯田の横を通り過ぎて行く。
飯田は振り返って、離れていく少女の背中を眺めながら首を傾げた。
敵意のある視線ではないが、確かに少女の視線は飯田を捕らえていた。
そこに見なければいけないものがあった。だから見た。
そんな、視線だった。
- 6 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:04
- 遠ざかっていた少女の足が、再び止まった。
目の前に立ったのは、この季節には不自然なほどよく焼かれた黒い顔に、
白い髪をした2人の若い男だった。
どこか物欲しそうな目で2つ3つ言葉を交わすと、1人が少女の肩に手を置く。
そのまま狭い路地に少女を促して歩いていった。
もう1人が、周りに視線を送ってその後を追う。
少女が入っていった路地を見ながら飯田は少しだけ考えるように、目を細める。
さっき飯田も同じ路地に入ったが行き止まりだったため、
途中まで入って戻ってきた道だった。
危ない目に会ってる少女を助けて遅れるなら、多少は言い訳にも使えるかもしれない。
それに、気になる目だった。
「……行ってみますか」
飯田はつぶやいて、路地に向かって歩き出した。
- 7 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:04
- 狭い路地の片側にあるブロック壁の上に、植木蜂が並んでいる。
玄関の近くには猫避けに置かれたまま忘れ去られたペットボトルが、横倒しになっていた。
表通りとは違い、路地裏には住宅街の雰囲気がそのまま残っている。
突き当たりの角を曲がると、雑草の生えた小さな広場になっていた。
周りを住宅に囲まれた広場を見渡すまでもなく、少女はすぐに見つかった。
飯田に背を向けて独り、広場の中心に立っている。
違和感を感じた飯田は広場の入り口で足を止め、少女の後ろ姿と広場を視界に入れた。
穏やかな日常とはかけ離れた、緊張感に軋んだような空気が満ちている。
戦いの場に足を踏み入れたような感覚。
飯田が広場を見渡していると、ゆっくりとした動作で少女が振り返った。
さっきと同じで、特別感情がこもった目ではない。
しかし無表情な少女の視線は、どこか鋭利な硬さを伴っている。
無言で飯田を見つめる少女の足元には、男が2人倒れている。
飯田は少女の左手に持った布袋の先から見えるものに、目を止めた。
(……刀?)
黒い糸のような物を巻きつけた柄が、外に出ていた。
本物の刀を目にしたことはないが、映画などではみたことがある。
事情を聞こうと少女に向かって歩き出した飯田は何歩も行かないうちに、
少女の姿勢が変わっているのに気が付いた。
さっきまで下がっていた右腕が飯田に向けて、真っ直ぐに伸ばされている。
同時に、飯田の目に光るものが映った。
- 8 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:05
- 幸運は二度訪れた。
一つ目は反射的に出した右手が、飛んできたものを掴んだこと。
そして二つ目は、握った拳を突き抜けた刃先が眼球の1cm手前で止まったこと。
飯田は痛みに顔をしかめながら、文字通り目の前にある物体に目をやる。
先端を尖らせただけの、短い鉄の棒。
握った右手に後ろに付けられ羽の感触は、ない。
矢にしては形状がおかしい。
どこかから狙われたのではなく、直前まで両手を下げて立っていた少女が投げた。
そう考えるのが妥当だが、少女が投げたのに気がつかなかった。
(まずい!)
目の前に出した飯田の右拳が、少女の姿を視界から隠していた。
飯田は地を蹴って全力で下がる。
拳を下げた視界のなかに、鞘に納まった刀の柄に右手を添えた少女が写る。
すでに、間合いに入られていた。
次の瞬間、真下から光る軌跡が迫る。
とっさに頭を傾けた飯田の頬を、切り払った刃風が鋭く撫でた。
斬撃の音を残して高々と挙がった刃が、その頂点で方向を変える。
ほとんど間を置かずに、少女の持った刀が袈裟懸けに斬り下ろされた。
上体だけを前に倒して避けた飯田の背中で、空気を切り裂く音が鳴る。
刃が通り過るとすぐに、飯田は頭の高さを変えずに左足を踏み込んだ。
左腕をたたんで、肘を少女の鳩尾に打ち出す。
伸びていく飯田の肘が、あと数cmで少女に触れるというところで、止まった。
- 9 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:05
- 飯田の攻撃を見切った少女の身体がさらに離れていく。
その左手にはいつのまにか鞘に納まっている刀。
そして柄には、右手が添えられている。
離れれば少女の間合い。
刀を抜かせるわけにはいかない飯田は、たたんでいた肘を伸ばして少女の右手首を掴んだ。
しかし力を加えるより早く、掴んだ左手が引き込まれた。
重心を後ろに残したはずの飯田が前に崩される。
手を離す間もなく伸ばされた腕が背中に回り、肩の関節が悲鳴をあげる。
「くぅっ!」
なんとか手を離して地面を転がり、関節技から抜けた。
飯田は右足で地面を蹴り、大きく距離を取ると少女を睨みつける。
追いかけてくることもなく、少女は離れた位置で飯田に顔を向けていた。
身体の脇に下げた左手には刀の納まった黒い鞘を、握っている。
その表情は、読み取れない。
少女の動きに注意しながら、飯田は右手に刺さっていたものを抜いた。
全長が15cm、直径が1cmほどのただの鉄の棒。
手裏剣と呼ばれる武器だった。
一般に知られている十字型ではなく、実用的な棒手裏剣。
黒で塗られたその表面に、飯田の血が薄く光っている。
直径が小さいせいで、傷自体はたいしたことはない。
しかし、握るのが少し遅れていたら飯田の手を突き抜けていた。
- 10 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:07
- 飯田は内心の困惑が表情にでないようにしながら、引き抜いたそれを左手で握った。
どれほど速く投げても、人間が投げた鉄の棒が飯田の動体視力を超えるわけがない。
少女の動きは確かに、疾い。
しかし疾すぎて見えない、というのではない。
正確に言うと動作の“起こり”が見えない。
刀の柄に右手を添えているのは見えた。
次に気が付いた時には刀は抜かれ、攻撃を受けていた。
一つの姿勢から次の姿勢へと移るための少女の動作が、極端に少ない。
本来ならば無意識に捉えるはずの動作の“起こり”がほとんどないため、
飯田の反応が遅れてしまう。
フィルムのコマが抜けたような少女の動きだが“SP”は感じられない。
“能力”ではない少女の奇妙な動きに、飯田の首筋を冷たいものが這い上がる。
「どういうことかな? これは」
飯田は右手を開いて少女に向ける。
もちろん視界を遮るようには、しない。
「圭織、別になにもしてないよね?」
言い終わったとき、すでに少女は飯田との距離を半分以上詰めていた。
前に出した右腕に刃が届く直前に、気が付いた飯田は慌てて腕を下げる。
- 11 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:07
- 「人の話を……聞け!」
いままで避ける動作は全力だったが、攻撃は違う。
これ以上やるなら、手加減できない。
振り切った刃が戻る前に少女の前に左足を踏み込む。
掴めばまた崩される。
少女の体に触れないようにしながら右拳を腰の位置まで引いたのと、
ありえない速度で戻ってきた刃が踏み込んだ足に向かって来るのは、ほぼ同時だった。
(足ぐらいくれてやる!)
覚悟を決めた飯田は狙いを定める。
心臓に強い打撃を与えれば、反射的に動きが止まる。
肋骨の何本かは折るつもりで拳を放つ。
「2人とも! なにやってんの!」
聞きなれた声に飯田は走り出していた拳を止めた。
同時に後ろに飛び、止まらない刃を避ける。
攻撃をかわされた少女は滑るように移動すると、背後からかけられた声の主と
飯田が視界に入る位置で、止まった。
- 12 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:08
- 少女が離れたのを見て飯田も下がると、入り口に視線を向ける。
広場の入り口には新垣が立っていた。
慌てたように小走りで少女に駆け寄っていく。
なにか話している2人を見ながら、飯田は気付かれないように小さく息を吐いた。
新垣の言葉に頷きながらも、少女は飯田から目を離さない。
少女も新垣の声に気がついていたはず。それでも刃を止めなかった。
しばらく話していた新垣が、飯田を振り返る。
新垣は複雑な表情で、少女の肩に手を置いた。
「え〜と……紹介します。“高橋愛”ちゃんです」
少女の顔に初めて表情が浮ぶ。
よく出来た彫刻のように美しく整った目鼻立ち、大きく開いた目を僅かに細めた。
「あなたが飯田さんかの。はじめに言ってくれればええのに」
高橋愛は子供のように、微笑んだ。
- 13 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:08
- ――――
ざわついた店のなかで3人が無言で囲むテーブルだけ、奇妙な緊張感が張り詰めている。
新垣はなにかに見つかるのを恐れるように、慎重にカップを持ち上げた。
口元に持っていきながら、2人のようすを盗み見る。
不機嫌な顔を窓の外に向けている飯田とは対照的に、
横に座る高橋は運ばれてきたアイスティーに笑顔でガムシロップを入れている。
いつものように高橋は場の雰囲気というものを無視して、マイペースを崩さない。
「もしかして、この人怒っとるの?」
突然口にした高橋の言葉に、新垣が口に含んだコーヒーにむせた。
テーブルを叩いていた飯田の指が止まるのを横目で見ながら、慌てて高橋の肩を揺さぶる。
「ちょ、ちょっと愛ちゃん、なに言っちゃってるのっ!」
「……あんたね、いきなり襲っといてそれはないでしょ」
ようやく高橋に顔を向けた飯田が出したのは、無理に低く抑えたような声だった。
高橋は澄ました顔で、グラスにささったストローから音を立ててアイスティーをすする。
「ほやって小春のこと知ってるっていうから付いて行ったら
いきなり襲って来るんだもん。
そんなときに“鬼”が来たら、敵かと思わん?」
ニッコリ笑いながら、高橋はグラスを置いた。
新垣はオロオロしながら、対照的な表情で見詰め合う2人の顔を交互に見る。
なにか言いたげな顔で高橋を睨んでいた飯田が、再び窓の外に顔を向けた。
「だからってあんな物騒な物、いきなり投げつけることないでしょ」
「小手の代わりにもなるし結構便利なんやよ」
そう言って高橋は、袖を捲り上げた。
現れた高橋の細い腕の先、前腕部の外側に黒いケースに入った3本の棒手裏剣が止めてある。
飯田の眉がピクリと上がるのを見て、新垣は溜め息を吐いた。
怪我の分は謝れば許してやろうと思って言った飯田の言葉だったが、
高橋はまったく理解していない。
- 14 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:09
- かみ合わない会話に2人を会わせたことを後悔しながら、新垣は顔を上げた。
「……小春って誰?」
内容には目をつむるとして、初めて2人が言葉を交わした。
話題を変えればなんとかなるかもしれないと思いながら聞いた新垣に、
高橋は少し驚いたような顔を向けた。
「ガキさん知らなかったっけ?」
高橋が財布から写真を取り出してテーブルに置く。
どこかの道場らしき場所で、高橋ともう1人の女の子が並んで写っていた。
年齢は中学生ぐらいで、たれた目が印象的だった。
「久住小春っていうんだけど、知り合いから面倒見てくれって頼まれて、
最近一緒に住み始めたんだ」
満面の笑みで写っている高橋とは対照的に、
緊張しているのか久住は強張った顔を見せていた。
「ええ子なんだけど、ときどき迷子になるんよ」
高橋は困ったように言ってから、飲み干したグラスの氷を口に入れた。
- 15 名前:プロローグ 投稿日:2006/02/12(日) 21:09
- ――――
- 16 名前:カシリ 投稿日:2006/02/12(日) 21:10
- だいぶ間が開きましたが、続きを書きたいと思います。
よろしくお願いします。
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/12(日) 21:54
- 待ってました!
新キャラ登場でまた波乱がありそうですね。
毎回バトルシーンの臨場感に圧倒されます。
今後も楽しみにしています。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/13(月) 00:24
- 再開待ってましたよ
- 19 名前:名無しファン 投稿日:2006/02/13(月) 21:45
- うわぁ、まってました!!
またかっこいい飯田さんが見られるんですね…
楽しみです!
- 20 名前:明るい表通りで 投稿日:2006/02/19(日) 15:46
- ――――
「亜弥ちゃ〜ん、疲れない?」
立ち止まった藤本は前を歩いていた松浦に向けて、疲れた声を出した。
朝から買い物に付き合わされて、すでに陽は傾き始めている。
疲れを見せないで店から店へ常に笑顔で移動する松浦に付き合っているうちに、
夕方といっていい時間になっていた。
昼食以外休んでいないためさすがにバテた藤本の声に、松浦は不思議そうな顔で振り向く。
「なんで?」
「なんでって、昼から歩き通しじゃん。少し休もうよ」
松浦から連絡を受けたのは、三日前だった。
突然教えてあった緊急用の番号に、松浦が電話をかけてきた。
わけを聞いても言わない松浦の切迫した雰囲気に、
なにかあったのかとその日の内に急遽帰国した藤本を待っていたのは松浦の笑顔と、
確かに緊急のわけだった。
「だいたいさぁ、こんなとこにいたらヤバイって。
おとなしく部屋にいたほうがいいよ」
「こんな人がいっぱいいるとこならだいじょぶだって。
それに部屋にずっといてもつまんないじゃん」
「……わかったからとりあえず休もうよ」
ちょうど目の前にあるファミレスを指差しながら言った藤本の顔を、
少し心配した表情で松浦が覗き込む。
「お腹減ってるの?」
「そうじゃなくて、なんか飲もうよ」
少し考えるように首を傾げた松浦は、何か思いついたように藤本の腕を取った。
「もう少し先にスタバがあるから、そこまで行こう」
「えぇ〜! まだ歩くの?」
「……みきたんと歩くのは楽しいからって言ったら理由にならない?」
屈託なく言った松浦の笑顔に、一瞬言葉に詰まる。
返答に困った藤本が答えを言う前に、松浦に腕を引っ張られて歩き出した。
- 21 名前:明るい表通りで 投稿日:2006/02/19(日) 15:46
-
第1話
明るい表通りで
- 22 名前:明るい表通りで 投稿日:2006/02/19(日) 15:46
- ――――
その部屋の中は暗く、静かだった。
目張りのしてある窓からは日中とはいえ、日差しは入ってこない。
家具や調度品の一切がなく、開いた扉からは僅かな照明に照らされた廊下が見える。
矢口はつけているゴーグルの位置を直しながら、持っている銃の安全装置を外した。
予定の時間はとっくに過ぎている。
いつこの部屋に踏み込んできてもおかしくない。
開いた扉の上にある梁に乗りながら、矢口は目を閉じた。
耳をすませると低く静かな空調の音と共に、近づいてくる複数の足音が聞こえてくる。
目を開いた矢口は表情を緩めると、下を覗き込んだ。
部屋の前で足音が止まり、小さなささやき声のあと、二つの人影が部屋に入ってきた。
銃を手にした小柄な2人が部屋の中をせわしなく見回す。
矢口は音を立てないように、その頭上に銃口を合わせた。
一通り部屋を確認したあと、矢口に気がつかずに廊下に戻る。
昔ここで訓練をしていたときのことを思い出して、矢口は口元を上げた。
再び部屋に静寂に包まれ、遠ざかっていく足音が隣の部屋の前まで移動したのを確認して、
矢口は乗っていた梁から飛び降りる。
- 23 名前:明るい表通りで 投稿日:2006/02/19(日) 15:47
- 音もなく着地すると、廊下に飛び出す。
薄明かりの廊下の先に3人が背を向けてしゃがみ込み、近くの開いた扉を見ていた。
矢口は3人に向かって引き金を引く。
後頭部を赤い液体に濡らしながら、2人が悲鳴を上げた。
矢口は余裕を持って3人目に照準を合わせようとしたが、
その前に3人目が振り向き、廊下を転がって銃を向けてきた。
照準を合わせていないため逸れた銃弾が壁に当たる音を聞きながら、矢口は走り出す。
3人目に向かって数発打ち込みながら、再び元の部屋へと飛び込むと、
すぐに廊下側の壁に身体を張り付けるように密着させた。
意外な速さで反撃してきたことに内心驚きながら耳を壁に当てると、
薄い壁を通して話し声が聞こえる。
3人目に当てた手応えはあった。残りは2人。
警戒しているのかそれとも仲間を気遣っているのか、すぐには部屋に踏み込んで来ない。
矢口は右手に持った銃を扉の方向に向けながら、息を吸い込んだ。
熱い塊が身体の中で膨れ上がり、身体が火照るような感覚。
身体能力を倍加させる“増幅”の能力を発動する。
左手を固く握り、目の前の壁に打ち付けた。
激しい音と共に壁の一部になんとか矢口の身体が通れるほどの穴が開いた。
矢口は打ち抜いた拳を引き抜くと廊下から差し込んでくる光を見ずに、
すぐに扉に向かって走り出す。
廊下に出ると、3人の仲間の近くに立っている残りの2人が
壁に開いた穴に銃を向けたまま顔をだけを矢口に向ける。
矢口は会心の笑みを浮かべて、引き金を二度引いた。
- 24 名前:明るい表通りで 投稿日:2006/02/19(日) 15:48
- ――――
「どこに潜んでるか分からないんだから、
前後左右だけじゃなく上下にも注意を向けろ!」
2人の少女を指差しながら言った言葉は、つい大きくなってしまった。
目の前に並んでいる5人の少女の黒い戦闘服には、ところどころ赤い染みがついている。
腰に手を当てた矢口の背後にはコンクリート剥き出しの無骨な外観の建物、
HP本部にある訓練施設の入り口があった。
内部は細かく区切られ、さまざまな状況での訓練ができるような構造になっている。
全員が矢口の大声に身体を強張らせたのを見ながら、続けた。
「次に起こる事態を想定して行動しろ。一つのフォーメーションに固執するな。
互いの死角を補うためにあるんだから、状況に合わせて柔軟に変えていけっ!」
再び怒鳴った矢口に、少女の1人がいまにも泣き出しそうな顔を向けている。
よく見ると他の4人も同じような顔をしていた。
腰に手を当てた矢口は下を向いて、首を振る。
「30分後にもう一度同じ状況でやるから、
どうすればいいのか自分達で話し合うこと……じゃあ解散」
泣かれる前にそう言って、少女達から背を向けた。
- 25 名前:明るい表通りで 投稿日:2006/02/19(日) 15:48
- 矢口は入り口脇の階段に腰掛て、芝生に覆われた前庭に視線を向ける。
離れたところに集まった5人がしゅんとした感じで俯いているのを見て、溜め息を吐いた。
泊り込みで訓練を任されたときは、まさかあんな子供が相手だとは思いもしなかった。
施設内でのペイント弾を使っての模擬戦。
少女達に“能力”があるとはいえ、午前中に行った座学だけで対処できるわけもない。
本部もまさか成果を出せるとは思っていないだろう。
それでも実戦に似た雰囲気を感じさせるための訓練とはいえ、手を抜くわけにはいかない。
損な役回りだと思いながら、庭を横切って近づいてくる人物に視線を向けた。
「お疲れっス。どうですか、あの子達?」
声をかけながら寄ってきた小川を見上げて、矢口は首を回した。
「手加減すんのも楽じゃないよ」
「まあ実戦になんて出たことないでしょうし……で実際どうなんですか?」
矢口はもう一度集まっている5人を見てから、小川に顔を向けた。
「圧倒的に錬度が低い。突発的な事態に対応できてないし、
決められたフォーメーションの意味が分かってない。
それぞれの役割ってものも理解できてない」
建物内にいる標的の索敵と排除という設定の模擬戦だったが、あれでは話にならない。
ただかたまって移動するのではなく死角や建物の形状を考え、
互いの援護ができるような位置を取らなければ、意味がない。
反応の速さはなかなか良かったが、小学生と中学生の混成チームではあんなものだ。
- 26 名前:明るい表通りで 投稿日:2006/02/19(日) 15:48
- 「昔のあんたよりは良いけどね」
「え〜? 私はもっと成績よかったですよ」
にやりと笑いながら言った矢口の感想に、小川が口を尖らせた。
能力のデータだけ見れば小川のそれは確かに上位だったが、
それだけで実戦がこなせるほど甘くはない。
まだ訓練課程だった小川を鍛えたのも、ここだった。
「ところで知ってます? あの子達の担当って保田さんらしいですよ」
「なにそれ、どこ情報?」
「村田さんです。さっきそこで会いました」
小川の答えに、矢口は顎に手を当てた。
村田めぐみは本部に常駐しているHPの戦闘員だ。
矢口が知らない情報を知っていても、不思議はない。
「圭ちゃん戦闘なんて経験ないでしょ?」
当然の疑問を口にしながら、矢口は眉を寄せた。
保田は古代から伝わる“向こう側”の生き物に効果の高い武具や呪法具を分析し、
使用者の能力の有無にかかわらずその効果が発揮できるように簡素化する研究を行っていた。
現在使われている障壁を無効化する弾丸の技術の基礎も、保田が発見したものだ。
- 27 名前:明るい表通りで 投稿日:2006/02/19(日) 15:48
- 最後に会ったときには能力そのものの研究をはじめると言って、女の子を連れていた。
笑顔で保田に手を引かれていたが年齢のわりには妙に達観したような、
奇妙な印象を受けたのを思い出す。
それから研究にかかりっきりになっているのか、保田とは最近は会った憶えがない。
矢口は顔を思い出すのに、数瞬かかった。
「あぁ……そっちじゃなくて、能力の方。
持っている能力を限界まで引き出すのが担当みたいです」
強い力を持ってるだけでは意味がない。重要なのはその使い方。
自分の携わっている研究にしか興味を示さなかった保田の考えは、変わっていないらしい。
保田は昔から自分の興味のある研究以外、関心の無いところがあった。
正面を向いたまま、小川の声に適当に返事を返す。
保田はいまHP本部にいるかもしれない。
村田に聞けば居場所を聞けるかも知れないと考えて、横に座っている小川の顔を見る。
「もう一つ聞いたんですけど、知ってます?」
「なにを?」
自分がいない間は小川に任せるのもいいかと思いながら、返事を返した。
「松浦亜弥が誘拐されたらしいですよ」
「……はぁ〜?」
大声を上げた矢口に、集まっていた5人が一斉に顔を向けた。
- 28 名前:明るい表通りで 投稿日:2006/02/19(日) 15:49
- ――――
前の通りを歩く人をぼんやりと見ながら、藤本は頬杖をついていた。
松浦に引っ張られ、ようやく辿り着いたが店内はいっぱいだったため、
外にあるテーブル席に座ることになった。
通りを歩く人の服装も夏から秋へと変わり、
ときどき吹く風は涼しいというよりも寒いというのが適当な季節だ。
温かい飲み物に口をつけながら、藤本は疲れた足を伸ばした。
「ごめんね」
その声に、藤本は通りから松浦へと視線を移した。
カップを両手で持った松浦は、済まなそうな顔を向けている。
「別にいいよ。たまにしか帰ってこないしね」
「そっちじゃなくて」
連れ回したことを言っていると思って口にした藤本の言葉を、松浦は不安な顔で否定した。
普段よりテンションが高かったのは不安の裏返しだったのかと、気がつく。
「あと二日でしょ、大丈夫だよ」
「……うん」
小さな声で答えてうつむき加減に沈黙した松浦に、
なんと言っていいか分からず視線を逸らした。
- 29 名前:明るい表通りで 投稿日:2006/02/19(日) 15:49
- 沈黙した松浦に気まずさ感じて視線を通りに向けた藤本は、向かってくる少女に気がついた。
中学生ぐらいの少女が、後ろを振り返りながら全力で走っている。
その表情は、なにかから逃げているような必死なものだった。
人通りはあまりないが前を見ないで走っている少女を見て危ないと思っていると案の定、
藤本の前で派手に転んだ。
「あうぅ……」
「大丈夫?」
松浦が席を立ち、心配そうな顔で手を伸ばした。
膝を抱えて地面に座り込んだ少女が、声をかけた松浦を見上げる。
「……うぇ〜ん!」
突然泣き出した少女の肩を抱きながら、松浦が助けを求めるような顔を向けた。
- 30 名前:明るい表通りで 投稿日:2006/02/19(日) 15:50
- ――――
「……家から出してもらえないし、助けてもらおうにも携帯は取り上げられるし」
「それで逃げてきたんだ?」
身の上を聞いた松浦が心配そうな顔で少女の肩にやさしく手を置いた。
少女は松浦の手に自分の手を重ねて、小さく頷いた。
「捕まったら何されるかわからないのは分かってたんですけど、でも……」
途中で声を詰まらせた少女が、泣きそうな顔を両手で覆った。
腕を組んで少女の話を聞いていた藤本は、テーブルのコーヒーカップに手を伸ばす。
いつものように学校から帰ったら、家にいるはずの両親がいなくなっていた。
莫大な借金から逃げたのだと聞かされ、すぐに遠い親戚の家に引き取られたらしい。
預けられた家で、学校にも通わせてもらえず朝から晩まで奴隷のように働かされていたと
涙ながらに訴える少女の話だったが、藤本は半信半疑で聞いていた。
「それ、ほんとの話なの?」
手で覆った隙間から一瞬見えた目は、本気で泣いているようには見えなかった。
どうも松浦の顔色を窺いながら話をしているような感じがある。
- 31 名前:明るい表通りで 投稿日:2006/02/19(日) 15:51
- 疑わしくなって聞いた藤本から庇うように、松浦が少女を抱き寄せた。
「信じらんないっ! みきたんがそんなこと言うなんてっ!」
「いいんです、突然こんな話されても信じられないですよね……」
松浦に睨まれた藤本は、慌てて視線を逸らせた。
「決めた! この子も一緒に連れて行くからね!」
「ちょっ……!」
断言した松浦に反論しようとしたが、再び睨まれて藤本は口を閉じた。
視界の端に入った少女の口元が上がったように見えたのは、気のせいなのか。
松浦の人の良さに感心しながら、藤本は溜め息を吐いた。
藤本を睨んでいた松浦が、一転してやさしい目を少女に向ける。
「そういえば名前聞いてなかったよね、なんて呼べばいいかな?」
「久住小春ですっ! 小春って呼んで下さい松浦さんっ!」
松浦の問いかけに、聞かれた少女が顔を上げる。
久住小春は明るい顔と声で、答えた。
- 32 名前:明るい表通りで 投稿日:2006/02/19(日) 15:51
- ――――
- 33 名前:カシリ 投稿日:2006/02/19(日) 15:52
- 以上で第1話終了です。
- 34 名前:カシリ 投稿日:2006/02/19(日) 15:52
- >>17 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
新旧共に活躍する予定です。
>>18 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
前回同様よろしくお願いします。
>>19 名無ファンさん 様
ありがとうございます。
主人公らしく活躍させたいと思っています。
- 35 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:31
- ――――
地下深くに作られた遺物保管所は無作法な闖入者を拒むように、
暗闇の中に閉じ込められていた。
一切の動くモノの無い広大な空間には静謐さが満ち溢れ、
停止した時の流れの中で眠る数々の遺物のひそやかな息遣いを想像させる。
そんな石棺の名に相応しい孤独と沈黙の饗宴のなかに、不意に光が点じた。
支える物のない虚空に現われた2つの金色の炎に、巨大な柱の列が浮かび上がる。
何本もの柱の影が現われた突然の侵入者に襲いかかるように大きく揺れ動くなか、
自転車に乗った後藤は口笛を吹きながら、2つの炎の間をゆっくりと通り抜けた。
ペダルは踏むのに合わせて、整備をしたことのない自転車の錆びたチェーンが音を立てる。
浮んでいる炎の間を通り抜けると、新たに前方に炎が灯った。
後方へと流れていった炎が消え、後藤は前方に現れた炎に向かって進む。
自らが作り出した炎に導かれるように、自転車を走らせていた。
- 36 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:31
-
第2話
Mack the Knife
- 37 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:32
- 後藤の行く手を遮るように巨大な壁、
入り口からは最も遠い位置にある保管所の最深部が現れた。
突き当りを右に曲がり、無数の扉が並ぶ壁と平行に進む。
しばらくすると薄い光の中に浮かび上がるように目的の扉と、人影が見えた。
立っている人影は扉の前に停められたカートに寄りかかり、
近づいてくる後藤に顔を向けている。
「久しぶりのご対面はどうだった?」
後藤は自転車を停めると、またがったまま笑いかけた。
顔を向けた吉澤の表情は炎に照らされて影ができ、少し疲れたような表情だ。
2人の頭上で燃える炎に一瞬視線を向けてから、吉澤は首筋を片手で撫でながら首を回す。
押さえていた手を外して肩をすくめた吉澤の白い首筋には、
蛇のような青黒い痣がくっきりと跡を残していた。
「後藤に任せっぱなしだから、怒ってんじゃないの?」
「ごっちんには感謝してるよ」
吉澤は溜め息と共にそう言うと、力なく笑い返す。
「知らない仲じゃないから、これくらいは良いけどね」
後藤はどうでもいいことのように答えて、扉に視線を投げかけた。
遺物保管所に来てからの二年間、ほぼ毎日のように見てきた扉は
いつもと変わりなく固く、閉ざされている。
- 38 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:32
- 後藤は含みのある笑いを浮かべながら、吉澤に視線を向けた。
「このまえ辻を見たよ」
反応をみるように言葉を切って、吉澤の顔を真っ直ぐに見つめる。
黙ったままの言葉を待っている吉澤は次の言葉を待っているように、
無言のまま視線を受け止めていた。
音も無く燃える金色の炎が床に落ちた2つの影を揺らし、
周囲に満ちた闇だけがそのようすを沈黙を持って眺める。
「……どうだった?」
「あれなら、充分だね」
沈黙に耐えられなくなったように、吉澤が先を促す。
驚異的な身体能力を誇り、あらゆる能力を半減する人狼を
苦も無く倒した辻の姿を思い出しながら、後藤は髪をかき上げた。
「思ったより高いハードルになったけど、頑張ってね」
吉澤は視線を逸らし、扉に顔を向けると黙って頷いた。
そのようすを見ながら小さく頷き返し、後藤は目を細める。
「もしかして、後悔してる?」
試すように言った後藤は、自分の発した言葉に口元を上げた。
いまさら聞くまでもないことだった、吉澤の答えは分かっている。
「後悔なんてしてない。する必要もない」
吉澤は扉から後藤の炎も届かない闇の奥に、視線を移した。
何かが見えるように凝視する吉澤の人形のように白い横顔に、迷いの色はない。
付け足した吉澤の言葉は短かったが、強い決意を感じさせる声だった。
予想通りの答えに満足して、後藤は大きく頷いた。
- 39 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:32
- 後藤はカートの後部座席に自転車を放り込むと、助手席に座った。
勢いよくシートを倒して足を組むと、ポケットからガラスの小瓶を取り出す。
「そういえば梨華ちゃんって来てないの?」
瓶に口をつけながら、ふと思いついた後藤が聞いた。
少しだけ躊躇するように動きを止めた吉澤が、手に持ったキーを差し込む。
「……うん、まあそうだね」
キーを捻るとカートのエンジンが動き出し、低い唸りとなって後藤の背中に伝わる。
歯切れの悪い吉澤の答えに、後藤は苦笑した。
石川が来ないのは、自分がいるからだ。
別に嫌われているわけではないと思うが、石川には信用も信頼もされていない。
自分の考えが理解できない種類のものだというのは、十分に分かっていた。
保管所に行くと聞かされた石川の顔を想像して微笑みながら、
後藤は手に持った瓶に口をつけた。
- 40 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:32
- ――――
昨夜の内に吹いていた強い風に大気が洗われ、深みを増した空の蒼が高く澄み渡っていた。
日が昇るころには強風はおさまり、早朝の清清しい日差しと共に微風となって
心地よく通り過ぎている。
舗装されていない小さな広場の隅で、タバコをくわえた中澤は真剣な表情で腕を組んでいた。
広場の中央にはブロックが数段重ねられ、その上にドラム缶が乗っている。
缶の上部は綺麗に切り取られ、中には縁まで水が入っていた。
中澤の視線の先、ドラム缶のそばに立っている新垣は水平に上げた右腕の掌を
ドラム缶の腹に当てて目を閉じている。
整えるように静かな呼吸を何度も、繰り返していた。
「……ハッ!」
新垣が目を開けて鋭い呼気を発する。
鈍い音が広場に響くとドラム缶が水平に移動して、
乗っていたブロックから半分ほど外に押し出された。
「冷たっ!」
支えを失って傾いていくドラム缶に慌ててしがみついた新垣に、中の水がこぼれてかかる。
それでもなんとか手を放さずに、ドラム缶を引きずって元の位置まで戻した。
「ほんとにできるんですか〜」
情けない声を出して振り向いた新垣に、中澤は呆れながら首を振った。
- 41 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:33
- 深くタバコを吸い込むと、中澤は歩き出した。
「ええか。生き物の身体っちゅーのは皮膚という皮袋に満たされた液体の中に、
骨が漂ってるようなもんや」
「なんか……すっごく気持ち悪い喩えですね」
心の底から嫌そうに言った新垣に、鼻で笑って答えて見せる。
「とんでもなく大雑把に言えばや」
中澤は新垣に離れるように言って、ドラム缶の正面に立った。
ドラム缶の横を軽く蹴ってから、タバコを手に持った携帯灰皿に入れる。
「液体の中に浮いてる骨は重力や身体の僅かな動きを受けて、絶えず液体の中で動いてる。
その動きが液体に伝達されて、液体自体も揺れている」
水面が僅かに揺れているドラム管の腹に、そっと右手の平を添えた。
- 42 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:33
- ほぼ棒立ちの状態で、僅かに目を細める。
「静を以って動を待つ。揺れている水の動きを……」
細く息を吐いて、目を閉じた。
「“意”を以って捉える」
中澤の声と共に、ドラム缶の中に満たされていた水だけが吹き上がった。
ドラム缶は微動もせずに、頭上を軽く超えて立ち上がった水柱が雨のように降り注ぐ。
振り返った中澤は目を丸くして驚いている新垣を見て、溜め息を吐いた。
「なんども言っとるやろ。太極は無極より生じ陰陽を生む変化の源や。
動すれば陽が生まれ動が極まると静になる、
そして静すれば陰が生まれ静が極まれば、また動となる」
歩きながら取り出した新しいタバコをくわえ、火をつける。
新垣の横を通り過ぎながら、軽く頭を小突いた。
「天地万物の理たる太極を悟れ。太極に満ちている陰陽、虚実の変化を知れば、
なんの奇を衒うことなく勝ちを得ることができる」
そのまま広場を通り過ぎて道路に出る直前に、振り向く。
新垣は中身の減ったドラム缶のなかを、覗き込んでいた。
「見てるだけで分かった気になるんやない! さっさと練習せんかいっ!」
「はいっ!」
中澤の怒鳴り声に驚きながら返事をして、
新垣は水を入れるため広場の隅にあるホースに向かって走り出した。
- 43 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:33
- 家に入り2階に上がると、紺野が温かそうな湯気のあがったコップを両手に持って、
家の裏側に面した窓から外を見ていた。
「おはようございます」
「なんや起きとったんか」
パジャマ姿の紺野が中澤に挨拶をしながら、カップに口をつける。
中澤は部屋の奥にある冷蔵庫から取り出した缶コーヒーを飲みながら、
扉を開けたまま朝食になりそうなものを物色した。
「あれって、いつでも使えるんですか?」
背後からかけられた声に振り返ると、窓から視線を移した紺野と目が合った。
紺野が見ていた窓からは、さっきまでいた広場が見下ろせる。
“あれ”がなんのことかは、すぐに分かった。
「両足が地面に着いてればな……お前もやりたくなったか?」
「とっても興味深いですね。でもこれ以上早起きは、たぶん無理です」
口元を緩めながら言った紺野は、カップに口をつける。
確かに、紺野がこの時間に起きているのは珍しいことだった。
- 44 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:34
- 中澤は苦笑しながら、再び冷蔵庫へ視線を向けた。
冷蔵庫の中にめぼしいものは見つけられず、諦めて扉を閉める。
「あんなもん見た目が派手なだけで、たいして役に立つわけじゃないで」
「そうなんですか?」
中澤は小首を傾げた紺野を見ながら、残っていたコーヒーを飲み干した。
「一定の攻撃パターンを持たずに、相手の攻めようとする“氣”を誘い、隙を生ませる。
そして相手の攻撃が最大の力を持つ前に、これを迎え撃つ。
“攻撃”ではなく“反撃”でもない。本質は“迎撃”や。
それが理解できないうちは、あんなもん大して……」
『も〜! 冷たいってば!』
窓から聞こえてきた新垣の大声に、2人の視線が窓に向けられた。
振り返った紺野と視線を合わせて、中澤は肩をすくめる。
「……意味なんかないんやけど。
あんなもんもできないんじゃ話にならん」
空き缶をゴミ箱に捨てて部屋を出ようとした中澤が、紺野の視線に気が付いた。
紺野は空になったカップを両手で持って、微笑んでいる。
「なんだか中澤さん、とっても楽しそうな顔してますよ」
「……ふんっ!」
中澤は緩んでいた頬を引き締めて、部屋を後にした。
- 45 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:34
- ――――
「ほぉ〜」
「変な声だすな。気持ち悪い」
コーヒーの入ったカップを手に、藤本は眉をしかめた。
藤本が座っているソファーの向かいで、
飯田は机に腰をかけながらニヤニヤと顎を手で擦っている。
藤本の横に座っている久住は出されたコーヒーにも手をつけず、行儀よく座っていた。
さっきから話をしている藤本ではなく、飯田の視線は久住に向けられている。
「だからどうなの? この子預かってくれるの?」
藤本は苛立ちながら、乱暴にカップを置いた。
他人を巻き込んでいい状況ではないと、
とりあえず飯田のところに預けるで松浦を納得させた。
松浦を置いて藤本1人で訪ねたのはいいが、飯田はろくに話も聞かずに
久住の顔を楽しそうに見ている。
知り合いなのかと思ったが、そうでもないらしい。
「ああ……うん。そりゃあもちろん、困ってるときはお互いさまって言うし、
いろいろ恨みがあったりなかったりだし」
ようやく藤本に視線を向けた飯田は、独りで納得したように何度も頷く。
- 46 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:34
- 「なんの話?」
「気にしなくて良いから」
飯田は藤本に向けて、右手を小さく振った。
よく見ると飯田には似合わない動物のキャラクターの絵がついたバンソウコウが、
貼ってある。
飯田は真面目な顔で顎を擦った。
あんな顔をしている奴は、ろくでもないことを考えている。
自分の経験からそう考えた藤本は、眉をひそめながら残っていたコーヒーを飲んだ。
「ここでもいいけど、ガキさんがいるしなぁ……」
「なに? ガキさんがなんか関係あんの?」
飯田は独り考え込むように眉を寄せる。
新垣は、紺野の家から学校に行っているという話だった。
何か知っている感じの飯田に、藤本は久住を預けに来たことを後悔し始めた。
「ここだとちょっとまずいから、知り合いのとこでも行こうか」
なにか思いついた飯田がテーブルから下りると久住の肩を一度叩いて、
椅子にかけてあった薄手のコートを手に取った。
どこに連れて行くか知らないが、とりあえず久住のことはこれで良い。
立ち上がった久住を横目で見ながら、藤本は胸を撫で下ろす。
「なにしてんの、あんたも来るんだよ」
飯田の声に、椅子に座ったまま振り返った。
「はあ〜? なんで美貴も行くのさ?」
「だってどこ連れてくか知らないでしょ。松浦に報告できないよ?」
当然のように言って部屋を出て行く飯田に、久住が慌ててついていく。
部屋に残された藤本は、2人が出て行った扉に向かって舌を出した。
- 47 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:35
- ――――
後藤は空になった小瓶を後ろを見ないで、後部座席に投げ入れた。
変わらない景色に後藤の頭のなかを眠気が漂い始める。
対象物の極端に少ない闇の中を疾走しているため、
どれほどの速度が出ているのかわからない。
走り初めてすでに30分以上経っているが、寄り道をしたおかげで
出口までようやく半分といったところだった。
「迎えに来なくてもいいって言ってあったと思うけど、なんかあったの?」
無言でハンドルを握っていた吉澤が思いついたように顔を向けた。
いつのまにか目を閉じていた後藤は、
吉澤の言葉に頭の後ろで組んでいた腕を振って起き上がる。
「言い忘れてた。つんくさんから連絡があったよ。すぐに帰って来いってさ」
「あっそ」
吉澤の薄い反応に、後藤は意外そうに首を傾げる。
「あんま驚かないんだね」
「まあね、だいたい見当はついてるし」
当然のように言った吉澤は、再び出口の見えない闇へと視線を向けた。
- 48 名前:Mack the Knife 投稿日:2006/02/24(金) 18:35
- ――――
- 49 名前:カシリ 投稿日:2006/02/24(金) 18:36
- 以上で第2話終了です。
- 50 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/27(月) 23:10
- おー再開されてたんですね?今から読みます!
- 51 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/07(火) 18:44
- ”2”から読んでしまいましたが、すぐに”1”の方も改めて読ませて頂きました。
戦闘シーンが凄い迫力ですね。臨場感と躍動感が文面からすごく伝わってきます。
ホントにこれほど質の高い作品に出会えてすごく嬉しいです。めちゃくちゃ面白い!!
続きを楽しみに待っていますので頑張って下さい、応援しています!
- 52 名前:Milestone 投稿日:2006/03/10(金) 00:17
- ――――
適度な温湿度が保たれ、めったに人の通らない静かな通路は
時間が止まっているような錯覚を起こさせる。
そのフロアに足を踏み入れた者を威圧するように、両側には重厚な木製の扉が並んでいた。
集まっている仲間から少し離れて、熊井友里奈は腕を組んで壁に寄りかかっていた。
視線の先にあるのは、ひと際大きな扉。
静かな空間に遠慮するように小さく息を吐いて、熊井は視線を扉から外した。
通路に残っている他の仲間達も、ひそひそと小さな声でなにか話し合っている。
日が昇ったばかりの外は、まだ薄暗いはずだ。
熊井が仲間達と共に呼び出された理由には、それとなく見当が付いてはいる。
一般的な能力者とは違う、特別な訓練。
ここにいる仲間と共に受けていたその訓練課程は、すでに終了している。
いつかは来ると分かってはいたが、やはり緊張はするものだ。
熊井は再び扉に目を向けた。
代表の2人が入ってから、ずいぶん時間がかかっている。
リスクを負うなら、それ相応の見返りを。
自分達からみれば当然の条件だが、2人の交渉は難航しているのかもしれない。
一緒になかに入れば良かったかもと考え、熊井は苦笑した。
交渉の場に自分が行っても役には立たない。
やはり2人に期待するしかないと思い直した熊井の視線の先で、
なんの前ぶれもなくノブが回った。
- 53 名前:Milestone 投稿日:2006/03/10(金) 00:17
- 扉が閉まるのを待って、部屋から出てきた2人を集まっていた仲間が取り囲む。
熊井も背中を預けていた壁から離れた。
「どうだった?」
「やっぱり誰か付いてくるって?」
「ううん。私達だけでやって見ろって」
なかに入った2人のうちの1人、リーダーになっている清水佐紀が
矢継ぎばやにだされる質問に答えた。
真剣な表情で仲間を見回す清水のようすを、熊井は仲間達から一歩離れて眺める。
「いまから準備して、用意ができしだい出発」
仲間達が清水の言葉を興奮した顔で、聞いている。
つまらない訓練が終って初の実戦となればみんなが浮かれるのも分かるし、
熊井自身もそれは感じていた。
- 54 名前:Milestone 投稿日:2006/03/10(金) 00:18
- 笑顔で互いに顔をあわせている仲間を見渡していた清水が、
咳払いをしてから口を開いた。
「それと、こっちの条件も認められた」
「じゃあ……!」
一番前に前に立っていた夏焼雅の期待に満ちた声に頷いてから、
清水は言葉を切って一同を見渡す。
「これがうまくいけば、寮から出ることができます」
『おおぉっっ!』
熊井はどよめいていた仲間を見て、笑顔を浮べた。
本部に作られた寮に暮らすのも悪くはないが、自由にできる暮らしには憧れている。
ふと、清水の後ろに立っている嗣永桃子が視線を向けているのに気が付いた。
清水と一緒になかに入った嗣永は、熊井と視線を捕らえるとニッと歯を見せて笑いかける。
リーダーは清水だったが、実際には一緒に入った嗣永が交渉をしたのだろう。
何を考えているのか見えないところもあるが、こういうときには頼りになる。
「ただし、相手より先に松浦亜弥を確保するのが条件だって」
「よぉっしっ! みんな気合入れていくよっ!」
『おぉっ!』
清水を押しのけて前にでた嗣永に答えて、全員が一斉に腕を上げた。
- 55 名前:Milestone 投稿日:2006/03/10(金) 00:18
-
第3話
Milestone
- 56 名前:Milestone 投稿日:2006/03/10(金) 00:19
- ――――
「いただきます」
両手を合わせていった新垣は膝の上に置いた弁当箱を持ち上げると、卵焼きを口に入れた。
外で食べる昼食はいつもよりおいしく感じられる。
風は早朝よりも少し強くなっていたが、太陽と共に順調に上がった気温が
それを心地よい感触に変えて、新垣のいる学校の屋上を通り抜けていく。
もう少し寒くなるとこうやって外で食べることもできなくなるのが、少し残念だった。
気を取り直してペットボトルに口をつけながら、正面に見える空にぼんやりと目を向ける。
中澤との稽古のあと家を出ようとしたときに、
夕方からは雨が降ると紺野が言っていたのを思い出す。
どこまでも続いて見える青空の中に、ところどころ雲が浮んでいた。
どれぐらい雲が出ると晴から曇になるのかと、どうでもいいことを考えながら、
ふたたび弁当に箸をつける。
屋上を囲むフェンスの外側から聞こえてくる校庭ではしゃぐ生徒の声と共に、
新垣はのどかな午後のひと時を満喫していた。
- 57 名前:Milestone 投稿日:2006/03/10(金) 00:19
- 「足りないな〜」
その声に新垣が顔を向けると小春日和を地でいくような陽気を浴びて、
横にいる高橋が大きく両手を伸ばしていた。
眠そうに瞬きをして目を擦ると、地面に置いてあった紙パックの牛乳を手に取る。
ストローを立てた紙パックから、牛乳を音を立てて飲んだ。
高橋の足元に置いてある小さなビニール袋には、空のサンドイッチの袋だけが入っている。
いつもは2人とも弁当箱を持参して、屋上で昼食を取るのが日課だった。
「そういえば珍しいね、お弁当作ってこなかったんだ?」
「きのうは食事係が帰ってこなかったからの」
不機嫌そうに口を尖らせた高橋は空になったパックを握りつぶして、
足元に置いてあったコンビニの袋に乱暴に片付けた。
「小春ちゃん帰ってこなかったんだ……心配だね」
「ほんとやって。このまま帰ってこなかったら、
明日は自分で弁当作らないといけんし」
「そっちかよっ!」
突っ込んだ新垣を無視して、高橋はふと思い出したように2人しかいない屋上を見渡した。
「そういえば今日は麻琴の姿がないけど、休みかの?」
なんの悪気もなさそうに口にした高橋に、新垣は溜め息を吐く。
いつも学食で昼食を食べたあと、真っ直ぐにここにくる小川を不憫に思いつつ、
いつものことだと気を取り直してペットボトルに口をつけた。
「今日はバイトだってさ」
「あっそ」
新垣の言葉に納得したように頷くと、高橋は空を見上げる。
つられて見上げると、上空を吹く風に散らされた雲が薄く広がりはじめていた。
- 58 名前:Milestone 投稿日:2006/03/10(金) 00:19
- ――――
正面の大きな窓から見える山の色は、冬に備えて鮮やかな色に変わりはじている。
昼になって高く上がりはじめた太陽が、それを美しく照らしていた。
「どうやった?」
答えを期待するように、テーブルに腰掛けたつんくは明るい声を出した。
吉澤が遺物保管所からHP本部に戻り、通されたこの部屋での第一声がそれだった。
目の前の来客用の椅子に座らずに、吉澤は立ったまま小さく首を振る。
「真面目にやってますね。なかにも入れてもらえませんでしたよ」
「その割には連絡いれるのが遅かったな」
「散歩してたんですよ。紅葉が綺麗でした」
つんくは吉澤の答えを吟味するように口を閉じ、目を細めた。
吉澤は向けられた視線をわざと逸らせて、つんくの背後の窓に向ける。
「……まあ、それもええやろ」
つんくはそう言ってテーブルから下りると、椅子に腰掛けた。
「勝手に動くのもええが、取り返しのつかんことにならんようにすることや」
柔らかい声だったが吉澤に向けられた鋭い両眼の奥には、
見るものを威圧させる力を秘めている。
自分の情報網に絶対の自信があるのだろう。
裏でなにをやっていたとしても、それで計画に支障が出るわけがないと信じている。
それは多くの勝利者が態度や言葉の端々に滲ませる、不遜な態度だった。
吉澤はわざと姿勢を正して小さく頷くことで、目の前の男を満足させる。
- 59 名前:Milestone 投稿日:2006/03/10(金) 00:20
- 吉澤の態度が気に入ったのか、つんくはゆっくりとした仕草で
テーブルに置かれたタバコに手を伸ばした。
「時間もなくなってきた。多少強引なことになるかも知れんな」
「じゃあ、予定通りですか?」
「来年の始めに稼動予定や、工事も順調に進んどる」
つんくが言っているのは、HPが推している巨大な結界機関のことだった。
これまで自然発生する“通路”を防ぐ防衛結界は
ごく限られた空間に限定されて使用されてきた。
しかし、いま建造されているものはその規模が桁違いだった。
巨大な結界機関に専用の発電所で電力を供給し、
首都圏全域をカバーする防衛結界を発生させる。
完成すれば、人工密集地に自然発生する“通路”を防ぐことができるはずだった。
だが前例のない強大な防衛結界は、向こう側の住人である吸血鬼に
どのような影響があるのかわからない。
十分なデータがない状態で、吸血鬼側の組織が反対していた。
吉澤が疑問を口にする前につんくはタバコをくわえると、火をつける。
「向こうも、納得済みや」
何でもないことのように言って、タバコを深く吸い込んだ。
タバコの先端が強く光り、つんくの口から紫煙が漏れる。
「稼動の日付が決まる前に、こっちの準備も済ませなあかん」
「間に合いますか?」
「間に合わすんや」
それまでのどこか浮ついた雰囲気を払拭するように、つんくは強く言った。
- 60 名前:Milestone 投稿日:2006/03/10(金) 00:20
- つんくはくわえタバコのまま椅子を回して、外に顔を向ける。
吉澤は次の言葉を待って、その横顔を眺めた。
黙考するつんくからは先ほどまで張り付いていた明るさは消えている。
その横顔は、本来持っている怜悧さを強く感じさせるものに変わっていた。
「……この世界の調和は、2つの勢力の均衡で保たれとる。
世界という名の利益を分け合う互いの最適反応としての、均衡や」
再び椅子を回して、つんくはくわえていたタバコをテーブルの灰皿に押し付ける。
ほとんど吸っていないタバコを乱暴にもみ消したつんくの表情は、
こみ上げてきた苦いものに耐えるように歪んでいた。
吸血鬼は自分の生きる場所を得るために。
人間は単独で対処することができない脅威に対抗するために。
それぞれに共通する妖獣という架空の敵を作ることで、
人間と吸血鬼は偽りの均衡を保っている。
世界という名の利益を取り合う、二者による盤上の駆け引き。
何度も聞いた信念とも言えるような、つんくの持論。
確かに共感できる部分もあるが、それはあまりにも極端すぎた。
つんくはテーブルに両肘をついて指を組むと、吉澤に顔を向けた。
「そのけったくそ悪い均衡を破るのは簡単や。ゲームのルールを変えればいい」
視線を受け止めた吉澤は、ほんの僅かな時間瞳を閉じ、そして開いた。
つんくは吸血鬼はもちろん能力者にも頼らない世界の調和の実現を、思い描いている。
現状を見ないで理想を語るつんくの考えは、変わらない。
吉澤は黙って頷くことで、偽りの同意を示した。
- 61 名前:Milestone 投稿日:2006/03/10(金) 00:21
- 「それで、急ぎの用っていうのは?」
「もう知っとるやろうけど、あっちの組織が松浦を探しとる」
話題を変えた吉澤に、つんくは即答する。
つんくが言った“あっち”と言ったのは、吸血鬼が独自に作っている組織のことだ。
この世界にいるほとんどの吸血鬼が所属している。
HPに所属している吸血鬼も、建前上はそこからの派遣という形を取っていた。
「平家から直々に松浦の捜索依頼がきた。
あっちの内輪揉めやから最初は蹴ったろうと思ったんやけどな。
……そろそろ実戦で試すのも悪くないやろ?」
「あの子たち使うんですか?」
吉澤の言葉に、つんくは口元を歪めた。
その顔からはいつのまにか冷たさは消え、
悪戯を画策する子供のような笑顔を浮かべている。
「今回はお前とあいつらで競ってもらう。人選はお前に任せるから適当にやれや」
「実戦経験ないんですよね? 勝負になりませんよ?」
再びテーブルのタバコに手を伸ばすつんくに、吉澤は言った。
松浦という目標の捜索と、確保。
たとえ同じ情報を持っていたとしても、経験が大きく物を言う。
いくら能力者だろうとそれは変わらない。
「先手を取らせた。十分なハンデやろ。
それにあいつら保田の虎の子や。舐めてかかると……食われるで?」
そう言って、つんくは楽しむように深く煙を吸い込んだ。
- 62 名前:Milestone 投稿日:2006/03/10(金) 00:21
- ――――
- 63 名前:カシリ 投稿日:2006/03/10(金) 00:21
- 以上で第3話終了です。
- 64 名前:カシリ 投稿日:2006/03/10(金) 00:22
- >>50 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
今回もよろしくお願いします。
>>51 名無飼育さん 様
そこまで褒められるとは……ありがとうございます。
頑張って書いていきたいと思います。
- 65 名前:51です 投稿日:2006/03/12(日) 02:57
- 更新お疲れ様です。待ってました!!
う〜、展開が読めない…。まさか彼女らにお呼びがかかるとわ!
第4話も楽しみ。ドキドキしながら待ってます♪
- 66 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:34
- ――――
男は車外に出ると大きく伸びをした。
ついでに見上げた空には雲が広がり、雨が近いことを知らせている。
視線を下ろすと、すでに見飽きた感のある学校に視線を向けた。
舌打ちをしながら取り出したタバコをくわえると、火をつける。
曇り空に変わった天気と同じく、男の機嫌も悪かった。
理由は、分かっている。
失踪した“重要人物”をHPに先んじて確保することができれば、
それをカードにHPの持っている技術の提供を引き出すことが可能になる。
もちろん本国の命を受けてこの国に駐留している者として、
下された命令には従うのが軍人としての矜持だが、
出どころのはっきりしない情報に振り回される上層部への不信感は拭えない。
男は車の屋根に組んだ両腕を乗せる。
視線の先にある背景の天候以外変化のない監視対象を眺めながら、
タバコの煙と共に溜め息を付いた。
いまやっている役割自体、意味のないことに思える。
とりあえず関係のある場所を監視対象にすることになったが、
通っていた学校に追われている“重要人物”が戻ってくるわけがない。
軍の中で秘密裏に作られた対妖獣部隊に所属しているため、
妖獣とそれを相手にしているHPについての知識も多少はある。
だが資料と実際の映像を見た感想は“ばかげてる”だった。
普通の人間がどれほど訓練を積んだところで、なんとかできるものではない。
化け物は化け物同士、殺しあっていればいい。
男の認識では現れる妖獣もそれに対処するHPも、どちらも同じ“化け物”だった。
交代要員が遅れているのも、気に入らない。
男は短くなっていくタバコの先端を見ながら、再び溜め息を吐いた。
- 67 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:35
-
第4話
Angel Eyes
- 68 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:36
- ――――
「いらっしゃいませ」
カランと鳴った音に、紺野は愛想のない声を反射的に出した。
読んでいた本から視線を上げて、入ってきた客を見る。
地味なスーツ姿の見たことのない男が2人、店内を見渡していた。
紺野は視線を転じて、入り口脇にある大きな窓から外を眺めた。
曇天の空は雲が澱んで、いつもより早く夜が来そうな気配だ。
午後になって出てきた灰色の雲を見ていた紺野は、
通りの反対にある酒屋に視線を移して目を細める。
少し前に用があって訪ねたときに、向かいの古本屋で働いていると言って、驚かれた。
この店は、近所から古本屋として認識されていなかったらしい。
店の中に視線を戻した紺野は、店内を一通り見渡す。
四方の壁を埋める書棚と棚から溢れて平積みされた本の山が、
本来は広いはずの店内を細い通路のように分けていた。
増えていく本を置くのに椅子を片付けたため、
装飾品といえば残された小さなテーブルだけになっている。
これだけの本があって認識されないのはなぜなのか。
理由が思いつかない紺野は首を傾げた。
別に売上を伸ばす必要を感じているわけではなかったが、近所にも知られていないうえに
今週の客数が両手で足りるとなれば、さすがに考えければいけない。
このままでは古本屋ではなく収集家だ。
そこまで考えてふと、カウンターの中に読んでいない本が山のようにあるのを思い出す。
とりあえず読みたい本を片付けようと、紺野は再び視線を落とした。
- 69 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:36
- 活字を追いはじめた紺野が目の前に気配を感じて顔を上げると、
カウンターの前に男が1人立っていた。
紺野に向けている顔はサングラスに隠されていたが、顔立ちから外国人と分かる。
確か2人で入ってきたと思い、男の背後に視線を向けるともう1人の男は窓の横に立って、
店内を見渡していた。
並んでいる本を見ているというよりも配置を確認するような、視線だ。
紺野は勝手にブラインドを下ろしはじめた男から視線を移して、
目の前に立っている男を見上げる。
「……なにかお探しですか?」
「紺野あさ美だな?」
外国人の男の口から流暢な日本語が発されるのを聞きながら、
着ているジャケットのふくらみに気が付く。
- 70 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:36
- いやな予感がしながらも、紺野は頷いた。
止める間もなく男が懐に手を入れ、取り出した物と一緒に紺野の顔に突きつける。
「立て。一緒に来てもらう」
紺野は突きつけられた銃の安全装置が外れているのを、確認する。
サイレンサーの付いた銃口を睨んでから、男の顔に視線を移した。
「あなた達がいる国は法治国家の日本で、ここは私の店です。
変な噂が立つと困りますから、そんなものは仕舞ってもらえませんか」
言い終わるのと同時に、紺野の後ろにある壁に穴が開いた。
飛び散った紙の一片が男と紺野の間を挟んだカウンターに落ちる。
僅かに銃口を逸らしてから、男がためらいもなく引き金を引いた。
「お前に“能力”がないのは分かっている。黙って付いてこい」
表情を変えないで言った男から視線を外して、テーブルに落ちた紙片を眺める。
紺野は、カウンターの下で握っていた銃から手を放した。
障害物を貫通した弾丸は軌道が変化する場合がある。
相手は2人だったし、最初の一発で致命傷を与えられなければ、
不利になるのは座っている紺野の方だった。
紺野は視線を上げると営業用の顔でニッコリと微笑んだ。
「ほんまはうち、中澤裕子やねん」
「早くしろ」
苛立ちを含んだ男の声に、紺野は小さく舌打ちをする。
カウンターに両手を付いて、立ち上がった。
- 71 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:36
- ――――
「どういうことなんですか?」
紺野は無駄だと思いながらも、前を歩く男の背中に問い掛けた。
男の歩くスピードに変化はなく、返事もない。
前後を挟まれた状態で店の裏口から広場に出ると、裏道にワゴン車が停められていた。
あれに乗せられたらさすがにまずいと思い話し掛けてみたが、無視されてしまった。
「なんにか恨まれるようなこと、しましたっけ?」
無言で歩く男の背中に再び尋ねながら、ほんの少し歩くスピードを緩める。
すぐに、後ろの男が背中を押してきた。
しかたなく歩きながらさりげなく周囲を見渡すが、
普段でも人通りのない道に通行人はいない。
とりあえずおとなしくついていくことに決めた途端、突然前を歩いていた男が立ち止まった。
背中にぶつかりそうになって、紺野も足を止める。
『……仲間はどうした?』
男の母国語を聞きながら、紺野はワゴン車に視線を向けた。
まさか2人できたわけではないはずだが迎えの人間もいないし、
エンジンも切っているのかアイドリング音も聞こえない。
『そこで待て』
前を歩いていた男が慎重に車に近づいていく。
紺野は残った男に、背中から銃を強く押し付けられた。
- 72 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:37
- 突然車の陰からふらりと現れた人影に向けて、男は冷静に銃を構えた。
現れた人物はビールの広告が入ったダンボールを、肩に担いでいる。
「ここ駐禁やで」
「動くなっ!」
紺野に一瞬だけ視線を向けてから、現れた中澤はダンボールを地面に置いた。
鋭く言った男が向けている銃に、笑顔で両手を上げる。
「そんな物騒なもん出すと……怪我するで?」
いい終わると同時に、男に向かって間合いを詰める。
唐突な動きにも惑わされず、男は斜めに走り出した中澤に向けて引き金を引いた。
分かっていたかのように中澤の進路が変わり、逸れた銃弾がワゴン車の腹に当たる。
男は下がりながら真っ直ぐに近づいてくる中澤の腹部に向けて、銃を構え直した。
充分に引きつけてから引き金を、引く。
後ろで見ている紺野の目から見ても避けられない距離だったが、
僅かに姿勢をずらした中澤の横を掠めて、銃弾はすり抜けた。
- 73 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:37
- 距離を詰めた中澤の身体が男の身体と接触したと同時に、男の手から銃が飛ぶ。
次の瞬間紺野の前に、男と背中合わせになった中澤の姿が現れた。
どうやったのか一瞬で身体を入れ替えた中澤が、紺野に向けて片目を瞑る。
返事の代わりに紺野は横に飛んで、背中に突きつけられた銃の射線から外れた。
急変した事態に紺野の動きを捉えられなかった男が、
一瞬の躊躇のあと持っている銃を目の前にいる中澤に向ける。
だが男が引き金を引くよりも早く、中澤は男と背中合わせのまま半回転した。
位置が入れ替わり、中澤の背中の男が銃を向けている仲間に慌てて手を振る。
中澤は左の肘を背後に放つ。
背中合わせになっていた男が脇腹に肘を受け、うめきながら一歩前によろけた。
中澤の身体が反転して、僅かに開いた隙間を埋めるように肩で体当たりを食らわせる。
突き飛ばされた男がもう一人にぶつかった。
抱き合った形の男達が離れる前に、近づいた中澤の右掌が背中に押し付けられる。
「ハッ!」
小さい呼気と共に中澤の身体が一瞬痙攣するように動き、2人の身体が崩れるように倒れた。
- 74 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:38
- ――――
紺野は立ち上がると服についた砂利を払いながら、恨めしそうに中澤を睨んだ。
「遅いですよ」
「まあええやん、間に合ったし」
ビールを買いに向かいの酒屋にいた中澤だったが、
普段は下ろさないブラインドが下りているのを見て、慌てて帰ってきた。
酒屋のおばちゃんと話をしていて遅れたとは言わずに、
中澤はとぼけながらポケットを探る。
取り出したタバコの箱がつぶれているのをみて小さく舌打ちをしながら一本取り出すと、
曲がったタバコをくわえた。
「前から一度聞いてみたかったんですけど」
中澤が振り返ると、紺野が倒れている男達を見渡していた。
「なんでさっきみたいな動きができるんですか?」
紺野の言葉を黙って聞きながら、左手に持った携帯灰皿に灰を落とした。
銃器を扱っているだけに、普通なら避けられない距離とタイミングだと分かったのだろう。
どうやって話そうかと思いながら、もう一度タバコを口元に持っていく。
「接触した部分から感じる皮膚感覚で、相手の動作の起こりを感じるのが“聴勁”や。
それが長ずれば、相手に触る必要も無くなる。
つまり離れた相手の“意”を感じることができるようになる」
「それは相手の視線や表情、構え。そういった総合的な動作から、
相手の動きを予想するということですか?」
「違うな。精神の動きを捉える」
宙に向かって紫煙を細く吐き出すと、紺野に向かって苦笑を向ける。
「疑ってるみたいやな」
紺野は肩をすくめて見せた。
- 75 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:38
- 疑わしそうな紺野の眼差しを横目で見ながら、
中澤はタバコを口にくわえたまま、倒れている男に近づく。
殺さない程度に手加減はしてあるとはいえ、すぐに目を覚ますはずはない。
ピクリとも動かない男の傍にしゃがみ込んだ。
「太極は無極より生じ、一動一静互いにその根となり陰陽に分かれ、両義立つ。
両義四象を生じ、四象八卦を生じる。八卦吉凶を定め、吉凶大業を生ず。
物事はすべて表裏一体を成し、その変化の源は太極や。
世界を構成する太極を理解し、意を以って捉えることができればお前でもできる」
説明を聞いていた紺野が諦めたように、小さく頭を振った。
「そういう考え方があるのは知っていますが、
古代の東洋哲学は思考過程が曖昧で、理解しがたいですね」
中澤は地面に落ちている銃を摘むと紺野の足元に投げる。
立ち上がって隣で寝ている男の傍に近づいた。
「なにか行動を起こそうとする人間は肉体よりも先に精神が動く。
それは意識しようがしまいが変わらない。
その精神の動きの起こりを捉えれば、新垣でも同じことができるはずや」
足元に落ちた銃に一瞬視線を落として、紺野が顔を上げた。
「ガキさんも強くはなっているんでしょうが、技量で言えば中澤さんが数段上です。
中澤さんが教えてる体術は長年の研鑚を積み重ねることで、
徐々にそのシステムを理解し、体現できるようになるものですから
まだ無理じゃないでしょうか?」
「そうでもないで、技術的にはうちと遜色ないとこまできとる。
足りないのは、それらの技を使うための概念と理解の深さや」
地面に落ちている銃をすべて紺野の足元に投げると、
中澤は短くなったタバコを灰皿に入れた。
「まあええ、そんなこと話とる場合やないしな。こいつ等の見当は付いとるんか?」
「ええ、まあ」
紺野は再び地面に視線を落とした。
- 76 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:38
- 落ちている銃を拾い上げると弾倉を取り出し、
装填されている弾丸を一発指で弾いて取り出す。
銃の本体を持った反対の手で器用に受け取って一瞥すると、中澤に向かって投げた。
中澤は投げられた銃弾を受け取り、手の上で転がす。
一見すると何の変哲もない銃弾だったが、
乗せている手の平に染み込んでくるような奇妙な冷気を放っていた。
「これ、対障壁用の弾か?」
「一世代前の物ですが、HPから米軍に供給されている物です。
この人たちも訓練された動きでした」
中澤の問いに頷いて、紺野が答えた。
「なんで米軍がお前のこと拉致ろうとするんや?」
「それはこれから調べますよ」
薄く笑いながら言った紺野は、弾倉を銃に装填する。
「店の商品に手を出したんです。絶対に……許しません」
静かな怒りを滲ませて、紺野は銃をポケットにしまった。
- 77 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:38
- とばっちりを受けないように怒っている紺野から視線を外して、
中澤は能力を発動し周囲を探った。
本来なら能力者は見つかった時点でHPに引き渡されることになっていたが、
なんにでも例外というものはある。
独自の戦力を確保するために見つけた能力者を軍が秘密裏に匿っているのは、
公然の秘密だった。
支障がない範囲であれば、HPも黙認しているのが現状だ。
今回の行動に能力を持った協力者のバックアップがあっても、おかしくない。
網膜に映る現実の景色とは別に、もう一つの立方体が観えはじめる。
中澤は険しい顔で、道路の向こう側を睨んだ。
「どうしたんですか?」
「……なんやすごいのが近づいてくるで」
能力者はある程度なら自分のSPの量をコントロールすることができるとはいえ、
完全に消すことはできない。
能力者も吸血鬼も、中澤の“探索”から逃れる方法はない。
近づいてくる人物もSPを抑えているのか、観えるのは小さな光点だった。
だが小さな光のなかに、巨大な質量を持った恒星のようにとてつもない力を感じる。
中澤は緊張しながら道路の先を睨んだ。
紺野も中澤の声になにかを感じ取ったのか、
ポケットにしまった銃を再び取り出してスライドを引く。
背中に隠すように持ちながら、中澤の視線の先に顔を向けた。
- 78 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:39
- しばらくして建物の影から現れた女は、ワゴン車と広場を見て足を止めた。
大きな白いストールをマントのように羽織り、
そこから伸びる細い両腕でたくさんの紙袋を抱えている。
「あらら、なんか忙しそうだね」
倒れている男達と中澤に顔を向けてから、両手に持った紙袋を地面に置いた。
女の顔は斜めに被ったつばの広い帽子に、鼻から上が隠れている。
見えている口元から、笑っているのが分かった。
「終わってるみたいだから、そうでもないかな?」
「誰や?」
「名無しだよ」
楽しげな声を出しながら女の白い手がストールから伸びて、つばに触れる。
帽子のつばをつまんだ指がついっと上がり、隠れていた女の目が、現れた。
「ごっちん? こんなとこでなにしとんのや?」
「名無しだって言ってんでしょ。察してくれなくちゃ」
後藤はニッと白い歯を見せて笑い、中澤に向けて人差し指を振った。
- 79 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:40
- ――――
『……うん……うん……わかった』
聞くとはなしに聞こえてきた声に、男は振り向いた。
道を挟んだ反対側の歩道に、中学生ぐらいの2人の少女が立っている。
背の低い方が持っていた携帯をしまって、となりにいる少女を笑顔で見上げた。
学校の制服を着ているが、それぞれ種類が違う。
背の低い方はセーラー服、もう1人は上着を脱いだ白シャツにスカートを履いている。
どちらとも、目の前の高校の物ではない。
同年代のようにも見えるがだいぶ背の高さが違う、姉妹かもしれない。
どっちにしても関係がないことだと、男は再び学校に視線を向けた。
「ちょっとすいません」
かけられた声に振り向くと、背の低い方の少女がニコニコとした顔で見上げている。
視線を通りの向こうに向けているもう1人の少女にチラッと視線を向けてから、
男は視線を学校に戻す。
追い払うように手を振った。
「忙しいんだあっち行ってろ」
「けっきょく大人はあれですか、
飼育係が大切に預かっていた資産をじっくり煮込んだ梅風味みたいな?」
「……なに言ってんだ?」
「冗談です」
意味の分からない少女の言葉に眉を寄せながら振り向いた男に、少女が腕を伸ばす。
本能が察知した危険に意志が反応するよりは速く、
少女の“能力”がほんの一瞬の隙間を縫って男の精神を捕らえた。
男の意識が世界から切り離される。
向かい合う少女以外に何物も存在しない白一色の世界の中で男の意識が次第に拡散し、
薄まり、消えていく。
目の前で表情を失っていく男を、少女は微笑みながら見守った。
完全に表情をなくした男に向けて、少女の足元から無数の透明な触手が伸びる。
地を這うように伸びた触手の一端が抜け殻となった男の身体に触れた瞬間、
男の身体が拒絶するように一度だけ、震えた。
- 80 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:40
- 清水と向かい合っている男の顔から、表情が消えた。
熊井は呆けたような顔を清水に向けて立ち尽くしている男に、近づく。
目の前で手を振って反応がないのを確かめてから、清水を振り返った。
「うまくいったの? 佐紀の“同調”って見えないからよくわかんないよ」
「大丈夫。ちゃんと意識は捉えたからなんでも言うこと聞いてくれるよ……ねっ!」
清水が同意を求めるように男に視線を向けると、男が生気のない顔で小さく頷いた。
「ほらっ!」
清水は相手の意識の隙間に侵入し、意のままに動く操り人形に変える。
何度見ても気持ちのいいものではないが、もちろん本人に直接言えるわけがない。
再び熊井を見ながら微笑んだ清水に、微笑み返す。
熊井は聞こえてきた大きな鐘の音に、視線を学校に移した。
最後の授業が終わったことを知らせるチャイム。
生徒が下校を始める前に、校舎の中に侵入しなければならない。
「どうしたの? 早く行こうよ」
「……うん」
学校に視線を向けて立ち止まっている熊井に、清水が声をかける。
誰もいない校門をくぐって、3人は歩き始めた。
- 81 名前:Angel Eyes 投稿日:2006/03/16(木) 12:40
- ――――
- 82 名前:カシリ 投稿日:2006/03/16(木) 12:40
- 以上で第4話終了です。
- 83 名前:カシリ 投稿日:2006/03/16(木) 12:41
- >>65 51 様
ありがとうございます。
飽きられないように、頑張ります。
- 84 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/21(火) 16:02
- それぞれにかなり動きが出てきたね
- 85 名前:51 投稿日:2006/03/21(火) 19:22
- 中澤姐さんカッケ−。w
さてさて、先手を打って来た彼女達の腕前やいかに…。
- 86 名前:51 投稿日:2006/03/21(火) 19:24
- 連投すいません、前後しましたが更新お疲れ様です!
第5話も引き続き楽しみに待ってます♪
- 87 名前:さみ 投稿日:2006/03/26(日) 02:15
- ディティールが細かいほど作品は面白くなるね
更新がんばって下さい。
- 88 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:27
- ――――
振り出した大粒の雨が、校庭にポツポツと黒い染みをつけはじめる。
新垣は校舎の玄関に付いたひさしの下で、強くなりそうな雨脚に空を見上げた。
「愛ちゃ〜ん。雨」
後ろにいる高橋に声をかけて眺めた空には、蓋をしたような厚い雲が渦巻いている。
にわか雨ではなさそうな雰囲気だった。
横に並んだ高橋を見ると、同じように空を見上げている。
「早く帰ればよかったね」
「そやね」
授業が終わった後高橋と2人で話しこんでいたため、
下校時間をとっくに過ぎた校庭に人影はない。
「あーし教室に傘置いてあるから待っとって」
新垣に背を向け、校舎の中に戻りはじめる。
「持ってるから入っていけば?」
「ええよ。ガキさんと一緒の傘に入っても雰囲気ないし」
笑いながら言った高橋の背中に向けて舌を出し、
新垣は鞄の中から折り畳み傘を取り出した。
- 89 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:28
-
第5話
Body And Soul
- 90 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:28
- ――――
飯田は出されたカップから視線を移して、
目の前に座っている加護亜衣の背中越しに奥を覗いた。
キッチンは怠け放題、ちらかし放題で順番待ちの洗い物が山になっている。
都内にあるマンションの最上階は3人で住むには充分以上に広い間取りだったが、
床に散乱したさまざまな物が暮らしぶりを表している。
飯田は目の前に置かれたカップがどこから出てきたのか
見ていなかったことを、後悔した。
「せっかく来たのにすいませんね。そろそろ帰って来ると思うんですけど」
「いいよ。連絡しなかったこっちが悪いんだし」
飯田に向かって言いながら、加護亜衣は自分のカップに紅茶を継ぎ足す。
藤本と久住を連れて矢口の家に来たのはいいが、肝心の矢口は留守だった。
出直そうとした飯田は留守番をしていた加護に引き止められて、
矢口の帰りを待っている。
加護に差し出されたお代わりを断ると、飯田は覚悟を決めて一口飲んだ。
「本部って言えば知ってます?
つんくさん、いま“能力”のある小学生とか中学生集めてるみたいですよ」
「まあこの仕事って人手不足が慢性的だしね。
早いうちに“能力”のコントロールを憶えるのも悪くないと思うけど。
なに? 矢口ってそのために行ってんの?」
「さあ? 内容は聞いてなかったみたいですけど」
そこまで言うと加護は席を立ち、キッチンに向かって行った。
飯田は椅子の上で振り返り奥の部屋に顔を向けると久住が1人、
ソファーに横になっている。
夕方まで待っている暇はないと言って、藤本は1人で帰った。
藤本はうすうす感づいているようだが、久住が語った話の内容はデタラメだ。
新垣から聞いた話では久住は両親の同意のもと、高橋に預けられている。
思い出した高橋の顔に、飯田は顔をしかめた。
あの性格では、久住が逃げたくなるのも分かる気がする。
- 91 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:28
- 飯田はベランダに面した窓に視線を移した。
10階建ての建物から見える空模様は、
いまにも雨が降り出しそうな雲に覆われている。
ここまでは電車で来たほうが早いが、車で正解だった。
狭いソファーの上で器用に寝返りを打った久住に、視線を向ける。
足を伸ばして寝ている久住を見ながら飯田は感心した。
嘘もそうだが、あの高橋から逃げ出すとはなかなか根性がある。
「よいしょっと」
掛け声と共に勢いよく座った音に、飯田は顔を向けた。
加護は厚く切ったトーストに乗っているバターの塊を、
嬉しそうな顔で伸ばしていた。
横には丸い大きなピザと、蜂蜜の瓶が置かれている。
「矢口って遅いの?」
「ほんとは昼ぐらいに帰って来るって話だったんですけどね」
バターを塗り終わった加護は、手に持った瓶から蜂蜜を直接トーストに垂らす。
恐ろしくカロリーの高そうなトーストに、かぶりついた。
「1人で留守番してると、寂しくて寂しくて……」
幸せそうな顔の加護は、哀しそうな声を出す。
そんな器用な加護を見て、飯田は嘆息した。
- 92 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:29
- ――――
次第に強くなっていく雨に、新垣は校舎の中に入った。
入り口のガラス扉を通して見える校庭には、水溜りができ始めている。
新垣はふと、周りを見渡した。
人の気配がない静かな校舎のなかには外で降っている雨音だけが、響いている。
もうすぐ試験があるために、部活も休みのところが多い。
授業が終わってからしばらく話していたため、
校舎に残っているのは新垣達だけかもしれない。
なんとなく、照明が急に薄暗くなったような気がした。
「……新垣さん」
かけられた声に新垣は身体をびくりとさせた。
慌てて顔を向けた先に人影を見つけて、思わず一歩後ろに下がる。
よく見ると、高橋が上っていった階段の前に立っていたのは、道重だった。
「脅かさないでよ。まだ残ってたんだ、1人?」
「……はい」
少し遅れて反応した道重を見ながら、新垣は首を傾げる。
蛍光灯の下にいる道重の顔は、なんとなく沈んだ印象を受けた。
単純に雨が降って外が暗いから、というには違和感を感じる。
「調子悪いの?」
「いいえ別に。それよりも、あっちで高橋さんが呼んでましたよ」
台本でも読んでいるように言いながら、道重が校舎のなかを指差した。
「こっちです」
「ちょっと……!」
新垣の返事も聞かないで、道重は階段を昇らずに歩き始めた。
- 93 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:29
- 「ここです」
道重が案内したのは、特別な授業でもない限り使われない視聴覚室だった。
校舎の奥まったところにあるため、新垣も数えるほどしか来たことがない。
「こんなとこにいるの?」
「……どうぞ」
相変わらず覇気のない声を出して、道重が教室の後ろの扉を開ける。
新垣は不審に思いながらも、明かりの付いた教室を覗いた。
普通の教室とは違い肘掛のついた椅子が並んだ教室には、誰も座っていない。
首だけを教室に入れて見回すと、
前の扉の前に見たこともない外国人の男が立っていた。
「……しげさん、愛ちゃんはどこ?」
「とりあえず座ってくださいよ。新垣さん」
扉に寄りかかっている男が、教室の奥に手を差し伸べた。
男のごつい身体つきからは似合わない言い方に、新垣は眉を寄せる。
「……ねえ、何か変じゃない?」
振り向こうとした新垣は、背中を強く押されて前によろけた。
- 94 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:30
- 椅子に手を付いた新垣が振り向くと、道重が入ってきた扉を後ろ手に閉める。
ようすの違う道重と不審な男に出口をふさがれた新垣は、鞄から警棒を取り出した。
軽く手を振って伸ばすと、右手に持って構える。
「そんな物騒なもの出さなくてもいいですよ」
やさしく言った男に、新垣は顔を向けた。
その表情は道重と同じく、何かが足りない。
「すいませんね、こんな形で呼び出したりして」
男の気安い言い方に思わず頷きそうになって、新垣は慌てて表情を引き締めた。
「あんた誰?」
「私? この人は知らないけど私は新垣さんと同業者ですよ」
自分を指差して言った男の言葉に、新垣は眉を寄せた。
いましゃべっている身体が、自分ではないような言い方。
そこまで考えて思いついた新垣は、能力を発動した。
脳裏に映る光点と目の前の男の姿を重ねる。
普通はSPがあれば体内から溢れるように観えるはずが、
男の表面を包むように観えた。
つまり、目の前の男には能力がない。
- 95 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:30
- やはり、誰かが操っている。
確信を得た新垣は、能力の範囲を広げた。
しかし操っている人物を見つけるために拡大した新垣の脳裏に映る立方体は、
突然走ったノイズに掻き乱され、消えた。
「だめですよ」
その声に振り返ると、道重が表情のない顔を向けていた。
「新垣さんの能力はやっかいですからね、
そのために道重さんにも来てもらいました」
道重を操り、能力を使った。
新垣は男の視線を戻すと、強く睨みつける。
睨まれた男は肩をすくめた。
「仲良くしましょうよ。これからしばらく一緒にいるんだから」
「なに言ってんの」
「藤本さんの立ち回りそうなところに監視を置いていたらしいんですよ。
あんまり期待してなかったんですけど、飯田さんの所に、現れたそうです」
飯田の家が監視されていたことも知らなかったし、
藤本がどう関わっているのかも分からない。
新垣はおとなしく話を聞く振りをしつつ、教室の内部に視線を走らせる。
窓には厚いカーテンが引かれ、外は見えない。
カーテン越しに微かに聞こえてくる音で、雨がさっきよりも強くなったの分かる。
- 96 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:31
- 前後の扉の前には、男と道重がいる。
2人とも誰かに操られているなら、手荒いことはできない。
なんとかこの場を逃れる必要があった。
「最初は直接藤本さんを捕まえようと思ったんですけど、
一緒にいる飯田さんがやっかいなんですよ。
それで新垣さんに協力をしてもらうことにしました」
「美貴ちゃんがなんかやったの」
「松浦亜弥を誘拐しました」
新垣は男の言葉に耳を疑った。
藤本と松浦は親友だ。聞かされた言葉をそのまま信用していいのか。
混乱した新垣に向かって、扉から背を離した男が続けた。
「時間もないですし、そろそろ一緒に……」
突然、男の言葉が途中で止まった。
不自然に途切れた言葉を新垣が不審に思った次の瞬間、
男の右肩口から左腰までが一直線に“ズレ”た。
二つに分かれた男の上半身が鮮やかな朱色を撒き散らせながら、床に落ちる。
突然の出来事に硬直していた新垣の視線の先で、
教室の扉が男の身体の上に覆い被さるように倒れた。
「ガキさん、こんなとこでなにやっとるの?」
斜めに断たれた扉の奥で、白刃を右手に下げた高橋が笑みを浮かべていた。
- 97 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:31
- 扉をまたいで教室に入った高橋が、チラリと道重に視線を向ける。
その目を見て、慌てて新垣は走りだした。
倒れた男に目を向けたままの道重に向かって体当たりするように突き飛ばす。
その直後、新垣の背後で鋭い音を立てたなにかが通りすぎた。
後頭部をぶつけた道重の身体から力が抜け、扉を背にしてぐったりと座り込んだ。
新垣はしゃがみこんで道重の顔を覗き込む。
気を失っているのを確認してから、高橋とは反対の方向に目を向けた。
見慣れた手裏剣が、教室の後ろの壁に突き刺さっている。
高橋の目に殺気を感じてとっさに走り出していなければ、道重の頭部を貫いていた。
ほっと息をついた瞬間、新垣は何かに弾かれたように振り向く。
いつのまに近づいていたのか真後ろで、高橋が刀を振り上げていた。
その視線は、倒れたままの道重を真っ直ぐに見つめている。
声を出すより早く、新垣は右手に握った警棒を逆手に持ち替え頭上に掲げた。
次の瞬間、音も無く振り下ろされた刃と撃ち合わさり、甲高い音を立てる。
衝撃に落としそうになった警棒を強く握り、新垣は高橋を睨んだ。
振り下ろされた刃は、特殊鋼でできた警棒に食い込んでいる。
殺すつもりで放たれた、本気の一撃だった。
ゆっくりと高橋の視線が移り、新垣に向けられる。
無言のままの高橋が刀を押し下げようと、力を加えてきた。
道重に向かってジリジリと下がり始めた刀に、
新垣は握った警棒にさらに力を入れる。
感情の見えない高橋の視線を受け止めながら、
新垣は刃を押し返そうとして受け止めた警棒に力を込めた。
- 98 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:31
- 高橋が押し、新垣が押し返す。
しゃがんでいる状態では、いずれ体重を乗せた高橋の力に
抗することができなくなる。
退かせるためには、高橋を攻撃するしかない。
立ち上がろうとした次の瞬間、不意に高橋の刀から力が抜けた。
必殺の一刀を防がれた高橋が、新垣と距離を取る。
立ち上がった新垣は、道重を庇うように前に出た。
「愛ちゃんやりすぎだよ! あの人操られてたんだよっ!」
自分が斬った男に一瞬だけ視線を向けて、高橋は目を細める。
再び新垣に戻した顔には、少しだけ驚いたような表情が浮かんでいた。
「知らんかった。でもまあ敵みたいだし、問題ないやろ」
「ちょっと待ってよ。廊下で話聞いてたんじゃないの?」
「あーしはここに来たばっかりやよ」
高橋は抜き身の刀を片手に下げて、微笑む。
教室の外で話を聞いていた高橋がタイミングを計って助け入ったと思っていた。
「事情もわからないで、いきなり斬るなんてっ!」
「殺されても良かったの?」
新垣の激しい口調とは反対に、高橋は冷静に返した。
- 99 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:32
- 無言で睨む新垣を見て、高橋は小さく肩をすくめた。
「だいたい操られるなんて、油断しすぎなんだよ。
“常在戦場”。戦闘に身を置くなら、常に敵を意識しないとね」
当然のように言った高橋は刀を振り、刀身に付いた血を落とす。
教室の床を、線上に並んだ赤い飛沫が汚した。
「というわけで、そこどいて」
高橋は鞘を床に落とすと、両手で握った刀を正眼に構える。
新垣の後ろで倒れている道重に、視線を向けた。
「だから操られてるって言ってるでしょ! それに気を失ってるんだよ!」
「他にも学校に侵入した奴がいるかもしれない。
戦いの最中に さゆが気が付いたら、どうするの?
ガキさん、能力が使えなくなるんじゃないの?」
「もしも敵がいたら! もしも気が付いたら!
“もしも”でしげさんを殺すつもりっ!」
高橋は同じ学校で同じHPにいる道重のことを当然、知っている。
それでも斬ろうとする高橋の身勝手な言い分に、新垣は怒鳴った。
- 100 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:32
- 睨みあう2人の間を、窓を叩く雨の音だけが響いていた。
一歩も引かない新垣を見ながらも、高橋は構えを解かない。
「だからだよ。曖昧な部分を切り取ることで、危険を減らすんだ」
「仲間を助けられる方法を考えるべきだよ!」
「自分が助かる方法を考えるべきだね」
そう言った高橋の身体が静かに、前へと進んだ。
道重に向けられた殺気は本物だ。
新垣は気圧されそうになりながらも握った警棒を前に出し、僅かに上体を丸める。
さっきはとっさに出した警棒で、受け止めることができた。
しかし新垣自身、それが僥倖だったと分かっている。
間合いに入る一歩手前で、高橋の足が止まった。
高橋の身体から、全身の肌を刺激するような鋭い殺気が放たれている。
当てられた強烈な殺気に、新垣の額に汗が浮き始める。
それでも、背後の道重のために退くわけにはいかない。
雨音だけが聞こえる教室の中で、無言の圧力が拮抗しつつ高まっていく。
対峙しているだけで乱れそうな呼吸を意識しながら、新垣は動けなかった。
新垣の握っている警棒は、高橋の持っている刀の半分ほどの長さしかない。
リーチの短い新垣が間合いに入るより、高橋の初太刀が速い。
それに隙を見せない、見事な立ち姿。
向けられた剣先を見ながら、改めて高橋の実力を思い知る。
- 101 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:32
- これ以上いけば戻れなくなる寸前で、高橋の全身を包んでいた殺気が消えた。
後ろに下がった高橋が、ふっと息を吐き刀を下げる。
「ガキさんのためなんだけどな」
諦めたように言って、床に落とした鞘を拾って刀を戻した。
構えを解いた高橋を見て、新垣は額に浮いた汗を拭った。
警棒を短くしてから、緊張をほぐすように腕を回す。
高橋は道重から興味を失ったように、倒れた男のそばにしゃがみ込んでいる。
とりあえず、無用な戦いは避けられた。
胸を撫で下ろした新垣は背後で不意に鳴った音に、思わず飛び退いた。
振り返ってみると扉が開け放たれ、倒れていた道重の姿がない。
背後にいる道重のことを失念した自分を叱責しながら、新垣は扉に向かって走った。
廊下に出ると道重の背中が角を曲がる。
「だから言ったのに……どうするの?」
楽しそうに言った高橋の言葉には反応せず、駆け出した。
走りながら能力を発動し、道重を追いかける。
姿が見えなくても能力でみえる光点を追いかければ、見失うことはない。
「まだ事情がわからないんだから絶対に傷つけちゃだめだよっ!」
「しょうがないなぁ」
走りながら言った新垣に、横に並んだ高橋は右手を上げて答えた。
- 102 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:33
- ――――
「はいはい。分かってるって」
なんども念押しする嗣永に適当に返事をして、携帯を閉じる。
熊井は窓側の机に乗って足をブラブラと揺らしながら、外に視線を向けた。
まだ日が昇っている時間だというのに、すでに外は暗くなっている。
本格的に降り始めた雨のなか、校庭を走っていく複数の人影が見えた。
「体育館の方に男の仲間が集まってるから、新垣たちをそっちに誘き寄せて。
その間に私たちは撤収する」
教室の中に視線を戻して、少し離れたところに座っている清水に声をかけた。
椅子に座って目を閉じていた清水が、振り返る。
「撤収?」
「そっ。米軍が先に仕掛けそうだから、それをみて対応するって」
2人を分断させて新垣だけを連れ去る予定だったが、
高橋が現れたことで予定が狂った。
定時連絡が来なかったからか、交代のための要員が来たのかは知らないが、
清水が操っていた男の仲間にバレたのだろう。
嗣永からの報告ではすでに学校内には10人近い部外者が、入り込んでいる。
道重を楯に予定通り新垣を連れ去ることも出来るが、
4人で逃げるには、それをなんとかしなければならない。
もちろん無理をすれば突破することもできるが、それよりも問題があった。
- 103 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:33
- 能力がないと聞いていた高橋が、予想以上の戦闘力を持っていた。
いきなり現れて、しかも事情がわからない状態で男を斬るとは思わなかった。
予想外の事態が起こった場合は撤退するのが鉄則だが、
場当たり的な嗣永の作戦はどうも釈然としない。
「行こう。みんなと合流する」
机から降りて清水を促す。
熊井の言葉に、清水はほっとした表情を見せて立ち上がった。
やはり2人だけの行動に不安があったのだろう。
苦笑しながら、熊井も内心ではそれが一番良いと思っていた。
これまでも一緒にやってきた。
全員揃ってこそ、力を発揮できるはずだ。
熊井は静かに教室の扉を開けて、廊下を覗く。
降りしきる雨のなかに沈んだような廊下に人の気配はない。
熊井は後ろにいる清水と共に、教室を後にした。
- 104 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:33
- ――――
ようやく見つけた道重の背中が、渡り廊下を通って体育館に入っていった。
後を追いながら新垣は手に持った警棒を再び伸ばす。
「絶対傷つけちゃダメだからねっ!」
横を走る高橋に釘を刺して、渡り廊下に出た。
道重を示す光点が体育館の中央付近で止まるのを観て、足を止める。
開け放たれた扉の向こうには、照明がついていない。
途中で道重の逃げていく方向が変わった。
なにかしらの罠があるかも知れないと考えて、
確認するようにもう一度高橋に顔を向けた。
「殺さなければいいんやろ?」
「愛ちゃん!」
刀を片手に持った説得力のない笑顔に、高橋を睨む。
「……分かったって、刀は抜かないよ」
溜め息を吐いた高橋がしぶしぶ言うのを聞いて、
新垣はゆっくりと体育館に入っていった。
- 105 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:34
- 外で降る雨もあって、照明の消えている体育館のなかは暗かった。
新垣は入り口を入ったところで足を止め、目を凝らす。
雨の音以外聞こえない薄闇のなかに複数の人影を見つけて、表情を引き締めた。
双眸に暗い色を宿した屈強の男達が、新垣に顔を向けている。
そのなかの1人がぐったりとした道重を抱え、頭に銃を押し付けていた。
思わず前に出ようと新垣を手で制して、高橋が男達の前に進み出る。
その横顔を見て、新垣は足を止めた。
「誰だか知らんけど、さゆを返してもらえる?」
男達の殺気に満ちた視線を一身に受けながら、高橋の後ろ姿はいつもと変わらない。
だが新垣の横を通った時の表情は、怒っているように見えた。
全身の毛が逆立つような緊迫した雰囲気のなか、
取り囲んだ男達のなかから1人が前に出る。
「……刀をこっちに投げろ」
男の抑えた口調を聞いて、新垣は母国語ではないと感じた。
おそらくは、さっき高橋が斬った男の仲間だ。
そうだとすれば、男や道重を操っていた人物とは敵対しているはず。
だが新垣たちの味方だと判断するのは、向けられた殺気が否定していた。
「早くしろっ!」
苛立ったような男の声に、高橋は肩をすくめる。
それを見て、新垣は焦った。
この状況で高橋が武器を捨てるはずはないし、下手をすると男を斬りかねない。
新垣が思いとどまらせようと口を開くのと、高橋が刀を放り投げたのは同時だった。
- 106 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:34
- 意外な反応に新垣が驚いていると、男が周囲にいる仲間と視線を交わした。
命令を受けた仲間が一歩前に出たのと同時に、滑るように高橋の身体が前に進む。
もう少し速ければ無意識に反応する、
もう少し遅ければ意識的に何らかの反応が取れる。
速くも遅くもない、絶妙な速度だった。
男の前に立った次の瞬間“パンッ”と小気味良い音が響き、高橋が男を睨みつける。
「人質を取るなんて、恥ずかしくないんかの?」
男の頬を叩いた高橋が、音も立てずに男から離れた。
高橋の言葉を聞いて突然の出来事に呆然としていた男の顔が、屈辱に歪む。
「貴様っ!」
激昂した男が前に出た瞬間、再び高橋が前に出て今度は反対の頬を叩いた。
「無理しないほうがええよ。1人じゃなんもできんのやろ?」
嘲りを含んだ問いを発して、再び離れた高橋は軽く微笑む。
怒りに歯を食いしばった男が両腕を持ち上げた。
「手を出すなっ!」
周りの仲間に宣言するように大声でそう言うと、高橋に向かって一歩を踏み出す。
- 107 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:34
- 大きく前に出た男が、後ろに引いた足で地面を蹴りつける。
鍛え上げられた太い右足が高橋の鳩尾に向かって真っ直ぐに伸びた。
高橋は跳ね上がってきた蹴りに向かって両手を出す。
開いた両手で包み込むように受けた高橋の身体が、宙に浮いた。
男の蹴りに吸い付くように跳んだ高橋は、ダメージを受けていない。
高橋は向かってくる足を両手で包み衝撃を柔らげ、
力の方向に跳ぶことで威力を封じた。
しかし、それで終りではなかった。
空中で高橋の左足が、水平まで上がった男の蹴り足に絡みつく。
両手で男の足先を取りつつ、右のかかとで男の股間を蹴り、身体を捻った。
2人が同時に床に倒れたが、高橋はすぐに立ち上がる。
一瞬の間を置いて、絶叫が上がった。
倒れたままの男は目を剥いて、自分の右足に顔を向けていた。
その足先が、180度逆を向いている。
体育館に響く男の絶叫が次第に小さくなり、やがて唸り声に変わった。
一瞬の出来事に全員の動きが止まる。
男の仲間が反応するよりも早く、高橋の身体が闇に溶け込むように消えた。
ヒュッと、空気を切り裂くような音と共に、くぐもった苦痛の悲鳴が同時に上がる。
- 108 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:35
- 混乱して意味のない言葉を叫びながら、男達が闇雲に発砲を始めた。
高橋の姿を見失った新垣は慌ててしゃがみ込んだ。
鳴り響く銃声のなか、閃光に照らされた高橋の姿が一瞬だけ現われて、消える。
道重を捕まえていた男が倒れるのを見て、新垣は姿勢を低くしたまま走り寄った。
飛び交う銃声に身を硬くしながら、
倒れている道重を引きずるようにして男から引き離す。
道重の無事を確認して息をつくと、銃声が止まっているのに気が付いた。
新垣は顔を上げて突然訪れた耳の痛くなるような静寂のなか、
高橋の姿を探して闇に沈んだような体育館を見渡す。
見渡す限り立っている人影は一つだけ。
高橋を見つけるのは、簡単だった。
- 109 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:36
- 声を掛けようとした新垣は、闇の中に立っている高橋の背後に目を凝らす。
最初に倒した男が膝立ちになって銃を構えているのが見えた。
「後ろっ!」
高橋が背後を振り向くのと同時に、男の口から悲鳴が上がる。
向けられていた銃口が下を向き、男は自分の足先に手を伸ばして動かなくなった。
しゃがんだまま動かなくなった男にゆっくりと近づくと、高橋は足を止める。
苦痛の声を上げている男を冷ややかに見下ろしながら、足の甲を踏みつけた。
「“影縫い”……やよ」
高橋の足は男の足から少し浮いたところで、止まっている。
よく見ると足の甲を貫いた鋼鉄の手裏剣が、床と男の足をつないでいた。
苦痛の表情で見上げていた男が、すばやい動きで銃を持った右手を上げる。
不意をついた男の行動にも動じることなく、高橋は向けられた銃を左手で弾いた。
同時に右手で握った手裏剣を男の額に打ち込む。
「愛ちゃん!」
新垣が上げた悲鳴のような声が体育館に響き、寸前で高橋は手を止めた。
「……そうだった」
あまりの恐怖で痛みも忘れたのか表情をなくした男は無言で、
目の前にある鉄の棒に視線を向ける。
「運が、よかったね」
高橋は男の額に、左手の平でそっと触れる。
呆けたような表情でそれを見ていた男の頭が、銃で撃たれたように後ろに弾かれた。
白目をむいて仰向けに倒れた男の後頭部が、床に当たる。
その音を最後に、体育館に再び静寂が訪れた。
- 110 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:36
- 新垣は男の足から手裏剣を抜く高橋を、驚きながら見ていた。
高橋がいま使って見せた技、ゼロ距離からの打撃。
新垣にも似たような技が使える。寸勁と呼ばれる技だ。
それは気のパワーやSPなどとは関係なく修練を積めば体得できる、技術の1つだ。
だが、そう簡単に体得できるものではない。
「刀は抜かなかったから、文句ないやろ?」
自分を見つめている視線に気がついたのか、
床に落ちていた刀を拾って、高橋が言った。
その言葉に我に返った新垣は、周りに倒れている男達に目を向ける。
声も出せずに床に倒れている男達のなかに無傷の者は、誰一人いない。
「……1人で無茶するなんて、やっぱりやりすぎだよ」
仲間の自分に何の合図もなく、あれだけの人数に飛び込んだ。
結果的にはうまくいったから良かったが、
無謀とも思える高橋の行動には納得できない。
苛立ちながら言った新垣の言葉に、高橋は目を細めた。
「あーしに“能力”がないから?」
「“能力”があるとかないとか、そういうことじゃないよ!」
新垣は大声で怒鳴り返した。
高橋の身を案じて言った言葉だったが、明らかに誤解している。
新垣は高橋の鈍感さに苛立ちながら、強く睨んだ。
- 111 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:38
- 広い体育館の真ん中に立っている高橋は、ゆっくりと新垣に身体を向ける。
高橋は目を細めて、真っ直ぐに新垣の顔を見つめた。
「能力者にすべてを任せて向こう側から来る“獣”と戦うことも出来ない。
挙句の果てに“鬼”の力を借りないと生き延びられない。
“能力”のない人間は、そこまで弱い存在なんか?」
静かに言った高橋の言葉は意図したものとは違ったが、新垣は言葉に詰まった。
高橋の問いは“能力”を持たずに真相を知ってしまった者の、正直な感想だ。
2つの世界の戦いがどれほどの物かを理解した者は無力感に打ちのめされ、
恐怖に怯えながら日常に戻り、生きていくことになる。
「あーしは違うと思った。そして求めた」
だが新垣を見つめる高橋の瞳には恐怖も諦めさえも、微塵も感じない。
そこにあるのは、静かな怒りだった。
「“術”を“道”に変える過程で失った危険と言われる技の数々が、その答え。
ルールという枠の外側にあるそれらの技術こそが、あーしの求めるもの。
その力で“能力”のない人間が決して無力じゃないことを、証明する」
薄闇のなかで口元が僅かに上がり、高橋は左手に持った刀を目の前にかざした。
- 112 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:39
- ――――
タクシーの運転手に行き先を告げると、熊井は椅子に深く身を沈める。
視線を外に向けると、雨に濡れた街並みはまるで夜のように暗くなっていた。
息をついて正面に視線を向けると、バックミラーのなかで運転手と一瞬目が合う。
熊井は怪訝な顔でバックミラーを覗いていた運転手から、視線を逸らせた。
塾へ行くとでも思ったのか、運転手は何も言わずに車を発進させる。
無口な運転手で助かった。
熊井は雨に濡れた髪を取り出したハンカチで拭きながら隣に視線を移すと、
清水が目を閉じて静かに座っていた。
いまはまだ、道重を通して周囲の状況を把握できるはずだ。
距離が離れて一時的に開放されたとしても再び接近すれば、
体内に残る能力の残滓が共鳴し、道重はコントロール下に入る。
都内から離れることでもなければ、完全に逃れることはできないはずだった。
それでも道重の意識を捕らえた能力の影響は、
距離が離れるほどにコントロールが難しくなる。
眉を寄せている清水の顔を見ながら、熊井は小さく息を吐いた。
場当たり的な指示を出す嗣永は、らしくない。
それになぜあんなにも強硬に本部に残ることを主張したのかが、分からなかった。
疑いたくはなかったが、何かを隠しているのかもしれない。
熊井は強くなり始めた雨を見ながら、そう思った。
- 113 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:39
- ――――
渡り廊下の屋根にあたった雨粒が集まり、地面に落ちていく。
校舎と体育館をつないでいる土の地面には大きな水溜りができていた。
新垣は足を止めて、道重を背負い直す。
渡り廊下の部分はコンクリートで出来ていたが、
本格的に降り始めた雨に濡れていた。
足元を見ながら、新垣は溜め息を吐いた。
高橋は強いことが良いことだと、思っている。
HPに所属して命のやり取りが日常化しているような者には、
そういう考え方を持っている者も多い。
もちろん、強ければ自分の命や他人の命を守ることもできる。
祈っているだけで平和が実現するなどと言う観念論は、
現実世界には相容れないと分かってもいた。
しかし力を証明するためには、自分以外の者と争わなければならない。
矛盾しているかもしれないし、甘いと言われるかもしれない。
それでも、新垣には受け入れがたいものだった。
生き残るために情を捨て、戦いに身を投じる。
自分を慕う道重を躊躇なく斬ろうとした高橋の考えは頑なで、
新垣の考えとは正反対だ。
一緒に戦うことは、二人にとっていい結果を生まないのかもしれない。
新垣は背中に道重を背負って歩きながら、
前を歩いている高橋の足元に視線を落とした。
- 114 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:39
- 突然、前を歩いていた高橋の足が止まった。
顔を上げた新垣は、渡り廊下の中央で立ち止まった高橋に声を掛ける。
「どうしたの?」
「あーしはもう……」
つぶやいた高橋は、振り返らなかった。
新垣は真っ直ぐに背を伸ばして立ち止まっている高橋の背中を眺めていて、
ふと気が付く。
高橋は左手に握った刀を強く、握り締めていた。
「……自分の弱さに後悔するのは、いやなんよ」
新垣に背を向けたまま発した高橋の言葉は、
屋根を叩く雨音にかき消されそうなほど、小さかった。
- 115 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:40
- ――――
- 116 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:40
- 以上で第5話終了です。
- 117 名前:Body And Soul 投稿日:2006/03/31(金) 12:40
- >>84 名無飼育さん 様
主役がほったらかしですが、そのうち活躍する予定です。
>>85 51 様
すいません。彼女達の活躍はこの次で。
>>86 さみ 様
もう少し早く更新できるように頑張ります。
- 118 名前:51 改め 愛毒者 投稿日:2006/04/02(日) 15:05
- 更新お疲れ様です♪第5話も楽しませて頂きました。
>すいません。彼女達の活躍はこの次で。
いえいえ、そんなとんでもないです。ちょっとどんな実力
なのかなぁと思っただけなんで。w
個人的には愛ちゃん(&梨華ちゃん)のファンなので
この愛ちゃんのキレっぷりがたまらないですね。
それと愛ちゃんの過去と所有している刀が気になります。
第6話、引き続き楽しみにしています!
- 119 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/04(火) 17:08
- すげーオモシロイっす!!
作者様は他にも執筆されてるんでしょうか?
作品があるなら読んでみたいです。
- 120 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:35
- ――――
けっして広いとはいえないキッチンに並んでいる調理器具は、
新品のように輝いている。
普段使っている者の思い入れ反映して、
丁寧に磨かれた食器類は大きさや形で分類され、整頓されていた。
辻は目の前の大きな冷蔵庫を難しい顔で見ながら、腕を組んでいた。
今日の朝、買い物から帰ってくるとテーブルの上に飯田の置手紙があった。
すぐに帰ると書いてあったが、すでに外は暗くなっている。
新垣は最近中澤の所にところに泊まることが多くなっていたため、
帰ってくるかどうか分からない。
一緒に住んでいる田中と亀井は食事を作れない。
飯田は料理をすることもあるが、基本的にコンビニで間に合わせようとする。
何人分の食事を作ればいいのか考えながら、辻は再び冷蔵庫を睨んだ。
- 121 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:36
- さんざん悩んだ挙句、結局新垣以外の四人分を作ることに決めた。
冷蔵庫から出した材料をテーブルに並べていた辻は、
隅に置いてある電話の音に手を止めた。
辻は手に持っていた材料を慌てて置くと、急いで電話に駆け寄る。
「はい、いいだです」
少し緊張しながら、一オクターブ高い声で電話に出る。
ここは飯田の家なので、かかってきた電話は飯田の名前で出ることにしていた。
『ん? あれ? そこ飯田さんの家だよね?』
「そうですけど……」
電話の向こうから驚いたような女の声が聞こえてきた。
聞き覚えのない声に、辻は小さく答える。
『飯田さん、いる?』
「いません。辻ひとりれす」
辻の答えに返答はなく、無言の時間が過ぎる。
- 122 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:36
- 聞こえなかったのかと思い、辻はさっきよりも少し大きな声を出した。
「もしもし?」
『……ああごめん。そっか、そうだよね。一緒に住んでるんだから、当然か』
辻が電話口に話し掛けると、納得したような声が聞こえてきた。
意味がわからない女の言葉に、辻は首を傾げる。
『君が辻ちゃんね。私吉澤。飯田さんの知り合い。
そのうち会うことになると思うから、憶えててね』
楽しそうに言った女は“後でかけ直す”と言って電話を切った。
辻は握った受話器を見ながら、電話の向こうで話していた女の姿を想像する。
聞き覚えのない声だったが、向こうは辻のことを知っているような話し振りだった。
もしかしたら会ったことがあるのかもしれない。
子機を戻して腕を組んだ辻は、必死に思い出そうとして下を見ながら眉を寄せた。
「ただいま〜!」
下から聞こえてきた田中の声に、弾かれたように辻の顔が上がる。
「おかえり〜!」
明るい表情になると、返事をしながら部屋を後にした。
- 123 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:36
-
第6話
夜の静けさに
- 124 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:37
- ――――
切ったばかりの携帯を見ながら、吉澤は微笑む。
記憶に残っているのは幼さの残った、中学生の頃の姿だった。
家に行ったとき顔を見たことは何度かあったが、
怖がっていたのか近寄っては来なかったのを憶えている。
だが辻の声を聞いて思い出した昔の記憶は、懐かしさを感じるようなものではない。
吉澤は表情を引き締め、再び携帯に視線を落とした。
『このマンションってなんか見覚えがあるんだけど、おいらの気のせいかな?』
片耳だけにしているイヤホンからの聞こえた声に、苦笑する。
つんくから人選を任せられた吉澤は、
訓練で本部にきていた矢口をメンバーに加えた。
矢口を含めたメンバーは都内を車で移動しながら、指示を待っている。
吉澤は本部の地下にある廊下を歩きながら、携帯に登録してある番号を探した。
「矢口さんの家ですから、気のせいじゃないと思いますよ」
現在、米軍がマンションを取り囲んでいた。
その動きを監視しているメンバーから送られてくる映像は、車でも確認できる。
矢口は状況を知らせる車載モニタで、それを確認したのだろう。
「ちょっと待てっ! なんでおいらの家が囲まれてるんだよっ!」
「なんか勘違いしてるみたいで、
矢口さんの家に美貴ちゃんがいると思ってるみたいですよ」
襟元についたマイクに向かって言いながら、
目的の番号を見つけた吉澤は電話をかける。
「分かってると思いますけど、邪魔しちゃだめですよ」
『ちょっ……!』
イヤホンを耳から外すと、なにか言っている矢口の声が遠ざかった。
- 125 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:38
- マイクを切って、携帯を耳に押し当てる。
何度目かの呼び出し音の後に、相手が出た。
『なんか用?』
「いきなりそれはないと思いますよ、保田さん?」
恐ろしくそっけない声を出した保田に、苦笑しながら答える。
『忙しいの。用件はなに』
「ありがとうございました。無事に受け取りましたよ」
『ああ、そんなこと。持続するのは30分ってとこだから。
使ったら感想聞かせて』
「……そうですね、分かりました」
誰ともすれ違わない廊下の先を見ながら、
吉澤は浮んだ笑いが答えた声に入り込まないように注意する。
「お礼もしたいんで直接会いたいんですけど、いまどこにいます?」
『別に礼はいらない。それと、どこにいるかは教えられない』
「なんで?」
『これでも結構重要な仕事しているから、場所がばれると色々と。
じゃあ忙しいからかけて来ないでね』
それだけを言うと、保田は電話は切った。
苦笑しながら一方的に切れた携帯を閉じた吉澤は、
タイミングよく到着した扉の前で足を止める。
目の前にある扉をノックすると、返事が聞こえる前に扉を開けた。
- 126 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:38
- 薄暗い照明に照らされた部屋の中には、数多くのコンソールが並んでいた。
それぞれの前に置かれた端末とキーボード。
部屋の正面にある大きなスクリーンは真ん中で線を引かれ、
右側はさらに分割された無数のカメラからの映像。
あとの半分にはいくつかに輝点が付いた都内の鳥瞰図が、投影されている。
吉澤は扉を閉めると部屋のなかを一通り見回してから、歩き出した。
「どんな感じ?」
「何しに来たんですか、いまは敵同士なんですよ」
コンソールの真ん中に座っているヘッドセットをつけた頭に、声をかける。
振り向かずに答えた声は普段の話し方とは違って、冷たかった。
「仲間なんだからそんな固いこと言うなって。
で、結局嗣永が座ることになったんだ?」
「誰が残るかで色々と揉めたんですよ!
だいたい吉澤さんが残れって言ったんじゃないですか!」
ようやく振り向いた嗣永は、不機嫌な表情で不満の声を上げた。
- 127 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:38
- 松浦捜索の依頼を受ける前に、つんくが嗣永達を使うことは予想していた。
つんくに会う前に、嗣永に残るようには言い含めておいたが、相当揉めたらしい。
清水達が本部を出発したのは、午後に入ってからだった。
万が一を考えて嗣永達の足止めのために流した情報も、それなりに役に立った。
飯田に接触した藤本の情報も、そこからのものだ。
藤本を見つけてて勝手に動いているようだったが、そんなものはどうにでもなる。
吉澤は勝手に嗣永の横に座ると、コンソールに向き直った。
慣れた手付きでキーボードを操作すると鳥瞰図の倍率が上がり、
目的の場所の詳細な地図に変わる。
吉澤はマンションを中心に集まりはじめている輝点を見て、鼻を鳴らした。
輝点は三つの色に分かれている。
嗣永の仲間と米軍、そしてその他の目標。
嗣永には矢口の家に藤本がいることは伝えたが、出て行ったのは伝えていない。
いま映っている場所に藤本がいないことを、
横に座っている嗣永は知らないはずだった。
矢口の家から出た藤本の追跡は吉澤が指揮するHPの戦闘員が行なったが、
呆気なく振り切られてしまった。
藤本の足取りがわからなくなったいま、嗣永達を使うのが手っ取り早い。
「とりあえず、米軍をなんとかしようか」
横で悔しそうに唇を噛んでいる嗣永に言いながら、吉澤は携帯を取り出した。
- 128 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:39
- ――――
テーブルに片肘を付いて寝ていた飯田は、感じた振動に目を開けた。
ポケットの中に手を入れて携帯を取り出す。
非通知と表示されている液晶画面で時刻を確認すると、七時を過ぎていた。
首をめぐらせて見た窓の外は、真っ暗に変わっている。
矢口の帰りを待っている間に、いつのまにか寝てしまったらしい。
飯田は欠伸をすると、振え続けている携帯に視線を落とした。
しつこく鳴り続けている電話にいたずらを疑いながら、携帯を開く。
「もしもし?」
『ああ、やっと出てくれましたね。もう少しで切るとこでしたよ』
「吉澤? なにどうしたの?」
思ってもいなかった相手に驚きながら、加護の姿を探して部屋を見渡す。
さっきまで寝ていたソファーに座ってテレビを見ていた久住と目が合った。
不思議そうな顔で飯田を見ていた久住だったが、すぐに画面に顔を向ける。
『いや〜日本に帰ってきたから挨拶だけでもって、思いまして』
「もうこっちにいるんだ?」
近いうちに吉澤が戻ってくるとは聞いていたが、時期は聞いていなかった。
飯田は座っている椅子を後ろに傾けて、テーブルのカップを手に取る。
- 129 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:39
- 口元に持ってきた冷めた紅茶の表面に油が浮いているのを見て、
飯田は静かにもとの場所に戻した。
『帰ってきたばっかりなんですけど、こんな時間まで仕事ですよ」
「そういえば本部に戻ったんだっけ。つんくさんも人使いが荒いからね」
飯田は笑いながらテーブルに手を伸ばした。
加護の残したらしいテーブルに残っていたピザを一口、かじる。
冷めたチーズを咀嚼しながら、携帯を反対の手に持ち替えた。
「で、どこにいるの? いま矢口の家にいるから終わったらこっち来なよ」
『矢口さんにはもう会いました。いま一緒に仕事中です』
「そうなんだ、じゃあ矢口って今日は遅いの?」
飯田は傾いた椅子の上で器用にバランスを取りながら、後ろに顔を向けた。
つまらなそうな顔で、久住が1人でテレビを見ている。
矢口が帰ってこないようなら、出直さなければならない。
家にいるはずの新垣に会わせるわけにはいかないから、
一度藤本に来てもらう必要がある。
- 130 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:39
- 飯田は再び正面を向くと、流しに積み重なった食器を視界に入れた。
『まあそうですね。で、お土産代わりって言うのもなんですけど、
良いこと教えますよ』
「なに?」
『危ないから逃げた方がいいですよ』
吉澤の声に、背後で窓ガラスが割れる音が重なった。
驚いて窓に視線を向けると頭を抱えた久住の足元に
投げ入れられた何かが転がっている。
『そこ、米軍の特殊部隊が囲んでるんですよ』
携帯を片手で耳に押し当てながら、すばやく椅子から立ち上がる。
金属の円筒から煙が噴出すのを横目で見ながら、久住に駆け寄った。
「どういうこと!」
打ち込まれた催涙弾の煙を吸い込んで咳き込んでいる久住を片手で抱えると、
携帯に怒鳴りつつ床に落ちていたタオルを拾う。
口を押さえている久住に渡して、玄関へと走った。
- 131 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:40
- ノブに手が届く寸前で、鍵が開く音を聞いた飯田は勢いよく反転した。
開いた扉の音を背中で聞きながら、ベランダに向かう。
飯田の向かうベランダの手すりの外側にはロープが垂れ下がり、
窓ガラスの向こうには黒ずくめの3人が銃を構えていた。
『美貴ちゃん探してるみたいですよ。あと加護のことは気にしないで下さい。
そこにはいませんから』
「あ〜もう分かった! 忙しいから後でかけ直すっ!」
閉じた携帯をポケットにしまうと、
左手でさっきまで久住が座っていたソファーを掴む。
ベランダに向かって投げつけると同時に、横に飛んで壁を蹴った。
ガラスを貫通したソファーのあとを追ってベランダへと飛び込むと、
飛び散ったガラスの破片を慌てて避けた3人の間に入った。
久住から手を離し、狭いベランダで身動きの取れない3人を次々と殴り倒す。
手加減をしつつ全員を倒した飯田は床に落とされた久住が文句を言う前に
再びその身体を抱えると、ベランダの柵を飛び越えた。
2階分を降りたところで手を伸ばし、柵を掴んでスピードを殺す。
飯田が掴んだ柵が二人分の体重と落下エネルギに、変形した。
1人なら5・6階程度の高さは一気に降りてもなんとかなるが、
抱えている久住には耐えられない。
耳元で叫んでいる久住の大声に顔をしかめながら、
飯田は再び手を放して下へと向かった。
- 132 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:40
- 何度か止まりながら雨に濡れた地面に着地した飯田は、
抱えていた久住を地面に下ろした。
マンションを見上げると、さっきまでいた部屋のベランダから
男達が見下ろしているのが見える。
飯田は男達に向かって軽く手を振ると、久住に目を向けた。
吸い込んだ催涙弾の効果なのか鼻をすすりながら、涙をボロボロ流している。
地面に座り込んで目を擦っている久住の肩に、やさしく手を乗せた。
「大丈夫?」
「そんなわけないでしょっ! いったいなに考えてるんですかっ!」
久住は叫びながら肩に乗った手を振りほどく。
飯田は動揺している久住を安心させるために、やさしく話し掛けた。
「ほんとだよね、いきなり襲って来るなんて」
混乱して何か言っている久住から視線を移した飯田は、周りを見渡す。
駐車場になっているマンションの裏側に、人影はない。
だが飯田の耳には集まってくる複数の足音が、聞こえていた。
正面に待機していた仲間が集まってきている。
飯田の表情に気がついた久住が、口を閉じた。
「……どうしよう」
つぶやいた飯田を、久住が不安そうに見上げる。
視線に気がついた飯田は自分の足元を指差して、久住に向かって二コリと笑った。
「靴、忘れてきちゃったよ」
呆れたような表情の久住を三度抱えると、飯田は自分の車に向かって歩き出した。
- 133 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:41
- ――――
車の洪水で窒息しそうな高速道路が鉄とガラスの混沌としたジャングルを縫って、
のたうつように蛇行している。
ヘッドライトが作り出す光の帯も、
降っている雨の中でなら幻想的に見えなくもなかった。
徳永千奈美は差している大きめの傘の下で、
自分の目線と同じ高さにある遠くの高速道路を眺めていた。
雨が降り初めて急速に気温が下がったビルの屋上は、思ったよりも寒い。
だが夕方から降り始めた雨も少しだけ弱まり、
差している傘だけでもずぶ濡れになるのは避けられそうだった。
「ねぇ、ま〜だ〜?」
「まだっ!」
緊張感のない間延びした声にぴしゃりと言うと、視線を落とす。
足元に座り込んでいた菅谷梨沙子は暗色のレインコートを羽織っていた。
その上から濡れないように全身を覆っている灰色のシートをまくって、
見上げている。
「指示がないんだから、そのまま待機」
「え〜っ!」
徳永はシートを掴んで不貞腐れた顔をした菅谷を隠すと、
顔を上げて通りの向こうにあるマンションの最上階を睨んだ。
屋上にいた複数の人影は、すでに消えていた。
ロープを使って矢口の家に入りこんだ部隊も、
逃げ出した飯田を追って階下に向かっている。
雨の降る屋上で待つだけの役目に飽き始めた徳永の携帯が、震えた。
- 134 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:41
- ポケットから携帯を取り出して複雑な表情でメールを見ていた徳永が、
夜の街に鳴り響いた音に顔を上げる。
マンションの脇から飛び出した車が、タイヤを鳴らして横向きに道路に出てきた。
携帯を閉じると一つ息を吐いて、気持ちを入れ替える。
とりあえず藤本を捕まえるよりも、松浦の居場所を探すのが先決だ。
「梨沙子……用意っ!」
「オッケーっ!」
シートを撥ね上げた菅谷が、抱かかえるように持っていたライフルを構える。
身に付けているレインコートと同じ、
夜の闇に溶け込んだような黒く無骨な外観を持った銃。
レミントンM700をベースに菅谷自身がカスタムしたその銃は、
どうひいき目に見ても中学生にしか見えない幼い容姿には不似合いだ。
しかし菅谷は僅かな停滞もなく地面に右膝をつき、
立てた左膝に左肘を乗せて銃身を支えた。
スコープのカバーを外し、銃口を下方に向ける。
夜戦用暗視スコープを覗き込む菅谷を横目で見てから、
下方を走る車に視線を向けて、徳永は能力を発動した。
- 135 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:42
- ――――
弾け飛んだ左のミラーが粉々になって後方に流れていく。
飯田はバックミラーでそれを確認しながら、舌打ちをした。
「あ〜あ、やっちゃった」
車体がマンションの壁面に擦りそうなほど寄り、助手席の久住が悲鳴を上げる。
飯田はアクセルを床まで踏みこんだまま、ハンドルを握っていた。
さらに速度を上げた車は表通りへ抜ける狭い道路を、
狂気とも思える速度で走り抜ける。
「おっと、忘れてた」
闇の中を疾走する車の中で、飯田は思い出してライトを点けた。
前方のヘッドライトのなかに現われた男達を見て、
横にいる久住が目を見開いてシートベルトを両手で握り締める。
飯田が叩くようにクラクションを鳴らすと、全員が慌てて左右に逃げた。
男達の間を紙一重で走る車の中で、久住が絶叫を上げる。
「しっかり掴まっててよ!」
シートベルトをしっかりと握っている久住を確認して、
飯田はハンドルを大きく切る。
急激な操作に後輪が雨に濡れた路面を滑った。
飯田はカウンターを当ててつつアクセルを踏み込んで車体を横に向けると、
表通りへと踊り出た。
- 136 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:42
- ――――
暗い夜の歩道に一人立っていた少女は、前方で鳴ったタイヤの音に目を向けた。
マンションの横から飛び出してきた車が、少女のいる方向に向かって加速する。
茶色のカーゴパンツに長袖の黒いシャツ。
そこから伸びる華奢な腕でビニール傘を握ったまま、
頭に被っている黒いキャップの位置を直した。
大人びた顔立ちの少女は、持っていた携帯を再び耳に当てる。
「どうするの?」
『藤本さんは泳がせる。雅は後続を断って』
「りょーかい」
嗣永の声に軽く答えると、夏焼は携帯を閉じて顔を上げた。
近づいてくる車体に顔を向けた夏焼は、
とんでもないスピードで横を通り過ぎた車を目で追いながら首を傾げる。
ヘッドライトの逆光でよく見えなかったが、乗っているのは2人に見えた。
運転していたのは飯田圭織。
助手席に座っているのは藤本かあるいは藤本が連れていた少女のはずだが、
もう1人の姿を確認できなかった。
目を通した資料では、飯田が少女を置いて逃げるほど薄情だとは思えない。
走り去っていく車を目で追っていた夏焼は、
角を曲がるのを確認してからマンションの前に視線を戻した。
新たなエンジン音が響き渡り、不法駐車の車の列から抜け出した車が、
飯田の乗った車を追うように走り出す。
- 137 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:43
- 飯田の車と同じかそれ以上の速度を出して向かってくる車を見ながら、
夏焼はポケットを探った。
透明な袋を取り出して、中に入っていた物を手の平に転がす。
袋をポケットにしまい、
手の上に乗っている小さな白い塊を指でつまんで持ち上げた。
それは、小さな白い錠剤だった。
だがそれには通常あるはずの識別記号がなく、
入っていたシートにもなにも書かれていない。
夏焼は近くのビルを見上げ、屋上にいる人影を視界に入れる。
雨雲に覆われても明るさを失わない都会の夜空を背景に、傘を差しているのは徳永。
横には、菅谷も控えているはずだ。
バックアップについている仲間の存在に、夏焼は微笑を浮かべた。
近づいてきたエンジン音に視線を落とした夏焼は
持っていた傘を歩道に捨てて、道路に飛び出す。
道路の真ん中に立つと錠剤を口の中に放り込み、躊躇いなく奥歯で噛み砕いた。
- 138 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:43
- 速度を上げて近づいてくる車が、クラクションを鳴らして進路を変える。
脇を掠めて通り過ぎた車には目もくれずに、
夏焼は前から近づいてくる2台目の車を見据えた。
再び鳴らされたクラクションに乾いた音が混ざり合い、通りに響き渡る。
次の瞬間、夏焼の背後で炎が立ち上がった。
爆発した車を見て急ブレーキをかけた後続車がコントロールを失い、
夏焼の手前でガードレールに突っ込む。
受け止めたガードレールが、盛大な音を立てて変形した。
夏焼は停車した車から慌てたようすで飛び出してきた男に、ゆっくりと近づく。
「藤本さんを追わせるわけにはいきません」
頭を振りつつ銃を取り出した男は襲撃者の正体が子供だと知って、
驚いた表情を見せた。
「お前が……やったのか?」
「この件はそちらとは関係がないはずです。このまま帰ってもらえませんか?」
「こんなことをして、ただで済むと思っているのか?」
夏焼は複数のブレーキ音に、周囲を見渡した。
燃え上がる車に進路をふさがれた後続車が夏焼を囲むように停車する。
足音が入り乱れ、夏焼は次々と降りてきた男の仲間に包囲された。
- 139 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:43
- 夏焼は落ち着いた動作で周囲に視線を動かして、取り囲んだ男達を見回す。
適当に散らばっているわけではなく夏焼の動きを制限するように、
そしてそれぞれの正面に仲間がこないような位置を取っていた。
鍛え上げられた男達の訓練された動きを見ながら最初の男に視線を戻すと、
銃を手に不敵に笑っていた。
「……能力もないくせに。数に頼れば勝てるとでも思ってるんですか?」
取り囲んだ仲間に強気になった男を、夏焼は鼻で笑った。
夏焼の言葉に、屈強な男達の間に殺気を満ちる。
素手の両手を下げている夏焼に男達が包囲を狭めた瞬間、
道路に停車していた車のボンネット中央が拳大の大きさにへこんだ。
全員の目が注がれた一瞬の後、車が炎に包まれる。
車の近くにいた男達が跳び下がると同時に大きな爆発が起こり、
ボンネットが垂直に吹っ飛んだ。
「スナイプッ!」
誰かが上げた声に、男達が一斉に走り出す。
- 140 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:44
- 夏焼の目の前にいた男も走り出したが、肩を掴まれて足を止めた。
掴まれた肩に走った強烈な力に漏れ出た声と共に、振り返る。
「どこに行くの? ただじゃ済まないんでしょ?」
言い終わった夏焼の拳が男の胸を強打した。
男は砲弾で撃たれたかのように、後ろに吹っ飛ぶ。
夏焼は道路脇の植栽に頭から突っ込んだ男に背を向け、逃げ惑う男達を睥睨した。
- 141 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:44
- ――――
柵から身を乗り出すようにして、
徳永は2台の車が上げる炎に照らされた道路を見下ろした。
「手前の車。運転席に1人、後部座席に2人。撃って」
返事の代わりに菅谷の銃口から小さな炎が放たれる。
停車した車の屋根に、間を置かずに三つの穴が開いた。
「1人外した……右から出るよ。撃って」
徳永の言葉が終わると同時に、後部の扉が開いて男が飛び出した。
再び菅谷の銃から閃光が走って、男が倒れる。
見えないはずの角度から正確に敵の位置を知らせる徳永の“追跡”。
それは自らの視覚に入った目標をロックして、その正確な位置を知らせる。
どのような障害物に阻まれても、目標の姿を見失うことはない。
一度捉えた目標は徳永自らが解除しない限り、
距離に関係なくその位置を把握できた。
夏焼を取り囲んだ男達を目標に設定したいま、
徳永は一人一人の位置を正確に捉えていた。
「一台逃げたけど、どうする?」
男達の間を駆け回っている夏焼からなるべく離れた目標を探していた徳永は、
菅谷の声に視線を走らせる。
車が猛烈な勢いでバックを始めていた。
乗っているのは運転席に1人だけ。
「弾丸に“付与”の能力を。前輪を撃って」
「りょーかい!」
嬉々とした返事に、徳永は足元に視線を落とした。
見事なニーリングポジションで構えている菅谷の全身を、
蒼い炎のような輝きが包み込む。
無邪気な笑みを浮かべた菅谷が、引き金を引いた。
- 142 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:45
- 銃声はさっきまでと同じだったが、その効果は違っていた。
陽光を思わせる白熱の一塊となった弾頭が、
後退しながら加速する車を正確に捉える。
命中した弾丸は、前輪があった場所を中心に1mの穴を穿った。
ボンネットの一部と共に地面をも抉り取った強大な威力に、車体が大きく傾く。
車が反転して道路に叩きつけられるのを確かめて、徳永は新たな目標を探す。
「次は?」
「ちょっと待って」
菅谷にそう言って、戦いの中心から離れていく反応に注意を向けた。
反対車線との境目にある植え込み乗り越えて走っていく男だったが
上から見下ろしていると、その歩みはひどく遅く感じる。
「反対車線。停まってるタクシーの後ろ。撃って」
徳永の声とほぼ同時に、引き金が引かれる。
早すぎる菅谷の反応に、徳永は目を細めた。
徳永が捕らえた男の姿を、菅谷は指示を出す前に捉えていたはずだ。
それでも徳永の指示があるまで、撃たなかった。
自分が覗いているスコープの中でどれほど目標が無防備にその姿を晒しても、
菅谷は決して自分から引き金を引くことはない。
誰かの指示でしか撃たないのは、自らが起こす事実に目を背けるためなのか。
「……次、手前のガードレール近く。撃って」
徳永の感じた問いに答えるように、夜の街に銃声が轟いた。
- 143 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:45
- ――――
静かな通りに突然響いた爆発音に、矢口は持っていた傘を放り投げて走り出す。
吉澤からは手を出すなと言われたが、そんなことを気にしている場合ではない。
HPでの仕事が終り、帰ろうとしたところを吉澤に呼び止められた。
小川と共に松浦捜索のメンバーに加えられて聞いたのは、
特訓していた子供達の代表と競うというものだった。
松浦の捜索自体は、それほど重要だとは思っていない。
連れ去ったと言う藤本が危害を加える可能性はないし、
そもそも自分から逃げ出した松浦に藤本が協力しているというのが、事実だろう。
だいたい逃げ出した原因を聞けば、松浦が逃げるのも頷ける。
走っている矢口の耳に再び聞こえてきた音は、銃声だった。
マンションのある方向に目を向ける。
矢口は夜空を染めた炎の色を見ながら、夜の街を一気に駆け抜けた。
- 144 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:45
- 表通りに出た矢口は、思わず足を止めた。
見慣れたはずのマンション前で上がっている大きな炎を呆然と眺める。
道路の真ん中で停まっている車の上げる炎が、その光景を鮮明に照らしていた。
車線を無視してバラバラに止まった車の周りには、倒れている人間達が見える。
屋根を下にして停まっている車のボンネットは大きく抉れていた。
印象の変わってしまった景色を見ていた矢口は、
揺れている炎の前を駆け抜けた人影を見て、走り出した。
逃げようとしていた男に追いついた影が、
片手で胸倉を掴んで停まっている車に押し付ける。
「待て!」
矢口の出した制止の声に、小柄な影が引いていた拳を止めた。
小さな少女に胸倉を掴まれている男は、
爪先立ちのまま情けないほどか細い呻き声を上げている。
「そいつを降ろせっ!」
矢口は少し距離を取った位置で止まると、再び少女に声をかけた。
男は明らかに戦意を喪失している。
これ以上やる必要はない。
矢口の声に、男を持ち上げたまま少女は視線だけを向けた。
深く被ったキャップの奥の顔に、見覚えがある。
車のなかで目を通した資料を思い出す。
競っているメンバーの1人。
矢口と同じ増幅の能力を持った、夏焼雅。
- 145 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:46
- 矢口が見つめる視線の先で、炎に照らされた夏焼の横顔が微かに笑った。
再び視線を正面に向けた夏焼が止める間もなく、男の鳩尾に拳を叩き込んだ。
くの字に曲がった男の背中で車のガラスが砕ける。
気を失った男を路上に投げ捨てた夏焼が、矢口に向き直った。
「……夏焼とか言ったっけ?
封鎖もしないでこんな騒ぎ起こすなんてやりすぎなんだよ」
黙ったままの夏焼に、矢口は苛立ちの混じった声を出した。
「藤本さんを逃がすためです。
それにこの人達が勝手に首を突っ込んできたんですよ」
「藤本はここにいないんだよっ!」
怒鳴った矢口に向かって、夏焼は目を細めた。
- 146 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:46
- 「そんな話は聞いてないけど……まあいっか」
夏焼は右足を引いて半身になる。
その瞳に宿った光に、矢口は反射的に腕を上げた。
「競争相手が1人減れば、少しは有利になるかな?」
そう言って、夏焼は小さく笑った。
細く息を吐き、楽しげに細めた目を矢口に向ける。
夏焼の内側で高まるSPに、矢口は息を飲んだ。
この年齢では考えられないほど、強い。
「私の力が通用するのか、試させてもらいます」
慌てて下がろうとした矢口に向かって、夏焼が地を蹴った。
一瞬で間合いに入ってくると同時に、脇腹を狙った拳を繰り出す。
矢口は突然襲ってきた夏焼の動きに戸惑いながらも、なんとか捌いた。
下がり間もなく、次々と夏焼の凶器のような手足が放たれる。
攻撃の一つ一つがまるで振り下ろされる鉈のように、重い。
予想以上に速く隙のない夏焼の攻撃をなんとか捌きながら、矢口は内心舌を巻いた。
反撃の機会を与えないほどに高度に組み立てられたコンビネーションと、
矢口と同等かそれ以上の能力。
動きはまだしも能力は簡単に鍛えられるものではない。
担当だったという保田がなにをしたのか。
頭をよぎった疑問を打ち消して、夏焼の繰り出す連撃に対処する。
- 147 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:47
- 防戦一方で捌いている矢口の腕が夏焼の攻撃に痺れ始めた。
まともに打ち合っても、勝機は薄い。
繰り出される攻防の隙を縫って、矢口は顔をガードしていた左腕を僅かに下げた。
わざと隙を作って攻撃を誘う。
矢口が腕を下げた次の瞬間、夏焼の右足が跳ね上がった。
僅かな隙も逃さない、恐ろしいほどの速さと正確さを持った夏焼の回し蹴り。
驚きながらも自分から誘った分だけ、矢口はコンマ何秒か速く反応できた。
夏焼の左側面に飛び込んで右のハイキックを避ける。
懐に飛び込むと同時に右手で掴んだ衿を強く引き、
下から左手で夏焼の右足をすくい上げた。
自らも跳びながら夏焼の身体を抱えるように後方に投げる。
「ちぃっ!」
矢口は空中で顔を背けた。
無理な姿勢で避けた矢口の体勢が崩れ、2人が地面に転がる。
「こいつっ!」
投げられながらも夏焼が、空中で矢口の顔面を叩きにきた。
一動作で立ち上がった矢口の目の前で、しゃがんだ姿勢の夏焼が顔を上げる。
矢口の中段の蹴りが入る位置に、夏焼の頭部があった。
最大のインパクトで当たる絶妙な距離。
無意識に反応した矢口の身体が、蹴りの体勢に入った。
夏焼は完全には立ち上がらずに、低い姿勢で両足を左右に大きく開く。
身体を正面に向けた状態で腰を落とし、左の腕を肘から曲げて頭の横に密着させた。
矢口の蹴りを待ち構えるように、下から強い光を持った目で見上げる。
その瞳を睨みながら、矢口は力の乗った中段蹴りを
夏焼のガードした腕に叩き込んだ。
- 148 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:47
- 鉄の変形する感触と同時に、矢口の蹴りが弾き返された。
矢口は蹴った足をすばやく戻し、後方に下がる。
無意識ゆえに、手加減無しの一撃。
スピードもパワーもタイミングも、全てそろった最高の蹴り。
それを受けながら、夏焼は身体の芯に鉄柱でも入っているかのように
微動だにしなかった。
痺れの残る足の感覚が、夏焼の腕になにかが仕込まれているのを伝えたが、
それを差し引いても考えられないことだった。
驚きを隠せない矢口の目の前で、夏焼は平然と立ち上がる。
「まあ、こんなとこですか……」
夏焼は被ったキャップのつばを持ち、後ろに向けた。
身体を横にすると顔だけを矢口に向け、大きく両足を開いて深く腰を落とす。
右腕を、地面と平行になるように真っ直ぐに伸ばした。
左腕は肘を直角に曲げて、手の平を上に向けた拳を腰の位置に引く。
夏焼は軽く握った左右の拳を、矢口に向けた。
「藤本さんがいないなら、あなたに用はありません」
矢口が次に付いた時には、夏焼の身体が眼前にあった。
滑るように移動した夏焼の伸ばした右拳が顔面に迫る。
体当たりの威力を持った拳を頭を傾けて辛うじてかわし、脇腹に右フックを放った。
だが待っていたかのように夏焼の左腕が円を描く。
絶妙のタイミングで腕を叩き、矢口の攻撃が外側に逸らされた。
- 149 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:48
- バランスを崩した矢口が後ろに下がり距離を取った。
追いかけるように夏焼の左足が鋭い線を描いて鳩尾に向かって伸びてくる。
距離を取りきれなかった矢口はかわすのを諦め、両腕を身体の前で交差した。
凄まじい力に蹴りを受けた両腕が弾かれる。
それでもまともには食らわなかった。
矢口が次の行動を起こすよりも速く、夏焼が前蹴りを出した左足を前に踏み出す。
地面についたのとほぼ同時に、こめかみに向かって右足を跳ね上げてきた。
矢口はその場で踏みとどまり、頭を沈めてやり過ごす。
空気を切り裂く音を残して、夏焼の右足が頭上を通り過ぎた。
右足を高く上げた夏焼の、隙だらけの脇腹が目の前に現れる。
矢口が頭を下げた低い姿勢のままタックルに入ろうとして一歩踏み込んだ次の瞬間、
後頭部に衝撃を受けた。
その衝撃に矢口の意識が一瞬途切れる。
何が起こったのかわからないまま、倒れそうになる身体をなんとか立て直す。
朦朧とした意識のなかで次の攻撃に備えようと、両腕を持ち上げた。
しかし矢口の閉じた両腕の僅かな隙間に潜り込むように、
夏焼の右腕が入り込んでくる。
下から突き上げてきた右の掌底で顎の先を叩かれ、矢口の首が回った。
- 150 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:48
- 一発で意識を失った矢口が上を向き、夏焼の目の前で膝をついて倒れる。
夏焼は濡れた路上でうつ伏せに倒れた矢口を見下ろしながら、右足を上げた。
一瞬の停滞の後、矢口の後頭部に向かって踵を踏み落とす。
「雅っ!」
髪の毛に触れたところで、足が止まった。
夏焼はそのままの姿勢で顔を上げる。
「殺すなって言われたでしょ!」
「できればって言われなかったっけ……友里奈ちゃん?」
道路の先に現れた熊井は、厳しい顔で夏焼を睨んでいた。
つかつかと近づいた熊井は、夏焼の腕を取って歩き出す。
「まったくなにやってんの、こんな騒ぎ起こしてっ!」
「大丈夫だよ手加減したし。
それに梨沙子だってプラスチック弾使ってるはずだから、
誰も死んでないと思うよ」
「他のみんなは?」
「あそこ」
夏焼の視線を見て、熊井は近くのビルを見上げた。
ビルの屋上で傘を差している徳永と、
その横で手を振っている菅谷が熊井の視界に入る。
「とにかくっ! 早く離れるよ!」
「ちょっと待ってよ〜」
どこか楽しそうにいいながら、夏焼は腕を引かれてその場をあとにした。
- 151 名前:夜の静けさに 投稿日:2006/04/14(金) 00:48
- ――――
- 152 名前:カシリ 投稿日:2006/04/14(金) 00:49
- 以上で、第6話終了です。
- 153 名前:カシリ 投稿日:2006/04/14(金) 00:50
- >>118 愛毒者 様
ありがとうございます。
高橋の刀と過去の話は、そのうち説明が入ると思います。
>>119 名無飼育さん 様
ありがたいお言葉ですが、すいません。
書いてみたいとは思っていますが、他にはありません。
- 154 名前:愛毒者 投稿日:2006/04/15(土) 22:13
- 更新お疲れ様です!
よっすぃーの動きが気になるところですが
圭ちゃんがなんだか怖いです。w
それと、本当に誰も死んでいないんだろうか?ww
動向が激しくなってきましたね!
第7話も楽しみにしています♪
- 155 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/19(水) 01:43
- 119です。
そうですか、分りました。ありがとうございます。
今後とも楽しみにしています!
- 156 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:50
- ―――
自然の摂理に反するように、夜を拒否して輝いているネオンの光が眩い。
僅かな面積に密集した何千軒分もの輝く看板の光が、雨に滲んでいた。
新垣はまるで生きているかのように明滅を繰り返すネオンを、見上げた。
見上げた街並みはまるで生きているかのように、
おびただしい数の光の玉が構成している。
生きているように感じるのは、人が眠らずにいるからだ。
どれだけ華やかに見えても訪れる人々なしでは、その街は死んでいる。
「ガキさん頑張れ〜!」
振り返ると向かいの雑貨屋の店頭で売っていた豚まんを両手に持った高橋が、
満面の笑みで声援を送っている。
新垣はガラス越しに手を振って答えると、再び前を向いて表情を引き締めた。
- 157 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:50
- 歌舞伎町のなかになぜか二軒もあるバッティングセンターの一つで、
新垣は再びバットを持ち上げる。
全神経を集中した新垣の視界にあるのは、離れた位置に空いた小さな穴だ。
僅かに左足を引いて、構える。
その直後、何の前ぶれもなしに白球が飛び出してきた。
放たれたのは最後の一球。
いままでの凡打を払拭するような、会心の当たりを。
充分に引きつけてから、短めに持ったバットをコンパクトに振る。
だがインパクトの瞬間、鋭く降られたバットは白球の下を掠めた。
信じられない曲がり方をして背後のボードに当たったボールが、
けたたましい音を立てる。
変化球なしを設定したはずなのに曲がった球が、新垣の足元に転がってきた。
「残念でした〜」
残念そうには聞こえない声で言うと、高橋は二つ目の豚まんをほおばる。
「……バカ〜!」
新垣は足元に転がっているボールを、力いっぱい蹴飛ばした。
- 158 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:50
-
第7話
Waltz For Debby
- 159 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:51
- ――――
「ご苦労さん。あんだけやられれば、もう手は出してこないでしょ」
「知ってたんなら、教えてくれてもいいんじゃないですか?」
外したヘッドセットを乱暴に置きながら、嗣永は横に座っている吉澤を睨んだ。
楽しげに笑っている吉澤から顔を背けた嗣永は、
コンソールに付いているモニタに映り込んだ自分の顔が、
強い不信感を滲ませているのに気がつく。
矢口の家に藤本がいないことを知っていながら、教えなかった。
与えられた情報を鵜呑みにした自分にも、腹が立つ。
「だって敵同士なんでしょ?」
足を組んで座る吉澤は楽しそうな表情で、嗣永に視線を向けた。
おどけて言った吉澤は真剣な表情で睨み返してきた嗣永を見て、
溜め息を吐きながら肩をすくめる。
「……冗談だって。約束通り、松浦はあんた達にあげる。
そっちの準備ができたら、今度は私がチャンスを作るよ」
吉澤の言葉を聞いて、嗣永は目を細める。
約束という言葉を使ったが、実際は恫喝に近い。
一応の交換条件を出してはきたが、吉澤の話を聞いたあとでは断れるはずもない。
間違いであって欲しいと思いながら嗣永が自分なりに動いて集めた情報は、
吉澤の言葉を裏付けるものだった。
吉澤に話を聞かされた時点で、そして今回の任務を与えられた時点で、
すでに窮地に立たされていたのだ。
吉澤にいいように使われていることに内心歯噛みしながらも、
仲間のために嗣永は怒鳴りだしたい衝動を抑える。
「そっちの仲間が揃ったら状況開始。これでいいでしょ?」
笑顔で片目を瞑った吉澤を、嗣永は冷ややかに見つめた。
- 160 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:51
- ――――
「しっかしどうやって調べたの? 結構苦労したんだけど」
「確かに国外に逃げたような跡もありましたし、
他にも怪しい情報がありました。でもここだけが、なにもなかった。
あまりに完璧に痕跡を消すと、逆に目立つんですよ」
「……これから気を付けるよ」
笑顔の紺野に、藤本が神妙な顔で頷いている。
向かいの席に座っている2人を見ながら、
中澤は手に持った小さなショットグラスを傾けた。
口に含んだ透明な液体が、清冽な泉の水のように喉を心地よく滑り落ちていく。
「……うまいなぁ、これ」
「でしょ。京都が生んだ純米大吟醸“玉乃光”。
裕ちゃんのために買ってきたんだよ」
グラスを片手に言った中澤に、横に座っている後藤が嬉しそうに答えた。
上機嫌の中澤は再び澄んだ液体を口に運ぶと、後藤の頭を撫でる。
「えらいでぇごっちん。やっぱ酒は京都やなっ!」
「……ふっ」
中澤は聞こえた声に、撫でられて目を細めている後藤から視線を移した。
- 161 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:51
- 中澤と目が合った紺野は視線を逸らすと、わざとらしく溜め息を吐いた。
「分かってませんね」
テーブルの上の瓶を丁寧な仕草で手に取ると、光にかざすように持ち上げた。
「酒造りには自然の寒気が必要なんです。
その点この大吟醸“雪氷室 一夜雫”。
厳しい寒さのなかで造られる大吟醸は北海道に相応しく、
柔らかく包み込むような味わいを持った最高の日本酒です」
流れるような紺野の言葉を聞きながら、中澤は喉を潤す。
紺野の隣で座っている藤本が、説明を聞きながらいちいち頷いていた。
「お前、酒なんて飲むんか?」
「いいえ。まだ未成年ですから」
澄ました顔で答えると、紺野は藤本のグラスに酒を注いだ。
- 162 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:52
- 「うんちく語ったからって、酒がうまくなるわけやないで」
「ほら、れいな。グイっといっちゃってっ!」
聞こえてきた楽しそうな声に、隣のテーブルに座っている田中に目を向ける。
田中の前に座っている亀井に差し出されたグラスを両手で持って、
舐めるように透明な液体を飲んでいた。
「田中っちはなに飲んでるの?」
後藤に話し掛けられた田中はびっくりしたように顔を上げた。
少し顔を赤くしたまま慌ててテーブルの瓶についたラベルを確認する。
首を傾げて見ていた田中が困ったように、瓶を差し出してきた。
中澤が受け取ると“繁桝”と書かれていた。
「えーと……」
「“しげます”です。享保二年創業の伝統ある蔵元で造られる
フルーティーな味わいの逸品です」
「享保ってどれぐらい前なんや?」
「だいぶ前じゃないかな?」
横から聞こえた後藤の答えは、曖昧すぎた。
中澤から瓶を取った後藤は、楽しそうに自分のグラスに注ぐ。
- 163 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:52
- 「ただいま〜」
「おう。遅かったな」
中澤は両手に荷物を持って帰ってきた新垣と高橋に、声を掛ける。
荷物を置いた新垣が、疲れたような顔を向けた。
「なかなか見つからなくて大変だったんですよ」
「お疲れ。美貴の言ったとこになかった?」
「あるにはあったけど、サイズがなかったの!」
新垣はグラスを片手に寄ってきた藤本に、口を尖らせる。
「それはいいけど、ここ入ってくるの恥ずかしいよ」
「なんで?」
「だってここ、ホテルばっかじゃん」
不思議そうに聞いた藤本に、新垣は言い難そうに言った。
いまいる場所は、歌舞伎町の一角を占めるホテル街だった。
藤本は自分の所有しているホテルの最上階にある一部屋を、
拠点の一つに使っている。
日本に着いてからの三日間、この場所に松浦と共に隠れていた。
「こういうとこのが見つかり難いんだよ」
藤本は笑いながら荷物を持つと、部屋の奥にいる松浦の方に歩いていった。
新垣はその姿を見送ってから、中澤に視線を向ける。
「ようすはどうですか?」
「いまから診るとこや」
心配そうに聞いてきた新垣に、中澤はグラスを傾けながら背後を指差した。
中澤の後ろにある大きなベッドの上で、道重が安らかな寝顔を見せている。
そして仰向けに寝ている道重の上には、辻が馬乗りになっていた。
- 164 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:53
- 新垣が高橋と共に学校を逃げ出した直後に、紺野から電話があった。
どうやって調べたのか襲われた原因が藤本にあると言う紺野に、
すでに襲われたことを伝えると合流して、全員で藤本に会いに行くことになった。
藤本のいるホテルに入る直前に連絡が入り、飯田もここに向かっている最中だ。
新垣がベッドに近づくと馬乗りになっていた辻が、
無造作に道重の目蓋を指で開いた。
道重の目の中を覗き込むように顔を近づける。
しばらくすると目蓋を開いていた手を道重の口元に持っていき、
強引に口を開くと中を覗き込む。
首を傾げてから口元に鼻を近づけて、匂いを嗅ぐように鼻を鳴らした。
「……なにやってんの」
「びょーきの原因をしらべてるんれす」
新垣が不審げに問い掛けると、辻は道重に顔を向けたまま答える。
突然ベッドから降りると、おもむろに道重のシャツを巻くり上げ、
現れた腹に片手を当てた。
もう片方の手で道重の腕を取って手首に触れる。
「別に病気になったわけじゃないと思うけど……」
「にたようなものですよ」
そう言って道重から手を離すと、
辻は傍らに置いてあった大きなバックを引き寄せた。
目を覚まさない道重のことを飯田に相談すると、
辻に診せればなんとかなると言われた。
田中と亀井に連れてきてもらったが道重を診ている辻を見て、
新垣はなんとなく不安になった。
- 165 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:53
- 「う〜ん……これかな」
バックのなかに手を突っ込んでかき回していた辻が顔を上げた。
顔を上げた辻は嬉しそうに笑うと、取り出した物を新垣に見せるように突きつける。
握られている瓶の中には、小さな泥団子のような物体が幾つも入っていた。
「……なにそれ?」
「くすりです」
辻は八重歯を見せて新垣に笑いかけると、寝ている道重に向き直る。
瓶の蓋を開けている辻を見ながら、新垣は眉をしかめた。
「だいじょうぶかな……」
「四診を行い、証を見極め、論治を定める。基本に忠実なやり方だよ」
新垣の横に立った紺野はオレンジジュースを片手に、
辻の動きを観察するように目を細めた。
「明確に意識化しているじゃないみたいだけど、
のんちゃんはさゆが目を覚まさない原因を感じとってる。
適当に選んでるわけじゃないよ」
紺野の説明に視線を戻すと、辻は頭の後ろに手を入れて上体を起こしていた。
強引に口を開けて、手に持った泥団子を道重の口の中に押し込んだ。
意識がないはずの道重が、眉をしかめる。
「あとは身体をあったかくしとけばだいじょうぶれす」
辻は笑いながら、自信ありげに言った。
- 166 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:53
- ベッドに寝かせられた道重の寝顔は、さっきまでと変わりない。
本当に辻の薬が効くのか半信半疑に思いながらも、
新垣はベッドに近づくと道重に毛布をかける。
「ごめ〜ん! 遅れちゃった! 」
その声に新垣が入り口に顔を向けると、
部屋に入ってきた飯田がにこやかに手を振っていた。
駆け寄ってきた辻の頭を撫でている飯田の後ろから、
久住がすり抜けるように飛び出す。
ソファーに座っている藤本を睨みながら、詰め寄った。
「ちょっと藤本さんっ! 勘弁してくださいよっ!
あの人突然10階から飛び降りたんですよ?」
非難に満ちた久住の視線を受けながら、藤本は苦笑した。
「いいじゃん生きてるし」
「そんなわけないでしょっ! もう少し責任って物を……!」
怒鳴っていた久住は何かに気が付いて、言葉を止めた。
ゆっくりと向けた久住の視線の先で、
部屋の隅で離れて座っていた高橋が刀を手に立ち上がる。
「げっ! たっ、高橋さん? なんでここに?」
「おう、小春。久しぶり」
久住は笑顔で近づいてくる高橋を見て、慌てたようすで飯田の後ろに隠れた。
飯田を掴んだ手が小刻みに震えている。
- 167 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:54
- 「あんた、飯田さんと一緒にいたらしいのぉ?」
やさしい声で言いながら、高橋が目を細めた。
その顔を見て、久住が強張った顔でゆっくりと後ろに下がる。
「連絡もせんと……ほんとに困った子やねぇ」
笑顔のままの高橋がゆっくりと刀を鞘から引き出すのを見て、久住が逃げ出した。
「悪い子にはお仕置きやで〜!」
「いや〜!」
新垣は呆れた表情で2人を見ている飯田に近づく。
「あれでも心配してたんですよ」
「……ほんとに?」
飯田は疑わしそうな視線を新垣の背後に向けた。
振り返ると刀を突きつけた高橋と枕を手に取った久住が、
道重の寝ているベッドを挟んで向かい合っている。
「他人に助けてもらおうって根性が気に食わん!」
「たすけて〜!」
投げつけられた枕が二つに分かれ、飛び散った羽毛が道重の上で散った。
- 168 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:54
- ――――
『結婚させられそうなんだけど』
松浦から聞いた突然の電話の理由は、それだった。
夏に人狼に襲われたことを聞いた松浦の後見人が、
身の安全を考えて護衛をつけると言い出したのがきっかけらしい。
それをどこかの金持ちが聞きつけた。
しかもどこでどう間違ったのか、
松浦との結婚を条件に提供しようというばかげた話に変わっていた。
それを聞いた松浦の後見人が乗り気になり、
本人には内緒で話をすすめていたらしい。
怒った松浦が怒鳴り込むと後見人は松浦が1週間組織から逃げることができれば、
護衛も結婚もなしにしようと提案した。
たった1人で組織の支援もない松浦が、逃げ切れるわけがない。
絶対的に向こうに有利な提案だったが、頭に血が上った松浦はその提案を飲んだ。
「一週間逃げ切れたら白紙に戻すって、約束したんだよね」
「なんでそんな面倒なこと」
「勢い?」
呆れたような飯田の問いに、松浦は照れたように笑いながら答えた。
- 169 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:54
- 困ったような表情で説明をする松浦の横顔を眺めながら、藤本はグラスを傾ける。
最初の何日かは1人で逃げていたらしいが、
徐々に追い詰められた松浦はどうしようもなくなって藤本に連絡してきた。
今回のことは松浦本人には関係ないところで決まったことだし、
困ったときに頼られるというのは単純に嬉しい。
喜んで力を貸すつもりだったが、
松浦は関係のない藤本を巻き込んだことに罪悪感があるらしい。
「まあそういうわけだから」
藤本はそう言いながらグラスを置いて、松浦に集まった視線を集める。
「約束の一週間も今日で終りだから、日が昇るまでここにいればいいってわけ」
「その話と米軍に何の関係があるの?」
「先に亜弥ちゃんを捕まえれば貸しができるからね。
どっかから話が漏れたんでしょ」
「私のところに来たのも、
藤本さんの居場所を知ってると思ったからじゃないですか?」
オレンジジュースを飲んでいる紺野のつぶやきに、
中澤が呆れたような表情で溜め息を吐いた。
「それやったら紺野もうちも関係ないってことやんか」
「……巻き込んじゃったみたいで、すいませんでした」
素直に頭を下げた松浦に、中澤は飯田と視線を合わせて頭を掻いた。
- 170 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:55
- ――――
道重の寝ているベッドの端に気を失った久住を放り投げる。
高橋は近くの椅子を引き寄せて、腰掛けた。
逃げ出したのは何度目なのかを考えて、高橋は溜め息を吐く。
久住には“能力”のコントロールに問題がある。
暴走を繰り返す久住に手を焼いていたのだろう。
高橋が昔世話になった人に稽古相手にでもすればいいと、
半ば強制的に押し付けられた。
もちろん、高橋の使う武術に触れることによって、
改善される可能性も考えてはいたのだろうが、
能力のコントロールに必要なのは慣れと、なによりも本人の意志、精神力だ。
預けた本人は修行のつもりなのかもしれないが、
武術やスポーツで精神が養われるなどということはない。
高橋は脱力してベッドにうつ伏せに寝ている久住から視線を外した。
能力のコントロールは本人の問題で、他人がしてやれることはなにもない。
冷たいようだが特効薬など存在しないし、
ましてや能力を持っていない高橋にはアドバイスもすることもできなかった。
再び溜め息を吐くと高橋は顔を上げ、髪をかき上げた。
- 171 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:55
- ベッドから立ち上がって隣の部屋に視線を向けると、
床に座り込んだ亀井がグラスを片手に恨めしそうに視線を送っている。
上目遣いの視線の先には、困り切った顔の紺野がいた。
「どうせ絵里のお願いなんて、聞いてもらえないんですよね……」
「だから、調べてはいるんだけど、人探しは得意じゃないんだよ」
「紺野さんは冷たいな……」
酔った亀井に絡まれている紺野の向かいには、後藤が座っていた。
高橋は中澤と談笑している後藤の背中に、視線を向ける。
「……あれが、後藤さんかの」
高橋はそうつぶやいて、僅かに目を細めた。
遺物保管所の管理人として引退していると聞いていたが、
こんなところで会えるとは思わなかった。
- 172 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:55
- HPに所属する誰もが尊敬と畏怖を持って語る、現代最強と謳われた能力者。
成した偉業と共に語られるその名を、高橋も耳にしたことはある。
だが中澤に頭を撫でられて笑っている後藤の後ろ姿は、
その辺を歩いている同じ年頃の女の子と変わらない。
力の片鱗も感じさせない後藤の背中を見ながら、
誰にも気が付かれないようなほんの一瞬、高橋は殺気を放とうとした。
どんな反応をするのか見ようと脅しの意味をこめた、威嚇のための殺気。
実際に身体を動かすわけではないが、ある程度の相手なら振り向いて構えをとる、
あるいは反射的に殺気を返してくる。
その反応で相手の技量を測ることができる。
しかし、それを放つ直前に後藤の身体から“なにか”が放たれ高橋の顔を叩いた。
高橋の動きそのものを制する、初めて遭遇する反応。
予想外の反応に驚いて、後藤の背中に向けた視線が釘付けになる。
「……怖いなぁ、高橋」
そう言って、後藤が振り返った。
中澤が話の途中で振り返った後藤と、
視線の先にいる高橋に不思議そうな顔を向ける。
「こんなとこで何しようっていうのさ?」
楽しげな笑いを浮べて高橋の顔を眺めながら、
後藤は手に持ったグラスを揺らした。
- 173 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/04/25(火) 13:56
- ――――
- 174 名前:カシリ 投稿日:2006/04/25(火) 13:56
- 途中ですが、ここまでです。
- 175 名前:カシリ 投稿日:2006/04/25(火) 13:57
- >>154 愛毒者 様
ありがとうございます。
とりあえず一段落というところです。
>>155 名無飼育さん 様
そのうち別のも書くと思いますので、そのときはよろしくです。
- 176 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/26(水) 07:12
- なんかごっちんカッケーw
稚拙な感想ですが真面目に読んでます。続き楽しみです
- 177 名前:愛毒者 投稿日:2006/04/26(水) 13:56
- 更新お疲れ様です!今回はキリのいい所までなんですね。
愛ちゃんと小春のやりとりがオモシロ過ぎです。w
なるほど、あややはそういう事情があったんですね。
それとごっちんと愛ちゃんのコンタクトは短いけど
すごく内容が濃い!!
中澤さんでも気付けないほど高いレベルで反応する
ごっちんはさすが底が知れません。もっとこの二人
のやりとりなり会話が聞きたいです!
よっすぃーがいよいよって感じですが、真の目的
がなんなのかが気になりますね。
次回更新も楽しみに待っています♪
- 178 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/26(水) 20:46
- >>155でレスした者です。
新しい作品が出た時はまた楽しみに読ませて頂きますね♪
今はこの「凍える鉄槌」シリーズの世界にどっぷり浸かりたいと思います。
引き続き、更新楽しみにしています!
- 179 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/05/02(火) 12:49
- ――――
「あんたこんなとこにいていいの?」
「だいじょぶだよ、有給も貯まってるし。
それにたまには自分の目で見て買い物したいじゃん」
ひらひらと手を振ってから、後藤は日本酒を自分のグラスに注いだ。
後藤は遺物の管理と共に保管所の警備も兼ねているため、
許可無く離れることはできない。
相応の代わりを用意するはずだが、そう簡単に見つかるとは思えない。
軽い返答に、飯田は眉をひそめる。
「そ〜んな心配そうな顔しなくてもだいじょぶだって!
ちゃんと戸締りしてきたから、誰も石棺には入れないよ」
そう言って飯田の肩を叩いて笑うと、
後藤は自分のグラスを飲み干して立ち上がった。
「どこ行くの?」
「ちょっと電話をかけてくる」
手に持った携帯を振りながら飯田に笑いかけ、後藤は部屋を出て行った。
- 180 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/05/02(火) 12:49
- ――――
さっきまでわけのわからないことを言いながら絡んできた田中を
亀井に任せて、新垣は離れた所に座っている高橋に近づく。
椅子に座っている高橋は、
考え込むよう目の前の小さなテーブルに視線を向けていた。
「そんなとこ転がしといていいの? なんとかって大事な刀なんでしょ?」
そばに立っても気がついていないようすの高橋に声をかけながら、
向かいの椅子に座る。
新垣の声に顔を上げた高橋の足元には、
いつも持っている刀が床に無造作に置いてあった。
「……“虚月”。虚空に浮ぶ細く尖った三日月。異称だよ」
「ああ、それそれ」
それで会話は終り、高橋は再び視線を落とした。
いつもよりそっけない態度に、新垣は首を傾げる。
さっきまで久住を追いかけていた元気はない。
まさかとは思うが久住のことでなにか悩んでいるのかと考えながら、
新垣は持ってきたオレンジジュースを一口飲んだ。
「やっぱそんなとこに置いとくのはまずいじゃない?」
「なんで?」
「だって愛ちゃんの家に代々伝わる刀でしょ?
それに武士の魂とかって言うじゃん。」
意識して明るい口調で言ったが、
視線を床の刀に落とした高橋の表情に変化は無かった。
- 181 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/05/02(火) 12:50
- 顔を上げた高橋は新垣に顔を向けながら、僅かに目を細める。
「この刀、買ってもらったんよ」
「……はっ?」
冗談かと思ったが、新垣を見つめる高橋の表情は真剣だった。
「HPに入るときにあーしが選んで、買ってもらった。
いい物だけど、戦後に造られた普通の刀やよ」
「そうなの? なんでも切れる妖刀とかじゃないんだ?」
高橋の言葉を聞きながら、新垣は刀を受け止めた時のことを思い出す。
特殊鋼の警棒に切れ目を入れても、刃こぼれ一つしていなかった。
新垣はてっきりなにかの“力”を持っている特別な刀だと、思っていた。
「言ったでしょ、異称だよ。
それがどんな刀でも、当主になった者が持っている刀が
虚月と呼ばれるようになる。
確かに“力”を持った刀もあるけど、あーしには必要ない」
言いながら、高橋は手を伸ばして床に転がっている刀を掴んだ。
「それに魂がどうとかは言うのは、飾って見てる人が言うもんやよ。
もちろん大事な武器ではあるけど、刀は刀。ただの道具。
魂が必要だって言うなら物としてじゃなく自分のココに、持っていればいい」
そう言って顔を上げた高橋は、自分の胸を拳で示した。
- 182 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/05/02(火) 12:50
- 自信に満ちているわけでもなく、虚勢を張っているわけでもない。
新垣はごく自然に言った高橋の横顔を、眺める。
なかなか言えることではない。
新垣が感心していると、膝の上に乗せた刀に視線を落としていた高橋が突然、
顔を上げた。
驚いたように目を丸くして、新垣を見つめる。
「もしかしてあーし、カッコいいこと言った?」
「……台無しだよ」
新垣はうなだれながら、ストローをくわえた。
「いってらっしゃ〜い!」
元気な亀井の声に、新垣は顔を上げる。
扉のノブに手をかけた後藤が、
亀井に手を振りながら部屋を行くところだった。
「……持っていない物を捨てることは、できない」
「なにそれ?」
聞こえてきたつぶやきに顔を向ける。
同じように後藤の後ろ姿を追っていた高橋の視線が、自分の手元に落ちた。
高橋は膝に乗せている刀の鞘を、指で静かになぞる。
「あーしにもまだ、分からん」
そう言って、立ち上がった。
「どこ行くの?」
新垣は立ち上がった高橋に、声をかけた。
振り返った高橋は、なにかが吹っ切れたような表情で笑いかける。
「ジュース買ってくる」
手を振っていた高橋の背中が、閉まった扉の向こうに消えた。
- 183 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/05/02(火) 12:51
- ――――
部屋のなかの喧騒が扉の向こうに閉じ込められて、廊下に静けさが戻る。
高橋は一つ息を吐くと、両側に伸びる廊下に目を向けた。
どうしても、確かめなければいけないことがある。
エレベータとは反対の方向から、微かな話し声が聞こえてきた。
廊下の先は、右へと曲がっている。
高橋は声の方向に歩きながら耳を澄ましたが携帯で話でもしているのか、
聞こえてくる声は1人分だった。
角を曲がる前に一度足を止めてから、高橋は目を閉じる。
『……まぁいいよ。うん、じゃあね』
そう言った後藤の声に続いて、携帯を閉じる音が鳴った。
高橋は目を開けると、ゆっくりと廊下を曲がる。
廊下の少し先で、左肩を壁につけた後藤が背を向けていた。
携帯をポケットにしまう後藤を見ながら、刀の柄に右手を添える。
「後藤さん」
声をかけるなり一気に間合いを詰め、抜き打ちを浴びせる。
気がついた後藤が振り返ったときには、光を反射した刀身が喉元へと向かっていた。
喉元を狙う一刀には必殺の気迫を込めてはいるが、実際には薄皮一枚斬る程度。
剣先まで自在に操り、後藤の実力を測る。
- 184 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/05/02(火) 12:51
- 後藤の喉元に向けて水平に振られた刃が、空を斬った。
その場を動かずに斬撃をかわした後藤は、驚いたような顔で後ろに跳ぶ。
高橋は振った刀を瞬時に鞘に戻すと、後藤との間合いを一歩詰めた。
後藤の喉を掠めるはずの一刀が、かわされた。
手元が狂ったわけではない。
当たる瞬間、僅かに後藤の身体が動いたのを高橋は見逃さなかった。
どれほど鋭い刃物でも、届かなければ子供の振う棒切れと変わらない。
高橋が剣先を操ったように、後藤は自分の身体をミリ単位で操ってみせた。
思った通り、後藤は強い。
それも、いままでに出会ったことがないほどに。
腰を落とした高橋は、ジリジリと間合いを詰めた。
殺気をはらんだ高橋の視線に、後藤は狼狽したようすで後ろに下がる。
「ちょっ、ちょっと待っ……!」
慌てたように両手を振った後藤へ、高橋は再度踏み込んだ。
殺すつもりの本気の抜刀。
だが鞘から抜け出た鋼の刃は、またも空を斬った。
今度は大きく距離を取り、後藤は後ろに下がっていく。
片手に持っていた鞘を捨てて、高橋は次々と斬撃を繰り出した。
後藤には反撃の隙を与えないで、廊下の端に追い詰める。
「落ち着け高橋っ! ……っていうかいったいなんなのさっ!」
背中を壁に押し付けて喚いている後藤の姿を視界に入れながら、高橋は足を止めた。
無言で後藤の眼を見据えながら、正眼に構えた剣先をゆっくりと下げていく。
剣先は斜め右下を指し、自然に下段につけられた。
「ほんと勘弁してよ。後藤はいま戦えないんだよ」
「……それなら、このまま黙って斬られますか?」
小さく言った高橋の言葉を聞いて、後藤はその瞳を推し量るように見つめた。
無言のまま数瞬の刻が流れ、やがて後藤は諦めたように小さく溜め息を吐く。
表情を引き締めると、両腕を垂らした自然な姿勢で目を細めた。
- 185 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/05/02(火) 12:51
- 高橋は隙を見せずに、僅かに間合いを詰めた。
武の本質を成すのは、命のやり取り。
十年の鍛錬を重ねても決して得られない、
命を賭した一瞬の戦いでしか得られないものが、ある。
自分の求める答えはその一瞬の中にしか、存在しない。
加えた斬撃はすべて本気だったが、後藤は余裕を持ってかわしていた。
最強の名にふさわしく、底の見えない後藤の実力。
これまでのすべてを賭けるに、値する。
やや前傾した姿勢から、後藤は全く動かない。
後藤が生易しい相手ではないと分かっているが、高橋には勝算があった。
なにかの武器を持っている気配はない。
高橋の刀を無手で防げるはずはなく、
両手を伸ばせば届くような狭い廊下に、かわす場所はない。
後藤がどんな能力を出したとしても、
それが身体に触れるよりも自分の斬撃の方が速いと、高橋は踏んだ。
この一剣に、これまで学んだすべてを込める。
一見すると無造作に見える動きで、高橋は一足一刀の間境を越えた。
後藤の身体を間合いに入れると、真剣が恐ろしい疾さで撥ね上がる。
逆袈裟に上がっていく刃は音も立てずに空気を裂いて、後藤の身体に向かった。
- 186 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/05/02(火) 12:52
- だが結果は、高橋が思っていたものとは違った。
真剣が撥ね上がるより早く、後藤の身体が沈む。
その場にしゃがみ込んだ後藤の頭上、なにもない空間を高橋の刃が裂いてゆく。
そして逆袈裟の真剣を下から追うように、後藤が元の姿勢に戻った。
その速度は高橋の太刀ゆきの速さを、遥かに上回った。
刀を返す間もなく、後藤の右掌が高橋の握っている刀の柄を下から上に強く叩く。
真剣がすっぽ抜けたように飛び、天井に音を立ててぶつかった。
刀が床に落ちるより早く高橋の脇を抜けた後藤が、背後で息を吐く。
「あぶなかったぁ〜! ほんっとにヤバイって!」
背中から聞こえる後藤の声は、さっきまでのとぼけた感じになっている。
高橋は床に落ちた刀を見つめたまま、黙って拳を握った。
「……なんで」
何かを言いかけた口を、高橋は強く唇をかみ締めて閉じる。
握った拳をさらに強く握り締め、大きく息を吸い込んだ。
「強いなぁ、後藤さん」
高橋は振り返ると笑顔を作り、明るい声を出した。
後藤は曖昧な笑顔を向けながらゆっくりと後ずさり、離れていく。
「え〜と……」
「あーしはジュース買ってから戻りますから、後藤さんは先に戻ってください」
「えっ! あぁ、そう? ……じゃあそういうことでっ!」
そう言って背を向けた後藤は、逃げるように一目散に駆け出した。
角を曲がって後藤の姿が見えなくなると、高橋の顔から笑顔が消える。
高橋は緩慢な動作で床に落ちた刀と鞘を拾うと手元も見ずに、
持った刀を鞘に戻した。
- 187 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/05/02(火) 12:52
- ――――
後藤は部屋に入って、扉を閉める。
短い廊下の突き当たりにある扉に隔てられ、
部屋の奥からの話し声は意味のない雑多な音に聞こえた。
なんとか誤魔化すことができたとは言え、
後藤にもそれほど余裕があったわけではない。
これまで経験した武器を使う相手と比較しても、高橋の剣技はずば抜けていた。
それでもかわせたのは、狭い廊下と背後の壁のおかげだった。
限定された空間が後藤の動きを制限していたのと同じように、
高橋の動きをも制限する。
そうでなければいくら後藤とはいえ、簡単にはかわすことはできなかった。
背後で閉まった扉に背を預けて後藤は小さく息を吐くと、口元を緩める。
無理に笑っていた高橋の顔を思い出しながら、後藤は愉快でたまらなかった。
遺物保管所にいた二年間に襲撃された回数は十や二十ではきかないが、
高橋ほどの相手は一度もいなかった。
持っている力を駆使して戦う。そのことが後藤には楽しくてしかたない。
特に相手が高橋のように強ければ、その喜びは増す。
後藤は自分の緩んだ頬に気がつき、両手で頬を叩いた。
いまは、その喜びに溺れてはならない。
自らに課した縛めを解くのは、まだ先だ。
さっきまでとは種類の違う明るい笑みを浮かべて、後藤は歩き出した。
- 188 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/05/02(火) 12:53
- 後藤が扉を開けて部屋に入ると、久住と話していた新垣が振り返る。
「愛ちゃんと会いませんでした?」
「なんかジュース買いに行くって言ってたよ」
返事をしながら、後藤は部屋を見渡す。
床の上で死んだように寝ている田中の頬を、
つまらなそうな顔でつついている亀井に目を止めた。
「亀ちゃ〜ん、ちょっと!」
「は〜い!」
後藤は元気に返事をして寄ってきた亀井の耳元に顔を寄せる。
くすぐったそうに聞いていた亀井は、突然はっとした表情で後藤の顔を見つめた。
「ごっちんはどうする?」
「なにが?」
かけられた声に、亀井と2人揃って振り返った。
立ち上がった中澤が、上着を手に顔を向けている。
「紺野とうちは道重連れて帰るけど、ごっちんも来るか?」
視線をベッドに向けると、紺野が辻に手伝ってもらいながら道重を背負っていた。
看病のために辻もついていくようだった。
考えるように首を傾けた後藤は肘を引っ張られて、視線を横に向ける。
肘を掴んだ亀井が、上目遣いで見上げていた。
亀井の顔を見ながらニンマリと笑うと、後藤は亀井と腕を組んで中澤に顔を向ける。
「後藤はもう少しここにいるよ」
「そっか、じゃあまた後でな……紺野、行くで!」
中澤は、道重を背負った紺野に声をかけて歩き出した。
- 189 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/05/02(火) 12:53
- ――――
エレベータを降り、無人のロビーを抜けた。
ホテルの外は小雨が降っていたが、高橋はかまわずに歩き出す。
雨の振る深夜のホテル街に、人気はなかった。
適当に歩いていた高橋は自販機の明かりを見つけると、小さな路地へと入っていく。
路地の中は薄暗く、雨どいに集まった雨水が
近くの排水溝に流れる音が耳ざわりだった。
高橋は自販機の前でポケットを探り、小銭を取り出すと投入口に入れる。
眩しく光る商品の列を、ぼんやりとした表情で眺めた。
脳裏に映るのは、斬撃をかわした後藤の姿。
後藤が使ったのは“無刀取り”と呼ばれる技だった。
別に珍しい技ではない。
もちろん秘伝と言われる技だがさまざまな流派に存在し、
高橋の学んだ剣術の中にも組み込まれている。
高橋も体得しようと鍛錬をしてこともあったが、すぐに問題に気がついた。
太刀筋の完全な見切りと、それを裏付ける完璧な身体操法。
そしてなによりも必要だったのは、速さだった。
型を憶えても相手に倍する速度がなければ、実際には使えない。
高橋が理想と考える動きができたとしても、
剣術をかじった程度の相手に通用するかどうか。
問題が単純なだけに、超えるのは不可能だと悟るのも早かった。
高橋がただの見せ技と見限ったその技を、後藤は使って見せた。
そしてその動きは、高橋が思い描いてきた理想を遥かに超えて
疾く的確で、鮮やかだった。
- 190 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/05/02(火) 12:55
- 僅かに強くなった雨が頬を叩き、我に返った高橋はボタンを押す。
落ちてきた缶を取り出そうとしゃがんだところで再び動きを止め、
高橋は唇を噛んだ。
途中で戦いを止めた、後藤の態度。
殺意を持って相対したことが分かっていながら見逃したのは、
命を奪うにも値しないということか。
しゃがみこみ、地面を見つめていた高橋の瞳から、ふいに涙がこぼれる。
誰よりも強いなどと、思い上がっていたわけではない。
ただ強くなりたいと想い、一心に打ち込んできただけだ。
自己研鑽によって裏打ちされた矜持を打ち砕かれるなら、それでも満足しただろう。
だが訪れた突然の敗北はあまりにも、呆気なさすぎた。
高橋は崩れるように雨に濡れた地面に膝をつき、目の前の自販機に額を押し付けた。
身体の奥底からこみ上げてくる慟哭に戸惑いながら、瞳を閉じる。
悔しいのか、哀しいのか、そんなことはまるで分からない。
高橋は突き上げてくる感情に声を殺して、泣いた。
- 191 名前:Waltz For Debby 投稿日:2006/05/02(火) 12:56
- ――――
- 192 名前:カシリ 投稿日:2006/05/02(火) 12:57
- 以上で第七話終了です。
- 193 名前:カシリ 投稿日:2006/05/02(火) 12:57
- >>176 名無飼育さん 様
感想を頂けるだけでありがたいです。
ありがとうございます。
>>177 愛毒者 様
ありがとうございます。
ということで、高橋の刀は普通の物でした。
>>178 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
とりあえずこれを終わらせてからだと思いますが、よろしくです。
- 194 名前:愛毒者 投稿日:2006/05/07(日) 21:26
- 更新お疲れ様です!
なるほど〜。愛ちゃんの信念に唸るばかりです。
それでもあの切れ味か、愛ちゃんがスゴ過ぎです。w
それにしても今回のは短いながらもゾクゾクする様なシーンでした。
そして、愛ちゃんにとってはちょっとツライ現実。
でも、この経験を糧にもっと強くなれると信じています!
次回、第8話も楽しみに待っています。
- 195 名前:さみ 投稿日:2006/05/08(月) 01:32
- 更新乙です。
戦闘描写が最高、テンションうぇうぇでした。
次回楽しみにしてます。
- 196 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 00:36
- ガキさん慰めたげてっ!! ・゚・(ノД`)・゚・
- 197 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:12
- ――――
階段に向かって走る飯田の背中を見ながら、ふらついた田中は壁に手をついた。
突然の状況の変化に頭はともかく、身体がついていかない。
酔いの回った頭で二度とアルコールは口にしないと誓いながら
なんとかついて行こうと歩き出した田中は、腕を引っ張られて足を止めた。
「田中ちゃんはこっち」
耳元でささやかれた声に振り返ると、後藤が腕を取っている。
後藤は飯田の降りていった階段とは反対の方向に、田中を連れて歩き出した。
「ちょっと待って下さいよ。どういうことですか?」
「大丈夫。絵里たちがいなくなっても関係ないからっ!」
いつのまにか後ろに回っていた亀井が、両手で背中を押しながら答える。
「だって松浦さんの事は?」
「圭織もいるし、大丈夫だよ」
腕を引っ張りながら振り返った後藤の口元に、微笑みがかすめた。
- 198 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:12
-
第8話
One O'Clock Jump
- 199 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:13
- ――――
誰も見ていない大型テレビから流れてくる音声を聞きながら、
藤本は欠伸を噛み殺した。
人数が減ったソファーに寝そべりながら、ヌルくなったビールの缶に口をつける。
日付は変わり、約束の時間まであと数時間。
後藤が持ってきた日本酒も空になり、
大きな部屋のなかにはだらけた雰囲気が漂いはじめていた。
「……朝は日が昇る前から起こされて練習に付き合わされるし、
三度の食事は作らされるし、人の話は聞かないし、ひどくないですか?」
小さな声で同意を求めた久住が目の前に座っている新垣に向かって言いながら、
チラッと横に視線を向けた。
視線の先にいる高橋は少し離れたところに座って、目を閉じている。
中澤達が帰ってからしばらくして戻ってきた高橋は、
そこに座ったまま、何かを考えているように黙っていた。
高橋の背中を確認して、久住が再び新垣に向き直る。
「う〜ん……確かに人の話は聞かないけど、なんか理由があったんだよ。
それにほら、料理とかうまくなりそうじゃん?」
いい人すぎる新垣の返答に、久住が不満げに口を尖らせた。
- 200 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:13
- 藤本は苦笑しながら視線を移すと、
向かいのソファーでうつ伏せに転がっている物体に声をかけた。
「眠いんなら帰れば?」
「……めんどくさい」
顔を上げずに答えた飯田は、もぞもぞと動いて横を向いた。
「……それに飲酒運転はいけないんだよ」
付け加えた飯田の言葉を聞いて、
再び缶に口をつけた藤本の胸にふと嫌な予感がよぎる。
「まさかとは思うけど、どうやってここまで来たの?」
「なにって、車だよ? ここの駐車場に停めてあるけど」
めんどくさそうに答えた飯田の言葉に、
藤本は持っていた缶を放り投げてソファーから立ち上がった。
「ガキさん! 周りを探れ!」
久住と話している新垣に言いながら、真剣な表情になった藤本は窓に近寄る。
- 201 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:13
- 垂れ下がっているブラインドに指で隙間を作り、外を窺った。
降り続く雨が透明な膜を幾重にも重ねたように、
目の前のガラスを伝い落ちている。
人影のない通りにはゴチャゴチャとしたネオンが折り重なるように輝き、
静かに雨が降っていた。
藤本は舌打ちをすると、窓から離れる。
普段から人通りが少ないとはいえ、誰も歩いていないのは不自然だ。
「なに、どうしたの?」
「囮にされたんだよっ!」
藤本は驚いたように聞いてきた飯田を睨んでから、
部屋の隅に置いてあった紙袋を手にして隣室にいる松浦を呼びに行く。
HPの人間が使用している車両には、
位置情報を発信する装置が備え付けられていた。
専用の衛星でその信号を受け取り、
世界のどこにいても各車の位置が正確に把握できる。
ランダムに発生する“通路”に効率よく対応するためのものだったが、
別の使い方もある。
「亜弥ちゃん、行くよっ!」
「……はいっ!?」
藤本は扉を開けるなり、照明の点いていない部屋の中に声をかける。
ベッドの上で跳ね起きた松浦は、驚いたような顔を向けた。
- 202 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:14
- ――――
『目標がこちらに気が付きました。全員下に向かっています』
「正面と裏口の仲間に連絡。1階まで下りたらまた知らせて」
『了解』
向かいのビルに配置した監視班からの報告を受けた吉澤は、
マイクに向かって答えた。
辻の薬で清水の能力から抜けたようだが、松浦がいることは確認できている。
飯田の車も動いていないし、ビルから出たのは中澤達4人だけ。
中に残っているのは松浦を含めて9人。
連絡を入れた後藤がうまく動いてくれれば、さらに人数が減るはずだ。
「用意はいい?」
横を向いて言った吉澤の言葉に、嗣永は目の前のモニタを見ながら無言で頷いた。
- 203 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:14
- 嗣永はキーボードを操作して正面のモニタに周辺の地図を出しつつ、
仲間へとメールを送り始める。
動作のすばやさが頭の回転の良さを表していた。
『目標が1階に到着。ロビーのなかで様子を窺っています』
「出てきたら包囲して。抵抗するようなら多少荒っぽくやってもかまわない」
マイクに向かって指示を出して、再び嗣永の横顔に視線を向ける。
眺めている嗣永の横顔にありありと浮ぶ不機嫌な表情とそっけない態度から、
協力させられていることに納得していないのは分かる。
だが、裏切ることはありえない。
大切な仲間の命がかかっている状況を理解し、
一時の感情に流されずにどうすればいいのか選択できるはず。
だからこそ、嗣永を選んだ。
「それじゃあ状況開始といきますか」
ホテル前の道路を映した映像を見ながら、吉澤は頭の後ろで腕を組んだ。
- 204 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:14
- ――――
1階に下りた飯田はロビーに出る前に足を止め、後ろを振り返る。
人数が足りないことに気がつき、周囲を見渡した。
「田中と亀井は?」
「後藤さんもいませんよ!」
「ガキさん」
周りを見渡しながら言った久住の声を聞きながら、新垣に視線を向ける。
飯田の視線に、慌てて新垣が能力で辺りを探る。
新垣は眉を寄せて、壁の方へ視線を向けた。
「3人共裏口から出て行ったみたいです。もうこのホテルの外に出てます」
「……逃げたな」
確かに後藤はここにいるのがバレるとまずい。
どうせ許可など取っていなかったのだろうと思いながら、
飯田がロビーの中を窺っていると後ろから肩を叩かれた。
振り返ると藤本がにこやかに笑いながら、腰に手を当てている。
「……分かってるよ」
顔は笑っていたが、飯田に向ける視線が違う。
非難に満ちた藤本の視線に、飯田は溜め息を吐くと一気にロビーに飛び出した。
- 205 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:15
- ホテルの玄関を出たところで、飯田は足を止めた。
通りを塞ぐように、10人以上の人間が集まっている。
足を止めた飯田たちを見て、取り囲んでいる男達が包囲を狭めた。
飯田は前に出て、視線を走らせる。
ホテルの入り口を囲んでいるスーツ姿の男達に、
見慣れたHPの戦闘服が混じっていた。
「先に行け!」
飯田は背後の藤本に叫んで、人垣の中に飛び込む。
反撃の間もなく一瞬で2人の人間を倒した飯田に、近くにいた男達が距離を取った。
崩れた人垣の間を藤本達が通り抜けるのを待って、
追おうとする男達の前に立ちはだかる。
「あんた達も仕事だろうから文句はいわないけど……運がなかったね」
正面から襲いかかってきた男の警棒をかわして、足を払う。
路上に倒れた男の脇腹を爪先で蹴りつつ、
上体を逸らせて右から放たれた炎をかわした。
能力を使ってきた男に向かって転がっている警棒を蹴ると、
命中するのと待たずに背を向けて走り出す。
慌てて下がろうとした別の男が間合いに入る直前、
視界の隅に入った物を見て飯田は横に跳んだ。
その直後、乾いた音と共に離れたところにある自販機のガラスが割れた。
舌打ちしつつ飯田は銃を構えた男に向かう。
- 206 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:15
- 一瞬で近づくと、充分に手加減したローキックを放つ。
軽く当たった飯田の蹴りで膝元をすくわれた男の身体が、宙に浮いた。
地面に叩きつけられ男の手から離れた銃をすばやく取り上げる。
銃を持ってしゃがんだまま、背後から振り下ろされた警棒を受け止めた。
弾倉を抜きつつ警棒を持った手を引いて背後の男の身体を背負うと、
立ち上がりながら投げた。
目の前で倒れている男の上に投げ落として、顎の先端を掠めるように蹴リ上げる。
気を失った男達から視線を上げて、飯田は周りを囲んでいる男達を見まわした、
圧倒されたように動かない男達を見ながら、
持っている銃をスライドさせて薬室に残っている弾を排出する。
「こんなとこで銃なんか使うなっての」
そう言いながら、右手に持った銃を背後に投げる。
投げ捨てた銃は大きな弧を描いて、路地裏のゴミ箱へと吸い込まれた。
- 207 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:16
- ――――
「……やっぱり相手になんないか」
吉澤は目の前のモニタを見ながら感心したようにつぶやいた。
街中に設置されている監視カメラの映像は鮮明とはいえないが、
囲んでいる男達を倒すのに、飯田がそれほどの時間を必要としていないのは分かる。
『二手に分かれたけど、どうする?』
スピーカから聞こえてきた熊井の声と共に、モニタの画面が切り替わる。
ホテルの前から遠ざかっていた5人が、3人と2人に別れて通りを曲がっていた。
「松浦さんはどっちに行った?」
『わからない。どっちにもそれっぽいのはいるけど』
変装して惑わせるつもりなのか、
分かれたそれぞれに同じようなコートを着て帽子を目深に被った人物がいる。
離れたところから映している監視カメラの映像では、
どちらが本物か判断は難しかった。
「藤本さんは?」
『2人の方。早くしないと逃げられるよ』
焦ったような熊井の声に、嗣永は画面を睨む。
少しの逡巡のあと、指示を出した。
「千奈美は全員を能力でロック、茉麻と梨沙子の3人で一緒に飯田さんを監視して。
友里奈と佐紀は藤本さんを追って、雅は3人の方に。
藤本さんの方が確認できるまで雅には手を出さないように伝えて」
『了解っ!』
普通に考えれば藤本が松浦を連れている可能性が高い。
自分が嗣永の立場でも同じ指示をするだろうと考えながら、
吉澤は正面の画面に視線を向けた。
- 208 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:16
- 画面にはすでに包囲している人間の大半を倒した飯田の姿が、映し出されている。
少し考えるように目を細めると、吉澤は目の前にあるマイクのスイッチを入れた。
「飯田さんがその場を離れたら監視班は仲間を回収して。撤収する」
マイクに向かってそう言うと、返事も待たずに吉澤はスイッチを切る。
単体で飯田を止められるのは手持ちの駒のなかで矢口ぐらいだったが、
勝手に動いた上に夏焼にやられて戦線を離脱していた。
数で当たるのにしても飯田の足止めと藤本の追跡を同時に行なうには、
人数が足りない。
「まだ松浦さんは捕まえてませんよ?」
「後はあんた達次第だよ」
不思議そうに問い掛けた嗣永にそう言って、立ち上がった。
「それに遊びは終り。私は他にやることがある」
吉澤は首を回してから、嗣永に視線を向ける。
モニタの明かりを受けて微笑む吉澤を見て、嗣永の顔に緊張が走った。
「そういうことだから、頑張って」
そういい残して背を向けると、吉澤は出口に向かう。
硬い表情で吉澤の背中を見つめていた嗣永は、
唇を強く噛むとコンソールに向き直った。
「あとで連絡するから、そのときはよろしくね」
嗣永の背中に一瞬だけ視線を向けてからそう付け加えて、吉澤は部屋を後にした。
- 209 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:16
- ――――
道端に座り込んだスーツ姿の会社員。
くすくす笑いながら、おしゃべりに夢中になっている女性の一団。
通りがかった女性すべてに声をかけている若い男。
いったいこれだけの人間がなにを求めて
この路上に溢れ出してきているのかしらないが、逃げている状況ではありがたい。
新宿区役所の裏を通り、車の列と人々の雑踏に溢れた表通りへと抜ける。
藤本は人々の間を縫うように、走っていた。
点滅している横断歩道を渡り、目指している入り口へと急ぐ。
「ちょっとまって下さいよ!」
「もう少しだから急げっ!」
UFOキャッチャーの並んでいるゲーセンに飛び込み、別の入り口から抜ける。
細い路地に出た藤本は足を止めて左右を見回した。
歩いている人の数が多い方に向かって、再び走り出す。
藤本は追跡を振り切るためにわざと人ごみに入り、デタラメに逃げていた。
追ってくる気配は感じられないが、相手は能力者。
慎重になりすぎということはない。
しばらく走り回った藤本が地下へと下りる階段を降りようとしたときに、
それは起こった。
藤本の全身に鳥肌が立つ。
なにが聞こえたのでも、触れたのでもない。
それでも確かにすぐそばから、凝視しているような視線を感じた。
「どうしたんですか?」
「……なんでもない」
感じた視線は一瞬で消えて、相手を探す暇もなかった。
何らかの能力による追跡を振り切るのは困難だ。
どれだけの戦力になるのか考えながら藤本は引いている手を強く握り、
階段を駆け下りた。
- 210 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:18
- 靖国通りの下にある地下駐車場の中は、上の混雑からは考えられない静かさだった。
それでも廃墟とは違い、人の気配が濃厚に漂っている。
車路の真ん中を歩く藤本の前方、かなり離れたところに4人の若者が歩いていた。
お互いの肩をぶつけ合って歩きながら上げている笑い声が、
静かな駐車場に響いている。
藤本は4人の背中から視線を外して、両側に視線を走らせた。
長い通路の両側に並ぶ駐車スペースは、ほとんど埋まっている。
笑い声を上げて歩いていた4人の若者が左に曲がって姿を消すと、
藤本の視界の中から人影が消えた。
振り返った藤本が後方を確認するが、人影はない。
忠実な犬のように主人の帰りを待つ車の中にも、人の気配は感じられなかった。
安心して向き直った藤本は、その場に棒立ちになりかかる。
ほんの一瞬前までは誰もいなかったはずの前方に、人影が現れていた。
「……下がってろ」
藤本はつないでいた手を離し、僅かに前に出る。
視線の先にいたのは、小柄な少女だった。
長袖のTシャツと、軍服に似たパンツに太いベルトを巻いている。
車路の中央に立っている小柄な少女は微笑みを浮かべて、藤本達を見ていた。
「悪いけど急いでるんだ。何の用?」
さっき感じた視線も目の前の少女のものか。
そう考えながら返答を返さない少女に一歩近づいた次の瞬間、
藤本はこの場にいるのが3人だけではないことに気が付いた。
いや、気づかされた。
突然後ろに現れた気配と共に上がった悲鳴に藤本が振り返ったときには、
背後から現れた別の少女の払った手が帽子を跳ね飛ばしていた。
同じような服装の少女は、帽子を跳ね飛ばした相手の顔を確認すると、
それ以上手は出さずに後ろに下がって距離を取る。
「久住小春か……」
地面に落ちた帽子を慌てて被り直している久住を見ながら、つぶやいた。
- 211 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:18
- 前後を挟まれた藤本は、どうしていいのかわからずに
立ち尽くしている久住の横に移動する。
熊井友里奈と、清水佐紀。
松浦を捕らえるために動いているHPの、能力者。
紺野の集めた資料の中にあった顔だった。
障害物の多い駐車場のなかとはいえ、待ち伏せには充分に警戒していた。
仮に死角になる柱の影や車の中から出てきたとしても
その動きを察知できたはずだったが、どこに隠れていたのか見当もつかない。
陽動のつもりで久住を連れて逃げるつもりが、
こうもあっさりバレるとは思わなかった。
「こっちじゃなかったんだ。友里奈、戻ろ」
清水の言葉に熊井が無言で頷く。
藤本の存在などなかったかのように、清水は無造作に背を向けた。
「……待て」
低く抑えた声に、清水が振り返る。
藤本は凶暴な光を帯びた目で、清水を射抜くように睨んだ。
「亜弥ちゃんにの所には、行かせない」
凄絶な迫力を帯びた藤本の声に、おもわず2人がたじろいだ。
- 212 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:19
- 逃げるだけならまだしも、能力者2人を相手に戦う方法など思いつかない。
しかも久住という荷物までついていては、逃げることも難しい。
威勢のいいことを言ってしまったが、藤本に考えがあったわけではなかった。
足を止めた2人を交互に睨み、藤本は息を吐く。
とりあえず精神的に有利に立っている間に、先制する。
滑るように動き出した藤本は、走りながら腕時計からワイヤーを伸ばす。
向かってきた藤本を見て、清水が慌てて後ろに下がった。
清水を選んだのは、その表情を見たからだ。
足をもつれさせて尻餅をついた清水が、怯えたような表情を向ける。
迫ってくる獣にせめてもの抵抗をするように、清水の右腕が上がった。
その姿を見て、なにかが藤本の琴線に触れる。
これまでも生死を分けてきたその感覚に従い、藤本は飛び退いた。
間一髪で清水の伸ばした右腕から広がった見えない何かが、
鼻先を掠めたような感覚。
藤本は久住の横に立ち、伸ばしたワイヤーを仕舞った。
「藤本さんは能力がないはずですよね。分かるんですか?」
何事も無かったように立ち上がった清水は、
服についた汚れを気にするように手で払った。
藤本はさっきまでとは一転して余裕の表情を見せる清水を睨む。
誘われたのは、藤本の方だった。
- 213 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:19
- 清水を睨みながら再び伸ばしたワイヤーを鞭のように振い、背後に飛ばした。
その場にいる4人の位置関係と共に、並んでいる蛍光灯の位置は確認してある。
藤本の飛ばしたワイヤーの先端が熊井の頭上にある蛍光灯を叩いた。
小さな破裂音と共に蛍光灯の破片が四散し、熊井が小さく悲鳴を上げて頭を覆う。
その隙に藤本は熊井へと走り出した。
戻したワイヤーで輪を作り、熊井の身体に通すと両腕ごと胸の高さで締め上げる。
(捕らえたっ!)
そう思った瞬間、ワイヤーを握る藤本の手に異様な感覚が伝わってきた。
糸で粘土を切るように、柔らかい物を通り抜ける感触。
次の瞬間ワイヤーから伝わっていた感触が消えた。
ワイヤーから抜けた熊井が藤本の横に立ち、その構えた右腕が霞む。
藤本は顎に向けて放たれた掌底を辛うじてかわし、転がって元の位置まで下がった。
久住と背中合わせになって、藤本は正面に立つ熊井に視線を向ける。
身体にかけた輪は切れてはいない。
なにかの能力で抜けたのだろうが、藤本の目には捕らえることができなかった。
清水と同じ、目には見えない能力。
能力を持たない藤本には、やっかいな相手だ。
「小春っ! 見てないであんたもなんかやれ!」
「え〜!」
「なんか能力持ってんだろ!」
「しょうがないなぁ……どうなっても知りませんからねっ!」
投げやりな調子で言うと、背中から久住の身体が離れた。
- 214 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:19
- 迫ってきた熊井を見て腕を上げた藤本の背中で、雷鳴のような音が鳴り響く。
振り返った藤本が見たものは、
両手を握って目を細めた久住の眼前の中空に現れた輝く光球だった。
急激に大きくなっていく球の表面に青白いスパークが走った。
久住の身体ほどに成長した巨大な球から放たれる電撃に空気が破壊され、
周囲に音と光を撒き散らす。
狭い通路を眩く染めた雷球に、熊井が慌てたように後ろに下がる。
振り返った藤本は笑みを浮かべながら、柱の影に隠れようとする熊井を指差した。
「やっちまえっ!」
その声に応じるように巨大な雷球から放電された光の帯が、狭い通路に放たれる。
放たれた電撃が藤本の真上にある照明器具に当たり、
蛍光灯が派手な音を立てて爆ぜた。
「バカっ! どこ狙ってんだっ!」
藤本は叫びながら降り注ぐ細かい破片に頭を庇う。
足元に落ちた雷撃に慌てて足を上げながら後ろを向いたが、
雷球の近くに久住の姿はなかった。
主を失った雷球から無数の紫電が光り輝く鞭のように、周囲に無差別に放たれる。
「コントロールが苦手なんですよっ!」
聞こえてきた久住の大声に藤本は顔を向けた。
近くの柱の影から顔を出していた久住は、すぐに顔を引っ込める。
「だったら早く消せっ!」
「だからコントロールできないんですよっ!」
凄まじい電光に、視界が白と黒のモノクロ世界に変わる。
気がつけば熊井と清水も姿を消して、通路に立っているのは藤本だけになっていた。
藤本も慌てて柱の影に隠れようと走り出す。
「危な……っ! ぎゃあっ!」
背中に直撃した電撃に悲鳴を上げて、藤本はその場にうつ伏せに倒れる。
藤本が痺れて動かない身体でなんとか顔を上げると薄れていく視界の中で、
苦笑いを浮かべた久住が頭を掻いていた。
- 215 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:20
- ――――
- 216 名前:One O'Clock Jump 投稿日:2006/05/11(木) 20:20
- 以上で第8話終了です。
- 217 名前:カシリ 投稿日:2006/05/11(木) 20:21
- >>194 愛毒者 様
ありがとうございます。
高橋も充分強いのですが、今回は相手が強すぎました。
>>194 さみ 様
ありがとうございます。
これからしばらく戦闘が続く予定です。
>>196 名無飼育さん 様
慰めシーンはないですが、予定では高橋の方が絡みます。
- 218 名前:愛毒者 投稿日:2006/05/15(月) 21:59
- 更新お疲れ様です!今回は更新がいつもより早かったんですごい嬉しいです♪
最後の最後で思わず噴き出してしまいましたがw
今回はまた戦闘シーンの連続で引き込まれてしまいました。
中でもミキティの勘というか第六感的なものは能力者のソレに
勝るとも劣らないですよね。瞬発的に感じてとれるのも凄いし、
これはもはや立派な”能力”だといえるんじゃないでしょうか。
ところで、毎回タイトルにはジャズの曲目が引用されていますが
何かしらの意図があるんでしょうか?
もし差し支えなければ教えて頂きたいです。
それでは次回、第9話も楽しみに待っています!
- 219 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/20(土) 21:21
- 小春はすごいんだかすごくないんだか…。w
もう一方が気になりますね。続き楽しみに待ってます。
- 220 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:21
- ――――
目を開いても、見えるものはない。
意識が戻った藤本は起き上がろうとして
両腕の後ろ手に縛られていることに気が付いた。
身体の自由を奪われて真っ暗な中に横たえられているいま状況について、
考えてみる。
「……藤本さん、起きたんですか?」
聞こえてきた不安げな声に身体を捻って顔を向けたが、
塗り込められたような闇の中では何も見えなかった。
代わりに、僅かに動く気配が伝わってくる。
「早く何とかして下さいよっ! 逃げないとやばいですよ!」
こうなる原因を作った久住の切羽詰った声を聞いて、背中の痛みが甦ってきた。
なにか言ってる久住の言葉を無視して背中に回った腕を動かそうとしたが、
手首を縛られていて動かない。
藤本は指先を動かしてみたが、指の感覚が鈍くなっている。
強く縛られているため、簡単には抜けそうにはなかった。
縛られたときに意識があればやりようもあったが、
意識のない状態で縛られてはどうしようもない。
「藤本さん聞いてるんですかっ!」
「黙ってろ、いま忙しい」
冷たく言って、藤本は聴覚に意識を集中する。
それほど離れていないところで3人分の話し声、かなり離れたところに1人の足音。
それらとは別に藤本の能力で捉えることのできる限界ギリギリのところに、
何人かいる。
もう一度拘束を解こうとして腕を動かした直後、
藤本は全身で床を伝わる激しい振動を捉えた。
- 221 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:21
-
第9話
bewitched
- 222 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:22
- ――――
車用のスロープを下って、地下二階の駐車場へと降りる。
細長い駐車場の両側には隙間無く、車が停まっていた。
並んだ車から視線を前方に向けると、歩いている車路の奥に人が集まっている。
自然に早足になった飯田は、人垣の周囲が薄暗くなっているのに気がついた。
近づいてみると、駐車場の一区画の蛍光灯が割れている。
代わりに置いてある照明器具の周りには、
警備員らしき男が数人で集まって何か話していた。
飯田は広範囲に散った蛍光灯の破片を踏みながら野次馬をかき分けて前にでると、
ほうきを使って割れたガラスを集めている清掃員に近づく。
その足元には、焼けたような跡がついていた。
「どうしたんですか?」
「……蛍光灯が割られたんだと」
中腰でほうきを動かしていた中年の男が、手を止めて立ち上がる。
飯田を見てそう言うと、腰を叩きながら首を回した。
「いたずらかねえ」
呆れたように溜め息を吐いて、再び床に散らばったガラスを集め始めた。
- 223 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:22
- 飯田は再び仕事を始めた清掃員から離れて、集まっていた人の間を抜ける。
逃げた藤本になにかあったと考えて、よさそうだった。
そう簡単に捕まるとは思えないが、
紺野に聞いた少女達が予想以上にやるということか。
目を細めた飯田は壊れている照明器具から、
ところどころに付いている床の焼け跡に視線を向けた。
操元と呼ばれる能力のなかで、
焼け跡を作るような力を持っているのは“火”か“雷”。
照明器具が割れていた範囲と地面に付いた焼け跡を考えれば“雷”。
そこまで考えて相手の能力を推測を止め、飯田は視線を上げた。
とりあえず藤本を探すか、それとも新垣に合流するか決めなければいけない。
周囲を見渡していると、離れたところにある扉が目に入った。
ざわついている群集から離れ、僅かに開いた扉をそっと押した。
扉の奥には上にある地下街へとつながる階段があるが、
営業時間を過ぎているため今の時間では閉じているはずだ。
ゆっくりと隙間を広げた扉の前で、飯田は左右をすばやく見渡す。
誰も見ていないのを確認してから、中へと滑り込んだ。
- 224 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:23
- 細い階段を上がった先に現れた扉を開け、中に入る。
背後で扉が閉まると、そこは動く物のない停止した静寂が支配していた。
両側に視線を向けると真っ直ぐに伸びる通路に設置されている誘導灯だけが、
点々と緑の光を落としている。
昼間の間は華やかに飾り立てられていた店舗も、シャッターを閉めている。
営業時間の過ぎた地下街の嘘のような静けさと暗闇のなかを、
飯田は足音を立てずに、歩き始めた。
頭上で繰り広げられているはずの歌舞伎町の喧騒もコンクリートの天井に遮られ、
飯田のいる地下街までは届かない。
両側に並んでいる店舗の閉じたシャッターを見ながらしばらく歩くと、
行き止まりで飯田は立ち止まった。
“干”型になった通路の交差する細長い広場だった。
物音一つしない広場を一通り見渡してから、
並行して伸びる手前の通路を左に曲がり、西武新宿駅の方向に足を向ける。
- 225 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:23
- 並行する通路をつなぐ次の広場に入ったところで、飯田は再び足を止めた。
左側にある公衆トイレに一瞬視線を向けてから、反対側へと身体を向ける。
奥にある地上への階段の手前、誘導灯の明かりも届いていないその場所に、
闇よりもさらに濃い小さな人型の影が、あった。
「他の仲間は? 一緒じゃないの?」
飯田の言葉に返答することもなく、
人影はそこにあるのが当然であるように風景の一部になって、佇んでいる。
声を掛けながらゆっくりと近づいた飯田の背後に突然、気配が現れた。
前方に跳んだ飯田の背後の空間で、鋭い音を立てた物が通り抜ける。
飯田は、そのまま1回転して広場の中央に立った。
「不意打ちにしては、わかりやすいね」
軽い口調で言いながら、後ろから襲ってきた人物に視線を向ける。
長い黒髪に幼さを残した顔立ち。
後ろに現れた少女はいつでも飛びかかれるように、油断なく構えていた。
「潜んで居たのを知っていたんですか?」
そう言いながら階段の前の影が音も無く、薄い明かりの下に出てきた。
飯田は襲ってきた少女よりも小柄な少女に顔を向けて、微笑む。
「こういう静かな場所はね、空気の乱れを感じやすいんだよ」
「そうですか。まぁこの程度で倒せるとは思っていませんでしたけど、ね」
そう言って、少女が目を細めた。
「それじゃあ正攻法といきましょうか……友里奈」
少女の声に反応して、背後にいた気配が動く。
- 226 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:23
- 持っている能力は分からないが、紺野が持っていた資料で2人の名前は知っていた。
飯田は背後をとるように移動する熊井を視界の隅に捉えながら、
清水の動きにも注意を向ける。
2人の少女の能力が分からない以上、飯田から動くのは得策ではない。
ゆっくりと位置を変えて2人が視界に入るように移動しながら、
五感を駆使して仕掛けてくるタイミングを計る。
不意に、視界の隅で気配が動いた。
なんの小細工もなく突っ込んできた熊井が、
身体を向けた飯田を間合いに入れると右手を水平に振る。
飯田は身を沈めてかわし、下から顎に向けて右の掌を打ち上げた。
熊井は左手で攻撃を逸らしながら手首を掴むと、
飯田の右腕を脇に挟んで身体を回した。
腕を掴んでいる力は、考えていた以上に強い。
飯田は自分から身を寄せて伸びきる前に肘を曲げると、
左手で熊井のベルトに指をかけて引き寄せ、投げ捨てる。
清水の立っている横の壁に向かって投げられた熊井は
空中で鮮やかに回転すると、壁面に両足を着いた。
衝撃を殺して態勢を立て直すと、静かに足から着地する。
- 227 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:24
- 再び距離の離れた熊井の鋭い視線を受け止めながら、飯田は左に僅かに移動する。
飯田は掴まれた力と身のこなしから、熊井の能力を増幅と判断した。
仮に清水の能力が増幅だとしたら、熊井と同時に攻撃してくるはず。
それがなく、しかも前線に出てきているということは、
清水の能力は田中と同じ操元。上で焼け跡と残したのも清水か。
連携して攻撃をするつもりなら清水の姿が見えない今の位置関係は、
飯田にとって不利になる。
2人の姿が飯田の視界に入る直前に、熊井が背後の清水を隠すように移動した。
「藤本さんは、囮だったんですよね?」
熊井が前に一歩でながら、問い掛ける。
慎重に距離を詰めてくる熊井を見ながら、飯田は唇を舐めた。
「何の話をしてるのかな?」
「藤本さんは一緒に逃げていた子と、そこのトイレの中にいます」
熊井の言った通り、藤本と一緒に逃げていたのは久住だ。
本物の松浦は、新垣達と一緒にいるはずだった。
「……結構苦労したんだけどなぁ」
新垣に用意させた服と帽子、それに身長を合わせるためにブーツまで探させた。
すぐにばれてしまったが、それでも足止め程度にはなった。
飯田の浮かべた笑顔に、熊井の表情が鋭くなる。
「すぐに見つけて見せます」
そう言って、熊井が再び距離を縮めてきた。
こんどは慎重に近づいてくる熊井を見ながら、飯田も僅かに前にでる。
- 228 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:24
- 距離を詰めた熊井が小さなモーションから鋭い左のローキックを放ってきた。
足を上げて受けると、間髪入れずに熊井の右足が飯田の脇腹に向かって上がる。
蹴りを受けるため飯田が左腕を下げたが、
次の瞬間軌道が変わり熊井の蹴りが上段へと変化した。
慌てて頭を沈めてやり過ごした飯田に、
蹴り足に合わせて背を向けた熊井が左の後ろ蹴りを放つ。
飯田は顔面に向かってくる熊井の踵を左掌で受け止めた。
踵を掴んだまま一歩踏み込もうとした飯田の目の前で、
熊井の上体が前に転がるように倒れる。
その場で前宙をした熊井の右の踵が、飯田の顎に向かって跳ね上がった。
意表をついた攻撃だったが、飯田は右手で蹴りを逸らしながら
左に転がって避けた。
立ち上がろうとした飯田に向かって、先に態勢を整えた熊井が迫る。
再び放たれた蹴りを避けつつ、立ち上がって熊井の攻撃を捌いた。
鋭い連蹴りに、攻撃の隙がない。
さまざまな角度から飛んでくる熊井の変幻自在の攻撃を受け流しながら、
飯田は感心していた。
掴まれないことに主眼を置きながら、飯田の攻撃しにくい位置を取ってくる。
- 229 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:24
- 飯田は上段の回し蹴りを捌いて後ろに下がり、少し距離を取った。
すかさず距離を詰めてきた熊井を見ながら、飯田は口元を上げる。
うまく組み立てられた攻撃だったが、経験が足りない。
放たれた右の回し蹴りを左腕で受ける。
一瞬で蹴り足を戻した熊井は、反対の足で飯田の頭部を蹴りにきた。
途中で上段の蹴りが変化して、頭部を守った飯田の右肘の下を通り脇腹を直撃する。
思ったよりも強い衝撃に耐えつつ、熊井の左足を右手で抱え込んだ。
同時に踏み込んだ足を熊井の軸足に乗せて、動きを封じる。
「……っ!」
飯田は焦った表情を見せた熊井に向かって左手を伸ばした。
スピードと変化で相手を惑わせる熊井の打撃は軽い。
多少のダメージを覚悟してそこに意識を集中できれば、
耐えられない攻撃ではなかった。
相手のやり方に付き合う必要はないし、ダメージなしで綺麗に勝つ必要はない。
伸びてくる手から逃れようと熊井は後ろに下がろうとしたが、
踏まれた足がその動きを制限した。
捕まえれば、後ろにいる清水も攻撃を出せない。
あと少しで熊井の喉に触れるというところで、
突然熊井の姿が陽炎のように揺らめいた。
喉を掴んだはずの飯田の伸ばした腕の先が、空を掴む。
同時に抱えていた右腕から、持っていた足の感触が消失した。
踏んでいた足からも逃れた熊井に、飯田は動揺する。
「いただきっ!」
飯田から逃れた熊井が身体をずらすと、
背後に隠れていた清水が伸ばした腕を向けていた。
避ける間もなく向けられた手からなにかが放たれ、飲み込まれる。
その瞬間、飯田の意識が世界から切り離された。
- 230 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:25
- 清水が持っていたのは操元ではなく、精神系の能力。
少ない情報で清水の能力を判断したことを、後悔する暇もなかった。
周囲を包んだ世界と同じように頭の中に白いもやがかかり、思考を集中できない。
薄れていく意識のなかでこのままではまずいと思いつつ、
まるで神経が消失したかのように手足が動かない。
立ち尽くした飯田の目の前で、微笑んでいる清水の足元からなにかが伸びてくる。
飯田はそれを、ぼんやりと目で追った。
見えないはずの透明な触手が、ゆっくりと蛇行しながら近づいてくる。
伸びてくる触手に不快感を感じて視線を上げた飯田は、
目の前の清水に視線を移した。
勝ち誇ったような清水の顔を見て、強烈な衝動が湧き上がる。
諦めかけていた気持ちが、身体の底から鎌首を持ち上げた。
こんな子供にいいようにあしらわれるなんて、冗談じゃない。
飯田は全神経を集中して、唇を噛んだ。
「……おおぉっ!」
動かない右腕を無理やり引き剥がすように、頭上に掲げる。
雄叫びを上げた飯田は足元に這い寄ってきた触手に向けて、拳を叩きつけた。
次の瞬間、2人包んでいた白い世界に亀裂が入った。
卵の殻が割れるのを内側から見ているように無数に入った亀裂から、
一つの小さな欠片が零れ落ちる。
欠片が地面に接すると同時に、飯田を包む白い世界が弾け飛んだ。
- 231 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:25
- ――――
突然動き出した飯田が地面を殴りつけた。
予期しなかった行動に、浮かべた笑顔を引きつらせた清水の動きが止まる。
清水の能力に巻き込まれないために距離を取っていた熊井の視線の先で、
顔を上げた飯田の瞳に光が戻った。
舌打ちしつつ動き出した飯田が、立ち尽くしている清水の腹部に掌底を当てる。
息を吐いて身体を折り曲げた清水が、地面に崩れ落ちた。
「佐紀っ!」
清水の能力が効かなかった。
いままで清水の能力で捉えた相手に、逃げられたことはない。
熊井は目の前で起きた信じられない光景に愕然とした思いを抱きつつ、
気を失った清水に向かって走った。
「茉麻っ!」
熊井は通路に響く大声を出しながら、倒れた清水に走り寄る。
阻止しようと動き始めた飯田から熊井を守るように、突然水の壁が立ち上がった。
現れた水壁に飯田が足を止めた隙に、倒れている清水を抱えて通路へと走る。
その直後背後で鳴った音は水を叩くというよりも、
硬い物同士がぶつかり合う物に聞こえた。
走りながら背後に視線を向けると、右の拳を伸ばした飯田と目が合う。
飯田の周囲で弾けた水壁が飛沫となって散り、僅かな光を受けて煌めいていた。
口の端から血を流して睨んでいる飯田から視線を外すと、
熊井は広場から通路に入る。
後ろも見ずに、闇の中を全力で駆け抜けた。
- 232 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:25
- ――――
突然現れた水の壁を殴り消した飯田の視線の先で、
清水を抱えた熊井が背を向け通路に走りこんでいった。
熊井を追いかけて通路に入った飯田の頭の片隅で、なにかが警告を発する。
真っ直ぐな直線で追いつけないわけがない。
それは向こうも分かっているはずだ。
逃げていく熊井が、走りながら壁際に寄っていく。
遮るものがなくなり、奥へと続く通路が飯田の視界に入る。
その闇の先を見て、飯田は横に跳んだ。
飯田が転がるように壁際に転がった直後、
薄暗い通路の中央を青白く輝く巨大な軌跡が貫いた。
飯田の脇を掠めて闇の空間を裂いた塊が、さっきまでいた広場の天井を撃ち抜く。
床と空気を伝わった衝撃が、顔を伏せた飯田の周りを駆け抜けた。
- 233 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:26
- 舞い上がった粉塵に咳き込みながら顔を上げた飯田が見たものは、
無残に垂れ下がった誘導灯に照らされた広場だった。
天井の一部に大きな穴が開き、周囲には亀裂が放射状に走っている。
壁面にも亀裂が走り、近くにあった店舗のシャッターが内側に変形していた。
飯田は息を吐いて、闇の奥を睨む。
振り返った通路に姿は見えないが、逃げていく足音が遠ざかっていく。
駆け抜けた青い光は付与の能力によって威力を増した銃弾。
真っ直ぐに伸びる通路の奥からの、狙撃だった。
熊井を追って真っ直ぐに走っていた飯田は、絶好の標的になる。
最初からそこで決着をつけることになっていたのだろう。
付与された銃弾は、凄まじい威力だった。
熊井の仲間だとすると年齢もそれぼど離れていないはずだが、
これほどの威力を持たせることができる人間はHPのなかにも何人もいない。
子供に放てるレベルではなかった。
- 234 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:26
- 突然鳴り響いた軋んだ音に、飯田は背後を振り向いた。
天井に開いた穴と周囲の亀裂から、砂がこぼれ落ちている。
開いた穴を中心に、天井の湾曲が大きくなっていた。
藤本達がいることを伝えたのはこのためか。
崩壊が広がっていく広場を見て飯田は追いかけるのを諦め、そして気がついた。
このままでは、藤本達が生き埋めになる。
銃弾はこうなることを予想して、天井を狙っていた。
最初から足止めが目的。
罠に嵌ったことに気がついたがそれでも、藤本達を見捨てることはできない。
飯田は崩落の一歩手前にある広場に向かって、走り出した。
- 235 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:26
- ――――
- 236 名前:bewitched 投稿日:2006/05/21(日) 09:27
- 以上で第9話終了です。
- 237 名前:カシリ 投稿日:2006/05/21(日) 09:27
- >>218 愛毒者 様
ありがとうございます。
タイトルは、歌詞か曲名でそれっぽいのを選んでます。
特別意図はありません。
>>219 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
別動班は次回以降になりました。
- 238 名前:愛毒者 投稿日:2006/05/23(火) 00:45
- 質問に答えて頂いてありがとうございます♪
なるほど、では読み返す時はCD借りて聞き流しながら読むのもいいですね!
今回も激しい戦闘シーンでしたがかおりんはさすがといったところ。
ここまでの能力を引き出してその負荷がかからないのかという面も気になりますが、
別動班のあの人達とのバトルも楽しみにしています!
- 239 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/25(木) 15:05
- 今一番好きな小説です。
続き楽しみにしています。
- 240 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:41
- ――――
ガラスに当たった雨粒が弾け、表面を次々に流れ落ちていく。
その度に後ろに流れていく外灯の明かりがゆらゆらと揺れ、幻のように瞬いていた。
窓側に座っている新垣は、奇妙な緊張感に包まれた車内へと目を向けた。
雨の中を疾走するタクシーの車内には低く唸るエンジン音以外、
何の音も聞こえない。
運転手はもちろん、後部座席に座っている3人も無言のままだった。
反対の窓側に座っている高橋は話し掛けるのを拒絶するかのような厳しい横顔で、
大きな傘と刀の入った布袋を抱えながら目を閉じている。
2人に挟まれるように座っている松浦は視線を前に向けていたが、
ときどき思い出したように腕時計に視線を落としていた。
新宿で捕まえたタクシーに乗ってから1時間以上、都内を走り続けている。
その間、飯田と藤本からは何の連絡もなかった。
- 241 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:42
- 視線を外に向けた新垣は、窓ガラスに映る不安そうな自分の顔を眺めた。
連絡がないのは無事に逃げている証拠だと思うことにして、
確認のために能力を発動する。
他の仲間が追いつくのを待っているのか、背後に張り付いている能力者の反応は
さっき確認したときと同じ、一定の距離を保ったままだった。
永代通りを東に向かって走るタクシーは、門前仲町に入ったところだ。
他に車の走っていない広い道路の両側には、屋根のついたアーケードが続いている。
古くから残っている商店街も深夜となればシャッターを降ろし、
通りを歩いている人も皆無だった。
このまま車に乗っていては、戦力の整った相手に襲われるのも時間の問題だ。
向こうの戦力が整う前に、行動を起こす必要がある。
能力で相手の位置を確認しながらの鬼ごっこなら、自信があった。
「すいません、停めてください」
大きな鳥居を過ぎたところで、新垣は運転手に声を掛けた。
- 242 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:42
-
第10話
I'm Beginning to See Light
- 243 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:42
- 見上げるほど巨大な石の鳥居を抜け、
車を降りた3人は新垣を先頭にして参道を歩いていた。
深夜、それも明方の方が近い時間帯のため、他に人は歩いていない。
誰もいない参道を歩きながら、新垣は能力で周囲を探った。
車を降りたことで、後ろにいた能力者との距離は確実に縮んでいる。
「もうすぐ追いついてくる、急ごう!」
松浦の腕を取って足を速めた新垣はふと、後ろを振り向いた。
大きな傘を差した高橋が背を向けて、立ち止まっている。
「どうしたの?」
「あーしはここに残る」
向き直った高橋は、そう言って松浦に視線を向けた。
無表情な高橋の視線を正面から受けるように、松浦が向き直る。
「もともとあーしには関係ないからの」
「なに言ってるの? ここまできてそんな……」
「かまわないよ。愛ちゃんの言うとおりだし。
ここまで付き合ってくれただけでも感謝してる」
新垣の言葉を遮って、松浦が静かに言った。
「もう少しだし、あとは1人で大丈夫」
松浦はぎこちなく見える笑顔を新垣に向けて、一歩後ろに下がった。
「見つかると面倒なことになるから、2人共ここから離れた方がいいよ」
「松浦さんっ!」
新垣の声を振り切るように、松浦は背を向けると走り出した。
- 244 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:43
- 参道を抜けて本殿の前で曲がった松浦が姿を消すと、新垣は振り返った。
高橋は左にある倉庫のような建物を、珍しそうに見上げている。
松浦に興味をなくしたような高橋の態度を見て、新垣はその横顔を強く睨んだ。
「困ってるんだから助けてあげようとか思わないの?」
「言ったでしょ、関係ないことだよ。
それに、困ってるのはあーしの方やよ」
そう言った高橋が顔を向ける。
高橋の言葉を受けて、新垣は首を横に振った。
自分でも予想外に強く。
「私は、見捨てるなんてできない」
「ガキさんを止めるつもりはないよ」
微かな笑みを浮かべた高橋に何かを言おうとして口を開いたが、
言うべき事を見つけることができなかった。
新垣は目を伏せて背を向けると、降りしきる雨の中を走り出した。
- 245 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:43
- ――――
高橋の態度に苛立ちながら、新垣は能力を使って松浦の後を追った。
神社の横に並んで建っている大きな寺を横切って、裏にある運動場へと抜ける。
ぬかるんでいる地面に足を取られながら走っていた新垣は、それに気が付いた。
松浦の進行方向に、二つの光点。
近くを通っている高速道路の方向に目を向けた新垣は、舌打ちをした。
追跡していた敵の、待ち伏せ。
近くいれば知らせることもできたが、いまさら悔やんでもしかたない。
二つの光点と松浦の距離はまだ離れている。
だが大声を出しても松浦に聞こえるかは微妙な距離、
それに声を出せば新垣の存在も敵にも知らせることになる。
どうすることもできずに走っていた新垣が運動場を抜けたところで、
聞こえてきた微かな銃声と共に松浦の反応が弱まった。
- 246 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:43
- 大きなデパートの裏側にある高速の下で、倒れている松浦を見つけた。
駆け寄ろうとした新垣は、松浦の向こう側にいる2人の少女に気が付く。
熊井友里奈と須藤茉麻。
2人が松浦に近づこうとしているのを見て、
新垣は伸ばしていた警棒をたたむと2人に向かって投げつけた。
須藤を庇うように前に出た熊井が飛んできた警棒を片手で弾き、足を止める。
新垣は顔を向けた熊井と、松浦を挟んで等距離で向かい合う。
「遅かったですね」
うつ伏せに倒れている松浦の周りの地面には、水溜りができていた。
周囲を見渡したが他の部分は上にある高速道路が屋根になり、雨に濡れていない。
「安心してください。殺したわけじゃありません」
熊井の声を聞きながら、新垣は倒れている松浦に視線を落とす。
さっきまではなかった黒革のリストバンドが、松浦の手首に巻かれている。
特殊なリストバンドで障壁を作れなくしてから、水の能力で松浦を捕らえた。
聞こえてきた銃声から、他に仲間がいる可能性もある。
- 247 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:44
- 須藤の姿を隠すように前に出た熊井が、苦笑しながら両手を上げて構えた。
「一応言ってみますけど、邪魔をしないでもらえませんか?」
「松浦さんは渡せない」
即答した新垣に肩をすくめた熊井の後ろで、須藤が右手を頭上に真っ直ぐ伸ばした。
須藤の伸ばした腕の延長線上、高速道路の屋根に近い空中に、透明な液体が広がる。
「松浦さんは私達がもらいます」
「物みたいに言わないで!」
新垣は開いた右手を熊井に向けて、肘を軽く曲げた状態で右腕を伸ばす。
左肘を身体の横で曲げ、開いた左手を下に向ける。
構えをとって、視線を熊井に向けた。
「1人でどうするつもりですか?
高橋さんを残してきたみたいですけど、無駄ですよ。
すぐに雅も追いつきます」
松浦を逃がすために、高橋はあの場に残った。
高橋の真意が分かって思わず微笑んだ新垣に、熊井は不審な表情を浮かべる。
「ずいぶん余裕ですね。まさか雅に勝てるとでも思ってるんですか?」
「愛ちゃんを甘く見ない方が……いいよ」
そう言って笑いかけた新垣は、熊井に向かって走りだした。
- 248 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:44
- ――――
高橋は霧雨に煙る石段を昇って本殿の正面に立つと、ゆっくりと振り返った。
両側に並ぶ石灯籠の灯りが、足元から続く短い参道を照らしている。
大きな鳥居の向こう側は、商店が並ぶ日常の風景。
しかし無人の境内は日常から切り離された異境の中のように、静寂に包まれていた。
ふいに高橋が見つめる鳥居の下に、小さな影が現われた。
ゆっくりとした足取りで石畳の参道を歩き、本殿へと続く石段の下で立ち止まる。
目深に被ったキャップの奥から、大きな瞳で高橋を見上げた。
「松浦さんは、どこですか」
現われた夏焼の姿が、灯籠の光で参道に僅かな影を落とす。
傘は差していない。
長い髪は濡れ、雫が滴り落ちていた。
高橋は傘を手に、夏焼に向かって肩をすくめる。
「時間稼ぎのつもりですか?
邪魔をするなら、腕の一本や二本。覚悟してもらいますよ」
一応敬語は使っているが、有無を言わせぬ口調。
決意を込めた夏焼の言葉に、高橋は目を細める。
「……可愛い」
そう言って、声を殺して小さく笑った。
- 249 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:44
- 高橋の言葉に、夏焼の顔が朱に染まる。
「何がおかしい!」
「子供の喧嘩の台詞だよ」
高橋は持っていた刀を賽銭箱の上に置き、夏焼に向き直った。
怒りの表情を見せた夏焼はキャップの後ろ向きに被り直すと、
左足を引いて半身になり右手を真っ直ぐに前に伸ばした。
「子供には、コレで充分だね」
高橋は傘をたたみ、左手に下げる。
刀に見立てた傘を手に、微笑んだ。
「来なさい。腕の一本か二本で許してあげる」
自分の言葉を揶揄した高橋の言葉に、夏焼の表情が消えた。
- 250 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:45
- 雨に濡れた石畳を蹴って石段を駆け上り、夏焼が疾風となって走る。
伸ばした右手を高橋の顔の前で開いた。
視界を遮り、左足で踏み込みながら左拳を高橋の脇腹に突き出す。
高橋は夏焼の右に廻り込んで拳を避けた。
右手を傘の柄にかけた高橋を見ながら、夏焼は再度右足を踏み込む。
(そんなもので!)
おそらく見た目で判断したのだろう、高橋のバカにした言動と態度。
手加減などするつもりはなかった。
だが腰に構えた拳が走りだした瞬間、夏焼は踏み込んだ右足で咄嗟に地を蹴った。
何がそうさせたのはわからない。
横に飛んで高橋から離れながら空中で右腕をたたんで脇腹を、
左腕で顔面をガードする。
直後、右腕を重い物が強烈に叩いた。
衝撃が前腕に仕込んだ鉄甲を徹して腹に直接届く。
空中では踏ん張ることも出来ずに、夏焼は吹き飛ばされた。
「よく分かったね」
石畳の上に膝をついた夏焼が顔を上げる。
微笑んでいる高橋の手に握られた傘の柄の先には、黒く細い鉄の棒が伸びていた。
- 251 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:45
- 鉄棒を仕込んだ傘。
夏焼は腕と腹に重く残る痛みを隠しながら、立ち上がる。
手に持った鉄棒を傘へと戻す高橋を見ながら、バカにしたように鼻を鳴らした。
「汚い」
「戦場に卑怯はない。隠し武器の一つや二つ、持っているのは当然やよ」
僅かに強くなった雨のなか、高橋は呆れた顔でそう言った。
夏焼は立ち上がって再び右腕を伸ばすと、右足を僅かに前へ滑らせた。
「まぁそういうところも、可愛いけど……」
高橋が、口の端を上げる。
その途端、電流のような震えが夏焼の身体を駆け抜けた。
無意識のうちに、夏焼は弾かれたように後ろに飛び退く。
「あんまり可愛くて……苛めたくなっちゃう」
そう言って、高橋は薄く笑った。
- 252 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:45
- 夏焼は無意識に喉を鳴らして、唾を飲み込んだ。
降り続く冷たい雨の中に、ガラスの細片のような冷たい殺気が混じる。
目の前の高橋が放つ白々とした殺気の刃が、衣服を通して全身に侵入してくる。
全身に漲るSPによって細胞がたぎる。すでに能力は発動していた。
だが肉体を包む熱気とは別に、侵入してくる冷気に精神が侵されていく。
澱の底から浮かび上がってくるような恐怖。
次々と湧き上がるそれに、夏焼の心が支配されていく。
(ふざけんなっ!)
夏焼は、自分が感じている感覚に憤った。
高橋の持っているのは刃の付いていない鉄の棒。
頭にさえ当たらなければ耐えられる。
それに渡されている薬によって強化された自分の能力は、
HPのなかでもトップクラス。
能力もない高橋に負けるわけが、ない。
「ひゅっ!」
夏焼は張り詰めている空気を破るように、鋭く息を吐いた。
萎えそうになる精神に、恐怖の力で火を入れる。
左の拳を前に出し、頭部を守るように右腕を上げて踏み込んだ。
- 253 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:46
- 伸ばした左腕の拳で、高橋の右肩を狙う。
当たればそれで勝負が着く。避ければ右で渾身の正拳を。
どこでもいい。当たれば勝てる。
夏焼が動いた瞬間、高橋が頭を振った。
僅かな時間で雨を含んだ髪から、夏焼に向かって水滴が飛ぶ。
いくつかの水滴が目を叩き、夏焼は反射的に目を閉じた。
閉じていたのはほんの一瞬だったが再び開いた夏焼の目に、
高橋の顔の左側を通り抜ける自分の拳が映る。
高橋は避けながら傘を捨てていた。
後ろに身体を傾けながら、前に突っ込んだ姿勢の夏焼に右手を伸ばす。
伸びた左腕の上を通して胸倉を掴んだ。
同時に出した左腕で夏焼の右肩を掴んで引き込み、倒れながら身体を入れ替えた。
「……っ!」
地面に叩きつけられた夏焼が、声にならない呻き声を上げる。
高橋は倒れながら、左肘を夏焼の鳩尾に当てていた。
歯を食いしばって痛みに耐えながら、目の前で微笑む高橋に左の肘を放つ。
高橋は予期していたように上体を逸らし、夏焼の左の手首と肘を掴んだ。
掴んだ腕を左に流しながら右足で地面を蹴り、うつ伏せに変わった夏焼の背に乗る。
夏焼の右腕を両足で挟んだ姿勢で、躊躇無く腕を捻り上げた。
真っ直ぐに伸ばされた夏焼の左の肩と肘と手首に、
直接脳に響くような強烈な痛みが襲う。
「とりあえず“一本”」
何かが切れる音が脳を灼き、夏焼の意識と視界が白く変わった。
- 254 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:46
- ――――
速すぎる相手のリズムに、自分のペースが乱される。
新垣は放たれた左の回し蹴りに、右腕を上げた。
熊井の蹴りが前腕に触れた瞬間に身体を沈め、肘で押し上げて頭上に流す。
死角に入った新垣は脇腹に向けて左の掌打を出そうとしたが、
熊井は受け流された勢いを利用して回転した。
左足を地面につけることなくその場で回ると、再び左の上段蹴りへと連携させる。
慌てて上体を逸らせた新垣の鼻先を、熊井の爪先が掠めた。
思いがけない位置から出してくる熊井の蹴りは捌き難く、その動きは速い。
それでも繰り出される蹴りを捌いているうちに、熊井の動きに慣れ始めていた。
受けるのではなく力の方向に逆らわないで捌いていく新垣の動きに、
熊井は戸惑った表情を見せながらも攻撃を続ける。
- 255 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:46
- 距離を保とうと後ろに下がった熊井を、新垣が追う。
さすがに代表に選ばれるだけあって熊井は強い、
がスピードとパワーは矢口ほどはなく、技量は中澤に及ばない。
踏み込んだ新垣に向けて熊井は足を止め、右足で顎を狙った前蹴りを繰り出す。
新垣は身体を開いてかわしつつ、熊井の右足の踵に左の指先を添えて
上に持ち上げるようにして前に出た。
熊井の軸足の横に右足を踏み込み、右手で肩を突く。
右足を左肩に乗せながら流れるように回転して引き倒した。
新垣は倒れた熊井の上に馬乗りになりながら、右膝で熊井の左肩を押さえる。
「降参した方がいいよ」
背中を地面に打ち、苦痛に歪んだ顔を向けていた熊井がふいに笑いかけた。
「なにか忘れてませんか?」
その言葉に、新垣は僅かに視線を上げた。
高速道路の天井に近い場所に、水面のような模様が広がっている。
須藤の存在を、忘れていたわけではない。
だがこの状態で攻撃を加えれば、熊井が巻き添えになるのは子供でもわかるはず。
須藤が能力で出現させた水を見ながら、
まさか攻撃はしてこないだろうと新垣が思った次の瞬間、水面が揺らめいた。
宙に留まる水面から放たれた小さな無数の水球が、新垣に向かって放たれる。
下にいる熊井をその場に残し、新垣は後ろに跳んだ。
斜めに打ち出された水球が倒れている熊井の上に降り注ぎ、
着弾した無数の水弾が地面のコンクリートを削り取る。
コンクリートの破片と飛び散った水滴が作り出した煙に、
熊井の姿が見えなくなった。
「そんな……っ!」
熊井の倒れていた場所を呆然と眺めていた新垣は、須藤に視線を向けた。
平然とした顔で立っている須藤の姿を見て、新垣の内側で感情が沸く。
それでいいのか。
松浦を確保することが仲間を攻撃してまでも、やるべきことなのか。
その思いが、新垣の中で膨れ上がる。
- 256 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:48
- 強い怒りの感情が爆発する直前、
収まりつつある煙の中に人影を見つけて新垣は声を上げた。
「なっ!?」
次第にはっきりとした輪郭を見せ始めた人影は、熊井だった。
須藤の攻撃をまともに食らったはずなのに、怪我を負ったようすもない。
顔にほつれかかった髪を指ですき上げながら、熊井はクスっと口元をほころばせた。
「驚きましたか? いまのが本来の私の能力“透過”です。
発動すればどんなものも、私に触れられない」
そう言うと、驚いている新垣に向けて走りだす。
慌てて構えを取った新垣の間合いに入る直前に、熊井の顔が下を向いた。
両手を地面に付き、走ってきた勢いのまま前転する。
新垣は大きな円を描いて振り下ろされた熊井の左の踵を、辛うじて避ける。
だが左足の後を追うように、右の足が新垣の頭上に向かってきていた。
避けられるタイミングではない。
両腕を頭の上で交差して衝撃に備えた新垣だったが、それは来なかった。
熊井の右足が新垣の身体を通り抜ける。
何の感触もなく身体を通過した足が地面につき、熊井が正面に立った。
「こんな使い方もある」
熊井の突き上げてきた膝が、ガラ空きになった新垣の鳩尾にめり込んだ。
- 257 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:48
- 後方に吹き飛ばされた新垣は、足から着地すると顔を上げた。
避けられないと分かった時点で咄嗟に後方に跳んだとはいえ、
ダメージを完全に殺せたわけではない。
痛みに顔を歪ませた新垣はこみ上げてくる吐き気に耐える。
左手を鳩尾に当てながら右掌を伸ばした。
「ここからは本気です」
宣言した熊井が新垣へと走る。
そのまま跳躍して身体を捻り、空中で後ろ回し蹴り。
身を沈めてかわした新垣が距離を取るよりも速く、着地した熊井の足が上がった。
疾ってくる右足に腕を上げたが、
熊井の足が上段から下段へと流れるように変化する。
なんとか足を上げて受けながら右手を伸ばし、熊井の左手首を掴んだ。
あと半歩近づけば、蹴りの間合いから逃げられる。
自分も踏み込みながら掴んだ手を引き寄せようとした新垣だったが、
手首を握っていた手から感触が消えた。
能力を使って逃れた熊井は一歩下がって距離を取る。
左足が凄まじい速さで新垣の胴体を薙ぐように振られた。
向かってくる蹴り足を受け流そうと右手を動かした新垣だったが、
その足に触れることはできなかった。
受けようとした新垣の右腕を貫通して、
熊井の右足が胴体を通過する。
右足に合わせて背を向けた熊井の後ろ蹴りが新垣に襲いかかった。
- 258 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:48
- 新垣は左の手の平で蹴りを受けながら、後方に下がる。
熊井の足と自分の腹の間に左手を入れるのが、やっとだった。
指の骨にヒビでも入っているのか、まともに食らった左手の感触がおかしい。
背を向けた熊井から距離を取り、力の入らない左手を庇うように右掌を前に向ける。
熊井がどこで能力を発動するのか分からない。
見た目では判断できない以上すべてを本物だと思うしかないが、
受け流そうとした攻撃がすり抜けてしまうと、どうしても次の動作が遅れる。
能力を使ったフェイントに新垣が対策を思いつくより早く、
熊井が再び向かってきた。
途切れることのない熊井の蹴りと、
いつ使うか分からない能力に惑わされながらも
なんとか防御の真似事を続け、決定打を避ける。
攻撃を避け続ける新垣に、ふいに攻撃を止めた熊井が距離を取った。
僅かに眉をひそめて向かい合うと、両腕を水平に上げる。
何とか息をつく暇ができた新垣の気が緩んだその瞬間、
熊井の胸から何かが飛び出した。
背後にいた須藤の能力。
高速で向かってくる水弾に新垣は咄嗟に身体を傾けたが、避け切れずに肩に当たる。
痛みと衝撃にバランスを崩した新垣が膝をついた。
「忘れたんですか? 一人じゃないんですよ?」
新垣は肩の痛みに耐えながら、ゆっくりと近づいてくる熊井を睨んだ。
- 259 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:48
- ――――
雨で濡れた冷たい石の感触を、地面に触れた左の頬で感じた。
気がつくと高橋は身体から離れ、少し離れた場所から見下ろしている。
夏焼は地面から顔を上げた。
左肘の痛みに耐えながら、無事な右腕を使って上体を持ち上げる。
歯を食いしばって震える呼吸を無理やり抑え、立ち上がった。
「まだやるの?」
僅かに笑いを含んだ高橋の声を跳ね返すように、夏焼は走った。
左腕はまったく動かなかったが、それでも渾身の力で高橋に蹴りを放つ。
だがバランスを欠いた状態で格段に速度の落ちた中段の蹴りは、
あっさりとかわされた。
動くたびに走る左腕の痛烈な痛みに耐えながら、
離れていく高橋に向かって攻撃を続ける。
- 260 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:49
- ふいに足を止めた高橋のこめかみを狙って、右足で上段蹴り。
高橋は僅かに頭を沈めて避けた。
避けることを予想していた夏焼は、通り過ぎた右足を空中で停止させる。
高く上がった右足の膝を曲げ、高橋の後頭部に踵を振り下ろした。
後方の死角から襲う、避けたはずの右足の攻撃。
無防備な側面を見せられた相手は自分の攻撃に集中するため、避けられない。
矢口を倒した夏焼の奥の手だった。
しかし高橋は見えない位置から襲ってくる攻撃を、右足をくぐるようにして避けた。
夏焼の正面に移動しながら右足で夏焼の軸足を踏むと同時に
左の人差し指と中指を伸ばし、夏焼の喉を軽く突く。
息が詰まり動きが止まった夏焼の胸に、高橋の左の前腕が押し付けられた。
「はッ!」
高橋の鋭い気合と共に、夏焼の身体が宙を飛んだ。
受身も取れず、夏焼は濡れた地面に背中から落ちる。
咳き込みながら右手で喉を押さえ立ち上がろうとしたが足に力が入らず、
夏焼は片膝をついて座り込んだ。
地面に向けていた視界の中に現れた高橋の革靴を見て、夏焼が顔を上げる。
「本当は、目を突くんだけどね」
涙で揺れる視界のなか、ゆっくりと高橋の左腕が伸びてくる。
「いつでも、待っとるよ」
額に触れた高橋の手を通して、激しい衝撃が夏焼の頭部を貫いた。
- 261 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:49
- 高橋は後ろに倒れていく夏焼の身体を支え、ゆっくりと地面に横たえる。
落ちていた傘を拾い、髪をかき上げた。
「なかなか面白かったけど……」
足元で意識を失っている夏焼を見ながらつぶやいた。
首を傾げていた高橋だったが、不意に表情を消して霧雨の降る境内を見渡した。
降っている雨によってかき消されてしまいそうなほど小さかったが、
何かが爆発したような音。
新垣が走り去っていった方向で視線を止めると、高橋は手にした傘を開いた。
- 262 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:50
- ――――
熊井は呼吸を整えるように大きく息を吐くと、
倒れて動かない新垣から視線を外す。
気を失っている松浦に近づくとその身体を肩に担いだ。
「行こっか」
無言で頷いた須藤に笑いかけ、歩き出す。
思ったよりも新垣が粘ったために時間がかかったが、
あとは本部まで連れて帰れば自分達の勝ちだ。
追いついてこない夏焼のことも気になったが、
まさか負けることはないだろうと、熊井は考えていた。
須藤と並んで歩き出した熊井は、背後の気配に気がついた。
足を止めて振り返ると倒れていた新垣が、いつの間にか立ち上がっている。
立ち上がった新垣は両手を下げて、僅かに俯いていた。
「もう勝負はついてます。いいかげんに諦めたらどうですか?」
熊井の声が聞こえなかったのか、新垣はゆっくりと歩き出した。
近づいてくる新垣にうんざりしながら、ポケットから小型の無線機を取り出す。
口元に近づけると、スイッチを入れた。
「……千奈美、撃って」
松浦を狙撃した徳永と菅谷は、いまいる場所から300メートルは離れている。
当然、新垣の能力が及ばない。
そしていまの位置関係なら、新垣の背後から撃つことができる。
返答の代わりに、小さな銃声が熊井の耳に届いた。
- 263 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:50
- ――――
さっきまで駆け抜けていた脈絡のない記憶の本流が、
紅茶に沈んでいく角砂糖みたいに急速に拡散していく。
全身に走っていた痛みも、いまでは感じられない。
このまま眠ってしまいそうになり、新垣は無理やり目蓋をこじ開けた。
ぼやけた視界は背を向けて離れていく2人の姿を捉えたが、
手足は鉛のように重く、動けない。
意識ははっきりとしなかったが、
やり場のない感情が自分を押し包んでくるのが分かった。
松浦を任せると言ってくれた藤本と飯田の信頼に、応えることができなかった。
悔しさと無力感に打ちひしがれながら、
意思とは無関係に目蓋が閉じる直前に、新垣はそれに気が付いた。
目の前の地面にできているのは水弾が弾けてできた、小さな水溜り。
吸い寄せられるようにその小さな水面を見ていた新垣の視界のなかで、
浮いていた小さな泡が弾け、同心円が連なって水溜りの端に寄せていった。
- 264 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:50
- 波紋が静まるまでその動きに見入っていた新垣はそれを見て、小さく頷いた。
水溜りの端が無ければ、その動きは波及しながら永遠に続くだろう。
輪は、無限の力を内に秘めているのだ。
再び瞳を閉じた新垣の脳裏に浮んだのは赤と紺、二つの勾玉を合わせたような太極図。
陰陽を囲む黒い線のなかにある赤と紺の円は、すべての存在。
それは過去と現在、善と悪、男と女、正と死の統合を、
そして内外への無限の広がりを表す。
すべては円という完結体の中に、調和良く治まっていた。
新垣は目を開けると、ゆっくりと両手を地面についた。
全身に痛みが走るがそれさえも、力を失った四肢に力を与える刺激となる。
ずっと探していた物は、身近にあった。
中澤が何度となく言っていた太極が、理解できた気がしたのだ。
立ち上がった新垣の正面に、松浦を肩に担いだ熊井と須藤が並んで背を向けている。
気が付いて振り返った熊井の口が動いて何かを言ったようだったが、
新垣には分からない。
覚醒しきっていない意識のなかで一歩足を踏み出した新垣だったが、
背中に感じた焼けつくような感覚に足を止め、後ろを振り返った。
どこまでも続いて見える高速道路の屋根の下、
闇の奥から真っ直ぐな白い光が胸の真ん中を貫いている。
新垣が胸を貫く光線に無意識に身を捻った瞬間、銃声が響いた。
- 265 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:51
- ――――
「避けた!?」
双眼鏡を覗きながら、徳永は驚きの声を上げた。
菅谷の銃から弾が放たれる寸前、新垣が振り向いた。
それだけでも充分に驚きだったが、その直後放たれた弾丸を身体を捻って避けた。
植え込みのなかにいる2人の姿は肉眼ではもちろん分からないはずだし、
新垣の能力が届く範囲からも充分に距離を取っている。
「梨沙子! 撃って!」
考えられない状況に、徳永は焦りの混じった声を出した。
足元で腹ばいになっている菅谷が、続けて引き金を引いていく。
だが覗いている双眼鏡の視界から外れることもなく、
新垣は最小限の動きだけでかわしていく。
特に疾い動きではない。しかし、当たらない。
新垣の動きが止まり、聞こえていた小さな銃声も止まった。
「千奈美……」
その声に下を見ると、菅谷が泣きそうな顔で見上げていた。
- 266 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:51
- 尋常ではないかわし方。
フェイントをかけ、ランダムに動くことで、正確な照準を決めさせない。
または、照準を決められないほどの速さで移動し続ける。
そういう動きなら、分かる。対処の方法も知っていた。
ランダムに動いているなら、比較的動きの少ない体幹部を狙う。
速い動きで照準が決められないなら、動きが制限されるような場所に追い込む。
そういった指示を出すことで、必ず当てることが出来る。
だが、いま見ている新垣の動きは違った。
引き金を引く寸前、本当に一瞬前に動き出している。
身体に当たる銃弾だけを最小限の動きでかわし、当たらない銃弾には反応しない。
まるで飛んでくる銃弾が見えているように、避けている。
狙撃者の姿が見えているかのように真っ直ぐに視線を向けた新垣を見て、
徳永は唇を噛んだ。
「なにやってんの! 早く撃って!」
双眼鏡を下ろすと、徳永は苛立ちを隠すように大声を上げた。
「でも……」
「いいから早く!」
指示を待って見上げる菅谷の足を蹴った。
菅谷は目に涙を浮かべながら再びスコープを覗く。
手探りで新たな弾倉を取り出して、装填した。
「友里奈! 新垣押さえてっ!」
「こんな時間に大声出すと、近所迷惑やよ」
無線機に向かって叫んだ徳永が聞こえた声に振り返ろうとした瞬間、
首筋に衝撃を受けて意識が暗転した。
- 267 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:51
- ――――
微かな銃声が聞こえるたびに、新垣が目の前で僅かに動く。
銃弾を避けている。
熊井がそう認識できるまで、しばらくかかった。
熊井の能力でも銃弾を“透過”させることは出来るが、
能力の持続時間は数秒に満たない。
連続して放たれる銃弾には対処できないため、
能力の効果が続いている間に射線から逃れる必要があった。
目の前の新垣の動きはどう見ても、銃弾を避けているようにしか見えなかった。
銃弾を“避ける”能力など聞いたこともない。
ましてや新垣の能力は探索。直接的な攻撃力のない、後方支援の能力だ。
連続して鳴っている乾いた銃声とそれを避けている新垣を、
信じられない思いで呆然と見つめる。
『友里奈! 新垣押さえてっ!』
無線機からの徳永の声に、熊井は我に返った。
担いでいた松浦を地面に降ろすと、熊井は背を向けている新垣に走り寄る。
「茉麻!」
背後の須藤に声をかけ、背後から棒立ちの新垣に向けて回し蹴りを放った。
不意に、新垣が動き出す。
新垣は振り返りつつ熊井の懐に入ってほぼ密着した状態で側面に回り、蹴りを避けた。
密着した新垣の顎に膝を打ち上げようとしたが熊井の足が動き出す寸前に
新垣の右手が伸びて、動きを押さえられる。
- 268 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:52
- 近すぎる距離に、得意の蹴りが出せない。
距離を取ろうと後ろに下がったが、新垣との距離は変わらなかった。
熊井が下がった分だけ新垣が前に出る。
「くっ!」
足を止め、新垣を捕まえようと両手を伸ばして前に出る。
しかし捕まえるより早く、反対に新垣に手首を掴まれた。
能力で振り払うより早く体勢を崩されて、熊井は地面にうつ伏せに倒された。
立ち上がるより早く、熊井は背後で膨れ上がった気配に気が付く。
うつ伏せに倒れたまま、後ろにいる須藤に視線を向けると、
怯えたような表情の須藤が両手を前に突き出していた。
その手の先に、巨大な水球が現われる。
慌てて視線を上に向けると、空中に広がっている水面も激しく泡立っていた。
突然変わった新垣の動きに怯えて、能力の加減を忘れている。
須藤を止めようとした瞬間、水球が揺らめいた。
(まずい!)
熊井はすばやく立ち上がると須藤を止めるのを諦め、能力を発動させる。
能力の範囲から逃れるために走り出した直後、
空中の水面と巨大な水球から無数の水の槍が広範囲に散らばって放たれた。
1本でも当たれば致命傷になる水槍。
暗い照明とその速度から、常人ならその姿を見る事も無く貫かれる。
だが水槍が放たれるのと同時に、新垣は須藤に向かって走り出した。
斜め上方と正面から同時に打ち出される水槍のなかに飛び込むと、
次々と飛来する水槍のあるとは思えない隙間を縫って、須藤に近づいていく。
新垣は優雅にさえ見える舞うような動きで、
二方向から同時に放たれる無数の攻撃を避けていた。
- 269 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:52
- 呆然とした表情の須藤の前に、すべての水槍をかわした新垣が立った。
須藤は恐怖に顔を歪め、目の前に立った新垣に向けて両手を伸ばす。
向かい合った2人の間を分かつように、再び水球が作られた。
目の前に現れた巨大な水球に向けて、新垣の自然に右手が伸びる。
新垣の右手が触れた瞬間、水球はあっけなく粉々に砕かれた。
無数の小さな水滴となって散った水が雨のように降り注ぐなか、
怯えきった表情で立ち尽くした須藤の胸に、一歩進んだ新垣の右掌が触れる。
逃げることもできずにいた須藤の身体が一瞬だけ痙攣し、その場に崩れ落ちた。
「茉麻っ!」
駆け寄りざまに放った熊井の右の拳が、振り返った新垣の右手で内側に払われる。
逸らされた勢いを殺さずに回転した熊井は、左の肘で頭部を狙った。
だが回転しきる前に新垣の左手が肘に当てられ、熊井の動きが止められる。
間を置かずに足を払われ、熊井は地面に倒れた。
上体を持ち上げようとした熊井を押さえるように、新垣の右掌が額に添えられる。
新垣の右腕を両手で掴んだ次の瞬間、熊井の頭部を感じたことのない衝撃が貫いた。
- 270 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:53
- ――――
「背中向けてる。いまやよ」
徳永が持っていた双眼鏡を覗きながら、高橋が言った。
視線の先には、倒れた熊井のそばに立っている新垣の背中がある。
無防備に見える新垣の背中を見ていた高橋はいつまで経っても鳴らない銃声に、
双眼鏡を下ろして足元に腹ばいになっている菅谷に視線を向けた。
菅谷はライフルを抱えたまま、
戸惑った表情で気を失っている徳永に顔を向けている。
「……もしかして、命令されないと撃てないの?」
呆れたような高橋の言葉に反応した菅谷が、恐る恐るといった感じで顔を上げた。
高橋は溜め息を吐いて下を向き、見上げている菅谷の視線を正面から捉える。
「分かってるとは思うけど、銃が相手を殺すんじゃない。
命令を下した人間も関係ない。
引き金に込められたあんたの意思が鉛弾に宿り、それこそが敵を打ち倒す」
息を呑んで見つめている菅谷を真っ直ぐに見ながら、高橋は告げた。
静かに言った高橋の言葉に、硬直したように動かない菅谷の目に涙が溜まる。
怯えきった表情の菅谷を見て高橋は諦めたように息を吐くと、
持っていた刀を抜き払った。
視線をさまよわせている菅谷の首元に、切っ先を突きつける。
「あんたは仲間のために、為すべきことを為せばいい」
菅谷はいまにも泣き出しそうになりながら、慌ててスコープを覗いた。
ボルトを引き次弾を装填した菅谷だったが、
引き金に添えた指は震えたまま動かない。
高橋は躊躇している菅谷の首元に、切っ先を押し当てた。
「撃てっ!」
高橋の凛とした気魄に押され、菅谷は泣き顔のまま引き金を引いた。
- 271 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:53
- 泣きながらライフルを抱えている菅谷から視線を上げると、高橋は双眼鏡を覗いた。
僅かに姿勢を変えているだけの新垣の背中を見ながら、口元が僅かに上がる。
高橋の視線に気が付いたかのように、新垣が振り返った。
静かな立ち姿を見せた新垣が、虚ろにも見える視線を高橋へと向ける。
「……見つけたで」
夜気にこもる硝煙の匂いの中、高橋は微笑を崩さずに言った。
- 272 名前:I'm Beginning to See Light 投稿日:2006/06/02(金) 12:53
- ――――
- 273 名前:カシリ 投稿日:2006/06/02(金) 12:54
- 以上で第10話終了です。
- 274 名前:カシリ 投稿日:2006/06/02(金) 12:54
- >>238 愛毒者 様
どういたしまして。
バラードが多いので、ちょっと話の内容とは合わないかもです。
それと、支給されているのは特別なくすりなので、
副作用はほとんどないです。
>>238 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
そう言ってもらえると嬉しいです。
- 275 名前:愛毒者 投稿日:2006/06/04(日) 20:05
- 更新お疲れ様です!なるほど、そこはさすが圭ちゃんってところですか。
愛ちゃんの狂気じみたセリフ&戦闘にはゾクゾクきますね。w
ガキさんも何かを掴んだのか殻を破った感じ。
でも最後の愛ちゃんの言葉は何を意味するんでしょう?気になります。
次回、第11話も楽しみにしています!
- 276 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/07(水) 17:35
- 高橋さんがこわひ…。w
- 277 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/12(月) 18:59
- これで一応ひと段落ですね。
次にどんな展開が待ってるのか楽しみです。
- 278 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:06
- ――――
金属の壁に囲まれた、細長い部屋。
トレーラの後部に作られた部屋の奥には必要最低限ではあったが、
外の情報を知らせるモニタと操作パネルが並んでいる。
剥き出しの蛍光灯の明かりに照らされたその部屋の手前には、
資料の詰まった棚とパソコンの乗った机が並んで置かれていた。
奥でモニタを睨んでいる男を一瞥してから、
保田は新品のように糊のきいた白衣のポケットに片手を突っ込み、正面を向いた。
目の前に置かれたパソコンの画面から送られてくる情報に目を通す。
ほとんどがマークしていなかった高橋と新垣にやられたのは、意外だった。
それでも夏焼と熊井、そして菅谷に渡した薬の効果は実証された。
支給した薬は増幅と付加の二種類に限定されているが、
もともとどちらかの能力を持っている者にはその能力の強化、
持っていない者には新たに能力を付加することができる。
相手にした子達の年齢を考えれば一応の成果が出たと考えても、いいだろう。
保田は椅子にもたれかかり、疲れた目を閉じて眉間を押さえた。
高速を走っているトレーラのなかではときおり僅かな振動を感じるが、
気になるほどではない。
徹夜が続き疲れがたまった身体にふと、自分の年齢を考える。
十代と同じ、というわけにはいかない。さすがに身体は正直だ。
- 279 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:06
- いまは個人に合わせて調合する必要があり、大量生産はできない。
それも増幅と付与の能力に限定されているが、
いずれはSPの有無に関わらず使用したすべての人間に、
確認されているすべての能力の強化又は違う能力の付加が可能な物を作るのが
保田の目標だった。
これで研究の重要性が、再認識される。
あとは送られてきた資料をもとに報告書を作成すれば
つんくも納得するはずと考えて、保田は目を開く。
机に乗っている、時刻を表示する以外の機能をもたないデジタル時計に目を向けた。
あと一時間もしないうちに夜が明ける。
新垣と共に再び姿を消した松浦の行方は、わかっていない。
結局松浦を捕らえることができなかったが、
保田にとってはどう転んでもかまわないことだった。
椅子から立ち上がった保田が棚に並んだファイルを取り出していると、
机の上に置いてある電話が鳴った。
- 280 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:06
-
第11話
Route 66
- 281 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:07
- ディスプレイを確認すると登録された物ではなかったが、見覚えがある番号。
不審に思いながらも、保田はコードレスの受話器を耳に当てた。
「なんでこの番号知ってんの?」
『相変わらず挨拶とかないんですね……保田さん』
電話の向こうで僅かに笑い含ませながら、吉澤が答えた。
いま手にしている電話の番号はごく限られた人間にしか知らないはずだった。
吉澤に教えた憶えはない。
その意味を考え、受話器を持った手に力が入る。
『ほんとは知らせるつもりはなかったんですけど、心の準備は必要かと思ってね。
ギリギリまで待ってみたんですけど、無駄だったみたいです』
「何のこと?」
『分かってるでしょ?』
緊張に浮いた汗がうっとうしく、保田は受話器を持ち替えて反対の耳に押し当てた。
「だから何のことよっ!」
『これからは私の判断で行動します。
準備も必要なんでしばらくは潜りますから、もう会うこともありません』
苛立ちながら強く言った保田の言葉に、吉澤は事務的に思える冷静が声で答えた。
- 282 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:07
- 自らも関わっているつんくの計画のことを言っている。
吉澤の言葉からそれを確信した保田が言葉に詰まり、数瞬の沈黙が流れた。
「計画を潰すつもり? あんた1人で止められるとでも思ってんの?」
慌てて言った保田の耳に聞こえてきたのは、微かな空気の摩擦音だった。
それは溜め息にも、笑い声にも聞こえた。
吉澤に動かれてしまえば、いま携わっている研究もストップがかかる。
計画が表に出れば当然のごとく待っているだろう自らの運命を考え、保田は焦った。
研究者として、無為な時間を過ごすわけにはいかない。
『最後に顔が見れないとは、残念です』
そう言った吉澤の声は、はっきりとわかる笑いを含んでいた。
「ちょ……っ!」
かけようとした声は、盛大なブレーキ音に止められた。
トレーラーの床が大きく傾き、とっさに机を掴んだ保田の手から受話器が落ちる。
突然の急停車に文句をいう前に、保田は車内の散乱した機材や書類のなかから
床を滑った受話器を探してディスプレイを確認した。
舌打ちをしながら、通話が切れている受話器を机の上に乱暴に投げる。
「どうしたのっ!」
声をかけながら散乱した書類を踏みつけ、奥にいる男に近づいた。
『前を走っていたトラックが、進路を塞ぎました』
スピーカから聞こえてきた運転手の報告を聞きながら、
保田は男の背後に立ってモニタに視線を向ける。
- 283 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:07
- 高速を降りるところだったのだろう、
保田の乗るトレーラーは二車線の大きく曲がった道路の上で停止していた。
トレーラーの上部につけられたカメラからの映像は、
その二車線の道路を塞さぐように横向きで停車しているトラックを映し出していた。
トラックの運転席から人影が飛び出し、防音壁に作られた緊急用の出口から消える。
「後退して脱出」
男の指示と共にさきほどとは反対方向に床が傾き、トレーラーが後退を始める。
しかしすぐにブレーキ音が聞こえ、停車した。
『後方を別のトラックがっ!』
光量を自動補正されたカメラの鮮明な映像が180度周り、
トレーラーの後方を映し出す。
保田が乗っているトレーラーの後方を走っていた乗用車のすぐ後ろで、
別のトラックが前方を塞いだトラックと同じような格好で停車していた。
後方を塞いだ大型トラックの運転席に、すでに人の姿はない。
前後をトラック、左右を高い防音壁で囲まれた空間の中に、
保田が乗っている巨大なトレーラーでは逃げ道がなかった。
突如として現れた都心の密閉空間に閉じ込められた保田は、
吉澤の言った“最後”がどういう意味かを、理解した。
- 284 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:08
- 退路を塞いでいる後方のトラックとトレーラーの間に停まっていた乗用車の
すべての扉が同時に開き、低い姿勢で飛び出した4人の人影が
開いたままのドアを楯に四方に視線を飛ばした。
護衛役は前後に配置されていたが、
前方の車は道路を塞いでいるトラックの向こう側だった。
「総員暗視装置を着用し、状況を報告」
抑揚のない声で告げた男の横顔は突然の事態でも冷静さを失ってはいない、
訓練された精鋭の兵士だった。
護衛はつんくの方針で能力者ではないが、
特別仕様のトレーラーと護衛の錬度から考えて充分望みはある。
襲ってきた敵を探して、モニタの映像がトレーラーの周囲を
舐めるように移動しはじめる。
保田は動き始めたモニタに、視線を注いだ。
- 285 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:08
- 映像が動く物を映すことなく移動して、
トレーラーの真横にある防音壁を映しだした時だった。
突然映像が黒一色に変わり、決められた手順に従って補正された像が
再び映しだされると、さっきよりも一段解像度の落ちた粗いものに変わっていた。
モニタの中を雨とは違う小さな何かが光を反射させ、落ちていく。
周囲を照らしていた外灯の、砕けた破片だった。
「索敵警戒しつつ、応戦準備」
いかに往来の少ない高速道路の出口を狙った襲撃とはいえ、
保田は長くても10分が限界と踏んだ。
HPに関わる人間なら目立つ行為は避ける。
それ以上になれば、他のドライバーからの通報を受けた警察が動き出すことになる。
たとえこちらが一時的に拘束されても、
HPが圧力をかければ日が昇る前には釈放されるはずだ。
『発見っ! 前方トラックの上部』
スピーカーから聞こえてきた声に、モニタの映像がすばやく動く。
ハイビームに変わったトレーラーのヘッドライトが、
前方を塞ぐトラックに向けられる。
闇を丸く切り取った眩い光のなかに浮んだのは、
運転席の上に立つ三つの人影だった。
ズームした映像に3人の顔が鮮明に映り、保田は画面を見ながら眉をひそめた。
「後藤? それに……亀井」
もう1人の少女に直接面識はないが、たしか風の能力を持つ田中れいなといったか。
最近入った中ではかなり強い能力を持っているため、
保田も何度か資料に目を通したことがあった。
後藤の右に立つ田中は、困惑したような表情で後藤の顔を窺っている。
保田はすぐに、後藤の反対側に立つ亀井に注意を向けた。
笑顔を浮かべた亀井の視線はモニタを超えて、真っ直ぐに保田を捉えている。
その瞳は向けられた光を反射して、強く輝いて見えた。
- 286 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:08
- 亀井の口元が上がりいっそう強く微笑んだ瞬間、光の輪からその姿が消えた。
2人を残して屋根から飛び降りた亀井が道路に降り立つ。
衝撃を抑えるために沈んだ身体のまま亀井の両手が上がり、その先端が鋭く光った。
トラックを照らしていたライトが消え、モニタの映像が黒く変わる。
「前方から目標接近、応戦しろ」
男が命令を下しながらパネルを操作して、
ライトが破壊され光量が不足した映像を切り替える。
物体の放つ赤外線を感知して像を結ぶ、赤外線監視装置。
温度の高い部分が白く表示される映像のなか、
立ち上がった白い人型の手から二つの熱源、放ったばかりの銃が地面に落ちる。
武器を捨てたことに訝しげな顔した男は、亀井の能力を知らない。
男の肩越しにモニタを睨んでいた保田は唇を軽く噛んだ。
走り寄ってくる人型の白い像が突然三つに分かれるのを見て、男の顔に困惑が浮ぶ。
「能力で分かれた、三つとも本物だっ!」
「目標は能力を発動。2人づつトレーラーの左右に分かれて応戦しろ」
『了……』
保田の言葉に男が指示を出したが、応答はザッ走ったノイズに消された。
男がチューナーを操作して問いかけるが応答はなく、
僅かに聞こえているノイズが大きくなっただけだった。
周波数帯を限定しない妨害電波。
こちらの無線はもちろん、敵の無線も障害を受ける。
そして、他のドライバーからの携帯電話を使った通報もできない。
保田の頭の中でリミットが20分に修正された。
- 287 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:09
- 左に分かれた白い人影に、カメラが追尾をはじめる。
トレーラーの左に向けられた映像のなか、
亀井を視認したのか護衛の男が膝をつき銃を向ける。
同時に、近づいていく亀井の速度が上がった。
保田は映像を見ながら強く拳を握った。
暗視装置があったとしても、暗闇の中の射撃では命中率は期待できない。
運良く当たったとしても亀井の能力である“幻像”は
分裂した自分が殺されても本体はダメージを受けない。
向けられた銃は威嚇にならないし、放たれる弾丸も致命傷にならなければ
止めることなどできるはずもなかった。
亀井は放たれる銃弾の中を軽やかに移動して、止まることなく男達を交差した。
同時に倒れた2人の護衛を残して駆け抜ける。
その姿を見た保田の顔に、自らが作り出した研究の成果を愛でるかのように、
場違いな笑みが浮んだ。
- 288 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:09
- トレーラーの屋根を走る足音と共に映像がブレ、
亀井を追尾していたモニタがノイズを残して消えた。
男が立ち上がり、腰に下がっている銃に手を伸ばす。
「……ここに来る」
つぶやいた保田の声に重なるように、ガチャリと金属の音が重なった。
視線をコンテナの扉に向けながら数歩後ろに下がった保田の手に机がぶつかり、
雑然と置かれた書類が床に落ちる。
施錠された取っ手が外側からの侵入者によって、僅かな間隔を上下した。
「大丈夫です。中には入って来れません」
保田の乗っているトレーラーには対弾用の複合装甲と、
不完全とはいえ“宝玉”を解析した新型の対能力装甲が併用されていた。
物理的に破壊するには、相当の火力が必要になる。
通常なら充分に時間を稼げるはずだったが、
男の言葉が気休めに過ぎないことを保田は知っていた。
- 289 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:09
- 外からの情報が遮断された息苦しいほどの密室の中で男が自分の額に手をやり、
浮きはじめた汗を拭った。
そのようすを見て、保田は違和感に気が付く。
コンテナ内の温度が、急激に上昇していた。
空調が効いているはずの車内を見回した保田の目が、天井の一点で止まる。
保田の視線を追って男が視線を向けた天井の色が、赤銅色に変わっていた。
湾曲をはじめた天井をみて男が飛び退こうとした途端、限界を超えた鋼材が弾け、
溶解した金属の雨が男の頭上に降り注ぐ。
壁の計器からスパークの火花が走り、車内を照らしていた照明が消えた。
溶けた鋼材を顔面に浴びて絶叫していた男の声も、長くは続かなかった。
屋根に開いた穴から外界の僅かな光と共に侵入してきた影が、
転げまわっている男の口を塞ぐ。
手に持った大型のナイフが閃き、男の悲鳴が消えた。
弛緩した男の身体から手を離して、侵入者がゆっくりと立ち上がる。
「ようやく……会えましたね」
静寂を取り戻した空間の中で、
いつもと変わらない笑みを持った亀井が、保田の前に立った。
- 290 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:10
- ――――
「なんね、これ?」
軽い驚きを含んだ声でそう言うと、田中は手を伸ばしてトレーラ後部の扉に触れた。
そっと撫でた扉には、表面に薄く引っかいたような傷ができている。
冷たい感触は普通の鋼材と変わらないが、なにか特殊な処理がしてあるのか
物理的な温度とは別に、体温を吸い取られるような冷気を持っていた。
田中は閉じられた扉のレバーに手をかけたが、施錠されているのかほとんど動かない。
レバーから手を離した田中は首を傾げた。
トレーラー後部の扉を破るために放った風は、
扉の表面に触れる直前に威力を失い、弾かれた。
HPの保有する車に、こういった処理を施した物があると聞いたことがある。
連れ去られた亀井の知り合いを助けるためと聞いていたが、
相手がHPとは聞いていなかった。
「ちょい下がって」
どういうことなのか考えていた田中は、上からかけられた声に顔を上げた。
トレーラーの屋根から飛び降りてきた後藤の姿を見て、慌てて離れる。
音も立てずに着地した後藤が、閉じた扉の前に立った。
片手を扉に向けた後藤の背中から、熱い空気のようなものが押し寄せる。
時間を置かずに、田中が背中越しに見ていた扉の色に変化が生じた。
手をかざした部分を中心にオレンジ色から赤へ、
やがて赤銅色に変化した扉が拳大の大きさに湾曲し、内側に弾ける。
錠の部分に丸い穴が開いた扉の前で、後藤が振り返った。
「覚悟はいいかな、田中っち?」
後藤はいままで見せたことのないような真剣な視線を、田中に向ける。
唐突な問いかけに、田中は意味も分からずに慌てて頷いた。
それを見て満足したように破顔すると、
再び背を向けた後藤の手がレバーにかかり、錠の壊れた扉をゆっくりと開いた。
- 291 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:10
- 後藤が開けた扉からはじめに目に入ってきたのは、白衣を着た女の姿だった。
地震にでもあったように物が散乱している車内で背を向けている、
女と対峙するように奥に立っている亀井の足元には、血を流して倒れている男。
血で汚れたナイフを手に微笑んでいる亀井の顔を見て、田中は息を呑む。
「ひさしぶりだねぇ、圭ちゃん」
後藤は車内の惨状を予想していたのか驚いた様子もなく、
街中で偶然見かけた友人に声をかけるように、嬉しそうな声を出した。
白衣を纏った女が振り返り、後藤に苦々しそうな顔を向ける。
「あんたがこんなとこまで出張ってくるなんてね」
目の間の女が、保田圭らしい。
田中は嬉しそうに話していた亀井の表情を思い出す。
ここに来るまでの車中で、
高校に入るまで一緒に暮らしていたと亀井に聞かされていた。
後藤から視線を外した保田が、田中を一瞥する。
大きく強い光を放つ目が印象的だがその眼差しはどこか冷たく、
物をみるような視線だった。
- 292 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:10
-
「おとなしく石棺の管理人やってると思ってたのに。
あんたが吉澤の代わりってわけ?」
「こんな若さで隠居してたら、たまには刺激も欲しくなるってもんだよ」
再び視線を向けた保田に、後藤は肩をすくめた。
「それによっしいは関係ないよ。
後藤は面白いものが見れるっていうから案内しただけ」
後藤は楽しそうに、保田の背後を顎で示した。
「何で絵里の前からいなくなったんですか?」
不意に発した亀井の言葉に、田中は眉をひそめた。
亀井の視線が田中の表情を捉え、口元を上げる。
「れいなのいる学校に入るまで、保田さんとはずっと一緒にいたんだよ。ねっ!」
嬉しそうにニコニコと言った亀井に、保田は溜め息を吐いて向き直った。
「前にも言わなかったっけ? 私はあんたの保護者じゃない。
あんたのことは研究対象としてそばに置いてただけなんだから、
懐かれても困るんだよ」
吐き捨てるように言いながら保田はうんざりしたような表情で、言った。
- 293 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:11
- 予想外の反応に驚いたのか、亀井はきょとんとした顔で保田を眺める。
「じゃあなんで……絵里のこと引き取ってくれたんですか?」
「あんたの能力は珍しかったし、初めての研究対象としては悪くなかった。
私があんたのことを心配して引き取ったとでも、思ってたの?」
バカにしたように言った保田の背中を見ながら、
田中は身体が熱くなるのを自覚した。
どんな事情があるのか知らないが、保田の言葉には
亀井に対する思いやりの欠片もない。
あまりにも冷たい保田の態度に、不快な感情がこみ上げてきた。
「それにしても、一言も無しってのはどうなの?」
感情を言葉にして吐き出す前に、一歩前に出た後藤が言葉をかけた。
非難しているわけではなく、面白がっているような後藤の言葉に保田が振り返る。
「つんくさんに提示された次の研究条件は魅力的だったし、
亀井の能力の解析もほぼ済んでた。他の人に引き継いでも、問題はなかった」
「それで、亀ちゃんのこと置いていなくなったんだ?」
後藤の言葉を、保田は鼻で笑った。
「私の担当は亀井の能力を解析することなんだから、それが終われば用はない。
それともなに? 涙でも流して別れを惜しめばよかった?」
最後の言葉を後ろの亀井に向けて、保田は言った。
- 294 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:11
- 田中は保田の呆れた物言いに、亀井の顔を窺う。
2人の会話を黙って聞いていた亀井は俯くように、床に視線を落とした。
「絵里はただ……」
「科学とは、世界と現象の一部を対象領域とする
経験的に論証できる系統的な合理的認識。
その認識を深めるために、科学者は事実を客観的に見る必要がある。
研究対象への感情移入なんていらないんだよ」
何かを言いかけた亀井の言葉を遮り、
保田は反論を許さないといった感じで言い放った。
「絵里は研究対象なんかじゃなかっ!
そんな小難しいこと言う前に絵里に謝れっ!」
肩を落として俯いたままの亀井を見て、
こみ上げてきた感情を吐き出すように、田中は叫んだ。
怒鳴り声を平然と受け止めた保田は、田中に視線を向ける。
「科学的真理は価値観から自由なんだ。
自分の創意が存分に発揮できる研究条件が提示されれば、
それを研究するのに躊躇する必要なんかない。
ままごとに付き合ってる暇なんてないんだよ」
保田の視線を、田中は正面から受け止め睨み返した。
なにかが間違っている。
田中は見下ろしているような保田の顔を強く、睨みつけた。
絶対に引いてはいけない。
「……確かに、命題の真偽が価値観に依存しない物を対象とするのが科学だけど」
割り込んできた後藤の言葉に、保田が視線を逸らせる。
つられるように、田中も横にいる後藤に顔を向けた。
「ほんとにそれだけなのかな?」
口元に笑いをたたえた後藤は片手を腰に当てて、目を細めていた。
- 295 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:11
- なぜそんな顔をしていられるのか。
口をついて出そうになった言葉を飲み込み、田中は後藤の横顔を眺めた。
「科学的真理は価値観から自由だけど、研究者はそうじゃない。
いかなる価値を実現するために自己の知的能力を役立てるのかを、
真摯に考えることが必要になる。
だけど専門的な研究は細分化されて、個々の研究に没頭する科学者は
それを見つけることができ難い。
そんなときに、つんくに理想っていう価値を提示された」
言葉を切った後藤は髪をかき上げる。
「圭ちゃんの行動は、精神的な空疎間を埋めるためのものじゃないの?
科学的真理がどうとかじゃなく自分を満足させるために亀ちゃんを捨てて、
計画に加担したんでしょ?」
笑いを浮かべながら問い掛けるその両の目の奥に、
異質で異様なものが身を潜めている。
後藤の横顔を盗み見ていた田中はなぜかそんな気がして、
感情の熱が冷めていくのを感じた。
「……だからなに?」
黙ったまま後藤の言葉を聞いていた保田が、低く抑えた声を出した。
「真理を追究したその対価として、正当な評価を期待するのがおかしい?
だいたいつんくさんがやろうとしてる計画自体の評価なんて、関係ないんだよ。
発見した事実の持つ重みだけが、社会体制や時代を超えて保たれる。
それがどこでどんな目的で研究されていたかなんてのはたいした問題じゃない。
私は自分の能力を使って研究をするだけ、
亀井のことで私が責められるいわれはない」
どこか自棄になったように一気にまくし立てた保田の瞳は、
確信に満ちているというよりも狂気に彩られているように、見えた。
- 296 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:12
- 強い光が宿った保田の視線を受け止めながら、後藤は小さく頷いた。
「そうだね。圭ちゃんが選択した行動は誰からも非難される物じゃないとは思う。
でもね、その人の存在と価値は現実のなかでどう振舞ったかによって決定される。
どの道を選ぶかは圭ちゃんの自由だけど
……選択した行動の責任は、取ることになる」
こめられた言葉に危険を感じたのか、保田は身体を引き、一歩後ろに下がった。
「私に手を出したら、HP全体を敵にまわすことになるよ」
「あんま久しぶりなんで、忘れちゃったかな?
証拠なんて、灰も残さず消せるんだよ?」
楽しげに言った後藤がだらりと下げた右手の先で、指を鳴らす。
その音がコンテナの中に響き、ごくりと保田がつばを飲み込んだ。
- 297 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:12
- コンテナの中の空気が、ナイフで切れそうなほどの緊張感に固まった。
重苦しい空気に耐え切れなくなった田中が、無意識に睨み合っている2人から離れる。
トレーラーの装甲にあっさりと穴を開けた後藤が本気になれば、
人間の身体など文字通り、跡形も残らないだろう。
乗っているトレーラーどころか道路ごと、灰にすることができる。
強がりやはったりではなく、後藤にはその力がある。
田中はそう考えながらも、後藤が本気でしかけるとは思っていなかった。
確かに保田の行動と言動は田中の理解を超えているが、
仮にも亀井の親代わりになっていた人間だ。
まさか殺すはずがない。
僅かに姿勢を変えた保田の足が床に散らばっている書類を踏み、乾いた音を立てた。
張り詰めた空気を和らげるように、後藤が小さく息を吐いて肩をすくめる。
「まっ、後藤がやるわけじゃないけどね」
目を細めた後藤の視線が保田を通り越して、背後に向けられた。
「……話は終わりましたか?」
保田が背後からかけられた声に振り向くと、
いつのまにか間近に立っていた亀井と目が合う。
「さようなら」
そう言って微笑んだ亀井の手が、一閃した。
- 298 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:13
- ――――
返り血を浴びた亀井が、床に倒れた保田を見下ろしていた。
「絵里っ! あんたなにやったかわかってると!」
田中の声にも、亀井は顔を上げない。
倒れている保田をジッと見つめるその口元に、笑いがかすめただけだった。
まったく理解できない亀井の行動に、心の底が冷えていく。
その姿に感じた得たいの知れない恐怖を否定するために、
田中は亀井に詰め寄ろうとした。
「……世界は素晴らしい場所で、戦う価値がある」
足を踏み出した田中に、沈黙を破って亀井が口を開いた。
「れいなはさ、そう思ってるでしょ?」
顔を上げた亀井が、いつもの柔和な笑みを浮かべる。
突然の問いかけに足を止めた田中は、黙ったまま亀井の顔を睨んだ。
- 299 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:14
- 何を言いたいのかわからない。
怪訝な表情の田中に向けて、亀井は小さく笑った。
「前にも言ったことあるよね? 絵里の能力。
もう1人の自分が殺されたときに、記憶が流れてくるって話。
死ぬ直前は凄くいい気分になるって言ったけど、
言い忘れてたことがあるんだよね。
確かに意識が消える直前は、いい気分になる。だけどその後は全部同じ。
気が付くと世界の端っこで1人、座り込んでるんだ。
そのときはね、世界中にたった1人置いてかれたみたいに心細くなる。
そして、叫ぶんだ。“誰か助けて!”“置いてかないで!”ってね。
でも返事はない。そして理解するんだ……」
そこまで言うと、田中に向かって二コリと笑いかける。
「あぁ……絵里は独りなんだ、って」
愉快げに笑っている亀井の顔を田中は瞬きもできずに、見つめた。
突然の告白になにをどう考えていいのか、分からない。
そんな田中の反応を楽しむように、亀井は閉じた口の端に笑いを滲ませる。
「絵里にこんな能力を授けてくれたこの世界は、
どこまでも冷淡で無慈悲なものなんだよ。
保田さんに必要だって言われたときは正直嬉しかったけど、
結局勘違いだったみたい。
おかしいとは思ったんだよね。
データを取るからって実験の度に何度も何度も殺されちゃうし、
すごく嫌だったけど保田さんは喜んでるし。
そういえば自分で自分を殺したことも……」
「もうやめてっ!」
嬉しそうに話し続けている亀井の顔を見ていられなくなり、田中は叫んだ。
亀井のなかで、何かが決定的に間違ってしまっている。
言葉だけでなく、思考も、感情も。
落ちた沈黙に何かを言わなければいけないと思って田中が視線を向けると、
亀井は浮かべている笑顔には似つかわしくない昏い瞳を、
田中の目の奥を覗き込むように向けていた。
「……絵里は、独りじゃなかよ」
その言葉は、不意に口をついて出た。
黙ったまま見つめている亀井の眼差しは静かで、痛ましかった。
真っ直ぐに向けられていた亀井の瞳の奥が僅かに揺れているように感じて、
田中は視線を床に落とす。
だから田中は、亀井がどんな顔をしているのか知ることが、出来なかった。
- 300 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:14
- 下を向きながら唇を強く噛んでいた田中は、近づいてくる人の気配に気が付いた。
顔を上げようとした田中を、近づいた亀井が抱きしめる。
亀井は背中にまわした両腕で、田中の身体をやさしく抱きしめた。
「れいなは、やさしいね」
慈しむような声に顔を上げようとしたが、それはできなかった。
頭の後ろに添えられた手が強く引かれる。
次の瞬間脇腹に感じた激烈な痛みに上げた悲鳴は、
押し付けられた亀井の胸の中でくぐもったものに変わった。
何が起こったのかわからないまま、勝手に震え始めた膝が身体を支えられなくなり、
倒れ込みそうになった田中は目の前の亀井に必死でしがみついた。
「……でも、弱い」
耳元でささやかれた亀井の声に顔を上げようとした田中の全身を、激痛が走り抜ける。
限界を超えた痛みに全身に走る神経が悲鳴を上げ、
しがみついていた手から力が抜けた。
- 301 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:14
- 田中は滑り落ちるように、亀井の足元に倒れ込んだ。
あまりの痛みに遠くなりかけた意識のなかで、脇腹に震える手を伸ばす。
ぬらりとした感触のなかをまさぐっていた田中の手が、
ふいに固く冷たい物に触れた。
自分の身体から生えた異物を確認しようと力を入れると再び激痛が走り、
田中の身体が痙攣する。
「あんまり動かさないほうがいいよ」
頭上から聞こえてきた亀井の声を遠くで意識しながら、
離してしまった手を再び伸ばす。
漂い始めた鼻をつく強い臭気に吐きそうになりながら、
刀身の半ばまで刺さったナイフを、感覚のなくなっていく手で確認した。
田中は歯を食いしばりながらナイフの柄を握ろうとしたが、
それだけで痛烈な痛みが全身を襲い、流れ出している血で滑った手が離れる。
脇腹に感じる灼熱感とは反対に、
血の気が引いていく手足が冷たく無感覚になっていく。
むせ返るような自らの血の匂いのなかで、田中はきつく目を閉じた。
- 302 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:15
- 目を閉じた田中の耳に、カチカチというおかしな音が聞こえ始めた。
最初は何かがぶつかっているのかと思ったが、すぐに音の正体に気づいた。
自分の歯が、鳴っているのだ。
強く噛み締めて止めようとしたが、無駄だった。
震えは顎へと、そして全身へと伝播していく。
(死ぬ……の?)
田中は自問しながら、それを感じた。
背後に潜んでいる存在。
死の淵へと突き落とされる前だけに現れるそれを、
確かな存在として感じる。
後ろに顔を向けても背後のそのまた背後へと隠れてしまうその存在を、
田中はかつて経験したことのないほどの実感を伴って、感じることができた。
間近に死が迫っている。
だが狼狽しているのでも、恐怖を覚えているわけでもない。
全身に走っていた細かい震えが次第に遠のいていく。
痛みを甘受した田中の身体が一切の抵抗を諦め、
次々と襲っていた強烈な痛みの波が緩やかに消えていった。
次第に無感覚になっていく身体に応じるように、
なにかをしようという気力も失われていく。
泥のように溶けていく意識の中で、
いま感じている感覚を何度も繰り返しただろう亀井の顔が浮んだ。
圧倒的な無気力の圧力に押し潰されそうな頭の片隅で、
田中の感情が微かに息を吹き返す。
亀井に刺されたという驚きと、それを遥かに上回る悔しさ。
自分の言葉が届かなかった。
助けられるばかりで、助けることができなかった。
そのことがただ、悔しい。
田中の閉じた瞳の端から、涙が頬を伝った。
- 303 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:15
- ――――
遠くを走っている車の音が、静かにコンテナの中に響いている。
モニタの淡い光と天井に開いた穴から入る僅かな街の灯りだけが、
照明の落ちた車内を照らしていた。
冷たい微笑を見せて立つ亀井を残して、後藤はコンテナから降りた。
目を凝らさないと見えないような細い雨が降るなか、
道路の真ん中に立つと空を見上げる。
後藤は目を閉じて音もなく降り注いでいる雨粒を、全身で受け止めた。
今回のことでHPに追われることになるだろうがそれでも、かまわなかった。
これで、無為に過ごした四年間を取り戻すことができる。
ようやく動き始めた現実に、失われた保田の命も忘れて、
後藤は堪えきれずに声を殺して笑い出した。
- 304 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:16
- 遠くから聞こえ始めたパトカーのサイレン音に笑いを収め、振り返った。
「亀ちゃん。そろそろ行くよ」
頭上から差し込んでいる僅かな光をスポットライトのように浴びながら、
亀井が僅かに顔を上げた。
小さく頷いた亀井が、再び足元に視線を落とす。
「人は自分の持っていない物に憧れるって、ほんとだね」
亀井は笑いを張り付かせたまま、足元で痛みに耐えるように
身体を縮めている田中のそばにしゃがみこんだ。
「ちょっとのことで揺れるれいなの感情はとっても、綺麗だった。
絵里はね、そんなれいなが好きだったんだよ。
怒ってるれいなも、笑ってるれいなも、困ってるれいなも、
それに……泣いてるれいなも」
僅かに口元を歪めてささやいた亀井は、苦痛に歪む田中の顔を愛おしそうに眺めた。
倒れている田中に顔を寄せ、目を閉じたその頬に舌を這わす。
「れいなの涙はおいしいねぇ」
微笑みながら立ち上がった亀井は踵を返して、田中から離れた。
- 305 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:16
- トレーラーから降りてくる亀井を見ながら、後藤は眼を細める。
「行こうか」
「はい」
微笑みを保ったまま目の前に立った亀井に声をかけて、歩き出す。
亀井は保田の居場所と引き換えに、吉澤の仲間になることを承諾した。
それだけなら分からなくもなかったが、
田中を連れて行くと言い出したのも亀井だった。
後藤は防音壁に作られた緊急用の扉の前で足を止め、振り返った。
まるで無人のように見えるコンテナの中を一瞥してから、
目の前に立っている亀井に視線を移す。
どこまでも楽しげに微笑んでいる亀井の視線を、捉えた。
なにを考えての行動なのかは、後藤にも分からない。
感情に振幅がなく、一つのところに留まっているということは、
無表情でいるのと変わらない。
常に笑っている亀井からは、心中を読み取ることはできなかった。
「いいの?」
「ええ」
短く返事を返した亀井の緩んだ頬を降り続いている雨が伝い、落ちていった。
田中に止めを刺さなかったのは、なぜなのか。
聞いてみたい衝動を、後藤は細く吐いた息と共に捨てる。
どんな理由であっても言葉で表現されるものに、意味なんてない。
それは行動によって、示すべきだ。
亀井に背を向けた後藤は雨に濡れたノブを捻り、扉を押し開けた。
- 306 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:16
- ――――
- 307 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:16
- 以上で第11話終了です。
- 308 名前:Route 66 投稿日:2006/06/15(木) 21:17
- >>275 愛毒者 様
せっかく褒めて頂けたのに、こんなことになってしまいました。
>>276 名無飼育さん 様
こわいですけど、悪い人ではありません。
>>277 名無飼育さん 様
もう一組残ってました。
- 309 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/16(金) 00:25
- 亀井さんは何を求めているのか、あるいは求めるものすらもないのだろうか…
答えはどこから始まってどこにつながるんでしょう
- 310 名前:愛毒者 投稿日:2006/06/16(金) 14:35
- 更新お疲れ様です。
まさか二人にそんな因縁があったとは。
過去との決別を引き換えに選んだ先は修羅の道か。
私には本当に大切だからこそ巻き込まない為に、突き放すように
あえてそうしたように見えて、いっそう悲しみを誘います。
頬を伝う雨はきっと…。
次回、第12話も楽しみにしています!
- 311 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/17(土) 22:22
- 亀井さんの過去は想像以上に重いっすね…。
悲しき凶刃に倒れた○○さんが助かる事を祈りつつ、次も楽しみにしてます。
- 312 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/18(日) 23:53
- 傍観者の立場でなくなったごっちんが恐いです
- 313 名前:さみ 投稿日:2006/06/22(木) 13:03
- 最高です。
更新がんばれ!
- 314 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:29
- ――――
渦を巻いている厚い灰色の雲の下にあるのは、街を構成している複雑な幾何学模様。
窓から見える小雨の降る都会の景色は、どこか沈んだ印象を与える。
高層ビルの最上階に近い部屋のなかで、吉澤は外の景色を眺めていた。
普段は会議室として使用されている部屋からはテーブルも椅子も片付けられ、
何もない空間に1人、吉澤だけが残されている。
目の前に広がる光景が自分のいまの心境に相応しいかどうか考えようとした吉澤は、
不意に湧き上がった笑いに無意味な思考を止め、現実的な問題を考えた。
すでに、保田の死亡が確認されている。
トレーラーに残っている映像から手配がかかるだろう後藤と亀井は、この街を離れた。
通話記録から自分の名前があがるのも時間の問題のいま、
一刻も早くこの場を離れなければならないと分かってはいたが、
最後にやり残したことがある。
吉澤は自らの視界を埋める景色に、再び意識を向けた。
目の前の窓ガラスには降り続く雨が流れ落ち、膜を作っている。
高層階から見下ろす人間が造り上げた人工的で壮大な景色も、
灰色の空の下で色あせて見えた。
- 315 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:30
- 不意に聞こえてきた廊下の喧騒に、吉澤は振り返った。
視線の先で、乱暴に扉が開く。
「どういうことっ! 約束が違うじゃない!」
「ちょっと落ち着こうよ、梨華ちゃん」
腕にしがみついている男を振り払いながら部屋に入ってきた石川を見て、
驚いたような表情を作った。
殴りかかりそうな勢いで近づいてくる石川に、両手を上げて降参のポーズをとる。
「ちゃんと理由は説明するよ」
「どんな理由があるっていうの!」
石川は怒りに紅潮した顔で、吉澤の胸倉を掴んで詰め寄った。
顔をのけ反らせた吉澤は視線を外して、
石川の後を追って入ってきた武装した男達を一瞥する。
つられた石川が周囲に視線を走らせた一瞬で、
隠し持った手錠を胸倉を掴んでいた手にかけた。
気が付いた石川が一度手錠のかかった自分の腕に視線を落とし、顔を上げる。
「どういう……こと」
戸惑いに揺れている石川の瞳に一瞬走った胸の痛みは無視して、
渾身の力を込めた拳を鳩尾に入れる。
不意を突かれた攻撃に、石川の身体がくの字に折れ曲がった。
膝をつく前に石川の細い首を掴み、部屋の中央へと投げた。
受身も取れずに転がった石川に、両側に並んだ男達が一斉に銃口を向ける。
床に両手をついて顔を上げた石川に、吉澤は伸ばした右手を向けた。
「梨華ちゃんのことは利用しただけ。ぜんぶ……嘘だったんだよ」
右手の先に光輪が浮び、中心に蒼い光が集まり始める。
「……よっしいっ!」
ギリッと音を立てそうなほど強く歯を食いしばった石川が飛び掛ってくるより早く、
吉澤の手から蒼い光が放たれた。
- 316 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:30
-
第12話
You'd Be So Nice to Come Home to
- 317 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:30
- ――――
「なんか食べる?」
メニューから顔を上げた飯田は、向かいの席に座っている久住に声をかけた。
「……いいです」
半分目を閉じながら返事をした久住から視線を移し、
広い店内を見渡してウエイターを呼ぶと2人分のコーヒーを頼んだ。
恭しく一礼をしたウエイターが下がるのを待っていたかのように、
椅子に背を預けていた久住の目蓋が落ちる。
飯田はそのようすを見ながら苦笑して、水を飲んだ。
2人は高層ビルの立ち並ぶ西新宿にいた。
地下街で藤本と久住を見つけたまではよかったが、
3人が出る前に出口が塞がって逃げられなくなった。
上を走っていた車が何台か落ちて大騒ぎなり、
集まってきた警察によってすぐに助けだされはしたが、
そのまま飯田たちは拘束された。
- 318 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:30
- 運ばれてきたコーヒーを飲みながら、飯田は人の少ない店内を見回した。
1階にある喫茶店は朝食の時間も終り、
午前の早い時間のため2・3人の客がいるだけだ。
抑えた照明、座り心地の良い椅子、物静かな店員の態度。
落ち着いた雰囲気の店の中央にはグランドピアノが置かれている。
そこから流れてくる自動演奏の音楽が、店内に静かに流れていた。
HPから連絡が入り、飯田たちが解放されたときにはすでに日が昇っていた。
無事に逃げ切ったという新垣からのメールが届いたが、
渋滞に巻き込まれ思うように動けないらしい。
飯田は迎えに行った藤本が戻ってくるまで、久住と2人で時間を潰していた。
久住の背後にある大きな窓ガラスの向こうには樹木が植えられ、
その隙間から通りのようすを眺めることができる。
窓の外にはパトカーや救急車がいそがしそうに行き来していたが、
それでもさっきよりは減っていた。
深夜の繁華街で突然道路が陥没した為、テレビの中継車も何台か通った。
いまごろは大騒ぎになっているだろうと人ごとのように考えながら、
飯田は欠伸を噛み殺した。
- 319 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:31
- ――――
雨が降っている表通りを、走っている車が水玉を蹴散らしていく。
僅かに隙間を開けていたカーテンを戻し、中澤は室内へと目を向けた。
朝とはいえ降っている雨のため、室内は薄暗い。
昨日から一睡もしていない中澤は、
いつもなら自分が寝ているはずのベッドを見ながら、小さく欠伸をした。
部屋の中央に置かれたベッドの上には、
静かな寝息を立てている2人が寄り添うように眠っている。
一度も目を覚まさずに眠り続けている道重を見ながら、中澤は能力を発動した。
道重の身体を包むように見えていた光も徐々に薄くなり、
いまは完全に見えなくなっている。
辻の与えた薬は、その効果を発揮したようだった。
仲良くベッドに並んで寝ている道重と辻に毛布をかけて、中澤は静かに部屋を出る。
隣の部屋に入ると冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出して、
つけっぱなしになっていたテレビに視線を向けてから、階下へと降りた。
- 320 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:31
- 開店前の店に入ると棚の本を並べ替えている紺野を見ながら、
カウンターの上に腰を下ろした。
両手に持った本を交互に眺めている紺野を見ながら、ペットボトルに口をつける。
「なぁ紺野……やりすぎなんと違うか?」
「なにが……あぁ、基地のシステムがダウンしたって奴ですか。
原因不明って言ってましたね。
誰がやったか知りませんが、いい薬になったんじゃないですか?」
中澤は機嫌のよさそうな表情を向けた紺野を見ながら、
テレビの中で深刻な表情を見せていたアナウンサーの顔を思い浮かべる。
遠くから映している米軍基地の映像を背景に、
首都圏にある米軍基地の通信と警備システムが停止したと伝えていた。
ほぼすべてのチャンネルで、未明に起きたこの事件の速報を流していた。
「犯人、わかりますかね?」
笑いながら言った紺野は、持っていた本を棚へ戻した。
中澤はまるで人ごとような紺野の態度に、溜め息を吐く。
システム自体は一時間程度で復旧したらしいが一時的にとはいえ、
張り巡らされた警備網が丸裸になったのだ。
電子的攻撃で簡単に潰されてしまった米軍の面子は丸つぶれだろう。
いまごろは犯人探しに必死になっているだろうが、
紺野なら足がつくようなへまはしないだろうと考えて、
中澤は雑然と置かれた本の山を眺める。
「……松浦たちは、どうなったんかな?」
「帰ってきてから忙しくて追えてないんですが、大丈夫だと思いますよ。
開店の準備が終わったら一応確認してみます」
そう言いながら、紺野は窓に下がっていたブラインドを上げた。
- 321 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:31
- かかっている閉店の札を外しに紺野が扉に向かったところで、
外側から扉が乱暴に叩かれた。
思わず中澤と顔を見合わせた紺野は、首を傾げつつ扉に向かう。
「まだ開店前なのに……」
眉をひそめた紺野が扉を開けた途端、人が倒れこんできた。
驚いて思わず後ろに下がった紺野の足元に、入ってきた女がうつ伏せに倒れる。
「石川っ!」
床に倒れ込んだ石川を見て、中澤が声を上げながら駆け寄った。
苦しそうに荒い息遣いを見せている石川の身につけているスーツには、
ところどころに焼け焦げた跡が残っている。
銃弾が貫通したような小さな穴も幾つか空いていた。
「よっしいが……」
「吉澤? 吉澤がどうしたっ!」
上体を抱き起こされた石川が発した小さな声に、中澤が声をかけた。
小さく咳き込んだ石川の震える唇が、僅かに開く。
「早く……飯田さんを見つけて……」
ようやくと言った感じで言った石川の手が、中澤の腕を強く握った。
- 322 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:32
- ――――
降り続いている雨に、窓ガラスを通して眺める光景は白っぽく霞んでいる。
飯田は椅子の背に身体を預け、窓から見える空を見ていた。
さっきから報道関係のロゴが入ったヘリコプターが何台か、通過している。
はじめは道路の陥没現場に向かっているのかと思ったが、よく考えると方向が違った。
ほかで何か事件であったのかと思いながら飯田がカップを口元に運んだとき、
濁った空の一角に、突然ぽつんと白い閃光が現れた。
激しい振動に続いて爆発音が轟いて目を覚ました久住が身を竦ませるなか、
飯田はコーヒーを飲み干す。
「すぐ戻るからここにいて」
飯田は窓の外に視線を向けている久住にそう言い残して、店を出た。
- 323 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:32
- 建物を出た飯田の頭上に、雨粒と一緒に砕けたガラスの破片が降り注いでくる。
飯田の正面に立ち並ぶ高層ビルの1つが、
巨大な爪で抉られたように削り取られていた。
支えを失った上階部分が、まるでTVの中の映像のように音を立てて崩れていく。
地鳴りと共に揺れる大通りを、爆発音に耳を澄ませながら走り出した。
すぐに再び轟音が轟いて走っていく飯田の正面、
倒壊したビルの向こう側に黒煙が上がった。
何かが爆発しているのは確かだ。
最初に頭に浮んだのは、軍や警察が使用する爆薬による爆発だった。
だが飯田の嗅覚は、それを否定した。
雨によって臭いが薄れるとは言っても、爆薬を使用すれば特有の臭いが発生する。
それが無い。
これだけの損害を与えるだけの爆薬なら、臭いを消すことなど不可能だ。
(能力か?)
爆心地を目指して崩れていく街を走り抜けていく飯田の前には、
局所的に地震が発生したような光景が広がっていた。
すぐに、逃げ惑う群集が、飯田の進路に現われる。
爆心地に向かう飯田は人の流れに抗いながら、速度を落とさず進んでいった。
- 324 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:32
- 爆心地に辿り着いた飯田はあまりの光景に、足を止め立ちすくんだ。
アスファルトの道路に巨大な穴が開き、地下に広がる通路が剥き出しになっている。
周囲の建物も爆風を受け、ほとんど原形を留めていない。
頭上数十メートルから降り注いだだろうビルのコンクリート片が、
巨大なオブジェのように乱立していた。
そして、多くの人々が倒れていた。
その数は、十人や二十人ではない。
死傷者は幾らでも転がっていた。
生きている者も何らかの傷を負って、血を流している。
それらのおびただしい血が降り続く雨に流され、地面に広がっていく。
そんな地獄の中心、爆心地の真ん中に、たった一人無傷で立っている人間がいた。
巨大な石塊の頂きにいるのは、白いワンピースを着た若い女。
灰色の空と朱色の地面の間で降りしきる雨に打たれて僅かに、顔をうつむかせていた。
- 325 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:32
- 天上から舞い降りるかのように、女が石塊から降りる。
ふわりという効果音がなんの違和感もなく付け加えられるような、優雅なものだった。
地面に降りた女の足元で、倒れていた男が助けを求めるように手を伸ばした。
気がついて僅かに顔を向けた女が、一瞬だけ間を置いて右手を差し出す。
女が手を握った途端、男の身体が宙を舞った。
男の身体が女を中心に半円を描いて地面に叩き付けられる。
一瞬で叩き潰された男の血が飛び散り、白いワンピースを赤い斑点が汚した。
呆気に取られた飯田の視界の先で、女が顔を上げた。
邪気のまったく無い笑顔で、
身動きもできずに恐怖の表情を浮かべている人々を見渡す。
ゆっくりと、瓦礫の中を歩き出した。
足から血を流して動けないでいる若い女性に近づくと、
無造作に手を伸ばしてその喉を掴んだ。
聞こえるはずのない音が響き渡る。
おかしな方向に首が曲がった女性を壊れた人形のように投げ捨てて、
逃げ惑う人々の間を新たな犠牲者を求めて歩き始める。
次々と倒れていく人々を目の前にしながら、飯田の眼は女の姿だけを追っていた。
記憶の中でしか存在しないはずの、忘れてはならないその姿。
その顔立ちは、飯田の記憶の中よりも、ほんの少しだけ大人になっていた。
- 326 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:33
- 女は崩れた建物の上を、散歩でもしているような顔で歩いている。
次々と逃げ惑う人々に、その手を伸ばす。
飯田は立ち尽くしたまま、なにもできずにその凶行を見ているだけだった。
驚きと当惑と喜びと、恐怖。
胸の中でさまざまな感情が、次々と現れては消えていく。
「なっち……」
つぶやいた飯田の頭の中で、安倍なつみの記憶と共におぞましい感触が甦える。
震え始めた自分の右手首を、左手で強く握った。
しかし次第に広がっていく自分の身体の震えを、どうすることも出来ない。
ただ自分の身体を支えているのが、やっとだった。
殺戮を繰り返す安倍が、幼い女の子に近づいていく。
女の子は降りかかる運命から逃れるために、
安倍から離れようとよろめきながら歩き出す。
瓦礫の上を舞うように移動しながら、安倍はその背中を追っていく。
「……やめろぉっっ!」
飯田は叫びながら女の子に駆け寄った。
安倍の伸ばした手が届く前に女の子を右腕で抱え、離れる。
「なっち!」
振り向いた飯田が、安倍と対峙するように向かい合った。
安倍が足を止め、飯田の顔を見つめる。
目の前の人物が誰だか思い出そうとするように首を傾げ、僅かに眉を寄せた。
「なっちっ!」
もう一度叫んだ飯田の言葉に、安倍が目を細める。
飯田は向けられたその瞳に圧されるように、後ろに下がった。
安倍の唇がぐにゃりと歪む。
それが笑ったのだと、飯田には即座に理解できなかった。
声も出さずに飛び掛ってきた安倍の手を何とか身を捻ってかわすと、再び距離を取る。
抱えている女の子が狂ったように泣き叫んでいることに気がつき、
飯田は目の前に立っている安倍に背を向けて逃げ出した。
- 327 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:33
- 飯田はそれほど爆破の被害を受けていないビルを見つけ、そこに飛び込んだ。
ビルから外に逃げようとする者。地下階へ潜ろうとする者。
なにが起こっているのか理解できずに、
あるいはどうしていいのか分からずに目を見開いてビルの外を眺めている人々。
さまざまな人間でごった返しているロビーの中をかき分けて、
誰も座っていない受付の裏側で、抱えていた少女を下ろす。
「ここでジッとしてて、すぐに助けが来る」
安心させるように泣いている少女の頭に手を置いてそう言うと、
飯田は非常階段へと走った。
内部に残っていた人間の避難は終わっているのか、無人の階段を駆け上がる。
- 328 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:34
- 飯田は施錠されている扉を無理やり開けて、屋上へ出ると縁へと走り寄る。
近づいてくる飯田に驚いたのか、羽を休めていた烏が一斉に飛び立った。
柵に手をかけて地上を覗き込むと
さっきまでいた爆心地から逃れようとする人々の群れが、道路にあふれ返っていた。
誰もが自分に降りかかってくる死から逃れようと、もがいている。
飯田は目を凝らして探したが、爆心地の周辺に安倍の姿は見つからない。
パトカーと救急車のサイレンが聞こえ始めてから、ようやく飯田は柵から手を離した。
柵を背にして空を見上げた飯田は、落ちてくる銀色の雨粒を全身で受ける。
なぜ逃げたのか。
最初に思ったのはそれだった。
(女の子の命を助けるため?)
脳裏に浮んだその考えを、飯田は一瞬で否定した。
そんなものは、ただのいい訳だ。
安倍に会えて感じている自分の感情が、わからない。
そもそも安倍が生きているわけがない。
彼女は死んだ。殺された。
だが見間違いや能力による幻覚ではない。
さっき目の前に立っていたのは確かに、安倍だった。
頭の片隅にあったかすかな疑念や不安が、飯田の中で瞬く間に膨れ上がってゆく。
そしてあの表情。
安倍は笑っていた。心底嬉しそうに。なにかを欲しそうに。
そこまで考えて、飯田は気がついた。
安倍が欲しがっているのは、自分の命だ。
殺しに来たのだと、思った。
- 329 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:34
- どれだけの時間がたったのか、
呆然と立ち尽くしていた飯田は屋上の扉が開く音に視線を向けた。
開け放たれた扉の向こう側、四角い光りの中に立っている安倍の姿を見て、
飯田はがくりと膝を折り、その膝を雨に濡れた地面につく。
ゆっくりと近づいてくる安倍の姿を見ながら、死の恐怖が飯田の全身を捕らえる。
背中が波打ち、小刻みな震えは両肩にまで伝わった。
彼女も死の恐怖を味わいながら死んでいったのだろうか。
それとも、自分の死を意識する間もなく死んだのか。
「なっち……」
目の前に立っって嬉しそうな笑顔を浮かべた安倍の手が伸び、飯田の喉を捕らえる。
首を握りつぶされそうなほどの握力に、目に映る景色がぼやける。
恐怖がどす黒い雲となり、飯田の内側に満ちてゆく。
「感動の再会ってとこですか、飯田さん?」
聞こえてきた声に安倍の背後へ視線を向けると、
屋上の入り口には吉澤と2人の少女の姿があった。
- 330 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:34
- ――――
席を移った久住は追加で頼んだケーキを突つきながら、窓の外を眺めていた。
初めから少なかった客は窓から見える黒い煙を見て、全員外に飛び出していった。
眠気はなくなったが財布を持って来ていないため、
外に行きたくても店を出るわけにはいかない。
ときおり赤い光りの明滅が通り過ぎていく窓の外を眺めながら、
久住は残っていたケーキを口に入れた。
「小春ちゃんっ!」
店の入り口に視線を向けると、紺野と新垣そして辻が近づいてくるところだった。
「飯田さんはどこっ!」
「あの、ここにいろって言ってあっちに……」
走り寄ってきた紺野の紺野の剣幕に、久住はたじろぎながら外を指差した。
「まずいな……中澤さんは来なかった?」
「誰も来てませんけど」
「だから一緒に行くって言ったのに……」
黒煙の上がる空を見上げながらつぶやいた紺野は、テーブルの上のコップを掴む。
返事をしながら、久住は横に立っている新垣に顔を向けた。
「藤本さんと松浦さんは一緒じゃないんですか?」
「途中で分かれて爆発のあった場所に向かってる」
考え込んでいる紺野と、不安そうな顔を見せている辻を見ながら、
落ち着かないようすの新垣は早口で答えた。
「飯田さん探してるんですよね? 携帯持ってないんですか?」
「さっきからかけようとしてるんだけど、使えないんだよ」
新垣の言葉に久住が自分の携帯を確認すると“圏外”の表示になっていた。
目の前で飯田がメールを受けていたのを見ていた久住は、首を傾げる。
「この辺一帯が妨害されてる。やっぱりガキさんが頼りだよ」
紺野はそう言って、手に持っていた水を一気に飲み干した。
- 331 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:35
- ――――
僅かに勢いを増した雨の中、
上を見上げていた吉澤は金属のひしゃげる音に視線を落とした。
変形した柵にめり込むように倒れていた飯田が、血の混じった咳を吐く。
苦しそうに咳き込んでいた飯田が顔を上げた。
近づいてくる安倍に怯えきった瞳を向け、這うようにして柵から離れる。
満面に喜色を浮かべた安倍がその背中に追いつき、襟首を掴むと片手で放り投げた。
「これが……吉澤さんのやりたかったことなんですか?」
なんの抵抗もせずに安倍の攻撃を受け、地面に転がる飯田を見ながら、
嗣永は苦いものを吐き出すように言った。
横に立っている清水も、眉をひそめてその光景を見ている。
「見てて悪い気はしないね」
浮かれたような吉澤の言葉に、嗣永は唇を噛んだ。
逃げる飯田を捕まえ、引きずり起こし、地面に転がす。
弄ぶかのように、安倍は何度も何度も同じことを繰り返していた。
何のために連れてこられたのか疑問に思い始めた嗣永が視線を逸らすと、
吉澤はその視線を捕らえ、微笑んだ。
「もうちょっと見てたいけど、これぐらいにしとこうか」
そう言って顔を向けた吉澤の背後を、人影が通り抜ける。
気がついて振り返った安倍の胸の真ん中を、屋上へ飛び出た人影が右掌で叩いた。
安倍の身体が宙を飛び、屋上の柵にぶつかって小さくはね返る。
「……ずいぶん早かったですね、中澤さん」
振り返った中澤の視線には、抑え切れない怒りが込められていた。
- 332 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:35
- たいしたダメージにはなっていないのか、安倍は表情を変えずに立ち上がる。
それを見た中澤は飯田を庇うように、静かに進み出た。
「……どういうことや、吉澤?」
「あんまり近づくと危ないですよ」
その声を合図に、安倍が雨に濡れた地面を蹴る。
凄まじい速さで襲い掛かってきた安倍に、逃げる間もなく右腕を掴まれた。
つかまれた右腕に力が入る前に方向を逸らし、導く。
安倍の身体が反転し、肩から地面に叩きつけられた。
中澤は身体を転じ、倒されながらも放さない安倍の手を振りほどく。
安倍に掴まれた部分を左手で覆いながら、中澤は距離を取った。
ほんの一瞬だったが反応が遅れた。
鈍く重い痛みの残った右腕から左手を離し、立ち上がろうとする安倍に視線を向ける。
「うちのこと忘れたんか!」
中澤の叫びに反応するように、
安倍は両手を地面についた姿勢から一気に間合いを詰めてきた。
獣のような突進をギリギリでかわした中澤は、背後に抜けていった安倍を振り返る。
安倍の身体がしなやかに宙を舞い、重さを持たないかのように屋上の柵の上に立った。
倒れたときに切ったのか、安倍は口の端から血を流しながら中澤に笑いかける。
小さく舌を出して流れている血を、舐めた。
- 333 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:36
- ――――
遠くで崩れる瓦礫の音と人々の悲鳴が混ざり合い、耳障りに鼓膜を叩いていた。
騒然とした混乱のさなかで、藤本は瓦礫の下で掴んでいる手を強く握り返す。
弱々しい反応しか示さない華奢な手を握りながら、首だけを後ろに向けた。
「亜弥ちゃん、もう少し……」
腹ばいになった状態で、数tはあるだろう巨大なコンクリートの塊を
両手で支えている松浦に視線を向ける。
松浦は歯を食いしばりながら、小さく首を横に振った。
複雑に重なり合った瓦礫の山は、不気味な軋み音を上げている。
これ以上動かせば、藤本のいる空間も押し潰しかねない。
「ちょっと待って、すぐに出して……」
聞き取り難い声とは言えないような唸り声に答えた直後、
藤本の握っていた手から力が抜けた。
- 334 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:36
- 「くそっ!」
握っていた手から零れ落ちた命に湧き上がってきた感情は、
悲しみではなく怒りだった。
瓦礫の間から這い出してきた藤本は、周囲を見渡す。
視界に入るのは、空爆でも受けたように崩れた市街地だった。
救急隊に混じって一般の人も何人か救助に加わっているが、
それでも人力では限界があった。
携帯も通じないため、状況を知らせることができない。
それに連絡が取れたとしても、寸断された道路に重機は入ってこられない。
新垣と別れてここに到着した直後から、藤本と松浦も救助に加わった。
何人かは助けることができたが、その数十倍の命が、いまも失われようとしている。
「行こう……ここに突っ立っててもしょうがない」
沈痛な面持ちで見上げていた松浦を振り返り、藤本は唇を噛んで歩き出した。
- 335 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:36
- ――――
疲れが中澤から体力と集中力を奪い、安倍の動きに対応できなくなってきた。
人間相手なら致命傷となるような攻撃も、
吸血鬼が相手では動きを止める程度にしか効果がない。
「……タバコ控えたほうがええかもな」
荒くなった息を整えるために中澤は足を止めると、
一度肺に残っている空気を吐き出す。
動きを止めた中澤を見て、安倍が正面から突進してきた。
中澤は左足を引きながら伸ばしてきた安倍の両腕に内側から手刀を当て、
巻くように外側に逸らす。
手を離さずに一度大きく後ろに下がり、引き込む。
安倍の態勢が前に崩れた。
中澤は右足を強く、大地に打ちつける。
その場で深く腰を落とし、伸ばした両掌を目の前の安倍の腹に当てた。
「ハッ!」
発した呼気と共に、安倍の動きが止まる。
中澤が後ろに下がって手を離すと、安倍の身体が前に崩れ落ちた。
- 336 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:36
- 中澤は肩で息をしながら、倒れた安倍を見下ろした。
持っている技で最大の攻撃。
内部まで透徹した打撃力は、内臓や骨に回復不可能なほどのダメージを与える。
これで安倍を倒せるとは思ってはいなかったが、しばらく動けないはずだ。
「まさか安倍さんに攻撃を当てられるとは、思いませんでした」
「なっちに何したんや?」
地面の上で動かない安倍から、余裕のある表情で戦いを見ていた吉澤に視線を移す。
昔の安倍はもっと巧妙で精緻な動きで、相手の力を使った戦い方をしていた。
なぜか単調な攻撃を繰り返すだけだったが、
それでも安倍に当てることが出来たのは僥倖と言える。
「別になにも。助けただけですよ。
それより中澤さんの能力なら、わかっていたはずです。
なんで飯田さんに言わなかったんですか?」
倒れた安倍から視線を外し、吉澤が問い掛けた。
「あれは……お前やったんか」
吉澤が言っているのは四年前の冬、飯田が安倍を倒した日のことだった。
あの日中澤は炎に包まれた建物から、放心状態の飯田を無理やり連れ出した。
そのとき、安倍が倒れていた場所に近づいていく存在に、気が付いていた。
「圭織はなっちの心臓を貫いた。あの状態で助かるはずはない。
それに圭織の奴、死にそうなほど落ち込んでたからな、
あんな状態で言えるわけないやろ」
いかに吸血鬼といえ、無いものは再生できない。
あの場から連れ出したとしても、心臓を貫かれた安倍は長くは持たないはずだった。
不安定な状態だった飯田にそのことを言えば、どんな行動に出るかわからない。
これまで、誰にも言ったことはなかった。
- 337 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:37
- 中澤の言葉に、吉澤は笑いながら片手で自分の心臓を上から叩いた。
「確かに、いくら吸血鬼とはいえ無いものは再生できない。
でもね足りないなら、足せばいいんですよ」
小さな音に中澤が視線を落とすと、安倍の手が地面を掻くように握られていた。
頭を地面に押し付けながら、安倍の上体が持ち上がる。
「“一力十会を降し、十技を圧す”
中澤さんがどれほど鍛錬を積んだか知りませんが、
本物の吸血鬼を止められるとでも思いましたか?」
中澤は立ち上がろうとしている安倍の姿を見て、無意識に一歩後ろに下がった。
嘲るような調子の吉澤の言葉も、耳に入らない。
顔を上げた安倍は、朱色の瞳を中澤に向けていた。
立ち上がった安倍の身体を、紅く輝く障壁が包み込む。
「血を、飲ませたんか……」
「別に驚くことじゃないでしょ? それが吸血鬼の本能です。
それに強要したわけじゃありませんよ。目の前に出したら勝手に飲んだんです」
「お前は……なにを考えてるんや」
近づいてくる安倍の姿に後ずさりながら、中澤は搾り出すように言った。
吉澤は一度瞳を閉じてから、雨に濡れた髪をかき上げる。
「中澤さんには悪いですけど、ちょうど良かった。
これで飯田さんのやる気も出るでしょ」
再び構えを取った中澤に、安倍が三日月のように細まった双眸を向けた。
- 338 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:37
- ――――
地面に突き刺さった巨大な石塊を足を取られながらなんとか上りきり、
頂きに立った新垣の目の前には、想像を超えた光景が広がっていた。
廃墟と化した市街地を雨が、叩いていた。
爆発の中心と思われる場所には多くの人たちが集まり、
まだ瓦礫の下にいるだろう生存者の救出を手伝っている。
地面の下から聞こえる声に懸命に答えている人もいるが、
その間は人の力では動かすことが不可能なほど巨大なコンクリートの塊が隔てていた。
「なんなの……これ」
あとから上ってきた紺野の声も、呆気に取られたものだった。
上空を通過したヘリコプターに助けを求めて手を振っている女から
無理やり視線を外し、新垣は能力を発動して周囲を探る。
視界には入っていないがすぐ近くで、松浦と思われる反応が動いていた。
ほかの能力者を探して範囲を広げた新垣は、見つけた反応に空を見上げる。
「見つけた?」
新垣の視線を追って空を見上げた紺野の声に、頷いた。
見える光点は六つ。
そのうち一つの輝きは、いままで見たこともないほど強い。
「あそこにいるっ!」
壁面を大きく削り取られて不恰好になったビルに隣接している建物。
新垣はその屋上を指差した。
- 339 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:37
- ――――
「もういいですよ」
吉澤のかけた声に、地面を見下ろしていた安倍が振り返る。
倒れた中澤の身体の下から流れ出た血が、雨に流されて地面に広がっていた。
吉澤に向けた安倍の目が細まり、笑う。
その身体が沈み、地を蹴った。
吉澤は向かってくる安倍に苦笑しながら、片手をポケットに入れる。
「ぎゃんっ!」
短い悲鳴と共に、安倍の身体が折れそうなほど弓なりに反った。
吉澤は地面に倒れ込んで痙攣している安倍から視線を移して、飯田に笑いかける。
「あの場にいた市井さんの心臓を貰ったんですけど、
ちょっと遅かったみたいでね」
吉澤が自分のこみかみに指を当てた。
「身体は元に戻ったんですけど、ココに障害が残った。
一切の記憶を無くし、残ったのは本能。
生きて動くものがあれば見境なく飛びつき攻撃する。
敵味方の区別もつかないから、これがないと危なくて一緒に行動もできない」
そう言ってポケットから取り出した吉澤の手に握られているのは、
細長いボールペンのような物だった。
先端に付いたボタンに指をかけながら、飯田に向かって振ってみせる。
- 340 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:38
- 立ち上がった安倍が頭を振りつつ、周囲を見渡す。
倒れた中澤に目を止めて、笑顔を浮べて歩き出した。
「なっち……」
搾り出すような飯田の呟きを聞いて、
吉澤は僅かに下を向き、くくっとおかしそうに笑った。
「こんなものは安倍さんじゃない。人格のない、ただの器です。
安倍さんは……あなたが殺したんじゃないですか」
吉澤の発した一言で、時間も距離もあっという間に縮んでいく。
大切な仲間である中澤に向かっていく安倍の姿が、四年前の出来事と重なった。
中澤に近づいていく安倍の後ろ姿を見ていた飯田の中で、
恐怖の波が徐々に引いていく。
恐怖はすべて怒りに、憎悪に変わっていった。
「……やめろ」
なんとか立ち上がった飯田だったが安倍に近づくことはできなかった。
自分の足が、震えている。
まるで他人の物であるように前に踏み出すのを拒んでいる自分の両足を感じながら、
振り返った安倍の視線を正面から受ける。
- 341 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:38
- 飯田を見てきょとんとした表情を浮かべている安倍の背後には、倒れている中澤の姿。
足元に広がる中澤の赤い血の上で、
首を傾げていた安倍がふいに新しいおもちゃを見つけたように微笑んで、
両手を広げた。
それを見た飯田のなかで、何かが弾ける。
「なっちっ!」
血を吐くように叫んだ飯田は近づいてくる安倍に、向かった。
目の前に迫った安倍の顔に、拳を叩き込む。
振り抜いた拳が戻るより早く安倍は態勢を立て直し、殴り返してきた。
無意識にかばった腕ごと叩かれて、飯田は顔をのけ反らせた。
首ごと持っていかれそうな衝撃に耐えつつ、安倍へと拳を走らせる。
荒々しいなにかが、飯田のなかで狂ったように暴れまわっていた。
最も単純で明快で強い、原初の力。
自分の身体を突き破って外へと出ようとするその力は、
飯田の感じているあらゆる感情を食らい、糧にしている。
身体を突き動かしているその力に身をゆだね、
飯田は目の前にある安倍の顔に拳を叩き込む。
そうすれば迷いも哀しみも、感じることはなかった。
- 342 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:39
- ――――
「あれ……なんなの?」
目の前の光景に、嗣永はおもわず震える声を出した。
そこには技術や駆け引きなど、なかった。
ただ目の前の相手を殴り、向かってくる攻撃を避ける。
ただそれだけのことなのに、攻撃をする飯田の動きも防御する安倍の動きも、
まるで理解できない。
人間の考え出した理論や技術など無意味なものに思えるほどに、
声を殺して殴りあう2人のそれは、生き物という概念からかけ離れた物だった。
「あれが、吸血鬼だよ」
相手のすべてを奪い合うように殴りあっている2人を見ながら、
横にいる吉澤が、感嘆の混じった声を出した。
- 343 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:39
- ――――
互角に見える戦いだったがそれでも障壁のある安倍とは違い、
ダメージが蓄積していく。
溜め込まれたダメージがある点を超えれば、安倍の動きについていけなくなり、
あっという間に勝敗が決する。
それが分かっていながら、飯田はなおも手足を動かし続けた。
頬を捉えた安倍の強烈な一撃に、飯田は思わず後ろに下がった。
倒れそうになって後ろに出した足が震え、飯田は大きく態勢を崩して膝をつく。
なんとか立ち上がった飯田だったがもう一度倒れれば、
もはや立ち上がる力が残っていないことを知った。
限界が近い。
片隅に追いやられた理性のなかで、
血管のなかに鉛が流し込まれていくかのように、動きが鈍くなっていくのがわかった。
反撃する体力がなくなれば、安倍に殺されるのだろう。
徐々に押されてきているのが分かってはいたがそれでも良いと、飯田は思った。
この地上でただ一人、安倍にはそれをする権利がある。
- 344 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:39
- 再び放った拳は、僅かに首を傾けた安倍のこめかみを掠めた。
直撃したわけではなかったが、その一撃で安倍が態勢を崩す。
それを見て、飯田は右手を引いた。
最後の力を振り絞り右の貫手を放とうとした飯田だったが、
踏み込んだ左足の膝がふいに沈んだ。
その一瞬の隙に、安倍が態勢を立て直す。
意志とは関係なく、疲労した足が自らの体重を支えられなかった。
避けられれば、それでもう動けない。
それでも安倍の胸に、最後の力が乗った貫手を走らせた。
胸に向かってくる貫手を掴もうと、安倍が両手を伸ばす。
「ぎゃっ!」
短い悲鳴と共に安倍の手が止まり、身体を包んでいた障壁が消える。
中途半端な位置で止まっている両手の隙間を擦り抜け、
飯田の右手が安倍の胸を貫いた。
- 345 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:39
- 飯田は呆けたような表情で、地面に横たわっている安倍を見下ろした。
自分のしたことの記憶は鮮明に残っているが、なにが起こったのか、理解できない。
さっきまで自分を突き動かしていた衝動は、嘘のように消え去っていた。
感覚も感情も失ったかのように、何も感じない。
倒れたまま空に向けていた安倍の瞳が、ふいに飯田を捉えた。
目を細めた安倍が何かに気が付いたかのように、微笑む。
ゆっくりと伸ばされた安倍の手を、飯田はなんの感慨もなく握った。
血で汚れた手のなかに感じる暖かい体温に、
凍りついたように止まっていた飯田の心が動き出す。
満足げな安倍の表情を見ながら、飯田は膝をついた。
震え始めた飯田の手を僅かに握り返した安倍が、飯田の視線を捉える。
「なっ……」
何かを伝えようと動いた飯田の唇がふいに見せた安倍の表情に、止まった。
飯田の記憶の中にある、安倍のやさしい笑顔だった。
「なっち……」
目の前で起きていることを否定するように首を振った飯田の手の中で、
何かが崩れていく。
慌てて安倍の身体に伸ばした手が、地面を掴んだ。
- 346 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:40
- 飯田の手に残っていた安倍の血が、降り続く雨に流されていく。
自分は何をしたのか。
消え去った安倍の代わりに、飯田は灰色の地面を強く掻いた。
安倍を殺したことを後悔し、心の底から時間が戻ればいいと願った。
あの日から何度も願い、辿り着いたその結果が、これだった。
同じ過ちを繰り返した自分を呪いながら、
飯田は止め処もなく溢れた涙と共に頭を抱え、怯え、ガタガタと震え、泣いた。
- 347 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:40
- ――――
「いまだよ」
手に持っていた小さな機械を地面に捨てて、吉澤が冷静に言った。
安倍の動きを止めた機械に視線を落としてから、嗣永は強く唇を噛む。
「……約束。守ってくれますよね」
「分かってるよ。あんたの仲間に手は出さない」
吉澤は震えながら膝をついている飯田の背中に顔を向けながら、頷いた。
それを見て、嗣永は視線を移す。
「佐紀、お願い」
呆然と前を見ている清水は、肩に置かれた手にびくりと身体が震わせた。
清水は困惑したような表情を、嗣永に向ける。
「どういうことなの? こんな事、聞いてないよ?」
「いいから吉澤さんの言うとおりにしてっ!」
激昂したように大声を出した嗣永だったが、
その表情は不安と苦悩に苛まれているように歪んでいた。
「でも、一度……」
清水の能力は相手の精神に動揺がなければ、効かない。
能力が効かなかった場合、
飯田の攻撃の対象が自分や嗣永に向かう可能性を考えて清水は躊躇した。
唇を噛みながら見つめている嗣永から視線を外し、
清水は降っている雨の中で座り込んでいる飯田に視線を向けた。
「大丈夫。親友を二度も殺して正気でいられる奴なんか、いないよ」
そう言った吉澤の手が、躊躇する清水の背中を軽く押した。
- 348 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:40
- 恐ろしいほどに何の感情も見せない吉澤の横顔から顔を背け、
嗣永は戸惑いながらも離れていく清水の背中を見つめた。
「……これで、いいんですか?」
小さく声で問いかけた嗣永の言葉に、一瞬の間を置いて吉澤が頷く。
「これが私の望んだ結果だよ」
足を止め、飯田の背中に向けて右手を伸ばした清水を見ながら、
吉澤は決意を込めて、力強く答えた。
- 349 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:41
- ――――
空に向かって伸びているポールの先端で、赤いライトが点滅している。
新垣が屋上に出て最初に視界に入ったのは、
暗色に塗り込められた空を背景に立つ高いポールだった。
赤い光りに一瞬だけ気を取られていた新垣は、すぐに視線を落とす。
その視線の先で、中澤がうつ伏せに倒れていた。
「中澤さん!」
駆け寄った新垣は倒れている中澤を抱き起こした。
目を閉じている中澤の呼吸は浅く、弱い。
慌てて肩を揺すろうとした新垣の手を、後ろから紺野が止めた。
「動かしちゃだめっ!」
紺野の声に冷静さを取り戻した新垣は、
余計な衝撃を与えないように再び中澤を寝かせると携帯を取り出した。
相変わらず圏外を表示している携帯を握り締めた新垣は、
助けを求めるように顔を上げた。
周囲を見渡していると隣のビルの屋上に停まっているヘリコプターと、
そばにいる人影が視界に入った。
- 350 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:41
- 通りを隔てて20メートルほど離れたビルの屋上に停まっているのは、
灰色に塗られた胴長の機体の輸送ヘリ。
雷光を食い千切る蒼い狼が描かれた扉の前で、
二つのローターが巻き起こす強い風に髪を押さえているのは、
飯田を肩に担いだ吉澤だった。
「……うわぁぁっ!」
辻が突然叫び声を上げて、新垣の脇を走り抜ける。
とんでもないスピードで走り出した辻の足が屋上を蹴り、柵を越えた。
隣のビルへと跳躍した辻を見て、吉澤が右手を上げる。
その手に握られているのは、大きな銃だった。
ポンと軽い音と共に放たれた物体が十字に開いて、空中にいる辻に直撃した。
辻の小さな身体が弾かれて、新垣のいるビルに押し戻される。
慌てて駆け寄った紺野が、地面に転がった辻を抱き起こす。
「慌てるなっ! 今日は顔見せだけだよっ!」
手に持った銃を放り投げて背を向けた吉澤の姿が、ヘリの中へと消えた。
蒼い狼が描かれた扉が閉まり、羽音を思わせるローターの回転速度が上がる。
呆気に取られて見つめる新垣の視線の先で、
吉澤を乗せたヘリの機体が重力の糸を断ち切り、灰色の空へと舞い上がった。
- 351 名前:You'd Be So Nice to Come Home to 投稿日:2006/06/30(金) 10:42
- ――――
- 352 名前:カシリ 投稿日:2006/06/30(金) 10:42
- 以上で第12話終了です。
次がエピローグで、第三部終了となります。
- 353 名前:カシリ 投稿日:2006/06/30(金) 10:43
- >>309 名無飼育さん 様
亀井の望みは唯一つです。
>>310 愛毒者 様
2人とも出番がほとんどなかった上に、
ひどいことになってしまいました。
>>311 名無飼育さん 様
○○さんは次回登場予定です。
>>312 名無飼育さん 様
後藤はこわいひとです。
>>313 さみ 様
遅くなりましたが、頑張ってみました。
- 354 名前:愛毒者 投稿日:2006/07/02(日) 15:54
- 待ってました!更新お疲れ様です。
あっちもこっちもえらいこっちゃ!! (´Д`; ≡ ;´Д`)
共謀してたと思ってた二人が分かつ事になろうとは…
という事もそうですが、まさかかおりんが!?という事態に
軽く動揺しています。
いよいよ第三部も終了目前という事でどんな展開が待っているのか
ドキドキしながら引き続き楽しみにしていますので頑張って下さいね。^^
- 355 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/07(金) 01:27
- 最高です。
一体飯田さんはどうなってしまうのか、
亀井さんと田中さんの関係、
高橋さんと新垣さんの関係も目が離せないですし、
吉澤さんの思惑、そして後藤さんの思惑・・・・etc
楽しみにしています♪
- 356 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:27
- ――――
開いた窓からは、静かに揺れて擦れあう木々の音だけが聞こえてくる。
半分ほど引かれた白いカーテンからときおり入ってくる穏やかな風は、
冬が近いことを感じさせる冷たさを持って、紺野の頬を通り抜けていった。
「思ったよりも元気そうで、良かったよ」
カーディガンを羽織った田中は、ベッドの上で上半身を起こしていた。
血の気が引いていつもより白い田中の横顔は、窓の外へと向けられたまま動かない。
返事を返さない田中の視線の先で、
部屋に入り込んでくる外からの風がカーテンを内側にふくらませている。
カーテンが動くたびに見える山の斜面は、鮮やかな紅葉を見せていた。
- 357 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:27
-
凍える鉄槌 -Third season-
エピローグ
- 358 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:28
- 静かな病室のなかで、紺野は黙ったままの田中の視線の先に目を向けた。
僅かに傾いて差し込んだ日差しがカーテンに当たり、薄く外の樹影が映っている。
郊外に建てられている本部に併設された病院は、
都会の喧騒とは無縁の静けさの中にあった。
ここに来る前に、紺野は中澤の病室を訪れていた。
訪れた病室で、中澤は身体を起こすこともできずにベッドに寝たままだった。
命があるだけでも奇跡的と言える。
面会した医師からは、後遺症が残る可能性があると聞かされた。
「退院したら、絵里のこと探すつもり?」
唐突な紺野の問いかけに、田中の頬がほんの少しだけ引きつるように動いた。
「……紺野さんには関係なか」
窓の向こうに視線を向けたまま、田中は言った。
- 359 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:28
- 僅かに視線を落とした紺野は聞こえないように、溜め息を吐いた。
怪我をした田中が発見された場所で、保田を含めて7人の死体が見つかった。
当然相手が誰だったのか聞かれた田中は無言で通したが、
残っていた映像から亀井のことはすぐに調べがついた。
保田の居場所は携帯の通話記録から行方をくらましている吉澤が後藤に教え、
後藤から亀井に伝わったと考えられた。
本部にあるデータにアクセスすれば、HPに所属する全車の位置がわかる。
松浦の件で本部にいた吉澤が、それを見た可能性が高かった。
かなり前から紺野は、保田の居場所を探すように頼まれていた。
すぐに調べはついたが、紺野は2人を会わせるのに、躊躇した。
保田との関係や亀井の態度から時間を置いた方がいいと思ったのだ。
結局2人は会うことになってしまったがそれでも、
亀井がここまで極端な行動を取るとは、思っていなかった。
一つ息を吐いて紺野は顔を上げると、
揺れているカーテンを見つめている田中に視線を向けた。
「……絵里がなんでいつも笑っていたか、分かる?」
怪我が治りきっていない田中に言うべきではないのかもしれないが、
いま言わなければ取り返しがつかないことになる。
紺野の言葉が聞こえていないかのように、
田中は表情を変えずに窓の向こうを見つめていた。
- 360 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:29
- 紺野は緩やかな風に揺れているカーテンを背景に逸らされている田中の顔を、
覗き込むように見つめた。
「一般的に涙には対象との関係が強調され、
笑いの場合には対象との関係が拒絶される。
笑いと言うのは自分と対象、つまり絵里の場合は保田さんだね、
その関係を断念して自分を対象の外に置く行為なんだよ」
紺野の言葉を聞いているのか、無言で外に顔を向けている田中の表情に変化はない。
そこまで言うと、紺野は天井を見上げた。
「復讐の刃は対象に向けられるだけでなく、
自分にも向けられ自己との同一性を否認する。つまり自己否定だね」
「……なに言ってるのか分からん」
僅かに眉を上げて怒ったようにつぶやいた田中に視線を戻すと、
紺野はその横顔を眺める。
「簡単に言うと、自分も含めた世界が“どうでもいい”ってこと。
絵里は涙を捨てた。その瞬間から、世界と自分を捨てたんだよ」
「そんなの関係なかっ!」
紺野は苛立ったように大声を上げた田中の手元に、視線を向けた。
ベッドの上に置かれたその手は、シーツをきつく握っている。
「れいなが捜そうとするのにHPは協力するだろうけど、
見つかればその場で処分されることになる」
何かを言いかけて唇を開いた田中だったが、声を出すことはなかった。
無言のまま固い表情で、真っ白なカーテンを睨みつける。
その横顔を見て、紺野は僅かに視線を落とした。
「彼女を救える人間はいない。もう……関わらないほうがいい」
それ以上の言葉をかけずに視線を移した紺野は、
カーテンに映っていた枝と木の葉の影が不自然に動いているのに気がついた。
風が凪ぎ、垂れ下がったカーテンに映っていた薄い影が揺れて跳ね上がる。
小さな鳥だろう丸い輪郭を描いた影が隣の枝に向かうのを、
田中は瞬きもせず無言で、見つめていた。
- 361 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:29
- ――――
傾いていく太陽が惜しみなく輝き、地上にあるすべてを平等に染めている。
意味も無く物悲しい気持ちにさせる赤い街並みが、
やってくる夜の訪れを待っているかのように、静かに広がっていた。
濁ったオレンジ色の夕陽を眺めながら窓枠に両肘を乗せて、新垣は溜め息を吐いた。
吉澤がいなくなってからすでに2週間。
飯田の行方はわからず、中澤と田中は入院。
後藤と亀井は保田殺害の犯人として手配されているが、いまだに捕まっていない。
それだけでも新垣を悩ますには充分だったが、
さらに神社で別れて以来、高橋と連絡が取れなくなっていた。
学校にも来ておらず、家にも帰っていない。
高橋の家を訪ねたときに応対に出た久住のほっとしたような、
少し寂しいような表情を思い出しながら頭を掻いた新垣は、窓の下に視線を向けた。
- 362 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:29
- 広い駐車場の片隅に、背中を向けて花壇の手入れをしている辻の姿があった。
夕焼けを受けてしゃがみ込んでいるその背中は、いつもより小さく見える。
2人でいるときは明るく振舞まっていたが、
いまのように1人になったときに、ときおりふさぎ込んでいるを新垣は知っていた。
飯田がいなくなったから当然といえば当然だったが、
もしかしたら吉澤に会ったことも影響しているのかも知れない。
窓から離れた新垣は、誰もいない夕焼けに照らされた部屋を見渡した。
田中も亀井も、そして飯田もいなくなった部屋のなかは、
いつもよりとても、広く感じる。
「……私まで落ち込んでどうするっ!」
自分に言い聞かせるように言って、新垣は両手で自分の頬を叩いた。
何日かすれば田中も退院して帰ってくる。
辻につられて落ち込んでいる場合じゃない。
再び窓を向いた新垣の視界の中で、
暮れていく夕陽を背景に、駅を出たばかりの電車がゆっくりと走っていた。
- 363 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:30
- ――――
「結論から言うと、現時点での石棺への進入は不可能です」
深く座った背もたれに体重を預け、
つんくは目の前で直立している男の報告に耳を傾ける。
後藤が保田の殺害に関わっていると分かった時点で、
ある程度予想がついていることだった。
飯田を連れ去った吉澤が姿を消してから、2週間。
後藤が関わっていると知ってすぐに遺物保管所の確保に向かわせたが、
保管所に入ることはできなかった。
「保管してある遺物の資料も破棄されています。
どのような遺物があるのか分からない状況では……」
「他にもいくつか搬入用の通路があったやろ、そっちは?」
「石棺に通じていた七つの通路、すべてが埋まっています。
復旧にもっとも早いと思われるのはエレベータシャフト内に入り込んだ土砂を
取り除く方法ですが、それでも数ヶ月はかかると思われます」
緊張に引きつる男の声を聞きながら目を閉じたつんくは深く、息を吐いた。
保管所周辺に遺物による複数の呪的トラップが施されているのに気が付いたのは、
何十人かの犠牲がでた後だった。
トラップを解除しながら保管所の内部に侵入するのに、1週間以上。
安全を確保しながら内部の詳細な調査を開始したのは、数日前からだ。
埋められた土砂のなかにもトラップが仕掛けられている可能性がある以上、
それらを発見、解除しながらの進入路の確保は容易ではない。
「……もうええ、下がれ」
目を開けたつんくが不機嫌さを隠そうともしないでそう言うと、
ほっとしたような表情を浮かべた男は、機敏な動作で一礼をして部屋から出て行った。
- 364 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:30
- 照明を落とした部屋のなかで、差し込んでくる血のような赤色を背に受ける。
つんくは部屋に一人になると、タバコを取り出して火をつけた。
深く吸い込んで、赤く輝く先端を目を細めて眺めた。
吉澤が何かを隠しているとは思っていたが、
まさか安倍が生きているとまでは考えていなかった。
未完成だった保田の研究を引き継げる人材は、いない。
代わりになるような研究をしようにも、保管所に収められている遺物も封じられた。
なによりも、切り札とも云える飯田を奪われた。
打てる手は少ないがそれでも、止めるわけにはいかない。
誰もいない部屋に視線を向けていたつんくは、
ゆっくりと椅子を廻して背後の窓を向いた。
目の前に連なる山々は忍び寄ってくる夜に冒され、黒くその姿を変えていた。
すでに陽は落ちていたが広がっている空の底にはまだ、茜色の残滓が横たわっている。
その光景を目に焼き付けてから、つんくは再び目を閉じた。
- 365 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:30
- ――――
その部屋は、薄闇のなかにあった。
監視カメラが見下ろす高い天井と自傷防止と逃走防止を兼ねた
柔らかそうなマットに囲まれた部屋のなかで、
石川は目を閉じることなく正面の扉を見つめた。
両腕を身体の前で交差するように着せられた拘束具と、
足首にかけられた金属の枷が石川の自由を奪い、小さな部屋のなかに縛り付けている。
拘束具に施された処理によりSPを抑えられ、
障壁も作ることができない状態では、逃げるのは難しい。
石川はHP本部の地下にある小部屋のなかにいた。
紺野の店で中澤が1人で飛び出していった後、
タイミングよく現れたHPの職員によって拘束された。
体調が万全なら逃げ出せたはずだったが、
大きすぎるダメージに黙って従うしかなかった。
簡単な取調べはあったがそれ以上の追求もなく、石川はこの部屋に放置されていた。
だが連れて来られてから、すでに2週間以上が経過している。
そろそろつんくも状況を把握する頃だ。
取調べには沈黙を通したが、それも通じなくなるだろう。
- 366 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:31
- 着せられた拘束具の下で、石川は自由にならない両腕を動かした。
握った拳の感触に、力が戻っているのは分かる。
だがダメージは回復していても強力な拘束具に身体を縛られ、
厳重な監視下にあるこの部屋からの脱出は困難だった。
しかしそういったいまの状況よりも、
石川には吉澤に裏切られたショックの方が大きかった。
安倍を失って無気力になっていた飯田の代わりに、
つんくの計画を止めるという言葉を信じてHPを抜け、吉澤に協力してきた。
それなのに保管所から安倍を出し、
飯田に会わせると聞いて吉澤を問いただしに行ったが、
ふいをついて付けられた手錠により障壁をなくした状態では、
逃げるので精一杯だった。
安倍が生きているのは、知っていた。
自我を失っているとはいえ、安倍の力は強大だ。
安倍一人を本部に送り込めば、すべての人員を動員しても止められない。
唯一止められる可能性があるのは後藤か、
あるいは血を飲んだ飯田だけだろうと、石川は考えていた。
だからこそ安倍が吉澤の言っていた切り札だと、思っていた。
吉澤の言葉は嘘だった。
そして、自分は考え違いをしていた。
切り札は、飯田だったのだ。
つんくが利用しようとしていた飯田を奪うために自分を、そして安倍を利用した。
薄明かりのなかに浮かび上がる扉から視線を逸らし、石川は瞳を閉じた。
- 367 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:31
- 錠の外れる軽い金属音に、石川は顔を上げた。
隙間から差し込んでくる強い光りに目を細めた石川の視線の先で、
ゆっくりと動いていた扉が半分ほど開いたところで止まる。
扉に手をかけて現れた人物が、廊下からの逆光を受けて石川の正面に立った。
「……田中?」
見覚えのある影に、石川は思いついた名前を口にした。
突然のことに驚きながらも状況を把握しようと走らせた視線に入ったのは、
田中の足元に倒れている見張り役の2人だった。
よく見ると田中の服はところどころ破れ、
どこかに傷を負っているのか強く握った拳からは血が流れ落ちている。
許可を取ってきたわけでは、なさそうだった。
石川の言葉に頷くこともせずに扉を押し開いた田中が、
小さく声を出して脇腹を押さえる。
苦痛に耐えるように、田中の顔が歪んだ。
「大丈夫?」
心配して声をかけた石川に笑いかけようとしたのか、
顔を上げた田中は少しだけ口元を緩めた。
- 368 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:31
- 田中は部屋に入ってくると、開いている扉を後ろ手で静かに閉じる。
扉の閉まる音の余韻が消えるのを待っているかのように、
田中は黙ったまま石川を真っ直ぐに見つめていた。
そのあまりに真剣な眼差しに気圧されながら、石川は表情を固くして息を飲む。
「石川さん」
微かに震える田中の声が、光りを失った部屋のなかに放たれた。
思いつめたような硬質な響きを含んだ声が、四方の壁に吸い込まれる。
「れいなは……強くなれますか?」
薄闇の中に立つ田中は決意を秘めた瞳を、石川に向けた。
- 369 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:31
- ――――
- 370 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:32
- 以上で第三部終了です。
読んで頂いてありがとうございました。
しばらくしたら続きを書きたいと思っています。
それでは、失礼します。
- 371 名前:エピローグ 投稿日:2006/07/07(金) 15:32
- >>354 愛毒者 様
ありがとうございます。
いつもレスを頂いてありがとうございました。
とても励みになりました。
>>355 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
また再開したときは、よろしくお願いします。
- 372 名前:愛毒者 投稿日:2006/07/08(土) 16:06
- 更新&第三部脱稿お疲れ様でした!!
こちらこそすごく楽しませて頂きました♪
かおりんや愛ちゃんの行方など、それぞれの思惑と動きが複雑に絡み合う
大きな渦のような流れの中心に一体何があるのか…。
第四部の起稿を楽しみに待っていたいと思います!
- 373 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/19(水) 20:57
- なんか主人公がエライ事になっちゃってますけど。(笑)
第四部で誰が中心に話が進むのか気になります。
ところで嗣永さんの能力って何?
- 374 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/02(水) 11:51
- 遅ればせながら第三部終了お疲れ様です。
怒濤の展開にドキドキしながら読ませてもらいました!
個人的には高橋さんの動向が気になりますね。
第四部の開始、いつか分りませんがすごく楽しみにしているので頑張って下さい。
- 375 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/01(金) 21:14
- 楽しみに待ってますよん。
- 376 名前:愛毒者 投稿日:2006/10/01(日) 18:17
- 待ち遠しいです〜。(>_<)
まだかまだかと楽しみにしてます♪
- 377 名前:愛毒者 投稿日:2006/11/03(金) 18:29
- まだまだ待ちます。
- 378 名前:カシリ 投稿日:2006/11/05(日) 10:03
- すいません。
遅れていますが放置するつもりはありません。
来月には再開したいと思います。
- 379 名前:愛毒者 投稿日:2006/11/05(日) 17:41
- 告知ありがとうございます!待ってました!
来月再開予定という事で楽しみに待っていますね♪
- 380 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:22
- ――――
白いダウンジャケットのポケットに両手を入れたまま、新垣は深く息を吸い込む。
氷のような冷気が肺腑を満たし、
その凍えるような冷たさに小さく身体を震わせた。
周囲を取り巻く山々の稜線が、墨色の空を背景に続いていた。
夜のなかに沈み色を失った山から吹き降ろす冷たい風が、吹き降りてくる。
ここ数日の気温は例年より低くなっており、
これで天気が崩れれば雪になることは間違いなかった。
遠くの山から視線を下げた新垣は、周囲の明るさに目を細める。
HP本部前の広場には、人口の照明が溢れていた。
広場に設営されたテントの周りには、数台のトレーラーが停まっている。
テント周辺を照らしている仮設照明から伸びたケーブルの上を、
大勢の人間が忙しなく行き来していた。
離れた場所からそれらの光景を他人事のように見ていた新垣は、
聞こえてくる喧騒を振り払うように上を見上げる。
重なり合う人々の声にアクセントをつけるように、
警戒しているヘリコプターの爆音が強弱を繰り返していた。
獲物を探し求めるように頭上を旋回している軍用ヘリのサーチライトは、
目の前にそびえたっている本部のビルに向けられている。
「なんでこんなことに……」
呟いた新垣の白い吐息が周囲の闇に溶け込むように、消えていった。
- 381 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:23
-
凍える鉄槌 -fourth season-
プロローグ
- 382 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:23
- ――――
空は鉛色に濁り、厚く堆積した雲は粘土のように広がっている。
その幕に遮られて太陽は見えないが、そうでなくともすでに地平線に没して
いるのかも知れない。
つんくはテーブルに背を向けたまま、深く腰掛けている椅子を揺らした。
「つまり、結界機関の竣工式と出席者との交渉、
ここまでは計画通りというわけや」
「はい。難色を示している出席者もいますが、時間の問題かと思われます。
……それで、吉澤ひとみの行方ですが……」
男は額の汗を拭きながら、手元に持っている資料に視線を落とす。
振り向こうともしないつんくの背中に向かって、報告を続けた。
「全力をあげて探索を継続していますが、いまのところは……。
ですが捜索の範囲も狭まってきています、
見つけ出すのも時間の問題かと……」
「それはもういい。探す必要はない」
「……はっ?」
つんくは消え入りそうな声で報告を続けている男の言葉を、遮る。
正面のガラスには、呆然と口を開いている男の姿が映っていた。
何を言われたのか理解できていない男を見て、ため息と共に口を開く。
「吉澤のことはほっとけ。それより準備を進めろ。
言うことはそれだけや」
背を向けたまま手を振って、男を部屋から追い払った。
- 383 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:24
- 室内と外の暗闇を隔てている窓ガラスに映っている自分の顔は、
いかにも不機嫌に見えた。
つんくは自分の表情に苦笑しながら、椅子を回して窓ガラスから背を向ける。
秘密裏に建造されている結界発生機関は、ほぼ完成していた。
年が明ければすぐに稼動式を兼ねた記念式典が行われ、
人間と吸血鬼双方の代表者が多数、集まることになっている。
つんくの準備も進んでいた。
望む人物を式に出席させるために、自ら交渉をすることもあった。
能力を強化する薬は、その効果をさらに高めるべく研究が続けられている。
保田に代わる人材は見つけられなかったが、
残った資料を元に解析が続けられていた。
会場の警備も考えうる最高のメンバーを揃えている。
外部から邪魔が入ることは不可能に近い。
それでも、僅かな綻びがすべてを無にすることもある。
つんくは僅かに目を細めて正面の扉を見つめながら、
テーブルのタバコに手を伸ばした。
- 384 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:24
- 公然と反旗を翻した吉澤の居場所は、わかっていない。
世界中に網の目のように広がるHPの情報網にも触れることなく、
その消息を絶っていた。
吉澤個人で三ヶ月以上も逃げられるはずはない。
協力者がいるはずだ。
それもHPの内部から情報を流している、複数の人間が。
くわえたタバコに火を点けようとしたつんくの手が止まる。
顔を上げるとさっきまで見つめていた扉のノブが静かに、回っていた。
来客の連絡は受けていない。
万が一直接この部屋に入るにしても、ノックをするのが当然だ。
眉をひそめたつんくの視線の先で、部屋の扉が開いた。
入ってきた人物を見ても表面上は平静を保つことができたのは、
ある程度予想していたからだ。
侵入者は黒革のロングコートに片手を入れたまま、扉を後ろ手に閉めた。
サングラスに隠されて視線はどこに向けられているのかは分からないが、
その顔は真っ直ぐにつんくへと向けられている。
「ノックもせんと失礼やないか?」
結界機関の竣工式までは、あと一ヶ月。
時期としては悪くない。
つんくは余裕のある態度で、手に持ったままだったタバコに火をつけた。
「用があるなら手短に頼むで……飯田」
天井に向けて紫煙を吐きながら、近づいてくる飯田に向けてそう言った。
- 385 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:24
- それにしても、どうやって入ってきたのか。
本部ビルの各所には監視カメラが設置されているし、
IDがなければ通れない扉もある。
どちらもHP本部地下深くに設置されたメインコンピューターによって、
一括管理されていた。
本部の警備に関わる部分は外部とは接続されていないため、
ハッキングなどによる攻撃は受けないはず。
吉澤の協力者は、予想以上に浸透してるということか。
裏切り者の詮索をするよりも目の間の事実に対処するために、
つんくはテーブルに裏に隠された銃を手に取った。
「拉致されたって聞いとったけど、いまじゃ吉澤の飼い犬か?」
目の前に立った飯田を弄うように言ったが、表情に変化はない。
つんくは口を結んだまま見下ろしている飯田に眉をひそめた。
サングラスの奥にある瞳を覗き込んだその表情が、驚愕に変わる。
「お前っ!」
机の下の銃を手に、椅子を後ろに倒しながら立ち上がった。
なんとか後ろに下がり、飯田と距離を取ろうとしたが遅かった。
突然胸に衝撃を受けてつんくの動きが、止まる。
(なんや……これ?)
視線を下げたつんくの目に、胸を貫く飯田の腕が映った。
- 386 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:25
- 自分の胸に沈んだ飯田の手首を掴もうと、つんくは震えはじめた右手を伸ばす。
つかまれる前に飯田は右腕を引き抜き、一歩後ろに下がった。
空を掴んだ右手を机について、バランスを崩して倒れそうになる身体を支える。
顔を上げたつんくは正面にいる飯田に、左手の銃を向けた。
「お前……なにしとんねん……っ!」
吐いた大量の血と共になんとかそれだけ言うと、引き金を引いた。
発射の衝撃で左手から銃が離れ、
倒れこみそうになったつんくはテーブルに両手をつく。
自分の胸から零れ落ちる血溜まりのなかに、
放ったばかりの銃とサングラスの砕けた破片が浮んでいた。
顔を上げたつんくに向けて、飯田が手刀の形で右腕を上げる。
飯田の目を覆っていたサングラスは砕け散り、
代わりに現れたのは宝石のように輝く深紅の瞳だった。
「こんな……とこで……」
手刀の形で右腕を上げた飯田の姿が、最後に見た映像。
そしてつんくが最後に聞いたのは、自分の首の骨が折れる音だった。
- 387 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:25
- ――――
途方にくれて空を見上げていた新垣は、
聞こえてきたざわめきに視線を落とした。
白いバンが、広場の入り口に作られた検問を抜けて入ってくる。
周辺の道路には非常線が張られ、上空も飛行禁止区域に指定されていた。
この場所に来れたということはHPに関係する車両なのだろうが
すでに都内にいる人員のほぼ半数が、集まっている。
これ以上応援が来る必要はない。
新垣が不審に思いながらバンを見つめていると、
徐行していた車が進路を変えた。
広場に集まった車を避けるように迂回しながらゆっくりと、近づいてきた。
緊張した顔を向けていた新垣は、
すぐ近くに停車した車のナンバーを見て表情を緩める。
運転席のドアが開き、ハンドルを握っていた女が降りてきた。
「どうなってる?」
「さっき電話で説明してからなにも変わってません。
なんの要求もありませんし、動きもありません」
車から降りてきた矢口は眉間に皺を寄せながら腕を組むと、ビルを見上げる。
HP本部のビルは、たった一人の侵入者によって占拠されていた。
正確に言うと侵入者として確認されているのは、一人ということだ。
その一人とは、ビルに入っていく姿を目撃されている飯田。
ほかに仲間がいるかどうかは、わかっていなかった。
- 388 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:25
- ビルにある扉のすべてがロックされて、中に侵入できなくなっている。
外部からのアクセスを拒否し、緊急時に使用されるパスワードも受け付けない。
別働班が原因の究明に当たっているが、しばらく時間がかかりそうだった。
どちらにしても内部の情報が分からない以上、強行突入するわけにもいかない。
「辻は?」
「家に置いてきました。連れてきた方が良かったですか?」
「いや、それでいいよ。勝手に動かれでもしたら混乱するだけだ」
不機嫌そうに答えた矢口は視線を下げて、周囲を見渡す。
トレーラーの集まっている一角に視線を向けた矢口の眉が上がった。
新垣が小さく舌打ちをした矢口の視線の方向に目を向けると、
正面の入り口を封鎖している車両のなかから、
この場所には似つかわしくない少女が降りるところだった。
屈強な男たちの間を小走りで抜けると、すぐに別の車両に入っていく。
はっきりと見えたわけではなかったが、新垣はその姿に見覚えがあった。
「いまのって、熊井友里奈?」
「そうみたいだね」
矢口は不機嫌な声で呟くと、再びビルを見上げた。
「こんなことしてどうするつもりだよ……」
溜め息と共にそう言って、矢口は頭を掻いた。
- 389 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:26
- ――――
鼻歌を口ずさみながら、無人の廊下を歩く。
手に持ったライトを振り回しながら進んでいた亀井は、
目的の扉を見つけて足を止めた。
無造作に扉を開けた亀井の姿を、大きな窓からの強烈な光が捕らえる。
「飯田さん?」
手をかざして光を遮りながら、
威嚇するような光以外動く物のない室内に目を凝らした。
正面の大きなテーブルからずり落ちたような格好で、男が床に倒れている。
うつ伏せに倒れている男のさらに奥、
血が飛び散った机の向こう側に飯田が立っていた。
「こっちは終わりましたよ」
窓の外を向いている飯田の背中に声をかけながら、亀井は部屋に入る。
床に倒れているつんくの死体に一瞬だけ視線を向けてから、
来客用のソファーに腰掛けた。
- 390 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:26
- 持っているライトを手の中で弄びながら飯田の背中を眺めていたが答えはなく、
代わりに外を飛んでいるヘリからのサーチライトが室内を走査していく。
窓には狙撃を防ぐため特殊フィルムが貼られ、外から室内のようすは見えない。
それでも熱源で体温を検知して狙撃することは可能だし、
そもそもそんな面倒なことはする必要ない。
ローター音からして外を飛び回っているのはAH-64アパッチ。
ガンシップ、空飛ぶ戦艦の異名を持つ攻撃ヘリに誘導ミサイルを打ち込まれて
生きていられる生物がいるとも思えない。
飯田にもそれは分かっているはずだった。
「……どんな感じですか、仇を取った心境は?」
窓際に立つ飯田に注意しようかとも思ったが、
考え直した亀井は別のことを口する。
安倍を陥れたつんくを殺して望みをかなえたいま、
飯田は死ぬつもりなのかも知れない。
そう考えながら聞いてはみたが、
飯田から答えが返ってくるとは期待していなかった。
飯田の背中から視線を移した亀井は、
床の上に転がった死体を興味なさそうに眺める。
血の海のなかに倒れているつんくの姿は最後にみた田中を想像させはしたが、
それは似ても似つかない物だ。
思い出した田中の顔にひとり微笑みながら、
亀井は手に持っていたライトをソファーの上に放り投げた。
- 391 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:27
- 再び室内に入ってきた強い光に目を細め、亀井はソファーに座り直した。
この部屋に制圧部隊が突入してくるとしても、準備に時間がかかる。
すでに吉澤の頼みは終えている亀井は、大きく伸びをした。
なにか時間を潰せる物がないかと室内を見回していた亀井は、
動くものの気配を感じて窓の方へ顔を向ける。
「……これで何かが戻るわけじゃない」
窓を背にして呟くように言った飯田が、歩き始める。
期待していなかった飯田の答えを頭の中で反芻しながら、
亀井は扉へと向かう背中を眺めた。
「どこ行くんですか?」
「あんたの用が済んだなら、ここにいる必要はない」
立ち上がった亀井も扉へと向かう。
視線を合わせず歩いていた飯田が扉の前で足を止め、振り返った。
「鍵は持ってる?」
亀井は首を傾げながら、目の前に立っている飯田の顔を眺める。
飯田が言っているのはここに侵入するときに使った、マスターキー。
吉澤から預かったものだった。
この部屋から正面玄関までにある扉は、すでに開けてある。
なにに使うのかと思いながらも亀井はコートのポケットを探り、
一枚のカードを取り出した。
「持ってますけど……」
そこまで口にしたところで飯田が何を言おうとしているのか、
ようやく分かった。
自分が囮になるから、別の出口から逃げろとでもいう気なのだ。
- 392 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:27
- 飯田が次の言葉を口にする前に、亀井は持っていたカードをポケットに戻した。
「絵里は飯田さんと一緒に行きますよ」
自分を守ることもできないならば、最初からこんなところに来る方が悪い。
それを助けようなどと吐き気がするほどの、甘さだ。
甘さは弱さにつながり、ギリギリの選択を迫られたときに日和ってしまう。
そして最後の土壇場で負けることになる。
何かを言いたそうな表情を向けていた飯田が、無言で背を向けた。
離れていく飯田の背中をまじまじと眺めていた亀井の顔に、
微笑みに似たものが浮かぶ。
吉澤を殺すことができないでいるのも、飯田の甘さのせいだ。
それでも亀井はその甘さが、嫌いではない。
「絵里がいることも知らせとかないと、見つけてもらえないですからね」
彼女は甘さを克服できたのだろうか。
頭のなかに浮かんだ顔に亀井はクスリと笑い、額にかかった髪を払った。
- 393 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:27
- ――――
- 394 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:27
- 以上で終了です。
- 395 名前:プロローグ 投稿日:2006/12/01(金) 20:28
- いまさらですが、再開しました。
またよろしくお願いします。
- 396 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/01(金) 21:43
- 再開心待ちにしていました。
またこの世界観に浸れるのがうれしくてうれしくて。
第四部楽しみにしております。
- 397 名前:愛毒者 投稿日:2006/12/03(日) 14:02
- 更新再開待っていました!!
もう4thシーズンなんですね。
再開後、初っ端の衝撃的な展開でドキドキ。
世界の均衡が崩れるのだろうか?
続きも楽しみに待っています♪
- 398 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/04(月) 15:03
- うぉぉぉぉっ!?い、いつの間にっ!!w
更新待ってましたぁ♪
いきなしのこの展開は全く想像出来ませんでしたが
果たしてこれからどうなって行くのか、引き続き
楽しみにしています。^^
- 399 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:40
- ――――
光の消えた正面ホールは奇妙な静寂の中にあった。
いつもは昼夜を問わず天井で輝きを放っている巨大なシャンデリアも、
いまはその存在を消し去ろうとしているかのように、闇の中に沈んでいる。
五階分が吹き抜けになっている広大な空間にあるのは外からは僅かな光と、
漏れ聞こえてくる喧騒だけだった。
夏焼は一人、三階部分の通路で息を殺してその瞬間を待っていた。
いまいる場所からはホールの全体を見渡せる。
そして真下には、最上階まで通じるエレベータがあった。
館内に突然の警報と退避を促す放送が流れたとき、
いなくなった嗣永と清水の行方に関係する情報がないかを確かめるため
夏焼はビルの中にいた。
放送は何者かがつんくのいる最上階の部屋に侵入したというものだったが、
それを聞いた夏焼は首を傾げた。
戦闘要員ならいくらでもいる、逃げる必要などないはずだ。
納得いかない夏焼は退避をはじめた周り人々の流れから離れ、
一緒にきていた菅谷と共にビルの内部に残った。
- 400 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:40
- 夏焼は両手にはめている真新しいグローブを馴染ませるように、強く握る。
皮膚を通して染み込んでくるような冷気は、対障壁用の処理が施されている証拠。
指令を出すための施設とはいえビルの中を少し探せば、
簡単に武器を見つけることはできた。
『……雅、聞こえる?』
「うん」
携帯から伸びたイヤホンが伝えてきた声に、短く答える。
常に持ち歩くようにしている能力強化の薬は、すでに服用してあった。
『エレベータが動いてる。来るよ』
「了解」
外にいる徳永と熊井が他の人間に分からないように集めてくれた情報で、
つんくがすでに殺されていることも、
出入口のほとんどがロックされていることも分かっている。
そして、侵入者が飯田だということも。
最上階から降りてくるとすれば、必ずここを通らなければならない。
夏焼は音を立てないように立ち上がると、手すり越しに下を覗き込む。
照明の消えた広いホールの床に、
反射した僅かな光が点滅してエレベータが到着したのを知らせた。
- 401 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:41
-
第1話
All Of Me
- 402 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:41
- 静かなホールにエレベータの扉が開く微かな音が響いた。
鋭敏になっている夏焼の聴覚が、続いて聞こえてきた二人分の足音を聞き分ける。
真上から見ている夏焼は一階を歩く二つの人影を捉えたが、顔がわからない。
手すりから身を乗り出すようにして下を覗き込んでいた夏焼は顔を上げ、
ホールを囲むようにつながっている通路の反対側に視線を向けた。
闇に溶け込むように潜んでいる菅谷の顔がタイミングよく上がり、
夏焼と視線をあわせて右手の指で下を、続いて右を示す。
やっと見つけた手掛りだった。
飯田なら、吉澤とともに姿を消している嗣永と清水の消息を知っているはず。
このまま外の連中に殺されるのを、黙ってみているわけにはいかない。
菅谷に頷き返して、夏焼は再び下へと視線を向けた。
薄暗いホールの中を歩く二つの影の右側の方へと、手すりに沿って移動する。
気合を入れるように拳を握った夏焼は音もなく手すりを乗り越え、
空中に身を躍らせた。
- 403 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:42
- 耳のそばを通り過ぎていく風の音を聞きながら、空中で姿勢を保つ。
一階を歩く飯田には、外に大勢の人間が待ち構えているのが見える。
頭上に気を配っている余裕などないはずだ。
床の上に激突するまでの一瞬の自由落下状態のなかで、
夏焼は振り上げた右の手刀で急速に近づいてくる飯田の左肩を狙った。
だが夏焼の手刀が肩に触れる直前、飯田が足を止めた。
同時に、僅かに身体をずらして頭上から襲ってきた夏焼の攻撃を避けた。
夏焼は驚きながらも着地と同時に身体を沈め、
三階分の落下の衝撃を無理やり相殺する。
間髪入れずにしゃがんだ姿勢から右の一本拳で、
目の前にいる飯田の右足の甲を狙った。
飯田が右足を引いて避けたのをみて咄嗟に拳を止め、
体重の残った飯田の左足に両手を伸ばす。
地面に倒して動きを止めれば、後は菅谷が決めてくれはず。
低い姿勢からぶつかるように飯田の左足を取った。
倒すつもりで全力で当たったが、飯田はバランスを崩すこともなかった。
夏焼はそれでも、両腕で抱え込んだ飯田の足を一気に引き上げる。
しかし抱え込んだその手には、なんの抵抗も感じなかった。
飯田が引く力に合わせて足を上げた。
そう理解して見上げた夏焼は自分に向けられている飯田の視線に気がつき、
掴んでいた足を離した。
間合いから外れる時間はない。
視線を正面の飯田から逸らさず、
両腕の間に頭を入れるようにしてガードを固める。
それでも、なにが起こったのかを理解する暇はなかった。
ガードした腕を突き抜けて、真横から強烈な衝撃が襲う。
その一撃で、夏焼の意識が頭の外に弾き出された。
- 404 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:42
- 菅谷は床を滑っていく夏焼から、唇をかみ締めて視線を引き剥がす。
叫びたい衝動を押し殺してホールの中央に立つ飯田に向け、
スコープの照準を合わせた。
すでに発動している能力を最大値まで引き上げる。
菅谷は放つ弾丸に、自身の持てる最大の能力を乗せた。
銃口からマズルフラッシュとは違う、強い輝きを伴った弾丸が放たれる。
彗星のように青白く輝く軌跡は一瞬で飯田の頭部を打ち抜くはずだったが、
引き金を引くのにタイミングを合わせたように、
飯田が振り返りざまに右腕を振った。
菅谷の放った弾丸が紅い光りに包まれた飯田の拳と打ち合わさり、
激しい光芒を残して弾かれる。
直角に曲がった弾丸は直撃したホールの壁を崩壊させ、
轟音と共に舞い上がる粉塵に飯田の姿が飲み込まれた。
- 405 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:42
- 菅谷は慌てながらも、見失った飯田の姿を求めてホールを見渡した。
舞い上がった粉塵越しに見えるホールには、倒れた夏焼以外には誰もいない。
どこに逃げたのかと思った次の瞬間、すぐそばになにかがいる気配に気が付く。
抱えたライフルと共に振り返った菅谷の銃口の先に、
全身を緋色の光りに包まれた飯田の姿があった。
一瞬で移動した飯田に驚愕しながらも、
すばやくボルトを引いて次弾を装填する。
右腕を伸ばしてきた飯田を見ながら、引き金を引くと同時に、
飯田の全身を包んでいた緋色の輝きが右手に集まる。
強く輝く右手に触れた銃弾が再び弾かれ、天井を破壊した。
通常なら吸血鬼の造る障壁は、付与の能力を持った弾丸で貫通できる。
だが飯田は全身の障壁を右の拳に集中させることで、
貫通するはずの弾丸を弾くほどに、その効果を飛躍的に高めた。
自分の能力が通用しない現実に、菅谷は逃げることもできずにその場に座り込む。
次弾を装填することも忘れて見つめる菅谷の視線の先で、
飯田が無表情に右手を伸ばしてきた。
- 406 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:42
- ――――
ビルの中から轟いた銃声を掻き消すように何かが崩れる音が鳴り響き、
外に集まっていた人々の間に緊張が走る。
「なかに配置してたの?」
「いえ、誰もいないはずですけど」
答えた新垣の言葉に、ガラスが砕ける音が重なった。
その場にいる人間の視線が地面に集まる。
転がっている飴のように捻じ曲げられたライフルを見て、
慌てたように動き出した男たちが正面玄関の包囲を始めた。
「……まずいな」
聞こえてきた呟きに、新垣は横にいる矢口に顔を向けた。
矢口は浮かない顔をして、視線を正面の入り口に向けている。
「裏から出ると思ったのに……」
「どういう意味ですか?」
正面から視線を逸らさずに矢口が口を開きかけたが、返答は銃声に掻き消された。
- 407 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:43
- 割れたガラスの穴から飛び出してきた二つの人影に、
反応した何人かが引き金を引いた。
その音を合図に、正面を囲んでいる人々の手から次々と銃火が上がる。
別々の方向に走り出していた人影だったが
扇状に広がった包囲網から抜ける前に、放たれる無数の銃弾を浴び地面に倒れた。
二人とも地面にうつぶせに倒れたが、銃撃は容赦なく続く。
慌てて正面玄関に近づこうとした新垣だったが、腕を掴まれて足を止めた。
「なんで止めるんですか!」
「よく見てみろ」
意外に冷静な矢口の声に、再び正面玄関に視線を向ける。
銃口から放たれる激しい火花は、続いていた。
だがいつのまにか倒れている人間の姿はなく、放たれる銃弾は地面を抉っていた。
何人かが気がついて止めるように叫んでいるが、
ほとんどの人間は引きつった顔で引き金を引きつづけている。
こういった状況では、一度動き始めた人間を止めることは難しい。
「ここはヤバイ、離れるぞ」
「どこに行くんですか矢口さんっ!」
鳴り続ける銃声のなかで、新垣は腕を放してた矢口の背中に向かって叫んだ。
振り返った矢口は少し怒ったような顔で、新垣を睨む
「圭織は仲間だぞ、おまえ仲間に銃を向けるつもりなのか?」
言葉に詰まった新垣に背を向けると、再び歩き出した。
新垣は慌てて矢口の後を追う。
「あのままほっといていいんですか?」
「下手に手なんか出して怪我したくない。ほっときゃいいんだよ」
怒ったように言って再び歩き出す。
新垣は戸惑いながら矢口の後を追って、建物の影へと向かった。
- 408 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:43
- ――――
外からの流れ弾が正面のガラスに当たり、粉々に砕け散る。
鳴り続ける激しい銃声に亀井は耳を押さえながら、外に視線を向けていた。
能力で出した分身“幻像”が倒れるのを見て能力を停止する。
その途端に地面に倒れていた二人の亀井の姿も消えたが、
それでも緊張の糸が切れた兵士の銃声は止まなかった。
「んっ……!」
小さく声を上げて唇を噛み、亀井は身体を震わせた。
流れ込んでくるのは、無数の銃弾に貫かれた幻像の記憶。
だが肉体に感じる痛みには、慣れている。
外に出した幻像が死んでしまう前に戻せば、なにも問題はない。
しゃがみこんでいる亀井の姿が、陽炎のように揺れた。
能力で造り出した新たな二つの幻像が現れ、亀井の左右に立ち上がる。
「圭織が行けば済むのに……」
呆れたような声に、亀井は首だけを後ろに向けた。
後ろに立っている飯田に向けて微笑んだ亀井の両側で、
二つの幻像が左右の手に二本のナイフを握る。
何の合図もなく、同時に外に向かって走り出した。
残された亀井はゆっくりと立ち上がり、幻像が飛び出していった穴に向き直る。
「……いきますよ」
再び激しくなった銃声を聞きながら口元を上げた亀井は、
幻像の後を追って走り出した。
- 409 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:44
- 割れたガラスを踏みながら外に飛び出した亀井は、
正面の男たちに向かって真っ直ぐに走り出す。
外に出た幻像は、左右に分かれて動いていた。
それに合わせて銃口が動き、
正面玄関を囲んでいた包囲網に一瞬の空白が生まれている。
同じような戦闘服を着ている男たちのなかで、
亀井に気が付いた一人が慌てたように銃を向けた。
スピードを上げた亀井は向けられた銃口の下をくぐりつつ、
男の横を走り抜けながら逆手に持ったナイフで脇腹を薙ぐ。
声を上げた男が倒れるより早く、
亀井は見分けのつかない男たちの群れのなかに深く入り込んだ。
密集した陣形のなかに入り込めれば、数が多い方が必ずしも有利とは限らない。
亀井は先に出していた幻像を消し、
その場で新たな三つの幻像を作り出すと四方に散った。
突くのではなく、撫でるように切る。
仲間の身体が邪魔をして身動きの取れない男たちの間を
四つの影が縦横無尽に走り、鮮血が迸った。
亀井にとっては届く範囲に向けてナイフを走らせれば、それでいい。
顔のない男たちの群れのなかで噴出す鮮血が、周囲で見ている者に混乱を与えた。
- 410 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:44
- 囲んでいた男たちがいったん距離を取ろうとして、後ろに退いていく。
だが、囲んだ人垣の輪が広がる速度よりも、亀井の動きが速かった。
再び人垣の中に入った四人の亀井だったが、適当に動いているわけではない。
亀井を避けようとしてできる空白がつながり、囲んでいた陣形が乱れた。
タイミングを計ったように一人が抜け出し、
手薄になった一角に向かって走り出す。
囲みから抜けようとする亀井の前に、二人の人間が立ちはだかった。
向けられた銃口を姿勢を低くして避けながら二人の足首を撫で切り、走り抜ける。
二人の上げた悲鳴に他の幻像がいる方向に顔を向けていた男が、振り返った。
ようやく亀井の接近に気がつき、手に下げていた銃を向けようとする。
「遅いっ!」
声を出したのとほぼ同時に、亀井は間合いに入っていた。
男の頚動脈をとらえる正確な軌跡で振るわれたナイフが、
闇のなかに白光を残して半円を描く。
だが男の首に触れたところで、ナイフは止まった。
亀井は自分の手首を掴んでいる相手に視線を向ける。
「……なにするんですか?」
動きを止めたのは包囲を抜けようとする亀井の後を追いかけてきた、飯田だった。
- 411 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:44
- 飯田は腕を掴んだまま、感情を見せない紅い瞳で亀井を見下ろす。
ナイフを持った手が動かせないと分かった亀井は、
手を緩めない飯田を軽く睨んだ。
亀井と視線を合わせたまま、飯田は動き出そうとした男の首筋に手刀を入れる。
不満そうな亀井の腕を引っ張り、崩れ落ちた男を残して走りだした。
「殺す必要はない」
「邪魔なんだから、しょうがないじゃないですか」
目の前に現れた銃を構えている一群に、飯田は腕を離す。
威嚇も警告もない一斉射撃を横に跳んでかわしつつ接近すると、
五秒もかからず全員を殴り倒した。
「相手は殺す気なんですよ。そんな面倒なことしなくても……」
「いいから来いっ!」
飯田は横に並んだ亀井を抱え、広場を封鎖しているトレーラーを飛び越えた。
- 412 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:45
- ――――
割れたガラスを踏みしめながら、矢口は正面の扉を抜ける。
先に入ったほとんどの人間は最上階へと向かったのか、
薄暗いホールのなかは思ったよりも閑散としていた。
片側の壁には大きな穴が開き、瓦礫が散らばっている。
矢口は五階までのほとんどにヒビが入っている壁を見ながら、奥へと進んだ。
壁際に倒れている夏焼を見つけてそばに近づいたが、
気を失っているのか目を瞑ったまま動かない。
「おい、起きろ」
矢口はしゃがみこんで、倒れている夏焼の頬を軽く叩く。
嫌がるように顔をしかめた夏焼の目が、うっすらと開かれた。
状況がわかっていないのか、身体を起こした夏焼は
ぼんやりとした表情で周囲を見渡している。
「立てるか?」
右手を出しながら言った矢口に、ゆっくりと顔を向けた。
ようやく焦点の合った視線を向けた夏焼の顔に、焦ったような表情が浮かぶ。
「梨沙子っ!」
差し出された矢口の手を無視して立ち上がった夏焼だったが、
すぐにふらついて壁にぶつかりそうになる。
その姿を見て、矢口は溜め息を吐きつつ手を伸ばした。
- 413 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:45
- 夏焼は腕を取った矢口を振り払おうとしたが
自力で立ち上がるのは無理だと悟ったらしく、すぐにおとなしくなった。
「……梨沙子は?」
「外であんたの名前呼びながら泣いてたから、後で行ってやれ」
矢口の肩にもたれかかった夏焼が、小さく呻き声を上げる。
痛みに顔をしかめた夏焼を見ながら矢口は再び、溜め息を吐いた。
「単独で吸血鬼に当たるなって教わんなかった?
圭ちゃんにもらった薬があるからって調子に乗ってるから、
こんなことになるんだよ」
俯いた夏焼は恥かしさと怒りの混じった顔を、自分の足元に向けた。
「……あの人は?」
「圭織は逃げたよ。一緒にいた亀井もね」
包囲から抜けた二人は、追跡を振り切った。
捜索隊には探索の能力を持った者もいたが二人の反応が途中で消えてしまい、
後を追うことができなかった。
能力の範囲から逃れたのではなく、何らかの手段で自分のSPを消したのだろう。
飯田を操っている吉澤には、遺物保管所の管理者だった後藤がついている。
封鎖する前に持ち出した遺物でも、使ったのかもしれない。
「よっしいの奴、なに考えてんだか……」
飯田が自分だけの考えでHPを襲撃したとは、矢口には思えなかった。
おそらく指示を出しているのは、吉澤だろう。
この時期につんくを殺害する目的として考えられるのは、
つんくが主導して進めていた結界機関だ。
こんど試験運転がうまくいけば世界規模で、
同じような施設が作られることになる。
それを阻止するために、HPを襲わせたのかもしれない。
「ほらあそこ」
外に出た矢口はそう言って、
正面玄関の外に停車しているトレーラーの脇を指差した。
「梨沙子っ!」
仲間に囲まれて泣いている菅谷を見て、矢口の手を振り解いた夏焼が走り出す。
- 414 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:45
- 泣きじゃくる菅谷をなだめている夏焼を見ていた矢口は
顔に当たった冷たい感触に、空を見上げた。
降り始めた雪に顔をしかめると背後を振り返り、いま出てきたビルに視線を移す。
照明の消えた巨大なビルは黒い一枚の大きな壁のように、そびえ立っていた。
すでに計画はつんく個人の思惑を超えて、進んでいる。
つんく一人が死んだところで誰かが代わりに日本支部のトップに座るだけで、
計画自体を止めることはできない。
矢口にとって吉澤の行動は、理解できないものだった。
「……わけわかんないっ!」
吐き出すように言いながら、矢口は目の前に建つビルを睨みつけた。
- 415 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:46
- ――――
- 416 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:46
- 以上で第1話終了です。
- 417 名前:All Of Me 投稿日:2006/12/07(木) 19:46
- >>396 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
またよろしくお願いします。
>>397 愛毒者 様
ありがとうございます。
第四部で完結する予定ですので、またよろしくお願いします。
>>397 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
遅くなりましたが、よろしくお願いします。
- 418 名前:愛毒者 投稿日:2006/12/08(金) 17:53
- 更新お疲れさまです♪
夏焼さんは左腕の怪我は完治してたんでしょうか?
それにしてもかおりんの思惑が気になるところですね。
あと、個人的には愛ちゃんや梨華ちゃん達の動向がすごく気になっています。
また次回更新も楽しみに待ってます♪
- 419 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:48
- ――――
冬にしては気温も高く、風も穏やかな午後だった。
晴天の空に白い雲が子猫のように浮んでいる。
新垣は窓枠に肘を乗せ、頬杖をついて雪の積もった街並みをぼんやりと見ていた。
きのうまで断続的に降っていた雪も止み、
久しぶりの太陽に照らされた街は平和に見える。
飯田と亀井が本部に現れてから、すでに三日が過ぎていた。
姿を消した二人の捜索は続けられているが、行方はわかっていない。
結局、なにも変化はなかった。
矢口が話していた通り、殺害されたつんくの代行者も決まった。
結界発生機関の稼動も予定通り行われる。
飯田の、そしてその影にいる吉澤は何を考えているのか。
矢口の言った言葉を思い出しながら、新垣は聞こえてきた音に視線を落とした。
「……ん?」
見慣れない車が敷地のなかに入ってくるところだった。
ほとんど足跡のついていない駐車場の雪の上をちょっと速すぎるスピードで、
新垣のいる建物に近づいてくる。
車に詳しくない新垣には赤いスポーツカーとしか分からないが、
知り合いの乗っている車ではない。
真っ直ぐに向かっくる車が、建物の前で急ブレーキをかけた。
シャッターの前で停まるつもりだったのだろうが雪で滑った車体が半回転する。
停まりきらなかった車体の後部がシャッターに軽く接触して停車した。
ぶつかった音の余韻が消えるのを待っていたかのように、運転席の扉が開く。
身を乗り出して窓の下を覗いていた新垣は、思わず声を上げた。
「後藤さん!?」
窓を見上げた後藤は照れたように笑いながら、新垣に向かって手を振った。
- 420 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:49
- 第2話
Misty
- 421 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:49
- 部屋に入ってきた後藤は、応接用のソファーに勢いよく腰掛けた。
「ごめんね、雪の上って初めてだったからさ」
どう対応していいのか分からない新垣は部屋に入ったところで、
立ったまま突然の来訪者を眺めた。
飯田の住んでいたこの場所は、本部襲撃の件で監視対象になっている。
保田殺害と遺物保管所の閉鎖に関わっているとして、
いまもHPに追われている後藤がここに現れれば、
どうなるか分からないはずはない。
「だれか来たんれすか?」
その声に振り返ると、辻が不思議そうな顔で部屋を覗き込んでいた。
物珍しそうに部屋を見渡していた後藤が、後ろにいる辻に笑いかける。
「久しぶり、元気だった?」
にこやかに笑いかけた後藤を見て、辻も笑顔を見せながら部屋に入っていった。
新垣はどう対応していいのか分からずに、笑顔で話している二人を見つめる。
「そんなとこに立ってないで、とりあえず座ったら?」
辻の頭を撫でながら、後藤は立ったままの新垣に向けて言った。
- 422 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:49
- 後藤の背後から開けたままの窓を通して、
冬晴れの明るい日差しが入り込んでいた。
辻と並んで座った新垣は、向かいに座る後藤を眺める。
後藤は僅かに微笑んで口を閉ざしたまま、目の前に座る辻に視線を向けていた。
「……飯田さんと絵里はどこにいるんですか?」
無言のまま過ぎていく時間に耐えられなくなり、新垣がそう切り出した。
「さぁ?」
肩をすくめながらあっさり言うと、後藤は足を組んだ。
「そんなこと後藤に聞かれてもわからないよ。一緒にいるわけじゃないからね」
「捕まった後も、そんな話をするつもりですか?」
「捕まる? 誰が誰に?」
新垣の言葉に、後藤は不思議そうに首を傾げた。
とぼけているわけではなさそうな後藤の態度に、新垣は眉を寄せる。
「この場所はHPに監視されています。もう逃げられませんよ」
新垣の言葉を聞いて、後藤はおかしそうにクスクスと笑い出した。
髪をかきあげながら楽しそうな視線を、新垣に向ける。
「ここは監視から外れてる。誰も来ないよ」
「そんなこと……」
「よっしいは圭織と亀ちゃんを本部に侵入させたんだよ。
一時的に監視を外すぐらい出来ないわけないでしょ。
それとも、ガキさんが一人で捕まえてみる?」
問いかけた後藤は、なにかを期待するような表情を浮かべる。
- 423 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:50
- 自分を見つめる後藤の視線に、新垣は一瞬言葉に詰まった。
後藤の態度も表情もにこやかで、なんの恐怖を覚えるものではない。
それでも、後藤の言葉を肯定してはならない気がした。
「……飯田さんを操って本部を襲撃して、
吉澤さんはなにをするつもりなんですか」
自分の感情に困惑しながら、新垣は口を開いた。
吉澤が姿をくらましたのとほぼ同時に、嗣永と清水がいなくなっている。
本部では吉澤が清水の能力で飯田を操り、つんくを殺害させたと考えている。
その意見に新垣も賛成だったが、
後藤が口にしたのはその考えを否定するものだった。
「吸血鬼を長期間能力で縛りつけるなんてできない。
圭織は操られてなんていないよ。
おとなしく話を聞いてもらうために一時的に拘束しただけ」
「話って?」
取り乱した気持ちを抑えながら、新垣はできるだけ冷静な声を出した。
「二人だけで話してたからわからない、
けど圭織は納得して動いてるみたいだよ」
何でもないことのように言った後藤は腕にはめている時計に、視線を落とした。
- 424 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:50
- 本当のことを話しているのだろうか、と新垣は思った。
飯田と亀井の居場所、吉澤の目的、それに後藤がここを訪れた理由。
うまく話を引き出す自信はないし、一人で後藤を捕まえられるとも思えない。
かける言葉も次に起こすべき行動も思いつかず、新垣は口を閉じた。
落ちた少しの沈黙を破るように、顔を上げた後藤は笑顔を見せる。
「それで本題なんだけど、頼まれごとがあってさ。
匿ってもらってるから断り難いんだよね」
「匿ってもらってるって、吉澤さんですか?」
新垣の問いに頷くと、後藤は辻に顔を向けた。
向けられた視線に、辻は居心地が悪そうに椅子の上で姿勢を変える。
「よっしいからの伝言だよ。よけいな邪魔が入らないように、
こっちで指定する場所に一人で来て欲しい、ってさ」
言われた辻は助けを求めるように、横にいる新垣を見上げた。
新垣は安心させるように辻に笑いかけてから、後藤に向き直る。
後藤は笑いを残した表情のまま、辻に顔を向けていた。
「で、どうかな?」
「そんなこと言われても、のんちゃんには決められませんよ」
新垣は頬を引き締め、努めて厳しい表情を作った。
いま表に出ている人格では、吉澤が誰かも分からないはずだ。
きょとんとした表情で辻と新垣を交互に見ていた後藤だったが、
しばらくするとようやく思い出したのか、苦笑した。
「そうだった……それじゃあ、本人に出てきてもらおうかな?」
そう言った次の瞬間、部屋の中の空気が音を立てて凍りついた。
- 425 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:50
- 開け放たれた窓から聞こえてくる樹々を揺らしている風の音も、
入ってくる暖かな日の光さえも、
すべてが薄っぺらで現実感のない光景へと変わる。
後藤から放たれる凄絶な殺気に、
平和だった部屋のなかが一瞬で戦場へと変貌した。
「……そんな面倒なことしなくても、
この場で後藤さんに居場所を聞いて出向いた方が早いと思いませんか?」
決して大きくはないが芯の強さを宿した、はっきりとした声音。
横にいるだけで感じる薄い刃物を首筋に当てられているような恐怖。
聞こえた声に新垣が横を向くと、
辻の冷たさを感じる視線が真っ直ぐに後藤に向けられていた。
「それも悪くないけど、やっぱり相応の舞台は必要だと思わない?」
そう言って、後藤は愉しそうに口元を上げた。
放たれる辻の冷たい殺意を受けながら、後藤は顔色一つ変えていない。
新垣は息を呑んで、対照的な表情で睨みあう二人を見つめていた。
痛いほどに感じる肌の感覚は後藤から放たれている殺気なのか、
それとも横にいる辻の鬼気なのか。
実際に拳を合わせているわけではなかったが、
ほんの些細なきっかけで戦闘が始まってしまいそうな緊張感に、
新垣は身動き一つできなかった。
「……私とあの人のことは後藤さんには関係ない。
それに後藤さんなら誰の力を借りなくても、逃げられるはずです。
こんな危険なことまでしてあの人に肩入れするのは、なぜですか?」
「傍にいるのは、手に入れられる可能性があるから。
よっしいや辻に欲しいものがあるように、
後藤にも欲しいものがあるってこと」
問いかけた辻の言葉を予想してたのか、後藤は滑らかに返答した。
「それは、後藤さんの命を賭けるのに値することなんですか?」
「当然だね」
問いかけを肯定した後藤は、辻の答えを期待するように微笑を作った。
- 426 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:51
- 後藤の欲しい物とは、なんなのか。
再び無言で睨み合う二人の間で、新垣は後藤の横顔を見ていた。
後藤は可能性と言った。
吉澤が将来手に入れる可能性がある物。
最強の能力者である後藤の力をもってしても、手に入れられない物。
後藤がここに来ることを承諾したということは、
辻と会うという吉澤の行動が、後藤の利害と一致しているということになる。
吉澤が辻に勝つことで得られる物、ということなのか。
だが、と新垣は自らの考えを否定する。
吉澤こそが、辻の求めた仇なのだ。
二人が会えば、必ず戦うことになる。
そして一緒に戦ってきた新垣には、辻の力がどれほどのものか分かっている。
吉澤がどのような策を弄したとしても、勝てるわけがない。
新垣には吉澤の考えも後藤の考えも、理解できなかった。
- 427 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:51
- 再び時計に視線を落とした後藤を見て、辻が僅かに目を細めた。
「……いいでしょう」
後藤の顔を見つめたまま、辻が静かに口を開いた。
「そちらの指定する場所を教えてください」
「そう言ってくれると思ったよ」
嬉しそうに言いながら、後藤が立ち上がる。
それを見た新垣は、慌てたように辻の肩に手を置いた。
「罠かも知れないのにそんな簡単に受けていいの?
吉澤さんが一人で来るとは限らないんだよ?」
「分かっています」
新垣に向かって頷いた辻は、後藤を見上げる。
「行くのは私一人です。あの人がどんな罠を仕掛けようが
誰を連れてこようが、かまいません。
ただし、私の邪魔をするようなら命を捨てることになります。
……たとえ後藤さんでも」
辻は見下ろしている後藤へ真っ直ぐに視線を向けながら、言った。
その言葉を受けて、後藤は嬉しそうに笑う。
「嬉しいこと言ってくれるけど、後藤は邪魔なんかしないよ」
後藤はコートの中に手を入れ、取り出した白い封筒を辻の前に置いた。
「時間と場所はそこに書いてある。
分かってるとは思うけど、他の人には言っちゃだめだよ」
そういい残して歩き出した後藤は振り返らずに片手を振ると、
颯爽とした足取りで部屋を後にした。
- 428 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:51
- ――――
相変わらず客のいない店内の温度は低めに設定してあるが、
窓から差す日差しは暖かい。
無人の店内を埋め尽くしている無数の本を一通り見渡してから、
紺野は再び視線を落とした。
数日前に本部を襲われたことは、知っていた。
その犯人が飯田と亀井だと聞いてまっさきに浮かんだのは、吉澤の顔だった。
さまざまな情報から本部に侵入しつんくを殺害した二人の背後にいるのが
吉澤だろうとは推測できるが、何を考えているのかは分からない。
思いつくのは結界発生機関のことだったが、予定通り竣工式は行われる。
その程度のことが分からない吉澤では、ないだろう。
いつのまにか活字を追っているだけなのに気がつき、
紺野は読んでいた本から顔を上げた。
冬とは思えない暖かい日差しの下を行き交う人々を見ながら、
冷やしたお茶が入ったカップを口元に持っていく。
吉澤が見つかることはないだろう。
長期間に渡って姿を消し、今回も厳重な警備を敷いている本部のなかに
二人を送り込んでいる。
HP内部に協力者がいると考えるのは当然だし、
捜査の進み具合も筒抜けのはずだ。
カップを置くと同時に小さな鈴が久しぶりに鳴り、入り口の扉が開いた。
反射的に笑顔を向けた紺野の表情が、固まる。
扉を開けて入ってきたのは、吉澤だった。
突然の訪問に戸惑う紺野に片手を上げて、吉澤が店の中に入って来る。
物珍しそうに店内を見回しながらカウンターの前に立つと、
紺野に向かって親しげに笑いかけた。
「辻と戦うことになった。力を貸して欲しい」
なんの挨拶も駆け引きもなく切り出した吉澤の顔を、
紺野は呆れたように見上げた。
- 429 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:51
- 紺野はたった一人で目の前に立っている吉澤の背後に、眼を向けた。
本部襲撃の件で、この場所は監視対象になっているはず。
吉澤の姿を見つければ何らかの動きがあってもおかしくはないはずだが、
店の外にもそれらしい動きはない。
いぶかしげな紺野の視線にも気が付いていないのか、
羽織っている黒革のハーフコートを脱ぎもせず、吉澤は言葉を続けた。
「辻を消さなければいけない。
正確に言うと辻に憑いてるモノを、だけどね。
動きを止めることができれば分離させることができるし、
私も色々と準備はしてるけど、いまいち自信が持てない。
というわけで、どうしようもなくなったら手伝って欲しい」
「……なぜ私が協力しなくちゃいけないんですか?」
表情を消して即答した紺野を、吉澤は黙ったまま見つめる。
睨み合う二人の間に流れる硬い空気を壊すように、吉澤は破顔した。
「見返りならあるよ」
コートの内側に手を入れ、取り出したケースを紺野の前に投げた。
紺野が視線を落として、銀色の円盤が入ったケースを眺める。
表面は何も印刷されていないディスクが一枚、入っていた。
「そのなかに私に協力している人間のデータが入ってる。
もちろん全員分じゃないけど、紺野が手伝ってくれたら残りを渡す」
「目的のためなら、用がなくなった仲間を売るってわけですか」
「辻を消すのは目的じゃない、過程だよ」
顔を上げた紺野に笑いかけながら、吉澤は近くの本の山に腰を下ろした。
- 430 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:52
- 答えを期待するように見つめている吉澤の顔から視線を移し、
紺野はカウンターの上のケースに目を落とした。
「……中澤さんに会いましたか?」
静かに言った紺野は開いたままになっていた本を閉じる。
視線を吉澤に戻して、ケースと一緒に本をカウンターの隅へと寄せた。
「あのときの怪我のせいで、まだ病院にいます。
リハビリはしていますが歩けるようになるかどうかは、分かりません」
感情を押し殺した紺野の言葉にも、吉澤の態度には何の変化もなかった。
紺野の言葉に動揺したようすも、僅かに上がった口元が後悔に歪むこともない。
「辻希美と亀井絵里のこともです。
あなたがいなければ、辻さんが薬を飲むこともなかった。
絵里だって、飯田さんやれいなの傍にいることで
変わりはじめていたはずです。
もう少し時間を置けば、あんな結果にはならなかった」
怒りに声が震えそうになるのを抑えながら、吉澤を睨んだ。
それでも、吉澤は何の感情の揺れも見せない。
「これから伸びていくはずの命が、憎しみや悲しみに消費されている。
それが、吉澤さんの起こした行動の結果なんですよ。
……これ以上何をしようって言うんですかっ!」
思わず声を荒げた紺野の言葉を平然と受け流し、吉澤は肩を僅かにすくめた。
「だから言ったでしょ。結果じゃない、過程だよ。
それに誰かがやらなきゃいけないことなんだ。
私はただ選ばれたってだけなんだよ」
「選ばれた? 神様の声でも聞こえたって言うんですかっ!」
韜晦するような吉澤の答えに、
制止できない怒りに駆られた紺野は再び大声を上げた。
- 431 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:52
- 吉澤は睨みつける紺野から視線を逸らし、店の中を見渡した。
手を伸ばして手近な本を一冊手に取ると、
さして興味があるわけでもなさそうにパラパラとめくり、元の場所に戻す。
「相変わらず、本を読むのが好きなんだね」
独り言のような吉澤の言葉だったが、紺野は黙ったままその顔を睨みつける。
交渉の相手が冷静になるまでの時間を稼ぐつもりなのか、
吉澤は並べられている書棚のなかから読みたい本でも探しているように、
ゆっくりと視線を移していく。
「いくら知識を詰め込んでも、未来を知ることはできない」
再び紺野の顔に視線を向けた吉澤は、そう言って笑いかけた。
「未来を予想しようとする場合の最大の問題は、
初期条件の極めて微細な誤差が長期的には巨大な誤差となって
結果に現れるってこと。
正確な未来が知りたけれ現在を構成するすべての要素を知る必要があるけど、
所詮は点に過ぎない観測点をいくら増やしても、
無限でなければゼロと変わらない。
未来の世界を把握することはできないし、それは現在にも言えることだよ」
諭すような吉澤の言葉に反論するために、
紺野は一度目を閉じて深く息を吸い込んだ。
呼吸を整え、昂ぶった感情をコントロールする。
「方程式で言う一次元処理、つまり論理に頼るからそうなるんです。
与えられた全体像から部分を抽出して逐次処理を行い、
組みなおすことで世界を再構築する。それが論理と言うものです。
吉澤さんの言うように論理だけに頼れば、未来の予測は不可能でしょう。
だからこそ、必要なのは論理と直感です。
直感によって部分や論理を飛び越えて全体像を一気に把握する。
全体のバランスやそこに秘められた分散のパターンを掴み、
現れた世界を論理をもって分析し、知る。
世界を俯瞰してみることができれば、
構成するすべての要素を知る必要はないんです」
反論した紺野は挑戦するような眼差しを向けた。
肩をすくめた吉澤は、挑発するように驚いた表情を作った。
「たいした考えだけど、それで私の目的は理解できたの?」
その質問に、紺野は無言のまま吉澤を睨み返した。
- 432 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:53
- なにかを考えていたのか、宙を見つめていた吉澤の視線が紺野を捕らえた。
「……HPは吸血鬼や能力者を管理し、世界の調和を守る。
紺野はさ、怖いと思ったことはない?」
しばらく間を空けてから、吉澤はそう言った。
吉澤の問いには答えずに、紺野はふいの質問の意味を考える。
世界のために戦うHPの持つ力は、強大だ。
その力の方向が将来どこに向かうのかは、
設立当初からの最大の懸案事項の一つだった。
「この世界がいまも人間の物であるのは、異能の能力者を管理し、
向こう側からの侵略を食い止めているHPのおかげだからね。
もしもHPがその気になれば、逆らえる国家なんてない。
そんな力を持っていていままでなにもなかったのが不思議だとは、
思わない?」
吉澤の言うように国家や民族、宗教を超えたところにあるその力を
政治的に利用して、表の世界に積極的に介入しようという動きも過去にはあった。
それでも大勢はそれを拒み、HPの存在はいまも裏の世界に留まっている。
吉澤がなにを言おうとしているのか見極めようと、紺野は目を細めた。
「HPには設立当初から、隠れた組織が存在する」
そう言って、吉澤は足を組んだ。
- 433 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:54
-
「……HPが表に出るのを防ぐために吉澤さんの言う組織は、
人知れず理念から逸脱した者を排除してきたと言うんですか?
個人の自由意思を認めない組織は必ず外部との軋轢を生む。
そんなことで組織の維持などできるはずがない」
「もちろん。多様性を持たせてこそ組織は全体として強固になるからね。
私が言ってる組織は個人に干渉するものじゃない。
HPの持つ強大な力を正しい方向に導くための組織なんだよ」
吉澤は紺野の言葉を肯定するように、頷いた。
「HPの目的は世界の調和を守ること。
そのため手段として持っているその力はあまりに強く、
関わるものの意思に干渉するようになる。
だれもが持っている力への渇望を掻きたて、
いつしか手段が目的に入れ替わる」
紺野は黙ったまま、淡々と話し始めた吉澤を見つめた。
感情を隠したような瞳を向けている吉澤は、
紺野の視線を正面から受け止めながら話を続ける。
「HPは世界の調和を守るという目的のために作られた組織なんだよ。
明確だったはずの目的を失えば、当然そのために集まった組織は
崩壊することになる。
だから組織崩壊の兆候が現れたとき、HPに所属する人間のなかから
無作為に選ばれた何人かに、ちょっとした質問をするんだよ。
もちろん本質とはかけ離れたものだけど、
その質問の答えによって決定が下される。
質問の内容には関係なく答えの半数がイエスなら現状維持、
ノーなら修正が行われる。
そして修正を実行に移すための代行者が、選ばれる」
「そんなもの……仮に吉澤さんの言った組織があったとしても、
まったくの運任せじゃないですか」
紺野は呆れながら、言った。
HPの方向性とはまったく違う内容の質問の答えで
そんな重要な問題を決めるなど、馬鹿げている。
「なにをしたって未来も現在も正確に把握できないなら、
運任せも悪くないでしょ?
それにね、運とは神意の呼称だよ」
そう言って、紺野の眼を見つめていた吉澤の視線が逸れた。
- 434 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:56
- 表には現れないその組織が、
HPの内側から闇の操作を行ってきたと言うことなのか。
HP創設からの歴史は一通り学んでいる。
それでも、紺野は吉澤の語る組織の話は聞いたことがなかった。
沈黙があたりを満たし、ひび割れができそうなほどの緊迫感が張り詰める。
僅かに俯いていた吉澤が顔を上げ、紺野を真っ直ぐに見つめた。
「その組織の決定を実行に移すための代行者……それが私なんだよ」
吉澤はそう言って、立ち上がった。
どう返事をしていいか分からない紺野を見下ろしながら、
カウンターの前に立った吉澤が笑いかける。
「組織の痕跡を見つけようとしても無駄だよ。
いま話した組織はいくつものダミーに守られ、実体を掴ませない。
自分が選ばれていることを知らないメンバーもいる。
だけどそれでも、存在している」
「……私はまだ返事をしてませんよ」
紺野は混乱しながらも、背を向けて扉に向かう吉澤に言った。
「そのなかに、紺野にして欲しいことが書いてある。
あとは紺野が自分で考えればいいけど、一応他の人には内緒にしておいてね」
「……仮にいまの話が本当だとしても、
あなたのしたことが許されるわけじゃないっ!」
扉に手をかけている吉澤に向かって、なんとか声を出した。
小さな鈴の音を鳴らして吉澤が扉を開き、
暖かいとはいえ冬の冷気が雑踏の音と共に店の中に入り込む。
「正しいことを為すのに、正義を掲げる必要なんてない」
なんとか聞き取れる程度の声で言い残して、吉澤は店を後にした。
- 435 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:56
- ――――
駅前に出たところで見覚えのある人影を見つけ、
後藤は車を歩道に寄せて停車すると助手席の窓を開け、片手を上げる。
「久しぶりっ!」
明るく言って笑いかけたが、返事の代わりに冷たい視線を向けられた。
白いハーフコートのポケットに両手を突っ込んだ不機嫌な顔が、
首に巻いたマフラーに半分ほど埋まっている。
「……よっしいはどこ?」
「直球だね。もう少し会話ってものを楽しもうよ、梨華ちゃん」
怒ったような顔を向けていた石川はふいっと顔を逸らして、
後藤が走ってきた道路の先に視線を向けた。
「ガキさんかののに用でもあったの?」
「梨華ちゃんには関係ないと思うけど?」
笑いを含んだ後藤の返答に、石川が視線を戻した。
不機嫌な顔に向けて、後藤は微笑む。
「よっしいにいまさら会って、どうするつもり?
べつに個人的な感情を否定するわけじゃないけどさ、
梨華ちゃんはよっしいに近づきすぎた。
周りとの関係も含めて見ることができなくなったから
なにを考えているのか分からなかったし、嘘も見抜けなかった」
あからさまに馬鹿にした後藤の口調に、石川の眉が上がる。
無言のまま怒りのこもった視線を向けている石川の瞳を見ながら、
後藤は鼻を鳴らした。
「それにね。梨華ちゃんにはもう、利用価値はないんだよ」
微笑みをたたえた後藤は冷ややかに、付け加えた。
- 436 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:57
- ひび割れそうなほどの緊迫感のなかで二人は、無言のまま対峙する。
微笑を浮かべている後藤とは対照的に、
怒りに紅潮した石川は拳を強く握っていた。
いまにも暴れだしそうな石川を見て、後藤は笑った。
その表情はさっきまでの冷たいものではなく、
心の底から楽しんでいるような笑顔だった。
「ほら怒った。ほんとのことだけ言ってても喧嘩になっちゃうでしょ。
だから会話を楽しもうって言ってんじゃん」
豹変した後藤の態度に戸惑った表情を見せた石川だったが、
気を取り直すように大きく息を吸い込んだ。
「……もう決まったの?」
真剣な表情の石川は、小さく呟くように言った。
吉澤と辻のことを言っているのではない。
石川に新垣と接触する時間はなかった。
短い問いかけだったが、後藤はその言葉の意味するところを正確に理解した。
「よっしいを巻き込まないで」
「後藤が言い出したわけじゃない。よっしいから言い出したことだよ?」
吉澤のそばにいるのは、後藤なりの理由があってのことだ。
そして石川はその理由を、知っている。
「ごっちんの考えは、わからないよ」
そう言って、石川は首を振った。
石川には以前、後藤の考えを話したことがある。
表情を読み取られないように気をつけてはいたのだろうが、
話を聞いていた石川の瞳に生まれた微かな嫌悪を、
後藤には感じ取ることができた。
それを見て、これまで話したほとんどの人間と同じように、
石川にも受け入れられないのだと悟った。
- 437 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:57
- 自分の考えを受け入れることのできる人間は、稀有な存在なのだ。
そのことを理解している後藤に、動揺はない。
「べつに他人に理解してもらいたいなんて思ってないからね」
「まだ……諦めてないんだね」
低く呟いた石川の瞳が、光を帯びる。
石川の全身に抑えた殺気が宿るのを見て、後藤は微笑んだ。
「言っとくけど、無理に聞き出そうなんて思わない方がいいよ。
殺されそうなことでもないと“力”は使わないことにしてるけど、
梨華ちゃんが相手だと手加減するのが難しい。
それに後藤は気にならないけど梨華ちゃんには、どうかな?」
そう言って、周囲を見渡す。
繁華街というには程遠いが駅前にはそれなりに通行人の姿もあるし、
車も途切れることなく走っている。
後藤の視線に気が付いた石川が、険しい表情を向けた。
「周りのことが気になって私が手を出せないとでも、思ってるの?」
「どうだろうね?」
そう言いながら、後藤は眉を寄せた石川の顔を見て微笑んだ。
ここで戦うことになれば、無関係の他人を巻き込むことになる。
強がってはいるが吉澤を取り巻くいまの状況を把握していない石川に、
その覚悟はない。
睨んでいる石川から視線を逸らして、後藤はサイドブレーキに手をかけた。
「そんな顔しなくても、よっしいの居場所ならあとで教えてあげるよ」
吉澤と辻の戦いは一週間後。
石川に教えるのは、その結末を見極めてから。
胸の内でそう呟いて、何か言いたそうな石川を残して車を発進させた。
- 438 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:57
- ――――
大きな窓にブラインドを下ろし照明を消した暗い店のなかで、
眼を閉じた紺野は深い黙考に沈み始めていた。
ほとんど不可能な領域にまで分け入ろうとする、深い深い黙考。
そこにおいて思惟の形は、1キロ先の獲物の匂いを嗅ぎつけ、
まっしぐらに駆け抜けてゆく猟犬にも似ていた。
吉澤の話した内容について、考える。
その組織はHPのなかに何千年もの間存在し続け、
秘密のうちに行われる質問によってHPの方向性を決めていた。
つまりは、世界の運命を支配していたということだ。
紺野は、その意味するところを把握しようとして、
いままでの人生のなかで自分に質問があったか、
またはそれはいつだったのかを考える。
だがそれは、樽一杯のワインのなかに入れたスプーン一杯の汚水を
分けるようなものだ。
その質問が仮にあったとしても、
これまでかわしてきた何気ない会話のなかに均等に混ざり合い、
特定することはできない。
そもそも吉澤の言う組織自体の存在が、疑わしい。
誰の目にも触れることなく、
また構成するメンバーさえも把握していない組織が存在することができるのか。
他人には言うなと言ったが、それが目的の可能性もある。
隠れた組織など最初から存在せず、
吉澤の現れる場所をHPに連絡することを期待しているのかもしれない。
HPの注意をそこに向けて、なにか他のことを考えているのか。
見極めることなどできない情報を与え、自分が否定するのを待っているのか。
いくら考えても、駆け抜けていく思惟の行き先は袋小路に行き止まる。
だが世界の真相は直視され得るものではなく、推論によってしか把握されない。
ばかげていると、一笑することもできる。
それでも、紺野は考えた。
- 439 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:58
- ――――
進行方向にある信号が赤に変わり、ゆっくりと速度を落とした。
握っているハンドルを指で軽快に叩きながら、後藤は上機嫌で鼻歌を歌う。
湾岸にある広い道路は通行量も少なく、快適なドライブだった。
10分ほど前に会った石川のことなどすでに頭になく、
これから買い物にいく店のことを考えていると、信号が青に変わる。
直進する車が通り過ぎるのを待つために交差点の真ん中で再び停車したときに、
それは起こった。
ハンドルを叩いていた後藤の指が止まり、体毛がひとりでにざわめく。
その後を追いかけるように、全身に鳥肌が立つ。
異常を感じ取った後藤が窓の外に視線を向けると、外の明るさが増していた。
明るい光は急激に強度を増し、車外の風景全体が白く塗りつぶされる。
たちまち目を向けていられないほど眩しくなり、
危険を感じた後藤はドアを上げて外に飛び出した。
車外に出ると腕で顔を覆い、真っ白に変わっている視界の中を走り出す。
露出した肌に異常な温度の上昇を感じ取りながら全力で走っていた後藤は、
ふいに視界が元に戻っているのに気がついた。
そのまま歩道へと走ったところで背後から聞こえた大きな破裂音に、振り返る。
タイヤのパンクした車の上へ降り注いでいた白い光が、
収束していくところだった。
- 440 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:58
- よく見ると車を囲むように綺麗な円形の範囲で、アスファルト自体が燃えている。
道路に使用されているアスファルトの発火点は500度前後。
後藤が異常を感じて逃げ出してからの僅か数秒で、
その温度まで達したということだ。
日焼けしたように赤くなっている手の甲を擦りながら、後藤は首を傾げた。
突然の襲撃の相手として考えられるのは、石川だ。
いっしょにいる田中にやらせたのかもしれないが、その能力は風。
あれだけの熱量を直接発することはできない。
集まり始めた野次馬のざわめきを聞きながら、
後藤は弾かれたように自分の車から頭上へと視線を移した。
「……来るっ!」
再び肌を刺激する感触と共に、後藤の視界が一瞬で白く変わった。
横に立っていた外灯が赤熱して放射熱を放つ。
周りに立っていた野次馬達が異常に気が付いて一斉に下がった。
歩道の上に取り残された後藤の姿が、太陽の光よりも強い輝きに包み込まれる。
後藤は頭上から降り注ぐ光の範囲から逃れようと、走り出した。
腕で光を遮りながら野次馬の中へ入り込み、
そのまま集まった人々の間を縫うようにその場を離れる。
だが光が追って来た。
後藤の姿をその中心に捉えつつ、白い光が移動する。
「ちっ!」
車を襲ったときよりも熱の集束が速い。
服が燃え上がる直前に、走りながら後藤は腕を振った。
後藤の手の先から金色の炎が吐き出され、
前を歩いていた人々ごと正面に立っているビルのガラスを炎で薙ぎ払う。
ガラスで造られた壁が一瞬で蒸発し、できた入り口に飛び込んだ。
大理石の床に転がり込むと、すばやく膝立ちになって外に視線を向ける。
飛び込んできた場所のすぐ外で白い光は急激に細くなり、消え去るところだった。
- 441 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:58
- 大きく息を吐いた後藤は足を投げ出し、その場に大の字に寝転んだ。
全身が火照ったような感覚に、背中から伝わる冷たい大理石の感触は心地良い。
他に被害を出さないためなのか、
光は後藤一人を狙うように狭い範囲に限定していた。
人のいない場所、あるいは遮蔽物のない広い場所で狙われては危なかった。
「だけど……甘いね」
呟いた後藤は俊敏な動作で立ち上がる。
石川からの警告と考えて良さそうだが、
正体の見えない攻撃でも一度体験すればある程度の推測は立てられる。
威嚇のために手の内を見せるなど、やってはいけないことだ。
「おい、大丈夫か?」
振り返った後藤は恐る恐る近づいてきた警備員の背後に、視線を向ける。
ロビーに集まっているのは十人前後。
振り返って確かめると、外から中を覗いている人間も同じぐらいの数だった。
「なにがあったんだ?」
後藤は再び声をかけてきた警備員に視線を合わせて、微笑む。
「目撃者は消せってのが、セオリーだよね」
後藤は怪訝な顔をした警備員に向かって、右腕を伸ばした。
- 442 名前:Misty 投稿日:2006/12/19(火) 19:59
- ――――
- 443 名前:カシリ 投稿日:2006/12/19(火) 19:59
- 以上で第2話終了です。
- 444 名前:カシリ 投稿日:2006/12/19(火) 20:00
- >>418 愛毒者 様
夏焼の左腕は……すっかり忘れてました。
高橋が手加減したので、完全に壊されてなかったということで。
石川は今回少し出てきましたが、二人とも後半に活躍する予定です。
- 445 名前:愛毒者 投稿日:2006/12/20(水) 07:50
- 更新お疲れ様です♪
もしや、とは思っていましたがやはりそうでしたか。w
左腕は完全に壊されていなかったって事で了解です。w
それにしてもここまで積極的に接触してくるとは思わなかったです。
論述合戦は読み応えがありました。果たしてどうするのか…。
辻ちゃんの決闘やごっちんの目的、謎の強力な新能力者?の出現など色々と布石が打たれてますます面白くなってきましたね!
今後、愛ちゃんや梨華ちゃんの活躍もあるという事なんで続き楽しみに待っています♪^^
- 446 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/20(水) 16:59
- カツノリくるー?
- 447 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/21(木) 00:13
- 中澤さんの容態が気になります・・・
- 448 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 10:58
- ――――
真円に近い月だった。
純白の雪雲の隙間から蒼く輝く月の光が、地上へと落ちる。
その光に照らされた平坦な大地は、降り積もった雪が白く染め上げていた。
滑走路に張り巡らされたフェンスの外側、道路からは見えない場所で
静かに吐いた息の白さを感じながら、
紺野は地面から伝わる冷気に身体が硬直しないように右手を握る。
身に付けているのは白を基調としたジャケットと、頭には同じく白いニット帽。
腹ばいになった紺野の姿は一面に雪の積もっている芝生に溶け込み、
目を凝らさなければ見つけることはできない。
紺野は覗いていたスコープから目を離し、正面の景色を肉眼で眺めた。
深夜のため海沿いにある空港から発着する飛行機はなかったが、
正面に見える管制塔やその周辺の建物には、まだ明かりが灯っている。
遠くで瞬く赤い光が白に塗り込められてしまいそうな視界に、
アクセントをつけていた。
- 449 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 10:58
- 再びスコープを覗こうとした紺野はふいに、
背後から薄く積もった雪の上を歩く踏む音が近づいているのに気がついた。
もちろん待ち合わせをしていたわけではない。
最も人目につき難い場所をと検討を重ねて見つけた場所だけに、
偶然でも見つかるとは思えなかった。
横に立った気配に顔を上げた紺野は、ため息を吐いて視線を正面に戻す。
「……監視役ですか」
「ここが一番見やすいんだよ」
ファーの付いたミリタリージャケットに身を包んでいる後藤は
首から下げていた双眼鏡を滑走路に向けながら、楽しげに答えた。
同じ条件で探せば偶然一致することもあるとはいえ、そう単純な作業ではない。
それでも紺野は、後藤ならばと納得した。
再びスコープを覗き、倍率を合わせる。
丸い視界の中に遥か遠くで向かい合う三人の姿を、捕らえた。
「言っておきますが私はまだ、吉澤さんを助けるとは決めてません」
フェンスの内側に向けた双眼鏡を覗いたまま、後藤の口元が上がった。
「後藤もね」
雪に覆われた地面を通った冷たい海風が、通りすぎる。
滑走路に残った雪を僅かに巻き上げながら、紺野の周りを吹き抜けていった。
- 450 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 10:59
- 第3話
It's Only A Paper Moon
- 451 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 10:59
- ――――
人気のない広大な平地の中に、黒い影が動いている。
真っ白な平原のような滑走路に足跡を残して歩いているのは、辻だった。
陽が落ちてから降り始めた雪もいまは止み、藍色の空に丸い月が輝いている。
雪に覆われた滑走路には、辻の他に動くものはいない。
通常なら夜間の緊急着陸や明日の営業のために除雪作業が行われるはずだったが、
理由を告げられずに中止になっていた。
すべての飛行機は格納庫に入り、
なにもない滑走路には薄く積もった雪だけが残っている。
後ろでまとめた髪を海風に揺らしながら歩いていた辻の足が止まり、
僅かにその顔が上を向く。
頭上に浮かぶ月の横に、赤いライトの点滅が見え始めた。
急速に大きくなる光と共に、海風とは違う音が混じり始める。
近づいてくる物体から強烈なライト放たれ、辻の姿が浮かび上がった。
強烈な光に怯むようすも見せずに、辻は真っ直ぐに視線を向ける。
その視線の先で月の光に照らされた輸送ヘリが、
ゆっくりとその高度を下げはじめた。
- 452 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 10:59
- 少し離れたところに着陸したヘリのローターが、
次第に回転速度を落として止まった。
完全に沈黙したヘリに駆け寄ることもせず、辻はその場を動かなかった。
エンジン音も止まり、完全に沈黙したヘリの扉がゆっくりと開く。
降りてきた人物を見ても、辻の表情に変化はない。
海風になびいた髪を片手で押さえながら
辻を真っ直ぐに見つめているのは、飯田だった。
躊躇するようにその場に立ち止まっている飯田に、
遅れて現れた吉澤が後ろから何かを囁くように耳元に口を寄せる。
飯田は小さく頷くと、ゆっくりと歩き出した。
近づいてきた飯田の足が止まり、辻と距離を取って向かい合う。
一度ヘリのなかに姿を消した吉澤も降りてきて、飯田の斜め後ろで立ち止まった。
夜空に浮ぶ蒼白い月だけが、無言のまま向かい合う三人の姿を照らしていた。
- 453 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:00
- 間断なく吹いている海風に舞い上がった細く冷たい雪の微粒子が、
夜の大気の中に満ちている。
三人の間に流れる海風で地面の雪が舞い上がり、
頭上から降り注ぐ月の光をちらちらと反射している。
辻は正面に立っている飯田から視線を逸らすと、吉澤に顔を向けた。
「ほんとに一人で来るとは、よっぽど自信があるのかね?」
吉澤は感心しているとも呆れているとも取れる口調で、言った。
黒革のハーフコートを着た吉澤の左手には、鞘に入った幅広の剣が握られている。
辻はその剣を一瞥してから、再び吉澤へと視線を向けた。
「あなたと余計なことを話すつもりはありません」
静かに言った小柄な影が、凄愴な殺気の塊に凝縮した。
吉澤を見つめる漆黒の瞳が猛禽のように鋭く光り、辻は僅かに身体を沈ませる。
「話をするより相応しいことが、あるでしょ?」
いまにも動き出そうとした辻だったが、
飯田が後ろにいる吉澤を庇うように間に入った。
「……話を聞いて欲しい」
「これが終わったらいくらでも聞きます。そこを退いて下さい」
月光を映した瞳の奥に強烈な殺意を煌かせた辻の警告を、
飯田は空しい気持ちで聞いていた。
辻は自分の存在すべてを賭けて得た力で四年もの間、戦い続けてきた。
それを知っていてなお辻を止めようとしている自分に幻滅しながら、
飯田は口を開いた。
「辻は自分の想いを証明したいって言ったけど、
どう言ってみても、これはただの復讐だよ」
「他人の目にどう映ろうが何を言われようが、そんなことは関係ない。
これは私の問題で、私は決めたんです。
いまさら引き返すことなんてできない」
飯田の言葉にも、辻は僅かでも揺らいだようすは見せなかった。
- 454 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:00
- いつ会えるとも分からない敵のために、自分の存在すべてを賭ける。
幼かった辻のたどり着いた結論が、それだった。
一族が持っていた特殊な知識があったとはいえ辻がいままで戦ってこられたのは、
鋼の意志とそれを支える澄んだ魂。
辻の純粋な願いに触れ、飯田の胸に抑えきれない悲しみが湧き上がる。
「……やり直すことはできる」
静かに言った飯田の言葉に、辻の眉が僅かに上がった。
自分を見つめている辻の真っ直ぐな視線に目を伏せた飯田は、拳を強く握る。
この言葉を言うためにつんくを殺し、HPに追われることになった。
後ろで聞いている吉澤を意識しながら、飯田は顔を上げた。
「辻の薬と亀井の能力を研究した圭ちゃんの残した技術だよ。
二つの成果を融合して、新たな成果をもたらした。
吉澤が持っている薬を飲めば二つの人格に二つの身体をもたすことができる。
いまの力はなくなるかもしれないけど、これが最後のチャンスなんだよ」
身体の自由を奪われた状態で聞いた、吉澤の提案。
保田の残した薬の効果で辻の身体を二つに分け、それぞれに人格を振り分ける。
だが、薬の効果は永遠に続くものではない。
定期的に摂取する必要があるため吉澤に逆らうことはできなくなるが、
それでもかまわない。
辻の視線がほんの一瞬だけ吉澤に向けられ、すぐに飯田の顔に戻った。
向けられた辻の瞳に俯いてしまいそうな衝動を必死で堪え、飯田は続けた。
「圭織にはもう、辻しかいない。
だから、お願いだから吉澤のことは……諦めて」
吉澤を殺せばその瞬間に、辻の人格は消えてしまう。
いまこのときを逃せば、次の機会などなかった。
- 455 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:01
- 口を強く結んで飯田をジッと見つめていた辻は、小さく首を振った。
「……これだけは譲れません」
感情のこもらない口調で呟いた辻が、孤影を残して走り出す。
飯田は脇を抜けようとした辻の腕をとっさに左手で掴んだ。
「辻……」
「手を離してください」
そう言って見上げた辻の瞳に宿っているのは、憎悪でも怒りでもない。
向けられた双眸に宿っているのは純粋な、殺意だった。
「たとえ飯田さんでも邪魔をするなら、容赦しません」
明確な拒絶の言葉を口にした辻を見ながら、
それでも飯田は掴んだ手を離さなかった。
たとえどれほど恨まれることになっても、生きていて欲しい。
叩きつけられる殺意の凝塊を浴びながら、飯田は障壁を身に纏う。
その色は黒にも近い、深い深い、透き通った紅だった。
- 456 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:01
- 下から突き上げてきた辻の拳を、障壁を集中した右手の平で受ける。
だが付与の能力でさえも弾き返す障壁も、その威力を減ずることができなかった。
手の平で受けた衝撃が肩に抜け、左手から辻の腕が離れる。
続けて脇腹に向かってきた右拳を、左腕をたたんでガードした。
最初の攻撃で障壁が効かないのを確認した飯田は、
二発目の攻撃は後ろに下がるようにして受けている。
それでも走った強烈な痛みに飯田が気を取られた一瞬で、
目の前にいた辻が背後に回る。
飯田は腕の痛覚を遮断しながら、なんとか反応して振り返った。
振るわれた拳を逸らして掴むと辻の身体を振り回し、
大きく一回転したところで手を離す。
勢い良く放り出された辻だったが身体を丸め、空中で体勢を整えた。
手を離した瞬間、飯田はすでに走り始めていた。
辻よりも速く着地点に到達すると、落ちてきた辻に向けて蹴りを放つ。
だが背後からの攻撃を空中でガードした辻は、
吹き飛ばされながらも地面に片手を付き、側転するように体勢を整える。
再び地面に両足を付いた辻の姿が、消えた。
一瞬で側面へと迫った辻の攻撃を飯田は振り向きざまに逸らす。
あまりに近接しすぎると辻の攻撃をかわせなくなる。
飯田は攻撃するよりも先に距離を取るため、背後に跳んだ。
しかし飯田が後ろに退くより速く、辻が間合いを詰めてくる。
繰り出してきた辻の拳を左腕で受け止めた瞬間、
感覚のなくなっている腕を貫いて全身に衝撃が走った。
飯田はバランスを崩しながらも右のフックを放つ。
飯田の拳が僅かに傾けた頭部を掠め、衝撃によろめいた辻が数歩退がった。
再度回り込もうと動き出した辻の姿を目で追いながら、飯田は距離を取る。
構えを取ろうと腕を上げようとした飯田は、左腕が上がらないのに気が付いた。
さっきの攻撃で、左腕の骨が折れている。
痛覚を遮断したため反応が遅れ、辻の力を逃がしきれなかった。
- 457 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:01
- ダラリと下がった飯田の腕に気が付いた辻が、左側に回りこむ。
なんとか正面を向いた飯田だったが、すでに辻の間合いに入っていた。
間合いを取る暇などなく、
コンビネーションとは無縁な力任せの攻撃が次々と繰り出される。
動きに支障が出ないように痛みは遮断できるし、折れた骨も数十秒で回復する。
それでも、回復するまで左腕は動かない。
反撃の余裕などなく、飯田は懸命に残った片手で辻の攻撃を捌いた。
だがこの状況で片腕が動かないのは致命的だった。
どれほど巧みに避けようと、十発に一発をまともに食らってしまう。
その一発でダメージが残り、次は五発に一発。
それが三発になり、いずれはすべての攻撃を避けられなくなってしまう。
攻撃を続ける辻の速度は上がり、その速さは飯田が捉えられる限界に近かった。
優れた身体能力に加えて、受けた傷も瞬時に回復してしまう。
そして、障壁を含めたすべての能力を無効化する桁外れな能力。
辻がすべてを捨てて得た“力”は、強大だった。
- 458 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:02
- ――――
「圭織もよくやってると思うけど、どうだろう?」
その言葉に紺野がスコープから眼を離して見あげると、
双眼鏡から目を離さずに後藤は片手に持った携帯を開いていた。
「飯田さんに辻さんは倒せない。後藤さんだって分かってるはずです」
障壁を造れるということは、飯田が万全の状態であると考えていい。
しかし、辻の攻撃に障壁は無意味だ。
それでも純粋に身体能力の勝負になれば、
長い間障壁なしで戦ってきた飯田にも勝機はある。
どちらも相手を殺すつもりで戦えば、勝敗は分からない。
だが辻はともかく飯田がそこまで非情になれるとは、紺野には思えなかった。
「……だよねぇ」
紺野の答えに少し遅れて呟いた後藤は、双眼鏡から手元の携帯に視線を移した。
吉澤は辻の体力を少しでも削るつもりだったのだろうが、
ほとんど攻撃を加えることもできずに、飯田は防戦一方になっている。
「これで終わりってわけじゃないんだろうけどさ……」
後藤は視線を合わせず、独り言のように呟いた。
どこかにメールでも送っていたのか、
画面を見ながらニヤニヤと笑っていた後藤が再び双眼鏡を覗いた。
「おっと、決まったかな」
後藤の言葉に慌ててスコープを覗くと、
辻が地面に倒れた飯田を見下ろしているところだった。
- 459 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:02
- ――――
倒れたまま動かなくなった飯田から背を向け、辻は吉澤へと向き直った。
炯とした眼光で、射るように吉澤を睨む。
その視線を正面から受けながら、吉澤は左手に下げていた剣の柄を握った。
「……約束通り、決着をつけようか」
吉澤は抜き払った剣を頭上に掲げる。
月光に照らされて濡れたように光りを放つ刀身は、両刃の直刀だった。
「そんなものでは、私は倒せない」
吉澤の顔から視線を違えずに言うと、辻はゆっくりと歩き出した。
まったく意に介さない辻を見ながら鞘を投げ捨て、吉澤は剣を左手に持ち変える。
逆手に持った剣を大きく振り上げると、辻を見ながら口元を上げた。
「それはどうかな?」
吉澤の手が振り下ろされ、剣を地面に突き立てる。
薄く雪が残るコンクリートに、剣はあっさりとその刀身を沈ませた。
垂直に突き立てた剣の柄を左手で握り直し、
吉澤は右手の指を伸ばして眼前の中空を真横に斬る。
「臨っ!」
続いて腕を縦に振り下ろした吉澤の口から“兵”の言葉が力強く放たれた。
- 460 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:02
- 一言発するたびに体内のSPを根こそぎ吸い取られるような
急速な脱力感に襲われながらも、吉澤は言葉と動作を続ける。
唱える真言は全部で九字。“臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前”
道教、神道、仏教の三つの教えを取り入れて調伏を行う修験道の裏の顔、
“呪”をもって勝利を呼び込む呪詛の技。
唱える真言と吉澤のSPで、剣に秘められた能力を起動させる。
「……前っ!」
険しい表情で真言を唱え終わった吉澤は、
左手に握っている剣からの反応が変化するのを感じて視線を下げた。
周囲に高まる霊圧の中心にある剣は力の解放を望んでいるように、
小刻みに振動している。
顔を上げた吉澤は向かってくる辻を右手で、指し示した。
「縛っ!」
吉澤の言葉をトリガーに、剣の内部に蓄積された霊的なエネルギが
圧力となって放たれる。
正面にいた辻を飲み込んだ力の奔流は、背後の飯田をも巻き込んだ。
- 461 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:03
- 近づいていた辻が何かに縛られたように、動きを止めた。
剣の呪力が透明な鎖となってその動きを制限する。
「どう? 霊剣に秘められた不動金縛り。そう簡単には解けないよ」
肩で息をしながら、吉澤は柄を左手で握り直す。
あらゆる悪魔外道死霊生霊立ちどころに亡ぶると伝えられる、
修験道の呪を刻まれた霊剣“奔王”。
九印を省略して真言だけでその効果を発揮する、
呪的テクノロジーを結集して造られた剣だ。
遺物保管所から持ち出した霊剣は、その効果を発揮した。
体内のSPは大量に持っていかれたが辻はもちろん、
障壁を出している飯田さえも動きを止めている。
放たれた強力な束縛の力は短時間の効果しかないが、吉澤にはそれで充分だった。
吉澤は動けない辻に向かって、右手を伸ばした。
その手の平に光輪が浮かび上がり、中心に蒼い光が灯る。
「バイバイっ!」
吉澤の手から目も眩む光と共に、炎が放たれた。
蒼色の澄んだ炎は円錐状の長大は穂先を持つ騎槍と化し、
進路上の地面に残っていた雪を一瞬で消滅させながら一直線に辻へと向かう。
- 462 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:03
- 向かってくる炎に貫かれる前に、辻は無造作に身体を震わせた。
それだけで、絡み付いていた見えない鎖が霧散する。
自由を得た辻は目の前に迫っていた炎を避けずに、両手を伸ばした。
吉澤の手から伸びた炎の先端がその手に触れた瞬間、
接触した部分で蒼い炎が強烈な光となって四方に散った。
吉澤は烈しい光芒を手をかざして遮る。
放った炎が光に変わった瞬間が、吉澤の網膜に残っていた。
辻の身体に炎は届いていなかった。
光が消えかざしていた手を下ろした吉澤は握っていた剣の感触に、視線を落とす。
刀身に無数のヒビが入った剣は、誰かが見取るのを待っていたかのように
粉々に砕け散った。
剣の能力も切り札の炎さえも、辻の身体に届かない。
遺物保管所から持ち出した霊剣の力も、辻の力の前には無力だった。
吉澤は残った柄を握ったまま、顔を上げる。
「……それで?」
静寂を取り戻した滑走路で、辻は何事も無かったように口にした。
- 463 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:04
- 柄の部分だけになった剣を投げ捨てると、左手をコートのポケットに入れる。
同時に右手でコートを払い、腰の後ろに回した。
「覚悟は決まりましたか?」
辻の声を聞きながら、ポケットから強く握った拳を出す。
銃を握った右手を伸ばして、歩き始めた辻に向けた。
「まだまだっ!」
叫びながら辻に向かって自ら走り寄り、引き金を引く。
正確な照準で放たれた銃弾は、しかし辻の背後に抜けた。
恐ろしいほどの速さで右にかわした辻に回り込まれないように左に跳びながら、
顔を向けるより速く銃だけを右に向けて数発打ち込む。
だが相手の位置を予測して放たれた銃弾も、手応えはない。
吉澤は地面に着いた片足で再び跳びながら、動き続ける辻に向かって銃弾を放つ。
一定の距離を取りながら、吉澤は引き金を引き続けた。
辻には心臓が一つ打つ間に相手の喉笛を抉り取るだけの力がある。
接近されれば一瞬で決着がつくのは、分かっていた。
- 464 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:04
- 途切れないように弾丸を放ちながら、吉澤は左の拳を胸に当てる。
握り締めた手を胸に当てた吉澤の口が動き、呟きにも似た言葉が漏れ始めた。
近くで聞く者がいれば、
それは奇妙な旋律を伴った重々しく荘厳な声に聞こえるはずだ。
握り締めているのは、銅製の古いコイン。
表には五芒星形が、裏側には大天使を示す六つの魔法円が描かれている。
そして吉澤が発しているのは、魔術儀式のために唱えられる聖句。
唱える聖句に呼応するかのように、
吉澤の握った手の隙間から淡く緑の燐光が放たれる。
感覚だけで捉えた辻の姿に向かって、銃の引き金を引いた。
同時に銃から離した右手を腰にまわして新たな銃を手にする。
吉澤は片手でも三秒以内で弾倉の交換ができた。
だが、いまはその一瞬さえも命取りになる。
聖句を唱えつつ、吉澤は新たに手にした銃を辻に向けた。
- 465 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:04
- ――――
「あちゃ〜、効かなかったか」
「いまのは後藤さんが渡したんですか?」
後藤の口から出た言葉に、紺野は覗いていたスコープから目を離して見上げる。
遥か遠くで行なわれている戦闘を見ながら、後藤は眉を寄せていた。
「そう、石棺にあった遺物だよ」
覗いていた双眼鏡から目を離さずに、後藤は答える。
後藤から視線を外し、紺野は再びスコープを覗いた。
倍率を下げた視界のなかで、動き回る吉澤の手の先から放たれる光が見える。
「味方じゃないと、言いませんでしたか?」
「決めてないって言っただけ。勝って欲しいとは思ってる」
紺野は悪びれたようすもなく言った後藤の言葉を聞きながら、
スコープの中で小さく見える吉澤の姿を追った。
- 466 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:05
- ――――
高速で移動している辻の姿を追いながら、焦燥が次第に強くなる。
手にしている銃はすでに二度、変えていた。
使える予備の銃はあと一つ。
その前に完成しなければ、すべてが終わる。
吉澤は喉元までせりあがった感情を強引に飲み込んだ。
正面にいた辻の姿が足元の小さな雪煙を残して消えた。
吉澤は聖句を唱え続けながら、左の脇に銃口を通して引き金を引く。
何も無い空間を抜けた銃弾の音と、間近で鳴った金属音を同時に耳で捉えた。
持っている銃のスライドが下がっている。
疲れを知らずに移動する辻の動きを追いながら聖句を唱えていたため、
残弾を間違えた。
舌打ちしたい衝動を抑えて聖句を唱え続けながら慌てて左に顔を向けた吉澤は、
迫ってくる辻の姿を捉えた。
銃を取り出している時間はない。
昏い光を放つ辻の双眸を間近で見ながら、吉澤は後方に跳び下がり身を捻る。
音を立てた辻の拳が、間一髪で右脇を掠めた。
その異常な膂力に、掠っただけの吉澤の体勢が崩れる。
宙で二、三回身体が舞い、吉澤は地面に叩きつけられた。
背中から地面に落ちた吉澤が目を開けると、暗闇に浮ぶ真円の月の中に辻の姿。
全身のバネを使って起き上がりつつ片手でバック転を行い、
間一髪で空中から拳を落としてきた辻の攻撃を避ける。
勢い余って地面を殴りつけた辻がめり込んだ拳を抜くより早く後ろに下がって、
空の右手をコートの内側に入れた。
- 467 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:05
- 距離を取った吉澤がショルダーホルスターから抜き出したのは、
特徴的なフォルムを持った回転式拳銃。
西部開拓時代から続くコルト社の威信をかけて製造され、
登場から半世紀以上経った現在もなお名銃と呼ばれる、コルトパイソンだった。
膝立ちになった吉澤は使い込まれた木製のグリップを片手で握り、
パイソンハンターの異名を持つ八インチの銃身を、辻へと向ける。
顔を上げた辻は向けられた銃口に気が付き、
その場で身を守るように顔の前で両腕を交差した。
吉澤は片手で引き金を引くのとほぼ同時に、
コインを握った左手でハンマーを連続して叩く。
一瞬で複数の弾丸を放つ、ファニングと呼ばれる射撃技術。
トリガーを引いたままハンマーを連続して叩くように起こして連射することで、
熟練すればオートマチックなど比べ物にならないほどの連射速度になる。
五発の銃弾が一発の長い銃声のなかで放たれ、辻の周囲の地面に打ち込まれた。
放たれた複数の弾丸に辻の動きが止まる。
その隙に吉澤は立ち上がり、
シリンダーに弾が一発の残っているコルトパイソンを捨てた。
「至高の御名において、父と子と精霊の力において」
遥か天空から降りてくる聖なる力を感じながら、吉澤は瞳を閉じる。
右手の先で額、鳩尾、右肩、左肩と順に触れて十字を切った。
「東より来たるすべての悪から我を護り給えっ!」
最後の聖句を唱え、辻の頭上に向かってコインを弾く。
コインが頭上に達した瞬間、辻の足元に光の模様が浮かび上がった。
周囲に打ち込まれた銃弾を頂点に、地面に光の五芒星が描かれる。
- 468 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:06
- 突然天空から光が走った。
落雷のような雷鳴はなく、地面に描かれた五芒星の真上に降り注いだ白光は
その場に留まる。
天と地をつないだ直線的な光の柱が辻の頭上に降り注ぎ、
周囲を真昼のように照らし出した。
強烈な白光のなかで、辻が苦しげな表情で胸を掴む。
神の名のもとに聖別された銃弾と、コインで造る退魔陣。
本来は人間に憑依した魔をその身体から追い出し地獄へと追い墜とすものだが、
辻の力の源は、魔神と称されるモノだ。
薬によって得られた力だとしても、それは一種の憑依と言える。
そしてそれは“能力”も“呪術”も効かないモノだが、
東洋で培われた思想に基づいている。
根本的に異なる体系を持つ、西洋魔術の退魔法を受けたことはないはずだ。
それでも、耐性があるかどうかは賭けだった。
見極めるように目を細めた吉澤の視線の先で、
辻は降り注ぐ光の圧力に屈したかのように膝をついた。
- 469 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:06
- 辻は倒れそうになる身体に抵抗するように、両手を地面についた。
なんとか身体を持ち上げようとしている辻の身体から、なにかが滲み出してくる。
漆黒の光ともいうべき形容しがたい色を纏ったモノが、
降り注ぐ癒しを感じさせる暖かい光に、身をよじるように揺らめいた。
身を屈めて両手をついた辻の背中から現れたモノが、
纏った闇をはがされて浮かび上がる。
空中で鎌首を持ち上げた蛇のように上体を揺らす、闇色の身体。
そのなかに、紅を垂らしたような色の二つの光が浮んでいた。
赤光を放つ二つの球体が、
見つめている吉澤に強烈な憎悪の波動を叩きつけてくる。
吉澤は虚空を泳ぐその光が辻の身体に宿った醜悪な怪物の瞳だと、気がついた。
「邪魔を……するなぁっ!」
身を切るような叫びと共に、辻が立ち上がった。
分離しそうになっていたモノが再び辻の身体に重なり、
漆黒の光がその輝きを増す。
明と暗、二つの光が拮抗したように見えたのは一瞬だった。
辻の身体から放たれる黒光がその輝きを増し、
降り注ぐ神聖な光を天上へと押し返す。
- 470 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:07
- ――――
「石川さんっ! あれっ!」
「分かってるっ!」
大声を出した田中に答えながら、石川はハンドルを強く握り締めた。
百キロを軽く超える速度で疾走する車の前方、
海を挟んで向こう側に光の柱が立ち上がっている。
「あそこに吉澤さんがいると?」
田中の疑問には答えずに、
雷光のような凄まじい閃光を放ち続ける光の柱を睨んだ。
吉澤の居場所を後藤がメールで知らせてきたのは、ついさっきだった。
しかも、飯田と辻が目の前で戦っているという内容だ。
空港へと通じる道路は封鎖されている。
吉澤本人かHPかはわからないが、
途中で行っていた検問を無理やり突破してきた。
だがバックミラーを確認しても、追ってくるようすはない。
空港に近づくのを禁止されているのかもしれない。
「……あっ!」
田中が声を上げるのと同時に、
闇を圧するように立ち上がっていた光の柱が消える。
何が起こっているのか確認しようと眼を凝らした石川だったが、
車が海の下へと続くトンネルに入ってしまった。
「よっしいっ……!」
海の下へと続くトンネルに入った車のなかで、
石川は薄闇をえぐるライトの先を睨みつけた。
- 471 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:07
- ――――
天上からの光を押し返し、一度は立ち上がった辻だったが再び膝をついた。
吉澤はその姿を、唇を噛んで見つめる。
足元の退魔陣は消え、満ちていた神聖な霊気も消え失せていた。
辻に憑依した魔神は初めてであろう攻撃に、耐えて見せた。
それでも何らかのダメージを与えたのか。
辻は地面に両手をついて座り込んだまま、大きく息を弾ませていた。
強力な遺物を立て続けに使った反動で吉澤のSPは、底をつきかけている。
吉澤はこのまま座り込みたい衝動に歯を食いしばって耐えつつ、
ポケットに手を入れた。
すぐに出したその手には、直径が15cmほどの八角形の鏡が握られていた。
裏側には霊符の文字が刻まれて、
赤と黒の玉石で彫られた大極印が中央に象られている。
吉澤は辻の姿が映るように、手に持った鏡を前に出した。
「五方感応神霊速降出現鬼魔封除急々如律令っ!」
刻まれた霊符の文字は直符、蛇、太陰、六合、勾陳、朱雀、九地、九天。
それぞれに呼応した八つの光柱が辻の周囲に現れ、微妙に異なる輝きを放った。
異変に気がついた辻が立ち上がり、近くの光柱に走り寄る。
光柱に向かって拳を振ったが、跳ね飛ばされたのは辻の方だった。
地面を滑って中央に戻された辻の周りを、なにかがゆっくりと動き始める。
それは霧だった。
突然湧き出した霧が月明かりを受けてうねるように動きながら、
その濃度を一気に増していく。
こんどはゆっくりと立ち上がった辻はその場を動かず、
諦めたかのように濃度を増していく霧を見渡した。
まるで濃密な白い液体のように漂う霧に、辻の姿が飲み込まれていく。
這い上がってくる粘度の高い霧を眺めていた辻の顔が上がる。
向けられたその視線に、吉澤はおもわず息を呑んだ。
白い闇の中に胸まで呑まれた辻の、強烈な視線。
それはなんの躊躇も感じさせない、
血の最後の一滴まで殺意に塗り込められた視線だった。
- 472 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:07
- 深く立ち込めた霧のなかに辻の姿が消えるのを見て、
額に浮いた大粒の汗を拭った吉澤はその場に座り込んだ。
現れたときと同じように、霧は急激にその濃度を薄めて消える。
霧の消えた八本の光柱が囲むその空間のなかに、辻の姿はなかった。
映し出した対象を出口のない別空間に移送する、遁甲術。
造られた完璧な迷宮から逃れるには再び鏡を使って空間をつなぐか、
外側にある鏡を割る以外にはない。
これで後藤が納得するとは思えなかったが、吉澤のSPも底をついている。
これ以上の戦闘は無理だった。
「異空間に閉じ込めれば……」
呟いた言葉が終わらないうちに、激しい耳鳴りが襲ってきた。
空間が軋んだ悲鳴を上げ、時間が逆回転したように霧が溢れ出す。
脳に直接響くような強烈な音に両耳を押さえながら、
吉澤は霧の中心へと眼を向けた。
「そんなの……反則だろ?」
澄んだ音と共に、光柱が砕け散った。
再び集まった濃密な霧の動きが次第に緩慢になり、周囲の空気に溶けていく。
霧も消え失せ、何事もなかったかのような滑走路の後に残っていたのは、
消えたときと変わらない辻の姿だった。
「私の身に棲む魔神は、契約した者をあらゆる災厄から守る。
何をしても、無駄ですよ」
そう言った辻は、ゆっくりと歩き始めた。
- 473 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:08
- SPも底をつき、立ち上がる気力も体力もない。
強烈な鬼気を放ちながら向かってくる辻に視線を合わせたまま、
吉澤はコートの内側にある最後の武器を手に取った。
「やりたいことがあるなら、好きにやればいい。
なにをしても結果は変わりません」
緩慢な動作で取り出したのは、
大型のハンドガンほどの大きさを持ったグレネードピストル。
片手でも操作ができるほど小さなそれを、震える腕で持ち上げた。
辻に向けた銃口は、極度の疲れから狙いも定まらないほど揺れている。
「これが最後の……切り札だよ」
そう言って、吉澤は空に向けて引き金を引くと、
ほんの少しの間を置いて閃光が走った。
頭上からサーチライトを当てられたように、二人の周囲が明るく照らされる。
照明の源を求めて、辻が首を抉らせた。
輝くフレアが夜の闇に光を与えながら揺れながらゆっくりと落ちてくる。
雪の残る滑走路にいる二人の姿が白い光によって静かに、
余すところなく満たされた。
- 474 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:09
- ――――
暗闇の滑走路に浮んだフレアが、パラシュートの先端で輝く。
揺らめく光と火花の輝きが生み出す円錐状の光芒が、世界を満たした。
紺野が覗くスコープの中で、上を見上げる辻の姿が浮かび上がる。
「……合図だね」
呟くような後藤の声は聞こえていたが、
紺野は返事は返さずにスコープの倍率を上げた。
頭上から照らしている光のおかげで、
地面に座り込んでいる吉澤と辻の姿は捉えることができる。
紺野が見ているその場所までは、ちょうど1km。
辻の能力がいかに優れているとはいえ、気配を察知するのは不可能な距離だった。
「こんこんは、どうするのかな?」
逡巡する紺野を促すような後藤の言葉だったが、
あくまで紺野の意志を尊重するかのように、強制するような響きはなかった。
吉澤が託した最後の切り札。
紺野はセーフティーを外し、引き金に指を添えた。
- 475 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:09
- 自分以外の存在を閉め出し、暗いトンネルの中に入る。
スコープを見つめる紺野の身体からあらゆる刺激が消え去り、
静かな呼吸音だけになった。
動きを止めることが出来れば魔神を取り除く方法があると、吉澤は言っていた。
憑依を解いたあとの辻がどちらの人格になるかは、わからない。
HPを動かしている組織のことについても、
たった一週間ではなにもわからなかった。
わかったのは、渡されたリストに載っていた人物の存在と経歴が正しかったこと。
そして、実際に怪しい動きがあったこと。
リストの信憑性は高いと考えていいが、
それ以外のことについては真偽の判断はつかない。
吉澤のこれまでの行動から考えて
どこまで本当のことを話しているのかは、怪しかった。
だが、あれで一部というのならまずいことになる。
二十人の人間がリストに載っていたが、どの人物もHPの中枢に近い人物だった。
リストに載る人間が一斉に行動を起こせばHPの崩壊につながるだけでなく、
世界の調和が崩される可能性もあった。
吉澤のやってきたことは心情的に許せない。
それでも、HPに所属する者として世界が崩壊する可能性があるならば、
それを未然に防ぐ義務がある。
さまざまな考えが紺野の頭を通過したのは、ほんの刹那のことだった。
- 476 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:10
- 目標は遥か彼方の黒い点。
たとえスコープがついていても、
1kmも離れていては顔が見える大きさにはならない。
倍率を上げれば上げるほど視界は狭まり、僅かな揺れも増幅されてしまう。
コントロールできる限界まで倍率を上げたスコープのなかに、
空を見上げる辻の姿を捉えた。
スコープに顔を寄せている紺野は、ライフルを意識しないように努める。
通常なら不可能とも思える距離で正確な射撃を成功させるためには、
手に持った道具を意識してはダメだ。
重要なのは感情も思考も超越した無感覚の世界に入り込むこと。
そこでは純粋な意志こそが、道具になる。
辻の視線が下がり、目の前で座り込む吉澤に向けられる。
いま撃たなければ、吉澤は助からない。
ゆっくりと足を踏み出した辻の姿を見ながら、
それでも紺野は引き金を引けなかった。
大地から白い砂のような雪片が舞い上がり、不規則な動きを見せている。
あとは風だった。
目標との距離も弾丸の飛行特性も、わかっている。
だが距離を伸ばすに従って弾丸の速度は下がり、弾道は僅かな風で変化する。
吉澤との約束は辻の動きを止めること。
足を狙うつもりだったが変化する風を読まなければ、どこに逸れるかわからない。
刻々と強さを変える海からの風が、紺野に引き金を引くのを躊躇わせた。
無意識の内に表現のしようもないほど細かい微調整をして、
十字線が細かく震える。
「風が強い……か」
横に立っている後藤のつぶやきと共に、舞っていた雪の動きが変化した。
不規則に動き回っていた雪片が静まり、
スコープのなかでぼやけていた辻の姿が鮮明に浮かび上がる。
- 477 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:10
- 海風が凪いだ。
絶好の条件に、引き金にかけた指が自然に絞られる。
澄んだ大気を微塵に引き裂き、紺野の腕の中で抱えている銃が震えて吼えた。
あまりにも集中していたため発射音は耳に入らず、反動も感じなかった。
発射の反動で銃身が跳ね上がりスコープの像が霞んだが、
弾丸が狙い通りに命中したことが、紺野には分かっていた。
姿勢を立て直して再びスコープに目を戻すと、白い雪の上に倒れた辻の姿。
そして鮮明さを取り戻した丸い視界のなかに
見えるはずのない雪の上に散った赤い血の色を、見たような気がした。
- 478 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:10
- ――――
静まり返った滑走路の上に座っていた吉澤は
全身を包む倦怠感に逆らい、立ち上がる。
身を刺す冷気を払うように大きく息を吸い込んだ。
「まだ、動けるの? やっぱり首でも落とさないとダメか」
吐いた息と共に呆れたように言いながら、目の前の辻を見下ろした。
膝をついて俯いている辻の手は脇腹に当てられている。
その隙間から、鮮血が滴り落ちていた。
辻の身に棲む魔神の力がいかに強力とはいえ、
能力とはまったく関係のない紺野の狙撃を察知することはできなかった。
掠めた程度とはいえ大口径弾の威力は絶大だ。
致命傷には至っていないが、すぐに動ける傷ではない。
脇腹に受けた弾丸の痛みに耐えるように俯いていた辻が、昂然と顔を上げる。
「……首が落ちても動いてみせるっ!」
吉澤はまったく衰えない殺意のこもった瞳を見返しながら、
足元に転がっているコルトパイソンを拾い上げた。
シリンダーを横に振り出し、弾丸が残っているのを確かめて銃身へと戻す。
「強がるのもいいけど、これで決着だよ」
ゆっくりと上げた銃口を辻の額へと向け、ハンマーを起こした。
- 479 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:11
- 閉じることもなく自分を見上げる辻の瞳から目を逸らさず、
吉澤は引き金を引き絞る。
撃鉄が落ちる寸前、吉澤の持った銃を包むように手が乗せられた。
「もう勝負は着いてる。これ以上やる必要はない」
吉澤はシリンダーを握った飯田に、視線を移す。
飯田は悲痛な表情で、二人の間の地面に視線を落としていた。
搾り出すような声を出した飯田を、吉澤は冷ややかに見つめる。
「いいかげん諦めたらどうですか?
飯田さんには、誰も助けることなんてできないんですよ」
辛辣な吉澤の言葉にも黙ったまま、辻へと視線を向ける。
辻は止めに入った飯田の存在など目に入らないかのように、
吉澤の顔を睨んでいた。
憎悪に燃える瞳を向けている辻の姿に、飯田は唇を噛む。
「圭織は辻も、それになっちも助けることができなかった。
認めるよ。確かに圭織には誰も助けることはできない。
それでも、辻には生きていて欲しいんだ。
辻のことは圭織が責任を持つ。だから……お願い」
吉澤は懇願する飯田を、薄く笑いながら見つめた。
「まあ私としてはそれでもいいですけど……」
「……譲れないと言ったはずですっ!」
叩きつけるように言った辻が、俊敏な動作で立ち上がる。
吉澤の反応も速かった。
銃身に乗せられた飯田の手を振りほどくと同時に引き金を引き絞り、
辻に向けられた銃口から炎と轟音が迸る。
勝負は、一瞬の閃光のなかで決まった。
吉澤の持った銃から放たれた弾丸に、辻の頭部が弾かれる。
- 480 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:11
- 突然の出来事に呆然と立ち尽くした飯田だったが、
ゆっくりと後ろ向きに倒れる辻のそばに駆け寄った。
「辻っ!」
傍らに座った飯田は、倒れている辻を抱きかかえるように起こす。
傷を確認しようと髪を掻き分けたが、
頭部にある小さな擦過傷から微かに血がにじんでいるだけだった。
ほっとした飯田が背後から聞こえた呻き声に振り返ると、
胸に手を当てた吉澤が、蒼白な顔を飯田に向けていた。
虚ろな視線を宙に漂わせていた吉澤の胸から、鮮血が溢れ出す。
こめかみを掠めた弾丸に頭を弾かれながらも、辻の右手が吉澤の胸を貫いていた。
よろよろと後ろに数歩下がった吉澤は
開いた口から声の代わりに血を吐き、その場に倒れ込んだ。
地面に倒れた吉澤から目を逸らし、苦しげな声を上げた辻を抱きかかえる。
背中に回した手の感触に自分の手を平をみると、赤く染まっていた。
吉澤に与えた傷は、致命傷だ。
すでにその身体から契約を終えた“力”は消えているのだろう。
治りきっていない脇腹の傷からは、血が流れ落ちていた。
- 481 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:11
- ふいに辻の腕が上がり、
何の感情も表すことができずに座り込んでいた飯田の手を握る。
「これでようやく……終わりです」
目を開けた辻は、意外とはっきりとした声を出した。
「飯田さんの言った通り、私のしたことはただの復讐です。
こんなことでなにかが証明できるはずはないって、分かってました」
辻は血の気の引いた蒼白な顔で、小さく笑った。
分かっていながら、それでもなにかをする必要があった。
そうしなければ四年前のあのときに、辻の心は壊れてしまっていただろう。
辻と初めて会ったあの時から、
希望など残されていなかったことを飯田は痛感した。
「だけど、どんなにくだらない願いだろうと、
飯田さんがいなければ、私の願いは叶わなかった」
何も言うことができないでいる飯田に微笑んで、辻は瞳を閉じた。
どんな顔をしていいのか分からずに、飯田はただ辻の顔を見つめる。
目を閉じた辻の唇が、何かを伝えようとしているのか小さく動いた。
慌てて口元に顔を寄せた飯田の頬に、辻の唇が軽く触れる。
「……ありがとう」
再び微笑んだ辻の表情がこわばり、握っていた手から力が抜けた。
- 482 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:12
- 劇的な瞬間などなにもなく、その身に宿った力と共に辻の人格は消えた。
飯田は目を閉じた辻の頭に優しく手を乗せ、親指でそっと額に触れる。
犯してもいない罪の贖いのために戦い続けてきた辻の一生とは、なんだったのか。
辻の行為には、なんの意味があったのか。
大切な人を奪った者に復讐を果たしたことを、称えればいいのか。
無意味な復讐にその生涯をかけたことを、蔑めばいいのか。
自分の腕の中にいる存在がなんなのか、飯田には分からなかった。
辻の選択を無意味な物と片付けることもできる。
だが辻の選んだ行為のなかには、善も悪もなかった。
破滅的なまでな一途さがたった一人生き残ったという
罪悪感に裏打ちされたものだったとしても、
そこには純粋な想いがあり、辻はただそれを貫いたのだ。
苦しげな声を上げた辻に、飯田は我に返った。
ふと見ると脇腹に広がっていた血の染みが、大きくなっている。
治療を受けなければ、命が危ない。
辻を抱えて立ち上がった飯田が歩き出そうとしたそのとき、
背後から衝撃が襲った。
「ぐっ!」
一瞬で身動きが取れなくなった飯田は背後から放たれる強烈な力に、
信じられない思いを抱きつつ、渾身の力を込めて振り返ろうとした。
極限まで高めた障壁を透して身体に絡みついてくる強靭な束縛の力に、逆らう。
なんとか首を向けたその先には、地面に突き立てた剣を手にした人物。
「退場するにはまだ早い」
黒革のハーフコートを身に纏い霊剣を左手で握っているのは、
紛れもなく吉澤だった。
- 483 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:12
- ――――
再びローターが回りはじめたヘリを見ながら、紺野は声も出せなかった。
ヘリの中から出てきた吉澤が、取り出した剣を地面に突き立てている。
辻が吉澤に与えた傷は、致命傷だったはず。
慌てて吉澤の倒れた場所にスコープを向けたが、そこにはなにもなかった。
「そんな……」
「決まりだね」
後藤の声と共にその手から離れた双眼鏡が、地面に落ちる。
その場から飛び上がり3mはあるフェンスに手をかけて軽々と飛び越えると、
体重を感じさせない動きで滑走路の上に降り立った。
「ごくろうさん。紺野の役目は終わりだよ」
笑いを含んだ後藤の声が耳を打ったそのとき、
自分が何をしたのか吉澤が何をさせたのかを、紺野は理解した。
後藤は呆気に取られる紺野に笑いかけ、右の指を鳴らす。
「熱……っ!」
紺野は小さく叫んで、持っていた銃から手を離して立ち上がった。
視線を落とすと地面に設置してあった銃身が赤熱している。
見る間に銃の先端が飴のように曲がり、
地面についた部分の雪を溶かして蒸気を上げた。
「これからは後藤の出番」
フェンスを挟んで向かい合った後藤は、そう言って微笑む。
なにも言えずに立ち尽くす紺野に背を向けると、走り出した。
- 484 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:13
- ――――
飯田は視線を動かし、吉澤の倒れていた場所に目を向ける。
僅かに雪の上に人型の跡が残っているだけで、そこに吉澤の死体はなかった。
「私専用に作ってもらった、薬。
亀井の能力“幻像”を与えてくれる、保田さんの形見ですよ。
うまくいってよかったけど……けっこうキツイ」
その声に、再び吉澤に視線を向けた。
歯軋りをしながら睨んだ飯田に、蒼白な顔で笑いかける。
「それは辻に与えるための薬じゃなかったのかっ!」
「これは幻像の能力を付加するだけの試作品です。
それも三十分しか持続しない。
能力付加の研究は保田さんのいたころからほとんど進んでいません。
もしも保田さんが生きていて研究を続けていれば、
人格を分離させる物もできたかもしれませんけどね」
「騙したな……っ!」
「本気でそんな都合の良いものがあるとでも、思ったんですか?」
激昂した飯田の言葉に冷静に答えながら、
吉澤は地面に突き立てていた剣を引き抜いた。
その途端、全身を捕らえていた束縛の力が消え、飯田はその場に膝をつく。
- 485 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:13
- 震える腕で辻を地面に横たえ、飯田は立ち上がった。
辻に殴られた身体に激しい痛みがあるのは頭の隅で理解していたが、
もはやそれは問題ではなかった。
問題は怒りだ。
怒りが痛みを食らい、混じり気のない憎悪の結晶を作り上げていた。
「吉澤っ!」
飯田のなかで膨れ上がったその憎悪には、大きな力があった。
叫んだ飯田は地を蹴って吉澤に向かう。
その姿を見ながら吉澤は怯むこともなく、その場で大きく息を吸い込んだ。
「ごっちんっ!」
「あいよっ!」
応じる声は飯田の背後から聞こえた。
振り向いた飯田の視界一杯に、満面の笑みを浮かべた後藤の顔が映し出される。
後藤の手が横から伸びて肩に触れた瞬間、
灼熱感と共に飯田の身体が真横に吹き飛んだ。
- 486 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:13
- ――――
後藤は地面を滑っていく飯田には一瞥もくれず、歩き出した。
霊剣を鞘にしまう吉澤の前に立つと、腰に片手を当てる。
「遺物の力を使ってるし後藤もけっこう手を貸した。ちょっと反則っぽい」
わざとなのか本気なのか、後藤は子供のように口を尖らせる。
不満げな後藤の言葉と表情に、吉澤が苦笑いを浮かべた。
それを見て、つられたように後藤も笑う。
「けどまあ、結果的には辻が消えてよっしいが生き残った。
満点ではないけどおめでとう。約束は……果たされた」
目を細めた後藤の表情が、一転して真剣なものに変わる。
姿勢を正した後藤は膝を折り、吉澤の前にかしずいた。
「吉澤ひとみは強大な敵を退け、我が前にその力を示した。
後藤真希はその功績を持ってあなたを“主”と認め、
その意思に従うことを宣言する」
片膝をついた後藤の姿を、月の光が銀色と影で彩る。
吉澤はその姿を見下ろしながら、安堵の表情で息を吐いた。
「いまこのときから我が意思を滅し、剣となることで主に仇なす敵を屠り、
盾となることでいかなる敵も我が骸を踏むことなしに、
主の前に辿り着くことはかなわない。
主の為に命を捧げ死も厭わずに戦い守ることを、ここに誓う」
目の前で頭を垂れた後藤の誓いの言葉のなかに、吉澤は歓喜の響きを聞き取った。
- 487 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:14
- すぐに立ち上がった後藤は満面の笑みを浮かべて、髪をかき上げる。
何事もなかったかのように、吉澤に向かって右手を出した。
「これからもよろしくねっ!」
苦笑しながら後藤の手を握り返した吉澤はふと、視線を横に逸らした。
吉澤の手を離した後藤もつられるように、顔を横に向ける。
二人の視線の先で倒れていた飯田が、
ようやく立ち上がろうとしているところだった。
少し思案するように首を傾げた後藤は、吉澤に向けて人懐っこく笑いかける。
「目障り?」
「いや……とりあえず動けなくしてくれればいいよ」
吉澤の答えに目を輝かせると、後藤は弾んだ足取りで飯田に向った。
- 488 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:14
- ――――
地面を滑っていた身体は止まったが、飯田はすぐには立ち上がれなかった。
姿勢を変えようとして、飯田は右肩の痛みに低くうめく。
後藤の触れたコートの右肩の部分が焼け焦げ、露出した肌も赤く爛れていた。
直接身体に触れた状態では身体を包んでいる障壁の効果も半減するとはいっても、
普通の能力者の攻撃なら火傷を負うこともない。
右肩が動かないほどのダメージを与えた後藤の攻撃は、破格だった。
苦痛に顔を歪ませながら上体を持ち上げた飯田は、
離れた場所で右手を上げている後藤の姿に気が付く。
目が合った後藤が微笑みながら腕を振り下ろした次の瞬間、
虚空から巨大な火炎流が噴出した。
視界一杯に迫る扇状に広がった炎に、飯田は弾かれたように走り出す。
障壁を身に纏った飯田が紅い軌跡を残して走るその先には、
地面に横たえられている辻の姿。
迫り来る炎から庇うように辻を抱きかかえて背を向けた飯田ごと、
圧倒的な火力が二人を含んだ広範囲を包み込む。
「あはっ」
目の前に広がった炎の壁に、後藤の口元が上がった。
その表情に愉悦の色を宿して、後藤は再び腕が持ち上げる。
二人のいた場所に向けて伸ばした左手の先から、眩い炎が放たれた。
生み出された炎が金色に輝く大蛇のごとく左右に巨体をくねらせ、
進路にあるものすべてを高熱の渦に巻き込みながら炎の壁へと吸い込まれる。
一瞬の間を置いて内側から新たな爆炎が膨れ上がり、
燃えさかっていた炎が四散した。
轟きわたる大音響と共に天を焦がす勢いで立ち上がった炎柱を見ながら、
上を向いた後藤は口を開く。
「あ――っはっはっはっはっ!!」
藍色の空に朱と黒の鮮やかなコントラストを描いている紅蓮の炎を前に、
快活な一点の曇りすらない笑顔で、後藤は高らかな哄笑を響かせた。
- 489 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:15
- ――――
「破ってっ!」
石川の声に田中はフロントガラス越しに手を伸ばす。
目の前に迫ったフェンスの一部が巨大な手で叩かれたかのように
耳障りな音と共に内側に弾け飛んだ。
石川はできたフェンスの切れ目に車体を入れ、滑走路へと侵入する。
すでに光の柱が消えてから、かなりの時間が経っていた。
深夜の滑走路は何事もなかったかのように静けさを取り戻している。
だが闇に沈んだ滑走路を見渡していた石川は遠くに瞬く人工の光を見つけ、
ハンドルを切った。
闇を通して見据える先には、離陸しようとしているヘリの姿。
「れいなっ!」
「もう少し……!」
答えた田中は助手席の窓を開け、外に身を乗り出した。
開け放たれた窓から外の空気が車内へと入り込む。
その途端、僅かな違和感を石川は感じた。
- 490 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:15
- 入り込む空気の温度が高い。
よく見るとライトに照らされた地面に雪はなく、
剥き出しの滑走路が広がっていた。
あらためて周囲を見ると、地面に雪が残っている場所がない。
広範囲にわたって途方もない熱量が発生した結果だった。
唇を噛んだ石川が再び視線を正面へと向けると、ヘリが上昇を始めていた。
距離がありすぎて、このままでは間に合わない。
少しでも距離を縮めようと、石川はアクセルを限界まで踏み込んだ。
あまりの高熱に炙られて亀裂が入った滑走路に、車体が跳ねる。
近づくにつれて激しく揺れる車体のバランスを取りながら、
石川は助手席の田中へと視線を向けた。
距離を見極めるように目を細めた田中は上昇していくヘリに向かって、
片手を伸ばす。
「いけるっ!」
田中が声を上げるのと同時に、順調に上昇をしていたヘリが空中で停止した。
空中に浮かぶ機体の姿勢もローターの回転にも、変化はない。
それでも次の瞬間には、ヘリがゆっくりと降下を始めた。
ヘリコプターのような回転翼航空機は、自らの巻き起こす風を受けて揚力を得る。
空気密度を操作して揚力を得られなくすれば、自重で地上へと降りるしかない。
能力の範囲に捉えた田中がローターの巻き起こす風に干渉して、
その動きを止めた。
石川はハンドルを切り、地上へと落ち始めたヘリの真下へと車を向ける。
- 491 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:16
- 地上まではあと二十メートルというところで、ヘリの扉が開いた。
ヘリのなかから現れた人影が石川の乗った車に右手を向けると、
揚力を奪われゆっくりと下降を続けていたヘリがガクンと一度大きく揺れる。
その動きを合図に、再び機体が上昇を始めた。
「どうなってると!?」
驚いたような声でわかったのは、
田中が自分の意志で能力を止めたのではないということ。
そしてヘリを睨んだ石川が異能の視力で捉えたのは、
にこやかに手を振っている後藤の姿だった。
「ごっちん……っ!」
急激に上昇を始めた機体は、すでに田中の能力の範囲から外れている。
石川には離れていく機体を睨みながら、
手を振っている後藤の姿を目で追うことしかできなかった。
- 492 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:16
- ――――
吉澤の乗ったヘリが夜の闇に隠れ、何もかもが消え失せたような静けさのなか、
白く光る物がちらちらと舞い始めた。
そこだけ時間が止まってしまったかのように動かない二人の姿を、
静かに降り始めた白い雪が静かに塗りつぶしていく。
小さな雪片が空から舞い降りてくるなか飯田はなにをするわけでもなく、
腕の中で眠る辻を見ていた。
凍てついた大気のなかを降り落ちる雪片が辻の唇に触れて、消えた。
その瞬間、胸の中に広がった空虚さに
なんの感情も表すことのできなかった飯田の頬を、涙が伝う。
それは自分の無力を痛感したためでも、
大切な人を助けられなかったという後悔の涙でもない。
ただ腕の中にいる辻のことが、哀れだった。
辻の砕けた願いのなかにたった一人残されて、飯田はただ立ち尽くした。
- 493 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:16
- ――――
- 494 名前:It's Only A Paper Moon 投稿日:2007/01/04(木) 11:17
- 以上で第3話終了です。
- 495 名前:カシリ 投稿日:2007/01/04(木) 11:18
- >>445 愛毒者 様
ようやく前半終了です。
次回から後半ですが、ちょと間が開くかもしれません。
>>446 名無飼育さん 様
……?
>>447 名無飼育さん 様
中澤は次回登場予定です。
- 496 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/05(金) 11:03
- 素晴らしすぎてレス付けるのが申し訳ないくらいです
楽しみにしています。
- 497 名前:愛毒者 投稿日:2007/01/06(土) 21:13
- 更新お疲れ様です。
かおりんはなんとも遣る瀬無いですね…
皆がまんまと策略に嵌り、踊らされる
悶々とした感情が渦巻いています
第四部も折り返しですか
次回の更新まで少し間が空くと言う事なので
読み返しながら楽しみに待たせていただきたいと思います。
- 498 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/29(月) 18:12
- なんともすさまじいバトルだった。
吉は自身のチカラそのものよりも、計略、戦略、戦術に長けている感じがしますね。
- 499 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/10(土) 20:03
- 続きが気になるぅ〜
- 500 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/18(日) 07:06
- 更新されたの2ヶ月以上前か・・・
- 501 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/18(日) 08:13
- 新顔か?作者さんが間が空きますって言ったらこれぐらい空くのはいつもの事だろうが。なんで上げてんだよ?
- 502 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/18(日) 10:33
- >>501
あんたの自治厨気取りもうざいよ常連様wwwwwwwwww
- 503 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/18(日) 16:19
- >>502
荒し乙wwwwwwwwww
- 504 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/18(日) 17:02
- >>503
鸚鵡返し乙wwwwwwwwww
- 505 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/18(日) 17:55
- やめれ
- 506 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/24(土) 03:58
- ?
- 507 名前:愛毒者 投稿日:2007/03/25(日) 18:41
- な、なんかえらい事に…(汗
とにかくマッタリとお待ちしましょ。
- 508 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:08
- ――――
見上げれば雲ひとつない冬晴れの青い空だった。
東京は晴天が続き、雪はほとんどなくなっている。
僅かに残った雪の塊りも道路の端に寄せられ、黒く薄汚れていた。
空を見上げていた新垣は溜め息を吐いて足元に視線を落とすと、
両側に本屋が並ぶ通りを一人歩きはじめた。
遺物を使ったのも紺野に手助けを頼んだのも、すべては辻を騙すためだった。
まともに戦っても勝ち目がないことを知っていた吉澤は、
自分を殺させることで辻に憑いた魔神を取り除き、後藤と共に姿を消した。
その後藤のことも、よく分からない。
手配されるきっかけとなった保田とその護衛の殺害も、手を下したのは亀井だ。
何ヶ月か前に、後藤は保管所で人狼を迎え撃っている。
そのときも人狼を倒したのは後藤ではなく、辻だった。
能力を使ってはいたが、それは保管所で起こった戦いだったからだろう。
よく考えてみると、後藤が吉澤のために戦ったことなど一度もなかった。
その後藤が辻との戦いのあと、逃げる吉澤を能力を使って助けている。
二人の間になんらかの取り決めがあり、そのために吉澤は辻と戦った。
そして後藤が仲間になる条件が辻を倒すことだったというのが、
紺野と話し合った結果だった。
だが後藤の目的が辻を倒すことだったとすると、
なぜ直接戦わなかったのかが分からない。
仮に規格外の強さを持つ後藤でも勝てないと考えたとしても、
その目的を吉澤に託し、そして吉澤がそれを受け入れた意味が理解できない。
- 509 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:08
- 再び足を止めた新垣は、ガラスの向こう側に並んだ古そうな本を眺めた。
口に出したわけではないが自分が利用されたことに、
紺野が怒っているのが分かった。
いつも通り話しているように見えたが、
ちょっとした言葉遣いや態度がそれを伝えてくる。
新垣にしても、それは同じだった。
なにが起こっているのか、そしてこれからなにが起こるのかを知りたかった。
ショーウインドウに映る自分の姿を見つめていた新垣は、
背後からの視線に気が付いた。
薄手の黒いコートにシンプルな白シャツを着た女が、
ガラスのなかで忙しそうに歩いている通行人のなかで一人だけ立ち止まり、
新垣の背中をジッと見つめている。
黒いキャップと大きなサングラスに顔が見えなかったが、
どこかで見たことがある気もする。
変に思って振り返るといつのまに近づいたのか、すぐそばに立っていた。
「久しぶりやね、ガキさん」
不審に思って睨んでいた新垣に、
サングラスを外した高橋は何事もなかったかのように、微笑んだ。
- 510 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:09
- 第4話
What's New
- 511 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:09
- ――――
昼を過ぎた時間のファミレスは、半分ほど席が埋まっていた。
ウエイトレスに案内された席に座ると高橋は帽子を取って頭を振り、
手櫛で髪を整える。
かるく茶色に染めた髪が陽の照らされて、杏色に染まって見えた。
「いままでどこに行ってたの? 突然いなくなって心配してたんだよ」
「ちょっと修行にね」
ちょっとした挨拶のように答えながら、高橋は軽く笑いかける。
新垣は呆れながら、
手を上げてウエイトレスを呼んでいる高橋の端整な横顔を眺めた。
「修行って山ごもり?」
「山に入ったって住むとこ見つけるのが大変だし、
食べ物も捜さなきゃいけない。それにシャワーだって浴びらんないでしょ。
生きてくのに大変で、修行なんてする暇なくなっちゃうよ」
言われてみればその通りだと思いながら、
やって来たウエイトレスに二人分の飲み物を頼んだ。
「あれから大変だったんだよ。
飯田さんはいなくなるし後藤さんと絵里は手配されちゃうし……」
「知っとるよ。最近だと辻さんと吉澤さんが戦ったんでしょ?」
再び二人だけになったのを見計らって切り出した新垣に、
高橋は窓の外に視線を向けながら答えた。
- 512 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:10
- 姿を消してからのことは一通り知っているらしい高橋に、新垣は眉を寄せる。
「なんで知ってるの?」
「だから山にこもってたわけじゃないんだし、
それぐらいは聞こえて来るんだって」
そう言って、高橋はきょろきょろと店内を見回した。
どこかに隠れていただけで、
HPの情報から遮断されていたわけではないようだ。
「それなら小春ちゃんに言ってからにすればいいのに、
だいたいなんでいまさら修行なの? いまだって愛ちゃん充分強いじゃん」
「後藤さんに負けたからやよ」
「負けたって……後藤さんと戦ったの?」
視線を逸らしながら言った高橋の言葉に、新垣は驚いた。
高橋と後藤がいっしょにいたのは、ホテルにいたほんの数時間足らず。
そんなことがあったことなど、まったく知らなかった。
「……うん」
口を尖らせた高橋は、窓の外に視線を逸らした。
- 513 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:10
- ウエイトレスが彼女の注文した紅茶を持ってきたため、
二人とも無言になる。
カップとティーポットを置いたウエイトレスがテーブルを離れると、
高橋は自分の注文した紅茶を引き寄せた。
「後藤さんは勝負に勝ったくせにあーしを殺さなかった。
そのことを後悔させてあげるんよ」
「……勝てそうなの?」
空港での戦いから姿を消したままの吉澤が、このままなにもしないとは思えない。
狙ってくるのはおそらく、結界機関の竣工式。
吉澤がなにかをするとすれば、一緒にいる後藤も姿を現す可能性がある。
高橋が勝てるならと思いながら聞いた新垣に向って、高橋は首を振った。
「頭のなかにある後藤さんの動きは捕らえられるようになった。
でも、まだ無理かな」
「なんで? 動きが捕らえられるならそれでいいじゃん」
「あのときの後藤さんは絶対なんか隠してた。それだけじゃダメなんだよ」
運ばれた紅茶に楽しそうにレモンを入れている高橋を見ながら、
新垣は自分のコーヒーを一口飲んだ。
「そういうわけでガキさんに相談なんだけど、
松浦さんを守ったとき遠くから撃たれた銃弾を避けたでしょ?
あれを教えてもらいたいんだ」
「あのときのって……愛ちゃんどこで見てたの?」
不思議に思って聞いた新垣の言葉に、
高橋は紅茶を飲みながら天井に視線を逸らした。
- 514 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:11
- 高橋はカップをテーブルに戻し、真剣な表情を新垣に向けた。
「あーしも背後からの殺気を感じることはできるけど、
引き金を引く瞬間まではわからない。
でもガキさんは撃たれる瞬間を見極めてた。
後藤さんに勝つためには、あのときの動きが必要なんだよ」
「あのときは無我夢中っていうかボーとしてたから、
どうやって避けたかなんて覚えてないよ。ただのまぐれ。
人に教えるなんでできないって」
照れながら手を振って否定した新垣を見ながら、高橋は眼を細めた。
「……言葉で教わろうなんて、思ってないよ」
高橋の言葉に嫌な予感がした新垣は、腰を浮かせた。
「そういえば中澤さんのとこに行く途中だった!
そろそろ行かないと面会時間が……」
新垣の手が届く前に高橋の手が伸びて、テーブルの端に置かれた伝票を取られた。
指で挟んだ伝票を顔の横でひらひらと振りながら、
高橋は真っ直ぐに新垣を見つめる。
「どちらかが生きるか死ぬか。そういう立ち合いをガキさんとしたい」
新垣の反応を確かめるように間を置いてから、高橋はカップを手に取った。
- 515 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:11
- しかたなく座りなおした新垣は何も入っていないカップを
口元に持っていきながら、なんとか話を変えようと考える。
「どんな技でも術でも言葉で知るだけじゃダメなんだ。
それにガキさんは覚えてないって言ったけど、
必要な物が一度身体に通れば、忘れたつもりでも必ず残ってるもんやよ」
高橋の言葉に、ぐっと言葉を飲み込む。
確かにぼんやりとしか覚えてはいなかったが、
もう一度同じ状況になれば出来るような気がしていた。
「前にも言ったでしょ? “術”が“道”に変わったときに失った技。
それを戦いのなかで自得して、自らの物にする。
そうして得た技術を捨て去ることで、あーしの求める物は完成する。
そのために、ガキさんと戦いたい」
「……結局捨てるんじゃ、なんのために身に付けるの?」
新垣の問いにカップを持った高橋の手が、止まった。
「すべてを捨てることで到達できる境地がある」
高橋の瞳が新垣を捉え、新垣がそれを見返す。
「そこに到ることに一切がかかってる。
そこに到るために積み上げてきた術を捨てるんだ。
そのとき術は術のないものになり、
刀を振うということは刀を持って斬らないことになり、
斬らないということは、刀を持たずに斬ることになる。
持っていない物は捨てることなんかできないし、
完成してない技なんて、捨てる価値がない」
高橋は静かな声で一気に言うと、
空になったカップにティーポットから紅茶を注いだ。
なにか重要なことを言っている気もするが、新垣にはほとんど理解できない。
困惑する新垣を見ながら、高橋はティーポットをテーブルに戻した。
「“不動の一点”。あーしの家に伝わる口伝の受け売りだけどね」
付け加えるように言って、高橋は照れたように笑った。
- 516 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:11
- それ以上言うことはないのか、高橋は新しい紅茶が入ったカップを手に取る。
新垣はおいしそうに紅茶を飲んでいる高橋から、テーブルへと視線を落とした。
「……理由が無いよ」
「理由?」
ようやく新垣が口にした言葉を受けて、カップを持った高橋の手が止まる。
不思議そうな顔を新垣に向けた。
「そうだよ。一緒に戦ってきた仲間じゃん。
こんな大変な時にそんなこと言わなくても……」
「理由が欲しいなら」
コトっと小さな音を立てて、高橋がカップをテーブルに戻した。
「いまこの店にいる全員を、あーしが殺しても良いんだよ」
あっさりと言った高橋の声に、新垣は驚いて顔を上げた。
周りの席からは家族や学生同士の楽しげな笑い声が、聞こえてくる。
落ち着いた音楽が流れる店のなかで
高橋は優雅にも見える手つきで紅茶を一口飲んだ。
新垣は澄ました顔で紅茶を飲む高橋の顔を、見つめる。
「……本気なの」
新垣がようやく出した声は、掠れていた。
「あーしはいつだって本気だよ。
ガキさんはここにいる無関係な人が殺されるのを黙って見てられない。
結局、戦うことになる」
「なんで、そこまでして戦いたがるの」
目を逸らさない新垣に、高橋が大きく息をついた。
高橋は空のカップをテーブルに戻し、ティーポットに入った紅茶を注ぐ。
暖かそうな湯気を立てて、朱色の液体が再びカップに満ちた。
「あーしが父さんを殺したからだよ」
そう言って、高橋は話をはじめた。
- 517 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:12
- ――――
高橋の家は代々HPに属しており、父親の仕事を手伝っていた。
当時高橋は10才。
まだ少女だった高橋だが、すでにその才能は開花していた。
師である父親さえも遥かに凌駕する実力を持っていた高橋は、
いつまでも父親と行動を共にすることを嫌がったが、
それでも父親は、高橋は一人で戦うことを認めなかった。
二人で違法な儀式を行なおうとしている組織を検挙に向ったときのことだった。
仕事そのものは簡単に終わった。
儀式の行なわれる山の頂上に高橋は父と二人で踏み込み、
集まっていた人間をすべて捕らえた。
「正直、こんなものかと思ってた」
儀式の行なわれていた祭儀場の中心にあったのは、古い巨岩だった。
あまりに呆気なく終わった仕事に、高橋は気が緩んでいたのかもしれない。
傍に寄って巨岩を見上げていた高橋は、
背後から近づいてきた殴り倒したはずの司祭に気が付くのが、遅れた。
後ろから片手で羽交い絞めにされ、
小さなナイフを喉元に突きつけられたが、それでも余裕があった。
怯えた表情を作りながら、うろたえる父親の姿に心のなかで舌を出す。
司祭の動きは明らかに素人のものでいつでも逃げ出せると、考えていた。
高橋を人質にされて手が出せない父親を見ながら、司祭は巨岩に背をつけた。
そこで高橋の頬を浅く切り、ナイフに付いた血を巨岩になすりつけたのだ。
「あーしたちがそこに着いたとき、喚起の術式はほとんど終わってたんだよ」
喚起とは地の底の魔物を呼び出して使役する魔術だが、
その場所で行なわれていたのは、
太古の昔に封印された古い神を解き放とうとするものだったのだ。
- 518 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:12
- 高橋の血によって封印が解かれ、
古い神を封じた巨岩のなかから現れたのは、四足の神獣だった。
古代の人々がその怜悧さと邪悪の性を畏怖して崇めた存在。
貴神にして荒事を好む、大口の真神。
何千年とも知れぬ太古の眠りから醒めた、大神だった。
そしてそれは、倫理からも因果律からも最も遠いところから来た存在。
全長六メートル、尾を入れると八メートルを超える巨大な体躯を持ったそれは、
高橋を放り出し哄笑を上げていた司祭に、襲いかかった。
じゃれるような前肢の一振りで、司祭の首が飛ぶ。
直立したまま痙攣する司祭の首があった場所から噴水のように血が吹き出した。
返り血を浴びながら巨大な体躯を震わせて、それは天に向け雄叫びを上げる。
その大地を揺るがすほどの咆哮を耳にした瞬間、高橋はその場で動けなくなった。
自分の手に負えるものではないと、悟ったのだ。
「でも、父さんは違った」
金縛りにあったように動けない高橋を庇うために飛びかかったが、
太い尾の一振りで呆気なく撥ね飛ばされた。
宙を飛んだ父親の身体が近くの岩に叩きつけられ、血飛沫と共に地面に倒れる。
それは倒れた父親に近寄ると鼻を近づけて匂いを嗅いでから、足に喰いついた。
すでに絶命していたのだろう、父親は何の抵抗も見せなかった。
あまりの出来事にその場に座り込んだ高橋はそれから、
目の前にいる存在が満足するまで父親の内臓を啜り、咀嚼し、飲み込む音を
聴かねばならなかった。
それが封印を解いた者に対する、その存在なりの情けだったのかもしれない。
父親を含めたすべての人間の血と肉で飢えを満たしたそれは
雷鳴のような咆哮を上げると、放心した高橋をその場に残して地面を蹴った。
宙に舞い上がったその姿が消え、動く者のいなくなった山の頂上に静寂が満ちる。
高橋が絶叫したのは、すべてが終わったあとだった。
- 519 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:13
- ――――
「結局、現れた神獣はHPの能力者によって封印されたけど、
その間、あーしはただ見てるだけだった」
そう言って、高橋は紅茶を一口飲んだ。
淡々と話す高橋を前にして、新垣はなにも言うことができなかった。
自分の実力に対する過信。
戦いの場で見せてしまった些細な気紛れ。
妥協のない強さを求める高橋の頑なな態度は、深い後悔の現われだった。
「父さんに認めてもらいたいという弱さ。
そのことに気が付かずにいたあーしの行動が招いた、結果だよ」
「……愛ちゃんのせいじゃないよ」
「ありがとう」
高橋は笑みを浮かべて言った。
「でもあーしの弱さが取り返しのつかない重大な結果を招いたのは事実やよ。
だからこそ強くならなくちゃいけない。そのために戦うんだよ」
紅茶を飲み干すと、高橋は伝票を手に立ち上がった。
帽子を頭にのせ、コートを手に持ったところで動きを止める。
何も言えないでいる新垣を振り返り、微笑んだ。
「次に会ったときはガキさんを斬る。覚悟しといてね」
店を出て行く高橋の背中を、新垣は黙って見送るしかなかった。
- 520 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:13
- ――――
港の近くにある岸壁から見えるのは、まるで赤い絨毯を広げたような海だった。
遥か遠くを一隻の小型船が、夕陽に照らされた水面を滑るように進んでいる。
吉澤は海面から切り立った護岸の端に腰を下ろして、水平線を見つめていた。
「いよいよだね」
「そうだね。ごっちんにも働いてもらうことになるよ」
吉澤は前を見たまま、斜め後ろに立っている後藤に答える。
「仰せのままに」
吉澤の背中に向けている後藤は微笑みながら、
芝居がかった仕草で胸に手を当てながら軽く頭を下げた。
ほとんどの準備を終え、あとは竣工式を待つだけだった。
すでに後藤が仲間に加わったという噂は、HPのなかに広がっている。
秘密裏に吉澤とコンタクトを取ろうとする人間は、飛躍的に増えていた。
そのすべてに調査を行い、ふるいにかける。
必要最小限の人材はすでに確保してはいるが、
加わる仲間は多ければ多いほどよかった。
「人が何かを為そうとする場合、考えられるシナリオは三つに集約される」
水面に眼を向けていた吉澤は、ふいに背後からかけられた後藤の声に振り返る。
後藤は海風になびく髪を片手で押さえながら、微笑んでいた。
「最善のシナリオは、自分の行っている行為が正しい結論に向かっている。
最悪のシナリオは、自分の行っている行為が間違った結論に向かっている。
そしてどちらの結論にも辿り着くことはなく未完成のまま、
ただ空しい努力を続けているだけ。これが次善のシナリオ」
「……いきなりなんの話?」
「もしかして、悩んでるんじゃないの?
自分の向っているのは、どこなんだろうってさ」
問いかけた後藤は、無邪気に見える笑顔を吉澤に向ける。
沈んでいく太陽がその顔に、赤っぽい色合いを与えていた。
- 521 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:14
- 生き生きとしているといっていのかは分からないが、
あの夜以来、後藤は精力的に働いている。
そしてやるべき仕事は、半分の時間と労力で終わった。
能力を使って物理的な障害を防ぐだけではない。
後藤という存在は、そばにいるだけで交渉相手を威圧するには充分すぎる。
危険を冒してまで手に入れた後藤の能力は、申し分なかった。
「そんなのどうせ分かんないんだから、どれだってかまわないよ。
それに私の辿り着く結論なんて、ごっちんには興味ないでしょ?」
微笑みを浮かべて見つめている後藤にそう答えると、吉澤は水平線へ視線を戻す。
満足したように微笑んでいるだろう後藤の姿を想像しながら、
ゆっくりと目を閉じた。
- 522 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:14
- ――――
夕陽の差し込んでくる病室のなかで、新垣は無言でリンゴの皮をむいていく。
慣れない手つきでナイフを扱っている新垣を、
ベッドの上にいる中澤が心配そうに見ていた。
「……中澤さん」
「なんや?」
「太極ってなんでしょうか?」
切り分けたリンゴを皿の上に乗せたところで、新垣は視線を上げた。
「前に一度だけ理解できたと思ったことがあったんです。
自分の身体が身体が勝手に動いているのを離れて見ているっていうか、
とにかく相手の動きがわかっているように動いているのを、
不思議な気持ちで見てたんです。
そのときは確かに理解したと思った。
でもいま考えて見ると本当にあれがそうだったのか、自信が持てないんです」
「まあ……最初はそんなもんやろな」
新垣が差し出した皿から切り分けられたリンゴを一つ取り、
中澤は当然のように言った。
「おまえは理解したって言うたけど、それはほんの入り口に過ぎん。
太極と呼ばれる概念は深い物や。どこで満足できるのかは人によって違う。
けどな、極めたと思えば驕りになる。
命がかかった勝負になれば、傲慢がそのまま通用するとは限らん。
不安に思ってるぐらいがちょうどええ」
中澤の答えに、新垣は眉を寄せる。
「戦いの趨勢を決めるのは天の時、地の利、人の和や。
たまたまうちが圭織を最初に見つけて、そこが敵陣の真ん中だった。
お前よりは太極のことを理解してるつもりやけど
天の時も地の利もなく戦ったその結果が、このざまや」
ベッドの上にいる自分の身体を見ながら、中澤は肩をすくめた。
- 523 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:14
- 中澤はいまでは杖があればなんとか歩くことができるほどには、回復している。
担当した医師は驚異的な回復力だと、驚いていた。
それでもここまで回復するのは容易ではない。
部屋のなかに散乱している雑誌と日用品の数々が、
長くなった中澤の入院生活を表していた。
「でも中澤さんは太極を理解すれば負けることはないって、
いつも言ってたじゃないですか?」
「あれはおまえに意識させるために言うてたんや。
どんなに強い奴でも負けるときは負ける」
ナイフを持ったまま、新垣は考え込むように下を向いた。
「太極は流動的なもんや。気分や体調が変わるように、変化する。
そんなもんに必要以上に拘ることはない」
「じゃあ勝ちたいと思って鍛錬するのは、
まったく無駄ってことになりませんか?」
「勝敗に拘れば意はそこに停滞し、停滞すれば澱みが生じる。
澱みからは何事も生じることはなく、従って勝ちを得ることもない。
勝ちを得るために勝敗に拘らず、停滞しないために鍛錬をする」
新垣は眉間に皺を寄せて腕を組んだ。
その真剣な表情を見ながら、中澤はおかしそうに笑う。
「難しい……ですね」
「そんな考え込むことない。
適当なこと言って、お前をからかってるだけかも知れないんやで?」
中澤はとぼけたように言って、リンゴをかじった。
- 524 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:15
-
「もうすぐ竣工式やな……圭織から連絡あったか?」
「ありません。のんちゃんも眠ったままですし」
吉澤との戦闘のあと、飯田は気を失った辻を病院に運んだ。
飯田から連絡を受けた新垣が病院に駆けつけたときには、
すでに姿を消したあとだった。
付き添っていた石川もHPに追われている身だ。
新垣にあとを任せて、すぐに行方をくらました。
「れいなにも会えませんでしたしね」
「お前に相談しないでHP抜けたからな。気まずかったんやろ」
辻のなかに存在していたもう一人の人格と力が消え、吉澤は生きている。
そして後藤が飯田を襲い、吉澤をその場から逃がした。
石川から聞くことができたのはそれだけで、
なにが起こったのかはほとんどわからなかった。
「吉澤さんがなにを考えてるのか、わかりますか?」
「さあな……けど吉澤の目的が辻を消して終りじゃないことは分かる。
たぶん狙ってくるのは竣工式やろ」
「私のところにも警備の依頼が来てますよ。
日本中から必要最低限を残してほとんどの人間を集めているみたいです。
そんな警戒の厳重なとこに現れますか?」
「紺野から聞いた話やとHPのなかに協力者がいるみたいやし、
石川の話やとなんでか知らんけど、ごっちんも仲間に加わってる。
絶対無理ってことはないんやろうけど……」
考え込むように眉を寄せた中澤が、窓に視線を移した。
つられて顔を向けた新垣は、夕陽に照らされた中庭をなんとなく眺めた。
「なんか考えてるみたいやな」
「べつにそんなことないですけど……そんなふうに見えますか?」
新垣は動揺が顔に出ないように気を付けながら、中澤に顔を向けた。
- 525 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:15
- 気を付けていたつもりだったが、態度に出ていたのかもしれない。
腑に落ちないような表情の中澤から逃れるように、
新垣はコートを手に取って立ち上がった。
「じゃあ、私はこれで帰ります」
そう言って笑顔を見せた新垣に、中澤が真剣な表情を向ける。
「まあ、お前がそういうならいいけどな。
……帰る前に、そこの引き出し開けてみ」
そう言って中澤が指差した棚の引き出しを開けると、
なかには細長い黒い鉄の塊りが一つ、入っていた。
「うちが昔使ってた奴や。
リハビリになるかと思って持ってきたんやけど、お前にやる。
使い方は知ってるやろ?」
中澤の言葉に、新垣はなかに入っていた物を取り出す。
手の平に載せた物は、使い込まれた鉄扇だった。
お礼の言葉を口にしつつ、
新垣が重い感触を確かめるように軽く振ると、重なった薄い鉄の板が広がる。
半円に開いた鉄扇は、何の装飾も施されていない無骨な物だった。
「それと一つだけ、アドバイスや。
戦うと決めたら情を捨てることや。情が捨てられないなら戦うべきやない。
それぐらいの覚悟がないと、自分も仲間も助けることなんかでけへん」
「……わかりました。中澤さんもお大事に」
そう言って小さく頷くと、新垣は部屋を後にした。
- 526 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:16
- エレベータで一階に到着すると、ロビーの照明は半分以上が落とされていた。
受付業務も終って誰もいない長椅子の列を、窓から入り込む夕陽が照らしている。
吉澤の狙いがなんであるかは分からないが、
それを止めるには竣工式を取りやめるのが最良だ。
だが竣工式に出席するため、世界中のHP関係者が日本に集まり始めている。
新垣一人の力では、止めることはできない。
そして、中澤を巻き込むわけにはいかない。
新垣は辺りを見渡して誰もいないことを確認すると、
自動販売機の近くの長椅子に座っている人影に近づいた。
「おまたせ」
その声に、紺野が読んでいた文庫本から顔を上げた。
- 527 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:16
- ――――
都会の明かりがあるとはいえ視界のほとんどを占める闇とは別の闇が、
足元で揺れている。
吉澤は一人、足元で砕ける波を見ていた。
しばらく前に、太陽は沈んでいる。
寒いからといって後藤が中に入り、いまいるのは吉澤一人だった。
順調すぎるほど、うまく進んでいる。
結界機関設置の提唱者であるつんくは死んだが、
予定通り竣工式は行なわれることになっていた。
出席者も、ほとんど変更はない。
最大の問題だった後藤も、取り込むことができた。
これからの行動を阻止できる可能性のあったつんくは、すでにいない。
もう、後戻りはできなかった。
すでに動き始めた現実は、きっかけを作った吉澤自身にも止めることはできない。
それでも気がかりなのは、飯田のことだった。
あのあと病院に辻を連れて行ったところで、足取りが途絶えている。
だがHPに追われている飯田に、頼れる場所は少ない。
潜伏場所にある程度の見当はついているが、手出しはしなかった。
竣工式の会場はHPの威信をかけて、警備が敷かれている。
HPの関係者ではない者が入ろうと思えば、
よほどの準備をしなければならない。
それでも、吉澤には必ず来るという確信がある。
そして飯田が自分を殺しに来たそのときが、本当の終りになるはずだった。
「……火は我が胸中にある」
自らに言い聞かせるように小さく呟いた吉澤は、ゆっくりと上を見上げる。
陽が沈んだ東京湾の空は、蒼くまどろんでいた。
- 528 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:16
- ――――
薄暗い部屋のなかには膨大な量の書類を詰め込み、
整然と列をなした書棚が並んでいた。
「証拠を残さないでデータを見られるの?」
「無理だね。どうやってもログは残る。
ある程度時間を稼ぐようにもできるけど、
いまは警戒が厳重になってるからどれぐらい効果があるかわからない」
部屋の片隅にある端末の前に座った紺野は、
能力を使って部屋に近づく者がいないか監視している新垣にそう答えた。
「……そっか」
少しだけ考えるように目を細め、新垣がつぶやいた。
二人がいるのは病院と同じ敷地内にある、HP本部の地下だった。
いまいる場所にはHP創設から現在までかわされた膨大な情報が、
外部から完全に切り離された記録領域に蓄えられている。
古文書といって差し支えないほど古い戦闘の資料や、
かわされていた手紙の数々などの先人達の記録。
現代に近づくと一般的な業務連絡から過去に起きた事件のときの通話記録、
そしてHPに所属する者が発信した膨大な量のメール。
そういったあらゆる情報が電子化され、外部から完全に切り離された記憶領域に
何重にもチェックされた後に蓄えられていた。
いまも刻々と増え続けるその情報の大半は、すでに意味を失っている。
それでも、閲覧するためには一定の権限を持つ者の許可が必要だった。
そして紺野にも新垣にも、その権限はない。
たとえ省みられることのない情報だとしても、不正に閲覧すれば重罪だった。
- 529 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:17
- 紺野はめまぐるしく変わっていくモニタの内容に目を走らせながら、
吉澤から送られてきた手紙のことを思い返していた。
情報は高度に電子化されればされるほど、安全を保障することが難しくなる。
そうなれば一番原始的な方法、つまり封書によるやり取りが最もリスクが少ない。
吉澤から届いた封筒の中には短い手紙と、カードが入っていた。
書かれていたのはこの場所の住所と、いくつかの英数字の羅列。
それ以外何の説明もない物だったが吉澤が手紙という方法で伝えてきたことで、
紺野にはその意味を推測することができた。
吉澤の言っていた組織は、
HPのなかでかわされるメールでのやり取りのすべてを監視しているのだろう。
どれほど巧みに隠蔽されているとしても、
その機能を果たすためにはある程度の情報の共有が必要だ。
そして日々かわされている膨大な量のメールのなかに、その情報が隠されている。
一見すると意味のない英数字の羅列は途方もない数のメールのなかから
組織に関わる物を絞り込むための鍵のはずだった。
そうであれば、吉澤が話していた組織に関わる情報を特定できる。
紺野の考えを裏付けるように、
一緒に入っていたカードはこの部屋に入り、端末を起動させるためのものだった。
この部屋に入るためのカードはそう簡単に手に入る物ではなかったが、
紺野には心当たりがあった。
本部を襲撃したときに、亀井にやらせたのだろうと考えた。
「……見つけた」
モニタが黒一色に変わり、パスワードの入力を求めるウインドウが浮んだ。
- 530 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:17
- 近づいてきた新垣が紺野の背後から、モニタに向かって鋭い視線を向ける。
紺野が一つ息を吐いてからキーボードに手を乗せるのと、
新垣が腰の銃を取り出すのは同時だった。
「そこまで。紺ちゃんは出て行って」
紺野は手を止め、モニタのなかに映っている新垣の姿を見つめる。
拳銃を持った新垣は銃口を、紺野の頭部に向けていた。
後ろを振り向いて銃口と新垣をチラリと眺めると、
紺野は再びモニタに視線を向けた。
「慣れない物はしまったほうがいいね、手が震えてるよ」
決意を込めた視線で紺野を見つめる新垣は、銃も下ろさず言葉も発さない。
しばらくしてから、紺野が息をついた。
「ここにあるデータはすべて暗号化された状態で記録されてる。
コピーしたそのデータを誰が解析するの? 当てはある?」
「そんなこと、紺ちゃんが心配することじゃない」
「どれだけ優秀な知り合いがいるか知らないけど、最低でも一週間はかかる。
自慢じゃないけど、私だったら三日で終わる」
今回のことに極力関わらせたくないとでも思っているのだろうが、
発覚すればどちらにしても追求の手は紺野に及ぶことになる。
自分ひとりで背負い込もうとするその態度は
新垣らしいと思わないでもなかったが、紺野に手を引くつもりはなかった。
「それにね、私だって知りたいんだよ」
キーボードに乗せていた紺野の指が動き始め、
モニタの画面がめまぐるしく変わり始めた。
- 531 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:17
- 紺野と新垣は本部のビルを出ると、正面に停車している車に向った。
アイドリングしたまま停車している車のドアを開け、なかに飛び込む。
「おまたせしましたっ!」
最後に乗り込んだ新垣がドアを閉めるのと同時に、
運転席に座る矢口がライトを点灯してサイドブレーキを解除する。
「おいらはなにも知らないからな」
「分かってます、矢口さんには迷惑かけません」
不機嫌に言った矢口は、ゆっくりと車を発進させた。
正面ゲートの前で停車すると、警備員に軽く手を上げる。
詰め所のなかから顔なじみになっている警備員が矢口に向けて笑いかけると、
閉じられていたゲートがゆっくりと開いた。
不審に思われないようにゆっくりとスピードでゲートを抜けると、
市街へと通じる山道を下り始める。
すぐにHPのゲートは見えなくなったが、
矢口の睨むような視線は前方に向けられたままだった。
「よっしいがなにかやろうとしてるとかHPが崩壊するとか
そんなこと、どうなろうと関係ないんだよ」
「関係なくはないと思います。
HPがなくなっちゃうかもしれないんですよ?」
ムッとして言い返した新垣を横目で睨んで、矢口は再び前を向いた。
「じゃあ聞くけど。HPを維持するために、おいらたちは戦ってるのか?
違うだろ? 戦うために組織が存在するのは認めるけど、
組織を存在させるために、みんな命がけで戦ってきたわけじゃない」
「でも……HPがなくなったら誰が世界の調和を守るんですか?」
「HPなんてなくても、守りたいものがある奴はひとりでも戦うし、
そんなもの無くても無関係な他人のために戦おうって奴だっている。
内輪で揉めるほどエネルギが余ってるなら、他に向けろってんだよっ!」
本気で怒っているらしい矢口は、乱暴にハンドルを切った。
- 532 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:18
- 自分が怒られたわけでもないのにしゅんとした新垣に代わって、
転がりそうになるのを堪えながら紺野が口を開いた。
「矢口さんの言いたいことも分かりますけど、
HPがなくなれば、一般の人に犠牲者が増えるのは確実です。
それを防ごうとするのには、多少でも意味があると思います」
「……わかってるよ。納得できないけどわかってるから、
こうして運転してんだろ」
諭すような紺野の言葉に、矢口は不機嫌そうに口を閉じた。
紺野は運転に集中している矢口から視線を移し、
ポケットのなかから携帯を取り出す。
「どこに電話するの?」
「藤本さんのとこ。私の家じゃデータの解析はできないからね」
新垣に答えながら、紺野は携帯を耳に当てた。
- 533 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:18
- ――――
打ちっぱなしのコンクリートに四方を囲まれた薄暗い部屋のなかで、
藤本は切れたばかりの携帯の画面を見つめていた。
座っている椅子と足を乗せている机、壁際に置かれた長いソファー。
それらを照らす天井の蛍光灯以外なんの装飾品も置かれていない、
ただ広いだけの部屋だった。
雑居ビルの地下にあるこの部屋の入り口は巧妙に隠され、
外部からはその存在を知られることはない。
藤本が持っているいくつかの拠点の一つだ。
データを解析する設備のある場所を提供してくれという紺野の頼みだったが、
HP内部のゴタゴタなどに興味はない。
漏れ聞こえてくる情報で吉澤を中心になにかが動き始めているのは知っているが、
藤本としてはどちらにも積極的に味方をするつもりはなかった。
だが紺野に場所を提供することで何回分かの依頼料が浮くなら、断る理由はない。
紺野にはとりあえずこの場所に来るように伝えた。
「で? あんたはどうすんの?」
顔を上げた藤本の視線の先には、
壁に背を預けて腕を組んでいる飯田の姿があった。
- 534 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:19
- とくに聞こうとしなくても、
部屋のなかでかわされた紺野との会話は耳に入っていたはずだ。
紺野と話をしながら見ていたが、
目を閉じた飯田の表情にはとくに変化なかった。
「べつになにも」
「どこ行くの?」
壁から背を離した飯田が出口に向って歩き出すのを見て、藤本が声をかけた。
「紺野たちが来るんでしょ?
圭織は出てくよ、いままで匿ってくれてありがと」
「……逃げんのか?」
携帯を机の上に放り出した藤本は、静かに立ち上がる。
振り返った飯田と机を挟んで向かい合った。
身を隠す場所を提供して欲しいと飯田が訪ねてきた現われたのは、突然だった。
訳も言わない飯田の頼みを断ることもできた。
だが憔悴したようすの飯田に、藤本はなにも言わずにこの場所を使わせていた。
- 535 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:19
- 集めた情報でなにが起こったのかだいたいのところは分かったが、
いままでそのことを話題にしたことはない。
飯田は部屋から出ることもなかったし、
食事を運んでくる藤本とも必要最低限の会話以外はかわさなかった。
「聞こえてたでしょ? みんな自分のするべきことをしてる。
なのにあんたはそうやって逃げ回ってるだけかよ」
「吉澤は止めるよ。でもそれは圭織ひとりでやる。
力を借りるつもりはない。誰にもね」
「紺野たちだって動き始めてる。一緒に戦おうとは思わない?」
無言のまま藤本を見つめていた飯田が、視線を逸らした。
壁にかけてあったコートを手にして、扉のノブを握る。
「圭織は一人の方がいいんだよ。
それに、誰にも迷惑をかけたくない」
「誰にも迷惑かけないで生きられる奴なんていないんだよ。
それとも、あんたはいままで一人で歩いてきたつもりなのか?」
ノブを握ったところで動きを止めたが、飯田が振り返ることはなかった。
藤本は溜め息を吐いて、飯田の背中に向けて続けた。
「仲間のために戦うのに、貸しだ借りだなんて誰も思わない。
あんただって見返りが欲しくて戦ってきたわけじゃないはずだよ」
静かに、言い聞かせるように言った藤本の言葉だったが、
飯田は静かに扉のノブを回し、扉を開けた。
「……ごめん」
そう言い残して、扉をくぐった飯田が後ろ手に扉を閉めた。
閉じた扉を睨んでいた藤本は、握った拳で机を叩く。
「勝手にしろっ!」
怒鳴りながら携帯を掴むと、扉に向って思いっきり投げつけた。
- 536 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:19
- ――――
- 537 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:20
- 以上で第4話終了です。
- 538 名前:What's New 投稿日:2007/04/05(木) 09:20
- すいません。だいぶ間が開いてしまいましたが、再開します。
またよろしくお願いします。
それと容量が足りないので、
続きはこの板に新しくスレを立てたいと思います。
- 539 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/06(金) 01:47
- お待ちしてました。案内のマターリ語る日スレでも評判のようですね〜楽しみです。
- 540 名前:& ◆Y3rjeXJmV2 投稿日:2007/04/06(金) 19:14
- 更新お待ちしてました♪
愛ちゃんの求めるものの先になにがあるんでしょうね。
次スレでも引き続き楽しみに読ませていただきます!^^
- 541 名前:& ◆1COSG0Pf4A 投稿日:2007/04/11(水) 17:08
- 更新お疲れ様です!
愛ちゃんの動向が気になりますね。
新スレも楽しみにしています!
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