デザートピープル
- 1 名前:円 投稿日:2006/05/13(土) 17:39
- アンリアルよしこは。
- 2 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:40
- 風が強い。砂塵が舞う。ゴーグルを忘れたのは手痛い失敗だった。マントのフードを
深くかぶり直す。砂漠ではマントとゴーグルがなければまともに歩けない。
バイクのカバーに舞い上がった砂が当たって、カチカチと鳴った。
吉澤ひとみは身を屈めてカバーの陰に身を入れ、砂から逃れる。
ゆっくりと、慎重に進んで行く。砂漠に道などない。バイクに取り付けられた
ナビゲータだけが頼りである。赤い光点が街の印。それを目指して進む。
髪の毛がジャリジャリする。汗と混じり合って絡みついてくる。帰ったらまずシャワーだ。
ひとみはアクセルを踏みながら決意する。
「――――ん?」
ほとんどナビゲータしか見ていなかった眼が微かに動いた。
そろそろとバイクを前進させて、目を凝らす。何か、砂以外のものが見えた気がした。
- 3 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:40
- こんもりした布のかたまりが落ちているのが視認できた。
その脇へバイクを止めて降りる。太陽に熱せられた砂が、かたまりを歪めている。
キャラバンが荷物を落としたのか、それとも不用品を捨てていったのか。どちらにしても
感心できることではない。
かたまりを右足で蹴った。断熱材の組み込まれた、ごついブーツの爪先がかたまりを
転がす。
布の中には人間が入っていた。
あどけない顔立ちの少女だった。首に鎖と認識票。思わず小さく舌打ちする。
おそらく、奴隷として売られて、街へ向かう途中に力尽き、商人に見放されたのだろう。
『不用品を捨てていった』――――まったく!
奴隷制度は公式に認められている。人権運動は吉澤が生まれるずっと前から続いているが、
それが実を結ぶ気配はない。
このまま捨て置くのはあまりにも哀れなので、ひとみは少女のそばに屈みこんで認識票に
こびりついた砂を落とした。名前や登録番号から身元が判ったら、親類縁者を照会して
連絡するつもりだ。表立って堂々と行われている分、こういった時は手間をかけずに済む。
- 4 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:40
- 「取れないなぁ、もう……」
砂は乾いているのですぐに落ちたが、茶色い何かがこびりついていて、それが金属製の
認識票を錆びさせている。グローブで力任せにこすってみたが、名前の前半部分は
読み取れなかった。
「……み、こ、は、る」
ミコハルとは変わった名前だ。
とは、思わなかったが。姓と名の間にスペースが入っているので、「み」は名字の
最後の一字だと判る。
登録番号も前半は読めないものの、住民管理システムで後方一致検索すれば絞り込める
だろう。その中から『こはる』という名前を探せばいい。
顔に積もった砂を払ってやる。肌はまだ柔らかい。グローブから熱は伝わらないが、
もしかしたら体温も残っているかもしれない。
もっと早く見つけてあげられたら、と後悔が迫る。己より随分と若い少女の、閉じた目を
見つめて、ひとみは溜息をついた。
- 5 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:40
- 「――――っ」
少女のまつげが震えた気がして、ひとみは咄嗟に耳を少女の鼻先に近づけた。
溜息が揺らしただけだったろうか。気のせいかもしれないが、確認しても損はない。
ごくごく微かに。呼吸音は既になく、ただ、耳の産毛を撫でる感触は確かにあった。
急いでバイクに積んでいた水のボトルを持ってきて、少女の顔へ盛大にかけた。
唇がわずかに開く。そこへボトルの飲み口をねじこんで逆さにする。
大半は外へ流れてしまったが、いくらかは中へ入ってくれたらしく、喉が動くのが見えた。
布を少女の身体に巻きなおして抱え上げる。少女の身長は自分とさほど変わらないので
苦労した。しかし、そんなことを言っていられる状況でもない。
「死ぬなぁ……死ぬなよぉ……」
息を切らせながらバイクへ戻って、膝に少女を乗せて走り出す。金が無くてレーサーは
買えず、スクータタイプを購入したことを今ほど感謝したことはない。
- 6 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:40
-
- 7 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:41
- 最初に見えたのは天井。この辺りでは平均的な、石造りの無骨なものだ。
カビ防止の処理がしっかりされているのか、黒ずみも緑がかった汚れも見えない。
そんな天井を見るのは初めてだったので、なんだか感動してしげしげと眺めた。
それから己が横たわっているベッドを見た。真っ白なシーツ、ふかふかの毛布、
柔らかいマット。こんなに柔らかいベッドも初めてだった。
今までは木材を組んだ台に、厚手の布を敷いたものにしか寝たことがなかった。
シーツの表面を撫でてみる。サラサラしていた。きっとこれが綿というものなんだろう。
麻しか触れた経験のない手には、ちょっとくすぐったい。
好奇心だけでそこまで観察して、ようやく気づくべきものに気づいた。
ここは、どこだろう。
- 8 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:41
- 寝転がったままきょとんとしていると、ドアが開いて、女の人が入ってきた。
「あ、起きた? 水飲む?」
そういえば、ひどく喉が渇いている。それはいつものことだから認識するのが遅れた。
こくんと頷くと、ガラスでできた吸い飲みを口元に差し出された。
飲み口をくわえる。吸い飲みがゆっくり傾けられて、むせない程度の勢いで水が流れて
きた。一度飲み込んでしまえば、あとは身体がどんどん水を求めて、大人の握り拳ほど
ある吸い飲みの中身はすぐになくなった。
こんなにたくさんの水を飲んだのは久し振りだった。初めてかもしれない。
「一気に飲むと身体に悪いから。えーと、こはる、でいいんだよね、君の名前」
女の人は空になった吸い飲みを脇のテーブルに置いて、そう問いかけてきた。
「はい。久住小春です」答えると、彼女は頷いて、起き上がろうとした小春を押し留めた。
- 9 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:41
- 「もうちょっと休んどきな。一応医者に診てもらったから大丈夫だと思うけど、
なにかあったら大変だし」
それから彼女は、己が『吉澤ひとみ』という名前であること、自分を砂漠で見つけたこと、
役所というところで小春の家族を探してくれることを説明した。
「小春は別の街から来たんだよね? 街の名前とか判る」
「はいっ」
一ヶ月前まで暮らしていた街の名を告げる。「遠いなぁ」ひとみが小さく呟いた。
「うちの人は?」
「お父さんは昔死んじゃいました。お母さんはいるけど、小春、新しいお父さんと
お母さんのおうちに行くことになってたんです」
「新しい?」
「はいっ」
ひとみの表情がわずかに翳る。小春はどうしたのかと首を傾げた。
- 10 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:41
- お母さんは小春に貧しい暮らしをさせたくないからと、新しい家族のところへ行くよう
言ってくれた。小春は貧しいという意味が判らなかったが、お母さんの言うことなので
素直に聞いた。
知らないおじさんが家に来て、新しい家族が待っている街まで連れていってくれると
小春を車に乗せた。運転席の後ろについた、広い台のような場所には、他にも新しい
家族と暮らすことになっている女の子が、10人ほど座っていた。
女の子たちはあまり喋ってくれなかった。
おじさんがくれる、歯が丈夫になるパンとおなかの調子を良くするミルクを食べる時も、
みんなほとんど口をきかなかった。
車は道路を走るように出来ていたので、砂漠に入ってからは歩いていくことになった。
迷子になると大変だから、とおじさんはみんながはぐれてしまわないように一本の鎖で
つないで、名前を書いた迷子札をつけてくれた。
小春は二番目に歩けなくなった。おじさんは一人目の女の子と同じように、後で迎えに
来るからここで休んでなさいと、小春の鎖を切って先へ進んだ。
言われたとおり、小春はじっとおじさんを待っていた。暑かったが、動いてしまうと
おじさんが見つけられないと思って、その場に座って待っていた。
そこから先は、覚えていない。
- 11 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:41
- 話を聞き終えたひとみは沈痛な面持ちで、「そう」とだけ言った。
「その……あたしはね、おじさんに言われて小春を迎えに行ったんだ。
だから、あの、心配しなくていいから」
奇妙な、無理やり作っているような笑顔でひとみは小春の頭を撫でた。
「はい」おじさんの知り合いなら、きっと新しい家族のもとへ連れていってくれるのだろう。
小春は安心して頷く。
「それじゃ、ちょっと、えぇと。
あ、そうそう。おじさんに連絡してくるから、もうちょっと寝てて」
「はい」
吉澤は慌てたように部屋を出て行った。そんなに急いで連絡に行かなくてもいいのに。
けれど、早く伝えないとおじさんが心配しているかもしれない。
まだ見たことのない、新しい家族を想像しながら小春はベッドへもぐりこんだ。
- 12 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:42
-
- 13 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:42
- 「みぎぃ〜!!」
「は? 右?」
突如として届いた絶叫に、藤本美貴が間抜けな応答と共に振り返る。
そこには涙で顔をぐちゃぐちゃにしたひとみがいた。
あまりにも、なんと言ったらいいのか、迫力ある様子のひとみに腰が引けながら、
美貴は持っていた工具を作業台に置いて身構えた。
「な、なによっちゃん、あの子になんかあった?」
「駄目なんだよああいう話! ああもう、あんなんじゃ照会したって無駄じゃんよ。
どうすっかなあどうしたらいいかなあねえどうしたらいいと思う?」
「なにがだよ」
さっぱり判らない。
粉塵舞い散る作業場では落ち着くものも落ち着かないと、ひとみをリビングへ誘って、
紅茶をいれてやって、それでようやく彼女は人心地を取り戻してくれた。
- 14 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:42
- そこから小春の身の上話を聞かされ、またひとみが鼻を鳴らし始めて、鬱陶しいので
テーブルに置いてあった布巾をひとみの顔面へ投げつけた。
ひとみはそれが台拭きであると気づかないまま顔を拭った。
「で、どうしたらいいと思う?」
「……ま、どっか保護団体にでも引き取ってもらうのが精々じゃない?」
「でも、小春は新しい家族に会えんの楽しみにしてるみたいなんだよ」
「そこはよっちゃんがうまいこと言って、なんとかしなよ」
「あたしが口下手なの知ってんだろ?」
情けないくらい眉を下げた顔だった。好きにしろ、と思ったが、そんなことを言ったら
ますます話がこじれそうだ。
「とりあえず、しばらく置いてあげたら? そのうち引き取ってくれる人とか出るかも
しんないし」
「うん……」
どうしてこうもお人よしなのか、美貴は不思議でしょうがない。
人権団体なんていくらでもあるし、その中では里親探しを引き受けているものだってある。
もしも自分が彼女の状況になったら、迷わずそういった団体へ連絡するだろう。
まあ、それがよっちゃんのいいとこでもあるんだけど。口の中で呟く。
- 15 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:42
- ひとみとの付き合いは5年ほどになる。
初めは商売相手として、さしたる時間もかからず友人として。
彼女は数年前から人を遠ざけるようになった。理由は知っている。その理由は
美貴にとって彼女から遠ざかる必要を感じさせないものだった。だから今でも友人として、
また商売相手として付き合っている。
ひとみも、美貴がいなければ己の仕事が立ち行かないので、割り切って付き合いを
続けているようだ。
紅茶を飲み干したひとみが立ち上がった。「つれなーい」冗談交じりに言うと、彼女も
「うちで可愛い子が待ってるから」と冗談で返してきた。
「なんかあったら言いなよ。美貴にできることなら協力する」
「ありがと」
「あんた、わりと自分の中だけで悩むからさぁ」
「はいはい。わかってますよ」
「いくら可愛いからって手ぇ出さないように」
「出しようがないでしょ」
苦笑が洩れて、キリが無いと思ったのか、ひとみが打ち切るように手を振る。
帰って行くひとみを見送った美貴はふんと鼻から息を洩らした。
- 16 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:42
-
- 17 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:42
-
- 18 名前:_ 投稿日:2006/05/13(土) 17:43
- こんな三人で進んでいきます。
- 19 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/05/13(土) 22:10
- 円さんキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!!!w
前にも一番キターをゲットしましたよw
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/14(日) 02:12
- どうなるんだ〜気になる気になる。
さすが円さん。いきなりわし掴みにされました。
これからストーカーのようにチェックします(w
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/14(日) 17:20
- 新作ありがとうございます。
そうですかそうですか……楽しみです♪
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/14(日) 17:32
- 円さんキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!
…え、よしこは?と思って読み出したんですけどそれが逆に新鮮でイイ感じです
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/14(日) 22:55
- お気に入りに追加と。
円さんの新作期待期待してます。
- 24 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:20
-
◇ ◇ ◇
- 25 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:20
- 自宅へ戻り、小春を寝かせている寝室を覗くと、彼女はまだ眠っていた。
音を立てないようにドアを閉めて、プライベートルームに入る。
電源を入れっぱなしの端末を操作して検索画面を呼び出し、小春の名前と登録番号を
入力した。
結果が表示される。
「抹消?」呟きが唇から洩れた。
小春の住民登録は抹消されていた。赤字で表示されている、死亡を表す三文字。
拳が固く握られた。おそらく、奴隷商人が生死の確認もせずに届け出をしたのだ。
たしかに砂漠へ置き去りにすれば、まず助からないが、それにしたってひどすぎる。
「てことは……『新しい家族』にも、その通知は届いてるってことかぁ」
ならば、『彼ら』は小春をあきらめただろう。すでに他の奴隷を買っている可能性もある。
今さら連絡したところで無駄か。第一、どういった理由で買ったのか判らない相手に
引き渡すのも不安だ。
奴隷といっても受ける扱いは様々である。子どもを授からなかった夫婦が買い取って
大切に育てられることもあるし、本当に道具としてしか扱われないケースもある。
しかし、大半はやはり後者だ。
小春は幼いとはいえ容姿が整っているし、妙なことをされないとも限らない。
幼いのがいい、という嗜好の人間だって存在する。
- 26 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:20
- 念のために小春と血縁関係にある人間も検索してみたが、ヒットした件数は少なく、
それらもコンタクト先は非公開になっていた。
やはり、このままうちに置くのが一番良さそうだ。
進んで選びたくはない道だった。ずっと面倒を見られるわけでもない。
どうにか、彼女がちゃんと生活できる方法を見つけないと。
カタ、と音がして、ひとみがそちらを振り返る。
小春が覗き込むようにしてこちらを見ていた。
内心でヒヤリとしながら、手元のコンソールにキーを打ち込んで画面表示を消す。
「起こしちゃった?」
椅子から腰を上げながら申し訳なく言うと、小春は首を横に振った。
「おじさん、来てくれますか?」
「……ああ、うん、そうだね……」
「いつ来ますか?」
「その……、新しいお父さんとお母さんなんだけど、まだちょっと準備があるんだって。
それが済んだら小春を迎えに来るから、それまでうちで待っててもらえるかな」
「はいっ」
ちょっと間延びした、幼い返事はくせのようだった。
- 27 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:21
- 純真無垢だ。今までの生活からは、その境遇からは考えられないくらいに。
それとも、これが彼女の自己防衛の方法だったのだろうか。
あるものをあるがままに受け止めて、痛みを学ぶことを放棄して。
それは……本人は楽かもしれないが、見ているほうは、辛い。
「そうだ、ご飯にしない? あたしもまだ食べてないし」
「はいっ。おなか空きました」
「じゃあ用意すんね。おいで」
リビングへ小春を伴って、ひとみはキッチンで食事の準備を始める。
時間をかけても仕方ないので(小春は少なくとも丸一日なにも食べていない)、
昨日の残りのスープを温めて、パンに適当な具を挟んだものを皿に並べた。
小春はおいしいおいしいと食べてくれた。パンをかじりながら、ひとみは眼底の痛みを
押し隠して笑った。
少し意外だったのは、小春の所作が丁寧だったことだ。空腹を通り越して飢餓感を
おぼえるような状態だろうに、がっついたりせず、一口ずつ、ゆっくりと食べている。
- 28 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:21
- 「小春は行儀がいいなぁ」
独り言のように言葉を洩らすと、聞きとめた小春が嬉しそうに笑った。
「一気に食べちゃうとすぐになくなっちゃうから」
「……ああ、そう……」
なるほど。そういうことか。
彼女にとって、すべての基盤がそこにある、ということなのだろう。
生きるための手段なんて、本当は、まだ覚えなくてもいい年頃なのに。
「あ、そうだ。小春っていくつ?」
「小春は13歳になりましたー」
「うわ、ほんとに若いな。7つ違いか……」
己もまだまだ若いと思っていたが、なにか現実を突きつけられた気分だった。
彼女が年齢不相応に幼いこともショックに拍車をかけた。
このくらいの年齢だった頃、ひとみは芸術家を目指して学校に通っていた。
絵画も彫刻も手をつけた。どれも『独創的すぎる』という理由で教師の評価は高く
ならなかった。
- 29 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:21
- 皮肉なものだ。
独創的と言われ続けた自分が、今はひどくありふれた、本当に意識しなくても見ることの
できるものを作っている。
「うちの中、案内するよ」
食器を片付けてから、ひとみはさして広くない家の全室を簡単に説明した。
実際に見たほうが早いだろうと、一室ずつドアを開けて見せてやったのだが、小春は
好奇心が旺盛なのか、どの部屋でもなにかしらに触っては感心したように声を上げた。
「それから、こっちね」地下へ通じる入り口を開ける。ドアは家中のどれよりも大きい。
小春は興味深そうに薄暗い廊下を見回した。
「こっちは仕事部屋だから、あたしがいない時に入っちゃ駄目だよ」
「はいっ」
「それから、中のものに触らないように」
「はいっ」
身長だけは大人と並ぶ幼子は、一度も疑問を口にしない。
明らかに説明不足な言葉であっても、はいと素直に頷くだけで、それ以上入り込もうと
してこない。
詮索されてもうざったいが、ここまで無関心でいられるのも、少しばかり寂しくなる。
- 30 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:21
- ドアの上部と下部、二箇所に取りつけてある鍵を開錠して、ひとみは先に室内へ入った。
「わぁー」
今までで一番興味を引かれた顔をしながら、それでも小春は言いつけどおり、壁にさえ
触ろうとしなかった。
「すごい。すごいすごいっ」
「気持ち悪いとか、恐いって言われたりもするけどね」
ドアそばに置かれていた一つへ歩み寄り、表面を手のひら全体で撫でる。
すり足ひとつ分後ろにいる小春が興味深そうに覗き込んでくる気配を背中で感じる。
見た目どおりのなめらかさを味わって、ひとみは手を離した。
室内にあるのは石像だった。すべて人間の形をしている。
成人男性、女性、少年少女、老人、幼児……赤ん坊を除いたすべての年代が、広い部屋の
中に所狭しと並べられている。
像の置き方は一見乱雑なように思えるが、もしも天井付近からその配置を見たら、奇妙な
規則性を見出すことができただろう。
チェックメイトが済んだチェス盤のように、石像は不規則そうな規則正しさで並んでいた。
石像には二種類あった。色がついているものと、石の無骨な灰色そのままのもの。
- 31 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:21
- 「吉澤さんは、チョウコクカさんですか?」
「ううん。あたしは、色塗り専門」
色のついた石像は、生きている人間かと思えるほどリアルだった。
自然な肌色、様々だが人間が持つ色素以外は存在しない髪、うっすらと浮いた血管の青。
奇抜な色はなにもなく、本当に、生きている人間の色を写しただけという風な、芸術と
呼ぶにはあまりにも芸のない色彩。
小春が、睫毛が触れるほど近くまで寄って像を見つめる。硬い。爪で弾いたら澄んだ音が
出るに違いない。
「さわっちゃ駄目だよ」
「はいっ」
あまりにも寄りすぎたから、悪戯をされるのではないかと危惧して、ひとみはわずかに
急いた口調で釘を刺した。
小春は素直に像から離れる。
ひとみがまた、ゆるゆると石像を撫で始めた。
その表情はいとしげで、また切なげでもあった。
深い情愛と、憐憫が等分ずつ入り混じった眼差しだった。
- 32 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:21
- 「じかにさわると、湿気とか体温とか、指の油分とかで、表面にムラが出来ちゃうんだ。
そうなると塗るときに困るから」
尋ねられたわけではないけれど、ただの意地悪心で言っているのではないのだと
判ってもらいたくて、そんな風に説明する。
「でも吉澤さんはさわってますよ?」
「ああ、あたしは、ほら」
右手を小春へ差し出す。「?」意図が読めなかったのか、小春は小さく首を傾げた。
「さわってみな」
促すと、小春が指先で手のひらをつついてきた。
「あ、なんか変」
「すごく薄い手袋つけてるんだ。湿気も熱も、もちろん汚れとか油も防いでくれる」
「うわー、すごいですねえ」
「特注品なんだよ。小春にも買ってあげたいとこだけど、うちってわりと貧乏なんだよね」
おどけたように言ったら、「そうなんですかぁ」とごく普通の口調で返された。
素直すぎる彼女は、お世辞とかなんだとかは身につけていないらしい。
とはいえ、金がないのはまごうことなき事実であるため、ひとみの方も特に怒るわけでも
なく、ここはもう終わりと小春の背中をドアへ向けて押した。
- 33 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:22
-
- 34 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:22
- 単純に人がひとり増えて、それで終わりということはない。
なにしろ小春は己の所有物と呼べるものは、着ていた服と日除けの布、それに認識票しか
なかったのだ。
足りないものはどんどん出てきて、ひとみはある程度のところでメモにまとめてから、
小春と一緒に買出しへ出かけた。
実は人をいじるのが好きな性分なのである。ボサボサだった髪を切りに美容院へ連れて
行き、軽く揃えてもらってから、艶出しの油を塗ってもらった。
小春の髪は濡れたみたいに綺麗な黒色をしている。まっすぐで、平板に流れ、
撫でると獣の毛皮みたいになめらかだった。
次に向かったのは洋服屋だった。自分では着れない、いや着ようと思えば特に障害もなく
達成できるのだが、その後の評価が難しくなる感じの洋服をいくつも合わせる。
ありていに言えばフリルとかフリルとかフリルとか。
「ああぁ、可愛いなあ、お人形さんみたいだ」
「ありがとうございまぁす」
でれんと顔を崩したひとみが、うっとりと試着室から出てきた小春を眺めた。
小春は無邪気に笑っていて、笑っているけど感情のないその表情が、ますます人形じみて
見せていた。
- 35 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:22
- 「やっべーこれ超可愛い。どうしよっかな」
ひとみがそばに控えていた店員へ相談を持ちかけた。
会話の内容は、主に値段についてだったが、メモに走り書きされた金額を一瞥して、
がっくりと肩を落とす。
貯蓄に不自由な己が憎い。
顔色で判断されたのか、店員がもう少し布地とフリルの少ないものを何着か持ってきて
くれた。さきほど試着させたものに比べると、かなりのお手ごろ価格だった。
「あっ、こういうのもいいかも。そろそろ暑くなってくるし……」
袖のない、胸の下に飾りと絞りの入ったワンピースを腕に乗せる。
スカートの裾には小ぶりのフリルがついていて、清楚なお嬢さん風、といった雰囲気。
小春くらいの年頃には、こういったものの方が合っているかもしれない。
「ねえ小春ー、ちょっとこれ着てみて」
「はいっ」
いつもどおりの返事が来る。ワンピースを渡すと、小春はすぐに着替えを済ませて
試着室から出てきた。
- 36 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:22
- 「わっわっ、これも可愛いっ。すげー日傘とか差させてー」
無駄にテンションが上がり、思わずその場で地団太を踏む。
少しだけ落ち着いてから店員を呼び戻し、さっきと同じような会話をした。
「こちらだと、これくらいになりますね」
「……もうちょっと、なんとかなりませんかね」
「いやー、敵いませんねぇ。では、こんなところでどうです?」
ひとみの脳内で、めまぐるしく計算が行われる。次の入金はそれほど遠くない。
確かあと10日ほどだったはず。それまでに必要なのは、食費と美貴へ依頼した仕事の
振込み。
チーン、と、頭の中でレジスタが開いた。
「これ、ください」
「毎度ありがとうございます」
「あ、このまま着ていくんで」
「では、領収書だけお渡ししますね」
会計を済ませて、ワンピース姿の小春を伴って外へ出る。
なかなかいい気分だ。奴隷制度には反対だが、見目良い者をはべらせたいという
欲求を少しだけ理解できたひとみだった。
- 37 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:23
-
一通り買い物を済ませて帰路を歩いていると、前方から来た人に声をかけられた。
「お、化粧屋ぁ。べっぴんさん連れてどこ行くんだ」
40がらみの小太りな男は、軽快というより軽薄な声でそう言った。
「どこって、帰るんすよ。今日からこの子、うちで暮らすんで」
「なんだ奴隷買ったのか。えらい上物だな、高かったろ?」
「いや、そういうんじゃないんで。あのー、ちょっと、預かってるっつーか」
「仲介でも始めたのかよ。まあいいや、それじゃあな」
「ども。あんま飲みすぎちゃ駄目ですよ」
「お前こそ身体に気ぃつけろよ」
そりゃもう重々。小声で答え、ひとみは軽く頭を下げて男と別れた。
- 38 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:23
-
続きます。
- 39 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:23
- >>19
キチャッター!!
>>20
ストーカーキチャッター!!
いやすみません冗談です。
>>21
これから吉澤さんがアホになります。
>>22
よしこはは次代を担うCPです。
>>23
実に半年振りの新スレでした。
期待を裏切ってしまわないことを願うのにゅです。いやのみです。
- 40 名前:_ 投稿日:2006/05/18(木) 18:23
- 流します。
- 41 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/18(木) 19:19
- ちょーいいかんじ
- 42 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/20(土) 04:14
- もうじゅうぶn(ry
いやいや、面白いです。楽しいです。
更新ありがとうございます。
- 43 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/20(土) 21:53
- よしこは小説ミツケタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
よしこは小説なかなかないから楽しみです
- 44 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/21(日) 21:57
- のにゅw
こはるのあぶなっかしさがいい感じで好きです。
- 45 名前:J 投稿日:2006/05/22(月) 14:49
- 気づかなかった…不覚です…2人がそれぞれかわいくてしかたないです
- 46 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:49
-
◇ ◇ ◇
- 47 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:49
- ソファにごろんと伸びた姿勢で、小春は退屈そうに続き間の先を眺めている。
応接間として使っているそこでは、知らないおじさんとおばさんがひとみと話している。
もう2時間にもなる。その間、小春は全然かまってもらえないからつまらない。
ひとみの家にお邪魔してから何度か、こんなふうに知らない人が来て話をしていくことが
あった。その人たちは「お客さん」なのだという。
出来合いの石像を持ってきて、ひとみに色を塗ってくれるよう頼みに来るのだ。
いつも話は長い。ひどい時は半日も居座ったりする。ひとみは嫌な顔ひとつしないで
それに付き合っている。
ほとんどの場合、「お客さん」は写真とか絵を持参していた。小春は詳しいことを聞いて
いないが、たぶん「こんなイメージで」みたいに頼んでいるんだろう。
仕事は順調らしい。けれど、ひとみはそのことをあまり喜んでいる様子はない。
どうしてかは知らない。興味もなかった。毎日ご飯を食べさせてくれるし、新しい家族と
連絡も取ってくれているそうだから、小春としてはなんの不満もない。
しかしながら、この有閑は遊び盛りの13歳には辛すぎる。外に出かけたいが、ひとみは
勝手に出かけるとさすがに怒るから、話の区切りがつくまで待っていないといけない。
- 48 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:49
- 退屈紛れにソファの上で足をばたつかせた。「お客さん」がいる時は、あの部屋に入れない。
ひとみが入らせてくれない。ドアがない代わりに、透明なカーテンみたいなものが
出入り口にかかっていて、小春はその先へ進んではいけないのだった。
背泳ぎの真似をしていると、物音がうるさかったのか、ひとみが視線をこちらに向けてきた。
彼女は溜息をついたように見えた。それからお客さんになにか言って、こちらへ近づいてくる。
カーテンを開けてこちらに入ると、ポケットを探りながら口を開いた。
「小春、ちょっとおつかい行ってきて。こないだ一緒に行った八百屋さんの場所は
覚えてる? あそこでほうれん草とジャガイモ買ってきてほしいんだ」
「はいっ」
小春がピョンと飛び起きた。退屈がしのげると尻尾を振ってひとみのそばへ歩み寄る。
手のひらを上にして差し出すと、ひとみはその手に紙幣を一枚乗せた。
「おつりはお駄賃ね」「ありがとうございまぁすっ」ひとりでお使いに行く時は、いつも
こうしてお駄賃をもらえる。そうすると小春は必ず甘いお菓子を買うのだ。
ひとみはそれを計算して、買いすぎることのない程度の額を渡している。
- 49 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:49
- 小春が勢いよく駆け出してから、ひとみは元の部屋へ戻って、対応していた二人に
軽く頭を下げた。
「すみません、騒がしくて」
「かまいませんよ。奴隷をお買いになったとは知りませんでしたが」
初老の男性が言う。ひとみは苦笑いでそれを否定した。
「奴隷じゃないんです」
「では、お弟子さんで?」
「それもまた、ちょっと違うんですけど」
説明するのが難しい。結局、ひとみは曖昧な微笑で誤魔化した。
話を戻すために、渡されていた写真へ目を落とす。自分と同じくらいの年をした、
なんとなく色っぽい雰囲気がある美人の写真だった。
「それでは、こちらをお預かりしてもよろしいでしょうか?」
「ええ。よろしくお願いします」
「はい」
それから、いくつかの確認と署名をもらって、辞していく二人を見送った。
- 50 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:50
-
- 51 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:50
- 八百屋さんは歩いて15分くらいのところにある。到着してとんぼ返りしても往復で30分。
実際は買い物をするから、1時間弱にはなる計算である。
暇潰しにはちょうどいい時間だった。それ以上短くては客が帰っていないかもしれないし、
長ければ日が暮れてしまう。
道々に点在している露店から、いい匂いが漂ってくる。甘いのからしょっぱいのから、
前を通るたびに違う匂い。
そのすべてに気を取られつつ、まだお使いを済ませていない小春はまっすぐに目的地へ
向かって行く。
大通りは活気がある。
ひとつひとつは聞き取ることの出来ない、様々な声。
老若男女入り乱れたその声は、しかしどれも楽しそうだ。
賑やかな中に、小春は鼻歌を紛れ込ませる。
特に上手でもない。道ゆく人たちも注意を払ったりしない。
それでも、小春は楽しかった。
賑やかなのがいい。笑ってるのがいい。
だから小春は笑うし、鼻歌だってうたうのだ。
- 52 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:50
- 「こーんにちはーっ」
店頭で接客をしていたおじさんに挨拶する。
小春を見つけると、おじさんは大きく顔を崩した。
「おう、今日はなんだ?」
「ほうれん草とジャガイモくださいな」
「はいよ。どれくらいほしい?」
む、と小春はちょっとだけ詰まった。
ほうれん草とジャガイモを買ってきてほしいとは言われたが、量は聞いていなかった。
「化粧屋、なんも言ってなかったか?」
「……はいぃ」
「相変わらず抜けてんな、あいつは」
カハカハと笑いながら、八百屋のおじさんは二人分ならこれくらいだろうと、
袋に頼んだものを入れてくれた。
代金を支払い、おつりを受け取る。小春の好きなスモモの飴がみっつ買えるだけ残った。
- 53 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:50
- 「どうだ、もう慣れたか?」
「はいっ」
「嬢ちゃんも微妙なとこに買われちまったけど、まあ頑張んな」
以前、小春を奴隷だと勘違いしたおじさんは、未だにその勘違いを続けている。
「微妙なとこ?」
「そりゃあ、化粧屋のとこじゃなあ。微妙だろ」
「でも、吉澤さんは優しいです」
「優しいだけで済むなら、誰も苦労せんわな」
よく判らない。ひとみはご飯をくれるし、叱る時もぶったりしないし、
服だって可愛いのを買ってくれた。
抱っことかはしてくれないけれど。それだけがちょっと寂しい。
けれど、そんなことは、不満にならないくらい小さなものだ。
おじさんはごつい手で小春の頭をガシガシ撫でると、「まあいいわ」と
湿った呟きを洩らした。
「嬢ちゃんがいて、少しでも化粧屋の慰めになるんなら、俺がとやかく言うことじゃ
ないよな。ごめんな、変なこと言っちまって」
「はいっ」
「……そう答えられんのも、けっこうキツいんだがな」
小春が小首を傾げると、おじさんは更に深く苦笑した。
- 54 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:50
- 「化粧屋、忙しそうか?」
「よくわかんないけど、時々お寝坊します。あと、今日もお客さん来てました」
「ふぅん。最近増えてるみたいだからなぁ。俺には判らんがね」
「おじさんはああいうの欲しくないんですか?」
「気味が悪いだろ。お前、八百屋の前にあんなもんあったら恐くてしょうがねえよ」
頭に、あのリアルな石像が置かれている店先を思い浮かべてみた。
うむ。確かに恐い。
泥棒よけにはいいかもしれない。しかし同時に客も遠のきそうだ。
「ま、無理してるみたいだったら休ませてやってくれな」
「はいっ」
首を縦に振る。「おぉ、いい返事だ」おじさんが豪快に言って、小粒のたまねぎをふたつ、
おまけだと袋に入れてくれた。
実は小春、たまねぎが苦手なのだが、断るほど世間を知らないわけでもない。
- 55 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:51
- 「ありがとうございます」
「いいってことよ。あいつも栄養つけないとな」
うんうん、と一人なにかに納得する仕草をするおじさん。
そういえば以前顔を合わせた時も、ひとみの体調を気にかけていた。
吉澤さんはもしかしたら身体が弱いのかもしれない。そういった気配はなかったが、
小春はちょっと心配になった。
最近はずいぶん夜更かしをしているようだった。いつだったか、夜中に喉が渇いて
キッチンへ行く途中、ひとみの部屋と地下へ続く廊下のどちらにも明かりがついていた
ことがあった。
彼女がどちらにいたにせよ、起きていたことに間違いはない。
消し忘れて眠っていたという可能性はない。彼女は明るい場所では眠れないのだ。
一緒に昼寝をしようと誘ってみても、いつだって小春が寝てしまうまで傍らに佇んでいる
だけで、眠っているところを見たことがない。
夜だって、毎日小春の方が先に寝ている。しかしながら、小春が特別早寝だという
わけでもない。最近の小春はむしろ夜更かしさんなのである。
というのも、深夜に放送しているテレビ番組を、毎日欠かさず観ているからだ。
5分程度の短い番組なのだが、たまたま眠れない日に観てみたらすごく面白くて、
それからというものひとみが渋い顔をするのも構わず、日付が変わってから1時間くらい
起きてテレビにかじりついている。
番組を観終わった後も、ひとみが眠っている気配があったことはない。
- 56 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:51
- 帰り道をとぼとぼ歩きながら、小春は無意識に唇を尖らせていた。
もしかして、自分が増えたせいだろうか。
一人分の余計なお金がかかるから、ひとみは忙しくなってしまったのだろうか。
「……むー」
これはいけない。
お母さんも常々、新しい家族のもとへ向かうその日まで言っていた。
ええと、『飯を食いたければ働け』とかなんとか。そんな感じのことを。
ならば働こうではないか。こんなお使いなんて子供だましだ。
もっとちゃんとした働きをしよう。
絶対にひとみが喜んで、かつ彼女がゆっくり休めるような。
どんなことをしたらいいだろう。
さしあたり、家中の掃除でもしてみようか。
いや駄目だ。ひとみは綺麗好きなのだ。毎日家具の埃を払っているし、週に一度は
本格的な拭き掃除までする。小春が脱ぎ散らかしていた洋服まで、いつの間にかきちんと
クロゼットに収まってたりするのだ。
小春が手を入れられる箇所なんて、どの部屋をどれだけ探しても見つからない。
- 57 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:51
- それでは料理はどうか。今までも食器を出したりスープを注いだりはしていた。
しかし、作るのはいつもひとみだった。
味見しかしたことはない。しかしなんとなく、なんとかなりそうな気がしなくもない。
要するに切って炒めたり煮たりすればいいだけなのだ。料理というのはそういうものだ。
そこで思い出す。ひとみは絶対に刃物をさわらせてくれない。
包丁はもちろんのこと、ハサミとか爪切りまで禁止なのである。
深く考えたことはなかったが、ひとみ、けっこうな過保護さんだ。
なお、小春の爪はひとみが切っている。おかげで深爪にもならず、10本の指すべて、
爪は綺麗な楕円形だ。
うーんうーんと小春は考える。
ひとみの助けになって、なおかつ彼女が休息を取れるような手伝い。
さっきから頭上数センチの位置に答えがあるような気がしているのだが。
これがなかなか確固とした答えになってくれない。
- 58 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:51
- 「吉澤さんはー、時々お寝坊する」
声に出して整理し始めた。
「お寝坊するのは、夜遅くまで起きてるから」
ひとさし指を立てて、見えないボードを叩いていく。
「遅くまで起きてるのは、仕事が忙しいから」
忙しいのはどうして?
「……あーっ」
それだ。小春が望む答えがそこにあった。
なんて簡単な答えなのだ。どうして今まで気づかなかったんだ。
近すぎて見えなかったのか。そんなことわざを聞いたことがある。
ちょっと思い出せないが、言葉の雰囲気としては『どうだい、文句なし』のような。
なんだかそれが正解のような気がしてきた。
だってほら、こんなにも今の自分にふさわしい言葉ではないか。
先程までの沈んだ表情はどこへやら、小春は散歩に出してもらった子犬みたいに
浮かれた足取りで帰り道を急いだ。
- 59 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:51
-
続きます。
- 60 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:52
- >>41
ちょーちょーちょーちょーいいかんじー。
>>42
ここから更に……というのは嘘のようなホントのような。
>>43
よしこは推進委員会(自称)としては、どんどん増えてほしいものです。
>>44
むしろ危ないのはよしz(ry
いえ、別の意味で。
>>45
よもやこんな吉澤さんをかわいいと言ってもらえるとは夢にも思わず。
小春ちゃんはかわいいですよ(真顔で)
- 61 名前:_ 投稿日:2006/05/23(火) 23:52
- 流します。
- 62 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/24(水) 15:53
- なにこの小春の可愛さ。
さーいこぅだぜぃぃ
- 63 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/24(水) 16:55
- なるほどぅ。この先、まだ更に……なのですね(笑)
あぁ、楽しくて、楽しみでどーしょーもないです。
- 64 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/24(水) 21:25
- あまりのかわいらしさに、ごろごろ転げまわりたくなりました。
もう次回が楽しみで仕方がありません!
- 65 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/28(日) 15:03
- あったかいなあ
読んでておなかがすいてきましたw
- 66 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:48
-
◇ ◇ ◇
- 67 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:49
- 美貴は自宅の離れに小さな工房を持っている。
本当に小さなものだ。いくつかの工具を入れた棚と、作業台を置いたら、人がひとり
寝転がるのがやっとのスペースしか残らない。
ゴーグルとマスクをした美貴は、作業台の前に座って工具を操っている。
右手に持っているのは、針のようなものが先端に取り付けられた金属の棒。
ちょうど、歯医者が使うドリルに酷似していた。
左手には眼球。といっても本物ではない。特殊樹脂で作られた贋物だ。
その眼球に針を軽く触れさせると、血管のような赤い線が表面に刻まれた。
美貴は眼球技師である。樹脂で作られたただのボールを、人の目玉に変えるのが仕事だ。
ただの石像を人に変えるひとみの仕事と似ている。それもそのはず、彼女が作成した
目玉はひとみが扱う石像に埋め込まれるのである。
病気や怪我などで眼球を失った人の義眼にはならない。医療行為に使用するための免許を
持っていないからだ。初めはそのつもりで学んでいたが、筆記試験に受からなくて
こうなった。しかし、道が少し違ったからといって、現状に不満はない。
- 68 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:49
- 石像のサイズや性別に合わせて、目玉はひとつずつオーダメイドされる。
ひとみが受ける注文が増えればその分目玉だって必要になる。だから、美貴も最近かなり
忙しい。
血管が刻まれ、うっすらと青の影が入り、黒目の中に微妙な色合いで瞳孔が浮き上がる。
己の目が乾いてきたので、美貴は作業を中断してゴーグルを上げた。
目薬を落とすと眼底に心地良い痺れが走る。
人の気配を感じて振り返る。刺激の強い目薬のせいで涙が浮かび、視界ははっきりしない。
「おじゃま。無用心だなぁ、鍵かかってなかったよ?」
サイダーのビンを開けた直後みたいな笑い声を滲ませつつ、ひとみはポケットから
ハンカチを取り出した。
美貴がそれを受け取り、涙を拭う。
- 69 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:49
- 「別に、盗られて困るもんもないしね」
「ふーん。『アレ』は?」
「……価値が判るのは、美貴だけだよ」
「わかんないから盗むってこともあると思うけど」
「アレがなんなのか判んない人間なんてこの街にいないし、好きこのんで触るヤツも
いないでしょ」
「そりゃそっか」
意図の不明な、肩をすくめる仕草をして、作業台へ腰かける。他に座れる場所がない。
美貴はゴーグルを完全に外して工具を置いた。
カチカチと小さな音がする。ひとみが指先で作業台を叩いていた。
無意識なのだろう、ひとみ自身は気づいた様子もない。
美貴も指先を一瞥しただけですぐに彼女の顔へ視線を戻した。
「こないだ頼んだの、できた?」
「うん」
椅子を回転させ、棚の引き出しから片手に乗るほどの木箱を取り出す。
ふたを開けて、中に詰められている綿をのけると、精巧な眼球が姿を現した。
ひとみへ差し出すと、彼女は片目をつまみ上げて顔の前まで持っていき、何度か回して
その出来栄えを確かめた。
- 70 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:50
- 「……うん、いいね。綺麗だ」
「むき出しの目玉見て『綺麗』ってのもどうなの」
「でも綺麗だと思うよ」
「ふぅん。ありがと」
己の製作物を褒められて気を悪くする技術者はいない。
美貴も複雑な照れ笑いで頷いた。
「美貴が作る目は、どれも澄んでて綺麗だ」
「そこらの病院でホルマリン漬けになってんのと変わんないよ」
「うん、だからたぶん、人の目って基本的に綺麗なんじゃないの」
ロマンチシズムに満ちた発言に、美貴は呆れに似た微笑をした。
そんな感性でも持っていなければ、あのような仕事はできないのだろう。
ありがたみも面白みもない、まさしく無味な石像を彩るなど。
まともじゃない。
そして、己もまた、まともじゃないロマンチシズムの持ち主だ。
無味な石像を彩るための作り物を、手間ひまかけて生み出しているのだから。
さらには。
- 71 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:50
- 「ここんとこ、調子が悪い」
「ん? 筆が乗らないとか?」
「ていうか、筆が動かない」
ひとみは窓の外へ目をやり、コツコツと、指先で叩いた。
「そろそろなのかも」
「……まだ早いよ」
「もうすぐ3年だよ。早すぎるってことはないんじゃない?」
「…………」
美貴も彼女の視線を追うように、外の景色に視軸を合わせた。
行きかう人々。今月に入ってから気温はおだやかで、過ごしやすい日々が続いている。
背負った籠に木の実を入れた少年が行商をしている。どんぐりがひとつ、籠から落ちた。
遠くから軽快な音楽が聞こえてくる。誰かが楽器の練習をしているのか、それとも
どこかでパレードでもしているのか。
流行の服を、流行の着こなしで身につけている若者。悪くはない。隣にいる少女も
似合っている。
目的もなく歩いているような学生もいる。気分転換だろうか。
「見える?」
「うん」
「なら、大丈夫だよ」
「だといいけど」
- 72 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:50
- 美貴が立ち上がる。ひとみの視線がゆるゆるその動作を追う。
もともと身長差はあるのだが、彼女が腰より高い作業台に座っているせいで、
今はそれよりさらに差が出ている。
触れる。引き寄せる。彼女の双眸がわずかに戸惑う。
唇が彼女のそれに触れる直前、冷たい感触が訪れた。
ガードするようにあてがわれた手のひらを、美貴の手が弾く。
「いや、駄目でしょそれは」
崩れた表情が目の前にあった。美貴は不満そうに眉を寄せる。
「なんで」「当たり前でしょ?」呼吸が混じるくらいの距離で交わされる言葉。
一方は刺々しく、一方は弱々しかった。
「いいじゃん」
「よくないって」
「美貴は気にしない」
「こっちが気にするの」
押し問答を何度か繰り返して、埒が明かないのでひとみが強引に美貴を押し退けた。
- 73 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:50
- 「ったく、なにかってーと迫ってくんだから」
「そうしたいんだよ」
「駄目だってのに」
美貴が迫る理由。ひとみが拒む理由。
それは同一の起点で、正反対の方向だった。
美貴は可能性があると信じて望んだ。
ひとみは可能性があると危惧して拒んだ。
やり取りは何度も繰り返されていた。一度だって結末が変わることはなかった。
「マジ勘弁して」
嘆息混じりの懇願とともに、両手を封じられる。
冷たい両手。常につけられている手袋は今も外れていない。
人の皮膚とは絶対的に違う、爬虫類の肌に似た感触に、美貴はもう慣れていた。
「……もう帰るよ。代金はちゃんと振り込んでおくから」
「またそうやって逃げる」
「美貴に言われたくないね」
「美貴は逃げてるわけじゃない。進みたくないだけ」
「だったらずっとそこにいろ」
苛立っているのか、かすかに尖った声で言われた。
それはくさびだった。美貴の両手に打ち込まれて動きを止めさせる。
- 74 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:51
- 今日も結末は変わらず、美貴は悔しさに唇を噛んだ。
唯一触れ合っていた両手がほどけて、ひとみの視線も逸らされて、転がっていた目玉が
拾われて、大事に箱へ収められて、ひとみが提げていたバッグへしまわれた。
背中が遠い。追いかければすぐに捕まえられるだろうが、そうはしなかった。
「小春、元気?」
「すげー元気。買い物に行ってくれたりしてる。商店街じゃ人気者よ、わりと」
「あんた、あの子どうする気なの?」
「……どうしよっかなぁ」
最後の台詞は、返答というより独白に近かった。
本当に決めていないんだろう。後先を考えずに動くからこうなる。放っておくなり
どこか保護施設へ連れて行くなりしたらよかったのだ。
美貴は理不尽を感じていた。それを理不尽だと思うこと、それ自体が理不尽であったが、
思わずにいられなかった。
あの少女を後先考えずに助けるのなら、自分に対しても後先など考えなければいいのに。
- 75 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:51
- たとえ美貴の望むことが起きたとして、ひとみが困ることなど何もないのだ。
結果を得るまでは時間がかかる。美貴がその時を迎えるころには、ひとみの方はとっくに
タイムリミットが過ぎているだろう。
「ばーか。ハンパに優しくしてんじゃねえよ」
「ほんとにね」
「……さっさと、引き取り手見つけてあげな」
ひとみは再度、「どうしよっかなぁ」と呟いた。
美貴の眉がひそめられる。ずいぶん気に入ったようだ。犬か猫でも拾ったみたいに、
彼女はあの少女に対して、情を抱いたらしい。
中途半端な優しさは、神様みたいに残酷である。
- 76 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:51
-
- 77 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:52
- 住居へ戻った美貴は、軽く食事をとって(根を詰めて作業していたので、昼食を
とりそこなっていた)、寝室の隣にある部屋のドアを開けた。
パンドラの箱というのがある。
ありとあらゆる災厄と、たったひとつの希望が入っているという箱。
美貴にとってのパンドラの箱は、数年前にどこかの誰かに開けられた。
この部屋に置かれているものはひとつ。家具も調度もない部屋の中央に、ひとつだけ、
石像が置かれている。
これがありとあらゆる災厄、言い方を変えれば絶望だった。
美貴は絶望を手放したくなかった。絶望に成り果ててしまった今も、ありとあらゆる
幸福だった過去を捨てきれずにいた。
そして、たったひとつの希望はひとみだった。
彼女はすべてを理解してなお、美貴の希望になることを拒んだ。
それとも、理解したからこそだったのか。
- 78 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:52
- 綺麗に彩られた石像の傍らに立ち、そっと寄り添う。
埋め込まれた眼球は美貴自身が作った。
最高傑作だ。これ以上のものは生涯作れない。
まともじゃないのだろう。
こんなにも冷たい、なにも返ってこないものに執着するなんて、どう考えても正常では
ない。
しかし、すべてが正常な人間などいるのだろうか?
どこにも齟齬のない、矛盾を持ち合わせない完璧な人間など?
もしもいるとしたらそれは、人間ではないか、人間をやめているか、どちらかだろう。
そちら側に、行きたかったのだけど。
そちら側に、行きたいのだけど。
中途半端に優しい友人は、それを叶えてくれない。
叶える力があるかどうかも判らないくせに。
試すことすら、許してくれない。
美貴はしばらくの間、石像に寄り添っていた。
なめらかで硬い感触を嫌だと思いながら、表面を手のひらでなぞり続けた。
囁きは、誰にも聞こえなかった。
- 79 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:52
-
続きます。
- 80 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:52
- >>62
今回も存分に小春ちゃんの可愛さを……あ、しまった!
>>63
いえいえ、嘘かもしれませんよ……?
>>64
あ、胸が。胸が痛い。今回こんなですんまそん。・゚・(ノд`)・゚・。
>>65
おおお、食欲を喚起できたのは初めてのような。
これは嬉しいです。まさに歓喜。
- 81 名前:_ 投稿日:2006/05/28(日) 23:52
-
流します。
- 82 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/29(月) 17:08
- 更新ありがとうございます。
嘘……騙されるのもまた一興です。
一驚かもしれないですけど、それでもいいですし(笑)
- 83 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/31(水) 12:39
- 喚起に歓喜、円さんの言葉遊びやっぱり面白いです好きだなあ
触発されて、自分で自分の例の箱を開けてしまいました。
出だしからセンチメンタルジャーニーなデザートピープルw
- 84 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:42
-
◇ ◇ ◇
- 85 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:42
- 目玉を受け取ったひとみは、寄り道をせずに帰った。
期限は短い。今日明日、という話ではないにせよ、早く仕上げてしまっても困りはしない。
忙しさにかまけていたせいか、ここしばらく身体が重い。だるい足を交互に動かして
玄関まで辿り着き、ドアを開ける。
小春は昼寝でもしているのだろうか、静かだった。
預かってからこっち、彼女はいつでも素直で従順だ。ちょっとばかり張り合いがないとも
言える。とはいえ、やはり素直に笑って頷く姿は見ていて可愛らしい。
どうするのか、という美貴の問いをはぐらかしたのは、本当に決めあぐねているからだ。
これから先、何十年と面倒を見ていけるわけもない。美貴の言うとおり、施設にでも
預けるか引き取り手を探すかしなければいけないだろう。
後者を選択した場合、自分の存在が邪魔をするに違いない。こんな酔狂な人間を
ありがたがるのは一部の人間だけで、そんな彼らだって、積極的に関わりたくはないと
思っている。
馴染みとなっている八百屋の主人に頼んでみようか。彼は小春を気に入っている。
食料を買い溜めしたり、客から礼として食べ物が贈られてきた時など、買出しに行く
回数が減ったりすると、小春を心配して電話をかけてくるほどだ。
あの夫婦に子どもはいない。ひょっとしたら養子として受け入れてくれるかもしれない。
- 86 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:42
- 溜息。
そう思うなら、今すぐにでも打診してみるべきだ。これもまた、早ければ早い方がいい。
小春は未だに『新しい家族』を諦めていない。それに危険も少なくなる。
そうしないのは、自分自身がそうしたくないからだ。
自分で買い物をしなくてもよくなった。どんどん外に出るのが苦痛になってきていて、
正直に言えば美貴のところへ行くのすら億劫なくらいだ。
ちょっとした買い物であれば、今はもうすべて小春にまかせている。
電話の取次ぎもできるようになったし、ベッドメイクも食事の準備も覚えた。
とても助かっている。
再度、溜息。
判っている。助かっているのはそんなことではない。
可愛らしく着飾らせると、とても嬉しそうに笑う。
自分が作った食事をとてもおいしそうに食べる。
新しいことができるようになって、褒めてやるととても得意げに喜ぶ。
少しの時間だからと何も言わずに出かけて、帰ってくると寂しがって泣いている。
小春をいとしいと、ひどく自己中心的な理由で感じている。
- 87 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:43
- 忘れていたことだった。忘れようとしていたことだった。
必要とされたいなんて、願ってはいけないと自分に言い聞かせていた。
けれど、彼女が。
あまりにも素直に、愛してほしいと求めるから。
どうしたらひとみが嬉しいか、どうしたらひとみが喜ぶか、どうしたらひとみが
いとしいと思ってくれるか、常に考えながら行動するから。
まったく、情けない。
たかだか13歳の子どもに翻弄されて、彼女の意のままに動いてしまうなんて。
らしくない。それともらしいのか。美貴は後者だと断ずるかもしれない。
愛されたいと、必要とされたいと、思わない人間がいるだろうか。
斜にかまえて他者を不要だと言い切るには、小春は経験が足りなかったし、ひとみは
経験を積みすぎていた。
小春は他者がいなければ生きていけないことを忘れていなかったし、
ひとみは他者がいなければ自己も存在し得ないと知っていた。
『されたい』と願う二人が共存した。
だから、二人とも『した』。『される』ために『する』。
すべてのことわりだった。
誰が責められる。己以外の誰が。
- 88 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:43
- 「小春ー? どこ行った?」
一人で考え込んでいると、際限なく落ちていきそうだったので、ひとみは半ばむりやり
思考を区切って声を上げた。
いつもならドアの開く音ですぐさま駆け寄ってくる少女は、リビングに落ち着いて数分が
経っても姿を見せない。
眠っているのだろうか。小春は退屈な時、大抵寝ているかテレビを見ている。
本もけっこうな量があるのだが、そちらにはあまり興味がないらしい。
テレビはリビングにしかないので(対照的に、ひとみは活字の方を好むのだ)、
ここにいないとなると自室にいるのだろう。
そちらは大した物がない。家具を除けば何冊かの漫画と洋服しか置いていないのである。
そんな場所で出来ることといったら、読書か睡眠か一人ファッションショーくらいだ。
最も可能性の高いのが睡眠である。
ひとみは腰を上げると、緩慢に小春の部屋へ進み、ドアをそっと開けた。
特に用もないし、食事までも時間があるので、寝ているのならそのままにしておこうと
思っての配慮だった。
- 89 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:43
- しかし、室内に小春の姿はなかった。
まさかかくれんぼでもしているのか。ひとみが帰ってきたのに気づいて、悪戯で?
そういった悪戯は今まで一度もなかったが、これまでなかったからといって、今後も
ないとは限らない。
遊び盛りだし、ちょっと思いついたのかもしれない。
「小春ー?」
一応の確認に、小春がもぐりこめそうなベッドの下とかカーテンの裏側とかをめくって
みたが、やはりいなかった。
それからひとみは、浴室や自身の部屋、自宅の周辺を探し回った。
小春はいない。「どっか出かけたのかな」ひとりごちる。お使いをさせることが増えて、
外出にも慣れているから、外でできた友人と遊びにでも行ったのかもしれない。
そんな話を聞いたことはなかったが。まあ、女の子には秘密のひとつやふたつあるものだ。
たとえば男の子の友達ができたとか。
そうであった場合、ひとみとしては思うものもあるわけであるが、そこはできるだけ
小春の気持ちを尊重したい。
- 90 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:43
- 口うるさく言うと嫌われてしまうかもしれないし。なにせこっちは、血のつながりという
幻想すら持ち合わせていないのだ。
甘やかしすぎかと思わないでもない。あのくらいの年頃の子と接する機会が少なかった
ので、扱いに苦慮している面もある。実家には弟がいて、年も離れているから参考に
なるかと思っていたら、やはり男と女では、こちらの気持ちに違いが出てしまって
駄目だった。
ともかく。スタート地点であるリビングに戻ったひとみは、さてと右手を顎に当てた。
自宅で見ていないのは、もう地下の作業場しかない。
入るなと何度も言ってあるし、いないだろうとは思うが、とりあえず見に行くことにした。
- 91 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:44
- 地下への廊下は、夏だというのにひやりとしている。そういうふうに作ったのだ。
気温が高いと石像を塗る時に乾きが遅いし、なんとなく、気分的に冷たい空気の方が
合っている気がする。それに、わずかな寒気は集中するのに良い。
廊下の突き当たり、作業場のドアのところに小春はいた。
なぜかドアにべったり張りついている。ちょっと前衛アートみたいな光景だった。
前衛アートといえば、以前の得意分野であるが、しかしこれは意味が判らない。
ドアと密着したまま、ずりずりと身体を屈めたり、また伸ばしたり。新しい体操でも
しているのか。まさか。
「……なにしてんの?」
「わ!」
小春はひとみの接近に気づいていなかったらしく、声をかけると驚きに叫んで、
ぴょんとドアから飛びのいた。
直立し、ドアと額に挟まれて乱れた前髪を忙しなく直す。
- 92 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:44
- 「おっ、おかえりなさーい」
「ただいま……どうした?」
小春はエヘエヘと笑っていた。どことなく、何かをそらとぼけているような表情だった。
ひとみは小首を傾げながら目を眇めた。小春は笑ったままでいる。
小春とドアを交互に見る。
さきほど、彼女はドアへ抱きつくような姿勢でへばりついていた。
顔は少しだけ斜めになっていて、ドアと壁の継ぎ目あたりに当たっていた。
そう、ちょうど、中(もしくは鍵の構造?)を覗こうとするみたいに。
「……入ろうとしてた?」
「違いますよー。あのですね、上が暑かったから、涼しい場所探してて、ここが一番
涼しかったんです」
「ふぅん」
あからさまに嘘である。たしかにここは涼しいが、一階だって耐えられないほど気温が
高いということはない。
小さく溜息。リビングでひとり黙考していた際に出たものとは、意味合いが違う。
- 93 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:44
- 何度も注意したのが裏目に出たか。13歳なんて好奇心が服を着て歩いているようなものだ。
あれだけ言われたら、逆に興味を持ってひとみがいない間にこっそり中へ入ってみようと
考えても不思議ではない。
まあ、実際に入ったわけでも、なにかを壊したというわけでもないので、ひとみは
拙い嘘に騙されたふりをして頷いた。
「そしたら、今日のご飯はなんか冷たいもんにしよっか」
「はいっ」
ぴょこぴょこと、短足な子犬みたいに小刻みな動きでひとみに近づいてくる。
いや、手足は長めなのであるが。動作の雰囲気がそんな感じだったのだ。
戻ろう、と小春の手を取る。彼女は嬉しそうに笑う。
スキンシップが好きなのだろう。最初の頃はやけに膝へ乗りたがったり、
抱きつきたがったりして大変だった。
逃げ続けた結果、そうしたことをしなくなったが、ほんの少し、申し訳ないと思う。
- 94 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:44
- 「そうだ。外もまだ暑いし、明日あたり日傘とか買いに行こう」
帽子でもいいかな。ひとみは独り言みたいに続ける。
買ってあげたワンピースは小春の、そしてひとみのお気に入りである。
二人で遊びに出る時は必ずあのワンピースだった。柔らかな裾がひるがえるのを見るのが、
ひとみは好きだった。
ちょっとどうかと思わなくもない。けど可愛いのだ。仕方がない。
今度、どこか避暑地に出かけようと思っていた。仕事に支障が出ない程度となると
二日か三日くらいしか取れないが、泊りがけで出かけたことはないから、きっと小春も
楽しんでくれるだろう。
- 95 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:45
- 想像する。緑深い、綺麗に整えられた森で佇む小春。木漏れ日に照らされる、
ワンピース姿の少女。小川が流れているとさらにいい。サンダル履きのまま流水へ
足を浸し、いっときの涼を得る。都市部の雑多な匂いなどない、木々と水の匂いを
ふんだんにまとった風を吸い込み、なびく髪をそっと押さえる。
そしてこちらを見て微笑む。
なんてことだ。似合いすぎる。
そんな光景に、日傘か帽子は必須ではないか。
- 96 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:45
- ちょっとどころでなく行き過ぎた妄想を廻らせ、ひとみは無意識に拳を握った。
「小春、一緒に買い物行こう。そんで自然と戯れろ」
命令だ。
綺麗だが方向性が危ない妄想など知るよしもない小春は、連れ立って出かけられるという
一点のみを理解して、嬉しそうに「はいっ」と答えた。
「あのワンピ買ったとこ。あっ、それともあっち行った方がいいかな……」
ひとみはブツブツ呟く。小春はニコニコ笑う。
幸せそうではある。しかしわりと危険な光景だった。
危険というのは傍目に判らないものもある。常人が想像し得ないようなものだってある。
世の中というものは、予測不可能な危険があふれかえっているのである。
- 97 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:45
-
続きます。
- 98 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:45
- >>82
本当のことを言ってしまうと。
吉澤さんはロリk(検閲)
>>83
言葉遊びというと聞こえがいいですが、ぶっちゃけオヤジギャグと紙一重っていう。
例の箱、どんなもんなんでしょうか。
- 99 名前:_ 投稿日:2006/06/02(金) 21:45
- 流します。
- 100 名前:konkon 投稿日:2006/06/03(土) 01:15
- よしこはって何ですか・・・超最高じゃないですか!
つい吉澤さんと同じ妄想をしちゃいましたよ(*´Д`)ポワワ
続きが気になって仕方ないです。
今後もがんばってください。
- 101 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/03(土) 01:37
- 更新ありがとうございます。
ロリk(検閲)な吉澤さん一向に。
自分だってロ(自主規制)入ってますから(笑)
次回更新を、餌箱を見上げる飼い犬のように待っています。
- 102 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/03(土) 02:59
- わーいゴロゴロできたー
って、危険なんですか!!まじですか!!!
- 103 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:17
-
◇ ◇ ◇
- 104 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:18
- スケジュールを調整し、二泊三日の小旅行へ出かけられたのは、話をしてからひと月ほど
経ってからだった。
直近の作業は目処が立っている。まだ下塗りを済ませただけの状態ではあるものの、
納期までは充分な余裕があった。
出かけた先は、裕福な家庭が多く別荘を所持している有名な避暑地で、そのおかげか
自然は自然らしさを失わないレベルを保ったまま、丁寧に手入れがされている。
人は多いが土地が広いため窮屈な印象はない。あえて舗装されていない道を、二人は
並んで歩いて行く。
小春は例のワンピースに、つばの広い帽子を合わせている。色は白。少女の色だ。
大変に良い。少しだけ日焼けした肌によく映える。別荘で余暇を過ごしにきた富豪の
娘だと言ったら大抵の人間は信じるだろう。
手足をむき出している小春とは不釣合いに、ひとみは薄手の長袖シャツとジーンズだ。
暑くないのかと小春に訊かれた。日焼けをしないようにだ、と答えた。
- 105 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:18
- 砂漠化が進んだ今、こういった土地は貴重である。足を踏み入れるだけでもけっこうな
金額がかかってしまう。ひとみの懐はかなり痛んだ。しかし、この姿を見られたのだから
安いものだ、とひとみは自分を納得させている。
「広ーい」
「このへんは国の保護地区だから。にしても、もうちょっといい天気ならよかったね。
でも暑くならないからいいかな」
「はいっ。すごく涼しいです」
「そっか、よかった」
宿泊施設にチェックインし、荷物を置いてから散歩に出る。
空はあいにくの曇天模様だった。夕方からは雨になるようだ。ロビーに備え付けられて
いるテレビでニュースキャスターが伝えていた。
木漏れ日は期待できそうにない。
木々がわずかに湿っている。小春が触れる。「冷たい」楽しそうに呟いた。
「吉澤さんの手みたいです」
「こんなごっつくないよ」
楡の幹を拳で軽く殴った。ごつんと硬い音がする。木は弱くなんてない。ひとみが
殴ったところで傷ひとつつかない。
- 106 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:18
- 兄弟なのか、小春と同じくらいの少年と、少し小さい少女の二人連れとすれ違った。
虫捕りでもしに行く途中らしく、その手には虫捕り網が握られていて、
腰にプラスチックで作られたカゴをぶら下げている。空っぽのカゴが走るリズムに
合わせて揺れる。
元気いっぱい駆け回る子どもにひとみが目を細めた。
あんなふうに駆けなくなって久しい。それは加齢によるものだろうか。
人目を憚る必要なく、虫捕り網片手に走れるような年齢ではなくなってしまったか。
もしくは、肉体が耐えられなくなってしまったのか。
バイクを買ってからは、もっぱら移動手段はそちらに頼るようになっていた。
自分の足で走るなんて何年もしていない。
せっかく自然に触れているのだし、ここはひとつ童心にかえって、小春とかけっこでも
してみようか。
「ねえ小春、あそこのでかい木まで競争してみない?」
「小春が買ったらなにしてくれますか?」
「いきなり交渉かよ。……そうだな、前に欲しがってた人形買ってあげる」
「ほんとですかぁ!?」
- 107 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:18
- 小春がその場で飛び跳ねた。
少し前から、小春はあるアニメに熱中しているのである。ひとみはよく知らないが、
なにやら普通の女の子がいきなりアイドルになったりするストーリーらしい。
その主人公の女の子をいたく気に入っていて、先日発売されたキャラクター人形が
ほしいとせがまれていたのだ。もちろん着せ替えとかできるものである。
ひとみがいつも人の形をしたものと向き合っているから、その影響だろうか。
考え出すとなかなか深い考察ができそうだ。
「絶対ですよ、約束ですよ」
「はいはい。吉澤うそつかなーい」
平坦なイントネーションで答える。小春はジョークだと気づかなかったようで、
強引に指きりをさせてスターティングポジションをとった。
「よーいドーン!」
「え、ちょっ」
なんの準備もしていなかったひとみは、いきなり走り出した小春に狼狽しながら
慌てて後を追った。
6歩でつまずいた。
自分の判断以上に、身体は自由がきかなくなっていたらしい。なんとか転倒は避けられた
ものの、体勢を立て直すのに時間がかかる。小春はどんどん先に進んでいる。
- 108 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:19
- 身体が重い。足が思い通りに動かない。顎が上がり始める。気道の確保がうまく
できなくて散発的な呼気が口から勝手に出てくる。
若い頃に運動が得意だったお父さんは、子ども運動会などで久し振りに身体を動かすと
よく転ぶ。頭の中で理解している動作と、実際の動きに差異ができていて対応できない
からだ。ちょうど、そんな感じだった。
手足をどう動かせばいいか知っているのに、脳からの信号を末端がきちんと受信して
くれない。
これでも昔は運動能力の高さを褒められることが多かったのに。
ひとみは無様ともいえる姿で小春を追いかける。
「いちばーん!」
小春が大きな樫の木へ両手を押しつけて叫んだ。「マジか……」10秒ほど遅れて到着した
ひとみは、肩で呼吸をしながら絶望的に呟いた。
「約束ですよっ、きらりのお人形買ってくださいね」
「い、今のは小春、フライングだろ。ナシ、今の勝負はナシっ」
「えー、吉澤さんずるいー」
「ずるいのは小春だっ」
大人げなく言い返す。プライドもなにもあったものではない。しかし、そのプライドは
さきほどの勝負でズタボロになっていた。今さら傷のひとつやふたつ増えたところで、
大した違いはない。
- 109 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:19
- 「やーだー」芝生に座り込んだひとみの肩を大きく揺さぶってくる。どうもこのところ、
彼女はわがままになってきている。いいことかもしれないけれど。
「だーめ。小春がズルしたから、今のは吉澤の勝ち」
「違うもんー、小春勝ったもんー」
「……そしたら、来週ずっと、食器洗い小春がしてくれたら、買ってあげる」
むくれていた顔がパッと輝く。何度も頷く小春の頭を軽く撫でて、隣に座って休むよう
言った。
ご機嫌な小春が隣へ腰を下ろす。柔らかく風が吹いている。ひとみの身体はもう熱を
持っていなかったから、心地よさは判らない。それでも静かに目を閉じた。
一人では、こんなところに来ることもなかったろう。
会話をしながら食事をすることも、子どもみたいに野原を駆け回ることも。
神様は残酷すぎる。
もう、とっくに諦めていたことだったのに。
風に飛ばされたか、木の葉が一枚、頭上から落ちてきた。
くるりくるりと回りながら、ひとみの膝へ舞い降りる。
まだ若い葉だった。みずみずしい緑の表面に深い葉脈が浮かんでいる。
なにを好きこのんでこの膝に落ちてきたものか。
ひとみは葉を拾い上げると、シャツの胸ポケットにしまった。
- 110 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:19
-
- 111 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:19
- やはり天気予報は正しく、夕日が風景を赤く染める時間帯には、すっかり雲が世界を
覆って、小さな雨粒が断続的に頬へ落ちてきた。
調子に乗って遠出をしてしまったのは失敗だった。歩くしかないが、宿泊する建物までは
けっこうな距離がある。雨が強くなったらどこかで雨宿りするしかない。
どこかの別荘に赴いて軒先を貸してもらうか。
「早めに帰っておけばよかったなぁ」
「そうですねぇ」
「小春、寒くない?」
「大丈夫ですー」
帽子のおかげか、小春の洋服は濡れていない。ひとみの方はシャツの肩がうっすら
色を変えていた。
赤ん坊の水溜りを踏み越えながら、二人は小走りに帰って行く。雨は次第に強くなって
いる。間に合うかどうか、微妙なところだ。
- 112 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:19
- 「あ、さっきの子」
小春の呟きに顔を上げて、前方へ目を凝らすと、昼間すれ違った子どもたちが全速力で
走っていた。しかし少女の方が幼いせいか、ひとみたちより随分遅い。
少年、おそらく兄だろうが、そちらが何度も振り返って少女を急かしている。
その両手には虫かごを抱えていた。網も彼が持っている。妹思いの少年らしかった。
手助けしてやりたいが、あいにく、こちらも無手である。とはいえ、知らぬ顔をして
追い越すのも気まずい状況だ。
どうしようかとひとみが迷っている間にも、距離は縮まっていく。もう少女の背中は
目の前だった。
疲れて泣き出しそうな女の子を抱えてあげようか、別荘が遠くにあるならこちらの
部屋へ誘ってもいい。とりあえず、声をかけようと足を速める。
「ねえ、ちょっと」
少女が振り返る。足は止まらない。兄の方も気づいて振り向いた。
「大丈夫? うちどこ? あたしら向こうのペンション泊まってんだけど、
遠かったら寄っていかない?」
「あ、大丈夫、もうすぐそこだから」
「そう」
それなら、と別れようとしたひとみの横で、小春がかぶっていた帽子を少女の頭に
乗せた。「ちょっとは濡れないよ」「あ、ありがと」少女が帽子のつばを両手で押さえた。
- 113 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:20
- 雨音が激しくなり始めている。兄弟はともかく、こちらはぬれねずみを覚悟しなければ
ならなそうだ。
「お姉ちゃんたち、あっちまでじゃ遠いよ。僕らのうちで休んでいきなよ」
少年が帽子の礼とばかりに言ってきた。ひとみは一瞬、断ろうか迷う。
しかしここで遠慮して、小春が風邪でもひいたら事だ。せっかくのワンピースも
汚れてしまう。
遠くで雷鳴がする。舗装されていない道には水溜りがいくつもできている。
ひとみの身体はうまく動かない。
「……ごめん、ちょっとお邪魔させてもらうね」
「うん、こっち」
少年が先導して走り、ひとみと小春は少女の手を両側から握って後を追った。
- 114 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:20
-
- 115 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:20
- 別荘は大きかった。思わず溜息が出たくらいだ。
どこか大企業の管理職、もしくはもう少し小さめな会社の経営者、そんなたぐいの
親を持つ子どもなのだろう。
「お父さんとお母さん呼んでくるね。ちょっと待ってて」
タオルを渡され、玄関先で待たされる。
小春の髪と肩を拭いてやって、自分の濡れた箇所も適当に拭う。ドア越しの雨音は
ますます強い。
空調が効いている室内は、寒くも暑くもない。設定温度を保つように調整されているのか。
数分して、中年よりは初老といえる女性が顔を出した。少しきつめな目元だが、
今は細まっているせいで視線はやわい。
「お邪魔してます。すみません、ご挨拶もなく」
「いいんですよ。この雨じゃあそこまで戻るのは大変でしょう」
頭を下げたひとみを手で制して、母親は曖昧に首を振った。
- 116 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:20
- 「もうすぐ主人も降りてきますから。どうぞ、上がってください」
ひとみが逡巡する。「休ませてもらいな」小春に言って彼女だけを通した。
「どうぞ?」母親が訝しげな表情でひとみを促してきた。
小春はさきほどの少女となにか話し始めている。天気のことか、帽子のことか。
こちらに背を向けている。
ひとみは母親に見えるように、シャツの袖を少しだけめくりあげて肌を見せた。
一瞬にして母親の表情が変わる。
「……ご迷惑になりますから」
「ええ、あの……」
なにか人あたりの良いことを言いたかったようだ。しかし、結局はなにも出てこなかった。
「その子は大丈夫です。それじゃ、あたしはこれで」
一度礼をする。「小春、ちょっと電話してくるね」「はーい」無邪気に遊ぶ小春は目線だけを
こちらに向けて返事をした。
- 117 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:20
- 別荘を出て、軒先で携帯電話を取り出す。もう、一歩でも屋根のないところへ踏み出せば
数を数える間もなくずぶ濡れになりそうな雨だった。
やむまで待たせてもらうのも申し訳ないので、ペンションから自動車を出してもらおうと
思って電話をかけようとボタンを押す。
「吉澤さーん!」
「お? どした?」
なぜか声を弾ませて小春が玄関を飛び出してきた。ひとみは携帯電話の操作を中断して
そちらへ顔を向ける。
小春は飛びつきかねない勢いでひとみの前まで来ると、玄関を指先で示した。
「おじさんがいたんです!」
「は?」
「お母さんの友達のおじさんが、お父さんだったんです!」
とても嬉しそうに、小春は言う。
その言葉の意味を理解しきらないうちにドアが開き、男性が顔を出した。
- 118 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:21
- 少し疲れたような顔をしていた。頬がこそげていて不健康そうだ。
それが常態であるのか、なにか理由があって今だけそうなっているのか、ひとみには
判らない。
しかし、その表情で、そして小春の言葉で、彼が何者であるか察しはついた。
「なんで……生きて……」
「――――あんたが!」
激情だった。激昂していた。
視界が大きくぶれる。もやがかかったような景色の中、彼の着ているチャコールグレーの
上着だけを頼りにつかみかかった。
偶然というには残酷すぎた。
誰も悪意など持っていなかった。彼は仕事を遂行した。ひとみは同情で小春を助けた。
小春は無邪気に待っていた。幼い兄弟は幼い親切心で誘った。母親は礼儀と己の都合を
重んじた。
- 119 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:21
- 彼の口から掠れた悲鳴が洩れる。つかみかかったひとみもろとも、雨粒が矢のように
落ちる地面へ叩きつけられた。
ひとみの視界は戻らない。ただ、手当たり次第に力任せに彼を殴りつけた。
何度も、何度も殴った。
「あんたが、あんたが小春を捨てたから!」
ガツンガツンと、硬い音が何度も響く。飛び散った血液が雨と混じって薄く広がる。
悲鳴。誰のものか。母親か、少女か、小春か?
誰でもいい。知ったことではない。
ひとみは激情のままに叫ぶ。
- 120 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:21
-
「あたしが小春を拾う羽目になったんだ!!」
- 121 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:21
- もう一度殴ろうとしたところで、右腕に誰かがかじりついてきた。
振り解こうとして、それが幼い少年であると気づき、咄嗟に動きを止める。
「やめろ! やめろぉ!!」
少年は泣きながらひとみにかじりついている。父親を守ろうと立ち向かっている。
揺さぶられてポケットに入れていた若葉が地面へ落ちる。
それを意識しないまま目で追った。
若葉が雨で濡れる。小さな緑深い葉。樫の木から落ちてきた。
涼しい風。虫捕り網を振り回す少年少女。追いかける。追いかける。
その先には。
一気に、ひとみの全身が脱力した。
視界が戻る。顔面を血塗れにした男が下に倒れていた。意識があるのかないのか、
微動だにしない。「出てけ!」少年の怒号が、かろうじて耳に届く。
- 122 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:22
- 「あ……」
己が、いかに最低で最悪な行いをしたか、気づいた。
無意識に小春へ目を向ける。綺麗なワンピースはすでに、雨と泥で濡れていた。
彼女もひとみを止めようとしたらしく、膝をついて、震える手でシャツを掴んでいる。
視線が絡む。先にあるのは怯えと絶望。
ああ――――なんということだ!
「ちがう……、そうじゃない、小春……」
そういう意味じゃ、ない。
- 123 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:22
- 血だらけの男が倒れている。
少年と少女が泣きじゃくっている。
蒼白な顔で、女が立ちつくしている。
どれも、ひとみの意識には入り込んでいなかった。
驚くほど、彼を殴ったことにも、幼い子供たちの信頼を裏切ったことにも後悔はなく、
ただただ、小春に勘違いをさせてしまったことが悲しかった。
降りしきる雨が、カーテンのように、ひとみの光をふさいで――――。
- 124 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:22
-
続きます。
- 125 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:22
- >>100
よしこはの持つ萌えぢからは、並々ならぬものがあると思うのですよ。
……なんで増えないんだろう。
>>101
一応、五日刻みで更新というペースにしていたのに、今日はすっかり忘れ(ry
お詫びに今回はいつもの1.5倍!
>>102
危険は迫るどころか真正面から突っ込んできました。
ああ大変。
- 126 名前:_ 投稿日:2006/06/08(木) 00:22
-
流します。
- 127 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/08(木) 02:23
- 更新ありがとうございます。
あぁ……余分なコメントはネタバレ(危)なのでやめておきます。
1.5倍に感謝を。
- 128 名前:konkon 投稿日:2006/06/09(金) 00:24
- いやいや、どうなるんでしょうか・・・。
よしこは、ん〜書いてみたいけどネタがない(汗)
ちょっとやってみようかとw
次回更新待ってます。
- 129 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:50
-
◇ ◇ ◇
- 130 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:50
- パコン、と間の抜けた音が響いた。
美貴が丸めた新聞紙でひとみの頭を叩いた音だった。
「バカ。超バカ」
「…………」
「そんな言い方じゃ誤解するに決まってるじゃん。なに考えてんの?
それともなにも考えてないの? よっちゃんてバカ? その頭ん中にはプリンでも
詰まってんの?」
ひどい言い草だった。しかし、ひとみの口から反駁は出てこない。
気という気が失われた姿を斜めに見て、美貴は盛大に嘆息する。
「頭に血ぃのぼっちゃったのは判るけどさ。それは明らかによっちゃんが悪いよ。
で、小春はどうしてんの?」
「……八百屋のおっさんとこ、行かせてる」
「一人でほっぽってるわけじゃないのね。ま、そこは偉いかな」
椅子を引きずって彼女の隣へくっつける。それに腰かけて、背中をもたせかけるように
寄り添うと、持ったままだった新聞紙の筒で自身の肩を叩いた。
- 131 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:51
- 美貴は、ひとみの言葉を正確に理解できていた。言葉の選び方はよくないが、そう言って
しまう気持ちも判った。
しかし、褒められたものではない。
「自分でなんとかしな」
突き放す言葉だった。事態を正しく把握している人間にとって、それ以外に言えることは
なかった。
ひとみの視線がのろのろと上がる。
しかし美貴と重なることはなかった。
どこか遠くを見つめている。未来か。
未来など、誰にも見えないのに。
「そのプリンで、ちゃんと考えなよ」
彼女が考えなくなったのはいつからだ。リミットが近いくせにすべてを先延ばしにして、
ボーダラインにあり続けて、曖昧になり続けて。
「亜弥ちゃんみたいに、ちゃんと決めな」
かすかに、触れ合っていた肩が揺れた。どちらの肩が震えたのだろう。
- 132 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:51
- 「美貴は……今、幸せ?」
「少なくとも不幸じゃないよ」
「それは、なんで?」
「亜弥ちゃんを愛してるから」
「じゃあなんで、幸せじゃないの?」
「亜弥ちゃんを愛せないから」
ひとみの問いに美貴は自然な速度で答える。
嘘はなかった。
- 133 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:51
-
- 134 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:51
- 己は、砂漠のようなものだ。
踏み込んだ人間の体力を奪って、焼けた砂で取り込んで、痛めつけて、苦しませて、
それでもオアシスでひとときの休息を与えて。
緑あふれる森にはなれない。人の営みを邪魔するしか能がない。
それなのに、
なぜこうも人を恋しがってしまうのだろう。
「……小春」
喉が焼けついたように痛んだ。咳をすると、それすらも痛みを伴う。
内側で硬いものがこすれ合っているような痛みだった。
小春の姿はない。今回はわかっているので探したりはしない。
本当に考えなければいけない。手を離す方法を。
手を離した後、彼女が幸福を得られる方法を。
- 135 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:51
- 自室へ入り、端末の電源を入れる。ネットワークに接続するとメールが届いていた。
送信者のアドレスは知らないものだった。
『申し訳ない』と、一言だけの文面だった。
そうですね。ひとみは口の中で答える。指先からは出てこない。
どんな理由をつけても許されない。どんな理屈があっても許されることではない。
ひとみは許せないし、向こうもひとみを許せないだろう。
伝えられる言い訳などひとつもなかった。
あの子どもたちに嫌われてしまったことだけは、少しだけ胸が痛んだ。
メールを閉じて管理システムへアクセスする。
保護施設の情報をいくつか仕入れて、住所と連絡先が書かれたページを
プリントアウトしてポケットに突っ込んだ。
小春はまだ大丈夫なはずだ。今ならまだ間に合う。
別に、以前と同じ生活に戻るだけだ。なくすのはちょっと惜しいが、そんなわがままを
言えるような年齢でも、状態でもなくなってしまった。
- 136 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:51
- 一人でぼんやりしていてもしょうがない。ひとみは仕事でもしようと、自室を出て
地下の作業場へ向かった。
「ん?」
違和感に気づいたのはすぐ。薄暗い廊下に光が洩れていて、その光源に思い至るまで
数秒とかからなかった。
作業場のドアが少しだけ開いている。さて、消し忘れたうえに鍵をかけていなかったの
だろうか。そんな不備を今までしたことはない。
訝しみながらドアへ近づいていく。なにか物音が聞こえ始めた。
「……ん?」
物音に混じって、声のようなものも聞こえる。声は話し声でも独り言でもない。
歌声だった。しかも鼻歌だ。
とても聞き覚えのある声だった。
まさか、と思いつつさらに近づいて、中を覗く。
小春が石像に色を塗っていた。
- 137 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:52
- 「ここ、小春!?」
「あ、吉澤さんお帰りなさーい」
以前と変わらない様子の、ちょっとだけ間延びした声。
刹那の間、ひとみの頭がプリンになった。
塗料を格納している棚へ無造作に置かれた鍵に気がつく。思わず腰のキーホルダーに
手をやった。チャリンと聞きなれた音。ということは、あれはスペアキーか。
しまった、とひとみは右手で顔を覆った。あまりにも従順だったから、入るなと言えば
入らないだろうと鍵を隠したりしていなかった。
子どもの好奇心を見くびっていたようだ。まさかこんな悪戯をしてしまうとは。
小春が調子よく色づけている石像を、恐る恐る見遣る。
下塗りしかしていなかったはずの像は、女性には黒すぎる肌色と、けばけばしいピンクに
彩られていた。
なぜか小春は得意げな顔をしている。
「どうですかぁ? 小春、上手ですか?」
「……えーと」
ところどころはみだしているし、髪の毛も肌も洋服も同じような筆さばきで塗っている。
誇張も揶揄もなしに子どものお絵かきでしかない。
- 138 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:52
- 「……小春、ここに入ったり、勝手に触っちゃいけないって、言ってたよね?」
まずは刺激しすぎない程度の忠告をしてみた。
小春はきょとんとして、それから電気に触れたみたいに身体を痙攣させた。
おろおろと手を止めてこちらを見遣ってくる。怯えたような表情。
その反応にひとみの方が驚いてしまう。
「小春?」
そこまで強く言っただろうかと、ひとみは慌てて近寄り、その肩に触れた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「小春? いいよ、やっちゃったもんはしょうがないから。今度からしないでいて
くれればそれでいいんだよ」
今度からという言い方は正しくないなと自分でも思った。
しかし、そんなことを言っている場合ではない。
小春は大きくうな垂れて、胸元を強く掴んでいる。
- 139 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:52
- 「小春、吉澤さんがお休みできるように、お手伝いしようと思って……」
消え入りそうな声で言われた言葉に、ひとみは彼女の行動が好奇心からきたものでも、
悪戯でもなかったことを知る。
旅行へ出る前から、仕事が忙しくてろくに休息をとっていなかった。
それはスケジュールを空けるためでもあったのだが、小春にそんな説明はしていない。
だから小春は、夜遅くまで仕事をしているひとみを手助けしたくて、その方法を模索して、
その思いだけが先走って、入ってはいけないという約束も忘れてしまうほど懸命に
なっていた、の、だろう。
「小春……」
可愛がってくれている人のもとへ行かず、ひとり残って、喜んでもらえるように。
あの激動を忘れたわけでもないだろう。己がひとみにとって邪魔者だと、勘違いをした
ままでもあるだろう。
それでもか、だからこそか。
抱きしめてあげたい。両手を持ち上げて、細い肩へまわして、背中を包み込みたい。
それすらままならない己の身体を、こんなにも恨めしいと思った事はない。
「ありがと、ありがと小春。吉澤を心配してくれたんだね。嬉しいよ。ありがとう小春」
ああ、言葉とはなんと、もどかしいものか。
ひとみは何度も小春の髪を撫で、頬を包んで、ありがとうと繰り返した。
- 140 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:53
- 一階へ小春を連れて戻る。石像はそのままにした。下塗りを済ませていたから、塗料は
浸食しないはずだ。後で落とせばいい。完全には落とせないだろうが、そこはなんとか
してみせよう。
アイスココアを作って小春の前に置く。いつもは対面に座るが、今回は彼女の隣に
落ち着いた。
「……小春に、言ってなかったことがあるんだ」
勧められるままにココアを飲んでいた小春が、口を離してこちらに目を向けた。
「バジリスク症って知ってる?」
「……知りません」
小春は記憶を辿るような沈黙の後に、首を横に振った。
ひょっとしたら誰かに聞いているかもしれないと思っていた。けれど、どうやら皆
気を遣っていたようだ。もしくは、口にするのも忌んでいたのか。
- 141 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:53
- 「原因も治療法も判ってない病気でね。感染した人は少しずつ身体が硬くなって、
最後には全身が石みたいになって死んじゃうんだ」
「…………」
「あたしが色を塗ってる石像は、みんなその感染者だよ」
死んでしまった人間を、生きているように見せかけるのが、仕事。
死者に対する冒涜とそしられることもあれば、生前の姿を甦らせてくれたと感謝される
こともある。
芸術家に挫折して、この仕事を初めて、最初に引き受けた依頼の主は美貴だった。
それ以来、彼女とは交流を続けている。
「感染経路は判ってない。少なくとも、空気感染はしないみたいだけど。
接触とか体液で感染する可能性はあるみたい。それに、石像になっちゃったら、
病原体も石になっちゃうらしくて、それは触っても大丈夫らしい」
ココアを入れたグラスは小春の手の中にある。
なにかの拍子にこぼしてしまうと危ないので、テーブルに置かせた。
「感染したら、短くて3年、長くても5年の間に死ぬ」
- 142 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:53
- ひとみが小春の手を取って、己の太腿あたりを触らせた。
「硬いだろ?」
「あ、ほんとだ」
何度も足をさする手。ひとみはもう、その感触が判らない。
「あたしは3年前に感染した」
小春は驚かなかった。予想していたのか。
「もう、いつ死ぬか判らない。でも確実に2年以内なんだ。それ以上生きたケースなんて
ひとつもない。だから、小春をずっとここに置いとくわけにいかないんだ」
どうしても小春と目を合わせる事ができなくて、ひとみはテーブルのへりを無意味に
視線でなぞっている。
- 143 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:54
- 「この病気、症状が定まってないんだ。
ゆっくり身体が硬くなっていく人もいるし、一晩で完全に石化する人もいる。
小春が来てから、夜は恐くてしょうがなかったよ。もし寝てるうちに石化したら、
見つけるのは小春になっちゃうから。そんなの……そんなのは、耐えられないよ」
目覚めるたびにホッとした。
最後の眠りは訪れていないと安堵した。
もしも二度と目覚めることのない身体に変容して、それを小春が見つけてしまったら。
そんな苦痛はそうそうない。
『泣いている小春を慰めることができない』、それ以上の責め苦が、どこにある?
- 144 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:54
- 神様は中途半端に優しくて残酷だ。
もっと他の人間が見つけていたら。健康で、優しくて、彼女をずっと守ってあげられる
人物が助けてくれていたら。
こんな自分が助けても、なんにもならない。
手袋のはまった両手を掲げて見せる。
「これも、特別なもんじゃないんだよ。ただの手術用の手袋。
接触感染しないようにつけてるんだけどね。
汚れとかはふせぐけど、冷たいのは体温がなくなってるからなんだ。
もう手足の皮膚はほとんど感覚がないし、暑いとか寒いとかも感じられない」
少し前から、汗が浮かばなくなった肌。日焼けをすることがなくなった肌。
両手で顔を覆い、深々と嘆息する。
「ごめんね。こんなのじゃなくて、もっとちゃんとした人に助けてもらえたら、
先のことなんか気にしなくてよかったのに。
小春が甘えてくると嬉しかったのに、恐がられるのが恐くて、ずっと」
それ以上は言葉にならなかった。あまりにも己が情けなさすぎて、自動的に流れる涙すら
冷たいことに大きくうな垂れた。
- 145 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:54
- 「小春、ほんとは知ってました」
「え?」
隣を見る。彼女はゆるやかに目を細めて、グラスを見つめている。
「おじさんがお母さんの友達じゃないのも、新しい家族なんかいないのも、
吉澤さんが嘘ついてるのも」
「……小春」
「でも、吉澤さん優しかったから。小春は吉澤さんがだーい好きです。
だから、吉澤さんが新しい家族なんだって、勝手に思ってました」
彼女は13歳だ。
――――13歳なのだ。
その程度が理解できないような、年齢ではなかった。
小春が膝によじ登ってきた。顔を覆っている手を外させて、首にしがみついてくる。
「吉澤さんは冷たくないです」
「…………」
「吉澤さんは、冷たくなんかないです」
身につけている洋服はただの布だ。気密性の高い手袋と違い、感染しないという
保証はない。
小春は離れようとしない。
ひとみは離さなければと思うが、両手が動かない。
- 146 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:54
- 抱きしめたい。
それは許される? 誰が許す?
彼女以外の、誰が許せるというのだろう?
- 147 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:55
- 「きらりのお人形いらないから、これからも小春だっこしてくださーい」
相も変わらず間延びした声に、ひとみは思わず笑った。
初めて力強く触れた幼い身体は、きっと、今まで触れたどんなものよりやわらかい。
- 148 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:55
-
続きます。
- 149 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:55
- >>127
草板なだけに展開が早いでございますよ(笑)
自分も余計な事を言うとネタバレになってしまうこの辛さ。
>>128
こうなりました。
絡みは多いのにネタにし辛い、それがよしこはクオリティ。
- 150 名前:_ 投稿日:2006/06/14(水) 19:55
-
流します。
- 151 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/14(水) 21:08
- 更新ありがとうございます。
そうですか……そうですか。
……あぁ、イッパイ喋ってしまいたい(煩)
っ――はぁ、次回、お待ちしています。
- 152 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/15(木) 03:35
- なんてこったい。胸が締め付けられます。ウァー
続きが気になります。
- 153 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/16(金) 20:07
- よしこはがこんなにいいものだとは・・・・
作者さんはいつもいいとこに目をつけますね
- 154 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/06/18(日) 04:33
- うあー、そういうことだったのですね…
心揺さぶられました。
続きをとても楽しみにお待ちしています。
- 155 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/19(月) 17:54
- 一気に読みました。
よしこはにハマりそうですw
- 156 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:31
-
◇ ◇ ◇
- 157 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:32
- 「よっちゃんは、今幸せ?」
「まあね」
家具のない部屋で、二人は1メートルほどの距離をあけて立っている。
視線は相手に向いていない。夕日が窓から入っている。長い影は三つ。どちらの目も、
残る一つの影の主を見ていた。
「判ってんの? 絶対に残された方が辛いんだよ」
「判ってる」
「そういう自己満足でなあなあにして、それでいいと思ってんの?」
「……思ってる、かな」
二人の視線の先、綺麗に彩られた石像は、微笑んだまま動かない。
ゆらんとひとみの双眸が美貴を捉えた。
「美貴だって、不幸にならなかったでしょ?」
美貴の喉が、小さく上下した。
- 158 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:32
- 「ずっとそこにいなよ」
ひとみが一歩進んで、石像を穏やかに撫でた。己の初仕事だ。数年を経た今でも、
色褪せはまったくなく、躍動的な肢体は今にも動き出しそうだった。
まったく、己に相応しく、中途半端に優しい商売だ。
動くはずもないものに、動き出しそうなリアルを与えるのだから。
それを望むのは、希望で、絶望だった。
「感染なんかしないで、この先何十年か生きて、その間、ずっとこの子を見ててあげなよ」
「……それって、幸せ、なのかな」
「さあ。あたしには判んないけど」
「無責任」
「それを決められんのは美貴だけだよ」
美しい少女の像だった。人懐こそうな笑顔で、両手を軽く広げて、何かを迎え入れようと
しているように見えるポーズだった。
ひとみは、美貴とこの少女がどんな関係であったか知らない。
ただ、迎え入れられたいと、美貴が望んでいることは知っていた。
そんなことをしても、なんの意味もないのに。
意味を見出すのは、生きている人間だけだ。行動も、生も、死も、言葉も、表情も、
すべて生きていなければなんの意味もない。
同じになることを、美貴は望んでいたけれど、同じになったその瞬間、あの少女は
美貴を迎え入れてくれなくなるのだろう。
- 159 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:32
- 「世の中ってのは、ままならないね」
夕日がじかに届いて目が痛い。少しだけ細め、顔を背けて光を避ける。
美貴と向き合った。彼女は動かない。
右手の指を二本だけ立てて、目の前にかざした。
なおも動かない美貴の唇に、手袋がはまったままの指を、水平に当てる。
軽く屈んで、唇に当てた己の指へ、キスをした。
「……意味ないよ、バカ」
「そ。もう吉澤は意味のあることできないのよ」
おどけた調子で言うと、彼女は呆れ笑いでもう一度「バカ」と言った。
「小春が、吉澤に意味をくれる。だから吉澤は、小春といるよ」
「感染するかもしれないのに?」
「けど、感染しないかもしんないっしょ」
その理論を、美貴は初めて、ひとみの口から聞いた。
確率が何パーセントなのかも判らない。どうなれば感染するのかも、どうすれば
防げるのかも判明していない。
それでもそうするのなら、きっとそれが、意味なのだろう。
夕日が、長い影を三つ、作っている。
その日から美貴は、たった一つの希望にすがるのをやめた。
- 160 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:32
-
◇ ◇ ◇
- 161 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:32
- 小春が好き勝手に色を塗ってしまった像だが、予想通り、完全に塗料を落とすことは
できなかった。
重ね塗りに重ね塗りを施したものの、下の色が浮き出してしまって、肌は奇妙に
浅黒く、洋服は仕方がないのでピンク系統に統一した。
なんとか形にはなったといえ、注文とは違った仕上がりになってしまった。
当たり前だが、この仕事はやり直しがきかない。注文主が納得しなければ賠償は
まぬがれないし、悪くすれば訴えられでもするかもしれない。
期日が訪れて、ひとみは内心で冷や汗をかきながら、完成品を注文主、この像の両親へ
差し出した。
「まあ……!」
「おぉ……!」
感嘆詞の後、二人はしばらく言葉を失っていた。
ああ、やっぱりダメか。ひとみが失意に肩を落とす。
それはそうだ。預かっていた写真では、もっと白い肌をしていたし、こんなけばけばしい
ピンクの服装などしていなかった。
- 162 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:33
- しかし。
「素晴らしい!」
「ほんとに、昔のあの子が戻ってきたみたい」
「は?」
感動でむせび泣かんばかりの両親に、ひとみは思わず間抜けた声を上げた。
注文してきた時は一定距離から近づいてこなかった父親が、ひとみの手を両手で取り、
激しく上下に振った。
「ありがとう、またこの子のこんな姿が見れるとは思ってませんでした」
「……はあ?」
「まったくこの子ときたら、直前になって美白なんてし始めて」
「それに、あんなに好きだったピンクの洋服を全部捨ててしまって、似合わない流行の
服なんて着出して」
「……はあ」
わりと似合ってたと思いますけど。
という本心は、口にするべきでないと判断したので黙っていた。
- 163 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:33
- 「その頃の写真もあの子が全部捨てちゃったので、仕方なく残ってた最近の写真を
お渡ししたんですけど。
以前の、健康的な小麦色の肌と綺麗なピンクのお洋服にしてくださるなんて、
どうお礼を言っていいか」
「はあ……」
こちらも、どうお礼を言っていいやら。
世の中、なにがどう転ぶか判らないものだ。
危険と同様、予測もつかないところに幸運は落ちているらしい。
- 164 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:33
-
- 165 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:33
- 感涙でハンカチを濡らしながら注文主が石像を持ち帰った後、ひとみはソファに
どっかと座って、大きく息を吐いた。
「助かったー……」
「お仕事、終わりましたかー?」
「ああ、終わった終わった。もう来てもいいよ」
ドアの向こうから届いた声に答えると、小春が部屋に入ってきて、ひとみの膝へ
飛び乗った。
けして感触がよくないであろうに、小春は構ってもらえるのが嬉しいという気持ちを
隠さず、ひとみの膝で跳ねている。
「痛いよ」
「えへへー」
よしよし、と後頭部を撫でてやる。柔らかな身体が無機の身体に寄り添う。
「なんか、小春のおかげでいい感じになったっぽい」
「じゃあ小春、吉澤さんの役に立ちましたか?」
「すんげー立った。ありがとね」
「えへへー」
「小春、実は才能あるかもね」
「ほんとですかー?」
膝の上には、子犬のように無邪気な笑顔。
ひとみも彼女へ向けて笑う。
この笑顔の意味は、きっと彼女がつけてくれる。
- 166 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:33
-
◇ ◇ ◇
- 167 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:33
- 季節をふたつ通り過ぎ、陽光は穏やかだ。
そんなうららかな日差しも届かぬ地下の作業場に、ひとみの怒鳴り声が響き渡った。
「ちっがーう! そこはDの19番とCの8番を5対1の割合で混ぜるんだって、ちゃんと
教えただろ?」
「だって、こっちの方が可愛いんですー」
呑気な返答に、ソファに寝そべっているひとみはぐったり脱力する。
塗装用のエアスプレー片手に小春が向き合っているのは、一体の石像。
もちろん、バジリスク症の感染者ではなく、石膏で作られたまがいものである。
自分もやりたいと言うので、先週くらいから教え始めたのだが、これがなんとも、
言うことを聞いてくれないのだ。
青を基調とした色合いを作らせようとしているのに、勝手にピンクにしてしまうし、
こうした方が可愛いからと、勝手にリボンとかつけるし。
まだまだお人形遊びの域を出ていない小春に、ひとみは根気よく付き合っている。
そのうち嫌になりそうではあるが。
- 168 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:34
- ひとみの病状は着実に進行している。先月から杖なしでは歩けなくなった。
腕も、肩より上にはあがらない。
だからできるだけ早く小春に教え込んで、せめて自分の助手ができるくらいには
してやりたいのだが、当の彼女は遊んでばかりで真面目にやる気がないようだ。
「小春〜、頼むからちゃんと聞いてよ。このままじゃ吉澤死んじゃうよ」
「えー」
無邪気に笑う顔が見える。
「そしたら、小春が吉澤さんをきれーに塗ってあげますっ」
「え」
それは、あのけばけばしいピンクとか、可愛らしいリボンのいたずら書きとか、
そういったもので彩られるということか。
「ちょっと、小春」
「だから吉澤さんは、小春がきれーに塗れるようになるまで、ちゃんと教えてくださいね」
そこに、言外の意味があったのかどうか。
しかし意味など、受け取る側が作り出すものだ。
- 169 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:34
- ひとみは無邪気に笑う小春を見つめ返した。
「オッケー、まかしときな」
君がそう言うのなら、きっちり教え込んでみせよう。
それまで、生きてみせよう。
「とりあえず、なんでもピンクを混ぜるのはやめろ」
「はいっ」
「言ったそばからピンク混ぜんな」
手にした塗料のラベルを読み取ったひとみが、硬い声で告げた。
- 170 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:34
- 「こんちはー」
「あっ、藤本さーん」
ノックもなく入ってきた美貴を見つけて、小春がエアスプレーを放り出した。
このところ、眼球は美貴が届けてくれるのだが、どうやら小春は美貴を気に入っている
ようで、彼女が来るたびにまとわりついている。
しかし、美貴の方は子どもの扱いになれていないらしく、そういった小春の態度に
少々お困りのようだ。
「おっす」
「おっす。これ、こないだ頼まれてたヤツね。ここに置いといていい?」
「うん」
「藤本さん、遊んでくださーい」
「え、ちょっと、遊んでって言われても……」
苦い顔で逃げる美貴。小春はくじけることなく追いかける。ひとみはそれを眺めながら
笑っている。
- 171 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:34
- 「そうだ、今度みんなで軽井沢行こうよ。前はあんなだったからさ、リベンジで」
「なんで美貴まで」
「いいじゃん、家族三人水入らず、川の字で寝ようぜー」
「誰が家族だっ」
「美貴はちっちゃいから真ん中ね」
「わーい、じゃあ小春お母さんー」
「なんでだよ! 美貴いちばん年上じゃん!」
付き合ってられない、と言い捨てて、美貴はさっさと退散していった。
そうはさせるか、とひとみは心の中で決意していた。
こうなったら、なにがあっても付き合わせてみせる。
ひとみにとって、残された時間はメインディッシュを食べ終えた後に出てくる、
一口大の小さなケーキみたいなものだ。
満腹な身の内へ最後に入れる、幸福な甘味。
それは存分に味わわなければならない。
満足するために、小春と美貴は不可欠である。欠けるなんて許さない。
己以外の誰が、許さずにいれよう?
- 172 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:35
- 「小春、絶対に美貴と旅行するぞ」
「はいっ」
うまく動かない右手で、小春を手招きする。
素直に傍らへ座り込んだ子犬の頭を、ひとみはぎこちなく撫でた。
「ちょっと疲れちゃったな。休憩しよっか」
「はぁいっ。じゃあ小春、吉澤さんがぐっすり寝れるように、お歌をうたいます」
「……うん、すごく嬉しいんだけど、今は静かな方がいい気分なんだよね」
「えー?」小春は不満そうだが、子守唄はあきらめたようで、吉澤の頭を撫で始めた。
それをそのままに、吉澤が軽く目を閉じる。
「30分したら起こして」
「はいっ」
- 173 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:35
- いい気分だ。
起きたらやることがたくさんある。まずピンク以外の色を教えて、工具の使い方を
教えて、そろそろ料理の勉強もさせよう。
まだ先の話だが、夏になったら軽井沢へ、美貴を入れて三人で旅行だ。
楽しみだ。楽しみすぎて思わず口元がゆるんだ。
耳元に、息づかいが微かに届く。
とてもおだやかだった。
そしてひとみは、砂漠の街で春にまどろむ。
《Karuizawa syndrome.》
- 174 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:35
-
終わります。
- 175 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:36
- >>151-155
レスありがとうございます。
今までどおり個別にレス返しをしたいところなのですが、
どうにもネタバレが入ってしまいそうなので、失礼ながらまとめて
お礼申し上げます。
また、これまで読んでくださった方、レスをくださった方、ありがとうございました。
- 176 名前:_ 投稿日:2006/06/20(火) 18:36
- それでは、さよならシーユーアゲイン(以下略)
- 177 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/20(火) 20:06
- 更新ありがとうございます。
完結お疲れさまでした。
乾いた砂漠の中で、美しくて、哀しくて、残酷で優しい。
そんな印象でした。
また次作を楽しみに待っています。
- 178 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/20(火) 21:23
- 完結したっ……!
優しい物語をありがとう。
- 179 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/21(水) 02:24
- あー…泣きそう。
でも好きです。ありがとうございました
- 180 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/21(水) 02:55
- 完結しましたね。お疲れ様でした。
非常に面白かったです。
いつもながら文章が上手いですね。ストレス無く読み通せました。
- 181 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/21(水) 20:58
- いやぁ素晴らしい!ストーリーも…よしこはも
ありがとうございました
- 182 名前:名無しJ 投稿日:2006/06/23(金) 20:10
- 完結しちゃいましたね。
毎回毎回大好きでした…
楽しみが減ります。
お疲れ様でした。
- 183 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:34
- 苦手意識、だと思った。
自分より少し年下の彼女は、なにが嬉しいのか、もしくは楽しいのか判らないが
口元に笑みを浮かべていて、こちらをまっすぐに見つめていた。
その視線を受けた瞬間に思ったのだ。
苦手だ、と。
義体技術士の学校に通いながらアルバイトを始めたのは一ヶ月くらい前で、
授業を終えてからとある家へ向かってその家の少女を世話するのが仕事だった。
苦手意識は、まだ消えない。
- 184 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:34
- 「みきたん、冷蔵庫に入ってるジュース持ってきて」
「はいはい」
初対面でつけられた、けったいなニックネームにはもう慣れた。
言われたとおりキッチンへ向かい、冷蔵庫から1リットル入りのパックジュースを
取り出して持っていく。
美貴の手にあるものを見て、彼女は不満げに頬を膨らませた。
「そのまま飲めっての?」
「冷蔵庫にあるジュース。ちゃんと言うこと聞いてるよ」
「もー!」
当然であるが、ただの意地悪いジョークだった。
テーブルにジュースを置いてからコップを取りに戻る。彼女のと、自分のも。
「なんかさー、みきたんてあたしに意地悪だよね」
「うん、亜弥ちゃんってなんかいじめたくなるんだ」
「それって、あたしのこと好きなんじゃないの? 好きな子いじめたいとかって、
小学生の男の子みたい」
「違うし」
ジュースを注ぎながら、器用に肩をすくめてみせる。亜弥はなんの意思表示なのか、
車椅子の車輪をキュルキュルと空回りさせた。
- 185 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:34
- 美貴が世話をしている彼女は病気だった。原因・治療方法ともに不明の病気である。
症状の進行は遅い方だと思われた。発症から3年だが、両足の石化に留まっている。
だからこその車椅子で、美貴の存在だった。
この家に家人は他にない。大昔の結核みたいなものだ。
親兄弟がここに来る事はないが、よく電話や手紙が届く。大事にはされているのだろう。
「学校の方、どう? 宿題とかちゃんとやってんの?」
「やってるよ。なにそれ、バカにしてんの?」
少しだけ眉をひそめて言い返すと、亜弥は「にゃはは」と表情を隠して笑った。
「じゃなくて。あたしのとこに来てるから、時間とか取れてんのかなと思って」
親の小言みたいなさきほどの言葉は、彼女なりの気遣いだったらしい。
申し訳なくなったので、素直に「ごめん」と謝った。
「みきたんのそゆとこ好き」
「……ふぅん」
「意地悪だけど、会えてよかった」
美貴は無言でいた。褒められたのかどうか判らなかったし、こちらとしては
会えてよかったと言い切れない状態だったから。
返答を期待していなかったのか、亜弥はジュースを飲んでから、いつもどおりに
笑って、それから軽く首をかしげて話し続けた。
- 186 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:34
- 「たまに悩んじゃうんだよねぇ。みきたんと会えるのは嬉しいけど、あたしんとこに
いすぎたら、うつっちゃうかもしんないし」
「そんなの気にしなくていい!」
反射的に飛び出た言葉は、自分で驚くくらい強くて、言われた方もびっくりしていて、
美貴はなんだか、いたたまれない気分になる。
「み、美貴が自分で選んだバイトだし、別に、亜弥ちゃんのせいじゃないし。
だから、そんなの、気にしなくていいよ……」
「……にゃは」
二度目はうって変わって気弱になって、なぜだか亜弥に頭を撫でられた。
年下のくせに、と思ったものの、その手が心地よかったのでなにも言わなかった。
彼女の手はまだ温かい。たぶん、違う意味ではずっと温かい。
だから苦手だ。
「そだね。バイト代もちゃんと払ってるんだもんね」
「……そういうこと」
「じゃ、バイト代の分きっちり働いてもらおっかな」
いきなり偉そうな態度を取った亜弥は、ちょい、と指先で窓の外を示した。
- 187 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:35
-
大概、この病にかかった人間は外に出たがらない。病原を振りまいている可能性は
捨てきれないし、その可能性から来る偏見も少なくはないので、自然、他者と関わる
ことを避けるようになる。
亜弥も例外ではなかったが、美貴のことがあるからか、わりあい外出を好んだ。
そんなわけで、美貴はえっちらおっちら車椅子を押して近所の丘をのぼった。
郊外であるせいか、あまり人はいない。だから、亜弥はここを気に入っている。
本心はもっと違う場所に行きたいのかもしれないが。けれどそういった希望を聞いた
ことはない。
彼女はどちらかといえば年齢不相応に大人だ。
「はーい、到着ー」
「…………」
明るい亜弥の声を聞きながら、美貴は対照的に暗い顔。疲れたのだ。
なにせ、近所といっても歩いて30分はかかるし、丘なだけにずっと上り坂なのである。
こちらの様子に気づいたのか、亜弥は少しだけ呆れたような表情になって、肘掛に
邪魔されながら腰へ両手を当てた。
- 188 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:35
- 「軟弱だなー。もっと鍛えなよ」
「あのねえ……」
ただ車椅子に乗っていただけの亜弥に言われると、無性に腹が立つ。
だいたい、これでも体力や運動神経には自信があるのだ。マラソンだって上位が
定位置だし、跳び箱なんて10段以上を飛べるのである。
しかし、ぜえぜえと肩で息をしている現状では、何を言っても説得力がない。
それ以前に息が上がっているのでうまく喋れない。
身体とは裏腹に、意気は消沈していった。
「ま、お疲れさま」
ねぎらいの言葉の後、独り言なのだろう、「風が気持ちいいな」という呟きが届いた。
確かに、涼風軽やかで運動後の身体には心地よい。
周囲に人はいない。二人きりだ。だからなんだということもないけれど。
いつだって二人きりなのだ。
だから、どちらも沈黙していたらそこには沈黙しかないのである。
亜弥のことは苦手だが、実はこの沈黙は、苦手ではなかった。
- 189 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:35
- 呼吸も平静になったので、再度車椅子を押して、木陰へと彼女を運んだ。
初夏の日差しは強くないけれど、やはり眩しい。
「降りるー」
「ん」
伸ばされた腕が首に絡みついて、力が入ったのを確認してから彼女の腰を抱える。
脚がぶつからないように気をつけながら車椅子から降ろしてやって、できるだけ
ゆっくり、亜弥を芝生へ座らせた。
体感的には出会った頃より少し重くなった気がした。体積が増えたのなら、その方がいい。
年頃の少女としては嬉しくないだろうが。
亜弥は膝を立てた形で座って(その形で固まってしまっているので)、美貴にもたれ
かかってきた。
「亜弥ちゃん、重い」
「ちょっとぉー」
「……でもまあ、バイトだから」
「そうそう。雇い主の言うことはちゃんと聞かないとね」
正確に言えば、美貴を雇っているのは亜弥の両親である。
- 190 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:35
- 肩にかかる重みを感じながら、かすかな眠気にまぶたが下りる。
閉じきってはいない。クラスメイトにはよく恐いと言われる表情だ。
隣にいる亜弥からは見えないし、他に人はいないから、今はなにも言われない。
そのうちに下りきっていなかったまぶたが完全に下りた。
亜弥の方もうとうとしている。
それはポートレイトみたいに綺麗な光景だったが、他に人がいないので、
残念ながらなにも言ってもらえなかった。
- 191 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:36
-
眠っていたのは2時間くらい。日は陰り始めている。
肌を撫でる冷気に目を覚ますと、隣の彼女はもう起きていて、美貴の太ももあたりを
静かに撫でていた。
どうしてそこなんだ、と思った。よりによって、歩くための、飛ぶための、立つための。
車椅子のいらない脚を。
彼女の、そういうところが、苦手だ。
「セクハラ」
言うと、彼女はふふりと笑った。にゃははではなくて。
いつもより、ほんの少し大人びた笑い方だった。
くるん、と地面についた腕で身体を回転させた亜弥が、美貴に抱きついてくる。
振り払うわけにもいかないので、倒れてしまわないようにその身体を支えた。
こんなふうに甘えてくるのはちょっと珍しい。
「みきたん、告白してもいい?」
「は? なにを?」
「腰に来ちゃった」
あまりにもあっさり言われたので、最初は座りっぱなしで腰が痛くなったという
意味かと思った。
それから、嫌な予感がして、彼女を支えていた手で腰の辺りを探る。
今までとは確実に違う感触だった。
景色が寒色に染まった。
- 192 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:36
- 「だいじょぶ」
わざとらしく気軽な言い方をする彼女に苛々した。
第一、それは、そんな気休めはこちらが言う台詞だ。
当人の苦しみなんて理解できない第三者が言う、無責任な台詞でなければいけないのに。
そんな言葉は、あまりにも悲しいではないか。
「も、もう帰ろ。うち帰ったら、お医者さん呼ぶから」
「そだね、そろそろ暗くなっちゃうし」
「そういうことじゃなくてさ……」
せっかく心配しているのに、彼女は的外れな返答をする。
意識的にそうしているのかもしれない。
まったく彼女は、年齢不相応に大人すぎる。
抱えようと、腰に回した腕を引く。合わせるように亜弥の方も首へしがみついてきた。
持ち上げようとした瞬間、キスをされた。
思わず止まる。動きも、思考も。
亜弥はにゃははと笑っていた。
「セクハラ」
だからそれは、こちらが言うべき台詞だろう。
- 193 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:36
-
原因も治療法も判っていない病気なので、医者を呼んだところで何か事態が好転する
というわけではない。
今回も検査をしただけで医者は帰った。おざなりに見送りをした美貴はすぐに
亜弥が横たわっているベッドへ戻って、気遣わしげな視線を彼女へ向ける。
風に当たっていたからか、笑う亜弥の顔は少し白く見えた。
「3年経っててこれくらいなら、ラッキーな方だよ」
「また、そういうこと……」
「もー、みきたん心配しすぎ」
美貴にしてみれば、亜弥のほうこそ楽天すぎる。
「しばらくはうちから出ないで療養してろって」
「えー? つまんなーい」
「つまんないとか面白いとかじゃないの」
医者に言われた、もうひとつの忠告は伝えなかった。
もっと気をつけろと。つまり、己の身を守るようにしろと。
冗談ではない。感染が恐くて彼女の世話などできるか。
マスクもしない、抗菌仕様の服も着ない。
それは美貴の原因不明な矜持だった。
- 194 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:37
- わしわしと亜弥の頭を乱暴に撫でて、「今日は泊まってくから」と告げる。
亜弥はきょとんとしていた。
「なんで?」
「なんで、って……」
なにかあったら困るからだ。言うまでもない。
「……バイト代、上乗せされるし。こ、今度新しい教材買わないといけないから」
「あ、そうなんだ。そんじゃお願いしよっかな」
ちょっとは疑えとゆいたいです。
ともあれ、本日は宿泊決定となり、二人分の夕食を調達するために買い物へ出る。
献立はカレーである。美貴の得意料理というか、消去法というか、まともに作れるのが
他にないというか、そんな感じでカレーなのである。
夕方の街は賑々しい。人ごみをすり抜けるようにして歩く。
こういう場所を歩くとき、美貴は亜弥のことを考えない。
いちいち彼女の境遇に同情していたら、とてもではないがバイトを続けられない。
必要な材料を一そろい買って、足早に帰る。できるだけ、彼女を一人にする時間を
少なくしたかった。
- 195 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:37
- 「おかえりー」
「ただいま」
ドアを開けて、すぐに声が聞こえたことにホッとした。
「時間かかるから、これでも食べてて」
ビニール袋から菓子パンを取り出して放り投げてやる。美貴のピッチングが良かったのと、
亜弥の反射神経が優れていたので、パンは無事彼女の手の上に乗った。
「お、新商品」亜弥が嬉しそうに呟いた。わりあい新し物好きなのである。
キッチンで調理を始める。カレーは得意料理で、消去法を持ち出せば唯一まともに
作れるので、つまり手馴れているのだ。
順序良く材料を切って、鍋に火をかけて、お湯が沸いたら固いものから鍋に入れていく。
たまねぎを切ると涙が出るので困った。
ずいぶん長いこと涙が止まらなくて困った。
- 196 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:37
-
- 197 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:37
- ベッドの横に布団を敷いて、もぞもぞと潜り込むと、今日の疲れが一気に出た。
ずるんと眠りに引き込まれそうなところを、亜弥の声が引き止めてくる。
「みきたん」
「んー……?」
「ごめんね」
「なにが?」
「ちゅーとかしちゃって」
謝る意味がよく判らなかった。体液感染の可能性を言っているのかもしれない。
だったら、そんなことは問題じゃない。
「別に」
「あれ、なんでもないから」
「セクハラでしょー? いいよ別に、減るもんじゃないし」
「……ん」
もう眠くて眠くて、なにもかもどうでもよくて、キスをされたことも、彼女の声が
なんとなく寂しそうなのも、よく判らないけど一緒に寝たいなあと自分が思っているのも
どうでもよくて、美貴は本能に忠実に、眠った。
- 198 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:37
-
- 199 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:38
- それから半年は何も変化がなかった。亜弥の病状は良くも悪くもならず、
美貴は相変わらず彼女がなんとなく苦手で、けれどバイトは続けていて、
学校にも通っていた。
変化は唐突に訪れる。
それは一言で言えば「卒業」だった。もちろん学校の。
卒業試験に合格し、医療行為の資格試験には不合格し、しかし技術者資格は取得した。
専門は眼球。腕や脚より人気のない分野だった。技術者は不足しており、就職先は
それなりにあったが美貴は己の工房を作った。どうも誰かに師事したり複数人で作業を
したりというのには向いていない気がしたのだ。
卒業式の翌日、亜弥が卒業パーティーを開いてくれた。二人きりで。
テーブルにはケーキが乗り、チキンが乗り、シャンパンが乗り、クラッカーが鳴って
プレゼントが渡された。
小さな箱に入ったプレゼントはゴーグルだった。義眼作成時に使用するものだ。
ブランドを見ると一流の職人が愛用している高級品だった。若い職人の憧れである。
分不相応だと思ったが、贈ってきた当人も年齢不相応なので、不相応と不相応で
相殺されて相応になるかもしれないと訳のわからない理論をつけて受け取った。
「いやー、これでみきたんも大人の仲間入りだねぇ」
「まあ、そうかな」
「バイト、さ。どうする?」
遠慮がちな問いかけに、美貴は小さく首をかしげた。
- 200 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:38
- 「どうするって、続けるけど。仕事なんか全然ないし、時間も取れるようになったから
今までより長くバイトできるし」
「そっか」
亜弥は嬉しそうで、けれどいつも笑っているから美貴は違いが判らない。
二人とも、亜弥の身体について話題にすることを避け始めていた。3年はとうに過ぎ、
そろそろ4年を数えようとしている。
だから、バイトをいつまで続けるのかという、そんな話はしなかった。
これからも続けるという、それだけを、話した。
「そうだ、美貴ばっかもらうのも悪いからさ、なんかお返しするよ。
なんかほしいものとかある?」
「え、いいよ。卒業のお祝いなんだし」
「いいからいいから」
「えー、じゃあ……」
亜弥は少し悩んで、なにかヒントでもないものかとキョロキョロ部屋を見回し、
窓へ目をやって「あ」という感じに口を開けた。
- 201 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:38
- 「椅子」
「椅子?」
「ん。ほら、よくおばあちゃんが座ってるみたいな、ゆらゆらするやつ。
それに座って外眺めながらお昼寝とかすんの。気持ち良さそうじゃん?」
これは名案とばかりに声を弾ませる亜弥。この頃は外出もしなくなった。
なるほど、いい提案であるかもしれない。
「ロッキングチェアね。わかった」
「みきたんが作るんだよ?」
「なんで!」
当然のように既製品を買おうと思っていた美貴が思わず噛み付く。
「だって手作りの方が心がこもってる感じがして嬉しいんだもん」こともなげに
答える。そんな亜弥がプレゼントしたのは、既製品のゴーグルなわけであるが。
まあ、曲がりなりにも技術学校に通っていたので、手先が不器用ということもない。
芸術的センスは心もとないけれども、どこからか設計図を手に入れれば作れるだろう。
しかし……面倒くさそうだ。
- 202 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:38
- 「売ってるのでいいじゃん」
「手作りは乙女の基本だよ?」
「恋人が嫌がるプレゼントぶっちぎり1位だけどね」
「別にあたしとみきたん、恋人じゃないし」
そう言う亜弥の唇が、ちょっとばかり尖っている気がした。
そんなふうに拗ねるほど手作りがいいのか、と呆れたが、なにぶんこちらは雇われの身。
意固地になるのも大人気ない。
ここはこっちが折れるべきだろう。
「わかったよ。時間見つけて作ってみる」
「やたっ。みきたん大好きー」
軽い気持ちでお返しをするなどと言ってしまったが、ずいぶんと高くついた。
いや、購入した方が高かっただろうか?
- 203 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:39
- それからは大変だった。朝から晩までバイトのために亜弥へ寄り添って、帰れば亜弥との
約束を守るためにロッキングチェア作りにいそしんで、相変わらず仕事がないので
貧乏だったが亜弥の面倒があるのでバイトを増やすわけにもいかなかった。
「あれ、なんか美貴、亜弥ちゃんに全部持ってかれてない?」
木材の寸法を測りながら、思わずひとりごちる。
どうしてこんなにかいがいしく世話をしているのだろう。
苦手なのは、変わっていないのに。
「まあ、ここまで割のいいバイトないしなぁ」
正直、通常のアルバイトをふたつみっつ掛け持ちするより待遇がいいのだ。
それだけ危険だということでもあるが、美貴自身にそういった危機感はない。
感染したらそれはそれで仕方ない、というか、もっとこう、後ろ向きなような、
積極的ネガティブ志向とでも言えるようなものが、あった。
気づいていなかったけれど。
美貴は、色々なことに、気づいていなかったのだけれど。
- 204 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:39
- 「あと10日ってとこかな……」
のこぎりで木材を切りながら頭の中でスケジュールを立てる。
設計書を見た時は複雑さにめまいがしたものの、どうにもならない部分はなかった。
完成したら、すぐに亜弥へ届けて、窓辺に置いて、座ってもらって、一緒に外の景色を
眺めよう。
椅子を揺らしてあげて、寝そうになったらわざと乱暴に揺らして起こしてやろう。
そうしたら彼女はきっと頬をぷくぷくさせて、「もー!」とか怒るに違いない。
彼女はそんな時だけ年相応になるから、だから美貴は。
「お、ここちょっと硬い」
一生懸命、ロッキングチェアを作る。
- 205 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:39
-
- 206 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:39
- 完成したのはスケジュールどおりの10日後で、あとになってみればそれは奇跡だった。
使っていなかった2階の部屋を掃除して(そちらの方が景色が良かったので)、
ロッキングチェアを運び入れ、亜弥をおんぶしてその部屋へ連れて行く。
「えへへ。楽しみー」
「ちょうすごいよ。力作だよ」
「にゃはは」
亜弥は上機嫌で、美貴も上機嫌だった。彼女の重みに気づかないくらい。
「じゃーん」自分で効果音をつけながらドアを開ける。
なにもない部屋の窓辺、ぽつんと置かれたロッキングチェアは、窓から差し込む光が
塗られたニスに反射してきらめいていた。
「おー! すごいよみきたん、頑張った!」
「でしょー? もっと褒めて」
「えらいえらい」
背中におぶさったままの亜弥が頭を撫でてくる。「にひ」さすがに嬉しくて笑みが洩れた。
自然なままの温かい木の色。なにか模様でもつけようと思ったのだが、いかんせん
芸術的センスが心もとなかったのでやめた。
下手に、そう、文字通り下手に手を入れて馬鹿にされるのが嫌だったのだ。
- 207 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:39
- 世に出回っている、特別なところは何もないデザインだが、やはり自分で作ると
思い入れが違う。亜弥が強引にねだってきてよかったと思えた。
「座るー」
「ん」
動かないようにロッキングチェアを足で押さえながら、そっと亜弥をそれに座らせた。
彼女はさっそく椅子を腕の力で揺らして、満足そうな笑顔になる。
「ここのレバーで回転するようになってんの」
「あ、すごいこれ」
ひとつだけ、美貴がオリジナルでつけた機能だった。
スプリングと回転軸を利用して、手元で360度回転させられるようになっているのだ。
亜弥が面白がって、左右にグルグル回す。
「目ぇ回んない?」
「んー、ちょっと」
にゃはは、と照れ笑いをして、亜弥が角度を元に戻す。
それから窓へ目をやって、小さなため息をついた。
- 208 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:39
- 「優雅だねえ」
「うん。ちょっといいね、こういうの」
「みきたん、揺らして」
「はいよ」
椅子の後ろに回って、ゆっくりゆっくり揺らしてやる。
時間の流れもゆっくりゆっくりになるような気がして、夕焼けを二人で眺めた。
沈黙以外のなにもない部屋だった。
寂しさすらなかった。
ずっと、こうだったらいいのに。
それは美貴の素直な気持ちで、時間がゆっくりゆっくり流れて、けれど止まりもしないで、
景色が綺麗で、亜弥が満足そうで、年相応に怒ったりして、そんな彼女のそばにいて。
「みきたん」
「ん?」
「告白してもいい?」
なにを?と聞く前に、亜弥は口を開いていた。
「好き」
なにを?と聞くほど、美貴は意地悪ではなかった。
- 209 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:40
- 椅子を揺らす手を止めて、彼女の前へ回る。
彼女の顔は赤かったが、それは夕焼けのせいで、やはり年齢不相応に大人な表情だった。
少し屈んで、彼女にキスをした。
「うつっちゃうよ」
「……それなら、それでいいよ」
それが、よかった。
現状で『ずっと』が存在しないなら、いっそ彼女と同じになってしまいたかった。
彼女を苦手だと思っていたのは、実は彼女自身に対してではなくて、まだどこにもない
未来を忌避していたからで、願う前から叶わない望みが悲しかったからだった。
望みは、まだ消えない。
「駄目だよ。みきたんはそうなっちゃ駄目」
「やだ」
「こらー。雇い主の言うことは聞かないと駄目でしょ?」
「もうバイトやめる。そんなんじゃなくて、そういうのじゃなくて、亜弥ちゃんといる」
亜弥はなんだか泣き笑いみたいな顔をして、美貴の頭をぺふんと叩いた。
- 210 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:40
- 「ちょっと寒いな。みきたん、なんか羽織るもの持ってきて?」
「……ん」
誤魔化された不満を隠そうともしないで、美貴は頷く。
亜弥の部屋にカーディガンがあったはずだ。とりあえず持ってきてあげて、それから
じっくり話し合おう。風邪でも引いたら大変だし。
まずはバイトをやめて、彼女と恋人として一緒にいて、いつかは同じ家に住んで、
料理ももっと覚えよう。いつまでかなんて知らない。いられるだけ、一緒にいる。
記憶のとおりにカーディガンは置かれていた。それを引っかけるように取り上げる。
お気に入りの、ピンク色のカーディガン。
リズミカルに階段を上って亜弥の元へ戻る。
ピンク色が、足元に落ちた。
- 211 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:40
- 「亜弥ちゃん!」
恐怖に強張っていた亜弥の表情が、美貴の姿を見つけた途端ほぐれる。
ほんのわずかな時間で硬度を増した手を必死に(ああ、まさしく!)動かして、
手元のレバーを操作すると、美貴に正対した。
美貴はそんな彼女へ駆け寄ろうと、両足に力を込める。
「みきたん」
亜弥がいつもみたいな、年齢不相応で素直じゃない笑顔で、両腕を持ち上げて、
ゆっくりと広げる。
両腕は、中途半端な高さと角度で、止まった。
「……あや、ちゃん?」
3分もなかった。彼女のそばにいなかった時間は、そんなものだった。
変化は唐突に訪れた。唐突過ぎた。
その場に崩れ落ちる。
室内は、沈黙以外のなにもなくなった。
幸福も、未来も。
叶わない願いは、叶わないままで。
- 212 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:40
-
- 213 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:41
- 「強くて綺麗だね」
眼球を眺めながら、初対面の彼女はそう言った。
「うん、そう……。だから、好きになった」
「いい腕してるよ、藤本さん。できれば、これからもお願いしたいな」
「でもそれは、あの子の目が綺麗だったから」
「綺麗なものを綺麗に作れるなら、そりゃ作った人の腕がいいんだよ」
「そうかな」
「きっとね。それにその子も、幸せだったから、こんな綺麗になったんだと思うよ」
優しい彼女は、優しく言って、優しく笑った。
- 214 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:41
-
- 215 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:41
- 沈黙以外のなにもない部屋で、美貴はロッキングチェアを揺らす。
乱暴に揺すったところで、そこに座る彼女は年相応に怒ってはくれない。
コンコン、と遠慮がちなノックがあって、恐る恐るドアが開いた。
視線をそちらに移すと、顔なじみの少女がドアの隙間から顔を出している。
「こんにちは。工房の方にいなかったから、お邪魔しちゃいました」
「あ、もうそんな時間か。ごめんごめん」
手招きをすると、彼女はぴょこんと部屋へ入ってきて、美貴の隣に並んだ。
出会った頃より少し背が伸びて、顔立ちも大人っぽくなっている。
それでもまあ、中身は子どものままではあるけれど。
- 216 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:41
- 「綺麗ですねぇ」
「……ん」
綺麗だった。綺麗すぎて、ここに来るたび、好きだと言えなかったことが悔やまれる。
隣の彼女みたいに、素直に、思ったまま、好きな人に好きと言っておけばよかった。
「このポーズってどう思う?」
「え?」
「これ」
指で指し示す。彼女はじっと示された方を見つめた。
うんうんと唸って考えて、やがて口を開く。
「こっち来ちゃ駄目、かな?」
素直じゃない笑顔と、中途半端な両腕。
「やっぱりそっか」美貴は小さく肩をすくめた。
- 217 名前:『days@peaceful』 投稿日:2007/04/15(日) 18:42
- 「ね、小春」
「なんですか?」
「小春は、幸せ?」
穏やかに尋ねると、負けないくらい穏やかに、小春は頷いた。
「はい。吉澤さんに会えたから」
言ってから「あ、もちろん藤本さんに会えたのもですよ」と慌てたように付け足してくる。
美貴は思わず苦笑した。
そんなところで気を遣わなくていい。
聞きたい答えは、最初の言葉だけで充分だ。
「そうだね。美貴も、亜弥ちゃんに会えて幸せだよ」
ゆっくりゆっくり、時間は動く。
《innocent start.》
- 218 名前:円 投稿日:2007/04/15(日) 18:42
-
以上、『days@peaceful』でした。
タイトルは「ディズアットピースフル」と読んでもらいたいです。
久しぶりに書いた藤本さんは、なぜか妙にツンデレ風味。
- 219 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/15(日) 23:48
- こんな言い方したら失礼かもしれませんが…。
一人酒をしつつ読むのにはぴったりの静かな世界だなぁ、と。
それでいて読み終えた後にすごく心に残る。
いつも素敵な作品をありがとうございます。
ひっそりと待ち続けていてよかったです。
- 220 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/16(月) 01:00
- 泣きました・・・。
素晴らしい作品をありがとうございました。
- 221 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/16(月) 01:06
- いつもありがとう。
娘。小説に出会えた喜びを感じます。
- 222 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/16(月) 09:42
- よしこは編から再び読み返しました
良い御話でとても好きです
- 223 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/16(月) 12:47
- ああ…、ありがとうございます。
泣かないよう堪えるのが大変です。
- 224 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/17(火) 11:25
- その二人でしか紡げない画を「書く」力。
毎度惚れ惚れと読ませていただきました。
ごちそうさまです。
- 225 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/18(水) 02:09
- 一気に読みました、とても良い作品をありがとうございました。
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