疾風のブレードランナー

1 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:40

ピカピカギラギラと雑多な光を放つ夜の街を駆け抜ける。
五日前から降り続けている酸性の汚れた雨に打たれながら。
水溜りをビシャビシャと跳ね散らかしながら。

路地をひとつ曲がれば、あっというまに光の減じた暗闇になる。

わずかな光がつくりだす影のような姿の『敵』がいた。
首をうなだれさせた半身の体勢で私に右肩を向け、微動だにしない。
ヒューマノイドのボディを乗っ取って「こちらの世界」を跋扈する『敵』。
悪魔、妖魔、鬼などなど、さまざまな呼び名をもつ『敵』。

「中澤さん、『敵』を捕捉しました。撃退します」
右耳下に貼り付けた骨伝導インカムに触れて、センターと通信する。
『了解。おまえまでしくじるなよ』
「わかってます」

私は手持ちの武器から55口径のハンドバズーカを選択して、両手で構える。
銃口の先には、死んだように動かない『敵』。
動き回らない上に周囲に誰もいない状況なら、これでいい。

引き金を引こうとした瞬間、左の足首に巻きついてくる何かを感じた。
私は転倒する。
引き金を引いて放たれた銃弾は、雨を降らせ続ける夜の空に向かって飛んでいく。
後頭部を打たないように顎を引いた。
水溜りのコンクリートに背中を打ちつけた。
アキレス腱どころか完全に足首を切断されるような圧迫感。

銃声。銃声。銃声。

足首に感じていた圧迫感は瞬時に解け、私は助かったことを知る。
2 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:41
「吉澤さん!」
麻琴の声が聴こえた。
バシャバシャと足音を立てながら、たぶん、麻琴がやってくる。
「だいじょうぶですか?」
足音が止まり、倒れこむ私の頭のそばにしゃがみこむ麻琴の顔が見えた。
「だいじょうぶだよ」
答えながら、上半身を起き上がらせ、足首を見る。
巻きついていたのは、『敵』から伸びていたヒューマイノドの筋組織。
左腕の筋肉を解いて紐状にし、雨音と暗闇を利用した静かな罠を仕掛けていたのだろう。
器用なものだ。

「すみません、吉澤さん」
「いいよ、気にしなくても。プラマイゼロだ」
元はといえば、麻琴が、発見した『敵』を逃がしてしまい、その上でやつが逃亡する過程で市民が一人死亡しているので、どちらかといえばマイナスなのだが。それは麻琴自身も分かっている。
私は麻琴に助けられたが、そもそも麻琴がやつを逃がしていなければこんな状況にはならなかった。
そんな因果関係を追ってもしょうがない。

続々と隊員たちが集まってきて、どんどんと場は騒がしくなっていく。
私は足首に残る鈍い痛みを引きずりながら、現場をあとにした。

私はこの街が嫌いだ。
今の仕事も嫌いだ。
それでも私はこの街で生きているわけだし、今の仕事で生きている。
ブレードランナー。
刃の上を走るような危険な仕事。
刃を持って鬼を追いかける鬼。

墓石のように林立する高層ビルの隙間を強い風が吹き抜け、酸性の汚れた雨は今日もやむことなく降り続いている。
3 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:42

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        疾 風 の ブ レ ー ド ラ ン ナ ー


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4 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:42

昨夜申告した足の痛みがそれなりに深刻であると認められたためか、今日の任務は最近でももっとも楽なものになった。
「空の博物館に行きたい」という紺野あさ美の護衛。
ほぼ休日扱いといっていい。
もう一人の付き添いは、私の部下であり、パートナーでもある小川麻琴だ。

入隊当初こそ期待されていた麻琴は、ある事件をきっかけに自信を喪失し、今ではすっかりチームのお荷物扱いになってしまっていた。
慢性的な人員不足のために、本人が強い意思を持って辞めようとしない限り、仕事は与えられ続ける。
引退し、生活の糧を失って、それからの長く長く長すぎる人生を生きていく方法は、そう簡単にはみつからない。
このままではいつか麻琴も死ぬだろう。そう思った私は、自分の目の届くところに麻琴を置くことにした。パートナー化だ。
戦場の新米兵士が伍長になり、曹長になり、軍曹になっていくようにして、私もチームのリーダーとなった。
次々と仲間や上官が死に、チームの最古参メンバーとなってしまった。
私ならば麻琴のミスのカバーくらいはできる。死んでしまうかもしれない仲間を、死ぬとわかっていながらそのままにしておくよりは、自分の仕事量を増やしたほうがマシだ。肉体的なきつさよりも、精神的なダメージのほうが、今はこたえる。
5 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:42
世界各地の青空、一様ではない曇り空、汚れていない雨模様、白い雪、夕日、星空などの写真や映像がずらりと並ぶ。
そして、青空の朝から星空の夜までを延々と繰り返し続けるスカイリウム。
今ではほとんど見ることのできなくなったものがたくさん詰め込まれた博物館。
紺野あさ美は空の博物館が大好きで、この街に移送されてきてから、週に一度は訪れていた。
展示されるものは何も変わらないのに。

「おまえ、よく飽きないな」
「青い空はいつ見ても、いつまで見ても飽きないです。白い雪も好きですし」
紺野あさ美はしあわせそうに笑う。
「そうか」
「あたしも飽きないですよ、きれいな空見るの」
そして、紺野あさ美と麻琴は「ねー」と笑顔を合わせる。
二人は仲が良い。
「おまえには聞いてない」
麻琴の頭頂部をぺしりと叩く。
「えー……なんでですかぁ」

黒い曇り空、灰色の曇り空、スモッグに覆われた白い空、酸性雨、灰色の雪。
それが私たちに与えられている現実の空で、生まれてこの方、本物の青い空や星空なんか見たことはない。
きれいな空なんて、おとぎ話だ。

じつのところ、私も空の博物館が好きだし、とくにスカイリウムで過ごす美しい空の一日を愛していた。
でも、ロマンチストと思われるのがイヤで、今はいないたった一人を除いては、誰にもそれを告白したことはない。
6 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:43
今日のスカイリウムは、入道雲とオリオン座を見せてくれた。私にとって当たりの日だ。
気分がよくなって、ついつい軽口が飛び出す。
「なあ、紺野」
「はい?」
「いつかおまえに本物の空を見せてやるよ」
「吉澤さんは神様ですか?」
紺野あさ美はくすくす笑う。
「冗談じゃないぞ。本当だ」
「はい。じゃあ、待ってます」
むっとした表情の私を見て、紺野あさ美はまた笑う。
「あー、あさ美ちゃんずるいなー。吉澤さん、あたしにも――」
「おまえには言ってない」
ぺしり。
7 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:43
博物館を出ると、雨はすっかり小降りになっていた。
明日は一週間ぶりに晴れるかもしれない。
白い空が見られるかもしれない。

「こんにちは」

唐突に、声をかけられた。
正面。
その男は、傘もささず、フードもかぶらず、大きな身体を濡れるに任せて突っ立っていた。
薄い笑いを浮かべていた。
『敵』だ。間違いない。

ヒューマノイドに憑くタイプの『敵』は明瞭な言語を扱うことのできない低レベルなタイプで、ほとんどの『敵』がそれだ。撃退も比較的たやすい。しかし、まれに、通常の人間とまったく見分けのつかない姿で現れる高レベルな『敵』が現れる。ヒューマノイドとの区別をつけるよりもはるかに難しく、能力も高い。一対一の戦闘になれば、生きて明日を迎えることはまず不可能だ。今、目の前に、それがいる。

「さがしましたよ、鍵の姫」
堂々とした余裕。この場から逃げ出すことはできないという無言の圧力。
私と麻琴の二人だけでかなう相手ではないだろう。過去の事例がそれを証明している。

「中澤さん、見えてますか。『敵』です。ハイクラス」
右耳下の骨伝導インカムを通して、センターの中澤さんと連絡を取る。
『見えてる。すぐにヤタガラスを出すから、五分がんばってくれ』
「……了解」
ハイクラスを相手にして五分間もどうやってしのぐか。
これほどの近接戦闘において三百秒は長すぎる。
第一にして唯一の選択は逃げることだ。しかし、逃げきれるか。
自分一人だけならまだ何とかなるかもしれないが、紺野あさ美と麻琴がいる。
逃げきれるか。守りきれるか。生き抜けるか。
8 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:43
「では、行きましょうか」
『敵』は両腕を後ろに回したまま無防備にすたすたと歩み寄ってきた。
麻琴が銃を取り出す。
引き金を引く。

弾丸は、『敵』が差し出した右手の親指と人差し指のあいだに挟まれていた。

空の博物館を訪れ、または去っていこうとしていた人たちが悲鳴をあげ、散り散りに逃げ惑う。
残念ながら、彼らを気遣い、かまっている余裕はなかった。

私は二挺の銃を抜いて、構える。
これで麻琴と合わせて三挺。
乱射した銃弾は確実に『敵』を捉えたが、そのすべては飲み込まれるようにして『敵』の体内へと静かに消えていった。
9 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:44
「意外と冷静な顔をしているな。もっと絶望的な表情を見せてくれればよいものを」
『敵』の視線が初めて紺野あさ美から私へと移った。
「予想の範囲内だからね」
対抗して余裕の口ぶりをみせても、内心の恐怖は簡単に見抜かれているだろう。
どうやって逃げればいい。
私が盾になる以外に、この状況を切り抜けられる方法はあるか?
いや、盾になったところで、つくれる時間はせいぜい数秒。

「吉澤さん、あさ美ちゃんを連れて逃げてください」
私が逡巡しているあいだに、麻琴がミドルロッドを両手にして、私たちと『敵』の距離に割って入った。

バカヤロウ早まるんじゃねえよ。
私が何のためにおまえをパートナーにしたと思ってるんだ。
これ以上仲間の死を見送らないためだぞ。
それなのに、こんなんじゃ、また私だけが生き残ってしまう。

しかし、すでに麻琴が前に立った以上、私は紺野あさ美を連れて逃げる役目を負わなければならない。
譲り合ってはいられない。

「行くぞ、紺野!」
私は紺野あさ美の手を引き、走り出す。
「マコト!」
「いいから走れよ!」
麻琴がせっかく時間を作ってくれようとしているんだ。
走れ。
10 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:44
昨夜痛めた足首がずきりと痛んだ。
全力で走れない。
こんなときに。

それでも、私は走るしかなかった。
一歩踏み出すごとに脳天まで突き抜けるような痛みが走った。
それでも、今は、この痛みに耐えて死から逃げなければならない。
両足がへし折れても、今は走らなければならない。

麻琴の悲鳴が聞こえた。
直後、私と紺野あさ美の前方に、頭上を越えて何かが落ちてきた。

「麻琴!」
私はすぐに背後を振り返り、銃を構えた。
『敵』は二十メートルほどの先から、悠々と歩み寄ってくる。
何があったのかはわからないが、あの距離から麻琴は飛ばされてきたのか。
無事であるはずがない。
いや、それ以前に――

「麻琴!」
私は銃口を『敵』に向けたまま、麻琴を振り返り、呼びかける。
わずかに、麻琴の身体がごそごそと動いた。
生きている。

「マコト!」
紺野あさ美が麻琴に駆け寄る。
11 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:44
「麻琴、立てるか!」
立てるわけがない。動けるわけがない。
紺野あさ美が私を見て、目に涙をためながらふるふると首を横に振る。
動けない。この場から。

ヤタガラスが到着するまであと何秒だ?
銃撃の効かない『敵』の足を止める方法は何がある?

何も考えつかない。
手がない。
私は銃の引き金を引く。
意味のない銃撃で弾丸を撃ち尽くす。
『敵』はびくりともせず、足を止めることもなく、迫ってくる。
死が実体を伴って近づいてくる。

ここまでか。

私は死を覚悟する。
私一人の命を使いきれば、ヤタガラスが到着するまでのあいだ、紺野あさ美を守りきれるかもしれない。
できるはずだ。
12 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:45
先ほど麻琴がそうしたように、二本のミドルロッドを抜く。
ブレードが欲しかったが、今ある物でどうにかするしかない。

『敵』は急ぐことなく、一歩一歩、ゆっくりと近づいてくる。
好都合だ。少しでも時間が稼げればいい。
過度の緊張に捕らわれることなく、適度な緊張を保つように。
死をイメージしない。
戦えることだけをイメージする。

十メートル。
九メートル。
八メートル。
七メートル。
六メートル。
五メートル。
四メートル。
三メートル。
二メートル。
まだ『敵』は動きを見せない。
一メートル。
まだ仕掛けてこない。
そして――
目の前に立たれた。
13 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:45
「今、おまえがここに立っていることは、まったくの無意味だ、ブレードランナー」

私は『敵』の脇腹を目掛けて左手のロッドを振る。
簡単に受け止められ、手首を掴まれた。
銃弾を指先で捕らえる『敵』だ。
元よりかなうはずがない。

続けて、右手のロッドで喉を狙って突く。
当然のように、あっさりとロッドを掴まれた。
目の前で青い火花がバチバチとスパークする。
ロッドが発する程度の電撃ではダメージを与えられた様子もない。
平然としている。

金的を狙って蹴り上げる。
今度は、無防備なままの『敵』の股間に蹴り足がヒットした。が、ビクともしていない。
わかってはいたが、通じない。効かない。
14 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:45
「おまえは死が怖くないのか? 私は怖い」
『敵』が憐れむように私を見下す。
「私がおまえの立場ならば、何をおいても逃げる。絶対にかなうはずのない敵を前にして、留まることなどできない」

「私には任務がある」
「それは命よりも大切なものなのか?」
「おまえたちの世界に侵食されれば、この世界は終わる。だから、紺野あさ美を渡すわけにはいかないんだよ」
「自分ではない者たちの未来のために、今の自分の命を捨てるのか? 自分のいない世界に何の意味がある」

梨華ちゃん――

「あるさ」
大きな『敵』を見上げて睨みつける。
銃もロッドも通用しないなら、眼光で殺してやる。

「そうか」
そう言って『敵』は私の手からロッドを奪い取って投げ捨て、空いた左手で私の頭を鷲掴んだ。
死ぬ。殺される。トマトのように頭を握り潰されるイメージが浮かんだ。
その前にできることは何だ?
殺される前にできる最後のひとあがき。
15 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:45
と――
『敵』の手が力なく私の頭から離れた。
何があった?
『敵』は顔をゆがめて私の前に立ち続けている。
視線は私の背後に向けられていた。
振り返る。その先に見えたのは、紺野あさ美。
横たわる麻琴のそばに立ち、『敵』を睨みつけていた。

「なぜおまえは我々を拒み、ニンゲンごときに肩入れをする!」
そう叫んだ『敵』の巨体が吹き飛んだ。
16 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:45
首輪のように巻きついている紺野あさ美のチョーカーのランプは赤いままだ。
封じられているはずのチカラが発動している?
しかも、私を巻き込むことなく『敵』だけに影響を与えて。コントロールされている。
初めて目にした、目には見えない紺野あさ美のチカラは、聞いていたものとは違っていた。

ひとつの集落を消し、ひとつの都市を破壊し尽くした『バスター』。

『敵』と戦う私たち人間の最終兵器。
『敵』と人間の混血児。
『敵』の世界と私たちの世界を繋ぐ鍵。

抑制できないはずの、ギリギリまで使わせてはいけないチカラ。
止めなければならない。
そのはずだ。
私は私の命を消費してでも、彼女のチカラを使わせてはならないはずだ。
それが私の、今日の任務だ。
でも、今、私は彼女のチカラにすがろうとしている。
圧倒的な『敵』に対抗できるチカラに。
抑制できるのならば、コントロールできるのならば――
17 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:46
『敵』が立ち上がる。
鬼の形相。
立ち上がった『敵』の四方に、上空から落ちてきた何かが突き刺さった。
プラズマネットリーダーだ。

『敵』の上空を見上げると、黒い飛行物体が浮かんでいた。
対ハイクラス用無人攻撃ユニット――ヤタガラス。

まにあった。
思わず全身の力が抜けそうになる。
緊張の糸が途切れそうになった。
18 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:46
プラズマネットリーダーがプラズマの嵐を発生させ、『敵』を取り囲んだ。
『敵』の足を止めるだけではなく、場合によってはこれだけでも退治できる。
が、『敵』の眼光はまだ死んでいない。
プラズマの嵐の中にあっても、それとわかるほど、こちらを――紺野あさ美を睨みつけていた。

『敵』の頭上に青い誘導レーザーが一本、降りてくる。
ヤタガラスの腹が発光した。
直後――
レイ・ボムが『敵』を爆撃し、轟音と爆風と砂塵、泥土を撒き散らした。

伏せた顔を左腕でカバーして、爆風と砂塵と泥土を防ぐ。
泥の冷たい感触。
耳鳴り。
やがて、ささやくような風の音。

顔を上げる。

数メートル先にできた小さなクレーターの中心に、『敵』が立っていた。
まったくの無傷で。
19 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:46
「嘘だろ……」

目前の『敵』に対する認識が、ハイクラスからトップクラスへと変更された。
過去に一度だけ出現が確認されているという、トップクラスだ。
紺野あさ美がこの街へ移送されて来る前に破壊した都市とともに消えた最高位の『敵』。
こちらの世界の干渉をまったく受けつけない『敵』。
人間にはどうすることもできない『敵』。

「中澤さん――」
『今、バスターの発動許可を取ってる』

ぐっと歯を噛みしめる。
終わりを覚悟する。
私の命と、この街と、多くの命が失われることを。
いや、
バスターの発動許可が下りる前に紺野あさ美を奪われれば、それどころではなくなる。
また時間稼ぎをしなければならない。
しかも、今度は五分で済むかどうか。
ひとつの街を消滅させる手続きだ。
紺野あさ美と『敵』との距離が近すぎるので、避難勧告など出している暇はないだろうが。
どうなるかはわからない。
20 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:46
『敵』は、クレーター化した地面をずしりずしりとのぼってくる。
満面に怒りをたたえながら。
触れただけで殺されそうな空気をまといながら。

私に残された武器は左手のミドルロッド一本のみ。
それさえも意味がない。
絶対に通用しないことは先ほど証明されている。
絶対に勝てない。
私の人生で味わう、最初で、そして最後かもしれない、絶対。

『敵』が迫ってくる。
ゆっくりと、ゆっくりと、迫ってくる。
数分前のリプレイのように。
近づいてくる。
距離がなくなる。
『敵』の巨体が目前になる。

そして――
『敵』は私の脇を歩き過ぎて行った。
21 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:46
私は、動けなかった。
私は、震えていた。
ガクガクと揺れる膝を自分の意思で制御できなかった。
カチカチと鳴り合う歯を止めることができなかった。
怖かった。
情けなかった。
一度は死を覚悟したのに。
死んでもかまわないと思っていたのに。
それなのに、
私は、恐怖に震えていた。

小刻みに息を吐きながら、振り返る。
『敵』の大きな背中が見えた。
『敵』の大きな背中越しに、紺野あさ美の小さな姿が見えた。
逃げろ。お願いだ、逃げてくれ――
22 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:47
ズドンッ! と空気が爆発するような音とともに、『敵』の歩みが止まった。
もう一度、同じように空気が爆発して、『敵』が反り返った。踏みとどまる。
紺野あさ美のこめかみのあたりから血が流れた。
チョーカーのランプはまだグリーンになっていない。

逃げろ、逃げろ、逃げろ――
「逃げろ、紺野!」

私は走る。
身体を投げ出し、『敵』の片足にしがみつく。
こんなことで止められるとは思っていない。
何も考えてはいない。

身体が、宙に浮いた。
小雨を降らせ続ける灰色の空が見えた。
背中から地に落ちた。
後頭部を打ち、視界が閃いた。
23 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:47
「うう、あぁ……」
痛みにうめく自分の声が、どこか遠くから聴こえてくるようだった。
開いた目に映るものはぼやけていた。

横たわる麻琴が見えた。
紺野あさ美の後ろ姿が見えた。
『敵』は紺野あさ美に迫っていた。

「手荒に扱いたくはないのだ。もうあきらめて、おとなしくついて来てほしい」
「いやです」

『敵』の手が伸び、紺野あさ美を抱き上げる。
瞬間――

白い光が、
音もなく広がり、
私たちを包み込んだ。

バスターか?
いや、紺野あさ美のチョーカーランプは赤いままだった。
24 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:47
視界が全て白くなる。
目を開けていられなくなる。
ビリビリとした振動に毛が逆立つ。
首の後ろから背中にかけてぞわぞわとした気持ち悪さが波を立てて走る。
身体の表と裏が反転したような感覚に襲われた。
強烈な生理的嫌悪感。
吐き気。
全身の細胞が沸騰する感覚。
全身がバラバラに千切れていく感覚。
私が、私で無くなっていく。
私の形状が失われていく。
意識が――
25 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:47







 
26 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:48







 
27 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:48







 
28 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:48

私は微かな雨足に踏みつけられていた。
身体が冷えきっていた。
「寒い」と認識したと同時に、ぶるりとひとつ震えた。
静かだった。

横たわる麻琴が見えた。
おい、麻琴、生きてるか?
それ以前に、私自身、生きているのか?

麻琴のそばで、紺野あさ美が仰向けになって倒れていた。
私はハッとして起き上がろうとする。
が、全身に激痛が走って、すぐにまたうずくまってしまった。
せめてと、顔を上げる。
できる限りの周囲を見渡す。

『敵』の姿がどこにもなかった。
見えなかった。
29 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:48
私はどれくらい意識を失っていたのだろうか。
応援や救護の連中が来ていないということは、ごく短時間だったのか。
いや――
重要なことに気づく。
街は無事か?
みんな生きているのか?

空の博物館が――あった。
破壊されることなく、いつもと変わらぬ形で佇んでいるのが見えた。
街はまだ生きている。
ならば、人も皆生きているのだろうか。

あの白い光は何だったのだろうか。
『敵』はどこへ行ったのだろうか。
30 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:48
私はゆっくりと、痛みをこらえながら起き上がる。
冷えきってスムーズに動けない身体は機械のようだ。
立ち上がり、改めて周囲を見回す。
やはり『敵』はいなかった。

よろよろと足を進ませ、紺野あさ美のもとへ。

紺野あさ美は、目を閉じて、死んだように横たわっている。
本当に死んでいるのではないか?
彼女の身体は、全身の毛細血管が破裂したように、紫色に変色していた。
目や耳、口からは出血もしている。

手を触れただけで壊れてしまいそうで、私は紺野あさ美を抱き起こすことができなかった。
生きているかどうか確認することもできない。
呼吸は――
わずかに、紺野あさ美の胸が上下した。

紺野あさ美が死んでしまえば、いますぐに『敵』の世界とこちらの世界が繋がることはなくなる。
しかし、じわじわと侵攻してくる『敵』に抗う術がなくなってしまう。
この、世界というパンドラの箱に残された、最後の希望。
絶望と表裏一体の、最も恐ろしき怪物。
私たちは、彼女を失うわけにはいかないのだ。
31 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:49
『吉澤、聴こえるか――』
骨伝導インカムから、中澤さんの声が聴こえてきた。
私はホッとして、思わず涙が出そうになった。
最後の通信からあまり時間が経っていないはずなのに、とても、とても懐かしく感じた。

「聴こえます」
私は右耳下のインカムに手をあて、答える。
『何があった?』
中澤さんの声は少し苦しげだ。
無理を押しているように思えた。
「わかりません。それはこっちが訊きたいです」
少しの間。
『そうか……』

「中澤さん、『敵』は見えますか? 私は視認できません」
『うちらにも見えん。追跡もできてへん』
「そうですか……。了解」

やはり、消えてしまったのだろうか。
紺野あさ美が退けたのだろうか。
確認できない。
恐怖は拭い去れない。

目を開けてくれ。教えてくれ、紺野――
32 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:49
結局、救護のヘリが到着するまでのあいだも、『敵』の行方は確認できないままだった。
すでに『敵』はいなくなったものと認識するしかないだろう。
油断するわけにはいかないが、いつまでも影におびえているわけにもいかない。

バタバタと風を巻きながら飛んでくるヘリを見上げながら、私は麻琴の手を握っている。
雨に濡れて冷えきった、死人のような手。
「麻琴、もう少しの辛抱だぞ」
麻琴の手を握っていた私の手に思わず力が入る。
「吉澤さん、痛いです……」
「生きてる証拠だろ。もうちょっとだから泣きごと言うな」
とは言うものの、出血があり、骨折があるようだし、内臓もやられているかもしれないので、死ぬほどきついだろうとは思うが。

「そうじゃなくて、手が……」
「そっちかよ」

無謀ではあったが勇敢だったパートナーの手には、握り返してくるほどの力はない。
本当に、死ななくてよかった。
これ以上仲間の死を見送るのは耐え難いから。
私のためにも、生きていてくれてよかった。
とりあえず、ここから帰って、病院のベッドででも説教をしてやらなきゃいけないな。
自分の身の丈に合った仕事のやり方ってものがあるだろう。
私も他人のことは言えないけれども――
ただ、今は、今だけは、絶体絶命の死線を潜り抜けたパートナーの手を、痛がるくらいに強く握りしめる。
33 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:49


遭難者のごとく救助された私と麻琴は、その後、紺野あさ美と再会することはなかった。
紺野あさ美はふたたび移送され、その居場所はごく一部の人間しか知らない。
だから、残った謎のすべては謎のまま。
私たちが知る必要のないことはすべて知らされることがない。

ただ、そんな中でも、ひとつ、喜ばしくも寂しいことがある。
紺野あさ美が小川麻琴をご所望だという話だ。
天涯孤独の彼女にできた初めての友だちだから。
紺野あさ美の精神を安定させるために、麻琴は異動する。
行く先は、麻琴もまだ知らない。

ホームシックのようなものだろうが、そもそも、紺野あさ美にはホームがない。
私が知らないだけなのかもしれないが、たぶん、ない。
ホームがないのは私も同じで、帰って寝る場所はあっても、ホームと呼べるものはない。
かつてはあったが、失ってしまった。
家族も、大切な人も、場所も。
麻琴が紺野あさ美にとってのホームになれるのならば、私は、麻琴の異動を歓迎しようと思う。
ほんの少しだけ寂しくはあるけれど。
麻琴の前では絶対に言わないけれども。
34 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:49
「最初から仲良うなってなきゃ、寂しさも知らんかったろうになあ」
苦笑しながら言っていた中澤さんの内心を、私が言葉にして返す。
「でも、寂しさを知らないままよりは、今のほうが人間らしくて、しあわせだと思いますよ」
「せやな」

紺野あさ美には、しあわせに生きて欲しいと思う。
しあわせな生き方を許された存在ではないからこそ、逆に、強く、思う。
私は、私が生まれたことをあまり歓迎していない。
今、生きているこの世界が嫌いだから。
それでも、紺野あさ美には、この世界でしあわせに生きて欲しいと思う。
そう願う。
35 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:50
「麻琴――」
頭蓋骨やら腕やら全身数箇所の粉砕・複雑骨折や全身損傷で、当初は車椅子生活を余儀なくされると言われていた麻琴は、回復の過程で、やがて歩けるようになるどころか、今までと変わらないだけの運動能力を保持できるだろうと医者に太鼓判を押された。
ヒューマノイド技術の応用で医学も進歩したが、できることとできないことは厳然としてある。
『普通なら死んでいるし、運がよくても半身不随、歩けるようになるなら奇跡だ』と医者に言わしめた麻琴は、よっぽど奇跡的なケガの仕方をしたのだろう。
私は、笑った。
麻琴なら、何があっても死なないかもしれない。
安心して紺野あさ美の元へ送り出してやれるかもしれない。

「はい?」
病院のベッドに横たわる、まもなくリハビリを始められるほどに回復した麻琴のアホづらを見下ろしながら、
「紺野に伝えて欲しいことがひとつだけある」
メッセージを託す。
「何ですか? ひとつと言わず、ふたつでもみっつでも伝えますけど」
「ひとつでいいよ」
麻琴の鼻先をピンと指ではじく。
「痛たっ! 何するんですか、病人に!」
ケガ人だろ。
36 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:50
「本物の空を見せてやるって約束、忘れんなよって」
本当だぞ。
神様じゃなくたって――

希望は絶望と隣り合わせだけれど、希望のない人生は悲しい。
人類の希望と絶望をひとつの身体に孕んだおまえに送る、私の希望。
私自身の、願い。

「わかりました」
神妙な顔をして、麻琴は頷く。そして、
「ついでに、私にも見せてもらいたいなあ、とか」
おどけたように笑う。
私は苦笑する。
「あたりまえだろ。言われなくても見せてやるよ」
「あれ? 叩かないんですか?」
「叩くかよ。病人なんだろ?」
「いや、ケガ人ですけど……」
37 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:50


スモッグに覆われた白い晴れ空は、ほんの少しだけ続き、すぐにまた雨を降らせる黒い空になる。
空はどこまでも続き、世界はどこまでも続いている。
私はこの世界の中から飛び出すことはできない。抜け出せない。逃げ出せない。
でも、あきらめることはしない。
充分に、生きられるだけ生きなければ、いつかのときに、彼女に合わせる顔がないから。

私はこの街が嫌いだ。
今の仕事も嫌いだ。
それでも私はこの街で生きているわけだし、今の仕事で生きている。
私は他に生きる術を知らない。
いつ死んでもおかしくないような仕事でしか、私は生きることができない。

墓石のように林立する高層ビルの隙間を強い風が吹き抜け、酸性の汚れた雨は今日もやむことなく降り続いている。
いつか必ず青く澄み渡ると信じる空の下を、私は今日も休むことなく駆け抜ける。
38 名前:疾風のブレードランナー 投稿日:2006/06/02(金) 08:50

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        疾 風 の ブ レ ー ド ラ ン ナ ー


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39 名前:―――――――― 投稿日:2006/06/02(金) 08:51




 
40 名前:―――――――― 投稿日:2006/06/02(金) 08:55


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41 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/03(土) 17:14
どなたか分りませんが面白かったです!
願わくばまた、続編なり新作を読ませて欲しいと思っています。
42 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/03(土) 22:29
41さんに同感です。
これからも作品を載せていただけるならうれしいです。

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