帰って来たいちーちゃん

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/08(木) 18:36
一応はリアルもの。
まぬけなタイトルですが割とシリアスです。
後紺に市後が絡んでくる予定。
よろしければお付き合いください。
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/08(木) 18:36
アタシたちアイドルの現実は、きっとファンの皆が想うよりもう少し汚れてる。
そしてきっと、週刊誌を信じる人たちが想うよりはもう少し、リアル。
幻想よりは穢れてて、憶測よりはリアルな現実。
生きずらく、死ににくい。
温かくて寒々しい。
じめじめと乾いていて。
ぬるま湯の日常は止め処なく流れ、止め処なく零れてゆく。
ずっと続いて……いつとも知れない、いつかに終わる。
漠然とそう思っていた。
ううん。思い込んでいた。

―――あの人が、帰って来るまでは。


  *  *  *


その不穏な内容のFAXが事務所に届いたのは、六月も半ばを過ぎた頃だった。
不穏な内容。
それ自体は特筆して珍しいものではない。
紺野あさ美、小川麻琴両名の卒業発表からこっち、
その手合いのFAXや電話、メールに手紙は茶飯事だった。
内容も多岐に渡り、不穏なものも少なくはない。
「死ね」「ぶっ殺す」などフラストレーション剥き出しなものもあれば、
事務所の方針に対する不満や感情をつらつらと小理屈の皮を被せて体裁を整えたものもある。
だがその本質に大差はない。
みな憤りを言葉にして吐き出しているに過ぎない。
だから、その文面を目にした所で葛城一巳はさしたる動揺はしなかった。

―――彼女を殺害します。

白いファックス用紙の中央に一行、無感情なタイプで打ち込まれたそれはどこか不気味でこそあれ、
内容だけ見ればそれまでに送られてきたものと変わらなかった。
否、変わらないと思った。
同じ差出人から、続けて送られてきたもう一枚のFAXに目を通すまでは。



FAXには、現Hello Projectメンバー全員の現住所と携帯電話の連絡先が正確に記されていた。


3 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/08(木) 18:37


  *  *  *


「必要なものがあれば私が買ってくるから。あまり出歩かないでね?」
「はい、ありがとうございます」
「真希ちゃんも。聞いてる?」
「んぇ? ああ、うんうん。大丈夫。色々とごめんどーおかけします。お疲れ様さようなら」
「……あーはいはい、邪魔者はさっさと消えるから。
 とにかく外出だけは気をつけて。インターホンも出ないように」

念を押すように言い二人が頷くのを確認すると、含みありげに「ごゆっくり」と残して葛城は玄関を出て行った。
都内、最寄り駅からほど遠いマンションの一室でのことだ。
不幸中の幸い。地獄に仏。
二人は不謹慎にもその言い回しが状況にぴったりはまると思った。

後藤真希と紺野あさ美。
今日からしばらく、二人はこの部屋で生活を共にすることになる。

原因は件の不穏なFAXだ。
悪質な悪戯程度であるならいいが、相手がそれなりに管理されている筈の情報を正確に調べている以上、
そうでない可能性も十分過ぎた。
警察にも届けたが、FAXは都心のコンビニから送られたモノで、犯人の特定は難しいという。
対策として事務所はFAXに名前のあった所属タレント全員を、用意した場所で保護することにした。

「なんか作るねー?」
「あ。はい、あの、手伝います」

だが大所帯のHello Project。
人数分の部屋を用意するのも容易なことではない。
大部分がホテルだが、残りはガードマンのいるマンションへ。
また安全性を鑑みて、最低二人以上の同居は必然となった。
結果、真希とあさ美は二人で住まうことになる。
もちろん偶然ではない。
真希のマネージャーで、二人の関係を知っている葛城の配慮によるものだった。

「けどいくらくらいするんだろうね。ここ」
「んー。結構すると思いますよ?」

あてがわれた部屋は2LDK。
家具付きで、足下は絨毯。
防犯対策は特に厳重なものを選んでいる筈なので、安いわけもない。
どうでもいいと言えば、どうでもいいことではあるのだが。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/08(木) 18:38
「寝室はひとつでいいのにねえ?」
「………それしか頭にないんですか」
「うわ、キツくない?」

初期は自分がこの手の発言をする度に顔を赤らめていたものなのに。
と、真希は古き良き日を懐かしむ。

「紺野もオトナになったんだねー」
「後藤さんは子供っぽいままですけどね。中身が」
「う゛」

痛い。なんかその笑顔が痛い。
確かに、容姿に反して自分の精神が幼いことを真希は自覚している。
モーニング娘。に入ったのが13歳、中学二年生の時。
本質的に、真希はその頃の幼さを保ったままだ。
その幼さは気を許している相手の前では特に露呈する。
わがままだったり。気まぐれだったり。
迷惑をかけたことも少なくはない。

「まあ、後藤さんのそういうのは可愛いですからいいですけど」
「『けど』ってのに含みあるよね」
「どうでしょうね?」

包丁を片手に並んで立った台所。
くす、と横顔で笑う彼女は本当に大人になったと思う。
昔は会話すらまともに成立しなかったのに。
今はこうして、自分を振り回してみせることも珍しくはなくなった。
中身もそうだが、容姿もだ。
綺麗になった。格段に。ハッとするほど。
悔しいぐらい。
何に対する悔しさなのか、定かではないけれど。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/08(木) 18:39
「もう、来月だもんね」
「……ええ」

トン、とまな板を打つ手が止まる。
ふと。あさ美の視線が宙を彷徨った。
視ているのは卒業のステージだろうか。
もっと先の自身だろうか。
未来行きの切符はいつだって片道で、不安と期待はないまぜになる。

「後藤さんは」
「ん」
「後藤さんも、不安でしたか?」

卒業。
揺さぶる言葉だった。
長い時間を過ごした場所から離れて、一人に、独りになる。
昔のことはよく覚えていない。
けれど、たまらなく寂しかったのは憶えている。

「うん。すごくね」
「ですよ、ね」

カタカタ、と震えている彼女に気がついた。
怖いのだろうか。
いや、寒いのだろう。
すごく寒いのだ。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/08(木) 18:39
「大丈夫」
「はい」
「大丈夫、だから」
「……はい」

後ろからそっと包み込んでやると、彼女の震えは収まった。

"夢は叶うよ、絶対叶うから"

囁きかけるように耳元で歌う。
来月、彼女は自分と同じ世界の人間ではなくなる。
けれど、それはきっと2人の障害にはなり得ない。
今までだって、決してスケジュールが合いやすいお互いではなかった。
肩書きが変わっても、2人の距離が変わっても、自分自身が変わっても。
一歩一歩でしか進めない人生。

それは終わりではなく始まり。
別れではなく旅立ち。
少し寂しいけれど、我慢しなくては―――。

「…………っ」
「後藤さん?」
「……、なんでもない。なんでも」

卒業。
揺さぶる言葉だった。
長い時間を過ごした場所から離れて、彼女は一人に、独りになった。
戻ってきた彼女は、昔のことなどよく覚えていなかった。
それがたまらなく、狂い出しそうに寂しかったのを憶えている。
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/08(木) 18:40
「紺野」
「はい?」
「約束の口づけ。原宿じゃないけどね」
「………はい」

後藤真希と紺野あさ美。
今日からしばらく、二人はこの部屋で生活を共にすることになる。
二人だけの生活が始まる。

―――二人だけの、悪夢が始まる。

8 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/08(木) 18:40
  *  *  *
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/08(木) 18:41
本日はここまで。
更新ペースなどは全くの未定ですすいません。
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/09(金) 01:41
面白そうですね!
次回も期待してます。
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/12(月) 01:22
期待
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/12(月) 22:50
帰ってきたい、ちーちゃん
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/15(木) 17:14


イメージは翼の生えた野良猫。
気まぐれで自由。
空と地上は別の世界だ。
飛び立った瞬間、あの人は遠い別世界に存在して届かない。
あの人は縛られない。
少なくともアタシの願いなんかじゃ縛れなかった。

とても、残酷な人。

14 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/15(木) 17:15


  *  *  *


二週間が経った。
二人だけの生活は平穏無事に過ぎ、暦は明日で七月に入る。
FAXの内容は実行されないまま。
他に不審な兆候がハローの誰かの前に現れたという話もない。
油断はできないのでまだしばらくこの生活は続くのだろうが、
事務所に張りつめていた危機感は薄れはじめている。

エレベーターに乗り込み7階のボタンを押す。
一定の重力をしばらく受け、ドアが開くのにあわせて廊下へと踏みだした。
部屋の前で鍵を取りだすのは意識する必要もない自動的な動作だ。
携帯で確認した時刻は深夜0時を少しまわったところ。
同居人は外泊のため扉の向こうは無人。
八月に大学入学資格検定を控えた彼女は、
たまにどこかのホテルへこもって勉強している。
真希がいるとどうにも集中しきれない、というのがその理由。
彼女が勉強しているとちょっかいをかけてしまいたくなるのが事実なので、
真希としては反論の余地もない。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/15(木) 17:15
ささやかな寂寥感に胸を圧されながら、真希は鍵穴を埋めドアノブを捻った。
静けさが吹き抜けてくる。
後ろ手にドアを閉め、施錠して玄関の明かりを灯す。
帰宅の安堵からか、帰りのタクシーでの眠気が再発してきた。
今日はこのまま眠ってしまおうか。
だが今日は新曲特典のシークレットライヴだったので汗臭い。
などと気の抜けたことを考えつつ、リビングの戸を開け、電気を点けた。

「おかえり」
「っひぁ?!」

かけられた声と、浮かび上がった人影。
びくりと肩を震わせ、人影の顔に視線を向ける。
瞬間、驚愕。
人影は見知らぬ不審人物などでなく。

「つーか久しぶり。ふーん、テレビで見てたよりはあんま変わってねーのな」
「なっ、な、」

こちらに背を向けた白いソファから身を起こし、
下から上、上から下へと真希の体を観察する人物。

「い、ちー……ちゃん?」

市井紗耶香。
真希のかつての恋人だった。
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/15(木) 17:15


  *  *  *


紗耶香の淹れたコーヒーの味などわからなかった。
高鳴る心臓が理解できない。
渦を巻くのは戸惑いと郷愁、それに畏れ。
背中の汗は暑さのせいではないだろう。

「んーな堅くなんないでよ。別になんもしないって」

ほら、アタシいま人妻だし?
盗み見たケラケラと笑う横顔はあの頃と変わらない。

「いちーちゃ……あ。今は市井じゃないんだよ、ね」
「別に。いまさら後藤に他の呼び方されんのも違和感あるし」
「ん。ってか、どうやって入ったの?」
「マネージャーさんに頼んだら入れてくれたけど?」
「あ、そ」

ソファに並んで腰かけて、素っ気のない口調を装った。
装ったつもり。
その実、声は震えているのがわかる。
温かなハズの陶器のカップが、ひどく冷たい。
指先が熱を失っている。
声の震えは痺れとなって、今や全身へと行き渡っていた。
17 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/15(木) 17:16
「だ、旦那さんとか子供は? ほっといていいの?」
「後藤」

ふと。肩に手を置かれる。
バッ。ほとんど反射で、置かれた手を振り解いていた。
手から零れたカップがガラステーブルにぶつかり、呆気なく砕け散る。
あ。
あさ美と揃いで買ったカップだった。
伸ばそうとした手を、あさ美ではない別の誰かは遮った。

「後藤」

今度は両肩を掴まれた。
静かな声音。
裏腹に、細く白い指へこめられた力は強い。

「後藤」

逸らしていた目線を強引に戻された。
顎先を掴まれ、視界の中央にあの嗜虐的な瞳が映る。
その唇は歪曲し、愉悦の色をにじませていた。
唇の奥では赤色の舌先が蠢いている。

「な、にもしないんじゃな―――」

その短い黒髪が顔にかかる距離。
息が止まる。
神経を焼き切るような痺れが背筋から脳髄へと走り抜けた。
18 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/15(木) 17:16
「んっ、ん……っ?! っ、は。やだっ、ちょ……っ、離して!!!」
「知ってるだろ? いちーは嘘つきなんだ」

それに、やめろと言われてやめる奴でもないし。
酷薄な笑みを象った唇が再び視界の下へと消える。
閉ざしかけたこちらの唇に強引に割って入り、赤いそれは真希の中を撫で回す。
脳裏の奥であさ美の顔が瞬いた。
水音を発てる目の前の行為は今や不快でしかない。
筋力は昔から自分の方が上なのだ。
強引に引き剥がせばいい。

「…っ、……?! んんっ……!」

手足に力が入らない。
比喩でもなんでもなく、ただ純粋に、手も足も言うことを聞かない。
痺れのような疲労が全身に燻り、なにひとつ自由にはならなかった。
抵抗する力は、むしろどんどん弱まっていく。

「む・だ」

耳元で小さく囁かれる。
言葉の意味を図ろうとして、床の破片に目がいった。
何か、入れられていたのか。

「さーて。なんのことだか。毒が塗ってあったとするなら、唇じゃない?」

毒の唇が首筋を這う。
じわじわと。ゆっくり、時に速度を上げて。
毒々しくも懐かしい感触。
同時に掠めるのはやはりあさ美のことばかり。
罪悪感が肌を裂く。
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/15(木) 17:16
「……なん―――」
「さっき旦那と子供のこと聞いてたよね?」

勝手に喋るなとでも言いたげに遮られた。
頷いてみせると、ニ、と笑みを象り耳元へ近づく。
そしてただ一言。

「捨ててきた」

布を引き裂く音が響いた。
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/15(木) 17:17


  *  *  *


イメージは奴隷。
臆病で愚鈍。
要するにガキ。
縛るのは簡単。
一度縛れば二度とは解放してやんない。
アイツはアタシのものだから。

お前の自由はどこにも亡い。
21 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/15(木) 17:17
ここまで。
展開が唐突ですいません。
22 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/15(木) 17:19
>>10
ありがとうございます。
期待に応えられるよう頑張ります。

>>11
ありがとうございます。

>>12
かえって期待ちーちゃん。
23 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/06/15(木) 22:12
((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
24 名前:10 投稿日:2006/06/20(火) 02:28
更新お疲れ様です。
こ、怖いですね・・・。
どうなってしまうんでしょうか。
25 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/25(日) 16:20

かち。かち。かち。かち。

神経質に一定のリズム。
無機質な針が刻んでいく鼓動。
進んでいるのに停滞する感触。
歯車に合わせて時間は歪む。

がち、がち、がちがちがち、がちが、ち。

組み込まれた歯車に似た、けれど別の、より猥雑な音が近くから聞こえる。
内側から聞こえる。
鳴っているのは自身の歯だと気がついて、
同時に身体がガタガタと、不規則に震えているのを理解した。

幼い子供に弄ばれる玩具のキモチ。
どれだけ乱暴に、粗雑に、恣意的に振り回されても、
不平を漏らす権利が、否、機能すら根こそぎ切り取られていた。
26 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/25(日) 16:21
既に市井紗耶香はこの部屋を辞した。
玄関を出る時、一言「またね」と笑顔を残して。
副音声。剥いた瞳で「逃げるなよ」と刻まれた気がした。
それが何分前の、何時間前の出来事なのか掴めない。
ただ「またね」という真新しい音声が繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し。
廻るかの如く、生々しい感触と共に血潮の奥へ沁みこんでいく。
それこそ毒だ。
血液に針が注がれるような痺れ。
鋭く小さな、しかし刺すような激痛が心筋を無作為に貫いていく。
針の群は心室に集い暴れ、鼓動のペースを著しく乱していた。

「―――さん…? 後藤さんっ!」

視界がグラリと揺らいで意識が弾ける。
ッ。悲鳴を上げかけ息を呑んで停まる。
肩を揺すられてただけだと気づくのに一瞬。
声の主があさ美だと気づくのにさらに一瞬。
27 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/25(日) 16:22
「ど、どうしたんですか?」
「……あ。紺、野……? えと、おかえ、り……、っ」

気遣わしげな大きな瞳が目の前で揺れている。
あの刺すような脅すような支配的嗜虐的な瞳とは違う。
まるで、違う。異質。
鼻腔の奥が痛い。
ツ。熱い雫が頬を伝うのを感じた。
途端、目の前の瞳は戸惑いと心配の色を深くする。

「…め、ごめ、ごめんなさいっ、ごめ、ね……こん、の……っ」
「え。ちょっ、落ち着いてっ、どうしたんですか後藤さん?!」

困惑。当惑。混乱。
あさ美の視界をぐるぐるとカオス色が瞬いた。
真希が絨毯に手をつき俯いて、顎先から雫をポツポツと零している。
年上の恋人がこれだけ取り乱す様は初めてだった。
床についていた腕は徐々に力を失くし、正座のまま額をつけてうつ伏せた姿勢に変わる。
空いた両手はその耳を塞ぎ世界を拒んだ。
その体勢でまだ何事か、真希は小さくひたすら呟いている。
28 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/25(日) 16:22
落ち着かせなくてはならない。
そう判断を下すのには思考すら不要だった。
肩を支え、小さくうずくまった真希に覆いかぶさるように自身の懐で包み込む。
真希の鼓動が伝い、自身の鼓動もまた真希を通して伝わってくる。
熱いくらいの温もりは徐々にだが真希の鼓動を和らげ、ヒューヒューと掠れる調子だった呼吸も平静を取り戻していく。
それでも依然、顔を絨毯に押しつけたままの彼女の耳元へあさ美は唇を寄せて努めて柔らかく、問いかけた。

「何があったんです? ゆっくり、教えてくれませんか?」
「……が………て…た」
「はい?」
「いち、ちゃんが、帰って……来た」
「いちい、ちゃん?」

聞き覚えがある。
いちいちゃん。
いちい。市井。市井、紗耶香。
確か……そう、真希の、後藤真希の教育係だった人。
元モーニング娘。で、卒業後にどこかへ行ってしまって、しばらくしてまた芸能界に復帰した。
風の噂程度に、今は結婚して子供もいるのだと聞いている。
29 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/25(日) 16:22

「……あの。その市井さん? が、帰って……来たんですか。それが―――」
「帰って来た」

反転。明瞭に響いたのは真希の声。
ガバ。真希の顔が虚ろに空ろに見開かれた瞳を晒す。


「―――いちーちゃんが、帰って来た」


ふつ、と。
真希の意識はそこで途切れた。

30 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/25(日) 16:23
  *  *  *
31 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/25(日) 16:23
短くて恐縮ですが本日はここまでです。
32 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/25(日) 16:26
>>23 名無飼育さん 様
ヽ^∀^ノ

>>24 10 様
ありがとうございます。
ふふ。乞うご期待、とだけ言わせていただきます。
どうぞお付き合いのほど。
33 名前:ミッチー 投稿日:2006/06/26(月) 01:13
更新お疲れ様です。
後藤さんは、どうしてそこまで恐れているのでしょうか?
この3人がどのような行動をするのか楽しみです。
34 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/27(火) 20:36


夢の中に在る。
厭(いや)な夢に、在る。
まるで井戸の底。
まるでイドの底。
仄暗く。根深く。幅狭い。
彼女は言った。

―――幸せにしてやるよ。

35 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/27(火) 20:37


  *  *  *


天井。
醒めると真っ先に、この二週間で見慣れたそれを認識した。
沈み込む背の感触で、ベッドに横たわっているのだという事実も同時に。

「調子は?」
「…、紺野は?」

葛城は軽く肩をすくめる。
こちらの質問を理解できないほどに悪いのか。
はたまたただの恋人不足か。

「仕事。今頃はガッタスの練習ね。
 ま。あの調子だとアンタが気になって遅くはならないでしょうけど」
「………そう」
「……。真希ちゃんアンタ、今日休んだってことわかってる?」

言われて、ゆるゆると思考を加速してみる。
ようやく言葉の意味を嚥下すると、

「あ。ごめ」
「別にいいけどさー」

メンドーなのよねー。
穴が空いたスケジュールの分、他に詰めなきゃいけないしー。
今日予定があった先方には逐一電話も入れなきゃだしー。
ちっとも別によくなさそうな口調。わざわざ手帳まで捲ってみせる。
36 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/27(火) 20:37
「……ごめんなさい」
「あーもういいから。さっさと寝る。夏風邪は長引くよ?」
「……え。風邪?」
「呆れた。自覚ないの? すごい汗かいてたみたいだし。紺野ちゃんも熱があるって言ってたわよ。
 どーせ汗びっしょりな服のままお腹出して寝てたんでしょ?」
「…あ、ああうん。そうみたい、はは。しくった」 
「ったく」

苦笑をこぼして、葛城はキッチンから盆を運んできた。
乗っているのは茶碗一杯のおかゆ。
白に薄い黄色のヴェールが掛かったたまごがゆだ。
冷めているのか、湯気は立たない。

「アンタの奥さん特製。今朝慌てて作ってったみたいよー」

この果報者がっ。
お盆の底で額を小突かれた。
ふと脇の化粧棚に置かれた目覚ましを見やると、時刻は午後4時。
なるほど、朝に作ったのなら冷めているのも道理だ。
あせあせと台所に立つあさ美の姿を想像して、薄く微笑み、唇の中へスプーンを通した。

どく、ん。
鼓動がひとつ、喉の奥、胃の底を脈打った。

「げほっ、げっ、えっ、えええっ、ごほっ……!」
「ちょっ?! 大丈夫?!」

がしゃん。がちん。食器が零れて脇へと落ちる。
込み上げる押し上げる嘔吐感。
胃は空だ。代わりに胃酸の苦味が口内を埋め尽くす。
視界の端には傾いた茶碗と、零れたおかゆ。
あさ美の作ったおかゆ。
あさ美の顔が浮かぶ。
37 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/27(火) 20:38

「ちゃん、は……?」
「待ってて、いま雑巾―――」
「いちーちゃんは?!」
「は?」
「市井、市井紗耶香はどこ?!」
「ちょっと、ちょ、ちょっと待って、落ち着きなさいって!
 なに、市井って……あの市井さんでしょ? なに、その人がどうしたの?」
「昨日来たでしょ? 部屋開けてあげたんでしょ?! 連絡先とか聞いてないの?!」
「はぁ? ちょっとほんとに大丈夫? 私、そんな人、会ったこともないわよ?」
「―――な、」

なら、どうやって―――?

38 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/27(火) 20:38


  *  *  *


「もしかしてごっちんと何かあった?」

二人だけになったロッカールームで唐突に訊ねられた。  
相変わらず勘がいい。
メンバーに悟られまいと、また答えの出ないそのことについて考え過ぎるのを避けるため
いつも以上に練習に集中したつもりだったが、彼女の眼は誤魔化せないようだ。
小さく肩をすくめ、あさ美は気遣わしげな藤本美貴の瞳を見つめ返す。

「そういうわけじゃないんだけどね。ちょっと後藤さん、今朝から体調悪いみたいで」
「ふーん。ならいいけど」

嘘は言っていないのだが、それでも隠している部分の存在を嗅ぎつけたらしい。
勘のよさもここまでくると超能力じゃないか。
今朝の真希との様子について相談することも考えたが、
なんとなく時期尚早と感じてやめておいた。
依然として鋭い瞳に左手からチクチクと探られる感触はあるが、とりあえず気づかないふり。

「ま。なんかあったら言ってよね。じゃ、お先ー」
「うんありがと。お疲れさま」

あさ美の方に話す気配がないと察してか、早々に諦めて美貴は退却を決めた。
オートロックの控え室の扉が閉じ、美貴の気配が遠ざかるのに伴って錠前が落ちる。
独りになる。あさ美も着替えは終えているのですぐに出れるのだが、
なんとなく美貴を追う気にはならなかった。
と、また今朝のことに思考が―――

かち。

―――及ぶより先に、扉が開く気配。
39 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/27(火) 20:39
「忘れも」
「はじめまして」

の、と続けようとした矢先、現れた人物に息を呑む。
最期に目にした映像の彼女は金髪だったが、今は黒髪に戻っている。
癖のないショートカットは、むしろ娘。現役時代の頃のイメージに近かった。
英語のロゴが入ったヨレたTシャツを、無造作に色褪せたジーンズに捻じ込んだ格好。
白いシャツの胸元はきわどい位置にまで肌蹴ているが、
色気よりむしろ少年的に爽やかな快活さを想起する。

「あの、市井紗耶香さん……ですよね?」
「まだるっこしいのは好きじゃない」
「………え、と」
「聞きたいことあるんじゃない?」

例えば後藤に何をしたのか、とか。
ちなみにその質問の答えはアイツの服を破って色々やっちゃいました、デス。
悪びれた様子など微塵もなく、それでいてまったくの真実を述べているという風情で彼女はそう言った。

「………どう、やって…入ったんです、か?」

なんの冗談なのか。
どこが冗談なのか。
理解できず、しかし、それが冗談でないとするなら今朝の真希の様子に合点がいくという事実に気がついて、
けれどそうと断定するには確信が足らず、それでも沈黙は気まずいためか知らず、そんなどうでもいいような質問を返していた。

「ピッキングって意外と簡単なんだよねー」

ピッキング。錠前を開ける技術。犯罪的行為。
そもそも自分は彼女がどうやって真希と自分の部屋に入ったのかを聞いたのか、
それともどうやってここに入って来たのかを聞いたのか。
ふと、肩に手を置かれる。
怖気のような違和感が走って咄嗟にその手を振り払った。
いつの間にそこまで迫ったのか、市井紗耶香は快活な笑みであさ美の反応を悦んでいる。
40 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/27(火) 20:40
「どこの建物も立派なカギと、表に警備員立たせてたりするけどさー。
 けっこー目立たないとこにある裏口とかが抜け穴で―――」
「ごっ、後藤さんの」
「ん?」
「後藤さんの、服、は、破れてなんか、いませんでした」

ただ。ただそれ以上、彼女の声を聞いているのが苦痛だった。
遮るために、その疑問を口にする。
口にした後で、自分自身、その矛盾に対する疑問を深めた。
そうだ。今朝、真希の服は破れてなどいなかった。

「そら、着替えさせたからでしょ。風邪ひいちゃうし。
 いちーはこう視えて優しいんだ」

なんだろう。不愉快だ。
非常に厭な、耐え難い感触。
彼女の声にはそれがある。
あさ美自身を害す声ではない。
そう、それは自分の大切なモノを侵すような―――。

「近づかないで」
「お?」
「これ以上、後藤さんに近づかないで下さい」

自身でも驚くほど、その声は敵意に満ちていた。
気圧されたわけでもないだろうが、彼女はあさ美から2、3歩距離を取る。

「あなたにはそんな資格、ないはずです」
「資格、ねえ。そーゆー実体も意味もない言葉って嫌いなんだけどな」
41 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/27(火) 20:40
少し前。
真希と付き合い出した頃、中澤裕子に言われたことがある。
「ごっちん、変なトコない?」
どういう意図かと訊き返すと、
「いや。ないなら別にええねんけど。ちょっとな、昔。
 その、ごっちんが付き合ってたヤツがヒドイ奴でな」

今、はっきりとあの意味を理解した。
真希が昔、付き合っていた相手。ヒドイ奴の正体。

「しかし意外。テレビで観た感じから、もっと愚図なの想像してたのに」
「私ももう少し、マトモな人だと思ってました」
「へえ。言うジャンよ。ま、最期までその元気があったら褒めてやるよ」

最期まで、という表現に眉をひそめる。
それはつまり、なにかが始まっているという意味なのだろうか。

「ではここで質問デス」
「………は?」
「キミは大切な人、後藤のためにどこまでできますか?」
「なにを、」
「1.轢き殺す 2.焼き殺す 3.圧し殺す 4.刺し殺す」
42 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/27(火) 20:41
あんまりな選択肢に一歩、後じさる。
何を言っているのか。
何を、そんな、尋常でないような、

「ちなみにいちーは1〜4まで全部できますよ。
 試しに証拠を見せようか。ん? まだ時間はあるなあ」

はめてもいない腕時計を見るような仕草。
つられるように、あさ美は携帯の表示を確認する。4時21分。

「まずは2.から試すよん。後藤は昨夜のショックでベッドから動けないだろうし、
 代わりに玄関に出てくるのはマネージャーさんかね?」

2.焼き殺す。
まさか。そんな。本当に、

「便利な世の中だよね。配達の時間指定までできるんだから」

尋常では―――…、ない。

「ちなみに指定したのは5時。配達屋さんが時間にルーズだといいね」

駆け出し、閉じる扉の隙間から響いたそんな声を、あさ美は背中で聞いていた。

43 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/27(火) 20:41
  *  *  *
44 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/27(火) 20:42
そろそろテスト期間に入るので、更新が不定期になるやもしれません
45 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/27(火) 20:44
>>33 ミッチー 様
ありがとうございます。
その辺りも追々明らかになっていくかと思います。
是非どうぞ3人の跳梁跋扈にご期待下さいませ。
46 名前:ミッチー 投稿日:2006/07/02(日) 04:29
更新お疲れ様デス。。。。
市井さん、まさか・・・。
怖すぎますね。何も起こらなければイイんですけど・・・。
次回も期待してます☆
47 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/11(火) 23:48
激しく期待
48 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/15(土) 21:16
キキッ。
けたたましく路面を滑るブレーキ音。
前のめる運転手に紙幣を半ば投げつけ、
あさ美は身にかかる重力を物ともせずに車外へと躍り出た。
澱んだ空の下、すぐ脇に見覚えのある業者のトラックが停まっているのを視認する。
唇を噛みながらマンション内へ駆け込んだ。

乱暴に鍵を挿しオートロックをこじ開ける。
エレベーターの表示は上昇を続けていた。
迷わずに非常階段へ。駆け上がる。
携帯を見る。4時56分。
上にいる筈の二人の携帯は何度かけても留守番電話サービスに繋がってしまう。
市井紗耶香はそれすら考慮に入れて自分に爆弾の存在を仄めかしたのだろうか。

爆弾。
可笑しくなるほど陳腐な単語だ。
映画に漫画、ドラマや小説。
それが登場するのは見慣れた虚構世界だけ。
否、違う。
「爆弾」という呼び方が問題なのだ。
「爆弾」は確かに、虚構にしか存在しないのかもしれない。
だが呼び方の違う、しかし同じ機能を持つ物体を総称するそれなら、
現実のニュースに頻繁とも呼べる頻度で登場するではないか。
「爆発物」。
遠い国では神様のためにそれで何人も亡くなっていると聞いている。
…聞いているが、聞いているだけだ。
「爆発物」はまだ幾らか現実的に思えたが、それでもそれが身近に迫るという事実の違和感は凄まじかった。
49 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/15(土) 21:16
5階。
乳酸が腿の表面で飽和している。重い。
だが尚、駆ける。昇る。
6階。
どうみても馬鹿げている。
まさか自分は本気で、「爆発物」なんてものが宅配便に届けられると信じているのか。
ここは日本だ。遠い国じゃない。
数年前の一件から、国内のシステムもそこそこ「爆発物」へ敏感となっている。
宅配便が、まるで気づきもせず文字通りの不審物を運んでくるなんてありえない。
……それでも―――、

7階。
体当たりの要領で金属の扉を開け放つ。
倒れこむように廊下を突っ切る。
映ったのは閉じかける自室の扉。去っていく宅配員の背中。

「わっ?! …え、なに。紺野ちゃん?」

閉じきる寸前に手をかけたドアノブ。
こちらを覗く葛城の手元から白い、段ボールの小包を引っ手繰る。
中で液体の揺れる独特の手ごたえがあった。

「ちょ、ちょっと?」

――― それでも、あの厭な声は耳から離れない。

「静かにっ!」

一喝して、小包に耳を寄せる。
…チ。カチ。カチ。
ハ、と嘲笑すら漏れた。
目覚まし時計か。時限爆弾か。
どちらなのか。
判らないのなら、最悪のケースを想定するべきだ。
50 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/15(土) 21:17
握ったままの携帯。
表示は4時59分。
視線を巡らせる。
このマンションの廊下は外部に面していない。
一室の扉の向かいにはまた別の一室の扉がある。
外に包みを放ることはできない。

カチ。

明瞭に刻まれる時の音色。
携帯の表示は分単位だ。
セットされた時刻が5時丁度だとして猶予は――…数十秒も残っていまい。
フットサルの影響なのか、判断から行動までは迅速に移せた。
これもフットサルで鍛えたフォームを用い、あさ美は包みを廊下の先へと全力で投げ放った。

――…カチ、ン。

炎。
視界の中央、中空にオレンジ色の帯がゆらめき立ち昇った。
ドスン。炎を纏ったダンボールが非常口の扉に衝突して鈍い音を発てる。
燃えながら小さく爆ぜるパチ、という音の他に大きな爆発音などはなかった。
つまり、爆発物ではなかったということだ。

「ちょっともうなんなの一体?!」

廊下に出てきた葛城が、あさ美の視線を辿って動揺を示した。
炎は大きさを縮めながらも依然、燃え盛っている。
それほど広い空間ではない。炎の熱は鼻の頭を撫でていた。
同時に独特の臭いがわずかだが鼻腔をつく。
スタンドの臭い。ガソリンか。

ザシュゥッ。
ゲーム上での刃物の効果音に似た音で意識を引き戻される。
見れば、煤けた残骸の上に葛城が洗面器を逆さで差し出している。
今の音は水が床を打ち炎が掻き消されるそれが混じったものだったのだと理解する。
51 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/15(土) 21:17
「……説明してくれる?」

葛城の台詞。
こちらがしてもらいたいくらいだ。
そう返しそうになるのを抑え、そこでふと、焼け残ったダンボールの隙間で何かが白く光るのを見た。
葛城を制しながら近づき、しゃがみこむ。
黒く変色したダンボールと、おそらくはガソリンが入れられていたビニールの燃えカス。
目覚まし時計を解体して作ったと思しき時限装置の残骸。
こちらは熱のせいかプラスチックの部品が歪んでいる。
と、原型を失った残骸の中、ひとつだけその原型を留めた存在を認める。
30センチほどの長さと、親指と人差し指を目いっぱい広げた程度の幅がある銀色の金属の箱。
少し大きめではあるが、片側を起点に開く構造からその用途は筆箱かなにかであろうと推察する。
箱の中からまた現れた箱に、ロシアのおもちゃを連想した。
耐熱性というわけでもないだろうが、被害は煤をかぶった程度で、箱は機能を保っていた。
淵に手をかけ、開く。

現れた一振りのナイフ。
たいして立派な代物ではなさそうだ。
どこの量販店にも売っている、簡素な果物ナイフ。
ぼんやりと、入手先からナイフの調達者を探るのは難しそうだと過ぎる。
刃渡りは20センチもあるだろうか。
グリップはちょうどあさ美の掌に収まるサイズだ。
剥き出しの刃の先端はしかし、人間の心臓をひとつ貫くには十分な鋭利さを湛えているように思えた。

―――4.刺し殺す。

耳障りな声が木霊する。
何らかの脅迫のつもりなのか、それとも。
52 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/15(土) 21:18
「紺野ちゃん?」
「なんでもないです」

箱の確認は葛城の視線を背中で遮りつつ行なっていた。
呼びかけられ咄嗟にだが、ナイフを箱に収めて服の裾に忍ばせた。

「とりあえず入りましょうか」
「え? ああ、うん。そうね」

葛城を部屋へと促し、自分も後へ続く。
カチン。秒針の音を聞いた。
振り返り箱の残骸へと目をやる。
葛城は気づかなかったのか、はたまたあさ美の幻聴なのか、扉が閉まる。
訪れた静寂の中、あさ美はジッと、残骸から覗く砕けた文字盤を見つめた。
カチン。また、鳴った気がする。
刻まれた音は、何を数えていたのだろうか。
53 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/15(土) 21:18
*****
54 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/15(土) 21:19
一応の目標だった23日までの完結は難しそうです
55 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/15(土) 21:22
>>46 ミッチー 様
先に断言します。
何かしら起こります☆(鬼
ご期待ありがとうございます。

>>47 名無飼育さん 様
応えられるよう激しく頑張ります。
56 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/16(日) 22:00
更新乙です
わー、ヤーバイですねぇww
めっちゃ楽しみにしてます
57 名前:ミッチー 投稿日:2006/07/17(月) 04:20
更新お疲れ様デス。。。
あわわ、何かしら起こるんですか。
断言ありがとうございます(w
楽しみにしてます☆
58 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/07/19(水) 00:45
((((゜д゜;))))
ミステリアスですね…
59 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/19(水) 02:18

「要するに、例の市井さんがこの悪戯の犯人なわけね?」

悪戯。
葛城の言葉にわずかにだが、眉をひそめる。

「ええ。あの、たぶん。……間違いなく」
「確かに度を超えた嫌がらせよねえ」

嫌がらせ。この響きにもやはり違和感を覚えた。
葛城には真希に市井が何をしたと言ったのかは告げていない。
横で俯いている真希にもその真偽について未だ確認はできていなかった。
葛城には市井の不法侵入と、彼女が燃える小包について話したことだけ伝えた。
それらの情報しか持っていない葛城の視点からすれば、確かに今のところはその程度に思えるのだろう。
だが本当に彼女の行為はその程度の、生易しいものなのか。

「けど意外ね。市井紗耶香って、なんていうかそんな、危ないコだったの?」

違う。
口に出しかけて留めた。
「危ない」。確かにそうだ。
だが葛城の言う危うさとは、理性的に事態を進められず、半ば自棄になって行なわれる…いわばヒステリーのことだ。
市井紗耶香はそれとは違うと、断言できた。
あさ美自身よくは判らないが、先に邂逅した彼女は異質でこそあれ、異常ではなかった。
正常な状態がアレなのだ。
理性的な思考の結果があの行為なのだ。
自分たちの尋常からは逸脱した正常、それを市井は持っていた。
葛城の言う「危ないコ」より、危険度は遥かに高い。
60 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/19(水) 02:19
「それにしても参ったわねえ。例のFAXの件でただでさえ事務所はこの手のことに敏感なのに」
「あの、そのFAXも市井さんの仕業ではないんですか?」
「え? ああ。たぶん違うと思うよ。そのFAXを送るのに使われた例のコンビニ、警察が監視カメラの映像借りたって言ってた。
 そこに映ってたそれらしき人に見覚えあるかって、警察から事務所に持ち込まれたらしいんだけど、誰も覚えがなかったらしいし。
 流石に元々事務所でタレントやってたコが映ってれば誰か気づくでしょ」
「葛城さんは見てないんですか?」
「ああ、うん。話をチラッと後輩に聞いただけ。私が不在の時に持ち込まれたらしいのよ」
「じゃあ、まだ全員が見逃したって可能性も残ってはいるんですね?」
「まあそうだけど。後でその後輩にどの程度ハッキリ映ってたのか聞いてみれば―――っと、なにこれ危ないわね」

絨毯に突きかけた手を葛城が大袈裟に戻す。
見れば葛城の傍ら、ソファーの手前に割れたカップが落ちていた。
よく見るとガラステーブルの端にも破片の一部が乗っている。

「あ。それ、昨日いちーちゃんがコーヒー入れて……ごめ、割っちゃって」

しゅん、と真希が一段と覇気を失くす。
砕けたのは真希とペアで買ったそれだ。
原因はまず間違いなく市井。
それが無性に気に障った。
61 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/19(水) 02:19
「気にしなくていいですよ」

後藤さんが悪いわけじゃないです。
自分に聞かせるように語りかけ、手早く破片を片付ける。
絨毯には特にシミなどできていないようだった。

「あの、葛城さん。一応お聞きしますけど、他に最近、変なこととかは……?」
「変なこと? いや、ここへ来る時は後をつけられたりしないように注意払ってるし……どうやって知ったのかしらね? 市井さんは。
 うん。その辺、事務所に帰って会議ね。……あ。変なことって言うと、いや、関係ないかもしれないけど」
「何かあったんですか?」
「や。うちの近所でのことなんだけど、一回だけ誰かにつけられてる気配がしたのよ。
 特に誰もいなかったから、たぶん勘違いだと思うんだけど。ほんとその一回だけだし、私の自宅調べたってしょうがないだろうから、
 やっぱ関係ないと思うけどね」
「そう、ですか……。」

市井が葛城を尾行する理由はあるだろうか。
いや、今日の犯行で自分が間に合わなければケガをしたのは葛城のはず。
……だが、市井は「試しに証拠を」とも言った。
本当の狙いは真希の側にいる邪魔者、あさ美のハズだ。
なら言う通り、関係は無いのだろうか……?
62 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/19(水) 02:20
「じゃ、私は帰るね。戸締りはきっちり。あと紺野ちゃん、勉強忙しいんだろうけど、やっぱり色々心配だからできるだけ真希ちゃんといてあげてね?」
「はい。あの一応、気をつけてくださいね?」
「うんありがと。それじゃ―――」
「かずみちゃん!」

張り上げたのは真希だ。
大きめのバッグを手に取り立ち上がった葛城が足を止めた。
あさ美もこれには驚いて、真希の横顔を見つめる。
何かを言いたげにその唇が薄く、開いて……閉じた。

「どうかした?」
「……あ。ううん。気をつけてね」
「? 変なの。はいはい。じゃ、また明日。今日の分もみっちり働いてもらうからさっさと治しなさいよ?」

悪戯っぽく言って、彼女は玄関を出て行った。
閉じた扉の奥からは、ハイヒールが廊下の床を打つ甲高い音が響いていた。
63 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/19(水) 02:20





―――葛城一巳の訃報が届いたのは、その翌日のことだった。


64 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/19(水) 02:21
*****
65 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/19(水) 02:21
短いですが本日はここまでです
66 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/19(水) 02:24
>>56 名無飼育さん 様
色々とヤバイことになってきますw
めっちゃありがとうございます。

>>57 ミッチー 様
早速なにかしら起きた模様です☆
お付き合いよろしくです。

>>58 名無飼育さん 様
ヽ^∀^ノ
謎は深まりつつあります。
67 名前:ミッチー 投稿日:2006/07/21(金) 03:03
更新お疲れ様デス。。。
最後の一文を見て、「マジかよ・・・」と呟いてしまいました(w
市井さんやってくれますね。
後藤さんが何を言いかけたのか、気になりますね。
次回も楽しみにしてます。
68 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/22(土) 01:52
いっぱい期待
69 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/27(木) 08:08
めちゃ面白そう!

こうゆう話好きです。
文章も上手ですし。

頑張って下さい。
70 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/02(水) 15:24
足下から這い上がるような熱を感じた。
熱は瞬間駆け抜けて、皮膚を覆う冷ややかな汗だけ残して突き抜けるように掻き消える。
残ったのは寒気。悪寒だった。
思考が痺れる。
視界が明滅する。
立ち居地を忘れ呼吸が止まり動悸だけ明瞭になる。
次いで胃の奥から込み上げるモノに気づく。
恐怖だ。
喉元までせり上がるソレを、昼食の内容と共に掌で押し留める。
声帯がイカレたのか悲鳴など出なかった。
ただガクガクと手足が動作不良を起こしたかのように意思を無視して揺れていた。

瞼を閉じて呼吸を整える。
現在位置はマンションの一階、エントランスにある鍵付郵便受けの前。
時刻は午後9時過ぎ。
情報を整理し、もう一度ソレを目にする覚悟を決めて、瞼を開いた。

指だった。
足下に落ちている。
取り落とした封筒から覗いている、――― それは人間の指だった。

キ。開きぱなしの郵便受けが、吹き込んだ風に鳴いた。
昨日の一件があったので注意して開いたそこには、一通の封筒が届けられていた。
手に取り、感触の違和感に眉をひそめてその場で開いた。
見た瞬間、閃光のように視界が弾けた。
71 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/02(水) 15:25
今一度確認する。
しゃがみ込み、ソレとの距離を縮めた。
紛うことなく指だった。
人差し指だ。
女性のモノに見えた。
否、間違いなく女性のモノだろう。
その指の持ち主を、あさ美はきっと知っている。
彼女のモノだと理解し飲み込むと、少しソレに対する嫌悪感が薄れた気がする。
おそるおそるではあるが、手を伸ばし、触れた。
骨ばってひやりと冷たいが、表面には人間特有の柔らかさが確かに残っていた。
なにげなく指先で突いてみる。
関節が固まっているのか指はペンのように転がる。
死後硬直。持続するのは24〜30時間だったか。
彼女が死んだのは今朝なのだから、まだ硬いのは道理だろう。

葛城一巳。
午前中、フジの音楽番組収録で娘。と同じ楽屋にいた真希の元に連絡が届いた。
今朝から連絡が取れず現場にも現れなかった葛城の所在が掴めたのだ。
場所は彼女の自宅の最寄駅、そのホームだった。
その駅に急行電車は停止しない。
停止しない、猛スピードの車体の正面に、葛城一巳は落ち―――

『1.轢き殺す』

―――違う。落とされたのだ。彼女……市井紗耶香に。
遺体は衝撃でバラバラになったと聞いた。
雨で視界が悪いせいもあってか遺体の一部には見つかっていないものもあると、事務所の人間が廊下で話していた。
例えば―――右手の人差し指とか。
72 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/02(水) 15:25
「紺野?」

咄嗟というのは恐ろしい。
背後からかけられた声。
あさ美は死体の指を素手で掴んで封筒に戻し、
がむしゃらにハンドバッグへ詰め込んでいた。

「ご、後藤さん? 早かったですね……っ」
「……うん。かずみちゃんのこと知ってたみたいで、スタッフさんが早く打ち合わせ切り上げてくれて」

振り返り立ち上がると、完全に疲弊した様子の真希の顔。
あさ美の不審な挙動が気に止まらないほど疲弊しているらしい。
言葉少なに二人、エレベーターへ乗り込む。
互いの息づかいが聞こえるほどに狭い、一時的な密室。
ささやかな重みが全身を押し潰す。
押し潰す。
圧し殺す。

『3.圧し殺す』

今日の収録中のことだ。
歌収録の最後。
曲目はLOVEマシーンだった。
この日は娘。と真希以外にも、数人のハローメンバーが出演。
全員揃ってポーズを決めた曲のラスト。
気づいたのは真希だった。

『危ないッ!!!!!』

怒号。混乱。衝撃。そして破壊音。
背中が痛かった。
次にのしかかる重みを感じた。
真希があさ美を突き飛ばすように倒したのだ。
勢い余ってそのままあさ美に覆いかぶさったのだろう。
スタッフの慌しい、叫ぶような大声が幾重にも入り乱れてスタジオを響き渡っていた。
上体を起こして周囲をうかがう。
まず呆気に取られた表情の、あさ美同様に真希に突き飛ばされた何人かのメンバーが尻餅をついていた。
その視線の先。
真希の体に遮られて見えなかったそれを、体を起こしてよく確認する。
73 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/02(水) 15:26
照明器具の残骸だった。
同心円状に飛び散ったガラス片が血の代用に視えた。
バチッ、とひとつ、弾けるような音。
千切れかけた黒いコードがそれが元あった位置、天井付近まで伸びている。
辿った先で、ゆらゆらと照明の固定器具が揺れていた。
視線を地に戻す。
重力に押し潰された黒く硬い、凶器。
そう、凶器だ。
残骸のあるのは自分達の今まで立っていた位置。
あのまま立っていれば、ただの怪我で済んだ保障はない。

それこそ―――圧し殺されていたかもしれない。

その場が危険だからとスタッフに手を引かれるまで、
目の前でゆらゆら揺れる照明の熱の残滓と、脳裏に燻る昨日の炎が重なり合っていた。
74 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/02(水) 15:27
「紺野? ついたよ?」

覇気のない真希の声。
時間軸を取り戻す。
思えば、死体の指などというおぞましい物を見て恐怖こそすれ悲鳴を上げなかったのは、
葛城の死と収録中の事故――否、きっと事件――を体験して、実感していたからかもしれない。

『――殺す。――殺す。――殺す。――殺す』

足下でパンプスが床を打つ。
昨日は葛城と共に遠ざかり、そして二度と聞くことのなくなった足音が。
脳裏に厭な声が、足下で厭な音が、木霊する。

『最期までその元気があったら褒めてやるよ』

抱えたハンドバッグに意識を向ける。
その中にある、一通の封筒。
最初に開いた時、その人差し指の先はこちらを向いていた。
真っ直ぐと。無言で。突きつけるように。
あさ美の瞳を、貫いていた。



『―――次は、オマエだ』



…そう言いたげに、真っ直ぐと。
75 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/02(水) 15:27
*****
76 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/02(水) 15:28
遅くなりましたすいません。
77 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/02(水) 15:34
>>67 ミッチー 様
ありがとうございます。
ええ、マジですw(鬼
後藤さんが何を言いかけたのかは、次回辺りに明らかになるやも。
よろしくお願いします。(平伏

>>68 名無飼育さん 様
♪そよ風に寄り添(ry
ありがとうございます。

>>69 名無飼育さん 様
ありがとうございます!
少々堅苦しい文章ですが、お褒めいただき光栄です。
頑張りますっ。
78 名前:ミッチー 投稿日:2006/08/03(木) 04:35
更新お疲れ様デス。。。
市井さん怖いよ〜(((゜∀゜;)))ガクガクブルブル
でもオモシロイ!w
この小説にもうずっぽりハマってしまいました。
作者さん、あなたやってくれますねw
次回も期待してます。
79 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/03(木) 05:58
超超超期待
80 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/12(土) 19:10


「紺野に話したいことがあるの」

切り出して、真希はあさ美にソファを勧めた。
言われるまま腰掛ける。
目配せで内容を促した。

「いちーちゃんの、ことなんだけど」
「………ええ」

入浴前に自室へ置いてきた指入り封筒が意識をよぎる。
真希はあれに気づいただろうか。
いや、気づいていようがいまいが一緒だ。
真希はきっと、いや間違いなく市井の異質さを知っている。
昨夜なにも知らないマネージャーに言いかけたことを、今。

「こんなの、信じてくれるかわからないんだけど……。」

前置いて、躊躇するように視線を泳がせている。
あさ美は沈黙を守り、先を待った。
信じられないと言うならばもう、既にして十分信じられないような出来事にいくつも遭遇している。
遭遇どころか今もって渦中に居ると言うべきだ。
信じられないからと言ってありえないわけではない。
ある程度のことなら受け入れる準備はできていた。
だが、続けられた真希の言葉は、

「いちーちゃんって、超能力者なんだ」

明らかに、ある程度以上の内容だった。
81 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/12(土) 19:11


  *  *  *


後藤真希が市井紗耶香に初めて出会ったのは、
周知の通り件のヒットシングルのジャケット撮影の時だ。
追加メンバー募集のオーディションに応募したにも関わらず
モーニング娘。のメンバーの顔と名前が一致していなかった真希は、
当然紗耶香に対しても最初から特別な印象を持った記憶はない。
状況が変わったのは紗耶香が真希の教育係に任命されたことからだった。

「後藤お前、今いちーのこと陰険って思ったろ?」

気味が悪いと、想った。

「うわひど。気味悪いはねーだろ先輩に向かって」

知らず、唇に手を添えた。
自分は言葉を発しただろうか。
いや、声を出した後のような喉の痺れがない。
間違いなく口に出してはその感想を述べていない。

「まー無理ないけどな。そのうち判ることだから言っとくけど、
 いちー他人の考えてる事がわかんだよ。なんとなく」

マンツーマンの指導を受けている最中の出来事。
真希が娘。に入って一月が過ぎようという頃の。
厳しい指摘に思わず抱いた感想を、抱いた瞬間言い当てられた。

気味が悪いと、そう想った。

けれどそう想ったのは、ほんの短い期間で終わった。
他人の考えが解る。
いわゆる超能力なのか、単に他人の表情から出る微細な動きに敏感なのか。
紗耶香が詳しく説明することはなかったが、
関係が深まるにつれそんなことはどうでもよくなった。
82 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/12(土) 19:11
紗耶香は優しい。
教育係としての厳しさすら優しさの一角だった。
他人の考えが解る分、常に他人が何を求めているかを知り、その知識に基づいて行動できた。
真希が落ち込んでいれば慰めの言葉をくれる。
真希が楽しい時は一緒になって笑ってくれる。
一緒にいてとても心地の良い人だった。
先輩後輩や友情を超えた感情を抱くようになるのに時間はそう要らなかった。
真希の告白に紗耶香は笑顔で応じた。
彼女を相手に告白など不要だったのかもしれないが、
中学生の真希にはそういった儀式が必要だった。
そのことすら紗耶香は残さず理解してくれていた。

二人の関係をメンバーも祝福してくれた。
彼女たちも紗耶香の特質的な能力は知っていた。
その恩恵に与ってもいたと言える。
紗耶香は誰よりも、本人よりも他人のことを理解していたから。
紗耶香は一緒にいてとても心地の良い人だ。
……否、都合の良い人だったのか。

何処で狂ったのか。
何処で壊れたのか。
それとも初めから、出会う前からそうだったのか。

ある日紗耶香は真希を犯した。
関係を持つのが初めてだったわけではない。
けれどあの行為は『犯す』としか呼称しようのないものだった。
縛り付けて閉じ込められた。
暗く冷たい剥き出しのコンクリート部屋。
殴られた。蹴られた。引き裂かれ、絞められた。
拷問と捕食を混ぜたような残虐。
83 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/12(土) 19:12
「―――して……っ、おうち、かえしてよぅ―――!」

血にまみれ泣き叫ぶ真希。
『五月蝿いな』。
静やかに吐き捨てて、彼女は真希の舌に牙を立てた。
口内に滾々と溢れ出る鉄の味に鳴き声を塞がれる。
残虐は一晩中続いた。
獄中に射し込む朝日に目を細めながら、紗耶香は言った。

「幸せってどんなものか知ってる?」

無視をして虐められるのが怖くて、真希は首を振った。

「不幸の逆が幸せだよ」

真希は首を振った。

「だから、不幸がないと幸せには成れない」

真希は首を振った。

「不幸が前提なんだ。常に在るのは闇なんだ。
 そこに光が一条だけ射し込むからこそ光は際立つ」

真希は首を振った。

「より辛いより暗いより色濃い不幸。絶望。絶倫の闇。
 それを知ってれば人生が何処までも幸福なものになると想わない?」

真希は首を振った。

「お前を幸せにしてやるよ」

真希が顔を上げた。
紗耶香が笑顔で踏みつけた。

84 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/12(土) 19:12


  *  *  *


「そういうのが何度も、いちーちゃんが卒業するまで続いたかな」

怖気よりも怒りが勝った。
自分の預かり知らぬ過去の出来事とは言え、
真希にそのような凶行を働いた市井を、あさ美は許容できない。

「紺野に話しておきたいことっていうのは、こっからなんだけど」
「え?」

まだ先があったのか。
姿勢を正して続きを促す。

「……ごめん、紺野。アタシ、紺野を――、守れない…っ」

真希の目で膨れ上がる雫。
ぽたりと、俯いた拍子にガラステーブルを打った。

「いちーちゃんは怖い。いちーちゃんが怖い。けどいちーちゃんを憎めない……!」

市井紗耶香には他人の考えが解る。
他人の考えが解る分、常に他人が何を求めているかを知り、同時に何を拒絶するかを知っていた。
真希が落ち込んでいれば追い討ちの言葉を投げる。
真希が楽しい時はその楽しさを踏み砕く。

傷つけられて。
踏みにじられて。
閉ざされて。

それでも尚、真希は市井を憎めないと言う。

「実際、いちーちゃんがいなくなってアタシは寂しいと想った。
 苦痛から解放されて、けど失くなった苦痛はアタシから幸せを奪って。
 紺野と居られるのは幸せだけど―――」

―――あの頃の、苦痛に満ちた日々の中に射し込んだ幸福には勝らない。
85 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/12(土) 19:12
飴と鞭、と呼ぶべきか。
市井は時折、真希に最初の頃の優しさを降らせた。
苦痛の中で得られるソレは、彼女の論理道理何にも勝る幸福だった。
そんな狂った幸福に真希は慣れてしまった。慣らされてしまった。

市井紗耶香の居ないその後の日々は安穏で。
安穏ゆえに、退屈だった。

やがてその退屈にも順応する。
ぬるま湯の日常は止め処なく流れ、止め処なく零れてゆく。
ずっと続いて……いつとも知れない、いつかに終わる。
漠然とそう思っていた。

けれど違った。
市井紗耶香は、帰って来たのだ。

「後藤さ」
「ごめん紺野…っ、だから、アタシは紺野を守れない、アタシはいちーちゃんに…、逆らえない……っ!」

あるいはそれすら、市井紗耶香の仕組んだことなのか。
真希の肩は痙攣のように震えている。怯えている。
紛いない恐怖。満たされる残虐。そこに瞬く優しさ。
真希は市井に支配されている。
今までもこれからも。彼女は市井紗耶香に逆らえない。
あさ美はそう、分析した。

「大丈夫です」

毅然と、自分でも驚くほどに明確に、

「私が後藤さんを守ります」

紺野あさ美は、ある決意をした。
86 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/12(土) 19:13


  *  *  *


銀色の蓋に手をかけた。
安っぽい金属の擦れる音を発てて、淡く机の灯に照らされて粒のような光を反射するソレが。
手に取ると微かな重み。
ナイフは怜悧に空気の流れを裂いている。

―――キミは大切な人、後藤のためにどこまでできますか?

耳障りな声。厭な声。
なにが厭なのか。
あの声が真希を捕えているからだ。

封筒を取り出す。
中にある指先を思い出す。

『次はオマエだ』

意味するところがそれだとするなら。
彼女は自分を狙っている。
自分がいなくなれば真希はまた。
それは駄目だ。
真希は、自分が守る。


―――4.刺し殺す


あさ美は刃を突き立てた。
封筒の表面がどす黒い血色に滲んだ。
悪夢は始まっている。
勝負は始まっている。

市井紗耶香を、刺し殺そう。
87 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/12(土) 19:13
*****
88 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/12(土) 19:14
更新でした
89 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/12(土) 19:17
>>78 ミッチー 様
ヽ^∀^ノ
愉しんでいただけているようで光栄です。
まだ何かしらやらかすかもしれませんw
いつもありがとうございますっ。

>>79 名無飼育さん 様
超超超ありがとうございます。(平伏
90 名前:ミッチー 投稿日:2006/08/13(日) 01:02
更新お疲れ様デス。。。
おぉ!何やら決意した様子ですね。
何が起こるんでしょうか?楽しみです♪
91 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/03(日) 23:54

インターネットで集められる情報は広いが、得てして浅い。
基本的にソースとなった本の情報を簡略化しているのだ。
あるサイトの情報源がまた別のサイトであることもある。
サイトの数も膨大なため信用できるサイトを探し出すのも一苦労。
受験のため史学系の科目の情報収集を始めて感じたことだった。
手軽ではあるがあるひとつの事柄に絞って情報を集めるには今ひとつ心許ない。

他の受験生と比べ勉強時間に致命的とも言えるハンデを抱えるあさ美だが、
ハンデと引き換えに持っているアドバンテージが自由に使える軍資金。
自分に合う参考書を見つけるため何十冊も試し買いしたり、
情報収集のため大量の本を買うのも最近では習慣になりつつあった。

池袋にある都内有数の大型書店。
ビル一つが丸々書店となっているそこで、
あさ美は"超心理学"に関する本を物色していた。
超心理学とは"超能力"に対し行動科学や実験心理学の方法論で検証を行なう学問である。
研究の対象が超自然的なものなため擬似科学として扱われることも多いが、
21世紀のいま尚、世界中で現実に研究が実践されている。

昨夜語られた真希の話。
最も気になったのが市井紗耶香の持っているという"超能力"に関する部分。
他人の考えが解る。
俗に言うテレパシー。
Extra Sensory Perception(超感覚的知覚)…すなわちESPと呼ばれる力を実際に彼女は持っているのか。
真希の話に嘘がなければ少なくとも他人が考えていることを言い当てる特技は持っているようではある。
重要なのはその能力が心理学で言う選択的注意、つまり脳が備えている機能が何らかの理由で他人より秀でており、
他人の微細な表情からその心理を言い当てているのか、あるいはより超常的な――例えば霊的な何か――能力に拠るものなのか。
調べる内、問題にすべき部分がそういった論点であるとあさ美は気づいた。
敵を知り己を知れば。
市井紗耶香の殺害にはその能力の解析が前提だ。
解析をしてすら打倒しうるか微妙なのだ。
92 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/03(日) 23:54
更に気になる点がある。
あの夜、最初に市井が現れた晩、彼女はどうやって部屋に侵入したのだろう。
真希に聞いたところマネージャーに入れて貰ったと発言したらしいが、
葛城は市井には会ったこともないと言ったそうだ。
ピッキング。
ロッカールームで邂逅した彼女の口振りからあさ美は一度、その回答に納得した。
深く考えればこれも不自然だ。
美貴がドアを出てから市井が入ってくるまで、ほとんど時間の開きはなかった筈。
錠前によっては熟練した人間でも数分から1時間以上要するものもあるらしい。
しかもあのロッカルームの錠前はカードキー。
そもそもピッキングが可能かどうかすらわからない。
まだこちらは錠が下りる部分に詰め物をしておくなどの方法であの状況を作ることは可能だろうが、
セキュリテイ能力に秀でた高級マンションではそうもいかない。
気になって調べた所、部屋の錠はカバスター社のもので、
やはり並大抵の技術でのピッキングはほとんど不可能とのことだった。
空き巣の開錠技術のひとつにサムターン回し…新聞受けなどから手をドアの内側に挿し入れ、
直接内側のつまみを捻るという手段もあるが、部屋の新聞受けはカバーの付いたタイプだ。これも実行出来ない。
第一、マンションはともかくロッカールームにそこまでして侵入した目的が理解できない。
あさ美に挨拶するだけなら外で待ち伏せればいい。

これほど困難で、かつ見つかればリスクの高い真似を市井が実行する理由。
彼女の異質性という一言で片付ければ楽だが、あさ美は自らにひとつの仮定を提示した。

―――彼女にとって、部屋への侵入が困難でないとするなら。

常人が相手なら条件は同じで、そんな仮定は成立しない。
だが、彼女は俗に超能力と言われる特異な資質を持っているおそれがあるのだ。
例えば、彼女の能力がテレパシーだけでなく念力、PsychokinesisやTelekinesisと呼ばれる能力も含んでいるとすれば。
手を触れず不可視の力で開錠することも可能なのではないか。
馬鹿馬鹿しい心配かもしれないが、超能力が実在するのなら無視できない可能性だ。
彼女がそういった攻撃的な能力も保持しているのならあさ美の目的実行はより困難になる。
市井のあの余裕を思い返しても可能性はむしろ高くすら思えた。
今日この書店に訪れたのは、その可能性が如何ばかりかを探る意図も強い。
93 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/03(日) 23:55
「……流石に、ないか」

数時間を費やして得た結論だった。
ユリ・ゲラーや、彼に影響され70年代に全国で名乗りを挙げた清田益章など、超能力少年少女。
パッと情報を斜め読みしただけでも胡散臭い逸話が多すぎる。
本人達の主張する力の根源など不必要な情報を無視してその能力にだけ目を向けるが、
得てしてスプーンを曲げるとか、それに準じた小さな現象を起こすのがせいぜいだ。
どれも手品の範囲で出来そうだというのが、しばらく数多くのマジシャンの演技を生で見たあさ美の印象だった。
ユリ・ゲラーに関してはTVで「TV越しに念力を送って止まっていた時計を動かす」というパフォーマンスを行なったらしいが、
その為に視聴者に時計をTVの近くに移動させたというのが怪しい。
これは読んだ本の受け売りだが、
止まっている時計はつまり故障した時計、単純に部品の接触不良で止まっていただけかもしれない。
ずっと放置していたそれを突然動かせば、視聴者の数も考えて相当数の時計が動き出すこともあるのではないか。
またユリ・ゲラーは某ゲーム会社に自身のイメージを盗用されたとして訴訟を起こしているが、
弁護士側の「このキャラクターは超能力でスプーンを曲げられる。あなたと似ていると言うなら同様に曲げてみせてくれませんか」
との口上に対し実践できなかった。訴えも取り下げた。
清田益章にしても雑誌でトリックを暴かれている。
昔の話とは言え"本物"として大々的に報じられた人物すらこれなのだ。
少なくとも念力について言えば、実在は立証不能とするのが妥当と思われた。
…まあ、大きな組織がその存在を隠蔽しているという陰謀論に飛躍させることも可能だったが、
それなら市井が放置されている理由が不明だしあまりに非現実的なので捨て置いた。

対して本命のESPについてだが、こちらは念力に比較して実在の可能性を真剣に議論する余地があるようだ。
特に興味を引かれたのが福来友吉ら一部の学者が、御船千鶴子や長尾郁子、高橋貞子と明治時代に起こした公開実験。
帝国大学の催眠心理学の専門家であった福来が学会で透視実験を行い成功させたというもの。
"貞子"という名前から思い当たる通り、例のホラー作品でも設定のモデルとして扱われた事件だ。
御船千鶴子は現実に三井系の会社の依頼により福岡県大牟田市で透視を行い、万田炭鉱を発見。
現在の価値で約2000万円もの謝礼を得るなどしたとされている。
実験の真偽自体は後に数多くの批判を浴びて福来教授の失脚という形で落ち着いている。
94 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/03(日) 23:55
と、これだけなら御船千鶴子の謝礼の件はともかく上の念力の能力者たちとそう変わらない。
ただ、可能性としては1割もないのかもしれないが、こちらには少し状況的に本物と疑える部分も多々ある。
明治の終わり、実験が行なわれた時代は明治政府の近代化政策に伴い西洋科学が広く一般に流布し始めた頃。
いわば迷信や心霊といった非科学撲滅の時代。
そんな風潮の、当時は超心理学も確立していなかった中で行なわれた"千里眼"実証実験。
まして行なったのが本来なら科学流入の最前を担うべき帝国大学の教授。
頭ごなしに否定されたとしても不思議ではない。
最初に福来が発見した能力者である御船は義兄にかけられた催眠術をきっかけに能力に目覚めたとされ、
福来は催眠研究の当時の第一人者。両者の邂逅についても資料を信じるなら不自然な点は見当たらない。
また御船は新聞や世間の非難に堪えかね自殺したとされているが、彼女の自殺を図った1911年1月18日の時点でまだそういった報道はなされていない。
これは憶測より妄想に近いが、あるいは能力者ゆえの苦悩、公開実験で大衆の前に出たことで受けたストレスなどがあったのではないか。
長尾も世間の非難の末に病死しているが、能力者はやはり他人の感情に敏感なのでは。
彼女たちの能力は透視だが、例えば記号を書いたカードを実験する側が被験者に隠して言い当てさせた場合、
無意識に実験側の脳にアクセスすることでカードの情報を読み取る、という仕組みなのではないか。
だとすれば無理矢理ではあるがESP実在の可能性に話は繋げることはできる。

「紺ちゃん」

呼ばれ、振り返る。

「……美貴ちゃん?」

できるだけ自然な動作を装って手に持っていた本を戻す。
奇遇だね、と出しかけて、美貴の背後に構えるスーツ姿の男性二人を認め眉をひそめた。
一人は若く二十代半ば〜三十前後、もう一人は若くても四十代前半の初老の男性だった。
どちらも恰幅は良い方で、事務所やTV局で見かけた覚えはない。
まさか美貴の友人というわけではないだろう。
そもそも美貴がなぜここにいるのか。
あさ美の仕事は今日は午後からだが、娘。本体は今ごろ舞台の稽古中のハズだ。
95 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/03(日) 23:56
「悪いけど、ちょっとついて来てくれる?」

言って、帽子を深くかぶった美貴は二人の男性を伴いエスカレーターに向かった。
断ることは許されないらしい。
まだ2、3調べたいことはあったが、諦めて美貴の頼みに応えることにした。


  *  *  *


「―――警察の方、ですか?」

開かれた黒い手帳の写真と旭日章を見比べ、努めて動揺を押し殺した声を出す。
一瞬自分がこれからしようとしていたことを見抜かれたような気になるが、
まさか超心理学に関する本を読んでいた段階で見咎められるハズもない。

「突然で申し訳ありません。本当は後藤真希さんにもお話を窺いたかったのですが、そちらが―――」

初老の刑事が困った風に、アイスティーを不味そうに啜る美貴を見た。
喫茶店のボックス席。
歩道に面したウィンドウや入り口からも死角になる位置で、
あさ美と美貴は麻布警察署刑事課所属と名乗った2人の刑事と対峙していた。

「だからぁ、昨日の今日で変なコト訊くのは避けて欲しいってお願いしてるだけですって」
「ええまあ。今となっては、我々も急を要するわけではないんですが」
「できれば早く片付けてしまいたいってのが本音なんですよ。僕らも抱えてる案件が他にもあるんで」

少し意外だった。
刑事が二人いる場合、一人が厳しい態度でもう一人が柔らかい物腰でそれを宥める、というのが
あさ美が持っている刑事についての基本イメージだ。
あれは尋問の常套手段だと聞くし、今日は役割分担の必要がないということなのだろうか。
96 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/03(日) 23:57
「それで、お話というのは?」
「そうでした。葛城一巳…さんはご存知ですね? 先日亡くなられた」
「…はい」

葛城の名前が出るのはある程度予想できたことだ。
葛城の死亡事故。
あれは市井の犯行である可能性が高い。
つまり殺人。刑事事件だ。
だが、刑事の口から出た話の内容は、あさ美の予想を大きく裏切った。

「そちらの事務所に不審なFAXが届いたのはご存知かと思いますが、
 その送り主…事件の被疑者として最有力だったのが彼女、葛城さんなんです」
「な…っ」
「これが不思議なんですがねぇ。FAXを送信したコンビニの監視映像を手に入れて、
 事務所の方々にお見せしたんですよ。けど、その時は皆さん誰も犯人らしき人物に心当たりはないと。
 それが数日前になって、急に皆さんから次々と連絡があって、映像の人物が葛城さんだと言う」

確かに不自然だ。
事務所ぐるみで葛城を庇うのもそうなら、
急にそれを撤回するというのも、あまりに動機が不明瞭すぎる。

「勿論我々もそれを無視するわけにはいかない。
 確かに映像の人物が葛城さんだと確認した上で、彼女に尾行をつけた」

それでピンと来た。
あの夜葛城が言っていた「つけられる気配」。
あれが刑事の尾行だったのかもしれない。

「そしたら今度は尾行をつけて数日経たない内に、葛城さんは線路に身を投げ自殺」
「……自殺、ですか?」
「ええ。あれ、聞いていませんでしたか?」
「…いえ、ハッキリとは」
「我々も妙だとは想うんですが。複数の目撃者の証言からどうも自殺はほぼ確定でして。
 ただやはり動機が今ひとつ不可解。事件のことを悔いた、というのが一番もっともらしくはありますが」
「私も、自殺なんてそんな、そんな素振りはひとつも……。」
「ええ、お尋ねしたかったことはそれと、あと…妙な質問かと思われるでしょうが、
 葛城さんの身の回りにいわゆる暴力団とか、それに準じた不審な輩がいたということはないでしょうか?」
「い、いいえ。気がつく範囲では」
「では葛城さんが亡くなった日、つまり昨日ですが、郵便ポストに不審な郵便物などは?」
「不審な、と言うと……?」
97 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/03(日) 23:57
ここで刑事は少し美貴に視線を移し、一瞬迷うような逡巡を見せた。
初老の刑事は若い刑事を示して、

「葛城さんの尾行についていた捜査員、まあコイツですが、どうも昨日の葛城さんの行動に不審な点がありまして」
「そうなんです。昨日、自宅を出た葛城…さんは右手に包帯を巻いていました。
 その時は特に不審に思わなかったんですが、今朝になって司法解剖の結果で、右手の人差し指が行方不明なのと、
 指の断面が刃物で切り落としたように綺麗なことを知った。つまり指は事故で失ったものではない」

彼女の自宅を探しても指は出てこない。
そもそも何の為に自分の指を切り落としたのかが見えてこない。
そこで思い出したのが、葛城が真希と自分のマンションのポストに入れた封筒だと若い刑事は言う。
実際にはそこに葛城が封筒を入れた段階で別の捜査員が封筒について確認を入れたかもしれない。
ここで嘘を言うのは得策とは思えなかった。

「ええ、確かに、葛城さんのものらしき指の入った封筒がありました。今はうちに」
「はぁ?! マジで?! うわっ、大丈夫紺ちゃん?!」
「美貴ちゃん、静かに」
「…あ。ごめん」

腰を浮かしかけた美貴が姿勢を正す。

「けど何でその、葛城さんがそんなこと?」
「あー、それは……。」
「普通に考えるなら、私か後藤さんへの個人的な怨みから来た嫌がらせだろうね」

刑事が言いずらいだろうことを先んじて補足する。
もちろんあさ美の知る限り彼女にそんな素振りは一切なかった。
確実にないとは言い切れないが、それが動機とするなら他にも不自然な点はある。

「けどそうだとするなら、その後に自殺するってのがちぐはぐで、理解できない」
「聡明ですね。それが我々も気になっている点でして。どうも落ち着かない」
98 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/03(日) 23:58


  *  *  *


「例の指については遺体の一部ですから一応押収させていただきます。
 後ほどにでも窺いたいのですが―――」
「今は後藤さんが家にいますが、やっぱり美貴ちゃんが言うように避けてもらっていいですか?
 相当ショックを受けてるみたいなんで……。」

真希はマネージャーの後継のゴタゴタや、
昨日の事故のこともあるので今日はオフになっていた。
戸締りは厳重に、ドアチェーンもかけるよう言ってあるし、恐らくは大丈夫な筈だ。
少なくとも物理的に危害を加えられることはないだろう。

「分かりました。では出来れば今日中にここへ連絡していただけますか? その時に窺いますので」

携帯の連絡先を書いた紙を渡し、刑事は伝票を手に店を去って行った。
美貴ともここで別れることにした。
あさ美が不参加なのを知らず刑事が稽古現場に訪問したので、
そのまま付き添って来たらしい。
書店にいることは昨夜メールで漏らした気がする。
本当は自分もそこにいないことを願っていたのかもしれないが。
確かに刑事との会話は内容がどうあれ気が重い。

「ありがとね、美貴ちゃん」
「あーうん。無理しちゃダメだよ?」
「あはは、わかってるって。じゃあね」

仕事まではまだ時間がある。
行くべき場所が、また出来た。
99 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/03(日) 23:58
*****
100 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/04(月) 00:00
前半は作者の趣味まっしぐら。
物語的に重要ではあっても必要じゃないかもしれません。
興味ない方は斜め読みでどうぞ。身も蓋も無いな。のにゅ。
101 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/04(月) 00:02
>>90 ミッチー様
決意から行動へ。
その先にあるものは?
実はそろそろ終盤に近づいて参りました。
最後までお付き合いよろしくお願いいたします。(平伏

というか更新遅くなって申し訳ない。orz
102 名前:ミッチー 投稿日:2006/09/04(月) 06:40
更新お疲れ様デス。。。
前半の作者様の趣味の部分、私も興味あります(w
だからおもしろかったです。
何だか、謎が多いですね。
どこまでも付いて行きますよ(w
では、次回も期待してます。
103 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/07(木) 08:33
終盤か……
ちょっとクラクラしたけど前半も面白かったですよ
104 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/14(木) 13:57

幸い目的の人物は都内の収録スタジオにいた。
身分を明かして訪ねると、すぐ控え室まで通してもらえた。
先ほどの刑事の話。
内容を把握する事で導いた推論を確かめるため、
あさ美は彼女を頼ることにした。
場合によってはこの後、他の卒業メンバーも訪ねるつもりだ。

「で、話ってなに?」

椅子を勧め、あさ美が従うのを待ってから中澤裕子は口を開いた。

「市井さんの能力のことで」

俄かに起こった表情の変化は見逃さなかった。
真希の話にあった通り、彼女はその件を知っているようだ。
同時に真希の語った内容が妄言などでないことの確認にもなった。

「……それについて聞きたい理由は?」
「今は時間がないので、申し訳ないんですけど説明は省かせて下さい。
 ただ言えるのは、興味本位なんかじゃなくて、私と後藤さんにとって真剣に重要なことだとだけ。
 …、聞いてると思いますけど、葛城さんの死亡、昨日収録中にあった事故とも関係しています。
 それで、いくつか質問に答えてもらいたいんですが」
「…そうか」

短く答え、裕子はあさ美を少し見つめ、逡巡するような仕草を見せた。
少なくとも自分が嘘は言っていないことと、
真に切迫した事態にあること、彼女の助けを求めるつもりはないことも読み取って貰えたようだった。
ひとつ息を吐き、

「わかった。答えられる範囲でな」
「ありがとうございます」
105 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/14(木) 13:57
最初に中澤裕子を訪ねた理由がそこにあった。
彼女ならこちらが真摯な態度で出る限りどんな質問でもはぐらかすことなく答えてくれるだろう。
また必要以上にこちらが面している事態を詮索もしてこない。
有り体に言えば話がわかる、ということだった。
それに、例えばあさ美が市井を証拠なく殺害できたとして、
今日話を聞いたことを後々まで漏らさないでいてくれる可能性が一番強いのも彼女だ。
他のメンバーが信用できないという意味ではなく、
それだけの重い秘密でも胸に仕舞い続けられる精神力、判断力を中澤裕子は一番持っていると判断してのことだ。
本来なら真希に話を聞くのが一番だが、
自分が最悪の犯罪に手を染めた場合でも、彼女に対してそれを漏らすつもりはなかった。

「まず、市井紗耶香さんにはいわゆる超能力…、他人の思考が読めるというものですが、
 彼女はそれを持っている。このことはご存知ですね?」
「…ああ。原理はわからんけど。確かにアイツには他人の心が読めてたな」
「次にその能力の範囲ですが。例えば、市井さんは他人の思考を読むと同時に、
 それを自分の想うように操ることもできた、とか。あるいは…他人に幻覚を見せることができるとか。
 心当たりはありませんか?」

確認したかったのはこれだ。
先の刑事の話で、葛城は間違いなく自殺だったという。
また、ポストに指を投函したのも紛れもなく葛城本人。
遺留品の身分証などもある以上、警察が別人を葛城と誤認し、未だそれに気づいていない可能性は薄い。
これらの事実については警察の捜査通りと見るべきだ。
では葛城はなぜそんな行動を取ったのか。
市井が取らせた、というのが現在のところ一番納得できる推論だ。
仮に市井が他人の思考を読むだけでなく、操作できるとするなら。
それで全てが符号する。
FAXの送り主が葛城であったのも、その映像を見た事務所の人間が最初、一様に彼女に見覚えはないと証言したのにも説明がつく。
また現行法は呪いなど、科学的根拠のない行為を刑罰の対象にはしていない。
少なくとも市井が公の場でその能力の存在を科学的に証明しない限り、
仮にあさ美が告発しても彼女が罪に問われることはないのだ。
同時に例のピッキングにも説明ができる。
誰か鍵を持っている人間を操作できれば開錠は容易だ。
106 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/14(木) 13:58
「…………いや、そんなことまで出来たって記憶はないけど。
 心が読めるゆーのも、なんとなくやって本人は言っとったし」
「…、そう、ですか」

押し寄せてきたのは落胆と、安堵。
推論が間違っていたのならその方がいいのだ。
市井に他人の行動が操れるのなら、そんな相手に太刀打ちする手段があさ美にはない。
いま生かされているのも単に遊ばれているだけということになる。

と、控え室の扉を叩く音。
裕子が応えると、スタッフらしき人が顔を覗かせた。
手招きされ「ちょっとごめんな」と裕子は席を外す。

しかし、これで推理は再び後退した。
今の推理が間違いだとするなら、ではどうやって市井は―――。

『間違ってなんかないよ』
(?!)

声は唐突に、耳朶の裏側に直接木霊した。
弾いたように裕子に視線を投げる。
スタッフと何かを打ち合わせていて、声に気づいた様子はない。

『聴こえてるのはキミだけ』

声の主は紛れもなく、
107 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/14(木) 13:58
(市井、紗耶香―――。)
『おいおいイキナリ呼び捨てかよ。ま、いいけど』
(……間違っていないって、どういう意味ですか)
『そのまんまの意味。いちーは確かにあの女…葛城サン? を操ってた』
(…、けど、中澤さんは貴女にこんな能力があったとは知らないようですね)
『まあ最近になって身に付いた能力だからねこっちは』
(最近……? なるほど、それで今回のことを実行したんですか)
『んー、そんなとこかなあ。あ、でもひとつ。キミの推理が間違えてるとこがある』
(……?)
『鍵だよ、鍵。いちーは―――』

「どうかしたん?」
「え。あ、いえ、なんでも」

声が消えた。
幻聴…ではない。明瞭だった。

「んで次の質問は?」

胸騒ぎが、する。
108 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/14(木) 13:59


  *  *  *


玄関の扉を叩く音を聴いた気がして目を覚ました。
時計を見ると、そろそろ昼間から夕刻と呼ばれる時間に移ろうとしてた。
カーテンの隙間から漏れる西日が目に痛い。

また、扉を叩く気配。
あさ美が帰って来たのだろうか。
いや、彼女はまだ仕事中のハズだ。
では……。
その可能性が頭を過ぎる。

―――後藤。

呼ばれた。
声は聞こえなかった。けれど確かに。
支配されるように立ち上がる。
ゆっくりと、真希は玄関に歩んで行った。

―――開けてよ。

「…、駄目……。」

―――なんで?

「こん、のに言われてる、から。…開けちゃ、駄目だって」

―――ふーん。

「……帰ってよ」

―――イヤだ、って言ったら?

「…、帰って」

―――まあいいや。開けてくれないんなら、

109 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/14(木) 13:59


  *  *  *


「市井、さんの。市井さんの住所はわかりますか?」
「ん? ああ、一応知ってはいるけど―――。」

殺さないといけない。
急かされるように彼女の居所を訊いていた。
なにか、なにか不吉なことが。
自分はなにか、重大な思い違いをしていたのではないか。

「どこです? 教えてください」
「いや、けど」
「教えてくださいッ!」

気づいたら机を打ち据えて詰め寄っていた。
流石の裕子もその形相に息を呑む。

「…、すいません……。」
「ああいや、どうしたん? あと住所教えるのはええけど、行っても紗耶香はおらんよ?」
「……? なぜ、わかるんですか」
「…、実はなぁ、」

110 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/14(木) 14:00


  *  *  *


―――開けてくれないんなら、

一瞬の、間。
真希は息を詰まらせた。
刹那、


「勝手に入るから」


背後から、声。
振り返ると、



  *  *  *


鍵だよ、鍵。いちーは―――、


  *  *  *



「紗耶香、事故に遭って今、意識不明の重態やねん」



  *  *  *


―――鍵開ける必要すらないから。


  *  *  *



市井紗耶香が、そこに居た。


111 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/14(木) 14:01


  *  *  *


あさ美は控え室を飛び出した。
112 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/14(木) 14:01
*****
113 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/14(木) 14:01
次回、最終回。
114 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/14(木) 14:04
>>102 ミッチー 様
興味ありましたかw
良かったです。
謎だらけ。全て解きほぐすことは出来るかな。(作者が
最後までどうぞお付き合いいただけますよう。(平伏

>>103 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
クラクラさせてしまってすいませんw
一気に終盤です。
115 名前:ミッチー 投稿日:2006/09/15(金) 00:33
更新お疲れ様デス。。。
マジですか、市井さん・・・。
何だかすごい展開ですね。
次回、最終回期待してます。
全ての謎が解けますよーにw
116 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/22(金) 22:45
わわ!そんな展開!?
息をつく間もございませんね
最終回(寂しい)待ってます!
117 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:37

既に仕事の始まる時間は過ぎている。
構っている場合ではない。
運転手に紙幣を半ば投げつけながら既視感を覚える。
建物のエントランスを駆け抜けて階段へ。
エレベーターを待つ猶予など皆無。
腿を上げ目指す階まで。
明確な危機を直視した今は乳酸の疲労すら忘却していた。

"幽霊"、あるいは"生霊"。
"爆弾"の数十倍は陳腐で現実感の薄い単語。
だが全ての状況証拠はその事実を強く物語っている。

市井紗耶香は病院で意識不明の重態。
意識不明の人間が歩き回りあさ美や真希の前に現れるわけがない。
中澤裕子の妄言?
だったら良かった。それなら良かった。
しかしそんな楽観は今この状況下に置いて棄却すべき愚策。
現実の脅威が其処に在る。
鍵の問題など市井紗耶香には取るに足りない。
回答を聞けば何のことはない。
あさ美が持つイメージ通りの霊体であるのなら扉くらいすり抜けられる。
言われてみれば扉を開く気配を感じはしたが、
あの時市井が扉を開くのを見てはいない。
118 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:38
市井は最近になってESP能力が強まったような発言をしていた。
最近とは事故後のことか。
能力で意識を誘導されたのかもしれない。

持ち続けていた違和感の正体を知る。
あさ美は真希の服は破れてなどいなかったと指摘した。
市井は着替えさせただけだと言った。
違う。

―――知ってるだろ? いちーは嘘つきなんだ

市井の発言は嘘だ。
着替えさせてなどいない。
真希の服は現実、破れてなどいなかった。

そうだ。
それにあのカップも―――。


  *  *  *


真実の恐怖を前に悲鳴など上げられないと知る。
背後に忽然と現れた市井紗耶香。
ニ、と歪められた口元。
怖気が走り、すぐ眼前に扉があるのを想起して床を蹴った。
刹那、転倒。
玄関の段差の角に頭を打ちつける。
視界が揺らいで、赤いものが伝った。
塞がれた片目の隅で、映るのは彼女の足元。
出口を背後に取られた。
咄嗟に翻す。
這いつくばるようにリビングへと逃げた。

倒れこんだ先にあったのはソファだ。
グラグラと世界が揺れる。
軽い脳震盪のせいなのか、彼女の放つなにか奇怪な毒気のせいなのか知れない。

「逃げないでよ、後藤」

移動した気配もないのに、声はすぐ耳元で囁いている。
愉悦に満ちた声。
面白がるような声。
不意に、指先が硬いものに触れた。
陶器のカケラ。
あのカップの破片。
119 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:38
なにかが脳裏でカチリと噛み合う。
紗耶香が淹れたコーヒー。
紗耶香は本当にコーヒーを淹れたか?
カップの落ちていた絨毯に視線を投げる。
シミひとつない絨毯。
違和感。
カップにはいっぱいにコーヒーが淹れられていた。
それを落としシミひとつ―――出来ないわけがない。

「怪談とかであるだろ」

思考を読んで、彼女は紡ぐ。

「幽霊のもてなし」

ケタケタと乾いた笑い声。
無邪気でいて邪悪。
矛盾ではなく混在。
こめかみにチリチリと焼けるような痺れが燻っている。

「ほら後藤」

すぅ、と伸ばされた手が頬をなぞる。
温度がない。
温かくも冷たくもない。
確かに触れているのに……虚無。

「一緒においでよ」

市井紗耶香は死んでいる。
120 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:38


  *  *  *


階段を上る。
脳裏を過ぎるのはあの指だった。
切り取られた指。
突きつけられた指。
無言のメッセージ。

『―――次は、オマエだ』

誤解していた。
あれは自分の、あさ美のことなどではなかった。

落下した照明。
残骸の跡。
疵付いた床に立っていたのは―――真希だった。

真希は狙われたから逸早く落下に気づけたのだ。
市井の狙いは初めから。
なぜ自分の前にまで現れたのか。
なぜ助ける余地を残しているのか。
その疑問は不要。
市井が生きているという前提。
彼女が真希を取り返したがっているという仮定。
それにはあさ美の存在が邪魔だという結論。
導き出したそれは、覆った前提を前に無に帰した。

市井は真希を連れて逝く気だ。

今はそれだけ理解できていれば十分だった。
走りながら鞄に手を伸ばす。
ひしゃげた銀の箱を取り出した。
蓋を開け中身を取り出す。
銀の刃。変哲のない果物ナイフ。
柄を握ると鼓動が跳ねた。
足音が二つ響くような錯覚を耳にする。

武器はこれだけだ。
なぜ助ける余地を残しているのか。
その疑問は不要。

非常扉を抜け部屋の前へ。
扉の取っ手に手をかける。
121 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:39


  *  *  *


「イヤッッッ!!!!!」

搾り出した悲鳴。
紗耶香の表情が消える。
無表情。
なにひとつ滲まない。
死人の、顔。

『拒むんだ?』

表情は動かない。
唇も動かない。
声だけが響いてくる。
鼓動の奥へと侵蝕してくる。

『アタシを拒むのか、後藤』

耳を塞ぐ。
意味はない。

『応えろよ』

響きに滲む苛立ち。
…否、憎悪。
122 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:39

「…、ぁ……? ッ、ッッッ?!」

喉が詰まる。
肺が広がらない。
空気。空気が欲しい。

―――あれ? 息の仕方って……?

思い出せない。
苦しい。
ドクドクドクドクドクドクドクドク。
鼓動が早い。
鼓動が聞こえる。
異常な速度。
ありえない速度。
苦しい。足りない。空気。酸素。
溺れる。溺れちゃう。死んでしまう。

「っ、ぇぁ、っぅ……ぁ、ひ」

首を掴む。
口を開ける。
入って来ない。
空気が。
もがく。
もがく。
もがく。
喉を掻く。
苦しい。
爪を立てる。
ヤバイ。
喉を毟る。
死んじゃう。
死んじゃう。
死にたくない―――っ。

―――紺野…紺野……っ、たす、け、こん、……!

走馬灯。
彼女の顔が奔る。
薄れていく。
嫌だ厭だイヤだ……!
123 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:40

『後藤』

抗えない声が響く。
がんじがらめに縛り付ける。
首から滴る赤いモノがぬめぬめと足元を塗らしていく。
顔が破裂しそうに膨れ上がっているのを感じる。
ボタボタと鼻先から血が零れた。
両目から涙。
肌いっぱいに冷ややかな汗。
眼球が飛び出そうに充血している。
一分が二時間に増幅される。
ゴッ。
鈍い音で自分が床に崩れ落ちたのだと知る。
視界に映るのが現実なのか夢なのか判別が出来ない。
苦しみが溶けていく。
もがく力が抜けていく。
無呼吸の海底。
後藤真希は静かに溺死を迎え―――、
124 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:40

「後藤さん!」

ドンッ。ドンッ。ドンッ。
鈍い音は玄関から聞こえた。
扉を叩く音。

「…っ、ハ、げほっ、ごほ、げ、ハァッ、ァ、ッハ、ごほっ…!」

脳が呼吸の仕方を取り戻す。
時間軸が戻る。
堪らず、血だまりにうつ伏せる。
生温かいぬめった感触が、今までのそれが夢ではないと物語る。
夢のような恐怖は未だ側に在る。

「糞。余計な。気が散る」

紗耶香が吐き捨てた。
扉を叩き、誰かが自分を呼んでいる。

「しかも誰だよ」

誰かの声は聞き知らぬ男のものだった。
125 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:40


  *  *  *


扉は引き戸だった。
がらりと開く。
室内には一人しかいない。
個室のようだ。
踏み込むと静謐な、世界の境界に触れる感触に抱かれた。

ピ。ピ。ピ。

定期的な電子音がこの世界の時を刻んでいる。
中央のベッド。
管に繋がれ臥せっている患者。

「…、ハ、見つけ、ましたよ……。」

部屋の住人は答えない。
扉を閉めるのも忘れ、ベッドに眠る彼女へと歩み寄る。
市井紗耶香。
包帯とギプスに覆われた小柄な体は、辛うじて彼女が市井であると判別できるレベルだった。
それほどに生気がない。
怖気が奔るような独特の毒気も。
少年のような無邪気な悪意も。
この市井からは抜け落ちていた。

ピ。ピ。ピ。

首を左右に。緩やかなリズムを振り払う。
時間がない。
あの刑事に適当な口実を作って連絡は入れたが、果たして助けになるかは微妙な所だ。
あるいは扉を破って真希を助けてくれたかもしれない。
だが鳴らしてみた真希の携帯は通話に入らない。
あるいは余裕がないだけかもしれない。
もう危機は去ったのかもしれない。
しかし去っていないかもしれない。
なら、去っていなかった時を前提に行動を打つべきだ。
126 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:41

「…、後悔は、しない」

決意を口に出さねば揺らいでしまいそうだった。
手の中のナイフを強く握り締める。
眠り姫を睨み据える。
無垢な市井。
だが真実は残酷な市井。
真希を連れ去らせたりは、しない。

この行為の果てになにが待つかは理解している。
築き上げたものは崩れ落ちるだろう。
大勢に取り返しのつかない迷惑をかけるだろう。
真希とも一生別たれるかもしれない。


―――キミは大切な人、後藤のためにどこまでできますか?


それでもいい。
一時の感情で、と将来自身を嘲ることになろうとも。
これまでを築いてきたのは一時の感情で。
これからを築いていくのも一時の感情だ。
後悔したって構わない。



「ここまで出来ますよ。後藤さんの為なら」



市井の胸へとナイフを降らせた。

127 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:41


  *  *  *


終局は唐突にやって来た。

「ク、ソ…時間切れ、か……っ」

紗耶香が苦しげに胸を抑えている。
ゆらりと、その輪郭が明らかに揺らいだ。

「……市井、ちゃん?」

呼びかけたことで、やはり彼女を憎めないのだと知る。
紗耶香はヘ、と自嘲気味に頬を歪めた。
表情に満ちている。
まるで生きているような。

『悪い。最期に迷惑かけた』

透けているのに、さっきよりよほど紗耶香だった。
まるで出会った頃のような。
優しい。
手放しで優しい。

『バイバイ、後藤』

あっけなく。
あまりにもあっけなく。
ふわりと紗耶香は景色に溶けた。

玄関で激しい音がして2、3人が廊下を駆けて来る。
見知らぬ男たちと管理人だった。
管理人のオジさんが慌てた声を上げて自分の方を見ている。
中年の男が寄って来て真希の首に手を添えた。
応急処置をされながら、とても遠い出来事のように覚える。

紺野。
声が聞きたくなった。
顔が見たくなった。

そのまま真希は瞼を閉じた。

128 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:41


  *  *  *


ピーーーーーーーーー。

世界が時を止めた。
白く狭い世界に停止の合図が響き渡る。
呆然と。
ただ呆然と。
あさ美は手の先を見つめていた。

「紺ちゃん」

聞き慣れた声が耳元で囁いた。
もう大丈夫だよ、と。

もう一度、手の先に視線を投げる。
握ったナイフ。
振り下ろした凶刃。
明確な殺意を以って取り出した凶器。
切っ先には白銀の輝きが健在だった。
血の一滴もついてはいない。
白いシーツの上空。
あと数ミリで布に触れる距離で、刃は動きを止めている。
躊躇ったのか。
違う。
原因は手首。
手首を掴む誰かの手。
藤本美貴の掌だった。
129 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:42

「なんで……。」

問いかけは誰に対してのモノだったのか。
抱く疑問は多すぎて特定できなかった。
彼女はそれを自分に向けられたものと判断したようで、

「ん。や、なんか紺ちゃん様子ヘンだったからさ。
 稽古サボって後つけちゃった。ごめんね」

バタバタと廊下の方から足音が聞こえる。
美貴の動きは素早い。
ス、とナイフを奪い去ると鞄に仕舞いこみ、
あさ美の口を押さえてズルズルと扉の影へと引き摺っていく。
ほぼ同時に白衣の人間たちが室内へと。
頃合を見計らって誰にも見られず廊下へと逃げた。
あまりに手際がよく、市井紗耶香の最期を看取ってあげることも叶わなかった。

病院の外に出ても、美貴は何も聞いてこようとはしなかった。
言うと、「話したくなったらでいいよ」だそうだ。
「何か簡単には信じらんないような話っぽいし。整理も必要でしょ」とも付け加えた。

「美貴ちゃんってさ」
「ん?」

ポツリと、呆れるように漏らしていた。
勘のよさもここまでくると、

「実は超能力者でしょ?」
「なにそれ」

130 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:42


  *  *  *


小包が届いたのは市井紗耶香の葬儀の三日後。
中身は爆弾などでなく、一組のペアカップと添えられた手紙だった。
差出人の名義は市井紗耶香。
その住所は葛城のものにされていた。

―――便利な世の中だよね。配達の時間指定までできるんだから

手紙には一連の事件の種明かしと、動機について記されていた。
手段についてはおおよそあさ美の推測した通り。
事故に遭い、精神体のようなものになった市井は葛城を操り例の脅迫状を送らせた。
能力に制限はあるが日にちをかけ一人に集中して行なえばそれなりに強力な暗示をかけることが出来たらしい。
例の自動発火の荷物は事前に中身がバレて処分されぬよう、
ガソリン入りのものは葛城に直接持ち込ませ、配達された別の小包とすり替えてあさ美に見せたようだ。
あの日、葛城が大きめのバッグを抱えていたのはそのためだ。

翌日、葛城に自分の指を斬り落とさせポストに投函。
その足で最寄り駅に向かい自殺させた。
この頃にはほとんど自在に葛城を操れたようだ。

照明の落下はスタジオのスタッフを操作して。
後は警察の捜査で一番動かしやすい葛城の身柄を拘束させないための工作だが、
こちらは若干あさ美の推理とはずれた。
市井が精神操作したのは監視映像を見せた事務所の人間ではなく担当刑事の方らしい。
これはやはり大人数より2人の刑事の方が操作しやすいためだろう。
最初から事務所の方は葛城に似ていると証言したらしいが、
刑事の意識の方で事実を歪ませた。
聞けば事務所は葛城の処分を申し出たそうだが、警察側から止められたという。
彼女が真希の担当から外されなかったのも警察の指示だろう。
葛城が監視映像の件を口にしていたのは、本当に事務所の人間が漏らしたのか市井の記憶が葛城にも流れたのか。

市井の支配下に刑事たちもあったとすると、
あの時市井の身体の命が尽きなかったらと考えてぞっとしない。
131 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:43

動機についてはただ一言。

『寂しかった』

とだけ記されていた。
後は勝手に推測しろということか。
望むところとあさ美は構える。

寂しかった。
一人で逝くのが寂しかったのだろうか。
彼女には夫がいた。子供もいた。
なぜ真希を選んだのか。
思い至るのは二面性。
ESPは人間を歪ませる。
憶測だがそんな気がした。
人の心を理解する能力。
人の心が解るから、誰かの求める言葉を渡せる。
一方通行の献身。
歪が起きないハズがない。
歪んだ彼女をぶつける先が、あるいは真希だったのではないか。
寂しさと苛立ちを。
真希にだけ。
だから真希を。

一方で、歪んでいない彼女の一部はそれを良く思わなかったのかもしれない。
だから余地を残した。
ゲームに、賭けることにした。
二つの想いの狭間に揺れて、判断を投げた。
あさ美との勝負に全部、預けた。

要はコイン投げ。
どちらの結果も価値は均等。
周囲も巻き込んだそれは残酷で身勝手で、けれどきっと、ささやかな復讐を兼ねていた。

すべては推測。
答えの出ない。

答えなんて、要らない。

隣には真希がいる。
自分には真希がいる。
あさ美にはそれだけで十分だった。
132 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:43


  *  *  *


アタシたちアイドルの現実は、きっとファンの皆が想うよりもう少し汚れてる。
そしてきっと、週刊誌を信じる人たちが想うよりはもう少し、リアル。
幻想よりは穢れてて、憶測よりはリアルな現実。
生きずらく、死ににくい。
温かくて寒々しい。
じめじめと乾いていて。
ぬるま湯の日常は止め処なく流れ、止め処なく零れてゆく。
ずっと続いて……いつとも知れない、いつかに終わる。
漠然とそう思っていた。
ううん。思い込んでいた。

―――あの人が、帰って来るまでは。
133 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:43

リアリティは錯覚でしかないと知った。
現実は簡単に覆る。
現実的でない出来事が現実でない保障なんてどこにもない。
ぬるま湯は瞬く間に煮え滾る。
煮え湯は刹那に凍てついて。
先なんて判らない。

腕の中の彼女が、いつか自分からも旅立つ日が来るのかもしれない。
けれど来ないのかもしれない。

あの人は何がしたかったんだろう。
アタシを殺しに来たんだろうか。
ただ一緒に逝って欲しかっただけなんだろうか。
それも悪くなかったのかな。
想う自分がどこかにいて、きっとずっと囚われてる。
いつか解かれる日は来るのか。来ないのか。

判らない。
未来は判らない。
過去が判らない。
何も判らない。
判るのは"今"だけ。
134 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:44


お揃いのカップは戸棚の奥で眠ってる。


Fin.


135 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 23:44
この作品はフィクションです。
登場する人物、団体、氏名等は実在のそれらとは一切関係ありません。


136 名前:名も無き作者 投稿日:2006/10/25(水) 00:01
…などと当たり前の注釈を加えましたところで、完結です。
いや内容がアレなので念のため。
最終回予告から長々と空けてしまい申し訳。orz

少しばかり後書きなど。
この作品で書きたかったこと。
紺攻めってロックやん?
後藤さんにトラウマ残してる市井さんってロックやん?
反論なんて聴こえない。(すいません

後者はともかく前者の伝え方を清々しいくらい派手に間違えてる気は自分でもしますが、
まあ守る側が紺野さんでもいいじゃないとか思ってる次第で。
従来のこんごまのイメージと違う気がするので大丈夫かなーとは不安に思ってたんですが、
先日さるこんごま作者の方に『こんごまは書き手によって十人十色』的な発想を頂いて
元気百倍アンパ(ry
いちごまについては何か歪んでますが、ええ歪んでるの大好きなんです。(すいません
少女漫画で某果物籠の子と神の関係目指したりしたとかもこっそり付け加えておきます。

なんか名前欄に変な文字が並んでますね。本来のHNです。
後書きを読めばわかる通りのアフォなので、作品イメージ潰しそうで隠してました。
前作とかはありますけど相当稚拙だったりあらゆる角度でトンでもない作品なものでして、
出来ることなら知らない貴方は読むな探すな忘れてお願いマイメロ(ry

もう台無し。すいません。
あとなにやらホラーってたり怖いという感想をたくさん頂いたりしましたが、
特にホラー目指したわけでもないという。自然にこんな展開。人としてどうかと。
もともとバトル作者なので血が出ようがなにしようが(ry

さ。あらいざらいブチ撒けたところで退散します。
お付き合いくださった方、本当にありがとうございました。ていうかお疲れ様でした。
このスレは再利用も視野に入ってるのでそうっと放置しといて頂ければ
いずれまた何か不穏な作品が載ることもあるやもしれません。

ではでは。
137 名前:名も無き作者 投稿日:2006/10/25(水) 00:07
>>115 ミッチー様
お付き合いありがとうございました。(平伏
トンデモ展開。
大丈夫かなと不安なんですがこの辺だけ最初から決まってたという救えない裏話が。(死
謎は解けたんでしょうか。
若干はぐらかしてる感がなきにしもあらずですが
真相なんて往々にして闇の中よネ☆ということでどうかひとつ。(すいません

>>116 名無飼育さん 様
こんな展開でこんな結末。
大丈夫かな大丈夫かなー苦情来ないかなー。(不安
寂しいだなんて嬉しいお言葉(´Д⊂)
息継ぎはお忘れなく。
お楽しみいただけていれば幸いです。
お付き合いありがとうございましたッ。
138 名前:ミッチー 投稿日:2006/10/25(水) 01:46
更新&完結お疲れ様デス。。。
面白かったです♪ありがとうございました!
謎は少し残ってはいますが、こういうのもイイのではないかと思います^^
もしかしたらあるかもしれないという新作を楽しみにしてますw

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