アステアに恋して

1 名前:    投稿日:2006/09/15(金) 18:27
  
 
2 名前:    投稿日:2006/09/15(金) 18:29

  1. みうな19歳、壁に当たって恋に落ちる
  
3 名前:1. みうな19歳、壁に当たって恋に落ちる 投稿日:2006/09/15(金) 18:30


「これだけですか」
「うん。それだけ」

お風呂のカビ取りを中断して都内某所の雑居ビルに出向いた末、私が手にしたのは
マトリックスが無造作にプリントされたA4の紙一枚。
右上に書かれたタイトルは『カントリー娘。9月期予定表(みうな)』


「予定表って、予定なんて全然入ってないじゃないですか」
「かなり入ってるじゃん」
「なんか忘れてないですか?ほら、ボイトレとかラジオとかフットサルとか」
「ラジオはもうかなり先の分まで録ってるし、ガッタスは当分休みってことになった。
新曲の予定はないし。ダンス・ボイトレは入ってるじゃない、こことそこ」
「少ししかないじゃないですか。それに他に仕事入ってないんですか。グラビアとか
写真集とか」
「ないね」

目の前の38歳・男性はにっこり微笑んで立ち上がる。
去年、彼が私たちの担当に就いたときには敏腕マネージャーと聞いて期待したけれど、
その頃と比べて私たちの仕事が増えたというような事実はない。
この男は本当に敏腕なのか? これが今の私たち3人にとって最大の疑問である。
4 名前:1. みうな19歳、壁に当たって恋に落ちる 投稿日:2006/09/15(金) 18:33

単独コンサート以後、一気に国民的スターへの道を駆け上がる
私が思い描いていたそんなサクセスストーリーは、あっけなく敗れた。
とんだ肩透かしだ。


「いいじゃない、ゆっくり休めば。ライブも無事終わったし、疲れてるでしょ」
「そういう訳にはいかないんですって」
「他の2人は喜んでたよ。夏休みだーって言って」
「うわっ」
「そう焦んなって。気楽にいこうよ」
「気楽に、ですか」

気楽極まりないマネージャーのヘラヘラした顔が、ここにはいない2人の顔とダブる。
彼女たちもこの男と同様、呑気に構えているのだろうか。



5 名前:1. みうな19歳、壁に当たって恋に落ちる 投稿日:2006/09/15(金) 18:34

「実際さ、良いときは良くて、ダメなときはダメ。波があるんだよ、この仕事」
「今はダメなときですか」
「何いってるの。カントリー、絶好調でしょう」
「ですよね」
「仕事ないときは充電期間だよ。遊んだり、勉強したりして、然るべきときに備えなさい」

そう言って、38歳・男性はコーヒーカップの底で私の頭を軽く叩くと、面接室の扉を開け
デスクに戻っていく。

鳴かず飛ばずのアイドルを軽くあしらうスキルにおいては、彼はきっと秀でているのだろう。



「おつかれさまです」

それだけ言って事務所を出た。私の言葉に振り返る人はいない。

6 名前:1. みうな19歳、壁に当たって恋に落ちる 投稿日:2006/09/15(金) 18:34

  
7 名前:1. みうな19歳、壁に当たって恋に落ちる 投稿日:2006/09/15(金) 18:35


『遊び』

これに関しては、もう十分だろう。
"毎日が土曜日"を体現する身としては、若干食傷気味ですらある。


『勉強』

これは侮れない。
アイドルは日々是精進。松浦さんや後藤さんのような立派な人たちは勉強を怠らない。
過密スケジュールの中でも表情の研究やしゃべりの研究を忘れない。


 
8 名前:1. みうな19歳、壁に当たって恋に落ちる 投稿日:2006/09/15(金) 18:37

けれど、今の私はいったい何を学べばよいのだろうか。

ダンス、歌、しゃべり、フットサル、その他一芸
どれもいまひとつパッとしない現状では、的を絞ることすら極めて困難なのだ。
勉強用の資料を探しに立ち寄ったレンタルビデオ店の検索機を前にして、私は凍りついていた。


これだ。

そのとき自動で切り替わった画面に表示された旧作タイトルは、私のココロを一発でとらえた。

9 名前:1. みうな19歳、壁に当たって恋に落ちる 投稿日:2006/09/15(金) 18:38

その時の私は、2時間後に自分が陥る状況を想像することすらできなかった。
  
10 名前:1. みうな19歳、壁に当たって恋に落ちる 投稿日:2006/09/15(金) 18:38

  
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/16(土) 18:53
みうな主役とは興味深い
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 22:36
おもろそう!楽しみ
13 名前: 投稿日:2006/09/22(金) 18:12

   2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる
  
14 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:15


どこまでも広がる海、雲ひとつない空、視界をうめつくす青。
気温32℃、湿度80%の空気はつきさすような日差しと相まって肌を刺激するけれど、
東京で感じる暑さとは全く別の種類のもの。不快どころか、快いかぎり。
柔らかな砂浜に横たわっているのは私一人。ビーチ独占は遅い夏休みの特権。


・・・・・・そんな夏休みになるはずだった。
9月の休みは沖縄でのんびり過ごす、と心に決めたのは先週の終わり。


15 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:17

今年の夏は私たちにしては珍しく忙しい時期だった。


ガッタスに、北海道ロケに、そして何より初めての単独ライブ。

ゲストとして登場する舞台では2,3曲、長くても20分程度の出番をこなせばよかった。
これがカントリー娘。としての興行では17曲、MCを含めて1時間半。しかも自分たちが
メイン。顔ぶれはほとんど変わらないとはいえ、お客さんは皆、私たちを見に来てくれている。
この状況で気合が入らないわけがない。


私たちは走った。

もともとカントリー娘。の持ち味は瞬発力。本気になったら誰にも負けない。
つめこまれたレッスンや様々な営業活動の合間を縫って自主練習に筋トレ、ランニング、潜水。
些細なことでも、ステージに必要なことはすべて取り組んだ。


私たちはゴールラインを駆け抜けた。

開演前までに高めたモチベーションと緊張感はステージで弾け、自分で言うのも憚れるが
ここ最近のハロープロジェクトでは最高のコンサートになったと思う。
16 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:17

あの頃の私たちアドレナリンに支配されていた。ランナーズハイであったと言ってもいい。


そんな状態だったから、走り終わった後でどっと疲れがくるのは当然なのだ。
だから今はゆっくりと休むべきなのだ。次の札幌公演にむけ、英気を養わなければ。
ライブの打ち上げでヘロヘロになり、家に帰り着いたとき、私は思った。


そうだ、沖縄へ行こう。


青い空と青い海。眼下に広がる緑にも似た青い景色。
ステージから見たサイリウムの光と、想像の中の沖縄の風景。

朦朧とする意識の中で、その2つが重なった。

17 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:17

18 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:19

事務所があるフロアのエレベーターを降りると、みうながいた。
腕を組み壁に寄りかかる姿は、どうやらここで私を待っていた様子。


「おはよ」
「もう11時。おはよう、というべき時間じゃありませんよ」
「まぁいいじゃん。あーさは?」
「こっちです」

笑顔を作ってみたものの、彼女は顔を崩すことなく私に背を向け事務所の奥に進む。
みうなには珍しく、怒っている。確かに集合は10時だった。私は遅刻した。
けれど、いつもはこんなことで怒る子ではないはずなのだが。



事務所奥の会議室ではTV画面と向き合うかたちで、あさみが座っていた。
みうなはAV機器にかけ寄り、彼女に声をかけた。

「終わりました?」
「うん。ようやく。疲れたよー」


あさみは背中を伸ばし、首を回しながらも、私に気がついて手を振る。

「おはよ」
「まいー。良かった。ちょうどいいときに来て」
「良かったんだ、このタイミングで」
「うん。今ちょうどビデオ終わったとこだったから」
「ビデオ? もしかしてこの前のライブ?」
「違う。なんか昔の映画みたい。みうなが持ってきた」
  
19 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:20

「もう一度観ますか」
「は?また?」
「はい」
「もういいって」
「だってまいちゃん、まだ観てないでしょう」
「それじゃ、私は出て行っていい? お茶飲みたい」
「だったら、こっちに持ってきて飲んでください」


結局あさみが折れるかたちになって、会議室を出たところにある冷蔵庫へ向かう。
今日のカントリー娘。は力関係がおかしい。何故だかみうながやたらと強い。


「今日のテーマはこれ?」
「まぁ、そんなようなものです」
「ふぅん」
「それじゃ、再生しますよ」

あさみが戻ってきたのを確認して、みうなはリモコンのボタンを押した。

  
20 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:21


これぞエンターテインメントだ! と銘打ったタイトルのビデオ。
内容は20世紀を代表するアメリカミュージカル映画のオムニバス。

モノクロの画面に映えるツヤのある髪に、濃い目の眉毛と睫毛を持った俳優たちが
歌って踊る。私たちもミュージカル公演には参加することがある。ミュージカルにおいては
素人ではない。けれど私たちのパフォーマンスは彼らのそれとは全く別の種類のもの。
だからいまいちピンとこない。加えてビデオはオムニバス形式であるために、どうも
内容がつかめない。


正直、しんどい。


陽気な音楽に相反し、私の身体には疲労がたまっていく。
ライブの疲れが抜け切れていない今の私は、苦痛の許容量が小さいのだ。

  
21 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:21

「どうでしたか」

映像が終わり、モニターのスイッチを切ると、みうなが私たちの方に振り向いた。
その瞳はキラキラと輝いている。どうしてこの瞳をスチール撮影のときに持ってこないのか。


「うん、良かったよ」
「でしょう!」

得意げに立ち上がるみうな。うつろな眼でうなづく私。その隣で力尽きているあさみ。
この差はもしかすると年齢によるものかもしれない。10代っていいな。素直に羨ましい。


「じゃあ、解散でいい? なんか疲れた」
「いいわけないでしょう」
「まだなんかあるの?」
「はい。ここからが本題です」
「まじで」
「当然です」
 
22 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:22

「ごめん。悪いんだけど、今日これから用事あるんだよね」
「用事って?」
「チケット買いに行かなきゃいけないんだ」
「札幌公演なら、今から頼めば席とってもらえますよ」
「いや、うちらのライブじゃなくて。旅行いくからさ、それで」
「いいな。どこいくの?」
「沖縄。のんびりしてくるさー」
「じゃあお土産よろしくね」

「だめです」

「へ?」
「沖縄とか行ってる場合じゃありません」
「せっかくの休みなのに」
「休みなんていつでも取れます。っていうか、いつも休みみたいなもんじゃないですか」
「・・・・・・それはそうだけど」

確かにそうだけど、口に出して言ってはいけない。タブーなのだから。
呆然とする私たち2人の前を横切り、みうなはホワイトボードに歩み寄る。

「それでは、これからのプランについて説明します。みなさん、席について」
  
23 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:23

「一般に複数事業を営む企業の経営資源配分は困難を極めます。そこで戦略的意思決定に
 用いられる概念がプロダクト・ポートフォリオ・マネジメント、略してPPMです。
 これはボストンコンサルティンググループが1970年代に提唱した資源配分決定における
 意思決定のための指標であります。
 市場の魅力をあらわす市場成長率と収益の大きさをあらわす相対的市場シェアの2つの
 指標を軸として事業を4つのカテゴリーに分類し、それに応じて各事業の投資戦略を決定する、
 それがPPMの要旨です」


みうなは一気にまくし立てると、ペンをとり、ホワイトボードを縦・横に等分する線をひく。
経営ナントカってとこからさっぱり理解できない。けれど質問できる空気じゃない。
 
24 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:24

「ここでいうカテゴリーは『問題児』『花形』『金のなる木』『負け犬』の4つ。
 第一に、『問題児』とは市場成長率は高いものの、相対的市場シェアが低い事業。投資によって
 シェアを獲得すれば、高い収益が期待できますが、シェア獲得前に市場の成長が止まって
 しまうと『負け犬』となり企業利益に貢献しません。
 第二に、『花形』とは市場成長率、相対的市場シェアともに高い事業。収益は大きいのですが、
 いまだ成長中であるため投資も大きいため、利益には必ずしもつながりません。
 第三に、『金のなる木』これは市場成長率が低く、相対的市場シェアが高い事業です。
 収益は大きく、投資の必要性は少ない。このため大きなキャッシュインフローをもたらします。
 第四に、『負け犬』これは市場成長率、相対的市場シェアともに低い事業です。
 このカテゴリーの事業は企業のお荷物です。早いところ切ってしまうのが賢明でしょう」


そういうと、『負け犬』と書かれたホワイトボード右下のエリアを赤いペンで囲った。
 
25 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:24

「では、このPPMの理論をハロープロジェクトにあてはめてみます
 まず、モーニング娘。や安倍さん、後藤さんなど娘。をエースポジションで辞めた人、及び
 松浦さん。この人たちは『金のなる木』ですね。投資はある程度完了し、今は回収段階です。
 次に、Berrys工房、℃-uteといった年少グループ。これは『花形』でしょう。低年齢アイドルの
 商品価値はまだまだ上昇するでしょうし、彼女たちはその流れを牽引する存在ですので」


ここまでに挙がった名前を書き込むと、みうなは声のトーンを落とした。


「ここからがやっかいなんです。
 うちの事務所は『問題児』と『負け犬』を区別した投資活動をしていませんから。
 私たちは、『負け犬』と『問題児』、どちらに属すると思いますか」


私たちは顔を見合わせ、首をかしげた。問いかけられているが、そもそも話の流れがつかめない。
けれど、みうなの口調とホワイトボードの赤マークから、どうやら『負け犬』になってはいけない
のであろうということだけは何となく分かる。
 
26 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:25

「うちの事務所は『負け犬』にもそれなりの投資をします。これから先、人気が出るとは思え
 ないグループやタレントにも仕事を与えます。こうした手法は情に厚い印象で良いようにも
 見えますが、その影で『問題児』へは適当な投資が行われず、経営戦略としては優れたもの
 とはいえません。それに『負け犬』としても効果のない投資を継続されるのは苦しいだけです」


いくつかのグループが頭にうかぶ。みうなの話はもしかしたら的を射たものなのかもしれない。


「カントリーが『負け犬』か『問題児』か、それは私たち自身には判断できません。
 けれどどちらにしても、このまま与えられる仕事をこなすことに甘んじていては、
 カントリーの未来は開けないのです」


そう言って、みうなは会議室の机を叩いた。

内容はいまいちつかめなかったけれど、何か素晴らしいことをいっていたような気がする。
とにかく何よりも気迫がすごかった。いつまでも空気が読めない不思議ちゃんだと思っていたが、
意外とやるもんだ。妹のように思っていた年下のメンバーの成長ぶりに、胸が熱くなる。
  
27 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:27

「ナイススピーチ!」
「いやぁ、みうな。良かったよ。感動したっ!」
「入ってきたときはどうなることかと思ったけど、立派になったね」
「おねえさん、嬉しいよ」

感動をおさえられず、みうなのもとに駆け寄る私たち2人。
私たちの絶賛のリアクションに少々照れたのか、ヘラっと笑って頭をかくみうな。


「で、今の話とさっきのビデオ、どう関係するの?」


私の言葉に、2人の顔がこわばる。
胴上げのアクションに入っていたあさみと私の腕から抜け出し、みうなが立ち上がった。
その姿には、さきほどと同様の妙な力があった。その隣であさみが肩を落とす。

自分の発言が不用意なものであったことに、私は即座に気がついた。
 
28 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:27


「具体的な計画についてお話します。皆さん、席について」


さっきまでの定位置に戻り、みうなはスピーチを再開した。
カントリー娘。臨時ミーティングはまだまだ続きそうだ。

  
29 名前:2.里田まい、港区麻布で南の島へ思いをはせる 投稿日:2006/09/22(金) 18:28

  
30 名前:1 投稿日:2006/09/22(金) 18:30

レス感謝です。

>>11
興味を持っていただけて嬉しいです。
みうなというよりカントリー娘。が主役といったかんじになりそうですが、あしからず。

>>12
これからの展開がおもろいものでありますように、と仏壇に手を合わせる今日この頃です。
 
31 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/24(日) 01:04
まじオモシロイ!
カントリーあんま知らないけど全然読める
続き楽しみです
32 名前: 投稿日:2006/09/27(水) 18:42

33 名前: 投稿日:2006/09/27(水) 18:43

  3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー
  
34 名前:3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー 投稿日:2006/09/27(水) 18:44


フレッド・アステア。本名フレデリック・アウステルリッツ。
1899年5月10日、オーストリア移民の楽団一家に生まれる。

姉アデールに才能があると考えた母は、彼女が6歳の時にニューヨークのダンス学校に
入学させた。その際、ついでに弟のフレッドも一緒に同じ学校に入れてみた。
優秀なアデールは学校でもたちまち頭角を現し、周囲の期待通りスターへの道を歩んでいく。
フレッドはそれに対していつも姉のおまけであったが、そこそこに役をこなしていった。
やがて1931年アデール主演のミュージカル「バンドワゴン」がブロードウェーで大ヒット。
このおかげで二人はイギリスからもお呼びが掛かり、しばらくイギリスとアメリカを頻繁に
往復する生活が続いた。そんな人気絶頂期の1932年、アデールはロンドンでチャールズ・
キャベンディッシュ候と結婚、そのまま引退してしまった。
残された弟フレッドはたちまち仕事を失った。偉大な姉と離れた彼に商品価値はなかったのだ。

 
35 名前:3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー 投稿日:2006/09/27(水) 18:44


失意の中、フレッドは再起の道をハリウッドに求める。映画俳優への道を目指すものの、
受けは悪く出演した最初の映画では「演技も下手だし踊りも下手だし」と酷評される始末だった。
しかし、それでもめげずに出た2作目の映画「リオまで踊って行こう」が彼に幸運をもたらした。
生涯の名コンビとのちに言われるジンジャー・ロジャースと二人で映画の中で踊ったカリオカが
大変な評価を受けたのだった。そしてそれから6年間に「トップ・ハット」「シャル・ウィー・
ダンス」など8本の映画がこの黄金コンビによって生み出された。

やがてこのコンビは喧嘩別れするかたちで解消されることになったが、その後もフレッドは
シンジャー・ロジャース、エレノア・パウエル、リタ・ヘイワースらとコンビを組みアメリカ
映画史に残る名作を数々残していく。彼の洗練されたダンスは品格を感じさせるもので、
いつしか人は彼を『ダンスの神様』と呼ぶようになった。

そんなフレッドが亡くなったのは1987年6月22日の朝だった。
彼の死に全世界の人々は心を痛め、多くの著名人が哀悼の意を示した。

 
36 名前:3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー 投稿日:2006/09/27(水) 18:44

 
37 名前:3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー 投稿日:2006/09/27(水) 18:45

「それで、そのフレアさんがどうしたの」
「フレアじゃなくてフレッド」
「そう、それ。ま、どっちでもいいんだけど」


午後3時、事務所近くのファミリーレストラン。
私はハロー内の友人その4こと柴田あゆみと向き合うかたちでボックスシートに座っている。

私の向かいに座る柴田あゆみはテーブルの隅にあった手のひらサイズのメニューを
パラパラとめくる。
かといって彼女はこの場で注文すべきものについて思いをめぐらせているわけでは
ないことは私にも分かる。彼女はこのファミリーレストランに到着するやいなや
『オレンジサンダース』なる謎の食品を注文しているのだから。


ハローの中にはもっと仲の良い子もいるなかで、今日はわざわざ柴田あゆみを呼び出したのは
彼女に聞いて欲しいことがあったからだ。
それなのに、柴田あゆみは自分のしゃべりたいことを早口でまくしたて、それが一段楽した後
いざ私が話し始めるとこの態度。明らかにやる気がない。なげやり。

私は人選を間違えたかもしれない。
 
38 名前:3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー 投稿日:2006/09/27(水) 18:46

「生まれかわりなんだって」
「なにそれ」
「だから、みうなはフレッド・アステアの生まれかわりなんだって」

しばらくの沈黙の後、柴田あゆみは笑い出した。
長年の芸能生活を通してファンの人には見せたことのない種類の顔で、ケタケタと。


「相変わらずだね、あの子。そのフレッドさんってダンスの神様なんでしょ。その生まれ
 変わりなんて、また大きく出たね」
「まったくね」
「第一、その人が死んだのって87年の6月なんでしょ。みうなが生まれた後じゃん。死ぬ
 前に生まれ変われないから」
「ほんとだ!」
「何?もしかして、いままで気づかなかったとか?」
「うん。全然」
「他のみんなも?」
「うん。多分」
「……ぶっ」

柴田あゆみは再度吹き出した。
そしてさっきより長い時間笑い転げた後、つぶやいた。いいね、カントリーは、と。

悪かったな、ボケぞろいで。
 
39 名前:3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー 投稿日:2006/09/27(水) 18:46

「どうしようかと思って」
「いいんじゃん、放っておけば思い込みなんて本人の自由でしょ」
「そのココロは」
「思い込みで救われることってあるじゃない。例えば自分がセクシーだけで売っていける
 だけの身体の持ち主だとかだとか、才能あふれるシンガーだとか、世界を先取りする
 アーティストだとか、思い込むことで楽になることってあるでしょ。みうなの思い込み
 なんてかわいいもんだよ」

柴田あゆみは遠い目をして言った。
メンバーに関する苦労という点では誰よりも大きなものを背負った彼女の言葉は重い。


さっきまで長々と続いてたメロン記念日に関する不満というテーマに話題が戻ってしまう
のではないかと私は身構えたが、柴田あゆみはそれ以上自らのグループについてしゃべる
ことはなかった。

 
40 名前:3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー 投稿日:2006/09/27(水) 18:47

「でも放っておけないんだよ、今回は。うちらも巻き込まれて大変なんだから」
「どういうこと」
「やるんだって、タップを」
「タップ?」
「タップダンス。ほら、カッカッカッ、ってやつ」
「へぇ」

メルヘンチックな制服を着た店員が私たちの会話を遮り、テーブルに『オレンジサンダース』と
私が頼んだアイスティを置いていった。密かに期待していた『オレンジサンダース』が何てことは
ない単なるオレンジのパルフェだったことに私は内心がっかりした。


「で、なんでタップダンスなのさ」
「フレッド・アステアが得意だったんだって」
「ふぅん」
「それでもって、うちらは今ほかのアイドルとは違うことをしなくちゃいけないらしい」
「なんで」
「ボストンの人が考えた方法によると、うちらは『花形』にならなくちゃいけないんだって」
「お金持ちの天才バッターだ」
「柴ちゃん、それ多分違う」
 
41 名前:3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー 投稿日:2006/09/27(水) 18:47

「簡単に言うと、新たな市場を開拓しなきゃなんないんだとさ」
「それならもうしてるじゃん。フットサル」
「それはカントリーっていうか、ハロー全体でやってることじゃん。それにもうあんまり
 目新しくも無くなったし」
「それなら、あれは? ほら、『半農半芸』ってやつ」
「あれはもう終わったよ。実際、みうなは花畑農園とはほとんど関わってないし」
「いいと思うけどな、半農半芸。だって犬ゾリできるアイドルなんてなかなかいないよ。
 っていうか、犬ゾリできる人があんまりいないし」
「たしかに」
「でも良かったじゃん、ジャズダンスじゃないだけ」
「うん。さすがにあれは嫌だ」
「だよねぇ」

そう言って笑う柴田あゆみは明らかに私たちを心配していない。
 
42 名前:3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー 投稿日:2006/09/27(水) 18:48

「タップダンスやりたくないの?」
「ちょっとキツいかな、とは思うけど」
「けど?」
「やってもいいとは思う」
「なんで?」
「みうながやりたいって言うの、初めてなんだよね。だから、私はそれに付き合いたい。
 ただ、のめり込み方がおかしいのが気になるだけで」
「ならいいじゃん」


そうだ。特に問題はない。

柴田あゆみのあっけらかんとした顔を見ていると、私はこの問題についてうららかな
昼下がりに駅前のファミレスにそれなりに忙しい友人を呼び出してぐだぐだと語る必要は
ないような気がする。
私が今やるべきことは明白で、それについて疑問も不満もないのだから。

 
43 名前:3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー 投稿日:2006/09/27(水) 18:48


帰り際、柴田あゆみは小さくつぶやいた。いいね、カントリーは、と。
 
 
44 名前:3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー 投稿日:2006/09/27(水) 18:48

 
45 名前:3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー 投稿日:2006/09/27(水) 18:49


柴田あゆみを呼び出した2日後、私たちは事務所奥にある会議室のイスに座っていた。

その日まいはTV番組の収録が入っていたため欠席していて、その代わりというわけではないが
先日彼女が座っていた場所には38歳・男性ことチーフマネージャーがいた。


その席でみうなはまた長いスピーチを行い、私も彼女に負けじとタップダンスへの思いを述べた。
チーフは口元に笑みを浮かべ、時折あいづちをうちながら、私たちの話を聞いてくれた。
その表情は熱心で理解ある優秀な芸能マネージャーのもののようにも見えたが、今まで私たちは
その笑顔でうまいことあしらわれてきた経験があるために、彼を動かすべく、しゃべり続けた。



「それじゃ、やってみようか」

2時間半にもおよぶ弁論の末、話すことが尽きた私たちに彼は言った。
まさしく期待通りだったその言葉は、私の視界をぼやけさせた。

 
46 名前:3.あさみとカモメ、そして大きめのビーバー 投稿日:2006/09/27(水) 18:50

 
47 名前:1 投稿日:2006/09/27(水) 18:52

レスポンスありがとうございます。

>>31
どうもありがとうございます。
けれど実際の3人を知るときっともっと面白く読んでいただけることでしょう。

なんてこんなところで地味にプロモーションしてみます。


今さらながら、訂正を。

>>25
Berrys工房 → Berryz工房


この他にも誤字・脱字が多くあることをお詫びします。
完全に無くすことはできないと開き直っているんですが、>>25はさすがに
いただけません。申し訳ありません。
 
48 名前: 投稿日:2006/10/03(火) 21:58

49 名前: 投稿日:2006/10/03(火) 21:58

4.里田まい、インドアで過ごす9月第1週(まとめ)
50 名前:4.里田まい、インドアで過ごす9月第1週(まとめ) 投稿日:2006/10/03(火) 21:59


いま思い返してみても、今週はおかしな一週間だった。


月曜日、前日までの公演の疲れから、久しぶりの休暇ということも重なり、私は丸一日を
睡眠に費やした。その間、何回か単独ライブ成功を祝うメールにより目を覚ました。
おかげで深い眠りを得ることは出来なかったが、ハローのメンバーや地元の友人たちの
あたたかい言葉や、眠りに落ちる度に脳裏に浮かぶサイリウムで光る客席は、私を幸せな気分に
させた。


火曜日、私は沖縄旅行の準備をしようと思っていたが、みうなが携帯に残した伝言に
従い事務所に顔を出した。
みうなは私とあさみにモノクロのビデオを鑑賞させ、プロダクト・ナントカなる理論を語った。
その姿は私たちを感激させた。彼女はそれに留まらず、フレッド・アステアなる映画スターに
ついて長々と語った。みうなのスピーチは私の沖縄旅行を中止させるだけの威力があった。

51 名前:4.里田まい、インドアで過ごす9月第1週(まとめ) 投稿日:2006/10/03(火) 22:00

水曜日から木曜日にかけて、私は前日ほとんど分からなかったみうなの話を理解すべく、
プロダクトなんとか及びフレッド・アステアについての情報を集めた。
近所の図書館ではプロダクトなんとかに関する書籍を見つけることが出来たが、それは私を
よけいに混乱させた。これに対して、レコードショップで出会ったDVDは私にフレッド・
アステアに関する“ポマードの紳士”や“眉毛・まつ毛の人”以上の印象を与え、タップの
魅力をある程度は理解させた。


金曜日、私にはテレビ番組収録の予定が入っていた。
この仕事の主たる目的はライブ及びベストアルバムのプロモーションだった。こうした活動は
8月に沢山こなしたが、9月にも行う必要があった。まだ札幌公演が控えているのだから。
故郷に錦を飾る意味で、札幌公演は東京同様、いやそれ以上の成功をおさめたいのだ。
私は声を張り上げ、大声で笑った。その場にいない2人の分まで。


土曜日、私のもとに驚くべきものがいくつか届いた。
まず日付が変わったばかりの深夜、柴田あゆみからメールが来た。彼女とは普段あまり
やりとりしないが、その分たまに来る彼女からのメールは長い。

52 名前:4.里田まい、インドアで過ごす9月第1週(まとめ) 投稿日:2006/10/03(火) 22:00

この日も先週のライブや私たちが8月に出演したいくつかの番組についての感想や近況報告、
身の回りで起きた笑える出来事、その他が綴られていた。こうしたいつも通りのメールの最後に
一言、タップ頑張ってね、と絵文字つきで添えられていた。

なぜこの子が知っているのだろう。

首を傾げていると、柴田の情報の速さ以上に驚くべきものが宅配便で届いた。両手にのる程度の
大きさの包みを開けてみると、一足の靴が出てきた。エナメルのタップシューズ。ほんの少しの
余裕を残し、私の足を収める。
なんてタイムリーなプレゼントだろう。まさかこれも柴田が。さすがサイボーグ。


感激しお礼の気持ちをこめメールの返信を作成していたとき、チーフマネージャーからの着信が
あった。彼は私に9月前半期のスケジュールの大幅な変更を告げた。それによりスカスカだった
私の予定表が黒く埋まった。


そして今日、日曜日。私は今まで使ったことのないダンススタジオに来ている。
土曜日にもらったタップシューズを履いて。


53 名前:4.里田まい、インドアで過ごす9月第1週(まとめ) 投稿日:2006/10/03(火) 22:00

54 名前:4.里田まい、インドアで過ごす9月第1週(まとめ) 投稿日:2006/10/03(火) 22:01

「まいちゃん、おはよう」

先にスタジオ入りし柔軟体操を始めていたみうなが、私に気づき顔をあげる。その笑顔が
やわらかいことに、私は安心する。良かった。いつものみうなだ。

「おーっ、まいちん」

みうなにつられて、あさみも振りむいて手を振る。その身体のほぐれ方から、もう随分前に
来ていたことが分かる。私も早く来たつもりだったのだけど。


「まいちん、今日は気合い入ってるね」
「ん? そう?」
「ほら、そのジャージ」
「いや、これは暑かったからまくっただけで」
「別に下ろさなくていいって。カッコいいよ。うちの地元の中学生みたいで」
「中学生かよ。しかも苫小牧の」
「いいじゃん。私もマネしよ」
「じゃあ私も」
「なんかみんなでやると部活みたいだね」
「ほんとだー」

部活動ならバスケ部だ、バド部だ、いやテニス部だ、と3人が3人とも譲らず言い合って
笑った。

55 名前:4.里田まい、インドアで過ごす9月第1週(まとめ) 投稿日:2006/10/03(火) 22:01

私たちが和んでいるところに、チーフマネージャーがスタジオに入ってきた。

その後ろにはちょっと小柄な中年男性。
トップのTシャツは胸筋が浮かぶほどタイトで、ボトムはスパッツ。色はどちらも黒。

背筋は伸び、チーフからの紹介を受け高いトーンで自己紹介をする。
一緒に楽しくやっていきましょう、と彼が話し終える前に、私たちは彼のまとう独特の
雰囲気に気が付いた。ボイトレにしろダンスにしろ、この業界で先生と呼ばれる人
特有の中性的で、かつ凛とした雰囲気。

56 名前:4.里田まい、インドアで過ごす9月第1週(まとめ) 投稿日:2006/10/03(火) 22:02


背を伸ばし、胸を張り、腹筋を張る。
膝を合わせ、踵をつけ、つま先は60度に開く。


全員分の自己紹介が終わったところで先生から指示された基本姿勢。バレエにも共通する
もので、私たちにとっても初めてのものではない。けれどこれがなかなか難しい。少しでも
気を抜けば崩れてしまう。真っ直ぐ立っているつもりでも、鏡に映る自分の姿は曲がっている。
左右に揺れる私たち。これに対し、その前に立つ先生は微動だにしない。


カッ カ カ

基本ステップいくよ、の言葉とともに先生は靴をならした。
右足を引き前方へ蹴り上げる。持ち上げた足をこんどは後方に振り、床を蹴る。最後に踵を
元の位置に収めて基本姿勢に戻す。

先生の右足のスイングとともにスタジオの中に音が広がる。カスタネットよりも乾いていて、
木琴の低音よりも硬質な音色。それは私が今まで聞いたことのない音だった。私の足音とは
全く違う種類のもの。
どこからこんな音が出るのだろう。先生の靴自体は私がいま履いているものとそう変わりは
ないはずなのに。

57 名前:4.里田まい、インドアで過ごす9月第1週(まとめ) 投稿日:2006/10/03(火) 22:02

隣に立つあさみに視線を向けると、ちょうど彼女も私の方を向いたところで、目があった。

すごいね、これ。 目で伝えると、彼女はうなずいた。
うん、すごい、と。


みうなに目をやると、彼女は先生の足元を凝視していた。その口は半開きで、大きく
見開かれた目は潤んでいる。

みうな、びっくりしてるね。 
あさみにそう目で伝えると、彼女は八重歯をのぞかせ笑みをこぼした。



ガ ガ ガガ ガ

やってみて、と促されて私もステップを踏んでみた。

足の動き自体は簡単なもの。カントリーに入り、多くの曲を覚え、カメラやお客さんを前に
踊った。その中に、似たようなステップはいくつかあった。もともと運動神経には自信がある。
フットサルを始めてからは、それまで以上に身体が軽く感じられ、特に足はスムーズに動く
ようになった。ステップは出来てるはず。

だけど音が違う。先生のような高く通る音がでない。この違いはどこから来るのか。

58 名前:4.里田まい、インドアで過ごす9月第1週(まとめ) 投稿日:2006/10/03(火) 22:02


できない。悔しい。けど、楽しい。

この感覚には過去に何度か味わった。カントリーに入ったとき、新曲を覚えるとき、それに
フットサルを始めたとき。新しいことを始めるときの独特の感覚。

これは、面白いことになりそうだ。

59 名前:4.里田まい、インドアで過ごす9月第1週(まとめ) 投稿日:2006/10/03(火) 22:02

60 名前: 投稿日:2006/10/15(日) 23:26

 
61 名前: 投稿日:2006/10/16(月) 00:08

5.午前10時少し過ぎ、あさみのカカトが高く鳴る
 
62 名前:5.午前10時少し過ぎ、あさみのカカトが高く鳴る 投稿日:2006/10/16(月) 00:08


ピンポーン

むぅ。


ピンポーン

枕元の目覚まし時計を手にすると、まだ10時にもなっていない。


誰だよ、こんな朝っぱらから。口に出したところで、是永美記に先週送ったメールを思い出す。
札幌公演が終わったら遊びに来てよ。月曜日には帰ってると思うから。

今日は月曜日。確かに私は東京の部屋に帰ってきている。


いいや、ほっとこう。あさみはまだ帰ってませんでした、ってことにして。
是ちゃんには悪いけど、そんなテンションじゃない。


ピンポーン

本格的に眠ろうと布団に潜り込んだとき、もう一度チャイムが鳴った。
うるさい。しつこい。眠れない。

もういいや。こっちから折れよう。

 
63 名前:5.午前10時少し過ぎ、あさみのカカトが高く鳴る 投稿日:2006/10/16(月) 00:11

「ええと、木村麻美さん、ですね」
「はい」
「こちら、お荷物です。ここに印鑑かサイン、いただけますか」
「はい」
「ありがとうございます。それでは、またよろしくお願いします」


青年はさわやかに言うと、速やかに立ち去った。

私が状況を把握するより前に彼との会話は終わっていて、我が家の玄関に大きなダンボール箱が
残された。私のウエストほどの高さがあり、横から見ると正方形。だけどそれ程スペースを
取らないのは、縦・横にくらべ幅がないから。


変な形。何が入ってるんだろう。

飯田さんから自作の絵画のプレゼント、とかだったらどうしよう。泣くしかない。
『飯田さんの絵、ステキですよね、今度私に何か描いてください』
随分前に自分が発した言葉が悔やまれる。ありがちな社交辞令だったのだけど、
それが伝わってないことも考えられる。

みうなから都バス路線図(ポスタータイプ・額つき)のプレゼント、とかだったらどうしよう。
『東京のバスって難しいけど、これがあれば乗りこなせるね、超便利じゃん』
以前みうなが持っていた都バス路線図(ハンディタイプ)をそんな風に褒めたら、
あさみちゃんに買ってくるよなんて喜んで言っていた。この荷物はその時の話の流れなのかも。
だけどやっぱり路線図は要らない。
 
64 名前:5.午前10時少し過ぎ、あさみのカカトが高く鳴る 投稿日:2006/10/16(月) 00:11


何だ、これ。

ダンボール箱を開いてエアクッションの中から出てきたのは一枚の板。大きな正方形に
カットされ、厚さは2センほど。でかい。こんな板、どうしろというのか。


【タップボード(中)】

既にゴミ箱行きになっていたエアクッションを引っ張り出すと、その端に貼られたラベル
にこんな文字が書かれていた。


そうだ、タップボード。

札幌公演のため北海道に旅立つずっと前、9月の半ばに通信販売で購入したのだ。
『現在在庫を切らせておりまして、取り寄せることになるためお届けには1ヶ月ほどかかります』
確かそんなふうに言われた。あれからもう1ヶ月は経っている。


そういえば、1ヶ月前はそういうテンションだった。

みうなのスピーチを聞いて、チーフマネージャーを説得して、シューズを買ってもらって、
練習用のスタジオを用意してもらって、先生までつけてもらった。タップダンスが出来る環境が
整い、ステップを踏んだ。先生は初歩的なステップから教えてくれたが、これが簡単そうで
なかなか難しい。私たちはタップダンスにのめりこんだ。スタジオで、楽屋で、同じステップを
繰り返した。まいとみうなはメキメキ上達した。
 
65 名前:5.午前10時少し過ぎ、あさみのカカトが高く鳴る 投稿日:2006/10/16(月) 00:12

同じ時間、同じように練習していても、同じように上達するわけではない。
私は2人についていけなかった。


まいはアイドルにしておくにはもったいないほどの運動能力がある。どんなステップでも早々と
覚え、軽々とこなす。誰に指摘されるでもなく、自分の欠点を見つけ、修正する柔軟さもある。

みうなにはタップへの高いモチベーションがある。頭に思い描くイメージがあるらしく、それを
目指し練習しているようだった。それに認めたくはないが、みうなが地元で習っていた奇怪な
ジャズダンスもタップの素養になっているようだった。



私が2人に置いていかれないようにするためには、2人よりも多く練習するしかなかった。

私は家に帰ると一人、ステップを踏んだ。
もちろん自宅ではタップシューズは履けない。床を傷つけてしまうから。

だけど音が出ないと物足りない。張り合いがないと、足だって止まりがちになってしまう。
家でもシューズを履いて練習が出来ればいいのに。


そんな私が思いついたのが、タップボードだった。
 
66 名前:5.午前10時少し過ぎ、あさみのカカトが高く鳴る 投稿日:2006/10/16(月) 00:13

だけどこの1ヶ月、タップばかりやっていられなかったわけで。

10月には札幌公演があった。半農半芸のコンセプトを捨て上京したとはいえ、カントリー娘。の
ルーツは北海道だと思っている。実際、まいは札幌の子だし、私は苫小牧だ。札幌で私たちが行う
初めての単独ライブ。今まで私たちを支えてきてくれた多くの人のため、私たち自身のため、
札幌のステージでは私たちの持つものを出し切ろうと思っていた。


東京公演は成功したが、同じことを同じようにやっていてはいけない。まだまだ出来ること
は沢山あった。始めたばかりタップダンスは、もちろん札幌のステージには組み込まれない。
札幌公演を第一に考えたとき、タップダンスなんてやっている場合ではなかった。

いつのまにか、暇さえあればやっていたタップのステップは、持ち歌の振付やフォーメーションの
確認に取って代わられたのだった。
 
67 名前:5.午前10時少し過ぎ、あさみのカカトが高く鳴る 投稿日:2006/10/16(月) 00:13

 
68 名前:5.午前10時少し過ぎ、あさみのカカトが高く鳴る 投稿日:2006/10/16(月) 00:13

とりあえず、このタップボードを使ってみよう。

箪笥の上に置かれたままになっていたシューズを降ろしてみると、うっすらと白く埃をかぶって
いた。軽く手ではたき、足をいれる。タップシューズは相変わらず私の足にぴったりとはまり、
長らく履いていなかったことを忘れてしまいそうだ。


シューズを履いた足を載せると、ボードは小さくカツンと鳴った。
そうだ、この音だ。1ヶ月前、私たちを虜にしたタップの音色。


カ タ タ タ タ タ

まずは右足。前後にスイングさせて、ボードを蹴る。足の前方とカカトに付いているチッ
プがボードに当たるたび、音が鳴る。同じ位置から出る音でも、その響きは一定ではない。
意識して鳴らした音は鋭く高く響き、意図せず出してしまった音は低く鈍い。
 
69 名前:5.午前10時少し過ぎ、あさみのカカトが高く鳴る 投稿日:2006/10/16(月) 00:14

タ タ タタ タ タ タ タ タ

あたたまってきた身体がリズムを刻む。だんだん足の動きが軽くなっていくのが分かる。
簡単なステップを繰り返しているだけなのに、全然飽きないから不思議だ。


タ タ タ タ タタ タ

1ヵ月前に覚えたステップ。頭で考える前に身体から出てくる。しばらくタップから離れ
ていたけれど、忘れてはいなかったみたいだ。


タタ タ タ タ タ タ タ

ステップを踏みながら、いろいろなことを思い出す。会議室でのみうなのスピーチに端を
発する私たちのタップダンス。あのときのみうなの話はまだ半分も理解できていないけれど、
私はそれに乗せられた。いや、自分から乗っていったというべきだろう。
 
70 名前:5.午前10時少し過ぎ、あさみのカカトが高く鳴る 投稿日:2006/10/16(月) 00:14

タ タ タ タ タ タ タ タ

想像以上に速いスピードで話が進んだ。タップダンスの環境はすぐさま用意され、私たちは
ステップを踏んだ。随分前のことのように思えるが、あれからまだ1ヶ月半しか経ってない。


タ タ タ タ タ タ タ タ

タップダンスの練習に取り組んだのは10日ほど。先生に習ったのは2回だけ。練習量は多く
ない。けれど私たちは集中していた。タップを心から楽しんだ。その結果、こうして身体に
ステップが残っているのだろう。


タ タ タ タ タ タ タ タ

リズムが安定し、ノイズが徐々に減っていっているのが自分でも分かる。こうなるともう
楽しくて仕方がない。身体は疲れてきているはずなのに、そんなことは感じられない。
自分が足を動かしているのか、足に動かされているのか分からなくなる。

 
71 名前:5.午前10時少し過ぎ、あさみのカカトが高く鳴る 投稿日:2006/10/16(月) 00:15



私はステップを踏み続けた。


足が止まって床にヘたりこんだときには、顔は上気し、じっとしているのも苦しいほどに
息が上がっていた。時計を見ると、ボードが届いた時刻から随分と時間が過ぎていた。
携帯を手に取ると、いくつか着信があり、数通のメールが届いていた。


どんだけ踊ってたんだ、私は。

乱れた呼吸のせいで、自分へのつっこみも弱々しく途切れる。
久しぶりなのにこれだけ踊ってしまったら、間違いなく激しい筋肉痛に襲われる。
明日はガッタスの試合があるのに。フィールドでちゃんと走れなかったらどうしよう。


  
72 名前:5.午前10時少し過ぎ、あさみのカカトが高く鳴る 投稿日:2006/10/16(月) 00:15

 
73 名前: 投稿日:2006/10/22(日) 00:36

74 名前: 投稿日:2006/10/22(日) 00:42

6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り
75 名前:6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り 投稿日:2006/10/22(日) 00:43



タ タ タ タ タ タ タ タ

「木村さん、もうちょい重心上げて」

先生のゲキが飛ぶ。ガラス越しに見る彼の視線は厳しい。覚えたてのステップだからだと
か、レッスンの終盤で疲れているとか、言い訳はできない。


タ タ タ タ タ タ タ タ

「里田さん、キック弱いよ」

先生に言われなくても、自分で分かっている。足が重い。ヤバいな、完全にバテてる。
それにひきかえ、2人の足は動いている。ここで私だけ止まるわけにはいかない。


タ タ タ タ タ タ タ タ

「斎藤さん、ちょっと走りすぎ」
みうなは明らかに上達している。ステップは軽やかで、余裕がある。楽しそうに踊る
彼女の姿は、いっちょ前のタップダンサーだ。いつの間にこんなに上手くなったのだろう。


タ タ タ タ タ タ タ タ


タ タ タ タ タ タ タ タ


 
76 名前:6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り 投稿日:2006/10/22(日) 00:43

 
77 名前:6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り 投稿日:2006/10/22(日) 00:44

「いやぁ、今日もキツかったねぇ」

スタジオの地下にあるロッカールーム。シャワーを浴びて戻ってくると、ベンチには
みうなが先に座っていた。


「そうだね。先生、今日はいつもより力入ってたし」
「だよねぇ」

私と同様、シャワーを浴びたばかりのみうなの肩には白いタオルが掛かっている。
お気に入りの柔軟剤の効果なのか、ほのかにフローラルな匂いがする。それに
吸い寄せられるように、私は彼女の薄い肩に自分の頭をのせた。


「まいちゃん、お疲れですか」
「うん。ちょっと」

そうなのだ。私は疲れているのだ。

夏の営業活動の成果なのか、最近テレビや雑誌の仕事が増えた。嬉しいことだけど、
慣れない状況は身体にこたえる。
 
78 名前:6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り 投稿日:2006/10/22(日) 00:44

「あはは」
「みうな、ここ、笑うとこじゃない」
「じゃあ、どうしたらいいの」
「笑う以外に選択肢はないのかい、あんたは」
「まいちゃん、いい匂い」
「多分それ、シャンプーの匂い。それよりさ、このタオルのがすごいよ。みうな、柔軟剤
 使ったでしょ」
「いえ、洗剤だけです」
「ボケなくていいから。柔軟剤、使ったんでしょ」
「うん。よく分かったね」
「これだけ長いことみうなと一緒にいたら、そりゃ、多少の匂いは分かるようになるって」
「偉い、偉い」
「いや、別に偉くはないから。あと、いま髪さわると濡れるよ」

私の忠告を聞かずに、みうなは私の髪の中に鼻を突っ込んで匂いを嗅ぐ。この子のこの習性は
どうしたものだろう。でも今はほっとこう。動くのだるいし。そんなに嫌でもないし。


「お疲れ。ねぇ、何やってるの、そこの2人」
「まいちゃんの匂いテスト」
「いや、みうな、普通に答えなくていいから」

ワシャワシャと髪を拭きながら、あさみがシャワーから戻ってきた。あさみの高い声が響き、
ロッカールームの空気が明るくなる。私もシャキッとしなければ。
 
79 名前:6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り 投稿日:2006/10/22(日) 00:45

「みうな、タップ上手くなったね」
「そうそう。私も思った」
「いやぁ、そんな」
「照れてるよ、みうな」
「まぁ、あれですよ。なんてったて生まれ変わりですから」
「でたよ。またそれですか」
「いつまで言うかね、この子は」

みうなの“持ちネタ”に、私たちは声を上げて笑った。“ダンスの神様”フレッド・アス
テアの生まれ変わりだなんて。



「2人とも、この後空いてる?」
「うん。大丈夫」
「私も。それじゃ、久々に3人でご飯食べにいく?」
「いいね、それ」
「あ、私、焼肉がいい」
「いいね」
「じゃあクーポン探してみる」
「ごめん、その前に事務所行っていいかな。ちょっとチーフに呼ばれてるんだよね」
「あーさが?」
「ううん、3人全員」
 
80 名前:6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り 投稿日:2006/10/22(日) 00:45


こういうパターンは珍しい。

チーフマネージャーとは、明日のスチール撮影のときに顔をあわせる。緊急でも簡単な
伝達事項なら、携帯にかければ足りる。わざわざ3人全員を呼び出すなんて、何の用だろう。


正直なところ、あまり良い予感はしない。

2人も私と同じように感じていたのか、地下鉄を乗り継いで麻布のビルに行くまでの道のり、
私たちにしては驚くほど口数が少なかった。

 
81 名前:6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り 投稿日:2006/10/22(日) 00:46

 
82 名前:6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り 投稿日:2006/10/22(日) 00:46


事務所につくと、奥にある会議室に通された。先に来ていたチーフマネージャーは落ち着きなく
回転椅子を揺らしていたが、私たちに気がつくと動きを止め座りなおした。


「わざわざ来てもらって、悪かったね」
「お疲れ様です。話ってなんですか」
「うん、それなんだけど……」

チーフは口ごもって、視線を泳がせる。悪い予感はどうやら的中したようだ。


「あ、ビスケット貰ったんだけど、食べる?」
「どうも」
「今日は何して来たんだっけ」
「タップのレッスンです。知りませんでしたか」

チーフの態度はどうも煮え切らない。
落ち着いていたいのだが、私は苛立ちを隠すことが出来ない。
 
83 名前:6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り 投稿日:2006/10/22(日) 00:47

「うん。そうだったね。どうだった」
「有意義な時間でした。とても集中していたし、新しいステップも覚えたし」
「それは良かった。随分うまくなったね。先生も誉めてたよ」
「どうも」

口角の上がったチーフの営業用スマイル。けれどその目は笑っていない。


「それで、そのタップダンスのことなんだけど」
「はい」
「この前録ったビデオ、昨日の会議で見せてもらったよ」

新年の公演の編成についての会議用にタップダンスの映像が欲しいと言って、チーフがデジタル
カメラを持って私たちが練習しているスタジオに来たのは先週のこと。

自分たちの最高のダンスを見てもらおうと、私たちは何度もテイクを重ねた。
 
84 名前:6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り 投稿日:2006/10/22(日) 00:48

「よく踊れていた。俺にはダンスなんて分かんないんだけど、すごかった。それは分かった」
「はぁ、どうも」
「それはみんな言ってたんだ。短い期間で、よくここまで出来た。見た目も音も、どこに
出しても恥ずかしくない。冬のステージにも出せるものだ」
「じゃあ、冬の構成にはタップを入れてもらえるんですか」
「それが……。そうもいかないんだ」

チーフはまたしても口ごもった。気まずそうに上目遣いで私たちを見る。その仕草は私を
ますます苛立たせる。


「私たちのタップの何がいけないんですか」
「いや、いけなくはないんだ」
「それじゃあ何でコンサートでできないんですか」

気づくと、私は立ち上がっていた。チーフが驚いた様子で私を見上げている。


「まい、ちょっと静かに」
「だって」
「いいから。とりあえず座ろう」

あさみにたしなめられて、椅子に座る。彼女の冷静さもムカつく。
この状況で、どうしてあんたは怒らないんだ。


「すいません、続けてください」
「うん」
85 名前:6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り 投稿日:2006/10/22(日) 00:49

「まず、お金の問題だよね。みんな知ってるように、タップダンスは普通の床でやると
音が悪いし床も傷つく。それ用のボードが必要になるんだけど、舞台にあわせて大きな
ボードを調達するにはコストがかかる。セットに時間がかかる。会場にもいい顔されないし、
使用料を上げられることだって考えられる」


コンサートはけして収益性の高い興行ではない。お客さんが買うチケットは高いけれど、
設営や音響、会場整備、広告宣伝その他、必要となる費用も安いものではない。


「次に、タップダンスだとどうしても動きが小さくなる。スペースを使えない。これは
ステージパフォーマンスとして、問題だ。それに、タップダンスの持ち味は音だと思うんだ
けど、そのままじゃコンサートでは聞こえない。マイクで拾うとなるとこれもまたコストが
かかる」


薄々気づいていたタップダンスの弱点。そもそもアイドルのステージに不向きなダンスなのだ。


「だから、3人の技術がどうであれ、タップダンスはコンサートではできないんだ」


でもとか、だからとか、そんな単語を口に出そうとしたけれど、それに続く言葉が
見つけられない。
 
86 名前:6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り 投稿日:2006/10/22(日) 00:50


費用とか、パフォーマンスとか言われたらしょうがない。納得するしかない。

だけど、そう簡単に引き下がれない。私たちがタップダンスに投じた時間と情熱はどうしたら
いいのか。せっかく形になってきたものを、みすみす捨てろというのか。



「悔しい」

帰りのエレベーターの中でそう呟くと、目頭が熱くなった。

まるでその一言でスイッチが入ったかのように、私の目から涙がボトボトと落ちた。
自分でもどうしたらいいのか分からず、とりあえずちょうどいいところにあったみうなの肩に
額を押し当てた。



まいちゃん、どうしたの。大丈夫、落ち着いて。


隣にいるはずの2人の声が、遠くに聞こえる。背中をさする手は温かい。みうなのシャツは
柔軟剤の匂いがした。


私はいつまでこうして2人のもとで泣いていられるのだろうか。

 
87 名前:6.とある晴れた日、里田をとりまく花の香り 投稿日:2006/10/22(日) 00:50

 
88 名前:読み人 投稿日:2006/10/27(金) 05:44
楽しみです
期待してます
89 名前:1 投稿日:2006/10/29(日) 01:02
>>88 読み人さん

どうもありがとうございます。
期待に応えられるかどうか分かりませんが、頑張ります。
90 名前: 投稿日:2006/10/29(日) 01:03

7.引き出しの奥の黒い手帳、あさみがそれを開くとき
91 名前:7.引き出しの奥の黒い手帳、あさみがそれを開くとき 投稿日:2006/10/29(日) 01:04


コンサートでタップダンスは出来ない。

それは突然の宣告だった。
寝耳に水、そんな普段使うことのない言葉が頭に浮かんでしまうほど。


タップダンスはコストがかかるし、ステージには適当ではない。

否定されたのはタップダンスの性質。私たちのダンススキルではない。
これから頑張ったところで、目前に迫ったハローのコンサートだけでなく、この先
あるかもしれないカントリーとしてのコンサートでも、ミュージカルのような
コンサート以外の公演でも、タップダンスはできないということだ。

私たちもこの仕事はそれなりに長い。マネージャーの言うことはよく分かったし、
自分たちが事務所にわがままを言えるようなポジションにないことも承知している。
事務所の決定に反論することなんてできなかった。



その日、帰りに寄ろうといっていた焼き肉には行かなかった。

3人ともとてもそんなテンションにはならなかった。
タップに真剣に取り組み、ようやく人に見てもらえる水準まで上達したところで、
その企画をつぶされる。この世界に入って以来、辛いことは何度もあった。おかげで精神力が
鍛えられ、打たれ強くなったと思う。けれど今回のいきさつは相当に堪えた。

92 名前:7.引き出しの奥の黒い手帳、あさみがそれを開くとき 投稿日:2006/10/29(日) 01:04

帰りのエレベーターでまいが泣いた。

声も出さず、まっすぐ前を向いたまま、大きい目からボロボロと涙をこぼしていたかと思うと、
前に立っていたみうなの肩に顔を寄せた。みうなと私は声をかけたり背中をさすったりして
宥めたが、まいはしばらく泣き止まなかった。いつもは見せることはない弱々しい姿に、
みうなと私は動揺した。

普段、まいはあまり涙を見せない。
嬉しいときはともかく、悲しいときや苦しいとき、気持ちがマイナスの時には歯を食いしばって
耐えている。まいはきっと自分の涙が持つ影響力を知っている。だから周囲に迷惑をかけないよう、
必死で涙を抑えているのだろう。

そんなまいが泣いた。



あの涙は3人全員のものだ。

この件で一番悔しいのはきっとみうなだ。
この企画をはじめに言い出したのはあの子で、私たちを説得し、事務所を動かした。
自分たちの力で何かを変えられる。その実感はこの世界に入って初めてのものだっただろう。

私だって悔しい。
6年もこの事務所に所属しているのに未だに自分の意見ひとつ聞いてもらえず、
リーダーなのにグループを守ることもできないなんて、あまりに不甲斐ない。


だけど泣いてばかりはいられない。だって、私たちはカントリー娘。だから。

93 名前:7.引き出しの奥の黒い手帳、あさみがそれを開くとき 投稿日:2006/10/29(日) 01:06


私たちには時間がない。

今月は既にスタジオの予約があり、先生との契約も残っているらしい。まだタップの練習ができる。
けれどこれから先、そうはいかなくなるだろう。
タップをステージでできないとなると、事務所は練習環境を用意してくれなくなるかもしれない。
同じ水準のものを自分たちで用意するのは不可能だ。

それに来週にはガッタスのハワイツアーがある。
これも大切な仕事だ。せっかく来てくれた人たちに沈んだ顔なんて見せられない。
ツアーを良いイベントにするためには、この重い気分をハワイへ持ち込んではいけない。
それには今の気持ちに区切りをつけるため、できる限りのことをする必要がある。

早く動かなければ。


『雑草のようにねばり強く』

カントリー娘。の合い言葉。
一般の人の目には入らなくて当然。主役はほとんど回ってこない。そんな状況でも明るく
前向きに頑張って、この世界で生きてく。それがカントリー娘。なのだ。

この言葉を実践するのは、まさに今だ。


私は意を決して、携帯のボタンを押した。

 
94 名前:7.引き出しの奥の黒い手帳、あさみがそれを開くとき 投稿日:2006/10/29(日) 01:08


「もしもし。ご無沙汰しています、木村麻美です」
「おー、木村。久じぶりだなぁ。元気かぁ」

しばらくぶりに聞いた陽気な声。中学を卒業してすぐに就職した先のボスは、
意識しているのか無意識なのか、東京では珍しいアクセントでしゃべる。


「はい。おかげさまで」
「それは良がった」
「どうですか、そっちは」
「ああ、みんな元気にしでるよ。ただな、ハナコがなぁ……」
「ハナコ、どうしたんですか」
「そろぞろあぶねえな」
「そうですか」
「最近は調子良がったんだけどな。まぁ、もういい年だべ」

ハナコは私が可愛がっていた乳牛だ。
大きくどっしりしていて、風格すら感じさせる体。大人しい性格に、優しい目。
牧場に入ったばかりで失敗ばかりだった私をいつもあたたかく見守ってくれているようだった。
長らく離れて暮らしているけれど私にとってハナコは家族のように近い存在だ。


「仕方ないことだべ。元気出ぜ」
「はい。そうですね」
 
95 名前:7.引き出しの奥の黒い手帳、あさみがそれを開くとき 投稿日:2006/10/29(日) 01:09

「ところで、お前たち、仕事のほうはどうだべ」
「順調です」
「そうみだいだな。テレビでもよく見かげるようになっだし」
「はい。テレビはほとんど里田だけなんですけど、3人での仕事も増えてるので」
「里田はあれだな、キャリアが違えもん。お前らじゃかなわねえ」
「義剛さん、あの子はまだ22で、一応キャリアは私のほうが長いです」
「そりゃ公式にはそうなっとるけんども」
「いや、本当にそうなんですって」
「お前ら騙されてんだよ。これだからお前らヒヨっこはいげねえ。俺は騙されねえ」

電話の向こうで義剛さんは高らかに笑う。
日に焼けた肌に白い歯が映える彼の笑顔が目に浮かぶ。


「今日電話したのは仕事のことなんですけど、今ちょっと困っているんです」
「何だ。どうじた」
「私たち、少し前にタップを始めたんですよ」
「タップでなんだ」
「タップダンスです。ほら、カッカッカッ、って床をならす踊りで」
「ああ」
「割といいかんじに仕上がってるんです。けど、ステージじゃ使えないって言われちゃいまして」
「おう」
「なら、別のことに使えないかなって。例えばテレビとか、イベントとか」
「ほう。いいんじゃねえか」
「そこで、義剛さんなんです。花畑牧場関係で仕事があったら、回してもらえませんか。
 私たち、もともと牧場で働くアイドルってことだったわけだし」
「うん。けどなぁ……」

義剛さんはそう言って黙ってしまう。次の言葉は口にされなくても、だいたい想像はつく。
 
96 名前:7.引き出しの奥の黒い手帳、あさみがそれを開くとき 投稿日:2006/10/29(日) 01:11

「今んとこ、そういう予定はねぇんだよ。俺んとこ、宣伝は俺がやるだけで足りてるし」


ああ、やっぱり。
世の中そう上手くはいかない。何度となく突きつけられた事実にまた直面する。

私は電話の向こう側には聞こえないように、ため息をついた。


「だけど俺、お前のそういう気持ちは好きだ。俺はお前らを応援する。やっぱり人間、待って
いちゃいげねえ。自分から出ていかなげればならねえ。俺が牧場大きくするときも、周りは
いろいろ言ってた。無理だとか、バカだとか。だけど豚も馬もチーズも成功しただろう。人間、
大切なのは攻めの姿勢だ。守ってたら点は入らねえ。点が入んなければ勝てねえ。
なあ、そうだろ」
「はあ」

何の話だ。やばい、スイッチ入ったみたい。

この人はしゃべることが大好きだ。それを仕事にしてしまうぐらいに。しゃべりモードに入ると、
エンドレスにしゃべる。その間に話の流れは脱線し、何を言っているのか分からなくなるから要注意。


「とりあえずタップダンスのVTRがあるので送ります。あと、ベストアルバムとDVDも。
一応、参考に。それじゃあ失礼します」


義剛さんの話はナチュラルチーズ製造を始めたいきさつに移っていた。それを遮るように
早口で伝え、電話を切った。

97 名前:7.引き出しの奥の黒い手帳、あさみがそれを開くとき 投稿日:2006/10/29(日) 01:11


義剛さんはダメ、と。
私は手帳にチェックを入れた。


電話すべき人はまだまだ沢山リストアップされている。
幼なじみの叔父さんは札幌の企業の役員をしている。お父さんの高校時代の同級生は地元農協の
幹部らしい。中学の先輩で東京の大学を出て広告代理店に就職した人がいる。

事務所が一般的な営業活動はしてくれているけれど、それだけではダメだ。
自分でも動かなければ。地味なコネでも活用する。
私たちは今まさに溺れそうなのだ。ワラだってつかみたい。


このリストを消化した後、私に何が残るのか分からない。何も残らない可能性の方が大きい。
けれど今の私はできることをやるだけだ。


私はまた携帯を手に取り、番号を押す。

98 名前:7.引き出しの奥の黒い手帳、あさみがそれを開くとき 投稿日:2006/10/29(日) 01:11

99 名前:読み人 投稿日:2006/11/02(木) 20:33
更新お疲れ様です
あさみのリーダーとしての責任感が泣けます
がんばってください
100 名前: 投稿日:2006/11/06(月) 00:53
>>99 読み人 さん
レスありがとうございます。
小柄な身体で懸命に走る彼女には、どうしても健気なイメージがつきまといます。

101 名前:  投稿日:2006/11/06(月) 00:53

 
102 名前:  投稿日:2006/11/06(月) 00:55

 8.里田まい、北海道のどこかで鍬を振るう
 
103 名前:8.里田まい、北海道のどこかで鍬を振るう 投稿日:2006/11/06(月) 00:55


「何これ」

口に出さずにはいられなかった。


私たちに用意された衣装は下から、ゴム長靴、ベージュのワークパンツ、赤地チェックの
ネルシャツ、麦藁帽子。一般の人が思い描く典型的な北海道酪農ファッション。

けれどこんな格好、現在の普通の牧場では見かけない。酪農家だって若い人はそれなりに
オシャレなのだ。それに、百歩譲ってこの服装がスタンダードな北海道カントリースタイル
だとしても、半農半芸を捨てたアイドルグループ・カントリー娘。に用意される衣装では
ないだろう。


「うちらの衣装だよ、まいちゃん」
「いや、それは分かるんだ。っていうか、普通に答えなくていいから」

狭いロケバスの中、みうなは普通に着替えている。この格好に、この子は何の抵抗も覚えないらしい。
 
104 名前:8.里田まい、北海道のどこかで鍬を振るう 投稿日:2006/11/06(月) 00:56

「あーさ、今日のロケって……」
「CM撮影だよ」
「そうだよね。あーさのコネでとってきたっていう。あーさ、すごいね。いよっ、敏腕リーダー」
「いやいや。ってか、知ってたんだ」
「うん。チーフから聞いた」
「そっか」
「ところで、スポンサーはどんなとこなの」
「あのね、たまたま幼なじみの叔父さんの知り合いの会社の社長さんが加盟してるナントカ協会」
「へぇぇ」
「……だったと思うよ。うん。それで合ってるはず」

あやふやかよ。しかもナントカ協会って。

まあしかし、あさみが自ら仕事を取ってきたというのは素晴らしいことだ。
しかも一回撮ったものが継続的に放送されるTVCMだなんて。この営業力は凄まじい。
たとえスポンサーが聞いたことのない組織だったとしても。
 
105 名前:8.里田まい、北海道のどこかで鍬を振るう 投稿日:2006/11/06(月) 00:57

「そろそろスタンバイよろしくね」

チーフマネージャーに呼ばれて、ロケバスから出る。


降り立ったのは、一面に広がる大地。
遠くに見える林は小さく、草原がどこまでも続く。ダイナミックな地平線に、地球が丸い
という事実を再確認させられる。防寒装備はちゃんとしているし、空は晴れて日差しもある。
なのに、肌を刺す空気は冷たい。まだ11月だっていうのに、こんな気温だとは。

これはまたヘビーな北海道だ。


「どこですか、ここ」
「北海道」
「それは知ってます。飛行機で新千歳まで来たわけだし。北海道のどこかっていう話です」
「俺も分かんない」
「なんでですか。マネージャーのくせに」
「だって俺も君らと一緒にバス乗ってただけだもん。移動中はずっと寝てたし」

なんだ、このぼんやり男は。こんなのが私たちのマネジメントを司っているなんて。
あさみがチーフとしてマネジメントした方がよっぽど成功しそうだ。
 
106 名前:8.里田まい、北海道のどこかで鍬を振るう 投稿日:2006/11/06(月) 00:58

「まあ、上の方じゃない」
「なにそれ。みうな、そもそも北海道の地理分かってないでしょ。ああ、なんか四角いの
 あるなぁ、ってぐらいにしか思ってないでしょ」
「うん。まぁ、そんなかんじ」
「やっぱり。あんた、間違ってるよ。上の方はね、とにかく寒いの。もう大変な寒さなの」
「ここだって寒いよ」
「こんなもんじゃないの。ケタが違うの。人とか住めるところじゃないの。だからありえないっしょ」
「そっか」
「いや、宗谷岬あたりでも人は住んでるから。まいちん、テキトーすぎ。これだから札幌の
 人間は。それにみうなも。こんなので納得しちゃダメだって」

あさみのツッコミに、撮影クルーの人たちが笑う。
ついでにチーフも一緒になって笑う。里田、お前それはないだろ。そんなことを言ってくるけど、
きっとこの人の認識も私と似たり寄ったりだろう。
 
107 名前:8.里田まい、北海道のどこかで鍬を振るう 投稿日:2006/11/06(月) 00:58

「いいね、カントリー娘。」

クルーの中の一人が声をかけてきた。

監督の方であると紹介されたが、それはさっきから私も雰囲気で薄々感づいていた。
周囲の扱いが一人だけ違うのだから。
またそれ以前に、彼の蓄える立派な髭は、彼が単なる撮影チームの一員ではないことを主張していた。


「あ、どうも」
「今日はよろしく。楽しくやりましょう」
「はい。私たちは何をすれば」
「普段通りにしててよ。自然体でいてくれればいいから」
「自然体、ですか」

監督はクルーの人たちとの打ち合わせに戻っていった。自然体と言われてもな。

意識して無意識を演じるのは、大変な高等技能。
ハローのなかでも特に優秀な数人しか会得できていない。
 
108 名前:8.里田まい、北海道のどこかで鍬を振るう 投稿日:2006/11/06(月) 00:58


「じゃ、いくよ」

監督の声が響いて身構える。とうとう始まるのだ。撮影クルー全体に緊張が走る。


「3・2・1、ハイ」


ん? どうしたらいいの? 

時代遅れの道産子ファッション。手にはさっき監督から何気なく渡された鍬。
この格好で何をどうしろというのか。私たちは顔を見合わせる。


「どうしたの。動いてよ」
「はぁ」
「普通に耕してくれたらいいから」
「はい」


反射的に返事をしてしまったが、どうしたものか。
普通に耕せって言われても、何が普通なのか分からないでしょう。



どうしよう。

とりあえず耕そう。

うん。


あさみに視線を送ると、アイコンタクト成功。お互いに頷いて、鍬を振り上げる。
そうだ。私たちはやるしかないのだ。とりあえず、動こう。考えるのは動いてからだ。

 
109 名前:8.里田まい、北海道のどこかで鍬を振るう 投稿日:2006/11/06(月) 00:59


そー れっ

頭の上に振り上げた鍬を下ろすと、刃先が地面に突き刺さる。持ち上げると、黄緑色の草
の中に茶色い土がのぞく。耕すとは、要するにこうして土をひっくり返す作業なんだろう。


れっ

腰がしなると、鈍い痛みが走った。このフォームはどうやらバランスが悪いらしい。この
まま続けたら、きっとどこか痛める。今度は少し重心をおとしてみよう。


れっ

おっ、いいかんじ。動かす部位は少ない方が力の効率はいいようだ。コツはつかめたかも
しれない。



ふと隣を見ると2人も一生懸命に鍬を担いでいる。

広大な草原に鍬を降る女の子3人。それを少し離れて見守る数人の成人男性。
何だかとてもシュールな姿だ。誰一人笑わず、それぞれ真剣に作業しているところが特に。


辛い肉体労働であるはずが、なぜだか楽しくなってきた。この作業の意味なんて分からない。
そもそも意味なんてどうだっていい。無性に楽しい。
この草原の土をすべてひっくり返してみたい。たとえ、ひっくり返した後にすべて埋め戻さな
ければいけないとしても。

 
110 名前:8.里田まい、北海道のどこかで鍬を振るう 投稿日:2006/11/06(月) 00:59

 
111 名前:8.里田まい、北海道のどこかで鍬を振るう 投稿日:2006/11/06(月) 01:00


私たちはいつの間にか汗だくになっていた。
ネルシャツの袖はまくり上げられ、手にはマメができ、顔には泥がついていた。


もういいよ、と監督に言われ作業を止めた時、私たちはお互いを見て大笑いした。
そこには、いっちょまえの農家の人がいたのだから。
充実した疲れをまとった顔は、とても東京でアイドルをやっているようには見えなかった。

 
112 名前:8.里田まい、北海道のどこかで鍬を振るう 投稿日:2006/11/06(月) 01:00

 
113 名前: 投稿日:2006/11/12(日) 06:16

114 名前: 投稿日:2006/11/12(日) 06:17

9.ジャガイモ100gが含む熱量、あさみが携帯で受けとる温もり
115 名前:9.ジャガイモ100gが含む熱量、あさみが携帯で受けとる温もり 投稿日:2006/11/12(日) 06:17


『炭水化物、食物繊維、ビタミン、ミネラル』

かつてニューエイジと呼ばれたような環境音楽をバックに、円グラフが表示される。
内容はジャガイモの成分構成。


『豊かな大地と私たちの大きな愛』

ナレーションが入るとグラフは消え、先月ロケに行った場所の風景が映る。
そこにいるのは私たち3人。みうな、まい、私の順にアップになる。みんな表情は真剣で、
顔には汗が浮かんでいる。


『じゃがいもには、沢山のものがつまっています』

汗を拭いながら、何やら談笑している様子の私たち。終了の合図がかかった後に撮ったもの
だろう。みんなものすごく緩んだ顔をしている。これは撮られていると分かっていない顔だ。


『北海道のじゃがいも』

地平線に太陽が沈む。北海道の雄大な自然を感じさせるカット。
これもあの日撮ったものだろうか。ロケの日、私たちはすぐに次の仕事に向かわねばならず、
日没は見られなかった。せっかくあんな所まで行ったのだから、クルーの人たちと一緒に
日没まで残っていればよかった。こんな景色を見逃すなんて。


画面が切り替わって、まいのアップ。茜色に染まった空をバックに、黄昏れている。
このカットはどうしたんだろう。こんな映像を撮れるはずがない。CGを駆使したのだろうか。
試しに一時停止してよく見てみると、確かに少し明るさがおかしい。


北海道馬鈴薯生産者協会、と白い背景にスポンサーの名前が書かれ、映像は終了する。

 
116 名前:9.ジャガイモ100gが含む熱量、あさみが携帯で受けとる温もり 投稿日:2006/11/12(日) 06:18

 
117 名前:9.ジャガイモ100gが含む熱量、あさみが携帯で受けとる温もり 投稿日:2006/11/12(日) 06:18

15秒のショートサイズ。その中で私たちが映る時間なんて、本当に短い。
だけどこれはカントリー娘。が出演するTVスポットだ。東京では目にすることがないけれど、
北海道ではそれなりの頻度で放送されているらしい。それを思うと、鼓動が少し速くなる。


撮られているときには、何のCMを作っているのかすら分かっていなかった。

そもそも、スポンサーがどこかすら知らなかった。北海道馬鈴薯生産者協会。
私の幼なじみの叔父さんの取引先の部長さんの弟の会社が加盟している協会だったらしい。
地元の知り合いに片っ端から電話をかけてお願いした成果だという話だけど、私は
馬鈴薯協会の方に直接なにかしたわけではないし、今回の仕事は偶然の産物なんだろうと思う。

世の中には面白いことがあるものだ。


今回の私たちの役どころは、さながら北海道でジャガイモを生産する農家といったところ。

はじめに私が電話をかけた中学の先輩から馬鈴薯協会まで、話が持っていかれるあいだに
カントリー娘。に関する情報は少なからずズレていったのではないか。私たちの牧場勤務経験は
農場勤務経験となり、もはや過去形でしか語られない半農半芸というコンセプトは現在進行形のものと
なり、東京在住ハロープロジェクト所属という現状は北海道在住ローカルアイドルとなった。
その結果、制作されたのがこのTVスポットなのではないか。これが私の推測だ。
 
118 名前:9.ジャガイモ100gが含む熱量、あさみが携帯で受けとる温もり 投稿日:2006/11/12(日) 06:18

それにしても、こんな映像をよく作ったものだ。

現代では農作業の多くを機械に頼っている。それに北海道は日本ではいち早く農業の機械化を
達成した土地。間違っても、江戸時代に活躍した備中鍬なんて使わない。
足元のゴム長靴もおかしい。柔らかいゴムだと踏み込みがしっかりせず、足場がぐらつく。
水仕事を伴う牧場ならともかく、耕作にゴム長靴は合わない。ロケ地も農地ではないことは
明らかだった。あんな草原の一部だけを掘り起こして、どうしろというのか。

ネイティブな道民からすると、つっこみどころ満載のロケだった。


けれど撮影から10日足らず、全国ネットで放映されるものと比べると信じられないスピードで
編集され放送を開始した映像は、それなりにまともだ。
少なくとも備中鍬やゴム長靴なんかは画面に入らない。全体を通して安っぽいことは否めないけれど。

最後、まいのアップなんて、本当に素晴らしい。
画面には収まりきれないほどの爽快感が見る人に強い印象を残す。
 
119 名前:9.ジャガイモ100gが含む熱量、あさみが携帯で受けとる温もり 投稿日:2006/11/12(日) 06:19


「もしもし、あさみー?」
「おー、まいちん。元気?」

画面が砂嵐に変わり、ビデオの巻き戻しを始めたところで携帯がうなる。
通話ボタンを押し携帯を耳にあてると、まいの陽気な声が聞こえてきた。


「うん。ばっちり。あさみ、今なにしてた?」
「うちでビデオ見てた」
「あ、あれでしょ、去年のチャンピオンズリーグ。いいなぁ。私も是ちゃんに貸して
もらおっかな」
「違う、違う」
「それじゃ、あれだ、フレッド・アステア。昨日、みうなが騒いでたね。新しいビデオ
買ったのー、って」
「それも違う」
「じゃ、何さ」
「うちらのビデオ。北海道まで行って撮ったやつ」
「あー、ジャガイモCMね」
「うん、それ。まいちん、もう見た?」
「それがまだなの。あり得なくない? もう放送されてるわけでしょ。なのに本人が
見てないって」
「あはは」

120 名前:9.ジャガイモ100gが含む熱量、あさみが携帯で受けとる温もり 投稿日:2006/11/12(日) 06:20

「で、どうよ」
「な、何が?」

思いつめたような普段よりも低めの声にドキっとする。
私も気圧されたようにドモってしまう。


「例のジャガイモCMだよ、ジャガイモ」
「ああ。良かったよ」
「ほんとに?」
「うん。すごく」
「本気で?」
「うん。とても」
「ウソだー。そんな訳ないって。絶対おかしいって。ものすごいダサくてイタいかんじに
仕上がってるって。ヘタに笑いとろうとして滑っちゃったんだよ」
「いやいや、かなり正統派だよ」
「えー。じゃあなんで私、こんなに笑われてるわけ。最近、地元の友達としゃべるといつも
ジャガイモCMの話されるし」
「ああ、それは私もそうかも」
「今日の収録だって大変だったんだよ。何言ってもジャガイモCMの話にもってかれるし。
ま、こういうのおいしいからいいんだけど」
「まいちん、今日の仕事、札幌だったっけ?」
「ううん、東京。お台場でいつもの番組。ディレクターさんがあっち行ったときに見かけたらしくて」


最近まいには不定期にバラエティの仕事が入るようになった。もともとは8月にライブの
プロモーションのためバーターで入れてもらったものだ。

まいにはこれが好機になった。
視聴者の方には新鮮な笑いを提供し、スタッフや共演の方には好感を与えた。
まいのキャラクターは受け入れられ、バーターではなく里田まい指名での依頼がポツ
ポツと入るようになったのだ。

 
121 名前:9.ジャガイモ100gが含む熱量、あさみが携帯で受けとる温もり 投稿日:2006/11/12(日) 06:21

「ふうん。けどこれ、そんなおかしいかな」
「おかしいんだよ、絶対。あー、すべったー」
「すべってるっていうか、むしろ真面目にやってるのが逆にシュールで面白いってかんじのが近い。
特にまいちんが」
「なにそれ。全然分かんないよ」


夕陽をバックにたそがれるまいの表情は、健康的で清々しく、私の目から見ても美しい。
なおかつ、北の大地に根を下ろし厳しい自然と闘いながらたくましくいきる北海道農家の
強さのようなものを感じさせる。

要するに、ハマっているのだ。
あまりにもハマっているがゆえに、その絵柄はシュールなのだ。


「とにかく、まいちんも自分で見てみなって。事務所の誰かに言えばビデオもらえると思うよ。
私から言っとこうか?」
「ありがと。あ、けどやっぱいいや。取りにいくの面倒だし」
「そっか。じゃあ、うち来る?一緒に見ようよ」
「いいね、それ。」
 
122 名前:9.ジャガイモ100gが含む熱量、あさみが携帯で受けとる温もり 投稿日:2006/11/12(日) 06:22

「それならさ、みうなも呼ぼうよ。3人で見よう」
「おー。そうしよ」
「あーさ、明後日空いてる?」
「うん。ガッタスの練習終わったら、後は何もない」
「なら明後日」
「あー、でもその日みうなダメかも。練習にも来ないみたいだし」
「そうなの?仕事?」
「なんか取材だって。来年あたり東京に新しい地下鉄ができるらしいのさ、それのこと
調べるんだって言ってた」
「へー。けど、何でみうなが」
「それがさ、電車の雑誌で来月からみうなが連載持つんだって。その取材」
「ほーっ。電車の雑誌ねぇ」
「ねぇ」


電車の雑誌、という言葉の響きに私たちは何も言えなくなる。
いったいどんな雑誌なのかも分からないし、タイトルだって何回か聞いたはずだが
思い出せない。

けれど何も言わずとも私たちが頭に浮かぶクエスチョンマークを共有していることは確かだ。


「ところで、それはどういう流れできた話なの?これも前みたいにあーさのコネ?」
「全然。私、そっちの方に知り合いとかいないし」
「いやー、分かんないよ。だってジャガイモ協会だって直接知ってる人じゃなかったでしょ」
「まぁそうなんだけどね。けどチーフから聞いたんだけど、みうなはそっちの世界じゃ
ちょっとした人気者らいしよ」
「は?」
「電車好きアイドルってことで有名なんだって、鉄道ファンのあいだでは」
「へー」

まいはどうもまだ納得できていない様子。
無理はない。私だって不思議に思っているのだから。けれど世の中は私たちが思うより
ずっと広い。電車の魅力をいまいち理解できない私たちには想像できないようなことが
鉄道ファンの世界で起こるのは当然だろう。

けれど鉄道ファンとは、いったいどのような人たちなのだろう。

123 名前:9.ジャガイモ100gが含む熱量、あさみが携帯で受けとる温もり 投稿日:2006/11/12(日) 06:22

「ところで、まいちん今どこ?」
「今?どこだろ。あ、甲州街道みたい」
「何でこんな時間に」
「うん、これから家かえるから」
「これから?もう電車ないでしょ」
「うん、だからタクシー」
「タフだねぇ」
「当たり前じゃん」

私のこと誰だと思ってんの、なんて言ってまいは高らかに笑う。
少しかすれて裏返る、本当に楽しいときのまいの笑い声。昨日だって聞いたはずなのに
懐かしくてたまらなくなる。

この声を携帯越しではなく聞きたい。


「じゃあ、もうそろそろ切るね」
「えー。まだいいじゃん」
「私と電話してないで早く電車乗って帰りなよ。じゃあねー」


携帯から聞こえるまいの声を無視するように、私は電話を切った。


いますぐ会いたい。
タクシーの行き先を変えて、今すぐうちまで来て。

そんな言葉をおさえるためには、こうして会話を打ち切るしかなかった。

124 名前:9.ジャガイモ100gが含む熱量、あさみが携帯で受けとる温もり 投稿日:2006/11/12(日) 06:23


私は弱っているのだろうか。
このところ私にも珍しく一人での仕事が入ってきた。ハローのメンバー、それどころか
カントリーの2人ともゆっくり会って話すことができていない。こんな状況は初めてだ。


こんなんじゃダメだ。

よし、と掛け声をひとつかけて立ち上がり、私はチェストの上に置かれたタップシューズを
手に取った。


タップボードの上でカカトを鳴らすと、部屋に響く音はいつも以上に高いように思えた。

125 名前: 投稿日:2006/11/19(日) 16:39

126 名前: 投稿日:2006/11/19(日) 16:39

127 名前: 投稿日:2006/11/19(日) 16:41

10.里田まい、からっ風吹く街に来てダウンベストを脱ぎ捨てる
128 名前:10. 里田まい、からっ風吹く街に来てダウンベストを脱ぎ捨てる 投稿日:2006/11/19(日) 16:42


駅を出て少し歩くと、探していた建物は見つかった。

1階に書店が入った雑居ビル。
今日はその上の階に入っている放送局でラジオ番組の収録。
マネージャーが携帯に送ってくれた地図には目印になるものがなくて不安だったが、
なんとか無事到着できた。


警備員の人に軽く会釈をして、入り口を通る。
テレビ局では何か言われるところだが、呼び止められず、うっかり通り過ぎてしまった。
肩透かしを食わされたような気分になって、後ろを振り向くが、誰か追いかけてくるような
気配はない。どうやらそのまま通っていっていいようだ。なんだかな。

都内では考えられないことだが、地方のラジオ局にはわりとよくノーチェックで
入れるところがある。地方営業に回っていて、びっくりすることのひとつだ。
防犯の意識は低く、テロ対策なんて言葉はない。平和なことだ。


おはようございます、とすれ違う人に頭を下げつつ、スタジオのあるらしい3階に進む。

カントリー娘。の営業では以前から現地集合というパターンがあった。
けれど地方の収録スタジオに各自直接集合、なんてパターンが定着したのは最近のこと。
別の仕事が入った3人をそれぞれ拾って行くのが面倒ということらしい。
事務所の怠慢じゃないかと思うけれど、カントリー娘。のマネージャーは実質的には
1人しかいないから仕方ない。それに自分で直接行く方が気楽でいい。
 
129 名前:10. 里田まい、からっ風吹く街に来てダウンベストを脱ぎ捨てる 投稿日:2006/11/19(日) 16:42

これから収録が始まる“Bスタジオ”なる場所を探さなければ。
ここの局は構造が難しい。どこに何があるか分かりにくい。とりあえず足で探すか。


「おはよ」
「あー、まいちん。おはよう」

階段に踊り場あたりに、ショートカットの小柄な女の子を発見。近くまで駆け上がり、
下から彼女のバッグを軽く引っ張っる。

振り返った女の子は私の予想通りあさみだった。


「今日のスタジオってどこ?」
「なんか5階らしいよ」
「なにそれ。Aスタジオは3階なのに。変なの」
「ね。それにここの階段、人いなくない」
「誰もいないね。エレベーターもないのに」
「それにさ、この階段、1段が妙に高くない?やたら長いし」
「うん。私も思った」
「これさ、2段抜かしで上がったら、息切れるかな」
「だろうね。やってみよっか」
「うん。やるしかない」


よーいドン、の掛け声でスタートを切る。


2段抜かしで登ると、自ずとキックが強くなり走るような形になる。2人並んでそんな
フォームで上がっていると、自ずと隣を意識し競争しているような形になる。


「ゴーール」
「まい、速いって」
「あはは。まだまだ負けないよ」


レースは僅差で私の勝ち。
ターンで内側を取れずつけられた差は、最後の直接でひっくり返した。

 
130 名前:10. 里田まい、からっ風吹く街に来てダウンベストを脱ぎ捨てる 投稿日:2006/11/19(日) 16:43


「何してんの、2人で」
「あ、みうな。おは」

声をかけられて顔を上げると、そこにはみうながいた。私たちより先に着いていたようだ。
いつもは一番遅いのに。今日はかなり頑張って早く来たのだろう。感心、感心。


「爽やかだね、朝から」
「うん。いい汗かいた」
「そうだ、みうな、制汗剤持ってない?」
「あるよ。シトラスと石鹸の香り、それにノンフレグランスってのがあるけど、
どれがいい?」
「じゃあ、シトラスで」
「私は石鹸」
「はーい」

みうなからスプレーをもらうと、廊下突き当たり窓のところまで行って発射。窓から入る
風と制汗剤の刺激が気持ち良かった。


「何してんの、2人で」
「あ、どうも。おはようございます」

丸めた紙で軽く頭をたたかれ振り返ると、マネージャーがいた。
 
131 名前:10. 里田まい、からっ風吹く街に来てダウンベストを脱ぎ捨てる 投稿日:2006/11/19(日) 16:44


ちょっと場所移そう、と私たち3人を引き連れベンチスペースへ移動。
あさみに進行表を渡すと、今日の流れの説明に入る。


「今日の出番は10:45ぐらいから。ブースに入るのはだいたい5分前。多分早まることは
 ないだろうけど、早めに準備しといて」
「はい」
「ゲストってことで、20分ぐらい時間もらってる。だけど生放送だから、上手くいったら
 もうちょい延ばせるかも。そこのとこは今、調整してます」
「どうも」
「今日の目的は正月にあるハロコンの宣伝。最後に時間もらえます。そこに資料あるよね。
 場所と日程と出演メンバー、その紙にライン引っ張ってあるとこを読み上げて」
「OKです」
「あとはまあ普通に受け答えしてくれればいいってとこかな。いつも通りのリアクションで。
 それと、さっきアンケートもらってきたから、埋めといて。番組で使うらしいから」
「了解です」
「今日のスタジオにはウェブカメラがついてます。これも生で流れちゃうから、意識してね。
 ちゃんとカメラサービスするように。けど、あんまり変なことはしないように。ブースに
 入るとき、カメラの位置は教えるから確認して」
「はい」
「あと、収録始まる前にこのDVDにサイン入れておいて。3人全員分ね。これ、一応
 リスナープレゼントってことになってるから丁寧に書くように」
「じゃ、今書きます」
「それとタップシューズ、ちゃんと持ってきてるよね」
「もちろんです」
「忘れるわけないじゃないですか」
「だろうね。タップダンスについては話の流れの中でやってもらうことになるから、ブース
 入る前に準備しといて。小さいスタジオだし、高いボード借りてきたから、かなり良い音
 でると思うよ。それじゃ、ま、こんなとこかな」


頑張ってねー、なんて軽く言って、マネージャーはスタジオに戻っていく。

テレビ・ラジオ収録の立ち会いで担当マネージャーがやるべきことは、現場スタッフとの
コミュニケーションにつきる、というのが彼の持論だ。

 
132 名前:10. 里田まい、からっ風吹く街に来てダウンベストを脱ぎ捨てる 投稿日:2006/11/19(日) 16:44


ベンチに残された私たち3人。壁に背を向け横に並んで座っている。
活気のあるスタジオとは対照的に、ラジオ局の休憩室はどこも静かだ。


「いよいよだね」
「うん。ついにこの日が来た、というか」
「……」
「朝から興奮しちゃって大変だったよ」
「そだね。今日のまいちんはいつも以上にテンション高い」
「やっぱ気づいた?」
「うん。けど、私もかなり舞い上がってる。落ち着いてらんない」
「……」
「どうした、みうな。黙っちゃって」

自分に話を振られたことに気づいて、驚いた様子のみうな。その目は焦点が定まってない。


あー。やばいね、これは。

あさみと視線を合わせると、彼女の目はそう言っていた。私もまったく同感。


「そうだ。みうな、準備運動しよう。身体あっためとかないと足止まっちゃうよ」

本番前に少しでもリラックスさせないと。
それには身体を動かすのが手っ取り早い。


「じゃあみうな、ちょっと、階段行くよ」
「階段?何しに?」
「上りに行くに決まってんでしょ、階段なんだから」

 
133 名前:10. 里田まい、からっ風吹く街に来てダウンベストを脱ぎ捨てる 投稿日:2006/11/19(日) 16:45


みうなの手を引いて、階段を下る。

みうなの口数は少なくため息が目立つ。緊張するのも無理はない。今日は私たちが
タップダンスを披露する最初の日。
マイナーなラジオの放送だろうと、映像はネットでしか流れなかろうと、関係ない。


「みうなさ」
「ん?」
「昨日、どれぐらい寝た?」
「何時間だろ。分かんない。布団に入ったのが1時で、けどそれからずっと眠れなくて、
 羊数えてた。1357匹まではいったよ。でもせめて1500匹ぐらいはいきたかったな」
「何してんの。そんなことしてるから眠れないんだよ。よりによって羊なんて」
「眠れないときは羊でしょ」
「羊なんて最悪だよ。あの目を思い出したら眠気なんて一発でさめるって」
「細部まで思い描くからいけないんだって。羊を数えるのってちゃんと意味があるんだよ。
 フワフワの羊毛とかねっとりした鳴き声とかそういうイメージを持つことでリラックス効果が
 高まって眠気を誘うんだってさ」
「へー。あんた、そんなトリビアどこから仕入れたの」
「本で読んだ」

また活字情報か。この子の活字好きはどうしたものだろう。
いつだって活字から妙な知識を調達してくる。
 
134 名前:10. 里田まい、からっ風吹く街に来てダウンベストを脱ぎ捨てる 投稿日:2006/11/19(日) 16:45

「けどさ、それならクリームパンで良くない?フワフワでねっとり。まさにクリームパン
だよ。みうな、明日からはクリームパン数えな」
「えー」
「あんたパン屋の娘でしょ。大人しくクリームパンにしとけ」
「いや、羊にしとくよ」
「頑固だなー、もー」


ダラダラととりとめのない話をしているうちに、1階に到着。これだから下りは簡単だ。
外に出ると太陽がまぶしくて、私は思わず顔をしかめてしまう。


「それじゃ、上りますか」

階段を下から眺めると、俄然モチベーションが上がる。これはもう下りた分だけ上るしかない。
そうなったら、こんなもの着ていられない。私は着ていたダウンベストを脱ぎ、手すりに掛けた。
本当は足首が曲がらないブーツも脱ぎたいところだけど、それはさすがに気が引ける。


「ここから?」
「もちろん」
「5階まで?」
「当然」
「1段抜かしで?」
「できれば」
「無理だよー」

みうなは薄い身体をのけぞらせて声をあげる。やる前から音を上げてしまってる。
まぁ、予想通りのリアクションだったけど。


「大丈夫だって。楽勝だよ、こんなの。さっき、あーさと私で上ったの見たでしょ」
「うん。まぁ」
「みうな、体力あるじゃん。ガッタスの練習でランニングでも最後までバテないし」
「うん。けど」
「こんな階段なんて全然たいしたことないから。意外とすぐに着いちゃうって」
「うん。でも」
「ガタガタ言ってないで。さっさと上るよ。5階であーさが待ってんだから」
 
135 名前:10. 里田まい、からっ風吹く街に来てダウンベストを脱ぎ捨てる 投稿日:2006/11/19(日) 16:45


まだぐずぐずしてるみうなの背中を押して、スタート位置へ。
2人並んだところで掛け声をかけた。


いくよー。 よー い ドン

合図とともに飛び出す。視界の端にみうなの姿がちゃんと入っている。ぐだぐだ言ってい
たわりには良い入り方をしている。


ターンを前に、みうなが身体を入れてくる。これじゃ前に出れない。
広くない階段でのレースはコース取りが重要。こうしてガードされてしまうとインコースが
取れない。こいつ、なかなかやるな。

ちょっと離れよう。レースでは一定の距離を保つ必要がある。近づき過ぎると危ない。
5階までは長い。ここで少しぐらいアドバンテージを取られてもそれほど痛くはない。


2階のフロアを通り過ぎる。

予想していたことではあったけれど、みうなのペースは落ちない。ここは長期戦を覚悟して、
もう少し下がってインコースを走るべきだろう。


3階のターン。

この辺りにくると階段を蹴る足が鈍くなってくる。跳ねるようには進めない。この苦しい中盤を
どう乗り切るかでレースは変わってくる。


4階のフロアを踏む。
みうなの動きはだいぶ鈍くなっている。5階はもうすぐそこ。勝負をかけるならここだろう。


5階。

最後の段を先に踏んだのは私だった。

 
136 名前:10. 里田まい、からっ風吹く街に来てダウンベストを脱ぎ捨てる 投稿日:2006/11/19(日) 16:46


「ついたー」

私から数秒おくれて、みうな到着。


「おつかれー」

待っていたあさみが声をかけてくれるけど、私たちはすっかり息が上がってしまって
こたえることができない。それどころか、息が苦しくて背中を伸ばせない。

「いやー、まいちんやっぱ速いね。でもみうなもすごいよ。あんまり差ついてなかったじゃん」


走っている間はそうでもないのに、止まると汗が吹き出してくる。顔が上気する。
あさみの言葉に何か返したいけれど、声が出ない。

隣を見ると、みうなも私と同じようだ。けれどその表情は明るい。あさみに誉められて
照れたように笑っている。良かった。いつものみうなだ。

これなら今日の収録も大丈夫。きっと上手くいく。


だけど、みうなが良くても私がダメかも。
体力には自信があるけれど、さすがに階段レース1日2戦はキツい。
こんなんでちゃんとステップ踏めるのかな。

それに、収録前に1階に置いてきたダウンベストを取りに行かなければ。
あんな閑散としたところに放置していたら、間違いなくゴミと間違えられる。
また下まで降りないといけないのか。いい加減、うんざりする。

私はへたりこむように床に腰をおろした。


 
137 名前:  投稿日:2006/11/19(日) 16:46

 
138 名前:読み人 投稿日:2006/11/25(土) 02:35
更新お疲れ様です
メンバーが気持ち良さそうにしているのが嬉しいです

ですが、現実ではどうしたことか…
139 名前:1 投稿日:2006/11/27(月) 23:54

今回2人の卒業・引退を踏まえて、話の方向性を変えようと思いましたが
どう考えても無理でした。今さらちょっとやそっといじっても、どうにもなりません。

そこで現実には目を背け、既に書いていたものをupすることにします。
よろしければ、お付き合いください。
140 名前: 投稿日:2006/11/27(月) 23:55

141 名前: 投稿日:2006/11/27(月) 23:55

11. ストロボの光の中で、あさみは茶色い土を掘る
142 名前:11. ストロボの光の中で、あさみは茶色い土を掘る 投稿日:2006/11/27(月) 23:56


タ タ タ

この日のために用意していた30秒のステップワーク。そのラスト、ヒールの三拍子。
3人の足音がきれいに揃った。

スタジオブースに残る余韻を感じながら、私は大きく息をはいた。


143 名前:11. ストロボの光の中で、あさみは茶色い土を掘る 投稿日:2006/11/27(月) 23:57


お昼のラジオにゲスト出演、課題はハローの新年コンサートの宣伝。

そんな仕事をチーフマネージャーが取ってきたのは先週のこと。取ってきた、というより
面倒な営業をハローの中でスケジュールに余裕がある私たちが押しつけられた、という方が
適当かもしれない。
けれどここからが彼の素晴らしいところ。私たちの出演時間を拡大し、コンサートの
宣伝に加えて私たちがタップダンスをする機会を与えてくれたのだ。


この話が来たとき私たちは本当に嬉しかった。
テレビのバラエティ番組にでても、雑誌に連載をもっても、ジャガイモのCMをしても、タップ
ダンスはできなかったのだから。
この先ずっと誰にも見てもらえないと思っていたのだから。


私たちは短いステップを用意した。
耳に残るリズムで、見た目にも華があり、拍をとる人がいなくても3人がきれいに合わせられる、
そんなワンフレーズを。レッスンで教わった基本的なステップをベースに、3人でああでもない、
こうでもないと議論して。

幸いにも、事務所とタップの先生との契約は1月頭までの3ヵ月契約だったから、私たちは先生に
アドバイスをもらうこともできた。


あの日のラジオでは、初めてにしては上手くいった。
スタッフの人たちにも誉められたし、ファンの人たちの評判も良かったようだ。
それに何より、ステップを踏んだ私たちには手応えがあった。


コンサートのプロモーションのためのラジオ出演はあと2回。
そのときにはまた、タップダンスをしてみせることができるだろう。

次の営業は最終の水曜日。あの独特の余韻を思うと、胸が高鳴る。

144 名前:11. ストロボの光の中で、あさみは茶色い土を掘る 投稿日:2006/11/27(月) 23:57

145 名前:11. ストロボの光の中で、あさみは茶色い土を掘る 投稿日:2006/11/27(月) 23:58

だけど今の私は、来週のラジオの仕事ではなく目の前にある仕事について考えなくては
いけない。私は今、トラクターのシートに座っている。車体の横にはメーカーの人。


「……で、動く、と。あさみちゃん、分かった?」
「あの、すいません。もう一回お願いします」
「うん。じゃあ、いくよ。ゆっくり話すからよく聞いてね。ここのキーを捻るとエンジンが
 かかる、で、ここの棒を手前に戻して、足元のブレーキを緩めてみて。ほら、ちょっと
 動いたでしょ。あ、もういいよ、ブレーキ踏んで。それで、ここのボタンを押すと、後ろが
 動き出す。大丈夫?」
「はい」


手順は単純。だけど自分が動かすとなると、簡単ではない。

トラクターなんて、地元では一家に一台はあると言われる至ってポピュラーな道具。
機械は苦手だと言うおばあさんも、痴呆が疑われるおじいさんだって、軽々と使いこなしている。

トラクターがこんなにも難しいものだとは思わなかった。前に動かすだけでも一苦労だ。
 
146 名前:11. ストロボの光の中で、あさみは茶色い土を掘る 投稿日:2006/11/27(月) 23:59

「カメラ入りまーす」


打ち合わせ通り、エンジンをかける。

身体に振動が伝わり、気持ちが引き締まる。だけど表情は緩めなければ。
カメラに向かって笑顔を作る。


「ちょっと動いてみて」


ついさっき教えてもらった手順で車体をゆっくり進ませる。ついでに耕作機も動かす。

こうなると普通に畑を耕している気分だ。もっとも、私がトラクターを動かしているのは室内で、
耕しているのはスタジオのブルーシートの上に敷かれた土でしかないんだけど。


「いいよー。今度はちょっと前向いてみようか」


トラクターは座席の位置が高くて見晴らしがいい。
ここが本当の畑だったら、それも本州の小さいやつじゃなく北海道の広大な農地だったら、
さぞ気持ちが良いだろう。


「いいねー、あさみちゃん。カメラに視線くれるかな」


カメラに向かって笑ってみせる。
トラクターに慣れてきたせいか、さっきより自然に笑えている気がする。


「はい、オッケー」


カメラさんの合図がはいり、スポットライトが落とされる。
おつかれさまです、と私もトラクターから降りた。

 
147 名前:11. ストロボの光の中で、あさみは茶色い土を掘る 投稿日:2006/11/28(火) 00:00

「良かったよー、あさみちゃん」
「ありがとうございます」
「ほんと、イメージぴったりだよ。素晴らしい」
「はぁ」

話しかけてくれたのは、ディレクター、つまりこの販促企画のトップの人。
私をこのキャンペーンのイメージキャラクターとして推薦してくれたのもこの人らしい、
というのが事務所スタッフの統一見解だ。

誉められても苦笑するしかない。
そもそもこの仕事がなぜカントリー娘。3人ではなく私1人に来たのかというと、素朴で土臭い
という私のイメージがトラクターにぴったりだということらしい。
どんな理由でも仕事をもらえるのは嬉しい。けれど一応東京でアイドルをやっている身としては、
複雑な心境には違いない。


「あさみ、ちょっと来て」
「はーい」

マネージャーに呼ばれ、スタッフの人たちが集まるテーブルへ。

その中心にあるディスプレイには、トラクターを操縦しながら笑顔を振りまく私の姿。
我ながらトラクターが似合っている。素直には喜べないけれど。
 
148 名前:11. ストロボの光の中で、あさみは茶色い土を掘る 投稿日:2006/11/28(火) 00:00

数ある画像のなかでどれを採用するか、スタッフさんの意見は2つに分かれている。

いかにも楽しそうにトラクターを操縦しているかのような画像と、カメラ目線でにっこり
微笑んでいる画像。きっとこのどちらかが採用される。
そして農業用機械パンフレットの表紙を飾り、各地の農協に配られるポスターとなり、
地域によっては新聞の折込広告として配られるのだろう。
そして代理店で、農協で、一般家庭のダイニングテーブルで、私は笑顔を振りまくのだろう。

自分の姿が流通していく様子を思い浮かべると、胸が高鳴る。
たとえトラクターに跨った土臭い姿であっても。



スタジオの奥では、水田のセットが用意されている。土を重ねただけの畑のセットとは違い、
今度は水を引かなければいけない。それもただ土の上に水をかければいいというわけでは
ないらしい。体格のいいスタッフさんが軍手を汚して奮闘している。

タイムスケジュールによると、あと40分で田植機の撮影が始まる。
その次は稲を植え替え水を抜き、コンバインを動かす。


まったく稲作は大変だ。
パイプ椅子に腰掛け、出されたお茶をすすりながら、ぼんやりとそんなことを考えてしまう。

 
149 名前:11. ストロボの光の中で、あさみは茶色い土を掘る 投稿日:2006/11/28(火) 00:00

 
150 名前:1 投稿日:2006/11/28(火) 00:01
>>138
レスどうもありがとうございます。

個人的な願望のままに動かせる妄想と違い、現実は難しいですね。
実際の彼女たちのことを考えると胸がつまります。
151 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/03(日) 10:51
これだ。
これこそがカントリー娘。があるべき真の姿だ。
すばらしい。
152 名前: 投稿日:2006/12/07(木) 21:26

153 名前: 投稿日:2006/12/07(木) 21:27

12. 2006年残り4日、みうなの恋は年を越せない
154 名前:12. 2006年残り4日、みうなの恋は年を越せない 投稿日:2006/12/07(木) 21:28


「おじゃましまーす」


なんとなく入った突き当たりの部屋には誰もいなかった。

廊下に出て改めて扉に掛かるプレートを確認すると、ここは美勇伝の楽屋のようだ。
どうりで机の上に鎮座するバックがピンク色に光っているはずだ。
こんな寒い季節にこんな明るい色の小物を持てるのは、ここでは石川さんぐらいだろう。


私たちに与えられたのと同じ間取りの3人部屋。机や椅子もほぼ同じ。それなのに随分と
雰囲気が違う。

まず、気がつくのは匂いの違い。
ここは妙に甘ったるい。これは誰の匂いだろう。ハローのメンバーの匂いはだいたい
把握している。唯ちゃんに石川さん、それに新垣里沙ちゃんもここに来ただろう。
絵梨香ちゃんの匂いはいつもほのかに香るだけ。

そしてやたらアットホーム、かつ狭い。
メイク道具や雑誌、マンガ本、私服や衣装が無造作に置いてある。
カントリーの楽屋で私がこんな風に散らかしたら、2人に叱られて大変だろう。

155 名前:12. 2006年残り4日、みうなの恋は年を越せない 投稿日:2006/12/07(木) 21:28


いい子だからどこかで遊んできなさい。

そんな不倫中の団地妻が帰ってきた小学生を追い出すような言葉で、私は自分がいるべき
カントリー娘。の楽屋からつまみ出された。これは断じて私のせいではない。
きっとまた2人は私に原因があるのだと言うだろうけれど。


楽屋で2人はトランプをしていた。種目は神経衰弱。
アイドルという職業の22歳が2人もって、何をしているんだか。もっと他にやることは
ないのだろうか。ダンスレッスンとかボイトレとか撮影とか、それらしいことは。

今日は新年のコンサートのリハーサルで来たわけだけど、私たちには誰一人として出番が
回ってこなかった。それで私たちは楽屋でヒマを持てあましていたのだ。
いまだ年長組の人が揃っていないことを考えると、もしかしたら私たちの到着が
早すぎたのかもしれない。

156 名前:12. 2006年残り4日、みうなの恋は年を越せない 投稿日:2006/12/07(木) 21:28


私は退屈だった。
神経衰弱なんてクラシカルな遊びに興味はなくても、ちょっかいを出したくなってしまうほど。

しかも2人は考えられないようなミスばかり繰り返していた。
あの人たちは何回カードをめくったら、ハートの5の隣がクローバーの3であることを
覚えるのだろう。


『エースはそれじゃなくてその隣だよ』

私はほんの少しだけアドレスをあげた。けれど2人は私の言葉を無視し、でたらめなカードを
めくり続けた。


『6はそこじゃなくてその隣だって』

私は大きな声をだしていた。2人は黙ってゲームを中断し立ち上がると、私を廊下に追いやった。
そして笑顔で言ったのだ。いい子だから、どこかで遊んできなさい。と。

157 名前:12. 2006年残り4日、みうなの恋は年を越せない 投稿日:2006/12/07(木) 21:29


つまんない。
机の上に放置されていた雑誌を手にとるけれど、あんまり面白くない。


誰か来ないかな。
椅子のキャスターをキュルキュルと動かしながら考える。

ここに来そうな人は誰だろう。
まずは美勇伝の3人。次に彼女たちに用がある人、または彼女たちと極めて仲が良い人。
あとは何の関係もないけどなぜかここに来る人。まぁ、そんなのは私しかいないだろうけど。



「ごめんなさいっ」

後ろでガチャリと扉が開く音がして、ドキっとする。思わず大声で謝ってしまった。
別に悪いことをしている訳ではないのに。

振り返ると、ドアの前にはふんわりとした茶色い髪の女の子が立っていた。


「なんだ、唯ちゃんか」
「うん。いかんかった?」
「全然」


唯ちゃんで良かった。

リハーサル期間の石川さんはいつも以上にハイテンション。
基本的に彼女とは全ての面で合わないのだが、この期間は特に一緒に居るのが苦しい。

絵梨香ちゃんは優しくて良い人だけど、いかんせん共通の話題がない。
2人になったら間が持たない。

唯ちゃんだったら歳も近いしそれなりにしゃべれる。

158 名前:12. 2006年残り4日、みうなの恋は年を越せない 投稿日:2006/12/07(木) 21:29

「別に気にせんでええよ」
「何を?」
「さっき、ごめんって言うたやん」
「ああ、そのことか」
「それで、みうなちゃん、何壊したん?」
「何も壊してないよ」
「ええよ。私、怒らへんから」
「いや、本当に何も壊してないって」

唯ちゃんは、ウフフと笑う。私の言葉を信じてはくれそうにない。
この状況では私たちはさながらイタズラを見つかってしらばっくれている子供と
それを見守る優しい親戚のお姉さんだ。


「唯ちゃん、それ衣装?」
「うん」
「かわいいね」
「せやろ!」


流れを変えようと反対のサイドに出したパスがつながる。唯ちゃんは衣装の話題にくいついた。

スカートのギャザーがどうの、トップの切り返しがどうの、と身振り手振りを交えて解説してくれる。
衣装についてこんなにも思うところがあるなんて、この子は本当に女の子だなぁ。
適当に相槌をうちながら、私はぼんやりとそんなことを考えていた。


「聞いてへんやろ」
「え?あ、そんなことないって」

唯ちゃんは、ウフフと笑った。この甘ったるい笑顔には何も言えない。
私もこんな風に笑えたら、いろいろなことがもっと上手くいくのだろう。

159 名前:12. 2006年残り4日、みうなの恋は年を越せない 投稿日:2006/12/07(木) 21:29


「みうなちゃん、今、タップダンスしてるんやってなぁ」

今度は唯ちゃんからのサイドチェンジパス。それもちょうど追いつける位置に出たナイスパス。
私はそれをありがたく拾う。


「うん。よく知ってるね」
「梨華ちゃんから聞いた。うまいんやってなぁ」
「いや、それほどでもないよ。けど、ちょっとは上達したかな」
「私、タップダンスって見たことないねん」
「そうなんだ」
「みうなちゃん、見せてくれへん?」


普通のブーツじゃきれいな音が出ないとか、今日のスカートだと足が動かしにくいとか、
言ってみたところで、唯ちゃんの笑顔には叶わない。
この子に笑顔でお願いされたら、私は彼女の前でタップのステップを踏まないわけには
いかないのだ。


「じゃあ、いくよ」

160 名前:12. 2006年残り4日、みうなの恋は年を越せない 投稿日:2006/12/07(木) 21:30



タ  タ  タ


深呼吸して、足を動かす。入りは一番簡単な三拍子のステップ。ここで自分の中でリズムを
決める。


タ  タ  タ  タ  タ  タ  タ  タ  タ


テンポはそのままで、音を増やす。単純なリズムでも、両脚の動きを組み合わせると面白い
ものになる。


タ  タ  タ


締めもやはり三拍子のステップ。
ラジオで披露して以来、私たちの定番になりつつあるショートサイクルがきれいに決まった。


161 名前:12. 2006年残り4日、みうなの恋は年を越せない 投稿日:2006/12/07(木) 21:30


「すごーい」
「ほんと?」
「うん」

ありがとう、と面と向かって言われ、私は少し照れてしまう。
他の人に言われても平気なのに。これはハローの中では珍しい西の方のアクセントのせいなのか、
それともこの子の持つ他の何かのせいなのか。


「いや、でも、まぁ、まだまだだよ」
「何で?もう上手いやん」
「私はね、ほら、生まれ変わりってやつだからさ」
「何の?」
「フレッド・アステア。唯ちゃん、知ってる?アメリカの映画俳優なんだけど」

説明しようと唯ちゃんの方に目を向けると、彼女はお腹を抱え屈み込んでいた。
そして顔を覗き込むと、声を殺して笑っていた。


「唯ちゃん、何笑ってんの」
「だって、みうなちゃん、石川さんの、言う通りなんやもん」
「石川さん?」
「フレッドアステアって、生まれ変わりって、本気で、真面目に言ってて」
「うん。本気だよ」
「でも、その人って、みうなちゃんが、生まれた、後に死んだ、人やんか。生まれ、変われへんよ」


唯ちゃんは息も切れ切れに、信じられない言葉を口にした。

162 名前:12. 2006年残り4日、みうなの恋は年を越せない 投稿日:2006/12/07(木) 21:32


まったく何を言うんだ、この子は。
もう相手をするのも面倒だ。放っておこう。

私は美勇伝の楽屋を後にした。笑い続ける唯ちゃんを置いて。


それにしても、おかしなことを言う子だ。私が彼の生まれ変わりでないなんて、そんなこと
あるはずないのに。



でも、まてよ。何かひっかかる。

私はカントリーの楽屋に急ぎ、バッグからいつも携帯している彼の評伝を取り出した。
年表が掲載された後ろのページを開ける。



1987年6月22日、没。

そこには確かにそう書かれていた。



私はそのとき、生まれて初めて自分の視界が暗くなっていく光景を見た。


163 名前:12. 2006年残り4日、みうなの恋は年を越せない 投稿日:2006/12/07(木) 21:33

164 名前:1 投稿日:2006/12/07(木) 21:36
>>151
レスありがとうございます。

卒業する2人が新しい場所で頑張ってくれることを祈っていますが、
カントリー娘。には3人一緒にアイドルとしての未来を夢見ていて欲しいとも
思ってしまいます。
165 名前: 投稿日:2006/12/26(火) 21:45

166 名前: 投稿日:2006/12/26(火) 21:45

13.東京で迎える新年、里田が手にしたお年玉
167 名前:13.東京で迎える新年、里田が手にしたお年玉 投稿日:2006/12/26(火) 21:46


「みうなっ」


扉を開けると、部屋の中からあさみの声が響く。

ケータリングスペースからカントリーの楽屋に戻ると、あさみとみうなが向かい合うかた
ちで座っていた。あさみの言葉にも、みうなは黙ったまま。


「もう。ちゃんと答えなよ」

あさみの中指がみうなの額にピシリと刺さる。
なかなか無いぐらいきれいなデコピンだ。広い額をおさえて痛がるみうなの仕草が可笑しくて
吹き出すと、あさみにまで睨まれた。


今日のあさみは本気だ。本当に怒っている。
下手にちょっかいを出してはいけない。あさみの怒りが私にまで飛び火する。

そんなことになったら面倒だ。こういうときは、関わらないに限る。触らぬ神に祟りなし、と。


私はテーブルの上に放置されていた雑誌に手を伸ばす。
雑誌とは言っても、女の子がよく読むファッション誌やハローの子が登場する情報誌ではない。

『月刊鉄道交通』

発行部数5,000部の専門誌。様々なジャンルに別れる鉄道ファンの中でも、鉄道に乗ることを
楽しむいわゆる“乗りテツ”や、撮影を楽しむいわゆる“撮りテツ”をメインターゲットにした
雑誌だ。情報の詳細さと写真の美しさがマニアから絶大な支持を受けている、らしい。

168 名前:13.東京で迎える新年、里田が手にしたお年玉 投稿日:2006/12/26(火) 21:47

こんなマニアックなものがカントリー娘。の楽屋に登場したのは一昨日のこと。

何故だか先月号から『月刊鉄道交通』に連載ページを持つことになったみうなが持ってきた。
以来、隙あらばハローのメンバーやスタッフさんに見せびらかしている。内容のマニアックさに
みんな反応に困っているのだが、みうなはその辺りのことをどうもよく分かっていない様子。


「唯ちゃんと何があったの?」
「別に」
「怒らないで聞くから。言ってみ?」
「何もないよ」
「じゃあなんで唯ちゃんのこと無視してんの」
「無視してるわけじゃないよ。ただ、しゃべらないようにしてるだけ」
「いや、それ、無視してるってことでしょ。さっきだって唯ちゃんが話しかけてくれてるのに、
みうなは何も言わないでどこか行っちゃうし」


『月刊鉄道交通』冒頭グラビアを眺めているフリをしつつ、私はこっそり新幹線の写真から
目を上げ、2人の様子を観察する。
正面からたたみかけるあさみ。あさみから目をそらし口をとがらせるみうな。

169 名前:13.東京で迎える新年、里田が手にしたお年玉 投稿日:2006/12/26(火) 21:48

「喧嘩してるなら、早いうちに謝って仲直りしなさい」
「喧嘩じゃないよ」
「じゃあ何なの」
「なんでもないって」
「何も無かったら普通にしゃべれるでしょうが」
「何も無いけど、唯ちゃんとはしゃべりたくないの。そういう気分なの」
「だから、それが良くないって言ってんの。空気悪くなるでしょ。ハローは全員で一つの
グループなんだよ。一緒に頑張っていかなきゃいけないんだから、わだかまりとかあっちゃ
ダメなの。特に今は。ハロコンはまだしばらく続くんだから」
「でもさ……」
「口答えしないの」


あさみのデコピンがまたしても炸裂。みうなが小さくうめく。その目はやっぱり反抗的。
あさみの怒りも収まった様子がない。

このままじゃこのやりとりは永久に終わらない。
そろそろ区切りをつけるのが賢明だ。


私はJR京葉線車体の隣でみうなが満面の笑みを浮かべている『月刊鉄道交通』25ページを
音を立てて閉じ、立ち上がる。


「まあ、いいじゃん。みうなは、次から気をつけよう。明日も早いし、今日はもう帰る準備しよ」


あさみはまだ何か言い足りないことがあったようだけど、そうだね、と同意して鏡の前に移動する。
みうなはまだ何か不満げな表情をしつつ、鞄をあさり始めた。

 
170 名前:13.東京で迎える新年、里田が手にしたお年玉 投稿日:2006/12/26(火) 21:48

 
171 名前:13.東京で迎える新年、里田が手にしたお年玉 投稿日:2006/12/26(火) 21:48


「そういやさ」
「ん?」


楽屋に備え付けられた壁一面の大きな鏡。
その前には、コンサートのときにはいつも持ち歩くコスメボックスの他に、メイク落としや
化粧水、乳液のボトルが並ぶ。その中の一つを手にとり、コットンに落とす。

前を向いたままで、隣に座るあさみに話かける。鏡の向こうの彼女は私と同じように
ステージ用メイクと苦闘している。


「昨日、何だったの?」
「昨日?」
「呼ばれてたでしょ、事務所」
「ああ、そのことか」

ちょっと待ってね、なんて言って、あさみは手早く濃厚なアイメイクをやっつける。
閉じた瞼を開けると、鏡に背を向けた。


「昨日のこと話すから、みんな集まって」
「今じゃなきゃダメ?」
「ダメ」
「えー、無理」
「みうな、ウダウダ言わないでこっち来なさい」
「はーい」


ブツブツ言いながらも、みうなも弄っていた鞄を置き、机の前に来る。
3人が輪のようなかたちになって椅子に座った。

 
172 名前:13.東京で迎える新年、里田が手にしたお年玉 投稿日:2006/12/26(火) 21:49


「まずね」

あさみは私とみうなを順に見つめると、切り出した。


「カントリーに仕事のオファーが来たのね。内容はDVD。教則モノなんだけど、
タップダンスなの」
「タップダンス!」

久しぶりの響きに胸が高まる。
ハロコンのリハーサルが始まってからというもの、いつも以上に忙しく、タップのレッスンは
受けていない。衝動的にステップを踏むことはあっても、しっかり踊ることは無かった。


「この話、先生のコネで貰ったんだって。それで、もし上手く踊れたら、今回だけじゃなく
他の仕事も回してもらえるって」
「やる!その仕事、絶対やる!」

私は声を出して立ち上がっていた。

これはカントリーにとって千載一遇のビッグチャンスだ。間違いない。
コンサートでもミュージカルでも、ディナーショーなんかでもやらせてもらえない私たちの
タップダンス。それが商品になるなんて。しかもDVDとは。


「けどね、ギャラが少ないらしいんだ。教則モノだから、そもそも制作費があんまり
出ないんだって」
「関係ないよ、そんなの!」

たとえタダでも受けたい。
こんな願ったり叶ったりの仕事、なかなか来るものじゃないのだから。第一、
ギャランティが安いのなんて、いつものことだ。アイドルとしてのカントリーの
立ち位置を考えると、仕方がないことだろう。

 
173 名前:13.東京で迎える新年、里田が手にしたお年玉 投稿日:2006/12/26(火) 21:50

「それがさ、ちょっと引っかかってるらしくて。最近、私たち仕事増えてきたじゃん?
まいちんのバラエティと、みうなの電車雑誌と」
「それと、あーさのトラクターね」
「うん、まぁ、一応それも、ね。で、こういう上がり調子のときに、こんな安い仕事しちゃ
ダメだ、って。他の仕事でも足元見られる、ってさ。事務所的にはイヤらしい」
「はぁ?」


上がり調子だからこそ、やるんじゃないか。
この仕事で、ファンの人にカントリーのタップダンスを認知してもらう。そしてゆくゆく
は一般の人にタップダンスでカントリーを認知してもらう。これが望むべき姿なんじゃ
ないのか。


「それで、あーさは何て言ったの?」
「一応、3人で考えさせてくださいって言ってきた」
「もちろん、この仕事やるでしょ?それでいいでしょ?」
「うん。私はやりたいと思ってるし」
「よっしゃ。これで決まりだね」

「……やだ」

「え?みうな、今、何て言った?」
「やだ。やりたくない、って言ったの」
「何でよ。だってタップダンスできるんだよ?それでDVD出せるんだよ?」
「それが何?」
「何、ってそんな……」


みうなに真っ直ぐな目で見つめられ、たじろいでしまう。

上手く切り返すことが出来ない私を見て、小さくため息をつくと、みうなはしゃべり始めた。


 
174 名前:13.東京で迎える新年、里田が手にしたお年玉 投稿日:2006/12/26(火) 21:51


「2人とも、PPMって覚えてる? プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント。
ボストンコンサルティンググループが開発した経営資源配分の決定基準なんだけど」


なぜ今その話なんだ。

あさみに視線を向けると、彼女も怪訝な表情をしてみうなを見ていた。
けれど話し始めたみうなの視界に、私たちの姿はないのだろう。

彼女は坦々と喋り続ける。


「PPMでは縦軸に市場成長率、横軸に相対的市場占有率をとって、すべての事業を
4つのカテゴリーに分けるのね。それが、『問題児』、『花形』、『金のなる木』、
『負け犬』。それでカテゴリーごとに然るべき扱いをしましょ、って話なんだけどさ」


なんとなくだけど覚えているような気もしないでもない。

事務所にとっての“負け犬”になっちゃいけない。
4ヵ月前、みうなのそんな説明で私たちは言いくるめられ、タップダンスを始めたのだ。

結局、その内容は未だに理解できていないのだけど。


「でもこの考え方、けっこうおかしいんだ。縦軸・市場成長率が市場の魅力度を表すって
言うんだけど、成長率が高ければその分だけ競争相手だって増えるでしょ。魅力的じゃ
なくなるじゃん?横軸・市場占有率は事業の収益率を表すってことになってるんだけど
これって規模の経済が働くことが前提なのね。供給量が大きければ大きいほど、供給する
財の単位原価が下がるってやつ。でもこれさ、アイドルっていう商品の供給において
働いてると思う?有名になってファンが増えれば、CDとかもそれなりにちゃんとした
ものを作らなきゃいけないでしょ。広告も打たなきゃいけないし。供給量といっしょに
固定費だって増えるんだよ。規模の経済を享受できるとは限らないよね」
 
175 名前:13.東京で迎える新年、里田が手にしたお年玉 投稿日:2006/12/26(火) 21:52

「それにさ、『金のなる木』で稼いだ資金を『問題児』につぎ込んで、『負け犬』からは
足を洗え、っていう言い分もけっこう問題あるんだよね。これってさ、結局のところ
製品ライフサイクル仮説を前提にしてるわけでしょ。ほら、ひとつの製品は、消費者に
浸透するまでの導入期、需要が急激に伸びる成長期、ピークを迎える成熟期を過ぎて、
飽きられて陳腐化していく衰退期、と4つの時期を順番に経るっていう話。でもこれさ
おかしいよね。リバイバルってあるじゃん、実際。ひとつの製品のライフサイクルは
いつ反転するか分かんないんだから、『金のなる木』に再投資しないとか、『負け犬』
だから撤退すべきとか、言い切れないでしょ」


みうなは頬を赤らめ、早口で喋る。

みうなの話すテンポはどんどん速くなっていき、その内容は難しくなっていく。
私とあさみの顔にはいくつもの“?”が浮かんでいく。けれどそれに反して、みうなは
話が進むにつれ、恍惚とした表情になっていくように見える。


みうなにこのまましゃべらせていてはいけない。ついていけなくなる。
いや、もう既についていけてないのだけど。



「みうなっ」

ブレスのタイミングを見計らい、私は口を挟んだ。

 
176 名前:13.東京で迎える新年、里田が手にしたお年玉 投稿日:2006/12/26(火) 21:52

「それでさ、みうな、何が言いたいわけ?」
「だからPPMからは……」
「いや、そのPPMってのは使わないで言って。できれば30文字以内で」

みうなは不満げに口を尖らせてうつむいた。
そして顔を上げると、不貞腐れたような表情をして私たちに言ってのけた。


「要するに、カントリーにタップダンスは必要ない、ってこと」


ゆっくりとした口調でそう言うと、みうなは呆然とする私とあさみを残し、
楽屋から出て行った。



またいつものワガママなんじゃないの。そんな風にあさみは言った。
もう放っとこうよ、あんなの、とも。

だけど私はみうなの拗ねたような顔が妙に気になった。変なところで頑固なのは
いつものことだが、今日は普段とはどこか違ったような気もした。


 
177 名前:13.東京で迎える新年、里田が手にしたお年玉 投稿日:2006/12/26(火) 21:52

 
178 名前: 投稿日:2006/12/26(火) 21:56

次回の更新が最終回です。
年内に終わらせる予定だったのに、ペースが乱れたせいで来年に持ち越すことになってしまいました。

よろしければ、もう少しお付き合いください。
 
179 名前:みりいど 投稿日:2006/12/27(水) 01:45
更新ありがとうございます。リアルな彼女達と同様、こちらのお話も最後まで見守りますよ〜。
180 名前:読み人 投稿日:2006/12/27(水) 08:05
更新お疲れ様です
みうなが…なんだか辛いですね
次回最終回ですか。
ペースなど気にせず、満足のいくものを書いてください
がんばってください。
181 名前: 投稿日:2007/01/14(日) 23:22

182 名前: 投稿日:2007/01/14(日) 23:23

14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる
183 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:24

184 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:24



まったくフレッド・アステアにはがっかりだ。



185 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:24

186 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:25


この人は私たちの運命を変えてくれる。


初めて彼の作品を見たあの日、私はそう感じた。

小気味よくリズムを刻む足に、あくまでもエレガントな上半身。テイラーメイドスーツを
ピシリとを着こなし、髪の毛は固められ艶やかに光る。涼しげな目はモノトーンの画面の
中で輝き、その視線の先にあるものまで華やいで見せる。豊かな唇を開くと、心地よい
低温が甘く響く。なめらかに動く指先はドレスから伸びる腕をとり、作中のヒロインだけ
でなく、時を超えて観客の心までをもめくるめく世界に連れていく。

彼の足から生み出されるメロディは、ときに嬉しく、ときに悲しく、様々な表情を持っていた。
タップダンス、それは無限の可能性を持つ表現手段。

そこには今まで見たことのない世界がある。



ここに来れば、君には見えるよ。

TV画面の中のフレッド・アステアは、ニヤリと笑って私にそう言った。
私には確かにその声が聞こえた。

187 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:25

私は彼を追いかけることにした。
フレッド・アステアが待っている世界まで行かなければ。彼が私を呼んでくれたのだから。


私はきっと彼の何かを持っている。
そうでなければ、こうしてフレッド・アステア本人が語りかけてくるはずがない。
私には確信があった。

それは才能とか潜在能力とかそんな類のものではなく、彼がこの世界に置いてきたもの、
つまり、魂のようなもの。私はフレッド・アステアその人を受け継いでいるのだ。


そうなったら、こんなところで腐ってはいられない。

与えられた振り付けを踊ることで満足していたが、それじゃ駄目だ。
コンサートのためのダンスだけではなく、タップダンスで頂点を目指すのだ。
フレッド・アステアが見た世界を、そして彼をしても見ることができなかった世界を見るのだ。


それには、私1人の力では足りない。
私の力だけでは、彼に追いつくのが精一杯だ。彼を超え、その先にある世界を見ることはできない。

私には、あさみちゃんにまいちゃん、2人の力が必要だ。

188 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:26


『カントリー娘。のタップダンス』

言葉にすると、私の頭に鮮明なイメージが浮かんだ。


コンサートをした渋谷公会堂よりも、ひと回り小さいホール。
シンプルな音響機材が置かれただけのステージはスポットライトを浴び、つややかなフロアが
まぶしく輝く。視界が白くなるほどに明るいステージとは対象的に、その前の客席は暗く
どこまでも広がる。静寂がホール全体を包み、張りつめたような空気が漂う。
空調は切られ、薄いシャツを纏った肌はひんやりと冷える。


カツン

舞台袖からステージに足を踏み入れると足元が鳴り、乾いた高音がホールに響く。
軽い痺れが爪先から頭まで駆け上がり、身が引き締まる思いがする。

足を響かせてステージ中央に進む。客席は静まり返ったままで、緊張感はよりいっそう高まる。
カントリー娘。全員がステージに登場し、客席に向かう。拍手は無し。黒く広がる客席は
深夜の海のように私たちを包む。


1 2 3

あさみちゃんが顎で取るリズムに合わせて、私たちは足を上げる。
鋭い金属音がホールに突き刺さる。テンポ115。いつも練習でやっている速さ。
爪先とカカト。規則的にリズムを刻む。3人で合わせたステップ。
個人の音が三掛けになり、力強い高音がホールを満たす。


ステップワーク2セットからソロに入る。
2人が刻むリズムの中で、まず私がメロディーラインをなぞる。レッスンで馴染ませたステップ。
何も考えなくても足が動く。パートに分かれ音が増えると迫力が増す。ステージで跳ねている私自身も
感じられるほどに。

189 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:26

190 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:27


バチン


額に鈍い痛みが走る。目を開けると、まいちゃんが白い歯をのぞかせニヤつている。
私は夢から覚めたことに気がついた。せっかくいいところだったのに。


「みうな、起きた?」
「うん、起きたみたい。やっぱみうなにデコピンは効くねー。あさみの言うとおりだわ」
「でしょ」

カントリー娘。は事務所のワゴンで移動。
後部座席に座る私たち2人に対し、助手席のあさみちゃん。バックミラー越しに目が合うと、
八重歯をのぞかせてクスリと笑う。


「痛いって」
「そう?これでも手加減したんだけど。そんな痛かった?」
「うん。すっごく」
「ごめん、ごめん」

よしよし、なんて言いながらまいちゃんは私の額をさする。
この様子だと、これからしばらく私はデコピンの標的にされるだろう。それに備えて、
額の皮膚を強くしておかないと。


「みうな、すごい顔して眠ってたよ」
「そうそう。口開いてたし」
「本当に?」
「うん。ヘラーってしてた」
「涎とか垂れてきそうな顔してた。っていうか、ほんとに垂らしてるよ、そこ」

口元を指でなぞると、確かに口角の辺りが濡れている。


「夢でも見た?」
「どんな夢?」
「どんなだろうね。覚えてないや」

とりあえず笑ってごまかす。タップダンスの夢だなんて、言えるわけがない。
カントリー娘。のタップダンスは今回で終わりにするのだから。

191 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:28

192 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:28


まったくフレッド・アステアにはがっかりだ。
1987年の6月までこの世に生きていたなんて。

私が彼に感じたものはいったい何だったのか。


私は彼とはきっと何のつながりもない存在なのだろう。
そう考えてみると、フレッド・アステアはただの古いアメリカの映画スターの1人にしか
見えなかった。

彼のステップは確かに優美だが、以前ほど魅力を感じない。
テカった頭髪や彫りの深い顔立ちは、現代の感覚からすると少々濃すぎる。
いかつい衣装や美術はレトロというよりアナクロ。
ダンスの神様、フレッド・アステア。私を照らす彼の輝きは、あの日に失われたのだ。



だけど、あのステージのイメージは今も私の脳裏に残っている。
あの鮮明なイメージも、フレッド・アステアの虚像によって生まれた虚構なのだろうか。

そんな風に否定してしまうのは辛いけれど、いい加減あのイメージからは離れなければいけない。
あのイメージにしがみついているうちは、私はタップから離れられないのだから。


私はフレッド・アステアの生まれ変わりなどではなく、タップダンスはカントリー娘。に何かを
与えるものではない。私たちタップダンスを続ける意味はない。
今度の仕事の出来次第で次の仕事が入ってくるかもしれない、なんて言われたけれど、
タップダンスの仕事は今回で最後にする。

タップダンスとは、フレッド・アステアとは、これで縁を切るのだ。

 
193 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:28

 
194 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:30


「おいっ」

バチリと額が鳴り、頭が後ろに揺れる。まいちゃんのデコピンが再び炸裂。


「みうな、どうした?ボーっとして」
「そう?」
「うん。うちらが呼びかけても何にも答えないし」
「そうそうが。目開いてたけど見えてないかんじだった」
「そんなに?」
「さっきのみうななら近くに雷落ちても気づかないね」
「そうだね。きっと富士山突然噴火しても気づかない」
「いや、さすがにそれは気づくって」

軽い振動とともに、ワゴンが止まる。視線をフロントガラスにやると、信号待ちの車が
随分とたまっている。


「今日、どこに行くの?」
「レコーディング。だよね?」
「うん。音撮り」

今度の仕事はDVD。タップダンス初心者に向けた入門DVDのはずだったのに、
気づいたらカントリー娘。の一般販売向けDVDになっていた。
そのために、当初は音と映像を一度に撮って完了、というものだった製作プランも、
いつの間にか豪華になっていた。まず、音を作って画を合わせる。新曲にあわせて
作られるPVのようだ。


「これから高速のるんですか?」
「ううん。そのまま下で行く」
「そうですか。じゃあ、あとどのぐらいかかりますか?」
「うーん。10分ぐらいじゃないかな」
「10分?そんなすぐですか」
「うん」

あさみちゃんのリアクションに気を良くしたのか、マネージャーはウキウキとした表情で
ハンドルを切る。


「ほら、見えてきた」
「あれですか?」
「うん。あれ」

あれってどれだよ。
後ろに座る2人は腰を上げ、前のシートにつかまり身を乗り出す。それでも運転席・助手席コンビの
言う建物は私には分からない。
 
195 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:37

「さあ、着いたよ」
「はーい」

まいちゃんに続いて、ワゴン車から出る。
目の前に建っているのは、見覚えのある小劇場。


「ここ?」
「うん」
「ここで何するの」
「音声収録だって」

この場所に前に来たときには、確かお芝居を見た気がする。ここはそういう場所なはず。

劇場入り口を前にして立ちすくむ私を置いて、2人は中に進んでいく。
もしかしたら、劇場の他にレコーディングスタジオのようなものが付いているのかもしれない。
私が知らないだけで。
 
196 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:38

おはようございます、とか、よろしくお願いします、とか前を歩くみんなに倣って
すれ違う人たちに挨拶をしながら通路を進む。
バックステージに入るも、やっぱりレコーディング用の小さいブースは見当たらない。



「ここから入って」

マネージャーが開けてくれるカーテンを抜けると、驚くべき光景が視界に入った。


ライトを浴びて明るく輝くステージとその前に広がる暗い客席。
ステージから見ると、観客として来たときよりもホールは広く感じられる。
シーン、と音として聞こえるほどホールは静まり返っている。

ここで私たち3人がステップを踏む。このフロアに爪先やカカトを打ちつける。
このホールを私たちの足音で満たす。

今までに何度も思い浮かべてきたイメージとぴったりと重なる。
まるでデジャヴのように

 
197 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:39


「みうな」

名前を呼ばれ、ビクっと背筋が震えた。


まいちゃんの声はいつもより高く響いて、じんわり反響する。
その音を追いながら、私は改めて周りを見渡してみる。

暗闇のようで恐ろしいとすら感じていた客席だが、よく見ると奥には避難経路を示す緑が
光る。ステージはまだ何も用意されておらず、無機質な姿をさらしている。まぶしく輝く
フロアは薄暗い通路や照明が落とされた客席に比べると明るいけれど、下から見ると
ステージライトの半分も灯されていない。



「どうした?キョドっちゃって」

私の隣にはあさみちゃんとまいちゃん。
私と目があうと、2人は可笑しそうに顔を見合わせる。


「今日ここで何するの?」
「だから、録音だってば」
「さっきから言ってるじゃん」
「ほんとに、ここで?」
「うん。説明きいたでしょ、車の中で」
「もしかして、みうな聞いてなかった?良い音を録るのに、よく反響するホールを使うって」


私たちが、ここで、タップダンスを、踊る。

後ろに立っていたマネージャーに視線を向け、ゆっくりと声に出して確認してみると、彼は
そういうこと、と満足そうに頷いた。

 
198 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:40

「じゃ、行くよ」
「おう」
「って、どこに?」
「奥に楽屋があるから」
「収録前に身体あっためとこう」
「ちゃんとアップしとかないと、身体動かないっしょ」

先を歩く彼女たちに追いつき、一緒にカーテンをくぐりステージを後にする。


「良いもの作ろうね」

そう言って、あさみちゃんは私の背中を押す。


「次に繋げるためにもね」

そう言ってまいちゃんは私の髪をクシャっと撫でる。



カントリー娘。のタップダンスはまだまだ始まったばかり。

神様と呼ばれたフレッド・アステアですら、観客を魅了するステップを手にするのに
10年以上かかったのだ。
神様でも何でもない私たちがタップダンスで誰かに感動を与えられるようになるには、
相当な時間と努力を要するだろう。

タップダンスは奥が深い。極めるのは苦難の道。だけどきっと私たちなら歩いて行ける。



「うん。頑張ろう」

私は頷き、大きく声に出した。


 
199 名前:14.終わった恋の意味を知り、みうなはもうすぐ20歳になる 投稿日:2007/01/14(日) 23:41

 
200 名前:  投稿日:2007/01/14(日) 23:41

 
201 名前:  END   投稿日:2007/01/14(日) 23:41

 
202 名前: 投稿日:2007/01/14(日) 23:50
『アステアに恋して』は以上で完結です。

ここまで読んでくださった方、レスをつけてくださった方、そして管理人さん、
皆さんのおかげで楽しく遊ぶことができました。どうもありがとうございました。


レスのお礼を。

>>179 みりいど さん

どうもありがとうございます。
リアルな彼女たちの最後のステージももうすぐですね。笑顔で見送りたいものです。

>>180 読み人 さん

お気遣いどうもありがとうございます。
実はもうだいぶ前に書きあがっていたのですが、なんとなく更新できずにいました。
 
203 名前:読み人 投稿日:2007/01/15(月) 01:20
更新お疲れ様でした。
そして、完結おめでとうございます。

これ以上ない、と思える最終話でした。
こんなにもすばらしい物語を書いてくださって、ありがとうございます。
こんなにもステキなカントリーを読むことが出来て、本当に嬉しいです。

心地よいぬくもりが、胸の奥に残る、そんな作品でした。
読むことが出来て良かった、と言える作品でした。

今までありがとうございました。
可能ならば、次の作品でまたお会いできたらと思います。
204 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/16(火) 17:01
なるほどなあ。みうならしい。
曲がりくねって結局真っ直ぐな道を歩く感じ。
里田とあさみの、みうなを完全に理解してるわけじゃないのに
結果的に正解の対応をしているところが、さすがと思いました。
205 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/17(水) 05:57
お疲れ様です。
すごく面白くて一気に読んじゃいました。
登場人物全員がすごく魅力的で変なパワーがあって引き込まれました。
文章も読んでて気持ちの良いリズムと数々の素敵な比喩表現が凄く良かったです。
また面白い作品読ませてください!!
206 名前:みりいど 投稿日:2007/01/27(土) 00:18
完結おめでとうございます。書ききったことに拍手。そして3人とも、とても「らしく」てよかったです。

つい現実の彼女たちがいる場面をかぶせてしまって、エンディングでもそんなことも読み込んでしまいますが…これは許してください。

また、読ませてくださいね〜。
207 名前:みりいど 投稿日:2007/01/27(土) 00:18
完結おめでとうございます。書ききったことに拍手。そして3人とも、とても「らしく」てよかったです。

つい現実の彼女たちがいる場面をかぶせてしまって、エンディングでもそんなことも読み込んでしまいますが…これは許してください。

また、読ませてくださいね〜。
208 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/06(火) 11:23
なんだ、カントリー主役か。
読み始めてすぐそう思ってしまった自分が恥ずかしい。

正直言ってカントリーには興味なかったんですが…。
どんどん引き込まれて、読み終えた今はとても爽やかな気持ちです。
よい作品をありがとうございます。

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