朝陽の校舎
- 1 名前:kkgg 投稿日:2006/09/22(金) 01:09
- はじめまして。
藤本さん中心になると思います。
よろしくご指導願います。
まずはよしみきです。
- 2 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:11
- 1.フットサル部
やっと連絡来たから。
- 3 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:12
- 夜風が心地よい。半分くらいの月で、明るい夜。
部活に真面目な二人は、いつだって夜の校舎を独占する羽目になる。
隣を歩く副キャプテンは寒そうに、黒いジャージの襟元を高くして細い首をあたためている。閉まった校門を慣れた手つきで開けて出ると途端に足下は闇になる。
行く先には、遠い街の灯に浮き立つ樹々の青み。
ふわふわと風に流れる美貴の前髪を眺めていたら、突然、切り出された。
やっと連絡来たから。いいんだけどさ、一週間も待っちゃったよ。
勝ち気な言葉とは裏腹に、何一つ納得していない表情だ。
- 4 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:13
- 「あやちゃん」から?
ひとみは、会ったこともないのに、級友よりもよく知っている彼女の名をあげてみる。美貴が嬉々として話す「いちばん仲が良かったあやちゃん」の名を。
うん。転校しても上手くやってるよ、って。
じゃあ良かったじゃん。
良くないよ。告白されたとか言い出して、自慢?みたいな。
あー…美貴だってモテるじゃん。
そうじゃなくて。
- 5 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:13
- 夜風がびうぅと耳のそばを走り去る。
ボールの入ったバッグを持ち直して、ひとみは脳をフル回転させる。苦手な空気だ。
美貴は、はじめてひとみの眼を見た。泣いてはいないようで安心した。
あれ、何故泣いてるって思ったんだろう。
ひとみは脳をフル回転させる。
いっつも結局ひとりなんだけど。おかしくない?よくおいていかれるの。
家族とかさ、友達って、どうしてどっか行っちゃうんだろうね。
- 6 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:13
- 漠然としたイメージだけで、ひとみは理解に苦しんだ。
具体的にどうしたのかと聞くのは野暮だとそれだけ判った。
そして、大好きなひとと会えなくなるのは、つらいってことか、と強引にまとめてみる。
もちろん、美貴にとって告白のひとつやふたつなど問題ではない。告白のその先の、口に出すのもやるせない物語はもう明らかで笑えない。
ただ、彼女は、もうその両手を離れていった愛する友を静かに憂いて、責めている。それは、「大切だ」とか「哀しい」とかの綺麗な単語で済まされない感情の末路だった。
打ち消すには、伝えるには、理解するには、ふたりとも幼過ぎた。
でも、おいてかないでって誰にも言えないんだよね。
- 7 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:14
- 抑揚のない本音の羅列。話し声よりも、コウモリの舞う羽音が響く。
珍しくお喋りな美貴は、月明かりの中でとても小さく、子どものようにさえ見える。揺れる前髪、立てた襟と、乾いた眼差し。
あまりにいつも通りなので、ひとみは気付くまで随分と時間がかかり、その瞬間に胸が痛んだ。
これは弱音なんだ。
寂しそうに見えたら肩を抱いてあげるものだと梨華ちゃんに言われたけど、どうしよう。今とても寂しそうなんだけど、どうしたらいいのかな。
- 8 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:15
- その時、突然、美貴が向こうに顔を背けた。
さすがに判った、さすがに焦った。でも、あまりに不器用だった。
ああぁこいつ泣いてるよ。
いつも勝ち気な副キャプテンが声も立てずに。
ひとみは焦る。
半端な勇気の気まずい両手がジャージのポケットの中で泳ぐ。
指先が、幾らかの硬貨、滅多に使わないリップクリーム、その中に飴玉を見つける。出せば、真っ赤なひとつと白の薄荷。かなり前からそのままなのか、少し溶けている。
弱音を言うってことは、あたしには特別な感情は無いのかな。
無いんだな。
- 9 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:15
- 透明の包みを崩しながら、ひとみは不思議な気持ちになった。
それは美貴の抱えた思いに酷似していたが、これは恋かもしれないと自覚したぶん、ひとみのほうが大人だったのかもしれない。
赤い飴玉をそっと美貴に差し出す。
- 10 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:16
- 美貴、泣いてるっしょ。
泣いてないよ。
泣いてもいいじゃん。
泣いてないよ。
泣いとけよ。
泣いてないよ。
じゃあ泣いてないってことで。
- 11 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:16
- 真っ赤な飴を口にそっと放ってやる。が、少しずれて美貴の唇に赤が移る。
あ。ごめん。
ん、ありがとう。
消え入りそうな声。またコウモリが飛んだ。美貴が細い親指で赤を拭う。泣いてないと言い張る潤んだ眼が笑う。
きれーだな。
- 12 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:16
- 月夜があまりに似合っていて、妙なことを言いそうで、ひとみはあわてて薄荷の飴を口にした。そしてすぐさま噛んだ。がりり。白くて半透明なあまり甘くなかった。がりり、もうひとつ音がして赤い飴は砕けた。立ち止まった美貴が飴を噛み砕いて笑う。
甘い…。
うん。
泣ける。
え、甘いから?
うん、甘いせいだよ。むかつく。
- 13 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:16
- 強がりめ。
むかつくのは思いが深いからだ。深い思いは「あやちゃん」のためのものだ。
薄荷はすうすうして、まるで甘くない。割れたかけらが喉に引っかかる。引っかかる。心に。誰が。何故。誰が?美貴の後ろに校舎が見える。校舎の後ろに半分くらいの月が見える。月を掴むようにして小柄な肩を抱くと、やめてよーとくぐもった声がするので構わずきつく抱きしめた。
よっちゃんは優しいよ。
よく誰にでも甘いって言われるよ。
ああ…うん。
私はさ、多分どっか行ったりしないし…行くときは言うよ。一緒に行くのもいいと思う。なんなら飴も買っとく。どうよ。
うん。うん。
- 14 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:17
- 何故かまた胸が痛んだ。
自分で選んだ薄荷は甘くなかった。
ひとみはこれ以上切なくなるのに耐えられなくて明日のことなど考えようとしたが、抱きしめた腕の解き方が判らずに焦り、それどころじゃなくなった。
伝えるにも隠し続けるにもどうしたら良いのか判らないままだった。
あまりに不器用だった。
- 15 名前:1. 投稿日:2006/09/22(金) 01:17
-
end
- 16 名前:kkgg 投稿日:2006/09/22(金) 01:29
- 追記です。
学園モノ。アンリアルです。
もっさん:高3。就職組。引退後も張り切って部活参加の元・副キャプテン。
よっさん:高2。現役、現キャプテン。
- 17 名前:ピアス 投稿日:2006/09/23(土) 11:08
- 面白いです。続くんでしょうか。
楽しみにしながら待ってます。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/23(土) 13:46
- これは久々に良作の予感。
というか自分の中では既に良作です。
娘。小説でなく、まるで普通の小説を読んでいるようでしたね。
続くんでしょうか?楽しみにしてます。
- 19 名前:kkgg 投稿日:2006/09/23(土) 21:23
- >>17 ピアス様
ありがとうございます。
美貴さん主軸に、何となく続きます。
これからキャストが増える予定です。
>>18 名無飼育さん
ありがとうございます。
「普通の小説」とは嬉しいお言葉です。
皆様に楽しんで頂けるよう頑張ります。
近いうちに、2〜3話が載せられると思います。
- 20 名前:kkgg 投稿日:2006/09/23(土) 23:20
- ◆ ◆ ◆
- 21 名前:2.深海魚 投稿日:2006/09/23(土) 23:21
- 転校を嫌がる亜弥が出した条件を、両親は全てのんだ。
大学決まったら独立する、と亜弥は高らかに宣言した。いい?ダメならもう今から一
人でここに残して行って。あたし引っ越すの嫌。
ちゃんとした大学に行くのなら一人で暮らしてもいいと両親は返す。
大学決まったら独立するから。美貴の隣に戻るという意味で、それを疑わずに告げる。
そして、高校生の間はたとえ会えなくても私は負けないんだからと独り言をこぼす。
- 22 名前:2 投稿日:2006/09/23(土) 23:22
-
ごぼごぼごぼ…
亜弥は薄暗い部屋に閉じ籠っていた。週末。激しい風雨が窓を鳴らす。預かっている
子猫が怯えている。でんきつけようかなーと考えてやめる。部屋着は大きめのTシャツ
なのに息苦しい。ごぼごぼと水が管を走る音。まるで海のなかに落ちていくみたいな終
わりの無い音。
子猫は腕にじゃれついて拙い爪で傷を描いた挙げ句、牙を剥く。がぶり。まるで痛ま
ず、不憫にさえ思える。
「…噛むな」
- 23 名前:2 投稿日:2006/09/23(土) 23:23
- 虫の居所の悪い亜弥は邪見に言い放つと白い左腕を振った。子猫はへにゃりとベッド
に落ちてまた寄ってきた。にゃあ、と鳴いて何度もすり寄る。きみ、しつこいぞ。
美貴からの連絡が途絶えて数日が過ぎている。遠ざかった美貴の心を惹きたくて携帯
電話越しに幼い罠をかけたが、どうやらお互いに痛い目を見たようだ。
だから亜弥は機嫌が悪い。己の愚行に腹が立つ。亜弥はただ、必死だった。
「噛むな」って言われたなぁ、と亜弥は苦笑する。
- 24 名前:2 投稿日:2006/09/23(土) 23:23
-
亜弥とその家族が引越して数日。父親の仕事の都合とはいえ急で、高校も塾も半年で
やめさせられた。高校は良いとしても、美貴に出会えた塾をやめるのは痛手だった。
地元にひとつしかない塾で、美貴は3年生のみで構成されている大学進学コース、亜
弥は1・2年生のみの基礎強化コースに在籍していた。思い出の多くはその食堂にある。
騒がしいデザインのポスター、自販機で埋まった壁、生気のない子どもたち、白い机、
高くてかかとが床につかない椅子、いつもふらふらして揃わない美貴の脚。高校も学年
も違ったが、いつの間にか意気投合してふたりでいるのが自然になった。
- 25 名前:2 投稿日:2006/09/23(土) 23:24
- 進学に躍起で青春を無駄使いしている青白い学生に囲まれて、「母親に強制された」
「就職したい」「独立したい」「勉強嫌い」と文句を並べる美貴といるのは爽快で、亜
弥は塾に来るとまず美貴の姿を探した。
でもさ、お母さんが行けって言うなら行くしかないじゃん。美貴は気分悪いけど、お
母さん喜んでるからまあいいかーって、なる。わかる?てゆうか何その笑顔。きもいん
だけど。
不敵な台詞、冷めた表情、長い脚、隠した甘え、時折見せる少年のような笑顔。この
子の美はバランスだと、亜弥は思う。
美貴が亜弥を警戒しなくなり、互いの部屋を行き来するようになり、更に多くの彼女
を知って、亜弥は思う。
彼女は、あまりに完成された不均衡で出来ている、と。
そして美貴の魅力に気付いた自分はやはり大したものだと人知れず絶賛する。亜弥の
賛辞は必ず自分のところに戻ってくる。それが、美貴が鬱陶しがる亜弥の魅力だ。
- 26 名前:2 投稿日:2006/09/23(土) 23:24
-
ごぼごぼごぼ…。
みきたん、ここはまるで海の中。あぁ海にも行ったね、愛ちゃんと三人で。本当に楽
しかった。みきたんがいちばんお姉さんなのにいちばんはしゃいで。すごく昔に感じる。
でも大丈夫、たとえ会えなくても私は負けないんだから。
小さな決意がいつのまにか強迫観念に変わっているのに亜弥は気付かない。高校生の
うちに会ったらきっと何かがだめになる。だってこれはふたりのための試練。いつだっ
て世界は私を試す。世界はそれを望んでいる。私は松浦亜弥である以上、それを華麗に
はねつけなければいけない。わかっているのに。
- 27 名前:2 投稿日:2006/09/23(土) 23:25
-
どうして今日も、溺れられない。
未来ある別離と納得していたのは理性だけのようで、日々の殆どの感情はぼろぼろに
なってゆく。美貴に会えない日々は心に色濃く影を落として亜弥を疲れさせる。つまら
ない。メールも来ない。声も聞けない。みきたーん。
食が細り、眼の下のくまが目立ち、肌の色は更に透けるように白で…我が身に愛を注
ぐ亜弥は、これを「退廃美」というのだと納得していて、つぅと腕に滲んだ赤い点もよ
くできた演出だと薄く笑う。太ももにすり寄る猫を指で転がすと嬉しそうにまた来る。
えい。ころん。えい。猫は必死になって飛んでくる。亜弥はますます機嫌を損ねる。ま
るであの頃の自分たちのようだ。先のことなど考えず、一緒にいることに必死になって。
もう、こっち来るな。あんただけ本気になっても、あたし困るし。甘えていいのはあ
んたじゃないのよ。
- 28 名前:2 投稿日:2006/09/23(土) 23:25
- 亜弥はいよいよ飽きて猫を抱え、ごろんと横になった。ごぼごぼごぼ…排水管から途
切れないのは知りたくない絶望の音。
「亜弥ちゃんすぐ本気になるんだもん」ってよく言われたなあ。
もっと冴えたやり方はもしかして別なのかもしれない。しかし自分の行動を疑うのに
亜弥は慣れていないので迷いは瞬時に断ち消える。激しくなった雨と風がそれを助けて、
暗い部屋に襲いかかる。嵐だ。きっと今夜も眠れないのだろう。
数分後には、亜弥と子猫は彩度の低い油彩画のように動かなくなった。
硝子のように動きを止めた亜弥の両眼には天井の向こうに届かない水面が見える。
水面の向こうには青く広がる空があるはずだ。まだ、輝く太陽が見えない。
嵐だ。
きっと今夜も眠れないのだろう。
- 29 名前:2 投稿日:2006/09/23(土) 23:27
-
end
- 30 名前:kkgg 投稿日:2006/09/23(土) 23:43
- ◆ ◆ ◆
- 31 名前:kkgg 投稿日:2006/09/24(日) 23:37
- ふと思い出すのは誰かの顔ばかり。
例えば、首についた歯形を撫でながら、くしゃっと笑った顔…ああほら何もしないから
また思い出す。宿題やろう宿題、待ったってメールないよ、もう。狙ったかのように携
帯電話が鳴る。
亜弥は飛び起きて、期待して、かっさらい、画面を睨み、溜息をつき、申し訳なくなる、
という一連を数秒でやりきって電話に出る。
- 32 名前:3 投稿日:2006/09/24(日) 23:38
- 「もしもーし」
「あー亜弥ちゃん?久しぶりー」
美貴と出会った塾で知り合った高橋愛は、亜弥と机を並べて学ぶ優等生だった。美貴と
同じ高校だったのも仲良くなった一因だが、亜弥はそれを漏らしたりしない。
「ひとさがし?」
「うん、役者が足りんのよ。うちの演劇部」
面倒を先輩たちに押し付けられたのを気付かぬ愛は「最近いちばんの悩み」を亜弥に話
した。
- 33 名前:3 投稿日:2006/09/24(日) 23:38
-
3. radio radio
- 34 名前:3 投稿日:2006/09/24(日) 23:38
- 出番とセリフ少ないし、重要な役じゃないんだけど、お姫様を逃して敵に討たれる!
っていうカッコイイ役なんよ。え?あたし?あたしはその上司っていうか上官役。しか
もその役な…や、これは秘密にしとこ。うん、配役って本当は演出さんが決定するんだ
けど。そうそう、配役まかされたんやよ、信頼されてるってことだ、うん。そう男役が
足りないと…あーそれはしょうがないわ、女子校だもん。先輩たちも先に男役から取っ
てくわ、お姫様役は客演…他の部活のひとに頼んだ。石川さんてひとがいてな、すごい
美人の3年生。部活引退したからいいよって、石川さん、お姫様にぴったりなのよ!あ
と一人が難しくて、困ってるというわけだ…亜弥ちゃんがうちにいたら頼めたね。うん。
こりゃ困った。
- 35 名前:3 投稿日:2006/09/24(日) 23:39
- ひとしきりの会話、亜弥はまたひとつ上手くないような巧い提案に辿りつく。
フットサル部に?へぇ、そら知らないひとだ…石川さん知ってるかな、フットサル部や
ったんよ。よし聞いてみる。あらま、まさか亜弥ちゃんのおかげで解決するとは思わな
かったぁ、や、まだ決まったわけじゃないけど。亜弥ちゃんがイメージに合うっていう
なら間違いないわ、ありがとー。ん?わかった、亜弥ちゃんのことは言わないようにす
るのね、オッケーオッケー。
愛は遠方の友人に感謝を捧げながら電話を切る。ピ、とボタンひとつで重苦しかった週
末が吹っ飛んだ。
- 36 名前:3 投稿日:2006/09/24(日) 23:39
- 朝の校舎はきらきらと陽光を反射し、登校する黒い制服をいっそう深い黒にする。
昼の校舎は脇役になって、生徒たちの解放を眺めている。
校舎の裏、校門から遠いそこには「文化館」と呼ばれる別館がある。
体育館よりすこし小さく、音響設備が整い、照明が吊れるように天井から低めの鉄のパ
イプが縦横に伸びている。舞台と客席に分けられ、客席にはパイプ椅子より上等な椅子
が常備されている。部員が減り、明らかに落ち目になった演劇部の活動と正反対に、と
愛はいつも思う。
愛は授業の時間以外は日の当たらない文化館の舞台袖に居た。文化館は中庭の綺麗な空
気と光が入ってきて、かつ、生徒は誰も来ない。時々、用務員室のラジオが聞こえてく
る。
- 37 名前:3 投稿日:2006/09/24(日) 23:40
- 愛はここで本を読んだり演技を試みたりするのが好きだが、ここのところは次の公演に
向けて、暗幕の補修をしている。ちくり、とやる先は、布より指のが多いと思いながら、
今日もひとり暗幕を直している。暗幕に点々と赤い糸が進む。
「…こ、んにちはぁ」
一瞬、愛は身をかたくしたが、声の主を見て安心する。
「あ、石川さん、こんにちは」
「私も手伝うよ」
「あ、ああ、ありがとうございます」
遠くのラジオから、和やかなクラシック。二人は並んで、厚い布地にちくりと針を進め
る。石川さん、それでですね、お願いがあります。
- 38 名前:3 投稿日:2006/09/24(日) 23:40
- 「難しいかも」
ひとつめのの返事はこうだった。
「確かにイメージはぴったりだけど、人前で演技ってどうかなあ」
ふたつめの回答は困ったのを隠さない笑顔。
「でも聞いてみよう。やってみないと判らないよね」
最後にはポジティブな梨華を見て、愛はやっぱり尊敬してしまう。
石川さんはすごい。いっつも不可能を可能にしてしまう。出演依頼の時だって「思い出
作りしてみよっか!」てすぐOKしてくれたし。すごい。やっぱ元キャプテンだけあるな
ぁ。あたしなんかとはどこか違く出来ている。
- 39 名前:3 投稿日:2006/09/24(日) 23:40
- 一方、梨華は上級生に何かと押し付けられる愛を見て放っておけない気分だった。
愛の演技は人の心を打つ。演劇部の定期公演を一度観た石川はよく知っていた。だから
1年ながら端役で舞台に立つのだ。だが10代の少女ほど妬み上手な生き物はない。当然
のように愛への風当たりは強かった。
でも、演劇部以外の子で男役を断らない子なんていないんじゃないかなぁ。あたしだっ
てお姫様っていうからOKしたんだもの。愛ちゃんは偉いっ。へこたれないし、文句も言
わないで毎日一生懸命で。本当にお芝居が好きなのね。
- 40 名前:3 投稿日:2006/09/24(日) 23:41
- 愛は、人間関係やそれにまつわる感情の行き来に疎(うと)い。だが、だからこそ人を
妬まない。唯一の救いだった。
そして愛するものに妥協しない。素晴らしい才能だ。親友には、相手の都合を考えなきゃ
ダメだってー、とよく言われるが、好きなものは好きだからしょうがないんよ、と真顔
で言い返してしまう。
梨華は、基本的にネガティブである。
それをひた隠しにして、ポジティブに振る舞って周囲の空気を生まれ変わらせる。素晴
らしい才能だ。それは意図的だが、成果に関しては無頓着なので、勘違いされてしまう。
周囲の心を受け入れる寛容さでは、愛と梨華は似ているのかもしれない。
今はそれに気付く者がいない。現れるのは、まだ先の話だ。
- 41 名前:3 投稿日:2006/09/24(日) 23:43
- 南天を過ぎる太陽の下でラジオは静かに響いて、日の射さない舞台袖まで辿り着く。
流行りの歌。トークの上手なDJはいつだって聴き手を元気にしようと必死だ。
ラジオってのもひとつの演技かもしれんよ。だってお客さんに感動を与えるって感じや
し。
またひとつ針が布地に沈んで浮く。黒い海原に進む赤い点。
でも。
愛は思う。
喋っているひとも、毎日元気な演技しなくちゃいけないから大変やねぇ。沈んでる日だ
って、あるだろうに。強いひとなのかねぇ、ラジオのひとは。
深い意味などまるで持たず純粋に、あらゆるものを通り越しながら、赤い点が黒い海を
進む。強い風にも嵐にもひるます、流行りの歌を歌いながら。
- 42 名前:3 投稿日:2006/09/24(日) 23:44
-
end
- 43 名前:3. radio radio 投稿日:2006/09/24(日) 23:44
- ◆ ◆ ◆
- 44 名前:kkgg 投稿日:2006/09/24(日) 23:56
- ご覧頂きましてありがとうございます。
この後、すこし間をあけますが、今週中に更新します。
- 45 名前:4. 投稿日:2006/09/27(水) 23:40
-
◆ ◆ ◆
- 46 名前:4. 元フットサル部 投稿日:2006/09/27(水) 23:41
-
とてもあっさりとした答えの、イエス。
梨華が驚きを隠さず特徴ある声でまくしたてて、美貴が聞き流すお決まりの構図は3年目。
付き合いは長い。
美貴が体を預けた窓枠の外、ずっと遠くの空の果てに夕日が沈もうと構え、眼下の校庭で
は、ひとみが大声を上げている。
懐かしい思い出。かげりゆく時間、スパイクの音、乾いた砂の匂い。
喋り続ける梨華。髪伸びたなーとぼんやり見ながら待ちに待ち、美貴はもう一度言う。
だから、別にいいって。やるよ。部活は好きでやってるんだし、バイトを週末に入れれば
出来る。
- 47 名前:4 投稿日:2006/09/27(水) 23:41
-
あたし、気負いすぎてたかも。
はあ?
断られると思ってて。
…何それ。感じ悪い。
ホントだねぇ。
…断ったことなんてないじゃん。
…確かに、美貴ちゃんて私の頼み断らないよね。あ、やだぁもしかして…。
うわ、きもっ。違うから。
きもいって言わないでぇ。
きもいきもいきもーい。
- 48 名前:4 投稿日:2006/09/27(水) 23:42
-
カーテンがばさばさと鳴るので、外は、風が強いのだろうか。
梨華は眼下の黒いジャージの群れを、子を見守る母のような眼で眺めている。
2年生の頃、梨華が部長になって最初の仕事、副部長の指名のときも似たようなやりとり
があったのを。美貴もよく覚えているが絶対に口にしない。
仕切るの嫌、面倒、何もしたくないと文句ばかり言いながら部活動ほぼ皆勤賞の副部長と、
必死さが表に出てしまい周囲を困惑させるも、チームの中心になって何事もやり遂げる部
長。パスが通らなかったのはごくはじめの頃だけだった。対立せずに過ごせるほど、放課
後の戦いは「適当」ではなかった。
- 49 名前:4 投稿日:2006/09/27(水) 23:42
-
どすん。突然、下の方で、思い切りのいい衝撃音。覗けば、ひとみが立ち上がりながら大
きな声で言い訳し、ジャージの砂を払っている。
見て見て、よっすぃー転んだ、カッコ悪いね。
3階からの視線にひとみは気付いたらしい、照れくさそうに、破けた膝の生地をを引っ張っ
ておどけている。うぉーいキャープテーン。あー、美貴ぃ部活サボんなぁー。
梨華が手を振る。美貴も並んで手を小さく振る。指の影が顔をかすめる。バックネット裏
の遠い太陽は真っ赤。眼が痛い。日が暮れるのがずいぶん早くなった。
もう帰れって叱られているようで、切ない気持ちになる。気のせいのはずだ。
- 50 名前:4 投稿日:2006/09/27(水) 23:42
-
それにね、
ん、
そろそろ部活もちゃんとやめようと思ってたんだ。
…そうなんだ。
返す梨華の眼差しは優しい。
二人が引退する前のフットサル部は、後輩のひとみが補佐し、梨華が指示を出し、美貴が
まとめる構図で安定していた。有能な参謀、頼りになる部長、そして口うるさい副部長。
きっと殆どの部員には、そう映っただろう。美貴は損な役回りだと判りつつも素直な性分
じゃないので、相変わらず憎まれ口を叩いていた。
それでバランスいいならいいじゃん。突然キャラ変わるのもヘンじゃない?後輩に嫌われ
て別に構わない。…だから、構わないとまずいんだって。あまり愛想ふりまかれても困る
けど。愚痴れば必ず、亜弥に制された。
フットサルがやりたくて、夏の大会が終わった引退後もひとみに会いにいくような顔で参
加していた。引退後にはじめて、後輩に支持されていた事実に気付くが、素直な性分じゃ
ないので「秋の新人戦、お前じゃ出れないからな。美貴が出る」などとめちゃくちゃな毒
を吐いていた。
- 51 名前:4 投稿日:2006/09/27(水) 23:43
-
…梨華ちゃんて、進学するんだよね。
うん。
第一志望って遠いところ?
うん。遠いよ。
ふーん…。みんなどっか行っちゃうねぇ。
そんなことないよ、いつでも会えるよ。
美貴の声色が重いので、根拠など考えず梨華は精一杯答えた。よく「適当だ」と美貴に怒
られるのに、今日は向かってくる様子は無い。
じゃあ梨華ちゃん、美貴が呼んだらいつでも会いに来てね?
勿論行くよ。すぐ行くよ。
もー絶対に嘘。
最後の声色が明るいので、元・部長は嬉しくなる。
いいのいいの、副部長は末っ子だからいいの。
- 52 名前:4 投稿日:2006/09/27(水) 23:43
-
パスが通らなかったのは、ごくはじめの頃だけだった。
戦友たちのかすかな会話が終わるのを見届けて、太陽がゆっくり落下する。
夜風に変わる前に、と開き放しにしていた窓とカーテンを閉める梨華の手が最後の夕日で
真っ赤に染まる。
教室には懐かしくて心地よい空気が残って帰るタイミングが難しい。
辛うじて蛍光灯の青い白、校舎のそこらじゅうには堂々とした夜が横たわっていて、先ま
で二人を染めていた真っ赤な明かりがあっという間に遠くなる。混ぜても濁らない赤と濃
紺が入れ替わるのを、梨華と美貴は静かに眺めていた。
- 53 名前:4 投稿日:2006/09/27(水) 23:43
-
帰らなきゃ。
校庭にいたフットサル部の面々は校門の外だ。私たちももう行かなくちゃね?返事は無い。
梨華は思い切って美貴の手を取り教室を出る。もーやめてよ梨華ちゃん。文句を言いなが
らも、冷たい美貴の手は大人しい。いいのいいの。階段を彩る楽しげな足音は、校門まで
続いた。
じゃあ、またね。
んー、バイバイ。また明日。
とてもあっさりとした別れの挨拶に笑顔で、二人は夜の中を往く。
- 54 名前:4. 元フットサル部 投稿日:2006/09/27(水) 23:44
-
end
◆ ◆ ◆
- 55 名前:5 投稿日:2006/10/01(日) 22:50
-
◆ ◆ ◆
- 56 名前:5. 淡水魚 投稿日:2006/10/01(日) 22:51
-
演劇部の定例公演、文化館に近い裏門が開放される。他校の生徒や意外にも多い演劇部の
ファンたちが集まり始めている。よく晴れた放課後の西日が眩しい。濃い雲の狭間から射
す強い日差しで、天使の梯子が落ちている。
- 57 名前:5 投稿日:2006/10/01(日) 22:51
-
初観劇で勝手の判らないひとみが並ぶものなんだろうかと辺りをふらついていると、同じ
ようにいかにも「はじめて」に見える(しかもとても可愛い)少女がいたので、気を利か
せたのが失敗だった。
声をかけると、更に可愛く微笑む。互いに社交的なのも手を貸して、列に並んで座席を探
すなどしながら話すうちに、2人の見解は一致する。
「あなた、もしかして『よっちゃん』さんですか」
「…『あやちゃん』か」
途端に亜弥の微笑みが凍る。ただ、笑顔には変わりない。
…やっべー、嵐の予感。その中心にいるみたいだ。
空の上ではなく地上で無音の嵐が吹き荒れる、そんな時はいつだってそっと去るのが吉澤
ひとみの付き合い方で、いわゆる「泥沼」なんて全く経験したことがない。恨まれたりは
勘弁だ。水流を抜ける水魚のように、さらりと身をかわして静かに過ごしたい。
眼前の亜弥には、常に華やかな笑み、氷の眼差し。
- 58 名前:5 投稿日:2006/10/01(日) 22:51
-
それにしても。初対面とは思えないのは美貴のせいだよな。ひとみは複雑な面持ちで亜弥
を見る。羽音のしそうな整ったまつげや、真っ白な肌、何よりもこの背格好。見上げてく
る瞳の強烈さ。
「吉澤さんこそ、舞台栄えしそうですよねぇ。誘われないんですか?客演」
「ん、あたしは部活で練習出来ないから断った。まだ2年だから」
「知ってます。今、部長なのにサボっていいんですか?部活」
「…よくご存知で。観終わったらちゃんと出ます」
背筋がぞくりと寒い。美貴の話すイメージと、ときどき違うのはなんで?ひとみは頭をか
きながら緩く笑う。妙に慎重になっている自分が嫌だ。この子、笑顔が怖いっつうか、年
下のはずなのに、作り笑顔が完璧すぎる。しかもめちゃくちゃ可愛いし。いやそうじゃな
くて。早くはじまんないかなー。気まずい。息苦しい。やばい。すんごい気まずいからは
じまってくれーっ。
- 59 名前:5 投稿日:2006/10/01(日) 22:51
-
ノイズの混じった低いブザー音。
虚構の時間は速い。
出番少ないから見逃さないでと言っていた美貴の出番もすぐ終わった。
その時だ。
殺した嗚咽が耳に届いたのは。亜弥が号泣していた。体が震えるたびに椅子がきしみ、振
動が寄せる。隣のひとみだけに聞こえる小さな嗚咽。ひとみは案外複雑な全容を理解する
のに必死だったので、突如泣き出した亜弥に激しく動揺する。
おいおいおいどうするよ吉澤!いや、どうもできないし…ああぁわかんないっ
- 60 名前:5 投稿日:2006/10/01(日) 22:52
-
そして、虚構の時間は速い。
終わりを告げるブザー音。
席を立つ観客のざわめきが館内をいっぱいにするので、夢の時間は終わりだ。
開いた扉から夜気が入り、ひとみはひとつ身震いするが、結局ストーリーも亜弥の涙の理
由も判らないまま、席から動けない。硬直したひとみと舞台を睨んだ亜弥。かたく握られ
た拳が亜弥のスカートの上で震えている。
「あのー…亜弥ちゃん、大丈夫?」
「はい…」
「…なんで、あの…えーと、はい、これタオルだけど」
「ありがとうございます。…ていうかぁ泣きますよー。みきたん死んじゃう話なんて信じ
られなーい」
もう一度ぐすっとやって、亜弥はタオルで眼を覆った。深い青色が濡れて滲んだ。
「そう思いません?」
「うーん…そうだなぁ、役だしなぁ…よくわかんないけど…」
「…」
「すっげーカッコ良かった!」
- 61 名前:5 投稿日:2006/10/01(日) 22:52
-
亜弥が眼を丸くしたので涙がまたひとつ落ちる。
もう泣くなよー、と頭を撫でてしまったひとみは、切ないまでにいつもの自分に戻れたの
を感じていた。この子とは、どうも全く正反対のようだ。面白い。
「美貴に会ってくよね?」
「…」
「きっと喜ぶって。呼んでくるよ」
「…ありがと、う、ございます。…あの、よし、ざわさん、て」
「ん?」
「いいひとですね」
「おぅサンキュー」
- 62 名前:5 投稿日:2006/10/01(日) 22:52
-
颯爽と消えるひとみの背中が、亜弥には眩しくて心苦しい。本で読んだ大天使のようだ。
決して、皮肉ですよ、とは言わない。不幸なひとだとは思う。欲がない。相手の幸せばか
りに手をかして。クールな顔しちゃって。
自分はひとみのように綺麗に割り切ろうとしないのを承知している亜弥は、わずかな軽蔑
と大きな羨望を感じた。
- 63 名前:5 投稿日:2006/10/01(日) 22:53
-
難しいことはいいや。スマートにいきたい。
濁った感情が音を立てて脳裏に渦巻く。でもそれは流し出すこともできるし、すり抜ける
ことも出来る。一過性の妄執に違いない。大丈夫、上手くやれる。
心を荒らしていた嵐が過ぎるのを、ひとみと亜弥は全く異なる観点で見詰めていた。
「ここ」にとどまっていたくない。
そもそも、とどまることなど、誰にも出来ないのだから。
難しいことは、いいや。
ひとみは、颯爽と行く。
- 64 名前:5. 淡水魚 投稿日:2006/10/01(日) 22:53
-
end
◆ ◆ ◆
- 65 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2006/10/02(月) 07:27
- 綺麗な文章ですね
引き込まれます
続き楽しみに待ってます
- 66 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2006/10/02(月) 13:31
- お、話が動くのかな?
- 67 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2006/10/02(月) 13:32
- ぎゃー上げちゃった!
ごめんなさい。でも更新されてすぐだしochiはやめときます
- 68 名前:kkgg 投稿日:2006/10/04(水) 23:46
- >>65 名無し募集中。。。様
ありがとうございます。あと半分くらいですが、楽しんで頂けると嬉しいです。
作者としましては、藤本さんの出番を増やしたいです(…)。
>>66-67 名無し募集中。。。様
話は…動きはあまり無いかと(…)すみません。地味に進むと思います。
そしてsage進行にお気遣い頂き感謝です。ageてはまずいような過激な描写はないので(笑)ご安心下さい。
この後は対照的な「吉→藤」と「松→藤」を更新いたします。
- 69 名前:6 投稿日:2006/10/04(水) 23:46
-
◆ ◆ ◆
- 70 名前:6. 揺れる水面(みなも) 投稿日:2006/10/04(水) 23:47
-
吉澤さんてみきたんのこと大好きですね。
う、うん、まぁ、先輩だけど妹みたいな感じで。なんていうかちょっとダメじゃん。
ダメです、はい。
だから愛し易いっつうか…
愛?
うん。…いや、待て、わかんない。そうゆうのじゃない。えーと…
じゃあダメです。
ダメ?
はい。
ダメか。
- 71 名前:6 投稿日:2006/10/04(水) 23:48
-
「よっちゃん!」
舞台退場時に着ていた鮮やかな赤い衣装のままで、美貴は迎えに来たひとみの胸に飛び込
む。少し後ろにずらした重心、彼女を支えるために伸びた右脚。
「すっ、ごい緊張した!」
「嘘ォ、全然そうは見えなかったよ?やっぱり、美貴は本番強い」
「えへ。照れる。感動した?」
「した。すっげーカッコ良かった」
いちゃいちゃとしか例えようのない「甘える美貴に甘えられるひとみの図」を、妄想力た
くましい演劇部の面々は半ば興奮した眼で注視した。梨華にとっては日常茶飯事、愛にとっ
ては刺激的な画、当の本人たちはまるで気にする様子は無い。
それに一方のひとみは、それどころではない。
- 72 名前:6 投稿日:2006/10/04(水) 23:48
-
緊張から解かれて力の無い美貴の腕が、ひとみの背中に回っている。
いつも通り。いつもだったら、ちょっと返してみる。頭を撫でるとか肩を抱くとか、クー
ルに振る舞う。それが冴えたやり方だからだ。
でも今日は違う。
手は指先から全て動かない。思考に靄(もや)がかかったみたいに、何も考えられない。
- 73 名前:6 投稿日:2006/10/04(水) 23:48
-
演劇部の控え室に続く暗い廊下で、ひとみは嵐のもたらした甚大な被害を悲しく振り返っ
た。亜弥とのあらゆる出来事が、ひとみの心を静かな日々に還してしまった。あの子は一
体何者なんだろう。どうして全て素直に振る舞えるんだろう。どうして。
どうして どうして どうして どうして うわあぁ
難しいことはいい、ただ、私は「違う」みたいだってことが、キツい。
恋をしてると認めたけれど、この胸の熱情は静かなまま。
恋をしているけど、嫉妬や独占欲は生まれない。
どうして どうして どうして どうして だいたい恋って何?とか考えちゃってる時点
で冷静過ぎるんじゃない?
- 74 名前:6 投稿日:2006/10/04(水) 23:49
-
暗い廊下は、遠くまではとても見えない。眼の前の一歩一歩が手探りなのに、不思議と恐
怖は覚えない。歩き慣れない文化館の廊下。無風の暗がり、青く照らされた壁、一番奥の
扉に灯る一点の光とその向こう。山頂に光る栄光のように儚い光。幻か。
ひとみはゆっくりと瞬きをして、廊下の長さのぶんだけ、内面との対話を続けた。
多分、恋っていうより愛ってほうなんだろう。
だから何も失わないんだろうし、怖くない。
- 75 名前:6 投稿日:2006/10/04(水) 23:49
-
美貴の腕が背中にあるのを、それでも嬉しく思う。
ひとみは、廊下で見付けたひとつの結論とともにここに在り、思考を複雑化する原因であ
る美貴に抱かれている。
いつもだったら返してみる両の手は、黒ジャージのポケットの中で動けない。
今日はリップも、飴玉も出てきてくれない。探してみても、かさかさと音がするだけ。
指先が氷の冷たくて、こんな時は自らの爪でさえも肌の上に傷をつくりそうだ。
大丈夫、大丈夫と浅い呼吸をする。ひとつ、ふたつ、もうひとつ。穏やかに穏やかに、ひ
とみの心は優しくなってしまう。
大丈夫。
- 76 名前:6 投稿日:2006/10/04(水) 23:49
-
静かに項垂(うなだ)れて、そのまま頭をごつんと重ねる。慣れた香りが舞い、美貴が顔
を上げた。少年のように乱れた前髪と、無邪気な笑顔。
警戒心ゼロ。威嚇ゼロ。悪意ゼロ。
胸を締め付けられる無欲の笑顔。少しだけ嫌になるけど、いい顔。
この距離感でいい。
この距離でいいじゃん。
いいよ。
いいんなら、ちゃんとしようぜ。
- 77 名前:6 投稿日:2006/10/04(水) 23:50
-
ひとみは、これまでにないくらいまっすぐに、美貴を見つめた。
「美貴」
「なぁに?」
ひとみは、視線をそらさないように一生懸命、美貴を見つめた。
「『あやちゃん』が来てるよ。外で待ってるから着替えてきなよ」
そして「えいっ」とばかりに笑顔をつくる。
- 78 名前:6 投稿日:2006/10/04(水) 23:50
-
直後の記憶は曖昧で、きっとひどい顔だったに違いないが、こればかりはしょうがない。
ほらね、大丈夫。
視界の靄がはれた頃には、ひとみのそばには誰もいない。足下に広がる視界の効かない夜
の廊下。早朝の朝靄のように、悪意のまるで無い自然な不自由。過敏になった聴覚で知る
孤独、自分の脚で堂々と廊下に刻むリズム。
もう背中までも届かない、向こうの明かり。
何処までもついてくる足音が、耳に響いて突き刺さる。ひどく切ない。困った、なんだろ
うなコレ。こんなの美貴には知られたくない。しっかりしろ、しっかり…。
- 79 名前:6 投稿日:2006/10/04(水) 23:50
-
「大丈夫」
ひとり呟く。
これで、いい。決して悪くない。うん。よし。
ひとみは、そのまま帰路を選んだ。怖気付(おじけづ)いたのではない、それが冴えたや
り方だからだ。黒いジャージのポケットの中で、両の手の細い指はまだ動けない。
暗い廊下は、遠くまではとても見えない。
- 80 名前:6. 揺れる水面(みなも) 投稿日:2006/10/04(水) 23:51
-
end
◆ ◆ ◆
- 81 名前:7 投稿日:2006/10/04(水) 23:51
-
◆ ◆ ◆
- 82 名前:7. 仰ぎ見る天(前) 投稿日:2006/10/04(水) 23:52
-
深海に生きる魚はいっぱいのアブラで出来ていて、浅い海に上がるとからだが壊れちゃう
んだって。破裂するんだって。人間が、そのままじゃ宇宙に行けないのと同じで。
繊細な仕組みは、ちゃんと破綻するから世界に在るんだよ。だからバランスがいいの。
きっと、いま会ったら上手くないって脳裏を激しく叩き続ける警告音も、同じ原理で頭痛
になっているんだと思う。なのに「おいで」などと言うのは、どういうこと。
ありえなーい。
- 83 名前:7 投稿日:2006/10/04(水) 23:52
-
亜弥は何時間も同じ姿勢のままで、唸っている。
左手の濃い赤インクの手紙。右手の冷めた紅茶。つけたままのテレビ。子猫はもういない。
窓の外の月は、朝を待つのみの脆さで灯り、地平線に落ちそうに浮かぶ。
それさえ腹立たしい。ちょっと、堂々としなさい。
心が揺らぐ。
揺らぎは、人生という名の舞台で主役しか演じたことのない彼女にはたまらなく不快なも
のだ。決意は固く、いや「固かった」のに。
数年後の未来に設定した感動の再会は、たった1枚の手紙によって別のシナリオを要求さ
れた。
- 84 名前:7 投稿日:2006/10/04(水) 23:53
-
「遠いけど、土曜日の公演もあるから良かったら観に来てね。夜はうちに泊まって日曜日
に帰ればいいと思う」
音信不通になっていたのに、ありえない展開!手紙なんて、どういう風の吹き回し?
新しい土地で、上辺だけの付き合いに徹していた亜弥は、久々に相手の心理を探ろうと躍
起になる。が、相手が悪かった。相手が、美貴なのだから。
まるで盲目、さっぱりわからない。握りしめた手紙に、思いつく限りの毒を吐く。
せっかく我慢するって決めたのに。しかも会いに来いってどういうこと?学校行事をネタ
に私を呼び出すとはいい度胸じゃない。
…招待されたんじゃ断れないから、行くけど。
- 85 名前:7 投稿日:2006/10/04(水) 23:53
-
例えば、舞い落ちた免罪符、その意味を知らないのは正しい信徒。
拾い上げるのは必然で、大切にするのはあくまで役目だ。
きっかけは義務だっていい。
- 86 名前:7 投稿日:2006/10/04(水) 23:53
-
亜弥は感情の起伏が他より激しい。そして余程のことが無い限り外に見せない。
その結果に投げられる「精神年齢が高い」とか「いつも完璧」とかの普遍的な褒め言葉に
はとうに飽きたが、それが世界の望みならば、最上級の応えを見せようと振る舞えた。天
賦の才能。評価は更に上がる。単純な仕掛けだ。
あなたが見ている私は偽物です。言わないのは賢さからで、いつだったか「老成」という
言葉を知った時に「なるほど」と思ったのが本当の自分だと信じている。そしてそれを
「嬉しい」や「悲しい」で計るのは本意ではない。人生という舞台において、必要ではな
いと考える。
わたしを誰もが知っている。
わたしを誰もが知ってはいない。
そしてわたしたちのことを誰も知らない。
誰も知らない。大天使のように、私の隣に堂々と降り立つ唯一の可能性を。
深海からでも仰ぎ見ることの出来る大きな空が在ることを。
あまりに共有し過ぎた妄信に近い恋心、その不自由を。
幼さと括(くく)るには深過ぎた友情を。
- 87 名前:7 投稿日:2006/10/04(水) 23:54
-
- 88 名前:7 投稿日:2006/10/04(水) 23:54
-
「亜弥ちゃん!」
観劇の後、眼の腫れをごまかそうと少しきつめに視線をつくるが、徒労だった。
制服の美貴が視界に入った瞬間に、全身から力が抜けた。
ああ、みきたんだぁ…
一瞬だけの冷静に掴まって、亜弥は亜弥を演じる。
夢にまで見たひと、現実だからこその喧嘩腰、殴り合いのように単純なトーク、ゲーム。
「亜弥ちゃぁん」
「…久しぶり。何なの、あの役。聞いてないんだけど」
「え?」
「主役じゃない上に死ぬってどういうこと?…ダサい」
「えーだって美貴、演劇部じゃないもん。お手伝いだもん…。主役なわけないじゃん。…
…でも感動したでしょ」
「…まぁ、ね」
「今日、学校は?金曜だよ」
「休んだ。明日の公演観て、明後日帰るから。支度が済んだなら、帰ろう。鍵は?」
亜弥は強引に美貴の手を取る。亜弥の舞台に役者が揃う。
- 89 名前:7 投稿日:2006/10/04(水) 23:54
-
並んで歩く。
歩調を合わせる。
手を繋ぎ直す。
一歩が踏み出せず深い深い場所に潜んでいたのに、この身の軽さはどうだ。
今なら、水面の上の雲の向こうや、宇宙の果てまで飛んでいけるんじゃないか。
「はじめて来たけど、真っ暗でなんにも見えないね。校舎」
「ガッコ見たいの?じゃあ日曜日に来ようよ、朝早く起きて」
「えーめんどくさい。あとね、制服似合わない」
「…うっさい」
日曜の朝なんて、すぐに動き出せるわけないじゃん。
- 90 名前:7 投稿日:2006/10/04(水) 23:55
-
- 91 名前:7 投稿日:2006/10/04(水) 23:55
-
わたしたちに「感動の再会」はとても難しい。
だって全然、離れられてないもの。再会の前の「別離」に追いつかない。
劇的な変化って、よくよく見てみればあんまり近くに、ない。劇的にするのは距離じゃな
くて、愛情や、疑いや…私の中でぐるぐる回って波風立てて勝手に終わる感情。知識と経
験から生まれた私だけのドラマに、今日も泳いだり溺れたりしてる…感じ。
溺れて沈む原因はいつだって同じ。溺れかけてもがく時に掴む手も、お互いに決まってい
る。因果だねぇ。
だから、私たちが世界に及ぼす影響なんて些細で、海の深ーい底のほうや、遥か高ーい空
から見たら、とても小さくて可愛いもので、ってことは、多少の間違いなんてもっと小さ
な一点なんだ、と思えてくる。片手に片手が握られているだけで、一生懸命描いたシナリ
オはどんどん変わってしまう。狭いところからいつの間にか引っぱり上げてくれたせいで、
どんどん心が自由になる。
- 92 名前:7 投稿日:2006/10/04(水) 23:55
-
亜弥は、美貴といると上手く立ち回れない自分を感じる。予測不可能と非バランスでいっ
ぱいになってしまう。
慌てても慌てない、誰にも見えない亜弥の本音。ときどき美貴に暴かれる本音。それを
「嬉しい」や「悲しい」で計るのは美しくない。
亜弥が自らのために磨いた、単純な仕掛けなのだから。
ねぇ、とても沈んでいたけど、結局、孤独にはなれなかった。
だから、わたしたちに「感動の再会」はとても難しい。
亜弥は美貴の手をもう一度握り直して、小さく微笑んだ。
- 93 名前:7. 仰ぎ見る天(前) 投稿日:2006/10/04(水) 23:56
-
end
◆ ◆ ◆
- 94 名前:8 投稿日:2006/10/07(土) 23:38
-
◆ ◆ ◆
- 95 名前:8. switching all 投稿日:2006/10/07(土) 23:38
-
一時間めの認識。「高橋愛は、寡黙で天才肌の、下級生」
一週間めの認識。「愛ちゃんは紙一重で、天才」
一ヶ月の認識。「自由すぎるから」
8. switching all
演劇という未知が、転機になるとは誰の目論見か。
未知とは同時に、高橋愛であった。
- 96 名前:8 投稿日:2006/10/07(土) 23:39
-
梨華に誘われた頃、美貴は自己嫌悪に陥っていた。無理矢理バイトを増やしても、フット
サルに打ち込んでも、ひとりの夜になると深いそれに苛まれる。
広めのベッドからつま先を下ろしたら、深い海の底まで落ちていきそうだ。
意識が冴えるのは明け方で、夜明けに併せるように、徐々に広がる思考の海。世界にひと
りしかいないような錯覚。閉め切ったカーテンで、朝日は隙間から漏れる一線のみ。から
だの輪郭を曖昧にしながら眼光ばかりが鋭くなる。明るい未来を照らす灯台はまだ遠く、
美貴は今朝も、薄闇にぽつんと浮遊する。
朝焼けを一人で迎えるのに、慣れない。
かっこ悪い。
- 97 名前:8 投稿日:2006/10/07(土) 23:39
-
亜弥に会えなくて不機嫌になったり、ひとみにひどく甘えたりして、どうしようもない。
大切なものが去っていくのを、悲しむだけのこの弱さはどうだ。ひとみのように、颯爽と
振る舞うのは難しいにしても。
結論は常に出ている。
どっちつかずがいちばん良くない。
要は、勝つか負けるか。得るか失うか。進むか戻るか…白黒はっきりつけたいだけで、過
程にこだわるのは、性に合わない。
「ったく…なんなの!」
怒りさえも、とうに力尽きていた。
今日の短針が5の上を過ぎる。
- 98 名前:8 投稿日:2006/10/07(土) 23:39
-
今日の短針が再び、5の上を過ぎる。
演劇部のエース・高橋愛は、曲者に違いない。
自由奔放、とてつもないマイペース。
舞台の稽古ではいつも、見えないスイッチをパチリとやって、姿を消してしまう。
「仮面をかぶるんやよー」
愉快そうに語る愛に得意の「意味わかんない」を連発した美貴だったが、スイッチが入る
のを確(しか)と見てしまった。役になり切る高橋愛を。
愛は消失し、本来は存在しない人物が彼女の身体を使って現れる。絢爛、豪奢。「観る者
の心を奪う演技」とはまさにこれに違いない。群像に際立つ異質、スターの性質。
- 99 名前:8 投稿日:2006/10/07(土) 23:40
-
軽く見ていたのかもしれない、少しばかり緊張を覚えた美貴は、出番が終わりスイッチを
オフにした愛に、更に驚く。
舞台からの階段を転がるように降りてくる様子は、先までの作られた役とは全く違う。く
しゃくしゃの笑顔で、降りる勢いのまま飛びついてくる愛に巻き込まれて美貴はバランス
を崩す。
「うっひゃあ間違えた間違えたぁ!セリフ飛ばした、大失敗」
「痛いから。間違いは、全っ然気付かなかった」
「おお?じゃ、いっか!」
いいのか?飲み込んだ疑問は読まれる。
「いいのよ、いいカンジに感じれば!」
- 100 名前:8 投稿日:2006/10/07(土) 23:40
-
でも次はぁ間違わない〜と変な即興メロディで歌う愛の揺れる髪の向こうには、部員たち
の冷ややかな視線。そりゃそうだ、あれだけばっちり演っといて失敗なんてよくもまぁ…。
ってまだ睨んでるし。溜息。睨み付けるつもりはなかったが、美貴が視線を投げた瞬間、
安い嫉妬は散った。…集団行動、ホント無理。美貴は溜息を重ねた。
頼りになるムードメーカー・梨華は今日はいない。しょうがない、と美貴は薄く笑う。愛
に懐かれている自覚が少しだけ支えになる。甘えたがりの末っ子気質でも、甘えさせない
わけではない。好意を抱けば敵も見えるのは残念だが。ただ難点は、周囲の眼など一切気
にせぬこの少女。まだ変なメロディを歌っている。溜息が、出る。
- 101 名前:8 投稿日:2006/10/07(土) 23:40
-
「美貴ちゃん!どした。えらい仏頂面。美貴ちゃんはいつもか!あはは」
「…。…愛ちゃんてさぁ」
「んん!?」
「愛ちゃんて…梨華ちゃんに似てる」
「ほんとぉ!?」
「めげないし、空気読めないけど」
数秒の空白の後、嬉しい!と叫んで愛は美貴に抱きついた。笑顔はまたくしゃくしゃで、
いよいよふたりは床に倒れ込んだ。天井を背にした愛が、きらきらした眼で覗き込む。
「どこが!?どこが石川さん!?」
「だからそーゆーとこ」
自分と向き合ってる感じ?
いいや、クサいから黙っとこう。てゆうか愛ちゃん顔近いから。
「…んんー!わからん!」
「いいからどいて。重い」
「了解した!」
- 102 名前:8 投稿日:2006/10/07(土) 23:40
-
再び空白の時間。愛の両手が上半身を起こした美貴の両肩から離れないのは、全ての思考
回路を総動員して考えごとに没頭していたせいで、知らない香水の香りに戸惑い赤面して
いた美貴にも気付くことはなかった。彼女は無意識というか、自覚の無さが突き抜けてい
る。そう思いながら、美貴は肩にある細い手を引き剥がした。
「考えてもわからん!でもいっか!」
にひひ、と少し気持ちの悪い笑いを浮かべて何事もなかったように走り去り、舞台の前に
座り込むと、愛はもう他者の演技に没頭している。2人が問答している間も練習は進めら
れていたのだから当然か、切り替えの早さに美貴は唖然とする。
自由だ。なんていうか、自由だ。
『考えてもわからん』
そうなんだけど。
そうかもね。あー…そうだよね。
- 103 名前:8 投稿日:2006/10/07(土) 23:41
-
白黒はっきりつけてやろうじゃん。
冴える深夜に、机のライトをつけて、まとまらないものを照らす。
まず、愛ちゃんをもっと観察する。もうすぐ半月経つけど、まだ掴めないから。
よっちゃんに、ちゃんとお礼を言う。多分、これは来週に、必ず。
あとは、亜弥ちゃんに向き合う。
はい、考えるの終了。
うぁ、もう3時過ぎてる。
- 104 名前:8 投稿日:2006/10/07(土) 23:41
-
亜弥ちゃんへ
久しぶり。
今度、演劇部の公演に出演することになりました。
チケット、多めに入れておきます。日にちの指定はないから、どの日に観てもいいみたい。
遠いけど、土曜日の公演もあるから良かったら観に来てね。
夜はうちに泊まって日曜日に帰ればいいと思う。
美貴は亜弥ちゃんに会いたいです。
じゃあね。
美貴より
- 105 名前:8 投稿日:2006/10/07(土) 23:41
-
椅子に膝を抱えて背を丸くし、頭を抱えてうんうん言いながら、書けたのは数行だった。
行数より、書き損じた便箋の方が多いくらいだ。
亜弥の好きな色の薄い桃色の便箋が尽きてしまい、しょうがないので自分の好きな焼けた
銅のような赤い便箋に書いた。
ペンを置いて、便箋のまんなかを爪先できつく折る。
使われるのが2枚の場合を覚悟しながら、4枚のチケットを挟む。
メモを見ながら、知らない土地の住所と知り過ぎた名前を封筒に書いて、濡らした指先で
封をする。
- 106 名前:8 投稿日:2006/10/07(土) 23:41
-
切手を買いに行かなくちゃ。
黒ではない自前のジャージを羽織り、襟を立てて寒さをよける。リリリリと鳴る時計のス
イッチを、乱暴にオフにする。カチリ。心を荒らす音を消す。
部屋を突っ切る美貴の足取りは堂々として、七つの海をゆく船のように豪快なものになっ
た。それは、高橋愛が舞台に上がった時の、重厚な歩みにも似ていた。
勢いよく開けた玄関の向こうに待ちうけていた美しい朝焼けに、くらりと眩暈(めまい)
がする。持ち直して、骨のように透けた月ににやりと笑いかけると、美貴は手紙ひとつと
歩き出した。
今日の短針が5の上を過ぎる。
- 107 名前:8. switching all 投稿日:2006/10/07(土) 23:42
-
end
◆ ◆ ◆
- 108 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:00
-
◆ ◆ ◆
- 109 名前:9. 大天使のように 投稿日:2006/10/09(月) 01:01
-
今日は美貴が部活に来る日だ。久しぶり。もうすぐ部活を辞めると言った美貴が来る浮か
れた月曜、日向と日陰が同じ色をした曇りの日。くもりがなにさ。
ひとみは部室の扉の前で、鍵をジャラジャラ鳴らしながら待っていた。コンクリートの段
差に腰掛けて、さながら大型犬。習慣なので約束は無い。
「さみい」
愚痴る大型犬。
- 110 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:02
-
部室の中は「上級生より先に集まる」1年生たちが騒いでいる。若いねぇ…自分はどうも
青さをすっ飛ばしたきらいが有る。それにしても遅い。引退した最上級生は遅刻が基本に
なっていて、現役トップは待ちぼうけを趣味に持つ。妙な構図だ。
秋は深まって曇天こそ似合う季節なのに、くたびれたスニーカーのそばを蟻の行列が進む。
しゃがんだまま列の先頭を見遣れば、先には甲虫の死骸。濁った黒と乾いた液体のあとが
コンクリートに貼り付いている。蟻たちは入れ替わり立ち代わりに群がっては去る。
- 111 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:02
-
ひとみは、ぼんやりとそれを眺めた。
無駄がない争いに感心しながら、口の中の飴玉を転がす。あの日以来、皮肉にも気に入っ
てしまった薄荷の味。白くて半透明の程良い甘さ。
想い人を待ちながら、生きるために食べる蟻と糧になって生かす甲虫を軽く羨む。無駄が
ないってのは、美しいね、君たち。
恋路の名は認めても、参戦を諦めたい争いもある。友人の枠からはみ出すってのは可能な
のか?恋に恋する年でのなかろうに、すっきりしないのは問題だ。
薄荷の飴玉がすっかり形をなくして時間が過ぎる。遅い。次の包みに手をかける。
- 112 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:02
-
よっちゃーん!
おー、久しぶり。来るの遅い。でも、会いたかった。
ホントぉ?
本当。
本当だよ。
美貴を取られちゃって、つまんなかったよ。
ビニールの包みを解いて転がす。やはり甘くない。
大好きなひとがどっか行っちゃって寂しいのはみんな同じだよ。美貴にだけは絶っ対に言
わないけど。
言葉の真意を知ってか知らずか、美貴はすぐ隣にちょこんと座り込んで、膝を抱える。
ほつれた前髪を直してやると、ありがとう、と笑う。またこの顔だ。眼の下のクマが濃い
のはどうしてだろう、聞かない方が良さそうだけど。
- 113 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:03
-
どう、演劇部。
難しいけど、やりがいある…と思う。出番少ないから見逃さないでね。
わかった。お母さん、来るの?
来れないって。
ふーん。
あ、あ、あの…「あやちゃん」は?
…手紙出した。やっぱり、見てほしいから。
ふーん。
…
- 114 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:03
-
…
…
- 115 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:04
-
あのさ。「あやちゃん」てさ、本当に彼氏いるの?
…何、よっちゃん、唐突。
この前言ってたけど、直接聞いたの?
そうじゃないけど、そうっぽかった。
それだけ?…で、ヘコんじゃったの?
うん。
じゃあ美貴の妄想かもしんないね?
…そうだね。そうだといいんだけど。いじめないでよ、よっちゃん。
- 116 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:04
-
なぁんだ、残念、妄想か。
最後の一言を、本音を、悪意を押し殺す。
妄想じゃなくて真実だったらもうちょっと…もうちょっと、なんだってんだ…。
訪れる全くの虚無の心情。ひとみの視界は、グラウンドの舞った砂でぼうっと霞んだ。傷
つけて傷つくなんて冗談じゃない。悪魔じゃあるまいし、残念ながら優しさなら毎日余っ
てますよ。それに、悲しくなるのは嫌いなんだよね。
ひとみの発言を励ましととったらしく、美貴は突然、それよりさぁ!と声を張る。
- 117 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:04
-
よっちゃん!
ん?
謝りたくて。…この前の。
んん?
美貴さ、人見知りじゃん。
うん?どした。
合う人と合わない人がいるじゃん。
いやそれは美貴にも問題が。
判ってるけど。正直、相手に気を遣うとか苦手なの。末っ子だし。でもよっちゃんといる
とそうゆうのなくて、お互い独立して動いてるっていうか…似てるのかな、一緒にいると
すごい楽。
…ラクって褒めてなくない?
いやいやいや褒めてるよ、いい意味で楽なの。だから…
- 118 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:05
-
ああもう言い訳っぽいな、と呟いて美貴の言葉が止まる。
何だよ。焦らすなよ。似てるなんて残酷な響きを残さないでよ。ひとみは長い長い沈黙に
耐える。
美貴はどんな時も、ひとみが話す時はまっすぐ眼を見てくる。視線は今、足下一点にあり、
次のセリフを探している。
ひとみはどんな時も、美貴の声と声の間にそっと見ようとする。横顔をよく見ている。
いつか美貴と離れた時に思い出すのは、きっと笑顔じゃなくて横顔だろう。耳のかたちや
伏せた眼や、細い首筋。その全てが、切なさを演出するのに憎たらしいほど最高のバラン
スで出来ている。
たまらなくなって、ひとみは急かした。
で、だから?
…だから、いつも甘えちゃってごめんね。
- 119 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:05
-
今日はなんだか静かだな、とひとみは思う。あまりにも静かな。
そして響くのは、聞き慣れた声。
思い出すのは声かもしれない。笑顔じゃなくて。
全然いいよ。
ひとみは無意識に、未だ流れる蟻の列を崩す。揃っていた足並みが千々に乱れて惑う。コ
ンクリートの凹凸に滲むように広がる黒い点々。
- 120 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:06
-
むしろ嬉しいくらいです。
本当に?
今更甘えない美貴もキモいし、無理でしょ。
はい。無理です。スミマセン。お礼が出来るならなんでもします。
ほう…言ったなぁ。
おう。
うへへへと緩い笑い声を2人で漏らす。
- 121 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:06
-
この期に及んで、美貴といると楽しいなーあなんて思うんだから、やっぱり惚れてんのか
な。まいった。そうだ、ランニング始めよう。そうしよ。うんうん、時間、時間は?
厚い雲の下で、灰色の校舎には白い時計と黒い針。モノクロームの世界。見える世界が白
黒でも、本当はカラフルなんだって知ってるから大丈夫。
地味な色の薄荷だって本当の本当は甘いんだ。
- 122 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:06
-
よっちゃん、そろそろランニング…聞いてる?
うんうんお礼ね。お礼。なんにしようかなあ。チューでもしてもらうかあ。ドーンと。
意味わかんない。ありえないから。スケベ。
色気ねぇなー!ってか冗談に決まってんじゃん!もう、走る!
はあ!?じゃあ美貴も走る!待ってっ
- 123 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:07
-
その頃のひとみにはまだ余裕があったのかもしれない。嵐の前の静けさに身を置いて。
蟻の行列を飛び越えて、くたびれたスニーカーでグラウンドを駆け抜ける。爽快。後ろか
らばたばたと美貴が追ってくるので、限界までペースを上げる。眼が乾き、砂が入り、涙
がついと落ちるのをジャージの袖でごしごし拭う。
風が気持ち良い。
- 124 名前:9 投稿日:2006/10/09(月) 01:07
-
その中に少し湿った匂いを見つけて、ひとみは雨になるかもしれないと、いっそ雨が降れ
ばいいと、空を見上げた。どっちつかずの曇天、同調してくれるのか。励まされているよ
うな気がして情けなくて恥ずかしくて、いっそのこと雨をと望んだ。でも蟻が困るかも。
そして美貴が追いつくまでは、全速力で止まらないことにした。
それがひとみの優しさだった。
- 125 名前:9. 大天使のように 投稿日:2006/10/09(月) 01:08
-
end
◆ ◆ ◆
- 126 名前:kkgg 投稿日:2006/10/09(月) 01:09
-
あと少しで、もしかするとこの秋の三連休で、完結します。
- 127 名前:10 投稿日:2006/10/09(月) 22:46
-
◆ ◆ ◆
- 128 名前:10. 花と太陽 投稿日:2006/10/09(月) 22:47
-
あ、梨華ちゃんだ。
図書室の掲示板の前で、ひとみは立ち止まる。学内新聞のトップに、演劇部の定期公演の
様子が載っていたためで、よく知る名が、印刷の荒い写真下の字にあった。
「左より、主演の□□□□(3ー6)、高橋愛(1ー5)、客演の石川梨華(3ー4)」
演劇部3年の引退公演であると記事にしながら、写真はどう見ても高橋愛メインだった。
最下部の、同好会の資金稼ぎに使われる広告欄にも愛と梨華の写真が並べてあった。
- 129 名前:10 投稿日:2006/10/09(月) 22:48
-
いまや学内で話題の人、石川梨華は、学校が大好きなので毎日図書室で勉強している。
愛の居場所である文化館の舞台袖も気に入っていたが、最近は、雪の日のような無音に囲
まれた図書室に愛着を感じていた。人が多い場所で、面識の無い者に話しかけられる機会
が増えたのもある。梨華は、静寂を求めていた。
3年生ともなると日課が受験合わせなので、進学組は自習もしくは塾通いがメインになる。
就職を決めた美貴も、バイトばかりの生活をはじめた。
受験のない2年生は勿論、普通日課のままだ。なのに、ひとみは図書館に現れた。
- 130 名前:10 投稿日:2006/10/09(月) 22:48
-
「…どうしたの?」
彼女が登校時以外に制服を着ていることは殆どない。今日も細い体に裾の余った黒いジャ
ージだ。表情を隠そうとしているのか、梨華が春先にプレゼントした青いマフラーを首に
巻き付けて、深々と顔をうずめていた。
「授業中じゃない?」
今にも泣き出しそうな子どもの顔が、少しだけ困る。
ポケットに突っ込んでいた両手を出して億劫そうに椅子をひき真正面に座ると、そのまま
机に突っ伏す。さぼった、と言うと、わざと机に額をぶつけた。鈍い音がして振動が梨華
の肘まで響く。浅い呼吸音が聞こえる。視界に2人しかいないのだから、ひとみの喉だ。
- 131 名前:10 投稿日:2006/10/09(月) 22:48
-
梨華ちゃん、ファンクラブ出来たってマジ?
マジだよ。新聞見たんだ?
うん。でもわかる。綺麗だったから。ホントのお姫様みたいで。主役より目立ってた。
演技も褒めてよ。
演劇部の1年生の子もすごかったけど、負けてなかったよ。
愛ちゃんね。あたしと愛ちゃん、セットみたいな扱いになってて、愛ちゃんすごく困って
た。面白かった、顔真っ赤にしてね。うふふ、早く王子様来ないかなー。
いや来ないから。現実的に無理だから。
なんだか美貴ちゃんみたいなツッコミ。
…そう?
うん。
- 132 名前:10 投稿日:2006/10/09(月) 22:49
-
校舎の北側にある図書室はとても寒い。
西日も射さず、人気(ひとけ)もない寂しい場所だ。ラジオの音も聞こえないし、チャイ
ムも消されている。時間の感覚が希薄になる。校舎の3階、装飾の凝った大窓の先、樹々
と雲の形だけが、冬の到来が声高に主張している。色づいた葉から、地面に落ちる。中庭
には名も知らぬ低木の花がまだ咲いているはずだ、日光を欲張らず健気に。
- 133 名前:10 投稿日:2006/10/09(月) 22:49
-
どうしたの、よっすぃー。
んー?
どうしたの。
んー。図書室て暖房ついてるんじゃないの。
授業時間はつかないよ。で、どうしたの。
んー。なんかさあ、失恋しちった。っぽい。
なぁにそれ。
でも恋じゃなかったんだけど。
そう。
どうにかしたいっていうより支えたいって感じだったから、違うと思う。
なぁにそれ。
…梨華ちゃん、何の話か完全に判ってて言ってるでしょ。
うん。美貴ちゃんの話。
んー。
- 134 名前:10 投稿日:2006/10/09(月) 22:50
-
誰から見たって、よっすぃーのことが大好きに見えるもんね。
そうなの?
うん。罪作りよね。八方美人でも無いし。
つみつくりってよくわかんないけど、結構キツいこと言ってる?
はっきり言わないと混乱しちゃうくせに。
そんなことないよ。
そうじゃなきゃ来ないでしょ。
うう…うーん。
ほら。
うわぁーもう吉澤大混乱だよー。たすけて梨華ちゃーん。
- 135 名前:10 投稿日:2006/10/09(月) 22:51
-
そのまま、ぶえっくし、と犬みたいなくしゃみをして、ううーと呻く。
今日はにぎやか。他に人も居ないし、とても可愛いから抱きしめてしまおうかと考えなが
ら、梨華はさらさらの髪を撫でてやる。ひとみは一瞬梨華を見て、またすぐに伏せる。
むかしむかし、梨華はひとみの隣に立つ全てに嫉妬していた。不安に駆られ、あらゆる悪
い出来事ばかりを考えて、世の中は辛い仕打ちばっかりだと嘆いた。諦めちゃダメ、ポジ
ティブに行かなきゃと顔を上げてみるといつもそばにひとみがいて、緩い笑いをこぼして
いる。深い付き合いは面倒だから、と誤摩化しながらのらりくらりと立ち回る。結局どこ
にも落ち着かずに、いつまでも「みんなのよっすぃー」を気取る。ずるい。それでも、今
日も、ひとみは梨華の隣にいる。
いつもそばにいる緩い笑いを見ているうちに、梨華はその他の世界はどうでも良くなった。
むかしむかしの話だ。少なくとも梨華にとっては。
- 136 名前:10 投稿日:2006/10/09(月) 22:51
-
…全部想像なんだけど、多分、美貴ちゃんがよっすぃー大好きなのには変わりないと思う。
んん?
違う?
…違わない。と、思う。
それ以上の答えが必要?
ううん。それでいい。
そう。
- 137 名前:10 投稿日:2006/10/09(月) 22:51
-
梨華は穏やかに言うと、座り直して、伏せた参考書を開く。勿論、頭には入らないが、役
目は終わりのようなので、あえて興味の無い数式に挑む。答えがひとつしかないのは、つ
まらないな。
向かいに丸まったひとみは落ち着きなく、髪やマフラーや梨華の参考書のたぐいをいじっ
ている。難しいことを考えている時のくせだ。フットサルの試合の前にも、よくホワイト
ボードに落書きして独り言を呟いていた…そして突然、飽きるのだ。
寒い図書館の外で、チャイムが鳴った。同時に、ヴーンと暖房のつく音がして、埃の匂い
がする温風が頭上を過ぎた。
やべー終わっちゃたー!頭がぴょこんと跳ね上がり、戻る気も無かったけどさ!と小さく
言い訳をする。上目遣い、あからさまに梨華の様子をうかがっている
梨華はサービスで、怒った顔をしてみる。
- 138 名前:10 投稿日:2006/10/09(月) 22:52
-
梨華ちゃんは何でもお見通しだね。
そりゃもう、よっすぃーのことですから。
そうかー…ありがとう。ベンキョーの邪魔してごめんね。
次の授業は出なさい。
はーい。ホント、ありがとう。
『はーい』。
真似すんなー。
あ、笑った。よっすぃー笑った。いい顔。
- 139 名前:10 投稿日:2006/10/09(月) 22:52
-
お見通しになるにはそれなりの理由があるのよ。
枯れ葉が地面に憧れて、その身を真っ赤に染めるくらいに自然な理由。枯れる前に花咲く
道理。想いが育って、かたちを変える可能性に気付いた日から、もう戻ることはない。置
いていかれた枝には次の葉が芽吹くように。
- 140 名前:10 投稿日:2006/10/09(月) 22:54
-
ひとみは教室に戻った。
梨華は勉強に戻った。
心の片隅から離れないのは、近づく輝かしい学生時代の終わり。彼女と過ごした短い時間
を上手く離れる方法を見つけられないまま。花咲く乙女は、太陽の光を見ようと、今日も
頭(こうべ)を上げてみる。
その視界には、どこまでも静寂が広がっていた。
- 141 名前:10. 花と太陽 投稿日:2006/10/09(月) 22:54
-
end
◆ ◆ ◆
- 142 名前:kkgg 投稿日:2006/10/09(月) 22:58
-
126を訂正、続きます。ごめんなさい。
どうぞよろしくお付き合い下さい。
- 143 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 00:57
-
◆ ◆ ◆
- 144 名前:11.仰ぎ見る天(後) 投稿日:2006/10/11(水) 00:58
-
猫を飼う気はさらさら無い。
理由いち。懐かれると出掛けられないから。
理由に。いなくなるから。
理由さん。配る愛が余ってないから。
預かる程度で十分。はい。
人の数のせいなのか部屋のせいなのか喉の乾きで眼を覚ます。
壁に一筋の薄明かり、軽いエンジン音、階段を上る足音、子どものはしゃぐ声、着信を伝
える点滅。
- 145 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 00:59
-
朝?朝か。全部うるさい。嫌な朝。思考に衰弱を感じる、まだ夢の中かもしれない。現実
の自分は、まだあの深い海の底にいるんじゃないか、身動きも取れずに。見えない圧で、
身動きが取れない…違う、左腕に美貴がくっついている。冴えた眼の前は暗いが、指先が
あれば見えた。久しぶりなだけで、慣れた部屋だ。肘にしびれを感じて、腕を抜こうと上
半身を動かす。
…い、や。
辛うじて聞こえる声で、止められる。
痛い。
きつく言うと、諦めたらしく解放し、寝返りを打つ。髪の乱れた白い肩にうっすら八重歯
の跡があるのに、記憶が無い。まぁ、いい。しょうがない。これはしょうがない。
ね、起きてるの?寝たフリ?
- 146 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 00:59
-
美貴の返事は無い。その猫背、腰に腕を回して亜弥は眼を閉じる。ただいまとか、おかえ
りとか言ったら素敵なシーンなのにと思う。起きて、と耳元に囁く。返事は無い。一緒に
いるとペースが乱れるのは変わらないようだ。ここで我が侭を言って良いのは絶対に自分
のほうなのに。
だってこの人はいつも我が侭だけど、私にはここだけだもの。
勝手な言い分だと怒られるだろうか。
- 147 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 00:59
-
喉が渇く。水が欲しい。もう一度体を起こすと、同時に美貴が乱暴に寝返りを打って、宙
を切った脚が亜弥の上に乗った。重みに気を取られていたら今度は上だ。ゆるりと伸びて
きた腕に思い切り締められる。鎖骨のあたりに顔をうずめて、亜弥もまた不機嫌になる。
ちょっと、起きてるんでしょう。
返事は無い。束縛されたまま部屋を見回す。
机の下に積まれた参考書。あの頃と同じで、あまり使われた様子は無い。
机の上には舞台の台本があり、対照的にボロボロだった。
- 148 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 01:00
-
「だからさぁ!言ったでしょ。手伝いなの。主役なわけないじゃん」
眠気が去ったのか、やっと小気味よい返事。早速、舞台の話題をふってみるあたり、性格
良くないかな、と思いながら。
出された紅茶をひとくち飲んで続ける。
「私の予定では、みきたんの演技が素晴らし過ぎるから主役交替ー!のはずだったんだけ
どぉー」
「はぁ?」
「いやぁね、脇役なのは判ってた、ってことよ」
「…わけわかんない」
「でしょうね。そもそも…そもそもね、手紙出してくるのがおかしい。来いって何?」
「…おかしくない。亜弥ちゃんの話がおかしい」
「呼ばれたら普通来ちゃうでしょ。来ない予定だった。や、なんでもない」
- 149 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 01:00
-
危うい発言、軌道修正。良かった、みきたんまだ半分寝てるね。紅茶も薄い。
役者を探していた愛に美貴の存在を教えたのは亜弥なのだから、事実は全て亜弥の手の中。
主役抜擢はあくまでシナリオのひとつで、面白くないのは一悶着がなかった点だ。突拍子
もない発想を真剣に編むのは空論を避けるためで、全く思い通りに動かれてもつまらない
のだが、これは亜弥の我が侭に過ぎない。我ながら悪趣味だ。
美貴のように放っておいても勝手に目立つようなのは戦場みたいに殺伐とした場所に置い
ておくと栄える、と亜弥は考える。
何処に置いても馴染むし、何処に於いても浮く、稀有。そうでなくちゃ一緒にいるなんて
無理。限りなく近く、遠いのが、正しい隣人。
それを眺めるのが、天使の顔をした亜弥の趣味である。悪趣味な。
- 150 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 01:00
-
「なんで会いに来ないの」
「引っ越しちゃったのは亜弥ちゃんなのに?」
「そゆこと言う?言っちゃう?」
「…変な電話してくるし」
「あーあれは失敗した」
「最悪」
「おお?もしや、たん、泣いた?泣いちゃった?」
「最っ悪」
永遠に有利な舌戦。
相手が美貴ならば、亜弥の手札は面白いくらい切り札ばかりだ。
ただ、スマートじゃないだけで。
「ここに戻ってくるって思わなかったの?」
感情を顔に出さずにいられない美貴は、表情全部で答えを示していた。
亜弥は心底気分が良かった。
- 151 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 01:01
-
帰路につくため荷物をまとめる亜弥の鞄から、数冊の本がばらばらと落ちる。
美貴の部屋に泊まるのになんで本が持ってきたの、と聞かれ、電車の時間が暇過ぎたから
と返す。
難しそうだね。別に、ってゆうか全然思ってないくせに。うん、興味ない、えへ。
架空の物語で頭の中を埋めないとおかしくなりそうだったと言ったらどんな顔するだろう。
低めの太陽はもう落ち始めている。
美貴は二度寝は失敗だった、と繰り返す。帰りが遅れたのに責任を感じているらしい。だ
が一向に動き出す気配がない。ベッドの上で半身を起こして亜弥の行動を見ている。動け
動けと首を掴むと、ニャーと濁音つきで鳴く。
- 152 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 01:01
-
ニャーじゃない。午後からバイトじゃなかったの。
行かない。
行け。
亜弥ちゃんいるのに。
帰るから。送ってよ。支度は?何着てくの。襟、あるのにしなよ。明日は制服着れないね。
- 153 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 01:01
-
鍵は?鞄は?靴は?畳み掛けると、やっと美貴が動き出す。完全に不貞腐れた顔。中に小
学生(男子)が入ってるんじゃないかと、亜弥は真剣に思う時がある。ダメにも程が有る。
「よっちゃん」さんは、コレ、見てないんだろうか。
優越感は起きない。今と昔を比べたらどちらが正しいのか判断出来ないし、どちらかとい
うと「よっちゃん」のスタンスが正しいんだと思う。牽制した自分のほうがずっと子ども
なんだと思う。深みにはまらずに浅瀬で自由に走り回る自由意志の存在。追いつきそうも
ない。
だからみきたんも、
そこまで考えて亜弥は思考を止めた。逡巡など飽きるし、ここでやらなくてもいい。
もう間に合わない、さぼりたい、と文句を並べる背中に檄を飛ばすも、白い肢体が絡まり
そうなのが心配で、支えるように抱きつく。うわぁ、と情けない声。
- 154 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 01:02
-
支度しろって言うから、してるんだけど。
…続けて。
無理。
いいから。
…ね、バスで行こうか。ガッコが見えるよ。今、運動場の周りが落ち葉でいっぱい。走り
にくくてムカつくの。
うん。
バイト先、駅の反対側だから、亜弥ちゃん送ってそれから行く。
ありがと。
ちょっとー、もしかして寂しくなっちゃった?
うるさい。
うちの子になる?
ならない。
そう。
大学こっちにするから、そしたら、なる。
そうなの?初耳。
うん。決めてた。ずっと前から。決まってたの。
はぁ?勝手に決めないでよ。
…ニヤついてんじゃん。
うるさいうるさい。
にゃはははは
- 155 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 01:02
-
あーダメだ、こうなると後はもう、ダメ。
- 156 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 01:02
-
バス乗るのは20分くらい。
念を押すように言う美貴がしおらしい。少し余るふたり掛けにわざと詰めて座る。
学生っぽーい。学生じゃん。もう終わりだけどね、学生時代。さらば青春。なにそれ。
汚れた窓を北風が叩く。すきま風が冷たい。握った手も冷たい。
バスは高校の前に差し掛かる。グラウンドでは日曜の午後だというのに運動部がはりきっ
ていた。美貴の言う通り校庭を縁取るように黄色や赤が敷き詰められ、ところどころで突
風に舞っている。フットサル部もいる。休日はユニフォームだ。
出てきた部屋にあった、橙色。
窓際で「よっちゃんがいた」と喜ぶ手を思い切り強く握ると、さすがに気付いたようでお
となしくなった。
2人ともおとなしいまま別れた。
- 157 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 01:03
-
亜弥は帰りの電車で読む気の無い本を広げていた。自分の世界に入るよりも、他人の世界
から塞がれるように、最も無駄の無い角度で。文庫のそれには沢山の動物や植物、そして
空想上の生命が描かれている。文章よりも図鑑のほうが頁を自由に進められるのが素敵だ。
自分のペースこそ愛しい。
亜弥はときどき、図鑑の外で、美しいそれらに出会っている気がしてならない。
例えば、深い青の魚や、漆黒の猫、天使や悪魔。触れるには無傷でいられない「なにか」。
繰り返しの日々には登場しない作中じみた存在。鮮や過ぎて偽物に見える偶像。
全てが私と同じ世界のものならば、向き合うのが主人公の役目だ。新しいシナリオをつく
ればいい。物語の主役は私で、描かれるのは彼女で。
とても簡単なことだ。
- 158 名前:11 投稿日:2006/10/11(水) 01:03
-
- 159 名前:11.仰ぎ見る天(後) 投稿日:2006/10/11(水) 01:03
-
end
◆ ◆ ◆
- 160 名前:12 投稿日:2006/10/11(水) 23:54
-
◆ ◆ ◆
- 161 名前:12. 晩餐 投稿日:2006/10/11(水) 23:54
-
『屋上は日焼けするから嫌。』
返信も集合も一番乗りだった。
学校に来るのは何日ぶりだろう。受験生をやめた美貴は、公演後一週間ほどバイトばかり
していた。ある日、梨華からメールが来た。みんなで会おう、屋上で…。長いメールの最
後に「卒業しちゃう前に」とあり、引っかかった。
黒ジャージに制服のスカート、手にはバイト先で売れ残った紙パックのジュース、4つを
持って屋上のドアを開ける。
- 162 名前:12 投稿日:2006/10/11(水) 23:55
-
青空と柵しかない。美術の教科書にあったような景色だ。あれは現実だったのか、と思う。
滅多の立ち入らない屋上の安全柵に寄りかかる。見下ろす運動場、定番の昼休みの景色。
上空は風が強いのか、地面に映る雲の影はどんどん流れていく。太陽の前を雲が通る瞬間、
グラウンドは灰色一色になり、過ぎると、白い日向と青い影のコントラストが生まれる。
一色、二色、一色、二色。
照りつく部分は日の光か空の影か、眩しい日向はかたちを変え続ける。
灯って消えて、灯って消えて、地面が発光しているみたいに。
後ろで、扉のきしむ音。
「美貴ちゃん、いちばんのりー?」
現れた主催者。手には黄色の箱。ドーナツのイラスト。きらきらした少女。
「どうして屋上にしたの。別に空いてる教室で良くない?」
「学生の頃の思い出って言えば、屋上でしょ」
それに女の子って、悩みに悩んで妄想して、結局どうにもならなくるけど、お菓子で解決
できるのよ。
他愛無い会話をこなすうちに愛、最後にひとみが来た。
梨華の連絡に従ってはじまる持ち寄りの宴会の欠席者はゼロになる。
- 163 名前:12 投稿日:2006/10/11(水) 23:55
-
お弁当のあとだからあんまり重いのはダメ。共通認識だと思って、省いたのは失策だった。
「とりあえず、で」
梨華は黄色の箱を上げてみせる。ひとみが「やばい」という顔をする。
「ドーナツ?」
「うん」
「かぶった!」
背中に隠していたベーグルの箱を挙げる。
「炭水化物ばっかりだ。美貴は」
「紅茶」
まともー!と喜ぶのも一瞬、紫色のパッケージに一同は顔を歪める。
「…なにこれ、秋期限定グレープティー?」
「うわっ微妙…。おいしいの?」
「おいしいよ。おいしい」
「嘘、美貴ちゃん。バイトのでしょ、コンビニの売れ残りとか」
「え、ちょっとなんでわかんの」
「あーもう秋じゃないもんなー」
「いやそうじゃなくて。高橋さんは?」
ひとみにはじめて名を呼ばれて、そして自分の出番になって、愛は表情を明るくした。付
き合いが長くなりつつあった梨華と美貴は嫌な予感がする。
- 164 名前:12 投稿日:2006/10/11(水) 23:56
-
「みんなで集まっておやつって楽しそうだからはりきってしまいまして…」
後の方の言葉を濁すのは、残念ながら後悔ではなく照れの含み声。白い箱が手渡され、嬉
々として開けるのはひとみのみだ。
「おおお!?」
中には、生クリームの細工が見事なホールケーキが鎮座していた。
「…あああぁありえねー!ケーキケーキ!」
「わぁ、愛ちゃん作ったの?ひとりで?」
「つくった!朝までかかった!友達が手伝ってくれた」
「朝まで付き合うってどんな友達だよ。むしろ呼んでやれよ」
美貴の厳しいツッコミに愛は一瞬携帯電話に手を掛けたがやめた。さすがに今度は間違い
に気付いたようだ。先輩たちに囲まれて、今更緊張してきた愛は、眼を白黒させている。
舞台の上とは別人だねぇ、と愉快そうに言うひとみを、美貴が飽きれて睨む。
「やっぱり放課後にしようよ。家庭科室ならお皿もナイフあるし、屋外でケーキって…」
どんな思い出だよ。
- 165 名前:12 投稿日:2006/10/11(水) 23:56
-
青空の下でとても不穏な空気が流れる。さすがに梨華も折れて、一旦解散になった。
ひとみはあまりの協調性の悪さに大はしゃぎする。
愛は家庭科室の冷蔵庫に白い箱を戻しに行く。
浮かぶ雲の影が梨華の顔に落ちてすぐ消える。
「失敗だったかなぁ」
屋上を去ろうとする梨華が、小さく呟いた。美貴は梨華の発想に尊敬の念を抱きつつあっ
たが、とても表に出せない。
「いいんじゃない、どうせ午後に騒ぐんでしょ」
「そう?来てくれる?」
「勿論。アルコール、買って来ようか」
「駄目。美貴ちゃん、この後は?」
「なにもない。放課後までここで時間潰す」
「…羨ましい。ま、それぞれの道だからね。真面目にお勉強してきます」
「いってらっしゃい。合格したら次の時に幹事してあげる」
「本当?嬉しい」
軽快なやりとりを神妙な目つきで見ていたひとみが突然、口を開く。一生懸命、タイミン
グを計っていたのは明らかだ。
「梨華ちゃん」
「…なぁに?」
「次の授業…五限だけ、サボる」
そう、と優しく微笑んで梨華は扉を閉めた。お見通しだな、ひとみは思う。
- 166 名前:12 投稿日:2006/10/11(水) 23:57
-
美貴とひとみだけ残された屋上は、舞台には広い。
「いいの、授業」
「どーでもいいよ」
「そうなの」
「うん。そーなの」
気付けば上空に雲がない。一切が青い空。太陽は眩し過ぎて許し難い、日陰を求めて美貴
は移動した。校舎の中にはもう居場所がないだろうという寂寞(せきばく)とした勘で下
階へ降りられなかった。
卒業。いなくなるのは美貴の番か。離れたら、学校の思い出はどこに行くんだろう。ちゃ
んとかたちに残るとしたら、やっぱりここなのだろうか。感傷的になり易い。うだうだ考
えるのは性に合わない。今はただ、空が青いのさえ憎らしい。寂しいはずがない。
それにしても、美しい青空だ。
- 167 名前:12 投稿日:2006/10/11(水) 23:58
-
よっちゃん、焼けるから日陰いこうよ。
後ろからひとみがついてくる。扉のそばに唯一、やっとふたりがおさまる位の場所をみつ
ける。気温はさして変わらない。やはり風があるのだ。
…そうだ、お礼決めた。
うん。何?
美貴が振り向くと、思いのほか近くにひとみの顔が有る。校舎の影がその表情を隠す。隠
された表情は何も伝えまいとしていた。
うあ、びっくりした。近い。
…ごめん。
やっぱチューがいいの?
うん。
…。
冗談めかして言ったのに、聖人のような穏やかさで答えられて、動揺する。
眼が全く笑っていないので、美貴も真面目な顔になってしまった。
ひとみの後ろに、全ての通過を許さない柵が見える。柵の後ろには視界の全てを埋め尽く
す空がある。よっちゃんは青空が似合うなぁ。場違いな感想を抱えて、まだどうしていい
のか判らず立ち尽くしたままだ。
傷つけたくないとか考えてる時点で偽善だ、って亜弥ちゃんに言われたけど、どうしよう。
どうしたらよっちゃんみたいにちゃんと優しくなれるんだろう。
突然、ひとみが顔を寄せた。
- 168 名前:12 投稿日:2006/10/11(水) 23:58
-
驚く間もなく、その唇が美貴の耳に並ぶ。
動けない。
美貴からは見えない喉笛のあたりから、浅く息を吸う音がした。
ひとみの声が、低く低く、響く。
キスすると思った?
どん。
逃れようと、思い切り押し退けるのが美貴の精一杯だった。日向と日陰の点滅が、頭の中
で繰り返す。灯って消えて、灯って消えて…。口付けられそうになった頬も、耳も、真っ
赤なのが自分でも判るのが更に腹立たしい。
このまま引っ掻いてやったら気分は最高に違いない。
…よっちゃん、ひっどい。
どっちが。
- 169 名前:12 投稿日:2006/10/11(水) 23:59
-
皮肉まじりに、ひとみが浮かべる最高の笑顔。
無意識に意図したささやかな甘い復讐を、ひとみは愛しく感じた。最後の最後に欲をかい
て甘える自分も認めてやれた。うぇへへへごめんねぇ、と作り笑い、赤いのを隠そうとひ
とみの袖に顔を埋める美貴を、遠慮なく抱き締めた。
今はもう、抱きしめた腕の解き方も、想いと共存する冴えた方法も、判っていた。
- 170 名前:12 投稿日:2006/10/11(水) 23:59
-
六限の鐘が鳴る。誰もいない。
ひとりで幾らでも過ごせるもんだ。ビニール袋の中の紙パックが、汗をかき始めている。
ひとつ開けてストローを刺す。甘いが、作りものの香りがする。葡萄のふりをした赤い紫
色の液体。さらさらした、ただの水。
左腕の白い時計は、もう少しひとりでいるようにと待ち合わせ前の時刻を主張する。
- 171 名前:12 投稿日:2006/10/12(木) 00:00
-
屋上のまんなかに美貴は寝転がった。
- 172 名前:12 投稿日:2006/10/12(木) 00:00
-
繰り返しの日々を過ごした校舎を背に、天を仰ぐ。群れた鳥が端の方を飛んだ。
きっと足下に白い月が浮かぶ頃だ。反対側には、赤い太陽が落ちる。雲はない。少しだけ
星の瞬きがある。安堵を感じる明るさ、青い闇。
- 173 名前:12 投稿日:2006/10/12(木) 00:00
-
繰り返し。月が昇り朝が来て、太陽が過ぎて夜になる。
繰り返し。朝陽の中を登校し、夕日の中を帰っていく。
来年も再来年も十年先も、見知らぬ誰かが行きて去る。この繰り返しは、思い出や、もし
かすると建物の一部なのかもしれない。美貴も、誰かの思い出になるのかもしれない。
思い出に。
- 174 名前:12 投稿日:2006/10/12(木) 00:01
-
青空の終わる屋上はあまりに美しく、時間が止まりそうで少しだけ怖い。
過ぎた三年間の一瞬を思い返そうと、美貴は眼を瞑る。
- 175 名前:12 投稿日:2006/10/12(木) 00:01
-
- 176 名前:12. 晩餐 投稿日:2006/10/12(木) 00:01
-
end
◆ ◆ ◆
- 177 名前:12 投稿日:2006/10/12(木) 00:02
-
- 178 名前:kkgg 投稿日:2006/10/12(木) 00:04
-
以上を持ちまして、「朝陽の校舎」は完結です。
ありがとうございました。
- 179 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/12(木) 14:55
- 校舎って言葉、高校まではしっくりくるけど。
それが大学だと校舎って言葉はしっくりこない。
高校生っていいですね。なんか独特っていうか。
でももう戻れないんだよなぁ…と思って切なくなりました。
素敵なお話を書いて下さって、ありがとうございます。
- 180 名前:ピアス 投稿日:2006/10/13(金) 07:39
- 読んでいて、すごくいい気持ちでいられました。
大きな展開はなくとも、補って余りある繊細さを感じました。
個人的には高橋さんの描かれ方が大好きです(笑
一気に更新&完結、お疲れ様でした。楽しかったです。
- 181 名前:kkgg 投稿日:2006/10/14(土) 00:10
-
>>179 名無飼育様
ありがとうございます。
今や遠い遠い十代の頃…「あの頃」だけの空気を感じ取って頂けたなら幸いです。
スレのタイトルは「校舎」ですが、折角スペースをお借りしたので他にも書ければ…と(勝手ながら)思っています。
>>180 ピアス様
ありがとうございます。
そうなんです、物語の起伏を付けるのが苦手で(…)。
高橋さんは「リボン」で大好きになりました!ギャップの凄まじさが良いです。
- 182 名前:kkgg 投稿日:2006/10/14(土) 00:14
-
見易いように目次を作りましたので置いておきます。
朝陽の校舎 ◆ もくじ
1. フットサル部( >>2-15 藤本 吉澤 )
2. 深海魚( >>21-29 松浦 藤本 )
3. radio radio( >>31-42 高橋 石川 松浦 )
4. 元フットサル部( >>46-54 石川 藤本 吉澤 )
5. 淡水魚( >>56-64 吉澤 松浦 )
6. 揺れる水面( >>70-80 吉澤 藤本 )
7. 仰ぎ見る天(前)( >>82-93 松浦 藤本 )
8. switching all( >>95-107 藤本 高橋 )
9. 大天使のように( >>109-125 吉澤 藤本 )
10. 花と太陽( >>128-141 石川 吉澤 )
11. 仰ぎ見る天(後)( >>144-159 松浦 藤本 )
12. 晩餐( >>161-176 藤本 石川 吉澤 高橋 )
- 183 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/15(日) 18:39
- 完結お疲れさまです。
物語の雰囲気がすごく良かったです。
学生時代を思い出してしまいました。
- 184 名前:kkgg 投稿日:2006/10/19(木) 21:09
-
>>183 名無飼育様
思い出と妄想を字に変えるべく、四苦八苦しながらの表現でした。
ご感想頂けると、励みになります。
本当にありがとうございました。
- 185 名前:kkgg 投稿日:2006/10/19(木) 21:11
-
再び淡々と、よろしいでしょうか。「朝陽」とは全くの別物です。
アンリアル/みきよし/とてもファンタジー。
- 186 名前:kkgg 投稿日:2006/10/19(木) 21:12
-
- 187 名前:kkgg 投稿日:2006/10/19(木) 21:13
-
「 吸血鬼のA 」
ずっと、ずっと昔の話。
私がまだ狭い部屋にひとりで暮らしていた頃の。
「マンション」の名だけは立派なワンルーム、古くて狭くて暮らし易かった6階の角。
ひとりが長くなるだろうと、思い始めた夏の頃。
- 188 名前:<1> 投稿日:2006/10/19(木) 21:19
-
<1> 朔
どすん、ぎしっ。
鈍い音。閉め切ったままの雨戸にただならぬ重み。
最後に嫌な水音がしたのは、外の雨が降り続けているからに違いない。
眠りがやっと深くなりだしたのに、一体、何事だろう。得体の知れぬ音に眼は冴えて、つ
いにベッドから出る。恐る恐る窓を開け、ひとつ息をついて雨戸の施錠を解く。
ほんの少し戸を上げると階下の街明かりが入り、やっと見えたベランダの錆びた柵の付け
根には、べったりと…黒いしたたりが、有る。
もう一度、今度は無意識に息をのむも、恐れが驚きに勝ること無く、そのまま雨戸を引き
上げる。
がらがらがらがら
柵に掛かった動かぬ人影。びしょ濡れの、死体。
死体だ。
飛び降りたのだろうか。
ここは6階、7階の上は屋上、しかし住人が立ち入るのは不可能、そもそも人間か?
しばし眺める。しかし眺めるほか術も無く、部屋に戻ろうとすると腕を掴まれた。
「うわあっ」
- 189 名前:<1> 投稿日:2006/10/19(木) 21:26
-
黒く濡れた死体は、細い腕をしていた。
それが伸びて自分の右手を掴んでいる。冷たくて、花器に手を突っ込んだ時のように不自
然な感触。
「待って」
小さく漏らすと、黒いかたまりはそのままずるりとベランダに落っこちてうずくまった。
雨がひどい。非現実的な夜にぴったりだ。恨み言が足下から聞こえる。
「雨の新月なんて、最低、最低…」
最低なのはこっちだっつの。
成り行きというのは適切なのか「それ」を部屋に引きずり込み、黒い上着を脱がせる。こ
の非常時に何故か風邪をひかれたら困るなどと現実的な問題を考えた。肝が据わっている
わけではない。物怖じがうまく出来なくなっただけだ。
- 190 名前:<1> 投稿日:2006/10/19(木) 21:27
-
衣服はみな真っ黒で、暗い部屋には唯一見えている裸足が明かりのように目立つ。指も爪
も真っ白。
カラスか、コウモリか。
ハンガーに掛けたコートはまるで濡れた羽根に見え、それならば雨の重みで落ちたのも妥
当に思えてくる。そんなバカな。ああ眠い、まだ思考がまとまらない。なんなんだろ。な
にしてんだろ。なんだこれ。
とりあえず黒いかたまりをバスタオルで拭いてみる。それは少しずつ人間の形を取り戻す。
現れたのは華奢な少女だったので、ちょっと安心してしまう。
贅沢な睡眠時間を削って介抱を続けたが反応がないので、睡眠を優先した。限界だ、それ
に飽きた。
情に厚いのは目が覚めている時だけにしたい。優しくできる人数には限界がある。
- 191 名前:<1> 投稿日:2006/10/19(木) 21:28
-
朝日の前に目が覚めた。
夢?
なにが?
そうだ、迷子のコウモリ。
それはまだ部屋にいた。部屋の隅で上着を頭から被って座り込んでいる。夏の今にも冬の
防寒にも使えなさそうな薄手の丈ばかり長い上着。
夢じゃない。
決まりの台詞を吐いてしまう。コウモリは気付いたらしく、弱々しく微笑みかけてきた。
「ありがとう。助かった」
あ、日本語。
「夜まで寝かせてくれない?明るいの、苦手」
うちが起きるの、待ってたの?
部屋に置くのは危険か、しばし考えたが、直面した現実があまりに突飛なので警戒するの
も面倒になった。要するに、どうでも良くなった。
昨晩から開けたままの窓と雨戸を閉めてやる。
「仕事行ってくるから寝てれば。っていうか、閉めれば良かったのに、窓」
「閉め方が判らなかった。こういうの、久しぶりで」
特に深く尋ねもせず出掛ける支度を始めた。朝はいつでもギリギリだ。
- 192 名前:<1> 投稿日:2006/10/19(木) 21:29
-
珈琲を二人分用意して置いて行ったら、夜までそのまま放置されていた。
夜なら時間にも心にもゆとりがあるのだが、事件の後で、少々気に障った。
「飲めよー」
腹立たしい奴め。
いよいよコウモリの処理に向き合わねばと、脱ぎ捨てた服を丸めながら思う。
奇妙な夜だ…。
夜なら時間にも心にもゆとりがある。だが今夜は…警戒して臨もう。
「ねえ」
大げさに被った上着を見て暗いほうが良いのだろうかと、部屋のあかりを消す。もそりと
黒いかたまりが動く。
「電灯なら大丈夫」
じゃあ明るいほうが怖くないから付けるわ。うん。いや怖くはないよ、ないったら。
- 193 名前:<1> 投稿日:2006/10/19(木) 21:31
-
中からやはり綺麗な顔が出てきた。白いな、とまた思う。
灰色に見えた眼は、光が当たると緑に光り、よく見つめれば薄い青だった。肌も、緩く波
打つ髪も明るい。眼ばかりらんらんと輝く。日本人じゃないというか、人間じゃないのか。
なんてね。でも不思議と怖くない、腕っぷしに自信があるのも、考えものだ。
「誰?名前は?」
「忘れた」
「忘れた?困ったな」
「じゃあAとか1とかで呼んで。にほんじん好きじゃん、そういうの」
「そうなの?」
「まあいいじゃん。で、あなたの名前は?」
「名前?吉澤ひとみ」
うっかり答えてしまった。
Aは満足そうに、いい名前だ、と唇だけで笑った。威厳と締念が入り交じった、老人のよ
うな笑顔だった。その顔にはじめて部屋に赤の他人を入れている危機を感じる。
そろそろ警察に通報しなくちゃ。
でも。
- 194 名前:<1> 投稿日:2006/10/19(木) 21:32
-
でももう少し、もう少しだけ待ってみようか。
こんなに綺麗なおんなのこがどうして自分に害を与えるだろう?
見目に騙されるのも悪くない。
それに、ありきたりの生活に波乱が訪れるなんて、素敵だ。
- 195 名前:<1> 投稿日:2006/10/19(木) 21:32
-
- 196 名前:「吸血鬼のA」 投稿日:2006/10/19(木) 21:35
-
以上、「 吸血鬼のA 」イントロでした。
こんな感じで、たいへん非現実的な話になりますが、よろしくお願いいたします。
- 197 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/20(金) 13:38
- 面白い!
次ワクテカして待ってます
- 198 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/22(日) 21:04
-
- 199 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/22(日) 21:04
-
<2>いばらの冠
今になって思い出しても、思い出話から狩りへの流れは恐ろしいほどに自然だった。
ひどい一日。
Aは食事にありつけず、私は観察に不向きなのを知った。
「本当に夜ならゆとりがある?じゃあ聞いてくれる?聞く?聞きたい?」
頷いた途端に態度が変わる。
「よし。では、話してやろう」
確かに送られた「開始」の合図。送られたままの空砲になる。
- 200 名前:<2> 投稿日:2006/10/22(日) 21:05
-
Aは緩慢な動きで隣に座った。
私は観察を決め込む。
透けると金色の茶色い髪。骨っぽい手首。話し続ける唇。挑みかかるような視線。
少年のようにも少女のようにも見えて、かつ性的な要素が見られない。ひとのことは言え
ないか、今夜も着古した部屋着。
Aの纏った細身の上下はどう見たって量産品じゃない。何故か、釦が統一されていない。
上品な刺繍、雨に濡れたのに乾けば整ったままの襟、香料と埃の匂い。
生き物らしい気配がしない。でも確かに眼の前にいる。
幻か?
否、絡み付く腕から肌の感触を感じる。柔らかい。体温は低い。
視覚では結局なにも判らない。
耳を澄ませばもっと判らなくなる。
- 201 名前:<2> 投稿日:2006/10/22(日) 21:05
-
昔はふたりで暮らしてた。
家族じゃなくて仲間と。ずーっと前だから記憶が曖昧なんだけど…あの頃は、こんな狭い
家はあまり無くて、お城みたいな家に住んでたの。本当だって。大理石の壁は派手で好み
じゃなかったけど、薔薇の咲く庭は大好きだった。あ、話それてる?
それで、ある日誰もいなくなったの。突然。
あたしはちょっとの間、一人で暮らしてた。だけどあんまりに寂しくて探しに行くことに
した。家の周り、隣の国、海の向こう…海を七つ越えてここまで探しに来たけど、まだ見
付からない。どこ行ったんだろうね。今はもう、家も庭もなくなっちゃった。誰も世話し
なかったから。
沢山の場所を過ぎて沢山の人に会って、いつの間にか自分が追われる側になってた。
石を投げるとか、槍を投げるとか…もう無茶苦茶なわけ。悪いことでもしたのかなぁ。
勘違い?まさか、わかるもん。あなたたちよりちょっと良く出来てるから(と言ってAは
耳と眼を指差した)。
- 202 名前:<2> 投稿日:2006/10/22(日) 21:06
-
「よく喋るね。もうすっかり元気?」
「うん。一日寝れば違う。それに夜になったから気分がいい。あとは、満月になってくれれば…」
「そしたらまた探しに行く?仲間のひと」
「行かない。もう少しここいる」
「えー?」
「いいじゃん、人恋しくて死にそう。もう少しいさせてよ」
「勝手に決めるなよ」
「何十年ぶりなの、ひとと話すの」
「何十年?」
「うん」
無垢に頷く。
Aはきっと、誰にもこの話をしているんだろう。
すらすらと語られる物語は綺麗で、同情を引くには完璧だったし、偽物の香りがした。
私はしばらくの間、信じられぬままに哀れんでいた。
彼女の長い指はしっかり私を掴んでいる。
実際に、半分は作り話だった。
悲しいのは、半分が事実だったことだ。
- 203 名前:<2> 投稿日:2006/10/22(日) 21:07
-
私の顔は強ばっていたんだろう、Aは気付いてニヤリとする。
「怖がってる?」
「まさか」
まさか、本当に人間じゃないなんてこと無いよねぇ?どうしよう。通報する先は、警察じゃ
なくて病院…いや、研究所のたぐいか。
「研究所ぉ?失敬な」
「えっ」
突然Aが聞き返す。
何故、聞こえるはずがない…口にしていないのに。
「聞こえなくても顔に書いてあるから。言ったでしょ、『良く出来てる』って」
Aは私の耳にそう囁き、親指と人差し指で掴むと、そのまま思い切り引っ張った。
「いってぇ!」
「お、嬉しそうだな。もっと痛くしてやろう」
「うわっすげー勘違い…」
油断した一瞬だ、慣れた仕草でAは首筋に吸い付いた。
左手が後頭部に回り右手は腰の辺りから体を支える。
瞬時の束縛。混乱していた思考回路に辛うじて閃き。
- 204 名前:<2> 投稿日:2006/10/22(日) 21:07
-
あ、やばい。
わかった、
こいつはあれだ、
なんだっけ、
私の顔に彼女の影が重なる。冷たい左手が後ろから左耳の下に回って頭が傾く。首に硬い
感触が触れる。抵抗しようとも、両手が全く動かない。
咄嗟に口をついた台詞は、間違ってはいなかったはずだ。
「かっ…噛むな!」
Aはぴたりと動きを止めて、ばれたか、と漏らした。冷たい吐息が首にかかって思わず身
を震わせる。
「正しくは『食うな』ね。まぁ、こちらの考え方だけど」
そう言って一瞥をくれると、離れた。
口元には、今までは見えなかった白くて少し長い牙。
ほら、やっぱりあれだ、えーと。あー…混乱してきたーあー、えーと。
- 205 名前:<2> 投稿日:2006/10/22(日) 21:08
-
「しくじった。では次の機会にする」
「…勘弁してよ」
「私の過去を聞かされて、生きている奴はいない」
「嘘ォ…」
Aはさっさと離れ、上着に丸まって床に寝転がる。何事も無かったかのように。
「おやすみ、また明晩」
心臓がとんでもない速さで脈打つ。暴れてもないのに息が切れる。正体は掴めたが「あれ」
はおとぎ話の中だけじゃないのか…?
- 206 名前:<2> 投稿日:2006/10/22(日) 21:10
-
平成の東京に、存在するもの?
「するよ」
「うわぁ!」
「想像できるのなら、名前があるのなら、お前ごときが知っているのなら全ての『それ』は
存在する」
「なんで聞こえんだよ!」
「顔に書いてあるもん」
「見えてないじゃん!」
感情的にもなる。食って掛かりたくもなる。恥ずかしいような情けないような気分。
そりゃそうだ、襲われた上に情けをかけられたんだから。
「怒んないでよ。ごめん。もうしない。ちゃんと聞いてからにする」
「そうじゃなくて!」
- 207 名前:<2> 投稿日:2006/10/22(日) 21:10
-
「あーもうしつこいなー。見目に騙された、乙女なんだね。よく聞けば声も高い」
「うっさいうっさい!もー寝てろ…って、ん?おかしいぞ?」
「おかしくないぞ」
「騙されたって何?」
「…おかしくないぞ」
「ん?んん?前に、どっかで会ってる?」
「会ってない。昨夜が最初」
「嘘だ」
「本っ当にしつこい…いい?覚えておいて。まず、こちらの感覚を自分と同じだと考えちゃ
ダメ。この身ひとつで生きてるんだから。
次に、私は美しいものしか相手にしたくない。場合によっちゃ仲間になるわけだから。そし
てあなたは綺麗。判った?ね、諦めて」
「めちゃくちゃだ…」
「そう?」
- 208 名前:<2> 投稿日:2006/10/22(日) 21:11
-
結局判ったのは、彼女の正体らしきものと、牙剥く姿も愛らしいという点。
以来、Aが無断で牙を剥くことは無くなった。
人間は約束が好きだから、約束くらいはしてあげる、とAは言った。
私は下手な観察をやめた。
代わりに、手帳に日記をつけることにした。
Aと私の最初の失敗。
あのまま終われば、全てが穏やかに済んだんだろうに。
狩りの合図を放ったまま、狩人と獲物は永遠に飢える。
- 209 名前:<2>いばらの冠 投稿日:2006/10/22(日) 21:11
-
- 210 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/22(日) 21:12
-
- 211 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/22(日) 21:13
-
<3>目眩と踊れ
朝に出掛けるのは必然、夜に眠りたいのに彼女は朝に眠り、夜に生きる。
私は全てが面倒になり…いや全てに寛容になり、彼女を好きにさせておく。
- 212 名前:<3> 投稿日:2006/10/22(日) 21:13
-
例えば、珈琲の味を覚えると、毎日せがむようになる。
肉とか魚とか野菜の食事は?と聞いてみた。部屋にあるものは好きにしてと告げたが一切
使った気配がない。やっぱり人間じゃないんだ…。
「肉は好物だから、そのうち」
「食べんの?いいけど、うち、肉屋で売ってる肉しか食べないよ」
「普通そうでしょ」
「今更フツウを強調されてもなぁ…」
苦い珈琲を、今夜も二人分用意する。
- 213 名前:<3> 投稿日:2006/10/22(日) 21:13
-
貴重な睡眠のためベッドに横になる深夜、Aは部屋の隅からやってくる。
からだの上まで這い上がり肩に絡み付いてきて上目遣いで笑う。可愛いっていうのは、
棘のあるための条件に間違いない。甘い香りがする。危険だ。ちょっと酔いそう。
「一緒に寝る」
「ぅえ」
「なにもしないよ」
「そう?」
「しても、記憶は消しとく」
「…記憶をいじらないなら一緒に寝てもいい」
「生意気」
- 214 名前:<3> 投稿日:2006/10/22(日) 21:14
-
Aの言い回しは幾らか古風だが、話していて不自然な印象は無い。
天使の微笑みは大真面目に失礼なことを言う。それも頻繁に。
「ねぇ、名前なんだっけ」
「えー?忘れたの?」
「覚えにくい音だった」
「音のせいかよ。…うちの名前は『よっちゃん』」
「よっ…よっちゃん、よっちゃん、よっちゃん、よし、覚えた」
冗談で呼び名を教えたらそのまま記憶されてしまう。
「そっちの名前は?」
「本当に忘れちゃった。名前なんて使わないし…何か、書くものある?」
- 215 名前:<3> 投稿日:2006/10/22(日) 21:14
-
水色のメモ帳と鉛筆を渡すと左から右まで全部繋がった文字を書く。名前にしては長い。
英字にしては線が多い。絵?記号?尖った線と投げやりな曲線は、彼女そのものに見えた。
残酷かつ優美の描写。
「これが、私にとって『名前』かな…」
「書けるのに読めないの?」
「読めないんじゃなくて忘れたの。記憶の寿命は短い。書かせたほうが読むべきだ、読め」
「…ぇえ?うーん…これは…M?」
「…えむ?」
「Mっぽい。こっちはK、とF?K?いやRか?」
はじめのほうにある波が、MとKに見えた。Jも読み取れた(ような気がした)。母音の
区別が一切つかず、大文字に似た記号ばかりだ。H、C、T…?
- 216 名前:<3> 投稿日:2006/10/22(日) 21:15
-
「うーんわかんないなあ…Mの次はAには見えないしEでもない…」
「ねぇ、名前はやっぱり大事?」
「そりゃもう大事大事。呼べないじゃん」
「…そうだね」
「よし、うちが名前をつけてやろう。M…まー、みー、む、め?も、Kはかーきぃくー
けぇこー…で、F…」
「長いのはイヤ、あの子も短くして呼んでた…気がする。ああもう嫌だな、出て来ない」
「まー、みー…か、き、こー…」
「…」
- 217 名前:<3> 投稿日:2006/10/22(日) 21:16
-
「…よし。じゃあ『みき』だ。エムアイケーアイ」
「みき?」
「嫌?なかなか合うと思うんだけど」
「そう?み、き。みき、みき。うん、覚えた。ではよっちゃんも覚えるように」
「はいはい」
他人の名前を覚えるのと同じ調子なのかと妙に寂しい気持ちになって、柔らかい髪を撫で
てやる。
『みき』はにこにこしている。顔色の変化があればもっと愛らしいんだろう、頬は室内灯
の色とあまり変わらない。ご機嫌な子どもを抱き締めたまま横になると、途端に睡魔に襲
われる。
- 218 名前:<3> 投稿日:2006/10/22(日) 21:16
-
寝るよ。『みき』は朝まで起きてるよ。好きにしなよ…。
朝の時間は変わらないのだから、毎晩の夜更かしが応えるのは無理もない。
遠のく意識。
顎から耳の下のあたりを、冷たい爪が往復しているのが、ぼんやりと判る。
「こら…噛むなよ…噛んだら…」
「しつこい。信じてよ。いいって言うまではなんもしないよ」
信じてよって、それ、本音?
信じてもいいの?もうどっちでもいいんだけど。
- 219 名前:<3> 投稿日:2006/10/22(日) 21:17
-
意識がだんだん麻痺していく。じわじわと、浸食してくる。
いつだってそうだ、毒が全身に回っている場合、それと気付く前に地に伏すほか術は無い。
気付いたら、「いい」って言うしかない。
いつか来る深い眠りからは誰も逃れられない。
- 220 名前:<3>目眩と踊れ 投稿日:2006/10/22(日) 21:17
-
- 221 名前:kkgg 投稿日:2006/10/22(日) 21:19
-
>>197 名無飼育様
ありがとうございます。
最後までwktk持続して頂けるよう励みますー。
- 222 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/24(火) 11:54
- 二人の今後が非情に気になります
- 223 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/24(火) 23:41
-
- 224 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/24(火) 23:42
-
<4>私の青い空
駅のホームから見える電線越しの夜空、月の姿を確認するのがクセになっている。
今夜は、濃紺の夜空に雲の輪郭がはっきり見える晴れ、満月。
帰宅すると、電気がつけ放しになっていた。
しまった、『みき』。
「ただいま…」
何故だろう、部屋中に甘い香りがする。アルコールだろうか。それとも花?
うちの部屋に花?んなバカな。
- 225 名前:<4> 投稿日:2006/10/24(火) 23:43
-
明かりの下で、『みき』は立ちすくんでいた。
- 226 名前:<4> 投稿日:2006/10/24(火) 23:44
-
黒いブラウスの襟は乱れて、細いリボンがほどけていた。俯(うつむ)きの中に表情は隠
れ、呼べば両眼がぎろりと振り返る。髪もぐしゃぐしゃだ。
「どうした、」
の、と言い終わらないうちに、白い腕が伸びてきた。優美で残酷な狩猟のそれで。
「! …ッ」
そのまま床に叩き付けられる。
背中に衝撃、両肩を掴まれて身動きは封じられる。押し掛かる腕は強くて逃げられない。
薔薇だ、薔薇の香りが襲ってくる。
「おいおいおいどーいうつもり!?」
返事はない。
獣じみた息遣いが聞こえる。隠れている牙がちらりと見える。やっぱり綺麗、などと感動
している場合じゃない。非常時。やばい。
視界が『みき』でいっぱいになる。まるで悪魔の顔。やばい、やばい、こわい。
白い肌、白い唇、白い牙。きっと真っ赤になる前の。
- 227 名前:<4> 投稿日:2006/10/24(火) 23:44
-
「こら、おい!」
「やめろって!」
「『みき』っ!」
名を呼ばれて、やっと表情が生まれた。
「…あ、」
- 228 名前:<4> 投稿日:2006/10/24(火) 23:46
-
「なにすんだよー!」
「あー…食べるつもり…だった?」
「なんで疑問形?」
ごめん、と泣きそうな顔。一瞬だ、さっきまでは悪魔のそれだったくせに。
大人しく隣に寝転ぶと、危なかったなどと呟くので、軽く睨んでおく。
狭いワンルームはしばし沈黙に包まれた。
二人して、下手な罠にかかった。
「…ごめん、今夜みたいに晴れた満月は危ない。なんていうか、感覚が冴えてなんでも出
来る気になっちゃう」
「…」
「からだじゅう元気いっぱい。なんでも出来そう」
「…さっぱり話が掴めないんだけど。具体的に話してよ」
- 229 名前:<4> 投稿日:2006/10/24(火) 23:47
-
「そうか。えーとなんていうか…今、世界中の人間を跪(ひざまず)かせたい気分」
「怖っ。そして規模がデカい」
釦は千切られたらしく見付からない。明日、代わりを買って来よう。乱れた襟を正してや
り、リボンを綺麗に結ぶ。髪を手櫛でとかして片側に結う。
「だからね、つまりね、隣に人がいたら自由にしても…例えば、食べちゃってもいい気が
するってこと」
「それ全然例えてないよね?そのまんまだよね?」
「えへへ」
「ごまかすなっ」
- 230 名前:<4> 投稿日:2006/10/24(火) 23:49
-
澄んだ瞳で熱っぽく語るこいつは一体何者だ。どう見ても獲物を狙う獣の眼だったのに今
は。結局、放り出していない自分が悪いんだけど、今更。
鈍い痛みが肩に残る。ごめんよっちゃん、跡つけちゃった、と優しくさすってくれた。
「意味わかった?」
「いや全然わかんない」
「わからなくても構わない。やることは同じ…」
肩をなぞるのは何時の間にか、いかがわしいキスに変わる。
今こそこの身の危険、ほら、いつのまにか動けない。
うあああやばいやばい
「ダメ、ダメ、今日は寝る、寝る、寝よう…」
受け入れたが最後。食事に持ち込まれたら最期。
- 231 名前:<4> 投稿日:2006/10/24(火) 23:49
-
抵抗し続けて、その後は覚えていない。
- 232 名前:<4> 投稿日:2006/10/24(火) 23:50
-
朝になって首に手を当てて牙の跡を探してしまった。
無いな、無い。よし。
「調べるなら、手首とかくるぶしの下も見たほうがいいよ」
部屋の隅の黒いかたまりから声がした。
「マジ!?」
勢い良く足首を持ち上げて、そのまま後ろに転がってしまった。我ながら滑稽。
「…なんもしてないよ」
「ホントかなぁ…」
- 233 名前:<4> 投稿日:2006/10/24(火) 23:51
-
「本当だから。なんもしてないよ。…怒った?」
「…怒ってない」
「ほんとに?」
「うん」
「…あのね」
「ん?」
「ちょっとだけやらしいことした」
「うっわ信じらんない馬鹿バカ嘘つきスケベ変態ーッ!」
「変態ィ?失敬な。性癖じゃないから、本能だから。しょうがないの」
がばっと上着の下から顔を出して、とても真面目な顔で言いやがる。
「噛むと痛いから、気付かれないように先に気持ちよく…」
「うるさい出てくるなぁー!」
「はいはい隠れます。でも生きてるだけありがたいと思え」
- 234 名前:<4> 投稿日:2006/10/24(火) 23:52
-
すぐに巣に戻ってしまう。彼女は上からものを言うが、聞き分けだけはとても良い。
おそらく先人の教育が優れていたのだろう。
満月の翌朝とは言え、小窓から射す朝日があるので、動きは緩慢で隙だらけ。
「くそっ…」
やり返してやろうか?今なら…
「よっちゃん、返り討ちに合うよ。しょうがない。だって昨日は満月だぞ。綺麗な青空だっ
た。しょうがない…」
そのまま眠りにつくのだからやりきれない。
歯軋りしながら支度をはじめる。
鏡の前に立てば、ところどころに赤い点。二の腕に引っ掻き傷を見つけたので袖の長い
シャツにした。あいつめ、覚えてろ。
手帳に一言、「ボタン」と走り書きして部屋を出る。
- 235 名前:<4> 投稿日:2006/10/24(火) 23:53
-
昼の休み時間に、図書館に行った。
専門書を探し出せず、百科事典の「き」の項を流し読みした。「ば」の項も読んだ。
記述が合わない、日光が「眩しいだけだ」という彼女は、進化しているのだろうか。
恐ろしいのは飢餓だけか。十字架や白木の杭なんて身の周りにないから何ら問題無い。
帰ってから、冷蔵庫のニンニクをラップでぐるぐるに巻いていちばん奥にしまった。
はい、次はボタンつけ。
- 236 名前:<4>私の青い空 投稿日:2006/10/24(火) 23:53
-
- 237 名前:kkgg 投稿日:2006/10/25(水) 00:00
-
>>222 名無飼育様
ありがとうございます。
手元では完結しているので、ちゃんとラストまでお見せ出来ると思います。
推敲しながら更新いたします。
- 238 名前:kkgg 投稿日:2006/10/25(水) 00:01
-
※ 注 ※
今後の更新で若干いかがわしい描写が出てきます。
ご留意下さいませ。
ごめんなさい、ファンタジーということでご勘弁。
- 239 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/26(木) 23:16
-
- 240 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/26(木) 23:17
-
<5>鳥籠の宇宙
月は東に、片側だけが影に寄り添い静かに光る。
誰かの肌の色のような、青くて柔らかい白。
- 241 名前:<5> 投稿日:2006/10/26(木) 23:18
-
「失敗した」
「何が?」
「長居は良くない。情が移る」
長居している彼女は時折、失礼なことを言う。勿論、真面目な顔で。
「それはこっちの台詞だって」
「いまいち判ってないみたいだから教えるけど、よっちゃんは『みき』を怖がらなくなっ
てきてるでしょ。それって『みき』がいつか食べようと思ってるから、そう思わされてい
るだけ」
「んん!わからん」
「早いよ。考えろよ。いのちはだいじに」
怖がるのはとうの昔にやめた。それどころか恋しくなってきているのに何を言うんだ。
そもそも獲物を変えてくれれば問題無いのだが。
『みき』は少し痩せた。悠長な狩りだ。隣には、気楽な獲物。
「本能じゃないところで、よっちゃんを好きになってきた」
「照れるね」
「言ってろ。こっちは真剣に悩んでるのに」
- 242 名前:<5> 投稿日:2006/10/26(木) 23:18
-
夜の居場所は、部屋の隅から私の左側に変わった。
くっついたり離れたり朝まで寝かせてもらえなかったり。
お互い、完全に信用しているわけじゃない。駆け引きめいた夜ばかりでも、ちゃんと一緒
にいられるので、難しいことはパスだ。
今夜も、甘い情景に似つかわしくないやりとり。
- 243 名前:<5> 投稿日:2006/10/26(木) 23:19
-
「やっぱり他で食事してこようかな」
「お、…じゃあうちのことは諦める?」
「諦めない。妥協は嫌い。それに、他の奴に先を越されたらムカつく」
「えー他にもいるんだ…こわ」
「ここらへんにはいないけど」
「絶対?」
「近い範囲に仲間がいる可能性はゼロ。群れると大抵、叩かれるから厄介」
「へぇ…なんか寂しくない?」
「は、ありえない。どのくらいヤバイのか、知らないからそーゆーこと言えるのよ。
いい?慣れ合って生きてるのは人間だけだから。一緒にされると迷惑」
「ふ−ん…じゃ、もしうちが噛まれたら…そんでもって生き返ったら?」
「別れるのが良策。出来ることなら永遠に。当たり前じゃん。こっちが狩られる」
「…なんだよ敵って…ひとりだってやばい時はやばいじゃん…」
「…ちょっと、露骨に寂しい顔しないでくれる?」
「してないもん」
「…あーもう、やっぱり長居するんじゃなかったなあ!」
言い放つと、『みき』は私の腰を抱え丸くなった。
「早く明け渡せ。おなかすいた」
「断る」
- 244 名前:<5> 投稿日:2006/10/26(木) 23:19
-
人の腹の上で寝るなよ。だが読まれた通り寂しい気持ちだったので口にはせず、彼女を抱
きかかえる。抱きかかえて、更に近づこうとして動く。腰を曲げて、もっと大きく手を伸
ばす。『みき』が気付いて顔を上げる。淡い色の眼がすぐそばにあって、一瞬だけ心臓が
はねる。でももう遅い、今、離れるのは嫌だった。
- 245 名前:<5> 投稿日:2006/10/26(木) 23:20
-
聞こえたのだろうか、『みき』は緩やかに起き上がり、左手でこちらの手首をシーツに押
さえ付ける。右手は、頬にかけられた。
おそろしく静かで、鮮やかに。
牙を隠した唇が私の左の頬に落ちて、そのままこめかみまで引き摺られる。
「…噛まないから」
諭すように、ひどく落ち着いた声。
ひと呼吸おいてから、再び落ちた口付けの激しさに、思わず眼を閉じる。
解放されて、大きく吸った空気には甘い香り。
彼女の全てが罠ならば、とうに檻の中。
「…お互い様」
- 246 名前:<5> 投稿日:2006/10/26(木) 23:20
-
吸血鬼が笑う。
腰骨から脇腹のあたりに冷たい感触が通って、先に息が乱れた。
どこまでが自分なのか判らなくなって、怖くなる。
手が止まった隙にそっと眼を開けると、四角い闇の真ん中で嬉しそうな顔が見下ろしてい
る。不思議に思うも、今は先に息を整える。
「よっちゃん」
「…な、に」
「へへ、よっちゃん、よっちゃーん」
途中で『みき』は名前を呼び始めて、呼び続けて、抱きついてきた。
本気で背骨が折れるんじゃないかと思うほどに、きつく、子どもみたいに容赦なく。
親にすがる子ども。息苦しさの中で苦笑する。
- 247 名前:<5> 投稿日:2006/10/26(木) 23:21
-
「痛いよ」
「うん、痛くしてるから」
無邪気なもんだ。吐息まじりの囁き。
視線をひとつ交わして、またふたりで漂う。
指と舌が肌の上で争って、押さえ切れないのか、時に尖った歯が肌を掻いた。
切ない痛さ。
視覚が先に閉じる。
思考がゼロになって、棺桶みたいな四角い闇が、夜の音で埋まる。
- 248 名前:<5> 投稿日:2006/10/26(木) 23:21
-
幾ら身体を重ねても彼女の体温が上がらない。
ひとりで汗をかいて、いつのまにか体温を奪われる。それでもこの肌に触れる肌は冷たい。
どこにいくんだろう。
どこにいくんだろう、熱も。いろんなものが判らなくなる。
苦し紛れに白い腕を取り、冷たいねと漏らしたら、艶かしい笑顔が返ってきた。
「よっちゃんがあっついからさぁ…いけないんだよ」
青白く笑う半眼。
さっき見た下弦の月みたいに甘美な残光。
逃すまいと伸ばした手の中に捕まえる。
- 249 名前:<5> 投稿日:2006/10/26(木) 23:22
-
くっついたり離れたり朝まで寝かせてもらえなかったりしながら、夜更かしは続く。
月のいない四角い闇の中。
少しだけ、このまま。
逃げていよう。
溺れていれば、何も考えずに済む。
- 250 名前:<5>鳥籠の宇宙 投稿日:2006/10/26(木) 23:22
-
- 251 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/26(木) 23:23
-
- 252 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/26(木) 23:24
-
<6>迷子の兵隊
ついに新月だ。
コウモリを拾ったのも新月だった。
美しい夜に住む貴族。末裔は今もここにいる。
「不本意だ」と呟きながら、この両腕に甘えている。
夜行性、月の干満による波。満月の日の万能感、新月の日の喪失感。
弱い個体。
生きていくのや子孫を残すのに苦労しないのだろうか。それとも引き換えに隠れた能力で
もあるのか、吸血本能の他に。感覚器だけで平気なのだろうか。
- 253 名前:<6> 投稿日:2006/10/26(木) 23:24
-
新月。
コウモリだった『みき』は精神的にまいってしまうらしく、ネガティブな妄想ばかり吐い
ている。要は、愚痴なのだが、少しばかり次元が違うので興味深い。
「儚いものは嫌い。人間は儚い」とか「群れるのは好かない」とか。群れるのを拒みなが
ら、私の膝の上でごろごろしてるのは矛盾しているけど、構い返すのが助長か。あやすた
びに、つまらない理性に責められる。のせられてどうする、と。最近ずっとそんな調子。
『みき』は私の腕の中で散々ぼやいて、そのままうつらうつらしだして眠り、突然起きて
また愚痴る。泥酔しているみたいだと言うと、全く楽しくないと返す。なるほど、あの日
も居眠り中に落ちたのか。
孤高のひとは、何処か完璧になれず、とても可愛らしい。
彼女は語る。
- 254 名前:<6> 投稿日:2006/10/26(木) 23:25
-
こうも長く生きると、贅沢になるの。
どうせ死んじゃうから良いものばかり集めても…っていうやつの逆。先が長いから、妥協
しなくて良いのね。美しいっていうのは、姿形だけじゃないんだよ。よっちゃんも、
『みき』みたいな感覚になれば判る。
だからね、よっちゃん見つけた時は嬉しかったなぁ。あと少し早く、晴れた日に辿り着け
ればもっと良かった。雨は嫌い。でも雪は好き。ここらへんは雪は降らないの?「夏」の
せいか。夏め。
あー…でも逆に、もう少し遅れたら、灰になれたかもね。
っていうかもう灰になっちゃいたいとも思う。
ここ何十年、そればっかり考えてる。
- 255 名前:<6> 投稿日:2006/10/26(木) 23:25
-
最初から最後までとんでもない。相槌の打ちようが無い。
ときどき、よっちゃんも話してとせがまれる。拒むと口調が命令形に変わる。気分の悪く
なる最低の話をしないと機嫌を損ねる。
掴めない。全くとんでもない。
でも私も負けず嫌いなので、話す。
だから、のるなって。のっちゃまずいって。
誰かの声がする。その誰かは確か、愛を自覚した時に現れた。
- 256 名前:<6> 投稿日:2006/10/26(木) 23:26
-
「引きこもってたねぇ、ここんところは」
「ひきこもる?」
「仕事行って、ごはん食べて、寝る。休日も部屋から出ないで、かと言って家で何をする
わけでもない。ベッドの周りでうろうろして日が暮れる。ホントは仕事も面倒だけど食べ
ていくには稼がなくちゃいけないし。なんだろね。前と違って、何しても達成感が無くて
やる気が起きない。毎日がただ繰り返し」
「それって悪いこと?」
「悪いっしょ」
「悪いのかぁ。ならばあんまり面白くない話だ、ひきこもるの話。『みき』も似たような
もんだから、珍しくもないし」
「や、違うっしょ…」
「違わない。いつまでも思い出の周りでうろうろして、何も解決しないでまた夜が来る。
気付けば百年も千年も過ぎた」
「ひゃくねん…」
昔の思い出は狩りのための嘘ではないのか。訝(いぶか)しむ。
- 257 名前:<6> 投稿日:2006/10/26(木) 23:26
-
「『みき』はさー、なんていうの、う、宇宙人?とか、そういう感じ?」
「うーん…きっとそう。あの子は人間だったから、お城のベッドで寿命を終えた」
さらりと、至って真顔で『みき』は答えた。
「あ…」
「お、信じちゃった?半分は作り話」
可哀想に、彼女の記憶は狂ってなんていなかった。
「半分は本当だけど」
追いかけてるんじゃなくて逃げている。今までもこれからも、あらゆる過去から。全て理
解して、それでも生かされる運命に併せて、このざまか。
狭い星と果てのない時間を彷徨うコウモリ。
決まりきった道をぐるぐる。
- 258 名前:<6> 投稿日:2006/10/26(木) 23:27
-
「この星の引力から永遠に離れられない。…引力はもう無いのに、ひきこもりの宇宙人。
故郷より長生きしてしまった。でも悪いとは思わない」
「そうだね、悪くはないかも」
悲しいけれど。
「でしょ?」
「うん。すっげー大規模のひきこもりだ!」
「うん。…そして、宇宙人だから人間の生き血が好きー」
「…その手には乗らない」
「ちっ」
「あはは」
からからとふたりで笑ってじゃれあって、残念、と『みき』は抱きついてきたが首筋には口
付けるだけ。闇夜の影響は大きい。
力ない感触、ゆるゆると。似たような動きをふたりで何度も繰り返す。
「で、よっちゃんが好きー」
最後まで、甘い声。
そのうちに、うつらうつらとして『みき』は眠ってしまう。
- 259 名前:<6> 投稿日:2006/10/26(木) 23:27
-
今夜は新月だから、このままでいい。
雪が見たいなら雪が降るまでここにいればいい。
都会の冬は冷たいよ。
冬がくるまで一緒にいられたらいいのに、祈るほどに、手の中の現実が見えた。
終わりの季節が近づいてくる。
- 260 名前:<6>迷子の兵隊 投稿日:2006/10/26(木) 23:27
-
- 261 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/10/27(金) 09:15
- すごく(・∀・)イイ!!
- 262 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/28(土) 23:41
-
- 263 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/28(土) 23:41
-
<7>贅沢な世界
「感謝?よっちゃんは食べる時いちいち感謝して食べるの?」
「…しないね」
「『みき』もしないね。だからよっちゃんにありがとうとか思っちゃったら、結構ヤバイ」
それは、長引いた狩りの失敗だから。
- 264 名前:<7> 投稿日:2006/10/28(土) 23:42
-
定時にデスクを叩いてタイムカードを放り、駅のホームに走る。
三日月、牙のように鮮明に浮かぶ西の空。
月に追い掛けられて、急いで急いで、息を切らせて家に帰る。
乾いた空気で視界がにじむ。
「ただいまっ…」
返事は無い。
私は今日も『みき』の衰弱を見ぬフリをする。
『みき』は見ぬふりを判っているのに、何も言わない。
共存の条件が厳し過ぎる。
贅沢は言わない、ただもう少し、緩くする方法を探さなきゃいけない。
いや待て、共存こそが贅沢か。
- 265 名前:<7> 投稿日:2006/10/28(土) 23:42
-
「ねえ、前に話してくれた子、いるじゃん」
「うん?」
繋いでいた指が少し動いた。珈琲は冷めたまま残っている。
私以外の全てが、温度を失っていく真夜中。寄り添うだけの一時半。
低い天を仰いで並んでいると、世界にふたりだけのような錯覚。
大した妄執、ずいぶんと贅沢な世界だ。
「薔薇の庭に住んでた子。あの子はどうして死んだの」
「…つまらない流行り病」
「か…噛まなかったの?」
「…」
- 266 名前:<7> 投稿日:2006/10/28(土) 23:44
-
『みき』は乾いたくちびるを一舐めして、今のほうが大事と牙を故意にちらつかせたが、
構わず問い続ける。
「そうしたらずっと一緒にいられたのに。あ、噛んだって、生き返るとは限らないのか」
「調べた?」
「少しね。…噛んだ後、土に埋めたら復活しない。太陽の光を感じて灰にならなければ
復活。今もそう?」
「大体、いや…もう少し高い確率で腐る。ていうか、噛まれたら殆どアウト。日光も、
基本的には毒」
「腐る…」
「食べ残した林檎の皮と同じ」
「うわあ…残酷」
気に食わなかったのか『みき』は一瞬だけ、顔を引きつらせた。そりゃそうだ、腐らせて
いるのは人間なんだから。
- 267 名前:<7> 投稿日:2006/10/28(土) 23:45
-
「…あのね、」
「うん?」
「あの子は『みき』がなんなのか判ってたの。でも、納得出来なかったんだろうね、『判
らないふりをする』って決めちゃったの。だから『みき』も、気付かれてないふりをした。
今も正しかったのか、悩む時がある」
「…どうして」
「わかんない。あの時は、それが一番だと思った」
「正しい、って思った?」
「わかんない」
「…忘れちゃった?」
意地の悪い質問をした。『みき』は唇だけで笑った。まただ。あの笑顔。威厳と締念が入
り交じった、老人のような笑顔。乗り越えてきちゃった顔。でも、今は力がない。
- 268 名前:<7> 投稿日:2006/10/28(土) 23:45
-
「記憶を…」
「あーもう」
いよいよ問答に飽きたのか、『みき』は半身起こした私に乗っかり、喋り過ぎの口を唇で
塞いだ。
「うるさい」
「…ごめん」
でも真剣に、明るい結末を探してんだよ。
- 269 名前:<7> 投稿日:2006/10/28(土) 23:46
-
「よっちゃんさ、そろそろ観念して。かなりマジで空腹」
「『みき』こそ。そうだ、一緒に探しに行こうか、もっとおいしい食事」
「無理」
「肉だ。肉食べいこう」
「あと10年はいらない」
「おっと?そっか、持ってる時間の差を甘く見ていた」
「今頃?…
なんか…今までいろんな人間に世話になったけど、よっちゃんみたいのははじめて」
「…」
- 270 名前:<7> 投稿日:2006/10/28(土) 23:46
-
「責めないし、追い出さないし、名前をつけるし、…変なの。やりづらい」
「なんだ、褒められるのかと思った」
「褒めてる。褒めてるよー」
「バカにしてるっしょ」
「してないよ、本気。だからひとつ約束して」
「…」
「今後、他の誰にも、名前をつけちゃダメだよ」
『みき』は優しく笑った。つられて笑った。
愚かな私は、彼女の独占欲だと過信した。
低い天を仰いで並んでいると、世界にふたりだけのようだ。
錯覚。せめて眠りに落ちるまで。
- 271 名前:<7> 投稿日:2006/10/28(土) 23:47
-
みっつの欲求、ふたりの生き物、たったひとつの未来について、ふたりは今夜も考える。
互いに眠った様子を繕って、ぴったりくっつき動かずに。
答えはたったひとつ。
与えられるのは、犠牲か、愛か、飢えと死か。
人間の思案が棺桶みたいな部屋に漂う。
白い耳がぴくりと動く。
聞こえることは不幸だ。
愚かな人間は、哀しみにさいなまれる吸血鬼に気付かない。
ひたすらに、未来の想像図をくゆらす。
吸血鬼は淡い色の眼を閉じて、真っ暗な闇に逃げ込んだ。
再生してはじめての、絶望的な問いが怖かった。
本能のままに、食すか、愛すか、目覚めぬ眠りに就くか。
答えはたったひとつだけ。
- 272 名前:<7>贅沢な世界 投稿日:2006/10/28(土) 23:47
-
- 273 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/29(日) 00:17
-
- 274 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/29(日) 00:18
-
<8>追憶と手紙
思い出す度に、逃げ出したい衝動に駆られるあの一行。
込められた言葉をちゃんと救ってやれたんだろうか。
名前を与えることの意味を、軽んじてはいなかったか。
- 275 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:19
-
暗闇の時間になっても、『みき』が上着の巣から出て来なくなった。
ひとりのベッドが広く感じて、抱えて連れてくる。あまりに軽くて嫌になる。
寝かせたら、視線が「行くな」と訴えた。
何処にも行かないよ。ひきこもりだもんね。そうそう…ってオイ。
冷たい頬を撫でる。さらさらと指先に感触が残る。
きらきらした雲母みたいに砂より細かい粒子。
- 276 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:19
-
灰か。
身体の表面から、彼女が崩れている。
灰になる?
灰になるってどういうこと。灰って、なに。乱雑になる思考。まとまらず、着地しない。
妥協を知らないのも不幸だ。どうして私なの。『みき』が灰になる。妥協しようぜ、他で
手を打とう。ダメだっけ?ん、ダメなんだった。でも背に腹は代えられない。どうよ?ど
うしたら、ええと、なんだっけ、血だ。私の血。なんだ、簡単じゃん。いや待て、噛まれ
たら殆どアウトだって、アウト?アウトってことは何、灰に灰に灰に…
冗談じゃない。そんなの許さない。
- 277 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:19
-
冗談じゃない。そんなの許さない。
平静を装って冷たい頬を撫でる。
『みき』は半眼のまま笑いかける。
聞こえたのだろうか。
死ぬのは怖くない。だって死んだことがない。
失うのは怖い。だって失ってばかり、ほら、また失いそうになってる。
「…それって執着?」
「やっぱり聞こえてるんだ」
「ん…あのね、妥協は認めないから」
「うん」
「あと、よっちゃんはまだ、『みき』のことをちゃんと判ってないみたい」
「え…吸血鬼のこと?」
「違う。気持ちのこと」
- 278 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:20
-
判ってない?
ベッドから離れて心を隠し、ゆっくりと、雨戸の鍵を解く。
6階の下に広がる情景は底抜けに明るい。
頬にあたる風が遠く上空で雲を流す。薄曇り。月がにじむ墨色。
湿気に弱い彼女にはいい季節なのに、どうして世界はこの小さな悲劇を黙って見てるんだ
ろう。
否、喜劇か。
狩人と狼が愛し合う筋書きなんだから。
せめて、明るい結末のほうへ、転がれ。
- 279 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:20
-
錆びた雨戸を引き上げたまま、一枚窓に施錠する。
カーテンをひいて、射し込む明かりがいつもより少しだけ鮮やかに部屋を染める。
長い付き合いのワンルーム、古くて狭くて暮らし易かった6階の角。
最近は、夜の景色ばかりだったけれど。
『みき』は静かに私を待っている。私は、待たせたままに、何もしなかった。
そして、今夜になった。
狩人は狼を撃つ時に泣くのだろうか。
喪失感に心を痛めるのだろうか。
もし誇りに合わず、失う恐怖を感じるなら、それはせめてもの罰かもしれない。
強者へのささやかな罰。
- 280 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:20
-
与えられるのは、犠牲か、愛か、飢えか。
答えはたったひとつ。
決まりだ。
ふたりして、明るい結末のほうへ、転がれ。
- 281 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:21
-
「『みき』」
「なあに」
「どうしたらいい?」
「…え?」
結論は百も承知で、聞いた。
最後の戯れを眺めるために、一生懸命に笑顔をつくる。
「どうしたらいいと思う?うち。素直に食べられるべき?」
「うん…素直に食べられればいい…」
やつれた『みき』は隠された沈鬱を見透かして、笑い返す。
「よーし噛んじゃうぞー…」
近頃は擦り寄る気力もないくせに、決まりの動作。
快楽へ誘う準備、背中に、耳もとにすがる指。現れる牙。
とても狩人にはなりきれぬ腕力。今にも折れそうな指。
彼女の全てが、白くて冷たい。
- 282 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:21
-
「…なんでダメって言わないの」
切れ切れの声。この声も。
「…うーん、なんでだろうね。もう、悩むの飽きちゃった」
「うん?…そうか。変なよっちゃん」
「うちのわがままなんだけど、もうちょっと長生きしてほしいのね」
「…不自由なわがままだね…『みき』のよりずっと…」
「『みき』のはわがままじゃなくて、本能なんでしょ」
「うん…」
「じゃ、そっちでいいかな、と」
「…」
「どうよ」
「えへへ、そっか…。うれしいなあ…」
「じゃ、えーと、なんだ、ちゃんと生き返ってみせるから安心して。なんて、自信はない
んだけど」
「生き返る…よっちゃんはすごいね…」
「すごかない。…次に会ったら、今度は甘えさせて。他にも色々聞きたいことがある」
「いいよ。…手取り足取り教えて進ぜよう、誇り高い一族の生き方を」
「頼んだ。じゃ、また会おう。えーと、おやすみ?」
「うん…また会おう」
彼女が食事のために体を起こしたのを確認して、人間の眼を閉じた。
- 283 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:22
-
長い長い静寂。
落ちていく脈拍。
『みき』はなかなか動かなかった。
永遠に続きそうな無感覚。
触れられたのか判らないのは体温が等しくなってしまったからだろうか。
辛うじて、ふたりぶんの呼吸。
そして、首筋に落ちる重い感触。
あの美しい白い牙。
血管を裂く音。
水音だ、雨戸にコウモリが落ちるときのように、幾らかの液体の音。
溢れる血のあたたかさ。
- 284 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:22
-
あ。
痛い痛い、痛いぞ、『みき』このやろう、嘘ついたな…痛いじゃん…うぅ
天地がぐるりと回って、瞼の奥まで暗転する。
すぐそばで、ひどく濁った声がした。
よっちゃん、よっちゃん、大好き、ごめんね、負けるなよ、さよなら
口元は赤く濡れているのか、それとも涙まじりなんだろうか。
溺れているように聞こえる。
甘い声で、ひたすら語りかけてくる。
声が、だんだん遠ざかる。
声が…
長い長い静寂。
そして、深い眠り。
- 285 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:23
-
- 286 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:23
-
「うわあっ」
何時間、経っただろう。射し込む朝日が眩しくて、腹立たしくて目が覚めた。
「目が覚めた」なんて生易しいものではなかった。
「本当に生き返っちゃった…?」
描いた未来そのままに?
「…よ、よし!」
部屋には私ひとりしかいない。せっかく復活したのに『みき』がいない。
これじゃダメだ。これは違う。
おーい、どこー?
- 287 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:24
-
呼んでも空しい声。響きもしないワンルーム。
「群れるのは嫌い」って言っても、消えることは無いじゃん。
どうして。
探して歩くほど広くないワンルーム。ベッドの上で見回して、その隅、彼女がまるまって
いたところを見れば、一枚の紙。
急いで拾おうとするも、脚の感覚がおかしい。ぐらりと派手に転倒し、ふらつきながら辿
り着く。
「ってぇ…」
拾い上げた手も、上手く力が入らない。
指先に絡まる一枚の紙。水色のメモ用紙。
所々に乾いて固くなった染み。紙の色とひどく相性の悪い、赤い黒。
鉛筆書き、尖り流れる、特有の字。
- 288 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:25
-
群れるのは良くないので先に消えます。
正しかったのか、悩んでいます。
もう一度くらい会えるかな。
会えたら
- 289 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:25
-
はじめの一行は、さも当然と言わんばかりに。
二行目は、幾許(いくばく)かの本音。
三行目には、儚い望み。
最後の文章は、塗り潰されていて読めない。
一貫性など無い思いの羅列。
この星の字じゃないのにすらりと読めてしまう手紙と読めてしまった自分の奇。
「なんだよ、これ」
思い切りとまどってんじゃん、『みき』。
逃げ切れない過去を繰り返すまいとゆれ動く影がありありと。
最後くらい、うまくやってくれよ。
あくまでお前は獲物だと、出会い別れるうちのひとりに過ぎないと、捨て置いてくれれば、
こんな切ない気持ちにならなくて済んだのに。
- 290 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:26
-
切ない。
切ない?
違う、少し違う。
これは恐怖だ。
自分の死よりも、別離よりも…『みき』の言葉に、漠然と締め付けられる。
怖い。
それは、誇り高き吸血鬼の落としてはならない残骸。ルールに従い切れない手紙。
強者へのささやかな罰。
新しい本能は、人間の頃に育てた切なさとともに、恐怖を連れてきた。
- 291 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:27
-
「!…そうだ」
『みき』が書いたメモ。メモがあった。
手帳に挟んであるはずだ。
「私にとっての『名前』だ」と指して、彼女が残した言葉。今となっては、彼女にもう一
度出会うための、手掛かり。読めなかった文字。
開いた手帳には水色の紙片、たった一行の真実。
孤高の吸血鬼の「名前」は。
- 292 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:32
-
「…吸血鬼の名前は」
- 293 名前:<8> 投稿日:2006/10/29(日) 00:33
-
『 独りゆえに永遠に得られない 』
- 294 名前:<8>追憶と手紙 投稿日:2006/10/29(日) 00:34
-
- 295 名前:kkgg 投稿日:2006/10/29(日) 00:40
-
>>261 名無し飼育様
ありがとうございまーす!
照れます(*´д`) 。
- 296 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/29(日) 22:32
-
- 297 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/29(日) 22:33
-
<9>灰になる迄
走り続けるのは悪くない。転がっても、進めれば上々。
- 298 名前:<9> 投稿日:2006/10/29(日) 22:33
-
日光が辛くなるまでの約一週間、毎朝正しい時間に出勤して、まっすぐ家に帰った。
特有の飢えに襲われるまでに、今後を思案せねばいけない。
心の片隅で呪文のように繰り返す。
- 299 名前:<9> 投稿日:2006/10/29(日) 22:34
-
記憶が生のうちに、記録しようと開いた手帳の、自分の筆跡に違和感を覚える。
読めなくなるかもしれない。いや、書けなくなるかもしれないのほうが正しいのか?
彼女のように感応できるなら、昔を失うほうが難しい。
そうしてまず、新しい手帳を買った。
すぐに一行残した。
どうか、自分が忘れないように。
「やっぱり、心は痛む」
次に、部屋を出る日を決めた。
辞表の書き方を調べた。
ひとつずつ、準備を進める。
全身の変化も、着々と進む。
体中から色が抜けていく。
見え易い部分から、彩度が消える。
頬の赤味が消えた。爪と肌の色が近くなる。浮いた血管が手首に文様のようにうごめく。
太陽の光は、透けた肌に熱過ぎ、色の無い眼に眩しい。日中に動くのが億劫になる。
次いで、四肢の重さを感じなくなった。ものに触れる感覚はあるのに、自分が個体として
在る感じがしない。何かに触れていないと、自分が在るのか判らない。
- 300 名前:<9> 投稿日:2006/10/29(日) 22:35
-
「人恋しくて死にそう」っていうのはこれか。
思い切り床を蹴ったら体が浮いてしまう気がする。床にしがみつかないと、中空に放り出
されそう。『みき』だってよく床に丸まっていたじゃないか。
あ。ほら、また思い出してばかり。意外と女々しいな。
日に日に足首が軽くなる。もう爪先なんて掻き消えたんじゃないか。疑って塗ったペディ
キュアの色だけがひどく目立つ。臆病を視覚化したらこんな色だ。
血のような赤。
- 301 名前:<9> 投稿日:2006/10/29(日) 22:35
-
ある晩、呼ばれた気がして外に出た。
あの頃には感じなかった奇妙な胸騒ぎ。
晴れている。真っ青な夜空。夜の色は真っ黒じゃないんだなぁ…。
「よ、しょっ」
『みき』が現れた柵から身を乗り出す。隠れているかもしれない。…馬鹿な。くせになり
つつある微量の自嘲。
今も世界は明るいのかと下を見ようと頭を出したら、かかとからふわりと身体が浮いた。
「!」
咄嗟に柵を掴んだ右手が、いっぱいに伸びた。
右の拳を中心にそのまま空中で反転して、柵の向こうの青い夜空に放り出された。
「う、わ」
- 302 名前:<9> 投稿日:2006/10/29(日) 22:35
-
もう半回転して、低く浮かぶ赤い満月が眼に入ってくると、涙腺が緩んだ。
お前かぁ?呼んだのは。
満月は、新しい仲間を歓迎している…んじゃないかな、と思った。
地球の引力から逃れられずに決まりきった道をぐるぐる。
私も同じになる。
その彷徨いを、今はもう悪いことだと思わない。
着地点が有るんだから、どうにかできるし、どうにかなる。どうにかする。
走り続けるのは悪くない。転がっても、進めれば上々。空を飛べるなら、飛んで行く。
最高に気分が良くて、最高に空っぽになった。
かかとを中空に遊ばせたまま、声を立てて笑っていた。
『みき』がいないのに。
- 303 名前:<9> 投稿日:2006/10/29(日) 22:36
-
…
夢と現実の境界はすっかり消えた。
こっちが私の現実になった。
中心を得て逆転した。
あらゆる感覚が綺麗に、そして完全に狂った。
それは夜に住む者としての進化。太陽から逃げ、月の一挙一動に惑わされる運命。
「あはは…は、おっかしーわ…」
柵の右手に力を入れて、落下の勢いで部屋になだれ込む。
肩から落ちて鈍い痛みを覚える。そのままくたりと丸まり肩を抱いて、個体の輪郭を確かめ
た。薄い肌、浮いた骨。
- 304 名前:<9> 投稿日:2006/10/29(日) 22:36
-
あーまだ生きてんな。
さてどうしよう。
勢いで来ちゃったから、このまま行こうか。
…。
特有の飢えに襲われるまでに、今後を思案せねばいけない。
もう一度吸血鬼に出会うために。
灰になるまで、他にやることもない。
灰になるまでに、会いたい人がいる。
- 305 名前:<9>灰になる迄 投稿日:2006/10/29(日) 22:37
-
- 306 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/29(日) 22:37
-
- 307 名前:吸血鬼のA 投稿日:2006/10/29(日) 22:38
-
<10>望
打ち放しのコンクリートは、あんまり美しくないから、嫌だな。
- 308 名前:<10> 投稿日:2006/10/29(日) 22:38
-
A--xxMx0041x2は、先ほど返された手帳を弄びながらぼんやり考える。
手帳はビニール袋に入れられて、矩形のラベルが幾つも貼られていた。
ラベルには全て色気のない印字。
A--xxMx0041x2
識別番号。
日本人はそーゆーの好きだからな。うちにもちゃんと名前があるっつの。
もう忘れちゃったけど、なかなかいい名前があったのさ。
A--xxMx0041x2は神経質にラベルを引っ掻いて、剥がす。ビニールがのびて歪む。
彼女はときどき、小さく舌打ちして、栗色の髪を掻きむしる。
- 309 名前:<10> 投稿日:2006/10/29(日) 22:39
-
「もう解放してよ。疲れた。それにあなたたちが知りたいことは全て話した。昔の話、彼
女の話、全部。話したら解放するって言ったの、そっち」
しかし彼らの気配は動かない。わざと椅子が軋むように身を振るう。
「話したところであなたちには何も出来ない。私たちと向き合うのは上手くない。お互い
に何も得られない。大事な思い出話をしてやったのに食事にもありつけないんだから、最
悪。非常時だからしょうがないけど」
- 310 名前:<10> 投稿日:2006/10/29(日) 22:39
-
最後の一言は聞こえないほどに。
されど沈黙。
疲れた青い眼が宙を睨む。
だんだん機嫌が悪くなる。怒りに紅潮するはずの頬は、白いまま。
「手帳だって、読めなかったっしょ。書き換えておいて、正解」
- 311 名前:<10> 投稿日:2006/10/29(日) 22:40
-
「嫌な時代になったもんだ。平成の東京が懐かしい」
「これ、解いてよ。もう行かなくちゃ。彼女と違って、力尽くは好きじゃない。…聞こえ
てる?聞けよ」
「頼む。今夜は満月だから…」
「…頼む…」
- 312 名前:<10> 投稿日:2006/10/29(日) 22:40
-
永遠の別れを、壊しに行かなくちゃいけないのに。
気の遠くなるような追いかけっこの先にあるらしい。
ルールを侵しに、いや、革命を起こしにゆく旅路。
百年、千年、一万年。
それはそれは、気の遠くなるような。
ルールは簡単だ。
思い出話は安売りしないこと。
美しいものだけを追いかけること。
この星から出ないこと。
誰にも名前を与えないこと。
その次に「独りで生きるのに固執しないこと」と一言、添えに行く。
強がらないこととはっきり言ったら、きっと真っ赤になって、怒られる。
- 313 名前:<10> 投稿日:2006/10/29(日) 22:41
-
まだ白昼夢の中のようだ。
ひとりだろうが群れようが生きるのに不器用なのに変わりなく、A--xxMx0041x2は溜息
を重ねる。情けなくて涙が出る。涙を出すのも、上手に出来ないが。
まだ白昼夢の中のようだ。
濁った視界の遠くに、ふたつの影の並ぶ姿が、ぼんやり浮かぶ。
まだ白昼夢の中のようだ。それとも雪景色だろうか。真っ白。
- 314 名前:<10> 投稿日:2006/10/29(日) 22:41
-
百年も千年も先かもしれないが、想像できるのなら、名前があるのなら、私が思いつくの
なら『それ』は存在するんじゃないか。
意識が混濁する。
遠くで声がする。
まだ忘れてない。
大好き、ごめんね、負けるなよ、さよなら
愛のことば、それとも呪いか、手放せない声。
甘えんなよー。嘘。嘘だよ。聞こえただろうか。
大丈夫、負けてない。もう少しだけ待ってて。出来るだけいそぐ。
北のほうへ、雪の降るところへ行こう。
思い出と、耳に残る声、そこを中心にぐるぐると、あの赤い月みたいに。
手帳と手紙もここにある。
軌道を広げていけばいい。
- 315 名前:<10> 投稿日:2006/10/29(日) 22:42
-
時間もたっぷりある。
百年、千年、一万年。
A--xxMx0041x2は、青い眼を大きく開いて、虚空を見上げた。
真っ暗だ。
白い闇。
白い肌、白い唇、白い牙。
薔薇の香り。
甘い声。
雪降る地に並ぶ、ふたりの吸血鬼。
想像できるのなら。
名前があるのなら。
- 316 名前:<10> 投稿日:2006/10/29(日) 22:42
-
- 317 名前:<10> 投稿日:2006/10/29(日) 22:43
-
- 318 名前:<10> 投稿日:2006/10/29(日) 22:43
-
- 319 名前:<10> 投稿日:2006/10/29(日) 22:45
-
「 吸血鬼のA 」 END
- 320 名前:kkgg 投稿日:2006/10/29(日) 22:47
-
以上を持ちまして、「吸血鬼のA」は終了です。
ありがとうございました。
- 321 名前:kkgg 投稿日:2006/11/01(水) 22:55
-
吸血鬼のA ◆ もくじ
<1> 朔( >>188-195 )
<2> いばらの冠( >>199-209 )
<3> 目眩と踊れ( >>211-220 )
<4> 私の青い空( >>224-236 )
<5> 鳥籠の宇宙( >>240-250 )
<6> 迷子の兵隊( >>252-260 )
<7> 贅沢な世界( >>263-272 )
<8> 追憶と手紙( >>274-294 )
<9> 灰になる迄( >>297-305 )
<10> 望( >>307-319 )
- 322 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/11/06(月) 16:51
- 完結お疲れ様でした。
ここのみきよしの世界観が何とも言えず気に入っています。
距離感があるようで実はピッタリしているような
どこか温度が心地良いと言うか。
次回作品も楽しみにしております。
- 323 名前:kkgg 投稿日:2006/11/11(土) 00:53
- >>322 名無し飼育さん
光栄です!ありがとうございます。
絵としてはくっついていても、実は葛藤が…という構図が好きです。
そしてみきよしは「みき←よし」ではないかと勘ぐる今日この頃です。
- 324 名前:kkgg 投稿日:2006/11/11(土) 02:55
-
「内容<鮮度」の申し訳ない感じのみきれなをひとつ。
- 325 名前:通信 投稿日:2006/11/11(土) 02:56
-
…
…
…
- 326 名前:… 投稿日:2006/11/11(土) 02:58
-
00:00
明日、美貴は寝坊します。
深夜に突然かかってきた電話は、挨拶なしに一言。
え?ええ?れ、れいなはちゃんと行きます!
唐突過ぎて返事も滑稽、次の返事の聞こえぬまま途絶える通信。
- 327 名前:… 投稿日:2006/11/11(土) 02:59
-
06:00
本当に遅刻すると思っちゃった?
定刻、朝からご機嫌。ニヤけ顔でれいなの頭をぐりぐりぐり。
…だったら、なんであんな電話したと?
それはただの気分さと言わんばかりの無言を、睨み付けてみるが勝ち目など。
- 328 名前:… 投稿日:2006/11/11(土) 02:59
-
00:00
明日、やっぱり遅刻します。
昨夜と同じ用件、抑揚の無い声。事務的に、深夜の通信。
同じ手にはひっかかりませんっ。
一方、幾らか感情的になる不条理。半分は眠気。
- 329 名前:… 投稿日:2006/11/11(土) 03:00
-
06:00
今夜はれいなが電話してきて。面白く。
朝からご機嫌、やっぱり何事も無かったように、定刻のおはよう。
難しいフリは止めて下さい…悪戯電話も。
悪戯するこどもの笑顔で脅迫されてかたまる被害者の妙。
- 330 名前:… 投稿日:2006/11/11(土) 03:01
-
12:00
面白いの、待ってるから。
多忙な中のお弁当、似つかわしくない真顔。隣でニヤつくリーダー。
無理です。
隣でさゆとえりがニヤついているのもどういうことかと悩んでみる。
- 331 名前:… 投稿日:2006/11/11(土) 03:02
-
00:00
明日、れいなは寝坊します。
発信、何も思いつかぬなどと口が裂けても言えず採点待ち。
絶対に駄目。
一瞬で降りた判定は予想通りなのでせめて目的を。
てゆーか一体何がしたいと…
え?あ、そだ。今日ってさぁ…
- 332 名前:… 投稿日:2006/11/11(土) 03:03
-
…
…
…
- 333 名前:… 投稿日:2006/11/11(土) 03:03
-
00:02
11/11
通信成功
- 334 名前:… 投稿日:2006/11/11(土) 03:04
-
- 335 名前:… 投稿日:2006/11/11(土) 03:04
-
- 336 名前:… 投稿日:2006/11/11(土) 03:05
-
end
- 337 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/12(日) 05:27
- 川VvV)♪それはただの想いさ
ですか?
なんか良かったです。なんか朝の感じが。
- 338 名前:… 投稿日:2006/11/12(日) 23:36
-
- 339 名前:kkgg 投稿日:2006/11/12(日) 23:38
-
紺でのリアルみきよしに驚愕しながら、りかみきをひとつ。
- 340 名前:… 投稿日:2006/11/12(日) 23:38
-
- 341 名前:菫 投稿日:2006/11/12(日) 23:39
-
青い空が何処までも広がって二人からいちばん遠い水平線のところで海と同じ色
になっていた。半透明のざらついた白を塗った深い青色の名前を、ふたりは知ら
なかった。果てと呼ぶのは知っていた。
普通は海が見たい波が見たいとか、言うんじゃないの。
違う、海岸を歩きたかったの。
ふーん。それで私を呼ぶ理由も聞きたいけど…ね、美貴ちゃん、どうして空は上
のほうが濃い色なのに、海は下のほうが濃い色なんだろうね?
はぁ?
- 342 名前:… 投稿日:2006/11/12(日) 23:39
-
梨華のとても真面目な顔を見詰める美貴は、心底驚いて眼を丸くする。手の中の
カフェラテが落ちそうになり、落ちるよ、と梨華が手を添える。その優しさに、
美貴がひどく同情したような顔で見る
のを理解出来ずに、梨華は柔らかく笑った。
土曜の昼下がり、腰を下ろした堤防は砂だらけで冷たい。踊る波から離れた砂浜
には乾いた草が所々に生え、灰色の砂をかぶっている。地を這う風がまた砂をか
ける。
眼前の冬の海は、その強い風が舞わせる前髪でちらちらと霞む。
美貴は少しだけ機嫌が悪かった。久々に見たくなった砂浜はこれじゃいけない、
もっともっと青くて、もう少し黒かったはずだと俯く。
梨華は慣れていたので、思い出の中に有る海について尋ねなかった。それよりも
子どもの御機嫌取りに甘いお菓子になるものを探すべきだと思案する。その結果
が、空と海への疑問だった。梨華以外の誰しもが理解出来ないと反論ような下手
な話題で、当然、雰囲気を治すような巧みさには欠けた。
- 343 名前:… 投稿日:2006/11/12(日) 23:40
-
海の果ては眼に映る海のうちの上のほうで、空の果ては眼に映る空のうちで下の
ほうにあるから、霞んでるんだよ。
妙に穏やかに聞こえるのは美貴が上手に説明しようと苦心した結果だったが、梨
華はゆるりとした笑いを浮かべたまま。
わかってないでしょ、と美貴はますます不機嫌になり、攻撃的になる。
海と空の遠くのほうは、遠くにあるから、霞むの。
今度は切れ良く普段のスピード、同時に立ち上がると、美貴は砂浜を走り出した。
鞄と梨華を置き去りにして、長い手脚をばたばたと器用に砂浜を駈けてゆく。
高いかかとが、砂色の粒を散らす。
美貴は走った。赤のマフラーをはためかせて、あの子なら、何処までも何処まで
も行ってしまうんじゃないかと梨華が心配するほどに。
- 344 名前:… 投稿日:2006/11/12(日) 23:41
-
どうしたのー 美貴ちゃーん
こんなんじゃなーいぃ
かすかに吠えるのが聞こえたが、波打ち際で止まった美貴を確認して、梨華は追
わずに薄いコーヒーをすする。
波打ち際で腕を組み仁王立ちする美貴の姿は妙に面白く、梨華は携帯電話で記録
してやった。ぱしゃ。液晶で見る青い海と青い空と赤いマフラーは、喧嘩してい
るみたいで鮮やかだ。
無人の海は繰り返しの波音だけが響く。
ときどき空を裂いて飛ぶ鳥に眼を遣って、殆どの時間を同い年の妹を見るのに消
費しながらコーヒーを飲む。遠方の彼女ははいつの間にか仁王立ちを止め、波と
戯れていて、いよいよ暇になってきた梨華は、波音ってよく眠れるかも知れない、
と思い始めた。
- 345 名前:… 投稿日:2006/11/12(日) 23:42
-
美貴ちゃーん戻っておいでー
えーやだー梨華ちゃんが来てー 早くー
その頃、梨華はようやく彼女の人選を理解した。過信かもしれないが美貴は面倒
を見てくれる相手として自分を呼んだのだ。構ってくれるんじゃなくて、甘えさ
せてくれるんじゃなくて、ただ海についてきてくれる人。インドアな彼女から海
に行こうと誘われて、絶対に断らないひと。お互いの距離感はよく判っているし
妥当な線ね、美貴ちゃん。
さて、一息つくと梨華は鞄を置いたまま冬の突風みたく駆け出した。全速力、堤
防を背に、乾いた野原を横切るその一瞬、足下に気を取られてバランスを崩す。
きゃあっ
慌てて重心を取って持ち直したが、勢いに運ばれそのまま転がるように水際に駆
け込み、美貴に抱き止められるとやっと止まった。
どうしたの!?
草のとこに、何かあった…
- 346 名前:… 投稿日:2006/11/12(日) 23:42
-
少し濡れた美貴の靴を海岸に並べて戻れば、乾いた草むらにはぽつんと紫の花が
咲いていた。十に満たぬ小さくて可愛い花は、灰色のキャンバスに点々と輝く。
わぁっ かーわいいー
梨華ちゃん、これ、すみれ。
すみれ?海に咲くの?
知らない。でもこれ咲いてるじゃん。…すみれって春だよね?
そうなの?
多分。なんでこんなとこに、すみれ?
- 347 名前:… 投稿日:2006/11/12(日) 23:43
-
しゃがんで菫の上の砂をはらうと、埋もれた紫色が顔を出すので、美貴はしゃが
んだまま動かない。葉と蔓は低く広がっていて、ちゃんと野原の一部に繋がって
いた。砂の灰色、葉っぱの緑、茎の赤、花弁の紫、白い指。
美貴の手が動く度に、花々が現れる。それを立ったまま見ているうちに、そうか、
と梨華は納得した。だがそれはあまりに感覚的な理解で、伝える手段は言葉や文
章じゃ無理のように思われた。つまりこういういことだ。
青い空、赤いマフラーが綺麗だから、ここには紫のすみれが咲く。
うん、きっとそう。
以上も以下も無く、たったそれだけの確信が梨華を満足させた。頭の中で、全て
の符号は一致しているのにそれを外に表せない。論理に覆い被さった砂粒が邪魔
で、上手く形にならない。隠れていても咲く菫みたいに、ただここに在る。
梨華は携帯電話でもう一枚、写真を撮る。ぱしゃ。
あとで美貴ちゃんに見せてあげよう。今は一生懸命だから、声をかけずに。
- 348 名前:… 投稿日:2006/11/12(日) 23:44
-
普通は海が見たい波が見たいとか、言うんじゃないの。
違う、海岸を歩きたかったの。
なんで?
学生の頃、学校の裏の…すぐ近くが海で、四階ならもう水平線が見えて。
ふーん。じゃあ海岸は思い出の場所?
そうそう。ま、思い出に浸りたいわけじゃないんだけどね、きっと。
そっか。
そりゃあ、ね。もう大人だから。思い切り走ったらどうでも良くなっちゃった。
…
…
…美貴ちゃん、どうして青空と夕焼けは色が違うんだろう?
ん?うーん…青いのが好きな人がいれば赤いのが好きな人もいるから、とか。
ああ、なるほど。すごいね美貴ちゃん。やっぱりそうなんだ、そうだよね。
信じないでよ。
だって、それってえーと、紫が好きな人もいるってことでしょ。
繋がってないから、梨華ちゃん。
繋がってるよ。すみれ、見たじゃない。
あー…すみれ、綺麗だったね。
あ、そうだ写真撮ったよ。
- 349 名前:… 投稿日:2006/11/12(日) 23:44
-
赤、広い青、上品な緑、可愛い紫…色彩の波に囲まれた冬の土曜日。
美貴は今や爽快感さえ感じ、それ故に、険しい顔を作っていた。
このまま何処か行っちゃおうか?
美貴は、梨華の隣でそれを聞かないままにした。きっと優しい答えを貰って帰り
道が寂しくなるのだから、と利口なほうを選んだ。
撮影された菫でさえ美しい午後。
夕焼けに思いを馳せているらしい梨華の横顔に、美貴は、ありがとうと告げた。
何も言わずに美貴の手を取ると、きもちわるい、と非難されたので、梨華は困っ
た顔になった。砂ついてる手も気持ち悪ーいと返すと、しょうがないじゃん!
と怒られた。
- 350 名前:… 投稿日:2006/11/12(日) 23:46
-
ふたりで歩く砂浜は灰色を濃くして、強かった浜風も止み、後は太陽が海に沈む
ばかりで穏やかに暗がりが伸びる。遠くのほうで調和していた青くて深い色のよ
うに、名も無い静かな夜。夜が今日を覆い隠す。その下には、溢れんばかりの色
彩があり、彼らからは絶対に見えない「何か」が、無言のまま必死にその覆いを
払う。一連の流れを当たり前のように感受して行くうちに輝きを忘れ始めて、ひ
とは突然、海が見たいなんて可愛いことを言い出してしまう。
あの手は、なかなかいじらしかった。
突然、梨華は繋いだ手を一度離して、美貴の手にまだ残る砂を払って再び繋いだ。
大人しく抵抗しない美貴を見て、今日は来て本当に良かった、と笑った。
- 351 名前:… 投稿日:2006/11/12(日) 23:46
-
- 352 名前:… 投稿日:2006/11/12(日) 23:47
-
- 353 名前:菫 投稿日:2006/11/12(日) 23:48
-
end
- 354 名前:kkgg 投稿日:2006/11/12(日) 23:49
-
>>337 名無飼育さん
ご名答!
お読み頂き&お気付き頂きありがとうございます。
邦楽大好き。
- 355 名前:… 投稿日:2006/11/13(月) 23:03
-
- 356 名前:kkgg 投稿日:2006/11/13(月) 23:04
-
アンリアル/亀と6期な仲間たち?/とてもファンタジー。
- 357 名前:… 投稿日:2006/11/13(月) 23:04
-
- 358 名前:eとrと、Iの世界 投稿日:2006/11/13(月) 23:05
-
1. e は‘ end roll ’ の 許可
- 359 名前:1 投稿日:2006/11/13(月) 23:06
-
絵里は屋上で沈黙していた。
- 360 名前:1 投稿日:2006/11/13(月) 23:08
-
この瞬間、校舎という束縛と絵里を結ぶのは、右手で確と掴んだ金網と、左手で触れた
頬の暖かさだけで、これを離してしまえば自由になれる気がしていた。
自由?
それはとても怖くて嫌なものに感じられて、絵里はきつく眼を閉じた。
不快。全く自分に触れない世界。もっとしっかりと触れて、握り、収まって、安心出来
るところへ行かなくちゃいけない。背中を地につけて、五指に土を感じて、頭(こうべ)
をあずけられる窮屈に帰りたい。
今、自分が投げ出されている開いた世界は、どうも好きになれない。
- 361 名前:1 投稿日:2006/11/13(月) 23:08
-
これは、きっと、夢だぁ。
絵里はへらりと笑って、眼を覚ますためにその両手を離した。
美しいふたつの眼に最後に映った空は、見たことの無いような青だった。
- 362 名前:1 投稿日:2006/11/13(月) 23:09
-
- 363 名前:1 投稿日:2006/11/16(木) 00:03
-
終わったよー。
再び瞼に力を入れて開ける。開いた。開けば、両手をゆらゆらと宙に浮かせたまま空を
仰ぐ絵里だった。なあんだ。落胆。失敗だ。長い睫毛は一筋の涙に濡れて、しきりのま
ばたきで焦点を取り戻す。
…あれ。
仰ぐ空は、一面の黄色。一切の温度を排除した無機質の黄色。黄色?なんで黄色?前髪
をはらって上体を起こせば、そこは別世界だった。うああああぁ あ?力ない叫びを漏
らして、絵里は立ち上がる。制服のスカートからのびた脚は素足で、校則を無視した十
の爪が丸見えだ。
誰かー いませんかー 誰かー ガーキさぁーん ああもうムカつく
- 364 名前:1 投稿日:2006/11/16(木) 00:04
-
延々と広がるのは森なのか、絵里よりも少しだけ背の高い樹々が並び、足下には花が咲
き誇り、鳥が飛んでいる。人の気配はない。何よりも奇妙なのは蜂蜜色の空だ。雲はか
すかに緑を帯びて、太陽は真っ赤。やだ、変…。一言発して走り出す。踏まれた大地か
ら、かしゃ、のような、かちゃ、のような気持ち悪い音がする。地面はいつからこんな
に固くなったんだろう。固いのに裸足が痛まないのは何故だろう。
森に近づくと更に違和感は増す。
樹々には赤い葉、ぶんぶんと飛ぶ昆虫は青や紫。遠くから機械音が聞こえる。工場でも
あるのだろうか。
都会では見かけない自然、その偽物がぎらぎらする。
あてもなく彷徨う絵里の膝のへんから声がした。
「可愛い 可愛い 可愛い」
- 365 名前:1 投稿日:2006/11/16(木) 00:04
-
声は赤い三椏(みつまた)の葉の上、その花は深い紺で、無規則な縞模様。あまりのナ
ンセンスに、絵里はうんざりしながらしゃがみ込む。
「可愛い 可愛い 可愛い てんとう虫」
声の主は、てんとう虫。濃いピンク色の甲に桜色の斑点、すらりとのびた脚は落ち着い
た群青。高い声は透明で、機械音をベースに、響くソプラノ。
わ、お、おもちゃ?
なかなかの数の群れで鳴いているのは、どう見たって昆虫のてんとう虫。
「可愛い 可愛い 可愛い てんとう虫は 鳴かない?」
「そうだよ、鳴かないよ?」
「可愛い 可愛い 可愛い てんとう虫は 鳴いても 可愛いの」
確かに可愛いけどなんかおかしいよ、と絵里は甲虫に向かって手を出してみる。だがそ
の右手は真っ黒な金網の一本をしっかりと握っていて開かない。なにこれ。絵里が見知
らぬ自分の右手を緩めようとすると、てんとう虫は鳴くのを止める。
「捨てたら、ダメなの」
- 366 名前:1 投稿日:2006/11/16(木) 00:06
-
「うぇ、喋ったぁ。絵里、こんなの持ってたくない」
「でも大切にしないといけないの。これっくらい、大事に」
そう言ってピンクのてんとう虫は、上二本の脚を顔(らしいと絵里が推測した部分)の
両脇に上げてかぎ爪を大きく広げた。
「これっくらい」
ピースサインなのかそれとも。ナンセンスに囲まれて拍車をかける甲虫の行動。全く意
味が取れずに、絵里はまた少しうんざりした。もしこのてんとう虫が赤くて黒い斑点の
甲虫なら、とうに「ぷちり」と潰していただろう。短気なのだ。
それにしても、この特殊なてんとう虫は、悟り切った声で話す。世界の端から端まで飛
んでいるのかもしれない!年相応の想像力が、損ねた機嫌を少しだけ軌道修正する。
「だって救世主なの」
そう最後に言うと、てんとう虫はまた鳴き出した。一匹が金網に上りだした。絵里は慌
てながらも金網とてんとう虫を見守る。あっと言う間に上り切り、ぶーんと飛び去った。
残された群れが歌い鳴く。
- 367 名前:1 投稿日:2006/11/16(木) 00:06
-
「可愛い 可愛い 可愛い てんとう虫は てんとう虫でも 可愛いの」
「てんとう虫さんは、ここにでなにしてるの?」
「ここは途中で、もっと高い空に向かって飛ぶ用意をしているの」
そういえば理科で習った気がする、てんとう虫は常に高みを目指して進むのを。絵里は
空いている左手で群れをすくうと、そばの木のてっぺん、葉の上に並べた。きらきらし
たピンクが太陽の光を反射して踊る。まっすぐになり、輪をつくる。
ビーズみたいだねえ。ビーズって可愛い?うん。てんとう虫より?てんとう虫さんのほ
うが可愛いよ。
「知ってる」
「あははは」
- 368 名前:1 投稿日:2006/11/16(木) 00:07
-
「可愛い 可愛い 可愛い てんとう虫は ビーズより 可愛いの」
「絵里も可愛い?」
「可愛い。心配しないで、聞かなくてもいいの。
だって、おんなのこなんだから。
そして、てんとう虫はもっと…」
そう鳴いて、てんとう虫たちはぶーんぶーんと飛んだ。ピンクの下の薄い羽根は虹色だ
った。
「ころころ表情が変わって子どもみたいなの」
「絵里はもう子どもじゃありません」
「でも、大人じゃないのね。ふふふふ」
「う…」
ぶーんぶーんぶーん。
- 369 名前:1 投稿日:2006/11/16(木) 00:07
-
蜂蜜色の空に綺麗な星座のふりでてんとう虫が飛ぶ。
名前をつけてやろうかと思ったが、名前に縛るのが自分では喜ばないかもしれない、と
思ってやめた。それにしても、なんて美しい空。空を見上げるなんて簡単なことを、今
日まで怠っていたのなら勿体ない。
絵里は群れに小さく手を振って、また森の奥へ進む。
他の行動は見当もつかない。
- 370 名前:1. e は‘ end roll ’ の 許可 投稿日:2006/11/16(木) 00:08
-
- 371 名前:eとrと、Iの世界 投稿日:2006/11/20(月) 23:49
-
2. r は‘ reducible ’ の 半径
- 372 名前:2 投稿日:2006/11/20(月) 23:50
-
さて、奥に行っても「戻れる」って証拠も無い。どうしようか。戻る?
「戻る?戻って何しよっと?」
まただ。
今度は深緑の黒兎が低い木の下から、きらりと睨んでいる。
「黒」兎だとしたのは絵里が黒兎だと決めたからで、実際は深緑の兎だ。
「戻るなら、一緒に連れて行って欲しいっちゃ!」
頼むなら相応の態度を取るべきだと、絵里は手をのばしその兎を抱く。飼育係の時に教
わった抱き方で、そうっと、そしてささやかな悪意を込めて。ギャーギャー暴れる兎は
非力で可愛らしい。長い耳をまとめてつまんで少し引っ張ると、大人しくなった。
「遊ぶなぁ…!」
「うへへへかーわいいーやーらかーい」
「あぁもう!それより、早く戻らんと…」
「戻る?やっぱり戻らなきゃいけないんだ!?」
「だってこっちは、」
- 373 名前:2 投稿日:2006/11/20(月) 23:51
-
言いかけて兎は口を噤んだ。なに?絵里が顔を近づけると、兎はまたじたばたと暴れ出
す。ここはひとりしかおられんけん、ここにいていいのは…その度に兎の柔らかい毛が
羽根のように舞い、地面に落ちて雪のように溶ける。ひとつ、ふたつ、みっつ。絵里の
素足に落ちると、体温より暖かい。
「うへへ…変なコだねぇ」
「人のこと言えないっちゃ!あーもう早くみんなのいるところに向かわなきゃいけんの
に…」
話なぞまるで聞かず、うへへへと兎を撫でくり回すと、兎は少し赤くなった(ように見
えた)。兎は深緑だ。
「みんなは何処にいるの?」
「みんなここにはいないし、みんななんてものは無いけど、でも…でも、ひとりもどう
もやりきれん…あ、」
- 374 名前:2 投稿日:2006/11/20(月) 23:51
-
もう一度、口を噤んで兎はひょいっと跳んだ。
あ。
今度は絵里が口を開けた。
兎の整った後ろ足が描いた放物線に虹が咲く。
絵里はその虹なら、自分を助けてくれるかもしれないと掴もうとして、右手を出した。
空振りする金網の右手が虹の真ん中を過ぎると、雪のようにさらりと消えてしまう。
手の甲にぬくもり、小さいこぶしの中に黒い針金、極彩色の世界にひとりぼっちの絵里
が残った。兎は一羽のまま消えた。
変な世界だけど、みんなのところに行けますように、と絵里は願った。
みんななんてものは無いけど。
- 375 名前:2 投稿日:2006/11/20(月) 23:52
-
全く「不可解」な世界だ。
飛び出してきた元の場所よりもずっと狂っていて素敵な視界。
「不可解」を、絵里の思考は「自由」と変換した。だから靴は探さなかった。あれを履
くと、灰色の校舎に行かなくちゃいけないから。裸足は自由だ。何処までも行ける、切
手みたいに。
- 376 名前:2 投稿日:2006/11/20(月) 23:52
-
神様、もしいるなら素敵な夢を見させてくれてありがとう。
でも、絵里はときどき思うんです。神様ってホントにいるんですか。もしかして神様は、
絵里の夢の中のひとなんじゃないですか?それともやっぱり空の上に…そうだ、さっき
空に落ちたのに地面がある。からだは全部、元気なままだ。やっぱりおかしい。
おかしい。
絵里は落ち着かない最大の原因に、今、対峙した。
広い。
規則正しく聞こえる機械の音。心臓の音みたいに止まらぬ繰り返し。それでいてとても
静かで賑やか。
正反対が同居する。蜂蜜色の空。緑の雲。太陽の真っ赤。自由と絵里。右と左は姿を隠
し、上と下は不確かの国。
- 377 名前:2 投稿日:2006/11/20(月) 23:52
-
絵里はふと、悲しくなる。
ピンクのてんとう虫も、深緑の兎も、今の絵里には眩しいばかりで厄介だった。
きらきら。ぴかぴか。正反対が同居する。ぎらぎら。びかびか。
眩し過ぎて「もういいや」と手を離したから、別れは全然寂しくなくてそれが寂しかった。
がっくり下げた肩、沈んだに瞳に、カラフルな世界に唯一馴染んだ指先の十色が、恨めし
かった。
一体、誰の夢なのか?
- 378 名前:2 投稿日:2006/11/20(月) 23:53
-
右手の金網は何の変化も無い。10センチは有るか、錆はなく、先は鋭利で歪んでいた。
ゆがんでる。五文字の単語が思考から生まれると、それを追って、忘れようとした思い
出が追ってくる。
ゆがんでる。
ゆがんでる?
ほら、また作り笑顔が軋む。ここは誰も絵里を責めないのに、必死で身を守ろうとする。
それは時として下手な順応で、必然の拒絶だったり、完全な逃避だったりした。
感受性ばかりが育つ少女の頃、抱え込んだ感情は根を伸ばし、葉をつけて蔓で縛る。足
掻いても足掻いてもひとりの世界で雁字搦(がんじがら)めになるだけで、誰からの影
響も届かず、誰への影響も無い。
大丈夫という、便利で軟弱な言葉でまたひとつ駄目になる。
大丈夫、大丈夫。つま先から歩けなくなる前にと助けを求めて席を立てば、四角い教室
にはドアが無い。窓の向こうには空しか無い。
- 379 名前:2 投稿日:2006/11/20(月) 23:53
-
カメが高校に行かなくなって何日経ったっけ。唐突な質問は、ついに最後の居場所をな
くす宣告のようで、恐かった。
大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫
百回呟いてもまだ正気の絵里は、空を仰いで卒倒したかったのに、蜂蜜色の空はそれを
許さない。
- 380 名前:2. r は‘ reducible ’ の 半径 投稿日:2006/11/20(月) 23:54
-
- 381 名前:eとrと、Iの世界 投稿日:2006/11/22(水) 00:21
-
3. i は‘ image ’ の 私
- 382 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:22
-
蜂蜜色の空は、絵里を甘やかしはしない。
「大丈夫?」
心配しているというより、心配したくないのを思い切り表した声色だった。
絵里は何故か、頬を弾かれた錯覚に陥る。ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた両眼は大
きく見開かれた。
「うわ、ひ、ひとだ」
「…悪い?」
「魔女…?」
絵里は、黄色い空の下ではじめてひとのかたちを見た。
「失礼な」
「だって絵里、はじめてちゃんとしたひと見たんですもん」
辛うじて有る防衛本能が敬語を使わせ、半眼で睨み付けている「ひと」との距離を推し
量る。
- 383 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:22
-
「魔女ってどういうことぉ?」
「イ、イ、イメージです。今そう思ったんです。魔女っぽくないですか、ヘンなとこに
いるきれいなひとって大抵悪役…」
そう絵里が答えた途端、眼の前の女性は「魔女」になった。その一瞬は瞬きで見逃して
しまう。
「うひゃあっ変身したあっ」
「あんたがイメージすればそうなるから。わかってないみたいだけど」
「…わかりません」
「ガキ」
魔女が微かな自嘲を含めて笑う。一目には怖そうだった魔女は子どもみたいに意地悪を
言う。
「どーして平気なんですか。おかしいじゃないですか、ここ」
「おかしくしてるのは誰だっつの」
「…絵里なんですかぁ?」
「うん。だって美貴はもう終わったの、そういうの」
- 384 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:23
-
魔女は、怖くないかもしれない。そういうのってなんのことですか、と聞こうと近づく。
何も聞くなと言う眼で、魔女に睨まれる。絵里は自分が悪いことをしている気になって
上手い言い訳を探すが、探した時から見付からないのが「上手い」ものなのだ。
「こんなとこ絵里とは関係ないですっ!私の好きな空は青いです!」
「空?空ねぇ…。それ、本当?」
本当?
好きな空は青いって本当?
四角い教室にはドアが無い。
窓の向こうには空しか無い。
空には濁った青しかない。
好きな空は青いって、
「本当?」
魔女がが重ねる。絵里の作り笑顔が軋む。緩い笑い。
「顔、ゆがんでる」
容赦ない攻撃に絵里は冷や汗が落ちるのを感じる。
「わ、私は…」
「責めてる訳じゃないから」
「…嘘っ」
「大丈夫だってば」
まただ、「大丈夫」なんて便利で軟弱な言葉。上っ面だけの気遣い。畜生、畜生。絵里
は下唇をきつく噛む。
- 385 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:23
-
「違うんです。違う、私だってどうしたらいいかわかんない、現実全部が嫌なんです。
もう捨てちゃいたい。でもそんな自分に自信がないんです」
それとも絵里が拒否されたんですか?脳裏で自分の声がする。魔女はとても冷めた眼で
絵里を見た。さっきと同じ、少しだけ寂しげな笑顔らら出来ている眼で。恐れられてい
るのに恐れているような眼で。
「違うんです…」
消え入るように絵里が繰り返す。魔女はそれを非難せず、慰めもせず、蜂蜜色の空を背
負って見つめていた。怒られる、絵里は身構える。
「ねえ、拒否したっていいじゃん」
「…」
「それが絵里の世界なんだから」
ひどく優しいので絵里は拍子抜けする。怒られない。
「結局、世界にはひとりしかいないの」
青い空を捨ててなにが悪いの、と、魔女はさらりと言った。
- 386 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:24
-
みんななんてものは無いけど。
深緑の兎の夢。
もっと高い空に向かって飛ぶの。
ピンクのてんとう虫の夢。
朝陽の眩しい校舎に戻りたい。
絵里の夢。
一体、誰の夢なのか?
- 387 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:24
-
ごぉおおぉぉおん。
突然、絵里の視界が真っ暗になる。影に飲み込まれたのに眼が追いつかぬだけで、次第
に慣れてくるとその影はまるで…
「学校…」
後ろから眩しい光を受けてそのさまは黒い大きな塊、絵里の心をひとひねりしようと見
下ろす四階建て。屋上には右手で掴んだ金網があるだろう。左手でぱちんと頬を打つ。
眼は覚めない。右手はまだこぶしのままだ。
学校。
それはとても怖くて嫌なものに感じられて、絵里はきつく眼を閉じた。
不快。全く自分に触れない世界。もっとしっかりと触れて、握り、収まって、安心出来
るところへ行かなくちゃいけない。背中を地につけて、五指に土を感じて、頭(こうべ)
をあずけられる窮屈に帰りたい。
窮屈。
それは学校だ。学業と、校則と、薄っぺらな交遊に縛られて、ときどき素敵な思い出が
出来たりする、あの校舎。
全く自分に触れない世界?それこそ夢の話だ。ほら、右手には金網が絡み、左手には頬
の体温が残る。
だから、学校に戻りたい。
- 388 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:25
-
なるほどねぇ、と魔女が漏らした。ぶつぶつ言いながらその表情が見えないように絵里
の隣に立つと、腕を組んで深く溜息をつく。
「あのさぁ、美貴、ひとの面倒見るのあんまり好きじゃないのね」
「…はぁ」
絵里はなかなか計算高い性分なので、「あのさぁ」の時点で平静を取り戻す。
「だから早く帰ってほしいの」
「…はぁ。じゃあ、あの、ミキさんはここで何してたんですか?」
「…亜弥ちゃんを待ってる。ん、待ってた、か?寝ちゃったから」
「『あやちゃん』?」
「…」
- 389 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:26
-
ばしゃああああん。
突然、黄色い空が赤い波にのまれた。
ばしゃあああああああああああん。
暴れる波間に一瞬だけ見えた
ばしゃああああああん。
青い魚に似たかたち
ばしゃあああああああん。
ああ、ここ、絵里のじゃなくて
ばしゃああああああああああああん。
溺れるより早く絵里は海水に浸かり、液体の透明な赤とその先に広がる蜂蜜色にごぼご
ぼと息を吐く。溺れる、助けて、誰か、誰か。
うわぁあん ガキさぁーん
- 390 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:26
-
海面が、空が、どちらか迷いながら右手を突き上げた。高く高く。大気に触れた気配に
辿り着かない。
絵里を掴んだ海水はばしゃああああんと硝子にぶつかり、だらだらと地面に向かって垂
れた。はねた粒は上へ下へと大暴れして、ついには雲にまで届き、順序よく落ちてきた。
どーん。絵里の背中が硝子にぶつかる。視界が動き続ける海水で閉ざされる。心地いい。
絵里は硝子に身を預ける。硝子の向こうに粒が落ちる。ぱらぱらぱら。
一体、誰が夢なのか?
ぱらぱらぱら。
ぱらぱらぱら。
「あ、起きた?」
机の向かいに座る里沙は何事も無かったように笑った。
ああ、右手がしびれているみたい。
- 391 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:26
-
「…寝てた…?」
「規則正しくいびきをかいて寝てました」
「機械みたいに?」
「ええ?何それ。…でも授業までまだ時間ある」
絵里が眼を覚ましたのは、塾の食堂だった。食堂の窓際の席で、ガラス張りの壁に体を
預けて眼を覚ました。
騒がしいデザインのポスター、自販機で埋まった壁、生気のない子どもたち、白い机、
高くてかかとが床につかない椅子…絵里は学校よりも塾が好きだった。なによりも、塾
には里沙がいた。
- 392 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:28
-
食堂の窓には大粒の雨がこれでもかと落ちてくる。季節の介入など無視するかのに景色
を塗りつぶす。ぱらぱらぱら。空は、定番の灰色だろう。
冷め切った紅茶。缶の中は海かもしれない。そんなことはない、大丈夫。ここだ。絵里
は、はぁっとひとつ息をついて、続けてはっと息を吸い込んで足下を見る。校則に縛ら
れた無難なローファーと、紺のハイソックスがすらりと並ぶ。
ほら、ここだ。やったね、うへへへ。
カメ、口元が緩いから。閉めて閉めて。
あい。っていうか今ここどこ?ホントに塾?
はぁ?
食堂の入口から絵里を見る視線には、反覚醒のせいかまだ気付かない。
- 393 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:28
-
「カメ、起こしてあげるからまだ寝てたら?疲れてるのかも。最近クマ出来てる」
「そうじゃなくて…」
里沙がおもむろに放ったカイロを左手で受け取る。少しだけあたたかい。あたたかくて
絵里は寒さを知る。寒い。氷雨だ。
気付いた里沙が、今度は椅子の後ろにかけたコートを差し出す。左手で受け取って、膝
の上に置く。
「言ってることもヘンだよ」
「そうじゃなくて!どうして起こしてくれなかったの」
「え〜?だって気持ち良さそうに寝てたからー」
「えええ!?」
「受験生だって居眠りするって。別にいいって」
- 394 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:28
-
里沙は笑顔で絵里に答えながら手元のノートの上にシャープペンを走らせる。
伏せた長い睫毛を揺らしながら、なかなかの速度で計算式が生まれでる。数行をイコー
ルで結んで、答えを導きだす。
「…なんでいなかったの」
「んー?」
「あっち」
さらさらと芯の削れる音がする。さらさらさら。白いノートが黒で飾られる。さらさら。
我ながら見当違いの質問をしたと、絵里は腕の下の真っ白なノートを見下ろす。頭の中
のぐちゃぐちゃとは反対に清々しいまでの真っ白だ。ガキさんはすごいな…。
さらさらさら。
- 395 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:29
-
「カメぇ、」
「んー?」
「…そしたら、誰がカメをあっちから連れ戻すの?」
「あ、あっち?」
そう行って里沙は視線で絵里の右手を指した。小さなこぶしの中には黒の金網、いや白
のシャープペンが握られていた。寝ぼけた持ち主のせいで芯は長く飛び出し、幾らかが
ノートに擦り付けられ散っていた。先には気にも止めなかった芯の引っ掻き傷は、幼な
過ぎる持ち主を睨んでいる。そのさまなどに微塵も眼をくれず筆記に勤しんでいた里沙
が顔を上げた。
「カラフルでごちゃごちゃして、抜け出すの大変なんだよねぇ」
悲しきかな、ここはxとyと、zの世界なのだ、と続けて里沙は笑顔を大人びたものに見
せた。蜂蜜色の空のように、あたたかくて眩しい笑顔。
- 396 名前:3 投稿日:2006/11/22(水) 00:29
-
「ガキさぁん…」
置いて行かれた気がして、絵里はひどく悲しくなって、顔がくしゃっとなるのが判った。
「ちょっ、どーしたカメぇ!」
「だってぇええ」
「なんなの!?どしたの!?」
涙はこぼれなかったけど、大丈夫だから!と言いながら頭を撫でてくれる里沙の小さい
手が嬉しくて絵里は微笑んだ。緩い笑いだった。何者にも責めることなど出来ない、会
心の笑顔だった。
だってガキさんが「大丈夫」って言うんだから。
ガキさんの「大丈夫」は、すごいんだから。
- 397 名前:3. i は‘ image ’ の 私 投稿日:2006/11/22(水) 00:30
-
- 398 名前:朝陽の校舎 投稿日:2006/11/22(水) 23:47
-
最終話 七色の嵐
- 399 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:48
-
「お待たせ。…たん、寝てた?」
「ん、ちょっとだけ居眠り。お疲れさま」
「本当に疲れました…ていうかさ、なんで受験生相手にトークショーしなきゃいけない
のかね、ただの大学生なのに。面倒くさい」
亜弥は美貴が買っておいた紅茶の缶を受け取り、長椅子にかける。はいありがと。冷め
ちゃった。いいよ。ん。青白い学生の集まる地方の進学塾。食堂入口の長椅子に、受験
生じゃないふたりはひどく目立つ。それを意識しているのは亜弥だけで、美貴は居眠り
まで成し遂げた。全くこの子は、と亜弥は薄く笑う。ここで学んでいた頃と変わってい
ない。この子は本質的に自由過ぎる。
「まーしょうがない、高学歴は塾の宣伝になるから。美貴たちの時もあったでしょ」
加えて、少年のように人なつこい笑顔のままで大人ぶったりするんだから困る。
精度の高いアンバランス。
- 400 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:49
-
「たんは講演聞いたことなんてないくせに。さぼってばっか」
「美貴はいいの」
答えながらときどき遠くに眼を遣る美貴が、亜弥にはとても気になる。
「あの子たち…たんの知り合い?」
「ん、ちょっと」
「ふーん…」
床と天井をつなぐ窓ガラスを大粒の雨が叩く。
「ガキさん」
「はい?」
「前、絵里が高校に行かなくなって何日経ったっけ、って聞いたじゃない」
「うん」
「あれ、どうして聞いたの」
「塾だけじゃなくて、学校でもカメと遊びたかったからー?」
「えー…私たち、受験生ですよ?」
「まあまあ。それに、重さんも田中っちも待ってるよ。2年生と遊べるのはあと少しだ
けだから、ね」
「…」
「無理に来なくてもいいんだよ。カメがガッコに来たくなったらおいで。カメが決めな
さい。それまではココで勉強するぞ、おー」
「お、おー?」
- 401 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:49
-
自信の無い絵里は今日も里沙に自分について尋ねる。
カメが決めなさい。
肯定。里沙は何も否定しないので、自信のない絵里は里沙への信頼ばかり積んでしまう。
拒否したっていいじゃん。
同時に魔女の言葉を思い出して、「絵里の世界」が音も無く、広がる。
- 402 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:50
-
「お、あれ…もっさんだ」
食堂の入口に並ぶふたりに、里沙は手を振る。
進学だけに向き合う病的な子どもたちの中に、明らかに華やかで異質な影がふたつ。
絵里は薄暗い天候に邪魔されながら眼を凝らすがよく見えない。
「誰?」
「愛ちゃんのともだち」
その「愛ちゃんのともだち」もこちらに気付いて、ひとりが手を振った。高い椅子から
よいしょーい!と降りて里沙が向かうその先を見て絵里は叫びだしそうになった。
「あ」
- 403 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:50
-
大きく口を開けた絵里をみて、手を振っていた魔女は子どもみたいに笑った。
なんて顔してんの、カメ、おいで、と里沙がちっちゃい手を出した。
あぁ、そうか、やっとわかった。
違うんです。いえ、違わないか。
青空に飛び込んで、拒まれて弾かれて…だからやっぱり拒否したんです。お互いに。
でもそれで良かったんです。
私がさぼったのは「望む」という自由について。
望んだのは、蜂蜜色の空だったかもしれません。
そうじゃないかもしれません。
でも、それでいいんです。
絵里はへらりと笑って、ちっちゃい手にすがりついた。
- 404 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:51
-
「たーんー」
「なに」
「さっきからあの子たちばっかり追ってる」
「あのね、」
「ん」
「『あの頃はなにもかもがバラ色だったな』って思っちゃう瞬間があるわけよ」
「うん?」
「じたばたしたけど」
「うん」
「…今もじばたしてるね、美貴」
「してるね」
「…否定してよ、亜弥ちゃん」
「…でもさぁ、今も結構バラ色で、もしかしたら虹色だったりしない?」
「なにそれ」
「例え。例えよ」
「…うん、そうだね」
- 405 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:51
-
- 406 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:52
-
絵里は屋上で沈黙していた。
- 407 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:52
-
この瞬間、校舎という束縛と絵里を結ぶのは、昼休みというわずかな自由だった。
自由?
それはとても曖昧で、毎年ちゃんと来る春の季節のように近くて遠かった。よく知って
いるのに、手のひらに感触を思い出せない距離感。
自分を取り巻く、広くて狭い世界。
正反対が同居する十代の頃。
当事者には永遠に見えない不確かの国。
絵里は、もっとしっかりと触れて、握り、収まって、安心出来るところへ行かなくちゃ
いけない。
両足を地につけて、五指に風を感じて、頭(こうべ)を真っすぐ前に向ける。
今、自分が投げ出されている開いた世界は、どうも好きになれない。
でも。
- 408 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:53
-
それはそれでいいんだぁ。
絵里はへらりと笑って、隣に座る里沙を見た。里沙は怒ったような困ったような顔。
カメ、口元が緩いから。閉めて閉めて。
あい。
…それにしてもよく晴れてるねぇ。勉強するのやんなっちゃうね。
ねぇ。やめよっか。よしガキさん、サボろ。
コラー それはダメだからー
- 409 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:54
-
とうに終わって片付けられたふたつの弁当箱を挟んで並んだふたりはきゃっきゃと笑っ
て、継ぐ言葉を忘れて空を見上げる。
絵里の美しいふたつの眼に映った空は、見たことの無いような青だった。
地続きの果てまで続きそうな。
虹の架かりそうな。
天使の渡りそうな。
そういえば、夢の中には天使がいなかった。
神様はわからないけど天使はいる、と絵里は思う。絵画で表された可愛い子どもの天使。
だが、その天使が裸足なのかとか、少女の頃しか出来ない背伸びで爪を彩っているのか
などということは、全く考えなかった。
昼休み終わんないといいなぁ!急に里沙が叫んでころんと後ろに寝転ぶので、絵里は真
似して転がった。
- 410 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:55
-
大丈夫。
きっといつまでも空は青いに違いない。
絵里はそれを望む。
青空の広がる屋上はあまりに美しく、時間が止まりそうで少しだけ怖い。
過ぎた三年間の一瞬を思い返そうと、絵里は眼を瞑る。
繰り返し。月が昇り朝が来て、太陽が過ぎて夜になる。
繰り返し。朝陽の中を登校し、夕日の中を帰っていく。
来年も再来年も十年先も、見知らぬ誰かが行きて去る。この繰り返しは、思い出や、建
物の一部なのかもしれない。絵里も、誰かの夢なのかもしれない。
一体、誰の夢なのか?
眩しい太陽の光線が届いて、閉じた眼のまぶたの裏は一面、蜂蜜色になった。
- 411 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:55
-
- 412 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:55
-
- 413 名前:… 投稿日:2006/11/22(水) 23:55
-
- 414 名前:七色の嵐 投稿日:2006/11/22(水) 23:58
-
end
- 415 名前:kkgg 投稿日:2006/11/23(木) 00:00
-
以上を持ちまして、森板「朝陽の校舎」は完結です。
ありがとうございました。
なかなか沢山書いてしまいました。
より読み易くて楽しめる作品を書けたら、また森か何処かにお邪魔しようと思います。
- 416 名前:kkgg 投稿日:2006/11/28(火) 23:11
-
短編 ◆ もくじ
通信( >>325-336 )
菫( >>341-353 )
- 417 名前:kkgg 投稿日:2006/11/28(火) 23:12
-
eとrと、Iの世界 ◆ もくじ
1. e は‘ end roll ’ の 許可( >>358-370 )
2. r は‘ reducible ’ の 半径( >>371-380 )
3. i は‘ image ’ の 私( >>381-397 )
- 418 名前:kkgg 投稿日:2006/11/28(火) 23:13
-
朝陽の校舎 ◆ 最終話
七色の嵐( >>398-414 )
- 419 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/12/01(金) 04:12
- 完結お疲れ様です。
真っ直ぐで眩しくて爽やかで。
でも一抹の不安というか焦燥感みたいなものもあって。
大好きな作品でした。みきよし吸血鬼のお話も大好きです。
またいつか素敵な作品を読ませて下さい。
- 420 名前:kkgg 投稿日:2006/12/06(水) 20:32
- >>419 名無し飼育さん
自分の書いた物を客観的に見るのが難しいので、表して下さったあなたに感謝です。
そして「大好き」といって頂けるのがとても嬉しいです。
またいつか、のご期待に添うよう、妄想膨らませておきますー。
- 421 名前:kkgg 投稿日:2006/12/17(日) 23:40
-
森板で「過ぎし日の国」という話を書いています。
リボンの騎士後日談のイメージ、みきよし(魔女と大臣)メインでオールキャラ予定。
八月病はまだ治りません。
ttp://m-seek.net/cgi-bin/test/read.cgi/wood/1165503272/
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