キャノピィ・オブ・ヘヴン

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/21(火) 22:02
「なんで空はあんなに青いのかって?」

「きっと神様が溜息でもついてるからじゃないかな」
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/21(火) 22:03


キャノピィ・オブ・ヘヴン

3 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/21(火) 22:04
track1. a day on the ashtray



路地裏のバーは相変わらずいつものように薄暗かった。
フライパンの底みたいに夜の闇がべっとりと焦げついているからかもしれない。
頭上には埃まみれのライトが静かに浮かんでいる。
多分自分のことを月だと勘違いでもしてるんだろう。
くすんだ窓のガラスの表面では地上の厭らしさを凝縮したかのように
けばけばしいネオンの光が滲んでいた。

私はため息を一つ吐き出すと、安物の煙草を口にくわえた。
煙草なんて一度だって美味いと思ったことがない。
それなのに、気がつけば口に含んでいたりする。
どうしてだろう?
くだらない疑問をそのままにして、
私はくたびれたシャツのポケットから取り出したライターで火をつける。
紅く弾ける小さな火がフレアのように見えた。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/21(火) 22:05
立ち昇る、煙。
雲のように、見える。
いや、やはり煙だろうか。
ライターを握り締めたままの右手に視線を落とした。
煙草に火をつけるように、私はこの右手で機銃を撃つ。
青空に焦げ臭い黒煙がループする。
冷たいキャノピィ越しに見えるそれは、思い出すだけで綺麗だ。
だけど、地上でそのシーンを見たことは一度もない。

なるほどね……
私は誰に言うでもなくそう呟くと、すすけたアルミの灰皿のふちで煙草を叩いた。
だから、その代わりに。
私は煙草に火をつけるのかもしれない。
だって空の上で煙草なんて吸ったことなんかないから。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/21(火) 22:05
壊れかけのジュークボックスからはノイズ交じりのミュージックが申し訳なさそうに流れていた。
店内にはねっとりとした空気が所在無さげに漂っている。
その退廃的な空気が喉の奥に絡みつくような気がして、私はすっかり薄くなった水割りに口をつけた。
もともとアルコールには強くない方だから、丁度いい割合だと言えなくもない。
そういえば、アルコールも気がつけば飲むようになっていた。
だけどそれは私のせいじゃないはずだ。

急上昇するかのようにグラスの角度を傾ける。
体中に染み渡る空の上のような冷たさ。
私はもう一度ため息に似た吐息をついて、空になったグラスをカウンターに着陸させた。
グラスの中の氷が、カランと寂しげに音を立てる。
その直後。
古ぼけたドアのベルの音が背後でゆっくりと響いた。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/21(火) 22:06
私はそちらを振り返ることなく、再び煙草を口元に運ぶ。
地上の対象なんて、もともと興味というレーダーの範囲外だ。
ドアを開けた客が誰かなんて、別に私の知ったことじゃないだろう。
そんな事を考えながら、目を閉じて煙を口に含んでいると、その客が左隣の席に座った気配がした。
私は右側に体をロールすると、ゆっくりと煙を吐いた。

「バラライカ、お願いね。あと、この子にお似合いのカクテルを」

肩越しにダイブしてきた声。
それを聞いて、私は口元を思わず斜めに傾けた。
こんな気障なオーダーをするやつなんて、この世界でたった一人しか私は知らない。
煙草を灰皿に押し付けながら、椅子をゆっくりと旋回させる。
油が切れていたのか、うめくような音が椅子から漏れた。
もしかしたら私からだったかもしれない。
思考を切り替えて、視線を少しだけ上方に修正する。
視界に入ったのは、大きなアーモンド・アイ。
その瞳は当然のように私を照準に捉えていた。
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/21(火) 22:07
「久しぶりね、矢口」
「……圭ちゃん」

あまりに突然のヘッド・オン。
動揺しなかったと言えば嘘になるだろう。

「どうぞ」
マスターが私の手元に新しいグラスを置いた。
鮮やかなブルーのカクテル。
まるで、あの日の青空のように透き通っている、と不覚にも私はその時思ってしまった。
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 20:53
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 20:55
track2. first day in our dreams



晴れた日のことだった。
空の色はかき氷みたいに爽やかに透き通っていて。
初夏の風がユーカリの梢をゆっくりと揺らして過ぎていく。

私を乗せた車はガラガラのハイウェイの上を滑るように走り続けていた。
時折思い出したように現れる小さなカーブがプレゼントしてくれる横向きのGが心地よい。
窓ガラスから折れ曲がって車内に飛び込んでくる太陽の光。
クリスタルの粉末をばらまいたみたいにキラキラとした空気が、
青空の下でハミングしながらスキップしているような、
そんなのん気な陽気に身を浸していると、
今が戦争の真っ只中であることを忘れてしまいそうになるってものだ。
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 20:56
だけど、戦争っていったって、政府から委託された会社が、
これまた反政府組織から雇われたスカイ・ゲリラと荒っぽいダンス・パーティで踊っているだけだから、
一般市民からしてみると、なんのことはない普通で通常な日常が続いているだけなわけで。

要するに、私はそんな最大公約数的退屈にすっかり飽きてしまっていた。
朝起きて、まだ重さの残る瞼をこすりながら顔を洗うことも。
街に出て、友達とおしゃべりしながらクレープをかじることも。
夜、暖かい毛布にくるまって、穏やかな眠りに堕ちていくことも。
何気ない日常の一コマ一コマに私はほとほとうんざりしていて。
それでも繰り返されるモノトーンな世界のループ。
そのどこにも、私が生きている証があるようには思えなかった。
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 20:57
だから私はパイロットになることにした。
理由は特にない。
昔から動機を言語化するのは苦手だったし、それをあえて行う価値も感じられなかった。
しいて言うならば、飛行機に乗るのが好きだったからだろうか。
もちろんスクールに入るまで、戦闘機に乗ったことなんてなかった。
ただ、ずっとずっと昔、両親に連れられていった休日のデパートの屋上で、
おもちゃの飛行機に乗せてもらったときの記憶は今でもよく覚えている。
その浮遊感は、今思えばすごく子供だましだったけど。
それでも眩暈を覚えそうな快感で。
まるで地上の退屈を全て脱ぎ捨ててハダカになったかのような気分だった。
多分、その瞬間からずっと感じていたのだ。
私が生きるのはきっとあの青い空の上なんだろうと。
でも、その時の私はまだまだ子供だったし、どうすれば空に上れるのかなんてちっともわからなかった。
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 21:04
それから相変わらず退屈な時間だけが過ぎた。
私も不本意ながら、色褪せた日常をただ毎日繰り返しては溜息をついていた。
そんなときだ。
戦争が起きたのは。
とある反政府組織が特定地域に関する国からの独立を要求して武力行使を開始した。
政府はこの事態の沈静化を民間の企業にほぼ全面的に委託した。
どうやら自前の軍隊を動かすまでの価値はないと判断したようだった。
それに対抗したのか、反政府組織もスカイ・ゲリラを雇い入れ、こうして局面は空の上に持ち越された。
そこには既に、当初の目的だとか志といったものはない。
お互いに戦争をビジネスとする集団だ。
自分たちの飯の種をすぐに手放すはずもなく、戦闘はそこそこに行われ、事態は必然的に長期化することになった。

戦争だとか、平和だとか、道徳だとか、正義だとか。
はっきり言ってそんなもの、私にとってはどうでもよかった。
ただ、空が飛べる時代がやって来たというその事実だけが素直にうれしくて。
私はすぐにとある会社のパイロット養成機関であるスクールに入った。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 21:06


車はいつの間にか静かな田園風景の中をゆっくりと走っていた。
私はひとり、後部座席に座って窓の外をぼんやりと眺めていた。
視界の上半分を占める空の中を流れる雲が羊の群れのように白い。
柄にもなく、緊張していたかもしれない。
運転手は無愛想な男で一言も喋らなかった。
スーツの内ポケットから折りたたまれた書類を取り出して広げて見る。
それはパイロット・スクールの卒業と同時に発令された辞令だった。
配属先は結成されてまだ一年も経っていない小さな部隊である。
大きなミッションはまだ一度しか遂行していないようだったが、
担当エリアから考えると、今後は仕事が増えそうな部隊だった。
それに小さな部隊のほうが出撃機会も多いだろう。
これからのことと、空の色を思うだけで興奮してしまう。
おかげで昨夜は少し寝不足気味だった。
できるだけ眠っておいたほうがいいかもしれない。
私は揺りかごのように揺れる車のシートに身をまかせ、ゆっくりと目を閉じた。
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 21:07
次に目を開けたとき、車は既に駐車場に止まっていた。
どうやら停車する際の振動で起きたらしい。
時計を確認したところ、小一時間ほど眠っていたようだ。
ドアを開けて、外に出る。
アスファルトに靴の音が鳴った。
風が首筋をそっと撫ぜていくのが心地いい。
私はゆっくりと周囲を見渡した。
駐車場には数台の車が並んでいた。
その向こうにはねずみ色の建物が数棟見える。
左側には滑走路があった。
エンジン音が聞こえる。
飛行機が五機、待機していた。
ちょうど離陸するところのようだ。
スタンバイが完了したのか、左端の機体がゆっくりと動き出す。
滑走路の端まで到達すると、一気に加速を開始した。
空気が轟音に切り裂かれる。
直後、太陽の光がきらめいて。
そして機体は一瞬の内に大きな空へと舞い上がった。
残された四機も順番に離陸すると、空中で編隊を組んで、南西の方角へ消えていった。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 21:09
出撃を密かに見送った後、トランクから小さなスーツケースを取り出していると、男が一人近づいてきた。
短髪に黒いスーツ姿のその男は名前を一言名乗ると、私についてくるように促した。
駐車場のアスファルトの上に動く二つの影。
あまり手入れの行き届いていない植込みの間のペデストリアンを抜けると、
男は振り返ることもせず、コンクリートを打ちはなした建物に入っていった。
小さな三階建ての建物だったが、周りをみると、どうやらこの敷地内で一番大きな建物のようだ。
入口のドアの抜けると病院のように薄暗い通路が真っ直ぐに続いている。
幸いにも消毒液の匂いはしなかった。
男はすでに通路の奥まで進んでいる。
その後に続く。
靴の音だけが辺りに響いた。
突き当たりを右に曲がると階段だった。
予想は既にしていたけど、やはりエレベータなんてものはないらしい。
私はスーツケースを抱えながら階段を上る。
男は一度も振り返らない。
飛行機に乗って空へ上るときはあんなに気持ちいいのに、
階段を上るのが辛いだけなのは、結局は空と地上との違いということなんだろう。
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 21:10
ノンストップで三階まで上がったときには軽く息が切れていた。
もし自分の体にメータがついていたら、かなりの異常値を指していたに違いない。
階段から真っ直ぐに伸びる通路。
その突き当たりのドアの前で男は立ち止まっていた。
どうやら目的地に到着したようだ。
息を整えながら、ドアの前まで歩を進める。
男は動かない。
任務を終えた、ということだろうか。
私は最後にもう一度だけ深呼吸をして、ノブを回す。
小さな動物の鳴き声のような音を出して、ドアが手前に動いた。
部屋の奥に大きな窓。
その窓を覆うブラインドの隙間から差し込む逆光がまず目に入った。
その手前には大きなデスクが一つだけあって、
男が一人、椅子に座ったまま背中をこちらに向けている。
そしてさらにその手前。
ちょうど入口から数歩入ったところに、スーツ姿の女が二人立っていた。
同じように今日配属されたパイロットだろうと判断する。
私はその二人の左側にポジションをとって待機した。
背後でドアが閉まる音。
さっきの男だろう。
その音がまるで合図だったかのように、椅子に座っていた男が立ち上がった。
17 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 21:11
「揃ったようやな」

聞き慣れないイントネーションだな、と思いながら私は姿勢を若干修正する。
男は古い刑事ドラマみたいにブラインドの隙間から一度外を眺めると、
満足そうにこちらを振り返った。
安っぽい青紫色のサングラスをかけている。
趣味が悪い、と素直に心の中で評価した。
サングラスの男は私たちを一瞥するとゆっくりと口を開いた。

「ようこそ、我が部隊へ。俺はこの隊を統括する寺田や。
 まぁ、キミらの上司やと理解してくれればええやろ」
18 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 21:12
寺田と名乗った男は机の上から書類を取り上げると、
「そしたら、名前だけでも自己紹介してもらおか。お互い初対面やろうしな」
とニヤニヤしながら言った。
「コードネームですか?」
私と逆サイド、一番右にいた女が質問する。
「いや、ウチの隊はコードネームは使わん。基本的に本名でやってもらう。そういうポリシーや」
その回答に私は思わず安堵の息をついた。
パイロット・スクール時代に教官からコードネームをつけてもらったが、
正直あまり気に入る名前ではなかったからである。
そういえばあの時の教官も、寺田という男に似たイントネーションをしていた。
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 21:13
「じゃあ、そっちから順番に頼むわ」
寺田は質問した一番右の女を軽く指差した。
私も、そこで初めて視線だけそちらの方に向ける。
一番右にいたのは栗のような色の髪と猫のようなアーモンド型の瞳をした女。
真ん中にいたのは黒髪おかっぱスタイルの大人しそうな少女。
年齢的には自分は真ん中かな、と意味もなく判断した。

「保田圭です」
「……市井紗耶香」
右側にいた二人が、実にシンプルに自己紹介した。
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 21:14
それが彼女たちと初めて出逢った日だった。
もう七年くらい前になるだろうか。
その日、初めて三人だけで飛んだ空の色を、私は今でも忘れない。
彼方まで透き通るようなシリウスブルーの空。
それはまるで白雲のベッドを包む天蓋のようで。
辺りはゆるやかな陽の光に満たされていたせいだろうか、
まるで眠っているかのように静かで、そして穏やかだった。
きっとこういう場所を天国って言うんだろう。
ここでなら、きっといつまでも楽しい夢を見続けることができる。
あの日の私はそう信じて。
疑うことすら忘れたまま、ただ心を空に溶かしていた。
21 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/25(土) 21:15

22 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/28(火) 18:08
期待。
23 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:15
track3. one day on the ground



あの日の風は、いつもより冷たかった。
その頃の季節には少し不似合いだと思ったことを覚えている。
その日、非番だった私はお昼前まで固いベッドの上に沈んでいた。
24 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:17
夢の世界に片足だけ素足を浸したような感覚。
窓枠に切り取られた空がソーダのように眩しい。
その小さな青いキャンバスに白煙のラインが二本踊った。
後方にいた機体の色はくすみがかったアンティークイエロー。
圭ちゃんの飛行機だ。
何かの任務だろうか。
二機編成ということは、もう一機は石川だろう。
センスレスなストロベリーピンクの機体が、
遠慮レスでスパイラル・ダイブをかますシーンが思わず脳裏に再生される。
圭ちゃんと飛んでいるときにアレをやったら、きっと即座にどなられるに違いない。
そんなイメージをして、私は少しだけ口もとを緩めた。
25 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:18
石川は私と同じ第一小隊に属していた。
メンバーは全部で四人。人数だけで言うと、昔より一人多い。
ただ二機編成の任務のときは、石川は圭ちゃんと飛ぶことがほとんどだった。
以前裕ちゃんに何気なく理由を聞いてみたところ、
「教育係やったから」
というフライドポテトみたいに至極シンプルな回答が返ってきた。
私はそれを聞いて、そんなもんか、と評価した。
半分だけ。
残りの半分はおそらく圭ちゃんの意思だろう。
または石川の希望かも知れない。
少なくとも片方、あるいは両方の意見が編成に影響を与えただろうということは、
残念ながら容易に想像することができた。
26 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:19
ドアをノックする音。
私はベッドの上で天井を眺めながら、どうぞ、と気のない返事をした。

「矢口、ちょっとええか?」
その声を聞いて、私は顔だけそちらの方に向ける。
ドアから姿を見せたのは裕ちゃんだった。
もしかしたらイヤな顔をしていたかもしれない。
非番の日に自分のリーダーが訪ねてくるなんて、
どうせロクでもない用事だって、世間の相場は決まっている。
27 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:20
「……何?」
「寺田さんが呼んどる。部屋まで来てくれるか?」

非番の日に、上司の指示で、リーダーがわざわざ部屋までお出迎え。
なんて素敵なロイヤルストレートフラッシュだろう。
できることなら全部のカードを今すぐチェンジしたい気分だった。
非番なんだけど、という言葉をあと少しで発射しそうになったけど、
ぎりぎりのタイミングでそのトリガにかけた指先を外すことができた。
私だって一応サラリーマンだ。
上司やリーダーの命令には基本的に従う必要がある。
空の上だって、きっと同じだ。
28 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:21
「いいよ」
私はベッドから体を起こすと、椅子の背もたれにかかっていたシャツを無造作に取り上げて羽織った。
昨夜の空気をすっかりと吸い込んだ白いシャツはひんやりと冷たくて。
どこか、雨の日の空の中に似ていた。
29 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:23


宿舎のロビーの片隅で低いうなり声を上げていた冷蔵庫からコーラの瓶を取り出すと、
窓際に寝転んでいたソファに思い切り身体を投げ出した。
外に浮かんでいる空は人の気も知らないようで、能天気に真っ青だ。
安物の栓抜きで瓶の蓋を抜くと、炭酸の抜ける音がした。

微かな音を立てるカラメル色の液体を半分ほど一気に飲んで、
ソファにもたれかかるように体を沈めた。
溜め息が一つ抜ける。
炭酸みたいに。
私の心もいつの間にかシェイクされていたのだろうか。
30 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:25
―― 本日付けにて第一小隊からの解任、およびキッズ・スクール教官への就任を命ず

寺田さんのオフィスで受けた辞令は、覚悟とも言える私の事前予想を
軽くループオーバーしていくものだった。
戦争が終わり本隊が開店休業状態の最近は、第一小隊としてのミッションが私の仕事のほとんどだった。
その第一小隊のメンバーから外されるということは、要するに左遷と同義である。
何か言わなきゃと思ったけど、結局気の利いた言葉は出てこなかった。
カウンターの余地すらない、パーフェクトなアタックだった。
空の上でこんな攻撃なんか食らったことがない。
要するにこれが地上ってやつで、
要するにこれが組織ってものなんだろう。
31 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:26
もう一口コーラを飲む。
炭酸だけはやけに無邪気で、渇いた心を癒してくれた。
オーケー、結局すべては空の上だ。
キッズ・スクールの教官なんてくだらない仕事でも、とりあえずは飛べるだろう。
そう思うと、少しだけ気分が軽くなったような気がした。
意外と思考回路がお手軽にできていて、非粘着気質な私なのだ。

気分なおしに煙草をくわえて火をつけた。
リリースした煙はゆっくりと空に舞い、そして消える。
こんなメランコリィな気分だって、空に置いてくれば消えるだろう。
早く飛びたい。
どんな仕事でもいい。
次の離陸がすごく待ち遠しく思えて、私は空を見上げた。
32 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:27
北北東に機影が一つ。
徐々にこちらに近づいてくる。
降下体勢に入った。
誰かが帰還してきたのだろう。
少しだけ目を細めてピントを合わせる。
悪趣味なストロベリーピンク。
石川だ。
お世辞にも上手いとはいえない石川の着陸を確認すると、
私はすぐに視線を空に戻した。
広がるのはソフトクリームみたいな雲だけ。
他に機影は見えなかった。
33 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:29


時計の短針はとっくの昔にお辞儀をして、空気はしっとりと茄子紺色に染まっていた。
石川は今日のミッションの報告のために、寺田さんのオフィスに行っているはずだ。
もうじき帰ってくる頃だろう。
私は宿舎のロビーで彼女を待ち伏せた。
古ぼけた蛍光灯が微かな息継ぎを繰り返す。
そのサイクルが心臓の鼓動にシンクロするような気が少しした。
風の舞う音。
草木が揺れる声。
まるで世界の果てから届いているかのように、遠い。
34 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:30
入口のドアがあくびをするように開き、パイロットが一人帰還する。
私は胸の前で腕組みをしたまま、彼女を出迎えた。
石川がうなだれていた顔を上げる。
クロスする視線。
居心地の悪そうな表情が、彼女の顔に浮かぶ。
聞くべきか、それとも聞かないでおくべきか。
頭の中では迷っていた。
けれど、保留なんて都合の良い選択肢なんか、パイロットには与えられていない。
私は石川の瞳を射抜くように、唯一の質問を投げかける。

「なんで一人で帰ってきた? 圭ちゃんはどうしたの?」

石川はあきらめたように天井を仰いだ。
できれば、答えないで欲しい、と祈った。
勿論、そんな都合の良い選択肢もあるわけがなかった。
35 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:32
石川はため息をついてソファに身体を沈めると、昼間の出来事を私に報告してくれた。
保田さんが、行っちゃいました、と。
私はその内容を意外と冷静に聞くことができた。
その答えをあらかじめ予想して準備する時間が十分にあったからだろう。
それとも、こんな日が来るだろうとそもそも思っていたからかもしれない。
石川の表情は一見、落ち着いていたように見えた。
けれど少しでも気を抜くとすぐに崩れ落ちそうな、そんな危うさに包まれていた。

「そっか…、行っちゃったんだ……」

できるだけ明るくつぶやいたつもりだったけど、多分寂しさが漏れていただろう。
その不覚を呑み込んで、折れ曲がった煙草に火をつける。
それから二人でビールを飲んだ。
別にアルコールなんか飲むような気分じゃなかったけれど、
珍しく石川が自分からビールの栓を抜いたので少しだけ付き合うことにした。
36 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:33
「いつかこんな日が来るとは思ってたけどね……」
薄汚れたソファに座り、煙をゆっくりと空中に広げる。
鈍い蛍光灯の光が、その粒子にぶつかって反射していた。
「どういうことですか?」
石川はグラスにビールを注ぎながらそう聞いてきた。

「時代は変わったって事だよ」
「時代?」
「そう。戦争が終わって一年。スカイ・ゲリラの残党との戦闘も今年になって殆ど無くなった。
 もう機銃なんて流行遅れで重たいだけのアクセサリ。それが時代の流れってやつ」
37 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:34
私も今までの空を奪われた。
圭ちゃんみたいな根っからのファイター・パイロットなんていわずもがなだ。
彼女自身もわかっていたんだろう。
もうこの部隊に、自分がいる理由も、必要もないってことを。

あきらめに似た気持ちと一緒に、吐き出した言葉。
自分で言ったくせに、すぐに空しさで胸が一杯になったから、私はグラスのビールを半分だけ飲んだ。
相変わらず、ほろ苦い。
だけど、それが、今だけは優しいと感じた。
38 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:35
「時代、ですか……」
石川は持っていた瓶をもう一度傾ける。
私のグラスは再びビールで満たされた。
圭ちゃんの代わりも、こんな風にしてすぐに補充されるだろう。
それがパイロットってやつだ。
ぬるくなったビールに冷たいビールが混じりこんだって、
書類の上で瓶を適当に傾けるだけの偉い人たちにとっては、どうでもいい瑣末なことなんだろう。
39 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:36
いつの間にか瓶は空っぽになっていた。
ようやくペースが乗ってきたと思った矢先にコレだ。
だけど、世の中なんてそんなものだろう。
さすがに二本目まで空ける気にはなれなかったので、
私は短くなった煙草をくわえなおして、ゆっくりとソファを離脱した。

壁にもたれるようにして立っている小さな本棚。
その上にあった地球儀を左手で撫でる。
小学校の理科室にあるようなそれは両手におさまる程に小さい。
だけど本当の地球は、こんなオモチャなんかよりずっとずっと大きくて、
そして本当の空は、全てを包んで隠してしまうくらいに広い。
40 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:37
「きっと圭ちゃんは自分が飛ぶことのできる空を探しに行ったんだね」

あまりにも純粋で、それがゆえに不器用で。
ただ無垢に。
青く柔らかな空に包まれて飛ぶためだけに。
彼女は、去ってしまった。

地球儀の回る音だけがカラカラと響く。
石川はグラスを両手に抱えるように持ったまま正面をじっと見据えていた。
少しだけ憂いを交えた表情。
圭ちゃんは彼女を最後のパートナーに指名した。
私は気づかれないように息をつく。
鼻の奥が少しだけツンとした。
41 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:39


誰もいなくなった食堂の片隅。
ポケットから最後の煙草を取り出して、いつものライターで火をつける。
一瞬だけ、赤い。
そして、すぐに闇に戻る。
半分だけ開けた窓からは、せっかちな夏の匂いが少しだけ混じった風が流れ込んできていた。
空には星。そして月。
ぼんやりとにじんでいる。
彼女もどこかで、この空を見ているのだろうか?
42 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:40
「ごめんね」

空虚な呟きがぽつりとこぼれた。
戦争が終わり平和という白いベッドの中で、時代は束の間の眠りにつこうとしている。
そんな世界に、不器用なファイター・パイロットが飛ぶ空なんてない。
その背には自由に飛べる翼があるのに。
それを広げるだけの空すらないなんて。
彼女の痛みと、そして絶望を想う。
それは全てをかき消してしまうような漆黒の世界の奥底で。
この夜の空でさえ、眩しく錯覚して見えた。
43 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:41
風が止んだ。
黒く塗りつぶされた基地のアウトラインが、空の半分を切り取っている。
虫の音が遠くから微かに聞こえていた。

スクリューする気持ちを抑えつけるように、私は前髪を掻きあげた。
心まで渇ききった彼女に、私は、結局何もできなかった。
せめてその痛みだけでも一緒に分かち合ってあげれば良かったのだろうか?
いやきっと、それすらも彼女は許してくれないだろう。
44 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:43
何も言わず、背中を向けて去っていった同期の彼女を再び想う。
こんな気持ちを味わうのは、多分これが二回目だ。
あの日、あの透き通った空の下で出会った私たちは、
それぞれに傷つき、そしてそれぞれに空を違えた。
だけど私だけが変わらぬまま、色褪せた空の下、冷たいレールの上にいる。

本当に、心が渇いているのは誰だろう?
本当に、痛みを抱え込んでいるのは誰だろう?

舞い踊る紫煙。
目に沁みた。
やっぱり、煙草なんて吸うもんじゃない。
45 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:43
46 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:48
>>22
ども。久し振りに書きました。
空気は多分読めてませんが、どうぞよしなに。
47 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/01(金) 00:29
『マヌーヴァ』大好きでした。
楽しみにしてます。
48 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:26
track4. no day after the rain



朝になって降り出した春先の雨は、昨日までのピーカン・スプリング・サンシャインが
まるで夢まぼろしであったかのように、窓ガラスに容赦なく先制特攻を展開し続けており、
寺田さんのオフィスにはその低い被弾音が下手クソなドラムのように小さく不規則に響いていた。
49 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:29
寺田さんは、まるでそれが雛形だと言わんばかりに、
例のごとくブラインドの隙間を指で広げ、窓の外をずっと眺めている。
いったいそこから何が見えるのだろう?
いつか出世してあのデスクに座れるようになったら、絶対真っ先に確認してやろう。
そんなことをぼんやりと思いながら私は一人、デスクの前で直立不動の体勢を保っていた。
もっとも、この会社で出世する可能性なんて既に万に一つも残されてないことくらい、分かってはいたけれど。

50 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:36
「……理由を聞いたほうがええか?」

寺田さんは背中を向けたままそう聞いた。
デスクの上には数枚の書類と写真が無造作に散在している。
その横の灰皿には煙草の吸殻がサービス満点に盛られていた。

「いいえ」

私は短くそう答えた。
デスクに散らばっている書類のコピーはついさっき裕ちゃんから見せてもらっていた。
内容は一週間前の私の行動についてのレポートである。
書かれた本人からしてみれば事実誤認も甚だしい、極めて幼稚で稚拙なものだった。
しかし、第三者的視点から客観的にそのレポートの内容だけを評価した場合、
残念ながら、会社としてはスキャンダルと判断せざるを得ない表現で記述されていた。
要するに、何者かが何らかの目的と意図をもって作成したレポートだということだ。
51 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:37
「この男に会ったゆうのはホンマか?」
「はい」
「……何を話した?」
「特に何も」

一週間前の夜。
私は古い友人と久し振りに会うために基地から数十キロ離れた市街地へと繰り出した。
昔の知り合いの中では唯一気の合う友人だったので、彼女に会うのはそれなりに楽しみだった。
しかし待ち合わせの店に入ってみると、彼女の他に見知らぬ男が一人いた。
てっきり二人きりで昔話ができると思っていた私は鳩が豆鉄砲を被弾したような顔をしていただろう。
彼女はそんな私の顔を見て笑いながら、隣にいた男を紹介してくれた。
聞けば、婚約者だと言う。
次の秋には結婚する、と彼女は向日葵のような笑顔を私に向けた。
52 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:39
その後、三人で食事をした。
素朴だが温かみのあるフランス料理が美味しかったと記憶している。
途中、彼女の携帯に電話が入った。
なんでも緊急の仕事の用事だったらしく、ごめんね、と彼女は言い残し一旦中座した。
それから約二十分くらいだろうか。
彼女の婚約者と二人きりのテーブルの時間が流れた。
どうやらその時のシーンを写真に撮られていたようだ。
だけど、それだけならそこら辺に転がっている三流ゴシップ紙と大差ない。
私個人の評価については別問題として置いておくとして、
少なくとも一従業員のプライベートなんて会社が重要視する問題ではないはずだ。
53 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:40
しかし、まずかったのはその男がスカイ・ゲリラの一員だったいうことだ。
敵対する組織の人間と二人きりのディナータイム。
これがスポンサーの目に触れるようなことにでもなったらまず間違いなく一大事である。
下手をしたら、こんな辺境の一小部隊なんて一瞬の内に取り潰しだろう。
会社なんてそんなもんだ。
だからこの後、寺田さんがなんて言うかも、大体想像がついていた。
54 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:41
「……俺は、別にお前が機密情報を漏らしたとかそんなくだらん妄想は信じとらん」
寺田さんは煙草に火をつけながらそう言った。

「そやけどな、敵対組織との密会は理由の如何に関わらず、即、第二級厳罰や」
わかるな? と言った目つきで寺田さんは私を見る。
私はその無言の問いかけに小さく頷いた。

一週間前までの私だったら、きっと激しく抵抗していただろう。
だけど、今はもう、何もかもがどうだって良かった。
目の前の映像はただ虚ろに揺れるだけで。
意識は思考を自分勝手に一週間前のあの夜にリバースさせる。
55 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:43
あの時、写真を撮れたのは誰だ?
あの男と私を二人きりにすることができたのは誰だ?
あの場所に私が現れることを知っていたのは誰だ?
誰だ?
誰だ?
それは……
どうして……?
何のために……?

回転する記憶。
胸の奥から気持ち悪いものが込み上げてきて、何度もモドしそうになる。
思考がループを幾重にも描いた。
推測が導き出した結論は、何度繰り返しても同じ場所に着陸して。
その度に、冷たい傷跡を私の心に刻み込む。
56 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:44
「……お前がそのルールを知らんやったとは言わせん。
 たとえ意図的やなかったとしても、会ったのが事実なら規則の適用対象や。
 最近はコンプライアンスとやらで色々うるさくてな」

再びブラインドに閉ざされた窓を振り返りながら寺田さんはそう言った。
私は視線を意味もなく右舷に放り投げる。
もういいんです。
唇が、そう呟きかけた。
この地上で信じられるものなんて、やっぱり何一つなかった。
そして空にさえ、今はもうない。
57 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:45
「悪い、矢口…… 俺、お前を守れへんやったわ」
何かを押さえ付けるように、小刻みに震える背中。

「処分は後日正式に下りてくる予定や…… それまでは謹慎しといてくれ」
「……ありがとうございました」
その背中に最後の敬礼をして私は部屋を後にした。
58 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:46
寺田さんの部屋の外にいたのは裕ちゃんだった。
もちろん裕ちゃんも大体の事情は知っているだろう。
その灰色の瞳が何かを言いたげにしてたけど。
私は口もとを僅かに上げただけで彼女の前を通り過ぎ、
そして階段を下りた。
靴底の鳴る音が雨に交じり、かすんでいく。
辺りに漂う空気は春とは思えないほど冷たかった。
59 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:46


その日の午後。
あても無く、ただぼんやりと歩いていた私は、いつの間にか宿舎の屋上にいた。
雨はその強さをますます強めている。
濡れた前髪を額に張り付かせたまま、私は上空を見上げた。
空一面に煙る消炭色の雲。
陽の光を閉ざすように、押し黙る空。
そのずっとずっと下には滑走路が視界を横切るように伸びていて、
落ちてくる雨粒が容赦なくアスファルトを叩いていた。
60 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:48
私はフェンスにもたれかかりながら、小さな吐息を漏らした。
うっすらとした白いもやが、私から飛び立って、そして消える。
聞こえるのは、篭もるような雨の音だけ。
他には何も聞こえない。
静かだ、とさえ思った。
まるで大きなコクピットの中にいるようだった。
無意識に左手がスロットルを手探る。
右手の指先は機銃を撃つ時がくるのを待ち望んでいるかのように震えていた。
61 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:48
空の一番彼方がぼんやりと明るかった。
向こうは晴れているのだろうか?
飛びたい、と思った。
思い出に焼けついた七年前の空の色が、私の心を揺さぶるように染め抜いていく。
胸が燃えるように熱い。
その熱が身体からあふれ出し、現実を溶かして、空にさまよう。
地平線の向こう。
あの日、別れを告げることなく去っていった彼女を不意に想い出す。
何年振りだろう。
会いたいと思った。
理由はない。
ただ、何もかも失った今になって。
あの時、同じように飛ぶ空を失った彼女に。
それでも、無垢に生きるため自分の空を追い求めた彼女に。
会いたいと思った。
62 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:50
だけど、ふと気付いて、私はゆっくりと瞼を閉じる。
息を漏らして、舌を打った。
何を考えているんだ、私は。
会えるはずないだろう、常識的に考えて。
だって、空はこんなにも大きくて。
そして、無情なほどに冷たく広い。
そう、だから。
私たちは飛んでいたんじゃなかったのか?
自分だけの空を。
誰が為でもなく。
自分だけのために。
63 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:52
だから、せめて。
美しく、柔らかい夢を空に描き続けたかった。
そうすれば、追いかけられたかもしれない。
ひとりぼっちの心を抱いて、世界の果てで自由を叫ぶ彼女を。

でも。
私はもう一度空を見上げる。
今の私には。
飛ぶべき理由も、目的も、空も、翼も。
何もかもが、無い。
ただこうやって地上から、届かない空を見上げるだけ。
引力に逆らえずに堕ちてくる雨のように、
私もまた、地面に縛られたまま、動けない。
64 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:52
雨がまた一段と強くなった。
冷たい雫が耳元を流れ、首筋を舐めて、肌の表面から体温を奪っていく。
いっそのこと、全てを溶かして流し去ってほしい。
針のように体を叩く雨の中、ただ私はおぼろげに、そんなことを考えていた。
65 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:53


66 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/09(土) 12:57
>>47
ども。「マヌーヴァ」をご存知とはなかなかマニアックなお方で。
てか、よく分かりましたね... もう4年前のやつなのに。

というわけで過去2作の宣伝をば。
こちらを読まれますと今作がちょこっとだけ余計に楽しめるかと。

ひとりぼっちのマヌーヴァ
ttp://mseek.xrea.jp/event/big02/1032191797.html
恋ノ浦ドロップス
ttp://mseek.xrea.jp/grass/1106670336.html
67 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:35
track5. some day with god bless



夢かと思った。
幻かもしれない。
それとも相当に飲みすぎてしまったのだろうか?
チープな三択クイズだったら最後の選択肢が一番正解の可能性が高いように思えたけれど、
そのどれもがハズレなことに気付かないほど、私はまだ鈍ってなんかない。
68 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:36
全てが私の指先からこぼれ落ちたあの雨の日から数日が経った。
未だ処分は下されていない。
謹慎状態が続いていた私は、たゆたうように流れる時間を持て余すのにもすっかり飽き、
現実から身を遠ざけるように、毎夜馴染みの酒場に通っていた。
そう、地上に漂う自分を少しでも紛らすために、今夜も一人で過ごすつもりだった。
けれど。
なぜか、今。
目の前に、彼女がいる。
69 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:36
「バラライカでございます」
「ありがとう」
薄暗がりに潜む猫のような目をした彼女は、マスターに軽い感謝の意を表すと、
手元に置かれたクリア・ホワイトのカクテルでその唇を湿らせた。

「どうしたの? 座りなさいよ」
彼女は私のほうに首だけ傾けて笑う。
私は自分が思わず立ち上がっていたことにようやく気づくと、
それが十分な動揺を表していたことに更に動揺し、慌てて椅子に腰を不時着させた。
左手で顔を抑えながら、指先の隙間から視線だけをもう一度左に振り向ける。
彼女は何か小動物を見るような目つきで私をじっと見つめていた。
70 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:37
「……な、なんで圭ちゃんがここにいるの?」
声が上滑りする。
精神状態を表すメータはまだ平常時まで針の位置が戻っていないようだ。

「なんでって、アンタ、随分な言い草ね。もともとここは私の店でしょ」
圭ちゃんは口もとを斜めに上げて、もう一度カクテルを飲んだ。
相変わらず美味しそうに飲む。
私は正面に向き直り、そして手元の青いカクテルに視線を落とした。
そう、この店はもともと圭ちゃんの店だった。
二年前、私が二十歳になったその次の日に、
圭ちゃんは私をここに連れてきて、さっきと同じ台詞を口にした。
あの時のカクテルはすごく素敵にフルーティで。
初めて乗ったあのデパートの屋上の飛行機を思い出した。
71 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:38
「い、いや、そういうことじゃなくて! なんでここにいるのかってこと! ……だよ」
慌てて質問を訂正してみたものの、ハーフロールが勢い余って
結局単なる一回転になってしまったかのような自分の発言に思わず語尾が消えかけたけど、
圭ちゃんは、わかってるわよ、とでも言いたげな目をして、また笑う。

「そうね、たまたま近くまで用事があったから、っていうのは冗談で……」
冗談かよ、と返す前に、圭ちゃんは私の顔を覗き込むようにささやいた。

「誰かさんが昔みたいに泣いてるってきいたからさ」

雲のように柔かい声。
彼女の瞳のその奥に、吸い込まれるような紺青の空が見える。
その声に、その瞳に、私は確かに覚えがあった。
72 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:38
それは今から七年前。
私が圭ちゃん達と一緒にこの部隊に入隊したばかりの頃だ。
スクール上がりで実戦経験がほとんど無かった私とは違って、
圭ちゃんも紗耶香も既に別の会社で空を飛んでいた。
いわゆる中途採用ってやつだ。
入隊して最初の頃はバックアップの仕事が多くて、いつも三人で飛んでいた。
当然の事ながら、足を引っ張るのはいつも私だった。
だけど仕事はチーム制だから、責任ももちろん連帯だ。
特に暫定的に三人の中でのリーダーにアサインされた圭ちゃんは、
寺田さんや部隊の全体リーダーだった裕ちゃんによく注意を受けていた。
ミスのほとんどは私のせいだったのに。
我ながら自分の未熟さが恨めしかった。
73 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:38
正直言ってあの頃の私は、今みたいにお手軽じゃなかった。
ミスをして地上に戻った夜は必ずと言っていいほど、宿舎のベッドに顔をうずめて泣いた。
そして、そんなとき慰めてくれたのは決まって圭ちゃんだった。
空の上だけじゃ飽き足らず、
地上でさえも圭ちゃんに余計な気を使わせてしまっている自分がどうしようもなく悔しくて。
それでも、後ろから髪を優しく梳かしてくれる指先がなんだかすごく暖かかった。
74 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:39
「なんだよ……、別にちょっとトラブルがあっただけだよ」

不意に思い出したあの頃の温もりを振り払うように私は答えた。
そう、もう昔とは違う。
私は小皿の上で乾ききっていたピスタチオを口の中に放り込む。
圭ちゃんも、紗耶香も、そして後輩のごっつぁんだって。
みんな、それぞれにそれぞれの空を求めて飛び立っていった。
私だけが、昔のように、その優しさに甘えてなんかいられない。
75 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:39
多分、圭ちゃんは本当のことを知っているだろう。
だけど私からそれを言うわけにはいかなかった。
もしそれを口にしたら、七年前の私に戻ってしまいそうな気がしたから。
私は気持ちの全部を呑み込むように、手元の青いカクテルを口に含んだ。

「やめて」
圭ちゃんが短くそう言った。
「嘘なんて、矢口らしくないよ」

やっぱり、全部お見通しか。
私は視線をカクテルに落としたまま、口もとを横に結ぶ。
青い液体の表面がわずかに波打った。
76 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:40
「ねぇ、ちゃんと目を見て」

圭ちゃんはそう続けた。
私は彼女のほうに首を少しだけ傾ける。
くすんだオレンジ色の照明の下。
左の手首に顎をのせながら圭ちゃんはじっと私を見つめていた。
その瞳は凛とした光を静かにたたえていて。
多分、私に何かを伝えようとしている、そんな色だった。
私は黙ってその瞳をじっと見る。
五秒間ほど無音が続いた。
夜の空の中みたい、と思った。
遠くで鳴った車のクラクションが弱々しく飛び込んでくる。
その音が消えてまた店内が静寂に包まれると、圭ちゃんは言葉を短く紡いだ。
77 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:40
「後藤が行っちゃったあの日のこと、覚えてる?」

それはなかなかに予想外の質問だった。
数瞬、対応が遅れたけど、なんとか頷いて反応を示す。
圭ちゃんもそれを確認するかのように頷くと、言葉を続けた。

「後藤を見送った後、燃料が切れて海に不時着したの」

その話を聞いて、私は少しだけドキッとした。
ごっつぁんは昔、今から三年くらい前に、紗耶香に誘われて部隊を無断で脱隊した。
そのペナルティとして圭ちゃんが追撃することになり、空中戦の結果、撃墜を完了している。
会社の上層部へはそういった内容で当時レポートされていたからだ。
もちろんそれが報告用の単なる建前だってことは、私を含めた現場のパイロットは皆知っていた。
だけどそれはいわゆる暗黙の了解ってやつで、安易に口にするような話題じゃないと思っていたから、
圭ちゃんがあっさりと言葉にしたのに動揺したってわけだ。
なのに当の本人は私の動揺なんか気にもしない様子で、淡々と話をつなぐ。
78 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:41
「その時、コクピットの中から誰もいない空を見上げて思ったの。
 私たちは天使なんかじゃない。
 だから、ずっと一緒に飛び続けることなんてできるはずがない、ってね」

そこで圭ちゃんは一息ついて、またカクテルグラスに口をつけた。
私はただそのシーンを、ぼんやりと眺めていた。
圭ちゃんが何を言いたいのかがイマイチわからなかったからかもしれない。
そんな私を軽く置き去りにして、圭ちゃんはいつの間にかグラスを空っぽにしていた。
79 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:41
「だけどね、結局のところ空はどこまでも一つに繋がっているの。  
 だから、いつかきっとまた重なるわ。私たちの空も」
「……どういうこと?」
「今はまだ分からないかもしれない。でもいつかきっとその時が来る。
 だから、お願い。その時まで飛んでいて。その翼を錆付かせないでいて」

圭ちゃんの視線がまっすぐと私の眉間を射抜いていた。
それは自分の未来を信じる強さを秘めた、昔と変わることのない色をした瞳で。
その瞳の力の前に、私は思わず頷いていた。
80 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:41
「じゃあね、矢口」
そう言って圭ちゃんは立ち上がり、ドアの方へ歩いていく。
「圭ちゃん!」
私も遅れて立ち上がった。
彼女はドアを左手で開けると、半身になってこちらを振り返った。
入口の付近はほとんどが闇に包まれて、表情は見えない。
ぼんやりと身体の曲線だけが、真っ暗な空間に浮かんでいる。

「また逢えるよね?」
「もちろん」
「いつ?」
81 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:42
私の問いに、圭ちゃんは少しだけ考えるような仕草をして、そして笑った。
いや、本当は見えなかったけれど、きっと笑っていただろう。

「それは神様だけが知ってるわ」

そう言い残して彼女は町の暗闇に消えていった。
82 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:42
残されたのは青く透き通った一杯のカクテル。
それは確かに昔私が憧れた空の色で。
そして今は見えない色。
処分が下れば、もう二度と飛べない可能性もある。
だけど。
たとえどんなに未来が暗く憂鬱に閉ざされようとも。
圭ちゃんみたいに強くなれば、運命だって変えられるかもしれない。

かなえられるだろうか?
私の望みは。
誰が知っている?
彼女は言った。
神様だけが知っていると。
83 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:43
私はブルーの液体を一気に飲み干し、店を後にした。
夜はすっかり更けていて、町はまどろむように眠っている。
風がすこし冷たい。
シャツの襟を立てながら空を不意に見上げた。
お月様が何も言わずに、ただぼんやりと浮かんでいる。
煙草に火をつけて、口に煙を含み、そして吐いた。
静かに伸びる、一筋の煙。
真っ黒な空に差し込む飛行機雲に見える。
ポケットの中の左手は、まるでスロットルを求めるかのように、じわじわとただ疼いていた。
84 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/16(土) 00:43

85 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:13
track6. days until sky makes us reunited



雨雲と太陽が交互にリレーをしているような、そんなマーブルな日々が最近は続いている。
今日は雨雲の番なのか、朝から穏やかな雨が静かに降り続いていた。
私は最近すっかり日課となってしまった遅めの朝食を食堂で済ませると、
これまたいつもの通り他愛のない記事を伝える新聞を眺めながら薄いコーヒーをすすっていた。
86 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:14
紙面の活字は退屈な日常の中に混じりこんだくだらないスパイスを
今日も元気に平和な世の中へ撒き散らしているみたいで、
要するに本日も世界はめでたく退屈だということのようだ。
私は紙面の片隅に打たれた日付をちらりと見た。
頭の中で軽く計算する。
寺田さんに謹慎を言い渡された日から既に二週間が経過していた。
もちろんその間、飛ぶことなんて許可されなかった。
もしかしたらこのまま身体から根っこが生えて、地面と繋がれてしまうんじゃないだろうか。
87 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:16
「矢口」

軽くアンニュイな気分に浸りながらコーヒーを飲んでいると、向こう側から私を呼ぶ声がした。
新聞紙を下げて、上から覗き込むようにその方向を見る。
食堂の入口に灰色のファイルケースを抱えた裕ちゃんが立っていた。

「寺田さんのオフィスまで来てくれるか?」

私は頷く代わりに、新聞紙を四つ折りに畳んでテーブルに置くと、
残っていたコーヒーを一口に飲み干して、ソファから立ち上がった。
88 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:16


その日の午後。
既にほとんどの物を処分し終えていた部屋を最後に軽く片づけると、
私はおんぼろのスーツケースを一つだけ抱え、迎えに来た車に乗り込んだ。
運転手は何も言わずにキーをひねり、エンジンをかける。
七年前、この基地に初めて来たときの運転手を思い出す。
地上のドライバーは無口でなければならない、なんて規則でもあるんだろうか。
だけど、もし飛行機に知らないやつが同乗していたとしたら、
私だって一言もしゃべらないに違いない。
そこで楽しく談笑できるような社交的なやつなんか、パイロットにはいない。
きっとドライバーも似たようなものなんだろう。
89 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:17
私への処分は今日の午前に下りた。
内容は、本日を以って現所属部隊における全ての任を解く、というものだった。
それについては大体予想していたから、特に思うところはない。
ただ、これからどうしようか、それが悩ましかった。
戦争が終わって既に数年が過ぎている。
もうパイロットの仕事なんて、貨物機を飛ばす輸送業か、
ちょっとしたアクロバットを披露するショービジネスくらいしかない。
だけどそのどちらにも、興味を持つことはできなかった。
私はやがて思考をあきらめて、雨に濡れるガラス窓の向こうをぼんやりと見ていた。
だから、運転手が振り返って小さな封筒を私に差し出しているのに気付くのが一瞬遅れた。
90 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:18
「……あ、すみません」
反射的にあやまりながら、右手でその封筒を受け取る。
運転手は再び前を向き直ると、アクセルを踏んでゆっくりと車を走らせ始めた。
私は手元の封筒を指先で弄ぶ。
表面には何も書かれていない。
封を破ってみると、中に一枚の紙切れが入っていた。
三つ折りになっていたそれを開く。
私はそこに書かれていた文字をゆっくりと二回読むと、書類を再び封筒の中に入れた。
91 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:19


およそ三時間ほどのドライブだっただろうか。
車が目的地に到着したころには、雨も上がり、空は薄い茜色に染まっていた。
すでに緑色の衣装に衣替えした桜の木が一本だけ、ベルボーイのように出迎えてくれている。
他には誰もいない。
私とスーツケースをその場に降ろすと、車はすぐに今来た道を戻っていった。

「さて、と」
縮こまった身体を伸ばしながら、周りを眺めた。
視界を埋め尽くすのは一面緑の牧草地帯。
その中にぽつんと、グレーの滑走路と小さな建物が一棟見える。
92 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:20
「ここか」
私は一言そう呟くと、ポケットに入れていた封筒に無意識に手をあてた。
出発前に運転手がくれた封筒の中身は一枚の辞令だった。
内容は新しい配属先について。
その文面を見て、少しだけ目の奥が熱くにじんだ。
もうあの空に戻れることはないだろうとなんとなく覚悟はしていたから。
だけど。
例え、全てを失うことを許容したとしても。
空から離れることなんて、生きている限り、できやしない。
やっぱり自分はどこまでもパイロットなんだと、改めて気づかされた。
93 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:27
新しい配属先を見つけてくれたのは、寺田さんか裕ちゃんだろうか。
いや、それとも……
ふと空を見上げてみる。
淡く、溶けるようなグラデーション。
揺れる風の中で、吐息だけがゆっくりと羽ばたいた。
ありがとう、と伝えられないことだけが今は辛い。

私はスーツケースを左手に持つと、雑草の生い茂る畑道を歩き始めた。
目指す場所は、とりあえずあの小さな建物しかなさそうだ。
ぬかるんだ泥土がブーツに粘りつく。
風はわずかに向かい風。
懐かしいオイルの匂いがした。
94 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:28
五分ほど歩くと、目的の建物に到着した。
人のいる気配は感じられない。
正面には入口らしきドアと、その右に窓が一つずつあった。
窓は薄汚れていて、なおかつカーテンで閉ざされていたから、中の様子を伺うことはできなかった。
木製のドアも既にペンキが剥げかけていて、まるで来訪者を拒絶するかのような、そんな無言の圧力を感じさせた。

ほんとにこんな所に部隊があるのだろうか?
私は心配になったが、とりあえずドアをノックしてみた。
返事は、ない。
もう一度、ノック。
やはり反応はなかった。
意を決してノブを回す。
意外にもノブは抵抗なく回り、ドアはするりと内側に入り込んだ。
95 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:28
そのまま建物の中に入る。
埃っぽい空気。
中を見回すと、やはり誰もいなかった。
しかし室内の照明はついている。
左を見ると小さなキッチンがあって、飲みかけのマグカップが一つだけ置かれていた。
どうやら、廃墟というわけではなさそうだ。
私はドアを閉めるとスーツケースをその場において、室内に歩を進めた。
メインスペースらしき場所には低いテーブルとソファ。
テーブルの上には地図が何枚か散らばっている。
入口とは対面の壁には背の高い本棚があって、古そうな本や資料が順不同に並んでいた。
96 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:29
その右側にもう一つドアがあった。
こちらは軽そうなアルミのドアで、上半分には磨りガラスがはめこまれている。
ガラスの向こうは、少しだけ明るい。
どうやら外につながっているようだ。
手応えに欠けるドアを開けて外に出ると、小さな滑走路と、そして格納庫があった。
錆ついたトタンが年代を感じさせる。
しかし格納庫があるとはちっとも気がつかなかった。
先ほどの畑道から見ると、ちょうどこの建物の死角になっているんだろう。

左側に回りこんでいくとシャッターが半開きになっていた。
その内側からは機械音が聞こえる。
誰か人がいそうだったので、私はそちらに歩いていきシャッターをくぐった。
97 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:30
格納庫の中にあったのは、もう五世代くらい旧型の飛行機だった。
私はその懐かしいフォルムに思わず目を細める。
七年前に入隊したときに初めて乗った飛行機と同じタイプだったからだ。

「アンタ、もしかして矢口って人か?」

男の声がした。
主翼の向こう側に立てられているスタンドの上からのようだ。
私はその声の方向に視線を上方修正する。
そこにいたのは、大げさなリーゼントをきめて、琥珀色の大きなサングラスをかけた男だった。
あまりにも予想外でクラシカルなそのルックスに、私の思考回路は体勢を立て直す間もなく失速した。
98 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:31
「……あ、ハイ」
やっとのことで応戦したが、通常より二秒も三秒も遅れていただろう。
空の上だったら、きっと今ごろ黒煙を吐きながらキリモミダイブしているころだ。
男はそんな私を気にする様子もなく、スタンドから身軽に飛び降りてこちらに近づいてきた。

「俺はここの整備士のハルキだ。これからよろしく」
ハルキと名乗った男は胡散くさい笑顔を浮かべながら、右手を私のほうへ差し出した。
多分、自分では爽やかなスマイルだと評価しているんだろう。
それを修正することに何のメリットも見出せなかった私は、
口元を斜めにしながら、無言で自分の右手を差し出した。
99 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:32
「矢口です。よろしく」
とりあえず私も自己紹介したが、どうやら私の情報は既にハルキには伝わっているようだ。
こんな辺鄙なところでも会社の情報伝達が一応機能しているらしいことに感心する。

「ここには他の人はいるんですか?」
私は格納庫の内部を見渡しながら聞いた。
まぁ見渡すほど広いスペースなんてなかったけど。
「いや、いない。ここのスタッフは俺だけだ」
「パイロットは?」
「パイロットもいない。アンタだけだ」
「え? じゃあ今までハルキさん一人だったってこと?」
ハルキは何も言わず再び作業に戻ろうとしていた。
100 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:33
「なんでですか?」
私は胸に浮かんだ疑問を素直に口にした。
パイロットのいない部隊なんて、ルーのないカレーライスくらいの価値しかないだろう。
要するに部隊の体をなしていない。

「さぁね。会社の方針なんて一週間前の天気くらい興味がない。
 まあそんなにがっかりするな。組織なんてやつは小さいほうが良いことだって多い」
特に今のアンタみたいなパイロットにはな、とハルキは鼻を鳴らした。

「……どういうことですか?」
最後の部分に引っかかるものを感じた私は少しだけ声を低くして聞いた。
101 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:34
「事情は聞いてるよ」
ハルキは工具を器用に回しながら答える。
「自分が飛ぶ理由も目的も見失っちまったんだって?
 それならベッドの上で昼寝でもしてればいい。夜になったら酒を飲むのもいいだろう。
 どうせこんな部隊には会社からのオーダーなんてほとんど来やしない。
 ハナから期待されてないからな」

私はハルキの言葉をじっと聞いていた。
ベッドでの昼寝は魅力的だ。アルコールもちょっとだけなら丁度素敵な気分になれるだろう。
だけど。
そんな生活なんて、三日もすればきっと、絶対に飽きる。
102 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:35
「でも、もし空を飛びたくなったんなら、そのときは好きなように飛べばいい。
 ここには邪魔するやつなんて誰もいない。それにそのための空も翼もある」
ハルキはそう言うと、自分が今までメンテナンスをしていた機体のボディを軽く叩き、
片方の口もとをゆっくりと上げてみせた。

「それがパイロットってもんだろ?」

私は何も言わず首を傾けて、静かにたたずむ飛行機を見た。
オフホワイトの小さな練習機。
他の二人に置いていかれないように、必死に操縦桿を操ったあの頃を思い出す。
そういえば、あの頃はただ飛ぶことだけを望み、求め、没頭していた。
やり直せるだろうか。
もう一度。
七年前のあの頃のように。
103 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:35
「乗ってみていいですか?」
「ああ」
私は主翼に飛び乗って、コクピットに乗り込んだ。
少しだけ狭いシートが懐かしい。
操縦桿を握ると七年前の自分に戻ったような気がした。

「このタイプの飛行機に乗ったことはあるか?」
下からハルキが聞いてくる。
「ルーキーの時に乗ってました。今から七年くらい前」
シートのポジションを調整しながら答えた。
104 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:37
「そうか。じゃあルーキーに戻ったつもりで飛びな。ここじゃ、アンタが一番下っ端だ」
「はい」
「飛びたいか?」
「すごく」  
「今日はまだ整備中だ。明日には飛べるようになる」
「ありがとう」
 
私はシートに身を預けて、一つだけ深呼吸をした。
開きかけのシャッターから、ほんの少しだけ空がのぞいていた。
紅く滲む山際のライン。
そのパノラマに胸がとくんと揺れた。
思い出したのは圭ちゃんの言葉。
105 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:40
彼女がいて、私がいて、他には誰もいない空。
それはまだ、淡く幼い夢なのかもしれない。
その切ないほどの美しさが、私の心に残った冷たい傷跡を優しくなぞる。

だから、私も飛び立とう。
たとえその空が、辛く暗い闇の中だとしても。
彼女はきっとその輝きを、私に届けてくれるだろう。

開け放したコックピットの向こう。
遠くに見える山々の上に広がる空がゆっくりと藍色に変わっていく。
その空はどこか懐かしく、だけど見たことのない新しい空で。
あの日みんなで飛んだような、そんなピュアな空だった。
106 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:41
一番星が光っていた。
どれだけの空を越えていけば、世界の果てまでいけるだろうか。
どれだけの空を越えていけば、私たちの空は重なるだろうか。
答えはきっと、神様だけが知っている。

ならば、逢いに行かないといけない。
神様が待っている天国へ。
そこは、紺碧のキャノピィに覆われたあの約束の空。
だから、もう一度、飛ぼう。
そうすれば、きっと空はまた輝くだろう。
107 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:41
目を瞑り、シートに深く身を沈めた。
息を小さく、一つつく。
瞼の裏に浮かんだのは、ダイアモンドを振り撒いたかのように、明るく暗い星空だった。
その一つ一つの星たちが、優しくその姿を光らせている。
神様のベッドから見上げる天蓋って、多分こんな感じなんだろう。
なぜか、ふと、そんなことを思った。

柔らかな風が格納庫に静かに流れ込み、私の前髪をそっと撫でていく。
まるで神様が祝福の息吹をかけてくれたような、そんな微かな甘さがあった。
きっとおやすみをしてくれたんだろう。
だから今夜はゆっくりと眠ろうか。
明日目が覚めたら、きっと新しい空が待っていてくれる。
そんな微かな予感と希望に包まれたままで。
108 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:42
◆ End
109 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:42

110 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:42
111 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 23:42

112 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/11(木) 00:54
すごくいい気分で読ませていただきました。
そしてハルキで吹きましたw

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