はちみつオレンジ
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/28(火) 23:37
- カントリー娘。の2人の卒業を記念して。
- 2 名前: 投稿日:2006/11/28(火) 23:44
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しょっぱいオレンジ
- 3 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/28(火) 23:48
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ピ ――――――― ッ
練習場をホイッスルの高音が貫く。
是ちゃんが足元にあったボールを拾い上げ、ピッチにいたメンバーはベンチまで集まる。
いつものように、練習の最後を締めくくるのはコーチによる今日の総括。
相手への反応が早くなったことを褒められるものの、終盤で動きが鈍くなることを指摘される。
明日の試合のためにはここで言われる注意点をよく聞いて、悪い点は修正しなければならない。
試合前日の練習で何かを学び、それを試合に生かせる人が強くなる。高校の部活動でよく言われていたことだが、
これは単なる教育上の訓示ではなく真実だと思う。いろんな選手を見たけれど、強くなる人はみんな
大会の直前まで試行錯誤する姿勢を忘れず、誰かのアドバイスを柔軟に受け入れることができる人だった。
明日は絶対に勝たなければいけない。それも最高の形で。
そのためには、この時間は集中していなければいけない。それはわかっているが、私の視線はどうしても
コーチを通り抜け、私とは反対側で聞いている2人のほうに行ってしまう。
今日の練習で私が知りたかったことは、攻守切り替えのタイミングや相手の動きの見切り方じゃなくて、
本当にこのまま終わるのかってことだった。
みうなは両手を後ろに組み、コーチを真っ直ぐに見つめている。
あさみは是ちゃんから受け取ったボールを抱え、コーチの話を小さく頷きながら聞いている。
視線の先にいる2人は、いつもとまったく変わらない様子で、私の知りたいことに答えをくれない。
- 4 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/28(火) 23:50
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私がぼんやりしている間に総括は終わっていた。
よしこに声をかけられて気がついた時には、ほとんどのメンバーはロッカールームに帰っていた。
今日の練習はもう終わり。あさみとみうなが参加する最後の練習はいつも通り終了。
でも、本当にこのまま終わっちゃうんだろうか。
ごめん、先行ってて。
よしこにそう言って、離れていく彼女の後姿を見送る。
ピッチに腰を下ろすと、太ももに人工芝が当たる感触があった。
そのチクチクした感じが気持ち良くて、背中を投げ出してみる。
大の字になって寝転がると、天井の照明が眩しい。外はまだ明るいけれど、室内はもっと明るい。
ガッタスの練習はいつも太陽以上に明るい蛍光灯のもとで行われる。
けれど一度だけ練習中に停電になったことがある。ちょうど晴れた日で窓から光が入ってきたから、
練習も問題なく続けられたけれど、照明が消えた瞬間だけはみんなパニックになった。
中でも一番動揺していたのはあさみで、すぐ近くにいた柴ちゃんに抱きついて笑われていた。
その後もしばらくはこのネタでからかわれていたっけ。
目を閉じると、このピッチ特有のビニールっぽい匂いが鼻につく。
はじめにこの練習場に来たとき、ピッチを前にみうなが言った。ここ、妙な匂いがしませんか、と。
みうながまた何か変なこと言い出した、とみんなあんまり気にしなかったし、実際みうながいう匂いにも
誰も気がつかなかった。
けれど3回目の練習で、足がもつれて転んだあさみがピッチから立ち上がるなり言ったのだ。ここの芝生、
不思議な匂いがするよ、って。そう言われて、その場にいた全員がピッチの匂いを確認した。
いい大人が大勢で地面に鼻をつけるようにしている姿は、今思い出しても可笑しい。
- 5 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/28(火) 23:50
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最初の練習から数えて、ここに来たのは何回目だろう。指を折って数えてみる
去年の冬から週に2回。年末年始は休みがあって、ライブリハとか地方営業のときに休んだ。
あと、風邪引いて休んだこともあったな。
いろんな理由で練習に参加できないことはあったけれど、それでも休んだ回数を数えたほうがずっと早い。
他の仕事で忙しいメンバーと違って、私たちは多くの時間をフットサルに費やすことができた。
ガッタスの練習がほとんどカントリーのメンバーだけになるようなこともあった。
練習への参加は少なからず仕事の量と反比例しているわけで、そんな状況が辛かったことは事実だ。
けれど2人と一緒だったから、いつも楽しかった。
次からは一人でここに来なければいけない。
単なる停電に派手なリアクションを取る子もいなければ、匂いの変化にいち早く気がつく子もいない。
面白いことがあったときには、私は誰と笑えばいいのだろう。
嬉しいことがあったときには、私は誰と喜べばいいのだろう。
- 6 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/28(火) 23:52
-
「やっと起きたね」
閉じた瞼の向こうが暗くなったことに気がついて目を開けると、私の頭上1.5mにあさみの顔があった。
満足そうににっこり笑うと、私の隣に腰を下ろした。
「いや、眠ってないって」
「本当に?」
「うん。ずっと起きてた。みうなじゃないんだから、こんなところで眠らないよ」
みうなの名前を出すといつもなら他の話が出て会話が盛り上がるところなのに、ふぅん、なんてあいまいな声を出して
あさみは指先で人工芝をいじっている。
けして大きくはない室内練習場。ガッタスメンバー全員が集まると狭いぐらい。
室内施設だけに声はよく響き、みんながエキサイトするとチームメイトの声も聞き分けることができなくなる。
そんな練習場の真ん中に、私とあさみの2人だけ。
ピッチは広く、静まり返っている。
「あさみ」
「ん?」
「なんかしゃべってよ」
「自分からしゃべんなよ」
「そういうの、無理。リーダー、お願い」
「もう。だらしないなぁ」
ふふ、と小さく笑うと、あさみは私の目を見て言った。今度から、まいがリーダーなんだよ。
リーダーも何もないでしょ。
カントリーは私一人になっちゃうんだから。
夏ごろから私たちの何度も繰り返されたやりとり。私の言いたいことは、もう口に出さなくても伝わる。
私が黙っていると、あさみは困ったような顔をしてうつむいてしまう。
これもいつものパターンだ。こうして空気を重くして終わる。このやりとりに生産性はない。
やり切れない思いはあさみも同じ。私の気持ちをぶつけてもあさみを困らせるだけ。
そんなこと分かっているのに、どうしても同じこと繰り返してしまう。
- 7 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/28(火) 23:53
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膝を曲げ体育座りをしていたあさみが時計を見て立ち上がる。
目が合うと、またいつもの笑顔を私に向けてくれる。
「そろそろ行こっか。みうなが待ってる」
「みうなが?」
「うん。まい、今日これから仕事ないでしょ。ご飯食べに行こ」
「いいね。どこ行くの?」
「どこにしよっか。まい、行きたいとこある?」
「うん。ある」
「じゃ、そこで」
ガッタスの練習後、3人でご飯を食べに行くのは久しぶりだ。
夏になる前までは毎週のように練習後はかなり遅めの昼食を食べに行っていたのだけれど、私にソロでの仕事が
回ってくるようになるとそういうわけにもいかなくなったのだ。
間違えることだけを期待されるクイズ番組だろうが、有名なタレントさんの隣に座りただ笑っていることしか
求められないバラエティ番組だろうが、仕事が入るのは嬉しかったし、次につなげるために一生懸命だった。
早めにスタジオ入りしスタッフに挨拶して回り、台本を読み込む。共演者とは本番前に会話をしておく。
私は自分の顔と名前を売るための小さな努力をするために、練習後のんびりメンバーと過ごす時間を切り捨てた。
3人で過ごせる時間はあとわずかだって知っていたのに。
一緒にいられる機会をもっと大事にすればよかった、なんて今さら思ってもどうにもならない。
2人がいる練習は今日が最後。当然、練習の後に一緒にご飯を食べに行くのも今日が最後。
こんな日に行きたいお店は、あそこしかない。
下で待ってるというあさみと別れ、私はロッカールームへ急いだ。
- 8 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/28(火) 23:54
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- 9 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/28(火) 23:55
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「で、最後の日にこれなんだ」
みうなは目の前に運ばれてきた肉野菜炒め定食を前に、うらめしそうな声を出す。
若干肩まで落として、芝居がかっている。
「みうな、それ嫌いだった? 嫌なら私のと換えてあげようか」
「ううん。大好き。換えなくていい」
割り箸を手に取り食べ始める。
旺盛な食欲とは裏腹に、不満げな態度は崩さない。
「なんか文句あるの」
「別に。ここの定食、おいしいし」
「ならいいじゃん」
「いや、でもさ。もっとほかに何かあるでしょ」
「何かって?」
「ほら、お寿司とか七面鳥とか焼肉とか」
「意味わかんないし」
「とにかく、もっとパーッと豪華なかんじなものだよ」
「みうな、もしかしてパーティーとかしたかったの?」
「そういうわけじゃないんだけど。とにかく最後なんだから景気よくさ。最近まいちゃんテレビの仕事いっぱい
してるからお金あるだろうし」
「私におごらせるつもりだったわけだ」
「いいじゃん、最後ぐらい」
手にもっていた割り箸の上の部分で、向かいに座るみうなの額を軽くたたく。
思いのほか強く当たって、みうなは広い額を押さえて盛大に痛がる。そのようすがかわいくて、
私とあさみは笑ってしまう。
確かに最後の日にいくべきところとして思い浮かぶところはいくつもあった。
せっかくの機会だから3人で思い切り豪遊しても良かったのだろう。
けれど私が2人と来たかったのは、この何の変哲もない近所の定食屋だったのだ。
- 10 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/28(火) 23:56
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ガッタスで使っている練習場の近くにある定食屋さんがもうすぐ閉店する。
その話を聞いたのは先月のこと。
教えてくれたのはのんちゃんだった。
ハワイから帰った週の練習後、駅までの帰り道で彼女は何気なく言った。
この坂の下にある古い定食屋さん、今年の終わりでなくなっちゃうんだよね、と。
これは私たちにとって一大事だった。
アナログな構えの店舗はキレイとは言いがたいけれど、お店のおじさん・おばさんはいつも笑顔で
雰囲気はあたたかく、出てくる料理はどれも素朴で優しい味がした。
ボリュームの多さも私たちには嬉しかった。練習で走った後は特にお腹が空くから。
練習からこの定食屋さんというコースは私たちの定番だった。
ここは私たちのお気に入りだったが、私たちのグループ以外にお客さんはいることは稀だった。
私たちはリラックスして食事できることが嬉しかったけれど、お店の経営は苦しかったのだろう。
場所柄、昔ながらの定食屋というのは難しいのかもしれない。
ガッタスの中でもこの定食屋さんに通っていたメンバーは少なく、閉店のニュースにリアクションしてくれたのは
よく一緒に食べに行ったカントリーの2人だけだった。
お店の概観やメニューのラインナップは、他のみんなの心の琴線には触れなかったようだ。
もちろん練習後にゆっくりご飯を食べる暇のないスケジュールのタイトさも原因なのだろうけれど。
- 11 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/28(火) 23:59
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私たちが3人で来たときに決まって座るのは、入り口から見て右奥のテーブル。
テレビの真下というポジションでは画面はまったく見えないし、冷暖房もいまいち届かないけれど、
一番落ち着くのがこの位置なのだ。
テーブルの角にある傷は、地元チームの甲子園優勝のニュースに驚いたあさみが茶碗を落としたときに付けたもの。
真ん中にある大きな傷は、自分が頼んだ定食だけ遅れたとき、暇を持て余したみうなが割り箸の角で引っかいて
付けたもの。
あさみと私が奥に座り、みうながその向かいに座る。
初めて来たとき何となく座った席順が、いつのまにか私たちの定位置になってしまった。
いつものテーブル。私の隣にはあさみがいて、目の前にはみうながいる。
何度も見た光景。いつもと同じ、練習後のひととき。この時間はずっと私たちに与えられるものだと思っていた。
今日が最後だなんて、やっぱりまだ信じられない。
このお店のご飯はどれも美味しいけれど、美味しく食べられたのはきっと2人と一緒だったから。
「でもさ、何でここなの?」
私の顔を覗き込むようにして、あさみが聞いてくる。
そうだよ、どうしてここなの、なんてみうなもあさみに同調する。
「ほら、ここ、今年いっぱいでなくなっちゃうでしょ」
私はとっさに心にもないことを言った。
最後だからこそ、いつもの定食屋さんで食べたかったのだ。
そんなことを言うのは、どうしても照れくさかったから。
- 12 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/28(火) 23:59
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- 13 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/29(水) 00:00
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「ごちそうさまでした」
割り箸を親指ではさみ、両手を合わせ、声を出す。3人全員の動きがきれいに揃った。
小学校の給食の時間みたいだ、と何度か笑われたことがあったけれど、これがカントリー娘。の食後のポーズ。
あるとき偶然に揃ったことが面白くて、何度か意識して揃えているうちにいつの間にか習慣になってしまった。
今では全員が無意識に揃えてしまうほど。
「みうな、完食してるじゃん」
「あんなにウダウダ言ってたのにね」
「まぁね」
「ご飯粒も残してないよ」
「ほんとだ。きれいに食べたね」
「ま、伸び盛り、食べ盛りの10代ですから。20代の2人とは違いますよ」
「うわっ」
「かんじ悪いなー」
お店のおじさん・おばさんに挨拶をして席を立つ。
サービスだと言って、お勘定はまけてくれた。何のサービスなのかよく分からないけれど。
また来てくださいね。引き戸に手をかけたところで、後ろからそんな声をかけられた。
すいません。多分もう来ることはないと思います。そう思いながらも、はい、また来ます、と振り向いて笑顔を作った。
のれんをくぐると、外の景色は私たちが来たときとはずいぶん変わっていた。
すっきりと青かった空は赤らんで、道行く人や車もすっかり夕方の表情をしていた。
まだそんなに遅い時間じゃないのに。
今までずっと気づかない振りをしていたけれど、季節はもう冬だ。
2人の卒業を言い渡されたとき、冬なんてまだまだ先のことだと思っていた。卒業する2人へのはなむけとして
用意されたコンサートやそのプロモーションをこなしているときも、心のどこかで冬はまだ来ないと思っていた。
FCツアーで行ったハワイでは、その気温の高さは日本と同じものであると信じ込もうとした。
11月になってだんだん上着なしでは寒い日が増えてきても、コートは出さないでいた。
だけど私の行動と関係なく時間は進んでいく。私がどんなに否定しようと、今は間違いなく冬なのだ。
- 14 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/29(水) 00:01
-
「まい、見て見て」
あさみが私に手招きをしている。感傷に浸っている私をよそに、2人は何やらはしゃいでいる様子。
「ん?」
「ほらあそこ、飛行機雲」
「ほんとだ。すごい伸びてる」
「久々だね、こんなの見るの」
「うん。そうだね」
茜色に染まった空に、一筋の雲が白く伸びる。
飛行機雲のランクをつけて遊んだことがあったことを思い出す。
あれは確か舞台のリハーサルの日だった。例によって出番の少ない私たちは気が遠くなるほど長いこと放って置かれて、
退屈で仕方がなくなった私たちは外に出てぼんやりと空を眺めていたのだ。
その日は今日のようによく晴れた日で、飛行機雲がいくつも伸びては消えていたのだ。
上級・中級・下級と、伸びる長さによって分類しようと言い出したのはみうなで、私たちは延々と飛行機雲の
あるべき長さについて議論した。
今日の飛行機雲は間違いなく“上等”。
「まいちん、どうしたの?」
「ん?」
「なんか変だよ。キレイな人っぽくなってる」
「なにそれ。私はいつでもキレイな人だよ」
「ええ。それはどうだろ」
「みうな、あんた失礼だよ。あーさも、この子に何とか言ってやってよ」
あさみとみうなは手を叩いて笑っている。
今日は最後の日だって言うのに、何ていうテンションだ。これじゃいつもと同じじゃないか。
- 15 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/29(水) 00:01
-
「いや、あのね、こんな風に3人で飛行機雲ながめることなんてもうないんだろうぁって、思ってさ」
2人が落ち着いたところで、話を切り出す。
今日は最後の日なのだから、こういう話が必要だろう。
「ふぅん」
「何その薄いリアクション。私、今ちょっと良いこと言ったと思うんだけど」
「いいことなの?」
「みうなには分かんないの?この気持ち」
「まぁ、分かんなくもないような、あるような?」
「どっちだよ」
みうなは無邪気にはしゃぎながら、次の飛行機雲を探しに天を仰いでいる。
照れくさいのを承知で最後の日のムードを作ろうとした私の努力は、まったく実っていない。
みうなには私のセンチメンタルな気分を分かってもらうことなんてできないのかもしれない。
そう思うと、身体の力がドッと抜けるような気がした。
- 16 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/29(水) 00:02
-
- 17 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/29(水) 00:04
-
◇
- 18 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/29(水) 00:05
-
「まい?」
隣に座るあさみの声で、意識が戻った。
自宅への帰りの電車。
珍しく座席を確保して身体を沈めると、練習の疲れと心地よい振動の中、ぼんやりした睡魔が襲ってきた。
あさみの隣に座るみうななんて、もう完全に寝入っている。
「ん?」
「今日はおつかれ」
「うん」
「っていうか、どうもありがとう」
「どうしたの、いきなり」
「ほら、なんか気遣ってくれて」
「ああ。うん。まぁ、ねぇ。だってほら、今日、最後だし」
窓の外に流れていく見慣れた景色を目で追いながら答える。
「けど、うちらのガッタスは今日で終わりじゃないから」
「へ? あさみ、辞めるのやめたの?」
「そんなわけないでしょ」
「だよね。びっくりして目覚めた」
あはは、と声を上げてあさみは笑う。形のよい唇から八重歯がのぞく。
「最後はさ、今日じゃなくて明後日でしょ」
「ああ」
「優勝、しようね。一緒に」
「うん」
「今日の練習みたいに、ボーっとしてたら駄目だよ」
「バレてた?」
「うん。まい、分かりやすすぎ」
「気をつけます」
車内に間延びしたアナウンスが響く。停車駅を知らせ、乗換えを知らせている。
私が降りる駅はもうすぐそこだ。
- 19 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/29(水) 00:06
-
「明後日、いっぱい走って、いっぱい泣こう」
電車が停止して立ち上がると、あさみは笑顔で言った。
私はうなづいて、電車を降りた。
次の電車をホームで待っていると、みうなからメールが届いた。
「明後日のパーティーはローストビーフで!」
本当にあの子はどうしたものだろう。
私の感傷モードなんて、まったくおかまいなしだ。ここまでくると、笑うしかない。
カントリー娘。3人のガッタス。
それが本当に終わるのか。どうやって終わるのか。終わったらどうしたらいいのか。
そんなこと、今の私が考えても仕方ないのだ。
その答えは、きっと明後日、2人が教えてくれるだろうから。
- 20 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/29(水) 00:06
-
- 21 名前:しょっぱいオレンジ 投稿日:2006/11/29(水) 00:06
-
- 22 名前: END 投稿日:2006/11/29(水) 00:07
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- 23 名前: 投稿日:2007/01/28(日) 10:23
-
- 24 名前: 投稿日:2007/01/28(日) 10:23
-
はちみつウナギ
- 25 名前: 投稿日:2007/01/28(日) 10:23
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- 26 名前:1 投稿日:2007/01/28(日) 10:24
-
カチャン
マンションの廊下に甲高い金属音が響き、みうなはドキリとした。
時刻は22時45分。大通りはまだ賑やかだが、裏道に入ったこの辺りはもう寝静まっているかのよう。
音を立てないように慎重に落とした鍵を拾い上げ、みうなはその中の一本を選ぶ。鍵穴に差し込むと、
小さな手応えがあった。
「失礼します」
一応そう言って、ドアを開ける。部屋の中は真っ暗で、待機中を知らせる電化製品のライトだけが光る。
この部屋の住人はまだ帰っていない。みうなはそれを知っていた。
そろそろ帰りなさい。
その場にいた全員にそう促され、みうなだけ先に地下鉄に乗ったのはつい先刻のこと。
今日はみうなとあさみにとって、卒業の日。
最後のステージ終了後、カントリー娘。3人は所属事務所の社員やコンサートスタッフによって
企画された送別会の席にいた。チゲ鍋を囲み、周囲の大人たちの説教に頷き、面白くないダジャレに
笑うのも、仕事のうち。そう分かってはいたが、みうなはその場にいることが面倒だった。
年齢を理由に1人だけ先に帰されたときは、少し嬉しかった。
みうなには確固たるカントリー娘。最後の日のイメージがあった。
リーダー・あさみの部屋に3人集まり、ビールを片手に語り合う。
ハロコンのリハーサルが始まった頃から、ずっと考えていたのだ。
頭の中で繰り返されたシミュレーション。それを現実のものとするため、みうなはみんなから
別れるとまっすぐにこの部屋まで来た。
- 27 名前:1 投稿日:2007/01/28(日) 10:25
-
照明を点け、いつもそうするように部屋の奥に進む。
南向きの窓の前にある1人掛けソファは、みうなの定位置だ。ソファ自体の座り心地がいい上、
日中は陽が当たり最高に気持ちがいい。
「久しぶり。元気だった?」
愛着のある背もたれに身を預け、声に出して聞いてみる。返事は何も聞こえないけれど、
みうなには記憶通りの座り心地がソファの返答のように感じられる。
やっぱり、あさみちゃんの家は居心地がいい。
天井を見上げ、みうなは思う。カントリー娘。に加入して3年半、この部屋には何度となく遊びに来た。
リーダーのあさみは、加入当初ハローに馴染めず仕事に行き詰まっていたみうなを部屋に呼び、
話を聞いたり励ましたりしてくれた。もっとも、ここ数年みうながここに来るのは、あさみ本人には
呼ばれてもいないのに半ば押し掛けるかたちがほとんどだったが。
あれ。
みうなが視線を壁に移すと、この前ここに来た数ヶ月とは飾られている写真がかなり
変わっていることに気づいた。
身体を起こして近づいてみる。
苫小牧にいる家族や友達、牧場の牛や馬、今より若いハローのメンバーに、みうなの知らない人の
顔もある。そんな見覚えのある写真の中に、オレンジの色彩の写真が数枚あった。
休憩中にふざけている姿に、必死の形相で走っている姿、他チームの子とじゃれている姿。
新しい写真はどれもガッタスのものだ。
その中には自分の顔を見つけ、みうなは頬を緩ませた。
- 28 名前:1 投稿日:2007/01/28(日) 10:25
-
みうなが視線を落とすと、今度は写真の中のゴールデン・レトリバーと目があった。
壁に飾られているスナップショットではなく、本棚に鎮座する冊子の中にそのレトリバーは居る。
キリッとした表情のお兄さんの隣で、満足げに座っている。
その冊子が、あさみが春から通うことになってる専門学校のパンフレットであることは、
すぐに分かった。みうなはそれを手にとり、パラパラとページを繰った。
あさみちゃんは立派だな。
あさみの次なる進路を伝えられたのは、8月のこと。
その頃、みうなはまだ引退を受け入れられずにいた。
あさみとは、今年の4月、一緒に会社の決定を聞かされた。
その日から長い間みうなは茫然自失として現実から目を背けていた。
その間、あさみは次の目標を見つけ、それを達成するコースまで確かにしていたのだ。
あさみに刺激され、みうなも新たな道の模索を始めた。
とりあえず、静岡に居る親のコネを使い地元の会社への就職が決まった。地味なものの、堅実に
業績を伸ばす優良企業だ。雰囲気の良さには定評があり、社員教育にも力を入れているらしい。
高校中退という学歴と中途半端な職歴しかないみうなにとって、ありがたい話だった。
けれどこれは自分で決めた道ではない。
そんな思いが拭えずに居ることは事実だ。
みうなはあさみとの大きな差を感じざるをえないでいた。
- 29 名前:1 投稿日:2007/01/28(日) 10:25
-
23時10分。
チェストの上に載る目覚まし時計はそう告げる。
部屋に来てまだ1時間も経っていなかったが、みうなは既に待ちくたびれていた。
もともと、他人を待たせることは得意だが、待たされることは苦手なタイプだ。
それに勝手を知っているとは言え、他人の家。1人でじっとしているのは落ち着かない。
1人で先に始めてしまおう。予定とはズレてしまうけど。
みうなはキッチンへと向かった。
膝を突いて冷蔵庫を開くと、最下段に銀色に光るものが見えた。思っていた通りだ。
取り出してみると、銀色の缶は発泡酒だった。
ビールだったら良かったのに。みうなはそう思ったが、これぐらいの差異は許容範囲だ。
プシュッ
プルリングを開けると、小気味よい音が部屋に響く。口を付けると、鋭い刺激とともによく
冷えた液体が喉を通り抜けていく。みうなにとって、それは初めての感覚だった。
飲酒は20歳になってから。
世間ではほとんど守られないルール。けれどアイドルがそれを破ることを、世間は許さないらしい。
飲酒や喫煙の発覚が芸能活動に与えるダメージの大きさを知ったのは、去年の冬。
ハローのメンバーがみうなに身をもって教えてくれた。
アルコールやニコチンに興味はあったが、大事なアイドル人生をリスクにさらしてまで
経験したいものではなかった。アイドルとしてのキャリアはみうなにとって何よりも大切なもので、
絶対に傷つけたくなかった。
もっとも、みうなが必死に守っていたものは、事務所の決定によっていとも簡単に終わってしまったのだが。
こういうのを、おいしいと言うのかな。
初めてのアルコールに、思っていたほどの衝撃はない。
香りと刺激の強い炭酸水というかんじ。まったく拍子抜けだ。
けれど、世の中は案外そんなものなのかも。
みうなはぼんやり考える。
今まで諦めつつ羨んでいたものは、実はそれほどステキなものではなかったのかもしれない。
350mlの缶はすぐに空になり、みうなは冷蔵庫に2本目を取りに行った。
- 30 名前: 投稿日:2007/01/28(日) 10:26
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- 31 名前:2 投稿日:2007/01/28(日) 10:26
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最悪だ。
あさみのマンションのドアを開けると、誰もいないはずの部屋は明るく、玄関にはついさっき
見送ったはずの靴があった。そして部屋の奥から、みうなが出て来た。
こんな状況で、里田まいはそう思わずにはいられなかった。
ドアを開ける前から、悪い予感はしていた。
部屋の鍵はかかっていなかった。あさみはたしかにボケキャラだが、鍵をかけずに家を出てくる
なんてことは考えられない。鍵が開いているのは不自然だ。
いや、悪い予感はもっと前からあった。
昼間のステージが始まる前から、みうなは里田に“今日の予定”をしきりに聞いてきた。
そのときは適当に答えておいたが、いつになく執着するみうなの様子が気になっていた。
「遅かったじゃん」
そう言って、みうなは笑う。
その台詞はおかしいだろう、そうつっこみたいところだが、言葉が出て来ない。
なんか言ってやってよ。
そんな気持ちで里田は隣にいるあさみを見遣るが、あさみは何事もないような素振りで
ブーツを脱ぎ、部屋に入っていく。この状況に何の疑問も抱いていないようだ。
この部屋の主はあさみだ。里田は釈然としない気持ちを抑え、あさみに倣って靴を脱いだ。
- 32 名前:2 投稿日:2007/01/28(日) 10:27
-
「そこ!抜けろ!」
部屋の中にみうなの声が響く。TV画面に指を差し、アメリカンフットボールの試合に
興奮している。
「そこってどこだよ」
里田にアメフトは分からない。試合をちゃんと見たことはない。ルールすら満足に知らない。
そんな里田にみうなの興奮は理解できない。そもそも、これは面白いスポーツなのか。
里田には、選手がほとんどの時間、休憩しているように見える。
「っていうか、黙って見な」
里田の退屈は、つまらない映像よりもそれを楽しんでいるみうなに対して、苛立ちとして
向けられる。
そもそも、みうながなぜここにいるんだ。
そんな思いを口に出すかわりに睨みつけてみるも、アメフトの試合に夢中になっているみうなは
里田の鋭い視線に気づく様子はなく、得点シーンのリプレイにはしゃいでいる。
今日、里田は緊張感とともにこの部屋に来た。
話しておきたいことがあるんだ、とあさみが切り出したのは一昨日。場所はステージ裏。
普段見ることのないあさみの思いつめたような表情に、里田はとまどった。
今度ゆっくり聞かせて、出来れば静かなところで。そう言ってその場は切り抜けた。
その“静かなところ”というのがあさみの部屋で、“今度”というのがまさに今このときなのだった。
あさみの話とは、何のことなのか。
里田にとって喜ばしいものではないかもしれない。けれどちゃんと聞かなければいけない。
里田は心を決めて、この場に来た。邪魔が入るのは絶対に嫌だった。
たとえそれが苦楽を共にしたメンバーであっても。
みうなには帰って欲しい。
それが里田の本心なのだが、そんなことは言えない。外は寒く、終電は既になくなっている。
この辺りではタクシーもつかまらない。いくら邪魔だといえ、そんな状況に年下のメンバーを
放り出すことはできない。
けれど、せめて大人しくしていて欲しい。
「タッチダウン!タッチダウン!」
テレビ画面を前に歓声をあげるみうなの隣で、里田はため息をついた。
- 33 名前:2 投稿日:2007/01/28(日) 10:28
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こういうときは、アルコールだ。酔ってしまえば、時間はすぐに過ぎる。
軽く飲んで、少し寝て、酔いが醒める頃には、みうなも大人しくなっているだろう。
そう自分に言い聞かせ、里田は立ち上がった。
「あーさ」
「ん?」
「ビールもらっていい?」
「いーよー。あたしにも1本取って」
「うん」
暖房つけてると喉渇くんだよね。あさみは言い訳のように呟いた。
「あーさ」
「ん?」
「何段目に入れた?」
「一番下。けっこう入ってるでしょ」
「えー?見当たらないんだけど」
「まじで?昨日買ってきて入れといたんだけど」
ほら、見てみ。
そう言って里田が大きく開いて見せた冷蔵庫の中には、確かにそれらしいものはない。
どうしたんだろ。おかしいね。
暖色の光を放つ冷蔵庫を見つめ言い合いながらも、2人には確信めいた思いがあった。
「「みうな」」
叫び声とともに振り向いた2人の視線の先で、みうなはヘラヘラと笑っていた。
- 34 名前: 投稿日:2007/01/28(日) 10:28
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- 35 名前:3 投稿日:2007/01/28(日) 10:29
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「そして誰もいなくなった、と」
TVを消し部屋をぐるりと見渡すと、あさみは呟いた。
アメフトの試合を流していたTV、それを見て騒々しいリアクションをしていたみうな、
それに対してトゲのあるツッコミをいれていた里田。
あさみの部屋はいつになく賑やかだった。
ついさっき、アメフト中継は終わった。
けれどそれより前に、みうなは寝息を立てていた。
そしてそのさらに前に、里田は部屋を出ていった。
そして、あさみは静かな部屋に残された。
みうなもTVも変わらず部屋にいるけれど、あさみはまるで1人になったような気分だ。
- 36 名前:3 投稿日:2007/01/28(日) 10:30
-
カーテンを開けると、窓にはびっしりと結露がつき、白っぽくなっていた。
右手で軽くガラスをなぞると窓は素肌を見せるけれど、その向こうはひたすら黒く、何も見えない。
こんなに暗く寒い屋外に出ていったのだ。
そう思うと、あさみは里田に対し申し訳ない気持ちになった。
里田が出ていったのは、買い出しの為だ。
今、あさみの部屋の冷蔵庫の中に、酒類は全く入っていない。部屋にあるアルコールといえば、
みりんぐらいだ。これというのも、みんなで飲もうとあさみが用意していた発泡酒を、先に
部屋に来ていたみうなが全て消費してしまっていたからだ。
あさみは元々、飲む方ではない。
それほど飲める体質ではないし、未成年者が多いハロープロジェクトの中にいて飲酒の習慣は
つかなかった。
かといって、全く受け付けない、というわけでもない。
薦められれば普通に飲むし、気持ちよく酔うこともできる。アルコールがコミュニケーションを
促進し、精神衛生に良い影響を与えることをよく知っていた。
今日のあさみは飲みたい気分だった。
カントリーでの最後の仕事を終え、一緒に頑張ってきた2人と共に過ごす夜に、アルコールは
必要だったのだ。
- 37 名前:3 投稿日:2007/01/28(日) 10:32
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じゃあ、私、買ってくるよ。
冷やしておいた発泡酒がなくなったことを知ると、あさみはそう言ってコートを手にした。
酒類を欲しがっているのは彼女であり、近辺の地理に最も詳しいのもどう考えても彼女
なのだから。それは当然の判断だった。
あさみちゃんが行くことないよ。
それなのに、何故だかみうなは言い張った。
外は寒いしあさみちゃんがそんなことする必要はない、と。買い出しにはまいちゃんが
行けばいい、と。
ここはみうなが買いに行くべきでしょ。
里田は主張した。
部屋にあった発泡酒をみうなが飲みきっってしまったのがそもそもの発端であり、
里田の言い分は真っ当なものだった。
まいちゃんが行きなよ。
それでもみうなは食い下がった。
しばらく言い争いが続いたが、勝ったのはみうなだった。アルコールの力なのか、今日の
みうなは妙にしつこく、頑固だった。うんざりした里田が折れる形で、決着したのだった。
こうして買い出しに行くハメになった里田は近くのコンビニに出掛け、言い争いに疲れた
のか、みうなは寝入ってしまった。そして、あさみだけが残された。
- 38 名前:3 投稿日:2007/01/28(日) 10:32
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「初めまして」
一瞬、あさみの心臓が止まった。
背中越しの声に振り向くと、ソファでは依然としてみうなが眠っていた。その口元は緩み、
むにゃむゃと声を発している。
なんだ、ただの寝言か。あさみは胸をなで下ろした。
「斎藤美海です。この度、カントリー娘。に加入することになりました。ハロープロジェ
クトにはずっと憧れていまして、その一員になれることは夢のようです」
みうなの寝言は比較的はっきりと発音される。聞き取るのは容易だ。
みうなが今いる夢の世界があさみにはすぐに想像できた。そこにはきっと自分もいる。
そう思うと、何故だか少し照れくさい。
「至らないところもあると思いますが、精一杯頑張りますのでよろしくお願いします。これは
加入土産のうなぎパイです。どうぞ食べて下さい」
早口でまくし立てると、みうなは黙ってしまった。
夢の世界での自己紹介タイムはどうやら終わったらしい。
それにしても、加入土産のうなぎパイって何なんだ。
みうなは夢の中でも色々と気を遣い、それが他の人とはかなりズレている。
そういうところは現実のまんまだ。
- 39 名前:3 投稿日:2007/01/28(日) 10:32
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「うわっ」
あさみは思わず声をあげた。
腰を下ろそうと曲げた脚に何かが当たり、視線を移すと、あさみの目に見かけない紙袋が
飛び込んできた。そこから覗くのは見覚えのあるパッケージ。取り出してみると出て来たのは
やはり、夜のお菓子こと浜松銘菓『うなぎパイ』。
状況からして、みうながお土産として持ってきたらしい。
うちに来るのに手土産なんていらないのに。しかもうなぎパイだなんて。
みうなの気配りはやっぱりズレていて、あさみにはそれが可笑しくて仕方がない。
その上ご丁寧に『ハチミツナッツ入り』なんて。プレーンでいいのに。
みうなの選択もあさみのツボにハマった。
おもしろいなぁ、この子は。
飛び抜けた発想、ついていけない言動、ワンテンポ遅い行動。時に本気で苛立ち、キツい言葉を
かけることも多いが、あさみにとってみうなは大切な仲間だ。多くの時間を共有するあいだに、
理解や愛着も多少は生まれていた。
- 40 名前:3 投稿日:2007/01/28(日) 10:33
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何気にキレイな顔してるんだよなぁ。
すやすやと眠るみうなの顔を見て、あさみは改めて思う。
大きくはないが形のいいパーツがバランス良く配置されている。肌は白く、キメが細かい。
額が広すぎるのは愛嬌だろう。口を開かなければ、ちょっとした美少女なのに。
こんなところで終わっちゃうなんて。
みうなには恵まれたルックスがある。いつも努力を惜しまない強いメンタルがある。
どんなときでも笑っていられる明るさがある。あともう少しチャンスがあれば。
みうなはアイドルとして不幸だった。いや、自分が幸せすぎただけなのかもしれない。
あさみはデビューしてからの6年半を振り返ると、そう考えずにはいられない。
あさみが入ったとき、ハロープロジェクトは頂点に向けひた走っていた。留まるところを
知らないモーニング娘。の人気に引っ張られるように、他のグループにも注目が集まった。
話題には事欠かないカントリー娘。は、レンタルで石川梨華をセンターに迎え、次々に
シングルを出すことができた。夏にはシャッフルユニットに参加し、いつも集団の端とはいえ、
多くの媒体に露出した。普通なら見られない場所に顔を出したり、多くの人の前に出たりする
毎日はあさみには刺激的だった。
あさみはそんな日々を楽しむことしか考えなかった。
そこから何か得て成長することを考えるほど、向上心は持ち合わせていなかった。
もともと、ただ偶然この職業に就いただけのあさみには、アイドルとして大成することにさして
関心は無かった。
- 41 名前:3 投稿日:2007/01/28(日) 10:34
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みうなが入って来たのは、ハローの栄光が錆びついてきた頃だった。
モーニングから藤本・紺野をレンタルで迎えCDを出したが、その間隔は開き、結局フェード
アウトしたようなかたちになった。ハローが世の中から注目されなくなるなかで、カントリーの
メディア露出機会はほとんど無かった。
みうなに与えられたチャンスらしいチャンスは、ガッタスぐらいだっただろう。
明るさと根性と身体能力が売りのカントリー。3人は必死に練習した。中でもみうなの頑張りは
際立っていた。その努力はハロープロジェクトのファンに彼女の存在を認めさせるのには十分
だったけれど、一般の人に何か影響を与えるほどではなかった。
それは彼女の力不足というより、ハロープロジェクトの力の衰えによるものだろう。
ポテンシャルもないのにチャンスを与えられ、それを潰した挙げ句、自ら辞めていく自分。
ポテンシャルがあるのにチャンスに恵まれず、正当な評価をうけないままに去っていくみうな。
頭の中に出来上がる対比構造は、あさみの気持ちを曇らせる。
みうなのアイドル人生は今日、終わってしまった。
その事実にあさみの胸はズキズキと痛んだ。
「みうな、ごめんね」
寝入っている相手にこんなことを言う自分はつくづく酷い人間だ。
自分の口から出た言葉を聞き、あさみはそう思う。胸の痛みはますます強くなった。
- 42 名前:3 投稿日:2007/01/28(日) 10:38
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「ただいまー」
後ろからの声にドキリとして、あさみは顔を上げた。振り向いた先には、ビニール袋を2つ
抱えてブーツの踵と格闘する里田の姿があった。
「あーさ、聞いてよ。信号のとこのコンビニ、すっごい混んでんの。こんな時間だよ?普通に
深夜じゃん。なのに中学生とかいるの。キッズのさ、何だっけ、ほら、ちっちゃい子いる
じゃん?あれぐらいの子。しかもおでんとか買ってんの。こんな夜更けにおでんかよ、つうの」
まじむかつく、という言葉に反して、里田の声は弾んでいる。
静寂が支配していた部屋に突然持ち込まれた明るさに、あさみも口元から八重歯を覗かせた。
「まいちん、ちょい静かに」
「ん?」
「みうな、寝てるから」
「まじで?」
うわ、ほんとだ。ソファを占拠して猫のように丸くなっているみうなを見て、里田は言った。
「まったく勝手なもんだよね。人の家に来て、くつろいで、大騒ぎして」
「ねぇ」
「マイペースっつうか、なんつうか」
「うん」
里田は軽やかに笑い、あさみにコンビニ袋をさしだした。
手を伸ばすと、買ってきたばかりの缶ビールは暖かい部屋の中で少しだけ汗をかいていた。
- 43 名前: 投稿日:2007/01/28(日) 10:38
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- 44 名前:4 投稿日:2007/01/28(日) 10:39
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「で」
「で?」
玄関から続くキッチンスペース。1Kのメインルームとは、すり硝子の仕切りで区切られている。
両手を伸ばしたら壁に届いてしまうほどの細長い空間に、あさみと里田は向かい合うかたちで座る。
2人の真ん中には、うなぎパイが箱に収まり鎮座している。
「あるんでしょう、話が」
「ああ、それか」
「ああってなによ。ああって。今日はそのために来たんでしょうが」
「まあ、そうなんだけどさ。でも、みうな寝ちゃってるし」
「え?あの子も関係あるわけ?」
「うん。だから今日うちに呼んだの」
「そっか。それでみうながあーさの家にいるんだ。勝手に忍び込んだのかと思ってた。珍しい
よね、あーさがみうな誘うなんて」
「みんなで集まるんならどうしても私の部屋がいいっていうからさ。渋々だよ」
「やっぱり」
2人は声を立てて笑う。手にしていた缶からビールがこぼれ、フローリングの床を濡らす。
- 45 名前:4 投稿日:2007/01/28(日) 10:40
-
「うちらの卒業のことなんだけど」
笑い声が落ち着くと、あさみは切り出した。
「ん?何が?」
「ほら、一昨日から言ってた話したいことっての」
「ああ」
里田は黙って下を向く。
やはりそのことか。予想通りの流れではあったが、鼓動が早まる。
ハローから去っていく2人、大きな仕事を与えられるようになった自分。
里田個人での仕事は依然からあったが、それが目立つようになったのは2人の卒業が決まってから。
里田を売り出すために2人を切り捨てた、今回の卒業は里田にはそういう事務所の行動のように
見えた。実際、上の人にはそれに近いことを言われたこともあった。
「ごめんね」
「へ?何でまいちんが謝るの?」
「だって、私のために2人は……」
違う、違う。
あさみは慌てたように早口で言い、顔の前で手をヒラつかせた。
「まぁ、いろいろあんだろうけど」
「いや、そうじゃなくて。私たちの卒業、別にまいちんのせいじゃないから」
「そうかもしれないけど……」
「本当に違うの。あれ、私が言い出したことなんだ」
驚いて視線を上げる。あさみは真っ直ぐに里田を見つめていた。
- 46 名前:4 投稿日:2007/01/28(日) 10:40
-
「あーさが?」
「うん」
「私、聞いてないよ」
「そうだね。ごめん、ずっと黙ってて」
ほんとだよ。どうして今まで言ってくれなかったんだ。ずっと一緒だったのに。
目の前の相手に言ってやりたいことは沢山あるのに、里田の口から言葉は出て来ない。
「いつ?」
「初めに言ったのは5月頃かな。決めたのはもっとずっと前。いつ頃だったか、はっきり
分かんないけど」
「そんな前から……」
松浦亜弥に帯同して回った春のツアー、ガッタスの試合、その他沢山のイベント。
様々な活動はすべてカントリー娘。として存在感を示すためのものだったんじゃないのか。
そう思っていたのは自分だけだったのだろうか。
里田の声に混じっていた非難の色を感じ取ったのか、あさみは目を伏せた。
「本当に悪いことしたとは思ってる。けど、まいちんには言えなかったんだ。カントリー、
けっこう調子良かったじゃん。少しは名前も呼んでもらえるようになったし、仕事も
増えてきてたしさ。何て言うか、頑張りどき、みたいなかんじで。そんなときにさ、
辞めたいとか言ってる子が居たらダメじゃん。モチベーション下がるでしょ。だから、
2人にはバレないようにしてた」
仕事が終わった後、あさみだけがマネージャーに呼び止められることが何回かあった。
3人で事務所に立ち寄ったとき、用事が終わってもあさみだけが残った。
普段はあまりしゃべることのない事務所幹部があさみと話している姿を何度か見かけた。
見えないように、とあさみは言うけれど、里田には思い当たる節がいくつもあった。
- 47 名前:4 投稿日:2007/01/28(日) 10:41
-
「カントリーでやって行きたいとも思ってたよ。ずっと取り組んできたことだし、中途半端な
とこで投げ出したくもなかったから。でもね、5年先のことが考えられなかったんだ。
このままハローにいて、コンサートこなして、フットサルして、そうして笑ってる自分がね、
全然浮かばなかったんだよ。じゃあ何やるかってなったときに、分かったんだ。
私にはあれしかないって」
大人になったら、犬の調教師になりたいんだ。
初めて会った5年前、あさみははそう言っていた。
大人になったら。その言葉は、宇宙飛行士になるんだ、と言って胸を張る少年のもののように
聞こえた。年齢はほとんど同じでも、自分よりも小柄であどけない顔をした彼女は、里田には
幼い印象を与えた。
専門学校への進学を決めたあさみと、5年前の彼女。
顔立ちは同じだけれど、その目に宿す輝きは違った色をしていた。
あのとき言ってた、大人ってものに彼女は今なろうとしてる。
そんなとき、周囲の人間はただ受け入れなければいけないことを知る程度には、里田も大人だった。
寂しくても、悲しくても、進んでいくものを止めてはいけないことを。
「あーさ、言ってたもんね。調教師のこと。ずっと昔から」
「うん。覚えてた?」
「当然じゃん。だって私、びっくりしたもん。何言ってんだ、こいつ、って」
「あはは」
「普通さ、言わないよ、将来の夢なんて。第一、夢はアイドルじゃないのか、って話でしょ」
「たしかにね」
「ほんとあり得ないから。こんなんだからいつまで経ってもパッとしないんだよ、って
思ったもん」
「まいちん、思うだけじゃなくて口に出して言ってたから」
「そうだった?」
「うん。びっくりしたね、あの時は。加入したばっかりの子がそんなこと言ってくるなんて」
「いやぁ、若かったね、私も」
里田は高らかに笑って、手にしていた缶の残りを口に含んだ。ぬるくなったビールは刺激が
鈍り、いつもより少し苦かった。
- 48 名前:4 投稿日:2007/01/28(日) 10:42
-
「でも、まぁ、あれだね」
冷蔵庫を漁りながら、里田は背中ごしに話しかける。
「あーさ、良かったね」
「ありがと」
「ほんと、良かった。すんなりいって」
「全然。もう、大変だったんだから」
「そうなの?」
2本目のビールを手にして、里田は元の位置に戻る。
「うん。はじめはね、何も聞いてもらえなくてさ。取り合ってもらえないっていうか、そんな
かんじで。でね、ああ、こりゃ、マネージャーとかそういうクラスの人に言っても無理だなぁ、
って思ったのね。それで社長に直談判。けどさ、あんま変わんないの。
お前の進退はお前が決めることじゃない、ってビシッと言われちゃうし。
でも、あれからかな、本気にしてもらえたのは」
あさみは視線を落とし、床の上に置かれた空き缶をカタカタといじりながら話す。
「それで、事務所の人たちはいろいろ考えてくれたのね。会議とかして。でもさ、笑っちゃうの。
それで出た結論がさ、私一人じゃ辞めさせられない、っての。卒業イベントとして盛り上がら
ないんだってさ。かといって、何もせずに辞めさせると事務所のイメージ悪くなるって。
それ言われたとき、私、思いついちゃったんだよね」
何を? 里田が聞くと、あさみは自嘲気味に笑った。
- 49 名前:4 投稿日:2007/01/28(日) 10:44
-
「1人じゃ辞められないっていうんなら、2人だったらどうなのかなって。それでさ、
言ってみたんだ。私と一緒に誰かもう1人、同じタイミングで卒業するっていうのはどうか、
って。そしたらさ、可笑しいの。今度は私の言ったことがスイスイ通るのね。
すぐに2人同時卒業の方向で話が動き出してさ」
あさみは時折つっかえながらも、一生懸命に話す。
相槌をうちながら聞く里田には、あさみの話の帰着するところが見えてきていた。
「それでさ、卒業させることになったのが、みうなだった、ってわけ。
まぁ、考えてみれば当然だよね。私と何かしら関係がないといけないわけじゃん。
それなら、カントリーのどっちかだよね。で、後のこと考えると、1人になって、
グループじゃなくなっても活動出来そうな方を事務所は残したい、と。そしたら、
卒業するのはみうなになっちゃうよね。私が変なこと言ったせいで、みうなは……」
あさみの声は震えてはいかなった。
けれど、その目が潤んでいたことは里田には分かった。
「あーさのせいじゃないよ」
「けどさ」
「だってさ、考えてみ?うちの事務所、いつ何があるか分かんないじゃん」
「まぁ、ね」
「もし今辞めなくてもさ、これからずっと続けられる保証なんてないわけだし」
「うん」
「だからさ、あーさは何も気にしなくて良いよ。って言っても、気にするんだろうけど」
頭に手を置いてふわりとした髪を軽くさわると、あさみの目から涙がこぼれた。
「泣き上戸だね、あいかわらず」
「ね」
「気をつけなよ、これからは」
「ごめん」
「まぁ、いいよ。今日は」
「ありがとう」
あさみの肩に手を回すと、あさみは里田に身を預けてきた。
受け止めると、身体の重みで体勢が崩れた。少しだけ飲み残した缶が倒れる音が響いた。
あさみの髪の甘い匂いが、里田の鼻に残った。
- 50 名前: 投稿日:2007/01/28(日) 10:44
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- 51 名前:5 投稿日:2007/01/28(日) 10:45
-
「そろそろ寝よっか」
里田はそう言って立ち上がる。
長い間、床に直に胡座をかいてダラダラと飲んでいた後遺症で、膝や背中が軋んでいる。
上から見下ろすと、ついさっきまで自分が座っていたエリアには、飲み干された缶が
中途半端に凹んだ状態で散乱していた。
「ああ、こりゃまた派手にやっちゃったねぇ」
おっかーたづけ、おかたづけ。適当に節を付けて歌いながら、散らかった缶を拾う。
「あーさ、ゴミ袋どこ?それと、雑巾ないかな」
「うん。ぢょど待っで」
ずっとグズついていたあさみの目は赤い。鼻はまだ重く湿ったまま。
ゴミ袋より、雑巾より、今のあさみに必要なのはティッシュペーパーだろう。
「ほら、これ」
里田は手元に転がっていたポケットティッシュを拾うと、あさみに手渡した。
「あぃがどぅ」
あさみは低い声でこたえた。目を腫らして鼻をすする姿が子どものようで可愛らしくて、
よしよし、と里田が頭を撫でると、あさみは顔をしかめた。
- 52 名前:5 投稿日:2007/01/28(日) 10:45
-
「ってかさぁ、これ、どうなのよ」
「ん? どれさぁ」
「これさ。この箱。まじ謎なんだけど」
「ああ、お土産っぽい。みうなの」
「へぇ。それでうなぎパイ。意味分かんないよ」
「ねぇ」
「まぁ、みうならしいっていうか」
「うん」
「食べてみる?」
「良いね」
「うわっ。何これ。甘っ」
「ほんとだ」
「っていうか、うなぎパイってこんな味だった?」
「ハチミツ・ナッツ入り、らしいよ」
「ふぅん。もう1個もらっていい」
「どうぞ、どうぞ。どんどん食べてよ」
「ありがと」
「まいちん、何だかんだ言って気に入ってんじゃん」
「うん。実はね」
里田ははにかむように笑うと、砂糖でベタついた指を舐めた。
伸ばした爪に不似合いな仕草は里田の癖だ。
「みうなは?」
「まだ寝てんじゃん。けっこう飲んでいたみたいだし」
「ほんとだ。グッスリだよ」
よく寝るねぇ。そう言ってあさみはクスリと笑い、ソファで猫のように眠るみうなにもう一枚
毛布をかけた。
「うちら、どこ寝る?」
「ベッドでよくない?いつもみたく」
「いっか。それで」
「じゃ私、壁側ね。もう落ちるのヤダ」
「私、外側かよ。落ちてアザとか出来たらどうすんのさ」
「心配ないよ。コンシーラで隠せる」
「そっか」
「それにさ、まいちん運動神経いいし、落ちるときは足からきれいに落ちるから大丈夫だよ」
「そうだね! って、猫か、私は」
- 53 名前:5 投稿日:2007/01/28(日) 10:46
-
「今日はお疲れ」
「お疲れでした」
「まいちん、明日の予定は?」
「午後から収録。あーさは?」
「とりあえず荷造り」
「大変だね。頑張って」
「うん。お互いに」
2人はベッドに潜り込むとすぐに規則正しい寝息を立て始めた。
3人のカントリー娘。が迎える最後の夜が明けるまで、あと少し。
- 54 名前: 投稿日:2007/01/28(日) 10:46
-
- 55 名前: 投稿日:2007/01/28(日) 10:46
-
- 56 名前: END 投稿日:2007/01/28(日) 10:46
-
- 57 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/28(日) 23:56
- ああ、なんかすごくよかったです。
こう、胸にポフッと。
優しい気持ちになれました。
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