過ぎし日の国
- 1 名前:kkgg 投稿日:2006/12/07(木) 23:54
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リボンの騎士後日談のイメージ。
みきよし(魔女と大臣)メインで、目指すはオールキャラ。
よろしくお願いします。
- 2 名前:kkgg 投稿日:2006/12/07(木) 23:57
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時代考証などは甘く見て頂けるとありがたいです。
- 3 名前:過ぎし日の国 投稿日:2006/12/07(木) 23:58
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1. 眠りのために
かつて「大臣」と呼ばれた彼の名は、ジュラルミンといった。
今や老齢を迎え、床に就いている。
眼差しには靄がかかり、整った薄い唇は動かない。そもそも話す相手がいない。
既に四肢の端は己のものであるという感覚から解き放たれ、自然に還っているかのよ
うに沈黙していた。辛うじて動くもその先に触れるのはすべて、硬度も熱もない一律
の物質に過ぎない。
- 4 名前:1 投稿日:2006/12/07(木) 23:58
-
その静かな手は、ごく稀に宙を掴もうと動くことが有る。
白く長く骨張った指の間に、流れる空気が有るのを確かめるように。
扉とはめ込みの窓がひとつずつの簡素な部屋は失った身分を隠して得た借り物で、粗
末だが頑丈な石造りだ。一年中冬のような土地なのだから不足はない、と若き日のジュ
ラルミンは言った。
家具は前の住人が捨てた机と椅子とベッドしかない。机の上は部屋に不釣り合いな羽
根ペンと、染みだらけの古い羊皮紙。誰にも読まれない文字が整然と並ぶ。
椅子の下には大きな鞄が置かれている。
彼の旅の唯一の同行者だ。
- 5 名前:1 投稿日:2006/12/07(木) 23:59
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鞄ひとつで離れた故郷は遠い。
遥か南に位置する豊穣の国シルバーランド。
新王サファイアがその座に就いて20、いや30年は経っただろうか。
同時にそれは、戒めの旅の時間に等しい。
私は、まだ生きている。
戒めの旅はまだ続いている。
ジュラルミンは乾いた手を宙に泳がせ、掴もうとする。
指の間に空気が流れる。
そして何も掴めない。
- 6 名前:1 投稿日:2006/12/08(金) 00:00
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人は永遠の眠りを迎える時に己の一生を思い返すというが、神は私にもその幸
福を分け与えてくれるだろうか、半眼のジュラルミンは考える。
全てでなくて良い。故郷の日々、愛しい者たち、ごく僅かな美しい記憶をもう
一度。
彼らの名を呼びたくて、ゆっくりと声を発する。
静かな部屋に、幾らかの名前が響く。
返事は無い。
それを確かめると、彼は今一度、懐かしい日々を思い出そうと眼を閉じた。
遠くはない、永遠の眠りのために。
- 7 名前:1. 投稿日:2006/12/08(金) 00:01
-
…
- 8 名前:1 投稿日:2006/12/10(日) 15:54
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数年前、狭い北の町に噂が立った。
町の外れに美貌の隠者がいる、と。
はじめに、小屋を貸した地主が得意げに、あれは何処かの国の身分の高い方に
違いあるまいと騒ぎ立てたが、特にそれを使って悪事を働くこともなかった。
暮らしは貧しくも、心は清い人々だった。薄いアルコールしか置けぬ酒場で、
流行歌が一曲増える。こうしてまた噂は広まる。
そのうち、彼を一目見ようと小屋に訪れる者が出始める。
確かに、隠者は美しかった。
隠者は見物する人々に無関心で、町に降りてくることも無く、全くの孤独の中
にいるようだった。
人々は一度のぞきに行き、帰ってきて地主と口を揃える。
見たか、身分の高い方に違いない。それなら何故こんな土地に?
明確な答えは出ず、噂は飽きられる。
- 9 名前:1 投稿日:2006/12/10(日) 15:55
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数十年経ったある日、またその噂が囁かれ始めた。
ある者が町外れの小屋の周りを歩く人影を見た、と言ったのがきっかけだ。
こうしてまた、話題の少ない町の人々は小屋に訪れた。
だが、その後の会話は数年前のようには盛り上がらなかった。
実際には寝たきりの男がひとりいるだけなのだ。
老いているように見えるが定めるには難しく、もっとよく見てやろうとはめ込
みの窓の外には行列ができるが、住人はまるで気付かない。どうやら発狂して
いるらしい。呟くのを見た者がいる。両の手を宙に舞わせ、踊っていたという
者も出る。だが、床より起き上がる様子を見る者はいなかった。
結局、町の人々は次の噂を求めて酒場に向かう。
- 10 名前:1. 投稿日:2006/12/10(日) 15:56
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噂とは、話し手と聞き手より距離があるために起きる絵空事であり、流行り、
廃れる。
そのために、隠者のもとに通い続ける青年に気付く者は、ひとりもいなかった。
- 11 名前:過ぎし日の国 投稿日:2006/12/10(日) 15:58
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2. ふたつの孤独
シルバーランドの都市部から遠く離れた北に、小さな教会がある。
鬱蒼と茂る森の奥深くなので訪れる信者は少ない。森は教会の持つ領地であり、神父
たちの宿舎などもそこにあった。更にその奥にひっそりと小屋がある。かつては倉庫
であったそれには、教会とは何ら関係を持たないひとりの青年が暮らす。
彼の名はナイロンといった。
- 12 名前:2 投稿日:2006/12/10(日) 16:00
-
時折、小屋には来訪者…黒衣をまとった女性が訪れる。暗い夜、ドアの音もさせずに。
新月の今夜はきっと来るだろうと踏んでいたので、ナイロンはさほど驚かない。
「また戦争ですかぁ」
ナイロンはおどけた様子を見せ、客へのもてなしの笑顔をつくる。読んでいた本を伏
せる。現れた魔女・ヘケートは眉ひとつ動かさずに告げた。
「西で、領地の奪い合いが続いてる。ここまでは届かないでしょうけど、更に長引く
かもしれない」
- 13 名前:2 投稿日:2006/12/10(日) 16:00
-
ナイロンの暮らす小屋の中は、住居というより研究所といった様子だ。
大小さまざまな瓶、分厚い専門書、乾燥した植物。そして緑のオウム。
ナイロンはここで薬学の研究をしていた。
かつて自分の面倒を一手に引き受けてくれた大臣・ジュラルミンは、ナイロンの才
能に気付き研究に努める用意を整えた。彼の知識は、主に王家と国民、すなわ
ちジュラルミンの出世に使われたが、毒物として暗殺にも用いられた。
大臣がいない今、ナイロンは研究を続けている。
- 14 名前:2 投稿日:2006/12/10(日) 16:02
-
「必要なのは兵ですか?それとも薬を?」
西は兵器の開発が進んでいるため、戦は荒れる。
「出兵を。プラスティックでは駄目ね、経験が浅い」
薬学とともに大臣が彼に残したのは、息子・プラスティックである。
彼は王位継承権を持ったままシルバーランドの騎士となり、サファイア王のもとで活
躍していた。罪滅ぼしだとプラスティックが言ったのを、ナイロンは今も忘れられず
にいる。
「内乱の平定ならばヌーヴォー様かな。王に伝えておきましょう」
- 15 名前:2 投稿日:2006/12/10(日) 16:04
-
部屋中を占める無機質を眺めながら、ヘケートは呟いた。
「お前たちは、繋がっているようだわ」
かつてシルバーランドに暗躍した大臣と家臣はもういないのに、似たような暮らしに
落ち着いている。愛する全てを捨てたジュラルミン。大臣が残したものに捕われたま
まのナイロン。彼は罪の重さを感じ、王家との距離を持ちながら、シルバーランドの
安泰と繁栄を願い、土地を捨てられずにいる。
この国と民に執着しているのは私も同じだが、とヘケートは静かに笑う。シルバーラ
ンドに有利な情報を拾っては、ナイロンに伝える。
国の中心として存在する王に追放を命ぜられた大臣だけが、この国にいない。
「だがナイロン、お前には希望がある。あの者には、もう…」
「あの者?」
「お前のかつての主」
「大臣!?大臣の居場所が判ったんですか?」
- 16 名前:2 投稿日:2006/12/10(日) 16:05
-
大きな音を立ててナイロンが椅子から立ち上がったので、驚いたオウムが暴れた。
「遥か北、永遠の冬の国。もう気は確かで無いし、ひどく老け込んでいた。かつての
大臣を想うのなら訪ねないことね」
「…まだ生きていた…大臣閣下が!」
「死は近いようだけれど」
「話したのですか」
「いいえ」
「そうですか…あの、サファイア王には」
「伝えないわ。サファイアが幼い頃の憎しみを捨て切れたとは思えない。制裁はなく
とも、良い知らせではないから伝えない」
「…ありがとうございます」
私とプラスティック様の世話だけで、王は十分に頭を悩まされているでしょうから、
とナイロンは冗談めかす。
- 17 名前:2 投稿日:2006/12/10(日) 16:05
-
間違いなく彼は行くだろう。
ヘケートは喜びも哀しみしない。人間とは、限り有る命を全うするために一瞬の判断
で生きても良いのだから。
魔女の眼で判断する必要は無い。
私がふたつの魂を待ったように、永く永くひとりでいる必要は無い。
- 18 名前:2 投稿日:2006/12/10(日) 16:06
-
明朝、ナイロンは荷支度を終えていた。今日はふたつの用がある。
一度目の出発に荷物は要らない。城へ行き、プラスティックに会う。西の内乱につい
て報告するのはサファイア王でも構わないが、大臣に会う前にプラスティックを一目
見たいと思った。見るだけだ、何も話さない。
二度目の出発には、かつての主のために用意した食料や薬品などが詰められた荷物を
持って行く。
「もう気は確かで無いし、ひどく老け込んでいた」という魔女の言葉を思い出す。
それでも大臣は…。
遠く山の端から差す朝日を受けて、ナイロンは出発した。
- 19 名前:2. ふたつの孤独 投稿日:2006/12/10(日) 16:06
-
…
- 20 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/12/11(月) 00:58
- いよいよ新作始まりましたね。
大臣と魔女にまた会えてうれしいです。
なんだか一気に引き込まれました。
ナイロンが相変わらずいいやつであの夏の日々がよみがえります。
次回更新も期待しています。
- 21 名前:過ぎし日の国 投稿日:2006/12/12(火) 23:08
-
3. 影
現在、シルバーランドを治める王は女性である。
古い慣習を打ち破り革新的な進歩を遂げたこの国は、今や隣国ゴールドランド
に勝るとも劣らない大国となっていた。
教会の横行が目立ち始めたが、サファイア王の手腕はそれらを上手く治めてい
た。そして市民層では貧富の差が明らかに縮小していた。これは王の経験から
作られた法律…「議会」の開催が根本にある。
- 22 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:09
-
「例えば」
かつてサファイアは説いた。
「王ひとりでは国は作れないし、騎士だけでは戦に勝てない。牢番だけではこ
の世の中を変えられない。それは非力のせいではない。国民みなが愛するシル
バーランドを、たったひとりで動かすのは最前の策ではないのだ。ならばどう
すれば良いか?国をより良いものにするためには、ひとりの力の行使に頼らず、
その力を集約する必要がある」
シルバーランドの正史が編纂され始めたのもこの頃だ。
だが歴史には闇があり、正史に描かれぬ出来事がある。
- 23 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:09
-
…
- 24 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:09
-
サファイア王子より償いの旅を命じられた大臣・ジュラルミンは、眠れぬ夜を
迎えていた。
息子であるプラスティックの寝顔を見ながら、溜息をつく。屈託の無い寝顔は、微塵
の疑いも持たず、朝に向かって寝息を立てる。
子を置いて去るならば、親としても褒められたものではないな。感傷的な自分をあざ
笑うも、許しを請うのも後悔するのももはや手遅れで、一層空虚になるだけだ。なら
ば今だけは、息子を愛する父親の心でいたい、とジュラルミンは願う。
そして父親の思考ではじめてナイロンを思い出す。
幼い頃から育てた臣下。
プラスティックへ抱く愛は純粋に哀しみに変わったのに、ナイロンへの愛はまだジュ
ラルミンの中で割り切れない塊のまま重く残っていた。
そしてそれの正体を突き止めようとしないのが、彼が盆暗と揶揄される原因でもあっ
たが、彼は知らない。
- 25 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:10
-
外では野犬の遠吠えが聞こえる。
世界中から急かされているようだ。鞄の留め金を確かめると、部屋を出ようとついに
立ち上がった。故郷と永久に別れる日が来るのを誰もが思い描かない。それだけは、
彼の落ち度では無かった。
そうだ、教会を巡礼しよう。免罪符を得て、もう一度ここに帰るのだ。それがいい。
月の明るい晩に終わる黒い歴史に、ジュラルミンは美しい終わりを夢見た。
しかし、束の間だった。
- 26 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:10
-
「…何をしている」
月光は大理石を青く照らす。扉のそばにうずくまる、小さな人影もよく見えた。
「あ、大臣、お供します」
ジュラルミンの鞄よりもはるかに大げさに荷物を抱えたナイロンは、陽気な声とは釣
り合わない真っ白な顔で待っていた。
彼は日の入りから待っていた。宮殿での宣告を聞いた時から誰よりも部屋に戻り荷支
度をして待っていた。親子の別離を邪魔せぬように、嗚咽は勿論、呼吸の響きさえ殺
して待っていた。
ジュラルミンは返事をせず、歩き続ける。
「王は…プラスティック様は置いてゆかれるのですね」
やはり返事は無い。
- 27 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:11
-
豪奢な城を後にして、ふたりは深夜の大通りを行く。
一度はゴールドランドの兵士で埋まった道も、静かに夜をやり過ごしている。
もう夜が明けるのだろうか、視界の端から柔らかい光を感じる。
国境が近づくにつれ、足下が荒れていく。補整されぬ道は岩がむき出しで、方々に生
えた長草が臑に絡まる。涙の乾いたナイロンの眼は、主人の背中を記憶に焼き付ける
のに必死で、朝などに、足下などに、眼もくれない。
やがて国境にたどり着く。
ジュラルミンは立ち止まり、振り返ってナイロンの肩に手を置いた。
「ナイロン」
「はい!」
- 28 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:11
-
ジュラルミンは、やっと口を開いた。
しかし続けられず重苦しい沈黙が続く。ナイロンはマントの襟を正して待った。
胸が潰れそうになったが、大臣はもっと辛いに違いないと自分に言い聞かせた。
「お前には、本当に世話をかけた」
「そんな…」
「最後の願いを聞いてくれないか」
「…最後だなんて、大臣、やめて下さい」
「…最後だ」
彫像のように美しい笑顔で、ジュラルミンは微笑んだ。
「…」
「ナイロン、息子を…プラスティックを、頼む」
- 29 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:12
-
ナイロンは賢かった。
言い返す言葉は百でも千でもある。責める言葉もすがる言葉も知っている。し
かし彼はあえてそのうちのひとつを選んだ。
「はい、大臣閣下」
ナイロンは賢かった。
悲しいことに、ジュラルミンよりもずっと賢く、聡明だった。
「さあ、いつまでもここにいてはいけない」
「…はい」
「…」
「どうか、どうかお気をつけて。またお会い出来る日を…いつか…いつか」
「ああ。そうだな」
「…それでは、さようなら、大臣!」
- 30 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:12
-
ナイロンは走り去る。
走り去る他、無かった。
大きな荷物を抱えて、岩盤に足首を痛め、雑草に靴を汚されながら走った。
荒い息は嗚咽にまみれる。顔は涙でぐしゃぐしゃになる。ついに脚がもつれ、
身ごと大地に放り出された。
どすんと大きな音をたててナイロンの喉はやっと声を許した。
「う、うぅ…うわあぁーあああん」
子どものように力いっぱい泣き叫ぶ。
世界にたったひとり残された子どものように。
早朝の空気が容赦なく濡れた頬を冷やす。指先がかじかむ。
時が止まったかのように、視界には空が真っ白に輝き、滲む。
涙が止まらない。
誰も迎えに来ない朝に、国境のそばで少年は泣き続ける。
泣き叫ぶ他、無かった。
- 31 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:12
-
…
- 32 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:13
-
「しかし、今は違います」
ナイロンはひとり、話を続ける。
「私もちゃんとひとりで暮らしていますし…勉強だって続けているんですよ」
この土地はいつも寒いので体の暖まるお茶を考案中なんですよ、と続けた。
ここはシルバーランドの北、貧しい町のはずれにある小屋である。
石造りは北風を通さないが決して良い環境とは言えない住居だ。
ひとりの隠者が住んでおり、かつては噂などにもなった。
- 33 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:13
-
ベッドで横になったままナイロンの話に頷く男は、少し間を置いて尋ねた。
「…あなたは、薬学者なのですか?」
「いいえ、研究は…趣味、です」
「お若いのだから、お国のためにちゃんと働かなくては」
「そうですね。私は戦いには向きませんし、どうしたら良いのでしょうねぇ」
にっこり笑って、ナイロンは紅茶を手渡すために指をほどいてカップを握らせ
る。男は、いつもすまないね、と小さく言った。
「とはいえ、あなたもまだそれほどご高齢ではないんですよ」
「はは…ご冗談を。私めにはもう、神のお声が聞こえます。戻ってこいとね」
- 34 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:14
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年齢の割にひどく老いた印象の彼は、ひとしきり彼と家の世話を終えたナイロ
ンを見て必ず聞くことがある。ナイロンは毎回、同じように答える。
「南の方角にシルバーランドをいう国があるのをご存知か」
「…ええ」
「私はそこに息子を置いてきたのです。まだ幼くて、ひとりじゃ何も出来ない。
もし南に行く用があれば…」
「お任せ下さい。私が必ずご面倒を見ましょう」
「そうか、それはありがたい…」
- 35 名前:3 投稿日:2006/12/12(火) 23:14
-
そう言うと、男はほっとした表情を見せ、横になってしまう。細い指を腹の上に
合わせて、浅い呼吸をはじめる。ナイロンは男が眼を閉じるまで、静かにそれを
眺めていた。
すると男は気付いて、そして気付かぬままに、微笑みかけるのだ。
「さあ、いつまでもここにいてはいけない。夜は冷えますから、日が落ちる前
にお帰りなさい」
「…お気遣いありがとうございます。ではまた来週には伺います、大臣閣下」
- 36 名前:3. 影 投稿日:2006/12/12(火) 23:15
-
…
- 37 名前:kkgg 投稿日:2006/12/12(火) 23:16
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>>20 名無し飼育さん
ありがとうございます。
前作もお読み頂いたご様子、嬉し恥ずかしです。
大臣と魔女は勿論、リボン世界の皆が大好きなので幸せにまとめられたらいいな!
と、早くも頭を悩ませています。
- 38 名前:過ぎし日の国 投稿日:2006/12/16(土) 20:05
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4. 花咲ける子ら
シルバーランドの激動の一日が終わるためには、目紛しい時の流れが必要であっ
た。時の流れは混乱のはじまりを告げ、破綻に繋がりそうな大きなうねりへと
向かいつつあった。王家の守り抜いた秘密が国の民に放たれたのだから当然で
ある。
- 39 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:05
-
国が傾くかもしれない一瞬、微かな危機感を感じる者もあった。流れの中心に
在る主に従う二騎士である。しかし、それは杞憂に終わった。
不思議なことに、彼らと共に隣国を滅ぼすために攻め上がったフランツ王子は
満面の笑顔を浮かべているのだ。
「祝砲を撃て!」
幸せの王子は堂々と、臆することも無く言い放つ。
隣国の少女を腕に抱いて。
- 40 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:05
-
秘密とその解放は、世界のルールをあっという間に書き換え、最も早く順応し
たのが彼である。これにより、国中は混乱を捨てて新王即位に湧いたと言って
も過言ではないだろう。奇跡に近い。起きかけの暴動さえ掻き消えた。
大したものだ、と経験豊かな騎士・ヌーヴォーは思う。
天賦の才能だろうか、ああも自分の気持ちに素直な者がいるのだ。加えてそれが好機
を呼ぶのだから、この国もゴールドランドもしばらくは安泰であろう。
並々ならぬ戦意で駆けつけたのに、彼の心はもう平静にある。
これも世界への順応かもしれない。
…
- 41 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:06
-
翌日、騎士・ヌーヴォーは、サファイアの隣で沈黙を守りながら一部始終を眺
めていた。彼はフランツ王子の命を受けて、数日の間、サファイアと母である
王妃の護衛をすることになったのだ。王妃は溜め込んだ疲労に屈し自室での養
生が続いている。サファイアには謁見を望む者が殺到し、休む暇がない。
- 42 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:06
-
今、新王に謁見しているのはナイロンである。
サファイアに命じられ彼を連れてきたヌーヴォーは、静かな笑みのナイロンに
覚悟を見ていた。今、彼は罪人である。裁判が設けられれば良いが、果たして。
同じことをサファイアも考えていた。新王即位の裏と同時に国王暗殺が謀られ
ていた紛れも無い事実に、頭を抱えているのだ。
あらゆる事件の中心となった大臣・ジュラルミンを国外追放にしたのは良いが、
加担した者はどうする?裁判に掛けて牢に放るのは容易い。しかし相手は…。
王冠を戴く彼女は、複雑な面持ちで王座に腰掛けていた。憎しみの炎が消えた
といえば嘘になる。サファイアは己の弱さが嫌になる。この場で彼を許すのは
容易いが、この手にその力は有るのか?
勇気よりも、決意を。
サファイアは眼を閉じた。
- 43 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:07
-
静かな城の最奥で、ナイロンの報告が始まる。
大臣の狙い、事件の真相。父と子のあいだにある愛。そして、望んで動いた自
身について。大臣の旅立ち、同行を許されなかった哀しみ。
「最後にひとつだけ…よろしいですか」
その請願にはサファイアもヌーヴォーも驚いた。彼は大臣の息子であるプラステ
ィックの、騎士団への入団を希望したのだ。己の哀しみよりも、彼を追い込んだ者の
息子の身の上を案ずる彼に、二人はしばしものが言えなかった。
特にサファイアの疲弊した思考は、混乱した。
「保護者のいないプラスティック様を、城に置いて欲しいのです。大臣が去ったのを
知り今は憔悴していますが、立ち直った時のために私は宛をご用意して差し上げたい」
「…だがナイロン、あなたはどうする?」
「無論、罰を受けます。なんなりと」
- 44 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:07
-
しばらくの沈黙があった。長さは、サファイアが決意するまでの数分だ。
「…今となっては」
「…」
「大臣に加担したのを責める気はない」
「ご冗談を!私は国王様…お父様のお命を奪った張本人ですよ!?」
「確かに父の件はこの国に衝撃を与えた。だが、お前に重い計を課したところ
で、何が変わろうか?」
最後の声色を沈むのを聞いて、ヌーヴォーは苦笑する。私情が過ぎる。
「今は母の教えに従いたい」
「わ、私はどうすれば…」
「これからも、変わらず私に使えて欲しい」
「しかし…」
「返答を」
「シルバーランドのためにこの命を捧げることは出来ます。ただ…この国は私
を許してくれるのでしょうか」
「…」
- 45 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:09
-
勇気よりも、決意を。
サファイアは再度、眼を閉じて、己の心の強さを願った。
「私は、…私は、お前を許そう。王として」
「…」
「不満か」
「とんでもない!仰せのままに従います。それよりも王、王と血の近いプラス
ティック様にお慈悲を…」
「判った。プラスティックのもとには近いうちに使いを出そう。ああそうだ、ヌー
ヴォー、あなたの下の者に指導を願えるか」
ヌーヴォーは小さく頷く。
「本当ですか!ああ、なんてありがたいお言葉。それならば私はもう…」
感激するナイロンを見つめながらしばらく考えてサファイアは彼の手を取った。
「待て、ナイロン」
「はい」
- 46 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:10
-
「聞け。まず、この国から逃げるな」
「…はい」
「出来ることなら、私の力になって欲しい。ただし命令ではない」
「はい。ですがこのまま王宮に身を置くのは後ろめたいです」
「…判った。ならば教会の宿舎を空けてもらおう」
「ありがとうございます。あの、プラスティック様との謁見は可能ですか」
「可能どころか、それこそがあなたの大切なつとめだ。月に一度、城に来てプ
ラスティックに会うように。その際には、私のところにも顔を出して欲しい」
「王…」
「私たちは年も近い。それに…同じように偉大な存在を失って、心許ない日々
が続いている。おそらくこれも運命の一端であり、縁なのだから、軽んじては
ならない」
「…はい!」
…
- 47 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:10
-
「後ろめたいのはあなたでしょう、『リボンの騎士』」
「!」
去って行くナイロンの背中を眼で追っていたサファイアの動きは静止してしまう。
「…どうしてそれを?」
控えていたヌーヴォーは小さく笑うと、困ったものだ!とおどけた。
「情報収集も国を守る騎士のつとめなのです。やはり、あなたでしたか」
「ああ、だからこそ…ナイロンには出来るだけのことをしてやりたい」
「その様子では、剣先に毒を塗ったのも噂ではないようだ」
「…真実だ」
「隠し事がしたいのなら感情的な行動は避けることです。フランツ王子にも言
えますが」
「フランツ王子が…?」
- 48 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:11
-
「あの人ほど真っ直ぐな人間も珍しい」
「あのお方が…」
「これから知ることになりましょう。大臣の件にしても、あなたの判断は危なっ
かしい。彼がいつ復讐に訪れるか判らない。追放は正しかったのか、甚だ疑問だ」
「そんな…」
「…まあともかく、おてんばはやめることですね。王とはいえ、あなたは姫君
なのだから」
そう言うとヌーヴォーはサファイアの黒い襟を直して、にっこりと笑った。
顎に手を置いて、よし、とひとり納得する。
ヌーヴォーは不器用な無骨者であった。だが情の深いひとだった。
…
- 49 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:12
-
ヌーヴォーがシルバーランドの王宮を去る日が来た。
フランツが、トルテュと合流した後に王宮に来る予定になっている。
新王への挨拶(とは言え婚約を決めたふたりによる国民へのサービス)を済ま
せ、国へ帰れば今回の任務は終わる。
長居した、と彼は思う。焼き払うつもりで訪れた国なのにヌーヴォーはシルバ
ーランドが気に入りつつあった。
- 50 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:12
-
二階の回廊から見える眩しい空。太陽は西に傾く。彼は眉をしかめた。
賑やかな下を見遣れば、子どもの声が聞こえる。
プラスティックは剣の練習の時間だ。子どもなどいる筈が無い…覗くと、サファ
イアとナイロンがブーケ作りに勤しんでいる。二人は出来たブーケを見せ合っ
て、ああだこうだと騒いでいる。彼らは子どもではない。
随分と幼い振る舞いを、とヌーヴォーは半ば飽きれたが彼らは楽しそうだった
ので眺めたままそこにいた。
少々荒いサファイアのブーケと、端正なナイロンのブーケ。
もっと時間をかけてもいいんです、と教えるナイロンに、ああそうか、もう急
がなくてもいいか、とサファイアは恥ずかしそうに笑って答えた。
王としての自覚はないのだろうか。彼は、サファイアの危うさが気に掛かる。
ああ、これだから長居は良くない。
この様子は、束縛されて育った少女にやっと訪れた一時的な解放であり、それ
を加味すれば十分にあり得る光景だった。
しかし残念なことに、ヌーヴォーは不器用な無骨者であった。
- 51 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:13
-
窓を開けると、庭一面の花の香りが一斉に入ってくる。
彼はふたりを囲むあたたかな黄色い花の名など知らないが、美しい、と思う。
「王、フランツ殿に差し上げるのですか」
声を張り問えば、サファイアは頬を紅潮させて答える。
「はい!」
「喜ばせたいのなら、そのままの格好ではいけない。なあ、ナイロン?」
一瞬きょとんとしたナイロンだったが、サファイアの身につけた漆黒のマント
を見、ああ!と声を上げた。
「その通りですね、ヌーヴォー様!着替える時間が必要だ。さあ王様、最後の
ひとつにしましょう。コツをお教えします。ああそうだ、この花の花言葉をご
存知ですか?…」
- 52 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:14
-
花畑の中心で、少女と少年がブーケを作っている。
宮廷という限られた世界、光と闇が好んで集う場所。
その中心で、ふたりは並んでブーケを作っている。
彼らはかつて敵対さえしていたのに。それは彼らが望んだものではないかもしれな
いし、望んだゆえのものかもしれない。
絆というものがあるなら。
絆というものがあるなら、まさにこれを言うんだろう。悲劇を経て生じるものを絆と
言わず何と言う?
これもまた世界への順応かもしれない。大したものだ、と経験豊かな騎士・ヌー
ヴォーは思う。涙腺が緩んでいるのに気付く。
彼は、情の深いひとだった。
- 53 名前:4 投稿日:2006/12/16(土) 20:15
-
大きな門の向こうから、幾つも蹄の音が風に乗って聞こえてくる。
「…王子様の登場、か」
颯爽と灰色のマントを翻し、騎士は歩み出す。
西日が包む穏やかな午後だった。
- 54 名前:4. 花咲ける子ら 投稿日:2006/12/16(土) 20:16
-
…
- 55 名前:過ぎし日の国 投稿日:2006/12/17(日) 23:30
-
5. 夜に失せる夢
ヘケートは駆けていた。
遠く高い何処かへ辿り着くために息を切らせていた。
彼女は魔女なのだから、人間たちの行けぬ世界の高みに行きたいのなら夜の闇
に紛れれば良い。一日や一年では越えられない遠い遠い地へ向かうなら霧に溶
ければ良い。
だが彼女はそう出来ることを全て忘れていた。両手には輝く光を抱いて、心身
の全てをその光ために働かせていたからだ。
悲しげな残光を生むそれは、奪い取ったサファイアの魂。
まるで生まれたばかりの子どもを抱くように魔女は穏やかにそれを扱った。
「神よ!」
- 56 名前:5 投稿日:2006/12/17(日) 23:31
-
「魂はここにある!どうか、私を人間に」
「神よ、何故、姿を現さない!?」
真っ青な夜に魔女の声が響く。
世界の果てまで届きそうなその声に樹々は震えて枝を下げ、動物は恐れて身を
隠した。月も星も編み込まれた中空の枝にその光を弱める。
すでに人の住まぬ地である。信仰に併せ広められた世界、天国や地獄、煉獄と呼ば
れるものが可視であればすぐそばで門を構えていただろう。魔女は大地を蹴り続ける。
先刻の歓喜はいつからか焦燥に変わり、ヘケートは親を探す子のように必死で
あった。
氷より冷たいとされる魔女の肌にはうっすらと玉の汗が浮かび、乾いた眼は見
開かれている。
「神よ!」
- 57 名前:5 投稿日:2006/12/17(日) 23:31
-
突然、夜が濃くなり遠雷が響いた。続く雷鳴は、ヘケートの頭上に稲光を放つ。
真昼のように世界は照らされ、その光は全て眼前に現れた神の背中より生まれ
ていた。真っ白な夜が、彼らを除く世界を消し去る。
「…何事か」
「願いを聞いてくれ!私を人間にしてほしい…人間の人生が欲しいのだ…!」
「…お前は魔女か。人間になりたいとは妙な話だ…さて、では魔女の命はどう
する?」
「魔女の命…?」
「人間の命など儚いもの。それに引き換えお前の命なら…」
「…」
ヘケートは下唇を噛み締め神を睨み付ける。
碧(あお)にも翠(翠)にも光る眼で。
- 58 名前:5 投稿日:2006/12/17(日) 23:32
-
「限り有る命の何が、そこまでお前を惹き付ける」
「死は愛する者を奪い、愛された者を孤独にする。私には死が訪れない!失う
ばかりだ。ともに生きてともに滅びる命が欲しい…!結末が欲しい!」
「…なるほど。ひとつ聞かせてやろう。私はお前が誰かを愛したのを知らない。
それは見ていないからではない。ここに有るのは(と言いながら神は胸を指し
た)全知の力だ」
「…」
「お前が死んだ男たちを愛していたただと?違う、間違っておるぞ、ヘケート!
いいか、奪い、支配するのは愛とは言わぬ。お前のやり方はどうだ?覚えてい
るだろう?…お前の中に、人を愛する心はまだ無い!」
そう言って神は、嘲りにも似た声でなだめるように笑うのだ。
「…」
- 59 名前:5 投稿日:2006/12/17(日) 23:32
-
「それに魔女よ。残念なことに私の手元にはお前に与えてやれる魂が無い」
「…魂なら、ここにある!」
「奪ったのか?…ふん、お前のやり方はいつも同じだな」
「これは、ふたつのうちのひとつだ。…知らぬとは言わせぬ、あなたには与え
過ぎた過失がある」
「過失?ふふ、面白い。魔女が私に進言するか?」
決意を緩めぬヘケートに踏みしめられながら、大地は震え上がった。
神の愉快そうな声に微かな怒りを感じたのだ。
「幼くか弱き咎人よ、良いことを考えたぞ。お前が正しい方法で魂を手に入れ
る日が来たら、永遠の命を終わらせる選択肢をやろう。そして再びこの世に生
まれる機会をやろう、必ず」
神は気まぐれだった。神にとってそれは些細な口約束だった。
- 60 名前:5 投稿日:2006/12/17(日) 23:32
-
だが遥か下方で暮らす魂、人間たちにとってそれは運命という名を振りかざし
て短い一生を左右する。人間たちだけではない。魔女にとってもそれは同じだ。
神はあまりに偉大になり、見上げる者たちの声が聞こえなくなってしまったの
かもしれない。
神の笑顔は、人間の父親が少年の頃を忘れて我が子を諭す時のそれに似ていた。
「何故だ!これの何がいけない?」
「…確かにお前はよく待ったよ。誰ひとり殺めずによく待った。だが駄目だ。
それはお前のものではない。宿り主が既に定まった魂だ。お前のものではない」
「待て!」
再び雷鳴。白い夜は色彩を取り戻す。
鈍くて重い夜が空より滲み出てヘケートの足下に絡み付く。ヘケートはもはや
抗えず、そのまま崩れ落ちた。全身の力が一気に抜けるのを感じた。両手の平
だけが、抱いた輝く魂を取りこぼさぬようにと動いた。
- 61 名前:5 投稿日:2006/12/17(日) 23:33
-
彼女は生まれる前、ひとつだけ我が侭を言った。
その時、偶然にもサファイアになる命の器が同じ場所に在り、それはふたつの
魂を有していた。
ふたつの命にはふたつの魂が有ることが正しい。
神が数合わせをした結果、生まれたのが魂を有さぬ魔女・ヘケートである。
運命に翻弄されながら、魔女は時を待った。
たったひとつの魂を奪えば人は死ぬ。その死は多くの哀しみをもたらすだろう。
先立たれる哀しみは我が身をもって覚えた。
魂をふたつ持つ人間が必要なのだ!
私には永遠がある。急ぐことは無い、ふたつの魂の持ち主を待てば良い。
ふたつの魂を持つ者を。
それはヘケートの優しさだった。
しかし気付く者はいない。
彼女の優しさは永過ぎた。
永遠を共に生きる者にしか見えぬために、誰も彼女の優しさを愛さない。
- 62 名前:5 投稿日:2006/12/17(日) 23:33
-
夜は明けようとしていた。
地平には新しい太陽が顔を出そうとしている。
「…やっと魂を手に入れたのに」
か細い声が漏れる。その眼は虚ろだが薄く笑いさえ浮かべていた。その唇の端
から狼のように音の死んだ息を漏らし、ついには切れ切れに笑い出した。
彼女がもし人間だったなら、運命の手酷い仕打ちに正気を打ち捨てられただろう
にそれさえも許されなかった。
手の中の魂はいつまでもまばゆい光を放つだけだ。
ヘケートはそれを傷付けぬよう仕舞い込むと、空を仰いだ。
白骨のような月が浮かんでいる。
全能の太陽のせいで星のひとつも見えない。
視界が滲んでいるわけでもないのに、何も。
- 63 名前:5 投稿日:2006/12/17(日) 23:34
-
いいだろう。
神よ、お前の言う通り、宿り主を新しく作ってやる。
サファイアの死をもって、有限の命を持つ人間・ヘケートに生まれ変わるのだ。
サファイアの死!
私はこの手を血に染めるのか。
ヘケートは希望と魂を抱いていた両手をもう一度見つめる。
五指を包む闇色には夢見た夜が残っていた。
愛されたいばかりに盲目になった魔女は、その手を、夜を、希望を、無くさぬ
ようにとかたく結ぶと、静かに靄に消えた。
- 64 名前:5. 夜に失せる夢 投稿日:2006/12/17(日) 23:34
-
…
- 65 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/12/18(月) 00:52
- 更新お疲れ様です。
この夏リボンを見てひとつ疑問だったこと。
それは天上界で何故あの生まれ変わりの選択がなされたのかということです。
神の気まぐれなのか特別な意思があったのか。
自分の勝手な思い入れですがその謎を解くカギを求めて未だ彷徨っています。
こちらの物語にグイグイ引きこまれています。
- 66 名前:過ぎし日の国 投稿日:2006/12/18(月) 23:27
-
6. 幻の王
同盟関係にあるシルバーランドとゴールドランドには、名を馳せる騎士が大勢
生まれた。
特に名高いのは「猛火の騎士」ヌーヴォー。「疾風の騎士」トルテュ。
そして「幻の王」プラスティックだ。
彼はまだ二十歳を過ぎたばかりの若き青年である。
騎士団の先頭に立ち、戦う姿は雄々しさよりも華麗さが目立ち、舞踏のようだっ
た。だが美しさよりも話題となるのは「奇跡」の噂だった。
「プラスティックの騎士団が前線に出る時は、奇跡が起きる」
- 67 名前:6 投稿日:2006/12/18(月) 23:28
-
…
幻(まぼろし)の王。
かつて民は、皮肉を込めて彼をそう呼んだ。
地位ある者の謀反と追放、一瞬の即位。
謀(はかりごと)の中心人物は大抵の場合、行動の起因に過ぎず、巻き込まれ
ているものだ。
民は、プラスティックを指差し笑った。
彼らは事の成り行きを荒削りに知るのみで、酒の肴に相応しい話題だけを取り
上げ、磨くばかりなのだから当然と言えよう。女であるサファイアの即位に反
対する者も、子どものプラスティックを哀れむ声もあった。ごく少数に。それ
らを含めた全ての声は結局、流れる毎日のはざまで何の動きにも達せずに掻き
消える。何も起こせないのだ。
- 68 名前:6 投稿日:2006/12/18(月) 23:28
-
反対に、王宮に関わる者たちはプラスティックに優しかった。
深い慈悲で国の再生に臨んだのだ。
最も優しいひとりの働きかけで、追放された罪人の息子は、国の庇護を受ける
ことになる。
「嫌だぁ!どうして僕ばっかり置いて行くの!?」
父親に去られ、次いで兄のように慕っていたナイロンが王宮を去るという。
「違いますってばー!住まいを教会に移すだけです。ちゃんとプラスティック
様に会いに来ますから!」
ナイロンの心中を推し量るにプラスティックは幼過ぎた。
「…ほんとう?」
「勿論です。ナイロンはひとりで勉強を続けます。どうかプラスティック様も
騎士として立派になって下さい」
「…そしたらお父様も帰ってくる?」
「さあ、どうでしょう。…私と一緒に、この国で待ってみましょう」
ジュラルミンの戻る可能性は無い。彼も、それを判っているのに私を困らせよ
うとする。泣き疲れて窪んだプラスティックの眼にナイロンは心を痛める。
- 69 名前:6 投稿日:2006/12/18(月) 23:29
-
彼らが騒いでいる声は回廊に響き渡った。
何事かとすっ飛んで来た近衛兵にナイロンはなんでもないと片手で謝る。
しかし次に訪れた足音を、彼は追い返すわけにはいかなかった。
「…どうしました?」
「お、おお、王妃様!お休みになっていたはずでは?」
「王妃様だぁ!」
「…あまりに賑やかなので祝祭でもはじまったのかと思ったの」
ふふ、と笑顔の王妃の肌は、まだ青白い。
「騒がしくして、も、申し訳有りません!」
「いいのです…。ナイロン、私は以前から彼と話してみたいと思っていたのです。少し、いいかしら?」
「はい、王妃様!プラスティック様、近いうちにまた参ります。しばしのお別
れですがどうかお元気で」
不貞腐れたプラスティックはそっぽを向いたまま答えず、ナイロンの複雑な笑
顔にも気付かなかった。夕焼けの回廊に足音が遠ざかる。
- 70 名前:6 投稿日:2006/12/18(月) 23:30
-
「プラスティック」
「はい!」
「寂しくは、ありませんか」
「…寂しいです。王妃様」
「お父様に会いたいですか」
さすがにプラスティックもこの質問には困った。
「でもそれは…サファイア様が王様に会えないのとおんなじだし、王妃様だっ
て…」
「ナイロンも、敬愛するひとに会えなくなって寂しい思いをしているとは思い
ませんか」
「…」
王妃はそっとプラスティックの頬に触れた。冷たいのに温かい、とプラスティッ
クは驚く。
王妃様はなんて優しく笑うんだろう。王様もそうだった。
僕にも昔、お母様がいたけれどよく覚えていない。
僕のお母様も優しく笑ってくれたのだろうか。
お父様も優しかったけど…ちょっぴり怖かったな。
置いて行かれたのは悲しいけれど、お父様はきっと僕のためにそうしたのだ。
- 71 名前:6 投稿日:2006/12/18(月) 23:31
-
「…王妃様」
「なあに?」
「僕は、騎士になれと言われました。騎士になって、サファイア様を助けなさ
いって」
「そう。そうしてくれるなら私は嬉しいですよ。サファイアも喜ぶでしょう」
「でも…サファイア様は…怒っていないのでしょうか」
「…」
「僕は…僕は」
ついにこらえ切れず、プラスティックはわあわあと泣き出した。
王妃は一瞬驚いたが彼を抱き締めてやった。
「プラスティック、サファイアは怒ってなどいません。それは私も同じです。
お父様は確かに正しくない行いをしました…でもそれは、あなたへの愛からは
じまったのです」
夕闇が濃くなる。腕の中の子どもはしゃくり上げたまま顔を上げられない。
硝子から漏れる橙色が二人の背中を染めていた。
- 72 名前:6 投稿日:2006/12/18(月) 23:31
-
「憎しみは人の眼を曇らせます。でも私はときどき思うのです。愛もまた、人
を盲目にするんじゃないかと」
「…」
「あなたはその綺麗な眼をちゃんと開いて、世界を見つめて生きて行けるわ、
プラスティック」
「…」
「だから顔を上げて」
「…僕は…僕はこの国にいてもいいですか」
「勿論」
「…」
「あなたのことを責める者もいるでしょう。だけどそれよりも多くの人があな
たを愛し、許していることを忘れないで」
真っ赤な眼の涙を拭ってやると、プラスティックは「はい」と大きく頷いた。
笑顔になるにはまだ時間が足りなかったが、彼は一生懸命に頷いた。
- 73 名前:6 投稿日:2006/12/18(月) 23:32
-
その日から、彼の涙を見た者はいない。
プラスティックの両眼は、真っ直ぐ未来を見つめて煌めいていた。
僕は、父のように愛を抱いて生きよう。
ナイロンのように優しいひとになろう。
母のように温かい王妃様を守るために強くなろう。
深い心で許してくれたサファイア様のように立派になろう。
僕を生んでくれたこの土地を裏切ること無く、堂々と生きるのだ。
- 74 名前:6 投稿日:2006/12/18(月) 23:33
-
…
彼は騎士になる道を選び、迎え入れた騎士たちは彼を認めた。
ひょろひょろで何も出来ない少年。言動は年齢より幼稚だが、聡明で一度教え
れば何でも出来る小さな子ども。
いつも一生懸命だったので、彼は騎士たちに可愛がられた。
騎士のシステムには地位や権力が深く絡んでいたので、実力を問われず騎士団
の長におさまるのは自然であり、必然だった。
- 75 名前:6 投稿日:2006/12/18(月) 23:34
-
プラスティックの背は、彼の成長を見守り続けていたナイロンを越えた。
「プラスティック様は本当にご立派になられました…今や騎士団の長、大臣も
きっとお喜びでしょうね…!」
ふたりは会う度にジュラルミンに会う日の話をした。締念よりも希望を持って。
「ナイロン、僕、もっと立派になるよ」
「…」
「立派って言うのは難しいんだ。僕は、許し合い、助け合って生きてゆける人
のことだと思う」
「…」
「王様や、王妃様や、サファイア様みたいに立派になるんだ」
「そうですね……ああ、私は年を取ったようだ、涙腺が緩くて困る…」
「あれぇナイロン、なんで泣いてるの!?僕おかしいこと言った?ねぇ」
- 76 名前:6 投稿日:2006/12/18(月) 23:35
-
騎士団の長。彼はその地位に恥じぬように鍛錬した。いつしか剣の腕は騎士団
一になり、馬術も相当のものになっていた。技術だけではない。心もまた、誰
からも敬われる騎士のそれに近づいていた。
志高い者には良い仲間が集う。
年月を重ねて、プラスティック騎士団は力をつけはじめる。
お前なら王様になっても良かったなあ!と騎士たちは豪快に笑う。
長よりも二周り以上大きな体を揺らしながら、育ちの良いプラスティックをか
らかう。
- 77 名前:6 投稿日:2006/12/18(月) 23:35
-
知ってるぜ。親父のことは聞いてる。まあ昔のことだ、忘れろや。
はっはっは王様になり損ねたのは残念だったなあ!
あいつは鼻持ちならない奴だった。似なくて良かったぜ、王子。
王様ねぇ…夢だよなあ…いや、幻だったのか。
そうだ、じゃあお前のことは幻の王と呼んでやろう。
どうだ?いいあだ名だろう。
馬鹿にしているわけじゃない!俺たちの命を預けるんだ、俺たちの王様には変
わりない。
幻だっていいじゃないか!
王様のように立派に生きたのなら悪くないと思わないか?
- 78 名前:6 投稿日:2006/12/18(月) 23:39
-
シルバーランドには奇跡を呼ぶ騎士団が有ると言う。
騎士団の先頭には「幻の王」と謳われる騎士が在るという。
彼が「幻の王」と呼ばれる理由は諸説あるが、騎士たちは口を揃えて言うのだ。
「プラスティックは王になる価値の有る男なのさ!」と。
- 79 名前:6. 幻の王 投稿日:2006/12/18(月) 23:39
-
…
- 80 名前:kkgg 投稿日:2006/12/18(月) 23:41
-
>>65 名無し飼育さん
ありがとうございます。
私も「リボン」にはまったために、多くの疑問を持ちました。
そういった疑問への「補完」も、この話を書く目的のひとつです。
個人的な意見として「生まれ変わりの選択」に神の意志は有ったと思います。
ですが「神」と「人(の器)」の意志の差は大きく、皺寄せが生まれてしまった、
というのが私の持つイメージです。
この辺りも、ちゃんと物語中に描いていくように努めますので、今後もどうぞよろしく!
- 81 名前:過ぎし日の国 投稿日:2006/12/20(水) 23:22
-
7. 両の端緒
ふたりの邂逅は三度。
一度目は、生まれる前。
二度目は、利を叶えようと奪い合った嵐の中。
三度目は、共に魂を得た死の淵。
…
眠れない。
サファイアは魔女・ヘケートに対して感情を有した記憶が無いが、それは無関心では
ない。かつて自分の命を狙った相手を、冷たく扱えないことに、サファイアは早くか
ら気付いていた。
それはプラスティックやナイロンに持つ「許しの心」とは全く異質な感情だ。
邂逅は、近づくというより引き合うというのが正しい表現だった。
- 82 名前:7 投稿日:2006/12/20(水) 23:22
-
共有していたからだろうか。
迷子の魂。
フランツへの愛。
邂逅は、近づくというより引き合うというのが正しい表現だった。
魂という概念に戸惑いを持ったまま、サファイアは中空を仰ぐ。
眠れない。
…
「どうしてヘケートはシルバーランドにいたんだろうね」
フランツの問いにサファイアは眼を丸くした。
青年期の終わりを過ぎようとしているフランツの顔は今も昔も穏やかなままだ。
- 83 名前:7 投稿日:2006/12/20(水) 23:23
-
彼らは時折、過去の話をした。話し尽くしたような気もする。
サファイアが本当の自分を取り戻した日について話す時は、分析や解明を目的とせず、
ふたりの馴れ初め、思い出として話すのが普通だった。これについて互いに深く感謝
していた彼らは思い出を閉ざす必要などなかった。
ふたりは宮殿の奥庭にいる。
サファイアはよく夜の奥庭を歩きたがる。
淑女が夜に出歩くなんていけないことですねと照れくさそうに笑うので、事の成り行
きを把握したフランツは少年時代の名残かもしれませんねなどと答えてしまった。
もう10年も前のことだ。
「理由…ですか」
「時々ね、ふと考える時があるんです。あの日は世界の全てがひっくり返るような勢
いで時が進んで、私には何がなんだか判らなかった。あなたと過ごしていれば謎はみ
な溶けると思っていたが、どうやら私の中の好奇心は更に多くを知りたがる。私が知
りたいのは、あの魔女のことです」
それはサファイアを愛するがゆえの疑問であり、無知へのささやかな恐怖もでもあっ
た。
- 84 名前:7 投稿日:2006/12/20(水) 23:23
-
「いや…それは問いとして急ぎ過ぎているか。サファイア、正直に言おう。私は不思
議でしょうがない。あなたがふたつの魂を持っているのをヘケートはどうやって知っ
たんだろう?」
「…」
「あなたの魂を奪いながら、すぐにそれを己のものにしなかった魔女のことだ。何で
も思い通りになるわけじゃなさそうでしょう。だとすれば、あなたの存在に気付くの
も容易なことではないのでは?」
「…」
そういえば、ようやくここまで来たのね、とヘケートは笑っていた。
あれは私にではなく、永遠を彷徨う魔女自身への言葉だったのではないか?
- 85 名前:7 投稿日:2006/12/20(水) 23:24
-
宮殿の奥庭には、小さな礼拝堂がある。
主に、騎士たちの無事を祈るのに使われる。
フランツは歩みを止めて入口の石段に腰掛けた。古い木の扉をひとつ打ちながら鍵を
持ってくれば良かったなとこぼす。サファイアはまだ自分を男の子だと信じていた幼
い頃に、勝手に入り込んで怒られたのを覚えている。
月明かりの差す木の扉には、いびつな天国と地獄が彫られている。上方に彫られた天
国には天使たちが飛び交い、中央には神がその両手を大きく開いて世界を見下ろして
いる。つくりものの永遠を象(かたど)った扉。
「永遠を生きるなんて僕にはとても無理だ。きっと寂しくて死んでしまうよ」
「ああ、その通りだ…私は考えたことも無かった」
- 86 名前:7 投稿日:2006/12/20(水) 23:24
-
「違う…」
「…」
「そうではないのです。サファイア、あなたはまさに渦中にあった」
「…はい、フランツ様」
「だから無思慮を責めるのは間違いだ。長い年月を過ぎて、はじめて思い出として振
り返ることが出来る。あなたのこと、私たちのこと、魔女のこと」
「魔女…ヘケートは、私にふたつの魂があると言いました」
「あなたが男であり女であったという事実の、根源ですね」
「はい」
サファイアの表情が強ばる。
「フランツ様、私たちは」
「…」
「私たちは知らなかった…。魂の存在を意識的に論じたことなど、無かった」
サファイアの小さな両手が震えている。
- 87 名前:7 投稿日:2006/12/20(水) 23:26
-
フランツはそっとサファイアの手を取った。
紳士的かつぎこちない彼らしい優しさで。
「フランツ様?」
「…判らなくなってきました」
「え?」
彼は思い切り強くサファイアの手を握ると、屈託ない笑顔を作った。
「やめだ!この話は満月の夜に似合わない」
フランツは常に会話のはじめと終わりを決めてしまう。
今夜もだ。サファイアは可笑しくなる。
これは彼に仕える騎士たちが冗談ついでに文句を言う欠点のひとつで、サファイアは
笑いを隠すはめになる。侮辱だと思われたら敵わないし、何よりも彼に対して失礼で
ある。
- 88 名前:7 投稿日:2006/12/20(水) 23:26
-
しかし今夜は、とサファイアは嬉しくなる。
彼の性格はサファイアが思い描いていたものとは違ったが、愛する心を削ぐことは無
かった。いつまでも憧れの王子のままだった。
「ふふ、そうですね。私ももう少し若ければ、嫉妬のひとつでもしていたことでしょう」
「嫉妬?ヘケートに?そ、そんな…私は」
フランツは困り果てて言葉をなくす。
「ええ、そろそろ牢獄で冷たく帰された話を持ち出そうとしていたところです」
「ああもう!あなたはいつもそうやって…」
- 89 名前:7 投稿日:2006/12/20(水) 23:27
-
サファイアは、フランツに深く深く感謝していた。
いつからか、フランツの他者に好機を招く才能を知るひとりになっていた。
「そういえばフランツ様。デージィが教会に忍び込んだのをご存知で?」
「鍵もなしに?大した王子様だ。男の子はわんぱくなほうが良い」
「でも計画したのはビオレッタですって」
「…なるほど。あなたに似ておてんばなお姫様というわけか。まあいいさ。いつかあ
なたのような素敵な女性になるのでしょう」
…
眠れない。
サファイアは思い返す。
決まってひとりの夜に。
- 90 名前:7 投稿日:2006/12/20(水) 23:27
-
どうしてヘケートはシルバーランドにいたんだろうね、とフランツが聞いたのを思い
出してサファイアの眼は冴える。違う、シルバーランドにいたのはヘケートではない。
「違う。…シルバーランドにいたのは私だ」
ふたつの魂を持っているのをヘケートはどうやって知ったんだろう?とも彼は聞いた。
サファイア本人さえ知らなかった事実。
実のところ、サファイアは運命の中心にいながら、それに対峙したのが遅かった。
最も早かったのは魔女・ヘケートだ。
ヘケートはいつでも私の魂を奪えたし、命だって奪えた。
それなのに何故、母を助けたのだ?
何故、私の意志を確かめに現れた?
「眠りたいのに…」
こめかみが痛む。
夢見る夜が訪れない。
過ぎたのは共有、邂逅、はじまりと終わりにそれぞれの絶望。
幸せを掴むための長い道のり。終着点に着いたからこそ思い返す悪夢。
- 91 名前:7 投稿日:2006/12/20(水) 23:27
-
ヘケートはサファイアの中に魂を見つけた。
フランツに愛されたその時から、その魂はヘケートのものになった。
全ては魔女の見た夢だ。
それは私の望んだ世界ではない。しかし。サファイアは視点の切り替えに努める。
至極、自然なことでもあるのだ。
魂のない魔女が、己のものと決めた魂のもとへ、近づく。
「無くしたものを手にするために…」
眠りに逃げたいのに上手くいかない。
「元の場所へ」
流れる水が大地に向かうように、自然に。
「還ってきたのだ…!」
眠りに逃げたいのに、天井を睨んだまま意識は冴える。
サファイアは身震いした。
- 92 名前:7 投稿日:2006/12/20(水) 23:28
-
縁。
運命の一端。
世界の縁は複雑に絡み合う。
ある場所はもつれ、ある場所は切れて方々へのびていた。
神によって編まれたリボンの中心にはサファイアがいた。
ひとつの器にふたつの魂を持つ異質の存在。
周りには、揺らぎを義務づけられた彼女を救おうとする者や、その鮮やかさから鬱陶
しがる者、あらゆる人、人、人。人の渦。
光に群がるのは命の習性だ。
彼女から最も遠いリボンの一端に、ヘケートは在った。
魂を持たぬ虚の存在。
もう光は届かない。闇の中で魔女は待っていた。
闇の色の右胸には鮮烈な赤いリボン。
ふたりの間には永遠にも等しい距離があったのに、切れることは無かった。
それを運命と言い、縁とする。
- 93 名前:7 投稿日:2006/12/20(水) 23:29
-
…
ナイロンは身震いした。
逃げ出したいのに、魔女に睨まれたまま体は動かない。
彼の狭くて温かい小屋には魔女がいた。
「な、なな、何してるんですか…」
我ながら頓狂な質問だ!
ナイロンは閉めた扉に背中を貼付けたまま、やっと額の汗を拭う。
妖艶な微笑みで魔女は瓶の中のひとつを指差す。
「それは私のものだ。返してもらおう」
指差す先には、薬壷、瓶の並べられた古い棚。
外側から見えないその最奥には白い瓶が有る。
白い瓶。
国を去った大臣・ジュラルミンが、王妃に飲ませた自白剤の瓶だった。
- 94 名前:7. 両の端緒 投稿日:2006/12/20(水) 23:29
-
…
- 95 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/20(水) 23:42
- リアルタイムキターー
更新お疲れ様です。あの夏に抱いた疑問が一つ一つ解決されていくような思いです。
また新たな展開がありそうで楽しみです。
- 96 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/12/22(金) 21:53
- 更新お疲れ様です。
ひとつひとつのエピソードが静かに紡がれて行く世界。
やがてどんな物語になるのか楽しみにしています。
- 97 名前:過ぎし日の国 投稿日:2006/12/23(土) 23:43
-
8. 流れる水とその行方
ナイロンは急いで瓶を棚から出すと、ヘケートに手渡した。
その手は震えていて、今にも瓶を落としそうだ。おかしいな、窓が開いている
のだろうか、ひどく寒い。
「ありがとう。これを開けた?」
「いいえ…恐ろしくて」
「怖がらなくていい、お前には何もしない」
「…大臣に薬を渡したのはあなただったんですね…!」
- 98 名前:8 投稿日:2006/12/23(土) 23:43
-
「知らなかったの?」
「いやあの…大臣は、ああ見えて秘密主義者なのです」
「は、下手な冗談を!」
ナイロンが芝居じみたセリフで答えると同時にふたりは笑い出した。
「やはりそう思われますか。いやあ私は訳あって王妃の一件は出番なしでした」
「ふふ、面白い奴だ」
「お褒め頂き光栄です。ええと、ヘケート?」
「よくご存知で、伯爵」
「実は先日、サファイア様があなたのお話をされていたのです」
「サファイアが?」
「ええ。魂の在り方について悩んでおいでで…」
- 99 名前:8 投稿日:2006/12/23(土) 23:44
-
ナイロンは警戒心というものが無い。場の雰囲気にのまれ易い男だった。
ヘケートの生き方を人づてとはいえ知っており、恐ろしいと感じていた。しか
し彼女は大臣を知っている、そう知った瞬間、恐れよりも興味が勝っているの
をいち早く自覚してしまう。
それは彼の特性だった。大臣にはコロコロ言うことの変わる奴だ!と叱られた。
「魂か…今となっては済んだこと」
「し、しかし!いろいろと疑問は残ったままです!例えば、あなたがこうして
魔女として生きているのは…」
「議論がしたいのなら付き合っても良い。名は?」
「ナイロン」
- 100 名前:8 投稿日:2006/12/23(土) 23:44
-
「ナイロン、ひとつ忠告してあげよう。議論という奴は、何も生まない」
「その通りです。しかし議論は、今後に善く生きるための贈与になります」
「…なるほど」
「あなたが嫌なら聞かない。だが私は興味があります。人間としての魂、神に
よる魂の采配、そして魂が肉体に宿るまでの過程…その行方」
「大臣の行いには魂を通じた報いに因ると考えるのね」
「そうかもしれませんしそうではないかもしれません。私たちの罪を正当化す
るつもりもない。ただ、大臣には幸せになって欲しい。いつ再会できるか判り
ませんが、そのために私はあらゆる努力を惜しまない」
「魔女との契約も?」
「…うーん、少し考えさせて下さい」
いよいよ魔女は声をあげて笑った。
「何も生まぬ努力。…愛のようなものね。理性に頼らず、無償に捧げるのだから」
- 101 名前:8 投稿日:2006/12/23(土) 23:44
-
低めの木机にガラスの空容器が三つ並べられた。
彼は彼なりに一通りの仮説を組み立てており、いつかはサファイアに教えてや
るつもりだった。
「ビーカーと言うんですが、これが私たちの、ええと…体です」
「肉体ね」
「はい。次にこれが魂です」
古い水差しを指差す。
「肉体には魂が要ります。この容器の半分まで水を注いで、ひとつの魂としま
す。次のビーカーには水をいっぱいを注ぎます」
「これがサファイア」
「そうです。そしてこれが…あなたです」
最後に残った空の容器。
「あなたはこの空虚を満たすために、サファイアのもとに現れた」
「…」
ナイロンは空の容器を水の溢れそうな容器に近づける。
- 102 名前:8 投稿日:2006/12/23(土) 23:45
-
「もし、この水を最後の容器に移せるのなら…」
ふたつの容器の水は等しくなった。
「移したほうが、正しい。あくまでこの時、観点は個でありませんが」
「世界の道理として?ふん、やはりお前は学者ね。サファイアの気持ちは加味
しないの?」
サファイアが女の魂を望んでいたのを、ヘケートはよく覚えている。正確には、
忘れられないでいる。
「ここではあえて学者の眼で議論したい。個々の感情は…そうですね、この目
盛りの印刷程度に考えてはどうかと」
「いいわ。個の性質が、肉体と魂に直接的な影響を及ぼさないのは確かだから」
- 103 名前:8 投稿日:2006/12/23(土) 23:45
-
「どうでしょう、ヘケート。まだごく最初の段階ですが」
「報いの仕組みまでにはとても繋がりそうにないわね」
「全くです。しかし人間を魂と器いう認識で論じること自体が、私たちには進
歩だ」
「悠長で羨ましい話。そして、滑稽」
「それが人間という奴です」
「…ではもう少し教えてやろう」
ヘケートは容器を均等な距離に並べ直す。
「容器を肉体、水を魂と例えたけれど、逆ね」
「…逆?」
「容器は魂、水が肉体」
「…どういうことですか?」
「容器は魂、魂とは肉体を置く場所。魂が善く生きようとする…肉体すなわち
水はそれに従い、かたちを変える」
「…」
「それを不可視にしようとするのが個。身なりや地位、性格…この鬱陶しい目
盛り」
- 104 名前:8 投稿日:2006/12/23(土) 23:45
-
ナイロンは混乱してきた。
「それではサファイア様とあなたは…」
「肉体すなわち水は、増減するわけではない。サファイアの中にはふたつの魂
があった。満たされるべき容器がふたつ有れば水が足りない。こう考えれば良
い…容器が、歪んでいたのだ」
ヘケートは実験器具が並べられていた棚から、磨き銀の容器をひとつ手にし水
を移し替えた。水はちょうど良くおさまる。
「そして美しく輝いていた。世界の果てまで届きそうに」
「ではあなたは」
「わたしは流れ続ける水。何処にも落ち着くことが出来ない」
「器を求めて流れる…」
- 105 名前:8 投稿日:2006/12/23(土) 23:48
-
「死後に天国と地獄があるように、生前にも別の世界があるのかもしれない。
神から魂を貰えるという奇跡に辿り着いた時に、私は次の器の可能性を知った。
判るか、ナイロン」
「…い、いやあ困った!」
必死で聞いていたナイロンが突然叫んだので、驚いたオウムが騒いだ。
「判りません!判らない。残念だけど魔女であるあなたが人間と相容れないの
は当然のようだ。それは判った。違い過ぎるんだ、規模とか単位とか、あと視
点…あらゆる点で」
「そうね」
「…だから…あの、辛かったでしょう。人間の中で暮らすのは」
「…気付いてしまえばね。気付かせてくれた男たちは、みな死んだ。魂が正し
くとも肉体には限界がある。それが現実」
- 106 名前:8 投稿日:2006/12/23(土) 23:48
-
「現実…。水は流れ続ける…。魂によって、現実が生まれる…」
「その通り。賢いナイロン」
「もしや…あなたがサファイア様を見つけたのではない。サファイア様があな
たを…仮説に過ぎませんが、あなたの生まれにこそ報いの仕組みが働いた可能
性はありませんか。サファイア様の魂があなたを『呼んだ』のではなく、あな
たを『生み出した』と」
「…何事もそう上手く割り切れると考えてはいけない」
それでは私の魂は男のものか?とヘケートは唇を尖らせた。
「ああ、そうですねぇ。結論を急いた」
「お前は聡いけれど、やはり学者ね。難しく考え過ぎる」
「え?」
- 107 名前:8 投稿日:2006/12/23(土) 23:49
-
「…少しお喋りが過ぎたわ。結局、生前も死後も他所の話。魂を欲しかった理
由など簡単なのに、今更」
「…魂を欲しかった理由?」
「私は愛されたかった。それだけ」
…
並べたビーカーは茶器に変わっていた。
紅茶を飲む魔女の絵を、ナイロンは不思議な気持ちで見ていた。
ふたりの間に張りつめていた緊張が緩んでいるのを魔女も否定する様子が無い。
「ナイロン。まだ魔女のまま生きているのは何故かと聞いたわね」
「は、はい」
- 108 名前:8 投稿日:2006/12/23(土) 23:49
-
「神と、取引したの。ひどい仕打ちと引き換えに願い事をした」
ヘケートはさも愉快そうに笑っている。
「なな!なんと恐れ多い!…ゆ、許されない行いでは?」
「…お前たちは神を見た?あの日、サファイアが自分を取り戻した時、神が現
れたでしょう。姿は見えた?」
「い、いいえ」
背後にとてつもなく偉大な力を感じながら、振り向くことが出来なかったのを
思い出す。誰一人。辛うじて走り去るヘケートの足音を聞いたのを覚えている。
「人間たちはまだ神と向き合うには早いんでしょう。私は魔女であるがゆえ、
向き合える。お前も言ったように、我々は『違う』」
「そうでした…取引とは?」
「この国が…いやサファイアが、幸せに生きて死ぬまで永遠の命をもって見届
けさせよと言ったの」
- 109 名前:8 投稿日:2006/12/23(土) 23:49
-
生前の世界で、神は大臣・ジュラルミンに生まれる者とその場にいた者たちに
命じた。
「この子が女の子になり幸せをつかむその日までともに地上をさまようがいい」
魔女・ヘケートは露も知らぬのにそれを取引に持ち出した。
「責任感から、ですか」
「違う」
思い切り不機嫌そうに眉根を歪める。
「では…」
「愛しいと思ったから、この国と民を。サファイアを」
魂の片割れ。そんな言葉がナイロンの脳裏をかすめたが、飲み込んだ。
孤高の魔女が見つけた愛することの意味に、ひどく胸を打たれたために。
この人は、優しくて悲しい。
魔女と人間は相容れない。
魔女の本当の心など、人間ごときに判るはずがない。
そして魔女も、人間の愛を欲するにはそぐわない存在なのだ。
神よ、どうやらあなたは私が思うよりもずっと私たちに近いようです。
全知全能でありながらこの気まぐれ。
どうしてあなたはこのような仕打ちをするのです?
サファイア様に。
ヘケートに。
そして、大臣に。
- 110 名前:8 投稿日:2006/12/23(土) 23:50
-
…
白い瓶を手にした魔女は席を立つ。
「ま、待って下さい!」
「…なんだ」
「何故、今になって薬を?まさか、また使うのですか」
「十年二十年過ぎて水が蒸発すれば底に毒が残る。開ければたちまち命を傷付
けるだろう。…いや何、思い出したのだ、ふと。お前に使う用が有るなら置い
ていくが?」
ナイロンがぶんぶんと首を横に振ると魔女は子どものように微笑んで、消えた。
目の前の出来事に対処出来ずナイロンは慌てる。
「ま、また来て下さい!私に薬学を教えて下さい!」
ああまた私は頓狂なことを!
魔女からの返事は聞こえない。
しかしきっと来るだろう。ナイロンは確信していた。
だってこの国を愛していると言ったじゃないか。
十年以上前の駒を思い出すなんて不自然だ。
薬瓶を言い訳にして来たに違いない。
彼はまだ気付かない。
長い間隠れて国を見守ってきた魔女が、姿を現した理由に。
それには、彼の主が深く関わっていたが、彼はまだ気付かない。
- 111 名前:8. 流れる水とその行方 投稿日:2006/12/23(土) 23:51
-
…
- 112 名前:kkgg 投稿日:2006/12/23(土) 23:59
-
>>95 名無し飼育さん
ありがとございまーす!
リアルタイムってすごい偶然!
私はまだまだ、八月病のままです…
>>96 名無し飼育さん
ありがとうございます!
ちょっぴり序盤が長引いています…。
もうすぐ核心に入ります…は、入るはず!
- 113 名前:過ぎし日の国 投稿日:2006/12/28(木) 23:51
-
9. 献身
かつて、神の存在が人々の生活に関わっていた頃、狂人は神の怒りに触れた者だとい
われた。彼らは厄介者扱いされるわけでもなくただ少しばかり不幸がられて、運が良
ければ不思議と神聖視された。
神は偉大だ。狂人さえ、神の創りし者なのだ。
全く、神様ってお方は困ったひとだ。大臣じゃあるまいし、人を振り回すのはいい加
減にして欲しい。
大臣の純粋な眼はもうこの下界を映していない。
否。プラスティック様を映している。
それならば、私はその願いを助けよう。
- 114 名前:9 投稿日:2006/12/28(木) 23:52
-
ジュラルミンの居所を知ると、ナイロンはすぐに通い始めた。
一週間に一度、二日をかけて北の地へ行き、戻るとまず城へ行きプラスティックに会
いに行く。遠方の戦の噂、流行病の特効薬、プラスティックとサファイアへの土産と、
ナイロンの手はいつもいっぱいだった。
籠っては研究に没頭し家を出てはぼろぼろになって戻るため、彼の心身は見るからに
鍛えられ浪費された。
反対に全く容姿の変わらぬヘケートはたびたび姿を現す。
薬学の知識を求めるナイロンを拒む様子も無く、時には薬草を持ってきさえした。
シルバーランドと彼の身の置き方に理解を示した頃、周りの国の情報を持ち込むよう
になった。
ナイロンがあなたはどうして私に親切なのかと尋ねたら、お前はつけ込み易いからだ
と返された。
- 115 名前:9 投稿日:2006/12/28(木) 23:52
-
「ナイロン、それも愛と呼べる行いだと思う?」
ある日、美しい魔女は、痩せこけた青年に問うた。
北に行くための準備をするナイロンは、照れくさそうに笑うと顔を伏せてしまう。
足下には鞄に詰める薬草や食料が几帳面に並べられている。蝋燭を束ねながら答えた。
「どうでしょう。名をつけるならそうかも知れません。私はただ、大臣に幸せでいて
ほしいんです。最期まで」
「最期…。最期を見る覚悟もあるの?」
ヘケートは幾つも別れを知っている。
去られる者は去る者になれない、小さく呟く。彼女の発言は同時に内に向けられる。
「あの人が…大臣がそれを望むなら」
「答えになっていないわ」
献身かもしれない、とヘケートは彼の答えを羨んだ。
- 116 名前:9 投稿日:2006/12/28(木) 23:53
-
「そうですね…。でもきっと大臣閣下はそばにいても良いと仰る」
「大臣は私がついていないと…」
「私が…」
「…でもプラスティック様がいたほうがお喜びになるでしょうね」
「でもあの息子には教えないままね」
「はい。まだ迷っているんです。いや、迷いではなくて…うーん、いや、迷いは無い!
はず、です。はい」
「…迷っているわ」
「…そうですね。おかしいな」
「…ナイロン、お前、目盛りの位置から考えているからよ」
「はい?」
- 117 名前:9 投稿日:2006/12/28(木) 23:54
-
「人間は目盛りの位置から考えているから、惑う」
「そうか、『容器』の…私が在る『世界』から考えよ、と?」
「『魂』から願う行いが善くないはずがない」
「なるほど」
ヘケートの強引さはここから来るのだろうか。確固たる自信。もしくは過信。私によ
る過信。孤独を認めた日からずっと彼女は魂との関わりを模索しているんだから生ま
れる言葉だ。
魔女を師に持つのもなかなか珍しい経験かもしれない。
「…ああ」
そしてまた彼はひとつの気付きに達する。
「それが『善く生きる』ということか」
「聡いな、ナイロン。私もかつて目盛りの位置から考えた経験が有る」
「え…い、いつですか?」
「全く、よくも真っ直ぐ聞けるものだ」
「あ、すみません…」
- 118 名前:9 投稿日:2006/12/28(木) 23:55
-
手元にあった麻紐をまとめ終わったのに思わず机に落としてしまう。わあ!と子ども
のように驚いてまた束ね始めるのに手を貸さずに、ヘケートは続けた。
「私が欲に溺れたのは…サファイアを見つけた日から、『負けた』と感じたあの一瞬
まで」
「負けた、か…。サファイア様はあなたに勝ったなどとお思いにならなかったでしょ
うね」
「…」
「悔いているのですか」
「まさか」
冷たい面差しに隠したのは後悔だろうか。
「早く出なければ日が暮れる…夜には峠に野犬が出るわ。雨は…降らない。早く行き
なさい」
「はい」
今日も擦り切れた鞄を幾つも持って、ナイロンは笑顔で小屋を出て行く。
真上に向かって上る太陽はあたたかく彼を迎えた。
「では…」
扉の前で振り向いても部屋は既に無人である。
- 119 名前:9 投稿日:2006/12/28(木) 23:56
-
…
では、それまで彼女を動かしていたのは何だろう。
枯れ枝の重なる山道を進みながら、ナイロンは沈みかけの太陽に照らされていた。
鬱蒼と茂る森の中でも、枝の間を縫って西日が当たる。
誰かが作った縄の手がかりに身を預けても足の下の霜が歩みを阻む。溶けない朝露の
名残だ。湿った落ち葉が靴の裏に積まり進むほど足は重くなる。
険しい道である。目的の有る者にしか道を開けないのは森も心理も同じだ。
気が確かなときは大臣もここを必死で通ったのだと自分に言い聞かせ、頭が朦朧とす
る時には若き日の大臣と自分の光景を見た。
幾つもの幻影がナイロンのそばを過ぎていく。
確かなものは、記憶の中で美しい残骸になっている。
- 120 名前:9 投稿日:2006/12/28(木) 23:57
-
…
「こんばんは」
シルバーランドを出て二度目の朝陽の中、ナイロンは石造りの建物に辿り着く。
手を掛けた扉の木が腐り始めている。部屋は前回出た時と殆ど変わらぬ様子で、瓶入
りの蜂蜜が減っているのが眼につく。茶葉の筒を開ければこちらも減っていた。
「大臣、このお茶はお好きですか?」
「…ああ、あなたか」
「今度また持ってきます」
「頼むよ。懐かしい味がするんだ」
「そうでしょう。…プラスティック様はお元気ですよ。先日、盗賊団を一掃しました。
国内はとても落ち着いていますが、妬む連中が現れた。争い事は嫌ですね…」
「…プラスティック…シルバーランドの騎士、一度お目にかかりたいね」
「そうだ」
ナイロンはベルトに吊るした革袋から油紙に包んだ一枚の絵を取り出す。
- 121 名前:9 投稿日:2006/12/28(木) 23:58
-
画家に描かせたプラスティックの肖像画。サイズは小さいが細やかな描写の油画で、
額装もなされている。
「さすがに合うガラスが無かったんです。壁に飾るには困らない」
ジュラルミンは渡された絵を手元に置いてしばらく眺めていた。その間にナイロンは
適当な場所を探した。
「ここから見える場所にしてくれ。ああそうだ、その壁がいい」
釘を打ち麻紐を絡め絵を掛けると、そこには大きく眼を開けて真っ直ぐに前を見る青
年騎士が現れる。
「なんて立派なお姿だろう…」
「ええ。本当にご立派です」
「なあ君、私に神の迎えが来るときも彼は見守っていてくれるだろうか」
「…勿論です!…それに私だって…いますから」
「…ありがとう。ええと君、は」
「ナイロンです」
「ありがとう、ナイロン。君には世話になってばかりだ」
「ええ、全くです」
- 122 名前:9 投稿日:2006/12/28(木) 23:58
-
石造りの家からもれた赤い灯が迫り来る青い闇に不釣り合いな寒い夜。
魔女・ヘケートは一部始終を聞きながら夕闇に紛れていた。
不愉快な光景だ。こんなはずではなかった。どこかで踏み違えたのか?
死の香りがしたのでシルバーランドの中心に再び足を踏み入れたが果たしてこ
れは正しい行いだったのか、はじめて自問する。死は哀しみを連れてくる。最
も悲しいのは別れに出会えぬことだ。
ジュラルミンの戒めの旅はまだ続いている。別れをそれと気付かぬままこの世
を去るのが最たる証拠だ。
哀れんだのだろうか?彼のもとに臣下を遣ったのは要らぬ世話だったか。
- 123 名前:9 投稿日:2006/12/28(木) 23:58
-
月が浅く上る時分に荒れ地を帰り行くナイロンの後ろ姿は細く小さい。月光で
影を作るために施された枝の先のように虚ろだ。
ヘケートは彼の帰路に何も起こさぬよう、道々に言い聞かせた。
あの小さくも、偉大な後ろ姿!
彼は愛を知っている。
彼の行動、その原動力に愛がなければいけない。
虚の身体でも、魂に善良をを誓う強さを魔女は手にしていた。
永遠の命に終わりを知ることで進む道を迷うようになった魔女は、静かにもう
一度思考を巡らせる。
私は間違えたか?ナイロン。
大臣が望むなら死を見届けると言ったお前は、何故、笑っている?
- 124 名前:9 投稿日:2006/12/28(木) 23:59
-
…
夜は音もなく世界を闇に沈めていった。
戒めの旅の終着点で、孤独なジュラルミンは乾いた手を宙に泳がせ、掴もうと
する。指の間に空気が流れる。
手は愛しい息子に向かってのび、靄のかかった視界にある一枚の絵に触れよう
と泳ぐ。
息子よ!愛しい息子、今も元気にしているか?
父は老いた。神の声が聞こえるんだ。
どうしてお前の声は聞こえないんだ?
中空に腕が揺れる。
白く長く骨張った指の間に流れる空気が有るだけで、何も掴めない。
- 125 名前:9. 献身 投稿日:2006/12/29(金) 00:00
-
…
- 126 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/12/31(日) 12:16
- 更新お疲れ様です。
ナイロンと魔女のシーンは美しく深い。そして素晴らしい。
両極端とも言える二人なのにどこか温かい。
大好きな作品です。
- 127 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/01/05(金) 23:35
-
10. 落下の音
女王・サファイアより使いで急遽王宮に上るナイロンの手にはビーカーと磨き銀の容
器と水差しが有った。
水差しの口から時折しずくが落ちて地面にしみ込んだ。
大地の下へ、何者にも見えない場所へ去って行く。
再び世界に姿を現す頃には、彼を知る者がいない。
繰り返し、繰り返し。
- 128 名前:10 投稿日:2007/01/05(金) 23:36
-
…
王宮の最奥は静かで、昼を過ぎた頃には太陽の光が奥まで届かない。
細工の泳ぐ格子の窓の影が、ナイロンの足下で優雅に踊っている。薔薇でも百合でも
ない花の模様と長い葉が絡み付きそうに這うのをナイロンはこの時だけ不快に感じた
。つくりものの美しさだからだろうか。それとも突き詰めず曖昧に描き取った彫刻家
への不満だろうか。
サファイアはしばらく不機嫌そうに下を向いていたナイロンを眺めた後、彼をそばに
呼んだ。お互いによく考える時間が要るのはこの後だ。古くからの友人だというので
控える兵たちも警戒しない。
- 129 名前:10 投稿日:2007/01/05(金) 23:36
-
静かな部屋に凛とした女王の声が響く。
続いて、足下を絡めとられたかのようにどきりとしたナイロンの絞り出した声が、大
きく裏返る。
「ぎ、議長ぅ?私が?」
「国民会議のトップだ。引き受けてもらえないだろうか」
困った顔を作るナイロンの姿は予測済みで、サファイアはとりあえず返答を待つ。
両手をふさぐ容器をひっくり返したり持ち替えたりしながら惑う様子を、若い護衛兵
たちが笑っている。
- 130 名前:10 投稿日:2007/01/05(金) 23:37
-
さてどうしたものか?
北へ通うようになって数年経ったが、大臣の容態には悪化も回復も見られない。
私が通わずとも、誰か…頼めるような者がいるだろうか。そうだ、ヘケート…いや、
それは無理か。だがやはり、私が行かねばならない。どうすればいい?うーむ。
ああ!まるで脳内で議会が開かれているようだ。
途轍も無い早さで!途方も無い議題で!
『議論という奴は、何も生まない。議論は愛の在り方に似ている』
ヘケートの艶やかな声がナイロンの脳裏に浮かぶ。
その通りだ。ナイロンは呼吸を整えて、まずは得意の分析を試みる。
- 131 名前:10 投稿日:2007/01/05(金) 23:37
-
「…それにしても何故、手柄も勲章もない私が急に…」
「お母様の一件、あれで十分だろう」
王としての威厳を表すのに最も適した表情を作って、用意していた言葉を放つ。
亡き王妃は、サファイア即位後のシルバーランドの平和を喜びながらも、病の床から
起き上がることは無かった。母のように慕っていた王妃を思い看病を希望したプラス
ティックと、彼の頼みで主治医となったナイロンは手を尽くしたが快復にはには至ら
なかったのだ。
「ずいぶんと前の話だ…。妙ですね、論議の才識ならトルテュ様でも…」
ナイロンははっと息をのんだ。
騎士たちを置けない理由がひとつだけある。
- 132 名前:10 投稿日:2007/01/05(金) 23:38
-
「そういうことだ、ナイロン。西の内乱が隣国に飛び火した。あれはシルバーランド
とゴールドランドの同盟国…近いうちに本格的な出兵を要請されるだろう。そうなる
と戦力となる騎士団は国に残せない。過去の戦を鑑みればここを攻める策は取らぬだ
ろうから国の護衛は自警団に任せる。国を留守にする間、国民の心の拠り所を明らか
にしたい。教会関係者はいけない、信仰はあくまで個人の持ち物だ」
「出兵…?サファイア様…まさか、あなたも行くつもりなのですか?」
「国の力になれると知りながら動かぬ王などいない」
「…騎士として…いや、女王として先頭に立つのですね」
「うん」
悠然とした微笑みと子どもの頃と変わらぬ返事に、ナイロンの心は締め付けられるの
だった。
効果てきめんだ。サファイアは自身の狡猾さを王の立場から使った。
- 133 名前:10 投稿日:2007/01/05(金) 23:39
-
「もうひとつ。聞きたいことがある、ナイロン。知っての通り先の出兵でプラスティ
ックが負傷している。怪我の様子は?」
「ほぼ完治しています。左腕の傷は痕になりますが、あと二週間頂ければ動かすのに
問題はないでしょう」
「大事を取って次の出兵は命じないちうもりだ。議会の仕組みについて、彼から聞く
ように」
「ええっ?プラスティック様から?」
眼を丸くするナイロン。
「ふふ、プラスティックはもう立派な青年。いつまでも子どもじゃない。これから私
たちは老いて彼らに面倒を見てもらうようになるのに、いつまで保護者の顔をするつ
もりだ?ナイロン」
心の内を読まれて青年の頬は真っ赤になる。
- 134 名前:10 投稿日:2007/01/05(金) 23:40
-
「ああ!なんて事でしょう。時間の早さはいつだって他者の姿で知るばかりだ」
「全くね。彼らが新しい国をつくる頃には、私たちは見えない礎(いしずえ)になる」
サファイアは護衛兵を下げるとその長い脚をひらりと組んだ。
はしたないとは責めずに少年時代の名残だとフランツは言うが、サファイア自身は豪
奢な玉座に斜に掛ける度に自らの女性性を思い出す。
「さて、本題だ。ナイロン」
サファイアは静かに視線をナイロンの両手に向けた。
…
ビーカーと磨き銀、水を用いた説明に、サファイアは大きくひとつ頷いた。
説明が一通り済むと、その顔は回廊に並ぶ彫刻よりも透き通るように青ざめた。
- 135 名前:10 投稿日:2007/01/05(金) 23:41
-
「容器は魂、水が肉体…」
「はい。容器は魂、魂とは肉体を置く場所。魂が…魂によって、私たちは善く生きよ
うとするんです。…肉体すなわち水はそれに従い、かたちを変える。増減するわけで
はなく」
「肉体のほうが個に近いのは確かだ。魂は居場所、私たちの生きる場所…」
「はい。魂は性別や国や身分などに関係なく、みな等しいものと考えて良いでしょう」
「うん。ヘケートは自身について触れたか?」
「はい。ヘケートは、自分を『流れ続ける水』だと」
「ああ!やはり」
「…お心当たりが?」
「私はこう考えていたのだ。 ヘケートは無くしたものを手にするために元の場所へ還
ってきたのだと」
「還ってきた…」
- 136 名前:10 投稿日:2007/01/05(金) 23:41
-
「無くしたものとはこの身にあった魂のひとつ。しかし両方は私の中に在った。片方
を己のものにしようと企むヘケートが…私は恐ろしかった…」
「…」
「だがナイロン、私は間違えていたようだ。ヘケートという肉体が、魂という居場所
を求めたと見えるのはうわべに過ぎない」
「はい」
「魂が肉体を引き寄せた。流れる水が大地に落ちるように、自然なこと」
「そしてその魂…その場所には、サファイア様が在った」
「…なんという…なんという運命!」
「全くです…運命なんて、呪いにさえ見える代物だ」
- 137 名前:10 投稿日:2007/01/05(金) 23:42
-
呟くナイロンの声が聞こえたのだろうか、サファイアは虚ろな視線を遠くに投げたま
ま吐き捨てるように言った。
「もし運命に意志が有るなら、その名は『神』に違いないな、ナイロン」
運命の一端。
神によって編まれたリボンの中心にはサファイアがいた。
ひとつの器にふたつの魂を持つ異質の存在。
彼女から最も遠いリボンの一端に、ヘケートは在った。
魂を持たぬ虚の存在。
ふたりの間には永遠にも等しい距離があったのに、切れることは無かった。
それを運命と言い、縁とする。
「ナイロン。ヘケートはまだシルバーランドにいると言ったな」
未だぶっきらぼうな物言いは王子の頃のように不安定に聞こえる。
「はい」
- 138 名前:10 投稿日:2007/01/05(金) 23:42
-
「もう一度、会う機会はあるだろうか」
「会ってどんなお話をされるのですか」
「さあ…ああ、そうだ。もし私が魔女で、お前が王だったら如何に生きたか聞いてみ
ようか」
「らしくない…。サファイア様、ヘケートが私に話したことをもうひとつ」
「なんだ」
女王は憮然とした表情を隠さない。
「ヘケートはあなたを狙っていた頃、目盛りの位置から世界を見ていたと言い
ました。欲に溺れて願うままに動く…それは正しい行いではなかったと彼女に
教えたのはあなただった。でも、その頃のヘケートはこう思っていたそうです。
『魂は奪う。しかし生まで奪おうとは思わない』と」
「…」
「最初から、あなたを破滅に追いやる気など無いのです」
- 139 名前:10 投稿日:2007/01/05(金) 23:45
-
「…お前はずいぶんとヘケートの肩を持つ、ナイロン」
「何故でしょうね。愛を知らぬまま永遠の中に生きてきた魔女が哀れに思えた
のかもしれない」
「…そうだろうか、私は違うと思うが」
「え?」
「哀れみにはとても見えない」
「…では」
「おそらくお前は、ヘケートの『善』に気付いた最初の人間なのだ。だってナ
イロン、お前は優し過ぎるから」
とうに日が暮れたので、細い指で覆われた女王の顔はよく見えない。
まさか、泣いているのだろうか。追求の度を過ぎたか。追えば追うほどに傷を
えぐるようなのにとナイロンは己れの知的好奇心を呪った。サファイアはまだ
動かない。
長い沈黙が続いて、やっとサファイアが顔を上げた。ナイロンはかける言葉が
見付からず、議長を引き受けるとだけ伝えると、外に待つ護衛兵を招き入れた。
- 140 名前:10 投稿日:2007/01/05(金) 23:46
-
…
翌週には、ナイロンは議会の長に任命された。
プラスティックも役員の一人に任命され、彼は素直に喜んでいた。
性急過ぎる。ナイロンは訝(いぶか)しんだが国政に関わるのを避けてきた以上、
されるがままに過ごす他無い。何処か仕組まれているような印象を嗅ぎ取って、
ナイロンの心はざわついた。
知らぬうちに世界は急転している。音を立てずにかたちを変えようとしている。
時間の早さはいつだって他者の姿で知るばかりで、もう彼の両足は国の正史に絡め
とられた後だった。
神は今日も、真っ赤なリボンで新しい運命を編もうとしている。
編まれたそれは永遠に完成せずに、ただただかたちを変えながら、複雑に人々を織
り込むのだ。
議会役員任命の次の日、全ての騎士団がシルバーランドから消えた。
西の国で、長い長い争いがはじまる。
- 141 名前:10. 落下の音 投稿日:2007/01/05(金) 23:47
-
…
- 142 名前:kkgg 投稿日:2007/01/05(金) 23:51
-
>>126 名無し飼育さん
ありがとうございます。
ナイロンとヘケートは今後も並行して動きます。
何故なら主役のひとりが大臣だからです!
- 143 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/01/08(月) 23:38
-
11. 北風と使者の夢
「ナイロン、一体誰と話してるの?」
教会の奥、宿舎棟の先の小屋に訪れたプラスティックは、扉を開けると奇妙な光景を
眼にした。西への出兵から外された彼の腕はまだ白い布で首に吊られている。吐く息
は白い。
小屋の上に広がる空はよく晴れて、時折ちぎれた雲が月を隠す寒い夜だ。
- 144 名前:11 投稿日:2007/01/08(月) 23:39
-
小屋にはナイロンとヘケートがいた。
大臣のもとへ自分の代わりに訪問してほしいとヘケートに頼んでいたナイロンは、こ
れ以上開かぬほどに眼を丸くしてゆっくりと振り向いた。額には冷や汗。
「あ!ええ、あの、ええと」
大臣の存命を隠したナイロンの焦りをプラスティックはそのまま捉えずに続けた。
「誰もいないじゃないか。やだなぁ、独り言?また新しいお薬でも作ってるの?僕に
は秘密にするような薬?」
「いやいやまさか!それよりプラスティック様、何故こんな時間に?」
「城ならちゃんと僕の兵を残してある」
「そうではありません!ええと…」
どうやら話の中身までは聞こえなかったようだ。
ヘケートから得る知識を書き留めた羊皮紙を慌てて丸めようとしたナイロンの左手が
インク壷を倒す。うわあ何やってるの!どろりと広がるインクからガラスの容器や書
物を離してプラスティックは拭きものを探しにいく。
- 145 名前:11 投稿日:2007/01/08(月) 23:41
-
「賑やかね」
愉快そうに笑う魔女はナイロンの耳に唇を寄せた。
「言い忘れたけれど。私の姿は、人間には見えないもの」
「そんな!私の眼にはちゃんと見えている!私を騙そうとしても駄目ですよ」
「騙したりしない。見えるならそれは、お前と私の間に何かしらの『契約』が起きて
いるという証拠」
「…まさか、私のこの願いは全て」
「どうかしら。恐ろしいわね、ナイロン。運命という奴は」
「…全く!そうか、だから今日は『断った』のですね」
ナイロンはビーカーやフラスコと同じように並べられている茶器を小さく指差した。
「勘が良いでしょ。今は一度消えよう。夜にまた、議長様」
魔女は律儀に扉に向かい、探し物を続けるプラスティックの肩をいたずらに叩いた。
勿論、彼は振り向かない。眼を白黒させるナイロンに「ほらね」とばかりに眼配せし
て出て行く。
- 146 名前:11 投稿日:2007/01/08(月) 23:41
-
プラスティックが戻ってきたのでナイロンは平静を取り繕った。プラスティックと共
に流れるインクを拭きながら、彼の優れた記憶力が走る。
大臣の保護を願うことが魔女との『契約』ならば、彼女が神より魂を得た際に聞こえ
た足音は誰のものだ?
あの時、既に『契約』ははじまっていたのか?
『契約』ならば、代償は?
「プラスティック様、今宵はどのような用で?」
プラスティックはが訪れるのはいつも突然である。
そして彼が彼で解決出来ない問題を抱えた時である。
「そうだった。あのね、僕、結婚しようと思うんだ」
「ええ!?」
「それで、もうひとつは相談で、議会のことなんだけど。ちょっとおかしいと思わな
い?段取りが良過ぎるよね」
「ああ…私は頭がおかしくなりそうだ…。おかしいのはお話の段取りですよ、プラス
ティック様…」
「そう?ちなみに婚礼の式は来週だよ」
- 147 名前:11 投稿日:2007/01/08(月) 23:43
-
…
闇夜の中のヘケートは空を走る雲を見て風の強さを確認した。彼女に限って北風は冷
たいものではない。その中へ気まぐれに身を任せれば、ゆらりと視界が揺れる。風の
隙間にきらきら光る王宮を中心に広がる大国シルバーランド。今は殆ど空(から)に
なっている。
西はもっと寒いだろうに。
ヘケートは風に眼が滲むのを腹立たしく感じながら、神と交わした最大の契約を思い
出していた。
腕の中で最高の微笑みを隠しもせぬヘケートに神は優しく語りかけた。
「おかえり、ヘケート」
照れたように笑う表情が返ってくる。
「すっかり狂気が消えたな」
- 148 名前:11 投稿日:2007/01/08(月) 23:44
-
「…自分では判りません。狂気の最中(さなか)にいたなら尚更」
「サファイアに手を下せぬお前がどうするかと思ったが、フランツ、あの青年は面白
い。お前の手を…いや、生き方を汚さずに済ませてくれた彼に感謝するんだな」
「フランツ様が…」
「更に言うなら、サファイアに感謝すべきか。決着がつけばどちらが勝ったにしろシ
ルバーランドもゴールドランドも滅びただろうに。世界を革命する決断だった」
「サファイア…」
ふたつの名前を噛み締めるように呟くと、ヘケートもまたひとつの決断を口にした。
「神よ」
「なんだ?」
「正しい方法で魂を手に入れる日が来たら、人間として再びこの世に生まれる機会を
やると言ったのを覚えてる?」
神は気まぐれだった。神にとってそれは些細な口約束だった。ヘケート今や十分にそ
れを理解していたが、 狂気という闇の中で一点の望みに全てを懸けここまで来たのだ。
問わずにいられようか。
- 149 名前:11 投稿日:2007/01/08(月) 23:47
-
「嘘じゃないよ、ヘケート。お前の魂を呼んでやろう」
「…待って。もう少し、もう少しだけ待ってくれない?」
「お前のもう少しはどのくらいだ?永遠を生きる魔女よ」
「サファイアが死ぬまで」
「…」
「この身を動かす永遠の命をもって、見届けさせて欲しい」
「死ぬまで…それはあの運命の子が幸せに生きて死ぬまで、ということか?」
大きく頷く魔女は眼は真剣だ。
面白い。
神はずいぶんと昔の出来事を思い返して、笑う。
遥か昔、たった一度だけ魂が盗まれるというあってはならない事件が起きた。
ふたつの魂を持つ人間の誕生。
彼らにとっては生前の出来事であり誰一人覚えてはいない。
彼らは幾度もの転生を繰り返して少しずつサファイアとなる魂のもとに集まり、つい
に全てが揃ったわけだ。
転生できずに永遠の命を生きた魔女までもが同じ地に辿り着いた。
そして、世界を正しいかたちに組み替えようと作用している。
見事なものだ。
- 150 名前:11 投稿日:2007/01/08(月) 23:48
-
短命が運命づけられた国とはいえ、これは見事だ。奇跡と呼んでも良かろう。
魂を盗み出した者の命は消えつつあるのが残念だが、この幼い魔女は知ってか知らず
か代わりになろうとしている。世界は何処までも均衡で出来ている。
「良かろう…ではお前が死を想い、新しい人間として生きるのを望む時、もう一度会
おう」
ヘケートは先まで浮かべていた少女のような笑顔とはまるで違う顔で笑った。
「ヘケート、ひとつだけ約束を。お前は彼らの人生を左右するような真似をしてはな
らぬ。どうかこれまでのように」
「…それをするのはいつだってあなたの方だ」
「お前は相変わらず気丈だね」
「私のことなどもう良い。…彼らにはあなたへの信仰がある。どうか、つまらない真
似をしないで欲しい」
「案ずるな。人間次第さ」
- 151 名前:11 投稿日:2007/01/08(月) 23:49
-
神との契約に満足した以上、約束を違えぬようにヘケートはひっそりと生きていた。
生きるあてが変われば、生き方はこうも変わるのかと、小さな疑問を認めて。
夜の風にそよがれながらヘケートは流れる水のまま世界に在るのを息苦しいと思った。
それは愛するものを探り当てたのに寄り添えない切実さに似ていた。
己の中に生まれつつある弱さに気付いた…それだけのことかもしれないが、ただ『息
苦しい』と思った。
愛するものを見つけて愛そうとする彼女の行いは魂から生じる善の行いなのに、魂は
まだ無い。
息苦しい。
- 152 名前:11 投稿日:2007/01/08(月) 23:49
-
いつか、破綻する時が来るのかもしれない。
それならせめて今まで経験した別離のような現象であれば良い。
そうでなければ、私は。
考えを無理矢理に払いのけて眼を瞑る。
サファイア、フランツ様、そしてナイロン…これから見送る命を数えながら、ヘケー
トは闇に消えた。
- 153 名前:11. 北風と使者の夢 投稿日:2007/01/08(月) 23:50
-
…
- 154 名前:11 投稿日:2007/01/11(木) 23:58
-
真っ暗な夜が静かにふける。
遠い戦の混乱もここには届かない。
この頃はいわば乱世であり戦乱は日常茶飯事だった。
前線に向かわぬ男たちも、戦士の帰りを待つ女たちも、生臭い領地争いに気付かぬふ
りで日々の生活を続ける。
- 155 名前:11 投稿日:2007/01/11(木) 23:58
-
プラスティックが帰った部屋の中は奇妙に広く、明るい。
部屋の主のナイロンは脱力感に襲われ椅子にかけたまま眼を閉じる。若い騎士のあま
りに立派な後ろ姿がその瞼の裏に浮かぶ。その隣に彼の父親、かつての主を思い浮か
べる…背格好を忘れられない。愛した親子の背中はいつも手をのばした少し先だ。
ナイロンは孤独に生きるのに安堵しながら、彼らの影を追い続ける。ああ、明日は大
臣のもとへ行く日だ…日の上る前に起きなくては。
それにしても、子どもだと思っていたプラスティック様が…とひとつ呟くと、それき
り眠ってしまった。夜は次第に冷えて彼に眠りを促した。
- 156 名前:11 投稿日:2007/01/11(木) 23:59
-
国政に疑問を抱き訪れたプラスティックは、女王・サファイアに疑いを持っていた。
結婚式の日取りさえ、彼女に用意されたものだ。当初は素直に従っていた彼も少しず
つ疑問を抱きはじめた。おそらくこれは出兵に関して必要な条件だったと言っても幼
なじみの臣下は取り合ってくれない。
気のせいでしょう、とナイロンははぐらかしたがこれは明らかに仕組まれた展開であ
る。女王とも幼い頃から馴染みの仲のナイロンにさえ彼女の考えが読めない。
ヘケートに、聞いてみようか。
いつからか頼り過ぎているのを自覚しながら、ナイロンは真面目にそう思った。
しかしその思惑はすぐに打ち消された。
彼女にはもっと大事な話をしなければならない。
- 157 名前:11 投稿日:2007/01/12(金) 00:00
-
-
頬に湿ったような感触がある。
誰かの指先だろうか。違う、自然の匂いがする。つくられていないものの匂いだ。
朝焼けの森を歩く時に彼の体力を削ろうとつきまとう霧のような湿度。
霧が部屋の中に?
それとも、もう私は…
「いつまで寝ているの、議長様」
浅い眠りから逃れられぬ中で、低い声が頭の奥に響く。
あたたかい。そうだ、過酷な森のはずが無い。重い瞼を開ければ、黒衣の魔女が退屈
そうに肘をついていた。
- 158 名前:11 投稿日:2007/01/12(金) 00:02
-
「ああ…ヘケートか…。そうだった、あなたは自由に流れる水だった…」
表情を変えぬヘケートに、霧も靄(もや)も水ですものねぇ…とナイロンは緩く笑う。
「ずいぶんと眠ってしまったようだ…」
「休息を怠るのは愚か者のやること」
「仰る通りです。さて!眼も覚めた」
「待ち合わせの用件を」
「はい。…大臣のこと、お願い出来ますか。来週には議会がはじまってしまう。プラ
スティック様の婚礼の式もある。はぁ…嬉しいやら悲しいやら判りかねますよ。忙し
いのは求められている証拠ですが、ねぇ」
「ナイロン、大臣の先は長くない」
「そうですか…どのくらいでしょうか」
「西の戦争の終わりより、近いだろう」
「そうですか…。戦争に長引いてもらうわけにもいきませんし、ねぇ!」
- 159 名前:11 投稿日:2007/01/12(金) 00:05
-
ヘケートに背を向けたままいつものように遠出の支度をはじめる。
強めた語気がいっそう彼の気持ちを語っていたので、ヘケートは何も聞かない。
「ヘケート、悲しいのに笑おうと努めるのは、善い行いでしょうか?」
「お前が信じる神様にお聞きなさい。でも…」
「…」
「涙を流せるうちに死ねる『人間』はいいわね」
ナイロンは無言のままだった。
夜が明ける頃には、ふたりはいつもの談話をするのみになる。
西の戦況、投入された新兵器、騎士団の動向と、ナイロンの知りたい情報を、ヘケー
トは全て与えた。彼の知りたいことは、彼女の守りたいシルバーランドの情報なのだ
からごく自然と言えよう。
幾度も幾度も会いながら、その関係性を男女のものよりも同志のそれに近いまま保っ
たのは、新たな利を望まぬことに善を見い出すことになるふたりの生き方が似ていた
ためだった。彼らは気付きを得て、消尽を選ぶ。
それが魂から生まれる善の行いかどうかは、神のみぞ知ることだ。
- 160 名前:11 投稿日:2007/01/12(金) 00:06
-
「お前の願いを叶えよう」
ナイロンが北の地に発つその間際にヘケートは魅惑的な光を両眼にたたえて囁いた。
「おお!ありがとう、ヘケート…。代償は、代償はどうしたら良いのでしょう」
「要らない」
「契約は等価交換というのが世のルールですから…は!ま、まさか、裏が?」
「不愉快な奴め、ナイロン!勝手に勘繰るがいいわ」
「ははは、私ごときでもあなたのために出来ることがあるかもしれませんよ。いつか
必ず、お力になりましょう」
「要らない。お前はお前の思うよりずっと、私に与えているのだから」
ナイロンは一瞬だけきょとんとしたが、大臣を共に見守ってくれる彼女への感謝と、
安堵で心がいっぱいになり、穏やかな笑顔を見せた。
- 161 名前:11 投稿日:2007/01/12(金) 00:07
-
「あなたはいつも見送ってくれるので、私は嬉しいです。長く独り者でしたから少し
照れくさいけれど」
ナイロンの言葉は真っ直ぐで、ヘケートを困惑させる。
「…そう。私は常に、見送る者」
「聖母のようですね」
「ふん…お前は本当に冗談ばかりが上手い」
「ピエタという彫刻、ご存知ですか。ここよりずっと栄えた国の、大きな教会にある
彫刻です。サファイア様とフランツ様が訪問されたそうで幾らか書物を下さった。確
か…」
荷造りを終えて荷紐で全身に荷物を括り付けたままがさがさと積み重なった書物を崩
して一冊を手渡す。これ、これの後ろのほうに絵があるはずですから。言いながら本
の山を見事に再生する。
- 162 名前:11 投稿日:2007/01/12(金) 00:08
-
「あ、最後にもうひとつわがままを。大臣のもとへは極力、自分で通います。それは
行いとして『善い』からではなくても構いません。あの人のためになりたい、その一
心のみが今の私の生きる望みだから」
「国が傾くのを感じながら、お前はお前の心のまま動くのか」
「まだ傾くと決まった訳ではないでしょう。サファイア様とフランツ様を信じましょ
う。それに騎士たちもいる。国の中にしても、少し段取りが不自然なだけだ」
「…」
「では、行って参ります!」
扉を開けて広い世界を背にしたナイロンの全身から朝陽が差し、幾つもの光線が洩れ
る。ヘケートは穏やかに笑うナイロンのこけた頬を見ながら、彼は彼自身を包むこの
光景を知らぬから魔女と聖母を見間違えるのだ、と眩しさに眼を細めるのだった。
- 163 名前:11 投稿日:2007/01/12(金) 00:10
-
…
部屋に一人残り広げた書物には、苦渋の表情の男性と彼を見守る女性の像が描かれて
いる。聖母子像のモチーフは、芸術家たちの中で流行になっているという。
果たして人間たちは、これを前にして何を思うのだろう。
彼らの感性は、生と死をどのように掬(すく)っているのだろう。
…私は、死の底に彼らを見送る時に、穏やかな眼差しを与えてやれたのだろうか。
聖母のように。
聖母。対極に位置する者に違いない。
責めず、奪わず、憎まない母の存在。
ナイロンの何気ない一言は深く胸に刺さり、彼女の虚の魂にまで届いていた。
聖母になれるだろうか。この国のために。
サファイアのために。
フランツ様のために。
ナイロンのために。
死にゆくあの男のために。
- 164 名前:11. 北風と使者の夢 投稿日:2007/01/12(金) 00:11
-
…
- 165 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/12(金) 03:59
- あーーーちょっとやばい。
寒気がするくらい面白いです。
- 166 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/01/16(火) 23:33
-
12. 果てまで
行くあても生きるあても無くして、人は何処までまともでいられるだろうか。
追放令を受けた大臣・ジュラルミンはひとつの鞄ともに歩いていた。故郷に愛する者
を全て置いたまま、自らの罪と見つめ合うために。街に生まれ城に過ごした彼は、あ
えて深い山に入り、橋の朽ちた川を渡る。
それは罪を償うためだった。
己を甘やかすのは常に己のみだと知っていた。
しかし、いつからか旅の目的はすり替わる。
ジュラルミンは「許し」よりも「絶望」を追いかけるようになる。
彼は生きるあてを失ったのに絶望できずにいた。生かされ、苦しんだ。
- 167 名前:12 投稿日:2007/01/16(火) 23:34
-
旅路に疲れた彼は、命果てる時には罪が許されますようにと都合の良い最期ばかりを
夢見はじめた。
いつか会えるだろう。いつか帰るのだろう。
いつかいつかと呟く自分に気付いた。
夢見ることに最悪感を持ち、罪悪感を持った浅はかな正義に失望した。
幾ら思っても全ては夢に過ぎない。
確かなのは、誰にも会えないことだけだ。
それなのに。
彼は絶望に追いつきたくて歩いた。
絶望と、その先にある死を望んで歩き続けた。
- 168 名前:12 投稿日:2007/01/16(火) 23:35
-
時の流れに心身を削られていくジュラルミンはふと亡くした妻のを思い出す。
その人は前王の妹であり野心から近づいたのにいつしか心奪われ、気付けば失ってい
た。残された息子は、母親によく似た美しい子どもだった。
もう会うこともない。抱き締める日も来ない。
愛する者たちと過ごした日々を幻に感じたなら、絶望出来るはずだ。
もっと、もっとだ、無になりたい。
思い出せば辛いだけなら、何もかも忘れてしましたい。
輝かしい未来への夢と絶望への憧れが、繰り返しては彼の正気を麻痺させた。
少しずつおかしくなっていくのを、ジュラルミンは削られていく正気の中から見ていた。
- 169 名前:12 投稿日:2007/01/16(火) 23:36
-
旅慣れてゆくジュラルミンの眼は、目的地を決めずとも人家の明かりが見つけられる
ようになる。町に辿り着けば教会を尋ねるて回った。あらゆる欲を捨てようと神に祈
る。早く迎えを寄越してくれと願う。
心を落ち着けて眼を閉じれば、遥か先の未来を想像して、また夢を見てしまう。
ほら、また悪循環だ。結局、生き方を変える努力もせずに、望みばかりを描く。
新しい町やはじめての民に会う度に、ジュラルミンの鞄には免罪符が詰められた。
色違いの紙に書かれた説教臭い文字は、都会で受け取れば最先端の技術で印刷されて
おり、田舎では胡散臭い神父の文字による。教会の名を持つ組織が作り出す形骸化し
た許しは彼の生きるあてではないが、拠り所にはなった。
- 170 名前:12 投稿日:2007/01/16(火) 23:37
-
迷えばすれ違う者に道を聞く。人任せの順路。今日もまた成り行きで辿り着いた町に
彼は宿を探す。
故郷を離れ、十年はとうに過ぎている。ジュラルミンは彼の知る限りの世界中を周り、
足取りにはついに故郷へ向かうかたち
になった。
聞けば、南に三日ほど行けば、シルバーランドに着くという。
戻ろう。戻ろう、故郷へ。妻よ、息子よ、待っていてくれ。
もはや彼は熟考など打ち捨てており、絶望への憧れで、その鮮やかな思考回路を死滅
させていた。
罪さえも記憶の彼方でまるで物語のように形を変えられつつあった。
どうか、絶望と美しい最期、物語の終わりを。
憧れは彼を狂わせ、夢は彼を蝕んでいく。
- 171 名前:12 投稿日:2007/01/16(火) 23:38
-
宿の見付からぬまま気まぐれで訪れた酒場は赤ら顔の男と女で溢れ、見目の良いジュ
ラルミンに興味を持ち声をかける者もいた。振り払ってカウンターの隅に居場所を作
る。なんとなくアルコールを頼んでみたが、ひどい味だった。
けたたましく騒ぐ声の応酬の中にカツン、カツンと金属が床に当たる音がする。妙に
高いその音をぼんやりと聞きながらジュラルミンはシルバーランドのことを漠然と思
い出していた。大通りを駆け抜ける子どもたちの笑い声や、晴れた日の砂の匂い、窓
辺を飾る花々。気の良い靴屋の親父、お喋りな近衛兵。安酒が彼の意識を鮮明にする。
王宮の奥の礼拝堂、白い薔薇しか咲かない花壇、冬には凍ってしまう青い湖。赤い瞳
の馬、夜中聞こえる野犬の遠吠え、時折吹く強い北風。
全てが、彼の故郷だった。
- 172 名前:12 投稿日:2007/01/16(火) 23:39
-
カツン。
一段と大きい金属音が彼のすぐそばに止まった。
グラスを翳らせた人影に顔を上げると、そこには見慣れた顔がある。
安酒がジュラルミンの意識を鮮明にする。彼は自らも驚くような大きい声を出した。
先まで描いていた故郷の記憶が目の前に現れたのだから。
「お前は…!」
「まさかこんな僻地でお目にかかるとはな、大臣様」
片側の鉄の義足をガタンと床に打ち付けて、ピエールは、フンと鼻を鳴らした。
- 173 名前:12. 果てまで 投稿日:2007/01/16(火) 23:39
-
…
- 174 名前:kkgg 投稿日:2007/01/16(火) 23:44
-
>>165 名無し飼育さん
ありがとうございまーす。後ろに魔女がいるかも!魂が一つ以上あったら気をつけて!
- 175 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/01/18(木) 23:14
-
13. 祈り
シルバーランドの隣国ゴールドランドは、フランツ王が即位した後その力をますます
強めた。野心溢れるフランツ王は国の周囲を十分に調査し、もとより栄えた土地を避
け荒れ地を整備し人々を移住させる方法で領土を広げていた。民の声を議会から得る
シルバーランドに比べれば些か独裁と取られる手法だが、民の支持を得て王座に君臨
していた。
シルバーランドの女王・サファイアと共に歩むことを決めた彼は、国を捨てず、また
サファイアに国を捨てさせることもしなかった。
- 176 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:14
-
「私は名実共にゴールドランドの王になり、あなたも新しい国シルバーランドの女王
として生きる道を選んだ。私たちはそれぞれに王としての役目がある…守るべき国を
離れて暮らすのは王としてふさわしいとは到底思えません。サファイア、互いの身が
離れていても想いはひとつ。心は、離れません」
自らの発想を微塵も疑わない彼の言葉で、ふたりの王はふたつの城に暮らした。
愛馬にまたがり単身で国と国を行き来するフランツの勇姿を眼にした者たちは、彼を
「天駆ける王」と呼んだ。
…
- 177 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:15
-
フランツ王の統治するゴールドランドの城下町は笑い声のたえぬ賑やかな通りを中心
に、四方八方へ道を分けている。道ごとに似た業種の店が集まり、日の照る時間はめ
いめいの看板を下げて商売に勤しんだ。
道のうちの静かな一つに、筆の絵を描いた看板を下げる工房がある。両脇も画材や貴
族の顔を描いた看板を下げている。並んだ窓から油の匂いがし、出てくる男たちの腕
はみな絵の具まみれだ。
このあたりは美術を学ぶ学生の集う喫茶店や、彼らがいつか勤めることになろう工房
が並んでいる。工房の仕事は主に肖像画や室内装飾のための自然画である。
筆の看板の工房に、ふたりの男が座っていた。
一方はこの工房に勤める絵描きである。他方は彼に肖像画を注文した騎士だった。幼
い頃から互いをよく知るふたりの会話は弾んだ。
- 178 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:16
-
「やはり、青だな」
「青か」
「青だろう、お前の評判を聞くところ、な。トルテュ様の立ち振る舞いは美しく、剣
のさばきは穏やかで、馬にまたがれば一陣の風のように鮮やかだってさ」
「へぇ、悪くないね」
「一陣の風ってのがいいな。俺はそのイメージを青色にのせてみようと思う。
ただお前は男のくせに色が白過ぎるからなぁ…うん、少し緑を混ぜてやろう。青も明
るくなる」
画家は、固まった油絵の具で木肌の見えないパレットに筆をがしがしとぶつけて笑う。
お喋りな工房画家の話を聞く騎士は、彼が客として訪れた幼なじみを気遣っているの
をよく判っていたのでおとなしくしていた。椅子に座って体を斜めに向け、顔だけを
正面に向けるというのはなかなか苦しい姿勢だった。
「苦しくないか?姿勢もそうだが椅子も安物だ。俺たちは本来、城まで出て行って描
くからね、工房にはなんの用意も無い」
「構わないよ。僕だって無理なお願いしてるんだ。気にしないで、リジィエ」
- 179 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:16
-
西の国への出兵が控えたある日、トルテュは厳格な父に肖像がを作るように命じられ
た。実の親に戦死の可能性をほのめかされた彼は不愉快に感じながらも教えに従った。
西はそれまでに危険なのだろうか。気の乗らない彼は工房入りした幼なじみのことを
思い出す。
トルテュは早速城下町にあるリジィエの工房に駆け込み、すぐさま面倒を済ませよう
とした。気前良いリジィエは一日の仕事を全て幼なじみのために使うことにした。
- 180 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:17
-
「西のほうはいい噂を聞かないな。いいカドミウムの取れる山が近くにあるから、火
薬は使わないでほしいところだ」
「火薬か…」
「どんな新兵器が開発されているか判らんぜ。この国もシルバーランドも戦争には慣
れていない…平和が永過ぎた。周りを見渡せば何処も火の海、ある意味、奇跡だな。
違うか?トルテュ」
「奇跡でも国が助かってくれなければ困るよ」
「愛国心って奴か」
「君にだってあるだろう?」
「俺は工房に資金を投げ込んでくれるパトロンがいればそれでいいよ」
「薄情者」
「ははっ!仰る通りさ、騎士長どの」
冗談まじりの会話を続けながらも画家の手は適確に色を刻んでいる。
裸だった画布は彩られ、疾風の騎士・トルテュが姿を表す。リジィエは魔法使いの気
分で筆を進める。
- 181 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:19
-
モデルの騎士長は、裏返しにしか見えない画布の向こうに床と壁に支えられた作品た
ちが並ぶのを見つけた。どれも制作途中のようだ。透けた絵の具で画布が剥き出しの
絵もある。輪郭がとらえられ目鼻立ちは判るようなものもある。
「…あれは、プラスか?」
「ご名答。とある方のご依頼でな」
「同じものを二枚、描いているのか。それに大きさも随分違う…」
「大きいほうはは本人にやるって話だ。もう一枚は買い取るつもりだろう」
「まさかジュラルミンが…」
「ナイロン様だよ」
他に誰がいる?心配するなよ、とリジィエは笑顔を作ってはみたが、上手くはなかっ
たのでトルテュは困ってしまう。
プラスティックか。彼も出兵するはずだ。もう覚悟は決めたのだろうか?
- 182 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:19
-
彼らは幼なじみだった。
大臣ジュラルミンのもとで王宮に暮らしていたプラスティック。町に暮らし彼らより
も貧しいながら子どもらしく自由に過ごしていたリューとリジィエ。そこに高貴な血
筋のため父親とともに各国の城の出入りを余儀なくされたトルテュが加わった。とは
いえ彼は騎士としての将来が約束されると彼らと会うことは殆どなくなった。幼い記
憶の曖昧さで、サファイア王の事件の後になるまで再会は果たされなかった。彼らは
サファイア王を中心に集まる魂たちのひとつだった。
僕たちはまた離れ離れになるのだろうか。
思わず首をすくめると即座に激が飛ぶ。
「おい、動くな」
- 183 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:22
-
「…ああすまない。そういえばプラスが結婚するんだってさ。相手はリューっていう
んだから驚きだ。僕はてっきり君と一緒になると思ってた…幼い頃から兄と妹みたい
にくっついていたじゃないか」
「俺も驚いた。だが相手がプラスじゃあ勝ち目がないぜ。王でなくったって血筋は確
か、騎士としての実績も有る。それに比べて俺はしがない工房画家!兄と妹ならなお
さら無理ってもんさ」
「ああ、血筋ってのは厄介だな…」
さがそう さがそう 仲良くさがそう
お妃様にふさわしい たったひとりの 娘
- 184 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:23
-
幼い頃の囃し歌がリジィエの耳によみがえる。振り切るように言葉を繋ぐ。
「俺だってお前ならもしやと思って見張っちゃいたが、トルテュ。大敗だな」
「僕には無理だよ、争うのは得意じゃない。それに今は、殆ど城に帰ることなんてな
いんだ。信仰もある」
「は!大した騎士団を連れて歩いているのになんて言い草だ。子どもの頃からその消
極的な見かたは変わりゃしない」
「変わらないのは僕たちの恋心さ。いつまでも子どものまま、ひとりのお姫様を追っ
かけて三人でぐるぐる駆け回る。お妃様はたったひとりなのに」
- 185 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:24
-
「ふん…で、式はいつだって?」
「まだ決めていないようだが近いんだろうね。出兵の前に済ませるはず」
「…じゃあ追いかけっこもおしまい、だっ」
力を入れた声とともに腕をしならせると風を切る音。
リジィエの放り投げた筆が放物線を描いて流し場の桶に飛んで行った。
とぽん、と音を立ててあとは底まで沈むだけ。
少年の頃の恋心のように、その姿は水中に消えてゆく。
…
「よし!」
リジィエが勢いよく立ち上がったので椅子が後ろに倒れた。
- 186 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:24
-
彼の弟子たちが驚いて小さく悲鳴を上げる。当然だろう。雲の上の存在である王宮の
騎士が突然訪れた上、兄貴分の幼なじみと知っては彼らの緊張は頂点に達していたの
だ。大きな物音に少しぐらい騒いでも良かろうにリジィエは容赦なく厳しい視線を向
ける。
「お前たち、その態度は何だ!?お客様のお帰りだぞ、支度しろ!」
肖像画と対峙したトルテュは大きな眼をますます大きくして絶賛した。
「すごい!すごいよリジィエ!君の才能は知っていたがここまで見事だとは!」
「…よくも自分の顔を褒められるもんだ」
「君の眼を通した僕がこれだと思うと、嬉しいんだ!」
爽やかな青の中、鋭利に走る緑、上から下へ静かに演出された明と暗。その中央には
聡明な顔立ちの騎士。画面の向こうから投げられた眼差しは女性的で、優しさに溢れ
ていた。
「…そりゃ良かった。じゃあ次は騎士団を全員連れてきてくれ」
「うむ、そうしよう!」
「ったく冗談だって…」
- 187 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:25
-
客人の帰り支度にどたばたと駆け回る弟子たちに、トルテュはねぎらいの言葉をかけ
多めの料金を手渡した。「リジィエ、もう少し弟子に優しくしたらどうだ」
「出来ないな」
「嘘ばっかり。どうせ裏で多いぶんを配るんだろう。君はそういう奴だもの」
「…」
彼らは笑ってお互いの手を握った。傷だらけで右手、絵の具まみれの右手。しばしの
沈黙。
「…絵には乾き易い油を使ったからいつでも取りにくればいい」
「じゃあ明日にも取りにくるよ」
「…いいや待て、取りにくるのはもっと後にしてくれ」
「どうして」
「近くに、彫金の腕の確かな奴がいる。お前のために十字架を作らせておくから絵を
取りにくるのは先にしてくれ。俺からの餞別だ」
人懐っこい眼で見上げたリジィエを、変わらないな、と思う。
「じゃあもっと先、月が明るければ来よう」
- 188 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:26
-
「ふむ、その次はプラスの婚礼の日か」
「その前に山を越えて一往復かと思うと嫌になるよ」
「王様直々のご命令で?」
「ああ」
「全く何もかもが不愉快だ!」
リジィエはさも愉快そうに、トルテュの肩を大きく叩いた。
…
西への出兵がはじまった。
芳しくない戦況がシルバーランドとゴールドランドに伝えられたが、戦力の核となる
王と彼らに就く精鋭の騎士団が国に戻ることで民を安心させた。凱旋によって国の士
気は上がる。その真の目的ははプラスティックの婚礼式のためで、わざわざ出兵後に
婚礼式をやるように命じたのはサファイアである。騎士団の中にはプラスティックを
よく思っていない者もある。儀式の名をした徒労で国に戻るとなれば邪魔者も無かろ
うという気遣いだった。彼女の計画はそれに留まらなかったのも事実だ。
- 189 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:27
-
女王の思惑など露程も知らず、トルテュはシルバーランドに入った。
プラスティックが出兵しないのは怪我のせいだと人伝(ひとづて)に聞いていたし、
山を越えることなどで疲弊するような弱さは持ち得なかったので、疑問など抱かなかった。
城ではなく町に降りて式を挙げよと提案したのはフランツ王だ。
すでにシルバーランドの大通りには休息を約束された民が花束を手に列を作り可愛い
花嫁と花婿を待ちわびている。彼らが姿を現すと、わぁっと歓声が上がった。
正装しても首から下げたままの十字架は、日の光を反射してきらきら光る。
眩しいな、とトルテュは切なくなる。
贈り主の友と並んで眼にする若き夫婦は、本当に眩しい。
「泣いてるのか、トルテュ」
「やめてくれよ。泣きたいのは君のくせに」
王子様は三人、お姫様はたったひとり。
見送られる者たち。見守る者たち。
選ばれた王子様はこれ以上無い笑顔だ。彼らを祝福しないものは今ここにいない。
- 190 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:28
-
なんという、なんという素晴らしい日だろう。雲ひとつない真っ青の空!
大通りには人々の手から放たれた花びらが天使のように舞う。リジィエは、いつかこ
の空をカンバスに描き起こそうと思った。そして若いふたりの幸せの姿ではなく、孤
独と孤高の狭間を生きるふたりの男を描くのだ。彼らは決して絶望しているのではな
い。幸せを妬むはずも無い。読みかけの書物に栞を残すように、記録を残すのだ。色
彩の向こうに広がる記憶を知るのは俺とこいつだけでいい。
「美しいな、リジィエ。リューは本当に綺麗になった」
「ああ…しかし、何故フランツ様まで来ているんだ?プラスの式だからサファイア様
が来るのは判るが」
リジィエが指差す先にはサファイアとフランツを中心に、その親戚らしい王族の格好
の一群がある。刺繍された紋章はゴールドランドのものだ。同盟国とはいえ他国の王
が町に降りるのは珍しいので、町の人々は主役のふたりだけでなく豪奢な彼らからも
眼を離せない。
トルテュは、行儀の悪い!と友を叱咤して声をひそめる。
- 191 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:29
-
「…リューは、フランツ王の親戚だからさ」
「…!…嘘だろう?」
「本当だよ。これでシルバーランドとゴールドランドの結束はますます強まった…か
もしれない」
「初耳だ」
確かに、今考えてみればただの子どもだった俺たちがシルバーランドの王宮に出入り
出来たのはおかしい。なるほど、リューがいたためか。しかも隣国の城に出入り出来
るとすれば…。リジィエはリューの身分の高さにやっと気付いて息をのむ。
「昔の悪さでも思い出した?気にするな、僕だって数年前に王宮で彼女に会うまでは
知らなかったよ」
「リューもお前も何故黙っていた?プラスもだ!」
「話したところで何か変わるのか?君を仲間はずれにしたいわけじゃない、あの頃の
四人を壊したくないだけさ。子どもだったら皆で野原に転がって騒いでいれば良いけ
れど年を重ねればそうはいかない。それにリューは女だ。迂闊に身分が漏れれば…判
るだろう?彼女が利用される姿など見たくない」
「…不愉快な話だな」
- 192 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:30
-
「しょうがない。彼女だって十五になるまで自分の血筋を知らなかったというし、プラ
スだって知らなかったんだから」
「何ィ!?」
「あいつ、結婚するからってリューの故郷に行くまで知らなかったんだ」
「…奇跡的だな」
「ああ、色々とね」
ふたりの男は子どものように、声をたてて笑った。
ひとしきり笑って、大人になってしまったことにしばし憂う。
若さではなく幼さはとうに死んだ。だが、ふとした瞬間に過去に呼び戻される瞬間が
続いたためだろうか、短いひとときのかけがえの無さが、妙に心をしめつける。
残された『王子』たちは、幸せなふたりを見遣った。
民の祝福にまみれて遠ざかったふたつの背中に、祈りを捧げた。
…
- 193 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:31
-
王と騎士団はすぐに西へ戻って行った。
ゴールドランドの工房に取り残されたリジィエは発注された絵を描き続けている。
時折、口ずさむ旋律。それが再び彼を遠い日の思い出に連れ込んだ。
さがそう さがそう 仲良くさがそう
お妃様にふさわしい たったひとりの 娘
幼い頃の囃し歌。手を繋いでいた幼なじみはもういない。
思い出の日々にはいつも日の光が燦々と降り注ぐ。雨も風もあったのに、トルテュの
笑顔も、リューの歌声も、稀にしか自由に遊べなかったプラスティックも、日を浴び
てきらきらと輝いている。きらきら、きらきら…。
- 194 名前:13 投稿日:2007/01/18(木) 23:33
-
輝いていた。
輝いていたのだ。
俺たちの頭上に広がる雲ひとつない真っ青の空のように。
心の中で、いつまでも思い出は美しい。
絵を描こう。
リジィエはもう一度強く思う。
絵を描こう。俺には友が在り、この手には筆がある。
思い出を懐かしむことも良いが、それを形にに出来る手を俺は持っているじゃないか。
騎士が華麗に剣を扱うように、手にした絵筆を武器にして、彼は彼の世界を歩みはじ
めた。
鮮明な青が、一陣の風のように画布を駆け抜けた。
- 195 名前:13. 祈り 投稿日:2007/01/18(木) 23:36
-
…
- 196 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/01/19(金) 22:56
- 更新お疲れ様です。
登場人物みんなそれぞれが真っ直ぐに今その時々を生きている。
だから惹かれてしまうのかな。なんだかそんな風に思いました。
- 197 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/01/23(火) 22:28
-
14. 夜の中へ
酒場は賑やかに夜を照らす。
香水をこれでもかと全身に散らし真っ赤な唇から歌を紡ぐ女たち。
半開きの眼のまま見事なステップで舞う男たち。
会話は旋律になりグラスがリズムを重ねる。
- 198 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:29
-
上手く酔えないジュラルミンは器官に薄い膜でもかかったかのような錯覚に捕われて
いた。全ての音楽は彼まで届かぬ向こう岸で鳴り響くようで、彼を招きも拒みもしな
い。追い出されないのなら十分だ。ジュラルミンは残りのアルコールを飲み干すと、
隣に座ったピエールに話しかけた。
「賑やかだな」
「ああ、ここくらいしか娯楽がないんでね」
ピエールは飲みかけのグラスを机に叩き付ける。
彼の行動はどれも大袈裟だった。がたん、ごとん、とひっきりなしに音を立てる。
今度は喉がごくりと鳴った。すると彼に気付いた男が声をかける。ピエール、北の英
雄!来ていたのか!と。
彼のもとへは次から次へと町人が訪れた。二、三を話すのみの者もいれば、酒を驕る
者もいる。シルバーランドでの出来事は国一番の冒険譚となり、彼を輝かせていた。
彼から生じる雑音に寄せては引く人の波。
ジュラルミンは、そのさまから、彼も音楽なのだと思って愉快になった。
こんな気分は久しぶりだ、快い心地を逃さないように、と次の杯を頼むと、ピエール
が「乾杯」の仕草を見せる。
- 199 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:31
-
「ピエール、お前は確か…そうだ、牢番だったな?牢番は、やめたのか」
「おかげ様でね。あんたを裏切って王族を助けたせいで見ての通りの有名人さ。名が
知れりゃ牢番を勤めるのも一苦労…妙な話でしょう。地下牢に毎日、『会いたい』っ
て客が来るんだ。仕事になりゃしない。今シルバーランドの牢番、その長を勤めてい
るのは誰だと思います?俺の弟ですよ、ひとつ下のね。組合の代表とかいう大層な名
前を背負って議会にも出てます。稼ぎも俺の頃に比べたらいいもんさ。おかげで俺と
女房は静かな暮らしをしてますよ…」
「…」
「それに見て下さいこの脚!怪我自体は些細なもんだったが悪魔が入り込んじまって
ね、真っ黒に腫れて動かなくなったんだ。故郷に帰られるうちに帰ってきたわけです。
こっちで脚を切って趣味の悪い職人に義足を頼んだらこのザマだ」
- 200 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:32
-
「…シルバーランド…王族を助けた…?」
「サファイア様と王妃様ですよ、あんたが…殺せと命じた」
「私が…?ああ、そうだ、ナイロンに密書を持たせて…」
「そうだ。…変だな、おい大臣様、あんた大丈夫か?」
「ああ…」
「嘘だ、どうも怪しいぞ…」
ジュラルミンの変わり果てた姿は償いの旅と老いのせいではないのか?噛み合ぬ会話
に不自然さを見て取ると、真っ直ぐに質問を投げつける。
「あんた、本当に大臣か?」
「ふふっ。ああ、極悪人のジュラルミンだよ」
「って事はなんだ…き、記憶が?」
「そのようだな…完全に失ったわけじゃない。曖昧なんだ…思い起こそうとすると泥
水に頭を突っ込んだみたいに不透明になる」
「四六時中か?」
「いや…そういう時は自分が何処で何をしているか判らなくなる。判るときは、正気
だ。明瞭だ…私も、記憶も」
「正気は『残っている』って感じか」
「今はな」
- 201 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:33
-
「…」
「なあピエール、私もお前も見習って帰ろうかな。帰られるうちに」
「シルバーランドにか!?」
「…」
無言を肯定に取ったピエールはジュラルミンの肩を思い切り掴むと怒りの表情を隠さ
なかった。がくがくと揺らすと濁ったジュラルミンの眼が上を向く。酔いで赤い顔を
更に赤くしてピエールはまくしたてた。
「今は正気だろうな!?」
「…ああ」
「それならはっきり教えてやろう!悪いことは言わない、帰ろうなんて幻想は捨てち
まうべきだ!」
「だが、息子を残してきたんだ…」
「プラスチック様か!俺は無学だがな、常識は有るぜ。いいか、プラスチック様はあ
んたと違って一応王族のお仲間だ、罪人の息子とて軽く扱われることもなかろう…
ひょっとしたら要職にいるかもしれない。そこにだ、謀反を起こした張本人が父親面
して帰るだと?笑わせるな!困らせるつもりか?ええ?」
「しかし息子が…息子が…」
- 202 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:34
-
うわ言のように数回呟く。ジュラルミンの眼が泳ぎ出す。酒場の民も英雄ピエールの
ただならぬさまに声を潜(ひそ)める。
「くそっ…おいお前ら、気にするな!ちょっとこいつがつまらないこと抜かすから、
かっとなっちまったんだ」
ピエールはジュラルミンの肩に食い込んだ手を投げるように離すと豪快に笑ってごま
かす。続けざまに二杯を飲み干せば、隣の男は背を丸めて床を凝視していた。なるほ
ど、これが不透明な状態か。
「俺はあんたの行いにとやかく言う気は無い。でも帰るべきじゃあない。それだけは
確かさ、大臣様」
「…私が、罪人だからか」
「ああ。あの国に取ってはな」
「そうだな…お前の言う通りだ、ピエール…」
「誰しもが悪事を働こうなんて思わない。そうさ、正義なんてものに俺は会ったこと
がない。あんたの行いだって正しかったのさ、あんただけにはな」
「正義…私だけの正義か…惨めなものだな」
「これからも惨めに生きりゃあな!」
- 203 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:34
-
音楽にまみれた屋根の下にはあるはずのない沈黙が流れた。ふたりの男は続く言葉を
探す。ああ、そうか。善い行いというのは全く難しい。ジュラルミンは浅い泥水の奥
からを顔を上げて、しげしげと隣に座る赤い顔の男を眺めた。小柄な男はぶつぶつと
文句を言い続けている。かつんかつんと義足を打ち鳴らし筋肉質な腕で机を叩く。顔
をのぞかれているのを不快に感じたのか、鋭い視線がこちらを向いた。
綺麗な眼だ。真っ直ぐに開かれて、あの子の眼のようだ。
ジュラルミンはその眼の持ち主を愛していた。愛していた自分を信じていた。愛は人
を盲目にし、彼は世界に弾かれた。
「おい、大臣様」
「なんだい」
「いい考えが浮かんだぞ。俺は読むしか出来ないが、あんたは賢いから字が書けるだ
ろう。今までのことを書き残しておくっていうのはどうだ」
酔いが回っているらしい。乱暴な言い回しが続く。
「聞く限りあんたの頭ん中はあんたより先に神に召されるようだ。なあ?勿体ない話
さ…あんたのやってきた大悪事は、決して語り継がれることはぁない!」
「ああ…」
- 204 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:35
-
「世の中ってのはなぁ、数と力で動くんだ。上手くやりゃあのし上がり、もっと大き
な力を手に入れる。逆に非力な奴らはぁ取り残される。何をしたってな、俺らのやる
ことなんざ雲の上には届かない。判るだろう?あんたは私利私欲で人を殺そうとした
悪人だ。だが雲の向こう側の人間だ。そんな人間がこのままただ死んで行くのはあれ
だ、なあ。勿体ない」
説教臭い言葉をあやふやな呂律で話し続けるピエール。彼の言葉の真偽をはかる者が
いれば演説はとうに打ち切られていただろう。
「それにまあ、息子のためにやったんじゃないかってぇのは誰だって思ってたのさ…
俺たちは馬鹿だ。教養が無い。だが息子はいるし、親父もいた。だからなぁ、ちったぁ
判るんだ…。ともかく!ともかくだ、国には帰るな」
「…なんだ、結局はそこなのか」
「そりゃそうさぁ。お前のためでも俺のためでもない、息子のために!」
- 205 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:36
-
「…息子のために…本当に息子のためになるのか…?」
「判るもんかこのボンクラがぁ!ピエール様の心遣いが判らないのかぁ?」
「息子のことに掛けて説けば納得すると踏んだのか」
「そうだ!」
「…これは参ったな」
「だろう!よしっ!俺の勝ちだ!俺が家を探してやる。土地の持ち主に掛け合ってや
る。身分もちゃーんと黙っといてやる!だから遠慮することはない、ここで暮らせ!」
「そして、ここまでの足取りを書き記せと?」
「んなことはどうでもいい!」
「…ははっ、全く支離滅裂だ!」
「ふん!お前にだけは言われたくないぜぇ!来い!」
強引に引っ張られた手の力は相当で、やつれ果てたジュラルミンに反抗の余地はない。
酒場の中心になだれ込むとピエールが大声で歌い出す。
哀れな旅人 この美しき日に世界の果てまで辿り着く
全てを手にしていざ振り返れば、帰る道が何処にもない
ほほえみの国は遠い
ほほえみの国は遠い
- 206 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:37
-
知られた歌なのか、男たちは低い声で間の手を入れた。強い手拍子。空気を伝わって
びりびりと脳まで駆け巡る、音楽。十の旋律、百のリズム、千の歌声が酒場を、ジュ
ラルミンを包む。ピエールは腕を掴んだまま、踊れ!と催促する。ジュラルミンは促
されるままに、躍り出た。野次と口笛が彼を迎えた。歌声が揃う。
ほほえみの国は遠い
さようなら ふるさと
次の巡り会いでもう一度
十の旋律、百のリズム、千の歌声。
次々と繰り出される歌の中で、ほつれた細い脚はいつのまにか美しい踊り子のように
舞う。片足で華麗に舞えばジュラルミンの世界が回る。
- 207 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:38
-
もっと、もっとだ、回り続けろ。
無になりたい。
絶望は何処だ。
思い出せば辛いだけなら、何もかも忘れてしましたい。
さようなら、ふるさと。さようなら。もう会うことも無い愛する者たち。
私はやっと気付いたよ。世界と私を繋ぐ輝かしい未来など無いのだ。この命にはもう。
さようなら、ふるさと。次の巡り会いでもう一度!
そうさ、まだ次の巡り会いがある。
惨めなものだ、すがるものがまた増えた!
- 208 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:39
-
安いアルコールの匂い。決して上手くない三重唱。異邦人の美しい舞踏。彼は歌い、
笑い、吠えた。混濁とは違う高揚感に四肢を奪われていくのを感じていた。
腐った木の床に狂ったように打ち付けられる無限のリズム。
まっとうな感覚を奪う十の旋律、百のリズム、千の歌声。
一夜限りの宴。消費される深い夜。
ほほえみの国は遠い
ほほえみの国は遠い
絶望の果てに辿り着けずに熱狂の中で落ちる望郷の念。床に落ちては靴に踏まれ、乾
いて消えて行く。
惨めなものだ。
両の頬を流れる熱い涙をジュラルミンは拭わない。
ひたすら踊り続けた。誰にも気付かれぬ哀しみを心の底から愛しながら、最後の宴に
身を任せた。
- 209 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:40
-
…
それきり、ジュラルミンの姿は北の町から消えた。
ピエールでさえ会うことはなかった。
それがジュラルミンの望みだったために、彼らは永遠に再会しなかった。
北の町は毎晩繰り返される酒盛りの記憶など留めはしない。
一夜だけ現れた男を覚えている者など、いない。
そうしていつしか、狭い北の町に噂が立った。
町の外れに美貌の隠者がいる、と。
- 210 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:41
-
はじめに、小屋を貸した地主が得意げに、あれは何処かの国の身分の高い方に違いあ
るまいと騒ぎ立てたが、特にそれを使って悪事を働くこともなかった。
友人で英雄でもあるピエールに頼まれて貸したのだから、当然と言えば当然だった。
暮らしは貧しくも、心は清い人々だった。薄いアルコールしか置けぬ酒場で、流行歌
が一曲増える。こうしてまた噂は広まる。
そのうち、彼を一目見ようと小屋に訪れる者が出始める。
確かに、隠者は美しかった。
隠者は見物する人々に無関心で、町に降りてくることも無く、全くの孤独の中にいる
ようだった。
人々は一度のぞきに行き、帰ってきて地主と口を揃える。
見たか、身分の高い方に違いない。それなら何故こんな土地に?
明確な答えは出ず、噂は飽きられる。
- 211 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:41
-
アルコールに染まった噂の繰り返しを、義足の男は静かに見ていた。
噂が起きる度に、少しだけ安心してグラスを傾ける。奴はまだ生きているようだ。
居酒屋の隅、彼の居場所にはひっきりなしに町人が訪れる。話し疲れて大袈裟に鉄の
先を落としてみる。
全く、俺は何をしてるんだ…。
町の外れに住むジュラルミンのことを考えると彼は物悲しい気持ちになるので考えな
いようにしている。
俺の判断は間違ってはいないだろう。正しいことは正しいし、間違ってることは間違っ
てる。正規の裁判があろうと無かろうとまっとうには生きれまい。サファイア様だけ
が大臣の敵だったわけでもない。知らぬことも無かろうが、あいつは盆暗だからな。
- 212 名前:14 投稿日:2007/01/23(火) 22:42
-
そうさ、許されると思うのは間違いだ。
だが…。
ピエールは思う。
あいつはもうふるさとに戻ることはないのだ。息子に会うことも…おそらく。
北の英雄・ピエールは考えないようにする。
振り払おうとして、代わりに自分の行いを確かめるのだ。慎重に。
一通りを繰り返してこれで良かったんだとと納得する。そうしてかつて裏切った大臣
のことを考えて、大声で泣きたいような気持ちになる。
全く、俺は何をしてるんだ…。
考えてしまわないように酒を煽る。
歌を歌う。
よみがえれ よみがえれ
善きひと 善きひと
- 213 名前:14. 夜の中へ 投稿日:2007/01/23(火) 22:43
-
…
- 214 名前:kkgg 投稿日:2007/01/23(火) 22:50
-
>>196 名無し飼育さん
ありがとうございます。 最後まで書き切れるのか近頃心配になってきましたが頑張ります!
ちなみに、フランツは石川さん、ピエールはののたんのイメージで書いております。
- 215 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/01/29(月) 23:26
-
15. 冷めた王国
金属は錆び、木は朽ちきったように変色し、強いはずの石の壁は強い北風に削られ丸
まっている。傾いた扉は蝶番ですがりつき主人を守ろうと壊れた鍵を誇示する。
廃墟というには威厳の無い小屋だ。
窓の下には割れた瓶が散乱し、来る者を拒む。まだ新しいらしく鈍い紅色が壁を汚し
ていた。ナイロンが通うようになってからは北の地を訪れなかったヘケートはそれを
不自然に思った。
ナイロンの話が正しければ住人はすっかり別の者になっているはずだ。
- 216 名前:15 投稿日:2007/01/29(月) 23:27
-
部屋の中は砂と埃の匂いに包まれている。
装飾的なものは壁にかけられた油彩画がひとつあるだけだ。
机と椅子は長く主人を迎えておらず埃まみれで、机の上には乾き切ったインク瓶と錆
びた羽根ペンが打ち捨ててあり、乱暴にまとめられた羊皮紙には細かい字がぎっしり
と並ぶ。濃い染みで読みにくい。
「それは私の歴史です」
声が響いた。青白い肌の男がベッドに横になったまま声を絞り出したのだ。
- 217 名前:15 投稿日:2007/01/29(月) 23:27
-
「あなたは?」
「私は、魔女。魔女、ヘケート」
「神の使いか」
「それはあながち間違いではない。お前の神は今、会議で忙しくしているけれど。大
臣、お前はまだ名を有している?」
「私は…」
ジュラルミンは不透明な水の中からもがくように体の前で手をばたばたと動かした。
私は…。もう一度言いかけたが諦めていかにも病人らしい卑屈な笑みを浮かべた。
「まあいい。さて、魔女が私のなんの用で」
「用などあるものか。お前こそ私に用があるのでしょう」
手にしていた紙の束を机上に放り投げるとヘケートはベッドに腰掛け脚を組む。
埃が舞い上がり僅かに差す日の光を反射する。鈍い乱反射。
ヘケートはそれを気にも止めない。
ジュラルミンは神聖さを感じ取って体を起こすと、曲がった背骨に力を入れた。
私はまだ生きているのかもしれない。細い喉の奥でジュラルミンは呟いて、「許し」
よりも「絶望」に期待した。
- 218 名前:15 投稿日:2007/01/29(月) 23:31
-
失われた自我を探すジュラルミンの眼はヘケートのよく知る闇夜のように深く沈んで
いた。開かれているのだろうかと覗き込むと彼は一瞬ひるみ、ヘケートはその一瞬に
絶え切っていない正気を見つけ出す。
しまった、と彼は思う。
「…演技か?」
ヘケートは驚きよりも不愉快さを美しい顔ににじませる。
「芝居じみた一生だった。芝居を打てるうちはまともなんだろう」
「滑稽な物語ね」
「全く。だが幕切れは近い」
「何故、下手な芝居を?」
「他人と関わるのが面倒になった」
「それだけ?」
「判らない。狂っているほうが楽な気がする。それに、故郷に関わるひとに会うのが
怖いのかもしれない」
「『怖い』…」
- 219 名前:15 投稿日:2007/01/29(月) 23:32
-
「もうこの頭は悪魔の足音でいっぱいなんだ。近づいては離れ、近づいては私の頭を
掴んで振り回す。…こうやって話していても突然、意識が切れる。机に零した水が床
に落ちるように当たり前に自分が消える」
「…待って、ナイロンの前では?あの子の前でも演技を続けた?」
「ナイロンだと?ナイロンがここへ来たのか?」
ジュラルミンは高くて通る声を一層大きくして問う。
やはり正気の時間のほうがずっと短いのだ。
ヘケートはもはや快も不快も選ばず、かすかな哀れみとともに微笑んだ。
「いいえ、来ないわ」
哀れみは眼の前の彼よりも、愛を知るナイロンに注がれていた。
日の光は窓の向こうで死に絶え、永遠に続きそうな夜が静かに忍び寄る。
枯れた木々は枝を鳴らすが突風が襲えばまた沈黙を許す。北の夜は死そのもののよう
に冷たい。
- 220 名前:15 投稿日:2007/01/29(月) 23:33
-
一本の蝋燭の火に視覚を任せたふたりは、思い出や故郷の日々を語らった。ひどく曖
昧な記憶で紡ぐ色褪せたやりとり。探り合い。他にやることも無い。ジュラルミンは
稀な訪問者に幾許かの期待を寄せる。
期待が、彼の思考をひとときだけ澄んだものにした。
死にゆくジュラルミンの頬を彩る退廃的な微笑みは美しく、ヘケートは支配的な恋に
溺れた日々を思い出す。死を間近にする男たちはみな美しい。地に落ちた誇り、終わ
りなき締念が彼らの笑顔をねじ曲げる。ヘケートは別れの悲しみに出会う前の一瞬の
輝きを愛していた。結局彼らは永遠の子どもなのだ。彼らは自身で得られる小さな小
さな力で大人の気分を味わって、死と老いの前でその空しさに気付く。
子どもなのだ。
絶望を知るまで覚えぬ愚か者。だがこの時ほど求められることは無い。怯えて引きつっ
た唇に優しく口付けてやれば、再び、王様にでもなったように勝ち誇った笑みを作る。
愚かなものだ。
- 221 名前:15 投稿日:2007/01/29(月) 23:35
-
ふたりは子ども同士の戯れのように言葉で遊び、本音を浮かべた瞳を輝かせ、時とし
て罵り合い、うそぶいて、肌が近づいても拒まずに、続けた。
全ては無意のままに繰り返される遊び。子どもの遊びだ。
闇の中の出来事、見るはずの無い夢、救いの無い一夜。
繰り返すだけの巧みな、遊び。
芯まで溶けた蝋燭が自らの残骸にまみれて力なく伏せる。
狭く閉ざされた天を仰いで、また言葉遊びに興じる。
噛み合っていたはずの歯車が狂うのを、ヘケートだけが聞いていた。
細い喉から漏れる浅い息。絡み合わない指先。
夜に溺れたジュラルミンの顔は少しずつ歪んでいく。消えたはずの蝋燭の火が彼の闇
まで照らし出してしまったのか。
ヘケートにはもはや快も不快も無い。哀れみさえ無い。
整った薄い唇は喋るのを止め、ジュラルミンはベッドの上で動かなくなった。固く閉
じた指の隙間にシーツを握りしめている。見開いたままの眼は中空を泳ぐ。一本一本
指を解いてやれば薄くにじんだ血の感触がある。あたたかい。
- 222 名前:15 投稿日:2007/01/29(月) 23:37
-
「眠るの?」
「…私は夢の中にいるんだ」
先までの澄んだ声は幻か。奥歯を噛み締めたような鈍い声色が流れ出る。
「では、今お前が喋っているここは何処?」
「夢の外。私はひとりぼっちなんだ。夢の中なら王様にもなれる」
「そう…。夢の中へ帰るのね」
「うん」
「王様、幻の王か。息子とは大違いね。お前は幻に棲んだまま」
「…ね、南の国は滅びたかい?」
「滅びないわ。そんなの私が許さない」
「じゃあ王様はお元気?」
「ええ。戦争に行っているけれど、きっと帰ってくる」
「戦争…?あの国はもう何十年も平和だと聞くのに…」
「小さな戦争は幾つも有った。女王…、いえ、王様は戦争が好きじゃないから大ごと
にしないだけ。それに長い平和なんてものはシルバーランドに存在しない…」
「…私が国を離れてもう何十年も経ったはずだよ」
「可哀想な男、お前が国と正気を捨ててから時間はそれほど進んでいない。お前の意
識が老いさえ早めてお前を殺しているの。美しかった手も指も、お前自身の死への憧
れが蝕んだ…」
- 223 名前:15 投稿日:2007/01/29(月) 23:39
-
長い平和?
永遠を生きる魔女は長いとした時の経過について訂正しようかと迷ったが、白く長く
骨張った指を両手で撫でながらその考えを捨てた。
彼らは永遠の子どもなのだ。
子どもに真実を与えてやるのは難しい。
「ヘケート」
眠ったものと思われたジュラルミンがゆっくりと声を発する。名前を呼ばれたヘケー
トは耳をそばだて彼の冷えた口元に顔を寄せた。氷の息。移してしまったのだろうか?
「人は永遠の眠りを迎える時に己の一生を思い返すというが、神は私にもその幸福を
分け与えてくれるだろうか」
「…」
「全てでなくて良い。故郷の日々、愛しい者たち…美しい記憶をもう一度だけ…もう
一度だけ、この心に」
- 224 名前:15 投稿日:2007/01/29(月) 23:40
-
ジュラルミンは未だ絶望に辿り着けないままだった。ヘケートが彼の持つ迷いに気付
いたのかは判らない。だが故郷への思いを口にするジュラルミンに同情に似た慈しみ
を感じたのは確かだった。濁った記憶、交わした会話の曖昧さ、ジュラルミンが必死
で抱き続ける虚像ばかりの思い出。
ヘケートは思う。
彼もまた、物語の中のひとりだった、と。
死にゆく男の冷たい体の上に横たわり、魔女は囁いた。
「その願い、叶えよう」
- 225 名前:15. 冷めた王国 投稿日:2007/01/29(月) 23:41
-
…
- 226 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/01/31(水) 22:14
- 更新お疲れ様です。
すごい。本当にすごい。素晴らしい。
うまく言葉に出来ませんが思い切り物語に引き込まれています。
- 227 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/01(木) 01:52
- 最高です。
- 228 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/02/06(火) 23:27
-
16. 交錯
調停に来た二国の軍隊は、戦場である国向こうの砂漠を目前に足止めを食らっていた。
特に位の高い者たちは王宮に招待され部屋まで用意されており不平を言う必要はなか
ったが兵士の士気には少なからず影響を与えた。
いつ戦場の中心に駆り出されるのか判らない緊張感と、予想だにせぬ優遇が彼らの心
と体を静かに蝕んだ。
- 229 名前:16 投稿日:2007/02/06(火) 23:28
-
同盟国の王宮、最上の客室にはふたりの王がいる。
客室の外では護衛の任を負ったヌーヴォーとトルテュが耳をそばだてていた。
騎士道に反しますなどと説教臭いことを呟きながらトルテュは顔を横に向けたままだ。
ドアを挟んで彼らは向き合っている。半身を壁にもたれかけ、不真面目と言えば不真
面目な画である。
「それにしてもだ、トルテュ。この状況をどう思う?飴と鞭で一週間だ」
熟練の騎士・ヌーヴォーは鞘の金具に詰まった砂を払いながら彼よりも幾つか若い騎
士に尋ねた。彼のように情熱的な性分の男には待つ戦は合わない。
「あまり喜ばしいとは言えませんね。このまま続けば続くほどに士気は下がるでしょ
う。統率が難しくなる。鍛え抜かれていても人間ですから疲弊はしますし、そこに悪
意でも潜り込んでくれば軍隊といえど蟻の群れ。美味いエサのほうに転がるでしょう
ね」
「…随分と辛口だな、疾風の騎士殿。それに知ったような口を叩くじゃないか。何か
掴んだのか?」
「場合に寄っては最悪のシナリオに繋がる情報を」
- 230 名前:16 投稿日:2007/02/06(火) 23:29
-
「確かな内容だけ聞こう」
「良いでしょう。ヌーヴォー様、我々が手を貸しているこの国、本来は戦いの中心で
はありません。ご存知の通り隣国のふたつの資源争いが発端です」
「うむ」
「争いに『巻き込まれた』のがこの国、我が国の同盟国です。しかしこの国の王は争
う国の一方…仕掛けた方の王族と血縁関係にあるようなのです」
「ようだ、とは聞き捨てならないな」
「失礼、これは間違いありません。ともなるとこの国が巻き込まれたのは偶然ではな
く…」
「はじめから奴らの思惑通りか?」
「はい。しかし目的が判りませんでした。この国の周りは山脈と砂漠のみ。資源問題
はあくまで名義だとして彼らの真の狙いは何だと思いますか」
「…」
「それに『彼ら』…ヌーヴォー様の言う『奴ら』とは、何処から何処まででしょうね」
「…ちっ、お前の想像力は国一番だ」
- 231 名前:16 投稿日:2007/02/06(火) 23:29
- 「想像ならばそれで構わない。だが今回の出兵は要請されたものです。『巻き込まれ
た』のは我々なのです。間違いない、彼らの狙いは…」
「シルバーランドとゴールドランド、か」
端正な顔立ちのトルテュが表情を全く崩さずに頷く。
「最悪の場合、です。王には知らせてあります。叩くか捨て置くか決断を急いで頂き
たいところだが尻尾を掴むまでは動けないでしょうね。先の話が仮説でなければとう
に罠の中ですから」
ヌーヴォーはぎりりと奥歯を鳴らすと心底不愉快そうな顔で若い騎士を睨んだ。トル
テュがくせのある緩い笑いを返したが、ヌーヴォーの怒りは収まらない。
無骨な手で払われた金色の砂が彼の足下に散っている。
砂にまみれた爪先で思い切り蹴り払うがまるで減る様子は無い。
- 232 名前:16 投稿日:2007/02/06(火) 23:30
-
部屋の中で戦況について論じていたサファイアとフランツはいつしか議題を変えていた。
それは深刻な状況に置いての逃避でもあったのだろう。
「私はあくまで理想を並べ立てただけだ。実際に動いてくれたのはフランツ様、あな
たです」
サファイアの穏やかさは亡き王妃に似ていたが今となってはそれを知る者は少ない。
一方、褒められたフランツは照れたのを隠そうと必死である。
「私は一応ゴールドランドの王だから、だから、その、あなたの国のことはあなたが
決めてくれれば良いし、それに…力になれるなら私は全力で動きます」
サファイアはフランツの手を取る。
騎士というのは優雅に見えて実際には兵士と変わらない。傷だらけで皮の厚くなった
彼の手はそれでもなお上品さを留めている。
綺麗な手だとサファイアは思う。綺麗で優しくて不器用な手だ。
- 233 名前:16 投稿日:2007/02/06(火) 23:30
- 「フランツ様、デージィはゴールドランドの良き国王になるでしょう。それが彼の希
望であり私たちの希望です。ビオレッタは…彼女はまだ、王位に接するのを避けてい
る気配がある。賢い子です…記憶も子どもに受け継がれていくのかしら。私の両親は
国のために生きました。私も王としてそうでありたい。しかし母としてはもっと別の
方法を見つけたかった…」
それまでの行いを確認しているようなサファイアの独白は、途切れながら続いた。
遠くから聞こえる扉の外が賑やかだ。動きがあれば彼らが扉を破ってでも飛んでくる
だろうし大事があった様子ではない。
フランツは気にしないことにする。
今は眼の前の愛する人に心を奪われていようとする。
「そしてあなたはそれを見つけた。サファイア」
「フランツ様、あなたのお力がなければ、出来なかった」
- 234 名前:16 投稿日:2007/02/06(火) 23:31
-
戦に赴く前、サファイアはふたつの国の存続について頭を悩ませ続けていた。
世襲制の廃止、二国の統一、王権の放棄…どの方法を用いても想像で描き出されるビ
ジョンは曖昧に終わる。自らは老い、子どもたちはいずれ成人する。
王位はどうなる?国を乱さぬために最善の方法は?
だが抱え切れない思いをフランツに告げたその日から、サファイアの悩みは掻き消え
た。天駆ける王と呼ばれる彼は、サファイアの手を取ってたった一言で彼女を深い淵
から連れ出したのだ。
「悩んだって結論は出ません。神のお導きがあるまで待ちましょう。悩んだってしょ
うがない。大事なのは、いかに行動するかだ」
驚くほど真面目な顔で彼は説いた。サファイアは一瞬、本気かどうか疑うほどに真面
目な眼だった。
待ちましょう、私と一緒に。
デージィとビオレッタも、ふたつの国の民もいるのに、あなたがひとりで悩むなんて。
ね、サファイア。待ちましょう。
- 235 名前:16 投稿日:2007/02/06(火) 23:31
-
天駆ける王とは巧い形容だとサファイアは思う。
フランツ様は本当に、天を駆けるほどの志(こころざし)を有しているのだ。
それどころか、私を連れて行こうとして手を差し伸べてくれる。
サファイアは感謝している。
今日も、あの日も、出会った日からずっと。
- 236 名前:16 投稿日:2007/02/06(火) 23:31
-
「だからね、サファイア、私はプラスティックの同行を止めさせただけです。婚礼の
式だってナイロンの雇用だって、プラスティックの身を案じたあなたの提案でしょう」
「あれは…」
「彼一人に居場所を与えてもそれは権力に結びつかない。表立っての理由で、実際は
彼が心配なんでしょう」
「…全く、なんでもお見通しね」
「ええ、あなたのことですから」
フランツは得意げな顔で胸をどんと叩いた。
「民にはまだ気付かれていないでしょう。ふふ。さすがに当の本人は別でしょうが易
々と触れ回るような者ではない。『幻』を現実にするにはなかなか骨が折れますね」
フランツはいたずらの明かされた子どものように笑った。
- 237 名前:16 投稿日:2007/02/06(火) 23:32
-
扉の前の騎士たちはすでに壁に背を向けており、赤く染まる窓を眺めていた。
天井の高い回廊に横たわる無音にいつしか耳が慣れている。誰も来る気配はない。侵
入者も戦争も今この場には皆無である。私たちは何をしているんだろう。私たちは何
に求められてここにいるんだろう。妙な午後だ。ヌーヴォーは溜息をついた。
その時である。
ヌーヴォーの耳にはサファイアの声が確かに聞こえた。
「これで私に何が有っても安心です。シルバーランドは滅びない」
- 238 名前:16 投稿日:2007/02/06(火) 23:33
-
嫌な言葉だ。
嫌な予感がする。
沈黙に捕まったヌーヴォーの耳の奥で、ごうごうと炎が上がる音がする。それは彼の
知識や経験が危険を知らせる音だ。サファイア様を守れ。守れ。ヌーヴォー、お前が、
お前の手で!自らの声が炎の奥か聞こえてくる。これは何だ?やめろ、判ったからや
めてくれ。思わず両手で耳を覆うと轟音は止んだ。
汗と砂にまみれた指だけが彼のもとに残った。
「何なんだ一体…」
それは風の吹かぬ夜だった。
シルバーランドの歴史上、最も悲しい戦いの起きる日の前晩だった。
- 239 名前:16. 交錯 投稿日:2007/02/06(火) 23:34
-
…
- 240 名前:kkgg 投稿日:2007/02/06(火) 23:40
-
>>226 名無し飼育さん
嬉しいです!最後までお付き合い頂ければ幸いです!
終盤に近づいてきてまとめるのが難しくなってきました!
>>227 名無し飼育さん
ててて照れます!
- 241 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/07(水) 03:25
- ヌーヴォーファンとしてはつらい…・・・でもカッコいいんですよねぇ。
- 242 名前:kkgg 投稿日:2007/02/10(土) 19:40
-
>>241 名無飼育さん
私も何処までやっていいものか思案に暮れております…。
ヌーヴォー様は「リボン」の中でいちばんいいオトコだと思っています。
更新の間が空きました。実は内職してました。よかったら遊びに来て下さい。
ttp://knightlatch.web.fc2.com/
- 243 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/10(土) 23:09
- 行ってみましたー
形になって並んでるとなんかうれしいですね。
ヌーヴォー様大好きなんですが、とことん追い詰めてみたい気もします
悩んでる姿が絵になるというか……だめなファンだな_| ̄|○
- 244 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/02/12(月) 21:49
-
17. 灯影
赤い眼の馬が野を駈ける。
暗闇に一筋、駆け抜ける真っ赤な灯火。迷わず直進するその姿は生き急ぐ騎手の魂の
ようだ。薄明かりの中で鈍かった色彩も赤い光が切り裂く闇の隙間から差す太陽で息
を吹き返す。
馬上の男の眼に真っ白な王宮が映った。
男は、込み上げる思いを堪えられず、白い息を吐き散らしながら笑っていた。
魔女は彼の周りに現れ消える世界の欠片を観察していた。
ひとりの男が瞼の奥で作り上げた曖昧な世界。不安定だが均衡を守ろうと常にかたち
を変えている。彼の意識が及ばぬところが無なのか闇なのか明確に判別できず、極彩
色の昆虫や暗がりにまみれた深緑の兎が視界の隅でちらつくのをヘケートは見た。奇
妙な世界だ。馬上の男と遠くの城だけがはっきりと存在している。
ここでは全てが彼を中心に回るためだ。
シルバーランドという現実の国が、サファイアを中心に彩られるように。
- 245 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 21:50
-
王宮の最奥では、約束の日に興奮を抑え切れない国王が落ち着かない様子で繰り返し
ていた。
「父上はまだぁ?」
二十を過ぎた青年の甲高い声は、退屈そうに組んだ足の先をぶらぶらと揺らしながら
訪問を待っている。隣に座る美しい王妃は笑顔をたたえたまま微動だにしない。その
顔が誰のものなのかは誰のためにも描かれない。
「プラスティック王、もうしばらくお待ち下さいませ」
困ったように答える側近の男は回廊に走り出て窓の外を眺める。
すると遠方、城下町の向こうの草原から速駆けの一騎が城を目指して走ってくるのが
見えるではないか。
「王!いらっしゃいましたよ!おそらく大通りを抜けて来られるのでしょう!」
それを聞くと王は玉座から飛び上がり一目散に走り出す。
「跳ね橋を下ろせ!僕が城門に着くより早く!」
「王!お待ち下さい!は、跳ね橋を下ろせ!ああもうっ」
側近の男が慌てて繰り返す。すでに若い王の姿はなかった。彼は困ったような顔で王
妃の方に一礼すると、伝令の兵とともにその後を追った。
- 246 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 21:51
-
「父上ーっ!」
大通りの朝は朝市のためにいつも賑やかで人々の売り買いをする声が飛び交う。声ば
かりが空気に溶け込み、肝心な人の姿は明確ではない。市場になど出たことのない貴
族出身の馬上の男は市場の存在を体感したことがなく、知識で知るのみだった。
今の彼に大事なことは民の在る国が栄えていることであり、その国の王が彼の息子で
あることだ。残念ながら男にとって、民の存在は国の繁栄を計る基準でしかなかった。
「息子よ!」
彼は馬の背から飛び降りると大通りを駆け抜けた。
彼の体は本来の老体ではなく彼が最も美しく野望に溢れていた頃のそれだった。
白日の下で漆黒のマントを翻しながら走る彼の姿は美しい。魔女は薔薇を愛でるよう
に見つめた。棘を無くして咲く価値も忘れた枯れるばかりの美しい薔薇。
同時に、魔女は、サファイアたちの不在を少々歯がゆく思う。
- 247 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 21:52
-
大通りの先には、後ろに幾人もの兵を揃えた国王が父親を待っていた。
「父上!お久しぶりです!」
「大臣閣下ー!」
国王が、側近が、兵士たちが次々と彼の名を呼ぶ。歓迎。国をあげての大歓迎だ。
「プラスティック!ナイロン!帰ってきたぞ!」
「父上!お帰りなさい!」
抱き合う父子の背はさほど変わらない。
「プラスティック、我がシルバーランド国王!立派になったな。嬉しいよ」
「だって父上がここを出る時に立派になれって言ったじゃないか、だから僕はちゃー
んと勉強して、剣の腕も磨いて、それに王様にもなれたんだよ!すごいでしょう」
別れ際の言葉だと?
私は息子に立派になれと言い残したのか?
- 248 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 21:52
-
「王様は、大臣閣下のことをずーっと待ち続けていたんですよ!約束の今日まで日の
沈むのを数えて…」
抱擁の隣で嬉し涙を流す側近の男はハンカチでその眼を抑えていた。泣かないでよナ
イロン、と国王は彼の肩を優しく叩いた。
「約束の日…私の帰る日のことか?」
「ええ、そうです大臣閣下。追放を命じられたあの日、約束したじゃないですか。教
会を巡礼して免罪符を得たらもう一度ここに帰ってくると」
「そうだったか…」
「とーにーかーく!やっと会えたんだ、お城に帰ろう。僕、父上にお話ししたいこと
がいっぱいあるんだ」
国王は強引に父親の手を引いた。
- 249 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 21:53
-
寒い部屋に低い呻き声が漏れる。
眼を覚ましたのか?
ヘケートは冷たいベッドに横たわるジュラルミンの手を取る。脈が彼の深い眠りを証
明する。ならば薬の効き目が薄れたか、それとも迷いにぶつかったか。
ヘケートは赤ガラスの小瓶の栓を開けると口を蝋燭にかざした。
薬草の香りは煙に乗ってゆらりと上ると部屋の中に充満する。
眠りを深くする香りは、彼の願いを叶えるために幾らか特殊な作用を施してある。危
険な成分は何も無い。手を加えずとも彼のそばには死が横たわっているのだから必要
あるまい。
- 250 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 21:53
-
この別離は特別だ。ヘケートは思う。
慎重に瓶を閉めると再び、白く長く骨張った陶器のようなジュラルミンの手を取る。
握り返してきたのはただの反射だろう。左の手も抱く。左の爪にはインクが残ってい
た。最近まで書き物をしていたのか?それとも洗い忘れたのか…ナイロンがそれを許
すとは到底思えないが。
彼の足先の壁の高いところには一枚の絵が掛けられていた。
絵の中にたたずむ騎士の名はプラスティック。きっと心優しいナイロンが持ってきた
のだろう。故郷より追放された父親は、最愛の息子に見守られている。
彼の死後、絵の中の騎士は魔女ともに西へ旅立つことが決められていた。
これより大事なものが今はここに無いんだ、と言ってジュラルミンは願いの代償に絵
を差し出したためだ。ヘケートは今更代償など求めるつもりも無かったが、彼に従っ
た。この申し出も、願いの一つのように感じられたのだ。
- 251 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 21:54
-
国王は運ばれてくる豪勢な食事を次々と口にしながら話し続ける。側近の者たちが時
折、言葉を付け加える。
だが男は嬉しそうに話す息子にだんだんと違和感を覚えていた。
これが私の息子か?よく思い出せ、お前の息子は、お前の息子は…。
「なあ、プラスティック」
「なあに?父上」
ついに男は口を開く。
「お前は私を憎んでいないのか?」
「憎むなんて!出来るはずが無い。どうしてそんなことを聞くの?」
「いや…ずっとひとりにしていたからさ。悲しくはなかったかい?」
「…父上は?ひとりになって寂しかった?」
「寂しかったよ」
「今も寂しい?」
「寂しくないさ、だってお前がいるじゃないか」
「でもこれは現実じゃないんでしょう」
銀の食器が鈍い音を立てている。
「ああ。全部つくりものさ。しかも私の記憶たちは順番に神様のもとへ出掛けている。
思い出そうとしてもお前と過ごした記憶をちゃんと思い出せないんだ。今ここにいる
おお前も私も果たしてこの姿が真実か」
違和感の説明は自分へのものだった。
- 252 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 21:54
-
「ねぇ、父上も行ってしまうの?」
食事の手を止めずに国王は尋ねる。
「順番だからね。お前を残して行くのは辛いが…」
「…」
「私はいつだってお前が心配なんだ」
「父上、僕はもう大丈夫だよ」
ふと気付けば彼らの周りに溢れていた銀細工の食器は消えていた。食器だけではない。
部屋の調度品も、壁際に並ばされていた兵士たちも消えていた。
残っているのは男と、国王と側近のひとりだけになっている。三人は等しい距離に並
んで円を描いている。
「…プラスティック、息子よ」
「僕は大丈夫。ナイロンだっているし」
国王は隣で微笑む男を指して言う。一方、彼は何も言わない。
「…そうか」
「うん。心配しないで」
「そうか…」
男は側近の男を見た。側近の男は大きく頷くとにっこり笑った。
「そうか。じゃあ先に行くよ、プラスティック、ナイロン」
- 253 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 21:56
-
赤い眼の馬が野を駈ける。
暗闇に一筋駆け抜ける真っ赤な灯火、迷わず直進するその姿は生き急ぐ騎手の魂のよ
うだ。もはや彼の周りの世界は色を無くしていた。馬の背には男と女が乗っている。
男の腰に手を回して背にもたれかかった女は静かに語りかける。
「故郷の日々、愛しい者たち…美しい記憶、ね」
「ああ、何も聞かないでくれ。虚構と事実の境界線なら判っているつもりだ」
「そう…」
「…ヘケート、感謝している。眼を覚ました先の私はもう私ではないかもしれない。
今のうちに伝えておこう。束の間の幸福をありがとう」
「…」
消えかけた命の灯火が闇の中を駆けていく。
生き急ぐように。
- 254 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 21:57
-
- 255 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 21:57
-
ジュラルミンは眼を覚ました。
果たして直前のやり取りまで覚えているだろうか。ヘケートはあえて問い詰めないこ
とにする。
「目覚めたのね。絶望は見付かった?」
「ううん。見付からない」
「そう…戒めの旅は終わりにするの?」
「うん。もういいんだよって、言われたからね」
子どものように頷いて、ジュラルミンは天を仰いだ。
「最後の眠りの用意をしよう」
- 256 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 21:58
-
無意識に彼は骨張った指を宙に泳がせた。何かを掴もうとして何も掴めなかった指を。
ヘケートはそれを優しく包んだ。乾いて生気のない指をそっと包んだ。
「ナイロンを呼ばなくて良いの。それとも最愛の息子?」
「いや…誰も呼ばなくていい。今はただここにいてくれ。死よりも孤独が怖い」
「…死が怖くないの」
「私はこの日を待っていた。臆病だから自ら死することも出来ずにいただけだ。お前
だって死に憧れているんじゃないのか、永遠を生きる魔女よ」
「違えるな、私の望みは死ではない。限り有る人生」
「そうか…」
「死の間際ではそばにいるのが誰でもいいの」
「…どうかな」
「それとも最寄りのぬくもりを失うのが怖い?」
「そうだね…怖い。ヘケート、私は怖い。死は眠りだと言うけれど光を失うのは怖い」
ジュラルミンははじめてその顔をヘケートに向けた。
「それは光の中に在る者しか持てない言葉ね」
ヘケートの笑みは自嘲と悲しみを含んでいた。
- 257 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 22:03
-
見つめ合うふたりの間には生きる者と死ぬ者の境界線がしっかりと引かれていた。
「無に憧れて失うのを恐れる。空論だ。まさに私の人生のように。…お前は、怖くな
いのか?再生しても二度と会えないかもしれないよ、お前を知る者に」
「私は見送る者。見送られる者の気持ちは判らない。別れた後に出会った者などひと
りもいない。私はよく判っているつもり、お前よりもずっと。やはりお前は本当の孤
独など知らないのね」
「そうかもしれない…誰もが私を孤独から遠ざけようと優しくしてくれる。私の周り
には優しい奴が多過ぎる、ヘケート、お前のように」
「…」
「お前はどうして魔女なんだろうね」
「…その言葉はナイロンにかけてやるべきだった」
「…ナイロン…」
「彼こそがお前を愛していたわ」
「…ああ、私は何一つ返せなかったがな…」
「そうね、お前は何一つ上手くやれない。最期まで感謝のひとつも告げられずにあり
ふれた孤独の中に、死ぬ」
- 258 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 22:04
-
「お前もそう思うか、ヘケート。私が最も恐れていた場面で私の舞台は幕を降ろすの
だ…」
「だが、絶望することはない」
「え?」
「最期まで忘れてはいけないわ。ナイロンに、そしてお前の息子に、生きる希望を与
えたことを」
「…」
「お前がこの世に残したものは、確かに在るのだから」
「…」
「この北の地にひとりきりだとしても。お前の故郷には、ちゃんと在る」
「…」
ヘケートは彼の冷たくなってゆく体を抱いた。
横たわる死の影もろとも抱き締めた。
ジュラルミンは眼を閉じた。二度と開くことの無いように静かに、眼を閉じた。
彼の眼から一粒落ちた涙がその首を支える枕に落ちる頃には息は途絶えていた。
彼の生前の行いを問う者は既にいない。
墓の下の眠りは全ての者に平等であり、彼はその入口に辿り着いたのだから。
- 259 名前:17 投稿日:2007/02/12(月) 22:14
-
ヘケートは冷たい体を抱く両手の力を緩めないようにしていた。
悲しみはわずかで、咲いていた薔薇が散る時に感じる胸の痛みの程度だった。
しかし両手の力を緩めなかったのは、死にゆく者の体が永遠を生きる魔女の肌よりず
っと冷たくなるのを思い出したためだった。
たったひとつの窓から差す月明かりがふたりを弱々しい逆光で染める。寄り添ってい
るために境目をなくしたふたつの白い輪郭は、永遠の昔からそこに有った彫刻のよう
に動かない。加えて蝋燭の赤い光が闇の中にたたずむ彼らの表情を描き出す。
胸に流れる奇妙な感情の名を、ヘケートはまだ知らない。
虚の魂から生じる善の行い、その名を愛と呼ぶことに、気付かない。
死にゆく男の顔に恐怖は残っていなかった。
彼を胸に抱く女は穏やかな表情をしていた。
まるで、十字架から下ろされた救世主を抱く聖母のように。
- 260 名前:17. 灯影 投稿日:2007/02/12(月) 22:15
-
…
- 261 名前:kkgg 投稿日:2007/02/12(月) 22:23
-
>>243 名無飼育さん
サイトもご覧頂きありがとうございます!見易さ最優先です。笑
ヌーヴォー様のご活躍はもう少し後になります。追い詰められる…カナ?
- 262 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/15(木) 00:57
- 作者さんの文章と描写に引き込まれて、この世界にどっぷりと浸かっています。
大好きだったミュの人々のその後の生き方をこの目で確かめていけるような気持ちになって、
更新をいつも心待ちにしております。
がんがってください!
- 263 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/02/16(金) 15:25
- 更新お疲れ様です。
美しく流れて行く物語に酔いしれております。
毎回すごいとしか言えないのがもどかしいです。
サイトにもお邪魔させていただきました。
これからも更新楽しみにしています。
- 264 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/02/17(土) 00:54
-
18. 羊の群れ 星の導き
愛の愚かさをまさかこんな場所で感じるとは。
ナイロンは顎の下で手を組み替えると、眼下に飛び交う声を嘆いた。
シルバーランドの城門を入ってすぐ、門衛棟の立つ広間に臨時の会議場は作られてい
る。城下町に建設されているものが正式なそれであり、規模の拡大から近ごろ増設が
決まった。
議長であるナイロンと騎士代表のプラスティックは、一向に進展しない会議を壇上か
ら眺めていた。積極的な参加は結論の出る頃で良いと初回から出席している書記官・
トロワに諭されたので発言を控えたままだ。少し離れた場所でトロワは愚痴をこぼし
ながらも仕事の手を止めない。
「毎回懲りない奴らだ。併せるのも楽じゃない。やっぱり俺も裏方業に回るべきだっ
たかもしれん」
- 265 名前:18 投稿日:2007/02/17(土) 00:55
-
サファイア王即位後、トロワはピエール、コリンとともにその行動を国民に讃えられ
た。それが原因で牢番を続けるのが難しくなり彼らはそれぞれ別の仕事をはじめる。
だがどれも長続きせず、ピエールは脚の持病から故郷へ帰るのを決めてしまう。
仲間をひとり失い途方に暮れたトロワとコリンは、王に進言し、王宮に仕えられるよ
う頼んだ。
ふたりはサファイア王の指示で教育を受け、後にトロワは議会の書記官に、コリンは
シルバーランド正史の編纂に就いた。
トロワのいう「裏方業」とはコリンの仕事を指す。
「新参者の騎士殿には判らないかもしれませんが、会議なんて酒場の喧嘩と変わりま
せんよ」
「おいトロワ!口を慎みなさい」
「構わないよ、ナイロン。続けて」
言葉は悪いが新しい議長と若い騎士を書記官が歓迎しているのは明らかだった。彼ら
の純粋な無知、未経験こそが退廃に傾き出した議会に希望を与えると彼は信じて疑わ
ない。
- 266 名前:18 投稿日:2007/02/17(土) 00:56
-
「違うのは国への影響力だけさ。ここで決まれば民が動く。場合によっちゃ王家もね」
トロワはインクにまみれたペン先をつい、と右方へ向ける。
「あちらさんは反王家の一派。権力の独占が不満だそうだ。貴族かそこそこの金持ち
が集まって国の金さえ食いつぶそうって魂胆だな。で反対側、あちらは教会のお偉方
だ。あいつらも考えてるのは似たようなことさ、国教として認めさせれば仲間内での
力が大きくなる。それを阻んでるのは王家だと勘違いしてるんだ」
ナイロンとプラスティックはトロワの話を熱心に聞き続ける。
「見ろ。最奥で小さくなっているのがサファイア王が重んじよと言った民、地位的に
言えば最下層の『国民』さ。酒屋も地主もみーんなあの席にいる。今や牢番の長にな
ったピエールの弟だっている。だが権力を履き違えた輩のせいで発言権なんて無い」
「前の議長はどうした?」
「逃げ出したよ。恫喝でもあったのかもしれないな。…もう狂っちまってんだ」
「ど、恫喝…」
ナイロンの脳裏に一瞬、無理な日程で組まれたプラスティックの婚礼が浮かんだ。
思う以上に反乱分子は育っているのだ。
- 267 名前:18 投稿日:2007/02/17(土) 00:56
-
「トロワ、僕たちはどうすればいい?」
間髪入れずに尋ねるプラスティックにトロワは顔を上げた。
やはり、彼らは希望なのだ。
核心とともにトロワは答える。
「簡単さ。もっとちゃんと国を愛している者に喋らせれば良い」
愛する?
ナイロンは驚いた。
プラスティックの真剣なまなざしに。
予期せぬ場所で耳にしたヘケートの言葉に。
『議論という奴は、何も生まない。議論は愛の在り方に似ている』
そうか、彼らは愛すべきものを間違えているのだ。
彼らが愛しているのはこの国ではなく自身と権力。
愛のふりをしている身勝手な主張がこの国を、民を、壊してゆくのだろう。
もっと早く気付いたのなら、私は大臣を止められただろうか?
否。
私は受け入れたのだから。
- 268 名前:18 投稿日:2007/02/17(土) 00:57
-
「そもそも西への出兵こそ間違いなのだ!」
反王家派の男が大声を上げた。腕を飾る悪趣味な装飾品が彼を一層愚かしく見せる。
「民の生活を犠牲に、武装して他国を助けるなど…!」
一方的な暴言に黙っておられずプラスティックが反論する。
「聞き捨てならないな、この国の民だけが幸せなら良いと言うのか?出兵については
王が決めたが、ここで民の賛同も得たというではないか!」
末席に並ぶ不安げな顔が、僅かに頷く。
「なあトロワ、彼らは何故ここにいるんだろう。徒党を組んでまで」
ナイロンの思い描いた議会はこうではなかった。差異を生むのは左右からの怒号だ。
「奴らの目的はひとつ、王権の略奪ですよ」
「…本気でそう考えているのか」
「それはもう。議会は権力の分散だ。奴らは対立しているが王家という共通の敵があ
る。国民会議は双方の出方を窺うのにもってこいの場所さ」
- 269 名前:18 投稿日:2007/02/17(土) 00:58
-
「…弱ったな」
「サファイア王のお考えは素晴らしいが民に期待し過ぎですよ」
「…サファイア様はお優しいから。トロワ、あなたはずいぶんと政略に通じているね?」
「…まあね。俺だってこの世界に入ってから気付いたんです、牢番以外に出来ること
があるってね」
コリンの奴はさっぱりだが!と照れ隠しに付け加えるとトロワは帳面に視線を戻した。
若いプラスティックはすっかり喧噪作りに飲まれてしまった。
恩あるサファイア王とその家族のことを悪く言われ頭に血が上ってしまったようだ。
彼の父親の名がで出ないことをナイロンは祈った。
「西の地は小国ばかりが連なり争いの止まぬ土地柄だ。平和に溺れたこの国の騎士団
が向かったところで何が変わります?身を以て軍備の薄さを思い知ることになります
ぞ!プラスティック様はご存知ではないのだ!」
「ああそうさ、残念ながら僕は西の地のことなんて知らない。争いがあることしか知
らない。だからって武器を増やすことが正しいと思うの?争いを止めるのは争いだと?
サファイア様はそうじゃないてきっと証明してくれるさ!」
- 270 名前:18 投稿日:2007/02/17(土) 00:58
-
議題は二転三転し対立ばかりが深まる。
若い騎士の発言も少しずつ感情的になってきた。
「そもそも次の王だって決まっていない。眼先の利益ばかり追った挙げ句に!ご長男
のデージィ様がゴールドランドの王になってしまうのならこの国はどうなる!?」
「ビオレッタ様がいるでしょう?サファイア様のお子がふさわしいに決まってる!」
「…ビオレッタ様は女だ」
「無礼者ッ!」
顔を真っ赤にして机を思い切り叩くと、プラスティックは歯軋りした。いよいよ暴れ
だしそうだ。
次の展開を慮るナイロンはその表情を変えない。
プラスティックが暴れ出すのを期待しているトロワは笑顔を浮かべている。
ナイロンは書記官・トロワの走らせるペンの音を聞きながら考えていた。
深く深く記憶の奥へ潜って考えていた。
- 271 名前:18 投稿日:2007/02/17(土) 00:58
-
ヘケート、あなたの言う通りです。
人間たちは欲に駆られて「目盛りの位置」から世界を見ています。
限り在る命の人間である私たちは、時と判断に迫られ、何度も間違えます。
だが間違えるだけが私たちの生き方では有りません。
それを許せる私では有りません。
大臣、あなたはちゃんと歩んでおられた。
戒めの旅をたったひとりで歩き続けた。お供出来なかったことが今も心残りです。
これからはちゃんとおそばに控えます。
今は、王の留守を任された今はお会い出来ませんが、ナイロンは自分を信じて進みます。
日が当たらない夜の中でも、岩と雑草に縛られた道無き道でも。
善い行いを見つめて、歩きます。
あなたの前に立つ時は、今よりもっと立派になって。
大臣、ヘケート、見ていて下さい。
魂より生じる愛の在り方を、私はここで示さねばならない。
示しましょう。
愛するあなたたちのために。
私たちのシルバーランドのために。
- 272 名前:18 投稿日:2007/02/17(土) 00:59
-
「せいぇっしゅくにぃっ!」
百人入らぬ会議場にナイロンの声が響いた。
裏返って緊迫感に欠ける声だった。会議場が静まり返ったのは議長の威厳にではない。
彼の緊張と使命感を感じ取ったトロワが嬉しそうに、声を漏らして笑う。
「静粛に。皆さんの主張はよく判りました。なので、次の議会に続けるために発言し
たいと思います」
いっせいに議長のほうを振り向く参席者たち。
「聞いて下さい。議論は善く生きるための贈与です。それは我が国、シルバーランド
のための贈与です。
シルバーランドとは何か。それは私たちを育む全てです。自然は勿論、民も、そして
王家の方たちもシルバーランドという国の一部です。
私たちは、シルバーランドに出来ることを増やすために集まった、民の代表です」
荒れていた議会は静けさに包まれていた。
誰もが新しい議長に微塵の期待も抱いていなかったために衝撃は大きい。
- 273 名前:18 投稿日:2007/02/17(土) 00:59
-
「ここでひとつ、提案します。
代表の皆さんは帰った後に各職業ごとで会議を開いて下さい。そして希望を、国民議
会で話したいことをまとめて下さい。ここで主張できないような案件は認めません。
次に各団体は構成員を名簿にして提出して下さい。人数に応じて参加人数を決め直し
ます。
今日を踏まえて次の議題は…えーと、議題を考えてきて下さい」
「待って下さい、議長、出兵については?」
いかにも権力に弱いと見える宗教家のひとりが手をあげた。
「議会で触れる必要はないと判断します。これはサファイア王とフランツ王がお決め
になったことだ。今後これに関する話題を持ち出すのを禁止します。以上、散開して
下さい」
参加者たちは唐突な展開に眼を丸くし顔を見合わせたが、新しい議長の描こうとして
いる未来をそれとなく理解した。ある者は歓喜し、ある者は舌打ちした。
- 274 名前:18 投稿日:2007/02/17(土) 01:00
-
空いて行く椅子に囲まれた三人は取り残される。
「ナイロン!すごいよ、いつの間に考えてたの?」
「ははっ期待以上ですぜ、ナイロン様!」
プラスティックの疑問とトロワの賞賛はナイロンに届いていない。
「ねぇナイロン!聞いてる?」
「ああ、はい…今のは全て思いつき、私を育ててくれたひとたちの教えを生かそうと
した結果です」
「それだけですか?ナイロン様」
「ええ」
トロワは目頭が熱くなるのを感じた。
「なんてこった!ナイロン様、どうしてこの日まで現れてくれなかった」
「どういう意味だい?トロワ」
プラスティックが無邪気に聞く。
「これもまた簡単なことさ。シルバーランドを愛しているのはナイロン様、あなただ」
涙がこぼれては格好がつかない、トロワは思った。
隠そうと拭った頬に、インクがついた。
- 275 名前:18 投稿日:2007/02/17(土) 01:00
-
ナイロンは考えていた。
深く深く記憶の奥へ潜って考えていた。
過去のことを。未来のことを。
しかし彼が求める何にも触れられずに意識を現在に戻した。
緊張から解き放たれたことで、彼の心は少しの間不自由だったのに気付く。
議長というのはなかなか大変なのだな、と思う。
空席ばかりの会議室を見、妙に切ないような思いに襲われた。
ここには誰もいない。
そばで話すふたりの声もずいぶん遠くに感じる。
何処までも広がるのは、誰もいない場所。
そうだ、大臣。北の地の大臣はお元気だろうか。
ヘケートがいるから大丈夫に違いない。
彼の敬愛する大臣閣下はもうここにはいない。
彼は、シルバーランドの一部ではなくなってしまった。
プラスティックに話しかけられるまで彼の揺らぎは続いた。
その揺らぎが何を意味するのかやはり何も掴めないままだった。
- 276 名前:18. 羊の群れ 星の導き 投稿日:2007/02/17(土) 01:00
-
…
- 277 名前:kkgg 投稿日:2007/02/17(土) 01:05
-
>>262 名無飼育さん
ありがとうございますー。
今回は設定一番なんで文章は危うい部分がちらほら 笑
個人的解釈100%ですが共有して頂けたら幸いです。
>>263 名無飼育さん
すごいのは一観客にこれだけ妄想させるあの8月!
サイトのほうもありがとうございますー。
少しずつ増やせたらいいなと思います。
- 278 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/02/20(火) 23:43
-
19. 月の砂漠
砂漠の中心で戦の火が上がった。
太陽すら死せる砂漠の深夜である。
争い合う二国のどちらかが同盟国近隣に砲兵隊を送り出した。
早々に察知した同盟国は自国の兵を送り出すとともにシルバーランド・ゴールドラン
ド軍に支援を申し出た。
全ては、用意された順番で戦争になってゆく。
- 279 名前:19 投稿日:2007/02/20(火) 23:43
-
フランツ王を先頭に第一陣が戦地へ向かう。
「火気というやつは主に城を攻め入る際に使うものだ。こちらは機動性を生かして臨
むのが良かろう」
隣を奔るトルテュに呟くが彼は答えない。これは味方への撹乱であるために答えない
のだ。
彼らは一度戦地へ赴き、すぐに自国へ舞い戻る方法を選んだ。
今は「戦場に出た」という証拠と、敵の攻撃を避けて自国へ戻る「機動力」さえ有れ
ば良い。
騎士が戦いに臨まずに自国へ戻れば臆病者と責められよう、これは罠の筋書きのうち
だとトルテュは考えフランツに進言していた。フランツの好まない作戦なのは百も承
知である。
そもそも砂漠を行くのに馬というのはあまり良い方法ではないし、仕組まれた戦争に
過ぎた美学を用いても何になろう。フランツ王は若い騎士の提案を受け入れる。
それならば、サファイアが前線に出る必要は有るまい、とフランツ王は静かに笑った。
- 280 名前:19 投稿日:2007/02/20(火) 23:44
-
「第二陣、出撃の用意を!」
フランツたちが出て数時間後、ひとりの男が国境近くの陣営に飛び込んで来た。
陣営にはサファイア、ヌーヴォーを中心に後発隊となる騎士たちが詰めていた。
「なんだと!?フランツは!」
返すサファイア王の声に驚いたのか、男の眼は鋭く光る。
「わ…判りません!思いのほか敵国の火器は強力です!奴ら、見たこともない陣形を
組んで…くそ、どんどん兵が減っていきやがる…」
サファイアは小さく舌打ちすると護衛と参謀を兼ねる騎士長・ヌーヴォーに視線を投
げた。彼は腕組みしたままだ。
「おい、お前。我が国の兵が減っていると言ったな?」
息を切らせる騎士に、ヌーヴォーは尋ねた。
「はい、激しい戦いになっています。私も突然の命に、命からがら戻りまして…」
「所属の騎士団と、出身は?」
男は答えない。しかし、王と騎士長のもとへにじり寄ってくる。答えようとしている
のかそれとも。
- 281 名前:19 投稿日:2007/02/20(火) 23:44
-
「答えよ。騎士道を知る者が相手の命を奪うような真似はしないはずだ。いつから我
が国の相手は騎士道を踏み外した?」
ヌーヴォーは間合いを合わせながらサファイアを守るように前へ進み出た。
腰に下げたサーベルを抜き、切っ先を鳴らして威嚇する。
しかし男は答えない。
「それに、今回は戦いに来たのではない。戦いを止めに来たはずだ。我が軍が戦って
いるのに同盟国は何をしている?」
距離を取って様子を見ていた騎士長たちは一歩も動けない。
緊迫する空気はもはや彼らが踏み込める水準でない。
生と死の交錯が近付く時の緊張感。
時折、騎士たちの軽装の鎧がこすれあい金属音を漏らす。
生きた音はそれだけだ。
「答えよ!」
堪り兼ねたヌーヴォーがひゅん、とサーベルを降ると同時に男は踏み込んで来た。
丸めた体の腹のあたりには鈍い金属の光。短剣か!
- 282 名前:19 投稿日:2007/02/20(火) 23:45
-
「サファイア様、下がって!」
入り込まれれば長剣は作用しない。ヌーヴォーは低い姿勢にある男の頭を肘で払い退
けるとそのまま腹を蹴り飛ばす。
男は低い呻き声を上げて後ろに吹っ飛んだ。すぐさま周りの騎士たちが取り囲む。
「押さえろ…!」
命令するヌーヴォーの声が曇った。
「ヌーヴォー!大丈夫ですか!」
「はい、サファイア様、お怪我は」
「私は無事です、しかし…!」
ヌーヴォーの臑、その内側には深々と短剣が突き刺さっていた。
顔中に玉の汗が浮かぶのに彼の表情は平静そのままだ。彼は無言で短剣を引き抜いた。
そして手持ちの革紐で傷の上を縛る。鈍い音を立てて鮮血が溢れた。
「ヌーヴォー!」
「剣身の湾曲、これは我が国のものでは有りませんね。全くいつの間に紛れ込んだ?」
ヌーヴォーの声色は先とまるで変わらない。取り押さえられた男はいよいよ怖くなっ
たようにガチガチと歯を鳴らしている。
- 283 名前:19 投稿日:2007/02/20(火) 23:46
-
「畜生…紛れ込んじまったのは、お、お前らだ…」
「ほう。続けよ、お前の素性は?シルバーランドではないな」
「…騎士様のお考えの通りさ」
「この国の人間か…。だが我々はまだ確証を得ていないのだ。答えよ、何故サファイ
ア様を狙った?この計画の全容は?話してしまえよ」
「大国と正面とやる馬鹿はいない。それだけだ…」
「ふん、なるほどね。ではもうひとつ聞こう。フランツ王が率いる向こうの陣にも罠
をかけたか?」
「あんたならどうする、騎士様」
濁った男の眼が再び光る。それは悪意に満ちていた。
ヌーヴォーの後ろで、サファイアが怯えているのが判る。彼女は国を代表する王であ
り騎士であるが、フランツ王を愛する妻でもあるのだ。夫の身に降り掛かる危険を考
えているのだろう。
ヌーヴォーは一瞬の間をおいて騎士たちに命じた。
「狡猾さならお前に敵わないだろうね…。よし、四名待機、他の者は出陣の用意!す
ぐに出る、敵は騎士道を知らぬ輩のようだ、情勢は変わった!」
- 284 名前:19 投稿日:2007/02/20(火) 23:47
-
集まっていた騎士団の団長たちは雄々しい雄叫びを上げて散開する。
数分後には、国境に万を優に越える騎士が集まるだろう。
「サファイア様はいかがなさいますか」
ヌーヴォーが振り返るとサファイアは泣き出す前の子どものような顔をしていた。
自分よりも背の高いヌーヴォーの両肩に手を置いて必死に力を入れていた。座れと言
うことか、理解してヌーヴォーは座すると外していた鎧を付け始めた。やれやれだ、
と彼は思う。
あらためて傷口を覗けば、年を重ねて筋肉の落ちた脚なのに未だ血は止まらない。
麻布を引っ張り出して乱暴に巻く。彼はあまり器用ではない。
- 285 名前:19 投稿日:2007/02/20(火) 23:47
-
「ヌーヴォー!脚は…!」
「大したことありませんよ。脚の代わりは馬たちがやってくれる」
「しかしここは砂漠だ!」
「…ええ、今や敵国のど真ん中だ。サファイア様、軍勢が増えた今、内に敵が紛れて
いることもあるでしょう。全ての兵を把握している者はおりません。迂闊に動かれま
せぬよう」
「…裏切り者も出る、か」
「可能性もあります」
「ははっ、自国の将も判らぬ王とは情けない…!」
「大きな国はそれが普通ですから気にすることは無いが…軍をふたつに分けて動かす
のを読まれていたなら厄介ですね」
「…判りました、ヌーヴォー。少し休んで下さい」
「騎士ヌーヴォー、外道の一突きに倒れるほど軟弱ではありません。それにあなたに
は他にやるべきことがありましょう。サファイア様、戦場には出ますか?」
「…出ます。フランツ王のもとへ行かねばならない。一緒に行ってくれますか」
「勿論」
無骨な騎士・ヌーヴォーは不器用な笑顔を女王に向けた。
女王の顔を取り戻したサファイアに安心すると、一瞬だけ視界が歪んだ。
脚に巻かれた包帯代わりの麻布は、とうに真っ赤だった。
- 286 名前:19 投稿日:2007/02/20(火) 23:47
-
シルバーランド・ゴールドランド軍は今や完全に罠の中であった。
争っていたはずの二国と支援を願い出た同盟国は暗黙の了解のうちに事を進めている。
唯一の救いだったのは、彼らの案内を請け負った者には一点の邪心も無かったことだ。
彼らは飛び出せば砂しか見えぬ砂漠の恐ろしさをよく知っていたし、彼らの中には国
のやり方を知りながら納得していない者もいたのだ。
サファイアの陣営に現れた騎士はまさにそういう男だった。
その騎士は月明かりを背に受けて現れた。
葦毛の馬は夜気に包まれ、濃紺に見える毛が美しい。
馬から降りた騎士は熱(いき)り立つ兵を前に堂々と言って退けた。
「これより先に行ってはなりません」
- 287 名前:19 投稿日:2007/02/20(火) 23:48
-
騎士は武装している。
しかし佇まいに悪意も戦意も感じられず、眼差しも潔白に見える。
どういうことだ?
ヌーヴォーは考えた。
彼が案内役に選ばれたのは同盟国に取って都合の良い人間であるからに違いない。そ
れなのに先を行く、すなわち戦地に見せ掛けた罠に入り込むのを止めるのは何故か?
何処までが罠として動き得る?
沈黙の真意を読んだ騎士は続ける。
「お気づきのはずです。そしてこれ以上、この場で発言するのは危険です」
「あなたにとって?」
「いいえ、あなたたちにとってです。サファイア王」
しばらくの沈黙の後ヌーヴォーは騎士たちを下がらせた。
いつでも出陣出来るように待て、その言葉に数名が歯向かおうとしたのを彼は知らない。
- 288 名前:19 投稿日:2007/02/20(火) 23:48
-
同盟国の騎士、サファイア王、ヌーヴォーは三人で向き合う。
「騎士の中に既に裏切り者がいると?」
沈黙を破ったのはヌーヴォーである。
重くなってゆく脚を隠しながら彼は問うた。
「はい。貴国の反王家派と通じております」
「…何故あなたを私たちを助けるのです?」
「そして何故、今までそれを伝えなかった?」
サファイアとヌーヴォーが重ねて質問すると騎士は深く頷いて答えた。
「失礼なのは承知で申し上げますが…貴国の平和は、永過ぎた。国が栄えるほどにそ
れを妬む者が増える」
「…」
- 289 名前:19 投稿日:2007/02/20(火) 23:49
-
「貴国は特殊な二国体制であるがゆえに攻め込まれることはありませんでしたが…」
「いよいよ行動に出る国が現れた」
「その通りです。私も自国を愛する気持ちはあります。しかしこの度のやり方は誇ら
れるものではない」
「…あなたは国を裏切るのか」
「私は国を愛していますが、国の意志が必ず私の考える善を行うとは限らない」
「あなたはあなた自身の正義に生きるのですね」
「はい。私は、善なる魂の導きに従うことを選びます。それが私の騎士道なのです」
「…」
「信じてもらえますか、騎士長様」
「信じましょう。私はヌーヴォー、あなたの名は」
「私の名はアジュール。国では清泉の騎士と呼ばれています」
- 290 名前:19 投稿日:2007/02/20(火) 23:49
-
…
- 291 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/21(水) 17:34
- そうきたかーという感じです
それにしてもヌーヴォー様が心配ですよ…
- 292 名前:19 投稿日:2007/02/24(土) 22:59
-
同盟国の騎士は続ける。
「私は先発隊の救出に向かいます。でも安心して下さい、向こうの案内人は謀略に関っ
ていません」
「証拠は?」
「私の部下なのです。しかし我々の動きが同盟国に知られたの場合、命の保証はない」
「造反を知る者はあなたの騎士団のみか」
「はい」
ヌーヴォーは先から全く動かないサファイア王を気にしながら次の手を考える。
戦況は最悪だ。握った柄には砂がまとわりつき彼の思考を邪魔をする。鞘は既に砂に
よってその細工を隠されている。
「ヌーヴォー」
「はい」
鎧をまとう女王の声は低く、落ち着いている。彼女の結論は出たようだ。
「あなたの騎士団を集めなさい。他の者は全て退却」
「…なんですって?」
「全ての兵にシルバーランド、もしくはゴールドランドに退却するよう命じる。襲撃
に備えてあなたの騎士団を連れてフランツのもとへ行きます。あなたに騎士団なら反
逆者はいないでしょう?」
- 293 名前:19 投稿日:2007/02/24(土) 23:00
-
その判断を正しいと見たのだろう、アジュールは深く頷く。一方もヌーヴォーは困惑
を隠せない。
「二度は言わない。すぐに命令を下せ」
「…判りました、サファイア王」
「ではアジュール、案内をお願い出来ますか?」
「喜んで。砂漠において最も恐ろしいのは行く先を見失うことです。先発隊はそう遠
くまで行っていないでしょうが、出発は早い方が」
「うむ…」
ヌーヴォーは答えた。彼の表情は曇ったままだが、他に術が無かった。
アジュールとサファイアは開けた道に心を取られてそれに気付かない。
不安に胸を掴まれたまま、炎の燃え上がるイメージが彼の脳裏をかすめる。
炎は、策の暗示か、それとも凶兆か。
私がサファイア様を守れば良い。
簡単なことだ。
燃え上がるのは脚の痛みのみ、何も起きない。
起こさせはしない。
- 294 名前:19 投稿日:2007/02/24(土) 23:01
-
ヌーヴォーは、砂を払うように迷いを掻き消した。
不自由になっていく脚を隠しながら出兵の命令を下せば、一時間も経たぬうちに精鋭
が国王のもとに揃う。彼らは、出兵隊を遥かに越える大軍が帰路に着くのを見送った。
「では」
残ったシルバーランド・ゴールドランド軍は、戦地へ向かった。
砂漠の夜は冷え込む。
それよりも不快なのは重みを得たかのような空気がまとわりつき。彼らの速駆けを阻
むことだった。
先頭をゆくアジュール。サファイアと騎士たちが続き、最後尾にヌーヴォー。彼らの
距離はさほど離れていないが、会話出来るほど近くもない。無風でも駆ければ砂が舞
うので視界も晴れない。漆黒の夜と灰色に染まった砂ばかりだ。
- 295 名前:19 投稿日:2007/02/24(土) 23:01
-
「砂漠か…」
サファイアは呟く。「女」になりシルバーランドより出る機会も減った。久々に鎧を
纏えば遠方の地は彼女と彼女の国に試練を与え続ける。彼女の中で、今や砂漠は不吉
の象徴となりつつあった。
「砂漠ははじめて?」
耳元で声が響いた。
「誰だ!」
背中より伝わる感触は夜気とはまるで違う生き物のそれだ。
騎上で起きた突然の出来事にサファイアは驚くも片手に手綱を持ったまま他方で腰元
の柄を確認し振り返る。
「何者!?」
「物騒ね…私のことはもう忘れた?」
サファイアの後ろに現れたのは彼女の運命の一端、魔女・ヘケートだった。
- 296 名前:19 投稿日:2007/02/24(土) 23:02
-
「あなたは…ヘケート!」
「覚えていてくれたのね」
「勿論、しかし何故…」
「ここに来たのは…サファイア、お前を止めるために」
「私を?」
「欲を言えば、北の地でゆっくりしたかったのだがそうも言っていられなくなった…」
馬の背の片側に両足を投げ出したヘケートはサファイアの細い体に回した両腕に力を
込めた。
「サファイア、聞いて。お前から死の香りがする。行ってはならない」
砂漠の向こうにはシルバーランド国王の死が待っていると、魔女は唱えた。
これは、神の視点で世界の仕組みを覗けばこの上なく自然な経過であった。
- 297 名前:19 投稿日:2007/02/24(土) 23:03
-
サファイアの魂を観察するために同じ世界に送られたジュラルミンの魂が、神のもと
へ戻ったのだ。
観察の必要が無くなったために世界を去る…それは観察される者もまた神のもとへ戻
るのを意味している。
魔女・ヘケートはこれを知っていたのだろうか?
否、彼女は預言者ではない。
「あなたは未来が見えるのですか?」
「まさか」
「では何故」
「理由などどうでも良い、不吉の象徴と取ってくれても構わない。ただし進軍を止め
なさい」
「出来ません」
「…国のためか?」
「ええ。そして…この先にフランツ王が待っているからです」
「敵将に討たれ、躯になっても会いに行くの?」
「…行くわ」
締念ではない。サファイアの浮かべた静謐な笑顔が物語る。ヘケートはその笑顔が美
しいと思う。燃え尽きる前の美しさだと。
- 298 名前:19 投稿日:2007/02/24(土) 23:03
-
「…お前は生に対する執着が弱いように思うわ、サファイア」
「そうかしら?」
「思い出してごらん。親のために命を投げ打てる子どもだったじゃない」
「ふふっ…親になった今、その行為は恐ろしいわね」
「今更」
「全く。でもね、命は大切だとよく知っているわ。…それにね、あの頃とまるで変わ
らないあなたを見て羨ましいような憎らしいような気持ちがあるの。私ばかりが老い
て、くやしい」
「…それは生ではなくて若さへの執着ね」
ふたりは顔を見合わせて小さく笑った。
前方のアジュールが大きく手を振っている。
その先に薄い煙が棚引くのが見える。戦場は近い。
- 299 名前:19 投稿日:2007/02/24(土) 23:04
-
「そろそろか…」
「…戻って、お願い。サファイア。信じてくれなくても構わない、行かないでくれれ
ばそれでいい。私は命を蘇らせる術など知らない…」
「ヘケート、まさか…あなたは私の死を恐れているの…?」
「見送るのには慣れた。慣れても悲しみが消えるわけではない…」
「そう…私はあなたを信じています。だけど引き返すわけにはいきません。それは私
がシルバーランド国王であり、フランツ王の妻であるからです」
王の口調を選んで決意を口にするのは卑怯だと知りながらサファイアは止めなかった。
「…」
「あなたに悲しみを与えてしまうなら、謝るわ」
「…」
「覚悟はとうにあるのです。だから…あなたに遺言を託すわ」
「…」
「ヘケート?」
- 300 名前:19 投稿日:2007/02/24(土) 23:04
-
押し黙ったままなので再度振り向こうとするが背中に当たる魔女の顔がそれを止めた。
「…聞いてくれる?シルバーランドのために」
「お前は最期まで国のためなのね…。あいにく私は王ではない、国ではなくお前のた
めになら」
自らの言葉にほんの少しだけ疑問を持ちながら答える。
私が見守りたかったのはシルバーランドではなくて、サファイアだったのか?一度奪っ
た魂の行方か?それとも国のために命を犠牲に出来る王に同情したのか?
ヘケートの心に有るのは、己の行いも、サファイアの拒否さえも、ふたりの共有する
魂が見つけた最良の道であるという確信と、いつか絶望のような悲しみに変わるであ
ろう切なさだった。
- 301 名前:19 投稿日:2007/02/24(土) 23:05
-
奇妙な運命に選ばれた魂と体は寄り添いながら、荒涼ばかりが笑う砂漠を駆けた。
ふたりの間には永遠にも等しい距離があったのに、切れることは無かった。
それを運命と言い、縁とする。
縁は、再び彼らを集め月光のもとに照らし出す。
舞台の上に、それは鮮やかに描き出す。
この光景を、神は見ているだろうか?
知りながら、夜の砂漠の結末を、認めたのだろうか?
- 302 名前:19 投稿日:2007/02/24(土) 23:05
-
魔女はひとつの音も聞き落とすまいと耳を澄ませる。
眼を閉じて、感覚を全て聴覚に与える。
砂の下に生きる生命の音。
月の照る音。
蹄の傷む音。
微かな銃声音。
そして響くサファイアの声。
- 303 名前:19. 月の砂漠 投稿日:2007/02/24(土) 23:05
-
…
- 304 名前:kkgg 投稿日:2007/02/24(土) 23:08
-
>>291 名無飼育さん
もうしばらく続くので心配してやって下さい!
- 305 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/26(月) 19:07
- サファイア様のバカあぁああぁぁ
サファイアは中澤さんみたいな感じに成長してるのかなぁ
その絵が見てみたい気がします、10年待てって話でしょうかw
ヘケートは…切ないですね
- 306 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/03/02(金) 22:48
-
20. リボンの騎士
「シルバーランドの新しい王は、プラスティックに!」
女王の声が凛と響く。
駿馬は幻想的にたてがみを揺らしていた。
目前に迫る嵐を十分に知りながら、ふたりは今だけはおとぎ話の絵になって砂漠の静
寂で語り合う。
後方の騎士たちに魔女の姿は見えない。
だが後に、戦場に赴く女王の表情はひどく穏やかだったと話す者が現れ、このくだり
は正史の中でも有名な描写になる。
- 307 名前:20 投稿日:2007/03/02(金) 22:49
-
「ねぇヘケート、あなたも賛成してくれるでしょう?」
「反対はしないけれど」
賛成も反対も今のヘケートには然して重要ではない。
「隠しても知ってるのよ、礼拝堂のこと。デージィはフランツ様に似て隠し事が出来
ないの」
意味有りげな笑顔のサファイアは手綱を振る。清々しい朝さえ連れてきそうな一振り
なのに、彼女にまとわりつく死の香りと重苦しい夜気を割くことは無い。
サーベルの柄に結びつけたリボンだけが、自由に風の中を泳ぐ。
「子どもたちには継がせぬ理由は?」
「彼らはまだ幼い。成人し自らの意志で故郷を守ろうという意志を持つまで、王位継
承は…許可出来ない」
「それでプラスティックを」
「ええ。良い人選でしょう」
- 308 名前:20 投稿日:2007/03/02(金) 22:49
-
ヘケートは戦場へ赴くゆえに高鳴るサファイアの鼓動を背中で聞く。彼女のために作
られた小さな鎧の中で、その魂は迷いを忘れている。犠牲になることさえ厭わない彼
女の熱は故郷のために散っていく。
ヘケートの心に浮かんだのは迷いの中で溺れて潰えたジュラルミンの願いだった。光
と影、まるで一対の願いだ。
「私の息子が王だ!」
愚かな彼の至上の願いは、彼が消そうとしたサファイアによって叶えられようとして
いた。
皮肉なものだ、ヘケートは思う。
ナイロンの手元に返そうとしていた絵の中の騎士は新王になるそうだ。愛に生きるナ
イロンはどう思うだろう。やはり、喜ぶのだろうか。
彼への報せが増えた。
ヘケートの心は晴れない。
サファイアは続ける。
- 309 名前:20 投稿日:2007/03/02(金) 22:49
-
「議会の報告は届いています。数を重ねればどう転ぼうと知名度は上がる。新王の披
露は済んでいるも同然…」
手負いのプラスティックを残し騎士代表として議会に出席させる。彼の守り役・ナイ
ロンの議長任命も併せて、シルバーランドにおける権力を彼らに与えておく。
プラスティックの結婚も然りだ。独り身よりも家族が有る方が箔が付く。二国の結束
が強まったのは偶然だが、奇跡か否かは誰にも判らない。
王家の血筋を引いているが本家の者ではないプラスティックが王となれば、王家に反
駁する一派に可能性を仄めかすことになる。彼らは転覆まで望むであろうが、今はこ
れで十分だと考えたのだろう。
王となったプラスティックがナイロンを臣下として迎え入れるのは明らかで、議長任
命はナイロンの保身と同時に、政治の中枢に迎えるための手筈というわけだ。
「フランツ様も理解して下さった…」
サファイアは最後に、言い訳のように付け加えた。
- 310 名前:20 投稿日:2007/03/02(金) 22:50
- 「なるほど、太古の昔から権力者というのは変わらないのね。かつて与えた地位も牽
制だったのか…」
今は亡き大臣、彼の魂がもし彷徨っているなら、追いついた時に教えてやろう、計画
ははじめから失敗していたことを。曲折は飾りであり、全ては見抜かれていたことを。
そして、愛する息子は王になることを。
情け深い行いだ…とヘケートは自分を少しだけ嘲笑う。
サファイアの口調は神への独白に似て、自由であり、穏やかだった。
「ヘケート…次にまた会う時は…」
- 311 名前:20 投稿日:2007/03/02(金) 22:53
-
広がる砂漠は果てで空に繋がり、中空の月が少しずつ雲に隠れる。
空も地も乾いた土地である。雲ばかりが確かな固さで空に転がる。上空は強い風なの
だ。この先では、強い風は銃口から放たれ馬たちに叩き付けるであろう。
空を泳ぐ彼らは果たして誰のための追い風になるのか。
それとも軍勢が立てる砂煙を消すように瞬時に全てを吹き飛ばすのか。
「次に会う時は、お前のそばに生まれ落ちましょう、」
唐突だった。しかしヘケートはすぐさまサファイアの心理を解し、聞き続ける。
「お互い等しい魂を持って…ふたりの女として、出会うの」
真摯に話すサファイアに対し、ヘケートは戯けたように返した。
- 312 名前:20 投稿日:2007/03/02(金) 22:54
-
「…出会ったら、またフランツ様を彼を取り合うのかしら?」
「ふふっ…そうね、そうなれば愉快だわ。次に会うとき、私たちの世界の中心はフラ
ンツ様の魂であればいい」
生きる根源を愛する者に託せるのならどれだけ幸せだろう。
縁で編まれたリボンの両端を、次はふたりで手にしよう。
契約ではなく約束を。願いを込めて、約束を結ぶ。
リボンが風に揺れている。
複雑な絡まりから解き放たれるように、自由に泳いでいる。
- 313 名前:20 投稿日:2007/03/02(金) 22:54
-
ドォーン、という低い音が下方から響いた。
彼らの向かう先に砂の柱が立ち上がる。砂と風、人と馬、刃と弾が交錯し、砂漠に戦
場を形作っているのは明らかだ。
前方を行くアジュールの馬が突然、首を激しく揺らした。
「何だ?」
サファイアが呟いた次の瞬間、激しい風が砂埃を巻き上げて彼らにぶつかる。
「!」
前方の一騎と全く同じ動きでサファイアの馬が跳ねた。
攻撃の余波にしては強大過ぎる。サファイアは後ろを振り返るとやはり何騎かは転倒
している。衝撃よりも経験の無と驚きによるものだろう。
間もなく、砂粒がばちばちと鈍い音を立てて鎧の上を散る。音ばかりではない。硝煙
の匂いも近付いてきた。
- 314 名前:20 投稿日:2007/03/02(金) 22:55
-
「…」
「ヘケート、ここから先はひとりで行きます。戦いが終わったらまた会えるかしら」
「…お前が望めば」
「必ず。あなたを呼びます」
ヘケートはもう止めない。限り有る命を全うするために一瞬の判断で生きる人間を止
めない。止める方法を幾ら探しても、そして見つけても、それはもう我が侭だろうと
認めたために。
「…いいのね?サファイア」
「いいわ。…フランツ様が助かるなら。ヘケート、私にもしものことがあれば…」
「私は人間の力になれない」
魔女には神との約束が有る。
「では力ではなく、支えに」
「…」
「私たちシルバーランドの民の支えになって下さい。私の父も母も今はもういない。
しかし心の中で、私たちを勇気づけてくれている…正しく生きろ、そして強く生きろ
と励まし続けてくれるのです」
「…」
- 315 名前:20 投稿日:2007/03/02(金) 22:56
-
返事の代わりにヘケートは空に向かって腕を振り上げる。五指を包む闇色が、空を切
り裂くように天を向く。サファイアの頬に透明な風が過ぎる。
「これは…!」
見上げれば月を覆い隠していた雲が揺れ、地平線に向かって落ちていく。硝子の肌を
なぞる雫のように天球を滑る。真っ白な月は、砂漠で彼らが見たどれよりも煌々と輝
き、漆黒に見えた夜を冴えた深い青に変えていく。
シルバーランド軍は色彩の中へ飛び込んだ。
地の利もなく不慣れなはずの砂漠には月光が降り注ぎ、広がる赤い砂はきらきらと彼
らの行く手を照らした。
- 316 名前:20 投稿日:2007/03/02(金) 22:58
-
サファイアは嬉しそうに笑い、王の顔に戻って振り返る。置いていかれる子どもを宥
めるような優しさを込めて、ついに告げた。
「ヘケート、お元気で。サファイアは行きます」
聞き遂げて、魔女は姿を消す。
夜に溶けながら届く宛の無い別れの言葉を小さく呟く。
彼女の胸にも赤く輝くリボンが有り、それはとても自由に、風の中を泳いだ。
- 317 名前:20. リボンの騎士 投稿日:2007/03/02(金) 22:58
-
…
- 318 名前:kkgg 投稿日:2007/03/02(金) 23:01
-
>>305 名無飼育さん
ヘケートは存在全てが切ないです。だから愛し易いんです…!
- 319 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/03/07(水) 10:52
- 更新お疲れ様です。
サファイアとヘケートもまたひとつのストーリーとして深みがあると思っていました。
語彙が乏しくてうまく言えないけどすごい。ただすごい。
本当に引き込まれています。
- 320 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/03/10(土) 20:51
-
砂漠を埋める砂粒が赤いのは、潤す水の代わりに真っ赤な血を吸ったためだ。
全て乾く頃には、再び闇が鎌首をもたげる。
ヘケートは意識を分散させた。
これ以上の悲劇を感じぬように。
だが皮肉なことに、散り散りになった彼女の感覚は、方々から戦況を伝える。
- 321 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:52
-
フランツを守ろうと奮闘する騎士たちは、同じ旗を持つ者たちに斬られていく。
フランツはサファイアのもとへ戻ろうと眼を血走らせている。
トルテュの左眼は鮮血で塞がれた。
アジュールの馬が踏み込むも屍が進むのを邪魔する。
ヌーヴォーは夜空を覆う百万の矢からサファイアを守ろうとした。
サファイアの姿は見えない。
赤く塗られた矢柄は燃え上がる炎のように空に上り、一斉に落ちていく。
その赤い幕の向こうに、サファイアは、いる。
彼らの足下から拡がる世界は今、何処までも赤い。
- 322 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:52
-
21. 美しい星
- 323 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:53
-
トルテュは血に濡れた瞼の重みと戦いながら、過ぎてきた道と、討ち合う兵の数を重
ねて砂漠から逃れる方法を考える。とうに戦略は底をついていた。
彼らはフランツを筆頭に先発隊として出発後、敵陣に出会うと通例通りの挨拶を済ま
せた。交戦の意志がないことを告げると、相手はすんなりと受け入れ、フランツたち
を追うこともせず、複雑な利害関係を含む争いは終わったかのように思われた。
フランツたちを同盟国へ連れ帰る案内人が、シルバーランドの旗を掲げた騎士に討た
れたのはその帰路である。混乱する彼らの後ろから、敵兵たちが一気に押し寄せた。
錯綜する全てが粒状の闇に飲み込まれてゆく。
さて、どうする?
若い騎士長であるトルテュは鈍い笑顔を浮かべながら狂った戦いの最中にいた。
負傷したことで彼は相手が騎士としての戦いを放棄しているのを知っていた。策を巡
らす間にも刃が彼の馬を傷付け、幾つもの矢が彼の鎧に当たる。銃声からして砲兵隊
は遠いようだ。
どう見積もるも劣勢である。
- 324 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:53
-
生死の狭間をゆく群れを分けてフランツのもとへ駆けつける者の半分は王を守ろうと
し、半分はその命を狙っている。敵味方の見極めがつく者は全て敵であり、戦う者の
多くはシルバーランド・ゴールドランド軍の兵士に見える。他国の旗は計画に沿うよ
う隠された。中空を舞うのは知った旗ばかりだ。
「あははっ、全滅か?」
最悪の事態が彼の脳裏を掠める。
防戦しか出来ない。味方は減るばかりだ。
血糊で固まった髪をかき分けながらトルテュはいよいよ絶望に気付く。
そんな折である。
「フランツ王!フランツ王はおられるか!」
はじめて聞くその声は、戦場に乱れる雄叫びの隙間から聞こえるまともな言語だった。
理性の有る声だ、トルテュは必死に眼を開ける。
- 325 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:53
-
「何者だ…?」
「私はこの国の騎士・アジュール!サファイア王の命を受けて、フランツ王を助けに
参りました!」
「サファイアだと!?」
会話はそばにで戦っていたフランツにも聞こえたようだ。罠か?王の眼差しが問う。
「サファイア王はここより幾らか戻った場所でフランツ王をお待ちです!」
「…この中を戻るのか」
トルテュは舌打ちする。
罠だとしても進まぬよりは良いでしょう、とフランツに小声で告げる。
負け戦である。
大半は馬を失い、掻い潜るための足さえ危うい。
フランツも同じことを考えているようだがその顔は先までの戦神の顔ではなく、涼や
かでさえある。こういう時の変わりようは、サファイア様に似たようだとトルテュは
思う。
アジュールは急かす。
「フランツ王、ご決断を!既に幾らかの騎馬は先を行きました。時間を潰せばサファ
イア王が危ない!」
「行こう」
- 326 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:54
-
味方の区別がつかぬ以上、迂闊な指示は出せない。フランツは騎士長数名に声をかけ
ると体制を整える。既に地面は屍の山であるが、王の馬は見事なまでにそれを避けて
駈ける。
「出るぞ!」
「しかし王、仲間たちはッ…」
騎士長のひとりが問う。
「各騎士団は騎士長がまとめよ!お前の王を失いたくなければ、いち早く出ろ!」
…
「サファイア様ぁッ!」
赤く塗られた矢柄は燃え上がる炎のように空に上り、一斉に落ちていく。
その赤い幕の向こうに、サファイアは、いる。
「畜生ッ!」
脚を、先に脚を切ってしまうのだった。ヌーヴォーは間に合わないと知りながら現れ
た火柱を消そうと、王のもとへ向かう。
何故離れた?いつ離れた?
慣れない砂漠の戦いは仕組まれた舞踏である。
王のもとから騎士を出払わせるなど罠の主たちには容易であった。王と彼女の騎馬は
一瞬だけ孤立し、その一瞬のために百万の矢が彼女に向かって放たれた。
- 327 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:55
-
王の視界を奪った赤い幕の向こうから、なだれ込むのは選び抜かれた精鋭ばかりであ
る。その手には最新式の銃剣が握られている。一夜の策略、一国がその存亡を懸けた
戦争だ、油断と容赦は許されない。
正義の価値観は国の数だけ在り、悪の存在は正義の数だけ必要になる。
彼らの知る正義は、大国の滅亡を望んでいた。
全ての矢が落ちた。
その瞬間、兵士たちは瀕死の王の姿を確認し、銃剣の先の湾曲した刃を向けた。
次に襲うのは刃である。
ついに、その一突きが鈍い音を立てて鎧を砕いた。
「…!」
それは、矢柄の赤で染まった地に伏せているサファイアの頸部には届かない。
だが、浅い息を短く繰り返す彼女の前に立ちふさがるヌーヴォーの肩を、鎧もろとも
打ち砕いた。
「…立ち去れ!」
ヌーヴォーは朦朧とする意識の中にいながらも、叫んだ。
- 328 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:55
-
「聞け!…見ての通り、シルバーランドのサファイア王は…もう長く在るまい。しか
しお前たちの手に落ちるよう真似はさせない。この、騎士・ヌーヴォーが許さない。
立ち去れ!」
兵士たちは怯んだ。
彼らもまた多大な戦力を有する兵士でありながら、眼の前の男の凄みに敵わぬことを
感じ取ったのだ。
「いいだろう…我々の目的は果たされた。次はフランツ王の命を頂く」
「それで何を手に入れる!?王を奪って国を我がものに出来るのか!?」
「…出来る!」
男たちは気に障ったのか束になって騎士に剣を突きつけた。
数は多くない、増える様子も無い。意志無き剣に討たれる私ではない。
ヌーヴォーは腹を決めると、間合いを十分にはかりながら注意を引きつけ、サファイ
アのもとから飛び出そうと試みる。
やはり脚を切ってしまうのだったと後悔しながら。
奴らをサファイア様から遠ざけなければならない。
フランツ様が着くまででいい。
それまでならこの命も持つだろう。
- 329 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:56
-
「サファイア王の命が欲しくば、まずこの私を討て!
我が名はヌーヴォー!
ゴールドランドに従い、シルバーランドを想う騎士…『猛火の騎士』とは私のことだ!」
…
遠くでうねるような風の音がする。
戦の火が燃える音である。
息苦しくなる匂いがする。
金属が摩耗し焼け焦げる匂いである。
霞んだサファイアの思考には、それが何かを判断する精度は無い。
意識は混濁していた。
過ぎた日の中にそれらを置いてきたような気がして、探しているうちに、昔のことを
思い出す。正しい答えよりも大事な場所に辿り着く。
- 330 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:56
-
男として生きるのを苦痛に感じていた幼い頃。
多大なる決意と幾らかの締念を知ったあの日。
女でありたいと願った少女の夢。
叶った夢。
叶うべき夢。
彼女を形作る、女の魂が消えようとしている。
サーベルの柄に結んだリボンが地に沈もうとしている。
「…ヘケート」
「ヘケート、どこ?」
ヘケートは意識を分散させていた。
これ以上の悲劇を感じぬように、全ての力で砂漠から離れようとしていた。
しかし永く生きたゆえの感覚を伝わるすぐ先の未来に捕われて、それは叶わなかった。
自分を呼び戻すのはサファイアだろう。
そして、そのサファイアは死の間際に在るだろう。
サファイアがそれを望むのなら、裏切ることは出来ない。
- 331 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:57
-
「ああ…ヘケート、来てくれたのね…」
嬉しそうに笑うサファイアの焦点は曖昧だ。対するヘケートは、涙の靄で濃くなる視
界にそれを見つめていた。
「サファイア…私は、お前を戦場で散らした神を…許さない…!」
「……憎んではいけないわ、ヘケート…私が眠りについても、シルバーランドは…私
の国はまだ…死なないのだから」
「…」
「だからどうか…プラスティックに…」
その名を聞いて、ヘケートは咄嗟に油画を取り出した。
ナイロンが用意し、大臣・ジュラルミンが最後に残し、そしてこれからナイロンのも
とへ帰る絵だ。ヘケートはサファイアにその油画を見せる。
「…」
サファイアは、血にまみれた指でそれに文字を刻んだ。
『彼はシルバーランドの新しき王である』
続けて自らの名と、王としての証明であるサイン。
「サファイア…」
魔女の声が涙で濁った。
サファイアは手探りで、血にまみれた手でヘケートの涙を拭う。
恐ろしいまでに清々しい笑顔で。
- 332 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:57
-
「ヘケート…私の次の命も、お前のそばに生まれるように、祈ります…」
「判った、判ったから…私も祈るわ…約束する、きっと…」
縁で編まれたリボンの両端を、次はふたりで。
サファイアは苦しそうに笑う。その度にヘケートの頬を涙が伝う。
「フランツ様、ビオレッタ、デイジー、さよう…なら」
夜が明ける。
長い長い平穏を終わらせる新しい太陽だ。
夜の色彩が死んでいく。
最後の魂を失ったサファイアの身体は、砂に崩れ落ちた。
砂を払うように血のあとが消えるような奇跡は、もう起こらないのだ。
魂が無い。
朝陽が地平線から大地を這って、長い夜とともに消えていった星まで辿り着く。
しかし、シルバーランドにこの星が輝くことは、もう無い。
- 333 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:58
-
ヘケートは、サファイアの死を描く全てを彼女の体から引き剥がそうとした。
赤い矢、赤い血、赤い砂。
出来る限り、王であった頃の美しいサファイアにしようとひとつひとつを砂に放って
ゆく。固まった砂が鎧を削った弾痕を埋めていた。弾も奥の何処かにあるだろう。
ヘケートは涙を拭わない。
大臣の死の時とはまるで違う悲しみだった。真逆のように思われた。平静さを失った
まま、ひたすらにサファイアの身を清めた。
慈しみを持つには近過ぎた。
「愚かな人間、はじめから有限の命を持っていると、その価値は見出せないものか?
サファイアは知っていたのに。
ナイロンもそうだ、彼もちゃんと知っている。あの男だって、知っていたはずだ…何
故判らない?愛するひとを見つけ、ともに生きて、ともに滅びることの幸せを何故愛
さない?
また私は見送らなければならない…いつだってそうだ、私は置いていかれるばかり。
私は絶対に、お前たちのような愚かな行いなどしない」
- 334 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:58
-
サファイアの躯は小さい。
馬上で決意を語る王はこれほどまでに小さかったのか、抱えられそうに小さい。
フランツ様のもとへ、送らなければ。
最寄りの者を探してその生死と場所を確認しようとするも、視界の端に人影が現れた
のでその必要はなくなった。
脚を引きずりながら瀕死の男は呟いた。
「死神か…?」
男は呟いた。美しい黒衣の女が戦場にいるのを奇異に感じて、そう言った。
傷だらけの男を追う者がいないのを見る限り、どうやらこの戦いに一応の決着はつい
たのだろう。
ヘケートは果たして男が使うに相応しい人間かどうか見極める。男はどうやらこちら
に気付いているようで、眼を丸くしている。
その眼は、確かに命の火を灯した眼だった。生に執着し、死を遠ざける光だ。
彼ならばサファイアをフランツのもとへ届けてくれるだろう、ヘケートはそう確信す
ると、胸の上に組ませたサファイアの手の中にプラスティックの肖像画を置いた。
男に言う。
- 335 名前:21 投稿日:2007/03/10(土) 20:59
-
「サファイアを、フランツ様のところまで連れて行って。必ず」
死神ではない、男は悟った。
黒衣の女は涙を浮かべているのだから、死神のはずがない。
「わ…判った!」
「…」
答えた途端に女は幻のように消えた。微笑んだようにも見えた。
「おい!待ってくれ!」
ヌーヴォーは走り出そうとして傷を負った脚に入るはずも無いと知りながら力を入れ
た。すると彼の体はいとも簡単に動き、砂の上を駆けたのだ。
「! これはっ…」
訳も判らず、自らの全身を見回す。手が自由に上がる。足は真っ直ぐのびる。鎧は傷
だらけのままだ。鞘の細工にも相変わらず砂が詰まっている。
だが彼の体は軽やかに動いた。
「傷が…?」
彼を苦しめていた傷と痛み、血の跡は、砂を払うように消えていた。
- 336 名前:21. 美しい星 投稿日:2007/03/10(土) 20:59
-
…
- 337 名前:kkgg 投稿日:2007/03/10(土) 21:05
- >>319 名無し飼育さん
ありがとうございます。主役のふたり好き好き。
さてそろそろ風呂敷を畳まねばなりません…
- 338 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/11(日) 19:46
- ヌーヴォーの心情を思うとなんかもう
泣いてもいいですか…?
- 339 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/17(土) 23:25
- 読んでて鳥肌が立ちました。
全てが終わったとき、フランツ・ヌーヴォー・ナイロン・プラスティックがどうなっていくのか・・・
まだまだ目が離せませんね。
- 340 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/03/19(月) 18:41
- もう泣いてしまっていますが何か?
この感情を表現するのがとても難しい。本当に。
最後まで着いて行きます。
- 341 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/03/19(月) 22:30
-
22. 明日のために鐘を
シルバーランドが永遠に続くかのような悲しみに包まれているのを、いち早く涙の尽
きた騎士たちは静かに見守っている。今や、国葬の後に働いているのはサファイア王
の銅像をつくるように命令を受けた工房の職人たちだけだ。
先の短い戦いはクーデターの失敗により自然停戦となった。
四方の国に伝わればシルバーランドには次々と弔辞が届く。
騎士たちとともに今後の国政を語らうフランツのもとには、プラスティックの油画が
ある。血まみれのそれはサファイアの亡骸とともに、騎士・ヌーヴォーによって届け
られた。
- 342 名前:22 投稿日:2007/03/19(月) 22:31
-
アジュールの案内で先に逃れていたフランツと騎士たちは、無傷のヌーヴォーの帰還
を不思議がったが、それよりもずっと大きな衝撃に襲われることとなる。
感情に素直なフランツが泣き崩れでもしないか、国に戻る前に士気に悪い影響を出さ
ないかとヌーヴォーは涙を拭き切って臨んだが、王の反応はあまりに意外だった。
後ろに控える男たちの、大きな嗚咽の中で、王はこの世の者とは思えない澄み切った
表情をしたのだ。
そして、おかえり、という小さく言うと、愛する人の亡骸を抱きとめたのだ。
「わたしの傷を治せるのなら、どうして王を救ってくれないのだ…やはり彼の者は死
神だったのか…」
「ちょっと、声が大きいです、ヌーヴォー様」
- 343 名前:22 投稿日:2007/03/19(月) 22:32
-
ヌーヴォ−は議論そっちのけで呻く。
彼の脚は動く。だがそれは完全な自由を認められたものではなく、彼は既に騎士長の
座にいない。退団を決意しフランツ王もそれを認めた。今この場いるのはフランツ王
の意志である。
そして騎士長であった彼の機嫌が大層悪いのは、王の死よりもそれに対し誇りある振
る舞いを通せぬ己れであった。先も「涙は果てましたか」とからかったトルテュを小
突いたばかりである。ちなみに、ヌーヴォーの涙は果てていない。
「しかし!」
「冷静に。ヌーヴォー様、あなたの怪我は治りましたが、脚に残った傷、それは消さ
なかった。どうもここに鍵が有る気がしてなりません」
「…トルテュ、勿体ぶるな」
「確証がないだけですよ」
「ふん」
「もう、せっかちですねぇ…いいでしょう、彼の者がシルバーランドの味方として仮
定した上で考えて下さい。変えられなかったものは王の死、ヌーヴォー様の脚の傷、
加えて戦況、とでもしましょうか。そして変えたのはヌーヴォー様の全身の怪我…」
- 344 名前:22 投稿日:2007/03/19(月) 22:33
-
彼らは知らないが、シルバーランド軍のために砂漠に光を降らせたのも彼女である。
その結果、彼らは多くの兵を失いながらも裏切った同盟国の国境まで逃げ延びた。
「だからね、変えなかったものを変えると、変わってしまうんです」
「…判るように話せ」
ヌーヴォーが急かす。トルテュは涼やかな眼元に力を込めた。
「変わってしまうんですよ、歴史が」
教会の奥の小屋では、議長であるナイロンと彼を慕い師と仰ぐ若者たちが傷薬の増産
に努めていた。負傷した兵は多過ぎた。彼らの供給は追いつかない。
姿を消したままそれを眺めていたヘケートの脳裏にはサファイアの声が残っている。
「シルバーランドの支えに」
サファイアよ、彼こそがこの国が支えだ。
私がいなくても良いだろう。お前のいないこの国は魂を失ったように見えるよ。
いや、それは違うか。
新しい魂を、有し始めているのか。
- 345 名前:22 投稿日:2007/03/19(月) 22:34
-
この頃、ヘケートは神のもとへゆく時期を見定めようとしていた。
サファイアの死は彼女の心に大きな悲しみを残し、同時にシルバーランドの再生を意
味していた。少なくともヘケートはそう捉えた。
区切りとして十分だった。
その前に出来ることが有るのならば。そう考えるのは彼女が国に対し愛着を持ってい
るに他ならないのだが、彼女はそれを上手く認められない。
彼女が最後に会おうと決めたのは他でもない、大臣の息子・プラスティックだった。
彼こそがシルバーランドの新しい魂である。彼がこの国の器になり、水のようにかた
ちを変えるこの国「シルバーランド」をつくるのだ。
居場所を求めて耳を澄ませると、彼はナイロンの小屋に続く道の途中にいた。
しかし歩みを止め、道の脇に広がる草花の中にその身を放っている。好都合だ。
- 346 名前:22 投稿日:2007/03/19(月) 22:35
-
プラスティック。
ヘケートは父親の死を伝えてすぐに去ろうと思い、姿を隠したまま彼に話し掛ける。
誰のために?
問えばそれは大臣・ジュラルミンのためだという答えが自ずから出てしまい、やはり
あの男の存在は思うより深くこの心に刺さっているのだ、と自嘲の笑みをこぼすこと
になる。
プラスティック。
「…誰?」
「神様?…それとも精霊?」
どちらもはずれ。
「…」
プラスティック、ナイロンのといころへ行かないの?
「うん…あのね、僕、王様になるんだ」
そのようね。
「…ナイロンはね、昔、僕を王にしようとして頑張ってくれたんだ」
「でも出来なかった」
「今になって僕が王様やるって言ったらどんな気分かなって」
「それが判るまで行っちゃいけない気がして」
- 347 名前:22 投稿日:2007/03/19(月) 22:35
-
相手を確かめることも無く、過去を話し始めてしまうのを危険にも感じたが、王をや
る、という言い回しが面白くて、ヘケートはこの青年を気に入る。
彼の迷いは難解だった。
父親の話が出ないのは、この国の人間にとって快い話題ではないとよく知っているか
らだろう。
まだ判らないのね?
「わかんない。喜んでくれるかな」
喜ぶわ。今だってあなたのことばかり考えてる。
「そっか…じゃいいのかな」
「ね、神様じゃないんでしょ。だったら近くにいる?出てきてよ」
「僕と話したいんなら出てきて」
しばらく沈黙が続いたが、プラスティックが先に弱音を吐いた。
「僕、あなたに会いたい」
無意というのは子どもの武器のはずだが彼は容易に振り翳す。
その才能は父親に無かったな、と思い、ヘケートは応えてやることにした。同時に、
果たして彼の両眼にこの身は映るのか、それを試みることにした。
- 348 名前:22 投稿日:2007/03/19(月) 22:36
-
視界がふっと暗くなり、プラスティックは慌てて飛び起きる。
突風がひとつ過ぎ去り、遠雷が響いた。気を取られたその一瞬に、空の黒雲のような
色を纏う女が現れる。
「…ゴールドランドで観たお芝居みたいだ…」
「この世界は全て芝居よ。芝居こそが、現実」
「…あ、あなたは誰?」
「私は、魔女。魔女・ヘケート」
「魔女!」
彼には見えるのだ。契約の用意は無いのに。
驚きを隠せず立ち尽くしたままの魔女に新王は構わず話し続けた。
逆に、彼は相手の姿が見えたことで安堵したのだ。
「ヘケート、父上も喜んでくれるかしら。実は、いちばん王にしたがっていたのは父
上なんだ」
正体を知ると彼はすぐに父親の話をした。話したくて話して良い相手がいないことに
ヘケートは気付く。
「…ええ、そうね」
「父上を知っているの?」
「ええ」
- 349 名前:22 投稿日:2007/03/19(月) 22:36
-
「どうしたら会える?会って伝えたいな、僕が王様になったって。きっと喜んでくれ
るはず…」
「喜ぶでしょうね、生きていたのなら」
「…え?」
「あの男は、死んだ」
「…ああ…そっか、もう…会えないんだね」
「…」
「最期を見届けてくれたひとはいるの?…もしかして、あなたが?」
「ええ…穏やかな最期だった」
思えば、苦しまぬ穏やかな最期を看取ったのは久々だった。
「…ありがとう、ヘケート」
「礼など要らない」
感謝の言葉は昔から別れ際の言葉である。
用は済んだ、すぐに去ろう。
やはり息子だけあってあの男に似ている。
安易に礼を述べるところなどそっくりだ…。
- 350 名前:22 投稿日:2007/03/19(月) 22:37
-
「プラスティック」
「はい」
「お前は、父親の願いを叶えた」
「あ…はい!」
「お前も知る通りあの男は愚かだった…だが愛は有ったのだ。お前は間違えるな。そ
のふたつの眼をちゃんと開いて、生きてゆけ」
もし彼が、父のように愛に眼の眩んだ愚行に走るのなら、新たな魂の物語が生まれた
ことを告げる鐘に成りかねない。
それは、この物語において魔女の生き方を与えられた彼女には辛過ぎた。
「はい!判りました、必ずや。…ふふっ」
「…何が可笑しい」
「僕、子どもの頃、同じことを言われたんだ。王妃様…サファイア様のお母様に」
「…」
「あなたはいつもそうなの?」
「いつもとは?」
「僕みたいに迷う人間のところに現れて、教えを残して去ってゆく」
「ただの気まぐれよ」
「なんだか神様みたいだ」
- 351 名前:22 投稿日:2007/03/19(月) 22:37
-
…
シルバーランドは新しい王を迎えることになった。
王の名はプラスティック。
「幻の王」の名を持ちながら、真の王になった奇跡の騎士。
側近の名はナイロンという。一時期は国政から離れ薬学者として慕われ、最近まで議
長を務めていた。
国民は祝う。
教会の鐘の音は遠く鳴り響き、ふたつの国を包む。
国民は歌う。
悲しみを乗り越え、祝杯を掲げて声高らかに。
悲しみのあとに
かならず喜びが
- 352 名前:22 投稿日:2007/03/19(月) 22:38
-
サファイア王を讃え、彼の選んだ王を讃える。
サファイア王は未来のシルバーランドさえ愛した。
時として権力を用い、幾らかの嘘をついたが、それによって心を傷めた者があるだろ
うか?
答えは限りなく否に近い。
ただしその優しさに気付く者は少ない。
それはかつて魔女・ヘケートが選んだ優しさに似ていた。
サファイア王の思い描いた未来は静かに現実となり、その思いは、新しい子どもたち
に受け継がれていく。
- 353 名前:22. 明日のために鐘を 投稿日:2007/03/19(月) 22:38
-
…
- 354 名前:kkgg 投稿日:2007/03/19(月) 22:41
-
よ、容量が足りないかも…!
>>338 名無し飼育さん
私も書きながらヌーヴォーを応援してしまいました。
でもガキさんならちゃんと愛ちゃんを連れてってくれると思うわけであります。
>>339 名無し飼育さん
設定最優先でお送りしてますー
作者としましてはヘケートが最終的にどうなるかハラハラしながら書いております。
>>340 名無し飼育さん
な…泣かせちゃってゴメンネ!
最後は近いので是非お付き合い下さいませー
- 355 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/03/25(日) 21:16
-
23. 最後の涙
新しい王を迎えたシルバーランドは穏やかな日々に包まれている。
プラスティック王は積極的に議会に参加し、次々と国民主導の改革を提案した。
まず教育と医療の充実に努めた。学ぶことで得られるものの大きさをよく知っていた
ために。
次に外交に力を入れた。シルバーランドとゴールドランドは経済的に他国に頼る必要
が殆どないために近隣諸国へのはたらきかけが弱いのを、王ははじめて知った。受け
身の外交を捨てることに、国民は反対しなかった。
プラスティック王の最終的な目的は職業上における男女非差別化だった。
安易に平等を唱えず、権利の上に限って成り立たせようとした。
改革の象徴、政治活動の広報の一環として、王妃を定期演説に立たせることがしばし
ば有った。王妃が話す日は国政の難しい話よりも世間話が多くなるので、王の狙いと
は別の意味で国民に人気が出た。政治に対する興味が湧くには変わりないので「まぁ
いっか」で済ませる王に、側近・ナイロンは「そうですね」と笑うだけだった。
ふたりは子どもの頃に戻ったようで、楽しかった。
- 356 名前:23 投稿日:2007/03/25(日) 21:16
-
ヘケートがまだシルバーランドにいたのは、主を失った北の家を片付けに行きましょ
うとナイロンに誘われたためだった。彼はジュラルミンの死を知っていた。どう伝え
れば良いものかと案じていたヘケートの心を他所に、プラスティック王が伝えたらし
い。
ジュラルミンの遺体は既にヘケートの手により埋葬された。悲しいほどに手慣れた作
業で、西へ急ぐのになんの弊害にもならなかった。
だが部屋はあのままだ。
ナイロンの思いつきに半ば感心しながらヘケートは誘いに応じた。
ふたりが訪れたジュラルミンの家は、不思議なことに、片付けられた後だった。
机と椅子の埃は拭き取られている。床も窓も同様で、ジュラルミンの生前よりもずっ
と人の暮らしを感じさせるものとなっていた。
椅子の上にはジュラルミンの唯一の荷物だった鞄が置かれている。
そして机の上には、羊皮紙の束と役目を果たさない羽根ペンとたインク瓶が置かれて
いた。瓶にこびりついていたインクは綺麗に拭き取られている。
「一体誰が…」
そう口にしたのはヘケートだった。
- 357 名前:23 投稿日:2007/03/25(日) 21:17
-
結局ふたりの目的は不要になり、久々の再会はナイロンの小屋で行われるような情報
交換になった。
「では、プラスティック様にはあなたの姿が見えたのですね?」
ナイロンが椅子の上の鞄を恭しく開けると、中から色とりどりの免罪符が飛び出した。
幾つもの国の名が、幾つもの字で記されている。
大臣は教会を巡り赦しを求めていたのだ。ナイロンの顔が一瞬、歪む。
ある国で、取引に金銭が動くのが見付かってから免罪符はあらゆる教会から一斉に姿
を消した。今やただの紙切れだ。その事実が彼の心を更に切なくさせる。
「そのようね。お前も不思議に思う?」
答えたヘケートの手には束ねられた羊皮紙がある。
「ええ。でも…もし契約があったにしても、王の願いは私たちのように利己的なもの
じゃなかったんでしょうね」
「お前たちの願いを否定しようとは思わないわ。ただ、息子の願いが見えないという
だけ」
「おそらく王はあなたに会いたかったのではないでしょうか。ただそれだけだった、
だから…」
「…」
- 358 名前:23 投稿日:2007/03/25(日) 21:18
-
「ね、ヘケート、そうしておきましょうよ。私、あなたに出会う前のことはもう覚え
ていないけれど会えて良かったと思ってるんです。だからそれでいいじゃないですか」
「お前の言うことは辻褄があわないことが多過ぎる…でもお前らしいわ。ナイロン」
「お褒めに与り光栄です」
ナイロンは大袈裟に頭を下げる。
「ただ…私の考えとは少し違う」
「あなたはどうお考えで?」
「…会いたかったのは私のほうなんだと思うの。私は限り有る命を生きる人間が好き
だった。愛して近付いて、より知ったからこそ、人間の人生を強く欲した」
「そうですね。私たちの生き方を否定的に見ていたのならそうはならなかったでしょ
う。…いや失礼、あなたが私たち人間を否定したことなどありませんね」
「…愚かだとは、よく思うけれど」
「はは…いやぁそればかりは甘んじて受け入れなければなりません」
魔女のささやかな願いが叶うとき、人間たちは魔女と出会う。
そこに必要なのは契約ではなく思いだったのを彼らはやっと見つける。
「あなたに会いたい」という思いに魂の違いなど問題ではない。
- 359 名前:23 投稿日:2007/03/25(日) 21:19
-
ヘケートと出会った者たちは、ヘケートとサファイアを結ぶ縁、リボンの上に運命を
交差させた者たちかもしれない。
今は亡きサファイアが「王子」であった頃を思い出してみると、プラスティックの王
位継承を願う大臣・ジュラルミンに手を貸したのは、後々に魂を得るための手段とし
ては不必要に見える。
しかし、これも運命の悪戯だとしたら?
リボンの端から近付くヘケートが近付くばかりでなくサファイアを引き寄せようとし
た結果が、ジュラルミンとの契約だとしたら?
輝かしい王位から遠ざけて闇に在る自らのもとへ引き寄せるのは近付くことの延長線
上の行いであり、「サファイアを王位から遠ざける」のを望んだジュラルミンと策を
併せるのは、ごく自然だったのだ。
- 360 名前:23 投稿日:2007/03/25(日) 21:20
-
「ナイロン、これを見て」
束ねられた羊皮紙には、木で出来ていると思われる板を青い布で包んで作った表紙が
宛てがわれていた。表と裏に一枚ずつ、それの片方を紐で結い合わせて背としている。
「…大臣が?」
「違うわ…これを」
ヘケートの指差した先には、とても上手いとはいえない文字が残されていた。
「子どもの字?これは大臣の字ではありません…おそらくこの地の文字だ」
「この辺りは古い文字のままか」
「そのようですね。残念ながら私には読めません…中の文字はどうでしょう」
ナイロンは丁寧にページを開くと嬉しそうに言った。
「ああ…これは間違いなく大臣のものです!はは、力ない字ですね…。書いてあるの
は間違いなくシルバーランドでのことのようだ。私の名前もある…サファイア様のこ
とも…」
ナイロンは肩を落とした。サファイアの死も勿論、彼には大きな打撃だった。
「それは表紙を見れば判る。誰が書いたのかは判らないけれど」
- 361 名前:23 投稿日:2007/03/25(日) 21:21
-
「…この青だってシルバーランドの国旗の色ですものね。ああそうだ、表紙にはなん
て書かれているんですか?教えて下さい、ヘケート」
ナイロンが期待した眼でヘケートを見つめた。
ヘケートは深く息を吸う。
指の先に緊張を感じる。が、次の瞬間、その手を包む温かさを感じた。
その次には後ろから支えられるような錯覚。
これは?その疑問は、彼女を包み込んだ安堵によって打ち消される。
そして、ヘケートは表紙に書かれた一行を読み上げた。
「『過ぎし日の国の物語』」
その声は二重に響いた。
ヘケートの声と、聞こえるはずの無い男の声。
ナイロンが最も慣れ親しんだ声。
- 362 名前:23 投稿日:2007/03/25(日) 21:22
-
「だ、大臣閣下…!」
ナイロンが叫ぶ。
ヘケートが驚いて彼の方を見ると、その見開かれた両眼からは涙が溢れ、止まらない。
「ナイロン?」
「い、今、大臣閣下が…あなたの隣に…ここにいるはずはないのに…でも声がしまし
た…ううっ」
必死に顔を拭うのでナイロンの顔はますますぐしゃぐしゃになる。
涙は止まらず、しゃくり上げる声が寂しい家に響く。
大臣、大臣とナイロンは繰り返す。
一瞬感じたあの温かさはまさか、あの男のものだったのか。
呆然としていたヘケートが困っていると思ったのか、ナイロンは濁った声のまま詫び
た。
「すみません、ヘケート…恥ずかしいですよね、いい年した男がわんわんと…ぐすっ」
「お前は見送るのに慣れていないのだから…」
「…う、うう…はい…」
「それに、別れを悲しまないなんてことは出来ないのよ…永遠に」
「…はい…」
- 363 名前:23 投稿日:2007/03/25(日) 21:23
-
ナイロンはヘケートの腕の中で泣き続けた。
頭の中でジュラルミンと過ごした日々が幾つも浮かんでは消えてゆく。
子どもの頃、いちばん泣いた日も大臣との別れの日だった。
ヘケートはジュラルミンの死の瞬間を思い返していた。
あの日抱き締めた男の身体は感情を捨て、冷たく、死の香りに包まれていた。
ナイロンは違う。熱を持ち、感情に溢れ、嗚咽とともに震える生きた身体が有る。
生きているというのはこういうことだ。
私の憧れる限り在る人生は、ひとつの身体とひとつの魂と愛で出来ている。
「私は…やっとここまで来たのね」
小さく呟いたヘケートの翠の眼から、一筋の涙が落ちた。
- 364 名前:23. 最後の涙 投稿日:2007/03/25(日) 21:24
-
…
- 365 名前:kkgg 投稿日:2007/03/25(日) 21:39
-
<お知らせ>
やはり容量が足りないと思われます…orz
そうなった場合、超短編用の草板をお借りすることになると思います。
あくまで予定ですが。今後もどうぞよろしくー。
- 366 名前:過ぎし日の国 投稿日:2007/04/01(日) 19:34
-
24. 過ぎし日の国
ナイロンとヘケートが北の小屋で別れてからおよそ十年が過ぎた。
時が経つのは早いものだ。白髪の増えた頭を鏡に映しながら、ナイロンは客人の話し
出すのを待っている。珍しい客であった。
王宮の一角、ナイロンの部屋にはデージィが正装で訪れていた。謁見に飽きて逃げて
きた彼は王冠をただの荷物のように小脇に抱えて現れた。
扉の向こうには、謁見を予定通りに進めたい哀れな家臣たちが待っている。
客人と若い王の板挟みか、可哀想に。ナイロンは少しばかり彼らに同情した。
この日は戴冠式の前日である。
ふたりの客人をともにナイロンは記念すべき日を眺めていた。
- 367 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:35
-
「プラスティック王が西の国に行かれるというのは本当なの?ナイロン」
「ええ、アジュール様とともに、国の再生を手伝うと」
「まさか自分たちの国が襲われるなんて誰も思わなかっただろうね。奇襲が大好きな
野蛮なお国柄も少しは変わるだろう」
「言い過ぎですよ、王子。あの国とは数年前に国交を取り戻したんですから」
「プラスティック王は心が広過ぎるよ。手酷く裏切られたって言うのに」
「まあまあ」
ナイロンの老いた指がデージィの服を整える。思い切り駆けたのか、せっかくの衣装
が台無しだ。
少年の頭に有る王冠には青い宝石が散りばめられ、きらきらと輝いた。
背には輝く臙脂色、胸には白地に踊る黒刺繍。
これを纏っていた頃のサファイア様はちょうど彼ほどの年頃だった。
- 368 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:35
-
「この大事な日になにか御用で?まさか逃げてきただけではないでしょう」
「…ああ、掛けてくれ。少し思い出話をさせて」
年老いたナイロンを気遣って、少年は一呼吸置く。
「僕、小さい頃に礼拝堂に忍び込んだことがあるんだ」
「はずれの教会にも忍び込んだあなたですから、城壁の中の礼拝堂ならば通うことさ
え出来たでしょう」
「へへ。あの扉の彫刻が好きなんだ…天国と地獄。あのあとお父様とお母様と一緒に
都へ遊びに行った時、もっと大きくて有名な青銅の扉を見たけれどごちゃごちゃして
いてあんまり好きになれなかった」
少年は頬を紅潮させながら話す。
「だからね、あの木の扉の奥にも興味があったんだ。きっと聖母子像だけじゃない、
何かがあるって」
「…何がありましたか」
「うん。…『いた』んだ」
- 369 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:37
-
少年は「さあ今から悪さをするぞ」と言わんばかりに眼を輝かせる。
「僕ははじめ悪魔だと思った。だって礼拝堂に入った途端に雷が鳴って真っ暗になっ
たからね。壇上の十字架にも全く光が当たらなくなって、辛うじて有った明るさは壁
のつくる人工の暗さと空のつくる自然の暗さの差のぶんだけ。その薄闇の中に『いた』
んだ。姿がちゃんと見えたわけじゃない、最後まで正体は掴めないまま…」
彼なりにナイロンを怖がらせているつもりなのだろう。眼の前の少年はナイロンの表
情をうかがっている。しかしナイロンは、隣でにこりともしないもうひとりの客人と
目配せを交わした後だったので、怖がることなど全く無く、むしろ笑いをこらえてい
た。
「悪魔とはね…王子は怖い者知らずだ」
「子どもだったからね。でもやっぱり怖くて、それを気付かれるのが恥ずかしくて叫
んだ。『僕はデージィ、シルバーランドとゴールドランドの王位継承権を持つこの国
の王子だ!』ってね。こう言えば大抵の大人は言うことを聞くもんさ。そうしたら…」
- 370 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:37
-
「笑われたでしょう?」
「そう!どうして判ったナイロン?」
「年を取ると要らぬ勘が働くんですよ、王子」
「そうなのか?…それでね、僕に言うんだ。お前は王になるの?って。だから僕は勿
論、って答えた」
「それで?」
「立派な王になりなさい、サファイア王のように、フランツ王のようにって言うんだ。
僕は父上と母上を尊敬している、だから僕とビオレッタのために必ずそうすると言い
返した」
「そうなんですか?」
ナイロンはすぐにしまったという顔をした。
「ナイロンったら信じないのか?嘘は言わないよ」
「いえ、今のは王子にではなく…いやいや何でもありません。続けて下さい」
「お前はこの国の魂になるのだからそれでは足りないって言われたよ。あの頃の僕に
は意味が判らなかった…でもね、最近になって判ってきた」
「…」
- 371 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:38
-
「プラスティック王もきっとこの教えをご存知なんだと思う。プラスティック王は、
ナイロンに生き方を教わりなさいとおっしゃった。だからね…上手く言えないけどそ
ういうことなんだ」
「…」
「僕はとても感謝している、ナイロン」
「はい…それを伝えに来てくれたのですね」
「うん。ああそうだ、礼拝堂の出来事をビオレッタに話したら、ビオレッタも同じこ
とを言われたんだって」
「礼拝堂の『誰か』に?」
「違うよ、母上さ。王になってもならなくてもいい、でもシルバーランドの象徴とし
て生きなさい、この国の未来をつくる善なる象徴でありなさいって言われたんだって。
それって、僕が聞いたことと同じだよね?」
ナイロンは驚いた顔をして、何故か真横を向いた。
眼は見開かれたままで今にも誰もいない真横に話し出しそうな勢いで口をぱくぱくと
動かした。
- 372 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:38
-
「どうしたのナイロン」
「なんでもありません…ただちょっと…年を取ると涙腺が緩むもので…」
「ええ?今の話、泣くとこなんてないのに」
「…そうですね、これは嬉し涙なんですよ、ああ、お気を悪くしないで下さい」
ナイロンが誰に言い訳しているのか解らない少年は、きょとんとするばかりだ。
「僕、怒ってないよ」
「はい…」
「大丈夫?ナイロン」
「勿論です。」
「じゃあそろそろ行くね。ビオレッタにこれ見せてくる」
「はい…あまり我が侭をしてはいけませんよ。見せ終えたら必ず戻ってきて下さいね」
「わかってるよ!もう、ナイロンは細かいんだから…」
ぶつぶつ言いながら去って行く少年を見送りながらナイロンは止まらない涙をまた拭
いた。
「ふたりの母というわけか…」
続けて、やはり涙もろくなったな、と呟いた。
- 373 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:39
-
心持ちが幾らか落ち着いたところでナイロンは隣に立つ客人に挨拶する。
「久しぶりですね、ヘケート。お元気でしたか」
「勿論。涙もろいナイロン殿。また新薬を開発したそうで」
「かつてのあなたの教えをもとに精製したものですよ…。それにしても、まさかあな
たと王子が会っていたとは、ヘケート。そしてサファイア様とあなたがシルバーラン
ドの新生について同じ考えをお持ちだなんて…」
「あの子、やはり王になるのね」
「ええ、ご自分の意志で。ビオレッタ様はまだ悩んでおられますが」
「意志だけで王になれる人間は一握り」
「そうですね。口ではそう言っても、王子が王になるまで待っていたのはあなたらし
い。礼拝堂の問いを投げたままにせずに…いや出来ないのか。サファイア様のお子だ
から」
- 374 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:39
-
「お見通しか」
「私とあなたの付き合いはなかなか長くなりましたからね。王も二回変わった」
「ゴールドランドは相変わらずだけれど」
フランツ王は健在である。双子の子ども、彼の孫が生まれるまでは王のままでいると
言い張って聞かない。
「はは…。だがこれで私も安心して眠りにつけます。あなたも知っての通り、ここの
ところ私も体調が優れない…」
「あの日の舞台に立っていた役者がまた去っていくのね」
「あなただって、別れを告げるために来てくれたのでしょう?今日の日までこの国を
見守ってくれたヘケート」
「気まぐれよ…」
支えになってほしいと告げたサファイアの言葉を、ヘケートは忘れていない。
- 375 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:40
-
「気まぐれも嬉しいです。…あの後、ヌーヴォー様も逝かれました。知っている人間
がどんどん逝ってしまう。私が大臣のもとへ旅立てる日はいつになるのかな」
「…」
ヘケートは魂の世界など知らない。だがナイロンの善なる魂が愛する者を追っていく
のは当然のように思われた。私は誰のもとへ向かうのだろうか?自問してみるが答え
は出ない。
部屋には沈黙が続いた。永遠の別れを前に彼らの心は穏やかだった。
夕闇はまさに舞台に降りる幕のように夜を連れてこようとしている。
流れる風は湿っている。雨になるのだろう。
この時期に雨はすぐに終わる。
「明日はきっと青空に違いない…」
ナイロンは何かに言い聞かせるように呟いた。
シルバーランドの民もまた、雨の気配のもとで青い空の下の戴冠式を思い描き、シル
バーランドの穏やかな未来を願った。青空がいつまでも続くような未来を。
- 376 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:41
-
ヘケートは胸元に踊るリボンの裾、長くのびた先をそっと切り落とし、無言のままナ
イロンに渡した。既に涙眼のナイロンはそれを強く強く握りしめる。
「…行くんですね」
「ええ。サファイアに会いに行くわ。約束したの…あまり待たせても悪いでしょう?」
「フランツ様はまだまだお元気ですしね」
「言うようになった、ナイロン」
「これは失礼。寂しくなります…でも私はちゃんとあなたを見送ろう。今日こそ、あ
なたを見送ります」
「ついに見送られる日、か」
「そうですね…。明日はこの国の記念日ですが、今日の日も私の心に深く刻まれるで
しょう。…あの…もし死後の世界というものが宗教画のように存在していたら…そし
てあなたがその世界の住人になる瞬間があったのなら…お願いがあります」
- 377 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:42
-
「愛を知るナイロン、あの男に会ったら伝えておくわ。お前と…幻の王のことを」
「は、はい!ありがとうございます…」
ナイロンの声は濁った。
ヘケートはその感情の豊かさを見、やはり彼に対し尊敬のような形容し難い気持ちを
持つのだ。この思いが今日の別れの日までふたりを近づけたのかもしれない。
「さようなら、ナイロン」
「…はい」
「また会う日まで」
濡れた睫毛の瞬きで、ナイロンはヘケートを見送った。
- 378 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:42
-
ここちよい湿度が部屋に広がる。
「降り出したか…」
柔らかい雨。
明かりの輪郭を滲ませるような儚い雨粒がシルバーランドの大地を潤わせる。
このまま世界が終わっても誰も気付かないだろう。
それほど静かで、雨音の落下音はまるで聞こえない。
夜の闇を分け入りながらヘケートは消えようとする両手を見つめる。
五指を包む闇色。それは柔らかい月明かりに照らされてずいぶんと鮮やかに見えた。
希望に満ちてきらきらと輝いているようだった。
生きている。
確かに生きていた。
愛されたいという思いに縛られた魔女はもういない、そう感じた。
それこそが、彼女がちゃんと生きている確証であった。
- 379 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:43
-
魔女・ヘケートであった命は神の手のもとで滅びるがいつか次の魂に呼ばれるだろう。
新しい器の中に流れ込み、澄んだ水のように素直にかたちを変えるだろう。
そして、何百年先か何千年先で彼女の愛した者たちと再会する。
迷うはずがない。
縁というリボンで結ばれているのだから。
- 380 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:44
-
…
砂に囲まれた西の国に新しく出来た教会は奇妙な名を冠していた。
それは守護聖人の名であり、彼は伝聞の存在ではなく実在したという。
彼は西の再生に尽力した後この地で没した。
壊滅状態からの復興はまさに奇跡で、近隣諸国にも彼の名は響き渡った。
功績を讃えた民衆は、権力ではなく平和の象徴として彼を尊び、守護聖人として愛す
るようになった。
彼に会いたければ西の教会、最前の十字架に立てかけられている油画のもとへ足を運
べば良い。他国の王の血によって書かれたサインが鈍く光るそれは、彼が最後まで肌
身離さず持っていた絵だという。
- 381 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:44
-
…
デージィ王の治めるシルバーランドに、今は亡き薬学者・ナイロンがかつて暮らして
いた小屋がある。
教会の持つ領地の最奥にひっそりとあり、彼が住み着くまでは倉庫であった。
今やその小屋は若い研究者や学生が集う「図書館」になっている。図書館というのは
あくまで通称だ。
かつて名も無い研究者たちが命を削って作成した文書をナイロンのもとへ持参した。
ナイロンがそれを少しずつまとめて保管したことが「図書館」の始まりだ。
主を無くした今も研究者の卵たちが同じことを続けているために、狭い小屋は手作り
の本で溢れかえった。
天井まで這い上がるようにして並ぶ本、その中に、赤い紐をかけた青い本が有る。
表紙には北国の英雄が記したいびつが文字が並べられており、読めばシルバーランド
の過去について書かれている。
- 382 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:45
-
彼らはこれを歴史書として読もうとしない。決して疑うわけではない。
生前の話の数々はあまりに奇跡に溢れていて、信じ難く、羨ましかった。
両性を有する王、息子を愛するあまりに謀反を企てる大臣、歌とともに生きる牢番、
雷と闇を連れて現れる、永遠を生きる魔女…。歴史上「悪」と見なされてきた大臣の
眼を通してみる故郷の歴史。
なんという魅力。どうしてぼくたちはこの時代に生まれなかったのか?僕たちは本当
に彼らの未来なのか?
そして疑問の後に、思うのだ。
- 383 名前:24 投稿日:2007/04/01(日) 19:46
-
彼らのように、歩いてみよう。
遥か彼方へ続く見えない未来をこの手で探すのだ。
彼らは決意を得て、本を戻す。
色あせた青い表紙に深紅のリボンを結んで。
それは過ぎし日の国の物語。
一瞬輝く真夏の日差しのように鮮明に残る夢の残像、思い出の向こうに在る物語。
- 384 名前:24. 過ぎし日の国 投稿日:2007/04/01(日) 19:46
-
…
- 385 名前:… 投稿日:2007/04/01(日) 19:47
-
…
- 386 名前:… 投稿日:2007/04/01(日) 19:47
-
…
- 387 名前:… 投稿日:2007/04/01(日) 19:47
-
…
- 388 名前:kkgg 投稿日:2007/04/01(日) 19:53
-
以上を持ちまして「過ぎし日の国」は終幕です。
長い間お付き合い頂き、ありがとうございました。
色々となんとかしたい部分が有るのですが(…)容量オーバーせずに終われたんで
良かったです。それでは、またどこかで。
- 389 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 23:48
- 本当に、素敵な物語をありがとう。
- 390 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/02(月) 02:47
- お疲れ様です。読んでて本当に気持ちよかった。大好きです。
- 391 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/04/02(月) 23:43
- いい作品を見させてもらった
有難う御座居ました
- 392 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/04/05(木) 13:13
- 完結お疲れ様でした。
この気持ちを表現したいフレーズはいろいろあるけどひとまずブラボー!
あの夏の日は自分の中でいつまでもキラキラと残るであろうと思います。
すべての登場人物に感謝。
そして素晴らしく深みのある物語を生み出したkkggさん、本当にありがとうございました。
- 393 名前:kkgg 投稿日:2007/04/06(金) 21:44
-
こちらこそ、こちらこそ、感謝です。
2007も夏舞台はあるのでしょうか?今から、楽しみです。
また皆で熱狂できることを願っております。
最後に、>>242に簡単なあとがきを載せてみました。
増減の可能性はあるけれど、良かったらドウゾー。
- 394 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/04(月) 19:05
- やっと全部読めた!
素敵な時間をどうもありがとう
- 395 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/07/03(火) 18:18
- いつかこの続きが読みたいと贅沢なことを願ってしまいます。
お疲れ様でした。
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