ブレス
- 1 名前:_ 投稿日:2007/01/09(火) 00:12
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アンリアル、学園もの。
- 2 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:14
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「あーあー、たるいなあ」
藤本美貴は誰に言うでもなく、独りごちながら歩いていた。
頭の上には、白と青がバランスよく点在された空が広がっていて、
ちょっと視線を下げると、美しい緑色が飛び込んでくる。
ほんの数週間前まではピンク色で、それはとても美しかったが、緑は緑で悪くない。
風も涼しいし、過ごしやすくなっているのは間違いない。
梅雨がはじまるまでの、穏やかな日々。
こんな日は、学校なんて休みにしちゃえばいいのに。
学生らしいようならしからぬような文句を心の中でつぶやきながら、
美貴は学食へと移動していた。
次はちょうど空き時間だし、学食に行けば誰かに会えるだろうと思ったからだ。
そういえば、学年が上がってから、どう講義の時間割が変わったのか、
まだちゃんと話してもいないし聞いてもいなかった。
いつものスケジュールで行っても、誰もいない可能性もある。
ま、そんときはそんときか。
別に誰かがいなければヒマをつぶせないわけでもなし。
そのまま歩き続けようとして……ふと見えた光景に、美貴は足を止めた。
一瞬頭をよぎった可能性を否定しようとして、しかしあまりにも当てはまりすぎて
呆れて顔をしかめる。
大学生にもなって、それはあまりにも幼稚すぎないか。
そう思っては見たものの、目に見えるものは事実。
一度空を仰いで、美貴はそちらへと足を向けた。
- 3 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:15
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普段なら、こんなことに首を突っ込んだりはしない。
元々、必要以上に人と関わるのが好きなわけではないのだ。
それなのに、なぜ今日に限って関わろうとしたのか。
その理由は、美貴自身にもわらかなかった。
それを知りたいとも、別に思わなかった。
「その辺にしといたらー?」
その声は、思ったよりもよく通ったと自分でも思った。
3人プラスひとりは、美貴が声を出したとほぼ同時に、即座に美貴を見た。
意外だったんだろう、3人は明らかに驚いた表情だったが、美貴の目を引いたのは
残りのひとりだった。
怯えたように体を縮こまらせながらも、顔を上げて美貴を見たその瞳は、
すぐにも攻撃に入れるように見えた。
目があって、そらさなかったのも彼女だけだ。
「な……何か用ですか?」
「その辺にしといたらって言ったじゃん。聞いてないの?」
ことさら強く言ったつもりはないのに、3人はビクリと肩を動かした。
「今どきはやんないでしょ、そういうの。てかさー、いい年してかっこ悪くない?」
「べ、別に……」
「その子に用事があるわけ?」
「そ、そうですよ」
「ふーん」
- 4 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:15
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くだらない。
そのあからさまな嘘が、美貴を少しだけ揺らした。
めんどくさいことは嫌いだし、自分が口を出すことじゃないのもわかっている。
それでも、その小さな嘘で、美貴はその3人を嫌悪した。
「美貴もさー、その子に用事があるんだけど。そっちは超重要な用事なわけ?」
「ちょ、超ってほどじゃ……」
「んじゃあ、こっちを優先してもいいよね」
あえて強い口調で言いにっこりと微笑むと、3人は身をひいてから顔を見合わせた。
「いいよね?」
さらに強めて言うと、3人はこくこくと壊れた人形のように首を縦に振った。
それを合図に近づこうとすると、3人はあっという間に美貴の前から姿を消した。
あまりの過敏反応に、思わず苦笑いしてしまう。
「あーあ。そんなにビビんなくてもいいのに」
ぶつくさつぶやきながら、残ったひとりを振り返る。
彼女はさっきと同じ姿勢、同じ視線で美貴をじっと見つめていた。
美貴とほとんど同じくらいの身長。
肩口で切りそろえられた髪。
ややつり目がちの大きな瞳。
年齢ははっきりわからないが、おそらくは今年入学してきた新入生だろう。
- 5 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:16
-
「……あんたも黙ってないでなんとか言えばいいのに」
美貴が呆れたように言うと、彼女の口元に力が入るのがわかった。
あごを引いて、上目遣いで……というよりもにらみつけるように美貴を見る。
「どんな事情かわかんないけど、黙ってたらつけあがるだけだって。ああいうのは」
返事はなし。
助けたから礼を言え、などと言うつもりはないが、あまりにも無礼じゃないだろうか。
美貴はいつの間にか口をとがらせていた。
不満。ものすごく不満だった。
「あのねえ……」
「おーい、ミキティー」
不満をぶつけようと口を開きかけたところで、高らかな声に続きを遮られた。
振り返るとそこには、すらりと背の高い女性の姿。
吉澤ひとみ。
美貴の1年後輩に当たる。
とはいえ、つきあいは大学に入る前からあるので、しゃべり方もフランクだ。
- 6 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:16
-
「何してんの、そんなとこで」
「別に何もー」
「……かつあ」
「違う」
先回りして言おうとしたことを止めると、ひとみは悪びれた様子もなく
わかってるわかってると近づいてきて美貴の肩を叩いた。
それから、首を傾げて彼女と美貴の顔を見比べる。
「知り合い?」
「全然これっぽっちも知らない」
「……やっぱりかつ」
「違うって言ってんでしょ」
美貴がちょっと強めにひとみの腕を叩くと、わかってるわかってるとさっきと同じトーンで返して、
ひとみは年下の彼女の顔をのぞき込んだ。
- 7 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:17
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「すっげ美人じゃね?」
「よっちゃんの判断基準っていつもそれだよね」
「あー、人をたらしみたいに」
「たらしじゃん」
「何言ってんだよ。キレイな人を見たら声かけないのは礼儀に反するんだよ」
「よっちゃん、どこの国の人?」
「ジャッパニーズ!」
「前世は絶対日本人じゃないね」
「まあまあ。ところで美人のお嬢さん? よかったら、あたしたちとお茶しませんか?」
あたしたち、という言葉がひっかかった。
彼女も明らかに怪訝そうな顔をしている。
それでも、返事をしなかったのをいいことに、ひとみは年下の彼女の背中を押した。
「ささ、行こ。あ、もちろん、おごるからさ、ミキティが」
「美貴がかよ!!」
ひとみに対してこういうツッコミが意味をなさないのはわかっていた。
それでも言ってしまうのは、ほとんど条件反射といってもいい。
当然のようにひとみは美貴の異論を聞くことなどなく、
遅れる美貴を無視して年下の彼女とともに学食へと向かっていった。
* * *
- 8 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:18
-
「おー、よっすぃにミキティじゃん」
「あれ、ごっちん、いたんだ」
「いたんだよー」
美貴とひとみ、そして年下の彼女が連れ立って学食に入ると、
一番日当たりのいい位置に陣取って、ぼんやり座っていた人間から声をかけられた。
後藤真希。
こちらも美貴の1コ下で、ひとみとは同学年。
ひょんなことからひとみと仲よくなり、その流れで今や美貴ともフランクなつきあいをしている。
「ひとり?」
「んーん。今柴っちゃんが……」
「なーに? ぞろぞろと連れ立って」
真希の言葉と、反対側から聞こえてきた声に美貴が振り返ると、そこにはあゆみが立っていた。
柴田あゆみ。
今年、大学の4年生になる。
美貴からしてみれば1コ上、ひとみや真希には2コ上の先輩だ。
幅広いおつきあいのあるひとみの、バイト先の先輩であり友達でもあり、
その関係でこれまた敬語を使うような関係を築いていない。
そもそもあゆみは美人だが幼い。
おまけにどこか天然が入っているらしく、年下の美貴たちでも頼るより心配することのほうが
多いタイプだ。
あゆみ自身も後輩たちからため口を叩かれるのを気にしている風でもなく、
いつの間にか先輩後輩の関係を越えて、友達としてつきあうようになっている。
本人たちは特に気にしていないが、それぞれの友達には不思議な関係として映っているらしい。
それでも、ほかのどの友達といるよりも、美貴にとってはこの3人といるのが気楽だった。
- 9 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:19
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「おー、柴っちゃん久しぶりー」
「久しぶり……だっけ?」
「そうだよ。ずーっと講義の時間とかずれててあわなかったじゃん」
「4年生になっちゃうと、講義の時間すごく減るからね」
それはあゆみが至極まっとうに大学生活をこなしてきたからだろう。
3年生までに取れる単位はあらかた取ってしまっているはず。
残すところは、卒論とゼミとかそのくらいじゃないのか。
あまり余裕なく3年生まで進級した美貴としては、
お手本にしたいようなしたくないような、そんな気分でもある。
お手本にしようにも、すでに間に合わないのだが。
「でも、そういえば4人そろうのも久しぶり……って」
手にしていたペットボトルをひとつ真希に渡し、真希の隣に座ろうとして、
あゆみの言葉の色が変わった。
その音に気づいて、美貴とひとみはすっかり忘れていたもうひとりの存在を思い出した。
「どしたの?」
「あー、や……」
「よっちゃんがナンパした」
「違うよ! 元々はミキティが声かけてたんだろ!」
「でも、お茶に誘ったのはよっちゃんじゃん」
「いや、そりゃそうだけど……」
- 10 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:20
-
ぎゃいのぎゃいのと言ってくるひとみの向こうで、
美貴が見たのは、彼女が表情を無にした瞬間だった。
驚きも怯えも全部消して、まるっきりの無表情。
それは、まるで置物のような美しさを放っていた。
「とにかく! 3人とも座ったら?」
「……へーい。ほら、キミも」
何を彼女が考えていたのか、美貴にはわからない。
ただ、逃げるかと思っていた彼女は、素直に促されるままに腰をおろした。
思いも感情も吐き出すのを拒むかのように、口は真一文字に結び、
あごをひいて少しだけ胸を反らす。
……さっぱり意味がわからない行動だった。
「1年生だよね?」
話しかけたのはあゆみ。
こういうとき、一番沈黙を嫌うのはあゆみだ。
美貴も真希もマイペースすぎて、他人がどうしようとかまわないタイプだから、
4人そろっていて会話が成立しなくても気にしないのだが、
あゆみは微妙に居心地の悪さを感じるらしく、何かと気を遣って話そうとする。
ひとみもそういう点ではややあゆみに近いが、
あゆみがいるときはその役目を完全に彼女に譲ってしまう。
不思議なバランスの4人組。
壊れないのは、みんなそれが心地いいと思っているからだろう。
少しの間をおいて、こくり、彼女がうなずいた。
- 11 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:21
-
「時間とか大丈夫?」
こくり、もう一度うなずく。
その時点で、少なくとも真希を除く3人は今の状況がおかしいことに気づいていた。
美貴とひとみは、おそらくあゆみ以上に。
「あんたさあ、話しかけられてるんだから返事とかしたらどうなわけ?」
思ったことが口に出るところが、美貴とひとみの大きな違いのひとつでもある。
おかしいと思った瞬間、美貴は何も考えずその一言を口にしていた。
そう、彼女は美貴が声をかけたあのときから、ただの一言もしゃべっていないのだ。
しゃべりたくないほど嫌なら、わざわざ座ったりせずに断って帰ればいい。
中途半端は美貴が一番嫌いなことだ。
美貴の強い口調にあゆみが困ったような顔をしたが、
目の前の彼女はその口調にも屈しなかった。
目に力を入れ、不満そうに口をへの字に曲げて、美貴をにらんでくる。
負けじと美貴もにらみ返そうとして、まあまあ、という軽い口調に止められた。
- 12 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:21
-
「いーんじゃん、別に。しゃべりたくないなら無理にしゃべんなくってもさー」
「ごっちん」
「そんなん言われたら、あたしなんかもうミキティにどんだけ怒られるんだって話」
「いや、今はそういう話してるんじゃなくて」
「似たようなもんでしょ」
確かに。
真希は本当に人の話を聞かない。
気づいたときには、うたた寝してたりすることもある。
相槌すら打たないなんて当たり前で、どうしても聞かせたい話があるのなら、
襟首ひっつかんででも起こしておかなければいけないのだ。
言われてしまえば、彼女も似たようなものには違いないが……。
それはあくまでも美貴と真希の関係がそれなりの時間を経て成立しているものだからであって、
初対面の人間にこんな態度を取られるというのは……。
「そもそも話しかけたのはミキティのが先みたいだし?」
「まあそうだけど」
「話してくんないから怒るってのは、ちょっと間違ってる気がする」
微妙に論点がずれているような気がしたが、まあ真希の言うことも10分の一理くらいはある。
もしかしたら、あのごたごたから引っ張り出したことを多少は感謝していて、
そのせいで断れなかったのかもしれない。
なんとも、不可解な子には違いないが。
- 13 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:22
-
「わかったわかった。美貴が悪かった」
「んー」
「じゃあまとまったところで」
「や、まとまってないし」
「せっかく集まったんだから、ちょっと遊びの予定とか立てちゃう?」
「聞いてないし」
引っ張り込んだのは自分のくせに、ひとみのマイペースっぷりにも呆れる。
彼女のことを少し気にしながらも、そちらに無理に話を振るつもりはないようだ。
だったらなんで……聞くまでもないことなので、美貴は黙っていることにした。
「今日はー」
「あ、ごめん。今日はあたしが無理。ゼミの飲み会があるから」
「おーそっかあ」
「ごめんね」
「いやいや。ところで、柴っちゃんはバイトのシフトは変わってないよね?」
「うん、基本的には」
「ごっちんとミキティの講義の予定は?」
真希は少し悩んでから、手帳を取り出しそれを開いてひとみに突き出していた。
おそらく、自分でもちゃんとスケジュールを把握していないのだろう。
かくいう美貴も、まだ完璧に覚えているとは言い難く、
手帳を見ながら1週間のスケジュールをひとみに伝える。
- 14 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:23
-
「なるほど」
「……なるほどって」
「えーっと……じゃああとはー」
ニュアンスで、ひとみが彼女に話しかけようとしているのがわかった。
彼女もそれに気づいたのか、無だった表情に瞬時に色がついた。
それは……最初に見たときの怯えに似ていて、美貴は目を丸くした。
自分たちが危害を加えることがないのは、もうわかっているだろう。
それなのに……なぜ。
落ち着いたはずなのに、美貴の心が揺れた。
自分はまだしも、これだけ気を遣っているひとみや真希やあゆみを侮辱するのは許せない。
一言言ってやろうと口を開きかけた瞬間。
どこからともなく聞こえた声に、美貴は言葉を止めた。
「おーい、松浦ー?」
イスの音がことさらに大きく聞こえた。
目の前の彼女は、その横顔を一瞬だけ美貴たちに見せて振り返る。
気がつけば、美貴の目に見えるのは、その小さな背中だけになってしまっていた。
彼女の視線の先には、見たことのない人。
金にやや近い茶色の髪、少しばかり剣のあるような顔立ちをしていたが、
口元に浮かぶ微笑みがそれを打ち消している。
少しの間学食の中を見回して、すぐに彼女が立っているのに気づいたのだろう、
そのまま美貴たちのほうへと近づいてきた。
- 15 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:24
-
「待ったか?」
彼女の髪が揺れた。
よく通る声。耳をそばだてる必要もなかった。
「珍しいやん、学食におるなんて」
彼女の首が縦に動き、少しだけこちらを気にしているような仕草を取った。
茶髪の女性は彼女の肩越しに美貴たちを見る。
一瞬だけ目を細め、彼女を脇にどけるようにして美貴たちへと近づいてきた。
「こんにちは」
「こんにちはあ」
誰よりも早く答えたのは、ぼんやりしていると思われた真希だった。
いつもの力の入っていない笑顔で、茶髪の女性を見ている。
「アンタら……この子の友達?」
女性が目を細める。
嘘はつけないと、条件反射で思った。
- 16 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:24
-
「や、違います」
「……どういう関係?」
ピリピリと張り詰めた空気が流れるのがわかった。
「松浦」と呼ばれた彼女は、戸惑った表情を浮かべて女性の手に触れている。
しかし、女性はそれを気にする様子もなく、4人ひとりひとりと目を合わせてきた。
「や、その……」
事情を説明しようとした瞬間、彼女が女性の腕を強く引いた。
女性の意識がそちらにそれる。
ふるふると彼女が首を振り、女性は少し考えるように動きを止めたが、
すぐに美貴たちへと向き直った。
「聞かせて」
「あ、や……あのですねえ」
事情をまったく知らない真希はぼんやりと窓の外へ視線をやってしまい、
同じく事情を知らないあゆみは困ったように美貴とひとみの顔を見る。
あげく、ことの最後のほうしか事情を知らないひとみまでが美貴を見るので、
女性の視線も自然と美貴を見る。
気圧されそうになりながらも、嘘をつく理由がなかったので、
美貴は彼女と知り合うまでの経過を素直に口にした。
話していくうちに、女性の表情が変わっていく。
眉間にしわが寄ったかと思ったら、みるみるうちに険しい表情に変わり、
さっきまで微笑みが浮かんでいた口元は、苦々しげなものになってしまっていた。
- 17 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:25
-
「アンタはほんっとに……」
呆れたような言葉は、どこか悲しそうな響きを持っていた。
美貴が目を合わせようとすると、女性はもう視線を彼女へと移していて、
彼女はさっきまでの強気な表情が嘘のように、うつむいてしまっていた。
その下がった頭を見ていた女性が、ふっとわかるような息を吐き、
一度だけ彼女の頭に手を乗せた。
「帰ろか」
女性の手の下で彼女の頭が小さく下がる。
くしゃくしゃと音がしそうなくらいの勢いで、女性が彼女の頭をなでる。
小さな背中に手を添えて、歩くように促していった。
「……あ」
じっと彼女の背中を見ていた美貴は、唐突に上がった一言のほうへと、
反射的に意識を飛ばしていた。女性と目が合う。
さっきまでの厳しい表情はもうそこにはなく、
女性は最初に入ってきたときと同じように、やわらかく微笑んでいた。
- 18 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:25
-
「ありがとな」
「あ……いえ」
何に対して礼を言われたのかをつかみきれず、美貴は首を傾げながらうなずいていた。
女性は少しばかり微笑みを苦笑いに変えて、
一度も振り返らない彼女とともに学食から外へと歩き出す。
「……わけわかんない」
それをしっかり見送ってから、緊張の糸が切れて美貴はテーブルへと突っ伏した。
「柴っちゃん!」
そんな美貴の平穏などどうでもいいかのように、ひとみの叫び声が響き渡る。
「ななな、何!?」
「お願いがあります!」
「だから何!」
ひとみがあゆみに対して敬語を使うなど、どうせろくなお願いではない。
わかっているのに、それを拒否できないのがあゆみの悪いところでもありいいところでもある。
美貴はテーブルに突っ伏した体勢は崩さずに、顔だけあげてひとみを見た。
別にせっぱ詰まっているようには見えなかったが、それでも何か急いでいるようには見えた。
- 19 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:26
-
ひとみはテーブルの上に放置されていた自分の手帳を1枚破ると、
そこに手早く何かを書き付けて、あゆみに渡した。
あわててそれを見たあゆみは、怪訝そうな顔をしてひとみを見る。
「何これ」
「柴っちゃんの携帯番号とメアド」
「……これをどうするの?」
「さっきの子に渡して!」
「ええっ!? って、なんであたしのなの!?」
「柴っちゃんが一番マジメそうだから!」
「何それ!」
どうやらひとみはさっきの子が気になるようだ。
いつもなら自分から積極的に声をかけていくのにそれをしないのは、
彼女にほかの子と違う何かを感じたからかもしれないし、
単純にあの女性がいたからかもしれない。
それでも、そんなことをさしおいても彼女と何かしらのつながりがほしいのだ。
だから、あゆみをダシに使おうとしている。
- 20 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/09(火) 00:26
-
確かにあゆみはマジメで教授たちの受けもいい。
かわいくて素直だから、それなりに覚えてくれている人もいるようだし。
第一印象は間違いなく好印象になるだろう。
ひとみはそれを見越して、あゆみにお願いしているのだ。
つきあいがそれなりに長いからわかる事実。
それをわかりながら、美貴はあえて何も言わず、さっきから黙ったままの真希を見た。
真希はぼんやりと窓の外に視線を投げている。
出会った頃から何を考えているのかよくわからないところがあったが、
最近はさらにそれが加速しているような気がする。
ほんの少しだけ、それは美貴の心に引っかかっていた。
「……断られたって知らないからね」
「うん、ありがと!」
予想通り、あゆみは押し切られたようだ。
ひとみから渡された手帳の切れ端を手にして、しぶしぶといった感じで立ち上がり、
それでも律儀に急ぎながら学食を飛び出していった。
「……なーに考えてんだか」
「べっつに何もー」
そう言うだろうと思ったから、美貴はそれ以上何も言わなかったし、
ひとみもそれ以上何かを言ってはこなかった。
ただ間違いなく、ふたりともあゆみが戻ってくるのを待っていた。
* * *
- 21 名前:_ 投稿日:2007/01/09(火) 00:29
-
更新終了。
こんな感じで進みます。
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/09(火) 22:45
- 気になる出だしですね。
これからどうなるのか、楽しみにしてます。
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/10(水) 00:57
- 松浦さんと、多分あの御方であろう女性の関係が気になります。
次回を楽しみに待ってます。
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/10(水) 19:06
- おおっ面白い小説が始まってる!!
続きが早く読みたいっす
- 25 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/11(木) 20:46
- 面白そうなお話ですね。
楽しみにしてます!
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/12(金) 14:44
- 楽しみです楽しみです
- 27 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/27(土) 23:20
-
「……あのっ!」
ギリギリ正門のところであゆみは茶色の髪を見つけ、日頃はあまり出さない大声を出した。
歩いていたふたりの足はそこで一旦止まり、そろって振り返る。
あゆみの顔を見てもどちらも表情を変えなかったが、茶髪の女性は隣にいた女の子に一言二言話し、
女の子はうなずいてあゆみに一度会釈をすると、そのまま正門を抜けて行ってしまった。
ああ、えっとどうしよう。
用事があるのはあの子のほうなんだけど……。
予想外の出来事にあわててしまって、あゆみの口からはうまく言葉が出てこない。
その間に、女性があゆみのそばまで近づいてきていた。
「何? さっきの子らと一緒におった子やろ?」
「あ、は、はい」
「あの子に用事?」
「え、あの、あ、まあ、はい」
「なんや、はっきりせん子やねえ」
「あ、す、すいません」
きつい口調で言われているわけでもないのに縮こまってしまうのは、
ひとみがいったい何をしたいのかわからないからだろうか。
自分が自分の意思で動いていないからかもしれない。
急に居心地が悪くなって、あゆみは文字通り身を縮こまらせてうつむいてしまった。
- 28 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/27(土) 23:22
-
「……そんな怯えんと。顔あげて?」
穏やかな声で言われてあゆみが恐る恐る顔を上げると、女性は静かに微笑んでいた。
やわらかな、大人の女性そのままの余裕のある微笑み。
見ているうちに、あゆみの心も少し落ち着いてきた。
「で、どしたの?」
「あ、あのですね、その……変なやつだと思わないで聞いてほしいんですけど」
「はいはい?」
「あの、その、さっきの子に、これ、渡してもらえませんか」
ひとみが書いた手帳の切れ端を、あゆみはまるでラブレターでも渡すかのように女性に差し出す。
女性は切れ端に視線を落とすと、パチパチと瞬きを繰り返した。
「や、あの、あたしの、携帯とメアドなんですけど、その……」
あゆみが言い終えるより先に、切れ端はあゆみの手から女性へと移っていた。
女性は空いている手で口元を一度覆うと、困ったように眉を下げ、
おもむろに手にしていた切れ端を真っ二つに裂いてしまった。
- 29 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/27(土) 23:22
-
「な、な、何する……」
お願いされたこととはいえ、何も言わずに真っ二つとはひどすぎる。
文句を言うために女性をにらみつけようとしたあゆみの言葉は、
目の前に突きつけられた切れ端の半分によって遮られてしまった。
「これは返すわ」
「へ?」
差し出された紙切れを手に取ると、そこには携帯電話の番号が書かれていた。
「これ……」
「それ、あっても意味ないから」
「どういう……意味ですか」
残った紙切れを丁寧に半分に折ると、女性はさっき以上に困ったような顔をした。
「あの子、しゃべれへんねん」
「え……」
「せやから、電話番号はあっても無駄。けど、これはもらっとくわ」
「あ、え……」
「……で、アナタの名前、聞いてもいい?」
「あ、し、柴田です。柴田あゆみ」
「柴田さんね」
女性は胸のポケットから小さなボールペンらしきものを取り出すと、
手にしていた紙に書き付けようとして顔を上げた。
- 30 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/27(土) 23:23
-
「柴田はいいとして……あゆみは?」
「あ、ひらがなです。ひらがなであゆみ」
「はいはい……柴田あ・ゆ・み、と」
丁寧に書かれた文字を見せられて、あゆみはうなずいた。
「教えてもらったから言うとくけど、あの子の名前、松浦亜弥」
「まつうら、あや……」
「松の木の松にさんずいの浦、アジアの亜に、弥生時代の弥」
「ああ、はい」
「んじゃあ、これはもろとくけど」
「あ、あの!」
「ん?」
「あの……お姉さんの名前は?」
「は? アタシの?」
「あ、はい」
ほとんど勢いだった。
驚いたように声を高くした女性だったが、それでもすぐに笑顔にはなってくれて、
あゆみはホッと息を吐き出した。
「知ってて得するとは思えへんけど。アタシは中澤裕子。
真ん中の中に、難しい方の澤、余裕の裕に子」
言われた言葉を反芻して、あゆみは彼女の名前も頭の中で組み立てた。
中澤裕子、さん。
オーケー、もう大丈夫。
- 31 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/27(土) 23:24
-
「オッケー?」
「はい、大丈夫です」
「一応これ、あの子に渡してはおくけど。あんまり期待、せんといてな?」
「……はい」
なんでですか。
そう聞きたい気持ちは間違いなくあった。
だが、それを簡単に、ただの好奇心で聞いてはいけない気がして、あゆみはうなずいた。
空気の流れる音がした。
あゆみが顔を上げると、くしゃくしゃと髪をなでられていた。
目の前には裕子の顔。
どこか不思議な微笑みが浮かんでいる。
「ありがとう」
よく聞くトーンとは違う「ありがとう」に、あゆみの心が締めつけられた。
そこには、初対面のあゆみでもわかるほどの、深い愛情があった。
「いえ……」
「そんなら」
「はい」
裕子はためらいもなくそこから去っていく。
一度も振り返らず、彼女が視界から見えなくなるまで、あゆみはその場に立って
彼女の背中を見送っていた。
* * *
- 32 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/27(土) 23:25
-
「おー、おかえりー。遅かったねー?」
「あー……うん」
「もしかしてもういなかった?」
「や、いたんだけど……」
「渡せなかったとか」
「や、渡せたんだけど……」
「じゃあなんでそんな落ち込んでるみたいな顔してるわけ?」
「落ち込んでるわけじゃないんだけど……」
戻ってきたあゆみの様子は、さっきまでとは明らかに違っていた。
心ここにあらずという言葉がぴったりだ。
ペットボトルからお茶を一口飲んで、息を吐き出すまでの動作がやけに重い。
「どしたのさー」
ひとみが相変わらずのハイテンションで声をかけると、
あゆみはちらりと視線だけでひとみを見て、はあああああとこれ見よがしのため息をついた。
「なんだよー、人の顔見てそういうの、失礼じゃね?」
「人に強引なお願いするほうがよっぽど失礼だと思いますけど?」
あ、怒ってる。
ふたりの様子を眺めていた美貴が、それに気づいて口を少しだけとがらせた。
日頃温厚なあゆみが珍しくひとみに対して敬語を使った。
丁寧な言葉をこのメンバーに使うとき、だいたいあゆみは怒っているのだ。
わかっているから、ひとみもキュッと表情を引き締めた。
- 33 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/27(土) 23:25
-
「……なんか、言われた?」
「別に」
「じゃあ、怒られたとか」
「別に」
「じゃあなんで怒ってんの?」
あゆみはそれには答えない。
ただ、もう一度はああああと息を吐き出して、額を手で覆ってしまった。
「柴っちゃあん」
「……あの子、名前は松浦亜弥ちゃん、っていうらしいんだけど」
「ほうほう、それはかわいいお名前で」
「ちなみに、一緒に来てたお姉さんは中澤裕子さんっていうらしいんだけど」
「ほうほう、それはエレガントなお名前で」
「……マジメに聞く気、ある?」
「あるよもちろん。大あり」
どう聞いてもそうは聞こえないひとみの軽口に、
あゆみは3度目の大きなため息を漏らした。
- 34 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/27(土) 23:26
-
「……あの子ね、しゃべれないんだって」
「へえ……え?」
さすがに、ひとみの声のトーンが変わった。
傍らでそれを聞いていた美貴も、ぼんやりと外を眺めていただけだった真希も、
その言葉であゆみを見ていた。
「しゃべ……れないの?」
「お姉さん……中澤さんはそう言ってた。だから、ほら」
あゆみが渡された紙切れの半分をテーブルの上に置く。
そこには、ひとみが急いで書いた乱雑な数字が踊っていた。
「これ……?」
「しゃべれないからこれは意味がないって返された」
「ホント、なんだ」
「こんなの嘘では言わないでしょ」
意外すぎて、美貴もひとみも言葉が出なかった。真希も黙ったままで、
テーブルにはいつもの騒がしさが嘘のような沈黙が広がる。
- 35 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/27(土) 23:26
-
亜弥と出会ってからの短い時間の出来事を、美貴は思い出していた。
しゃべれないというのが事実だとすれば、いや事実なのだ。
だから彼女はあの連中にも何も言えなかったし、美貴にも何も言えなかった。
ひとみたちと会ってからも……当然だ。
傷つけただろうか。
知らなかったこととはいえ、それを責め立てるようなことをしてしまった。
それならそう言ってくれれば……というのも無理な話だ。
「しょーがないんじゃない」
無言になってしまったテーブルに音を戻したのは真希だった。
ペットボトルに口をつけ、飲む気があるのかないのかわからない体勢のまま、
ちらりと3人に視線を飛ばしてくる。
「今さら落ち込んだってしょーがないじゃん。知らなかったんでしょ」
「や、そりゃそうだけどさあ」
「落ち込んだって、やっちゃったことは元には戻んないんだよ」
「まあ……ねえ」
「そんなに気になるなら、今度会ったときあやまればいいじゃん」
「それで、許してくれるかね」
「違うよ、よっすぃ」
真希の声に珍しく力がこもった。
ペットボトルからは口を離し、その目にもいつもよりも力が入っているように見える。
- 36 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/27(土) 23:27
-
「許してもらうためにあやまるんじゃないよ。
自分のためにあやまるんじゃダメだよ」
真希の言いたいことは、美貴にも何となくわかった。
だが、ではなんのためにあやまるのかと言われたら、それがわからない。
傷つけた彼女を癒すため?
それも結局は自分のためじゃないのか。
どんな理由を並べ立ててみても、それは結局自分のためにほかならないのではないか。
「……うん」
うなずいたひとみが真希の言いたいことをわかっているようには見えなかった。
真希の力に気圧されて、それでうなずいているように見えた。
でも仕方がない。本当に真希の言いたいことまでは理解できない。
答えは見えていない。
この場は、うなずくよりほかに方法が見つからなかった。
ただそれだけのことだ。
「……メールはくれないだろうね」
「たぶんね」
しゃべれるとかしゃべれないとかの問題ではなく、
彼女、亜弥は外の世界を拒絶しているように見える。
外と触れたくないように見える。
少なくとも、美貴にはそう見えた。
- 37 名前:1.アヤ 投稿日:2007/01/27(土) 23:30
-
「どうすんの、よっちゃん」
「わかんない。わかんないけど……」
ひとみはいらだたしげに頭をガシガシとかいた。
「うん……ちょっと考えてみる」
「そだね」
そう言いながら、他人事を装いながら、美貴もすでに考えていた。
友達になりたいとか、一歩近づきたいとかそんなことではなく。
もうちょっとだけ亜弥のことを知りたいと単純に思っていた。
それから数日後。
美貴とひとみはどこかで自分の名前が呼ばれたような気がして振り返った。
遠くから誰かが走ってくるのが見える。
あわてたような、それでいてうれしそうに見えるのはなぜだろう。
普段そんな態度を見せないおっとり屋の彼女の態度に、あわてて近づくと、
彼女は手にしていた最新の携帯電話を差し出してきた。
そのディスプレイを見て、美貴は、自分の勘が外れていたことを知った。
ディスプレイにはあの無表情さからは考えもつかないような、
どこかたどたどしい文字が並んでいた。
その文字から彼女の呼吸が聞こえてくるような気がして、
美貴たちは顔を見合わせて笑った。
* * *
- 38 名前:_ 投稿日:2007/01/27(土) 23:31
-
更新終了。
続きます。
- 39 名前:_ 投稿日:2007/01/27(土) 23:35
- >>22
じりじり進む予定です。
>>23
あの御方はあの御方でした。
関係性はもうちょっと先で。
>>24
できるだけ間隔あかないようにするのが目標です。
>>25
おもしろくあるようがんばりたいと思います。
>>26
がんばりますがんばります。
- 40 名前:AM 投稿日:2007/01/28(日) 04:59
- 楽しみです♪
- 41 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/01/28(日) 23:18
- 面白いです。続き楽しみにしております!
- 42 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/03(土) 22:13
-
柴田あゆみは真面目な人間である。
そして、至って普通な女の子である。
- 43 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/03(土) 22:13
-
極端なほどそう思っているわけではないが、あゆみ自身、
自分を不真面目だとは思っていなかった。
そんなあゆみを周囲は本人が思う以上に真面目だと思っていた。
それでも、せいぜいテスト前にノートを見せてくれと頼まれる程度だったので、
あゆみはそれをすんなりと受け入れた。
普通な子、というのはいつだったかひとみに言われた言葉だ。
特に深い意味があって言ったのではないだろうし、
むしろひとみはあゆみの「普通さ」を好ましく思っているようでもあり、
あゆみは好意的な言葉としてそれを受け取っていた。
それに……。
そもそも、ほかの3人が――今は4人だが――が普通じゃなさすぎるのだ。
ひとみは、その見た目からやたらと女の子にもてるし。
美貴は、その見た目からやたらと恐れられているし。
真希は、いまだに正体の一端もつかみきれていないし。
そして、亜弥は――実は特待生だというし。
そんな中にいては、優等生ですらただの人に成り下がってしまうだろう。
だから、普通なのは自分のせいではない。
というよりも、まさにこれこそが普通であって、これこそが一般的なのだ。
そう思っていた。
少なくとも、今日、この日までは。
* * *
- 44 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/03(土) 22:15
-
あー、めんどくさい……。
あゆみは滅多に訪れることのない学生課を訪れていた。
昨日、最後に受けた講義がかなり長引いてしまい、電車に間に合わせようと急いで帰ったため、
教室にペンケースを忘れてしまったのだ。
今日、大学に来てすぐに教室に行ったがすでになく、
となると落とし物として誰かが拾って届けてくれた可能性にすがるしかない。
落とし物は通常学生課に集められ、そこで受け取ることができるので、
あるかないかはわからないが、こうしてやってきた。
しかし、学生課なんてものは、だいたい履修届を出すときくらいしか来ないので、
どうにもなじみがない。
しかも、職員とは教授や講師ほどしょっちゅう会うわけではないので、
話しかけるのもためらってしまう。
もしかしたら自分だけなのかもしれないが、あゆみはこの場所が苦手だった。
それでも、筆記用具丸ごと買い直すのでは無駄な出費。
見つかるのなら、それに越したことはない。
そう思ってため息をつきつつも、あゆみは学生課のドアを開けた。
- 45 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/03(土) 22:16
-
「あのー、すいません……」
入ってすぐカウンター越しに声をかけると、下を向いていた人が顔を上げた。
「はい?」
あ。
思わず見つめてしまった。
確かに学生課にはあまり来ないが、そんなあゆみでもはっきりわかる。
彼女を見たのは初めてだ。
細い黒縁のメガネをかけ、ボブくらいの長さのまっすぐな髪。
肌の白さと、首の細さがやけに目についた。
華奢とか細いとかではなく、あゆみが一番最初に思ったのは「薄い」。
風が吹けば飛んでしまいそうな、そんな雰囲気の女性。
「どうかしましたか?」
意識を別のところに持っていかれていたあゆみは、
もう一度聞こえたやわらかな声で我に返った。
- 46 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/03(土) 22:16
-
「あ、あの、ちょっと落とし物、っていうか忘れ物を……」
「忘れ物ですか?」
「あ、はい」
「何をどこで忘れたかわかります?」
「ええっと……」
昨日講義を受けた教室と、自分が忘れた物の造形を告げると、
彼女は「ちょっと待っててください」という言葉を残して奥へと引っ込み、
手元に見慣れた物を持って戻ってきた。
「これですか?」
「ああ、はいそれです!」
「一応、中確かめてもらっていいですか」
「あ、はい」
ケースを開けて中を確認。
特になくなっている物はないようだ。
「大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ……すみませんが、これ、書いてください」
- 47 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/03(土) 22:17
-
そう言って差し出されたのは、遺失物受け取りの紙らしく、
名前と学籍番号を書くところがあった。
あゆみは素直に自分の名前と学籍番号を書き、
彼女はそれを受け取ると、ペンケースについていた──おそらく管理用の
番号か何かが書かれているであろう紙を取り、ペンケースをあゆみに渡してくれた。
「ありがとうございます」
「見つかってよかったですね」
甘い香り。
彼女が微笑んだのとほとんど同時に香ってきたような気がして、
あゆみは目の前の彼女の顔をまたまじまじと見つめてしまった。
少し間をおいて彼女が首を傾げる。
「ほかにも何か?」
「あ、い、いえ! ありがとうございました」
「はい」
ペンケースを手にあわてて学生課を出て、少し離れてからあゆみは振り返った。
何が気になったのか。
特に強烈に目を引く何かが彼女にあったわけではない。
強いてあげれば、彼女はあゆみが今までに会った人物の中にいなかったタイプだからか。
その「薄い」体が、どこか儚さを感じさせる。
それなのに、その存在は強くあゆみの中に残っていた。
* * *
- 48 名前:_ 投稿日:2007/02/03(土) 22:18
-
更新終了。
続きます。
- 49 名前:_ 投稿日:2007/02/03(土) 22:19
- >>40
ありがとうございます♪
>>41
重ねてありがとうございます!
- 50 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/06(火) 05:11
- これからの展開が楽しみです
- 51 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/11(日) 16:26
-
ブルルル……
テーブルの上に置いていた携帯が震えて、あゆみはあわててそれを手に取った。
差出人は、今日ここで待ち合わせをしていた友達。
開いて届いたメールを見て、やれやれと顔をしかめる。
「しょうがないなあ、ホントに」
昼過ぎの混雑した学食。
メールの友達は今日はお昼を学食で食べたいから、
午前中に講義のあったあゆみに席を取っておいてほしいと頼んできていたのだ。
だから、講義が終わって一目散に飛んできたというのに、
寝坊をして午後の講義にもギリギリらしく、ごめんねを短いメールの中で4回繰り返していた。
携帯を閉じて、ぼんやりと外を見る。
いつものメンバーの何人かは今日も校内のどこかにいるのだろうが、
別に探し出してまで会わなければならないというわけではない。
特に用事もないし、午後の講義は1コマ空いているし、
このままぼんやり過ごすのもいいかと、思考回路を止めようとした瞬間。
視界の端に飛び込んできた姿を見て、回路が猛スピードで回り始めた。
- 52 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/11(日) 16:27
-
彼女は迷うことなく学食へと入ってきて、その混雑具合に少したじろいだようにも見えた。
食券を買うでもなく手提げ袋を手に、一応中に入って辺りを見回す。
時間とその様子を考えると、昼ご飯を食べに来たのかもしれない。
職員や教授たちが学食でお昼を食べたりコーヒーを飲んだりするのは珍しいわけではないし。
とはいえ、講義がはじまるまでまだ少し時間があるため、学食の中はにぎわっていた。
彼女は中を一通り見回してから、本当にとりあえずといった感じで
食堂の奥、自動販売機のあるほうへと歩き出した。
そのルートは……ちょうどあゆみの横を通る。
おそらく彼女は自販機で何か飲み物を買ってから学食を出るつもりだろう。
出口は今彼女が入ってきたところともうひとつだけ。
ならば……。
狭いテーブルの間をぶつからないように気をつけているせいか、
ゆっくりした歩調で彼女はあゆみのほうへと近づいてきた。
表情がはっきりとわかるようになって、あゆみは思い切って彼女の腕に手を伸ばした。
- 53 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/11(日) 16:27
-
「あ、ごめんなさい」
「あ、あの……」
最初はぶつかったと思ったのだろうが、あゆみがその袖口を軽く握ったので、
彼女は足を止めた。
上から振ってくる視線は、怪訝な色を帯びていて気圧されそうになる。
それも当然だ。
ただ1回だけ忘れ物を取りに来た学生の顔なんて、いちいち覚えているわけがない。
学生課は、一日にバカみたいに多くの人間が出入りするのだから。
「何か?」
「あ、あの、よかったら、そこ、どうぞ」
場所取りに使っていた荷物を足下へと移して席を空け、
あゆみは彼女と目を合わせないようにしてぼそぼそと告げた。
自分でも情けないほど、小さな声。
一瞬の間。
聞こえていないのかと思って視線を動かすと、彼女は不思議そうな目であゆみを見ていた。
- 54 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/11(日) 16:28
-
「あ、あの……」
「いいんですか? 誰かと待ち合わせしてるんじゃ?」
「あ、キャンセルになっちゃって。今は空いてるから大丈夫です」
あゆみの言葉に、彼女は驚くほどあっさりと微笑みを浮かべた。
「じゃあ、遠慮なく」
手提げ袋をテーブルに置くと、ちょっと飲み物を、と一言だけ告げて、
彼女はゆるりと自販機へ向かっていく。
その背中をちらと見て、あゆみは目の前に置かれた手提げ袋に視線を戻した。
ほぼ初対面。
たぶん、彼女は自分のことを覚えてなどいない。
それなのに、手提げ袋は自分への信頼を表しているように見えて、
勝手にそう感じてしまって、心の置き所に困る。
だってたぶん、取られて困るものなんて入ってないから。
いわゆるキチョウヒンなんてものを入れてないから置いていける。
それだけのことなのに。
静かに、心が温度を上げる。
- 55 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/11(日) 16:29
-
「失礼しました」
「あ、いえ」
紙コップに入っているのはたぶんコーヒーだろう。
テーブルの傍らにそれを置いて、彼女は目の前に腰を下ろした。
感想は最初に見たときと同じで「薄い」だったが、この間のような儚さは感じなかった。
ガラス細工のような不安定さはなく、言うなれば薄型テレビみたいな?
……なんだかな。
あまりの想像力のなさにあきれかえって、あゆみは思考を止めた。
彼女は手早く手提げ袋からサンドイッチを取り出すと、パク、とその口で噛みついていた。
さて、どうしよう。
間が持たない。
後先考えないで行動するのはひとみだけだと思っていたが、
どうやら自分もその範疇に入ってしまうらしいと、ひとみが聞いたら泣きそうなことを
あゆみは考えていた。
そのせいで、目の前の人物が自分を見ていることに気づくのが少し遅れた。
- 56 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/11(日) 16:30
-
「あの」
「ひゃいっ!?」
まさか話しかけられるとは思っていなかったので、声が見事に裏返った。
レンズの奥で目を丸くした彼女は、一拍おいてふわりと穏やかに微笑む。
「ありがとうございます、助かりました」
「あ、や、いえ」
「時間によってはこんなに混むんですね、ここ」
「……そうですね、割と時間をつぶしに来てる人も多いみたいで。あたしみたいに」
「居心地はよさそうですものね」
「ええ。午後の講義がはじまれば、もう少し減るんですけど」
「ああ、なるほど」
穏やかな口調穏やかな表情で学食内を見回して、彼女はふたつめのサンドイッチに口をつけた。
話しかけてきてくれたことで、少しだけあゆみの緊張がほぐれて、
なんとか彼女を見ることはできるようになった。
休憩中だという意思表示なのか、胸ポケットにはネームプレートがひっくり返って入っているようだ。
そこからゆるりと視線をあげて、彼女の顔をちらと見る。
この大学には大学院は併設されていないが、それでも彼女はここにいてなんの違和感もない。
年齢は、おそらくあゆみよりも少しだけ上。
白いシャツと、職員に支給されているらしい紺色の地味なスーツが不思議と似合っていた。
けれどそれ以上に、彼女はもっと違う色が似合うんじゃないかと、そんなことを考えてしまう。
- 57 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/11(日) 16:31
-
「……あの」
恐る恐る声をかけると、はい? という小さな返事とともに彼女はサンドイッチを
持ってきた袋の中の、お弁当箱らしきものに置いた。
「あ、食べながらでいいです。たいした話じゃないし」
「大丈夫ですよ、時間はまだありますから」
「あー……じゃあ、食べ終わるまで待ちます。たいした話じゃないんで、ホントに」
そうですか? と少し考えるように言って、彼女はそれじゃあ、と残っていたサンドイッチを
それまでと何ら変わらないペースで口に運んだ。
時々、その合間を縫って紙コップに口をつける。
見つめてしまわないように注意して、あゆみは学食の外へと視線を飛ばす。
いつもなら暇をつぶすのに役立ってくれる携帯は、
失礼になる気がして、とてもじゃないが開く気にはなれなかった。
- 58 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/11(日) 16:31
-
「お待たせしました」
言われて視線を戻すと、彼女は両手で紙コップを包んでいた。
確かに、食事は終わったらしい。
それで? と言うように、彼女が首を少しだけ傾ける。
「や、あの、たいしたことじゃないんです、ホントに。
あんまり学校で見たことないなって思っただけで」
「私をですか?」
「ええ」
「……そうですね、こっちに来てからはまだ2か月経ってないですし」
「こっちに、ってことは」
「ええ、前は別の所にいました。春の異動でこちらに」
なるほど。それなら見たことがないのは納得できる。
あゆみの大学は、学科によっては別校舎があって、そちらにも同じように学生課があったはず。
おそらく、彼女はそこに勤めていたのだろう。
「でもよくわかりましたね。私がここに来て間もないって」
「え、や、それはまあ」
「……まさか頻繁に学生課にお世話になってるわけじゃ」
「ちちち違います!」
強い声で否定すると、きょとんとした後、彼女は今までで一番表情を崩して笑った。
- 59 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/11(日) 16:32
-
「だってほら、ここの混み具合とか知らなかったし。わかんないのなんて新入生ぐらいだから、
もしかしたらって思っただけです」
「なるほど、確かに」
納得してうなずいて、彼女は笑顔をまた微笑みに変えた。
……………………
どうしよう。
間が持たない。
さすがにいきなり自己紹介じゃ唐突すぎる。
同じように彼女に名前を聞くのも唐突だ。
と言って、今さら「今日はいい天気ですね」なんて話題もアホすぎる。
こういうとき、口の達者なひとみならどうするだろうと考えて、意味がないことに気づいた。
ひとみなら、間違いなく第一声で自己紹介をし、返す言葉で相手の名前を聞いている。
思わず頭を抱えそうになってしまった。
そんな、ナンパみたいなことができるはずがない。
と、思っていたのに。
「……あの?」
「あああ、あの! おおおお名前は?」
ぐるぐる回っていた頭の中に、突然飛び込んできたその声に、
一番表層で考えていたことが言葉になって飛び出してしまっていた。
唐突も唐突。
今すぐこの場に穴を掘って逃げ込みたい気分だった。
- 60 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/11(日) 16:33
-
「……唐突ですね」
避難訓練のようにテーブルの下に隠れようかと真剣に悩んだあゆみは、
言葉とは裏腹の優しい響きに促されて、恐る恐る顔を上げた。
彼女はさっきまでと変わらず微笑んでいて、それだけで少し救われた気がした。
「どうしたんですか?」
「……や、あの。話題に詰まっちゃって」
言葉とともに、気持ちがしぼんでいく。
情けなかった。どうしようもなく。
だが、彼女の声はとことん優しかった。
「正直ですね」
「へ?」
「正直なのはいいことですよ」
幼稚園の先生が子供に諭すような言い方。
それなのに、子供扱いされたとは思わなかった。
彼女の微笑みは慈愛に満ちて穏やかで、とっちらかっていたあゆみの心を
ゆっくりと鎮めてくれた。
- 61 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/11(日) 16:33
-
「村田めぐみと言います」
「むらた、さん」
「めぐみは、ひらがなで」
頭の中で言葉を漢字に変換する。
一番最初に思ったことは、自分と彼女の名前がどことなく似ていると言うことだった。
きっと、美貴あたりには「すっごい別物だから」と突っ込まれるのだろうが、
そんな小さなことでも、あゆみにはなぜかうれしかった。
「あ、あたしは……柴田です。柴田あゆみ。あゆみはひらがなで」
「柴田さん……」
少しの間。
そして。
「何だか似てますね」
「そ、そうですか?」
「ええ。名前の二番目が『田』で最後が『み』。ふたりとも5文字だし、
名前は3文字、お互いひらがな」
- 62 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/11(日) 16:34
-
その通りだ。
それがあゆみが一番最初に感じたことだ。
「ね、似てるでしょう?」
首を傾げながら言う彼女に見とれて、うんうんとうなずくことしかできなかったが、
同じことを考えてくれたことがうれしくて、表情が緩むのを止められなかった。
喜びは自分の体の奥深いところからわき上がってくるようで、
昼休みが終わってめぐみとわかれてからも、あゆみはふとしたことで今日のその一言を思い出し、
そのたびににやにやしていた。
それは、先生や親にほめられたときととても似ていて。
ただ好きだなあと、素朴に思った。
* * *
- 63 名前:_ 投稿日:2007/02/11(日) 16:35
-
更新終了。
続きます。
>>50
ありがとうございます。
地味に展開しつつある感じですが、がんばります。
- 64 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/12(月) 06:47
- 読んでて一緒にテンション上がっちゃったよ
- 65 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/12(月) 16:03
- むらしばってすばらしいね。
- 66 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/18(日) 22:17
-
「あ、柴田さん」
「はい?」
1日の講義も終わってさあ帰ろうと意気込んで歩いていたところを、
どことなく聞き慣れかけている声に呼び止められてあゆみは振り返った。
相変わらず薄い人がそこにいて、小走りに近づいてくる。
「村田さん」
「講義は終わりですか?」
「はい。今日はこれで終わりなんで、帰ろうかなあと」
「ああ、それはすみません、呼び止めちゃって」
「いえ、大丈夫ですけど」
あの日以来、あゆみとめぐみが話をしたのは限られた回数だ。
あゆみは学生課に頻繁に出向く用事はなかったし、
めぐみも学生課を出て構内を散策する用事があるわけでもない。
タイミングが合うときがあっても、あゆみが別の友達といたりすれば、
直接言葉を交わすことはほとんどない。
それでも、めぐみはあゆみを認識してくれていて、
学生課に誰かの付き添いで行ったりしたときも、会釈をしてくれるようになっていた。
学生と職員という関係から、指先だけが出たような不思議な関係。
ただ、それをどうこうしようという感覚は、あゆみにはなかった。
一番最初の学食での出会いだけで、何となく満足してしまっていたのだ。
だから、こうして呼び止められたのも久しぶりで、いまだ一番最初に持つ感想が「薄い」。
不健康そうには見えないから問題はないのだろうが、
この人はちゃんと食べてるんだろうかと心配になってしまう薄さだった。
- 67 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/18(日) 22:17
-
「えーっと、それで何か?」
「あのですね……知り合いからこれをもらったんですが」
めぐみが差し出してきたのは、淡いブルーの封筒。
開けてみると、何かの招待券が入っていた。
ご大層な文字と宝石がちりばめられたオブジェのようなものが印刷されている。
「よかったらもらってくれませんか?」
「え?」
招待券は2枚。期限はまだまだあるようだが。
「村田さんはこういうの嫌いなんですか?」
「あ、いえ。むしろ好きなんですが」
「じゃあ自分で行ったらいいのに」
「いえ……それ2枚あるじゃないですか。あいにく一緒に行く人がいなくて。
ひとりで行って1枚無駄にするのももったいないなと思ったもので」
律儀な人だ。
だったら、あげるのは1枚にして、1枚は自分で使えばいいのに、
それは自分の中にある良心が許さないのだろうか。
とはいえ、もらったところで、正直困る。
あゆみの周りには、あゆみ自身も含め
こういう美術館博物館系が好きな人間がほとんどいないのだ。
といって、何となく断るのもはばかられ……。
- 68 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/18(日) 22:18
-
「村田さんはこれまだ見に行ってないんですよね?」
「ええ」
「えーっと、もしよければなんですけど」
「はい」
「あたしを連れてってくれませんか?」
何でそれを思いついたのか。
自分でそう思ったとき、あゆみはひとみの性格がうつったんじゃないかとさえ思った。
「え……」
「あの、ご迷惑だったらいいんですけど」
「あ、いえ、迷惑なんてことは……」
この間、初めて話しかけたときからは考えられないほど、あゆみは冷静だった。
自分は間違いなくめぐみのことを気に入っている。
たぶん、友達になりたいと思っている。
気に入っている友達が好きなものなら、ちょっと触れてみたいと思って何か間違いか。
そんなことはない。
だから、あゆみはめぐみと一緒に行ってみたいと思ったのだ。
- 69 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/18(日) 22:19
-
「正直に言います。あたし、こういうのあんまり得意じゃないんです」
「……じゃあ」
「でも、みんな結構楽しんでたりするじゃないですか。ずっと思ってたんです、
どうしてみんな楽しそうなのかなって。だから、すごく好きだっていう人と行けば、
どう楽しんでるのかわかるかなって思って」
「はあ……」
困ったように、メガネの奥の瞳が揺らぐ。
ちょっと先走りすぎたかな、と後悔しかけたところに、
「わかりました。じゃあ、ぜひ」
とめぐみの静かな声が響いた。
「ありがとうございます」
「いえ、たぶんそんなたいした案内もできないと思いますけど」
「えー、超期待してますけど」
「裏切ります」
「うわ、ひどっ!」
ひとみとも美貴とも真希とも亜弥とも違う、めぐみという存在。
この年になって、今さら新しい友達ができるなんて思わなくて。
その友達のそばは、何だかとても居心地がよくて。
だからあゆみは気づかなかったのだ。
自分がめぐみに持っている感情に。
* * *
- 70 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/18(日) 22:19
-
「お待たせしました」
「はーい」
日曜日の朝。
美術館の最寄り駅の待ち合わせ場所に現れためぐみを見て、あゆみは目を丸くした。
そこにいためぐみは、いつも見ていためぐみとはまったく違っていたからだ。
地味な紺のスーツは、細身のジーンズと白いノースリーブに変わり、
薄手の黒いカーディガンをその上から着ていた。
メガネもいつもの黒い縁のものから、銀縁のものへと変わっている。
「……どうかしましたか?」
「え、あ……いつもと違うなあって思って」
「ああ、洋服ですか」
「ずっとあればっかり見てたから、なんかちょっと新鮮で」
「まあ、さすがに大学でこの格好というわけにはいきませんからね」
ふふっと笑うめぐみは、いつもよりも少しだけ幼く見える。
これだったら、学生だと言って大学内にいてもわからないだろう。
ドキッとして、少しだけ体が熱くなった。
「じゃあ、行きましょうか」
「あ、はい」
「覚悟しといてくださいね」
「え、何をですか?」
「絶対混んでますから」
- 71 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/18(日) 22:20
-
めぐみの言ったとおり、美術館は長蛇の列だった。
当日券ではなかったので多少は早く列に並べたが、それでも入場まで20分待ちだという。
あまりの人の多さにあっけにとられたあゆみを、めぐみが腕を引いて誘導してくれた。
「驚きましたか?」
「やー、ニュースとかで行列するっていうのは見たことあるんですけど……。
ホントに行列するんですねえ」
「そうですね。ものによっては平日に来てもこのくらい並ぶことがありますよ」
「……みんなそんなに美術館とか博物館とか好きなんですかね」
「どうでしょう? 期間限定とか日本初っていうのは魅力的ですからね」
セールみたいなものか。少し違うかもしれないけど。
「本当はもう少し人が少ないところでゆっくり見たいんですけどね」
そんなにおしゃべりという雰囲気ではないのに、会ってからずっと、
めぐみはあゆみに話しかけてくれる。
もしかしたら、気を遣ってくれているのかもしれない。
そう思うと少しうれしくて、自然とあゆみの気持ちも軽くなる。
「海外の美術館とかもこんなに混んでるんですか?」
「場所にもよりますけど、ここまで混んでることはあまりないと思いますよ。
海外では絵や彫刻のスケッチが許されていたり、学生なら料金が格安だったり、
無料で入れるところもあるんです。それに比べると、日本はちょっと高いですね」
「へえ……」
- 72 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/18(日) 22:20
-
話すめぐみの声のトーンがいつもよりも高い。
大学ではないせいか、それとも美術館に来た喜びからか、弾んでいるようにも聞こえる。
こんなふうにテンションの高いめぐみを見るのはもちろん初めてで、思わず顔がほころぶ。
ちょっとかわいいものを見て得した気分だ。
「じゃあ、いつかは海外の美術館にも行ってみたいとか?」
「卒業旅行で一度行ったことがあるんですが、機会があればまたぜひ」
「へえ……ホントに好きなんですね」
「あ……すみません、私ばっかりしゃべっちゃって」
「大丈夫ですよー。むしろ今日はそれが目当てですから」
「目当てって」
「あたしがまた来たくなるくらい、めいっぱいしゃべっちゃってください」
20分待ちといわれた行列は、それなりに順調に進んでいるようで、
さして待った感覚もないまま、あゆみとめぐみは美術館の中へと入った。
思ったよりも広く、人も多い。
そして何よりも、人の進みが遅く、ディスプレイに二重三重に人がへばりついている状態だ。
「ふわー……」
「日曜日ですから、やっぱり人は多いですね」
「そうですねえ……」
「柴田さんは、何かここで見たいもの、ありますか?」
「ああ、えっと……」
- 73 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/18(日) 22:21
-
いくらめぐみにまかせているとはいえ、まかせっきりというのも申し訳なくて、
あゆみは事前にホームページで今回の展覧会の趣旨や展示物について一通りチェックしてきた。
一番の目玉は、チケットにも書いてある宝石で装飾された短剣のようだった。
そのことを告げると、めぐみは心得たというようにうなずく。
「じゃあ、適度に行きましょうか」
「あ、はい」
ふたりで列の後ろにつけ、のんびりと進んでいく。
いったいみんなそんなに時間をかけて何を見ているのかがあゆみにはわからなかったが、
一生懸命説明をしてくれるめぐみを見ていると、ほかの人もこういうものなのかと思う。
めぐみは展示物についた案内板をざっと一通り読んでそれをわかりやすくあゆみに伝えてくれる上、
めぐみ自身が持っている知識を付け加えてくれるので、
展示されているもの以上の知識が、あゆみの頭の中に入り込んできた。
会場内は暗くてはっきりとわからないが、めぐみの表情はいつもよりも輝いて見える。
時々あゆみを見る瞳も、展示物をのぞき込む瞳も、同じくらい輝いていて、
あゆみは展示物以上にその輝きに目を奪われた。
この会場にある何よりも、めぐみの眼差しのほうが美しく見えた。
その表情は生き生きとしていて、今まで見てきためぐみとはまったく別人のようだ。
心臓が突然。
別物になったように音を立てて鳴り始める。
- 74 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/18(日) 22:22
-
え、え、え?
ちょ、ちょっと……。
わけがわからなくて動揺してしまったからか、一瞬めぐみの姿を見失った。
その隙をつくように、突然体を押され、よろけて列が、ショーケースが遠ざかる。
危ない、と思ったときにはすでに遅く、気がついたらあゆみは床に倒れ込んでしまっていた。
「……大丈夫ですか!?」
反射的に閉じていた目を開けると、係員らしき人が立っていた。
胸のネームプレートと、紺の地味なスーツが普段のめぐみを思い出させる。
「あ、すいません、大丈夫です」
「柴田さん?」
立ち上がろうとして、名前を呼ばれた。
あわてたようにめぐみがそばにやってくる。
「どうしました?」
「あ、うん、ちょっと押されちゃって……」
特に体に痛いところはない。
立ち上がって、係員にもう一度大丈夫と告げると、係員も納得したのか持ち場に戻った。
- 75 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/18(日) 22:23
-
「柴田さん? 大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。ちょっと転んだだけだし」
「……すみません」
「別に村田さんが悪いわけじゃないですから」
「本当に大丈夫ですか?」
「……はい」
さっきまでのキラキラした輝きが消えて、めぐみの表情が曇ってしまったのが一番痛かった。
自分が鈍くさいせいで、めぐみに心配をかけてしまった。
もっとこういうところに慣れていれば、こんな顔をさせなくてもよかったのに……。
浮かれた気分もドキドキも吹っ飛んでしまって、心が重い。
それでも、めぐみに心配させたくなかったし、展覧会を楽しんでほしいから、
あゆみは笑顔を作った。
「……もう少しで目玉商品にたどり着きますから」
「商品ってバーゲンセールじゃないんだから」
実際、めぐみの言ったとおり目玉商品まではすぐだった。
人だかりも多かったが、のんびり待っていれば、少しずつ人は離れ、間近で見られるようになる。
「うわ……すごいですね」
「ええ。ホントに」
- 76 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/18(日) 22:24
-
キラキラと輝くそれは、美術品にまったく興味のないあゆみの心も引きつけた。
色とりどりの宝石と金に輝く土台。
芸術品といっても十分すぎる美しさを放っている。
ちらりと横を見ると、めぐみもその瞳を輝かせてショーケースの中を見つめている。
と、次の瞬間、またしても体を押されてよろけた。
が、しかし。
倒れそうになったと思ったら、突然体を逆方向に引っ張られ、体勢はほぼ保たれたままだった。
引っ張られた方に顔を向けると、怒りをあらわにしためぐみの顔が見えた。
「む、村田さ……」
「気をつけてください」
誰に向かって言ったのか、あゆみがその相手の顔を見ることはなかった。
それでも、めぐみの凜とした声に、誰かがその場を早々に立ち去った気配がしたのはわかった。
少しそのままでいためぐみだったが、ふっと肩から力を抜くと、
あゆみに向かって微笑みかけ、大丈夫ですか? といつもの優しい声で聞いてきた。
「あ、うん。ごめんなさい」
「柴田さんがあやまることじゃないですよ」
その薄い体のどこにこんな力があるというんだろう。
ケースの前を離れ、体から手を離されても、引っ張られたときの力強さは
あゆみの中に残っていた。
日頃の温厚な表情からは想像もつかないような怒りとその声。
自分よりもずっと強い彼女を見たようで、なぜだか呆けてしまう。
- 77 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/18(日) 22:25
-
「柴田さん?」
「あ、はい」
「ほら、これもね、おもしろいんですよ」
目玉商品が終わっても、まだ展示は続いている。
終わり間近になると人の波も引くようで、めぐみはすっかりさっきまでのペースに戻っていた。
細い腕と薄い肩に目を奪われそうになって、あゆみはあわててめぐみに近づく。
めぐみがうれしそうにキラキラした瞳であゆみを振り返る。
ほんの一瞬だけ肩が触れた。
ザ、とあゆみの胸の真ん中あたりに波が立った。
いや。
まさか。
そんなことあるはずがない。
それは気のせいだ。
気のせいに決まっている。
あり得ない。
きっと、何かの間違いだ。
心の中に波立った感情を、あゆみは必死で抑えようとした。
めぐみの横顔は、暗い会場の中、ショーケースを照らす光でキラキラと輝いているように見えた。
* * *
- 78 名前:_ 投稿日:2007/02/18(日) 22:25
-
更新終了。
続きます。
- 79 名前:_ 投稿日:2007/02/18(日) 22:27
-
>>64
さらに上げ上げな感じになってきております。
たぶん。
>>65
その通りでございます。
そのすばらしさがちょっとでも出せてたらと思っております。
- 80 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/20(火) 09:05
- 何かイイですね。凄くイイ。
- 81 名前:_ 投稿日:2007/02/25(日) 22:39
-
「……珍しいね」
学食に入ったあゆみは、定位置にいる人物に目をとめてそちらに近づき、
自分にとっても定位置である席に座った。
目の前には相変わらずぼんやりしている真希と、熱心に本を読んでいる亜弥。
いろんな組み合わせがあるが、あゆみが記憶している限り、
このふたりがこのふたりだけだったところを見るのはこれが初めてだった。
「あー、柴っちゃん久しぶりー」
「久しぶり……かな」
亜弥は本から顔を上げて、あゆみに向かって小さく会釈をする。
うん、とあゆみはうなずいて、テーブルに突っ伏した。
「あー……疲れる」
無言。
顔だけ上げると、亜弥はすでに本に意識を戻してしまっていて、
ほおづえをついている真希と目があった。
さすが、マイペースなふたり。
むしろ、今は気楽かもしれない。
- 82 名前:_ 投稿日:2007/02/25(日) 22:41
-
「元気?」
「うん。柴っちゃんは?」
「……まあまあ」
「よっすぃがグチってたよ。最近柴っちゃんがかまってくれないって」
「よっすぃかまうと疲れるから」
「確かにね」
あの日、めぐみと美術館に行ってからというもの、あゆみの頭の中はもうそれ一色だった。
考えてもしょうがないし、考えることでどうにかなるわけではないのもわかっていて、
それを追い出すことがどうしてもできない。
そう頻繁に会うわけではないし、幸か不幸か最近は学生課に行く用事もないから、
顔を見て動揺したり言葉に詰まるということはない。
それでも、いつまでも避け続けることができないのはわかっているので、
悩んで困ってどうしたらいいかわからなくなってしまう。
今ならまだ、取り返しはつくだろうか。
あと1年したら卒業だ。
卒業すれば、彼女に会うこともなくなる。
自然と距離を置いていけば、いつか忘れられるだろうか。
ぐるぐると考えを巡らせて、ふと視線に気づいた。
目を開けると、真希はさっきと変わらない姿勢であゆみを見つめ、
本に意識を戻していたはずの亜弥も、その大きな瞳であゆみを見つめていた。
- 83 名前:_ 投稿日:2007/02/25(日) 22:42
-
「……何?」
「何か困ってる」
問いかけではなくて断言。
真希は時々こういうことを言う。
普段がぼんやりしているだけに、唐突に言われると言葉に詰まる。
だいたいが図星だからなのだが。
「……まあね」
「しばらくは楽しそうだったのに」
「……何で知ってるかな」
あゆみは真希に対しては、のらりくらりかわすということができなかった。
真希が何かを知っていたとしても必要以上に突っ込んでこないからかもしれないし、
だいたいが当たっているからかもしれない。
何となく、嘘をついても無駄だという雰囲気があるのだ。
「わかるよ」
何気なく亜弥を見ると、なぜか彼女もこくりとうなずいた。
「話してみる?」
「……いいよ。たぶん、気のせいだから」
- 84 名前:_ 投稿日:2007/02/25(日) 22:49
-
ぽつりと、ほとんど独り言のようにつぶやくと、真希が目を細くした。
亜弥もキュッと口に力を入れている。
何なんだろう、このふたりは。
真希が時々不思議なことを言い出すのは知っていたが、亜弥までもとは。
「違うよ。気のせいじゃないよ」
「気のせいだよ」
「……恋だよ」
真希は何を知っているというんだろう。
大学で彼女と接していたのはほんのわずかな時間。
そんなそぶりを見せたことは一度もないはずだ。
だって、当人が気づいたのがほんの少し前のことなのだから。
言いたい言葉は、聞きたいことは山のように頭の中にあふれた。
だが、あゆみの心を占めたのは、たったひとつだけだった。
「……かな」
そうなのかな。
恋なのかな。
気のせいじゃないのかな。
気の迷いじゃないのかな。
- 85 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/25(日) 22:49
-
「そうだよ」
柴っちゃんは、恋してるんだよ。
認めたくはない言葉だった。
自分と彼女は同性なのだ。
叶うはずなどない想いなのだ。
認めなければ、それで平穏でいられると思った。
いつか離れて忘れられるかもしれないと思った。
それなのに。
真希の一言は、あゆみの心の波を静め、穏やかな風をもたらした。
- 86 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/25(日) 22:50
-
ああ、そうか。
単純な話なんだ。
あたしは、恋、してるんだ。
恋、という言葉が持つ優しくてやわらかでちょっとこそばゆい感覚を、
自分の気持ちに気づいてから、初めてあゆみは感じた。
ひとみや美貴には悪いが、ここにいたのが真希と亜弥でよかった。
茶化されず、突っ込まれもしないので、恋の心地よさに浸れた。
この先どうなるかはわからないけど。
今この瞬間だけは、ただ、その事実がうれしかった。
* * *
- 87 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/25(日) 22:51
-
「柴田さん?」
「はい」
久しぶりに聞くその声に、胸が高鳴る。
振り返ったそこには、いつものではなく、茶色のスーツに身を包んだ彼女がいた。
悩んでいたのが嘘のように、彼女の顔を見ても冷静でいられた。
不思議なほどに心は落ち着いていて、一方でふわふわとした感覚に包まれる。
……好き。
素直に、正直に、その言葉が出てきた。
- 88 名前:2.メグミ 投稿日:2007/02/25(日) 22:52
-
「すみません、遅れました」
「いえ、大丈夫です」
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
横を歩くその薄い肩。
あゆみはそこに隠された、力強さと芯の強さを知っている。
もっともっと彼女のことを知りたい。
まだ知らないところを知りたい。
その先のことも、彼女自身の気持ちも、申し訳ないけれど後回しだ。
それで失敗したなら……。
きっと、みんなが慰めてくれるだろう。
「村田さん」
声が裏返らないように注意して、あゆみは低い声で呼びかけた。
「はい?」
彼女の口元がほころぶ。
「あたし、あなたのことが……」
* * *
- 89 名前:_ 投稿日:2007/02/25(日) 22:55
-
更新終了。
続きます。
途中までタイトル入れ忘れてました…。
>>80
ありがとうございまっす。
多少登場人物が変わりつつもまだ続きますので、
もしよろしければ今後ともよろしくお願いします。
- 90 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/11(日) 21:20
-
吉澤ひとみは交友関係の広い人間である。
そして、携帯電話を2コ持つ人間でもある。
- 91 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/11(日) 21:21
-
「ホストみたい」
2コ携帯を持っていることを知られたとき、美貴に最初にそう言われた。
どうして2コも必要なのかと聞かれたので、携帯の会社を変えて、
前の携帯しかしらない人に連絡するのが面倒だったからと答え、
心の底から「バッカじゃないの」と言い放たれた記憶もある。
美貴にはまあまあと意味のない言葉を放り投げ、しばらくしたら解約するからと言って
早今年で3年目。
ひとみの携帯が1コに減る日はいまだ来ていない。
ひとみはその日も黒のスタイリッシュな携帯を取りだして、日課のようにメールを打った。
少しの後、「みんなそろってるよ。早く来い」という手短かな返信が美貴から届き、
カバンに携帯をしまうと、ひとみは学食に向かって歩き出した。
と、カバンの中で何かが震えたのに気づいて、長く息を吐き出しながら、それをつまみ上げる。
出てきたのは、年季の入ったシルバーの携帯。
ディスプレイには、目を閉じても間違うことなく言える番号が並んでいる。
「もしもし」
不機嫌をそのまま声にして電話に応じると、受話器の向こうでぼそぼそと声が聞こえた。
どうせたいした用事ではないから、適当に相づちを打って答える。
案の定、相手は勝手に満足したように安堵の息を漏らすと、一方的に電話を切ってしまった。
- 92 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/11(日) 21:21
-
友達の誰も、この電話をなぜ持っているのか、本当の理由を知らない。
美貴とあゆみはたまにふたつ携帯を取りだしている自分に何か言いたげな顔をするが、
実際に何か言ってきたことは一度もない。
真希はひとみのそういうところに一切関知しないし、
亜弥はおそらく自分が複数の携帯を持っていることを知らないだろう。
わかっていても、突っ込んでこようとしない仲間たち。
ひとみにとって、それはとても居心地のいい場所だった。
シルバーの携帯をカバンの奥の方に押しやりながら学食の入口をくぐると、
美貴のメール通りいつもの場所にいつものメンバーが顔をそろえていた。
「おっまったせー」
「遅い」
「長い」
「うっとうしい」
「ええー! ひどくねひどくね? 長いとか意味わかんないし、最後の一言とか余計じゃね?」
口々に言われて、ひとみはオーバーなリアクションで悲しみを表現した。
ただひとり何も言わなかったというか言えない亜弥に対して、
その悲しみを深く深くアピールしようとする。
- 93 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/11(日) 21:22
-
「あややー、こいつらひどいんだよー。いっつもあたしのことこうやってバカにすんのー」
「バカにされるようなことするほうが悪い」
「そもそも約束してきたのはよっすぃのほうでしょ」
「よっすぃ、何かおごって?」
「うっわー、ひでーひでー。3対1とかありえないでしょー。あややは当然……」
ふるふると亜弥が首を振った。
携帯を取りだして、素早く文字を入力。
印籠をかざすように、ディスプレイをひとみに突きつける。
『中立です』
「うわー……」
「嫌われたねー、亜弥ちゃんにまで」
「誰彼かまわずいい顔しようとするからいけないんだよ」
「よっすぃ、お腹すいた」
たたみかけるように言われて、ひとみはあーとかうーとかうなりながら
がばっと頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
ひでーひでー、あたしなんていっつも仲間はずれだーとぶつぶつとつぶやきながら。
いつも通りの光景だった。
何らいつもと変わったところなどなかった。
それが変わったのは、本当に不意の出来事だった。
- 94 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/11(日) 21:22
-
ざわざわした学食内に、突然不思議な音楽が流れはじめたのだ。
そのポップなメロディーはアニメの主題歌で……ひとみがよく知るもの。
と同時に聞こえるバイブレーションの振動音。
反射的に、息をのむ。
ひとみは大あわてでカバンから真っ赤な携帯を取り出すと、すぐさま開いてそれを耳に当てた。
「もしもし!」
学食のざわめきに顔をしかめながら、赤い携帯のつながる先に耳を澄ます。
聞こえてきたのは、間違いない、あの子の声。
「小春!? ……わかった、すぐ行く!」
叫びながら、カバンに手を伸ばし学食を飛び出す。
街の景色は恐ろしいほどゆっくりにしか変わらない。
何で自分がスーパーマンじゃないのか、それが不満だった。
「小春……」
つぶやきながらカバンをしっかりと肩にかけ、ひとみはただひたすら駅に向かって走っていった。
* * *
- 95 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/11(日) 21:23
-
後に残された4人は、目をぱちくりさせながらひとみが消えた先を見て、
しばらくしてなんとなく顔を見合わせた。
「……見たことない携帯だったね」
「真っ赤だったねえ」
「割と新しい機種だったと思うけど」
2コしか持ってないと思っていた携帯が3コに増えていた。
しかも、新しいということはわざわざ買ったのか。何のために。
「……小春、って聞こえたけど」
「聞こえた聞こえた」
「……彼女とか?」
「彼女専用の携帯?」
あり得るね。
思ったことは同じだっただろうが、誰も口にはしなかった。
「や、案外ペットとかだったりして。犬とか猫とか」
「ペットだったら電話かけてこれないでしょ」
「それもそうか。ごっちんは? 誰だと思う?」
「んー? ……案外家族の誰か」
「家族、ねえ」
言われて気づいたが、いちいち家族の名前なんて聞いてない。
それにしても、小春、と呼び捨てにするような家族がひとみにいただろうか。
- 96 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/11(日) 21:24
-
「亜弥ちゃんは?」
美貴が問うと、亜弥は少し悩んでから携帯に文字を入力し、ディスプレイを美貴に向ける。
『妹とか』
「よっちゃん、姉妹なんていたっけか」
『わかんないですけど』
この中ではひとみとのつきあいが一番長いのは美貴だ。
美貴の知らないことをほかの3人の誰かが知っている可能性はあまり高くない。
例え知っていたとしても、その人しか知らなければ誰もそれを言ったりはしないだろう。
「……まあいっか」
あのあわて方は気になりはしたものの、ひとみが言わないのなら仕方がない。
美貴たちはそのくらいにひとみのことを信じている。
何か、どうしようもないくらいのことがあったなら、隠さずに言ってくれると。
その信頼関係が、実は事態解決を遅らせていたことに、
美貴をはじめとする誰ひとり気づかなかった。
それもそのはずだ。
当事者であるひとみ自身がそれに気づいていなかったのだから、隠すも隠さないもない。
自ら気づかないまま危うい方向に進み始めていたことを、ひとみはずっと気づかなかった――。
* * *
- 97 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/11(日) 21:25
-
「……びっくりした」
「……びっくりさせちゃった」
あわてて帰ったひとみは、のんきに家の扉を開けて出てきた少女──小春の顔を見て、
安堵の息を漏らしていた。
乱れた呼吸を整えながら、玄関をあがり、リビングに抜ける。
カバンを放り投げてどっかりと、壁を背にして座り込むと、一度大きく深呼吸をした。
そんなひとみを追いかけるように、制服姿の小春が入ってくる。
そこで初めて小春の右手に包帯が巻かれていることに気づいた。
「で、いったい何があった?」
「別にそんなたいしたことじゃないってば。部活の最中にレシーブ失敗しちゃって、
右手、ねんざしただけ。そんなにひどくないし、2週間くらいで治るって」
「……ったく」
「あ、怒ってる」
「怒ってはないよ、ただびっくりしただけ。ケガしたとか言うから」
「だって、全部言い終わる前に切っちゃうんだもん、電話」
言われてみれば、切る間際に「あ」とか「え」とか聞こえたような気がする。
落ち着いて考えれば、電話をかけてきたのが小春自身なのだから、
命に関わるような出来事ではないはずなのだ。
ちょっとあわてすぎたなと思いつつ、ひとみは後頭部を軽く叩いた。
- 98 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/11(日) 21:26
-
「でも、ちょっとうれしかった」
「ん?」
「お姉ちゃんが、あわてて帰ってきてくれて」
邪気のない笑顔。
いいことを言っていないとわかっているから、控えめだ。
それでも、抑えきれない喜びがわきあがってきているのがはっきりとわかって、
ひとみは思わず目を細めていた。
「お姉ちゃん、お茶飲む?」
「ああ、いいよ。あたしがやるから」
「でも」
「ケガしたの利き手じゃん。治るまでは家の中のことはあたしがやるから、
小春は手出すな」
「えー」
「いやなら早く治しな」
「はーい」
ふてくされたようなでもちょっとこそばゆいような顔をしている小春を見ながら、
ひとみは立ち上がった。
ほんの少し、太ももに違和感がある。
確かにそれなりの距離は走ったが、たったその程度でこんなふうになられてはたまらない。
いざというときに体が使えないのでは困るのだ。
約束したのだから、自分と。
小春に何かあったときには、全身全霊をかけて守ると。
- 99 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/11(日) 21:27
-
キッチンでグラスをふたつとお茶の入ったペットボトルを出していると、
腕に寄り添うように小春が体を押しつけてきた。
「んだよ」
「べっつにー」
ひとみはペットボトルから手を離すと、その腕で隣に立っていた小春を抱き寄せ、
その体を静かに抱きしめた。細い肩を腕で包み込み、小春の体の前で両手を握る。
小春の呼吸が聞こえる。
右腕にぬくもりが触れる。
「お姉ちゃん?」
「……あんま脅かすな」
「……うん、ごめんなさい」
小春の肩に額をつけ目を閉じて、静かに息をする。
体温が、手から腕から額から、体のすべてから伝わってくる。
大丈夫、小春はここにいる。
あたしもここにいる。
ふたりは一緒にいられる。
『お姉ちゃんがいれば幸せだよ』
この世界中の何よりも大切なことは、今日も守られている──。
* * *
- 100 名前:_ 投稿日:2007/03/11(日) 21:28
-
更新終了。
続きます。
- 101 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 22:41
-
「よっちゃん、ケガしたんだって!?」
医務室のベッドでひとみが横になっていると、珍しく驚いた様子の美貴が現れた。
傍らには一緒にいたのか、亜弥の姿。
ベッドの脇でひとみの様子を見ていたあゆみが、まあまあと落ち着かせて部屋に入れ、
美貴に状況を説明してくれた。
ほんのちょっとした油断だった。
講義の時間が長引いてバイトに遅刻しそうになり、あわてて階段を2段飛ばしで駆け降りたら、
ちょうど真ん中当たりまできたところで、つるり、だ。
最上段からではなかったのと、受け身ができたのが幸いして頭は打たず、
実質的なケガは足を滑らせたときにひねったらしい右足のねんざと、
体の一部に作ってしまった打ち身くらいだった。
あゆみから無駄のない説明を聞いた美貴は、肩に入っていた力を抜き、
ギロリとひとみをにらみつけてきた。
「脅かさないでよ」
「脅かしてなんてないよ。驚いてんのはそっちの勝手」
「またそういう減らず口を叩く」
「あーもう、ケガ人なんだからちょっとは優しくしてよ」
「自業自得な人に優しくなんてできませんー」
- 102 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 22:42
-
口ではそう言っても、美貴が心配してくれているのはひとみもよくわかっている。
どこでケガのことを聞いたのかはわからないが、呼吸が乱れるくらいの勢いで、
走ってきてくれたのだから。
そういえば、後ろの亜弥も肩で息をしているようだ。
彼女が走っているところなんて見たことがない。
美貴に引っ張られただけかもしれないが、彼女も彼女なりに心配してくれたのか。
「あやや」
ひとみがこいこいと手招きすると、亜弥は不思議そうな顔をしながら近づいてきた。
「ちょっとかがんで?」
言われるままに亜弥は目線をひとみとあわせる。
その素直なところはほかの3人には見られないもので、なんとなく微笑ましい。
ちょうど手が届く高さになったところで、ひとみは亜弥の頭に手を乗せた。
「ありがと」
ゆっくりその頭をなでると、亜弥は少し困ったような顔で笑った。
かわいいな、と素直にそう思った。
- 103 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 22:45
-
「……亜弥ちゃんには甘いよねえ」
「まあ、よっすぃはかわいい子が好きだから」
「んな、人聞きの悪い」
「事実じゃん」
「事実でしょ」
まあ、絶対的に嘘ではないから、違うと言い切れないところがひとみの弱いところ。
苦々しい顔で不満を表明しておくのが精一杯だった。
「で、歩けんの?」
「駅までは無理だけど、表までなら行ける」
「そっからどうすんのよ」
「……タクシー?」
「美貴に聞かれても」
「あー、もったいない」
「自業自得だっつーの」
「そうだけどさあ……」
正直、タクシー代の上、病院の診察代やら何やらを考えると頭が痛くなってくる。
この足ではしばらくバイトも休まなくてはならなくなるし……。
うーあーとひとみが悩んでいると、つんつんと腕をつつかれた。
見ると、亜弥が携帯を片手にディスプレイが見えるように差し出している。
- 104 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 22:46
-
「んー?」
のぞき込むとそこには『よかったら送りましょうか』という文字が見えた。
驚いて顔を上げると、亜弥はもう一度携帯に文字を入力し、
『中澤さんが迎えに来るから』という文字列をひとみに見せた。
「うお、マジで? いいの?」
こくりと亜弥がうなずく。
ひとみ自身は裕子と話したことはなかったが、
それでもいくらかかるかわからないタクシー代には代えられない。
亜弥の好意にめいっぱい甘えることにした。
「あーあー、亜弥ちゃんまで甘やかしちゃって」
「ミキティ、そんなかわいくないこと言ってるともてないぞ」
「よっちゃんみたいなもて方ならこっちから願い下げですー」
憎まれ口を叩きながらも、医務室から正門までは美貴がひとみの体を支えてくれた。
正直、医務室レベルではどの程度ケガがひどいのかはっきりしていない。
わかっているのは、今この瞬間はひとりの力では歩けそうもないということだけだった。
- 105 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 22:52
-
いつもの倍近い時間をかけて正門にたどり着くと、
そこにはごくノーマルなシルバーの軽自動車が止まっていた。
車の外にはすでにいつか見た茶髪のお姉さんが立っていて、こちらの様子をうかがっている。
亜弥は一足先に彼女に近づき、こちらを時々見ながら身振り手振りで何か説明している様子。
そんなふたりにゆるゆるとしたスピードでひとみと美貴は近づく。
「あの……」
「ケガしたんやって? 災難やったなあ。松浦からだいたいの話は聞いた。
とりあえず家行って、それから病院でええ?」
「はい」
「よっし、そんなら行こか。立ってんのも疲れるやろ」
「ありがとうございます」
「まあ、出世払いっちゅーことで」
「うえっ!?」
「じょーだんや」
「心臓に悪いっすよ……」
裕子が運転席に乗り込み、ひとみは支えてくれていた美貴の手を離れ、後部座席に座る。
いつもなら助手席に座るであろう亜弥は、ひとみを心配してか隣に座ってくれた。
「ちゃんと診察結果、連絡してよね」
「ん、わかった。今日はありがと」
美貴もそれ以上憎まれ口は叩かなかった。
美貴とあゆみを残して車は静かにスタートし、みるみるうちに大学を離れていった。
* * *
- 106 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 22:54
-
車内はたいそう静かだった。
よく考えれば、人間は3人いるが亜弥はしゃべれないのだから、実質話ができるのは
ほとんど面識のないふたり、ということになる。
そのうちのひとりは運転中で、もうひとりはひどくなってきた痛みに顔をしかめている。
これでは静かにならないほうが嘘というものだ。
それでもなんとかこの親切なおねーさんと後輩に嫌な思いをさせたくないと、
ひとみは体はシートに預けつつも、ミラーで運転席の女性の顔をうかがった。
「なあ、アンタ……吉澤さん、やっけ」
「は、はい」
それを見透かされたように話しかけられて、危うく飛び上がりそうになった。
過敏な反応に驚いたのか、隣で亜弥が目を丸くしている。
「何驚きすぎ」
「や、すいません。で、何ですか?」
「自己紹介して?」
「は?」
「何か険悪なムードみたいで嫌やから。自己紹介」
「えー、そんな改まって」
「アンタとアタシはまだそんなフランクな関係やないやん」
「やーまー、そうですけど。それなら、そちらからしてもらっても……」
「年下のくせに生意気」
「うええっ!? 意味わかんないっすよ」
「車に乗せてもろてるんは誰やろなー」
「……うう、わかりました」
- 107 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 22:55
-
誰かに似てるとは思ったが、あえて誰だかは追求しないことにした。
言われたとおりに、ひとみは模範的な自己紹介をはじめる。
名前、年齢、学部と学科、得意科目、苦手な科目、好きなもの、嫌いなもの、趣味特技まで。
「えーっと、とりあえずはそんなところなんですが」
「うん、まあだいたいはわかった」
「で、えっと、中澤さん? の自己紹介とかは……」
カチカチとウインカーの鳴る音がする。
交差点を曲がって、裕子は快調に車を滑らせる。
「名前は知ってるんやろ?」
「はい」
「あとはヒミツ」
「ええ、ずるいっすよ!」
「大人の女は少しくらいヒミツがあったほうが魅力的なんやって」
「なんすかそれー」
「あのなあ。いちいち友達のお姉ちゃんの職業とかまで知らんやろうが。
それと同じや。今日はたまたまこういうことになって乗せたってるけど、
日頃から深いおつきあいするでもなし。不必要なことは知らんでええ」
「うわー、なんか正論っぽいけど無茶苦茶っぽい。
そもそも、中澤さんはあややのお姉ちゃんじゃないですよね」
「こんな妹を持った覚えはないなあ」
「言ってることがめちゃくちゃじゃないですか、やっぱり」
「それより、道、こっちで合うてる?」
「ああ、そうです。そこんとこまっすぐ行って、そうそこそこ」
「ここ?」
「そうです、そこです」
- 108 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 22:57
-
車がスピードを落とし、一軒の家の前に止まった。
表札は「吉澤」。
「じゃあちょっと、保険証とか取ってくるんで、すいません」
「ええよ、いちいちあやまらんと」
「はい……」
車から出ようとしたひとみは、家から飛び出してきた人間と目を合わせ、
呆気にとられた。
いや待て、今日は部活があったはずだ。まだ帰ってくるには早すぎる。
だが間違いなく彼女は目の前にいて、ひとみが車から出るよりも先に車に近づき、
コツコツと窓をノックした。
ひとみは窓を下げ、彼女を滅多にない角度から見上げる。
「小春……帰ってたんだ」
「うん……今日は部活がお休みだったから早く帰ってきたんだけど……。
家に着いたら留守電入ってるのに気づいて、それで、びっくりしちゃって……」
部活くらい楽しくやってほしかったから、楽しい時間を長く過ごしてほしかったから、
ほんの少しの差にしかならないけれど、タイミングをはかって留守録を入れたのに、
それはあまりにも意味をなさなかったようだ。
心配そうに瞳を潤ませて自分を見下ろす小春の様子に、罪悪感にかられる。
- 109 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 22:58
-
「ごめん。でも、大丈夫だから。これから病院行って見てもらってくるし。
親切な友達のお姉さんがこうやって送ってくれてるし」
運転席から後ろを振り返っていた裕子と小春が目を合わせ、
小春は彼女に向かって会釈をした。裕子は軽くそれにうなずいて答える。
「骨とか折れてないし、たいしたことないって。そんな心配そうな顔すんなよ」
「うん……ごめんなさい」
「あやまらなくてもいいけど。あ、小春、悪いんだけど、保険証取ってきてくれるかな」
「あ、これ」
手際よく、小春は保険証を差し出した。
おそらく、留守録を聞いて必要だと思ったのだろう。
動転しているだろうに、役に立ちたいと思う心がひとみにはうれしくて、
同時に痛くもあった。
「ありがと。病院終わったら電話するから、ちゃんと戸締まりして待ってて」
「……わかった」
「じゃあ、急いで帰ってくるから」
「うん」
「出してええ?」
「あ、はい、お願いします」
- 110 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 22:59
-
今生の別れというわけでもないのに、この世の終わりでも来そうな顔をして見送るので、
ひとみも思わず振り返って小春を見てしまった。
どんどん小春の姿が小さくなり、角を曲がったところで当然見えなくなる。
完全に見えなくなってから、前に向き直り、シートに身を沈めて大きく息を吐き出した。
「妹さん?」
「ええ、まあ」
「ずいぶん美人さんやけど、アンタとはあんまり似てへんなあ」
「タイプの違う美少女っていうんですかねえ」
「自分で言うな」
「はは、すいません。ちょっと心配性なところがあるんすよねえ」
ふうん、と興味があるのかないのか微妙な返答を裕子がしてきて、
ひとみは何とも言えず居心地が悪くなった。
別に隠していることは悪いことじゃない。
妹のような子の友達の妹のことなんて、知る必要のないことだ。
不必要なことは知らなくていいとそう言ったのは彼女自身だ。問題はない。
- 111 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 23:01
-
そもそも、さっきも話をしかけてやんわりとかわされてしまったが、
秘密という点では裕子と亜弥のほうが大きなものを持っている気がする。
姉妹ではないのに、まるで姉妹かそれ以上のつながりを感じさせる裕子と亜弥の関係。
それに比べれば、自分と小春の関係などたいしたことはない。
そうわかっているのに、なぜ不安になるんだろう。
隠し事になってしまっているからだろうか。
だけど、そんなことはたぶんほかのみんなにもあることだ。
友達だからと何もかもを話すわけではない。
今までだってそれで平気だったじゃないか。
きっと気のせいだ。
ケガしたせいで気持ちが弱くなってるんだ。
そう言い聞かせると、ひとみは静かに目を閉じた。
足首が自分のものじゃないかのように、熱を持ちズキズキと痛むのを感じながら――。
* * *
- 112 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 23:03
-
診察にどのくらいの時間がかかるかわからないから、さすがに帰りはタクシーを拾うと言っても、
裕子はここまで来たら乗りかかった船だからと、ひとみの診察が終わるまで待っていてくれた。
予想通り骨折だけはしていなかったが、ひどく足をひねったらしく、
全治3週間と松葉杖の使用を言い渡されてしまった。
この松葉杖もレンタルだからお金がかかる。
手術しなくてすんだのはラッキーだったと思うが、それにしても予想外の出費は痛い。
慣れないながらも松葉杖を使って車に戻ると、後部座席の隅で亜弥が目を閉じて眠っていた。
普段は見ない無防備な寝顔に微笑むと、「起こさんどいてな?」と
小声で裕子から注意事項が飛んできた。
さっきまでとは打って変わった穏やかな優しさに包まれた声にひとみが裕子を見ると、
裕子はその声と同じくらい優しく微笑んでいた。
亜弥を思いやるかのように緩やかに車は走り出し、
ひとみはさっきよりもずっと小さな声で裕子にケガの具合を説明、
美貴たちにメールを送ろうと携帯を開いたところで、小春からメールが来ているのに気づいた。
さっき別れる間際に言ったことと変わらない、自分を心配するメール。
思わず苦笑いしながら、今病院から帰っていることと、ケガの具合についてメールした。
そのあとで、美貴やあゆみ、それから真希にも状況をメールする。
数分もしないうちに、携帯は次から次へとメールの受信を告げ、
一通り目を通してから、ひとみは携帯を閉じた。
亜弥はさっきまでと変わらず、ドアに寄りかかってすやすやと眠っている。
- 113 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 23:05
-
車の中は沈黙に包まれ、ひとみは時々裕子の顔をうかがったが、
特別変わった表情は見せていなかった。こちらを見ることもない。
さっきまでの、あの掛け合いが嘘のように静かだ。
平穏だった。
平穏だと思った。
少なくとも家に戻るまでは。
- 114 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 23:06
-
「いろいろ、ありがとうございました」
「まあ困ったときはお互い様やから」
家まで戻ってきたひとみは、車の音を聞きつけて中から出てきた小春に体を支えられて、
運転席の裕子にあいさつをしていた。
亜弥はまだ眠ったまま、ほとんど動かない。
「ホント助かりました」
「ん。お大事にな」
「ありがとうございます」
挨拶を交わし、荷物の忘れ物がないかを確認し、もう一度頭を下げたひとみは、
小春に玄関のドアを開けておくように頼んだ。
小春が素直にその言葉に従って、玄関へと歩いていく。
そのときだった。
- 115 名前:3.コハル 投稿日:2007/03/25(日) 23:06
-
「……深すぎる愛情は人を壊すで」
ひとみの耳に、感情を押し殺したような低い声が飛び込んできたのは。
振り返ると、その表情から穏やかさを一切消した裕子と目があった。
「なんですか?」
「深い愛は人を育てる。けど、深すぎる愛は人を壊す」
何かのなぞなぞかと思った。だがそれにしては裕子の眼差しは真剣すぎた。
「何が……」
「妹さん、大事にな」
「……言われなくてもそうしてますよ」
わけがわからなくて、いらだちが声に出てしまった。
それに気づいたのか、裕子は苦笑いを浮かべると、それ以上のことは何も言わず、
そのまま車を走らせて目の前から消えてしまった。
* * *
- 116 名前:_ 投稿日:2007/03/25(日) 23:07
-
更新終了。
続きます。
- 117 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/26(月) 01:07
- 更新お疲れ様です。
中澤さん再登場待ってました!
それにしても、気になりどころ満載っす。
- 118 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/26(月) 01:39
- ものすごくワクテカして
続き待ってます
- 119 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/26(月) 22:28
- 色々と気になります!
- 120 名前:3.コハル 投稿日:2007/04/23(月) 00:04
-
裕子の言葉は、おもりのようにひとみの心の中に沈んで残ってしまった。
いつも通りに振る舞うことで、ひとみはそれを忘れようとしたが、
亜弥の姿を見ると、流れで裕子を思い出し、あの言葉を思い出してしまう。
そのせいで、亜弥との関係がぎくしゃくしてしまいそうで、
実際何度か亜弥の姿を見かけて逃げてしまうことさえあって、
このままじゃいけない、と感じていた。
これは自分の問題で、関係しているのは中澤さんで、
あややは関係ない。巻き込んじゃいけないし、そんなことで悲しませてもいけない。
はっきりさせよう。
はっきりさせるべきだ。
固い決意を胸に、足のケガが治るのを待って、
ひとみは亜弥を迎えに来る裕子をつかまえることにした。
亜弥の時間割は知っている。
休講の予定は学校の掲示板を見ればわかる。
火曜と木曜は必ず亜弥の最後の講義が終わる15分前に迎えに来ている裕子を、
亜弥が来るよりも先につかまえる。
できれば、このことで亜弥に変な不安を与えたくなかったから、
なんとかそこで約束を取り付けようと思ったのだが。
実際、つかまえることはできたのだが。
- 121 名前:3.コハル 投稿日:2007/04/23(月) 00:05
-
「……なんや、吉澤さんか。ケガ治ったんや?」
「はい。いろいろありがとうございます」
「どういたしまして」
屈託のない笑顔に少し決意が揺らいだが、ひとみはぎゅっと両手を握りしめ、
裕子の顔を見つめながら、もう一度心の中でつぶやいた。
はっきりさせよう。
はっきりさせるべきだ。
「あの、お話があります」
「何、大事な話?」
「大事な話です」
「急ぐ?」
「それなりに」
言うと、少しばかり笑顔を消して、裕子はほんの短い時間、考えるような顔をした。
しかしすぐににかっと笑うと、ひとみには予想外の言葉を口にした。
- 122 名前:3.コハル 投稿日:2007/04/23(月) 00:06
-
「じゃあ、これから家来る?」
「……は?」
「『は?』やなくて。急ぎなんやろ? それともこれから講義残ってる?」
「いえ、それはないですけど」
「ならええやん。アタシも今日は家帰るだけやし」
「でも、あややを送って行くんですよね」
「送るっていうか、アタシたち同じ家に住んでるし」
「は?」
「だから、同居中。帰る家は一緒」
それは……大変困る。
そもそも亜弥を同席させるような話ではないし、自分の中でだっていろいろまとまっていないのだ。
ひとみの動揺を見抜いたのか、裕子は短く息を吐いた。
「あの子のことなら心配せんでもええよ。同席させるつもりもないし」
「いや、だってそれは……」
「気にすることないって。あの子もそれは気にせんよ」
ためらいのない、強い信頼。
裕子の表情から亜弥に対する強い気持ちがうかがい知れて、ひとみは黙ってしまった。
別案を考えもしたが、何ひとつ浮かんでこない。
そのうちに、講義を終えた亜弥が裕子の元へとやってきてしまい、
ひとみと裕子がふたりきりだったのを不思議に思ったのか、首を傾げている。
- 123 名前:3.コハル 投稿日:2007/04/23(月) 00:08
-
「今日は吉澤さんを家に招待しようと思ってるんやけど」
こくこくと亜弥がうなずく。
いやそんなあっさりうなずかれても、そもそもふたりでいることを疑問に思ってるくせに、
と思っても、ひとみの内心は言葉にならない。
「なんか、アタシに話があるんやって」
何も隠さずに言ってしまう裕子に、ひとみはフニャフニャと体から力が抜けていくのを感じた。
開けっぴろげな関係なのかもしれないが、それにしたって自分にも立場とかいろいろあるのだ。
顔をしかめていると、視界の中で亜弥が素直にうなずくのが見えた。
よく言えば何も疑っていないが、悪く言えば何も考えていない感じ。
何の話があるのかとか気にならないのだろうか、
それとも自分はその程度の興味しかない存在なのだろうか。
だんだんとマイナス思考になっていくひとみの肩を、裕子が叩く。
「何落ち込んでんねん。ほら、行くで」
「……はーい」
断ってもよかったのだと気づいたのは、車に乗り込んで裕子たちの家の前まで来てからだった。
もうここまで来たらどうしようもない。なるようにしかならない。
ひとみは悲壮な覚悟を胸に、中澤家のドアをくぐった。
* * *
- 124 名前:3.コハル 投稿日:2007/04/23(月) 00:09
-
家の中はあまりものはなく、清潔そうだった。
淡い色の家具やカーテンで統一された室内は、初めて来たひとみでも居心地が悪くない。
家に着くなり、夕食を一緒にどうかと勧められたが、
今日は小春がご飯当番で用意していることを告げると、ふたりともあっさり引き下がってくれた。
リビングに通され、ソファに座るように勧められる。
言われたとおりに腰を下ろすと、すぐさま麦茶が入ったグラスを亜弥がテーブルに出してくれた。
「松浦、ちょっと席外してくれるかな」
ひとみの対面に座った裕子は、キッチンから戻ってきた亜弥に短く告げた。
心得た、とばかりに亜弥はうなずき、そのままリビングの奥にあった階段を上がっていく。
おそらく、2階に自室があるのだろう。
「……いいんですか?」
「松浦のこと? だって、話があるのはアタシになんやろ?」
「そうですけど……」
「あの子はそういうとこ、ちゃんとわかってくれてるから」
「ずいぶん信頼してるんですねえ」
「……信頼、かな」
「え?」
「それより、あんま妹さん待たせるんも悪いから、話あるならさっさと」
「は、はあ……」
- 125 名前:3.コハル 投稿日:2007/04/23(月) 00:10
-
どう切り出そうかと一瞬迷ったが、迷ったところでうまい切り出し方など思いつくわけもない。
自分があまり器用でないのは一番よく知っているから、
ひとみはストレートに聞きたいことを聞くことにした。
「この前、言ったこと覚えてますか。『深すぎる愛は人を壊す』って」
「やっぱそのことか」
「やっぱって」
「アンタがアタシに話って、それ以外思いつかんもん」
それはまあ、確かにその通りだが。
「そうです。あれがずっと気になってました。いったいどういう意味ですか」
「言葉通りの意味や」
「なんであたしにそれを言ったんですか」
「気になったから」
「だから何が」
「アンタと、妹さんの関係が」
心臓が大きくはねてしまった。
まさか知っているはずはない。いや、知られていたところでたいした問題ではない。
学校の友達が知らないだけで、親戚はみんな知っている。
別に隠しているわけじゃない。
じゃあなぜ。
なぜ、不安になる。
- 126 名前:3.コハル 投稿日:2007/04/23(月) 00:10
-
「あたしと小春が、なんだって言うんですか」
「血のつながり、ないやろ」
「……よくわかりましたね」
「似てへんもん」
「それがどうしたっていうんです」
「アンタら、親は」
「いますよ。父親だけですけど」
「けど、一緒には暮らしてへん」
些細なことなのに、心臓が止まったような気がした。
この人を家に上げたことはない。
小春と会ってる可能性もない。
学校の友達は誰もひとみの家の事情を知らない。
親戚連中に聞いたところで、話したがらない。
それなのになぜ、この人はそんなことを知っているのか。
「別に調べたわけやない。けど、こないだアンタの妹さんに会うたとき思ったんや。
この子は、アンタに依存してるって」
「い、依存……?」
「まるでアンタだけがこの世で唯一のものみたいな顔して。
せやから、親はおっても相当心の距離は離れてるんやろなって思った」
- 127 名前:3.コハル 投稿日:2007/04/23(月) 00:12
-
予言者か何かなのか。
それとも、心理学者か何かか。
たった、あの短い時間でそれを見抜いてしまうなんて、ただの人とは思えない。
「たった、あれだけで……?」
「わかるよ。……アタシらも似たようなもんやったから」
「え……?」
「まあ、そんなんはどうだってええんや。アタシが気になったのは、そこ。
あの子がアンタに依存しすぎてることや」
依存依存と言うけれど、依存なんてされているだろうか。
確かに小春は年齢よりも甘えたところはある。
だが、部活もやっているし学校にだってちゃんと通っている。
自分がいないからと駄々をこねたりすることもない。
友達もちゃんといるし、家事だって手分けをしてやっている。
一方的に依存されているとは思えない。
- 128 名前:3.コハル 投稿日:2007/04/23(月) 00:17
-
「それから……アンタがあの子を愛しすぎてること」
「それが、いけないことなんですか」
裕子の言いたいことがわからず、ひとみはいらだっていた。
それが当然のように言葉に出てしまい、裕子がまた苦笑する。
それでも、その目は真剣そのものだった。
「度が過ぎたら、薬も毒や」
「度が過ぎてるつもりはありませんよ」
だって、ちゃんと友達づきあいもしてるし、学校にも行っている。
バイトして、できるだけ親の金に頼らずにすむように、
いつかはふたりだけで生きていけるようにとがんばっている。
それは……家庭環境がちょっとばかり複雑な身としては当然のことで。
血がつながっていなくたって小春はかわいい妹で。
その妹を守りたいと思って、何か間違っているのか。
「胸に手当てて考えてみたらええんちゃうか。日頃の自分と妹さんの行動」
考えるだけ無駄だと思った。
何を心配したのか感じたのかは知らないが、全部この人が必要以上に心配してるだけだから。
それなのに、そうわかっているのに。
ひとみの心は何かに浸食されたように、裕子の言葉を幾度も反芻していた。
* * *
- 129 名前:_ 投稿日:2007/04/23(月) 00:18
-
更新終了。
続きます。
- 130 名前:_ 投稿日:2007/04/23(月) 00:23
-
>>117
お待たせしました!
気になりどころは全然解決されてない気もしますが(苦笑)
>>118
間があいてすみません。
できるだけテンポよく行ければなあ…と思っております。
>>119
もうちょっと気になっててください!(笑)
- 131 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/24(火) 00:27
- あ゛〜、気になりどころ満載のところにさらにプラスされた感。
ますます気になります。寝、寝れないぃぃーーー!
- 132 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/26(木) 17:35
- この作品の喋れないという設定のあややの描写が(自分には)幼い感じがしてなんかかわいくてすきです
もちろん現実の喋るあややもすきですけど
更新されるのが楽しみです
- 133 名前:3.コハル 投稿日:2007/05/05(土) 16:07
-
ひとみが自分の言葉の間違いを知ったのは、それからすぐ。
久々に亜弥を除く全員が学食に集まっていた日のことだった。
「なんかさー、ちょっとパーッと遊びたいんだよね」
「美貴はいっつもパーッと遊びたがってるよね」
「だって遊びたいんだもん」
「そのくせ、予定は立てたがらないよねえ」
「だってめんどくさいんだもん」
「どの口が言うかな」
「この口ー」
「うわ、ムカツク」
軽口を叩き合う美貴とあゆみの姿も何となく懐かしい感じがして、
いつもなら即座に話に加わるひとみが、その日はしばらくふたりのやりとりを見つめていた。
そんなひとみに、突然美貴が言葉を投げる。
「よっちゃんさー、いつもみたいになんか予定立ててよー」
「えー、たまには誰か別の人が立てればいーじゃん」
「だって、よっちゃんが一番こういうことにくわしいんだもん」
「くわしいんじゃないよ、くわしくなったの!」
叫んで、ひとみは言葉を止めた。
何かが心に引っかかった。
- 134 名前:3.コハル 投稿日:2007/05/05(土) 16:08
-
「別に美貴が立ててもいーけどさー」
心の中をかき乱される。
「美貴が立てた予定だと、だいたいよっちゃん参加してくんないじゃん」
何かが壊される。
「え……そうだっけ」
「そうだよー。美貴とか柴っちゃんとかが予定立ててからよっちゃんに話すとさ、
だいたい予定が入ってるからダメだって言われるんだよ。そうだ、思い出した!
それで美貴、予定立てるの嫌になっちゃったんだ」
「何それ、よっすぃに責任転嫁しないの!」
「違うもん、事実だもん!」
ギャイギャイと言い合っているふたりがとんでもなく遠くに感じる。
裕子の声がすぐ隣で言われているみたいに聞こえてくる。
胸に手当てて考えてみたらええんちゃうか
その言葉に導かれるように、胸に手が伸びていた。
- 135 名前:3.コハル 投稿日:2007/05/05(土) 16:09
-
早くに母親を亡くして、ひとみはずっと父親とふたりで暮らしていた。
暮らしていたと言っても、父親は家にはほとんど居つかなかったため、
ひとみはほとんど父親とは顔をあわせず、ひとり暮らしのようにして生活していた。
そんなひとみの元へ父親が小春を連れてやってきたのは、ひとみが17、小春が10のとき。
女性にだらしのない父親のことだからと思っただけで、その予想は寸分違わず正解だった。
半分だけ血のつながった姉妹。
今までも噂話を聞いたことはあったが、その姿を目視したのは小春が初めてだった。
いったいなぜ、10歳にもなってからと思わないでもなかったが、
くわしい事情を知ろうとは思わなかったし、突っ込みたくもなかった。
父親は小春を連れてきたその晩だけ家に泊まり、翌日の朝にはまた消えていた。
その後も父親の生活が変わることはなく、ひとみにとってはひとり暮らしだったのが、
ふたり暮らしに変わっただけだった。
最初は小春もこの生活になかなかなじめなかったようで、
ひとみも小春に対してどう接していいかわからなかった。
それでも、ふたりを仲良くさせようなんてことを考える人間がいなかったのが幸いして、
少しずつ距離は近づき、遠慮のない関係が築けるようになっていった。
小春は素直でひとみを絶対的に信頼して懐き、ひとみも小春をかわいがった。
自分が悩んで苦しんでいるときも、傷ついて弱っているときも、そばにいてくれた小春。
熱を出して寝込んだとき、徹夜で看病してくれた小春。
家がこんなにも温かいものなんだと、ひとみは小春に出会ってから知った。
小春だけが、あたしを本当に愛してくれてる。
小春だけが、あたしの本当の家族なんだ──。
- 136 名前:3.コハル 投稿日:2007/05/05(土) 16:09
-
いつか自分で稼げるようになったら、ふたりで暮らしていこうと思っていた。
いい成績で大学を卒業し、いい会社に入って、父親の世話にならず、ふたりで生きていこう。
「よっちゃん?」
「ああ、うん」
そのことが間違っているとは思わない。
小春のことは大事だし、小春には幸せになってほしい。
だがしかし。
それがいつの間にか小春を最優先させることになってしまっていた。
友達と出かけるときは、自らが動ける日に予定を入れるために、
無意識のうちに率先して自分から計画を立てるようになったのだ。
だから……ほかの誰かが計画した予定には、ほぼ参加できないのだ。
そして小春は。
確かに部活に参加したり、ひとみに予定がある日は友達と遊びに行ったりもしているようだが、
ほかの日はどうだろうか。
ひとみが家にいるとき、小春が家にいなかったことはない。
いつだって、ふたりで家にいて掃除したり洗濯したり、買い物に行ったり遊びに行ったりしている。
ひとみのプライベートな時間は小春に、
小春のプライベートな時間はひとみのためにあるようなものだ。
- 137 名前:3.コハル 投稿日:2007/05/05(土) 16:10
-
度が過ぎたら、薬も毒や
過ぎているのか。
これがふたりが幸せになれるための形だと思っていた。いや、今でも思っている。
今まで問題なく過ごしてきたんだから、これからだって過ごしていけるはず。
正解は自分のほうだと思いながらも、頭がくらくらしてくる。
この先……この先、あたしたちはどうしていく?
あたしは……ずっと小春といられればそれでいい。
小春だってあたしがいれば幸せだと言ってくれた。
間違ってない。
間違ってなんていない。
なのに、なんで、揺れる?
- 138 名前:3.コハル 投稿日:2007/05/05(土) 16:10
-
「よっちゃんってば!」
「え、何?」
「もう、人の話ちゃんと聞きなよ」
「あ、うん、ごめん」
そのときだった。真希と目があったのは。
「……何?」
「いつかはさ、離れていくもんだよね」
「え……」
「でもさ、離れてたってつながってるんだよね」
「何を……」
「だってさ、そうじゃなきゃみんな笑ってられないもんね」
ふにゃりと真希はいつもの顔で笑う。
ずっと不思議な子だと思っていたが、その気持ちはますます強くなった。
「よっすぃ。案外ひとりでも歩けるもんだよ。だってひとりぼっちじゃないから」
自分でも驚くほどにすんなりと、その言葉をひとみの心は吸い込んだ。
さっきまでのぐるぐるした思いが、遠いところにある。
- 139 名前:3.コハル 投稿日:2007/05/05(土) 16:11
-
ああ……そうか。
あたしたちは……。
ひとみは真希から目をそらさずに、長く長く息を吐いた。
あたしたちは、歪んでいる。
今の小春はひとみに依存して、すべてをひとみ最優先で考えるようになっている。
ひとみ自身も小春に依存して、すべてを小春最優先で考えるようになっている。
愛しているから当然のこと。
だが、世間に自分と小春と違う人間がいる以上、
個を無視したこの関係は、どこか歪んでいるのだ、きっと。
「うん……」
「試しに一歩、進んでみればいいよ。間違ってても、そのくらいならやり直せるし」
「そう、かな」
- 140 名前:3.コハル 投稿日:2007/05/05(土) 16:11
-
何の根拠があって真希がそういうことを言えるのかわからない。
ただ、真希は今までも何もわかっていないのにわかっているようなことを言って、
何度もそれで助けられたことがある。
ひとみもみんなも、それで真希に一目置いている。
その真希が言うのだ。きっと、大丈夫。
「困ったら大人の人に相談すればいいよ」
「そだね」
「何何、何の話?」
「んー? 愛って難しいなって話」
「……よっちゃんが愛を語るかね」
「あたしはいつだって愛にあふれてるじゃんか」
「えー」
「失礼な!」
その場が笑いに包まれ、ひとみもその輪に加わる。
頭の中で、大人の人をひとり、思い描きながら。
* * *
- 141 名前:3.コハル 投稿日:2007/05/05(土) 16:11
-
「小春ー?」
「はーい」
家に帰って、小春の作ってくれた夕飯を食べ、ふたりで後片付けをして
リビングでくつろぐ時間になって、ひとみは小春を呼んだ。
「ちょっとここ座って」
「はーい」
元気のいい声で答え、素直に小春はひとみの隣に座る。
くりくりとした黒目がちの大きな瞳でじっとひとみの顔をのぞき込んでくる。
「何?」
「お姉ちゃんさ、夏休みになったら友達と旅行に行こうと思うんだ」
「え……」
笑顔だった小春の表情が一気に凍り付いた。
だが、それも一瞬。すぐに作り笑顔に変わる。
「そ、そうなんだ」
「うん」
「どのくらい……?」
うかがうように聞いてくる、その声が胸に痛かった。
- 142 名前:3.コハル 投稿日:2007/05/05(土) 16:12
-
ひとみはいまだに小春の母親のことを聞いたことがないから、
小春の過去に何があったのか、はっきりとした事情は知らない。
しかし、小春はここに来て自分に懐くようになってからずっと、
ひとみが長時間そばにいなくなることを恐れている。
まるで、捨てられることを怯えているかのように。
もっと早くに気づくべきだった。
もっと早くに教えるべきだった。
いつもそばにいなくても、決して忘れたりしないことを。
変わらずに愛していることを。
そばにいなければ、そこに愛はないんだと思わせてしまったこと。
それが、深すぎた愛の罪。
だけど、きっとまだ取り戻せる。
この先に、今までにあったものと違う道が造れる。
「まだ全然決めてないけど、2泊くらいはしたいねって話してる」
「……い、いいんじゃない? やっぱり学生時代の思い出って大切だもんね」
震える声。
泣き出しそうな顔。
その姿が、何よりも愛しかった。
- 143 名前:3.コハル 投稿日:2007/05/05(土) 16:12
-
「小春?」
「う、うん、何?」
「ここにおいで」
ひとみは両足を開いてスペースを作り、ポンポンと床を叩いた。
一瞬ためらって移動してきた小春の体を、後ろから静かに抱きしめる。
「大丈夫だよ、すぐ帰ってくるし」
「うん……わかってる」
「電話だって毎日するし」
「……うん」
「旅行先で写真撮って毎日送りつけるから」
「……うん」
小春の前に回ったひとみの腕に、ぬくもりが触れ、小さな力がそこに加わる。
「けどさ、小春中学生じゃん? ひとりで置いてくのってやっぱ不安だから」
「……大丈夫だよ」
「でも最近物騒だし。旅行の間、お姉ちゃんの友達んとこに泊まりに行ってみない?」
「え……? でもその人も一緒に旅行に行くんじゃないの?」
「うん、行くんだけどね。その人んとこも、うちと一緒で姉妹ふたりで暮らしてるんだって。
で、その人のお姉さんがひとりになっちゃうとさびしいって言っててさ。小春のこと話したら、
旅行の間家に来ないかって言ってくれたんだ」
うちと一緒で、という言葉に小春は少し緊張を解いたようだった。
- 144 名前:3.コハル 投稿日:2007/05/05(土) 16:12
-
「で、でも……」
「むしろ来てほしいんだって。そのお姉さん、朝すごく弱いって言ってて、
小春が朝練とかで早起きだって言ったら、ぜひ起こしてほしいって」
「……そうなんだ」
「でさ、ちょっと気が早いんだけど、今度の休み、お姉ちゃんの友達と、
そのお姉さんに会いに行ってみない?」
「うん、わかった」
声が安定を取り戻しはじめた。
それは、信頼の証。
ひとみの言うことに間違いはないと信じている証だ。
だけど、小春。
小春とあたしは別の人間だから、意見が違うことなんてたくさんあるんだ。
正解がひとつしかないものならともかく、ふたつも三つもあるなら、
違うものを選んで、別々になることだってある。
そのときにお互いの意見を主張して、ぶつかり合ったっていいんだ。
時には間違うことだってあるかもしれない。
そのときに、一番に怒ってくれるのが小春であるべきだし、あたしであるべきなんだ。
- 145 名前:3.コハル 投稿日:2007/05/05(土) 16:13
-
自分たちの歪んだ関係に気づいて、裕子にそれを相談しに行ったら、いきなり抱きしめられた。
裕子は穏やかに笑って、旅行の間家に連れてこい、と言ってくれた。
その間に、小春が行ったことのないところに遊びに連れて行ってやるとまで言った。
隣でそれを聞いていた亜弥は、暴走気味の裕子をたしなめるように笑いながら、
『これでも面倒見はいいほうだから』と太鼓判を押した。
そのあとで「これでもとはなんや」と突っ込まれていたが。
次の週末。
ひとみは小春を連れて、裕子と亜弥の家を訪れた。
玄関のインターホンを鳴らすと、裕子と亜弥は満面の笑みで訪問を喜んでくれた。
最初は関西弁に戸惑っていた小春も、開けっぴろげな裕子の性格と、
亜弥の気遣いですぐにふたりとうち解けていった。
今までのことすべてが間違いだとは今でも思っていない。
でも、これから自分たちはよりいいほうに変わっていく。
ひとみが見る未来には、今まで見えなかった道が広がっていた。
新しい世界が息づいているのを、ひとみは確かに感じていた。
* * *
- 146 名前:_ 投稿日:2007/05/05(土) 16:16
-
更新終了。
続きます。
>>131
微妙に気になるところを残しつつ、まだ続きます!
ということなので、とりあえず寝ましょう!(笑)
>>132
大人っぽい松浦さんももちろん好きですが、
最近、とみに幼い雰囲気の松浦さんにはまっております。
好きと言っていただけてうれしいです。ありがとうございます。
- 147 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/13(日) 23:42
-
藤本美貴は平均的な大学生である。
そして、かなり鈍感な大学生でもある。
いや、あった。
ほんの数日前までは。
- 148 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/13(日) 23:43
-
「ねえ、柴っちゃん」
「んー? 何ー?」
美貴とあゆみは珍しくふたりだけで、これまた珍しく図書館にいた。
学食が混んでいたわけではなく、講義で提出するレポートを、美貴があゆみに
教えてもらっているのだ。断じて手伝ってもらっているわけではない。
とはいえ、マジメな大学生のあゆみと平均的な大学生の美貴では、
集中力の持続時間が違う。
途中で飽きてきて、美貴はシャープペンシルから手を離していた。
資料の参考になるところを探していたあゆみが、それきり美貴が口を開かないのを
疑問に思ったのか顔を上げ、そこで視線が交わる。
「どした? どっかわかんない?」
「うんまあ」
「え、どこ?」
美貴の手元をあゆみがのぞき込んでこようとする。
美貴はそれをさりげなく手で制した。
- 149 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/13(日) 23:44
-
「ねえ、柴っちゃん」
「だから何」
「友情と恋ってどこで区別するの?」
「へ? ……えええええええっ!?」
一瞬間の抜けた声を出し、すぐさまあゆみはそれを驚きへと変えた。
勢い、それで立ち上がり、静かな図書館の中に声が響き渡る。
あちこちに座っていた学生たちが一斉に立ち上がったあゆみを見た。
「……図書館は騒ぐところじゃないですよ、柴田くん」
やんわりと非難がましいところはまったくなく、それでも確かにいさめるような強い声が
聞こえてきて、あゆみが振り返る。
そこにはいくつかの本を抱えているめぐみの姿があった。
「あ、ご、ごめんなさい」
周りの人に頭を下げ、再度めぐみに小声であやまってからあゆみは静かに席に座り直す。
めぐみはその様子を見つめて、席に座ったあゆみを見てふわりと微笑んだ。
あゆみの頬がピンクに染まるのを確認して、美貴がふーっと聞こえるようにため息をつくと、
あゆみは視線を美貴に戻し、机の上に散らばっていた参考書をバタバタと片づけはじめた。
- 150 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/13(日) 23:45
-
「柴っちゃん、まだレポート終わってない」
「あ、え、あっと、そうだっけ」
「……動揺しすぎ」
美貴が冷静にあゆみを諭すと、あゆみは恐る恐るといった表情で美貴を見返してきた。
「もしかして……気づいてる?」
何が、としらを切ってからかってもよかった。
しかし、今の美貴はそんなことをする心の余裕も何もない。
それよりも、あゆみには聞きたいことがあるのだ。
「知ってるよ、もうだいぶ前から。みんなもたぶん知ってると思う」
「みんなって、よっすぃとかも?」
「たぶんね。柴っちゃんが言わないからお互い話したりはしてないけど」
「えー……なんで」
隠していたつもりだったのかと、あゆみの落胆ぶりを見て美貴は初めて知った。
確かに、さほど校内で熱心に相手と――つまりめぐみと接しているようではなかったので、
あゆみのことを深く知らない人間なら、気づかない程度のものだろう。
だが、それなりの期間それなりに深く付き合ってきた仲だ。
気づかないはずがない。
この大学の中であゆみのことを「柴田くん」と呼ぶ人間がたったひとりしかいないことを。
それで隠しているとはあまりにも愚かだが、そこがあゆみらしい気もして、
美貴はそれ以上突っ込まないことにした。いつか、からかってやろうとは思ったが。
- 151 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/13(日) 23:45
-
「そんなことよりさあ、友情と恋の境界線ってどこ?」
「ど、ど、どこって聞かれても」
「柴っちゃんだって、いきなり一目惚れしたわけじゃないでしょ?」
「そそそ、そりゃまあそうだけど……」
「なんでどうして、それが恋だなあと思ったわけ?」
「どどどどうしてって言われても……」
もごもごと口ごもって、あゆみはなぜなのかについては語ってくれなかった。
自分でもよくわからないもん……とつぶやくのが精一杯という感じ。
「そ、それよりも、何、美貴ちゃん、恋してるの?」
「……それがわかるんだったらそんなこと聞かない」
「で、でもそれっぽい感じがするってことだよね?」
「だから、わかんないんだって」
「……そういえば、友情と恋、って言ってたけど、相手は身近な人なの?」
「……黙秘権を行使します」
「難しい言葉知ってるね」
「大学生ですから」
聞き方を間違えたと思った。
あの聞き方では、相手を想像するのも容易ではないか。
結局美貴は自分の持っているカードを数枚切って、何も手に入れられなかったということになる。
無駄も無駄、無駄すぎて自分に呆れてくる。
5人の中で一番こういうことに今頼りになりそうなあゆみがこれでは、どうしようもない。
ひとりで考えなければならないとわかって、美貴はことさらに大きなため息をついていた。
* * *
- 152 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/13(日) 23:46
-
「……おー、亜弥ちゃん」
美貴が学食に行くと亜弥がいた。
ひとり、今日は定位置ではなくかなり奥の方に座って、文庫本を読みながら
広げたお弁当を食べていたようだった。
対面に座っている人間がいなかったので、美貴は断りを入れてからそこに座る。
今日は学食でも人気のAランチを売り切れギリギリで手に入れることができた。
それを持って席を探していたところで、亜弥を見つけたのだ。
「ひとり?」
こくりと亜弥がうなずく。
本は閉じられていないが、視線は美貴のほうを向いていた。
「どう? 元気?」
もう一度、亜弥がうなずく。
学校に出てこうして昼食を食べているんだから、病気なわけはない。
さすがに入学してから数か月たっているし、亜弥もそれなりに大学にはなじんではいるはずだ。
「あのやかましいお姉さんも元気?」
そう問いかけると、亜弥は苦笑いを浮かべて、それでもうなずいた。
- 153 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/13(日) 23:46
-
裕子のことに答えるときだけ、特別な目をすることに亜弥は自分で気づいているだろうか。
それは、あゆみがめぐみを見つめるときの目に似た、愛しい者を思うときの目。
軽い挨拶を終えて食事に力点を移すと、亜弥は一拍おいてから本に視線を戻した。
美貴に限ったことではないが、しゃべれない亜弥とふたりきりになったとき、
こうしたことはよく起こる。
それに対して、どことなく居心地の悪さを感じるのは今でも完全に消えてはいない。
しゃべらなくてもいい仲まではまだ発展していないのだ。
その点、真希だけは様子が違うようで、よく一緒にいるところを見かける。
といって、何かをしゃべっている風でもなく、お互いがお互いの好きなことをしているだけなので、
一緒にいる意味があるのかどうかわからなかったが。
黙々とランチを食べながら、美貴は時々亜弥の様子をうかがう。
伏し目がちな横顔を見て、やっぱり今までとは違うんだと認識する。
そう、美貴が気になっているのは今まさにそこにいる亜弥だった。
いつから何が変わったのか、自分でもよくわからない。
なんとなく眺めている時間が増えて、笑顔を見るとかわいいなと思うようになった。
もうちょっと近くにいたいとか、もうちょっと亜弥のことを知りたいとか、
話ができないからこそ、なおさらそんなことを思ってしまう。
ただ、それが恋なのかと言われると、正直自信がないのだ。
なぜなら──。
- 154 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/13(日) 23:47
-
「ここいっかな」
返事も待たずに、どっかりと美貴の隣に座ったのは、コンビニの袋をぶら下げた真希だった。
美貴たちが何かを話し出すより先に、袋から菓子パンをふたつ取り出して、
あっという間に袋を開いて食べ始める。
「いいって言った覚えがないんだけど」
「……それはツーカーの仲ってやつ?」
「何がツーカーだか」
美貴の非難がましい口調も、真希にはまったく届いていないようだった。
本を見ていた亜弥は少しの間だけ顔を上げていたが、すぐにまた本へと視線を戻す。
いてもいなくても同じだと思われているようで、やっぱり居心地はよくはない。
美貴は本を読んでいる亜弥と、パンを食べている真希を交互に見て、
いろんなものがない交ぜになったため息をついた。
亜弥に対する思いが恋なのかと言われてそうだと答えられる自信がないのは、
この隣にいる人が原因なのだ。
いつからだったか、それはやっぱりよく覚えていない。
もしかしたら、亜弥に対して何か違うと思い始めたのと同じ頃だったかもしれない。
美貴は、真希に対しても、亜弥に対するのとどこかしら似た思いを感じてしまっているのだ。
- 155 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/13(日) 23:48
-
つきあい自体は亜弥よりも断然長い。
一緒にいて何もしゃべらなくても居心地が悪くなるということもほとんどない。
遊びに誘えば、都合がつかないとき以外はちゃんと参加してくれるし、
ひとり暮らしをしているあゆみの家に一緒に泊まりに行ったことも何度もある。
仲のいい友達としてのレベルはそれなりにクリアしている。
だが、真希には何かと謎が多い。
だから、気になるだけかもしれない。
――違うかなあ。
謎というレベルの話なら、ひとみのプライベートだって充分謎だ。
例の「小春」というのが誰なのか、美貴は知らない。
真希のプライベートを知らないのも、それと同じレベルでしかない。
それが気になるのは――もっともっと知りたいと思ってしまっているから。
それをただの好奇心ですませてしまうには、長く一緒にいすぎた。
ずっと変わらず平穏な時を過ごしているのに今さらそんなことを思うのは、
特別な理由があるからに決まっている。ではそれはなんなのか。
急に世話焼きにでもなったんだろうか。
違う。めんどくさいことは今でも嫌いだ。
では、恋なのか。
特にドキドキしたりしないのに?
仮に恋だったとして、ふたり同時に思うことがあるのか。
あっていいのか。
それが、わからない。
- 156 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/13(日) 23:48
-
「……急ぐことはないんじゃないかなあ」
不意に聞こえてきた真希の声で、美貴は我に返った。
いつの間にか菓子パン2コを平らげてしまった真希は、少し眠そうな目をして美貴を見ている。
今までにも何度も真希の不思議な発言は耳にしている。
まるで、心の中を見透かされているような言葉。
だが、知っているはずはない。
知っていてこんな態度を取られたら、なんの見込みもないということじゃないか。
気づく前から結果が出てるなんて、それはそれで悲しすぎる。
「んー、まあねえ」
さりげなさを装いながら、美貴は残っていたお茶を飲み干した。
「じゃあ、美貴、ちょっとこれから行くとこあるから」
「んーまたね」
トレイを持って美貴が立ち上がると、亜弥が顔を上げて手をひらひらと振った。
振り返す手がなかったので、美貴は「バイバイ」と告げてその場を離れる。
- 157 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/13(日) 23:48
-
亜弥はずっと、年上の美貴たちに対して、
こういうときどうしたらいいか困っていたようだったが、
最近ではだいぶ慣れて、こうした身振り手振りもできるようになってきていた。
気がつけば、だんだんとメールの敬語も減ってきた。
居心地の悪さこそ消えてはいないが、距離は多少詰まっている。
それがたぶん、美貴に何かを気づかせる原因となったのだ。
――どうしたもんだか。
学食を出た美貴は、長いため息をついて、振り返らずにその場をあとにした。
* * *
- 158 名前:_ 投稿日:2007/05/13(日) 23:49
-
更新終了。
続きます。
- 159 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/05/14(月) 00:27
- 更新お疲れ様です。毎回楽しみにしてます。
4.の名前からしてこの章では裕子さんがらみのストーリーぽくって
裕ちゃんファンの自分は今まで以上に期待大!です。
- 160 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/05/18(金) 01:08
- 柴っちゃんの経過が伺えてよかったです
次回が待ち遠しいです
- 161 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/05/24(木) 10:09
- うわっ!一気に読んじゃった。
モノスゴクひきこまれる・・・
楽しみです。
- 162 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/27(日) 22:05
-
雨の日は嫌いだ。
タイミング悪く大学の送迎バスに乗り遅れた美貴は、不満を顔一杯で表現しながら、
ひとり駅までの道を歩いていた。
大学から駅までは歩いて20分ほど。
特に長い坂があるわけでもなく、舗装がされていないわけでもないから
歩きづらいことはないのだが、雨の日はまとわりつく湿気が気にくわない。
美貴たちが通う大学では、駅までの送迎バスも出ていて、
こういう日は満員になりはするが、それでも5分程度でつくから、
そのくらいならといつもは我慢して乗っていた。
しかし、今日は見事にそれに乗り遅れてしまい、
聞いてくれる相手のいないグチをブツブツとこぼしながら歩いていく。
とにかく早いところ傘を差しているうっとうしさから逃れたくて一心不乱に歩いていた美貴は、
駅が見えたところで何となく安心して、はたと今日がいつも買っている雑誌の
発売日であることを思い出した。
腕時計を見ると、乗るべき電車まではまだ充分に時間がある。
本屋に寄って時間をつぶそうと歩きかけて……普段なら目にとまらないものがなぜか見えた。
- 163 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/27(日) 22:07
-
本屋の手前にあるコンビニの駐車場。
そこには、いつも大学の門の前で見かけるシルバーの軽自動車が止まっていた。
車の見分け方なんて、美貴は知らない。
それなのに、なぜかそれはあの人のものだとわかってしまった。
近づいてみると、運転席に人の姿が見えた。
それが裕子であることを確認して、運転席の窓を軽くノックすると、
中の人が顔を上げて、すぐに窓が下がる。
「おー、こんにちは」
「こんちはー。どしたんですか? こんなとこで」
「んー、ちょっとな」
「亜弥ちゃん、もう帰っちゃってますよね、確か」
「ん」
今日の亜弥は講義がひとつ休講になったから、いつもよりも早く帰ったはずだ。
たまたまひとみと一緒に帰るところを見かけて、「バイバイ」の挨拶をした。
それはもう、1時間以上前の話。
「時間間違えたとか?」
「いや、連絡はもらってたから。それにあの子は……」
「はい?」
裕子が口ごもったことに気づくより先に、美貴は疑問を口にしていた。
- 164 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/27(日) 22:08
-
「や、あの子は雨の日は車に乗らんから」
雨脚が強くなってきたことに気を取られて、裕子の表情が曇ったことに美貴は気づかなかった。
言葉だけを聞いて、それに素直に反応していた。
「ええ、なんで? 美貴だったら雨の日こそ車に乗りたいけどなあ」
美貴の反応に、裕子はあっさりと表情を戻す。
「何その期待に満ちあふれたようなセリフは」
「え? いやいやそんなつもりは」
「……乗ってく?」
「いいんですか?」
「その気満々やったくせに」
「えへへー。やったラッキー」
いそいそと助手席に乗り込み、シートベルトをする。
裕子は美貴の家の場所をだいたい聞くと、なめらかに車をスタートさせた。
- 165 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/27(日) 22:09
-
「雨ってやですねえ」
「せやな。いろいろめんどくさいし」
「けど、なんで亜弥ちゃんは車で帰らないんですか?」
「雨の日のアタシの運転は信用ならないとか」
「あー、なんかわかる気がする」
「何さらっと失敬なこと言ってんねん」
「自分で言ったんじゃないですか」
「ここにおきざってってもええんやけど?」
「わー、ごめんなさいごめんなさい!」
苦笑いする裕子を見て、美貴の心にはまたひとつの疑問が浮かんでいた。
謎謎と言っているが、裕子と亜弥の関係だって謎だ。
ある意味、美貴の周りでは一番の謎かもしれない。
「何、急に黙って」
「え、いや、緊張するなあと思って」
「うっそ。アンタそんな慎ましい性格と違うやん」
「うわ、すっごい失礼」
「慎ましい性格の子は、人の車に乗せろなんて言いません」
「乗せろなんて言ってません」
「うわー、かわいくない」
「ふーんだ」
軽口を叩くと、途中で会話がとぎれてしまう。
その沈黙が嫌なのか、すぐまた裕子が口を開いた。
- 166 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/27(日) 22:09
-
「……なんかしゃべってて」
「え、なんでですか?」
「黙られると緊張する」
「うっそ」
「失敬な、ホントやって。居心地悪くなって、そっちのが気になる」
実は、思っていたよりも繊細な人なのかもしれない。
しかし、急に言われてもそう簡単に話題なんて思いつかなくて。
「あの……中澤さんて、友情と恋の境目ってどこにあると思いますか?」
と、今一番自分が気になっていることを口走ってしまっていた。
「は?」
案の定、甲高い声が車内に響く。
あんまりにもアホすぎる気がして、今すぐ車から飛び降りたくなった。
「い、いえいえ、なんでもないです忘れてください」
「……藤本さんは恋してるんや?」
その声に、何ひとつ自分をからかうような音はなくて。
それどころか、どこか愛おしむような音さえ感じられて。
一気にほてった頬が、ゆっくりと温度を下げていく。
この人になら話しても大丈夫だと思わせる安心感。
たった一言で、裕子は美貴の中に居場所を作ってしまった。
- 167 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/27(日) 22:10
-
「恋っていうか……それがホントにそうなのかわかんなくて」
「うん」
「その、結構不思議っていうかわかんないところの多い子だから、
それで気になってるだけなのかなって思ったりもして」
「ふむ。で?」
「……で、って?」
「それだけやったら、そんな悩むこととちゃうやん。いつかどっちかわかるまで
過ごしてたらいい。悩むってことは、ほかに理由、あるんと違うん?」
鋭い。
なぜ恋と思えないのか、そこに理由があることにこの人は気づいている。
「あの」
「ん?」
「……ふたりに同時に恋することって、あると思いますか」
一瞬、音が止まる。
裕子を見ると、なにやらいたずらっ子のように口元だけで微笑んで、
合点がいったという顔をしていた。
美貴はちょっとだけ、この人に言ってしまったことを後悔した。
- 168 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/27(日) 22:11
-
「……藤本さん、恋愛経験は?」
「……まあ」
「今のはそれとは違う?」
「違うと言えば違うような……」
「今はその子……その子たちに対してどう思ってる?」
「その……つきあいの長さ、全然違うんですけど」
「うん」
「ひとりのことは、とにかくもうちょっと知りたいなって思ってます。で、もうひとりの子は、
もちろんもうちょっと知りたいなって思ってるし、もうちょっと笑顔が見たいなとか……。
あとは……」
「あとは?」
「もうちょっと、美貴のことを知ってほしいなって」
「なるほど」
小さな返事のあと、裕子は穏やかな微笑みを浮かべたまま、横目で美貴を見た。
「その相手は、どっちも今まで友達やったん?」
「そうだと……美貴は思ってます」
「ちなみに、その子たちに今付き合ってる人は?」
「いない、と思います。好きな人とかの話も聞いたことないです」
「やったら、あんまり急がんでもええと思うよ?」
「そうですかね」
「たとえばな」
視線を正面に戻して、裕子は静かに語る。
- 169 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/27(日) 22:12
-
「アンタはたぶん、どっちの子と会ったときも種を蒔いたんやろな。
で、芽が出て、今は……せやな、つぼみになってるところかな。
つぼみになったから、ほかの友達とは違うことに気づいた。
時間が経てば、つぼみは花開くもんやし、開いたとき、
それが恋かどうかわかるんちゃう?」
「……恋ってそんなに気長なもんですか」
「人によりけり相手によりけり」
「はあ……」
言っていることの意味はわかったが、ちょっと気長過ぎるような気もした。
そもそも、付き合ってる人、好きな人がいないと思うのも、美貴のカンでしかない。
ああ、そうだ。この人なら知っているだろう。
少なくとも自分の知らない、亜弥のことは。
「そういえば、亜弥ちゃんって付き合ってる人とかいないんですか?」
「ん?」
唐突すぎただろうか。いやしかし、素朴な疑問には違いない。
普通に考えたら、いくらなんでも美貴の話から、美貴の思い人の片方が亜弥である可能性に
たどり着くはずはない。
予想通り、裕子もそうだった。
- 170 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/05/27(日) 22:14
-
「どうかな? あんま、そういう話はせんから」
「しないんですか? 全然?」
「しないなあ、全然」
「えー、でも、亜弥ちゃんかわいいし、お年頃だし。気になりません?」
「……んー、お年頃やからこそ、アタシが口出してもな」
「信頼してるんですねえ」
「……信頼っちゅーかなあ」
ふと、声のトーンが落ちたような気がして横を見ると、裕子の顔から微笑みが消えていた。
正面を向いている瞳は、いつになく真剣に見える。
雨が降っているから車の窓は閉まっている。
それなのに、何かが冷たい。
「……中澤さんは、亜弥ちゃんのこと、信頼してないんですか?」
美貴の心が何を感じたのか。
まるで流れ作業のように、口から言葉がこぼれだしていた。
「……信頼なんて、してへんよ」
「え……でも」
裕子の目が、少し細められた。
美貴の心臓がそれに呼応するように鼓動をあげた。
唇がゆっくりと動いて、裕子の落ち着いた声が耳に届く。
「ただ……愛してるだけや」
* * *
- 171 名前:_ 投稿日:2007/05/27(日) 22:17
-
更新終了。
続きます。
いろいろありますが。
進みます。
- 172 名前:_ 投稿日:2007/05/27(日) 22:22
-
レス、ありがとうございます。
>>159
出番は多いと思います。
期待…適度にしておいていただけると嬉しいです。
がんばります。
>>160
あのふたりはなんだかんだであんな感じになってます。
なかなか出番がなくてすみません。
>>161
一気に読むとあらが目立つ気が…。
適度に目をつぶりながら読んでいただけると助かります。
- 173 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/05/27(日) 23:51
- はじめまして。たまらず書き込みしますが。
こんなに次回の綴りが楽しみで、
怖くもなったことは久しくありませんでした。
気長にお待ちしてます。
そして音がほどけるのを楽しみにしてます。
- 174 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/05/28(月) 00:14
- 最後の一言、ドキンとしました。
この方と彼女の真の関係、彼女が口をきけなくなったわけなど、イロイロ気になります。
- 175 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/05/28(月) 05:07
- う…気になる…
- 176 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/03(日) 22:30
-
「ま、とりあえずあがって」
「お邪魔します」
また雨の日。
美貴はケーキをふたつ持って亜弥の家を、正確には裕子の家を訪れた。
玄関を入るなりケーキを裕子に渡し、勧められるままリビングに入る。
用意されたクッションに座ると、裕子が奥からグラスをふたつ持って現れた。
ひとつを美貴の前に置き、ひとつを自分の手で持ったまま、裕子は美貴の対面に座る。
服装は亜弥を迎えに来るときのそれとは違い、部屋着だろうかなりラフなものだった。
「わざわざありがとうな。今ちょっと寝てるから会わせられへんけど」
「や、大丈夫です」
「しっかし、アンタらも面倒見ええなあ。昨日も吉澤さんと柴田さん、来てくれたし」
「ホントは美貴も一緒に来る予定だったんですけど、急にバイト入っちゃって。
すみません、2日連続とか迷惑じゃないですか」
「ええよ、そんなん気にせんと」
ふわりと笑う裕子を見て、美貴は気づかれないように呼吸に紛れさせてため息をついた。
- 177 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/03(日) 22:31
-
雨と雨の合間。
突然、亜弥がなんの連絡もなく大学に来なかった。
美貴たちにも急にさぼりたくなることはあるから、特別なことだと思っていなかったが、
それが3日続いて、さすがに何かあったんじゃないかという話になり、
あゆみがメールをしてみたが、返事がこない。
心配になってひとみが裕子に電話をして、そこで初めて、
4人は亜弥がインフルエンザにかかったと知ったのだ。
熱はもう下がったから、今週いっぱい休ませて来週からは行けると思う、
と言われたのだが、ひとみがお見舞いに行くんだと強く主張して、見舞いに行くことになった。
それが、急なバイトで美貴は一緒に行けなくなって、でもなんとなく行かないままなのは
しっくり来なくて、急遽ひとりで来ることになったというわけだ。
「亜弥ちゃん、大丈夫なんですか?」
「ん、熱も下がったし、週明けには学校行ってもええってお医者にも言われてるから。
ちょっとタイミング、悪かったかな」
「はあ、すみません」
「ああ、別に責めてるわけやなくて。残念やったかなと思って」
残念、の意味をはかりかねて顔を上げた美貴は、
裕子の笑顔の色が変わったのにはっきりと気づいた。
まさか……まさか?
- 178 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/03(日) 22:32
-
「あの……」
「藤本さん、ケーキいくつ持ってきた?」
「ふたつ……ですけど」
「なら1個食べてって」
「え?」
「ごめんな、アタシ甘いの苦手なんや」
美貴の返事を待たず、裕子はキッチンがあるらしい方向へと引っ込むと、
さほど間をおかずに美貴が持ってきたケーキをひとつ、皿に乗せて戻ってきた。
それをそのまま差し出され、美貴はケーキと裕子の顔を2回見比べる。
「……いいんですか」
「どうぞ」
「……じゃあ、遠慮なく」
フォークを手に、微妙な居心地の悪さを感じながらもケーキを一口、口に入れる。
生クリームの甘い味が口の中に広がって、少し気持ちが落ち着く。
裕子はさっきまでと変わらない雰囲気を身にまとったまま、
グラスに入れたアイスティーを飲んでいる。
- 179 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/03(日) 22:33
-
気づいて……いるんだろうか。
もう一口ケーキを口に運んで、美貴は裕子の様子をうかがう。
この間話したときはつながらないだろうと思ったが、それ相応の情報は与えてしまっている。
気づかなくてもおかしくはないが、気づいていてもおかしくはない。
シーソーはちょうど釣り合った状態にある。
知りたくば、聞くべきだろう。
「……あの、中澤さん」
ケーキが半分ほどに減ったところで、意を決して美貴は顔を上げ、
裕子と目があって……そこで言葉を止めた。
いつの間にか、裕子の背後に見えるリビングの入口に亜弥が立っていた。
どこか焦点の合ってない目をして、ふらりと部屋に入ってくる。
「亜弥ちゃ……」
それに気づいた裕子が首だけを動かして亜弥を見た。
まるでその視線に引き寄せられるように亜弥が裕子に近づく。
裕子がクッションごと自分の身をテーブルから離す。
亜弥はまったく美貴に気を配る様子もなく、テーブルと裕子の体にできた隙間に横になり、
裕子のひざに頭を落とした。
頭は裕子の腹に押しつけ、裕子の腰に腕を回す。
静寂、そして。
- 180 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/03(日) 22:36
-
低く音が響く。
それは、美貴が初めて聞いた、亜弥が内側から発した音だった。
事情を知らない美貴にも悲しみに満ちているのがわかって、思わずあごを引く。
裕子は驚く様子もなく、そんな亜弥の髪に左手を差し込んでなでると、
美貴にも音が聞こえるくらいの強さで、ポンポンとその背を右手で二度叩いた。
応えるように聞こえる、唸る音。
応えるように亜弥の背を叩く裕子の手。
3回ほどそれを繰り返したところで、音がやんだ。
裕子は肩を少し落とし、左手で亜弥の髪をすきながら顔を上げた。
あわてているふうでもなく、その表情には亜弥を慈しむような微笑みが浮かんでいた。
「あの……?」
「藤本さん、傘とか持ってる?」
手元に当たり前のように置いてあった毛布らしき物体を、
裕子が手にとって亜弥の体にかけてやる。
その手慣れた様子から、これがいつものことなんだろうと気づく。
「傘、ですか……? いえ、持ってないですけど」
思わず声を潜めてしまったが、裕子は声のトーンを落とさない。
なんでですか、と美貴が問うよりも先に、雨、降ってる、とだけ短く答えた。
- 181 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/03(日) 22:37
-
「雨?」
そういえば、今日は午後から雨が降るかもしれない、とは言っていた。
家を出るときは晴れていたから、さほど気にしていなかったが、
珍しく天気予報が見事に的中したようだ。
それでも、部屋の中からだと、耳を澄ましてやっと雨音が聞こえる程度。
そう強いものでもなさそうだから、多少濡れても平気だろう。
考えて、美貴は首をかしげた。
同じ部屋にいた裕子が、なぜ雨が降っていると断言できるのか。
裕子は美貴の位置からはよく見えない亜弥の、乱れた髪を直しているようだった。
小さく手を動かすと、そのまま止めてまた美貴を見る。
「……よくわかりましたね、雨」
「ちょっと特別な能力持ってんの」
どこまで本当なのかはかりかねて、美貴は言葉を止める。
その間を待っていたかのように、なんか言いかけてたやろ、と裕子が問うてきた。
「あ、ええ……あの」
そこに亜弥がいるとわかっていて、何が聞けるだろう。
正直居心地は最悪だ。
だが、ここで聞かなければ、何もかもが聞けなくなるような気がして、
美貴は意を決して裕子と視線を合わせた。
- 182 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/03(日) 22:42
-
「この間言ったこと、覚えてますよね」
「ん?」
「亜弥ちゃんのこと……」
「ああ。『愛してる』って言ったこと? 覚えてるよ、もちろん」
さらりと。
あの日はあんなに大切そうに言った言葉をさらりと言ってのける。
表情は、さっきまで亜弥を見ていた慈しむような笑顔のまま変わっていない。
心臓が、微妙に速度を上げた。
「あれは、どういう意味ですか」
「どうもこうも、言葉通りの意味やけど」
「家族としてとか妹としてとか……」
「違う。アタシはこの子を、ひとりの人間として愛してるよ」
「……恋愛感情が」
「あるってこと」
心臓が大きく揺れて、一瞬めまいがした。
なぜその言葉に動揺しているのか、美貴自身理解できなかった。
同性の、しかも妹のような存在である亜弥への恋心を、隠すことなく認めてしまうその潔さにか。
それとも、自分と同じ感情を持ちながら、自分よりもずっと亜弥のそばにいる
裕子への嫉妬心からか。
冷たくなっていく指先の温度をあげようと、美貴は無意識のうちに左手で右手を握りしめていた。
- 183 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/03(日) 22:46
-
「亜弥ちゃんは、知ってるんですか、そのこと」
「知らんな」
「勘づいてもいない」
眉を動かすことで、裕子は肯定を示す。
「じゃあなんで、美貴に……教えたりしたんですか」
「んー……なんとなく?」
「なんとなく、でそんな大切なこと……」
裕子の笑顔の色が変わった。
どこか意味深な、それでいておおらかな笑顔。
美貴はまたしても言葉を止められる。
「誰かに聞いてほしかったのかもしれん。誰にも、松浦にさえ言ったことなかったから」
あのときのアタシは、ちょっとおかしかったんかもな。
裕子が笑う。そこに自嘲したような色は混ざっていない。
その言葉がどこまで本当なのか、美貴にはわからなかった。
ただその顔が、苦しそうでもなく幸せそうとも違う色──強いてあげればどこかに
諦めの色を浮かべていたような気がして、美貴はそれ以上言葉を紡ぎ出すことができなかった。
だから、言えなかった。
聞けなかった。
美貴の思い人の片方が、亜弥だと知っているのかということを。
- 184 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/03(日) 22:52
-
結局美貴は、そのあとたわいもない会話を続けてから、そろそろ、と腰を上げた。
すやすやと眠ってしまっているらしい亜弥を起こさないように細心の注意を払って
立ち上がった裕子が、玄関まで見送りに来てくれた。
「まだ降ってるみたいやから、これ持ってって」
差し出されたのは、青い折りたたみ傘。
松浦に返してくれたらいいから、と言う言葉に甘えてそれを受け取る。
両方の靴をきちんと履いて、
「あの……亜弥ちゃん、大丈夫なんですか?」
三和土から裕子を見上げながら、最後の最後で気になっていたことを聞いた。
「ん……まあ、割といつものことやから」
「いつも?」
「雨。雨降ると、あの子、いつもああなんねん」
そういえば、あの日も裕子は、「あの子は雨の日は車に乗らんから」とそう言った。
雨と亜弥の奇妙な行動には何か関係があるんだろうか。
- 185 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/03(日) 22:53
-
「なんで……」
「それはあの子に直接聞いて」
「ここまで教えといて?」
裕子が眉を下げて困ったという顔をした。
「それはアタシの勝手な判断やから。アンタらがあの子にとってホントの友達やと
思ったから言うただけ。……わかってや」
「正直……わかんないですけど、わかりました」
困った顔のまま裕子は笑って、ありがとうと言う。
美貴はそれにお辞儀をして、借りた折りたたみ傘を手に外に出た。
雨は思っていたよりは強く降っていて、すぐに傘を開く。
途中で一度振り返ってはみたものの、雨に阻まれた世界はいつもよりずっと色が落ちて、
そこにはもう暗闇しか存在していなかった。
裕子の言葉を反芻する。
わからないと言ったのは、半分くらいは嘘だ。
亜弥と出会ったときのことを思い出せば、なんとなく言いたいことは見えてくる。
しゃべれないこととあの強気な性格。
大学に入る前の亜弥は、友達が少なかったのではないか。
それが、大学に入って急に、講義を休んだくらいで連絡をくれたり、
わざわざ家まで見舞いに来てくれる友達ができた。
裕子はおそらく、それを喜んでいる。
だから、口を滑らせてしまったのだろう。
- 186 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/03(日) 22:53
-
いや。
違う、か。
亜弥の秘密の一部分を、裕子は意図的に口にして、
そこから先をどうするのかを、美貴にゆだねた。
聞くも聞かぬも美貴の自由だと、無言のままに告げてきた。
ゆだねたっていうか……放り投げたって感じだけど。
傘の上に落ちてくる雨音に耳を傾けながら、美貴は声にならない独り言を言う。
どこか、試されているような感覚が消えない。
聞きたいような。
聞きたくないような。
踏み込まないでいることも、友情のひとつの形だろう。
だが、踏み込んで事実を知ってなお変わりない関係でいることも、
ひとつの形には違いない。
裕子はどちらを選べと言っているのか。
どちらを選んでほしいのか。
そもそも、どうしてその選択を美貴にゆだね……放り投げるのか。
そこがわからない。
- 187 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/03(日) 22:55
-
鞄から携帯を取り出して一度開く。
アドレス帳からひとみの名前を呼び出し……操作をやめて閉じる。
お見舞いに行ったあと、ひとみからもあゆみからも連絡をもらった。
そのとき、ふたりは何も言っていなかった。
もし言われていたら、あゆみはともかくひとみはそんな空気を醸し出しただろうし、
美貴もそれに気づいたはずだ。
だとすれば、ふたりは何も言われていない。
……やっぱ、気づかれてる気がする。
ため息をついたら、雨脚が強くなった。
もやもやとした気持ちを抱えたまま、美貴は遠くに見えた駅の灯りを目指して走り出した。
* * *
- 188 名前:_ 投稿日:2007/06/03(日) 22:56
-
更新終了。
続きます。
いろいろあっても進みます。
- 189 名前:_ 投稿日:2007/06/03(日) 23:00
-
レス、ありがとうございます。
>>173
はじめまして、わざわざありがとうございます。
今回は一呼吸、という雰囲気かなあと思っております。
いずれは、もちろん。
のんびりお待ちいただければと思います。
>>174
その辺に関しましては、次回以降すこーしずつですが
明らかになる…はずですたぶん。
>>175
え…もうちょっと気になる感じで…w
- 190 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/05(火) 12:45
- 今後の展開に期待してます!
いろいろあっても待ってますw
- 191 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/10(日) 21:11
-
ちょっと意地悪やったかもしれんな。
締め切っていても外から聞こえてくるようになった雨音に耳を傾けながら、
裕子はリビングへと戻った。
さっきの唸りが嘘のように、落ち着いた表情で亜弥は眠っている。
その指先が小刻みに動いたのを見て、裕子は美貴がいたときと同じように
亜弥に膝枕をしてやり、背中を軽く2回叩く。
指が探るように動いて裕子の服を捕まえると、亜弥は起きているんじゃないかと
錯覚するほど正確に、裕子の背中にその腕を回してくる。
腕の強さを確認して、裕子は亜弥の背中を一度なでてから、
テーブルに置き去りにしていた、もうぬるくなったアイスティーをのどへと流し込んだ。
- 192 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/10(日) 21:14
-
本来なら自分の口から話すのは間違っているとわかっている。
それでも話してしまったのは、亜弥のためという名目で、
自分と亜弥のこのぬるま湯のような関係を変えてしまいたいから。
我慢の限界まで、それなりに近い位置に来てしまっている。
その相手に美貴を選んだのは、彼女が自分と同じ想いを抱いているからだ。
証拠はないが直感がそう告げている。
今までに美貴が発した言葉のパーツを組み合わせても正解は出ないが、
間違いだという解答も出ては来ない。
実際には、これで本当に何かが変わるなんて思っているわけではない。
世の中、そんなに簡単に事が動かないことは、知っている。
何より、この関係を変える一番簡単な方法もよく知っている。
ただ、それをするのに、裕子は少しだけ臆病だった。
だから、美貴にひとつだけ手の内を明かしたのだ。
大人のずるさを手に入れてしまった自分に、ひとり苦笑いをする。
弱まったり強まったりしながら、雨はまだ降り続いているようだ。
そういえば、何か起こるときはいつだって雨が降っていた。
雨を嫌う亜弥をあざ笑うかのように──。
* * *
- 193 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/10(日) 21:15
-
初めて松浦亜弥という女の子の存在を認識した日のことを、事細かく覚えているわけではない。
傘を差す手がひどく冷たく悴んでいたことと、マフラーに顔を埋めていたことは覚えている。
ある日突然仕事中に両親に、高級そうなレストランに呼び出された。
タクシーを使ってそこまでたどり着くと、店の前には母親が女の子を抱いて立っていた。
幼すぎるデザインのピンクのワンピースを着た少女。
それが亜弥だった。
母親は短い言葉で、彼女を家で預かることになったと告げた。
だから、今すぐ家に連れ帰ってほしいと。
突然のこと過ぎて頭がついていかず、それでも母親の真剣な表情に気圧されて、
眠っている亜弥をその腕に抱くと、第一印象よりも大きく、だが軽いその体を抱えたまま、
裕子はタクシーで家まで帰って行った。
裕子が家に着いてから数時間たって戻ってきた両親に、
裕子は短い言葉で彼女は親戚の子なのかと聞き、違うという答えを得た。
親は、と聞いたら言葉を濁された。
なぜ言葉を濁したのかは、亜弥としばらく暮らしたあとで聞かされた。
さして思うことはなかったが、それでも亜弥のことを思って、
裕子はそれから先、極力それを思い出さないように過ごすことになった。
- 194 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/10(日) 21:17
-
とりあえずの自己紹介と挨拶を終え、そこで両親から亜弥が聞くことはできるが
しゃべれないことを聞かされた。
といって、別に困ったわけではない。
必要なコミュニケーションは親が取る。
だから、裕子はつかず離れずの距離を守り、味方でも敵でもない存在として、亜弥と接していた。
亜弥のことを「松浦」と呼ぶのも、距離の表れだったのかもしれない。
亜弥はその言葉に呼応するように、裕子のことを「中澤さん」と呼んだ。
──ちなみに、父親のことは「パパさん」、母親のことは「ママさん」と呼んでいる。
それが功を奏したのかなんなのか、なぜか亜弥は家族の中で一番早く裕子になついた。
なついた、といっても割と近くにいることが多い、程度だ。
必要以上に世話を焼いたりしょっちゅう話しかけるわけでもなかったので、
そばにいるのが気楽だったのだろう。
親ともうまくやっていたようだし、天下太平事もなし、なはずだった。
ところがである。
予想外の出来事は、すべてにおいて突然起こるのだ。
- 195 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/10(日) 21:19
-
亜弥と裕子が一緒に暮らし始めてから2年。
何となく家族としての体裁をなすようになった頃、父親の海外赴任が決まった。
栄転である。
家族のこともあるから断ろうかと思っていたらしいが、そこはそれ、裕子も立派な大人。
「行ってきたらええやん。アタシらやったら、へーきやし」
その一言と、頼りなげながらもこくりとうなずいた亜弥の笑顔を胸に、
裕子の両親は機上の人となったのだった。
「さーて。そんならアタシらはまず、家の役割分担決めなあかんな」
ふたり暮らしになってはじめて裕子から話しかけた言葉がそれ。
緊張して表情をこわばらせながらも、亜弥が必死になってこくこくとうなずいていたことは、
ほかのどのことよりもはっきりと覚えていた。
* * *
- 196 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/10(日) 21:20
-
ふたり暮らしをはじめてから、裕子が知ったこと。
亜弥には極端に友人が少ない──いや、いないと言ったほうが正しいか。
手話ができない裕子に亜弥は、返事を筆談かメールでしてくるのだが、
日々、さほど多くはないながらも会話をしている中で、
亜弥が学校での話題をほとんど出さないことに気づいた。
裕子から振ればきちんと応えては来るものの、自ら話し出そうとはしない。
しょうがないのかもしれん。
今時の子が話すよりもメールでコミュニケーションを取るとしても、
亜弥は初対面の人間に対しての壁があまりにも厚い。
近づいてくれば拒絶しようとするし、離れていれば接しようとしない。
扱いにくい子だと思われているのは間違いない。
本人はそれを意に介している様子はなく、亜弥の頑固さを知っている裕子としては、
無理矢理仲良くしなさいとも言えず。
ふたり暮らしをはじめて2年。
裕子は仕事で成果を残したりトラブルに巻き込まれたりしながらも日々を過ごし、
亜弥は特別何にも巻き込まれないまま日々を過ごし、無事高校生になった。
ある意味平穏と思われる日々を過ごしてきたのだ。
ところがである。
予想外の出来事は、すべてにおいて突然起こるのだ。
- 197 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/10(日) 21:21
-
「松浦ー?」
その日、いつもより1時間ほど遅く帰宅した亜弥は、リビングに顔も出さず、
一目散に自室へと向かってしまったようだ。
乱暴にドアの閉まる音を聞いた裕子は、それだけで亜弥の身に何かが起こったことを悟った。
普段なら放っておくところだ。
だが、一日の挨拶だけはどんなことがあってもきちんとしなさい、きちんとしようと言い聞かせ
実行してきただけに、それを無視するわけにはいかなかった。
「松浦、入るで?」
ドアをノックしてノブを回すと、あっさりと開く。
それもそのはず、裕子の家で鍵のかかる部屋はトイレしかなかった。
それが、裕子の母親の教育方針でもあった。
部屋の中は暗い。
いつもなら、外から何らかの灯りを拾ってくるのに、その日は雨がひどく、
部屋の中までもやっているように見えた。
それでも、何があるかがわからないほどではない。
少し目をこらすと、ベッドに座ってぽかんとしている亜弥の姿が見えてきた。
- 198 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/10(日) 21:22
-
「……どした?」
後ろ手にドアを閉めて、裕子が部屋の中に足を進めても、空気はまったく動かない。
おびえているわけではなさそうだったので、裕子はそのままゆるりと亜弥に近づいた。
正面に立って、髪をなでると亜弥の視線が上を向いた。
目が合う。
……ただいま。
口の形がそう告げたので、裕子はおかえり、と少し軽めのトーンで応える。
髪をなでて、どした、ともう一度聞いた。
ぐずぐずと何か迷っていた亜弥だったが、意を決したように鞄を開けると、
そこから白い封筒を取り出してきた。それをそのまま、裕子の目の前に差し出す。
コクリ。
響いたのは自分の音か、それとも亜弥のものか。
判断するよりも前に、裕子はほぼ条件反射で封筒に手を伸ばす。
- 199 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/10(日) 21:23
-
「……アタシが読んでいいん?」
トクリ。
心臓が、その存在をいつも以上に主張してくる。
気づかぬふりを決め込んで、裕子は亜弥がためらいがちにうなずいたのを確認すると、
その、一度開けられた跡のある封筒を丁寧に開いた。
中から出てきたのは、封筒と同じような、なんの飾りもない便箋が一枚。
正直、丁寧とは言えない文字で、短く、亜弥への恋心がつづられていた。
予想通りだった。
亜弥は困ったように眉を下げて、反応を待っている。
裕子は便箋を折り目通りに折りたたんで封筒に入れると、亜弥に返した。
「……こういうのもらうの、初めてやったっけ?」
ふるふると首が横に振られる。
確かにしゃべれなくて取っつきにくいには違いない亜弥だが、
案外男子には人気があるらしく、中学生の頃も何度かラブレターをもらってきていた。
本人にはその気がまったくなかったらしく、すべて断ってはいたようだが。
慣れているわけではないにしても、この呆けようは普通ではない。
だとしたら。
- 200 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/10(日) 21:25
-
「……松浦は、これくれた子のこと、知ってるんや?」
首が今度は縦に振られる。
「実は、ちょっといいなって思ってた」
問いかけではなく、言い切り。
幼い頃からのくせなのか、亜弥は曖昧な問いかけをすると言葉を濁してしまうことがある。
時には質問者が強気に出なければ、彼女の本音に触れることはできないと知っていたから、
裕子はあえて、心臓の存在を遠くに追いやって言った。
落ち着きなく、亜弥の細い指が肩より少し長い髪を引っ張る。
引っ張ったり指先でひねったりして十数秒、小さく頭が上下した。
ドクリ。
遠くに追いやった腹いせでもしたいのか、裕子の心臓は外に聞こえそうな勢いで音を発した。
胸を圧迫する感覚に苦しくなって、息を吐く。
あかん、限界や。
勢いよく亜弥に背を向けたら、少しだけ後ろに引っ張られた。
ふたりだけで生活してきただけあって、お互いがお互い、些細な雰囲気ひとつで
そのあとにどういった行動を起こそうとしているのかがわかるようになってしまっていた。
ちらと後ろを振り向けば、亜弥の手がしっかり服の裾をつまんでいた。
- 201 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/10(日) 21:25
-
「……ええんちゃう? 何事も経験やし」
大丈夫、声は震えていない。
テンションは上げすぎず、下げすぎないこと。
無理をしようとするとはしゃぎすぎてしまうことくらい、自分が一番よく知っている。
気づかれるな。気づかせるな。
ずっと押し殺してきた、この想い。
くい、と服が引かれて、裕子はしぶしぶ振り返った。
不安そうな瞳の亜弥が、ベッドに座ったまま裕子を見上げている。
「あんな、松浦」
うまく呼吸をするために、短く言葉を吐き出す。
「アンタももう高校生やねんから、そういうことはアタシに相談せんと決めてええんやで?」
ほんの一瞬だった。
今までの、どの出来事よりも予想外だった。
裕子の言葉に亜弥が見せた顔は、それこそまるで捨てられた仔猫のような。
──絶望。
- 202 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/10(日) 21:26
-
「あ……」
服をつかんでいた指が離れた。
暗い部屋の中、うつむいてしまった亜弥の表情はもう読み取れない。
ただ、さっきの言葉を反芻するような短い時間のあとで、その頭が小さく上下した。
もう、触れられなかった。
「……ただ、門限だけは守ってな? あれは、お母さんとの約束やから」
今度はためらうことなく頭が上下する。
それを確認した裕子は、それ以上声をかけることもできず亜弥の部屋を出て、
そのまま向かいの自分の部屋へと入ると、電気もつけないままベッドに突っ伏した。
しまった。大失態だ。
4年一緒に暮らして作り上げた細いながらも確かな絆を、自ら断ち切ってしまった。
人と距離を取ることしかできなかった亜弥が、人に好意を寄せられるようになったことは、
喜ぶべきことなのに。
自分が傷つかないことを、最優先にしてしまった。
あげく、自分も亜弥も傷つくという、最悪の結果を招いた。
- 203 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/10(日) 21:28
-
……ホントに最悪や。
いつからだったろう、亜弥に対する自分の気持ちに気づいたのは。
最初こそ、こんな子供を好きと思うなんて、家族愛と恋愛を混同してるとごまかした。
だが、ふたりきりでの時間が増え、それでもあまり距離感を変えずにいたことで、
どんどん亜弥は裕子になつくようになり、おそらくこの世の誰ひとりとして見たことがない
笑顔を裕子に向けるようになった。
怒ったり拗ねたり感動して泣いたり、思っていたよりもずっと感情表現豊かなところも
見ていて飽きなかった。
いつだって慕ってくれるその姿がかわいくて。
ふたりで過ごすことに安心と幸せを感じる一方で、不安を抱くようにもなっていた。
いつか、亜弥はこの家から、自分の元から離れていくんだと。
その不安こそが、彼女への想いを表す、最大の指標だった。
……気づいてしまった。
亜弥に恋している自分に。
そのことを表に出すわけにはいかなかった。
裕子は亜弥にとって、いい姉で家族なのだ。
好きだ、などと告げてこの関係を、4年かけて築いてきた世界を壊すわけにはいかない。
違う。そうじゃない。
この感情を否定されてなお、同じ家で暮らし続けていける自信がなかっただけだ。
だから言えない。言えなかった。
なのに、誰かに取られるのは嫌だなんて……どんな小学生だ。
自嘲気味に笑って、風の音に気がついた。
このまま嵐になればいいと、そう思った。
* * *
- 204 名前:_ 投稿日:2007/06/10(日) 21:29
-
更新終了。
続きます。
>>190
レス、ありがとうございます。
地味ーに地味ーに進んでいきますので、
ゆったりめでお待ちいただければと思いますw
- 205 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/11(月) 00:53
- 更新お疲れ様です。
あ〜、もう、読んでてドキドキします。
- 206 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/18(月) 00:22
-
それからの日々は、倒れたら爆発しそうな不安定さを抱えながらも、
平穏という天秤の上、それなりのバランスを保ちながら流れていった。
裕子と亜弥の間には以前ほどの会話はなくなっていたが、
挨拶と門限だけは律儀にふたりとも守り続けていた。
亜弥と例のラブレターをよこした子とは、半年を目前に控えたところで終わったらしい。
毎週末ごとに出かけていたのが、パタリ、冬休みを境になくなってしまったことで、
裕子はそれに気づいた。
理由がなんなのかは聞いていない。
少し元気がなさそうにしていたのは、それが理由だと思っていたから追究しなかった。
勘違いだと気づいたのは、暖冬と冬にしては長く居座り続けた前線のせいで、
毎日雨が降るようになってからだった。
- 207 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/18(月) 00:22
-
「松浦」
冬休みの最中。
裕子の仕事納めを待ってはじめた大掃除の終わりが見えた頃になって、
裕子は窓ふきをしていた亜弥に声をかけた。
亜弥はさっきから同じ窓を何回も繰り返しふいているだけで、そこから動こうとしない。
「その窓はもうキレイやから、隣ふきなさい」
素直にうなずくだろうと思い、亜弥は確かにその通りにしたのだが、そこから動こうとしない。
声をかけても反応が芳しくなくて、裕子は手を止めて亜弥に近づいた。
「どした」
もう一度声をかけると、亜弥はふるふると激しく首を振る。
どうも、様子がおかしい。
「……こっち向きなさい」
ふるふるふるとますます激しく首を振る。
「松浦!」
少し強めに名前を呼んで、肩をつかんで体の向きを変えさせる。
その、久しぶりに触れた肩の細さに驚いて顔を見ると、亜弥はほほと目を真っ赤にしていた。
- 208 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/18(月) 00:24
-
「どした」
言いながら、額に触れる。
熱い。体温計に頼らなくても、熱があるのがわかった。
「ちょ、アンタ……具合悪いんやったら、なんで早よ言わんの!」
ふるふるふるふるふる。
振りすぎて頭がふらつくんじゃないかと心配になるほど、亜弥は首を振った。
「とにかく、掃除なんかあとでええから、部屋に行って……」
言いかけて、言葉を止める。
ほんの一瞬、上目遣いに裕子を見たその瞳には、初めて挨拶をしたときのような、
彼女を突き放してしまったときに見せたような、儚い色が浮かんでいた。
呼吸が3秒止まる。
ああ、そうか。
ラブレター騒動から半年。
この子は、あのとき感じた絶望をまだ忘れていない。
いや、一生忘れられないのだろう。
自分の周りから誰もいなくなるんじゃないかという恐怖感を。
それが、自分でも意識できないほど、記憶の深いところにあるものだったとしても。
- 209 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/18(月) 00:25
-
裕子はとりあえず亜弥をそこに立たせたまま、冷蔵庫の中を探して冷却シートを引っ張り出し、
亜弥の手を握って、無理矢理部屋まであがらせた。
パジャマに着替えさせてから、その額にシートを貼り付けてやる。
「ちょっと体温計とか取ってくるから……」
部屋を出ようとしたところで、くいと後ろから引っ張られた。
振り返れば、そこには裕子の服の裾をしっかりと握りしめた亜弥がいて、
真っ赤な目で裕子を見上げている。
「寝てなさいって」
ふるふるふるとまた頭が振られる。
弱々しい指が、たぐり寄せるように少しずつ裕子の服を引っ張る。
引っ張られるまま、裕子は仕方なく亜弥に近づき、服をつかんでいた指をはがして手を握ると、
正面から亜弥の目をのぞき込んだ。
「どうしたんや?」
左手で亜弥の手は握ったまま、乱れた前髪を右手で直してやると、亜弥は小さくその口を開いた。
- 210 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/18(月) 00:26
-
あめ。
一度も聞いたことのない亜弥の声が、そのとき確かに裕子に届いた。
か細く切なく、儚げな──。
「雨が……ああ、確かに降ってきたみたいやな」
朝から視界を鈍色に染めていた空は、いつの間にか雨を落としはじめていた。
パタ、パタとまださほど強くない雨音が、窓の外から聞こえてくる。
手が強く握られた。
汗ばんだ熱い手。それが小刻みに震えている。
「どした。寒いか?」
その問いには答えず、亜弥はもう一度さっきと同じ口の形を作る。
そして──。
- 211 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/18(月) 00:27
-
あめ、やだ。
4文字で自分の胸の内を告げてきた。
その意味するところが、裕子にはわからない。
ただ、眉を下げてあまりにも不安そうな眼差しをするのが気になって、一歩亜弥へと近づいた。
「雨が……いやなんか?」
握っていた手を離し、亜弥はまた裕子の服を捕まえると、たぐり寄せるようにして
さらに距離を詰めた。
どうするのかと思って、亜弥の次の行動を待っていると、亜弥は弱々しいながらもしっかりと、
その両腕を裕子の背中に回してきた。
背中の部分の布地を一部、捕まれたような感覚。
いつの間にか、ほとんど背丈の変わらなくなった亜弥の頭が、肩に乗せられた。
- 212 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/18(月) 00:28
-
口が見えなくなってしまったから、亜弥の言いたいことはわからない。
腕が小刻みに震え続けていることに気づいて、裕子は亜弥の背中に腕を回し、
しっかりと抱きしめ返した。
唸るような音が、亜弥の声が耳より先に胸に響いた。
ぽんぽんと2回、それに応えるように背を叩く。
もう一度、唸るような声が聞こえてくる。
もう一度、ぽんぽんと2回背を叩く。
3回繰り返して、亜弥からの唸り声はやんだ。
「大丈夫か……?」
かすかにではあるが、亜弥がうなずいたのがわかった。
裕子は亜弥を抱きしめたまま、なんとかベッドまで移動すると、よっこいしょ、とかけ声をかけて
ベッドに腰を下ろした。
「松浦、ベッド、あがれるか?」
もそもそと腕の中で亜弥が動いて、なんとかベッドに足は乗せられたようだ。
しかし、裕子は亜弥を抱きしめたまま。
つまり、思いっきり体重をかけられている。
- 213 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/18(月) 00:29
-
「ま、松浦、ちょっと体、下げて、下に」
言われるまま、亜弥はもぞもぞと体を動かす。
肩にあった頭の位置が下がって、胸から腹、そして太ももの上へと移る。
そこを定位置と決めたのか、亜弥は頭を裕子の腹に押しつけると、
抱きしめていた腕の位置を変え、両腕で裕子の腰を抱き込んだ。
その強さにほっとして、裕子は亜弥の背中をなでる。
「大丈夫や、ここにおるから。大丈夫」
何が大丈夫なのか、言っている本人がわかっていない。
腕の力はゆるまないままだったが、亜弥の手から伝わってくる震えは、
裕子が気づいたときにはおさまっていた。
雨の日の亜弥の事情を知ったのは、それからすぐのこと。
母親から、雨が降り出すと亜弥の調子がおかしくなることを聞いた。
その、確実かどうかわからないが、理由らしきものを聞かされて、裕子はきつく眉根を寄せ、
さして思うこともなかった亜弥の親に、棘のある感情を持った。
……会うことがなかったので、それが表面に出ることはなかったが。
亜弥の変化に気づかなかった、と答えたら、一緒に暮らすようになってしばらくしたら、
調子は悪いなりに普通の生活を送れるくらいにはなっていたのだと教えられた。
- 214 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/18(月) 00:30
-
裕子の両親がこの家を離れてからも、変わらずに続いていたものだったのだろう。
裕子はこの前の雨の日まで、雨の日の亜弥の様子に疑問を抱いたことはなかった。
それが、ここにきて急に……である。
理由として思い当たるものは、ひとつしかなかった。
変わってしまった自分と亜弥の関係。
変わってしまったのは、もうずっと前の話。
その間にも、雨は幾日も降った。
おそらく。
亜弥は隠していたのだろう、自分の身に起こる不調を。
あの日に限っては熱と相まって、それが表に出てしまったのだ。
自分のうかつさに気づいて、裕子は目を閉じてため息を漏らす。
あの子をずっと見てきた。些細な変化も知っているし、ほかの誰にも見せない
顔も見ていると思っていた。だが、それはひとりよがりな勘違いでしかなかった。
どうすればいいだろう。
普通に戻ったあの子は、これから先、雨が降ったらどうするのだろう。
放ってはおきたくない。
だからといって無理に手を伸ばせば、距離は広がるばかりだ。
一度断ち切ってしまった糸を結び直せば、そこにはいびつな結び目ができてしまう。
思考を逡巡させていた裕子だったが、気を取り直して目を開けた。
いびつだろうがなんだろうがかまわないじゃないか。
結び目ができていたとしても、前よりも強固じゃなくなっていたとしても、
その糸は確かにつながっているんだから。
* * *
- 215 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/18(月) 00:30
-
結果として、裕子の固い決意はあまり意味をなさなかった。
なんの鎖がはずれたのか、次に雨が降ったとき、亜弥が自ら裕子の元を訪れたからだ。
それ以来、雨が降るたび、裕子と亜弥は常にそばにいるようになり、
距離が近づくにつれて、離れていた関係も少しずつ元の形に近いものになった。
その一方で、亜弥の周りは確実に変わり続けている。
年齢が違うから気楽なのか、大学に入ってから急に友達が増えた。
それも、休んだらわざわざお見舞いに来てくれるような、お節介焼きな友達だ。
当初こそ、しゃべれない亜弥との関係がどうなるか心配していたが、
割と良好なようで、裕子も安心している。
安心したからこそ、今の状況に満足できなくなってしまった。
一度は失敗し、一度はあきらめかけたこと。
安定し、距離が近づいたことで、沈めていた想いが表面化してきた。
そんなときに彼女──美貴に出会った。
車の中の会話。
うっすらと、美貴が亜弥を想っているんじゃないかと感じ、
だからこそ、ほかの子たちより亜弥に近づこうとしてくれるんじゃないかと思った。
亜弥が意図せずして抱えることになった秘密がほかに知れれば、
その秘密が亜弥と直接ぶつかることになれば、
自分と亜弥の関係はともかく、亜弥はきっと大きく変わるだろう。
- 216 名前:4.ユウコ 投稿日:2007/06/18(月) 00:31
-
ホント、ずるいなあ、アタシ。
自分でぶつけないのは、またあのときのように離れてしまうことを恐れているから。
あのときと同じ想いをしたくないから、年下の何も知らない子に先行きをゆだねる。
知っていてそれをやる。
これをずるいと言わずしてなんと言うのか。
けどな、松浦。
それでも、アタシは変えたいんや。
眠り続ける亜弥の背を、裕子はそっとなでた。
アンタの世界を。
凍ってしまった声を──。
* * *
- 217 名前:_ 投稿日:2007/06/18(月) 00:33
-
更新終了。
続きます。
>>205
レス、ありがとうございます。
ここから展開が少し変わっていく……予定ですので。
もうちょっとドキドキするかもしれませんw
- 218 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/19(火) 00:20
- 相変わらず面白い。大期待。
- 219 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/10(火) 00:26
- 続きが気になります…
- 220 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/14(土) 23:16
- 更新待ってまーす
- 221 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:12
-
後藤真希は大学生である。
そして、周りからは素性がよくわからないと言われる女の子でもある。
- 222 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:13
-
ずっと。
もうずっと、何も起きなかった。
真希が大学に入学してから1年と少し。
入学早々にひとみと知り合い、その流れで美貴やあゆみとも知り合ったが、
周りの人間が変わったところで、真希の周りに特別な風は吹かない。
学年があがって、亜弥と出会ってもそれは変わらなかった。
月日を重ねても、真希の毎日は変わりなく続いていく。
そういうものだ。
人間は、そして周りは簡単に変わりはしない。
自分の行く先にある道は、過去からつながっているのだから、簡単に変わるはずはない。
きっとこのまま時を重ねていくんだろうと、真希はぼんやりと思っていた。
しかし、時に世界は急激に色と形を変える。
超能力者じゃないかと半分冗談で疑われている真希にさえ、
昨日まで過ごしてきた穏やかな時が、まさか一夜を越えてこう変わるとは、
予想さえできなかった。
* * *
- 223 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:13
-
穏やか、というには語弊があったかもしれない。
台風の接近によって、街には強風が吹き荒れていたが、幸いなのかどうなのか、
まだ雨は降っていなかったので、講義は休講にならなかった。
本来なら美貴のようにさぼっていたところだろうが、必修のうえに出欠確認があるのでは
休むわけにもいかなくて、真希はしぶしぶながらも大学へと出向いていたのだ。
風は確かに強いが、天気は極端に悪いわけではない。
天気予報でも今日の間は雨は降らないだろうと言っていた。
風の強さのせいなのか、空を見上げると、雲の切れ間から青空がのぞくこともある。
その奇妙な光景に、真希は自分でも無意識のうちに顔をしかめていた。
心臓がおかしな動きを1回。
指先が冷たくなる。
予感。
何かが起こる、予感。
それがいいものか悪いものかは真希にはわからない。
いつ起こるのかも当然わかるわけはなく、考えても仕方がないからと頭を切り換えて
風の中を学食へと歩いていく。
その最中。
事は起こった。
- 224 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:14
-
視界には緑の庭と小さな池。
さほど深くはないという話だが、それでも人が落ちないようにと柵が設けられている。
その柵の向こう。
真希は見慣れた人間が自分のほうに向かって歩いてくるのを見た。
池の横を通りながら呼びかけようと口を開いたところで、真希を突風が襲う。
予想以上に強い風に、体が左に傾く。
左足で踏ん張って、風にあおられる髪を右手で束ねて視界を開く。
顔をしかめながら歩いていた亜弥が、何かに気づいたように視線をあげた。
目が合う、その直前。
体が、自分の意志とはまったく関係なく、左にぶれた。
理解できなかった。
まっすぐ立っていたはずの亜弥が突然斜めに傾いたかと思ったら、
確認するより先に、右から衝撃。世界が赤黒く染まる。
衝撃が起こす激痛で、真希の視界が戻る。
同じ高さにいたはずの亜弥が、空を、飛んでいる。
揺らぐ木々と、鈍色の雲。
雲の隙間からのぞく、青い、青い空。
- 225 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:15
-
体の制御が効かない。
左へ引っ張られ、下から風にあおられる感覚。
何もできないのに、それだけはわかる。
スローモーションのように、視界がゆるやかに動いていく。
あっけにとられている亜弥と目があった。
心臓がおかしな動きを2回。
予感、予感だ。
間違いなく、嫌な予感。
違う、記憶。思い出。
これは──過去の出来事だ。
真希の体を襲う風がやんだ。
直後、水しぶきが生き物のように真希の視界を覆う。
飛び散るしぶきの隙間から、亜弥の顔が見えた。
……やってくれる。
運命の歯車はとてつもなく残酷に、機械的に動いていく。
激痛に今度は意識を取られる。
気を失うギリギリ直前に、真希は亜弥の口から聞こえるはずのない悲鳴を聞いた。
それは、いつかどこかで聞いてしまった、子供の声によく似ていた。
* * *
- 226 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:16
-
……誰かの声がする。
聞いたことのない声。
追いかけるように聞き慣れた声。
年の割には幼い、でもしっかりした音で、真希はそれがあゆみのものだと理解した。
意識するでもなくまぶたがあがって視界が明るくなる。
広がっているのは白い……天井だ。
蛍光灯が煌々と部屋の中を照らしている。
「……目、覚めましたか?」
聞き慣れない声。
でもどこかで聞いたような声。
まばたきを1回したら、激痛が走って思わず真希は顔をしかめた。
「……大丈夫ですか」
小さな声に、いえ、と頭を動かさずに小さな声で答えた。
ちょっと身動きをしようとすると、それだけで右のこめかみあたりに激痛が走る。
とても大丈夫なんて言えたものじゃないから素直にそう答えたのに、
部屋の中にはほっと力を抜いた空気が広がった。
頭を動かさず、視線さえ動かすことができず、真希は白い天井を見つめる。
と、ひょっこり顔をのぞき込んできたのは、真希の理解したとおりあゆみだった。
- 227 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:16
-
「……柴っちゃん」
あまり口を動かさないようにすると、どうしても小さな声しか出なかったが、
それでもあゆみの耳には届いたようだ。あゆみがこくりとうなずく。
「あたし……」
どうしたんだっけ、と問う前に真希はゆっくりと呼吸をしながら
自分の身に起こった出来事を思い出そうとした。
断片的に、気を失う前のことが思い出される。
風と衝撃。
冷たい池の水。
青い空、鈍色の雲。
──顔面を蒼白にした、亜弥。
「そっか……」
「うん、なんか風のせいで飛んできた看板が頭に当たったみたい。
で、池に落っこちて倒れてたんだって」
なんともまあ、見事なタイミングではないか。
たまたまあそこを歩いていた真希にたまたま看板がぶつかって、たまたまそこに亜弥がいるなんて。
- 228 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:17
-
……ホントに、やってくれる。
諦めと愚痴を一緒くたにしてため息にして吐き出し、真希は体を起こそうとした。
気がついたあゆみがあわてたように背中を支えてくれる。
あゆみに声だけでありがとうと告げ、何とか無事に起き上がることに成功すると、
ベッドの脇に見たことのあるようなメガネの女性が座っていた。
彼女は真希が起き上がったのを確認すると、イスから静かに立ち上がり一歩、後ろに下がる。
真希の不審そうな思いに気づいたのか、あゆみがあわてて彼女を紹介してきた。
「あ、あの、ごっちん。こちらは学生課の村田さん。ごっちんが倒れてるの、
最初に見つけてくれた人だよ」
「……すみません」
「いえ」
そうか、この人が柴っちゃんの恋人か。
真希が一番最初にめぐみを見て思ったことがそれだった。
なるほど、あゆみが好きになるのもわかる気がする。
自分たちとは違う、大人のような落ち着いた、でもそれだけではなさそうな人。
「ちょうど救急車を呼ぼうと思ってたところだったんですが」
「いえ、大丈夫です」
ということは、自分はさほど長い時間気絶していたわけではないということか。
真希は軽く右手で顔に触れながら、壁に掛けられている時計を見た。
湿布でも貼られているのかそれとも包帯なのか、こめかみから頭にかけてごわごわする。
確かに、講義が終わってから学食へ向かう時間を考えても、気絶していたのはほんの数分だ。
- 229 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:18
-
「でも、病院には行ったほうがいいですよ」
打ったところが頭ですし、というめぐみの言葉に真希は素直にうなずいた。
痛みは完全に引ききらないまま、右目のあたりでゆらりゆらりと揺れている。
長く呼吸をすることでその痛みをできるだけ暴れさせないようにしながら、
真希はあゆみに亜弥のことを聞こうとした。
しかし、その言葉は直前で止まった。
医務室のもうひとつあるベッドに、亜弥のものと思われる足が見えたから。
上半身はカーテンで隠されていてわからない。だが、たぶん間違いないだろう。
「まっつーは大丈夫?」
突然問いかけられたせいか、あゆみはビクッと肩を震わせた。
「あ、うん、大丈夫だと思う。特にケガとかはしてないみたいだし」
「そう」
ゆっくり体の向きを変えて足をベッドから降ろす。
そのときになってやっと、真希は自分の体が冷たいことに気がついた。
着替えさせる時間はなかったのだろう、ジーンズが見事に色を変えている。
ベッドの下に置かれているスニーカーも、池の水を吸ったせいかくすんで見える。
気分は悪いが仕方ない。
真希はかかとをつぶしてスニーカーを突っかけると、できるだけゆっくりと立ち上がった。
多少頭は痛むが、視界はぶれない。大丈夫だ。
- 230 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:19
-
「じゃあ、あたし、これから病院行ってくる」
「え、ひとりで平気?」
「大丈夫、家に連絡して車呼ぶから」
「あ、ああ、うん。でも、だったら車来るまで待ってたほうがよくない?
外、雨降り出したよ?」
「大丈夫、呼べばすぐ来るから」
不満たっぷりの顔をしたあゆみの脇から、すっとめぐみが前に出る。
「これ、よかったらどうぞ」
差し出されたのは、真っ赤な傘。
真希は素直にそれを手に取った。
付き添いを断ったことではっきり不満を表しているあゆみを、これ以上刺激したくなかったから。
「じゃあ、まっつーのことも、よろしくね」
「あ、うん」
「気をつけて」
めぐみに会釈をして、真希は医務室を出た。
時間の割に外が暗くなっているのは、雨のせいだろう。
窓から外を見ると、ちらちらとのぞいていた青空はもうその存在を隠してしまっている。
風はさっきほど強くは吹いていないようだが、時折あおられて雨が窓に当たる。
見える範囲にはほとんど人の姿はなく、それが校内を荒廃した街のように見せていた。
- 231 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:19
-
正門か、裏門かどちらに行こうかとと考えながら、頭が痛まないようにできるだけ速度を落として歩く。
医務室のある棟は、正門より裏門に近い。
真希は歩きながら携帯電話を操作して、メールで車を呼んだ。
おそらく、10分とかからずにたどり着くだろう。
棟の入口に立って、めぐみから受け取った真っ赤な傘を開く。
あまりの赤さになぜかめまいがしかかって、すぐに視線を正面に向けた。
雨脚は、さほど強くはない。
濡れたスニーカーを雨の中に差し出して、真希は歩き出す。
裏門への道は、いくつかの棟の外側にある。
道の脇に数多くの木々が植わっていて、その向こうにフェンスが設けられている。
フェンスの向こうは一般の家だったり道路だったりする。
車が通れるように、広く作られたその道を真希は右端に寄りながらゆらりと歩く。
カーブを曲がり、そろそろ裏門が見えると思ったそのとき、左手方向から人が現れた。
普通より少し大きめの青いビニール傘を差した人。
透けて見える髪は、黒ではなく茶か金か。
ほかに見えるものがないので、真希の視線もついそちらを向いてしまっていた。
数歩歩いて、その人のビニール傘が上を向いた。
そこにいたのは、今一番会いたくない人だった。
- 232 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:20
-
指先が冷えていく。
近づいて、彼女も自分に気づいたのだろう、少し表情が和らいだ。
軽く会釈。
会釈が返ってくる。
道路の右端を歩いている真希と、左から出てきた彼女とでは距離がある。
そのまますれ違えるはずの距離。
それなのに、真希は緩やかに進路を変えた。
前に進みながら、少しずつ左に寄る。
言葉は交わさない。
すれ違って2歩。
真希は足を止める。
「気づいてたんでしょ」
パタパタと雨が傘を叩く音が重なる。
彼女も足を止めている。
すぐに返事はなかった。
人通りもなく、雨音しか聞こえない。
裏門の向こうを車が数台通りすぎていく。
「何に?」
帰ってきた言葉に、真希は傘の柄を強く握っていた。
- 233 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:20
-
「……っ」
バカにしているのか、からかっているのか。
危うく怒鳴りつけそうになって、ふと目の奥で何かが光った。
彼女は大人だったはずだ。だから知っているだろうと思った。知らされているだろうと思った。
だが、彼女の声には、何かを企んでいるような色はなかった。ためらいもなかった。
じゃあなぜすれ違ったのに立ち止まった?
何か言われると思っていたからじゃないのか?
……落ち着け。
雨音に耳を澄まし、湿った空気を肺に入れる。
彼女は、わざわざ進路を変えた自分の行動の奇妙さに気づいていた。
だから、自分の行動に深く気を配っていた。
それだけのことだとしたら。
彼女は、本当に知らないのだろう。
感情の揺れを止めるのに、さほどの時間はいらなかった。
真希は深呼吸ひとつせずに、出会う前の落ち着きを取り戻し、肩に入っていた力を抜いた。
- 234 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:21
-
「知ってはいるんだよね」
「何を」
「まっつーの思い出、少し欠けてること」
「……なんでアンタが」
動揺がわかった。
その言葉を言った時点で、真希の問いに答えたのだ、彼女──裕子は。
「だって──」
それがわかったから、真希は裕子の言葉を待たずに、一太刀で切り捨てるように、
ためらうことなく言葉を紡いだ。
長い沈黙。
傘の柄に負荷を与えていた手の力は、自分でも意識しないうちにゆるんでいた。
裕子が振り返る気配はない。
真希がその沈黙を埋めるようににいくつかの言葉を浮かべ、そして沈めていると、
背中から色のない声が聞こえた。
- 235 名前:5.あや 投稿日:2007/07/22(日) 21:22
-
「……アタシは言わんよ、あの子には、一生」
「一生……? あの子が思い出したとしても?」
「思い出したとしても。そんな権利、アタシにはない。それにアタシは」
プツッと。
停電にでもなったかのように、彼女からの音声が途絶えた。
振り返りそうになった真希を押しとどめたのは、離れていく足音だった。
何が言いたかったのだろう、彼女は。
視界に見慣れた車が止まるのが見えて、真希は止めていた足を前に進める。
あの子が思い出しているかもしれないと告げたら、どんな顔をしたのだろう。
今日起こった出来事から、何を想像するのだろう。
少し、指先が温かくなった。
次、あの子に会ったとき、あの子がどんな顔をするのか、純粋に興味があった。
* * *
- 236 名前:_ 投稿日:2007/07/22(日) 21:24
-
更新終了。
続きます。
レス、ありがとうございます。
>>218
ありがとうございます。がんばります。
>>219
やっと続きがかけました。お待たせしました。
>>220
お待ちくださってありがとうございます。
- 237 名前:名無飼育さん。 投稿日:2007/07/29(日) 22:33
- うわーすごいドキドキ
楽しみなような怖いような、です
更新楽しみにしてます。
作者さんのペースで頑張ってください!!
- 238 名前:5.あや 投稿日:2007/07/29(日) 23:36
-
ポツ、ポツ、と水の落ちる音が聞こえる。
目の前に、女の子が横たわっている。
全身ずぶ濡れで、その子からあふれ出た水が地面の色を変えていく。
ポツ、ポツ、と時々思い出したように、目の前を水滴が通り過ぎていく。
体が引っ張られるように重くて冷たい。
横たわった女の子は、ピクリとも動かない。
突然視界を塞いだ見慣れた女性の顔。
何か語りかけられた気がする。
どんな言葉だったか覚えていない。
ただ。
幼心に思ったのは、ただひとつ。
彼女がなぜ、あの子を見ていないのかということだけだった。
* * *
- 239 名前:5.あや 投稿日:2007/07/29(日) 23:37
-
目覚めは最悪だった。
起きた瞬間、今まで見ていた夢と、それにまつわる出来事を一度に思い出してしまい、
真希は反射的に顔をしかめていた。
表情をつけた拍子に頭の右側がズキリと痛んでまた顔をしかめると、
もう一度同じように頭が痛んで、思わず舌打ち。
これ以上痛まないようにと長く、ゆっくりと息を吐き出して天井を見つめる。
見覚えはある天井だった。
真希の体を受け止めているベッドは、いつもと違い無駄なほどにスプリングが効いていて、
その上にある布団はふわふわしていて、体ごと埋まってしまいそうになる。
感触は悪くないのだがどうしてもなじめず、真希はゆるゆると体を起こした。
それを待っていたかのように、遠慮がちにドアがノックされる。
「……どーぞ」
吐き捨てるように言い放つと、恐る恐るといった感じで人ひとりギリギリ通れるくらいの幅で
扉が開いた。
数日前に初めて会った女性は体を部屋の中に入れ、それなのにすぐ逃げられるような体勢で
扉の前に立ったまま、お加減はいかがですか、と背中がむずがゆくなるような言葉を吐いてきた。
- 240 名前:5.あや 投稿日:2007/07/29(日) 23:39
-
「別にどーってことも」
自分の言葉など、どの程度聞いているのだろうか。
女性はそうですか、お食事はどうなさいますか、とまったくかみ合っていないことを言い出す。
おそらく向こうも同じ気持ちなのだろうが、居心地が悪いというよりは、
いたたまれなくなって真希は立ち上がった。
女性がビクリと半歩下がりかけて扉にぶつかる。
枕元に放り投げていた携帯を手にして時間と日にちを確認する。
大学を出て病院を経て、ここに来てからちょうど5日。
小学生でも5日もいれば状況になれると思うのだが、
真希の体はここにいることを拒絶するかのようにこの場になじもうとはしなかった。
時間は夕飯時より少し前。
窓の外に見える空は、オレンジで満たされていた。
「いらない。もう帰るから」
え、でも。
女性の声は、真希の記憶には決して残らないだろう。
女性がそこにいることにもかまわず、真希はここに来たときの服に手早く着替え、
ベッドの脇に置かれていたカバンを手にする。
迷いなく扉に向かうと、女性はどうともできずに道を譲ってくれる。
首を左に曲げて彼女を一瞬だけ見てから、真希はそのまま部屋から玄関まで歩き、
誰にも止められることなく、声すらかけられることもなく、少しばかり普通より広い家を後にした。
- 241 名前:5.あや 投稿日:2007/07/29(日) 23:40
-
5日ぶりに吸った外の空気は、さほどおいしいというものでもなかったが、
それでも少しだけ肩の力がゆるんだ。
どうやって帰ろうかとひとしきり考えながら歩いて大通りに出る。
普通に考えれば、駅まで出て電車に乗って帰ればいいだけのこと。
だが、まだ頭から包帯が取れない身としては、駅までの道は歩くには少々距離がありすぎた。
一番近いバス停で時刻表をのぞき込んだら、ほんの3分前に出てしまったところで、
次のバスまでは10分。夕方で多少暑さはゆるんだとはいえ、暑いことには違いない。
5日間も家に閉じこもっていたせいで、ここまで歩いてきただけでも息が切れかかっているし、
待ち続けるのは少しつらい。
しょうがない、タクシー使うか。
真希は通りがかったタクシーを止めて、まず最寄り駅を告げると、
後部のシートに背中を預けて、また長く息を吐き出した。
外の景色は真希の記憶とはだいぶ違っていて、まるで見知らぬ街のようだ。
落ち着かない。
落ち着かなくて携帯を開いたら、メールが何件か届いていた。
あゆみから3通、ひとみと美貴からそれぞれ2通、そして……亜弥から1通。
驚いて日付を確認すると、昨日だった。
あれから4日目。ということは、彼女は思い出してはいないのだろうか。
- 242 名前:5.あや 投稿日:2007/07/29(日) 23:41
-
『けが、どう? みんなも連絡ないって心配してます』
手短かすぎて、そこからは亜弥の思いは何も感じ取れなかった。
ほかの3人からのメールは開かずに携帯を閉じると、
真希は頭の中で思いを巡らせ、運転手に目的地の変更を告げた。
正確な場所は前にひとみから聞いて知っている。
ほんの思いつきだった。
何となく、今、どんな顔をしているのか見たいと思っただけだった。
タクシーなど滅多に乗らないから、どのルートが正しいかなんてわからず、運転手任せ。
そこは慣れたものなのか、運転手は黙々と運転に集中し、
駅のそばからビル街を抜け、商店街へとさしかかる。
いつもコンビニと近所の24時間スーパーで買い物を済ませてしまう真希にとっては、
商店街というもの自体が珍しく、キョロキョロしてしまう。
天気がいいせいか時間のせいか人通りは多く、店の前にもそれなりに人がいた。
その中で。
そんなにも多く人がいる中で。
なぜ、見つけてしまえるのだろう。
その横顔を。
- 243 名前:5.あや 投稿日:2007/07/29(日) 23:42
-
「すいません、ちょっと……ちょっと止めてください」
運転手は何も聞かず、なんの衝撃も与えずに速度を落とし、路肩に車を止めた。
後ろから白っぽい軽自動車がタクシーを追い越していく。
真希は車の窓から、反対側の歩道を歩くふたり連れに目をこらした。
ほぼ同じ背丈。
車道側を歩く女性──裕子は、空のオレンジをそのまま映したような髪の色をしていた。
その向こう側を歩く──亜弥は……手にした大きめの布製バッグを小さく動かしながら、
時折裕子を見やる。
動かしたその視線と、屈託のない笑顔が、裕子への信頼を表しているようだった。
裕子はほとんど肩を並べながら、それでも亜弥の半歩分後ろを歩く。
その半歩分のずれに、亜弥への思いがあふれて見えた。
ああ……そうなのか。
その時初めて、真希はその事実に気がついた。
「それにアタシは」の言葉の先がわかってしまった。
- 244 名前:5.あや 投稿日:2007/07/29(日) 23:44
-
「……出してください」
ひとつ、手の中に今までなかったものを得て、真希は満足したわけでもないのに、
その場を去ろうとした。
それなのに、ほかの車に気を払わなかったのに、なぜ今。
車が動き出すのとほぼ同時に、少しだけ前に進んでいた亜弥がくるりと振り返る。
その視線が、真希の視線と正面衝突する。
足が止まった亜弥を裕子が半歩追い越し、同じように振り返る。
目をそらせなくて、真希はそのままの姿勢で、「待って!」と車中で大声を出す
ハメになってしまっていた。
小走りに車に駆け寄った亜弥が後部座席の窓をノックする音が聞こえたのか、
運転手が窓を開けてくれた。
静かだった車内を、商店街のざわめきが埋めようとする。
いつも携帯で会話するはずの亜弥が携帯に手を伸ばすそぶりも見せず、
心配そうに眉を下げて、そろそろと真希の頭に手を伸ばす。
本当に軽くほんの2、3秒だけ触れてから、その指先を亜弥自身の頭に添え、
大丈夫? と口の形だけで告げてくる。
「ん、へーき。明日からはちゃんと大学も行くから」
- 245 名前:5.あや 投稿日:2007/07/29(日) 23:45
-
短く答えると、心配そうだった眼差しに安堵の光が宿った。
見ただけでもわかるほど、亜弥は肩から力を抜いて、ふにゃりと笑う。
うれしかったのと同時にその優しい眼差しが真希の胸を締め付けてきて、
真希はその苦しみから逃れるべく、少しだけ視線をそらす。
亜弥は、あの日、目の前で自分が池に落ちたときのことを覚えているのだろうか。
けがのことは、あゆみから聞けばわかる。
情報が少なすぎて、今現在の亜弥がどういう状態なのか真希ははかりかねた。
と言って、問いただすだけの思考能力を、真希はまだ取り戻していない。
だから、曖昧に別れることにした。
「……じゃあ」
また、明日。
声にならない声で亜弥が告げたのを合図に、真希は運転手に礼を言い、
もう一度「出してください」と告げた。
車から少し離れた亜弥に微笑みかけると、亜弥が小さく手を振る。
その後ろに、離れて見ていた裕子が立つ。
視線が絡んで、裕子がわずかに首を横に振ったのを見て、
真希は亜弥が何も思い出していないのだと解釈した。
- 246 名前:5.あや 投稿日:2007/07/29(日) 23:50
-
そう、いつも通りの思考能力があれば、すぐに気づいたはずだ。
亜弥のすべてを知ることができるほど長く一緒にいたわけではないが、
彼女が人の感情の揺れに対して勘がいいことは知っていた。
5人の中で、自分に感覚が一番近いのも彼女だろうとわかっていた。
感覚が一番近いからこそ、行動も一番近くなるはずだということも。
しかし、真希はそのことに気づくよりも先に、
亜弥の一番近くにいる裕子を全面的に信頼してしまった。
その結果、解釈を間違えた。
亜弥は何も思い出していないのだと。
そして、それが正しいのだと、考えることをやめてしまった。
正確に言えば、真希の解釈が間違っていたわけではない。
裕子自身が、情報を手にしていなかったのだから、根本的に伝わりようがない事実だったのだ。
ともあれ、様々な事情が絡み合って、真希は亜弥の本当の現状に気づくのが遅れた。
だから、主導権を亜弥に握られた。
……だからこそ。
真希と亜弥の未来が、確かに変わったのだ。
真希自身は、そのときには気づきもしなかったが──。
* * *
- 247 名前:5.あや 投稿日:2007/07/29(日) 23:51
-
「……まっつー!」
自分の叫び声で、消えていた視界が戻ってきた。
右手は、亜弥の右手首をしっかりと握っている。
歩き出そうとしていた亜弥は、真希に背中の大半を向けて、
右腕を引っ張られるような形で止まっている。
ゆるりと、右手首をつかまれたまま、亜弥が真希に体の正面3分の2を向ける。
前髪から、雨粒がこぼれて落ちた。
そういえば、今日は降ったりやんだりの天気だって、天気予報で言ってたっけ。
ぼんやりと、そんなことを思い出す。
その間にも亜弥の体には空から雨が降り注ぎ、紺色の上着をより深い色へと変えていく。
亜弥が首を傾げるその向こうは、どんよりとした雲で埋め尽くされている。
風にあおられて、濡れた髪が自分の顔を叩いてきて、真希は顔をしかめた。
亜弥の表情が、不思議そうなそれから怪訝そうなそれに変わる。
それでも、亜弥は真希の手を振りほどこうとはしなかった。
ごくり、のどが鳴った。
亜弥が、あまりにも冷静すぎて。
- 248 名前:5.あや 投稿日:2007/07/29(日) 23:52
-
何も問いかけてこないのは、知っているからではないだろうか。
可能性は、ゼロではない。いや、むしろ、今の状況を考えると、かなり高い。
そう、勝手に判断したのは自分だ。
亜弥が何も思い出していないのだと。
みんなには、ごっちんは人の心が読めるみたいだよね、なんて冗談で言われていたが、
そんな力を持っているわけがない。
微妙な感情の揺れを見抜く力と観察する力が少しばかり強かっただけ。
だから、気づかないこともある。
……気づかないのなら、思い至るべきだった。
亜弥が、自分に近いということを。
自分が、亜弥に近いということを。
雨は弱まったり強まったりしながら、まだ降り続いている。
吹き飛んでしまった青空は、もうここにはない。
もう一度、のどが鳴った。
真希は2回意識的に呼吸をして、3回目。
息を吐くのにあわせて、短い言葉を紡ぎ出した。
- 249 名前:5.あや 投稿日:2007/07/29(日) 23:52
-
「……思い、出して、る?」
風にあおられて聞こえないかもと思ったが、それは杞憂に終わった。
体の残りの3分の1も真希に向け、真っ正面から亜弥が真希と向き合う。
一度目を伏せて、次に目を上げたとき。
亜弥は。
真希が自分たちよりもずっと幼いと思っていた亜弥の表情は。
身長差のせいで、少しだけ自分を見上げてくるその目は、その口元には。
不思議そうでもなく怪訝そうでもなく。
何もかもを知りつくしたようでいて、何もかもをあきらめたように曖昧で、
美しく大人びた笑み。
思わず、息をのんだ。
「まっつー……」
握っていた手から、力が抜ける。
その体温が手から完全に消えたとき、
「……ちょっと! ふたりとも何してんの!?」
ひどく優しい声が聞こえた。
* * *
- 250 名前:_ 投稿日:2007/07/29(日) 23:54
-
更新終了。
続きます。
>>237
レス、ありがとうございます。
ちょっとずつちょっとずつですが、いろいろと明らかになっていく予定です。
ので、あんまりドキドキしすぎない感じでお待ちくださいw
- 251 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/30(月) 16:23
- 今日初めて読み引き込まれました頑張ってください。
- 252 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/08(水) 18:13
- あややの過去や心境が明らかになってくるのかな
楽しみです
- 253 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/09(木) 20:49
- 今一番注目してる小説です。
続き楽しみにしてます。
- 254 名前:5.あや 投稿日:2007/08/12(日) 23:34
-
「あ、ごっちん出たね。じゃあ、今度は亜弥ちゃん、入っておいで」
促されて、亜弥がバスタオルと用意された着替え用のジャージを手にバスルームへと消える。
残された真希は頭からバスタオルをかぶったまま、少し小さいジャージに居心地の悪さを
増長されつつも、渡された温かいお茶を手にクッションの上に座った。
「大丈夫? 寒くない?」
「あ、うん……」
まだ冬には少し時間があるとはいえ、雨を頭からかぶって寒くならない季節でもない。
そう、真希が看板と衝突してケガをしたのは、もう4か月近く前の話。
真希自身もさすがにもう何もないだろうと思っていた。油断したのかもしれない。
少しの予想さえしていなかった。
朝の講義ギリギリに家を飛び出した真希は、今日は降ったりやんだりの天気だと天気予報で
言っていたのを思い出して、傘立てから適当に1本傘を引っ張り出した。
昼まではかろうじてもっていた天気も、昼前の講義を終えて学食へ行こうとしたところで
頑張りがきかなくなったのか、ついに雨粒を落としはじめた。
雨を避けようと傘を開いて、真希はそれが誰かが誕生日に贈ってくれた、
内側が青空と白い雲で彩られているものだと気づいた。
雨と青空。
真希にとって、この世で最悪に近い組み合わせのひとつ。
思わず顔をしかめたところで視線を感じ、そちらを見ようとしたら突風で傘を飛ばされた。
どんよりと曇った空に、青空がぽつりと浮かぶ。
傘の行方を追いかけようとして、視線の主と目が合った。
- 255 名前:5.あや 投稿日:2007/08/12(日) 23:35
-
雨と青空と──亜弥。
あり得ない組み合わせが、そこにそろってしまっていた。
4か月前の出来事がまた繰り返されると思った。
だが。
亜弥は走り出すことも倒れることもせず、驚いたように目を丸くしただけだった。
その顔でわかった。
思い出しているだけじゃない。
亜弥はもう、そこに至るまでの経緯を把握して理解している。
「ごっちん、ほら、髪乾かすから、そっち向いて」
「いいよ」
「ダメだって、風邪ひくでしょ? ほら」
「……うん」
言われるままに背中を向けると、準備していたのだろう、すぐさまカチッという音とともに
温かい風が頭に吹きつけられた。
あぐらをかいたて、なすがまま。
頭に触れる適度な強さを持った手に、なぜか安心する。
「熱くない?」
「ん、大丈夫」
- 256 名前:5.あや 投稿日:2007/08/12(日) 23:37
-
声の主は、たまたま現場を通りかかったあゆみだった。
傘も差さずに、半ばにらみ合いのように──本人たちにはまったくその気がなかったが──
向かい合っていれば、叫ぶのも無理はない。
あゆみは、濡れ鼠になってしまったふたりを強引にひとり暮らし中の部屋まで引っ張っていき、
タオルとジャージと、それにシャワーを貸してくれたというわけだ。
あゆみの性格からして、ふたりに何があったのか、気になっていないはずがない。
何となく聞きたそうな雰囲気があるのは感じているが、
それでも聞いてこないあゆみの優しさと強さに、真希は今更ながらに思った。
子供っぽいところもだいぶ残っているけれど、彼女は大人なんだと。
だが、今の真希はあゆみの心情を想像することはできても、あゆみに心を配る余裕がなかった。
ここまで連れてこられるときも、シャワーを浴びているときも、今この瞬間も、
考えているのは亜弥のことだ。亜弥の、あの笑みが頭の中から消えない。
ごまかすとか思い出していないフリをするとか、そういう気持ちは亜弥にはないのだろう。
思い返せば、あれは覚悟を決めた表情にも見えた。
何の覚悟?
思い出して黙っていたことを責められることへの?
これまでに作ってきた関係を破壊することへの?
それとも──。
- 257 名前:5.あや 投稿日:2007/08/12(日) 23:38
-
「はい、しゅーりょー」
「ありがと」
ぽんぽんと頭を軽く叩く手に苦笑いをしつつも、真希はカバンの中からブラシを取りだし、
鏡も見ずに乾いたばかりの髪をとかす。
苦笑いは髪をとかすたびに少しずつ消え、胸にすきま風が吹くのがわかる。
ひどく落ち着かない。
こんな気持ちにはもう何年もなっていなかったから、対処方法が思い出せず、
少し頭痛がし始めて肩を落としたところに、カチャリという金属音が届いてきた。
視線を向けると、ちょうどシャワーから出てきた亜弥と目が合う。
濡れていつもよりもボリュームと色の落ちた髪、少し大きめのジャージ、
首からかけられたバスタオルが、亜弥の小ささを際だたせ、幼さを浮かび上がらせる。
「亜弥ちゃんも、こっち。乾かすから」
あゆみの言葉にうなずくと、亜弥はあゆみの指し示した場所に座り、真希と同じように
ドライヤーの風を後方から受ける。
目を閉じて、くすぐったいのか少し笑っているその顔は、いつもの亜弥のように見えて、
少しだけ真希を安心させる。
だが、次の瞬間、顔を上げて目を開けた亜弥は、口元の笑みはそのままに、
瞳にのぞき込んでも底を見られないような深い深い色をたたえていて、
真希の心臓に不規則な動きをさせる。
あゆみからもらったお茶を取るフリをして視線をそらし、ぬるくなったそれをのどに流し込む。
さっきから動揺しかしていない自分に、不思議と笑いがこみあげてくる。
- 258 名前:5.あや 投稿日:2007/08/12(日) 23:39
-
いつも、少し離れたところからみんなを見ていた。
中にいるよりも、距離を取っていたほうがいろんなものが見えたし、
気持ちを揺らさなくてすんだから。
当事者になりたくないから、いつだって距離を取って。
そのくせ、友達でいたいから、適度な距離を保った。
そんなことを続けてきたからか、今、当事者になった自分をもてあましている。
どうもこうもない。
時を巻き戻すことはできないし、事態はすでに始まっている……始まって?
そういえば……。
考えても答えの出なかったことが、また真希の頭の中に蘇る。
亜弥はいったいどうしたいんだろう。
思い出したことを黙っていて、裕子にさえそれを気づかせなかった。
このまま黙って、今までのように時を過ごしていきたかったというんだろうか。
それは違う。
あのときのあの笑みにはそんな意味は隠されていなかった。
頭の中が沸騰しているようだ。
亜弥の真意の端さえつかめない。
- 259 名前:5.あや 投稿日:2007/08/12(日) 23:39
-
「はい、しゅーりょー」
亜弥がその言葉に振り返り、あゆみと顔をあわせていた。
おそらく、ありがとうとでも言っているのだろう。
「ふたりはこれからどうするの? さすがに歩いて帰るのは……大変そうだけど」
パラパラと降り始めたはずの雨は、いつの間にか土砂降りになっていた。
ご丁寧に雷までついてきて、時々ゴロゴロと嫌な音を立てている。
帰ろうと思えば帰れないことはもちろんない。
さて、どうしようかと真希が考え始めたところで、亜弥が携帯をあゆみに見せていた。
「ああ、そっか。中澤さんが迎えに来るのか」
亜弥の頭が上下する。
「ごっちんは? どうする?」
「あたしは……柴っちゃんさえ迷惑じゃなかったら、もうちょっとここで雨宿りさせて……」
言い終える前に、亜弥が真希を見る。
表情はいつもの亜弥のそれと変わっているようには見えない。
さっきまでの大人の雰囲気はどこにもない。
目が合って、亜弥はふるふると首を振ってきた。
- 260 名前:5.あや 投稿日:2007/08/12(日) 23:40
-
「……何?」
亜弥は携帯に何か打ち込むと、それを真希にではなくあゆみに見せた。
「ああ、それはいいね」
「……当事者をほったらかして話すかな」
「ごめんごめん。あのね、中澤さんの車で送るからって、亜弥ちゃん」
予想通り過ぎてため息をつきそうになったのを、真希はギリギリこらえた。
あゆみはまだ何も知らない。亜弥は親切で言っていると思っているし、
それ自体が名案だと思っている。
でも、それだけは勘弁してほしい。
狭い車中で裕子と亜弥と一緒になったら、何を口走るかわからない。
感情の揺れを抑えられる自信がない。
ふっと。
何が起こったのだろう。自分の中で。
自分の自信のなさを認識した真希は、緊張して少し張っていた肩をかくんと落とした。
鎖が切れたとか鍵が開いたとか、言い方はいろいろある。
それが、真希の身に起こった。
そう。
抑えられる自信がないのなら。
抑えなければいい。
- 261 名前:5.あや 投稿日:2007/08/12(日) 23:40
-
「……柴っちゃん」
「ん?」
あゆみは笑顔で真希を見る。その瞳は、年上らしくとても優しい。
その手前で、亜弥の表情が変わる。
気づくか、気づくだろう。
「まっつー、しゃべれないでしょ?」
そして彼女は。
止めないだろう。
「それ、あたしが原因なんだ」
* * *
- 262 名前:5.あや 投稿日:2007/08/12(日) 23:42
-
「ちょ、っと待って」
少し大きなファミレスの入口から一番遠い席に5人は座っていた。
角の角には真希、その隣に美貴。
真希の向かい側にひとみ、その隣に亜弥とあゆみ。
5人座っても、まだ席には十分すぎるほどのスペースがあった。
あゆみに亜弥とのことを告白したのは3日前。
そのときに、事情は洗いざらい話していた。
今まで見たこともないような真剣な顔で話を聞いていたあゆみは、
真希がすべてを話し終えた後で、これを内密にするべきなのかと聞いてきた。
そんなつもりはまったくない。
真希の過去が入った箱は、ふたも鍵も全部壊れた。真希自身がそれを望んで壊した。
あゆみに話した時点で、美貴やひとみにも話すつもりだった。
それを知ったあゆみが、とにかく話を聞こうと全員が集まる機会を設けてくれたのだ。
あゆみに告げたのと同じことを話し終えた後、一番最初に言葉を発したのはひとみだった。
亜弥を大切に思っているらしいひとみのことだ、当然怒鳴られるだろうと思っていたのだが、
ひとみは思いのほか冷静だった。
話を聞き終えてから、一拍おいて手を挙げ、それからの発言。
さっきまでの話は理解できているのだろう。
真希はうん、と小さな声で応えた。
しかし、すぐに言葉は戻ってこず、その整った顔を歪めてひとしきり悩んでから、
ひとみはちらと隣の亜弥を見た。
- 263 名前:5.あや 投稿日:2007/08/12(日) 23:45
-
「それは、ごっちんが一方的にそう思ってるだけだよね」
「でも、事実だよ。まっつーがしゃべれなくなったのは、あたしのせい」
「や、だから、それはさ……」
ひとみはどこに立っているのだろう。
真希は口ごもってしまったひとみを、実際よりも離れたところから冷静に観察していた。
真希の言葉を事実だと認識したうえで、慰めようとしてくれているのか。
それとも、一部か全部を、真希とは違ったものとして受け止めているのか。
ひとみの性格なら、どちらの可能性も同じくらいにある。
ゆっくりとまばたきをしてひとみの言葉を待っていた真希は、
その口から出た言葉に、ぽかんと口を開けていた。
「……あややは」
まっすぐに真希を見ていたひとみの視線は、今はゆるやかに横を向いている。
さっきまでは初めて出会ったときと同じように無表情だった亜弥が、
声に導かれてひとみを見つめ、困惑したように首を傾げていた。
- 264 名前:5.あや 投稿日:2007/08/12(日) 23:46
-
「あたしが聞いていいのかわかんないけど」
見つめられたことに動揺したのか、ひとみの声が揺れる。
亜弥は傾げていた首を戻して、小さく微笑んだ。
いつものように、無邪気そうに。
でも、極上の優しさを浮かべて。
ひとみは一瞬ひるんだようだったが、すぐに気を取り直したのだろう、
腰を上げてイスに座り直すと、亜弥と正面から向き合った。
そのまっすぐなところも迷いを振り払えるところにも感服する。
人の痛みや傷を理解した上で、避けて通らないその姿。
──憧れる。
ひとみの口が開くスピードに合わせて、真希は目を閉じた。
「あややはどう思ってるの。ごっちんの言うことが正しいの」
* * *
- 265 名前:_ 投稿日:2007/08/12(日) 23:48
-
更新終了。
続きます。
レス、ありがとうございます。
>>251
ゆっくり進んでおりますので、ゆっくり読んでいただけますとうれしいです。
がんばります。
>>252
彼女関連はたぶん次回になると思います。
のんびりとお待ちくださいませ。
>>253
ありがとうございます。
続きもしっかりと書いていきたいと思います。
- 266 名前:5.あや 投稿日:2007/08/27(月) 00:18
-
真希には幼いころ、仲のいい友達がひとりいた。
ひとつ年下のその子は、真希が小学校に入学する年に家に出入りするようになった。
その子の母親が真希の家で働くことになって、挨拶がてら連れてきたところに真希は出くわしたのだ。
同年代の子が家にいることがなくてヒマをもてあましていた真希は、
その子にそっと近づくとあれやこれやと話しかけ、その日のうちに仲よくなった。
自分よりも背が小さくて華奢で、大きな瞳ととびっきりかわいい笑顔を持った女の子。
母親から何か言われていたのだろう、最初のうちこそ他人行儀なしゃべり方を崩さなかったが、
真希が必死になってそのしゃべり方を直した甲斐あって、すぐにうち解けて遊べるようになった。
その子の母親が働いている時間、真希は学校に行っている。
だいたい真希が帰ってくるころに、彼女の仕事は終わって帰って行くのが日課だった。
だから、毎日家に遊びに来ていたわけではなかったが、
時間が許すときには、幼稚園まで一緒になって迎えに行ったり、
そのまま家で一緒にご飯を食べたり、まるで姉妹のように過ごしていた。
残念ながらその子は真希とは別の小学校に通うことになったので、
登下校や学校でも一緒というわけにはいかなかったが、学校の帰りには家に寄ってくれて、
そのたびにお互いの学校であったことや先生のことを話して笑い合って、
こういうのを親友って言うんだろうなと、そんなことを子供心に感じるようになっていた。
- 267 名前:5.あや 投稿日:2007/08/27(月) 00:19
-
しかし。
──あれはそう、小学校の確か5年生の夏休み。
その日、真希の家族は避暑のために東京を離れ、別荘のある高原へと向かっていた。
真希が強引に一緒に行くんだと言い張って、親友であるその子とその母親も一緒だった。
その途中、真希は見つけてしまったのだ、大きな湖を。
空はどんよりと曇ってはいたものの、湖面はキラキラと宝石のように輝いていて、
それだけで真希の心は躍った。
目をこらしてみると、湖面のあちこちに白いボートが浮いている。
どうやら、貸しボートもやっているようだった。
いくらでもわがままを言ってもいい立場で育ってしまい、それをそのまま実践してしまっていた
真希は、このときも即その場でわがままを言い出した。
あの湖に行きたい。
ボートに乗りたい、と。
とにかく一度は別荘まで行って荷物を置いてきましょうという言葉にも従わず、
車の中で延々駄々をこね続けた。
結局根負けした家の人間が折れて、真希は自分の母親と運転手、
それに後からついてきていた彼女とその母親の5人で湖の畔に向かった。
- 268 名前:5.あや 投稿日:2007/08/27(月) 00:19
-
ついてすぐさま貸しボートを借りる。
漕ぐのは男の人のほうが楽だからと、運転手に頼む。
どうしても彼女と一緒じゃなきゃ嫌だと言って彼女を乗せ、
湖もボートも初めてで怖がる彼女のためにと彼女の母親も乗せた。
4人乗りのボートに大人ふたりと子供ふたり。
なんの危険もないはずだった。
ところが。
真希たちが湖岸を離れて少しすると、曇っていた空の色が急に濃くなった。
風が少しずつ強くなって湿り気を増し、あたりの空気が変わる。
それは幼い真希にもわかった。
わかったのに、引き返したくはなかった。
初めて乗ったボート。
世界の色が変わっても、真希の目に映るのは今まで見たことのない新鮮な世界。
そろそろ戻りませんと。
恐れながら、という雰囲気をありありと持った言葉を、真希は今でも忘れていない。
せっかく手に入れたこの世界を。
ほんの少しの時間だけなのに。
なぜ、そんなことさえも許してくれないのか。
雲の切れ間からは、ちらりと青空がのぞいている。
少し待てば天気はよくなるはずなのだ。
- 269 名前:5.あや 投稿日:2007/08/27(月) 00:20
-
今ならそんなバカなことを考えたりはしないだろう。
自分はたくさんのことを許されてきたのだ。
ボートに乗るなんて、明日でも明後日でもよかった。
もっと天気がよくて風もなければ、1日中乗っていても叱られたりはしない。
それでも、そのときの真希にとっては、その初めての時間が何よりも大切だった。
戻るという言葉に必要以上に過敏に反応して、真希はボートを借りるときに言われた言葉を
忘れてしまっていた。
絶対に立たないでください
大人ふたりに子供ふたりだ。
子供がひとり立ったところで、大人がそれに気づけば被害は起こらないはずだった。
それなのに。
真希が怒りで立ち上がったのを狙いすましたように、風は突風に変わる。
もうだいぶ大きくなり始めていた真希の体が揺れ、傾き、
ボートから投げ出されて湖面に叩きつけられていた。
見えなかった。
真希を助けようと差し伸べられた大人たちの大きな手は。
真希の目に映ったのは、鈍色の雲と隙間からのぞく青い空と──小さな手。
それが何かを考える余裕などなく、本能で真希はその小さな手に手を伸ばしていた。
そして──。
真希の目の前は、土砂降りのような水に覆われた──。
* * *
- 270 名前:5.あや 投稿日:2007/08/27(月) 00:20
-
雨だと思ったそれは、もしかしたら違ったのかもしれない。
確かに真希自身の体はずぶ濡れで冷えて重かったが、真希の体に空から雫は降ってこなかった。
落ちたときの水しぶきを雨だと勘違いしたんだろうか。
ぼんやり考える真希の目の前を、ポツ、ポツと思い出したように水滴が落ちていく。
誰かに抱きしめられている。
冷たさと温かさが混ざり合って、少し気持ち悪い。
その温もりの向こう、女の子が、小さな女の子が横たわっていた。
彼女の周りの地面の色だけが変わっている。
「……あや、ちゃん」
その声は口から出ていたのだろうか。
彼女は反応をしてくれなかった。
その代わり、彼女の母親が真希の視界を遮った。
困ったような、悲しそうな、戸惑いを隠せない顔。
口が小刻みに動く。
真希にはその声は聞こえなかった。
……そんなのどうでもいいよ。
ねえ、なんで。
あたしじゃなくて、あやちゃんを見てよ。
なんであたしばっかり見てるの。
なんであやちゃんを見ないの。
ねえ、ねえ、ねえ!
あやちゃんはっ……あやちゃんはっ……!
- 271 名前:5.あや 投稿日:2007/08/27(月) 00:21
-
それから。
一度別荘まで戻って医者の診察を受け、問題のなかった真希はそのまま居残ることとなり、
真希には知らされないまま、亜弥と亜弥の母親は東京へと戻って行ってしまった。
その事実を知って真希は何があったのかと散々母親と運転手を問いただし、
わがままをフル活用してその理由を知った。
真希を助けようとした亜弥は、重力に勝てずに真希と一緒に湖に落ちてしまったこと。
ふたりを助けようと運転手が飛び込むよりも先に、亜弥の母親が飛び込んだこと。
そして。
彼女が亜弥よりも真希を先に助けてしまったこと。
なぜ、彼女が実の娘よりも雇い主の娘を先に助けたのか。
その正確な理由を真希は知らない。
結局その後すぐに彼女は仕事を辞め、亜弥が家に来ることもなくなってしまったから。
追いかけたかった。
大切にしていたたったひとつの宝物。
生まれて初めての親友と呼べる相手。
自分を後藤の娘ではなく、真希という存在として扱ってくれたたったひとりの人。
だが、それは叶わなかった。
- 272 名前:5.あや 投稿日:2007/08/27(月) 00:21
-
亜弥と別れてから2年。
中学に進級し、ひとりで遠出をできるようになった真希は
以前亜弥の様子が気になって無理矢理聞き出した住所に訪ねていった。
普段はほとんど車で移動しているので道に迷いそうになったものの、
それでもなんとか駅まではたどり着いた。
ここまでくればもうすぐだ。
改札を出て見慣れぬ風景に一度足を止めた真希は、
その一瞬を見逃さなかった。
2年経ったというのに、変わりない後ろ姿。
何度となく、何年もの間見てきたその背中。
あやちゃんだ!
もう会えた!
元気、だったんだ。
喜びに胸がいっぱいになる。
早く会って話がしたい。
そう思って駆け寄ろうとした瞬間。
真希の足は、そのまま地面に縫いつけられてしまった。
亜弥の隣にいたのが、真希の知っている亜弥の母親ではなかったから。
- 273 名前:5.あや 投稿日:2007/08/27(月) 00:24
-
亜弥の隣にはふたりの人がいた。
男の人と女の人。
どちらも優しそうな顔で亜弥を見つめている。
……それが何を意味するのか。
その正確な意味も理由も真希にはわからなかった。
結局亜弥に声をかけることができず、呆けた状態で迎えに来た車に乗せられた真希は、
そこで初めて、あの日を境に亜弥の記憶が一部欠けてしまったことを聞かされた。
狙ったように、真希と関わり合いのあることすべてを忘れてしまっているのだと。
雨の日にはひどく怯えるようになり、声も一緒になくしてしまったことも知った。
何かショックなことでもあったんじゃないかと言われたようだが、理由ははっきりしていないことも。
ショックなこと。
真希が思い至ったのは、ふたつ。
自分が湖に引きずり込んでしまったあげく、おぼれさせてしまったこと。
そしてもうひとつは──。
真希は唇を強くかみしめて、思い浮かんだもうひとつのことを頭から追い出そうとしたが、
その努力も亜弥の置かれている現状を聞かされて、なんの意味も持たなくなった。
亜弥は今療養を兼ねて両親とは別のところで暮らしているというのだ。
亜弥の母親が、記憶と声をなくした亜弥のそばにいることに耐えられなくなってしまったから。
- 274 名前:5.あや 投稿日:2007/08/27(月) 00:25
-
事情を知らずにそこだけ聞けば、なんてひどい母親だと思っただろう。
だが、真希は当事者だ。あの事件の当事者なのだ。
亜弥がどんなことに巻き込まれたのかを、よく知っている身なのだ。
目を閉じて、長く息を吐く。
あのときのことは、今でも驚くほどはっきりと覚えていた。
だから、思った。
……亜弥の母親もショックなことと聞いて、今の自分と同じことを思ったんじゃないだろうかと。
あの日、あのとき。
真希が雨だと勘違いしたあの水しぶきの中、亜弥の母親は、実の娘ではなく別の子を助けた。
そのことを、沈んでいく水の中で見てしまったのなら、
見捨てられたと思ってしまっても不思議はない。
そのことにひどいショックを受けるかもしれない。
そして、後々になって、自分の娘が記憶と声をなくして、理由が何かのショックだと言われたら。
あのとき、自分が助けなかったからだと思ってしまわないだろうか。
ショックを受けさせたのは自分だと思ってしまわないだろうか。
声の出ない娘に笑いかけられたら、身を切られるほどの痛みを感じてしまわないだろうか。
ぶるぶると強く頭を振って、その考えを追い出そうとする。
- 275 名前:5.あや 投稿日:2007/08/27(月) 00:26
-
違う、それは違う。
亜弥の記憶が欠けてしまったのも声をなくしたのも、全部自分のせいだ。
あの手をつかんでしまったから、湖に引きずり込んでしまったから、
亜弥はショックを受けたんだ。
湖に行ったことのない子があの広い場所に放り出されれば、強いショックを受けて当然なのだ。
亜弥が雨に怯えるのは、きっと自分と同じようにあの水しぶきを雨だと感じてしまったからだ。
ほかの誰も悪くない。
悪いのはあたし。
何でもわがままにやってきて、それを当然だと思っていたあたしのせい。
駄々をこねることしかしてこなかった、あたしのせいなんだ。
それから6年。
まさか、こういう形で再会するとは思わなかった。
たくさんの大学の中でここを選び、自分とつきあいのある人間と知り合う。
その確率はいったいいくつくらいだろう。
奇跡にも近い確率で出会ったときから、こうなることは決まっていたのかもしれない。
こういうのも運命って呼ぶんだろう、きっと。
* * *
- 276 名前:_ 投稿日:2007/08/27(月) 00:27
-
更新終了。
続きます。
- 277 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/27(月) 10:33
- 更新お疲れ様です。
じっとして次回更新待ってます。
- 278 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/28(火) 00:31
- いろいろ見えてきましたね・・・。
彼女たちの今後がどうなるか楽しみです。
- 279 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:46
-
目を閉じてしまうと真希と亜弥の接点は断たれる。
足を伸ばしたとしても、真希の目の前に実際にいるのはひとみで、亜弥の足には届かない。
人の大きな動きなら目を閉じていてもわかるが、身振り手振りや携帯をいじる指先までは
ここからではわからない。
だから、真希は目を閉じ続けていた。
亜弥の言葉に、自分の主観を混ぜ込まないためにも。
ざわつくファミレスの音をよそに、真希たちのいるテーブルは静かなままだった。
どのくらいたったのか、ふと右腕に何かが触れる感覚に気づいて目を開けると、
なぜだか怒ったような顔をした美貴と目が合う。
……怒っているわけじゃないんだろうけど。
心配とか困惑とか、マイナスの表情を美貴は上手に作れないのだ。
だから、だいたいの場合、怒ったような顔になる。
目が合ってすぐ何も言ってこないところを見ると、やはり心配されているのだろう。
怒っているんだったら、その瞬間即座に一言何かを言われているはずだから。
真希は目が合ってからも触れたままになっている美貴の左手を軽く叩く。
息を前に吐き出してから正面に視線を向けると、
ひとみは困ったように眉を下げて亜弥の横顔を見つめ、
亜弥は……真剣な上に悲しみを乗せて、さらに何か別の感情をまぜこぜにしたような、
とんでもなく複雑な目で真希を見ていた。
- 280 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:47
-
「……何?」
問いかけたとき、なぜかほとんど気にならなかった、店員の「いらっしゃいませー」という
声が耳に飛び込んできた。
条件反射で入口を見ると、そこにはもう見慣れた茶色い髪の女性。
きょろきょろとあたりを見回してすぐに真希たちに気づいたのだろう、
店員に何かを告げるとそのまま席へとまっすぐ向かってきた。
「こんにちは」
いつもの声のトーンで裕子は言う。
それに応える声はなく、みんなそれぞれに頭を下げて迎え入れる。
あゆみが美貴の隣へと席を変え、裕子はお礼を言ってから亜弥の隣に腰を下ろした。
思わず真希が首を傾げると、「呼ばれたんや」という言葉が返ってくる。
聞けば、亜弥が呼んだとのこと。
あたしの言いたいこと
伝えられるの
中澤さんだけだから
- 281 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:48
-
向けられた携帯のディスプレイを見つめて、真希は肩を落とした。
確かにその通りだ。
亜弥が携帯に打ち込んだことを、美貴やひとみやあゆみや……真希自身も読むことはできる。
そこから亜弥の言葉は理解できる。
ただ、そこに込められた亜弥の思いを正確に理解することはたぶんできない。
人と距離を作り、意思疎通をはらかないことを当然として過ごしてきた亜弥は、
季節をふたつ超えても、真希たちと完全に打ち解けられてはいない。
思いを文字にして人に見せるまでの間に生まれる時間差を埋めることができない。
その時間差のせいで、亜弥の打ち込んだ文字はそのときの亜弥の真意を示さない。
手話ができれば、声ほどストレートには響かなくても、表情や身振り手振りで感情を
知ることはできるのだろうが、ごく最近手話の教室に通い始めた美貴たちには、
まだそこまでの知識はない。そして、真希はまだ手話の教室には行ったことがない。
それを亜弥自身も理解しているから、彼女は裕子を呼んだのだ。
自分の思いも考えも、すべてを正確に伝えるために。
となると、ここに呼ばれた裕子は、亜弥の記憶が戻ったことを知っているのだろうか。
真希はじっと裕子を見つめたものの、裕子が真希を見ることはなかった。
仕方なく目をそらしたところに、裕子の声が響いてくる。
- 282 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:49
-
「事情はだいたい聞いた。これからアタシが伝えることは、全部松浦の言葉やから。
アタシの意見はひとつも入れへん。そう思って聞いてな」
「……中澤さんって手話、できるんですねえ」
教室に通って、手話が思っていたよりも難しいことを知っているひとみがしみじみ言うと、
裕子は苦笑いをしつつ、「どうしても必要になったから、あわてて勉強した」と告げた。
どうしても必要になった。
誰よりも近い場所で彼女に接するために。
その思いは半分は叶っているのだろう。
亜弥は自分の言いたいことを伝えられるのが裕子「だけ」だと言った。
それで裕子の思いは半分は報われている。
ただ、その全部が報われることがあるのかは、真希にはわからなかった。
「じゃあ、松浦」
裕子の言葉に亜弥がうなずき、その視線がまた真希に戻ってきた。
複雑な色は多少薄れたものの、相変わらず感情はプラスなのかマイナスなのかわからない。
真希を見据える強い光だけは変わらず瞳にあり、それが真希をひるませる。
亜弥は真希から視線をそらさずに、ゆっくりとした動作で腕を上げ、指で形を作り始め──。
- 283 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:50
-
「ごっちんは、きっと、あたしが大丈夫だって、違うって言っても、
自分のせいだって言い続けるよね」
表情をゆるめずに、自分を射貫こうとする亜弥の瞳に、真希の心が揺らぐ。
彼女は見抜く。
この場を乗り切るだけの、ていのいい言葉を並べたとしても。
湖の底に沈めてしまった、自分の本心を。
「……だったら、ほっといてくれたらいいじゃん」
「ごっちん……?」
右腕に触れるぬくもり。
それを振り払うように、真希は亜弥から目をそらさない。
優しくされるのなんて間違ってる。
心配されるのだって間違ってる。
そもそも、あたしはキミを友達にしていい人間じゃない。
ふるふると亜弥が首を振る。
めまいがする。
- 284 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:51
-
「……ほっとけないんだったら、復讐でも何でもしてくれたらいいじゃん。
あたしは、まっつーのいろんなものを壊してきたんだから。
それだけのこと、されて当然の人間なんだよ」
また、亜弥が首を振る。
さびしげに、その眉が下がる。
「なんで…っ」
感情が先走りそうになるのを、ギリギリのところでこらえる。
震えはじめた手を強く握ると、なぜかのどが鳴った。
「なんで、思い出したことずっと黙ってたの。中澤さんにだって黙ってたのに、
どうして、あのとき、あたしにわかるようなことしたの。まっつーの考えてること、
全然わかんないよっ……」
「中澤さんは知ってるよ」
「……え?」
「中澤さんは知ってる。思い出したとき、全部話したから。
ただ……そのこと、誰にも言わないでって頼んだだけ」
真希が驚いて裕子を見ると、裕子は眉を下げて苦笑いを浮かべた。
あの日以前から、裕子と話す機会が多くあったわけではなかったから、気づかなかった。
いや、それだけじゃない。
大人なのだ、裕子は。
亜弥との約束を守り通した。
それを守り通せるだけの強い意志があった。
裕子にとって亜弥は、それだけ大切な存在なのだ。
- 285 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:51
-
「……じゃあ、なんであたしには黙ってたの」
「どうしたらいいのか、考えてた、ずっと。ごっちんは黙ってたかったみたいだし、
そもそもごっちんがあたしのことを覚えてるのかもわからなかったし」
亜弥がゆっくりとまばたきをする。
大きな瞳に何もかもを悟られてしまいそうで、心が揺れる。
「だけどあのとき。あの雨の日。あたしを呼び止めたごっちんを見て、
ああ、ごっちんも覚えてるんだって思っちゃって……」
顔に出ちゃった、というわけか。
浅はかなのはどうやら自分自身だったようだ。
それがわかって、真希は呆れてため息をつく。
動揺さえしなければ。
とことんまで何があろうとも知らぬフリを続けていればきっと、
亜弥はわかっても言わなかっただろう。
でも、もう遅い。
亜弥は過去に何があって言葉をなくしたのかを思い出しているし、
亜弥が思い出したことを、真希は知ってしまっている。
もう、あの日よりも前には戻れない。
- 286 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:52
-
「でもね、ごっちん。あたし、うれしかったんだよ。ごっちんがあたしのこと
覚えててくれて。ただ……それがごっちんを苦しめてるのが、つらいんだけど」
ぶるぶると真希は首を振っていた。
優しくされればされるほど、ざわざわと胸の奥が波立ってくる。
突き放してくれればいい。
責めてくれればいい。
あんたのせいで家族が、この8年が壊れたんだと言ってくれればいい。
でもわかっている。
──亜弥は、決してそんなことをしない。
ただ、今になっても、真希には亜弥が何を伝えたくて裕子を呼んだのかがわからなかった。
責めることはしない。
自分を慰めるだけなら裕子を呼ぶ必要があるとは思えない。
亜弥の真意が読めないことで、真希は自分を見失いかけていた。
「聞いて、ごっちん」
強い言葉に促されて、真希は髪を乱したまま亜弥を見つめた。
目が合ったのを確認して微笑むと、亜弥はそこで突然、裕子に視線を送った。
怪訝そうな顔をした裕子に、何かを手話で告げる。
裕子は少しだけ速くまばたきをしたものの、次の瞬間には普通の表情に戻って、
静かに言葉を紡ぐ。
- 287 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:54
-
「確かにいろんなことがあったのかもしれないけど、
あのことがあったから、あたしは中澤さんに出会えた」
腕に触れていた美貴の指先が一瞬揺れたのに気づいたが、真希は美貴を見なかった。
亜弥は人の動きに気づいているのかいないのか、
ぐるりとそこにいるすべての人間を見てから、真希へと視線を戻す。
「そして、みんなと出会えたんだよ。
ごっちんは、あたしを壊したりはしてない」
亜弥の表情は穏やかだ。
何かを慈しむようにも見えるその表情に、亜弥が慈しまれてきたことが透けて見える。
「いろいろ考えて、わかったんだ」
亜弥の手話を通して、裕子が声を届ける。
その、少しの時間差を読み切ったように、その後に続く言葉が発せられるより先に、
亜弥は微笑みを浮かべる。
「あたしはね、「「まきちゃん──」」
それは、穏やかで優しくてあったかくて無邪気で。
真希を好きで慕ってくれていた、「あやちゃん」の笑顔だった。
- 288 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:54
-
「「ただ、願ってるだけだよ」」
- 289 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:54
-
亜弥は裕子の声にあわせるように。
裕子は亜弥の口の動きに合わせるように。
その言葉はつづられて。
裕子の声なのに。
重なるように聞こえる、亜弥の声。
それは幼い子供の声。
もうぼんやりとしか覚えていないと思っていた、8年前の亜弥の声だ。
あまりにも鮮明すぎて、泣いてしまいたかった。
* * *
- 290 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:56
-
「ごっちん」
ホームで電車を待っていると、背中から聞こえてきたのは美貴の声だった。
ほかに人がいる気配がなかったので、真希は振り向かない。
「みんなは?」
「帰った……ていうか、中澤さんが送っていくって」
「……ミキティは? なんで帰らなかったの?」
「そりゃ……まあ、なんて言うか」
もごもごと口ごもる美貴に、真希は思わず笑ってしまっていた。
心配なら心配だと言ってしまえばいいのに。
「まいったね」
「ん?」
「まっつーのこと」
「ああ……予想外だった?」
「……あんな風には言ったけど、責めたり怒ったりはしないだろうなって思ってた」
「うん」
「だけど……」
あんなふうに思われてたとは思わなかったよ。
真希はその言葉を声に出さず、吸い込んだ息とともに、体の中に溶かす。
- 291 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:56
-
「ごっちんは、これからも変わんない?」
「……そうだね」
自分には抱えてきたものがあって、それをあの一言では昇華できない。
それに、亜弥も言っていたように。
誰に何を言われても、亜弥の声とあったはずの8年を失わせたのは自分だとしか思えない。
この思いはきっと一生消えない。
自分が結局何をしたかったのかが真希にはわからなくて。
責められたかったのか、許されたかったのか。
どっちにしても、この思いは消えなくて。
今もまだ中途半端なままで。
亜弥が信頼していながらも、完全に打ち解けられないように。
真希も何かがひとつ進んだと思いながらも、今の自分を変えられない。
それでも。
亜弥と話せたこと。
亜弥の思いがわかったこと。
それを無駄にしたくはないとは思っていた。
- 292 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:57
-
「ごっちんさ」
「うん?」
「美貴、亜弥ちゃんが好きなんだ」
「……うん」
だろうなと思った。
亜弥が裕子に出会えたことを言ったあの瞬間の美貴の動きでそれはわかる。
「でね」
「うん」
「美貴、ごっちんが好きなんだ」
うなずきかけて、動きが止まった。勝手に。
思わず振り向くと、美貴はちょっとふてくされたように口をとがらせて、
ほんの少し顔を赤らめて上目遣いに真希を見ている。
「……今さ。なんか、割と大切そうなことをさらっと言わなかった?」
「……美貴としてはものすごく大切なことを言ったつもりなんだけど」
「聞き間違いじゃないんだ」
「……じゃないね」
- 293 名前:5.あや 投稿日:2007/09/09(日) 23:57
-
「同じくらい」とも「ごっちんも」とも言わないところが、美貴の優しさな気がした。
なんだか、胸の奥がむずむずする。
こんなふうに正面切って「好きだ」と言われれば、返事を考える前に心が揺れる。
きっと、本人も困惑しているだろうに。
こうして言ってくれたことが、今はただうれしかった。
「……ありがと」
「それが返事じゃ……ないよね」
「今返事されても、ミキティが困るでしょ」
「……返事の内容にもよるけど」
そうだなあ。
真希は天を仰いだ。
ホームの屋根の間から、黒い空が見える。星は見えない。
今自分がいるのもこんなところだろうか。
でも。
きっとこのままじっと目をこらしていれば、星が見えてくるはずだ。
だったら。
いつか自分の中にも、何か星が生まれるかもしれない。
「待てるなら、待っててほしい」
いつか、あたしもちゃんとした星を見つけられるかもしれないから。
* * *
- 294 名前:_ 投稿日:2007/09/10(月) 00:00
-
更新終了。
続きます。
>>277
ありがとうございます。
お待たせいたしました。
>>278
ほぼ全容は見えたかなと思います。
今後はそれなりな感じになるかとw
- 295 名前:5.あや 投稿日:2007/09/23(日) 00:39
-
「なんか、あっという間の1年だったねえ」
「いやあ。正直ここ3か月くらいは長くてどうしようかと思ったんだけど」
「それはよっちゃんが単位落としかけたからじゃん」
「……うんまあ、それはそうなんだけどさ」
春、3月。
桜が咲くにはまだ早い時期だが、大学の講堂の前はすでに花が開いたかのようだった。
長い卒業式を終え、スーツや振り袖に身を包んだ4年生が、続々と講堂から現れる。
卒業生と保護者と、教職員やら来賓やらをあわせると膨大な数になるので、
卒業生以外は講堂に入ることはできず、サークルやゼミの先輩を外で待っている。
美貴やひとみは特にサークルには入っていなかったが、仲のよかったあゆみの卒業式。
その晴れ姿を見ないのももったいないからと、終わる時間を見計らって大学にやってきたのだ。
「しっかし、すごい人」
「柴っちゃんがうまいことうちらを見つけてくれればいいけど」
「よっちゃんの頭に鳥でもつけてくればよかったかな。風船とか」
「ああ、そうすれば目立ったね……ってバカか!」
「……そんだけ騒いどったら、ほっといても目立つやろ」
美貴とひとみがぎゃいのぎゃいのと言い合っているところに、あきれ果てた声が響く。
振り返ると、そこには亜弥を連れた裕子の姿。
- 296 名前:5.あや 投稿日:2007/09/23(日) 00:41
-
「あ、財布」
「せめて資金源と」
「……帰るで?」
「わー、ごめんなさいごめんなさい!」
あわてるふたりに、亜弥がおもしろそうに笑う。
今日はこれから、あゆみの卒業祝いをしようということになっているのだ。
せっかくだからといつものメンバーと小春のほかに裕子とめぐみも誘ったら、
お祝いだからと社会人ふたりが食事をおごってくれることになった。
裕子はこれを見越して誘ったんじゃないかと文句を言っていたが、
美貴たちは目を合わせないようにしてその文句をスルーした。
「……先に現地に行っとったほうがよかったかなあ」
あまりの人の多さを目の当たりにしたせいか、裕子がぼそっとつぶやく。
亜弥が不満そうに口をとがらせて、ぐいぐいと裕子の服の袖を引くと、
苦笑いを浮かべてその頭を2回軽く叩く。
そんな亜弥にひとみが話し掛けはじめると、裕子はこれ幸いとばかりに亜弥から離れ、
ふたりの様子を少し目を細めて見ていた美貴の元に近づいてきた。
「元気?」
「ええ、まあ」
「なんや、えらい久しぶりな気ぃするなあ」
「そうですか?」
- 297 名前:5.あや 投稿日:2007/09/23(日) 00:43
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人の心というのは簡単なものではないらしく、
真希の告白から季節をふたつ超えても、亜弥の声は戻ってはいなかった。
それでも、以前より笑うようになった亜弥のこと。
根気よくやっていけば、いずれはしゃべれるようになるだろうと言われている。
裕子はそんな亜弥を、前と変わらず週に幾度か迎えに来ていて、
最近は雨の日にも訪れるようになっていた。
「言おうと思ってる」
突然の裕子の告白に、美貴は何を、と問い返したりはしなかった。
裕子の視線はひとみとじゃれあう亜弥に向いている。
「あの子も、思い出してからの生活に慣れたみたいやし。こっちの都合で
せっかく慣れた生活を変えてしまうんはちょっと心苦しいけど」
油断してると誰に取られるかわからんし。
そう裕子は笑った。
知っているはずはない。
彼女はそれを、きっと誰にも告げたりしない。
そう信じているから、美貴は裕子の告白を静かに聞くことができた。
- 298 名前:5.あや 投稿日:2007/09/23(日) 00:46
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『亜弥ちゃん。美貴ね、亜弥ちゃんが好きなんだ』
冬のとてもよく晴れた日。
美貴は亜弥に告白した。
亜弥は静かにまばたきを繰り返した後で、手話で「ありがとう」と告げた。
同じように、眉を下げて「ごめんね」を告げてきた。
それから、唇に指を当て、手話をやめる。
まだ手話を完全に理解できない美貴のためか、ゆっくりと唇を動かす。
『あたし……好きな人がいる、んだと思う、たぶん』
「たぶん?」
美貴の疑問に、亜弥はさらに困ったように眉を下げて、
『好きってこと……まだよくわからないから。だから、たぶん』と告げた。
「その……たぶん、好きな人って、聞いてもいいかな」
ためらうこともなくうなずいた亜弥の唇は、確かに『中澤さん』と形を作った。
その答えに少し考えて、亜弥の言いたいことを想像する。
- 299 名前:5.あや 投稿日:2007/09/23(日) 00:49
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人と距離を取るのを当たり前としてきたこと。
裕子とはずっと家族として暮らしてきたこと。
亜弥が自分の気持ちを「たぶん」としか言えないのは、それが理由ではないか。
裕子を大切に思っているのは、あの日、あの場所に亜弥が裕子を呼んだときの、
「中澤さんに出会えた」という言葉で、おおよそ想像はつく。
ただ、それが家族愛なのかそうじゃないのかが、自分でもまだわからないのだろう。
たぶん。
自分の中で納得したので、美貴はそのことを亜弥には聞かなかった。
聞く必要がないと思った。
亜弥は誠心誠意、自分の告白に答えてくれた。
それだけで十分だ。亜弥を困らせるようなことはこれ以上したくない。
イエスの返事が欲しかったわけじゃない。
自分の気持ちにきちんとした区切りがほしくて、美貴は告げただけだ。
自分の想いを。
もちろん、悲しくないと言ったら嘘になる。
それでも、『いつかはっきりしたら言おうと思ってる』と言ったときの亜弥の笑顔が、
もっとキレイに花開くんだと思ったら、少し心は軽くなった。
そのときには、喜んであげられるように。
心を強くしていたい。
- 300 名前:5.あや 投稿日:2007/09/23(日) 00:50
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「今日はあの子、来るん?」
「一応連絡はしたんで、気が向けば来ると思いますよ」
「気が向けばねえ」
あれからしばらくして、真希は大学に休学届けを出してふいっといなくなってしまった。
直接会うことはなくなったが、メールだけは送れば返事をくれるので、
特に休学の理由は聞いていない。
いつか、自分で納得がいくようになったら、大学に戻るのかやめるのかはともかく、
姿を現してはくれるだろう。
以前の真希はどことなく不安定なところも多く、こんなことは思えなかった。
同じようにふわふわしていても、今の真希にはちゃんと光が見えた。
人に言ってもわからないだろうけど、美貴はそれだけで安心できた。
「ミキティ! 中澤さん!」
呼ばれてひとみを見ると、どうやらあゆみを見つけたらしく手招きをしていた。
人混みの中から、淡いピンクの振り袖に濃い緑の袴をまとったあゆみが姿を見せる。
「んー、似合うとるなあ」
「あ、ありがとうございます」
「ホントホント、馬子にも衣装……」
「ことわざ、間違うとる」
ひとみがこつんと裕子にこづかれて、ぺろりと舌を出す。
そこに、めぐみが姿を見せた。
- 301 名前:5.あや 投稿日:2007/09/23(日) 00:53
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「あの」
「あ」
「すみません。懇親会が終わり次第、すぐに行きますので」
「ええよ。きっと朝までどんちゃん騒ぎやってるやろうから」
「……未成年がいっぱいいるんですけど」
「言葉のあややって。大丈夫、いざとなったらアタシの家に連れ込むし」
「連れ込むって……」
苦笑いしているめぐみの背中から、「村田さーん」という呼び声。
めぐみはあわてたように一度振り返り、あゆみのそばへと近づいた。
「えと……何?」
「柴田くんの晴れ姿、ちゃんと見ておきたいなと思って」
「あ、え、そう」
恥ずかしくなったのか、あゆみが半歩身を引く。
「うん」
「……何」
「すごく似合ってる」
「あ……ありがと」
満足そうに笑うめぐみと、照れからか笑えないあゆみ。
ほほえましい光景をぶちこわすように、もう一度めぐみが呼ばれる。
- 302 名前:5.あや 投稿日:2007/09/23(日) 00:55
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「ごめん、もう行くね」
「あ、うん。待ってるから」
「うん」
きびすを返して人混みへと戻りかけ、めぐみが何かに気づいたようにまた振り返る。
「柴田くん」
「え?」
「卒業、おめでとう」
あゆみからの返事を待たずに、めぐみはそのまま人混みへと消えた。
「かーっこいい」
「やるやん」
「へええ」
目をぱちくりさせたあゆみをよそに、亜弥をのぞいた三者が三様の言葉を吐く。
もう! と口だけは強く言ったものの、あゆみの頬は緩みっぱなしだった。
ゼミの先生や友達にも挨拶があるからというあゆみを残して、
とりあえずほかのメンバーは予約しておいたレストランに移動することになった。
あゆみは用事が終わり次第、裕子が迎えに行く算段になっている。
- 303 名前:5.あや 投稿日:2007/09/23(日) 01:02
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「あれ、中澤さん。いつもの車と違くないですか?」
「ああ。いつものやと全員乗れへんから、友達に借りてきた」
「でも、今は充分事足りて……」
「やから。全員そろったら、乗せられへんやん」
「……ぶつくさ言ってた割に、結構ノリノリですね」
「なんか言った?」
「いいえ」
「全員乗った?」
「はーい」
運転席には裕子。助手席に亜弥。
後部座席にひとみと美貴。
ロックを確認して、裕子は車を手慣れた様子でスタートさせる。
裕子が予約したレストランには、美貴やひとみは入ったことがない、
ちょっと敷居と値段の高いところだったが、個室だったのと自分が払わなくていいという
安心感もあって、穏やかに時間は過ぎた。途中であゆみがやってきて、
それを追いかけるように、学校が終わって家で着替えてきた小春が現れる。
美貴と小春はこれが初対面だったが、小春がなぜか美貴にはものすごいスピードで
なついてしまって、美貴が勢いに押されていく。
だいぶ遅れてめぐみがやってきて、一息ついたところで、
もういい時間になっていたので、裕子が言っていたとおり、裕子の家へと移動となった。
- 304 名前:5.あや 投稿日:2007/09/23(日) 01:04
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「小春ちゃん、寝ちゃったみたいだね」
「うん、いつも朝早いから」
「そっか」
小春を起こさないようにと少し静かになった車中には、心地のよい空気が流れている。
「……あーあ」
ぽつりと、あゆみのつぶやきが響く。
「どしたの?」
「ん、こうやってバカ騒ぎする回数って、きっと減るなあって思って」
「バカ騒ぎって」
「悪い意味じゃなくて。あたし、結構好きだったんだよ」
「……呼んでくれたら、集まるよ。できる限り」
「うん……」
絶対に、とかすぐに、なんてことは言えない。
社会人になるあゆみと学生であるひとみたちでは生活のサイクルが変わってくる。
それでも。つながった絆は形を変えても切れたりはしない。
365日24時間思ってるわけじゃないけど。
忘れたりはしない。いつだって願ってる。
- 305 名前:5.あや 投稿日:2007/09/23(日) 01:06
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「……ん?」
不審そうな裕子の声で、小春をのぞいた車中の人間の目が裕子に向いた。
裕子の視線はライトの先を向いており、そこには裕子の家の門扉がある。
そこに、何かの影が見える。
微妙にいびつな形をした影が。
スピードを落として車が近づく。
ぼんやりとした影をヘッドライトが明るく照らし……誰かが叫ぶよりも先に、
あゆみが窓を開けて顔を出した。
「ごっちん!」
別れたときよりも髪の伸びた真希が、その声に気づいて手と、
その手に持っていた大きな花束を振る。
めいっぱい。その腕の長さめいっぱい。
「柴っちゃあん! 卒業おめでとー!」
元気いっぱいだった。
笑顔だった。
車が止まるまでの時間さえもどかしく、あゆみが、ひとみが、美貴が、そして亜弥が、
車外へと飛び出していく。
- 306 名前:5.あや 投稿日:2007/09/23(日) 01:09
-
大きな花束は真希の手からあゆみの手へと移り、あゆみが感激のあまり瞳を潤ませる。
泣きそうになったその顔を見て、ひとみがあゆみの頭をぐしゃぐしゃとなでる。
美貴と目が合って真希はやわらかくその表情を崩し、
亜弥の姿を最後に見つけて、正面から結構な勢いで彼女を抱きしめていた。
車中には、勢いたたき起こされる形となって半分寝ぼけた顔をした小春と、
裕子、そしてめぐみが残された。
「……ジェラシー感じたりとかする?」
笑顔の花が咲いた家の前を、目を細めながら見つめて裕子が言うと、
めぐみは表情を緩やかに崩して、ぽっと微笑みの光を車中に灯す。
「つきあいはみんなのほうが長いですから」
「……大人やね」
「でも……やっぱり、ちょっとは不満ですね」
「それ聞いて安心した」
やかましいから家に入れ、と裕子が言うと、5人は素直にそれに従う。
それはきっと、1年近く前に出会ったときとも、数か月前に別れたときとも違う姿。
でも、5人がそこにいて、友達だということには変わりはない。
裕子は5人の背中を見ながら、あのファミレスでの亜弥の言葉を思い出す。
届いているのだろう、真希にも、そしてみんなにも。
- 307 名前:5.あや 投稿日:2007/09/23(日) 01:14
-
きっとこれからもいろんなことがあるだろう。
それでも、彼女たちは少しずつ変わりながら、心の真ん中にあるものは変わらずに、
ずっとずっと過ごしていくに違いない。
そうしていってほしい。
君たちだけじゃない。
君たちの周りにいる人たちは、みんなみんな願ってる。
声にはしなくても。
言葉で伝えなくても。
ただ、願ってるだけだよ
あなたの幸せを
[ bless... ]
- 308 名前:_ 投稿日:2007/09/23(日) 01:16
-
更新終了。
以上で『ブレス』は完結となります。
ありがとうございました。
- 309 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/23(日) 18:45
- 完結お疲れ様でした。
自分にとって、この小説というか作者様の存在は、
飢えたマイナーCPの渇いた心にじわっと沁みる、そんな感でした。
自分の好きな二人が想い合っててよかった、作者様と同じCP好きでよかったと思いました。
告白シーンとか声を発するシーンとか読みたかったとか野暮なことは言いません。でもホントは未練。
作者様の作品はもっともっと読みたいです。次回作とか期待してます。
- 310 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/23(日) 21:33
- 完結おめでとうございます。
そして、ありがとうございました。
それぞれの、これからに光を感じつつ
このお話を読み終えたことがとても嬉しいです。
- 311 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/10/15(月) 04:55
- 遅くなりましたが、完結おめでとうございます。
最初に読んだときとは予想外な展開で驚きましたが、色々と考えさせられました。
この小説に出会えてよかったです。
- 312 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/10/15(月) 22:20
- 今日何気にこの小説に出会い、そして引き込まれました。
当たり前の事しか言えなくて歯がゆいですが、とても面白かったです。
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