凍える鉄槌 3
- 1 名前:カシリ 投稿日:2007/04/12(木) 21:19
- アンリアル、バトルもの。
主演は飯田。
この板で書いていた続きです。
- 2 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:20
- ――――
高い天井にはいくつもの大きなシャンデリアが下がり、
広い空間を囲む四方の壁には、華麗な装飾が施されている。
宴席などに利用されることを目的に作られた大広間は設計者の意図通り、
高級感溢れる造りになってはいたが、どこか違和感があった。
壁際に積み上げられている豪奢な作りの椅子には埃が浮き、
天井全体に等間隔に配置されている煌びやかな照明は
ところどころが消えている。
長い間利用されていない会場は奇妙な雰囲気を醸し出していたが、
集まっている人々にもそれは言えた。
スーツ姿の人間もいるが、ほとんどは黒い戦闘服に身を包んでいた。
会場の半分ほどを埋める大勢の人間が集まっていたが、
大声を上げる者はいない。
いたるところで何人かでグループになり、低い声でなにごとか話し合っていた。
密談でもするかのように顔を寄せている人々は皆、
全身から緊張感を漂わせている。
- 3 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:20
- 何の前触れもなく会場の隅にあったグループから一人の男が離れ、
正面にあるマイクに歩み寄った。
男がマイクを軽く叩くと、会場が水を打ったように静まり返る。
全員の視線を受けた男が、
その一人一人と視線を合わせるように会場を見渡した。
「我々は、我々の世界を自分たちの力で守るべきだった」
静かに話し始めた男の声が、マイクを通して会場に響き渡る。
抑揚を抑えた声だったがひ弱さを感じさせない、力強い響きだった。
「終わりのない闘争と犠牲の上に保たれているこの世界の調和は、
偽りのものだ。
こうしている間にもこの世界は化け物共に蹂躙され、侵略されていく。
それは通路を通ってくる妖獣だけではない。
むしろ問題なのは、
我がもの顔で我々の世界に紛れ込んでいる吸血鬼のことだ」
男は向けられた人々の表情に、満足したように小さく頷く。
マイクを握り直した男は、小さく息を吸い込むと再び口を開いた。
「奴らの助けなど乞うべきでは、なかったのだ。
世界に蔓延するこの不均衡な調和を正すため、
我々はこの世界に属さない一切の者を、許すわけにはいかない。
この好機に我々は立ち上がり、
HPという呪縛に囚われ隠されてきた真相を世界に示すことでいまこそ、
この均衡を破るのだっ!」
力強く言った男の声に全員が一斉に腕を頭上に伸ばし、賛同の声を上げた。
- 4 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:20
- 自らを鼓舞するように上げている声に手を上げて答えると、
男は再びマイクを口元に寄せた。
「この場に集まっている者は皆、
理想に殉ずる覚悟を持った闘士であると……」
演説を続けていた男の声が突然消え、会場の照明が落ちた。
暗闇の中で何が起こったのか確認しようと、集まった人々がざわめき始める。
状況を確認しようと何人かが動き始めると同時に突然、
会場の一角に明かりが点った。
完全な暗闇から開放された人々の間から安堵のため息が漏れ、
光源に視線が集まる。
空中で燃え上がっている炎が人口の光にはない揺らめきを見せながら、
扉の傍にいる人物の姿を映し出していた。
「集まってるねぇ……」
「誰だっ!」
鋭い声の先にいたのは、細身のジーンズに白いハーフコートを着た女だった。
集まった剣呑な視線を平然と受けながら、
女は壁にもたれて腕組みをし、軽く首を傾げて微笑む。
「名無しだよ」
近くにいた男の声に短く答えると壁から背を離し、炎の下に進み出た。
女の顔が炎に照らされ、会場に低いどよめきが起こる。
「後藤真希? なぜここにいる。吉澤の傍にいるはずではなかったのか」
全員の疑問を代表するかのように問いかけた男に、後藤は悠然と顔を向けた。
- 5 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:20
- ゆっくりと笑いかけたその姿が、忽然と消えた。
一瞬の間を置いて男の横に現れた後藤の手が伸びて、その首を掴む。
「みんなと同じ、仕事だよ」
後藤が答えた瞬間、首を捕まれた男が瞬時に火柱に変じた。
松明のように燃え上がりながら悲鳴を上げたその口腔から炎が流れ込み、
肺を灼く。
引きつったような悲鳴を上げている男から離れ、
後藤はなにが起こったのか理解できないでいる人々を見渡した。
「魔法使いが接近戦に弱いって設定、おかしいと思わない?」
笑いを含んだ突然の問いかけに、答える者はいなかった。
最初から返答など期待していないのか、後藤は気にした風もなく言葉を続ける。
「近づいて使えば、防がれたり避けられたりすることもない。
飛び道具だからって遠くから使う必要なんか、ないよね」
そう言いながら片腕を水平に上げ、横に薙ぐ。
その腕の一振りで、会場に残っていた闇のすべてが払われた。
- 6 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:21
- 後藤の周りを囲むように炎の壁が立ち上がる。
天井まで達した高熱のカーテンに、巻き込まれた何人かが一瞬で消え失せた。
そばにいた人間も熱せられた空気を吸い込み、その場に倒れ込む。
冷静さを失った何人かが出口へと向かったが、
立ち上がった爆炎から分離した炎がその背中に襲いかかった。
突然現れた灼熱地獄に自分たちの置かれた状況を理解した何人かが、
悲壮な決意を込めた視線を炎の壁に向ける。
その場にいる誰もが、後藤の実力を知っていた。
能力の差は歴然としていたが、それでも戦闘に絶対はない。
突然、広間に立ち上がった爆炎に亀裂が入った。
炎の中から飛び出した後藤が近くにいた男を捕まえようと、片手を伸ばす。
男は増幅の能力を発動しつつ、伸ばしてきた腕をかわした。
目の前にいる後藤の首に、骨を折る勢いで貫手を放つ。
しかし、男の手が後藤の身体に触れることはできなかった。
スッと後藤の頭が下がり、髪の毛の幾本か引きちぎった男の手が空を切る。
しなやかな動きで攻撃をかわした後藤の細い腕が下から伸び、
貫手を放った男の腕を掴んだ。
腕を掴んだまま動きを止めた後藤を見て、男が残った腕を振り上げる。
だが腕を振り下ろすより速く、軽い破裂音が響いた。
男は身体から離れて地面に落ちた自分の片腕を目で追う。
遅れて襲ってきた激烈な痛みに声を上げながら、その場に座り込んだ。
「みんなに恨みはないんだけどさ」
傍らに落ちた片腕に一瞬だけ視線を向けた後藤は弾んだ声で言いながら、
目の前に座り込んだ男に片手を伸ばす。
苦痛に歪んだ男の首を無造作に掴んで、
天真爛漫ともいえるほど無防備な笑みを造った。
「これもお勤めだからね」
そう告げた後藤の繊手の下で、男の首が胴体から切り離された。
- 7 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:21
- 第5話
Dancing In The Dark
- 8 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:22
- ――――
半円の屋根に覆われたような道路を、等間隔に並んだ照明が照らしている。
海底に造られたトンネルの道路の先は、遠くどこまでも続いて見えた。
矢口は小さな点へと集束していくトンネルの先を見ながら、
吹き抜けていく冷たい風に両手を擦り合わせる。
矢口はいま、川崎から海ホタルへと続く海底トンネルのなかにいた。
道路を行き交う車両はなかったが、喧騒が止むことはない。
道幅一杯に横になって停められた大型トラックの前後には、
多数の車と人が集まっていた。
現在海底トンネルは、全面的な点検工事の名目で封鎖されている。
「まったく……わざわざ封鎖までしてやることか?」
出席者を乗せた車両が矢口の目の前を通ってから、すでに一時間以上経っている。
HPによる警備はトンネルへの入り口と矢口がいる中間地点、
そして木更津方面の海上橋にも同じように、配置されていた。
すでに出席者以外の退去は、確認が取れている。
あとは式が始まって結界機関が無事に起動したのを見届けた出席者が帰るまで、
ここにいるだけだった。
「なにもなかったらだけどね……」
誰にも聞こえないように呟いて、矢口は溜め息を吐いた。
- 9 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:22
- ――――
葉が落ちた冬の森には虫の声も、聞こえてこない。
歩くたびに聞こえてくる草を踏み分ける音と、
ときおり吹く風にざわめく木々の音だけが響いていた。
首都圏にある山のなかとはいえ、人の入らない山中の視界は良好とはいえない。
空の雲はやや明るく見えているが、
都会の明かりに慣れた者には何の意味もなかった。
周囲に満ちているのは都会の暗闇とはまったく違う、
きわめて濃密で手を出すと触れることができそうな異質な闇だ。
木々の間から遠くの街灯がときおり見えることもあるが、
その明かりがかえって心もとなかった。
藤本は身に付けているベストからペンライトを取り出すと、
光が漏れないように身体で隠しながら点灯した。
小さなコンパスを取り出して、方向を確認する。
目標物の無い森の中では、道に迷いやすい。
藤本はライトを消して、コンパスをしまった。
再び前方の闇を見透かすように、凝視する。
「あ〜! 指切れてる!」
「……うるっさい!」
後ろから聞こえた緊張感の無い声に、首だけを後ろに向ける。
横にいる紺野に口を押さえられた久住が、自分の右手を指差していた。
「そんな格好で来るからだ!」
「着替える時間なんて無かったじゃないですか!」
その辺の木に手をかけたときに切ったのか、
紺野の手をどけた久住は不満顔で自分の指を舐めた。
- 10 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:22
- 紺野がHPから盗み出したデータの解析は、成功した。
だがそこに現われたのは、吉澤の言っていた組織の情報ではなかった。
吸血鬼と条約を結んで秘密裏に世界の調和を守るのではなく、
人類だけでこちら側の世界を守ろうと考える組織。
妖獣も“通路”も、そして吸血鬼も排除するための戦力として、
向こう側の存在を示すことでHPが担ってきた戦いに
全世界を巻き込もうと考える、極端な思想を持った人々。
もともとはつんくが主導になって作り上げたその組織だったが、
つんくを殺害することで吉澤はその実権を奪った。
データを解析して得られたのは、
その組織が進めていた結界機関の襲撃計画の詳細な内容だった。
吉澤の話したHPのなかにある隠れた組織の情報ではなかったが、
重要な事には変わりない。
だが竣工式が当日に迫っていたため、HPを動かすには確証が必要だった。
確実な証拠を得るため先に偵察するという紺野に頼まれて、
藤本はしかたなく同行することになった。
「行き先も言わないで連れて来るほうが悪いんですよ。
だいたいなんで私なんですか、能力者なら他にもいっぱいいるでしょ!」
「きょう暇なのはお前ぐらいしかいなかったんだよ!」
二人では心もとないという紺野の意見を入れて、
久住を連れてきたのは失敗だった。
家にいるところを無理やり連れてきたため、
深夜の森を歩くのにこれ以上ないほど不適当な格好だ。
履いているスニーカが無ければ、とっくに転んで怪我をしている。
藤本が抗議の意味をこめて睨んでいると、
横にいる紺野は苦笑しながら唇に人差し指を当てた。
肩にかけた長大な銃を背負い直して、指を二本立てて前方を指差す。
いまさら後悔してもこんなところに置いて行くわけにもいかない。
藤本は溜め息を吐いて再び前を向き直り、
闇と静寂が支配する森の中を、警戒しながら歩き始めた。
- 11 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:22
- ――――
道路の両側に並ぶ二列の外灯が真っ直ぐに、海を渡っている。
海ホタルへと続く橋の入り口には赤いライトが明滅し、
警察によって検問が敷かれているのが見える。
そのさらに後方にはHPと思われる多数の人間が、たむろしていた。
石川と田中は白いダウンコートに身を包み、その光景を無言で眺める。
二人はいま、アクラライン木更津側の入り口が見下ろせる高台にいた。
入り口を警備している能力者に見つかる可能性があるため、
これ以上近づくことはできない。
「ほんとに吉澤さんが現れると?」
「今日以外ありえない」
横にいる石川は田中の言葉に、確信を持って答える。
「……吉澤さんがいるってことは、絵里もいるってことやね」
田中は髪を冷たい風になびかせて、
船も通らない真っ黒な海の向こうに真剣な眼差しを向けた。
「それはいいとして……」
風になびいているコートから見える田中のデニムのハーフパンツ姿に、
見ている石川の方が寒そうに身を振わせた。
石川はポケットに入れた両手でコートの前をしっかりと合わせ、
巻いているマフラーに顔の半分が埋まっている。
「寒くないの?」
「おしゃれには根性が必要なんですっ!」
田中の答えに、首を振って溜め息を吐いた。
- 12 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:23
- ――――
そこはいるだけで圧倒されるほどの、広大な空間だった。
天井までの高さは五十メートル。
一辺が百メートルはある正八角形の部屋の中央には
高い天井に届くほどの奇怪な構造物が据えつけられていた。
天井まで等間隔に並ぶ巨大な七つの珠を抱えた構造物を構成しているのは、
複雑に絡み合った無数の金属のパイプだ。
内部に珠を取り込んで縦横無尽に走っているその様は、
巨大な蔓が絡み合いながら天へと向かって伸びていくようにも見える。
パイプの形状はさまざまだった。
天井近くまで届く直線の物や、緩やかなカーブを描いている物、
そして何度も直角に折れ曲がっている物もある。
絡まった糸のように一見なんの法則もなく組み合わされているパイプだったが、
専門の知識を持った者が見ればそのなかに
いくつもの意味ある文様を見つけることができる。
大小入り混じった無数の正五芒星や、ホルスの眼に代表される魔除けの数々。
少し角度を変えて見ると直線の交差軸に弧を絡ませた直弧文、
あるいはアイヌの厚司文様にも似た文様が浮かび上がる。
内在する意味を解き難くしたような入り組んだ形式で作られた特殊な文様は、
侵入しようとする外部の霊的な存在を戸惑わせてその侵入を防ぐ。
同時に、内部に集まるエネルギを外に漏らさない。
それだけではない。
部屋を構成する八つの辺のうち正確に東西南北を示している四つの壁には、
それぞれの方角に対応した金属製の呪符が埋め込まれていた。
呪符には世界を構成する四大要素、地水火風の文字をエノク語で記してある。
四方を呪物で囲んだ結界のなかは外部から守られ、
その閉じた霊的宇宙の霊力が高められる。
そして数秘術で力を意味する数字、結界は五つに重ねて作られていた。
洋の東西を問わずに幾重にも施された結界。
東京湾の海底よりも遥かに深いところにある空間を囲んでいる壁も天井も、
物理的にも霊的にも巨大な圧力に耐えられるように、
特殊なコンクリートで囲まれている。
その中心にある巨大な構造物こそが、首都圏を覆うはずの結界発生機関だった。
- 13 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:23
- 広大な部屋にあるたった一つの扉と結界発生機関の間には、
仮設の客席が設置されていた。
集まった大勢の人々の大半は真剣な表情で、
目の前にある舞台の上で話している司会者の説明に耳を傾けている。
結界機関の前に作られた舞台の上で、
壇上に立った司会者の後ろに、CGで作られた海ほたるの遠景が映し出された。
「……このように、東京湾に浮ぶ木更津人工島海ホタルの地下に建造された
結界発生機関に決められた通路を通る以外に侵入することは不可能ですし、
外部からの霊的な干渉も完全に弾き返します。
また直下に併設された専用発電所からの給電を受け、
長期間の完全無人での稼動が可能になっております」
司会者の後ろにあるスクリーンに、いくつかの通路が映し出される。
「万一の場合、地下へと通じる全通路に硬化剤が充填され、
施設内への進入は不可能となります。
同時にHP本部に信号が送られ、制圧部隊が急行してきます。
その間も結界機関自体は稼動を続け、
首都圏全域に広がる結界に支障は起こりません」
自信に満ちた大袈裟なジェスチャーで説明をしていた司会者はそこで言葉を切り、
振りまくように客席に向けて笑顔を見せた。
「それではここで我々の世界にさらなる調和をもたらすであろう
結界発生機関の建造を強力に提唱してきたHP日本支部の現最高責任者から、
お言葉を頂きたいと思います」
そう言って、司会者が拍手と共に脇に下がる。
出席者の間からも拍手が起こり、
視線が舞台の上手から現れた人物へと向けられた。
出席者の拍手に片手を上げて答えながら舞台に上がってきた人物を見て、
司会者の手が止まる。
不審な表情で何かを言いかけた司会者を押しのけてマイクを奪い取ると、
中央へと進み壇上に両手をついた。
異変に気がついた客の一部が、騒ぎ始める。
「お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、私、吉澤ひとみと申します」
慇懃に言って、吉澤は軽く頭を下げた。
- 14 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:23
- 顔を上げた吉澤は、ざわついている客席をゆっくりと見回した。
「いまの説明にもあったように、完全に稼動していまうと
外部から侵入するのは難しいですし、霊的にも完全ともいえる防御体勢です。
ですが、いまこのときはあなた方が出入りするために
警備のほとんどを人に頼っている状態ですので、侵入するのは簡単でした」
言葉を切った吉澤は左右を見て、苦笑した。
会場の警護についている人間が舞台の両側に上がって、
飛びかかるタイミングを計っている。
「荒事が好きな方もいらっしゃると思いますので、先に言っておきますが」
そう言って、左腕につけている腕時計を会場にいる全員に見えるように上げた。
「この時計は私の体温と脈拍を検知して、信号を出してる。
万が一私が死んで信号が途絶えると
さっきの司会者の説明にあった充填材が通路に放出されます。
同時に、この施設に空気を送る空調機にちょっと物騒なガスが放出される」
どうしていいのか分からずに吉澤の言葉を聞いている出席者の後ろで、
さっきまで舞台で話していた司会者が扉を叩いているのが見えた。
扉の前にいた警備の人間と一緒に開こうとしているが、まったく開く気配はない。
「さて、ここで重要なお知らせです。
後ろにある結界機関ですが、発生した結界で"通路"の発生を防ぐというのは
さきほど司会者の方から説明がありましたがもうひとつ、
重要な機能があります」
よく通る声で言って、吉澤は会場を見回した。
「発生した結界内では、すべてのSPが無効化される。
ここにある機関で造る力場のなかでは能力も障壁もなく、
誰もが対等な立場で戦うことができるようになる。
そしてこの場所をいままで無関係だった人々を巻き込んで始まるだろう
新たな戦いの中心にするつもりだった。
それこそが、この結界機関を造ろうとしていたつんくの目的でした」
そこまで言って、吉澤は聴衆が充分に理解できるように間を置いた。
- 15 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:24
- 無言で吉澤の言葉を聞いていた出席者たちだったが、
やがて小声で周りの人間と話をはじめる。
「もちろんそうなれば世界は未曾有の混乱に飲み込まれ、
HPが持っていた超法規的な力はなくなるでしょう。
ですがご安心下さい。それを阻止するために、私はここにいます」
吉澤は不安げな人々を安心させるように微笑むと、
左腕にはめている時計に視線を落とした。
「さて、そろそろ稼動予定の時間ですので、皆様にはご退場願います」
そう言ったと同時に、司会者が必死になって叩いていた扉が唐突に開いた。
前に転んだ司会者だったが、すぐに立ち上がると一目散に逃げていく。
「みなさんも素直に退場された方がよろしいかと、思いますよ?」
にこやかに微笑んだ吉澤の声を合図に、集まっていた出席者が扉へと殺到する。
他人を押しのけながら逃げていく人々を見ながら、
吉澤は微笑ましいものでも見ているかのように口元を上げた。
- 16 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:24
- ――――
森の中を進んでいくと、やがて見えてきたのは巨大なホテルだった。
先頭を歩いていた藤本は足を止め、近くの茂みに隠れながら双眼鏡を取り出す。
アクアライン開通による観光客を当てこんで、十年ほど前に建てられたホテル。
少し前に廃業になり、解体されることもなく打ち捨てられているものだった。
「な〜んか変だな……」
そう言って、藤本は双眼鏡から眼を離した。
もともと人が住む場所ではないところに建てられたホテルの周囲には、
静かな虫の音だけが響いている。
暗闇のなかに浮かび上がった建物は、
近づこうとする者を思いとどまらせるような雰囲気が漂っていた。
「もうちょっと近寄ってみようか」
後ろにいる紺野たちに声をかけ、藤本は茂みから静かに抜け出した。
- 17 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:24
- 裏側にある雨水が溜まった大きなプールを横切り、建物の正面へと向った。
物陰に隠れながら壁に沿って移動していく。
足を止めた藤本が建物の壁に身を寄せて覗くと、正面玄関が見えた。
入り口へと続く道路にはチェーンが張られていたが、
駐車場には何台かの車が停まっている。
最近は廃墟を探索するというよく分からない趣味の持ち主もいるようだし、
地元の若者の溜まり場になっているの可能性もある。
フロントガラスが割れていて捨てられていると分かる車もあるが、
何台かは明らかにそうではない。
険しい顔をした藤本は来た道を少し戻り、通用口らしき扉の前で足を止めた。
「……入ってみようか」
そう言って扉のノブを引いたが、鍵がかかっているのか開く気配はない。
扉の前でしゃがみこんだ藤本は、
ベストから二本の細長い工具を取り出して鍵穴に差し込んだ。
「待って下さい。この人数で中に入るのは危険です」
「いいじゃん、ちょっと覗くだけ」
錠の外れる音と共に立ち上がった藤本は、
制止した紺野にそう言って通用口の扉に手をかけた。
- 18 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:25
- 全員がなかに入ったところで、扉を閉める。
完全な暗闇のなかで藤本はかけているサングラスに触れると、暗視装置を入れた。
そこはいくつもの棚が並んでいる、倉庫のような部屋だった。
廃業になったときにほとんど持っていかれたのか、
いくつかのダンボールがあるだけで棚のほとんどは空になっている。
なにも動きがないのを確かめてから、藤本は壁のスイッチを入れた。
何度か点滅を繰り返してから天井の蛍光灯が点灯し、藤本はサングラスを外す。
「電気は来てるみたいですね」
誰に言うともなく言った紺野の言葉を聞きながら、
藤本は無言のまま閉じている扉に手を当てて、目を閉じる。
扉の外側から感じる気配は無い。
そっと扉を押し開けて、隙間から外を覗くと、
暗闇の落ちた深閑とした廊下が左右に続いていた。
廃墟になりかかっているとは思えないほど、内装は汚れていない。
もちろん枯れてしまってはいるが、観葉植物の入った鉢も残っていた。
管理が良かったか、それともまだ知られていないのか、荒らされたようすはない。
静かに廊下に出ると、藤本は目を閉じて気配を探る。
人が頻繁に出入りするような場所には、生気と呼べるような物がある。
眼を閉じて鋭敏になった感覚が教えてくるのは澱んだような空気と、
それに混ざる微かな異臭。
眼を開けた藤本はライトをつけて周囲を照らしていた。
壁にかかっている大まかな地図に、出口へと向う赤い矢印が描かれている。
避難経路図で一階の大まかな構造を頭に入れると、
後ろにいる二人を促して歩き出した。
- 19 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:25
- ――――
簡略化された結界発生機関の全体図を映した大きなモニターの前に、
白い机が一つとその上に端末が乗っている。
天井に隙間なく並んだ蛍光灯が過剰なほどに照度を上げている部屋で、
吉澤は端末の前に座った。
結界機関を上から見下ろせる位置にある、制御室。
海ホタルの地下に建造した施設全体を制御している、部屋だった。
左側の壁には小さなモニターが並び、
設置されている監視カメラで施設全体がくまなく監視できる。
反対の壁は全面が窓になっていて、結界発生機関のある部屋が見下ろせた。
「それじゃあ、亀井ももういいよ」
吉澤は取り出したディスクを端末に入れながら、
部屋の入り口に立っていた亀井に声をかけた。
「外に出たら、危ないんじゃないですか?」
並んでいるモニタにはさっきまで地上へと上がるエレベータに
殺到していた出席者が映っていたが、いまはどのモニタにも人影はない。
- 20 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:25
- 施設内に動いている者がいなくなったのは、
吉澤が端末を操作して確認済みだった。
「建物から出てくる者と入っていく者だけを排除しろって言ってあるから、
地上の建物から出なければ大丈夫だよ。
夜が明けるまでには終わるから、嗣永の友達もなんとか持ちこたえるでしょ」
キーボードを叩き始めた吉澤の背中越しに見ていたモニタから視線を移して、
亀井は壁に並んだモニタを眺める。
会場の警備になるはずだった夏焼たちは、
直前になってトンネル入口の警護に変更になっていた。
これから起こることに巻き込まれないように、夏焼たちを会場の警備から外す。
それが吉澤との約束だったのだろう。
清水の能力で出会った警備の人間を操ってこの場所まで入り込んだが、
二人とも文句もいわずに協力していた。
「二人にも言ってあるんですか?」
「もちろんだよ。嗣永と清水には助けてもらったからね」
椅子を廻して亀井に向き直ると、吉澤は当然のことのように言った。
先に部屋を出た二人はすでにエレベータに乗り、地上へと出ているはずだ。
そのエレベータも、もうすぐ停止する。
「それじゃ、絵里も失礼します。お元気で」
そう言って、頭を下げる。
もう会うこともないだろうとわかっているはずだったが、
吉澤は小さく微笑んで頷いただけだった。
- 21 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:25
- 扉を開けて廊下に出た亀井は、耳をすませた。
人の気配はなく、僅かに唸るような空調の音以外、なにも聞こえてはこない。
誰もいない廊下に立って、亀井は目を閉じた。
たった一人残されることになる吉澤が何をするのか、
大まかなことは聞いてはいるが、亀井の興味はそこにはなかった。
「さてと……」
目を開けた亀井は期待に満ちた顔で、地上への出口に向って歩き始めた。
- 22 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:26
- ――――
時間は何事もなく、過ぎていく。
自分の車に背を預けてトンネルの奥を見ていた矢口は、欠伸を噛み殺した。
トンネル入り口にも海ホタルのなかにも、
そして周辺の海上にもHPが目を光らせている。
どこのだれであろうが、許可なしで会場に入り込めるはずはない。
腕を伸ばして伸びをした姿勢で、矢口は動きを止めた。
離れたところで、無線の付いた車両の周りに人が集まっている。
話している内容は聞こえないが、なにか妙な雰囲気だった。
どうしたのかと思い目を細めると、突然枯れ枝を踏むような鋭い音が響いた。
トンネルのなかに反響した音はどこから鳴っているのか、分からない。
それでも音のした方向に見当をつけて顔を向けると、
今度は背後から音が聞こえてきた。
矢口は人垣に向って歩きながら、首を傾げる。
「どうしたの?」
「よく聞き取れないんですが、どうも会場でなにかあったみたいです」
無線機を操作している男の背後に立って聞いてみたが、
なにが起こっているのか分からないのか、困惑した顔で再び無線機に向き直った。
無線機からは雑音に混じってかすかに声が聞こえてくる。
途切れ途切れに聞こえてくるその声に、矢口は耳を澄ました。
『……会場に……澤ひとみが……封鎖……』
送話口を引っかくようなガリガリという雑音が激しさを増し、音声が途切れる。
焦ったような男の声にバキンという音が重なり、
無線機からは雑音だけが流れてきた。
- 23 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:26
- 矢口は無線機の周りに集まっている人々の輪から、ゆっくりと離れた。
直前に鳴った乾いた音も無線機からの雑音も、ラッピングと呼ばれる心霊現象。
妖異、怪異に接することの多い矢口には、馴染みのある音だった。
「始まった……か」
呟いた矢口は、トンネルの奥へと視線を向けた。
等間隔に並んだ照明が海ホタルへと続き、先は見えない。
海底に造られたトンネルの不思議な静けさのなかに、
慌しく動き始めた人々の声が反響していた。
本来ならばここは海の底。
人のいるべき場所ではないこの場所は"向こう側"にこそ、ふさわしい。
海ホタル方向を見ていた矢口は、闇が近づいてくるのに気が付いた。
トンネルの先を照らす照明が、奥から順に消えていく。
「来るぞっ!」
次第に近づいてくる闇を見て叫んだ矢口の姿が、あっという間に暗黒に飲まれた。
- 24 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:26
- ――――
風に乗って聞こえてくるさまざまな音に、人々のざわめきを聞き取る。
「嫌な風……」
田中は頬を撫でていく冷たい風に、呟いた。
会話自体が聞こえるわけではないが、
そのなかに含まれる不穏な雰囲気を感じ取ることができる。
視線を下げると人が集まっている場所が、慌しくなっていた。
石川の予想通り、会場でなにかが起こっている。
「石川さん」
エンジンの音が重なり、動き出した車両が次々と海ホタルに向っていく。
そのようすをジッと見つめていた石川が、頷いた。
石川には感謝している。
いっしょにHPから逃げ出してからの何ヶ月かで、
石川には能力の扱い方を教わった。
それらのすべてを吸収し、さらに独自に改良を加えた自分の力は、
依然とは比べ物にならないほど強くなっている。
だが、大事なのはなんのためにその力を身に付けたのかだ。
吉澤がなにをしようとしているのか、会場にいる人々はどうなったのか。
意識の表層に浮んでくる疑問も、
深いところにある田中の目的には影響を及ぼさない。
吉澤のことも会場にいる人間もそして石川のことも、
田中のなかではそれほど重要なことではなかった。
「行くよ、れいな」
そう言って走り始めた石川の背中を見ながら、
田中は小さく頷くと後を追って走り出す。
月明かりに照らされていた二つの影が、闇のなかへと消えた。
- 25 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:26
- ――――
角を曲がって最初に目に入ったのは、倒れた人の姿だった。
息をしていないのは、一目でわかる。
大きなホールのなかに男女織り交ぜて転がっている死体は、
鋭い刃物で斬り刻まれたらしく、どれもこれもが血まみれだった。
目の前に広がっている光景にショックを受けた藤本だったが、
一秒の何分の一かの間に意思と経験の力だけで衝撃をねじ伏せた。
硬直したように棒立ちの久住を抱えながら、ホールのなかに飛び込む。
倒れた椅子の後ろに滑り込み、視線と共に銃口を四方に向けた。
呆然と立ち尽くしていた紺野も、弾かれたように動き出す。
藤本と同じように中に入ってくると遮蔽物になりそうな物に身を寄せて、
姿の見えない敵を探し始めた。
深閑としたホールには、何の物音もしない。
誰かが発している荒い息遣いが僅かに聞こえてくるだけだった。
待ち合わせのために置かれていたテーブルも椅子も、
巨大な手で引っ掻き回されたように、無惨に荒らされていた。
倒れているのは二十人ほど。
死体と同じく壁にも鋭い傷痕が刻まれ、
飛び散った血しぶきがそれに重なっている。
「……どういうことです?」
「わからない」
横に移動してきた紺野に答えると、藤本は物陰から立ち上がった。
注意深く見てみると絨毯に残った血痕は黒く変色し、
そうとうの時間が経っていることを、物語っていた。
ここで暴れた何者かは、すでにいない可能性が高い。
それでも藤本は黒色に染まった絨毯の上を警戒しながら、奥へと進んだ。
- 26 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:27
- 奥へと続く廊下に入ると、またも倒れた人の姿が見えてくる。
なにか鋭利な物で斬り刻まれているのは同じだが、
その程度は比較にならなかった。
手足がもげてあちこちに転がり、ほとんど肉の塊と化しているものもある。
廊下の真ん中に転がっているものはなく、
すべてが隅の方に掃き寄せられたごみ屑のように折り重なっていた。
これらの危害を加えた者はまったく見境なく荒れ狂ったらしく、
枯れた観葉植物までがズタズタになって散乱していた。
しばらく進むと、大きな扉の前で痕跡が途絶えている。
二人が来るのを待ってから、藤本は扉に手を当てた。
伝わってくる感覚から、部屋のなかはかなり広い空間になっているのが分かる。
そして、なかから動きは感じない。
さらに詳しく探ろうと手を強く押し当てた藤本は、
異様な手ごたえに慌てて扉から離れた。
「どうしました?」
緊張した声で聞いてきた紺野を無視して、
銃を構えた藤本は目の前の扉を思いっきり蹴り開けた。
- 27 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:27
- 原形を留めているところは、どこにもなかった。
部屋の中に足を踏み入れた藤本は愕然としながら、部屋の中を見渡す。
広大なホールの床も天井も壁もすべてが高温の炎に炙られ、焼け崩れていた。
そして床には、またしても無数の死体が転がっていた。
だが、こんどの死体に生々しさはない。
代わりに、性別も年齢も分からないほど焼き尽くされた死体だった。
触っただけで崩れそうなほど炭化した死体の山を、藤本は呆然と眺める。
凄まじい熱量が発生したはずだが、
扉一枚隔てた部屋の外にはなんの痕跡も残っていない。
これほどまでに能力を完璧に操ることのできる能力者は、
藤本が知るなかではたった一人だった。
「……ごっちんなのか?」
ようやく口に出した藤本の声は、震えていた。
- 28 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:27
- ――――
- 29 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:27
- 以上で第五話終了です。
- 30 名前:Dancing In The Dark 投稿日:2007/04/12(木) 21:28
- 長々と続けてますが、よろしくお願いします。
- 31 名前:愛毒者 投稿日:2007/04/13(金) 06:59
- 新スレおめでとうございます♪
こちらでも引き続き楽しませていただきたいと思います!
いよいよ動き始めた感じがしますね。
ドキドキしてきた。w
- 32 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/14(土) 03:42
- 新スレうれしい〜一番楽しみな作品です♪
頭に映像が浮かんでくるような巧みな描写力は健在ですね〜素晴らしい限りです。
ところで第4部第5話まできましたが、
以前第4部で終了予定で、更に第3話終了で折り返しとのことでしたが
まさか第6話で終わりではないですよね・・・
できればまだまだ続いて欲しいのですが・・・第5部第6部第7部と・・・それが無理なら
サイドストーリーとかとか・・・勝手なことばかり書いていますがww
それぐらいこの作品が気に入っています。続きを楽しみにしております。
- 33 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:05
- ――――
バリケードの外側に集まっている野次馬を一通り見回しながら、
新垣は吹いてきた海風に身を縮ませた。
反対側のトンネルの入り口と中間地点、そして海ホタルへの橋の上とこの場所。
そして都内でなにか起きたときに連絡がくるはずの、
HP本部からの情報が途絶えた。
孤立した状態にパニックを起こしかけていたところで、
会場の警備を担当していた者からの連絡が異常を告げて途絶え、
海上橋の入り口を封鎖していた人員の半分以上が、海ホタルへと向っている。
「紺ちゃんだいじょぶかな……心配だね」
「ですねぇ」
気のなさそうな返事を返した道重の横顔を、新垣は呆れたように眺めた。
偵察に行った紺野からはまだ連絡がない。
勝手に動くのはマズイと思い、新垣は海ホタルへ向わずにこの場で待機していた。
紺野が解析した情報には、会場の襲撃計画が詳細に書かれていた。
襲撃はトンネルと橋の両側から、同時刻に襲うことになっている。
だがその時間にはまだ早い。
それに本部からの情報を途絶えたということは、
そちらも襲撃されているかもしれないが、そんなことは予定にはなかった。
これからどうしようかと悩んでいた新垣は、背後の音に気が付いた。
バリケードの方からしつこいくらいに、クラクションの音が鳴り続けている。
集まっている野次馬が異変に気が付いて
説明を求めているのかもしれないと思いながら振り返った。
新垣の考えとは違い、音はバリケードの内側から鳴らされていた。
バリケードの内側にあったHPの車がクラクションを鳴らしながら近づいてくる。
ゆっくりと徐行してくる車が新垣の横に停まり、運転席の窓が下りた。
「暇なら乗ってかない?」
そう言って、ハンドルを握った石川がニッコリと微笑んだ。
- 34 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:06
-
第6話
Stella By Starlight
- 35 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:06
- ――――
無数の怒鳴り合う声の余韻がトンネルの闇の中に反響する。
トンネルのなかの照明は戻っていないが、
その場にある車両のライトを点灯して前後を照らしていた。
矢口は舌の先で乾いた唇を湿らせ、背後からの光りも届かない闇の奥を凝視する。
無線は、回復していない。
外で待機している仲間が連絡が取れなったことを不審に思って捜索に来るまでは、
まだ時間がかかる。
このまま何事もなく時間が過ぎるとも、思えなかった。
矢口は腰にさがっているホルスターから銃を抜くと、
親指で着脱ボタンを押して弾倉を外す。
何度目になるのか分からないその行為に途中で気がつき、苦笑した。
光のない場所で得たいの知れない敵を待つ恐怖は、筆舌にし難い。
闇の圧力に負けて、心がパニックを起こしそうになる。
それは経験した者でなければわからない、己との戦いだ。
余計なものが見えない闇のなかで鮮明に浮かび上がる己との戦い。
矢口は視線を落として手の中に伝わるヒヤリとした感触と、
銃弾の真鍮の輝きを見つめた。
弾倉を戻したところで、矢口は弾かれたように顔を上げる。
頬を撫いでいく風の雰囲気が、変わった。
海ホタル方向から流れてくる生温い風のなかに、腐臭のような臭いが混ざる。
目の前の闇のなかで、気配が蠢き始めた。
闇そのものが放つ気配に、肌がひりつく。
「来た……」
呟いたと同時に蠢いていたモノが、姿を現した。
- 36 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:07
- ――――
墨のように黒い海の向こうには、煌びやかな都心の明かりが見えていた。
フロントガラス越しに上を見ると、
上空を複数のヘリが海ホタルを目指して飛び去って行く。
「いままで石川さんと一緒だったの?」
後部座席に道重と一緒に座っている新垣の声に、
石川はバックミラーに視線を移した。
新垣の視線は助手席に座っている田中に向けられている。
「すいませんでしたっ!」
田中は唐突にそう言って、後部座席に座っている新垣に頭を下げた。
「べつに怒ってるわけじゃ……」
「なにも言わずに出て行ったのは謝りますけど、
間違ってたとは思ってません」
真っ直ぐに新垣を見つめている田中の横顔を横目で見てから、
石川は再び前へと視線を向けた。
- 37 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:07
- 石川はHPを抜け出した後、田中と行動を共にしていた。
助けてもらったからということもあったが、理由は他にもあった。
一人では、吉澤のもとにたどり着くことはできない。
吉澤は、すべてを伝えてはいなかった。
石川にも知らない協力者がいる可能性がある以上、
下手に動けばすぐに動きを察知されてしまうし、
どちらにしても一人では限界があった。
吉澤に会うために必要な駒として、田中を見ていないとはいえない。
だが、田中にしてもそれは同じだった。
田中は教えた能力の使い方を、貪欲に吸収していった。
いまでは何ヶ月か前に助けてもらったときとは、別人といってもいい。
持っていた才能と努力そして強烈な動機が、いまの田中の力を支えている。
自分が強くなるためにそして亀井にもう一度会うために、石川を利用している。
あのままHPのなかにいれば
たとえ亀井を見つけたとしても助けることができない。
だからこそ亀井を見つけ、そして支えられるだけの力を得るために、
自らも追われる立場になった。
石川も田中も目的は同じ、失ったものを取り戻したいと思っているだけだ。
「……このまますんなり行けるとも思えないけどね」
気まずい雰囲気に包まれた車内に話題を変えようと声を出した石川は、
前方に白いものがわだかまっているのに気が付く。
さっきまで、海ホタルの光が見えていたはずだったが、
二人の会話に石川の注意が逸れた一瞬に、それは現れていた。
「こんな時間に霧?」
不審な声を出した時には、すでに目の前に迫っていた霧の中に入り込んでいた。
- 38 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:07
- 疾走する車の起こす風に巻かれて、霧が小さな渦を作って後ろに飛んでいく。
「これじゃ前も見えないよ」
ハイビームに変えたライトの光りも厚い霧に阻まれ、十メートル先も見えない。
しかたなく、石川はアクセルを緩めた。
「やっぱり吉澤さんの仲間が待ち構えてるんでしょうか?」
「それもあるけど、そんなものは私とれいなの二人でなんとかなる。
それより問題なのは、ごっちんだね」
「なんで後藤さんがいるってわかるんですか?」
「ごっちんはよっしいを認めた。絶対に傍にいる」
新垣の疑問に答えた石川の脳裏には、空港で見た後藤の姿が浮かんでいた。
後藤は自分の命が危険にさらされない限り、力を使うことはないと言っていた。
だがあのとき、後藤は田中の能力を抑えるために能力を使っている。
あの場を離れようとしていた吉澤を助けるために。
「ごっちんは新しい"主"を見つけたんだよ」
「その"主"ってなんなんですか?」
「ごっちんが欲しがっていた、仕えるべき存在。
昔は市井って人がそれだったみたい」
「え? だって中澤さんに聞きましたけど市井さんって吉澤さんが……」
新垣が驚いたようにそこまで言ったとき
突然の破裂音が車内に響き、ハンドルを取られた。
誰かの上げた悲鳴を聞きながら慌ててハンドルを切ったがすでに遅く、
浅い角度で側壁に接触した車体から火花が飛ぶ。
「周りになにかいます!」
右側を側壁に擦っている車内に耳障りな擦過音が続き、急激にスピードが落ちる。
- 39 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:07
- 石川は姿勢を戻そうとハンドルを操作しながら、窓の外へと視線を向けた。
外は相変わらずの濃い霧に包まれていたが、
並走するように黒い影が見え隠れする。
いま走っている道路は、海上に作られた橋の上だ。
吊橋ではなく橋脚があるとはいっても下は海。
どんな存在が疾走する車を追いかけてこれるというのか。
襲撃者を詮索するよりも先に石川はアクセルを緩めた。
スピードを落としてコントロールを取り戻すと、道路の真ん中まで車体を戻す。
「石川さん、左っ!」
新垣の声に左を向いた石川は、霧のなかから現れた物に一瞬自分の目を疑った。
現れたのは巨大な馬に跨った漆黒の騎士。
二メートルを超える巨体を乗せながら苦もなく疾駆する巨馬に跨っているのは
頭部まで完全に覆う漆黒の鎧を纏った騎兵だった。
左手で手綱を握り、残った右手には巨大な騎槍が握られていた。
突然の出来事に石川が驚いている隙に、黒騎士が一気に車に近づいてくる。
並走しながら長槍を頭上に振り上げるのを見て、石川はハンドルを左に切った。
鈍い衝撃が走り、車の直撃を受けた人馬が跳ね飛ばされる。
「ちっ!」
石川は舌打ちと同時にブレーキを踏み込み、急制動をかけた。
ハンドルを左右に振り、激しく揺れる車体を操る。
フロントガラス越しに激しく吹きだした蒸気の合間に見えるのは、
ボンネットに深々と突き刺さった鋼鉄の槍。
跳ね飛ばされながらも、騎士は攻撃を止めなかったのだ。
- 40 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:08
- なんとか無事に停車した車から、弾かれたように全員が飛び出す。
周囲に漂う霧は濃さを増して、
少し離れただけでお互いの姿も見失ってしまいそうだった。
自然と集まった四人は車の横で、道重を中心にした円陣を組む。
緩やかに吹き付けてくるのは乾燥した冷たい空気。
穴の開いたボンネットから吹きだす蒸気の音だけが、断続的に続いていた。
石川は霧の中にいる敵を捜して周囲に鋭い視線を送っていたが、
静かに流れていく霧のほかに動くものはない。
しばらく待ってみたが、襲ってきた騎士の姿も消えている。
細く息を吐いて視線を落とした石川は、目を細めた。
足元にあるはずのアスファルトの道路が、古い石畳に変わっている。
「……れいな、霧を払って」
石川の声に頷いた田中が、一歩前に出た。
右手を頭上に掲げた田中を中心に、上昇する風が生まれる。
作り出された風に乗って、周囲の霧が渦を巻きながら上空へと消えていく。
だが、霧はまったく晴れなかった。
無限に湧き出しているかのように、視界はまったく変わらない。
「耳を押さえてください」
いっこうに変わらない状況に苛立った声を出すと、田中は両手を前へと向ける。
吹いていた風が凪いだのは一瞬だった。
次の起こった急激な気圧の変化に、石川は耳を押さえた。
目を細めていた田中の手から、圧縮された空気の塊が水平に打ち出される。
押さえた手を通して耳を打つ亜音速の衝撃波が、
目の前の霧に巨大なトンネルを作った。
一瞬だけ晴れた霧のなかの光景に、石川は息を呑む。
満月の光のなかに浮かび上がったのは、見渡す限りの荒涼とした夜の砂漠。
石川たちはいま、どことも知れない砂漠を貫く街道の上に立っていた。
異世界のような光景に目を奪われたのも、ほんの僅かな時間だった。
再びどこからか霧が湧き出し、一時的にできた霧のトンネルを塞ぐ。
「どこですか……ここ?」
呆然とした新垣の言葉を聞きながら、
石川は霧のなかへと続く街道の先を、見つめた。
- 41 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:08
- ――――
虚ろな眼に宿っているのは飢えを満たそうという、貪欲さだけだった。
張り出した腹と枯木のように細長い手足。
死体のように、土気色の身体。
道幅一杯に群れをなして近づいてくるのは、グールの群れ。
敵の接近に気が付いたほかの人間も態勢を整えるなか、
ライトが照らす光りのなかを近づいてくるグールに向けて、
矢口は持っていた銃を水平に構えた。
卑しさを凝縮したような顔に向けて、引き金を引く。
頭部に一撃を受けたグールが前のめりに倒れ、呆気なく灰になって消えた。
矢口の放った銃声を合図に、
トンネルを警備していたHPの隊員たちがグールの群れに襲いかかる。
数を頼りに襲ってくるグールのことごとくを、直接的な攻撃で撃退していった。
グールは向こう側との接触点、"通路"の発生と同時に目撃されることが多い。
そのために、対処法も確立していた。
特殊な力を持っているわけでも、すばやい動きができるわけでもない。
こちらが少人数の状態で囲まれでもしない限りは、
精鋭を集めた部隊にとって脅威にはならなかった。
全体が見渡せるように停まっている車両の屋根に登り、
ゆっくりと狙いを定めて引き金を引いた。
近接戦闘をしている隊員は囲まれそうになると後ろに退き、
銃か能力による援護を受けて態勢を整える。
矢口が上から見ている範囲ではトンネルの奥から途切れることなく現れているが、
グールの群れは徐々に押し返されていた。
- 42 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:08
- 銃を撃っていた手を休め、矢口は見えない何かを探るように周囲を見渡した。
状況は自分達に優勢だったがそれでも、矢口の胸を不安が過ぎる。
「おいらの嫌な予感って、当たるんだよね」
予知というには曖昧で、予測というには根拠がない。
数多くの戦闘を経験してきた者が感じることのできる直感。
矢口はそれを命の危機を察知する"能力"を超えた力だと思っていた。
はっきりとしない不安を振り払うように頭を振ると、再び銃口を上げる。
照準を仲間の背後に回ろうとしているグールに定めたところで、動きを止めた。
闇が与える漠然とした不安とは違う、なにかもっと切迫した危険を感じる。
矢口は眼を細めて、トンネルの奥を凝視した。
次の瞬間トンネルの奥から、堰を切ったように闇が噴出した。
倒したグールから舞い上がるの灰に見通しが悪くなったトンネルの向こう側から、
咆哮とともに黒い影が飛び出す。
現世と常世を隔てる門を守護する番犬、ケルベロスを想起させる巨大な黒犬。
乗用車とほぼ同じ大きさのそれが、
冥府から逃げ出そうとする死者に向けて怒りの咆哮を上げる。
巨大な足でグールを押し潰しながら、
押し寄せてくる死者の群れを割るように突進を始めた。
あっという間にグールと戦っていた仲間のいる場所まで来ると、
周囲に群がっていたグールもろとも死者と生者をわけ隔てなく、貪る。
荒い息を立てながら暴れ回る黒犬に慌てて照準を向けた矢口は、凍りついた。
泣き叫ぶ仲間の声に複数の獣の叫びが重なり、
闇を具現化したような黒犬がトンネルの奥から次々と現れる。
現代技術を結集して造られた海底トンネルのなかに、
幻想世界から現れた魔物の雄叫びが鳴り響いた。
- 43 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:09
- ――――
どこに続いているのかもわからない街道を歩きながら、
石川はいくつかの可能性を頭に浮かべた。
なんの変哲もない場所が、どことも知れない異空間への入り口となる場合がある。
自然に発生した異空間の場合は、
勘のいい人間なら何かしらの予兆めいたものを感じ取ることができた。
理由もなくその場所の近くを通るのを躊躇ったり、
背筋に冷たいものが走ったりもする。
だが車に乗っていた全員が、誰も異変に気が付かなかった。
それに発生するのは基本的には人があまり立ち入らない場所、
何かの偶然で長い間放置された空き地や建物の隙間、地下鉄のトンネルなどだ。
常に人が生活する家のなかや車が往来する道路にできることなど、ほとんどない。
異空間は人工的に造られる場合もある。
なんらかのトラップとして張られた異空間の場合、
発動するまでその存在を感知するのは難しい。
ここに入り込む直前に現れた不自然な霧と、騎士。
誰かが仕掛けたトラップに捕まったと考えるのが、妥当だった。
先行した部隊もこれに捕まった可能性が高い。
こちら側でも向こう側でもない、空間の狭間。
なにが起こるか、わからない。
周囲の警戒を怠らずに先頭を歩いていた石川は、街道の先に影を見つけた。
「なんか見えて……」
自然と早足になった石川は、途中で言葉を飲み込んだ。
- 44 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:09
- 石畳の街道の先に見えてきたのは、霧のなかに霞む大聖堂だった。
巨大な鋼鉄の門が取り付けられた城壁のような石造りの壁は左右に際限なく続き、
その建物の巨大さを物語っている。
目の前の光景に圧倒されながらも目を凝らした石川は、
鋼鉄の門の前に集まっている多数の人馬の姿に気が付いた。
現れた門の前には、一列に並んで長槍と盾で武装した兵士たち。
その後方には多数の重武装の騎兵が、控えていた。
金属の擦れ合う音に、石川は後ろを振り返る。
いつのまにか背後の霧の中にも現れた騎兵の姿に、石川は唇を噛んだ。
前後を挟んだ騎馬隊の総数は合わせて五百騎程度。
二千の馬蹄の音が絶え間なく大地を叩き、剣呑な律動を奏でる。
「パトリキウス騎士団……厄介な物を」
毒を持つすべての生き物を大陸から退けたといわれるカトリックの聖人の一人、
聖パトリキウスの持っていた銀鈴の守護にあたっていたのが、彼らだった。
それは平和を守り教会を保護するという義務を負わされるより前、
騎士という存在が民衆にとって恐怖と死の象徴でしかなかった時代に存在した、
純粋な戦闘集団。
大聖堂が襲撃に遭い激しい戦闘の末に全滅した騎士団だったが、
彼らの魂は奪われた銀鈴と共に歴史の闇を彷徨うことになった。
- 45 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:09
- パトリキウスの銀鈴が異教徒の土地に入ると騎士団はその姿を現し、
近づく者を容赦なく殺戮する危険な存在と化す。
死してなお銀鈴と共に彷徨う、狂信の騎士団。
数多くの危険な遺物が保管されている遺物保管所のなかでも、
特に厳重な管理下にあった聖遺物だった。
「囲まれましたよっ!」
「いちいち確認しなくても分かってる」
焦ったような新垣の声に答えながら、石川はいまの状況を冷静に考える。
銀鈴を使ったトラップと分かれば、ここから出るためにすることは決まっていた。
正面にある聖堂のなかに入って銀鈴を見つければ、
この場所から出る方法が見つかるだろう。
そしていま見えている人数なら、田中と二人で突破することも可能だ。
だが、新垣はともかく道重に戦闘能力はない。
道重を守りながらでは全員が無傷で突破できる可能性は、かなり低くなる。
だからといってこの場で迎え撃つには、敵の数が多すぎた。
一瞬だけ逡巡した石川だったが、決断は早かった。
チラリと横にいる田中に視線を向けてから、正面の門に向かって一歩前に出る。
「すぐに戻ってくるから、れいなはここで時間を稼いで」
「石川さんはどうすると?」
どのような合図もなく、前列にいる兵士が一斉に長槍を水平に構えた。
まるでそれ自体が一つの生き物のように、前衛の兵士が前進を始める。
人の声どころか馬の嘶きさえも聞こえない沈黙の隊列を前にして、
石川は胸を逸らせて大きく息を吸い込んだ。
「……ぶっ潰すっ!」
一瞬で緋色の輝きを纏った石川は目の前の軍団に臆することなく、
猛然と走りだした。
- 46 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:09
- 石川は二列に並んだ兵士の頭上を軽々と飛び越えた。
宙を舞った石川に向けて、後列の騎兵の構えていた弩弓から鋼鉄の矢が放たれる。
空気を切り裂き目に見えない速度で向かってくる矢を、石川は空中で掴み取った。
着地すると同時に両手を振ると、両側にいた兵士の喉に鋼鉄の矢が突き立つ。
石川は兵士が倒れるのを待たずに走り出した。
相手に立て直す暇を与えずに近くにいた別の兵士に近接すると、
厚い鎧の上から掌打を打ち付ける。
攻撃を食らった兵士が、背後にいた仲間を巻き込みながら吹き飛んでいく。
全力の拳で殴れば金属の鎧とはいえ、貫いてしまう。
石川はその拳を抜く一瞬の隙を嫌った。
近くにいた騎兵が馬首をめぐらし、構えた騎槍の尖端を石川に向け突進を始める。
石川は慌てずに馬上から繰り出される騎槍を片手で払い、
横を通り抜けようとする馬の顔面に裏拳を放つ。
強烈な打撃によろめいた馬から落馬した騎士が地面につく前に、
その胴体に前蹴りを叩き込んだ。
騎士の飛んでいった部分にできた道に向かって、石川は再び走り出す。
すぐに新たな歩兵が進路上に現れたが、
石川は一瞬の停滞もなくを殴りつけ走り続けた。
殺すことを目的とするものではなく、吹き飛ばすように攻撃を加える。
それは、周りを囲んでいる兵に一斉に攻撃されないようにするためではない。
自分の進む道を開けるためだった。
- 47 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:10
- 目の前に現れた敵に容赦のない攻撃を加えながら走り続ける石川の前に、
突然道が開いた。
その整然とした動きに、石川は足を止める。
目の前に開いた視界の先にある巨大な門と石川の間に、
三騎の巨馬が立ち塞がった。
かまわずに走り出そうとした石川の気勢を殺ぐかのように、
対峙した三騎のうち真ん中の一騎が前に進み出る。
跨っているのは対峙した三騎のなかでも、
ひと際巨大な体躯を漆黒のプレートメイルに身を包んだ重装の騎士。
頭部どころか顔面までも覆う漆黒の兜の格子のような隙間から、
二つの赤光が妖しく輝いていた。
馬上の騎士は睨み返す石川に顔を向けながら、
馬に腹にくくりつけられた鞘からゆっくりと巨大な剣を抜き出し、頭上に構える。
「重そうだね」
呟いた石川の声を打ち消すように、大地を叩く馬蹄の音が轟いた。
後ろに残っていた二騎が、突進を開始する。
近づいてくる騎兵が構えているのは、表面に複雑な装飾が施された長大な騎槍。
十分な加速から繰り出される鋼鉄の槍による刺突は、
厚い鉄板さえも楽に貫く威力を秘めている。
だが向ってくる騎兵から逃れようとはせず、
石川はその場で右足を引いて両手を前に構えた。
- 48 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:10
- 最高速度に達した二騎の穂先が、石川を捕らえる。
激しい衝撃音と共に二頭の巨大な馬がバランスを崩しながらも、
石川の脇を抜けた。
「まあまあってとこかな?」
前に出した左右の手で奪い取った二本の騎槍を手に、微笑む。
石川は素手で人馬の持つ重量と加速によって得られた衝撃力を受けきった。
背後に回った騎士が急制動をかけて馬首をめぐらした瞬間、
振り返りざまに石川の手から二本の槍が放たれた。
凄まじい速度で宙を飛んだ槍が、向き直っていた騎士の胸を貫く。
地面に倒れた二騎に背を向けた石川は残った一騎を睨みながら、顔をしかめた。
「相手は人間だけじゃなかったってことね……」
騎槍の表面に刻まれていたのは"秘力ある言葉"
いまでは失われた太古の言語で霊的武装を施した武器は、
この世界の住人ではない者にその効果を発揮する。
貴重な聖遺物を狙うのは、人間ばかりではない。
通常の武器が通じない相手も想定していた、ということだ。
石川の握った両手の平は熱い鉄の塊りを握ったかのように、焼け爛れている。
いかに障壁に守られているとはいっても、
当たる場所によっては致命傷を受ける可能性があった。
「こっちだけ無敵モードじゃあ……つまんないもんねっ!」
最後の言葉を発すると同時に、石川は地を蹴った。
- 49 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:11
- 迎え撃つ騎士は二メートルに達するかという長大な剣を片手で軽々と振りかぶり、
絶妙のタイミングで長剣を振り下ろす。
鋼の装甲だろうと叩き斬る重量と速度を持った長剣に向けて、
石川は右手を伸ばした。
障壁を切り裂いた刃が、掴んだ手の平に浅く食い込む。
馬の胴体を殴りつつ、掴んだ長剣を引いて騎士を馬上から引きずり下ろした。
轟音を立てて横倒しになった馬に背を向け、
地面に転がった騎士の胴体に左足を踏み落とす。
踏み抜いた瞬間、一瞬前まで確かに存在していた中身は消え去り、
バラバラになった鎧が地面に転がった。
「な〜んだハリボテか」
拍子抜けしたように呟いた石川は中身の消えた鎧から足を抜き、
再び周りを囲んだ兵士たちを見回した。
「死んでまで戦い続けるなんて……ごくろうさまっ!」
門へと走り出した石川の顔に、獰猛な笑いが浮かんだ。
- 50 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/04/19(木) 20:11
- ――――
- 51 名前:カシリ 投稿日:2007/04/19(木) 20:11
- 途中ですが、以上です。
- 52 名前:カシリ 投稿日:2007/04/19(木) 20:12
- >>31 愛毒者 様
ありがとうございます。
お待たせしましたが、またよろしくお願いします。
>>32 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
後半ですが、6話では終わりません。
もうしばらく続きますが、さすがに第5部第6部はちょっと……。
サイドストーリーは、とりあえず終わってから考えたいと思います。
- 53 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/22(日) 09:51
- どのような結末を迎えるのか、そーとー期待しつつ待たせていただきます。
それにサイドストーリー等も。
- 54 名前:愛毒者 投稿日:2007/04/22(日) 12:47
- 更新お疲れ様です★早めの更新が嬉しい♪
最終決戦に向けての初戦という感じでしょうか。
凶悪なトラップにも怯まず獰猛なまでに立ち向かう梨華ちゃんが素敵です。w
次回の更新も楽しみにしています!
- 55 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/29(日) 19:00
- すっごいおもしろいですね!!!
わたしも期待してます!
- 56 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:28
- ――――
風壁に飛び込んできた兵士の身体が一瞬で砕かれ、
隣にいる道重が小さく悲鳴を上げながら目を背ける。
それでも、周りを囲んでいる敵はまったく怯むことがなかった。
槍を水平に構えた兵士が田中が造り出した巨大な風壁に、突進してくる。
突き出された槍の穂先が風壁に接触した瞬間、強大な風の力に巻き込まれた。
撥ね飛ばされた槍にバランスを崩した兵士の何人かが風壁に触れた瞬間、
いくつにも細断された肉片が飛び散り、大量の血が風のなかに舞う。
造り出した風壁の威力は絶大だったがそれでも、
周りを囲んでいる敵はまるで風壁など見えていないかのように、
次々と無表情で向ってくる。
風壁を維持すること以外はなにも考えずに、
田中は目の前で起こる出来事をただ網膜に映る映像として見ていた。
赤く染まった風壁から目を逸らさす余裕など、なかった。
死も恐れずに向ってくる無数の敵に恐怖を覚えてはならない。
極度の恐怖は能力の操作に影響を与え、風壁を維持できなくなってしまう。
殺到する兵士の後方にいた騎兵が一斉に槍を構え、突進を始めた。
馬の突進力を加えた騎兵の攻撃は兵士のそれとは比べ物にならない。
次々と撥ね退けられていく兵士を押し退けながら速度を上げた騎兵の一群が、
構えた槍を風壁に叩きつける。
だが、結果はほとんど変わらなかった。
風壁のなかに突き入れた槍は砕かれ、無数の破片となってその所有者を襲う。
運良く砕かれなかった者は巻き込まれた槍にバランスを崩し、
人馬もろとも風壁に突っ込み肉片に変わった。
それでも、当たり所の良かった何本かの槍が風壁を突き抜ける。
鈍く光る槍の先端が目の前まで迫まり、
慌てて一歩下がった田中は風壁を厚くした。
- 57 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:28
- 全方位を包んでいる風壁のあらゆる場所で同じような光景が繰り広げられている。
風が造り出した直径二十メートルほどのドームのなかで、
新垣は後方を振り返った。
田中の能力が敵の侵攻を食い止めている間は、とりあえず問題はない。
だがどれほどの時間、風壁が維持できるのかはわからなかった。
田中のSPが尽きて風壁がなくなれば、戦えるのは新垣だけになってしまう。
石川が聖堂に入るのが早いか、それとも田中のSPが尽きるのが先か。
中澤にもらった鉄扇を握り締め、新垣は囲んでいる敵を見回した。
「あれ?」
新垣は声を出して、目を細めた。
集まっている敵の後方、
聖堂とは反対方向に続く街道の先から強い光が近づいてくる。
この場にはそぐわない人工の明かりが次第に近づいてくるにつれ、
風の音に混じって微かにエンジン音が届いてきた。
- 58 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:28
- 排気音を轟かせて近づいてくるのは、大型のバイクだった。
ようやく気が付いた敵が後方に注意を向けるのとほぼ同時に、
ブレーキ音が響いて乗っていた小柄な人影が飛び降りる。
急激に横を向いて横滑りしたバイクの車体が、集まった敵のなかに突っ込んだ。
足元をすくわれた人馬がなぎ倒され、風壁近くまで一直線に道を作る。
優雅に足から着地した人影に向って、近くにいた何人かの兵士が動き出した。
人影は飛びかかってきた兵士を、ゆらりとした動きでかわす。
その右手の先で光が瞬くと同時に、通り過ぎた兵士がそのまま地面に倒れこんだ。
襲いかかってくる無数の敵を迎え撃つ小柄な影が手にしているのは、刀だった。
人影の周囲で光を反射した刀身が瞬き、そのたびに敵の兵士が倒れていく。
新垣たちの後方に集まっていた騎士団の目標が、
目の前で動かない風壁から近づいてくる人影に変わった。
風壁へと近づいていく新たな敵に、集まっていた兵士が殺到していく。
死の刃を煌めかせて集まってくる敵の群れのなかで、刀を手にした人影が舞った。
騎兵が近寄ってこられないように兵士の身体が楯にしながら、
新垣たちのいる方向に向って動き始める。
人影は敵の群れのなかを、自在に動いていた。
動きを止めず右に左にとジグザグに動きながら刀を振うその動きには、
無駄なところがまったくない。
振り下ろした刀の動きが次の動きへの布石となり、流れるように斬っていく。
「愛ちゃんっ!」
ようやく顔の見える距離まで近づいたところで、新垣が声を上げる。
その声に顔を向けた高橋は新垣に笑いかけながら、
飛びかかってきた兵士の首を刎ねた。
- 59 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:29
- 新垣の存在に気が付いた高橋が、風壁に向って動き出した。
ほとんど最短距離を走ってくる高橋の姿に、新垣は後ろを振り返る。
「れいなっ! 風を止めてっ!」
新垣の声に振り向いた田中が高橋の姿を見つけ、小さく頷いた。
「止めてっ!」
走ってくる高橋が風壁に触れる直前、新垣は声を上げた。
荒れ狂っていた風が消え、高橋が風壁の内部に入り込む。
同時に周りを囲んでいた敵も距離を詰めてきたが、風が途切れたのは一瞬だった。
ほんの少しだけ半径が縮まった風壁が再び現れ、
巻き込まれた兵士が弾き飛ばされる。
新垣は周囲を見渡して敵が中に入り込んでいないことを確認すると、
安堵の溜め息を吐いた。
「大変なことになってるね」
新垣の前に立った高橋の口元が、綻んだ。
あれだけの兵士を斬っていたのに息も切れていなければ、返り血も浴びていない。
「なんで? どうやってここに?」
「バイク借りて橋を渡ってたらいきなり霧に包まれちゃってさ。
道があるから適当に走ってたら、ここに着いたんよ」
そう言って高橋は刀を仕舞いながら、周りを見渡す。
離れたところにいる田中と道重に、視線を止めた。
「三人だけなの?」
「正面の聖堂のなかにこれを造った元があるみたいで、
石川さんが一人で向ってる」
「そっか。それは……都合がいいね」
遠くに見える聖堂を見ながら、高橋はニッコリと微笑んだ。
- 60 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:29
- 高橋の言葉の意味が分からず首を傾げた新垣は、突然それに気が付いた。
吐き気を催すような腐敗臭にも似た臭い。
慌てて首をめぐらせた新垣の視線が、止まった。
見つめる先には宙に浮んだ、黒い点。
眼を背けたくなるような強烈な不快感と、
全身の皮膚のすぐ下を無数の蟲が這いずり回ってような嫌悪感。
田中が造った風の壁の内側に、
野球のボールほどの大きさの"通路"が現れていた。
「こんなときにっ!」
まだ"通路"は出来上がったばかり。
妖獣が現れる前に田中の能力で消させるため、
振り返って声をかけようとした次の瞬間、闇が大きく広がった。
通常では考えられない速度で成長した"通路"から吹き付けてくる強烈な臭いに
新垣は顔をしかめる。
息を吸い込んでさえいない新垣の嗅いだものは、幻臭だった。
目の前に現われた忌むべき現象を受け入れることのできない脳が、
新垣の感じる最も不快な臭いという形で知らせている。
「離れてっ!」
後ろから聞こえたその声に、新垣は横に跳んだ。
同じように反対方向に跳んでいた高橋との間を通り過ぎた不可視のなにかが、
向った先にある闇を切り裂く。
その一撃を受け、二メートルほどになっていた"通路"はあっけなく掻き消えた。
- 61 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:29
- 異常に気が付いた田中の風刃で“通路”は消えたが、新垣は鉄扇を構えた。
視線の先には明らかに“通路”よりも大きい体躯を持った生き物が二匹。
“通路”が消える直前に物理法則を無視して現れたのは、
漆黒の毛に覆われた二頭の巨大な犬だった。
長いトンネルを抜け出たばかりのように目を細めていた一頭が、
新垣と高橋に目を止める。
二人に向ってゆっくりと近づきながら、
黒犬は獲物を威嚇するかのように咆哮を上げた。
並の人間ならそれだけで金縛りにあってしまうような、
力を感じさせる凄まじい咆哮。
思わず圧倒されそうになった新垣の前に、高橋が進み出た。
黒犬の正面に立った高橋の右手が柄にかかり、白光が鞘からこぼれる。
「犬コロの分際で威勢がいいね……」
低く呟くように言った次の瞬間、新垣の視界から高橋の姿が消えた。
- 62 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:30
- 新垣が次に気が付いたときには、高橋の姿は空中にあった。
黒犬の側面に跳び上がっていた高橋の刀が一回転して、空中に真円を描く。
加速のついた刃が黒犬の首の真ん中に叩きつけられた。
馬の胴体よりも太い首に刃が通り、下に抜けた刀が地面すれすれで止まる。
高橋が地面に降り立つと同時に、滑らかな断面を見せて黒犬の首が滑り落ちた。
切断面から血が吹きだすのを待たずに、
高橋は切っ先を地面に擦るように下に向けたまま、もう一匹の黒犬に走り寄る。
気が付いた黒犬が前肢を振ったときには、すでに高橋は間合いに入りこんでいた。
下段に構えた刀を追うように、高橋の身体も沈む。
放たれた横薙ぎの一撃が、懐深くに入っていた高橋の頭の上を掠めた。
鉤爪が通り過ぎた瞬間、高橋は手首を返して刃を上に向け斬り上げる。
片膝をついた高橋の剣尖が空を示して、止まった。
斬り飛ばされた前肢が宙を飛び、黒犬は頭から地面に倒れこむ。
前足を奪った高橋の一撃は、同時に黒犬の口を縦に切り裂いていた。
立ち上がることもできずに地面に押し付けている黒犬の頭部から、
またたく間にどす黒い血が広がる。
それでも絶命するには至らなかったのか、
緩慢な動作で首を持ち上げると目の前の高橋に、牙を見せた。
「あーしの獲物に手を出すな」
立ち上がった高橋の腕が動き弧を描いた刃が通り過ぎると、
しばらくして黒犬の首が転がり落ちた。
- 63 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:30
- 一瞬で二匹の黒犬を倒して新垣に向き直ると、高橋は刀を鞘へと納めた。
風壁を維持している田中の背中を一瞬眺めてから、ゆっくりと歩き出す。
「約束やよ。ここで立ち合ってもらう」
「なに言ってんの? いまがどういう状況だかわかってる?」
「能力を使うわけじゃないからさゆは邪魔できなし、れいなは手が離せない。
絶好の機会ってやつだね」
距離を取ったところで足を止めた高橋の顔は、真剣だった。
本気で言っていると分かり、新垣は声を上げる。
「無茶苦茶だよっ!
いまは力を合わせてここを抜ける方が先でしょ!」
「無事にここを抜けられたとしても、この先には後藤さんがいる。
いまを逃したら、もう教えてもらう機会はないんよ」
「だからって……っ!」
高橋は睨んでいる新垣から、視線を逸らした。
「それとも……」
高橋の視線が、田中の横に寄り添うように立っている道重の背中に向けられる。
その瞳を見て新垣は口を閉じると、肘をゆるく伸ばした右掌を前に出した。
「どうしても、やめるつもりはないの?」
そう言って鉄扇を握った左手を高橋の視界から隠すように、背に回した。
自分に向ってくるならともかく、道重に向う高橋を止めることはできない。
そして高橋の決意を変えることは、できそうもなかった。
目を細めた高橋が、左手に持った刀の柄に手をかける。
「お礼は言わないよ」
高橋はそう言って、音もなく刀を抜き払った。
- 64 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:31
- 腰のベルトに鞘を差して抜いた刀を右手に下げている高橋と、対峙する。
新垣は目の前のその姿に、戸惑った。
前に一度だけ向かい合ったときに感じたような殺気が、感じられない。
高橋は構えを取らずにただ静かに立っているだけだったが、
それがかえって不気味だった。
新垣は身体の後ろにまわした左手の鉄扇を握り締め、僅かに前に進む。
「……ぐっ!」
間合いまで半歩というところで、新垣は思わず身体を震わせた。
高橋の身体から突然膨れ上がった何かを、全身に浴びる。
無声の気合。
なにかをしてくると思っていた新垣には備えができていたとはいえ、
突然の先制に注意が一瞬逸れた。
気合をかけると同時に高橋が動き、左手に隠し持っていた手裏剣を下手から放つ。
同時に鋭く踏み込んで、右手の刀を一閃させた。
新垣は鳩尾に向かってくる手裏剣を開いた鉄扇で叩き落しつつ後ろに退いて、
刃の描く軌跡から外れる。
高橋はさらに踏み込み、両手で握った刀を袈裟懸けに振り下ろしてきた。
ギリギリで身体を開き、新垣は神速の一刀をかわす。
高橋は振り下ろされる刀から片手を離し、新垣の腕を取った。
掴んだ部分を支点にして高橋が身体を転じた次の瞬間、
新垣の身体が前に崩される。
慌てて両手を地面についた新垣は、首の後ろに殺気を感じて顔を上げた。
体勢を崩した新垣を見下ろしながら、高橋は持った刀を八双に構えていた。
「うわぁっ!」
無防備な首を後ろに迫った刃を、高橋から離れながら地面を転がって避ける。
- 65 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:31
- 何度か地面を転がりながら距離を取って立ち上がると、
新垣は鉄扇を前に出して構えた。
距離を詰めることもなく、高橋は刀を片手に下げて静かに立っている。
新垣は動かない高橋に視線を向けたまま、首筋に手を当てた。
小さな痛みと共にヌルリとした感触に触れて、
新垣の身体に冷たいものが通り抜ける。
一瞬でも遅れていれば頚動脈を、断たれていた。
「どーしたの、驚いた顔して?」
高橋は表情のない瞳で、新垣を見ていた。
唇には笑みが浮いている。
しかしその笑みは唇の形だけで、笑っているようには見えなかった。
「言ったでしょ。あーしはガキさんを斬って後藤さんを超える」
高橋はそう言って、無造作に歩み寄ってきた。
なんの躊躇もない攻撃に、新垣は覚悟を決めた。
全身が緊張していては動きが制限される。
近づいてくる高橋を見ながら息を抜いて、身体の力を抜く。
同時に肌の表面を、針で刺したような刺激が走る。
さっきまで分からなかった、高橋の身の内に押し隠した殺気を感じ取れた。
だが強烈な殺気の塊と化している高橋を見ながらも、それに囚われない。
自分の中にある意識を磨き、曇りのない鏡に仕上げる。
新垣は心からも力を抜いて、向かってくる高橋をその瞳に映した。
- 66 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:31
- ――――
あと数歩で間合いに入るというところで、高橋は歩みを止めた。
新垣の顔に視線を向けながら、
高橋は左手に握られている鉄扇に注意の一部を向ける。
刀は以外に脆い。
まともに打ち合ってはすぐに刃こぼれを起こすし、
横から叩かれれば簡単に折れてしまうこともある。
鉄の板が幾重にも重なってできている鉄扇は厄介だった。
厚みのある鉄扇は、高橋の技量でも簡単に斬ることはできない。
ゆっくりと前に足を出し、さらに間合いを詰めた。
あと半歩踏み込めば、斬撃が届く。
それでも、新垣はその場を動かずに身体の力を抜き、
まるで風景を眺めるかのように立っていた。
これが、命の取り合いをしようという人間なのか。
そう思えるほどに、自然な立ち姿。
静かなその表情は、銃弾をかわしたときに見せていたもの。
その姿を前にして、高橋の身体が震える。
戦慄に似たものが背中を駆け上がり、高橋の唇が笑いの形に歪んだ。
- 67 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:32
- 高橋の刀と新垣の鉄扇。
リーチの差は歴然としている。
新垣が攻撃を届かせるには一歩が必要だが、高橋には半歩で足りる。
実際にはコンマ何秒にも満たない差だったが、
圧倒的に優位に立っているのは高橋だった。
それでも、高橋は動かない。
目の前の高橋を見ているようでいながらそうではなく、
もっと深い何かを見つめているような視線。
新垣はその場を動かず、ただ顔だけを高橋に向けている。
ただそれだけなのに、
簡単に斬れるようでいながら手を出すのを躊躇わせる何かがある。
これまで対峙したことがない、不思議な感覚だった。
目の前の新垣からは、感情が伝わってこない。
怯えや戸惑い、恐怖やあるいは怒りでもいい。
向けられる感情や意思を、攻防をイメージする起点として使うことができる。
あるいは身の内に秘めた殺気を押し隠すだけでもいい。
そうすれば、高橋は動ける。
せめて新垣が構えを取っていれば、動きようもあった。
だが新垣は、ただそこに立っているだけだ。
何もない空間を敵として認識することは、できない。
- 68 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:32
- 高橋は表情を消し、ゆっくりと細く息を吸い込んだ。
身体の横に垂らした右手で、ゆるく刀を握っている。
構えはとらない。
各々の構えには各々の意味があり、
構えをとることで身体も心もそこに固定されてしまう。
それでは変化する戦況に対応することができない。
息を止め、高橋は自分の中で内圧を高める。
思うより以前の研ぎ澄まされた本能が、
これ以上踏み込んではならないと警告を発していた。
それでも、これを超えなければ先に行くことはできない。
「せぁっ!」
気合をかけ、一歩を踏み込む。
下から切り上げた刃を、新垣は後ろに下がってかわした。
高橋は顔の横で水平にした刀を両手で握り、
新垣の胸の真ん中を狙って突きを放つ。
その場を動かない新垣の胸に剣尖が吸い込まれたかのように見えたが、
弾かれたように後ろに退いたのは高橋だった。
- 69 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:32
- 距離を取った高橋は、驚愕に目を見開いた。
初太刀をかわした新垣に放った突きは、当てるつもりのない見せ太刀だった。
もう一歩退かせて、次の技につなげるつもりだったのだ。
だが剣尖は服に触れたところで止まり、新垣はまったく動かなかった。
腕の長さ、刀の長さ、踏み込みの深さそして剣尖の伸び。
高橋の身体も腕も伸びきっていた。
これ以上先に伸びないことを、新垣は知っていたかのように動かなかった。
見た目には平静を保っていたが、高橋の心中は乱れていた。
完全な見切り。
流派に関係なく伝えられる剣の極意。
放った突きは見せ太刀だったとはいえ、乗せた"気"は本物だ。
たとえ目で見て当たらないと確認できたとしても、
かわさずにはいられないレベルの攻撃のはずだった。
動揺する高橋に気が付いているはずだったが、
新垣は表情を変化させることはない。
どうすれば新垣を崩せるのかと考えていた高橋はふと、気が付いた。
目の前の新垣に向けて、両手で持った刀の切っ先を向けている。
高橋は無意識に剣尖を上げ、中段の構えを取っていた。
- 70 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:32
- いま高橋が取っているのは、
自分からは隙を見せずに無理に出てきた相手を制する守りの構え。
目の前の新垣に仕掛ける攻撃がないと、身体が理解したのだ。
前に一度対峙したときにも、同じ構えを取ったことがある。
あのときは新垣に危害を加えるつもりは、なかった。
危険を排除するために、退かせるだけでよかったのだ。
だが、いまは違う。
後藤に負けてからの数ヶ月、高橋もただ漫然と過ごしていたわけではない。
あのときとは比べ物にならないほど、技の理解は深まっている。
それでも、高橋は他の構えを取ることができなかった。
瞳を閉じた高橋は自分の内側で高まっていた圧力を抜くように、息を吐く。
刀から左手を離し、腰に下げていた鞘を抜いた。
目を開いて新垣を真っ直ぐに見ながら、右手の刀を静かに鞘に納める。
「あーしには……及ばない」
千変万化する世界のなかにあって、唯一不動にして至高の一点。
身体は完全なる動となり、心中は完全なる静となる。
高橋は目の前に立つ新垣のなかに、動と静の完全なる調和を見た。
- 71 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:33
- ――――
目の前にいる兵士の槍を捌くと同時にしゃがみ込み、
背後から放たれた矢を避ける。
石川は立ち上がりながら前方に跳び、
両側から同時に突いてきた槍の穂先をかわした。
目指す扉は目前だったが、近づくにつれ敵の攻撃は激しくなっている。
四方を囲んだ敵から繰り出される複数の槍と、
その間を縫うようにして突っ込んでくる騎兵。
そして間を置かずに射かけられる弩弓による攻撃。
絶え間なく続く攻撃が目の前の敵に集中することを許さず、
気を抜けば魔力を持った武器が身体を掠める。
それでも優れた体術と障壁によって、
石川は決定的なダメージは受けていなかった。
片足が地面に着いた瞬間に石川は身体を捻り、
着地の瞬間を狙って突き出された槍をかわす。
脇腹を掠めた槍の持つ魔力が障壁を切り裂き、鋭い痛みが走った。
石川は槍を左手で掴みつつ、兵士の顔面に右の拳を叩き込む。
奪い取った鋼鉄の槍を片手で握って肩に担ぐと、
石川は集まっている敵の背後にある聖堂の扉を睨む。
激しい敵の攻撃に、ここまでたどり着くのに予想以上の時間がかかった。
同程度の攻撃にさらされていると考えれば、田中の風壁もそう長くは持たない。
- 72 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:33
- 残された時間は少ない。
石川は息を吐くと、扉に向って走り出す。
肩に担いだ槍の端を握って、石川は正面にいる敵の足元を薙ぎ払った。
長大な槍を片手で振り回しながら、強引に扉への距離を縮める。
だが、敵もただ見ているだけではなかった。
左右にいる兵士から鋼鉄の矢が、石川に向けて雨のように放たれる。
石川は走る速度に緩急をつけることで狙いを外し、
繰り出される槍を最小限の身体の動きでかわす。
それでも槍のいくつかが掠め、頭部に向ってきた矢が受けた左手を貫通した。
扉まであと少しというところで振り回していた槍が騎兵の槍と打ち合わさり、
半ばから折れる。
槍が折れると同時に、石川は地面を蹴った。
目の前にいた敵を飛び越しながら左手の矢を抜き、扉の正面に立つ。
背後から振われた剣を振り向きざまに両手で受けると、
剣を持った兵士の身体を掴んで投げる。
四、五人の兵士を投げ飛ばして殺到する敵にぶつけ、距離を作った。
その隙に、石川は聖堂の扉へと向かい合う。
巨大な両開きの鉄扉の隙間から、内側にかけられたカンヌキが見えた。
敵の侵入を防ぐ、もっとも単純で強力な方法。
石川は近づいてくる敵の足音を聞きながら、
固く閉ざされた聖堂の扉に両手を当てた。
「ぐっ……!」
巨大な扉が軋み、石川の両足が地面にめり込む。
同時に空気を切り裂く音が耳を打ち、右肩に衝撃を受けた。
障壁を貫いて右肩を刺さった矢にも体勢を変えず、
石川は歯を食いしばりながら渾身の力を込める。
「いいかげんにしてよっ!」
声を上げるのと同時にカンヌキが弾け飛び、扉が開いた。
- 73 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:34
- ――――
刀をおさめた高橋を見て息を吐いた新垣は、慌てて顔を上げた。
周りを見渡すと、新垣たちを守っていた風壁が消えている。
地面に座り込んだ田中を傍らにいる道重が支えるのを見て、新垣は走り寄った。
敵の攻撃は、単純なものだった。
目の前の障害に惑うこともなく全力で突撃を繰り返す。
原始的な攻撃方法ではあったが、それにはまぎれもなく力があった。
その単純な力の前には能力操作のテクニックも、駆け引きもない。
対抗するには同等以上の力がなければ、ならなかった。
絶え間ない攻撃を防ぐために風壁を維持し続けていた田中だったが、
ついに限界を超えたのだ。
風壁がなくなり、周りを取り囲んだ敵がジワリと包囲を狭める。
「あーしはさゆを守るから、ガキさんはれいなを」
いつの間にか横にいた高橋が、道重の腕を取って立ち上がらせた。
その言葉に新垣も座り込んでいる田中の前に立つ。
自分の背中に田中を隠しながら、新垣は近づいてくる敵に視線を向けた。
二人を守りながらでは、包囲を抜けることは難しい。
この場で迎え撃つしかないが、それにしても敵の数が多すぎる。
「どういう風の吹き回し? 自分が助かることが第一じゃなかったの?」
「ガキさんにはいいもの見せてもらったからね。
お礼みたいなものやよ」
あっさりと言った高橋が刀を抜き、右手に下げる。
周囲に集まった騎兵が逃げ道を塞ぐように、二重三重に四人を取り囲んだ。
- 74 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:34
- 新垣も閉じた鉄扇を右手に構えた。
離れた場所から複数の槍で突かれれば避けようがない。
相手が動き出す前に自分から敵の懐に飛び込み、
リーチの長い槍を封じながら逃げることだけに専念すれば、
包囲を抜けられる可能性はある。
だからといって、新垣にはその方法を取ることはできなかった。
田中と道重は戦うことができない。
この場を離れれば、残った二人を見捨てることになってしまう。
「さすがにこの数はやばくない?」
「弱気やね。なんとかしてみせるぐらい、言えないの?」
高橋の声と同時に、新垣の正面にいた兵士が槍を手に突っ込んできた。
正面から突き出された槍に鉄扇を当て、巻くように逸らす。
そのまま槍を掴んで引き寄せた。
槍と一緒に付いて来た兵士の顔面に、鉄扇で一撃を食らわす。
倒れていく兵士の背後から飛来した複数の矢を、開いた鉄扇で弾き返した。
「れいなっ!」
叫びながら、地面に座り込んでいる田中の手を掴んだ。
手を引いて地面に倒した瞬間、田中の頭上を槍の穂先が掠める。
新垣は立ち上がらせようと手を引いたが、
ふらついた田中は再び地面に座り込んでしまった。
「早く立って!」
「れいなのことはいいから、一人で逃げてください……」
「バカッ!」
手を振りほどいて俯いた田中を叱りながら、周囲を見回す。
道重の手を引きながら戦っている高橋も苦戦している。
助けを求められるような状況ではなかった。
「……やばっ!」
新垣が僅かに目を離した隙に、三騎の騎兵が周りを囲んでいた。
三方から同時に攻撃されては避けることができない。
馬上の騎士が槍を振り上げるのを見て、新垣は田中に覆い被さった。
- 75 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:34
- ――――
聖堂のなかは、多くの装飾品で飾られていた。
高い石造りの丸天井には精緻な模様が刻まれ、
両側の壁は、複数の宗教的な石の彫像で埋め尽くされている。
採光のために付けられている窓には紋章を象られたガラスが嵌められ、
そこを通った光が聖堂を斜めに貫くように、射し込んでいた。
石川は右肩に刺さった鋼鉄の矢の先端を折る。
残った部分を無理やり引き抜きながら、整然と並んだ長椅子の間を歩き出した。
射し込む外光が左右の石像に当たり、見事な陰影を作り出している。
床下が空洞になっているのか正面の祭壇へと近づく石川の靴音が
聖堂のなかに響き渡り、荘厳で重厚な雰囲気を醸し出していた。
なにもかもが計算され尽くした冷たく神々しい雰囲気のなかに、それはあった。
深い悲しみの影を湛えた磔刑像の足元、これだけは質素な石造りの祭壇。
そして祭壇の上にある二つの燭台の間に置かれた、銀色に輝く聖遺物。
祭壇の前に立った石川は、置かれている小さな銀鈴を見下ろした。
「まったく、余計な手間をかけさせてくれるよね」
溜め息と共にそう言って後ろを振り返ると、
壊れた扉の間から外に集まっている騎兵の姿が眼に入った。
聖堂のなかに入ることができないのか、
集まった騎士団は視線だけを石川に向けている。
- 76 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:35
- 再び前を向いた石川は、正面の壁にかかっている磔刑像を見上げた。
よく見ると十字架にかけられた男の像にはいたるところにヒビが入り、
いまにも手足がもげそうだった。
背後にあるガラスも完全なものはなく、欠けている部分が目立つ。
薄暗い光のなかでは気が付かなかったが、
聖堂にある完璧に見えた装飾品の多くも、すでにその価値を失っているのだろう。
石川は自分を見下ろしている虚ろな眼から、祭壇の上に視線を落とした。
祈る者もいないこの聖堂のなかで何百年もの間、なにを待っていたというのか。
埃の被った燭台の間にある銀鈴だけが、
まるで作られたばかりのように輝いていた。
すでに存在していない聖堂とそれを守る危険な守護者たちを作り出したのが
銀鈴の力なのか騎士団の狂信によるものなのかは、わからない。
だが多くの血を流させ、安らかな死も与えられず戦いを強いてきたのは、
まぎれもなくこの遺物の存在だった。
「こんな物のために……」
石川は小さく呟いて首を振ると、ゆっくりと手を伸ばし銀鈴を掴んだ。
- 77 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:35
- ――――
襲ってきたのは、身体を貫かれる衝撃ではなかった。
突然、新垣の意識を衝撃が襲った。
精神を直接叩かれたような激痛に思わず悲鳴を上げそうになる。
胸を押さえた新垣は地面が揺れ動くのを感じた。
何が起こったのか確かめようと顔を上げた新垣の目の前を、霧が流れていく。
周囲の霧が渦を巻き、そのなかの光景も溶けるように流れる。
正面に見えていた大聖堂も目の前に迫っていた騎兵たちも
その輪郭が崩れ去り、白い霧の中へと消えていく。
同時にあらゆる負の感情が混じり合った巨大な音量の声が、頭のなかに響き渡る。
泣き、叫び、憎しみ、呪う。
鼓膜を叩く割鐘のような声と共にさっきよりも数段強い衝撃が襲い、
新垣はなすすべもなくきつく目を閉じた。
- 78 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:35
- どれだけの時間が経ったのか、
新垣は頬に当たる風が変わっていることに気が付いた。
恐る恐る目を開けると、すべてが終わっていた。
砂漠を貫く街道も大聖堂も騎士もすべてが消え、
アスファルトの道路の上を、冷たく湿った海風が吹いている。
大きく息を吐いて座り込んだ新垣は辺りを見渡した。
疲れ果てたように地面に座っている田中に寄り添っている道重と、
なにごともなかったかのように傍らに立つ高橋。
そして三人の背後に見えるのは、海を挟んで瞬く都会の光だった。
「けっこう気に入ってたんだけどなぁ……」
その声に道路の先に顔を向けると、
ボンネットに穴の開いた車に寄りかかっている石川の姿を見つけた。
いたるところに穴の開いたボロボロのコートを指でつまんで、
悲しそうに見下ろしている。
「とんだ寄り道になっちゃったね」
顔を上げた石川はニッコリと微笑んで、
手に持った鈍い銀色の鈴を小さく鳴らした。
- 79 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:36
- ――――
拳銃を投げ捨てると、矢口は車から飛び降りた。
自分の車に駆け寄るとトランクを開ける。
「こんな豆鉄砲じゃラチが明かないよっ!」
入っていたケースのジッパーを開くと、
中からアサルトライフルM16を取り出した。
一緒に入っていたベストを装着すると、マガジンを鷲掴みにする。
暴れ回る黒犬に何発かは当たっているはずだが、動きはまったく衰えなかった。
拳銃弾では黒犬の外皮を貫通できない。
再び車両に飛び乗ると、肩付けにしたライフルの銃口を標的に向ける。
すべての生物の弱点、慎重に黒犬の頭部を狙って引き金を引いた。
高速で動き回る標的に、弾丸が逸れて首のあたりに命中する。
銃弾を受けた黒犬の一匹が短い悲鳴を上げて顔を背けた。
低くうめいた黒犬の赤く輝く巨眼が矢口に向けられ
耳まで裂けた大口から真っ赤な舌が延び、口元を撫でる。
巨大な体躯を支える太い四肢が、地面を蹴った。
黒犬が動き始めた瞬間、矢口は車から飛び降りる。
前足の一撃を受けてひしゃげた車体から、黒犬が鉤爪を引き抜いた。
低く唸りながら矢口を振り返えると再び突進を始める。
矢口は地面に片手を付いて前転しながら突進を回避しつつ、引き金を引いた。
頭部を捕らえた数発の弾丸に力をなくした黒犬の前肢が折れ、
突進の勢いのままに地面を滑る。
- 80 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:36
- 倒しになって崩れ始めた黒犬の姿を横目で見ながら、
矢口は息をつく暇もなく弾の切れたマガジンを抜いて新たに装填する。
他の仲間も何匹かは倒しているが、
それよりもトンネルの奥から新たに現れる敵の数の方が多い。
黒犬に気を取られている間にグールに囲まれ、倒されている者もいる。
再び銃口を向けようとした矢口は、その臭いに気が付いた。
慌てて周囲を見渡すと、近くにある乗用車から液体が流れ出ている。
仲間が撃った流れ弾がタンクに穴を開け、ガソリンが漏れ出していた。
ガソリンは地面に広がり、
気化した可燃ガスが狭いトンネル内に充満し始めている。
数発の銃弾が壁を打つ音に、矢口は背後を振り返った。
地面に倒れている仲間が、銃口を持ち上げていた。
すでに意識はほとんどないのだろう、
焦点の合っていない目で誰もいない空間を睨みながら、
揺れる銃口をガソリンの漏れていた乗用車に向ける。
「撃つなっ!」
矢口は叫びながら走り出した。
同時に男の口元が上がり、何かを呟く。
「待てっ!」
叫んだと瞬間に、閃光が走った。
近くの車の影に向ってスライディングした矢口は耳を押さえる。
車体に当たった銃弾の火花で引火したガソリンが爆発を起こし、
大音響と共にトンネルが揺れた。
爆風がトンネルを塞いでいたトラックをなぎ倒し、
伏せた矢口の背を熱風が駆け抜ける。
- 81 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:36
- 耳鳴りがおさまる前に、矢口は顔を上げた。
いまの爆発で起こった粉塵で視界を遮られていたが
残った僅かな照明に照らされているトンネルになかには
黒犬も集まっていたグールの姿もなかった。
そして、戦っていた仲間の姿も。
他の仲間がどうなったのかわからない。
だが感傷に浸っている暇はなかった。
トンネルの天井と壁のコンクリートが弾け飛ぶ。
いまの爆発で、トンネルの崩壊が始まっていた。
矢口はトンネルの入り口を目指して走り出した。
- 82 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:37
- ――――
「ほんとに殺されるかと思ったんだからっ!」
「あれぐらい言わないとガキさん本気になってくれないでしょ?」
口を尖らせながら言った新垣の非難の言葉を、
高橋は当然のことのように言って受け流す。
刺さっていた槍は消えていたが車は使い物にならず、
新垣たちは冷たい海風にさらされながら、海ホタルへと続く橋の上を歩いていた。
前を歩いている三人は、
何とか歩ける程度に回復した田中を挟むように、歩いている。
あの状況で戦いを挑み新垣には途中と思えるところで勝手に止めた高橋は、
相変わらず自分勝手だった。
「ほれ」
高橋が投げてよこした小さな円盤を受け取りながら、苦笑する。
結果的には全員無事でいるならそれでもいいと思いながら、
新垣は自分の手に視線を落とした。
「それ付ければ、能力で造られた炎を防ぐことができるらしいんよ。
あーしには能力がないから離れて炎を使われたら手が出ない。
後藤さんを倒すのを条件に貰ったんだけど、二つあるからガキさんにあげる」
「ふ〜ん……」
表面に右手に剣を持った天使が刻まれた直径5センチほどの、金属の円盤。
端に開いた小さな穴に革紐が通してあり、首から下げられるようになっている。
タリズマン、護符と呼ばれる魔術武器の一つだった。
それは刻まれた模様で宇宙の諸元素や守護天使の力を集め、蓄える。
世の中に出回っている物のほとんどは
身に付けている者から小さな不運や災厄を遠ざける程度のものだが、
卓越した技術と魔道に精通した術者が造った物はそれらとは一線を画す。
強力な力を内に秘めた護符は持ち主を攻撃しようとする霊的な攻撃だけでなく
物理的な攻撃にもその効力を発揮する。
- 83 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:37
- 乗せている手の平から全身へと伝わる静かで力強い波動に、
いま手にしている護符が高度な魔術知識と精緻な技術の上に造られ、
さらには長い年月を経て力が蓄えられた物だとわかる。
これならば後藤の能力を阻むことができるかもしれない。
「ごっちんはそんなものだけじゃ倒せないよ」
後ろを振り返ってそう言った石川の横顔は緊張しているのか、
少し強張っているようだった。
「何でですか? 炎が防げれば……」
「ごっちんの操る能力は二種類。
私が見たことあるのは炎だけなんだけど、もう一つの能力がなんだろうと
相当なレベルで使いこなせると思った方がいい」
たしなめるように言った石川の言葉は正しい。
いかに優れた呪具であろうがそんなものでどうにかなるような能力者ならば、
最強などとは呼ばれない。
そして後藤の実力は、HPにいる誰もが最強と認めている。
「貰ったって、誰に?」
それでもないよりはマシだと思いながら、
新垣は革紐を首に通して護符を胸から下げた。
「吉澤さん」
高橋は前を見ながら表情も変えずに、答えた。
- 84 名前:Stella By Starlight 投稿日:2007/05/03(木) 11:37
- ――――
- 85 名前:カシリ 投稿日:2007/05/03(木) 11:38
- 以上で第六話終了です。
- 86 名前:カシリ 投稿日:2007/05/03(木) 11:38
- >>53 名無飼育さん 様
結末はまだ決まってないですが、頑張ります。
>>54 愛毒者 様
このメンバーだと石川が最年長なので、初戦から頑張ってもらいました。
これからしばらく戦闘が続く予定です。
>>55 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
そう言ってもらえると嬉しいです。
- 87 名前:愛毒者 投稿日:2007/05/05(土) 17:06
- 更新お待ちしてました♪
とんでもないところで現れた愛ちゃんですが
望み通りの経験(戦い)が出来て何を思い、何を得たのでしょう?
それに意外な人との接点も出てきて話も複雑怪奇に絡んできましたね。
次の展開も楽しみに待っています!
p.s
梨華ちゃんお疲れ様ですw
- 88 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/05/10(木) 07:08
- 愛ちゃんつおいっ!!
ごとーさんとのバトルが楽しみです♪
- 89 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 10:55
- ――――
岸壁に砕ける波の音が断続的に聞こえてくるなか、新垣は上を見上げる。
普段はライトアップされているはずの建物だったがいまは照明も消され、
まったく人の気配がしなかった。
橋を歩いて渡った新垣たち五人は、
建物を回り込むようにして正面の階段へとたどり着いた。
突然吹きつけて来た強い海風に、新垣は髪を押さえる。
横に見える駐車場には高級そうな車と、大型のバスが何台か停まっていた。
「誰もいないね」
「全員下に降りたんじゃなか?」
そんなはずはないと分かっていながら、田中と二人で言葉をかわす。
HPに所属する能力者のほとんどが、この日のために集められている。
護衛がいないはずはない。
実際背後にあるトンネルのなかには、矢口がいるはずだった。
「とりあえず建物に入ろう」
そう言った石川を先頭に、全員で階段を上がり始めた。
- 90 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 10:55
- 近くで見る建物は五階建てとはいえ、大きく見える。
上を見上げながら階段を上っていた新垣は、
立ち止まった石川の背中にぶつかった。
「どうしたんですか?」
動かない石川の肩越しに前を見ると、そこは小さな広場だった。
よく見ると地面のいたるところに、黒い染みのようなものが広がっている。
目を凝らした新垣だったが、
それがなんなのかを確認するには光量が足りなかった。
「……あの橋を渡って来れるなんて思わなかったよ」
感心したような声と共に、広場の上に二つの炎が点じた。
その炎に照らされた小さな広場は、ほとんど原形を留めていない。
建物の壁も地面も巨大な爪で切り刻まれ、
いたるところで爆発が起こったかのように抉り取られている。
「でもこっから先には行けないし、残念だけど引き返すこともできない」
炎の真下にいる人物が笑いながら髪をかき上げた途端、
広場のなかを巨大な爆発音が轟き、空気が震えた。
慌てて視線を移すとさっきまで新垣たちが渡っていた橋の方向で、
巨大な炎と黒い煙が上がっている。
「ほらね」
あれだけの爆発が起きたとすれば、橋もただでは済まない。
笑いを含んだ声に視線を戻した新垣は、
炎に照らされ地面にあった染みの正体に気がつく。
「さっきまで人がいっぱいいて賑やかだったんだけどさ。
いまいち手応えなかったよ」
後藤は地面を覆う大量の血の海のなかで、微笑んだ。
- 91 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 10:56
- 第7話
I Got Rhythm
- 92 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 10:56
- ――――
直線的な光りのなかに浮かび上がるのは、
トンネルの壁と強力なライトの光りも届かない延々と続く道路だけだ。
矢口は暗いトンネルの中を歩いていた。
さっきの爆発で助かった仲間と共に海ホタルとは反対の方向、
トンネルの出口に向っている。
矢口も含めて助かった仲間のほとんどが、負傷していた。
装備のほとんどはトレーラの中にあったが、
横倒しになった車の上に降り注いだ瓦礫に車内に入ることができなかった。
それにいつ、トンネルが崩壊するか分からない。
あの場に留まっても妖獣の侵攻を止めることはできないと、判断した。
すでに中間地点にある人工島は、通り過ぎている。
トンネルの出口は近いはずだったが、まだ誰の姿も見ていなかった。
連絡が取れなくなってから相当の時間が経っているし、
さっきの爆発にも気が付いているはず。
入り口を警備している他の部隊が動き出していないということは、
そっちでもなにかが起きているのかもしれない。
「止まれ!」
先頭を歩いていた仲間の鋭い静止の声に、
考えごとをしていた矢口は足を止めてトンネルの前方へと顔を向けた。
- 93 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 10:56
- 向けられた複数のライトのなかに、歩いてくる人影が浮かび上がる。
どこにでもいるようなスーツ姿の中年や若者が六人、
横一列になって向ってくる。
一瞬仲間が助けにきたのかと思ったが、矢口はそうではないと気が付いた。
近づいてくる男達の顔には何の感情も浮んでいない。
「止まれ! それ以上近づけば撃つ!」
再度の警告など聞こえないかのように、男たちは淡々と進んでくる。
背後から追ってきているかもしれない妖獣への不安と極度の疲労に、
余裕はなかった。
仲間の一人が警告のため引き金を引き、男たちの前の道路に銃弾を撃ち込む。
向ってきていた男達は足を止めたが、銃弾に怯えたようには見えなかった。
その視線は真っ直ぐに、矢口達に向けられている。
トンネルに反響した銃弾の音が余韻を残して消えると、別の音が聞こえてきた。
その音に嫌な予感が過ぎった矢口は安全装置を外し、銃口を持ち上げる。
正面に立つ男の一人が微かに口を開いて、笑っていた。
その喉が鳴っている。
こいつは獣だ。
なぜか冷静に矢口はそう、思った。
予想外の反応を示す男たちに戸惑った矢口たちが次の行動を取れないでいると、
突然一人の男が上を向いて大声を上げる。
その声を合図に、横に並んでいる男たちも一斉に声を上げた。
耳を押さえたくなるような不快な声が重なり、トンネルにこだまする。
そして、人間のものだった長い絶叫が次第に変化した。
見る間に人間の殻を破って現われた六体の人狼が咆哮を上げ、一斉に動き出す。
そして殺戮が始まった。
- 94 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 10:57
- ――――
本当に同一人物なのか。
目の前にいる後藤を見て、新垣はなぜかそう感じた。
以前見たときとは何かが、違っている。
具体的にどこが、というわけではない。
僅かに口元を上げて湛えている笑みも、そこから感じる雰囲気も変わらない。
それでも、何かが違っていた。
「……石川さん」
視線を後藤に固定したまま、
横に並んでいる石川にだけ聞こえる大きさで声をかける。
「なに?」
「れいなと一緒に下がって下さい」
本当に効果があるのかどうかは分からないが、
新垣には高橋にもらった護符があった。
いきなり広範囲に炎を出されても、高橋と新垣は護符の呪力で守られる。
石川と田中もなんとかできるだろうが、この場には道重がいた。
後藤と戦うことになれば石川の力も必要だったが、
新垣としては話し合いでなんとか戦闘を避けたい。
話をするあいだ道重のことを、
石川の障壁と田中の能力で守ってもらうつもりだった。
「ごっちんと話し合うつもりなら、無駄だよ」
「お願いします」
止めようとした石川だったが決意を込めた新垣の声に、
諦めたように息を吐いた。
田中を視線を合わせて後ろに下がると、二人で道重を挟むように立つ。
- 95 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 10:57
- 二人が下がるのを待っていたかのように、高橋が前に出た。
「みんなのことは知らないわけじゃないからね。
あんまり痛くしないであげる」
近づいた高橋を見ながら楽しそうに言った後藤に向けて、新垣も前に進んだ。
立ち止まった高橋の横に立つと、後藤を真っ直ぐに睨む。
「吉澤さんは地下にいるんですよね?
なにをしようとしているのか知りませんけど、
いま止めないと取り返しのつかないことになるかもしれないんですよっ!」
「後藤はここを通すなって、よっしいに言われたからいるだけ。
他のことなんかどうでもいいんだよ」
新垣の疑問に対する答えをそのまま口にしただけのように、
悪びれることもなく、後藤は言った。
「吉澤さんがなにをやってきたのか知ってるんですか?
辻さんと戦ったのだって元々は吉澤さんが……」
「知ってるよ」
真剣な新垣の言葉に興醒めしたように、後藤は表情を僅かに歪める。
「辻の家が襲われたとき、後藤もその場にいたんだよ。
あの子のお姉さんとも知り合いだったから、
辻の家に伝わってる薬のことも聞いてた」
呆気に取られた新垣の顔を見て理解できていないと思ったのか、
後藤は少し眉を寄せてから、続けた。
「よっしいが主になりたいって言ってきたから、後藤が条件を出した。
秘薬を飲み、後藤が認めるほどに成長した辻を倒すことができれば、
主として認めてもいいってね。
だから、よっしいがなにをしてきたのかは知ってる」
もうこれ以上付け足すことはないとでも言うように、
後藤は口を閉じて新垣を見つめる。
「じゃあ辻さんの村を襲わせたのは……後藤さんってことですか?」
「辻の一族はね、つんくの考えに賛同して秘薬を渡してた。
よっしいが止めさせようとして説得に行ってたみたいだけど
うまくいってなかったから、
後藤が言い出さなくてもいずれは同じことになってたよ」
問われたから答えたとでもいうように、後藤は言った。
- 96 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 10:58
- なぜそんな重要なことを平然と語ることができるのか、新垣にはわからない。
強く拳を握り締め、微笑んでいる後藤を睨みつけた。
「なんでそんなことを……っ!」
「人間の起こす行動には理由も原因も必然性もない。
すべての人は自分の意志に従って行動する自由がある」
激昂した新垣の言葉にも、後藤はその表情を変えない。
だが穏やかな笑みを浮かべたまま新垣を見ているその瞳の内側に、
恐ろしい何かが潜んでいるように感じた。
「だったらなんで吉澤さんに従ってるんですか。
それが後藤さんの言う自由ですかっ!」
「自分の行動を決めるのは自分自身なんだよ。
人は行動によって善悪や美醜といった価値観さえ決定することができる。
そして現実のなかでどんな行動を取るかが、その人間を決定していく」
静かだが不思議なほどによく通る声で言った後藤は、僅かに表情を曇らせた。
「だけど、後藤の自由は呪われてる。
いろいろ言われてるけど後藤はね、強くなんかないんだよ」
「答えになってませんっ!
後藤さんは自分のしたことになにも感じないんですか?
それに市井さんを殺した人ですよ。
それでも吉澤さんを認めるって言うんですかっ!」
「後藤が欲しいのは"主"なんだよ。それが誰に代わっても関係ないね」
新垣の言葉にたじろぐこともなく、後藤は穏やかな声で答える。
「そんなの間違ってるっ!」
後藤の語ったすべての言葉を拒絶するかのように、新垣は叫んだ。
激昂する新垣を見て、後藤の赤い唇が愉しげに上がる。
「言ったでしょ? 自分の考えが正しいと思うなら……行動することだよ」
そう言って微笑んだ後藤から叩きつけるように、殺意の凝塊が放たれた。
- 97 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 10:58
- 後藤の殺気に反応した高橋が、右手で取り出した二本の手裏剣を同時に飛ばした。
動き出した高橋に話し合いを諦め、新垣は後藤の横に回りこむように動き出す。
両肩に向かって放ったれた二本の手裏剣が後藤の顔の両側を通って、
背後の空間に抜けた。
かわすための動きではなく、攻撃のために前に出る。
その動作が結果として、手裏剣をかわす動きになっていた。
向ってくる後藤に身体を向けながら、
手裏剣を放った高橋の右手がそのまま刀の柄にかかる。
左手で鞘を払い、一息で抜刀。
近づいてくる後藤と距離を合わせるために下がりながら、袈裟懸けに斬り下ろす。
頭上へと振り下ろされた刃を、後藤は身体を開いてかわした。
かわすのを予想していたのか、高橋は左手で逆手に持った鞘を振る。
頭部に向けて水平に振られた鞘を、後藤は余裕を持って右の手の平で受け止めた。
同時に出した左手が肩に触れた瞬間、接触した部分で小さな閃光が生まれ
高橋の身体が後方に吹き飛ぶ。
- 98 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 10:58
- 地面を転がっている高橋を視界の隅に捕らえながら、
新垣は鉄扇を手に後藤に走り寄った。
倒れた高橋に顔を向けながら、後藤が左手を新垣に向かって伸ばした。
その指先に、薄い円環状の半透明な物体が現れる。
軽く手首を振ると意思のあるような速度で、後藤の手を離れた。
足を止めた新垣は高速で向かってくる何かを、開いた鉄扇で打ち落とす。
次々と放たれる物体を防ぐ鉄扇の周囲に、宙を漂う微細な氷の欠片が舞い散った。
「やるねぇ、ガキさん」
感心したように言った後藤の周囲に具現化した無数の氷環の薄縁が、
月の光りを受けて刃の鋭さで輝きを放つ。
「普通は避けられないんだけど……ねっ!」
視線を新垣に向けたまま、後藤は左手を横に振った。
周りに集まっていた氷環が一斉に動き出し、立ち上がっていた高橋に向かう。
両手に持った鞘と刀が同時に動き、
高橋はその場で飛んできたすべての氷環を叩き落した。
「後藤さんが使える能力は二つじゃなかったんかの?」
すべての攻撃を防いだ高橋は、着ていたコートを脱いで投げ捨てる。
刀を鞘へと戻した高橋の足元に落ちたコートには後藤が触れた肩の部分を中心に、
焼け焦げたような大きな穴が開いていた。
それでも身に付けている護符が防いだのか、
なかに着ていたシャツにも拳大の穴が開いているが、
露出した肌には傷がついていない。
- 99 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 10:59
- 新垣はいつでも飛び込めるように間合いを計りながら、
頭のなかで高橋の言葉に頷く。
後藤が持っている能力の一つは、その異名にもなっている"炎"。
そしていま後藤が使って見せたのは"氷"の能力。
だが高橋の刀をかわした動きは、武術的な動きではなかった。
増幅の能力で身体能力を倍加させた者の動きだとしか、思えない。
「たしかに能力っていう言い方で括れば、そうだね」
腑に落ちないようすでダメージのない高橋を眺めながら、
後藤はなんでもないことのように言って小さく頷いた。
「操元と呼ばれる能力は、人の力で周囲の空間に干渉して物理現象を引き出す。
現れる力の効果は無数にあるけど根本は同じ、
"木火土金水"五つの要素の相克相生を操ることで、
すべての事象を生み出してる。
もちろん使う人のセンスもあるし能力との相性もあるけど、
それが理解できれば、どんな力も引き出すことができる」
離れた場所にいる田中に顔を向け、余裕のある仕草で髪をかき上げる。
「後藤はね、操元と呼ばれる能力のすべてが使える。
いっぺんに全部は無理だけど、右手と左手で二種類。そしてココ」
そう言って、後藤は自分の頭の横を指で叩く。
「神経系に限定して増幅の能力を発動する。
感覚機能の短期間強化と視界の拡張、神経系の高速化。
限定して発動することで普通に能力を使うよりも
その効果は飛躍的に上がるし、
身体強化を伴わない増幅の能力はSPの消費を格段に抑えられる。
つまり後藤は"操元"と"増幅"の能力が使えるんだよ」
楽しげに笑った後藤が、片手を頭上に真っ直ぐに伸ばした。
人差し指で藍色の夜空を指し示す。
- 100 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 10:59
- 空に浮んでいる雲の一部が、不自然に歪んで見える。
後藤の手の先を見上げた新垣は違和感を感じて、目を凝らした。
「なに……?」
頭上に現われた物に気が付き、新垣は言葉を飲み込んだ。
後藤の頭上に浮んでいる物は境界線がなんとか確認できるような一点の曇もない、
巨大な氷の塊だった。
突然現れた氷塊にその場にいる全員の視線が集まるのを見て、
後藤の口元が上がる。
頭上に伸ばした手を握った瞬間、浮いていた巨大な氷の塊が爆散した。
月の光を乱反射する無数の氷の細片が、後藤の周囲に降り注ぐ。
「こんなこともできるよ」
そう言って後藤が指を鳴らすと、宙を漂っていた氷が一瞬で蒸発した。
現われた大量の蒸気が巨大な霧となって、後藤の姿を隠す。
「退がれっ!」
霧のなかに後藤の姿を見失った新垣は石川の声に、その場を急いで離れる。
煌めく巨大な霧のなかから五つの火球が放たれ、
そのうちの一つがさっきまで新垣のいた場所に着弾した。
新垣は熱風を背中に感じながら走りつつ視線を向けたが、
霧が視界を邪魔して後藤の姿を見つけられない。
「ガキさんなにやっとる! 能力で後藤さんをっ!」
いつのまにか並走していた高橋の言葉に慌てて能力を発動する。
見たこともないほど強く輝く光点が、目の前の霧に重なって観えた。
「あそこっ!」
「よっしゃ!」
霧の一点を指差した途端、進路を変えた高橋が刀を手に霧へと向かう。
- 101 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 10:59
- 突然澄んだ音が鳴り響き、霧に走り寄る高橋の周囲に輝く破片が飛び散った。
足を止めた新垣は高橋の周囲に目を凝らす。
高橋が走りながら身体を捌いて持った鞘を振ると、
再び同じ音が鳴り響いて破片が舞った。
一瞬だったが、新垣にはその正体を捉えることができた。
霧の中から飛び出してきたのは氷の塊だった。
氷柱のように先端の尖った無数の氷が次々と襲いかかるなか、
高橋は足を止めることなく霧に向かう。
飛んでくる氷柱をギリギリでかわし、避けられないものは手に持った刀で弾く。
水晶のように透明な凶器をものともせずに走り寄る高橋だったが、
近づくほどに増えていく氷柱に速度が遅くなってきた。
あと一歩というところで、
霧のなかから人間の背丈ほどもある巨大な氷柱が飛び出した。
さずがに足を止めてかわした高橋を追うように巨大な氷柱が次々と放たれる。
弾けない大きさに、高橋は大きく下がって距離を取った。
- 102 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:00
- 後ろに下がった高橋を見て、石川は走り出した。
「れいなっ!」
霧に向かって走りながらかけた声に、田中が頭上に掲げた右手を振り下ろす。
次の瞬間、見えない巨大な鞭で一撃されたかのように霧が両断された。
速度を緩めずに走っていた石川の目の前で、
霧の中に隠れていた後藤が姿を現す。
それ自体が攻撃になっているはずの風だったが、後藤は平然と手招きをした。
凄まじい速さで近づいた石川を、右手を上げた後藤は満面の笑みで迎える。
石川が間合いに入る直前、頭上に上がった後藤の右手が斜めに振り下ろされた。
後藤の薙いだ手の先で金色の炎が生まれ、爆発的な輝きを発する。
炎は障壁で遮断できる。
目の前に広がった炎に怯むことなく走りながら、石川は両手を顔の前で交差した。
だがその熱に灼かれるよりも、凄まじい衝撃に襲われ後ろに弾き飛ばされる。
地面を滑った石川はすばやく立ち上がると同時に、
目の前に迫っていた氷柱の先端に向けて右の拳を放った。
砕いた氷塊の破片のなかを突っ切って走りだすと、
まだ残っていた霧のなかに飛び込む。
それを見た後藤が霧に向かって片手を振りかぶり、
鉤爪状に曲げた指を真横に薙いだ。
次の瞬間、残っていた霧に水平な五つの線が入る。
間を置かずに隠れていた霧から石川が弾き出され、再び地面を転がった。
- 103 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:00
- 立ち上がった石川はそれ以上の追撃がないのを確かめてから、
自分の頬を指でなぞった。
石川の頬には、刃物で切りつけられたような切り傷ができていた。
傷自体は浅かったのか、血をふき取った肌に傷は残っていない。
だが、石川が霧に入ってから攻撃までほとんど間がなかった。
個人によって最大値は決まっているが、
操元の能力の威力は溜めの時間に比例すると言っていい。
ほとんど準備なしで放たれた攻撃で障壁を切り裂くなど、
考えられないことだった。
「化け物め……っ!」
「ひどいなぁ、梨華ちゃんに言われると傷ついちゃうよ」
顔をしかめながらもどこか楽しそうに言った後藤は、
その場にいる全員をゆっくりと見渡した。
「みんなスゴイね。これなら……」
突然空から投げかけられた二つの光条が、後藤の言葉を遮った。
- 104 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:00
- 光の先へ顔を向けた田中の目が、音もなく宙に浮かんでいる黒い機影、
二機の攻撃ヘリの姿を捉えた。
強烈なサーチライトの光と共に、並んでいるヘリの機首は後藤に向けられている。
突然現われたヘリから視線を移して、田中は周囲を見渡す。
ある程度の消音装置が備わっているとはいえ、
ここまで接近している状態でローター音が聞こえないはずがない。
そこまで考えて、ふと気が付いた。
さっきまで聞こえていたはずの海風も、岸壁に当たる波の音も聞こえない。
「忘れてた」
上空から照らしている強烈な光のなかで、
後藤はちょっとした忘れ物でも思い出したかのように軽く言いながら指を鳴らす。
途端に鼓膜を叩くヘリの爆音と強い海風が、押し寄せてきた。
風の能力で周囲に壁を作り、音を遮断する。
それ自体はそれほど驚くことではないと思いながらも、田中は戦慄した。
広場を覆うほどの巨大な風壁を維持しながらも、互角以上に渡り合っていた。
後藤はまだ、本気ではなかったのだ。
- 105 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:01
- 自分を照らす眩い光のなかで、後藤はめんどくさそうにヘリを見上げた。
同時に空に溶け込んだ黒い機体の下部から虫の羽音にも似た低い唸り音と共に
閃光が走り、後藤の周りの地面で火花が飛んだ。
警告も威嚇もないヘリからの機銃掃射が、コンクリートの破片を撒き散らす。
だが気象条件や射程、さらには相手の動きを計算するコンピュータによる掃射も
後藤には届かない。
ヘリと後藤のちょうど中間当たりで、何かに弾かれたように銃弾が曲げられる。
大口径弾の猛射によって掻き乱された空気のなかで、後藤の髪が舞い上がった。
「あ〜もうっ! 髪型乱れるじゃんっ!」
片手で髪を押さえながら後藤は不機嫌な顔でそう言うと、
サーチライトを向けているヘリに残った手を伸ばした。
ミサイルでも打ち込むつもりなのか、ヘリが掃射を止めて距離を取る。
後藤は後退をはじめたヘリを見ながら僅かに目を細め、
虚空の何かを掴み取るように前に出した手を握った。
次の瞬間、見えない手で叩き落されるように、
低空を飛んでいた二機のヘリが垂直に落下する。
メインローターのブレードがコンクリートの地面に接触して火花を上げたのは、
一瞬だった。
激しくつぶれた機体と共に砕けたブレードが四方に飛び、
駐車してあった大型バスに突き刺さる。
ヘリと車がほぼ同時に爆発を起こし、巨大な炎が衝撃と共に膨れ上がった。
「逃げろっ!」
叫んだ石川が横に立っていた道重を抱えて、階段の下に飛び込む。
田中は背後に風壁を造りつつ、後を追うようにして走り出した。
- 106 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:01
- 階段の下に飛び込み、間一髪で熱風をやり過ごした田中の耳から、
不意に爆音が遠ざかる。
慌てて振り返った田中の視界には、
風壁に当たって壁のように立ち上がる巨大な爆炎が広がっていた。
駐車中の車が誘発されて起こる断続的な爆発が巨大な火炎を生み出し、
渦を巻いて空を焦がしている。
田中と同じところに避難した高橋と新垣も含めた五人は、
その光景を呆気に取られたように眺めた。
「……変な邪魔が入っちゃったけどさ」
再び不自然な静けさの中で聞こえてきた声に、田中は息を呑む。
田中の造り出した風壁をなんなく超えて、後藤が炎の中から現われた。
「楽しくやろうよ」
陽炎に揺れる光景を背にして階段の上から見下ろしているのは、
"金色の王者"の異名に相応しい後藤の姿。
金鱗のように舞い散る火の粉を纏って、後藤は艶然と微笑んだ。
- 107 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:01
- ゆっくりとした足取りで、階段を降りはじめた後藤の姿を見て、
田中は呪縛を解かれたように頭上に右手を伸ばす。
同時に階段の途中にいる後藤の姿が、
背後で燃え上がる炎よりも遥かに強い白光に包まれた。
「このままじゃヤバイっ! いったん退きましょう!」
「アレで倒せないの?」
「いまは夜ですよ。目眩ましがいいとこです!」
叫ぶように答えながら、田中は呆けたような表情の道重の手を引いて走り出す。
石川に教わった能力の使い方。
空気密度を操作して、空中に巨大なレンズを作り出す。
太陽の光を集めて作る熱攻撃は単純な攻撃だったが、
焦点を対象に合わせれば吸血鬼さえも焼き尽くす高温を発することができた。
だが満月とはいえ、いまは夜。
月の光の強さは、太陽の50万分の1程度。
後藤を倒すほどの熱量を発生させることはできない。
「愛ちゃん、行こう!」
高橋に声をかけている新垣を視界の隅に捉えながら、
田中は建物の中にある駐車場へと向かった。
- 108 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:02
- ――――
一斉に変化を遂げた人狼の一体が、動きだした。
真っ直ぐに向かってくる人狼が銃を向けた仲間に到達し、右腕を振う。
人狼の攻撃を受けた仲間の頭部が、呆気なく四散した。
人体のどこにこれほどの量がおさまっていたのかと思うほど、
大量の血が飛び散る。
全身に返り血を浴びて、隣にいた仲間が絶叫を上げた。
銃口を向けた仲間に別の人狼が襲いかかり、
吹き飛ばされた仲間の身体がトンネルの壁に叩きつけられる。
「くそっ!」
人狼がバラバラに動き出し、始まった銃撃を避ける。
矢口は声を上げながら前に出て、倒れている仲間に駆け寄った。
すでに息のない仲間の腰に下がっているパウチから、金属製の箱を三つ取り出す。
矢口が手にしたのは内蔵された700発の鋼球が決められた方向を中心に、
左右60度の扇状に限定されて放たれる、クレイモア対人地雷。
50m以内ならば人体に対して決定的なダメージを与えることができるが、
これだけで人狼を止めることはできない。
三つのクレイモアを手にした矢口は、
そばに落ちていたM16を拾って後ろに下がる。
戦っている仲間から距離を取り、壁へと走った。
自分の腰に下がっているパウチからガムテープを取り出して、
クレイモアを壁にテープで固定する。
もう一つも同じように壁につけると、反対側の壁に向かって走った。
残った一つと自分の持っていた分を二つ壁に取り付けて道路の中心に戻ると、
最後の一つを取り出した。
付属の三脚を立て、前面を戦っている仲間に向ける。
二つの銃を地面に置いて、
取り出した小さな箱に五つのクレイモアから伸びたケーブルをつなげた。
「全員入り口まで下がれっ!」
叫びながら左右の手でM16を持ち、立ち上がる。
仲間に襲いかかろうとしている人狼に向けて、引き金を引いた。
三点バーストで頭部を狙った銃弾を受けた人狼が動きを止め、矢口に顔を向ける。
咆哮を上げて向ってくる人狼に向けて、二つの銃口から火線が疾る。
矢口の意図に気が付いた仲間が、負傷した者に肩を貸して退却を始めた。
連射する矢口の横を、次々と仲間が通り抜けていく。
- 109 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:02
- 増幅の能力を発動して反動に耐えながら足を止めて撃ち続ける矢口の横を、
最後の仲間が通り過ぎた。
仲間が援護射撃をしている間に弾倉を抜き、新たな弾倉を装填する。
「ここはおいらにまかせて先にっ!」
そう言って、再び銃を構える。
横に立って銃を向けていた仲間は弾が切れたのを合図に、
きつく口を閉じて大きく頷くと、銃を捨て走り出した。
仲間が全員トンネルの奥へと向うのを確認して、再び引き金を引く。
だが矢口一人では六体の人狼の進行を止めることはできない。
一体を撃っている隙に、他の人狼が確実に距離を縮める。
右側の壁を蹴って向ってくる人狼に銃弾を集中させた。
空中で無数の銃弾を受けた人狼が地面に転がる。
だがその隙に、反対側の壁に沿って別の人狼が猛烈な勢いで突進してくる。
冷静に銃口を向けて引き金を引いた矢口だったが、
その腕に伝わるはずの反動はなかった。
「ちっ!」
矢口は弾の切れた右のM16を投げつけた。
腕を振って銃を撥ね飛ばした人狼に、自分から距離を詰める。
走りながら最大値まで上げた能力と、
相手と自分の突進の勢いが加わった右拳が人狼の腹にめり込んだ。
血を吐きながら吹き飛ばされた人狼が、壁に叩きつけられる。
- 110 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:03
- 殴った人狼を見ることもなく、
矢口は左手に残ったM16を連射しながら元の位置まで戻った。
腰のホルスターから拳銃を取り出そうとした矢口は、走った痛みに顔をしかめる。
いかに能力で身体強化を行なったといっても、
百キロを軽く超える人狼の突進を受け止めて無事であるはずがない。
加わった力のすべてを受け止めた右手が震え、
拳銃を取り出すことができなかった。
新たな銃を取り出すのを諦め、弾が切れた左手の銃を人狼に向って投げた。
距離があったため易々と避けた人狼が、矢口に向って走り始める。
その姿を見ながら、矢口は地面に置いてあったスイッチに足を乗せた。
「これでも食らえっ!」
その瞬間、矢口の真横に設置していたクレイモアが起動し、
閃光と爆音を放つ。
目の前に迫っていた人狼がトンネルの幅一杯に広がった鋼球を正面から受け、
撥ね飛ばされた。
- 111 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:03
- クレイモアの攻撃を受け、後方にいた他の人狼も倒れていた。
だが致命傷になったわけではない。
その証拠に、地面に倒れた人狼は低く唸りながら身体を起こそうとしていた。
次々と起き上がってくる人狼を見ることもなく、
矢口は地面のスイッチを拾って背を向けると、全力で走り出す。
ケーブルの長さ一杯まで走ったところで、スイッチを押した。
さっきと比べ物にならに轟音が響き、トンネルが振動する。
立っていられないほどの揺れに地面へ伏せた矢口の背中を、
クレイモアの爆発とは違う音が叩いた。
トンネルを構成していたコンクリートが瓦礫となって降り注ぎ、
その上を、圧倒的な量の土砂が覆い尽くす。
矢口はクレイモアをトンネルの内側ではなく、外側に向けて設置していた。
いかに強力な攻撃だとしても、六体の人狼を一度に倒すことはできない。
矢口は四つの爆発で壁を破壊し、トンネルを塞ぐ方法をとっていた。
トンネルの崩壊がどこまで進むのかは賭けだったが、
残った人狼が仲間を襲うのを防ぐためにはこれしかなかった。
なんとか立ち上がれる程度におさまった揺れに、矢口は頭を振りつつ立ち上がる。
背後を確認すると、天井から海水の混じった大量の土砂が落ち続けていた。
たとえ人狼が生きていたとしても、あのなかを通り抜けることはできない。
「うまくいった……かな?」
その場に座り込んだ矢口だったが、横で鳴ったピシリという音に顔を向けた。
トンネルの壁に並行に何本もの亀裂が走り、奥へと消えていく。
見ている間にも亀裂同士がつながり、
欠けたコンクリート片がボロボロと道路に落ち始めた。
「あ〜もうっ! 少しは休ませてよっ!」
矢口は痛みに耐えながら立ち上がると、トンネルの奥へと走り出した。
- 112 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:03
- ――――
月が出ているとはいっても視界のほとんどを占めている山にも空にも、
目標になるような物はほとんどなかった。
夜間飛行のヘリの姿勢を保つためには、計器に頼る必要がある。
そして正しい方向に飛んでいるのかを知るのに必要なのは、山の稜線だった。
藤本はときどき計器から顔を上げ、黒い稜線が重なり合う四方を見渡す。
頭の中の地図を確認しながら、目的地へと向っていた。
「藤本さんってヘリの操縦もできたんですねっ!」
爆音に負けない大声に、藤本は首だけを後ろに向けた。
座席に捕まっている紺野が、感心したような顔を見せている。
「そこに」
そう言って、藤本は顎で操縦席の一角を指す。
操縦席の片隅に、一冊の薄い本が置いてあった。
「説明書があった」
「……」
「冗談だってっ!」
そう言って、紺野の引きつった顔に笑いかけた。
- 113 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:04
- 藤本たちは結界機関の反対派が残っていないことを確認すると、
すぐにホテルを後にした。
いまは一番近くの飛行場からヘリを借りて、
新垣のところに向っているところだった。
正面の山を抜けたところで、眼下に街の明かりが広がる。
街の向こうに広がっている真っ黒な海を渡っている一筋の光は、
東京湾アクアラインだった。
「なんか……燃えてませんか?」
後ろから顔を出している久住の声に前方に目を凝らすと、
橋の途中で炎が上がっているのが見える。
舌打ちをした藤本は、アクララインの入り口へと向った。
ホテルを出てすぐに反対派が全滅していたことを知らせようとしたが、
HPの専用回線が使用できなくなっている。
新垣たちと連絡を取るために、携帯の電波が入る高度までヘリの高度を下げる。
「やっぱりなにかあったんですよっ!」
藤本はアクアライン入り口の上空でホバリングをしながら、下を覗いた。
紺野の言葉を裏付けるように、
入り口を警備しているはずのHPの車両はほとんどない。
残っている一般の警察がヘリを指差しているのを見ながら、
藤本は携帯を取り出した。
反対派の全滅もHPの回線が使えなくなっていることも、
吉澤の示した筋書きには書いていない。
結界機関襲撃の計画をすんなり教えるのはおかしいと考えてはいたが、
やはり裏があった。
後手に回っていることを痛感しながら、藤本は新垣に電話をかける。
- 114 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:04
- 何度目かの呼び出しのあと、電話がつながった。
「もしもし美貴だけど、どこにいるの?」
『藤本さん? 紺ちゃんも一緒なんですか?』
なぜか小さな声で返答してきた新垣に眉を寄せつつ、横にいる紺野を見る。
「隣にいるよ。で、いまどこ?」
『海ホタルなんですけど……』
「連絡するまで動くなって言ったろ! もう地下に入ったのかっ!」
新垣に怒鳴りつつ、レバーを引き高度を上げる。
機首を海ホタルに向け、ヘリを飛ばした。
『それが後藤さんがいて、会場に入れないんですっ!』
そう切り出した新垣は興奮したようすで、後藤との戦いを話し始めた。
- 115 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:04
- 圧倒的な力の差に退却したことを聞き、藤本は頷いた。
「やっぱりね……会場を襲撃しようとしてた反対派が全滅してた。
多分ごっちんがやったと思う」
『どういうことですか?
吉澤さんと一緒に結界機関を制圧する仲間じゃないんですか?』
「わかんないけど、ごっちんと戦わないと
結界機関には近づけないってことでしょ?」
そう言って携帯を耳に当てたまま、藤本は押し黙った。
藤本の経験からいうと能力者との戦闘の基本は、全力で逃げることだった。
能力があることで油断する人間が多いことを差し引いても、
生半可な装備では太刀打ちできない。
直接的な戦闘にならないように手を打つか、
どうしても避けられない場合は相手の能力を徹底的に調べ、
対策を練った上で戦う。
後藤からそう簡単に逃げられるとも思えないが、
正面からぶつかって勝てる相手ではない。
戦うにしてもいま乗っているヘリは民間機で、武器は積んでいなかった。
どちらにしても、ヘリの上では準備のしようがない。
逃げる以外に選択の余地はなかった。
「しょうがない……結界機関に入るのはとりあえず諦めろ。
すぐ着くからなんとかごっちんに見つからないように建物の外に出て、
ヘリの着陸できる場所を……」
『近づいちゃだめです! 後藤さんはヘリも落とせるんです!』
「じゃあどうしろって言うんだよ!」
とりあえず怒鳴ってみたが、新垣のせいではないことは分かっていた。
残った選択肢は徒歩で逃げることだが、
爆発でもあったのか橋は途中で寸断され通れない。
残されているのは反対側のトンネルだが、後藤に追いつかれればそれこそ終りだ。
密閉された空間で能力を使われれば、逃げ道がない。
「……戦うしかないみたいですね」
藤本は、背後からかけられた声に振り返った。
- 116 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:05
- 険しい表情の紺野は、スイッチパネルを指差した。
藤本は携帯に取り付けたケーブルを、パネルにあるジャックに差す。
携帯をつないだスピーカのスイッチを入れた。
「先に言っておくけど完璧じゃないから、そのつもりで聞いてね。
れいなが風壁の内側に後藤さんを閉じ込めて、さゆが能力を抑える。
後藤さんは外に出ようとして風壁のなかから攻撃してくるだろうから、
二人は石川さんに守ってもらって、後藤さんを風壁の内側に閉じ込める」
『でもそれじゃあ後藤さんの動きを止めるだけだよ。
二人の能力だってそんなに長くは続かないだろうし……』
スピーカから聞こえてきた新垣の不安そうな声に、藤本は小さく頷いた。
動きを止めるだけでは充分ではない。
援護が来ることを期待できない以上、後藤を倒さなければ状況は変わらない。
スピーカーを見つめながら腕を組んでいる紺野は、強く口を結んでいた。
藤本はその表情に、紺野がなにを言おうとしているのかに気が付く。
『あーしとガキさんがなかに入ればいいんやろ?』
スピーカーから聞こえてきたのは、冷静な高橋の声だった。
- 117 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:05
- 高橋の言ったように風壁の中に閉じ込めた後藤を倒すには、
二人がなかに入る以外にはない。
松浦を逃がしたときに戦った二人のことは聞いている。
能力の使えない後藤と二対一で戦えば勝機はありそうだが、
それでも逃げ場がないのはなかにいる二人も同じこと。
うまく風壁の内側に後藤を閉じ込めることができたとしても、
能力がどの程度抑えられるかわからない。
確かにトンネルのなかで後藤と戦うよりは可能性があるかもしれないが、
危険な賭けだった。
「……しょうがない」
呟くように言いながら、藤本は目と鼻の先にある海ホタルの向こう側を睨んだ。
トンネル中央部には、換気のために建てられた人工島がある。
そこからトンネルに進入できるはずだ。
「いいか、誰が欠けてもごっちんは倒せない。
自分が犠牲になんてくだらないこと考えんなよっ!」
電話の向こうで聞いているだろう全員に向けて怒鳴りながら、
藤本はレバーを倒して機首を川崎側へと向けた。
- 118 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:05
- ――――
- 119 名前:I Got Rhythm 投稿日:2007/05/19(土) 11:06
- 以上で第七話終了です。
- 120 名前:カシリ 投稿日:2007/05/19(土) 11:06
- >>87 愛毒者 様
ちょっと強引でしたが、ようやくメンバーが揃いました。
>>88 名無飼育さん
今回はとりあえずこんな感じになりました。
- 121 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/05/19(土) 19:33
- 一体誰が何の為に戦っているのかわからない状態になってきてますね
吉澤後藤亀井新垣高橋石川田中道重藤本紺野久住矢口は
なぜ戦っているのでしょうか?
吉澤の考えは過去の発言から考えても真実嘘両方が交じり合ってるせいか
不明な部分が多いですし、今回少し説明していますが後藤も相変わらず意図不明です。
亀井の出番はこれからでしょうが、
新垣はなんで戦ってるのか全く不明。中澤の意趣返し?
高橋は単に強さを求めて?そこには正義どころか正しいこともないですよね。
石川は吉澤を求めて?
田中は亀井を求めて?他のメンバーはなぜ?
この混沌は解決するのでしょうか?
やはり主役が出てこないと話にまとまりがつかないのですかね。
主人公が意味なく仇討ちする話にだけはならないことを祈ります。
- 122 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/05/20(日) 00:22
- いつみても次回更新がきになる展開で…
愛ちゃんもガキさんもかっこよくて惚れちゃいそうですw
陰ながら応援させてもらいます…コソコソ
- 123 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/05/20(日) 13:21
- 恐ぇ〜!!後藤さん超恐ぇ〜〜〜!!!www
- 124 名前:愛毒者 投稿日:2007/05/21(月) 20:00
- 更新お疲れ様です!
ごっちんを急襲したのはれいなだったんですね!梨華ちゃんの手ほどき?で能力の生かし方を覚えたんですね。
それにしてもごっちんは能力の底が知れない。ホントに恐い。w
愛ちゃんとガキさんがんばれ!超がんばれ!!
- 125 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/05/24(木) 21:03
- 勝てる気がしねえ〜w
ロマサガでいきなりドラゴン戦になったみたいだ
- 126 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:00
- ――――
「出てきてよ〜! さみしいよ〜!」
閑散とした駐車場のなかに後藤の声が反響し、余韻を残して消えていった。
田中の造った強烈な光に包まれ、後藤は五人を見失っていた。
いかに戦闘能力が高くても、後藤に姿を消した敵を探す能力はない。
いっそのこと焼き払おうかと辺りを見回していた後藤は不意に、
闇の中にいる人物に気がついた。
正面の柱の影に立つその人影は、すでに後藤の間合いに入っている。
相手にその気があれば、先制することも可能な距離だった。
仮に相手が攻撃のために動き出せば
後藤もその動きに気が付いて何らかの行動を取れるとはいっても、
遅れを取ることに変わりはない。
それだけで勝敗が決まってしまうということはないが、
この距離に近づくまで気が付かせないとは見事な穏形の技だった。
「おもしろいね」
後藤が感嘆の混じった声を出して指を鳴らすと、二人の中間に小さな炎が灯った。
微かな明かりに相手の顔を確認して、後藤の口元が上がる。
「やあ……カオリン」
飯田は無言のまま、感情のこもらない瞳で後藤を見つめていた。
- 127 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:01
- 第8話
Bye Bye Blackbird
- 128 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:01
- その場を動かない飯田に微笑みながら、後藤は駐車場の一角を指差した。
「結界機関への入り口はそこの扉開けたとこ。鍵は開いてる。
エレベータは動いてないけど、シャフト内を降りれば下にいけるはずだよ」
「……どういうつもり?」
「カオリが来たら、手を出すなって言われてる。
それに後藤はいまガキさんたちと遊んでて忙しいんだ。
できれば一緒に行きたいんだけど、扉の番号を教えるから一人で行って」
そう言っていくつかの数字の羅列を口にしながら、
後藤はゆっくりと後ろに下がった。
飯田と対峙しているいまの間合いならば、後藤は一瞬で詰めることができる。
それは飯田にしても同じはずだった。
いまはまだ、戦うつもりはない。
後藤に戦う気がない以上、先に動くとすれば飯田の方だ。
そしてこの間合いでは、先に動いた方が有利になる。
そのまま充分に距離を取った後藤は、飯田に笑いかけると背を向けた。
「待て」
背後からかけられた声に振り向くと、飯田はその場を動いていなかった。
「なに? 子供じゃないんだから案内しなくてもわかるでしょ。
それとも……カオリが代わりに遊んでくれるのかな?」
後藤の問いかけにも、飯田は無言のままだった。
- 129 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:01
- 黙ったままの飯田に感じた苛立ちを打ち消すように、後藤は大きく息を吐いた。
この場所に来るには、建物の入り口を通らなければならない。
そして飯田は、新垣たち五人の能力を知っている。
戦闘の跡と戦っている者の能力が分かっているなら、
何が起こったのかはかなり正確に理解できているはずだった。
飯田にしても迷っているのだろう。
代わりに戦うことになれば勝つにしても負けるにしても、
相当のダメージは覚悟しなければならない。
だが飯田の目的は、吉澤だ。
無用な戦闘に躊躇するのも理解できる。
後藤は無表情に見つめている飯田の顔から視線を移し、
斜め上を見上げて目を細めた。
「久しぶりに力を使ったからかな?
なんかさ、とっても気分がいいんだよね」
仲間の命と吉澤を天秤にかけて悩んでいる飯田の思いは理解はできるが、
そんなものは後藤にとってどうでもよかった。
保管所にいたときのように襲ってくる敵を撃退するだけの戦いではない、
久しぶりの本格的な戦闘。
身体を巡っている血液が強い熱で炙られているかのように、
滾るような感覚が後藤の全身を包んでいる。
「早く行った方がいい。じゃないと……」
囁くように言った後藤は小さく身体を、震わせた。
再び飯田に視線を戻したその表情が、ゆっくりと笑いを形作る。
「後藤も我慢できなくなっちゃうよ?」
舌を出して唇をそっと舐めると、
粘りつくような視線を飯田の全身に這わせた。
- 130 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:02
- 挑発するような後藤の言葉に、薄闇の中にいる飯田の瞳が妖しく輝く。
障壁を纏って右足を一歩踏み出した飯田の姿に、
後藤の全身を強い緊張が走った。
吉澤のところにいたときに飲んだ血の効果は、まだ残っている。
飛行場で一方的に攻撃を加えることができたのは不意打ちと、
そして辻のおかげだった。
なんのハンデもなく障壁を出せる飯田を相手にするとなれば、
全力でやる必要がある。
前線を退いた二年前の時点で、
HPのなかに後藤と互角に戦える存在はいなかった。
それはいまでも変わっていない。
絶えず戦闘を続けるHPではチームによる戦術も個人的な戦闘能力の向上も、
つねに研究が続けられてはいる。
その結果として全体的なレベルは上がっているとしても、
後藤と対等に戦えるほど突出した実力を持った存在は現れていない。
HPのなかで対等に戦うことができる存在は安倍と飯田以外いないと、
後藤は思っていた。
安倍がいなくなったいま、唯一対等に戦えるその存在が目の前にいる。
近づいてくる飯田の姿に、後藤の背中をゾクゾクとしたものが走った。
身体を包む緊張とは別に不思議な悦びが、奥底から湧き上がる。
後藤の身体が自然に前に動き、距離を詰めた。
再び近づいていく二人の距離が、ある一点で同時に止まる。
二人の間合いはほぼ同じ。
ほんの数センチ先が飯田の間合いでもあり、後藤の間合いでもあった。
その距離を前にして二人の動きが止まり、視線だけが交差する。
後藤の視線は紅く輝く飯田の目に固定されてはいるが、
そこに意識を集中しているわけではなかった。
視線や表情、構えなど表面に現れる個々のものを見るのではなく、
目を起点として相手の全体を一つの存在として捉える。
動き出そうとする心の動きに連動する身体の微動を捉えることで、
相手が先に動いたとしても結果として先を取る。
なにかの武術を習ったことはないし、誰かに教えてもらったわけでもない。
それでも後藤はいままで経験した戦いのなかで、それらを自然に身に付けていた。
目の前にいるのは、これ以上は望めないほどの強敵。
能力はぶつける相手がいてこそ楽しめる。
目を細めた後藤の唇に、自然と笑みが浮んだ。
- 131 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:02
- 戦いの前に行なわれるそのやり取りを楽しんでいた後藤だったが、
前に出ようとする身体を押しとどめた。
飯田から放たれる気を外すように後ろに退がり、再び距離を取る。
「……危ないなぁ。もうちょっとで本気になるとこだったよ」
残念に思わないでもなかったが自らに課した枷を外すわけには、いかない。
後藤は照明の代わりに出していた炎を消し、
飯田に戦う気がないことを示すために両手を挙げた。
「シャフト内は硬化剤を充填して塞ぐこともできるんだよ。
よっしいの気が変わったらどうするの。
カオリはよっしいを殺しに来たんでしょ?
いま行かないと、間に合わなくなっちゃうよ」
表面上は平静を保ってはいたが心のなかでは、逡巡しているのだろう。
後藤はジッと見つめたまま動かない飯田に、笑いかけた。
「ガキさんたちと遊んだら後藤も降りるから、それまでおあずけだね」
「……ごっちんが思ってるほど、みんなは弱くない」
飯田は決心したようにそう言って、後藤に顔を向けながら扉の方へと移動する。
距離が離れ、闇のなかに同化するように見えなくなっていく飯田の姿を
目で追いながら、後藤は鼻を鳴らした。
「信頼するってのはいいことだけど、
それがいつも望む結果をもたらすとは限らないんだよ」
後藤の言葉に応えることもなく、飯田の姿が完全に見えなくなる。
しばらくしてから扉が開き、閉じる音が闇のなかに響いた。
- 132 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:02
- ――――
「……お〜いっ!」
遠くから聞こえてきた声に、田中は身を固くした。
聞こえてきたのは緊張感の欠片もない後藤の声だった。
駐車場の中に反響した声に続いて、足音が近づいてくる。
「準備はいい?」
新垣の言葉に頷いて立ち上がると、柱の影に隠れながら風を纏った。
他の四人も立ち上がり、車の陰に隠れながらタイミングを計る。
「……どこにいるんだよ〜!」
再び聞こえてきた声は、さっきよりも遠かった。
反対方向に曲がったのか、耳を澄ますと足音も小さくなっていく。
「行きますっ!」
小さく声を出して、田中は柱から飛び出した。
車道の真ん中を一人で歩いている後藤の背中に向けて、手刀を振り下ろす。
同時に、造り出した風刃が放たれた。
音も立てずに突き進む空気の刃だったが後藤の背中に届く直前、
唐突に掻き消える。
「そんなとこにいたんだ」
そう言ってゆっくりと振り返った後藤の身体を、蒼白い光が球状に包んだ。
造り出された光の球の表面に、細かいスパークが走る。
満面の笑みを浮かべた後藤は田中に向けて、左腕を真っ直ぐに伸ばした。
「さっそくだけど、続きといこうかっ!」
眩く光る雷撃が、伸ばされた後藤の腕を伝って放たれる。
風壁を造って防ごうとした田中の前に、障壁を纏った石川が立ちはだかった。
向ってくる雷撃に向けて両手を伸ばし、受け止める。
障壁に阻まれ周囲に散った電撃が、
激しい爆発音を放ちながら天井や床に穴を穿つ。
視界を影絵に変える激しい明滅のなかで、
田中は手刀を構えると天井に向けて風刃を放った。
天井に直線が引かれ、砕かれたコンクリートが後藤と石川の間に降り注ぐ。
田中は崩れる瓦礫のなかに後藤の姿が隠れると、石川の手を引いた。
「はやく外にっ!」
すでに走り始めていた三人の後を追って、駐車場の外へと向った。
- 133 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:03
- 駐車場から外にでると広い道路に立ち、
五人は駐車場の入り口に視線を注いでいた。
「埋まっちゃったんじゃない?」
「それはないやろ」
新垣と高橋の会話を聞きながら、田中は正面から目を離さなかった。
「れいなはどう思う?」
その声に視線だけを横に向けると正面に顔を向けた道重が、
瓦礫の落ちる音と共に吹き出す細かい塵を吸い込まないように
口を押えていた。
「これぐらいで倒せるわけないっちゃよ」
崩れる瓦礫と粉塵を風の能力で防ぎつつ、出口を探せばいいだけだ。
この程度なら、自分の能力でも対処できる。
入り口に視線を向けていた道重は、田中の答えを聞いて目を細めた。
「ちょっとお願いがあるんだけど」
「なん?」
道重は他の人には聞こえないように、首を傾げた田中の耳元に口を寄せた。
- 134 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:03
- 目を細めて入り口を見ていた石川が、二人の前に出た。
「来るよ」
石川の動きに気が付いた田中は道重を庇うように一歩前に出ると、
入り口に視線を向ける。
崩れた瓦礫が舞い上げる粉塵のなかに、人影が現れた。
風の能力で防壁を造っているのか、身体を包む球状の範囲に粉塵はない。
徐々に輪郭がはっきりとするその人影は、やはり無傷だった。
まるで慌てたようすもなくゆっくりと歩を進めると、
入り口から出たところで足を止める。
「無茶するなぁ……」
わざとらしく咳をして田中を見ながら、後藤は楽しそうに笑った。
足を止めて対峙する五人に、後藤はホッとしたような表情を見せる。
「待っててくれたのは嬉しいけど、諦めたわけじゃないよね?」
その場に三人を残し、新垣と高橋が動く。
挟み込むように左右に散った二人を見て、後藤は嬉しそうに目を細めた。
「なんかいい方法でも見つかった?」
田中は無言で能力を発動して風を練る。
集まった風を集め、圧縮し、無数の見えない針を造り出した。
それを見た後藤は大袈裟に溜め息を吐くと、肩をすくめる。
「ダメだよ。後藤は風の能力も使えるんだから、
そんな攻撃効くわけないじゃん」
「そんなの……やってみなくちゃ分からんっちゃよ!」
右手を前に出し、後藤に向って風針を撃ち出す。
同時に後藤も動いた。
僅かに目を細め、身体の脇に下げている左腕の先で指を鳴らす。
一瞬で発動した風の能力で、再び周囲に球状の壁を造り上げた。
- 135 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:03
- 球面の周囲を滑るように、向っていく風針が次々と弾かれる。
ニヤニヤと余裕の笑みを浮かべていた後藤だったが、
突然弾かれるように首を傾けた。
後藤は驚いた表情で、頬にできた一筋の赤い線に指を沿わせる。
「ん〜?」
声を出した後藤は、自分の周りの空間を不思議そうに見渡した。
左右にいる二人のことなど忘れているかのように、正面を向く。
田中の隣にいる道重を見て、微笑んだ。
「えらいねしげさん。ちゃんと練習してたんだ」
田中が風針を放った瞬間、道重は後藤の周囲だけに遮断の能力を発動していた。
気が付かれないようにコントロールしながら、後藤の能力を徐々に低下させる。
同時に田中はわざと角度が甘くなるように風針を放ち、
後藤が油断したところで、本命の一本を紛れ込ませた。
田中の狙い通り球面に対して直角に当てた風針が風壁を突き抜けたが、
後藤はその完全に不意を突いた攻撃をかわした。
与えることができたのは、後藤の頬につけた僅かな掠り傷だけだ。
「これはなかなか……おもしろくなってきたね!」
道重の造る能力の結界から逃れようと動き出した後藤だったが、
突然目の前に現れた竜巻に足を止めた。
轟音を立てて行く手を遮る竜巻を見ながら、後藤は後ろ向きに跳び下がる。
新たに出現した巨大な竜巻が、着地した後藤の四方を囲んだ。
田中は両手を頭上で交差し、造り出した竜巻を操作する。
直前に道重から持ちかけられた攻撃だったが、後藤には効かなかった。
能力だけで倒せる相手ではない。
やはり紺野の考えた作戦でいくしかない。
竜巻が徐々にその形を変えると同時に、
走り出した新垣と高橋がその隙間に走り込む。
前後から押し潰されるように変形していく竜巻の端が重なり合い、
後藤を中心に一つの巨大な檻を作り出した。
- 136 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:04
- ――――
三人を包んだ円筒形の風壁は直径二十メートル、
高さは十五メートルほどだった。
田中が造りだした渦巻く風の壁の内側で新垣が上を見上げると、
丸く切り取ったような夜空に満月が輝いている。
「ふ〜ん?」
風壁を見回していた後藤の視線が、外側にいる二人を見つけて止まった。
眼を閉じた道重の横で、田中が両手を前に突き出している。
険しい表情で能力を発動している二人を見て目を細めた後藤は、
右手を頭上に掲げた。
その手の先から三つの火球が打ち上がり、風壁を超えたところで停止する。
夜空に輝く火球が中空に留まっていたのは、一瞬だった。
すぐに、火球が風壁の外側にいる二人の頭上に向かって動き出す。
だが、火球は二人に届かなかった。
後ろにいた石川が二人の前に出て、飛んでくる火球に向かって拳を振るう。
すべての火球を叩き潰した石川が風壁越しに、二人を守るように後藤を睨んだ。
「いくら後藤さんでもここから出ることはできません」
新垣の言葉に振り返った後藤は、感心したように笑った。
「確かにこれはちょっと大変だね。
でも、二人ともそうとう無理してるみたいだけど、
どれぐらい持つのかな?」
いまの放った炎も、それほどの威力はなかった。
道重の能力でも完全には遮断できなかったが、
後藤の力は普通の能力者程度には落ちている。
「こんなことがうまくいくはずがない。
吉澤さんもいずれ捕まります。もう諦めて下さい」
新垣は手にした鉄扇を握り直して、前に出た。
いくら後藤でも、増幅の力は弱まっているはず。
そして、高橋にもらった護符で後藤の操元の力を無効化できるなら、
高橋と二人で後藤を止めることができる。
- 137 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:04
- しかし間合いを詰める二人を見ていた後藤の顔に浮かんだのは、
諦めではなかった。
「これなら全力でやれそうだ」
余裕のある表情でそう言うと、後藤は新垣に向き直る。
その顔は隠しようのないほどの喜びに、溢れていた。
「藤本さんに聞きましたけど、吉澤さんの仲間を殺したのも後藤さんですね。
なぜです? なんでそんなに簡単に人の命を奪えるんですかっ!」
怒鳴った新垣の言葉に驚いたような表情を見せた後藤は、
視線を逸らせるように顔を伏せる。
自分のしたことを知られて恥じているのかと新垣は思ったが、そうではなかった。
「愉しいんだよ……」
ゆっくりと顔を上げた後藤は、囁くように言った。
覗き込むように見上げているその瞳を見て、
新垣の背筋に冷たいものが疾り抜ける。
「初めて思うままに持っている力を振って
追い詰めた相手の表情が絶望から諦めへと変化するのを見ながら
その命を奪ったとき、知ったんだ」
歌うように言った後藤は赤い舌を出して唇を、舐めた。
眠そうに細めた目の奥で、潜んでいた何者かがゆっくりとその姿を現す。
「殺しには喜びが伴うってね」
見る者を思わずゾクリとすくませるような怖い笑みが、
後藤の顔に張りついていた。
- 138 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:04
- すぐには答えることが、できなかった。
三人の間に僅かな沈黙が流れ、
やがて後藤の言葉の意味を理解した新垣は唾を飲み込む。
「そんなの、おかしいですよ……」
「明るくても昏くても、喜びは喜び。
後藤はその喜びに溺れた。血に酔ったのさ」
後藤は抑えることのできない喜びをその瞳に湛えて、新垣に笑いかけた。
後藤の言葉の端々には、尋常ではないものが感じられる。
全身に悪寒が這い、新垣は手にした鉄扇を握り締めた。
「こんな人間が自分の意志に従って自由に振舞ったらどうなると思う?
だからこそ"主"がいるんだよ」
新垣は気圧されながら、こちらを向いて笑っている後藤を眺めた。
定まらぬ視線の先になにを見ているのだろうか、
その目は新垣を見ているようで見てはいない。
「自分のことがおかしいって分かってるなら、
そうならないように抑えればいい」
それまで黙って聞いていた高橋が、刀の柄に手をかけながら口を開いた。
口元に笑みを張り付かせたまま、後藤はゆっくりと視線を移す。
「市井ちゃんが死んでからの四年間、後藤もがんばってみたんだよ?
でも、ダメだった。
戦って力を使うたびに目の前の命を奪うたびに、叶う限りに屠ってみたい。
その思いが強くなるだけだった」
喜びに上がっていた後藤の声のトーンは、いつのまにか落ちていた。
- 139 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:05
- 後藤の視線は顔を向けている高橋を通り越して、宙の一点を捉えている。
そしてその声は、特定の誰かに言っているようには聞こえなかった。
「公理系の無矛盾性の証明は、その公理系の内部ではできない。
自分の行為がどこに向かっているのか、
それを自分自身で正しく判定することはできない。
そして何が正しくてなにが間違ってる分からないのに、自由だけがある。
人間は……神にはなれないんだよ」
「なんの話をしているんかの?」
眉をひそめながら、高橋が聞き返した。
後藤は話をしていた他人の存在にようやく気が付いたかのように、苦笑する。
「後藤はね、ほんの少しの気紛れでなにもかも灰にすることが出来るんだ。
そんな自分の行動を選択してそのすべてに責任を負うことなんて、
後藤には耐えられない。
だから後藤の自由は呪われてるって、言ったんだ」
高橋を見つめる後藤の瞳に、昏い光りが宿る。
その口元には笑みが浮かんではいたが、
新垣には笑っているようには見えなかった。
「もちろん好き勝手に暴れれば欲求は満たされる。
けどね、それじゃあ後藤は壊れちゃう。
それは人であることを止めるってことだけど、
そうなったら喜びは得られない。
だから主と認められる人間を探してその手足となって動くと決めた。
自由とは不自由のなかにあってこそ、見つけることができるもの。
自分の意志を他人に委ねて行動の選択を縛られてこそ、後藤は自由になれる」
再び顔を向けた後藤は夢見るような目つきで、新垣を見つめる。
フフッと笑いながら、ゆっくりと唇を指でなぞった。
「知ってるかな? 新鮮な血の醸す匂いはとっても……甘いんだ」
全身にまとわりつかせた異様なまでの狂気が、
後藤の周囲の空間を歪んでいるように錯覚させる。
「血の海に溺れて得られる悦楽こそが、後藤の望み。
もういいでしょ。おしゃべりはお終いにして、後藤を愉しませてよ」
そう言って、後藤は喜悦に近い笑みを浮かべた。
- 140 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:05
- 無駄のない動きで、後藤が動き出す。
慌てて構えた新垣に向けて、後藤の手の平から炎が広がった。
左右にも広がった炎に、逃げ道はない。
避けることのできない近距離からの攻撃に眼を閉じた新垣の全身が、
炎に包まれた。
自分が作り出した炎に巻き込まれないように足を止めた後藤だったが、
炎が消えたその場所に無傷な新垣の姿を見つけ、眉を寄せる。
「あれ?」
眼を開けた新垣は、熱い感覚に服の上から胸を押さえた。
首から下げている護符が、肌を灼くように熱を放っている。
炎が新垣の身体に触れる一瞬前に、護符が効果を発揮した。
身体を包むように防壁を造り、向ってくる炎をすべて防いだ。
足元に残っている炎も、新垣の身体を避けるように燃えている。
「炎を阻むタリズマンか……誰にもらったの?」
半信半疑だった護符の効果に確信を得た新垣は、
後藤の問いには答えずに走り出した。
- 141 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:06
- 後藤は走ってくる新垣に身体を向けた。
身体を掴もうと腕を伸ばしたが、それよりも速く新垣の手が触れ、逸らされる。
後藤は顔面に向ってくる掌底をかわして次々に両手を伸ばしたが、
そのことごとくを、払われた。
間合いを詰めてくる新垣に押されて、
自分が徐々に下がっているのに気が付き後藤は舌打ちをする。
無理やり距離を取って、ローキックを放った。
牽制のための蹴りだったが、新垣の動きは止まらない。
踏み込んできた新垣は動き出したばかりの後藤の右足の太腿に左手を当て、
蹴りを封じた。
同時に出した右手の平を、後藤の心臓の上に当てる。
新垣の手と後藤の身体の間に、掌を加速させる隙間はない。
考えられるのは身体を押してバランスを崩すことだが、
片手だけが接している状態で倒されることはない。
だが後藤は接した掌からの力の移動を感じて、とっさに身体を捻った。
次の瞬間新垣の掌が伸び、傾けた後藤の身体の表面を滑る。
思ったよりも強い打撃力に、掠めた部分に痛みが走った。
驚いて跳び下がった後藤の背後に回っていた高橋が、抜いた刀を片手に詰め寄る。
後藤は着地した瞬間に頭を下げて、背後から水平に振われた刃を避けた。
同時に風を纏わせた裏拳を後ろに放つ。
高橋は全力で放った一刀に体勢を崩すこともなく、裏拳そのものはかわした。
だが拳が通った後を追うように叩きつけられた強烈な風に耐えることができず、
高橋の身体が後方に吹っ飛んだ。
- 142 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:06
- 高橋を退けた後藤の背中に向って、新垣は間合いを詰めた。
密着すれば、リーチとスピードの差はなくなる。
間合いに入った瞬間に、振り返った後藤は右の掌底を放ってきた。
顔に向ってくる後藤の右手首に左の肘を下から軽く当てて、軌道を逸らす。
同時に身体を沈ませた新垣は後藤の右足の踵に引っ掛けるように左足を踏み込み、
顎に向けて右の掌打を打ち上げる。
新垣の足が邪魔をして後ろに下がれない後藤は、
上体を反らせながら向ってくる腕を両手で掴んだ。
その瞬間、新垣は身体を回転させながら導くように後藤を前に崩す。
「おわっ!」
バランスを崩した後藤の脇を抜けて背後に立つと、その背中に左手を当てた。
「ハッ!」
体内に浸透させるのではなく、物理的な打撃力に質を落とした寸勁。
斜め上方へと跳ね上がった左掌に、
トラックに撥ね飛ばされたかのように後藤の身体が宙を飛ぶ。
だが、その手ごたえはいつもの半分以下だった。
さっきと同じように、後藤は自ら飛んで打撃力を吸収している。
たいしたダメージは与えられなかったが、新垣の狙いは別にあった。
後藤は空中で身体を捻って体勢を立て直す。
着地点へと向けたその視線の先には、刀を構えた高橋の姿があった。
- 143 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:06
- 待ち構えている高橋に気がついた後藤は、空中で開いた右手を下に向ける。
手の先から炎が放たれ、高橋の全身を包んだ。
しかし呪力を持った護符が防壁を造り出し、炎は高橋の身体に届かない。
放たれた炎は目眩まし。
目の前に残る炎に視界を奪われてはいたが、
頭の中には落下してくる後藤のイメージがある。
高橋はかまわずに踏み込んだ。
足から着地しようとしている後藤の胴体があるはずの場所に向けて、
横薙ぎに振るわれた刃が疾る。
だが炎と両断した刀の手ごたえに、驚いた高橋は後方にさがった。
後藤はすでに地面に着地しているはずだったが、
両断した炎の間から見えるその身体は、まだ空中にあった。
フワリと着地した後藤は背後にいる新垣を振り返ると、
乱れた髪をかきあげる。
「いまの技、おもしろいね」
高橋の視界を奪っておいて、後藤は左手を真下に向けていた。
その手の先に圧縮した空気の塊を作り出し自らの体重を支える。
もちろん、それで空を飛べるわけではない。
高橋の攻撃をやり過ごすために、
着地のタイミングを一呼吸だけ遅らせればよかった。
- 144 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:07
- 正面から見えるように左手の手裏剣を構えながら、
高橋は右手で持った刀を右肩に担ぐ。
その動きが見えているかのように振り返った後藤は、楽しそうに笑った。
「高橋はなにを見せてくれるのかな?」
高橋はそのままジリジリと、間合いを詰める。
後藤が動こうとした瞬間に手裏剣を放とうと、高橋は考えていた。
向ってくる手裏剣を掴むにしても身体の動きで避けるにしても、
後藤に隙が生まれる。
その瞬間を、右手の刀で捉えるつもりだった。
だが、後藤は高橋に身体を向けたまま動かない。
飛び道具が有効に働く距離を保つ為に、高橋は足を止めた。
「どうしたの?」
ふいに、後藤が口を開いた。
睨んだまま動かない高橋を見て、後藤は鼻を鳴らす。
「来ないなら、後藤から行ってあげようか?」
片手を腰に当てて嘲るように言った後藤は、反対の手で髪を掻きあげた。
後藤に生まれた隙に、高橋は身体を沈ませつつ下手から手裏剣を飛ばす。
狙ったのは右肩。
しかし真っ直ぐな線を描いて飛んだ手裏剣は、
左足を大きく踏み込み半身になった後藤の脇を掠めた。
手裏剣を放った左手が刀の柄を握り、高橋の肩から刀が跳ね上がる。
真っ向上段から振り下ろされた刀を後藤はさらに左に踏み込むことで、避けた。
高橋は何もない空間を切り裂いていた刃を強引に捻る。
横を向いた刀が空気抵抗を受け、剣速が急激に落ちた。
停止する直前に刀の軌道が弾かれるように変化して、
斜め下から後藤の頭部に向けて斬り上がる。
だが完全に意表を突いた斬撃に、後藤はすばやく反応した。
刀の柄を握った高橋の両手の間に下から右掌を当てて軌道を逸らしつつ、
無駄のない動きで身を沈めて斜め下から襲ってくる斬撃をかわす。
重心を落としたまま
後藤は刀が振り切られてがら空きになった高橋の脇腹に左掌を押し当てた。
「ていっ!」
気の抜けた掛け声と共に突き抜けるような衝撃を受けて、
高橋の身体が後ろに飛んだ。
- 145 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:07
- 空中で独楽のように回る身体を立て直し、高橋はなんとか足から着地した。
崩れ落ちそうになった両足に力を入れ、地面に膝を付くのを辛うじて堪える。
後藤が使ったのは寸勁。
常識では考えられないゼロ距離からの打撃技だが、万能ではない。
単体で使用すると、僅かながらも溜めの時間が存在する。
攻防の流れのなかでなら前段階の動きに溜めを組み込み、
ある程度ごまかすことはできる。
だが後藤もそこまでは達していないのか、
高橋の身体に手が触れた瞬間、動きが止まった。
そして寸勁と呼ばれる打撃技には種類ある。
一つは相手と触れている面で、発生した力を出すもの。
もう一つは、触れている物体の内部に力を伝えるもの。
熟練すれば物体の内部に伝わる力を任意の場所で、
打撃力として変化させることもできた。
表面ではなく体内で発生させれば相手を弾き飛ばすこともなく、
逃げ場のないすべての力が叩き込まれる。
後藤が使ったのは、相手を吹き飛ばす寸勁だった。
だからこそ高橋は立っていられるのだ。
後藤の動きが止まった瞬間、
身体を捻って打ち出される打撃を浅い角度で受けることができた。
さらに加えられた力に逆らわずに跳ぶことで、ダメージは最小に留めている。
しかし腹に重く残る感触が、
それ一発で決着がついてもおかしくない強烈な一撃だったことを物語っていた。
- 146 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:07
- 次の攻撃に備えようと痛みを堪えて顔を上げた高橋の眼前に、
満面の笑みを浮かべた後藤の顔があった。
深く間合いに入ってきた後藤の腕が伸びて、刀を持った高橋の左手首を掴む。
考えるよりも先に身体が反応した。
高橋が身体を開きながら掴まれた左腕を回すように動かすと、
後藤の身体が宙を舞う。
回転した身体が地面に叩きつけられる前に手を離した後藤は、
勢いで空中に投げ出された。
足から着地して膝をついた後藤の背中に切っ先を向け、高橋が踏み込む。
身体の動きでかわすのは不可能なタイミング。
膝をついたまま振り返った後藤に向けて、突きを放った。
「ちょっ……!」
右手を向けて焦ったような声を出した後藤の顔面を、
高橋の突き出した剣尖が捉える。
- 147 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:08
- だが出した拳ごと突き通したように見えた刀は、
後藤の頭部を貫く寸前で止まった。
「惜しかったね」
目を見開いた高橋に微笑みかけながら、後藤は片目を瞑る。
後藤は刀の切っ先を右拳の人差し指と中指の間ではさんで、止めていた。
「……こんな感じかな?」
後藤が立ち上がりながら拳を回転させると、
切っ先を中心に高橋の身体も同じ方向に回転した。
反転した頭部が地面に叩きつけられる前に、
高橋は刀から離した右手を地面につく。
逆立ちの状態から左手で手裏剣を飛ばして、後藤の足元に放った。
「わぉっ!」
驚きの声を上げつつ、後藤は足を引いて手裏剣を避ける。
至近距離から放たれた手裏剣は後藤の足を貫くことはできなかったが、
その隙に高橋は体勢を整え後退した。
右手を前に構えつつ、新たな手裏剣を左手の裏に隠し持つ。
珍しそうに持った刀を月明かりかざして眺めている後藤を、睨んだ。
「思ったより軽く振れるんだね」
片手で刀を振りながら、後藤は感心したように言った。
木刀や竹刀とは違い、真剣は空気を裂く。
そのせいで手に持った重さのわりに、振ったときには軽く感じる。
だが僅かな刃筋の乱れが空気抵抗を生み、思ったところに振ることは難しい。
そして振った刀を止めるときには、重みに引きずられることになる。
実際、後藤も振った刀に振り回されるように前につんのめっていたが、
何度か振っているうちに、それもなくなった。
「一回使って見たかったんだ」
右手に持った刀を右肩に担いで、後藤は玩具を手にした子供のように微笑んだ。
- 148 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:08
- 高橋は刀を持った後藤を中心にして、僅かに左に回る。
その動きに合わせるように、高橋を正面に捉えようと後藤も身体の向きを変えた。
正面いる後藤の背後に、新垣の姿が隠れる。
後藤の真後ろに回った新垣に注意が向かないように、
高橋は隠し持っていた手裏剣が見えるように、頭上に構えた。
「それってさ、何本持ってるの?」
そう言って微笑むと、後藤は僅かに身体をずらした。
背後にまわった新垣に気が付いたのか。
高橋が手裏剣を放とうとした次の瞬間、強い光が後藤の頭上に輝いた。
背後から近づこうとしていた新垣の身体を、圧倒的な光量が包み込む。
上空から降り注ぐ白い光のなかでなすすべもなく顔を覆った新垣の身体が、
強烈な力で背中を叩かれたように弓なりになって吹き飛ばされた。
「ガキさんっ!」
後藤の横を抜けた新垣の身体が地面に叩きつけられる。
高橋は地面に倒れた新垣に駆け寄った。
「驚いた?」
その声に顔を上げると、後藤は悪戯が成功した子供のように微笑んでいた。
- 149 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:09
- 突然新垣の身体が白い光りに包まれた。
それは田中が使った攻撃と同じだとしても、その後がわからない。
後藤は動いてはいない。
その場から動いていない後藤が新垣をどうやって吹き飛ばしたのか。
高橋は苦しそうに息遣いで身体を起こそうとしている新垣の横に立って、
後藤を睨む。
「空気密度を操作して空中にレンズを作り、月の光りを集める。
さっき田中ちゃんが使ったやつだね」
「たった一回見ただけで……」
「前にも一度見たから、正確には二回。
二度も見られればどうやったかなんて、けっこう簡単にわかるんだよ」
高橋は何でもないことのように言った後藤の言葉に、気が付いた。
刀を奪ったときに見せた投げもその前の寸勁も、
後藤は元々使えるわけではなかったのだ。
「風の能力で空気密度を操作するってのは、おもしろい発想だよね。
たとえばいまみたいにガキさんの後ろの空気を振動させて作った圧力波を
能力で造った音響レンズで集束させて目的の座標に衝撃波として炸裂させる。
なんてことにも応用できる」
どんなに不思議な現象に見えても能力のない高橋の使っている物は、技だった。
その要諦は、彼我に流れる力の量と質。
力の溜め、重心の移動、そして身体にかかる重力。
絶えず流れるその力に自分の力を加えることで相手の均衡を崩し、倒す。
後藤は増幅の能力を集中させることで、
主観的な時間の流れを遅くできるのだろう。
そうであれば、自分のなかで起こっている力の流れを
ゆっくりと把握することができる。
後藤は投げられたときに、そのコツを掴んだのだ。
寸勁にしてもそうだ。
後藤は相手の体内に浸透させる寸勁を受けたことがない。
だからこそ新垣が放った寸勁と同じ、普通の打撃力を発生させるものだったのだ。
- 150 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:09
- いま思えば交わされたほんの数合の間に二人の動きを自得したのか、
初めに比べて動きにも無駄がなくなっていた。
後藤は能力操作だけではなく体術さえも、苦もなく体得する。
たった一度の体験で応用までして見せるとは、戦慄するほどの才能だった。
「能力を使うのは圧力波とレンズを作る一瞬でいいから、
たいしてSPも使わない。
けど焦点領域が狭いし能力操作がめんどくさいから、
やっぱり単純にレンズを作って光りを集束させた方が実用的だね」
腰を落とした後藤が、肩に担ぐように構えた刀を両手で握る。
その全身から放たれる途方もない圧力に、ギチリと空間が軋んだ。
「さて……いろいろ勉強させてもらったし、後藤も一つ見せとこうかな?」
細い二条の炎が肩に担いだ刀身を螺旋状に包み、光りを放つ。
蓄えられていく途方もない圧力に、
周囲の空気が帯電しているかのように振動を始めた。
後藤の内側で膨らんでいく圧倒的な力に、
見ているだけの高橋の呼吸が荒くなっていく。
能力のない高橋にも感じ取れるほど強大な力に、
後藤の周囲の空間が歪んで見えた。
田中の風壁で動きを止め、道重の能力で力を抑え、
吉澤にもらった護符で得意な炎を防ぐ。
そして新垣と二人で純粋な体術の勝負に持ち込めば、負けることはない。
そう考えていた高橋は、自分の考えが甘かったことを知った。
いままで感じたことのないほど強大な力を目の当たりにして、
痛いほど速く打つ鼓動に、胸が苦しくなる。
呆然と見ていた高橋の身体が小刻みに、震えた。
「危ないから伏せててよっ!」
準備が終わったのか、そう言った後藤は陽気に笑った。
- 151 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:09
- 水平に振り切った刃からの金色の炎が放たれ、視界が奪われる。
莫大な光量を発する光の奔流が高橋の身体を包み込むと同時に、
首から下げていた護符が高熱を発した。
一瞬で身体を包み込んだ防壁が目の前で炎を防ぐさまを見ながら、
高橋は立ち尽くしていた。
力を抑え、数で当たれば勝てるなどという相手ではない。
甘かったわけではない。
これほどの力を人間が持っているなどと、予想できるわけがない。
呆然とする高橋の身体の前で弾かれていた金色の炎が徐々に、近づいてきていた。
炎の奔流のなかに立つ高橋の身体を守っていた護符の力が、弱くなっている。
何百年という長い年月の間に蓄えられてきた呪力が果てるのも、あと僅かだった。
なにをすれば後藤に勝てるのか。
いまの状況も忘れ、高橋の頭にあるのはその考えだけだった。
前に負けたときには、なにをすればいいのかを明確に理解できた。
後藤の動きを捉えられるように鍛錬し、
超えるために新垣の動きを取り入れればいいと思った。
だが後藤の本当の力を前にした高橋には、どうすればいいのかわからない。
なにを知り、どのような鍛錬を積めば後藤に勝てるようになるのか。
それがまったく思いつかなかった。
蓄えられていた力を使い果たしたのか、
胸に下げた護符の発していた熱が急激に弱くなっていく。
持って生まれた能力に勝つことはできない。
能力のない者は、戦いの場に立つことも許されない。
必死に否定しようとしてきたその考えが、高橋の頭のなかで膨れ上がる。
目の前に存在する圧倒的なまでの後藤の能力が、
命を捨てて自分を守ろうとした父親の姿を簡単に否定していた。
胸に感じていた熱が消えた瞬間、大気を灼いて迸る炎が高橋に押し寄せる。
目の前に迫った金色の炎に身体が飲み込まれる寸前、高橋は横から衝撃を受けた。
そのまま地面に倒れた高橋の上に、押し倒した新垣が覆い被さる。
高橋は必死にしがみついている新垣と共に、
勢いを増した炎の奔流に飲み込まれた。
- 152 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/02(土) 21:10
- ――――
- 153 名前:カシリ 投稿日:2007/06/02(土) 21:10
- 途中ですが、ここまでです。
- 154 名前:カシリ 投稿日:2007/06/02(土) 21:11
- >>121 名無飼育さん 様
調子に乗って話を広げすぎたため、
自分でもおかしいと感じる部分がかなりあります。
思いつくままに漠然としたイメージだけで書いていると
こうなってしまうということでしょう。
それでもなんとか終わらせますが、
いまさら整合性のとれた話にはならないと思います。
ついでに、残念ながら主人公が意味なく仇討ちする話になる可能性が大です。
>>122 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
応援していただけるだけでありがたいです。
>>123 名無飼育さん 様
後藤はこわい人ですから。
>>124 愛毒者 様
ということで、高橋と新垣ががんばっています。
>>125 名無飼育さん 様
ある意味、ラスボスです。
- 155 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/03(日) 20:47
- なんつうスケールだ…まさに圧倒的
先が楽しみです。これだけの大作を書き続けるのは大変でしょうが、マイペースに頑張ってください
- 156 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/05(火) 23:38
- 高橋さんが思ったほどじゃないですね。
はてさて一体どうなっていくのか…。
- 157 名前:愛毒者 投稿日:2007/06/07(木) 21:25
- 愛ちゃん…(涙
そこにあるのは無力という名の絶望なんでしょうか
せめて一太刀。
- 158 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:13
- ――――
陽炎の立つ光景を見ながら、後藤は満足そうに頷いて持った刀を肩に担いだ。
炎の直撃を受けた建物の壁は
巨大な爪で一閃されたように横一文字に砕かれている。
壁面を抉り取られて剥き出しになった内部の部屋のなかは、
一瞬で炭化したさまざまな物が散乱していた。
後藤は崩れている建物から視線を移して、倒れている五人を見回す。
一番近くに倒れている石川に向って歩き始めた後藤だったが、
微かに聞こえた呻き声に足を止めた。
声の方向に顔を向けた後藤は折り重なるように倒れている二人の姿を見つけて、
目を細める。
倒れた高橋の上に、新垣の身体が覆い被さっている。
後藤の近くにいた二人は攻撃の余波を受けて撥ね飛ばされたのか、
かなり離れたところに倒れていた。
後藤は僅かに身体を動かしている高橋を見て、微笑んだ。
意識を取り戻したわけではなさそうだが新垣が楯になったのか、
高橋の身体に目立った傷はない。
最も近くで攻撃を受けた二人が生きているのは、後藤も予想していた。
道重の力で能力を抑えられ、さらに炎を全力で放ってはいない。
新垣たちが来る前にここに向った部隊のほとんどは、
トラップの仕掛けられた橋を渡りきることができなかった。
橋を使わずに近づいてきた部隊は、後藤がすべて全滅させている。
次の増援が来るにしても時間がかかるならば、
目の前にいる五人に相手をしてもらわなくてはならない。
四年もの間待ち望んでいたこの状況は、簡単に終わらせるには惜しかった。
- 159 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:14
- 高橋に近づこうと歩き出した後藤だったが、弾かれるよう振り返る。
「おっ?!」
目の前に迫っていた石川の姿に、驚いた声を出した。
うつ伏せに倒れてたまま隙を窺っていたのだろう。
低い姿勢で両手を伸ばした石川が、間合いを一気に詰めていた。
後藤の身体に、石川がぶつかる。
だが後藤の身体が空気になってしまったかのように、
石川の両手は空を掴んでいた。
「さすがに元気だね」
慌てて振り返った石川に向けて、うれしそうに後藤が言った。
身に纏った障壁が炎を軽減し、最もダメージが少ないのが石川だ。
そのダメージも風壁の中から放たれた攻撃を受け止めきれずに、
撥ね飛ばされ分でしかない。
道重と田中も倒れたままだが、石川は自らの身体を楯にして二人を守っている。
二人が起き上がれないのは、限界近くまで酷使した能力のせいだった。
「ちょうどよかった。試したいことがあったんだ」
顔の高さに上げた拳の間から睨んでいる石川に微笑むと、
後藤は持っていた刀を無造作に地面に捨てる。
「ハッ!」
それを見た石川が、鋭く呼気を発して走り出した。
- 160 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:14
- 目の前に迫った後藤に向けて、固く握った拳を放つ。
しかし左右の拳から繰り出される高速の連打も、
後藤の身体に触れることはなかった。
腕を上げることもなく、後藤は身体の動きだけでかわしていく。
繰り出した拳の作る風圧に押されているかのように後藤の身体が揺れ、
石川の拳がなにもない空間を叩き続ける。
「ほら、もうちょっとだよっ!」
ほとんどを上体の動きだけでかわしながら、
前に出てくる石川と一定の距離を保つために僅かに下がった。
開いた距離に手を止めた石川は、右足でローキックを放つ。
膝を狙った蹴りだったが後藤は足を上げて受けることも、
距離を取って避けることもなかった。
前に出ると踏み込んだ右足で石川の軸足を固定する。
一瞬だけ身体強化を施した後藤は、
動き出したばかりの石川の左足の太腿に左手を当てて蹴りを封じた。
同時に出した右手で、石川の左肩を軽く突く。
次の瞬間、石川の身体が激しく回転しながら地面に叩きつけられた。
「どう? 相手のバランスを崩すのに使えると思わない?」
背中から地面に転がった石川を楽しそうに見ながら、
後藤は一歩後ろに退いた。
- 161 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:14
- 痛みに顔をしかめながら立ち上がった石川が、再度構えを取った。
「妙な技を……」
「びっくりした?」
声を掛け合いながら、互いに間合いを計る。
ローキックを出したのは石川だったが、それを出せる間合いを作ったのは後藤だ。
石川としては、簡単に飛び込むことができない。
後藤にとっても、不用意に攻撃に出るわけにはいかない。
石川の繰り出す一つ一つの攻撃が、致命傷になるのに充分な威力を持っている。
攻撃の合間を縫って無理に手を出せば、倒されるのは後藤の方だった。
「……二人が持ってたタリズマンね」
「……うん」
石川はゆっくりと回り込むように動きながら、僅かに間合いを詰めていく。
合わせるかのように後藤も身体の向きを変えて、石川の姿を正面で捕らえる。
「よっしいが渡したんだよ」
「そうじゃないかとは、思ってたよ」
かけた言葉の効果を確かめるように石川は目を細めたが、
後藤は動揺したようすを微塵も見せない。
さっきと同じように後藤は両腕を下げた状態で、
ジリジリと近づいてくる石川に顔を向けていた。
飛びかかる力を溜めているかのようにやや前傾姿勢になった石川は、
ゆっくりと間合いを詰めていく。
「利用価値がなくなったから捨てられたって私に言ってたけど、
それはごっちんだって同じなんだよ」
「だろうね。まあよっしいに捨てられたら、
また新しい主でも探すことにするよ」
そこを超えれば躊躇なく攻撃に移る間合い。
互いに持っているそれが重なり合い、
見えない圧力となって二人の間の空気を圧縮していく。
慎重に歩を進める石川と後藤の間の大気が、
触れただけで割れてしまいそうな薄いガラスのように張り詰める。
近づくにつれて高まる圧力がそれを砕きそうになると、
後藤が僅かに下がって距離を取った。
「逃げるの?」
「そういうわけじゃないけどね……」
微笑みながら下がる後藤を見て、追っていく石川の表情が険しくなる。
- 162 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:15
- ふいに、石川の身体が沈んだ。
潜るように低い姿勢で飛び込んで、二人の間にあった距離を一気に縮める。
水面に浮び上がるように身体を伸ばしながら、石川は前蹴りを放った。
いまの間合いのなかで放てる、最速の攻撃。
後藤との距離を最短でつなぐ前蹴りならば、
さっきのようにうまく捌くことはできない。
凄まじい速さで向ってくる蹴りを、後藤は半歩後ろに下がってかわした。
同時に後藤の右手が下から石川の足に触れる。
その途端、バランスを崩した石川の身体が後ろに傾いた。
普通の反射神経ならば、そのまま地面に倒れている。
だが石川は、傾いていく重心を残っていた片足で後方に跳ぶことでこらえた。
神技といってもいいような受け方。
前蹴りが伸びきった一瞬に合わせて軽く力を乗せられ、バランスが崩された。
驚愕の表情を見せながらも地面に足がついた瞬間、再び後藤に向けて飛びかかる。
「いいね! さすが梨華ちゃんっ!」
そう言った後藤の口めがけて、一気に間合いを詰めた石川が貫手を放つ。
その瞬間、後藤の身体が沈んだ。
髪を数本引きちぎった石川の右手首を下から両手で掴む。
腕を掴んだまま後藤が僅かに両手を下げると、
前傾姿勢になっていた石川の背筋が急に伸びた。
「ほいっ!」
爪先立ちになった石川の腕を左に捻りながら、後藤が立ち上がる。
その場で側転したかのように回転した石川の頭部が、地面に叩きつけられた。
- 163 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:15
- 後藤は掴んだ腕を捻りながら、うつ伏せに倒れた石川の背中に片足を乗せる。
自分の身に起こったことが信じられないといった表情を見せていた石川だったが、
すぐに状況に気がつき歯を食いしばって左腕を地面についた。
「この……っ!」
なにかを探るように背中に乗せた足を動かしていた後藤は、
小さく息を吐いて身を沈める。
次の瞬間に響いた鈍い音と共に、石川が呻き声を上げて血を吐いた。
「便利だね……っと」
力が抜けた石川の右腕を捻って肩の関節を外し、放り出すように腕を離す。
「吸血鬼って殴っても蹴ってもあんまり効果ないから
結構やっかいなんだ。これもガキさんと……高橋のおかげだよ」
口の端から血を流して動かなくなった石川を見下ろしていた後藤は、
ゆっくりと背後を振り返る。
後藤の視線の先には周りに残っている炎に照らされた高橋の姿が、
ぼんやりと夜気のなかに浮び上がっていた。
「敵わないと分かっていても仲間の為に立ち上がる……健気だねぇ」
後藤は無言のまま睨んでいる高橋に感心したように言うと、
地面に落ちていた刀を拾った。
「高橋には刀ももらったし、いろいろ教えてもらったからね。
ご褒美に飛び道具なしでやってあげるよ」
そう言って、高橋に向けて微笑んだ。
- 164 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:15
- 何とか立ち上がることはできたが、高橋の体力は限界に近い。
めまいにも似た感覚に耐えながら目を細めた高橋は、
倒れている石川に視線を向けた。
後藤は背中に乗せた足で寸勁を打った。
足と地面に挟まれた身体に、逃げ場のない衝撃がすべて叩き込まれのだ。
あれではいくら石川でも、立ち上がれないだろう。
高橋の上に覆い被さった新垣の身体と護符が造り出した防壁が楯になり、
さらに炎の勢いに巻き込まれて吹き飛ばされたのが幸いした。
後藤と距離が離れて多少なりとも威力の弱まった炎を、護符の力が防いだ。
そして吹き飛ばされて地面に叩きつけられる寸前、
新垣が自分の身体を楯にして高橋を守った。
自分の身体を楯にして守ってくれた新垣のおかげで、
高橋の方が受けたダメージが少なかったのだ。
その新垣はまだ、意識を取り戻していない。
自分を庇った新垣の行動に、高橋は胸の奥で湧き上がった感情に戸惑う。
あのまま動かなければ新垣は防壁に守られ、意識を失うことはなかった。
そしてほぼ無傷で、後藤と戦うことができたはずだ。
だが新垣は目の前にいる自分を守った。
論理的ではない新垣の行動だったがそれでも、
高橋はその行動に惹きつけられるところがあった。
なんと表現していいのか分からないその感情について
考えてみたい衝動に駆られたがそれを押し止め、高橋は思考を切り替える。
ゆっくりと考え事をしている場合ではない。
- 165 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:16
- 後藤に顔を向けたまま、高橋は視線だけで周りを見渡した。
全力で造っていた田中の風壁を軽々と打ち破った後藤の炎は、
道重の能力に力を抑えられていたとは思えない、強烈な物だった。
目の前にいる後藤の後方、離れたところに田中と道重。
そして高橋の背後には、新垣が倒れている。
なんとか誤魔化しながら戦って、一分。
全力で当たれば二十秒持つかどうか。
一分の間に新垣が目を覚ませば、そして戦う力が残っていれば、
さらに三分ほどの時間は後藤と戦えるだろう。
その間にどこからか味方が現われてくれれば、助かることもあるかもしれない。
高橋は都合の良い自らの考えに、小さく笑った。
くだらない。
現実とは自分の力で動かすもの。
奇跡などという曖昧なものに賭ける気は、なかった。
- 166 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:16
- 刀を右手に下げた後藤はまったくの自然体だった。
力を抜いているわけではない、身体のどの部分にも余分な力が入っていない。
その立ち姿に、後藤の力量を肌で感じた。
この短時間で、高橋とほぼ同じ技量に達している。
高橋の武器は右手に握っている分と、左腕の前腕に残されている二本の手裏剣。
手に持って接近戦となれば、絶対的に不利になる。
二本を一拍で打つことができるが、それでも後藤はかわすだろう。
戦いの基本は三拍子。
相手の攻撃に合わせて、先の先、後の先、後の後を取る。
一対一の勝負では自分の拍子を悟られずに、
どうやって相手の拍子を捉えるかにすべてがかかっている。
そのために、自分の拍子を消して動く無拍子というものもあった。
だが後藤はすべての攻撃を捉える。
勘や経験による予測で拍子を捉えるのではなく、
増幅の能力によって文字通り相手の動きのすべてが見えている。
これまで積み上げてきた技術のすべてが、後藤には通用しない。
それでも後藤の強さを支えているものは、能力だけではない。
相手の微動を捉え、それに反応する自分の動きを制御する。
あらゆることに意識を向けながらも、拡散するのではなく一点に集束させる。
矛盾する二つの事柄を成立させるために必要なのは、才能だ。
そして、後藤にはその才能がある。
たとえ能力がなかったとしても、後藤の強さは高橋の遥か上にいただろう。
高橋は全身の力を抜くように細く息を吐くと、静かに両目を閉じる。
能力があるとかないとか持っている武器がどうしたとか技量がどうしたとか、
そういったことは、いまこの状況では些細なものだ。
勝ちも負けも、生きるも死ぬも、同じこと。
なにかに拘ることに、変わりない。
高橋はそれらの間で揺れ動くことを、放棄した。
- 167 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:16
- 相手の動きは眼に現れる。
仕掛けてくるタイミング、注意を向けている場所、攻撃の虚実。
あらゆる情報を相手の目を起点として捉える。
眼を閉じた高橋に見るべき場所をなくし、後藤は焦点を失った。
高橋はそういったものを遮断するために、眼を閉じたのかも知れない。
だが眼を閉じれば、当然視界がなくなる。
なにか秘策でもあるのか。
それともどうせ勝てないと悟り、潔く斬られるつもりなのか。
眼を閉じた高橋に眉をひそめた後藤は持った刀を握り直し、小さく息を吐いた。
高橋が諦めたとしたら多少の失望を感じるが、よくやった方だ。
目を細めて高橋を見ながら、刀を上げようと後藤の右手が動き始める。
同時に、高橋も動いた。
眼を開けると右手の手裏剣を後藤の胸に放ちながら、間合いに跳び込んでくる。
すでに刀は肩の高さまで上がっていた。
向かってくる手裏剣を弾くのに、頭上に掲げた刀では間に合わない。
動きだそうとした瞬間を見切ったような高橋の攻撃に驚きを感じつつ、
左手で飛んできた手裏剣を掴む。
間近に迫った高橋の頭に、持った刀を振り下ろした。
- 168 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:17
- 渾身の力を込めて振り下ろした刀が勢い余って地面を叩き、火花を散らす。
高橋は頭上から向かってくる刃を、右に身体を開いてかわした。
地面を叩いた反動を利用して後藤は刀を跳ね上げ、
斜め下から高橋の胴を薙ぐ。
だが刃が通った場所に高橋の身体は、なかった。
後藤は刀を右肩に担いで、地面を転がって攻撃を避けた高橋を追う。
右肩から跳ね上げた刀を、
膝立ちで止まった高橋の頭上に片手打ちで振り下ろした。
しゃがんだまま振り返った高橋は、向かってくる刀に左の前腕を上げる。
避けることはできない。
仕込んだ手裏剣で刀を受けるのはわかっていた。
片手に持った刀が大きな弧を描いて、高橋の腕にぶつかる。
その瞬間、硬質な音と共に後藤の持っていた刀が半ばから折れた。
光を反射しながら宙を飛んでいく折れた刀の先を視界に捉えながら、
後藤は口元を上げる。
刀が折れる感触と共に右手に残るのは、高橋の腕の骨が折れた確かな感覚。
骨が折れては高橋にいくら戦う意思があっても、左腕は動かない。
止めを刺すため一瞬の停滞もなく、後藤は左手に握ったままの手裏剣を突き出す。
だが後藤の左腕が動き出すより一瞬疾く、目の前の高橋が立ち上がった。
唐突な動きに驚いた後藤に顔を向けながら、振りかぶるように右手を上げる。
後方に伸ばした高橋の右手のなかに宙を跳んでいた刃先が、
吸い込まれるように収まった。
刃先を掴んだ瞬間に右手が振り下ろされ、
高橋の喉へと伸びていた後藤の二の腕に叩きつけられた。
- 169 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:17
- 痛みは覚えなかった。
ただ高橋に叩かれた場所に、痺れを覚えだけだった。
手裏剣を握ったままの左腕が宙を飛んでいくさまを視界の隅に捉えながら、
後藤の眼は高橋の顔をぼんやりと映していた。
高橋はまるで自分がなにをやったのか憶えていないかのように眼を見開き、
自分の右手を見ている。
後藤の腕が地面に落ちるのと同時に、左腕の肩口に近い部分から血が噴出した。
「……がぁっ!」
一瞬遅れて襲ってきた強烈な痛みに苦痛の声を上げた後藤へ、
高橋は我に返ったかのように後ろに下がりながら右手を振り下ろす。
後藤は切断された左腕の断面に右手を当てながら、
高橋の手の先から飛び出した折れた剣先を辛うじてかわした。
たまらずに膝をついた後藤が顔を上げると、
高橋は柄を握ったままの右手から刀を拾い上げていた。
右手に折れた刀を持って、高橋は息を吐く。
「……これは返してもらいます」
高橋の左腕は、身体の横にだらりと下がっている。
後藤の振り下ろした刀の衝撃で、高橋の片腕は折れていた。
- 170 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:18
- 後藤は勝ちを意識するのが早すぎた。
腕を折って、それで終わりだと思ってしまったのだ。
その一瞬の虚を突いて、
高橋は折れた剣先を手の平に乗せて後藤の腕を斬り落とした。
まるで刀が折れるのがわかっていたように。
そして折れた剣先がどこに飛んでいくのかが、分かっていたかのように。
「まさか……折れた刀の先で斬るとはね」
「後藤さんには残心の心得がなかった。
残心とは相手の首を斬り落としてもなお、安堵するなということやよ」
静かに言った高橋の顔を睨みながら、
後藤は左腕の痛みと自分の迂闊さに歯を食いしばった。
不用意に間合いのなかにいる必要などなかった。
離れて能力を使うべきだった。
高橋の反撃など頭になく、予想外の動きに反応できなかった。
増幅の能力ですべての動きを捉えられるとはいっても、
それに反応するのは後藤の意識だ。
それまでの戦いで高橋の実力を想定してしまった後藤の意識の外側。
高橋はその外側から、後藤の意識の死角を捉えた。
「……降参してください。後藤さん」
背後から聞こえた声に振り返ると、
ようやく意識を取り戻した新垣が近づいてくるところだった。
- 171 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:18
- 血の止まらない傷口を片腕で押さえた後藤は、
なにを言っているのかわからないといった表情を浮かべた。
「その傷ではもう戦えない。後藤さんの負けです」
自分を見つめる新垣の表情に何を言いたいのか理解したのか、
後藤の眉が僅かに上がった。
「……なめないでもらいたいなぁ」
後藤の口から苦しげな呻き声が漏れる。
切断面に当てられた右手から大量の蒸気が上がり、肉の焦げる臭いが広がった。
自ら傷口を焼き潰して出血を止めた後藤は、額に大粒の汗を滲ませて笑う。
「後藤はいままで負けたことなんかない。
まだ……終わりじゃないよっ!」
弾かれるように立ち上がった後藤が新垣に向かう。
大量の出血に能力を使うこともできなくなったのか、
新垣は素手で殴りにきた拳に手刀を当てて逸らした。
走ってきた勢いで新垣の背後に抜けていった後藤が倒れこむ。
振り返った新垣は空しい気持ちで、倒れた後藤の背中を眺めた。
バランスが狂った自分の身体に対応することができないのか、
後藤はぎこちない動作で立ち上がろうとしたが再び肩から倒れ込んだ。
「痛い……」
額を地面に押し付けて、後藤は片腕だけで上体を起こす。
それでも立ち上がることができないのか、俯いたままその場に片膝をついた。
「もうやめてください。すぐに手当てすればまだ助かります」
顔を上げた後藤は、歯を食いしばって新垣を睨む。
片腕のためバランスを欠いた後藤の拳は、哀しいほどに力がなかった。
いくら後藤でも、これ以上戦うことはできない。
- 172 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:18
- 声をかけた新垣を睨んでいた後藤の表情が、一転した。
「思ったよりも動き辛い……ねっ!」
凄絶な笑みを浮かべた後藤が叩きつけるように、右手を地面についた。
その動きを見て後藤に近づこうとした高橋が、バランスを崩して前につんのめる。
倒れた高橋に駆け寄ろうとした新垣も足を取られて、地面に両手をついた。
その両手が、手首まで地面に埋まる。
慌てて手を引き抜いて自分の足元に眼を向けると、
地面に接触している膝から下の足が、沈みこんでいた。
「またねっ!」
突然泥濘のように変化したコンクリートの地面に二人が足を取られている隙に、
立ち上がった後藤が背を向けて走り出す。
止めるまもなく海に向った後藤の身体が地面を蹴って柵を越えた。
そのまま、後藤は漆黒のビロードのように広がっている海面へと飛び込む。
同時に地面が確かな感触を取り戻し、高橋が走りだした。
慌てて後を追った新垣と二人で、柵に走り寄る。
柵に手をかけた二人の眼下にはすでに後藤の姿はなく、
岸壁に砕ける波と、空と境目のない黒い海が広がっていた。
- 173 名前:Bye Bye Blackbird 投稿日:2007/06/15(金) 12:19
- ――――
- 174 名前:カシリ 投稿日:2007/06/15(金) 12:19
- 以上で第八話終了です。
- 175 名前:カシリ 投稿日:2007/06/15(金) 12:20
- >>155 名無飼育さん 様
ありがとうございます。
あと少しなので、頑張ります。
>>156 名無飼育さん 様
すいません。
>>157 愛毒者 様
高橋は絶望しても、諦めません。
- 176 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/15(金) 21:14
- あっけねぇw
- 177 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/16(土) 19:02
- 諦めなかった愛ちゃんは素敵だよ
- 178 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/19(火) 16:28
- とにかく興奮してます!!
後藤さんはいずこへ〜
- 179 名前:愛毒者 投稿日:2007/06/20(水) 16:49
- 凄まじいバトルでしたが
絶望の中で勝負を拾いましたね!
ごっちんの行方も気になるところですが
かおりんとよっすぃーがどんな対面を果たすのかも
楽しみにしています♪
- 180 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:26
- ――――
着陸したヘリから降りてきた藤本が口を開けて、
無残な姿を晒している広場と建物を見上げている。
「……ほんと、よく助かったよね」
呆れたように呟いた藤本の言葉に、田中は改めて周囲を見渡した。
原形をとどめている場所がほとんどない。
半壊した建物と、寸断された道路。
局所的な巨大地震でも起きたかのような光景を眺めながら、
地面に座り込んだ田中は深く溜め息を吐いた。
目の前の光景を作ったのは、ほとんどが後藤だった。
会場から出てきた人々と集まってくるHPの警備を独力で退け、
さらに休む間もなく五人と戦い、それを圧倒した。
強くなったと思っていたが、さすがにここまでの力はない。
引き際も見事なものだった。
高橋に腕を切り落とされた後藤だったが、
あのまま続けていても勝てたかどうかは分からない。
逃げる力が残っていた後藤がその気になれば、
視界にあるすべての物を焼き払うこともできたはず。
そしてあのとき意識があった高橋と新垣に、その攻撃を防ぐことはできない。
ダメージを負っていた五人を残して逃げたのは、
力を限界まで使うことを恐れたからだ。
体内のSPがなくなれば、さすがの後藤も回復するまで能力が使えない。
そうなれば、必ずやってくることになる増援の部隊に対処できなくなる。
目の前の五人だけでなく、その場にいない敵も想定していた。
あれだけのダメージを負ってなお、いまの状況を冷静に判断して退いた。
- 181 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:27
-
自分の腕を斬り落とした高橋を目の前にして、後藤は自分の感情を抑え込んだ。
一時の勝利のためではなく、戦うという行為そのものが後藤の願い。
欲する物のために自分の感情をも殺した後藤は、強かった。
「れいなもまだまだってことやね……」
誰にともなく呟いた田中は建物を見上げたところで、動きを止めた。
横に立っていた道重は突然言葉を切った田中の横顔を、不思議そうに眺める。
建物の屋上をジッと見つめていた田中は近づいてくる人影に気がつき、
視線を落とした。
「そろそろ行こうか」
近づいてきた新垣の背後にあるヘリのローターはいつのまにか回転を始め、
離陸の準備はできている。
その近くでは紺野が二人の少女の背中を押して、ヘリの乗り込もうとしていた。
携帯で藤本を呼び戻して地下への入り口を探しに行ったが、
エレベータは止まっていた。
シャフト内に足場はなく、下に降りることはできない。
他に道がないかと探していたが代わりに、
隠れていた嗣永と清水の二人を見つけた。
外に出れば後藤に殺されると言われていた二人は、
ずっと建物のなかに隠れていたらしい。
それからも地下へと行く方法がないかと探し回ったが、
他の通路はないという結論になった。
しかたなく会場に降りるのは諦め、
トンネル内の警備をしている矢口を探しに行くことになっている。
- 182 名前:Ol' 投稿日:2007/06/25(月) 17:28
- 促すように伸ばした新垣の手を握りながら立ち上がった田中は、
見送るようにヘリの傍に立っている石川に目を止めた。
先に歩き始めた新垣の後ろを歩きながら、声をかける。
「石川さんは行かないと?」
「腕が治ってからトンネルを歩いて来るって」
首を傾げて石川を見ていた田中は、足を止めた。
横を歩いていた道重も立ち止まると、気が付いた新垣が振り返る。
「どうしたの?」
「れいなも石川さんと後から行くことにします」
その言葉に道重が心配そうに、田中の顔を覗き込んだ。
「一緒にいようか?」
「心配しなくても、ちょっと疲れただけっちゃよ。
回復したらすぐに追いつくって」
「……そっか」
道重は視線を斜め上へ向け、田中の背後にある建物を眺める。
真剣な表情を向けていた道重だったが、
しばらくすると視線を戻して田中の目を真っ直ぐに見つめた。
「あんまり無理しないでね」
そう言って田中から離れると、少し寂しそうに微笑んだ。
- 183 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:29
- 田中は扉の閉まったヘリを見ながら、石川の横に立った。
上昇を始めたヘリのなかから手を振っている道重を見つけて、
田中は片手を挙げて応える。
チラリと田中の顔に向けた石川は、再び正面に視線を戻した。
「もう回復してるんでしょ? 行かなくていいの?」
体内に予備のSPを残しておくのも、能力者には必要な技術だ。
残したSPを呼び水に生体エネルギを変換すれば、回復の時間は格段に早くなる。
さすがに全力とはいかないが後藤ほどの相手でもない限り、
田中は支障なく戦える程度には回復していた。
「石川さんこそ腕、とっくに治ってますよね?」
石川の回復の早さは、知っている。
命に関わるほどの重傷ならともかく、肩の関節を外されただけだ。
靭帯の損傷程度なら、数分で完治するはずだった。
「ここでお別れかな……」
視線を合わせることもなく、石川は呟く。
田中は黙ったまま、飛び立って行くヘリを見送った。
- 184 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:29
- 第9話
Ol' Man River
- 185 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:29
- ――――
時折、遠くから大きな音が聞こえてくる。
その音に併せるように、天井に並んでいる照明が瞬いていた。
矢口は回復しきっていない身体を引きずるように、来た道を戻っていた。
ついさっき、トンネルの照明が点灯した。
光源が手持ちのライトだけだっただけに、
周囲を取り巻く闇から解放されたのは助かる。
後方から人狼が追ってくることもなく、
トンネルの壁に走っていたヒビもなくなっていた。
それでもまだ、安心はできない。
いま矢口のいるトンネルは、
その自体の構造で頭上にある計り知れない量の土砂と海水の圧力に耐えている。
トンネルを構成する均衡が崩れれば、
絶えず加わっているその荷重には耐えられないだろう。
一部とはいえ崩壊したからには、すぐにでもトンネルから出る必要があった。
「……やっとか」
延々と続くトンネルの先にようやく人工島への入り口が見えて、
矢口は足を止めて息を整える。
先に行かせた仲間の姿はなかったが、すでに海上に浮ぶ島に出ているはずだ。
- 186 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:30
- 再びトンネルのなかを駆け抜けた大きな音に、
矢口は腰のホルスターから拳銃を抜いた。
音は反響し、どちらで鳴っているのか分からない。
後方からだとすればトンネルの崩壊が進んでいるか、
生き残った人狼が瓦礫を押しのけている音。
前方なら最初のグールと巨大な犬が通路を塞いでいる車両と瓦礫を
超えようとしている音。
「な〜んか、やな感じ……」
矢口は予感が大嫌いだった。
予感が当たったときは大体がトラブルに巻き込まれる。
予感が外れれば、さらに深刻なトラブルが待っている。
「どっちにしても、楽じゃないよね」
再び歩き出そうとした矢口は、近づいてくる複数の足音に気が付いた。
人狼が追ってきたのかと思い、矢口は咄嗟に後方を振り向いた。
目を細めてトンネルの奥を見たが、動くものは見当たらない。
「……だれかいませんか〜!」
微かに後方から聞こえてきたのは、何人かの少女の声だった。
その声に矢口は顔をしかめながら振り返る。
「なんだってこんなときに……」
近づいてくる五人の人影を見て、溜め息を吐いた。
- 187 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:31
- 先頭を走っていた夏焼が、矢口の姿を見つけて手を振った。
片手を挙げて応えつつ、矢口も歩き出す。
「なんであんたたちがそっちから来るの?」
矢口は息も切らせしていない夏焼に、聞いた。
夏焼たち五人は、トンネル入り口の警備を担当していたはずだった。
トンネルのなかにいるはずはないし、やって来た方向からして違う。
「海ホタルが封鎖されたって連絡があってすぐに、
トンネルの中から妖獣が現われたんです。
それで吉澤さんたちがいると思って、
海ホタルに行こうと思ったんですけど……」
「どうやって?」
「道路の下に緊急用の避難通路があるんです。
膝ぐらいまで水に浸かってましたけど、なんとか通れました。
ほんとは海ホタルまで行くつもりだったんですけど、
途中で道が塞がってて引き返してきたんです」
夏焼の答えを聞いて、矢口は腕を組んだ。
道が塞がっていた場所は、最初に妖獣と戦闘になった地点だ。
そこまで行けたということは、
夏焼たちは人狼を追い越してきたということになる。
「なんで上にあがってきたの」
「帰る途中で水量が増えたんですよ。
それにトンネルのなかを警備していた人たちに会えるかと思って……」
そこまで言ったとき、再び大きな音がトンネルのなかを鳴り響いた。
- 188 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:31
- 音源が近づいて来ているのか、さっきよりも音が大きくなっている。
矢口の周りに集まった五人は、不安そうに周囲を見渡していた。
「それよりもここでいったい何があったんですか?
あの音となにか関係があるんですか?」
矢口は無言で弾倉を取り出し、残弾を確かめる。
腰のベルトに予備の弾倉が二つ。
クレイモアはさっき使い切っていたため、
あとは自分の能力でなんとかしなくてはならない。
「黙ってないで説明してください!」
矢口は怒ったように言った夏焼に、背を向けた。
とつぜん怒り出した夏焼のことを気にする必要はない。
感じている漠然とした不安を怒りという形でぶつけているだけだ。
それよりも、これからどうするかが問題だった。
人狼の感覚は鋭い。
夏焼たちが真下を通っているのを知っていたと考えて、いいだろう。
トンネルが塞がれてこちら側にこれなくなった人狼が、
下にある通路を使おうと思いついてもおかしくない。
そして避難通路の出入り口は一定の間隔で設けられているが、
人狼ならわざわざそこから出る必要もない。
さっきから鳴っている音の大半はトンネルの壁が崩れる音だろうが、
そのなかのいくつかは、人狼が壁を壊して道路に戻った音の可能性がある。
矢口の持つ装備では、この場で持ちこたえることはできない。
人工島に上がって、仲間と共に救援を待つ以外なかった。
先に行かせるために声をかけようと振り返った矢口は夏焼の背後、
トンネルの奥が微かに揺れているのに気が付いた。
「なにか見える……」
そう言って振り返った夏焼の動きが、止まる。
トンネルの向こう側から、グールの群れが現われていた。
- 189 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:32
- 点に見えていたグールの群れは、
あっというまに一つ一つの輪郭がわかるほど近づいてきた。
「梨沙子、撃ってっ!」
「待っ……っ!」
叫ぶような夏焼の声に、菅谷の持った銃から閃光が迸った。
蒼い光の帯がグールの群れを斜めに横切り、盛大な音を立てて壁に着弾する。
次の瞬間トンネルのなかを激しい衝撃が襲い、天井のコンクリートが弾け飛んだ。
天井にできた亀裂と壁に穿たれた巨大な穴から、
大量の土砂と共に海水が入り込んでくる。
「余計なことを……」
壁を直撃した一撃に、辛うじて保たれていたトンネルの均衡が崩れた。
呟きながら矢口が拳銃を持ち上げるのと同時に、
天井から吹出していた海水の勢いが突然弱まる。
なにが起こったのかと矢口が思ったその時、トンネルの中を獣の咆哮が轟いた。
背中を叩いたその声に振り返ると、
グールとは反対側から二つの影が近づいてくるところだった。
「……最悪」
近づいてくるのは、生き残った人狼だった。
- 190 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:32
- 夏焼たちがおとなしくトンネル入り口の警備をしていれば、
人狼が下の通路に気が付くこともなかった。
夏焼たちの勝手な行動が、結果的に道を教えたことになった。
だがこの状況でそれを言ってもしかたないし、このまま逃げるのもまずい。
上にいる負傷した仲間のところに、敵を連れて行くことになってしまう。
人狼だけでもなんとか足止めできないかと、矢口は周囲を見渡した。
「……私たちに任せて逃げてください」
唇を噛んだ夏焼がそう言って、矢口の前に出る。
夏焼の横では、目を閉じた須藤が拳を握っていた。
能力で海水の侵入を押えているのだろうが、一人の力で押えきれる量ではない。
強烈な圧力に押し出された海水が、あちこちの亀裂から噴き出していた。
傾斜に沿って流れてきた海水が、矢口の足元まで達する。
オロオロとしている菅谷と落ち着けようと声をかけている徳永を
チラリと見てから、夏焼が歩き出した。
その後を熊井がついていく。
能力を使っている須藤を残して歩き出した二人を見て、矢口は溜め息を吐いた。
菅谷が銃を撃ったことに責任を感じているのだろうが、
この状況でそんなものは意味がない。
矢口は離れていく二人を見ながら手に持った拳銃を天井に向け、引き金を引いた。
「落ち着けっ!」
突然の銃声と矢口の大声に、全員の動きが止まる。
矢口は足を止めた夏焼の横に並んだ。
「負傷した仲間がこの上にいる。救援が来るまでなんとか時間を稼ぐぞ」
そう言って、菅谷の横に立っている徳永に視線を向けた。
やり方さえ間違えなければ、菅谷の能力は役に立つ。
矢口は腰の予備弾倉を取り出して持っていた銃と一緒に、徳永に向って投げた。
「近くに着弾しないように水平に撃ってグールを食い止めろ!
お前が指示してなるべく最小限の弾数に抑えるんだっ!」
「はいっ!」
怒鳴るように指示した矢口に、
慌てて拳銃を受け取った徳永が姿勢を正して答える。
その瞬間再び咆哮が響き、反射的に菅谷が人狼に銃口を向けた。
「撃つなっ!」
菅谷の付与の能力を乗せて放つ弾丸は、有効半径が大きい。
ほぼ水平に撃てば近くに着弾することはないが、
人狼を狙って万が一でも外せば一発でトンネルの壁に穴が開く。
入り込んでくる海水を須藤の力で押えているこの状況で壁が壊れれば、
今度こそ生き埋めになってしまう。
「こっちはなんとかするから、おまえらはグールに集中しろっ!」
そう言って夏焼と熊井を促し、歩き出した。
- 191 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:33
- グールに挟まれて逃げることができないと分かったのか、人狼が走るのを止めた。
「あれって人狼ですよね」
「……ああ」
獲物に狙いを定めた肉食獣のようにゆっくりと近づいてくる人狼の姿を見ながら、
夏焼が自嘲気味に笑った。
「せっかく二人に会えると思ったのに、こんなところで……」
「相打ちなんて甘いこと考えてんじゃないだろうな?」
驚いたような夏焼の視線を感じながら、
矢口は人狼から視線を逸らさずに後方を指差した。
その途端、後ろにいる菅谷の放った弾丸が青白い光を放ち、
大量のグールを塵に変えてトンネルの奥に消えていく。
後ろを振り返っていた夏焼が、再び矢口の顔を見た。
「敵の数ぐらい数えられないのか?
まだ終わったわけでもないのに、こんなとこで死んでどうすんだよ。
最低ノルマは一人百殺。クリアするまで死ぬなんて許さない!」
正面で足を止めた人狼を睨みながらそう言うと、矢口も止まった。
- 192 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:33
- 矢口を含めた三人で、二匹の獣と睨み合う。
SPを抑えられている感覚がないところをみると、
目の前の人狼は夏に見たような特殊な能力を持っていない。
能力も使えるし数の上では勝ってはいるが、
矢口にはとても有利な状況とは思えなかった。
たとえ普通の人狼だとしても、正面から殴り合えるわけではない。
人狼を相手にした場合は多人数のチームで戦い、
細かくダメージを与えて倒すのが基本だ。
しかし矢口と夏焼は直接攻撃系の能力。
菅谷と須藤はそれぞれの役割で精一杯のため、
遠距離からの援護をするものはいない。
そして熊井は薬の力で増幅の能力が使えるとはいっても、
矢口と夏焼には及ばない。
矢口の背中を冷汗が流れ、身体が震え出しそうだった。
対峙しているだけで、喉が渇いてくる。
目の前にいるのは鎖につながれていない肉食獣。
口を開けて鮮血を思わせる長い舌を見せながら繰り返す人狼の熱い息が、
直接首筋に吹きかけられてくるようだった。
「こいつ倒したら50人分ぐらい……」
「おまけして10人ってとこだね」
「厳しいんだから」
夏焼と言葉を交わしながら、矢口は増幅の能力を発動させて身体の活性をはかる。
徐々に前傾姿勢になっていく人狼を睨みながら、ゆっくりと身体を沈めた。
襲ってくるのを待っている必要はない。
これ以上待てば、絶えられなくなって
大声で叫びながら突っかかって行ってしまうかもしれない。
そう思った途端、人狼が声を上げた。
身体の中にある強い衝動を吐き出すように吼えながら、矢口に向かって走り出す。
- 193 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:34
- なにを考えているのか理解していたわけではないだろうが、人狼に先を越された。
「ちっ!」
向ってくる人狼を迎え撃つため、矢口は舌打ちしつつ走り出す。
同時に夏焼と熊井も走り出していた。
「先に行きますっ!」
そう言い残した夏焼の速度が上がり、矢口を追い越して人狼の間合いに入る。
振われた腕をかいくぐり、夏焼の伸ばした右の拳が人狼の胸に吸い込まれた。
前進の速度と体重の乗った突きを受け、人狼が数歩よろめく。
熊井がもう一体の人狼に向うのを見て、矢口は走っている勢いのまま跳んだ。
夏焼の頭上を越え、態勢を立て直す直前の人狼に蹴りを出す。
ブーツの爪先が顎を捕らえ、人狼が後ろに吹っ飛んだ。
さらに追撃しようと走り出した矢口が拳を振り上げたところで、
人狼が跳ね起きる。
地面にひび割れを残して右に移動すると壁を蹴って、
矢口の背後にいる夏焼に向った。
慌てて振り返ったときには、
人狼の体当たりを防いだ夏焼の身体が壁まで飛んでいた。
「待てっ!」
壁にぶつかり座り込んだ夏焼めがけて走り出した人狼の背中を追いかける。
矢口の手が届く直前、急制動をかけた人狼の背中にぶつかりそうになり、
足を止めた。
同時に、振り向いた人狼の振るわれた左腕を頭を沈めてかわす。
立ち上がりざまに顔面に向けて右の拳を打ち上げようとした瞬間、
左腕を振り切った人狼の右腕が矢口の胴に巻きついた。
矢口の足が地面を離れ、恐ろしいほどの力で引き寄せられる。
「このっ!」
抱かかえられた矢口は人狼の喉に左手を当て、噛み付こうとする口を押さえた。
空いている右手で顔面を叩いたが人狼の腕に力がこもり、
矢口の背が反り返っていく。
背骨の軋んでいく音に、矢口は人狼の頭部をめちゃくちゃに殴り続けた。
- 194 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:35
- あまりの力に殴り続けることができなくなり、
矢口は少しでも緩めようと右手を人狼の腕にかけた。
しかし腕を離すどころか、締め付けてくる力が逆に強くなる。
「せあっ!」
夏焼のかけ声と共に衝撃が走り、息を吐いた人狼の力が緩んだ。
その隙に人狼の腕から逃れた矢口は距離を取って膝をつくと、
痛みを和らげるように深く息を吐く。
なんどか深呼吸をして顔を上げると、人狼と対峙している夏焼がいた。
夏焼の援護がなく、逃げ出すのがあと数秒遅れていれば背骨が砕かれていた。
一人で人狼の相手をしている夏焼は繰り出される攻撃の隙間を縫って
何度か拳を当ててはいるが、動きは止まらない。
もう一人の人狼の相手をしている熊井も苦戦している。
能力で相手を撹乱することができても、熊井の力ではダメージを与えられない。
「くそっ!」
声を上げた矢口はさらに強めた能力で痛みを和らげ、立ち上がった。
人狼の横に回り、タイミングを見て夏焼に参戦する。
人狼にダメージを与えられるのは、矢口か夏焼以外にいなかった。
浸水を食い止めている須藤の援護は期待できない。
菅谷と徳永も押し寄せるグールの群れを食い止めるので精一杯。
熊井がひきつけている間になんとしてでも人狼を倒さなければ、
このまま押し切られてしまう。
気が付いた人狼が振ってきた腕をかいくぐりながら、
矢口は渾身の拳を叩きつけた。
- 195 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:35
- ――――
飯田は結界機関へと続く真っ白な通路を歩いていた。
特徴のない白い通路は何度も折れ曲がり複雑に分岐し、迷路のように続いている。
侵入者を迷わせるだけなら、ここまで複雑にする必要はない。
これは結界機関で発生する霊的なエネルギの漏出を防ぐためのものだった。
結界機関を防衛のために一種の聖域を造り出しているはずの通路だったが、
いまはその効果が逆に働いている。
清浄な空気に満たされているはずの通路には
吐き気を催す腐臭にも似た臭いが漂い、
足を一歩踏み出すたびに全身から力が抜けていくようだ。
吉澤がいる中心部への道程を知っているわけではなかったが、
飯田が迷うことはない。
汚された結界のなかで、強い焦燥と不快感が強くなっていく方向へと足を向ける。
何度も角を曲がった末に、長い直線の通路が現れる。
その突き当りにある扉の前で、飯田は足を止めた。
目の前の扉には中央制御室と書かれた小さなプレートが、
ひっそりと掲げられている。
飯田は扉の横にあるテンキーに後藤に教えられた数字を打ち込んだが、
拒否を示す電子音が静かな通路に鳴り響いただけだった。
何度か試したが、結果は同じ。
番号が変更されたか、入室自体を制限されているのかもしれない。
扉の前に立った飯田は、おもむろに頑丈な鉄扉に拳を打ちつける。
渾身の力を込めた一撃だったが、扉の表面に僅かなへこみを作っただけだ。
息を吸い込んだ飯田は、左右の拳で扉を全力で叩き始める。
全力で殴る拳が裂け、扉に飯田の血が擦りつけられる。
それでも、飯田は止めなかった。
- 196 名前:Ol' Man River 投稿日:2007/06/25(月) 17:36
- ――――
- 197 名前:カシリ 投稿日:2007/06/25(月) 17:36
- 以上で第9話終了です。
- 198 名前:カシリ 投稿日:2007/06/25(月) 17:37
- >>176 名無飼育さん 様
たしかに。
>>177 名無飼育さん 様
なんとか勝つことができたので、高橋はしばらく休憩です。
>>178 名無飼育さん 様
後藤は負けるくらいなら逃げて機会を待つ人です。
>>179 愛毒者 様
やられっぱなしじゃあれなので、
どうしても高橋に決めてもらうつもりでした。
それと、二人の対面はもう少しだけあとになります。
- 199 名前:愛毒者 投稿日:2007/06/30(土) 21:58
- 梨華ちゃんとれいなはまた別行動を取るんですね。
なにか意図があるんだろうけど…
飯田さんはよっすぃーと対面できるのかも気になるところです。
- 200 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:28
- ――――
静まり返った建物のなかに静かな足音が、響いている。
田中は一人、展望室へと通じる階段を踏みしめるように上っていた。
石川とは、建物に入ったところで別れた。
地下へと通じるエレベータは停止しているが、
自分が手を貸さなくても石川ならば時間をかければ降りることができる。
なによりも、もともとの目的が違うのだ。
足音が止まり、建物のなかが静けさを取り戻す。
屋上にある展望台へと出る扉の前で田中は深く息を吸い込み、目を閉じた。
ようやくここまで、たどり着いた。
そしてここを開ければ、後戻りはできない。
目を開けた田中は決意を込めた視線を、正面に向ける。
強く口を結び、ゆっくりと扉に手をかけた。
- 201 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:29
- 最初に目に飛び込んできたのは、煌々と輝く白い月の光だった。
頭上に輝く巨大な銀の円盤に照らされた屋上は、
まるで凍りついているように静まり返っている。
呼吸の音さえも許されないような、静かな空間だった。
湿っぽい夜気の冷たさを感じながら、田中は都心の方向へと顔を向ける。
黒い絨毯のように広がる東京湾の夜に、白銀の光が降っていた。
この場所で起きていることなどまるで無関係に生きている人々を思って、
田中はしみじみとその光景を眺める。
「待ってたよ、れいな」
かけられた声の方向に顔を向けた田中は、
柵にもたれかかるように佇んでいる人影の存在に気が付いた。
「絵里……」
溜め息のような田中の声を聞いて、亀井の口元が僅かに上がる。
静かに微笑むその姿は幻のような光景のなかに違和感なく、溶け込んでいた。
- 202 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:29
- 第10話
But Beautiful
- 203 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:29
- 近づこうとした田中を制するように、亀井は組んでいた腕を解いた。
田中を見つめる瞳がさも楽しそうに細められ、唇から笑いが紡ぎ出される。
「HPを抜けたんだってね」
なにがおかしいのか、亀井はクスクスと笑いながら問いかけた。
「どうして? 守ってるつもりだった絵里に刺されたのが、
そんなにショックだった?」
亀井はひとしきり笑うと田中の答えを待っているかのように、
口の端に笑みの残して黙る。
「おかげでれいなは強くなった。それにもっと強くなる。
もう絵里が能力を使う必要なんてない」
「強くなった? 後藤さん一人殺せないで……ねぇ?」
田中の言葉に、思わず漏れたような笑顔を見せた。
嘲笑的に応じた亀井に、田中は黙って唇を噛む。
「それでれいなはこんなところまで追いかけてきて、どうしようっていうのかな?
まさかHPに追われてる絵里を、助けてくれるって言うんじゃないよね?」
再び自分と会ったときに、亀井がどういう反応をするのか。
数え切れないほど何度もイメージしてきたその場面は現実となって、
田中の前に示された。
重傷を負わせて姿を消した亀井から、謝罪の言葉を期待していたわけではない。
だからといってこの場所に来た田中を見て困惑することも、
HPを抜けて亀井を探し出したことを罵倒するわけでもない。
なにもなかったかのように変わらない笑顔で向い合った亀井の態度は、
田中が考えていたなかで最も冷淡なものだった。
それでも亀井がどんな態度で臨もうと、かける言葉は決まっている。
「HPなんて関係ない……一緒に行こう、絵里」
そう言って、冷笑を浴びせる亀井の瞳を真っ直ぐに見詰めながら、
田中は右手を差し出した。
- 204 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:30
- 亀井は差し出された右手を見ながら冷たく微笑むと、
ゆっくりと首を左右に振った。
「いくられいなでも殺されそうになればって思ったんだけど、
そうでもなかったみたいだね」
溜め息と共に残念そうに言いながら、亀井は柵から背を離した。
右手を差し出したまま動かない田中に向けて、笑いかける。
「絵里が欲しかったのはそんなものじゃない」
低い声で呟くように言った亀井の輪郭が、揺れた。
降り注ぐ月明かりのなかに、二つの幻のような影が浮かぶ。
「もう……終りにしようか」
隣に実体化したもう一人の自分と共に、亀井は抑揚のない声でそう言った。
- 205 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:30
- ――――
夏焼と共に人狼を攻撃している矢口の呼吸が荒くなっていた。
時間が経つにつれて、人狼の動きが良くなってきている。
さっきも、完全にかわしたと思った人狼の鉤爪が頬を掠めた。
夏焼も防御にまわることが多くなり、ほとんど攻撃を出せないでいる。
側面から近づいて蹴りを入れようとしたが、
矢口が近づいた瞬間に人狼が振り向いた。
踏みとどまろうとした矢口の膝が勝手に落ち、下がった頭部を人狼の腕が掠める。
慌てて距離を取った矢口は、唇を噛んだ。
人狼の動きが速くなっているのではなく、自分たちの動きが鈍くなっている。
二対一で戦っているとはいえ、人狼との間に体力の差が現われ始めていた。
もともとの基本性能が違うのだ。
体力勝負になれば、勝てるわけがない。
夏焼が攻撃を避けて距離を取った。
隙を窺うために周囲を周りながら横目で見ると、夏焼の息も上がっている。
二人のうちのどちらかでも疲労が溜まり、
いまの動きができなくなった途端に勝負が決まってしまう。
矢口は人狼から目を離さずに、夏焼の横に並んだ。
「少し休んだ方がいいですよ、矢口さん」
「なに言ってんだ。まだ始まったばっかだろ」
低く唸りながら二人を交互に見ていた人狼が、後ろに跳んで距離を取った。
苛立ったように吼えた人狼が頭から突っ込んできた。
横に跳ぼうとした夏焼だったが、つまづいて膝をつく。
人狼の攻撃に頭では反応していたが、
蓄積された疲労に身体がついていかなかった。
すでに人狼の進路から外れていが矢口は足を止め、夏焼の元へと走った。
座り込んでいる夏焼を突き飛ばす。
- 206 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:30
- 振り向いた矢口の目の前に、人狼の巨体が迫っている。
人狼の身体は、すでに加速しきっていた。
下手に手を出せば、ダメージを受ける。
そう判断した矢口は後ろに跳んで身体を縮ませ、顔の前で両腕を交差する。
一瞬の空白の後、凄まじい衝撃が全身を駆け抜けた。
鞠のように宙を飛んだ矢口の身体が、壁面に叩きつけられる。
息もできないほどの衝撃に、矢口はそのまま地面に倒れ込んだ。
「矢口さんっ!」
声をかけながら駆け寄ってこようとした夏焼の前に、人狼が立ちはだかった。
足を止めて打ち合う夏焼を見ながら立ち上がろうとした矢口だった、
僅かに動いただけで全身に走った痛みに呻き声を上げた。
歯を噛み締めながら、矢口は目を閉じる。
無理やり深く呼吸をしながら、全身の痛みに意識を向けた。
ゆっくりと両手の拳を握り、足を僅かに動かす。
ヒビぐらいは入っているだろうが、とりあえず骨が折れている場所はないようだ。
立ち上がって目を開けた矢口の目の前で夏焼のローキックが膝に当たり、
人狼の腰が落ちる。
「ハッ!」
それを見た矢口は息を吐いて走り出した。
人狼の背に飛びつくと左腕を人狼の首に巻きつけて固定し、
右の拳を側頭部に打ちつける。
背中に張り付いた矢口を嫌がった人狼は、
立ち上がりながら振り落とそうと身体を揺らした。
不自然な体勢のためいつもの半分以下の威力しか出せなかったが、
振り落とされないように必死に捕まりながら、矢口は同じ場所を叩き続ける。
- 207 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:31
- しつこく続く攻撃に、人狼が両手を背中に伸ばした。
矢口を引き剥がそうとして人狼のガラ空きになった腹に、
正面に回った夏焼の拳がめり込む。
その強烈な一撃に、人狼が溜まらずに膝をついた。
矢口は右腕を人狼の顔面に回し、顎に左手をかけて同時に捻る。
「……りゃあっ!」
嫌な手応えを残して渾身の力を込めた矢口の腕の中で、人狼の首が回った。
矢口は腕を放して、横倒しに倒れる人狼の背中から離れる。
音を立てて地面に倒れた人狼は、血の泡を吐きながら痙攣していた。
どんなに回復力があっても頚椎に損傷を受ければ、身体は動かない。
それでも、もぞもぞと動きながら睨みつけている人狼の頭部に
矢口は真上から右足を踏み落とした。
「あと一匹……」
止めを差した矢口は身体のなかに積み重なった疲労を吐き出すように言って、
その場に座り込んだ。
「矢口さんは休んでてくださいっ!」
その声に、矢口は下に落としていた視線を上げる。
もう一体の人狼へと向う夏焼の背中と、
その向こう側で戦っている熊井の姿が目に入った。
- 208 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:31
- 矢口と夏焼が集中できるように、熊井は残った人狼を引きつけていた。
熊井には、最初から人狼を倒すつもりはない。
能力でしのぎながら隙があれば攻撃を当ててはいたが、
ダメージらしきものはほとんどなかった。
応援に向った夏焼も、疲れが残った身体では本来の動きは期待できない。
加勢しようと立ち上がった矢口の身体が、前に傾いた。
慌てて両手を地面について、倒れるのを防ぐ。
足に力が入らない。
連続した能力の使用と重なったダメージに、矢口の体力は限界に達していた。
矢口が唇を噛みながら壁面に目をやると、
噴きだしている水の勢いが最初より増していた。
トンネルの崩壊は加速度的に進み、須藤の能力で抑えるのも限界に近い。
背後から聞こえてくる菅谷の銃声も、しだいに間隔が短くなっていた。
たった一人ではいくら能力が強くても、グールの侵攻を完全には防ぎきれない。
早くもう一体の人狼を倒して人工島に上がらなければ、
妖獣に殺されるか溺れ死ぬかのどちらかだ。
「このっ! 動けっ!」
まるで自分の物ではなくなったかのように力が入らない足を叩き、
無理やり立ち上がる。
なんとか息を整えて顔を上げると、
人狼の横殴りの一撃を受けた夏焼が吹き飛んだ。
壁にぶつかりそうになったところで熊井が間に飛び込み、二人が地面に倒れこむ。
- 209 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:32
- 絡まったように倒れている二人に人狼が向った。
走り出そうとした矢口だったが、
痙攣している足に、立っているだけでもバランスを崩しそうだった。
「やめろっ!」
腕を振り上げた人狼は、声を上げた矢口を振り返る。
動けない矢口を見て一声吼えると、二人に向き直った。
助けに行こうとした矢口の身体がバランスを崩し、再び地面に両手をついた。
「夏焼……っ!」
絶望感に襲われながら上げた矢口の声は、背後から聞こえた轟音にかき消された。
腕を振り上げた状態の人狼の身体が弾かれ、地面を転がる。
「う〜ん」
慌てて振り返った矢口の背後に立っていたのは、
コートを切り裂いて作った布で左腕を首から吊っている高橋だった。
- 210 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:32
- 右手で顎を擦りながら地面に転がった人狼を見つめている高橋の脇から
新垣が飛び出して、立ち上がろうとしている夏焼と熊井に駆け寄る。
「大丈夫ですか? 矢口さん」
かけられた声と共に顔を向けると、
近づいてきた道重が手を差し出していたところだった。
道重の背後にある人工島への入り口の横では、
腹ばいになった紺野が長大な銃を人狼へと向けている。
なにが起きたのかをようやく理解した矢口は、道重の手を借りて立ち上がった。
「……おまえら」
「上にいた人たちは藤本さんが安全なところに運んでます。
ここは私たちに任せて、矢口さんも早く上に行ってください」
再び轟いた轟音と共に、立ち上がろうとした人狼の身体が再び吹き飛ぶ。
その隙に夏焼と熊井の二人に肩を貸しながら、新垣が戻ってきた。
「決めた。あーしはあのデカイのとやる」
立ち上がった人狼が唸り声を上げているのを見つめていた高橋は、
腰に差した鞘から片手で器用に刀身を抜いた。
「高橋さんの刀、折れてるんじゃ……」
道重の言葉を最後まで聞かず、高橋は半ばから折れた刀を手に走り出した。
「小春ちゃん! 私たちも行くよっ!」
「ちょっと待って下さいよ! これ重すぎて……っ!」
声をかけながら立ち上がると紺野は銃を手に菅谷のいる方向に走り出す。
その後を荷物を背負った久住がよろよろと追っていった。
- 211 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:32
- 矢口は一段一段踏みしめるように、人工島への階段を上る。
トンネルを襲う振動は断続的に続いていた。
足を止めた矢口は手すりにつかまりながら、後ろを振り向いた。
下からは激しい銃声が聞こえてくる。
「……ありがとうございました」
その声に上を見上げると、
熊井に肩を貸しながら前を歩いていた夏焼が立ち止まっていた。
矢口は神妙な顔の夏焼を見ながら、鼻を鳴らす。
「暗い顔してないでさっさと歩け。まだ終りじゃないぞっ!」
夏焼はそう言って背中を押した矢口に笑いかけて、再び階段を上り始めた。
- 212 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:33
- ――――
待っていては同時に攻撃を受けることになる。
能力で分かれた亀井が近づいてくるより早く、
田中は前に出て右側の一人に向かった。
構えを取った亀井と交差する瞬間、田中は右に跳ぶ。
頚動脈を狙って振われたナイフをかわしつつ、造った風弾を叩きつける。
吹き飛ばされた亀井の姿が空中で消えた。
同時に、背後にまわった気配が四つに分裂する。
「やるね、れいなっ!」
声と同時に振るわれたナイフを前に転がって避けた。
田中は地面を転がりながら、風を練る。
ある程度距離を取って膝立ちになった瞬間、腕を水平に振って風を放った。
膝の高さで放った風に、避けられなかった二人がその場で足を刈られて倒れる。
残りの二人の姿は、空中にあった。
ギリギリでかわした二人の亀井が、立ち上がった田中へと襲いかかる。
向ってくる亀井に身体を向けた田中の姿が、突然白い光りに包まれた。
白光のなかに田中の姿が消え、目標を見失った亀井のナイフが空を切る。
範囲の広がった光に飲み込まれ視界を奪われた亀井だったが、対処は冷静だった。
後退して光の範囲から逃れながら幻像を戻し、態勢を整える。
「上から見てたから知ってたけど、そういう使い方もあるんだね」
「絵里の能力は分かってる。れいなには勝てない」
確かに同じ思考と同じ運動能力を持った複数の人間による連携は、強力だ。
それでも、攻撃の方法は一つだけ。
接近しなければ、相手にダメージは与えられない。
四方から同時に攻撃を仕掛けられても広い範囲に効果のある田中の能力なら、
脅威にはならなかった。
風を纏ったまま近づく田中から距離を取るように、亀井が下がる。
手に持ったナイフを握り直すと、唇に小さく笑みを浮かべた。
「そう。れいなが分かってるのは……絵里の能力だけなんだよね」
そう言って足を止めた亀井が、前に出て間合いを詰める。
- 213 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:33
- 正面から突っ込んでくる亀井の姿が揺れ、現われた二人の人影が左右に散る。
田中は正面の亀井に風弾を放ちながら、後ろに跳んだ。
風弾が当たる直前に、目の前の亀井の姿が空気のなかに溶けるように掻き消える。
同時に左右にいる亀井の気配が分かれた。
再び四人になった亀井は、田中の周囲を回りながら徐々に間合いを詰めていく。
「なんで戦わなきゃいけないの?
こんなことするために、ここに来たわけじゃないっちゃよ!」
「そんなこと言わないでよ。
絵里はこの日が来るのを……待ってたんだからっ!」
言うと同時に、前後にいた亀井がナイフを投げた。
タイミングを合わせた左右の二人が間合いを詰める。
田中は威力を抑えた風壁を造り、ナイフを弾いた。
そのまま風壁の範囲を広げ、近づいていた左右の二人に当てる。
抑えているとはいえ強力な風に巻き込まれた二人が、跳ね飛ばされた。
宙を飛ぶ亀井の姿を目で追った田中は、
その姿が掻き消えるのを見て視線を落とす。
前後にいた亀井が隠し持ったナイフを手に、走り出していた。
範囲を広げたために弱くなった風壁を無理やり突き破り、間合いを詰める。
「しゃっ!」
前後から上段と下段に振われたナイフを、右に跳んでかわした。
地面を転がって立ち上がろうとした田中だったが、
左の太腿に走った痛みに小さく声を上げる。
前後からの攻撃を避けきれず、ナイフが太腿を掠めていた。
血が流れてはいるが、立てないほどの傷ではない。
「なんのつもり?」
立ち上がろうとした田中だったが、かけられた声に膝立ちのまま顔を上げた。
いつのまにか四人に分かれていた亀井が、その周りを囲む。
「能力抑えて勝てるつもりなの?
本気でやらないと、こんどこそほんとに死んじゃうよ?」
困ったように言いながら、亀井はゆっくりと間合いを詰める。
- 214 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:33
- 田中は無言のまま、周りを囲んだ亀井を見上げた。
全員を一度に殺さなければ、亀井が死ぬことはない。
そして能力を抑えずに全力で戦えば、攻撃を受けることはないはずだ。
だが幻像を殺せば、それは記憶となって亀井自身に戻っていく。
たとえ能力で造り出した幻像とはいえ、田中は亀井を殺すことを躊躇していた。
このままでは、亀井の言うとおりになってしまう。
徐々に近づいてくる亀井を見ながら、田中は唇を噛んだ。
いままでの戦いで分かったのは
一度に作り出せる幻像が最大で四人までということと、
造り出した幻像も能力を発動できるということだ。
個別に攻撃を加えても無事な幻像が再び能力を使い、
結果的に相手にする数は変わらない。
亀井を止めるためには本人も含めて造り出したすべての幻像に、
能力が発動できないほどのダメージを与えなければならない。
それも、一瞬のタイムラグもなく。
座ったまま目を閉じた田中は、地面に右手をついた。
チャンスと見た亀井が、四方から間合いを詰める。
先に走り出した三人の後を追うように、僅かに遅れて一人が走っていた。
攻撃のあとの僅かな隙を狙った連携。
風の能力で三人を倒している間に、最後の一人が確実に田中を仕留める。
迫ってくる足音で亀井の接近に気が付いてはいたが、田中は目を開けない。
四つの刃が迫る田中の身体が、さっきとは違う光に包まれた。
田中の周囲に形成された球状の光の表面に、小さな電撃が走る。
「な……っ?」
驚きの声を上げた亀井がとっさにナイフから手を離して後方に跳び下がった瞬間、
田中の周囲から紫電が放たれた。
宙を走った光の帯が、ナイフめがけて走る。
爆発にも似た音を残して、電撃をまともに食らった幻像が弾き飛ばされた。
- 215 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:34
- 田中は小さく息を吐いて立ち上がると、周囲を見渡す。
電撃を受けて動けるのは、一人だけのようだった。
地面に倒れたまま動かない三人の幻像から、
座り込んで田中を見ている亀井に視線を移す。
一番離れた位置にいた亀井は、ナイフから手を離していた。
しかしまだ空中にあったナイフに落ちた電撃が、
最も近い導電体である亀井の身体に走っている。
ナイフを介した電撃が多少その威力を落としていたとしても、
相当のダメージを与えているはずだった。
立ち上がることができないのか、亀井は地面に座り込んだまま田中を睨む。
「れいなが雷を使えるなんて……聞いてないよ」
亀井に言葉を聞きながら、田中は後藤の言葉を思い返していた。
操元の能力者は、あらゆる力を引き出すことができる。
その言葉どおり、後藤は複数の力を使いこなして見せた。
能力者は一番最初に使った能力を伸ばすことを考えるのが普通だ。
だれも他の能力を使おうなどと、考えない。
あらゆる能力が使えるなど、誰も考えつかなかっただけだ。
一人に一つの能力が原則だと、誰もが信じて疑わなかった。
その常識が、能力を引き出すことを阻んでいた。
そして田中は実際に使いこなしている後藤の姿を、目の当たりにしている。
大切なのはできると信じること。
後藤にできて自分にできないはずはない。
「言ったでしょ。れいなはもっと強くなるって」
亀井は歯を食いしばりながら、地面の上で痙攣している幻像を消した。
- 216 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:34
- 亀井は視線を逸らすと、近くに落ちているナイフに手を伸ばす。
震える手でナイフを握るのを、田中は黙って見ていた。
「たしかに能力の使い方はうまくなったけど、
絵里が言ったのはそういう意味じゃないんだよ」
ふらつく身体でなんとか立ち上がると、亀井は下を向いて息を吐いた。
「命を奪うことでしか救われない魂もある。
それが偽善だと分かっていても自分の手を汚す覚悟、
れいなにはそれがない。それがれいなの、弱さだよ」
そう言ってナイフを構えた亀井から視線を逸らさず、田中は前に出た。
睨むような田中の視線に圧されたかのように、亀井が一歩後ろに退く。
「絵里を殺さなきゃ証明できないっていうなら、強さなんていらない。
れいなは絵里を助けたいっちゃよっ!」
怒鳴った田中から視線を逸らし、亀井は僅かに俯くとゆっくりと首を振った。
「いまここでれいなと話してるのは、誰なのかな?」
顔を上げた亀井は首を傾げて微笑むと、子供のように問いかけた。
その顔には、作ったような笑顔が張り付いている。
「本体だった絵里が死んでも、
能力で出した幻像が記憶を受け継ぎ生き続ける。
全く変わらない偽者しかいなくなれば、それが本物になるんだ。
亀井絵里なんて存在はとっくの昔に……消えちゃったんだよ」
「何回死のうが生きようが、絵里が絵里であることに変わりない。
いまれいなの前にいるのが、本物の絵里だよ」
真っ直ぐに見つめる田中の言葉に、亀井は再び首を振った。
ナイフを構えた亀井の身体が四つに分かれる。
田中を正面の亀井から視線を逸らさず、黙って四方を囲むのを許した。
「絵里の安息は、ほんとうの死のなかにしか存在しない。
れいなそれを与えてくれないなら、代わりを探すだけ」
そう言って、亀井は閉じた口の端を僅かに上げる。
田中はその顔を見て捨てられた子供みたいだと、人ごとのように思った。
- 217 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:35
- 四人の亀井が動き出し、田中は再び風を纏う。
左右から間合いを詰めてくる亀井の頭部が、突然後ろに弾かれた。
風針に眉間を貫かれた幻像が空気に溶け込むように消えていく。
田中は残った風を二つに分離した。
正面に風刃を、後方には風弾を放つ。
風の刃を受ける直前に、正面から迫っていた亀井が三人分かれた。
真ん中の一人が風刃の直撃を受けて胴体を両断されている隙に、
残った二人が左右に分かれて距離を取る。
振り返った田中は風弾の直撃を受けて苦しそうに座り込んでいる亀井を
見下ろしながら、片手を頭上に掲げて螺旋状に渦巻く風を招いた。
「れいな……っ!」
震える声で叫んだ亀井の姿が、ブレる。
立ち上がりざまに二人に分かれた亀井が一気に間合いを詰めた。
同時に、左右に散っていた二人も走り出す。
「絵里のことは誰にも渡さない……」
感情を抑えるように呟いた田中の言葉と共に、
圧搾された空気の塊が冷たい大気を駆け抜けた。
撃ち出された無数の風針が近づこうとしていた三人の身体を貫き、
幻像が一瞬で絶命して消え去る。
同時に打ち出した風弾が、正面にいた亀井の身体を正面から捕らえた。
直撃を受けた最後の一人が宙を飛んで背後にある柵に激突し、
ずるずると地面に座り込む。
「れいなが助ける」
田中はそう言って、
地面に転がったナイフを拾うこともできないでいる亀井に歩み寄った。
- 218 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:35
- 田中は柵に背を預けたまま座り込んでいる亀井の前に立った。
俯いた亀井は自分の胸に手を当てて、小さく咳き込む。
「絵里が言ったように世界は冷たいところもある。
だけど、それだけじゃなかったでしょ?」
田中の言葉に、亀井が顔を上げた。
口の端に血の跡を残した亀井の顔は無表情で、能面かなにかのようだった。
「絵里は一人じゃない。どんなことがあっても支えてみせる。
だかられいなと一緒に行こう……絵里」
あのとき亀井に言えなかった言葉の続きを口にして、田中は再び右手を差し出す。
唇を噛んで見下ろす田中を見て、一瞬だけ亀井の顔が歪んだ。
泣き出しそうな表情だったが、しかし亀井は泣き出したりはしない。
代わりに視線を落とした亀井は低く乾いた声で、笑った。
- 219 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:35
- しばらくして笑い声が止むと、二人の間に沈黙が訪れた。
刺すような痛い沈黙だった。
亀井は俯いたまま疲れたように溜め息を吐くと、瞳を閉じる。
「……世界が私に何を与えてくれたというのだ。
耐えよ忍べよと一生涯、これが耳元で鳴り響く永遠の子守歌。
生きていることは重荷だ。死こそ望ましく、生きていることは呪わしい」
座り込んだまま、亀井は暗唱するように言った。
投げかけられた言葉は平べったく、何の反応も感じ取れない。
亀井はゆっくりと目を開けると、何も言えないで見つめる田中を見上げた。
「絵里は望んでもいないのにこの世界に投げ出された。
だからせめて最後ぐらいは、自分で決めたい」
そう言って力なく、微笑んだ。
亀井の言葉を否定するために、田中は強く首を振る。
「絵里……」
「お願いだよれいな。絵里はもう、疲れちゃったよ」
自分の能力とそれを与えた世界に絶望し、
疲れきった亀井が最後に持った希望こそ、死に場所だった。
田中は唇を強く噛み、涙が溢れそうになるのをこらえる。
あの時と同じだった。
触れることのできるほど近くにいるのに、自分の言葉は届かない。
「そんな顔しないでいいよ。こうなることを望んだのは絵里なんだから」
田中の表情を見て困ったように笑いながら、亀井は優しく言った。
亀井を救いたいという自分を拒絶するその言葉に、
田中は氷のような孤独を感じた。
「それにさ、好きな人に幕を引いてもらうなんて……綺麗だと思わない?」
そう言って、亀井は唇にうっすらと笑みを浮かべる。
月明かりに照らされたその笑みは美しいものではあったが、
同時にひどく重苦しいものでもあった。
たった一人ではとても背負いきれないほどに。
- 220 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:36
- 短い沈黙のあと、田中はゆっくりと伸ばした右手の先に、
小さな光の珠を造り出す。
造りだした雷球の放つ光を見て、安心したように亀井が息を吐いた。
「ありがとう」
微笑みながら顔を上げた亀井が、瞳を閉じた。
その幸せそうな表情を見て、田中の目から涙がこぼれる。
初めて、亀井の本当の笑顔を見たような気がした。
決心して足を踏み出した田中の指先から小さな音を立てて、一条の雷撃が伸びた。
その一撃を受けて小さく身体を震わすと、亀井はゆっくりと横に倒れる。
「そんなものが綺麗だなんて……認めない」
意識を失った亀井を見下ろしながら、田中は頬を流れている涙を拭った。
- 221 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:36
- ――――
- 222 名前:But Beautiful 投稿日:2007/07/05(木) 21:36
- 以上で第十話終了です。
- 223 名前:カシリ 投稿日:2007/07/05(木) 21:37
- >>199 愛毒者 様
田中の方はこうなりました。
石川は次回出てきます。
- 224 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 21:19
- 219の亀井の台詞(特に15行目)が胸に突き刺さりました。
でも自分がれいなだったらやっぱりこんなの認めたくないよ、絵里…
- 225 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/08(日) 11:38
- えりりんの自己満足を、本当に叶えてあげたのか…
2人が別れてからずっと再会を楽しみにしてたけど、こんな事になるのはつらすぎます…
- 226 名前:愛毒者 投稿日:2007/07/09(月) 21:04
- 救われた絵里と、救えなかったれいな…という事になるんでしょうか。
次、梨華ちゃんなんですね。向かう先はやはり…?
- 227 名前:カシリ 投稿日:2007/07/09(月) 21:46
- 申し訳ありません。
一応“田中は亀井の気を失わせただけ”のつもりで書いたんですが、
言葉が足りませんでした。
すいませんでした。
- 228 名前:愛毒者 投稿日:2007/07/09(月) 23:00
- いえいえw
絵里の最期にしてはあっけなさすぎた気はしたんで”れいなは実は止めを刺してはいなかった…。”と
いう展開を少なからず期待していました。
なのでまぁ、そういうことで良いんじゃないでしょうか。w
次回の更新も楽しみにしています♪
- 229 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/09(月) 23:45
- 私も実は生きている展開だろうなと思ってたけどネタバレになるかと思い
あえて曖昧なレスにしてました。作者さん自らネタバレされるとは…
- 230 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/17(火) 20:13
- いしかーさんはどうしたいんだろ?
気になりますね。
- 231 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:46
- ――――
その広大な空間には正面にある奇怪な構造物を中心に、
増悪と狂気と倨傲で作られたような大気が満ちていた。
突然、耳が痛くなるほどの静寂を打ち破り、ガラスの砕ける音が響いた。
上方から降り注ぐ透明なガラスが床にぶつかって甲高い音を残し、砕け散る。
すべてのガラス落ちて再び静けさが戻るのを待っていたかのように、
壁面の窓から一つの人影が宙に飛び出した。
普通の人間ならば助からない高さから重力に従って落ちた影は、
調子抜けするほど静かに着地する。
「ようこそ、飯田さん」
その声に床に散らばったガラスを踏みしめてち上がった飯田は、顔を上げる。
散乱した椅子の向こう側、
結界機関の前にある舞台の上で座っていた吉澤が立ち上がった。
- 232 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:46
- 第11話
But Not For Me
- 233 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:47
- あらゆる負の感情を喚起するような空気のなかで、
向かい合った吉澤は壇上に手をつき、飯田に微笑みかける。
「外は大変だったでしょ?」
ねぎらいの言葉を口にした吉澤だったが、飯田はなんの反応も示さなかった。
ただジッと、吉澤の顔を見つめる。
そのようすに肩をすくませた吉澤は視線を逸らすと、
肩越しに背後にある結界機関を顎で示した。
「これにはね、結界発生のための起爆剤として
すでに莫大な量の霊的エネルギが蓄えられている。
その量は膨大すぎてそのまま解放すれば、なにが起こるかわからない。
それこそ世界が滅亡するようなことが起こるかもしれないそのエネルギを、
安全に使い切る必要があったんですよ」
再び飯田に向き直った吉澤は、再び肩をすくめた。
「これもつんくの試行錯誤の一つ、里田の使った本を研究した副産物です。
扉を開けることができるなら閉じることもできるのではと考えて、
色々と試していたみたいですけど、結局うまくいかなかった。
今回はそれを使いました。
エネルギを無数の"通路"を召喚するために消費するように、
ちょっとだけ制御プログラムを変更したんです」
にこやかに話す吉澤の説明を聞きながら、飯田は目を細めた。
HP自体が機能していなくても"通路"や能力者の関わる事柄には、
自動的に圧力がかかることになっている。
海ホタルに向う車内で見たテレビで都内各地、
それも東京湾沿岸に集中して事故や事件の異常な発生を伝えていた。
「ここにはHPのほとんどの戦力が集中しているし、陸地からは離れてる。
現われる妖獣は集まっているHPがなんとかするでしょう」
飯田の視線に気がついた吉澤は、言い訳のように付け足した。
「つんくはね、結界を発生させた状態で
竣工式に条約反対派を突入させるつもりだった。
警備を担当することになっていた嗣永たちが殺される映像を
世界に流すことで、ルールを変えようとしていたんですよ。
その後に血を与えた飯田さんを使って反対派を退け、結界機関を取り戻す。
そうやって能力者と異世界の存在を示して、世界に敵として認識させる。
そしてこの場所を、新たな戦いの中心にするつもりだった」
そう言って髪をかき上げた吉澤は、ふと自分の左手首に視線を止める。
苦笑しながら付けていた時計を外すと、横に投げた。
「別に意味なんてありません。普通の時計ですよ」
地面に落ちた時計に視線を向けた飯田に気が付き、吉澤は言った。
- 234 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:48
- 飯田は舞台の上をゆっくりと歩き始めた吉澤の姿を目で追った。
吉澤は視線を下に向けながら、階段を降りる。
「ここに来る前に後藤に会った」
「そうですか。ちゃんと言ってあったから、手は出さなかったでしょ?」
「うまく手なずけてるみたいだね」
皮肉を口にした飯田に、吉澤は鼻を鳴らした。
「HPのなかにいる敵を表に出す必要があったんですよ。
そのために、ごっちんの名前が必要だった。
けど、それも終わりました。
今回のことで条約に反対していた人間は、ほとんどいなくなります。
これが終わったら飯田さんが、ごっちんを止めてください」
「上には新垣たちがいるし、HPだってすぐに態勢を整える。
いくら後藤でも……」
「何人いようが誰であろうが、ごっちんと対等にはなれないでしょう。
それに、ごっちんは危険すぎる。
いまは自分で作ったルールで抑えてるけど、
いつタガが外れるか分かったもんじゃないですからね」
散乱した椅子を避けるように歩きながらそう言って、吉澤は笑いかけた。
後藤が加わったと知れれば、今回の計画に参加する仲間も増える。
吉澤がHPの内部に隠れた敵を表に出すために必要だったのは、
後藤真希という名前だけだった。
後藤を手に入れるために辻を消したように、
結界機関を制圧して目的を達成した吉澤には
もはやその名前も必要ないということなのか。
「他になにか聞きたいことは?」
「なぜ、辻の村を襲った?」
なにを聞くのか分かっていたかのように、吉澤は余裕の微笑みを浮かべた。
一緒にいるときに辻の仇ということは聞いていたが、
元々の原因である辻の一族を襲った理由を聞いてはいない。
頭を掻きながら歩いていた吉澤が、飯田の正面で足を止めた。
- 235 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:48
- 広大な空間のなかで遮る物がなくなり、
互いの目を見ながら二人は対照的な表情で対峙する。
飯田は無表情に、吉澤は笑顔で。
「村を襲ったのは、辻の一族がつんくに薬の提供を始めていたからです。
あそこの薬はただでさえ数の少ない能力者の力を
訓練では到達できないレベルに引き上げる。
安定して供給することができれば、
つんくの権力を増大させることになってしまう。だから潰した」
そこで言葉を切ると、吉澤は肩をすくめながら小さく息を吐いた。
「それで終りだと思っていたときに現れたのが、保田さんです。
あの人が研究を始めたのは知っていましたけど、
気が付いたときには事態はさらに深刻になっていた。
いくつかの完成品が手元にあったとはいえ、
辻の一族が積み上げてきた何百年もの時間をたった一人で遡ったんです。
性格に多少問題はあったかもしれませんけど、彼女は紛れもなく天才だった。
潰れかけていたつんくの計画を立て直してしまった。だから……」
さまざまな感情が混ざり合い、爆発したかのように真っ白になった頭のなかで
自分が行なってきたことの説明を続ける吉澤の言葉が次第に遠のいていく。
飯田はうねりを上げる激情を抑え込もうとしたがそれは、できそうになかった。
「……もういい」
何かを話し続けている吉澤の言葉を遮り、飯田は震える声でそう言った。
正面にいる吉澤を射抜くように睨みながら、一歩前に足を出す。
何か言いかけた吉澤だったが飯田の瞳の色に気が付き、口を閉ざした。
「こうなることは分かっていたはずだ。
なぜ……後藤に止めさせなかった?」
低く押し殺した声で問いかけた飯田の全身を、障壁が包み込む。
同時に、吉澤を睨む瞳の輝きが増した。
- 236 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:48
- 怒りと憎悪と悲しみが心のなかで交じり合い、
どす黒い感情となって渦を巻いていた。
プログラムを変えられて負の感情を撒き散らしている
結界機関の影響なのかもしれない。
それとも、本当の自分が姿を現そうとしているのかもしれない。
理由など、なんでもかまわなかった。
吉澤を殺す理由など。
ゆっくりとした足取りで確実に距離を縮めていく飯田を見ながら、
吉澤はその場を動くこともなく腰に手を当て、僅かに顔をそらせた。
「どんな理由があったとしても、圭織は吉澤を許さない」
「殺しますか? 安倍さんを殺したように、この私を」
吉澤の言葉に生じた小さな後悔の感情は、
激流となった負の感情のなかに掻き消える。
近づいてくる飯田を見て、浮んでいた微笑を消した吉澤は目を細めた。
「憶えてますか?
世界の調和を護るという使命のためにだけあるHPのなかに存在する、
隠された組織のこと。
その組織の現在の代行者は私。そして前任者は……安倍さんだった」
吉澤の声に、飯田の踏み出した足が固まった。
「異なった存在を受け入れることができるほど、人類は成熟していない。
まだ向こう側の存在を知らせる時期にはない。
いつか来るそのときまでいまの均衡を保ち、世界の調和を護る。
それこそが安倍さんの役割であり、願いでした」
自ら口にした安倍の名前を懐かしむように、吉澤は唇の端に笑みを浮かべた。
- 237 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:49
- 吉澤の顔に視線を向けながら、飯田はその場を動けなかった。
安倍は人類との共生を目指して戦っていたのでは、なかったのか。
長年一緒にいたが、吉澤の語る安倍の願いなど聞いたことがなかった。
「HPの向っている未来が理想にはほど遠いと、安倍さんは理解していました」
明らかな戸惑いを見せて動きを止めた飯田を見ながら、
吉澤はゆっくりと歩き始める。
「安倍さんは変えられない現状に善意に満ちた祈りを捧げるよりも、
自らの手を汚してでもそれを回避する道を選んだ。
一人の人間や集団といった人間に限らず、
いまの力関係を一変させるような技術をも含んだ強すぎる力の存在。
偶然に委ねられているはずの組織の決定に干渉することで、
自ら探し出したそうした存在のすべてを排除する。
安倍さんはそうやって世界を天秤にかけ、調和を護っていた」
飯田の周りを回るように歩くと、吉澤は結界機関を背にして足を止めた。
ショックを受けている飯田に冷ややかな視線を向けながら、続ける。
「計算され尽くした言動と行動で必然を呼び込み
突発的に起こる偶然をも利用して目的を果たす。
必要なら周りの人間を操り、本人を破滅させてでもその力を無力化し、
すべてが終ったあとも、他人の意志が介在していたという痕跡を残さない。
安倍さんにはそれができた。
いま私がやっていることなんかよりももっと巧妙に、もっと精緻に、
そして遥かに冷酷に」
「そんな……こと」
吉澤の話している安倍の存在を否定しようと
ようやく口に出した飯田の言葉は、途中で消えた。
- 238 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:49
- 吉澤が誰のことを話しているのか、飯田には分からなくなった。
隠れた組織のことは、吉澤から聞いている。
だが自分の考える理想のために組織の力を利用し、個人の自由意志を奪う。
目的の前の犠牲を肯定するというその考えは、
飯田の知っている安倍の姿からはかけ離れたものだった。
「もしかしたら自分のやっていることに、悩んでいたのかもしれません。
でも現実に目を背けて自分のなかの理想に逃げ込むには、
安倍さんは聡明すぎた。
このままでは近い将来起こってしまう決定的な破滅を避けるために、
まだ決まっていない未来に賭けたんです。
そのために、組織の力を利用していた」
淡々と話す吉澤の言葉に、
飯田はその場の空気が凍りついてしまったかのように動くことができなくなった。
「誰かに話しても共感されるようなことではないと、分かっていたはずです。
だからこそ周りの誰にも、飯田さんにも秘密にしていた。
そして私がここに飯田さんが来ることを望んだ理由が、それです」
そう言って口を閉じた吉澤に顔を向けながら、飯田は何も言えないでいた。
吉澤の言うことが本当なら、安倍は笑顔の裏で仲間を欺き、
飯田には偽善としか思えない行為を行なっていたことになる。
安倍の行動とそれを支える意志に与えられた周りからの賞賛も
自分が感じた羨望も、すべてはそうなるように仕向けられた結果だったのか。
沈黙が重くのしかかり、
続ける言葉を見失ってしまった飯田に吉澤が微笑みかける。
「思ったよりも時間がかかりましたが、これで話はおしまいです」
そう言った吉澤の声に続いて、二人の頭上でなにかが弾ける音が鳴り響いた。
視線を上げると天井に近いところから、なにかが落下してくる。
床にぶつかり甲高い音を立てて跳ねたのは、
結界機関を構成しているパイプのひとつだった。
「時計は止まり針は落ち、私の願いは成就する」
床を転がったパイプから視線を移した吉澤が、飯田を見ながら両手を広げた。
- 239 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:49
- 突然、激しい振動が始まった。
部屋全体が揺れ、壁面に亀裂が入る。
天井から剥れた巨大なコンクリートが結界機関を直撃し、
折れた無数のパイプと共に床に落ち始めた。
「結界機関に蓄えたエネルギがある程度放出された時点で、
残ったエネルギを内側に向けて、
結界機関とこの部屋を崩壊させるようにしておきました」
周囲に降り注ぐ瓦礫には目もくれず真っ直ぐに飯田を見ながら、
吉澤は地面の一点を指差した。
飯田が視線を向けるとなんの起伏もない平坦な床の上に、真四角な線が見える。
「そこのハッチから下にある発電所に行くことができます。
二次冷却水のパイプが上の海底まで続いてるから、なんとかいけるでしょ?」
「……圭織はいまさら助かろうなんて思ってない」
「辻希美のことはどうするんですか?」
吉澤は自分の言葉が届いたのか測ろうとするかのように、飯田をジッと見つめる。
その眼の奥には酷薄さの影があり、
そして身震いしないではいられないほどに冷ややかだった。
「辻を見捨てることはできないはずです。
だって、辻がああなった理由の一つは飯田さんにもあるはずでしょ?」
「勝手なことを……っ!」
「そう、ここで死んで終りにしようなんて、勝手なことです」
飯田の言葉に重ねるように言った吉澤は、
軽蔑と侮蔑に満ちた、ほとんどそれとわからないほどの笑みを唇に浮かべた。
「辻はまだ生きている。
自分の過去も飯田さんと過ごしたこれまでの記憶もないでしょうが、
いま病院にいるのは紛れもなく辻です。
そして辻には誰かの助けが必要です。
これはある意味チャンスですよ?
飯田さんが四年前にできなかったことの償いができる」
吉澤から視線を逸らすこともなく、
飯田は頭上から落ちてきたコンクリートの塊を右の拳で受けた。
一撃で粉砕された欠片が床に散らばり、その上をさらに大きな塊りが落ちてくる。
「飯田さんは成長していく辻と共に、一生後悔に苛まれながら生きればいい」
これ以上は限界だった。
結界機関を構成していたパイプが崩れ、なかにある巨大な球が剥き出しになる。
表面ではなく奥深くで輝いている蒼い光が光度を増し、
その圧力に負けたかのように珠の表面に亀裂が走った。
同時に構造物の崩壊が加速を始め、二人の周囲にもパイプが落ち始める。
- 240 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:50
- 吉澤の言葉を噛み締めながら、走り出す。
向った先は地下に併設された発電所へと続くハッチだった。
ハッチを開けてなかを覗き込むと、下へと降るタラップが闇の中に続いている。
「……私はあなたが嫌いです」
崩れ落ちる瓦礫の音があちこちで鳴り響くなか、
冷たく淡々とした吉澤の声が飯田の耳に届いた。
振り返って目に入ったのは崩壊していく部屋のなかで、
周囲のことなど関係ないかのように真っ直ぐに飯田を見つめる吉澤の姿だった。
「安倍さんが本当のことを打ち明けなかったのは、
あなたのことを認めていなかった証拠です。
それなのに安倍さんを殺したあなたが
安倍さんの後継者のように言われているのが、私には許せなかった。
だからあなたに教えたかった」
そう言った吉澤は、勝利を確信したような表情を浮かべた。
「私こそが安倍さんの意志を継いだ。勝ったのは……私です」
ひと際激しい音が響き、弾かれたように頭上を見上げた飯田めがけて、
巨大なコンクリートの塊が落下してきた。
砕くことも受け止めることもできない大きさに、
飯田はもう一度視線を吉澤に向けてからハッチの扉を押し開く。
吉澤の表情を脳裏に焼きつけ、飯田は四角い闇のなかへ飛び込んだ。
- 241 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:50
- ――――
藤本はレバーを引いて機体を上昇させながら、
あっという間に離れていく人工島を眼下に見下ろした。
途中からHPの救援部隊も加わり、生き残った仲間の退避は終了している。
藤本たちを乗せて飛び立ったヘリを最後に、
人工島に残っている人間はすべて回収済みだった。
矢口たちと合流して間もなく、それまで使えなかった無線が回復した。
そのおかげで仲間に連絡を取り、救援を呼ぶことができたのだ。
藤本の乗るヘリだけでは、
生き残った仲間のすべてを助け出すことはできなかっただろう。
充分に高度を取ると、藤本は機体を回して海ホタルへと向けた。
藤本が見るのを待っていたかのように、海上に浮ぶ海ホタルへ向けて
闇の中から放たれた複数のミサイルが眩い光条を残して吸い込まれる。
島のあちこちに着弾して起こった小さな炎はすぐに一つの大きな炎へと収束し、
巨大な爆炎が海ホタルを包み込んだ。
無線が回復し状況を把握したHPの上層部は、
吉澤に奪われた結界機関の奪還を諦め、封じ込める作戦を取っていた。
- 242 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:50
- 攻撃ヘリと戦闘機からの一斉攻撃を受けて赤々と燃える海ホタルを見届けると、
藤本は再び人工島へと機体を向けた。
人工島の中心には、巨大な換気塔が立ち上がっている。
闇の中に浮ぶ島へと視線を向けた藤本は、
塔の上部からなにかが溢れ出しているのに気が付いた。
薄闇の中を蠢きながら増殖していく無数の影が塔を覆い尽くし、
瞬く間に人工島から海へと広がっていく。
「やばいぞっ! あいつら海を渡る気だっ!」
トンネルへと続く塔から、膨大な数の妖獣が湧き出していた。
そのうちのいくつかの影が宙へ飛び出し、
凄まじいスピードで塔を中心に飛翔を始める。
闇のなかを飛び回る異形の生き物に守られるように、
とめどなく現れる妖獣が波を立てて海上を進み、陸地目指して動きはじめていた。
「武器とかないんですか!」
「民間の輸送用だぞっ!
それに武器があってもどうにかなる数かよっ!」
座席の後ろに捕まりながら言った新垣に答えつつ、
藤本はレバーを倒して機体を人工島から遠ざける。
近くにいるヘリと攻撃機は、
海ホタルへの攻撃に全弾撃ちつくしているはずだった。
これから基地に帰って武器を補充している時間はないし、
増援を呼ぶにしてもその間に、妖獣は陸地へと到達してしまう。
とりあえず安全な距離まで離れようと、藤本はスロットルに手をかけた。
「小春ちゃん!」
「はいっ!」
回避を始めて傾いた機体の中で怒鳴った紺野に答え、
後部に座っている久住が立ち上がる。
紺野は久住の身体に手早くベルトを通して、その先端のフックを機体につなげた。
後部の扉を開けた紺野を押しのけるように、
久住がベルトに預けた身体を機体の外へと向けながら両手を伸ばす。
次の瞬間、機内が真昼のような光に満たされた。
- 243 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:50
- 機体の周囲に現れた輝く雷球が強い光を放ちながら、その数を増やす。
無数の雷球を纏ったヘリが、暗い夜空を背景に浮かび上がった。
その途端、でたらめに飛び回っていた生き物が光に群がる虫のように、
一斉にヘリに向って方向を変える。
「こっちに来るっ!」
紺野は時間を稼ごうととでも思ったのだろうが、
久住一人の能力では足止めにもならない。
かなりの数になっているとはいっても、
ヘリの周囲にある雷球の数は向ってくる生き物の数には及ばなかった。
さらに悪いことに、人工島から離れようにも周囲にある雷球が邪魔をして、
藤本の乗ったヘリはこの場を動くことができない。
絶望的な状況のなかで打開策を考え、藤本は手の中のレバーを強く握った。
「任せてくださいっ!」
突然声を上げた嗣永が、手を伸ばして久住の肩に触れた。
次の瞬間、宙に浮んでいた雷球が爆発的な勢いで分裂を始める。
手で触れた他人の能力を一時的に向上させる嗣永の能力“強化”。
まだ眠っている潜在能力を本人の意思とは関係なく限界まで引き出し、
さらにその力を倍加させる。
その効果は絶大だった。
雷球は止まるところ知らずに増え続け、
ヘリの周囲どころか空のすべてを埋め尽くす。
- 244 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:51
- 凄まじいスピードでヘリに向っていた生き物が、一斉に雷球の群れに飛び込む。
一直線に向って来る生き物の翼に雷球が触れた瞬間、
一瞬の火花と共に激しい光芒が瞬いた。
片翼が爆ぜ、バランスを失った生き物が螺旋を描きながら墜落する。
それを合図にしたかのように視界一杯に広がった雷球から一斉に紫電が疾り、
夜空を眩い輝きで染めた。
次々と雷撃を受けて墜ちていく生き物を追うように、
数千の光の矢が天上から射かけられる。
無数の雷が豪雨のように降り注ぎ、海面が沸き立つように激しく泡立った。
激しい明滅の中で海を渡ろうとしていた妖獣が雷音を伴奏に踊り狂う。
「あちっ!」
声を上げた藤本の目の前のパネルから火花が散った。
周囲を囲んだ雷球から放たれる電撃のいくつかが、ヘリを直撃している。
断続的な衝撃と共に、白光のなかで狂ったように警報が鳴り響いた。
「さゆっ!」
焦ったような紺野の声と同時に、機内を道重の能力が満たす。
久住と嗣永の能力が一瞬で遮断され、
空を覆っていた雷球がスイッチを切ったように一斉に消えた。
- 245 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:51
- 激しい光も爆発音も消え、夜空が元の平穏を取り戻す。
警報を止めた藤本が下を見るとさっきまでの狂騒が嘘のように、
海の上を撫でていく静かな波が見えた。
「うわぁ……」
コントロールを取り戻して機体を陸地に向けながら、藤本は呟いた。
眼下の人工島を埋め尽くしていた妖獣も、海を渡ろうとする妖獣もいない。
後に残っているのは黒い海の波間に漂っている、無数の妖獣の死体だけだった。
「いいコンビじゃんっ!」
そう言って振り向いた藤本は、後ろにいる三人に向って親指を立てる。
道重と久住と嗣永はお互いの顔を見ながら、複雑な表情で笑った。
- 246 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:51
- ――――
飯田に言った言葉とは裏腹に、
鋭いナイフのような敗北感が意識の内側に滑り込んでくる。
壁に背を預けて座り込んでいる吉澤は、崩れていく結界機関を眺めながら
自分のなかに大きな喪失感があるのを感じていた。
吉澤は自分の行ってきた行為の意味を考える。
四年前のあのとき、仲間だった市井を殺してまで安倍を助け出した。
そうして助けた安倍を、傷が回復するまで誰にも言わずに匿うことにしたのだ。
だが意識を取り戻した安倍は、まったく違う存在になっていた。
喜びも哀しみも苦悩もなにもない、
ただ生きるために息をして栄養を取るだけの生き物。
吉澤が惹かれた人間らしさは、どこにも残っていなかった。
そして残された吉澤にはそんな安倍を受け入れることが、できなかった。
安倍の意志を継ぐなど、ただのいい訳だった。
どんなに大切な人間でも、死んでしまえばなにも残らない。
この世に存在するのは、残された人間だ。
安倍を受け入れる代わりに、空席になった代行者に収まった。
その立場を利用して安倍を陥れたつんくと、
安倍をそんな存在に貶めた飯田に復讐を誓った。
周囲には笑顔を振りまきながら組織の求める結果を出し、
その裏で集めた情報を使って自分の望む結末に向わせる。
それはただ、自分を納得させるためだった。
- 247 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:52
- 飯田は安倍を助けられなかったことを、悔いていた。
親友を殺した自分にも、誰かを助けることができる。
辻を助けることで、それを証明できると信じたかったのだろう。
だがそれは、埋めることのできない喪失感を誤魔化すための置換に過ぎない。
満たされない心を埋めようとする原始的な対処法。
決して埋めることができないと分かっていながらもそれをせずにはおけない、
人の心の防衛反応。
そしてそれは、吉澤自身も同じだった。
仲間を裏切り、すべてを捨ててようやく手に入れることができたのは、
不完全で部分的な勝利だった。
それも手に入れたと思った瞬間に消えてしまう、嘘で固められた勝利。
吉澤は苦いものを噛み殺すように、笑った。
「……よっしいっ!」
落ちてくる瓦礫の音に紛れて聞こえてきた聞き覚えのある声に、顔を上げる。
幻聴かと思ったがそうではなかった。
吉澤は近づいてくる人影を見て、
垂直に伸びる足場のないシャフトを降りられる存在が
もう一人いたことを思い出した。
- 248 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:52
- 絶え間なく降り注ぐ瓦礫の間を巧みに避けながら吉澤の前に立った石川が、
肩で息をしながら吉澤を見下ろす。
「……ほんとにバカなんだからっ!」
怒鳴った石川から視線を逸らし、吉澤は飯田の降りたハッチの方向を見た。
ハッチのあった場所はすでに瓦礫に埋まり、逃げ道はなくなっている。
この空間全体が崩れるのも時間の問題だった。
「そんなこと言わないでよ。バカなのはお互いさまでしょ?
こんなとこに来るなんて……」
視線を戻して呆れながら言った言葉の途中で石川の手が伸び、片手で胸倉を掴む。
引っ張り上げられた吉澤の額に、石川は自分の額をぶつけた。
「何年一緒にいたと思ってるの!
こんなこと起こす前になんで私に相談しないのっ!」
間近にある石川の吊り上がった視線から逃れるように、
吉澤は手を振り解いた。
「……梨華ちゃんに話しても、分かってもらえないことなんだよ」
「そんなの言ってみないと分からないでしょっ!
勝手に他人のこと分かった気になって一人でこんなこと起こして。
よっしいが死んだら、残った私はどうすればいいのよっ!」
激しい口調とは反対に揺れている石川の瞳を見て、吉澤は目を逸らした。
自分が起こそうとしているくだらない復讐劇に巻き込まれないようにと、
あのとき石川を突き放した。
だがそれは、結果的に安倍を失ったときに自分が感じた喪失感を
石川に与えてしまうことになったのだろう。
自分ひとりが死ぬつもりだったが、
予想外の結末を迎えることになりそうだった。
それとも、と吉澤は俯きながら自問する。
こうなることが本当に分からなかったのだろうか、
石川が来てくれることを、心のどこかで期待していたのではないのかと。
「……私って、そんなに頼りにならないの?」
吉澤は黙ったまま、悲しげに呟いた石川の声を聞いた。
- 249 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:53
- 崩壊の勢いが増し、天井から土砂と海水が振り注いでくる。
目を細めて周りを見渡していた石川は視線を戻すと、
吉澤の手を取って歩き出した。
「もういいや。話はあとでたっぷり聞かせてもらうから、
もう少し静かな場所に行こう」
「無理だよ。逃げ道なんて残ってない」
出口へと向う石川の背中に言うのと同時に、
天井から巨大なコンクリートの塊が落下して扉を塞いだ。
手を離した石川は吉澤の言葉には答えずに、一人で扉へ近づいていく。
大きく息を吸い込み、腰に構えた拳を扉を塞いでいる巨大な岩に叩きつけた。
その強烈な一撃に、扉を塞いでいた岩が粉々に砕け散る。
「私はこんなとこで死ぬつもりなんてないのっ!」
振り返った石川は、現われた出口を背にして吉澤に右手を伸ばした。
堅牢に造られたこの部屋でさえ、すでに限界に達している。
当然地上へとつながっている唯一のエレベータシャフトも、
埋まっているはずだった。
無駄な足掻きと分かっていたが、
最後に自分を助けようとする石川に従うのも悪くない。
吉澤は自分に差し出されたその手を掴むために、微笑を浮かべて歩き出した。
- 250 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:53
- ――――
水はそれほど冷たく感じない。
飯田はただ暗いだけの暗黒のなかに、漂っていた。
しばらく前に、大きな衝撃と共に海底の一部が崩落した。
結界機関の部屋が押し潰されたのだろうとは理解できたが、
海中にいた飯田にはそれどころではなかった。
崩落で生じた凄まじい水流に巻き込まれて上下の感覚を失い、
舞い上がった海底の泥が視界を奪っている。
海面に近いところにいる気もするが、
もしかしたら海底に横たわっているのかもしれない。
水流は弱まっていたが、濁った海水のなかでは自分の位置が把握できなかった。
飯田は濁りのある水のなかで、海面へ出ようとする無駄な努力は放棄した。
いかに優れた身体能力を持っているとはいえ、
酸素のない場所での長時間の生命維持は不可能だ。
一度舞い上がった濁りが収まる気配はないが、
それでも最後の望みを残すことにした。
今回の行動が安倍が死んだとされた四年前から始まっていたとしたら、
吉澤にとって長い、復讐だったのだろう。
そしてその動機はただ漠然と戦ってきた飯田よりも、明確だったはずだ。
吉澤が話した言葉のなかには自分が感じていたものと同じ、
安倍への憧憬が感じられた。
憧れていた安倍を陥れたつんくと、殺害した飯田に対する復讐。
やってきたことは許せないとしても、飯田にはその心情は理解できる。
- 251 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:53
- 飯田は自分が同じ立場だったならどうだったのだろうと思わずには、
いられなかった。
安倍を奪った存在に、復讐したいとは思わなかっただろうか。
苦悩しながら戦い続けてきた安倍の願いを叶えたいとは、思わなかっただろうか。
もしも吉澤と同じ状況のなかに置かれたとして、
それでも自分が吉澤とは違う選択肢を選ぶことができたとは、
飯田には思えなかった。
四年前のあのときまでは、二人とも思いは同じだったはずだ。
違ったのは、安倍に対するほんの少しの立ち位置の違い。
そのほんの少しの違いが、二人の運命を大きく変えた。
緩やかな流れのなかに身を任せて、飯田は目を閉じる。
胸苦しさが増してきた。
身体のなかでなにかが膨れ上がり、外へと飛び出そうとする。
ダメだと分かっていながら、飯田は息を吐き出したい衝動に駆られた。
仮に助かったとしても、自分はどうすればいいのだろうか。
吉澤が言ったように辻を助け、その成長を見守る。
そして自分は成長した辻を見るたびに
かつてそのなかに存在していたもう一人の存在を、思い出すだろう。
そう考えると、なにもかも投げ出してしまいたくなる。
それでも、いつか終りが来るだろう。
それが今だとしても、そうではなかったとしても、
いつか来るそのときまで、生きることを諦めるわけにはいかない。
目を開けた飯田は濁った水のなかに揺れる小さな光を見つけ、息を吐く。
最後の力を振り絞って、水を掻き始めた。
- 252 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:54
- 海面に出た飯田は口を開けて、新鮮な空気を吸い込む。
何度も深呼吸を繰り返してようやく落ち着いた飯田は、
自分の顔を照らしている光に気が付いた。
空は白く夜が明けかけていたが、それよりも炎の色のほうが強い。
近くの海上に浮んでいる海ホタルが巨大なかがり火のように、炎上していた。
その炎に群がるように、複数のヘリが上空を旋回しているのが見える。
海ホタルの炎上が結界機関の崩壊によるものか、
それともHPによる攻撃のためなのかは判断はつかない。
どちらにしても、新垣たちは勝ったのだろう。
もしも後藤が生き残ってあの場を守っていたとすれば、
海ホタルが炎上するのを黙って見ていることはない。
目を閉じた飯田は、力を抜いて波間に漂った。
吉澤の目的がHPの壊滅ではなく現状の維持だとすれば、
本部からの情報の遮断もいずれ回復する。
そして結界機関が破壊され“通路”の発生も止まっているはず。
残っているのは“通路”から現われた妖獣の掃討だったが、
それはHPに任せることにした。
とりあえず、病院にいる辻に会いに行こう。
色々と問題はあるだろうがそんなものは適当に終わらせて、
二人で静かに暮らせる場所を見つけよう。
成長した辻が自分の手を必要としなくなるそのときまで、一緒に生きていく。
そうすることでようやく、戦うことができそうだった。
死んでしまった安倍のためにではなく、生き残った自分のために。
ふいに閉じた目蓋の裏に光を感じて、飯田はゆっくりと目を開ける。
遥か遠くから届いたひとすじの光が斜めに夜を、切り裂いた。
太陽の光が、視界のすべてを白く染め上げる。
世界を覆っていた闇が去り、別の時間が始まろうとしていた。
- 253 名前:But Not For Me 投稿日:2007/07/20(金) 13:54
- ――――
- 254 名前:カシリ 投稿日:2007/07/20(金) 13:55
- 以上で第11話終了です。
次回で最終話になります。
- 255 名前:カシリ 投稿日:2007/07/20(金) 13:55
- >>224 名無飼育さん 様
こんな勝手を認めてはいけません。
>>225 名無飼育さん 様
私も楽しみにしていたんですけど……
>>226 愛毒者 様
そう読むのが普通ですよね……
とりあえず、石川もようやく会うことができました。
>>230 名無飼育さん 様
こんな感じになりました。
ということで……
>>228 愛毒者 様
>>229 名無飼育さん 様
ネタバレもなにも単純に説明不足なだけで、
曖昧にする必要がまったくないところでした。
完全に私のミスです。すいませんでした。
- 256 名前:愛毒者 投稿日:2007/07/27(金) 20:44
- 思わぬ事実にかおりんは困惑、迷走気味ですね。
よっすぃーの思惑がついに明らかになりましたけど
なんとも遣る瀬無い。
でも、こういう時の理屈を超えた強引な梨華ちゃんは
よっすぃーにとって最後の救いとなる拠り所なのかも…と、思います。
いよいよ次回で最終話になるんですね。
この壮大な物語の最終回がどのように結実するのか、
非常に楽しみでもあり、終わって欲しくないという
矛盾する気持ちで一杯です。
- 257 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:03
- ――――
湖畔に作られた休憩所には一本の柱があり、
傘を広げたキノコのような萱葺き風の屋根を支えていた。
夕焼けに照らされて赤く色の付いた屋根の下には、
背もたれのない木製のベンチが二つ並行に置かれている。
その場所に飯田は一人、座っていた。
視線を向けている風の凪いだ湖水の上には、刻々と夕闇が迫っている。
鏡のように澄み切った水が緑の木々の陰を映し、その間を魚が悠々と泳いでいた。
赤く輝く水面をジッと見つめたまま、飯田は動かない。
山の端に隠れようとする太陽の光りが僅かに俯いたその顔を、
うっすらと赤く染めていた。
- 258 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:04
- 凍える鉄槌 -fourth season-
エピローグ
- 259 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:04
- ――――
広い駐車場の周りには、鮮やかな緑の森が広がっていた。
その森を囲むように、遠くにある山の稜線が青い空の下に続いている。
窓際に置いた椅子に座り、飯田はぼんやりと窓から見える景色を眺めていた。
すでに陽は上がり、気温は夏の陽気に相応しいものになっている。
駐車場の端の方に作った物干し台には、大量の洗濯物が並んでいた。
吹き抜ける熱く乾燥した風に洗濯物がひるがえり、
いつ取り込んでもいいぐらいに乾いている。
「……こんなところにいたんですかっ!」
その声に飯田が顔を向けると、
部屋の入り口で腰に手を当てた辻が頬を膨らませて仁王立ちしていた。
マグカップに両手の平を押し付けて淹れたばかりの熱いコーヒーを啜りながら、
飯田は笑顔を見せる。
「おはよう」
「もうすぐお昼ですよ、おはようじゃありません!」
成長を始めた辻は急速に変わっていった。
舌足らずだった口調も直り、髪を下ろしたその顔は年相応に大人びて見える。
サラサラと音がしそうな髪を手でかき上げ、口を尖らせた。
「もう藤本さんたち来てるんですよ?」
「知ってるけど別に圭織が行くわけじゃないし……」
辻は言葉の途中で飯田の手からマグカップを取り上げると、
強引に手を取って歩き出した。
事件のあと、飯田は意識を取り戻した辻を再び引き取った。
そして四年前で止まっていた辻の記憶のなかに、飯田の名前はなかった。
再び一からやり直す辻との生活はそれなりに忙しく、
それまでの殺伐とした生活を忘れるには都合がよかった。
無理やり引っ張られて部屋の外に連れ出されながら、飯田は苦笑する。
性格は多少変わったかもしれないが、それはやはり辻だった。
- 260 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:05
- 見事な緑の山並みが囲んでいる駐車場で、飯田は最後の荷物を車に積み込んだ。
昼前だというのに照りつける眼も眩むような炎天のもとで車のドアを閉じると、
一息つきながら上を見上げる。
頭上で輝く太陽は夏に相応しい強い陽射しを容赦なく、放っていた。
青い空の高く遠いところで、鳥が太陽の周りを旋回するように飛んでいた。
飯田は空の青に溶け込んでしまいそうなほど小さなそれを、目を細めて眺める。
「遊びにでも行くつもりなんだから……」
呆れたような声に視線を下げると、
車に寄りかかりながら腕を組んだ藤本が眉を寄せていた。
藤本の視線の先では少し離れた場所にいる松浦と辻が、
楽しそうに言葉を交わしている。
二人を見ていた飯田は小さく笑うと、目の前にいる藤本に視線を向けた。
「どこ行くんだっけ?」
「とりあえずアラスカ。あそこは人の入ってない場所が多いからね」
未発見の動植物のなかには、
難病の治療や感染症用の抗体を提供する物が存在する。
それらを発見できれば、製薬会社に途方もない金額で売却することができた。
違法な商売を辞めさせたがっていた松浦からの提案を
受け入れることにした藤本だったが、さすがにその方面の知識はない。
専門的な知識を持った人間が必要だった。
「松浦に泣かれた?」
「そろそろ潮時かと思ってたし、ちょうど良かったよ」
藤本はそう言って照れたように笑った。
もともと持っていた記憶なのか、それとも秘薬の名残なのか、
辻の頭のなかには、断片的に薬草の知識が残っていた。
そのことを知った藤本が、次の仕事に一緒に行かないかと辻を誘った。
HPとは関係ない仕事に就けたいと考えていた飯田に、それを拒む理由はない。
飯田を残して出て行くことを本人は悩んでいたようだったが、
最終的には藤本と共に行くことになった。
そして成長した辻は自分で選んだ新しい暮らしを始め、
飯田はこの場所に一人で残ることにした。
- 261 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:05
- 途切れた会話に、藤本が腕時計に眼を落とした。
「そろそろ時間だね……亜弥ちゃ〜ん!」
自分を呼ぶ藤本の声に気がついた松浦が振り返り、手を振って応える。
飯田は松浦に向って手を振っている藤本の背中越しに、
近づいてくる二人を眺めていた。
「辻のこと、よろしくね」
「頼りにしてんのはこっちの方だよ。
まあ新種でも見つけたら飯田さんの名前でも付けてあげるから」
振り返った藤本はそう言って笑いかけると、運転席へと向った。
辻はそのまま車に向う松浦から離れると、
ゆっくりとした足取りで飯田の前に立った。
「それじゃあ私も行きますけど、
ちゃんとご飯食べて掃除して洗濯もして下さいよ。
ほっとくと飯田さんなんにもしないんだから……」
「大丈夫だよ。子供じゃないんだから」
苦笑しながら言った飯田の言葉に、辻は一瞬だけ淋しそうな表情を見せた。
短い沈黙のなかで、二人が見つめ合う。
ふいに、飯田は神妙な顔で見つめている辻に笑いかけると右手を差し出した。
「いままでありがとう」
首を傾げて不思議そうに差し出された手を見ていた辻が
顔を上げて小さく微笑みながら、飯田の手を握る。
「こちらこそ、お世話になりました」
「頑張ってね」
飯田は短く言葉を交わしながら、辻の手を強く握った。
- 262 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:05
- 車が発進し、駐車場を出て県道へと続く小道を曲がる。
窓から身を乗り出して手を振っていた辻の姿が見えなくなると、
飯田は静かに手を下ろした。
遠ざかっていく車のエンジン音が、
次第に森から聞こえてくる蝉時雨のなかに消えていく。
一人残った飯田はその場から動かずに、車が消えた道路の先を見つめていた。
- 263 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:05
- ――――
太陽は高く輝いていた。
辺りには大気の中に漂う濃い緑の匂いが、満ちている。
人気のない駐車場の端に立てられたパラソルの下で、
飯田は空を流れる白い雲に目を向けていた。
真上に昇った太陽がジリジリとパラソルの影から出ている肌を灼いているが、
それでも、ときおり吹く爽風が身体を撫でて通る。
緑の匂いを含んだ風の感触を楽しみながら、
後藤の残していったロッキングチェアを揺らしていた。
事件から半年、HPに所属するすべての人間が後処理に没頭している。
海ホタルとその周辺で起きた事件の隠蔽と、
吉澤の残したリストに記された人物の捜索に躍起になっていた。
かつてないほどの規模で行われた反対派の攻勢を受けたHPの
騒然とした雰囲気のなかで、その他の事柄は些細な問題だと無視されている。
たとえば、飯田の処遇もそのなかのひとつだった。
HP本部に侵入してつんくを殺害した飯田だったが、
いまは身柄の拘束を兼ねて、遺物保管所の管理を行っている。
当然、地下にある石棺に立ち入ることは許可されていないが、
やってきたことを考えれば、寛大な処遇といえた。
だが辻と共に保管所で過ごした短いが平和な日々が、
幻の泡の上に乗っているようなものだと、飯田は知っている。
姿を消した後藤も、そして吉澤の死体も見つかっていない。
いまのHPに後藤に抗しうる力を持っているのは飯田以外にはいないと
判断された結果が、いまの不自然な状況を作っているに過ぎない。
リストに上がった人物が処理され、吉澤の死が受け入れられる時間が経てば、
HPがやがて飯田に目を向けてくるのは、当然のことだった。
- 264 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:06
- 横に置かれた小さなテーブルの上には、届いたばかりの手紙が乗っている。
一週間に一度まとめて届けられる新聞と
思い出したように届く新垣からのその手紙だけが、
いまの飯田と外界をつないでいる唯一の物だった。
新垣はいま、以前飯田が住んでいた場所で高橋と一緒に暮らしている。
能力をコントロールできる道重に久住を預け、
いなくなった練習相手が必要というのが、その理由らしい。
相変わらず振り回されているようだが、
文面からは新垣がその状況を楽しんでいるのが分かった。
道重と一緒にいる矢口は突然預けられることになった久住と
さらに研修を終えて配属された夏焼に手を焼いているようだったが、
それでも以前と変わらず忙しく飛び回っている。
中澤は順調に回復して退院することができたが、
以前のように戦うことができなくなり、HPを離れた。
そして紺野も、中澤の後を追うようにHPを辞めた。
周りからは反対されたようだが、色々と思うところがあったのだろう。
退院した中澤と一緒に、いまは古本屋に専念している。
あの後すぐに行なわれた捜索でも、石川は見つからなかった。
結界機関のある地下に降りたところまでは記録に残っていたが、
途中で映像が途切れてしまったため吉澤に会えたのかどうかも分からない。
残された映像には、施設内を歩く亀井の姿も映っていた。
だが海ホタルに残った田中ともども、行方をくらましている。
三人が炎上する海ホタルのなかから脱出できたのかは、わからない。
いまも入ることができないでいる地下に埋まっているのかもしれないし、
混乱に乗じて無事に逃げることができたのかもかもしれない。
どちらにしても事件の直後に拘束されてそのままこの場所に送られた飯田には、
行方を捜すこともできなかったし、するつもりもなかった。
- 265 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:07
- 飯田は傍らに置かれたテーブルからペットボトルを取ると、
ぬるくなっている水を口に含んだ。
夏の太陽は容赦なく、強い陽射しを照りつけている。
遮るもののない駐車場の地面からは、ゆらゆらと熱気が立ち上っていた。
ふいに聞こえてきた音に、飯田は顔を上げた。
周りを囲む緑のなかでひと際目を引く鮮やかな赤いバイクが、
入り口のゲートを抜けて駐車場のなかへと入ってくる。
ゆっくりとした速度で近づいてくるのを、飯田は椅子に座ったまま見ていた。
駐車場のなかをゆっくりとした速度で横切ったバイクが、
飯田と少し距離を取ったところで停車する。
エンジンを切ったバイクに跨ったまま、
乗っている小柄な人物はヘルメットに隠された顔を飯田に向けていた。
スモークの張られたヘルメットのなかの顔は分からないが、
身に付けている服の上から見える身体のラインで、女だと分かる。
そして飯田をジッ見つめているそのようすに、攻撃の意志は感じられない。
無言で見つめる女に声をかけようと飯田が口を開きかけたとき、
女がバイクから降りて躊躇いもなくヘルメットを外した。
「……田中」
顔を見て呟いた飯田の声が聞こえないかのように、
ヘルメットをハンドルにかけた田中が頭を振り、髪型を整える。
「どうしたの? こんなとこに来るなんて?」
再びかけた飯田の声に田中は視線を向け、ゆっくりと歩き出した。
- 266 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:07
- 目の前に立った田中の背中越しには上空にある夏を感じさせる真っ白な雲が、
ゆっくりと動いていた。
頭上から降り注ぐ強い陽光が、田中の影を地面にくっきりと落としている。
飯田と向い合う形で足を止めた田中だったが、
なんの言葉も口にすることはなった。
黙って見詰めている田中を見ていた飯田はふと、あることに気が付いた。
椅子に座っている飯田に対して立っている田中は、
微妙に間合いを外すような位置にいる。
そのことに気が付いて肩をすくめた飯田と田中の間に、短い沈黙が訪れる。
「絵里が死にました」
唐突に口を開いた田中の言葉に、飯田は僅かに目を細めた。
亀井の死を冷静に告げた田中の表情は、
擦り切れてしまったかのように変わらない。
その無表情な姿に、辻にあった頃のかつての自分の姿が重なる。
飯田は再び訪れた重い沈黙に、田中から視線を逸らした。
「結局れいなは、絵里を支えることができなかった」
その声のなかに、飯田は諦観に似たものを感じ取った。
- 267 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:07
- 田中は姿を消してからいままで、亀井のために尽くしてきたのだろう。
それでも、亀井は命を絶った。
すでに取り返しのつかないところまで、来ていたのだろう。
飯田はゆっくりと顔を上げ、田中の顔を正面から見つめる。
なにか言った方がいいとは思ったがかける言葉は、見つからなかった。
迷っている飯田を見て、田中は僅かに微笑んで見せる。
「人を助けるって、難しいっちゃね」
その声に含まれていたのは、諦めではなかった。
絶望に近い哀しみと自嘲。
なにも言うことができずにいる飯田に向けて、田中は深々と頭を下げる。
「すいません」
そう言って頭を上げた田中の表情は、再び真剣なものに戻っていた。
突然の行動の意味を量りかねて、飯田は黙ったまま田中を見つめる。
「一緒にいるときに絵里には色々と聞きました。
たしかに吉澤さんのしたことは許されないと思います。
それでも、れいなにはもっと“力”が必要なんです」
そう言って顔を上げた田中は、固い表情を飯田に向けた。
「れいなが、吉澤さんの後を継ぎます」
真っ直ぐに向けられた田中の視線には、
強靭な意志を秘めた若々しさが感じ取れる。
迷うことのない、自分のやるべきことを見つけた田中の言葉だった。
「……そっか」
飯田は一言だけ呟くとロッキングチェアに背を預け、目を閉じた。
- 268 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:08
- 聞こえてきたエンジン音に飯田が目を開けると、
ヘルメットを被った田中が、バイクに跨っていた。
大きな排気音を轟かせたバイクが前輪を中心に九十度回転して、
テールランプを飯田に向ける。
砂塵が舞い上げて加速したバイクが駐車場を駆け抜けて、姿を消した。
吹いていた涼風はいつの間にか凪ぎ、
広大な空と大地の間にある熱い空気は、固体のように固まって動かない。
遠ざかるバイクの音が聞こえなくなると、飯田は深く息を吐いて空を見上げた。
無情なほど深い蒼空のなかに、周りの森から聞こえてくる蝉の声が消えていく。
静かで邪気のない、まるで何かの加減で時が止まってしまったような日だった。
- 269 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:08
- ――――
退場するのを惜しむようにゆっくりと沈んでいった太陽も完全に消え去り、
湖の周りには夜の静寂が満ちていた。
水晶のように澄み切った夜空には、白い月が煌々と輝いている。
身体の中にまで夜風が拭いていくような荒涼とした静けさが、
飯田の周りを取り巻いていた。
HPは変わらずに存続し、戦いは終わらない。
巨大な力を持ったHPが誤った情報や分析に基づいて無謀な行動を起こせば、
理想の未来にたどり着く前に世界が灰燼に帰すという結果を招くだろう。
そして吉澤の話していた隠された組織が、それを監視する。
結局、なにも変わってはいない。
安倍が望んでいた未来は、まだ遠い。
そして人類との共存という目標を拒んでいる最大の理由は、
人の持つ攻撃性、力への渇望だ。
人類が他の生物を凌駕して繁栄した理由。
その生命を脅かす存在に対する強固な抵抗。
それがどのような存在だったとしても、たとえ自然が相手だとしても
決して挫けないで挑戦し続けるその攻撃性が、人類を万物の霊長に押し上げた。
そして海や空を征服し、宇宙までその手を伸ばしていく。
自滅に向かいかねないほどの強烈な種としての特性ではあるが、
それは怒りや憎悪といった負の感情だけが持つ力ではない。
大切な想いを証明するために、誰かを救うために。
辻や田中が欲したように、それは善悪を超えたところにある純粋な衝動だ。
種としての人類に備わっているその衝動を理性で抑え相互に理解し合えれば、
互いに歩み寄れる余地もあるはずだが、それはまだ遠い未来の話。
世界はまだ、混沌の中にあった。
- 270 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:08
- 緑の香りを含んだ夏の風が静かな湖面の上を通り、飯田の髪を揺らした。
風に揺れた水面に、月光の筋が映り込む。
ベンチに座ったまま揺れる光を見ていた飯田が、ふいに顔を上げた。
聞こえてきたのは、砂利を踏む微かな足音。
背後にある湖へと続く坂道を、誰かが歩いてくる音だった。
飯田は一つ息を吐いて、座ったまま身体を後ろに向けた。
上空から降り注いでいる月光は両側に鬱蒼と生い茂る木々に遮られ、
坂道は昏く闇の中に沈んでいた。
坂の途中で足を止めた人影は、黒いシルエットになっている。
人影は首をめぐらして周りを見ていたが、
飯田の視線に気が付いたのか再び歩き始めた。
歩いてくる人影に合わせて、左の袖が左右に揺れている。
ゆっくりと坂を下りきった人影は月の光の下で、足を止めた。
「変わってないねぇ……」
周囲の風景を懐かしむように眼を細めると、後藤はそう言って微笑んだ。
- 271 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:09
- 飯田はベンチに座ったまま、正面に立っている後藤の顔を見上げる。
「ほんとはもうすこし早く来るつもりだったんだけど、
これに慣れるのに思ったより時間がかかってさ」
そう言って、後藤は自分の左腕に視線を落とした。
飯田は後藤が着ている長袖のシャツに、視線を向ける。
向けられた視線に気が付いた後藤は照れたように笑いながら、
再び飯田に顔を向けた。
「それに、二人だけの方がなにかと都合がいいし、
ちょうど良かったでしょ?」
「まあ……そうだね」
苦笑しながらそう言って、飯田は小さく頷く。
「それで、なんでいまさらなの?」
「それがさ〜」
溜め息と共にそう言って、後藤は肩をすくめた。
「安売りはしたくないんだけど、
片腕のせいで後藤の力が信用されないんだよね。
こんどの主候補から、反対に条件出されちゃったよ」
「条件って、なに?」
そう尋ねた飯田の言葉を聞いて、後藤の口元が綻ぶ。
「……なんだと思う?」
出した声は優しいものだったが、後藤の言葉のなかに怖いものがこもった。
- 272 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:09
- 頭上を覆う満天の星空も周囲で鳴く虫の音もまるで別世界の出来事のように、
二人は瞬きもせずに見詰め合う。
浮かべていた微笑を消し、後藤は目を細めた。
その瞳の奥に、いままでとは違う光が宿る。
「あれから、飲んでないんだね」
探るように見ている後藤の内部で生じたなにかが、その質量を増していく。
それでも、飯田が眼を逸らすことはなかった。
「ちょうどいいハンデじゃないかな?」
「……言ってくれるねぇ〜!」
嬉々とした声で答えた後藤が再び笑顔になるのを見て、飯田も微笑を浮かべる。
久しぶりに会った友人との会話を楽しんでいるかのように互いに微笑みながら、
どちらも相手の目から視線を逸らすことはなかった。
音もなく立ち上がった飯田は僅かに立ち位置を変えた後藤と、
月明かりの下で対峙する。
「カオリが本調子じゃないんなら、もう少し待ってあげてもいいんだよ?」
「そんな必要はない。圭織はもう血の力に頼ることはない」
答えを聞いた後藤の視線が、変わった。
飯田に向けた瞳のなかで隠れていたなにかが、ゆっくりと解き放たれる。
「このときを待ってたよ……」
うっとりとした表情を浮かべた後藤はそう言って、唇を舐めた。
- 273 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:09
- 飯田は狂喜に彩られた瞳を見返しながら、僅かに目を細めた。
いまの自分の実力は、正確に把握している。
片腕は、ハンデにならないだろう。
実力の差を理解しながらも、飯田は後藤との間合いを静かに詰めた。
応じるように後藤も歩き出し、二人の距離が縮んでいく。
「……後藤だけじゃない」
ふいに口元を上げると、飯田はそう言って足を止めた。
だが微笑みを浮かべた後藤に、飯田の言葉は届いていない。
このまますんなりと始まってしまうのが勿体無いとでもいうように、
後藤はほんの僅かづつ、距離を縮めた。
「圭織もね、待ってるんだよ」
戦うことが安倍を殺し、辻を救うことができなかった自分の罪を
償うことになるとは思ってはいなかった。
それでも、何も変えることができなかった自分の無力さに絶望して
すべてを投げ出しては、受け入れることなどできない。
戦い続けることでいずれこの身に訪れる、罰という名の鉄槌を。
- 274 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:10
- 足を止めて向かい合う二人の周囲を、静寂が包んでいた。
飯田一人のときとは違う種類の静けさ。
鋼のように強い緊張が、
二人の間に満ちる空気を瞬く間に硬質なものへと変化させた。
「それじゃあ、始めちゃってもいいのかな?」
「もう……始まってるよ」
焦れたように言った後藤の言葉に、表情を消した飯田が応える。
破顔した後藤が細く、息を吐いた。
飯田は、口元に笑みを残して目を細めた後藤と見詰め合う。
どちらが先、ということもなかった。
向い合った瞬間にすでに始まっていたかのように、二人が同時に動き出す。
残っていた距離を一瞬で消し去り、輝く月光の下で二人の身体が交差した。
- 275 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:10
- ――――
- 276 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:11
- 以上で終了です。
最初の予定では一年で終わるはずが、
これほど長くなるとは思ってもいませんでした。
途中で何度か止めようと思ったこともありましたが、
何とか最終回までこぎつけることができました。
レスを頂けなければ、とても続かなかっただろうと思います。
長い間お付き合い頂いて、ありがとうございました。
- 277 名前:エピローグ 投稿日:2007/07/29(日) 21:11
- >>256 愛毒者 様
なにも終わっていませんが、とりあえずこれで終了です。
毎回頂くレスがとても励みになりました。
本当にありがとうございました。
- 278 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/30(月) 07:31
- そうですか、絵里は………
でもこれからもれいなだけじゃなく、みんなは未来に向かって進んでいくのですね。
途中から読ませてもらいましたが、追いついた時は更新が楽しみでしょうがありませんでした。
出来ればまた、お会い出来る事を願っています。
- 279 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/01(水) 23:27
- 脱稿お疲れ様でした!
濃く深い話にどっぷり嵌らせていただきまして、お礼の言葉もありません
後藤さんの狂気に走った行動が大好物でした
- 280 名前:愛毒者 投稿日:2007/08/05(日) 20:47
- カシリさん、『凍える鉄槌』完結ご苦労様でした!!
第二章辺りからでしたでしょうか、レスをつけさせて頂いてましたが
本当にこの作品とカシリさんに出会えて幸せです。
私の拙いレスが少しでもカシリさんの励みになっていたと嬉しいお言葉を頂きましたが、
私自身とても楽しませていただいたので恐縮するばかりです。
個人的にひいきにしている愛ちゃんや梨華ちゃんをはじめ、多くの登場人物が
とても魅力的で、読んでいてとてもわくわくさせられました。
今後、『凍える鉄槌』のサイドストーリー的な物語を書いてくださるか
また新たな作品を手がけられるかと、カシリさんのいちファンとしては
早くも次の展開を期待しています♪
ありがとうございました!
- 281 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/08(水) 14:06
- お疲れ様でしたぁ!
すごい面白かったです♪^^
私は愛ちゃんとガキさんのやり取りがすごい好きでした♪
また何か書いて欲しいです!
お願いします!!(>_<)
- 282 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/06(日) 08:54
- 自分的に2007年の読んだ物の中で一番わくわくドキドキした作品です。
題の意味を知った時はぞくぞくしました。
たまに最後を思い出して読んだ時の感じを呼び起こしています。
素敵な時間ありがとうございました。
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