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誕生花はイチイの花

1 名前:イチイ 投稿日:2001年04月15日(日)20時42分04秒
はじめまして。

自分では、いちごま小説のつもりで書いていきます。
一応言っておきますが、元ネタは存在します。
更新はかなり遅い感じになると思いますが、読んで頂けたら嬉しいです。
2 名前:イチイ 投稿日:2001年04月15日(日)20時47分03秒
私が半日がかりで書き上げた文章を読み終えると、真希は笑い声を上げた。
嫌な笑い方だった。私の堅固な自尊心にも欠陥があったらしく、その笑い声でいとも簡単
に崩れ去った。
「市井ちゃんらしいね」真希は紙片を机の上に置き、笑いのこびりついた頬を私に向けた。
「こんな悪趣味っぽいところが市井ちゃんらしいよ」
私は机に足を上げて、水割りを飲んでいた。夕暮れ時のことだった。窓の外に目をやると、
夕闇が光を盗み取り、辺りを闇へと導いていた。
私は視線を戻し、そんな真希の皮肉ったような口調を真似て、
「4時間だよ」と私は飲んでいるウイスキーを片手に言った。「正確には4時間と12分だ」
「何、それ?」
「真希に笑われるためにかかった時間だよ」
「ゴメン、市井ちゃん、怒ったの?」
「いや、怒ってないよ」私は笑ってみせた。「これから怒るんだ」
3 名前:イチイ 投稿日:2001年04月15日(日)20時52分44秒
『身代金目当ての誘拐は何も幼い子供に限ったわけじゃない。今まさに青春を謳歌して
 いる女性の場合もむろんある。あくまでもこちら側の都合というわけだ。お宅の娘を
 誘拐した』

こんな書き出しで、私は脅迫状を始めていた。

『日本は不景気でも愛はインフレーションなんて歌詞があるけれども、日本はそんなに
 不景気で苦しいほど病んじゃいないよ。むしろ病んでいるのは愛の方さ。癌みたいに
 病んでいる。悲しいねぇ。悲しいから、私はこんなことをしたんだ。お宅らの貯金が
 5千万もあるとは思わないさ。苦労して、お宅らにどこかから集めて来てもらいたい
 んだよ。お宅らの努力する姿勢が見たいんだ。24時間やるよ。それまでに5千万を
 用意してもらいたい。警察に言うなとは言わないが、言えば、本当にお宅らの娘に対
 する愛は病んでしまう。死体を抱くはめになる。お宅の娘だという証拠を入れておい
 たよ。見れば、すぐに分かる。お宅らには特に馴染みの物さ』

確かに脅迫状としては長過ぎたし、趣味の悪い比喩も幾分目についた。この種の文章は
単純明快が基本なのかもしれないが、私としては、できるだけ自分の色を出したつもり
だった。あまり上品とは言い難いが、脅迫状とはそういうものだ、と私は思った。
4 名前:イチイ 投稿日:2001年04月15日(日)20時55分05秒
「馴染みの物って何なの?」と真希は私に訊いた。「靴やバック、何かそんな物?」
「下着だよ。悪趣味に徹しようと思ってね」
と言いながら、私は吸いかけのマルボロをゆっくり揉み消した。
真希は表情を変えずに口許だけで笑った。そして私の目に視線を止めて訊いた。
「下着だけで誰だかわかるの?」
「親、特に母親というものは、毎日洗濯するだろう。娘の所有物は、本人が親に黙って
 買った物とかあったりして分からない物があったとしても、下着は洗濯の際に、必ず
 分かってしまう。だからだよ」
「本人が洗濯してる場合は?」
「……まあ、彼女の性格から家事の事はすべて親任せだろう」
「あ─、市井ちゃん、焦ってる。カワイイ」
「と、とにかくだ。このまま、この計画どうりにやっていくよ」
「ねぇ、念のために、服も入れておいた方がいいと思うんだけど」
「君もしつこいね。じゃあ訊くけど、何を入れるんだい?スカートか?」
「全部だよ。どうせ悪趣味に徹する気なら、今、自分の娘が裸になっていると思わせれ
 ばいいじゃん」
「真希の趣味もそうとう悪いね」
「他の性格のことは分からないけど、この性格だけは後天的なものだよ。市井ちゃんと
 同棲して以来、すっかり染みついちゃった」
真希はひっそりと笑いながら私のタンブラーにウイスキーを注ぎ足した。
「いつ、これを郵送するの?」
「こんな格言を知っているかい?」私はタンブラーの隅をゆっくりと嘗めた。「善行と
悪行は早ければ早い方がいい」
5 名前:イチイ 投稿日:2001年04月15日(日)20時56分32秒
その夜遅く、真希が眠ってしまうと、私はウイスキーを相手に一人ワープロを打った。
脅迫状に二、三手を加え、赤いインクリボンで印刷した。用紙についていた指紋を拭き
取ってから、封筒に入れた。終わったのは午前2時だった。何もかも眠っている時間だ。
食欲までも眠っている。起きていたのは飲欲だけだった。私はタンブラーにウイスキー
を注ぎ、犬みたいにだらしなく伸びをした。
私はタンブラーを持って書斎を出て、バスルームへ行った。この2日ほど使っていない
バスルームだ。真希の気配りでバスルームは沢山の花で飾られていた。照明をつけると、
赤、黄、橙色の、名も知らぬ無数の花が、部屋中から持ち込まれた花瓶の中や、壁や浴
槽に立てかけられ、枯れかける最後のあがきと戦っているようだった。

花の奥にはもう一つの花があった。周りの切り花と同じように、すでに切り取られ、息
はしていなかったが、花と形容できるほど美しい女性──この年齢だと、美少女という
表現を使った方が良いのだろうが──だった。細い足が花の茎のようにか細く、青白か
った。目はすでに死後硬直が始まった後で、開いたままになっている。茹で卵のように
大きな目だ。その目が私の方を見つめていた。透明な眼差しだった。私の方を見ている
というより、私を通り越して、背後の壁を見つめているように思えた。その目の横には
あるべき物がなかった。左耳は切り取られていた。切り取られていたのは耳ともう一つ、
右の手首だった。別に戯れで切り取ったわけではなかった。最後通牒のために必要な物
だった。もちろん彼女が彼女でなくなった後で切り取った物だ。彼女は痛みを感じるこ
とさえできなかった。

私はタンブラーを花の横に置き、真希に言われたのを思い出し、彼女の衣服を脱がせに
かかった。上半身の服を脱がすと、二つの乳房が顔を出した。乳房は固く、熟していな
い青いマンゴーの果実のように見えた。花の香りに包まれて、微かな死臭が漂っていた。
まるで眠っているような気分だった。眠っている時のように、私は悪夢でうなされそう
だった。
6 名前:名無しさん 投稿日:2001年04月15日(日)21時54分33秒
しゃれた会話と、ハードな内容。期待大!!
7 名前:名無しさん 投稿日:2001年04月16日(月)02時06分26秒
名作の予感…
8 名前:名無しさん 投稿日:2001年04月16日(月)04時52分07秒
久々に期待の新作に遭遇!!
9 名前:イチイ 投稿日:2001年04月16日(月)16時55分00秒
>6・7・8さん
嬉しいお言葉ありがとうございます!
次回の更新は遅くなりますが、よろしくです。
10 名前:名無しさん 投稿日:2001年04月21日(土)16時59分50秒
いちごま好きでしゅ。期待してます!
11 名前:はむハム 投稿日:2001年04月22日(日)12時44分08秒
ハードボイルドなichiiに大期待です!
gomaもいいかんじだし
作者さんのペースで頑張って下さい。
12 名前:イチイ 投稿日:2001年04月22日(日)17時32分58秒
翌日はわざわざ遠出をして小包を出しに行き、例の誘拐した娘の家へ電話をかけた。
携帯からだとすぐに身元が分かってしまうので、近くにあった電話ボックスからだった。
そして用件を言い終えて家に帰ってくると、午後一杯かかって私は庭に沢山のアサガオ
の種をまいた。人間が一人横になってやっと寝転がれる程度の広さしかない庭だったが、
庭にはむろん花があった方がいい。
「なんか、小学生の頃にやった花の観察を思い出すね」と真希が皮肉っぽく笑った。
「立派なアサガオが咲きそうだね、市井ちゃん」
「肥料は充分あるからね」私は真希の目を見つめながら、笑い声を返した。「たっぷり
ありすぎて困るほどだよ」
「何色のアサガオが咲くんだろう、楽しみだね」
「白だよ」私は素っ気ない口調で言った。花屋の店員に頼んで、白色のアサガオが咲く
ようにと、種を取り寄せてもらったのだ。「純白なウエディングドレスのような色さ」

アサガオの種をまき終わった頃にはすっかり夕暮れになっていた。家の庭のフェンスの
向こう、葡萄色の光に包まれ始めた街並みの上には熟れ過ぎたトマトみたいな太陽が、
大きく揺らめいていた。
13 名前:イチイ 投稿日:2001年04月22日(日)17時34分38秒
夕食の後、私は早めにベッドに入った。真希はリビングルームに残って、音楽を聞いて
いる。憂鬱になるからと言って、普段は滅多に聞かないバッハだった。リビングルーム
から流れて来る無伴奏のチェロソナタの響きを聞きながら、私はうとうと眠りの楽園に
半分足を入れていた。

うつらうつらとしたまどろみの中、私は右手首のない少女──バスルームの時とは違って、
この時ばかりはまさに少女らしい輝きを放っていた──と真希が二人で手をつなぎ踊って
いる夢を見た。二人の足元、数十センチほど先は断崖絶壁になっていて、その下には海が
辺り一面に広がっていた。なぜか、そこから少し離れたところに私もいた。二人は漂う
ようにステップを踏んでいる。二人の踊る姿を遠くの方から見ていると、何だか二人とも
息が合っているようで、いい感じに映った。しかし、真希は私がいることに気が付くと
踊るのを止め、何を思ったのかその少女を海へと突き落とした。
そして、真希の目から突然見慣れないものが流れ落ちた。
──血の涙。
次々にこぼれだすそれを拭おうともせず、真希は私に近づいてくる。
私は恐ろしくなり、後ろへ一歩、二歩後退した。三歩目に差しかかった時、地面が突然
崩れ落ち、足場を失った私はそのまま暗い海の中へと沈んで行った。

そして、その恐ろしい夢が私の目の裏側に貼りついていった……。
14 名前:イチイ 投稿日:2001年04月22日(日)17時36分14秒
冷や汗を掻いて目が覚めた。時計を見ると、まだ眠ってから3時間しか経っていなかった。
私はテーブルに手を伸ばして、マルボロの箱を掴んだ。毛布がずれて真希が目を覚ました。
「どうしたの?」と真希が口一杯にクッキーを頬張ったような声で訊いた。
「何でもないよ」
「目が覚めたの?」
「目が覚めていなかったら、返答していないよ」私はマルボロに火を点けた。「何だか
全てが夢のような気がして、腹が立って目が覚めたんだよ」
「そうなの?」真希はどうでもいいように答えた。
「でもね」と私は私と反対向きに寝ている真希の背中に向かって言ってみた。「本当の
ことより嘘の方が安心するんだ。嘘っぱちの世界の方が気が楽なんだよ。嘘を嘘で固め
た嘘っぱちの世界の中で私は安心して生きて行きたいんだよ」
真希は何も答えなかった。眠ったのか、眠った振りをして答えることを嫌ったのか、分
からなかった。多分どうでもいいことだったのだろう。真実だの嘘だの、そんなこと私
達にはどうでもいいことなんだ。私はマルボロを咥えながら、闇に沈んでいる天井を見
上げた。疲れているせいなのかもしれない、と私は思った。何だか気が弱くなっている。
本当のことより嘘の方が安心するなんて、自信のない人間の愚かな習性だ。
15 名前:イチイ 投稿日:2001年04月22日(日)17時38分17秒
1日を置いて、次の日の午後から私は真希と、愛車のアルファロメオ──とはいっても
ローンで買ったのだが──でドライブに出た。あてはなかった。ただ、遠ければよかった。
遠くて、電話ボックスがあればそれでよかった。
途中、海辺のドライブインで食事をし、海岸へ降りて缶ビール──もちろん、真希は
ジュースである──を飲んだ。空は青く、海も青く、そして私達の心の中もブルーだった。
真希はぼんやり目の前のさざ波を見つめていた。さざ波のラインダンス、観客は真希と
私だけだった。二人以外、この砂浜には誰もいなかった。
「ねぇ、市井ちゃん」と真希が私の方を見て訊いた。「あたしが誘拐されたら、どうする?」
「どうするって、私にどうしてもらいたいの?」
「訊いているのは、あたしだよ。あたしをどれだけ心配してくれるのか訊いているんだよ」 
「そうねぇ」と私は缶ビール一口分だけ考えてみた。「この前、真希が飾ってくれたバス
ルームの花みたいになるよ。しおれて、死んでしまう」
「本当?」
「嘘だよ」と私は笑った。「真希を見殺しにして、新鮮な恋人を捜しに街へ出ようかな」
「市井ちゃんなんかもてないよ、きっと」
「少なくとも真希にはもてたよ」
「あたしにしかもてなかったんだよ」
「嬉しいよ。真希からの愛の告白を聞いたようなもんだからね」
「市井ちゃんって、何でもいい方に解釈するんだね」
「楽天家の振りをしているんだよ。その方が間抜けと思われて、人の警戒心がなくなる」
「市井ちゃんのその間抜け振りが好きだよ」と真希はアイロニーの毒を込めて私を見た。
「私の間抜け振りが好きだと言った真希が好きだよ」私は真希のアイロニーの毒を受け
止めて、飲み込んでみた。
真希は笑い出した。透き通った空みたいな笑いだった。空虚で、捕らえどころがなかった。
16 名前:イチイ 投稿日:2001年04月22日(日)17時39分56秒
夕暮れ過ぎまで砂浜で過ごし、ビールの酔いをすっかり覚ましてから私はドライブイン
の横にある電話ボックスに入った。真希は電話ボックスの前に止めたアルファロメオの
中から私を見ていた。真希は微笑んでいた。触れれば、すぐに消えて、なくなってしま
いそうなほど淡い微笑みだった。
私は受話器にハンカチを二枚重ね、トーンを少し下げた声で喋った。昨夜、真希に聞か
せた時、男の子みたいだと言われた声だ。私はその男声で電話の相手をやんわりと脅し
つけた。
「大丈夫だよ。お宅の娘は幸せに生きているし、私も幸せだよ。このままでも私は充分
 幸せなんだが、私は欲張りなんだよ。もっと幸せになりたいんだ。5千万は用意でき
 たか?」
「ここに揃っている」
「良かったな。これでお宅らも幸せを買い戻すことができるわけだ」
私はそう言い、相手に買い戻し場所と日時、それに現金を入れる鞄の種類を指定して、
すばやく受話器を置いた。

電話ボックスの向こうではまだ真希が微笑んでいた。私は外へ出て、アルファロメオの
ドアを開け中に乗り込むと、真希の唇にキスをした。可愛らしい唇だと思った。
──このまま時が止まってしまえばいい。
そんなことを考えながら、私は真希の唇に触れた。
「市井ちゃん……」
「さあ、これからどこへ行こうか?」
「……どこでもいいよ」
「じゃあ、ベットの中で死に近づくことと反対のことを二人でやろうよ」
「死に近づくことと反対のことって何?」
「私の目を見てごらん。下心でいやらしく輝いている」
17 名前:イチイ 投稿日:2001年04月22日(日)17時43分34秒
今回はここまでにしておきます。

>10さん
ありがとうございます!
期待に添えるよう頑張りたいと思います。

>はむハムさん
ありがとうございます!
そう言ってもらえると嬉しいです。
18 名前:名無しさん 投稿日:2001年04月23日(月)01時20分48秒
スレまくりの市井とごま、新鮮すぎだ。
死に近づく事と反対の詳細あるのかな(ワクワク
19 名前:名無し読者 投稿日:2001年04月23日(月)03時00分42秒
おもしろそうなので元ネタも読んでみたいっす。
タイトルを教えてください。
20 名前:名無しさん 投稿日:2001年04月23日(月)03時23分11秒
なんか、この世界に流れる乾いた感じの雰囲気がとてもいいですね。
それにしても、後藤がバッハを聴いている姿が・・・
想像できん。(w
21 名前:はむハム 投稿日:2001年04月23日(月)08時58分04秒
にしても、右手首を失った少女が誰なのか気になる…
というより、誰でもないのかな…

今回はここまでにしておきますって事は
つづきは完成済み?超期待です!
22 名前:名無しさん 投稿日:2001年04月23日(月)09時57分17秒
右手首の子はあの子じゃないかな・・・?伏線状況だと。
アングラなカンジ、期待大ッス。ガムバテー
23 名前:イチイ 投稿日:2001年04月23日(月)16時53分35秒
>18さん
ありがとうございます!
そんなに詳しくはないですよ。

>名無し読者さん
スミマセン m(__)m
元のタイトル自体がこの作品のラストに関係しているので、
終了したら教えようかと思います。

>20さん
ありがとうございます!
多分これから色々と想像できないことがあると思います。

>はむハムさん
右手首の少女はメンバーの誰かです。
続きは途中まで出来ていますが、もうしばらくお待ちください。

>22さん
わかりましたか。
ちなみにその子と市井の関係はこの作品の中で
重要なカギになると思います。
24 名前:イチイ 投稿日:2001年04月25日(水)00時16分57秒
>23訂正
名無し読者さんへ
やっぱりタイトルを書くことにします。
「庭の薔薇の紅い花びらの下」という小説です。
面白いので、ぜひ読んでみてください。
25 名前:イチイ 投稿日:2001年05月02日(水)17時44分37秒
その日の夕暮れはいかにも都会の夕暮れといったように人で溢れていた。車道も歩道も、
そして私達の目の下、窓ガラス越しに見える喫茶店の中も人で溢れていた。喫茶店の中
の何人かは幾分特殊な人達だと想像させられた。多少目付きが悪く、礼儀を忘れかけた
人種だ。
「私の見た限りでは三人だよ」私は双眼鏡を真希に手渡しながら言った。
「どの三人?」と真希はカーテンの隙間から双眼鏡を構えた。
私達は喫茶店の正面にあるホテルの7階の部屋から下の喫茶店を観察していた。指定
時間の30分前だった。すでに電話の相手は来ていたし、指定通りの鞄も隣りの椅子
の上に乗っていた。ただ、予想外だったのは、電話の相手が違っていたことだった。
普通、自分の子が誘拐された時の取引相手というものは両親のどちらかが来るはずだろう。
しかし、そこに座っていたのは彼女の姉だった。狛犬のような表情で差し出されたコーヒー
カップをじっと見つめていた。
「ねぇ、市井ちゃん。どの三人なの?」
「……ああ、右端にいるカップルとカウンターの茶髪の男性だよ。茶髪の男性は若作り
 の格好をしているけど、30代前半って顔だな」
「どうして、この三人が警察だと分かるの?」
「消去法だよ。絶対に警察であり得ない人間を除いていくと、あの三人に絞られる」
26 名前:イチイ 投稿日:2001年05月02日(水)17時46分05秒
喫茶店には彼女の姉を除くと七人の人間がいた。ウェイトレスと茶髪の男性、背の高い
モデル風の女性に女子中学生が二人、そして一組のカップルがコーヒーを飲みながら笑い
合っていた。
「あたしはウェイトレスも怪しいと思うな」
「ウェイトレスは昨日もいたんだよ。昨日、前を通ったときに顔が見えたし、背も小さい
 からすぐに分かったよ」
「背の高い女性も怪しいな。何かと交信しているみたいにぼーっとしているもん」
「ぼーっとしていると、怪しいの?」
「警察だとしたら、嫌だってことだよ。もしかしたら、あたし達がここにいるって彼女
 だけが分かっていて、ぼーっとしているように見せかけ、本当は不思議な力で本部に
 交信しているんだよきっと。市井ちゃん、要注意だよ」
「あはは……」私は面白くもなさそうに笑った。「とにかく、警察がいることだけは確か
なんだよ。必ずどこかにいる。誰が警察かということは問題じゃないんだよ」

真希は黙って頷いて、双眼鏡をテーブルに置くと、ベッドに横になった。
それから私達は30分間待つことにした。その間にマルボロを2本と、セックス──男女が
行うような激しいものではないが、それなりに──を1つ、そして欠伸を3つ漏らした。
長いようで短い30分間だった。
27 名前:イチイ 投稿日:2001年05月02日(水)17時47分24秒
私は再び双眼鏡で窓の下を覗くと、喫茶店には多少の変化があった。茶髪の男性は帰って
しまい、代わりにぽっちゃりとした可愛らしい女性が入って来ていた。
私はベッドの中で横になっている真希を残して、ロビーへ降りて行った。中二階にある
ロビーの奥まった場所に電話機があった。ボックスになっていて、ドアを閉めると、外
から中は見えなかった。
「5千万は持って来たか?」私は例の男声で言った。
「ここにあるわ」
「よし、それを持って、喫茶店を出ろ。出たら、右へ行くんだ。どこまでも真っ直ぐに
 行くと、20分で公園の前に出る。ツツジの植え込みの横に電話ボックスがある。そ
 こで待て。途中、赤信号があったら無視した方がいい。信号待ちしていたら、20分
 では着かない。歩くのも走るのも勝手だが、賢明な人間なら、走り出すさ。走るのが
 嬉しくてたまらなくなるランナーズハイになったマラソン選手みたいに走り出すさ」
念のために指紋を拭き取ってから、電話ボックスを出た。ロビーのソファーで、新聞を
ゆっくり読み、自動販売機でマルボロを買って、部屋に戻ると、真希が窓辺で双眼鏡を
覗いていた。
「何か面白いものは見える?」私は冗談めかして訊いてみた。
「大して面白くもないよ」真希は双眼鏡を構えたまま答えた。「店の受話器を置くと、
すぐにあの人が鞄を持って走り出て行った後、厨房からエプロンをした20代後半の
金髪の女性が出て来て、携帯からどこかへ掛けてたよ。それだけだよ。なんかつまんない」
「カップルの方はどう?」
「未だに笑い合っているよ」
「ねぇ、今、気付いたんだけどさ、あのカップルの男の子って真希にそっくりだと思わ
 ない?」
「そうかなぁ〜?でも、うらやましいぐらい幸せなカップルだね」
28 名前:イチイ 投稿日:2001年05月02日(水)17時48分28秒
「それにしてもフェアじゃないよ」私は言った。「厨房に隠れているなんて、フェアじゃない」
「警察らしいよ。アンフェアが得意なんだもん」
「喫茶店にいたのはたった一人か。あまり物々しくないのね」
「がっかりした?」
「そんなことはないよ。他の警察の連中は喫茶店の外にいるということだろうね。少な
 くとも警察はいたということがはっきりしたよ。今日の目的はあくまでも、その確認
 だったのだから、それはそれでいいのさ」
「彼女は5千万を持って、どこへ行ったの?」
「公園だよ。もうすぐ着く頃だね。2、3時間も待ったら、あきらめて帰るだろうな」
「何だか、かわいそうだね」
「被害者は被害者らしく徹底的に萎縮すればいいのさ」
「市井ちゃんってひどい人だね」
「時々自分でもそう思って、悩むよ」
29 名前:イチイ 投稿日:2001年05月02日(水)17時49分24秒
私達はホテルで一泊した。
次の日の午前中一杯を私と真希はホテルでのんびりと過ごした。ルームサービスが持って
きたコーヒーを私が真希に手渡した時もまだ彼女の瞼は眠っていた。おはようと、真希の
瞼を小指でノックすると、唇に日曜日の爽やかな朝にふさわしい微笑みがこぼれた。
「何もすることのない午前中って、あたし、好きだな」真希はコーヒーカップを手の平に
乗せてクルクル回した。「思いっきり死んだ振りができるもん」
「死んだ振りね」私はつまらなそうに言った。
「そうだよ。イモ虫みたいにね」
そう言うと、真希はコーヒーカップをサイドテーブルの上に置いた。そして毛布を頭から
被り、イモ虫というより蓑虫の真似をして、再び眠った。
私は何もすることがなく、最近、運動不足ぎみだったのでベッドの下で腕立て伏せをした。
30まで数えて──今の私にはこれが限界である──絨毯の上に横になった。
──昔と比べると、体力がなくなったなぁ。
30 名前:イチイ 投稿日:2001年05月02日(水)17時50分25秒
「もう起きよう」と、やがて真希はさなぎが羽化するみたいに毛布を払って、起き上がった。
ベッドから下ろした彼女の左足がベッドの下で寝ていた私の脇腹に躓いた。
「ゴ、ゴメン、市井ちゃん。…でも、こんな所で何をしているの?」
「休養を取っているんだよ」
「ベッドの下で休養を取るのが好きなの?」
「足元の世界に視界を広げていると、心が休まるのよ」
「ふーん。そうなんだ」
「そうだよ」
真希は心を休めている私の身体を跨いで洗面所へ入って行った。真希が洗面所の中で水
を使っている音を聞きながら、私は立ち上がり、備え付けになっていたラジオのスイッチ
を入れた。FMがセットされている。懐かしい曲が流れていた。ドリームズ・カム・トゥルー
の『未来予想図U』だった。私はその曲を口ずさみながら、カーテンの隙間から双眼鏡を
使って外を眺めた。すでに昼に近い時間だ。歩道を人が往来し、喫茶店では昨日もいた
ウェイトレスがコーヒーを運んでいた。
「ねぇ、市井ちゃん」と真希が洗面所の方から大きな声で訊いてきた。「今日は何をするの?」
「何もしないよ」
「何かしようよ。退屈だよぉ〜」
「真希の今一番したいことは何?それをするよ」
「本当?」真希は歯ブラシを口に咥えたまま洗面所から顔を出して、私を見た。「本当
に何でもいいの?」
31 名前:イチイ 投稿日:2001年05月02日(水)17時51分55秒
今回の更新はここまでです。
32 名前:名無しさん 投稿日:2001年05月02日(水)18時06分45秒
読んでいると、話の空間に引き込まれていきますね。
ナイフを忍ばせて町に出かけたくなりそう…アブナイアブナイ(汗
33 名前:名無し読者 投稿日:2001年05月05日(土)04時25分11秒
なんともいえない、この独特の雰囲気がたまりません。
こっそりメンバーらしき人物たちも出てきたし。
34 名前:イチイ 投稿日:2001年05月08日(火)16時00分39秒
動物園で私達はパンダを見た。
パンダは檻の中でぼんやりと憂鬱そうに座っている。無情で、無愛想で、壁に凭れて
笹の葉を食べているだけで動いてくれなかった。
「パンダが好きなの?」念のために私は訊いてみた。
「好きだよ」と真希は答えた。「パンダを見ていると、心が和むんだよ」
私は凝然とパンダを見つめてみたが、別に心は和まなかった。むしろ心を和めたのは、
パンダの方のようだった。
「市井ちゃん、知ってる?パンダは笹の葉ばっかり食べているんじゃないんだよ。他にも
 草とか、時には鳥やネズミだって食べる雑食動物なんだよ」
「そうなの」私は冷淡な口調で答えた。「何だか見ていると、動くだけでも億劫そうな
感じだね」

動物園の昼下がりを私達は園内にあったレストランで過ごした。そのレストランの中で、
私は真希が好きだと言ったパンダのことを思い出した。確かにパンダには人の心を和や
かにする何かがありそうだった。少なくとも私達につかの間の休息を与えてくれたこと
だけは事実だ。
35 名前:イチイ 投稿日:2001年05月08日(火)16時02分15秒
動物園を出た時はまだ日が高かった。私は適当な公衆電話を捜したが──もちろん園内
でも捜したが──気に入った電話は近くには見当たらなかった。真希とその辺を散策し
ながら、公衆電話を物色した。気に入った電話は公園の噴水の前にあった。噴水の水が
高く舞い、可愛い虹が小さな太鼓橋を造っていた。木陰に隠れ、真希が立ちはだかって
くれれば、私の電話する姿は誰にも見られなかった。
「お宅のもう一人の娘に代わってくれ」私はハンカチ二枚越しに言った。
今後の取引相手は死んだ少女の姉に決めた。その方が、私達にとって都合が良いからで
ある。
「昨日は大変だったな。待ちくたびれて、退屈だったか?」
「………」
「私が約束を破ったわけじゃない。破ったのはそっちだよ。護衛付きじゃ商談も物騒に
 なるからね」
「………」
「何にも言わないんだな。ショックでまともな言葉も喋れないほどに知能が低下したか?」
「警察が勝手にしたことよ。私が頼んだことではないの」そよ風みたいな弱々しい声が
ようやく私の耳に届いた。
36 名前:イチイ 投稿日:2001年05月08日(火)16時04分03秒
「やっぱり知能は低下していそうじゃないか」私は笑った。「自分の失態を他人のせい
にするなんて、子供程度の知能だよ。まあ、いいさ。もう一度チャンスをやるから、よ
く聞くんだよ。まだ5千万はあるんだろう?」
「あるわ」
「よし、その5千万を全て純金に換えるんだよ。どうせ勤勉な警察のことだから、紙幣
 番号も控えてあるんだろう?あいにくだったね、と隣りにいる警察の奴によろしく伝
 えておいてくれ。私は勤勉な態度ってのが大嫌いなんだってことをね。それから、も
 う一つ。言い忘れていたことがある。明日か明後日には、私からのプレゼント入りの
 封筒が届くはずだよ。二度と警察の護衛を付けようとは思わなくなる代物さ。プレゼ
 ントとよく相談して、今後の方針を検討することだね」

私は受話器を置いた。置いた途端に噴水の音が耳に飛び込んで来た。噴水を見つめると、
淡い虹の向こうに更に淡く白い太陽がぼんやり輝いていた。
「映画にでも行こうか?」私は眩しそうに目を細めながら、真希を促した。「電話の後
だと、暗い所がたまらなく恋しくなるんだよ」
37 名前:イチイ 投稿日:2001年05月08日(火)16時05分39秒
私達は海沿いの街を舞台に少女たちが、駅伝大会を軸として、友情、恋愛に情熱を傾け
疾走するという青春映画を見た。某人気アイドルグループが出演している映画だった。
海沿いの街にある女子高校に、たった一人の陸上部員としてがんばっている主人公が、
部室の火事がきっかけで様々な女の子たちと友達になり、彼女らを陸上部に引き入れ、
駅伝大会に参加するという物語だ。
映画もそろそろ終盤。一番の盛り上がりに差し掛かっていたところで、真希がふと私に
訊いた。
「ひょっとしたら、市井ちゃんが小包で送ると電話で言っていたプレゼントって、耳の
 ことなの?」
「急に何を言うのよ」
「耳なの?そうじゃないの?」
「耳だけど、それがどうかしたの?」
真希は黙って頷いて、再びスクリーンの方を見た。スクリーンの中ではアンカーである
主人公が陸上競技場に戻って来ていた。そして沢山の声援の中、主人公は念願のゴール
を果たしたのだった。
38 名前:イチイ 投稿日:2001年05月08日(火)16時07分10秒
映画館を出て、家に帰る車の中で真希が突然、神社に行くと言いだし、私達は家の近く
にあった神社でお参りをした。
「何をお願いしたの?」と私は真希に訊いてみた。
「この計画が上手くいくように、神様にお願いしたの」
「別に神様にお願いしなくても、必ず成功するよ」
「随分と自信があるんだね」
「そうじゃないと、こんなことやってられないよ」
「それもそうだね」

辺りはすっかり闇に包まれていた。人影はなく、ここにいるのは私達だけだった。周り
を見回すと神社の庭木にはキャラボクの木が植えられていた。まるで私達を見据えるか
のように、堂々とそびえ立っていた。
「ねぇ、真希。誕生花って、知ってる?」
「何それ?」
「生まれた日に因んで定められた花のことだよ」
「そうなんだ」
「でね、ここに植えられているキャラボクの木にそっくりな木で、イチイっていう木が
 あるんだけど、その木に咲く花が真希の誕生花なんだよ」
「私の誕生花って、市井ちゃんと同じ名字なんだ。なんか嬉しいな」
39 名前:イチイ 投稿日:2001年05月08日(火)16時08分17秒
私達は丸一日振りに家に帰った。
途中で買って来た缶ビールで喉を潤わせてから、私はキッチンへ行き、冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫は三日前から殆ど空になっている。中に入っているのは東京の空気とビニール袋
1つきりだった。ビニール袋を取り出して、テーブルの上に置くと、真希が目をそむけて、
キッチンを出て行った。ビニール袋には左耳と右手首が入っている。耳をつまみ出して、
水洗いした。きれいに水を落とし、死んだ少女が持っていたハンカチで包み込んだ。
耳の使用目的は健全とは言い難いが、クリーンなものだった。耳は掃除機として使う。
警察のゴミを吸い取ってくれる掃除機だ。

大型封筒で耳を郵送してから、きっかり48時間後に私は電話をした。
耳の効果は請け合ってもいい。相手の家族には効果的だろうが、警察には通じない。
むしろ逆効果だ。相手の家族が逆上して、どの程度警察を牽制することができるか、
それに私達は賭けてみた。賭けに負けても、私達はそんなに傷つかない。どうなろうと、
私達は今回で二度と交渉を持たないつもりだった。
40 名前:イチイ 投稿日:2001年05月08日(火)16時10分04秒
更新です。

>32さん、名無し読者さん
レスどうも有り難うございます。
これからもこの雰囲気を保ちつつ書いていけたらな、と思います。
41 名前:名無し読者 投稿日:2001年05月09日(水)00時10分23秒
出てくる事柄が、すべて暗示的で。考えさせられながら、読まされているしまっている自分に気づいてしまった……
お姉さんて誰なんだろう?
42 名前:イチイ 投稿日:2001年05月10日(木)19時36分02秒
その日は朝から上天気で、真希はバスケットに、サンドイッチやフライドチキンを詰め
込んだ。ピクニックにでも行くような気分で私達は公園に出かけて行った。公園に植え
られている、大きな桜の木の下に──通話記録から私達の身元を守ってくれる──公衆
電話があった。
私達は桜の木の下にビニールを敷いて、腰を下ろした。ツツジが満開の頃だった。桜の
木の前、海のようになだらかに広がる芝生の向こうにはツツジの植え込みが広がっていた。

「警察は元気かい?」私はいつもの男声で、少し陽気な口調で言った。
「警察には昨夜から帰ってもらったわ」死んだ少女の姉が答えた。
「いい子だな」と私は言った。「いい子だから、いい事を教えてあげるよ。あの耳は君
の妹の持ち物じゃないよ。君の妹には耳が2つちゃんとあるから、心配することはない。
このままずっと君がいい子だったら、耳が2つ付いたまま帰してあげるよ。5千万は純金
に換えたか?」
「全部、換えた。用意は出来ているわ」彼女は平然としたものだった。喜びもしなけれ
ば、怒りもしなかった。
「この前の続きをやるよ。例の喫茶店から20分先にある公園だ。君が車で家を出て、
 45分で着く。公園にある売店に来るんだ。きっかり45分後に君の携帯の着信音が
 鳴る。君の携帯の番号はこちらで調べさせてもらったよ。さあ、急ぐんだ」
43 名前:イチイ 投稿日:2001年05月10日(木)19時37分34秒
45分の間、私は持って来たMDウォークマンでモーツァルトを聞いた。ヴァイオリン
ソナタだ。弦の清楚な響きに合わせて、私はサンドイッチを食べ、フライドチキンを
つまんだ。
「来たよ」と真希が目で合図した。
受話器を握っていた私の目の前に広がる芝生の海の向こうに、小さな売店がある。電話
で指定したのは、この売店だった。45分と27秒をかけて、女が一人、重そうな荷物
を抱えて売店へ駆け込む様子が見えた。
「遅刻だよ。30秒の遅刻だ」私は回線が通じると同時に言った。「私が忍耐強い性格
で良かったよ」
「妹はどこなの?」息を切った声が私の耳に届いた。
「まず自分の妹のことより私のことを考えてくれないか。まだ私が君を信用していない
 という私の都合だよ。警察がどこにもいないということを私に信用させてくれよ」
「どこにもいないわ」
「そうか。とりあえず、また走ってもらうよ。今度は車ではなく、2本の足でだ。公園
 を出て左へ曲がると、駅がある。地下道を通って、南口へ出ろ。近くにベンチがある
 からそこで待て。今から6分後に掛ける。今度、少しでも遅れたりしたら、君を信用
 することはないだろう。妹がどうなるか分からなくなるよ。さあ、走るんだ」
44 名前:イチイ 投稿日:2001年05月10日(木)19時39分01秒
「君はついているよ。今日は、いつもより人込みが少なくて走りやすかっただろうし、
 そこはベンチだ。座って休むことができる場所だ。良かったな」
私は電話に出た彼女が──さっきよりも息を切らしているので──必死になってベンチ
まで走って来たかと思うと、何だか楽しくなった。
「疲れたかい?」私は楽しそうに言った。「南口へ出る階段は急だからね。疲れたとき
は休むのが一番さ。でも、また走ってもらうよ。駅前のロータリーを突き抜けて、最初
の十字路を右へ曲がる。曲がったら、直進し、三番目の交差点を左だ。そこを真っ直ぐ
行くと、正面に銀行がある。そこで20分後だ」

「ここで終わりだとは思うなよ」と私は笑った。「まだまだだ。純金の重さで両手がも
げ落ちるぐらいに君を振り回してやるよ。私は疑い深いんだ。後、2時間は付き合って
もらう。途中に喫茶店があったはずだ。『愛の種』っていう喫茶店だよ。そこへ逆戻り
してもらう。12分後だ。さあ、走れ、走れ、どこまでも走るつもりで走るんだよ」
45 名前:イチイ 投稿日:2001年05月10日(木)19時40分36秒
更新です。

>名無し読者さん
どうもありがとうございます。
少女の姉の事ですが、次回の更新で明らかになると思います。
46 名前:名無し読者 投稿日:2001年05月10日(木)22時36分18秒
お姉さん体力ありますね。
ますます、気になってきた。
47 名前:名無し読者 投稿日:2001年05月11日(金)02時39分00秒
正直、先がまったく読めません。
面白そうなんで原作も読んでみようかな・・・
もちろん、この作品が終了した後ですが。
48 名前:名無し読者 投稿日:2001年05月18日(金)00時17分42秒
続き気になりますね〜
49 名前:イチイ 投稿日:2001年05月18日(金)18時49分56秒
発端は1週間前の電話からだった。

「人を殺した」

そんなことを私の友人でもある先輩の女性が、冗談とも真面目ともとれない声で言って
来たことがある。
時間は深夜の2時を過ぎていた。私はベッドから眠いのをこらえ憂鬱に起き上がると、
受話器を取った。
「たった今だよ。私の手の中で一人の人間が死んだの」囁くような声で先輩はそう言った。
息を吹きかければ、風となって飛んで行ってしまいそうなほど小さい声だった。
「本当に人を殺したんですか?」私は嫌な予感に誘われるように訊いてみた。
「夢だったら、いいのにね」と先輩はひっそりと笑った。

私はマルボロに火を点けた。煙草の煙が目に染みて、涙が出た。涙でぼやけた電話機を
見つめていると、何だか馬鹿馬鹿しくなって来た。真夜中に──本当なのか嘘なのかも
分からない──殺人を種に話をしている自分が滑稽に思えて来た。
50 名前:イチイ 投稿日:2001年05月18日(金)18時51分33秒
「誰を殺したと言うんですか?」念のために私は訊いてみた。
「誰でもいいじゃない」と先輩はつまらない質問につまらなく答えるように呟いた。
「殺す方にとっては誰でもいいことかもしれませんが、殺される方にとってはそうは
 いかないんじゃないんですか?一体誰を殺したと言うんですか?」
「………」先輩は何も答えてくれなかった。
「どんなやり方で、人を殺したんですか?」私は質問の形を変えてみた。
「………」
「何も答えてくれないんですね。じゃあ、こんな夜遅くに電話なんてしてこないでもら
 えますか?はっきり言って迷惑なんですけど」私は今にも怒り出しそうだった。
「紗耶香、ゴメンね」先輩はさざ波みたいにひっそりと呟いた。
「何だって言うのよ!」私は怒りと不満で苛々し出した。「少しは私の質問に答えたら
どうなんですか?」
先輩はもう一度「ゴメンね」と呟いた。そして私が更に不満の言葉を並べようとした時、
不意に電話が切れた。

私の頭の中は空っぽの冷蔵庫になった。冷え冷えとして空ろになった。
私は仕方なく受話器を置いた。受話器の前、窓ガラスの外には月が揺れていた。死体
みたいな色だった。青白く、のっぺりとして薄気味が悪かった。
だらしなく欠伸を1つ漏らしてから、私は毛布に潜り込んだ。眠る気になれなかった。
眠気が私の瞼から月に向かってぼんやり飛んで行ってしまったような気分だった。
私は起き上がり、ベッドの隅に座ってウイスキーを飲み始めた。電話のことが気になった
が、私がどうこうするような問題ではないように思えた。私だって、何かと忙しいのだ。

二杯目のウイスキーをタンブラーに注いでいると、再び電話が鳴った。胸騒ぎがした。
私は15まで数を数えてから受話器を取った。電話に出たのは先輩ではなくて、真希の
声だった。
51 名前:イチイ 投稿日:2001年05月18日(金)18時52分49秒
「圭ちゃんの様子がおかしいんだよ」真希は、なかなか電話に出なかった私に不満を1つ
漏らしてから、そう言った。『圭ちゃん』そう、保田圭とは私とさっきまで話をしていた
先輩のことだ。
「おかしいって、どうおかしいの?」
「優しさを落としただなんて、妙なことを言うんだよ」
「優しさを落とした?」
「そうだよ。たった今、電話が掛かって来て、優しさを落としたって言ったきり、黙り
 込んじゃったんだよ」
「優しさね」と私はウイスキーを一口飲む時間だけ薄ぼんやりと考え込んだ。そして
優しさを落として先輩が不利な状況にでも陥ったのか、その辺のところを冗談めかして
言ってみた。「優しさを落としたおかげで、付き合っている彼氏に振られたのかもしれ
ないね」
「そんなことじゃないんだよ!」真希は私の冗談口に怒ったようだった。彼女の方が
優しさを落としてしまったような声で私をたしなめた。「冗談はやめてよ。圭ちゃん
の話には続きがあるんだよ。断片的な喋り方だったけど、話を総合すると、どうやら
圭ちゃんは誰かを殺してしまったらしいんだよ」
「そのことなら、知ってるよ。私の方にも電話があった」
「もぉ〜。どうして、それを先にいわないの?」
「礼儀をわきまえたつもりだよ。真希の方が先口だからね」
「圭ちゃんは何て言っていたの?」
「具体的なことは何も話してくれなかったよ」
「あたしの方も同じだよ。何を訊いても答えてくれないの。仕方がないから、今どこに
 いるのって訊いたら、すぐ側の公園にいるらしいんだよ。家に訪ねておいでって言った
 んだけど、道に迷いそうだなんて言うんだよ」
52 名前:イチイ 投稿日:2001年05月18日(金)18時54分21秒
私は仕事の関係で自宅の隣りにあるワンルームのマンションを借りている。音楽関係の
仕事だ。
私は某アイドルグループのメンバーだった。去年の5月ごろに独立し、自分の夢である
ソロデビューに向けて、日々努力をしている。しかし、1年が経過した今でもまだソロ
としての活動は一切していない──いや、出来ないのが現状だ。
当然、事務所側はこんな私を必要とはせず、今年になって契約を打ち切られたのだった。
今、私は自分の歌う曲の作詞や作曲、編曲までもを一人でやっている。信じられるのは
自分だけだった。そして、出来た曲は音楽会社に売り込みを行い、自分の力でデビュー
を果たそうと心に決めている。

それに比べ、保田さん──先輩なので──は私が脱退した後、すぐにグループを抜けて、
今では自分がいた某アイドルグループを凌ぐ勢いで、トップ歌手としての地位を築き
上げようとしている。かつては同じグループ内で、ライバルと呼ばれた関係だったが、
こんなにも私との差が大きく開いてしまうとは思いもしなかった。
私も昔は周りのメンバーの影響で、保田さんを、圭ちゃんと呼んでいたが、歌手、いや、
人生の先輩として敬慕の念をいだき、今では保田さんと呼び、敬語も使っている。
しかし、真希は相変わらず、メンバー当時のニックネームのまま、圭ちゃんと呼んでいるが。

因みに真希も、グループにいながら周りのメンバー──私や保田さんがいなくなってか
らだが──よりも先にソロデビューを果たしているのだ。しかし、今年になって学業に
専念すると言って、ファンに惜しまれながら脱退したのだった。
元々、身内のいなかった真希は、親戚の家に住んでいたが、親戚とは仲が悪かったらしく
脱退した直後に私の家──両親は海外に住んでいて、現在、私一人だ──に転がり込んで
来たのだった。
まあ、教育係だったし、内心、真希の高尚な部分──今では、その面影すらないが──に
惚れていたこともあり、今では私と同棲するまでの間柄になったのだ。

それにしても、保田さんが人を殺すはずがないにせよ、あんな弱音を吐いているような
保田さんの声なんか聞きたくなかった。本当に弱音を吐きたいのはこっちの方だ。ソロ
デビューを果たしていないのは、この中で私一人だけだからだ。
53 名前:イチイ 投稿日:2001年05月18日(金)18時55分30秒
曲作りで、時々徹夜になるため、私は週に何回かはマンションで泊まった。保田さんは
私達二人に会いに自宅か、マンションかに何度かやって来た。何度も訪ねて来た道だ。
絶対に迷うはずのない公園からの一本道を、保田さんは迷いそうだと言うのだ。
「冷蔵庫にはすぐに食べられる物は何か入っているの?」と私は真希に訊いてみた。
「ローストチキンぐらいしかないよ」
「それを温めておいてくれないかしら。今、保田さんを連れて行くから」
「ローストチキンは誰が食べるの?」
「もちろん保田さんだよ。人を殺して、お腹がすいているのかもしれないからね」
「人を殺したら、食欲なんてなくなるよ」
「とにかく、温めておいてね。今夜は何だかお腹がすきそうな気配だから」
「圭ちゃん、本当に人を殺したのかな?」真希は溜息をつくと、そう言った。
「ひょっとしたら、冗談かもしれないね」私は陽気に言ってみた。「本当は、殺人の
ジョークで私達とお酒が飲みたかっただけなのかもしれないよ」
54 名前:イチイ 投稿日:2001年05月18日(金)18時56分51秒
満月の夜だった。蒼白い月明かりの公園を夜風があてもなく吹き狂っている。こんな夜
は夜風といっしょにちょっぴりだけ狂ってみたいような気がした。狂気を一粒だけ手の
平に乗せてコロコロ転がしてみたら、心の中に垂れ下がっている憂鬱な重りの1つや2
つぐらいがどこかへ落っこちて行ってくれそうな気がした。
夜風に運ばれて公園を一周してみた。けれども、保田さんの姿はどこにもなかった。保田
さんがここで携帯から電話して来たと思われるベンチの下には、煙草の死体が2つ3つ、
彼女の憂鬱な心を暗示するように転がっていただけだった。

公園を諦めて、私は道路を横断してみた。横断歩道の先にはコンビニがある。憂鬱な心
を溶かすにはビールの甘い一滴ぐらい必要かもしれない、保田さんがそう考えたような
気がして、コンビニに入ってみたが、むろん保田さんの姿はなかった。私は彼女の代わ
りに缶ビールを買った。

保田さんは迷うはずのない公園の中に迷い込んでしまった、そう考えながら缶ビールを
片手に帰り道を歩いていた。背後にある公園の水銀灯が私の影を長く引き伸ばしている。
目の前に薄く伸びた影を見つめ、私は影といっしょに缶ビールを飲み合った。ふと私の
影法師が横から侵入して来たもう1つの影法師と交錯した。目を上げると、私のすぐ前
に保田さんが道に迷った子犬みたいに途方に暮れた顔つきをして突っ立っていた。
55 名前:イチイ 投稿日:2001年05月18日(金)18時58分07秒
私達は公園のブランコに二人並んで座った。
「あんた、未成年なんだから、煙草やお酒を飲むの控えたら」と保田さんは言った。
「それらに頼らないと、私の人生やっていけないですよ」
「そっかぁ〜。いろいろと苦労して、悩むこともあるもんね」
「今の保田さんほどではないですけどもね」
「それもそうだね」
「それにしても、冗談なんでしょう?」と私は保田さんに笑いかけてみた。「時々保田
さんって、悪趣味になる時がありますからね。人を殺した振りをして、一夜の冗談に笑い
転げてみたかっただけなんでしょう?」
「冗談にしてくれても構わないわよ」と保田さんは言った。細く、低い声だった。私の
方を見ず、殆ど唇も動かさなかった。彼女の2つの瞼が振動して、音声を発したかのよ
うな声だった。「冗談なら、いいのにね。何もかもを冗談にして、笑い飛ばすことがで
きたら、少しは楽になるのにね」
「そうですか」
私は頷き、あてもなく、ぼんやりと前の方へ視線を泳がせた。きっと最悪なのだろうと
思った。
56 名前:イチイ 投稿日:2001年05月18日(金)18時59分25秒
「これから、どうするつもりなんですか?」私は訊いてみた。
「どうするって、どうもしないわよ」と保田さんは月明かりに目を細めている。
「自首するとか、逃げるとか、何かしなければならないんじゃないんですか?」
「それもそうね」
「顔つきが憂鬱の割には、心の方は気楽なんですね」
「何もする気がおきないのよ」
「いつまでも、ここにこうして座っているわけにもいかないんじゃないんですか?」
「そうね」と保田さんは1秒間だけ考え込んだ。そして溜息を飲みこんでから、「とり
あえず、ビールが飲みたいわ」と言った。
「ビールですか?」
「氷のように冷たいビールよ。頭と胃の両方とも冷やさないとね。今の私は冷たいビール
 の一滴がたまらなく恋しいだけなのよ」
氷のようにとはいかないが、多少氷に近いビールなら半ダースほど冷蔵庫に入っている、
そんな意味のことを言いながら、私は保田さんを促して、立ち上がり、公園を後にした。
57 名前:イチイ 投稿日:2001年05月18日(金)19時00分42秒
「私は紗耶香の家には入らないよ」と保田さんは言った。「一晩でも、私といっしょに
過ごしたら、私をかくまったことになるわ。私は紗耶香に迷惑をかけるのが辛いのよ」
「迷惑をかけてもらった方が嬉しいですよ」私は笑った。「そんな時のための友達じゃない
ですか、家まで来たのだから、頼むからビールぐらいはいっしょに飲ませてくださいよ」
「ゴメンね、私は紗耶香に迷惑を売りに来たような気分だよ」
「ゴメン、という言葉は真希のために取っておいてくれませんか。今頃真希はキッチン
 でローストチキンを睨みつけながら、私達の帰りを待っている。あいつを待たせると、
 後が怖いんですよ。せっかくのローストチキンが苛々した真希の手でゴミ箱の中に捨て
 られてしまう」

玄関の隅で死にかけたような顔つきの保田さんを見つめながら、安い買い物だよ、と私
は心の中で呟いた。迷惑1つの代金が冷たいビール1本だなんて、安いものだ。
58 名前:イチイ 投稿日:2001年05月18日(金)19時02分07秒
1時間後、私と真希は、保田さんの住んでいるマンションへ出かけて行った。なぜか、
彼女の態度が盗聴器をしかけた人形のようで、捕らえどころがなかった。
「殺人なんて、結局優しさの問題でしかない」とか、
「道徳というのは人間同士の間にある優しさが基本になっている。根本的優しさを失う
 ことはモラルの喪失につながる」など。
こんなことを彼女は私達の前でポツリポツリと箴言でも呟くような調子で繰り返し言う
のみだった。
私と真希も意見は一致していた。具体を避けて、抽象にのみ関心を示す態度には、むろん
一般論だが、現実逃避の姿勢がある。すなわち、彼女はたった今、本当に人を殺して来た
のだと。

彼女のマンションは閑静な高台の一等地にあった。トップ歌手の彼女にピッタリの高級
マンションだ。彼女も私といっしょで、両親とは別に暮らしている。
正面玄関にはユーカリの木が一本、夜風に枝を震わせて、夜と対話でもしているように
葉をざわめかせていた。
このマンションの12階の左側が保田さんの住んでいる場所だった。
59 名前:イチイ 投稿日:2001年05月18日(金)19時03分18秒
ドアを開けると、部屋の中はすでに照明で照らされていた。
中に入ると、広々としたリビングルームが見えた。リビングルームに行くと、そこに
あったソファーに可愛らしい少女が俯き加減で座っていた。よく見ると、以前どこか
で会ったような……そう、保田さんの妹の梨華だった。
──もしかしたら、保田さんは妹の梨華を殺したのか?いや、違う。死んでいるような
感じには見えない。

「帰っていなさいってあれほど言ったのに、どうしてここにいるのよ!」と保田さんは
突然、妹に向かって大声を上げ、怒鳴りつけながら近づいて行った。

──梨華は生きている。じゃあ、誰が死んだと言うの?
私は頭の中が霧に包まれたような状態になった。
私達の推理は間違っていたのか?保田さんは、人を殺してはいないのか?なぜ、梨華は
姉のマンションにいるのか?
そんなことが白い煙となって頭の中を覆っていく。

「ゴメンなさい。でも、梨華はお姉ちゃんに迷惑をかけたくないの」と梨華はそよ風
みたいな弱々しい声で、保田さんに言った。
「何を言っているのよ。あんたがここにいたら、それこそ迷惑よ」
「本当にゴメンなさい」
「まあいいわ。あんた、いい?あのことだけは内緒よ」
「でも……」
「内緒よ!」
「保田さん、死体はどこにあるんですか?」私は抑揚のない口調で、二人の会話に口を
はさんだ。二人にどんな事情があったのか分からないが、まずは死体を見ない限り、私
の頭の中の霧は晴れない。もしかしたら本当は誰も死んでいないのでは、という期待感
も少しはあったが、現実はそう甘くはなかった。
60 名前:イチイ 投稿日:2001年05月18日(金)19時05分21秒
更新です。

>46・47・48さん
どうもありがとうございます!
まだまだ先が読めない状況ですが、徐々に明らかになって来ると思います。
61 名前:名無し読者 投稿日:2001年05月18日(金)22時46分26秒
なかなか興味深いパラレルですね。
性格と立場が微妙にシンクロしている。
一言で言えば萌える〜(w
次の更新も楽しみにしています。
62 名前:名無し読者 投稿日:2001年05月19日(土)03時23分37秒
この狂気じみた世界観の中に娘。のメンバー達が違和感無く溶け込んでるのがすごい!!
63 名前:名無し読者 投稿日:2001年05月19日(土)23時40分44秒
たまにはこういう暗〜いのも良いね
しかし続きが気になってしょうがない(w
64 名前:名無し読者 投稿日:2001年06月08日(金)03時06分03秒
作者さ〜ん、待ってますよ〜!!
65 名前:名無し読者 投稿日:2001年06月24日(日)06時12分44秒
どうなるのか楽しみなんですが・・・・・・・
66 名前:イチイ 投稿日:2001年06月24日(日)17時40分49秒
すみません。m(__)m
諸事情により今まで更新できませんでした。

来週中には更新できるかと思います。
67 名前:名無し読者 投稿日:2001年07月05日(木)18時58分28秒
放置でなければOKです。
期待して待ってます。
68 名前:パク@紹介人 投稿日:2001年07月06日(金)23時32分11秒
こちらの小説を「小説紹介スレ@金板」↓に紹介します。
http://www.ah.wakwak.com/cgi/hilight.cgi?dir=gold&thp=994402589&ls=25

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