インデックス / 過去ログ倉庫 / 掲示板
ふたり
- 1 名前:AAA 投稿日:2001年06月18日(月)16時54分48秒
〜あなたに会えてよかった〜
- 2 名前:はじめに… 投稿日:2001年06月18日(月)17時03分15秒
- 長編です。
元ネタあります(結構有名?)。
かなりシリアスです。暗いです。重いです。
二人の視点で通します。
最初はこまめに更新しますが、多分、後になればなるほど遅くなるでしょう。
モーニング娘。の話なんですが、なぜか辻と加護はモーニング娘。には加入してい
ない設定になっています。
キャラの扱い方がかなり偏っています。
書いてて自分でもよくわからなくなっています(w
タイトルをつけるのに一番時間がかかった…。
それでもよければお読みください。
- 3 名前:プロローグ 投稿日:2001年06月18日(月)17時15分04秒
- 〜プロローグ〜
街全体が見渡せる小高い丘の上。
そのさらに向こうには白い波が穏やかに立つ海が見える。
新緑がうっそうと生い茂り、夏の太陽がそのパワーを最大限にして草木や大地を照
らしている。100個近い石碑が斜面に合わせて規則的に並んでいるこの墓地も、
そんな太陽や木々の生命の輝きの前には陰湿さは薄れ、なかなか美しく、幻想的な
景色に見えた。
私は色とりどりの花束と行きしなに買った線香を抱え、綺麗に舗装された石畳をい
つもよりも若干高いヒールをコツコツと音を立たせながら歩く。
ここに来るのは3回目だから、迷わずに目的の墓に来ることができた。隣りのお墓
をふと見ると、石碑の後ろには卒塔婆、両横には灯籠などオプションがいっぱいあ
り、なかなか贅沢な造りをしている。しかし、目の前のお墓はいたってシンプルで
大した特徴があるものではない。しいて言うならば、石碑がちょっとうす汚れてお
りそれが特徴と言えば特徴なのかもしれない。
- 4 名前:プロローグ 投稿日:2001年06月18日(月)17時16分10秒
- 墓の前に立ち、黒くて薄い生地のスカートを上手に丸めながらしゃがむ。供えられ
た黄色の花はしおれた部分がなく、ついさっき誰か来たのだろうと推測できた。そ
れに墓の下にある2本のろうそくも長くてほとんど新品だ。立てられたろうそくの
間にマッチが置いてある。「BAR沙希」と書かれたそのマッチはこのお墓のさび
れた雰囲気にはやや不釣りあいで浮いていた。
私はそのマッチを使ってろうそくに火をつけようとする。しかし普段、火をつける
ことなんてしないし、大体、つけるとしてもライターを用いる。マッチなんて理科
の実験のアルコールランプに火をつける時ぐらいか。だから全然慣れていなく、火
を起こすのにかなりの時間を消費した。
ちょっと立ち上がり、隣りのお墓を見る。軽く納得した後、束になったままの線香
に火をつけようとする。
- 5 名前:プロローグ 投稿日:2001年06月18日(月)17時21分48秒
- 突然、風がビュッと吹きつけた。強いけど夏に似合わない冷たくて爽快な風だ。
ずっと伸ばしつづけている栗色の髪が風に乗ってたなびく。ろうそくの火はその突
風によって消えてしまい、ぶつくさ言いながらもう一回火をつける。今度は結構早
くついたので、マッチの残り火で持ってきた線香に火をつけるとその線香の匂いが
その場を包んだ。田舎のおばあちゃんの家に漂うようなその匂いは「懐かしさ」を
もたらしてくれるからだろうか私自身は結構好きで、ちょっと意識的に深呼吸をし
た。
その外側で、草の生き生きとした匂いもして、「生」と「死」が融合されたような
不思議な感覚を覚えた。
「さてと」
私はしゃがみ直して、あらためて目の前の墓を見上げる。
「市井家の墓」
そう黒く輝きながら彫られた墓を見て、私は少し涙ぐんだ。
手の甲で小さく鼻をすすってから、一度ゆっくり目を閉じ、手のひらを合わせた。
- 6 名前:プロローグ 投稿日:2001年06月18日(月)17時22分26秒
- モーニング娘。として一緒に過ごした9ヶ月。
脱退してからの1年とちょっと。
合わせてあれからもうすぐ2年。
長い長いと思っていたんだけど、振り返ってみれば、短かったような気もする。
どちらにしろ、この2年間は私の中ですっごく大きくなってすっごく大切になっ
た。
多分、二度とないような経験をした。
あんなに苦しんで、泣いて、後悔して、「死にたい」なんて思って、それでも…
「後藤に会えてよかった」
そう言ってくれた時、すっごく嬉しかったよ。
私は言ってなかったよね?
私もね…市井ちゃん…、
- 7 名前:プロローグ 投稿日:2001年06月18日(月)17時23分41秒
- 「あなたに会えてよかった」
もう一度生まれ変わっても、それがどんなに苦しい世界だったとしても、市井ちゃ
んに出会えるのなら、それだけで幸せなような気がするんだ。
だから…だから…、
もう一度、風が吹く。
今度はさっきと違って生ぬるくて少し気持ち悪い。私という体を重い壁のように押
し込む風だ。私の肌から汗が浮く。
そして気付く。
ああ、あの時と同じだ。
あれが始まりだったんだ。
私は溜まった涙を包みこむようにゆっくりと目を閉じる。
まぶたの裏の暗闇に包まれて、時間が曲げられる。
そして、市井ちゃんを思い出す。
決して忘れることのない市井ちゃんとの思い出を。
- 8 名前:名無し読者 投稿日:2001年06月18日(月)20時37分56秒
- 墓参りに来ているのは後藤...市井家の墓?なんで後藤が墓参りに?なんで涙ぐんでるの?
イヤな予感...でも目が離せそうにない。
青板来る楽しみが増えそう。
続き待ってます。
- 9 名前:1-1 後藤真希(1) 投稿日:2001年06月19日(火)07時08分09秒
- 〜後藤真希〜
太陽の温度を含んだ生ぬるい風。
そんな風が肌をかすめ、滴り落ちる汗。
張りついたシャツに気持ち悪さを覚えながら、来たる夏の到来を同時に感じ、嬉し
く思ったりもする。
そんな季節だった。
いやみなくらいにとことん可愛がられた(というか圭ちゃんがいじられた)「うた
ばん」の収録も終わり、私は誰とも言葉を交わさずに帰り支度をすすめた。
控え室に入ろうとする私を追いかけるようによっすぃーこと吉澤ひとみが声をかけ
てきた。
- 10 名前:1-2 後藤真希(1) 投稿日:2001年06月19日(火)07時10分29秒
- 「シャワーも浴びないで帰るの?」
トーク後、歌収録をして汗をかいたのでこのまま帰ると臭いかもしれない。という
ことでスタッフもそれなりのシャワールームを用意してくれていた。
「ちょっとねー」
曖昧に受け答え、さっさと着替えをバッグに詰める。
「明日オフでしょ。みんなで遊びに行かない?」
楽屋のドアを背もたれにして、腕組みをしながらよっすぃーは私を誘う。かがんだ
状態で見上げるその姿は逆光も重なって少し威圧的にも感じる。私は手を顔の前に
突き立て謝る仕草をした。
「明日予定があるからやめとく」
「え〜、明日なんでしょ?じゃあいいじゃん、保田さんが奢ってくれるって言って
るし」
よっすぃーは断られたことが意外だったようで、切ってますます大人っぽくなった
髪を一旦かきあげてから、特徴のある頬を膨らませて怒った態度を見せる。
「誰が奢るって?」
後ろから圭ちゃんこと保田圭が私たちの会話に割って入ってきた。
- 11 名前:1-3 後藤真希(1) 投稿日:2001年06月19日(火)07時12分25秒
- 「給料そんなに変わらないんだから奢らないわよ」
「ダメですか?」
冷や汗を浮かべながら、よっすぃーは後ろにいた圭ちゃんを恐々と振り返る。よっ
すぃーのでまかせがバレて苦笑いの表情を横目に圭ちゃんは私に声をかけてきた。
「でもさあ、ごっちん。空いてるんだったらどこかに行こうよ。ごっちんにだけ特
別に奢ってあげるし」
後ろから、「うそ?」という驚きを含んだ声が聞こえた。もちろんよっすぃーだ。
それを聞いて圭ちゃんが振り向く。
「何よ、私が奢るってのがそんなに驚くようなこと?」
心外といった感じで、よっすぃーを睨みつける。
「いや、その…参ったな…テヘヘ」
そんな二人を傍目に私は口を開いた。
「ごめん、本当のことを言うと今日なんだ。今日から予定が入ってて…」
「今日って、こんな時間から?」
よっすぃーは圭ちゃんの鋭い視線から逃れるように私の方に身を乗り出しながら聞
いてきた。時刻は夜の9時を過ぎていた。
「もしかして…彼氏…とか?」
「彼氏」の部分だけが小声になっていたが私にも十分届いた。予想もしていなかっ
た語句に、私は大げさすぎるくらいに首と手を横に振る。それに自然と声も大きく
なる。
- 12 名前:1-4 後藤真希(1) 投稿日:2001年06月19日(火)07時14分26秒
- 「違う、違う!そんなんじゃないよ」
「じゃあ、何なのよ」
よっすぃーは心なしかほっとした表情を見せ、そのまま私に問い詰めた。私はそん
なよっすぃーに押されながら、救いを求めて圭ちゃんを見る。圭ちゃんは私の断る
理由なんて何の興味もないようだった。しかし、私に見つめられて「私に何か
用?」とでも言いたげな表情をし、私を覗きこんだ。何秒か後、圭ちゃんは何か気
付いたように声を出した。そして、いつの間にか圭ちゃんの前にいたよっすぃーの
肩をポンと叩いて、振り向かせ、
「まあ、予定があるってんだからいいじゃない?私たちだけでどっか行こうよ。さ
て、タンポポ組は近くにいるんだったよね。どこに行ったかな?」
とぼけた感じで言った。
「…でも…」
「もう…。よっすぃーにだけ特別に奢ってあげるから!」
未練たっぷりのよっすぃーには最適な言葉だったようで…。「じゃあ」と言いなが
ら仕方なく納得していた。圭ちゃんはよっすぃーの背中を押しながら楽屋の外に促
した。ドアを閉める前に圭ちゃんは、
「じゃあ、あさってね。よろしく言っといてね♪」
私に向かってぎこちないウィンクをした。ウィンクより同時に開けた大きな口のほ
うが印象的だったりする。
よっすぃーが何やら圭ちゃんに話し掛けていたが、その語尾は私の耳にはフェード
アウトしていった為、その内容は聞き取れなかった。
私は圭ちゃんに感謝しながら帰り支度を進めた。
行き先は千葉である。
- 13 名前:1-5 後藤真希(2) 投稿日:2001年06月19日(火)17時26分45秒
〜 後藤真希 〜
千葉は私の中では遠い場所というイメージしかなかった。
同じ隣県の神奈川や埼玉には一人で足を運ぶこともしばしばあったが、千葉だけは
ほとんど行ったことがない。ディズニーランドには数回行ったことがあったが、そ
んなに何回も行くところでもないし。いずれにしろ「ちょっと行ってくる」と言っ
て出かける感覚ではなかった。
時刻は夜の10時を過ぎていたが、電車の中は思った以上に人がいて驚いた。千葉
に行けば人は少なくなるという目算があったからだ。隣りのOLにしか見えない女
の人と肌が触れると自分のことが気になり、二の腕あたりをちょっと鼻で嗅ぐ。別
に臭くはないとは思うがそれでもシャワーもケアもしてこなかった自分をやや後悔
した。いつもより帽子を目深に被ってせめて目が合わないように、一応気をつけ
た。
- 14 名前:1-6 後藤真希(2) 投稿日:2001年06月19日(火)17時29分24秒
- しかし、某駅を境に急に人がいなくなった。閑散すぎる電車は今度を私を寂しくし
た。ゴトンゴトンと電車特有のリズムは直に私の体に刻まれる。
「中間ってものがないのかねぇ?」と誰に言うでもなく愚痴っていると目的の駅名
がアナウンスされ、下車した。無人駅の一歩手前といった駅。古めかしい帽子を被
った駅員さんにキップを渡し、そこから二十歩ほどで駅の外に出られる。それから
はしばらく歩くことになる。バスという手段があったが、普段電車しか慣れていな
い私にとってはバスは未知な乗り物で、昔に適当に乗ってみたら、お金の払い方が
わからない、あさっての方向に行ってしまったという軽いトラウマがあり、それか
ら何となく極力バスを使わないようになってしまった。
歩く道は静けさばかりが募る道路で舗装はさすがにされてはいたが、横に田んぼが
あったり、「日本昔ばなし」のようなカラスが遥か遠くからカアカア聞こえてくる
ようなところで不気味という以外の形容は思いつかない。
私はこんな道を一人で歩くという恐怖心を紛らわすために、現在の文明の最先端で
ある携帯電話を一心に見つめながらメールを打った(なんとか圏外ではなくて、ほ
っとした)。
- 15 名前:1-7 後藤真希(2) 投稿日:2001年06月19日(火)17時30分32秒
- それでもやることがなくなると、今度は「ふるさと」を口ずさんだ。確かにこの情
景にはピッタリだったかもしれないが、いささかしんみりしちゃって、恐怖を促進
していることに気付いたので、今度は「LOVEマシーン」を歌ってみる。しか
し、一人でしかも誰に向かってでもなく歌うこの元気一杯のダンスナンバーは、そ
の特徴を見事に消されて一層虚しくなった。結局私は疲れていたけれど走ることに
した。そして10分後、ようやく目的地に着いた。過去一回しか行ったことがなか
ったが、ほとんど迷わなかった。一本道だから当然なんだけど。
8階立てのマンション、3階の301号室。エレベーターのランプを見ると「8」
という数字が表示されており、ここから私が上ボタンを押して、エレベーターが降
りて、乗って、3を押して…というのは何だか時間がかかりそうで、横にある階段
を使った方が早そうだ。しかし、走った挙句、更に階段だなんてつらすぎる、と思
い、結局エレベーターを使うことにした。玄関の前に立つと、夜も更けていたので
私は携帯で呼び出した。「家の前にいるよ」と言うと、電話の相手は少し驚いてい
た。ドアの向こうからバタバタと急いでこっちに向ってくる音が聞こえる。
そして、勢いよく玄関の扉が開いた。
- 16 名前:1-8 後藤真希(3) 投稿日:2001年06月19日(火)17時32分24秒
- 「後藤!」
「きゃっほ〜、元気?」
「ちょっと〜、明日じゃなかったっけ?予定は」
「いいじゃん、あと1時間でその通りなんだし」
「それにさっきの変なメールは何?」
「どんなメールしたっけ?」
「『今から行きま〜す。いなかったらいてね♪』。あんた、バカ?」
適当に書いた文なので意味は全くない。それでも返信を待っていたのになぁ、と
思った。
「まあ、いたからいいじゃん。ちょっと面白かったでしょ?」
「くだらなすぎ。それにどっからメールしてきたの。こっちに着いてからで
しょ?」
「うん、当然」
「…ったく…」
「とにかく、遊ぼ♪市井ちゃん♪いいでしょ?」
- 17 名前:1-9 後藤真希(2) 投稿日:2001年06月19日(火)17時34分03秒
- そう、市井ちゃん。
5月にモーニング娘。を脱退した市井紗耶香。
私の教育係ですっごく頼りにしていた市井ちゃん。
玄関の電球は点いていなくて、薄暗い場での再会。市井ちゃんの顔つきはよくわか
らなかったが口調から言っても呆れているらしかった。
「もう遊ぶ時間じゃないよ…ともかく入って」
コントラストのはっきりしないまま映るシルエットは扉の向こう側に親指を突き立
て、逆の腕は腰に添えたものだった。少し気取った感じが市井ちゃんらしい。
私はもう一度「いいの?」と確認する。
「ここまで来てダメって言えるわけないじゃん」
そう市井ちゃんが答える前に、私の体はもう前に進んでいた。
「だよね〜♪」
市井ちゃんの横顔を見ながら、ドアをくぐった。
「お家の人は?」
「いるよ。でももう寝てるから。ほら、ウチって片田舎みたいに寝るのが早いって
言ってたじゃん。だからさっさと私の部屋に入ってね」
「みたい」って…。
ここだって田舎じゃん…
とは思ったけど口には出さなかった。
- 18 名前:1-10 後藤真希(2) 投稿日:2001年06月19日(火)17時35分47秒
- 市井ちゃんの部屋に入って私は一人でしばらく待たされた。その間、意味も無く座
布団に正座をしながら部屋に貼ってあるポスターや机の上の小物を眺めた。
前に一度だけ来たことはあったがその時とは随分趣きが変わっていた。ポスターは
昔はスイスかどこかの、カッコつけ屋さんの市井ちゃんらしい風景画だったのに今
は名前は知らないが外国人のギタリストのポスターだ。長い髪を汗で濡らし、顎鬚
を輪郭全部にたくわえた上半身が裸の男の人。右下に英語でサインらしきものが書
いてあるみたいだが、私にはてんで読めない。
それに置いてある物の数はぐんと減っているように感じた。前来た時は、ベッドの
上の布団は人が入っていた形を残したまま敷かれていて、服も冬着、夏着の区別を
せずに、床の片隅に畳んで置かれていた。また、ハードカバーと文庫本が乱立した
本棚、黒いミニコンポの上にはピンク色のヘッドホン。キティちゃんと並ぶ銀製の
ヤジロベーなど、いろいろな種類の小物が統一感無くいっぱいあった。しかし、今
はそういった目的の無さげなものが一切なく、小奇麗な部屋に風変わりしていた。
良く言えば質素で落ち着きがある。悪く言えば殺風景で温かみがない。
- 19 名前:1-11 後藤真希(2) 投稿日:2001年06月19日(火)17時37分03秒
- しかし、その分目立つものがある。
壁に縦にかかっているキーボードと、明らかに中古で買った古びたフォークギ
ターだ。
この二つが殺風景な部屋の中で王様のごとく映えている。
あらためて、ここが市井ちゃんの部屋であることを確認したような気分だ。
「夢の一歩」
「未来の扉」
そんな言葉が頭をかすめ、私は嬉しくなって薄気味悪い声をあげた。そして大き
く一つ深呼吸。
- 20 名前:1-12 後藤真希(2) 投稿日:2001年06月19日(火)17時38分51秒
市井ちゃんまだかな〜?
正座をしていると足が痺れてきたのでその態勢をくずし、足をバタバタさせている
と、ドアにかかっているおもちゃ屋さんに売っているような安物のホワイトボード
が目に入った。「今日の予定」と黒いマジックで書かれている。その下には、消さ
れてはいたがその消し方が不十分でじっと見つめているとその輪郭があぶりだしの
ようにボワーっと浮き上がってくる。
「?」
書いてある言葉の意を解する直前に、見つめていたドアが開いた。
市井ちゃんは手にジュースを持ちながら現れた。
両手にお盆を持っていたせいで、市井ちゃんは行儀悪く足でそのドアを開けた。
「入るよ〜」
そして、私は一つ大きく驚くことになる。
さっきまではよく見えなかったので気付かなかったのだが、部屋の古びて黄色がか
った蛍光灯に照らされて市井ちゃんの姿が私の目にもはっきり映る。
無意識にホワイトボードに書かれてある言葉とシンクロさせた。
「病院」
市井ちゃんは痩せていた。
- 21 名前:名無し読者 投稿日:2001年06月20日(水)03時02分28秒
- 何やら面白そうな、いちごまもの?が始まりましたね〜。
正直、暗くて重い作品は苦手なんですが、読んでて妙に引き込まれました。
楽しみにしてますんで頑張って下さい!!
- 22 名前:名無しさん 投稿日:2001年06月20日(水)14時16分45秒
- 市井ちゃん、どうしちゃったんだー!!!!!
- 23 名前:1-13 後藤真希(3) 投稿日:2001年06月20日(水)19時42分26秒
- 〜 後藤真希 〜
私が知っている市井ちゃんはそこにはいなかった。
「どうしたの?」
市井ちゃんは大きな目をさらに広げて驚いた。
いや、先に驚いたのは私の方だ。市井ちゃんはそんな私に驚いただけ。
「市井ちゃん…すっご〜い。痩せたんだ。ひと目でわかるよ!」
感嘆や羨望に近いトーンの高さとは裏腹に心には黒っぽいものが包む。
「そう、ありがと」
市井ちゃんは自分自身にうんざりしたように肩をすくめ、微笑む。
「オレンジジュースで良かったよね」
私の同意を求めることなく、市井ちゃんはオレンジジュースを私の目の前に置き、
私の対面に座った。
- 24 名前:1-14 後藤真希(3) 投稿日:2001年06月20日(水)19時44分11秒
- 意識的にまばたきしてから、あらためて見るとその豹変ぶりに戸惑う。私が見つづ
けていた市井ちゃんは良い意味で線が太く、信頼感を漂わせていた。それが今はそ
んな雰囲気が微塵も感じられない。ピンチランナーの時に市井ちゃんが着ていたや
つと似ている田舎臭い上下紺色のジャージを着ているが、それがだぼだぼで腰まわ
りにある白い紐が膝上ぐらいにまで垂れているくらいきつく縛っていた。
それに痩せているだけじゃない。古ぼけた照明のせいかもしれないけれど、肌の色
は何か塗られたような濁った茶色で、市井ちゃんが持っていたオーラみたいなのが
全て消えて、別人のように見えた。
私はそんな戸惑いを表に出さないように努めた。
「痩せるってのは嬉しいことなんだけど…」
市井ちゃんは、ジュースに一口つけながら、
「あんまり、良い痩せ方じゃないんだよね…」
ふっと肩で息をした。
そうした口調や行動が全て自分を咎めているようにも見える。
私は漠然とした不安感とともにいつの間にか作られた切迫した空気に耐え切れず口
を開く。
- 25 名前:1-15 後藤真希(3) 投稿日:2001年06月20日(水)19時46分04秒
- 「病気…とか?」
「病院」と書き、そして消されていたホワイトボードに顔を向けていた。市井ちゃ
んはその視線の方向に気付く。
「あ、あれ?見えた?参ったなぁ…」
「何の病気なの?」
私も出されたオレンジジュースに一口つけた。いつの間にか喉が渇いていたせい
か、濃縮還元らしい味が急速に口の粘膜から吸収され、より一層すっぱく感じた。
「まだよくわかんないんだけど…」
少しためらいがちに口を開こうとする市井ちゃんを私はじっと耳を傾けて待つ。
「どうやら、肺炎みたい。2週間前なんかひどかったんだけど、とりあえず近くの
かかりつけの病院でお薬もらってる。とりあえずそれで良くはなるんだけど、それ
も一時的なもんで、またすぐどっか調子が悪くなって…お医者さんも首をかしげて
る状態なんだ」
「悪いって…どんな感じ…?」
私が症状を把握したって何の意味もないのだが、それとなく聞いてしまう。
「う〜ん、症状自体は典型的な風邪なんだけどね。悪寒がする。体がだるい。肺炎
を起こす前も後もず〜っと微熱続きで何となく息苦しい。時々頭が痛い、とかね。
そうだ、それに全然食欲がない、ってこの体を見ればわかるか…。ムリして食べよ
うとすると吐いちゃうんだよね。まあ、今日は結構調子がいいんだけど。やっぱ後
藤が来てくれたおかげかな…ははは…」
と、取り繕った笑顔を見せる市井ちゃん。
- 26 名前:1-16 後藤真希(3) 投稿日:2001年06月20日(水)19時48分43秒
- 「いつから…なの?」
「脱退してからかな?だからね、私はね、多分急に生きがいをなくした反動という
かまあ、定年退職した人が手持ち無沙汰でぼーっとしちゃうっていうあれみたいな
もんだと思ってるんだけど…」
市井ちゃんは即座に答え、聞いてもいないことを付け加えた。
私の動揺が表に出たのだろうか?
段々と早口になる言い方には弁明っぽいものが含まれていた。私を心配させまいと
した言動なのは明らかだった。
「心の中では『よし、やるぞ』みたいな前に進む気持ちってのは持ってるんだけ
ど、体が言うこと聞かなくて。多分、後悔してるんだろうね。まだ昔をひきずって
るっていうか…なんていうか」
市井ちゃんは私の表情や仕草を常に注意しながら喋っていたのに気付いた私は、
唇を舌で軽く舐めたあと、「そっか」と小さく頷き、市井ちゃんの言葉を全て信じ
たフリをした。
「じゃあ、今日はいっぱいいっぱいおしゃべりしよ!そしたら元気になれるってこ
とでしょ?」
「おう、多分そうだと思う。ありがと。でもさあ、その前に」
「うん?」
「あんた、汗臭いよ」
「うわっ、敏感!なんでわかるの?」
私はさっと鼻を右の二の腕あたりに押し付け、臭いを嗅ぐ。
「わかるわよ。お風呂のお湯まだ落としてないから入ったら?」
「じゃあさあ、市井ちゃんも一緒に入ろうよ」
「私は入ったからいいわよ」
「せっかく来たんだから少しでも一緒にいたいじゃん」
「あのね、恋人同士じゃないんだから」
「恋人同士ならやんないよ、フツー」
「え?…そうなの?う〜ん…」
市井ちゃんは唸りながら、やれやれといった感じで承諾し、重い腰を上げた。
- 27 名前:1-17 後藤真希(3) 投稿日:2001年06月20日(水)19時51分03秒
市井ちゃんの家はごく一般的なマンションなため、お風呂は若干小さい。1.5人
用というか、若いパパが2、3歳ぐらいの子供と一緒に入るのがちょうどいい大き
さになっていた。そんな中に成熟しつつある若い二人が入るのだから息が詰まるく
らい狭かった。
脱いでも市井ちゃんは凄かった。私が太ってきつつあるせいでもあるんだけれど
も、おそらく私の後ろに市井ちゃんが立って、真正面から見ると私の体の線に市井
ちゃんの体がすっぽり被さって、その存在を確認できないだろう。昔、自分で面白
おかしく話していた「三段腹」も「お腹の線」も消えていた。
- 28 名前:1-18 後藤真希(3) 投稿日:2001年06月20日(水)19時52分52秒
- 「なんか照れくさいね…」
市井ちゃんはずっと困ったような微笑を浮かべていた。
「こうして後藤と一緒にお風呂に入るのって初めてじゃない?」
恥ずかしげに腕で自分の乳房を隠す。
「あったよ。一回、地方行ったときに。覚えてない?どこだったけなぁ、高知だっ
たっけ?」
「ウソ?全然…」
「覚えていないの?なんかひどいなぁ…」
狭いバスタブに強引に二人で入ったり、背中を洗いあっこしたりした。市井ちゃん
の体は確かに細かったけど、浴場は浴場らしい白い湯気が周りを包んでおり、直視
を自然に避けることができた。そのせいか、私も前面に不安を押し出すことはな
く、のほほんとした雰囲気に懐かしさが含まれていて、何となく幸せだった。
今日の収録で出題されたクイズを出してみたら、ほとんど即答された。でも、私が
(偶然)正解した「自由の女神はどの国の方向を向いている?」という問題だけは
解けなくてちょっと優越感を覚えた。
「でさあ、グリーンイグアナ貰ったんだよね」
「ったく、またアンタは…ホントにかわいいの?」
「うん!」
「理解出来ないよ…その趣味だけは…」
濡れた髪を抑えながら市井ちゃんは呆れていた。
- 29 名前:1-19 後藤真希(3) 投稿日:2001年06月20日(水)19時54分16秒
- こんな会話の中、決して「あの頃は良かったねぇ」とお互い口に出したりしなかっ
たのは、「今」の自分をお互い後悔しているからかもしれない。私は部屋に置かれ
たギターを思い出し、その話題に触れた。当然、夢の話になる。
「お風呂、上がったらなんか弾いてよ」
話の流れに乗って、適当にリクエストしてみると、「最近弾いてないんだ」と一旦
断った後、
「それでもいいならいいよ。でも笑わないでね」
自信なさげではあったが、ちょっとは聞かせたいという気持ちがありありだった。
「やった!」
思わず洗剤のついたスポンジを持った両手を上に突きあげて喜びを表現したのでそ
の泡が浴場中に飛び散った。市井ちゃんはそんな様子を教育係顔というか年上顔で
微笑んでいた。
- 30 名前:1-20 後藤真希(3) 投稿日:2001年06月20日(水)19時56分12秒
- 少しのぼせてきたのでいい加減出ようと思って、市井ちゃんに一緒に出ようと促す
と、市井ちゃんは顔と髪に染み込んだ水滴を弾き飛ばすようにぶるんぶるんと、首
を横に振る。
「私、もうちょっと入ってるから…部屋でくつろいでてよ」
耳まで赤くしていた市井ちゃんは疲労の息を挟みながら言った。
私は言われるがままに浴場を出てバスタオルで体を拭きながら、横の洗面台にある
鏡をじっと覗きこもうとする。しかし、私の全身から出る湯気が鏡をくもらせ、右
手で真ん中の部分だけをこすり、もう一度覗きこむ。すると前かがみの体勢になっ
たせいか、ちょっとした頭痛を感じ、親指と中指で強くこめかみを押さえた。
「入りすぎたかな?」と思った矢先のことだった。
ドアの向こうの浴場からバチャンという音が聞こえた。
何かを水面全体に叩き付けるような音。普段の私なら気にもとめない音かもしれな
い。というか多分、十分「日常音」の範囲だろう。しかしどういうわけか、その音
に暗澹たる何かを感じ、私は急かされるように勢いよく扉を開けた。
- 31 名前:1-21 後藤真希(3) 投稿日:2001年06月20日(水)19時59分25秒
- 目に映る光景は静止画だった。いや、蛇口からポタリポタリと落ちる水だけがその
止まった図の中で一定に動く。
市井ちゃんは背景に溶け込んだかのように両腕を浴槽に乗せながら顔を水面にうず
めて一向に動かない。
「市井ちゃん…?」
芸能界に身を置いている習性か、一瞬ドッキリかと思い、それとなくカメラがない
か周囲を見渡すが何もない。体に巻いたバスタオルを表出した緊張からか強く握り
締め、市井ちゃんに近づく。言いようのない戸惑いを早く消したくて、左手で市井
ちゃんの体を揺さぶる。
「ね…え…市井ちゃん…?」
市井ちゃんは全く反応することなく、揺さぶられるがままに市井ちゃんの体が揺れ
る。水面が遅れてチャプンという音とともに小さく波立つ。
異常事態だと気付くのにさらにそれから間が空いた。湿気でムンとしていた浴場
は、その瞬間、私の頭の中を具現化しているかのように、スーッと湯気が消えて
寒々とどこか張り詰めた世界になった。
私は大声で叫んだ。
「誰か〜」でも「助けて〜」でもないただの叫び声しか出なかった。
肌についている水滴は元はお湯だったはずなのに、もう冷え切っていた。
- 32 名前:名無し読者 投稿日:2001年06月20日(水)23時51分56秒
- うー…
市井ちゃん…一体どうしたんすか!?
むちゃくちゃ気になります…
しかし……(泣)
- 33 名前:名無し読者 投稿日:2001年06月21日(木)02時44分34秒
- 市井ちゃ〜ん!しっかりしてくれ〜!!
まさか・・・ですよね?
- 34 名前:1-22 後藤真希(4) 投稿日:2001年06月21日(木)21時04分09秒
〜 後藤真希〜
市井ちゃんが目を覚ましたのはそれから3時間後のことだった。
あれから、寝ていた市井ちゃんのお母さんがやってきて、119番通報して、救急
車を呼んだ……
…らしい。
というのも私はただ喚くばかりであんまり覚えていなかったから。
そんなわけで、ここは病院の一室である。
- 35 名前:1-23 後藤真希(4) 投稿日:2001年06月21日(木)21時05分36秒
- 「お騒がせいたしました」
市井ちゃんはベッドに体を寝かせながら、市井ちゃんのお母さんとお姉さんと私に
向かって頭だけを上にあげた。寝ているんだから一応これで頭を下げたことにな
る。
「ともかく、ゆっくり休みなさい」
年不相応のかわいらしいピンク色のパジャマを着た市井ちゃんのお母さんは優しく
微笑みながら市井ちゃんを見た。いや、そう見えるだけで本心はわからない。優し
さだけが出ている表情は母性愛の象徴にも見えるが、その優しさが強調されすぎて
いて、私には何かを隠そうとした仮面にしか見えなかった。
一方の私は額に何本か黒い縦線が入っているぐらい、不安さを前面に押し出してし
まっていた。未だに意識を失った市井ちゃんの冷え切った体が脳裏をよぎってしま
うのだ。
あの、肩口からツツーッと落ちる一つの水滴。
ヘアピンで止めた後ろ髪。
普通ならドキリとするような妖艶なうなじ。
その全てに生気がなかった。
死んじゃったように見えた。
- 36 名前:1-24 後藤真希(4) 投稿日:2001年06月21日(木)21時08分18秒
- 私はそんな頭の中の像を払拭すべく、狂乱したかのように頭を何度か振る。
「栄養失調だね。きっとそうだ」
市井ちゃんは安心させるように言った。続けて、「ほら見て」と私に手招きし、近
くに呼び寄せると、舌をべろんと出した。
「ほら、ところどころに白い斑点があるでしょ?私さあ、これ見て『やばいなぁ』
って思ってたんだ」
「う、うん…」
「やっぱねぇ、食べなきゃいけないね。うん、明日から無理してでもばりばり食べ
るよ」
「頑張りまっす!」というポーズをつけてニコリと微笑む市井ちゃんは無理をして
いるとしか思えず、より一層私を不安にさせた。
- 37 名前:1-25 後藤真希(4) 投稿日:2001年06月21日(木)21時11分27秒
- 私はそのまま帰ろうと思っていたが、市井ちゃんの要望により、私も市井ちゃんの
お母さんやお姉さんと一緒に当直医(外科医らしく専門外らしい)の話を聞くこと
になった。その時の市井ちゃんの真意はよくわからなかった。
話と言っても、行った処置の説明、とりあえず安静にすること、後日詳しい検査を
行う、という簡易なものだった。まあ、深夜の急患で、しかもこの医者にとっては
専門外とくれば、これ以上のことは何も言えないだろう。しかし、
「『拒食症』…でしょうか…?」
市井ちゃんのお母さんは、切羽が詰ったように当直医に尋ねた。
ただ、素人の意見を言うことに気が引けたのか恐る恐るだった。どうやら市井ちゃ
んのお母さんはずっと前からそう思っていたらしく、今までの市井ちゃんの食欲の
なさ、少し口につけてもすぐ吐き出す生活をしていたことを続けて告白した。
担当の医師はそんな素人の了見にムッとするわけでもなく、カルテらしき書類を見
ながら、
「う〜ん、慢性の下痢も起こしているようですし、リンパ腺も腫れているようなの
で違うような気もするんですが。そこまで考えてらっしゃるのならご存知かもしれ
ませんが拒食症は心の病気ですので、いろんなケースが考えられまして症状は人そ
れぞれなんです。だから今の娘さんの精神状態が芳しくなさそうなところを見ると
可能性はありえますね。とにかく検査してみますから、それまでは安静にすること
が一番だと思いますよ」
軽々しく、ましてや自分の専門外のことを話すのはイヤだったのか、否定も肯定も
しなかった。
「拒食症」という言葉を聞いて、私はなぜだか安心していた。
きっと私の中では「病気」というカテゴリーには含んでいなかったからだろう。
- 38 名前:1-26 後藤真希(4) 投稿日:2001年06月21日(木)21時13分46秒
- 家に帰るころには朝の6時を過ぎていた。そんなに眠くはなかったが、始発電車の
窓から見える東から青から黒へと滑らかなグラデーションを作りながら明るくなっ
ていく空が「徹夜をしたんだ」と実感させていた。玄関を静かに開けると、目の下
にクマをうっすらと浮かべたお母さんが現れ、帰ってこなかったことに対してこっ
ぴどく怒られた。
市井ちゃんの家に行くってことをお母さんに直接言ってなかったのは確かだけど、
お姉ちゃんにはことづけしといたはずなのに…と思っていたら、怒られている最
中、お母さんの後ろのほうでお姉ちゃんがしのび足でやってきて「ごめん、寝ちゃ
って言っとくの忘れた」と姉妹同士でしかわからないジェスチャーをしていた。私
はプクーッと頬を膨らませて怒った顔をしたが、それを目の前にいるお母さんが自
分に向けられたものだと勘違いしたようで、
「コラ真希!何、その態度は?」
とまた別のお怒りを買うことになってしまった。
- 39 名前:1-27 後藤真希(4) 投稿日:2001年06月21日(木)21時16分09秒
- それから眠ることにしたが、やはりあんなことがあったからだろう。やはり目を閉
じた裏では今日の動かない市井ちゃんの映像が何度も流れ、意識が消えることはな
かった。
もう寝れないだろう、と諦めて居間に下りるとお母さんは「あら、早いのね」と数
時間前とはうって変わって優しく声をかけ、ごく自然な動作でマンボウの絵が描か
れたマイマグカップの中にHot Poを入れて私に出した。別に「母の温もり」に飢え
ているわけではないが、その母のさりげない優しさが心に沁みた。
顔を洗って座敷に戻るとしょうゆがふんだんに塗られた固そうなセンベイをバリバ
リ食べているお母さんやお姉ちゃん、そして、女の子なのに弟が昔、大事にしてい
たガンダムか何かのおもちゃを使って遊んでいる姪の姿があった。私はお姉ちゃん
の横に座り、センベイを一枚取りながら、「拒食症」という話題を持ち出した。も
ちろん、市井ちゃんの名前は出さずに。
- 40 名前:1-28 後藤真希(4) 投稿日:2001年06月21日(木)21時17分47秒
- お母さんやお姉ちゃんの話を聞き、私の認識不足を知る。
まず、拒食症は過食症と併せて「摂食障害」ということ。
そしてそれは完全な「病気」であること。
「痩せたい」と願い過ぎることが一番多い原因であるということ。
心の病であるだけに、まだその病態の解明が不十分なため、治療理念や方針が確立
されていないこと。
そして、完治するのに、2、3年かかっても不思議ではないということ。
「実を言うと、高校時代の友達にもいたんだけどね。ともかく大変だったわよ。見
るたびにやせ細っちゃっていくのがわかるの。それなのに『痩せなきゃ…』ってと
り憑かれたように呟くんだよ、その子。それを聞いてゾクッとしたもんよ。今は大
丈夫らしいけど、その時の後遺症で生理が来てないって言ってた。でもそれより、
あんたみたいな人間のように、病気だなんて思っていないっていう人がいるってい
うのが一番問題なんだよね。あれはねぇ、ちゃんとした病気だよ」
お姉ちゃんはそう言った。喋っている最中にセンベイを勢いよく食べる音が混ざっ
ていたためそんなに深刻には聞こえなかったが、どうやら言っていることはマジら
しかった。
- 41 名前:1-29 後藤真希(4) 投稿日:2001年06月21日(木)21時18分59秒
- 「で、何でそんなこと聞くのさ?」
心配そうに顔を覗きこむお母さんとお姉ちゃんに私は愛想を振りまいて、「聞いて
みただけ」、とはぐらかすと、より一層お母さんは不安な顔つきになった。しか
し、お姉ちゃんは私の全身を鋭い目で見まわして、
「まあ、今のところ、あんたには関係ないみたいだけどね。ぷくぷく太っちゃって
いかにも『健康優良児』って感じだもん。仮にも芸能人…というかそれ以前に年頃
の乙女なんだから痩せないとやばいわよ」
と冷たい視線を送ってきた。私はカチンときたが寝起きかつ寝不足という低血圧全
開モードだったので、それをお姉ちゃんにぶつけるほどの気力はなく、穏やかな怒
りを熱いお茶で冷やした。
- 42 名前:名無しさん 投稿日:2001年06月21日(木)21時20分51秒
第1章 再会 〜beginning of the end〜
- 43 名前:名無しさん 投稿日:2001年06月21日(木)21時31分16秒
- レスしてくれた方へ。ありがとうございます。
書き忘れていたのですが、僕は基本的にはレスを返さないつもりですので、
ご了承ください。
もちろん、目は通しますし励みになりますので、レスは嬉しいです。
あと、元々章立てていないので、何章になるのか見当つきません。
それに、章のタイトルなんかは途中でなくなるかも。
大体、今タイトル決めたし…。
次からは第2章です。
- 44 名前:名無し読者 投稿日:2001年06月22日(金)02時52分27秒
- 初っ端から暗めですね〜(w
市井ちゃんは、本当にただの拒食症なのでしょうか?・・・気になります。
この先も楽しみにしてますので頑張って下さい!!
- 45 名前:2-1 市井紗耶香(1) 投稿日:2001年06月22日(金)20時49分02秒
〜 市井紗耶香 〜
え?
この疑問符つきの言葉を私は何度心の中で呟いただろう。
医者の方から話がある。
担当の看護婦さんはいつも以上の明るさでそう私に言ってきた。
婦長さんて言っても違和感がないほど「おばちゃん」な看護婦さん。多分、ベテラ
ンのはずだ。それなのに新人みたいにその明るさは異常に軽くて、裏にあるものを
感じとれた。
拒食症。
お母さんはそう考えていることを私は知っていた。しかし、私は自信を持って否定
できる。拒食症とはどういったものなのかはよく知らないし、周りの友達がなった
ことも、もちろん自分が過去にかかったこともない。
だけど、そうではないと確信していた。
お母さんは何を根拠でそう思っているかは知らないが、「痩せなきゃ」なんて追い
詰めたこともないし、自分の意識ははっきりしているからだ。
大体、拒食症で肺炎になるのか疑問だ。
きっとお母さんは、最近、そういうドラマとかドキュメント番組とかを見たんだろ
う。お母さんって結構、そういう情報に感化されやすくて、情報系とかく節約方法
を紹介する番組を見たりなんかしたら、その日から徹底的な節約家に早変わり。ま
あ、3日で飽きちゃうんだけど。
- 46 名前:2-2 市井紗耶香(1) 投稿日:2001年06月22日(金)20時50分38秒
- 先にお母さんが呼ばれて、しばらくしてから私は呼ばれた。元有名人だから混乱が
あるかもしれないと配慮してくれたのか私はいい待遇で個室に入れられて、一日一
日を過ごしていた。一人っきりの空間は私の周りだけは時間がゆっくり進んでいる
ような錯覚を起こす。白い天井に白い壁、白いシーツと白いベッドという配色の統
一感がそれを助長している。ただ、ベッドの右側には大きな窓があり、その枠内だ
けは異質な雰囲気を出している。今は夏の木立が風に揺れ、葉っぱが二、三枚ひら
ひらと舞い落ちる様が映し出される。まるで動く絵画のようだ。
それは私の家の中からでは決して見られない自然の光景だった。まだ数日しか経っ
ていないからでもあるだろうけど、こんな病院の落ち着いた環境はすごく心地よか
った。
最近は調子がいい。入院前の嘔吐感も下痢による腹痛も微熱続きで気だるい感覚も
消えていた。病院の食事が妙に私にマッチしていて、家にいる時よりもバクバク食
べられた。そんなことを友達に言うときっと「変人」扱いだろう。だけど、口から
食道、胃にかけてすーっと何もしこりもなく入っていく感じは久しぶりだった。
だから、あまり深くは考えていなかったのかもしれない。看護婦さんの態度はあま
り気にしないようにした。それとも、想像すればするほど、重いものがのしかかる
のがわかっていたので、ただ逃げていただけかもしれない。
- 47 名前:2-3 市井紗耶香(1) 投稿日:2001年06月22日(金)20時53分09秒
- 呼ばれた小っちゃめの個室はホコリ一つない綺麗な部屋だった。中央に瓢箪型の淡
い茶色のテーブル。同じ色の椅子が4つあり、その内の1つに担当の医者が座って
いた。両肘をテーブルに置きながら体面で手を組みじっとそれを見ている。私は
ノックをしたはずなのに、全く気付いた様子は見せなかった。
「先生」
後ろにいた看護婦さんの声で医者はビクンと体を揺らして反応し、私の顔を見上げ
るなり、気のせいかもしれないが若干顔色を変えて立ち上がった。椅子が後ろにズ
ズーッと引きずられる音が聞こえた。
「どうぞ、お座り下さい」
「はい」
男の人にしては長めの前髪がまるで小さな活劇があったかのように乱れている。
視線が一点ではなく私の周辺をウロウロ泳いでいた。
「おかけください」
座ろうとせず、いつの間にかドアの前に立ち尽くしていた私に医者はもう一度促し
た。後ろの看護婦さんみたいに取り繕った笑顔は見せず、黒ブチの眼鏡を一度かけ
直す。看護婦さんが誘導した椅子に座ると、ブラインドカーテンの隙間から射し込
む一筋の光が私の目を襲い、思わず顔を背けた。
部屋の外からは誰かがスリッパをパタパタ鳴らして部屋の前を通過する音が聞こえ
た。
- 48 名前:2-4 市井紗耶香(1) 投稿日:2001年06月22日(金)20時54分17秒
- その余韻がしばらく残るぐらい部屋の中は一時静寂だった。
医者はさっきまで座っていたところにもう一度座ると、
「最近、どう?」
なんて優しく微笑みかけてくる。この人は30代前半ぐらいなんだろうけど、すご
く童顔で、もしどこかの街中で私服で会ったとしたら、20代の半ばに見られるだ
ろう。自分でも気にしているらしく、「舐められない為」と髭を生やしたことが
あったそうだが「不潔」とか「医者としてふさわしくない」とか言われたらしく止
めたそうだ。
どうしてそこまで知っているかと言うと、このお医者さんはすごくおしゃべりだか
らだ。診察に来る度に長いこと話しこんできた。私が元モーニング娘。だから、と
いうわけではないらしく、隣りにいた看護婦さんが、
「いっつもこの人こんな感じなのよ。疲れたでしょ?ゴメンね」
と饒舌に話す医者を傍目に私に耳打ちして謝っていた。私はまあ、かっこいいこと
もあって、このお医者さんが好きだった。
そんな気さくで明るいこのお医者さんがいつもと違った緊張を顔に出している。重
々しい空気を何とかしようと軽く口を開いた言葉は簡単に自分で作った空気に吸収
され消えてしまった。
- 49 名前:2-5 市井紗耶香(1) 投稿日:2001年06月22日(金)20時59分48秒
- 「元気…です」
元気なさげに私は言った。医者の目の色をうかがう。実はこれは演技で次の瞬間、
「なんちゃって!」と小っちゃな子供に向けるみたいにバカらしく笑ってくれるな
んていう淡い期待をしていたからだ。
「なら良かった」
「あの…今日は?」
「うん、いろいろ話したいことがあってね」
「それと、母は…?」
いると思い込んでいた母が今この場にいないことに気付く。
「今、席を外してるよ」
医者は再び黒ブチの眼鏡に手をやり、掛け直す。どうやら落ち着かない時のクセの
ようだ。
「そうですか…で、私の病気のことですか?何かわかったんですか?もしそうだっ
たんなら教えてください」
私はやはりこの空気に耐えられなかった。焦る気持ちを前面に出すなんて、恥ずか
しい気がしたんだけど、医者の先延ばししようと言葉一つ一つを慎重に選ぶ態度が
気持ち悪くて仕方がなかった。
「うん…。言うけど…でもね、市井さん。冷静に聞いてね」
私は乾ききった口の中からツバを集めてゴクンと飲みこんだ。
医者は重々しく口を開いた。
- 50 名前:名無し読者 投稿日:2001年06月23日(土)02時38分45秒
- ここで切るかな〜(w
いったい病名は何なんだ〜!!
気になります。
- 51 名前:2-6 後藤真希(5) 投稿日:2001年06月23日(土)08時04分19秒
〜後藤真希〜
時は夏休み真っ盛り。学校に行かなくてもよくなったがその分、社長やお偉いさん
がご丁寧にそれ相応のお仕事を用意してくれていて、結局は忙しかった。今年の夏
も―もう始まってるけど―メインはライブだ。
市井ちゃんが倒れてから二週間が過ぎた。
私はその間、市井ちゃんと連絡を取らなかった。
「取れなかった」という方が正しいのかもしれない。市井ちゃんの携帯電話は病院
にいるせいか繋がることはなかった。メールを打っても返ってこない。実家に電話
する方法もあったが、最近は携帯を使い慣れているせいか、「誰が出るかわからな
い」という電話は幾分の苦手意識を持っていたのでそれはやめた。
そういうことで、私は市井ちゃんからの電話を待つことにした。
だけど、二週間市井ちゃんの方からも連絡が来ることもなかった。
その間私は結構イライラしていたらしい。
私って公私混同するタイプだから、ラジオの収録中でもなんか寂しそうにぼそぼそ
喋っていたらしく、ディレクターさんに「ちゃんとしてよ〜」と言われたり、ライ
ブ中緩慢さが表に出たらしく、圭ちゃんに久しぶりに怒られた。
- 52 名前:2-7 後藤真希(5) 投稿日:2001年06月23日(土)08時06分40秒
- 「気分転換しようよ」
よっすぃーも心配していたようで声をかけてきた。最近、私はよっすぃーとよく遊
ぶ。「同級生とは仲良くなれない」なんてよっすぃーたち4人が入る前には思って
いたが、今は一番仲が良かったりする。よっすぃーはすっごくいい子で、サバサバ
してちょっと男らしいところは市井ちゃんに似ているなぁと思ったこともある。
その日はよっすぃーの誘いもあり、最近ヤケによっすぃーの近くにいる梨華ちゃん
と3人でショッピングに出かけた。とは言っても仕事の合間で時間もゆっくりとは
いかなかったけど。
最近、どこか憂鬱で買い物なんかしていなかった反動が来たのか、ここぞとばかり
に私は色んな物(特にブランド物)を買い込んだ。あまり品定めせずに買い漁る私
を見て、よっすぃーと梨華ちゃんは目を丸くしていた。
「でっかい紙袋を4つも抱える姿は、バーゲン帰りのオバちゃんみたいだね」なん
て呆れ半分に言うよっすぃー。梨華ちゃんは、私の買いっぷりに感心するばかり
で、紙袋の一つを持ってくれた。
「だって、これからあんまり時間なくなるじゃん。買いだめておかないと…」
「でも、あんまり品定めしないで買うのはよくないよ」
よっすぃーが眉をひそめながら諌める。
それぞれ帽子を目深に被ってサングラスをして…3人が同じような格好をすると何
か芸能人気取りみたいでイヤなんだけど、仕方がない。こういった身なりをすると
一番似合うのはどう見てもよっすぃーで単純にカッコいいなぁなんて思った。
- 53 名前:2-8 後藤真希(5) 投稿日:2001年06月23日(土)08時09分46秒
- 特徴が何にもない喫茶店に私たちは入った。でもそれが逆に入りやすさを増してい
て結構気に入った。
私と二つの湯気がゆらゆらと立つテーブルを挟んでよっすぃーと梨華ちゃん。
私はコーヒーに砂糖とフレッシュを入れた。フレッシュの白色がコーヒーの黒色に
渦を巻きながら溶け込む様を私は二人に構うことなくボーッと眺めた。
コーヒーをブラックのまま一口含んだ後、よっすぃーは声をかけてきた。一方の梨
華ちゃんは、冷たいエスプレッソをさも幸せそうに飲んでいる。
「何?」
フレッシュがポコポコと湧き水のように黒い泉を染めていき、ほとんどクリーム色
になりかけたのを見て、私は答えた。
「元気になった?」
「うん、ていうかずっと元気だよ、私」
「元気じゃないって…」
「そうかな…」
私は口を尖らせながら首をかしげる。梨華ちゃんも真剣な眼差しで「うんうん」
唸っていた。
「何かあったのなら、教えて。相談に乗るから」
- 54 名前:2-9 後藤真希(5) 投稿日:2001年06月23日(土)08時14分23秒
- よっすぃーの瞳はすごく強引な色を持っていて、「相談しろ!」と強制しているよ
うだった。一方の梨華ちゃんはちょっとぶりっ子気味にその瞳は柔らかい色をして
いた。二人の対照的な眼差しが交互に向けられると心が前後に揺さぶられるような
感じになって、ちょっと心根を開きたい気分になった。
いいコンビだね、とうらやましく思い、また二人の温かい心遣いに感謝した。
「実はね…」
と言ってからすぐにちょっと言いよどむ。なぜだかわからないけど、市井ちゃんの
名は出さない方がいいと思い直した。
「友達が…病気で倒れちゃったんだ…」
二人の動きがピタリと止まる…と同時に「アチッ!」という声がよっすぃーから出
た。静止した時に、コーヒーがこぼれたらしい。
「大丈夫…?」
私はよっすぃーの顔を心配そうに覗きこむと、「うん」と言ったあとで、
「どんな病気なの?」
あんまり深刻な話題にしないように努めたのか、若干間伸びした調子で聞いて
きた。
- 55 名前:2-10 後藤真希(5) 投稿日:2001年06月23日(土)08時16分23秒
- 「…わかんない。でも私の目の前で倒れちゃったから心配で…。詳しい検査をして
みないとわかんないって」
「ふ〜ん。あ、この前の友達だ!」
「え?」
「夜遅くに用事があるって言ってたじゃん。その時の?」
「ま、まあね。うん…」
「よくわかんないけど、ともかくごっちんまで落ちこんじゃってたらその友達もイ
ヤなんじゃない?元気出した方がいいよ」
そんなこと当たり前だよ、と思いながら、口に出して言ってくれると、「当たり
前」なことが今まで「当たり前」じゃなかったかのように新鮮な響きがした。
「そうだよね、ありがとう」
「お節介かもしれないけど、私で良ければ力になるよ。ごっちんが暗いのって堪え
られないから」
隣りの梨華ちゃんもまたうんうんと頷く。
「ありがと」
口元をキュッと引き締めて、かしこまりながらもう一度礼を言った。
- 56 名前:2-11 後藤真希(5) 投稿日:2001年06月23日(土)08時19分36秒
- それから、私は市井ちゃんの倒れた経緯や医者の言葉とかをいろいろ話した。
途中、「市井ちゃん」と言いそうになったところが何度かあったけど多分言わなか
っただろう。それにしても自分がこんなに口が軽い人間だとは思わなかった。小さ
な罪悪感を感じながらも、それはよっすぃーや梨華ちゃんが私にとっていかに信頼
できる存在であるかを自分の中で再確認したみたいでそれはそれで満足していた。
「じゃあさぁ、今電話してみよう!」
よっすぃーはブラックのコーヒーをググッと飲み干してから言った。私はその理由
をコーヒーカップの下に溜まった砂糖の甘味とザラザラした食感を楽しみながら聞
く。
「だってさぁ、ごっちんらしくないよ。心配なことがあるんだったらトコトン前に
進まないと。きっとその友達もさあ、喜ぶよ」
やけに快活によっすぃーは言った
「そうだよ、ポジティブだよ!」
「また、梨華ちゃんは…」
横槍を入れる梨華ちゃんによっすぃーはやや冷ややかに横を向いた。
「ええ〜、いいじゃん」
「それにさあ、使い方間違ってるよ」
「そう?」
「そうだよ〜」
二人の会話を聞いて、しばらく忘れていた小さな笑顔がこぼれた。
言い合いながらものっぺりとした雰囲気が生まれる二人の会話は、耳に入ると別空
間に誘いこまれたようで気持ちがいい(慣れるまでは鳥肌モンだったんだけど)。
「わかった。電話する。相手は病院にいるんで繋がらないかもしれないけど」
軽く自分の膝を叩きながらそう言って、私は携帯電話を片手に席を立った。
- 57 名前:休憩 投稿日:2001年06月23日(土)08時26分35秒
- 章ごとにコメント残そうかな、と思っていたんですけど早速破る。
前フリ長いなぁ…と出してて思う。
もうすぐですから。
- 58 名前:2-12 市井紗耶香(2) 投稿日:2001年06月23日(土)11時00分32秒
〜 市井紗耶香 〜
「誰から…だったの…?」
最近のお母さんはいつも不安そうだ。
私の表情、しぐさ、言動の全ての変化を観察するように目を光らせる。愛情ゆえ
に、というのはわかっているんだけど、信用されていないようでやっぱり哀しい。
「うん…後藤…みたい。いつの間にか携帯電話の電源入れちゃってたんだね。失敗
した」
「真希ちゃん?きっと心配してるのね…」
「あいつの前で倒れたんだからね」
私は意識的に携帯電話を持つ右手に力を込めながら、自問自答を繰り返した。
- 59 名前:2-13 市井紗耶香(2) 投稿日:2001年06月23日(土)11時01分30秒
- どうして出なかったのだろう?
私は「後藤真希」と表示された画面を見て、思わずオフにしてしまった。その押し
た親指はしばらくずっとそのボタンを必要以上に強く押しつづけていた。
先生の言葉。
お母さんの隣りの部屋から泣き叫ぶ声。
私の病気。
頭の中が真白にはならなかった。
何かが打ち砕かれたような衝撃も感じなかった。
妙に淡々としていて、チクタクと時間を刻む無感情なリズムだけが、頭の中で繰り
返された。
「絵画」と称した窓から見える光景は夏らしい夕立を映し出している。緑色の葉っ
ぱが雨に打たれながら落ちないように必死に耐えている。そんな自然な光景もいつ
もと変わらず自然に見えた。
別に何にも変わらない。
目に映る周りの白い光景も、耳に届く生活の音も、鼻で感じる温かい匂いも、何に
も変わらない。
ただあの言葉だけが、自分のことじゃないかのようにボーッと目の前に浮かんでい
る。
- 60 名前:2-14 市井紗耶香(2) 投稿日:2001年06月23日(土)11時02分33秒
- そんな感じだったので実感はない…いや、なかった。
なかったはずなのに…第五感で感じる空気が変わっていく。
周りが変わっていく…。
悲しい色で包まれた周りの人々。
そして一種の孤独感。
看護婦さんが変わった。
お母さんがが変わった。
お姉ちゃんが変わった。
私のことを知った周りの人、全てが皆一様に変わった。
- 61 名前:2-15 市井紗耶香(2) 投稿日:2001年06月23日(土)11時03分38秒
- 全ての私を取り囲む人の変化の中で唯一変わっていなかった私もいつの間にか変え
させられた。
それは打ちひしがれるような絶望感。
後藤はまだ知らない。
だけどいずれは言わなきゃならないだろう。
しかし言える勇気はまだ持ちえていなかった。
後藤の視線までもが…あの無邪気で無垢な笑顔が、今の看護婦さんやお母さんみた
いに変わっていくのを見てしまうと最後の居場所を失った気持ちになるからだろ
う。
だから私は電話に出れなかった。
- 62 名前:2-16 後藤真希(6) 投稿日:2001年06月24日(日)06時28分17秒
〜 後藤真希 〜
市井ちゃんに電話をしようとした日からさらに一週間経ってようやく何の音沙汰も
なかった市井ちゃんのお母さんから連絡がくる。
私が電話したことはあれからなかった。
あの時、確かに繋がった。そして、それから向こうの意思が生まれた。
プルルルッと3回。その後、ブチッという音。それは電話を切る音なんだけど、私
には二人の縁みたいな糸を切った音に聞こえ、背筋のあたりがゾクッとした。
そんなことはない、と考え直してもう一度、かけてはみたけれど「電源が入ってい
ない」という慣れ親しんだお姉さんの声が聞こえてきた。
「あとで公衆電話か何かで、かけてくるはず」
そう思い込んでは見たものの結局向こうからは一切連絡はなかった。
- 63 名前:2-17 後藤真希(6) 投稿日:2001年06月24日(日)06時30分59秒
- あいかわらず、仕事は多忙さを極めていた。1週間前の電話の件以降、私は市井
ちゃんのバスタブにうずくまった姿がより一層目に焼きついて離れなかった。目が
覚めてから最初に言った「大丈夫」という市井ちゃんの言葉を私は心のよりどころ
にしてはみたが、それでもあの姿から導き出される不安はそれを上回っていた。私
はその間、見舞いに行く時間が欲しくて、幾度となく体調の不良を訴えたりしてみ
たが、取り合ってもらえなかった。大抵は仮病だったが、時々本当にしんどくなる
ことがあった。しかし、忙しかったことはむしろ好都合だったのかもしれない。
「私にはどうしようもない」という無力感を味わわなくて済んだのだから。
電話は突然だった。
電話っていうのは通常突然なものだけれど、その音に慣れてしまっていて、突然ポ
ケットの中の携帯が振動でももを揺らしても、あゆの「SEASONS」が流れても、い
つもは何の反応を示すことなく、普通に取ることができ、「突然」とは感じない。
この電話も、同じ振動、同じ音だったはずだ。
しかし、今回は「突然」だった。あまり混んでいない電車の中に居たのだが、その
振動や音を聞いて、私はビクッと得体の知れないものにでも触れたかのように体を
緊張させてしまった。周りの人は、「携帯の電源は切っとけよ」という訝しげな目
ではなく、「何、こいつのこの反応は?」という奇異な目で見ていた。
- 64 名前:2-18 後藤真希(6) 投稿日:2001年06月24日(日)06時32分40秒
- 私は電車の中ということもあって、電源を切ろうとした。しかし、ピンク色に光る
液晶画面に「市井紗耶香」の文字を見ると、心変わりし、私はどっと訪れた不安を
身にまといながら通話ボタンを押した。
出たのは市井ちゃんではなく、市井ちゃんのお母さんだった。
声だけではわからなかっただろう。それくらい似ている。しかし、
「あ、真希ちゃん?」
最初に発した言葉がこれだったので、すぐに電話の向こうは市井ちゃんのお母さ
んだということがわかった。
「はい、後藤です」
「紗耶香の母ですけど、今いいですか?」
電話の向こうは低めの声で丁寧に聞いてくる。私は周りを見渡し、少し、「ごめん
なさい」と誰にというわけでもなく謝った後に、
「はい」
首筋を再度緊張させながら相槌をした。
電話の向こうの市井ちゃんのお母さんは真剣というか必死で何かを抑えているみた
いだった。
「今度、空いている時でいいから、見舞いに来てほしいんですよ」
「もちろん行きます。…でどうなんですか?市井ちゃん…は…?」
「うん、大分良くなったから。紗耶香の口から真希ちゃんに話したいことがあるら
しいのよ…」
- 65 名前:2-19 後藤真希(6) 投稿日:2001年06月24日(日)06時34分24秒
- 市井ちゃんのお母さんのいつもと違う思わせぶりな暗さに私は勝手に実体のない想
像をし、心が沈む。しかし「良くなった」の言葉があったおかげか、何とか自分の
足を地に着かすことができた。
「あの〜、みんなも連れてっていいですか?圭ちゃんとかやぐっちゃんとか…」
別に一緒に行こうとは思っていない。そもそも、私の口から市井ちゃんが入院して
いるとは言っていない。私はどれほどの「良くなった」という言葉が真実なのか、
無意識的にカマをかけたのかもしれない。
「それは…まず、真希ちゃんと話したいそうだから。さやは…」
「…わかりました。今、空いているのですぐ行きます。で、どこでしたっけ?」
口篭もる市井ちゃんのお母さんの声はこれも無意識ながら予想通りだった。病院の
場所を聞くとすぐに電源をオフにする。ピッという音を聞いた後、少しは軽くなっ
た心にまた重い影がのしかかってきたような気がした。私は今、東急東横線の渋谷
から桜木町方向の電車に乗っていたのだが、次にアナウンスされた「自由が丘」で
すぐに降りて引き返し、千葉の市井ちゃんのいる病院に向かった。
- 66 名前:2-20 後藤真希(6) 投稿日:2001年06月24日(日)06時36分15秒
- 病院は前に運ばれたところとは違っていた。
その質問をしようと思ったら、電話口にも関わらず、私の心を見透かしたように、
「あんな小さなところじゃ検査できないんですって」
と市井ちゃんのお母さんは先に述べた。確かに運ばれた病院は大きいというわけで
もなかったが別に診療所と呼ぶような小さいところではなく、パッと見たところ普
通に検査できそうな器具がありそうだったのに。
駅で適当に買ったハイビスカスを片手にタクシーに乗り20分ぐらいで着いた。
来たところはこの近辺で一番大きな病院だろう。大きな庭があり、車椅子にのった
小さな女の子が一人の看護婦さんの見守る中、精一杯太陽の光を浴びて遊んでいる
姿が見られた。
中に入ると大きなロビーが開かれており、中は病院独特のアルコールっぽい匂いが
薄くした。エアコンをガンガン付けているので外気よりも2、3度程度寒かった。
キャミ一枚という超薄着の私は一瞬寒気がして、鳥肌が立った。
受付に行き、そこから市井ちゃんのいる階を教えてもらった。看護婦さんは私の方
を見ると驚いていた。市井ちゃんがいるんだから、別に驚くことでもないと思うん
だけど。とにかく、私は一礼して、教えてもらった5階の南棟の510号室に向か
った。
- 67 名前:2-21 後藤真希(6) 投稿日:2001年06月24日(日)06時38分55秒
- 5階へ上がっても場所がわからなかったので、その階の受付にもう一度場所を尋ね
る羽目になったがL字型の建物の一番端に市井ちゃんがいると言われた。気のせい
か何となく隔離されているような気もした。
しばらく歩くと「市井紗耶香」と書かれたプレートが見えた。他の名前はない、と
いうか他に書くスペースがないところを見ると、ここは個室だろう。その通路を挟
んで反対側には丁度窓があり、上手い具合に光が射しこんでいる。黒い油性サイン
ペンで書かれた名前がその光で薄く見えた。私はノックをする前に「フーッ」と一
つ肩を揺らしながら深呼吸をした。この時ばかりは、市井ちゃんのお母さんが言っ
ていた「良くなった」という言葉を無条件に信じるように努めた。
「扉の向こうには元気な市井ちゃんがいる」
そう心の中で何度も繰り返した。口にもしたかもしれない。そして、これでようや
く体が冷え切ってうずくまっていた風呂場の市井ちゃんを忘れられるんだと前向き
に思うように努めた。
しかし、扉の向こう側からは何も人の気配を感じない。私は、引きノブのすぐ横を
2、3度ノックをして、向こうの反応に耳を傾けるも声一つ聞こえてこない。「検
査とかトイレかなんかでいないのかな?」と思いながら、扉を横に小さく引くとガ
ラガラと音を立てて開き、中の様子が徐々に見えてきた。
市井ちゃんは確かにいた。
- 68 名前:2-22 後藤真希(6) 投稿日:2001年06月24日(日)06時41分30秒
- 部屋の中は白一色だった。部屋だけじゃない。市井ちゃんの着ている服も、肌も、
そして、光に照らされているせいか、髪の毛さえも白く見えた。私の手に持つ赤い
ハイビスカスが毒々しく見え、思わずさっと後ろに隠した。
私はノックして病室に入ったし扉が開く音は結構大きく普通なら気付くはずなの
に、市井ちゃんは全く反応せず、銅像のようにうなだれたままその目線を下の白い
シーツに落としていた。乱れた髪の毛が少し汗を吸ってべたべたしているようで頬
のあたりに何本かくっついている。
「市井ちゃん…」
私はいつもと違う雰囲気を醸し出していた市井ちゃんにおそるおそる声をかける。
必要以上に小声になったせいだろうか市井ちゃんはやはり反応しない。
すると背もたれにしていたドアが開き、思わずのけぞる。市井ちゃんのお母さんが
先ほどの窓から射しこむ光を背に現れた。「あら」と私を一瞥すると、
「さや、真希ちゃんが来てくれたわよ!」
はるか10m先の相手に呼びかけるような大きな声を張り上げた。
そして、市井ちゃんはのそっと振り向いた。その動き様は若い乙女ではなかった。
- 69 名前:2-23 後藤真希(6) 投稿日:2001年06月24日(日)06時43分29秒
- 「後藤…」
私を見てから私を呼ぶまでにちょっとだけ時間がかかった。市井ちゃんは困惑した
表情で私を一瞬だけ見つめ、そしてすぐに目線をそらした。
「市井ちゃん…」
状況が只事ではないことは容易にわかり、次の言葉が浮かんでこなかった。
「さや、ちゃんと言うんでしょ?昨日、言ってたじゃない?」
市井ちゃんのお母さんの問いかけに、市井ちゃんは目線を変えずに、首の力が抜け
たようにコクンと頷いた。
「ねえ、真希ちゃん」
後ろから市井ちゃんのお母さんが私の肩を軽く叩く。
「紗耶香のこと、ちゃんと聞いてあげてね」
振り向いて見ると、市井ちゃんのお母さんの目には少し光って見えた。その光を見
せまいと目をさっと横にそらした。気がつくと肩に乗せた手が震え、私にも伝わっ
ていた。
私は小さく頷き市井ちゃんの方を見て近づいた。そんな私を見て、市井ちゃんはも
う一度私の方に目をやり、ゆっくりと口を開き始めた。
思わず、私は唾を飲み込んだ。
- 70 名前:2-24 後藤真希(6) 投稿日:2001年06月24日(日)06時57分39秒
- 市井ちゃんが何を言っているのか、最初は理解できなかった。
どんな覚悟も一応はしていたはずだ。しかし、そんなちっぽけな覚悟はどこか地中
深くに埋もれてしまう。例えどんなに気を引き締めていてもこの衝撃は同じだろ
う。市井ちゃんの言葉一つ一つは鮮明に覚えている。透きとおったガラスみたいに
はっきりと、そして、鋭く耳に残る。
しかし、その言葉の意味を脳が全く解さない。
防衛本能なのかもしれない。市井ちゃんの声、市井ちゃんの震える姿。耳や目の抹
消器官と脳の間の神経には道路工事の「工事中」の黄色と黒色の看板が立っている
ようにその事実という電気信号をストップさせられた。
代わりに静寂の部屋の外から看護婦が走り回る音が遠くから響いていた。
「だ、だ、だって…」
ドアの傍にいたままの市井ちゃんのお母さんが、声を殺して咽び泣きはじめる。
私の覚悟を遥かに超えた市井ちゃんの告白は一瞬だけど全ての感覚を失うくらい大
きかった。
「ちょっと前…わかった…の…」
誰もが耳にしたことのある病気。
だけど、ほとんどの人が身近に感じたことのない病気。
エイズという名の病気。
- 71 名前:第2章 終 投稿日:2001年06月24日(日)06時59分53秒
第2章 病気 〜acquired immune deficiency syndrome〜
- 72 名前:訂正 投稿日:2001年06月24日(日)07時02分16秒
- 訂正。
>>60 第五感 → 第六感
>>60 お母さんがが変わった → お母さんが変わった
- 73 名前:名無し読者 投稿日:2001年06月24日(日)19時54分23秒
- >エイズという名の病気。
やっぱり…
- 74 名前:名無し読者 投稿日:2001年06月25日(月)02時48分12秒
- ガーン!!ショックです・・・。
市井ちゃん・・・(涙
- 75 名前:名無し読者 投稿日:2001年06月27日(水)03時53分19秒
- なんとも衝撃的ですね。
この後どういった感じで展開していくんだろう?
続きが楽しみでもあり不安でもあり・・・。
- 76 名前:名無し読者 投稿日:2001年06月27日(水)12時35分40秒
- なんで・・・?原因はいったい・・・・?
- 77 名前:名無し読者 投稿日:2001年06月28日(木)03時29分46秒
- 続きを激しくきぼ〜ん
- 78 名前:名無しさん 投稿日:2001年06月30日(土)13時27分54秒
- 取りあげたネタは結構大きいかな、と思っていたんですが、どうなんでしょう?
もちろん、「エイズを知ってもらおう」なんて社会的な主旨はさらさらありませんし、
むしろこんなところで知ってもらっては困ります。
ただ単に、人と人との繋がりを書ければいいな、と思っています。
作者でした。
- 79 名前:3-1 後藤真希(7) 投稿日:2001年06月30日(土)13時29分43秒
〜後藤真希〜
エイズ?
市井ちゃんがエイズ?
エイズって何だっけ?
昔何かドラマでやってたような…。
ちょっと問題になってたような…。
あ、そうだ。フカキョンだ。
確か感動したなぁ。
あれ、何で感動したんだろう?
ていうか、どんなお話だったっけ?
あれ…?
感動じゃなくて泣いたんだっけ?
悲しくて泣いたんだっけ?
何で、私は悲しんだの?
あれ…?
……フカキョン…死んじゃってる……。
- 80 名前:3-2 後藤真希(7) 投稿日:2001年06月30日(土)13時30分22秒
- 市井ちゃんを含めた視界が水を被った水性絵の具のように溶けはじめ、目の前がグ
ルグルと加速度をつけて渦を巻く。そして、その渦に私も呑みこまれ、頭の中が真
っ白になった。きっと、この白一色の空間に私も吸い込まれてしまったんだろう。
頭に浮かぶイメージとか匂いとか音とか全てが白いフィルターにかけられたような
感覚を覚えた。
こんなに「白」が重いものだとは思わなかった。
- 81 名前:3-3 後藤真希(7) 投稿日:2001年06月30日(土)13時31分17秒
死んじゃう病気…。
エイズって、そんな病気。
そうだ。確か、昔授業でやっていた。
「エイズって特別なんだ」
そう頭の中に植え付けられたような気がする。
トクベツ?
今の市井ちゃんはエイズなの?
市井ちゃんはトクベツなの?
……死んじゃうの?
- 82 名前:3-4 後藤真希(7) 投稿日:2001年06月30日(土)13時32分32秒
- どうやってその場を離れたか覚えていない。
ただ、市井ちゃんの顔や体を一瞬たりとも見れなかったのは確かだ。
見たら市井ちゃんが砂煙のように消えてしまうような気がしたから。
いつの間にか私は足にギプスをしたスポーツ新聞を食い入るように熟読する青年や
この病院が自分の家であるかのようにくつろぎ、談笑をするおじいちゃんやおばあ
ちゃんがいる小さな待合室に座っていた。ミッキーマウスがプリントされた赤いパ
ジャマを着た子供が突然、「うわ〜ん」と目の前で泣き出して私は我に返った。そ
の子供に目をやると、先には市井ちゃんのお母さんがいて、目が合うと深々と礼を
してきた。
市井ちゃんのお母さんがやってきて事情を説明してくれた。
8年前、家族でタイに遊びに行ったことがあったこと。
そこで、大怪我をして大量の輸血をしたこと。
医者の推測によると、その輸血した血の中にきっとウィルスがあったんだろうとい
うこと。
- 83 名前:3-5 後藤真希(7) 投稿日:2001年06月30日(土)13時35分09秒
- 「だって、それって……えっと、小学校三年の時ですよね?そんな時から感染して
たんですか?」
指折り数えて「小学3年」というあまりにも遠い過去に辿り着き、確認するように
聞くと市井ちゃんのお母さんは肩を震わせながら頷く。
「気付いてやれなかった…。もう今じゃ、免疫力が他の人の3分の1もなくなって
るって…いつ発症してもおかしくない状況だって…」
「発症って…」
私は混乱から逃げてしまったからか脱力してしまい、それからは市井ちゃんのお母
さんの話を黙って聞くしか術がなくなった。
「告知なんて、どうしようか迷ったけど、とにかく早く治療を始めなきゃならない
し、何より自己管理をしっかりしてもらわないと…。それに、他の人に感染させな
いためにも気を付けてもらわないと…と思って。つい昨日まで、自暴自棄になっ
ちゃってて、やっと昨日混乱が収まったところだったのよ…」
体全体から湧き上がってくる悲しみや絶望を押さえつけながら必死に話しつづけて
いる。くしゃくしゃにした薄く茶色がかった髪や40代前半の肌が50にも60に
も見えた。
市井ちゃんのお母さんの言葉はただ頭に入るだけで、何も考えることができなかっ
た。「思考」の一歩直前にパーキングエリアがあってそこに貯蔵されているような
感じだ。
「市井ちゃんがエイズウィルスに感染した」という事実だけが頭の中に蔓延する。
そして、その事実は事実として受け入れられず、心の外側に浮遊しながら取り巻
き、全て黒いものに浸食させていくような感じがした。
- 84 名前:3-6 後藤真希(7) 投稿日:2001年06月30日(土)13時36分50秒
- 私はそれから市井ちゃんに顔を見せることができず家に帰った。
宵闇がたちこめはじめていた帰り道は私の目の前を常に細くて長い影が私を威圧す
るように走る。包み隠さず私の心を映し出していた。
出された晩飯は私の好きな肉じゃがだったがろくに食べれずに箸を置いた。お母さ
んは、
「あんた、拒食症になりたいんじゃないんだろうねぇ?」
なんて冗談めいたことを言っていたがそれすら反応する気にはなれず、小声で「ご
ちそうさまでした」と言うと、その食卓を離れ、自分の部屋に入り、布団を敷きっ
放しのベッドに飛び込んだ。きっとお母さんはすっごく心配な顔をしていたに違い
ない。
両手でがっしりと枕を掴み、顔を押し付けると私はあれから初めて泣いた。一人に
なって心のタガのようなものが緩んだのだろう。心の周りを取り巻いていた黒いも
のが意志を持ったように一斉攻撃をはじめる。なす術なく痛めつけられる心は抵抗
することなく収縮されていく。それは心臓全体が鈍器で押しつぶされたような痛み
だった。同じような痛みは、胃に、頭に、そして、手足の抹消部に、がん細胞のよ
うに転移しはじめる。耐えるのに必死になって体全体をギュッと押さえつけ、枕カ
バーを強く噛み、唸るように枕に向かって叫んだ。
- 85 名前:3-7 後藤真希(7) 投稿日:2001年06月30日(土)13時40分57秒
- 「コンコン」
どれくらい経ったかわからない。ドアからノックをする音が聞こえた。
「はい…」
泣き疲れたせいか、息遣いが乱れている。しかし「泣く」という行為自体に苦しみ
を発散してくれる力があるのだろうか、何となく気が軽くなった。そして、今一人
っきりの空間に誰かが侵入してきたせいで心のタガが再び締められたせいなのか、
突然痛みがすーっと奈落に落ちるように消えていく。
「誰…?」
疲労で倦怠感漂う体を揺り起こし、鍵をかけていたドアを開ける。そこには、憎ら
しいほど見慣れていた弟の顔があった。
「なんだ…」
警戒的な硬い声を解く。ふと、今自分がどんな顔をしているのか恐くなり、思わず
目をそらす。
「うわっ!あいかわらず汚ねぇな…」
弟の口からは私の顔よりも電気も点いていない部屋に向けての率直な感想だった。
「うっさいわねー、仕事終わったの?」
思ったより普通に声が出た。若干掠れていたかもしれないが、他人にはわからない
程度だろう。
「うん、入っていい?」
「…いいよ」
一瞬ためらったが、冗談でもダメとは言わさない弟を見て渋々承諾した。それにし
ても弟を自分の部屋に入れたのは久しぶりだ。別に疎遠というわけではないけれ
ど、そこは年頃の男と女。自然の成り行きでお互いの部屋に行くことはほとんどな
くなっていた。
- 86 名前:3-8 後藤真希(7) 投稿日:2001年06月30日(土)13時47分13秒
- 私は弟を薄汚い手製の座布団が付いている椅子に誘導し、私はベッドに腰掛けた。
弾むベッドの上に乗っている水色のシーツは全体的に汗と涙で濡れている。部屋の
真ん中にある蛍光灯に吊り下げられた紐を引っ張り、電気をつけると、部屋の汚さ
が一段と際立って見える。まあ、弟だからあんまりそのことは気にしない。私は
ベッドの横に整理なく落ちている手鏡を手に取り、自分の顔を覗くと髪の毛は四方
八方に撥ねており、目の周りが赤く腫れぼったかった。自分で言うのもなんだけ
ど、不細工だ。
私はとにかく泣いていたことをに弟に気付かれたくなくて、電気を消した。当然、
弟はそんな行動に疑問を抱く。
「何で消すの?」
「せ、節約よ…」
「真希ちゃんがそんなこと考えるはずないじゃん」
「この前…番組でそういう企画あったのよ。で影響されて…」
「ふ〜ん…でも変」
適当にごまかそうとすると、弟は納得せずにそう言った。まあそれは当たり前のこ
とだろう。どんな情報番組でも人と話す時も電気を消してでも節約しなさいなんて
いう番組があるワケがない。だけどその後、弟は冗談混じりに、「俺を襲う気じゃ
ないだろうなぁ?」なんて言い、「殴ろうか?」なんて私が冗談で応え、そして、
「殴り合いはもう止めるって決まりになったじゃん」と冗談混じりに慌てる。
そんなある程度お決まりのやりとりがあってからは、追求はしてこなかった。弟は
無理だと思ったらこれ以上詮索はせず、そして以降綺麗さっぱり忘れてくれる爽や
かなところがある。
ただ、暗闇の中にいるのはどう考えても変なので、電気をつける。しかし二回、線
を引っ張って、一段薄暗くした。弟は私の方を見ていたがどうやらくちゃくちゃに
なった髪の毛の方が気になるらしく、泣き面の不細工な顔には気付いていないよう
だった。
- 87 名前:3-9 後藤真希(7) 投稿日:2001年06月30日(土)13時48分36秒
「それより、仕事真面目にやってる?」
「まあね、やっぱ大変だ」
椅子の上で足を組んでいた弟はその足を組み変える。さりげなくカッコつけている
が如何せん足はそんなに長くないので、その動作が似合わない。右手を机の上に乗
せ、人差し指をトントンと爪を立てて動かしながら弟は言った。
「ところで何してたの?」
「別に。眠かったから寝てただけだよ」
電気もつけないでやることなんて寝ること以外思いつかない。
「御飯も食べれないくらい眠かったんだ。めずらしい」
「めずらしいって何よ」
「だって、食べること第一主義だった真希ちゃんなのに」
「そんな時代は過去過去。今は睡眠第一主義よ」
「どっちにしたって女らしくないね」
苦笑する弟に私は口を尖らせて、
「別にあんたに女らしくしたってしかたないからね」
と言う。悪態をつきながらの歯切れがよいこの会話はやはり血の繋がった者同士の
なせるワザだ。
- 88 名前:3-10 後藤真希(7) 投稿日:2001年06月30日(土)13時50分09秒
- 「…なんだ、元気じゃん」
弟はポツリとどことなく嬉しそうに呟いた。その一言で弟が珍しく私の部屋に来た
理由を察知する。
「ところで用事は何?」
「うん、えっと…英語の辞書貸してくれない?」
一瞬目が泳いだ後、思い出したように聞いてきた。それが嘘であることはわかって
いた。なんてったって私の弟だ。こんな時間に勉強をするわけがない。しかも英語
だなんて絶対しない奴だ。
「そこ。机にあるから」
私は指差す先に弟は首だけを動かし、ほとんど目の前にある新品同然の辞書を見つ
けると、
「おっ、サンキュ!」
手を伸ばし、辞書を取り、そのまま立ち上がった。
「んじゃ行くから。ごめんね、起こしちゃって」
「うん」
弟は辞書を片手にそそくさと部屋を出ようとする。その時、私は呼び止めて本音を
言った。
「何?」
「ありがと。ラクになった」
弟がふっと安心したように微笑んだのが薄暗い場の中でも分かった。
「その顔…母さんにも見せてやりなよ。心配してるから」
そう言い残し、私の返事も聞かずに部屋を出た。
- 89 名前:3-11 後藤真希(7) 投稿日:2001年06月30日(土)13時53分16秒
- バタンというドアが閉まる音を聞いた後は、少しボーッとした。静かに流れる時と
空間の中で一本の輪っかの電球がジジジと微かに音を立てている。
「フーッ」
ベッドに接している壁を背もたれにして上を向きながらゆっくりと息を吐いた。弟
はお母さんに言われて私の様子を見に来たのだろう。そして、思ったより元気で
ほっとしたというところだろう。弟のおかげで「日常」に戻った私は、通行をスト
ップしていた市井ちゃんのお母さんの言葉がゆっくり脳に流れ込むのを穏やかに感
じる。
「市井ちゃんがエイズ」
これを聞いた時、私の頭の上で銃声のような音が同時に聞こえた。それは、映画の
一場面のような現実感を伴わないものだった。しかし、その現実ぽくない中から聞
こえていた一文を今の私はセイムタオルのように現実のものとして急速に吸収し
た。冷静とまではいかないが、「これからどうしよう」程度の明日へ向ける思うぐ
らいの余裕は持てるようになった。
すると、急激に眠くなる。
弟には冗談混じりに言ったが、睡眠第一主義はほぼ正解だったりする。深い透明な
泉に誘われるが如く落ちてゆくこの瞬間はもっとも幸せな時の一つだ。Lの字にし
ていた体をそのまま倒し、ベッドに埋もれた。市井ちゃんの悲しいだけの姿を思い
浮かべるとどうしても心臓が早まるけれども、絶望にまでその鼓動は昇華せず、そ
の至福の瞬間に体を預けようとする。
- 90 名前:3-12 後藤真希(7) 投稿日:2001年06月30日(土)13時55分27秒
- しかし、私の残っていた現実派の思考の一部がその落ちゆく世界から、元の世界へ
素早く引張りあげた。その思考は市井ちゃんのお母さんの言葉を反復していた。
「感染」
今初めて私はこのキーワードの意味を解釈した。
途端に私は飛び起きた。その勢いのせいで羊毛布団がバサッと音を出して、ベッド
から滑り落ちる。そんなことに気付かずに私は全身を流れる血を感じ、それが今
さっき受け入れた事実に汚染されているようにドロドロした感じがした。両手を頭
に抱えブルブルと震えた。
お風呂には一緒に入ったこともある。
汗をかいた市井ちゃんに抱きついたことなんかは何度もあった。
包丁なんかで切った市井ちゃんの指を冗談半分で舐めたこともあったかもしれない。
そう言えば、最近、体調が悪い。
汗がにじみでている額をさわる。少しひんやりしていた。
私は大丈夫なの?
私は検査を受けに行かなくていいの?
私は感染していないの?
気がつくと、情けないことにそんなことばかり考えてしまっていた。
- 91 名前:名無しさん 投稿日:2001年06月30日(土)14時01分49秒
- 第3章、案外長いなぁ。
- 92 名前:某スレの223 投稿日:2001年06月30日(土)14時10分45秒
- 待ってましたよ!
ごとー、おれは信じてる!
いちーちゃんを救ってやってくれ!
作者さんも気長に待ちますので、またーり、と進めてください。
最後までお付き合いします。
- 93 名前:名無し読者 投稿日:2001年07月02日(月)02時54分24秒
- せつないな〜、苦しいほどに・・・
でも続きが気になるんだよな〜(w
- 94 名前:訂正 投稿日:2001年07月02日(月)10時37分35秒
- 訂正。
>>85 冗談でもダメとは言わさない→冗談でもダメとは言わさせてくれそうにない
合ってる?(日本語って難しい)
- 95 名前:3-13 市井紗耶香(3) 投稿日:2001年07月02日(月)11時31分56秒
〜 市井紗耶香〜
反応はお母さんやお姉ちゃんと同じだった。
告白の後、後藤は私と目を合わせることなく、その場を去って行った。
手を後ろにして隠すように持っていたハイビスカスがバサッと音を立てて落ちる。
花びらが何枚か離れ、ひんやりとしたワックスで光る床に広がるその様は昔の少女
漫画でよく見る「死」を表す時のバックに美しく映える花びらのように見え、少し
息が苦しくなった。
後藤はハイビスカスのことなど全く気付かずに絶望の光を受けた幽霊のように
スーッと消えていった。
私はベッドを降り、右腕に繋がっている点滴に気をつけながらハイビスカスとその
周辺の散ってしまった花びらを一つ一つ拾う。
哀しい思いばかりが胸に宿る。
また一人、こっちの世界に連れこんだ感じがして、それが罪のように思えた。
もちろんたとえ言わなかったとしても、それはそれで罪なんだろうけど、やっぱり
つらかった。
私は狂いそうな感情を、カケラとして残っている理性で必死に抑えた。
後藤は私を受け入れてくれるだろうか?
そして恨んだりしないだろうか?
- 96 名前:3-14 市井紗耶香(3) 投稿日:2001年07月02日(月)11時34分01秒
- 私は拾った花びらを重ねて、手でギュッと握り締める。色素が手につき、花の香り
が濃密に匂った。合わせるように脳内に流れ込む様々な情動に私はふいの眩暈と覚
え、大きく首を振る。その動作が大きすぎて少し吐き気がした。
ハイビスカスはあまりにも不似合いだった。白い世界のこの強い赤は血にも見え
た。それは今の私にとっては死を暗示させる。恐怖と同時に産まれた憎しみの形を
一瞬ぶつけようと花束を振り上げたが、ふと「花には罪はない」と変な境地を覚
え、私は花束を優しく抱きかかえた。
非対称の曲がり方をしている淡い水色の花瓶に水を入れ、花をさし、窓際のすぐ横
にある背の低いボードに置いた。ハイビスカスが微笑んでくれる場所は白の世界に
唯一刃向かう近くのここしかなかった。
全然大したことでもないはずなのに、こんな一連の行動で、どっと疲れが出た。別
に病気が直接的に影響しているのではなく、やはり病みきった精神状態のせいから
だろう。私は早く取り除きたくて自分の体温でぬるくなっているベッドに入った。
上の天井はもう見慣れた光景。
そこから焦点を外して考えると一色のどこか遠くへ飛ばされかねない気持ちに襲わ
れる光景も少しは違って見える。
水庖性の皮疹のせいで赤く染められた皮膚、額に不自然にひっつく髪の毛、面痩せ
た頬のくぼんだ感触を細くなった手で感じながら、私のことと後藤のことを今一
度、惟みる。
本当は、ちゃんとフォローすべきだったんだ。後藤があんな風にショックを受ける
ことは予想がついていた。だから、他人を…後藤を気遣って、「でも大丈夫。私は
闘う覚悟はついているんだから」と話せるまで時間を取るべきだったんだ。
しかし、こう私の口から言わせるほど、私は自分の中で気持ちを整理できていなか
ったし、闘うと言うまで自分の今の境遇を認めていなかった。
- 97 名前:3-15 市井紗耶香(3) 投稿日:2001年07月02日(月)11時35分56秒
- 後藤を「信じている」。
錯綜した感情の群れの中、薄っぺらい根拠から私は何度もその言葉を心の中で呪
縛にかかったようにつぶやいた。
しかし、「こうやって思い込もうとしていること自体が『信じていない』ってこと
なんだよ」なんて声が聞こえてくる。
後藤でこんなにつらいんだったら、あの人に対しては……。
「やっぱり言わなきゃ良かった」
「信じている」と心の中で何度も何度も繰り返す中、口から出たのは結局、そんな
後悔の言葉だった。
- 98 名前:_ 投稿日:2001年07月02日(月)19時07分34秒
-
- 99 名前:3-16 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時13分50秒
〜後藤真希〜
どんなに心配してもどんなに不安になっても次の日はやってくる。
時間の流れ方は誰にでも平等で、その刻み方は一緒だ。
生きている限り。
もしこのままの状態で私の感じる時間だけが止まってしまうようなら、自分が変に
なってしまうだろう。どんなにつらくても、朝になると日が昇り、徐々に気温が上
がっていくのを体感できるという生きる上での唯一の平等さに感謝した。
もちろん、どんなに時が進んでも不安がなくなるわけではない。解決するために
は、その平等な時の流れの中で、濃密にその思いを紡ぎ、次の瞬間の糧にしなけれ
ばならない。そんな機会を私たちには与えられている。例え、目の前が真っ暗でも
私たちは流れの中で前に進むしかないんだ。
- 100 名前:3-17 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時14分45秒
- 今はまさにそんな状態だ。誰にも相談できない重い荷物を抱えながら、私は仕事に
向かう。
仕事とは当然歌手業だ。
歌を歌うという仕事。
「夢を与える仕事」だなんてよく言ったものだが、実際、与えている当人たちはバ
ラエティ系の仕事が多くなっていることや、ただ与えられた楽曲を意志を持たない
機械のように無条件で受け入れなければならないことなどから、そんな気持ちは大
分薄れてきている。こんな、今の「歌を歌わされている」と感じずにはいられない
現状は苦痛だった。それでも、中学の友達に「うらやましいなぁ」なんて言われる
と、「私って贅沢なのかな?」なんて思ってしまう。
そんな葛藤はモーニング娘。のメンバー全員に少なからずあると思うが、あまりそ
ういうことはお互い口にしない。ちなみに市井ちゃんは最もそんな葛藤を感じてい
た人間で、これが一因で辞めたといっても過言ではない。もしかしたら、市井ちゃ
んと同じ理由で辞める人がすぐ出てくるかもしれない。そして、それは私かもしれ
ない。
- 101 名前:3-18 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時15分49秒
- 私はまだ中学生。
もう中学生。
大人な自分と子供な自分。
肉体的にも精神的にもいろんな変化の狭間にいて、時々バランスが保てず、私の場
合、それが胃にくる。「図太い神経してるわね」と近所の親しいおばさんに尊敬を
込めて言われた小学生時代が嘘みたいだ。
いや、本当の私の神経はか細いんだ。
何かのきっかけで「図太い」なんて言われたせいで、「私って図太い神経なんだ」
と自分を作るようになっただけなのかもしれない。
人って生きていく上でそういうことがよくあると思う。
自分の人格が自分ではなく他人のさりげない一言で作られるってことが。
でもそうやって作られた人格は概して表面上を包むだけで、あるきっかけですぐ剥
がされてしまう。
- 102 名前:3-19 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時18分02秒
ふと思った。
私が市井ちゃんを一言で表すならば「強い人」だ。
でも、それは市井ちゃんが自分で作った人格なんだろうか?
市井ちゃんは私の為に、無理をしていたんだろうか?
「後藤に出会って私は変わったんだよ」
プッチモニができてからしばらくして市井ちゃんはそう言っていた。当時私はピン
と来ずに、小首を傾げたが、「私のおかげ」と言っていると解釈して、なんとなく
嬉しかったことを思い出した。
しかし、今はこの言葉が重い意味でのしかかる。
ホントはすっごく市井ちゃんは弱い人間なのに、私はさらに弱い人間だから、自分
を仮でもいいから強くならざるを得なかったのではないか?
だから私が感じる市井ちゃんの強さはメッキ並に剥れやすいものなのでは?
そう思わずにはいられなかった。
そしてそれは市井ちゃんがエイズウィルスによって果てていくという愚かな想像を
容易にさせ、また胃が痛んだ。
- 103 名前:3-20 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時21分17秒
「ねえ、ごっちん…」
「…」
「ごっちんてばぁ〜」
「…んあ…」
揺さぶられる体の外で聞きなれたくぐもった声が飛んできた。そんな単なる甘い呼
びかけがまるで価値のあるもののように余韻を残す。
ハロモニの1本目の収録を終えて、私は楽屋で眠ってしまっていたようだ。
昨日はほとんど眠れず、その分が今になって表れたのかもしれない。朝から蔓延と
広がる眠気が何度も緩やかに襲っていて、収録の合間のちょっとした油断に気をと
られてしまった。
声をかけていたのはよっすぃーだ。
- 104 名前:3-21 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時23分31秒
- 「ん?何?具合悪いの?」
振り向くとおでこが痛かった。卒業式で親やご来賓の人が座るような安物のパイプ
椅子に座りながら、壁に固定されたテーブルに頭をつけて寝ていたようだ。目の前
の大きな鏡に私の顔が映っていたが、おでこの中央がピンポイントで赤みを帯びて
いた。
「それは私のセリフだよ。どっか体調でも悪いの?目にクマできてるよ」
「ごめん、考えごと…」
「もうすぐ2本目の収録だよ」
「うん、準備する。ちょっと待って」
おでこについた赤いあとを隠しながら、よっすぃーに腕を引かれて椅子から立ち上
がろうとすると、少し目の前が眩んだ。
足がもつれ、よっすぃーの腕に重心を乗せる格好になってしまう。
「うわ!」と声を出し、よっすぃーは、
「どうしたの!?」
異様に切羽詰った感じで聞いていた。隣りにいたなっちがこっちの方を向き、
「大丈夫?」
とよっすぃーとは対照的にあんまり緊迫感のないのほほんとした声で心配なさげに
見つめる。その場にいた他のみんなも私に注目したがその態度の取り方は十人十色
だが、大体はなっちみたいな顔色だ。それほど大したこととは思っていなさそう。
- 105 名前:3-22 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時24分44秒
- 「ははは、立ちくらみ。よっすぃーも大げさだよ」
「で、でも…おかしい…」
二つの足をしっかりと安定させながら、すくっと立ち、
「大丈夫大丈夫。大げさだなぁ、よっすぃーは」
と大げさによっすぃーの両肩を二度ほどポンと叩いた。それでも不安の色が褪せな
いよっすぃーを見て、「よっすぃーって結構鋭いなぁ」と思った。
「さてと、行きますか」
よいしょと言いそうなくらい重そうな腰を上げながら裕ちゃんは言った。その一声
でみんな一斉に立ち上がり、楽屋を後にした。私は一番最後に出たのだが、メンバ
ー一人一人の何も知らないで颯爽と歩き出す後ろ姿を見ているとうらやましく思え
た。
そして、
みんなに知らせるべきなんだろうか?
と思った。
そして、また私の胃がキリリと痛んだ。
いつもより強くて、思わず顔を歪めたが一番後ろにいたので、その苦痛の表情は誰
にも気付かれずに済んだ。
- 106 名前:3-23 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時31分29秒
次の日は学校に登校、そして放課後から「お願いモーニング」の収録が入ってい
た。しかし、思い立って私は市井ちゃんのお見舞いに行くことにした。
この番組は、モーニング娘。全員が出なければいけない番組ではなかったので、私
はなんとかなるだろうと思い、マネージャーに「体調が悪いから休ませてほしい」
と電話で懇願した。もちろん、テレビ局にとっては「出てもらうはず予定なのに出
ない」ことは重大なことようでマネージャーは必死になって説得し続けた。しか
し、私は、「ごめんなさい」「おねがいします」を何度も何度も言い、それでも許
してはくれなかったが、そこは電話の利点。ボタン一つで私のわがままを通した。
足取りは重かった。
家で私服に着替えてから、歩き、電車、タクシーと乗り継いで病院に行ったのだ
が、市井ちゃんに近づけば近づくほど、田舎に進む方向なのに空気が淀んでいくよ
うな感じがした。
仮病を使ってまで、見舞いに行って何をするのだろう。
自分の不可解な行動を思い倦みながら歩を進めた。
- 107 名前:3-24 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時44分40秒
- 市井ちゃんのいる部屋にまで迷わず来れた。大きく一つ深呼吸してから扉をノック
すると、しばらく間隔があいた後、扉の向こうで、「どうぞ」という声が聞こえ
た。市井ちゃんの声だ。私はおもむろに扉を開ける。ベッドに腰を曲げて座ってい
る市井ちゃんは私の顔を確認すると、すぐに後ろを向き、窓から見える優しく光る
景色を眩しそうに眺めはじめた。使いまわされた病院の服を纏う後ろ姿は儚くそし
て、寂しい。一緒にステージに立って輝いていた市井ちゃんとは別人に見えた。
今日、ファッションリングを全て外し、極力質素な服を選んだのは正解だった。飾
り気のない薄い黄色系のブラウスは何の意志も表示せず、この異様な空間に浮くこ
ともない。
「お花買ってきたんだ」
同様の理由と、前回の教訓もあってあまり目立たない白い花を買っておいた。急い
で買ったのであまり種類は拘らなかった。ともかく、白の空間に押しつぶされない
ような花を選んだ。
「どう、きれいでしょ?」
市井ちゃんは反応しない。こっちの方を見ようともしない。そんな様子にいろんな
嫌な想像を巡らせ、怯えてしまっていたのか自分の声が上ずった。心臓がそのペー
スを速め、私の緊張を強めていた。必死になってそれを押さえようとする。
- 108 名前:3-25 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時45分36秒
- 「ねえ」
私のそんな動揺を全く無視するかのように、後ろを向きながら、市井ちゃんが口を
開きはじめる。
「今日、仕事さぼったでしょ?」
「ううん、休み」
「うそ。私にはわかるんだから」
市井ちゃんの声は何の迷いもなさげだ。そして市井ちゃんはやっと私の方を振り向
いた。バックの薄く射す光が市井ちゃんの背後から私の網膜を襲う。そんな中で映
る市井ちゃんは想像していた悪いイメージではなかった。
それはあまりにも自然な笑顔だった。
後ろの光のせいか黒や白などの我が強い色の部分を排除して透き通った笑みを市井
ちゃんは見せた。
私の知っている笑顔、そして私の大好きな笑顔。
- 109 名前:3-26 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時47分35秒
- そんな市井ちゃんを見て、今まで悶々と取り巻いていたものが徐々に消えていく。
「エヘヘー、わかっちった?」
バツの悪そうな顔をしてチラリと舌を出すと、市井ちゃんは「コラ」と少し頬を膨
らませた。目じりは下がっている。
「別に一日二日を争うものじゃないんだから、さぼってまで来なくていいわよ。ど
うしても暇な時にでも顔を出して」
「それじゃあ、ずーっと会えないじゃん、忙しいんだよ。モーニング娘。は」
西洋人が見せるヤレヤレという肩をすくめたポーズをすると私のその時にした表情
がおかしかったらしく、市井ちゃんは吹き出して笑った。私もその市井ちゃんの笑
い方がおかしくて同調した。
「…ははは。お見舞いに来てくれてありがと。嬉しいよ」
「うん」
一息ついて市井ちゃんは穏やかにそう言った。全てがどこか吹っ切れているようだ
った。もちろんそんなはずはないのだろうけど、例え表面上でもそんな表情ができ
るってことは確かなことだ。それだけで私は随分楽になった。狭かった視界が波紋
のように広がる。
- 110 名前:3-27 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時50分28秒
- 「で、他のメンバーには言ったの?矢口とか圭ちゃんとか…」
「ううん、言ってない。私が言うのもなんかおかしい気がして」
「そっか、ありがと。そうしてくれた方が助かる」
助かる、という意味がよくわからなかったがともかく自分の行動が正解だったよう
で胸を撫で下ろす。本当のことを言うと「言わなかった」のではなく自分のことで
精一杯で「言えなかった」だけなんだけど。
「また、お花買ってきたの?」
手に持つ花に一度目線を下ろして、市井ちゃんは言った。声を出さずに頷いた時、
奥の窓際には前に買ってきたハイビスカスが見えた。
「あ、あれ…」
市井ちゃんは私の目線が後ろのハイビスカスに向けられていることがすぐにわかっ
たらしい。
「ああ、あれね。ちょっとこの部屋には似合わないとは思ったんだけど、せっかく
買ってきてくれたんだし、もったいないかなぁって」
「じゃあ、取り替えようよ。私もあの花はダメだなぁって思ってたんだ」
市井ちゃんの返事を待たずに私は窓際に足を進め、ハイビスカスとその花瓶を持っ
てきて、今手に持つ白い花を慣れない手つきで取り替える。そして、また窓際に置
こうとしたが、
「その前に、ちゃんと見せてよ。それ何て花?」
市井ちゃんが私の一連の動作を優しく眺めながら尋ねた。
「え〜っと何だったかな?」
「ともかく見せて。香りも楽しみたいから」
「うん!」
- 111 名前:3-28 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時53分45秒
- 私はその言葉に郷愁に満ちた響きを覚え、嬉々としてベッドに近づいた。
いつもの市井ちゃんだ。
市井ちゃんらしいキザな言葉だ。
市井ちゃんらしい行動だ。
今までと何にも変わらない。
さっきまでの憂鬱な気持ちは一体何だったんだ?
私は一度入れた花瓶から白い花を取り出して、市井ちゃんに渡した。茎の下の部分
を拭かなかったので渡す間に水滴がポタポタと落ちた。
「あ、これ…」
市井ちゃんは花を見ながら、呟いた。
「何?」
「カーネーションじゃん」
「そうなの?私、花って全然知らなくて」
「カーネーションぐらい知ってるでしょ?」
「名前ぐらいは…」
「おいおい。でも白いカーネーションかぁ…」
市井ちゃんはちょっと気難しい表情をした。私には何を考え込んでいるのかわから
なかった。しばらくカーネーションを抱え、眉を薄くひそめ、少しう〜んと唸った
あと、その香りをかぎ、
「ま、好きだからいっか。ありがと」
- 112 名前:3-29 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)19時54分34秒
- 意味深な言葉のあとに優しく微笑み、カーネーションを私に渡そうとした。
全てが私の不安を裏切ってくれて順調だった。
「取り越し苦労」という言葉のありがたみを感じていた。
しかし…
市井ちゃんの笑顔はそこまでだった。
私はその笑顔を私のせいで一気に曇らせてしまう。
最低のことをしてしまう。
- 113 名前:3-30 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)20時11分42秒
「…クシュン!」
その時、市井ちゃんはむせたのかどうかわからないが、とにかく、市井ちゃんは両手に花を持っていたため、口を押さえる手段もなく、ただ前方の私に向かってくしゃみをした。その瞬間、私は花を受け取ることなど忘れて、無意識にぱっと後ろにジャ
ンプした。手渡されようとしていたカーネーションは市井ちゃんの手を離れ、私と
の間にぼとりと落ちる、私の体は後ろにあった棚の上の空の花瓶とぶつかり、花瓶
が棚から落ちて発生したガチャンという音が私の耳をつんざいた。
「あ…」
二人の声が重なり合う。
私…なんで逃げて…
ほとんど無意識だった。本能だった。
「市井ちゃんの咳には触れてはいけない」
いつの間に頭の中にインプットされていたんだろう。
最初以上の緊張が再び走る。
「…」
「…」
- 114 名前:3-31 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)20時13分57秒
- 私は市井ちゃんの顔を見れなかった。
「お、落ちちゃったね。ごめん…」
市井ちゃんがどんな顔をしているのか、見るのさえ怖い。
さっきまでの笑顔、その面影はもはやないことだけは確かだ。
目線から逃れるように、前に落ちたカーネーションや後ろの花瓶の欠片を拾おうと
する。それでも市井ちゃんの私に向ける眼差しが皮膚を通して心を突き刺している
ような気がした。首筋から汗がポタポタと滴り落ちた。静寂の中、そんな音すら耳
に届いていた。それを見た市井ちゃんが、
「後藤…暑いの…?」
なんて尋ねる。少し、小刻みに空気を震わせる哀しい声音。決して市井ちゃんの顔
を見たわけではないが、どんな顔をしていたかは容易に想像がつく。
「え?ああ、まあね…。私、汗っかきだから…」
すぐにばれるような嘘を言いながら顎に伝った汗を何度も何度も拭う。手首につい
た汗が爪の先まで伝った。
「…じゃあさあ、これ飲みなよ…あげるよ」
市井ちゃんは、そう言って後ろを向いて冷蔵庫を開き、冷えた缶ジュースを私を差
し出そうとする。
「あ、ありがと…」
350mlの缶のウーロン茶だった。
その物を私が認識するなり、市井ちゃんは私に渡そうとする手を引っ込めた。その
動作を一瞬不思議に思ったが、理由はすぐにわかる。
- 115 名前:3-32 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)20時15分39秒
- 「そういえば、私も喉が渇いてたんだ」
抑揚の余りない口調で市井ちゃんは言った。この言葉と同時に、市井ちゃんはプル
タブを空け、ゴクゴクと飲み始めた。そして、
「はい」
「え?」
「喉、渇いてるんでしょ?私これ以上いらないから。これ飲んで」
ウーロン茶を私に差し出した。
「え…?」
思わず市井ちゃんを見てしまう。愛しかった市井ちゃんはそこにはいない。その市
井ちゃんは卑猥な笑顔と言ったらいいんだろうか。とにかく私の心を締め付ける以
外何物でもない哀しい産物。
いじわるなんていう可愛いものじゃない。
私を、そして、市井ちゃん自身を貶めそうとすることを市井ちゃんはしたのだ。
私はその「踏絵」のウーロン茶を受け取った。
もう動揺を隠せないでいた。体中に小刻みな震えが伝わり、目はあさっての方に泳
ぎ、手は目に見えるぐらい震え、普段出ることのない手のひらにまで汗がにじみ出
て、缶を滑り落としそうになる。落とすまいと少し強く握ると今度は小さく缶がへ
こんだ。
「うん、助かる…ありがと…」
この言葉をつぶやくために、私は一度目をつぶった。
バレないように小さく細かく深呼吸をした。
- 116 名前:3-33 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)20時16分55秒
- 大丈夫、大丈夫…。
大丈夫なはずなんだ。
何度も言い聞かせた。乾いていた喉を上下に動かす。
そして、目を閉じ、半ば勢いをつけて口を缶につけた。
その直後、市井ちゃんは私の持ち手を振り払った。缶は大きく跳ね飛ばされ、ベッ
ドの横に落ちた。
カランコロンという音が部屋に響き渡るとともに、トクトクと波打ちながら中のウ
ーロン茶が流れ出る。
張られた手は痛くない。そもそも市井ちゃんが缶を跳ね飛ばしたことを理解するま
でにインターバルがあった。
その残響音が静まったとき、私はようやく事の次第を掴みはじめる。そんな私を見
てか、市井ちゃんは溜まった気持ちを私にぶつけた。
- 117 名前:3-34 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)20時24分21秒
- 「無理して飲まなくたっていいよ!!」
市井ちゃんの凄い形相。今まで見たことのない愛情なんか微塵もない顔。怒りと悲
しみが涙に混じって、私に直にぶつけてくる。
「飲んであげようなんて思わなくてもいいよ!」
オロオロしている私に更に市井ちゃんは追い討ちをかける。
自分の胸をドンと叩く。
「ねえ、私ってそんなに汚い?」
「確かに、その缶にも私のウィルスが入っているかもしれないわよ!」
「仕事さぼってまで一体あんた何しに来たのよ!」
「そんな目で見られるのが一番つらいんだから!」
そんな言葉の数々を市井ちゃんはまくしたてた。
- 118 名前:3-35 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)20時27分25秒
- 私は何も言い返せず、その場に立ち尽くす。
どんな言葉を言っても何の説得力もないだろう。
「帰って!もう来ないで!!」
市井ちゃんは私に枕を思い切り投げつけ、私は部屋の外に追い出された。
通路で扉を背もたれにして私は体中の全ての力が後悔とともに抜け切ったようにが
くんと腰を落とした。
「私が悪いんじゃないのに…なんで…なんでこんな目に遭わなきゃなんないの
よ!私が何したって言うのよ!」
膝にかけられていたシーツを何度も何度も叩く音、そして、何か固い物を扉に投げ
つける音、点滴をぶら下げていた台が落ちる音、そしてそれ以上に心を砕く市井
ちゃんの声が聞こえた。その悲痛の叫び声に私はどうすることもできず、小刻みに
震えている両方の手のひらを呆然と見つめていた。
- 119 名前:3-36 後藤真希(8) 投稿日:2001年07月02日(月)20時34分59秒
- 私、なんてことしちゃったんだろう…。
唾液からは感染しないって知っていたのに。
知っていたのに私は恐くなった。
市井ちゃんをバイ菌扱いして、私は逃げた。
これが私の心の奥底の本当の気持ちなの?
どうして?
そんな気持ちはさらさらない。絶対ない。
でも実際私はした。
心と体の極端な矛盾が私の体を引き裂く。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
廊下の先に見えるナースステーションから看護婦さんが数名こちらを見ている。人
目を憚らず、私は頭を抱え込み、その場にうずくまった。
真上の窓から差し込む光が私を照らしていた。まるで私がドラキュラにでもなった
ようにその温かみのある光が逆に私に苦しみを与えていた。
市井ちゃんの叫び声はいつまでも響いていた。
耳を抑えても、その場を離れても、私の頭の中では衰えることなく聞こえてきた。
- 120 名前:第3章 終 投稿日:2001年07月02日(月)20時54分54秒
第3章 哀しい産物 〜my instinct breaks you & me〜
- 121 名前:第3章 終 投稿日:2001年07月02日(月)21時15分45秒
- 改行ミスった…。鬱だ。
「つなぎ」の予定だった3章は結構長かったなぁ。って今んところ一番長いやん。
タイトルやめよっかな。めんどくさいし、合ってないし。
自分で言うのも何だけど暗すぎです(w
これからもあんまり楽しいことはないかもしれません。
それでもよければ今後もよろしくおねがいします。
そうそう、レスはマジで感謝してます。ありがとうございます。
今回は次章タイトルが決定してるので予告でも。
第4章 魔女になりたい少女 〜an injured angel〜
それでは。。。
- 122 名前:名無し読者 投稿日:2001年07月03日(火)03時28分56秒
- 痛い・・・痛すぎる。
って、俺の感想こればっか。(w
- 123 名前:名無し読者 投稿日:2001年07月03日(火)04時22分07秒
- マジで痛い…しかし面白い。。。
市井ちゃん…(泣
- 124 名前:4-1 市井紗耶香(4) 投稿日:2001年07月08日(日)20時14分38秒
〜 市井紗耶香 〜
何分経ったかわからない。
泣き止んだ後も、私は決して気持ちが軽くはならなかった。
後藤を悲しませるわけにはいけない。それだけを念頭に置いて私は後藤に会った。
その悲しみはそのまま私に返ってくるからだ。だから必死で私は笑った。それがい
かに薄弱なものであろうと、私はその愚行を止めるわけにはいかなかった。
後藤はそんな私を見て笑った。きっと私の薄っぺらい心に気付いているんだろうけ
ど、それでも後藤は笑った。だから私ももっと笑った。すると後藤はさらにもっと
笑った。二人は共鳴し合い、本物になりつつあった。
「嘘からでたまこと」「嘘も重ねれば嘘じゃなくなる」
一瞬、脳裏をよぎった好都合な言葉は所詮、恣意的なものでしかなく、ほんの些細
な動作一つで、全てを粉砕される。
後藤は私から逃げた。
本能でもって私という存在自体を拒絶した。悲しみは一時頂点に達した。
生まれて初めて感じたかもしれない迫害。
それをまさか、後藤から感じるとは思わなかった。
- 125 名前:4-2 市井紗耶香(4) 投稿日:2001年07月08日(日)20時15分36秒
- 花瓶が割れて床に落ちている。
投げつけた枕が床の下に落ちている。
中身がまだ入っているウーロン茶の缶が床の下に横たわっている。
白いシーツが暴れたせいでぐちゃぐちゃになっている。
いろんな物が下に落ちている。
そして窓から映し出される迫りくる夜の気配は油のように重みを増しはじめる。
重力ってこんなに重いものだったんだと痛感する。
もしかしたら、「重さのない心まで重力は押しつぶしているんじゃないだろう
か?」とまで思うほど、あらゆる物のベクトルが下に向き、静止していた。
微熱続きの私の体温がググッと上がって、全身から疲れと汗が出てくる。
- 126 名前:4-3 市井紗耶香(4) 投稿日:2001年07月08日(日)20時16分53秒
- ガラガラガラと扉が開く。
瞳が涙に埋もれていて、ぐにゃっとした光景しか見えない。
「さや…」
「…」
自分の呼吸が乱れていることに気付く。病気で人よりも機能が低下した肺を懸命に
活動させる。
「真希ちゃん…何も言わずに帰ったわよ…」
ぼやっと見える映像と凍えるような声で相手がお母さんだとわかる。
「うん」
「気を…落とさないで…ね…」
「うん」
私の叫び声は部屋の外にも聞こえたのだろう。目を2度ほどギュッとつぶり、涙を
落としてから哀しげなお母さんを見た。声はたまらなく震えていてつらかった。私
は鼻を一回大きくすすった。
肺の中に空気が入ってくる。どこがトゲのようなものが含まれているようでて、チ
クチクした。
「真希ちゃんだって――」
「わかってる!!」
私はお母さんの口を悲痛の声で遮り、合わせたようにポタリと曇色な涙がまた一
つ。シーツにジワッと染み込む様をお母さんは遠目で戸惑いながら見ていた。
- 127 名前:4-4 市井紗耶香(4) 投稿日:2001年07月08日(日)20時18分46秒
- 私だってわかってる。
後藤は決して私を傷つけようとはしていなかったってことぐらい。
後藤がそんなことをしようと思うはずがない。
だから一層ショックなのかもしれない。
後藤みたいな、長いこと衣食住を共にして、一緒に泣いて、一緒に笑って、暮らし
て築き上げた強い結びつきのあった人間でさえこうなんだ。
きっと私の病気を知った人、全てがああやって逃げていく。
私の背負う影を私という人間とともに拒絶する。
後藤に罪は無い。
それもわかってる。
憎むべきは私の病気と、私の弱い心だ。
今度、後藤に会う時はお互い、どんな顔で向き合うのだろう?
妙に他人行儀で…一歩引いていて…二人の間には見えない壁があって、私が近づい
ても決して後藤に触れることができなくて…。
もしかしたら、病気を知らされた時より強い衝撃だったかもしれない。
あの時は、事実を知るのと頭で理解するのとにはタイムラグがあったけど、今回は
同時にやってきた。思い切りカウンターを食らったみたいで、ノックアウトされた
私は見上げた天井が視界に入る。今まで照らされていた照明が一つ一つバチンと音
を立てて消えていき、その場は結局真っ暗になる。
目を閉じても閉じていなくても変わらない。
「明日」なんてない。
暗闇だけが真実な情景。
- 128 名前:4-5 市井紗耶香(4) 投稿日:2001年07月08日(日)20時21分00秒
- 「さや」
締め付けられた胸の痛みを必死でこらえていると、お母さんがいつもより強い口調
で声をかけてきた。私は顔を上げた。
「何?」
お母さんに余すこと無く泣き顔を見せた。
もう「泣いているところを見られるのは恥ずかしい」なんていう誰にでもあるプラ
イドはもうとうに捨てている。
病気のせいもあるけれど、肌は涙でボロボロになっていて、多分16歳には見えな
いだろう。お母さんは涙の向こうで強い口調そのままに鋭い眼差しを放っていた。
「こうやって、部屋に閉じこもるのってダメだと思うの…」
「え?」
「だから…外に出てみない?」
それは今の私にとって意外な言葉だった。今の部屋の位置も、看護婦さんの物々し
い格好も私を現実世界から隔離しようとしているといつの間にか思っていたから。
「外って…?」
「ちょっと会って欲しい人がいるの」
十二分に惑う。
その後、まだ見ぬ「人」の存在が大きな影になって私を覆い被さるような想像をさ
せ、たちまち怖くなった。
ハッとした。
いつの間にか私って人と会うのが怖くなっていたんだ。
「う……ん…」
弱い心と小さなプライドを両天秤に私はどちらとも取れる返事をした。
- 129 名前:名無し読者 投稿日:2001年07月09日(月)02時43分40秒
- 会って欲しい人?
誰だ・・・?
- 130 名前:名無し読者 投稿日:2001年07月09日(月)23時31分56秒
- 気になりますね・・・。
続き期待!!
- 131 名前:4-6 後藤真希(9) 投稿日:2001年07月10日(火)07時22分21秒
〜 後藤真希 〜
瞑色の夕闇はまさに私の心を反映していた。
覚束ない足取りで行く時と同じ道を帰る。暗いオーラを発しまくっていたせいか、
すれ違う人がいつも以上に私の方を振り返る。
思想と行動。
思想は理想を求め、行動は現実を伴う。
そこに矛盾が生じた時、求めた理想は砕かれる。そして、表面上の心がいかに実体
のない弱いものかを思い知らされる。
今の私はそんな状態。そして、市井ちゃんももしかしたら同じなのかもしれない。
- 132 名前:4-7 後藤真希(9) 投稿日:2001年07月10日(火)07時23分07秒
- 家に帰った私は姉と弟と母とマネージャーの怒声を浴びることになる。お母さんや
家族は無事に帰ってきてほっとした表情も含まれて、愛情のある怒りだったが、マ
ネージャーは社長や局のプロデューサーにきつく言われたんだろう。
お怒り度100%といった感じで怒髪天をついていた。
しかし、そんなことは頭の片隅のほんの一部にしか残らず、ただ無感情に謝った。
私の心は全ての方向からギューっと圧縮されて、痛みをもたらしていたのでそれを
耐えるのに必死だった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
心の中で何回も謝った。誰に対してかはよくわかってはいなかったが、ともかくそ
れがいつしか口に出た。
何回も何回も連呼するとその言葉は価値を失うものだ。
マネージャーには「何も考えていない」と見えたらしく、更に怒り出した。
しかし、私はとうに限界で、その時のマネージャーの声は遠くわなないているよう
にしか聞こえなかった。負け犬みたい、と思った矢先、体の中から何かドロドロと
した液体が口に戻り、急激に鋭利な刃物で薄く切られたような腹痛に襲われた。冷
たい汗が額や頬を伝うのを感じると同時に私はお腹を押さえた。
「真希?」
玉のような大粒の汗が床に落ちる音を聞きながらお母さんの声が聞こえた。その声
の方向を見ることができず、私は倒れた。
「真希!」
お母さんの呼び声はどんどん遠くなっていった。
- 133 名前:4-9 後藤真希(9) 投稿日:2001年07月10日(火)07時24分00秒
- 目を覚ますと病院にいた。
病名はすぐにわかった。
「ストレス性胃炎」
名前の通り、神経からくるものだった。
でも一過性ということで2、3日もすれば退院できるらしい。
ベッドに横たわる私を見て、母とマネージャー、特に母が凄く申し訳なさそうに
「ごめんね」と何回も謝っていた。
私の方こそごめんね、心配かけて…。
病気の大きな原因はモーニング娘。としての多忙な生活が根本であることをマネー
ジャーは認め、お母さんは仕事を少なくしてくれと懇願していた。
そのことがバックボーンにあったのは間違いない。だけど、引き金になったのはや
はり市井ちゃんの病気のことだろう。
詳しく言えば市井ちゃんの病気によって私がもっと市井ちゃんを苦しめたこと。
そんなどうしようもなく馬鹿な自分を自分で苦しめてしまったこと。
脆弱な私の心はそんな自分の愚かな行動に耐え切れなかった。
腹痛と心の痛みの中から考えることはほとんど市井ちゃんのことだった。
でも考えるだけでは訪れるのは後悔ばかりで、一層の苦痛を味わうことになった。
- 134 名前: 投稿日:2001年07月10日(火)07時24分38秒
>>2
- 135 名前:4-9 市井紗耶香(5) 投稿日:2001年07月10日(火)07時26分12秒
〜市井紗耶香〜
お母さんと私を乗せたタクシーはある中学校の前で止まった。
時間は午後3時を過ぎたところ。お母さんは見た目も値段も安物の腕時計を見て、
「うん、ピッタリ」
と自画自賛するように頷いていた。
示し合わせたかのようにキーンコーンカーンコーン、と授業の終了らしきチャイム
が学校から聞こえてきた。
この終わりの音と同時に生徒は逆に活気を帯びる。
部活をする人、更に勉強をする人、早く帰ってドラマの再放送を見る人。
十人十色の表情をした生徒が、それぞれ自分のために活動を始める。
あまりおしゃれではない制服を着た男の子や女の子が、校門を出ると左右に散っ
て行く。
そんな様を私は校門から道路を挟んで停車していたタクシーの中から眺める。
この子たちには未来がある。
そして、私にはない。
最近、他人がひどくうらやましい。
笑っていなくても、楽しくなくても……そこに「生」なる力がある限り、それは幸
せってこと…。
そして、私が一番不幸…。
- 136 名前:4-10 市井紗耶香(5) 投稿日:2001年07月10日(火)07時28分06秒
- 「あ、あの子だわ!!」
お母さんが横で突然大声をあげた。隣りにいた私だけじゃなく、前にいたタクシー
の運転手さんも驚き、小声で「ビックリしたぁ」と呟き、心臓を抑えていた。
お母さんはタクシーのドアを開け校門に向かって手を振った。
タクシーの窓越しに校門の様子を見ると、みんなお母さんの方を向いていて、「私
に会わせたい人」が誰なのか特定できなかった。
しかし、その中で一人の小さい少女がペコリと頭を下げた。
「亜依ちゃん?」
お母さんが叫ぶと、
「はい!!」
大きな声で答え、スキップするようような軽快な足取りでこちらへやってきた。
頭に二つお団子を作る小さな女の子。制服がダボダボで、袖をまくらないとちょう
どいいサイズにならない。周りの他の子と見比べるとどこか光って見えた。その違
和感に一瞬首をかしげたが、すぐにその理由はわかった。制服が妙に真新しいの
だ。その女の子だけが、新品ぽい服を着ているせいで浮いて見えたのだ。2学期か
らの転校生なのだろうか。
「はじめまして」
もう一度ペコリと頭を下げる「亜依」という女の子。小さいのにクリクリしている
不思議な目。
「はじめまして、市井です」
お母さんはそう言ってから、タクシーの中にいる私を一瞥して、
「そして、あの子が娘の紗耶香です。よろしくね」
「はい!!」
おそらく学校指定のものであろう紺色のショルダーバッグを胸に抱えながら、溢れ
んばかりの快活な返事をした。
- 137 名前:4-11 市井紗耶香(5) 投稿日:2001年07月10日(火)07時30分19秒
- 「ねえ、誰なのよ…この子」
タクシーの中で、助手席に座ったお母さんの肩を後部座席からトントンと叩き、私
は聞いてみたが、お母さんは私の問いかけに「まあまあ、いいから」と返すだけ
で、まともに取り合ってもらえそうになかった。
一方、横に座った「亜依」と呼ばれた女の子は私の方をマジマジと見つめている。
初めて生でコアラを見た時のような好奇に満ちた中学生らしい鮮やかな瞳の色。
「こんにちは!」
余程元気が余っているのか大きな声で挨拶をした。
「うん…」
「あたし、大ファンだったんです!」
「ありがと…」
屈託のない微笑を浮かべて無邪気に握手を求めてきた。私は一瞬抵抗するも、も
ちろん握手なんかで感染はしないことは知っていたので応えた。小さくて柔らかく
てちょっと冷たかった。
それにしてもこれは久しぶりの人の温もりだった気がする。誰かに会うことと同時
に触れ合うということすら遠い過去のものだったことに気付く。もちろん看護婦さ
んとかお母さんとかは手を触れたりはしていたがそれとは質が違う。そのせいか小
さいけれどもほんわかした幸福感が身を包む。
「あ、ごめんなさい!!あたし、緊張しちゃって…」
私は握手された手をじっと見つめながら2、3回握り締めたり緩めたりした。それ
を見た亜依ちゃんは「汗ばんだ手と握手なんかして気持ち悪い」と私が思っている
と感じたらしい。実際、ちょっと汗っぽかった。
「うん、別にいいよ」
笑ってフォローしておいた。
- 138 名前:4-12 市井紗耶香(5) 投稿日:2001年07月10日(火)07時31分23秒
- タクシーは私とお母さんと亜依ちゃんの3人を連れて、大きな病院に着いた。
私がいる病院とは別の病院。私は何がなんだかわからず首をかしげた。
タクシーを亜依ちゃんは飛び出すように降りた。もう秋が目の前だというのに太陽
は夏色の光を劣ることなく放っている。青い空は、壮大な高さで地球を包む。そん
な景色に向かって亜依ちゃんはう〜んと背伸びをした。
「今日もいい天気だ〜」
いかにも中学生といったハツラツとした行動は天上からの太陽よりも眩しい。
私が完全に失ったものを彼女は全て持っているようでうらやましかった。
「私はここで待ってるわ」
お母さんが亜依ちゃんの元気さに毒されたのか若干疲れた面持ちで言うと、亜依
ちゃんは深くお辞儀をしてから、
「はい!じゃあ、行きましょ!」
私の腕を引っ張りながら言った。抵抗することなく亜依ちゃんに連れられていきな
がら後ろのお母さんを見やると、ただ「うん」と意味深に頷いていた。私たちは病
院に入った。
- 139 名前:4-13 市井紗耶香(5) 投稿日:2001年07月10日(火)07時33分09秒
- 病院は私が入院している病院と同じ匂いがした。亜依ちゃんに手を引っ張られなが
ら足を進める。その途中、何回か分かれ道があったがその天上に吊り上げられた案
内板を見ることなく、亜依ちゃんはある部屋に私を連れていった。
途中、何人かの看護婦さんとすれ違い、その度に、
「亜依ちゃん元気?」
という声をかけてくる。そして、亜依ちゃんは即答で、
「うん、元気や!」
と高くて明朗な声を出す。
「先生!」
部屋の中に入ると一人の医者が机な前に取り付けられたレントゲン写真を見てい
た。そしてその隣りに書類の整理をしている看護婦さんがいた。
「お、来たな。やんちゃ娘が!」
白衣の先生が高級っぽく見せかけているがおそらく安物の椅子をクルリと回して私
たちの方を見た。
そして、亜依ちゃんには一瞥するだけですぐに私の方に目を向ける。
「どうも、はじめまして。市井さん」
その先生は初対面の私に何も戸惑うことなく、立ち上がって深く礼をした。
輪郭がはっきりしていて、どことなく睨んでいるように見えてしまう。一昔前の
「モテ顔」だろう。また背は高く190はありそうだった。私は見上げる格好にな
り、風貌と合わせて威圧された気分になる。
「んじゃ、先生!あたし、ナースステーション行ってくるね!」
「あんまり騒いじゃダメだからね!」
「わかってるって!」
先生は目を細め、優しい笑顔を向けた。そんな微妙に崩れた顔は「無理なことはわ
かってるけどね」と付け加えているようだった。
亜依ちゃんは私に、「じゃああとで」とウィンクしながら、部屋を飛び出す。
「ああ、もう…。廊下は走るなって言ってるのに…」
先生が小さなグチをこぼした後、私に向かってもう一度微笑み、
「どうぞ、こちらへ」
と奥の部屋の方に誘導した。
- 140 名前:4-14 市井紗耶香(5) 投稿日:2001年07月10日(火)07時36分14秒
- 状況が今イチ掴めないまま、鉄製の足が高い椅子に座った。先生は「高崎」という
ネームプレートを胸につけている。
「あの、私…何がなにやら…」
戸惑いを正直に白状する。
「まあまあ、いいから…」
先延ばししようとする口調に少しイラついた。私はさっきまでの亜依ちゃんの一連
の行動から浮かんだ予想をぶつけてみる。
「亜依ちゃんって病気なんですか?」
先生は聞き流したかのように表情を変えず、お茶を湯飲みに淹れて私の前に出し
た。高そうな瀬戸物の湯のみはどうみても使い捨てではない。
「娘がね…君のファンなんだ。良かったらサインくれないかな?」
戸棚にあった色紙とサインペンを取ってきた。
「はい、いいですけど…それよりも…」
受け取った色紙に、スラスラとサインを書く。久しぶりだったけど何も考えずに手
が進んだのは昔相当数のサインを書いたからだろう。まだまだ、無意識レベルで出
来る作業だ。
「亜依ちゃん、かわいいでしょ?」
色紙に目を落としている時に先生はそう声をかけ、ソファに腰を下ろした。
「はい」
「元気でしょ?」
「はい」
「ウチの娘もね、あんな風にたくましく育ってほしいもんだよ…。娘はね、来月で
3歳になるんだ。かわいくてかわいくて…」
サインを書いた色紙を受け取りながら先生は目を細める。
- 141 名前:4-15 市井紗耶香(5) 投稿日:2001年07月10日(火)07時37分31秒
- 「あの…もう一度聞きますけど、亜依ちゃんって病気なんですか?」
私は先生のおのろけ話をまともに聞く気にはなれず、焦るように同じ問いをした。
先生は今度は敏感に反応し、湯のみを口に運ぶという動作をピタリと止めた。手に
持っていたお茶に小さな波が立っていた。茶柱はなかった。
ちょっとした静寂。
そんな中唯一ポコポコポコという泡沫の音が聞こえた。先生の背中越しにある金魚
の水槽の泡が連なる音だ。その音が一拍終えた時に、先生はゆっくりと、重々しく
口を開いた。
「あの子はね、君と同じ病気なんだ…」
目を丸くして驚く。
「それってどういう…?」
「いや、君より先に進んでしまっている…」
「…まさ…か…」
「うん、エイズ患者なんだ」
私にとってはもう聞きなれた言葉。にも関わらず衝撃は果てなく大きい。
「なんで?」
「母子感染ってやつだよ…」
- 142 名前:4-16 市井紗耶香(5) 投稿日:2001年07月10日(火)07時39分23秒
- 止めていた手を動かし、先生は熱そうなお茶を勢いよく飲んだ。あまりマナーがい
いとは言えないお茶をすする音が聞こえた。
「そんな…だって…」
私はこの先生が自分の病気を知っていることと、亜依ちゃんがHIV感染者だとい
うことの二つに驚く。どっちが大きいかと言うと当然後者だ。
学校で出会って、ここに来るまでの亜依ちゃんの行動、表情。
その全てが私には到底理解できない。
「君のね、お母さんが先日尋ねてきたんだよ。是非、亜依ちゃんに会わせてほし
い。そして、君を救って欲しいってね」
「…」
「亜依ちゃんは快諾したよ。是非会いたいって。もっとも亜依ちゃんにとっては君
に会えることが楽しみだっただけかもしれないけどね」
お母さんとこの先生にハメられた感じはした。
しかし、それ以上に亜依ちゃんの笑顔がネガのようにどんどん脳裏に焼きついて
いった。
- 143 名前:4-17 市井紗耶香(5) 投稿日:2001年07月10日(火)07時40分53秒
- それから亜依ちゃんのことを一通り聞いた。
聞けば聞くほどあの笑顔が理解できなかった。
母一人子一人で暮らしていた亜依ちゃんがHIVに感染していると判明したのは小
学2年の時。母子感染だったがそれまで気づかなかったらしい。亜依ちゃんのお母
さんの体調は極端に悪くなり、HIV感染者と判断された。そして、念のため受け
た検査で亜依ちゃんもそうだと分かった。
そして亜依ちゃんが小学3年に上がってすぐ、お母さんは死んだ。医者はここのと
ころでひどく口を濁していた。小さな罪悪感を背負っているようにも見えた。きっ
とお母さんはエイズを発症し、死んだのだろう。そして同じ病気を持つ私に「死」
の言葉を伝えることにためらうところがあったのだろう。
その後、亜依ちゃんは叔母さんに引き取られた。この叔母はすごくいい人で、今や
実のお母さんと同じくらいの愛情が注がれているとフォローしていた。
しかし、亜依ちゃんは小学4年でエイズ関連症候群(つまり今の私と同じ状態)と
診断され、そして約1年前、骨膜炎を起こしエイズ患者となった。
頭痛や嘔吐の連続から意識不明にまで陥った。
その症状はひどく、何日間も予断を許さぬ状況が続くくらいだったらしい。
しかし、亜依ちゃんは何とか生き延びた。
今日はまだ3回目の登校だったらしい。
- 144 名前:4-18 市井紗耶香(5) 投稿日:2001年07月10日(火)07時41分52秒
- それでも、亜依ちゃんの目の前にはいつも「死」が存在している。
きっとずっと怯えている。
しかし、そんなことを亜依ちゃんはおくびにも出さない。
「まず、君たちにお礼をしないといけないんだ」
先生はそう言って、また深くお辞儀をしてさらに話を始めた。
エイズを発症した1年前。絶望の淵にいた亜依ちゃんを少なからず救ってくれたの
がモーニング娘。だということを聞かされた。
私たちの頑張っている姿を見て、励まされたらしい。
先生の告白に私はどうすることもできずに呆然と聞いていた。山鳴りが聞こえてき
そうなほど、重々しい言葉が耳に突き刺さっていた。
「多分、君のお母さんは君を助けたくて亜依ちゃんと会わせたかったんだろうけ
ど、こちら側も同じなんだ。君が亜依ちゃんを助けてほしい」
私は遠く響く山鳴りの向こう側で聞き、いつの間にか俯き加減だった顔を上げた。
「亜依ちゃんは…彼女の背負ったつらさは計り知れないんだ。それをあんな小さな
体で必死で受け止めている。だから…」
若干の歯軋りが先生の口からこぼれる。それは先生の必死で堪える悲しみだった。
- 145 名前:4-19 市井紗耶香(5) 投稿日:2001年07月10日(火)07時42分35秒
- 医者という職業は感情を表に出さないほうが得策だ。感情は伝染するもので、その
感染力はエイズウィルスなんかよりもずっと強い。医者が悲しい顔をすれば患者は
きっと悲しむだろう。医者が笑えば、もしかしたら患者はその裏を読み取り、不安
になるだろう。その点では私にHIV感染者であると告げた私の先生も、今私の目
の前にいる先生は失格かもしれない。
下唇を噛んでいた。顔を硬直させていた。涙とまではいかないが深い悲しみと無力
感を体全体から滲ませていた。
それは私にまだ何かを隠していることを察しさせることになった。
- 146 名前:4-20 市井紗耶香(5) 投稿日:2001年07月10日(火)07時43分45秒
- 「テヘヘ…うるさいって怒られちゃった…」
私はその先生の言葉を受けて生まれたシコリを解明すべく、いろいろ聞こうと思っ
たが、それを邪魔するかのように亜依ちゃんがノックもせずにやってきた。
「ちゃんとノックしなさい!」
先生の表情の変化に私は目を見張った。亜依ちゃんの声を聞くと同時に、降り積も
る重いものを一瞬で払い除けていたのだ。「ああ、そういうところも医者って大事
なんだ」と思う。
亜依ちゃんは「は〜い」と伸びた声で答える。当然、反省の色は全く見えない。亜
依ちゃんは私の方をちらりと見交わしてから、
「先生、あたしのこと言ってくれた?」
「うん、亜依ちゃんの希望通り」
亜依ちゃんは再び私の方を見た。そして、また微笑んだ。
やっぱり屈託はなかった。
「先生、紗耶香さんと二人っきりでお話したいだけど、いい?」
亜依ちゃんは当然制服のまま。新しくて白いリボンは汚れていなくて、特に目立っ
ていた。
「いいけど、大窪さんの目の届くところでね」
「わかってるって」
大窪さんは担当の看護婦さんの名前で目下、亜依ちゃんの一番の「友達」らしい。
待ち構えていたようにすぐにやってきた。
部屋を出る直前に、
「じゃあ、先生。今日からまたよろしくお願いね!」
亜依ちゃんはそう言ってから私と手を繋いだ。
- 147 名前:名無しさん 投稿日:2001年07月10日(火)07時44分22秒
-
- 148 名前:4-21 市井紗耶香(6) 投稿日:2001年07月10日(火)07時45分27秒
〜市井紗耶香〜
私と亜依ちゃんは病院からちょっと離れた緑や花がいっぱい揃った小さな広場に向
かった。
そこはとっても美しい光景。春だったらモンシロチョウか何かが舞い、いろんな色
の花が咲き乱れて、今よりさらに見とれてしまうメルヘンチックな景色になるだろ
う。しかしその中で、禿げたところもある安っぽい青いベンチが不似合いで浮いて
いる。
私たちはそのベンチに座った。ミシッとした音がして私は思わず一度腰を浮かせた
が、どうやら潰れるほどではないようだ。
亜依ちゃんは膝を抱えて、背筋をピーンと伸ばして、
「やっぱ、緊張するわぁ〜」
とそわそわしていた。
一方の私は動揺していた。
亜依ちゃんの顔を見ると後ろに死神がいるようで…。
今の笑顔が心からじゃないようで…。
- 149 名前:4-22 市井紗耶香(6) 投稿日:2001年07月10日(火)07時46分18秒
- 「私…私…」
言葉が続かずただただ唸る。何か亜依ちゃんに向けた悲しみが心の底から湧き上
がってきて、でもそれをもし出してしまうと亜依ちゃんは逆に悲しむことも身を
持って知っていて、私はこらえるしかなかった。
「あたしね、モーニング娘。の大ファンなんだ!」
「うん…ありがと…」
「この前の新曲買いました?『I WISH』だっけ?いい曲だよね!」
「そうだね…」
「あたし、あの歌詞にめっちゃ共感したんですけどね…メールできないんですよ
ね。携帯持ってないし」
「うん、そっか」
「…ねえ、紗耶香さん。あたしといて楽しくない?」
亜依ちゃんは固い表情を変えずにただ機械的に頷くだけの私が心を閉ざした感じに
見えたのだろう。亜依ちゃんは一度目をパチクリしてから、私を覗きこむように聞
いてきた。その瞳は一瞬、今の私の輝きのない瞳の色と同化したようで、私は立ち
上がって、
「ううん。楽しいよ!」
思わず甲高い声で言った。
すると、亜依ちゃんは頬を膨らませて笑い、
「良かった〜」
と胸をなで下ろしていた。
- 150 名前:4-23 市井紗耶香(6) 投稿日:2001年07月10日(火)07時47分01秒
- 私はストンと腰を下ろし(またミシッと音がした)、一つ肩で息をつく。
「亜依ちゃんってすごく明るいね。羨ましい…そんな…病気で…」
少し驚いた顔をする亜依ちゃん。真新しい胸についている制服のりぼんを無意識に
触れていた。
「だって、もう長いし…。ある意味、友達だよ」
私には達することができないような諦めを超えた境地の顔を亜依ちゃんは見せた。
それは、年下のはずなのに人生の先駆者のような顔だった。
子供らしい体とのあまりのアンバランスさで、私は一瞬背筋の凍る思いをした。
「友達か…私もそんな風に考えられるのかなぁ」
「考えない方がいいかもね。『敵』だと思ったほうがマシだよ…」
自分はムリだけど…と付け加えんばかりの余韻を残す。遠く霞んだ飛行機雲を亜依
ちゃんはぼんやりと見ていた。
- 151 名前:4-24 市井紗耶香(6) 投稿日:2001年07月10日(火)07時48分05秒
- 「強いよね」
「…弱いよ。強がっているだけ」
ポツリと漏らした私の言葉に亜依ちゃんは同じようにポツリと答える。目線を下に
落としてから胸のりぼんを強く握り締める。そして、膝より下をぶらんぶらんしな
がら、再び聡明に広がる青空を見上げた。
「あ〜あ、空ってなんであんなに遠いのに、こんなに身近で、こんなに優しいんだ
ろうなぁ…」
鼻筋があまり目立たない横顔の亜依ちゃんは今までの笑顔をふっと曇らせた。今度
はスカートの裾や袖を交互にぎゅっと握り締めていた。新品の制服たちにどんどん
皺ができる。まるでその制服に罰を与えているように。
「学校で…何かあったの?」
そう聞くと亜依ちゃんは再び勢いよく私の方に顔を向ける。
顔は笑顔だ。
作ってはいない。
心からの笑顔だ。
なのに…
一筋の細い糸のような涙があった。太陽の光に反射してきらめいていた。
私は目を見張った。
亜依ちゃんも私の表情を見てから自分が泣いていることにようやく気付く。
- 152 名前:4-25 市井紗耶香(6) 投稿日:2001年07月10日(火)07時48分53秒
- 「あれ…なんで…」
あったかかそうなまぶたの下をそっと人差し指で拭っていた。
「もう死ぬまで泣かないと決めててんけどなぁ…」
「亜依ちゃん…」
そっか…。
何となく何があったのか察することができた。初めて亜依ちゃんを理解した瞬間で
もあった。
私は「強がっている」亜依ちゃんを抱きしめる。
小さく、病気で弱っている体は硬くなっていた。ポンポンと優しく叩くと、亜依
ちゃんはワンワンと母に抱かれた無邪気な子供のように泣きはじめた。
- 153 名前:4-26 市井紗耶香(6) 投稿日:2001年07月10日(火)07時50分26秒
- 「ごめんなさい」
今にも壊れそうな感触が私には残った。私は亜依ちゃんの弱々しい体に少しだけ身
を凍らせた。もしかしたら、亜依ちゃんそのものじゃなく、すごく卑しいことだけ
れども将来の私を見ていたのかもしれない。
「今日ね…いや、今日もね…学校でイヤなことがあったの…」
「うん」
「慣れてるつもり…だったんですけどね。だっれもあたしに近づかへん…。腫れ物
を触るような目であたしを見て…」
「…」
亜依ちゃんは拳をギューっと握り締める。
「でもね…そんなことはわかってて学校に行ってるわけだから…泣くことでもない
んですけどね…テヘヘ…」
亜依ちゃんは泣いちゃったことが恥ずかしかったようで、はにかんで笑う。
「紗耶香さんの顔を見るとな〜んか緊張が緩んじゃった…。やっぱ紗耶香さんって
『お母さん』なんですね…」
「よく知ってるね」
「うん、あたし大ファンだもん。そこらへんのファンには負けへんで〜」
「へえ」
- 154 名前:4-27 市井紗耶香(6) 投稿日:2001年07月10日(火)07時51分15秒
- 亜依ちゃんは、モーニング娘。についていろんなことを話出した。
その途中、時々出る関西弁が気になって仕方なかったので、それについて聞くと、
亜依ちゃんは、
「小一の終わりまで奈良にいてん」
ちょっと物憂げに言った。きっとそこにはお母さんとの思い出が詰まっているのだ
ろう。亜依ちゃんの一番の幸せな時であり、そしてそれは今を不幸としか言えなく
なるような過去。
ホントはもっと笑って話せることなのに。
なんて過去とは残酷だろうと思った。
- 155 名前:4-28 市井紗耶香(6) 投稿日:2001年07月10日(火)07時52分08秒
- 「それよりさぁ」
亜依ちゃんは表情を戻し、話をモーニング娘。のことに切り替えはじめたので、私
は素直に従った。
亜依ちゃんはモーニング娘。のことをすごくよく知ってはいたが、事実と違ったこ
ともあって、それを修正してあげると、
「そうなんだ〜」
と喜んでいた。
ちなみに、亜依ちゃんの一番のお気に入りは後藤だそうで(というか後藤とその仲
間たちみたいに最初は見ていたらしい)、その思い入れは相当なものみたいだ。後
藤の名を出すだけで、特別に表情を変える。お世辞でも私と言わなかったことが
ちょっとショックでもあった。
モーニング娘。のことを話す時、亜依ちゃんは幸せそうだった。しかし、少し、現
実を逃げているフシもあった。私はどうしても聞きたいことがあった。その欲が
「亜依ちゃんを傷つけてしまうかも…」という理性を上回ってしまい、思わず漏ら
してしまう。
「亜依ちゃんはどうして学校に行こうと思ったの?」
つらい目に遭うことぐらい知っていたのに。
どうしてそんな痛みしか残らない学校になんか行ったの?
- 156 名前:4-29 市井紗耶香(6) 投稿日:2001年07月10日(火)07時53分34秒
- 亜依ちゃんだけでなく脈絡のない質問を言った自分自身にも驚く。
亜依ちゃんは一瞬だけ苦悶の表情を見せたが、すぐに、
「理由はいろいろあるよ」
ふっと現実に戻ったような無力感を醸し出しながら亜依ちゃんは呟いた。
「うん」
「一つは中学校ってどんなところなのか知りたかったってこと」
実際エイズを発症した後でも、症状は人それぞれで、病院にこもりっきりになる必
要はない。しかし、それには個人差があって、亜依ちゃんはひどい方だった。およ
そ、学校に行くほどの力はなかったらしい。
「亜依ちゃん」
遠めで私たちの様子を見守っていた看護婦の大窪さんが声をかけてきた。
「お薬の時間だから…」
大きい茶色の錠剤とコップの八分ぐらいにまでに張られた水。
亜依ちゃんは私が錠剤を覗きこむような様子を見ると口を開いた。
「3時間ごとに飲まなきゃいけないのって面倒くさいよね。これがAZTで、これがdd
C、そしてこれが…何だったっけ?いろいろ変えたんですけど、半年前からこの組
み合わせ。前までは副作用がひどくって飲めば吐いちゃったり、めまいがしたりと
大変やってんけど、今はそういうのってないんですよね。紗耶香さんは…どんな治
療をしてるの?」
「うんと…同じ…かな?でも種類は若干違うけどね。私は今のところ大した副作用
はないなぁ…」
「え〜、マジで?うらやましい」
私の病気のことを「うらやましい」なんて言うのは亜依ちゃんぐらいだろうな、と
思い、ちょっと苦笑した。
- 157 名前:4-30 市井紗耶香(6) 投稿日:2001年07月10日(火)07時55分57秒
- 「ただ、これ飲んでるせいか、ちょっと禿げちゃったりしてきてるんだけどね。
ま、仕方ないけど…」
亜依ちゃんはさりげなく前髪を掻きあげると、抜けてしまったのかもともとの体質
なのかわからないけど、少し広いおでこが見え、さらに生えている部分も太陽に照
らされて赤い地肌が見えていた。
ただ、その仕草はいかにも女の子らしくて、かわいらしかった。
「でもすごくラクになったんだから、感謝してるよ」
「へえ…じゃあ、快方に向かってるんだ?」
「う…ん、多分ね…」
一杯に張った水を飲み干して空になったコップを看護婦さんに渡す。
「ありがとう」
と言うと、看護婦さんは亜依ちゃんの頭を撫でた。
看護婦さんはその場を少し離れて遠めで私たちの様子を見る。
「で、どこまで話したんだっけ?あ、学校か」
「うん」
私は腰を浮かせて座り直した。
「学校に行きたかったのは、まず中学校ってやっぱり小学校と違うのかなぁ?って
思って。単なる興味本位かな?」
「どう?違ってた?」
「う〜ん、よくわかんないなぁ。でもどこか新鮮だった。やっぱり行ってよかった
と思うよ。やっぱ生きてるんやから、いろんなところ見とかんとね」
遠い空を見つめて言う亜依ちゃん。さらにその言い方は何かを示唆するような含み
あるものだったが深くは考えなかった。
- 158 名前:4-31 市井紗耶香(6) 投稿日:2001年07月10日(火)07時57分10秒
- 一旦、看護婦さんに中断されたせいか、さっきからの続きの話なのに、口調が明ら
かに軽くなっていた。もしかしたら看護婦さんは狙っていたのかもしれない。亜依
ちゃんはさらに続ける。
「それにね、やっぱりあたしという人間を知ってもらいたかったんだろうなぁ〜。
できるだけ多くの人に」
「なんで?」
「だってそうでしょ?せっかく生きてるのに、ほとんどの人があたしの存在を知ら
ないでいるなんて…」
言っていることは子供っぽいことだと思うのに私には亜依ちゃんが再び大人っぽく
見えた。
「あたしって目立ちたがりやなんだよね。自分でも意外やった。でも学校はつらか
った…。学校の先生もクラスメイトも全員あたしを避けてた。でも、それでもいい
ねん。きっと学校のみんなはあたしという人物を生きていく上で何度も思い出すん
や。たとえ、あたしが死んでもあたしはその人たちの中で生きていく…」
亜依ちゃんは私にぎこちなくウィンクをした。周りの鮮やかな木々に負けないくら
い聡明で無邪気な顔が広がる。
「う〜ん、なんか魔女みたいやん、あたし…ははは」
「そんなことないよ」
- 159 名前:4-32 市井紗耶香(6) 投稿日:2001年07月10日(火)07時58分27秒
- なんて一生懸命なんだろうと思った。
人の冷たい視線に何度も心を砕かれながら、それでもいいと思い、前に進もうとし
ている亜依ちゃん。
大人っぽく見えたのはそのせいだろう。私にはまだ作られていない部分の強さを垣
間見たからだ。だけどその強さに年齢や体はまだ追いついていなくて、心と体が遊
離しかねないぐらいの異常なアンバランスが亜依ちゃんにはあった。
「だから、あたしは大人になって昔を振り返った時に、あと何回中学校に行けるか
わからへんけど、こう言おうと思ってるの。『中学生活は楽しかったです』って
ね…笑いながらね」
亜依ちゃんはベンチをブランコのようにして、勢いをつけて立ち上がった。空を見
上げて、手を広げてまた「う〜ん」と唸る。
太陽の光を体全身に浴びて、気持ちよさそうだった。
- 160 名前:4-33 市井紗耶香(6) 投稿日:2001年07月10日(火)07時59分55秒
- 私はなんて小さい人間なんだと思った。
「後藤に罪はない」
そう思っていても、どっかで「罪」を与えていた。
私って惨めでそれは後藤のせいなんだと思い込んでいた。
エイズっていう病気は偏見が常につきまとう。
誰しもが一歩引いてその病気そのものじゃなく別の視点で違うものを憎む。
でも「誰しも」って言うのは決して周りだけじゃないんだ。
感染した当人、つまり私だってそうだったんだ。
後藤に謝りたくなった。
そして、
「彼」に電話したくなった。
ちゃんと告知できるかはわからないけど。
- 161 名前:第4章 終 投稿日:2001年07月10日(火)08時03分19秒
第4章 魔女になりたい少女 〜an injured angel〜
- 162 名前:名無しさん 投稿日:2001年07月10日(火)08時06分20秒
- ちょっとしたパラレルになっていることをお詫びします。
あと、魔女ってのは意味が違うんですけどね…。
- 163 名前:名無し読者 投稿日:2001年07月10日(火)14時53分36秒
- すでに涙が…(w
なんか大きく物語が動く予感…
すごく楽しみです。
- 164 名前:名無し読者 投稿日:2001年07月11日(水)03時15分17秒
- いい話だ〜・・・(涙)
- 165 名前:名無し読者 投稿日:2001年07月16日(月)20時31分08秒
- 続きカナリ期待してます!
- 166 名前:名無しさん 投稿日:2001年07月23日(月)15時39分11秒
- この2週間、書くことはおろか考えることもしませんでした。
ライブには逝ってましたが。夏休みですが、ゆっくりやっていこうと思います。
よろしくです。
第5章 一歩の代償 〜coming out〜
- 167 名前:5-1 後藤真希(10) 投稿日:2001年07月23日(月)15時40分46秒
- 〜 後藤真希 〜
入院して2日が経った。確か昨日はプッチモニダイバーの収録。で、今日はハロー
モーニングの2本録りだったはず。ハロモニは大勢いるので何とかなるだろうけ
ど、ダイバーはどうなってるのかなぁ?と心配していた。しかし、よっすぃーが、
「何とかなったよ、保田さんと二人きりは少しつらかったけど」
と教えてくれたので、ほっとした反面、自分がいなくても何とかなるんだと思い、
寂しくもなった。
腹痛はほぼ治まり、夕方ではあったが久しぶりに熟睡している中、誰かに体を揺さ
ぶられ起きるはめになった。
「真希ちゃん起きて」
目を開ける前に、その言い方と声質で声の主が誰かわかる。そして目を開けると予想通り弟の顔が飛び込んできた。誰にだって眠りを起こされたら不快になる。しかもそれが何でも物言える弟だったのだからその不快は極まりない。
「ああもう、何よ…せっかく寝たのに…」
眠気まなこに揺さぶる弟の手を何度か振り払い、布団の中に潜り込み、邪険に追い払おうとしたが、弟は全く無視して、
「大切な友達が来てるよん」
と気持ち悪いぐらいニヤニヤしながら言っているのが布団を通して聞こえた。
誰?と言う前に、弟がスーッと横に移動する。そのまま私の目に映った姿は…
- 168 名前:5-2 後藤真希(10) 投稿日:2001年07月23日(月)15時42分18秒
- 「市井ちゃん!?」
「うぃっす、元気?…なわけないか。入院してるんだもんね」
水をかけられでもしたかのように慌ててまばたきをしながら上体を起こす。目ヤニ
が両瞼に付いているようで、今度は目を擦る。そして、ようやくはっきりと捉えた
姿は紛れもなく市井ちゃんだった。市井ちゃんはシュッと音を立てるように片腕を
上げる。伸びかかっていた髪をまた切って、少し茶髪にもしたようだ。緑を基調と
したシャツに固そうなジーンズを穿いている。頭のてっぺんから爪の先まで活動的
な雰囲気で、もちろん昔に比べて痩せてはいるが一時の病的な「痩せすぎ」という
感はなくなっていた。肌の色といい、くすんだパーツは消えているように見えた。
どこか新たな未来に向ける一糸の輝きを身に纏っているようだった。
- 169 名前:5-3 後藤真希(10) 投稿日:2001年07月23日(月)15時43分45秒
- 「な、なんでここにいるの?」
私はベッドから飛び上がりながら聞いた。慌てたため少し口をかんだ。
「なんだ、元気じゃん。もしかして仮病?やるなぁ、後藤も…」
「ねえ、どうしたの?」
市井ちゃんには相当慌てていたように見えたのだろう。両手を上下に振って、「ど
うどう」と言いながら動物をなだめるようなジェスチャーをした。私は舞い上がる
自分に少し恥ずかしさを覚えながら浮かしていた腰をベッドに落とす。
「どうしたの?って見舞いに来たに決まってんじゃん。大丈夫?」
「でも…」
一瞬、夢を見ていたんだと思った。今ここに市井ちゃんがいることが夢なんじゃな
く、市井ちゃんがHIVに感染したということ全てが。もしかしたら、市井ちゃん
がモーニング娘。を脱退したことさえ夢であれば、と願っていたかもしれない。
「ともかく。お花持って来たよん」
市井ちゃんが指差した方向には雪が積もっているアルプス山脈の絵が飾られてい
て、その下には百円ショップで売っていそうな青色の花瓶があった。その花瓶には
花が挿されている。花びらはやや濁りつつある白色でバックの雪模様と同化してい
る。何となく違和感を感じながらも市井ちゃんを見る。とりあえず礼を、と思い、
口を開こうとしたが、市井ちゃんはちょっとだけ悪いことをして、でもそれが本当
にほんの些細なことだから誰にも気付かないため、逆に気付いてほしいような仔細
顔をしていたので、私は一度間を置いて考えた。そして、指を指しつづけている方
向にある花にもう一度目を向けて、ようやく気付いた。
- 170 名前:5-4 後藤真希(10) 投稿日:2001年07月23日(月)15時45分20秒
- 「あ、カーネーション」
「ピンポーン、ケチっちゃった」
先っぽを尖らせながら閉じた口元の中から割って入るように舌を出して、謝る仕草
をした。花弁がちょっとしおれたこの花は私がこの前市井ちゃんのために買ってき
た花だろう。クイズっぽいことをして少しでも市井ちゃんは雰囲気を明るくしよう
と努めているようだ。その意志に気付きながらも私は、今までのことが現実だった
ことを知ったことに対して、夢想は夢想でしかないという小さな脱力を感じてい
た。
「真希ちゃん、じゃあ俺帰るから。市井さん、こいつは寂しいんですよ。構ってや
ってくださいね」
弟は横から皮肉な声をかけてきた。
「コラ!姉に向かってこいつって何よ!早く出てけ!」
どことなく、いやらしい目をする弟に私は舌を出しながら、そう言った。なぜか声
が上ずり、それを聞いた弟は、
「へへへ〜」
と口を動かしながら、さらにいやらしい目をする。どこか負けたような気になり顔
が赤らんだ。
そんな私をよそに、弟は市井ちゃんに軽く一礼する。すると、市井ちゃんは「は
い」と口元を動かしながら頷いた。それを見て、弟は部屋から出ていく。扉が完全
に閉まる音を聞いてから市井ちゃんがその扉を見つづけたまま言った。
- 171 名前:5-5 後藤真希(10) 投稿日:2001年07月23日(月)15時55分36秒
- 「へぇ、ちょっと見ないうちに随分カッコよくなったもんだね」
市井ちゃんと弟とは面識がある。昔、プッチモニダイバーの収録に弟が遊びに来た
ことがあったのだ。それにライブでもちょくちょく顔を出していた。
「市井ちゃんも見る目ないなぁ」
「そう?男らしくっていいじゃん」
「背伸びしてるだけでまだまだガキだよ、あいつ」
「私から言わせれば後藤だって十分ガキだけどね」
優しくそして懐かしい笑顔が私だけに振りまかれた。ベッドの横にある緑色の丸椅
子に座り、目の高さを私と合わせる。そして、熱があるわけではないことぐらいわ
かっているはずなのに市井ちゃんは手のひらを私の額にくっつけようとする。しか
し、一旦市井ちゃんは躊躇した。
「いいの?」
私が目をつぶった瞬間、市井ちゃんから声が発せられた。目を開けると、市井ちゃ
んの顔が目の前に現れていた。毛穴まで凝視すれば見えるほどだ。
「いいに決まってるじゃん」
承諾を得ないといけない関係に少し悲しみながらも、私は無垢に微笑んだ。
そして、市井ちゃんは私の下ろした前髪をかきわけて、額に触れた。
まずひんやりした感触が伝わる。
この冷たさはどっちなんだろう。熱は暖かい方から冷たいほうに移動すると教えら
れたことがあるが、今回熱はどっちに移動したのだろう?
それとも交換したのだろうか。
温度ではない。”触れ合う”という行為。それは私の心と市井ちゃんの心を繋ぐ。
お互い個を持った心はお互いを尊重しあい、交換する。
そっか、これが温もりか。
- 172 名前:5-6 後藤真希(10) 投稿日:2001年07月23日(月)15時56分59秒
- 長いこと忘れていたような気がする。”触れ合う”ことはあってもこんな気持ちに
なったことは久しぶりだ。
そんなことを感じていると一瞬、市井ちゃんが腕を硬直するのが額を通して伝わっ
た。ハッとして目を開ける。そこには何かを反芻するように目を閉じている市井
ちゃんがいた。
「市井ちゃん…」
思わず私は呟いた。自分でもなぜ言ったのかわからない。ともかく市井ちゃんは我
に返ったようにさらに身体を固まらせながら目を開けた。
吸い込まれそうな甘い瞳に私はクラクラした。
「何?」
「ううん、何でも」
私も我に返りながら、聡く言うこの言葉は一連の甘い空間の終わりを告げるものと
なった。
「へへへ〜」
ちょっとした余韻を味わうように薄気味悪い笑みを浮かべる。すると、市井ちゃん
は「やっぱ姉弟だね」と笑う。市井ちゃんはさっき弟が見せたいやらしい笑みと同
じように見ているんだと思い、それが嫌で途端に表情を変えた。
- 173 名前:5-7 後藤真希(10) 投稿日:2001年07月23日(月)15時58分53秒
- 「結局誰にも言ってないの?私の病気のこと」
市井ちゃんは私の表情に合わせるように、唐突に緊張気味になり訊ねる。
「うん」
「そっか。ずっと胸にしまってくれていたんだね。ありがと」
「そんな…ことないよ…」
私は自分のことばっかり考えてしまっていて決して市井ちゃんをかばっていたわけ
じゃない。
そんな背徳感に胸をチクリと刺されながら私は言った。
「後藤、ごめんね。多分、私のせいだよね」
他のパーツはともかく目だけは間違いなく真剣な光を放つ。
「ち、違うよ。私が悪いの、私が…その…傷つけちゃったから…」
狼狽しながら否定するが、
「やっぱ、私のせいなんだ」
と、市井ちゃんが一層うなだれる格好を見せた。
「市井ちゃんのせいじゃない!私が、私がちゃんとしてないから…だから…」
ごめんなさい、という言葉が出てくる前に溢れる感情で詰まってしまった。それを
見て、市井ちゃんは私が寝ているベッドの小さなスペースににちょこんと座り、私
の頭を抱きかかえる。ちょっとだけ汗ばんだ首筋に私は市井ちゃんの力に身を任せ
て押し付ける。
「私の方こそ、ごめんね。後藤ばっかりに重たいもん、しょいこませちゃった…」
市井ちゃんは私に合わせたように涙声で耳元に囁いた。
決して心が軽くなったわけではなかったが、市井ちゃんの温もりと匂いは、母のお
腹の中で安らかに眠る胎児のような安らぎを感じ、過去の全てを清算してくれてい
るような救われた気がした。そして、ああ、母さんだと思った。
「ま、私は大丈夫だから。後藤も早く元気になってね」
市井ちゃんはパッと離れて、一転して明るい声で言った。
- 174 名前:5-8 後藤真希(10) 投稿日:2001年07月23日(月)16時01分28秒
- 「で、でも…」
まだしんみりとした余韻を引きずっている私は少し混乱している。
エイズはどうなったんだろう?
「うん、とりあえずは退院したよん。治ったわけじゃないけど」
口にしたわけではないが、市井ちゃんは私の疑問を表情で見透かして答えた。指を
大きく広げたピースを私の眼前に突きつける。
「治ってないのに退院できるの?」
「あんた、全然勉強してないのねぇ。少しはするかと思ったんだけど」
不思議そうに尋ねる私に少し呆れながら市井ちゃんは言った。
「ともかく、HIVを倒すには自己管理が大切なわけ。日常生活を規則正しくし、
適度な運動、十分の睡眠時間をとり、栄養のあるものを摂る。これだけで、すっ
ごく発病を押さえることができるんだから」
「そんなんで?」
それって普通のことじゃん、と思う。
でも普通のことが人ってできないんだよねぇ、という誰かの言葉も同時に思い出
す。言ったのって誰だっけ?市井ちゃんだっけ?誰だっていいんだけど。
「うん、それにね、とにかくポジティブに生きるのが一番なのよ。ひどくないんだ
ったら病院にこもりっきりじゃだめなのよ。今まで通りやっていけるの」
「ポジティブ?」
「うん、positive thinking!」
英語っぽい口調で繰り返した。発音が合っていたのかはわからないが、あえて言う
ならよっすぃーのやるピーターに似ている。
ともかく、市井ちゃんは笑っていた。私もつられて笑っちゃうほどの笑顔だった。
- 175 名前:5-9 後藤真希(10) 投稿日:2001年07月23日(月)16時02分47秒
- 「ところで、話は変わるけど」
「うん?」
「あの、花のことなんだけど」
市井ちゃんは持ってきた花を指差して言った。少しいじわるそうな目だ。
「あの花ってどういう時に使われるか知ってる?」
「う〜ん」
と少し考えながら、カーネーションという語感を反復し、頭の中でイメージする。
「男の人が女の人に告白する時に、片膝ついて『お付き合いしてください!』って
頼む時に差し出す花…かな?」
「うん、そうだっけ?ってなんかそれってイメージ古臭くない?」
首をかしげながら苦笑している。私がイメージしたものはシルクハットの男の人が
一輪のカーネーションを片手に持つシーンで、確かにモノクロ映像になりかねない
ほど昔風だ。
「あれ、違ったっけ?あ、そうだ!母の日とかにお母さんにあげる花だ」
今度は自信たっぷりに言った。あげたことないけどね、と思いながら。
市井ちゃんは、今度は予想通りの答えだったらしく、ニヤリと不敵な笑みを見せる。
- 176 名前:5-10 後藤真希(10) 投稿日:2001年07月23日(月)16時09分19秒
- 「ふふふ、まあ合ってるんだけど、それは赤いカーネーションでしょ。後藤が持
ってきたのは白いカーネーション」
「違うの?」
「もちろん」
「じゃあ、お手上げだ。教えて」
「実はね」
市井ちゃんはう〜んと間をためる。
「あの花はねぇ、人が死んだ時、特にお母さんが死んだ時の弔いのお花なんだよ。
そんなに『母さん』に死んでほしいわけ?」
「え?そうなの?」
悲しげな市井ちゃんを見て、私は困惑した。
でも罪の意識みたいなものはなかった。それは市井ちゃんの悲しげな表情が表面上
の薄っぺらいもので心の中では笑っているのが見えた気がしたからだ。
いつもとは逆。
悲しみを包む喜びの仮面じゃなくて、幸せを包む悲しみの仮面。
「ま、後藤らしいって言えば後藤らしいけどね。そういうところが好きだよ」
「ホント、ごめんね…」
「そういうところ」ってどういうところなんだろう?と疑問に思いつつ、照れくさ
そうに言う市井ちゃんが嬉しかった。ただ、これからの市井ちゃんの闘いがいかに
大きなものかを漠然とながら感じた。
そして、助けになりたいと思った。
「お互い、がんばろうね」
私は握手を求め、右手を差し出した。市井ちゃんは意外な行動にやや戸惑ったがす
ぐに右手を差し出し、握手した。少し汗っぽい手には何の嫌悪感も感じなかった。
- 177 名前:5-11 後藤真希(10) 投稿日:2001年07月23日(月)16時10分18秒
- その後、しばらくたわいもないおしゃべりをした。いつの間にか面会時間も過ぎて
いたらしく看護婦さんから忠告された。市井ちゃんはそそくさと帰る準備をしてい
る中、ドアからノックする音が聞こえた。「はい」と言ってはみたが最初はまた看
護婦さんだと思った。しかし、ドアの外がやけに騒々しくて、そうではないことに
すぐ気付く。ドアが勢いよく開いた。
「ヤッホー、ごっちん元気?あ、紗耶香じゃん」
なっち以下メンバー全員がぞろぞろと現われた。
「え、紗耶香?」
後ろにいたやぐっちゃんが背伸びをしてなっちの肩から顔を覗かせる。そして、市
井ちゃんの姿を確認すると、
「あ〜、紗耶香だ!久しぶり!」
前にいた圭ちゃんを押しのけて市井ちゃんに抱きついた。
「ちょ、ちょっと痛いよ」
なんて苦しそうに顔をしかめる市井ちゃんだが嬉しそうだ。
「まあ、来るとは思ってたけどね」
その向こう側で圭ちゃんが冷静に、だけどちょっとニヤニヤして言う。それを聞い
て市井ちゃんはメンバーを見回して、
「みんな久しぶり」
照れくさそうに言った。
- 178 名前:5-12 後藤真希(10) 投稿日:2001年07月23日(月)16時11分34秒
- 私を見舞いにきたはずのメンバーだったのに私のことは全くムシで、市井ちゃんを
取り囲む形になった。
私以外のみんなが思い思いに喋り、騒々しい。話題の中心は市井ちゃんで、付き合
いの短い梨華ちゃんやよっすぃーさえもたまらなく嬉しそうな顔をしていた。梨華
ちゃんは知らないけれど、よっすぃーは市井ちゃんのことをすごく尊敬していたと
は聞いていた。テレビで見るのと実際出会ってからの旧メンバーのイメージの中で
一番違和感がなかったのが市井ちゃんだったらしい。そんな市井ちゃんにずっと教
えてもらっていた私が羨ましいと漏らしていたことを思い出した。やっぱり市井ち
ゃんは人望があるなぁと思った。
そんな中、
「うわぁ、紗耶香…スリムになったね!」
圭織が心無し羨ましそうに言った。なっちの顔色が少し翳ったのは置いといて、私
は表情を曇らせ「それは」と思わず口を開きそうになる。市井ちゃんは察したのか
私が口を出す前に私の方を見て、口の前に人差し指を突き出して、言わないように
指示した。そして小さく、
「ちゃんと言うから」
とウィンクしながら囁いた。
「言うって…」
それって告知?
「うん、みんなにも知ってもらうんだ」
- 179 名前:5-13 後藤真希(10) 投稿日:2001年07月23日(月)16時15分02秒
- 笑ってはいたがちょっと緊張しているっぽく、その表情はぎこちない。意志だけが
先走り空回りしているようだ。
「何よ、二人で密談なんかして。怪しいわねぇ〜」
ふてくされ気味の圭ちゃん。嫉妬というほどではないが、第1期プッチモニメンバ
ーとして仲間外れにされた感じが少しあるのだろう。
「ねえ、みんな、ちょっと話があるの」
市井ちゃんは言った。そんなに大きい声ではない。だけど、騒々しかった部屋がし
ーんと静まり返らせるほど圧倒させる口調だった。
「夢をあきらめたとかは言わんといてな」
裕ちゃんが冗談半分に言っても市井ちゃんは表情を崩さなかった。そんな態度を見
て、一同はようやく只事じゃないことを真剣に感じた。
「実はね、私…」
市井ちゃんはメンバー全員にカミングアウトした。
- 180 名前:名無し読者 投稿日:2001年07月24日(火)03時26分28秒
- ポジティブに生きようとしている市井ちゃんに感動!!
でも、カミングアウト後のメンバーの態度がどう変わるのか?
怖すぎる〜。
- 181 名前:5-14 市井紗耶香(7) 投稿日:2001年07月24日(火)07時32分09秒
〜市井紗耶香〜
後藤は思いの外元気だったのでほっとした。振り返ると夕焼けでオレンジ色に染め
られた病院がある。その一室には後藤がいる。
最初後藤が入院したと聞いた時、すぐ私のせいだと思った。亜依ちゃんのおかげで
膨らんでいた罪悪感がさらに増した。だから余計に後藤が笑ってくれた時、嬉しか
った。
他のメンバーが来たのは予定外だった。脱退してからは圭ちゃんや矢口とメールを
数回交わすぐらいでほとんど交流はなかった。だけど、出会った瞬間、昨日も会っ
ていたかのような親近を覚えるのは濃密な2年間のおかげだろう。と同時に、一つ
の運命を感じた。すると、変な勇気が湧いてきた。
- 182 名前:5-15 市井紗耶香(7) 投稿日:2001年07月24日(火)07時33分15秒
- 帰り道。夕焼けが一つだけポツンと立つ高層ビルに隠れてしまうところで、私は久
しぶりに携帯電話の電源をオンにする。電波は3本。
アドレス帳を開いて、目的の人物を探す。
メンバーの反応はお母さんやお姉ちゃんや看護婦さんや後藤とおんなじ。
それが全員一斉に向けられたものだったから、そのチクリと胸を刺す罪の意識が幾
重にも重なってはきたが、私は私を保っていられた。モーニング娘。のメンバーは
私にとってかけがえのない友達だ。
向こうもきっとそう思ってくれる。
私のことを認めてくれる。
たとえ、私がHIV感染者だと知っても。
何となくそういう確信があった。
自己満足なのかもしれないけれど、とにかく充足感が不安を上回り、つい足取りが
軽くなった。一歩進んだその先は違う世界に見えた。
この勢いを利用したかった。
- 183 名前:5-16 市井紗耶香(7) 投稿日:2001年07月24日(火)07時34分45秒
アドレス帳の目的の名前を見ると、体温がググッと上がる。
心地よいとは言えない汗が出る。
大丈夫、大丈夫…。
喉の奥が息苦しくなるのを感じながら呪文のように唱える。
ピッ。
ボタンを一つ押した音。
プルルルル…。
右の耳から聞きなれたコール音。
ピッ。
繋がった音。
同時に加速度的に高鳴る心臓音。
- 184 名前:5-17 市井紗耶香(7) 投稿日:2001年07月24日(火)07時36分38秒
- 「元気?私。紗耶香」
声がか細くなった。
ちょっと間が空く。電話の向こうの世界の音が聞こえる。
ざあざあと聞こえるのは雨だろうか。それとも、水道の蛇口を目一杯に開いた音か
もしれない。とにかく水の音だ。そしてそこは私の知らない世界。
小さすぎた?と思うと同時に声が聞こえてきた。
「紗耶香か?俺がどんだけ心配してたかわかってんのか?」
間違いなく彼の声。
「うん、ゴメン」
「なんで電話が繋がらなかったんだよ。俺、不安で不安で…」
たまらなく優しい彼の声。
「だから、ゴメン。許して」
「ま、まあ、いいけど…」
鼓動が口にまで響く。悟られるのがイヤで、一度息を大きく吸って、大きく吐く。
「研修頑張ってる?」
「研修じゃなくて修行だよ」
「そうだったね。で、どう?」
「毎日死にそうだよ。早く一人前になりたいよ」
彼が笑った。あんまり笑顔が上手くないんだよね、なんて思い出しながら、私は彼
と出会った時と場所へ飛ばされる。
- 185 名前:5-18 市井紗耶香(7) 投稿日:2001年07月24日(火)07時38分52秒
- 武道館ライブを終えてから1週間。
私は彼に出会い、そして恋をした。
あの甘い1ヶ月間。
たった1ヶ月間だけど、幸せだった。
普通の恋がこんなにいいものだとは思わなかった。
あれ…?
今までの私は…どこ行った…?
「頑張ってる…みたいだね」
踏みつづけていた勢いというアクセルを離す。
津波のような不安が電波を通してうねってきているようだ。
お母さんや後藤たちとはまた違う不安。
「紗耶香は…頑張ってるのか?」
「うん、もちろん…夢に向かってまっしぐら…」
ウソをついた。
彼が悲しむ声は聞きたくない。悲しむ顔を想像したくない。
私は急ブレーキをかけた。慣性力だけが私を前に進ませる。
- 186 名前:5-19 市井紗耶香(7) 投稿日:2001年07月24日(火)07時41分26秒
- 「ははは、お前らしいや。じゃあ元気なんだな」
「うん」
またウソをつく。
「俺も負けないようにしないとな」
「うん…」
何度も何度もウソをつく。
電話の向こうでまた笑っている顔を想像する。
そしてそんな笑顔を一瞬で曇らせる方法も知っている。
だけどもう言えない。
「じゃあ、切るね」
言ったのは私の方だ。堆積したウソがそうさせたのかもしれない。
「おう。また電話くれよな。俺の方からはやりにくいんだよ。師匠がうるさくって
さあ」
「うん、それじゃあ…」
「あ、切る前に…」
「何?」
「、、、好きだよ」
嬉しい。哀しい。楽しい。つらい。
交錯した感情。
不安定なまま、どんどんと膨らんで私を凌駕する。
- 187 名前:5-20 市井紗耶香(7) 投稿日:2001年07月24日(火)07時42分46秒
- 「…ありがと」
勢いに任せて飛び出した感情はとっくに止まっていた。
さらに進む勇気はない。電話を切る。
つい携帯電話を強く握り締める。途切れた電波の先に向かって私はつぶやく。
「私も…」
「あなたが…好き」
真実は届けられない。ウソばかりが彼の耳に届く。
電話したのは失敗だった。
辛さしか残らなかった。
なんで言えなかったんだろう。今日、「カミングアウト」するつもりだったのに。
「臆病者…」
私は私に向かってそう呟いた。
- 188 名前:5-21 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月24日(火)22時37分21秒
〜後藤真希〜
私は次の日、退院した。
退院してすぐに私は本屋に立ち寄り、「エイズ」と名のつく本を買い漁った。店員
の訝しげに見る目は明らかに偏見だった。だから私は睨み返してやった。家に帰る
と、退院祝いなんてものは用意されていなく、お母さんの「ごはんは冷蔵庫の中を
探して適当に食べてください」と走り書きされたメモだけがあった。しかし、中に
は私が使えそうな材料はほとんどなかった。仕方なく上の冷凍庫を開けてみると、
冷凍されたパンをみつけたので、焼いてからバターを塗って食べた。そして、その
最中にさっき買った本をテーブルに広げて読んだ。といっても図が書いてあるとこ
ろが中心になったが。
エイズなんて同性愛者や風俗に通う人たちがかかる病気と思っていた。
絶対死ぬ運命にある病気と思っていた。
そんないくつかの思い込みが間違っていることを思い知らされる。
- 189 名前:5-22 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月24日(火)22時38分17秒
- 【エイズウィルス、すなわちHIVに感染すると、人間の持つ免疫という体から異
物を排除するシステムを破壊されることにより、通常の人間なら侵入されても問題
のないウィルスや細菌でもそれを倒すことができなくなり、いろいろな病気を引き
起こしてしまう。それを繰り返すことによって心身が耗弱し、更に重い病気にかか
り、死に至る。HIVに感染しても平均10年は潜伏するだけで何の症状も示さな
い時期(無症候性キャリア=AC)があり、その後、下痢や発熱、貧血、体重減少
など一般の人がしばしばかかる症状が頻繁に続くようになる(エイズ関連症候群=
ARC)。そして、体の免疫力が極端に低下し、日和見感染症や悪性腫瘍の発生が
発見されると、エイズと診断される(エイズ発症)】
【HIVの感染ルートは主に、性行為、輸血、母子感染であって、風邪みたいに空
気感染しないし、抱擁や汗やキスのどの接触によっても感染しない(ただし、血を
伴うようなキスは可能性がある)。一緒にプールやお風呂、飲み物の回し飲み、食
器の共用など、日常生活を共にしてもまず感染しない。感染者の血を吸った蚊にさ
されたとしても、感染が成立するためには10万匹以上の蚊に同時にさされなけれ
ば感染しない】
【抗HIV剤の投与というHIVそのものを抑える治療や、免疫不全状態で出現し
てくる日和見感染症に対する予防などによって、感染しても一生発症しない場合も
ある。前者はその開発に頼るしかないが、後者は栄養管理の実践など、本人がそし
て周りの人間が努力すべきことがたくさんある】
- 190 名前:5-23 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月24日(火)22時39分26秒
- 本のほとんどの言葉は意味がわからなかった(その前に漢字が読めなかった)が、
要するに、
今の市井ちゃんは「HIV感染者」であってエイズを発症したわけじゃないからま
だ「エイズ」にはなっていないってこと。
そして、努力によって、市井ちゃんは発症しなくて済むかもしれないってこと。
生きる可能性は十二分にあるってこと。
二、三気を付けるだけで感染はまずしないってこと。
そして、
とにもかくにも大事な時期であるってこと。
それだけはわかった。
私は一冊の本をパタンと音を鳴らして、自分の心に勢いをつけた。
- 191 名前:5-24 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月24日(火)22時41分14秒
今日は単発のバラエティ番組の収録が待っていた。収録は昼からだったが私は他の
メンバーよりも先にスタジオ入りし、マネージャーに手を引っ張られながらいろい
ろな人に今回の入院の件で迷惑をかけた人々に謝罪をした。
その謝罪周りの最中にたまたま訪れていたつんくさんに会った。声をかけたのはつ
んくさんだ。緑のサングラスがあまりにも似合っていなくてそれが逆に印象的だっ
た。髪は不自然にウェーブがかかっている。
「なんや、元気みたいやな」
「はい、この度はお騒がせいたしました」
私が謝る前に手を引っ張っていたマネージャーが私の代弁をした。別に私も同じこ
とを言うつもりだったんだからいいんだけど、マネージャーは私の頭を掴み、強引
に頭を下げさせたので少し血管がプチッと切れた…てことはないけど、それくらい
ムカついた。
「俺の方こそ、見舞いに行けんで悪かったな、もうちょっと入院してたら行ったん
やけど。なんてな」
「あ、いや。そんな、ははは」
「そうや、ちょっと後藤と二人っきりにさせてくれへんかなぁ」
つんくさんはマネージャーの方をチラリと見てそう言った。マネージャーは左のそ
でをめくってグッチの時計を見るような仕草をしてから、大して見ずに、
「はい、わかりました」
と承諾していた。もっともつんくさんに逆らえるような身分じゃないから、よほど
のことがない限り断れなかったはずだ。
- 192 名前:5-25 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月24日(火)22時42分35秒
- 4、5人が丁度いいくらいの小さなロビーにあるソファに私たちは腰掛けた。スモ
ーキングリーンのそのソファは中の綿が少ないのか、それとも柔らかすぎなのか、
体の3分の1以上がソファに埋もれてしまう。ちょっとの時間だと大したことない
が、長いこと座っていると腰に来るような態勢になってしまい、会議とかには向か
ないなと思った。
つんくさんはどこにでも売っていそうなライターをポケットから取り出し、タバコ
に火をつけた。普段からほとんど無意識にやっている一連の動作だ。白い煙が天井
にある排気口に加速度をつけてすぅ〜と吸い込まれていく。ちょっとした無言の空
気に手持ち無沙汰になった私はその煙の行方をぼーっと眺めていた。
- 193 名前:5-26 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月24日(火)22時43分45秒
- 「今日な…」
つんくさんはタバコをほとんど一本吸い切った後、細々と話はじめた。
「市井から電話があったんや」
腕やももの筋肉がピクリと動き、もともとの緊張もあって硬直していた体がより固
くなる。
「えっと、その…」
「なんや、知ってるんかいな」
口どもる私を見て、つんくさんは心持ちほっとした表情を見せた。丸めていた背中
を一度反らす。私はただ小さく頷く。
「他の奴らは?」
「知ってます。昨日、市井ちゃんの口から…。私はもうちょっと前に聞かされたん
ですけど」
「そっか、自分からか…」
妙に納得したように、「そうか」と何度も呟いた。そして、一本目のタバコの火を
消し、二本目を点ける。その、ちょっとした間が長く感じられた。
「あいつ、強うなったなぁ」
つんくさんはふぅーっと煙に包まれた息を前方に向かって吐き出した。
「…」
「最初はな、全然目立ってなかったやろ、ってまあ、後藤はおれへんかったけど
な。外から見ててわかるやろ?」
私は小さく頷いた。実はよくは知らないが他のメンバーからそして何より当の市井
ちゃんからそんなような話は聞かされている。でも私の中の市井ちゃんはいつも強
くてずっと私を守ってくれていたからあんまり想像がつかなかった。
「で、お前が入ってきて、教育係になって、どんな心変わりがあったかはしらん
が、どんどん進化していった…」
「はぁ…」
”成長”じゃなくて”進化”というところが何となくつんくさんらしい。
「んでもって、脱退や。福田や石黒の時と違って、なんか、『巣立ち』って感じや
った。よう知らんが親離れってあんな気持ちなんやろうなぁ」
「はい」
私も親離れの気持ちなんて知りようがない。しかし、人間は未経験のことでも、本
能のせいか妙に理解できることがあるようで、私は素直に頷けた。
- 194 名前:5-27 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月24日(火)22時45分16秒
- 「…って俺、恥ずかしいこと言ってへんか?」
つんくさんは突然私の方を見た。サングラス越しの目が少し気恥ずかしそうに周囲
を泳いでいる。私は少し笑いを抑えて、無言のまま首を横に振る。
「ま、ともかく、俺が言いたいのは市井は脱退してからも進化していたってことか
な…」
「そうですね…」
心から同意してから、しばらく会話が途切れた。
真上の換気扇のファンの音が聞こえる。つんくさんはただ、じっとテーブルに置か
れた灰皿を見つめ、私は上を見上げる。
こんな静寂は別に気まずいものではなく、お互いが複雑な思いに耽っていただけ
だ。つんくさんはきっとオーディションからの市井ちゃんを順々に思い出している
のだろう。そして、親になった気持ちで市井ちゃんの未来を案じている。一方の私
は昨日の市井ちゃんのカミングアウトの場面を思い出していた。
- 195 名前:5-28 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月24日(火)22時46分31秒
- 市井ちゃんが自分がHIVウィルスに感染していると告白した時、私はメンバー全
員の表情の変化をおもむろに見た。メンバーは市井ちゃんを取り囲み、私はその輪
から一歩離れたベッドに座っていたので、その顔色の変化ははっきりとわかった。
それは、ちょっと前の私の表情と全く同じだろう。
言葉を言葉として受け入れられない戸惑い。
市井ちゃんに対する同情に近い悲しみ。
そして、後から湧きだすだろう自分に対する不安の火種。
これらがミックスされたような表情。
みんな、その思いを口にすることができず、立ち尽くしていた。
そんな様子を見て、私は胸が痛くなった。
そして思った。
なんてつらい光景なんだろう。
もし、私が市井ちゃんの立場だったら、悲しみや不安といった、いろんなつらい現
実ばかりが胸に去来して潰されてしまうかもしれない。
きっと、この前の私はこうやって市井ちゃんを苦しめたんだ。
ふと、市井ちゃんを見ると、私と同じような風に考え、そして、いずれ私のように
わかってくれると思ったのか、場の沈んだ雰囲気とは裏腹に安堵の表情を浮かべ、
ほっと一息つきながら、
「あと一回…」
と口元が動くのが見えた。私は読唇術を習得しているわけではないけれども、それ
はわかった。
- 196 名前:5-29 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)06時44分39秒
- 「俺が言うのも変な話やけど、市井をよろしくな」
この声で現実に戻される。つんくさんは私の目を覗いていた。
「はい」と頷くと、つんくさんは口元に笑みを浮かべた。そして、ソファの背もた
れに寄りかかり、天井を見ながら、
「しっかし、あいつはどこまで強くなるんやろうなぁ…」
耳を澄まさなくても聞こえるような大きさで言ったがそれは自分に向かって言って
いるようだった。
そして、その言葉で私は「あと一回」という言葉をもう一度思い出した。
「ああ、つんくさんにごっちんだ!」
小さなロビーに甲高い声が響き渡る。それは私の後ろから聞こえてきたが、振り向
く前に声で誰だかわかった。やぐっちゃんだ。振り返ると、隣りに裕ちゃんがい
た。
「おはようございます。お久しぶりです!」
「おう、元気そうやな」
つんくさんがそう言うと、立ち上がり、
「じゃあ、俺は行くから」
ロビーを離れた。
- 197 名前:5-30 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)06時46分05秒
- 私たち3人はつんくさんを見送ると、
「ところで、つんくさんと何話してたん?」
同じ関西弁で裕ちゃんが訊いてきた。裕ちゃんから言わせれば「つんくさんとあた
しでは方言が違う」らしいが私には同じに聞こえる。
「いや、別に…」
別に言っても構わなかったのだが、とりあえず言葉を濁す。
「もしかして、ソロデビューの打ち合わせとかだったりして!」
やぐっちゃんが半分冗談で、半分がカマをかけてみるみたいに言った。私は思いも
寄らぬ言葉に驚き否定する。しかし、慌ててしまったせいか裕ちゃんは幾らか勘違
いしたようで、
「怪しいなぁ。抜け駆けはいかんで!」
なんて言う。これも冗談半分、本気半分だ。
「それにしても、今日早いね。二人とも」
おもちゃみたいな腕時計を見ながら言った。集合時間より30分以上も早かった。
この二人は時間はきっちり守るタイプなので別段驚くことでもないが、やはり30
分以上というのは珍しいことだった。
「なんかぱっと目が覚めてしまってん。まあしゃあないかな」
霞んだ笑みをこぼしながら、裕ちゃんはやぐっちゃんと目を合わせる。
「やぐっちゃんは?」
「矢口は裕ちゃんに起こされたんだ。昨日は裕ちゃんの家に泊まったから。実のと
ころ、矢口もよく眠れなかったんだけどね」
二人ともどことなく自嘲気味だ。今日は通常の収録で芸能歴の長い二人にとっては
特に緊張することもない。二人は暗にだけど明らかに昨日の市井ちゃんのことを指
していた。
- 198 名前:5-31 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)06時47分16秒
- 「でさあ、ごっちんは検査行ったんやろ?どうやった?」
腕組みをしながら裕ちゃんは言った。やぐっちゃんと私がソファに腰をかけようと
した時だった。
「検査って?」
私は腰を浮かす。やぐっちゃんはそんな二人を首を90度曲げて見上げる。
「決まってるやん、エイズのや。どんなことするん?」
「私、受けてないけど…」
あまりにも驚く二人の顔にこっちが返って驚く。二人は顔を見合わせた。
「なんでやねん。紗耶香がエイズやったってことはあたしらにも被害を被ること
だってあるやん。あんた、そんなんで不安やないの?」
「だって…」
だって、それは市井ちゃんを信用していないような気がしたから…。
「そうだよ。ごっちんは紗耶香と出会って一年足らずだけど、しばらく紗耶香にく
っついていたんだからね。一番、うつされた可能性が高いんだよ」
やぐっちゃんが下から言う。その不安げな顔はどちらかというとやぐっちゃん自身
に向けたものかもしれない。
「うつされたって…」
二人の顔を交互に見ると言葉が詰まってしまう。
なんかとげがあるよ…。
- 199 名前:5-32 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)06時48分42秒
- 二人が言っていることは正しいと思う。少なくとも可能性はあるんだし、発見は早
い方がいい。それに、うつっていたとしたら今度は私が他の人に知らずにうつしか
ねないからだ。それでも私は嫌だった。そして、HIVというウィルスに対して
じゃなく、市井ちゃん自身に小さな恨みみたいなものを持っている裕ちゃんとやぐ
っちゃんの態度に禍々しさを覚えた。
「ともかく、あたしらも早めに行くから。ごっちんも時間作って受けなよ」
裕ちゃんは去ろうとしていた。やぐっちゃんも立ち上がり後に続く。
「待って」
私は二人の背中を半ば睨むようにして呼びとめた。
裕ちゃんとやぐっちゃんは振り返る。
「何?」
「私…受けたくない…」
これだけは今言わないといけないような気がした。
二人は再び顔を見合わせた。
「は?何言ってんの?検査が怖いの?どっちにしろ白黒つけんと、自分だけじゃな
くて周りのみんなにも迷惑かかるんやで」
予想以上の剣幕で裕ちゃんは言う。
「イヤ…だ…」
- 200 名前:5-33 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)06時50分35秒
- 倫理とか常識とかから見れば間違っているかもしれない。
しかし、自分の気持ちとしてそれはできなかった。
裕ちゃんがズカズカと歩み寄り、私の肩を強く掴んだ。悪魔の使いのような紺色の
マニキュアが塗られた自慢の長い爪が皮膚に食い込んで痛い。
「おい、しっかりしぃや!そんなん許されると思ってんの?これはあんたの独断で
決めることやない。もし、紗耶香がエイズに感染したってバレて、ウチらが検査し
てなかったとしたら、モーニングがヤバいことになるかもしれへん。それだけは避
けなアカンやろ?紗耶香だってみんなに検査してもらいたかったから告白したん
ちゃうん?」
私はゆっくりと乗せられた裕ちゃんの手首を掴み、首を2、3度横に振る。私の握
力で裕ちゃんは顔をしかめる。
「違う。市井ちゃんは嘘をつきたくなかっただけ。それでもちゃんと友達として、
仲間として認めてもらいたくて―――」
「中澤さん、矢口さん、後藤さん!集合してくださ〜い」
マネージャーの声が聞こえ、私は口を閉じた。
- 201 名前:5-34 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)06時51分23秒
- 「は〜い、今行きまーす」
やぐっちゃんが代表して返事をする。特徴ある高い声は相変わらずだがいつもの元
気一杯の声とは違っていた。
「じゃあ、マネージャー呼んでるから…」
私は一番先にその場を離れようと、裕ちゃんとやぐっちゃんの間を割ろうとした
ら、裕ちゃんが再び腕をつかむ。今度はマジで痛かったので顔を歪ませて思わず
「イタッ」と口にしてしまう。
「紗耶香がどう考えてるか知らんけど、アンタのそのわがままな態度は絶対に許さ
へんからな」
「私だって、裕ちゃんややぐっちゃんの市井ちゃんに対する態度は絶対許さないか
ら」
「な…」
裕ちゃんは絶句しながら顔を強ばらせた。私は眉根に怒気を表し、掴まれた腕を振
り下ろすと二人は一歩退いていた。
いきり立って進む自分の足音はどんどん速くそして強くなっていった。
- 202 名前:5-35 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)22時57分25秒
- その日の収録は散々だった。
ディレクターから何度もダメ出しされて、マネージャーからも
「みんな、揃いに揃ってどうしたんだ?」
と怒鳴られ、呆られ、しまいには頭を抱えられた。
「まあ、頑張ろうや。みんな」
裕ちゃんのいつもより張りのない声は、それでも少なからず力になったようで何と
か収録を続け、ディレクターさんから「仕方無い」という表情ながら、オッケーサ
インをもらった。でも結局3本録りの予定が2本しか取れなくて、私の隣りにいた
薄汚いTシャツを着たADさんが「どうするんだろう…?」とディレクターに目を
やりながら無責任に呟いていた。
- 203 名前:5-36 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)22時58分34秒
- 「ごっちん」
今日の仕事が終わり、帰り支度を進めるために楽屋に帰ろうとした時に、梨華ちゃ
んが話しかけてきた。
最近、梨華ちゃんは私のことを「ごっちん」と呼ぶ。別にそれでいいし、違和感な
く受け入れていたのに、今そう呼ばれて、いつの間に梨華ちゃんは「後藤さん」か
ら「ごっちん」に変わったんだろうと思った。
もともとこの女の子女の子しているタイプは苦手だったし、「私が先輩なのに、年
下」という微妙なバランスの中にいる二人だったので、少なくともこの間まではメ
ンバー中一番大きな壁があったような気がする。そして、その壁は小さくなったと
はいえ、まだ二人の間にそびえたっている。よっすぃーを介さないとまともに話せ
はしないだろう。
「話があるの」
高い声に似合わない神妙な面持ち。勘の鋭くない私でさえも、顔色を見れば言いた
いことはわかるのは私が四六時中市井ちゃんのことを考えていたからだろう。
変に絡まりあった緊張感。新しいことを始める前の、心地よいものでは決してな
く、自己主張もしないままただどんよりとそこにあるだけの空間。今日一日、ずっ
とそれに耐えてきたような気がする。
- 204 名前:5-37 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)22時59分41秒
- 梨華ちゃんと私は誰もいない和式の部屋に入り、畳に直に座った。梨華ちゃんは部
屋の端に積み上げられた笑点に出てきそうな座布団を私に差し出したが、私は拒否
した。大きな鏡が2枚、壁に並列につけられていて、私は自分の顔を覗きこんだ。
無意識に前髪を梳かす。
「昨日、あれから一人でいろいろ考えていたんだけど…」
梨華ちゃんは背中越しに声をかけた。座布団をテーブルを挟んで私の対面に置き、
座ったのだがなぜかそんな梨華ちゃんは正座をしていた。
「この前言っていた『友達』って市井さん?」
「うん、そうだよ」
ピンと伸ばした背筋にどこか強い思いを込めているような感じがした。そんな意志
に気圧されてか即答した。
「やっぱ、そうだったんだ…」
鼻を両手で抑えている。梨華ちゃんは泣きそうだった。元々涙腺が弱い体質らし
く、「私の涙の価値は弱いんですよね〜」なんて冗談混じりに笑っていたこともあ
ったが、今回のまぶたに溜まる涙は、どうみても重かった。
「梨華ちゃんは…検査受けるの?」
私は聞いた。どうしてそんなことを聞いたのかわからない。「いや、受けないよ」
という答えを期待していたのかもしれない。
- 205 名前:5-38 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時01分00秒
- 梨華ちゃんは、少し驚いてからすぐに目を泳がせて、
「ごっちんは…受けないん…だってね?」
一言一言をうかがうようにゆっくりと言った。意志がいくらか溶けてしまったよう
に一瞬背中を丸めていた。
「うん。誰から聞いたの?マネージャー?裕ちゃん?やぐっちゃん?」
「えっと…裕ちゃん…かな?」
いつもは「中澤さん」と言う梨華ちゃんは私につられて「裕ちゃん」と言う。
「ふ〜ん。で、梨華ちゃんは受けるの?」
「…うん、中澤さんが『一応、受けろ』って言ってたから…」
どんどん精神的にひ弱な梨華ちゃんになっていくのが、意識しなくてもわかる。
裕ちゃんの名前を聞いて朝の出来事が脳裏をよぎった上に、できるだけ差し障りの
ない言葉を選んでいる言い様は私にとっては軽い猫なでパンチのようなただ邪魔な
存在で、嫌悪らしいものが体の中を駆け巡る。私には「自分の意志じゃないんだ
よ」と言っているようにしか聞こえない。
- 206 名前:5-39 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時02分59秒
ああ、私、気が立ってるなぁ。
なんて自分を諌めようとしている自分がいた。
梨華ちゃんの声はもともとキライだ。
でも、私は一応理性がある人間なワケでキライなものをストレートにキライだなん
て言ったり、行動に表したりしない。
でも、今は違う。
いつもの自分とは違うのだ。
ちょっとしたことが増幅して、絶対的なものに近くなる。些細なきっかけで「キラ
イ」と口にしてしまうところまで来ている。
- 207 名前:5-40 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時03分37秒
- そう言いそうな喉を圧迫させたくて私は何の飾り気のない天井を見上げた。新しい
蛍光灯が白い光を放ち、梨華ちゃんの薄く浮かぶ涙に反射していた。
梨華ちゃんは何に対して涙ぐんでいるんだろう。市井ちゃんのこと?自分のこと?
それとも今こうして私やメンバー全体に広がる重々しい雰囲気のこと?
少なくとも市井ちゃんに対してではないことは確かだと思った。
その確信は少なからず私の嫌気の心を抵触した。
「じゃあ、受けなよ。絶対無駄だけど」
語尾には不快の念が露出する。吐き捨てた感じは梨華ちゃんにも伝わったようだ。
「絶対ってことはないんじゃないの?ごっちんもさあ、一緒に受けようよ。そうし
ないと、ずっと不安なまま生きていかなきゃならないんだよ?」
梨華ちゃんは再び背筋を伸ばし、鼻腔を広げ、私を出来るだけ見下ろしながら精一
杯強めた。
「不安って誰?梨華ちゃんが不安なんじゃないの?私はこれっぽっちも不安じゃな
いよ。感染してるワケないもん」
目をぎらぎらさせて声を荒げるのを、梨華ちゃんはうろたえたように見つめた。
そう言ってからピンときた。
- 208 名前:5-41 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時05分23秒
- 梨華ちゃんは裕ちゃんに説得するよう頼まれたんだ。
だから、梨華ちゃんは相性の悪い私に進んで話しかけてきたんだ。いつもと違う強
気な態度も、裕ちゃんがバックにいたからなんだ。
裕ちゃんが人任せにするのはよくあることだからそんなに気にはしていない。
けど、なんで梨華ちゃんなんだ?
梨華ちゃんが涙ぐんで説得したら、折れて受けると計算しているの?
梨華ちゃんはきっとこんなこと言いたくなかったんだろう。元々、距離のある私た
ちだ。「何で私が言わなきゃならないの?」なんてことぐらい思ったはずだ。
じゃあ、何で引き受けたの?
裕ちゃんに気に入られようとしたから?
それとも、裕ちゃんには逆らえなかったから?
裕ちゃんがますますキライになった。
そして、さっきから感じていた強気は決して梨華ちゃんが生み出したものではない
とわかり、そんな操り人形の梨華ちゃんがキライになった。
「そうじゃないよ。検査を受けることぐらい悪くないよ」
「話はそれだけなら、帰るね。私は誰に何と言われようと変わらないから」
- 209 名前:5-42 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時06分19秒
- 機嫌のムシがどんどん悪くなる。
このころになると、もう私はどこか通常の精神状態からは大分違うところにいたの
かもしれない。ハリネズミのように何本もの人を傷つける針を体中に纏い、近づく
者が味方であろうと敵であろうとケガをさせそうな感じ。年齢的には反抗期なんだ
から仕方ないけど、「何を言ってんだか…」と心の片隅で自分を貶しながらも出て
くる言葉はトゲトゲしいものしかなかった。
だから、私は一人になりたかった。
多分、誰と会っても今の私は人を傷つけることしかできない。
早く、この場を離れよう。
「ごっちん!」
私は、梨華ちゃんの呼び声を無視して、半ば逃げるように部屋を出ようとした。
カチャリという音とともに勢いよく開けたドアは何かにあたった。そして、
「キャッ」という声が聞こえた。
ドアの向こうを覗くと、よっすぃーがおでこを抑えながら尻持ちをついていた。
- 210 名前:5-43 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時09分01秒
- 「よっすぃー?」
いろいろな思考を巡らせて、やがて訪れる結論を前にその場に立ち尽くす。
「イタタタ…」
背後にいた梨華ちゃんは「よっすぃー?」と私に聞きながら、足の痺れを抱えるよ
うにして立ち上がった。
「何してんの?こんなところで…」
顔をしかめるよっすぃーに私は聞いた。しかし、聞かなくたってわかる。明らかに
よっすぃーは聞き耳を立てていたんだ。じゃないと、開けたドアがおでこに当たる
はずがない。
そんな固まっていく確信も知らないまま、よっすぃーは私と目を合わさずに、
「何って通りかかっただけだよ。二人で何やってたの?」
私服のスカートについたホコリをはらいながら立ち上がった。つくづくバカだと思
った。今、よっすぃーがいるところでは梨華ちゃんの姿は確認できないはずだ。例
え、声でその存在を確認できたとしても、「二人」と断定することは不可能なはず
だ。
「よっすぃー、大丈夫!」
梨華ちゃんは飛び出してきて、よっすぃーに近寄り、心配そうにおでこを見つめて
いた。
「大丈夫だって」
「でも…痕が残ったら…大変だよ」
「そんなに、痛くなかったから」
「でも、ああ…赤くなってる…」
「いいから」
「でも…」
「すぐ治るって…」
- 211 名前:5-44 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時10分19秒
- そんなやりとりは日常のことなんだけど、今度はイライラしてきた。
「よっすぃーは、どう思う?聞いてたんでしょ?」
私の少し感情が入った言葉をよっすぃーに発する。梨華ちゃんもよっすぃーも反応
し、私の方を見る。梨華ちゃんは少しドキリとし顔を強ばらせていたが、よっすぃ
ーは間を空けてから、
「何のこと?聞いてないよ」
何食わぬ顔で否定した。
「よっすぃーってバカ?バレバレなんだけど…。どうせよっすぃーも裕ちゃんから――」
ハッとした。
裕ちゃんは梨華ちゃんに頼んでいないのかもしれない。大体、梨華ちゃんとはそん
なに仲良くなかったわけだし、梨華ちゃんに説得してもらうのはお門違いだ。も
し、頼むとすれば同じプッチモニで一番仲がいいよっすぃーの方が適役だ。だとし
たら、裕ちゃんから頼まれたよっすぃーは、自分で言いたくなくて梨華ちゃんに頼
んだって考えるのが妥当だ。
- 212 名前:5-45 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時11分32秒
- 何でそんなことするの?
私に嫌われたくなかったから?
なんだろう、この言いようのない腹立ちは。
さっきまでくすぶりながらも意志でもって抑えていたいろんな人に向ける遺憾の火
種が、よっすぃーという身体を媒体に集められ、爆発寸前にまできている。
よっすぃーって私や梨華ちゃんに依存している。
自分で言うのもおかしいけど、これは確かだ。
今、よっすぃーと出会ってから今までのことを振り返ると、私を「利用している」
としか思えなくなってきた。
よっすぃーを見る。私と目が合うとよっすぃーはさっきまで無表情に近かった顔を
梨華ちゃんみたいに緊張させ、小刻みに震える瞳を咄嗟にそらした。
その動作が私の考えを確信に変えた。そして、よっすぃーに対する嫌悪感が決定的
なものになった。つまり、私の内側が爆発した。
「よっすぃーって卑怯者だね。嫌なこと梨華ちゃんに押し付けちゃって。そんなに
私に嫌われたくなかったの?逆にすっごくムカつくんだけど。ていうか、何で人の
会話盗み聞きするかなぁ」
- 213 名前:5-46 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時12分37秒
- 私は自分の感情に任せて、よっすぃーを指弾する。自分の声が震えていた。
「卑怯者」という言葉は心で思うより先に口に出た言葉だったかもしれない。どち
らにしろ、その言葉の意味を脳が理解し、よっすぃーがどうしようもなく卑怯者に
見えた。拳を握り締めながら、怒りだけの感情を吐き出した。
ホントはよっすぃーの気持ちはよくわかるんだよ。
私だって昔は市井ちゃんに依存していたんだ。市井ちゃんに嫌われたくなくて「卑
怯」って思われることもしていたかもしれない。
でも…私は止まらない。
- 214 名前:5-47 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時13分32秒
- 「それは言いすぎなんじゃない?」
梨華ちゃんが眉根を寄せながら口を挟んだ。高いながらも何とかしようとする梨華
ちゃんらしからぬ声。
「梨華ちゃんは黙ってて。梨華ちゃんが言えば言うほど、よっすぃーがムカついて
くる。ねえ、よっすぃー。よっすぃーは梨華ちゃんに頼りすぎなんじゃない?自分
ではっきり言えばいいじゃん」
なんで、こんな言葉が出てくるの?
自問自答する私に対し、よっすぃーは一向に何も喋らない。今日の重々しい雰囲
気、そして、裕ちゃんややぐっちゃんや梨華ちゃんの態度が私から冷静さを無くさ
せていた。
出てくる感情はよっすぃーへの非難ばかり。
もう、裕ちゃんもやぐっちゃんも梨華ちゃんもどうでもいい。ただ、よっすぃーが
許せない。それは一番の親友だったよっすぃーだったからこそ、極端に裏切られた
気持ちになったのかもしれない。
「よっすぃー。よっすぃーって最低だ。裕ちゃんも、梨華ちゃんにもムカついてた
けど、よっすぃーが一番サイテー」
- 215 名前:5-48 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時14分35秒
- ひんやりとしたワックスされた床をよっすぃーはじっと見つめていた。うっすらと
反射して、ゆがみながらもシルエットだけは映る。二人にあった仲間意識という糸
がプツンと切れた音がした。
「言い返さないんだ。じゃあ、認めるんだね」
「ごっちんだってひどいよ。そんなに責めるようなことじゃないよ」
梨華ちゃんがさっきよりも表情を固くして言う。
「ああ、もう!!」
地団駄を踏む。そこにはさっき私が否定した「梨華ちゃんの意志」があったが、も
うそんなことはどうだっていい。梨華ちゃんをキッと睨み、手の甲を向けながら人
差し指を立て、それを何度も振った。
- 216 名前:5-49 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時16分10秒
- 「だから、私はよっすぃーに聞いてるの!梨華ちゃんは黙ってて。よっすぃーは私
に何か言いたいことがあるんでしょ?じゃあ自分の口から言ってよ。言ったら険悪
になるのが怖いの?それなら手遅れだよ。もう私はよっすぃーがもうダイキライだ
から」
え?という驚嘆した顔をよっすぃーは見せた。
「ダイキライ」…その言葉は滅多に口にはしないし、直接向けることも年を重ねる
につれて、なくなっていくものだろう。それくらい稚拙で、あまりにも人の心を刺
す言葉だ。
梨華ちゃんも過敏に反応して、
「ごっちん…」
と呟くもそれ以上は続かない。自分が口を開けば、また私が過剰に反応することを
理解していたからだろう。
「私は…」
しばらくしてから、ようやくよっすぃーが口を開いた。
- 217 名前:5-50 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時18分29秒
- 「何?」
「どうして、市井さんのこと…あの時言ってくれなかったの?」
「はぁ?」
あごをしゃくるようにして言う。出てきた言葉はてんで的外れなことだった。そん
なこと私にはどうでもいい。ただ、聞き耳を立てていたという事実だけが浮き彫り
になり、フンと鼻を鳴らす。
「やっぱり、会話聞いてたんじゃん。裕ちゃんに頼まれたけど自分の口からは言え
なくて、梨華ちゃんに押し付けたんだ。そうでしょ?」
するとまた、よっすぃーは口を閉ざした。私は両拳を腰にやり、首を傾けながら、
「何で、黙るかなぁ〜」
舌打ちしながら言った。
梨華ちゃんの山鳴りのようにキンキンと鳴る叫び声にも耳を傾けず、腕を震わせな
がら、よっすぃーに一歩近づいた。それを見てかはわからないけど、二人の間に梨
華ちゃんは割って入った。
「ごっちん、やめてよ!」
振りかざした右腕はうまいこと梨華ちゃんをすり抜けた。
- 218 名前:5-50 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時19分17秒
- 「でさあ、私の方をじっと見つめてくるの。ガキだったからまだかわいげがあった
けど、あれがオジさんだったら、ゾクゾクもんだよね〜」
「うんうん、だべさ。でもあんまりそういうことは口に出さない方がいいよ、矢
口」
なんて、公の場では決して言えない会話をしながらなっちとやぐっちゃんが近づい
てくる。
「あれ?何やってんの?」
やぐっちゃんが私たち三人の存在に気付いた時だった。
バチン!!
- 219 名前:5-51 後藤真希(11) 投稿日:2001年07月25日(水)23時20分48秒
- 私はよっすぃーの頬を思い切りひっぱたいた。狭い通路に響きわたった。
「ごっちん!やめて!」
間にいた梨華ちゃんは必死で私の腕を抑える。なっちとやぐっちゃんも私の行為に
驚き、顔色を変えてやってきた。
「何やってんの!」
「最低!最低!最低!サイテー!!」
今度はグーで殴ろうかと思ったが、梨華ちゃんが目一杯抑えていたので代わりに罵
声を浴びせた。梨華ちゃんは乱闘のせいで後ろ髪を留めていた白色のバレッタが取
れて、バサッと髪が下りる。私も汗ばんだ顔に髪の毛がまとわりついていた。それ
が鬱陶しくて何度も頬を拭った。
「ちょっと、ごっちん。何があったのかわかんないけど、言いすぎだよ!」
「もう、絶対に許さないから!!」
「落ち着けって!!」
必死で私を止める三人から一歩離れて、よっすぃーは立ち尽くす。相変わらず頑な
に口を閉じたままだった。
私何やってるんだろう…。
小さな通路のせいで、私の喚き声は刹那的に私の耳にも衰えることなく届く。そん
な音が私を混乱させたのか、暴言を吐きまくるところから一歩離れてどうしようも
なくただ呆然と静観している自分がいた。
- 220 名前:第5章 終 投稿日:2001年07月25日(水)23時22分36秒
第5章 一歩の代償 〜coming out〜
- 221 名前:名無し読者 投稿日:2001年07月26日(木)02時49分35秒
二人の気持ちの動きが丁寧に書かれていて、毎回目が離せないっすね。
かなりハマっちゃってます。
- 222 名前:名無し読者 投稿日:2001年07月26日(木)03時10分38秒
- 一歩の代償はかなり大きかったみたいですね。
続きが非常に気になります。
自分だったら、やっぱり検査に行っちゃうかな〜・・・。
- 223 名前:名無しさん 投稿日:2001年07月28日(土)09時24分00秒
- なかなか軌道に乗らないなぁ…このまま行くかも。。感想ありがとうございます。
結構先まで書き溜めたので早めに更新。
次章はちょっと短めです。作者でした。
第6章 依存と夢 〜depend on you〜
- 224 名前:6-1 市井紗耶香(7) 投稿日:2001年07月28日(土)09時25分51秒
〜市井紗耶香〜
お母さんがお茶を持ってきた。陶器の湯のみの中から湯気がゆらゆら立っている。
今私の部屋はカーテンが閉まり、「陰湿だね」なんて言われても言い返せないぐら
いじめじめとした雰囲気だ。
「何で開けないの?」
お母さんはそんな空間を私の心や体に投影して見たのか少し不安がりながら尋ねて
きた。だから私はパソコンのキーボードの端を2、3度人差し指で叩きながらお母
さんの目を向けさせる。
「開けていると画面がよく見えないんだよね」
薄明かりの中、見えるかどうかわからないが笑顔で言った。
- 225 名前:6-2 市井紗耶香(7) 投稿日:2001年07月28日(土)09時27分41秒
- 橙色のibook。一昔前に某番組でもらったものだが、インターネットはできるらし
く、私はお母さんの友達に設定をしてもらった。
「またインターネットやってるの?凝り過ぎないでね」
「うん」
私は両手の人差し指を立てて、キーボードの上で迷いながら打っている。
この部屋には電話回線が引かれていないので、仕方なく携帯電話を使った。
「あんまり夢中になると電話代が目の飛び出るような数字になるみたいだからね」
お母さんは言った。たまたまだろうけど、「体に悪いよ」といった類のことを言わ
なかったところが病人扱いしていないみたいで嬉しかった。
最近、私は些細な一言の有る無しで一喜一憂する。何事にも敏感になりつつあるの
かもしれない。それじゃダメだ、もっとどっしり構えなきゃとは思うけれど、やっ
ぱり気持ちは浮き気味になってしまう。
- 226 名前:6-3 市井紗耶香(7) 投稿日:2001年07月28日(土)09時28分13秒
- 「まあ、今はメールチェックだけだから」
お母さんを安心させるために言った。とはいえ、電話代が怖いのは確かだ。一日つ
けっ放しで寝てしまったこともあるので今月の明細書は心臓バクバクもんだろう。
「真希ちゃんとかモーニング娘。のメンバーとしてるの?」
「いや、違うよ」
お母さんは画面を覗きこもうとしたが、良心の呵責みたいものがあったらしく、あ
まりじっと見ることはしなかった。
「じゃあ」
そう行って、去ろうとするお母さんを私は呼び止めた。そして、
「お茶、ありがとう」
感謝の気持ちが素直に出た。
「おかわりあるからね」
そう言って扉を閉じた。表情はわからないが口調から言って嬉しそうだった。だか
ら、私は「ああ言って良かった」と心から思う。
- 227 名前:6-4 市井紗耶香(7) 投稿日:2001年07月28日(土)09時28分56秒
- 爽然としたものが上気する中、私は止めていた両方の人差し指を迷いながらも再び
動かしはじめる。
『メールつながったみたいだね!これからどんどんやろうね!私にだったら弱音吐
いたっていいんだよ。でもね、私も吐いちゃうかもしれないから、そん時は優しく
なぐさめてね。じゃあ、亜依ちゃんも頑張って!』
送受信ボタンを押す。
私はこのたった3行もないメッセージを何回も何回も書き直した結果、20分もか
かってしまった。我ながら文章力のなさに呆れる。
亜依ちゃんはあれから学校へは行かずに入院することになった。
「おもしろくな〜い」
という中学生らしい愚痴を聞いて、私はあることを思いついた。
私は亜依ちゃんにノートパソコンをプレゼントした。
「プレゼント」と言うのは違うのかもしれない。亜依ちゃんは「こんな高いも
の…」と一旦受け取りを拒否しようとした。
「出世払いだから。亜依ちゃんが大きくなって、立派になったら返してね」
自分で言って「変かな?」とは思ったのだが、「出世払い」という言葉が亜依ちゃ
んのツボに入ったらしく、
「わかった、出世払いね♪」
亜依ちゃんは入院しているという思い込みがあるせいか、顔色は悪いように見えた
がこの瞬間だけは、全開の微笑みを浮かべながら受け取っていた。
- 228 名前:6-5 市井紗耶香(7) 投稿日:2001年07月28日(土)09時29分40秒
- 「あ、そうだ」
私の言葉は誰に届くわけでもなく陰湿な部屋の中に消えていく。
そんな一人ぼっちの部屋のせいで漂っていた孤独感を、メールという存在が消し
去ってくれていた。きっと亜依ちゃんも同じだろう。相手は今のところ亜依ちゃん
一人だけど、「人」のつながりって偉大だなと思った。
カタ、カタ、カタ、とキーボードを打つ音を一回一回、間を空けながら鳴らす。
あいうえお順になっていればいいのに、とぶつくさ独り言を言いながら、心のとき
めきが指に伝わり、今度は比較的スムーズに打てた。
『追伸〜。っていうか書き忘れ。今度、会うときはスペシャルな企画を用意しとく
から。楽しみにしててね♪』
亜依ちゃんは絶対喜んでくれるだろう。
来たるべき時を想像し、私は少しニヤついた。
- 229 名前:6-6 後藤真希(12) 投稿日:2001年07月28日(土)09時31分25秒
〜後藤真希〜
朝起きて、黄色い苺模様のカーテンを勢いよくあける。秋らしい、優しく包んでく
れるような朝日が…いつもは目に映るはずなのに、今日は光さえ射しこんでこな
い。何重にもなった灰色の雲が空全体を覆っているためか、外は暗かった。そして
秋らしいベトつくような雨がざあざあと激しい音を立てて地上を打ちつける。もし
窓を開けたなら、風で横雨になっているので吹き込んでくるだろう。とにかく朝の
気配をその明るさから感じ取ることはできない。一瞬時計が違っているんじゃない
か?と枕もとのデジタルの置時計を見るが、やっぱり8時で朝夜逆転しているわけ
でもなかった。
昨日は中途半端な気持ちで寝入ってしまった。浅い眠りで、部屋の豆電球の橙色が
眼前に焼きついていて、首を振っても人魂のような形をしながらくっついてくる。
空は私の心をストレートに表しているようで、恥ずかしくなり再びカーテンを閉め
る。今日は市井ちゃんに会う日なのに、この心の雨模様は情けなかったからだ。
再びベッドに飛び込んでうつぶせのまま目を閉じる。
- 230 名前:6-7 後藤真希(12) 投稿日:2001年07月28日(土)09時33分57秒
- このカビの生えそうなくらい湿った気持ちの原因は昨日のよっすぃーたちとのこと
だろう。
私が頬を張ったよっすぃーの顔を思い出し、後悔が眼前でチラついた。
うっすらと頬に染まる赤色とじんわりと火照った手のひらの感触が、いまだ生々し
く思い出される。
一瞬、「私が間違っている」とまで思ってしまった。
それは違う。
今度は逆にそう私の中で温度の高くない炎のようにゆらゆら揺らめいた。
私が言っていることは正しい。
そして、よっすぃーは間違っている。
それでも、雪崩のように押し寄せる「後悔」の二文字。
理屈では説明できない心の動きを私は、外気から染み出てくるような濃厚な雨の匂
いで痛感する。
「真希、御飯よ!」
階下でお母さんの声は眠りと目覚めの境界線上にいた私を引っ張り出した。私は
重々しい身体を持ち上げた。
- 231 名前:6-8 後藤真希(12) 投稿日:2001年07月28日(土)09時34分32秒
- 「おはよ」
私の御飯をよそいながら、背中越しにお母さんは言った。もし今日が晴れていたら
台所のスモークしてある窓から散乱により粒子になって射しこむ日の光がお母さん
の正面を照らしてくれるだろう。それはもっともお母さんがお母さんだと思う光景
の一つで、もっとも私が好きな光景の一つ。
今日は雨なため、そんな光景が見られないことがひたすら哀しい。
「ありがと」
朝が苦手なせいか私の言葉は重々しかったけど、その内ではものすごく感謝してい
た。新米の炊き立ての御飯はジャーがあるので作るのは簡単かもしれないけど、そ
れでもどこかお母さんにしかできない偉大な力があった。
笑顔、しぐさ、行動。全てが尊敬の産物。
だったはずなのに…。
- 232 名前:6-9 後藤真希(12) 投稿日:2001年07月28日(土)09時35分13秒
- 「昨日ね…マネージャーさんから連絡があったの…」
お母さんはいつもとは違う面持ちで私を見た。
一粒一粒が光っている御飯をおいしく食べているときだった。
「…何?」
味噌汁は、市販の「あさげ」だった。いつもと違う。いつもは田舎から送られてく
るお味噌で作ったお母さんしか作れない味噌汁なのに。
「ちょっと聞いて…」
目線を下げ、箸を置くように促したので、そのようにする。
「市井さん…病気なんだってね…」
- 233 名前:6-10 後藤真希(12) 投稿日:2001年07月28日(土)09時36分26秒
- 眉をピクリと動かした。私のことを全て認めてくれるようになったお母さんはそこ
にはいなかった。真剣な眼差しを傾けるはお母さん。
それは、どこか強制的だ。中学生になってから、ほとんど向けたことのない、”し
つけ”に近い威圧さ。
”病気”と範囲を広く言ってはいるが、その目を見て、市井ちゃんがHIV感染者
であること、そして、私が検査を拒否していることをすでに把握していることはわ
かった。
「お母さん…まで、市井ちゃんのことを憎むの?」
沸く衝動に駆られ、震えるような声で私はつぶやく。もう鋭角に削がれたもの全て
を柔らかく包んでくれるような朝独特の雰囲気はない。私の視点はお母さんの瞳一
点に集められる。
「そんなこと言ってないわよ。でも、あなたも大事な体なんだから。今日は仕事は
休みだったわよね。じゃあ学校の帰りにでも検査に行ってきなさい。手続きは取っ
ておくから」
ガタン。
私は椅子を倒しながら立ち上がった。
「…ご馳走さま…」
悲壊な目をしながら、立って見下ろす白米はその輝きが褪せて見えた。味噌汁はた
だ濁って見えた。どちらもまだ半分以上残っている。おかずの目玉焼きやらっきょ
う、つぼ漬はまだ口さえつけていない。
「ちょっと、真希」
「もう、御飯いらないから…」
「待ちなさい」
- 234 名前:6-11 後藤真希(12) 投稿日:2001年07月28日(土)09時37分25秒
- 離れようとする私の腕をお母さんはテーブルを挟んでつかんだ。
瞬間的に私はつかまれていないもう一方の腕で、テーブルにびっしり置かれた朝ご
はんたちをはらう。
「わっ!」
お母さんはぐちゃぐちゃになったごはんに驚き、腕を離した。
「私、絶対イヤだから」
顔を紅く染めながら吐き捨てる。
何だ、お母さんも同じだ。
キッとお母さんを裏切りに近い目で睨んだ。
そして、私は逃げるように家を出た。
- 235 名前:6-12 後藤真希(13) 投稿日:2001年07月28日(土)15時10分46秒
〜後藤真希〜
「なんだ、もう来たんだ」
市井ちゃんは家のドアを開けながら私に向かって言った。
「うん」
「雨は止んだみたいね…」
市井ちゃんは私の頭上に目を向けてつぶやく。黒くて厚い雲が覆われてはいたが、
隙間から射しこむ太陽がもたらすどことなく明るい雰囲気がもう雨は降らないとい
うことを示しているようだった。
「昼過ぎには止んでたじゃん」
「そうだっけ?家出てないからなぁ…」
私は市井ちゃんの顔を拝めて、鬱屈した体の汚い部分がスーッと浄化されているよ
うな感じを覚えた。バファリンを飲んで頭痛がみるみる消えていく感覚に近い。
卒業したと思っていた市井ちゃんへの依存心。
また、どんどん膨らんでいることに気付いた。でもそれが、悪いこととは思わ
ず、逆に市井ちゃんに近づけた気がして嬉しかった。
私って矛盾してるなぁ。
よっすぃーにはその「依存心」を拒絶したのに。
- 236 名前:6-13 後藤真希(13) 投稿日:2001年07月28日(土)15時13分34秒
- 「さっきの電話って駅前からでしょ?」
「うん、全速力で走って来たからね…はぁ…結構遠いね」
私は駅に着いてから、その現在地を伝え、「今から行くから」と電話した。歩いて
10分のところを5分で走ってきた。
「別に、逃げも隠れもしないのに…」
市井ちゃんは呆れながら私を家の中に促す。
「いやあ、ダイエットも兼ねてんだ」
と、照れを隠しながら笑う。
「シャワーでも浴びる?お風呂は落としちゃったけど」
と言った。私は、うんと言いそうになったが、市井ちゃんが最初に倒れたところだ
と思いだすと、少し気が引けて断った。市井ちゃんはそんな私の心の動向には気付
いた素振りを見せず、「そっか」とただ素直に反応した。
市井ちゃんは見るたびに元気になっているような気がした。血色もいいし、なんか
このまま治っていきそうな錯覚さえ覚えた。
いや、錯覚じゃないのかもしれない。
HIVに感染してもそれはエイズを発症する可能性があるということだけで、必ず
しもエイズを発症するとは限らない。市井ちゃんがどんな治療をしているのかは詳
しく知らないが、「治る」を「治療なしでも症状が進行しない状態」と定義すれば
十分治る可能性がある病気なのだ。市井ちゃんの顔つきはその「治る」に向かって
進んでいるような感じがあった。
- 237 名前:6-14 後藤真希(13) 投稿日:2001年07月28日(土)15時15分15秒
- 「そういえばそれって学校の?」
「うん」
「制服姿の後藤を初めて見た」
市井ちゃんは全身を見回して言った。気のせいか羨ましげだった。私は学校から直
接やって来た。今日びの中学生は私服をバッグに入れて、学校が終わると街のトイ
レかなんかで着替えて遊ぶらしいが、私はしたことがない。理由は一つ。面倒くさ
いからだ。
「どう、似合ってる?」
私は立ちあがり、左手を腰に添え、右手を後頭部に回しながらモデルみたいに市井
ちゃんの前でくるりと一回転する。長くも短くもない紺のスカートが遠心力でふ
わっと浮いた。
「どう?」
そのままの態勢で腰を前に突き出す。みとれろ!みたい態度で市井ちゃんを見る。
「似合ってるけど、あんまりおしゃれじゃないね、その制服」
反応が思ったよりも平坦で肩透かしをくらった。
「そんなこと言われなくてもわかってるよ〜」
「うん」
「それに仕方ないじゃん。中学校は選べないんだもん。高校はぜぇったいにかわい
い制服のところ行くんだから」
「その前に後藤の頭で行けるの?」
市井ちゃんは皮肉たっぷりにニヤニヤしながら言う。
「うわっ、ひっど〜い。そりゃないよ〜」
「ははは、ごめんごめん。かわいいよ、後藤」
「フォローになってない…」
プンスカ拗ねる私を目尻にうっすらと皺を作りながら市井ちゃんはなだめた。
- 238 名前:6-15 後藤真希(13) 投稿日:2001年07月28日(土)15時17分25秒
- それから、一緒に晩御飯をいただき、泊めてもらうことになった。
「お母さんに御飯いらないって連絡しとかないとダメだよ」
と市井ちゃんにしつこくそう言われたので仕方なく家に電話した。
最初は弟が出た。弟も朝のお母さんとのやりとりを聞いたのだろうか、最初から怒
っている気がした。
「市井さんとこ?」
「うん、御飯食べてくから言っといて。あ、それと市井ちゃん家に泊まるから」
「待って。母さんに代わる」
そそくさと電話を切ろうとする私を弟は呼びとめた。
「いいよ、伝えといて」
「ダメ。ちゃんと真希ちゃんの口から言わないと。俺、言わないよ。ちょっと待っ
てね」
小さな怒りは私が今市井ちゃん家にいることではなく、お母さんを悲しませたこと
であることは容易にわかった。
「もしもし」
お母さんが出た。小さく息を吸った。
- 239 名前:6-16 後藤真希(13) 投稿日:2001年07月28日(土)15時18分33秒
- 私は市井ちゃん家にいること、そして泊まるかもしれないことを正直に言った。
お母さんは自分の思いとは正反対の私の行動にすこぶる苛立っているようだった。
しかし、電話越しではどうすることもできないことを知っているからだろうか、結
局は折れて、
「迷惑かけちゃだめだからね」
と言った。そして、最後には、
「でも検査は絶対受けなさい!それに気を付けてね!」
一ランク声量を上げてお母さんは言った。私は声が洩れたかも?と思い、側にいた
市井ちゃんを思わず見る。しかし、市井ちゃんは気付かずに私は一生読むことがな
さそうな活字いっぱいの小説本を読み耽っていたのでほっと胸をなで下ろした。
「わかってる!じゃあね」
小さいながらもトゲトゲしい言葉をお母さんに言って電話を切った。
- 240 名前:6-17 後藤真希(13) 投稿日:2001年07月28日(土)15時19分57秒
- 「で、みんなどうだった?」
晩御飯をいただいて、一息ついてから、市井ちゃんは満を辞したかのように訊いて
きた。今の私は制服を脱ぎ、市井ちゃんの服を借りて着ている。部屋着なので、か
わいいうんぬんより、軽くて体をどこを圧迫するでもない柔軟性がある服だった。
ただ、市井ちゃん曰くパジャマではないらしい。袖のところになくてもいいピンポ
ン玉大の赤い玉がそれぞれ2つずつくっついていて、寝る時にはかなり邪魔にな
る。「切ればいいのに…」と思ったが、市井ちゃんは多分、この服を見た時、この
赤い玉に魅かれて買ったんだろう。「邪魔なんだけど、唯一特徴のあるもの」とい
うそジレンマがこの服を「パジャマに最も近い部屋着」という何とも中途半端なと
ころに位置付けられたようだ。
「うん、つんくさんがよろしくって…」
「あ、そっか、つんくさんにも言ったんだっけ」
市井ちゃんの訊きたいことはちょっと違う。メンバーのことだ。市井ちゃんは肩を
透かされたようでほっとしたようなどきっとしたようなため息をついた。
あの市井ちゃんのカミングアウトの後、モーニング娘。の雰囲気が180度変わっ
た。それは私のせいでもあるんだけど、もしそのことを話したならば市井ちゃんは
責任感が人一倍強い人だから、私が想像する以上に悲しむだろう。
だから、私は口を濁す。
嘘をつく。
- 241 名前:6-18 後藤真希(13) 投稿日:2001年07月28日(土)15時30分14秒
- 「で、裕ちゃんとかはどうだった?」
仕切り直しとばかりに具体名を出してきた。一番嫌っていたように見えた人物の
名が呼ばれて、私は心臓とともに飛び上がりそうになった。
「うん…すっごく心配してた。『頑張れ』って。『紗耶香のこと信じてる』とか…
応援してた」
何とか自制し、取り繕って平静を装いながら言う。言っている時はあまりに正反対
を言っているという罪の意識からか市井ちゃんの顔を見ることができなかった。そ
して言い終えた後、ゆっくりと見上げると、市井ちゃんは体の前に手を組みながら
オーバーに胸をなで下ろしていた。
「そっか…。なんだ…。やっぱり、言ってよかった…」
大きく息を吐きながら言う市井ちゃんを見て胸が痛んだ。
どうやら市井ちゃんは相当苦しんだらしい。苦悩を勇気で持って超えた結果が報わ
れたという安堵感がいかんなく表出する。それは私の嘘によって支えられているの
だから、市井ちゃんが本来感じるべき痛みを倍加させて私の心をえぐってゆく。
「じゃあ、お菓子持って来るね!」
跳びはねるように立ち上がり、下の台所からお菓子と飲み物を持って来た。
「一応、定番〜」
左手にはムースポッキー、右手には500mlペットボトルの飲茶楼。なんか私の為に
用意したみたいでおかしかった。
こんな遅くに食べて太らないかな?
とは思ったが来る時走ったからプラスマイナスゼロだよね。
と、自分を納得させた。
こういう考え方が太る原因の一つなんだけど…。
- 242 名前:6-19 後藤真希(13) 投稿日:2001年07月28日(土)15時34分54秒
- ムースポッキーのとろける食感を楽しんでいるとき、私は目の前にホコリのかぶっ
ていないギターに目をやって、
「ギター、弾いてるの?」
と尋ねた。市井ちゃんは私の目線が壁にもたれているギターの方向に向いてい
ることに気付いた後、自分もギターの方に一瞬目をやり、うん、と頷いた。右手に
持っていた飲茶楼をテーブルの上に置く。
「夢だからね。あきらめる気は全くないから」
市井ちゃんらしく、演技と思うくらい力強くそう言った。そして、ギターを手に取
り私にはよくわからないがメジャーなコードをいくつか鳴らした。ギターの弦を見
ながら、
「まあ、予定より時間はかかるかもしれないけど…」
と呟く。
私はそれを聞いて、今しかない、と思った。
前を見つめる市井ちゃん。その先に市井ちゃんはいろいろな夢なり希望なりを見て
いるのだろう。そして、それはきっと私の聞きたいことも含まれているはず。
- 243 名前:6-20 後藤真希(13) 投稿日:2001年07月28日(土)15時39分18秒
- 「市井ちゃん」
ギターの弦を必死で見て指を押さえる市井ちゃんは顔を上げた。
「『あと一回』って何のこと?」
市井ちゃんには唐突な質問に聞こえたのだろう。全く意味がわからずに首をかしげ
る。
「なっちや裕ちゃんたちに告白した時、呟いたよね。『あと一回』って。あれどう
いう意味なの?ずっと気になってて…」
市井ちゃんも気付いたようだ。はっとしてから、
「聞こえちゃんったんだ…」
少し、しまった、と困惑顔に変わっていく市井ちゃん。私は、うん、と頷くと、し
ばらく目が合った。
まばたきもせず見つめあう時間が秒単位まで続いた。
「まあ、わかることだからね」
目をそらしたのは市井ちゃんだ。肩で大きく息をつき、観念しているように、ギタ
ーを横に置き、そう言った。
「じゃあ…」
私が思っていたことを言うより先に、市井ちゃんは口を開く。
「うん。私、カミングアウトしようと思ってる。今度はファンに。日本中に」
その目は真剣そのものだった。
- 244 名前:6-21 後藤真希(14) 投稿日:2001年07月29日(日)11時17分49秒
〜 後藤真希 〜
しばらく返す言葉が見つからなかった。予想していたこととはいえ、決定的な杭を
打たれたような衝撃を感じた。漠然と頭に描いていたはずのフローチャートが私の
否定的な心の炎で燃やされ、続きは灰になっていく。
真っ白になったまま、市井ちゃんを見た。
余計な感情を拭い落としたような顔は自分一人で生きていけるような強さだけを鋭
角に削ぎ落としているようだ。
「なんで…そんなことしなくちゃいけないの?」
まだ暑い秋の夜にも関わらず、寒気が体を襲う。両腕を互いに擦り合わせながら
言った。
「なんで…って、いずれ、バレることだと思うしね。病院通いなんかしてるといず
れは誰かに見られちゃって記事にされるかもしれないし、先手を打っておかないと
ね」
「それだって、なんか…」
なんか、自ら晒し者にされにいくみたいで…。
- 245 名前:6-22 後藤真希(14) 投稿日:2001年07月29日(日)11時18分26秒
- そう言いそうになる口を必死でつぐんだ。市井ちゃんの顔を見ると何かしらの悟り
を開いたように迷いが消えて、凛々しくて、それが出会った頃、ずっと大好きだっ
た市井ちゃんに近かった。
「それだって、別に無理してやんなくてもいいじゃん…」
「そう?大したことじゃないって思ってるんだけどなぁ」
あっけらかんと市井ちゃんは言う。
私と市井ちゃんとではその価値観が違うようだ。
私が神経質なだけなのか、市井ちゃんが楽観的なだけなのか…。
- 246 名前:6-23 後藤真希(14) 投稿日:2001年07月29日(日)11時28分18秒
- 「やっぱり…私、ヤだな」
訝しさから湧く思いを唇を噛みしめて抑える。左の中指につけられた若干大きめの
ファッションリングを無意識に取ったり外したりしてしまう。「説得」という言葉
が頭をよぎった。
「別に、後藤が言うわけじゃないんだからさぁ。まあ、いろいろ迷惑かけるかもし
れないけれど」
笑い目の向こう側にどっしりと構えた山のように揺るがすことのできない決意を控
えた市井ちゃんを見た。頭で考えていたことが現実味を帯びてきて、より不安にな
る。そして、”説得”は不可能だと思った。だけど、せずにはいられない。
「市井ちゃん…そんなかっこいいことしたって意味無いじゃん…。逆に…」
「別に、かっこつけてなんかないわよ。ただ、ファンのみんなに『遅れるけどごめ
んね』って言いたいだけよ」
「そこがカッコつけてるって言うんじゃん!」
抑えていた気持ちがついに爆発した。こんな市井ちゃんは私なんかじゃその意志を
グラつかせることなんてできないことはわかっている。それでも、迫りくる私の衝
動には叶わなかった。テーブルをバンと叩いて立ち上がり、市井ちゃんを見下ろし
ながら叫んだ。半分だけ飲んだペットボトルの飲茶楼が倒れる。キャップをちゃん
と閉めていたので中身はこぼれはしなかった。
- 247 名前:6-24 後藤真希(14) 投稿日:2001年07月29日(日)11時30分39秒
- 「市井ちゃんは病気を治すことだけ考えてればいいの!なんでファンに気を使わな
くちゃいけないの?なんでそんなに自分を犠牲にしようとするの?私から言わせれ
ばどうみてもヒーローぶってるよ!」
豹変して怒鳴りつける私に市井ちゃんはあっけにとられていた。言っている自分さ
えも驚いていた。考えてみれば市井ちゃんに面と向かって、思いを怒声混じりにぶ
つけたのは初めてかもしれない。大きく息をつくと、数秒前のことが途端に後悔に
変わる。
「あ、私…」
困惑の目の色に変え、「ごめん」と言おうとするが、音として出てこない。そんな
私を前に、市井ちゃんが口を開いた。
「そうだよね。他人から見ればそうかもしれないね…。でも、違うの」
私は市井ちゃんを見てドキッとした。私の怒りを全て吸収し、ノックアウト寸前の
ようにうなだれている。そして頬に糸のような細い涙が伝っていた。
「ヒーローだなんて思っていない。ううん、むしろ逆。ただ…臆病なだけよ…」
さっき感じた市井ちゃんの笑顔の向こうの確固たる信念。そのさらに向こうに潜ん
でいる何かを私は見た気がした。その正体をは探りたいところだったけど、今の表
情を見るとそれはできなかった。市井ちゃんは涙を手の甲で拭うと、
「さてと、どっちにしろまだ先のことだよ。具体的に何にも決めていないし。もう
寝よっか?泊まっていくんでしょ?」
気を取り直しながら言った。
私は戸惑いを感じながらも、ただうなずくしかなかった。
- 248 名前:6-25 後藤真希(14) 投稿日:2001年07月29日(日)12時11分27秒
- 「後藤」
部屋着からパジャマに着替えて、布団に一緒にくるまると市井ちゃんは私に背を向
けたまま声をかけてきた。あんまりさっきの変な服と変わらない。むしろ、こっち
の方が固くて寝にくいのではないかとさえ思う。ズボンの腰のゴム紐が異様に短
く、腰に圧迫を感じる。
「うん、何?呼んだ?」
夜になってググッと室温が低下した空気の下では小声でもほとんど劣化せずに、し
っかりと耳に届く。
「後藤ってなんか夢あるの?」
こういうちょっと雑談には似合わないセリフを市井ちゃんは事もなげに言う。違和
感がないのは慣れてしまったからだろう。
「夢?う〜ん、前は歌手になりたいとか、モーニング娘。になりたいとかあったけ
どなぁ」
「モーニング娘。」と自分が口にした時、胸に何かつっかえた。そして、連想ゲー
ムのように裕ちゃんやなっちの顔を思い浮かべた。その顔はゲームやチープなドラ
マ演出に使われる「意識を失い眠りに誘われる場面」のようにゆらゆらと歪んでい
った。
- 249 名前:6-26 後藤真希(14) 投稿日:2001年07月29日(日)12時14分13秒
- 別に意識が飛んだわけでも眠りに落ちていったわけでもない。でもそれくらい私に
とっては消去したい連想ゲームの顛末だった。
私にとって、「モーニング娘。」の存在の意義が変わりつつあるのかもしれない。
いや、もうとっくに変わってしまっていたのかもしれない。
「そっか、叶っちゃったんもんね。じゃあ、今は『このまま、ずっと歌っていきた
い』とか?」
市井ちゃんは体を入れ替えた。私は市井ちゃんのほうを向いていたので向かい合う
形になる。涙もその跡もなくなっていた。
「まあ、そうかな?今のところ、市井ちゃんみたいにちゃんと前を見ながら進む余
裕は…あっ!!…た…」
- 250 名前:6-27 後藤真希(14) 投稿日:2001年07月29日(日)12時16分54秒
- 私は思わず、素っ頓狂な声をあげてしまう。市井ちゃんは大げさに耳を抑える。
「何よ、突然大声出して。で、あったの?今考えたとかじゃないでしょうね?」
「ええと、あってるような何ていうか…」
「何?教えて?」
「えぇ〜やだよ〜、恥ずかしいもん」
「何でよ、私教えたじゃん」
「別に聞きたいわけじゃなくて市井ちゃんが勝手に公表しちゃったんじゃん」
「そうなんだけど…。ね、ヒントでもいいから教えて!私みたいなこと?やっぱり
音楽に関係してる?」
市井ちゃんは手を合わせて軽くウィンクする。
「え〜っと、半分合ってるかな…?」
「何よそれ、意味わかんない。次のヒントは?」
「だめ〜、おっしまい〜」
私は市井ちゃんに背を向ける。そして、意地悪げに「おやすみ〜」と言った。
「何よそれ」
市井ちゃんは不満げにぶつくさ言っていたが、仕方なく眠りについていた。
言わないんじゃなくて、言えないんだけどね。特に市井ちゃんには…。
- 251 名前:第6章 終 投稿日:2001年07月29日(日)12時26分33秒
第6章 依存と夢 〜depend on you〜
次章は前半のクライマックスにあたるかな。
- 252 名前:名無し読者 投稿日:2001年07月30日(月)03時38分14秒
- 後藤の夢って何だろうな〜?
次章は前半のクライマックスですか・・・
楽しみでありますが、痛い話の場合、痛みに耐えられるか心配であります。(w
- 253 名前:名無しさん 投稿日:2001年07月31日(火)03時09分18秒
- 長いので次章は二つに分けます。
第7章 孤独の果て(前編) 〜wanderin' destiny〜
- 254 名前:7-1 市井紗耶香(8) 投稿日:2001年07月31日(火)03時11分14秒
〜市井紗耶香〜
次の日の早朝。空の片方が少し明るい朝月夜。朝もやが立ち、辺りが白く包まれて
季節に似合わない冷涼な空気のもと、後藤は私の家を離れた。私はマンションの外
まで付き合った。
仕事かと思いきや、今日は朝から学校らしい。とうに学校を辞めてしまった私には
少しうらやましく思いながら小さくなっていく制服姿の背中を見送った。
「しかし、昨日の後藤は凄かったなあ」
後藤が消えていった視界をおぼろげに見ながらつぶやいた。
後藤があんな感情剥き出しで私にぶつかってくるとは思わなかった。
- 255 名前:7-2 市井紗耶香(8) 投稿日:2001年07月31日(火)03時13分55秒
- 眠り際、繋いだ手と手が暖かくて、柔らかくて嬉しかった。
純粋無垢でスースー吐息を立てながら寝ている後藤を見て、私は勇気と後悔を持っ
た。
「あと一回」
本当のことを言うと、この言葉はファンに向かって、というわけではなかった。
「たった一人の最も大切な人」と「多くのファン」。
後者に伝える方がずっとラクだった。
もっとも「大切な人」は「多くのファン」の一人なんだけど。
間接的に伝わって彼が判断を下すだろう。
賽は投げられた。
「ホント、臆病者だなぁ〜」
自分を貶しながらも、次にやるべきことがわかって少し心が晴れていた。
いつの間にか後藤と私との間には幸せがあった。
不幸だと思いつづけていたのに、今は幸せだと思った。
私を想ってくれること…それだけで、そんな些細なことだけで、幸せだった。
一方で、後藤をいつの間にか裏切りそうな自分が造られているようで、どこか不安
だった。
- 256 名前:7-3 市井紗耶香(8) 投稿日:2001年07月31日(火)03時15分08秒
- 「あっ」
ふとあることを思い出し、私は思わず声をあげる。たまたま通りかかった犬を連れ
たおばちゃんにまでその声が届いたらしく振り向いてきた。私は首と両手を横に振
って「なんでもありません」とジェスチャーしてから、ポケットに入っていた携帯
電話を取った。
着信履歴が一番新しい番号。当然、後藤だ。
「ねえ、後藤。今度いつ来るの?」
「何でそんなこと聞くの?」
「後藤って突然来るから心臓に悪いのよ。ちゃんと心の準備しとかなきゃ」
「何よそれ〜。私ってお化けみたいじゃん」
「そんな意味じゃないわよ。ただ、もちょっと計画的にしてもらいたいんだよね」
「ふーん」
おそらく200Mぐらい向こうに後藤はいるだろう。もやのせいもあって見えなか
ったが、声だけは冷たい空気に乗って直接届いているような気がした。
「とにかく、今度来る時は早めに言ってね」
「そしたら、あさって行きます。5時ぐらいからなら空いてるから」
「は?あさって?そんなに暇なの?」
「たまたま、あさってが暇なだけ。忙しいよ、あいかわらず」
「わかった。じゃあ、待ってるよ」
一方的に私は電話を切った。電話の向こうで後藤は「何なの?」と思っているに
違いない。
私はムフフと微笑を浮かべて、マンションに入った。
- 257 名前:名無しさん 投稿日:2001年07月31日(火)03時16分21秒
- いきなり上げてるし…。章が終わるたびに上げる予定だったのに…。
- 258 名前:7-4 後藤真希(15) 投稿日:2001年07月31日(火)08時11分59秒
〜後藤真希〜
私の居場所がどんどんなくなっていく。
その変化をどこか他人事のように眺めていた。
よっすぃーと私との間に生まれた溝。
あのやりとりで梨華ちゃんはもちろん、なっちややぐっちゃんもよっすぃーをかば
う立場になった。
圭織もなっちから聞いたのか、私を避けるようになった。
ホントは謝ろうと思っていた。
市井ちゃんに会って、少し冷静になって、やっぱり自分がおかしかったのかな?と
反省していたからだ。
だけど、私に向ける悪意ある目つきたちが私の謝罪の口を閉ざした。
市井ちゃんが自分がHIV感染者だと告知してからどんどんモーニング娘。を取り
巻く空気が重々しくなっていく。
- 259 名前:7-5 後藤真希(15) 投稿日:2001年07月31日(火)08時12分39秒
- どこか発色が悪く、色褪せた光景が目の前に見える。
懐かしい古ぼけた校舎。すぐにわかる。私の母校、小学校だ。
一つの部屋にズームアップされて、30人強の人間が机に座っている。そこには小
さな私がいた。そして、焦点はその昔の私と隣りの女の子に合わせられる。
誰だっけ?
顔はよく見えないが、髪のボサボサそうな女の子。
手が震えている。唇を噛みしめている。
名前は思い出せない。
しかし、この子がイジメられていた子だということは思い出した。
なぜ、イジメられたのかは覚えていない。脳内をどんなに探ってもムリだろう。そ
れくらい些細なものだったはずだ。
しかし、イジメの内容は克明に思い出せる。徹底的なシカトと彼女の机に「死ね」
と書いたりとか、近づくだけで汚いとばかりに避ける。よく見ると、私とその女の
子の机の間隔が大きくなっている。
犯人は誰だったのか?
その答えに何の意味ももたない。
クラスの女子、全員が犯人だったから。
- 260 名前:7-6 後藤真希(15) 投稿日:2001年07月31日(火)08時14分47秒
- 私も…正直に言うと、多分に洩れず彼女を無視した。「犯人」だった。
男の子の声が色褪せた光景の中から聞こえた。
「女ってこえーな」
周波数のいまいち合っていないラジオから聞こえてくるような砂音混じりの音声。
今、見える景色に住む人たちの心を端的に表しているようで、その中にいる私は
椅子と机をガタンと揺らし、一瞬怯えた。
それ以来、彼女は喋る口を持たなくなった。当時の担任の先生は、「熱血」が当て
はまる典型的体育会系の男の先生で、てんで、女の子というある時は繊細、そして
ある時は狡猾にもなる不思議な存在を理解する頭脳を持ってはいなかった。イジメ
られた少女が、登校拒否をするまで、もしかしたら登校拒否をした後でさえもその
先生はイジメがどれくらい悪質で、誰が犯人だったのか気付かなかったのかもしれ
ない。結局、その彼女とはあれ以来会っていない。
一度目をこするとその景色は消えていた。
しかし、残忍な余韻は頭の中に残る。
とっくに忘れ去られたと思っていた過去が雪崩のように記憶の中枢にまで流れこん
できている。罪悪感を含んだ唐突な忌々しい記憶の流れ込みに私の体の中では悪寒
が走っている。きっと、こんなことが起きたのは今の状況に共鳴するところがあっ
たのだろう。
- 261 名前:7-7 後藤真希(15) 投稿日:2001年07月31日(火)08時16分30秒
つまり…。
私って悪者?
イジメられるの?
イジメの対象が生涯初めて私になったと認識した瞬間、顔のない少女が私に不気味
に微笑みかけてきた。貞子みたいにフフフと声をかけてくる。きっと私がイジめた
少女だろう。
私はその幻影に臆することなく睨んだ。
絶対あんたみたいにはならないよ。
そんなイジメを甘んじて受け入れ、そして、どんどん自分の殻に入っていく…。
そんな風になるのはさらさらゴメンだ。
へりくだってはいけない。
メンバーに会ってそう思った。さっき少女に向かって睨んだ気概そのままに、トゲ
トゲしい気持ちをメンバーに降り注いだ。私は最初に目を合わさないよっすぃーを
睨みつけた。
「臆病者」「卑怯者」という視線を投げかける。
その視線を感じたからかどうかはわからないが、その時、よっすぃーは私に逃れる
ように背を向ける。「ちっ」という舌打ちをすると、その背筋が微かに揺れていた。
- 262 名前:7-8 後藤真希(15) 投稿日:2001年07月31日(火)08時18分17秒
- 歌番組の収録前、マネージャーに楽屋裏へ来るように、と呼び出された。
「あれ、どうしたの?」
昼下がりではあったが眠い目をこすりながら、その場にいる、裕ちゃんと圭ちゃん
を確認した。二人は同じ格好で同じように腕組みをしている。圭ちゃんはダメダメ
だが裕ちゃんはその威圧さはサマになっている。
「話があんねん」
裕ちゃんは顔を10度私から傾けながら言った。
- 263 名前:7-9 後藤真希(15) 投稿日:2001年07月31日(火)08時19分45秒
- ああ、そうか。
「そうだろうね。だから呼び出したんでしょ」
自分の名前を使わずに呼び出す裕ちゃんと圭ちゃんに腹が立っていた。裕ちゃんや
圭ちゃんの名前を使って呼ぶと私は来ないかもしれないと、危惧しての行動だった
のだろうが、私には「正々堂々」を欠いた非人道的な行動に思えていた。
「ウチらな、昨日検査の結果が出てん…」
裕ちゃんが申し訳なさそうに言う。
「うん、おめでと。なんにもなかったんでしょ?」
声も表情も全てに重力をかけているような空気の中、私はあまりにも不相応な微笑
みを見せた。
「うん…それでな…」
「私受けないよ。感染してるわけないもん」
「なんで?はっきりさせたほうがいいよ。私たちのためにも、それに紗耶香のため
にも」
裕ちゃんと私とのやりとりに圭ちゃんが口を挟んだ。私は圭ちゃんに目をやって、
そのまま睨む。
- 264 名前:7-10 後藤真希(15) 投稿日:2001年07月31日(火)08時22分03秒
- 「な…何…?」
「ねえ圭ちゃん。圭ちゃんは本当に市井ちゃんのために検査を受けた?受けてない
よね。シロだとわかってどう思った?自分は助かってよかったとしか思ってないで
しょ?私に受けさせたいのは何の為?私が感染してて、それで感染させられたらた
まらないと思ってるからでしょ!」
「ちょ、ちょっと後藤…何言ってるのよ」
普段全くといっていいほどいがみ合ったことのない圭ちゃんは私の冷たい声の叱責
に免疫がなかったのだろう。圭ちゃんは口元を震わせながらしどろもどろになる。
「そうや、そんな風に思っているわけないやん。最近のごっちん、おかしいで。吉
澤のことだってそうや。何があったか聞いたけどな。吉澤はただ、石川に任せただ
けやろ?大したことしとらんやん。それやのに何でごっちんはそんなにキレてん
の?どっちにしろ、手ぇあげるなんて絶対やったらアカンことやで」
裕ちゃんは苛立ちを私に向けた。
「私はおかしくなんてない!」
私はその苛立ちを倍返しする。
- 265 名前:7-11 後藤真希(15) 投稿日:2001年07月31日(火)08時22分53秒
- 言ってて私っておかしいよね、とも思っていた。
でもこれが私の素直な気持ちだとも思っていた。
そして、みんなもやっぱりおかしいはず、とも思っていた。
どっちが正しいんだろう?
どっちつかずな気持ちが右へ左へ揺れ動く。
「冷静になれって言ってんの。紗耶香のことでショックを受けてるかもしれへんけ
ど、だからってこんなピリピリしてたら紗耶香が一層悲しむで」
そうだ。私がこんなにイライラしてるのは、裕ちゃんやみんなが市井ちゃんのこと
で全然悲しんでいるようには見えなかったからだ。
同情はいらないかもしれない。
けれど、市井ちゃんの気持ちを少しでもわかってあげなきゃならないはずだ。
そんな様子が全く見られない。
やっぱりおかしいのはみんなの方だ!!
「もういいから、私には関わらないで。私も裕ちゃんや圭ちゃんやみんなのことは
もうどうだっていいから。私の好き勝手にさせて。これ以上、かまうと…」
- 266 名前:7-12 後藤真希(15) 投稿日:2001年07月31日(火)08時24分23秒
- 「かまうと…なんや?」
裕ちゃんもいきり立っていた。眉間に皺を寄せ、けんか腰に聞いてくる。
「殴るから」
「な…」
そう目をそばだてながら吐き捨てると、裕ちゃんは唖然とした。私は二人にくるり
と背を向けた。その勢いは、絶縁状を叩きつけるものと等価だったに違いない。
「後藤、待ちなさい!」
「圭坊、ほっとけ!なんや、アイツは…」
「でも…」
「あいつ、今おかしいんや。何言ってもムダや」
コツコツといつもよりも大きい足音の背後からそんな二人の声が聞こえてきた。
角を曲がり、二人の目線から離れると私は横の壁を拳で叩きつける。
横にいた幻影の少女の心臓を打ちぬいた。
表情は歪まない。体を突き抜けた私の腕を一瞥すると微笑み、そして、消えた。
絶対にあんたには負けないから。
消えゆく少女に臆することなく睨んだ。
これで私は完全に孤独になった。
- 267 名前:名無し読者 投稿日:2001年08月01日(水)03時29分53秒
- 辛いな〜後藤は……。
- 268 名前:7-13 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時18分42秒
〜後藤真希〜
テレビやラジオの収録前後も、地方へ遠征する時も、メンバーのみんなと何も話さ
なくなった。それが自分の意志からだったのか、それともみんなが私を敬遠しはじ
めたからだったのかわからない。ただ、モーニング娘。の一員になって、いや、生
涯で初めて「孤独」の存在を噛みしめることになった。そして、それがいかにつら
いものかを痛感した。私が笑顔を作れるのは、テレビやラジオの前と…
「いっちいっちゃ〜ん!」
扉を開けて、私はその前に見える部屋に向かって大きく叫んだ。
「は〜い」
私の前に現れたのは赤いバンダナを頭に巻いたエプロン姿の市井ちゃんだった。頬
にはちょっと白い粉がついている。それにどこか甘い香りが漂っている。
「料理作ってたんだ」
「うん、ホットケーキ。まあ暇を持て余してるからね。後藤は今日暇って言ってた
けど、ホントにそうだったの?」
「うん、今から暇だよ。つい3時間前まで鹿児島にいたけど」
「ライブ?ロケ?」
「ロケ。まあ慣れっこだからね」
- 269 名前:7-14 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時19分41秒
- 飛行機の中。収録の合間。全てが一人ぼっち。
スタッフの一人が心配して、「大丈夫?」なんて心配そうに聞いてきた。相当、暗
く見えたんだろう。私はちっぽけなプライドが邪魔をして、
「今、一人になりたかったんです…」
中身の何もない微笑みを作った。
納得して離れるスタッフに少しうしろ髪を引かれる思いを寄せながらも、シートの
腕を乗せるところを強く握って、目を伏せた。
きっと、こういう思いをこれからしばらくすることになるだろう。
それもいつか「慣れっこ」になってほしい。
なんて弱々しく考えた。
- 270 名前:7-15 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時21分27秒
- 「それなら別に無理することなかったのに」
「成田からだとちょうど帰り道だからね。ついでだよ」
「そっか〜…うん?鹿児島からって羽田じゃないの?」
「ま、まあ…どっちでもいいじゃん!」
ギクリと肩を震わせながら言ってしまったが、市井ちゃんはあんまり深く考えな
かったようだ。
「ふ〜ん、とりあえず上がんなよ。お腹すいてるんだったらホットケーキ食べ
る?」
「すいてなくても食べてく!」
私から満面の笑みを作った。その場には鏡はなかったが頭の中で自分の今の顔を見
ているような気がした。悲痛で最上級の笑顔だった。
今日は家の人は誰もいないらしい。私は初めて市井ちゃん家の台所に入った。自分
の家よりも狭く、お世辞でも綺麗とは言えないが、ピンク色のバンダナを頭に巻
き、エプロン姿で台所やレンジの前に立つ市井ちゃんは大好きなお母さんの後ろ姿
にそっくりだった。そんなことを思いながら私は足をバタバタさせてホットケーキ
の完成を待った。
- 271 名前:7-16 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時23分10秒
- 出されたホットケーキは予想以上に黒かったが出来立てほやほやでおいしかった。
市井ちゃんは自分の分を食べずに私が食べているところをじっと見ていた。それに
気づいた私は口に含ませたまま市井ちゃんに話かける。
「じろじろ見られてると食べにくいよ。市井ちゃんも食べなよ。おいしいよ」
「ああ、ごめんね。ただ、自分の作った料理をこうやっておいしそうに食べてくれ
るってなんかいいね」
なんて、甘い夢見心地に目を細めて言うので照れくさくなった。
「そういう人いないの?おいしそうに食べてくれる彼氏とか…?」
意外な言葉だったのか市井ちゃんの顔に小さな影があらわれる。しかし、それは後
になって忘れてしまうくらい一瞬のことで、
「う〜ん、内緒」
と目線を外し、とぼけて見せた。意味深な言葉に私は身を乗り出して食いつく。
「あ〜、いるんだ。誰?何歳?どんな人?どこにいるの?」
「ちょっと…いないってば」
「嘘だ〜」
私、笑っているよね。
じゃれあいの中、そんな風に客観的に自分自身を見ていることが悲しかった。
- 272 名前:7-17 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時26分35秒
- 「今回は私が誘ったんだけど、後藤ってさぁ最近暇あるごとに来てるよね。私は大
丈夫だから、別にしょっちゅう来なくていいよ。そりゃあ、全然来てくれないと私
も寂しいけどね」
台所と繋がっている居間にはテレビがあり、台所から見られるようになっている。
テーブルの上に置いてあったリモコンでテレビをつけると、落語が流れてきた。二
人とも落語には興味がないのでチャンネルを変えてはみたがろくな番組がない。そ
んな中、市井ちゃんがポツリと言った。
「そんなに来てるかなぁ」
「来てるよ。この前、来たでしょ?でその前は日曜で、その前は先々週の水曜日」
「よく覚えてるね」
「突然の来客は忘れないもんよ。こんな辺鄙なところに足しげく通ってたんじゃ体
がもたないからたまにでいいわよ」
- 273 名前:7-18 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時27分15秒
- 「違うよ、体を休みに来てるの」
「来てはぺちゃくちゃ喋って帰っていくじゃん。それのどこが体を休めてるっつー
のよ」
「だから、市井ちゃんは私のオアシスなのだ〜」
とオペラ歌手のように両手を広げながら高らかに歌いあげる。ホットケーキの甘い
香りが口から発散していた。
「あのね…」
市井ちゃんは呆れ口調で口端の一端を歪めた。
私は冗談交じりに言ったがそれは100%事実だった。
そして、いつの間にか決して「心配」して来ているわけじゃないことがたまらなく
申し訳なかった。
- 274 名前:7-19 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時27分51秒
- 「何するの?」
しばらくして市井ちゃんはまた台所に向かおうとする。そんな様子に私は尋ねた。
「何?ってもちろん…」
エプロンの紐を腰に巻きながらフライパンを指差した。
「また作るの?私お腹いっぱいだよ」
と、お腹のあたりを両手で丸く円を書いた。
「別に後藤に作るわけじゃないわよ。これ以上太らせられないし」
「市井ちゃん、ひっど〜い」
と言いながら、じゃあなんで?と素直に思った。
「これからね、お客さんが来るの」
「お客さん?私がいていいの?」
「もちろん。後藤に会わせたいんだ」
「私の知ってる人?」
「う〜ん、向こうは後藤のこと知ってるけど…」
「はぁ…」
まあ、普通そうなんだろうけど…。
私は市井ちゃんのやろうとしていること全部ひっくるめて首をかしげた。
その時、チャイムが鳴った。
- 275 名前:7-20 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時28分23秒
- 「お、きたきた。は〜い今行きま〜す!」
さっき着たばかりのエプロンを脱ぎながら市井ちゃんは遠方の玄関に向かって言
い、走って行った。
部屋の向こうで、何やら笑い声が聞こえる。
市井ちゃんの声と…女の声だ。ほんの少しだけほっとした。
「この人が私の彼氏です」
なんてここで紹介されちゃったらどうしようかと心のどこかで思っていたのかもし
れない。別にそれは仕方ないとは思うんだけど、やっぱり突然紹介されたら困っ
ちゃうだろう。
- 276 名前:7-21 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時36分05秒
- 「入って入って」
部屋の扉のすぐ向こうで市井ちゃんの声が聞こえた。
「はい、じゃあ」
扉が開くと、市井ちゃんの後ろに小さな女の子がいた。
「あ…」
驚きの顔を見せる女の子に私は軽く頭を下げた。私には見覚えがなかった。市井
ちゃんに目線を送ると、ニヤニヤしている。
女の子はあんまり表情を変えずにきょとんとしている。
「あれ?もっと驚いてほしかったんだけど…」
「の…の…?」
「うん、何?」
「え?」
市井ちゃんが不思議な顔で女の子の顔を覗きこむ。女の子は少しだけ我に返ったよ
うだ。
「あの…後藤さん…?」
私の方を指差して言った。失礼だな、とは思ったけれど、指先が震えているところ
はかわいげがあった。
市井ちゃんは白い歯を一度見せてからコクリと頷いた。女の子は私の方をゆっくり
と見る。目がうっすらと赤みを帯び、焦点が合っていないようにも見えた。
- 277 名前:7-22 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時38分26秒
- 「ちょ、ちょっと…何で…?」
市井ちゃんが今度は首をかしげながら声をかける。女の子は溜めていたものが湧き
出るように震え、泣きそうになっていた。その肩を市井ちゃんは優しく、そして戸
惑いを持って後ろから抱く。
「泣かないでよ…」
市井ちゃんの狼狽気味の声に女の子は振り向き、コクンと頷いた。そして、鼻をす
すって目を何回か強くまばたきすると、
「私、だっいファンなんです!!」
一転して何かを吹っ切ったような無邪気で爽快な笑顔を女の子は見せ、私の前に手
を差し出してきた。私も反射的に手を出すと、両手でギュッと私の手をつかんだ。
強く握ってはいたがひ弱なのか痛くはなかった。
「うわ〜、ホントに本物や〜!」
「はい…本物…だけど…」
私は女の子の背後で部屋の扉に寄りかかりながら腕組みをする市井ちゃんを見た。
私たちの様子をほっとしながら見つめていた。
どうやら市井ちゃんは女の子のこの反応を見たかったようだ。
- 278 名前:7-23 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時39分21秒
- 「生きててよかった!」
「はあ…」
この子はなに?
単なるファンだったら…正直迷惑だ。だって市井ちゃんとの二人きりの空間に邪魔
をしたんだから。
市井ちゃんは私の戸惑いは予定通りだったらしく、フォローしはじめた。
「この子はね、加護亜依ちゃん」
「はぁ…」
名前を聞いても全く覚えがない。
「亜依ちゃんはホットケーキ好き?」
解れかけていたバンダナを再び落ちないように縛り直しながら市井ちゃんは訊いて
きた。
「うん。でも『嫌い』って言ったらどうするつもりだったの?」
その「亜依」と呼ばれた女の子は私の手を離さないまま、市井ちゃんの方を振り向
いて言った。市井ちゃんはもちろん私よりも一つか二つ年下なんだろうけど市井
ちゃんとタメ口だ。しかし、それが全然違和感なかった。
「そん時はそん時よ」
「市井ちゃんって、思ったより行き当たりばったりなんだね」
「まあね〜」
- 279 名前:7-24 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時40分45秒
- え?今、”市井ちゃん”って…。
女の子は確かにそう言った。
私以外の人が言ったことがないその呼び方。
そして、その言葉を市井ちゃんは何の戸惑いもなく受け入れた。
別に特許ってわけじゃないんだから別にいいじゃん。
そう思っていても、何か奪われたような気になった。
市井ちゃんは笑顔を見せた。
しかし、その笑顔は私をすり抜けて横の亜依ちゃんに向けられた。
胸がチクリとした。
今までの痛みとはどこか違う。
これからの何かを警鐘するような痛み。
頭では説明出来ない本能から直接伝わってくるような痛み。
実際には痛みというよりは小さな違和感でしかなかったが、私の中で強く心に残り
お寺の鐘のように余韻を残した。
わけがわからず、少し顔がひきつった。ほぐそうと思って、自分の頬を軽く叩く。
- 280 名前:7-25 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時41分54秒
- 「どうしたの、後藤?」
市井ちゃんは私の方を見ながら心配そうに聞いた。
亜依ちゃんから私に目線を移す時、笑顔が心配顔に変わっていく様をはっきりと捉
えた。それはさっき生まれた違和感をさらに増すことになる。
「え?ううん、何でもない…。それより、この子…」
私はさっき「失礼」と思ったことと同じことをした。
「後藤、人を指差すのはやめなよ」
市井ちゃんは眉をひそめて険しい面をした。だけどもちろん、冗談混じりだ。それ
はわかっているはずなのに、私にはどこかそれが本気で怒っているように見えてし
まい過敏に左腕を下ろす。
「ご、ごめん…」
「この子はね…」
市井ちゃんは私に近づいた。いや、私にではなく「亜依」と呼ばれた女の子に近づ
いたのだ。背後から両手を亜依ちゃんの両肩に乗せて言った。
「私の…恩人…かな?」
「それは言いすぎだよ、あたしってめっちゃ偉い人みたいやん」
亜依ちゃんはようやく握手していた手を離して、後ろの市井ちゃんに顔を向けなが
ら言った。
- 281 名前:7-26 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時43分12秒
- 「だってさあ、恩人だもん」
「その言い方やめてって。友達でいいって」
「じゃあ、大切な友達だ」
何の迷いもなく市井ちゃんは訂正した。
タイセツナトモダチ
なんだろう?
この言葉がしこりとなって、どんどん膨らんでいく。
さっきの違和感が進展したような感じだ。
この空間をどう言えばいいんだろう。
私はここにいるはずなのに、いないかのような数秒間。
市井ちゃんと亜依という子だけを包む柔らかい何かがあった。
そして、私は蚊帳の外。
その内部に侵入したい。しかし、その柔らかい何かは私を拒絶した。
- 282 名前:7-27 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時52分00秒
- 再びチクリと胸が痛む。
今度ははっきりとした痛みだ。
その痛みをこらえたいがためか、それとも私を忘れてほしくなかったためかわから
ないが、とにかく勝負に負けた闘犬みたいな小さな唸り声をあげた。
「どうしたの?さっきから何か変だぞ」
さっきよりも一段と不安そうな市井ちゃん。これ以上心配させたくなかったので、
「うん、何でもない」
と我に返り、平静を装ったが、実は声を出すと更に痛みを増していた。
「そっか」と、市井ちゃんは応え、亜依ちゃんのことを紹介しはじめた。
ホント言うと、それでも私の心を察して、心配してくれると思っていたので、また
小さなショックがあった。
- 283 名前:7-28 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時53分17秒
- 市井ちゃんは亜依ちゃんとの知り合ったきっかけを話はじめた。
「じゃあ亜依ちゃんも…?」
「うん、だからね。いろいろ励まされてもらったんだよね〜」
トクン…。
「見えないでしょ?亜依ちゃんのこと。ホント、尊敬するよ」
トクン…。
「亜依ちゃんってさあ後藤のファンなんだって」
トクン…。
何か変な感覚だ。
地震が起きているわけではないし、風邪を引いているわけでもないのに、体の重心
が市井ちゃんの声を聞くたびに右へ左へ揺れ動く。
寄りかかっていたものが、いつの間にか消えて、私は手探りでその支えを探す。
何もなくて、怖くなって目を閉じる。
現実から逃避するように。
- 284 名前:7-29 後藤真希(16) 投稿日:2001年08月03日(金)16時58分21秒
- 市井ちゃん、私に気付いて。
私、何かおかしいよ。
市井ちゃんがいるのに、なんでこんなに苦しいの?
近くにいるのに何でこんなに遠いの?
なんで私たちの間に亜依って子がいるの?
「後藤?」
市井ちゃんは呼びかけた。
「はい!」
私は大きく目を開けた。救いを求める目だった。
「亜依ちゃんをね、これからも励ましてやってよ」
だけど市井ちゃんは私の気持ちなんて全くわかっていなかった。
「うん、亜依ちゃん。仲良くしようね」
心にもないことを単調なリズムで言う。
その時の心はある同じフレーズを反復していた。
『亜依ちゃんは市井ちゃんの…タイセツナトモダチ。
私は市井ちゃんの…????????』
- 285 名前:第7章 終 投稿日:2001年08月03日(金)16時59分58秒
第7章 孤独の果て(前編) 〜wanderin' destiny〜
次章は当然後編です。あんまり意味ないな…。
- 286 名前:名無し読者 投稿日:2001年08月04日(土)00時12分27秒
- >wanderin' destiny
トヨエツのドラマを思い出すな・・・
- 287 名前:名無しさん 投稿日:2001年08月05日(日)04時22分23秒
- ふたりのすれ違いが痛すぎる……。
- 288 名前:8-1 市井紗耶香(9) 投稿日:2001年08月05日(日)13時43分12秒
〜市井紗耶香〜
私が冷たいお茶を出すと、座ったまま亜依ちゃんは「ありがとう」と軽く頷いた。
「ねえ、後藤さんっていつもあんな感じなの?」
「う〜んと、あの子ってつかみどころのないところがあるからね。正直私もよくわ
かってないんだ」
私は首をかしげながら言った。
後藤は亜依ちゃんに4分の1もらったホットケーキに口をつけずに、
「じゃあ、明日早いから」
と言って、そそくさと帰っていった。
来た時と帰る時の表情が全然違う。
寂しげな背中が印象的だった。
- 289 名前:8-2 市井紗耶香(9) 投稿日:2001年08月05日(日)13時44分50秒
- 「何かテレビと見てたのと違うんだよね〜。もちょっと快活っていうか…」
「そうかな?後藤って気分屋だから、妙にハイな時とそうでない時の差が大きいん
だよね。今日はたまたまだったんじゃない?」
実は私も亜依ちゃんと同じように考えていた。でも、亜依ちゃんに後藤への理想を
崩させたくなかったのでフォローしておいた。
「市井ちゃんが言うからそうかもね。ホットケーキ、ゴチでした」
「いえいえ。ところで、体の方は大丈夫なの?」
亜依ちゃんは小さく顔色を変えたがすぐ元に戻り、
「悪かったらここには来ません。ていうか来れません」
「だよね」
亜依ちゃんは顔色が悪そうだったから思い切って聞いてみた。「顔色が悪い」と
思ったのはついさっきだったので、来る前からそうだったかはわからない。
- 290 名前:8-3 市井紗耶香(9) 投稿日:2001年08月05日(日)13時45分31秒
- 「失望…した?」
後藤が想像した人物とは違っていたのか、あまり最初に会った興奮を今は見せてい
なかったので、思い切って聞いてみた。
「何のこと?」
亜依ちゃんは冷たいお茶をその茶葉まで味わうようにちびちびと口をつけている。
「後藤。あんな奴だったから」
それを聞いて亜依ちゃんは少し驚き、大きく首を横に振る。
「と〜んでもない!ますます憧れになっちゃったよ」
「そっか、それならよかった。ってあれでも憧れるの?」
私は少し苦笑した。決して私を気遣っているわけではないのは、中学生らしい無垢
な笑みでわかる。
「うん!でも、今の市井ちゃんと後藤さんってかけがえのない友達って感じなんで
すよね。いいなぁ…」
「まあね。おかげで自分の道も見つけられたし、今回のことでも救われたし。感謝
してるよ後藤には」
「ふ〜ん」
- 291 名前:8-4 市井紗耶香(9) 投稿日:2001年08月05日(日)13時47分06秒
- 多分、私は面と向かって後藤に「感謝してる」と言ったことはないかもしれない。
どこか照れくさいからだ。
それは、お母さんとか家族に「ありがとう」と言うのが恥ずかしいことと同じだろ
う。あまりにも近い存在だから、その気持ちは当然のことで今さら口に出すことで
もないのだ。
後藤は多分、そんな存在なんだ。
家族と同じ…もしかしたら家族以上の存在。
「ありがとう」
今までのことを全部ひっくるめて、今度そう言ってみよう。
後藤はどんな表情するかな?
「恥ずかしい」って言うかな?
そして、そのすぐ後に喜んでくれるかな?
妄想し、顔をほころばせる私を亜依ちゃんは憧憬の目で見ていた。恥ずかしくなっ
て一つ咳をした。
「亜依ちゃんにはいないの?そういう『かけがえのない友達』」
言ってすぐに、しまった、と心の中で付け加える。できることなら時間を巻き戻し
て、今の言葉をなしにしてほしいと思った。
亜依ちゃんは病院生活が長いわけで、中学校にもまだ数回しか行ってないわけだ
し、「いない」という可能性も十二分にあるからだ。
それは亜依ちゃんにとってつらいこと以外の何物でもない。
- 292 名前:8-5 市井紗耶香(9) 投稿日:2001年08月05日(日)13時48分00秒
- 亜依ちゃんは予想した通り、私があまり見たくなかった暗然な様子を見せた。
「あ…」
何か言おうとしたが、何も言えない。後悔ばかりが頭を輪廻する。
しかし、
「いるよ」
と予想に反して、亜依ちゃんは笑顔でそう答えた。
思い出を反芻するような遠く向こうを見つめた笑顔だ。
「へ、へぇ〜」
別に疑っているわけではないけれど、ついそんなような目で見てしまった。
「一方的な関係かもしれないけどね」
「そんなことないって。どんな人なの?」
「あたしを…HIV感染者って知っても、ちゃんと見てくれた。ずっと笑ってくれ
た。あたしの気持ちになって考えてくれた。そして…」
「亜依ちゃん?」
徐々に見ていた思い出に胸を詰まらせていくように荒い息遣いを亜依ちゃんはして
いた。
「死んじゃった」
- 293 名前:8-6 市井紗耶香(9) 投稿日:2001年08月05日(日)13時52分23秒
- え…?
「あ、そうだ。あと1ヵ月後で命日だ。やべ、忘れてた…」
亜依ちゃんは艶の失った弱い声を出す。
「死んじゃったって…」
「うん、あたしがこっちに転校してきて、初めての友達なんだけど。小学5年の時
にね…事故でね…」
「ふ〜ん…」
亜依ちゃんは「事故」の部分を小さくして言った。
こういう時どういう表情をしていいのかわからない。悲しめば、亜依ちゃんも傷を
広げそうだし、笑うのはもってのほかだ。私は少し俯き加減で頷いた。
「市井ちゃんもよかったら来る?お墓参り。っていうか来てほしいなぁ。のの…っ
てその友達の名前なんだけど、モーニング娘。が誕生してからずーっとファンだっ
たから市井ちゃんに来てもらえたら喜ぶと思うんだ。『愛の種』の手売りにも行き
たかったらしいし。あたしはその時はあんまり興味はなかってんけど」
- 294 名前:8-7 市井紗耶香(9) 投稿日:2001年08月05日(日)13時53分03秒
- 亜依ちゃんはあまり悲しい雰囲気を出さないように必死で努めていた。「もう、過
去のことなんだから、市井ちゃんが悲しむ必要なんてないんだよ」と、暗に言って
いるようだった。
「う、うん…いいけど…」
しかし、そんな亜依ちゃんの意志を理解しても動揺は抑えきれず、つい口元が震え
る。しかし、亜依ちゃんはそんな私を被せるように嬉しげに言った。
「やった。約束だからね!」
どういう事故だったの?
どうして亜依ちゃんはそんなに笑って話せるの?
興味本位で聞きたいことはいくつかあったが、傷口を広げるだけなのかもと思い、
それ以上は私も聞けなかった。
- 295 名前:8-8 市井紗耶香(9) 投稿日:2001年08月05日(日)13時53分38秒
- そして、亜依ちゃんは「この話題は終わり!」とばかりに、
「今度3人でどっか行かない?」
中学1年生らしい笑顔を振りまいて提案した。
「3人って亜依ちゃんと私と…後藤?」
「と〜ぜん」
後藤と吉澤が最近よくやっている変なジェスチャーをしながら亜依ちゃんは言う。
「いいけど、後藤次第だね。行きたいところってある?」
「遊園地!あんまり大きくないところがいいかな?」
亜依ちゃんは即答した。
「大きくない遊園地?」
「うん、花やしきとか、あんまり人がいないところがいいなぁ」
「3人で?恥ずかしくない?普通は親子かカップルで行くところだよ」
「そんなん言ってたらどこにも行けないよ。それにカップルで行くっていうのもど
うかと思うけどなぁ。ディズニーランドとかならともかく…」
「え?そうなの?」
私は数ヶ月前のことを思い出した。
はじめて、そして唯一のデート。
それが…しなびた遊園地…。
それって恥ずかしいことだったのかな?
- 296 名前:8-9 市井紗耶香(9) 投稿日:2001年08月05日(日)13時54分31秒
- 「あ〜、市井ちゃん。彼氏と行ったことあるんだ?」
そんなことを考えていたので亜依ちゃんのその言葉に頭が上下に揺れるほどにビ
クッと反応して、硬直した。
「あれ?カマかけてみただけだったんやけど、ホント?今の彼氏?」
セクハラオヤジ並のいやらしい目つきをする亜依ちゃんに私は一歩退き、顔がひき
つる。
「うん、と…。まあ、ね…」
あまりの動揺に何を言ってもムダだと思い、仕方なく認めると、亜依ちゃんは
「キャッ」と声をあげ、
「教えて、彼のこと。教えて!!」
キリスト教信者みたいに体の前で両手を組み、懇願する仕草をした。そして、天使
のような笑顔を見せた。
一旦拒否したが、亜依ちゃんは一心に聞いてくるので、
「しかたないなぁ」
と折れた。そんな笑顔が私には一番弱い。私は誰にも言ってないことをペラペラと
しゃべるハメになってしまった。途中、「私って口が軽いなぁ」と自戒しながら
も、さも愉しげに耳を傾ける亜依ちゃんを見ていると、悪い気はしなかった。
- 297 名前:8-10 市井紗耶香(9) 投稿日:2001年08月05日(日)13時55分16秒
- 「…というわけで、今はエンレン中。これからどうなるかわからないけどね…」
一連の恋物語を白状した後、フッと暗い影を落とした。
これから…はないかもしれない。そんな覚悟をしていたからだ。
「ねえ、その彼は市井ちゃんが病……いや、いいや」
亜依ちゃんは私の表情を見たんだろう。
言葉を途中で止めた。
私たちは付き合ってると言えるのだろうか?
肝心なことを隠しておいて、「恋愛中です」って胸を張って言えるのだろうか。
少し目線を上げると、亜依ちゃんが私の表情に合わせるように、沈んだ顔をしてい
ることに気付いた。
「これからね、がんばるよ、私。亜依ちゃんにはいないの?ボーイフレンド」
努めて明るく振舞った。亜依ちゃんはそんなムリした明るさに気付いただろうけ
ど、
「いっるわけないや〜ん。13年間恋人募集中〜」
亜依ちゃんもムリして笑顔を作っていた。
汗が額からうっすらと滲んでいた。
- 298 名前:8-11 後藤真希(17) 投稿日:2001年08月05日(日)14時06分32秒
〜後藤真希〜
これからモーニング娘。はどうなっていくんだろう?
先日、雑誌のインタビューがあった。
メンバーだけの楽屋では、ピリピリとしたムードが漂ってはいたが記者の前に立つ
と、梨華ちゃんが私に抱きついたりして、そんな雰囲気が一気に消えた。ある意
味、モーニング娘。もプロになったなぁ、と虚無的な達観を覚える。
それにしても記者さんたちはそんなかりそめの仲のよさに騙されているんだろう
か。モーニング娘。がプロであるならば、インタビュワーは更に上をいくプロだ。
ともかく、このままだといつかはバレるだろう。
私はモーニング娘。を辞めたくなかった。
辞めたら私はそこで終わるような気がしていたから。
だから、先天的に意固地な私だけども、ここに来る前はよっすぃーや梨華ちゃんに
謝ろうと思っていた。
「また、仲良くなろう」って、一言言えば、それで済むような気がしていた。
しかし、今日初めて会った時…いや、メンバーがいる部屋に足を踏み入れた時、そ
んな謝罪の気持ちは抹殺される。
狼のように鋭く光る目が10個以上。
- 299 名前:8-12 後藤真希(17) 投稿日:2001年08月05日(日)14時11分03秒
- いつもその日の最初に謝ろうと決意して、そしてすぐに取り下げる。
そんな日々が続いた。
「おはよ…」
口に出たのは弱々しい挨拶。誰もそれに答える人はいない。
よっすぃーを見た。
裕ちゃんから借りたらしいレディースコミックを私が来たことに全く気付かなかっ
たかのように食い入るように読んでいる。
ドアのすぐ前に立ち尽くす私の後ろから、裕ちゃんがポンと肩を叩いた。驚きなが
ら振り返ると、声は出さなかったが、口パクで何か私に向かって言い、
「みんな、そろそろ準備しぃや。今日もがんばろうや」
私の向こうにいるメンバーに独特のイントネーションで声をかけると揃って立ち上
がった。そして、みんな私の横をすり抜けて、部屋を出た。
私は叩かれた肩の感触がズシンと心に残しながら立ち尽くしてた。
「邪魔や」
裕ちゃんに口の動きは確実にそう伝えていた。
私は何回も何回も心の中で繰り返した。
- 300 名前:8-13 後藤真希(17) 投稿日:2001年08月05日(日)14時13分07秒
- 他のメンバーもきっと同じことを思っている。
口にしたわけでもないし、嫌悪の目を私に見せたわけでもないが、全く無言で幽霊
のようにスーッと私の横をすり抜けるメンバーを見て、そう思っていることは間違
いないように感じた。
そう思うと目のやり場に困り、携帯電話を思わず覗く。
メールボックスにはメッセージが2件入っていた。
1件目と2件目は繋がっていた。
どちらも市井ちゃんだ。
まず、1件目を見た。
「市井です。今度、一緒に遊園地行きたいなぁって思ってるんですけど、どうで
しょう?」
そして、2件目。
「ごめん、間違って送信しちゃった。私と後藤と亜依ちゃんとで行きたいと思って
います。付き合ってくれるなら後藤が空いている日を教えて下さい。あんまりムリ
しなくていいからね。じゃ、メール待ってま〜す」
私はすぐに、そのメッセージを消去した。
市井ちゃんのメールに安らぎを感じなかったのはなぜだろう。
- 301 名前:名無しさん 投稿日:2001年08月06日(月)03時12分20秒
- 娘。のメンバー達には仲良くしてもらいたいって思いがあるから、
この話の展開は胃が痛いです。
でも読まずにはいられない……。
- 302 名前:名無し読者 投稿日:2001年08月06日(月)04時43分18秒
- 市井が唯一の救いだったのに・・・
このままじゃ市井より先に後藤がまいってしまう。
- 303 名前:LVR 投稿日:2001年08月06日(月)11時59分29秒
- マジで、胃が痛くなりました。
泣きそうになる話は読んだことがるけど、ここまで読んでて苦しいのは初めてです。
テーマ重くて大変ですけど、頑張ってください。
- 304 名前:休憩 投稿日:2001年08月06日(月)20時18分42秒
- 章の途中なんですが。
話に強弱がなくて苦しんでいます。落ちていく一方で…。
もっと劇的な展開ができればいいんだけどなぁ。
と、それはともかく、
>>2 の通り、>キャラの扱い方がかなり偏っています。
なのでお許しください。
読みにくい文章になっているかもしれませんが、皆さんの読解力に期待して
続けさせてもらいます(笑)
- 305 名前:8-14 市井紗耶香(10) 投稿日:2001年08月06日(月)21時05分43秒
〜市井紗耶香〜
「おっそいなぁ」
ピンク色のお気に入りの腕時計を見て、私はつぶやいた。
「これじゃあ、後藤に迷惑かけちゃうよ…」
予定時間より30分遅れている。私はデート並にばっちりとコーディネートし、亜
依ちゃんを待っていた。
亜依ちゃんは携帯を持っていないから私はただ待つしかない。
あと1秒で来るかもしれないし、1時間待っても来ないかもしれない。そういう不
安を抱えながら、信じて「待つ」感覚は久しぶりでどことなくウキウキしないでも
ない。
- 306 名前:8-15 市井紗耶香(10) 投稿日:2001年08月06日(月)21時07分15秒
- バレンタインの前日にお母さんに聞きながら一生懸命作ったチョコレートを胸に抱
え、当時好きだった男の子に、校門前でずっとその子が来るのを待っていたことを
今の状況にリンクして思い出していた。
「結局、先に帰っちゃっていたんだよね…」
ちょっと酸っぱい思い出。結局チョコも想いも届けることができなかったんだよ
ね。結構ショックだったんだよね。
でも、今振り返るとどこか甘くなる。きっと、「待つ」という行為自身にほのかな
幸せを感じていたんだろう。
今このソワソワした気持ちもいつか幸せになるのだろうか?
なんて考えてもいた。ちょっと意味合いが違うけど。
とはいえ、やはり後藤に申し訳ないので、仕方なく後藤には連絡を入れてみると、
「わかった」と愛想なく言っていた。後藤は電話口では素っ気ないこともあるので
あまり気にはしない。
- 307 名前:8-16 市井紗耶香(10) 投稿日:2001年08月06日(月)21時08分24秒
- 「おまたせ〜」
ピンク色のマフラーに横縞スプライトのセーターを着た亜依ちゃんが現れた。いつ
もお団子にして上げている髪の毛を下ろして顔にまとわりつくようになっているせ
いで、顔の輪郭は隠れていた。
「今日の亜依ちゃん…」
「何?」
ちょっとドキリとする亜依ちゃん。
「大人っぽいね〜」
「え?あ、そう?髪のせいかな?」
右手で少し髪を梳かす仕草をした。ちょっと大人になろうと背伸びをした髪や格好
が初々しくて、まばゆかった。私の初デートの時も客観的に見ればこんな感じだっ
たんだろうなぁ、と思う。
「早く行こう!後藤を待たせるわけにはいかないからね」
「うん!その前に…」
「何?」
「2週間前、言ったこと覚えてる?」
「もちろん、あんなショックなこと、忘れるわけないよ」
と笑いながら私は言う。
- 308 名前:8-17 市井紗耶香(10) 投稿日:2001年08月06日(月)21時15分50秒
- 「ははは、ホントわがままでゴメンね。市井さんも大好きだよ」
「その取ってつけたような言い方、気にいらないなぁ…」
「もう〜、拗ねんといてーな」
ウィンクしながら、軽く私の横腹に肘打ちする。
「拗ねてないわよ。そんなに子供じゃありません」
とプイと頬を膨らませて、顔を背ける。言ったことと全く逆になるけど、なんて子
供っぽいんだと思った。
「じゃあ、準備は万端?」
「逆でしょ。準備をしなければいいんだ」
「うまい!」
「うまくないって」
「ははは、そうだね。それじゃあ、行こ!」
「はいはい」
亜依ちゃんは私の袖を引っ張りながら家を出ようとした。
「あ、ちょっとその前にトイレ借りま〜す!」
と亜依ちゃんは突然踵を返して私の家に飛び込んだ。私は拍子抜けしてズッコケた。
- 309 名前:8-18 市井紗耶香(10) 投稿日:2001年08月06日(月)21時17分29秒
- 「お〜い、後藤!」
待ち合わせのオープン喫茶。装飾とか、店員さんの着ている服とかがすっごくお洒
落で、亜依ちゃんは、
「愛物語みたいだね」
と評価していた。
懐かしい言葉を聞き、私は慣れないドラマに四苦八苦させながらも楽しくやってい
たなぁと懐古した。
後藤は携帯電話片手に、一人で座っていた。
「あ、市井ちゃん…と、亜依ちゃん」
目深に被ったカーキ色の帽子を手で押さえながら後藤は振り返る。
「待った?」
「うん、だいぶ」
後藤らしくはっきりと言った。
「ごめんね。この子、トイレ長くって…」
「やだぁ、市井ちゃんたら…」
と軽く背中を叩かれ、前のめりになりテーブルの端にぶつかった。実際本当にトイ
レは長くて、後藤への申し訳なさから、「早く〜」とドア越しに何度も声をかけて
いた。
- 310 名前:8-19 市井紗耶香(10) 投稿日:2001年08月06日(月)21時18分30秒
- 「ところでさあ、市井ちゃん。携帯繋がらないんだけど…」
「え?」
後藤は自分の携帯電話のアンテナを伸ばし、その先を持ってプラプラ揺らしながら
言う。バッグから急いで携帯を取り出してみると、確かに電源が切れていた。
「あ、ホントだ。ごめん」
「ねえ、それよりも…早く行こうよ」
亜依ちゃんは私たちの袖を引っ張って、早く出ようと慌てながら促した。店員さん
が私たちの方を見ながらひそひそと囁きあっている。一応、変装のためにサングラ
スを、私も後藤もしていたのだが気付かれたのだろうか。
電源を入れながら、
「じゃあ、行きましょう」
先頭に立って、店を出た。
- 311 名前:8-20 後藤真希(18) 投稿日:2001年08月06日(月)23時26分47秒
〜後藤真希〜
ここは近くのしなびた遊園地。周りに人はあまりいなく、親子連れが数組とまった
りとしたカップルもしくは新婚さんが数組。その内の何組かは傘を持っているとこ
ろを見ると今日はこれから降ってくるのかなぁ、と不安になった。確かに空は雲に
覆われてはいるが雨雲には見えない。
サングラスをした私と市井ちゃんの間には亜依ちゃんがいる。年は12なのに、小
さくて、小学3、4年生ぐらいに見えた。
この3人の関係は周りの人にはどう見えるだろう?
仲の良い姉妹か、親しい幼なじみといったところか。
- 312 名前:8-21 後藤真希(18) 投稿日:2001年08月06日(月)23時28分22秒
- 「次はねえ、あそこのジェットコースター!!」
この遊園地で唯一のジェットコースターを亜依ちゃんは指差した。
スピードとかはなんてことはなさそうなんだけど、古びているので十分の恐怖感を
与えてくれそうなジェットコースターだった。
「亜依ちゃん、そんなにはしゃいで体大丈夫なの?」
「わかんな〜い」
「おい!」
「冗談だって!」
亜依ちゃんは先に走っていった。後ろ姿は背後に薄い影を作りながら小さくなる。
「ったく、あの子は…うらやましいね、あの元気…」
なんて愚痴りながら市井ちゃんは楽しそうに微笑んだ。
ジェットコースターがゆっくりと登っている時はミシミシ音を立てていてドキドキ
したが、いざ落ちてゆくとその音は消え、スピードも予想通り全然速くなくて
面白くなかった。
でも、亜依ちゃんは、
「楽しかったね!」
なんて顔を緩めて言った。
- 313 名前:8-22 後藤真希(18) 投稿日:2001年08月06日(月)23時29分15秒
- 全然面白くないコーヒーカップに乗った後で、休憩することになった。
病気のことを考えて、あんまり無理させたくなかったので私はこまめに休憩しよう
と決めていた。
「はい、ジュース」
亜依ちゃんは3人分のジュースを買ってきた。
「しかし、寒い日に遊園地なんて行くもんじゃないね」
「自分で提案しといて、そんなこと言わないの」
「そうだね、ははは」
ピンク色のマフラーを整えながら亜依ちゃんは青くなった唇を曲げて軽く笑った。
- 314 名前:8-23 後藤真希(18) 投稿日:2001年08月07日(火)07時28分22秒
- 木でできたベンチに腰掛けながらしばらく歓談が続いた。まだ紅葉や落葉には早い
季節とはいえ、時々吹きつける冷たい風は秋の気配を十分漂わせる。鼻腔を広げ、
軽く深呼吸すると、木と風と土とそして雨の匂いがした。やっぱ降ってくるのだろ
うか。そんな時、ピーピーピーと何か機械で作られた音がした。発信源は私の隣
り…市井ちゃんだ。
市井ちゃんはおもむろにサイドポーチを取り出した。
「何?」
「お薬の時間。えっと…あ!」
「どうしたの?」
亜依ちゃんが尋ねると、
「ねえ、亜依ちゃん?3TC持ってない?ないんだ!」
市井ちゃんは切迫した様子で亜依ちゃんに聞いた。よくわからないけど、薬の名前
らしい。
「持ってるけど…」
「お願い、貸して!」
「市井ちゃん、ダメだよ。同じ3TCでも人のとは違うかもしれないし。わからない
けど…」
「あ、そっか…そうだよね〜」
「ないの?」
「うん、まずったなぁ〜」
私はオレンジジュースに口をつけながらそのやりとりをボーッと眺めていた。
- 315 名前:8-24 後藤真希(18) 投稿日:2001年08月07日(火)07時29分25秒
- 「ないとまずいの?」
私が途切れた会話に割って尋ねると、
「当たり前。薬はね、規則正しく飲まないといけないの。う〜ん」
市井ちゃんは腕を組んで考えはじめた。相当困っているみたいで眉をへの字にして
いる。
「どこ行ったって市井ちゃん用の薬なんて見つからないんだから、帰るしかない
よ…」
亜依ちゃんが残念そうに言い、立ち上がった。
「…そうだね。…うーん」
「じゃ、帰ろう」
亜依ちゃんがもう一度促すと、市井ちゃんは首を横に振った。
「二人は遊んで行きなよ。別に私に付き合うことないって」
「え?でも?」
私は驚いて立ち上がった。
「せっかくこんなところに来たんだし。後藤は空いてるんだよね。いいよね…」
「うん、でも…」
戸惑い私を全く無視して市井ちゃんは立ち上がる。
「じゃあ、行くから。亜依ちゃん、また連絡するから!」
「うん、じゃあね」
市井ちゃんは私と亜依ちゃんを残して去っていった。
- 316 名前:8-25 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)07時43分44秒
〜後藤真希〜
あまりに唐突に、そそくさと帰っていく市井ちゃんにあまり疑問は抱かなかった。
それよりも、今この亜依ちゃんと二人きりの場をどうしようかを考えていた。
「さてと」
ストローで氷をゴロゴロさせながら、亜依ちゃんは切り出した。
「後藤さん、ごめんなさい。付き合わさせちゃって…」
「いいよ。市井ちゃんの頼みだし…」
遊園地行こう、と市井ちゃんに誘われた最初のメールを見た時、正直私は嬉しかっ
た。しかしすぐその後のメールで亜依ちゃんも一緒と付け加えられた時、私は心が
苦しくなった。
私は亜依ちゃんをこころよく思っていない。
亜依ちゃんの名を聞くたびに、ふっとどこか体のバランスが悪くなる。
なんでだろう?
- 317 名前:8-26 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)07時44分27秒
- 「まだ、時間あるんですか?」
サングラスの奥を覗きこんで亜依ちゃんは言ったので、うん、と言う。
「じゃあ、もうちょっと付き合ってくださいね」
「いいよ。じゃあどっか他のところ行こっか?」
私は立ち上がり、亜依ちゃんの袖を引っ張った。
しかし、亜依ちゃんは首を横に振り、
「ううん、疲れちゃったしここでおしゃべりしよ」
逆に私の手を引っ張りながら、ベンチに腰を下ろした。
- 318 名前:8-27 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)07時46分28秒
- 亜依ちゃんはおもむろに空を見上げていた。睫のカールの仕方が不統一で化粧があ
まり得意でないことは容易にわかる。
「ああ、降ってきちゃうかもしれないなぁ」
私もつられるように見上げると、いつの間にか灰色になりつつある空があった。冷
気を含んだ風が二人を襲ったので、身震いした。
「ここでしゃべっても寒いだけだから、他のところ行かない?」
「ううん、ここでいい」
亜依ちゃんは首を横に振ってから自分の隣りを指差して、私にここに座ってほしい
と誘導した。
私は指示された通り、亜依ちゃんの隣りに座った。すると、亜依ちゃんは私の横顔
をマジマジと見つめた。
「あたしって、今すっごい贅沢なことしてるんだよね」
「なんで?」
「だってさあ、憧れの後藤さんの隣りにいるんだよ。話しているんだよ」
亜依ちゃんの顔は青かった。「憧れ」なんていうからには、もっと興奮して、紅潮
してもおかしくないのに。太陽が隠れ、光量の落ちた場だったからそうは見えな
かっただけかもしれないが。
「そんなこと私に向かって言われても…すっごく恥ずかしいんだけど。でも、なん
で私なんかに憧れてるの?」
自嘲混じりに私は言った。
- 319 名前:8-28 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)07時48分35秒
- 私にはじめて会った人は、みんな感激する。
憧れているなんて軽々しく口にする。
私はその言葉に少々うんざりしていた。
私のどこを見て、そんなことを言っているのだろう。
テレビの中には私がいて、それを見て、「後藤みたいになりたい」なんて言う。
でも私は全然、世間のみんなが思っているような憧れるべき人間じゃない。
自分らしいことやってないし、
マネージャーとか社長とかに言われるがままに働いているだけだし、
無理に笑ってるし、
無理に楽しんでるし、
無理に泣いてる…。
そんな私にどうして憧れるんだろう?
「誰だって憧れるって。努力して、夢が叶って、それで今すっごく輝いてるし。あ
たしは別に歌手になろうとは思ってないけど、後藤さんの前に向かってまっしぐ
ら!って感じの生き方見てると、いいなぁって思っちゃうよ」
私は、努力なんてしていない。
夢なんて元々あったかどうかわからない。
輝いているなんて思っていない。
前なんか見ていない。
- 320 名前:8-29 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)07時49分46秒
- 亜依ちゃんの言葉の隅々まで心の中で否定した。
それは自虐的な気持ちの他に亜依ちゃんへの反発心があったんだと思う。
「…あ、嘘です。実は歌手になりたいんです、へへへ」
恥ずかしげに亜依ちゃんは訂正した。
「ふ〜ん…」
「それにね、あたしにとっては後藤さんは特別なんです」
「どういう意味?」
「後藤さんってあたしの大好きな人と似ているんですよ…」
「そんなに似ているの?」
「いや、外見じゃなくって、内面が…」
ちょっとだけドキリとした。
「へ、へぇ…」
「ともかくあたしはそんな後藤さんを見て、エイズなんか克服してやる!って思っ
たんです。だから、これからも輝いてくださいね」
「…ありがと」
私は素っ気なく答えた。この頃には亜依ちゃんをあんまり直視出来なくなった。
亜依ちゃんが私の内面を見て、それでも憧れているのだったらそれは幻想にすぎな
いのでは?と思ったからだ。そして、私の輝きは表面上だけで中身は真っ黒なん
だって、いつかそのつぶらな瞳で見透かされ、失望されたくなかったからだ。
- 321 名前:8-30 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)07時50分50秒
- 「じゃあ、そろそろどっか行こうか?」
逃げるように私は提案したが、亜依ちゃんは首を横に振り、
「もうちょっと…」
と否定する。
亜依ちゃんはホントに疲れているようだった。何回か大きく深呼吸しながら細かく
流れる汗を抑えようとしていた。
「まだ疲れてるの?」
ちょっと心配そうに聞くと、亜依ちゃんは即座に「ううん、大丈夫」と首を横に振
る。
とりあえず、亜依ちゃんのペースで行こうと亜依ちゃんが「次どっか行こう!」と
言うまでただじっと待った。
「ねえ、後藤さん」
それから数分が経って、亜依ちゃんが話し掛けてきた。
少し低く、意志が強く含まれている声だ。
「うん?」
「変なことお願いしていいですか?」
「何?」
「あたしが何を聞いても『はい』とか『うん』とか言ってくれません?」
「は?」
「意味…わからないと思いますが…」
「それはいいけど、ウソ発見器みたいだね。あ、あれは『いいえ』か…」
「ははは、そうですね…じゃ、お願いします」
- 322 名前:8-31 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)07時54分28秒
- 亜依ちゃんは静かに立ち上がった。
そして私と対面した。私も立ち上がろうとしたが亜依ちゃんはそれを制した。
こんな幼い顔から出せるのかと思うくらい亜依ちゃんは大人の顔を見せていた。灰
色によどんだ雲の切れ間から覗かせた朱色の光が亜依ちゃんを照らし、大人びた顔
をさらに目立たせていた。
亜依ちゃんは固く一重の瞼を閉じる。若干唇が紫色に見えた。
「のの…」
その唇から小さくそう洩れた。意味がわからず思わず「何?」と言いそうになった
が、さっきの言葉を思い出し、
「はい」
とただ頷いた。
- 323 名前:8-32 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)07時55分08秒
- 「許してください…」
掠れた声。
「…」
私は声が出なかった。意味がわからないという理由もあったが、それよりも亜依
ちゃんの只事ではないムードが私から声を一瞬奪った。
「許して…」
「うん、いいよ。許してあげるから…」
私は立ち上がり亜依ちゃんを柔らかく抱き締めた。亜依ちゃんは少し驚いて目を開
ける。あいかわらず何のことかよく分かっていない。今、こうやって抱き締めてい
ること自体わかっていない。まるで自分の行動じゃないようだ。誰かが乗り移った
ような感覚だ。
「ありがとう…ありがとう…」
亜依ちゃんは私の胸に埋もれながら何度も何度もそう言った。
- 324 名前:8-33 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)07時58分08秒
- しばらくすると、亜依ちゃんははにかんで笑う。
「ごめんなさい、変なこと言って…」
「うん、いいけど…」
さっきの自分の意志とは無関係の行動に戸惑いを隠せないままそう言った。
「ののっていうのはさっきあたしの言ってた大好きな子のことなんです」
「私に似ている?」
「うん、かけがえのない友達」
「そのののちゃんって…」
表情を翳らせる私。何となく「ののちゃん」は今どこにいるのかは察している。
「はい、もうこの世にはいません」
亜依ちゃんは吹っ切れたように言った。
その全てを払拭するような響きに私は声を失った。
そしてそんな凛々しい亜依ちゃんを見て思った。
何て強い人間なんだろうと。
事情はよくわからない。これ以上追求しようとも思わない。
それでも亜依ちゃんが背負ったものが私の尺度では測りきれないものであることは
わかった。
- 325 名前:8-34 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時04分05秒
- 嫉妬。
私は今初めてこの言葉を認めた。
私は亜依ちゃんに嫉妬している。
その認識は亜依ちゃんをより一層脅威にさせた。こんなかわいくて小さくて、そし
て病弱な女の子なのに恐れている。そんな不自然なことを私自身は受け入れてしま
った。
亜依ちゃんは強い。
私とは違う。
そして、その強い心に市井ちゃんは魅かれている…。
そうか、これが嫉妬の正体…。
どうやったら亜依ちゃんを超えることができるだろう。
市井ちゃんに私のことを認めてもらえるのだろう。
- 326 名前:8-35 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時05分28秒
不可能だと悟った。
一方で生まれた嫉妬はどうすることもできない。
ゆっくりと絶望の二文字を噛みしめた。
冷ややかな硝子のように、滑らかな氷の世界に吸い込まれていく。
失墜の淵から溢れる感情は決して諦めではなかったことから、私はそれでも未練た
らしくどこか亜依ちゃんに勝てるものを探していたのだろう。そして、それは一つ
の結末へ導いていくことになる。
「きゃっ!」
遠くでアイスクリームを持った若そうな女の人が悲鳴を上げた。私と亜依ちゃんは
その方向を見る。隣りには男の人がいた。
「もう…。落ちちゃったじゃない!」と言っているのだろうか。女の人は口を尖ら
せて男の人に向かって愚痴りながら、チュッ!と口付けを交わしている。そして二
人は微笑み合う。ケンカを交えたアツアツぶりをそこらじゅうにバラまいていた。
「いいなぁ…」
亜依ちゃんは呟いた。そして、何か思い出したかのように私を見た。
- 327 名前:8-36 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時06分33秒
- その目に吸い込まれて私の記憶は曖昧になる。
起きていながら夢を見ていて、どこか現実ぽくない感覚を覚える。
ただ、嫉妬だと思っていた心の一部分がどんどん膨らんでいったことは覚えてい
る。
「ところで後藤さんは市井ちゃんの彼氏、見たことあります?」
亜依ちゃんは確かにそう言った。その不可解な一文に私は耳を疑う。
「は?」
「市井ちゃんカッコいいから、彼氏もカッコいいんだろうなぁ。あ、雨かな?」
両方の手の平を天に向けながら亜依ちゃんは羨ましげに言う。
「あっちゃあ・・・結構降ってくるかも…。やっぱどっか移動しません?」
「市井ちゃん…いるの?」
亜依ちゃんの促しに私は無視した。
「後藤さんも知ってるんでしょ?あ、その前に、後藤さんはいるんですか?ってそ
んなこと聞いちゃいけないのかな?」
- 328 名前:8-37 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時07分40秒
- 「ねえ、質問に答えて!」
私は亜依ちゃんの肩を強く握りながら語気を荒めた。小さくて、脆そうでもうちょ
っと強く握ると、折れそうな感触だった。
「イタッ…。うん、言ってたよ、自分で…」
「…」
「あ〜、後藤さん知らなかったんだ…。ふ〜ん」
亜依ちゃんの瞳は、好奇の色を帯びていた。口の端が微妙に吊り上がって、冷やや
かに笑っているように見えた。
灰色の空以上に私の心がどんよりしてくる。
私は、市井ちゃんに彼氏がいることがショックなんじゃない。
それを亜依ちゃんから聞かされたことがショックなんだ。
何で知ってるの?
どうして、私の知らないことまで亜依ちゃんは知ってるの?
『亜依ちゃんは市井ちゃんのタイセツナトモダチ』
『私は市井ちゃんのフツーノトモダチ』
トクントクン。
体の中心が揺れる。
あの時と同じだ。
- 329 名前:8-38 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時09分02秒
- 初めて亜依ちゃんに会った時の、体の中心がくるくる回っていて、地に足がついて
なくて、今耳に届いたもの、目に映ったもの、脳が解釈したものを、遠心力かなん
かで強引に否定しているような…でもそれは全く無駄だって知っているような、そ
んな感覚。
めまいがした。
ダークグリーンが目の外側から現れて、映る全ての景色をどんどん埋めていく。
途端に無色の光が目を襲った。
目にはありえない光景が広がる。遊園地もその向こうに見えていた大きなビルも何
にもない。
真っ暗な世界にライトを浴びる私。
目を凝らすと、遠くに誰かが集まっている。メンバーだ。
圭ちゃんがなっちがよっすぃーが、私を見ている。ひそひそ、囁きあっている。
私がその方向へ一歩、足を踏み出すと、みんなは一歩後退する。
近づくことは決してできない。
市井ちゃんは…、
あれ、市井ちゃんがいない。
- 330 名前:8-39 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時10分05秒
- ぐるりを辺りを見渡すと、市井ちゃんの背中が見えた。顔もよく見えない。それで
もあれは間違いなく市井ちゃんだ。
「いち…」
声をかけるのを途中でやめた。横にはおだんご頭の女の子。市井ちゃんに抱きつい
ている。
その子は優しく市井ちゃんに微笑みかけているようだ。濃淡の強い視界から口端を
吊り上げているのが見える。
そして、私の代わりに「市井ちゃん」と呼びかけている。
横顔が見えた。
亜依ちゃんだ。
- 331 名前:8-40 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時11分06秒
- 二人はゆっくりと歩き出す。私とどんどん離れていく。
声をかけたい。
亜依ちゃんに「市井ちゃん」と言わせたくない。
そして、「市井ちゃん」と叫びたい。
近づきたい。
市井ちゃんに抱きつきたい。
いつのまにか声が出なくなった。
足が動かなくなった。
点のように小さくなった市井ちゃんの横顔が見えた。
笑っていた。
あの笑顔はもうちょっと前まで、私にしか見せなかった優しい笑顔。
もう、あの笑顔は私には見せてくれないの?
もう、あの笑顔は亜依ちゃんに奪われたの?
もう、私は負けなの?
- 332 名前:8-41 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時17分23秒
- 「ちなみに私はいないですよ」
遠い声が聞こえ私はハッとした。亜依ちゃんが言ったみたいだ。市井ちゃんに抱き
ついていたさっきまで見えていた亜依ちゃんと全く同じ顔。
「まあ、まだ先は長いからゆっくりやっていきます」
亜依ちゃんは一つ咳をしてからそう言った。
「亜依ちゃんは私のこと―――」
私は市井ちゃんが一番なんだ。
「はい?」
私は市井ちゃんしかいないんだ。
「後藤さん、今何か言った?」
市井ちゃんがいなくなったら私にはもう誰もいないんだ!!!!
「後藤さん――」
「亜依ちゃん」
- 333 名前:8-42 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時18分04秒
- 膨らんだ嫉妬は孤独というスパイスによって、とうとう許容を超えた。
そして、どんな手段でもいいから亜依ちゃんに勝てる方法を、縋るように心の中で
追い求めた。
そして、見つけた。
簡単だった。
最悪だった。
私は声を被せて言うと、立ち上がり、震えた瞳で亜依ちゃんを睨みつける。
罪悪感という感情はもうなかった。
多分この時、私は悪魔から至悪の薬を魂と引き換えに売ってもらったんだ。
水滴が落ちる間隔が小さくなった。
地面からポタポタ雨が落ちる音が聞こえていた。
- 334 名前:8-43 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時18分56秒
- 「…キライ」
「え?」
「私は亜依ちゃんがキライ。ダイキライだから。もう亜依ちゃんになんか会いたく
ない!!」
自分でも驚くくらいの大きさで叫んだ。そして、勢いそのままに手を上げる。何か
反応しようものなら頬をひっぱたくような状況だった。
しかし、亜依ちゃんは反応しなかった。まばたきせずに、私の突然の行動と言葉を
理解できずに茫然と眺めていた。
私は行き場のなくなったその手をそのまま下ろし、
「じゃあね。もう、二度と私にも市井ちゃんにも近づかないでね…」
震える口元を何とか動かした後、くるりと背を向けた。
目の先には遊園地の出口が見える。
亜依ちゃんの反応はない。
振り返ることなく、ゆっくりと歩き出す。
- 335 名前:8-44 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時20分41秒
- 何で私はそんなことを言うの?
アスファルトから聞こえる雨の音と足音が微妙なリズムを創る。
私は私に声をかける。
聞いてるよ。
亜依ちゃんは強い子だよね。
市井ちゃんに尊敬されるほど、たくましい子なんだよね。
私が何を言っても関係ないよね。
- 336 名前:8-45 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時21分45秒
- 出口を通り抜けると、冷たい10月らしい風が吹いた。
すれ違った小さな女の子が被っていた麦わら帽子が飛ばされた。しかし私は見向き
もせずに空を見上げると雨が目に入り、頬を伝った。
手の甲で拭ってしまうと泣いていたように見えるので、頬の気持ち悪さを感じなが
らも拭わずに進む。だけど、どういうわけか足が前に進まなくなった。
雷が光り、少し遅れてゴロゴロという音が空気を震わせた。
そして、雨がまた一段と強くなった。風もさらに勢いを増した。
私は傘もささずにその凍ったような雨を全身に浴びた。
髪の毛がどんどん濡れていき、毛先から雫が大きな水滴を作って垂れる。
体温が下がっていくのを実感した。雨の重い匂いはどんどん思考を奪っていく。
「おい!!」
私の後ろで男の怒声が聞こえた。私にではない。近くにいる全ての人に向かって
言ったような怒声。
- 337 名前:8-46 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時23分11秒
- 一度振り返ると、遊園地の入口の向こう側が何やら騒がしかった。
突然強くなった雨だ。
きっとトラブルの一つや二つぐらいあったのだろう。
瞼の先からも雫がポタポタ落ちてくるぐらい私は雨に打たれていた。
「お気に」の服が水気をどんどん吸って重くなっていく。
手前にはコンビニがある。
このままだったら、足取りがあまりにも重くて家には辿り着けないだろう。
雨宿りしよう。薄い意識の中そう考えたその時だった。
「人が倒れてるぞ!救急車!!」
さっきと同じ声がさっきよりも大きな声で聞こえてきた。
倒れてる?
パーッと視界が開けた。
麻酔が切れたかのように、痛み、寒さ、苦しさが急激に体を襲う。
私、何してるの?
誰が倒れてるの?
まさか…。
- 338 名前:8-47 後藤真希(19) 投稿日:2001年08月07日(火)08時24分54秒
- 私は遊園地に飛び込んだ。「入場券を…」という係りの人を振りきった。
そして、人の集まる中心には、私の目には雨でびしょぬれの亜依ちゃんがうつ伏せ
になって倒れていた。
「早く、救急車!!」
さっきから叫んでいただろう男の人が亜依ちゃんの首を抱きかかえると必死で叫ん
でいた。
手にも足にも顔にも雨が打ちつけていた。
皮膚を通して、心まで打たれているような気がした。
雨は止む気配を見せずに逆にその強さを増していていることにも気付かずに私はそ
の場で立ち尽くした。
どうして亜依ちゃんはこんなところで寝ているの?
どうして亜依ちゃんは雨に打たれてるの?
どうして亜依ちゃんは動かないの??
私…
私、亜依ちゃんに何て言った?
- 339 名前:第8章 終 投稿日:2001年08月07日(火)08時31分14秒
- 第8章 孤独の果て(後編) 〜wanderin' destiny〜
展開としては、前半終了…かな?
- 340 名前:名無し読者 投稿日:2001年08月08日(水)02時04分04秒
- 痛い…
でもごっちんもぎりぎりなんだよんね…
- 341 名前:名無し読者 投稿日:2001年08月08日(水)03時07分26秒
- 辛い、痛い、耐えられないと毎回思いながら何故か読んでしまう……。
- 342 名前:名無し読者 投稿日:2001年08月08日(水)11時48分43秒
- どこまで痛くなるんだこの話は・・・。
- 343 名前:第9章 投稿日:2001年08月10日(金)00時10分05秒
- なっちおめでとうの9章です。
第9章 モノクロの微笑み 〜tears in heaven〜
- 344 名前:9-1 市井紗耶香(11) 投稿日:2001年08月10日(金)00時49分00秒
〜市井紗耶香〜
――目を閉じると映し出されるのはあの雨の日の光景。
「さてと、一人ぼっちだ」
私は別に持病でもないけれども、ピリッとした腰の痛みを感じ、軽く拳でトント
ンと叩いた。
遊園地を出て、ウロウロしながら見つけたコンビニに立ち寄って、私はペットボト
ルのミネラルウォーターを買った。
そして、若草色のポーチから薬を取り出し、服用した。
その時私はちょっと前を思い出していた。
- 345 名前:9-2 市井紗耶香(11) 投稿日:2001年08月10日(金)00時49分54秒
- 3人で遊園地へ行く。
そう決めてから亜依ちゃんはためらいながらも言った。
「途中で、後藤さんと二人きりにさせてほしいんだけど…」
私は一度首をかしげた。亜依ちゃんの言っていることを解釈するのにちょっとだ
け時間がかかったからだ。
「…ということは私って邪魔?」
「そうじゃないよ!でもあるでしょ?なんていうか…」
亜依ちゃんは慌てて否定する。どこか急いでいる感じがあった。
「わかった。でもさあ、どうすればいいかな?理由がない…」
「薬がなくなったって言うのは?」
亜依ちゃんはもう策は練ってあったかのようにすぐに一つの案を出した。
「なるほど、家に忘れてきたことにして私だけ帰る…と」
「うん!」
- 346 名前:9-3 市井紗耶香(11) 投稿日:2001年08月10日(金)00時50分39秒
- その嬉しい笑顔って言ったら…私は従うしかなかった。
「…ったく…。なんで、そんなに後藤のこと好きなの?あいつなんて普通の女の子
だよ」
「市井ちゃんから見ればそうかもしれないけれど、あたしから見たら違うんだよ。
今こうして生きているのは後藤さんのおかげなんだから」
「私はどうなの?」
「市井ちゃん?う〜ん、後藤さんの教育係だったから…やっぱりすごい人…なん
じゃないかなぁ?」
「何よ、それ。全然すごいって思ってないじゃん」
とにかく亜依ちゃんの後藤に対する尊敬や慕情はすごいものだった。「命の恩人」
なんて私もこの子に使った言葉だけど、その重みはケタ違いだった。
- 347 名前:9-4 市井紗耶香(11) 投稿日:2001年08月10日(金)00時51分41秒
- 「あれ?」
薬を飲んだあと、バッグのチャックの開け口から見えていた携帯電話をおもむろに
取り出すと、電源がまた切れていることに気付いた。
「さっきも切れてたし。何で…かな…?」
思わず呟いてしまうくらいの戸惑いをよそに、私は再度電源を入れ直した。電池切
れかとも思われたが、ほとんど満タンに近かった。
いつもの画面とは少し違うことに気付いた。
左上に見たことのない絵がある。
「なんだっけ?」
私はあんまり携帯電話を使いこなしていない。どっちかというと機械音痴だったの
で、メールと電話以外のさまざまな機能はほとんど使い果たしていなかった。
「ま、いっか…」
とひとり言を呟いてはみたものの、どこか心に後味悪く残った。
- 348 名前:9-5 市井紗耶香(11) 投稿日:2001年08月10日(金)00時52分29秒
- おかしな話かもしれないけれど、HIVに感染したということを忘れる時間が増え
てきたような気がする。もちろん、今薬を飲んだばっかりだし、2日前、病院に
行ったばかりだし、何よりも亜依ちゃんというエイズ患者と仲良くなっている。
それでも、昔感じた「絶望」の二文字を思い描くことはなかった。
それは「忘れた」と言えることなんじゃないだろうか。
薬の副作用はない。詳しいことはわからないが、このままいけば治るんじゃない
か?という実感があった。
いろいろ感染前のことを思い出す。
シンガーソングライターになる。
そう誓ったあの時を。
よし、市井紗耶香復活だ!
拳をぎゅっと握り締めて再び誓った。
- 349 名前:9-6 市井紗耶香(11) 投稿日:2001年08月10日(金)00時53分40秒
- それからコンビニで立ち読みをした。雨が降ってきそうなのはわかっていたので
さっさと帰るほうが懸命であるとは思っていたが、たまたま読みたかった漫画が置
いてあったので、その欲望に負けてしまった。
しばらくして、雨が本振りになったのをコンビニから確認すると、「早く帰ればよ
かった」という後悔と、「後藤と亜依ちゃんは大丈夫かな?」という不安を抱えた。
携帯電話が突然、鳴った。
少し驚く。アドレス帳に登録をしていない電話番号が表示されていた。
「あ、市井さんですか?私、亜依の母です」
雨は予想以上に強いようで、地面を打ちつける音のせいで電話越しの亜依ちゃんの
お母さんの声が聞き取りにくかった。亜依ちゃんのお母さんは―正確に言うと、本
当のお母さんは死んでしまっていたので、義理のお母さんなんだけど―慌てた口調
で言った。
- 350 名前:9-7 市井紗耶香(11) 投稿日:2001年08月10日(金)00時54分32秒
- 「はい、市井です」
さっきまで電源が切れていたから、かけていたのかもしれない。
「留守電に入れておいたのですが―」
その言葉で、さっきの見たことのないアイコンが何かわかった。
留守電メッセージだ。
「あ、すいません。さっきまで電源切っちゃっていたんで…」
「亜依はそちらにいってませんか?」
「え?ああ、もちろんいますよ。でも今は――」
「そうなんですか?…よかったぁ…」
ものすごく安堵のため息を電話の向こう側でついていた。
「あの、聞いてなかったんですか…?」
私は逆に少し焦りはじめる。
「場所を教えてもらえません?すぐに迎えに行きますから」
どうして…?
どうして亜依ちゃんはお母さんにことづけしなかったの?
病院には外出届を出したんじゃないの?
そして、亜依ちゃんのお母さんの焦りよう…。
どっと不安の汗が出た。
- 351 名前:9-8 市井紗耶香(11) 投稿日:2001年08月10日(金)00時55分09秒
- 「あの、亜依ちゃんは無断で外出したんですか?教えてください」
しばらく亜依ちゃんのお母さんは黙っていたが、
「…はい」
と一言だけ呟く。
「何で…」
血の気が引いた。
「もしかしたら…外出許可は出ないくらいの状況なんですか?亜依ちゃん?」
そういえば、会った時から何となく体調が悪そうだった。
トイレが長かった。もしかしたら吐いていたの?
何で、携帯電話の電源が2回も切れていたの?
私に無断で来たことを知らせなくなかったから亜依ちゃんが意図的に切った…?
- 352 名前:9-9 市井紗耶香(11) 投稿日:2001年08月10日(金)00時57分47秒
- あまり根拠のない想像が私の心をかきむしる。
「市井さん、今どこにいるか教えてください!」
私の問いに答えるものではなかったが、暗に「そうです」と言っているような強い
口調だった。
コンビニの外では雨が本降りだと思った状態からさらに強さを増していた。雷鳴が
轟き、コンビニ内の電気が一瞬だけ消えた。私は「キャッ」と奇声をあげる。光っ
た先に目をやると、傘もささずに雨に打たれている少女を発見した。
後藤?
私と後藤らしき少女の間には豪雨と言ってもいいくらいの雨があり、そのせいでそ
の少女が後藤であることを特定できなかった。少女は突然後ろを振り向き遊園地の
方へ走って行った。
その少女が後藤であると確信はあった。そして打ちつける雨に何の抵抗も示そうと
していなかったせいかどことなく絶望で抜け殻のような印象を受けた。
尋常ではないことを直感した。
「市井さん!」
「ちょっと待ってください!」
電話から聞こえる声に向かってそう叫び、コンビニを飛び出した。
後藤を追いかけた。
ヒョウのように大きい雨一粒一粒が、私の皮膚に襲いかかる。
それがとても痛かったことを覚えている。
- 353 名前:9-10 市井紗耶香(11) 投稿日:2001年08月10日(金)01時00分41秒
- ―――目を開ける。
そこには現在という1週間後の世界。
あの時と、同じように冷たい雨が降っている。
でもあの時とは何かが違う。
あいかわらず時間は何の感情も持たずに進んでいく。
冷たい風はいろんな想いを乗せていってくれる。
でもどうして悲しみだけは連れ去ってくれないのだろうか?
それともいつかは運んでくれるのだろうか。
袖を濡らしつづけた私の瞳。
20人ぐらいの学生服を着た中学生。
紺色が多い中で一つだけ目立った赤い傘。
水溜りに足を踏み入れ、気持ち悪そうに片方の靴を脱ぐ男子。
あの子とは無関係な話題で盛り上がっている。
笑っている。
- 354 名前:9-11 市井紗耶香(11) 投稿日:2001年08月10日(金)01時02分02秒
- その向こうに見える写真。
黒い額縁の中で白と黒だけで作られた哀しい笑顔。
その笑顔は今もそっちの世界で続いているの?
私は年上の女性と目が合い、深々と礼をした。あの子の義理のお母さんだ。
地面にポタリと水滴が落ちたがそれが涙なのか雨なのかわからない。
どっちだっていい。
どうせこの雨もあの子の涙雨なんだ。
私の肩に重いものがのしかかる。
ずっと私の隣りにいた後藤。
自分の体を支えられなくなり、私に全体重を傾けてきた。
- 355 名前:9-12 市井紗耶香(11) 投稿日:2001年08月10日(金)01時04分12秒
- しっかりしなきゃ。
後藤は衰弱し切った体から、それでも自分を痛めるがごとく涙を流している。何度
も何度も嗚咽している。そんな後藤を見て、抱きしめながらそう思った。
後藤のおかげで、何とか自分を保てているのかもしれない。
ホントだったら私は一人で立ってはいられないような衝撃だろう。
心の一部を失ったようなものなんだから。
私は今あの子にこう言いたい。
後藤だって普通の子だよ、と。
あの子は後藤のことを神様だと思っていたのだろうか?
だとしたらそれは大間違いだ。
後藤だって、こんなに苦しむんだよ。
自分を傷つけて、誰かを傷つけて、必死で生きている一人の人間なんだよ。
目の前に置かれた写真の何も考えていない無邪気な笑顔を見てそんなことを考え
た。無意味だとわかっていても、そう考えることしかできなかった。
- 356 名前:9-13 市井紗耶香(11) 投稿日:2001年08月10日(金)01時05分19秒
- 隣りにはその写真に目を合わせようとしない後藤。
正座をしているあの子のお母さん。
枯れた涙の跡が火傷の跡のようで痛々しい。
「今日はお忙しい中、ありがとうございました」
もう一度、深々と礼をした。私も後藤も写真を横目に正座した。
「亜依も喜んでいると思います」
横の写真を一瞥してから、お母さんはそう言った。
あれから1週間。
亜依ちゃんは死んだ。
- 357 名前:名無しさん 投稿日:2001年08月10日(金)01時07分51秒
- 次回、9章後編。
- 358 名前:名無し読者 投稿日:2001年08月10日(金)03時03分07秒
- 同じ感想しか書けないけどやっぱりこれしかないでしょう。
『痛い』
- 359 名前:9-14 後藤真希(20) 投稿日:2001年08月10日(金)21時41分18秒
〜後藤真希〜
遺影は笑っていた。一度それを確認するともう遺影を見れなくなった。
雨に濡れて、青い顔をして、倒れていた亜依ちゃんじゃなかった。
私の最後に見た魂の抜けた体ではなかった。
ねえ、私は亜依ちゃんに何て言った?
傷つけるようなこと言ってないよね?
目の前に亜依ちゃんの幻影が現れる。体の輪郭が上下左右に揺れ、あの時の雨を全
身に浴びながら恨むように私を見る。そして首を横に振る。
「後藤さんは私に『ダイキライ』って言ったんだよ。ショックだよ。大好きだった
後藤さんにそんな風に言われちゃったら、生きてる意味なんてなくなるに決まって
るよ」
クルリと背を向けた亜依ちゃんには涙という雫が飛び散った。真上から照らされた
無色の光に反射して哀しいぐらいに美しかった。
「亜依ちゃんが死んだのは私のせい?」
「そうだよ」
後ろ向きに言う。
「恨んでる?」
「もちろん」
「私…これからどうしたらいいの?」
「さあ?自分で考えてよ」
後ろ姿は、青白い不穏な光を放っていた。
- 360 名前:9-15 後藤真希(20) 投稿日:2001年08月10日(金)21時43分13秒
- 「ダイキライ」は私の嫉妬。
嫉妬の中でも最低の部類の嫉妬。
メンバーとの絶縁で生まれた孤独。
市井ちゃんへの依存心。
二つが共鳴しあうようにどんどん膨らんでいた時に現れた亜依ちゃんという存在。
亜依ちゃんは出会った時から私の独占欲を邪魔する存在でしかなかったんだ。
亜依ちゃんがどんな人間であろうとも、私の敵だったんだ。
そんな私のささやかな抵抗が今、この場を生んだ。
きっと私の願いが叶ったんだ。
亜依ちゃんはいない。
そして私はいる。
今は市井ちゃんの肩に堂々ともたれかかることができる。
もう、市井ちゃんは私から離れない。
邪魔する者は誰もいない。
私は亜依ちゃんに勝ったんだ。
- 361 名前:9-16 後藤真希(20) 投稿日:2001年08月10日(金)21時43分53秒
- ……
ホントにそう?
「ダイキライ」を言って、私は市井ちゃんを奪えたの?
独占欲は満たされたの?
答えはノー。
市井ちゃんがいたって多分ダメだね。
だって、市井ちゃんを見るたびに亜依ちゃんを思い出すんだもん。
多分市井ちゃんも私を見るたびに亜依ちゃんを思い出してるはず。
結局亜依ちゃんから市井ちゃんを奪えなかったんだ。
きっと亜依ちゃんは私を呪っている。
もう亜依ちゃんからは逃げられない。
でも仕方ないんだ。
だって、私が亜依ちゃんを殺したんだもん。
- 362 名前:9-17 後藤真希(20) 投稿日:2001年08月10日(金)21時44分39秒
- 「後藤!」
意識が何回か飛んだ。もしかしたら二度と戻ってこれないような飛び方だった。そ
んな時、遠くから叫ぶ声が聞こえ、私はこっちの世界に戻される。
「後藤ったら!」
心配そうに見つめる市井ちゃん。私は市井ちゃんに心なく微笑んだ。
市井ちゃんの瞳には深い森に身を任せた亜依ちゃんが見える。
市井ちゃんには微笑み、そして、私には蔑む。
亜依ちゃんは天使と悪魔になった。
気がつくと私は市井ちゃんの隣りに正座していた。
正座は元来苦手でいつもだったらすぐ痺れて崩したくなるのに、全然そんな感覚は
ない。もう外部からの刺激には一切の感覚は持っていない。ただ、突き刺したり焼
いたり凍らせたり…と、とことん内側の部分を私は痛めつけていた。
- 363 名前:9-18 後藤真希(20) 投稿日:2001年08月10日(金)21時46分48秒
- 「今日はお忙しい中、ありがとうございました」
目の前には40歳ぐらいの女の人がいた。一瞬ココはどこだろう?と思ってしまっ
た。
「亜依も喜んでいると思います」
「はい。だといいんですけどね…」
「ホント、市井さんや後藤さんに出会えて、すごく変わりました。あの子ったら継
母とはいえ、私にも見せたことのない笑顔をするんですよ、お二人のことを話す
時に」
ムリにクスクスと笑い出した顔は目だけが笑っていなくてぎこちなかった。
母?亜依ちゃんのお母さん?
津波のように押し寄せる罪悪感。
心の防波堤に亀裂が走る。
- 364 名前:9-19 後藤真希(20) 投稿日:2001年08月10日(金)21時47分50秒
- 言わなきゃいけない。
私が亜依ちゃんを殺しましたって。
そして、責任とって自首しますって。
それが不満だったら私を殺しても構いませんって。
どっかにナイフないかな?
そしたらそっと差し出して「どうぞ」って言うのに。
でもそれってお母さんに迷惑かな?人知れずひっそりと舌を噛んだりして死んだほ
うがいいのかな?
でも、それすらできないんだよね。
私って臆病だから。
最低だから。
私は顔を上げた。
すると、亜依ちゃんのお母さんと目が合ったので、すぐ目線を下ろした。
「それに悔しいんですけど、亜依の最後の言葉も後藤さんに向けられた言葉だった
んですよ」
本当に悔しそうに亜依ちゃんのお母さんは言った。
- 365 名前:9-20 後藤真希(20) 投稿日:2001年08月10日(金)21時51分10秒
- 私は戸惑った。
何て言ったの?
憎んでいる?ダイキライ?最低?
どれだっていい。
どれだけ蔑んだ言葉だったって私は受け入れるから。
そして、亜依ちゃんの希望通りにするから。
勇気を持って、亜依ちゃんの最後の願いをかなえるから。
「何て…言ったんですか?」
市井ちゃんは涙はもう出し尽くしてしまったのか、乾く赤くなった目を向け、掠れ
た声で聞いた。亜依ちゃんのお母さんはその言葉に頷き、私の方を見て、床につい
ていた両手に優しく触れながら言った。
「ありがとうって」
え?
思いがけない言葉だった。
私には無関係で遠く忘れていた言葉。
- 366 名前:9-21 後藤真希(20) 投稿日:2001年08月10日(金)21時52分13秒
- なんで…?
亜依ちゃんに何で感謝されるの?
私は亜依ちゃんを傷つけただけなんだよ。
ただ、弱っている亜依ちゃんの体にトドメの一撃を喰らわしただけなんだよ。
「どうして?」
私は驚きながら顔を上げた。亜依ちゃんのお母さんは続けた。
「後藤さんには、本当に感謝してます。あの子ったらあなたや市井さんに会って本
当に変わったんですよ。今までは、私たちにどんなに明るく振舞っていても、どこ
か弱いところがあって、心の中では泣いていた。でもね、最近は心から笑っていた
んです。ホントに嬉しかったんだと思います。私も言わせてください、後藤さん。
亜依と会ってくれて、亜依に思い出を作ってくれて、本当にありがとうございまし
た」
- 367 名前:9-22 後藤真希(20) 投稿日:2001年08月10日(金)21時53分03秒
- 地面におでこをつけそうなくらい深くお辞儀をしていた。
市井ちゃんも同じようにお辞儀をした。
私はその光景を涙のフィルターを通して眺めていた。
止まることはなかった。
まぶたの上と下はしばらく出会うことはなかった。
亜依ちゃんの声が聞こえてきた。私は顔を上げる。亜依ちゃんのお母さんを突き抜
けて、天使のように微笑む亜依ちゃんが正座していた。さっき幻影として見た亜依
ちゃんとは違う。体の輪郭ははっきりとしていて、亜依ちゃんの後ろから柔らかい
光が差していた。
血色のいい顔に、何の不安もなさげな亜依ちゃん。
すごく幸せそうだった。
- 368 名前:9-23 後藤真希(20) 投稿日:2001年08月10日(金)21時54分46秒
- 「後藤さん、あたしと出会ってくれて本当にありがとうございました。短い付き合
いだったけど、あたしたちって友達だよね?あたしはこっちの世界でずっと住むこ
とになっちゃったけど、後藤さんのこと忘れないから。あたしね、こっちで会った
人に自慢しようと思ってる。『あたし、後藤真希と友達なんだよ』って。だから、
これからもあたしの尊敬できる人で居続けてね」
「…」
「ねえ、なんでそんな顔してるの?あたし今もすっごく楽しいんだから…」
「ねえ、亜依ちゃん。亜依ちゃんは私のどこに尊敬してるの?」
「も〜う、それくらい自分で考えてよ。でも、まあ一つだけ。ヒントでも…」
「ヒント?」
「うん。あたし、今の後藤さんだったら尊敬できないよ。これでわかるかな?それ
じゃあバイバイ!!」
亜依ちゃんは満足げな笑みを浮かべながらスーッと消えた。余韻が残るかのよう
に、消えたあとには一筋の線香が昇っていた。
「亜依ちゃん…」
私は呟いた。
遺影の方に顔を向けた。
そして、笑った。
- 369 名前:第9章 終 投稿日:2001年08月10日(金)22時03分37秒
- 第9章 モノクロの微笑み 〜tears in heaven〜
次章も短めです。ていうか細かいところは置いといて最後まで書きあげたんで
すが全16章です(また分けるかもしれないけど)。
話がムダに長いですが読んでくださる方、感謝しています。
第10章 君が思い出になる前に 〜I WISH〜
- 370 名前:名無し読者 投稿日:2001年08月11日(土)03時54分50秒
- 亜衣ちゃんの言葉(?)によって少しでも後藤が救われるとよいのですが……
- 371 名前:mo−na 投稿日:2001年08月14日(火)03時42分28秒
- 泣いてしまった。 (≧◇≦)
- 372 名前:ラークマイルドソフト 投稿日:2001年08月17日(金)01時58分49秒
- (T「T)おれも…
- 373 名前:休憩中ってわけでもない 投稿日:2001年08月17日(金)14時08分17秒
- レス多謝。そしてしばらく放置すみません。
板変えたくないんだけど…待ってもムダかなぁ。
- 374 名前:ひかげ 投稿日:2001年08月19日(日)03時46分29秒
- 一気に読みふけってしまいました
そして号泣(T.T)
こんなに心が痛い(?)のに、目が離せない作品は
今までに無かったかもです
- 375 名前: 投稿日:2001年08月20日(月)18時34分57秒
- 続きは白板で書きます。この板が空いたら移転しようかな?
http://mseek.obi.ne.jp/cgi/hilight.cgi?dir=white&thp=998300002
Converted by dat2html.pl 1.0