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ふたり 2
- 1 名前: 投稿日:2001年08月20日(月)18時33分22秒
- 青板の「ふたり」の続きです。
http://mseek.obi.ne.jp/cgi/hilight.cgi?dir=blue&thp=992850888
- 2 名前: 投稿日:2001年08月20日(月)18時36分35秒
- 第9章 君が思い出になる前に 〜I WISH〜
- 3 名前: 投稿日:2001年08月20日(月)18時37分47秒
- すいません、10章ですね。
- 4 名前:10-1 市井紗耶香(12) 投稿日:2001年08月20日(月)18時39分41秒
- 早いもので亜依ちゃんの葬式から3週間が経った。冬の気配ももうそこまでやって
きている。
後藤はあれからいつも通り仕事を再開した。たまたま、溜めていた収録とかがあっ
たりしてあまり後藤が休んだことは影響しなかった。
このまま後藤はショックのあまり、モーニング娘。を辞めちゃうんじゃないだろう
か?という不安もあったが、それは杞憂に終わったようだ。ブラウン管を通して後
藤を見る度に、心からほっとしていた。
この3週間、後藤とは電話や携帯のメールは何回か交わしてはいたが会うことはな
かった。
後藤は頑張っているみたいだ。亜依ちゃんのことは決して忘れたわけではないのだ
ろうけど、それを乗り越えていこうとしているのがわかる。
- 5 名前:10-2 市井紗耶香(12) 投稿日:2001年08月20日(月)18時40分14秒
- 今、宙ぶらりんなのは私の方だ。
私には気を紛らわす方法がない。
私にとって亜依ちゃんという存在は何だったんだろう。
亜依ちゃんと出会って勇気をくれた。
「命の恩人」だなんて形容もした。
実際亡くなった時私は泣かなかった。
それはきっと後藤があまりに泣きじゃくるもんだから、「しっかりしなきゃ」と悲
しむ前に思ってしまったからだ。そんな私を少しは誇らしくも思ったりした。
- 6 名前:10-3 市井紗耶香(12) 投稿日:2001年08月20日(月)18時41分28秒
- 今になって失敗したと思った。
後藤はもう、新たな気持ちに向けて、前を向いているのに、私はどの方向が前なの
かすらわからない。悲しい時に悲しいと言えないその代償が今の虚無感という実体
のない存在に包まれる形となってしまった。
部屋に閉じこまったまま、壁に無造作に立てられたギターに手を取ると、おもりが
ついているかのように重かった。弦はさびれているのかロクに音は奏でられない。
「弾けないや…」
亜依ちゃんとギターはあんまり関係がないのに、なぜか亜依ちゃんと結びつけてし
まう。
いや、起きること、太陽が地上を照らすこと、朝御飯を食べること、病院に検査に
行くこと、テレビを見ること、眠ること、日常生活の全てに亜依ちゃんが近くにい
るような気がしてしまう。
別に怒るわけでも悲しむだけでもない。ただじーっと亜依ちゃんは私を見ている。
私はこのまま夢に向かって進めばいいの?
亜依ちゃんはそれで悲しむの?喜ぶの?
無表情の亜依ちゃんからは読み取ることができない。
- 7 名前:10-4 市井紗耶香(12) 投稿日:2001年08月20日(月)18時42分33秒
- 初めて、亜依ちゃんを怖いと思った。
夜にふと置かれた人形や彫像を見ると、何となく怖いのは、私が驚いたり微笑んだ
りしても人形や彫像は何の反応を示さず、ただじっとこちらを見ているからだ。
今私の目の前に立つ亜依ちゃんは今そんな心が含まれていないただの人形に見えた。
これからずっと亜依ちゃんの影に怯えることになるのかもしれない。
私が描く亜依ちゃんに心が吹き込まれるにはどうしたらいいんだろう?
電源を切りっ放しのノートパソコンをふと見た。
交わしたいくつかのメール。
私は亜依ちゃんが倒れてから一度もこのパソコンを開けたことがない。
元々、パソコンは亜依ちゃんとのメールのためだけに使われていた。
そして亜依ちゃんがいなくなった後は、もう利用手段がない。
新しいメールは来ない。もし、来たとしても、それはきっと出会い系メールとかス
パムメールとかその類のものだろう。
でも新着メールの効果音がノートパソコンから聞こえた瞬間、私はきっと期待し
ちゃうんだ。
「亜依ちゃん?」
って。
- 8 名前:10-5 市井紗耶香(12) 投稿日:2001年08月20日(月)18時47分08秒
- バカだってことはわかっている。
亜依ちゃんが死んでも、もしかしたら天国からメールを送ってくるなんて非現実な
ことを考えているのかもしれない。それとも、もしかしたらまだ亜依ちゃんが生き
ていると思っているのかもしれない。
そしてその思いは開いた瞬間絶望に変わることも知っていた。
だから私はこのパソコンを開けなかった。
しかし、今私は何かに縋りつきたい。
右も左もわからずに、どっちに足を踏み出せばいいのかわからずに立ち尽くしたま
まいるのはもうウンザリだ。
ケリをつけたい。
パソコンの中にあるのは過去だけだろう。
幸せそうに交わされた何通かのメールは今の私に追い討ちをかけるだろう。
しかし、前がわからない今、たとえそんな痛みを伴ったとしても、私には過去を振
り返ることは必要なんじゃないか?
そして、一歩前に進むために「もしかしたら亜依ちゃんから新しいメールが来るん
じゃないか?」という愚かな期待を粉々に砕かなければならないのではないか?
そんな風に思いはじめた。
右手が震えている。
交わしたメールの内容は大体は覚えている。
しかし、その記憶を確かにするために私はノートパソコンを開け、電源を入れた。
- 9 名前:10-6 市井紗耶香(12) 投稿日:2001年08月20日(月)18時49分33秒
- ピーピーピー。
そんな時、部屋の中をタイマーの音が虚しく響きわたった。
薬の飲む時間を知らせる音。現在、私は薬を4時間ごとに服用しなければいけない
ことになっている。
実は亜依ちゃんの葬式の最中にもこのタイマーの音が鳴った。
その時のことを思い出してしまう。
お坊さんがお経を唱えている最中だった。「飲まなきゃ…」なんて席を外した。葬
式所に面している道路に設置された自動販売機でミネラルウォーターを買って、飲
んだ。
席を外す時にお坊さんに向けた背中。お経を聞いている亜依ちゃんの同級生
たちの間をすり抜けたこと。目の前の道路を横切った何台もの車。自動販売機に千
円札を入れても、戻ってきたこと。そして、ボタンを押し、下からミネラルウォー
ターがゴトンと落ちてくる聞きなれた音。
いろんな光景が私の前を流れていく。そんな流れの中に亜依ちゃんはいない。そし
て、その瞬間、「薬を飲むこと」が自分の中で一番になっていた。
途端に芽生えた背徳心。
自分だけが飄々と生きている。
亜依ちゃんなんかどうでもいい自分がいる。
- 10 名前:10-7 市井紗耶香(12) 投稿日:2001年08月20日(月)18時50分08秒
- こんな気持ちを人に話すと、「何変なこと考えてるのよ」とバカにされるだろう。
でも、私は薬を飲むたび、そう思わずにはいられない。それが亜依ちゃんの状態に
気付いてやれなかった懺悔なのかもしれない。
ノートパソコンは立ち上がったようだ。部屋の電気を消していたので、液晶画面だ
けが妖しく光る。そんな中、ただ無感情に薬を取り出して、服用した。
「これを飲めば良くなる」なんて感謝しながら飲んでいない。
いつ止めてもいいみたいな軽い日課だ。
フーッと軽く一つ息をつくと、薬の入った胃の中から違和感がした。
急に体が焼きすぎたピザのように固くなった。
同時に数方向から稲妻が走ったような頭痛が走る。強さも質も今まで体験したこと
のない痛みだ。
そして、体中が熱くなった。吐き気がした。
「あれ…?」
呟きながら私は痛みが全身に転移していくのを感じた。
私は持っていたコップを落とし、そして、そのままうずくまった。
絨毯が水で染み渡っていく様子をなす術なく見送っていたことをなぜか鮮明に記憶
している。
- 11 名前:10-8 市井紗耶香(12) 投稿日:2001年08月20日(月)18時51分15秒
- 1時間後に私は病院のベッドでようやく落ち着いた。あれからお母さんがやってき
て、急いで119番。意識が飛ぶということはなかったので、私はお母さんの顔を
ずっと見ていたのだが、ヤバイくらい不安な顔をしていた。
どうやら薬の副作用らしい。
今まで合っていたと思われていた組み合わせが、本当は悪かったのか。
もしくは、薬の耐性が私の体に作られて、薬自体が意味を呈さなくなったのかもし
れない。
- 12 名前:10-9 市井紗耶香(12) 投稿日:2001年08月20日(月)18時52分01秒
- 抗HIV薬なんて種類は限られている。もし、全ての薬が体に合わない、もしく
は、耐性が出てきてしまうと、私はもう薬に頼ることはできない。
そうなると…
「もう、ダメかもしれない」
ちょうど、お母さんも看護婦さんもいなかった。誰もいない空間でその声は私の耳
だけに届いた。自分で言った言葉なのに、誰か他の人が言ったみたいで、実感を帯
びていた。
結局、1週間ぐらい入院すればすぐ退院できるらしいことがわかった。
ということで心配させたくないがために後藤やメンバーには入院したことを連絡し
なかった。
久しぶりの病院のベッドはふかふかとは言わないが、気持ちよかった。
多分、このままいれば、些細な幸せは感じることができるかもしれない。
でもそれはあくまで「些細」であって、ある意味「逃げ」に近い。
早く退院したいと思った。
- 13 名前:10-10 市井紗耶香(12) 投稿日:2001年08月20日(月)18時56分20秒
- 入院した次の日、お母さんがノートパソコンを持ってきた。
「さやが倒れる時に電源が入ってたから、何かしようとしてたのかな?と思って」
「ありがと…」
お母さんは私以上のパソコン音痴だ。電源の切り方すらよくわかっていない。おそ
らくただ電源を切ったのだろう。電源を入れた時にいつもと違うエラーメッセージ
が流れた。
しばらくたって見慣れた画面が現れる。
私は看護婦さんに許可をもらってネットに繋いだ。
そして、メールチェックをした。
一歩進むために。
すると新着があったようで音が流れる。
「え?」と思わず口にした。
右下には「2件のメッセージがあります」と書かれていた。
見ると1件目はプロバイダからのお知らせ。
「そっか、そうだよね…」
口に出した驚きの声は、やっぱり無駄な期待をしていたんだなぁ、と再確認させる。
- 14 名前:10-11 市井紗耶香(12) 投稿日:2001年08月20日(月)18時57分18秒
- しかし、もう1件目は…。
「え?」
もう一回驚きの声を思わず出す。しかし、今度は違う。
期待なんかじゃない。
確かな事実がそこにはあった。
手が震えた。
涙がうっすらと出た。
どんどん動悸が激しくなった。
送信者欄に表示される「加護亜依」という文字。
- 15 名前: 投稿日:2001年08月20日(月)19時06分36秒
- sageても無意味だけどsageてみた。
次回10章後編。
- 16 名前:LVR 投稿日:2001年08月20日(月)21時01分12秒
- 復活、ですね。
24時間テレビのドラマをチラッと見たとき、この話を思い出して泣きそうになった。
- 17 名前:ラークマイルドソフト 投稿日:2001年08月21日(火)00時25分31秒
- この前編だけで鳥肌立ちました。
- 18 名前: 投稿日:2001年08月22日(水)21時07分37秒
- 24時間テレビはエイズじゃなくてよかったと思って見てました(w
- 19 名前:10-12 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時08分58秒
- 〜市井紗耶香〜
そこには亜依ちゃんの字があった。
パソコンなんだから字の形に個性は表れないのだが、それでもそこに書かれていた
のは亜依ちゃん独特の字に見えた。私の想像がそうさせたのだろう。
件名は「今日はありがとう」。
受信日時は1ヶ月前。
遊園地へ行く直前に出されたものだった。
- 20 名前:10-13 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時09分39秒
- 『市井ちゃんへ。
遊園地楽しかったよ!後藤さんもすっごくおもしろくってホント久々に楽しめました。
ジェットコースター、ドキドキしたなぁ。
アイスクリーム、おいしかったなぁ。
でも途中雨が降って大変だったよ。
な〜んてね。
まだ、行ってないんだけど。
あたしはきっとこうなるって思って、書いています。
ある意味、未来日記?へへへ。
ということでまた、連れてってください。今度は最後まで三人で…ね♪
(本当にごめんなさい)
- 21 名前:10-14 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時10分12秒
- と、書いておいてからちょっと暗いお話をしたいと思います。
あたしは嘘をついていました。
もしかしたらこのメールを見た時にはバレてるかもしれない。
もし、そうだったら怒らないでね。
バレてなかったら、あんまりあとで追求してこないでね。
今からあたしの過去を話します。
昔ちょっと話したことのある話です。
何でかな?
自分でもわかりません。
でも何か言いたいんです。
あたしにとってはつらい話なんです。
今キーボードを押す手が震えています。
思い出しただけで泣きそうになります。
それでも、ちゃんと市井ちゃんには伝えたいんです。
見たくなかったらこれ以上読まないでください。
- 22 名前:10-15 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時10分45秒
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- 23 名前:10-16 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時11分17秒
- あたしは人を殺しました。
しかも、二人も。
一人はお母さん。
先生から聞いてたよね?あたしのお母さんはあたしが小学2年の時に、HIVに感
染していることがわかりました。そして、その時あたしもそうだとわかりました。
そして1ヵ月後お母さんはすぐ死んじゃいました。
変だと思いませんでした?
エイズってそんなに進行が早いわけじゃないのにね。
実を言うと、エイズが発症したからじゃないんです。
- 24 名前:10-17 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時12分00秒
- お母さんは、自殺したんです。
どうやら、お母さんは自分はともかくあたしにまで苦しい思いをさせてしまったこ
とに耐えられなかったらしいです。行方不明になり、3日後、海で発見されました。
周りの人は、あたしをなぐさめてくれました。
「亜依ちゃんは悪くない」って。
でもね、子供ながらに(って今も子供だけど)、そんなことを何度も何度も必死に
言われると、どっか逆の気持ちも芽生えてきちゃって、
「ああ、あたしはお母さんを殺しちゃったんだな」
なんて思ったんです。
今では、やっぱり周りの人が言うように、逃げたお母さんが悪いんだって思うんで
す。でも、どっかで「殺した」って気持ちがあるんですよね。
- 25 名前:10-18 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時12分42秒
- もう一人は前に言っていたあたしの一番の友達です。
辻希美ちゃんて言います。あたしと同い年です。
この前チラッと言ったかな?”ののちゃん”です。
前に「事故」って言ったけど、あれはウソです。ごめんなさい。
実は、あたしのせいでののちゃんはHIVに感染しちゃったんです。
あたしがHIVに感染しているとわかったあと、思い切ってののちゃんにも検査す
るように言いました(2ヶ月ほどかかったんですが…)。
そしたら、感染していることがわかりました。
心あたりはいっぱいあります。
今のお母さんは「運が悪かったのよ。亜依は悪くない」って言ってくれました。
どんな心あたりも全部、「日常の生活」の中のことで、それだと感染する確率は
ほとんどないって。ホントはそんなことで感染するはずがないって。
だからあたしは悪くないって。
でもそれはあくまで「ほとんど」なんですよね。
実際ののちゃんは感染しました。
あたしはののちゃんに病気をうつしました。
その事実は変わらないんです。
- 26 名前:10-19 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時15分21秒
- そして、ののちゃんはものの3年で死にました。
あたしは、11年経ってやっとエイズを発症したけど、ののちゃんはたった2年で
エイズを発症し、そしてさらに1年後、死にました。
あたしはののちゃんがエイズを発症してから会っていません。
というか会わせてくれませんでした。
でも、噂って結構すごいんですよね。
風が知らせてくれました。
ののちゃんは悲しい死に方をしました。
体が動かなくなりました。
言葉が上手くしゃべれなくなりました。
昨日はもちろん5分前のことすら忘れるようになりました。
自分が何をやっているのかさっぱりわからずに、死んでいきました。
- 27 名前:10-20 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時16分09秒
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- 28 名前:10-21 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時18分00秒
- ずっとね、あたしは苦しみました。
お母さんと同じように自殺しようかとも思いました。
ののちゃんは、あたしを今でも恨んでいる。
ずっとそう思っていました。
でもしばらくたって、それは違うかな〜?
なんて思ってみたり…。
後藤さんがモーニング娘。に入って見た時、ののちゃんの顔を思い浮かべました。
前も言ったっけ?ののちゃんと後藤さんって似ているんですよ。
外見は全然違いますよ。
ののちゃんはちっちゃくて幼いし(あたしもだけど…)、後藤さんは綺麗な人だ
し。普通は結びつかないんだけど、あたしには確かに後藤さんがののちゃんに見え
たんです。
雰囲気っていうのかな?
ののちゃんがいると、それだけで哀しい気持ちとか吹き飛んでしまう不思議な子だ
ったんですよ。ののちゃんが笑ってくれるとそれだけで胸いっぱいの気持ちになれ
るんです。
後藤さんもそうでしょ?テレビを見てて、きっと後藤さんもそういう人なんだろう
なぁ、と思いました。テレビを通してそうなんだから実際会うともっとすごいんだ
ろうなぁ、と思いました。実際会ってみてその通りでした。
そうそう、ののちゃんはモーニング娘。のファンだったんですよ(これも言ったっ
け?)。ののちゃんが死んじゃって、すぐ後藤さんがテレビに出始めたから、あた
しは、「ああ、ののちゃんが乗り移ったんだなぁ…」って思ってみてました。
- 29 名前:10-22 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時18分51秒
- その日、ののちゃんの夢を見ました。今までも見ていたんですが、あたしをののし
るだけでずっとそんなののちゃんにあたしはうなされていたんです。
でも、その日からののちゃんが笑うようになったんです。
特徴のある八重歯が見えるすっごくかわいい…天使のような笑顔です。
私が大好きだった笑顔です。
その時、嬉しいと同時に、今までのののちゃんに悪いことをしていたのかなぁと思
っていたんです。
楽しい思い出がいっぱいあったのにののちゃんが死んだことで、あたしはそんな思
い出を全て忘れてしまった。
ののちゃんを悪者にしてしまった。
それってののちゃんに悪いことですよね。
上手く言えないんだけど…、
- 30 名前:10-23 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時19分34秒
- ののちゃんが生きたことをののちゃんに後悔させたくないんです。
不幸にさせちゃったけど、短い人生だったけど天国にいるののちゃんに、
「一生懸命生きました」
って胸を張って言ってもらいたいんです。
すっごく自分勝手って感じですよね。
でも結構当たっているかなぁって…今はそう思っています。
何でこんなこと言ってるんだろうなぁ。
最近もののちゃんは夢に出ます。
優しく、舌ったらずな言い方で、「遊ぼ」って言うんです。
(もともと舌ったらずな子だったんですよ)
ののちゃんは昔と全く変わらないで笑っています。
それがとっても嬉しいです。
今、あたしは楽しいです。
それは市井ちゃんや後藤さんに会えたからだと思います。
もしかしたらやっとののちゃんにたどりついたのかもしれないんです。
ののちゃんの気持ちがわかるんです。
そして、あたしの考えは間違っていなかったってわかって嬉しいんです。
お母さんを殺したこと。
ののちゃんを殺したこと。
この二つの罪は一生、いや、死んだとしてもつぐないきれないものだと思う。
- 31 名前:10-24 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時20分22秒
- だけど、あたしには笑う権利があると思う。
それが生きている人の特権だから。
だから、ずっとあたしは笑っていたでしょ?
すっごくすっごくとびっきりの笑顔だったでしょ?
ムリしているようには見えなかったよね?
あ、そっか。
こうやって書いてる時になんでこんなこと書きたくなったのか分かっちゃった。
あたしがずっと背負ってきた苦しみを味わってもらいたくないからだ。
うん、そうだ。きっとそうだ。
- 32 名前:10-25 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時21分04秒
- だから、
市井ちゃんも苦しまないでね。
後藤さんにも苦しまないように言っといてね。
二人とも笑顔をなくさないでね。
そして、あたしを楽しい思い出にしてください。
あたしにこれからもとびっきりの笑顔を見せてください。
それが、あたしの願いだから。
じゃあね。。。 加護亜依』
- 33 名前:10-26 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時22分07秒
- 「亜依…ちゃん…」
画面の文字が見えなくなった。
キーボードには涙がいっぱい落ちた。もしかしたら壊れてしまうかもしれない。
しかし、そんなことは全く無視して、私は涙を落としつづけた。
おそらく亜依ちゃんを失って初めてまともに落とした涙だろう。
今日のためにとってあったかのように止め処なく流れた。
鼻をすすっても上を見上げても全くムダだった。
亜依ちゃんの苦しみは私の想像を超えていた。
もしかしたらその苦しみを私も味わうことになるかもしれない、と亜依ちゃんは思
っていた。
だから、こんなことを書いたんだ。
亜依ちゃんは、遊園地に行く前から覚悟していたのかもしれない。
- 34 名前:10-27 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時22分52秒
- だけどね、
こういうのって、もちょっと前に教えてほしかったなぁ。
苦しまないなんて無理だよ…。
私はその苦しみに気付いてあげられなかったんだよ。
出会った時から今までずっと。
私たちは友達なんでしょ?
なのにこんな風になるまで隠しちゃってたら、残るのは苦しみだけだよ。
それなのに、「苦しまないで」だなんて、矛盾してるよ。
でも亜依ちゃんの願いは守りたい。
笑顔でしょ?
でも、それも難しいよ。
どんなに上手く笑ったって、どっか抜けていて、「とびっきり」なんて程遠い。
心はやっぱり空っぽだから。
ねえ、亜依ちゃん。
私はどうやってこの失った気持ちを埋めたらいいの?
- 35 名前:10-28 市井紗耶香(13) 投稿日:2001年08月22日(水)21時23分59秒
- ふと、ある決意を思い出した。
「亜依ちゃん…」
私は天井に向かってつぶやいた。
「私って臆病なのかな?ただ馬鹿なだけかな?」
亜依ちゃんは白い天井から顔を覗かせる。新しいお人形のような洋服に身を包んだ
かわいらしい亜依ちゃん。そして、その表情は苦笑に満ちていた。
久しぶりに私に亜依ちゃんは心を見せた。
それがただただ嬉しい。
「多分、どっちもだよ。でもどっちも市井ちゃんらしいよ」
「それって誉めてないよ」
私が笑うと、亜依ちゃんも笑っていた。
亜依ちゃんは心から笑っているように見えた。
そんな亜依ちゃんを見て私の心は少しだけ満たされたような気がした。
- 36 名前:第10章 終 投稿日:2001年08月22日(水)21時24分57秒
- 第10章 君が思い出になる前に 〜I WISH〜
- 37 名前: 投稿日:2001年08月22日(水)21時30分18秒
- 変な章でした(w。次章から原点に戻ります。
第11章 冬の枯れた木立のように 〜lies and truth〜
長いので小出しの予定。
- 38 名前:名無しさん 投稿日:2001年08月23日(木)02時44分17秒
- この小説には毎度毎度泣かされぱなっしです。(号泣)
- 39 名前:ラークマイルドソフト 投稿日:2001年08月23日(木)03時26分35秒
- >>38 この小説には毎度毎度泣かされぱなっしです。(号泣)
そのとうりですねT「T
- 40 名前:11-1 後藤真希(21) 投稿日:2001年08月23日(木)08時40分18秒
- 〜後藤真希〜
時は過ぎ、12月に入った。クリスマスの雰囲気が街中を埋める。葉っぱが枯れ落
ち、裸になった木々に電球がとりつけられていた。まだ、光が灯ってはいなかった
がとりつけられているだけで、それなりの雰囲気を味わうことができる。
亜依ちゃんの死から3週間。
私はとっくに仕事を再開している。
誰のためでもない自分のために。
きっと亜依ちゃんもそういう自分を望んでいる。
ちょっと矛盾してるなぁ、と思った。
しかし、私は相変わらず孤独だった。
- 41 名前:11-2 後藤真希(21) 投稿日:2001年08月23日(木)08時41分24秒
- ファンもテレビで見せる微妙な空気の違いに気づき始め、「不仲説」が前にも増し
て飛び交った。特に、今までいつもくっついていたのに突然会話をしなくなった
よっすぃーとの不仲はほぼ決定的扱いされていた。それは「解散説」が膨らむこと
にもつながる。ラジオで裕ちゃんは、
「ごっちんとは今もめっちゃ仲いいし、解散するつもりなんかありません」
と断言して、一笑に付していた。しかし、今回のことで一番私を敬遠してるのは紛
れもなく裕ちゃんだった。私はそんな裕ちゃんや他のみんなに腹を立てることはな
かった。心を支配していたのはむしろこんなぎくしゃくした私たちを噂で聞き、あ
るいは自分で感じて、市井ちゃんがどう思うかだった。「単なる噂」とか「思いす
ごし」と解釈してくれればいいんだけども。
12月は「師走」というように、日本中どこもかしこも忙しくなる。モーニング
娘。は「働き過ぎるんじゃないか?」と心配される奇妙なグループではあるが、1
2月は世間の風習に漏れず、拍車をかけて忙しくなった。しかし、それは考える暇
を与えてくれないことにもなり、そういう点で気が楽になっていることは確かだった。
「不仲説」を危惧してか、メンバーから私に話しかける機会が多くなった。それが
偽りのものとは知ってはいたが、私はそれに甘えることにした。
目が回りそうな多忙さと「あまり来なくていい」と言われたこともあって、市井ち
ゃんとはあれから3週間、全く会っていない。代わりにしょっちゅう電話やメール
を交わしていた。私は勘のいい方ではないが電話の声や、またメールの弾けた文を
見ても市井ちゃんは元気だと思っていた。
- 42 名前:11-3 後藤真希(21) 投稿日:2001年08月23日(木)08時54分45秒
- その日、かかってきた市井ちゃんからの電話はいつもとは声の張りが違っていた。
体調が悪いのではないか?と一瞬不安になったがどうやらそうではなさそうで…。
市井ちゃんは私に、「1週間後、ファンのみんなに告白する」と伝えてきた。
一度、聞かされていたこととはいえ、衝撃を身に感じた。だけどいさめることはで
きない。その口調には頑として動じる様子を微塵も感じさせなかったから。
同じ日にマネージャーに全員集合をかけられ、市井ちゃんが「カミングアウト」す
る旨を聞かされた。私は知っていたので表情を変えなかったが、みんなはどう反応
したらいいのかわからずただ狼狽していた。
メンバーのみんなは最終的にはどんな結論に達するのだろう?
おそらく余波は少なからずモーニング娘。を襲うだろう。
その時は前と同じように市井ちゃんを蔑むのだろうか?
悪者扱いするのだろうか?
もし、そうなったら…
私はモーニング娘。を脱退する。
私の好きだった「モーニング娘。」という容れ物はもう変わってしまったんだ。
形が変わってしまったものにムリに入ろうとしたって私が苦しいだけだ。
きっと脱退してしまったら、特にそれが喧嘩別れだったらもう今まで通りの活躍は
できないだろう。モーニング娘。という媒体に守られていた軟弱な私はその殻を自
ら外すと、きっと想像のつかないくらい無力な自分に苛まれることだろう。
でもこのままじゃダメなんだ。
- 43 名前:11-4 後藤真希(21) 投稿日:2001年08月23日(木)08時55分15秒
- 亜依ちゃんが望んだこと。
それは私が私らしくあること。
これはきっと私も望んでいること。
このままのモーニング娘。じゃそれは叶わない。
こういうことだよね?
亜依ちゃんに向かって言った。もう亜依ちゃんは現れない。でも、頷いているよう
な気がした。
「ごっちん、行くよ」
なっちの業務連絡のような掛け声。
「うん、行く」
私の相槌に返ってくる声はなかった。
- 44 名前: 投稿日:2001年08月23日(木)08時56分01秒
- ちょこっと更新。次回は夜か明日。
- 45 名前:名無しさん 投稿日:2001年08月24日(金)02時37分22秒
- 静かに更新待ち……
- 46 名前:11-5 後藤真希(22) 投稿日:2001年08月24日(金)03時00分53秒
- 〜後藤真希〜
Xデーはすぐにやってくる。
目まぐるしいスケジュールの中、時は光のように私の目の前を過ぎていった。
その日も番組の収録があったが、私も含めてみんな気が気でなかった。14時ちょ
っと前にマネージャーに呼ばれ、事務所のある一室に集合した。殺風景な部屋の中
にテレビだけがぽつんと置いてある。
マネージャーはそのテレビの電源を押した。
市井ちゃんが多方面からのフラッシュを浴びている映像が映った。記者会見だ。私
やメンバーは無言になってそのテレビを凝視する。市井ちゃんの隣りに位置する線
の細い男の人に促されて、何本ものマイクが束になって置かれている真ん中の座席
に座った。緊張しているのがテレビを通してでもわかる。体全体が震えているだけ
でなく、マイクをトントン叩いたり、テーブルクロスの垂れた部分を無意識に引っ
張ったりと、どことなく落ち着かない市井ちゃんをカメラははっきり捉えていた。
メンバーも同じことを考えているだろうけど、それを口にしたりはしない。「あ、
紗耶香、震えてる!」なんて笑いながら言う雰囲気ではなかったからか、それと
も、ただ市井ちゃんが今あの場に座っていること自体を嫌っていたからだろうか。
- 47 名前:11-6 後藤真希(22) 投稿日:2001年08月24日(金)03時01分44秒
- 画面の手前には見慣れた記者が集まっていた。この人たちは、もしかしたら「復帰
宣言」と思っているのかもしれない。
市井ちゃんの左に座った社長がゴホンと大げさに咳込むと、ざわざわしていた周囲
が静まり返った。そんな中で、社長が軽い謝辞を述べた後、市井ちゃんに振った。
そして、
「え〜っと、わたくし、市井紗耶香は現在、HIV、通称エイズウィルスに感染し
ています」
少し恥ずかしさもあったようだがまっすぐな瞳を向けながら市井ちゃんは力強く宣
言した。
- 48 名前:11-7 後藤真希(22) 投稿日:2001年08月24日(金)03時05分55秒
- ざわめきが周囲を再び包み、空気が乱れる。決して心地よさそうには見えない。市
井ちゃんは立ち上がったまま、間を置いた。
百戦錬磨の記者さんたちも動揺は隠せていなかった。騒然とした中、市井ちゃんの
「カミングアウト」は続いた。感染経路や発見された日時、今どんな状態なのか、
そして、それでも夢は諦めていないこと。そして、エイズについての正しい理解を
日本中に求めてとりあえずの締めの言葉とした。
「では、モーニング娘。の脱退の真相はそれだったんですか?」
どよめきの色が濃くて、しばらくは質問が飛ばなかったが落ち着きを取り戻した記
者がぽつぽつと現れはじめ、まず遠い所から質問がやってきた。
「いえ、先ほど申しました通り、HIVに感染していることがわかったのは今年の
8月でして、脱退したあとになります。それまでも体調が悪いというのはなかった
と思います」
「モーニング娘。の他のメンバーはこのことはご存知なんですか?」
「はい、9月の中頃言いました」
「その時のメンバーはどんな様子でした?」
「最初は戸惑っていましたが、みんな心配してくれました」
「発表することに関して、メンバーはどう言ってましたか?」
「言ったんですが、みんながどう思ったのかは聞いていません。でも、市井はみん
なを信じていますから。ただ、これから少し迷惑がかかるかと思うと、申し訳なく
思っています」
- 49 名前:11-8 後藤真希(22) 投稿日:2001年08月24日(金)03時11分27秒
- 久しぶりに市井ちゃんは自分のことを「市井」と呼んだ。元々、これは自分の名前
をいち早く世間に認知してもらいたくて、やぐっちゃんと一緒に開発した言い方ら
しく、今もモーニングのメンバーのほとんどが実践している。いわゆる「テレビ
用」だ。長いブランクがあったとはいえテレビの前に立つ市井ちゃんは相応の意識
を完全に身に付けている証拠だ。
「どうして、発表という形をとったんですか?」
「先ほども言いましたように、市井はシンガーソングライターになるという夢を諦
めたわけではありません。今も病気と闘いながらですが勉強中です。『予定よりも
遅れるかもしれませんが絶対夢を叶えてみせます』と、数少ないかもしれませんが
待っているファンの人に伝えたかったからです」
- 50 名前:11-9 後藤真希(22) 投稿日:2001年08月24日(金)03時14分32秒
- その後も質問が続いたが、しっかり前を見ながら堂々と答えているところに市井ち
ゃんの凄さを感じた。
「それではこれで記者会見を終了させていただきます」
市井ちゃんの右隣りにいる細身の男の人がそう言うと、市井ちゃんと社長が立ち上
がり、大きく頭を下げた。そして、フラッシュがより一層たかれた。退出しようと
すると、記者の一人が、
「最後に一言お願いします!」
とコメントを求められたので、市井ちゃんは立ったまま机に置かれたスタンドマイ
クを掴みながら、
「市井は負けませんから」
記者に今日一番の強い瞳を向けて言った。
お〜い、市井ちゃん…。
かっこよすぎるよ…。
いつの間にか心臓の鼓動が早まっていた。
- 51 名前:11-10 後藤真希(22) 投稿日:2001年08月24日(金)03時17分13秒
- しばらくしてマスコミその他多数のメディアが私たちの取材に訪れた。
もちろんこれは予想していたことであったので、何を言うべきかは心構えができて
いたし、半分はマネージャーが「答え」を用意していて、それをただ自分が考えた
かのように言えばよかった。そんなわけで答える内容は問題ないのだが、同じ質問
を何度もされて、ほとんどのメンバーがうんざりしていた。
かくいう、私も疲れた。
その日の夕刊や、夜のニュース、次の日のスポーツ紙は他の話題がなかったことも
あってほとんどの雑誌で「市井」の名が大きく載っていた(デイリースポーツだけ
はなぜか阪神の話題の片隅にあるだけだった)。そして、どれもが今回の市井ちゃ
んの勇気ある告白について、賞賛していた。
テレビには、アメリカやフランスの有名スポーツ選手が昔、カミングアウトした時
の映像や、日本で初めて、モザイク無しの実名で自分はエイズであると、告白した
人などの映像が市井ちゃんの記者会見と合わせて、繰り返し放送された。
そして、「エイズとは何か?」「エイズに関しての間違った知識」などを解説して
いた。
- 52 名前:11-11 後藤真希(22) 投稿日:2001年08月24日(金)03時20分12秒
- それを一通り見てから、私は市井ちゃんに電話をかけた。
「やったじゃん」
私の第一声はこれだった。「ファンのみんなに挨拶」が理由だと私に言ってはいた
が、市井ちゃんの一番の理由は「エイズの正しい理解」を広めてもらうことだった
んじゃないか?と会見が終わってから思った。もしかして亜依ちゃんのことを考え
ての行動だったのかもしれない。
そして、その通りになったので、「やった」なんて言葉が出た。
「まあね!私も今、自分の記者会見のビデオテープを見てるんだけど、我ながらか
っこいいねぇ〜。って、結局かっこつけちゃった」
電話の向こうで、得意気になりながらも小さく舌を出している市井ちゃんの姿が容
易に想像できた。
「いいっていいって。それより発表しちゃったんだからもう後には引けないよ。市
井ちゃんがエイズウィルスに勝って、日本中のHIV感染者に勇気を与えなくっちゃ」
「え?そういうことになるの?」
「そうだよ、当たり前じゃん」
「なんか責任重大だなぁ」
「でもこれで治療に専念できるね!!みんなていうか日本全体の応援もあるし!」
「だといいんだけどね…」
- 53 名前:11-12 後藤真希(22) 投稿日:2001年08月24日(金)03時23分56秒
- 市井ちゃんの言葉尻のトーンがストンと落ちた。まだ何かしらの不安を抱えている
のだろうか?しかし私は深くは考えなかった。それよりも、
「ところで、今度遊びに行っていい?」
市井ちゃんの言葉に私はドキッとした。
「遊びに…って?」
「まあ、遊びにっていうかみんなに会いたいなぁって思って。ダンスレッスンとか
そう言う時にちょこっと顔出していい?新曲の練習とか時々やってるんでしょ?」
「それはあるけど…」
私の言葉は途切れ途切れになる。
「ね、お願い!今回のことで直にみんなに謝りたいって思ってるんだ」
「うん…」
この数秒間では断る理由を見つけることができなかった。
私が抱えている曇色の心模様の理由は絶対市井ちゃんには告げるべきではない。
メンバーが今回の市井ちゃんのことに対して、大きな嫌悪感を持っていること。
そして、私が今、孤立していること。
そんな雰囲気の持った現状を市井ちゃんには見せたくなかった。
きっと市井ちゃんは悲しむだろう。
いや、悲しむだけで済むだろうか。
- 54 名前:11-13 後藤真希(22) 投稿日:2001年08月24日(金)03時25分08秒
- 「あ、そうだ」
市井ちゃんはふと気付いたように声を出した。
「何?」
「後藤も検査受けたんでしょ?大丈夫だったよね?」
市井ちゃんは明るい声を出した。それは重い不安を隠すような作り声だった。
「う、うん…」
そしてまた一つ私は嘘をつく。
すると電話からふーっという息がこぼれ、
「まあ、大丈夫だとは思ってたんだけどね。よかったよかった…。これでどうやら
感染者はなしっぽいね…」
足かせから解き放たれたような安堵のため息をもらした。
その足かせは私についていた。
- 55 名前: 投稿日:2001年08月24日(金)03時26分21秒
- 市井にそんな影響力があるのか?と思いつつ更新。次回は寝て起きたら(かな?)。
- 56 名前:名無しさん 投稿日:2001年08月24日(金)03時50分19秒
- 少なくとも、俺への影響力は絶大です(w
- 57 名前:11-14 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時13分56秒
- 〜市井紗耶香〜
一仕事を終えてから、はじめて朝を迎えた。
会見の前、終わったあとのどちらもドキドキしていて、この2日間ロクに寝ていない。
眠気が発散されていない体を起こして、私はまだ脈が荒い体を背伸びをしたりして
ほぐした。
この会見にはいろんな思いがこめられている。
口で言った通りのこと。
今回のことで広がる余波のこと。
そして、もしかしたらあと1秒後に鳴るかもしれない携帯電話を私はぎゅっと握り
締めた。
買い物のために家を出ると、12月らしからぬ強い日差しが私を照りつけた。
手を目の前にかざし、その太陽を覗きこんだ。
今感じている体温。そして、風の音、大地の音たちが新鮮だった。
- 58 名前:11-15 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時20分03秒
- コンビニには数人の小学生の男の子が朝にも関わらずHな本の立ち読みをしてい
た。私はその横に立つと、イケないことをしているという罪悪感があったのか、さ
っと本を後ろに隠して私を見た。
しばらくして集団の一人のクリクリ坊主の男の子が、私が昨日会見した人間だとい
うことに気付き、
「あ〜、エイズの人じゃん」
気持ち悪いものでも見たかのように顔をしかめ、指を差して言った。
本の後ろのコンビニ化粧品を物色している大人の女性が私を「えっ」という声を張
り上げながら振り返る。そして、私の顔をマジマジと見て確認すると、避けるよう
にその場を離れた。
「エイズって何?」
隣りの男の子が坊主頭の男の子に無邪気に尋ねる。コンビニ全体にまで聞こえるよ
うな大きな声だ。
「知らないけど、母ちゃんが病気だって言ってた。うつるから近寄らないほうがい
いんだって」
「うわあ、じゃあやばいじゃん」
「そうだよ。ばっちいから逃げよ!」
無邪気なその声がその無邪気さゆえに私の心をストレートに打ち砕いた。
- 59 名前:11-16 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時21分41秒
- コンビニには数人の小学生の男の子が朝にも関わらずHな本の立ち読みをしてい
た。私はその横に立つと、イケないことをしているという罪悪感があったのか、さ
っと本を後ろに隠して私を見た。
しばらくして集団の一人のクリクリ坊主の男の子が、私が昨日会見した人間だとい
うことに気付き、
「あ〜、エイズの人じゃん」
気持ち悪いものでも見たかのように顔をしかめ、指を差して言った。
本の後ろのコンビニ化粧品を物色している大人の女性が私を「えっ」という声を張
り上げながら振り返る。そして、私の顔をマジマジと見て確認すると、避けるよう
にその場を離れた。
「エイズって何?」
隣りの男の子が坊主頭の男の子に無邪気に尋ねる。コンビニ全体にまで聞こえるよ
うな大きな声だ。
「知らないけど、母ちゃんが病気だって言ってた。うつるから近寄らないほうがい
いんだって」
「うわあ、じゃあやばいじゃん」
「そうだよ。ばっちいから逃げよ!」
無邪気なその声がその無邪気さゆえに私の心をストレートに打ち砕いた。
- 60 名前:11-17 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時23分38秒
- 「2375円になります…」
ポッキーと飲茶楼を買うだけだったのに、さらにオレンジ色のサングラスを追加した。
体の線が細くて気弱そうな店員さんはどこか震えていた。男の子の声は店員さんの
耳にも届いたはずで、一度一瞥した後は決して私と目を合わせようとはしなかっ
た。私は5000円を出すと、いつもは私の手にレシートを乗せてその上にお釣り
を乗せてくるのに、今日は、コンビニでは見たことのない水色のトレイをレジの横
からひっぱりだして、そこにお釣りを置いた。
明らかに私に触れたくないという拒絶の意だった。
「ありがとうございました」
コンビニを出る際、さっきの店員からはそんな声が聞こえた。
怖いくらい中身がなく、虚しい言葉だった。
- 61 名前:11-18 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時24分13秒
- 今一度、携帯電話を握り締めた。そして、買ったばかりのサングラスを私はつけ
る。今までは、ファンが近づかないためにつけていたサングラス。しかし、今は、
私が市井紗耶香だってバレて、逃げてしまわないようにつけたサングラス。
その向こう側に見えるオレンジ色に染められた空と雲は私を襲ってくるようだっ
た。
うっすらと涙が出てきた。家までは5分ちょっとなのに、その小さな距離がすごく
長く感じた。
- 62 名前:11-19 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時25分05秒
- プルルルッ。
握り締めていた携帯電話が鳴った。
私はポッキーと飲茶楼の入ったコンビニ袋を思わず落とす。
見ると…彼の名…。
いよいよだ。
もう一つの目的。
私は通話ボタンを押した。
「もしもし…」
私の口から出た最初の声は頼りない声。ただすがることはしない。
それが私の彼に対する唯一のプライド。
「もしもし…」
彼も同じ。なんて弱々しい声だろう。
ねえ、もっと明るい声出してよ。
心の中でそう思っていても口には出さない。出したとしてもそうはならないことを
直感的に知っている。
- 63 名前:11-20 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時25分48秒
- 「元気?」
「うん、紗耶香は…」
「私は元気だよ」
「テレビ…見たよ」
ねえ、どうしてそんなに暗いの。今私落ち込んでいるんだよ。恋人なら慰めてよ。
「そっか。カッコよかったでしょ?私」
彼は何も言わない。
「自分でテレビ見てね、思わず自分に惚れちゃったよ」
「…」
ねえ、なんで何にも言わないの?何か言ってよ。「良かったよ」って言ってよ。
「…どうして…」
「うん?」
「どうして、隠してたんだ?こんな大事なこと…」
- 64 名前:11-21 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時26分41秒
- どうして…って…。ホントは隠したくなかったんだよ。
話さなきゃってずっと思っていたんだよ。
でも私はずっと怖かったんだ。
彼は怒ってるの?泣いてるの?
どっちにしろ、私の心をぐさっと突き刺すような感情ってことは確かかな?
「…ゴメン…。どうしたらいいかわかんなかったの…」
「俺のほうがわかんないよ!なんだよ、突然!」
言葉に怒気が含まれる。私だけじゃなく自分も卑下しているところがちょっとだけ
嬉しい。そして嬉しい分だけ、余計に哀しい。
「ホントにゴメンね…」
「俺はどうしたらいいんだよ…」
そう言ってから二人に静寂の時が流れる。
彼って優しいんだよね。
だから、言えないんだよね。
私のほうから口にすれば、それで済むんだよね。
「わか…れる…?」
それからさらに時間があった。
「ゴメン…」
- 65 名前:11-22 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時27分18秒
- 私の耳に届いたのはそんな声。聞きなれた「ご」と「め」と「ん」。
3つの字が組み合わさって作られる最悪の言葉。
「だよね〜。こんな病気で、バカな女に付き合う必要なんかないよね〜、ははは」
そんな風に明るく言う口の中に水が入ってきた。
雨が降ってきたのかな?と思った。
でも何かしょっぱい。
「紗耶香…俺は…」
「もう、私の名前なんて言わないでよ。もう電話もかけてこないでよ。あ、そう
だ。言っとくけど、私がフッたんだからね。あとで友達に『俺がフッたんだぜ』な
んて言わないでよね」
「言わないよ…。言うわけないよ…」
「と〜ぜん」
「…うん、ホントにごめん」
「じゃあ、さよなら。あ〜あ、スッキリした」
「…さよ…なら。元気でな…」
- 66 名前:11-23 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時28分04秒
- 彼は私が電話を切るまで、ずっと待っていた。無言の電話が数秒続いた。
私の方から電話を切った。
夢のような1ヶ月。
永遠ってあるもんなんだなぁ、と実感した。
そんな思い出。
二度と味わうことのない思い出。
記憶って残酷だと思った。
振り返れば振り返るたび、楽しい思い出は今の私を壊していく。
繋がっていない携帯電話に向かって私は叫んだ。
「バカヤロー!!!!」
全ての力が抜けたように、ペタリと道路に座りこんだ。凹凸のある地面にジーンズ
を通して膝やすねが触れ、痛かった。
太陽は私をさらけものにするかのように私を照らしていた。
- 67 名前:11-24 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時30分12秒
- 覚束ない足取りで家に帰ると、お母さんが、
「御飯できてるわよ」
と優しく声をかけてきた。私は、少しの怒りと多くの悲しみがミックスされた気持
ちを胸に、
「いいや、お腹すいてない…」
と、あまり感情を表に出さないように努めながら断った。もし出してしまうと、ど
んどん奥底から沸き上がってくるような気がしたからだ。
「だめよ、ちゃんと食べなきゃ。病気の体なんだから自己管理はちゃんとしなさい
とダメよ」
これはお母さんにとっては何気ない一言だったんだろう。
しかし、今の私にとって「病気」という言葉は一段と憎しみを持った言葉になって
いた。
お母さんも同じなんだ。
私が「病気」だから、そんな目で見るんだ。
本当は汚いって思ってるんでしょう?
触りたくないんでしょう?
そうだよ、考えてみればお母さんは変わっちゃったんだ。
一人の人間としては見てくれていないんだ。
- 68 名前:11-25 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時31分05秒
- 「いらないから。部屋にも入ってこないでね…」
抑えつづける感情の一端から誰に向けるでもない「怒り」の感情が顔を覗かせてい
る自分に気付いた。お母さんは気づいたのだろうか。返事がこない。
私はお母さんの目を見ずにそう呟き、自分の部屋に入った。
目の前にあるベッドに体を預けた。小さくダイブしたのでベッドのスプリングが伸
び縮みする。
私はシーツとともに唇を噛みしめた。
- 69 名前:11-26 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時35分59秒
- 私の周りの大切な人が、どんどん私から離れていく。
私という幹に包まれていた家族や仲間という葉っぱが一枚一枚枯れ落ちていく。
残ったのは、細く弱々しい裸になった幹と枝。
亜依ちゃんもこうやって苦しんでいたんだろうね。
きっと、誰も信じられなくなってお母さんすら憎んだこともあったんだろうね。
そんな時に後藤を見たんだ。
後藤という遠い存在が、亜依ちゃんに力を与えてくれたんだ。
私にはいるの?
近所の人も、お母さんもそれにきっとお姉ちゃんも信じられないよ。
誰に勇気づけてもらえればいいの?
誰に私の心のカケラを拾ってもらえばいいの?
- 70 名前:11-27 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時36分37秒
- 私はガバッと頭を上げた。シーツが一緒にめくれあがった。
「モーニング娘。」
昔はいつも私が口にしていた言葉。というか私の存在意義だったもの。
それは私がどんなにけがれても、裏切っても優しく包んでくれる聖母のように感じ
た。そして、その中には仲間がいる。家族と言ってもいいくらいの人たちがいる。
冬の厳しい風が吹きつけても、私という幹にはモーニング娘。という花が咲いてい
る。
彼女たちは私を心から応援してくれている。
後藤がそう言っていた。
後藤だけじゃない。なっちや矢口や圭ちゃんや…。
私が過ごした濃密な2年間。一緒にいたメンバーたち。きっとそれは血縁よりも強
い結びつきを与えてくれた。
「なんだ、簡単じゃん…」
そう思うだけでちょっぴり心が晴れた気がした。
- 71 名前:11-28 市井紗耶香(14) 投稿日:2001年08月24日(金)08時37分33秒
- 私は携帯電話を手に持つ。
後藤にかけようかと思ったが、どこか芸がないなぁと思った。
矢口や圭ちゃんでも同じだ。
今は正月のハロプロの練習がメインだよね…。
「そうだ」
懐かしい名前を携帯電話のアドレス帳から見つけてきた。
- 72 名前: 投稿日:2001年08月24日(金)08時47分17秒
- ここまでです。次回は明日の朝3時以降ぐらいしか余裕がない…。
- 73 名前:11-29 後藤真希(23) 投稿日:2001年08月24日(金)18時31分58秒
- 〜後藤真希〜
市井ちゃんが正月のハロプロライブのダンスレッスンに取り組んでいるスタジオに
やってきたのは数日後のことだった。このスタジオには夏先生と同じく振り付けを
指導してくれるスタッフとモーニングのメンバーがいたが、最初に気付いたのは私
だった。
時間のなさから振付けが上手くいっていなくてピリピリしている時だった。
「市井ちゃん!」
そう名前を呼ぶと、私は市井ちゃんのそばに駆け寄った。
具体的な日時を教えていなかったので驚いた。
というか延ばしのばしにして会わせないつもりだった。
「どうしてわかったの?」
私はタオルで汗を拭った。その汗はダンスで流した汗なのか市井ちゃんの顔を見た
冷や汗なのかわからない。
「なんか後藤は言いたくなさげだったから、夏先生に電話して聞いちゃった」
舌を出しながらそう言うと、市井ちゃんは目線を夏まゆみ先生の方を見て一礼した。
私は恐怖でもってメンバーを見た。
お願いだから、市井ちゃんを悲しむことはしないで。
そう痛切に願ったのは、きっと次の瞬間悲しませてしまう一場面を想像していたか
らだろう。そしてそれが限りなく実際に起こりうるものであることを知っていた。
- 74 名前:11-30 後藤真希(23) 投稿日:2001年08月24日(金)18時33分02秒
- 夏先生は、
「じゃあお昼だし、市井も来たことだし、食事休憩しまーす」
と言うと、夏先生は市井ちゃんと私に駆け寄り、ウィンクした。市井ちゃんもウィ
ンクで返すと、夏先生は部屋から去っていった。
夏先生が消えるのを見て、メンバーは疲れているのかその場にペタッと座りこんだ。
市井ちゃんのそばに駆け寄らないメンバーを見て私は思わず市井ちゃんの顔色を窺
った。
「市井ちゃん…」
心配そうに見つめる私を市井ちゃんは見ようとしなかった。ただ、向こうにいるメ
ンバーの顔をじっと見ている。その距離は果てなく遠く感じた。徐々に顔色が褪せ
ていく市井ちゃんを見た。
私が入院した時の、みんなに告白する直前の時の場面と同じように我先にと駆け寄
ってくるメンバーを想像していたのだろう。予定外の現実に市井ちゃんは戸惑った
ようだ。
- 75 名前:11-31 後藤真希(23) 投稿日:2001年08月24日(金)18時34分13秒
- 市井ちゃんが立つ後ろのドアから、若い男性の人が威勢のよい声とともに弁当を持
ってきた。
「はい、後藤さん」
市井ちゃんに見向きもせずにその男の人は弁当を私に渡した。そんな様子を市井ち
ゃんは立ち尽くしたまま、ただ目だけを弁当に向ける。男の人は、向こうにいて座
っているメンバーに一人一人手渡していく。もう、誰も市井ちゃんを見ている人は
いなかった。
「突然来たから市井ちゃんの分がないんだよ。お腹空いてるなら私のあげるよ。私
お腹空いていないんだ。ちょっとダイエットもしてるし…」
空腹を感じながら私はしどろもどろに言った。
市井ちゃんはやっと私のほうを見る。優しく微笑んでいた。その奥に潜むものを私
は考えないようにした。
「いいから、ちゃんと謝ってくる」
市井ちゃんは私の肩をポンと叩いた。一瞬のことだったが、肩に触れた手は動揺が
表出していた。
- 76 名前:11-32 後藤真希(23) 投稿日:2001年08月24日(金)18時37分14秒
- 市井ちゃんは座りこんでいる裕ちゃんのそばに近寄った。足取りはどんどん重くな
ったのか歩調が遅くなっていくのが目に見えてわかる。
私は市井ちゃんの背中を追った。自信のカケラも見当たらない。
市井ちゃんは裕ちゃんの目の前に立つ。座っている裕ちゃんを見下ろしながら、握
手でも求めるかのように手を差しだすと、裕ちゃんは一度汗ばんだ手を見つめ、す
ぐそらした。
「裕ちゃん、久しぶり」
そう言うと、裕ちゃんはすくっと立ち上がり、遠くにいた矢口の隣りに座った。
「…」
「裕ちゃ…」
無言の市井ちゃん。遠くで見ている私もただ名前をつぶやくしかできない。差しだ
した市井ちゃんの右手は膠着し、虚しく空を掴んでいる。
市井ちゃんはその右手を一度ギュッと握り締め、大きく息をついた。そして前を見
た。今度は圭織に近づこうと一歩足を前に出すと、その瞬間、圭織は立ちあがり、
逃げ去るように市井ちゃんと距離を置いた。
市井ちゃんはそれを見るなり凍りつくように硬直した。
そしてそのままじっと足もとの汗が散見している床に目線を落とした。
- 77 名前:11-33 後藤真希(23) 投稿日:2001年08月24日(金)18時37分52秒
- 「市井ちゃん…」
この私の声は市井ちゃんには届かなかった。こうなることはわかっていたのに止め
られなかった。
押しつぶされそうな空気の中、私は懸命に叫んだ。
「みんな!」
「いいって!」
市井ちゃんが叫びながら立ち上がり、私の方を見て力無く首を横に振った。
「市井ちゃん…」
市井ちゃんは振り返ってメンバーのいる方を見た。
「ねえ、みんなもそうなの?」
誰も声を出さない。それどころか誰一人として市井ちゃんと目を合わせようとはし
なかった。
- 78 名前:11-34 後藤真希(23) 投稿日:2001年08月24日(金)18時39分05秒
- 「そうなんだ…」
市井ちゃんは再びうなだれるように下を見る。しかし、すぐに自分に言い聞かせる
ように首を振り、
「まあ、そうだよね…。当たり前だよね。まだ仲間でいようなんてムシが良すぎる
よね。ははは、何考えてんだろうね、私。こんなにいっぱいみんなを不安にさせ
て、迷惑かけて…。もう、会いになんかこないから一言言わせて。私、みんなに会
えてホントに良かった。ホントにホントに楽しかった。ありがと。…さよなら」
誰も何も言わなかった。
市井ちゃんは突然、ぱっと振り返って扉の方に走り出そうとした。
そこには立ち尽くしている私がいて、目が合う。
「市井ちゃん…」
「…」
「違うんだって…これは…」
市井ちゃんは首を横に何回か振って、かすれた声で、
「後藤には誰よりも迷惑かけちゃったね…。ずっと嘘までつかせたりして。ごめん
ね。ホント、私ってバカだ。ごめんね」
私は何も言えなかった。
「そんなことない!」と心の中で何度も叫んだが口にまでは出せなかった。
- 79 名前:11-35 後藤真希(23) 投稿日:2001年08月24日(金)18時40分07秒
- 市井ちゃんは部屋を飛び出した。
バタバタとした市井ちゃんの足音が少しずつ遠ざかる。
「さて、練習続けますか?」
みんなの弁当の大半が余っている中、裕ちゃんが沈黙を破り重そうに腰を上げた。
それを聞いて、私は怒りこみあげた。
「ねえ、なんでよ!?なんでそうやって―――」
邪魔するように遠くからドスン!という音が聞こえた。
私を含めて、その場にいる人たちが音の聞こえた先を反射的に見た。
直感があった。
「市井ちゃん!!」
私はスタジオを飛び出した。
- 80 名前:11-36 後藤真希(23) 投稿日:2001年08月24日(金)18時42分10秒
- 階段の2階と3階の間で市井ちゃんは倒れていた。
膝から血が流れていた。ドクドクと音を立てて冷たいねずみ色の床を赤く染めて
いく。一向に止まる気配を見せなかった。
「市井ちゃん、大丈夫!?」
市井ちゃんの傍に近寄ろうとしたら、市井ちゃんは、
「近寄らないで!」
と叫んだ。
「でも、ケガ…」
「近寄ったら感染するから」
そうだ、傷口からバイ菌が入ったら…大変なことになる!
「誰か!誰か助けて!!」
全身の力を振り絞って大声をあげた。
救急車はしばらくしてやってきたが、そこでも一悶着あった。
HIV感染者を受け入れる病院を探すのにかなりの時間を要したのだ。
その間、市井ちゃんはもうどうでもいい、といった感じで、ずっと虚ろな目をし
ていた。
- 81 名前:11-37 後藤真希(23) 投稿日:2001年08月24日(金)18時43分36秒
- 救急車に運ばれた後、市井ちゃんがケガをした床にはたくさんの血がついていた。
固まってはいなくて、今もどんどん広がっている。どこか意志を持っているようで
ぞっとした。
「どうするのよ、これ?」
「私、ダメ。傷があるから…」
「そんなこと言って逃げないでよ。ホントは傷なんかないくせに」
「でも私はヤだからね」
- 82 名前:11-38 後藤真希(23) 投稿日:2001年08月24日(金)18時44分47秒
- そんな声が集まった人の間から聞こえた。
「私が…やるから…」
雑巾とほうきとちりとりを持ってきてはいたがためらっていたおばちゃんに雑巾を
借りて、必死で拭いた。
一歩離れたところで私をずっと見ていたメンバーやビルの関係者の中から、小さな
声が私の耳に確実に届いた。
「偽善者」
私の動きがピタリと止まる。こだまのように何回も何回も頭の中で響く。
そうかもしれない。
私は偽善者かもしれない。
私は他の人とは違う。
市井ちゃんを他の誰よりも誰よりも心配している。
- 83 名前:11-39 後藤真希(23) 投稿日:2001年08月24日(金)18時48分13秒
- そう思いたいだけなのかもしれない。
自分に酔いたいだけなのかもしれない。
今まで、私は市井ちゃんに何をしてあげられたのだろう。
「市井ちゃんの為」と思ってやっていたことでどれだけ市井ちゃんは報われたのだ
ろう?
なんで、さっき「そんなことない!」って言えなかったのだろう?
心のどこかで、「そうだよ」って思っていたのかもしれない。
結局、私はそういう人間なのかもしれない。
市井ちゃんなんかどうでもいいただの偽善者。
ポタポタと市井ちゃんの血の上に涙が落ちた。
血に吸収されるように涙が赤く染まっていく。
どうやったら「偽善」じゃなくなるの?
市井ちゃんの為に…って胸を張って言えるの?
自問自答しながら、むせび泣いた。
ふと、前に影が覆った。
- 84 名前:11-40 後藤真希(23) 投稿日:2001年08月24日(金)18時48分53秒
- 見上げると雑巾を手にした圭ちゃんが血を拭いていた。
「圭ちゃん…」
「何やってんのよ。固まったら後で大変なんだからね」
「……」
「早くやろ」
「……うん…」
圭ちゃんと仕事以外で話したのは久しぶりだった。
- 85 名前:訂正 投稿日:2001年08月24日(金)18時51分03秒
- 11-38 最後の行 「誰よりも」は2つもいりません。すみません。
- 86 名前: 投稿日:2001年08月24日(金)18時55分10秒
- ということで、少し時間ができたので更新。11章はもうちょっとあります。
次回は明日の朝5時前後かそれが無理なら月曜日になります。
どれだけいるかわからないけど読んでくれてる方、ごめんなさい。
- 87 名前:プッチ・モニスト 投稿日:2001年08月24日(金)19時43分19秒
- すごい楽しみに読んでます。痛い系好みなんで。
こういうのを読むと、自分の書く自信がどんどんなくなっていく。
- 88 名前:名無しさん 投稿日:2001年08月25日(土)04時06分01秒
- 今回のはかなり効きました。
もう、KO寸前です。
それにしてもメンバーの態度ひどすぎ。フィクションなのに腹が立つ(w
- 89 名前:名無しさん 投稿日:2001年08月25日(土)14時36分41秒
- 88さんに同感です。
今後、裕ちゃんを素直な気持ちで応援できるだろうか・・・(w
しかし、痛い話って、旧メンは大体悪者だね。まあ普段のイメージもそうなんだけど
- 90 名前:名無しさん 投稿日:2001年08月25日(土)19時25分32秒
- すげぇ感動です。
この話だけで夏休みの宿題の作文書けそうです(w
- 91 名前: 投稿日:2001年08月27日(月)17時40分17秒
- いろいろあったみたいですね。
オーディションを今見てますがそれよりも狼羊が一時閉鎖の方がショック…。
この小説ですが、旧メンというより市井後藤以外は悪者ですね。すみません。
- 92 名前:11-41 市井紗耶香(15) 投稿日:2001年08月27日(月)18時04分33秒
- 〜市井紗耶香〜
私はバカだ。
大バカだ。
どうしようもないアンポンタンだ。
冷たい涙を流しながら何度もつぶやいた。
そんなの当たり前じゃん。
みんなだって私のこと嫌ってるに決まってるじゃん。
病気になって、心配させて、迷惑かけて、それなのに勝手にカミングアウトして、
また迷惑かけて。
こんな私をそれでもわかってくれるだなんて、思い上がりもいいとこだ。
- 93 名前:11-42 市井紗耶香(15) 投稿日:2001年08月27日(月)18時05分22秒
- 後藤はずっとウソをついていたんだ。
多分、私がメンバーにカミングアウトしてからずっと。
冷静に考えれば、本当に心配しているんだったら、後藤みたいに、「大丈夫?」っ
て連絡とかくれるはず。見舞いにだって暇を見つけては来てくれるはず。
それなのに、何の音沙汰もなかったんだよ。
心配の声一つもかけてくれていなかったんだよ。
どこから、メンバーは大丈夫なんて思ったんだろう?
後藤の話を全て鵜呑みにして、みんなも「心配してる」だなんて思ってくれてると
思い込んでしまっていた。
バカだ。
大バカだ。
冬にたった一つだけ咲く花なんてあるワケないのに…。
- 94 名前:11-43 市井紗耶香(15) 投稿日:2001年08月27日(月)18時07分02秒
- 何度も何度も私は自嘲した。無我夢中で私は意味なく走り、その結果、私は階段を
転げおち、足を怪我して病院に運ばれた。
救急車の中、きっと私がHIV感染者だということを知っていたのだろう。
救急隊員の戸惑った顔が印象的だった。
きっと、私の顔を見た人全てがこんな感じになっちゃうんだ。
その後、笑顔を見せても遅いんだ。
私には見えるんだよ。
その顔の裏側ではどっか引きつっちゃってるってことを。
もう私は特別な人なんだ。
私に出会うとみんな暗くなっちゃうんだ。
早くどっか行かないかなぁとか思っているんだ。
後藤?
後藤だって同じなんだよね。
そういえば、HIVに感染したって聞いた時、呆然と立ち尽くしていたんだよね。
何だ、私って…とっくの昔から…、
「ひとりぼっちじゃん…」
私はピーポーというサイレンが頭上から聞こえている中、そうつぶやいた。
「どうしたの?」
救急隊員が心配そうに問いかけたが、反応せずに窓の向こうに見える白い空を眺め
ていた。
- 95 名前:11-44 後藤真希(24) 投稿日:2001年08月27日(月)18時11分37秒
〜後藤真希〜
私は市井ちゃんのいる病院に向かった。ずっともやもやしたものを抱えていて、花
とかそういったお見舞い道具を買うのを忘れた。
市井ちゃんの傷は大したことはないらしい。それに感染の心配もないらしくて、そ
う聞かされた時はすごくほっとした。
「これで一安心だね」
「急いで来ちゃったもんだからお花を買うの忘れちゃった」
「結構、みんな心配してたよ」
私の言うことに市井ちゃんは全く耳を傾けなかった。
私の言葉とは関係なく、市井ちゃんは口を開いた。
「もう…どうだっていいよ…」
- 96 名前:11-45 後藤真希(24) 投稿日:2001年08月27日(月)18時13分09秒
- 全てを…生きる意志さえも放棄したような吐き捨てた声が重く耳に届いた。
「そ、そんなこと言わないで!市井ちゃんはあんなにかっこよくてすっごく勇気を
くれて…そうだ、あんな記者会見しちゃったんだよ。あれでたくさんの人の同じこ
とで苦しんでいる人に勇気を与えたんだから!弱気になんかならないでよ!」
「じゃあ、その『たくさんの人』ってどこにいるのよ!連れてきてよ」
「え?」
「早く!今すぐにここに連れてきてよ!!」
市井ちゃんは2回ベッドを思い切り叩いた。
「そんな…」
「少なくとも、私の周りにはいないよ…。テレビとかそんなところでは『感動し
た』とか言ってくれてて『私も頑張んなきゃ』って思った。でもね、ごく身近な…
隣りのおばさんとか近くのコンビニの店員さんとか、公園で遊んでる小さな子供と
一緒の若いお母さんとか、私の親戚とか、それに、メンバーのみんなだって、みん
なみんな私のこと白い目で見るんだ!どこに私のことを認めて、応援してくれる人
がいるっつーの?いないじゃない!どっか遠いところで私のこと『応援してる』と
か言ってくれたって意味なんかないの!きっとそんな人も私が近づくときっと私を
避けちゃう。そんなもんよ!」
市井ちゃんは点滴を振り払って暴れた。
「そんなことない!みんな市井ちゃんが治るのを信じてる。願ってる!」
私は必死で市井ちゃんの両腕をつかまえた。
ハッとした。
腕が細くて軽くて、骨の感触はわずかしかなかったのだ。
- 97 名前:11-46 後藤真希(24) 投稿日:2001年08月27日(月)18時16分19秒
- 私につかまえられ、市井ちゃんは少し落ち着いた。
「ごめん…」
ちょっと暴れただけなのに市井ちゃんはひどく息を乱していた。汗も異常に浮いて
いる。2、3度意図的に大きく息を吸った後にゆっくりとつぶやきはじめた。
「後藤には感謝してるよ。後藤のおかげで、いっぱいいっぱい救われた。何回もこ
のまま生きていこうって思った。ホントありがとう…」
「そうだよ、市井ちゃんは生きて生きて――」
「私ね、恋人ができたんだ…」
私の言葉に耳を傾けることなく市井ちゃんが口を挟んだ。亜依ちゃんを思い出し
た。しかし、市井ちゃんの口から聞いたのは初めてだったので、動揺が顔に出た。
「脱退してしばらくしてから…。すっごく好きだった、で…」
間が空いた。
逃げたいくらいの重い雰囲気が私を襲う。
「…別れちゃった。記者会見見て、彼から電話かかってきて、『別れよう』って」
自虐的な笑顔が市井ちゃんを包む。
「…」
「まだ、そんなに深い仲じゃなかったんだけどね。でもいずれはそうなるだろう
し。その前にちゃんと言わなくちゃって思ってて。でも面と向かって言えなく
て…。ホントのこと言うと会見したのも彼のためだったんだ。私って臆病だから、
ね。だから私は全然ヒーローなんかじゃないの」
- 98 名前:11-47 後藤真希(24) 投稿日:2001年08月27日(月)18時17分03秒
- 私は複雑だった。動揺が市井ちゃんの直視を避けさせた。
市井ちゃんが恋を告白したこと。
苦しみながら別れたこと。
カミングアウトの理由。
この動揺はどれに対してなんだろう?
「半分、諦めていたけどね。やっぱりつらかった。あ、『別れよう』って言ったの
は私のほうからなんだよ。それでも『別れたくない』って言ってほしかった。逆に
彼は『別れよう』って言われて、ほっとしてた。私は、ただ意地になって笑うしか
なくて…」
- 99 名前:11-48 後藤真希(24) 投稿日:2001年08月27日(月)18時21分41秒
- 「だからって全ての人が…だなんて思わないでよ。きっと理解してくれるいい人が
見つかるから…」
オロオロしながらも私は浮かんでくる数少ない言葉を懸命に拾い集めて言った。し
かし、市井ちゃんを立ち直せるほど強い言葉を出せるとは思えなかった。
「それに、あの会見で勇気づけられた人がいるってのは確かだよ。だからね…」
物憂げに私を見つめる市井ちゃん。その目には何の力もなくて、生きる意志のない
抜け殻の人間と話しているようだ。市井ちゃんは、俯いたあと、ぼそぼそと語りは
じめた。
「後藤の言う通り、あの会見で病気で苦しんでる人とかに勇気を与えたのかもしれ
ない。そうして、立ち直って、『これは神様がくれた試練なんだ』とか思ったり、
病気になったおかげで周りの人とか恋人とかの絆がより一層強くなって幸せになっ
たりするかもしれない。私もずっとそうなれるもんだと思ってた。私が頑張ればい
つかそう思う日がくるはずって思ってた。でもね、それってごく一部の人なんだ
よ。大抵の人はどんなに頑張っても無駄なの。もし、人はつらいことを経験しない
と強くなれないんだったら、私はつらい目になんか遭いたくない。一生小さい人間
で構わない。病気さえ…エイズウィルスさえこの世からなくなってくれるんだった
ら友達も家族も恋人もいらない」
「市井ちゃん…」
「いらないから…」
- 100 名前:11-49 後藤真希(24) 投稿日:2001年08月27日(月)18時25分04秒
- 私は納得させられた。
悲痛すぎる告白は何度も何度も頭の中をこだました。
まるで心細くなった子供が泣いているような、情けない呪文になって頭の中で繰り
返された。
そして、さっきつかんだ細い手の感触が忘れられなかった。
ガサガサとした肌のすぐ先には骨があった。もう少し強く握るとポキリと折れてし
まいそうな…そんな虚しい感触。
私が大好きな温かくて柔らかい腕はもう面影すら残っていない。
- 101 名前:11-50 後藤真希(24) 投稿日:2001年08月27日(月)18時27分29秒
- 市井ちゃんは今、私のことをどう見ているのだろう。
もし、自分がいなければ、全てが充実してて、悩みなんてなくて、幸せいっぱい
で…不幸な自分とは全く対照的で…と思っているんだろうか。
HIVは単なる病気じゃない。
本来は数多くの病の一つにすぎないのに、「感染経路」の偏見と「感染」というキ
ーワードゆえに病気を憎むのではなく、その病気を被った人自体が「悪」とされる。
感染者はウィルスというものの他に、差別や偏見と闘わなければならない。肉体よ
りも精神がまず蝕まれていく。
私が市井ちゃんの為にできることなんてないと思った。
何かやったとしてもそれは結局、「私は市井ちゃんに比べて幸せなんだ」って主張
しているだけのように見えた。
帰路の風は冷たすぎた。
単に12月だからという理由だけではないだろう。
- 102 名前: 投稿日:2001年08月27日(月)18時34分43秒
- 11-45 で訂正。「今までに」→「今まで」。「言ってくれてて」→「言ってくれて」
11章はあと一回です。出かけて帰ってきてから更新します。
- 103 名前:うさぴょん 投稿日:2001年08月27日(月)23時55分29秒
- ホントこの話大好きなんです!!
アタシ今までここまで感情移入できる話に出会った事なくて・・・
頑張ってください。楽しみにしてます。
- 104 名前: 投稿日:2001年08月28日(火)00時56分34秒
- もう一つ訂正。11-49 「細い手」→「細い腕」。注意力散漫すぎです。
- 105 名前:11-51 後藤真希(25) 投稿日:2001年08月28日(火)01時10分38秒
- 〜後藤真希〜
「ずっとずっと悩んでた」
次の日、圭ちゃんと私は圭ちゃんの家の近所の公園で会った。
「私にとって紗耶香って何なの?って」
ちょっとした海に面していて、潮風のベタベタした感じが肌と髪にまとわりつく。
枯れた木立がその風によって削がれてしまったのか、骨のように薄暗いシルエット
を作り、空に映える。
市井ちゃんの腕や体に見立てたりなんてしてしまって、すぐさま後悔を覚える。
「ねえ、後藤。後藤は紗耶香がエイズだって聞かされてどう思った?」
海の遥か遠くの水平線を見ながら話しはじめた圭ちゃんは膝下まである長めの緑色
のスカートを体に巻きつけながら私の方を振り向いた。
「どうって…」
「正直に言ってほしい」
「ショックだった。市井ちゃん死んじゃうって思った。でもその後、私も感染して
るんじゃないかって思って、そして…」
- 106 名前:11-52 後藤真希(25) 投稿日:2001年08月28日(火)01時11分22秒
- 間を置いた。
でもなんとなく吐き出したかった。
きっとそれは事実だから。
「市井ちゃんを恨んだ」
「感染」というキーワードが私の脳裏を駆け抜けた時、悪寒がした。そして、その
中には市井ちゃんへの憎悪が少なからず入っていた。その後だってそう。裕ちゃん
ややぐっちゃんみたいにその感情を口に出したり顔に出したりはしなかったけれど
も、きっと、いや、絶対そう思っていた。
- 107 名前:11-53 後藤真希(25) 投稿日:2001年08月28日(火)01時13分31秒
- 「私もそう」
圭ちゃんが口を開き、潮風で錆び付いた手すりに寄りかかりながら上を向いた。低
くたちこめた雲が左から右へ動く。
「『なんで、私がこんなに不安にならなきゃなんないのよ!』って思って、紗耶香
を憎んだ。そしたら『紗耶香の為に』なんて何をやっても無駄だと思った。だか
らず〜っと逃げてた…」
「圭ちゃん…」
圭ちゃんの目に涙が溜まっていた。夕日に反射して、光っていた。
「あ〜、もう私って何て弱いんだろう。どんなに紗耶香のことを考えたって、例え
ば、紗耶香に面と向って『力になるから』って言ったって、どっかで紗耶香とは距
離を置くような気がして。そしたら何にもできなくなっちゃった。バカだよね、
私…」
「それは…それは私も同じだよ。そんな自分の卑しい気持ちを見せたくなくて、必
死で一人で恐怖と闘っていたんだと思う」
でもそれは、市井ちゃんの味わってきた恐怖と比べたら全然大したことないのに。
- 108 名前:11-54 後藤真希(25) 投稿日:2001年08月28日(火)01時24分49秒
「後藤は学校でHIVがどんな病気か、みたいなビデオ見たことある?」
「うん…小六の時に…確か…」
言われておぼろげに思い出す。クラスメイトと質の悪さを笑いながら、その意義を
考えることもなくほとんど興味本位で見ていたような記憶がある。
「私も中三の時にね、HIVに感染した人のドラマを見せられたの。感染した人の
周りが最初のほうはずっとその人のことを避けてて、悪者扱いしていたから、そう
いう人たちがすっごく悪者に見えた。で、結局、みんなでHIVと闘っていこうっ
ていう風に終わるんだけど、そのドラマってすっごくチープな作りをしていて出演
者なんかみんなイモみたいな演技しかしてないのにね、そのビデオを見た時、すっ
ごく感動して、涙が出てきそうになって…でも恥ずかしくて必死でこらえてたのを
覚えてる。私ね、それ見て思ったの。『そういう子がいたら迷わずに助けたい』っ
て」
- 109 名前:11-55 後藤真希(25) 投稿日:2001年08月28日(火)01時29分43秒
- 埋もれていた記憶が鮮明に甦ってきた。確かに最初は無関心にただ時間つぶしとば
かりに見ていた。しかし、時間が過ぎるにつれ、その内容に感動して急にHIVが
身近に感じた。泣くなんて恥ずかしいことだと思っていたから圭ちゃんと同じよう
に必死でこらえた。でも、体の中は温かいものが流れているのを感じていた。
友達だったら助けたいって。恋人だったら変わらずに愛していたいって。
素直に思った。
だけど、現実は…。
「実際、直面すると、私はその場から逃げ出したんだよね。検査行く時、なんか私
がすごく悪いことをしたみたいで、そんな目に遭わせた紗耶香を憎んだ」
圭ちゃんが言った。
私も圭ちゃんも、理想と現実の自分の気持ちの違いに戸惑っている。
ちょっとした憎しみを固めることでしか自分を支えられなくなった。
「紗耶香はずっと私たちが感染していないことを願っていたんだよね。だから、憎
まれることを承知で早めに告知して…。だけど、私たちはそんな紗耶香の気持ちを
理解することなく自分のことばかり考えてた」
「うん、私も…」
なんて私は弱い人間なんだろう。
- 110 名前:11-56 後藤真希(25) 投稿日:2001年08月28日(火)01時31分56秒
- 「ねえ、圭ちゃん…」
「うん?」
「何をしたらいいのかな?市井ちゃんの為に私たちがやれることってあるのかな?
どうやったら市井ちゃんと一緒に闘えるの?」
きっとその答えを見つからずに今まできた。
「やっぱり、私も感染しないとダメなのかな?」
亜依ちゃんみたいに…。
圭ちゃんは驚きまじりにパッと私を見た。猫のような目をした強い瞳に戸惑いなが
ら私は続ける。
「ただ隣りにいるだけなら何にもならない。例えば自分が同じ病気だったらって考
えるのは違うと思う。それは単なる同情だから。きっと私が感染すれば痛みを分か
ち合うことができると思うけど…。そうでもしなきゃ、他にやることなんてないん
じゃないかって…」
圭ちゃんは大きく首を横に振る。
- 111 名前:11-57 後藤真希(25) 投稿日:2001年08月28日(火)01時36分32秒
- 「ねえ後藤。例えば、映画かなんかで、悩んでいる人がいてその人を慰めようとし
たら、『あなたなんかに私の気持ちなんて分からない』っていうセリフ、よくある
でしょ?で、大抵『わかるよ。私もそういう経験あるから』ってことになって、そ
の悩んでいる人の心が開いていくっていう話がよくあるけど、私そういうやりとり
を見てて、いっつも疑問に思ってたの」
圭ちゃんは半歩私に歩み寄る。私が無意識にうなずくと再び口を開いた。
「じゃあ、同じ悩みを経験してない限りその人を救うことができないのか?って。
事故で愛する人を亡くした人は幸せな結婚生活を送っている人では助けられない
の?片腕を失っちゃった人に対して五体満足の人は、その人と同じ目の高さで接す
ることができないの?って。それは違うと思う。誰かを助けるために、自分も同じ
痛みを味わって、『不幸だね』って言わなければ、その誰かを救えないんだった
ら、誰とも付き合わずに一人で生きていく方がよっぽどいいよ」
- 112 名前:11-58 後藤真希(25) 投稿日:2001年08月28日(火)01時37分11秒
- 圭ちゃんの目は潤みっぱなしだった。ベトベトした潮風が幾度となくその目に光る
涙を運んでいたが、それでも涙は止まる様子はなかった。
「だから、探そう。一つでも私たちがやれることを。きっとあるハズだから…」
「うん…」
市井ちゃんが大好き。
そんな気持ちがある限り、私は負けない。負けたくない。
それから二日後、市井ちゃんはエイズを発症した。
- 113 名前:11-59 後藤真希(25) 投稿日:2001年08月28日(火)01時39分01秒
- 肺炎だった。
駆けつけた時、いろんな機械が市井ちゃんを取り巻いていた。もう、自分の体だけ
では生きていけないと思わせるような光景だった。
気持ち悪いくらいウィルスを減らす薬も免疫力を高める薬もたくさん飲んでいたは
ずだ。もちろん、肺炎の薬も飲んでいたはず。
それでも発症した。
- 114 名前:11-60 後藤真希(25) 投稿日:2001年08月28日(火)01時39分59秒
- 「何で…」
感覚がなくなるほど唇を噛みしめる。私に弱々しい微笑みを見せる市井ちゃんには
もう生きる意志が見えなくて、でも私は「大丈夫だよ、元気出して」だなんて根拠
のない言葉を市井ちゃんにかけることはできなかった。
それはタイミングを考えると、私たちが一つの原因であると思わずにはいられなか
ったからだ。
市井ちゃんも精神から壊れてしまったのだと。
壊してしまったのだと。
また一つ絶望を感じた。
これから、どんどん、市井ちゃんの体は悪くなっていく。
今よりもっともっと苦しんで、そして…。
私はそんな否定的観測を前に首を横に振った。
- 115 名前:第11章 終 投稿日:2001年08月28日(火)01時41分11秒
- 第11章 冬の枯れた木立 〜lies and truth〜
- 116 名前: 投稿日:2001年08月28日(火)01時47分58秒
- 最近小言が多い作者です。この辺は結構感情を込めて書いてるのでつい何か言いたくて…。
11章は「のように」をカット(意味なし)。
章が終わったので上げさせてもらいました。
次回は明日のこの時間ぐらいかな。
12章は40レスぐらい。
第12章 二人の逃亡者 〜tomorrow never knows〜
- 117 名前:名無しさん 投稿日:2001年08月28日(火)04時03分23秒
- ついにこの時が来てしまった……。
- 118 名前:12-1 市井紗耶香(16) 投稿日:2001年08月29日(水)09時34分54秒
〜市井紗耶香〜
年が明けた。
世間は新世紀の到来でにぎわう中、病院だけはいつもと変わらぬ様相。
いや、同じなのは病院じゃなくて私の病室だけなのかもしれない。外には出なかっ
たからわからない。
テレビもほとんど見なかったけど、紅白歌合戦だけは見た。
「去年の今頃はあそこにいたんだよね」
「確か、脱退するかしないかで悩みはじめた頃だったんだよね」
そう呟いてから、最近一人言が多いなぁ、と思った。
つい思ったことが口に出てしまう。
後藤や他のメンバーがいる。途中からハロプロメンバーが集まって、NHKホール
が私の”友達”で埋め尽くされる。
「友達か…」
きっと一方通行の友達だったんだよね。
- 119 名前:12-2 市井紗耶香(16) 投稿日:2001年08月29日(水)09時36分01秒
- 大晦日は私の誕生日でもある。
「お誕生日おめでとうメール」とかは来なかった、と思う。
電源は切っていた。病院だからなんだけど、そういう理由を付けられることでほっ
としている自分がいた。
誕生日に待っているのに全く鳴らない携帯電話。想像するだけで惨めすぎてゾッと
する。
当然、年末にかけて見舞いに来る人は家族以外にいなかった。それも、年末は忙し
いからね、なんて自分を納得させていた。
「ファンレター来てるわよ」
お母さんは両手に一杯の手紙を抱え、その横でお姉ちゃんがカラフルで綺麗に並べ
られた千羽鶴を持っていた。
「ありがと…」
私とは無関係の人たちからの手紙。多分、その人たちは無責任な応援なんだ。
だから、喜ぶなんてできなかった。
一通たりとも封を開けることはなかった。
- 120 名前:12-3 市井紗耶香(16) 投稿日:2001年08月29日(水)09時37分00秒
- エイズ発症者となってから1週間とちょっと。
進んでしまった病状を私はあまり戸惑いもなく受け入れた。
もう大分前から運命を感じていたんだろう。
鼻や手につけられたチューブたち。
持ち込んでいた携帯の鏡でその顔を見たんだけど、「生かされている」という気が
した。もう、自分の力では生きていけない体になったんだと実感した。
右の手をギュッと握り締める。力が入らなくて悔しい。
その手を開くことさえ疲れる。
「情けないよなあ」
動くのにも億劫になった中、口だけがささやかな抵抗を示す。
カミングアウトしたばっかりなのに。
「負けません」って言ったばかりなのに、いきなりノックアウトされちゃったよ。
頭の中で死へのカウントダウンが聞こえてくる。起き上がろうなんて思わない。
- 121 名前:12-4 市井紗耶香(16) 投稿日:2001年08月29日(水)09時40分18秒
- 「バカだ。私ってバカだ」
何で、カミングアウトなんてしたんだろう?
彼の為?
こうなることぐらいわかっていたじゃん。手紙でも送って、「別れよう」
と一言添えとけば良かったんじゃん。
亜依ちゃんの為?
よ〜く考えると亜依ちゃんはそんなこと何にも望んでなかったん
だよね。亜依ちゃんの為だなんて責任を押し付けたような言葉だ。
自分の為?
何言ってんのよ。今、こんな状況のくせに…。
「ふーっ…」
大きく一つ息をつく。その呼吸すらどこか穴が開いているようで乱れていた。
顔を横に向けると、カーテンの空いた窓があり弱々しい光があった。雨が少し降っ
ていて、落ちまいとかろうじて絶えている茶色の葉っぱを打ちつけている。
「もう桜は見れないかもね…」
ちょっとだけ文学的なことを言って、私は自分を嘆く。
いや、桜だけじゃない。
もうこの飽き飽きした景色以外は見られないかもね。
- 122 名前:12-5 市井紗耶香(16) 投稿日:2001年08月29日(水)09時42分36秒
- いつの間にか眠っていた。夢を見ていたことに気付くけど、どこからが夢なのかは
わからない。つい1週間前の夢だったから仕方がないが、その1週間前のことすら
記憶が曖昧で、今見た夢が着色されているかどうかはわからなかった。
病室を見回すと、千羽鶴だけが浮いていて、あとは真白を通り越して透明に見えた。
何も変わらない。かろうじて変わるのは窓枠に映り、それがテレビのように見え
る、触れることのできない外の風景。
そんな一人だけで時間が止まった世界に佇むことがたまらなく嫌になった。
「このまま朽ち果てていくんだろうなぁ…」
私は何のために生を受けたんだろう。
自分の言ったことの全てを中途半端に投げ出して、その命を果てようとしている。
こんな人間みたいにならないようにね、なんて後世に伝えるのが理由だったりして…。
- 123 名前:12-6 市井紗耶香(16) 投稿日:2001年08月29日(水)09時45分03秒
- だとしたら、神様が憎い。
天国なんて行けなくてもいいから、「神様のバカやろう!」と叫びたい。
少しは驚くかな?
そうだ。
どうせならとことんやろう。
とことん神様に逆らって、胸を張りながら「地獄に行きます」って言ってやろう。
目に見えない存在を前に、私は体を起こした。
久しぶりに自分で動かしたような気がする手、足、胸、頭。
人一倍重力をしょっているような体を口で「動け」と言いながら懸命に動かす。
すると不思議なものでどんどん倦怠感がなくなった。
生きる意志みたいなものが全身に吹き込まれた。
もちろんこれは「風前の灯」のようなものなんだろう。
「ははは、敵って大事だね」
こういうことでしか意志を持てない自分をまた嘲る。
「お母さん、お姉ちゃん、看護婦さん、先生ごめんなさい」
「私の最後の願い、叶えさせてください」
そう乱雑に書いた紙を枕もとにおいて、私は病院を抜け出した。
- 124 名前: 投稿日:2001年08月29日(水)09時46分54秒
- 名前欄の”市井紗耶香(16)”とかの数字って年齢みたいだな、と思いつつ更新。
- 125 名前:名無しさん 投稿日:2001年08月30日(木)00時09分44秒
- 確かに年齢みたいですね。
と思いつつ更新待ち。
- 126 名前:12-7 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)01時06分56秒
〜後藤真希〜
「今日も疲れたねぇ〜」
裕ちゃんがおばちゃんぽく腰をトントンと叩きながら言った。
年が明けて、ハロプロライブがあった。
圭ちゃんが2日間休むというハプニングがあったけど、他は今まで通りだった。
本当はライブって楽しい。
テレビのバラエティ番組みたい「何かに面白いことを言わなきゃいけない」と考え
たり、歌番組みたいにいろいろ周りに気を使いながらしたりとかせずに、ただその
場のノリだけで、突っ走れるので私は好きだ。
- 127 名前:12-8 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)01時09分38秒
- それでも…。
あれから何も変わっていない。
淡々と「仕事」をこなしていく。
私たちは何も変わらなくていいの?
どうして、今までと同じように普通にいられるの?
市井ちゃんのこと、忘れたの?
踊りながらチラチラ見るメンバーはそんな葛藤を微塵も見せない。それが私の苛立
ちを増していく。
こんなに面白くないライブは初めてだった。
「今日こそは言ってやる」なんて思った。
私たちは専用バスでライブ会場を離れ、事務所のある一室に入った。
マネージャーの言葉のあと、裕ちゃんが
「じゃあ、明日あさって休んでまたしあさって!」
と満面の笑みを浮かべながら締めの言葉を言うと、どっと開放感が生まれた。
- 128 名前:12-9 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)01時11分09秒
- 「じゃ、帰りま〜す」
裕ちゃんの言葉のあと、すぐによっすぃーは言った。
「おつかれ、早いじゃんよっすぃー。どっか行くの?デート?」
やぐっちゃんがよっすぃーに絡む。
「そんなんじゃありませんよ」
「私も帰ります。よっすぃーちょっと待って」
梨華ちゃんが言った。
「ん?二人揃ってどっか行くの?どこだ〜?怪しいなぁ」
「あのね…。変なこと言わないでくださいよ」
よっすぃーと梨華ちゃんは誰よりも帰り支度を早く進め、さっさとその場を離れ
る。そそくさと帰っていった。
「ホント、怪しいよね〜」
やぐっちゃんが疑惑の目をしながら楽しそうに圭ちゃんに向かって言っていた。
- 129 名前:12-10 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)01時12分47秒
- 「よっすぃーってさあ、成長してるよね?」
圭織がよっすぃーが出ていった扉をボーッと見ながら呟いた。
「何カオリ。突然?よっすぃーに惚れたか?」
「変なこと言わないでよ。でも、身長伸びてない?なんか目の高さが変わったよう
な気がして…」
「な〜んだ。そっちの成長?矢口にはどっちにしろ目の高さは上だからよくわかん
ないや。まあ、カオリにとっては嬉しいんだよね。浮いちゃわなくて済むもんね」
「うーん、そうだね。髪型変えてみるかな?」
やぐっちゃんは圭織とは付き合いが長いので繋がらない会話もさらりと受け流す。
「へえ、髪切るの?それとも前みたいにパーマ?」
「茶髪にしようかな?」
「うわっ、マジで!?ファン減るよ〜」
「カオリのファンはそんなことで辞めたりしないよ」
あんまり根拠のない自信のもと、「よしっ!明日切ってこよう!」と気合をこめて
いた。
染めてこようじゃないのかよ?と突っ込む人はいなかった。
ともかくメンバーは明日という休日へ向ける開放感でいっぱいだった。
- 130 名前:12-11 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)01時15分15秒
- そんなのんびりとした空気にも私の心は決して冷えない。
Hな漫画を読む人。金色の髪を整える人。モノマネをし合いながらじゃれ合う人。
計画通りに帰る人。交信している人。
まったりとした雰囲気。
全てに腹が立つ。
「ねえ、みんな!」
残っているメンバーに叫んだ。ホントのことを言うとよっすぃーや梨華ちゃんにも
居てほしかったんだけど、タイミングを逸したので仕方がない。
メンバーは部屋に残って思い思いの行動をしている。私の声に振り返る人などいない。
「ねえってば!!」
私はもう一度怒鳴った。
人数の割には小さな部屋だったので、その声は四方の壁に何回か反射して、自分の
耳にもかなり大きく届いた。
「な、何?」
一番近くにいたなっちが耳を押さえながら聞く。
他のメンバーも少し戸惑い、疲れからか少しイラつきながら私の方に目を向けた。
- 131 名前:12-12 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)01時17分06秒
- 「ねえ、このままでいいの?」
「どうして、平気でいられるの?」
私は胸をドンと叩いて、自分は「そうじゃない」と主張した。
「平気って何さ?」
そう聞くなっちの隣りで、裕ちゃんが、
「やめとけってなっち。どうせ紗耶香のことやろ?」
少し吐き捨てる感じで言った。見ていた漫画の上から目を覗かせて私を睨んだ。
「分かってるなら、なんで…」
意外だった。裕ちゃんから先に市井ちゃんの名前が出るとは思っていなかったからだ。
「何でって私らが考えたところで何も紗耶香のためにならんやん」
私はそんな戸惑いをツバを飲み込んで抑えつける。
「だからってムシして…けなしてるみたいで、それでいいの?市井ちゃんのことを
考えると心が痛まない?何かしなきゃって思わない?」
裕ちゃんは漫画を横に置いてから、ヤレヤレと言わんばかりに重そうに腰を上げ、
腕組みをして私をさっきよりも鋭く睨みつける。
- 132 名前:12-13 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)01時20分34秒
- 「何すればいいねん。ウチらが出来ることなんてな〜んもないやん。考えるだけ
無駄や」
「で、でも…市井ちゃんが可哀想だよ、それじゃ」
「応援してるで。紗耶香、がんばってほしいと思ってる。でもなぁ、それ以上何を
すればいいねん?って聞いてんの。ごっちんみたいに『可哀想』って思ってやれば
いいん?そっちの方が傷つくと思うけどな、紗耶香にとっては」
私は何か違うって感じながらもその言葉は見つからず、口をつぐみ、目線を落とした。
「言いたいこと終わり?後藤が言いたいこと言ったみたいやから、あたしも言わし
てもらうけどなぁ、最近の後藤、昔以上にムカついとんねん」
描いた眉を吊り上げて裕ちゃんは私を睨む。その目は私の瞳の一点を見つめ、決し
て逸らそうとしない。腕組みをしながら私に近づいた。
- 133 名前:12-14 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)01時21分57秒
- 「何で、私が…」
「何や、あの気だるそ〜な感じは?そりゃあ、あたしらにもいろいろあるけど、後
藤だってプロやろ?仕事とプライベートぐらい、はっきり区別しぃや。ちょっと前
は『何とかしよう』って気持ちが少しは感じられたけど、最近は全く見られへん。
今日だってそうや。今日、アンタ一回も歌ってないやろ?ダンスも緩慢、ていうか
あんなんダンスやない。MCは声が全く通ってないし…。0点や。0点通り越して
マイナスや」
「だって…」
「だっても何もない。あたしがもしお客さんやったら大ブーイングやで。アンタに
とっては何十回もある内の一つなんやろうけど、あるお客さんにとっては一回きり
かもしれへんねんで。それをず〜っとやる気のなっさそうに歌うなんて許されると
思ってんの?」
正論だった。返す言葉は見つからず、喉奥を鳴らす。
「そうだよ。お客さんは大切にしなきゃ」
身を持って知っているかのようになっちはしみじみと言う。
「で、でも…」
「紗耶香が可哀想なんはようわかるし、そう考えることは勝手やけど、あたしらは
プロなんや。そこらへん、ちゃんとメリハリつけてやってもらわんと困るわ」
- 134 名前:12-15 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)01時25分11秒
- 多分、親に言いくるまれた子供ってこんな気持ちになるんだろう。
感情とかを無視して、理詰めでもってその反論の口を閉じさせる。そしてその気持
ちを押さえつけられる。
私はそんな子供と同じように癇癪を起こし、横にあった空き缶を裕ちゃんに向かっ
て投げつけた。
結局当たりはしなかったが、投げた空き缶は少し中身が入っていて、裕ちゃんや周
りにいたなっちややぐっちゃんがその中身の液体を被った。
「何すんねん!!」
裕ちゃんがズカズカと音を立ててやってくる。私の目の前に立つと、パーンと平手
打ちを喰らわしてきた。
「ホンマ子供やなぁ!いい加減にしないと今度は平手打ちじゃあ済まんで!!」
張られた頬を押さえながらそのひりひりとした気持ちが涙腺を緩ませた。
痛かったからじゃない。
悔しさが溢れんばかりに心を満たしたからだ。
私はガクンと腰を下ろし、咽んだ。
涙をこらえようとしても全く無駄だった。悔しくて悔しくて自分がふがいなくて…。
沸々と湧く自分を虐げる感情は涙に集約された。
裕ちゃんはそんな私を見下ろしながら、
「ったく、だからそれも子供なんだって…」
と舌打ちしながらつぶやいた。
- 135 名前:12-16 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)01時26分30秒
- もうイヤだ…。
もう限界…。
辞めよう…。
そう決めた矢先のことだった。
みんなが私らのケンカに耳を傾け、静止し、私の情けない泣き声だけがこだまする
この部屋の中で、ガタンという、椅子から立ち上がる音が聞こえた。
「まだ、中学生なんだから子供に決まってんじゃん」
圭ちゃんだった。
- 136 名前:12-17 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)01時30分34秒
- 圭ちゃんは私の傍にやってきた。
「圭坊、なんや?」
私だけじゃなくて、圭ちゃんにもケンカ口調になっている裕ちゃんを圭ちゃんは無
視する。
「ほら」
その声は俯いていた私の上で聞こえた。見上げると、圭ちゃんが右手を軽く差しの
べていた。
「うん?」とうなずいた後、圭ちゃんの右腕をつかみ、立たせてもらう。
「じゃあ、行こか」
「え?」
化粧を半分ぐらいしか落としていない圭ちゃんの顔を見て、「こんな顔してどこへ
行く?」とヤケに冷静に思った。
「みんな聞いて」
その声は小さくてもちゃんとみんなの耳に届くようなはっきりした声だった。何の
迷いもない、何者にも屈しないような強靭な意思を含んでいた。
「私と後藤は、モーニング娘。及びプッチモニを卒業します」
どこかで聞いたことのある言い回し。
懐かしい響きを私の脳裏に刻んだまま圭ちゃんは私に微笑みかけた。
やっぱり半分化粧を落とした圭ちゃんの笑顔はどこか滑稽だった。
- 137 名前: 投稿日:2001年08月30日(木)01時33分25秒
- 変なところで止め。次回は明日。朝か夜。もしくはどちらとも。
- 138 名前:名無し 投稿日:2001年08月30日(木)01時55分36秒
- 痛い…
でも読まずにはいられない!
- 139 名前:名無しさん 投稿日:2001年08月30日(木)03時12分24秒
- 圭ちゃんカッコイイ〜!!
- 140 名前:12-18 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)07時27分03秒
- 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってぇな…」
最初に反応したのは裕ちゃんだった。
それまでは、「はぁ?」と一同、口をポカンと開けたままで静止していた。圭ちゃ
んの言った言葉を理解することができなかったようだ。
私もできなかったし…。
「冗談やろ?」
納得できずに動揺する裕ちゃんを尻目に圭ちゃんは私の首に手を回し、抱きつき、
「本気だよ。今までありがとう」
とみんなに向かって言った。
- 141 名前:12-19 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)07時28分33秒
- 「そんなん言うたかて、まだ、誰にも言うてへんのやろ?」
「うん」
そううなずくと裕ちゃんはほっとしたように肩で一つ息をして、
「そうやったら無理やん。そんなことできひん」
私たちを失笑するように鼻で鳴らす。
圭ちゃんは視界の真ん中に立つ裕ちゃん以外にも他のメンバーの顔つきを見回して
いた。私も圭ちゃんに合わせるようにその一人一人の様子をうかがう。誰もが驚き
ながらも、「できるわけない」という雰囲気だった。
圭ちゃんは肩をすくめて、
「できるよ。そんなの簡単。明日…と明後日は休みだからしあさってからの仕事を
全部ボイコットすればいい」
裕ちゃんを含めた、その空間をにらみつけた。
- 142 名前:12-20 後藤真希(26) 投稿日:2001年08月30日(木)07時31分22秒
- 「ちょっと、圭ちゃん待ちなよ」
やぐっちゃんは二人の会話に口を挟む。
「何でそうなる?」
「ははは、何でかな?」
圭ちゃんはやぐっちゃんに向かってウィンクをした。
「ボイコットって…そんなことしたら、もう人前には出られんようになるで」
裕ちゃんはだんだん驚きから怒りに変わったようだ。それは今起きたことを事実な
んだとようやく認めたからだろう。口元を震わせながら脅すように言った。
「別にそれでもいい。私って、別にテレビとかに執着ないの。歌が好きってだけだ
から、どっかで歌えればいいし。外国行ってもいい、そしたら大丈夫でしょ?」
「圭ちゃん、それってやっぱおかしいって」
なっちが言う。続けて、
「それに、ごっちんはその気なんかないんでしょ?」
と私に振ってきた。狼狽したなっちは助けを求めて私に聞いたって感じだ。私が
「脱退したくない」という返答を期待している。
しかし、私は何も言わずに首を横に振る。圭ちゃんが言ったからという他人任せな
弱い意思ではない。
「ごっちん…」
なっちが見るからに顔色を変えた。眉間にしわを寄せながら寂しげに私を見つめた。
私たちの心配をしているのか、それとも今後の自分たちに不安になっているのかわ
からないが。
「じゃあ、お世話になりました」
「待てったら!」
圭ちゃんはメンバーに向かってペコリと頭を下げ、踵を返すと私の袖を引っぱって
部屋を飛び出した。
- 143 名前:12-21 市井紗耶香(17) 投稿日:2001年08月30日(木)07時35分07秒
〜市井紗耶香〜
ハァハァハァ…。
冬の風は身を切るように冷たい。雪は降っていないのに、空が白いせいか全体が薄
い白で塗られたような景色が広がっていた。人々の服装も当然冬の色を持ち、矢口
が履いている以上の高い厚底に携帯電話よりも大きな人形をストラップにつけて彼
氏らしき人と大きな口を開けて話す若い子、統一された茶色のマフラーを巻いて談
笑する制服姿の女の子たち、一昔前に流行ったダッフルコートを前を開けながら着
て、センスの悪い緑色のネクタイを見せながら走っているサラリーマンなどさまざ
まな人とすれ違った。
私はハンガーに掛けられていたお母さんの何の飾り気のないコートを着て飛び出し
た。他に服がなかったのでその下は今まで来ていた薄めのパジャマで、寒さがコー
トを通して身に染みる。普通の人でも風邪を引きかねないだろう。
病院を抜けると私は走った。
お金は一応はあったけど、タクシーは使いたくなかった。
駅の前で私は一息つくと、自動販売機でコーラを買った。
炭酸がパチパチ音を立てるように膨らみながら食道を通って胃に入る。
胃はビックリしていて痛かった。
それでも嬉しかった。
肌を突き刺すような風や、走って全身からうっすらと出る汗も、コーラの味も、生
きていると実感させる因子で、最近はなかったものだ。
電車に乗る直前、心臓のあたりがブルルルッと震えた。
私は一瞬、心臓がおかしくなったと思って、すごくビビった。「ここで終わり
か?」なんて思い、拳をぎゅっと握りながら、必要以上の冷たい汗をかいた。
「あ、そっか」
右手に当たった固そうなもの。携帯電話だった。逃げる時にほとんど無意識に携帯
をコートの胸ポケットに入れといたんだ。
誰からかかってきたのかは見るまでもない。お母さんか病院の人だろう。病室に戻
ってみると、私がいなかったんですぐ電話したんだ。液晶画面を見ることなく、電
源をオフにした。そして、その携帯電話をじっと見つめる。
- 144 名前:12-22 市井紗耶香(17) 投稿日:2001年08月30日(木)07時36分38秒
- 何で携帯電話なんて持ってきたんだろうと思った。
無意識だったから習慣と言ってしまえばそれまでかもしれないけれど。
一人になった私を繋げる唯一の存在。
指を少し震わせながらもう一度、電源をオンにして、アドレス帳を開く。
そして、見つけた後藤の名…。
通話ボタンを押して、プルルルっと2回。
何でこんなことをしているんだろう。
これは間違いなく「見つけてほしい」なんていう未練いっぱいの気持ちだ。
そう思うと即座に再び電源を切った。
オフになった携帯電話を見つめて、意志も体力も薄弱なあいかわらずな自分にため
息をついた。
- 145 名前:12-23 市井紗耶香(17) 投稿日:2001年08月30日(木)07時39分48秒
- コートの下からはみ出るピンク色のパジャマが恥ずかしい。電車に乗って向かいあ
ったサラリーマン風のおじさんは脱獄者を見た時の反応のように、興味のなさを装
いながら、何度も何度もチラリとこっちを見ていた。変装なんてしていないけど、
そっちに目がいっていたせいか私が市井紗耶香だとは気付かれなかった。
とりあえず私は大きそうな街で下りて、服屋に寄ることにした。できるだけ、若者
が立ち寄らないちゃらちゃらしていないお店に入った。狙い通りショップのお姉さ
んは30前後で、店も人もすごく落ち着いていた。私と目が合ったが、何食わぬ顔
でいろんな服を薦めていた。
最初はコートの下のパジャマを見て、お姉さんは当然不信感を持っていたようだ
が、そこはプロ。自分の興味よりも、服を売ることに精を注いでいた。結局、私は
言われるがままに、買うことにした。店員さんは、薦めてきた服全てを「いいです
ね」なんて言う私を見て、どんどんその推薦する服の値段は高くなっていった。結
局8万ぐらいしたが、あまり深いことは考えずに買った。
無制限にお金があるわけじゃなかったが、惜しむ気持ちはない。
だって、
「死装束だから…」
「は?」
思っていたことが口に出たらしい。店員さんは鋭く反応した。
私はただ、笑ってごまかした。
- 146 名前:12-24 市井紗耶香(17) 投稿日:2001年08月30日(木)07時44分11秒
- 結局、私は着ていたパジャマはもちろんコートもお母さんには悪いとは思ったけ
ど、袖とかがほころびているぐらいボロかったので同じように処分してもらった。
着ている服は新品の匂いがする。念のために買ったニットの帽子が少し大きくて、
普通に被ると目まで覆ってしまうので帽子の中心をやや後頭部寄りにして器用に
被った。
さて、どうしよう…。
実は何にも考えていない私だった。
神様に反抗してやるんだ!
なんて思って飛び出したわけだけど、生きているという実感を沸々と感じる今とな
ってはこの言葉はなんて幼稚なんだ、と思った。
ホントのことを言うと神様とか運命とかそういうんじゃない。
自分の意志を持ちたいだけ。
色とりどりの世界に包まれて、お姫様のように美しく死にたい。
潮風に吹かれながら、その身を置いてもいい。
酸素をいっぱい吐き出してくれる森と枝に止まる小鳥たちの鳴き声に包まれなが
ら消えてもいい。
- 147 名前:12-25 市井紗耶香(17) 投稿日:2001年08月30日(木)07時46分36秒
- とにかく、あんな透明な世界で消えちゃうのは嫌なだけだった。
私は出来る限り遠いところまで乗ろうと思っていた。今まで見たことのないところ
へ行きたい。
そんな意志を乗せてガタンガタンとリズミカルに揺れる電車の中、私は宙吊りの広
告にある写真を見つけた。
「あ…」
私は思わず口に出た。
死ぬことしか考えていなかった私の中に違った欲が生まれた。
- 148 名前:12-26 市井紗耶香(17) 投稿日:2001年08月30日(木)07時47分27秒
- どうせなら…、
行くしかないね。
最後だし…。
虚しくなるだけかもしれない。
でももう落ち込むところまで落ち込んだんだから、いっか。
私は反対方向の電車に乗り換えるために、降車した。
- 149 名前: 投稿日:2001年08月30日(木)07時54分25秒
- 次回12章ラストの予定。時間がないんでできるだけ早めに更新します。
- 150 名前:26 投稿日:2001年08月30日(木)13時43分51秒
うう…切ないっすねぇ…。早めに更新ですか?
お願いします…。市井ちゃん、やっぱ…。
ってゆ〜か圭ちゃんカッコいいっす!
- 151 名前:12-27 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)01時51分18秒
〜後藤真希〜
圭ちゃんの背中がたくましい。
私はただ付いていくだけだ。
快速電車が目の前でけたたましい音を立てながら通過するのを見計らってから、ど
こか自信たっぷりに見える圭ちゃんに質問した。
「これからどこ行くの?」
「どこ行こう?」
「これからどうするの?」
「さあ?どうしよう?」
「ちょっと圭ちゃん…」
「はい?」
「何にも考えてなかったの?」
「うん」
「お〜い…」
「仕方ないじゃない。私だって行き当たりばったりだったんだからさあ」
前言撤回。あんまり当てにしない方がいいかもしれない…。
- 152 名前:12-28 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)01時55分54秒
- もう、ここには来れないかもしれない。
そんな惜別の思いを背に、私と圭ちゃんは事務所の一室を飛び出した。
「とりあえず、紗耶香みたいに会見開こっか?『私たち脱退しま〜す』って」
クスクスと押し殺した笑いを立てながら圭ちゃんは言った。
「こんなことして市井ちゃん悲しまないかなぁ?」
「う〜ん、悲しむだろうね…」
「じゃ、まずいじゃん」
「まずいよねえ、どうしよっか?」
「…圭ちゃん、ほっんと、どうする気だったの?」
言葉と表情が合致しない圭ちゃんに不信感を抱く。
「だからさっきも言ったじゃん。全然考えてないって」
あっけらかんと言う圭ちゃんを見て私はため息をついた。
「これって結構やばいじゃん…」
「でもさあ、ごっちんはモーニング娘。辞めようと思ってたんでしょ?」
見透かすように言う圭ちゃんに対し素直に「うん」と言った。
「だったらいいじゃん」
「圭ちゃんは…辞めようと思っていたの?」
「私…?う〜ん、どうかなぁ。このままのモーニングはイヤだったからいずれこう
なってたかもね」
「ゴメンね…。付きあわさせちゃって」
「別にいいって」
- 153 名前:12-29 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)01時58分22秒
- 隣りに座っていた私の胸を優しく肘打ちした。
私たちが乗った電車は空いていて二人の会話は他の人に聞かれることはなさそう
だ。私は圭ちゃんに付いていくだけで何にも考えず電車に乗ったが、その頼りにし
ている圭ちゃんも全然考えていないようだったから少しばかり焦ってくる。
「これってどこ向かってるの?」
電車の窓に映る、流れる景色を見ながら私は聞いた。
「さあ?テキトーに下りよっか?」
なんか圭ちゃんらしくないなぁ、と思った。
別に綿密に計画を立てる人ってわけじゃないけど、無謀なことは極力避けるタイプ
だったのに。
結局圭ちゃんの言った通り、適当なところで降りた。
「ここどこ?」
「さあ?」
圭ちゃん、さっきから「さあ?」ばっかり言ってるよ…。
- 154 名前:12-30 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)01時59分55秒
- どうしようもない無計画な圭ちゃんにしっかりしなきゃ、と思った。
「電車の中で携帯を使えないって不便だよねぇ〜」
圭ちゃんはそう言うと、また電話を取り出しかけた。
「誰に?」
「いいから、いいから。e-kara〜なんちゃって」
「…おもしろくない…」
圭ちゃんは私に会話を聞かれたくないようでくるりと背を向けた。
身を乗り出して耳を傾けると、圭ちゃんの声だけがぽつりぽつり聞こえた。
「もしもし、私。ごめん、ちょっと…狂っちゃって。ごっち…るし…」
「うん、いや…じゃないよ。ごっちんが先…ゃって…」
「うん、だから…いいん…かって…予定外だけど…ないよ」
予定?
確かにそう聞こえた。
じゃあ…。
話終えると、圭ちゃんは私の方を見た。
「聞こえちゃった?」
別に聞かれてもそうでなくてもどうでもいいようだ。
「うん…予定って聞こえた。やっぱりこれからどうするか、計画してたの?」
「いや、それとはちょっと違うんだけど…」
- 155 名前:12-31 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)02時01分48秒
- それからしばらく歩いていると、また電話が鳴った。
「はいはい…っと」
圭ちゃんは電話を取って、
「もしも〜し、そっちはどう?」
「うん!大騒ぎ!裕ちゃんなんか顔を真っ青にして、オロオロしてるよ!」
異常なくらい高い声は、私の耳にもはっきり届いた。
この声は…、
「聞こえた?」
と尋ねる圭ちゃんに私は、戸惑いながら頷く。
「やぐっちゃん?」
それを聞いた圭ちゃんは電話に向かって、
「もう…矢口って声が高くて大きいんだよ。ごっちんにまで聞こえちゃったじゃん」
「ごっちん近くにいるんだ」
「いるに決まってんじゃん」
「普通、聞かれたくなかったら離れるもんだよ。圭ちゃんが悪いよ」
「ま、そうなんだけどね。ごっちんに代わる?」
「うん!」
二人の会話は隣りにいた私にはすべて聞こえた。
圭ちゃんは携帯電話を私に渡した。
- 156 名前:12-32 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)02時05分50秒
- 圭ちゃんは再び歩きだしたので、私も歩きながら電話に出る。
「も…しもし…」
戸惑いがまだ隠せない私。
「あ、もしもし、ごっちん?こちら現場です。かなり騒然としております!」
何か事件の現場にかけつけているうるさいレポーターのようにやぐっちゃんは
言った。
「あの…どういうこと…なの?」
全く意味がわからなかった。
モーニング娘。とは決別したつもりだったのに、今、メンバーのやぐっちゃんと話
してる…。
完全な矛盾は不思議な浮遊感をもたらす。ピンと来ない。
「それは圭ちゃんに聞いてよ。それよかさあ、ごっちん、携帯電話置いてったで
しょ?」
そう言われて、私は全てのポケットを大まかに調べるがどこにもない。
「あ、ホントだ」
「私が預かってるから。さっきさあ紗耶香からかかってきたよ」
「え?市井ちゃん?ホント?」
「うん、出なかったよっていうかすぐ切れたんだけどね。じゃあ切るよ。とにか
く、また後でね!」
「う、うん…」
- 157 名前:12-33 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)02時06分32秒
- 後で?
混乱しながら電話を切った。そして、圭ちゃんを見た。
「どういうこと?」
ニヤニヤしている圭ちゃん。
「騙したの?」
「いや、騙してなんかいないって。ただ、内緒にしてたことはあるんだけどね」
「何?」
「いいからいいから。お、ここだ」
目の前にある小さな体育館という言葉が適当な建物を見上げて圭ちゃんは言った。
- 158 名前:12-34 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)02時07分55秒
- 「入りま〜す」
「は〜い」
鉄扉のガラガラと開く音の向こうから高い声がした。
「何?」
袖を引っ張りながら聞く私に圭ちゃんは、もうすぐわかるよ、と言うような得意気
な顔をした。
扉を開けると、そこには…、
「梨華ちゃん!」
私は思わず声をあげた。そして、その向こうで何か作業をしている背中は…、
「ごっちん、元気?」
「よっすぃー…」
鼻から耳にかけて茶色の絵の具をつけたよっすぃーが私を見て微笑んだ。
- 159 名前:12-35 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)02時11分36秒
- 「どう…して…?」
二人が何をやっているのかわからなかった。
「二人とも用事があるんじゃなかったの?」
「だから、これが用事だよ」
よっすぃーはぴょんぴょん跳ねるように近づいてきた。オレンジ色のジャージの袖
を肘や膝まで器用にまくっている。
私はよっすぃーや梨華ちゃんの向こうに見える大きい白い布を見つけた。
そして、そこにはいろいろな色で、「市井紗耶香、ファイト!」と書かれていた。
「これ…は…?」
最初に出た感情は戸惑いだ。
なんで、市井ちゃんを応援してるの?
「もちろん、市井さんを応援するためのグッズ作りだよ」
梨華ちゃんが言った。
それでも戸惑っていると後ろにいた圭ちゃんがポンと肩を叩いた。
「ま、みんな気持ちは同じだったってわけよ」
- 160 名前:12-36 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)02時22分27秒
- それでもよくわからない。
「だって、よっすぃーや梨華ちゃんって市井ちゃんのこと、嫌って…」
「誰が嫌いだって言ったよ?」
よっすぃーは若干拗ねた素振りを見せながら口を挟む。
「だって…」
圭ちゃんは口を開いた。
「あれからね…あれからっていうのは後藤と私ん家の近くの公園で話した時あった
でしょ?あの後なんだけど、私はいろんなことをよっすぃーや石川や矢口とかと話
し合ったんだ。紗耶香のことをね。そしたら、二人とも嫌ってなかった。ううん、
逆。紗耶香が好きなんだって思った」
私は、よっすぃーや梨華ちゃんを見る。すると、大きく「うん」と頷いていた。
「結局、気持ちは一緒なのに方向性が違ってただけだったんだよ。ごっちんはね、
紗耶香の為に、できることばかり探して、紗耶香を傷つけないことばかり考えてい
たでしょ?」
私は小刻みにうなずく。そんなに深く考えてはいなかったけど、おおむね正しいだ
ろう。
「よっすぃーや石川や矢口や…まあ私も何だけど、紗耶香に出来ることをね、自分
の戸惑いとかそういった気持ちを整理しながら、ずっと考えていたんだよね。ま
あ、臆病な気持ちもあって何も出来なかったのは事実なんだけど。でも今のモーニ
ングの雰囲気ってちょっとおかしいでしょ?一人一人が同じ気持ちなのに、じゃ
あ、『みんなで』って団結できなかった。で、ずっと一人で考えていた。で、何に
も出来なかった…」
- 161 名前:12-37 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)02時25分09秒
- 私は公園での圭ちゃんとの会話を思い出した。
「私や圭ちゃんは理想と現実の自分の気持ちの違いに戸惑っていた」
あの時、私はそう思った。
でもこれは、私や圭ちゃんだけじゃない。
みんなだって…。
何でそういう風にあの時考えなかったんだろう。
そして、「みんなで、出来ることを考えようよ!」なんて提案しなかったんだろう?
多分、それは私がみんなを信用していなかったから。
少し自分が情けなくなった。
- 162 名前:12-38 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)08時33分36秒
- 「なんで…」
「うん?」
「何で、私に隠してたの?」
圭ちゃんは片目をつぶって、謝る仕草をした。
「それはね、矢口の提案なんだ。紗耶香や、ごっちんをビックリさせてやろうっ
て。ま、矢口なりの照れ隠しみたいなもんかな?面と向かって紗耶香やごっちんに
『頑張れ!』って言えなかったからね。まあ、私もそうなんだけど…」
頬の辺りをポリポリと掻く。
「ごっちん、ごめんなさい」
真剣な目つきでよっすぃーが謝った。そして、見上げる顔はすごく目が大きくて、
うるうるになっているのが一目でわかった。一度ツバを飲み込んでよっすぃーは語
りはじめた。
「私は…あの時、悔しかった…。変なこと言うのかもしれないけど…ごっちんに嫉
妬してたの…。だからね…ごっちんに検査受けてとか…私もね…ごっちんの気持ち
もわかって…」
- 163 名前:12-39 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)08時34分19秒
- 支離滅裂とした言葉から私は「あの時」を思い出した。よっすぃーを平手打ちした
日のことだ。
「どうして、市井さんのこと…あの時言ってくれなかったの?」
あの時、よっすぃーはそう言った。たしか脈絡がなくて、心穏やかに非ずだった私
はただただキレた。
でも、よっすぃーはずっとショックだったんだ。
『だって、それは市井ちゃんを信用していないような気がしたから…』
これは裕ちゃんややぐっちゃんやみんなに思ったこと。
私だけが「信用」っていう言葉を遂行しているような一種の自己満足。
そんな高貴な自分を誇り、そうでない他を貶していた。
でも、実際私は全く逆のことをしていた。
よっすぃーは私が…私だけが市井ちゃんの秘密を持っていたことがたまらなく悔し
かったんだ。きっと、よっすぃーも市井ちゃんに信用されたかったんだ。私に信用
されたかったんだ。ホントはよっすぃーも市井ちゃんのために何かやりたかったん
だ。
そんなよっすぃーの繊細な気持ちを「不信感」という苛立ちで押さえつけた私。
- 164 名前:12-40 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)08時35分06秒
- 「ごめんなさい」
梨華ちゃんは過去の記憶をそして後悔を辿っていた私を見ながらそれに続く。
二人は揃って頭を下げた。
私はそのてっぺんを睨んだ。
「二人とも…違うよ」
少しドスの効いたような低い声で言うと、予想に反した声だったようで、後ろの圭
ちゃんは「えっ?」と思わず声を上げる。
「謝るのは私のほうだよ…。だから、顔上げて…」
顔を上げる二人はそれを見て、同調するように笑った。
- 165 名前:12-41 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)08時37分12秒
- 少し落ち着いた後、「市井ちゃんを応援するグッズ」を私も手伝うことにした。こ
れは実は1週間前から作ったものらしく、年末年始にも関わらず、時間を見つけて
はここに集まり作っていたみたいだ。他に、色紙や、圭ちゃんプロデュースの市井
ちゃんがいっぱい映っているフォトアルバム(愛情たっぷり)。よっすぃープロデ
ュースの造花でつくったフラワーアート(かっけー)。そして、梨華ちゃんプロデ
ュースの梨華ちゃんのソロ「市井さんへ贈る歌」(…ノーコメント)など色々作っ
ているみたいだ。
みんなで一つのことをしているなんて久しぶりで、私は嬉しかった。
「じゃあさあ、今日の一連のことは演技だったんだ?」
休憩中に自販機で買ったウーロン茶で喉を潤している時に私は3人に聞いた。
「んなワケないよ。だってケンカになったのはごっちんが一人で勝手にキレたから
でしょ?」
「あ、そっか」
そうだよね。事の発端は私だったんだから。そんなワケはない。
「だから、今ここに後藤がいるっつーのは予定外。ホントはごっちん以外の全員で
いろいろやって、もうちょっともったいぶって紗耶香とごっちんが一緒にいる時に
でも驚かせてやろうと思っていたんだよ。でも、ごっちんがあんなことするから、
やむなく、ね」
「じゃあ裕ちゃんは知らないの?」
ああいう風に言い返す裕ちゃんは今振り返ってみても「素」だった。
- 166 名前:12-42 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)08時41分43秒
- 「うん、アレはマジ。だってこの計画のことは裕ちゃんにはまだ言ってないもん。
あとなっちにも圭織にも」
笑いながら言った。推測だけど、同期の矢口、同じプッチモニメンバーのよっすぃ
ー、そして教育係としてのラインがある石川、と話しやすい人間から話を持ちかけ
ていったのだろうと考えられる。
圭ちゃんはちょっと真剣に私を見て続ける。
「ごっちん、ちゃんと聞いてね。多分ね、ううん絶対、裕ちゃんもね、なっちも圭
織も紗耶香のことは嫌ってないと思うよ。今日のケンカの言い分聞いててわかった」
「そう?」
「うん、私思うんだけど、きっと裕ちゃんは裕ちゃんなりに苦しんでいるんだよ。
私たちとは違ったところでね。詳しくはわからないけど」
圭ちゃんは真剣な目で私を見つめた。あの剣幕からそんな風には到底考えられな
かった。
「ついでに言うとね、今矢口が説得…ていうかネタばらしをしてると思う。『裕ち
ゃんのことなら任せなさい!』と言ってたし」
今振り返ると圭ちゃんが「私たち脱退します」とウソをついたとき、裕ちゃんやな
っちや圭織とは違い、やぐっちゃんだけは妙に冷静だったなぁ、と思い出した。
そういえば、圭ちゃんがウィンクすると、やぐっちゃんは表情を緩めていたっけ。
「じゃあ…」
「うん!モーニングが再び一つになれるのは目の前だ!」
- 167 名前:12-43 後藤真希(27) 投稿日:2001年08月31日(金)08時43分01秒
- 嬉しそうに圭ちゃんは言った。それは自分の計画が成功したからじゃなく、言葉通
り再び大好きなモーニング娘。になれる実感がしていたからだろう。
「じゃ、休憩終わり!続けますか?」
圭ちゃんの言葉によっすぃーと梨華ちゃんと私は声を合わせて頷いた。
と、その時、圭ちゃんの携帯電話が揺れた。
「お、矢口だ。任務完了かな?」
笑い皺を作りながら電話に出る圭ちゃんは、時間が経つにつれ、その皺は薄れ、
血の気が失せていった。
「どうしたの?」
私が聞くと、圭ちゃんは目を剥きながら私を見た。
「紗耶香が…遺書らしきものを残して…病院を逃げ出したって…」
その言葉と冷えた空間が私たちを凍らせた。
- 168 名前:第12章 終 投稿日:2001年08月31日(金)08時44分07秒
- 第12章 二人の逃亡者 〜tomorrow never knows〜
- 169 名前: 投稿日:2001年08月31日(金)08時48分55秒
- 次回はちょっと未定。
次章はクライマックスなので慎重にいこうかな、っと。
第13章 生と死と 〜final distance〜
- 170 名前:13-1 市井紗耶香(18) 投稿日:2001年08月31日(金)16時32分45秒
〜市井紗耶香〜
ゴトゴトと揺れる電車の中、目の前で小学校低学年ぐらいの男の子が足をバタバタ
させながら窓から映る夜景を眺めていた。隣りにいた若そうなのに頭が薄くなって
いるサラリーマンが、大げさに咳込み、男の子の向こうにいる母親らしき人を見
た。その母親はきつめの赤の口紅を塗った唇を突き立てながら、激しくパーマした
憂鬱そうに金色の髪をゴムのように伸ばしたり縮めたりしていた。
明らかに訝しげなサラリーマン。きっと仕事も残業続きで、上司には叱られ、OL
には馬鹿にされ、恋人もいない人なんだろう。ちょっとしたことですぐイライラが
顔に出るんだ。最初は男の子の足が邪魔だっただけなんだろうけど、次第にこんな
夜遅くに電車にいること自体に腹が立ってきたんだろう。男の子の頭をわしづかみ
し、一言睨みながら言うと、男の子は頭を抑えて泣き出した。
「ちょっと何するのよ!」
泣き出してからようやく気付いた母親は、怒り心頭に立ち上がりサラリーマンに向
かって言った。
- 171 名前:13-2 市井紗耶香(18) 投稿日:2001年08月31日(金)16時34分33秒
- サラリーマンは一瞬怯えた表情を見せるものの、「男」のプライドが生まれたのか
同じように立ち上がり、男の子を挟んでケンカになった。
誰もが見て見ぬフリをしている中、私はクスクス笑いはじめた。そして、笑ってい
る自分がさらに可笑しくて、さらに大きく笑い、しまいには音が口から洩れた。
それに気づいたのはどっちの方なんだろう。
言い争いをしていた二人が私の方にやってきた。そして、座っている私を上から見
下ろしながら睨む。
「ちょっと、見せ物じゃないのよ!」
疲れきったようなボロボロの肌を厚化粧で隠す女の人はヒステリックな声をあげ
た。そしていい獲物が見つかったという意味なのか陰湿な笑みを浮かべる。
- 172 名前:13-3 市井紗耶香(18) 投稿日:2001年08月31日(金)16時35分36秒
- このまま普通に生き続けていたら私もこうなっていたのかな?
できちゃった末に彼氏に逃げられて、女手一つで育てるために、朝昼晩問わず仕事
して、もしかしたら体さえ売って、汚れながらも「子供のために」なんていうのを
口ぐせにして、子供に追われて、自分を捨てて、働いて…。
どっかに怒りの捌け口なんかを探していたに違いない。
男の人は憤慨したように鼻の穴を大きく開けて、小娘の私を威圧的に馬鹿にする。
普段決して上に立てない人間が弱そうな獲物を見つけて、ここぞとばかりに威張っ
ているんだろう。
- 173 名前:13-4 市井紗耶香(18) 投稿日:2001年08月31日(金)16時36分41秒
- この人もなんか可哀想になる。
子供の頃は夢の一つや二つぐらいあっただろうに、そんな目的とか生きがいとかは
もうとっくになくなっているのに、流れるままにサラリーマンをやって、そこでも
怒られて、ストレスが溜まって、胃に穴なんか空けたりして…。
二人に聞きたいよ。
生きてるって楽しいですか?
意味がありますか?
きっと、「ない」って言うよね。言わなくても心の中で言ってるよね。
「じゃあ、一緒に死にません?」
私は二人に向かって呟いた。はっきりと、「死」の部分を強調した。
ある意味精悍に見える二重が瞼から覗かせる鬱らな目を向けると二人は「え?」と
いう驚きとともにひきつった表情を見せた。そして、私はまたクスクスと笑う。
- 174 名前:13-5 市井紗耶香(18) 投稿日:2001年08月31日(金)16時38分19秒
- 「弱い者イジメ」の構図は一瞬にして消え去った。
二人は顔面蒼白な顔をお互い見合わせ、そして逃げるように私から離れた。その
後、二人はケンカをやめ、お互いを無視するように空いている席に座った。
「次は水道橋〜」
私の真上に取り付けられていたスピーカーからアナウンスされる車掌さんの声を聞
いて、私はのそっと起き上がる。
二人の視線は私に注がれていた。鋭敏になった感覚のせいか背中で感じることがで
きる。睨むでも哀れむでもなく、不思議な生き物を見たような恐怖心がその視線に
は絡みついていた。
私がドラッグでもやっているように見えたんだろうか。
- 175 名前:13-6 市井紗耶香(18) 投稿日:2001年08月31日(金)16時39分14秒
- そんなんじゃないよ。
私はただ、純粋に死のうとしてるだけだよ。
意味があって…ちゃんと自分の意志で死ぬんだよ。
死ねないあんたたちとは違うんだよ。
「さよなら」
ドアが閉まる直前、私は振り向きざまに中にいる二人にそう口を動かした。
- 176 名前:13-7 市井紗耶香(18) 投稿日:2001年08月31日(金)16時43分00秒
- 歩いて5分。
私は一人で行ったことはないのだが、ご丁寧な標識があるせいか、もしくは死ぬ境
地に訪れる鋭い感覚のせいだろうか、全くといっていいほど迷わずに来れた。
途中、コンビニでおにぎりを買った。おかかとシーチキンと、新発売のサーモンマ
ヨネーズってやつ。どれもおいしかった。ただ、温めてもらえばよかったなぁなん
て、冷たい米粒一つ一つをいつもより多めに噛みながら呟いた。ついでに…という
かこっちがメインなんだけど、ごく平凡な果物ナイフを買った。本当はバタフライ
ナイフとかカッコいいやつが欲しかったのだが、少年犯罪やらで世間の警戒心が高
まっている昨今だからか、この店には置いてなかった。あんまり表情が暗いと店員
さんに怪しまれると思い、最後の力とばかりににんまりとした笑顔を作った。作っ
た当人としては嫌になるくらいバレバレの笑みなんだけど、店員さんは模範的営業
スマイルを見せてくれた。きっと、人を騙すのはこれが最後だろう。モーニング
娘。時代にファンに向かってところ構わず振りまいた愛想笑いを思い出した。コン
ビニを出た時、誰もいない暗闇の空に向かって自嘲だらけの笑顔をした。
- 177 名前:13-8 市井紗耶香(18) 投稿日:2001年08月31日(金)16時43分58秒
- そこからさらに歩いて1分。目的の建物が見えた。
すっごく大きくて私は見上げた。
星空がその後ろで光る。漆黒からポツリポツリと光る星。
冷えた空気が私と空を近づけた。手を上げると、つかめそうな錯覚。そこは虚実が
入り混じった理想の空間。
目を閉じる。
ここはずっとずっと夢見ていた場所。
いつそんな夢を見たんだろうとふと考える。
モーニング娘。に入ってから?
それともそれよりも前から?
本来の意味とは違うのだろうけど、「走馬灯」のように過去が映像のフィルムのよ
うに断片的に頭の中を流れる。
すぐに目を開けて、私は中に入った。
本当は入口があって、そこには人がいて、「入れないよ」と止められるんだろうけ
ど、警備員の人は半分寝ていて、その入口を通り抜けることができた。
いや、本当は起きていたのかもしれない。私に気付かなかっただけかもしれない。
最も死に近い人間だったから、きっと半分幽霊になっちゃっていたんだ。
もう私の存在はなくなりつつあるのかもしれない。
- 178 名前:13-9 市井紗耶香(18) 投稿日:2001年08月31日(金)16時45分21秒
- 人工的なその場は最初私が考えていた場所とは全く対照的だった。
しかし、全く悔いはない。だって、これが運命だから。
ここが私の選んだ死に場所だ。
夢の場所で死ねるんだ。
ありがとう、神様。
そして…
困らせてごめんなさい。
- 179 名前: 投稿日:2001年08月31日(金)17時11分32秒
- 青板空いていることに鬱になりながら更新。
- 180 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月01日(土)03時06分08秒
- 市井ちゃん、はやまっちゃだめだ〜
- 181 名前:13-10 後藤真希(28) 投稿日:2001年09月01日(土)06時53分34秒
〜後藤真希〜
「どうしようどうしようどうしよう!!」
圭ちゃんは慌てふためきながら、その場を行ったり来たりしていた。
よっすぃーも梨華ちゃんも同じだ。
「ごっちん、いる!?」
圭ちゃんがいつの間にか手放していた携帯電話から声が聞こえてきた。私はそれを
取る。
「うん」
相手は裕ちゃんだった。二人のいがみ合いなんてこの切迫した中では関係ない。返
事をした後、舌を噛みそうなくらい早口で聞いてきた。
「ごっちんは心当たりない?紗耶香の行きそうなところ!」
「え?」
「紗耶香はな、絶対思い出の場所に行くと思うねん!あの子ってそういう子や。き
っと自分の一番好きだった場所で死…」
裕ちゃんは出かけた言葉を本能的に飲み込んだ。言ってしまえば本当になるという
防衛が働いたのだろう。
「と、ともかくや。ごっちんが一番付き合い深かったんやから、どうや?」
「そんなこと、急に言ったってわかんないよ!」
私は他の人より少し遅れてようやく慌てはじめた。一回舌を噛みながら電話の向こ
うの裕ちゃんに大きな声を出した。
- 182 名前:13-11 後藤真希(28) 投稿日:2001年09月01日(土)06時55分39秒
- 「とにかく、私は武道館行くから。あんたらは他んところ探してくれ!」
「武道館?」
「そや、あたしはそこが一番可能性が高いと思うねん。なんてったって紗耶香のモ
ーニング最後の場所やからな。そうでなければ…渋谷公会堂とか横浜アリーナと
か…ともかくそういうところやと思う!」
連想するように、武道館という言葉がある言葉に代わっていった。
「あんたらは、プッチで合宿したところあったやろ?あたしはよう知らんけどそこ
って結構紗耶香にとって思い出があるところなんちゃうん?」
裕ちゃんの声は私だけじゃなく、その周囲にも洩れるくらい大きな声で十分圭ちゃ
んにも届いたようだ。
「じゃあ、私と後藤はそこへ行く!吉澤と石川は…渋谷に行かせる!」
圭ちゃんは私が手に持っていた携帯を取りあげて裕ちゃんに叫んだ。
「わかった!じゃあ、頼むで!」
裕ちゃんは切ろうとした。
- 183 名前:13-12 後藤真希(28) 投稿日:2001年09月01日(土)06時56分14秒
- しかし、私は「待って!」と叫ぶ。
「なんや、ごっちん?」
私は再び圭ちゃんから携帯を取りあげた。
「違う!裕ちゃん!市井ちゃんが行くのはそこじゃない!」
「うん?わかったんか?」
ワラにもすがる思いで裕ちゃんは私の次の声を待った。
市井ちゃんは夢見る人だから。
過去を振り返るんじゃなく、きっと未来を思って…。
「東京ドーム!市井ちゃんは絶対そこに行く!」
何の根拠もないはずなのに、もう私の中では100%になっていった。
- 184 名前:13-13 後藤真希(28) 投稿日:2001年09月01日(土)06時56分49秒
- 東京ドームに着いた時は、もう夜が更けきっていた。
私たちはタクシーでぶっ飛ばした。メーターは1万円を超えているみたいだった
が、そんなことはどうでもよかった。
場所的に裕ちゃんらの方が先に着いているだろう。
裕ちゃんは私の「東京ドーム」という言葉に、何の疑いもなく、「わかった。今か
ら行く!」と答えた。その後に「後藤の言うことだから信じる」とつけ加えた。決
して責任転嫁しようとしているわけじゃないことは力を込めた口調からみても明ら
かだった。
私たちは入口の前で係りのおじさんに事情を話すと、やはり裕ちゃんたちが先に入
っているようで、何の不思議もなく通してくれた。
駆け込み、グラウンドが近づくにつれ、声が聞こえてきた。
球場全体に広がる哀しい声は、私の知っている声だった。
- 185 名前:13-14 市井紗耶香(19) 投稿日:2001年09月01日(土)07時03分23秒
〜市井紗耶香〜
中のグラウンドには何人か人がいて、その人のために照明が重厚に照らしていた。
カキーンという金属音に乗った白球は弧を描いて、ダイヤモンドの周りに広がる緑
の芝生にまで飛んでいく。
どうやらどこか大学のサークルの人たちが借りているようだ。練習をしているみた
いだけど、何の真剣味も感じられない。さっき打ったボールがてんてんとグラウン
ドを転がる中、
「あんなん取れるワケねえよ!」
とグローブを持った一人がバットを持ったキャプテンらしい人に向かって大きな声
で愚痴っていた。
失敗したなぁ、と思った。
これじゃ死ねないじゃん。
しかし、もしこの人たちがいないんだったら中にさえ入れなかったかもしれないん
だし、まいっか。
- 186 名前:13-15 市井紗耶香(19) 投稿日:2001年09月01日(土)07時05分12秒
- 私は1塁側の内野席に腰を下ろして、練習風景を眺めていた。
コンビニ袋に入ったナイフを取り出した。刃渡り10cm程度の果物ナイフ。簡易な
パッケージに入っていたので取り出して、初めて手で持ってみた。これが本物の包
丁で小さな子供が持ってなんかいたりすると、それだけで周りの大人は、取りあげ
て「危ないからこんなもの持っちゃダメ!」と子供を叱るだろう。でも私が手に取
ったナイフはおもちゃに近いお手軽タイプで、銀色の刃先は光ることがなく、「こ
れは刃物なんだ」と危険を感じさせない。
「こんなんで死ねるのかなぁ?」
周りを確認せずに口に出してみた。
空調設備が効いているとはいえ、さすがに冬であり深夜である独特の冷えた空気は
私のつぶやきを大分遠くにまで運んだみたいだが、観客席の向こうのサークル活動
をしている人たちの耳には届かなかったようだ。
- 187 名前:13-16 市井紗耶香(19) 投稿日:2001年09月01日(土)07時06分09秒
- このナイフはホントは林檎や梨やキウイを切ってもらいたかったんだよね。
あまい果実が大好きなんだよね。
ゴメンね。きっとそれはかなわないよ。
あなたが切り裂くことができるのは私の血だけなんだ。
おいしくないかもしれないけど、その後は多分、警察の鑑識とかに回されてもう2
度と何かを切ることができないだろうから、しっかり味わってね。
ホント、あなたを凶器にしてしまってゴメンナサイ。
茶色のプラスティック製の柄を握りながら呟いた。
- 188 名前:13-17 市井紗耶香(19) 投稿日:2001年09月01日(土)07時08分08秒
- グラウンドでは人が集まって、ランニングを始めていた。ベースを一周している
がダラダラとしていて、一番前の人が掛け声をかけてもあまり後ろの人たちは反応
せず、早く帰りたがっていた。
「今からどうする?」
「俺、デートなんだ」
「今から?」
「アホ、明日だよ。早いから帰るっつーこと」
クールダウンを終え、足もとからチャカチャカと金属音を立てながら、続々とグラ
ウンドを後にする。
ドキドキしてきた。手の平からじんわり汗が出て、持っていたナイフをすべり落と
しそうになった。完全に人が見えなくなってから、グラウンドに下りた。
- 189 名前:13-18 市井紗耶香(19) 投稿日:2001年09月01日(土)07時09分20秒
- 人影はない。
もう少しすると照明が落ちるだろう。
その間だけでいい。歌わせてほしい。
ピッチャーマウンドに私は立った。
目をつぶると、幻聴が聞こえてきた。
『紗耶香〜!』
『がんばれ〜!』
これはおそらく武道館の時の声援だ。もう一年近く経つというのに、あの時の体の
芯から震えるような感動を私は忘れない。
「絶対に戻ってくるからね!」
あの時は、戻ってこれると信じていた。
何でもできるような気がした。
2、3年後にソロデビューして、それから数年してここで歌えるような気がしていた。
- 190 名前:13-19 市井紗耶香(19) 投稿日:2001年09月01日(土)07時10分17秒
- 目を開けると幻覚が見えた。それが幻覚だとすぐに知った。
殺風景だった外野の芝生の上にはライブの機材がびっしりと備えられ、今までガラ
ンとしていた観客席が人で埋め尽くされていた。
そして、人の全ての視線が私に向けられていた。手にはナイフのはずだったのに、
マイクのように見えた。
「みんな、ありがとー!帰ってきたよ!」
私は叫んだ。すると、ファンが一斉に歓声を上げた。
「ホントはオリジナル曲を歌いたいんだけど、作ってないから歌えないんです!」
幻覚だとわかっていた。
幻聴だとわかっていた。
全てが私の頭の中で作られるキチガイな産物にすぎなかった。
それでも、そんな想像ができる自分に感謝した。
「だから、この歌を歌います!聞いてください。ちょこっとLOVE!市井紗耶香
ソロバージョン!」
最後が近づいている自分を感じた。
心臓が最後の灯火のように激しく脈打つ。
- 191 名前:13-20 市井紗耶香(19) 投稿日:2001年09月01日(土)07時11分00秒
- ♪ほんのちょこっとなんだけど、髪型を変えてみ〜た〜
♪ほんのちょこっとなんだけど、そこに気がついてほしいぞ〜
後藤のパートも圭ちゃんのパートも私は歌った。
ファンのみんなも私の最後のエネルギーに負けないくらい大きな声をあげる。
ホントのファンは何て言うだろう。
悲しんでくれるだろうか。
数日後にあるだろう私の葬式に、どれだけの人が来てくれるのだろうか。
- 192 名前:13-21 市井紗耶香(19) 投稿日:2001年09月01日(土)07時12分48秒
- ♪マルマルマルマルマル、フー!
歓声は最高潮に達した。
四方八方から、
『紗耶香〜!最高!』
『帰ってきてくれてありがとう!』
なんて声が聞こえてくる。
歌い終わると私はぎゅっと目を閉じた。
涙は出なかった。
1秒、2秒、3秒、4秒…。
土と人工芝の匂い。
冷涼な空間。
心臓の鼓動。
体の表面全体に感じる汗。
酷使してヒリヒリする喉。
ボサボサになって不自然に風を受ける髪。
延々と私の体を流れてくれた血。
- 193 名前:13-22 市井紗耶香(19) 投稿日:2001年09月01日(土)07時13分40秒
- ありがとう。
今まで、ありがとう。
目を開ける。
もうそこには誰もいない。
冬の夜の、独特の静けさの中に、空調設備の音と照明の音だけが遠くから聞こえ
る。
ただっ広い空間に一人、惨めに佇む私。
夢は…終わったんだ…。
こんな人生だったけど、
17年しか生きれなかったけれど、
きっと私は誰よりも幸せだったよ。
- 194 名前:13-23 市井紗耶香(19) 投稿日:2001年09月01日(土)07時15分38秒
- 亜依ちゃん。
もうすぐそっちに行くからね。
あんまり叱らないでね。
死ぬってこういうことなんだね。
ああ、これがホントの走馬灯って言うんだろうね。
私と出会ったいろんな人が目の前に映るんだ。
小学校の時、唯一無二の親友だったアユミちゃん。
私の初恋のタカヒト君。
私をイジメていたマモル君。
登校拒否になりそうだった私を救ってくれた井上先生。
いっぱいいっぱい、いろんな人が私を取り囲んでくれた。
モーニング娘。になって、きっと他の人よりもいろんな人に会った。
みんな覚えているよ。
出会った全ての人に感謝の気持ちでいっぱいなんだ。
生きるために、私を取り囲んでくれた全ての人に、物に。
- 195 名前:13-24 市井紗耶香(19) 投稿日:2001年09月01日(土)07時16分12秒
- ありがとう。
私を支えてくれてありがとう。
見る見るうちに照明が落ちはじめる。
やがて目を閉じても開いても同じ光景になるだろう。
「みんな、本当にありがとう。そして…」
「さよなら」
私はナイフを強く握り締めた。
- 196 名前: 投稿日:2001年09月01日(土)07時17分09秒
- >>1 のリンクはもうアカンやん、と思いつつ更新。おやすみ。
- 197 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月02日(日)00時07分38秒
- とうとうクライマックスですね・・・
- 198 名前:13-25 市井紗耶香(20) 投稿日:2001年09月03日(月)01時27分05秒
〜市井紗耶香〜
私をためらわせたのは、どっちだったんだろう。
落ちた照明が再びついた。
同時に人の声がした。
「紗耶香!」
目の前に広がる明るい光景に私は戸惑い、私の名前を呼ぶ声に思わず顔を向けた。
「裕…ちゃん?」
いや、裕ちゃんだけじゃない。なっちも圭織も矢口も後ろに続いて、三塁側のベン
チから顔を覗かせた。
「待ってや、紗耶香!」
「なんで…?」
4人は私の戸惑いを無視して、走ってやってきた。
罪悪感みたいな気持ちがあるのだろうか。私はじっと見つめることはしなかった。
ホームベースと三塁ベースの間に伸びる白線を裕ちゃんが超えたところで、私は叫
んだ。
- 199 名前:13-26 市井紗耶香(20) 投稿日:2001年09月03日(月)01時27分42秒
- 「来ないで!」
ナイフを自分の喉元に向けると、裕ちゃんたちは一瞬ひるんだ。
「来たら死ぬから!」
「アホ、来なくても死ぬ気やったんやろ?そんなことさせへんで!」
裕ちゃんが私の脅しにも関係なく、ズカズカと近寄ってくる。
「裕ちゃん、待って!」
なっちが裕ちゃんの袖を引っ張る。
「何すんねん!」
「説得しよ!ホントに死んじゃうよ!」
私が腕に力を入れた瞬間だった。もし、なっちが制止させなければ、ホントに喉を
突き刺していたかもしれない。
そのように一瞬思い、なぜかぞっとした。
- 200 名前:13-27 市井紗耶香(20) 投稿日:2001年09月03日(月)01時32分10秒
- 「わかった…」
裕ちゃんが前に進むのをやめて、
「私たちが来た理由はわかるよな?病院帰ろ。死んだらアカン」
と言った。
「どうして…ここだってわかったの?」
「ごっちんがね、『多分ここだ』って…」
矢口が小さな体を震わせながら、優しく諭すように言った。
「後藤が…」
「紗耶香。やっぱダメだよ。死ぬなんて紗耶香らしくないよ。前を向いてないと紗
耶香らしくないよ…」
「矢口にそんな風に言われちゃっても意味ないよ」
私は4人を睨んでそう言った。
「みんな、どうしてこんなところに来るの?私のことなんかどうだっていいんでし
ょ?もうメンバーじゃないんだから…友達だなんて思っていないんでしょ?じゃあ
ほっといてよ」
「違うよ、なっちはなっちなりに…」
「あんたたちは私を壊したんだ!!」
なっちの言葉をナイフを振り下ろし、4人と私との間の空間を切り裂くことで制した。
- 201 名前:13-28 市井紗耶香(20) 投稿日:2001年09月03日(月)01時34分58秒
- 4人とも一歩退いた。
「ずっとつらかった!誰にも見向きもしなくなって。それだけじゃない、私をバイ
菌扱いして…人間として見てくれなくなった。私が…気持ち悪かったから、圭織も
なっちも…裕ちゃんも矢口も…テレビでは『応援してます』なんて言っちゃって、
でも私と触れることもできないくせに…偽善者のくせに…」
「紗耶香…」
なっちが目をきつくしながら唇を噛みしめた。その目から放たれる光はなっち自身
に降り注がれている。自戒の念だ。しかし、もう遅い。どんなに後悔したってこの
砕け散ったカケラたちはどうがんばっても元には戻ってくれない。私は落ちる涙を
ナイフを持っている右手の甲で拭った。
「この前のことは…ホントごめんって思ってる。あん時は、紗耶香が勝手に公表な
んかするもんだから、時間がなくなっちゃって、そのせいであんまり振り付けが
上手く行ってなかったこともあってイライラしてたんだ。だから少し紗耶香に腹が
立っていたことは認める。だけどね…本当は気持ち悪いなんてこれっぽっちも思っ
ていないよ。だから…」
矢口の言葉に私は即座に首を横に振る。
- 202 名前:13-29 市井紗耶香(20) 投稿日:2001年09月03日(月)01時37分29秒
- 「あの時のみんなの目は本物だった…。知ってる?病気になるとね、感覚って鋭く
なるんだよ。だからまだ鮮明に覚えているんだ。心に傷として深く深く刻まれてい
るんだ。もう騙されないから。その場しのぎで『友達だ』なんて言ってもムダなん
だから…結局はみんなも私のことはバイ菌扱いなんだ!」
「私らは別に紗耶香のことバイ菌だとかそんな風に思ってない!メンバーみんなそ
うや。紗耶香が愛したモーニング娘。のメンバーやで。もっと信じてな」
裕ちゃんが少し怒りに任せて言った。
「信じられるワケないよ…」
一度大きく目をつぶって肺に空気を入れた。みんなに味わったあの時の屈辱…。そ
れはみんなと培ってきた苦しいけど楽しい思い出を上回っていた。
- 203 名前:13-30 市井紗耶香(20) 投稿日:2001年09月03日(月)01時40分06秒
- 「じゃあ、どうしたら信じられる?そうや、触れることもできないくせに…って言
ったな。わかった。紗耶香を抱き締めればいいんやな。私は紗耶香が好きなんや。
そんなんどうってことないで」
裕ちゃんが一歩一歩私に近づいていた。私は目をつぶっていたせいでそのことに気
付かなかった。ふと目を開けると、目の前に裕ちゃんがいた。
「わあ!!」
驚いた私は思わず持っていたナイフを振りかざした。
「裕ちゃん!」
後ろから圭織の声が飛ぶ。私と裕ちゃんの間に3mほどの間が空いた。そして、裕
ちゃんは右の手首の下あたりを左手で抑えていた。
ポタポタポタ。
赤い液体が裕ちゃんの腕から流れていた。それは裕ちゃんの血だと…そして、私が
やったことだと気付くのに少し時間がかかった。
- 204 名前:13-31 市井紗耶香(20) 投稿日:2001年09月03日(月)01時42分05秒
- 傷は思ったより深そうだった。手では流れる血を受け止めることができないぐらい
でポタポタと血が土の上に落ちていた。裕ちゃんは顔を歪めながら、
「じゃあ、どうすればいいねん…」
怒りと痛みを混ぜながら吐き捨てたように言う。
「こ、今度は…今度は近寄ったら刺すからね!ホントだから!」
そう言って、私は数m、後ずさった。
手が震えていた。下手するとナイフを落としかねないくらいだ。
血を見て…いや、その前の喉を突き刺そうと力をこめた時から、「死」が異様に近
くなった気がしていた。死のうと思ってここに来たのに、具体的に「死」の存在が
前に立って私は怯えていた。
「どうして…もっとラクに死なせてよ」
私は死ぬのが怖いの?
- 205 名前:13-32 市井紗耶香(20) 投稿日:2001年09月03日(月)01時44分56秒
- そうじゃない。
もう生きている意味なんてないんだ。
だから、目の前に開かれた道は死ぬことだけなんだ。
怖いわけがない。
生きていく方がずっと怖いことなんだ。
「絶対、死なせんからな!」
なっちと圭織と矢口が裕ちゃんを囲んで自分の服をちぎって傷口にあてている時
に、裕ちゃんは苦渋に満ちた表情の中、必死に叫んだ。
多分、どうやったって4人が「じゃあ、帰ります」と引き下がることはないだろう。
ましてや、ここから逃げて他の場所で死ぬなんて考えられなかった。
「じゃあ、みんな看取って…。私の体を病院になんて連れていかないで、ただ抱き
締めてほしい。天国で見てるから…そしたら友達だって…信じてあげる…」
一瞬ふと幸せだと思った。
- 206 名前:13-33 市井紗耶香(20) 投稿日:2001年09月03日(月)01時49分07秒
- 誰かに看取られながら、そして、こんな場所で死ねるなんて。
私は心臓にナイフの先を突き立てた。
後はちょっとだけ勢いをつけてナイフを押し込めば済む。4人の狼狽を見ていると
涙でくもっていった。
いや、やっぱり違う…。
幸せなんてウソだ。
ホントはこんな表情を見ながら死にたくないよ…。
ねえ、笑って…
- 207 名前:13-34 市井紗耶香(20) 投稿日:2001年09月03日(月)01時50分05秒
- …くれるわけないか。
私は口の端を吊り上げて薄く笑って、目を優しく閉じて、腕に力をいれて…そして…、
「ごっちんは…!」
やぐっちゃんが声をあげた。
ハッとして私は目を開いた。
「私たちのことなんか信じてくれなくたっていい!でもごっちんは…ずっとずっと
紗耶香を支えてくれていたんでしょ?ごっちんのためにも絶対死んじゃダメなんだ
から!」
「ご…とう?」
表情を変えてしまった私に矢口は「うん」と頷いた。
- 208 名前:13-35 市井紗耶香(20) 投稿日:2001年09月03日(月)01時50分51秒
そして、その直後、
「市井ちゃん!!!」
遠くから声が響いた。
その方向を向かなくたってすぐわかる。
私の脳裏に深く深く刻まれている声。
後藤の声。
- 209 名前: 投稿日:2001年09月03日(月)01時52分30秒
- 更新終了。ではおやすみなさい。
- 210 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月03日(月)03時41分15秒
- 市井ちゃんを思いとどまらせることが出来るであろう唯一の人物の登場ですね。
- 211 名前:13-36 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時36分14秒
〜後藤真希〜
私の目には4人と市井ちゃんが映った。市井ちゃんは生きている。ほっとしたのも
束の間、市井ちゃんの手にはナイフが握られているのがわかって、ほんの一瞬緩ん
だ緊張をまた引き締めた。
「ごっちん、行こ!」
隣りにいたよっすぃーが声をかけると、私はうなずき、走って市井ちゃんたちに近
づいた。
「後藤…」
ナイフを下ろしながら、市井ちゃんは呆然と立ち尽くしながら走る私たちを見ていた。
ふと、なっちが獲物を狙っているように市井ちゃんに近づいているのが見えた。
「なっち待って!!」
え?と驚きとともになっちが私の方を振り返る。
多分、なっちは呆然している市井ちゃんを見て、ナイフを奪おうとしていたんだろう。
- 212 名前:13-37 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時37分23秒
- もしかしたら成功するかもしれない
なっちがナイフを奪い、そして、市井ちゃんを取り押さえることはできるかもしれ
ない。死なせずに済むのかもしれない。
でも、それじゃダメなんだ。
そんなことしたって市井ちゃんを傷つけるだけなんだ。
市井ちゃんが一人になっちゃうだけ。
何の解決にもならないんだ。
市井ちゃんは私の声にハッとして、脱力しかけていた体を奮い起こして、ナイフを
ぎゅっと握り締めた。
私たちは裕ちゃんやなっちや圭織ややぐっちゃんの側までやってきた。見ると、裕
ちゃんの手からは赤色の液体が落ちているのがわかった。
「裕ちゃん、大丈夫!?」
圭ちゃんも同時に気付いたようで、心配顔を裕ちゃんに向ける。
「ウチのことなんてどうでもいい…。それより、ごっちん…頼む…」
と言ってから市井ちゃんのほうに目配せした。
私は「うん」と頷いて、市井ちゃんを見た。
- 213 名前:13-38 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時38分37秒
- 私は一歩近づいた。
すると市井ちゃんは一歩退いた。
私は更に一歩近づいた。
するとまた市井ちゃんは一歩退いた。
埋まることのない二人の距離。
今までの私と市井ちゃんの心の距離を表しているようだった。
どんなに市井ちゃんを理解したつもりでも、永遠にこの距離は埋まることがなく、
私は苦しんだ。ちょっと違うのは、市井ちゃんは退いているわけじゃなく、私が一
歩進んだつもりでも実は全く前に進んでいなかったこと。
埋まらない二人の距離。
- 214 名前:13-39 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時39分09秒
- そうだ。
市井ちゃんの為にできること。
それは二人の距離を埋めること。近づくこと。
踏み出した「つもり」じゃダメなんだ。
それで満足していちゃダメなんだ。
確実に一歩踏み出すんだ。
”究極の距離”に少しでも近づくために。
- 215 名前:13-40 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時40分27秒
- 「市井ちゃん、帰ろう」
私は優しく微笑んだ。市井ちゃんはためらくことなく首を横に振った。
「後藤が言ったって…変わらないよ…。だって私ってガンコだから」
「そんなこと、私が一番知ってるよ。でも私もガンコだから。私はこれから市井ち
ゃんが良くなっていく様子を見ていきたいんだ。だから帰ってもらうんだ」
私の言葉に市井ちゃんは、
「なるわけないじゃん。バカだよ、後藤は」
と吐き捨て、プイと横を向いた。
「なるよ、私は信じてるから」
市井ちゃんは顔を戻す。
「いい加減なこと言わないで。後藤にそんなこと言われたって何の意味もない」
「なるよ。絶対、元気になる」
強い眼差しを市井ちゃんに与えた。しかし、
「じゃあ、このやせ細った腕は何?この頬が削がれた顔は何?どうみたって元気に
なれるわけない。別に今死ななくたって、すぐにこのまます〜っと消えるように死
んじゃうんだ。そんなんだったらココで死なせてよ」
と自嘲しつづけた。
「市井ちゃんが死ぬわけない」
私は呪文のように同じようなニュアンスを続ける。市井ちゃんはそんな私にカッと
きたようで怒りをあらわにする。
- 216 名前:13-41 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時41分39秒
- 「じゃあ、賭ける?私が死ぬか生きるか?」
卑しく口を歪ませる市井ちゃんに対して、私は即座に、
「うん、いいよ」と言い、「何を賭けるの?」と聞いた。
「後藤の命。私が死んだら後藤も死んで」
できるワケがない。
そういう思いを胸に宿しながら市井ちゃんは言っているようだった。
「紗耶香…」
遠くからなっちが呟く。
「ホント言うとね…私は一人で死んでいくのはイヤだったんだ…」
悲痛な声が広い空間を揺らす。
「一人でね、死に場所を探していて、ここに辿り着いた。頭の中でいろんな人に囲
まれている自分を想像したんだ。そしたらすっごく幸せになった。でもいざ死のう
とすると頭の中の人って消えちゃうんだよね。神様が自殺しようとしている人を、
そんな満足に死なせてくれるワケないよね…。だからね、私は悪魔に頼もうかな?
って。ねえ後藤。私も死んだら後藤も死んで」
- 217 名前:13-42 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時42分47秒
- 市井ちゃんは何も言わない。私は手を差し出す。
「さあ、帰ろう」
「何、バカなこと言ってんのよ…。どうせ、私が死んだら後藤が死んだかどうかな
んてわからないんだから」
「信じてよ。そんなバカな賭け、してもしなくたって私、死ぬつもりだったんだか
ら。市井ちゃんがいないと生きてたって意味ないもん」
市井ちゃんは唇を噛みしめた。ナイフを再びギュッと握った。少しは嬉しくもあっ
たんだろうか。しかし、そんな言葉で市井ちゃんの心は完全には揺らがない。
「…やっぱ、信用できない…」
市井ちゃんは私の目から逸らすように下を見ながら言った。そして狂気のごとく頭
を強く振った。
「信用してよ。私は本気だよ」
「できない…だから…」
「うん?」
「今死んで。私もすぐに死ぬから!」
市井ちゃんは持っていたナイフを体の前に突き立て、私にゆっくり近づいた。
- 218 名前:13-43 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時43分38秒
- 「ちょっと、紗耶香!!」
後ろにいた矢口が叫ぶ。
私を除く一同が青い顔をして、身構えた。
「ねえ、いいでしょ?だって死んでくれるんでしょ?私が後藤を殺したほうがわか
りやすいよ…」
市井ちゃんが一歩一歩近づいてきた。
「やめて!紗耶香!!」
「何やってんねん、後藤!!ヤバイって!」
市井ちゃんの鬼気迫る表情と怪しく光る果物ナイフに誰もが本気だと思っただろ
う。私も本気だと思った。きっと、私を刺して、その後、私の血がついたナイフで
自分を刺すだろう。
私はそれでもいい、と思った。
市井ちゃんの行動に私は立ちすくんだわけではない。
ここで逃げたら市井ちゃんはきっともう元には戻らない。
そしたら、全ては同じだ。このまま生きてもそれは死んだと同じこと。
- 219 名前:13-44 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時44分48秒
- 市井ちゃんの全てを受け止めたい。
それが私たちの生きる道なんだ。
2m、1mと近づき、市井ちゃんは止まる。私は優しく微笑む。
天使なんかじゃない。マリアなんかでもない。
ただの後藤真希。
そして、向こうに見えるのは悪魔でも殺人者でもない。
ただの市井紗耶香。
生きるとか、死ぬとか…そんな言葉を私は市井ちゃんと超えたい。
目を閉じた。
市井ちゃんは「うわぁあ!」という声が私に近づいてくるのを映像なしで聞いてい
た。悲痛溢れる叫びなのに、私には一心の救いを求めている声に聞こえた。
「紗耶香!ごっちん!!やめろ!」
裕ちゃんの声に私も市井ちゃんも聞き耳を立てない。
そして、二人のシルエットは重なった。
間にナイフを挟みながら。
- 220 名前:13-45 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時45分34秒
- 裕ちゃんはその場にへなへなと座りこんだ。
他のみんなもほとんど腰が使い物にならないくらい落ちていた。
ナイフは…私の腰の横を突きぬけていた。
「どうして…?」
「うん?」
今日、初めて市井ちゃんに触れた。
感情は轟轟と燃え滾っていたが、その心を纏う体は冬の夜の風にさらされていたせ
いで、冷え切っていた。
私は市井ちゃんを抱きしめた。私の体の温もりを市井ちゃんに届けるように。
「どうして逃げないのよ…」
掠れかすれの声が耳元で囁かれる。
「じゃあ、なんでそらしたの?」
逆に問い掛けた。
- 221 名前:13-46 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時46分16秒
- パサッという音が足もとから聞こえた。ナイフが落ちた音だ。
私は市井ちゃんを更に強く抱き締めた。
「うわぁあ!!」
体中の力を振り絞って泣き喚く市井ちゃん。
その体を抱きしめる私。
細くて、弱々しくて、震えていて、私のよく知っている市井ちゃんじゃなかったけ
ど、確かにその体は市井ちゃんだった。
- 222 名前:13-47 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時47分03秒
- 市井ちゃんのために何とかしたい。
ずっとずっと思っている。
ずっとずっと願っている。
だけど、ずっとずっと空回りしている。
それはきっと永遠に続くだろう。
でもきっとその空回りを止めないだろう。
人は大好きな人に対してどうしてそう思うのだろう。
何もしてやれないのに、きっとその本質は自己満足だ、単なるエゴだって知ってい
るのに。
自分を追い詰め、さもすれば罵倒する存在なはずなのに。
何とかしたい。
生きている限り、そう思うことを止めることはできない。
- 223 名前:13-48 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時48分01秒
- 「私は…市井ちゃんを信じてるよ…だから、死なないで…」
「私…私…」
「亜依ちゃんとかね…いろんな人が病気で死んでいるのは知ってるよ。それに市井
ちゃんの体が具体的にどうなっているかなんて知らない。でもね…私は何となくわ
かるんだ。市井ちゃんなら…私が好きな市井ちゃんが死ぬわけないって。なぜかわ
からないけど、それだけは真実だって胸を張って言えるんだ…」
「後藤…」
一人って苦しいよね。
だって、どんなに頑張ったって人間は不完全なんだから。
完全になりたくて、でもなれなくて、絶望を感じたりして生きている。
それでも生きなきゃいけないってなぜかわかる?
それは周りに人がいるから。
憎まれても、貶されても、そこにはまた別の不完全な人がいるから。
いつか、愛してくれる可能性がある存在だから。
みんなが寄り添って、一つの像を作るんだ。
優しい思いを作るんだ。
- 224 名前:13-49 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時48分39秒
- 「だから…もう死ぬなんて言わないで…」
言葉だけじゃないよ。
この瞳を見て。
この温もりを感じて。
この鼓動を聞いて。
市井ちゃんは一人じゃないんだよ。
心も体もふたりの距離はゼロなんだ。
- 225 名前:13-50 後藤真希(29) 投稿日:2001年09月04日(火)03時49分19秒
- 「…にたくない…」
市井ちゃんは掠れた声をあげた。
冷え切った体の中にあった熱い感情は私の温もりを着火剤にして、再び激しく表面
に表れた。
「私…死にたくない…死にたくない!死にたくない!!」
市井ちゃんも私の体を強く抱き締めた。
「死にたくないよぉ…」
市井ちゃんの涙が私の頬に触れる。
それはぼろぼろと静かにこぼれる、透明の結晶だった。
- 226 名前:第13章 終 投稿日:2001年09月04日(火)03時51分09秒
- 第13章 生と死と 〜final distance〜
- 227 名前: 投稿日:2001年09月04日(火)03時55分24秒
- ま、そんなこんなで、こういうわけです。
あと2章。よろしければ結末を見てやってください。
第14章 生きることは変わること 〜still growin' up〜
- 228 名前:ラークマイルドソフト 投稿日:2001年09月04日(火)03時56分55秒
- リアルタイム…涙が…いつもながら。
- 229 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月05日(水)00時20分53秒
- 痛い中に愛がいっぱい…
- 230 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月08日(土)08時45分37秒
- あと2章ですか。
お待ちしています。
- 231 名前:14-1 後藤真希(30) 投稿日:2001年09月11日(火)06時53分01秒
〜後藤真希〜
次の次の日。
私はあらかじめ連絡をしておき、つんくさんの元を訪れた。
実はつんくさんとアポを取ったのは今回が初めてだった。つんくさんは少々驚いて
いるみたいだった。私の強い口調に、
「わかった」
とシリアスそうに返事をしてくれた。場所と日時はつんくさんが指定した。場所は
事務所の2Fの応接間。朝の6時。その日は朝の7時に集合だったので、好都合だ
った。
つんくさんに言われたとおり、私はちょうど6時に事務所に着いた。応接間に入ろ
うとしたが、先約がいるみたいで私は躊躇する。女の人の声と、もう一人の声は間
違いなくつんくさんだ。私は首をかしげたが、このまま待っていて遅れたと思われ
たら嫌だなぁと思い、ノックして扉を開けた。
「お、来たな」
あいかわらずのサングラス姿のつんくさんとその対面に座る背中から、
「ごっちん?」
と聞きなれた声が飛ぶ。
「え?何で?」
裕ちゃんだった。私もそうだけど、向こうも驚いていた。
「なんか、同じことみたいやからな。後藤も市井のことやろ?」
つんくさんの言葉に私は頷いた。
- 232 名前:14-2 後藤真希(30) 投稿日:2001年09月11日(火)06時54分17秒
- 「で、後藤は何や?中澤はおらん方がいいか?」」
私を応接間のソファに促してから、つんくさんは聞いた。
私は無言で首を横に振る。隣りにいる裕ちゃんは、いつもより薄化粧で、清楚な感
じがした。朝のせいだろうか。
「提案があるんです」
つんくさんは目の前のコーヒーのマズさに顔をしかめている時に私は思い切って言
った。
「冷めてるがな…。うん、何?」
「えっと…、ホントは私には関与できないところなんですが…」
「うん」
「こんな中学生の小娘が言ったって、どうしようもないんですが…」
「だから、何や?」
隣りの裕ちゃんはためらって話が進まない私に少し腹が立っているようだ。一方の
つんくさんは穏やかにコーヒーを飲み干していた。
「つんくさん」
「ああ」
「東京ドームコンサート開きたいんです!市井ちゃんのソロライブを!お願いしま
す!」
- 233 名前:14-3 後藤真希(30) 投稿日:2001年09月11日(火)06時55分23秒
- 勢いを懸命につけて言った。
頭を下げ、テーブルの冷たい角におでこをつけた。
裕ちゃんは目を丸くして驚いていた。
「何やて?」
裕ちゃんの声に私は顔を上げる。視界に裕ちゃんもつんくさんも入らないところに
目線を向け、ちらりちらりと二人を一瞥する。
「だから…市井ちゃんの夢ってのが…東京ドームでライブをすることってワケで…
じゃあ、私たちで…何とか叶えてあげようかなって…」
私はしどろもどろになりながら、懸命に言いたいことを言った。
こんなことは無謀で、費用とか日程とか何にも考えていない浅事だということはわ
かっている。
だけど、何か市井ちゃんを勇気づけてあげたい。
あんまり理由は系統づけられないけど、私は素直にそれが叶えばと願っていた。
止まった空気にいたたまれなくなる。睨む裕ちゃんの顔を見てしまい、少し引いた。
- 234 名前:14-4 後藤真希(30) 投稿日:2001年09月11日(火)06時56分04秒
- 「…って…ダメ…です…よねぇ?」
裕ちゃんの目線を逸らしながらつんくさんをうかがうように見上げた。
「ははは、おもろい!」
つんくさんももちろん驚いていたがすぐに表情を変え、自分の膝をポンと叩いた。
「やっぱ、モーニング娘。ってええなぁ…」
自分で作ったグループをさも羨ましげに呟く。
それにしても、私が思っていた反応とは違っていた。もうちょっと、驚き、呆れる
かなぁと思っていたのに。
「あの…それってどうゆう…?」
「それは、なんや。中澤に聞いてみい」
そう言われて、少しさっき睨まれていた裕ちゃんの残像に怯えながら、裕ちゃんの
方を振り向く。裕ちゃんは不思議な驚き方をしていた。
「裕ちゃん?」
「なんで、私とかぶんねん…」
- 235 名前:14-5 後藤真希(30) 投稿日:2001年09月11日(火)06時56分49秒
- 「は?」
今度は私が驚く番だ。かぶるってことは…。
「そや、中澤にもさっき同じ提案されたんや。市井の夢を叶えましょうって」
つんくさんは立ち上がったので、私と裕ちゃんはそれを見上げる格好になった。
「このままやったらメンバー全員に言われそうやからな」
つんくさんは自分の腰を叩きながら応接間を出ようとした。
「あの…それで…?」
「こんなこと、俺にだってどうすることもでけへんよ。もっと上の人間が決めるこ
とや。それに東京ドームなんて1年も前から押さえとかんとアカンところやねん
で。今から計画立てて…なんてしたら1年以上かかるかもしれへん。それでもいい
か?」
「じゃあ…」
私の顔が季節の花のようにぱーっと開いた。
「できる限りやってみるよ。でもダメやっても恨まんといてな」
そう微笑みながら言って、つんくさんは応接間を出た。
- 236 名前:14-6 後藤真希(30) 投稿日:2001年09月11日(火)06時58分51秒
- パタンという音がしてから若干の間があった。裕ちゃんと顔を見合わせて、にらめ
っこするみたいになった。そして、どちらからというわけでもなく、蕾がほころぶ
ように少しずつ表情がほぐれていく。
「やった〜!」
同時に声をあげ、私たちは喜びを爆発させるかのようにハイタッチした。そして、
抱き合った。
ちょっとだけ、その興奮が落ち着くと、裕ちゃんはパッと私から離れた。
「あ、ごめん…」
「いや、ウチかて…」
また、空気が止まる。
「まさか、裕ちゃんまで同じこと考えてるとは思わなかったなぁ」
裕ちゃんを見ると、「へへへ」と鼻の下を人差し指でくすぐりながら変な笑い方を
していた。少し子供っぽい。
「あの…なんや…」
手のひらをゴシゴシと腰のあたりで拭く裕ちゃん。
「ウチら…仲直りせぇへんか?」
気恥ずかしそうに裕ちゃんは言った。目線はあさっての方を向いていて、本当に恥
ずかしそうだった。
「うん!」
私はためらうことなく手を出した。そして、裕ちゃんもさっき拭いていた手を差し
出し、握手した。
固い固い握手だった。
そして、顔を再び見合わせ私たちは波長を合わせたように笑った。
- 237 名前:14-7 後藤真希(30) 投稿日:2001年09月11日(火)06時59分34秒
- また一つモーニング娘。が好きになった。
歪んでしまった、と思われていたモーニング娘。という器。
また合致して、私をすっぽり包んでくれるような気がした。
人を包む器っていうのはあたりまえだけど形あるものじゃないんだ。
だからきっと脆いもので、ある瞬間に突然なくなってしまうものかもしれないけ
ど、逆にいえば、一瞬で修復できるものなんだ。
そのものをただ純粋に信じる限り。
- 238 名前:14-8 後藤真希(30) 投稿日:2001年09月11日(火)07時00分12秒
- 「そうや、せっかくやからここでごっちんにだけは伝えとこうかな」
裕ちゃんは顔に冗談ぽい笑みを浮かべながら、目だけはストレートに私の瞳を捉え
ていた。浮かせていた腰を落とさせた後、私の肩を優しく抱いた。
そして囁いた。
裕ちゃんの告白で私の頭の中は一瞬真っ白になった。
「なんで?だって…これからって時なんだよ…やっと…」
口から出た言葉は一つの文にまで到達しない。
元に戻ったと思ったのに…。
これから、またモーニング娘。をやっていけると思ったばかりだったのに…。
なんで、脱退なんかするの?
- 239 名前: 投稿日:2001年09月11日(火)07時04分15秒
- 1週間待たせてすみません。予定が埋まってまして…。
次回更新はまたどっか行くのでその後で。。。
- 240 名前:14-9 後藤真希(31) 投稿日:2001年09月13日(木)07時51分28秒
- 〜後藤真希〜
胸が苦しくなって、少し抑えた。ちょっと、亜依ちゃんの時と似ていた。
自分の思い通りにならなくて、でも私にはどうすることもできない。
「やめないで」って言ってもムダなことは分かっていた。
口が止まった私を裕ちゃんは申し訳なさそうに見ていた。
「どうして…そんなこと考えるの?やっぱり…今回のこと?」
裕ちゃんは大きく首を横に振った。
「ずっとな、考えててん。だから今回のこととは関係ない……いや、一応あるかな?」
私は少し胸を詰まらせる裕ちゃんを見た。
「だったら、ダメだよ…。ちゃんとね、元に戻ったんだよ。私たちや…市井ちゃん
の大好きなモーニング娘。に…。私たちの力で歪んじゃっていたものを直したん
だ…。だから…」
一度首を大きく横に振ったまま、溢れる感情を抑えるように裕ちゃんは私を抱きよ
せる。
私は何も言えず、ただ次の言葉を待った。
- 241 名前:14-10 後藤真希(31) 投稿日:2001年09月13日(木)07時56分56秒
- 「紗耶香が脱退する直前の話や。ホンマのこと言うたら、もうその時からウチだっ
て脱退しようって思ってた時期やってんけどな。紗耶香が脱退宣言して、もうでき
んようになってしもた。そんな時期にな、紗耶香と二人きりで話したんや。どこで
やったかな?そや、紗耶香ったら16なのに屋台のおでん行きたいって言ってきた
んや。そこでな、二人で飲んだ…って紗耶香はジュースやったけど。あたしは酒を
結構飲んだんやけど、あの日の会話ははっきり覚えてる。もしかしたら、生涯唯一
酔えへん酒やったかもな…」
何を話したの?
私は心の中でそう言いながら相槌を打った。裕ちゃんは凄寥感を漂わせながら2、
3度まばたきをする。
- 242 名前:14-11 後藤真希(31) 投稿日:2001年09月13日(木)07時57分37秒
- 「紗耶香がな、『モーニング娘。をよろしくお願いします』って言いよんねん。最
初にそれ聞いた時な、頭ん中がカーッとなったわ。なんか保護者ぶった態度も気に
くわんかったし、何よりウチの気持ちも知らんでわがままな奴や、って思った。で
もな、すぐに紗耶香の気持ちがわかってしもてん。おんなじ脱退を考えてた者同
士、それに前々から紗耶香とウチってずっと似てるなって思ってたから、当然っち
ゃあ当然なのかもしれへんけどな」
裕ちゃんは少し疲れたように肩でふーっと息をこぼした。私はただじっと裕ちゃん
を見つめていた。
- 243 名前:14-12 後藤真希(31) 投稿日:2001年09月13日(木)07時58分22秒
- 「『よろしく』って言葉がそれ以来、頭を離れんようになってしまって、ウチはウ
チに一生懸命頑張った…つもりや。でもな、それでもどっか違うような気がして…
って別にアンタらのせいじゃないで。27にもなったらいろいろあんねん。このま
ま向こう見ずで走るだけでいいんか?って。と、まあどっちつかずのまま、ずっと
過ごしていたんやけど、そんな時に紗耶香がHIV感染者やって聞かされた。あれ
からな二人きりで話した時に言ってた『モーニング娘。をよろしく』って言葉がヤ
バイほど頭ん中に繰り返したんや。それはもう、ハエみたいにブンブンブンブン。
何度も何度も」
裕ちゃんは私の肩を抱いていない左手を自分の頭の上でグルグル回した。
- 244 名前:14-13 後藤真希(31) 投稿日:2001年09月13日(木)07時59分24秒
- 「紗耶香はな、モーニング娘。が大好きやってん。もう戻る気はないやろうけど、
それでも心の拠りどころにしている故郷なんや。ウチもそうやしよくわかる。そ
したら、何とかしてモーニングだけは守らなアカンって思ってな。紗耶香のこと
や、きっと形の変わったモーニングなんて、キライやから。自分の故郷じゃないね
ん。家族のように暖かくてな、それでもお互いがライバルで、緊張感もある…そん
なモーニングを紗耶香はずっと見ていき、励みにしたいと思っていたに違いない。
でもな、今回のことで、それがどんどん変わっていく流れがあったような気がし
た。それは間違いなく紗耶香が作ってしまった流れで、もしそれを紗耶香が知った
ら、ネガティブに『自分が壊した』みたいにきっと思うはずや。それだけは避けた
かった…。だからな…だからな…」
裕ちゃんは胸を詰まらせたかと思うと、一滴の水滴を瞼から落とした。伸びた爪を
器用に扱いながら自分の目をぬぐった。
- 245 名前:14-14 後藤真希(31) 投稿日:2001年09月13日(木)08時00分11秒
- 「あたしはな…間違っていたんかもしれへん。でも、そん時は確かに思ったんや、
ていうかどんな風に接しても紗耶香を同情するだけやって。きっとあたしたちは何
にもできひんって。そしたらあたしがやることはモーニングを守ることしか考えん
かった…」
「裕ちゃん…」
裕ちゃんの吐露が一旦止まり、私は思わず名前を呼んだ。少し涙が含まれているか
すれた声しか出なかった。
裕ちゃんは私とは全く違うところで悩んでいたんだ。
きっとそれが裕ちゃんの市井ちゃんに対する愛情だったんだ。
裕ちゃんが言った通り、裕ちゃんと市井ちゃんって似てるなぁと思った。
泣き虫で卑屈になりやすくってして、それでもプライドばかりが強い。
でも、夢は呆れるぐらい大きくて、誰よりも相手のことを想っている。
少し、裕ちゃんが羨ましかった。
- 246 名前:14-15 後藤真希(31) 投稿日:2001年09月13日(木)08時03分59秒
- 「昨日やっとな、脱退しようって決めてん」
裕ちゃんは涙の止まった両目をパチパチと大きくまばたきさせてから言った。赤い
瞼を少し恥ずかしそうにさせながら私を優しげに見つめた。
「昨日でなちょっとだけ考えが変わったんや。ウチたちが作るモーニングは…紗
耶香が望むモーニングっちゅうのは、違うんじゃないか?って。ウチが守るのは
みんなの心であって、その心を入れるための器じゃない。みんなが成長していけ
ば、そんな器を守っていたらそっちの方がおかしくなるって」
「あ…」
少し絶句する。
裕ちゃんが言いたかったことはまさしくこれだったんだ。
元に戻そうとするだけじゃなく、新しく作っていく。
「成長」というキーワード。
私にはなかったキーワード。
裕ちゃんは立ち上がった。腰を伸ばしてウーンと唸った。
「だからな、脱退することに決めてん。後藤やみんなの心の成長を見守るのに、モ
ーニングに居座る必要なんてない。むしろ外から見ていたほうがいいかもしれんし
な」
- 247 名前:14-16 後藤真希(31) 投稿日:2001年09月13日(木)08時04分37秒
- 裕ちゃんは再度、握手を求めてきた。私もそれに応じた。
「うん…」
私は頷いた。
モーニング娘。に入ってよかった。
裕ちゃんがリーダーで本当によかった。
心からそう思った。
- 248 名前: 投稿日:2001年09月13日(木)08時06分49秒
- 14章あと1回。
- 249 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月14日(金)02時34分41秒
- 裕ちゃんの言葉が胸に染み入ります。
- 250 名前:14-17 市井紗耶香(21) 投稿日:2001年09月14日(金)07時44分20秒
- 〜市井紗耶香〜
ピッピッピッ。
相変わらずの白い天井。耳の側で一定のリズムで鳴る電子音。
温かいけどちょっと薄い白いシーツ。
右腕の刺さっている注射針とそこから伸びる点滴。
いつもと変わらぬ世界。
あんなに嫌っていた世界。
ただ、違うものがいくつか、病室を染めていた。
メンバーの…みんなの思いが込められたそれぞれのもの。
圭ちゃんの写真とか圭織の描いた絵とか、石川の声が入った歌(一度しか聞いてな
い)とか…。
ともかく私を想ってくれるグッズがいっぱいあった。
もう、ここは白一色じゃなくなっていた。
その中で私は、穏やかに時の流れを感じていた。
- 251 名前:14-18 市井紗耶香(21) 投稿日:2001年09月14日(金)07時46分26秒
- 「入るわよ」
お母さんの声が聞こえた。
「もうすぐ、春だね」
私はお母さんの姿を捉えるなり、そう呟いた。するとお母さんは窓の外を見て、
「そうだね。春だね」
窓から見える木々には新芽が顔を覗かせていた。
もう3月。
去年の今頃は、脱退を決める直前だった。ずっとずっと悩んでいた。歌を歌うたび
に自分の欲が出てくる一方で、後藤やメンバーを見るたびに、その欲は人を裏切る
ことになるという葛藤を抱えていた。
それに比べて今は…無我の境地だ。
迷うことなんか何にもない。
今のほうが気は楽なのかもしれない。
- 252 名前:14-19 市井紗耶香(21) 投稿日:2001年09月14日(金)07時47分25秒
- 「明日は退院だね。おめでとう」
「ありがとう」
私は起き上がって、お礼をした。
「モーニング娘。のみんなにも…ちゃんとお礼を言わなきゃダメよ」
「わかってるって」
あれから私は医者に絶望と言われる寸前まで悪くなったらしい。
しかし、それから私は奇跡的に回復した。
そして、私は一時的とはいえ退院する。
どこまで良くなっているのかは私にはわからないが。
あの東京ドームでの出来事を忘れない。
それが生きる力になって、体を動かした。
- 253 名前:14-20 市井紗耶香(21) 投稿日:2001年09月14日(金)07時48分46秒
- 裕ちゃんと石川以外のメンバーがやってきた。
後藤は真っ赤な花束を持って現れた。
「今回はこれくらい華々しくてもいいでしょ?」
後藤のぎこちないウィンクに私はウィンクで答えた。
「これから…みんな来ると思うから、もうちょっと退院は待ってくれない?」
圭織は、病人に対して「退院するな」と有り得ない言葉を言ったが、ただ苦笑する
だけで受け流した。
紺色の何の特色もないバッグを私は肩にかけ、
「じゃ、退院します」
病室にお礼を言った。
「間に合った!!」
息を切らせながら裕ちゃんがやってきた。確か、ほんの1時間前までは、脱退の記
者会見をしていたはずだ。
ここ1ヶ月でいろいろあった。ユニットの連続リリース。後藤のソロ発表(少し嫉
妬)。石川のレンタル(少し同情)。そして、裕ちゃんの卒業発表。
私が聞いたのは丁度2週間前。その時には「何で?」と少し哀しくなったし、怒り
さえ覚えたが、裕ちゃんの晴れ晴れとした表情を見ていると、そんな気は失せてい
った。
- 254 名前:14-21 市井紗耶香(21) 投稿日:2001年09月14日(金)07時49分51秒
- きっと、私と同じなんだ。
自分で決めたこと。その間にメンバーのこととか色々悩んで、悩んで、悩みまくっ
て、それでも出した結論なんだ。
私にできることはただ、笑って送りだすこと。
「裕ちゃん、おめでとう。そして、おつかれさま」
「アホ、それはあたしが言うセリフや。それに、まだモーニングを辞めたわけじゃ
ないで。まだ1ヶ月以上もあるんや」
「そうだね。これからもがんばってね」
「だから、それもあたしが言うことやって。紗耶香、おめでと。これからもがんば
れ」
乱れている息を整えながら裕ちゃんは懸命に言った。
「ありがと」
そうしてる間に石川もやってきた。どうやらレンタル関連のことでみんなとは別行
動だったらしい。
- 255 名前:14-22 市井紗耶香(21) 投稿日:2001年09月14日(金)07時52分34秒
- 「じゃ、みんなが来たことだし…」
お互いがお互いの顔を見合わせている。
私はワケがわからず、自分だけ一人ぼっちみたいでちょっと悔しかった。
「何?何?」
「ごっちん、言いなよ」
「私?いいの?」
後藤が裕ちゃんに確認してから、他のメンバーも見る。みな、一様に頷く。
「何よ。もう〜」
プックリ頬を膨らませる私に後藤は一度、息をついてから高らかに言った。
「今度のね、5月21日に東京ドームで市井ちゃんのソロライブが行われること
が決定しました〜♪」
- 256 名前:14-23 市井紗耶香(21) 投稿日:2001年09月14日(金)07時53分17秒
- 「はい?」
私は耳を疑った。意味が全くわからない。
「何で?」
「だって夢だったんでしょ?」
「そうだけど…」
「じゃあ決まり」
「ちょっと待ってよ。意味わかんない」
マジで意味がわかんない。
「わかんないってそのまんまだよ。ただ、モーニングのライブの最後にっていう形
になっちゃったけど」
「はぁ…」
「だからね、それまでに自分で作った曲、1曲完成させてよね」
「いきなり…そんな…」
「だって、ずっと練習してたじゃん」
後藤はチラリと目線を変え、ギターを見た。
「いや、してた…けど…」
まだ、実感がない。ふとみんなの顔を見ると、後藤と同じくニヤニヤしている。
- 257 名前:14-24 市井紗耶香(21) 投稿日:2001年09月14日(金)07時54分45秒
- ちょっと前のことを思い出した。そう、あれは…私の逃亡事件から数日後。
見舞いに来た後藤は私を見るなり、
「歌は作ってないの?」
と聞いてきた。
それは、忘れつつというかあきらめつつあった夢を思い出させる言葉で、それから
私はお母さんに頼んでギターを持ってきてもらい、体調のいい時は弾いていた。
後藤がそんなことを言ったのはこの計画があったからかもしれない。
「後藤…もうちょっと早く言ってよ」
私はため息をつきながら言った。
「ゴメンね。決まるかどうかわかんなかったんだよ。それにこんなに早くなるとは
思わなかったし。つんくさんは、『1年後ぐらい』って言ってたんだけどね」
「誰がこんなこと、考えたの?」
尋ねる私に後藤は一回後ろを振り返ったが、
「そんなアホで突拍子もないことを考えるのはごっちんしかおらへんやん!」
裕ちゃんが言った。
「な…?」
後藤が少し絶句する中、「そうだね」と私は笑いながら言った。
- 258 名前:14-25 市井紗耶香(21) 投稿日:2001年09月14日(金)07時56分28秒
- 笑顔の裏側でどんどん来たるべきライブを実感してきた。
ホントは…最初は「自分の力」でソロのライブを叶えたかった。
でも、今はそんなことはどうだっていい。
『自分がすべての夢を叶えられるわけじゃないから。
みんなが夢を叶えることの手助けもしてあげたい』
後藤は今この言葉そのままにやろうとしている。
それが嬉しかった。
夢なんて一人で叶えるもんじゃない。
それがどんなに孤独を伴うものであろうと、多くの人に支えられ、甘えながら叶え
ていくものなんだ。
よし、やるぞ。
あんまり期間がないけれど、与えてくれた夢を叶えるんだ。
あれ?
- 259 名前:14-26 市井紗耶香(21) 投稿日:2001年09月14日(金)07時57分19秒
- 「5月21日?」
私は思わず呟いた。すると、圭ちゃんが、
「やっと、気付いたか?遅いぞ」
ニヤニヤしながら言った。
「ね、すごい運命でしょ?」
矢口が大きく手を広げて驚く仕草をした。
去年の5月21日。
忘れられるワケがない日。
新メンバーの初ライブ。
初の日本武道館ライブ。
そして私が卒業した日。
モーニング娘。が凝縮した日。
私にとって最高の日。
- 260 名前:14-27 市井紗耶香(21) 投稿日:2001年09月14日(金)07時58分42秒
- 「すげぇ…運命」
つい男口調になる私。
「つんくさんが言うには、この日しか取れなかったんだって。まあ、野球が無い日
しか選べないんだから仕方ないけど」
圭織が言った。
「ていうか、逆にこの日にしてくれ!って言いたいよね」
なっちが笑いながら言った。
「うん」
みんなありがとう。
そして、後藤ありがとう。
私は腕に力を込めた。
みんなに守られている。
私はなんて幸せなんだ。
もうどうなったって悔いはない。
私に注がれる暖かい視線を全身で感じながらそう思った。
鼓動が少しだけ早くなった。
あいかわらず死が近くにあった。
だけど、その前に夢が大きく開かれていた。
全てひっくるめてやっぱり幸せだと思った。
- 261 名前:第14章 終 投稿日:2001年09月14日(金)08時00分25秒
- 第14章 生きることは変わること 〜still growin' up〜
- 262 名前: 投稿日:2001年09月14日(金)08時08分32秒
- 市井語録使ってみました。
次章は最終章。4回か5回。
最終章 夢のカケラ、集めてそして… 〜pieces of a dream〜
- 263 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月14日(金)23時58分09秒
- 感動っす。
- 264 名前:15-1 後藤真希(32) 投稿日:2001年09月15日(土)16時07分25秒
- 〜後藤真希〜
時の流れって早いなぁ…。
この2ヶ月いろんなことがあった。
昨日、4月15日。裕ちゃんがモーニング娘。を一応卒業した。
それより2週間前に私は無事ソロデビューを果たし、セールスもまあまあ及第点を
与えられている。今度、梨華ちゃんがレンタルされてカントリー娘。がメジャーデ
ビューする。
そうそう、私も無事中学校を卒業した。実は危なかったらしいけど。
昨日、裕ちゃんはラストライブを終えた直後のラジオ番組で、初めて東京ドームラ
イブのことを公表した。
とはいえ、元々噂は流れていたので、ほとんどの人は知っている状況だったかもし
れない。東京ドームでのライブなんて、シークレットにしておくこと自体ムリな話
だったんだ。
つんくさんは「まあ、ええがな」と笑っていた。
裕ちゃんは「ライブには参加するけどモーニング娘。の曲は歌わない」と言った。
これは、裕ちゃん自身が決めたことで、
「自分なりのケジメが欲しいからな。それに今日見にきてくれたファンに悪いや
ろ?」
ということらしい。
公表したとはいえ、この突然のライブはかなり周りの人にとって謎なことばかりだ
ったらしい。
- 265 名前:15-2 後藤真希(32) 投稿日:2001年09月15日(土)16時10分31秒
- 「何でこんな時期に?」
「何のために?」
「何で一回だけなんだ?」
そんな声がいろんなところから聞こえてきた。
しかも、今回のライブはミュージカルの真っ最中に一回だけ行われるライブにな
る。もうすぐ始まる稽古は相当しんどいものになりそうだし、多分、今までで一番
きつい時期になる感じがしていた。そんな中でのライブはファンには心配される。
傍目から見てもやはり常識として考えられないようだ。
いろんな噂が立ってはいたが、その中には「市井紗耶香復帰!」という記事もあり
ドキリとした。出所が某巨大掲示板を受けて書かれたものだったし、その記事も某
3流雑誌だったので、それほど信憑性がなく、思ったより噂は広がらず、その話題
はその時は噂の範囲内で留まった。
市井ちゃんのことをシークレットにしたいと言ったのは、市井ちゃん自身だ。
「いつものモーニング娘。を肌で感じた後で歌いたい」
きっと、「市井ちゃんが復帰する」と大々的に報じれば、いつものモーニング娘。
のライブの雰囲気じゃなくなるだろう。それを避けたかったようだ。
- 266 名前:15-3 後藤真希(32) 投稿日:2001年09月15日(土)16時13分28秒
- 私は暇を見つけては市井ちゃんの家に行った。が、現れたのはお母さんだけ。
「すいません。今ちょっとあの子、出かけてて…」
その日もあいにく市井ちゃんは不在だった。「も」というのは最近、不在の日が多
いのだ。事前に連絡しても、
「ごめん、今日はちょっとやることあるんだ」
と断られる日がしばしばあった。
私は少し不安になった。ホントは積極的に外出するくらい元気だと思えばいいのだ
ろうけど、なぜか胸騒ぎが心を支配した。
目の前に市井ちゃんのお母さんがいることを忘れて、私は表情を硬くした。
「もうそろそろ帰ってくると思うからよろしければ待っててください。確か、4時
くらいには帰ってくると言ってましたし」
市井ちゃんのお母さんはそう言ったのでお言葉に甘えてしばらく待つことにした。
「ありがとうございます」
お茶と和菓子を出しながら市井ちゃんのお母さんはあらたまって言った。
「あの子がこんなに生き生きしてきたのも真希ちゃんのおかげです」
深々と礼をする姿に私は、
「いや、私は何もしてないです」
と応えた。謙虚に応えたというわけはないけれど、向こうにはそう見えたらしい。
もう一度深く頭を下げていた。
- 267 名前:15-4 後藤真希(32) 投稿日:2001年09月15日(土)16時14分37秒
- 私はチャンスとばかりに市井ちゃんの具合を尋ねると、市井ちゃんのお母さんは
ばしためらった後、首を小さく横に振った。
「あの子は私や他の人にはつらそうな表情をあんまり見せません…」
そこで一旦途切れた。春の風が網戸を通して頬をかすめる。近くにないはずなの
に、桜の匂いが含まれていると感じるのは、私が日本人でその趣きを本能から感じ
取っているからかもしれない。目の前にあるピンク色のもなかのような和菓子を私
は口に含んだ。中はあんこでとことん甘かった。
「だけど、お医者さんが言うには絶対一人の時に苦しんでいるって…。それを聞い
てからさやの顔を見る度にいたたまれなくなります。するとさやは笑顔で『何?』
って聞いてくるんです。だから、私もただ笑うだけで…」
お母さんの気持ちが痛いほどよくわかる。想像で市井ちゃんが苦しむ姿を想像して
しまうんだ。その苦しみに際限はない。
「エイズって免疫力が低くなる病気でしょ?詳しく言っても仕方ないけど、いつ何
が起きても不思議じゃない状況だって…。だから常に注意しろと言われました…」
涙をこらえるように市井ちゃんのお母さんは奥歯を噛みしめていた。
- 268 名前:15-5 後藤真希(32) 投稿日:2001年09月15日(土)16時15分25秒
- 「本当は早めに再入院したほうがいいかもしれないんです。もし何かあったときに
即対応できるように。でも、今はライブがあの子を支えているんです。だから再入
院はさせたくない、と私が言うと…お医者さんも同意してくれて…」
この2ヶ月間、退院した市井ちゃんは決して良くなっていない。むしろ悪くなって
いるらしかった。
私は市井ちゃんのお母さんが震える体を見て、市井ちゃんには内緒にしていること
がわかった。でも市井ちゃんもそれに気付いてはいるかもしれない。
「だから、本当に本当に感謝してます」
私は何も言わなかった。
市井ちゃんのお母さんは気付いているのだろう。
私たちのしたことは間違っているのかもしれない。
そんな不安を私はずっと抱えている。
それでも私の、そしておそらく市井ちゃんの願い通りにしてくれたお母さんに感謝
した。
- 269 名前:15-6 後藤真希(32) 投稿日:2001年09月15日(土)16時17分41秒
- ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
「帰ってきたみたいね」
市井ちゃんのお母さんが言った。うっすらとまぶたに光る涙をそっと拭う。
「ただいまってアレ?後藤じゃん。何居座ってるの?」
「もうすぐ来ると思って待ってもらっていたのよ。どこ行ってたの?」
お母さんが聞くと、市井ちゃんは私の方を一度見た。
「う〜んと、内緒でいい?」
人差し指を唇の前に突き立てる。
「おかえり、市井ちゃん。どう?頑張ってる?」
「まあね〜」
小さくVサインをする市井ちゃんの手首はやっぱり細く何かが削がれているような
印象を受ける。
「がんばってるね!」
一抹の不安を持ったまま、それを顔に出さずに明るい声を出すと、市井ちゃんも
「おう」と頷いた。
「ね、聞く?」
市井ちゃんは「断ることは許さない」みたいな口調で身を乗り出して聞く。私に
「うん」と言わせるとすぐに肩に掛けていたギターを下ろして準備しはじめた。
- 270 名前:15-7 後藤真希(32) 投稿日:2001年09月15日(土)16時19分09秒
- 実は何回か市井ちゃん作詞作曲の、今度ライブで発表される曲を聞いている。
曲はまあまあ、詞ははっきりいってクサかったけど、その辺は市井ちゃんらしいと
言えば市井ちゃんらしい。
それより問題なのはギターの実力だ。市井ちゃんは「弾き語りでいく」と言ってい
るけど、全くといっていいほど実力は伴っていなかった。素人の私でも下手だとわ
かる。日増しに上手くはなっているとはいえ、何度も途切れる有様で到底人前で披
露するほどではなかった。
その日も、何回も間違えながらも、気持ちよく弾き終わる市井ちゃん。
そして、すぐさま感想を聞いてくる。
「どうだった?」
幾分の汗をかきながら、賛辞の感想を期待するような満足気な表情。
それは自信過剰なんじゃ…、と思いつつも、
「うん、よかった。でも…」
「でも…?」
「ライブ前に一通り聞いてる私って結構かわいそうなんじゃないか?って思っちゃ
った」
あまり心にもないことを言い続けるのもイヤだったので、問題をすり替えた。
「ああ、そうだね。でも大丈夫。ライブでは違った風に聞こえるって」
「そうかな…?」
- 271 名前:15-8 後藤真希(32) 投稿日:2001年09月15日(土)16時19分45秒
- そう言われて、一ヵ月後の市井ちゃんのソロライブを想像してみる。お客さんの鳴
り止まない紗耶香コール。そして黄色のスポットライトを一人で浴びる市井ちゃ
ん。安易でどこかデフォルメされた想像だけど、それでもジンと胸に来るものがあ
った。私って涙もろいんだなぁ、とつくづく思った。
市井ちゃんは再びギターを弾く。何を弾いているというのではなく、ただ指を慣ら
している感じだ。
「とにかく、あと一ヶ月。絶対ライブを成功させてやるから」
力強い市井ちゃんの声は私に勇気と不安を同時に与えた。
- 272 名前: 投稿日:2001年09月15日(土)16時29分55秒
- 続く。
- 273 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月16日(日)01時34分28秒
- もう、ただ頑張ってとしか言えません…
- 274 名前:15-9 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時24分59秒
- 〜後藤真希〜
5月20日。日曜日。
明日、正確には23時間と50分後にライブが行われる。
連日連夜繰り返したミュージカルに私たちは疲れ切っていた。そんな中、ライブを
するのだから本来たまったもんじゃない。
しかし、メンバーは誰一人として愚痴る者はいなかった。
今日のミュージカルのプログラムを終えると、いつもと違う異様なムードが漂って
いた。きっと皆、明日を見ているのだろう。絶対成功させてやる、みたいな強い信
念が競合し合った心地よい異様さだった。
- 275 名前:15-10 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時28分05秒
- 裕ちゃんの脱退、そしてライブ告知から1ヶ月。市井ちゃんの存在を隠そうとして
いた東京ドームライブはネットという憶測が飛び交う場を超え、ごく一般の新聞等
メディアにも「市井紗耶香」の名が載るようになった。
裕ちゃんが自分のラジオで、
「ちょ〜特別なゲストがやってくる…かも?」
なんて口を滑らしちゃったもんだから、「東京ドーム」と「5月21日」を組み合
わせれば、市井ちゃんのことを指しているなんてのはちょっと詳しい人からすれば
バレバレだ。
- 276 名前:15-11 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時28分48秒
- でもそんなことだけで、「市井紗耶香」の名前が、紙面を踊るのはおかしい。きっ
と事務所の戦略なんだろう。こちら側の人間がその真偽について曖昧に答え、思わ
せぶりに引っ張っておいて、その裏ではメディアに真実とばかりに情報を公開し、
注目度をアップさせる。「夢の舞台」にこんな商業的な駆け引きが見え隠れするこ
とは決して気を良くさせないが、そんなことより自分たちのわがままを通してくれ
たことに感謝すべきだと思い、あまり考えないようにした。
きっと今日の野球が終わると同時に、徹夜でスタッフがライブのセッティングして
いるのだろう。明日の朝、リハーサルを行い、夜18時に始まる。通常のライブだ
と昼夜の2公演だが今回は18時の1回限りとなる。
- 277 名前:15-12 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時30分33秒
- 今日私は何度「市井ちゃん」と言っただろう?
自分の部屋で一人、電気もつけないままうずくまった状態でそんなことを考えた。
起きた時、ミュージカルの本番直前、終わった時、メンバーと喋っている時、家に
帰る時…。
いろんなところでいろんな時に「市井ちゃん」と呟き、そして市井ちゃんの顔を思
い浮かべた。でもその言葉に期待はほとんど含まれていなかった。
明日、市井ちゃんは東京ドームに一人で立つだろう。それは市井ちゃんの夢だから
私たちは優しく見守らなければならない。
でも成功してほしくないと思っている私がいる。
「市井ちゃん、ごめんね」
また呟いた。心に痛みが走る。
「私ね、明日が来てほしくないと思ってる…」
- 278 名前:15-13 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時40分32秒
- ふと我に返ると、階段の下から怒声が飛び交っていた。お母さんと弟だ。
こういう言い争いは家では結構頻繁なんだけど、私は市井ちゃんのこと、そして明
日のことなどで心穏やかではなく、聞こえる遠い怒声がたまらなくムカついた。
私は階段を下り、居間にいた二人に向かって、
「もうちょっと静かにやってよ!」
と叫んだ。
二人の視線は、私にぶつかる。お母さんはすぐに折れて「ごめん」と謝る。弟も一
応そんな仕草を見せるが、
「でも、少しは夜遅くまで遊んだっていいじゃん!」
とすぐにお母さんに刃向かう態度を見せた。
「別に遊ぶななんて言ってないでしょ!少しは連絡しなさいって言ってるの!しか
も仕事だなんて嘘ついちゃって。私はちゃんとスケジュール聞いているんだから、
バレバレなんだからね!」
お母さんはすごい剣幕で弟に言い放った。
また弟は抵抗する。一瞬収まりかけた口ゲンカは再燃しはじめる。
- 279 名前:15-14 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時41分05秒
- 「ああ、もう!!」
私は頭をかきむしり、すぐ横にあった壁を思い切り叩いた。ドンという音は家中に
広がる。壁からパラパラとホコリが落ちてきた。
「もう、やめてって言ってるでしょ!」
「真希ちゃん?」
自分でも不思議なくらい涙が溢れていて、必死で拭うが止まる気配を見せない。
弟に直に見られていることがすごく恥ずかしくなり、私は逃げるように家を飛び出
した。
- 280 名前:15-15 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時42分45秒
- 近所のこじんまりした公園のブランコに私は腰を下ろした。春だというのに結構冷
たい風の香りが鼻をくすぐる。ブランコを揺らすと錆び付いているのかギコギコ音
が聞こえた。私は上を見上げた。闇の中、うっすらと雲が流れているのがわかる。
どんなに願ってもこの夜の空は明るくなり、明日という日はやってくる。
明日は未来とか希望とかそんな前向きなことばかりにスポットが当てられるけど、
今の私はそんな言葉は浮かんでこない。
明日の市井ちゃんを笑って見られるだろうか。
喜んで舞台に上げられるだろうか。
寂しかった。
自分の心と、この夜の静けさが。
だから市井ちゃんに電話をした。元気な市井ちゃんではなかった。
「ドキドキする…」
「私、逃げたい…」
「あ〜、絶対失敗する!」
「もうちょっと時間欲しかったなぁ…」
1年前までは私には決して吐くことのなかった弱気な言葉の数々。
それを何の恥じらいもなく市井ちゃんは吐露した。
- 281 名前:15-16 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時43分22秒
- きっとこれが本来の市井ちゃんなんだろう。
いや、「本来」というのは少し違う。
「大丈夫だって。市井ちゃんならやれるって」
私はお決まりの励ましをする。
それを言うなら、私にずっと見せつづけた強い市井ちゃんは「嘘」になる。
「後藤に言われると…」
「何?」
「説得力ないね」
「何それ〜?」
弱い市井ちゃん。
強い市井ちゃん。
どっちも、私が知ってる市井ちゃん。
どっちも、真実。
- 282 名前:15-17 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時45分51秒
- 私に見せた強い市井ちゃんは決して簡単にはがれるようなものじゃなかった。
最初は先輩風を吹かせて必死で強気の心を固めていたのかもしれない。
しかし、時を重ねるにつれ、そんな心は根をつけ、本物になっていった。
つまりは成長したんだ。
人って誰かに会って初めて成長するんだよね。
私なんかでも市井ちゃんの成長の手助けができるんだよね。
私も市井ちゃんに会って成長したよね?
- 283 名前:15-18 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時46分44秒
- だから、一人で生きていちゃいけないんだ。
いろんな人から教え教えられ、「私」という人物を作るんだ。
そこには、喜び、楽しみだけじゃない。
悲しみ、痛みも全部ひっくるめて、人からもらうんだ。
じゃないと、喜びが喜びじゃなくなってしまうから。
悲しみを跳ね飛ばしてくれるような強い心ができないから。
だから、
どんなにつらい別れが来ることを知っていても、
人と出会うことを、誇りに思いたい。
- 284 名前:15-19 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時48分02秒
- 「市井ちゃん…」
「何?」
「がんばってね」
「…うん」
難しい表現なんていらない。
電話を切った。
本当はもうちょっと話していたかったのに、止めざるを得なかった。
私の頬にはすでに一筋の涙が伝っていたから。
これ以上話すと、泣いているのがバレて市井ちゃんを困らせてしまうから。
私は不安に思っている。
ずっと前から思っていたこと。
ライブが生きる糧になっている市井ちゃん。
じゃあそのライブが終わったらどうなるの?
ライブが成功しても失敗しても…、
市井ちゃんに未来はあるのだろうか?
- 285 名前:15-20 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時49分08秒
- 「真希ちゃん!」
冷たい風に乗って私を呼ぶ声が聞こえた。その声に私は急いで頬を伝っていた涙を
拭った。
「何?」
公園にたった一つだけ照らす街灯が弟の顔をくっきりと浮き上がらせる。肩で息を
しているようで荒い息遣いが聞こえる。
「さっきはゴメン…」
「いいよ、日常茶飯事のことだし…」
「大事な明日を控えてる真希ちゃんのこと考えないで…」
「何よ、アンタ。今日はやけにしおらしいじゃない」
私はブランコを目一杯こぎ、勢いをつけて思いきり飛んだ。
闇夜を舞う私。
一瞬鳥になった気がした。
着地の際にはオリンピックで見る体操選手のような決めのポーズをとった。
- 286 名前:15-21 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時51分31秒
- 「どう?」
あまりに上手くいったので得意気に弟を見る。
「どう?ってケガしたらどうすんだよ」
呆れたような笑ったような顔を弟はする。
「迎えに来てくれてありがと。帰ろう」
促しながら私は弟の腕をつかんだ。
私はそのまま引っ張るように弟の手を繋いで歩いた。こんなこと何年振りだろう?
傍から見れば恋人に間違えられるかもしれない。もちろん、顔を見れば姉弟だとい
うのが一目瞭然なんだろうけど。
弟の手は大きくて温かかった。「ガキだガキだ」とか言いつづけていたのに、手の
感触は大人びていた。
もう子供扱いできないなぁ、と思った。
「真希ちゃん」
歩いている最中に弟は私に声をかけた。
「何?」
「市井さんは大丈夫だから」
弟はまっすぐ私の瞳を射抜きながら言う。私は「はぁ?」と首をかしげる。
「市井さんは真希ちゃんが思っている以上に強い人だと思う」
弟なんかに私の気持ちを見透かされていること、そして、市井ちゃんの気持ちを私
より知っているみたいな言い方に私は唖然とした。
- 287 名前:15-22 後藤真希(33) 投稿日:2001年09月16日(日)06時52分40秒
- 「だからさ、市井さんを信じようよ」
私は繋いでいた手を思い切り振り下ろして放した。突然の行動に「何?」と不思議
そうに見つめる弟を無視して、私は弟の頭をこづいた。
「いってぇ〜!」
「何生意気言ってんのよ!」
私が一度怒った顔をすると弟は一瞬ひるんだがすぐに戦闘態勢に入る。しかし、私
は走り出して弟と離れた。
「ちょっと真希ちゃん!」
「先に行って玄関の鍵かけとくよ!」
「おい、なんだよそれ!意味わかんねぇよ!!」
すっごく生意気だったけど、すっごく嬉しかった。照れくさくなって、だけどそん
な様子を見せたくなくて私は逃げるように走った。
後ろを見ると弟は必死で走ってくる。
そんな弟に感謝した。
そして、市井ちゃんを信じようと思った。
- 288 名前: 投稿日:2001年09月16日(日)06時57分53秒
- 最近目を付けていたのがどんどん終わっていくなぁ、と思いながら続く。
これももうすぐ。。。そしてなぜか上げたい気分。。。
- 289 名前:15-23 後藤真希(34) 投稿日:2001年09月17日(月)06時56分45秒
- 〜後藤真希〜
5月21日。当日。天気は晴れ。ドームでやることが嫌味なくらいの青空が広がっ
ている。
運良くミュージカルは中休みだったから、朝から東京ドーム入りし、リハーサルを
重ねることになっている。
私たちはいつもと違う面持ちで会場入りした。
私は一夜漬けで作られたライブセットを口をポカンと開けながら見上げた。
一体何人の人がこんなセットを作るのに携わったのだろう。
私のわがまま一つで動いた数百人、いやファンの人も入れると数万人の人たち。
支えられているとつくづく実感した。
- 290 名前:15-24 後藤真希(34) 投稿日:2001年09月17日(月)06時57分48秒
- 眠気はないが体中が痛い。どんなに若くても疲労がたまりにたまっているんだか
ら、しょうがない。
「おはよ」
やぐっちゃんが後ろから声をかけた。朝らしからぬハキハキとした声。
「いよいよ…だね…」
「うん」
曲順は春コンと一緒だ。これは時間がなかったし仕方がないことだろう。
予定ではアンコールの「恋愛レボリュ−ション21」を歌った後、市井ちゃんのソロ
ライブ。そして、最後にみんなで歌う「I WISH」。最後が逆のほうがいいと私も他
のメンバーも思ったけれど、市井ちゃんは、
「最後なんて緊張しすぎてイヤだから」
とあまり説得力のない答え方をしたが、意思は強く、私たちはそれに従った。
- 291 名前:15-25 後藤真希(34) 投稿日:2001年09月17日(月)06時59分14秒
- 「紗耶香の為にもね、絶対失敗しないようにね」
やぐっちゃんは鼻の穴を大きく開けながら、気合をいれるように二つの拳をぎゅっ
と握り締めていた。
夏先生の怒声が飛んだリハーサルもようやく終え、あとは本番を待つのみになっ
た。市井ちゃんは来なかった。もともとリハーサルはやらないと言っていたから来
ていなくて当然なんだけど、準備とか雰囲気作りとかをきっちりする市井ちゃんら
しくない行動に頭を傾げていた。
「ごめんごめん、遅れて」
重そうなギターを肩にかけながら市井ちゃんは現れた。
「もう、紗耶香が来なかったらどうなるか、と思ったよ」
圭ちゃんは目を細めながら言った。
「うん、ごめん。病院に行ってたんだ」
市井ちゃんがそう言うと、その言葉を聞いた者全てがピクリと体を固まらせた。
「違う違う。本番前にお世話になった人たちにお礼を言いに行っただけだよ」
慌てて市井ちゃんは否定すると、「な〜んだ…」というどっと湧き立つ安堵感に包
まれた。
私を除いて。
- 292 名前:15-26 後藤真希(34) 投稿日:2001年09月17日(月)07時00分00秒
- 「そろそろで〜す。ミニモニ。のみなさん、よろしくお願いします!!」
男のスタッフの声が飛ぶ。
「じゃあ、いつもの…やりますか?」
タンポポのお人形みたいな服を着た圭織が言った。
「裕ちゃんも…そして、紗耶香も」
「うん」
「おっしゃ!」
私はメンバー全員と手を重ねている時、市井ちゃんを見た。
笑っていた。
気合が入っていた。
そして、懐かしそうだった。
「がんばっていきまっ…しょい!!」
- 293 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月18日(火)03時11分13秒
- ドームに見に来た観客のつもりでこの先、見させてもらいます。
- 294 名前:15-27 市井紗耶香(22) 投稿日:2001年09月19日(水)01時19分26秒
〜市井紗耶香〜
「すっごいよ!今までとは全然違う!!」
「愛のバカやろう」を歌い終えて、後藤は私がいる控え室に飛び込んできた。
「な〜んていうか…こう…ちょっとお客さんが遠いはずなんだけど、その声援が津
波みたいに襲ってくるみたいで…市井ちゃん?」
私は震えていた。最初は脈が早く打つだけだったのに、時を重ねるにつれて、足
も手も目に見えて震え、地面を揺らしていた。
見上げると後藤が少しひきつった顔をしていた。
- 295 名前:15-28 市井紗耶香(22) 投稿日:2001年09月19日(水)01時20分02秒
- 「後藤、どうしたの?」
「市井ちゃん…怖いの?」
遠くから地響きが聞こえている。観客の盛り上がりがここまで届いている。私はた
めらうことなく頷いた。
「久しぶりの…こと…だからね…」
口さえもこわばっているため、上手くロレツが回らない。
「大丈夫だよ。市井ちゃんならやれるって」
「ムリ」
「できるって」
「ダメ」
「ダメじゃない。大丈夫だって」
「なんで、そんな根拠のないことを言えるのよ」
「だって、市井ちゃんは私の教育係だから」
後藤はゆっくり優しく私に触れた。
腕を私の首の後ろに回し、包みこむように抱きしめた。
「市井ちゃんがいなかったら…ここまで自分を誇れる人間になれなかった…」
小さい涙声で、震えるように後藤は言った。
- 296 名前:15-29 市井紗耶香(22) 投稿日:2001年09月19日(水)01時21分40秒
- 「後藤?」
「だから」
「…うん」
私は後藤を強く抱き締めた。
「私もおんなじだよ。後藤がいなかったら…」
「後藤さん、お願いします!!」
遠くからスタッフの声が聞こえ、私は続きを言えなくなる。
後藤はパッと私から離れた。
赤い目が私を見つめる。ちょっと照れが入った、はにかんだ笑顔を見せた。
「行くね」
「うん、ありがとね。震えが少しおさまった」
「うん」
後藤は部屋を出た。
完全に見送ってから、立ち上がって壁にもたれかかっていたギターを手に取った。
その腕は震えていなかった。
- 297 名前:15-30 市井紗耶香(22) 投稿日:2001年09月19日(水)01時24分11秒
- 「そろそろです。市井さん」
スタッフの声がした。後藤がやってきてどれだけ時間が経ったのだろうかわからな
い。そして気づいた。
私はなんて人間だろう。
本当に大物かもね。
それとも、こういうもんなんだろうか。
実はあれから、寝てしまっていたのだ。
緊張も観客の声援も全く関係なく、椅子の背もたれに全重心を傾けながらただ穏や
かに寝入っていた。
夢を見ていた。
実は退院してから何度も何度も見た夢。
ふわふわ浮いた真っ白い雲の上。
遠くに見える広大で、限りなく透明に光る川。私のためだけに輝いてみえる。
あれはきっと三途の川なんだろう。
なんかすっごくメルヘンチックで、優しくて、怖くなんかは決してなかった。
ホントはとっくにその運命を終えていたのかもしれない。
神様が私の願いを聞きいれて、生き長らえさせてくれたのかもしれない。
幸せだと思った。
何度も裏切ってしまったのに神様はそれでも最後に恩恵を与えてくれた。
迎えてくれたのは、八重歯が怪しく光る悪魔なんかじゃなく、頭に光る輪っかが浮
かぶ亜依ちゃんとちょっと似ている天使だったから。
- 298 名前:15-31 市井紗耶香(22) 投稿日:2001年09月19日(水)01時26分31秒
- 「はい!行きます!」
扉を開け会場に近づく。どんどん歓声が大きくなっていくのが聞こえた。
聞こえる歌は「恋愛レボリュ−ション21」。
ということは次だ。
暗い裏道を私はスタッフに「頑張れ!」と声をかけられながら進む。
その中に腕を組みながら壁に寄りかかっているつんくさんと恋レボを踊りたそうに
手を細かく振っている裕ちゃんを見つけ、声をかける。
「つんくさん、裕ちゃん」
「おう、市井。もうすぐやな。頑張れよ!」
「はい!今までありがとうございました!」
「威勢いいな。やっぱお前はこうでないとな」
つんくさんは私の肩にそっと手を乗せると、はっと顔を強ばらせながらすぐに手を
離す。
「どうしたんですか?」
私は笑顔で答えると、つんくさんはすぐ表情を元に戻し、
「ううん、なんでもない。がんばれ」
と言った。感性が優れているつんくさんだからもしかしたら私の覚悟に気づいてし
まったのかもしれない。それでも何も言わないつんくさんに感謝した。
裕ちゃんはその間、何も言わずにじっと私を見つめていた。
そして、私も裕ちゃんを見つめると無言で、うん、と頷いた。私も頷いた。
- 299 名前:15-32 市井紗耶香(22) 投稿日:2001年09月19日(水)01時27分49秒
- 曲は終わった。
歓声とともに、みんなが引き上げてくる。
圭織、圭ちゃん、石川…と。
順々に私は抱き締めた。
そして、私に力をくれた。
最後に後藤が近づいた。
「市井ちゃん…」
私を同じように抱き締めた。汗ダクダクの後藤は満面の笑顔を浮かべていた。
ステージの向こうには、「紗耶香!紗耶香!!」と観客が声をあげている。
「バレてるみたいやな…」
裕ちゃんが苦笑すると、
「裕ちゃんが言ったんだよ〜」
なっちが突っ込みを入れる。裕ちゃんはさらに苦笑していた。
- 300 名前:15-33 市井紗耶香(22) 投稿日:2001年09月19日(水)01時28分49秒
- 私の耳には歓声が聞こえなくなった。後藤の息遣い、汗の匂い、そして笑顔。全て
の感覚が後藤のためだけに働いていた。
私は後藤から少し離れ、額と額をくっつけた。
「ありがとう。ホントに今までありがとう」
「うん…」
「じゃ、行ってくるね」
「…うん」
名残惜しそうに絡み合っていた私と後藤の腕は離れる。一歩だけステージに近づく
とすぐに私は振り返った。
「そうだ。一つ訂正させて」
「何?」
- 301 名前:15-34 市井紗耶香(22) 投稿日:2001年09月19日(水)01時29分51秒
- 「前にね、エイズにならないんだったら友達なんかいらないって言ったよね?覚え
てる?」
「うん」
少し考えるように目線を上げてから後藤は頷いた。
「今の私はね、逆にこう思うんだ」
「うん」
「もし後藤がいないんだったら、エイズになった方がマシだって」
「市井ちゃん…」
「ねえ、後藤…」
- 302 名前:15-35 市井紗耶香(22) 投稿日:2001年09月19日(水)01時30分59秒
心から思う。
いろんな試練を課してくれたけど、これだけは神様に感謝したい、と。
「後藤に会えてよかった」
後藤の反応を見ることなく、私は暗いステージに足を踏み入れた。
さあ、行こう。
ここが私の夢の舞台。
ここが私の最後の舞台。
- 303 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月19日(水)23時25分39秒
- ううっ。
もう終わりなんだね…
- 304 名前:15-36 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時10分10秒
〜後藤真希〜
「後藤に会えてよかった」
頭の中で何回も何回も繰り返される。
雑音が消え、その微笑みの余韻とストレートな言葉が私の柔らかい部分にあったか
い塊となって吸収されていく。
市井ちゃん…
私も…
- 305 名前:15-37 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時12分14秒
- 「で、どうなんや。紗耶香の実力は?聞いてたんやろ?」
裕ちゃんに尋ねられて我に返った。私は小さく首を横に振る。
「曲は…ともかくとして、ギターは…まともに弾けたのを聞いたことない」
「あっちゃ〜、やっぱそうなんや。こんな大舞台で成功したことのない曲を弾くの
か。ただでさえ緊張する性格なのに…」
「大丈夫や」
後ろにいたつんくさんが口を挟んだ。
「あいつは緊張しいやけど、大舞台には強いんや。成功する。絶対な」
根拠のないはずなのにつんくさんには自信の色を浮かべていた。そして、
「つんくさん?」
思わず呼びかけてしまう。少し泣いているのか?暗がりの中から一筋の光が光った
ような気がした。
「さ、そろそろ始まるぞ。俺らができることは市井を信じることだけや」
つんくさんは私を無視してそう言うと、みんながその言葉に大きく頷いた。
暗闇に轟く紗耶香コールの渦の中、3個のスポットライトがステージの中心を照ら
した。そこに、ギターを担ぎながら椅子に座る市井ちゃん。その場だけが浮いてい
るようで誰もが市井ちゃんの勇姿にみとれる。
- 306 名前:15-38 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時13分07秒
- やがて観客はその人物が市井ちゃんだとわかったようで、歓声を上げる。
「紗耶香〜、おかえり!!」
「がんばれ!!」
そんな言葉が幾重にも重なりボリュームが上がっていく。
地響きにさらに雷鳴が加わったような空間に私は一瞬耳をおさえた。
「やっと…」
市井ちゃんが小さく声を出すと、その歓声は小さくなる。
「やっと、帰ってきたよ〜!!」
右腕を突きあげる市井ちゃんに観客はそれに応える。
「いろんなことがあったけど、みんなに守られて、ここに立つことができました」
間を空けるたびに観客は爆発音のような声をあげ、その度に私は心の芯を揺さぶら
れる。
「だから、感謝の気持ちを精一杯込めて歌います。聞いてください!」
静まるのを待って市井ちゃんはギターを見つめた。
そして、弦に手をかけた。
- 307 名前:15-39 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時14分02秒
- これが、数万人いる空間なのだろうか?
この東京ドームという小さい世界は市井ちゃんを中心に描かれているようだ。
市井ちゃんの奏でるギター以外は何も聞こえない。旋律が空気を突き抜けて、数万
の耳には何の減衰もなく届いた。
あれ?
私は首をかしげた。その時、それを思ったのは私だけだろう。
いつもと違う?
今まで聞かされていたメロディーとは違うのだ。
もうちょっと、テンポも早かったような気がするのに。
そして、こっちの方がずっとずっと上手い。
何で?
「あれ?」
声を出したのはなっちだ。
「これって…?」
そして、私も気付いた。この曲は…私たちも知っている…。
市井ちゃんから歌が口ずさまれた。
- 308 名前:15-40 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時17分24秒
- ♪ひとりぼっちで少し 退屈な夜
♪私だけが寂しいの? Ah Uh
♪くだらなくて笑える
♪メール届いた
♪なぜか涙止まらない
♪Ah ありがとう
I WISH !!
何で?何で?何で!?
私がいつも聞いていた自作の曲じゃないの?
「後藤のためやって」
驚くばかりの私に後ろにいたつんくさんが声をかけた。私は振り返る。
「あいつなぁ、『I WISH』をギターソロでアレンジしてくれって言ってきてん。何
で?って聞いたら、お前の為に弾きたいって言うとった。退院してからずっと俺の
ところに来て練習しとったわ。毎日毎日。あんな体やのに、全然へこたれんかった
なぁ」
「何で…こんな…」
「だから、後藤に伝えたいんやって。近いらしいねん、後藤に伝えたいことと歌詞
がな」
- 309 名前:15-41 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時18分29秒
- ♪人生ってすばらしい
♪ほら 誰かと
♪出会ったり 恋をしてみたり
♪Ah すばらしい Ah 夢中で笑ったり 泣いたり出来る
「あ…」
市井ちゃんの想いが、
心が、
願いが、
声が歌が全てが…、
私に向けられている…。
- 310 名前:15-42 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時20分09秒
- 「後藤にはいっぱい教えてもらったんだ。
人を信じること。
そして、何より自分を信じること。
それが生きるための全てだってこと。
どんなに不幸なことが起きたって、
どんなに独りぼっちになったって、
周りと自分を信じていれば、
想いは通じるってこと。
生きていれば、
誰でも夢中で笑ったり泣いたりできるってこと。
だから人生ってすばらしいんだってこと。
後藤、ありがとう」
市井ちゃんの声が歌になって聞こえてくる。
メッセージが私に届いてくる。
- 311 名前:15-43 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時27分22秒
- 「おい、紗耶香…」
裕ちゃんは暗い場の中、私の隣りで青くなっていた。
会場の人たちがざわざわと音を立てる。
歌が止まっていた。
ハッとして市井ちゃんを見ると、遠目からでも震えているのがはっきりとわかっ
た。スピーカーから声を押し殺した泣き声が洩れている。
溢れ出す感情を押さえるのに必死な市井ちゃんがいた。
市井ちゃん…。
- 312 名前:15-44 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時31分32秒
- 気がつくとマイクを持っていた。
ステージに近づいていた。
市井ちゃんの横にいた。
そして、声をかけていた。
小さな運命に導かれるようだった。
「市井ちゃん…」
ぐちゃぐちゃになった顔をよそに私は市井ちゃんに触れる。
「後藤…私…」
市井ちゃんは斜め上の私の顔を見上げ、何滴も涙を流す。
ライトは青色の燐光を放ち、その涙を美しい宝石に変える。
それは哀しい涙?
嬉しい涙?
不安な涙?
涙っていろんな種類があるんだよね。
だけど、思いを持っていることは同じだ。
私はどんな涙も私は受け止めるから。
その涙が純粋である限り。
- 313 名前:15-45 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時33分13秒
- ♪誰かと話しするの 怖い日もある
ざわついた空間を引き裂くように私は歌った。
ソロってね、一人ぼっちで歌うことじゃないんだよ。
一人だけで舞台に立つことじゃないんだよ。
矛盾してるかもしれないけど、
何となくそう思うんだ。
歌いながら市井ちゃんを見て、私が頷くと、市井ちゃんも頷いた。涙で埋もれた最
上級の微笑みだった。
そして…
♪でも勇気を持って話すわ あたしのこと
二人で歌った。
しばらくして、メンバーみんなも市井ちゃんを取り囲み、一緒に歌った。
裕ちゃんもなっちもみんないる。
みんな、市井ちゃんを見て微笑んでいる。
- 314 名前:15-46 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時34分00秒
- 市井ちゃんという木は一度幹だけになってしまった。つけていた緑の葉っぱや花は
全て絶望と共に落ちてしまった。
だけど、冬を超えれば春があるんだ。
私やモーニング娘。のみんなは一度枯れてしまったけど、市井ちゃんのおかげでま
たその幹の葉っぱや花になれたんだ。
♪人生ってすばらしい
♪ほら いつもと
♪同じ道だって なんか見つけよう!
♪Ah すばらしい Ah 誰かと
♪めぐり会う道となれ
- 315 名前:15-47 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時35分40秒
- 最後は市井ちゃん。
♪でも笑顔は大切にしたい
♪愛する人の為に
語尾は掠れて聞こえなかったが、確かに市井ちゃんは歌い切る。
「市井ちゃん…」
歌い終わると私は声をかけた。メンバーも「紗耶香!」と叫ぶ。
観客はそれぞれが意味をもった濃密な振動を起こし空気を震わせる。
- 316 名前:15-48 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時39分53秒
- 「なんで黙ってたの?」
四方から飛び交う紗耶香コールの中、私は市井ちゃんに尋ねた。涙で小声になった
がちゃんと届いたようだ。
「だって、言ってたじゃん。感動できないって。だから驚かせようと思って」
してやったり、というような含み笑顔を私に見せた。
「もう…」
頬を膨らませて怒る私をよそに、市井ちゃんは立ち上がった。そして市井ちゃんは
高らかに叫んだ。
「後藤に、せっかくのソロライブを壊されました!」
「な…」
思わず絶句した私を見てから市井ちゃんはウィンクした。
「だから…だから、夢は叶っていません!」
「夢に向かってこれからもがんばります!」
一瞬の間の後、再び歓声がうねりを上げて響きわたる。
加速度を増してエネルギーが作られる。
その全てが市井ちゃんに届けられる。
「市井ちゃん…」
- 317 名前:15-49 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時40分53秒
- この1年間。
いろいろあった。
ありすぎた。
思い出すのは哀しいことばかりで嬉しかったこととかはほとんどない。
でもね。
そんな中でポツンと浮かぶ嬉しいことってのがとてつもなく大きいんだ。
それは一回きりなのかもしれない。
一瞬で終わるのかもしれない。
儚さに変わるものなのかもしれない。
でも自分の心の中には間違いなく永遠に溶け込んでいる。
そういう瞬間を人は苦しんで求める。
だから、生きていけるんだ。
だから、人生ってすばらしいんだ。
- 318 名前:15-50 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時43分44秒
- 市井ちゃんは目を閉じて、巨大なヴァイブレーションとなった「紗耶香コール」を
一身に浴び、全てを吸収していた。口には健やかな微笑を浮かべていた。
「市井ちゃん」
私は声をかける。
するとすぐに私の方を振り向いた。
軽く頬を掻いた。
まばたきをした。
ニコリと笑った。
汗がちょっと滴った。
ギターから手を離した。
一連の滑らかな動作が透明に燃える炎に包まれて一瞬輝く。
私は眩しくて目を覆った。
その時、
バタン。
耳から不可解な音。
歓声が一瞬にして消滅する。
時が止まったような静寂。
- 319 名前:15-51 後藤真希(35) 投稿日:2001年09月20日(木)02時44分49秒
- 何が起こったかわからないまま目を開けると、
「紗耶香!」
市井ちゃんは、
「市井さん!」
笑顔を残しながら、
「市井ちゃん?」
倒れていた。
- 320 名前:第15章 終 投稿日:2001年09月20日(木)02時47分17秒
- 第15章 夢のカケラ、集めてそして… 〜pieces of a dream〜
- 321 名前: 投稿日:2001年09月20日(木)02時48分04秒
-
- 322 名前: 投稿日:2001年09月20日(木)02時48分40秒
- You & I
- 323 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月20日(木)03時00分23秒
- やだぁ〜〜〜〜〜(号泣)
- 324 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時11分42秒
〜エピローグ〜 You & I
目を開ける。
飛び込んでくるのは「市井家の墓」と書かれた墓石。
周りの景色はどこかメルヘンチックだった。
生き物やそうでないものまでが命を与えられたように鼓動する。
幸福そうに木々が踊る。疾風となって空気が流れる。硝子のような固い素材ででき
ているような明確な濃い青空。その中に真っ白な雲がのんびりと浮かぶ。さんさん
と太陽が照りつける。
全てが夏のメロディを奏でる奇跡のような空間たち。
もう、あの夢の舞台から3ヶ月経った。
あれはまさしく「夢」だった。
振り返ってみれば、どこかリアリティに欠けていて、記憶の中の光景がやけに新鮮
だったり古臭かったりと一向に落ち着かない。
でも、きっとこのままでいいんだと私は思う。
月日が流れ、この記憶も同じだけ年月を費やすとしたらそれはそれで虚しいことの
ような気がする。
きっとこのまま宙ぶらりんでいい。
私がオバさんになってもこの記憶は唐突に目の前にやってきてくれる。
そうであったほうが幸せだ。
- 325 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時14分21秒
- 墓石は熱くなっていたので水をかけると、ジューっという音がして湯気が立ち、温
度の高い空気に消えていく。
私はあの濃密な2年間を超えるような時間を創ることが出来るだろうか。
きっと出来ないだろう。
もし、出来るとしたら…
再び、手のひらを合わせる。
市井ちゃん、ありがとう。
市井ちゃん、お疲れ様。
市井ちゃん。
もう一度言うね。
「あなたに会えてよかった」
- 326 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月20日(木)21時15分13秒
- 素朴な疑問なんだけどこの小説のミニモニ。のメンバーって誰なんだろ?
- 327 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時16分09秒
「後藤!」
後ろから声がした。その声に振り返ると、
「ったく、なんで後藤がここにいるのよ…」
呆れた顔が目に映る。
私はその顔に声をあげる。
「市井ちゃん!」
そう、
市井ちゃん。
市井ちゃんは今も変わらず元気です!
- 328 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時19分45秒
- 市井ちゃんは私の横にしゃがみ、墓石に向かって手を合わせた。
そして、ぶつぶつお経みたいなものを唱えた後で、
「行こう」
市井ちゃんは立ち上がった。
コツコツとヒールの音が二つ。
「で、何でこんなことにいるの?関係ないじゃん」
「だって、この人市井ちゃんの命の恩人なんだもん」
「そんなワケないって」
「ううん、絶対そうだって」
市井ちゃんが倒れた日。5月21日。
市井ちゃんのおじいちゃんが老衰で亡くなった。
聞けばその天寿をまっとうした時刻は市井ちゃんが倒れた時刻と一致していたそう
だ。
「だから、神様が間違えてしまったんだよね」
私は振り向いて墓に向かって、「おじいちゃんごめんね」と呟いた。
「市井ちゃんだってそう思ったから来たんでしょ?」
「ま…そうなんだけど…」
頭の辺りをポリポリと掻いていた。
この”身代わり”になってくれたおじいちゃんは市井ちゃんと親戚でありながら、
ほとんど面識がないらしい。だから、死んだと言われても市井ちゃんはピンと来て
いなかった。
- 329 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時21分53秒
- 市井ちゃんはこうして今も無事に生きている。
でもその体にエイズウィルスが残っているということは変わらない。
それは現代の医学ではどうしようもない。
しかしエイズを不治の病とする時代はすでに去ったと言われている。
体内に例えHIVが残っていても、普通に生活できるなら、「治癒した」と断言し
てもいいのでは?という考え方がアメリカなど諸先進国では広まっているという。
日本でもエイズの存在はそれほど深刻な病気には位置付けられなくなってきた。
「どうなの?モーニングは?」
久しぶりに会った私たちは近況を述べ合う。とはいえ、どうみても私の周りの方が
ドラマチックで、私の近況ばかりになる。
「うん、シャッフルされるは、新曲あったり、夏ライブも当然あるし、今度新メン
バー入るでしょ…それにドラマやったり…ってもう大変」
「みたいだね〜。てんてこまいだ」
「うん」
「今度見る時には、全然知らない人が半分以上いたりしてね」
寂しげな表情を見せる市井ちゃん。
「え?あ…」
思い出した。表情を変える私を見てから市井ちゃんは言う。
「うん、あさって行く」
- 330 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時26分33秒
- 市井ちゃんの語学留学が決まっていた。アメリカのボストンというところ。
エイズの知識も理解もうんとあるところで、病気にとってもあっちで過ごしたほう
がずっといいらしい。
「そうだったよね」
「お見送りには来なくていいからね」
「うん。ていうか行けないよ、仕事あるし」
市井ちゃんが出発する日は私は地方でライブをしている。
「じゃあ、ここでしばしのお別れだ」
「うん…」
「どっかで御飯でも食べていく?」
私は首を横に振った。
「もう行かなきゃ…。仕事だし…」
「そう…なんだ」
本当は仕事なんてなかった。今日は完全オフの日。
だからホントは御飯を食べたり、おしゃべりをしたりして市井ちゃんと一緒にいたい。
- 331 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時28分00秒
- でも多分、もう10分も話したりしたら、別れるのが哀しくて泣いちゃうんだ。
そしたら、市井ちゃんを困らせてしまうんだ。
だから早く離れないとダメなんだ。
「あっち行っても連絡してね」
「うん」
「暇があったら遊びに行ってもいいかな?」
「うん、でもあるの?」
「ないと思うけど…当分は…」
「うん、でも待ってるよ」
「それと…」
「何?」
「あっちで彼氏できたら教えてよ。私に」
「え?」
驚く顔をする市井ちゃん。直感的にマズイこと言ったかな、と思う。
「え、え〜っと。そりゃ、そうだよね。そんなの教える義理なんてないし…」
「いやぁ、そうじゃなくって…ん〜とねぇ…」
市井ちゃんは私に耳を貸すように、と指をクイと曲げた。周りには誰もいないの
に、と不思議に思いながらも私は市井ちゃんの口元に耳を近づける。そして、市井
ちゃんは囁いた。
- 332 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時31分16秒
- 「な!!」
驚きのあまり、声を上げる。
「マ、だ、で、でも…ウソ…マジで?」
「知らなかったの?てっきり私…」
少し恥ずかしいながらも嬉しそうに市井ちゃんは口篭もる。
「ヘヘヘ…」
「全く…でも…うわぁ…」
私はちょっと思い浮かべる。すると、思い当たるフシはいくつかある。
「結構、口固いんだね。あらためて見直したよ」
「…あんにゃろ。後でブン殴る!」
「お手柔らかにね。ま、そういうことだから。これからもよろしくね、お姉ちゃ
ん♪なんちって」
鼻の下を指で擦る仕草をする市井ちゃん。
私は「もう〜」と牛みたいに唸るしかできなかった。
- 333 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時33分00秒
- 庭園になっている墓地を抜けて、一般道へ出た。といっても、寂れた県道なので、
大した交通量はない。
「ダメだ〜」
「何?」
「ショックで」
「さっきのこと?」
「と〜ぜん…」
「元気出して」
「市井ちゃんに言われてもなぁ…」
ショックと言いながら大分私の中で事実を消化できていた。それよりも、もうすぐ
訪れる別れが私の心を支配していった。それを隠すための材料に過ぎない。
- 334 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時35分41秒
- 一台の白い車が目の前を通り過ぎた。その後に続く車は当然なさそうだ。高低のあ
る直線の先を見つめると青い空が道路に接触していた。
きっと市井ちゃんが向かうアメリカにもこの青い空は続いているだろう。
ふと悲しくなったときは空を見上げよう。
決して天じゃない。
空の彼方に見える地球に住む市井ちゃんを見つめよう。
「じゃあ、もう行くね…」
今日出会ってからもうすぐ10分。タイムリミットはすぐそこまで来ている。私た
ちはここで別れる。そして、しばらくは会えないだろう。
「うん、あ、その前に…」
「何?」
「後藤の夢って何?」
突拍子もない質問のような気がして、首をかしげる。
- 335 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時38分46秒
- 「何?いきなり?」
「いきなりじゃないわよ。前にも聞いたことがあったでしょ?私のベッドの上で。
後藤は曖昧に答えるだけで教えてくれなかったんだ」
「あ…あったねぇ…」
少し焦って目を泳がせる。確か何とかごまかしたんだっけ?でもよく市井ちゃん、
覚えてるなぁ。
「ね、そろそろいいでしょ?」
身を乗り出して聞いてきた。
「イヤだ!だって恥ずかしいし…」
「恥ずかしくないって」
「絶対叶わないし…」
「何、もう諦めてんのよ。よくわかんないけど信じていれば叶うって」
「ぜ〜ったい叶わない。だから言わない!」
プイと横を向くと、市井ちゃんは、
「っんもう…わかったわよ…変な夢ね…」
と仕方なく諦めていた。
- 336 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時40分12秒
- 市井ちゃんにだけは絶対に言えないんだよ。
だってね、私の夢は、
市井ちゃんみたいになりたい。
市井ちゃんみたいに強くて優しくてまっすぐで。
そんな人間になりたい。
これからも市井ちゃんはずっと私より前で走りつづけるんだ。
だから、一生叶わない夢になっちゃったんだ。
でも少しでも近づけるように努力するから。
これからも市井ちゃんを追いつづける私を見ていてください。
- 337 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時45分22秒
- 「じゃあ、あらためて…もう行くよ」
「うん、じゃあ最後にね」
市井ちゃんは右手を差し出し、握手を求めてきた。
それに私は応えた。
市井ちゃんの温もり。
出会ったころと全く同じ。
ああ、ダメだ。
泣いちゃう。
悲しんでいることがバレちゃう
行かないで、って言っちゃう。
市井ちゃんを困らせちゃう。
- 338 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時49分10秒
- 「さよなら、頑張ってね」
私は走り出した。
ホントはこのまま市井ちゃんの姿が見えなくなるまで突っ走る予定だった。
しかし、
「後藤〜!」
市井ちゃんが声をあげた。その声に未練たっぷりの私は無意識で振り返る。
「じゃあね!」
遠くで市井ちゃんは手を振っていた。
抑えていた涙がどっと溢れた。
市井ちゃんに気付かれただろうか?
- 339 名前:エピローグ 投稿日:2001年09月20日(木)21時52分49秒
「絶対に戻ってくるんだからね!!」
私はそう叫び、反応を聞かぬまま再び踵を返し、走り去った。
「おう!戻ってくるよ!」
きっと市井ちゃんはこう言っただろう。
柔らかい風が吹き、涙と想いを運んでくれた。
見上げると空が青くて高かった。
(fin)
- 340 名前: 完 投稿日:2001年09月20日(木)21時53分33秒
- ふたり 〜あなたに会えてよかった〜
- 341 名前:作者 投稿日:2001年09月20日(木)21時59分56秒
- 俺が読者だったら絶対読まないな、と思うくらい長くなりましたが、
完読された忍耐力のある方々へ。ご苦労様、そしてありがとうございました。
あとがき、書きたいなぁ。
- 342 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月20日(木)22時05分44秒
- リアルタイムで読めた(涙)
作者様お疲れ様でした!
すごくシリアスな展開でしたがドームライブの「I WISH」に泣けました。
あとがき!ぜひぜひ読みたいです!
- 343 名前:326 投稿日:2001年09月20日(木)22時17分56秒
- うわー、われながら間の悪いことこの上なし(w
最後まで感動されっぱなしでした。
この小説に会えてよかった。
- 344 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月21日(金)03時27分10秒
- 長きにわたりお疲れ様でした。
最後は、“やられた”って感じです(いい意味で)
痛いの我慢して最後まで読んだかいがありました(w
本当に素晴らしい作品をありがとうございました。
- 345 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月21日(金)04時11分21秒
- 最後、救いがあってよかった。
長い間お疲れ様でした。
そして、素敵な作品を読ませていただき
ありがとうございました。
- 346 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月21日(金)16時27分46秒
- ずっと読むのが苦しくて何度もやめようかと思いましたが、
最後まで読んで本当によかった!
感動、ありがとうございました。
- 347 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月22日(土)04時09分05秒
- あんにゃろ〜、俺もぶん殴る(w
とても面白かったですよ。
いちごまよ、永久に幸あれ。
- 348 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月22日(土)22時47分07秒
- とてもよかったです。
あとがき書いてください。
- 349 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月23日(日)03時02分00秒
- ずっと読んでましたが
すごく良かったです、感動しました
- 350 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月23日(日)03時47分07秒
- とても素敵な作品でした。
辛さの中に優しさがあって、何度も感動させてもらいました。
素晴らしい作品をありがとうございます。
そしてお疲れ様です。
- 351 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月23日(日)17時44分13秒
- ご苦労さまでした。
本当にいい小説を読ませて頂き有難う御座いました。
ただ、最後のユ○キの所で現実に戻されちゃいました。
- 352 名前:LVR 投稿日:2001年09月25日(火)01時10分10秒
- ラストをあらかじめ見せていたのには、こういう意味があったんですね。
楽しみが一個減るのは残念ですが、面白かったです。
途中みんな遠慮してレスしてなかったけど、
最後のレスの数を見て、この小説の凄さを再確認。
- 353 名前:訂正。 投稿日:2001年09月25日(火)19時13分23秒
- 作者です。いろいろ書く前に訂正を。
13-41と13-42の間(レス番216と217の間)に
☆
「いいよ」
「え?」
市井ちゃんは半分冗談だったんだろうか。やや唖然とする。
「いいよ、市井ちゃんが死んだら私も死ぬから」
まっすぐ市井ちゃんを見た。市井ちゃんは私の言葉に、そして強い眼差しに目を剥
いていた。
「ちょっとごっちん…」
なっちが後ろから囁いた。その声に私は振り向く。
「みんなも証人になってね。市井ちゃんが万が一死んだら私も死ぬから」
「お、おい、ごっちん…」
私のまっすぐな瞳が「ウソではない」ということを語っていたようで、みんな青い
顔をする。そんな表情たちを見回してから、市井ちゃんを見た。
「そういうことだから、市井ちゃん。こんなところで死んだらダメだからね。絶対
元気になってね。私の為にも…」
優しく微笑みかけた。
☆
までを挿入してください。娘。小説保存庫の管理人さんをはじめこの小説を保存し
ている方は直してくだされば幸いです。見つけられない可能性が高そうですが…。
- 354 名前:あとがき 投稿日:2001年09月25日(火)19時16分47秒
- ということで長い雑文を読んでくださって本当にありがとうございました。特に
感想を途中や最後に書いてくださった方、大変励みになりました。実は256kbの壁
に怯えていたのですが、プロパティで見るサイズとは違うみたいで、まだまだ余裕
があるみたいですね。
だからあとがきをちょっと長々と書かせてもらいます。こういうのが嫌いな方は
お許しください。というか読まないで下さい。
- 355 名前:あとがき 投稿日:2001年09月25日(火)19時20分27秒
- まず、最初に書いた通り原案がありますので紹介します。
ももち麗子氏の「ねがい」という作品です。「ひみつ」という本に収録されている
100ページ程度の話です。ももち氏のことはご存知かどうかわかりませんが、ドラ
マ「R-17」の原案である「なみだ」や「めまい」を書いた人と言えば、わかる人
も多いのではないでしょうか。
「ひみつ」はレイプを扱った作品で「ねがい」はエイズ、「めまい」はドラッ
グ、他にいじめとかストーカーとか…つまり、そういう問題提起を現在作品に託し
ている漫画家です。それと「りかのじかん」のサイトで知ったのですが(9/16)、石
川さんや矢口さんがももち氏のファン(急造?)でこの単行本「ひみつ」も読まれ
たみたいなので、石川ヲタ、矢口ヲタの方は本屋へ行って梱包を破って立ち読みし
てみればいかがでしょうか?そして比較してくれると嬉しいかなぁ…なんて。でも
二人のヲタはこの話を読まないか(俺は現メンの一、二推しだったりするのだが…)。
- 356 名前:あとがき 投稿日:2001年09月25日(火)19時28分03秒
- (上げてしまった…。)
この「ねがい」を読んだとき、ちょうどココに別の作品を載せ始めた時期だった
せいか、すぐに「市井と後藤だ」と俺の脳内に娘。フィルターがかかっていきまし
た。読んでみればわかりますが、かなり話は則してあります。飲みかけのウーロン
茶のシーン、市井が怪我して「偽善者」と呼ばれるシーン、ナイフを後藤に向ける
シーン、そしてドームライブにあたるシーンさえもこの「ねがい」にはあります。
だから今回、僕は小説を書くというより脚色をした気分でした。元ネタ使いまくり
の作品ですが普通の高校生のお話をモーニング娘。の話に置換したということでオ
リジナリティを認めてくだされば嬉しいです。
- 357 名前:あとがき 投稿日:2001年09月25日(火)19時28分41秒
- ただ前半の核だった亜依にあたる人物は「ねがい」にはいません。実際調べてい
て、こういう形の嫉妬があるらしいので採用しました。最初は亜依は架空の人物で
書いていたのですが、僕のイメージした亜依に当たる人物が加護に近いこと、本編
で使われるどころかむしろ邪魔だったこと(w、そして、この人物が結構重要な役
になってきたことという理由から、少しでも感情移入できればとちょっとヘンな世
界になるのを恐れながらも加護を使わせてもらいました(某HP住人に感謝)。
この作品は娘。は10人(当時)で”たまたま”リアルの辻加護は出ていないけど、
本当はちゃんといる(ドームでもちゃんと辻加護は市井を取り囲んでいる)と僕の
脳内ではしているので要は死んじゃった辻加護と合わせて二役ということになって
います。つまり、ミニモニ。にはちゃんと4人いるっていうことです(>>326さん)。
ああ、苦し…。
- 358 名前:あとがき 投稿日:2001年09月25日(火)19時35分12秒
- エイズを扱っているのに「性の問題」をほとんど書かなかったのは中途半端な作
品をより中途半端にしていますが、市井の彼を書き込むと娘。小説じゃなくなるよ
うな気がしてあんな感じになりました。原案とは違い問題提起をしているわけでは
ないですから丁度いいのでは、と思っています。
最後のシーンで出てきた”後藤の弟”と市井の関係のことですが、書いている時
に発覚したのでやんわりと使わせてもらいました。もちろん、最初は単なる時事ネ
タだったのですが、僕の中では「市井と後藤はあくまで友情で結ばれているのであ
って恋とかではない」と特筆するために必要になった気がします(>>351さん)。
- 359 名前:あとがき 投稿日:2001年09月25日(火)19時36分46秒
- 書き終えて特に失敗したのは吉澤の使い方ですかね。最初は市井にHIVをうつさ
れた存在として吉澤を書いていたのですが、本作はレズっぽいことは一切排除の方
針だったし、感染する理由が思いつかなくってやめたんです。結果、思わせぶりに
しといて実は何にもなかったって感じになっちゃいました。吉澤に限らず市井後藤
以外の人間は全部上手く書けなかった。保田もホントはもっと活躍させるべきだっ
た気もしますし、中澤に至っては最後に態度をコロッと変えてるし…。こういうワ
キの書き方が甘いなぁと痛感させられた作品です。あと、日本語の難しさも再認識。
- 360 名前:あとがき 投稿日:2001年09月25日(火)19時45分35秒
- ははは、長…。
ほんと、すみません。あとがき好きなんで…。
これからも暇を見つけてはちょくちょく書ければいいなと思っているのでよろしく
お願いします。近日中にスレ立てますが(w。
最後に。1のリンクじゃ飛べないので倉庫の方のリンクを貼っておきます。
この作品の前半部分はこちらへ(これは移動しないよな…)。
http://mseek.obi.ne.jp/kako/blue/992850888.html
そうそう、最後の最後にこの小説を書いた一番の理由を(マジ。
市井、早く戻ってこい。
後藤、辞めんなよ。
それでは、本当にありがとうございました。
- 361 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月26日(水)02時53分46秒
- あとがきの最後の部分大いに共感です(w
次回作、期待しております。
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