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市井ちゃん、お隣の国からデビューだってさ!!
- 1 名前:名無し娘。 投稿日:2001年08月27日(月)23時40分52秒
- 羊で書いていたものです。
ネタスレに便乗して書いていたものが膨らんでしまい、
止めるに止められなくなってしまいました。
ここで続けさせてください。
小説部分から開始します。
- 2 名前:名無し娘。 投稿日:2001年08月27日(月)23時42分43秒
- 「ちくしょう...」
言い知れぬ怒りで顔が真っ赤になっているのを意識しつつ、何とか気持ちの平衡を取り戻した。
まったく韓国人ときたら...
韓国に渡って既に1年が経つものの、いまだにこの人たちのにんにく臭さと
横柄な態度になれることはできない。
娘。たちとの約束がなければ、とっくに投げ出していただろう。
私は...と思い返した。
韓国人に悪態をつくためにここまできたわけじゃないんだ。
一旗上げて錦を飾るために...というのは古すぎるか。
歌手としてここで成功するまでは日本に帰らないと決めたのだ。
- 3 名前:名無し娘。 投稿日:2001年08月27日(月)23時45分52秒
- 冷静さを取り戻し、練習を再開した。
悔しいが韓国人のダンスは確かにうまい。
娘。でやっていたことが幼稚園児のお遊戯に思えてしまうくらい激しい。
日本の情報はほぼリアルタイムで入ってくるから、
娘。の活動を見ようと思えば見られるのだが、意識的に遮断していた。
私の目標は娘。を超えることにはないからだ。
私はここで、異国の地でゼロからスタートすることに賭けたのだ。
娘。の過去を売り物にされるのは嫌だった。
もちろん、ここでも私が娘。に在籍していた過去はすぐに流布されるだろう。
それでもいい。
娘。にいた私の記憶に縛られたファンのいない地で成功することに意義を見出したのだから。
- 4 名前:名無し娘。 投稿日:2001年08月28日(火)00時00分22秒
- 一年前。
失意の底にいた。
高邁な理想を掲げて娘。を辞めたのは良かったが、母親からは詰られ、
ロンドンへの留学も事務所のバックアップが得られず断念した。
非力だった。
自分の無力さを思い知らされた。
そんなとき、声をかけてきたのがオーロラという事務所のあいつだった。
芸能界では泣く子も黙るという大手事務所の息がかかっているという。
無論、当時はそんなことを知る由もない。
事務所の底意が知れず、不安を抱えていた私にあいつはうまく取り入ってきた。
築いたときには、韓国の労働ビザを取得させられていた。
あのとき、上手く立ち回っていれば、もう少し違う展開になっていただろうか...
いけない...ちょっと気を許すとすぐに思考が不毛な循環に陥る。
所詮、世間とは胡乱なもの。
歴史にifは禁物だ。今はただ、考える。
娘。と再び対等のステージで会い見えるその日まで。
この地で戦い抜くのだと。
- 5 名前:名無し娘。 投稿日:2001年08月28日(火)00時13分16秒
- 「よし、あがっていいぞ。」
ようやく、あいつからOKが出て今日のッスンは終わった。
「アンニョンハセヨ。」
疲れて座り込むバックの面々を横目にまっすぐ家路へと着いた。
もちろん一人だ。
ラブマが売れて事務所が送迎するようになるまでは娘。でも一人で移動していた。
違和感はない。
あるとすれば、ここが東京ではないこと。
日本からほど近いとは言え、異国の地であることだ。
江南のマンションから明洞のスタジオまで地下鉄で1時間弱。
途中、漢江を渡るところで地下鉄は一回地表に出て橋を渡る。
運がよければ漢江の彼方に沈む美しい夕陽が拝める。
空気が乾燥しているせいか、西からの強烈な日差しがストレートに目を射る。
最初は戸惑ったが、慣れてくるとその雄大な姿に自分を重ねるようになった。
願わくは、その眩いばかりの明るさで光り輝きたいと。
その燃え滾る炎の力で、小さな悩みなど焼き尽くしてしまいたいと。
- 6 名前:名無し娘。 投稿日:2001年08月28日(火)00時15分17秒
- 地下鉄を江南で降りると、歩道に溢れる若者の間を縫うように通り抜け、急ぎ足で家路に着く。
ノボテルホテルの裏側の少し上り坂になった道を登ると大きな屋敷が右手に見える。
その先の路地を右に入ったところに私のマンションはある。
急いでドアを占めると、まっすぐ机に向かいPCのスウィッチを入れる。
ブーンという音とともにWIN98が起動する。
韓国名物のADSL常時接続に加入しているから、ダイアルアップの接続待ちでいらいらする必要はない。
これだけは韓国に来て良かったと思う。
画面にはデフォールトにしているチャットサイトのバナーが景気のいい文句を映し出す。
「もう、あと30分待って、来なかったら、ログアウトするよ(怒)」
怒ってる。
ごめん。
心の中で、舌をだして謝る。
無論、圭ちゃんには見えないだうが。
何はともあれ、レスを返す。
「ごめんごめん。あいつが例のごとくしつこくってさ。間に合ったかな?」
「遅いよぅ〜。おかげでビール2本空けちゃったよ(笑)
ゆうちゃんみたいな酔っ払いになったら、紗耶香のせいだからね(笑)」
そういえば、圭ちゃんはもう二十歳を迎えていたんだっけ。
ほんとに酔っ払ってるんだったら、今日は圭ちゃんの本音が聴けるかな。
- 7 名前:名無し読者 投稿日:2001年08月28日(火)03時55分21秒
- よかった
移転したんですね。
- 8 名前:名無し娘。 投稿日:2001年08月28日(火)12時38分16秒
- >>7
見つけていただけましたか。
ありがとうございます。
dat行きの心配をせずゆっくり書けそうなので、
こちらで完成を目指したいと思います。
単にコピペで貼り付けるのも能がないので、
誤字脱字や拙い表現などの修正と状況の変化(新メン決定)などに則して
改編して行きます。
- 9 名前:名無し娘。 投稿日:2001年08月28日(火)21時22分00秒
- 今でこそいい思い出だが、私達3人が娘。に加わった当時、
私達を取り巻く環境はそれは厳しいものだった。
ファンの間からはメンバー追加に対する猛烈な反対運動が起こり、
娘。のオリジナル・メンバーである5人の反発も激しいものがあった。
今、思えば当然と思えることも当時はただ3人でひたすら怯えて
小動物のように肩を寄せ合って震えていたような印象だけが残っている。
明日香が最初に声をかけてくれるまでは、先輩メンバーに声をかけることさえ憚られた。
そのうち矢口がタンポポに加わったため、彼女を媒介してようやくカオリや彩っぺとも
話すようになっていったが、彼女達の圭ちゃんに対する態度だけは相変わらず厳しかった。
厳しいオーディションを潜り抜けてきたという自負の特に強かったのだろう。
彩っぺは私達の加入の経緯が不透明だったことからある種の疑いを持ち、
常にきつい態度で接していた。
中でも圭ちゃんのことは明らかに疑ってかかっており、
何かと突っかかるか、あるいは徹底的に無視するかのどちらかであった。
元来、楽天的な圭ちゃんが日に日に沈んでいくのを見るのが辛かった。
そんな中で圭ちゃんはよく頑張っていたと思う。
祐ちゃんに叱られていた最初のうちこそ、後で3人になってから影で罵倒し合ったものだが、
そのうち私や矢口が先輩メンバーの悪口を言い出すと圭ちゃんは嗜めるようになる。
「本人の前で言えないことを言うのは止めよう」
言いたいことは山ほどあったろうに。
そのとき既に決めていたのだと思う。
彼女達を見返すには、実力を示して見せるほかはないのだと。
恨み言を連ねる前にやることがあるのだ、と言わんばかりの勢いで努力を重ねる圭ちゃん。
そして彼女は本心を見せなくなっていった。
- 10 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)18時38分03秒
- 吉澤に保田さんって悩みなさそうとか言われたよ、
と嬉しそうにメールで書いて寄越してきたことがあった。
不言実行を旨とする圭ちゃんにはむしろ誉め言葉に聞こえたのかもしれない。
何はともあれ、若いメンバー4人が入ってから、
なんとなく圭ちゃんの雰囲気が明るくなってきたのは喜ばしいことだ。
吉澤を始めとして新メンの粗忽話を聞くのは私も楽しい。
それよりも気になるのは後藤のことだが...
こっちに来て最初の頃は電話で連絡を取っていた。
しかし、近いとは言え、さすがに国際電話だけに電話代がばかにならない。
また、私が在籍していた自分とは比べ物にならないくらい娘。の活動が忙しくなったため、
次第に連絡が途絶え、危うく音信不通になりかけた。
そんな折り、パソコンに嵌まり始めた圭ちゃんがメール近況を知らせてくれるというので、
私もパソコンを買ったのだった。
- 11 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)18時39分00秒
- 「っていうか、もう立派な酔っ払いじゃないの?」
最近はタイピングにも慣れ、ほぼノータイムでレスポンスできる。
「言うわねぇ(笑) こないだみっちゃんにも、すっかり飲み友達扱いされちゃったよ(笑)」
みっちゃんの飲み友達とはかなりディープだ。
まともなテンションでは相手にできない人だもの。
「裕ちゃん、みっちゃん、圭ちゃんでさ、中江兆民の三酔人経倫問答みたいな会話してんでしょ?」
「紗耶香は相変わらず難しいことを言うねぇ。」
そろそろ本題に移ろうか。
「ところでさ、後藤にもいい加減パソコン覚えるように言っといてよ。」
「.....」
しばしの沈黙。
画面が瞬間、凍り付いたように止まる。
- 12 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)18時40分02秒
- ブラインドタッチの使い手である圭ちゃんがレスを返すことができないでいる。
明らかな動揺が窺える。
後藤に何かあったのだろうか。。。
「ああ、ごっちんね。。。携帯ばっかりやってるからねぇ、あいつは。」
しばし逡巡した後、ようやく画面が動いた。
相変わらず、隠し事が苦手だな、圭ちゃんは。。。
そこが好きなところでもあるけど。
ここはやっぱり、ストレートに聞いた方がいいかな。
「やっぱり何かあったんだね。」
- 13 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)18時40分45秒
- 隠し通せないことがわかったのだろう。
今度は、一瞬の沈黙の後、画面に文字が浮かび上がる。
「後藤ね 」
そこでまた、画面が止まる。
動悸が激しくなるのがわかる。
どっくん、どっくんと波打つ心臓の音が聞こえるくらい。
祈るような気持ちで、画面を食い入るように見つめる。
「後藤ね。辞めたよ。」
何のことか、理解できなかった。
いや、理解したくない気持ちが強いだけか。
目の前が真っ白になった。
完全な思考停止。
- 14 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)18時43分40秒
- 「新メンバー募集してたことは紗耶香も知ってたでしょ。」
気が付くと、画面に文字が浮かんでいた。
現実に引き戻されて、必死で目が画面の動きを追う。
圭ちゃんのタイピングが続く。
「当初は2人入れて、なっちが卒業っていうシナリオだったんだけどね、
瀬戸さんが4人も入れちゃって、帳尻が合わなくなったから。。。」
黙って続きを待つ。
諦めたように、ゆっくりと文字が打ち込まれる。
「というのが表向きの理由。実際のところは例の広告代理店が動いてたってことしか
今はわからない。」
「そっちの理由だったら、もっと先の予定じゃなかったの?」
「うん。一応、なっち、カオリ、私と順送りのはずだったからね。」
「今辞めさせるのは向こうにとっても得策じゃないはずなのに。。。」
「だから、私達も混乱してるんだよ。若い連中は素直に泣きじゃくって、悲しんでるだけだけどね。」
それはそうだろう。
彼女達は、後藤の加入に際してどのような経過があったのか知らないのだから。
予定外に早まった後藤の脱退。
娘。にはまだ後藤が必要だったはずだ。
ショックから立ち直ると今度は、次々に湧き出してくる疑問の連鎖に思考が拘泥する。
- 15 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)18時45分14秒
- 冷静さを取り戻すに連れ、胸の奥の方でわだかまっていた感情が徐々に形を成す。
それは次第に重みを増して下腹のあたりにずっしりと沈み込む。
どうしようもない寂しさに耐え兼ねて、圭ちゃんに気持ちを委ねる。
「後藤、私には何も言わなかったんだよね。ここんとこ、連絡さえなかった。」
「紗耶香には心配かけたくなかったんだと思う。」
「そうかな。」
何も言われずに、娘。を辞められた方がよっぽどショックだ。
「紗耶香。」
圭ちゃんがたしなめる。
「本来なら、娘。のエース級である後藤が辞めるんだから、卒業にかこつけた興業を山ほど
押しつけられるはずなのに、後藤の場合何もなかったんだよ。」
えっ、どういうこと?
- 16 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)18時45分45秒
- 「何もなかったって?」
「あまりにも突然で、娘。やプッチの新曲さえ出せなかったんだ。」
そうだ。娘。はともかくプッチはどうなる?
「プッチはどうなるの?」
「今のところ未定だけど、さすがに後藤がいなくなると自然消滅だろうね。
吉澤もまだそこまで育ってないし。」
圭ちゃん。。。
淡々とキーを打ち込んでいるが、ショックは私以上に大きいかもしれない。
一昨年にユニットを組んで以来、メンバーの中では後藤と一緒に過ごす時間が一番
長かったのだ。
後からプッチに入った吉澤が後藤と同い年で仲良くなったとはいえ、精神的な支えとして
頼られることも多かったはずだ。
ごめん、圭ちゃん。。。
寂しいのは私だけじゃない。。。
- 17 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)18時46分32秒
- 翌朝、通勤客で込み合う地下鉄に揺られながら、昨日の内容を頭の中で整理する。
結局、後藤の脱退は失踪同然の状況で、卒業という言葉は用いられたものの、
私でさえ区切りとして出演できたファィナル・コンサートもできなかったと言う。
丁度ツアーの終了直後で、曲の録音などスケジュールがぽっかり空いていた間隙を
縫うかたちで行われただけに、事務所としても何も手が打てなかったということだ。
いけない、すっかり考え込んで乗り換え駅の舎堂を降り損ねるところだった。
2号線から4号線へと乗り換え、会賢まで一本だ。
今度はもう少し、ゆっくり考えられる。
それにしても不思議なのは、例の広告代理店の動きだ。
彼らが表立って動くことはないため、おそらく実行部隊は業界最大と言われている
芸能事務所の息がかかったところだろう。
そうであれば、あいつが何か知っている可能性はある。
オーロラ経由で当然、情報は入ってくるだろう。
- 18 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)18時47分05秒
- 明洞のスタジオに着くと早速あいつに尋ねた。
「後藤が辞めた件だけど。」
眉ひとつ動かさずにあいつは冷静に応える。
「ああ、その通りだ。」
「知ってたのね。」
思わず目じりが吊りあがっていくのがわかる。
さらに語気を荒げて追求する。
「なんで、言ってくれないのよ!」
「なんで言う必要がある。」
だめだ。
ここは冷静になろう。
これでは、何の情報も引き出せない。
- 19 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)18時51分58秒
- はぁっと大きく息を吐いた後、深く息を吐いこんで呼吸を整える。
落ち着くんだ。
10,9,8,7...
怒ったときは、10数える...誰かの言葉を思い出す。
あれは圭ちゃんだったっけ。
「ごめん。何か知ってるんだったら、教えてほしいの。」
「...」
「あなたも後藤と私の関係はしってるでしょう?心配なの。」
珍しく下手に出たことで虚を衝かれたのか、どう反応したらいいか戸惑っている。
「そうだな。だが、俺も詳しくは知らない。」
「知ってる範囲でいいの!」
あいつが語り出すのをじっと待つ。
韓国製のマイルドセブンを咥え、ふぅっと煙を吐き出すとようやく口を開いた。
ひどく時間がかかったように感じる。
- 20 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)18時53分38秒
- 「例の広告代理店絡みではない。」
「えっどういうこと?」
「オーロラが俺に伝えてきたのはそれだけだ。」
「後藤が自分の意志で辞めたということ?」
「いや、背後が別だというだけだ。後藤の意志ではないと聞いている。」
「どこなの?」
「わからん。オーロラが掴んでいないんだ。業界内の動きではない。」
「...」
「俺が知っているのは、それだけだ。わかったら、レッスンにつけ。」
怒りに昂ぶった感情がすっかり萎え、今度は言い知れない不安が押し寄せる。
後藤...いったいどこでどうしているんだろう。
- 21 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)18時54分44秒
- 夜が来た。
いかに大きな不安を心に抱えていても、時間がくれば腹が減る。
そんな自分に軽い嫌悪感を抱くものの、仕方がない。
私も人間だ。
韓国に来た当初はあまりに辛い料理に戸惑ったが、さすがに一年も経つと慣れた。
相変わらず外食ばかりだが、唐辛子の栄養価のおかげか体調を崩すこともない。
いつも帰りに寄るシクタンで軽い夕食を取る。
さすがに今日は重いものを食べる気はせず、カルグクスというきし麺のような麺にする。
韓国うどんをすすりながら、後藤の行動を考えてみる。
事務所絡みではないとすると、例の宗教団体だろうか。
私がモーニングに在籍していた頃から、後藤は何度かその団体の関係する会合に呼ばれていた。
特に嫌がっていた様子はなかったが、もともと冷めた子だ。
親に累が及ぶともなれば泣き言のひとつも言えまい。
その線の可能性は否定できないが、政治的なバックグラウンドまで持つまっとうな団体が、
そのような怪しい行動に出るかは疑問だ。
考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだ。
- 22 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)18時55分52秒
- シクタンを後にして家路につく途中、
リッツカールトン・ホテルの丁度裏手に差し掛かったところで携帯が鳴った。
仲間のバックダンサー、イーファからだ。
「ヨボセヨ、どうしたの?」
「サヤカ、今から行ってもいい?」
「え、どうしたの?私は構わないけど...」
「うん、行ってから話すよ。30分くらいで着くから...」
「わかった。待ってるよ。」
電話を切ると、まっすぐ家に向かう。
ノボテルを過ぎれば。もうすぐそこだ。
- 23 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時02分59秒
- イーファは漢字で書くと「梨華」
新メンバーにも同じ名前の子がいたが、どうしているだろうか。
親しくなる前に娘。を離れてしまったから実状はわからないが、
圭ちゃんによれば、今や娘。の顔として売り出し中とのことだ。
なっち以来、久々のソロ写真集も出したらしい。
へぇ、あの娘がねぇ...と感慨に浸ったのも束の間、
それが後藤脱退と何か関連があるのかと思うと気になって仕方がない。
石川メイン...後藤脱退への布石...だったのだろうか...
またしても思考が堂堂巡りを始めそうになったとき、こちらの「梨華」が来た。
- 24 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時03分43秒
- 「サヤカ、ビール買ってきたよ。」
「ちゃんとハイト、買ってきてくれた?」
「ケンチャナヨ!OK、OK、サヤカの好みは覚えてるよ。」
日本では、滅多にお酒を飲む機会はなかったが、こちらに来てすっかりビールの虜になってしまった。
激しいダンスの練習の後、仲間と食事に連れ立っていくうちに自然に飲むようになった。
喉が渇いているところに、ビールをぐいぐいとやる仲間の姿を見て、そんなに美味しいなら
と真似して口をつけたのが始まりだった。
もともと受け入れる素地があったのか、こちらのビールが美味しいからかわからないが、
今では韓国のビールなしに過ごせないほど嵌まっている。
- 25 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時04分52秒
- つまみのキムパプ(のり巻き)を手にとりながら、イーファが切出す。
「サヤカ、今日、元気なかったね。何か、心配事あるの?」
「心配してくれてるの、イーファオンニ?ありがとう。」
「仲間だからね。」
イーファは私よりも大分年上だ。
ハローのメンバーで言えばみっちゃんと同じくらいか。
韓国のトップスター、オム・ジョンファやペク・チヨンのバックを努めた後、
私の専属としてついてくれた。
「今日は、サヤカの動き、切れがなかったからね。悩みごとあるときはダンスに出る。」
「そっかぁ。さすがだなぁ。よく観察してるよ。」
「それで、悩み事は何?私でよければ相談に乗るよ。」
「うん、後藤真希がね、モーニング娘。辞めちゃったんだよ。」
「それ、知ってるよ。でも何で、サヤカが悩む?」
- 26 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時05分46秒
- モーニング娘。の名はこちらでも有名だ。
韓国政府は公式には日本の音楽や映画などの大衆文化の輸入を制限しているものの、
地下では、というよりは公然と娘。のCDなどが町中で出回っているのが実状だ。
中でも後藤は特に人気がある。インターネットなどで情報が飛び交う御時勢だ。
脱退のことをイーファが知っているのは不思議でない。
改めて、知らなかった自分に嫌気が差す。
「うん、失踪同然の辞め方だったらしくてさ...後藤とは仲良かったから心配なんだ。」
「ソロに専念するんでしょ?」
「そういうことにはなっているみたいだけどね。」
「何が心配?」
「私に言ってくれなかったのがショックでね。」
「仲良かったから?」
「うん。大事なこと決めるときは必ず連絡してくれると思ってた。」
「忙しくて連絡できなかったよ。きっと。何しろ凄いスケジュールね。」
実際、脱退前のスケジュールは娘。本体とソロの両面からガチガチに固められて
寝る暇もないほどだったとされており、それが脱退の原因になったのではと噂されているらしい。
現在は、休養とソロに専念するための充電期間ということで、
マスコミへの露出は抑えられている。
- 27 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時07分17秒
- ひとしきり、後藤について私の知っていることを交えながら語りあった後、
話題は自然と目前に控えた、韓国でのデビューに移っていった。
韓国の音楽界は現在、80%以上がダンス中心のビジュアル志向だ。
私たちも、例に漏れずその一角を占めることになるのだが、オム・ジョンファやペク・チヨン
といった先達達と伍していかなければならないのだから大変だ。
またガールグループではS・E・SやBaby.voxなど、やはり人気の高い実力者がおり、
必ずしも成功が約束されているわけではない。
せっかちな韓国人らしく、普通、新人は2ヶ月くらいプロモートして芽が出なかったら、
それで終わりだという。
う〜ん、厳しい...それだけに遣り甲斐もあろうというものだが...
気がかりなのは、ここ数年で着実によい方向へと向かってきた日韓の関係が
急速に崩れようとしていることだ。
言わずと知れた教科書問題である。
- 28 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時08分50秒
- ワールドカップの共催を契機とする相互交流の活発化で、
ここ数年の日韓関係は戦後初めて、良好と言える水準に達していたと思う。
ただし、忘れてはならないのは、現在、政治経済の中枢にいる人たちが、
偏向的な反日教育を受けてきたということだ。
小さなきっかけで、大きく揺り戻す可能性を孕んでいることに日本の為政者が
気づいていなかったこと自体、問題外だ。
検定の制度状の問題で、現在、韓国や中国が要求しているような修正には応じられない
としている態度自体が、韓国人の神経を逆なでしていることに何故気づかないのだろう。
検定で通している以上、日本政府が「このような歴史の見方はありですよ♪」と言っている
に等しい、つまり、政府の公式の歴史観と捉えられても仕方がないことに何故気づかない?
実際、韓国語で喋ることに大分慣れてきたとはいえ、日本人であることがわかり、
嫌な思いをする機会が最近、頓に増えた。
友好ムードに隠れて見えなかった、両国の間に深く横たわる深淵について改めて思い知らされる。
- 29 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時09分35秒
- そのような環境にあって、イーファが自然体で付き合ってくれているのは、
本当に有り難い。
今日も、私のことを心配して、わざわざ寄ってくれた。
オム・ジョンファのバックまで努めたダンサーだ。
それなりにプライドはあるだろうに。
側で寝息を立ててているイーファの横顔にそっと呟く。
ごめんね。
日本人がみんな、そうではないんだよ。
頑張ろう。
イーファのためにも。
私を個人として認めてくれる仲間のために。
- 30 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時12分11秒
- 今日はレッスンを早めに切り上げ、歌番組の公開録画を見学に行く。
もちろん、イーファのつてだが、韓国ではこの手のコネが日本以上に物を言う。
日本では既に廃れてしまったペストテン番組だが、こちらではまだまだ人気がある。
収録の行われるMBCのスタジオはヨイドにある。
日本で言えば兜町に当たるのだろうか、韓国証券取引所を中心に大宇証券や現代証券など
韓国を代表する大手証券会社の高層ビルが立ち並ぶ姿は圧巻だ。
忙しく行き来するビジネスマンと明らかに異質な集団がMBCの周りに列を成している。
歌番組に出演するアイドルの追っかけだろうか。
日本の同年代に比べると幼さの残る風貌の女の子が多いが、
アイドルに対する熱意は日本も韓国も変わらない。
- 31 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時12分51秒
- 今日は誰が出るんだっけ?
イーファに確認する。
H.O.T?
どうりで女子高生が多いわけだ。
あの変てこりんな髪型はどうかと思うが、
熱狂的なファンは多い。
すだれのような鬱陶しい髪型が一時期若い男性の間で流行ったが、
あれとてもH.O.Tの影響なしには考えられない。
できればソ・テジを生で見てみたかったが、
今日の出演予定はない。
昨年、衝撃的に韓国音楽界への復帰を果たしたソ・テジだが、
歌番組への出演をOKすることはまずないそうだ。
残念。
今日は、私たちの当面のライバルとなりそうなBaby voxの観察が主眼だ。
5人組の女の子。
どうしてもモーニングと比べてしまいがちだが、スタイルはまったく違う。
歌、というよりはダンスが中心だ。
- 32 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時13分53秒
- いよいよ彼女たちの出番だ。
大きな声でスタッフに挨拶する姿は好感が持てるが、
イーファによれば韓国のアイドルは事務所から礼儀を徹底的に叩き込まれるので、
さして珍しいことではないのだそうだ。
儒教の国、韓国てならではといったところか。
娘。の礼儀については和田さんの躾や裕ちゃんが厳しく指導してくれたおかげで、
私が在籍している間は、芸能界での評判は概ね良かったように記憶している。
郷にいれば郷に従え。
早く、こちらのルールにも慣れなくては。
Baby voxの5人がステージに上がる。
大きい!
身長、どれくらいあるんだろう?
イーファに聞いた。
みんな170cmくらいあるそうだ。カオリが5人並んだようなものか。
- 33 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時14分50秒
- 曲が始まる。
一応、口を動かしてはいるが、いわゆる口パクだ。
韓国の歌番組は不思議と口パクを許容しているらしく、
放送中の歌手が口パクか実演かわかるようにテロップ表示するそうだ。
ダンス系の歌手はほとんどが口パクになるが、
キム・ゴンモやソ・テジなど実演にこだわる人も少なくないらしい。
ちなみに、口パクは"Lip Sync"と呼ばれ、そう表示される。
それにしても大きいなぁ。
中になっちとASAYANの司会をやってた永作博美さんを足して2で割ったような
可愛らしい女の子がいた。
イ・ヘジンというらしい。
可愛いけど、大きい。
大きな、なっち...なんか変だな。
- 34 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時15分49秒
- 収録の熱気も冷めやらないまま、イーファとホフで感想を述べ合う。
ホフはビアホールのようなものか。
韓国語では「ホップ」という発音になる。
ドイツの「ホフプロイハウス」などの「ホフ」に由来しているようだが、
詳しいことは解らない。
何はともあれ、乾杯だ。
「やっぱり背が大きいから迫力があるねぇ。」
私が口を開くと、
「うん、Baby v.o.xのダンスはかなりいい具合に仕上がってるね。」
とイーファもかなり危機感を感じている様子だ。
「うちらのダンス、見劣りしない?」
「何、言ってるの!」
怒られた。
「決して負けてないよ、サヤカ。スタジオで見たから、立派に見えるだけ。」
自信家のイーファらしい。
ステージやカメラから離れて大分経つせいか、どうも弱気になりがちだ。
- 35 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時16分26秒
- 話はそのまま、一週間後に控えている香港合宿へと続いた。
「しっかし、またなんで香港なんだろうねぇ?」
私が素朴な疑問を持ち出すと、
「やっぱり、フェイ・ウォンなんじゃない?」
とイーファが答える。
「そんな、生で見なきゃいけないほど、凄い人なの?」
「!」
なんだか、びっくりしてる様子だ。
「何よぅ。」
「サヤカ、フェイ・ウォン知らないか?」
「うん、知らないよ。」
頭を抱えている。
韓国人は喜怒哀楽が激しい。
ひとしきり、あぁとかうぅとか唸り、何かぶつぶつ唱えた後、ようやく、
「まぁ、見ればわかるね。」
と、訳知り顔にうなづく。
なんだか馬鹿にされているような気がして悔しいが、
知らないのだから仕方がない。
百聞は一見に如かずという。
まずは見てからだ。
- 36 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時17分20秒
- 香港合宿の後には、いよいよデビューが控えているのだ。
嫌が上にも緊張感は高まる。
合宿はそうした雑念を払拭し、歌やダンスに集中させるために
あいつが企画したのかもしれない。
たまには、いいことを考えるものだ。
ひとしきり、今日の収録や韓国の音楽界について語らい、
心地よく酔いがまわったところで、お開きにした。
何しろ、デビューやその前の合宿を目前にレッスンも厳しさを増す。
明日も早く起きなければ。
ヨイナルの駅で反対方向に向かうイーファと別れ、ひとり地下鉄に乗り込む。
帰宅するサラリーマンで込み合う車内で吊り輪に指をかけ、列車の揺れに体を任せる。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
車窓に映る自分の顔に問い掛ける。
"紗耶香は頑張ってるよな?"
うん
"まだ、頑張れるよな?"
うん...
なんだか自然に涙がこぼれる。
お母さん...
いつになったら会えるの...
紗耶香が韓国でデビューして、活躍できたら、また家族で暮らせるの?
お母さん...
とめどなく流れる涙で視界が霞む。
ぼんやりと車窓に浮かぶ紗耶香が答えてくれる気配はなかった。
- 37 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月03日(月)19時17分55秒
- 早朝の強い日差しに無窮花(ムグンファ)の花が映える。
韓国にも夏がきたのだと実感する瞬間だ。
夜になれば枯れて萎んでしまう一日草。
短いときを賢明に射きる姿に共感するのだろうか。
この花はこの国の国花に指定されている。
私もこの花のようにデビューしても一瞬で消えてしまうのだろうか。
不安はつきまとうが今はやるしかないのだと自分に言い聞かせる。
私の失敗は将来、確実に行われるであろう娘。の海外市場進出にとっても
大きく影響するだろう。その意味でも失敗は許されない。
冷たい水で顔を流し、パンパンと軽く叩く。
さぁ、今日も頑張ろうか
- 38 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月03日(月)23時54分16秒
- おもしろいです!
それにしても作者さん、どうしてそんなに韓国に詳しいんですか?
しかも韓国の芸能界事情もかなり正確に掴んでいらっしゃるようで・・・。
こんな所でソ・テジ復活を知り、驚きました(w
これからも頑張って下さい!
- 39 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)12時45分29秒
- >>38
ありがとうございます。
韓国は出張でよく行ってたんですよ。
よろしくお願いしますね。
- 40 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)12時46分38秒
- 仁川国際空港へ向かうバスの中で香港合宿のスケジュールを確認する。
宿泊は日航ホテル。えらく張り込んだものだ。
娘。のツアーでもそんないいホテルに泊まることはそうなかった。
デビューもしてないのに、ひどくもったいない気がする。
合宿とは云え、実態は香港のメディア回りだ。
特に香港のスターTVは韓国で普及しているケーブルで放送しており、人気が高い。
PVのオンエアが頻繁に行われるので、媒体として決して侮れない存在だ。
韓国では音楽はPVを通して確認する若者が多く、
PVのできの良さがそのままセールスに直結するとも言われている。
PV監督のファンクラブまであるというから、その人気の高さは驚きだ。
でき云々はともかく、まずは媒体での放送枠を押さえておかねば話にならない。
そのための前準備というわけだ。
韓国のメディアを回る前に香港とはおかしな気もするするが、
スケジュール的に今しかできないということらしい。
- 41 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)12時47分26秒
- もちろん、こないだイーファと話したようにフェイ・ウォンのコンサートも
予定に組まれており、彼女や他のスタッフはそれを一番楽しみにしているようだ。
会場は香港體育館で九広鉄道九龍駅すぐ側だ。
滞在する日航ホテルからは道一つ隔てて、向かいに位置しており、徒歩で数分もかからない。
ここを選択した理由のひとつにはそれもあるようだ。
今年に入って完成したばかりの真新しい空港の建物が視界に飛び込んでくる。
一年前に降り立った金浦空港とは大分違い、明るい印象を与える。
金浦空港の前の大きな道路は有事の際、戦闘機の滑走路として利用されるという話を聞いたが、
ここもそうなのだろう。
南北和解ムードが広がる中でも、依然、交戦状態は続いているということか。
平和ぼけしている日本人の私には到底理解できない緊張状態に韓国の人たちは置かれているのだ。
- 42 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)12時48分22秒
- 午前9:00出発のアシアナ航空CZ302便は、平日ということもあってか
比較的空いていた。8割がた韓国人、残りは香港なのか中国なのかはわからないが、
とにかく中国系とごく少数の白人だ。
スチュワーデス、いや今はフライトアテンダントと言うのか。毛布を配って歩く。
スタイルのいい韓国人のアガシだ。
隣のイーファはもらった毛布にくるまり早くも熟睡体制に入っている。
私も少し寝ておこうか。香港と韓国の時差は1時間なので時差ぼけの心配はないが、
スケジュールはそれなりにハードだ。休めるうちに休んでおこう。
娘。での生活で得た数少ない教訓のひとつだ。
- 43 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)12時51分23秒
- ふわっとした感覚とともに機体が持ち上がる。
離陸したようだ。
窓の外に目を遣ると、海岸の向こうに赤茶けた地膚の台地に緑が点々としている。
典型的な韓国の風景だ。
一瞬、ひどく懐かしいような、ひどく去り難い感情を抱いたのは何故だろうか。
このまま、二度と戻れないような、そんな思いが胸の内に去来したのは、
去年の夏、日本を発ってからまだ一度も帰国していないせいかもしれない。
流転の日々。
韓国語は大分上達したし、イーファのように中の良い仲間もできた。
それでも尚、根無し草のように地に足がついていない居心地の悪さを感じ続けているのは、
自分自身に戸惑いがあるせいか。
お前の求めているものはなんだ、紗耶香?
- 44 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)13時29分28秒
- 高層ビルを潜り抜けて短い滑走路に降り立つことを想像していたら、
人気のない荒涼とした島の広くて奇麗な空港に私たちの飛行機は着陸した。
拍子抜けしたが、香港の空港もまた新しくなっていたのだった。
降りた途端にむわんとした熱気に包まれる。
韓国のからっとした気候とはまた大分違うが、こういうのも嫌いではない。
アジアの混沌としたエネルギーの源に浸っているようで内側から力が漲ってくるのを感じる。
イミグレーションを抜けるとエアポート・エクスプレスで中心部まで移動だ。
九龍駅までは15分程度。駅からはタクシーに乗りあわせ、日航ホテルに向かう。
ドライバは私の英語がわからないらしく往生したが、なんとか紙に「日航酒店」
と書いてようやく通じた。
ふぅ、やっと着いた。
荷物の整理もそこそこにシャワーを浴びる。旅の汗を流したかった。
一休みしたら、少し街中を散策してこようか。
- 45 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)13時31分08秒
- コン、コン...
ドアを叩く音が聞こえた。
覗き窓から見ると、ベルボーイのようだ。荷物はすべて運んだはずだが...
訝しく思いつつも、ドアを開ける。
「Ms.Ichii?」
「Yes,but...」
「Message for you,Ms.Ichii.」
ベルボーイがメッセージの入っていると思しき封筒を渡す。
こんなところへわざわざ伝言をよこす人物に心当たりはないが。
とりあえず、封を開けて中身を確認しようとしたその時、口元に何か冷たい感触を覚えた。
なに!?
布のようなものをあてがわれていると気づいたときには、既に意識が朦朧としてきた。
次第に遠のいていく意識の中で、韓国語で喋る男の声を聞いたような気がした...
「こちら大同江一号、対象を確保しました...」
- 46 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)13時32分01秒
- 市井紗耶香が香港から忽然と姿を消した丁度その頃、
保田圭は後藤真希の行方を追うため、弟のユウキに会いに都内キー局のスタジオに向かっていた。
失踪同然に娘。を脱退した後藤はその後、芸能界にも姿を現さず、
保田とも音信が途絶えていた。
脱退から一ヶ月経って、業界で誰も後藤を見たものがいないということがわかり、
保田は居ても立ってもいられなくなったのだった。
- 47 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)13時40分31秒
- 今日は収録の予定はないが、保田はにこやかに挨拶すると、
さも収録を急ぐタレントのようにせわしなくスタジオへと向かった。
「"EE JUMP様"...ここだ!」
ユウキのいる控え室を見つけると、保田はノックもそこそこにドアのノブを回転させた。
ガシャ。ドアを開けるとユウキが一人で漫画を読んでいた。
保田の姿を確認すると、はっとして声をあげた。
「保田さん!速かったですね!」
姉譲りの大きな瞳を丸くして驚いている。
- 48 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)13時41分16秒
- 「ユウキくん、ごめんね。忙しいとこ。」
保田は挨拶もそこそこに切出した。
「で、最後に連絡してきたのはいつだっけ?」
「脱退宣言した日から一週間くらい経った頃ですね。」
「どこから連絡してきたの?」
「東京駅から。」
東京?新幹線にでも乗ったのだろうか。
「どこかへ行くって言ってなかった?」
「そのときには何も。東京ってのもバックでアナウンスかかったから判ったんですよ。」
保田はふとユウキの言葉づかいが大分丁寧になったのに気づいた。
こんなときに不謹慎なようだが、和田さんの教育は行き届いているようだ。
少し安心した。
- 49 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)13時50分59秒
- 「他に何か言ってなかったの?」
「ソニンと話したいって...」
「?」
「姉さん、モーニング娘。辞める直前は割とソニンと話してることが多かったんですよ。」
「えっ!?知らなかった...そんな仲良かったっけ...あの二人?」
保田には意外だった。
確かに、モーニングの仕事が終わった後もさっさと一人で帰ってしまう後藤ではあったが、
プッチモニの仲間でもあり、それなりに後藤の行動は把握しているつもりだった...
寂しいじゃないか...後藤...
今はそれよりもソニンだ、と思い直す。
「で、ソニンはどこなの?」
- 50 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)13時52分04秒
- 「もうすぐ、来ますよ。待ちますか?」
待ちたいところだが、今日はこれからもう一人と約束がある。
30分以内に来なければ去らねばならない。
「うん、待つよ。で、どんな話してたの、あの二人?」
「なんか、ソニンの家の話とか、韓国に行ったことあるか、とかそんな話。」
「ソニンって在日じゃなかったっけ?」
「うん。だから、韓国語話せるのかと思ってたみたいだけど、ソニンって全然だめなんだよね。」
保田には何だか、後藤が韓国に興味を持っているように聞こえた。
ひょっとして紗耶香を追って...
結局、30分以上待ってもソニンは現れず、保田は後ろ髪を引かれる思いでスタジオを後にした。
ただしユウキからソニンの携帯の番号は聞き出したので、後で連絡は取れるだろう。
- 51 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)14時07分45秒
- 保田がスタジオを出たのを見届けて、ソニンは控え室に戻った。
「あんた、余計なこと言わなかったでしょうね?」
「大丈夫。具体的なことは何も言ってないよ。」
「これ以上、巻き込まれる人を増やしてはいけないのよ。」
「わかってる。姉さんの安全に関わることだから...」
すべてを悟り、達観したような感のあるユウキだが、やはり姉弟だ。
姉の安否が気にかかるのだろう。
ソニンは自分のせいではないながらも、姉弟が離れて生活せねばならないことに、
後ろめたい気持ちを覚えた。
「ソニンの携帯教えたから、後で電話してくると思う。」
「そうね。下手に動かないよう、うまく言いつくろっておかないと...」
さもないと、保田自身の生命をも危険にさらさせることになる...
ソニンは保田に好意を持っているだけに、そのような事態は避けたかった。
- 52 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)14時17分28秒
- 保田はもう一人、後藤の所在について心当たりのありそうな人物を訪ねたが、
捗々しい成果はなかった。。
プッチモニが結成されて暫く立った頃、後藤の紹介で会ったことのある宗教団体の幹部だ。
それも後藤の意志というわけではなく、後藤が芸能界で急成長していることに着目した、
教団側のアプローチであったという。
後藤自身は宗教に対してはニュートラルで、熱心な母親の顔をたてる程度の付き合い方だったらしい。
ということは、宗教の線はないか。
それにしても、2年近くも行動を共にしながら後藤の私生活については殆ど知らなかったことに
保田は戸惑いを覚えた。
紗耶香なら知っていたのだろうか...
ともあれ、やはり鍵はソニンが握っている。
彼女に聞けば、後藤の行方を示す何らかの手がかりが得られるだろう。
保田は携帯を取り出し、ユウキに聞いた番号をプッシュした。
- 53 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)14時18分25秒
- trrrrrrr....trrrrrrrr......
着メロを登録していないソニンの携帯は味気のない電子音を鳴らした。
「ハイ。」
「あっソニンちゃん?」
「ハイ。どなたですか?」
「保田です。ユウキから聞いてると思うんだけど...」
ソニンはとにかく何もしらないの一点張りを貫こうと決め込んでいたが、
保田の真剣な声を聞いて、その決意が揺らいだ。
こんなにも後藤を心配する人たちに隠し事をしなければならないことに後ろめたさを
感じるとともに、このような悲劇に関わらざるを得なかった自分の運命を呪った。
しかし、保田をこれ以上危険な目に合わせる訳にはいかない。
ソニンは意を決して携帯に向かい、はっきりと応えた。
「はい、聞きました。でも私も何も知らないんです。」
- 54 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)15時01分42秒
- 保田はソニンの明快過ぎる応対に逆に不信を抱いた。
「ユウキに最後に連絡があったのは東京駅からだって...
で用件がソニンちゃんと話したいってことだったって聞いたんだけど...」
「ええ、私もそう聞きました。でもそのときは結局連絡がつかなかったんです。」
保田は訝しく思いつつも、せっかく話を聞いてくれているソニンの機嫌を損ねないよう、
細心の注意を払いながら、なんとか会話が継続するよう努力した。
「ソニンちゃん、後藤と仲良かったんだってね。」
「いえ、仲が良いという程では...」
「後藤って、韓国に興味持ってたの?」
「ええ、そうですね。旅行で行ってみたいというような話でしたけど...」
保田は聞き逃さなかった。
「韓国に行きたいって言ってたのね!」
「ええ...まぁ、飽くまでも旅行で...ということでしたけど...」
やはり後藤は市井を追いかけて韓国まで行ったのか?
ともあれ一筋の光明が見えてきた。
- 55 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時20分19秒
- 紗耶香..紗耶香...
誰かが私を呼んでいる...
誰だろう...
紗耶香...紗耶香...
誰...? あなたは誰なの...?
お母さん...? お母さんなの...!?
何をするの...?
やめて!!お母さん!!やめて!!!
苦しい!!息が出来ないよ!!やめて!お母さん!!
死んじゃうよ!!!
ごめん...お母さん...もうしないから...
だから...もう許して...ほん.とう.に..
し.ん.じゃ..う...
く...る...し....ぃ.....
- 56 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時26分49秒
- はっと目が覚めた。
ハァ、ハァ、ハァ...あまりの息苦しさに変な夢を見たのだろうか。
うっすらと意識が戻ってくるに連れ、激しい痛みを四肢に感じた。
周囲は真っ暗だ。
何が起きたのか判らぬまま、パニックに陥りそうになる自分を何とか制した。
ハァハァと呼吸をするにも息苦しい。
どうやらかなり狭いところに押し込められているらしい。
覚醒して間もないせいかうまく考えがまとまらないが、
決して快適な状況にあるのでないことは確かなようだ。
ぎりぎりと何かが手足に食い込んでくる感触を確認して、
ようやく縛られているらしいことに気づいた。
ともかく何物かが自分を連れ去ったことは間違いない。
殺していないところを見ると、何らかの方法で利用しようしてはいるようだが...
それが唯一の拠り所か...
- 57 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時27分53秒
- 声を出そうとして、猿轡を噛まされているのに気づく。
うぅ...うぅぅ...
我ながら情けない状況だ。
とりあえずどの程度の広さのところに閉じ込められているのか、
脚を伸ばして確認する。
ガン、ガン...
縦方向にはかなり伸びる。2m近くはあるか。
横方向はすぐに足が届くほど近いので1m程度。
高さは膝を立てるとぶつかるくらいだから、50cm前後...
そこら中に足をぶつけてどかどかやっていたのに気づいたのか、
外部でなにやらざわざわとする声が聞こえる。
おもむろに蓋らしきものが開けられ、強い光に目が眩んだ。
誰かが覗き込み、そのシルエットが光を遮る。
「窮屈なところで悪かったな...」
その声は...!!
思わぬ人物の発した声に私は声ならぬ声を上げた。
- 58 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時29分27秒
- 「悪く思わんでくれ。手荒な真似はしたくなかったんだがな。」
そいつは眉ひとつ動かさずに冷徹な口調で言い放ち、
部下と思われる周りの連中に韓国語で命令した。
「拘束はもういいだろう。
何しろ客人は丁重に扱うようにとの指導者同志(トンジ)のお達しだ。」
即座に反応し、見覚えのある若者が私の猿轡、そして手足の緊縛を解いた。
ホテルで私にメッセージを届けに来たボーイだ。
今は黒い服に身を包んでいるが、顔の見分けはついた。
戒めを解かれて、人心地がついたせいか、今度は怒りが沸沸と燃え上がる。
「どういうことなのよ!!」
自由になった手で思いっきりひっぱたいてやりたかったが、
ただ者でない雰囲気を漂わせた屈強の男達に制止されるであろうことは明らかだ。
迂闊に手は出せない。
それに、ある言葉が引っ掛かり、反撃の勢いを削いでいた。
「何なの、指導者同志って...」
- 59 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時30分09秒
- 声を出そうとして、猿轡を噛まされているのに気づく。
うぅ...うぅぅ...
我ながら情けない状況だ。
とりあえずどの程度の広さのところに閉じ込められているのか、
脚を伸ばして確認する。
ガン、ガン...
縦方向にはかなり伸びる。2m近くはあるか。
横方向はすぐに足が届くほど近いので1m程度。
高さは膝を立てるとぶつかるくらいだから、50cm前後...
そこら中に足をぶつけてどかどかやっていたのに気づいたのか、
外部でなにやらざわざわとする声が聞こえる。
おもむろに蓋らしきものが開けられ、強い光に目が眩んだ。
誰かが覗き込み、そのシルエットが光を遮る。
「窮屈なところで悪かったな...」
その声は...!!
思わぬ人物の発した声に私は声ならぬ声を上げた。
- 60 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時32分11秒
- >>59
すみません..ミスりました。
- 61 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時34分17秒
- 「あんた、私を韓国に連れ出しただけじゃ気が済まなくて、今度は北朝鮮にでも売り飛ばす気!?」
「ふっ、察しがいいな。」
そう、こいつは私を韓国に連れてきたオーロラのマネージャー...だったはずだ。
それが何故、こんな誘拐犯のようなことをしている?
勢いで口から出てしまった言葉が否定されなかったことで、背筋を冷たいものが走った。
頭の中に浮かんで来る二文字が重くのしかかる。
拉致... 「ふっふっ、心配するな。お前は普通の日本人拉致とは扱いが違う。」
「...」
「そう怖がるな。さっきも言ったように、お前は客人扱いだ。素直にしている限りはな。」
「どっ、どういうことよ...」
「キップムジョ...喜び組というのを聞いたことがあるか?」
喜び組...以前、何かの雑誌で金正日の愛妾についての記事が載っていたのを
見たような覚えがある...それが確か、喜び組だったはず...
どういうこと?
つまり、私が...!?
- 62 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時36分05秒
- 「いやあぁぁぁぁぁっ!!」
気がついた時には、我を忘れて叫んでいた。
恐怖とおぞましさで吐き気がすると同時に、激しく寒気を感じてガダカタ震え出す。
何か喋ろうとするが、歯と歯の根が合わずガチガチ言うだけだ。
「誤解をするな。キップムジョは指導者同志の夜伽をするためのものではない。
もともとは万寿台芸術団から選りすぐった精鋭の舞踊チームだったのだ。」
だからといって身の安全が保証されているわけではあるまい。
私は金正日の脂ぎった顔を思い出して、再び強烈な嘔吐感を覚えた。
「それに、お前を選んだのは金正日指導者同志ではなく、金正男同志だ。」
金正男?聞いたことがない。誰だろう?
私は、震えが止まらないまま、尋ねていた。
「だっ誰なの?金正男って?」
- 63 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時37分29秒
- 「金正男同志を知らないのか?」
金正日はかろうじて知ているが、正男というのは初めて聞いた。
あいつはさも馬鹿にしたように、噛んで含めるように説明し出した。
「金正男同志は金正日指導者同志の御子息にて共産党組織指導部課長にあらせられるお方だ。
お前は知らないだろうが、今年5月、日本の出入国管理局で偽造パスポートで入国したところを
収監され、日本でもすっかり有名になられたようだ。」
動転してすっかり向こうのペースにはまり気がつかなかったが、
涛々と説明するあいつの姿に疑問を感じた。
なぜあいつは北朝鮮のお先棒を担ぐようなことをしているのだろうか?
と思ったときには既に口に出していた。
「ねぇ、なんであんたは北朝鮮のスパイみたいなことしてんの?」
- 64 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時38分10秒
- <> 「朝鮮総聯という団体を知っているか?」
「...」
タバコを一服し、しばらく逡巡した後、煙を吐いて続けた。
「在日韓国人がいるのと同様に在日朝鮮人がいる。両者は似て非なるものだ。
朝鮮戦争後、日本に在住していた朝鮮半島出身者は、どちらかの国籍を選択するよう迫られた。」
在日という言葉は聞いたことはあるが、芸能界では半ばタブー視されていた話題でもあり、
詳しく知る機会はなかった。
実際、芸能人で在日という噂のある人は多かったが、大概は本人が素性を晒すのを嫌がるため、
おおっぴらに語られることはなかった。
大人しく話を聴いているような状態ではないのだろうけれど、なぜこのようなことに自分が巻き込まれたのか、
その背景を知る為にもここは黙って聞かなければ。
何とかこの状況を打開する糸口を掴むためにも。
- 65 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時39分21秒
- 「1955年、母国を朝鮮民主主義人民共和国と仰ぐ、在日朝鮮人が在日本朝鮮人連盟を母体として、
現在の総聯である在日本朝鮮人総聯合会を設立した。
総聯は同じ半島出身でも韓国系の民団(大韓民国民団)と異なり、共和国(北朝鮮)労働党中央の
指導下にある。在日朝鮮人の権利擁護のための活動以外に、偉大なる首領、金日成同志の
精神に基づき祖国統一を果たすため、さまざまな支援活動を行っているわけだ。」
あいつは歴史の先生のように淀み無く流れるように説明する。
私も学校の授業では滅多に発揮しなかった集中力でひたすら聞き入る。
今、テストをしてくれれば100点近く取れそうなのだが。
- 66 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時40分38秒
- 「合法、非合法含めてな。」
「!?」
私は思わずあいつの目を直視した。
にやっと嫌な笑いを浮かべて、あいつは続ける。
「勘違いするな。総聯が日本人拉致に手を染めているわけではない。あくまで間接的な支援だよ。」
「私の場合はどうなるわけ?」
「ふっ。今回は特殊でな。通常、外国人拉致は三号庁舎でも精鋭揃いの作戦部が担当しているのだが、
今回は日本人といっても有名人だ。通常のやり方では通用しないため、統一戦線部から総聯に指示が
降りたわけだ。」
「つまり、あんたが私を韓国に連れだしたときには既に作戦に取り込まれていたったこと?」
「そういうことだ。都合よく、お前がモーニング娘。を脱退した後だったからな。」
なんということだろう。
私は激しい脱力感を感じ、地面にへたりこんだ。
自分の意志で韓国に新天地を求めたつもりが、あいつの掌の上で躍らされていたとは...
私はなんてバカだったのだろう...
簡単に韓国デビュー等という甘い餌におびき寄せられて...
私は...
ごめんよ、後藤...どうやら約束は果たせそうにない...
- 67 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時42分02秒
- 「まぁ、平譲までは長い道程だ。道中、細かいことは説明してやるさ。」
あいつはそう言うと、部下と思しき青年に私を立ち上がらせ、
近くに止めてあった黒塗りのベンツに乗るよう指示した。
気がつくと周りを囲む倉庫の屋根の向こうに抜けるような青空が広がっている。
雲ひとつ無く澄み渡った晴天が似つかわしい場面ではなかったが、
私は何だか映画の一こまにでも入り込んだような冷めた感覚でこの状況を捉えていた。
とても現実とは思えない状況にあって、もはや何らの思考を巡らす気力さえ残っていない。
私は言われるままに車へ乗り込んだ。
「北京までは長い。まぁ、ゆっくり休んでいけ。」
車で北京...中国にいるのかぁ...
ぼんやりとそれだけ理解すると、私は深い眠りに落ちていった。
- 68 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時42分42秒
- 保田はソニンとの会見後、後藤の韓国行きの可能性について至急検討する必要性を強く感じた。
ソニンから言質は得られなかったが、あの口ぶりからすると可能性は高いだろう。
目的はわからないが、恐らく滞韓している市井を訪ねるつもりに違いない。
保田は彼女自身、渡韓する必要性についても考えた。
久しぶりに沙耶香にも会いたいし..
しかしオフの日程だけではとても実現できそうにない。
TVか何かの企画で渡航できれば...
そのような考えが甘いものであることは充分承知しながらも、現実のスケジュールを考えると
何か振って湧いたような僥倖を期待せざるを得なかった。
「私も辞めようかな...」
思わず口をついて出た言葉に保田はうろたえた。
自分までもが脱退を意識していたことに改めて驚かされた。
- 69 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時45分57秒
- 保田は新メンバーの加入に伴い、事務所の方針がより音楽性よりもタレント性を
重視する方向へと移行している事実を苦々しく思っている自分に気付いた。
今に始まったことではないものの、その思いは古参メンバーが一人、また一人と
辞めていく度に強まっていった。
昨年の四人のメンバー追加以来、娘。の立場は明らかに歌い手としてのパフォーマンスより
タレント性を重視する方向へと変遷していった。
そしてその方向性は今年、4人の中学生が中澤脱退後に新メンバーとして加わったことで
いよいよ確実なものとなった。
LOVEマシーンの大ヒットに伴う振付け師の発言権増大化により、パフォーマンスの
力点もより歌からダンスへと移っていった。
幸いなことに保田のダンスに関する評価は決して低くなかったものの、自他ともに認める
歌の実力が発揮されるような曲を与えられることはまずなかった。
- 70 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時47分10秒
- 自分なりにその立場を甘んじて受入れ、来るべきときに備えて今は雌伏のときだと
納得してはいるつもりだったのに...
メンバーとして同期でもあり、ミニモニ大ブレイクの立役者として
一時はもてはやされた矢口への待遇を見るに連れ、その思いは強まった。
矢口でさえ、今やメインとなった石川や小学生女子のカリスマと化した
加護の引き立て役としての立場を余儀なくさせられている。
その状況に保田は自分の将来を憂えないではいられなかった。 後藤の行方を追うことが前向きな行動かどうかはひとまず置いて、
保田は今、身の振り方を真剣に考えなければならない時期に差しかかっていることを
改めて意識した。
「ともかく沙耶香が香港から帰ってきてからだわ...」
後藤が韓国に向かっているのであれば、必ず市井のところへ姿をあらわすであろう。
それまではどのみち動けない。
保田は独りごちて、ラジオの収録に向かった。
その番組も後藤の緊急脱退によりあと数回で打ちきられるのだが...
- 71 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月04日(火)19時47分58秒
- 保田の意に反して、市井からの音信は途絶えたままだった。
予定通りの日程であればとっくにソウルへ戻っていておかしくなかったが、
戻ってはいても忙しくてPCに向かう暇もないのか...
市井らしくないとは思いつつ、この時点ではまだ不信を抱く余地はなかった。
- 72 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月07日(金)12時46分51秒
- >>63
すみません。北朝鮮は"共産党"でなく"労働党"でした。
恥ずかしい...
- 73 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月12日(水)19時27分25秒
- 目が覚めると車は丁度、大河を渡る大きな橋に差し掛かるところであった。
車窓から覗くと、川面に映える陽の照り返しが眩しい。
対岸に聳える大工場群の煙突から出る煙が、斜めに棚引いている。
西方に傾いていく太陽の日差しが風景全体を赤く染めていく。
気がつけば夕方までぐっすりと寝込んでしまったようだ。
縛めを解かれたことで気が緩んだものか、ともかく眠っている間だけは束の間、
この信じ難い現実を忘れることができた。
ベンツの後部座席で車窓を眺めつつ心地よい振動に揺られてのドライブは、
心地よいものといえない事もない。
しかしながら、現実には手足の拘束こそ外されたものの依然として北朝鮮工作部隊の
掌中にその命運を握られている状態に変わりはなかった。
その事実が重く心にのしかかる。
果たして無事に日本へ帰れる日は来るのだろうか...
新潟で拉致されたという少女の名前はなんと言ったか...
彼女が攫われてからもう十数年の時が経っているはずだ。
生きているなら、これから会うこともあるのかもしれない。
- 74 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月12日(水)19時29分54秒
- このような状況下、能天気に寝入ってしまったのは、曲がりなりにも今後の身の振り方について、
ある程度の指針を得られたことで安心したせいもある。
とりあえず、拉致された目的、つまり私に彼らが何を求めているのかがはっきりしたことで、
漠然とした不安感は払拭された。といっても完全に信用したわけではないが。
寝入ってしまう前に、あいつが話した内容はこうだ。
私を召喚したという金正男(キム・ジョンナム)はもともと金正日(キム・ジョンイル)の
最初の息子ということでもあり、後継者としての道を順調に歩んでいた。
しかしながら、今年5月、偽造パスポートで日本へ入国しようとしたところを入管で捕まり、
大いに北朝鮮の威信を損ねる結果となってしまった。
幸いなことに外交問題へ発展することを怖れた日本政府が長期間拘束することなく、
即座に強制退去の措置を取り、中国へと送還した。そのため金正日の後継者としての
地位を失うことこそ避けられたものの、政治家として受けたダメージは計り知れないものがあった。
- 75 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月12日(水)19時31分08秒
- 折悪しく、金正日の二番目の息子、金正哲(キム・ジョンチョル)を推す一派が台頭し、
正男としては汚名払拭を期して一発勝負に出る必要が生じた。
そこで考えたのが、父正日が党宣伝部課長であったとき自ら演出し、後継者争いにおいて
自らの優位をほぼ決定付ける契機となった歌劇「ピパダ(血の海)」である。
ピパダは抗日パルチザンの日本軍との死闘を描き、最後には朝鮮を開放するとの内容を
描いたものだが、当時、これを見た金日成(キム・イルソン)及び抗日パルチザン出身の
党幹部達は涙を流して感激し、演出した金正日を絶賛したという。
その来歴を誇示するためか、「ピパダ歌劇団」というピパダだけを専門に演ずる歌劇団まで
設立されているが、さすがに同じ演目だけを20年以上も繰り返していては飽きが来る。
そもそも抗日闘争に参加した当時の党幹部へのアピールが主眼だっただけに、万民が共感できる内容ではない。
そのため、北朝鮮人民は強制的にピパダを鑑賞させられている状態だという。
- 76 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月12日(水)19時38分12秒
- 正男はここに目をつけた。
予てから父、金正日が自分の出世作であるピパダの評判が芳しくないことを気にかけていることを知り、
何かの機会で利用できないかと考えていた。正男は従来、党のハイテク担当ということで、
直接、党の文化活動に手を出すことはできなかったが、党組織指導部の課長となったことで、
党人事を掌握する立場までようやく辿り着いた。
それにより、文化活動への口出しが比較的容易な環境となったのである。
正男はハイテク担当の立場を利用して海外へ出かける機会も多く、
特に日本のエンターテインメントには、並々ならぬ興味の持ち方で、実際、
CDやビデオを買い漁るだけでなく、コンサートなどに出没することも少なくなかったという。
- 77 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月12日(水)19時40分37秒
- そこで考えたのが、ミュージカルによるピパダの刷新である。
しかし、急にミュージカルへと変更しようとしても北朝鮮には人材がいない。
そのため、必要な人材は海外から招聘することとなる。
招聘といっても、必ずしも招かれる側の同意は必要ない。
何しろ、北朝鮮では「偉大なる指導者同志(金正日のこと)」の意向が何にも増して
優先されるのだから。
実際、正男の父親である、金正日は何度か外国の女優や映画監督を拉致している。
1978年に韓国の女優、崔銀姫(チェ・ウニ)と映画監督の申相玉(シン・サンオク)夫婦を
拉致した事件は有名である。二人はその後7本の映画を作成した後85年に一瞬の隙をついて、
脱出に成功したのだが、その他にもこのような例には事欠かないという。
光栄なことにこの私は、主役の看護婦役を仰せつかったとのことだ。
身に余る光栄。そして限りない迷惑。
なぜ、拠りによってこの私が?!
- 78 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月12日(水)19時41分38秒
- 何のことはない。
正男はモーニング娘。の大ファンなのだという。
5月に日本へ入国した際、ディズニーランドへ行く予定だったと言われているが、
実際は違う。娘。のミュージカルがお目当てだったというのだから、
ファンとしても筋金入りだ。
それなら、この市井紗耶香でなく、他の誰でもよかったかというとそうでもないらしい。
というのも、正男が新ミュージカル形式による新ピパダを考案し、スタッフを集め始めたのが、
去年の春頃だったためである。
その当時、都合よく丁度、娘。を脱退し、先の予定の決まっていない、ふらふらした元娘。が一人いた。
それが私だったというだけのこと。
本当は正男のお気に入りは後藤だというのだから、何とも失礼な話だ。
その他、正男の父の金正日は丸顔で可愛らしい顔立ちの女の子が好みらしく、
正男は父の気を引くためになっちの拉致まで真剣に考えたらしい。
大いに迷惑なことだ。
犠牲になるのは私だけで十分だ。
- 79 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月12日(水)19時42分47秒
- ともあれ、そのおかげで私は韓国で一年間、韓国語とダンスをきっちりしごかれた。
最初から、彼らの仕組んだシナリオの上で踊っていたわけだ。
馬鹿馬鹿しいと言ったらそれきりだが、見方を変えれば、とりあえずやることは同じだ。
この一年間の苦労を無駄にするわけにはいかない。
私は、気持ちを切り替えることにした。
北朝鮮がどんな所かはわからないけれど、同じ人間の住む所だ。
彼らに舞台を通して伝えられるものがあるはず。
ここで頑張ってみよう。
そう思うと今まで張りつめていたものが急に弛緩して、肩の重荷がとれたように感じた。
私は車の心地よい揺れに再び身を任せていた。
- 80 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月18日(火)14時50分01秒
- 市井が香港へと発ってから既に一ヶ月以上発つのにも関わらず、何の連絡もない。
元来、のんびりした性格である保田もさすがに焦燥感を募らせていた。
メールはおろか、香港行きまでは確かに繋がっていたソウルの自宅の電話さえ
いまは不通になっている。もはや市井本人からの連絡は期待できない状況となっていた。
後藤の行方は相変わらず不明のままであり、加えて市井の失踪である。
保田の精神的疲労はピークに達していた。
毎週末にはツアーで全国への行脚、新メンの教育と過密なスケジュールによる
肉体的疲労も今や最年長の保田には辛かった。
そんな中、再びソニンのもとを訪れようとしていた矢先、
飛び込んできたユウキの謹慎処分の報に保田は一縷の光明を見出した。
ユウキが使える...
正直、保田はソニンからはほとんど情報を得られないであろうことに気づいていた。
口を割る可能性があるとすれば実弟のユウキしかいないということに。
何をやらかしたのかはわからないが、和田さんを怒らせたのだからろくなことでないのは
間違いあるまい。しかし、それが保田にとって僥倖となるとは皮肉なものだ。
- 81 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月18日(火)14時52分49秒
- 保田は久しぶりに後藤家へと向かった。
後藤家に降りかかりつつある災厄を思うと、足取りは重くならざるを得なかったが、
同時に懐かしさが込み上げ、市井と三人で初めて後藤家に泊まったときの会話を思い出し、
知らずに頬を緩ませた。
(後藤〜っ!きったねぇなぁ、なんだよ、この部屋ぁ!)
(ええっ、でも市井ちゃん来るから一生懸命掃除したんだよ〜っ!)
(紗耶香、後藤の努力も汲んでやれよ。少なくとも私が来たときよりは綺麗だ。)
(えぇ〜っ!信じらんねぇ!おめぇんちの掃除の基準はどうなってんだよぅ〜!)
くすくす...
後藤の部屋が綺麗になるところは終に見ることができなかったな...
待ってろよ、後藤...そして紗耶香...
保田は必ず見つけ出すのだとの決意を新たにした。
- 82 名前:名無し娘。 投稿日:2001年09月26日(水)18時22分53秒
- 「保田さん、これ以上姉さんの行方を追うのは止めてもらえませんか?」
意外なことに機先を制したのはユウキの方だった。
姉譲りの大きな眼をいっぱいに開いて、視線は真っ直ぐに保田の目へと向けられていた。
眼光の鋭さでは決して負けるつもりはない。
しかしながら、さしもの保田もユウキの真剣な眼差しには怯まざるを得ない。
「ど、どういうことなの?」
保田は体制を整えて、精一杯の虚勢を張った。実を言うとユウキの迫力にやや圧されている。
いつものように、へらへらした弟に軽く灸を据えるくらいのつもりで来たのだから、
心の準備もできていない。気圧されるのは当然とも言えた。
とにかく、視線を外したほうが負けだ...
「あなた、お姉ちゃんのことが心配じゃないの?」
時間稼ぎのため質問を繰り出す間に、保田はユウキのこの真剣な態度は何だろうと訝しく思いつつ、
有効な攻撃打を放つ態勢へと準備を整えた。
しかし、相手の戦意を挫く決定的な一打を放ったのは、無常にもユウキの方だった。
「保田さん、手を引かないと命の保証はできませんよ。」
- 83 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月01日(月)20時49分17秒
- その落ち着いた声は保田の背筋を凍らせるに十分であった。
保田は姉の後藤が以前、やはりこのように低い声で場を凍りつかせたことがあったのを思い出した。
その声は淡々として、何の感情も示さないことが却って恐怖感を増幅させた。
あれは、昨年の新メン、加護と辻が中澤にこっぴどく叱られ泣かされていたときのことだ。
中学生二人に非があったのは確かだが、そのとき中澤は虫の居所が悪かったのだろう。
いつも以上に執拗な中澤の追求に彼女らは怯えてさえいた。
そのときだ。
保田が後藤のあの声を聞いたのは。
保田は後藤自身が叱られた際、口答えした記憶がほとんどない。
それどころか、いつも先輩に泣かされていたようにさえ思う。
それは中澤であったり、飯田であったりしたが、
後藤は自分がされたような仕打ちを年下の後輩には味合わせたくなかったに違いない。
あの時、後藤は確かに怒っていた。
それは冷たく、悲しい怒りだった。
保田は後藤の知られざる内面の発露に驚くとともに、
自分より5歳も年下の少女が背負う重いものに畏怖のような感情さえ憶えた。
- 84 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月01日(月)21時24分37秒
- 保田は今ようやく悟った。
この姉弟が何かとてつもなく重い背景を抱えていることを。
「命の保証」という尋常ではない言葉自体よりも、
ユウキの刺し違えてでも止めてみせるというその気迫にことの重大さを実感したのだ。
しかし...
賽は既に投げられた。
恐らく保田がここで引き返したとて、危険な何事かが進行している事実を
知ってしまったことには替わりあるまい。
況してや後藤が何らかの危機にあることを知った今となっては、
到底、看過できるものではなかった。
保田は覚悟を決めた。
「いいのよ、私は。後藤を助けられるなら。」
「....」
ユウキは保田の毅然とした態度にも怯む様子はなかった。
しかし対峙する彼の瞳が湛える深い悲しみは隠しようもない。
保田はその碧色の双眸に涙が滲むのを見て、
最早、自分が引き返せないところまで来てしまったことを改めて理解した。
- 85 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月02日(火)01時39分51秒
- どきどき、わくわく。
- 86 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月03日(水)18時22分49秒
- 「話して...くれるわね...」
掠れがちな声で尋ねる保田に対し、ユウキは傍らの花瓶に視線を落とすことで応えたようだった。
節目がちに俯き加減で彼が向けた眼差しの先には、母親が生けたのであろう、
バラの花が一輪、打ちひしがれたように頭をたれていた。
「保田さん...姉さんは、別に攫われたとか、そんなんじゃないんです...」
保田は相変わらず、横顔を向けたまま話すユウキのまつげが長いことに気づいた。
どこまで話すべきか逡巡しているのであろう彼の苦悩の深さを示すように
涙で湿ったまつげの先が小刻みに揺れている。
しばらく口元をきっと結んだまま、潤んだ瞳でバラの花弁を凝視した後で、
意を決したのだろう。ユウキはようやく保田に顔を向けた。
「保田さんは...何が知りたいんですか...?」
- 87 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月05日(金)19時14分17秒
- 保田はユウキの言葉を判じかねた。
「何を言ってるの?後藤に何が起こっているのか知りたいのよ。」
やや声を上ずらせて畳み掛ける保田の問いに臆することなく、ユウキは淡々と応える。
「姉さんの安否を気遣っているのであれば、無事ですとしか言えません。」
(はぁっ。強情な子ね、姉そっくりだわ。)
保田は後藤がときどき見せた訳のわからないこだわりを思い出し、気抜けして息を吐いた。
先ほど神妙にしていたのが嘘のように、またぞろユウキの顔にある種のふてぶてしさが戻っている。
(必要以上のことは教えないってことね...)
「わかったわ。じゃ、質問するから答えられることだけ答えて。」
「はい。」
「後藤は今、どこに居るの?」
「遠い所です。それしか今は言えません。」
「そう...家には帰ってこないの?」
「それは....」
- 88 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月05日(金)19時16分09秒
- ユウキにとっても答えにくい質問だったのだろう。答えるまでにしばし間があいた。
それは、答えるかどうかについて悩んだ結果というよりは、ユウキ自身が答えに確信を
もてないために逡巡した結果と言えるかもしれない。
「しばらくは...ないと思います。」
「さっき、攫われたわけじゃないって言ったわよね。」
「はい。」
「あれはどういう意味。」
「文字通りの意味です。」
(ったく!この子は...)
小面憎いほどの落ち着きを取り戻したユウキに、保田はなぜだか急におかしみを感じた。
「くすっ。」
保田が場違いにも破顔したことで、ユウキの緊張も解けたのか、腑に落ちない顔つきで、
太い眉毛をハの字の形にして保田の顔を覗き込む。
それが保田にとっては、後藤が時折見せた表情に余りにも似ていたため、
とうとう我慢できずに、噴出した。
「あっはっは。あんたたち、やっぱり姉弟ねぇ!そっくりだわ。」
- 89 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月05日(金)19時53分43秒
- 「やだなぁ、保田さん。それは言わない約束でしょ。」
姉と比較されるのがよっぽど嫌なのか、ユウキは憤懣やるかたないといった風情で、
頬を膨らませてみせる。それがまた保田にとっては、後藤の面影に重なっておかしくて仕方がない。
(紗耶香とよく、あんな顔してじゃれあってたな...後藤...)
市井のことを思い出して、保田ははっと我に帰った。
急に真顔に戻り、ユウキをきっと見据えた。ただし今の笑いで大分緊張は解けている。
今度は幾分、親しみのこもった口調で尋ねた。
「それでさ、攫われたわけじゃないってことは、後藤自身の意思でどっか行っちっゃたわけ?」
「うん。まぁ、ありていに言うとそうなります。」
「ありていだなんて、気取っちゃって。あんた、どこでそんな言葉覚えたのよ。国語苦手だったでしょ?」
「うん...まぁ、ソニンの影響かな。あいつ、韓国語できないくせして、日本語は強いんだよね。」
「ソニンちゃん、しっかりしてるよねぇ。あんたも見ならないなさいよ...ってそうじゃないでしょ!」
気をつけないとすぐに脱線してしまう保田であった。
- 90 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月05日(金)19時54分59秒
- 「いけない、いけない。じゃ、後藤は自分の意志でどこかに隠れているわけね。」
「いや、別に...隠れているわけでは...」
急に歯切れの悪くなるユウキに保田は畳み掛ける。
「だって、全然、姿見せないじゃないの?あんな目立つ娘が日本の何処に行ったって...」
そこで保田は、はっと気づいた。
(そうか...やはり後藤は市井のところへ...)
そうであれば、後藤と市井は韓国で合流している可能性もある。しかし、それでも保田に
何の連絡もないとは考えられない。気を取り直して、ユウキに問いただす。
「韓国ね!」
「!...」
ユウキは明らかに狼狽している。自分の誘導が上手くいかなかったことを後悔している顔つきだ。
どうやら図星のようだ。
- 91 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月09日(火)12時43分10秒
- 「紗耶香を追っていったのね...」
保田は問いとも独り言とも取れる曖昧な言い方で虚空を見つめた。
その視線の先にユウキはいない。
ユウキは答えたものか判じかねて沈黙を守り続けている。
「しかし、個人的な理由で後藤ほどの人気者がこれほど長期間、スケジュールを空けられ
るわけはない...」
保田のつぶやきは完全に聞き手の存在を無視したまま続けられている。
それは敢えて自分に問いかけることで、頭の中を整理するためとも取れた。
しばらく視線を上に向け何事かを忖度した後で、保田は急にユウキへと顔を向けた。
「なんか企んでるやつがいるわね。」
ユウキは保田の意に反して、ようやくそこへ辿り着いて安堵したとでもいいたげな落ち着
き払った態度で応えた。
「そこですよ、保田さん。」
「それが命の保証云々に関わってくるわけなんでしょ。」
「感がいいですね。」
ユウキはいかにも嬉しそうな表情で続ける。
保田は先ほど、核心にかなり迫ったかの手応えを得たものの、それを掴もうとした瞬間、
するりと拳の間から抜け出て再び遠ざかっていくような感覚にあせりを覚えた。
加えてユウキの人を小馬鹿にしたような態度が気に入らない。
- 92 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月09日(火)12時47分24秒
- 「何を隠しているのよ!あんた!?」
すでに剣呑さを募らせる保田を予想していたものか、ユウキはまったく動じる気配もなく、
飄々と受け応える。
「いやだなぁ、保田さん。落ち着いてくださいよ。今から話そうと思ってたんですから。」
そうは言われてもやはり、一言言わなければ気が済まないと言いたげな保田を制して、
ユウキは先を進める。今までのややお茶らけた雰囲気は消え、これから話す内容の重さを
示すかのように表情も引き締まる。
「これから話すのは、僕の一存です。多分、ソニンにはしかられちゃうけど...
でも、保田さん、本当のこと言わないとまた、いろんなとこ突っついて危ないことになり
そうだから...」
保田は何かひどく馬鹿にされたような気がして、言い返したい気持ちを辛うじて押さえ、
先を促した。
- 93 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月09日(火)12時56分52秒
- 「命が危ないかもしれないというのは全くの嘘ではないんです。その証拠にうちの周りを
警察が張っていたでしょう?」
「!」
「帰りに気をつけて見てください。きっと張り込んでいる人が居ますから...」
「あんた、何かやらかしたの?謹慎処分って...」
「いや、別に何もやってませんよ。だから僕らを監視している警察の人は刑事じゃないんです。」
「じゃぁ、なんなのよ?」
「保田さん、知ってるかなぁ?」
次の瞬間、ユウキが発したその言葉に保田は戦慄を覚えた。初めて後悔した。聞かなけれ
ば良かったと。その言葉の持つ意味をはっきりと理解しているわけではないながらも、
それが発する得体の知れない危険な匂い、それがかき立てる不安の大きさに今初めて、
恐怖を感じた。そして今度こそ、本当に理解した。自分が最早、抜き差しならない深みに
はまりつつあることを。ユウキは言ったのだ。
「保田さん、コーアンって知ってます?」
- 94 名前:作者よりお知らせ 投稿日:2001年10月11日(木)12時48分15秒
- あまり頻繁に更新できないので、つなぎといってはなんですが、
「オムニバス短編集 3rd“夏の”パラダイス 」に2編、寄稿しています。
「夏の夜水の上にて歌える」
「真夏の誕生日」
ご覧いただければ幸いです。
- 95 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月12日(金)13時17分21秒
- 私たちを乗せた平壌行きの高麗航空チャーター便は静かに北京を飛び立った。
機体はロシア製のツポレフ154Bだが、思ったほどボロではない。
寧ろ清掃が行き届いて綺麗に整備されていることに驚く。他に乗客はいない。
既にそんな気はなくなっていたが、私が妙な行動を起こす可能性や妙齢の婦女子に軍人が
同行していることの理由を勘ぐられたくないということなのだろう。
特別にチャーターされたようだ。
例の男の他、香港のホテルから私を連れ去った工作員、大同江一号、同じく工作員の洛東江二号が随伴する。私とあいつを工作員二人が挟むような形で座っている。
工作員というのはありていに言うとスパイ活動やテロの工作などを行う人間なので、
正直、怖かったが、私の扱いは丁寧だった。
あいつの言った客人扱いというのはあながち嘘でもないらしい。
- 96 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月12日(金)13時18分50秒
- 飛び立ってしばらく経つと、高麗航空のスチュワーデスが飲み物を持って現れた。
わずか4人の乗客に対して客室乗務員がつくなど贅沢なようだが、一応、
金正日の後継者と見なされている金正男の招待した賓客だけにそれなりの対応を
取らないとまずいのだろうと想像する。
詳しく事情を聞かされているわけではないのだろうが、どういう素性の客を乗せているか、
あらかた見当をつけているのだろう。心なしかスチュワーデスの表情も堅い。
無理矢理作り出す笑顔は不自然だが、顔の造作はとても整っている。
いわゆる朝鮮美人というのだろうか。こういう社会主義国ではスチュワーデスは
エリートで学歴はすべて大卒、しかも金日成綜合政治大学など一流校の出身者が多い
という話だが、この人もそうなのか等と取り留めのないことを考える。
北朝鮮入りしたら飲めるかどうかわからないので、最後のつもりでビールを頼む。
北京の五星ビールだ。韓国のハイトが飲みたかったが、贅沢は云えまい。
ぐっと飲み干して、意外にクッションのよく聞いたリクライニングシートに体を埋める。
- 97 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月12日(金)13時19分29秒
- 平壌が近づいてきた頃合いを見て、あいつが最後の注意事項を私に噛んで含めるように
言い聞かせる。故金日成のことは「偉大なる首領様」、金正日は「偉大なる指導者同志
(トンジ)」、金正男は「親愛なる指導者同志(トンジ)」とそれぞれ呼び分けること。
拉致されてきた私が親愛なる情を表せるはずもないのだが、よけいな軋轢を生むのは
得策でないと考え、ひとまずは従順に振る舞っておこうと考えた。何しろ、向こうの気が
変わればどうされるかわからないのだから。
いよいよ平壌、順安空港が近づいてきた。あいつと洛東江二号ごしに覗く窓から
垣間見える景色は赤茶けた大地や禿げた丘陵がほとんどで、韓国のそれとあまり変わる
ところはなかった。ただ大きく違うのは、建物がほとんどないことだ。
たまに住居らしきものが見えるところには、厳重に塀囲いが為されている。
ツポレフは大きな揺れもなく、流れるような動きで滑走路めざし降下していく。
基本的に軍隊出身者がなると言われているパイロットだけにスムースな着陸だ。
胴体着陸もできるというその腕前が披露されなかったのは幸いだった。
- 98 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月15日(月)20時55分22秒
- 空港では既に連絡が行き届いていたものか、入国のチェックもなく、
真っ直ぐに入国管理所の出口へと向かう。
ゲートを通り抜けると、巨大な金日成の肖像が出迎えてくれる。
観光旅行であれば、ここで記念写真の一枚も撮りたい必須アイテムのひとつなのだろうが、
当然ながら、今の私にそんな余裕はない。
金日成と言えば、以前、メンバーの誰かがおもしろいことを話していたのを思い出した。
日本に住む在日朝鮮人は、金日成の写真を日本人が戦前、御真影を掲げていたのと同様、
家に飾る週間があるらしいのだが、これは文字通り「偉大なる首領様」の御真影として
機能するだけではなく、実は人気アイドルのポスターを貼るような感覚もあるそうだ。
つまり、金日成は朝鮮人女性の間で「美男子」として人気があったというのだから恐れ入る。
これを見た韓国系の在日達は「負けた...」と沈黙してしまったそうだ。
そのとき、なんでそんなことを話していたのか忘れてしまったが、朝鮮女性の美意識は
おもしろいと思った記憶がある。
- 99 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月15日(月)20時55分54秒
- もちろん、この現実にあって「おもしろい」などと浮かれている場合でないのは、
十分理解しているが、このまま、この国に居つづけなければならないのであれば、
私の価値観も変わっていくのだろうかと思うと、悲しいような不思議な心持がする。
本来であれば、もっと悲壮感とか虚無感の漂っていてしかるべき状況なのだろうが、
妙に現実味の感じられないシチュエーションに起因するものか、自分の身の周りで
進行しているあらゆる事実の実感が湧かない。
あるいは人影の全くない空港の構内が虚構の空間のように感じられたのか。
リセットボタンを押せば直ぐにも、数日前の自分に戻れそうな気さえする実態の不確かさ。
- 100 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月15日(月)20時56分36秒
- 希望...ではないだろう。
むしろすべての希望が拒絶される世界が存在することへの絶対的な不信。
危うく虚構と現実の境目を見失いそうになる自分を引きとめてくれたのが、娘。での思い出
というのはひどく悲しい。
後藤が、圭ちゃんが、矢口が、祐ちゃんが...すべてが思い出の中だけの人たちになって
しまうという現実を受け入れられない私が悲しい。
悲しすぎるほど悲しい現実を実感できない自分が悲しい...と冷静に分析している自分が悲しい...
男の呼び声にはっと我にかえる。
感傷に浸る間もなく、車寄せに停められたリムジンに乗り込むよう促された。
リンカーンの長い車体は、金正男の趣味を反映してかかなり豪奢な偉容を誇っている。
室内は私達4人が乗り込んでも余裕の広さだ。
「招待所へ。」
あいつの短い言葉を合図に車は滑るように走り出した。
そして、それは私の新たな人生の幕開けをも意味した。
- 101 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月22日(月)19時41分34秒
- リムジンは平壌の市内を貫く大きな河に沿ってしばらく走ると、
市街を抜けて山手に入った。くねくねと蛇行した道を登っていくと、
眼下に平壌の人工的な街並みが開ける。
東京のようにごちゃごちゃしていないため非常にすっきりした印象を受ける。
遠くの方になにか背の高い建造物が見えるがビルではなさそうだ。
飢餓で何百万人の人が飢え、絶命している国とは思えないほど街並みは整然としている。
シンガポールかどこかの観光地を思わせるほど綺麗に清掃された市街は、もちろん、
ここを訪れる外国人の目を意識したのもなのだろうが、私の立場を考えると、
この国では何があっても不思議ではないと考えるべきだろう。
坂道を大分上り詰めたところで、瀟洒な一軒家の前に停まった。
門前の歩哨は大同江一号が敬礼すると、さっと門をあける。
招待所...
私がこれから寝泊りするところ。
日本でいうと迎賓館のようなものらしい。
国賓の扱いは自尊心をくすぐられないでもないが、単純には喜べない。
北朝鮮に保護されているよど号ハイジャック犯たちも別の招待所に起居しているそうだ。
それを聞くと喜べないどころか、むしろ陰鬱な気持ちになった。
- 102 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月22日(月)19時42分04秒
- 2階建ての洋館は、私一人で住むには広すぎるような気がしたが、
食事などの世話をしてくれるアジュモニがいるから厳密には一人ではないと言われた。
ようするに、党の送迎なしには、私はここから出られないということなのだろう。
何の事はない監禁生活なのだが、舞台の練習にはでかけられるのだから、
まぁ、満足するとしようか。
既に諦めとともに、この地での生活というか思考方法に馴染み始めると、
もう、少しのことでは驚いたり、落胆することはなくなった。
ふと、上を見上げると2階の窓のカーテンが少し揺れたような気がした。
気のせいだろうか。誰かに覗かれていたような感覚が残る。
アジュモニのほか、誰もいないはずだが...
監禁されたまま、祖国に帰ることなく未練を残して憤死した私のような人の霊でも、
住んでいるのか。
この想像だけには少し、寒気を憶えた。
いくら境遇に共感すべき点があるとは言え、幽霊とは同居できない。
- 103 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月22日(月)19時42分33秒
- 家に入ろうとすると、あいつがまた小声で囁く。
えっ何...?
(とう...ちょうに...きをつけろ...)
とうちょう...あぁ、盗聴のこと。
共産圏では気をつけないとね。
別に聴かれて困ることもないし、そもそも話し相手なんかいないのに。
私は逆に可笑しくなったが、あいつも立場上、下手なことを喋られると困るのだろう。
私はにっこりと微笑んで、安心させてあげた。
ドアを開けると階段が目前に迫っている。
私は2階に住まうことになる。1階はアジュモニの住まい。
靴を脱ごうか脱ぐまいか迷ったが、あいつが構わず土足で上がっていくので、
慌てて着いて行く。
階段の手摺に手をかれようとした瞬間、何かが視界をかすめた。
間違いない。誰か居る。
- 104 名前:名無し娘。 投稿日:2001年10月26日(金)23時34分38秒
- 「何のまねだ...」
あいつは低い声で唸るように呟くと、タタタっと階段を駆け上り、左右の廊下を確認する。
何者かの居場所に見当をつけたのだろう。
足音をたてないよう静かに移動する。
私も急いで階段を上ると後についてそろりそろりと後ろから覗いて見る。
右手の廊下を進み、右側の奥の部屋の前であいつは立ち止まった。
背広の内側に手を入れて、ドアを開けようとしている。
私は、慌ててドアの横に退いた。
バタン。
勢いよくドアを内側に開くと、あいつは銃を構えてさっと飛び出した。
「動くな!」
しかし、次の瞬間、何を見たのかあいつは硬直して目を見開いている。
「ば・か・な...」
あまりの驚きに、銃を掲げた腕を下ろすこともできないでいるようだ。
一体、何を見ているのかと不思議に思い、覗きこもうとする私を制することも忘れている。
撃たれる危険はないのだろうが一応、注意してドアにへばりつき肩越しに見やる。
「!」
息が止まる。時間が止まる。
固まるはずだ...うごけない...
私が見ているもの...
それは...
- 105 名前:名もなき読者 投稿日:2001年11月05日(月)23時37分46秒
- 感想は一言で『おもろすぎ』っす!!
今までになかったタイプのジャンルですよね!!
北が関わってくるとは予想もしてなかったです!結構シリアスな内容に加え、作者
さんが北や韓国の知識に詳しいせいか、フィクション並に感じられますよ(w)
そのせいでモロはまりましたよ!!
これからも更新楽しみにしているので、ゆっくり頑張ってください!
- 106 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月06日(火)19時08分05秒
- 「市井ちゃ〜ん、久しぶりぃっ♪」
この場にそぐわない言葉を思いつくだけ並べても、
これだけ能天気なフレーズは誰も捻り出すことはできないだろう。
それほど、浮いた台詞を吐くやつは一人しかいない。
現実離れした展開に放り込まれて神経が麻痺し、
大概のことはやり過ごすことが出来るようになったが、
これだけは現実のものと思えるまで、しばらく時間がかかった。
「...ごっ...ご、とう...何してんだ、お前...」
まだ凍りついたまま動かないあいつの横から顔を覗かせ、
やっとの思いで声を絞り出す。
「んぁっ?後藤ねぇ、市井ちゃん追っかけてきちゃったぁ、へへっ♪」
(後藤か?本当に後藤なのか...?)
「ねぇ、おぢさん、それ危ないから下げてよ。」
こちらの緊張感をよそにひたすらほのぼのモードの後藤はあいつに銃を下げるよう促す。
そして世間話でも始めるかのような調子で、投げかけられた言葉にもう一度、驚かされた。
- 107 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月06日(火)19時08分52秒
- 「おぢさんも久しぶりなのに、随分なご挨拶だよねぇ。」
耳を疑った。
今度はぐうの音も出ない。
私は後藤とあいつの顔を交互に眺めることしかできなかった。
「...なぜ、ここに居る...」
ようやく呪縛から解けたかのようにあいつも低く押し殺した声で問いただす。
よく考えると、後藤のことを知らなければやつだって驚くわけはない。
後藤の冷静さを考えると、それこそ説明のつかないことが山ほど出てきて頭が混乱し、
無性に腹が立ってきた。
「ちょっと!あんたたちだけ事情がわかってるんでしょうけどね!見えないのよ!」
久しぶりに大声を出した。
「ちゃんと説明しなさいよ!」
腹腔を使って声を響かせたことで体の隅々まで振動が伝わったのか、
ようやく普通に動ける気がしてきた。
長い話になるだろう。
納得いくまで説明してもらおうじゃないか...
- 108 名前:作者です 投稿日:2001年11月06日(火)19時20分52秒
- >105
ありがとうございます...
涙が出るほど嬉しいっす...
今まで誰か読んでるんだろうか...と思いつつ書いていたので、
凄く張り合いが出ます。
話の設定上、説明くさいとこも多くなりますがご容赦ください。
まだまだ作者の文章力が拙いもので...
なるべく間隔を空けずに更新したいとは思っているのですが...
まぁ、決して投げ出すつもりはありませんので気長にお待ち頂けるとありがたいです。
- 109 名前:名もなき読者 投稿日:2001年11月08日(木)03時34分37秒
- >作者さん
わざわざレスありがとうございます!!
こちらこそすばらしい作品を読ませてもらって、感謝の感激ですよ!
題と作品の内容がマッチされてるところが非常に(・∀・)イイ! ですよ(w)
予想外だったのは市井が現実で復帰してしまったってとこですね…
それさえなければこの作品は完璧なんですけどね(w)
北が関わってきてシリアスな内容になっているんですが、市井と後藤が無事に日本に
戻れるのか!?っていうのも注目点です!北でこのまま…ということになるのか!?
今後の展開がまったく予想できないから、余計興味が惹かれますよ(w)
気長に待っているので、自分のペースでゆっくり頑張ってください!
- 110 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月08日(木)14時31分48秒
- 羊の時から読んでますよ。
ROM専なもので。静かに見守っています。
社会派タイプの小説は読んでいる人は多いが
レスはつかないものです。雰囲気が壊れますからね。
お気になさらず続けてください。
後藤の登場で話が大きく動いていくのかな
- 111 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月15日(木)12時48分02秒
- 「おまえ...自分が何をやっているかわかっているんだろうな...」
あいつの口調は明らかに驚きから怒りを含んだのもへと変質していた。
後藤のしれっとした態度がまた感情を逆撫でしているのかもしれない。
「てへへ...ちょっち、時間かかっちゃってさぁ...」
後藤の方はこちらの困惑ほ知ってか知らずか、相変わらずのほほんとした態度を崩さない。
「おまえが、あの時点で決断していれば、市井をわざわざ連れてくる必要はなかったんだぞ...」
(!?)
「ちょっと!どういうことよ、それ!?」
思わず、口を出した。
どうやらぞっとしない展開になりそうだ。
「先に話が言ったのは後藤だということだ。」
「それと私とどういう関係になんのよ?」
「昨春に指導者同志からモー娘。メンバーの招聘命令が出たとき、指名されていたのは、
後藤だった...」
「...」
後藤はあいつが説明しても表情を変えるどころか、枝毛の手入れなどを始めて
リラックスした状態を隠さない。
- 112 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月15日(木)12時50分11秒
- 「当初、後藤に連絡を取ったが、あの時点ではまだモー娘。を辞める気はないと断られた。
それで白羽の矢が立ったのが市井、お前だということは既に述べた...」
そうだ...その話は聞いている...
だが...
「後藤に関しては、そのときすぐと言うことでなくとも比較的短期間で結果が出せると
我々は踏んでいた...なぜなら後藤は...」
「ちょっと!その話は私から市井ちゃんにするから、あんたは言わないでよ!」
後藤がはじめて気色ばんだ。
相変わらず話が見えないが、どうやら核心に近づいているらしいことだけはわかる。
そうだ...
後藤は一体...
- 113 名前:作者です 投稿日:2001年11月15日(木)12時55分12秒
- >109
遅レス申し訳ありません。
市井の復帰は嬉しいですが、小説の展開上、もう少し後だったらなぁと思ったり...(w
>110
ありがとうございます。
羊から読んで頂いている方にはそれこそ、書ききれないくらい感謝の気持ちで一杯なのです。
それについては、書上げてからぜひ言わせてください。
それから、更新遅くてすみません...
- 114 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月16日(金)18時36分21秒
- 後藤は何事もなかったようにこちらを向いて微笑む。
一年近く会わないうちに、美少女ぶりが板についたようだ。
心なしか頬のラインがすっきりして精悍ささえ感じられる。
「市井ちゃぁん、ちょっと散歩いこっか?」
しゃべると相変わらずだ...
「い、いいのかよ?」
私は、あいつの横顔を覗きながら応えるが、やつは後藤に視線を向けたまま表情ひとつ変えない。
「いいって、いいって。さっ、いこ。」
そういうとあいつの横を通って私の腕を取り、階段を降りようとする。
私はどうしてよいかわからず、後藤に腕を引っ張られたまま、あいつの方を振り向く。
(いいのかよ...?)
やつの表情からはやはり何事も読み取れなかった。
- 115 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月16日(金)18時37分37秒
- 「じ、じゃ、行くけど...」
何も返答がないことを確認し、私は後藤に導かれるまま階段を下り、玄関をくぐった。
門までの短い歩道を歩く間にも、頭の中は様々な思いが渦巻き交錯する。
「コッ、クゴシ トラオムニダ.(すぐ帰る。)」
(えっ!?)
門の前で私たちを監視していると思われた歩哨は、傍を通り抜ける後藤と私に敬礼して応えた。
「な、なんで...?」
思わず、口をついて飛び出す。
「なんで、喋れんのよ!?韓国語、いや朝鮮語をさ!」
後藤は涼しい顔で応える。
「だって、共和国にきたんだから、当然じゃん。」
(当然じゃないだろぉがよぉ...)
私は文字通り頭を抱えて髪の毛をかきむしった。
「市井ちゃん、お風呂入ってないの?」
(むがぁぁぁぁぁっ!!)
その一言で完全に切れた。
「お、おまえわぁっ!!...もう許さんっ!」
そう言うが早いか、私は後藤に抱きついていった。
およそ一年ぶりのことだった。
- 116 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月20日(火)18時33分57秒
- 久しぶりに組み合ってみると、後藤の膂力が著しく増していることに気づいた。
さすがに育ち盛りだ。
ついでに胸も...
つい自分のと見比べてしまった...
「後藤...大きくなったな...」
「へっ?」
後藤は不思議そうな顔で私を見つめる...
「市井ちゃんは...」
言い難そうにちょっと目線を下に向けてから、目を瞑って私の顔に唇を...
「お、おぃっ!後藤っ!」
「ちがう、ちがう...じっとして...」
そう言って、なにやら犬のようにくんくんと...
「うん、におうね...」
「何だと!」
「違うって。すっかり韓国の生活が身についてるなぁってさ...」
にんにくのことか...
そうか、私もついにそう思われるようになったのか...
一年前は、韓国人の匂いが気になって仕方がなかった自分が...
柄にもなく時の流れを感じて見たりする。
- 117 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月20日(火)18時34分37秒
- 「北は南ほど食べ物よくないからさ...」
後藤は歩きながら背中越しに声をかける。
「でも平壌はまだ、ましだから...田舎の方は大変みたいだけど...」
急に立ち止まって、前方に見えるこじんまりとした屋敷を指差す。
「あれね...よど号の犯人たちが住んでんの...」
「よど号って何だよ?」
あいつから一応の説明は受けていたが、完全に理解していたわけではない。
「昔、よど号っていう飛行機をハイジャックして北に逃げてきた人たちだよ。」
「なんでそんなこと知ってんだよ、後藤?」
その問いには答えず、指差した先を見つめる視線は厳しい。
「英雄気取りのくだらない連中だよ...」
後藤...
こんな厳しい顔をした後藤は見た憶えがなかった。
「でも、あいつらは自由に外出できないんだ。市井ちゃんは大丈夫だからね。」
振り向いた顔には微笑みが戻っていた。
- 118 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月20日(火)18時35分45秒
- 私は今度こそ、きっちり確認しておかなければと思った。
今度こそはぐらかされてはいけない...
「後藤...聞いておきたいことがある...」
きょとんとした表情で、うなずく後藤。
「なぁに?」
「後藤...」
私は唾をごくりと飲み込んだ。
「北朝鮮ってビールあんのか...?」
「ビール飲むんだ...」
後藤は少し鼻白んだ様子で応える。
「ふぅん...不良だね...市井ちゃん。」
私は予想しなかった反応に戸惑う。
「えっ?いや...あのさ...そういうわけじゃなくてさ...」
「えっへっへぇ...あるよ、龍城ビール。平壌ビールより美味しいんだぁ♪」
この小悪魔め...
相変わらず飲んでいるらしい。
圭ちゃんにはしっかり教育してもらわなければ...
と思ったところで現実に立ち返る。
「なぁ、後藤。説明してくれるか?」
- 119 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月21日(水)18時04分29秒
- 「うちは、もともと北の出身だったんですよ。」
保田はユウキが何を言い出したのか、理解に苦しんだ。
誰が出身地を聞いているというのだ...
「北海道か東北か知らないけど、そんなこと聞いてんじゃないでしょ!」
明らかに怒気を発している保田をユウキはポカンとした表情で見つめている。
しばらくして気づいた。
「...ああっ、違いますよ、北朝鮮って意味です。」
今度は保田が唖然とする番だった。
「き、北朝鮮って...あんたんとこ、在日だったの?」
「いや、親父が死んだときに帰化したんで、今は日本人です。」
「なんだ...びっくりした。在日だったら、よく隠してたもんだとびっくりしたわよ。」
そう、日本の芸能/スポーツ界における在日韓国/朝鮮人の比率は高い。
その出自を公言しているにしきのあきらや金村義明など一部の存在を除けば、
多くの在日芸能人は通常、ひた隠しに隠している。
- 120 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月21日(水)18時05分18秒
- だが蛇の道は蛇。
いくら隠した所で、素性はすぐに割れるもの。
それを隠し遂せた芸能人はほとんどいないといっても過言ではない。
それは部落出身者についても同様である。
芸能界で生きるものにとってそうした情報の流出は死活問題であるが、
逆の立場からするとそれらが非常においしいメシのタネになる。
住民票の写し程度は本人でなくとも取得できるご時世だ。
そのような噂の類は業界に身を置く者なら誰しも一度は耳にしている。
保田が驚いたのはそういう背景による。
「で、それと公安にマークされてるのとどう、関係すんのよ?」
保田は強引に本題へ戻した。
冷静さを装ってはいるが、その実、緊張の余り握る拳の内側、手のひらはじっとりと湿っている。
「悪いことに親父は総聯の活動家だったみたいで...」
「何よ、活動家って?」
どうやら保田の悪い予感は的中しているようだ。
心臓が高鳴る。
「まぁ、帰化しない限りは外国人ですからね。立場的には非常に不安定なわけですよ。」
ユウキの方は至って冷静だ。
保田に一瞥をくれると、続けた。
「そのためにいろいろと活動するわけです...ま、合法非合法含めてですね。」
- 121 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月22日(木)13時40分55秒
- 「税務署と遣り合って、税金負けさせるなんてのはまだ綺麗な方で、もっと穏当でないことも
たくさんありますよ。」
ユウキは悪びれもせずに続ける。
あるいはソニンや和田さんともこのような会話があったのかもしれない。
「で、あんたのお父さんは?」
保田は先を促した。
「これがまずいことに剣呑な方で...」
と言うユウキの顔は相変わらず穏やかな微笑を湛えている。
危ない橋を渡っていたという活動家の父の面影はそこにない。
「僕も家族も父が人殺しみたいな悪いことをやっていたとは思っていないんですが、
そうは思わない人たちもいるみたいで...」
「それで警察に睨まれてるの?」
「違いますよ。警察は容疑者であっても死んだ人には興味ないでしょ。」
そこでユウキは立ち上がって、机の上から小さなビニール袋を取って保田に見せた。
「これ何だと思います?」
たてよこ5cm程度のビニール袋は透明で、中には白い粉が入っている。
「...」
保田はいやな予感がした。
「覚せい剤ですよ。」
「ち、ちょっとっ、あんた!!」
保田は肝を冷やした。
それが本当なら、自分がここにいることさえ危ない。
- 122 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月23日(金)01時57分23秒
- 「北のブツは純度が高くて人気なんですよ。その分、値も張りますけどね...」
ユウキは口の右端を吊り上げて見せた。
目は笑っていない。
保田はその表情から何を読み取っていいのか判断に苦しんだが、
そんなことに頓着することなくユウキは続けた。
「これで保田さんの一月分の給料くらいはいきますよ...」
そう言うと保田から視線を外し、袋を投げてよこした。
「本物であればね...」
つぶやくように言われてようやく保田は我に帰った。
手許の袋をまじまじと見つめる。
「この粉は...」
「ただの小麦粉ですよ。本物を持ってたら、謹慎どころじゃすまない...」
ようやく安心はできたものの、こんなものを持ち出したユウキの真意を保田は量り兼ねた。
「これがあんたのお父さんとどう関係すんのよ...」
「疑われたんです...隠してたんじゃないかって...」
「あんたのお父さん...麻薬の密売人だったの?」
- 123 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月23日(金)01時58分42秒
- ユウキは保田をきっと見据えた。
見開かれた大きな瞳は怒りと、そして悲しみを映している。
「そんなこと...あるわけないじゃないですか...」
「ご、ごめん...」
ユウキは視線を落として言った。
「いいんです...そう思われて総聯の工作員に付き纏われたのは確かですから...」
そういうことか...
保田には掛ける言葉が見つからなかった。
あるいは見つかったとしてもそれが何の気休めにもならないことを理解していた。
それだけユウキの、いや、後藤家の亡父が残した問題は、今や余人の想像を遥かに超える
厳しさで子供達に圧し掛かっていたのだ。
「うちが公安にマークされているのは、彼らが接触してくるからです。」
「そう...でもよく、マスコミに漏れなかったわね...」
再びユウキの口許が微妙に歪んだ。
「所詮、同じ穴のむじなですよ...彼らは総聯の怖さは良く知ってますから...
それに公安と言えば警察ではエリートですからね...情報管理はお手のものですよ。」
- 124 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月27日(火)19時06分53秒
- 「そういうわけで帰化したものの、うちと北の関係はなかなか切れなかったんです。」
ユウキは相変わらず淡々と続ける。
「父が亡くなって、朝銀から融資も受けたし...なかなかね...しつこいんですよ。」
「それで話を戻すけど、後藤の失踪と北とどう関係してるの?」
ユウキはまたしても視線を外して、俯いた。
考えているらしい。
それはそうだろう。
今までの話を総合するとどう考えても...
「北朝鮮にいるのね?」
ユウキは悲しげに頷いた。
- 125 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月28日(水)18時07分55秒
- 「だからさぁ、市井ちゃんは安心して日本に帰れるんだってば!」
後藤の口調は明らかに苛立ちを滲ませていた。
「後藤を置いてひとりだけ帰れるわけないじゃんかよ!」
こちらもかなりヒートアップしている。
だが引き下がるわけにはいかない。
後藤の身が心配だから...と言ったら嘘になる。
実際、後藤には総聯というバックがついているだけに、
正直なところ、それほど心配があるわけではない。
それよりは、むしろ...
「後藤...かっこ良すぎだよ...」
後藤は眉を顰める。
「っていうか...あたし、惨めだよ...かっこ悪すぎだよ!」
勝手な言い分であることはわかっている。
だけど...
余りにも惨めじゃないか...
自分の愚かさのせいで後藤の人生を狂わせてしまうなんて...
そんなの...
悲しすぎるよ、後藤...
- 126 名前:名無し娘。 投稿日:2001年11月29日(木)18時04分30秒
- ぐっと手を握り締めて俯く。
下の地面をじっと見据えるとだんだんとぼやけてきた。
乾いた地面に点々とした模様が増えていく。
悔しくて泣いたのは初めてじゃない...
でも、こんなに自分が無力だと思い知らされたのは...
肩に温もりを感じた。
後藤が近づいて肩に手を回していた。
「市井ちゃん...座ろ...」
私たちは道路わきの草むらに腰を下ろした。
林の木々の間から、遠く平壌の街並みが覗いている。
人工的な建造物の間を縫って流れる大同江が強い日差しを反射してキラキラと光る。
音を立てるものは...何もない...
静かだ。
鳥のさえずりも、虫の鳴声も...
気まぐれにそよぐ風が梢を渡るときのざわめきさえ今は聞こえない。
後藤と私...
二人だけの世界...
静かな世界...
- 127 名前:名無し娘。 投稿日:2001年12月03日(月)19時05分58秒
- 「市井ちゃん、なんでここ、こんなに静かなのかわかる?」
「...」
私は首を横に振ることしかできない。
後藤は片目を瞑り、両手で銃を持つような仕草で、バーンと叫ぶと
大きく息を吐き、上半身を草むらに倒した。
「食べちゃったんだ...お腹空くから...」
何を言っているのかすぐには理解できず、後藤の顔を見つめる。
真上の雲や空の色を映して後藤の瞳の色がくるくると変わる。
「後藤がか...」
自分では気の利いたジョークのつもりだった...
だが、私に視線を移した後藤の表情はなんと表現したらよいのだろう...
悲しみ...
絶望...
慈愛...
それとも蔑み...?
そんな目で見られたら、恥ずかしさの余り穴があったら入りたくなる心境。
そう、私は消えてなくなりたいくらいの恥ずかしさで後藤の顔を正視できなかった。
「いいんだよ...市井ちゃん...」
今度こそ、私は穴を掘って入り込む自分の姿を想像することで
現実から逃げ出すしかなかった。
- 128 名前:名無し娘。 投稿日:2001年12月04日(火)17時02分06秒
- 「平壌はね、党の幹部が住んでるし、外国人がいるから食料は絶対に不足しない。」
でもね、と言いかけて後藤は半身を起こし、私の目を見つめた。
「地方はね、そりゃひどいよ。私...餓死した人をたくさん見た...」
「後藤、地方に言ったことあるのか?」
「うん...親戚がいるから...」
再び遠くを見つめる眼差しがどこに向けられているのか、私にはわからない。
後藤が目の当たりにしてきたという飢餓の惨状を思い起こしているのか、
それとも、もはや戻るつもりのない日本での生活に思いを馳せているのか...
「来月の船でユウキが来ることになってる。市井ちゃんはそれで帰れるよ。」
「船?」
「新潟から共和国への帰国者や貿易品を運ぶ船が定期的に出てるんだよ。」
知らなかった...
国交がないとばかり思ってたのに...
しかし...
- 129 名前:名無し娘。 投稿日:2001年12月04日(火)17時03分22秒
- 「そんな簡単に金正日が私を出国させるか?拉致されたことを喋れば国際問題だぞ。」
「マスコミは書かないよ。」
「なんでだよ!?」
私は気色ばんだ。
そんな理不尽な話があるか...?
「証拠は?」
「うっ...」
そうだ...証拠はない...
だが、そんなことが許されていいのか?
「生き証人じゃだめなのか...?」
「書きたがりの熱血漢はどこにでもいるけどさ...政府に握りつぶされるのが落ちだよ。」
「なんでだよ!?」
後藤は面倒くさそうな顔つきで上を睨んで考え込んでいる。
決して頭が悪いわけではない。
むしろ理解の速さでは娘。随一と言ってもよかった。
ただ、きちんと筋立てて説明するのが苦手らしい。
- 130 名前:名無し娘。 投稿日:2001年12月04日(火)17時04分19秒
- 「んんっ...なんていうかさ...誰にでも、突付かれたくないことってあるじゃん?」
「なんだよ、それ? 日本が北朝鮮に弱み握られてるみたいじゃんか。」
私は警戒しつつ尋ねた。
理詰めで追い詰めるのはまずい...
「ん、それに近いかな...ともかくさ...ユウキが来たら一緒に帰れるように手配してるんだ。」
「やっぱり、帰るしかないのか...?」
「市井ちゃんには長生きしてほしいからさ...」
後藤...
このままでは一生、自責の念に苛まれるだろう。
なんとかしなくては...
なんとか...
でもどうやって...?
- 131 名前:名無し娘。 投稿日:2001年12月24日(月)00時33分38秒
- 「そういうわけで、来月、向こうに行かなきゃなんないんですよ。」
「謹慎処分ってそういうわけでったのね...で、もちろん和田さんも承知と...」
「ええ...」
ユウキは警戒していた。
保田が一緒に付いていくと言い出さないとは限らないからだ。
もともとの国籍が北朝鮮であるユウキは総聯の保護もあり、難なく入出国できるが、
保田の場合、そうはいかない。
「あんた、私が付いて行きたいって言うと思ってんでしょ。」
そら来た。
ユウキの予想通りだった。
ここは釘を差しておかねばならない。
「保田さん、無理ですよ。」
「言わないわよ。北朝鮮なんて恐いとこ、頼まれたってやだわよ。」
口ではそう言っているものの油断はできない。
何しろ不器用なくせに無茶な人なのだ。
姉の後藤につきまとっていたストーカーまがいのファンに一喝し、
逆に襲われそうになったこともある。
そのときは、事務所から警察に通報してもらい事無きを得たが。
- 132 名前:名無し娘。 投稿日:2001年12月24日(月)00時35分13秒
- 「それならいいんですけど...なにしろ市井さんを無事に帰すのが目的ですから...」
「あんた...信用してないわね...」
ユウキは首をゆっくりと横に振ると視線を落としてつぶやいた。
「姉なら...心配ありませんから...」
保田は唇をかんだ。
読まれていたか...
実際のところ後藤まで救う手だてはまったく思い付かなかった。
自分がのこのこと出かけていっても拉致されて消されるか、よくて収監だろう。
しかし、今助け出さなければ後藤がふたたび日本に戻る機会は訪れない。
どうすればいい...
「とりあえず今日のところは帰るわ...」
「まるで借金取りの捨てぜりふみたいですね。」
憎まれ口を叩くユウキを無視して、保田は続ける。
「ソニンちゃんには今日のこと、言うんでしょ?」
「...」
言わざるを得ないだろう。
場合によっては保田への監視が必要になることも考えられる。
「...気を悪くしないで下さい。業務連絡というか...そんな感じですから...」
「気にしないよ。それじゃ。」
- 133 名前:名無し娘。 投稿日:2001年12月24日(月)00時36分18秒
- 保田の帰る姿を見送ったユウキは、早速ソニンに電話をかけた。
「もしもし?」
「ハイ。何?」
相変わらず愛想のない声が応える。
「ごめん。保田さんにしゃべっちゃったよ...」
「...あんたじゃ、隠し通せないとは思ってたけどね...」
「ひどいなぁ...で、どうする?」
「どうするって?」
ソニンの乾いた口調からはユウキの心配していたような緊迫感は感じられなかった。
実際、保田に関してはほとんど気にしている様子はない。
「彼女にできることはないよ。それより、予定を早める必要がありそうね。」
「えっ、なんでだよ?」
これにはユウキも驚いた。
まったく予期していない言葉だったからだ。
- 134 名前:名無し娘。 投稿日:2001年12月24日(月)00時37分06秒
- 「あんた、最近のニュース見てる?地検が総聯に査察かけたのよ?」
「それがどうしたのさ?」
強がって見せてはいるが、ユウキにはそれと予定繰り上げの関連性が見えていない。
「あんたも元北側の人間ならことの大きさはわかるでしょ?
今まで朝銀系の不正融資に関する査察は国税が担当してきたわ。
それが今回は総聯まで対象になってる。
地検が出てきたってことは国が本気で北への送金ルートを抑えようとしてるってことよ。」
「それって、やっぱまずいのかなぁ...」
「あたりまえでしょ!」
飽くまでのんびりしたペースを崩さない相手に苛立ってきたのかソニンの声が上ずる。
「総聯が北である程度の発言権を得ているのは膨大な資金力を金正日が無視できないからでしょ。
これが止められたら、総聯なんてなんの利用価値もないんだから。」
「じゃ、今回のオペレーションでは総聯の後ろ盾はあまり期待できないってこと?」
「そうよ。すんなり市井さんを渡してくれるか疑問ね。」
「どうすれば...」
それをソニンは先ほどから説明しようとしている。
- 135 名前:名無し娘。 投稿日:2001年12月24日(月)00時38分00秒
- 「だから予定を早める必要があるってことよ...金正日の気が変わらない内にね...」
「次の便っていつだっけ?」
「明後日よ。」
「あさってぇ!?」
ユウキの声が裏返る。
本来の予定よりもまるまる一月早い。
物資の手配などもさることながら心の準備ができていない。
「万景峰号は大丈夫だろうね。」
「明後日の便は大丈夫だと思う...ただその後は日本側の入出国管理が厳しくなるかもしれない。」
「なんでさ?」
「奄美沖で発見された北の工作船が海上保安庁の巡視船に撃沈されたわ。
今までならなかったことよ。
明らかに米同時テロで政府の対北姿勢が変わってるわ。」
ここへきてようやくユウキの口調にも緊張感が滲んできた。
- 136 名前:名無し娘。 投稿日:2001年12月24日(月)00時38分38秒
- 「万景峰号の取り調べも厳しくなると...」
「武器や麻薬の件もあるしね。公安だけでなくて厚生労働省なんかも動いてるみたいだし...」
相変わらず詳しいな...
ユウキはこのソニンという少女の不思議さを思わざるを得ない。
自分自身は南の系統だというのになぜか北や総聯に通じているらしい。
韓国系の民族自助団体である民団経由の関係だと説明はしているが、
どうもそれだけでない臭いも感じられる。
それがなんなのだと指摘できるほどの確証はないのだが。
「最悪、陸路で中国経由の脱出というのも覚悟しておかないとね...」
「えぇっ!マジ!?」
これにはユウキも参った。
それほど危険な任務だとは思ってもいなかったのだ。
単に自分が渡航して、帰国する市井に随行すればよいと考えていたのだから。
- 137 名前:名無し娘。 投稿日:2001年12月24日(月)00時39分18秒
- 「陸路はほとんど徒歩の行軍になるよ...」
「できれば、それは遠慮したいなぁ...」
「っていうか、今の情勢を考えるとそっちの可能性が高いんだけどね。」
ユウキの狼狽するさまを喜ぶかのように冷たく言い放すソニン。
「まっ、それを考慮して援軍を手配しておくからさ、あんまり心配しなくていいよ。」
援軍って...
考えている間に電話を切られたことに気付き、ユウキはため息をついた。
可愛い顔してきついんだから...
あれでSMの女王様とかやったら売れっ子になりそうなんだけど...
ユウキは独りごちて渡航の用意に取掛かった。
- 138 名前:名無し娘。 投稿日:2001年12月26日(水)17時04分59秒
- 私は月の光に照らされてぼんやりと白く浮かぶ後藤の寝顔に見入っていた。
カーテンを広げて開け放たれた西洋風の開き窓からは乾いた夜気とともに
鈴虫やこおろぎなどの虫の音が入り込んでくる。
風はない。
久しぶりに後藤の顔を見たためか気分が昂ぶってなかなか寝付けなかった。
あまりに急な環境の変化に思考が追いついていかないもどかしさもあって、
なんとか状況を把握したいと考えることで余計に目が冴える。
軽い寝息を立てて気持ち良さそうに寝入る後藤を羨ましく感じながら、
一方で、これは本当にあの後藤なのだろうかと訝しく思う自分がいる。
どこででも寝られる強心臓は私が娘。に在籍していた頃から変わらないものの、
私を救出するために人身御供をかって出たことを淡々と告げる表情にある種の悟りの
ようなものを感じこそすれ、かつての奔放な少女の姿を重ねることはできなかった。
どちらかと言えば、自己犠牲という言葉が一番似合わそうなタイプだけにその意外性は
大きなしこりのように喉につかえている。
- 139 名前:名無し娘。 投稿日:2001年12月26日(水)17時06分42秒
- 何のために...
私自身、自分がその人生を賭してまで救わねばならない存在だとはとても考えられないだけに
後藤のその行為には清々しいというよりは寧ろもやもやとした何か得たいの知れない背景を
想像しがちになる。
わからない...
あるいは自分のために後藤が人生をほぼ失いつつあるという重い事実を受け入れられない弱さが、
無理やり背後にあるべき何かもっと深刻な理由の存在を願っているものか。
わかっているのは、自分が平壌に滞在できる後1ヶ月足らずの間に、少しでも納得できる
理由を探さなければならないということだけ。
私は何らかの答えがそこに見つかるかとすがるような思いで後藤の寝顔を見つめた。
その高い鼻梁が月の光に照らし出されて月光が醸し出す微妙な光の稜線に見入る。
金色に染めた綺麗な髪の上でたゆたう光の波の美しさが、余計に自分の矮小さを
際立たせているように感じて、それ以上見つめることに耐えられなくなった。
カーテンを引いて月明かりを遮ると、ベッドに潜りこんで後藤に背を向けるように
布団にくるまる。
それで、ようやく眠れそうな気がした。
- 140 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月03日(木)01時11分58秒
- 翌朝、私たち二人はアジュモニの用意してくれた朝食を平らげると迎えに来たベンツに乗り込んだ。
向かうはピパダ(血の海)歌劇団が本拠とする平壌大劇場。
一ヶ月にはこの地を去ることになる私が何をするというわけでもないのだが、
後藤の薦めで、この国初という触れ込みのミュージカルの練習を見学することにした。
「あのでっかい塔みたいの、何だ?」
「あの対岸に見えるやつ?」
勝利通りという名の大通りを走る車の左側には大同江がゆったりと流れている。
その川向こうに奇妙な偉容を誇る長細い建造物が私の目を引いた。
「主体(チュチェ)思想塔だよ。偉大なる首領様が説かれた思想を具現化したんだ。」
「ふぅん...」
間髪入れずに応える後藤には何のてらいもない。
まさか、ほんとうに「偉大なる首領様」を信じ奉っているわけではないのだろうが。
運転手の手前もあり、それ以上後藤に余計なことを言わせるのも気が引けて口をつぐんだ。
別の話題を考える間もなく車は平壌大劇場に到着する。
- 141 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月03日(木)01時13分00秒
- 先ほど通ってきた勝利通りと栄光通りが交差するこの辺りは市の中心にも近く、
平壌大劇場の向かいには高麗ホテルに次ぐ格式の平壌ホテルが立つ。
「案外、近いな...」
「でしょ。」
裏手にあたる関係者用の入り口を抜けると大理石ででもできているのか、
くすんだ光沢を放つ廊下が長く伸びる。
コツコツと響く靴音になぜか小学校の廊下を思い出した。
小声でささやきながら歩く私たちの側をたくさんの人が通り過ぎて行く。
オーケストラや合唱、舞踊などの出演者だけでなく衣装、美術、音響などの裏方まで
含むと数百人の規模になるそうだ。
さしもの後藤も正確な人員までは覚えていないという。
「この部屋だよ。」
後藤がおもむろにひとつの扉の前で止まった。
重そうなドアノブをガチャッと回すとゆっくりと扉が開く。
「アンニョンハセヨ!」
部屋に入るなり威勢よく挨拶する後藤に、団員たちが一斉に目をを向ける。
そしてその隣にいる素性の知れない女である私に対しても遠慮のない視線が寄せられた。
- 142 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月05日(土)00時32分52秒
- 「アンニョンハセヨ、真希同志。」
演出家か振り付け師か。
明らかに他の団員とは違う雰囲気を放つ年かさの男性が後藤に声をかけた。
目線が私は何者だと問うている。
「あっ、この人はね、日本や韓国で音楽の仕事してたプロの人でぇ。
向こうのプロにちょっと見てもらおうと思って。」
「...まぁ、真希同志がそうおっしゃるのなら...」
男性はいかにも胡散くさいと言いたげな視線を私に向けつつも、それ以上の詮索は避けた。
それはいい。
どう考えても怪しく見えるだろう。
服装といい、化粧の仕方といい、あからさまに南側の人間だ。
それにしてもこのような年輩の男性にまで敬語を使われる後藤はどういうポジションにいるのだろう。
謎は深まるばかりだ。
「後藤...私はどうしたらいい?」
「ん?市井ちゃんはね、そこ座って見てて。後で感想とか聞くからさ。」
そう言い終えると、後藤は早速、他の団員の輪に入っていった。
まだまだ聞きたいことは山ほどあるが、屈託のない笑顔で応える後藤の顔を見ていると
それ以上、質問するのは憚られた。
余計なことを尋ねて後藤を困らせてもまずい。
- 143 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月05日(土)00時33分49秒
- 私は演出家らしい男性が立ったまま団員に指示を飛ばす様子を横目に、
進められた椅子に腰を下ろした。
練習が始まってしばらく経つと微妙な齟齬を感じ始めた。
個々の団員の踊りや歌唱の水準は決して低くない。
むしろ、そのまま南側に連れていっても通用しそうなくらいだ。
なにがおかしい...しばらく見続ける。
わかった。
決定的な違和感はその個々人のスキルが特定の要素に偏っていることだ。
ダンスのうまい者は歌が下手。
歌のうまい者はダンスが下手。
その両方に秀でている後藤の存在が突出して見える。
あと、この音楽...
なんだろう?
一応、ヒップホップを狙っているのだろうか。
リズムだけはシャキシャキしているのだが、間延びしたメロディラインが
どうにも緊張感を削ぐ。
まぁ、だいたいが革命劇をミュージカル仕立てでやること自体、無理があるのだが。
- 144 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月05日(土)00時34分51秒
- そういえば、後藤はミュージカルを既に体験していたはずだ...
それにしたって、後藤がミュージカルのプロというわけではないだろう...
その事実にこの演出家は気づいているのだろうか?
彼の険しい表情を盗み見ながらとりとめもないことを考える。
通し稽古ではないから筋は大まかなところしかわからないが、
悪逆非道の日本兵と戦う朝鮮パルチザンの英雄達を励まし助ける看護婦の美少女
というのが後藤の役回りらしい。
それにしても日本人のこの悪辣ぶりはどうだろう。
実際、ひどい行いもあったのだろうとは想像するが、ここまで悪役ぶりを徹底させると
逆に現実感がなくなって、ある種のおかしささえ感じる。
中国などの友好国では海外公演もやったらしいのだが、さすがにこれを見せられて
感想を求められても困るだろうなぁ...
どうにも緊張感を持続できずにくだらないことばかり考えているうち、小休止に入った。
後藤がタオルで汗を拭いながらこちらに近づく。
「どうだった?」
「どうだったった言われてもねぇ...ところで日本語で話していいのか?」
「うん。その方が、本職っぽいでしょ。で、正直なとこ、聞かせて。」
- 145 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月05日(土)00時36分05秒
- 私は先ほど感じたことを素直に答えた。
その程度のことは後藤もとっくに気づいているだろうことは承知の上で。
むしろ、娘。での公演とはいえ、曲がりなりにも一度プロと同じミュージカルの舞台を
経験している後藤の方が、よっぽど一家言持っているはずだ。
「そう...やっぱり、難しいか...」
「とりあえず歌がうまけりゃ、ダンスはなんとかなるけどな...あの不器用な圭ちゃんだって
猛練習でなんとかしてるんだからさ。ただ、歌の方はそういうわけには...」
後藤はなるほどという風に眉間にしわを寄せて考え込んだ。
「やっぱ、配役変えた方がいいかな...」
「っていうか、お前、どういう立場なんだ?演出家っぽい人いるだろ?」
- 146 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月05日(土)00時36分50秒
- 一瞬、ポカンとした表情をさらした後、すぐに破顔した。
「ああ、あの人はね、党の指導員なの。だから、舞台のことは何もわかんないよ。」
「ってことは、後藤が責任者?」
それには答えずに、再び考え込む仕草を取ったかと思うと、
おもむろに視線をぶつけてきた。
「市井ちゃんさ...演出やってくんない?」
「へっ!?」
何を言い出すんだ、この娘は?
まったく、突拍子のないことを言い出す奴だ...
どう反応したものか判断に困る私を無視して、一人で合点がいったというように
首を大きく縦に振って頷いている。
「いやぁ、そうすれば良かったんだぁ。ぐっどあいでぁだよね、市井ちゃん!」
「おいっ...そんなこと...できるわけないだろ...」
どうにも状況が把握できずに力の入らない抗議が虚しく響く。
まったく...何、考えてるんだよう? 後藤...
- 147 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月06日(日)00時21分19秒
- 「後藤...演出なんて私にできないこと、わかってるだろ...」
「だいじょぶ、だいじょぶ。演出って言ったって、筋も音楽も変えられないし、演技指導も
する必要ないもん。市井ちゃん、朝鮮の英雄が日本人ぶっ殺すとこ指導したい?」
そりゃまた、ぞっとしないお話で...
私はただ首を横に振るだけだ。
「ダンスの切れとかさ、歌のときの表現力だとかさ、そういうのを見てもらって、
適当な配役決めてほしいんだ。」
「舞台も経験してないのにか?お前の方がよっぽど詳しいだろ?」
私としてはかなり切実なつもりだったのだが、後藤はわかってないなぁという風に
肩をすくめて言う。
「主役がそんなことやったら角が立つじゃん。それに市井ちゃん、せっかく共和国まで
来たのに見てるだけじゃ、つまんないでしょ?」
「いや、どっちかって言うと、すごく見ていたい気分なんだけど...」
自分ながら口の減らないやつだと思う。
もちろん、後藤もそれには同意しているはずだ。
しょうがない人ねとでも言いたげに首を軽く横に振ると、笑顔を見せた。
- 148 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月06日(日)00時22分09秒
- 「これから、さっきんとこ通して見るからさ、誰が歌で誰がダンスか決めて。」
そう言い残すと、フロアの真ん中まで駈けて行って大声を張り上げる。
「ちょっとみんな集まって!」
団員が集まると、先ほど交わした会話とほぼ同じ内容を告げる。
少しはざわめくなり、動揺するなりするかと思ったが、みな極めて冷静に受け取めているようだ。
あの人が選ぶんだとか何とか説明しているのだろう。
多くの視線を向けられた私の方が、よっぽど動揺している。
後藤が団員の名簿と筆記用具を渡し、簡単に団員の紹介をする。
あの赤いバンダナをつけているのが何某で、ピンクの上着が何某で...
私は名簿と首っ引きで、とにかくどの名前の何番が誰なのかを判別することに集中した。
気づくと既に音楽が入り、みな演技に取り掛かっている。
私は目を皿のようにして、団員たちの一挙手一投足を注意深く見守る。
緊張感でメモを取る右手が震えた。
下手をすると彼ら彼女らの一生を左右することにもなりかねないのだから...
だが、素人目で見ても明らかに配役のやり直しは避けて通れない。
私は非常に徹してメモを取り続けた。
- 149 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月07日(月)18時24分35秒
- 緊張のうちに平壌での二日目は過ぎた。
結局、歌劇団の団員を適材適所に配置するという荒業は完遂されることなく
後藤の裁量に委ねられた。
二、三の著しく適正を欠いていると思われる人材の得意分野への集中を勧告した以外は。
練習を終えて家に帰るまでの夕刻のわずかな時間、私と後藤は劇場から程近い大同江の
川縁に沿って走る遊歩道を歩いていた。
パリで言えばシテ島にあたる中州の羊角島にガラス張りの近代的な建造物が建つ。
フランス企業との合弁で建設した羊角島ホテルだそうだ。
西に傾きかけた太陽の光が川面に反射して煌くきらめくのと同時に、また羊角島ホテル
のガラスが真っ赤な夕日を映し、人工都市平壌がもっとも美しい瞬間を迎える。
この時間帯を狙って、多くの市民が散歩に出かけるのだろう、私と後藤の横を
老人やカップルなど、何組もの人々が通り過ぎていった。
既に夏の盛りは過ぎているものの日中は強い日差しが照りつける。
冷房設備など望むべくもない平壌市民が夕刻に涼を求め川沿いの散歩を楽しんでいる姿に
抑圧と恐怖の支配する飢餓の国という漠然とした抱いていた印象を重ねることは難しかった。
- 150 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月07日(月)18時25分14秒
- 「後藤...成長したなぁ...」
「...そう?」
話すともなしに、ぽつりとこぼした言葉に後藤が不思議そうに反応する。
「いや、ソロでデビューしたのも知ってるし、ミュージカルに出たのも知ってるけどさ。」
なるべく、卑屈に聞こえないよう言葉を選ぶ。
「後藤にすっかり追い越されちゃったな。」
正直な話、韓国でかなりベーシックなトレーニングから初めて、相当に実力を上げたと
自負していただけに、超過密スケジュールを縫って仕事をこなす後藤に歌や踊りで
引けを取るとは思っていなかった。
そのはずだったが...
「そんなこと...ないんじゃない?」
後藤は、やや当惑した表情を見せつつもやさしく微笑んだ。
不思議なことだが、この、人々の精神を抑圧することにかけては世界に類を見ないと
言われる国に在って、彼女の見せる笑顔は安らぎに満ちているように感じられた。
余裕...安寧...諦念...?
どの言葉も今の後藤を的確には表現し得ていないと感じる一方、
そのどれにもあてはまるような奇妙な感覚。
不思議と悔しさは感じなかった。
- 151 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月08日(火)18時23分24秒
- 「いや...なんていうかさ...自信持ってるよな。
唄にしても踊りにしても迷いが無いから見ていて気持ちがいいよ。」
「てへへっ、照れるじゃん。」
まんざらでもなさそうに、目じりを下げて喜びを隠さない後藤の横顔が今の私には眩しい。
それは羊角島ホテルのガラス張りの外壁に映る夕陽の反射光のせいだけではなさそうだった。
遊歩道の縁石の上でバランスを取りながら跳ねるように歩く後姿に向かって
私はそっと心の中で呟く。
後藤...
本当に、成長したよ...お前...
その実力をしかるべき場所で発揮しなくていいのか...
こんなところで、朽ち果てていいのか?
「なぁ、後藤。」
「ん?」
振り返ると同時に縁石からふわっと飛び降りて見事に着地を決めた。
一瞬、言葉を飲み込んでその立ち居ぶるまいに目を奪われる。
「ほんとに、舞台監督とか演出家とかいないのかぁ?」
ちょっと首を傾げる仕草が良く似合う。
どう説明したものか頭の中でまとめているのだろう。
逡巡の後に発せられた言葉が、特に私を驚かせるということはなかった。
- 152 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月08日(火)18時30分52秒
- 「演出はねぇ、前の人がミュージカル初めてで、全然だめだったから更迭されたの。
で、舞台監督わぁ、万寿台芸術団の人が兼任してるから、もう少したったら来るよ。」
「演出家も拉致してくるのかと思ってたよ。」
「しっ!市井ちゃん、それはまずい!」
後藤の顔つきが変わった。
さすがに、市街地でこれはまずかったか...
周囲を見渡して、人気の無いことを確認してから、ようやく口を開いた。
「今日は大丈夫そうだけど、この辺はよく保衛部の監視員が歩いてんだ。気をつけないと。」
「秘密警察みたいなもんか?」
「うん。そんなとこ。地元の人はすぐわかるらしいんだけど、私、まだ見分けられないんだよね。」
油断は禁物ということか。
すっかり忘れていたが、やはりここは人権を抑圧することにかけては世界に類を見ない
強権国家なのだった。
「でね、さっきの続きだけど。」
後藤は何事もなかったように続ける。
「南鮮から連れてきたかったんだけどね、一応、金大中が太陽政策なんていって
頑張ってくれてるからぁ、あんまり刺激できないでしょ。」
「太陽政策の効果については、すでに国民の間でも疑問視されてるけどな。」
- 153 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月08日(火)18時31分54秒
- 少なくとも、私が韓国にいる間はそうだった。
太陽政策に批判的なマスコミへは税務査察で押さえ込もうとしていたが、
一旦、不信の流れが湧き出してしまったら最後、到底留まるものではない。
「苦労してるよね、DJは。」
韓国で一般化している大統領の略称、DJ。
Kim Dae Jungの名前の部分のイニシャルを表し、新聞などではよくそう表記される。
それが軽く口をついて出てくるとは後藤もなかなかの政治通だ。
「だから、今は保留中。一応、経験者、私だけだからまとめてるけどさ。
本気で市井ちゃんにやってほしいと思ってるんだ。」
「それは無理だよ...舞台の経験もないし...」
「まぁ、なんとかなるよ。明日も頑張ろう、ね。」
後藤は屈託のない表情で明るく言い放つと、車が待っている金日成広場に向かって歩を早める。
既に日が落ちた川岸に人影はまばらで、電灯のほとんどない遊歩道を闇が包み始めていた。
私の足取りは重く、前を行く後藤の後姿がやけにぼんやりとかすんで見える。
それが消え入るように遠くなったような心細さを感じて、急ぎ足でその背中を追いかけた。
- 154 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月09日(水)18時19分57秒
- 最初の数日は相変わらず指定の場所におとなしく座って、ときたま遠慮勝ちに
動きのぎこちない団員を見つけてはアドバイスする程度にとどめていた。
しかし、生来、動いていないと落ち着かない性質だ。さすがに我慢できなくなって、
とうとう自分も団員に合わせて踊ってみた。
既に振り付けは覚えているから、後は周りに合わせるだけ。
これが意外にもぴたりとはまって、舞踊班の団員たちも驚いたらしい。
今まで、胡散臭いと言わんばかりの態度で接していた彼らの表情が幾分、緩んだように感じられた。
- 155 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月09日(水)18時20分34秒
- 後藤といえば喜色満面とはまさにこういう顔かというくらい、はちきれんばかりの笑顔で
近づいてくる。
「随分、長いこと我慢できたね。もっと早く動き出すかと思ってたよ。」
見透かされている。
それにしても、にやにやしながらしゃべる顔が小面憎い。
「ふん。キムチ食って忍耐強くなったんだよ。」
「市井ちゃんも頑張ってたんだね。すごい切れがある。」
一応、遊んでたわけじゃないのは解ってもらえたか。
それが嬉しいのか、相変わらずにやけた後藤の顔がなんだか面はゆい。
私は、団員に向かって大声で叫んだ。
「ヨンソギ、カヨォッ!(続き、行くぞ!)」
- 156 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月10日(木)18時42分59秒
- 日本海洋上。
ユウキは船上にいた。大陸と日本に挟まれたこの地域特有のどんよりとした灰色の空の下、
暗くどろどろとした粘着性さえ感じさせる水面はいつ見ても彼の心を憂鬱にさせる。
新潟県民の自殺率が高いという事実を想起しては、なるほどと思わざるを得ない。
それほど、この天気は彼の心境を重苦しいものにしていた。
予定よりも一ヶ月早い出航。
ソニンが示唆したように、党中央の態度は大きく硬化しているようであった。
未確認な情報ながら金正日が怒り狂った余り、既に一万人は潜伏しているという対日工作員に
小規模な扇動工作を指示しているとの噂も出ている。
今や市井の引渡し交渉が難航するであろうことは目に見えていた。
一応、ソニンの情報では内陸を横切って中国経由で脱出するルートも確保されているらしい。
どういう形でコンタクトできるのか、はっきりとは告げられていないが、そたのめのサポートも
あるらしい。
- 157 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月10日(木)18時45分25秒
- 援軍があるとは言え、陸路はほぼ確実に徒歩での行軍が予想されるだけに、
それなりの装備が必要だ。
乾パンなどの固形食物は用意したが、問題は水だった。
都市部でさえ、水道の断水は日常茶飯事と聞いている。
数週間、あるいは市井を帯同しての逃避行は数ヶ月を要するかもしれない。
水の確保はまさしく、彼らの生命を左右する最優先事項であった。
昼間は身を潜めて夜陰に紛れて動くしかない。
うまく水を調達できる保証はなかった。
できれば、なんとか次の帰国便で帰りたい。
(なんとか間に合ってくれればいいが...)
ユウキの祈りにも似た切実な願いも虚しく、今まさに市井と、そして彼女を取り巻く
すべての流れが大きく動き出そうとしている。
彼にはなぜか、そのように感じられた。
波間に浮かぶ木片に止まる海鳥が一羽、飛び立とうとしたその瞬間。
突然、海面が大きくうねり、屹立する高波の底に脆くも木片は叩きつけられた。
次に木片が浮かんできたとき、そばの波間には海鳥が力なく浮かんでいた。
それはまるで嵐の中、舞い上がる木の葉のような儚さで運命に翻弄される市井の姿であった。
- 158 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月11日(金)18時32分45秒
「脱退っ!?」
保田は耳を疑った。
そんな話は聞いていない。少なくとも本人からは。
「まだメンバーにも言うなよ。お前とリーダーだけだ、知ってんのは。」
「いつですか?卒業は?」
「2月17日の横浜だ。」
マネージャーはいらついた様子で話を打ち切ると、足早に立ち去っていった。
取り残された保田は呆然と立ち尽くす。
正直なところまったく予想もしてなかったというわけではなかった。
そうなる予感はあった。
それでも、辞める前に相談くらいはしてくれると思っていた。
それなのに...
驚きのショックから開放されると、今度は寂しさがこみ上げてくる。
後藤に続いてまた一人、旧知の仲間が娘。を離れていく。
続くときには続くものだ。
考えてみれば、石黒と市井の脱退もさして間を置かずに発表されたのだった。
それに比べれば、立て続けに...という感覚はないのかもしれない。
しかし...
やっぱり寂しかった。
なぜ真っ先に自分に言ってくれなかったのか...
保田は矢口の胸中を慮りかねた。
- 159 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月11日(金)18時34分05秒
- 「後藤が辞めた頃から瀬戸さんには言われてたんだ。」
事務所で脱退を告げられたその足で、保田は矢口の家を訪ねていた。
どうしても本人の口から真意を聞きたかったのだ。
「口癖の『早く一本立ちしろ!』ってやつ?」
「うん。人数増えたし、上が抜けないと新メンのキャラがなかなか認知されないしって...」
保田も判ってはいた。
それは矢口だけに向けられたメッセージではなかったからだ。
寧ろ、自分に対する無言のプレッシャーだとさえ感じていた。
ただ自分の場合、矢口のように一人で仕事をこなせるケースは限られており、
まだ時期早尚だと思っていただけだ。
「裕ちゃんの税金対策ですっかり味しめちゃってさ。あたしもピンの仕事多いし。」
「案外、さばさばしてんのね。」
「んん、引退するわけじゃないしね。それに結構、解放感あったりして、へへ。」
強がっているのが解るだけに、保田もそれ以上強くは言えない。
- 160 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月11日(金)18時34分49秒
- 「そうだよな...もう辻加護のおもりもやってらんないしね...」
「あいつらの顔、毎日、見なくていいかと思うと、せいせいするよ...」
とても、せいせいしたという顔つきではないだけに、続ける言葉が見つからなかった。
「...」
沈黙に耐えられずに矢口が叫んだ。
「どうして辞めるなって言ってくれないんだよぉ!ばかぁ!」
「どうして相談してくれなかったのよぉ!」
「だって決心が鈍るじゃんかよぉ!!圭ちゃんのばかぁ!」
「矢口のばかぁ!」
泣きながら罵り合い、そして抱きしめ合うことでしか、絆を確かめる術は見つかりそうに無かった。
そして、それが許される時間さえ、あとわずかしか残されていない。
その事実を眼前から消し去るためにであろうか。
とめどなく溢れる涙をぬぐおうともしない二人であった。
- 161 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月15日(火)00時14分24秒
車のエンジンらしき音で目が覚めた。
それにしても頭がガンガンする。
(今、何時だ...)
傍らの時計を覗くと、4時を少し回っている。
一体全体、なんだってこんなに頭が痛いのか思いだそうとするが、脳がスキズキと脈打って
まるで心臓が頭部に移動したかのような状態では、とても冷静に記憶を辿ることはできそうになかった。
『龍城ビールってさぁ、結構、いけてるとおもうんだけどぉ。』
『なんだよ?』
『こっちの人、あんまり飲みたがらないんだよね。』
『そりゃまた?』
脈絡も無く、後藤との会話が浮かんでは消える。
『日本のビールなんかだとぉ、ゴミとか雑菌の濾過にマイクロフィルタ使うんだけどさ、
こっちはそんなお金ないから、硫酸で処理してるって聞いたことあるんだ。』
『おい...もう、5本も飲んじまったぞ...』
『市井ちゃんが大丈夫なんだから、大丈夫だよ。きっと。』
『おい...』
- 162 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月15日(火)00時16分35秒
- そうか...夕食時、後藤に進められるまま、結局、硫酸入りの龍城ビール5本飲んで、
すっかり酔いつぶれたのだった。散々、脅かされた割には、二日酔いで済んだようだ。
幸運といってよいのだろう。龍城ビールの開発者には回し蹴りで感謝の念を表したくなるくらい
爽快な寝覚めだった。
裕ちゃんって、こんなの毎晩のようにやってたんだ...
タフな人だ。
改めて、別の面でも尊敬した。
圭ちゃんもその域に近付いてるのかな...
髪の毛を振り乱して、目の下に隈をつくる様が容易に想像できるだけに、
これはおもしろくなかった。
ふと気付くと、後藤がいない。
トイレだろうか...と訝しむ間もなく、本人が戻ってきた。
なんだか、二日酔いでみっともない姿を晒したくなくて、寝てる振りをした。
後藤はしばらく私の様子を窺った後で、音も無くベッドに滑り込んだ。
- 163 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月15日(火)00時18分17秒
- すぐに寝付くだろうとは思ったが、なかなか寝入る様子はない。
私に背を向けているので確認はできないが、泣いているように聞こえる。
「さめざめと」とか「しくしくと」という感じではなく、なんというのだろう。
鳴咽というのがこんな感じだろうか。しゃっくりを無理矢理飲み込んで押えているような。
そんな感じの泣き声に聞こえた。
(何か、声をかけた方がいいだろうか...)
ズキっと脳が脈打った。
止めておいた方がいいのか...
――ズキっ...
今のはどっちだろう...頭の痛みかそれとも...
どちらにしても、私に後藤を慰める言葉などあろうはずもなかった。
それがわかってるから...
――ズキっ...
今度ははっきりとどこが痛むのかわかった。
- 164 名前:名無し読者 投稿日:2002年01月15日(火)02時17分43秒
- いつも読んでおります。
で、どこが痛むんでしょ。気になります。
- 165 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月15日(火)18時07分37秒
- 幸い、翌朝目覚めたときには、昨夜感じた差すような胃の痛みは消えていた。
あるいは5本の硫酸入り龍城ビールによるものかという考えが頭をよぎったものの、
後藤の聞いたという話は噂の域を出ない。もとより信憑性を問うことさえ愚かしく感じた。
それよりは、やはり後藤に対する負い目がかなり精神的な負担になっていると考える方が、
しっくりきた。
よくサラリーマンがストレスで胃炎になると言うが、まさか私もこの若さで神経性の胃痛に
悩まされるとは思わなかった。
不安になって後藤に確認したところ、この国でまとに治療を受けられる可能性はやはり、
限りなく低いと言うことだ。
あと数週間で日本に帰れるのだから、せいぜいそれまでは体をいたわらなければいけないと
諭された。
昨夜のことがあっただけに複雑な気分だった。
人のことを親身に心配している場合ではないだろうに、屈託のない笑顔で不安を和らげようとする、
この子の強さ、優しさは何に根ざしているものなのだろう。
- 166 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月15日(火)18時09分14秒
- 私は改めて、この後藤真希という少女に大いなる興味を抱いた。
この子のことをもっと知りたいという痛切な想いが込み上げてくる。
今や、もう私が後藤に対して感じている負い目などはもう問題でなかった。
問題は後藤の優しさに対して私がいかに報いられるかだ。
そのためにも、後藤のことをもっと知りたい。後藤の抱える問題を知りたい。
例え、それが私ひとりで抱えるには荷が重いものであっても。
当の後藤はと言えば、朝食のおかゆをすすりながら不思議そうに私を眺めている。
知らぬ間に後藤をじっと見つめていたのだろう。
ニタっと笑いながら、こう言い放つ。
「市井ちゃん、おいらに惚れるなよ。」
私は絶句し、多分、これ以上はないというくらい赤面しているはずだ。
後藤のにやけた表情がさらに水平方向に展開して、チェシャ猫のような顔つきになった。
「お、大人をからかうんじゃねぇよ!」
明らかに狼狽している私の姿をひとしきり楽しんだ(のだろう)後で、表情を緩めると、
小さな声でつぶやく。
「ちょっとくらいなら...いいと思ったんだけどね。」
私は上気した顔のほてりを隠せないことに苛立ちながら、黙っておかゆをすすり続けた。
- 167 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月15日(火)18時14分18秒
- >>164名無し読者さん
レスありがとうございます。
間違えて上げちゃったんですけど、やっぱりレス頂けると嬉しいし、やる気が出ます。
- 168 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月16日(水)17時55分57秒
「市井ちゃん...今日の練習の後ね...ちょっと出かけなきゃなんない。」
午前中の練習を終えて昼食を取りながら、後藤が申し訳なさそうに言う。
初日に来て以来、めっきりと顔を出さなくなった党の指導員だという男が久しぶりに来ていた。
先ほどまで、後藤と何事か話している風だったので、その件だとピンときた。
「党の関係か?」
「うん...私は嫌だって言ったんだけど...」
沈んでいる様子からは本当に気が進まないことが窺えた。
「私はどうしたらいい?」
「それがね...」
後藤は言い難そうに視線を落とし、言おうか言うまいか逡巡している。
あまりに言い辛そうなので、こちらから助け舟を出す。
「私も連れて来いってか?」
ピクっと反射的に顔を上げるが、再び視線を落とすと申し訳なさそうに言う。
「悪いんだけど...」
「別にいいよ...で、どこに行くんだ?」
今度は比較的はやく反応した。
「うん...総書記のパーティなんだけど...」
この国の指導者ということか...
それはまぁ、緊張しても仕方が無い。私も好奇心が疼く反面、やはり多少の恐怖心も
覚えざるを得ない。
- 169 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月17日(木)20時11分36秒
- 「指導者同志ってことは官邸でやるのか?」
「うん、最近使ってなかったけど15号官邸でやるんだって。」
私があまり気にしていないことを確認してか、一瞬、後藤の顔に安堵感が広がったが、
官邸のことに話が及ぶと再び表情を曇らせた。
(喜び組か...)
中国からこちらに移送される車中であいつに言われた言葉を思い出していた。
『キップムジョは指導者同志の夜伽をするためのものではない。
もともとは万寿台芸術団から選りすぐった精鋭の舞踊チームだったのだ。』
「夜伽」という言葉が引っかかった。
結局、私と後藤はピパダ歌劇団の所属となったわけだから、「万寿台芸術団の精鋭」
だが、呼ばれたからには只では済まないような予感がするのも確かだ。
加えて後藤の不安げな表情...
――何かある...
私は前から疑問に思っていたことを後藤に質した。
「ところでさ、私をこっちに招待してくれたのって指導者同志じゃなくて、
金正南同志だって聞いたんだけど...」
個人的に含むところがあるのだろうか。
その話はしたくないとばかりに、投げ捨てるように一言。
「まぁ、行けばわかるよ。」
- 170 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月18日(金)17時22分44秒
- ――
「ちょっとこの衣装、なんとかなんないのかよぉ...」
「んん...趣味だから...我慢して。」
15号官邸に着くと、まったくの普段着だった私たちはパーティに出て失礼のないように
ということで着替えさせられた。
着替えることに異論はないが、着せられた衣装が問題だった。
膝上10cmくらいの超ミニで体にピタっと張り付きそうなワンピース。
子どもの頃TVで見た、ボディコンというやつではないだろうか...
ご丁寧に扇子まである。
北朝鮮でジュリアナまがいのファッションが流行中とは知らなかった。
体の線が映るということで、下着まで着替えさせられた。
いわゆるTバックというやつだが、生まれてこの方こんなものは穿いたことがない。
それに...
「これ、なんか透けてないか...?」
「んん...まぁ、趣味だから...」
後藤は取り合ってもくれない。
初めてでないことは、言葉の端々から察してはいたが、このような衣装に
抵抗のないところを見るとかなり慣れている感じだ。
- 171 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月20日(日)15時14分06秒
- >>169訂正
×、「万寿台芸術団の精鋭」だが、
↓
○、「万寿台芸術団の精鋭」ではないが、
- 172 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月21日(月)18時02分54秒
- (こんなでかいホールがあったのか...)
私は阿呆のように口をあんぐりと開けて、ただただ驚いていた。
そもそもこの官邸に到着した時点で2000坪はあるという敷地の広さと建物の大きさには
度肝を抜かれたのだが、こうやって体育館のような部屋というか宴会場(?)を見るに
連れ、改めてこの国の指導者への権力集中がいかに凄まじいかを実感する。
「これ、何に使ってたんだ?」
「昔は大宴会とかやってたみたいだけど、今は全然。この官邸使うの自体久しぶりみたいだし。」
まるで新宿の高層ビル群を眺めては歓声を上げるおのぼりさんよろしく、私はここで見る
すべての事象にいちいち驚き、後藤に言わずもがなのくだらない質問を繰り返していた。
後藤の方もいい加減、煩わしくなったのだろう。それでなくとも面倒なことは苦手と
言い切るやつだ。
適当に相槌を打ちつつ、スタスタと大宴会場を横切り、今日の宴会が行われるという
小部屋に早足で向かった。
タイトミニのワンピースというのは初めて着用したが、後藤のように大股で歩くと、
中身が見えそうでこちらの方がハラハラした。
- 173 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月22日(火)18時55分07秒
- 小さい方の宴会場...とは言っても100人は優に入れそうな結婚式場を想像したら
よいだろうか。
高い天井に豪奢なシャンデリアの吊るされた部屋にはすでにかなりの人数が集まっていた。
ピパダ歌劇団からは私と後藤の二人だが、牡丹峰サーカス団、旺載山軽音楽団、万寿台
芸術団などからも何人ずつか、やはり呼び出されているようだった。
待機しているとそのうち、金正日を始めとして党や軍の幹部達がぞろぞろと集まってきた。
後藤がいちいち、誰が誰だか小声で教えてくれる。
(あれが親愛なる指導者同志...もちろん知ってるよね...あの背の高い人が
人民最高会議常任委員長の金永南同志...それから、あのちょっと苦味走ったいい男が
張成沢党組織部第一副部長...)
(あれがいい男なのかよ...?)
(しぃっ...日本語わかるよ...みんな...気ぃつけてね...)
- 174 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月22日(火)18時57分07秒
- 知らない間にパーティは始まっていたようで、指導者同志はなんだかご機嫌で杯を
重ねている。
旺載山軽音楽組が比較的アップテンポで軽いBGMを演奏すると場が一層和んだ。
万寿台芸術団の団員だろう、一番、色白で綺麗な女の子たちが幹部連中にお酌を始めた。
万寿台芸術団といえば、北朝鮮の女の子はみんな憧れるそうだ。
化粧もできるし、うまくすれば党の幹部に見初められることもある。
10年前くらいまでは、党幹部の愛妾養成所のようで市民の評判は必ずしも芳しくなかった
ようだが、ここ数年の経済停滞により一般市民の生活も苦しくなると、華美な生活を
送れる芸術団は若い女の子の間で再び人気なのだそうだ。
私たちはただ見てればいいのかな...と思った途端に後藤が呼ばれた。
続けて私も...大丈夫かな...?
私の不安を察知したのか、後藤が『大丈夫だよ』とうかのように目配せした。
- 175 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月23日(水)15時28分12秒
- >174訂正
×:『大丈夫だよ』とうかのように目配せした。
↓
○:『大丈夫だよ』とでも言うかのように目配せした。
- 176 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月23日(水)17時06分02秒
- 後藤は金正日の、私は金永南の、それぞれ隣に座らされる。既にかなり酒の入っている
金正日はご機嫌で後藤に話し掛けているが、私には何を言っているのか聞こえない。
私の方も隣の金永南が興味津々といった様子でやたらと話し掛けてくるため、
向こうの様子ばかり眺めているわけにはいかなかった。
「イルボン(日本)かね?」
「はい、イルボンです。」
「ここにも多くのイルボンサラム(日本人)がいるが、あなたのように若い人は
赤軍派の娘さんたち以来だ。」
日本人はもっと冷遇されているのかと思ったが、そうでもないらしい。
何せ、毎日日本軍人が北朝鮮の英雄に殺されるミュージカルを演じているのだ、
多少の誤解は仕方があるまい。
金永南は思っていたよりもずっと紳士的だし、気さくだった。
なんだか優しいおじさん...とか勘違いしてしまうと危ないのだろうな。
- 177 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月23日(水)17時23分15秒
- 「何でも君達はピパダ(血の海)を新しい感覚で再構成しているらしいじゃないか。」
「はい、ミュージカルといってロックやポップスの要素を...申し訳ありません...
南の退廃的な音楽でしたね...」
「構わんよ、ここにいる皆が南の音楽は大好きなんだから。」
ハッハッハと豪放に笑う金永南は鷹揚な態度で、グラスを差し出した。
私は慌てて、シャンパンをグラスに注ぐ。
さすがに最近は金正日の代理として各国を渡り歩いているだけのことはある。
その仕草には、ある種の洗練された物腰が感じられた。
「私もピパダはもう長いこと見ていないが、あなたのような若くて魅力的な女性が
演じるのなら、なんとしても一度、見に行かなくてはならないな。」
「光栄です。委員長同志...」
私はしおらしく応えたが、まんざら悪い気もしなかった。
- 178 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月23日(水)17時42分15秒
- 「さぁ!サーカス団の乙女が舞うぞ!」
酔った幹部の一人が、大声を張り上げると、私たち以上に露出度の高いピタっとした
衣装に身を包んだ女性が3人、前のステージ状に高くなった壇の上に駆け上った。
サーカス団というのは、牡丹峰サーカス団のことだろう。
後藤の方を見ると金正日の隣で無表情に、ステージ上の女性達を見つめている。
旺載山軽音楽組が軽快なポップス風の音楽を演奏するのに合わせて、サーカス団の
アクロバティックな踊りとも軽業ともつかない演技が始まった。
ただでさえ短いスカートなのに脚を思い切り開いたり、上げたりするので、
下着は丸見えだった。
誰の趣味なのか、真っ赤な下着が見えたり隠れたりする様はとてもエロチックに見える。
私は自分がこのようなことを人前でやらされなかったことに、ほっと胸を撫で下ろした。
後藤の方を見ると、相変わらず無表情で感情の動きは一切、読み取れなかった。
- 179 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月24日(木)19時13分47秒
- 牡丹峰サーカス団のパフォーマンスは大喝采を受け、幹部達も刺激的な演技に
すっかりご満悦の様子だった。
「素晴らしいぞ!褒章として金永南委員長の外遊に随行することを認めよう!」
金正日はすっかり酔いが回ったせいか、ご機嫌で褒美を与えている。
キャッと言う歓声を上げるサーカス団の娘達を見ると、いかにも満足げに隣の後藤に
話し掛けた。
その腕はしっかりと腰のあたりに回されている。
お前も歌えとでも言われたのだろうか。
金正日と二言三言、口を交わしたかと思うと、なにやら頷いてこちらにやって来る。
既に宴会の始まる前、何か余興を求められたとくのために唄う歌を二人で決めていた。
それをやれということだろうか。
「市井同志、歌いましょう。指導者同志のご指名です。」
言葉遣いまで丁寧になって...
後藤が私に敬語を使うことなどまずなかったから、すごく可笑しい。
私は笑いを堪えながら、隣の金永南に軽く会釈すると腰を上げた。
- 180 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月28日(月)18時37分14秒
- 後藤と打ち合わせて決めていた歌はペク・チヨンのソンテク(選択)。
ラテン系の曲に乗せて、セクシーな衣装で踊るパフォーマンスが話題になった
韓国の歌だ。
どういうわけか後藤もこの曲を知っていて、すんなりと決まったわけだが、
仮にも北朝鮮の官邸に「ソンテク」のカラオケがあるのは驚きだった。
- 181 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月28日(月)18時37分54秒
- 私が韓国に渡ったばかりで、言葉も音楽の傾向もよくわからず、闇雲に買い漁った
CDの一枚にその曲は収められていた。
ラテンな雰囲気が気に入って、一人でカラオケに行っては画面に流れるPVで
踊りを真似したものだ。それがこんなところで役立つとは思わなかったが。
右も左もわからぬまま勢いで日本を飛び出してはしまったが、
自分が果たしてこの先、初めての外国で歌手としてやっていけるのか、
不安に押し潰されそうになっていた頃の想いがこの曲とともに甦って来る。
結果として、韓国でステージやTVカメラの前で歌うことはできなかったが、
こうして北側で歌うことになった奇妙な巡り合わせについては、不思議という他ない。
- 182 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月28日(月)18時38分25秒
- イントロが始まった。
後藤の体がバネのように跳ね、上体を激しいリズムに合わせて動かすと
大きく隆起した胸の先を揺らす。
今の韓国ではちっょと古くなってしまったが、盛んに腰をくねくねと怪しく
前後に動かす振りはしかし、北朝鮮高官の老人達には十分に刺激的であるようだった。
金正日を始めとする幹部達が食い入るように見つめている。
刺激...という点で、私たちの前に演技した牡丹峰サーカス団の方が露出度の高い
衣装ではあった。が、この痛いくらいに胸元や脚の付け根に突き刺さる視線はどうだ。
透過性の材質からなる丈の短いスカートからスラっと伸びた長い脚。
はちきれんばかりに張る大腿部は淫らな想像を喚起させるに十分な成熟を感じさせる。
女の私でさえ、そうなのだから、目の前の老人達には堪らないだろう。
それこそ、むしゃぶりつかんばかり勢いで、身を乗り出して後藤の肢体に見入っている。
眼で犯す...という表現があるとすれば、まさにこのような状態を指すのだろうと、
激しく体を動かしながら、思った。
- 183 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月29日(火)19時40分53秒
- パフォーマンスを終えると、野獣の咆哮を彷彿とさせる怒号の中、老人達が
総立ちで喝采し、私たちを迎えた。
正確には、私たちというよりは後藤を向かえたと言った方が正しい。
幹部のうち威勢の良さそうな何人かが、恐らくは心のうちで舌なめずりをしながら、
後藤の方に近寄ってくる。
それだけ、後藤の演技、躯(からだ)、表情...すべてが彼らを魅了してしまった
ということなのだろう。
ただし、当の本人は最高指導者、金正日の横に傅(かしず)いているため、
そば近くまで来る勇気のあるものは、幹部の中でもさらに高位の者に限られた。
賛辞を述べる幹部連中に金正日が自慢げに後藤の肩を抱くと、頬を赤らめて
俯く様が可愛い。
最高指導者がすっかり首っ丈になった娘に敢えて手を出そうとする剛の者は
さすがにおらず、一人を残して恨めしそうな表情で自らの席へと戻っていった。
- 184 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月29日(火)19時41分14秒
- 残った一人...
その男には、事前に後藤から注意するよう言われていた。
血気盛んで、気力体力とも横溢したその人物の名は「延享黙。」
北朝鮮人民軍を統率する労働党の国防委員会委員。
金正日が委員長を努めるポジションだけに、表向きの序列はともかく、
実質、No.2の位置に居る男と見て良いかもしれない。
後藤が延享黙に注意しろと言ったのは、手癖の悪い幹部連中の中でも、
折り紙つきで評判の悪い男だからだ。
既に老境に差し掛かっているにも関わらず、老いて尚盛ん。
パーティなどで、気に入った女性を見つけては権力にものを言わせて強引に
幹部用に用意された部屋へ連れ込むらしい。
- 185 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月29日(火)19時41分59秒
- さすがに延享黙と言えども、最高指導者の横に侍る後藤には手出しできない様子だ。
なにやら金正日と二言三言話すと、なぜかこちらに視線を向ける。
私は危険を感じ、咄嗟に俯いて眼を逸らすが、少しタイミングが遅かったらしい。
眼球を動かす直前の一瞬、あの男の視線に絡め取られたような気がした。
それは寒気と吐き気を同時に催すほど、不快な体験だった。
彼らは何を話しているのだろうか...
気にはなるが、なんだか恐ろしいことが進行しつつあるような気がして、
顔を上げることはできなかった。
- 186 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月29日(火)21時05分28秒
- 「どうかしたかね? 元気がないようだが。」
隣の金永南委員長が声を掛けてくれた。
びくっとして振り返ると優しそうな眼差しで微笑みかけてくれる。
相変わらず怖くて延享黙がいる方向に顔を向けることはできなかったけれど、
幾分か不安な気持ちは和らいだ。
不思議なことに、私は金永南の隣に居るとひどく落ち着いた気分でいられることに
気づいた。
香港で拉致されて以来、途切れたことのない緊張感。
後藤と二人で住まうことに安心しつつも、心の奥底ではやはり不安で不安で
仕方がなかった。
それがこの人の隣に居るとすぅっと解けて消え入るような...
何かすごく大きな懐に抱かれているような、そんな安心感を覚えることができた。
私は日本の芸能界に居たときも仕事の関係から、年輩の人と接する機会が少なくは
なかったが、こんなにも優しく包み込むような男性にめぐり逢うことはなかった。
正直に言って、私は金永南にかなり惹かれていた。
- 187 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月30日(水)19時16分21秒
- それは恋心といった気持ちとはまた別の感情...
安心感という一言では説明しきれないけど、何かもっと複雑な想いの幾重にも
絡み合った重層的な心の襞(ひだ)を少しずつ解(ほぐ)してくれるような...
何か、そんな得たいの知れない心地よさだった。
私は想像していた。
父と言うものがあれば、こんな感じなのかと。
誤解しては困る。私は特に父が居なくて寂しいと感じたこともなければ、
母を捨てて家を出た男に会いたい等と考えたこともない。
少なくとも、父というものの欠如を自らを存在足らしめるための不可欠な要素と
見なしたことは一度としてない。
それは断言できる。
それに私の父であるには金永南はいささか年を知りすぎているようにも思う。
その一方で、私がずっと思い描いていた父親のイメージをこの男は満たしているようにも
感じている自分かいる。
- 188 名前:名無し娘。 投稿日:2002年01月30日(水)19時17分03秒
- 寄る辺のない、過酷な環境下において藁にもすがりつきたいような不安感が
束の間の安寧を得んがために脳内に作り出す幻影の為せる技なのか。
心理学の専門家ではない私には、分析のしようもないが、
確かに、この男の何事にも動じないという自信に満ちた堂々たる態度に、
決して倒れることのないどっしりとした大木のイメージを感じてしまったのは
紛れも無い事実だった。
別のテーブルで金正日に傅(かしず)く後藤にも同じことが言えるのかもしれない。
後藤は、特に嫌そうな様子もなく、最高指導者と接しているだけでなく、
その表情の端々には、好意と思えるものさえ浮かぶところを私は見逃さなかったのだ。
- 189 名前:名無し娘。 投稿日:2002年02月13日(水)18時20分50秒
- 調子に乗って杯を重ねたのがまずかった。
宴席でもあり、未成年だからと言い訳もできず、ついつい飲みすぎてしまったようだ。
酔っ払ってしまったわけではないけれど、先ほどからなんとなくは感じていた尿意が
徐々に我慢できなくなってきていた。
こんなときに席を外してよいものか尋ねるには、後藤は遠過ぎる。
いかにも恨めしそうな顔つきで後藤の方を見やったが、
相変わらず指導者指導者同志と歓談を続けており、こちらに気づく気配はない。
金永南なら怒りはしないだろうと思っては見たものの、そこはやはり幹部だ。
黙っていなくなってはまずかろう。
こんなとき、どうすれば...ああ、そうか。
もともと如才ないというよりはトラブルのもとになる方が多かった私だが、
生活環境の変化が思考に柔軟性を与えてくれたらしい。
意外にすんなりと言葉が出てきた。
「少し化粧が崩れましたので、直して参ります。」
「そうかね。まぁ、気分が良くなるまで少し休んで来なさい。」
私は人民最高会議常任委員長殿に敬礼すると、足元に気をつけながら席を立った。
- 190 名前:名無し娘。 投稿日:2002年02月14日(木)18時54分48秒
- 勢いよく席を立ったはいいが、洗面所の位置がわからない。
指導者同志の席まで行って後藤に聞くわけにもいかず、仕方なしに扉近くで
手持ち無沙汰にしている万寿台芸術団の踊り子に尋ねた。
教えられた通り、扉を出て右手に暫く行くとその突き当たりが洗面所になっていた。
小用を済ませて、戻ろうとすると来るときは気づかなかったが、廊下の両脇には部屋が
連なっているようだ。
パーティの途中で休む幹部のための部屋があると後藤に聞いた覚えがあるが、
まさにそれのことらしい。
いけない、いけない。
こんなところで、延享黙に見つかったら、それこそいい鴨だ。
そそくさと、その場を離れようと小走りにかけようとした瞬間、
右手の扉がギィっと嫌な音を立てて開いた。
ドキっとして心臓が止まりそうなほど驚いたが、見てはいけない、
見てしまったら終わりだ、という声がかろうじて自分を支えた。
前方を見据えたまま、立ち去ろうとした私の腕に粘つく掌の感触を覚えたときは
既に遅かった。
私は、声を出す間もなく、物凄い力で扉の向こうに引きずり込まれた。
- 191 名前:名無し娘。 投稿日:2002年02月15日(金)18時24分30秒
- やっとの思いで、んがっふがっ、という間抜けな声を出したとき、扉は既に閉じられていた。
煙草臭くて、なにかじとっとした湿り気を持つ掌が私の口を押さえている。
恐怖とそして、吐き気がするほどの嫌悪感を振り払うため、私は無我夢中で
手足をばたばたと振り回そうとした。
しかし、片手で押さえ込んでいるとは思えないほど強く抱きかかえられた腕は、
微動だにせず、振り回すべき脚はまた徒(いたずら)に空を切るばかりであった。
渾身の力を振り絞ってあがいてはみたものの、まるで歯が立たない現実に
ふぅっと気が抜けそうになった瞬間、体がふわりと宙に浮かぶ感覚を覚えた。
そして、次の瞬間、大きな何者かに抱きかかえられたままベッドの上に
投げ出されたことを理解した。
「だ、誰よ!?」
口を押さえていた手が外されたことで、ようやく息苦しさから逃れ、
声を出すことができたが、尋ねる必要はなかったのだ。
私の上で馬乗りになって、はぁはぁと息を荒くしているその男の顔こそ、
見紛うことはない。延享黙その人であった。
- 192 名前:名無し娘。 投稿日:2002年02月15日(金)18時25分05秒
- 以前の私なら間違いなく、パニックに陥ってひたすら大声で喚き、
暴れるだけだっただろう。
しかし、この数週間での生活で何かが変わっていた。
危機に対する耐性――そういうものがあればの話だが――が備わったのか。
恐怖感で震える一方、以外なほど冷静に状況を見詰めている自分がいた。
そして、その冷静な私がさかんにメッセージを送ってくる。
(静かに、取り乱さないで...興奮した男を落ち着かせるには従順に振る舞うことよ...)
そう、そうだ...根っからのレイプ魔なら、恐怖で泣き叫ぶ女の様、それ自体が
興奮を呼び起こすに違いない。落ち着くことだ。活路はそこから見出せるはず...
私は、数回、大きく息を吸い込むと、震えがちな声を押さえて、できるだけ冷静に
話し掛けた。
「延享黙同志、お会いできて光栄ですわ。」
「.....」
相変わらず無言ではあるが、勝手が違ったのだろう。明らかに呼吸の乱れは収まっている。
「お呼びいただければ、いつでも参りましたものを...」
戸惑いが狼狽に変わってきたことを私は見逃さなかった。
この手の男にとって従順すぎる女は興味を引かないのかもしれない。
- 193 名前:名無し娘。 投稿日:2002年02月19日(火)16時42分01秒
- 「お前はイルボンサラム(日本人)か?」
無理矢理嫌がる女性を力づくで犯す喜びをふいにされた延享黙は、
いかにも不機嫌そうに私に尋ねた。
いや、尋ねたというのは正しくない。その直後に彼が漏らした言葉からは、
私の回答など期待していなかったことがわかったからだ。
「まったく、指導者同志のイルボン趣味にも困ったものだ...」
イルボンサラムに執着する指導者同志への呪詛ともなんともつかない言葉は、
独り言でしか言えないだろう。
日本人だと思って油断したのか、私の上に馬乗りになったままの初老の男は、
この国では有り得ない言葉を吐いてしまっていた。
「まぁいい...指導者同志が楽しんでいるのなら、俺が楽しんで悪いわけはない。
おい、お前、あの指導者同志が側から離さない女が誰か知っているか?」
「ええ、もちろん。日本では有名な歌手でございます。」
「ふん。日本では有名かもしれんが、まさか共和国で指導者同志の愛妾になっているとは、
夢にも思うまい。」
私は自分の耳を疑った。あるいは、興奮し過ぎてこの男の頭は変になったのか...
- 194 名前:名無し娘。 投稿日:2002年02月19日(火)16時42分36秒
- 「愛妾...でございますか?」
「そうだ。お前も俺の妾になれ。悪いようにはせん。」
愛妾...言葉の定義が日本と共和国では違うのかもしれない...
そう思うこと自体がすでに現実逃避なのだと、頭の片隅でひどく冷静に考える自分がいた。
「後藤はただの踊り子でございます。そのような大それたものでは...」
「間違いない。俺を含めて数人しか知らないが、指導者同志はあの女に家を与えている。」
そんなはずはない...そんなはずは...
後藤はただ、私の身代わりを志願しただけなのだ。
私の代わりにピパダを主演する女優となっただけなのだ...
「後藤...いえ、あの女優は私と同居しております。指導者同志とお会いするような暇は...」
ございません...と続けようとして、二の句が告げられなかった。
後藤が遅く帰ってきたあの日...すすり泣いていたあの日...
私がビールで悪酔いしていたあの日...
記憶が私を苛む(さいなむ。)
記憶の中の後藤のすすり泣く音が、苦しみの感覚が頭の中でこだまして私を苛む。
酔っ払って頭が割れそうなほどの痛みを伴って、あの記憶が蘇える。
そして私を責めたてる。
- 195 名前:名無し読者 投稿日:2002年02月20日(水)02時25分50秒
- 後藤・・・(涙
- 196 名前:名無し娘。 投稿日:2002年02月21日(木)16時26分42秒
- 胸の上を弄(まさぐ)る手の動きと首筋に伝わる熱い息遣いで、我に返った。
私の決して豊かとは言えない乳房を鷲掴みにするかのように乱暴に揉みしだく
荒々しい手つきに、吐き気を催しそうなほどの嫌悪感が恐怖をともなって喉の奥から
せり上がってくるのを覚えた。
私はどこから沸いてくるのかと自分でも不思議になるくらいの力で、
延享黙の手を振り払い、四つん這いになったやつの体の下からすり抜けると、
思い切り、股間を蹴り上げた。
これは効いた。
んぐっというこもった声を発して、もんどりうったやつの後頭部を抱え込み、
すかさず膝で顔面を狙った。
ゴキっという鈍い音と膝頭に感じたぐしゃっとした感覚で鼻が潰れたことを悟る。
おそらく、相当なダメージを与えたはずだ。
とどめに靴の踵で口のあたりを思い切り踏みつける要領で蹴り降ろすと、
やつの姿を確認せずに、扉を開けると一目散にパーティ会場へと駈け出した。
鼻と歯をやられたのだ。これをやられて戦意を喪失しないやつはいない。
しばらくは、時間が稼げるだろう。
後は天に運を任せて、パーティが終わるまでやつが大人しくしていてくれることを
願うだけだ。
- 197 名前:名無し娘。 投稿日:2002年02月25日(月)00時44分53秒
- 面白い!ドキドキ
- 198 名前:名無し娘。 投稿日:2002年02月25日(月)18時25分33秒
- なるべく怪しまれないように息を整えながら会場への扉を静かに開く。
幸い、着衣の乱れはそれとわかるほどではない。
私は後藤に問い糾したい衝動に駆られ、今すぐにでも側へ行きたかったが、
金正日の側に侍る彼女の立場を慮ってじっとパーティが終わるまで耐えるしかなかった。
明らかに様子がおかしいことに気づいたのだろう、席に戻った私に金永南同志が優しく
声をかけてくれた。
「気分がよくないのかね。早く退出しても構わんよ。」
こんなときだけに、涙が出るほど嬉しかったが、後藤と金正日の関係を質すためには、
終わりまで居る必要がある。
「いえ、指導者同志や委員長同志を先置いて、滅相もないことでございます。」
だが、そんな私の想いを無為に帰す無粋な銃声がパーティ会場に響き渡り、
周囲は静まり返った。
恐る恐る入り口の方を見やると、阿修羅もかくあらんと思わせる憤怒の形相で
延享黙が私に銃口を向けている。
「危ない!」
金永南が私を押し倒すのと、鈍い破裂音が鼓膜を破れんばかりに震わせたのは
ほぼ同時だった。
- 199 名前:名無し娘。 投稿日:2002年03月01日(金)14時05分25秒
- 「この倭奴(ウェノム:注)がっ!!」
「延享黙同志!止めないか!」
「離せ!!そいつを殺らせろ!!俺をこんな目に合わせたイルボンの豚野郎を
生かして置くものか!!」
興奮して銃を振り回す男の危険性に気づいた側近達が延享黙を取り押さえるが、
余程腹に据えかねているのだろう。
尚もその手を振り払って、私に一矢報いなければ気が済まないという憎悪の念を
強く感じた。
「落ち着きなさい、延享黙同志。」
冷たく響く金正日の一声で、ようやく、静まったらしい。
その間、私は金永南に抱えられてうずくまり、
固唾を飲んで事の成り行きを見つめていた。
「銃を渡しなさい。」
さしもの延享黙も指導者同志の前では、借りてきた猫のように大人しくなった。
あの男でさえも...
それを考えると、いかに金正日の権力が凄まじいかわかる。
後藤はどうしただろう...
気になって向こうを見ると、指導者同志の横で怯えたように、顔色をうかがっている。
あまりの事態の急変ぶりに戸惑っている様子だ。
- 200 名前:名無し娘。 投稿日:2002年03月01日(金)14時07分12秒
- 「一体どういうことなのか?説明してください、延享黙同志。」
よく見ると鼻がいびつな形に曲がり、歯抜けになった賭けの顔は、
下手なすごろくのような様相を呈しており、
状況によっては、大いに笑いの対象なっても可笑しくはかった。
ただ、今はとても笑えるような状況にはない。
「そのウェノム、いやその女が私をこんな目に合わせたのです。
指導者同志、ぜひ私にその逆賊を処刑させてください。」
さすがに、後藤が日本人であることに配慮したのだろう、ウェノムをイルボンと言い換えた。
彼が私を指差したことで、全員の視線が私に集まる。
その視線は、果たして屈強の軍人である延享黙が如何にして
私のような少女にやられたのかという好奇心やイルボン憎しとの憎悪に満ちたもの、
様々であった。
私は、「処刑」という延享黙の言葉に怯え、今や最後の審判を下す権力者、金正日に
すがるような気持ちで、彼の言葉を待った。
- 201 名前:名無し娘。 投稿日:2002年03月01日(金)14時10分53秒
- (注)
倭奴(ウェノム):韓国/朝鮮人が日本人を指して蔑む言葉。蔑称。
「倭」には元々「背が低くて醜い」との意味があった。
>195と197の読者様
ありがとうございます。
レス遅れて申し訳ありません。
1レスだけ書いて返信するのも恥ずかしく。
- 202 名前:名無し娘。 投稿日:2002年03月13日(水)23時05分02秒
- 耳鳴りがしそうなほどの凄絶な沈黙の後、金正日がその重い口を開こうとしていた。
絶対の審判者。
全能の神。
まさしく、私の命運は、今この瞬間、眼前の小太りの男に握られていた。
見かけの醜悪さとはまったくかけ離れた次元で、
この男には近寄り難い雰囲気を感じさせる何かが備わっていた。
権力者特有の絶大な力を背景とする威圧感からなのか、
それとも独裁者になるべくして生まれつき備わっていた資質なのか。
その魁偉なる容貌の独裁者が今、厳かに口を開こうとしている。
奇妙な形にパーマをあてた頭髪の下、やや淡い色のサングラス越しに
鋭い視線が私に向けられた。
「延享黙が言った事は本当かね。」
「...」
不覚にも恐ろしさから体が竦(すく)んで、声が出なかった。
まるで先生にしかられる小学生のように。
「応えなさい、市井同志!」
危ないと思ったのかもしれない。
後藤が固まりきった私に救いの手を差し伸べてくれた。
だが、その声はなんと冷たく響くのだろう。
- 203 名前:名無し娘。 投稿日:2002年03月13日(水)23時06分00秒
- 「はい...仰るとおりです...」
その一言で一斉に場がどよめいた。
百戦百勝の鋼鉄の霊将、無敵の金正日人民軍総司令官の麾下百万の人民軍兵士。
その頂点に立つべき軍人のトップがひとりの小娘にいいようにあしらわれた上、
完膚なきまでに叩きのめされたのだ。
軍人の面子からしてもただで済まされる雰囲気ではない。
「私に、その逆賊を殺らせて下さい。偉大なる指導者同志。このような辱めを受けたまま
死ぬわけには参りません。こいつを殺して、私も死ぬ!」
「落ち着きなさい。延享黙同志。確かに軍人としては軽率でしたね。
あなたにはしばらく謹慎してもらいます。」
うなだれる延享黙。
そして、いよいよこの哀れなイルボンの少女に判決が下されようとしていた。
「この娘は、革命の思想が足りません。思想強化の必要があります。」
「指導者同志!私からよく言い聞かせますからそれだけはお許しください!」
オォッというどよめきをどう捉えていいのかわからずにオロオロする私。
そして、顔面蒼白になりながら、金正日に哀願する後藤。
どうやら、ただでは済まないらしい。
- 204 名前:名無し娘。 投稿日:2002年03月13日(水)23時06分46秒
- 「价川で革命思想を叩き直すがいい。」
「指導者トンジィっ!!」
しがみつく後藤を振り払って、偉大なる指導者が最終審判を下した。
「市井ちゃん...ごめん...ごめん...あたし...守れなかったよ、市井ちゃん...」
「後藤ぉっ!!」
「いぢいぢゃぁん...」
崩れ落ちる後藤を視界に収めるのと護衛兵が私を両脇から抱えたのはほぼ同時だった。
強い力で両腕を絡め取られ、宙吊りに近い形で連行される私の後方で後藤の泣き叫ぶ声
だけが響いていた。
思想強化...つまり、私の前には恐ろしい拷問か、洗脳の嵐が待ち受けているのだろう。
それを思うと、恐怖で目の前が真っ白になった。
何よりも後藤の悲痛な叫びがその想像の正しさを物語っているように思えて震えが止まらない。
北朝鮮という国家が、今、初めてその残忍な牙を剥き、私に飛びかかろうとしていた。
- 205 名前:名無し娘。 投稿日:2002年03月14日(木)17時10分19秒
- 15号官邸の奥まった一角にある小部屋に連れられた私は、
一晩をそこで過ごすことになるようだった。
いわゆる軟禁状態だが、一応、宴会の来客用の部屋なのか、
牢獄に繋がれるといった凄惨な状況ではなかった。
だが、しかし...
これから訪れるであろう、肉体的、精神的苦痛に果たして自分の脆弱な実体が
どれほど耐えうるかを考えると、甚だ心許なかった。
後藤...
気が付くとこの部屋には窓がなかった。
当然か。
宴会の度にこのような拘禁すべき酔漢が現れるせいかどうかはわからないが、
そうした目的に使用するためには、うってつけの部屋だった。
コンコン...とドアを叩く音が聞こえた。
後藤か!
と期待し、跳ぶように寝転んでいたベットの上から降りた私は、
急いでドアを開ける。
だがそこに立っていたのは後藤でなく、金永南だった。
今度こそ、犯されてしまうのだろうか。
さっきのようには油断していない相手には、もはや逃れようがない。
予想もしていなかった来訪者による極度の緊張でその場に固まった私を目で制すと
金永南は口に人差し指を立てて、静かに部屋へ入り、後ろ手にドアを閉めた。
- 206 名前:名無し娘。 投稿日:2002年03月14日(木)17時11分36秒
- 「静かに...心配無用だ。何もしない。」
「...」
そうは言われても、まだまともに男性に抱かれたことなどないのだ。
緊張、恐怖、そしてごくわずかな好奇心...
それらがないまぜになった心境で私は金永南を見つめていた。
「思想強化というのは...」
「はい。」
「実態は強制労働だ。」
「強制労働...ですか?」
私にはまだわからなかった。
働かされるのだろうか...
だが、それなら拷問を受けて洗脳されるよりはましかも...
「軽く考えてはいけないが、悲観しすぎるのもいけない。獄死するものはたいてい
希望を捨てたものだ。」
「獄死...ですか?」
その言葉から、生きて戻れる保証はほとんどないことが窺い知れた。
「日本や南鮮(韓国)では『強制収容所』と呼ぶらしい。」
「き、きょ!?」
強制収容所...まるでナチスのガス室を思わせる響きではないか。
まさしく、生きて帰れそうな希望のまったく感じられない言葉の響き。
「生きることだ。決して諦めてはいけない。」
「私に生きろ...と?」
不思議だった。
なぜこの男はそんなことを...?
- 207 名前:名無し娘。 投稿日:2002年03月14日(木)17時13分29秒
- 「いつまでもこのような世の中が続くわけではない。生きてさえいれば、
出られる日が訪れぬとも限らん。」
「私などにそのようなことを仰って大丈夫なのですか?」
「あなたが心配することではない。くれぐれも、私の言ったことを忘れないように。」
そういうと金永南は音を立てぬよう、しかし機敏にドアを開けると静かに部屋を出て行った。
残された私は、想像していたよりも事態は尚、深刻であるにも関わらず、
なぜか平静を取り戻している自分に気づいた。
励まして...くれたのだろうか?
わからない。
だが、希望を捨てないこと。
あの人がくれたその言葉に今はすがるしかなかった。
- 208 名前:名無し娘。 投稿日:2002年03月14日(木)17時15分08秒
- 後藤...
生きてまた逢えるだろうか。
生きる...
何が何でも生きなければならないだろう。
たとえ死ぬほど辛いことが待っていようとも。
これ以上、後藤を苦しませる訳にはいかない。
そう強がってみて初めて、気が緩んだのだろう。
わっと滝のように涙がこぼれ出た。
泣いた。
喚いた。
大声でドアを叩いた。
床にうずくまって頭を叩きつけた。
こぼれる涙も涸れ切って。
床を叩く手に痛みを感じなくなるまで。
嗚咽とも唸りともつかないしゃがれた声を喉から搾りだし続けて。
それでもドアの向こうの兵士が入って来る様子はなかった。。
- 209 名前:名無し娘。 投稿日:2002年03月19日(火)17時51分32秒
- 一足遅かった。
というよりも大変なことになった。
姉には会えない。もとより期待していなかったからそれはよい。
だが、价川の強制収容所に送られたという市井の身柄をどうやって確保できるのか。
常識的に考えてまず無理だろう。
だが、それでは市井の命はどうなる。
姉の身代わりとして拉致されて連れてこられた市井の命は。
ユウキは平壌の協力者を通じて日本のソニンと連絡を取った。
「どうする...」
「どうしようもないでしょう。帰っておいで。」
「市井さんはどうなるんだよ!?」
「落ち着きなさい。あんたがそこに居たって何もできないんだから...
わかるでしょ、それくらい?」
「中国越境ルートを走破できるくらいの装備は用意してきたよ。」
「冗談も休み休みにして。機関銃持った監視兵相手に丸腰でどうやって戦う気よ。」
語気を強めるソニンに対し、言い返せない自分が悔しい。
だが...それでいいのか?
- 210 名前:名無し娘。 投稿日:2002年03月19日(火)17時53分20秒
- 「ソニン...やっぱり、みすみす帰るわけにはいかないよ...
市井さんに何かあったら僕だけじゃなくて、姉さんも一生、後悔すると思う。」
「.....」
「前に韓国側の協力者がいるって言ってなかった?」
「.....」
「ソニン!」
「考えさせて...っていうか、相談させて...
まだ時期早尚のような気がするけど...」
「ソニン...」
「今夜10時、定時連絡で。」
「わかった。」
衛星電話の受話器を置くとユウキは、はぁっと大きく息を吐いた。
ポンポンと肩を叩く協力者に尋ねる。
「強制収容...思想強化所って言うのかな?
あそこから誰かを助け出すのって難しいですか?」
「そんなことを考える者も口に出す者もいないね。この国では。」
「なんでまた、市井さんはそんなところへ...?」
「詳しいことは判らないが、何でも幹部の一人に怪我を負わせたらしい。
普通ならその場で銃殺だ。運がいい方じゃないか?」
「市井さんはミュージカルを演じるために連れてこられたんでしょ?
官邸に行っていたこと自体おかしくないですか?」
- 211 名前:名無し娘。 投稿日:2002年03月19日(火)17時54分34秒
- 「この国では親愛なる指導者同志の自由にならない女性なんていやしないよ。
偉大なる首領様の奥様、金聖愛同志だって今や引退状態だ。さ、次の連絡までは時間が
あるんだろう。平壌にいる間に食えるだけ食っときな。」
「まだ、助けに向かうと決めたわけじゃないですよ...」
「ソニンのことだ。何とかするさ。さぁ、犬はどうだ、犬は?」
「犬ですか?」
「捕身湯(ポシンタン)といって精力がつく。おまけに美味い。
これから何があるかわからんのだ。食っておけ。」
「はぁ...」
どうしてソニンの周りにはこうも磊落な人が多いのだろう。
ユウキは暗くなりがちな自分をなんとか盛り立てようとしてくれるこの協力者に感謝した。
- 212 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月01日(月)18時12分29秒
- 捕身湯(ポシンタン)は悲しいほどに美味かった。
プルコギやチヂミ、パジョンなど朝鮮料理をたらふく食べて満足すると、
北朝鮮が飢餓のために日本を含む諸外国から援助を受けていることすら、
信じがたいことに思えてくる。
もっとも平壌を出たらこうはいかないということも十分に承知してはいる。
ただ、そのときになってみないと実際の食料事情はわからないだろう。
ユウキはこの協力者に謝辞を述べるとともに、なぜソニンに協力してくれるのか
聞いてたみたい衝動に駆られた。無論、ソニンからは余計なことを聞かないように
釘を指されていた。盗聴の危険が常につきまとうからだ。
ユウキは慎重に場所とタイミングを選んだ。帰路の途上、見通しのよい場所で人通りが
途切れたところを見計らい、協力者に尋ねた。
「聞いていいですか?」
「なんだい?」
「あなたは何でソニンに協力してるんですか?」
「―――ソニンから余計なことを聞かないように言われなかったのかい?」
一瞬、驚いたように目を瞬(しばた)かせたものの、気を悪くした風ではなかった。
- 213 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月01日(月)18時13分11秒
- 「教えてあげてもいいが...その前に、君はなんで北がこんな状態を続けていられるか
考えたことがあるかい?」
「えっ...」
予想外の質問にユウキは返答に窮した。
考えてみたことがないわけではない。
北朝鮮が米ブッシュ政権に「悪の枢軸」と名指しされるようなならず者国家に堕した原因は、
すべて金日成、正日父子という希代の独裁者に集約されることは自明の理と認識していただけだ。
その当たり前のことを今更質問されたことに戸惑っている。
おずおずとその旨を伝えてみる。
「指導者の資質の問題じゃないんですか...?」
「うん、一面の真理ではあるね。だが、それだけじゃない。」
「まだ、あるんですか?」
「あるね。」
- 214 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月01日(月)18時15分00秒
- 協力者は非常にクリティカルな話題であるはずの内容をいかにもさらっと流す。
だが、ユウキには金父子以上に根源的な問題がこの国に存在しているとは思えなかった。
「何ですか、一体?」
その声のトーンは微妙に興味を含んだものへと変わっていた。
「わからないかい?この国が本当に無法な国なら、誰もこのままで放置したりはしない。」
「はい。」
「つまりだ。誰もが現状維持を望んでいる、その現実がこの国を存続せしめている最大の理由さ。」
「な、なんですって!?」
意外な発言にユウキの常識は根底から覆されようとしていた。
だが、それは果たして論駁する余地もないほど精巧な論理に基づいているのか?
ユウキは久し振りに知的好奇心を擽(くすぐ)られる問題を提示され、
気持ちが昂ぶってきたのを感じた。
- 215 名前:名無しさん 投稿日:2002年04月04日(木)15時05分34秒
- 短編集の作品を読んで興味を持ち、今日一気に全て読ませていただきました。
面白いです。本当に。
作者様は何か海外に関する仕事をなさってるんですかね。
これからもがんばってください。
- 216 名前:215 投稿日:2002年04月04日(木)15時52分51秒
- 気がついたら下げ忘れ。
ホントごめんなさい。
- 217 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月05日(金)18時06分13秒
- 「まず日本だ。日本は韓国との間で1965年に基本条約を締結している。」
協力者は流れるように話し始めた。
本当のところ、こういう話がしたくてたまらなかったのかもしれない。
まぁ、そんなことはいい。
ユウキは頷いて先を促す。
「朝鮮戦争による戦火の傷跡が未だ癒えないこの時期、韓国はさっさと日本の支援を得て
復興に取り掛かる必要性に駆られ、賠償問題をこの条約で切り上げた。」
ユウキはよくわからないが、とりあえず頷いておく。
「ところがだ。北朝鮮としては、この条約を認めていない。金正日は国交正常化の後、
賠償問題を持ち出すことを公言してるよ。」
「それなら、尚更、日本は金正日が失権することを願ってるんじゃないですか?」
「いいところに気づいたね。」
協力者はそこで目を細めて、タバコに火をつけた。
ぷはぁっと吐いた煙が白い渦を描いて天井に吸い込まれていく。
その流れを目で追いながら、灰皿に灰を落として再び口を開いた。
- 218 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月05日(金)18時06分44秒
- 「金正日が政権を握っている限り、日本に賠償請求を求めることはありえない。」
「何故ですか?」
「関係を正常化させる気がないからだよ。」
確かに、北朝鮮の態度はまともな国家のそれではない。
だが、仮にも一国家の元首として、隣国との国交を正常化させる気がないなどという
ことがありえるだろうか?
ユウキには今ひとつ説得力がないように思えた。
「国交正常化した方が、ODAも受けられるし経済的に有利なんじゃないですか?」
「普通の国家ならね。」
普通の国家なら...
その通り。
ここは普通ではないところなのだ。
「妙に説得力がありますね。」
「そうだろう?とりあえず、日本の政治家は自分の為政時にそんな厄介な問題を引き受けたい
とは思ってないのさ。」
- 219 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月05日(金)18時09分07秒
- >215名無しさん
ありがとうございます。
以前、出張で韓国に行ってたことがありまして。
ちょこっと変な話ではありますが、大目に見ていただけると助かります。
- 220 名前:名無し読者 投稿日:2002年04月06日(土)18時08分13秒
- おかげさまで韓国、北朝鮮について無関心ではなくなった。
勉強になるよ。
- 221 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月08日(月)18時08分13秒
- 「外務省はどうなんですか?政治家と違って官僚はもうちょっと長い目で見ているんでしょう?」
「外務省は一貫して国交正常化に前向きさ。ただ、それを急ぐ余り国民の感情とは
隔絶した次元で活動しているのは確かだ。」
「どういうことです?」
「99年に当時の村山首相が北朝鮮に来て日朝国交正常化交渉再開を決めた後、自民党
外交部会で『拉致問題解決を棚上げして交渉再開を急ぐべきでない』との批判が出た。」
再びタバコを咥えると、今度は少し長く息を吐いた。
ユウキが持参した日本のタバコが余程美味いのだろうか、余韻を楽しむようにその煙を
名残惜しそうに眺めると、再び話しつづけた。
「その当時の外務省アジア局長の槙田邦彦が何て言ったか知ってるかい?」
ユウキは首を横に振るしかない。
「『たった10人のために日朝国交正常化が遅れるようなことがあってはならない。』
彼は、そう言ったんだよ。」
「.....」
「信じられるかい?国民を守るべき立場の外務官僚がだ、『たった10人のために…』
そう言い切ったんだ。」
「.....」
ユウキには応えるべき言葉がなかった。
- 222 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月08日(月)18時12分16秒
- 「まぁ、日本は官僚も政治家もそんな具合さ。連中に拉致問題の解決なんぞ望んだところで、
無駄...というわけさ。」
「それで、あなた方が動いていると...」
「ま、そんなところかね。」
協力者は悪びれる風でもなく、日本製のマイルドセヴンをもう一箱取り出すと、嬉しそうに
フィルムを破って、中身を一本取り出した。
マッチで火を着けると、燃えかすを灰皿に押し付ける。
再び白い煙を吐くと、ようやく人心地がついたとばかりに目を細めて、彼方を見やった。
「拉致された人たちはどうしてるんですか?」
ユウキの言葉に目で反応して、相手は白い煙とともにタバコを挟んだ指を口元から離した。
「大概生きてるよ。峰火政治大学なんかで特殊工作員の教育を担当している。」
「つまり、スパイの養成...ですか?」
「そうとも言うね。日本人になり切る方法を教えてるわけだ。」
「それだと、救出されてもおいそれとは帰れないですね。」
- 223 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月08日(月)18時13分03秒
- 「まさにそこを狙ってるんだな。北は。赤十字で行方不明者の捜索という形で拉致された
人たちの行方を調査するという形になっているが、今のところ、見つからないことに
なっている。」
「北としては、返す気がないと?」
「それもあるが本人が名乗り出ることを希望しないというのも大きい。」
「まぁ名乗り出難い気持ちはわかりますが...」
ユウキはなかなか複雑な問題に頭を抱えた。これでは姉の救出など尚更、覚束ないだろう。
少なくとも市井が強制収容所に収攬されている限り、自分から日本に戻ることはなさそうだ。
難しいことになった...改めて市井を救出するまではこの国から帰れない。
その思いに焦燥感を煽られるユウキだが、果たして自分にそのような大それたことが可能なのか。
自問するものの答えは出そうにない。
とにかく今はソニンと連絡を取り、状況を確認するしかないのだ。
- 224 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月08日(月)18時18分34秒
- >221
最近、故主席の生誕90年を前に北の動きが活発なので、着いていくのが大変です(w
変なところがあったら指摘してください。お願いします。
- 225 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月09日(火)16時32分04秒
- 「さて、そろそろ定時連絡の時間だ。」
時計の針が夜の10時ちょうどを指すと協力者の持つ衛星電話の呼び出し音が鳴り始めた。
待ちかねたようにユウキが受話器を受け取る。
「もしもし、どうなった?」
「焦らないで。ちゃんと順を追って話すから。」
落ち着き払ったソニンの声が余計に焦る気持ちを駆り立てる。
頭では判っているものの、なかなか落ち着けない。
それだけ事態は切迫しているのだ。
「で、結論は。」
「うん。かなり厳しいけど、救けに行ってもらうよ。」
来たか...
覚悟は決めていたものの、いざ現実に市井救出と決まってみると、恐ろしいような
それでも市井を助け出すのだという正義感にも似たような複雑な感情が沸き上がり、
身が引き締まるのを感じた。
「そう。で、どうすればいい。」
「あら、恐くて泣きを入れて来るかと思ったけど?」
「冗談はいいから先を進めてよ。衛星回線、高いんだから。」
「ふん、まぁせいぜい恐い目見なさい。」
実際、ユウキの不安そうな様子を期待していたソニンは不満そうに鼻を鳴らし、
不承不承といった感じで話を続けた。
- 226 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月09日(火)16時33分25秒
- 「こんなこともあろうかと思って、準戦闘装備を用意しといたから、
そっちで確認してくれる?」
「準戦闘装備ぃ!?」
一気に緊張感が高まった。
多少、危ないことはあっても、まさか戦闘にまで備えなければならないとは思っても
見なかったからだ。
「わかってないわね...遊びじゃないんだから...殺らなきゃ殺られるのよ。」
「ま、まさか人を殺さなきゃならないの?」
「ま、そうならないことを祈ってるけどね。」
「何だか、他人事みたいだな。」
「自分のことは自分で解決するしかないのよ。わかった?」
「装備は彼が持ってるの?」
「そうよ。」
そう言って協力者の方に視線を移すと、ユウキとソニンのやりとりを気にするでもなく、
のんびりとタバコの煙をふかし続けていた。
ユウキと視線が合うと、目を瞬(しばた)かせ、何か?と言うように首を傾げた。
なんでもないとばかりに首を横に振りつつ、ユウキは再びソニンに話し掛ける。
「じゃ、後は彼と相談すればいいんだ。」
「ええ。ちょっと彼に替わってくれる?」
- 227 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月09日(火)16時42分09秒
- 「なんだ、それなら最初から彼と話せばいいのに...」
「一応、心配してあげてんでしょ。早く替わって。」
冷たい口調とは裏腹にその言葉には暖かさが満ちていた。
ユウキは協力者に受話器を渡すと、先ほどまで彼が座っていたソファに身を沈めた。
灰皿には彼が吸ったタバコの吸殻が山のように積まれている。
日本製のタバコがよっぽど美味いのか、協力者はすでにユウキが渡した1カートンの
マイルドセヴンを半分は消費しようとしていた。
真剣そうに相槌を打ち、ときたま「价川」とか「新義州」とかいう地名が聞こえてくる。
恐らく救出に向かうための行動ルートを相談しているのだろう。
確かに、こちらの地理に疎い、というよりはまったくわからないユウキでは話にならない。
「おお、そうか、韓国からも応援があるのか!」
協力者の上げた大声にユウキは反応し、振り向いた。
「なんですか?」
思わず口から質問が飛び出たが、協力者は落ち着けと言わんばかりに、
手の掌をユウキに向けてソニンと話し続けた。
- 228 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月14日(日)23時24分52秒
- やがて相談を終えると手招きして再びユウキに受話器を渡した。
相変わらず感情を抑えテンポよく喋るソニンの乾いた声が今は小気味よく響く。
「明日の夜に出発で決まったわ。後は彼と相談して。成功を祈ってる。」
「大丈夫かな...心配だよ。」
「韓国側の応援が中国経由で侵入することになってるの。价川で合流する予定。」
「合流予定日時とかは?」
「詳細は連絡を取りながら行うわ。携帯用の衛星電話を持たせるから。」
「そんなのあったんだ...ソニン...」
ユウキは思わず言葉に詰まった。感極まって...というわけではないのだが、
命に関わるミッションだけに、柄にもなく感傷的になっているのかもしれなかった。
「なぁに...?」
「僕たち、また一緒に唄えるかな...?」
「決まってんでしょ.....」
死地に赴く戦士、というほどの悲壮な覚悟を決めているわけではない。
それでもしかし、自ら危険に飛び込んでいくユウキの行く末を想うと、ソニンでさえ、
いつものように冷静ではいられない自分を感じていた。
- 229 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月14日(日)23時25分39秒
- 「これ以上、あんたの母さんを悲しませたら、私が許さないよ。」
ユウキに...というよりは寧ろ自分を鼓舞するように力強く言い放つと、
未練を断ち切るように、いつもの冷静さを取り戻した。
「それじゃ、次の定時連絡は明日の夜10時で。」
「ああ。おやすみ。」
受話器を協力者に戻しながら、ユウキはソニンが自分を案じていることを確認し、
なんとなく心が軽くなったように感じていた。
「今日はもう遅い。細かい計画については明日、詰めよう。」
「あなたは?」
「うん、今夜のうちに路程図や装備やらをもう一度点検して整備しておくよ。」
「すみません...」
「気にするな、君が一番危険な役を買って出たんだ。俺達はサポートくらいしか
できんのだ。これくらい、どうってことないのさ。」
「じゃ、お先に失礼します...」
「おやすみ。しばらくまともなベッドでは寝られないんだ。よく寝ておきな。」
「ハイ。おやすみなさい。」
「おやすみ。」
- 230 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月14日(日)23時26分21秒
- 寝床に就いても、なかなか寝付かれそうになかった。
これではいけない、と半ば焦りながら目をきつく閉じると瞼の裏に浮かんで来るのは
不思議とソニンはおろか市井や姉の姿でさえなく、意外にも保田の面影だった。
(保田さん...)
ユウキは今ごろ保田はどうしているのだろうと思った。
プッチモニにおいて、市井と姉を繋ぐ鎹(かすがい)のような役割を果たしていた、
あの年長の女性が今、モーニング娘。というグループで果たしている役割はさらに重要さ
を増すことさえあれ、決して、どうでもいい存在と化したわけでは断じてない。
ある意味でモーニングの磁場とも言うべき存在である保田が市井のために奔走している。
それが許される存在とは思えないだけに、これ以上の深入りを避けるため、そのことの
持つ意味は重要だと思っていた。つまり、それだけ責任ある立場にいる以上、この問題に
関わることのできる時間は限られるだろうし、変に思い切った行動に出ることへの抑止力が
働くだろうと、そう計算していたのだった。
- 231 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月14日(日)23時27分18秒
- ところが、保田の行動は素早かった。
自分やソニンが絡んでいることを突き止めるあたりの腕前は、
まるで凄腕の探偵を彷彿とさせた。
そして、さらに自分たちの動きを探ろうという矢先、
ユウキは急遽、日本を飛び出してきたのだった。
(矢口さんも脱退だしな...保田さん、しばらく辞めるわけにはいかないだろう...)
そうであってくれればいいと思う反面、保田がそうした状態に甘んじていないであろう
という確信めいた思いとがユウキの胸の内で交錯する。
自分が保田に一体、何を期待しているのか...
これから、自分を待ち受ける過酷な運命に対する不安を和らげてくれるような...
そんな存在に擬しているのだろうか。
取り止めもない想像を巡らせているうちに、ユウキはいつしかまどろみ、
そして深い眠りに落ちていった。
- 232 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月17日(水)21時23分21秒
- 「价川までは単独だ。昼間は目立つから夜間中心の行軍になる。」
「人民服着たら、そんなに目立たないんじゃないですか?」
「君の肌の白さは致命的だよ。まずこの国の人間には見えない。茶髪だし。」
いよいよ出発当日、ユウキは協力者と市井救出作戦の最終確認を行っていた。
ユウキは价川まで単独で到達し、そこで韓国側の応援者と合流する。
応援者は中国遼東半島先端に近い都市、丹東から鴨緑江を挟んで対岸の北朝鮮側の都市、
新義州を経てやはり价川まで単独潜行。
収容所からの救出は、特殊訓練を積んでいるという韓国側の応援者の指示に従う。
救出後はやはり夜陰に乗じて价川から新義州、丹東と中国ルートを取り、
丹東からは新潟県の直江津港への航路を取る貨物船に乗る。
ざっとこれだけの内容を頭に入れて、詳細をさらにつめる。
「食料はこれだけですか?」
「コンバットレーションといって、実際に軍で使っているものだ。これは韓国軍のものだがね。」
「水はどうしますか?」
「うん。ミネラルウォーターを何本か積んでいくが、補充は難しい。川沿いに移動すれば
水は確保できるが、遠回りになる。なるべく飲み水は控えるんだ。」
- 233 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月17日(水)21時24分17秒
- 砂漠を横断するわけではないのだから、まったく水がないわけでもないだろう。
とりあえずミネラルウォーターは大事に使うつもりだった。
それよりユウキが気になっているのは、携行する小火器の扱いだ。
「これ...拳銃ですよね。」
「ああ、ベレッタM92FS。米陸軍が正式採用してる奴だよ。素人でも扱い易いし、
命中精度が高い。」
「いや、使う気はないんですけど...」
恐々(こわごわ)グリップを握ってみるとひんやりとした感触が掌を通して伝わってくる。
これで人を殺せるのかと思うと握っていることさえ怖い。
操作方法は...わからない。
「弾は、どうなってるんですか?」
「使う気はなかったんじゃないの?」
「いえ、そうなんですが、市井さんを守らなきゃいけないし...」
言い訳がましいのはやはり、武器を持つことなど考えもつかない平和な生活に慣れた
日本人ならではの拒否反応だろうか。平和憲法の建前からか、とかく武器や兵器を語る
ことはタブー視されている。普段は意識しないものの、後ろめたく感じるのはやはり、
そうした常識が染み付いていると見える。
- 234 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月17日(水)21時25分20秒
- 「悪い事ではないさ。自分を守るためだ。この国では人の命の価値が不当に低い。」
「でも、本当に使いたくはないんです。」
「わかってるよ。誰だって好き好んで人を傷つけたり、殺したいとは思わない。
親愛なる指導者同志は例外なのかもしれないが。」
そう、つぶやいて協力者はグリップの上部にあるボタンらしきものを押して、
弾丸の入ったケースを取り出した。
「これがマガジンといって弾丸が10発入っている。セーフティを外してトリガー、
引き鉄を引くとハンマーが降りて弾丸の火薬が発火、弾が飛び出すという寸法だ。」
そう言ってユウキに持たせて、同じ動作を繰り返させた。
もちろん、今は弾を抜いている。
「これはオートマチックだから、自動で次の弾を装填するよ。弾がなくなったら、
このボタン、マガジンキャッチを押すとマガジンが出てくる。簡単だろ?」
「弾はどれくらい持っていきますか?」
「あまり持つと重いから、マガジン10ケースくらいにしといたよ。」
「そうですか。」
ユウキは弾の入っていないベレッタの引き鉄を引いて、撃鉄が銃の後部を叩く
カチっという冷たい音を確認した。これを使う場面が果たして訪れるのだろうか。
- 235 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月25日(木)20時14分19秒
- TVや映画では良く銃撃戦のシーンを見るものの、自分に降りかかりつつある災厄としての
現実はあまりにリアリティに欠けていた。あるいは、それはユウキの想像力の欠如による
ものかもしれなかったが、生々しい人殺しの場面を早期するような能力ならばむしろない
方がいい。そう、思い直して、ひたすら今教わった手順を機械的に頭の中で反芻した。
「ところで、連絡はどうやってつければいいんですか?」
「これさ。」
そういって彼が取り出したのは、一昔前の携帯電話かコードレス電話のようないかつい
端末だった。
「北朝鮮も携帯、普及してたんですか。さすがですね。」
「いやいや、なかなか。」
笑いながら、協力者は説明した。
「この国の通信インフラのお粗末さといったら大変なものさ。なにしろ、ふつうの電話網
さえまともに整備されていない。国際電話も何年か前にAT&Tが海底ケーブルを通したっ
きりだ。」
- 236 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月25日(木)20時14分49秒
- 「えっ?じゃぁこれは...」
「衛星電話さ。」
「携帯電話みたいじゃないですか。」
「イリジウムだよ。アメリカのモトローラ社が出資して66基の低軌道周回衛星を打ち上げた。」
協力者は端末を手に目を細めた。
「ここに置いてあるやつとは違うんですか?」
「あれはインマルサットさ。高軌道かつ静止衛星だから、会話に遅延が生ずる。イリジウムは
低軌道かつ周回する衛生が広いエリアをカバーするから、普通の携帯と変わらん。
すごいよ、これは。よく調達したもんだ。。」
しきりに感心して、端末をいろいろな角度で舐めまわすように凝視する彼に、
ユウキは道具が好きなんだなぁと微笑ましくなった。
それにしても衛星電話が携帯電話並みになるなんて...
と考えたところで、重大な問題に気がついた。
- 237 名前:名無し娘。 投稿日:2002年04月25日(木)20時15分20秒
- 「あっ!充電はどうするんですか?」
端末をこねくり回していた彼は、右の眉毛をぴくっと上げてみせると、
なにやら鉛筆削りのような取っ手のついた小さな器具を取り出した。
「ほらっ。充電器。」
「へっ?これがですか?」
「手動なんだよ。手でぐるぐる回すとダイナモが回って充電されるんだ。出先で電池が
切れたときの応急対応機器だから、そんなにもたないけどね。ちょっとした連絡程度なら
十分だ。」
ユウキはまたまた感心してしまった。
科学はどんどん進歩している。スパイ映画の世界がすでに現実化しているなんて。
最先端の電子機器に興奮してしまうところなど、やはり彼も男の子だった。
- 238 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月04日(土)04時30分06秒
- 矢口の抜けたモーニングはぽっかりと穴が空いたような居心地の悪さを保田に感じさせた。
もともと、今の路線にはしっくりこないところを無理矢理合わせていたようなものだ。
それでも同期の矢口が子供の中に混じって、彼女なりの頑張りを見せていた間は、
自分も不遇を嘆いてばかりもいられないと、前向きに考えていた。
だが、矢口の脱退により、とうとう自分の心を欺けなくなった。
加えて市井の行方は庸として知れず、不安感は増すばかりだ。
市井の母親が日本側のプロモータとも音信不通になった結果、いてもたってもいられなくなり、
駐韓大使館を通じて、現地の警察に協力を求めたところ、香港行きの便で韓国を出国したまま、
依然、再入国した記録はないとの回答を得たのみだという。
ユウキから掴んだ情報を言うべきか迷ったが、結局、伝えることはできなかった。
彼との会話からは、市井も後藤も北朝鮮にいるとの感触を得たものの、事の全貌を知る
と思しきソニンは保田の執拗な追及にも貝のように口を閉ざしたまま、黙して語らない。
- 239 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月04日(土)04時31分07秒
- 口を割りそうなユウキは本当に北へ渡ってしまったものか、長期休養のはずが、いつのまにか
芸能界からはじき出されてしまっている有様だ。もちろん、保田が北朝鮮へ渡る手立てなどない。
そう考えていると、やたらに「北朝鮮」という言葉に敏感になっている自分に気づく。
新聞や雑誌などで「北朝鮮」の文字を目にするたびに、思わず手にとることが多くなった。
そして、最近、よく報道されている有本恵子さんの拉致疑惑。
幸いなことに、米国がブッシュ政権に替わって以来、対北朝鮮政策が180度転換し、
従来の対話路線から、強硬路線へと向かい、北への譲歩を一切、認めなくなったため、
むしろ北朝鮮側が米側の懐柔に乗り出しており、そのために日本とも再び対話の窓を開く
傾向にある。
その中で、浮上した有本さんら拉致されたと思しき被害者の引渡しについても、
赤十字を通じた人道問題として、再び行方不明者の捜索開始という形で、再開を宣言した。
だが、北朝鮮に興味を持って、いろいろと調べた結果、わかったのは、赤十字を通す形の
現在の交渉では、とても、彼らが帰国できる保障はないということだ。
- 240 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月04日(土)04時31分42秒
- ユウキがいなくなって、どうにも事情がよくわからないのだが、市井が北朝鮮にいるのならば、
それは拉致された公算が大きいのではないか。保田は最近、そのように考えて眠れない日々を
過ごす。そして、なぜかそれを追っていった、在日の過去を持つ後藤。
ユウキがどのようにして、市井を連れ帰すつもりなのかは、わからなかったが、とても
一筋縄でいきそうな相手には思えなかった。
自分にできることはないか...
そう自問しても答えは返ってこない。
悩んでいるうちにも時間は過ぎていく。
仕事は相変わらず忙しい。
忙しいのは悪いことではない。むしろ有難いことだ、とさえ思う。
ただ、その内容が以前とは様変わりしてきたことをどう捉えるべきか。
この春からラジオの仕事がなくなった。プッチモニの番組は終了して久しい。
レギュラーの仕事は少なくなっているのに、忙しさは変わらない。
- 241 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月04日(土)04時32分21秒
- ただ、そんな中でも、保田の実力が真に必要とされる仕事はある。
今年もミュージカルの季節がやってくる。
(これを区切りにしようか...)
事務所が5期メンバーを躍起になってプロモートしている姿勢があからさまなだけに、
保田自身、今の娘。の中に居場所を見つけるのが難しかった。
ミニモニも矢口が抜けたことで随分と若返った。
さらに小学生向けのオーディションを行い、幼いメンバーが増える可能性も否定できない。
飯田は歌のお姉さんよろしく、リーダーとして、子供たちを引率していくだろう。
安倍はマイペースだし、違和感さえ感じていないだろう。
そろそろ潮時だと思っている。
ただ、けじめだけはつけなければ。
この仕事が終われば...
保田はもう一度、ソニンに会おうと思った。
- 242 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月08日(水)00時22分04秒
- 「ちょっと...強制収容所って何よ...」
「ですから、市井さんはちょっとした間違いで...」
「ちょっとした間違いで強制収容所入れられたんじゃたまんないわよ!一体、どうなってんの!」
保田が声を荒げるのも当然だった。
ソニンの冷静な受け答えがまた、保田の癇に障る。
市井と後藤の行方が気になって再び、ソニンのもとを訪れた保田は気が立っていた。
「保田さん...あなたが、助けになりたいって言うから、本当のことを話しているんです。
そう一々興奮されては、話が進みません。」
「わかったわ...しばらく黙ってるから、続けて頂戴...」
保田を落ち着かせたところで、ソニンは再び、市井の境遇について説明し始めた。
「で、かなり際どい状況だったんですが、何とかその場で処刑されることだけは免れて、
名目上は思想強化、つまりは強制収容所送りということになったわけです。」
保田は黙って先を促す。
「ユウキは彼女を解放させるためにそちらへ向かっています。」
- 243 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月08日(水)00時22分51秒
- しばらくの沈黙の後、保田が重い口を開く。
「後藤は...後藤は無事なんだよね?」
「はい。どういうわけかはわかりませんが、後藤さんはどうやら北朝鮮首脳に大事に
されているようです。」
「そう...」
保田の胸中は複雑だった。
後藤が無事でいてくれるのは嬉しい。
だが、北朝鮮の実力者に庇護されているという状況は、悲しい現実を想像させる。
そして多分、それは事実なのだろう。
そのお陰で市井は死を免れたとも言えるのかもしれない。
市井の胸中こそ察して余りあるというべきなのかもしれない。
「ただ、後藤さんでも、市井さんを収容所から助け出すことはできないようです。」
「そこでユウキの出番か...頼りになんの?あいつ?」
「ふふっ。見かけほど柔じゃないですよ、保田さん。」
「そりゃまた、えらく買被ったもんだね。」
保田の毒舌にもソニンの笑顔が崩れることがない。
信頼の証だろうか。
保田は何だか、羨ましくなった。
- 244 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月10日(金)22時33分36秒
- 「で、紗耶香を助け出した後は?」
「中国経由で海へ出て直接、日本に帰ってくる予定です。」
「そう...」
保田は思案顔だ。
「最近は、中国の警備も厳しくなっているって聞くけど...」
ここ何日か、中国の日本大使館に逃げ込んだ北朝鮮からの亡命希望者を追って、
中国の警察が大使館内に事前の承諾なく踏み込んだ事件が、世間を騒がせている。
朝鮮半島の情勢には敏感になっている保田が見逃すニュースではなかった。
「国境警備隊の数も増えてるんでしょ?」
「詳しいですね...」
ソニンは正直なところ、驚いていた。
もちろん、今までの保田の行動から、転んでもただでは起きない性格であることは察していたが、
存外に勉強熱心なところは、素直に感心する思いだった。
ひょっとして使えるか...
いいや、とソニンは頭を横に振った。
確かに芸能人、しかも保田とはいえモーニング娘。というビッグネームが絡めば、
自分達の運動が注目を集めるのは間違いない。
しかし...
そのためにモーニングからの脱退を強いるわけにはいかない。
もっとも保田にその気があるのなら話は別だが。
- 245 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月10日(金)22時33分58秒
- 「ねぇ。保田さん。私たちが何でこんなことしてるか、気にならない?」
ソニンは意味ありげに口元を緩めて微笑んだ。
対する保田は相手が何か企んでいることを察しつつも、その内容が気になって仕方がない。
「言うわね...で、どういうことなのよ?」
「ふふ、その前に確認させてもらっていいですか。」
「何よ?」
「保田さん、ユウキからも聞いてるでしょうけど、結構、危ないんですよ、知ってしまうと。」
――ごくり、と唾を飲み込んで、平たい笑みを頬に張り付かせたソニンを睨み据える。
緊張による冷や汗だろうか。
額から、冷たいものが滴り落ちる。
保田は思い出していた。やけに落ち着いたユウキの声が頭の中で響く。
『うちの周り、気付きませんでした?』
『コーアンっ知ってます?』
こぉあん...
知らずにつぶやいていた。
その響きの持つ恐ろしさを、だが保田は完全に理解していたわけではない。
それでもなお、その言葉が誘引する日常とは対極にある世界を思わせるザラザラとした感覚は
保田の喉を乾かし、呼吸を荒くさせた。
- 246 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月13日(月)18時41分25秒
- 「あはは、嘘ですよ、嘘。冗談ですから、真に受けないで下さい。」
「で、でも...ユウキは確かに公安が張ってるって...」
「保田さん、あいつに担がれましたね。ったく、たちが悪いんだから。」
そうなのだろうか。
それならそれで構わない。
だが、先ほどまでソニンが湛えていた冷徹な笑みを考えると、
公安にマークされているわけではなくとも、それに準じた危険の匂いを感じる。
「ねぇ、保田さん。先週、瀋陽の日本総領事館に北朝鮮からの亡命者が逃げ込もうとして、
中国の武装警官に身柄を拘束された映像見ました。」
保田は黙って頷いた。
「あれ、日本では主権の侵害だとか外務官僚の資質の問題だとかって大騒ぎしてますけど、
とりあえず連日、TVで報道されて、大分、北朝鮮からの亡命者の実体について知る人が
増えたんですよ。」
「そうね。」
「あれ、凄くいい位置から撮ってますよね。どうやって事前に察知できたと思います?」
「たれこみじゃないの?」
さすがに察しがいい。
ソニンは保田の頭の回転の速さに満足した。
- 247 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月13日(月)18時43分27秒
- 「お見事です。でも、あれを手配したのが我々だということまではご存知ないでしょうね。」
「なんですって?」
これにはさしもの保田も驚かないわけにはいかなかった。
そして段段と話が核心に近づいてきたことを感じてか、その瞳の奥が光るのを見逃さない
ソニンではない。
「私たちは亡命者の支援をしています。ただ、これはおおっぴらにはできません。日本
政府は政治亡命者の受け入れを行いませんし、北を刺激するような行動は外務省にマーク
されてしまうんです。そうなると北はもちろん、南や中国への出国に支障が出ますから。」
「紗耶香や後藤の件もその救出活動における一貫ってこと?」
「そう捉えていただいて結構です。」
ふう、と保田は大きく息を吐いた。
緊張がほぐれたこともあるし、何より、かなり怪しげな雰囲気を漂わせていたソニンの
バックグラウンドが明らかになったせいもある。
「しかし、紗耶香の場合はそう簡単にはいきそうもないわね。」
「そういうことです。」
保田は再び表情を引き締めた。
- 248 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月14日(火)18時09分41秒
- 「強制収容所に入ってた人間を助け出した実績ってあるの?」
「一度だけあります。というか、脱獄した亡命者を支援しただけですが。」
「それは本人が自力で収容所を脱したという意味?」
「そうです。」
保田は視線を落とした。
ソニンもばつの悪そうな顔をしている。
「つまり...収容所の内部にいる人間を外から助け出した実績はないと...」
「残念ながら...」
「そんな危険なことにユウキを巻き込んだわけ?」
「そういわれると返す言葉もないですが...」
殊勝な口ぶりの割にあまり自省の念が窺えないのは、元来の性格からだろうか。
だが、この場合、ソニンに見え隠れする妙な自信が保田には逆に救いとなった。
「信じて...いいのよね。」
「信じてください。」
はぁ、と肩を落とす保田の左手からソニンが寄り添って腰に手を回す。
だいじょうぶですよ...
耳元で優しく囁かれると、なんだか母親に諭されている子どもになったような気分だ。
保田は不思議と心が軽くなるのを感じた。
この子がいうなら本当に大丈夫なのだろう...そう思わせる何かがソニンにはあった。
そして、その雰囲気は何となく矢口を思わせなくもなかった。
- 249 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月14日(火)18時10分07秒
- 「真里ちゃん、大きな仕事決まったよ、何だと思う?」
「ええっ、何だろう。」
脱退後、初の仕事だ。
中澤のときと異なり、それなりにソロのレギュラーをこなしていた矢口は、
あまり代わり映えのしない日々を過ごしいてた。
そろそろ刺激が欲しかったところだ。
逸る心を抑えつつも仕事に飢えているように見られるのが嫌でわざと落ち着いて見せる。
「ワールドカップのレポーター!どうだい!」
「えっ、ホント!」
さすがに喜びを隠し切れない。
矢口は文字通り跳び上がらんばかりの勢いで身を乗り出した。
「どこの局?」
「LFRだよ。」
「ANN-Sと別枠ってこと?」
「そう。木曜だけじゃなくて期間中、毎日現地から報告するんだ。すごいよ、これは。」
矢口よりもマネージャの方が興奮を隠し切れない様子だ。
尚も口角泡を飛ばしそうな勢いで、その「凄さ」を語る彼に矢口はなんだか微笑ましい
ものを感じた。
サッカー見たがってたもんね...
自分に仕事が来たことを喜んでいるのか、ワールドカップを見られるかもしれないことが
嬉しいのか。
判じかねる部分はあるものの、子どものようにはしゃぐマネージャに注ぐ矢口の眼差しは優しかった。
- 250 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月14日(火)18時10分46秒
- 「でね。急な話なんだけど...」
「え、何?」
「あさってから現地の下見に行くんだ。」
「あさってかよ?!」
まぁ、何も知らされずにいきなりロシアに飛ばされた経験もある矢口だ(本当は知ってたけど。)
この程度でびびるわけにはいかない。
だが、このマネージャにしてはひどく性急な仕事の進め方だ。
「行って何するの?」
「会場の下見とか、韓国の若者のワールドカップに賭ける熱気とか、そういうのを事前に取材するというのもある。」
「あ、いきなり取材なんだぁ。」
「何しろ急に入った仕事だからね。」
どうにも腑に落ちない点はあるものの、久し振りの海外だ。
そして何よりも嬉しいのは...
「ねぇ、行けるんでしょ?」
「へ、どこに?」
「またまたぁ、とぼけちゃってぇ。」
「え、何?あ、ソウルから近いキャンプ地には行けるかもね。真里ちゃん、やる気満々じゃん。」
わざとぼけているのか...
やや苛立ってくるのを感じる。
- 251 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月14日(火)18時11分19秒
- 「ちっがうよぉ、や・き・に・く...」
「へ?焼肉...?真里ちゃん...あのね、これはワールドカップと言ってだね...」
「ぜぇぇったい、行くからね!時間空けといてよ!私、お母さんに電話してくる。」
サッカーヲタのマネージャの説教がはじまらないうちに、矢口は部屋を飛び出した。
韓国...
初めての渡航だ。焼肉にエステに買い物に...
仕事でなければあるいは行けたかもしれないが、恐らく無理だろう。
わかっている。自分が遊びで行くわけではないことなど。
それでも何か浮き立つものを感じるのは、海外の仕事だからという理由だけではなさそうだった。
紗耶香...
確か、彼女が韓国に渡ってから一年近くが経つ。
元気にしているだろうか。
矢口は久し振りに紗耶香と焼肉を挟み、二人で再開を祝す情景を思い描いた。
圭ちゃんにも電話しとくか...
矢口は鞄から携帯を取り出した。
- 252 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月15日(水)18時02分03秒
- ソニンと別れて歩き出すと携帯電話が「イムジン河」のメロディで着信を知らせた。
南北朝鮮の分断を嘆く歌だということを最近、知って、なぜだかその物悲しい旋律に
惹かれてしまっていた。
通話をオンにすると元気のよい声が響いた。
「おぉっす、圭ちゃん元気かぁ。」
「矢口ぃ、久し振りじゃん。」
矢口が脱退してから、ほとんど電話もしていないことに気付いた。
ミュージカルの練習が大詰めを迎えたこともあるし、プライベートでは、市井や後藤の
行方が気になり、北朝鮮関連の資料を漁っていたせいでもある。
「どうしたのさ、急に?」
「初仕事でさ、韓国に行く事になった。」
「韓国?!」
驚いた。
同期の絆はこんなところにも現れるのだろうか。
ただ、矢口は市井の現在状況を知らない。韓国で再開できるものと信じて浮かれているはずだ。
「いや、久し振りに紗耶香に会いたいなぁって思って。もう、一年近いでしょ。向こうに行ってから。」
「なぁに言ってんのよ。もう、二年近いよ。」
「ええ?もうそんなに経つか。早いねぇ、時間の経つのは。」
それはそうだ。
その間に中澤と矢口が既に脱退しているのだから。
- 253 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月15日(水)18時02分33秒
- 「でさ、圭ちゃん、知ってんでしょ。紗耶香の連絡先。」
やはり、来た。
言うべきだろうか...紗耶香がもはや韓国にはいない、ということを。
保田は迷った。
言えば矢口の心を惑わすことになる。
脱退してひとりで頑張っているのだ。気を張っているだろう。
できれば、心配の種を増やすようなことは言いたくない。
隠すこともできる。
どうしよう...
「教えてよ、会いたいんだ。」
「今、いないと思うよ。」
「ええ、何で?」
「香港に行ってるはず。」
「なぁんだ...残念...」
ごめん...矢口...
でも知らない方がいいんだ。
それがあんたのためなんだ。
「でもいいなぁ、本場の焼肉、食えるんでしょ?」
「もう、食って食って、食いまくるよ。」
「いいなぁ...」
「キムチ買って来てやるから、キムチ。ねっ。」
「キムチかよぉ...」
- 254 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月15日(水)18時03分06秒
- 市井の不在を聞いて、矢口の声は残念そうだったが、それでも初めての単独渡航で気分が
浮き立っているのだろう、言葉の端々に喜びを隠し切れない様子が窺える。
保田はすまないと思ったが、同時に矢口の楽しそうな声を聞いて、これでよかったのだと
納得する事にした。
「せいぜい、にんにく臭くなって帰ってきな。」
「ハイハイ。美味しい焼肉の話、いっぱいしたげるから。じゃぁね。」
「ああ、バイバイ。」
通話が切れた後もしばらく、保田は携帯の画面を見つめていた。
矢口は本当に楽しそうだった。
正直、羨ましい。
仕事を楽しんでいる様子が電話越しに伝わってきた。
顧みて自分を取り巻く状況と比べ、保田はため息をつかざるを得ない。
まずいよな...やっぱり。
矢口が辞めたばっかりだしな...
気がつけば、そのことばかり考えている此の頃である。
- 255 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月16日(木)18時49分20秒
- 静かだ。
何もない。
聞こえるのは、ときたま頬を掠めていく風の音だけだ。
目の前にはまっすぐに伸びた道が一筋、遠くの山の端に溶けて見えなくなるまで伸びている。
月の薄明かりだけで果たして視界を確認できるのかとの懸念は杞憂に過ぎなかった。
煌々と輝く満月は手をかざすと足元に深い影を落とすほどはっきりとユウキの目指す道を
照らしていた。
まず誰も通らないから、見つかる恐れはない。
平壌の協力者はそう言っていたが、万が一、何者かがこの道を通った場合、
身を隠す場所はどこにもない。
見渡す限りの荒野には遮蔽物となる小屋や岩などの類が何もなかった。
ユウキはゆっくりと右足から踏み出した。
縁起を担ぐときはいつもそうしている。
まだEEジャンプに入る事が決まる前、和田マネージヤに呼ばれたとき、
ハーモニープロの事務所に入るときも、注意して右足から踏み込んだのだった。
あのときのソニンの表情を今でも思い出す。
物思いに耽っているような、遠くを見るような眼差し。
ユウキが挨拶をしても軽く会釈を返しただけで、また視線を外したソニン。
なんだか生きる事に疲れてでもいるような気だるそうな印象を与えていた。
- 256 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月16日(木)18時50分07秒
- 遠くで山犬の遠吠えが聞こえる。
不思議と怖いとは感じなかった。
昼間のような明かりのもとにいるせいかもしれない。
山犬は人間を恐れるから、決して姿を現さない。
そう教えられていたせいもあるのだろう。
人間は予め想定していた範囲の出来事にはそれほど混乱しないものだ。
パニック状態に陥るのは予想もしない出来事に際してのことがほとんどなのだから。
とにかく、山犬程度で血相を変えるユウキではなかった。
昼間の暑さが嘘のように夜は涼しくなる。
この季節だからよかったが、冬場、いや秋でさえ夜間の寒さは容易に想像が出来た。
春から初夏にかけてのこの季節だからこそ、多少の無理を押して行軍することができる。
朝鮮半島に降り注ぐ太陽光の強さはユウキの想像を遥かに超えていた。
『君の肌の白さは致命的だよ』
協力者の言った意味が実際の陽光を肌に受けて初めて理解できた。
じりじりと刺すような強い日差しは北朝鮮の人々の肌を褐色に焼き上げていた。
この時期でさえ、容赦なく降り注ぐ日差しの強さは、まさしくこの時期でなければ、
この作戦が遂行不可能であることをいみじくも示していた。
- 257 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月16日(木)18時50分46秒
- 背中に背負った荷物がずしりと肩に喰いこむ。
まだまだ先が長いため、食料や水などの荷物が嵩張るためだ。
かといって慌てて処分してしまっては飢えてしまう。
コントロールの加減が難しかった。
价川(けちょん)までは約100km。
直線距離だから、実際の道のりはもう少しあるのかもしれない。
一日20〜30kmとして4〜5日かかる計算だ。
昼間は休んで体力を温存しているから、摂食の効率は昼間よりもいいはずだが、
それでも、先にどんなトラブルが待ち構えているかわからないだけに不安は残る。
はぁ...市井さん元気かな...
――んなはずないか...
まずは無事を祈ることが先決だ。
会えたらいい。
韓国から日本に一時帰国したとき、一回だけ家に遊びに来た。
そのとき以来だろう。
記念にと並んで撮ってもらった写真が写真誌に掲載されて、びっくりしたものの、
あれでさえ、今は遠い記憶の中の出来事と化している。
- 258 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月16日(木)18時51分29秒
- どんな気持ちで韓国に渡ったものか。
自分の心の奥はほとんど見せなかった彼女だけに慮る他ないが、
希望に胸膨らませて、というわけではなかったはずだ。
そして、そこに見出していたはずの僅かな希望さえ、今は踏みにじられた。
姉が必死で取り縋る家族の制止を振り切ってまでして、この地へ渡ってきた気持ちが
わからないでもない。
ただ、その姉も今は幽閉の身だ。
その姉の心にかかる憂鬱を振り払うためにも、この作戦は成功させなければならない。
そして、祖国の統一のためにも...
ユウキは再び前に伸びるまっすぐな道を見据えると、一歩一歩、足もとに注意しながら、
慎重に歩を進めた。
- 259 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月17日(金)00時53分35秒
- 目が覚めたとき、まだ日は高かった。
木々の葉の重なる間から差し込む日差しが目にまぶしい。
夜のうちに山中に入り、木の生い茂る中、見つかりにくい角度を選んでテントを張っていた。
幸いなことに、山犬が紛れ込むこともなく、一夜を過ごすことができた。
木陰とはいえ、日中の日差しの強さが咽喉の渇きを誘う。
ペットボトルを取り出して、少しずつ慎重に飲んだ。
そして油性のマジックで飲み終えた嵩のところに線を引き、日付と時刻を記す。
ペースの配分が定まるまでは飲みすぎないように細心の注意を払わなければならない。
コンバットレーションのクラッカーを頬張りながら、もう一度地図を仔細に確認する。
この国で地図など必要ないから、かなりアバウトな出来だが、あるとないでは大違いだ。
なるべく人家からは距離を取るようにして山中に分け入ったが方向を見失っては話にならない。
太陽の方角と、昨夜ここまで分け入るときにつけた目印を照らし合わせ、大まかな地理感覚を掴んだ。
日が暮れるまでは動かない方がよいのだが、食料も限られていることではあるし、できるだけ
先に進んでおきたかった。
- 260 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月17日(金)00時55分33秒
- テントと寝袋をたたみ、荷物を背負うとユウキは辺りを何回も見回して人影がないか確認した。
耳を澄まして気配を窺う。
聞こえるのは遠くで鳴いている雲雀の声くらいだ。
この情景だけを見ればのどかな風景なのだが、現実はえてして皮肉なものだ。
車がほとんど走らないせいか、空気は澄んでいて清清しい。
日差しの強さもそのせいではないかと疑ってみる。
平壌滞在中は、停電が日常茶飯事で、工場の煙突から煙がたなびく光景も見た覚えがなかった。
外貨保有高の深刻な減少から石油の輸入は滞り、頼みの石炭は食料不足で炭鉱夫の効率が
落ちている。今や極端なエネルギー不足に見舞われているこの国の経済は完全に麻痺している
といっても過言ではなかった。
ただ今回の作戦上はそうした混乱に助けられた一面もある。
道を行き交うはずの車がほぼ、まったくと言ってよいほど走っていないからだ。
日本や韓国からの観光客を景勝地に運ぶためには、もちろんバスを運行させるが、
そのような貴重な外貨獲得源をもてなす特別な機会以外、労働党の中枢幹部でない限り、
まず車に乗れることはない。
- 261 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月20日(月)18時25分37秒
- 念のために林の中から通りを見渡せる場所を選び、二時間ほど往来を観察した。
ときたま大きな荷物を背負った行商人風が何人か通った他はほとんど人影を見なかった。
協力者からは絶対に日の高い間は移動しないよう厳命されている。
だが、見たところ、通りの往来はなく10号哨所と呼ばれる国家保衛部の検問さえ避ければ、
官憲に見つかることは避けられそうだった。もちろん10号哨所の位置は地図でチッェク済みだ。
最大の難関である平壌の検問は党幹部の車のトランクにうまく入り込んで抜けたため、
後はそれほどの危険が残っているとは思えなかった。
价川は平壌特別市の隣、今、ユウキが潜伏している平安南道の道内に位置するため道境もない。
ユウキは地面の土をすくって顔に擦り付けると人民帽を目深に被り、林を抜け出した。
人気はない。
とりあえず前方に見える山の端までは行ける。そこまで辿り着いた時点でまた様子を見よう。
遮蔽物は常に確保しておかねばならなかった。
- 262 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月20日(月)18時31分47秒
- 何回かそのようにして移動を繰り返したが、ときたますれ違う人は例外なく、疲れ果て、
ユウキを訝しげに見る者はなかった。
行商かと思っていたが、担いでいる行李には何かが入っているようには見えない者が大半だった。
そして、中には空の麻袋ひとつを肩にかけてよろよろと視線も定まらず、惰性で歩いている
といった状態の者も少なくない。
その目は虚ろで、ユウキに顔は向けていても視線はどこか別の方向を彷徨っていた。
間違いない。
飢えから逃れるために食料を求めて移動する市民だった。
一時は数百万人もの餓死者を出したものの、日本や韓国の米支援により持ち直したと聞いている。
だが、ユウキの目撃した人たちはその情報がまったく正しくないことを示していた。
充分な食料が送られたはずだった。
だが、その米は何処に行った?
ユウキは激しい憤りを覚えた。
平壌ではほとんど実感することはなかったが、やはり食料の供給が行き届いていないのだ。
党幹部は市内で高級外車を乗り回し、飽食と享楽に耽っているというのに。
その実態がばれないよう、平壌と他の地域を隔絶しているのだろう。
確かに検問は厳しいはずだ。
- 263 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月20日(月)18時32分43秒
- 時折、情報交換のためだろう、話しかけてくる者がいたが、ユウキは申し訳ないと思いつつも、
言葉を返すことなく、ひたとすら先を急いだ。
方言の入り混じった生の朝鮮語がよくわからないのはもちろん、
自分の喋る言葉が現地の人間のものでないことは、口を開いた途端に明らかになる。
彼らに不審人物である自分をすぐさま官憲に引き渡すほどの気力が残っているとは思えなかったが、
それでも余計な情報を与えて、国家保衛部(秘密警察)や軍に追われることは避けたい。
強い日差しに体力を奪われることを恐れ、休み休み歩いたつもりでも、日が暮れる頃には
かなり体力を消耗している事に気付いた。
そろそろ今夜の寝床を確保しなければならないと思ったところ、ぱらぱらと民家の集まる
集落らしきところに辿り着いた。
既に日は沈みかけ、夕闇が辺りを包もうという時分にしては、灯りのともる家は少ない。
食料を求めて家を空けている家族があるかもしれない。
ユウキは荒れ果てて人気のない家を探した。できれば夜露を凌げる屋根の下で眠りたい。
- 264 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月21日(火)17時58分11秒
- ユウキは灯りをともしていない家が二、三軒固まっている辺りに見当をつけて、
様子を窺ってみた。夕餉時だというのに、どの家からも何かの食事を調理しているような
匂いも漂ってこなければ、火を使っている様子もない。
思い切って一軒の家の敷地に入り込んだ。
冬の寒さが厳しいからだろうか、レンガを積み上げて造られた家は丈夫そうだった。
主がいなくなると寿命を終えたように急速に老化し、朽ち果てていく日本の木造建築とは
異なり、主の有無に関係なく長い間存続できそうなほど堅牢な印象を与えた。
玄関らしきところには戸がなかった。
顔だけをひょこりと入れて見回してみるが、暗くて何も見えない。
だんだんと目が慣れてくるに従い、そこが農家の土間のようなところであることがわかった。
奥は流しらしく、空の鍋や食器などが積まれている。
土間の左手が居室らしく、上がり框の向こうに空間が広がっている。
ここにもやはり戸らしきものはない。
ユウキはもしも家人がいて見つかった場合の逃げ道を確認すると、慎重に土間へと足を
踏み入れた。
- 265 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月21日(火)17時58分34秒
- 黴(かび)臭いような饐(す)えた臭いに思わず顔を顰(しか)める。
何か腐らせたらしい。
だが、飢えに苦しむ貧家にしては変だ。
ユウキは胸騒ぎを覚えつつ、真っ直ぐに足を進め、流しの中を確認する。
何もない。
そして臭いもここから発せられたものではない。
嫌な予感は既に確信めいたものに変わってきていたが、それでも何か強い力に引かれる
ようにしてユウキは居室の方へと足を向けずにはいられなかった。
だんだんとそこへ近づくにつれ、臭いはいよいよ激しい悪臭となって鼻腔の奥を衝いて
刺激した。
上がり框の向こうを覗いて見ると、そこにはぼんやりと薄暗い空間が広がっていた。
目を凝らして、恐る恐る視線を床に落とすと、何か横に長い黒い塊が置かれていた。
臭いを発しているものがそれであることは明らかだったが、かといってそれが何かは、
わずかに玄関口から漏れる薄明かりの下では判然としなかった。
竦みそうになる足を無理矢理前に推し進めて、ユウキはその黒い塊へと近寄った。
悪臭はもはや激しい痛みを伴うほどの苦しみとなってユウキを襲った。
ザッ、という音に思わず飛び上がりそうになる。
背筋を冷たいものが駆け上がった。
- 266 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月21日(火)17時59分13秒
- 蟲だった。
無数の脚を蠢かせてぞろぞろと床の上から黒い塊の上へと這い上がる蟲。
ユウキは蛆虫が体中を這い回るざわざわとした感触を想像して、
体中の体毛が逆立つほどの不快感に声を上げそうになる自分を必死で抑え、
その黒い塊へと近づいた。
人間だった。
「だった」としか言えないものがそこに転がっていた。
激臭と蛆虫の蠢くさまを思考の外に置いて、ひたすらそこに横たわる黒い人影に注意を集中した。
どうやら、何人かが抱き合い、あるいは体を寄せ合って死んでいるらしかった。
それが塊としてしか認識できなかったのは、恐らく母親らしき体の上に二人の子どもが
折り重なって息絶えたからだった。そして母親は二人の子どもの下で何かを守るようにして
抱え込んでいた。
赤ん坊だった。
幼い乳飲み子を抱えたまま昇天した母子の黒い塊は、その腐臭にも関わらず、
家族の愛を荘厳とも言える形で留めていた。
母親の死体は既に半ば白骨化し、死んでから随分と日が経つことを示していた。
その顔はからはすでに肉が削げ落ちている。
深く穿たれた眼窩から一匹の蛆虫が這い出した。
ユウキにはそれが母親の流した最後の涙のように見えた。
- 267 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月22日(水)17時24分21秒
- どれくらいの時間、その場に立ち尽くしていただろう。
かなり長い時間のようにも思えるし、実際は腐乱した死体の汚臭に耐え切れず、
即座に逃げ出したような気もする。
ただ、実際に経過した時間がどうであれ、ユウキがその間に感じた様々な思いは
必ずしも時間で割り切れるほど単純なものではなかった。
怒りとも悲しみが交錯した複雑な感情がユウキの精神を支配していたためか、
屋内にいる間、その場に立ち込めた悪臭に晒されてもそれほど気にはならなかった。
いや、気にする余裕がなかったと言ったほうが正確かもしれない。
ともかく、戸外に出て新鮮な空気に触れて、緊張から解放されたせいか、
全身が、今までの嫌悪の感覚を取り戻したとでもいうように、強烈な嘔吐感に襲われ、
ユウキは思い切り胃の中のものを戻した。
どこに潜んでいたものか、ざわざわと吐瀉物に群がる虫たちを見るにつれ、
この逞しさが、あの母子にもあったならと思わずにはいられない。
だが、彼に何がわかるというのだろう。
食べられるものはすべて食べつくし、その上で飢え死ぬしかなった彼らの何がわかる。
ユウキは玄関に向き直ると、そっと手を合わせて黙祷を捧げた。
- 268 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月22日(水)17時25分20秒
- さすがに今さっきの光景が脳裏から離れず、さらに人気のない人家を探ろうという気には
ならなかった。諦めて、納屋か物置と思しき小ぶりの小屋を探し当てると、ユウキは寝袋
を広げて入り、体を伸ばすと静かに目を閉じた。
ようやく、まどろみかけたところで、リュックの中の端末が鳴った。
慌ててがさごそとボケットをまさぐるが、寝入りばなを襲われたせいで、
うまく見つけることができない。
静寂が支配する闇の中で、やけに目立つ呼び出し音にひやひやしながらも
LEDが点滅して着信を知らせている端末を見つけた。
すばやく通話ボタンを押して、端末の先端に耳を当てると不機嫌そうな声が聞こえた。
「遅いじゃないのよ!見つかったらどうすんの!」
「連絡はこっちからするって言っただろ?」
「寝てたんじゃないでしょうね?」
ぎくっ...
昼間はじっとして夜に動くよう言われてたんだっけ...
早くも行動パターンが崩れたことを責められそうだった。
「いや、ちょっと一休みしてただけだよ...」
「嘘吐きなさい!昼間に移動してたし、2時間前から全然動いてないじゃないの!」
「え? なんで? なんで判んの?」
- 269 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月22日(水)17時26分42秒
- 「GPSよ。衛星電話なんだから。その程度のサービスは当たり前でしょ?ったく子ども
なんだから。」
「何だよ...GPSって...知らねえよ...」
ぶつぶつと口篭もるユウキにソニンは容赦ない。
「グローバル・ポジショニング・システム、カーナビなんかと同じ原理なの。あんたの
持ってる端末が発信してる電波を衛星が受けて跳ね返すわけ。それをこっちの端末で
受けて、あんたがどこをほっつき歩いてるか判断してんのよ! わかった?」
「わかったよぉ...で、何、急用?」
これ以上、ねちねちと責められてはかなわない。
ユウキはさっさと連絡を済ませ、再び疲れた体を休めたかった。
「大丈夫? 危険な目に会わなかった?」
「え、んん、大丈夫...だと思う。」
さっきとは打って変わって、心配そうに尋ねるソニンの声が優しい。
「母国語なのにハングル下手なんだから。軍か保衛部に見つかったらアウトなのよ?」
「判ってるよ...」
「お願いだから、昼間は動かないで。あんたにまでもしものことがあったら、お母さん、
悲しむわ。」
「うん...」
母を持ち出すなんて卑怯だ...
ユウキは昼間に移動しないと約束せざるを得なかった。
- 270 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月23日(木)17時16分10秒
- ソニンと約束した手前、横になって体を休めたかったが、頑張ってもう少し進んでおく
ことにした。幸いにして、今日も天気は穏やかで、月の灯りを頼りに、歩を進めることが
できた。
宵のうちは灯りを点す民家がぽつぽつと見られたものの、夜も更けて、すべての家が
暗く寝静まっているようだった。それほど大きな集落ではない。数分も歩くと、
すぐに民家はなくなり、山の端をかすめるように草深い道が前方に続いていた。
今夜はこの山を越えたところで野営かな...
できれば、さきほど身を横たえていた廃屋の納屋のようなところがあれば、ベストだが。
あまり人がいないとはいえ、見つかったら厄介だ。まだ全行程の4分の1ほども来ていな
いのだから。
それにしても...
ユウキは夕刻、民家で目にした母子の遺骸に思いを馳せた。
飢えて死ぬ、ということが頭ではどういうことかわかっているつもりでも、あのように
圧倒的な事実として目の当たりにしなければ、やはり本当には理解できないのだ、と思った。
あるいは、理解というより共感と言い換えた方がいいのかもしれない。
- 271 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月23日(木)17時23分26秒
- 飢えに対する恐怖は感じなかった。
ただただ痛ましかった。激しい痛痒を感じた。
心が痛い。
何の罪もない普通の人が生きるための最低限の食べ物さえ与えられない社会。
飢える人々のためにと送られた善意は嘲笑と共に指導者の腹に飲み込まれた。
感傷にばかり浸っているわけにはいかなかった。
一般人が飢えて死んでも放って置かれる国なのだ。
政治犯として、強制収容所に送られた市井の扱いがどのようなものか、
考えるだに恐ろしかった。
それを思うと、自然に足を送る速度が速まる。
ちゃんと食料を与えられているだろうか。
不衛生な場所に押し込められて怪我や病気で苦しんではいないだろうか。
気ばかりが急いて、足が空回りしているようにさえ感じられる。
歩いても歩いても変わらない景色がどうにももどかしく、自然と足が回転して、
走り出すのを抑えることができなかった。
丘陵をいくつか縫っていくと、なだらかな下り坂が続いた。
大きく右にうねった曲がり角を越えると、下界に民家の建ち並ぶのが見える。
まだ夜が白むには早いが、今日はこの辺で留まろう。
ユウキは人がいることに安心したのか、急に眠気が襲ってくるのを感じた。
- 272 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月24日(金)17時32分57秒
- 目が覚めると見覚えのない部屋に転がっていた。
天井が近い。
はっとして辺りを見回すと、開け放たれた窓からは午後の日が差し込んでいた。
どこだ...
覚えがなかった。
昨日はソニンと約束した手前、昼の間、かなり歩いたにも関わらず、
夜間も行軍を続けたのだった。
山道から集落を見渡したところまでは記憶にある。
だが、ここが果たしてその村かどうかはわからない。
どういうわけか、坂道を転がり落ちるように下っていったところから記憶が途切れている。
ユウキは起き上がって、荷物を確認した。
あった...
壁に立てかけられるように置かれた自分のリュックを見て、ほっとしたせいか、
急に空腹を感じた。
荷物を探り、コンバットレーションを取り出す。
咀嚼してミネラルウォーターとともに喉の奥へ流し込むとようやく人心地がついた。
さて、どうしよう
とりあえず、ここがどこかわからないことには先へ進みようがない。
ユウキは荷物をまとめると静かに戸を開いた。
- 273 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月24日(金)17時33分24秒
- かなり大きな家らしかった。
ユウキのいた部屋は廊下の突き当たりに位置しており、中庭らしい空間に面して奥まで伸びていた。
部屋の入り口から身を乗り出して、抜き足、差し足でそっと廊下へ足を踏み入れる。
古いつくりらしく、鴬張りのようにきゅつきゅっと鳴る床に注意しながら、左手に中庭を
眺める形で廊下を渡った。
中庭は高い塀が巡らされており、外の様子は窺えなかった。
廊下を渡ると左に曲がり、右手に連なる部屋の前で身をかがめて、誰かいないか
注意深く観察する。人のいる気配はない。
とりあえず外に出よう。そう思い、玄関口に降りて靴を履いたところで背後に気配を感じた。
「お帰りですか?」
はっとして振り向くと、そこには上品そうな老婦人がにこやかに微笑んでいた。
びっくりして二の句が告げられずにいると、老婦人は心配そうに尋ねた。
「大丈夫ですか? お腹がすいたでしょう、お食事をしてからでも遅くはないですよ。」
ユウキは雰囲気に飲まれ、知らずと頷いていた。
どうやら行き倒れと間違われたらしい。ある意味、その通りなのだが。
悪い人ではなさそうだ。
ユウキは老婦人の後について、招かれるままに奥の部屋へと進んだ。
- 274 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月24日(金)17時34分31秒
- 「たいしたものはお出しできませんけど...」
食卓らしい座卓には、スープ皿のようなお皿と漬物の小鉢のようなものが一揃いずつ
置かれていた。中身は噂に聞く、とうもろこし粥のようだ。
「カ、カムサハムニダ。」
緊張して謝意を示すユウキに、老婦人は優しく微笑んだ。
そして次に発せられた言葉にユウキは目を見開いた。
「日本から来られたんですか?」
日本語だった。
それも綺麗な発音の。
ユウキは息も吐けないほど驚いた。
しばらくして落ち着いたところで、ようやく口を開き日本語で聞き返した。
「な、なんで日本語喋れるんですか?」
「私も日本人ですから...でした、といった方が正確でしょうか。」
「びっくりしました、こんなところで日本人に会えるなんて...」
「ま、話は食べながらにしましょう。本当にたいしたものじゃなくて申し訳ないんだけど。」
そう言いながら、匙を取る老婦人に倣って、ユウキも掌を合わせ、
スープ皿のお粥を一匙すくい口に入れた。
- 275 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月27日(月)17時19分29秒
- 水っぽく、さらさらとした感触が口中に拡がった。
味は薄く、具といえば、歯に挟まりそうなほどの小さなとうもろこしの粒がたまに、
歯の裏に引っ掛かるくらいだった。
その触感からユウキは様々なことを直観的に悟った。
目の前の老婦人が自分を客としてもてなしている。そのことを考えるのならば、
これは、この食事は、果たして軽々しくいただきますと言って腹に収めてしまってよいものか。
ユウキは躊躇った。
しかし、静かにこの粥をすする老婦人の厚意を無駄にすることもまたできそうになかった。
率直に言って、このお粥はひどく不味かった。
自分の家でこれを食事として出されたら、恐らく母親と喧嘩になるくらい、ひどい罵声を
浴びせてしまいそうなほど。
だが、ここは住み慣れた我が家ではない。
このほとんど味のない白湯のような粥はおそらく彼女とその家族にとって、
命を繋ぐために惜しんで余りある糧であるはずだった。
だが、この人は食べろと言う。
見ず知らずの自分に食べろという…
ユウキは思わず零しそうになる涙を必死でこらえ、自分を諭した。
だめだよ…せっかく分けて貰った塩分を無駄にしちゃ…
- 276 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月27日(月)17時20分16秒
- 「ところで、お礼を言ってませんでしたね。助けていただいてありがとうございました。」
「どういたしまして。」
ユウキは自分を鼓舞するように、わざと陽気に振舞った。
黙っていると、いろいろ想像して本当に泣いてしまいそうだったから。
「お世話になっていて、なんなんですけど…僕、一体、どういうわけで…」
「あら、ごめんなさい。説明してなかったわね。朝起きたら、家の前で倒れていてね。」
「はぁ、そうですか…ご迷惑をおかけしました。」
頭の裏を掻いて照れ笑いを浮かべてみるが、予想通り、自分の不手際で迷惑をかけたようだ。
老婦人は屈託のない笑顔で、なんでもないと手を振って応える。
「いいのよ。最近、多いの。食べ物を探し歩いてるうちにお腹が空いて倒れちゃう人。
あなたが初めてってわけでもないし。」
「そうですか。僕も道中、そんな感じの人をたくさん見ました。」
「最近は軍隊でさえ、まともに配給を受けてないみたいだから…たまに人民軍の兵隊さんも
転がり込んでくるわ。」
- 277 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月27日(月)17時20分47秒
- 屈強な兵士が子どものように畏まって、食べ物を請う姿を想像したものか、老婦人は
ホホ、と上品そうに手で口を隠しながら笑うと、ユウキに尋ねてきた。
「で、あなたはどういうわけで、こちらにいらしたの?もう何年も帰国者の話は聞いて
いないけれど。」
「いや、帰国者ではないのですが、父の祖国を一回、見て周りたいと思いまして…
とりあえず、价川の親類の家まで、歩いて行くつもりだったのですが…」
ユウキは平壌を出る前に、協力者と打ち合わせた通りの言葉をすらすらと連ねた。
もし万が一、官憲に身分を確認された場合の理由として用意していた。
それを照明するための通行証…のコピーもある。
「まあ、よくそんな許可が降りたわね。」
「ええ、まぁ仕送りなんかでは大分、貢献してましたし、いろいろと日本から渡るときに
手土産も…もう、ほとんどなくなっちゃいましたけどね…」
驚く、老婦人にユウキは弁舌爽やかに説明する。
そのための腕時計やパンストなどもかなりな数、持参してきたのは事実だった。
- 278 名前:業務連絡 投稿日:2002年05月28日(火)19時49分57秒
- スレ容量が250KBを超えましたので、新スレに移行します。
移動先:http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi?dir=moon&thp=1022582658&ls=25
今後ともよろしくお願いいたします。
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