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モーニング・コーヒー 【2】
- 1 名前: 作者 投稿日:2001年09月08日(土)00時18分57秒
http://mseek.obi.ne.jp/cgi/hilight.cgi?dir=sea&thp=997115754
からの、続きです。
石川梨華が主人公の、パラレルもの。
登場メンバーはかなり少なく、更新もそれほど頻繁では
ありません。あらかじめ、ご了承ください――。
- 2 名前: 26 投稿日:2001年09月08日(土)00時22分36秒
ひとみはあれから毎日のように、梨華の前に執拗に姿をあらわし
ては、学園内での梨華の肩身を狭くさせた。
嫉妬による嫌がらせは、ほぼ毎日のように受けた。
だが、誰がその犯人なのかは分からない。梨華が、ほんの少し教
室を離れて戻ってくると、机の上がカッターのようなもので削ら
れていたり、カバンの中にゴミが山のように入ってたりするのは、
もはや日常茶飯事となりつつあった。
「……まただ」
教室の後ろにある梨華のロッカーは、接着剤により閉じられてい
た。何度かガタガタと扉を揺らしてみたが、一向に開く気配はな
かった。
梨華は体操着を胸に抱いたまま、うつむいてトボトボと自分の席
に戻った。
ほくそ笑むような視線を感じていたので、顔を上げることもでき
ずに、うつむいたままカバンの中に体操着をつめ込んだ。
- 3 名前: 26 投稿日:2001年09月08日(土)00時23分56秒
――昼休み。
チャイムが鳴ると同時に、梨華は教室を後にした。
廊下をうつむきながら歩いていても、そのヒソヒソとした話し声
は否応無しに梨華の耳に飛び込んでくる。
誰しもが、自分とひとみの関係を噂していた。
『石川さん』
その声に、梨華はすぐに振りかえった。あの日以来、まともに顔
を合わす事もできなくなった柴田あゆみがそこにいた。
「あゆみちゃ――」
あゆみは、誰の視線にも晒されない廊下の角へと梨華を引きこん
だ。
「大丈夫?」
あゆみは、うつむく梨華の顔を心配そうに覗きこんだ。
「……」
「ごめんね。なんの力にもなれなくて……」
「あゆみちゃん……」
「びっくりはしたよ。でも、私はあんな事しない」
と、あゆみは真剣な目で梨華を見据えた。
- 4 名前: 26 投稿日:2001年09月08日(土)00時25分13秒
「あゆみちゃんになら、何をされてもいい。ずっと、騙してたん
だもん……。でも、私、あのひ……吉澤さんとは、そんなんじゃ
ないから。今はまだ私だけの判断ですべて言えないけど……、本
当にそんなのじゃないから。信じて」
と、梨華もまた同じように真剣――いや、すがるような目であゆ
みを見据える。
「もう、いいって。今ね、私、他に好きな人がいるから、なんと
も思ってない」
あゆみは清々しい笑顔を浮かべると、おもむろに梨華の手を両手
で包みこんだ。
「嫉妬でいろんな妨害があるかもしれないけど、負けずに頑張っ
て。私、応援してるから」
「あ、あゆみちゃん、あ、あのね」
何か勘違いされている。早くその誤解を解かないとと、口を開け
かけた時――。
『負けませんよ』
あゆみが振りかえる。
梨華は、あゆみの後ろに視線をやりがっくりと肩を落とした。
ひとみが軽い微笑を浮かべながら、歩いてきていた。
- 5 名前: 26 投稿日:2001年09月08日(土)00時26分22秒
「吉澤さん……」
「お久しぶりです」
ひとみは、あゆみに軽く会釈をする。
「なかなか来ないから、迎えに来た」
「べ、べつに、待ち合わせなんかしてないでしょ」
やって来たひとみは、フッと笑ってあゆみに言う。
「彼女、いつもこうなんです。照れ屋さんみたいで」
何を言ってるのことの人は――と、びっくりしてひとみを見上げ
る梨華。
あゆみは、苦笑のようなものを浮かべて梨華の肘を突っついた。
「ち、違うの。そうじゃないの」
「あ、先輩に言っておきますけど、あの時、付き合ってるって言っ
たのは石川さんじゃありませんから」
「あ、うん」
「ちょっと、もういい加減にしてよ」
と、梨華はひとみへと歩み寄る。
「あのね」
と、梨華がひとみの前に立った瞬間、ひとみがその肩を激しく抱
き寄せた。
「!?」
「いい加減許してよ、昨日の事は謝るからさ」
悪魔の微笑み――だと、梨華は思った。あゆみがボーっと見惚れ
ているのがその何よりの証拠で、梨華も思わず見惚れてしまいそ
うになるほどその微笑みは完璧だった。
- 6 名前: 26 投稿日:2001年09月08日(土)00時28分15秒
「なんか、邪魔みたいだから、私、これで失礼するね」
「違うの、あゆみちゃん」
「じゃあね」
と、あゆみは笑顔で手を振りながら去っていった。
梨華は呆然とその背を見送った。ハッと我にかえり、ひとみから
身体を離した。
「最低ッ。なんであんな事、言うの」
「なんでって――、あんたも本当にバカだね。自分の立場、まだ
わかってないの?」
「誰のせいで、こうなったと思ってるのよ」
と、梨華は泣きそうになりながら訴えた。
「アタシのせいだって、言いたいの?」
「そうじゃない」
「なんで?」
と、ひとみは冷笑を浮かべて、梨華へと顔を近づけた。
「なんでって……、だって……」
「だって、何よ」
「もうっ、顔近づけないでっ」
梨華は、ひとみを突き放した。その距離は、キスをされそうなほ
ど近づいていた。梨華の顔は、真っ赤になっている。
正反対にひとみは、余裕の笑みを浮かべていた。
- 7 名前: 26 投稿日:2001年09月08日(土)00時29分32秒
「自慢じゃないけど、もてるよ」
「……」
「今までアタシと噂になった子は、みんなイジメにあって転校し
ていった」
「……ひどい」
ひとみは、フッと笑って窓外に目をやる。
「知らないよ。ただの噂なんだから」
「……でも、私の場合は確信的じゃない。そうなるのわかってる
のに」
顔をしかめる梨華を、ひとみはちらりと見やった。
「最初からこうしたかったの……?」
「……?」
向き直ると、梨華はポロポロと涙をこぼしていた。
「もう、ヤダ……。本当に疲れたよ……」
「ち、違う……」
狼狽するひとみだったが、果たして本当に違うのだろうかと冷静
に分析する自分がいた。
確信犯――。そう。ひとみには、梨華がこうして追い込まれる事
はわかっていた。だが、もう一方で梨華を独占するためには絶対
に必要な事であった。
だが、はたしてそれは正しかったのか。ひとみは梨華の涙を、正
視する事ができなかった。
- 8 名前: 26 投稿日:2001年09月08日(土)00時31分55秒
けっきょく、自分は純粋に人を愛せないのではないだろうかと自
虐的になった。
――ひとみが、ふたたび心を閉ざしかけた時、梨華が苦悶の表情
を浮かべてその場にふさぎこんだ。
「梨華!」
ひとみは、思わずそう叫んでいた。身体は瞬時に、梨華を支える
ために動いた。
額に浮かぶ汗、青ざめた顔色。腹部を抑えて、身体を縮めている。
何が起こったのかわからないが、ひとみは梨華を強く抱きしめて
叫んだ。
「誰か! 救急車! 誰か!」
ひとみの声を聞きつけて、大勢の生徒たちが廊下の角に集まって
きた。
「梨華! しっかりして! 梨華!」
気が狂わんばかりに叫ぶひとみの姿を見るのは、その場にいた全
員の生徒が初めてであった――。
- 9 名前: 27 投稿日:2001年09月08日(土)00時33分09秒
梨華は、学園からそう遠くない医科大付属病院へと救急車で運ば
れた。
胃潰瘍を患う一歩手前の状態で、命に別状はないものの3日程度
の入院が必要となった。
「ストレスか……」
知らせを受けてすぐに病院に駆けつけた紗耶香は、先に来ていた
藤村から事情を聞き表情を曇らせた。
「精神的にもお仕事で肉体的にも、さぞお辛かったんでしょう」
「――ひとみは?」
「ここへ運ばれてから、ずっと石川様のお側に」
「……そっか」
「入院の準備などがございますので、少しお屋敷のほうに戻らさ
せて頂きますが」
「あ、うん。頼むね」
「では」と、藤村は一礼して去っていく。
――病室のドアをノックする音。
薬によって眠らされている梨華を起こさないように、ひとみは静
かにドアへと歩いた。
- 10 名前: 27 投稿日:2001年09月08日(土)00時34分33秒
ドアを開けると、そこに紗耶香が立っていた。いつか来ると予想
していたので、特に驚くこともなかった。
「石川の具合……、どう?」
ひとみは、何も言わずに視線だけで促した。
「……ちょっと、いいかな」
と、紗耶香も目でひとみを廊下に誘った。
「……」
心残りではあったが、安静状態を強いられている梨華の周りで声
を聞かせるのも悪いので、黙って廊下に出て行った。
「救急車が来てたのは知ってたけど、まさか石川だったなんてさ」
紗耶香は、廊下の窓外に見える中庭を眺めながら言った。
「……ストレス性の胃炎だって」
「……」
「――あの時、ひとみがなんで石川のこと引きとめたのか、アタ
シにはわかんない。――でも」
紗耶香は、口をつぐんだ。
「……あの家から、追い出すって言いたいの?」
ひとみは、強い視線を向ける。
「追い出すんじゃないよ。たださ、もうあの家にいなくてもいい
んじゃないかって言ってんの」
紗耶香は、軽い微笑を浮かべていた。その微笑が、ひとみにはな
ぜか苛立たしかった。
すべてを悟ったような、その微笑が――。
- 11 名前: 27 投稿日:2001年09月08日(土)00時36分17秒
「父さんが帰ってくるまでは――って、アタシも思ってたんだけ
ど。もう、いいんじゃないかな」
「また、金で解決するつもり……」
と、ひとみは嘲笑した。
「それじゃ、たぶん石川が納得しない」
「言われなくてもわかってる。姉さんより、アタシの方があの子
と一緒にいた時間が長い」
「あ、うん。そだね」
ひとみは、舌打ちのようなため息を吐くと紗耶香から目をそらし
た。
「だから、とりあえず家と新しい学校を手配する事にして、それ
らにかかった費用なんかはウチが立て替えて、返せる時に返せる
額だけ払ってもらうってのはどうかな。これだと、石川に変な気
を使わせることもないだろうし」
「あんなのが1人で生きていけると思ってんの?」
「……どういうこと?」
「お人よしでおせっかいで、そのくせ世間知らず。どっかのバカ
に利用されるのが落ち。――けっきょく、姉さんは父さんと一緒。
慈悲の目を向けながら、そのくせ何も本質を見ようとしない」
「……」
「……」
しばらく無言の時が流れた。
病院内にいくつもあるはずの生活音はまったく届いていないか
のように、2人はそれぞれの内なる世界に入り込んでいた。
- 12 名前: 28 投稿日:2001年09月08日(土)00時39分05秒
その女性は、紗耶香が病院の敷地を出たところからずっと一定の
距離を開けて後を尾けていた。
ほんのちょっとしたイタズラ心。いつ気づくだろうと、楽しみに
していたのだが紗耶香は一向に振り向く気配がなかった。
このままだと、駅とは随分離れてしまうと考えた女性は、タッタッ
タと軽い足どりで紗耶香へと駆けていった。
『紗〜耶〜香』
ちょうど信号で立ち止まった紗耶香を、後ろから手を伸ばしてそ
の視線を塞いだ。
一瞬、ビクッとした紗耶香だったがすぐにその声でわかったのだ
ろう。
「あのね、なっち」
「なんだ、バレてたんだ」
「声ぐらい変えたら」
と、紗耶香は安倍なつみに振り返った。
- 13 名前: 28 投稿日:2001年09月08日(土)00時40分14秒
「へへ。そだね。今度からそうするよ」
なつみは、イタズラっぽく笑った。紗耶香は正直なところ、かな
り落ち込んでいたのだが、なつみの笑顔を見てスッと心が軽くなっ
たような気がした。
「なんか、あった?」
「え?」
「いつもの紗耶香っぽくないね。なんか悩み事?」
紗耶香はそれには答えず、青信号となった道路を歩きはじめた。
なつみもあわてて後を追う。
悩みなのかどうなのか、紗耶香にはわからなかった。
ただ、ひとみにいわれたあの言葉が重く心にのしかかっていた。
”父さんと一緒” ”何も本質を見ようとしない”
なつみの顔を見た瞬間、そのことを忘れてしまった自分。
やっぱり、ひとみの言う通りなのかもしれないと紗耶香は、歩き
ながら考えていた――。
- 14 名前: 28 投稿日:2001年09月08日(土)00時41分55秒
病院の個室。
窓から差し込む夕日がきつくなり、ひとみはカーテンを閉じた。
ひっそりと静まり返った病室には、梨華の寝息だけが聞こえてい
た。
「……」
ひとみは、窓際から眠っている梨華をただ見つめる。
穏やかな寝顔。
ほんの少し微笑んでいるような――、何か良い夢でも見ているの
だろうか――。
その寝顔を見つめていると、いつの間にかひとみの顔にも自然な
笑みがこぼれていた。
梨華のまぶたがゆっくりと開き始め、ハッと我に帰ったひとみは、
素早く窓の外に目をやろうとした。
しかし、そこにはカーテンが引かれている。
目のやり場に困り視線を漂わせていると、目覚めた梨華とバッチ
リ視線が合ってしまった。
- 15 名前: 28 投稿日:2001年09月08日(土)00時43分42秒
梨華はしばらく状況が理解できなかったのだろう。ひとみをジッ
とベッドの上から眺めていた。
何か声をかけなければと、ひとみが考えている間に、梨華は怯え
たように辺りを見渡した。
「ど、どこ……、ここ……」
シーツを掴んで視線だけをキョロキョロと動かすその仕種に、ひ
とみはただ見惚れていた。
「ねぇ、どこなの……」
「かわいい」
「……へ?」
「……は?」
ひとみは、ハッと我にかえった。
言ってしまった!
心の中で考えていたことを、つい口に出して言ってしまった。
梨華の動作を見ながら、ぼんやりと考えていたことを――。
ひとみの顔は、見る見る内に真っ赤になった。
「かわいいって……何が?」
と、梨華はまた辺りをキョロキョロと見渡した。
見渡してもどこにもかわいいものなどは存在しないのを、言い訳
を考え一足先に辺りをうかがったひとみにはわかっている。
- 16 名前: 28 投稿日:2001年09月08日(土)00時45分17秒
「あんた、ホントにバカだよね」
腹を決めて、いつものペースに戻すことにした。むろん、まだ平
常心は取り戻していない。
「病院……?」
「そう。学校で倒れてね」
「そっか……」
「ストレス性の胃炎。もう少しで胃潰瘍になるところだったって」
「……」
うつむいた梨華が、さっきの言葉を気にしていないようだったの
で、ひとみはホッとした。
髪をかきあげながら、平常心が取り戻されつつあるのを認識する。
だが、平常心が戻りつつあるのと同時に梨華に対する懺悔の気持
ちが沸きあがってきた。
紗耶香の言うように環境が原因で、梨華はストレスを感じていた
のかもしれない。しかし、その大きな原因は自分にあるとひとみ
はそう思っていた。今度こそ、このままでは本当に梨華が家を出
ていってしまうかもしれないと不安になった。
- 17 名前: 28 投稿日:2001年09月08日(土)00時46分41秒
「その……」
うつむくひとみとは反対に、梨華が顔を上げる。
「別に……、そんなつもりじゃなかった……。学校でのこと」
「……」
「……」
ひとみは、言葉に詰まった。素直になれない自分がとてももどか
しかった――。
そんなひとみを見かねたのか、梨華がクスリと笑う。
「……?」
「もう、いいよ」
「え?」
「その代わり、呼び捨てにしないでよ。あなたより、私の方がほ
んの少しお姉さんなんだから」
と、梨華は微笑んだが、ひとみにはその意味が分からなかった。
「梨華。しっかりして――って……」
あ……。
ひとみは、思い出した。つい、無意識にそう叫んでいた事を――。
「あ、あれは――」
と、ひとみは顔を真っ赤にする。
梨華はシーツで顔を隠しながら、クスクスと笑った。
- 18 名前: 作者 投稿日:2001年09月08日(土)00時50分02秒
- 26〜28回分の更新終了しました。
- 19 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月08日(土)01時56分43秒
- ぉお。りかっちとよっすぃの関係がイイ感ズィになってまいりましたね。
- 20 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月08日(土)02時24分52秒
- いいぞ〜ひとみ素直になっちゃいなよ!ついでに梨華に甘えちゃいなよっ。
- 21 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月08日(土)02時47分16秒
- さりげに甘々な感じが良いっすねぇ
おもわずよっすぃが「かわいい」って言っちゃった後の
戸惑ってる姿に萌え。
- 22 名前:名無し女。 投稿日:2001年09月08日(土)05時21分27秒
はぁ…。面白いです。何か引き込まれます。
更新楽しみにしてますので、頑張って下さい☆
- 23 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月08日(土)11時22分40秒
- いい展開です!!
- 24 名前:コカライト 投稿日:2001年09月08日(土)12時17分45秒
- すごくおもしろいです。
続きがかなり楽しみ。
- 25 名前:バリボー 投稿日:2001年09月09日(日)01時48分23秒
- 次からもしかして呼び名が変わるのかな〜♪
だけど市井ちゃんの方も気になりますね。
どうなるんだろう…。
楽しみにしてますので頑張ってくださいねっ。
- 26 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月10日(月)14時18分14秒
- >でも、私、あのひ……吉澤さんとは、そんなんじゃないから
この梨華ちゃんのセリフに萌え(w
- 27 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月11日(火)04時05分43秒
- 良いです。
石川と吉澤のこれからの関係が楽しみです。
- 28 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月11日(火)17時09分37秒
- いしよし♪
- 29 名前:まなぴょん 投稿日:2001年09月11日(火)19時10分17秒
- 胸が苦しくなる、いい小説ですね。私も恋愛したい!
- 30 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月12日(水)00時02分45秒
- 続きに期待です
- 31 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月12日(水)11時34分34秒
- かなり下がったし、そろそろ・・・(w
- 32 名前: 29 投稿日:2001年09月13日(木)00時06分32秒
たった3日の入院だったが、梨華にとってはとても有意義なもの
だった。――反面、悲しい事もあった。
有意義なのは、ひとみがほぼ毎日24時間ずっと付き添ってくれ
た事で、それだけでも梨華にとっては驚きだったのだが、もっと
驚いたのは優しく接してくれたことであった。
病人だから当たり前なのかも知れないと思った梨華だったが、素
直にひとみのたどたどしい優しさはとても嬉しかった。
その優しさに触れたことだけでも、とても有意義な入院生活だっ
たと思わなければならない。
悲しいのは、あの紗耶香がただの1度もお見舞いに訪れてくれな
かったことである。
藤村から聞いて、入院した当日に来てくれたのは知っていたが、
梨華の眠っている間のことであり、梨華は退院するまで直接、紗
耶香に接する事はなかった。
「どうしちゃったんだろう……」
梨華は、病院の個室で帰り支度をしながらそう呟いた。
わずか3日間の入院なので、荷物も小さな紙袋で済む。しかし、
さきほどから紗耶香のことばかりを考えているので、その作業は
一向にはかどらなかった。
- 33 名前: 29 投稿日:2001年09月13日(木)00時07分50秒
藤村とひとみが病室を出て行って10分。
病室のドアがノックされた。
「あ、はい」
ハッと我にかえった梨華は、帰り支度がほとんどできていないこ
とに気づきあわてて手を動かした。藤村が退院手続きを終えて戻っ
てきたのか、それともロビーで待つのに痺れをきらしたひとみが
呼びに来たのか――どちらにせよ梨華は焦った。
『あの……』
と、女性の声が聞こえ、梨華は「?」と振りかえった。
梨華の知らない女性が、少し緊張した面持ちで立っていた。
「あの、石川梨華さんですよね?」
と、女性はドアにあるネームプレートを確認しながら言った。
「あ、はい」
「はじめまして。わたし、安倍なつみって言います」
「はじめまして……」
と、挨拶はしたもののその女性に梨華はまったく見覚えも心当た
りもなかった。
なつみは、ただニコニコとその場に立っていた。
- 34 名前: 29 投稿日:2001年09月13日(木)00時11分34秒
「身体の方、もう大丈夫ですか?」
両手を後ろに回して、笑顔で首を傾げるその姿。ひとみが冷笑を
浮かべて髪をかきあげるように、なつみのその仕種はその容姿に
見事にマッチしていた。
「あ、はい……」
梨華の頭の中では、誰なんだろうという疑問が駆け巡っていた。
白衣を着ているが、医者にしては若すぎる。いったい、誰なのだ
ろうか? 梨華の記憶の中に、その女性は存在しなかった。
なつみもきょとんとした表情浮かべている梨華を見て、不思議な
感じがしたんだろう。
「え? 紗耶香の知り合いですよね?」
「紗耶……香?」
「市井紗耶香」
「あ――、はい。知ってます」
と、梨華は作業したままの手を引っ込めて、なつみに向き直った。
「あれ? なんか、おかしいなぁ」
なつみは、困ったように笑いながら頭を掻いた。
――互いの話を総合すると、どうやら紗耶香から梨華に自分の存
在を知らされていると、なつみは勘違いしてたらしい。
だが、梨華は今まで1度もその名前を聞いた事がなかった。
「わかんないよねー、ごめんね。だって、お見舞いに行っていいっ
て聞いたら、紗耶香がウンって言ったから、てっきり私のこと話て
ると思って。うわー、恥ずかしいね」
なつみは、笑いながらも顔を真っ赤にしていた。
- 35 名前: 29 投稿日:2001年09月13日(木)00時13分36秒
――遅い。
ひとみは1Fのロビーで、足で苛立ちのリズムを小刻みに刻みな
がら待っている。
玄関先に回した藤村の運転するハイヤーが見え、ひとみはもたれ
ていた壁から身を起こした。
『ごめん。待った』
声のする方向に視線をやると、梨華が紙袋を両手に下げバタバタ
と走ってきていた。
「たった、こんだけの荷物でなんで30分もかかるわけ?」
と、ひとみは少し拗ねたように梨華から顔を背けた。
「ごめん……」
「――はい」
ひとみが梨華の顔を見ずに、手を差し伸べる。
「――荷物」
「あ、いいよ。これぐらい、自分で持てる」
「いいから」
と、ひとみはまるで奪い取るかのように、梨華の荷物を両手に下
げて歩いた。
このたどたどしい優しさが、あれ以来ずっと続いている。
顔を見ないのは照れているからであり、その証拠にひとみの耳が
真っ赤になっている。梨華は入院生活を通して、ひとみの可愛い
一面を理解する事ができた。
――と、ぼんやりしてるとまたひとみに怒られそうな気がしたの
で、梨華はあわててひとみの後を追いかけた。
たどたどしい優しさはあったものの、あいかわらず毒舌は健在だっ
た。もっとも、毒舌というよりも叱られているに近かったのだが。
(これじゃ、どっちが年上なのかわかんないよ)
梨華は苦笑しながら、ひとみの後をパタパタと追いかけた。
- 36 名前: 29 投稿日:2001年09月13日(木)00時15分06秒
繁華街の裏路地にある、小さな飲み屋が軒を連ねた通りを地元の
人間は「千鳥横丁」と呼んでいた。
その一軒の小さなスナック「真美」から、真希が出てくる。
浮かない顔でドアの中を、振りかえる。
2階住居に繋がる階段の下には、真っ赤なピンヒールと履き古し
た男物の革靴があった。
「……」
真希はその2つの靴を、いや、片方の赤いピンヒールを冷たい目
で見下ろすと、おもむろにドアを強く閉めた。
2階からかすかに聞こえてきていた情事のそれも、ドアを閉める
と同時に聞こえなくなってはいたが、真希の耳にはいつまでも木
霊している。
いつもの事であり、もう慣れているはずだと自分に言い聞かせな
がら、「千鳥横丁」をフラフラと歩いた。
その目は特にどこも見ておらず、何度かすれ違う通行人とぶつか
りそうになったが、真希の目には何も映っていなかったので気に
ならなかった――。
- 37 名前: 30 投稿日:2001年09月13日(木)00時16分34秒
梨華のクスッという笑いに、ひとみがすぐに反応して振りかえっ
た。市井家にある自分の部屋のベッドに腰掛け、梨華はクスクス
と笑っていた。
「……なに?」
と、カーテンを開けに行っていたひとみが、いぶかしげに呟く。
「あ、ううん。ちょっとね」
「気持ち悪い。ちゃんと、言って」
「あのね――、ここに帰って来た時にね、なんかすっごいホッと
したの」
「……それって、そんなにおもしろい?」
「だって、ついこの前まで私、ここにいるの嫌だって言ってたん
だよ」
と、梨華は終始クスクスと笑っていた。
「ああ、言ってたね」
「なのに、ホッとしたのが可笑しくて」
梨華の笑顔を見ているひとみにも、自然と笑みがこぼれた。
そんな風に考えてくれるようになって、ひとみは内心ものすごく
ホッとしていた。
「人の気持ちって、いろんな風に変わるんだね」
梨華の何気ない一言で、ひとみは急に現実に引き戻されたような
気がした。
真希の顔が頭をよぎり、罪悪感のようなものがこみ上げてきた。
- 38 名前: 30 投稿日:2001年09月13日(木)00時19分21秒
今まで忘れていた。いや、忘れていたというよりも、忘れようと
していた。
梨華の事で頭の中をいっぱいにして、その存在を自分の中から押
し出そうとしていたのだ。
だが、ひとみの中に真希の存在は強く残っていた。
真希を自分のものにしたいと思ったのは、恋愛感情や同情ではな
く、姉の紗耶香に対する嫉妬からだった。
その罪悪感を認めることができず、ひとみは真希と付き合ってい
た。
「どうしたの?」
顔を上げたひとみの目に、いつの間にか側に立ち、心配そうな表
情をしている梨華が映った。
その純粋な瞳に映る自分が、とても不純なように思えてひとみは
思わず目をそらした。
梨華の眼差しを正面から受け止めたい。
そのためには、不純な気持ちのまま向き直るべきではないと、ひ
とみは考えはじめた――。
- 39 名前: 30 投稿日:2001年09月13日(木)00時22分16秒
――コンコン。
ドアがノックされた時、紗耶香はちょうどシャワーを浴びて髪を
拭いていた。
誰だろう。こんな時間に……。
壁の時計は、もう24時を回っている。
寝静まったみんなを起こさないように、静かに帰ってきたつもり
だったが――。藤村でも起きてきて説教が始まるのかと、紗耶香
は少々ウンザリとしながら部屋のドアを開けた。
「石川……」
ドアの前に立つ梨華の姿を見て、紗耶香は素っ頓狂な声を出した。
「あ、あの、遅くにすみません」
と、梨華は素早く頭をさげた。
「いや、別にいいけど……。あ、そうか、今日、退院の」
「あ、はい……」
梨華の声は、まるで呟きのように小さく落ち込んだ。退院の日す
ら、覚えられていないのがショックだった。
「……あ、その、ゴメン。見舞いとか、ぜんぜん行けなくて」
梨華がショックを受けた事は、紗耶香にもハッキリと伝わった。
無意識なのだろうが、梨華の心情は声や表情に表れていた。
「ちょっと風邪ひいたみたいでさ、移しちゃ悪いと思って……」
と、鼻をぐずらせた。適当な言い訳ではなく、風邪を引いたのは
本当の事だった。
- 40 名前: 30 投稿日:2001年09月13日(木)00時23分30秒
「藤村にバレるとうるさいしさ。ほら、夜遊びばっかりするなっ
て。別にしてないんだけどね」
紗耶香の笑みを含んだ話を聞いて、梨華にもようやく笑顔が戻る。
「で、どうした? こんな時間に」
「あ、あの、今日、安倍なつみさんって方がお見舞いに来てくれ
て」
「え? 今、なんて言った?」
「安倍なつみさん……?」
「なっちが?」
なっち。
そう言えば、自分の事をなっちと呼んでいたことを梨華は思い出
した。
「退院祝いにって……、鉢植えをもらったんです……」
と、梨華は後ろ手に隠していたピンク色の小さな鉢植えを紗耶香
に見せた。
「あ……、これ……」
紗耶香には、その鉢植えの花に見覚えがあった。大学の片隅にあ
る花壇で、なつみが育てていたパンジーだった。
- 41 名前: 30 投稿日:2001年09月13日(木)00時25分08秒
いろいろな花を、なつみは育てていた。中学・高校時代も――。
紗耶香が初めてなつみと出会ったのも、中学校の花壇であり、そ
の時もなつみはパンジーの世話をしていた。紗耶香はその光景を
今でもハッキリと記憶している。
母親が死んで1週間が経過し、久しぶりに学校に向かった日。
授業は耳に入らず、友達の心配する声も気休めにもならなかった
あの日。
夕暮れの校舎をフラフラとさ迷い歩きながら、フッとたどりつい
た校舎脇の花壇。
そこに、なつみがいた。
花に話かけるその姿は、生前の母親を思い出させた。
容姿こそ正反対に違えど、その発する雰囲気がよく似ていたので
ある。市井家の庭園で、母親はいつもそうやって花に話かけなが
ら草花に水を与えていた。その姿がなつみとシンクロして、紗耶
香はしばらくその場から動けなかった。
「市井さん、学校に来るの久しぶりだね」
いつ頃から気づいていたのか――、突然、自分の名前を呼ばれて
紗耶香はわれに帰った。
「あ……、私のこと……」
「知ってるよ。だって、有名人じゃない」
”有名人”その言葉をもしも他人が言っていたら、紗耶香はきっ
とムッとしていたかもしれない。
- 42 名前: 30 投稿日:2001年09月13日(木)00時27分10秒
有名なのは自分じゃなくて、母親に気苦労をかけっぱなしだった
どうしようもない父親であり、そんな内情を知らずに地方の名士
というだけで有名人扱いする他人を、紗耶香は徹底的に軽視して
いた。
だが、なぜかなつみからは嫌な印象を受けなかった。
そう言った時のなつみの笑顔の印象があまりにも強くて、自分の
中の父親に対するわだかまりが薄れてしまっていたのかもしれな
い。
「花もね、楽しい時と悲しい時があるんだよ」
と、なつみは花壇の脇にしゃがんだ。紗耶香はまるで吸い寄せら
れるように、なつみの元へと赴いた。
「でもね、誰かが気づいてあげないと花はその気持ちを伝えるこ
とができないの」
「……」
「人間も同じかもしれないけど、気づいて欲しい時は知らせる事
ができるじゃない?」
と、微笑みかけたなつみ。
なぜか、紗耶香の目から涙があふれた。
その理由は今も分からない。
ただ、なつみの前ではすべてをさらけ出していいような気がした。
それまでただの1度も他人の前で涙を流した事などなかった紗耶
香が、初めて他人の胸の中で大泣きした。
- 43 名前: 30 投稿日:2001年09月13日(木)00時29分14秒
――あの時のパンジー……。
紗耶香は、梨華の手の中にある小さなパンジーを見て心が温かく
なった。
「市井さん?」
梨華の声で、紗耶香はわれにかえった。
「どうしたんですか?」
「あ、ううん。なんでもない。――そっか、なっちが見舞いに」
「あの、それでこれ」
と、梨華がその小さな鉢植えを差しだした。
「?」
「こっちがいいですか?」
と、後ろに隠していたもう1つの手を差しだした。青い色の小さ
な鉢植え。
「1つは市井さんに渡してって、頼まれたんです」
1つはピンク。1つは青色。
なつみには、自分がどちらを選ぶのかが分かっているはず。
そして、次に会ったときにあの笑顔を浮かべて言うのだ。
”青い鉢植え、選んだでしょ”――。紗耶香にも、なつみの考えて
いる事は分かった。
紗耶香は、クスリと笑って青い鉢植えを選んだ――。
- 44 名前: 31 投稿日:2001年09月13日(木)00時32分22秒
翌日。
身体の方はもうすごぶる順調だったが、藤村や紗耶香に止められ
てもう1日だけ大事をとって学校を休む事になった。
ひとみもさも当然のように自分も学校を休むつもりでいたが、藤
村の「お嬢様、私が旦那様に叱られます」との涙ながらの訴えに
渋々学校へと向かった。
紗耶香もひとみもいない市井家で過ごすのは、梨華にとって初め
ての経験だった。
身体の調子が悪ければ、その1日を寝て過ごしていればよかった
のだが、眠るのがもったいないほど体力も気力も充実していた。
「何しようかな〜……」
指を口元に当てて、窓の外に目をやる。
ちょうど、出窓に飾ってあるピンクの鉢植えの花が視界に入った。
昨夜はそれを口実に、紗耶香と少し話をしたかったのだが、紗耶
香が風邪をひいていると言うこともあり、あのあとすぐに部屋を
後にした。
「市井さん……、大丈夫かな……」
今朝の紗耶香は、調子が悪いのに無理をしているように梨華の目
には映った。
なんでもないかのように振る舞い、藤村も家政婦も気づいていな
いようだったが、なんとなく梨華には紗耶香が無理をしているよ
うに感じられた。
「そうだ」
梨華は、両手をパチンと叩き、部屋を駆け出していった。
- 45 名前: 31 投稿日:2001年09月13日(木)00時35分44秒
姉の紗耶香を、学食から戻る途中で見かけたひとみは、その様子
がおかしいことに気がついた。
いつものように、紗耶香の周りには友達と呼ぶよりも取り巻きに
近い連中が数人ほどがいる。
紗耶香は彼女たちの話を笑顔を浮かべてうなずいているのだが、
ひとみにはどこか虚ろな感じに見えた。
通りすぎる際に、チラリと目があった。
その目は少し赤く充血していて、顔もほんのりと赤くなっている。
ひとみに軽く微笑みかけて通りすぎていったが、ひとみはそんな
余裕もないだろうとどこか皮肉っぽく心の中で嘲った。
ほんの少しの間だけ、頭の中から真希の存在を消すことができた
が、視界から紗耶香の姿がなくなった今、ひとみはまた真希のこ
とを考えた。
別れを切り出さなければならない――。
だが、それをどう切り出せばいいのか考えあぐねいていた。
恋愛感情はないが、他の者に抱いているような嫌悪感はない。
どちらかに分類すると、真希は”好きな方”であった。
できれば、ずっと友達のような関係でいたいのだが、それをつま
らない対抗心や嫉妬で壊した自分にはそんな関係を望む権利はな
いように思えた。
――ひとみは、沈んだ気持ちで真希の携帯へ電話をした。
- 46 名前: 作者 投稿日:2001年09月13日(木)00時39分43秒
- 29〜31回分の更新を終了しました。
>>19 あっという間に終わりそうな予感です(笑)
>>20 が、いいと思うんですけど
>>21 必然性があれば、激甘なシーンも(?)
>>22 頑張って終わらせます
>>23 発展しない展開です……
>>24 ストックがかなりなくなりました(苦笑)
>>25 今だに、変わってません……
>>26 ピンポイント萌えですね(w
>>27 石+吉になるのか、どうなのか?
>>28 ↑ ……♪
>>29 誰も「⇔」なってない。なるのかな?(笑)
>>30 続きです→>>32-45
>>31 みなさんの、ご協力のおかげです
ありがとうございます
- 47 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月13日(木)04時39分22秒
やった〜♪更新だぁ!!どうなることやら…。
ドキドキ…。
- 48 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月13日(木)06時37分04秒
- >必然性があれば、激甘なシーンも(?)
「必然性」がやってくるのを楽しみに・・・
- 49 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月13日(木)12時17分02秒
- やっぱり面白い。
- 50 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月13日(木)17時18分02秒
- 更新お疲れさまです。
みんながみんな「⇔」になる日はくるのだろうか・・・?
- 51 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月15日(土)19時46分01秒
- おもろ過ぎます〜。
それにしても、ごっちんの日常はかなりつらいのね。
- 52 名前:コカライト 投稿日:2001年09月16日(日)20時44分37秒
- なにげにいしよし期待。
おもしろいです。
これからもがんばってください。
- 53 名前: 32 投稿日:2001年09月17日(月)00時02分36秒
-
梨華は市井家をこっそり抜け出して、ドラッグストアへとやって
来ていた。風邪をひいた紗耶香のために、風邪薬を買いに来たの
である。
それぐらい、市井家にもあるはずであり、ましてや市井家は病院を
経営しているので、わざわざ風邪薬など買い求めなくても、連絡を
すればすぐに往診にも来るだろう。
だが、梨華はそんな事は考えもしなかった。
学園での昼食が終わる頃を見計らって、風邪薬を届けてあげようと
しか考えていなかった。
「どれにしようかなぁ……。眠くならないやつがいいよね。でも、
薬って意外と高いなぁ……」
ブツブツ小さな声で先ほどからもう数十分も品定めをしていた。
『石川さん?』
品定めをしている梨華の背に、女性の声が届いた。
振りかえると、そこに梨華がアルバイトをしている喫茶店”シャト
レーゼ”の女主人が立っていた。
白い制服の上に、薄手のカーデガンを羽織っている。仕事の合間
に買い物に来たのだろう、そんないでたちだった。
- 54 名前: 32 投稿日:2001年09月17日(月)00時04分27秒
「店長。あ――、おはようございます」
梨華は、手にしていた風邪薬を棚に戻して頭を下げた。
「具合、どう? 大丈夫?」
「あ、はい。もうすっかり良くなりました。あの、長い間休んでご
迷惑おかけしました。あの、明日からは働けるのでよろしくお願い
します」
と、梨華はもう1度深く頭を下げた。
「迷惑だなんて、そんな」
女主人は、梨華の今時の高校生らしからぬ律儀な振る舞いに苦笑し
た。
「紗耶香さんも、よく働いてくれてるから大助かりよ」
「――え?」
と、梨華は下げていた頭を上げた。
「――? 聞いてないの?」
「何を……ですか?」
「石川さんが入院した日に、紗耶香さんが店を訊ねてきてね、退院
するまでの間、石川さんの代わりに働きますからって」
「市井さんですか? 市井紗耶香さん?」
「ええ。びっくりしたわよ。あの市井のお嬢様が働かせてください
なんて言ってくるから。最初は冗談かと思ったわ」
と、女主人は微苦笑しながら近くの棚にあった商品を手にとって眺
めた。
(なんで……、市井さんが……)
梨華は当初の目的も忘れで、ただその場にぼんやりと佇んだ。
- 55 名前: 32 投稿日:2001年09月17日(月)00時05分27秒
高校には通わず、日がな一日をブラブラしている真希には時間は有
り余るほどであった。
昼間、ぼんやりと街を歩いているときにひとみから電話がかかって
き、待ち合わせの時刻までにはまだ3時間ほどあったのだが、真希
は電話をきるとすぐに駅前のモニュメントへと向かった。
どんな理由なのかは分からないが、それでもひとみから「会おう」
と誘われたことが真希にはとても嬉しかった。
あの日、駅近くで喧嘩別れのような別れ方をして以来、ひとみと会
う事はなかった。1度、市井家に訪れたもののそこにひとみの姿は
なく、代わりにちょうど帰宅した紗耶香と時間を過ごしてしまった。
かなりの時間を待ったのだが、けっきょくひとみと会う事はできず
にそれきりとなった。
会おうと思えばいつでも会えたのだが、中途半端な気持ちのままで
ひとみと会う事はなんだかひとみに失礼なような気がし、この10
日間あまりを自分の気持ちと向き直るために費やした。
自分はいったい、ひとみと紗耶香のどちらが好きなのか――。
答えは出なかった。
出なかったが、ひとみからの誘いはその迷いを吹き飛ばす強い風の
ような気がする真希であった。
- 56 名前: 32 投稿日:2001年09月17日(月)00時07分43秒
放課後。
ひとみはまたも、バレーの練習をサボった。梨華が倒れてからとい
うものの、1度も練習には行っていない。
だからといって、監督である教師に注意をされることもなければ、
チームメイトに練習に出るように誘われることもなかった。
ひとみが扱いにくいという理由もあったが、誰しもがひとみの才能
を認めており、ほんの数日ぐらい練習を休んだからといってその技
術が廃れるものではないと知っていたからである。
ひとみは、練習をサボって待ち合わせ場所に指定した駅前のモニュ
メントへと向かっていた。
ほんの少し、待ち合わせ時刻よりも早くついたにもかかわらず、も
うすでに真希はモニュメントの前で待っていた。
なんとなくわかっていたことではあったが、できれば今日だけは真
希を待ちたい気分であった。
待ちながら、もう少し考える時間がほしかった。
どんな風にすれば、真希を傷つけることなく別れることができるの
だろうか……。
- 57 名前: 32 投稿日:2001年09月17日(月)00時10分03秒
梨華は、喫茶店「シャトレーゼ」から少し離れた場所、店内にいる
従業員達に見つからない場所に、ひっそりと身を隠してその人物が
現われるのを待っていた。
正確には、現れないことを願っていたのかもしれない。
(市井さん……)
梨華は、ドラッグストアのビニール袋を胸に抱いた。
紗耶香が自分のために働いてくれているなど、まったく考えていな
かった。そればかりか、入院中にお見舞いに来てくれない事をほん
の少しではあるが、”冷たい”と感じた。
喫茶店の女主人からその話を聞かされた時、梨華はそれでもまさか
そんな事があるはずがないと否定した。
予備校や受験勉強などで忙しい紗耶香が、わざわざ貴重な時間を割
いてそんな事するはずがないと――。
ましてや、風邪気味で今日も少しフラつきながら家を出たのだ。
現われるはずがない……。
きっと、何かの間違いだと――そう、思いたかった。
――止まらない予感がしていた。
同情で自分の代わりに働いてくれているのは、梨華は十分承知して
いる。だからこそ、現われてほしくなかったし、否定のしようがな
いものを必死で否定している。
- 58 名前: 32 投稿日:2001年09月17日(月)00時11分21秒
紗耶香の優しさが、梨華には辛い。
紗耶香に対して何の感情もなく、ただの友達または先輩に抱くよう
な感情ならば、ただ感謝するだけでいい。「ありがとうございまし
た」とお礼を言えばいいだけだ。
しかし、梨華はもうすでに気付いてしまっていた。
出会った頃から、市井紗耶香という女性に恋愛感情を抱いている事
を――。今まで気づかないフリや、考えないようにして、誤魔化し
てきたが、もしも紗耶香が現われればその感情を押さえ込む事がで
きなくなってしまうだろう。
報われないとわかっていながら、紗耶香への気持ちを止められなく
なってしまう。
(来ないでください……。市井さん……)
うつむきながら、梨華は心の中でぽつりと呟いた。
通りのずっと先に、喫茶店「シャトレーゼ」へと向かって歩いてく
る紗耶香を見つけた時、梨華はもう涙を流していた。
否定しながらも、絶対に現われる事はわかっていた。
なぜなら、梨華は紗耶香のそんなところを好きになってしまったの
だから――。
咳き込み、立ち止まる紗耶香を見たとき、梨華の身体は反射的に通
りへと飛び出していた。
- 59 名前: 32 投稿日:2001年09月17日(月)00時12分22秒
「あれ……? 石川。何やってんの、こんな所で」
咳き込み涙目になった紗耶香は、それでもいつもの笑顔を浮かべて、
自分の目の前へと突然駆け出してきた梨華に声をかけた。
梨華は、そんな紗耶香を見ただけで涙を止めることができなかった。
「な、なに……? どうしたの……?」
そう言って微笑みながら、梨華に触れようとした紗耶香の手がスッ
と宙を舞う。
と、同時に梨華の胸へと紗耶香が倒れ込むようにしてもたれかかっ
てきた。
「い、市井さん!」
「あ……、ごめん……」
身を起こそうとした紗耶香だったが、梨華はその身体をギュッと抱
きしめた。
- 60 名前: 32 投稿日:2001年09月17日(月)00時13分29秒
「石川……」
抱かれたまま、紗耶香は梨華の耳元で苦笑しながつぶやいた。
「あ……、ありがとう、ございました……」
梨華は、声をしゃくりあげさせる。
「……は? なに……? 急に……」
「私、ぜんぜん気付いてなくて、市井さんお見舞いに来てくれない
のも、私のことなんてどうでもいいから来てくれないんだって思っ
てました。ごめんなさい。ごめんなさい」
抱きしめた紗耶香の体温は、もうすでに肉体的には限界に近いよう
に感じられた。ここまで歩いてくるのも、並大抵の気力を要するだ
ろう。
梨華はよけいに涙を止める事ができなかった。
「……なんだ。……バレてたのか」
「ありがとうございました……」
「ハハ。カッコ悪いなぁ……」
紗耶香は、梨華の泣いている声をすぐ耳元で聞きながら微笑んだ。
- 61 名前: 33 投稿日:2001年09月17日(月)00時15分21秒
――行き交う人々を喫茶店の窓ガラスごしに眺めながら、ひとみは
もうすっかり冷えてしまい残り少なくなったレモンティーを一気に
飲干した。
向かいの席に座っている真希も、さきほどからひとみの様子がいつ
もと違うことを敏感に感じとっている。
強い風――、きっとそれは吹かない。
そう、予感していた。
「ごっちん……」
ひとみは窓の外に顔を向けたまま、今までに真希が聞いたことのな
いような弱々しい声を発した。
「……なぁに?」
「……」
「……言いたい事があんなら、はっきり言って」
真希は、ひとみとは反対に少し強い口調で言い放つ。
「……」
ひとみが、神妙な顔をして真希へと向き直った。
こんなにも緊張したひとみの姿を見るのも、真希は初めてだった。
心の整理ができそうになかった真希は、あわてて今度は自分が窓の
外へと視線を向けた。
- 62 名前: 33 投稿日:2001年09月17日(月)00時17分16秒
「……好きな人ができた」
「……」
「たぶん……、好きなんだと思う……」
「……」
真希は、チラリとひとみに視線を向けた。うつむき、テーブルの上
に置いた指を絡ませながらのその姿は、ひとみが本気の恋をしてい
るのを十分過ぎるほど理解できる仕種だった。
「わからないんだ……、自分でも……、でも、たぶん……好きなん
だと思う……」
「そんなこと、アタシに言われても……」
「……そうだよね」
2人は、そこでまた黙りこくった。
店内に流れる軽快な音楽が、よけいに次の会話へのタイミングをな
くさせる。恋の歌だった。恋する少女の前向きな気持ちを、軽快な
メロディにのせて最近人気の出はじめたアイドルが歌っていた。
その歌が終わって、次の曲がかかるまでの刹那の時間、店内にも静
寂が広まった。
「別れよう」
- 63 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月17日(月)00時18分00秒
- 梨華ちゃん…紗耶香が好きなのか…なんとなくそんな気はしてたさ…
でも、信じたく無かったよ…
よっすぃ〜〜〜挫けるなよ。
- 64 名前: 33 投稿日:2001年09月17日(月)00時18分53秒
次の曲のイントロダクションが流れ始めるのとほぼ同時に、ひとみ
の声が真希の耳に届いた。
やはり、風は吹かなかった……。
真希は心の中で、小さな花が朽ち果てていく場面を想像した。
いつか見た名前の知らない小さな花は、やはり誰にも知られること
なく朽ち果てていくだけなんだと悲しい気持ちになった。
「お互い、こんな気持ちのまま続けてたっていい事ないよ」
「……」
「ごっちんは、姉さんのことが好きなんだし」
「ずるいよ……」
真希が、涙を溜めた目をひとみに向ける。その目はいつものぼんや
りとしたどこを見ているのかわからないような視線ではなく、あき
らかに強い怒りの感情をもった目であった。
「よっすぃが、アタシのこと好きだって言ったんじゃん」
「……」
ひとみは、真希の姿を正視する事ができなかった。だが、逸らす事
もできなかった。ただただ、その視線に耐えるしかない。そう。す
べては自分のつまらない嫉妬から始まったんだ――。
「嬉しかったんだよ。本当に嬉しかった」
「ごっちん……」
真希の顔が見る見るうちに、涙でぐしゃぐしゃになった。
- 65 名前: 33 投稿日:2001年09月17日(月)00時20分19秒
「こんなどうしようもないアタシでも、好きだって言ってくれて。
本当に嬉しかったんだよ」
「……」
「アタシの中には、今でもいちーちゃんがいるよ。でも、好きだっ
て言ってくれたよっすぃの方が、私の中では大きいんだよ」
ひとみの決心は、揺らぎそうになった。だが、真希に対しては恋
愛感情というよりも友情に近い感情しかないのは、もう随分前か
ら答えが出てしまっている。
また、同じ事の繰り返しだ――。梨華の顔が頭に浮かび、ひとみ
の揺らぎかけた決心はなんとか元に戻る事ができた。
「もう、決めたんだ」
「やっぱり、アタシが水商売なんかしている家の子だからダメな
の? 高校に行ってないからダメなの?」
「そんなこと、誰も言ってない」
「いちーちゃんのことは、忘れるから。絶対に忘れるから」
- 66 名前: 33 投稿日:2001年09月17日(月)00時22分24秒
「もう、アタシに遠慮する事ないよ……」
ひとみは、オーダーシートを手にとって席を立った。
これ以上は、何を話しあっても無駄なような事に思えた。結局、
別れても以前のような関係でいたいと望んだのは、都合がよすぎ
たんだ――そんな考えを持っていた自分を嘲った。
『いちーちゃんには、他に好きな人がいるんだよ』
立ち去ろうとしたひとみの背に、真希の涙声が届いた。
(好きな人……)
ひとみの脳裏に、一瞬、梨華の顔が浮かんだ。
梨華が戻ってきたあの日、紗耶香は泣いている梨華を抱きしめた。
大広間でも――、夜の坂道でも――。梨華が危険な目に遭いそう
な時、いつも紗耶香が現われていた光景をひとみは思い出した。
(まさか……)
ひとみの心の中は、嫉妬の炎で焼け焦がれそうになった。
『もう、何年もずっと。いちーちゃんの中には、あの人がいるの。
アタシが入りこむ隙間なんて、どこにもないの』
- 67 名前: 33 投稿日:2001年09月17日(月)00時24分01秒
(何年もずっと……)
真希のその言葉を聞き、ひとみの嫉妬の炎は別のものにすり替え
られた。ひとみはまったく気付いていなかった。あの姉の紗耶香
に、もう何年も想いを寄せている人がいる事を――。
今までどうして、その事に気づかなかったのかが自分でも不思議
だった。
自分と同じように父親に嫌悪を抱き、男性そのものを愛せなくなっ
たのか分からないが、確かに紗耶香には男性の影がなかったかの
ように思う。
女子高という閉鎖的な点を除いても、ルックス・性格を考慮して
男性の影がなかったのは、よくよく考えれば不思議な事であった。
ただ気づかなかっただけかもしれない。
ひとみは、そうも考えた。
いつの頃からかひとみは、姉の紗耶香を視界から消していたので、
それほど姉の事について詳しく知っているとは言いがたい。
- 68 名前: 33 投稿日:2001年09月17日(月)00時25分33秒
だが、姉が何年も恋をしていようが、それが男なのか女なのかひ
とみにはどちらでもよかった。
それが、梨華でさえなければ――。
『よっすぃ……、1人にしないでよ……』
「ごめん。ごっちん……。アタシは、姉さんが羨ましかっただけ
なんだ……。姉さんの大切なものを、奪いたかっただけなんだ」
真希の嗚咽する声を背に受けながら、ひとみは感情を忘れたただ
のアンドロイドのようにその場を去った。
怨むのなら、怨んでくれればいい。”良い人”で去るつもりはなく
なっていた――。
むしろ、”怨むべき相手”として認知される方が、今の自分にとっ
て最適なのではないか――。
ひとみは、無関心・無表情のまま、そうした態度を装いつつ、真
希の残る喫茶店を後にした。
- 69 名前: 34 投稿日:2001年09月17日(月)00時26分45秒
藤村はその様子を、開け放たれた大広間から眺めていた。
書類の小さな文字を追うことに疲れて、小さなため息混じりに顔
を上げると、かいがいしく動き回るその少女が飛び込んでくる。
その少女の動きは、かつてここにいた1人の女性を思い出させた。
もう遠い記憶の中の断片にしか残らないので、本当に似ているの
かは断言できないのだが、梨華の持つ雰囲気とかつてここに家政
婦として働いていた女性の雰囲気はとてもよく似通っている事だ
けは断言できる。
家政婦としてはあまり要領の良い方ではなかった。だが、それを
補う努力は、その当時の市井家で働く者全員が認めていた。
藤村は、おかゆらしきものが入った土鍋を2階へと運んでいく梨
華の様を眺めながら、当時の家政婦の姿と照らし合わせて妙に温
かい気持ちになった。
と、同時に自分がもう随分と歳をとった事に気づいた。
執事であり、会計士であり司法書士でもある自分。
もう四十年以上を、この家で過ごしている。
隠居生活を夢見る事もあるが、なかなか市井家の者がそうはさせ
てくれそうにない。
――まだまだ、ボケるわけにはいきませんなぁ。
藤村は苦笑を浮かべながら、市井家の事業に関係する報告書に目
を通した。
- 70 名前: 34 投稿日:2001年09月17日(月)00時28分49秒
紗耶香は、ゆっくりと目を開けた。
そして、自分の額に濡れたタオルを当てようとしたなつみと――、
いや、梨華と目があった。
「あ」
と、梨華は短い声を発して、遠慮がちに伸ばした手を引っ込めた。
伏し目がちにして、ゆっくりと一歩ほどベッド脇から遠のく。
紗耶香はその様子を、虚ろな瞳で見つめていた。
虚ろな意識で、どうしてなつみと間違えてしまったのか考えてい
た。アルバイトで夜遅くまで働いていたため、もう何日も会って
いない。ただ、その姿が見たくて、その声が聞きたくて、梨華を
なつみと間違えってしまったのだろうか……。
会いたい。
紗耶香の虚ろな意識は、そうした答えしか導かせなかった。
心細くなって、今にも泣き出してしまいそうだった。しかし、瞳
そのものが熱を帯びているらしく、涙を流すことができない。
やがて、ふたたび熱で重くなった瞼を閉じて、深い眠りへと入っ
た。瞼が閉じるほんの一瞬、梨華がハッとした顔が見えた。
そんなに、心配しなくていいよ……。
声に出したかったが、思考のパルスは神経には届かなかったよう
で、完全に意識はシャットアウトされた。
- 71 名前: 34 投稿日:2001年09月17日(月)00時30分01秒
あの喫茶店を出てから、どうしても素直に家に帰ることができず、
ひとみは夜の街を意味もなく徘徊していた。
真希の泣いている顔、叫びにも近い声、それらがいつまでも頭や
耳に残る。
払拭しなければ、家には帰れないような気がしていた。
どこをどのくらい歩いたのだろうか、不意に裏通りへと出てしまっ
た。昼間とは印象が違うせいで、まったく知らない場所に踊り出
たような錯覚に陥った。
冷静に辺りを見渡せば、そこが大通りから2本入った通りである
ことに気づいた。
大通りとは違って、静かで落ちついた店が並んでいる。
裏通り特有の陰鬱さはなく、どことなく静かな大人の雰囲気を醸
し出している通りであった。
ひとみは、その通りを歩いた。
騒々しい通りを歩きながら考えれば、周りの浮ついた人物たちを
見て苛立つだけである。
静かな通りを歩きながら、静かな気持ちで自分の中にある、わだ
かまりを払拭したかった。
- 72 名前: 34 投稿日:2001年09月17日(月)00時31分28秒
――その店の前には、わずかだが人だかりができていた。
露店に毛の生えたような小さな雑貨店”アパール”。
そのショーウィンドウは、まるで季節はずれのクリスマスのよう
に鮮やかに彩られている。
ひとみは、その前を通りすぎるつもりであった。
特に何も欲しい物はない。あるとすれば、物質的なものではなく
今自分が抱えている問題の答えが欲しかった。
店の前を通りすぎようとした時、店のショーウィンドウの前に佇
んでいたカップルがその場を離れた。
通りすぎるひとみの視界に、自然とそのショーウィンドウは入っ
てきた。
無国籍アイテムがうりなのだろうか。
ひとみには、ただの統一性のないインテリアやアクセサリーを並
べてあるだけのように思えた。
だが、その中の1つのアクセサリーが目に入ったのと同時に、ひ
とみの足もピタリと止まった。
”ピンク色のカチューシャ”が、ショーウィンドウの端にポツリと
置かれていた。
- 73 名前: 34 投稿日:2001年09月17日(月)00時33分08秒
なぜ、そんなモノのために自分の足は止まってしまったのか。
ひとみは、ちゃんと認識していた。モノではなく、梨華の好きな
”色”に反応して足を止めたことを――。
このカチューシャをプレゼントすれば、喜んでくれるだろうか?
足を止めたその格好のまま、ひとみは通りのずっと先を見つめな
がらそんな事を考えていた。
(プレゼント……?)
そんな考えを、一瞬でももった自分がおかしくなった。
柄ではないのは自分自身が一番よく知っている。
もし、これを渡したなら、梨華は変な目で自分のことを見るかも
しれない。その時、自分がどんな行動に出るのかは容易に想像で
きた。
きっと、冷たく嫌味を言い放つのだろう。自分の動揺を悟られな
いために、いつもよりずっと冷たい態度をとってしまうだろう。
梨華をただ戸惑わせてしまうだけで、贈り物などは逆効果のよう
に思えた。むろん、何かをプレゼントしただけで梨華が自分に抱
く警戒心を解いてくれるなどとは考えなかった。
いつものように自分を嘲り、ほんの少し口元を歪ませてその場を
歩き去ろうと思ったのだが、なぜか足はそのショーウィンドウの
前から動かなかった。
もう1人の自分が、必死でその足を止めていた。
素直になれ――と、もう1人のひとみがその足を止めていた。
- 74 名前: 35 投稿日:2001年09月17日(月)00時35分50秒
薬のせいなのか、それとも熱のせいなのか分からないが、紗耶香
は数時間前に1度目を覚ましたたきり、ずっと眠り続けている。
その寝顔を梨華は、もう何時間も眺めていた。
――看病のため、というのもあった。
今は、少し下がったみたいだが、いつまた熱がぶり返してしまう
かわからない。
そのために、額に当てたタオルをこまめに取り替えたりしなけれ
ばならない。
だが、それだけが理由でずっと紗耶香の寝顔を見つめているわけ
ではなかった。
梨華はもう、自分の感情を素直に認めることにしたのである。
ただ「市井紗耶香」という世話になっている人を看病していると
いうだけではなく、やはりそこには愛する人を想う気持ちがあった。
- 75 名前: 35 投稿日:2001年09月17日(月)00時37分36秒
――藤村は、ひょいと寝ぼけまなこをこすりながら顔を上げた。
大広間で仕事をしている内に、いつの間にか眠ってしまっていた
らしい。
フッと、壁時計に視線を向けた。
もう、深夜12時を回っている。
「やれやれ……」
ほんの数年前まで徹夜ぐらいはなんでもなかったはずなのに――、
藤村は疲れた目を押さえながら苦笑した。
ひとみの帰宅には気づかなかったが、さすがにもう帰宅している
だろうと、藤村も就寝することにした。
やはり、使用人としては家の者が全員帰宅したのを見届けてから
ではないと休むことができない。
藤村は、大きな欠伸をしながら大広間を後にした。
――バタン。
大広間のドアを閉める前に、その音は藤村の後方から聞こえてき
た。「?」と振りかえると、ひとみがバツの悪そうな顔をして玄
関に立っていた。
- 76 名前: 35 投稿日:2001年09月17日(月)00時39分12秒
「ひとみお嬢様……、今、帰られたのですか?」
珍しいこともあるものだと、藤村は思った。
ひとみは、その性格に似合わずあまり夜に出歩いたりするような
娘ではなかった。
いや、その性格故にだろう。その性格故に、あまり外に友人を作
るようなこともしないので外には用がないのである。
反対に、誰しもが品行方正と褒め称える長女の紗耶香の方が、遅
い時間に帰宅する頻度が高い。本人は何もしていないと言い張り、
藤村も信じてはいるのだが、執事として家長の留守を守る身でも
あるので注意しないわけにもいかない。
イギリスに留学する前も、帰国してからも、ほぼ毎日のように注
意をしていた。
「どこか具合でも?」
ひとみに関しては注意をする以前に、その様子がいつもと少し違
うことが心配だった。
だが、ひとみは何も答えずに、その場所を動こうとしない。
- 77 名前: 35 投稿日:2001年09月17日(月)00時41分21秒
わざとそうしているかのように、視線を逸らしている。
それに、さっきから不自然に両腕を後ろに回していることも、藤
村は気になっていた。
きっと、何かを後ろ手に隠してあるのに違いない。
それを見られたくないがために、そこを動かないようにしている
んだと藤村は察した。
「それでは、私はこれでお休みさせていただきますので。失礼い
たします」
そう言って、藤村は頭を下げて自分の部屋のある方へと歩き去っ
た。
ひとみは、辺りをキョロキョロと見渡し、どこにも使用人たちの
姿がないのを確認すると中央に位置する階段へと向かう。
歩いていた藤村は、その様子を背中に感じてひょいと後ろを振り
かえった。
階段を駆けあがっていくひとみのその手には、やはり紙袋が握ら
れていた。はにかむような笑みを浮かべて、階段を駆け上がった
ひとみ――。
藤村は、そんなひとみを見るのはもう随分と遠い昔のことのよう
に思えた。やはり、歳をとってしまった。愚痴るように、腰を叩
きながら藤村は自分の部屋へと歩いた。
愚痴とは裏腹に、その顔には孫に向けるような柔和な笑みが浮か
んでいた。
- 78 名前: 35 投稿日:2001年09月17日(月)00時42分59秒
ひとみは、梨華の部屋の前で深呼吸をした。
心臓の鼓動はかなり高くなっている。緊張しているのだろう。
だが同時に、妙な昂揚感もありどちらかといえば、そちらを落ち
着かせようと必死だった。
(普通に……、普通に渡せばいい……。渡して、今までのことを
謝る……。そう。普通に……)
ひとみは、最後に大きく深呼吸すると、開いた右手でドアをノッ
クした。
――――
――しばらく待ってみたが、返事はなかった。
もう1度、ノックしてみたがやはり返事はない。
もう、寝てしまったんだろうか……? ひとみは、ドアノブに手
をかけてみた。ゆっくりとドアを開ける。
部屋の中は真っ暗だった。
廊下からさし込む光が一条の明かりとなり、部屋の中を微かだが
照らす。
「……」
もう眠ってしまったんだろうとドアを閉じかけた時、ベッドの上
が妙に平らになっていることに気が付いた。
(……?)
- 79 名前: 35 投稿日:2001年09月17日(月)00時44分00秒
梨華は、紗耶香の額に当てていた濡れたタオルをソッと離した。
熱は確実に下がってきているように感じられた。
数時間前は、5分おきに変えていたタオルもかなりの熱を帯びて
いたが、今はもうそんなことはなくなっていた。
ほんのりと赤かった頬も、いつものように紗耶香の白い肌に戻っ
ている。不規則的で短い呼吸も、規則的な寝息に変わっている。
(良かった……)
梨華は、ホッと胸を撫で下ろした。
――新しいタオルを持ってきて、紗耶香の首筋に浮かぶ汗をふく。
篭った熱を放出するために、部屋のドアと出窓を微かに開けて、
風の通りをよくした。
冷たい夜風が直接紗耶香に当らぬように、梨華は紗耶香のベッド
のすぐ脇に腰を下ろした。
紗耶香の顔は、もう30センチと離れていない。
静かな部屋。
紗耶香の規則的な寝息だけが、微かに広がる――。
(市井さん……)
心の中で紗耶香の名前を呼ぶたびに、切なくなって涙が出そうに
なってしまう。今まで堪えていた感情が、熱の下がった紗耶香を
前にして溢れそうになった。
そこからはもう、無意識だった。
整った紗耶香の寝顔を見つめているうちに、身体は自然に動いて
いた――。
- 80 名前: 35 投稿日:2001年09月17日(月)00時45分49秒
――ひとみは、眠っている紗耶香にキスをする梨華を、ほんの少し
開いたドアの隙間から見てしまった。
やっぱり……。
そんな思いが、ひとみの中にはあった。
やっぱり、もう遅かったんだ……。
左手に握られた、ピンク色のカチューシャが入った袋。
悟ったような静かな思考とは逆に、ひとみはその袋をぐしゃリと
強く握りしめた。
――梨華は、その音を聞いてハッとわれに帰った。
紗耶香のグロスで、濡れた自分の唇に震える指を当てた。
(なんで……)
自分でも、自分の行動が信じられなかった。
ただ、自分のしてしまった行動について戸惑うばかりだった。
自分をわれに帰らせた音については、その動揺ですっかり頭の片
隅に追いやられていた。
ひとみは、もう廊下にはいない。
梨華にプレゼントしようと、まるで幼い少女のようにドキドキし
ながら買ったピンク色のカチューシャを、廊下の床に叩きつけて
その場を去っていた。
やるせない涙を浮かべながら、その場を去っていた――。
- 81 名前: 作者 投稿日:2001年09月17日(月)00時50分56秒
- 32〜35回分の更新(>>53-80)を終了しました。
>>47 ラストシーンは、決定してるんですけどね
>>48 今だやってこず(苦笑)
>>49 ここから暗くなる予感
>>50 (主要)登場人物が5人なので……
>>51 だからこそ(マジレスになりそうなので略(笑)
>>52 いしよしからは、離れました(?)
>>63 危うくレスを見逃すところでした(苦笑)
- 82 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月17日(月)00時54分08秒
- くそー!せっかく吉澤が自分の気持ちに正直になったのに。
なんてタイミングが悪いんだ。くわーこの気持ちをどこにぶつければ…(w
面白過ぎて更新が毎回楽しくて仕方ないっす!
- 83 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月17日(月)02時24分59秒
- よっすぃーのことを思うと泣けてくるね。
自暴自棄にならないといいけど・・・(w
- 84 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月17日(月)02時32分46秒
- このカチューシャはモーニング娘。展に出品されていたあの趣味の悪い
カチューシャですね?(w
でも石川はうれしくって毎日着けてたって言ってたんだよな……。
- 85 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月17日(月)06時43分21秒
- 朝から泣きそうだ。よっすぃ〜早まるんじゃないよ。
頑張れよっすぃ〜!
- 86 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月17日(月)07時29分31秒
- 人の気持ちって全部が全部報われるもんじゃないんすね・・・(涙
- 87 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月17日(月)14時40分35秒
- ヤバイ。
はまりすぎて、3回読んでしまった(w
- 88 名前:コカライト 投稿日:2001年09月17日(月)21時14分42秒
- いま一番はまってます。
>>87さんみたいにもう一回はじめから読んでみたいと思いました。
- 89 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月17日(月)21時55分36秒
- ああ、よっすぃ〜
すんごい切ないっすねぇ・・
- 90 名前:名無し男 投稿日:2001年09月18日(火)01時26分58秒
- 壮絶な鼬ごっこですな。
- 91 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月18日(火)01時54分40秒
- >>84
僭越ながら、娘。展に飾られていたあのステキなカチューシャは
ラベンダー色と記憶しております。
あまりのステキさに、吉澤のセンスを疑ったものです(w
- 92 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月18日(火)21時23分19秒
- まじ、今1番気になる作品ッス!!
続き待ってます!!
- 93 名前:ななしぃ。 投稿日:2001年09月19日(水)16時14分29秒
- あうー。よっすぃ〜・・・。
せつないっす。
続きが待ち遠しいー。
- 94 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月21日(金)00時44分36秒
- それでもいしよし♪
なんとかうまい具合にいってくれ(w
- 95 名前: 36 投稿日:2001年09月22日(土)02時18分05秒
枕もとの時計を確認すると、もうすでに午前10時を回っていた。
「ヤバイ、遅刻だ」
紗耶香は条件反射的に、ベッドから起きあがった。だが、足に思
うように力が入らずよろめいた。
そこで初めて、自分が風邪を引いていたことを思いだした。
(そうだ……、石川の代わりにバイトに行こうとして……。あれ?
その後)
霞みがかかったかのように、それ以降のことは思い出せなかった。
何があったんだろうと……、しばらく考えながら何気なく視線を
出窓へと向けた。なつみから貰った鉢植えのパンジーが、陽光を
浴びている。
(なっち……)
そう言えば、昨夜、なつみの姿を見たような気がした。そして、
唇に何かを感じたような……。
しかし、そんなことはあり得ないとすぐに否定した。
この家へは、1度たりとも連れて来た事がないのである。
きっと夢だったんだろうと、紗耶香は病み上がりの重い身体で部
屋を出て行った。
- 96 名前: 36 投稿日:2001年09月22日(土)02時19分52秒
「紗耶香お嬢様……。何をしてるんですか。そんなのお持ちしま
したのに」
厨房で冷えたジュースを飲んでいると、藤村が現われた。
「もう、大丈夫。熱は下がったから」
「いけません。お休みになっていてください」
「心配性だね」
と、紗耶香は微笑み、ジュースを一気に飲干した。
「心配するのは、当たり前じゃありませんか」
「ねぇ」
「はい?」
藤村は言葉を遮られる格好となり、少々間の抜けた顔を向けた。
「昨日、私の部屋に誰か来た?」
ジュースを飲みながら、紗耶香はおずおずと訊ねる。
「病院の方から医師と看護婦が数名、それと――」
「それと?」
まさか、何かの事情で熱で倒れたことを聞きつけたなつみが、
家にやって来たのではないかと期待した。
「石川様が、ずっと看病してくださいました」
「――? 石川が?」
「はい。今朝までずっと」
紗耶香は、思い出した。梨華がベッドの脇で、心配そうな表情を
浮かべていたことを。だが、梨華となつみを見間違えたことは、
思い出さなかった。意識がはっきりと覚醒した今、なつみを見た
のは夢の中であると判断していた。むろん、唇の感触なども。
- 97 名前: 36 投稿日:2001年09月22日(土)02時23分04秒
(まただ……)
久しぶりに学園に戻ったものの、梨華への陰湿な嫌がらせの行為
はまだ続いていた。
3時間目の休み時間に、ほんの少しトイレへと行っている間に、
梨華の教科書にはマジックで書きなぐった猥褻な文字が羅列して
あった。
(なによ……、私、そんなんじゃないもん……)
梨華は、心の中で下品な中傷を否定しながら、持っていたハンカ
チでその文字を消しにかかった。幸い教科書の表紙のツルツルと
した部分に水性ペンで書かれてあったため、わりと容易に文字を
消すことができそうだった。
不意に、昨夜の光景がフラッシュバックした。
眠っている紗耶香にくちづけをする自分。その感触もリアルに甦っ
た。
(……!)
梨華は、顔を真っ赤にして教科書の落書きを消す作業に戻った。
教科書に書かれている娼婦のような、自分がいるんではないか。
不安になった――。
- 98 名前: 36 投稿日:2001年09月22日(土)02時24分36秒
4時間目も終わり、校内カフェに向かおうと席を立ったとき、
梨華はひとみの姿を見ていないことに気づいた。
(あ、そうか……。今日、お弁当作ってないからか)
梨華が弁当を作るようになってから、梨華が倒れるまでひとみは
ほぼ毎日のように、教室へとやって来ていた。
それが、梨華への嫌がらせを助長する行為であり、何度も”来な
いで”と注意をしたのだが、それでもひとみは毎日のように現わ
れた。
あの時は、絶対にわざとそうしているんだと思っていた梨華だっ
たが、今は少し違うように考えるようになった。
ひとみが自分の前にちょくちょく姿を現していたのは、教室で孤
立してしまった自分を何気に助けてくれていたのかもしれないと
思うようになったのである。
その何気ない優しさは、入院中に何度も感じていた。
ただ本当に何気なさすぎて、意識的に読み取らなければわからな
い優しさではあったが……。
こうして実際に、昼休みの時間になってもひとみが姿を現さない
と、なんとなく寂しさのようなものを感じる梨華であった。
- 99 名前: 36 投稿日:2001年09月22日(土)02時28分30秒
「休み?」
梨華は、そこが静かな校内カフェだと言うことも忘れて、素っ頓
狂な声をだした。
1人での食事中、ひとみがいないか何気なく辺りに視線を配った
りしていたのだが、けっきょく食事が終わるまでひとみの姿を見
かけることはなかった。
購買部でパンでも買ったのかと思いつつ、食べ終わった食器をキャ
スターへと運んでいた。
そこで、ちょうどひとみの担任に会い、気になってひとみの所在
を訊ねてみたのである。
すると、担任はひとみが無断で欠席していることを告げた。
(そんなはずない……。だって、朝、私より先に……)
この時になって初めて、今朝のひとみの様子がおかしかったこと
に気がついた。
昨夜、自分がしてしまった行為のことばかりを考えたり、考えな
いようにしようと、そちらに意識を向けすぎていたために、ひと
みの事はあまり意識していなかった。
だが、思い返してみると、たしかに今朝のひとみの様子は変だっ
た――。
- 100 名前: 36 投稿日:2001年09月22日(土)02時31分52秒
――朝、平静を装いつつ、いつものように「おはようございます」
と挨拶をして、市井家の食堂へと赴いた。
いつものように、ひとみは先に起きていて、いつものように新聞
を眺めながら朝食を食べていた。
昨夜、姉の紗耶香にあんなことをしてしまい、少々ひとみに対し
ても申し訳ない気持ちになり、梨華はあまりひとみと顔を合わす
ことなく、家政婦の用意してくれた朝食を黙々と食した。
『姉さんの熱、下がった?』
今まで、1度もそんな事がなかった。
ひとみから、声をかけてきたのである。
「へ?」
と、驚いて顔を上げたときには、ひとみはもう制服のブレザーを
羽織りながら席を立っていた。
何か言葉をかけようと思ったのだが、ひとみは梨華の答えを期待
していないかのようにさっさと食堂を後にした。
ドアを閉める間際に、ひとみと目があった。
その瞳は、なぜか少し赤く充血していた。梨華には、その理由が
わかっていなかった。
ただ、なぜ急に声をかけてきたんだろう……。閉じられたドアを
見つめながら、そんな風にしか考えなかった。
(何かあったのかな……)
梨華は、校内カフェでしばらく佇んでいた。
- 101 名前: 37 投稿日:2001年09月22日(土)02時34分18秒
学園からそう遠く離れていない、丘の上にある公園の展望台にひ
とみはいた。
何をするでもなく、さっきからベンチに座り町並みを見下ろして
いる。
町の喧騒は何一つとして聞こえてこない。
鳥たちのさえずりと、風の音だけが、ひとみの耳に届いていたが、
それすらもあまり気にならなかった。
ひとみはただ、町並みを眺めながらすべてに対して感覚を閉ざし
ていた。
そうしなければ、昨夜の光景が浮かんでしまう。
紗耶香にキスをした梨華――。
その光景が、別の光景を見ていても、ひとみの脳裏に浮かんでし
まう。嫉妬で気が狂いそうになる。だが、その嫉妬がすでに見当
違いであることにも気づいていた。
梨華に何一つとして気持ちを伝えていない――。
梨華が誰とどうなっても、たとえそれが姉の紗耶香だとしても、
気持ちを伝えていない自分が嫉妬するのは間違っていると――。
恋愛感情はなくとも、その嫉妬のおかげで真希との関係を壊して
いる。抱いてはいけない感情だと理解していた――。
だが、それでも自分の中で燃えさかる嫉妬の炎を消すことができ
なかった。消す術は、もう何も考えないことだけだった。
ひとみは、いつまでも焦点の合わない目で町並みを眺めていた。
- 102 名前: 37 投稿日:2001年09月22日(土)02時36分32秒
『真希、いつまで寝てんの。もう昼過ぎてんのよ』
母親のアルコールでかすれた声。部屋の中に入ってきている事は
わかっていたが、真希は頭から被ったシーツを外そうとはせず寝
たふりをして、そのままを過ごした。
『まったく、働きもしないで――。誰に似たんだか』
悪態をつきながら、部屋を出て行った。
それでも真希は、シーツの中から出てこようとはしなかった。
何もかもが億劫で、母親の嫌味すらどうでもよかった。
ただ、今はもうその白い光の中で、市井家での日々を思い返すこ
とだけに集中していたかった。
(いちーちゃん)
紗耶香の名前を呼び、真希はシーツの中でクスリと笑った。
(よっすぃ)
ひとみの名前を呼び、真希はシーツの中でクスリと笑った。
目を閉じれば、あの頃の光景が広がる。
市井家の2階のテラスで、紗耶香と一緒に勉強をした。
その下を部活帰りのひとみが歩いてくる。
気がつき、声をかけるとフッと微笑みかけてくれるひとみ。
勉強を中断して、階下のひとみへと向かう。しばらくの一方的な
談笑後、また、テラスへ戻って紗耶香との勉強を再開する。
- 103 名前: 37 投稿日:2001年09月22日(土)02時38分32秒
不幸な人生を歩んできたと自負していた自分が、ほんの一時では
あったが確実に幸福だと思った日々。
3人が共に過ごす事はあまりなかったが、それでも真希は2人が
側にいてくれるだけで安心していた。
――血のつながりがないと知らされた時、ショックを受けたのと
同時に良かったと思う気持ちがあった。
たとえ、以前のような母親との荒んだ生活に戻るようなことがあっ
ても、紗耶香とひとみがいればもう孤独ではなくなる。
そして、なによりも自分の気持ちにストップをかけないで済むと
いうのが何よりも嬉しかった。
(よっすぃ、アタシね……)
学園近くの公園で、夕方の町並みを眺めながら真希は自分の気持
ちを友となったひとみに打ち明けた。
(いちーちゃんのことが、好きなんだ……)
ひとみは何も応えずに、強い視線を町並みへと向けていた。
真希も、特に応えを求めていなかった。ひとみの性格は、熟知し
ていた。ただ、自分の気持ちを誰かに伝えたかっただけだった。
- 104 名前: 37 投稿日:2001年09月22日(土)02時40分53秒
(ウソだよ、そんなの……)
紗耶香がイギリスへと旅立った数日後、突然、ひとみから「付き
合おう」と告白された。
今なら、冷静に考えることができるかもしれないが、その時の真
希は紗耶香のいない寂しさで、すぐにひとみへとなびいてしまった。
(よっすぃの事が、大切なのに……)
それからは、ひとみを好きになるように努力した。でも、やはり
心の中には紗耶香がいた。
どんなに好きになろうとしても、どんなにひとみのことだけを考
えていても、紗耶香への想いは圧縮されて残っていた。
(なんで、伝わらないんだろう……)
もしも、ほんの少しでもひとみが本当に自分の事を想ってくれた
なら、真希は本当に紗耶香の事を忘れたのかもしれない。
だが、ひとみの中にはただの友人としてしか存在しない事がわかっ
ていた。同情なのか、姉の紗耶香と張り合いたかっただけなのか、
真希にはわからなかったが、確実にひとみの中に自分がいない事
だけはわかっていた。
(でも、もう後戻りできなかった……)
真希は、目を開けた。
シーツを通しての陽光がまぶしくて、少しの間目を細めた。
- 105 名前: 38 投稿日:2001年09月22日(土)02時42分52秒
夜。
バイトが終わって帰宅した梨華は、すぐにその足で紗耶香の部屋
に向かった。
昨夜は看病をしていたため、ほとんど一睡もせずに学校とバイト
をこなしてきたが、なぜかそれほど眠い感じはしなかった。
学園では嫌がらせがあり、常に緊張感を強いられ――。
バイト先では度々睡魔が訪れたが、それでも仕事なのでそんな素
振りは微塵も見せずに閉店までをこなした。
家に帰る道々では、紗耶香の病状を心配して睡魔などは完全にど
こかへ去っていた。
――紗耶香の部屋のドアをノックしてみたが、いくら待っても返
事はなかった。
不審に思った梨華は、そっと数センチほどドアを開けて中を覗っ
た。
「市井さん……?」
小さく呼びかけてみたが、返事はない。
――眠っているはずの紗耶香が、どこにも見当たらなかった。
「?」
シャワーでも浴びているのだろうかと耳を済ましてみたが、物音
は何一つとして聞こえてこなかった。
- 106 名前: 38 投稿日:2001年09月22日(土)02時44分29秒
梨華は、辺りをキョロキョロとしながら大広間へと入った。
「お帰りなさいませ」
藤村が書類から顔を上げて、声をかける。
「あ、ただいま帰りました」
と、藤村に頭を下げた。下げながらも、大広間とテラスの方を眺めた
りしてみた。だが、どこにも紗耶香の姿はなかった。
「どうかしましたか?」
「あ――、いえ……。あ、あの、市井さん……、病院ですか?」
「?」
「具合、悪くなったんでしょうか?」
不安な表情を浮かべる梨華を見て、藤村はますます意味がわからな
くなった。
「紗耶香お嬢様なら、お部屋で休んでいるはずでは?」
「え? あ、さっき見てきたんですけど、どこにも」
「そんなバカな」
と、藤村はひょいと立ちあがり、あわてて大広間を出ていった。
――それから、十分近くして藤村はがっくりと肩を落として大広間
へと戻ってきた。
「あれほど、安静にしておくように言ったのに……。まったく」
藤村は独り言のようにそう呟くと、ため息まじりにソファへ腰を落
とした。
- 107 名前: 38 投稿日:2001年09月22日(土)02時46分44秒
「どこ、行ったんでしょう……?」
梨華はオロオロと、辺りを見まわす。
「今日は予備校もありませんからね、たぶん、安倍様のところでしょ
うね」
と、藤村はカレンダーに目をやりながらつぶやいた。
「安倍さんって……、安倍なつみさんですか?」
「? お知り合いですか」
「あ、知り合いってほどじゃないんですけど……、前に」
「まったく、また倒れたりでもしたら旦那様になんとご報告すれば」
藤村は、梨華の存在も忘れて、書類に目を通しながらブツブツとつ
ぶやいた。
梨華も藤村の存在を忘れて、紗耶香となつみの関係について考えて
いた。病み上がりの体をおしてまで、会いに行く必要があるんだろ
うか――? そもそも、安倍さんってどんな人なんだろうか――?
梨華の頭の中は、疑問形でいっぱいだった。
「あ、あのっ」
思いきって、すべてを藤村に尋ねることにした。少々、勇気を出し
てしまい、自分でも驚くほどの声が出てしまった。
藤村は、ビクッとした拍子に眼鏡がズレ落ちた。
- 108 名前: 39 投稿日:2001年09月22日(土)02時48分14秒
――翌朝、梨華はスッキリとした気分で目を覚ました。
昨夜、藤村から紗耶香と安倍の関係を聞き、ただの先輩・後輩と
わかってホッとしたら、部屋につくなりバッタリとベッドに倒れ
込みそのまま夢も見ないほどの深い眠りについた。
梨華は、ベッドの上で制服姿のまま大きく伸びをした。
時間はもう朝の8時を回っていたが、今日は土曜日で学校も休み。
バイトの時間までこのままずっと、まどろんでいたい気分だった。
しかし、そういうわけにもいかない。
もうすぐ、バイトに向かう準備をしなければならないし、その前
に紗耶香の風邪がぶり返していないか心配で様子を見ておきたかっ
た。
梨華は、シャワーを浴びて完全に目を覚ますことにした。
紗耶香の身体のことは心配で今すぐ部屋に向かいたかったのだが、
ボサボサの髪や皺くちゃな制服のまま、紗耶香の前に姿を見せる
のは恥ずかしかった。
熱いシャワーを浴びながら、不意にひとみのことを思いだした。
(なんで、学校休んだんだろう……。ちゃんと、帰ってきたのか
な……)
昨日の朝、ドアの隙間から垣間見たひとみの顔が頭に浮かんだ。
- 109 名前: 39 投稿日:2001年09月22日(土)02時49分59秒
梨華は、ひとみの部屋の前に立っていた。
ちゃんと帰ってきたのかが心配になって来てみたのだが、ドアを
開けるのをためらっている。
学校が休みでもバレー部の練習があるので、もう目を覚ましてい
るはずだが、わざわざドアを開けて帰ってきてるのかを確認する
のも気がひける。
それに、なんだか昨日見たひとみが不機嫌そうだったので、なん
と声をかければいいのかも思いつかずに、ノックするのをためらっ
ているのであった。
2分近くもそうして佇んでいると、急に梨華の耳に声が届いた。
『何やってんの?』
その声を聞いて、梨華の胸は高鳴った。あわてて、ひとみの部屋
の前から数歩退いた。
パジャマ姿の紗耶香が、照れくさそうに微笑みながらやってくる。
「お、おはようございます……」
梨華は、ドギマギとしながらペコンと頭を下げた。
「おはよう」
梨華の真似でもしているかのように、紗耶香もペコンと頭を下げた。
- 110 名前: 39 投稿日:2001年09月22日(土)02時50分57秒
妙な間が開いてしまい、梨華の心臓は今にも張り裂けそうになっ
た。
何か話さなければ、自分の気持ちに気づかれてしまう。早く何か
喋らなければと焦れば焦るほど、言葉が思い浮かばない。
「なに?」
と、紗耶香が少し困ったように笑いながら声をかける。
「あ、あの」
身体の具合を訊ねようと、顔を上げた瞬間、紗耶香の唇が梨華の
目に映った。グロスの濡れた感じではなく、自然なしっとりとし
た唇。
それを見ただけで、梨華は気を失いそうになった。
(もう。なんで、あんな事したのよ〜……)
これから、市井の顔をまともに見ることができないと思ったら、
そんな事をしてしまった自分にひどい後悔を覚える梨華だった。
「んー、ひょっとして、アタシの風邪が移っちゃったのかなぁ」
紗耶香が、不意に顔を真っ赤にしている梨華の額に手を当てた。
(いっ、市井さん……!)
梨華は、飛びあがりそうになった。
「熱はないみたいだけど……」
と、梨華の額から離れた紗耶香の手。梨華は、ホッとするような、
残念なような複雑な気分だった。
- 111 名前: 39 投稿日:2001年09月22日(土)02時52分22秒
「この前は、ありがとうね」
紗耶香は、うつむく梨華の顔を覗きこむようにして微笑んだ。
「あ、いえ……」
と、梨華はサッと覗きこむ紗耶香から顔を逸らした。
「どうしたんだよ〜、ホント、マジで変なんだけど。なんか、あっ
た?」
「い、いえ、なんにもありません」
と、梨華は顔を真っ赤にしながら両手をバタバタと振った。
「――ホントに?」
「ホントです」
「――そっか。じゃあ、いいや。あ、それよりさ――、石川――、
明日なんか予定ある?」
「明日――ですか?」
「うん」
「別に何も……。部屋の掃除ぐらいで」
紗耶香は、プッと笑った。
- 112 名前: 39 投稿日:2001年09月22日(土)02時55分43秒
「?」
「あ、ごめん。ちょっと1人で掃除してるとこ想像したら可笑し
くて」
「……掃除ぐらいしかすることなくて」
友達のいない梨華は、あっという間にネガティブ思考に陥りそう
になった。
「わかった。じゃあ、明日デートしよう」
「へ?」
「この前のお礼。一緒に遊園地行こうよ」
「デート?」
その響きだけしか、梨華の耳には届かなかった。紗耶香が「?」
というような顔をしたが、あっという間に梨華は空想の世界に入
りこみ、観覧車で紗耶香と2人っきりの場面を想像していた。
――2人は知らない。
ひとみが部屋で、その会話をすべて聞いていたことを。
「……」
どうして姉は、自分の望むものをいとも簡単に手に入れてしまう
のだろう……。
どうして……。
ひとみは、わなわな震える自分の両手を見つめた。
抱きしめるために必要のない手なら、壊すために使えばいい……。
- 113 名前: 40 投稿日:2001年09月22日(土)02時59分11秒
日曜日の朝、まだ眠っていた真希は枕もとでメロディーを奏でる
携帯電話を手にとった。相手ごとに着信音を設定できる機種では
ないため、わざわざディスプレィを確認しなければならない。
こんな時間に誰なんだろうと、真希は昨夜ナンパされた大学生と
夜通し飲み明かしていたためその中の誰かからかと考えていた。
ディスプレィには、もっともかかってこないと思われた人物の名
前が表示されていた。
真希は、バッと上半身を起こす。
電話なのでそうする事もなかったが、ボサボサの髪を手ぐしで素
早く梳かした。
酒でいがらっぽい喉を何度かの席払いで元の調子に戻して、通話
ボタンを押――そうとした。
だが、寸前で真希の指は止まった。
しばらく、着信メロディーは朝の乾いた空気の中を舞っていた。
――スッと息を吸い込んで、通話ボタンを押す。
「はい、もしもし」
真希はなるべく、意識しないように無機質な声を発した。
それは、いつもの自分を演じればいいだけだなので、割合と簡単
なことだった。
- 114 名前: 40 投稿日:2001年09月22日(土)03時01分28秒
「石川、用意できた?」
紗耶香は、ドアの前で部屋の中にいる梨華に声をかけた。
遊園地へ出かける時間までまだ20分ほどあったが、1時間前に
食堂で会ったのでもうてっきり出かける用意はできていると思っ
ていた。
現に、紗耶香はもう用意を済ませている。簡単なメイクをしただ
けの、簡単な用意だったがそれで十分だった。
『あ、あの、ちょっと待って下さい』
部屋の中でドタバタと音が聞こえた。
(何やってんだろ?)
気にはなったが、待ってと言うのにドアを開けるのも悪いと思い
紗耶香は窓の外の木々を見つめながら、梨華が出てくるのを待っ
ていた。
『やだ〜』
と、部屋の中で梨華の泣きそうな声が聞こえてき、紗耶香はさす
がに不審に思って、「何やってんの、石川?」と声をかけながら
ドアを開けた。
- 115 名前: 40 投稿日:2001年09月22日(土)03時02分35秒
「いっ、市井さんっ」
梨華があわてて、下着姿のままベッドの向こうに身を隠した。
「あ、ごめん。着替えてたんだ」
梨華は、泣きそうな顔をしてしゃがみ込んでいた。
「? 着替え、そこ落ちてんだけど」
クローゼット前の絨毯の上に、パールピンクのワンピースが無造
作に置かれていた。
「石川……? 泣いてんの?」
紗耶香は、ベッドのシーツを手繰りよせながら、シクシクと泣い
ている梨華に気づいた。
「なに? どうしたの?」
と、紗耶香は部屋のドアを閉めて中へと入った。
「服が破れちゃったんです〜……」
梨華は、顔をうつむかせたままワンピースを指さす。
よく見ると、背中のファスナーの下の辺りが裂けている。
正直なところ、どうしてそれぐらいで泣く必要があるのかと紗耶
香は首を傾げてしまう。
- 116 名前: 40 投稿日:2001年09月22日(土)03時05分33秒
「別のじゃ……ダメなの?」
「だって、他にいいのなくて……」
開け放れたままのクローゼットの中には、制服と数着のTシャツ
とスカートがハンガーにかかっていた。
「アレでいいじゃん。あのシャツと」
「だって」
「?」
唇を尖らせながら、ウルウルとした瞳で見上げる梨華。
紗耶香は、困ったなぁという表情を浮かべてポリポリと頭を掻い
た。
――けっきょく、破れたファスナー部分の縫製に時間がかかり遊
園地への予定到着時刻は1時間近くをオーバーした。
紗耶香がバイクを駐輪場へと止めると、タンデムシートからパー
ルピンクのワンピースを着た梨華がふわりと降りる。
(ホント、石川って女の子だなぁ)
その様子をサイドミラーで眺めながら、さっきまで泣いてたのが
ウソのようだと紗耶香は苦笑した。
「市井さん、行きましょう」
と、梨華が笑顔で手招きをする。
「あ――、うん」
ゲートへと歩いていく2人は、まるで対照的な服装だった。
- 117 名前: 40 投稿日:2001年09月22日(土)03時06分44秒
ゲートの前にやってきた時、紗耶香は「なんで?」と声を出して
足を止めた。
「え?」
よく聞き取れなかった梨華は、足を止めて紗耶香を振りかえった。
紗耶香は、きょとんとした顔をして一方向を見つめていた。
「? どうしたんですか?」
「なんで、こんなとこにいんの?」
紗耶香は、梨華の問いかけに応えたのではなく、梨華の後ろにい
る人物に話しかけたようだった。
梨華は紗耶香の視線を追って、後ろを振りかえった。
「安倍さん」
安倍なつみが、手を振りながらチョコチョコとこちらへと駆けて
きていた。
なつみを半ば呆然と見ている梨華の視界に、「何やってんの、こ
んなところで」と声をかけながら駆けていく紗耶香の姿が入った。
- 118 名前: 40 投稿日:2001年09月22日(土)03時08分44秒
「……」
2人は梨華から少し離れた場所で、何やら言葉を交わしている。
梨華はその様子を、少し伏し目がちに眺めていた。
どうしてなつみがここにいるのかは分からないが、できれば今日
だけは2人っきりにさせてほしい――、梨華は心の中で切実に願っ
た。
「ねぇ、石川。なっちも一緒でいい?」
だが、その願いは紗耶香の言葉によって届く事はなかった。
「梨華ちゃーん」
と、満面の無邪気な笑みを浮かべて手を振るなつみを見て、どう
して嫌だと言えよう。
梨華は、悲しい気持ちを隠して微笑んだ。
そう。
これはデートなんかじゃなくて、ただ一緒に遊びにきただけなん
だと、梨華は自分の浮ついた気持ちを現実へと戻した。
――ゲートの向こうに消えて行く3人の後ろ姿を、真希は駐車場
の車の影に身を隠しながら見つめていた。
ひとみがいったい何を考えているのか、真希には何も分からない。
この光景を自分に見せつけたかったのか、だとすると自分はよほ
ど嫌われているのだと感じ、胸が痛くなった。
それと同時に、やはり自分はどうしようもないほど紗耶香のこと
が好きなんだと胸が痛くなるほど実感した。真希は、なつみでも
なく梨華でもなく、ただただ紗耶香だけを見つめていた。
- 119 名前: 41 投稿日:2001年09月22日(土)03時10分08秒
曇り空の下、梨華はトボトボと市井家の門扉に向かって歩いてい
た。時折、振りかえったりして家の近くまで送り届けてくれた紗
紗耶香が何かの急用を思い出して、戻ってきてくれないだろうか
と考えたが、そんなことはあり得そうになかった。
そこにはただ、1本の長い道が続いているだけであった。
「……」
紗耶香と共に過ごす時間は、わずか3時間あまりで終わってしまっ
た。
そこになつみも加わり、2人っきりで過ごせなかったのは残念だっ
たが、気さくで明るいなつみと3人で過ごす時間も楽しかった。
よくよく考えれば、2人っきりで時間を過ごすようなことになれ
ば、自分はきっと事あるごとに紗耶香を意識して何も喋れなくな
り気まずい思いをさせてしまうだろう。
だとすると、そこになつみという存在が加わる事は、良かったの
かもしれない――と、珍しくポジティブに物事を考えることがで
きた。
(安倍さんと、どこ行くんだろう……)
フッとそんなことを考えて、門扉の脇にある通用口をくぐる頃に
は、もうすでにポジティブからネガティブに変わっていた。
一緒に帰ってくるには帰ってきたが、梨華をバイクから下ろすと
紗耶香は用事を思い出したと言って、すぐに来た道を戻っていった。
どこに向かったかは、瞭然であった――。
『……長い付き合いだもんね。安倍さん、明るいし。私なんかと
いるより』
通用口の向こうで、梨華は泣きそうな声でブツブツとつぶやいた。
- 120 名前: 41 投稿日:2001年09月22日(土)03時13分26秒
午後7時。
バレー部の練習を終えたひとみが、帰宅後、着替えもせずに食堂へ
とやって来た。
「お帰りなさいませ」
食事の用意をしていた家政婦が、ひとみに声をかける。
ひとみは、梨華の姿を探した。
「あの子は?」
低くつぶやくような声。家政婦は、よく聞きとれずに顔だけを上
げた。
「もう、帰って来てるでしょ?」
いったい、誰のことを言っているんだろう――。家政婦は、皿を
並べながら、もしかしたらと梨華の顔を頭に思い浮かべた。
「今日はご気分がすぐれないとの事で、お食事はしないそうです
よ」
「――そう」
ひとみがなぜ、クスリと笑ったのか家政婦には分からなかったが、
梨華の事について訊ねられたんだと認識するとホッとした。
もし間違えていたら、何をされていたか分からない。ここ数日の
ひとみの機嫌の悪さを敏感に感じ取っている家政婦は、あまり関
わらないようにしようと素早く食事の用意をした。
- 121 名前: 41 投稿日:2001年09月22日(土)03時15分12秒
ポツ――、ポツ――、ポツ――。
窓に当たる微かな雨音を聞きながら、梨華は紗耶香がレインコー
トを持っていたのかを気にした。
元気になったとはいえ、まだ病み上がりなのには違いない。
また、熱が出ないだろうかと心配になった。
(……今日、安倍さんちに泊まるのかなぁ)
梨華は、真っ暗な部屋の中、ベッドの上に寝転んでそんな事を考
えていた。
早く眠ってしまいたかったが、紗耶香のことが気になってなかな
か眠ることができない。
――ガチャ。
と、ドアが開く音がし、梨華はそちらへと視線を向けた。
ほんの少し開いたドアから、廊下の明かりが伸びる。
「……誰、……ですか?」
ドアの隙間には、一向にドアを開けた人物の姿が見えない。
不審に思って、梨華は上半身を起こした。
「なんだ……」
梨華は、ドアの隙間に見えるほんの少しのシルエットを見て、ホッ
と胸を撫で下ろした。
ドアがゆっくりと開き、そのシルエットは完全にひとみであるこ
とを現している。
- 122 名前: 41 投稿日:2001年09月22日(土)03時17分13秒
”ノックぐらいしてよ”と、言いかけたが、ここが自分の家ではない
ので、それを口にすることは止めた。そんなことを言えば、どん
な答えが帰ってくるのかもわかっていたからだ。
「何……? 何か用なの?」
ひとみは何も言わずに、ドアの前に佇んでいた。
さすがに、いつもと様子が違うことに気がついた。普段、部屋に
やってくるような事はほとんどない。来たとしても、その時は、
からかうことを前提として来ているので、すぐに何か返事ぐらい
はするはずだった。
だが、もう1分近くもひとみは無言のまま梨華を見つめている。
――いや、梨華の位置からは逆光になっているので、自分を見つ
めているのかはわからないが、なんとなく冷たい目で見つめられ
ているような気がした。
「……何よ」
梨華の声は、微かに震えていた。
部屋の電気をつけようと、身体を起こそうとした時、ドアが力強
く閉められた。
部屋の中は月明かりもなく、真っ暗になった。
廊下の明かりを見つめていた梨華の目は、闇に慣れることができ
ずにひとみの姿を見失った。
- 123 名前: 41 投稿日:2001年09月22日(土)03時18分44秒
『楽しかった?』
ひとみの声が以外とすぐ近くから聞こえ、梨華はビクッと身体を
震わせた。
『遊園地、楽しかった?』
もう1度声が聞こえ、梨華はひとみがクローゼット付近から声を
発していることを察した。
「え……? あ……、うん……」
闇の中から、ひとみのクスクス笑う声が聞こえてきた。
「もう、やめてよ。電気つけて」
梨華は、言い知れぬ恐怖を覚えた。やっとひとみの意外な一面を
見つけたばかりだというのに、今日のひとみはまるでそんな事は
自分の妄想だったかのような危険な雰囲気を感じさせた。
『ホントは、2人だけが良かったよね』
「……え?」
『見たんだ、この前』
「ちょっと、もうホントにやめて」
『あんたが姉さんに、キスしてるところ』
梨華は、その言葉を聞き、カッと顔面に血液が集中するのが自分
でもわかった。
闇に利点があるとすれば、その赤くなった顔をひとみに見られな
いというだけだった。
- 124 名前: 41 投稿日:2001年09月22日(土)03時20分37秒
さっきまで聞こえた雨の音が、心臓の高鳴りで梨華の耳には届か
なくなった。
どのくらい、自分の動揺を必死で抑えようとしていたのだろう。
いつの間にか、ひとみの気配を闇の中に確認できなくなっていた。
『同性の恋愛がどうとか、エラソーなこと言っちゃって』
と、微かに笑いながらひとみが、梨華の隣に腰かけてきた。
梨華は反射的に、ひとみから逃れようとしたが、その身体を強く押
さえこまれた。
「ちょっと」
身悶えして抵抗したが、ひとみの力には到底叶わない。
薄ら笑いを浮かべているひとみの顔が確認でき、梨華の恐怖はより
いっそう強いものとなった。
「は、離して!」
「あんたの気持ちなんて、姉さんには届かない!」
ひとみの強い口調にではなく、その言葉に梨華の動きはピタリと止
まった。
2人の荒い息と、窓に当たる雨音。
静かな部屋。長い沈黙の後、先に口を開いたのは、ひとみだった。
「……安倍なつみ。もう何年も姉さんは、その人だけを見てるの」
「……」
「ごっちんも、あんたも、姉さんにはただの妹みたいにしか見えて
ない」
「……」
- 125 名前: 41 投稿日:2001年09月22日(土)03時22分29秒
窓に打ちつける雨音が、いつしか強くなっていた。
カタカタと防音の分厚い窓を揺らす。相当強い風が吹いているに、
違いなかった。
「泣いたら……?」
「……どうして?」
「あんたはある意味で、裏切られてたんだ。惨めだと思わないの?」
「裏切る……?」
梨華は空虚な目で首を少し傾け、天上の僅かに浮かぶ模様を見つめ
ていた。
初めから報われないのはわかっていたが、あらためてそう聞くと、
ショックとは違ったなんだか訳の分からない気持ちになった。
「ちゃんと、こっち見て!」
咆哮にも近い叫びを上げ、ひとみは乱暴に梨華の顔を自分に向き直
らせた。
驚いて目を見開いたのか、それともひとみの唇が自分の唇を塞いだ
からなのか、どちらにせよ梨華の目は大きく見開かれた。
――下唇に鋭い痛みが走り、梨華は短いくもぐった悲鳴を上げた。
覆い被さったひとみを押しのけ、ぬるっと生暖かい唇を拭った。
手の甲に擦れ、下唇にまた小さく鋭い痛みが走った。
鉄錆びのような味が口の中に広がり、微かに鼻腔をつく。
噛まれて出血していることは明らかだったのが、闇の中ではその赤
いであろう血の色もくすんだ単色でしかなかった。
- 126 名前: 41 投稿日:2001年09月22日(土)03時24分27秒
「なんで……」
梨華は怯えた声を発しながら、ひとみを見上げた。
ひとみは、泣きそうな顔で梨華を見つめていた。何かを言いたげだ
が、混乱しているのだろうかただ口元がイタズラに小さく動いてい
る。
梨華が、ひとみの動揺した姿を見るのは初めてだった。
紗耶香に好きな人がいたこと、キスをされたこと、下唇を噛まれた
こと、それらを忘れてしまうぐらいひとみの弱々しい姿に衝撃にも
似た感じを受けた。
「安倍さんが来たのは、アタシが連絡したから……」
やっと言葉を思い出したかのように、ひとみはポツリポツリと震え
る声でつぶやいた。
「……」
「なんでなのか、わからない……」
「……」
「わからない……。どうやって――」
ひとみは虚ろな目で、自分の震える手の平に視線を落とした。
しばらくそうしていた。
梨華も、呆然とひとみのそうした姿を見つめていた。何か、声をか
けなければならないと思いつつ、行動にうつすのがためらわれた。
――やがて、ひとみはフラフラと漂うように部屋を出ていった。
雨音だけが聞こえてくる暗い部屋の中で、梨華はいつまでもひとみ
が出ていったドアを見つめていた。
- 127 名前: 作者 投稿日:2001年09月22日(土)03時27分38秒
- 36〜41回(>>95-126)の更新を終了しました。
>>82 じゃあ、タイムラグを作った藤村に(笑)
>>83 葛藤があるのは確かですね
>>84 見たことないので、知らなかった……
>>85 どうやら、早まったみたいです
>>86 まだ、最終回じゃないんで(笑)
>>87-88 実は最初の大事な1レスが、抜けてたりします
この前、気付きました(苦笑)
>>89 「→」なので、仕方ないと言えば仕方なく……
>>90 いつか、それも何らかの形で終わると思います
>>91 ある意味、かっけーです(w
>>92 メール欄が気になり……、なんだろう……?
>>93 遅くなりました。続きです→>>95-126
>>94 できれば来月中には、終わらせたいです
- 128 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月22日(土)18時13分18秒
面白い!!作者さん…あんた最高さー!!
- 129 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月22日(土)18時55分34秒
- よしこが幸せになれますように・・・
- 130 名前:コカライト 投稿日:2001年09月22日(土)19時18分35秒
- よっすぃー、、、(悲
、、、、、、、、、、、写真集出すんだね(笑
すごくおもしろいです。
次回も楽しみにしてます。
- 131 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月22日(土)19時31分38秒
- 梨華ちゃんもよっすぃ〜の写真集書店予約して買うから
自暴自棄になっちゃダメだよ〜
- 132 名前:バリボー 投稿日:2001年09月23日(日)01時25分01秒
- 糸がこんがらがってきたな…。
よっすぃも心配だが、ごっちんも心配です…。
- 133 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月23日(日)03時31分19秒
- 面 白 過 ぎ る
- 134 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月23日(日)09時47分55秒
- 最高
- 135 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月23日(日)09時50分38秒
- う〜んじれったい〜。
なんとかみんなが幸せになって欲しい〜
次の更新楽しみにしてます。がんばって下さい。
- 136 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月23日(日)10時23分34秒
- どんどん痛くして(w
- 137 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月24日(月)07時25分53秒
- 最初から一気に読ませていただきました。めちゃくちゃ面白いです。後半のひとみを見て切なくなりました。
結果はどうあれ、ひとみの想い、梨華ちゃんに伝わってほしいです。
作者さん、これからも更新頑張って下さい。
- 138 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月25日(火)22時52分00秒
- 早く続きが読みたい。
- 139 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月27日(木)03時14分41秒
- よっすぃ〜の思い、報われてくれ(w
- 140 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月29日(土)13時43分46秒
- コウシン・・・シテホシイ・・・・・・・ガマンデキナイ・・・・・・・・・・・・・
- 141 名前:コカライト 投稿日:2001年09月29日(土)21時45分21秒
- 待ってますよー。
- 142 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月30日(日)10時44分16秒
- そろそろかなぁ?
禁断症状でちゃいそうだけど(w
- 143 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月01日(月)06時21分31秒
- 俺もそろそろ…
- 144 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月01日(月)16時24分33秒
- 良いよ!かなりいい。
切ない気持ちがいい感じ。
続きがよみてーっす!
- 145 名前: 42 投稿日:2001年10月02日(火)00時20分00秒
幼いひとみが、泣いていた。
誰かにすがっているような、しかしそれが誰なのか幼いひとみを
俯瞰的に眺めている”ひとみ自身”にはわからなかった。
遠い記憶の中の一コマなのか、夢が作り上げたまったくの虚像な
のか――、それすらもわからないまま、ひとみは目を覚ました。
遮光カーテンの隙間から、嫌味なほどさし込んでくる朝日に背を
向けて、そして気づいた。
(泣いてる……?)
両頬を伝う涙。自分の横隔膜が正常に機能してないことも知っ
た。息をすると、嗚咽が漏れる。
初めてのことだった。
泣きながら目覚めることがあるなんて、ひとみはその朝、初めて
知った。
――夢の中で、泣いてたのは幼い自分なのになんで……。
ひとみは、あわてて涙を拭い乱れた呼吸を正常に戻そうとした。
フロイトを知らないひとみだったが、夢の中で泣いてすがってい
たのは間違いなく今の自分で、自分から去ろうとしているのは梨
華で、昨夜の自分の犯した行動を夢の中で詫びていたんだと理解
することができた。
なぜなら、目覚めた今も涙が止まらないのは、今も梨華に詫びて
いるからだった。
ひとみの嗚咽は、しばらくひっそりと広い部屋に響いていた。
- 146 名前: 42 投稿日:2001年10月02日(火)00時21分27秒
「――ねぇ」
カップにミルクティーを注いでいる家政婦に、紗耶香がちぎった
パンを口へと運びながら訊ねる。
「はい」
「ひとみ――、もう学校?」
紗耶香は、自分と家政婦しかいないがらんとした食堂を見渡した。
「いえ。まだお部屋に」
「そう――。石川は?」
「補習があるとかで、もう随分前に出て行かれました」
「ふーん……。あ――、ありがとう。ここは、もういいから」
と、紗耶香はやわらかい口調で家政婦に声をかけた。
家政婦も去り、1人っきりになった食堂。
もう、慣れてしまっていたはずだったが、あらためて紗耶香はそ
の広さを実感した。
なつみのアパートのように、ともすれば互いの顔がくっつきそう
になるほど小さなテーブルで食事をする方が、家族が1つになる
には最短の近道なのかもしれないと考えた。
咀嚼したパンを、適温に保たれたミルクティーで喉の奥へと流し
込む。――朝からあまり塞ぎ込みたくはないので、別の話題を頭
の中で探した。
「――アレ? 2年の補習って放課後じゃなかったっけ……?」
紗耶香はポツリと声に出してつぶやいてみた。
- 147 名前: 42 投稿日:2001年10月02日(火)00時24分00秒
鏡に映る下唇は、端の方に数ミリ程度のかさぶたができていた。
裂傷部を、舌先で軽く触れると案の定小さく鋭い痛みが走り、鏡
に映る梨華の顔が微かに歪む。
痛みと同時に、梨華は昨夜の出来事を思いだした。
(なんで……)
梨華は、学園のトイレの鏡に映る自分に問いかけた。
なぜひとみがあのような行動に出たのか、昨夜、その事ばかりを
考えて結局、わずか1時間程度しか眠ることができなかった。
紗耶香とのキスを思い出す時、羞恥心が首をもたげるのと同時に
淡い陶酔感のようなものもあったが――、ひとみとのキスを思い
出すと、そこにはただ恐怖と戸惑いしかない。
(……)
梨華は昨夜の出来事を振り払うかのようにして、鏡の前から立ち
去った。
――それから数日もの間、梨華はひとみとは家でも学園でも顔を
合わす事はなかった。
- 148 名前: 43 投稿日:2001年10月02日(火)00時27分16秒
スナック「真美」の店先にあるスタンドが、数度の瞬きの後、ぼ
やけた赤色の電飾を灯した。
店の中にはもうすでに数人の客がおり、2階住居にいる真希の耳
にも喧騒が届く。
「……」
真希は虚ろなため息を吐くと、テーブルの上に置いてあった携帯
電話を掴み立ちあがった。
喧騒は明け方近くまで続く、真希はいつの頃からかその時間が来
るまで眠れないようになっていた。
外付けの錆びた階段を下り、粗末な木製のドアを開ける。
ムワッとした飲み屋街特有の焼けた肉の匂いや、通りを歩く客の
高らかな声が、虚ろを装う真希を現実に戻す。
ドアを閉め、後ろを振りかえった真希の目に飛び込んできたのは、
泥酔した酔っ払いでもなく、生活に疲れたホステスでもなかった。
「よっすぃ……」
向かいのレンガ作りの店の壁に、ひとみが腕を組んでよりかかっ
ていた。
獣のようなその鋭い目を、真希は久しぶりに見たような気がした。
- 149 名前: 43 投稿日:2001年10月02日(火)00時29分18秒
「なんか……、あった?」
真希の声は届いているはずだった。だが、ひとみは何も声を発せ
ず、鋭い視線を通りの向こうへと向ける。
肩を組み合ったサラリーマンが通りを横切っていたが、ひとみは
それを見ている風でもなかった。
「……」
真希は、うつむき加減でひとみが向けている視線とは逆方向に歩
いていく。
どんな用があるのかわからないが声すらもかけてくれないのなら、
この場所に留まることは無用のように思えた。
住む世界の違いを晒されているようで、それは一糸まとわぬ裸体
を見られることよりも恥ずかしいことのように思えた。
『ごっちん……』
暫く歩いたところで、街の喧騒に消えいってしまいそうなほど小
さく弱い声が真希の耳に届き、真希の足を止めた。
『もう1回、付き合おうか?』
先ほどより大きく聞こえたが、それはひとみが大きな声を発した
のではなく、自分との距離を縮めただけに過ぎない――、振りか
えるべきか振り向かないべきか、真希の中で葛藤が生じた。
『今度は、上手くいくと思う。別にいいよ、姉さんのことが好き
でも』
「……」
感情のこもっていない淡々とした口調。
紗耶香の顔が浮かび、真希は振りかえることをやめた。
- 150 名前: 43 投稿日:2001年10月02日(火)00時31分48秒
『ずっと、想ってなよ。アタシは、それでもいいから』
「遅いよ……」
『……』
「この前、よっすぃがあんなところ見せるから――、アタシの中、
いちーちゃんのことでいっぱいになった」
『……』
「よっすぃが入ってくる隙間なんて、ぜんぜんない」
『……そ』
その声は、さらに小さく聞こえた。遠ざかっていったのだろう、や
がて足音すらも聞こえなくなった。
そこでようやく、真希は後ろを振りかえった。
雑踏の中に見え隠れするひとみの背中は、小さくそして弱々しかっ
た。追いかけて抱きしめたい衝動にも駆られたが、また同じことを
繰りかえすだけなら、真希はその衝動を胸の奥底にしまいこんだ。
ひとみの言ったことはすべてウソだと、真希はハッキリとわかって
いた。独占欲が強いひとみが、あそこまで言うからにはよほどのこ
とがあったことも――。
だが、真希は同情の目を向けることはやめた。
自分自身の気持ちも定まらないのに、ここで追いすがれば2人は別
の人を想いながら閉塞的な空間を浮遊するだけの存在になってしま
う。真希はもう、その虚しさから自分を解放したかった――。
- 151 名前: 43 投稿日:2001年10月02日(火)00時33分49秒
『最近さぁ――』
キッチンでカップにコーヒーを注いでいたなつみが、「ん?」と振
りかえる。
小さなテーブルにノートを広げ勉強をしていた紗耶香は、ペンを持
つ手を止め顔を上げた。
「石川とひとみの様子が、変なんだよねぇ」
「変って?」
色違いだが揃いのカップを持って、なつみは部屋へと戻る。
「はい」
と、なつみは紗耶香に青色のカップを渡した。
「なんか、よそよそしいって言うかさ。まぁ、ひとみは前からそう
なんだけど……」
紗耶香は、コーヒーを一口飲んだ。飲みながら、なつみへと視線だ
けを向ける。片手にカップを持ち空いた手を口元に添え、部屋の中
を見渡している。
「何、探してんの?」
「んー? ちょっとねー」
何を探しているのか分からないが、紗耶香も辺りをキョロキョロと
見回す。なつみが高校を卒業し1人暮しを始めてから、ほぼ毎日の
ように通っているのである。紗耶香にも、どこに何があるかはある
程度見当がつくようになっていた。
- 152 名前: 43 投稿日:2001年10月02日(火)00時35分44秒
「ゼミの先生にね、お菓子貰ったんだけど」
「お菓子?」
と、紗耶香は苦笑を浮かべた。なんとなく、”いい子、いい子”と頭
を撫でられながらスナック菓子を貰うなつみを想像したからである。
「あのねー、お菓子って言っても、普通のお菓子じゃないんだよ」
紗耶香が何を考え、何を笑っているのか、まるですべてお見通しと
いった感じでなつみも笑いながら答える。
「研修で行ってた京都の老舗の、すっごい高そうなヤツ。紗耶香が
来たら、一緒に食べようと思ってとっといたんだけどさー」
と、なつみはクローゼットを開けて中を探す。
「寝てる間に、食べちゃったんじゃないの」
「あー」
プッと頬を膨らませるその姿。
紗耶香は、苦笑しながら立ちあがった。
「自分で片したのぐらい、ちゃんと覚えときなよ」
と、紗耶香はキッチンへと向かう。
なつみは、その様子をきょとんと眺めていた。そこにあるのをあら
かじめわかっていたかのように、紗耶香はキッチンの下にある戸棚
の中からまだ包みも開けていない菓子箱を取り出した。
「あ、それそれ。なんで、知ってんの?」
「なっちが隠しそうな場所ぐらいわかる。はい」
と、戻ってきた紗耶香は、なつみに菓子箱を渡した。
「なんか、恋人同士みたいだよね」
と、なつみはイタズラっぽく笑いながら、菓子箱の包みを開けた。
そんななつみを、紗耶香はただ微笑を浮かべて見つめていた。
- 153 名前: 43 投稿日:2001年10月02日(火)00時37分37秒
まだ陽が昇りきる前に、梨華は目を覚ました。
学校にバイトとそれなりに忙しい生活を送り、朝ぐらいはゆっく
りと眠っていたかったのだが、ひとみや紗耶香と顔を合わせるの
も気まずいので、疲れた身体に鞭を打つようにして、いつもより
2時間早く起床するようにしていた。
(眠いよ……)
梨華は目をこすりながら、フラフラとクローゼットへと歩く。
扉を開けると、その内側に1枚の鏡が貼り付けられている。
(すごい隈……)
自分の目許を、指で軽くなぞってみた。もうこうなってしまって
は、簡単なメイクだけでは隠せそうにもない。
だからといって、学校があるのでファンデーションを厚く塗って
隠すわけにもいかない。
(……)
下唇の傷は、目を凝らして見ない限りわかりそうもないほど治っ
ていた。早く消えてくれるように、梨華は願っていた。
傷を見るたびに、あの日の光景が甦る。
獰猛な獣のように、近寄ることさえできない。
近寄ることさえ躊躇われる、怯えきった小動物。
どちらも、梨華の記憶の中にイメージされている同じ日のひとみ
だった。
なんの目的があり、あのような行動に出たのか梨華にはわからな
かった。いや、むしろわかろうとしなかった。
常に緊張を強いられる関係に、梨華は身も心も疲れきっていた。
淡い紗耶香への想いも報われないことがハッキリとし、梨華の心
の中にはまた市井家から離れたいという気持ちが現われはじめて
いた――。
- 154 名前: 44 投稿日:2001年10月02日(火)00時41分49秒
「行ってきます」
と、玄関まで見送りに来てくれた家政婦に声をかける。
それまで浮かべていた笑顔が、玄関の扉を閉めたと同時にフッと
梨華の顔から消えた。
ここから梨華は、いつものようにうつむき加減でトボトボと長い
時間をかけて学園までを歩く。
あまり早い時間に学園に到着すると、まだ正門も開けられていな
いことがあり、その辺を考慮してゆっくりと時間をかけて歩いて
いくのである。
市井家の門扉を出て数メートルほど歩いた頃だろうか、朝の澄ん
だ空気の中を紗耶香の声が通る。
『石川』
梨華は、足を止めて振りかえった。
ローファーを履き直しながら、紗耶香が門扉の通用口を出てくる。
(市井さん……)
腕時計を見た。見なくてもわかってはいたのだが、いつもの登校
時間までにはまだ2時間以上ある。
「早いなぁ。いっつもこんな時間に出かけてんの?」
と、紗耶香は微笑みながら駆けてきた。
梨華は、ほんの一瞬、紗耶香の笑顔を見て心がスッと軽くなった
ような感じがした。だが、すぐにまたあの日のひとみの言葉を思
い出し、暗い沈んだ気持ちになった。
「一緒に行こう」
梨華の微妙な表情の変化に気づいた紗耶香だったが、その事につ
いては触れることなく、まだ少し寒くすらある早朝の道を梨華と
連れ立って歩いた。
- 155 名前: 44 投稿日:2001年10月02日(火)00時44分44秒
トボトボと時間を潰しながら歩いていくつもりが、紗耶香と登校
することにより、わずか15分ほどで学園に到着した。
まだ、6時30分を過ぎたばかりであり、当然、職員も出勤して
おらず学園の門扉は閉まったままだった。
「裏から、入ろうか」
紗耶香はそう言いながら、学園の裏手へと回る。
その後ろを歩きながら、梨華は”補習のため早朝に登校している”
というウソは完全にバレていることを悟った。
紗耶香はそれについて、何も触れない。
触れないという事は、あらかじめわかっていたという事だ――。
「なんか、ワクワクするね」
と、紗耶香はしんと静まり返った学園の敷地内を歩きながら、そ
う言って微笑んだ。
イタズラ好きの少年が笑っているようで、梨華の胸はキュッと締
めつけられるような感じになった。
校舎のドアというドア、窓という窓は、やはりすべて閉まってお
り、2人は仕方なく校舎の正面ロビーに続く階段に座って、職員
が来るのを待つことにした。
- 156 名前: 44 投稿日:2001年10月02日(火)00時50分40秒
「あ――、あのさ」
とりとめのない話をして梨華の緊張をほぐしていた紗耶香が、急
に思いつめた顔をして梨華に話かける。
あまりにも不意に真剣な表情で見つめられたため、梨華の顔の温
度は急激にどんどん高くなった。
「は――、はい――」
裏返りそうになる声を、梨華は必死でコントロールした。
「ひとみと、何かあった?」
単刀直入ではあったが、早く本題を切り出さなければ、生徒が登
校し、そんな時間もなくなってしまう――紗耶香はそう考えあえ
て核心を突く訊ね方をした。
「……」
顔を伏せるつもりはなかったのだが、あの日のひとみの顔が頭に
浮かび、紗耶香にすべてを見透かされそうな気がして咄嗟に顔を
伏せてしまった。
「やっぱり……」
紗耶香は、梨華の表情の変化からひとみとの間で何かあったのを
察した。
「ひとみが、何か――した?」
「……いえ」
しばらくの沈黙の後、「……ごめん」と紗耶香がポツリと呟いた。
梨華は、ハッとうつむいていた顔を上げた。
やはり、いつかの夜に見たように、紗耶香から儚げな印象を受け
た梨華であった。
- 157 名前: 44 投稿日:2001年10月02日(火)00時53分50秒
「市井さん……」
「もう、疲れたよね……」
「……」
「もうすぐ、父さんも帰ってくる……」
「え……?」
梨華の脳裏に、”別れ”という2文字が浮かんだ。自分でもそのよ
うな結末を望んでいたはずなのに、いざ実際にその時が来るのを
知らされると途端に否定したい気持ちが浮上する。
「アタシ、ひとみと石川はうまく行ってると思ってたんだ。だか
ら、あんまり2人の間に入っていくようなことはしたくなかった。
ほら、ひとみはアタシのこと嫌ってるから」
「……そんなこと、ないです」
「だといいんだけどね」
と、紗耶香は笑った。
「このまま、ずっと一緒にいてもらいたかったんだ。なんか、ズ
ルイ考えかも知れないけど、石川がひとみの心を開かせてくれる
んじゃないかって」
「……」
「でもさ、それってやっぱりアタシの怠慢なんだよね」
「……」
「家族のゴタゴタした問題を石川に――、ううん、自分以外の誰
かになんとかしてもらおうと思うアタシがいけなかったんだ……」
そう言ってうつむく紗耶香を、梨華はなぜか微笑みを浮かべて眺め
た。たとえ、紗耶香が誰かを見ていようとも、たとえ自分を見つめ
る事がなくとも、それでもいいんじゃないか――。
市井家を去るまでにあとどのくらいあるのかわからなかったが、最
後に1つだけ紗耶香の喜ぶことをしてあげたい。そう考えると、な
ぜか自然と笑みがこぼれた。
- 158 名前: 45 投稿日:2001年10月02日(火)00時56分20秒
予備校へと向かう紗耶香を、梨華は市井家のテラスで見送った。
たまたま予備校へと向かう紗耶香を見かけてそうしていたのだが、
武者震いのようなものを落ちつかせたい、そんな意味合いもあり、
バイクのテールランプが見えなくなってもしばらくその場に佇んで
いた。
「これが最後かもしんないんだから、頑張ろうよ……」
ともすれば逃げ出そうとする自分を、声を出して勇気付けた。
ひとみの部屋へ向かう――。
たったそれだけのことができずに、帰宅してからの数時間をこうし
てただイタズラに過ごしていた。
テラスへも、その気分転換のために訪れていた。
以前のような関係は、壊れてしまったのかもしれない。
簡単に部屋に向かうことは、ひとみへの恐怖心を抱いてしまった彼
女にとって難しいこととなってしまった。
梨華にとっては、獣の檻に入っていくのと同じだった。
だが、向かわなければこの雁字搦めになった糸を解くことはできな
い――。
その葛藤で、日も暮れてしまった。
残された時間はもう少ない。
梨華は、勇気を振り絞ってテラスを後にした。
- 159 名前: 45 投稿日:2001年10月02日(火)00時58分54秒
ひとみはもう数時間もベッドの上で身体を横にしていた。
虚ろな目はどこかを見ているようで、どこも見ておらず、カサカサ
に乾いた薄い唇は、うろ覚えの流行歌のメロディーを口ずさんでい
た。
ノックの音も、ドアを開ける音も聞こえなかった。
妙に懐かしさすら感じる独特の高い声を聞き、ひとみはようやく現
実の世界に戻ってくることができた。
だが、振りかえるようなこともせずそのままの体勢で声を発した。
「何の用……」
ドアの前に立っていた梨華は、ゆっくりとドアを閉めた。
「学校、ずっと休んでるんだってね……」
「……」
「市井さん、心配してたよ」
虚ろなひとみの目に、生気が戻る。
「明日、一緒に学校行こう」
「そんなことしても、姉さんはあんたのことなんて見ないって言っ
たでしょ?」
「……」
ひとみは、むっくりと身体を起こした。もう何時間も同じ体勢のま
まだったので、まるで自分の身体ではないようなぎこちなさを感じ
たが、それでもなんとか身体を起こした。
- 160 名前: 45 投稿日:2001年10月02日(火)01時01分11秒
「まだ、わかんないの」
嫌味を言いたいのか、梨華を心配しているのか、ひとみは自分自身
でもわからなかった。また、泣いてしまう。また、泣かせてしまう。
と、頭の片隅でわかってはいたのだが、強い口調を止めることがで
きない。
「あんたも、ごっちんと同じなんだ。みんなと同じなんだよ。結局、
姉さんや父さんに取り入ろうとしてアタシを利用する」
「利用なんかしないよ」
「じゃあ、なんのためにここに来たのか言ってみなよ!」
「……」
ドアの前に佇む梨華の口元が、への字に歪む。泣く兆候。
それを見て、ひとみの罪悪感は膨れ上がる。同時に、苛立たしさも
こみ上げる。こうなる事はわかってるのに、そんなにまでして――。
「アンタは姉さんの前でイイカッコしたかっただけ、もうわかった
から消えて……。もう2度と、アタシの前に現れないで」
うつむく梨華。
そう、そのまま去ってくれればいい。
そうすれば、もう2度と泣かせるようなこともない――。
ひとみは、またベッドに寝転ぼうとした。
『そんなことないもん』
泣いているような声だったが、確かに梨華はそう言った。
ひとみは、中途半端な姿勢のまま視線だけを向けた。間接照明だけ
の薄暗い部屋だったが、梨華の瞳が潤みそれでもなお、こちらに強
い視線を向けているのがわかった。
- 161 名前: 45 投稿日:2001年10月02日(火)01時03分53秒
「ただ、一緒に仲良くしてもらいたかっただけだもん」
両手を突っぱねるようにするその仕種、梨華が怒っていることはひ
とみには容易に見破ることができる。そのような仕種は、きっと自
分が一番よく見ているはずだとひとみはぼんやり考えていた。
「それに、あなたのこと心配したのが先だった」
「心配?」
ひとみは、フッと笑いながらベッドの縁に腰掛け、梨華へと向き直
る。
「なんで、アタシがあんたに心配してもらわなくちゃいけないの?」
「心配だから、心配なのっ」
まるで子供だ。
ひとみは、さっきから浮かべている皮肉いっぱいの笑みと、そこに
ため息を加えて間接照明へと顔を向けた。
「人を信用できないって、悲しいことなんだよ」
「信用しすぎるアンタの方が問題あると思うけど」
「そんなだから、心配なのよっ。もっと普通に、誰かを信じればい
いじゃない。惨めだとか、裏切られたとか、なんでそんな風にしか
考えられないのよ」
よほど、悔しいのだろう。梨華は、ポロポロと涙をこぼしていた。
ひとみは正視することができそうになく、そのまま間接照明を眺め
ていた。
- 162 名前: 45 投稿日:2001年10月02日(火)01時07分30秒
「信用しろって言うのなら――、その証拠――、見せてよ」
「証拠って……。そんなの目に見えないもん……」
「もう、いいよ。消えて」
「よくない。なんで、信じようとしないのよ」
「――袋」
思い出したかのように、ひとみは梨華に視線を向けた。
「え……?」
「モスグリーンの「アパール」って店のロゴが入った紙袋、ここに
持ってきてよ」
「……紙袋?」
「そ。これぐらいの。何日か前に廊下に投げ捨たから、それ持って
きて」
「そんなの、もうないかもしれないじゃない」
「あると信じて探せばいいじゃん」
と、ひとみは嫌味っぽく笑った。
「……それ探したら、一緒に学校行ってくれる?」
「いいよ」
そんなもの見つかるはずがない。もう何日も前に捨てたもので、とっ
くの昔に家の裏手にある無煙焼却炉で処分されているだろう。
喜んで部屋を出ていく梨華をちらりと見やり、ひとみは冷笑を浮かべ
ながらベッドに寝転んだ。
――信じて裏切られるぐらいなら、最初から信用しない。
誰も好きになど……。ひとみは、大きなため息と共にムリヤリに目を
閉じた。
- 163 名前: 45 投稿日:2001年10月02日(火)01時10分57秒
いつもは、目的地も定めずにフラフラと夜の街をさ迷う。
目立つ容姿、放つ雰囲気により、5分おきに男たちに声をかけられる。
無意識に品定めをするかのような視線を向けて、二言三言男たちの言
葉を聞き、色欲に彩られた煌くネオンを仰ぎながらその場を立ち去る。
――それが、真希の日常サイクルの1つとなりつつあった。
だが今日は、目的地が決まっている。
フラフラとさ迷うことも、男たちの声に立ち止まることもなく、ある
目的の場所に向かって足早に歩いていた。
紗耶香の通う予備校のビル。
その出入り口が見渡せる場所につくと、真希はふうーっと微かな笑み
を含んだ息を吐き、ガードレールに腰かける。
途中のコンビニで買ったペットボトルを片手に、足をブラブラさせて
紗耶香が出てくるのを待つ――、それも真希の週に何度かの日常サイ
クルとなりつつあった。
(いちーちゃん、早く出てこないかなぁ)
最近、ことさら無表情な真希が、唯一頬を緩ませることができる時間
でもあった。
声をかけることもなければ、近づくことさえしない。
もともと住む世界が違う、こうしてただ眺めているだけで幸せなんだ
と真希は自分を納得させ、授業を終えた紗耶香が出てくるのを、ただ
ひたすら待ちつづける。
- 164 名前: 46 投稿日:2001年10月02日(火)01時13分01秒
ひとみは目を覚ますのと同時に、バッと素早く身体を起こした。
いつの間にか眠っていたらしい。
枕もとの時計に目をやると、梨華が出ていってから4時間が経過して
いた。
もうすぐ日付も変わる。
しばらく耳を済ましてみたが、廊下を誰かがやってくるような気配は
なかった。
さすがに、諦めて眠ってしまっただろう――。ひとみは、皮肉交じり
にそう考えた。――軽いため息と共に、ベッドから下りる。
――ひっそりと薄暗い厨房には、備え付けてある大型の業務用冷蔵庫
がモーターの低い唸りを響かせていた。
その横にある家庭用の冷蔵庫を開けて、ひとみは缶ジュースを取りだ
す。
オレンジ色のほのかな光でさえまぶしく、ひとみはすぐに冷蔵庫の扉
を閉めた。苛立たしさが込められていたのだろうか、乱暴に閉めたた
め、予想以上大きな音が静かな厨房内にひろがった。
ここ数日、ほとんど飲まず食わずだったのだが、不思議と空腹感はあ
まり感じなかった。ただやはり、喉の渇きだけはどうしようもなく、
そのジュースが炭酸だというのに3分の2を一気に飲干した。
- 165 名前: 46 投稿日:2001年10月02日(火)01時15分40秒
ガチャと音がし、ゆっくりと厨房のドアが開く。
梨華――。
ひとみは、条件反射的に振りかえった。
だが、そこに梨華の姿はなく、かわりに寝ぼけ眼の家政婦がいるだけ
だった。
ひとみの落胆は、大きなため息となって現われた。
家政婦が自分を見て、戸惑っているのは一瞬の表情から読みとること
ができた。
「何の用?」
ひとみは、くるりと背を向けると冷たく言い放った。
『あ――、ちょっと物音が聞こえたものですから……。あの、お夜食
だったら今から作りますが』
「いらない」
『――あ、では……、おやすみなさい』
「待って」
ドアを閉じようとした家政婦は、「?」と振りかえる。
「あの子に、何か訊かれなかった?」
「あの子……? あ、石川様でしたら――、確かに」
「なんて」
「今週のゴミは、もう出したんですかって」
- 166 名前: 46 投稿日:2001年10月02日(火)01時18分10秒
探そうとはしてたらしい。
だが結局、見つけることもできず、かといってそれを報告しにくるこ
ともできずに眠ってしまったんだと、ひとみは推測した。
「処分場を教えてくれと、訊ねられました」
「――処分場? 裏の?」
「いえ。清掃局のです」
「は? 裏で燃やすんじゃなかったの?」
ひとみは、驚いて振りかえった。
「ええ。普段はそうなんですけど、先週焼却炉が壊れまして。業者の
方が来てくれる事になってるんですが、何分、部品を取り寄せるのに
時間がかかってるらしくて、まだ……」
「……」
ひとみは手にしていた缶ジュースをダストシュートに放り込むと、ド
ア前に佇む家政婦を押しのけて厨房を飛び出ていった。
残された家政婦は、しばらくきょとんとしていたが、ハッとわれに帰っ
た。生ゴミ用のダストシュートに、空き缶を投げられてしまった。
ゴミの分別には厳しい藤村の顔が浮かび、家政婦はヤレヤレとため息
を吐いた。
- 167 名前: 46 投稿日:2001年10月02日(火)01時21分11秒
ひとみは、勢いよく梨華の部屋のドアを開けた。手探りで、シャンデリ
アのスイッチを入れる。一瞬、その明るさに目がくらんだが、臆するこ
となく部屋の中へと入っていった。
ベッドにも、シャワールームにも梨華の姿はない。
まさか、探しに行ったんじゃないだろうか?
ひとみは、なおも部屋の中を見渡した。
この前は暗くて気づかなかったが、出窓にピンクの鉢植えが置かれて
いることにひとみは気づいた。
ほんの少し開いた窓から、風が吹き込んでいるのだろう。鉢植えの花
は、ヒラヒラと揺れていた。
ひとみは、その花の名前を知らなかった。
だがその花を見つめていると、なぜか涙がこみ上げてきそうになった。
無意識に、そこに誰かを重ね合わせていたのかもしれない。
「なんでそこまでして……」
そのエネルギーが姉に向けられていることが悔しくもあり、自分へと
向けられない切なさもあり、ひとみは誰もいない梨華の部屋で1人涙
を流しそうになった。
だが、その涙を寸前で堪えるとすぐさま自分の部屋へと戻り、机の上
にあった財布を掴んで入ってきたのと同じ勢いで部屋を出ていった。
- 168 名前: 47 投稿日:2001年10月02日(火)01時23分11秒
明け方近くになって、梨華は身体に生ゴミの匂いを染みつかせたまま
市井家へと続く道を肩を落としながら歩いていた。
処分場の警備員に半ば強引に頼んで、探させてもらったのだが、結局、
就業開始時間が近づき邪魔だと追い出されてしまった。
疲れと睡眠不足もそうだが、見つけられなかったという罪悪感から、
梨華の足は鉛のように重くなっていた。
(見つかりっこないよ、あんな広いところで)
と、開き直ってそんな風に考えたが、ひとみの顔を思い浮かべると申
し訳ない気持ちでいっぱいになり開き直る事など到底できそうになかっ
た。
(これでまた、人を信用しなくなる……)
自分が、ひとみを裏切ったことになる。
市井家が自分の所有する無煙焼却炉で、週に1度まとめてゴミを処分
することを梨華は知っていた。
知っていたからこそ、すぐに見つけ出せると考え、そして軽い気持ち
で引きうけた。
だが、物事はそううまく運ばず、結局、ひとみが人を信じられるきっ
かけを、人を信じるように説いた自分が裏切る形となってしまった。
見つからなかった。
と、言い訳が通用するなどとは考えなかった。
もう2度と、ひとみが心を開くことはないと思うと――。ヒクッヒクッ
と、梨華の嗚咽する声が静かな高級住宅街に広がった。
- 169 名前: 47 投稿日:2001年10月02日(火)01時26分02秒
泣きながら市井家の玄関ドアにカードキーをさし込んだ。
いつもなら気にならない程度のカギの開く音が、やけに大きく聞こえ、
それにより梨華の涙は先ほどよりもさらに溢れた。
『石川様……、どうしたんですか、その格好』
誰もいないと思いながらドアを開けると急に声をかけられ、梨華の身
体は驚きでビクンと小さく跳ねた。
文庫本を片手に寝巻き姿の家政婦が、あわててこちらへと駆けてきて
いた。
涙を流し汚れた服装からレイプという最悪の3文字が頭に浮かび、駆
け出した家政婦だったが、梨華までもうあと1メートルというところ
で、生ゴミのものすごい臭気が鼻腔をつき思わず足を止めた。
「い、石川様……、その匂い……」
梨華は、泣きながら「え?」と聞きなおした。
10時間近く処分場にいたため慣れてしまっているのか、梨華は身体
に染みついた匂いにまったく気づかなかった。
鼻を押さえる家政婦の姿を見て、ようやく何を言っているのかが理解
できた。だが、そんなことは今の梨華にとっては、どうでもよかった。
それよりも、ひとみを裏切ったことに対する自分へのやるせなさで、
どうしようもないほどの涙を流していた。
「あ、あの、裏の焼却場なんですけど……、ちゃんと隅の方までお探
しになりましたか?」
- 170 名前: 47 投稿日:2001年10月02日(火)01時28分24秒
隅っこ……?
梨華は、昨夜の自分の行動を思い出させた。
家政婦に、ゴミは業者に頼んで持って行ってもらったばかりだと聞か
され、一応、裏手にある無煙焼却炉の中を見たのだが、がらんとして
いたのですぐに処分場へと向かったのであった。
「み、見てません……」
と、梨華は嗚咽で声にならない声を上げてそう答えた。
「だったら、そこにお探しのものがあるかもしれませんよ。隅の方は
傾斜して段になってますから、そこによく」
家政婦が言い終わらないうちに、梨華は「探してきます」と泣きなが
ら玄関を出て行った。
玄関のドアが閉じられ、裏手へと駆け出していく梨華の足音が遠のく
のを確認すると、家政婦はふうーっと大きく息を吐いた。
「なんなの、あの匂い……」
家政婦はそうつぶやくと、充満しているガスを放出しようと、玄関に
面している窓という窓を全部開けた。
窓を開けながら、家政婦は首をかしげた。
梨華が何故あのような匂いをさせているのかもわからなければ、ひと
みが何故そのように伝言を頼んだのかもわからなかった。
寝入りばなを起こされ、そうして朝まで待たされた挙句に……。
家政婦は大きなため息の次に、大きな欠伸をしながら自分の部屋へと
戻っていった。
- 171 名前: 47 投稿日:2001年10月02日(火)01時32分38秒
バタバタと廊下を駆けてくる音を聞きつけ、ひとみはあわててベッド
に寝転び目を閉じた。
よほど嬉しいのか、今がまだ早朝とも呼べない午前5時前で、普通に
考えれば誰しもが眠っている時間で、部屋に入るのも遠慮する時間で
ある。それなのに、梨華はノックもせずに、「あった! あったよ!」
とアニメ声をキンキンに響かせながら駆け込んできた。
それと同時に、ひとみの鼻腔にも生ゴミの匂いがつく。
だが、そうなった理由を知っているので不快には思わなかった。
「ねぇ、あったよ!」
「うるさいなぁ……」
ひとみは、面倒くさそうに起きあがる。
満面の笑みを浮かべて、梨華が袋を差し出しながらベッドの脇へとやっ
てきた。
「これでしょ? アパールって書いてある。この袋でしょ?」
「あ――、うん……そう」
「やったー」
と、梨華はペタンとその場に座り込み、袋を胸に抱きしめたまま何度
も「やった」と声を上げていた。
「どこにあった?」
ひとみは、その様子を微笑を浮かべて眺めていた。
袋を見つけたことがそんなに嬉しいのだろうか、それとも姉の紗耶香
の期待に応えられるのが嬉しいのか――。
もう、そんなことはひとみにとってはどちらでもよかった。
梨華がただ笑ってくれるのなら、どちらでもよかった――。
「裏の焼却炉にあったの。あのね、私ね、笑っちゃうの」
と、梨華はその後延々と、処分場での出来事をちょっとした冒険憚風
に話してみせた。
- 172 名前: 47 投稿日:2001年10月02日(火)01時35分04秒
興奮覚めやらぬ梨華だったが、さすがに自分の匂いに気づいたのだろ
う。ハッとして、自分の腕をくんくんと嗅いでみせた。
「ひょっとして、私……臭い?」
「別に――。清浄機が壊れてたら、追い出すけどね」
と、ひとみは窓の上の排気溝を見上げてサラリと言ってのけた。
「あ、ごめん……。ちょっとはしゃいでて」
と、梨華はシドロモドロになりながら、あわてて退いた。
ひとみは、苦笑を浮かべて眺めていた。
怒られるとでも思っているのだろうか――。退いたまま何も言葉を発
さず、梨華はうつむいたままだった。ひとみは、そんな梨華の様子を
見るのもそれはそれで面白かった。
だが、また泣かれるのは嫌なのでできるだけ普通に声をかけた。
「ちゃんと、今日から学校行く。だから、少し寝たら」
梨華はその声を聞き、顔を上げた。嫌味の1つでも言われるのかと緊
張していたが、また自分を気遣ってくれたことが何よりも嬉しかった。
- 173 名前: 47 投稿日:2001年10月02日(火)01時38分19秒
「あ、あのね……」
「ん?」
「袋の中なんだけど……」
ひとみは、自分の足元にある袋を拾った。
「中に、なんにも入ってないみたいなんだけど……」
「――入ってるよ」
「え? だって、すごい軽いよ」
梨華はひとみの前にツツっとやってき、袋を覗きこむようにして言っ
た。
中に何も入っていないのは、ひとみ自身が一番よく知っていた。
なぜなら、昨夜遅く店へと赴いたものの、もう既に店は閉まっており、
店の裏手にあるゴミ箱の中から、空の袋だけを持ち帰ることしかでき
なかったのである。
どんなにシャッターを叩きながら叫んでも誰も出てこなかったので、
商品を買おうにも買うことができなかった。
「入ってるよ」
と、ひとみは優しい口調でゆっくりと袋を開けた。
袋の中を覗きこんだ梨華は、「?」と首をかしげた。
「何にも入ってないけど?」
と、梨華はひとみを見上げる。
「――バカには見えない」
「――?」
梨華はしばらく、きょとんとひとみを見上げていた。数秒後、フフっ
と笑うひとみを見て、やっと自分がからかわれていることを理解した。
だが、不思議とからかわれていることに対しての不快感は起きなかっ
た。ひとみから、以前のようなあからさまに人をバカにしたような印
象を受けなかったからかもしれない。
- 174 名前: 47 投稿日:2001年10月02日(火)01時42分42秒
「もう。いっつも、そうやってバカにするんだから。言っとくけどね、
私、あなたより年上なんだよ」
「たった3ヶ月だけどね」
「3ヶ月だけど、学年上だもん」
と、梨華は子供のように笑った。ひとみも、笑顔を浮かべていた。
その笑顔を見つめながら、よかったと梨華は心の底から思った――。
「あのね」
「――ん?」
「ごっちんって子と、何かあったの?」
真希の名前を聞きひとみの表情が曇ったが、梨華はそれでも怯まない
ようにした。年上である自分が、ちゃんと道標を作ってあげようと妙
な使命感にメラメラと燃えていた。
「ケンカでもしたんでしょ? それでイライラして――。あんなこと
したんでしょ?」
「は……?」
何かとんでもない思い違いをしているのではないかと、ひとみは判断
した。
「あのね、1ついいこと教えてあげる」
「……?」
「見返りを求めないのが、本当の愛なんだよ」
「……。なに言ってんの?」
スッと冷めた表情に戻ったひとみだったが、梨華は胸の前で指を組み
窓の外の白み始めた空に視線を向けていた。
- 175 名前: 47 投稿日:2001年10月02日(火)01時44分27秒
「好きな人に、こんな事をしたんだから、こんな風に思ってほしいと
か、してほしいとか、そんな風に考えるのはまだ本当に相手のことが
好きじゃないんだよ」
「……?」
「相手が喜んでくれるのなら、それでいいって思えるようにならない
と――。それが、信じるってことでもあるんだよ」
「なに、言ってんの……?」
「ん?」
本当に気づいてないんだろうか?
ひとみは、訳がわからなくなった。この前のあれは、真希との仲が上
手くいかなくなり、ただ単にその苛立ちを梨華にぶつけただけなのだ
と本当に思いこんでいるのだろうか――?
だとすると――。
「あんた、やっぱり変だ」
ひとみは、声を上げて笑った。
梨華は、きょとんと首を傾げてその様子を眺める。
お人よしで、おせっかいで、世間知らずで、そのくせ鈍感だとわかっ
たら、ひとみは笑わずにはいられなかった。
白み始めた空のように、ひとみの暗闇も白み始めたような――、そん
な笑顔だった。
いつまでも笑っているひとみに対して何か文句でも言いたげに、梨華
が口を開こうとした。
だが、それを声に出す事はできなかった。
ひとみが、梨華を優しく包み込むように抱きしめたからである。
- 176 名前: 47 投稿日:2001年10月02日(火)01時48分27秒
「……ちょ、ちょっと」
肩口から聞こえてくる梨華のくもぐった声。
「ちょっと、冗談やめてよ……。匂いが移っちゃうよ」
その腕の中から逃れるようにして、梨華はひとみに笑いかける。
「別にいい、そんなの」
耳元で聞こえる、ひとみの吐息のような小さな声。
「でも」と、梨華は笑顔で返した。
笑顔の奥には困惑の色が見え隠れしていたが、そうされていることに
対しての恐怖はなかった。それは、今まで梨華が見たことのないよう
な優しい目や声や雰囲気をひとみがしていたからである。
なので、ひとみが再び梨華を抱き寄せた時、梨華は抵抗しなかった。
ただ黙って、窓の外から聞こえてくる微かな鳥のさえずりを聞きなが
ら、ひとみの両腕に包まれていた。
「認めてあげる。あんたのこと――。でも……」
「へ?」
不意に聞こえてきてやはり吐息にも似たひとみの声に、梨華は顔を上
げた。ひとみは、ただ微笑みを浮かべて梨華の目を見つめていた。
悪魔の微笑みのように思えたその表情も、今は――天使とまではいか
ないが小悪魔程度の微笑みになっただろうか?
少し可愛くも感じ、梨華はクスリと笑った。
「何が可笑しいの?」
「別にぃ」
2人は互いの目を至近距離で眺めながら、クスクスと笑いながら暫く
の時を過ごした。
ひとみとこうして話す日が来るのが、梨華にはとても不思議だった。
ただ、もっと早く打ち解けることができれば糸は複雑に絡まなかった
のかもしれないと頭の片隅で考えたりもしたが、それは言葉にも表情
にも現さず胸の奥にしまいこんだ――。
- 177 名前: 作者 投稿日:2001年10月02日(火)01時54分26秒
- 42〜47回の更新終わりました。>>145-176
>>128 更新前後、いつも胃が痛く(苦笑)
>>129 主人公……
>>130 某所あぷろだで拝見します
>>131 書店予約恥ずかしい人はアマゾンで
>>132 そろそろ、絡みます
>>133 あ り が と う
>>134 胃痛(笑)
>>135 そろそろ、スピードを出していきます
>>136 次回、吉のセリフをレスとさせてもらいます(w
>>137 どうやら、伝わってないみたいです(苦笑)
>>139 ↑と同じく
>>140 コウシン…シマシタ……
>>138>>141>>142>>143>>144 すみません遅くなりました
もう1つお詫びさせてもらいます。
個人的な事情で、これからさらに更新日の間隔が開くかも
しれません。ご迷惑をおかけします。
- 178 名前:式神 投稿日:2001年10月02日(火)02時03分33秒
- あいかわらず読ませる文章ですね。う・うまい!!
自分も更新しようと思っていたのですがリアルタイムで
読める!と感動して読ませていただきました。
- 179 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月02日(火)12時05分42秒
- 分かり合えてよかった。 感動した!
- 180 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月03日(水)15時20分52秒
- 間隔が開くのですか…半分鬱になりながらも
超期待してお待ちしてます
- 181 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月03日(水)23時57分03秒
- ちょっぴり一安心♪
しかし作者さんのレスの、そろそろ絡みますの意味が知りたい!!
私も間隔があいてしまうのは悲しいですが…。
でも根気よくお待ちしております。
- 182 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月04日(木)10時57分12秒
- うまくいって良かった良かった!
更新間隔ひらくのかー。
まー気長にまってまんすんでのんびり頑張って!
- 183 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月11日(木)03時35分07秒
- でも、そろそろ続きが読みたくなってきた今日この頃。
(別にプレッシャーかけてるわけじゃなくて。期待期待)
- 184 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月12日(金)22時20分45秒
- 期待です!がんばって!
- 185 名前: 48 投稿日:2001年10月13日(土)01時16分58秒
袋を見つけたあの日、梨華は学校を1日休んだ。
学校へ行く準備をするために、一旦、自分の部屋へと戻り、シャワー
を浴びたあとベッドに少し横になったのが悪かった。
日々の睡眠不足と10時間以上も処分場で袋を探したりで、体力的
にはほぼ限界の所に達していたのだろう。まるで気を失うかのよう
に、あっという間に深い眠りに入ってしまった。
ハッと目を覚ますと、辺りはもう薄暗くなっており、一瞬、時間の
感覚がわからなくなったりもした。
『おはよ』
眠りすぎたせいで逆にぼんやりとし、大広間に入ったもののそこに
いる紗耶香に気付くことなく、梨華は食堂のドアを開けようとした。
「あ……、おはようございます」
紗耶香に気づき、照れ笑いを浮かべながら頭を下げる。
「よく眠れた?」
「あ――、はい」
「そっか。――良かった」
と、紗耶香はホッとしたような笑みを浮かべると、手にしていた書
類へと視線を戻した。
- 186 名前: 48 投稿日:2001年10月13日(土)01時20分01秒
何の書類に目を通しているのかわからなかったが、邪魔をしては悪
いと思い、梨華は食堂のドアを開ける。早々と立ち去りたい理由は
他にもあった。やはり心のどこかに、2人きりで過ごすのは気まず
かったからである。
『ありがとう』
「?」
と、梨華はドアノブに手をかけたまま振りかえった。ありがとうと
は、いったい何のことなんだろう――。
紗耶香は書類を手に大広間を出ていったので、それを訊ねる事はで
きなかった。
だが、なんとなくひとみのことを言っていたのではないかと推測す
ることができた。紗耶香がお礼を言うとしたら、それぐらいしか思
いつかない。
(そっか。ちゃんと、学校行ったんだ)
そんな風に考えた自分が可笑しくて、梨華は苦笑を浮かべた。
まるで、幼稚園に行きたくないと駄々をこねる子供と、ひとみを重
ね合わせてしまったからである。
梨華は小さなひとみを思い浮かべながら、しばらくクスクスと笑っ
ていた――。
- 187 名前: 49 投稿日:2001年10月13日(土)01時21分57秒
翌日、梨華は久しぶりに予鈴の鳴る10分前に学校に到着すること
ができた。
いつものように1人での登校ではあったが、それまでのようにトボ
トボと時間を潰しながら歩くこともなく、うつむき加減で暗い気持
ちで歩くこともなく、割合すがすがしい気分で登校することができ
た。
だが、教室に近づくにつれ、そのすがすがしい気分はどこかへと吹
き飛び、今日もまた休み時間になるとカバンを片手にトイレに避難
しなければならないのかと考えたら憂鬱になった。
ひとみとは付き合っていると誤解されたままである。どんなに家で
ひとみとの関係が上手くいったとはいえ、嫉妬による陰湿な嫌がら
せはなくならない。
むしろ、ひとみがまた頻繁に姿をあらわすことにより、エスカレー
トしてしまうのではないかという危惧もあったが、こればっかりは
梨華にはどうすることもできなかった。
ひとみとの関係の誤解を解くには、市井家との関係を話さなければ
ならない。そんなことは、梨華の一存では決められない。
ただただ陰湿な嫌がらせに耐える、もしくは避難する。そうして、
1日の授業が終わるのを待つしかない。何ら以前と変わる事はない。
(はぁ〜……)
――梨華は軽いため息を吐いて、教室のドアを開けた。
- 188 名前: 49 投稿日:2001年10月13日(土)01時24分47秒
HRが始まるまでの時間、生徒たちはおもいおもいの場所で友人同
士で歓談に興じていた。
だが、談笑でざわめく教室は、梨華がドアを閉めると同時に水を打っ
たような静けさになった。
(え……?)
静けさもそうだが、皆の視線が自分に向けられていることの方が梨
華にとっては不気味だった。
何か余計なことを言って、場の空気を白けさせてしまう事は以前通っ
ていた学校で何度もあったが、こんなにも注目を集めるというのは
初めてのことだった。
梨華がうつむくのと同時に、皆もハッとわれに帰ったらしく、また
いつものような談笑が始まった。
(な、なんなの……。怖いよぉ……)
ビクビクしながら、カバンを胸に抱いて自分の席に座る。
敵意というよりも、戦慄にも近いような視線と雰囲気。
いったい、これから何が起こるというのだろうか。梨華は予鈴が鳴
るまでの数分間を、戦々恐々と過ごした。
――休み時間。
教室から教師が出ていくのと同時に梨華も席を立ち、カバンを持っ
たままトイレへと避難した。
- 189 名前: 49 投稿日:2001年10月13日(土)01時27分08秒
――トイレのドアが開閉するたびに、梨華は個室と天井に開いた隙
間を見上げる。
昔のドラマに出てくるイジメのシーンのように、いきなりバケツの
水でも浴びせられるのではないかとビクビクしながら確認している
のである。
『石川さん……、いる……?』
何回目かにトイレのドアが開いた時、小さく窺うかのような声が聞
こえてきた。それが、柴田あゆみの声だと梨華は瞬時に聞きわけた。
素早く個室のドアを開けて顔を出す。
「あゆみちゃん……」
学園での唯一の友達で、自分とひとみとの関係を誤解しているとは
いえ、それでも好意的に理解してくれている。あゆみを見て、梨華
は泣きそうな声を発した。
「もう、大丈夫」
あゆみはそう言って、トイレのドアの前で微笑んだ。
何が大丈夫なのか、その時の梨華は分からなかった。しかし、あゆ
みの口から昨日の出来事を聞き、それはそれで大丈夫ではないので
はないかと思える梨華であった――。
- 190 名前: 49 投稿日:2001年10月13日(土)01時30分41秒
昼休みになると、ひとみは再び梨華の教室に現われた。その時の周
りの生徒たちの反応を見て、あゆみの言っていた事はやはり本当だっ
たんだと理解した。
皆、羨望と嫉妬の入り混じった複雑な表情で、半ば強引に外へと連
れ出される梨華を見送る。
「もう、友達できないよ……」
――誰もいないひっそりとした体育館で、梨華は購買部で買ったパ
ンをかじりながらポツリと情けない声を発した。
「脅迫じゃない……。イジメたら、退学させるなんて……」
その隣で、ひとみは憮然としパック入りのジュースを飲む。
「で、結局、どっちなの? イジメられたいの? イジメられたく
ないの?」
ひとみの苛立ちは声になって現われていたようで、梨華はビクンと
身体を震わせた。
「イジメられたいのなら、もう1回、イジメてやってって言ってこ
ようか?」
「もうっ。あなたがイジメるのやめてよ」
「別にイジメてないよ。あんたがそうやって、いつまでも文句ばっ
かり言うから」
と、ひとみは叱られた子犬のような目を体育館の中央に向けた。
それを見た梨華は、ムッとしていた顔を急に和らげる。和らげた
表情のまま、ふぅーと息を吐いて観覧席に背中を預けた。
- 191 名前: 49 投稿日:2001年10月13日(土)01時33分06秒
「なんか、もう慣れちゃった」
「は?」
「あなたに、そうやって言われるの。慣れちゃった」
「……」
「なんか、こうやってないといつもらしくなくて、逆になんか不安
になってくる」
「マゾなんだ」
「――マゾって?」
首を傾げる梨華を見て、ひとみは「なんでもない」と笑った。
和やかなムードだった。
以前にもあったが、それは束の間のことであり、もう2度と訪れない
のではないかと梨華は考えていたが、またこうしてひとみと普通に接
することができ、梨華はそれが何よりも嬉しかった。
「できれば、ずっとこうしていたいね……」
梨華の小さなつぶやきを、ひとみはパンの袋を開ける音で聞き逃した。
それほど小さな小さな、つぶやきだった。
たとえ、聞こえていたとしてもそこにどんな意味が込められているの
かはわからなかっただろう。
「ねぇ、また明日からお弁当作ってこようか?」
「――いいよ。どうせ、冷食ばっかだし。学食の方がマシ」
「なんでいっつも、そんなことばかり言うのよ」
「そう思うから、そう口にしてる」
その後、しばらく梨華とひとみの口喧嘩のような会話は延々と、静か
な体育館に響いていた――。ただし、ムキになる梨華の声ばかりだっ
たが――。
- 192 名前: 50 投稿日:2001年10月13日(土)01時41分38秒
予備校の教室も、学園の教室もたいして違わない。
ただ違うところがあるとすれば、そこに男子生徒がいることぐらいだ
ろうか。何年も通っている予備校なので、初めは感じた違和感も今で
はもう何も感じなくなっている。
「あの、ちょっといいかな?」
予備校でも常に紗耶香とトップの座を争っている男子生徒が、教室へ
と入ってきたばかりの紗耶香に声をかけてきた。
どんな話をされるのかは、容易に見当がついた。
何も感じない違和感も、年に何回か訪れるこんな場面により学園との
違いを感じさせられる。苦手とまではいかないが、あまり好きではな
い光景だった。
――けっきょく、彼は紗耶香に告白して見事に玉砕した。
紗耶香は誠意を込めて、できるだけ彼を傷つけないように断ったつも
りだったが、やはり断られた方としては気分も滅入る。
彼にしては珍しく、その日、授業をサボって帰ってしまった。
悪い人じゃないんだけど……と、紗耶香も若干気落ちしながら、今日
の授業の準備をする。
フッ、と数学のテキストを自分の部屋の机に置いてきたのを思い出し
た。カバンの中を確認してみたが、やはり入っていない。
今日の授業には、絶対に必要なテキストであった。事務室に行けば、
テキストをコピーさせてもらえるのだろうが、さっき告白された事で
なんだか男性事務員と会話するのも億劫になっている。
いっそ、彼のように授業をサボってなつみのアパートにでも行こうか
と考えたが、今日はなつみが最近よく出席しているゼミがある日で、
帰ってくるまで暫く待たなくてはいけない。「うーん」と紗耶香は、
わざとテキストに思いを馳せた。
- 193 名前: 50 投稿日:2001年10月13日(土)01時43分39秒
その日の夜、バイトもなく、かといってどこかに遊びに行く友人もい
ない梨華は時間を嫌というほど有り余らせていた。
部屋の掃除も特にこれと言って片付けるようなものもなく、わずか十
分たらずで終わってしまった。
退屈さを紛らわせるために勉強でもしようかと、ベッドの縁から腰を
あげた時、部屋のドアがノックされた。
部活から帰ってきたひとみが部屋を訪れてきたのかとも一瞬思ったが、
どうやらそうではなかった。
『石川様』
と、閉じられたドアの向こうから家政婦の声が聞こえてきた。
「あ――、はい」
ドアが開き、受話器の子機を手にした家政婦が顔を覗かせる。
「紗耶香お嬢様から、お電話です」
「え……?」
予備校に行ったはずの紗耶香から、いったいどのような用があるのか
わからなかった。そもそも、紗耶香から電話があること自体、初めて
の事である。ほんの少し、緊張しながら受話器を受けとった――。
- 194 名前: 50 投稿日:2001年10月13日(土)01時48分06秒
ガードレールに腰かけ、足をブラブラさせながら、真希はいつものよ
うに予備校から紗耶香が出てくるのを待っていた。
午後10時に、予備校の授業が終わる。
紗耶香はその後すぐに自宅に帰るか、午後11時の閉館間際まで勉強
をしているかのどちらかで、紗耶香が出てくるにはまだあと2〜3時
間ほどあったが、真希はその待ち時間は苦にならなかった。
今日はどんな格好しているのか?
どんな表情をしながら出てくるのか?
なんの勉強をしているのか?
――そんな事を考えていると、時間はあっという間に過ぎる。
(……あれ?)
予備校の正面ドアが開き、紗耶香が表の通りへと出てきた。
まだ午後8時を回ったばかりであり、何かあったのかと真希は心配になっ
た。表の通りに出てきた紗耶香は、誰かを待っているかのような素振り
をしている。
(……)
紗耶香が片手を上げ、その人物に自分の存在を知らせるのを、真希は通
りの反対側から眺めていた。
通りの東側から駆け寄ってくる人物に、見覚えがあった。
自分と同じ目をして、紗耶香を見つめる人物。
真希は浮かべていたふやけたような笑顔を消し、紗耶香と会話をしてい
る梨華を無表情な目で眺めた。
- 195 名前: 50 投稿日:2001年10月13日(土)01時53分40秒
ただいつもと違う場所で会っただけ、ただ家に忘れたテキストを届けた
だけ、ただほんの少し話をしただけ――。
ともすれば浮き足立ってスキップでもしてしまいそうな気分を、梨華は
とりあえず理性で制御した。
もう、恋愛感情を抱いてはいけない。と、半ば強制的に紗耶香のことを
考えないようにしながら、暗い夜道を市井家へと向かって歩いた。
坂道の下にたどりついた時、いつかここで紗耶香が心配して後を追い駆
けてきてくれたことを思い出した。
(そう言えば、変質者かと思って逃げたんだった……)
梨華は、坂道を見上げながら苦笑した。
「……」
坂を見上げていた顔からゆっくりと笑顔が消え、ネガティブな思考に陥
りかけた。だが、その思考をなんとか振り払う。
好きになってはいけない。好きになられたら迷惑。呪文のように心の中
で呟いた。
(……走って、帰ろう)
と、街灯もなく人通りもない暗い坂道を見上げ、梨華はうんとうなずき、
足を踏み出そうとした。――ちょうどその時、後ろで小石の擦れる音が
した。
一瞬、紗耶香が迎えに来てくれたのではと淡い期待を抱いたが、そうで
はなく別の耳慣れた声が聞こえてきた。
『何やってんの?』
その言葉をそっくりそのまま返したい気分だった。なんでこんな所にい
るんだろうと腕時計に目を落とす。
バレーの練習はとっくに終わっていて、今頃は部屋にいるはず。ひとみ
が滅多に外出などしないことを、この数ヶ月の生活サイクルからわかっ
ている。
- 196 名前: 50 投稿日:2001年10月13日(土)01時58分31秒
――梨華は、ゆっくりと振りかえった。
月明かりの下、見慣れたシルエットが数メートル後方に佇んでいる。
ガサゴソとビニール袋の中をまさぐり1本のペットボトルを取り出すと、
いつものように周りの景色などあまり感心がないかのように正面を見据
えて歩く。
「……?」
自分の脇を通りすぎていくひとみを、梨華はきょとんと見送った。
ジュースぐらい、わざわざ下のコンビニまで買いに行かなくとも市井家
の冷蔵庫には常時何種類かの買い置きがあるはず。
「あ――、ねぇ」
と、梨華はひとみを呼びとめた。
さも面倒くさいといった感じを背中から漂わせながら、ひとみは立ち止
まる。
その様子を見て、自分は今とんでもない思い違いをしてしまったのでは
ないかと梨華はひるんだ。
”迎えに来てくれた”なんて一瞬でも考えた自分が、とても滑稽なように
思えた。
「――何?」
と、ひとみがくるりと振りかえり、梨華はハッとわれに帰る。
「あ、ううん。なんでもない」
梨華はあわてて、頭をふった。
「――ちょっと、喉が乾いたから」
と、ひとみは訊ねもしないのに背を向けてポツリとつぶやいた。
それはもうずっと昔の光景のように思えた。
入院していたあの頃、ひとみはいつもそうやって何気ない優しさを見せ
ていた。背を向けて耳を赤くする事も度々あったことを、梨華は思い出
したのである。
(やっぱり、迎えに来てくれたんだ)
――クスっと笑って梨華は、ひとみへと駆けた。
- 197 名前: 50 投稿日:2001年10月13日(土)02時02分37秒
「ありがとう――。ホントは、1人で帰るの怖かったの」
「だったら、出歩かなきゃいい」
そこには、多少の嫌味も含まれていた。
ひとみは、藤村から事情を聞き、梨華がどこに行っていたのかを知って
いる。当然のように、それを聞いて良い気分などにはならない。
「……だって」
「あんなの、藤村に届けさせればよかったのに」
「……」
うつむく梨華を横目でちらりと見やり、ひとみは胸の奥が痛んだ。
どうしてこんな言い方しかできないのだろうか?
梨華が存在してくれるだけで良いように思えたはずではなかったのか?
すべて、その時だけの言い訳だったんだろうか……。
同じようにひとみも、うつむきたくなった。
「私は、臆病だから……」
と、梨華はうつむいたままのトーンで、トボトボと歩を進めた。
「臆病?」
ひとみが、その背に語りかける。
「誰かに嫌われるのが怖い――。自分が好きな人に――、あ――、好きっ
ていうのは、いろいろ広い意味で――」
高級住宅地へと続く坂道、小さくつぶやいているのだろうが、あまりに
ひっそりとしているため、ひとみの耳にははっきりと届いていた。
「ちょっと、待って」
と、ひとみは梨華の後を追った。
「姉さんには、そんな事しても」
ひとみの多少怒気の含まれた言葉を、梨華は首を振って遮った。
「だから、そういう意味じゃなくて」
「……矛盾してる」
「?」
- 198 名前: 50 投稿日:2001年10月13日(土)02時07分25秒
「あんた、この前言ったよね。見返りを求めないのが、本当の愛だって」
「……」
「嫌われたくないって、相手に何かを求めてる証拠じゃないの?」
「……」
「……教えてよ。本当の愛って何?」
その声には、切実さのようなものも込められていた。いったい、何を言
い出すのだろう。ひとみは自分のセリフに戸惑いを覚えた。
「まだ、16だもん……。そんなの、わかんないよ……。ただ、あの時は、
あなたが迷ってるみたいに見えたから、年上の私がしっかりしなきゃい
けないって思って」
と、梨華は隣にいるひとみへと顔を向けた。
「だって……、ほら……、あなた、言ったじゃない。ごっちんって子は、
市井さんのことが……。どんなにごっちんって子を振り向かせようとし
ても、それができないで自暴自棄になってるんじゃないかな……って」
梨華は両手を後ろで組み、うつむきながらトボトボと歩いた。
鈍感なのか、はたしてそうでないのか?
ひとみは、またわからなくなった。自暴自棄になった経緯までは、なん
となく当たっている。しかし、相変わらずどうしてそれが自分に向けら
れたのかがわかっていないようだ。
「見返りを求めて、焦ってばかりいちゃダメだって……。それって、本
物じゃないような気がしてたから……」
「……」
――それからしばらく、2人の間には気まずい沈黙が続いた。
ひとみは何か喋ろうとしたが、呆けたように何も思い浮かばない。
- 199 名前: 50 投稿日:2001年10月13日(土)02時14分00秒
梨華もやはり同じように、話題を変えようと別の話題を探していた。
ひとみにもひとみなりに、恋愛観や憧れのようなものがあるのか?
フッとそんな事が気になった。だが、まともに訊ねても答えてくれない
ははわかっているので、自分から話してみることにした。場の空気を変
え、尚かつ関連性のある話題なのでピッタリのような気がした。
「あのね、私ね」
梨華はクスクスと笑い、恥ずかしそうに口を開いた。
それにより、気まずい沈黙は破られる。ひとみは、内心ホッとした。
なんの話をしだすのか分からないが、沈黙よりはずっとマシだった。
「夢があるの――。ずっと前にね、TVで見たんだけど」
ひとみは、歩きながら横目で見つめる。
「モーニングコーヒーって知ってる? 喫茶店のセットじゃないよ」
「知らない」
「好きな人とね同じ朝を迎えて、同じコーヒーを飲むの。そういうの、やっ
てみたいなぁって。なんか、いいと思わない?」
組んだ指を下あごの辺りに持ってき、クスクスと笑っている梨華を見て、
ひとみはやはり夢見る少女のように思った。やはり、どう見ても年上のよ
うには見えなかった。
「それってさ」
と、ひとみは苦笑しながら梨華に話かける。
「?」
「夜明けまでHしてましたって、言ってるようなもんだよ」
実際には暗くてそこまでは見えなかったのだが、梨華の顔が見る見る赤
くなった感じがして、ひとみは笑わずにはいられなかった。
「ち、違うよ」と反論する梨華の声は静かな住宅街に響き渡り、バカに
したようなひとみの笑いは坂の下にまで届く――。
梨華の目論みは見事に破れ、家に帰りつくまで終始からかわれ続けた――。
- 200 名前: 51 投稿日:2001年10月13日(土)02時22分57秒
紗耶香はこの日、23時まで自習室に居残って勉強をしていた。
数人の顔見知りの生徒たちに別れを告げ、テキストを届けてくれた梨華
にケーキでも買って帰ろうかと考えながら、紗耶香はビル脇の駐輪場に
向かった。
(石川ってなんのケーキが好きだろう? なっちは、サバランかクラン
チ。なんか、石川ってイチゴって感じだよなぁ)
と、紗耶香は苦笑しながら、バイクのキーを差し込みエンジンを始動さ
せようとした。
いつもなら、駐輪場横の道路をそのまま国道とは反対に進んでいくため、
国道を振りかえるようなこともない。
だが、この日は少し違った。
パァ〜ンと耳を劈くような車のホーンが聞こえ、紗耶香は反射的に国道
へと視線をやる。
車高を低くしたワンボックスカーが、なんのためにホーンを鳴らしたの
かわからないが走り去っていく。だが、紗耶香の視線は、その車に注意
を向ける事なくある一点で止まっていた。
紗耶香の視線の先には、ガードレールに腰かけ耳を塞ぎ、ホーンを鳴ら
したワンボックスカーを見送る真希がいる。
「後藤……」
向こうも紗耶香に気づいたらしく、ハッとした表情を浮かべると、通り
をまるで逃げるように走っていった。
追いかけようとしたが、追いかけても無駄な事はあきらかな距離だった。
- 201 名前: 51 投稿日:2001年10月13日(土)02時26分25秒
見つかった……!
見つかった……!
真希は、夜の街を走った。
紗耶香に追いつかれないよう、必死に走った。
なぜ逃げているのか、なぜ逃げなければならないのか、誰かに問いたい
気分でいっぱいになった。
何でこんなことになってんの?
何で、昔みたいに3人一緒にいられないの?
いちーちゃんを好きになったから?
よっすぃと付き合ったから?
何が自分を追い込んでいるのだろうか――、その本当の原因は知ってい
る。しかし、ひとみもいない今、それを相談できる相手がいない。その
事実が真希はとても悲しかった。
誰でもいい。
もう、誰でもいいから。
誰か側にいて!
不意に、あの日の寂しそうなひとみの声がリフレインした。
【もう一回、付き合おうか……】
その時は気づかなかったが、あの日のひとみは孤独に耐えかねてそう言っ
たのだと、今の真希は理解することができた。
そのひとみを、自分の気持ちを整理するために突返した。
もう、本当にどこにも自分が頼る場所はないような気がして、真希は泣
きながら夜の街を走り続けた。
- 202 名前: 51 投稿日:2001年10月13日(土)02時28分28秒
『ひとみ』
そうやって呼びとめられるのは、いったい何週間ぶりなのだろうか?
正直なところ、すべてを悟ったわけではない。梨華が好意を寄せている
相手に名前を呼びとめられるのは、あまりいい気持ちではなかった。
先ほどまでの、梨華との一時が幻だったかのような気分になった。
このまま無視を決め込んで、2階への階段を上がろうかと思ったが、厨
房を出てきたところで帰宅した紗耶香とはバッチリと目が合ってしまっ
ている。
ひとみは、仕方なく階段の下で足を止めた。
『あのさ……』
ロビーの正面にあるイギリス製の大時計の秒針が、コチコチコチと小気
味よい音を出しながら時間を刻む。
しばらく、紗耶香は無言だった。
言葉を選んでいる――、背を向けていたがひとみはそんな雰囲気を感じ
た。
『後藤とのことなんだけど……』
「……」
『さっき、予備校の前で見たんだ……。なんか……』
「――なんかって、なに?」
また、無言の間が流れそうだったので、ひとみはその間を打ち消すよう
にいつもより早く喋った。
『様子が変だから、何かあったのかなって……』
――フッと、ひとみは笑った。その笑いには、あきらかに嘲笑的な意味
合いが含まれている――そんな笑い方だった。
- 203 名前: 51 投稿日:2001年10月13日(土)02時30分50秒
『何が、おかしいの』
紗耶香もそう感じたのだろう、その声は少し苛立っていた。
「前に言ったよね。姉さんは、慈悲の目だけを向けて本質を見ようとし
ない――って」
ひとみは、紗耶香へと向き直る。
いぶかしげな表情を浮かべる紗耶香を見て、口元を歪ませた。
「鈍感なあのおせっかいと、姉さんは違う」
「――は?」
「あの子は、鈍感だから気づかないだけ。でも、姉さんは本当は気づい
ていながら、そこから目を逸らそうとする」
「なに、言ってんの?」
と、苦笑を浮かべる紗耶香。
「そんなに誰かを傷つけるのが怖い? そんなに誰かに傷つけられるの
が怖い?」
「――ケンカ、ふっかけてんの?」
苦笑を浮かべていた紗耶香が、真剣な目でひとみを見据える。
ひとみも紗耶香の目を見据えながら、やはり冷たい笑みを浮かべた。
「論点がずれてる。アタシは今、後藤の話をしてるの。ひとみは、後藤
と付き合ってんだよね? その後藤が、なんであんなところで寂しそう
に1人でいたのか、それが聞きたいだけ。別に、傷つくとか傷つかない
とか、そんなメンタルな話してるんじゃない」
「気になるなら、自分で聞けば?」
ひとみは、くるりと紗耶香に背を向けると、髪をかきあげながら階段を
上っていく。
――ひとみの姿が見えなくなると、紗耶香は途端に弱々しい視線を床へ
と落とした。
- 204 名前: 51 投稿日:2001年10月13日(土)02時32分30秒
部屋に戻った紗耶香は着替えをすることも忘れ、ひとみの言葉を反芻
していた。
”気づいていながら、そこから目を逸らそうとする”
――自分に向ける真希の視線に気づいたのは、いったいいつ頃なんだ
ろう。
もうずっと昔のような気もするし、ごく最近のような気もする。
「そこから、目を逸らす……か」
紗耶香は、微苦笑を浮かべた。
たしかに、ひとみの言う通りかもしれない。その視線を、その視線の
奥にあるはずの想いを受け止めることができずに、気づかないフリを
して接してきた。
だが、ひとみの言うように”傷つくのが嫌で”逸らしているわけではな
かった。ただもっと単純に、紗耶香にとって真希は”妹”のような存在
でしかなく、真希の気持ちを聞き出して断ろうとも思わなければ、自
分の気持ちがどこにあるのかを伝えて傷つけようとも思っていない。
単純に、真希とは姉妹のような関係、またはそれに近い友人関係を継
続したかっただけである。
「それって……、ダメな事なのかな……」
紗耶香には、よくわからなかった。
それよりも、ロビーでの出来事の方が印象的だった。
ひとみが何を考えているのかわからないが、そのようなことを面と向
かって自分に言う事などこれまでになかったかのように記憶している。
たとえそれが、自分を卑下するものだとしてもそうして自分の気持ち
をぶつけてくれた事が紗耶香にとっては驚きだった。
「石川……って、やっぱりスゴイよな……」
軽い微苦笑と軽いため息を吐きながら、紗耶香はバスルームへと向かっ
た。
- 205 名前: 51 投稿日:2001年10月13日(土)02時44分36秒
――頭からかぶったシーツの中は、月光や星の明かりも届かない闇だっ
た。明け方近くとはいえ、まだ月や星は隠れていない。
真希は、その闇を見つめていた。
通りの喧騒はいつの間にか、聞こえなくなっている。眠る行為に、
最適の環境下ではあったが、真希は重いはずの瞼を閉じる事がで
きない。
カン……カン……カン……。
と、誰かが階段を上がってくる音が聞こえてきた。その足音は、眠っ
ているかもしれない真希を配慮して静かに上がってくるでもなければ、
軽快に駆け上ってくるでもなかった。
――誰?
やはり、夜が明けてから帰宅すればよかったと激しく後悔した。枕も
とに潜ませてあるペーパーナイフの位置を指先で確認しながら、真希
は身を固くし闇の中で耳を澄ませる。
玄関のドアが開き、男の唸りにも似たため息が聞こえてきた。
その声に、聞き覚えがあった。母親の情夫の顔が頭に浮かび、さっき
まで自分の中に色濃くあった紗耶香への想いが汚されたような気にな
り、情夫の顔を脳裏から振り払う。
『水……』
母親の声が聞こえ、真希は状況を察した。
店で酔いつぶれた母親を、情夫が背負って上がってきたのだ――。
いつもの事だと、真希はどこか空々しい感じでその物音を聞いていた。
この後、母親はトイレで小1時間ほど嘔吐を繰りかえす。母親だとホッ
としたのが要因なのか、重い瞼は急にその役目を思い出したかのように、
真希を夢の世界にいざなった。
――真希は、眺めていた。3人が談笑している姿を。
紗耶香と――、ひとみと――、梨華が――、市井家のテラスで談笑し
ている姿を、真希は夢の中でも遠くから眺めていた。
- 206 名前: 作者 投稿日:2001年10月13日(土)02時48分55秒
- 48〜51回分の更新終了しました。>>185-205
>>178 作者さんに読まれてると思ったら、緊張しますね
>>179 前進なのか、元通りなのか……??
>>180 大量更新でストックなくなりました(苦笑)
>>181 「物語に」です。あっちじゃないです(笑)
>>182 多少のストックを補充できました。
>>183 が、もうしばらく、ストック補充に時間がかかります
>>184 ありがとうございます。続きです→>>185-205
- 207 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月13日(土)12時25分42秒
- 待ってました!!
大量更新お疲れさまです。
とりあえず>191の純な石川さん萌え〜(w
- 208 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月13日(土)18時58分35秒
- 最 高
これからも頑張ってください。
- 209 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月14日(日)15時12分02秒
- あぁ・・・ごっちんが切ない・・・
- 210 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月15日(月)15時36分28秒
- 引きずりこまれます…。
それぞれの心情がリアルに伝わってくる描写がすごく上手です。
- 211 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月16日(火)14時53分42秒
- ここまできたら芸術ですな。
- 212 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月18日(木)15時52分14秒
- おもしろいです
- 213 名前:バリボー 投稿日:2001年10月18日(木)23時55分51秒
- ホントにごっちんがせつないですね…。
救ってあげて欲しいけど、やっぱりむずかしいのかな…。
- 214 名前: 52 投稿日:2001年10月21日(日)04時30分44秒
日曜の午後ということもあり、駅前のファーストフード店はいつもの
倍近くの客で賑わっている。
紗耶香となつみは、こに落ち着くまでに数軒のショップをはしごして
いた。
せめて、昼ぐらいはどこか落ち着いた場所でなつみとゆっくり過ごし
たかったのだが、昼食が終わってもまだ買いたいものがあるらしく、
移動しやすい駅前のファーストフード店を選ばれてしまった。
買い物する側のなつみとしては気分の昂揚も手伝い疲れなども感じな
いのだろうが、特に欲しい物などなかった紗耶香はただくたびれるだ
けである。
それに、せっかくこうしてなつみと過ごす時間を持てたのに、気乗り
できないのには理由があった。
(後藤……、どうしてんのかな……)
予備校の前で見た真希のことが気になってはいたのだが、先になつみ
と会う約束をしていたので向かう事ができなかった。
そのことが気がかりだったが、果たして約束がなくとも真希の元へ向
かう事にしたのかは、自分でも甚だ疑問である。
その疑問が、紗耶香を憂鬱な気分にさせていた。
「紗耶香――。紗耶香」
声が聞こえてきハッとわれに帰ると、なつみが心配そうに覗き込んで
いる顔が視界に入ってきた。
「どしたの? ボーっとして」
「あ、ううん。なんでもない。――それより、行こう」
と、紗耶香は動揺を隠すように、なつみを中へと促す。
ひとみの言葉が聞こえたような気がして、紗耶香は心の中で払拭した。
(逃げてるんじゃない。今は――)
- 215 名前: 52 投稿日:2001年10月21日(日)04時35分32秒
「あ、あの……、市井さんは……?」
夕食で使用した皿を下げようとした家政婦を、梨華はとても申し訳な
さそうに呼びとめた。
さきほどから、気にはなっていたのだがテーブルのはす向かいにひと
みがいたために訊ねることができなかった。
自分との関係は以前のように戻ったが、姉の紗耶香との関係は依然と
してそのままで、ひとみの前で姉の紗耶香の所在を訊ねるのは、なん
だか気が引け、彼女が食堂を去るまでその質問を堪えていた。
「今日はちょっと用があるとかで、夕食はいらないと」
家政婦は、特にいやがる様子も見せずに梨華の質問に答えた。
「……そうですか。あ、すみません呼びとめたりして」
ペコンと頭を下げる梨華に、家政婦は「いえ」と微笑みを浮かべて去っ
ていった。
「安倍さんのところ……、かな……」
誰もいなくなった食堂で、梨華は寂しげにつぶやく。
なんとなく、心のどこかに冷たい風が吹き抜けたような気がした。
恋愛感情を抱いてはいけないと自分を諌めてはいたが、もう一方でそ
んなことはできそうにないと自覚している自分がいる。
抑えようとする自分とそれを諦める自分――、どちらが本当にいいの
か――。梨華は細い指を胸の前で組み、軽い吐息と共に主のいない紗
耶香の席を見つめた。
- 216 名前: 52 投稿日:2001年10月21日(日)04時42分34秒
――食堂でぼんやりと佇む梨華を、ひとみはロビーから眺めていた。
何を考えてその場に佇んでいるのかは、容易に判断できる。
あれ以来、梨華は紗耶香の事を必要以上に口にしない。
だが、意識しないようにしつつ、その心の中は紗耶香のことでいっぱ
いなのは、ひとみから見ればあきらかだった。
それを感じるたびに、ひとみは心穏やかではなくなってしまう。
ともすれば、再びあの日のような暴走をしてしまいそうな自分がいる。
だが、ひとみはそれを制する術を覚えた。
「なにやってんの?」
ぼーっとしていた梨華が、ひとみの声で我にかえる。
ぼんやりしていたところを見られて動揺しているのだろう。
梨華は、無意味にあわてふためいていた。ひとみは、そんな様子の梨
華を微笑を浮かべて眺めた。
「あのさ、明日からまた弁当作ってよ」
「こ、この前、いらないって言ったじゃない。そんな急に言われたっ
て用意してないよ」
「そんなもん、冷蔵庫にいくらでもあるから使えばいいじゃん。料理
得意なんでしょ?」
「――また、そうやって嫌味言う」
と、梨華はプッと頬を膨らませながら食堂から歩いてくる。
ひとみは、苦笑を浮かべて梨華がやってくるのを待っていた。
ほんの少しだけ、梨華の中から紗耶香への想いを拭い去ってやりたい。
それは思いやりなのか、それとも形を変えた嫉妬なのか――、そこま
では、ひとみにもよくわからなかった。
- 217 名前: 52 投稿日:2001年10月21日(日)04時50分12秒
螺旋状の短い階段を下りると、1枚の重厚な扉がある。
防音のための扉なのだろうが、存在価値をまったく無視するかのように
狂騒は漏れていた。
繁華街にあるとある雑居ビル。その地下にあるクラブに、真希は数分前
に知り合った男と来ていた。
男はしたり顔で扉を開けると、真希の肩を馴れ馴れしく抱いて中へと通
そうとする。
真希がその手を軽く振り払うと、男は愛想笑いのようなものを浮かべて
奥へと歩いて行った。
「……」
狭いロビーに男女がひしめく合う様を見て、真希はもうそれだけでこの
場所に来た事を後悔していた。
「こっち。こっち」と、連れの男が真希を手招きする。言葉など不要の
空間だと言わんばかりに、DJブース脇のスピーカーから重低音が飛び
出し、天上からは高音部が降り注ぐ。
真希は、香水と汗とアルコールと煙草の匂いが混ざったロビーを顔をし
かめながら通りぬける。
言葉だけでなく、思考すらも停止しそうだった。
だが、今の自分には好都合だと真希は、その狂騒の中に身を委ねる事に
した。帰る場所などどこにもない。頼れる人もいない。
虚しい刹那的な考えが頭をよぎる――。
「全部、忘れたらいいんだ……」
ロビーの隅にあるカウンターで、真希は虚ろな目でつぶやいた。
連れの男が「え?」と大声で訊ねてきたが、真希は聞こえないフリをし
て、先に男が注文していた水割りのグラスを奪うと、一気に飲干した。
- 218 名前: 53 投稿日:2001年10月21日(日)04時55分42秒
文句を言い合いながら出ていくひとみと梨華を、紗耶香は市井家の階段
から見送っていた。
登校して行く2人とは違い、紗耶香はまだパジャマ姿だった。
険悪な雰囲気ならば、駆けていき何があったのかを訊ねたのだろうが、
2人からはそうした雰囲気も感じられず、ただそうやってじゃれあって
いるかのようだったので、紗耶香も苦笑を浮かべて見送った。
「ひとみお嬢様が、石川様の作ったお弁当に文句をつけましてね」
心配なのか、ただ単に面白がっているのか、大広間から顔を覗かせて2
人を見送っていた藤村が苦笑まじりに紗耶香に声をかける。
「ひとみお嬢様は、石川様をからかうのが楽しみのようでございますね」
紗耶香は笑顔を浮かべたまま「あぁ」と呟き、藤村の傍らを通りすぎて
大広間へ入った。
顔では笑っていたが、ほんの少し切なくあった。いや、羨ましくあった
のかもしれない。
ひとみの心を開かせることが出来た梨華に対して、そしてあのように梨
華の心を開かせているひとみに対しても――。
『紗耶香お嬢様の分のお弁当、そちらのテーブルの上に置いてあるそう
ですよ』
藤村の声を背に受け、紗耶香は食堂を覗いた。見ると、大理石のテーブ
ルの上に、ピンク色の可愛らしい弁当箱が置かれている。
ついさっきまで沈んでいた気分も、それを見ると少しは晴れた。
あまりにも梨華らしい弁当箱であり、これと同じものを持っているひと
みの姿を想像すると笑ってしまった。
- 219 名前: 53 投稿日:2001年10月21日(日)05時04分09秒
真昼近くの大通り。
通行人たちは、その少女を遠巻きにして通りすぎる。
フラフラと歩き、しまいにはガードレールに凭れかかるようにして腰を
下ろしてしまった。
通行人たちの多くは、見て見ぬフリをして歩いていく。
――夜通し飲み明かし、さすがにアルコールに強いはずの真希も足元が
よろめくほど酔ってしまった。
昨夜、声をかけてきた男はクラブから出て向かった3軒目のショットバー
で酔いつぶれて眠ってしまった。今頃はきっと、店の脇の路地にあるゴ
ミ置き場で目覚めているだろう。その姿を想像して、真希はガードレー
ルの低い柱に背を預けたまま笑った。
「酔わせて変なことしようなんて、甘いんだよー」
通りを歩く人々の何人かは、昼間から酔っ払って笑っている真希をいぶ
かしげな視線を向けて通りすぎていく。
時には、哀れみにも似た目を向けて――。
それでも真希は、笑いを止めなかった。
そんな視線を向けられる自分が可笑しくて仕方がなかったし、いつか缶
ビール2本で酔っ払ったフリをしてひとみに甘えた滑稽な自分を思い出
すと笑えて仕方がなかった。
「いーもんねー。どうせ、アタシなんか……。いーもんねー。アハ」
真希は、ガードレールに手をついてヨロヨロと立ちあがると、人の多い
往来をふらつきながらも笑って闊歩した。
- 220 名前: 53 投稿日:2001年10月21日(日)05時07分11秒
「ねぇ、石川さん」
柴田あゆみが、4時間目の授業が終わるとすぐにやって来たが、梨華
はまだ黒板の数式をノートに書き写しているところだった。
「お昼、どうする? カフェ行く?」
「? あゆみちゃん、委員会は?」
「昨日でやっと終わった」
と、あゆみは苦笑を浮かべて隣の机に腰かけた。久しぶりにあゆみとの
昼食――。梨華にとって、あゆみは学園内でひとみと紗耶香以外に唯一
接触できる人物で――、普通の女子高ライフを満喫したい梨華としてみ
れば是が非でももっと深く付き合いたい友人だったのだが、この日はど
うしてもその誘いを断らねばならなかった。
「あ……、ごめん……。今日、お弁当だから……」
梨華は、うつむいた。それだけで、察してくれたようであゆみは「あぁ」
と小さな声を上げ、机から腰を上げた。
「ごめん。忘れてた。そうだ。吉澤さん――。お弁当かぁ、いいなぁ」
と、あゆみは散々梨華とひとみの関係を羨ましがり、他の友人を誘って
教室を出て行った。教室を出ていくあゆみの背を、梨華は一種の尊敬の
眼差しで見送っていた。
かつて好きだった人物が、友人と付き合っている。
誤解なのだが説明していないので、あゆみにとっては事実であり、それ
なのにあゆみは以前と変わりなく同じように接してくる。
もしも、自分が同じ立場なら果たしてそんな事はできるのだろうか?
嫉妬で相手を傷つけてしまう事はないにしろ、複雑な心境になってしま
わないのだろうか?
気持ちの切り替えは、いったいなんだったのだろうか?
――梨華は、黒板の数式が日直によって消されている事にも気づかず、
ぼーっとそんなことを考えていた。
- 221 名前: 53 投稿日:2001年10月21日(日)05時10分53秒
学園の裏門に通じる広場の西側に、アクセントの如く木々を蓄えた場
所があり、さらにその中央のぽっかりと空いたスペースに古い石碑が
設けられている。
80年前に創立者でもある市井総次郎が、自身の敬う高名な俳人の一
句を刻みこんで設置したらしい。
多くの生徒たちは、そこに刻まれた文字を追うことはない。いや、そ
こに石碑があるのを知らない生徒もいるだろう。
2年前の紗耶香もそうであった。
高等部に入学したての頃、3年生のなつみがその前で足を止めるまで、
奥に石碑があることを知らなかった。
「ねぇ、紗耶香」
――白くきめ細やかな肌が煌く太陽の光を浴び、なつみの笑顔をより
一層輝いて見せた。
「次の授業、さぼろっか?」
ぽかんと口をあけた紗耶香の手を引き、なつみは木漏れ日の下を奥へ
と導いた。どこに連れていかれるのか? この奥に何があるのか?
そして、なぜなつみは急に授業をサボることにしたのか?
謎だらけの紗耶香の視界に、石碑が入ってくるまでそれほどの時間は
要さなかった。
- 222 名前: 53 投稿日:2001年10月21日(日)05時13分27秒
「ここねぇ、あんまり人来ないんだよ」
石碑の前の僅かな段差に、なつみはスカートの丈を膝の下に折りこみ
静かに座った。
紗耶香はそれに微笑で応じてはいたが、学園内にあった憩いのスペー
スを興味深げに見渡していた。
「へー、こんなところあったんだね。知らなかったな」
「ここって昼間でもちょっと薄暗いから、みんな怖がってあんまり近
寄らないんだよね」
木々の葉がざわめき、そう言われれば昼間でも不気味な感じがするが、
それだけの理由ではなく、もっと単純にこんな場所に用がないから皆
は近づかないだけだろうと紗耶香は推測した。
「なっちって、よく授業サボったりするの?」
紗耶香の問いかけに、石碑の前に座っていたなつみは肩をすくめて、
「紗耶香の知らない間に、なっちも大人になったんだよ」
と、クスクス笑った。
- 223 名前: 53 投稿日:2001年10月21日(日)05時15分29秒
――あの時のなつみは冗談で言ったつもりなのだろうが、なつみの事
に関して知らない事はないと自負していただけに、それが妙にショッ
クだったのを紗耶香は今でも葉のざわめきと共に記憶している。
中学1年で紗耶香は中学3年のなつみと出会ったが、その翌年になつ
みは高等部に進級してしまった。中等部の校舎は町の東側に位置し、
高等部の校舎は市井家にも近い丘の麓に位置する。
当然、校舎が別々の場所に設立されているため、これまでのように頻
繁に時間を共有することはできない。
そのタイムラグが、紗耶香のなつみへと対する感情を別のものに変化
させたのかもしれない。紗耶香は、そう思っている。
ただの先輩に抱く感情ではなく、恋愛的な感情――いや、その時は理
性的な恋愛感情よりも、本能的な独占欲がふつふつと沸きあがった。
会えないことの不安が、より一層その本能を煽った。
紗耶香は中学を卒業するまでの2年間、毎日の放課後をなつみと会う
ためだけに費やした。
まるで、離れ離れになり誰かのものになるのを恐れるかのように、紗
耶香はなつみの側を時間の許す限り、相手が不審に思わない限り、共
に過ごすようになった。
- 224 名前: 53 投稿日:2001年10月21日(日)05時17分55秒
それが、結果的にいけなかったのだろう。
なつみに費やす時間は、そのまま市井家での不在の時間を意味する。
本能的ではなく、理性で自分の感情を制御できるようになり、はじめ
てひとみの異変に気づいた。気づいた時にはもう、ひとみは心を閉ざ
していた。
「本質を見ようとしない……。逃げようとする……」
石段の前に座っている紗耶香は、ポツリとつぶやき、薄い雲に覆われ
た空を見上げる。
言葉が重くのしかかってくる。
2人の仲睦まじい姿を思い出すと、どうしようもないほど自分が虚し
い人間のように思えて仕方がなかった。
今朝の光景は、あからさまな結果だった。
逃げなかった梨華と、逃げた自分――。
――湿った風が木々の葉を揺らし、紗耶香はその音でわれに帰った。
ヒラヒラと舞い落ちる木の葉を、なんとなく視線で追いながら、頭の
中を切り替えるよう努めた。
それが既に本質から目を逸らすこと以外の何ものでもなかったが、そ
うすること以外に、1人で不安や焦燥を取り除く方法を、紗耶香は知
らない。
膝の上に乗せた、小さな箱型のポーチ。
木の葉が、その向こうへと落ちていった。
小さな箱型のポーチの中には、今朝、梨華が用意してくれた弁当箱が
納まっている。誰かに見られるのが恥ずかしくて、ポーチを持ったま
ま4時間目の授業をサボった。あの日のなつみも、そんな他愛もない
理由で授業をサボったのだろうか?
当時、怖くて聞けなかった事を、不意に思い出した――。
- 225 名前: 54 投稿日:2001年10月21日(日)05時23分02秒
昼休みを30分すぎても、ひとみは梨華の教室に現われない。
何かあったのだろうかと心配になった梨華は、カバンを持ってトイレ
に――ではなく、ひとみの教室へと向かった。
すれ違う生徒たちのほとんどは、もう昼食を済ませているらしく、皆
空腹を満たされた穏やかな表情をして友人と談笑している。
すれ違う生徒や、コの字型になった反対側の廊下を窓越しに見やり、
ひとみの姿を探したのだが、結局、1年の教室につくまでひとみを見
つける事はできなかった。
――ひとみの教室から出てきた1人の少女に、多少の勇気を出して所
在を訊ねると、ひとみは休み時間になると同時に教室を出て行っては
いるらしい。
(……? どこ、行ったんだろう……? 体育館かな)
梨華は残り15分しかない昼休みを気にしつつ、校舎から離れた場所
にある体育館に向かった。
――体育館の中はしんと静まり返っており、誰もいないのはあきらか
だった。
「もう……っ、お弁当作れって言ったから作ったのに……」
と、梨華は体育館の出入り口で、ムッと唇を尖らせた。
教室に戻ろうとしたとき、背後から人がやってくる足音が聞こえ、梨
華はゆっくりと振りかえった。ひとみなら、文句の1つでも言いたかっ
たので、その表情はムッとしたままだった。
「い、市井さんっ」
背後からやってくる人物を見て、梨華は慌てふためいた。
「あ……、なんか、邪魔だったかな……?」
紗耶香が、頭をポリポリと掻きながら梨華と距離を開けて立ち止まる。
ムッとした表情を見られたのもあり、どうしてここに紗耶香がいるの
かがわからなくもあり、梨華の頭の中は軽いパニックに陥った。
- 226 名前: 54 投稿日:2001年10月21日(日)05時29分22秒
若い看護婦は、病院の廊下を走る女子高生を注意しようとしたが、総婦
長に止められてしまった。
2人は何やらコソコソと話していたが、その脇を走り抜けたひとみの耳
には届かなかったし、気にすらしていない。
303号室に向かう事だけしか、ひとみの頭の中にはなかった。
病室のドアを開けると、ひとみの視界に点滴を打ちながら眠っている真
希が飛びこんできた。
点滴以外に近くに医療器具もなければ、額に3センチ四方のガーゼが当
てられているだけで、命に別条がないのを判断すると、ひとみは額に浮
かぶ大粒の汗を拭い、乱れた呼吸を冷静に整えた。
『突然、お呼び出しして申しわけありませんね』
冷静に状況を分析したつもりだったが内心はかなり動揺していたのだろ
う、ひとみはその声が聞こえてきて初めて大柄な制服警官が病室にいる
事に気づいた。
いったい、何があったのか――。ひとみは、詳しい事は何も知らない。
昼休みになったのでいつものように梨華の教室に向かおうとした時、真
希が交通事故にあったと警察から携帯に電話がかかってきたのである。
詳しい説明を聞く間もなく、ひとみは学園を飛び出してここへとやって
きた。
「ちょっと、ニ、三、聞きたい事があるんですが」
と、警察手帳を取り出す様を眺めながら、病室の中を微かに漂うアルコー
ル臭に気がついた。
警官が勤務中に飲酒などするはずもなく、ひとみはその匂いが眠ってい
る真希の呼吸から発せられているのに気づくと、おおよそではあるがど
うしてこのような経緯をたどったのか見当がついた。
(ごっちん……)
ベッドで眠っている真希が、ひとみにはやけに小さく見えた。
- 227 名前: 54 投稿日:2001年10月21日(日)05時33分12秒
昼休みの残り時間もわずかになったが、梨華と紗耶香はまだ体育館で昼
食をとっていた。
「すみません、やっぱり前みたいに普通のお弁当箱にします」
と、梨華はポツリと呟いて、箸を置いた。
「あ、いや別に悪いとかじゃなくて、ただなんか恥ずかしくて……。ほ
ら、石川にはお似合いだけどさ、アタシが真っピンクって似合わないか
ら、ちょっとみんなの前では……と」
うつむく梨華を眺めて喋っているうちに、紗耶香は何かとんでもない事
をしてしまったんではないかと罪悪感に捕らわれ、声のトーンも次第に
下がっていった。
「うーん……、ごめん……」
「?」
「今度はみんなの前で、堂々と食べるよ。せっかく石川が作ってくれた
んだから」
「はぁ……」
梨華は、ため息にも似た声を発して、がっくりと肩を落とした。
「別に、そんな落ち込むことないじゃん。やだなー」
「だって……」
「ちょ、ちょっと泣かないでよ? ご、ごめん。ちゃんと、謝るから。
ホント、ごめん」
真横の席から身を乗りだして、紗耶香は梨華の前で両手を合わせた。
その距離は、呼吸すらも届いてきそうなほどの距離である。
「あ、謝らないで下さい。そ、そんな、泣いたりしませんから」
と、梨華は顔を真っ赤にし、両手をバタバタとさせて身を仰け反らせる。
すぐに、下げている頭を上げて、いつものように微笑を浮かべるものば
かりだと思っていたが、紗耶香からは一向にその気配はなかった。
「い……、市井さん……?」
バタバタと動かしていた両手も、ゼンマイの切れかけたおもちゃのよう
に自然とゆっくりとした動きになる。
- 228 名前: 54 投稿日:2001年10月21日(日)05時38分56秒
しばらくして、不意に紗耶香の閉じた長いまつげが起立した。
顔を上げた紗耶香の真剣な瞳が、梨華の思考を捉え、場の空気とは馴染
まないコミカルな手の動きを停止させる。
――昼休み終了のベルが、体育館の中に鳴り響く。
紗耶香は瞳を逸らすことなく、梨華を見つめつづけける。
ひとみの目にも何かしらの人を惹きつける力があるが、紗耶香には及び
もつかない。梨華は完全に、紗耶香の瞳に捕らえられていた。
ジンジンと身体全体が火照るような感じは、ただ単純に体育館の中が蒸
し熱いだけではなかった。
わずかに残った思考が、理性を呼び起こす。
この感覚を、梨華は以前に1度体験していることを思い出した。
それにより、幾分か身体中を流れる甘美な血流を抑えることができた。
熱で倒れた紗耶香を看病していた、あの時――、火照る思考の浮遊感。
それを思い出さなければ、もう少しで何をしでかすかわからない状況だっ
た。――視線の呪縛から解放された梨華は、紗耶香からゆっくりと視線
を逸らした。
『アタシって、みんなにどんな風に見られてる……?』
しばらくして、耳元に届く紗耶香の疑問。
そこに、いったいどんな意味が込められているのか?
梨華は、質問の意味を冷静に咀嚼しようとした。
しかし、ふたたび甘美な血が全身を駆け巡りつつあったので、脳は正常
な判断をできそうにない。
秘めたはずの想いが――、抑えていた恋愛感情が、熱と共に簡単にしが
らみを解く。
これは、告白のチャンスなんだと答えをはじき出しつつあった。
(伝える……)(でも、市井さんには……)(私に聞いてるんじゃな
い……)(みんなから見て)(……でも)
- 229 名前: 54 投稿日:2001年10月21日(日)05時41分10秒
人生最初に訪れた告白のチャンスが、不意に訪れたことにより、梨華の
思考は少なからずの混乱を生じていた。
そのわずかな混乱の時間が、チャンスを逃した。
『なんてね、ちょっと聞いてみたかっただけ』
「――へ?」
カラッとした声が聞こえ、顔を向けると紗耶香はいつものように微笑を
浮かべて、食べ終わった弁当をポーチの中に収めていた。
「みんなに、どう見られてるのかなぁって急にさ。――ほら、早く片付
けないと次の授業始まるよ」
紗耶香は、目を合わすことなく椅子から立ち上がる。
恥ずかしくてまともに顔を合わせられない――と、いうほどの理性が残っ
ていれば見逃していただろう。
そんな理性もないほどに、梨華の頭は真っ白になっていた。
今までにない勇気を振り絞り、いざ告白――と、口を開きかけたら、スッ
とかわされたのである。
頭の中は真っ白になり、口を中途半端に開いたまま、紗耶香の一挙一動
を眺めていた。
そうして眺めていると、紗耶香の浮かべている笑みが、不意に”癖”のよ
うに思えた。
何の先入観もなく、頭が真っ白になった状態で呆けたように、紗耶香の
顔を見ていると不意にそう印象づけられたのである――。
- 230 名前: 55 投稿日:2001年10月21日(日)05時43分34秒
市井家の運営する総合病院の1つに運ばれたことが、真希にとって幸い
した。
大柄な警官もこの病院の主が誰であるのかはもちろん知っていたし、真
希の事情聴取にその主の娘が訪れたとあっては、いつものようなキツイ
詰問を浴びせることもできず、事務的な事情聴取を終えるとさっさと帰っ
てしまった。
「さすがって、感じだよね」
眠りから覚めた真希は悪びれることなく、ベッドの上で笑った。
窓外の風景を眺めているひとみは、ちらりと真希に視線を向けたが、何
も言わずにすぐまた窓の外に視線を戻した。
厚い雲の切れ間から、夕暮れの光が漏れている。
「万引きぐらいも揉み消してくれるのかな?」
「……」
「薬は……、さすがに無理だよね」
ひとみは、ゆっくりと振りかえり真希を見据えた。
「……そんな、怖い顔しなくてもいいじゃん。冗談だよ」
と、真希はつまらなさそうに背を向ける。
「冗談でも、言っていいことと悪いことがある」
「……眠いから、寝る。見舞いに来てくれて、ありがとね」
「ごっちん」
「寝るから話しかけないで」
真希は、いつもそうしているようにベッドのシーツを頭から被る。
だがすぐに、無表情にやって来たひとみにそのシーツを剥がされてしまっ
た。
- 231 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月21日(日)05時45分04秒
ご。ごっちん…!!溜め息ばかりが…。
- 232 名前: 55 投稿日:2001年10月21日(日)05時46分01秒
「寝るって言ってんのに、なにすんのさぁ……」
身を縮めた格好のまま、真希は面倒くさそうにつぶやく。
背を向け、目を閉じていたのでひとみがどんな表情をしているのかわか
らなかったが、ベッド脇に佇み冷たい目で自分を見下ろしている姿が想
像できた。
『お決まりのパターンに走るほど、ごっちんはバカじゃないと思ってた
けどね』
「……相変わらず、冷たいね」
『同情なんかしてるほど、暇じゃないから』
「……知ってるよ、アタシ」
真希は横になったまま、くるりとひとみへ身体を向けた。
ベッド脇に佇むひとみは、やはり真希が想像した通り冷たい目をしてい
た。だが、ニヤニヤと含み笑いをしている真希を見て、困惑でもしたの
だろうか、スッと視線を逸らした。
「よっすぃの好きな子って、あの石川って子でしょ?」
「……」
「アタシさ、思ったんだ。あの子さ、いちーちゃんの事が好きだよ。目
を見ればわかる。絶対そう」
「……」
「ホント、同情なんかしてる暇ないよね」
「……」
「――あの日、よっすぃ言ったよね。もう1回、付き合おうかって。あ
の時、よっすぃがどんな気持ちだったかわかった」
真希の言葉はそのまま、鋭い切っ先を向けてひとみの胸に刺さった。
「やっぱさ、似たもの同士だよねアタシたち。あの時は断ったけど、やっ
ぱもう一回付き合おうよ。ね、そうしよう」
真希はぼんやりと佇むひとみの手を握り、おもちゃをねだる子供のよう
にその手を左右に振った。
- 233 名前: 55 投稿日:2001年10月21日(日)05時48分41秒
「絶対、今度はうまくいくよ。そうしよう。ね」
「……」
ひとみは、真希の手の動きを止めると、その手をゆっくりと振りほどい
た。
「似たもの同士なら、あの時、アタシがなんであんなこと言ったかわか
るよね」
「――利用しようとしたんだよね」
「そう……」
目を伏せながらつぶやくと、ひとみは静かに窓辺に佇んだ。
宵闇がもうすぐそこまで迫りつつあった。
「あの時はどうかしてた……。だから、謝って許してもらおうなんて思っ
てない……」
「……」
真希は、窓の外に向かってトツトツと喋るひとみの声を聞きながら、上
半身を起こす。
「ごっちんとアタシは違うよ。正々堂々と姉さんに、自分の気持ちを伝
えればいい」
「――そんなのできるわけないの、知ってるくせに……」
「……」
暗くなった室内をセンサーが感知して、天上の蛍光灯がほのかな淡い白
色を灯す。
蛍光灯に照らされた真希の顔色は青白く、痛々しさすらさえも感じた。
「よっすぃだって、ホントはアタシを」
「ごっちん」
ひとみは次の言葉を真希の口から漏らさせないよう、強い口調で制した。
- 234 名前: 55 投稿日:2001年10月21日(日)05時53分12秒
「アタシが汚れてるから、そんなに冷たくするんでしょ!」
「ごっちん! それ以上言ったら、終わりだから」
駆け寄ったひとみを振り払うかのようにして、真希はベッドから下りる。
床に着地した衝撃で額に鈍痛が走ったのだろうか、ガーゼの上から手を
当てた。しかし、真希はその痛みにひるむことなく、ひとみに強い視線
と口調を投げかける。
「アタシだって、綺麗な身体でいたかった!」
「忘れるって約束したじゃない!」
「できるわけないじゃん! 母親の前の男に無理矢理ヤラれてさ、子供
まで」
「ごっちん!」
制しようとするひとみをかわしながら、真希は長く艶のある栗色の髪の
毛を乱暴にかきむしる。
「辛かったのに! 寂しかったのに!」
堪えていた感情を一気に爆発させた――。
ひとみは、そんな印象を受けた。ブチブチと髪の毛が引き抜く音がやけ
に鮮明に聞こえ、ひとみは顔をしかめた。
「ヤメなよ!」
ひとみはその腕を掴んだが、真希は振り払おうともがく。
「離して! もう、いいじゃん。よっすぃにはもう関係ないじゃん。ほっ
といてよ!」
「ごっちん!」
ひとみは、そう叫ぶと無意識に真希を強く抱きしめた。
真希の身体が震えているのか、自分の身体が震えているのか、ひとみに
はよくわからなかった。ただ、梨華を抱きしめた感触やその時の感情が、
どこか遠くへ行ってしまいそうな不思議な感覚がした。
- 235 名前: 55 投稿日:2001年10月21日(日)05時55分32秒
「こんな身体なんかいらない!」
「もう、ヤメて! ごっちんは、汚れてなんかない!」
「いちーちゃんが知れば、そう思うよ!」
「知られることなんてない! 絶対に喋らないから!」
「もう、嫌だ……! 嫌だ! あの頃に戻りたい」
「ごっちん!」
真希は、膝をついて天井を仰ぎながらポロポロと涙をこぼした。同じよ
うにひとみも膝をつき、荒い呼吸をしながら、数ヶ月前の明るく何でも
ないと言って手術室に入っていった真希の姿を思い出していた。
あの時の自分は、いったいどう考えていたのだろうか?
堕胎ぐらい今の時代では珍しくもなんともない、男とはやはりそうした
もんなんだと、どこか白々しく考えていたのではないか――。
慰めはしたが、それは本心からだったのだろうか?
痛みを少しでもわかろうとしたのか?
そんな真希を、姉に好意を寄せているからと言う理由だけで邪険に扱っ
てしまった。
数ヶ月前の自分が、自分ではないような気がして、ひとみの背筋を悪寒
のようなものが走った――。
- 236 名前: 作者 投稿日:2001年10月21日(日)06時01分43秒
- 52〜55回終了。>>214-235
>>207 キリの良い所がどこかわからず延々と(苦笑)
>>208 もうそろそろ、体力・気力の限界です
>>209 待つことしかできなかった原因です
>>210 時には本能が陵(長文になりそうなので略)
>>211 ただの雑文なので……
>>212 ありがとうです
>>213 ますます難しくなりました……
>>231 色んな意味で、難しいです……
- 237 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月21日(日)08時50分41秒
- どれもこれも切ない・・・
速くみんな幸せになって欲しいっす。
- 238 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月21日(日)10時23分22秒
- 後藤が可哀相すぎる(涙
後藤を幸せにしてくれ〜〜〜。
- 239 名前:バリボー 投稿日:2001年10月22日(月)00時44分12秒
- ごっちん…ほんとに心が痛みました。
みんな一生懸命生きているから、それが伝わってくるから
それぞれのとる行動が切ないです。
- 240 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月22日(月)20時19分01秒
- ごっち〜ん(泣
もう、むちゃくちゃはまってます!
- 241 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月23日(火)12時56分46秒
- これでごっちんとよっすぃーが元サヤになったら、ホントに退廃ムード全開(w
- 242 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月24日(水)02時08分16秒
- おうっ?なんでこんなにあがっとるの?!まぁ別に良いけど。
痛い物好きのMなおいらにはこの作品はたまらんものがある。
作者さん、がんばってね。
でも最後はハッピーエンドがいいなぁ。
- 243 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月28日(日)14時42分28秒
- そろそろかな?
期待してます!!!
- 244 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月28日(日)15時01分56秒
- ん〜複雑な関係ですな〜。
ごっちんは救われるのか?
- 245 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月30日(火)19時21分31秒
続ききぼ〜ん。
- 246 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月02日(金)03時08分36秒
- そろそろ書いてくれ〜。
禁断症状が・・・
- 247 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月02日(金)05時21分42秒
- >246
禿しく胴衣
- 248 名前: 作者 投稿日:2001年11月02日(金)21時45分33秒
- 更新が遅くなり、大変申し訳ありません。
次回更新分は、作中ではあまり時間の経過というものがありません。
そのため、一気に更新したいのですがなかなか思うように時間が取
れず、前回更新日より早10日以上が経過してしまいました。
スミマセン……。今週も無理っぽいです。重ね重ね、お詫び致します。
- 249 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月02日(金)22時00分55秒
- ゆっくりでいいんで頑張って下さい。
楽しみに待ってます。
- 250 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月03日(土)01時41分03秒
- こうやって作者さんがコメント書いてくれるだけでもうれしいね。
放棄じゃないって安心する(w
作者さんのペースで頑張ってくださいね。
その後の大量更新、超期待してます(w
- 251 名前:バリボー 投稿日:2001年11月03日(土)10時28分13秒
- 私も楽しみに待ってます。
お忙しそうですが、マイペースで頑張ってくださいね。
- 252 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月04日(日)14時26分35秒
- 気にするな。気長に待ってるので!
- 253 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月11日(日)01時42分52秒
- まだかなまだかな〜
- 254 名前: 56 投稿日:2001年11月12日(月)01時25分48秒
朝。
けっきょく、ひとみは一睡もする事ができなかった。
目を閉じると、12時間ほど前の半狂乱になった真希の姿が甦り、
どうしても眠る事ができずにいた。
真希の怪我の程度は幸いにも軽く、入院の必要はなかった。
しかし、ひとみは真希の精神状態を考慮して、数日間の入院を勧め
たのだが、呆然自失の真希は首を縦に振らずに、あれほど嫌悪して
いた母親と一緒に家へと帰っていった。
心配だった。
家へ帰った真希が、いったいどうしているのか?
自暴自棄になっていたりはしないか?
ちゃんと、眠れたのだろうか?
不安は尽きることなく、いつの間にか朝を迎えてしまった。
寝転んだベッドの上から、視線だけを机上のデジタル時計に向ける。
午前7時。登校する準備をはじめなければならない時間。
「……」
このまま塞ぎこんでいても、何も変わらない。
気持ちの切り替えが必要だと、頭の中ではわかっているのだが、な
かなか身体は思うように動いてくれない。
ほんやりとしていると、どこかの部屋のドアが閉まる音がした。
――梨華?
耳を済ましてみると、どうやら梨華ではなさそうだった。
梨華の部屋は階段に近い場所にあり、ひとみの部屋の前の廊下を通
ることはない。
- 255 名前: 56 投稿日:2001年11月12日(月)01時28分38秒
足音は確かに、ひとみの部屋の前の廊下を通過して行った。
とすると、残りは1人しかいない。一番奥の部屋を使っている、姉
の紗耶香である。
「……」
ひとみは、もう1度時計を見た。まだ、さっきから何分も経ってい
ない。姉の紗耶香が、朝が苦手なことぐらいはさすがにひとみでも
知っていた。
いったい、何の用があってこんなに朝早くに起きているのか――、
あまり深く考えなかった。
ひとみの頭の中では、わずか数秒間でどうでもいいことと片付けら
れていた――。
――階段を降りる途中、紗耶香の足は何度も重くなる。
このまま、やっぱり行くのをやめることもできる。
あれからもう3日も経っているし、真希自身も迷惑するかもしれな
い。今なら、引き返すことができる。
紗耶香の中の、もう1人の紗耶香がそうつぶやき、足取りを重くさ
せていた。
眠れない夜を過ごしたのは、ひとみだけではなかった。
紗耶香もまた、別の事情で一睡もすることなく、朝を迎えていたの
である。悩みに悩んだ挙句に出した答え。良心の呵責が、その足を
重くさせているのはわかっていたが――、紗耶香はひとみを選んで、
重い足を引きずって階段を下りた。
- 256 名前: 56 投稿日:2001年11月12日(月)01時32分10秒
「おはようございます」
と、声をかけて食堂へと入ったのだが、何かがいつもと違う。
梨華は瞬時にそう判断したのだが、その違和感の原因が分からない。
ひとみの席にひとみの姿はないが、梨華より先に来ていることもあ
れば遅れてくることもあるので、それほどの違和感を感じない。
じゃあ、何が違うのか?
梨華は首をかしげながら、テーブルについた。フッと紗耶香の席を
見て、その違和感の正体に気づいた。
紗耶香の朝は遅い。梨華が食事を共にしたのは、帰国後の時差を調
整していた数日しかない。低血圧を理由に、遅刻ギリギリの時間ま
で寝て、朝食も採ったりとらなかったりだが、それでも一応テーブ
ルの上に用意だけは毎朝されている。
しかし、今朝に限りそれがない。
(……)
あまり詮索はしたくなく、どちらかといえばホッとしている部分が
あった。完全な1人相撲だったわけだが、昨日の告白未遂のことが
あり、一緒に食事をするのだけは避けたくて、梨華はすばやく食事
を済ませた。
――その日は紗耶香もひとみも、梨華が登校する時間になっても食
堂には現われなかった。
(なんか……、変……)
違和感の正体に気づいたはずだったが、なぜかスッキリとしないま
ま1人でトボトボと登校する梨華であった。
- 257 名前: 57 投稿日:2001年11月12日(月)01時35分05秒
出ようか出まいか、真希はまどろんだ意識の中で迷っていた。
薄目を開けて時計を見たが、まだ眠ってから2時間も経っていない
午前8時前。昨日の朝なら、間違いなくそのまま眠りについただろ
う。
どうせ、ろくな人間から電話はかかってこない。
電話してくるのはナンパしてきた男たちの誰かからであり、その類
いとは酒を奢ってもらうだけで2度と会わないように決めている。
徹底的に無視を決め込んで眠りについたであろう。
だが、今朝は違う。
ひょっとすると、ひとみからの電話かもしれないと、テーブルの上
の携帯電話を手にとった。
「……」
ディスプレイには、メモリ登録されていない電話番号が浮かんでい
る。ひとみからではない。ひとみの番号は、メモリ登録されている。
たった1件のメモリ登録。警察はそれを見て、ひとみに連絡したの
だ。では、全く知らない相手からの電話かと思えばそうではなく、
その番号の相手からはもう2度とかかってこないだろうと思い、自
らメモリ削除した番号がディスプレイに浮かんでいた。
「いちーちゃん……」
忘れようとしても忘れられないナンバー。それは、紗耶香の携帯の
番号だった。――反射的に、真希は通話ボタンを押した。
『あ、もしもし、後藤?』
懐かしい声を聞き、それだけで涙が溢れそうになった。しかし、も
う一方で、どうして通話ボタンを押したのか戸惑っている自分がい
た。
- 258 名前: 57 投稿日:2001年11月12日(月)01時38分00秒
早朝とも呼べない中途半端な時間の公園は、恐ろしいほどにひっそ
りと静まり返っている。
――1人ベンチに腰かけている真希の耳には、遠くを走るゴミ清掃
車のエンジン音しか聞こえず、その静寂は少々息苦しくもあった。
『後藤』
静寂を縫うようにして、ずっと遠くから自分を呼ぶ声がする。
声の主が誰か、真希はすぐにわかった。待ち合わせの約束をしてい
たので当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、人通りの多
い雑踏で突然その声を聴いても、瞬時に声の主を当てる自信が真希
にはあった。
「ごめん、遅くなって」
振りかえって中空を仰ぐと、紗耶香の顔が飛びこんでくる。駅から
走ってきたのだろうか、額には若干の汗が浮かんでいた。
「ちょっと、コンビニ寄ってたら遅くなって」
真希はぼんやりとした目を、紗耶香が笑顔で掲げるコンビニの袋へ
と移した。
「後藤――、朝ご飯まだだろ? パンとかおにぎりとか買ってきた
から、一緒に食べよう」
「……?」
突然電話がかかってきたのにも驚かされたが、突然このように接し
てこられ、嬉しいことは嬉しいが同時に訳もないほどの不安に襲わ
れてしまう。
一体なんの目的があって、こうしてここにいるのだろう。ひょっと
して、ひとみから事情を訊いたのではないか――。
真希は今すぐにでも逃げたい気持ちになったが、ベンチの隣へと回
りこんでくる紗耶香を目で追うことしかできなかった。
- 259 名前: 58 投稿日:2001年11月12日(月)01時41分12秒
学園の廊下でひとみの姿を見つけた時、梨華は今が休み時間で周り
には友達同志で談笑している生徒が大勢いることも忘れて、数メー
トル先を歩くひとみへと駆けよった。
「あ、ねぇ、ちょっと待って」
と、声をかけると、ひとみは一瞬反応したものの、歩調を緩めるで
もなく歩いていく。
その態度に、梨華はカチンと来た。聞こえてるはずなのに、無視す
ることないじゃない――。
後ろから声をかけてはまた無視される恐れがあるので、前へと回り
こんだ。
「ちょっと、待ってよ」
さすがに前に回りこめば、立ち止まらざるを得ないのだろう。ひと
みは、ぼんやりとした顔をしたまま立ち止まった。
自分の強い口調に対して、いつものように冷たい目を向け「何?」
と、やはり冷たい口調を返してくるものばかりだと思いこんでいた。
だが、ひとみは特に冷たい顔をするでもなく、ぼんやりと窓の外に
視線を向けていたりする。
梨華は、拍子抜けして何を言おうとしたのか忘れてしまった。
「なんか、用?」
いつまでも、ボーっと自分を見ている梨華に痺れをきらしたのか、
ひとみがポツリとつぶやく。
「あ、あ――別に用ってほどのことじゃないけど、昨日、お昼休み
どこ行ってたの? お弁当持って、待ってたのに」
「あぁ――、忘れてた」
と、ひとみは気の抜けた返事をした。
- 260 名前: 58 投稿日:2001年11月12日(月)01時44分23秒
「忘れてたって、あなたが作ってって言ったんじゃない」
「……あ――、うん――」
と、ぼんやりとした視線を向けられて梨華は焦った。
いつもの、ひとみらしくないのである。まるで、心ここにあらずと
言ったひとみを前にして、梨華はどう対処すればいいのか困り果て
た。
「うん……って。ねぇ、なんか変だよ、今日」
ひとみはそれには何も答えず、梨華をただぼんやりと見つめている。
もしも、梨華が真希と同じ目に遭えば自分はどうするのだろうかと
考えた。慰めるのか、それとも何もできずにただうろたえるのか?
――あまりうまく想像する事はできなかった。
現在の環境下においては、最も可能性の少ないものである。心配し
過ぎだと、ひとみは自分の考えを嘲った。
「風邪でもひいた?」
と、額に手を当てようとすると、ひとみの目が急にスッと焦点を取
り戻したかのように見え、梨華はあわててその手を引っ込めた。
「いつの間にみんなの前でイチャイチャできるようになったの?」
ひとみはフッと笑い、顎で梨華の後方を指し示した。
「?」と、振りかえると廊下で談笑していた生徒たちが、皆ひそひ
そと声を忍ばせてこちらに注目している。ハッとして、ひとみの後
方を見てみると、やはりそちら側にいた生徒たちも同じようにひそ
ひそと話し合っていた。
――梨華は、顔を真っ赤にしてうつむいた。
- 261 名前: 58 投稿日:2001年11月12日(月)01時47分28秒
その様子を見て、ひとみは一安心した。おせっかいな梨華が、自分
の気落ちした原因を知れば首を突っ込んでくるのは目に見えている。
当事者ではないので真希の心の傷の深さを計り知ることはできない
が、それは決して梨華では癒されそうにない事だけはわかっている。
首を突っ込めば、責任感の強い梨華は躍起になるが自分の力なさを
思い知り、梨華自身も傷ついてしまう恐れがある。ひとみはそれを
危惧した。
真希が望んでいる人物――。その人物でしか、真希は癒されない。
真希のことを考えすぎて、大事なことを忘れるところだった。
ひとみはできるだけ、梨華に悟られないようにいつもの調子で梨華
と接することに決めた。
もうこれ以上、自分に関係したことで梨華を翻弄したくないという
強い思いがあった。
「なんなら、ここでキスの1つでもしてみる? 堂々としてれば、
肩身の狭い思いしなくてもいいし」
と、ひとみは笑いながら言った。
それを聞いた梨華は、真っ赤にしてうつむいていた顔を上げると、
「もうっ、何言ってんの」とでも言いたげにひとみを一睨みする。
そう――。それでいい――。
ひとみは、フッと微笑むと梨華の傍らを通りすぎていった。
- 262 名前: 59 投稿日:2001年11月12日(月)01時50分33秒
(なんなの……、もうっ、ちっとも可愛くないんだから)
放課後になったというのに、梨華はまだ昼間のことを根にもって
いるらしく、プンプンと頭から擬音が飛び出しそうなほどの勢い
で正門へと続く道を歩いていた。
帰宅する生徒たちの一団は、皆、正門へと向かって歩いているた
め、正門から校舎に向かって歩いてくる姿と言うのは否応無しに
目立つものであり、梨華の視線はその少女に釘付けになった。
だが、梨華の目を止めたのはそれだけが理由ではない。
どうして、こんなところにいるんだろう?
そんな疑問も、抱いていたからである。
真希は両手を後ろに回し、特に何があってそうしているでもなく、
周りをぼんやり眺めながらのんびりと歩いてくる。
その距離がわずか数メートルに縮まり、梨華は声をかけようかど
うしようか迷った。気軽に声をかけるような間柄ではないが、面
識がないこともない。
だが、何も言葉が思い浮かばず、どうしようかと迷っている間に
真希は通りすぎていってしまった。
「……」
正直なところ、梨華はホッと胸を撫で下ろした。
声をかけても、その後に会話が続くか自信はなかった。
ホッとするのと同時に、ひとみと紗耶香――どちらに用があり、
この学園にやってきたのか? そんな疑問が芽生えて、後ろを振
りかえった。
何か嫌な予感がしたが、帰宅する生徒たちの一団に紛れこんで、
真希の姿を確認する事ができなかった。
嫌な予感――静かな湖面に広がる波紋のような、そんなイメージ
だった。
- 263 名前: 59 投稿日:2001年11月12日(月)01時53分19秒
薄い雲に覆われた空に、運動部の掛け声が吸いこまれていく。
真希は、体育館の壁にもたれて空を見上げていた。
バスケ部のドリブルの振動が、壁を伝って背中を微かに振るわせ
る。
中学校の体育の時間を思い出したりもしたが、それについて感慨
に耽るようなこともなかった。
ただ、思い出しただけである。
ザッザッと、地面の擦れる音がした。
ぼんやりとした顔を向けると、トレーナーと黒のハーフパンツ姿
のひとみがこちらへとやって来る。
練習で流した汗をハンドタオルで拭きながら、真希とは少し離れ
た場所で足を止めた。
「怪我……、大丈夫?」
「うん――。もう、なんともない」
ひとみはまだ何か言いたげだったが、真希がまた視線を空に戻し
たので、それ以上は何も言わず同じように体育館の壁にもたれた。
互いの間には、しばらく言葉はなかった。
あいかわらず運動部の掛け声と、体育館内のボールを打つ音だけ
が辺りに舞っていた。
『ごめんね。練習中に呼び出したりして』
周りの音が何かの拍子でピタリと止んだ時、真希の声がスッとひ
とみの耳に入ってきた。
口もとの端だけを上げ無理に笑おうとしている、そんな声の調子
だった。
- 264 名前: 59 投稿日:2001年11月12日(月)01時57分38秒
「いちーちゃんがね、今日、来てくれた」
「……何しに?」
ひとみはもたれていた壁から身を起こし、隣の真希を見る。
真希は相変わらず空を眺めていたが、その目には何も映っていな
いかのように感じられた。
「何しに?」
ひとみは、もう1度声をかけた。やはり、心は別の所にあったの
だろう――。真希は身体を小さくビクンとさせ、意味もなく空に
笑いかけた。
「なんかさ、急に話たくなったんだって」
「……」
「この前、予備校の前にいたの見つかったから、心配してくれた
んだよ。いちーちゃんってさ、変なところで気を使うんだよね。
この前のなんか、たまたまあの場所にいただけだってのにさ」
たまたま――、そんな場所に行くはずがないのはわかっていたが、
ひとみは敢えて何も言わずに、壁にもたれかかった。
「――いちーちゃん、アタシとよっすぃが別れたこと知らないみ
たいだったよ……。そうだよね。あれ以来、いちーちゃんと会っ
てないし、よっすぃがわざわざ伝えるはずないし」
「……」
真希がこちらに向かって笑いかけているのが、視界の端に入って
いたが、ひとみが顔を向ける事はなかった。
「よっすぃと付き合ってても、関係は変わらないって。これから
も、ゴトーはずっと妹だってさ」
自分が紗耶香に投げかけた言葉が、まったく別の意図を持って効
果をあげてしまった。ひとみは、それを後悔していた。何もかも
が、真希にとって悪い方向にむかっている。
紗耶香のタイミングの悪さと、見せかけだけの優しさも腹立たし
かった。
- 265 名前: 59 投稿日:2001年11月12日(月)01時59分55秒
「妹かぁ――、それも悪くないんだけどね」
と、力なく笑う真希の声が耳に届き、しばらくしてズッズッと衣
服が壁に擦れる音が聞こえてきた。
見ると、真希はしゃがんで膝に顔を埋めている。
「ごっちん……」
「もう完全に終わったみたいだね……」
膝に顔を埋めているせいなのか、真希の声はくもぐっていた。
「昨日は、ごめんね。あの時のことは2度と言わないって誓った
のに」
「……」
「ホント、気にしないで。あの時はさ、まだ酔っ払ってて頭おか
しかったから」
「……」
「いちーちゃんとよっすぃに出会ったとき、もうすでに何人か知っ
てたんだよね。今さら、綺麗な身体でいたいなんて笑っちゃうよ」
「……」
「ホント……、笑っちゃうよ……」
くもぐっていた声は、いつしか震える声に変わっていた。
肩の震えはやがて小さく波打つように、身体全体へと移ってゆく。
泣き叫んで暴れるなら、ひとみは昨日のようにその身体を激しく
抱きしめて制したかもしれない。
しかし、こうして静かに泣かれてしまうと、どうしていいのか分
からずに佇む事しかできない。
慰めの言葉は無意味で、真希もそんなものを望んでいないような
気がした。
真希の嗚咽だけが辺りに虚しく響き、ひとみから伸びた薄い影は
いつまでも真希のすぐ側で揺らめいていた――。
- 266 名前: 60 投稿日:2001年11月12日(月)02時01分59秒
午後8時30分――。
アルバイト先から梨華がクタクタになって市井家に戻ってくると、も
うすでにひとみは冷たい目をして紗耶香と向き合っていた。
帰宅の報告をしようと、大広間へ向かった。
ドアの隙間から、向き合っている2人が見えて、梨華は中へ入る事を
躊躇し、かつ緊迫した空気を感じその場を立ち去る事もできず、悪い
とは思いつつもドアの脇に身体を隠すようにして事の成り行きを窺う
ことにした。
「残酷だよ」
と、ひとみは紗耶香を見据える。
「ただの同情だけなら、相手にしなければいいのに」
「同情じゃない……。心配だったから……」
ソファに座っている紗耶香は、膝の上に乗せた指を絡ませる。
困った時、姉妹は必ずそうした仕種をする事を梨華はこの数ヶ月の生
活の中で知った。
いったい、何について2人は話しているのか?
帰ってきたばかりの梨華には、まったくといっていいほどわからない。
だが、こうして姉妹が向き合う姿を久しぶりに見たような気がした。
「それが、ごっちんには残酷な仕打ちだって言ってんの」
「ひとみが、自分で聞いてこいって」
その2人のやり取りを聞き、梨華にもなんとなく事情が飲み込めてき
た。原因――、中心となる人物の顔が頭に浮かんだ。
- 267 名前: 60 投稿日:2001年11月12日(月)02時04分04秒
紗耶香の投げかけた言葉により、ひとみはほんの一瞬だけ目を伏せた
りもしたが、ふたたび視線を紗耶香へと戻した。
「だったらなんで、すぐ次の日に行って」
「人と会う約束してたから、仕方なかった」
ひとみの言葉を防ぐように、紗耶香が言葉を被せる。
「――ごっちんより、安倍って人の方が大事なんだ」
紗耶香は、不意にその名前を告げられたせいであきらかに動揺した。
声や表情で、それは梨華にも伝わった。
「姉さんに好きな人がいる。ごっちんは、もうずっと前から知ってる。
それなのに、姉さんの事ずっと――」
「安倍さんの事は、関係ない」
「そうやって逃げるから、ごっちんだって――あの子……だって、ど
うしていいかわからなくなるんだよ」
ひとみの口調が幾分か、興奮したものに変わった。
「じゃあ、他にどうしろって言うの……。アタシだって……。別に今
までの関係でいいじゃない……」
興奮するひとみの口調とは反対に、紗耶香の口調は弱い嘆きのような
ものに変わった。
「姉さんが本当にそんな関係を望むなら、ちゃんとごっちんに伝えれ
ばいい。安倍なつみが好きだから、ごっちんを同じように好きになる
ことができないって」
「なんでそこまでして、後藤に言う必要があるんだよ。後藤は今、ひ
とみと付き合ってんだろ? だったら、ひとみが後藤のことちゃんと
見ててやりなよ」
「――ごっちんとは、もう別れた」
- 268 名前: 60 投稿日:2001年11月12日(月)02時06分32秒
え……?
と、梨華はもう少しで、声を上げそうになり慌てて口をつぐんだ。
「私は、ちゃんと自分の気持ちを伝えた。恋愛感情なんかなかった。
ただ単に、姉さんから奪ってやりたかったってね」
「残酷なのは、どっちなんだよ!」
「姉さんに、アタシの気持ちなんか分からない!」
梨華は焦った。
2人が怒鳴りあう――、あの冷淡なひとみが自分の感情を剥き出しに
して紗耶香と向き合う場面など今まで遭遇した事がなかった。
オロオロと辺りを見回したが、藤村の姿もなければ家政婦たちの姿も
見当たらない。
「いっつも、そう。姉さんは、私から、何もかも奪ってく。私が望む
ものを、いっつも手に入れる」
「ひとみ……」
「ごっちんは、私の友達だった。ただ1人の友達だった。姉さんなん
かに渡したくなかった」
「……」
「……残酷なのかもしれない。でも、私は――、本当にこの手で抱き
しめたい人を見つけたから。ウソはつけなかった」
顔を上げたひとみとドアの隙間越しに目が合い、梨華はあわててドア
の影へと顔を引っ込めた。
- 269 名前: 60 投稿日:2001年11月12日(月)02時08分26秒
(どうしよう……)
大広間からは何も声がしなくなり、完全に自分の存在がばれてしまっ
たことを悟った。
逃げ出すべきなのか、それともドアを開けるべきなのか、ドアに背を
向け困惑していると不意にドアが全開した。
ひとみが何も言わずに、梨華の脇を通りぬけていく。
思わず声をかけそうになったが、梨華は言葉を飲み込んだ。とてもで
はないが、そうそう簡単に声をかけられる雰囲気ではなかった。
(そうだ、市井さん)
ハッと振りかえると、紗耶香はソファにの背に背中を預け、目を閉じ
て天井を仰いでいる。
開かれたドアからはちょうど正面に位置するため、梨華の存在には気
づいているはずだが、紗耶香は目を開けることもなく何か言葉を発す
るでもなく、梨華が声をかける事もできずその場を離れるまでずっと
そうしていた。
――梨華の心臓は、高鳴っていた。
部屋へと向かう足も、微かながらに震えている。
人が争う場面を客観的に見ると、それはやはりただの負の感情のぶつ
かり合いであり、いくら好意を寄せている市井家の姉妹であれ、そう
いう場面は見たくなかった。
『どうかなさいましたか?』
部屋のドアノブに手をかけると、梨華の心情とはそぐわない呑気な藤
村の声が聞こえてきた。
- 270 名前: 60 投稿日:2001年11月12日(月)02時11分49秒
顔を向けると、両手いっぱいに書類の束を抱えた藤村が、後ろを振り
かえりながら歩いてきている。
「下が騒がしかったようですし――、雨が降りそうだというのにひと
みお嬢様はテラスに向かわれるし――、何かありましたか?」
訊ねられて、梨華は姉妹の喧嘩を言おうか言うまいか迷った。うつむ
いて、口篭もっていると「石川様」と藤村の声が届いた。
「は、はい」
と、梨華が顔を上げると、藤村は抱えていた書類の束の向こうで気ま
ずい表情を浮かべていた。
「今日の夕方、ロスにいる旦那様から連絡がありまして、向こうでの
仕事が一段楽したとのことで……」
藤村の声の調子や表情は、実子ではないと告げられた朝を思い出させ
た。それ以上は言わなくとも、梨華には理解できた。
「そう……、ですか……」
「明々後日に、各病院の会議がありまして……。それに間に合うよう
に、明後日の最終便で帰国するそうです」
「明後日……」
いつか別れの日は来るものだと分かっていたが、実際に期日が決まっ
てしまうのはショックだった。
かつては、1秒たりとも長居したくないと家を飛び出したものではあっ
たが、今はそれも笑い話になってしまいそうなほどたくさんの思い出
ができた――。
- 271 名前: 60 投稿日:2001年11月12日(月)02時14分08秒
「旦那様が帰国なさっても、しばらくはここで暮らして結構ですので、
この前のように飛び出したりしないで下さいよ」
心配そうに、声をかけてくる藤村。
何気にいつも心配してくれる藤村や家政婦が、梨華にとってはとても
ありがたい存在だった。
それなのに、以前は何の挨拶もせずに家を飛び出した。
今度は、ちゃんと挨拶をして家を出なければならない。
「ひとみお嬢様も、決して石川様のことを邪険には扱っておりません。
むしろ、石川様のことを信頼しておいでです。それは紗耶香お嬢様も
同じです。――ですので、どうかお2人のためにも突然出て行くよう
な事は……」
かつてのように、ひとみに対して苦手意識を持っていた方が楽だった
のかもしれない。何の迷いもなく、家を出れる。
姉の紗耶香に出会わなければ、この家に戻ってくることもなければ、
留まることもなかった。
2人の間にある確執を知らなければ、何の迷いもなく家を出れたはず。
「石川様……?」
うつむいている梨華を心配して、藤村は書類の束の脇から顔を覗きこ
んでくる。
今日を含めた残り3日――、家を出るまでの数日で、何ができるのか
はわからない。
だが、もうこれまでのように先送りにすることはできない。
「私、まだやり残したことがありますから」
梨華は、うつむいていた顔を上げるとニッコリと微笑んだ。
- 272 名前: 61 投稿日:2001年11月12日(月)02時15分49秒
――頭を冷やすためにテラスへと珍しく赴いてみたのだが、それはな
んの意味ももたないかのように、湿気を含んだねっとりとした風が纏
わりつく。
軽い舌打ちと共にひとみは頭を抱え込むようにして、デッキチェアー
へと腰をかけた。
重みでデッキチェアーがギシギシと、アンティークな音を軋ませる。
そういえば……。デッキチェアーが対になって存在していた事をひ
とみは不意に思い出した。
10年前、ここに初めてやってきた時、姉となったばかりの紗耶香に
連れられてきた覚えがある。
緊張して何も喋れずにいると、ここへと連れてきてくれた。
そして、対になったもう1つの木目の粗いデッキチェアーに座らされ、
まるで揺り篭のように優しく揺らしてくれた記憶があった。
頭を抱えたまま視線だけを左右に動かして辺りを見渡してみたが、そ
のデッキチェアーはどこにも見当たらない。もう随分と前から、見て
いないような気もする。
ここで紗耶香と真希がよく勉強していたが、その頃にはテラスにも紗
耶香にも近寄ることがなかったので、ひとみにはその時にまだもう1
つのデッキチェアーがこのテラスにあったのかどうかはわからない。
姉の紗耶香との最古の思い出の品が、いつの間にかなくなっている事
が、今の2人の関係を象徴しているかのようでひとみは軽く自嘲した。
処分されたであろうデッキチェアーがもう2度と戻ってこないように、
2人の関係も今さらどうにかなるわけではないと、どこか投げやりに
考えて自嘲した。
- 273 名前: 61 投稿日:2001年11月12日(月)02時17分47秒
――突然、局地的に空気の流れが変わった。
それを敏感に感じとったのではなく、どちらかと言えばドアの開く音
で、ひとみは後ろを振りかえった。
テラスと廊下を繋ぐドアを開けたままにしてあるため、生暖かい風が
ドアの前に佇む梨華に当たって拭きぬけていく。
誰が来たのかは、振りかえらなくてもわかっていた。
おせっかいなのは誰よりも、知っている。ただ、あのような場面に遭
遇したら、姉の側にいくはずだとばかりひとみは思っていた。
見せるつもりはなかった。
し、これ以上関わらせるつもりもない。
ここに来てくれたのはとても嬉しかったが、ひとみはデッキチェアー
に深く座りなおして、まるで気づいてないかのように白々しく夜空を
見上げた。
そのまま、5分ほどが経過した。
遠くでジージーという虫らしきものの鳴き声が聞こえたが、相変わら
ず梨華は雲に覆われた夜空を眺めたままひとみを見ようともしない。
- 274 名前: 61 投稿日:2001年11月12日(月)02時19分46秒
さきほどは梨華が来てくれたことを喜んでいたが、何も声をかけられ
ずにそうされていると、ひとみの中には徐々に不安がこみ上げてくる。
「用がないんなら、向こう行って」
堪りかねたひとみは、小さくそうつぶやいた。
だが、梨華は何も答えない。
「……笑いに来たの?」
と、ひとみは冷たく言い放った。こみ上げてはいけないはずの感情が、
ふつふつと沸きあがってくる。
「連れ戻してきてって、姉さんにでも頼まれた?」
その言葉にようやく、梨華がひとみへと顔を向ける。
どことなく、悲しげな表情で見つめられているような気がして、ひと
みはさらに不安になった。
ひとみの中には、あの日の夜の空虚な梨華の顔が甦っていた。
「そんな顔しないで……」
弱々しく言い放ち、梨華から顔を背ける。
パタ――。パタ――。とスリッパの近づいてくる音が聞こえ、うつむ
いた視線の先に梨華の足元が入ってきた。ちょうど踵の部分で自分の
方を向いていないのはあきらかであり、あの空虚な瞳で見つめられて
いないと知ると漸く顔をあげる事ができた。
梨華はひとみに背を向けたまま、空を見上げていた。
「――私ね、小さい頃ずっとお姉ちゃんか妹がほしかったの」
「……」
突然、何の話をしだすのか疑問に思ったが、ひとみは黙って梨華の背
中を見つめ続けた。
- 275 名前: 61 投稿日:2001年11月12日(月)02時22分24秒
「お母さん夜遅くまで働いてて、その間、ずっと一人ぼっちだったか
ら――。よくこうして、アパートの窓から空を見上げて星にお願いし
てたの。お姉ちゃんか妹がほしいって」
くるりとひとみに向き直った梨華は、微苦笑なようなものを浮かべて
テラスの柵にもたれかかった。
「それから何年後かに、その願い事は通じたように思える日が来た」
「――思えただけ」
ひとみも微苦笑を浮かべて、デッキチェアーに背中を預ける。
「ホント。あなたに一番最初に出会った時、もう泣きそうだった。こ
んな意地悪な妹ならほしくないって」
そう言いながらも、梨華は笑っていた。
「こっちだって、思ってた」
ひとみは、フッと笑って視線を梨華の後ろの木々に向ける。
「前にも言ったけど、いつだったかな、急にあなたのことが心配になっ
た事がある」
「……?」
「まだあなたのこと妹だって思ってた時だから――。あ、そう。ラブ
レターをビリビリに破いた日だ」
「覚えてない、そんなの」
「なんかね、このまんまじゃいけないような気がしたの」
「……」
「でも、ほら、その次の日には血が繋がってないって知らされたし、
やっぱりこの家に居候させてもらってる身だし……、たった何ヶ月し
かいないのに家庭の事情に口を出すことってしちゃいけないような気
がして……今までなんかうまく突っ込めなかった」
と、梨華は肩をすくめて微笑んだ。
- 276 名前: 61 投稿日:2001年11月12日(月)02時25分00秒
湿った風が吹き、ざわざわと木々の葉が擦れた。
どうして、今そんな話をするのだろう……。
先ほどとは違った不安が広がり、いつの間にかひとみの視線は梨華に
釘付けになっていた。
「当事者たちには、どうしようもないことってあるよ」
「……さっきから、何言ってんの?」
「頑張ってみる。やっぱり、家族って仲がいいのが一番だもんね」
「……だから、何言ってんの?」
身を起こしかけたひとみに、梨華はゆっくりと背を向けた。
「なんで、急にそんなこと言いだすの? さっき、アタシと姉さんが
ケンカしてたから? ――あれは、アンタには関係ない。姉さんがごっ
ちんの気持ちに気づいてるのにいつまでも無視するから、ごっちんが
1人で可哀相だと思ったから」
と、ひとみは早口でまくしたてる。いつか見た夢の光景が、ひとみの
頭の中にリフレインしていた。
まるで、梨華がどこかに行ってしまいそうな感じがし、ひとみは今に
も泣きそうになっていた。
「姉さんを責めたことで苦しむなら、今すぐ謝ってくる」
「……」
ひとみの震える声に気づき、梨華はハッと振りかえった。あの夜の、
動揺したひとみがそこにいた。
声をかけることさえも躊躇してしまう、かける声の振動で壊れてしま
うかのような脆さ――、紛れもなくあの日と同じだった。
「仲良くしろって言うなら、いくらでもそうする。――だから」
潤んだ瞳で梨華を見据えながら、ひとみが梨華へと近づく。
見据えられた梨華は、まるで魔法にかかったかのように動けることが
できなかった。
- 277 名前: 61 投稿日:2001年11月12日(月)02時27分33秒
紗耶香のような思考を熱で溶かされるようなものではなく、ここで身
をかわせば、ひとみが壊れてしまうかのような――、そんな錯覚に陥っ
たからである。
「だから、どこにも行かないで」
つぶやくような声と共に、ひとみは梨華の前で立ち止まった。
それきり、ひとみは黙ったまま梨華を見つめた。
見たこともない幼い頃のひとみが脳裏をよぎり、かつて夢想した妹の
姿が重なり合い、梨華は目の前にいるひとみがたまらなく愛しく思え
た。やはり、このままにして去っていくことはできない。
「どこにも、行かないよ」
自然と梨華は、ひとみの手をとった。
戸惑っているのだろう。
ひとみの硬直が、包み込んだ手を通して伝わってくる。
「――ホントに?」
やっと言葉を覚えた幼児のように、ひとみはたどたどしくそう訊ねた。
「うん」と、梨華は優しく微笑みかけ、佇むひとみをデッキチェアー
へ座らせる。
虚ろな弱々しい目をしていたひとみだったが、徐々に落ちつきを取り
戻したのだろう。やっと生気のようなものが戻った。
安心しきったひとみの表情を見ると、梨華の胸は痛んだ。
どこにも行かないと言ったものの、その約束は守れそうにない。
今までの実子候補者が誰も残っていないように、当然のように自分も
家を出ていかなければならない。
- 278 名前: 61 投稿日:2001年11月12日(月)02時29分18秒
だが、あのようなひとみを見るととてもではないが、本当のことを口
にすることはできなかった。
考え事をしている梨華を見てまた不安になったのか、ひとみが不安そ
うな目で見上げる。
「大丈夫だよ。そんな心配しないで」
「べ……、別に心配なんか……」
と、ひとみは気まずそうに顔を伏せた。
またウソをついたことにより痛んだ梨華の胸も、そんなひとみの姿を
見ると、ほんの少し和らいだ。
「かわいい……」
梨華が漏らした一言に、ひとみは顔をあげる。梨華は、クスクスと笑っ
ていた。
「なんか、今すっごくかわいい」
「はぁ……? ふざけないで」
ひとみは、スクッと立ちあがると梨華に背を向けた。
顔はかなり赤くなっていたのだろうが、廊下の窓から伸びた明かりは
その場所まで届かないので梨華にバレる事はなかった。
「ギューって抱きしめたいぐらい」
「い、いい加減にして」
「……すぐそうやって、怒るんだから」
と、拗ねたような口調が聞こえたきり、ひとみの耳には何も入らなく
なった。ゆるりと流れていた風もいつしか止み、虫たちの気配もいつ
の間にかなくなっている。
- 279 名前: 61 投稿日:2001年11月12日(月)02時30分44秒
包まれた緊張と陶酔感は、ひょっとして夢の中の出来事なのではと、
ひとみは怖くなって後ろを振り返った。
夢ではなく――、現実だった。
梨華はただ静かな微笑みを浮かべ、しゃがんだままひとみを見上げて
いる。
「お姉ちゃんの気分、味わってた」
訊ねもしないのに、梨華はそうやって笑った。
その言葉を聞いて、ひとみは真希を思い出した。
同じ言葉を投げかけられて真希は涙を流していたが、ひとみはなぜか
真希と同じ気持ちにはなれなかった。
かといって喜ぶでもなく、静かに言葉を胸に留めた。
「……バカじゃないの」
「別に何言われたって、もう慣れたから平気だよー」
と、梨華は子供のように語尾を延ばしてからかってくる。
つい先ほどまであった不安が嘘のように消え、あれほどまで取り乱し
た自分が恥ずかしくて、ひとみはテラスを後にしようと歩いた。
『待って』
先ほどとは打って変わった真剣なトーン。ひとみは足を止めた。
『明日の朝ごはん、一緒に食べようね。待ってるから』
「……つまんないことで、呼びとめないで」
ひとみは、後ろを振りかえることなく、その言葉の裏に何が隠されて
いるのか知る由もなく、梨華の笑顔を目に焼けつけたまま静かにテラ
スを後にした――。
- 280 名前: □ □ □ 投稿日:2001年11月12日(月)02時35分38秒
□ □ □
- 281 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)02時43分09秒
1階のロビー正面にある大きな時計が、重い音を響かせて時を知
らせる。
最初からその音を数えていたわけではないので、時計が正確に何
時を告げたのかわからない。だが、帰宅してからそれほど時間は
経っていないので、今は午後9時になったばかりだろうと梨華は
おおよその時間を自分の中で刻んだ。
静かな足取りで、大広間に向かう。
――そこに、紗耶香の姿はなかった。
「市井さん……?」
辺りを見回してみたが、どこにも人の気配はない。
1階のテラスに通じるドアが開いてはいたが、そこにも紗耶香の
姿はなく、白いカーテンが微かにヒラヒラと揺れているだけであっ
た。
ここへ来るまでに、2階の紗耶香の部屋は確認している。
紗耶香の姿はなかった。
なつみの元へと向かったのだろうかと考えてみたが、バイクのエ
ンジン音らしきものは聞こえてこなかったし、玄関のドアは梨華
が帰宅した際にかけたドアロックがしたままである。
梨華は、1階のテラスへと出てみた。
風に揺れる庭の木々が、ざわざわと音をたてる。
音の向こうから、葉の擦れる音とは違った微かな声が流れてくる――。
- 282 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)02時45分49秒
庭の隅にある温室は、温室とは名ばかりで、四方に並んだ棚の上
には何もなく、今はもう10坪ほどのただのガラス張りの空間に
しか過ぎない。
全ての面をガラスで覆われていたが、空に垂れこめた厚い雲のせ
いで月明かりの届かない暗闇だった。
梨華は入口に立って、中をぐるりと見回した。
だが、明かりがないためにそこに紗耶香がいるのかは確認できな
かった。
風に乗って聞えてきた声をたどって、ここへとやって来たのだが、
どうやら違ったらしい――。
あきらめて、別の場所に向かおうとした時、温室の奥でガタンと
何か陶器のようなものが倒れる音がした。
「市井さん?」
降りかえってみたが、そこにはやはり闇が広がっているだけであ
る。しかし、誰かがいるのは間違いない。
何かが倒れる音がした際に、人の動く音も同時に聞こえてきた。
「市井さん、そこにいるんですか?」
暗闇の中、手探りで温室の中を歩く。足元に何があるのかも見え
ないので慎重に歩いたつもりだったが、何かに躓いてしまい短い
悲鳴と共に床に倒れこんだ。
「大丈夫!?」
暗闇の向こうから紗耶香の声が聞こえ、倒れこんだ梨華の身体を
抱え起こす。
- 283 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)02時48分09秒
目が慣れたのか、それとも近い距離だからなのか、紗耶香の姿が
梨華にも割合にハッキリと確認する事ができた。やはり、聞こえ
てきた声は紗耶香の泣いていた声だったらしい。潤んだ瞳と、ぐ
ずらせた声の調子から、梨華はそう判断した。
そう判断して、梨華の決心は大きく揺らいだ――。
「怪我してない?」
「あ……、はい……」
「ちょっと、待ってて」
と、紗耶香は暗闇の温室の中を、奥へと戻って行ってしまった。
かつては、潤滑油の役目をしようと奔走した時期もあったが、そ
れはなんの効果ももたらさなかった。
ひとみとの関係を元に戻すためには、やはり積極的に紗耶香から
歩み寄ってもらいたいと考え、相談を持ちかけようとしたのだが
――、さきほどの紗耶香の潤んだひとみを見ると、梨華はもう何
も言えなくなってしまった。
紗耶香の笑顔が”癖”のように感じたのは、やはり間違いではなかっ
た。どうしてもっと早く気づかなかったのだろうと、梨華は紗耶
香の去っていった方向を見つめながら悔やんだ。
- 284 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)02時49分56秒
市井家の期待、ひとみとの確執、伝えることのできない想い、真
希との関係――背負っているものの重さを口にすることなく、そ
れでもいつも笑顔を絶やさなかった紗耶香を思い出すと、梨華の
視界は涙でぼやけた。
ひとみの心を開かせること――、それも紗耶香を苦しめる結果に
なってしまったのかもしれない。そう考えると、無性に泣けて仕
方がなかった。
いつしか、梨華は声を上げて泣いていた。
「い、石川? どうしたの?」
奥の方から、紗耶香が慌てて戻ってくる。その手には何かが握ら
れていたが、真っ暗闇の上に、目許に両手をあてがって泣いてい
る梨華にそれは見えない。
「ごめんなさい」
と、梨華は声にならない声を上げて何度も謝った。
「ごめん――って、意味がわかんないよ。どうしたの、急に」
紗耶香に顔を覗きこまれて、梨華は余計に涙を流した。泣いては
いけないと頭ではわかっていたのだが、今まで気づかなかった罪
悪感や、またこうして心配をかけている事などが頭の中をグルグ
ルと回り、冷静に涙を止める事などはできそうになかった。
「困ったなぁ……」
と、紗耶香はまだ乾ききってない潤んだ瞳を空いた手で拭いなが
ら、落ちつきなく辺りを見まわした。
- 285 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)02時52分01秒
梨華の涙が止まったのは、紗耶香が奥から持ってきたキャンドル
に火が灯って、しばらくしてからであった。
「どう? ちょっとは落ちついた?」
ハンカチを持っていなかった紗耶香は、上着の袖をつまんで器用
にソッと梨華の涙を拭う。
「……はい。……すみません」
鼻をぐずらせながら、梨華は頭を下げた。
その様を見て、紗耶香は苦笑する。
「びっくりしたよ、急に泣き出すから……」
「……」
「なんか、初めて会った時みたいだね」
微笑みかける紗耶香の顔を見ると、梨華はまた涙が溢れそうになっ
た。
「あー、ほら、もう泣かないの」
照れ隠しのような意味もこめて、紗耶香は梨華の頭をグシャグシャ
と撫でた。
子供のように扱われてほんの少し恥ずかしくもあったが、梨華は
グスッと鼻をすすると笑顔でうなずいた。
あらためて、辺りを見まわして見ると先ほどまで無機質だった温
室の中は、キャンドルの炎を辺り一面に反射させてとても幻想的
な空間になっていた。
- 286 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)02時54分09秒
「花が並んでいる頃は、もっと綺麗だったんだけどね」
「庭にも、たくさんありますよね。市井さん、花が好きなんです
か?」
ヒックヒックと嗚咽しながら、梨華は隣に座っている紗耶香に訊
ねた。
「死んだ母さんが好きだったの。ここに置いてたのは、胡蝶蘭と
か育てるのに難しい花ばかりだったから、母さんがいなくなって
からは誰も上手く育てることできなくて」
「……」
「昔は、ひとみもよく一緒にここに来てたんだ。あんまり花に関
心なかったみたいだけど、これが好きでさ」
と、紗耶香は辺りの空間を懐かしそうに見回した。
「あの大きな目、キラキラさせて――」
紗耶香は、そう言うと口をつぐんだ。また泣いてしまいそうにな
るのが嫌で、視線を伏せた。
出入り口のドアが開いているのだろう。
炎は、時折風に煽られて大きく揺らめく。
しばらくの間、2人は無言で揺れる炎を見つめていた。
「石川って……さ」
「は、はい」
突然、名前を呼ばれた梨華は、驚いて顔を上げる。
紗耶香は、膝を抱いてキャンドルの炎を見つめている。
「すごい、しっかりしてるよね」
「へ?」
「最初はさ、すごい女の子っぽいなぁって思ってたんだけど」
紗耶香と初めて出会った頃の光景を思い出し、梨華は顔を赤くし
てうつむいた。あのときのことを思い出すと顔から火が出るほど
恥ずかしい。
- 287 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)02時58分20秒
「今じゃ、すごく頼もしく見える……。ううん。実際そうなんだ
ろうね……。だからひとみも、石川を頼ってるんだと思う」
紗耶香の声のトーンがあきらかに弱々しいものに変わり、その声
は微かに震えていた。
梨華は顔を上げた。いつの間にそうしたのだろうか、紗耶香は膝
の間に顔を埋めていた。
「ごめんね。また、あんなとこ見せちゃって……。もう……、も
う、2度と見せないから」
「市井さん……」
「今さら都合よすぎたんだ……。ひとみのために、何かしてやり
たいなんて……」
ガラス張りの屋根と壁に水滴がつき、反射する炎の明かりを歪ま
せた。怪しかった雲行きは、ポツリポツリと雨を降らせたようで
ある。
「後藤には、ひとみを見てもらいたかった。でも、それは、ひと
みの望んでた事じゃなかった……。やる事が全部裏目に出るんな
ら、もう関わらない……。関わらないほうがいいんだ……」
紗耶香は、埋めた膝の中で虚しく笑った。
『――私……』
紗耶香は顔半分だけを膝から覗かせ、つぶやいた梨華に視線を向
ける。
ゆっくりと立ちあがり、壁際へと歩く梨華。
――言葉を選んでいるのか、それとも何か別のことを考えている
のか、梨華はしばらくガラスの表面を滑り落ちる雨の雫を眺めて
佇んでいた。
- 288 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)03時00分22秒
「さっきまで、市井さんに彼女のこと相談するのやめようかと思っ
てました……」
「……ひとみのこと?」
梨華は、背を向けたままコクリとうなずく。
「市井さんの方から、積極的に関わってほしかったんですけど、
それってまた市井さんを苦しめるかと思って……」
「……」
「でも……、そうしたら何も変わらないんです……」
「もういいよ。石川が、そこまで悩んでくれることじゃないから。
ありがとう。その気持ちだけで嬉しいよ」
「違うんです……。そこがもう違うんです……」
「……違うって?」
梨華は、ゆっくりと振りかえった。
「拒絶されて諦めれば、今までと同じなんです……」
「……」
「市井さんには、安らげる場所があります」
梨華は名前を出さなかったが、紗耶香の頭の中にはすぐになつみ
の顔が浮かんだ。
紗耶香は、大広間のドアの前にいた梨華を思い出した。
すべて、聞かれていたのだろう。自分がなつみを好きだというこ
とも、知っているらしい……。
以前なら動揺して取繕ったりしたのかもしれないが、今の梨華の
前ではなぜかそうする気も起きなかった。
- 289 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)03時01分58秒
「傷ついたら、癒すことができます……。でも、彼女には安らげ
る場所がありません……。そうやって諦めて去られたりしたら、
また自分の中に閉じこもるしかないんです……。傷つけてしまっ
たこととか、素直になれなかったこととか、そんなのを全部自分
で抱え込んだまま……。さっきも、1人で物思いに耽ってて……。
本当は彼女にも伝えたかったんですけど、なんか――、そんな姿
見ると言えなくて……」
「……」
「彼女だって好きで、心を閉ざしてるんじゃないと思います……」
「……」
「今まで相当のプレッシャーがあったと思うんです。ひょっとし
たら、そのプレッシャーは市井さん以上だったかもしれません」
そう言うと、梨華は口をつぐんでゆっくりとまた背を向けた。
自分を気づかっているのだろう、そう判断した紗耶香は、
「いいよ。続けて」
と、優しく声をかけた――。
雨脚は幾分か強くなり、温室の中にもその音が聞こえて来るよう
になった。
「最初は、期待に応えようと頑張ってたのかもしれません……。
でも、応えることができなくて……。周りを見てみたら、誰も彼
女に声をかけてくれる人もいなくて、いたとしても彼女には自分
を利用しようとする人にしか見えなかった」
「……」
「安らげる場所がどこにもなかったから、自分の中に閉じこもる
しかなかったんだと思うんです……」
- 290 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)03時04分08秒
紗耶香は、梨華とひとみの間で何があったのか詳しい事はわから
ない。ただそうやって話ている間、時折、目を閉じて何かを思い
出したりしながら喋っているのを見て、自分とひとみとの歳月以
上に濃厚な時間を過ごしたのはわかった。
「最初はすごく意地悪な子だって思ってたんですけど、知れば知
るほどそうじゃないような気がして……」
「……」
「市井さん、前に言いましたよね。昔は、お姉ちゃんお姉ちゃんっ
て、甘えてくるかわいい妹だったって」
幼い頃のひとみが、紗耶香の目に浮かんだ。
紗耶香はその姿を逃さないように、無意識に目を閉じた。
「その頃のことは知らないんですけど、なんかその頃の彼女って、
今でも心のずっと奥にいるような気がするんです……。たまに、
そう感じます」
「それは、石川だからだよ……」
その声を聞いて、梨華はゆっくりと振り返った。
目を閉じていた紗耶香が、ふたたび目を開ける。その目には、薄っ
すらと涙が滲んでいた。
「逃げたアタシには、そんなところ見せてくれない。ひとみの中
じゃ、もう姉でもなんでもない」
「市井さん……」
「今は石川のほうが、ひとみのことをよっぽど理解してるよ。私
は、今のひとみのことをよく知らない。何を考えてるのかも、わ
からないから……。憎まれてるとしか思えないんだ……」
と、紗耶香は悲しそうな微笑みを浮かべた。
- 291 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)03時07分11秒
「ひとみは、アタシの事を本質を見ようとしない人間だって」
「……」
「慈悲の目だけ向けて、その奥にあるものを見ようとしないって。
傷つくのが怖いから、目を逸らす。別のものに置きかえる。考え
ないようにする。ひとみの言葉と、今までの自分の行動をなぞら
えると、確かにそうなんだ……」
「そんなの、誰にでもあります。市井さんだけじゃありません」
「すべてがすべて、そうなの。それに気づいてから、なんか自分
がすごい虚しい人間のような気がして」
「……」
「ひとみはああ言ったけど、アタシは自分の望んだものを何も手
に入れてない……。たぶん、これからもね」
紗耶香は、膝の前で組んだ指に視線を落とした。
「だから、それじゃ今までと同じなんです」
と、梨華は口をへの字にさせて、涙の滲む目で紗耶香を見据える。
「何も変わらないんです」
そうやって、両手をピンと下に突っぱねる仕種の意味を、紗耶香
は知らない。
「何かを変えたいと思ったら、今の自分を変えなきゃダメです」
「……」
「誰だって、素直な自分の気持ちを出すのは怖いんです。私だっ
て、今、こんな事言ってるの自分でも信じられません。市井さん
を傷つけるから、言いたくないです。でも、言わなきゃ何も変わ
らないから――、ちゃんと言わなきゃ何も変わらないから」
- 292 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)03時09分52秒
「……」
「試すことでしか人を信じられなくなった彼女を、このままにし
といていいんですか?」
「……」
「市井さんの望む関係って、今のような関係なんですか?」
うつむいたまま顔を上げない紗耶香。
自分の中で答えを出し迷っているのは、梨華にもわかっている。
まるで全てを押しつけるような言い方をしてしまった事を心の中
で詫びていたが、そうする事以外に姉妹の間にあるわだかまりは
解けそうにない。
「妹なんていない。これから先、後悔しないで笑ってそう思える
んなら、私、もう何も言いません……。本当にそう思うなら、私
とは考え方が違うから……、力になれません……」
梨華は、そう言って静かに温室のドアへと歩いた。
キャンドルの僅かな明かりが足元を照らしてくれているため、転
ばずにすんなりと出入り口のドアまでたどりつくことができた。
降りしきる雨は、勢いを増している。
温室から市井家の建物まではかなりの距離があるため、ずぶ濡れ
になるのは必至だったが、梨華は躊躇することなく外へと足を踏
み出した。
冷たい雨に打たれて幾分か興奮も冷めると、途端に泣き出したく
なってしまったが、梨華はそれを必至で堪えた。
- 293 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)03時13分23秒
どのくらい歩いたのだろうか、不意に雨音とは違う何かが聞こえ
てきた。
『……ぇ。……って』
打ちつける雨にその声のほとんどはかき消されたが、かろうじて
言葉の端々が梨華の耳に届く。
振りかえると、温室の前に佇む紗耶香がいる。
紗耶香の口が何度か動いたが、それは梨華の耳には届かなかった。
声が届かないと知った紗耶香は、雨の中を駆け出してくる。
梨華の目の前にやってきた紗耶香は、軽く乱れた息を整えると
「寒いね」と濡れた髪をかきあげて少年のように笑ってみせた。
「市井さん……」
その笑顔を見て、梨華は紗耶香の中で答えが出たのを知った。
どんな答えなのか分からないが、紗耶香の笑顔はいつの日か見た
とても爽やかな笑顔だった。
「やってみる。――ひとみが、どう思ってるのかわからないけど、
私はひとみと昔みたいにやっていきたい」
雨に声をかき消されないようにしているのか、それとも気持ちが
昂ぶっているのか、紗耶香の声はいつもより大きい。
梨華も、それに合わせて大きな声を出す。
「まず、そう伝えることから始めましょう」
「簡単には受け入れてくれないよね、きっと」
「あきらめないことが大切です。ポジティブにいきましょう。ポ
ジティブに」
降りしきる雨の中、妙に身体をくねらせて梨華は笑顔でガッツポー
ズをした。
- 294 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)03時15分44秒
「なにそれー、気持ち悪いんだけどー」
ずぶ濡れになりながら、紗耶香は笑う。
「そうですか? おかしいなぁ?」
と、梨華は自分のガッツポーズに目をやる。――次の瞬間、梨華
の身体は紗耶香の両腕に包まれた。
「い、市井さん……!?」
驚く梨華が顔を上げる事もできないくらい、強く抱きしめられて
いた。
「寒いからなのかなぁ……、それとも怖いのかなぁ、さっきから
震えが止まらないんだ」
梨華の耳元で、紗耶香はそうつぶやいた。紗耶香の言う通り、確
かに身体は小刻みに震えている。それは、抱きしめられている梨
華にはダイレクトに伝わってきていた。
「ひとみ、そんなこと望んでなかったらどうしよう。私の事なん
て、なんとも思ってなかったらどうしよう」
変わったと思ったのはただの錯覚だったのだろうか?
紗耶香はまだ、決心つきかねている様子である。
梨華は、自分の直感を疑いかけた。
しかし、すぐにそうではないとその疑いを払拭した。
「市井さん……」
「……」
「こうしようって決めるのと、実際に行動するのって違います。
誰だって結果を想像すると怖いし、逃げたくもなりますよ」
紗耶香の耳元に届く、諭すような柔らかい口調。
- 295 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)03時18分00秒
「仲良くしたいって気持ちに、嘘はないですよね?」
「――うん」
「じゃあ、まずは変わるきっかけを作りましょう」
そう言って、梨華はゆっくりと紗耶香の身体を離した。
いったい、何をするのだろう。
紗耶香は軽い緊張感を抱き、梨華を見つめた。
目を閉じ、光のない空に顔を向け、梨華はしばらく冷たい雨を
浴びていた。
「……石川?」
深呼吸して吐き出した息が白く上ると、梨華は軽くうなずいて、
顔を覆った髪の毛を後ろへと撫でつけた。
一連の動作には、妖艶な色気すらあり、眺めていた紗耶香は相
手が梨華という事も忘れてただ見惚れていた。
――――窓に打ちつける雨。
季節外れの台風のような強い雨に臆することなく、ひとみは深
い眠りに入っていた。
昨夜は、目を閉じれば真希の姿が浮かび一睡もしていない。
紗耶香とのケンカにより打ちつける雨音はただ耳障りで、いつ
もなら眠りにつくことは不可能だったかもしれない。
だが、ひとみはなんの不安も後悔もなく眠りにつくことができ
た。テラスで梨華に会わなければ、ひとみはまだ眠れない夜を
悶々と過ごしていたことだろう。
「梨華……」
ひとみは、微笑みながら寝返りをうった――。
- 296 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)03時20分16秒
「市井さん」
降りしきる雨の中、梨華は紗耶香を見つめて微笑みを浮かべる。
見惚れていた紗耶香は、梨華の視線に戸惑った。
『私、市井さんのことが好きです』
戸惑い視線を逸らした紗耶香の耳に、それ以外の音はないかのよ
うに梨華の声が入ってきた。
「初めて出会った時から、ずっと好きでした」
浮かべていた梨華の笑顔は、雨に流れ落とされるように次第に泣
き顔へと変化していった。それでも、梨華は微笑みだけは保とう
としている。
「……」
その変化を目の当たりにしていたが、紗耶香は佇むことしかでき
なかった。突然の告白、想像すらしていなかったので、衝撃的で
すらあった。
「でも、市井さんには好きな人がいるし、断られて傷つくの嫌だっ
たからずっと黙ってたんです」
「……」
「――このままでいいって思ってました。今までみたいに、いつ
か忘れるだろうって。相手は女の人なんだし、次はちゃんと男の
人好きになろうって……」
「……」
「でも、なんか違うんです。今までと違って、忘れようとしたら
反対に市井さんのことどんどん好きになってく」
- 297 名前: 62 投稿日:2001年11月12日(月)03時22分35秒
変わるきっかけを、梨華がどのように与えてくれるのか――。
紗耶香はもっと別のものだと思っていた。
いつまでも行動に移さない自分の手を引いて、半ば強引にひとみ
と向き合わせたり、いつまでも震えている自分を強い口調で叱咤
したりするのかと考えていた。
しかし、どれでもなく梨華は自分自身を与えた。
ひとみのいう本質が、まだまだ見抜けないでいる自分が果てしな
く愚かに感じ、真正面にいる梨華が滲んで見えた。
「教えて下さい。私、このまま市井さんのこと、好きになってい
いですか。このままずっと好きで……、好きでいていいですか」
微笑みを保ちきれなくなったのか、梨華は顔をクシャクシャにし
て雨の中に佇む。
紗耶香は、迷いもなく足を一歩踏みだし、
「もう、いい……。もう……、わかったから」
と、声をしゃくりあげながら、梨華を優しく抱きよせた。
「ごめん――。ごめんね。私、なっち……、安倍さんの事が好き
なの。だから、石川の気持ちに答える事できない。ごめん」
びしょ濡れになった梨華の頭を撫でながら、紗耶香はハッキリと
自分の気持ちを伝えた。
これまでのように、遠まわしに断ることなど考えもしなかった。
梨華は、それに対して「はい」と消え入りそうな返事をし――、
紗耶香の肩に顔を埋めて大声で泣いた。
雨は梨華の声を打ち消し、紗耶香の涙を隠す。
すべてを洗い流すかのような雨は、2人が立ち去るまでずっと降
りつづけた――。
- 298 名前: 作者 投稿日:2001年11月12日(月)03時29分22秒
更新が大変遅くなり、申し訳ありません。
>>237-252
※内容が偏っていたため、勝手ながらレスを三つに別
けさせてもらいました。
(後)関係:何を書いても今後の展開に触れてしまう
ため……ノーコメントで通します。予定では、今頃は
もう終わってるはずだったんですが(苦笑)
(続)関係:スミマセン……。症状は改善されないし、学研
のように役にも立ちませんが続きです→ >>254-297
(待)関係:ありがとうございます。でも……ストッ
クを書き貯める時間もなかったため、また近々このよ
うな事態に陥るやも……しれません……。
- 299 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月12日(月)03時32分39秒
- 大量更新お疲れ様です〜。
最初の頃から比べると石川さんもずいぶんと強く
なりましたね。
さて、これでやっと寝られる(w
- 300 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月12日(月)03時34分02秒
- 超大量更新、お疲れ様でした。いや〜、待ってましたよ、本当に。
やっとみんなが前に動き始めたって感じですね。
次回の更新も楽しみにしてます。
- 301 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月12日(月)16時49分07秒
- めっちゃせつないです…
続き期待してます。
- 302 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月13日(火)00時14分43秒
- マジで泣けるっす!!(感動)
なんとか市井家の歯車もかみ合いだしそうで良かったすねぇ・・
いつもながらに大量更新お疲れさまでした。
- 303 名前:ちび 投稿日:2001年11月13日(火)00時59分15秒
- 大量更新おつかれさまです。本当に感動しました
これが、映像になればそれはそれでおもしろいだろうなと思いました
これからは大変なところでしょうね…頑張ってください
待てと言われればいつまでも待ちますから
- 304 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月14日(水)00時53分51秒
- 切 な い ね
- 305 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月15日(木)00時38分45秒
- 面白いです
- 306 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月15日(木)21時08分20秒
- お疲れ様でした。
雨の中での石川さんの告白とっても良かったです!
今後もかなり楽しみです。
- 307 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月18日(日)02時53分28秒
- 全部通して読ませて頂きました。
良いお話です!!!感動致しました。
すごくどきどきしながら読んでいる私がいます。
がんばってください。
- 308 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月18日(日)03時17分08秒
- >>307
次からsageでね。
- 309 名前:307 投稿日:2001年11月18日(日)21時20分27秒
- ごめんなさい。。。以後気をつけマス。
- 310 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月19日(月)20時41分19秒
- せつね〜
早く続き読みたいっす・・・
あぁ、はまりすぎている自分が怖い
- 311 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月21日(水)15時02分14秒
- プロですか?
- 312 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月21日(水)18時01分35秒
- 最高作品。
これ、出版されたら買うぞ、マジで(w
- 313 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月24日(土)00時46分48秒
- >>312
同意しちゃう!出版されたら僕も買いますっ
更新されるまでまた最初から読んでみようと思います。
えれぇ長編ですがすごい大好きですよ!
- 314 名前: 63 投稿日:2001年11月25日(日)00時58分12秒
食堂へと入ってきたひとみの目に飛び込んできたのは、いつもはい
るはずのない姉の紗耶香だった。
「おはよう」
と、屈託のない笑顔を向けてくる。それまでのように、どことなく
機嫌を伺うような声のかけ方ではなく、ごく自然に――そう、どこ
にでもいる姉妹のように――。
「……」
昨日とはまるで違う、紗耶香の態度にひとみは戸惑いを覚えた。
はす向かいにいる梨華に視線を向けると、なんでもないことのよう
に朝食をとっている。
「あ、石川。ごめん、ドレッシング取ってくれる?」
「はい」
目の前で行なわれている光景は現実なのだろうか?
昨夜の出来事も、それ以前の確執も、全てがなかったことのような
錯覚に陥った。何よりも梨華が姉を意識することなく普通に接して
いるのが、ひとみにとって驚きであった。
夢……?
の、はずはない。
すべてがリアルに感じられているし、姉の紗耶香がテーブルを挟ん
だ向こう側にいること以外、特にいつもと変わらない。
「何やってんの? 早く食べないと、朝練、遅刻しちゃうぞ」
紗耶香が、ひとみのカップにミルクティーを注ぎながら声をかけて
きた。ひとみは、ただただ混乱するばかりであった。
- 315 名前: 63 投稿日:2001年11月25日(日)01時00分18秒
- 「昨日、姉さんとなんかあった?」
家を出る頃、ひとみはすっかり不機嫌になっていた。
梨華と2人だけの登校。
紗耶香は昨日の夜、予習をし忘れたとかでもう少し後で登校するら
しい。――が、ひとみにとってはそんな事はどうでもよかった。
むしろ、3人並んで登校しないだけマシだと思っていた。
姉の紗耶香がいれば、こんな事は訊ねにくい。
隣を歩く梨華は聞こえなかったのか、カバンの中をゴソゴソと探っ
ている。
「ねぇ。昨日の夜、あれから姉さんと会ったの?」
ひとみは苛立ち紛れに、少し大きめの声をだす。
「え?」
と、梨華は立ち止まった。
「……なんか、いつもと違うから」
ひとみは、見上げる梨華の視線にバツの悪さを覚え、先ほどとは打っ
て変って小さくつぶやいた。
困ったような笑みを浮かべて、梨華はふたたび歩きだす。
「別に市井さんのためとかじゃないから、勘違いしないでね」
「……」
「誰のためでもない。自分のために、したかっただけ」
「言ってる意味がわかんない」
と、ひとみは梨華の後を追った。
- 316 名前: 63 投稿日:2001年11月25日(日)01時02分32秒
「2人がいつまでもすれ違ってばかりいるの、嫌だったから」
「すれ違うって――。別にアタシは、姉さんとどうこうするつもり
なんてない。勝手なことしないで」
苛立つひとみとは反対に、梨華はとても平然とした態度で歩く。
その態度もまた、ひとみのペースを狂わせる。
「ちょっと、聞いてんの?」
「聞いてるよ」
「姉さんにも言っといて、鬱陶しいだけだから話しかけないでって」
「自分で言えばいいじゃない」
ひとみの足は、止まった。
どちらかと言えば、これまであまり自分と姉の紗耶香を直接的に係
わらせないようにしようと感じていたのだが――。それはもちろん、
引き離すためではなく、姉の紗耶香を気づかってそうしているのだ
と思っていた。それが――。
いったい、2人の間に何があったのか――?
歩いていく梨華の背中を見送るひとみがその答えを知るのは、昼食
時の校内カフェだった。
――待ちわびた時間を、ここぞとばかりに満喫する生徒たち。
校内カフェのあちこちのテーブルで、生徒たちの笑い声が起きてい
る。
「……」
窓際のテーブル――頬杖をついたまま、空いた片方の手にしたスプー
ンで、もうすっかり冷めてしまったスープを、ひとみは先ほどから
意味もなく掻きまわしている。
- 317 名前: 64 投稿日:2001年11月25日(日)01時05分16秒
隣にも向かいの席にも梨華はいない。柴田あゆみと一緒に、昼を食
べるからと二人で連れ添って何処かへと行ってしまった。
今ごろは、きっと2人で楽しそうに喋りながら購買部で買ったパン
でも食べているんだろう。
いったい、何をしたのか?
なんで、急に冷たくされるのか?
ひとみは、必死でその理由を探した。傷つけるようなことを言って
しまったのか? 紗耶香とのケンカ原因なのかと疑ってみたが、そ
の後のテラスではいつもと同じような雰囲気だった。
姉の気分を味あわせなかったのが、それほど不服だったのだろうか?
頭の中は疑問符だらけで、答えは出なかった。
唐突に、梨華から突き放されたひとみは、明らかに動揺していた。
それまで、梨華と一緒に昼の時間を過ごすまで、家でも学園でもずっ
と1人だった。
孤独を孤独と感じることすらなかったのに、目の前に梨華がいない
だけで、堪らなく寂しくてひとみは食事も喉を通らない。
「あれ? 石川は?」
辺りを見回しながら当たり前のように向かいの席に座る紗耶香を見
ても、それまで梨華の事ばかり考えていたひとみは、すぐに行動に
うつすことができなかった。
周りの生徒たちも、紗耶香とひとみの不仲は知っているらしく、そ
の2人の意外な組み合わせに、先ほどまでの談笑をピタリと止めて
注目している。
- 318 名前: 64 投稿日:2001年11月25日(日)01時08分06秒
ガタン――。
視線を感じたひとみは、おもむろに席を立った。
皆の注目を浴びながら食事をする気にもなれず、なによりも紗耶香
が向かいにいるのが嫌で、ひとみは席を立った。
苛立ちの視線を皆に向けて、その場を離れようとした。
和やかだった校内のカフェに、ピリピリとした空気が流れる。
「昨日の夜、石川がね」
ポツリとつぶやくような紗耶香の声に、立ち去ろうとしたひとみの
動きは止まった。
やっぱり、姉さんと会ってたんだ……。
それに対する嫉妬は、全くないと言えばウソになる。
しかし、その時のひとみは、それよりも昨日の夜に姉の紗耶香と梨
華との間で何があったのかを知りたいという探求心が勝っていた。
――座ることもせず佇んでいたひとみだったが、ポツリポツリとつ
ぶやく紗耶香の話を最後まで聞いた――。
「石川があんなにひとみのことを理解してるのに、姉であるはずの
私がなんにも知らないのってすごく情けない気がした……」
「……」
「今すぐ、どうこうしようなんて思ってないから」
「……」
「ただ、私はもう逃げない。自分の気持ちに、正直になるようにし
た。ひとみと昔みたいにやっていきたいから」
と、紗耶香は佇んでいるひとみを見上げて、微笑んだ。
「……よく、そんな笑ってられるね」
ひとみの冷たい視線に、紗耶香の微笑みは固まった。
遠巻きに何気なく見ていた生徒たちにも、その緊張感は伝わる。
平穏な空気を取り戻しつつあったカフェに、ふたたび緊迫した空気
が流れた。
- 319 名前: 64 投稿日:2001年11月25日(日)01時11分05秒
「え……?」
「ごっちんを泣かしただけじゃなくて、あの子まで……」
「……ひとみも言ったろ。ちゃんと、自分の気持ちを伝えろって」
「……」
「あ、ひとみのせいにしているわけじゃなくて――。何て言ったら
いいのかな……」
言葉を選んでいる紗耶香の口から、明確な言葉が出てくる前に、ひ
とみはその場を立ち去った。
『あ、ちょっと』
と、紗耶香の声が聞こえたが、ひとみは乱暴にトレイをカウンター
に置くと校内カフェを後にした。
紗耶香の言いたい事はわかっている。
それは、真希に対して自分も出した答えだった。し、昨夜、姉に対
しても告げていた。
それが正しいのかどうかわからないが、本当に好きな相手のために
は嘘はつけない。
きっと姉もそうであり、そうさせたのは梨華だった。
「梨華……」
ひとみは、梨華の姿を求めて校内の中を走りまわった。
臆病だと言っていた梨華が、フラれて落ち込んでいないはずなどな
い。
――数分後。ひとみは、体育館の扉を勢いよく開けた。
あゆみといるはずの梨華が、観覧席にたった1人で座っている姿を
見たとき、ひとみは不覚にも涙が出そうになった。
- 320 名前: 65 投稿日:2001年11月25日(日)01時14分55秒
驚いて席を立った梨華は、扉の前で佇むんでいるのがひとみだと認
識するとニッコリと微笑んだ。
「あゆみちゃん、委員会に行っちゃって」
誰もいない体育館のコートに、梨華の声が響く。
ひとみはなにも答えずに、微笑んでいる梨華を見つめたままコート
を横断し観覧席へと歩いた。
「? なに……?」
いきなりやって来たひとみに見据えられ、梨華はたじろぐ。
「――姉さんから、聞いた」
「……?」
「バカじゃないの、あんなのほっときゃいいのに」
と、ひとみは吐き捨てるように言い、梨華から視線を逸らして観覧
席へと腰を下ろした。
いきなりなんのことを言っているのだろうと一瞬考えてしまった梨
華だったが、昨夜のことであり紗耶香のことであると理解するのに
そう時間はかからなかった。
「あんなのって……、そんな言い方よくない」
「あんなのは、あんなだよ。けっきょく、人に頼らないと何にもで
きないんだから」
「市井さんだって」
梨華の言葉を遮り、ひとみがつぶやく。
「アタシに言えばよかった」
「……え?」
「姉さんよりも前に会ってたのに……。アタシ言ったよね。いくら
でも、仲良くするって。それなのに、なんであの時――」
- 321 名前: 65 投稿日:2001年11月25日(日)01時17分52秒
いったい何に対して不機嫌になっているのだろうか――、いや、不
機嫌ではなくまるで自分のふがいなさを悔やむような口調や表情だ
と、梨華はひとみの横顔を見つめながら思った。
ひょっとして、フラれたことを知って、自分を気づかってくれてる
んだろうか?
梨華の中に、疑問が浮かんだ。
「ねぇ」
声をかけても、ひとみはずっとコートに視線を向けたまま。
自分の思い違いだったんだろうかと、梨華自身も視線をコートに向
けようとしたその時、ひとみがポツリとつぶやいた。
「好きじゃなかったんだよ……」
「……?」
「優しくされて、勘違いしてただけだった……。ただの錯覚……」
「……」
決して目を合わそうとせず、耳を真っ赤にしながらそうつぶやくひ
とみ。そんなひとみを見て、梨華はクスリと笑った。
「何がおかしいの? 昨日から」
「だって」
と、梨華は口元を押さえてクスクス笑う。対照的にひとみの顔は、
みるみる内に険しくなった。自分の知らないところで、梨華がど
んどん変わっていくような感じがし、わけのわからない苛立ちが
募る。
「――心配して、損した」
ひとみはそう言い放つと、席を立った。あいかわらず、耳は真っ
赤になったままで、苛立ちの中には自分が何かとんでもない思い
違いをしてしまったのではないかという気恥ずかしさもあった。
- 322 名前: 65 投稿日:2001年11月25日(日)01時21分36秒
『ねぇ、待って』
と、体育館を出たひとみの耳に梨華の声は届いたが、ひとみは足
を止めることなく歩き続けた。
パタパタと中途半端に靴を突っかけて走ってくる音が聞こえてき
たが、それでもひとみは足を止めなかった。
『ごめん。ちゃんと謝るから、ちょっと待ってよ』
校舎とを繋ぐ渡り廊下を歩くひとみの前に、梨華はそう言って周
り込んできた。
「……どいて」
「そんな怖い顔しないでよ……。さっきのは私が悪かった……、
ごめんね」
しゅんとした梨華を眺めている内に、苛立ちはどうでもいいもの
に変わったが、かといって表情を和らげるでもなく、ひとみはい
つものようにつんと澄ました顔でいつまでも梨華を眺める。
「ごめん。――だって、あなたが私のこと心配してくれるのって、
なんか……、変な感じだったから……」
「心配なんかしてない」
「さっき、心配して損したって言ったじゃない」
「……」
ひとみは、もう少しでウッと声を出しそうになったが、しゅんと
うつむき加減の梨華には気づかれる事はなかった。
「あ……、その……、ありがとう」
「……は?」
「心配してくれて」
「……」
「でも、私は後悔してない。今は……うん、大丈夫だから」
と、梨華はふせていた顔を上げると、ひとみを見つめて微笑んだ。
梨華の目に映ったひとみの顔はやけに寂しそうで、心配かけない
ように浮かべた微笑みは所在を無くしてしまう。
- 323 名前: 65 投稿日:2001年11月25日(日)01時24分14秒
「……どうかした?」
ひとみの顔を覗きこむように、梨華が言う。
「ねぇ?」
「……別に」
先ほどまで不機嫌で、いつものように突っぱねていたひとみの声
は、どことなく弱々しいものになっていた。
2人の間を流れる沈黙を埋めるかのように、予鈴のベルが響き渡
る――。遠く中庭を歩いていた2人連れの生徒が、何か声をかけ
あって校舎へと走る姿を、梨華は意識して見るでもなく見ていた。
同じ方向を眺めているひとみの横顔をチラリと窺うが、ひとみは
その2人を見てはいない。
何か他のことを考えている――。そんな横顔をしていた。
予鈴のベルが鳴り終わり、ふたたび辺りに静寂が戻る。
まるでそのタイミングを狙っていたかのように、ひとみの携帯が
次の間を埋めるべく鳴り響いた。
「……」
「……」
ブレザーの内ボケットから携帯を取り出すほんの一瞬、ひとみと
梨華の目は見つめ合う形となった。
だが、携帯のモニターに目をやったひとみは、すぐに梨華に対し
て身体を真横に向けた。
聞かれたくない相手なのか、それとも他に何か理由があるのか、
通話ボタンを押すことなく佇むひとみ。このまま残るのも悪いと
思い、梨華は小さく「じゃあ」と言い残して渡り廊下を歩いた。
「……」
校舎へと入る梨華を見届けて、ひとみは携帯の通話ボタンを押し
た。
- 324 名前: 65 投稿日:2001年11月25日(日)01時30分22秒
平日の中途半端な午後ということもあり、デパートの中はあまり
賑わっているとは言えず、どちらかと言えば閑散とした感じも否
めないほどであった。
テナントに入っているどの店の店員も、退屈そうな表情でカウン
ターの奥に佇んでいたり、退屈さを紛らわせるために陳列した商
品を整頓してみたり――。
真希は、それらを眺めながらぼんやりと歩いていた。
時折、通路側に並んだアクセサリーを通りすぎ様に眺めたりもし
たが、買うつもりはないので足を止めることもなく、デパートの
奥にあるエレベーターホールへと向かった。
デパートの屋上にはちょっとした遊園地のような場所があり、子
供連れの主婦の何人かが、遊具で子供たちを遊ばせていた。
キャッキャッとはしゃぐ子供たちの声を聞きながら、真希は屋上
の端の方に設置されている静かなベンチへと腰を下ろす。
風になびく髪の毛を片手で押さえ、後ろを振り仰いで見たものの、
そこに見えるのはフェンスの金網越しにある薄曇の空だけ。
それでも、真希はその光景にジッと見入っていた。
――数十分後に、誰かが近づいてくる足音を聞きつけて、真希は
フッとわれに帰り、足音の主へと顔を向ける。
「――よっすぃ」
ニカッと笑った口元は、寒さのためなのかそれとも無理矢理にそ
うしているためなのか、どことなく引きつっているかのようであっ
た。
- 325 名前: 66 投稿日:2001年11月25日(日)01時33分20秒
食堂の壁にかけてある時計の秒針が、単調に時を刻む。
午後7時30分前、そろそろタイムリミットが近づいている。
もうしばらく待ってみようかと思ったが、昼間、ひとみに言った
自分の言葉を思い出して、紗耶香は軽く苦笑しながら席を立った。
「焦りすぎは良くないよなぁ……」
テーブルの上には、ほとんど手をつけていない夕食が置かれてい
る。向かいの席にも、はす向かいの席にも、皿は並べられている。
が、料理そのものは出されていない。
「……」
その光景は、なんとなく、昔やったママゴトの光景に似ていた。
まだひとみもいない頃、庭の隅でやっていた一人ぼっちの飯事遊
び。思い出すことすらなかった遠い記憶が、不意に甦った。
怯みがちな自分を叱咤するかのように、紗耶香は両手をパチンと
両頬に当てると、「よし」と小さく声を出して隣の大広間へと向
かう。
「お出かけですか?」
ドアを開けると同時に、書類の整理をしていた藤村が声をかけて
くる。
「遅れそうだから、もう行くよ」
「いつもなら、7時前には帰ってくるんですけどね」
と、藤村は懐中時計に首を傾げる。
「別に今日が最後って訳じゃないからいいよ。じゃあ」
紗耶香は苦笑しながら、ソファに置いてあったバックバッグを手
にするとロビーへと通じるドアへと向かった。
ドアを閉める際に振りかえった時、藤村が何か言いたげな顔をし
てたのが気になったが、閉じられたドアの前ではそのタイミング
も悪く、気にはなったものの紗耶香はそのまま家を後にした。
- 326 名前: 66 投稿日:2001年11月25日(日)01時36分04秒
閉店を知らせる音楽が、デパートに流れる。
屋上に子供たちの姿がなくなって、もう随分と時間は経つ。
遊園地の従業員らしい年老いた男性が、さきほどから何度もひと
みと真希の座っているベンチの前を通りすぎる。
その男性の横顔はあからさまに、問題を起こさないでくれよと言
いたげであった。
「そろそろ、帰ろうか……」
ひとみは、男性が通りすぎるのを見送るとゆっくりと席を立った。
ぼんやりと遊具を見つめていた真希は、ひとみの動作に反応して
慌てて立ち上がった。
「まだ、いるかもしれないから、もうちょっと待って……」
ひとみの腕にしがみつき、辺りを落ちつきなく見渡す真希。
屋上にはもう誰もいない。
真希がひとみを呼び出した理由である、「ずっと尾けてくる変な
人」もどこにもいない。
最初からそんな人物がいないことは、デパートの屋上に駆けつけ
てから数分後にわかったが、ひとみは何も言わずに今まで真希の
狂言に付きあっていた。
だが、デパートが閉店する今となっては、このままこの場所に留
まる事はできない。
「もう、大丈夫。ちゃんと、送ってくから」
そう言って、ひとみは真希の身体をやんわりと引き離し、先に立っ
て歩き出した。
しばらく佇んでいた真希は、男性従業員の奇異な視線を無視して、
ひとみの後を追った。
- 327 名前: 66 投稿日:2001年11月25日(日)01時39分16秒
駅前の大きな交差点。赤信号に多くの人が足止めを余儀なくされ
ている。
互いに交わす言葉もなく、ひとみと真希は集団の最後尾についた。
通りの向かい側には、別のデパートがあり、通りに面した大きな
ディスプレイの中にはクリスマスのイルミネーションが施されて
いる。信号を待つ多くの人々は、退屈紛れにそちらに視線を合わ
せていた。
腰に当てたひとみの腕に、真希が静かに腕を絡ませ、そっと肩に
顔を預ける。
真希の恋人同士のような振る舞いに注目しているのは、ひとみだ
けだった。
「ごっちん……」
「ウソついて、ごめん……」
憂いを帯びた瞳をやや伏せ気味にして、真希はつぶやいた。
「……」
「昼間、あれ見たの」
真希は視線を伏せたままだったが、向かいのディスプレイの事だ
とひとみは察した。
「あのサンタって、なんとなくよっすぃに似ててさ」
そのままの姿勢で、真希はハハと小さく笑った。
「急に会いたくなって……。でも、昼間だし、普通に電話しても
会ってくれないから……。つい」
「前にナンパしてきた男に尾けられてるって」
「……」
信号が青に変わり、人々がどっと横断歩道へと流れる。
向かいからやってくる何人かの視線が気になったのか、真希は自
分から絡ませていた腕を静かに離した。
- 328 名前: 66 投稿日:2001年11月25日(日)01時41分58秒
『ウソつく必要なんてなかったのに』
うつむいていた真希の耳に、傍らを通りすぎていく靴音にまじり、
ひとみの消え入るような声が聞こえてきた。
顔を上げた真希の目に映ったのは、通りの向こうを見つめたまま
のひとみだった。
「今も、ごっちんウソついたよね」
「……え?」
「サンタを見てアタシを思い出したんじゃなくて、誕生日の近い
姉さんを思い出した」
そのものズバリを言い当てられて、真希は動揺した。
「ウソじゃないよ。ちゃんと、よっすぃのこと」
「姉さんの後に思い出した」
「……」
取り繕う言葉も見つからずに口篭もってしまう真希に、ひとみは
梨華の姿を重ねていた。
「別に怒ってなんかない……。ただ、ウソなんかついてほしくな
かった」
「……」
「――って、今までそうさせてたアタシがエラソーに言う事じゃ
ないよね……」
ひとみはそう言って、寂しそうな微笑みを浮かべた。
いつの間にか信号はふたたび赤になっており、2人の周りには信
号待ちをする人々が集まり出している。
「姉さんのことになると、すぐにムカついてたから」
苦笑まじりに向かいの通りを眺めているひとみの横顔を見て、真
希の中に見知らぬ他人と接しているかのような不思議な違和感が
芽生える。
- 329 名前: 66 投稿日:2001年11月25日(日)01時45分15秒
「ねぇ、ごっちん……」
ぼんやりとひとみを見つめていた真希は、とつぜん顔を向けられ
あわてふためいた。
「ん?」と、かろうじて返事したものの、視線は落ちつきなく辺
りを舞う。
「もう一度だけ、ちゃんと姉さんに会ってみたら?」
「……」
ひとみの投げかけた言葉に、漂っていた真希の視線はピタリと止
まった。
「姉さんからじゃなくて、ごっちんから姉さんに会いに行く」
「……」
「――そして、ちゃんと自分の気持ちを伝える」
「……」
「受け入れてくれないかもしれない。傷つくかもしれない。でも、
こんなことまでして、姉さんとの繋がりを持とうとするよりはい
いよ」
「……」
「あんな事したアタシが言うのもおかしいけど……。ごっちんに
は、幸せになってもらいたい」
「……」
2人の長い沈黙を経て、横断歩道の信号がまた青に変わった。
当然のように、人々は横断歩道に流れていく。2度も信号を無視
して佇んでいる2人を気に咎める者はいなかった。
- 330 名前: 66 投稿日:2001年11月25日(日)01時49分12秒
「そのためには、ごっちんが姉さんのこと吹っ切らないと」
たどたどしく言いながら、ひとみは真希の視線を追った。
真希は虚ろな目で、向かいのディスプレイに見入っている。
「ごっちん」
苛立ちなのかそれとも心配なのか、ひとみは強い口調でそう言う
と、真希を自分の方へと向き直らせた。
「……」
――ひとみは、言葉をなくした。
虚ろな目。薄っすらと瞳を覆う涙。「離して……」と震える小さ
な声。
向き直らせたものの、ひとみは視線に耐えきれず、真希の両肩に
当てていた自身の手をゆっくりと下ろした。
「……ごめん」
”でも”と次の言葉が頭に浮かんだが、目の前に佇む真希を見ると、
声に出すのを躊躇してしまう。
虚ろな目をして佇んでいた真希は、信号の点滅を視界の隅で捉え
ると、ひとみを振り払うかのようにして横断歩道へと駆け出して
いった。「わかってるよ、そんなの……」と、雑踏に紛れるよう
な小さな声を去り行く間際に残して――。
「ごっちん……」
後を追いかけようと足を踏み出したが、左折してきた車に行く手
を遮られ――、横断歩道の信号も赤へと変わってしまった。
ひとみは、通りの向こうを走り去っていく真希を、ただ目で追う
事しかできなかった。
- 331 名前: 67 投稿日:2001年11月25日(日)01時51分45秒
わずか10分の休憩時間。それでも、閉塞的な空間に身を委ねる
よりはと、大勢の生徒が教室を出て予備校の1Fロビーへと向か
う。
紗耶香もその内の1人だった。
喉の渇きを潤すと同時に眠気覚ましのために、カップ入りのコー
ヒーを飲みたかったのだが、ロビーにある3台並んだ自動販売機
の前には、他のクラスの生徒たちも合流して、ちょっとした列が
できている。
財布を手にしたまま、紗耶香はしばらく迷った。
カップ入りのコーヒーにするか、缶入りのコーヒーか。
互いに違いがあるなら、その量で、カップ入りの方が若干量が少
なく、時間に余裕を持たせて飲み終えることができるのだが、そ
の自動販売機の前には1番多くの人が並んでいた。
もたもたしている内に、さらに他のクラスの生徒が合流して、列
に加わる人の数は増えた。
「まぁ、いいか……」
紗耶香は腕時計を見てポツリとつぶやくと、財布を手に人の1番
多い自動販売機の前に並んだ。
1人、また1人と、前から人が去っていく。
数人目が去り、次はいよいよ紗耶香の番。用意していた小銭を投
入口に入れようとした瞬間、パンツのポケットに無造作に入れて
いた携帯電話が振動した。
短い悲鳴。
散らばるコイン。
周りの生徒たちの視線を一身に浴び、紗耶香は赤面しながらコイ
ンを拾うと、当初の目的も忘れてその場を逃げるようにして立ち
去った。
- 332 名前: 68 投稿日:2001年11月25日(日)01時58分16秒
――坂道へと続く住宅街の道は、人の姿こそまばらではあったも
のの、午後9時を過ぎたばかりであり一家団欒を過ごす家庭の生
活音がそこかしこから流れいた。
子供の笑い声。洗物をしている音。TVの音声。家族の誰かを呼
ぶ声。微かに流れてくるそれらを聞きながら、ひとみは住宅街の
道を歩いた。
ぼんやりと考え事をしていたせいで、いつもなら10分程度で辿り
つく坂道の下へ、30分近くもかかってしまった。
アスファルトの路面、伸びる自身の影に気付く。
いつから、姿を現していたのだろう。
見上げると、薄い雲の切れ間から濃い月が顔を覗かせていた。
「……」
ずっと遠くから素知らぬ顔で傍観する月――。
梨華や真希に対して何もできない自分が悔しくて、慰めの言葉を
何も知らない自分がもどかしく、ひとみは下唇をギュッと噛み締
め、かつての自分のような月を睨み上げた。
昼間、梨華に心を開いてもらえなかったことがショックだった。
ほんの少しその感情の矛先が違っているだけで、真希に対しては
かろうじて一歩踏み出してはみたものの、寸前のところで躊躇し
てしまい、けっきょく何の慰めにもならずに無責任な自分を露呈
したに過ぎない。
- 333 名前: 68 投稿日:2001年11月25日(日)02時00分23秒
素知らぬ顔で傍観者に徹底していたならまだしも、満月のように
膨張した不満を、梨華にも真希にも向けてしまった。そんな自分
に、今さら誰も心など開いてくれるはずがない――。
「当然……、か……」
ひとみは弱々しくつぶやくと、コートのポケットに両手を突っ込
み、もう1度夜空を眺めた。
さっきと何ら変わることなく、地上を傍観している月。
周りに見える幾多の星のように、薄い雲の向こうで瞬き、その存
在を主張するでもなく、月はただ浮かぶ――。真昼の月も同じで、
誰にも気づかれず必要性もなくただ在るだけ――。
ひとみは冷たい夜風に目を細め、どうせ何もできないならそれも
悪くはないかと諦めにも似た気持ちを抱き、暗い坂道を上がろう
とした。
『あ――、ねぇ』
不意に背後から聞こえてきた声に、ひとみの足は止まった。
振りかえらなくてもその声が誰のものか、ひとみにはすぐにわかっ
たが、問題なのはどうしてこんな時間にこんな場所にいるのかと
いう事である。
ほんの一瞬考えてしまい、すぐに振りかえることができなかった。
――振りかえると数メートル離れた外灯の下に、ぽつんと佇む見
慣れたシルエットがある。
いつからそこにいたのだろうか?
佇む梨華からは、たった今その場にやってきたような印象は受け
なかった。
- 334 名前: 68 投稿日:2001年11月25日(日)02時03分08秒
「――何やってんのこんなとこで?」
ひとみは、梨華へと向かいながらいぶかしげに訊ねる。
外灯の下たたずむ梨華は、ほんの少し首を傾げると、何かに安心
したような笑顔を浮かべてひとみへと駆け出していった。
「わざと、無視されたのかと思っちゃった」
ひとみの前にやって来た梨華は、微苦笑を浮かべてそう言った。
「は?」
「だって、ずっとあそこにいたのにスーって歩いて行っちゃうん
だもん」
やはり、気づかずに通りすぎていたらしい。ひとみは、見上げる
梨華の視線を無視して、外灯の下を見つめていた。
「……姉さんでも待ってた?」
「違うよ。喉が乾いたから、コンビニ行ってたの」
ひとみが外灯から視線を戻すと、梨華は後ろ手に隠していたコン
ビニの袋をゴソゴソと探っていた。
どこかで見たような光景に、ひとみがぼんやりと思いを馳せてい
ると、梨華は「飲む?」とペットボトルを差し出した。
――ひとみは、フッと笑った。
その笑顔を見て、梨華も微笑む。
「つまんない」
と、言いつつ受け取ったペットボトルは、ホット用の紅茶だった
らしいが、随分と長い間寒空の下で立っていたのだろう、かなり
の冷たさになっていた。
よく見てみると、梨華は一回りサイズの大きなピンク色のセーター
を着たままで、他にこれといった防寒着などは着込んでいないよ
うだった。
- 335 名前: 68 投稿日:2001年11月25日(日)02時09分35秒
「昼間のこと、まだ怒ってる?」
「――は?」
「あ……、なんか、せっかく心配してくれたのに……、なんか、
ふざけちゃったような……。あ、別に、ふざけてたわけじゃない
んだよ――。昼も言ったけど、アレはね」
梨華が言い終わらないうちに、ひとみは制服の上から着ていたコー
トを脱ぐと、ソッと梨華の肩にかけた。
「……?」
突然の行動に驚いた梨華は次に出すはずだった言葉も忘れて、きょ
とんとひとみを見上げる。とても穏やかな笑みを浮かべたひとみ
に見つめられ、梨華は目の前にいるのが本当にあのひとみなんだ
ろうかという錯覚に陥った。
「気にしなくていい。あんたにはひどい事をいっぱいしたし。変
に受け取られても仕方ない」
待っていてくれた梨華に対して、ひとみの行動と言葉は半ば無意
識的に出たものだった。そして、また自分のつまらない事で梨華
に迷惑をかけてしまった事を心の中で詫びた。
しばらく、ボーっと見惚れていた梨華は、穏やかな笑みを浮かべて
いたひとみが、振りかえり背を向ける間際に見せた悲しげな表情を
見逃さなかった。
「帰ろう。風邪――、ひくから」
背を向けたままそう言ったひとみは、ゆっくりと坂道へと向かう。
残された梨華は、しばらくの間、その背中を見つめていた。
肩にかけられたコートには、まだひとみの体温が残っており、冷
えた身体にじわりじわりと伝わってくる。
梨華は、ぶら下がったコートの袖をぎゅっと握りしめると、ひと
みへと向かって駆け出した。
- 336 名前: 68 投稿日:2001年11月25日(日)02時12分55秒
――ドンと背中に軽い衝撃を受けた次の瞬間にはもう、ひとみは
後ろから梨華に抱きしめられていた。
「……ちょっと!?」
驚いたひとみは、突然のことで軽く気が動転したのか、いつもは
出さない素っ頓狂な声をだした。
あわてて、その身体を離そうとしたが、思考とは裏腹に身体がそ
れを拒むかのように動かない。
その内に、ひとみの肩越しに梨華がひょいと顔を覗かせ、身を引
き離すどころではなくなってしまった。
「そんなことない。嬉しかったよ」
「は?」
互いの吐く白い息が交わるほど、2人の顔は接近している。
振りかえればすぐそこに梨華の顔があるのだが、ひとみはそんな
余裕もなくただ前を向いて目の前をふわっと消え行く梨華の白い
息を見ることしかできなかった。
「みんな、知ってる。知らないのは、あなただけだからね」
「……」
「市井さんも藤村さんも、あなたといいところちゃんと知ってる
から。あなただって本当は気づいてるんだよね?」
「説教なんて……、別に、聞きたくない……」
「説教なんかじゃないよ」
と、梨華は苦笑すると、ひとみの身体からスッと身体を離した。
「あっ……」
ため息のような声がひとみの口から漏れる。背中に感じていた温
もり――、つまらない一言でなくなった事をひとみは悔いた。
- 337 名前: 68 投稿日:2001年11月25日(日)02時16分49秒
「ただ、そんな部分を見せるのも悪くないんじゃないかなぁって」
寒さすら感じつつあった背中に、ふたたび温もりが戻る。
それは、梨華自身の温もりではなく、コートに移った梨華の体温だっ
た。――ひとみは、あわてて後ろを振りかえる。
「大丈夫」
と、ひとみの肩にコートをかけ終わった梨華は、脇を絞めて両手に
握りこぶしを作った。励ますためのガッツポーズなのか、ただ寒さ
に身を縮めているだけなのか、どちらにでもとれるようなポーズだっ
た。
しばらく見つめ合う2人。先に声を発したのは、浮かべていたポー
ズに昨夜を思い出した梨華だった。
「――あ、あんまり見ないで」
「べ、別に見てない」
2人は慌てて、視線をそらした。その仕種が可笑しかったのか、ひ
とみと梨華は別々の方向を向いて笑った。
乾いた空気に白い息が舞い、静まり返った坂道の途中に2人の小さ
な笑い声が刹那ではあったが木霊した。
「簡単なことなんだからね」
「?」
梨華は微笑みを携えたまま、振りかえったひとみに語りかけた。
「楽しい時は、今みたいに笑って――、悲しい時は、泣いて――、
怒った時は……うーん……ちょっとは我慢して、それでももうダメっ
て時は怒ろう」
「……」
「あなたも市井さんも、優しいからすれ違っただけ。相手のことを
考えすぎるから――。もっと素直に。ワガママでもいいから、自分
の気持ち伝えよう。そうすれば必ず上手くいくから。ね」
そう言いながら梨華は、ひとみの手をとった。
- 338 名前: 68 投稿日:2001年11月25日(日)02時19分51秒
「冷たい」と笑って見上げる梨華を、ひとみはただ黙って見つめて
いた。月のように、誰にも気づかれることなく傍観するのも悪くな
い――。そんな風に考えた自分が、なんだか可笑しくかった。
「帰ろう。このままじゃ、ホントに風邪ひいちゃう」
ひとみの手を引き、先に歩きだす梨華。
何が楽しいのか、クスクスと笑いながら歩いている梨華を、ひとみ
は斜め後ろから見つめていた。
励ますつもりが逆に励まされ、いつの間にか手を引かれて後ろを歩
いている。考えもしなかった自分の姿に、ひとみは「ふは」と声を
出して笑った。
梨華は「へ?」と首をかしげて振りかえり、そして立ち止まった。
笑ったのではなく何か言葉を発したのかと思ったのだが、どうやら
そうではなく、ただ笑っただけなんだと理解するのに少々時間を要
した。
いつものような、短く冷めた笑い方ではなく、よく言えば柔らかく
悪く言えば気の抜けた――そんな無防備な笑い方をするひとみを見
るのは、梨華にとって初めてのことだった。
「どうしたの? 急に」
「別に、なんでもない」
と、ひとみは含み笑いのようなものを浮かべて、握られていた手を
梨華の手と一緒にコートのポケットへと突っ込んだ。
きょとんとする梨華を、今度はひとみが引っ張るようにして歩いて
いく。
- 339 名前: 68 投稿日:2001年11月25日(日)02時27分12秒
「アンタって、ホント、マジでおせっかいだよね」
「へ……?」
「今まで――、誰も私には近づかなかった」
「それは、あなたが」
「怖くないの? 鬱陶しいとか、係わるのは面倒だとか」
「――言ったでしょ。もう慣れちゃったって」
ほんの少し先を歩くひとみが振りかえり、互いに視線を見合わせ2
人はまた小さく笑いあった。
コートの中の2人の手は、外気の冷たさをよそに互いの体温が伝わ
り合い、そこだけがまるで別の場所のように熱を帯びていた。
温もりを意識したのは2人同時だったのだろうか、浮かべた笑顔を
消して2人はぎこちなく視線をそらした。
「あ……、ごめん……」
と、梨華がつぶやきポケットの中から手を出そうとすると、軽く添
えられていただけのひとみの手にギュッと力が入った。
顔をあげる梨華に、ひとみがつぶやく。
- 340 名前: 68 投稿日:2001年11月25日(日)02時29分13秒
「なんで、謝るの?」
「え……、だって……」
「だって――、なに?」
「……なんか、こうしてるの悪いかなぁって」
そう言いながらモジモジとする梨華。いったい、何を言ってるんだ
ろうかと、ひとみは軽く首をかしげた。
「あ……、ほら……言ってたから……。本当にこの手で抱きしめた
い人がいるって……。なんか、悪いかなぁって」
申し訳なさそうにつぶやく梨華が可笑しくて、ひとみは笑いを堪え
るのに必死だった。
かつては伝わらない気持ちに苛立ちを感じることもあったが、今は
ただ目の前のちぐはぐな状況が可笑しくて、苛立つことも切なくな
るような事もなかった。
自分もまた、そのような状況に慣れたんだろうか? それとも、梨
華の言った見返りを求めない愛を体現しようとしているのか?
どちらにせよ、梨華を、梨華の存在を堪らなく愛しく想う自分を再
認識したひとみであった――。
- 341 名前: 69 投稿日:2001年11月25日(日)02時34分26秒
ひとみの元から走り去った後、自然と――、まるで引き寄せられる
ように、真希はこの場所へとやって来ていた。
以前、腰かけていたガードレールからは少し離れ、売り切れの目立
つ自動販売機の脇に身を隠すようにして佇む真希。
すぐ目の前を何人もの人が通りすぎていったが、明かりの射さない
場所にいるためか、誰も佇む真希に気づく者はいなかった。
もっとも、真希にも目の前を通りすぎる人々は見えていない。
ただの去り行く風景の一部にしか過ぎず、その虚ろな目はひたすら
に道路の向こう側に聳えるビルの入口に固定されていた。
これが最後……。
その言葉だけを胸に、真希は冷たい夜空の下、待ちつづけていた。
予備校の1階ロビーに、何人かの一団が姿を表す。
虚ろだった目をよく凝らし、真希はその中に紗耶香の姿を探した。
しかし、その中に紗耶香の姿はなかった。
落胆なのか――、それとも安堵なのか、何度目かの溜め息が白い息
となって漏れる。
瞬きをすることも忘れていたので、目は乾いてしまった。
瞼を閉じて瞳に十分な潤いを与えるために、要した時間はわずか10
秒ほど。ふたたび瞼を開けた真希の目に、予備校の自動ドアをくぐ
る紗耶香の姿が捉えられた。
「いちーちゃん……」
さっき吐いたため息は、どうやら両方だったらしい。紗耶香を見つ
けた真希は純粋に喜んだ。そして――、純粋に悲しんだ。
- 342 名前: 69 投稿日:2001年11月25日(日)02時36分13秒
携帯電話を耳に当て、途切れることのない笑みを浮かべて歩く紗耶
香。その電話相手の声、紗耶香の声、真希にはなにも届かなかった
が、一目瞭然であった。
最後に見る姿が、愛する人の声を聞いて、幸福に満ちている顔にな
るとは――。
さすがに、真希はそこまで考えていなかった。
もう本当に終わりにしよう……。
真希は涙で滲む視界を、コートの袖で拭いながら、駐輪場へと歩い
ていく紗耶香を見送った。
次に会う時――、次に会う時は、もう市井紗耶香を好きな後藤真希
ではなく、思いを断ち切ると決心した後藤真希として会う。
これが最後にする。だから――真希は、心の中で自分に哀願しなが
ら紗耶香を見つめ続けた。
立ち止まり、夜空を見上げる紗耶香。
真希も、その視線を追う。
闇の中にぽっかりと浮かんだ月。
かつて、市井家のテラスで2人で肩を寄せ合うようにして眺めたこ
ともあった。その光景、思い出すらも忘れなければならないのか?
そんな風に考えると、真希の涙は止めどもなく溢れた。
以前は、あんなにはっきりと見えていた月も、今は涙で滲んで擦れ
てしまう。
「嫌だなぁ……。嫌だなぁ……」
真希は嗚咽する声を押し殺しながら、いつまでも涙で霞む月を見上
げていた――。
- 343 名前: 作者 投稿日:2001年11月25日(日)02時39分04秒
- >>313-342更新終了しました。
個別のレスは、また数十分後にお返しします。
- 344 名前: 作者 投稿日:2001年11月25日(日)02時58分20秒
- >>299 どうぞ先にぐっすりと。ひっそり更新しておきます
>>300 感情はどうであれ、互いに違った目で(略
>>301 スミマセン。また遅くなった上に、間違えました。続きです→>>314-342
>>302 ♪すっ……3回目なのでやめておきます
>>303 待たせる自信は無いので、焦りまくりです
>>304 ……同文字レス、思い浮かばず
>>305 ……↑ 素直にありがとうございます
- 345 名前: 作者 投稿日:2001年11月25日(日)03時00分58秒
- >>306 定番&ちょっとした意味も込めたり
>>307 お疲れ様でした。もうすぐ(?)終わりますので
>>308−309 1番の要注意人物→ >>1
>>310 はまったまま放置にならないように気をつけます
>>311 交信の?
>>312 それよりも新曲を。( 実は買ってない人→ >>1 )
>>313 今回更新分の、ファーストシーンに登場です(苦笑)
- 346 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月25日(日)10時04分06秒
- 大量更新お疲れさまでした!!
あいかわらずの鈍感いし子が凄い可愛いっす(w
ごっちん頑張れ!! 作者さんも頑張って〜!!
- 347 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月25日(日)10時15分23秒
- 大量更新ありがとうございます!
抱きしめたいのは梨華なのに、伝わらないですね〜。
もう切なくて切なくて、毎回涙が・・・。
真希もいちーもよっすぃ〜も梨華も頑張れ〜〜〜!!!
- 348 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月25日(日)12時05分17秒
- >>310です。大量更新お疲れ様&ありがとうです!
はぁ〜またせつね〜
よっしーの気持ちと梨華の気持ちと紗耶香の気持ちとごっちんの気持ち…
どれもわかるけど、だからこそなんかうまくいかないんですね(泣
作者さん!放置気味になるくらいまで待ちますんで頑張って下さいね
- 349 名前:ちび 投稿日:2001年11月25日(日)19時39分54秒
- 更新お疲れ様です。
せつないね〜(沖縄風)
これから梨華がどう動いていくのか…ひとみは…
目が離せません。いつまでも待ちますんで
- 350 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月25日(日)23時22分35秒
- 更新お疲れ様でした。
今回はかなりぐっときましたね。
梨華はよっすぃ〜の気持ちにいつ気づくんでしょう・・・。
ごっちんの涙せつね〜
次回を楽しみにしてます!
- 351 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月26日(月)01時53分42秒
- プロじゃないのならプロになって欲しいくらいです
今まで読んだ小説で一番好きかもしれない
- 352 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月26日(月)02時41分04秒
- 凄く面白いです。
後は吉→石への気持ちがどうやって伝わるのかが気になりますね。
これからの更新も楽しみにしてます。
- 353 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月06日(木)10時13分59秒
- この作品に触発されて、よせばいいのに私も書き始めてしまいました(w
でもこんなにしっかりした文章書くのって大変ですよね〜
どうやったらこんなすばらしい構想練れるのか?教えていただきたいです。
大変とは思いますが、更新頑張ってください。
- 354 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月11日(火)02時24分21秒
- 続き、激しく激しく期待。
- 355 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月14日(金)16時49分01秒
- 作者様・・・ 放置しないでね(切願
- 356 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月14日(金)22時19分24秒
- >355
それはないよ
- 357 名前: 作者より 投稿日:2001年12月17日(月)23時58分30秒
- 前回更新から3週間が経過していますが、今だに次回更新分は
6割程度しかできあがっていません。
書く時間がなくなったのに比例して、書く気力もなくなりまし
た。ここ数日は、1行も書いていません。
このまま、更新を待っていただくのもなんですので、作者自ら
更新停止を宣言致します。
非常に中途半端ですが、モーニング・コーヒーはここで打ちき
らせていただきます。
以降の物語は、このスレッドには投稿されません。※無用の長
物ですので、後日、スレの削除依頼を出しておきます。
更新を楽しみにしていただいていた方々には、心よりお詫び致
します。申し訳ございません。
物語そのものは、気力が戻れば続きを書くつもりです。
ただ、このようなメジャーな場所での掲載は今のところ考えて
おりません。どこかでひっそりとやっていきたいと思います。
読んでくれた方、レスをくれた方、本当にどうもありがとうご
ざいました。そして、このスレで完結にまで至れず、申し訳あ
りません。
- 358 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月18日(火)00時10分36秒
- 作者さん>
マジですか・・・
かなり期待していた作品だけにもの凄く凹んでおります・・
作者さんの気力が速く戻ってきてくれることを切実に願いますです
とりあえずお疲れさまです
- 359 名前:名無しさん 投稿日:2001年12月18日(火)00時26分37秒
- >>357
本当に本物の作者さんなのか?
気力が戻れば続きを書くつもりなら別にスレの削除依頼を出す必要はないんじゃない?
それに個別のレスも今回はなかったし・・・。
とりあえずいったんage!
- 360 名前:さやりん♪ 投稿日:2001年12月18日(火)00時52分08秒
- コテハンで書くのは初めてですが…
>>357がもし本物の作者さんなら削除以来出さないでほしいです。
例え今の作者さんに時間がなくても、気力がなくても
完結までどんなに時間がかかってでも続きを読みたいです。
すごいプレッシャーのようなことばかりですみません。
再開されるまで私はここで待ちつづけたいと思います。
こんな馬鹿もいるんですから別の場所でひっそり…なんて言わないで下さいね。
ひとまずお疲れ様でした。また会う日まで…
- 361 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月18日(火)00時55分53秒
- 削除だけはやめて〜〜。
ここまでの部分だって、繰り返し読みたくなる小説だから。
せめて倉庫に保存してください!
そして、続きもここで…。
休養であってほしいです。
- 362 名前:梨華っちさいこ〜 投稿日:2001年12月18日(火)07時40分41秒
- 非常に残念ですが作者さんがそう言うのなら黙って見送るしかないのでしょうか…
- 363 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月18日(火)09時41分31秒
- 楽しみにしていた作品なだけにとても残念です。
でも作者様の都合であれば仕方ないのですね…
もしも続きを書かれるのであればその場所くらいはここで教えて下さいまし。
自分も、おそらくは他の読者の方々もどこまでも付いていきます!
あと、この作品を削除する必要はないのでは?ほかの放置される作品と違い、
作者さんもここでなくても続きを書く気でいらっしゃるようですし、
これだけの完成度の高い作品ですから…
ひとまずはお疲れ様でした。長文レス失礼しました。
- 364 名前:名無し男 投稿日:2001年12月18日(火)10時22分45秒
- オ-マイガッ!!
削除以来は絶対にあきません!!許しません!!させません!!
いつでも待ってるんでそれだけは勘弁して
じゃないと読み返す事もできん
- 365 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月18日(火)15時30分00秒
- 帰ってきてください。私はいつまでも待ってます。
- 366 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月19日(水)00時14分57秒
- 我々は待ちますよ、1ヶ月でも2ヶ月でも。
だから数日間書けなかったぐらいであきらめて欲しくないです。
もう完結も近いみたいだし、もう一度がんばっていただけませんか?
我侭なお願いとは思いますが、みんなそう思ってるはずです。
どうかよろしくお願いします。
- 367 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月19日(水)04時34分13秒
- 俺もいつまでも待ちます。
むしろ待たせて下さい!!
どうか削除だけは…
ほんとにすごくいい作品ですし、このまま消えてしまうのは惜しすぎます。
我々のこうした期待がもしかしたら作者さんには重荷になってしまうのかも
しれませんが、(それはほんとに心苦しいのですが…)
それでもお願いします。
どうかもう少しだけ考え直していただけませんか?
- 368 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月19日(水)04時36分10秒
- 俺もいつまででも待ちます。
むしろ待たせて下さい!!
どうか削除だけは…
我々のこういった期待はもしかして作者様にとって重荷になっているかもしれません。
それは本当に心苦しいのですが…
それでもお願いします。
もう一度だけ考え直していただけませんか?
- 369 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月19日(水)04時37分16秒
- あれ?書き込めないと思ったら…
お目汚し失礼しました。
- 370 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月19日(水)16時55分51秒
- 最後まで読めないのはとても残念ですが
作者さんの都合ならば仕方ありません。
ただ出来れば削除依頼を出すのは勘弁してほしいです。
この作品をまた読みたくなるときが来ると思うので。
わがまま言ってすみません。
このお話、とても好きです。
今までたくさんの感動をありがとうございました。
- 371 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月20日(木)06時58分43秒
- 削除だけはどうかご勘弁を!!
読み返せるだけでもいいんです。
それで、しばらくたって作者さんの気が向いた時に
1、2レスぐらいぱらぱらとっていうんでもいいんです!!
(ってこれは俺の希望だけど)
待つだけならいくらでも待ちます!!
それだけこの作品はたくさんの人に愛されているものだと思います。
プレッシャーかけるようで申し訳ないんですけど…
それでも、どうか削除だけは…
- 372 名前:名無しさん 投稿日:2001年12月21日(金)00時50分56秒
- 一読者の私ですがナマ言わせていただきます。
削除だけは絶対に止めてください!!
この作品は2chのシアターみたいな雰囲気があります。
たくさんの名無し読者が気長に、それでいて作品にのめり込んで
いる。私はそう思います。
作者さんがもうやる気がないというのであればそれはそれでありでしょう。
けど、前にレスされている方もおっしゃっていますが、居間までの部分も
読み返したくなる暗い完成度は高いです。
だから削除だけはやめてくださいね。
失礼なのは承知の上でこんな事言わせていただきました。
また失礼ついでにもっと多くの方にこの作品氏って欲しいからあげさせて
頂きます。
失礼の数々申し訳ございません m(_ _)m
- 373 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月21日(金)00時52分41秒
- 居間→今
暗い→位
余りに焦って書いたんで変換が変ですね(鬱
- 374 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月21日(金)01時54分18秒
- この作品は名作集の小説の中でも特に好きなので
このまま終わって欲しくないです。
どれだけ更新の間隔が長くなってもずっと待ってるので
ゆっくりとでも完結させてください。
- 375 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月21日(金)02時32分01秒
- 私も残念に思うのですが、放棄宣言してる小説をageるのもどうかと思います
ひっそりと作者の帰りを待ちましょうよ
放棄したから削除、ってのはどうかと思いますので削除はやめてください
- 376 名前: 作者より 投稿日:2001年12月23日(日)02時50分34秒
このような事態に陥るのは、あらかじめわかっていたので、
なんとか年末までに終わらせようとしたのですが、前回の更
新で体力・気力は尽き果てました。
せっかくありがたいレスを頂戴したのですが、個人的な事情
で時間的にも体力的にも来年の4月頃まで余裕ができそうに
なく、やはり宣言通りこのスレッドでの更新は放棄させても
らいます。申し訳ありません。
続きは、更新分を数秒でUPできる自垢でやる事にしました。
現在、準備中です。(あくまでも自垢のです。続きは、今だ
1行も書いてません)(苦笑)
準備が整い次第、削除依頼を出しますので、その際にメール
欄のアドレスをご覧下さい。
※これ以上容量が増えるのもなんですので、この発言に対す
るレスは不要です。沈めて下さい。
非礼の数々は、物語の再開という形でお返しします。本当に
今までどうもありがとうございました。
- 377 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月23日(日)03時08分54秒
- ちょっと見ない間にこんな事になっていたとは…非常に鬱
- 378 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月23日(日)14時20分45秒
- そうか・・まあ続きを準備中とのことなのでひたすら待つとしよう。
- 379 名前:コカライト 投稿日:2001年12月23日(日)16時27分07秒
- 久々に来てみたら、、、
作者さん、待ってるのでがんばってください。
もうちょっと読みたいから、削除まってね。
- 380 名前:穏健派 投稿日:2001年12月30日(日)02時41分23秒
- やっぱり作者はあの人でしたか・・・。
予想通りだ・・・。
- 381 名前:LVR 投稿日:2001年12月30日(日)03時34分17秒
- もうすぐこのスレ消えるだろうけど、一言。
本当に面白い作品なので、マターリ書いてください。
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