朝比奈学園教師「平家」
「イヤ!なんでこんな事するの!!?止めて!お願い!!止めてよぉ…」
その人影は、恐怖に顔を歪める少女を舐めるように見つめるとゆっくり近づいて
いった。少女はズリズリと後ろに逃げていく。人影はそんな少女を見て薄く笑う
と更に少女に近づいた。右手には、何か光るものが握られている。
「お願い…止めて…。止めてぇ……」
少女の顔はもう涙と恐怖でぐしゃぐしゃだ。声を出すのも必死な程、全身を強張
らせている。人影は喉の奥で軽く笑うと、ゆっくりと右手を高く上げた。
「イヤァ!!止めて!!止めてぇ!!!!!!」
少女の絶叫が部屋中に響き渡る。その瞬間、人影は右手を振り下ろした、なんの
ためらいもなく。
少女の身体から、何か赤い液体が噴き出してくる。人影は、動かなくなった少女
の身体に向かって、機械的に腕を振り下ろし続けた。ただ、機械的に…。
「またか…。ホンマ胸クソ悪なる話やなぁ…」
そう言うと、平家は今朝の朝刊を机の上に乱暴に置いた。平家が置いた新聞
の一面には、昨夜起こった殺人事件の記事が大々的に取り上げられている。
見出しはこうだ。『朝比奈学園でまた殺人事件!同一犯の仕業か!?』
「ふぅ…」
平家はゆっくり溜息を吐くと、そっとイスに腰掛けた。殺人事件の記事を目に
するだけでも気が滅入るのに、それが自分の勤務する学校で起きたとなるとそ
の精神的ダメージは更に倍増する。しかも、連続でだ。平気でいられる方がお
かしい。
コンコン。
ふいにドアがノックされる。平家がそちらの方を見ると、同僚の中澤がひょい
と顔を出した。
「みっちゃん、職員会議始まるで。はよ行こうや」
ここは私立朝比奈学園。中高一貫教育の女子高だ。清く、正しく、美しく、を
モットーに昭和中期に設立された歴史も伝統もほとんどない学校だ。
その学校の渡り廊下を、2人の教師が歩いている。平家と中澤だ。年はだいぶ
離れているが同期と言う事もあり、2人は行動を共にする事が多かった。平家
は生物を、中澤は日本史を、それぞれ担当している。
「今日の職員会議は、やっぱ昨夜の事件の事やろなぁ…。もぉ3人目やで?
ホンマなんなんかなぁ…」
ダルそうに歩きながら中澤がぼやいている。
「裕ちゃん、そんな面倒臭そうな言い方したらアカン。不謹慎やろ?」
平家は軽く中澤をたしなめた。しかし中澤の気持ちもわからなくはない。人の
死に慣れるなどと言う事は絶対にないと思っていた平家だが、こうも事件が続
くとつい、またか思ってしまう。いったい誰がなんの目的でこの朝比奈学園の
生徒ばかり狙っているのだろうか。生徒達は、口には出さないがみんなかなり
今回の事件について怯えているようだ。授業中の雰囲気でなんとなく分かる。
平家がそんな事を考えながら歩いていると、目の前にふと人影が見えた。
「圭坊!」
中澤が大声でその人物の名を呼んだ。
「あ、裕ちゃん、みっちゃん。おはよう」
圭坊と呼ばれた女―本名保田圭。が振り向いた。保田もこの朝比奈学園の教師
である。
「みっちゃん、朝っぱらから何難しそうな顔してんのよ。」
「アホか。またあんな事件が起きたんやで?ウキウキしてられるワケないやろ
が」
「それもそうだね。ま、あたし達が悩んだってしょうがないよ。きっと警察が
犯人を見つけてくれるって」
「そやそや。はよ、職員室行こうや。もう始まるで?」
楽観的な2人とは対照的に、平家の心は重く沈んでいる。なんでこの2人はこ
んなにも明るくしていられるのだろう。直接授業を受け持った事はなくとも、
自分の学校の生徒なのに。それとも、ムリにでも明るくしなくてはやっていけ
ないのだろうか。平家は2人の顔をそっと覗きこんだ。いつもと何も変わった
様子はない。
「みっちゃん、なに人の顔ジロジロ見てんねん。キッショイなぁ?」
「ああ、別に…」
重い足取りで、平家は職員室に向かっていった。
キーンコーンカーンコーン。
無機質な鐘の音が響き渡る。本日の授業の終了を告げるものだ。平家はその鐘
の音を生物準備室でぼんやりと聞いていた。朝比奈学園に生物教師は平家1人
しか居ない為、生物室に隣接するこの部屋は、ほとんど平家の私室と化してい
る。熱いコーヒーを口の中に流し込むと平家は大きな溜息をついた。また、昨
夜の事件の事を考えているのだ。
「はぁ…、誰があんな事したんやろか…。何の目的で…」
その時、突然平家の背中を衝撃が襲った。…重い。犯人が誰なのか平家はわか
っていた。軽く睨みをきかせると、平家は背中にくっついている物体に向かっ
て話しかけた。
「コラ、後藤。重いで。離れんかい」
「えぇ〜、いいじゃん別に。ちょっとくらいさぁ」
背中にくっついている子泣きじじいの正体は後藤だった。後藤は朝比奈学園の
中等部の3年生で、1年の時平家が生物を担当して以来、何故かなつかれてし
まっている。
「重い言うとるやん。ほら、降りんかい」
「やぁ〜だよぉ〜。だってここ気持ちいいんだもん」
そう言うと後藤は更にべったりと平家の背中にしがみついた。
「アホかい!誰かに見られたらどないすんねん!はよ、降りんかい!!」
その時だった。
ガラッ。
突然、生物準備室のドアが勢いよく開いた。慌てて平家が後藤を引き離
し振りかえるとそこに立っていたのは矢口だった。彼女もこの朝比奈学
園の生徒だ。
「みっちゃん!!やっぱり後藤とそういう関係だったのね!!ひどい!
アタシを捨てて!!!」
大げさな身振りを交えて矢口が叫んだ。
「何ワケ分からへん事言うとんねん。どないしたん?なんか用なん?」
平家は、まだ首にくっついている物体を軽くはたくと矢口に向かって尋
ねた。
「うん。ちょっと授業でわかんないトコあってさ。聞きにきたんだ。後
藤、こんなとこでいちゃいちゃしてちゃダメじゃん。誰かに見つかっ
ても、矢口は庇ってあげないかんねー?」
「誰がいちゃついてんねん!誰が!!?」
平家のツッコミを無視して矢口は続ける。
「後藤、ヒマならコーヒー入れてよ。アタシみっちゃんに勉強教えても
らうからさー」
「はぁ〜い」
呑気な声で後藤が返事をする。勉強を教えてもらいにくるのは喜ばしい
事だが、何故この子達は人の部屋でこうも好き勝手できるのだろうか?
やはりこれがイマドキの子供と言うものなのだろうか?軽いめまいを覚
えながらも、平家はイスに腰掛けた。
「ねぇ、みっちゃん。例の事件についてどう思う?一体誰があんな事してんのかな?」
ふいに矢口が口を開いた。突然の発言に平家は少しとまどった。
「どうって…またヤな事件が起きたなぁって。…アンタはそんなん気にせんでもえ
えで?警察の方でキチンと捜査はしてくれてはるし、それに余計なことには首を
突っ込まん方がええ。アタシらにはどうすることもできひんのやし…」
「なんかみっちゃんらしくなーい!どうせ今朝の職員会議で生徒達に余計なこと言
うなとか言われたんでしょ?あーあ、先生とかってなんでいっつもこうなのかな
ー?」
図星だった。まさに矢口の言う通り。平家達教師陣は、今朝の職員会議で生徒達に
余計な不安を抱かせるなと学園長からキツク釘を刺されたばかりなのだ。
「ま、しゃーないやん。そう言わんといてぇな」
「だってさー、やっぱ気になるじゃん?で、どうなの?犯人の目星とかついてんの!?」
「う〜ん、実を言うとな、捜査の方はサッパリらしいねん。なんせ、被害者の生徒
達にはなんの共通点もないし、目撃者もない。これで犯人見つけろ言う方が無理
やねん。」
平家はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。もう冷めていて少し生ぬ
るい。
「そっかー。ていうかさ、矢口とか狙われちゃったらどーしよう!?え
ー!?マジ恐いよー!!」
なにやらバタバタと騒ぎながら矢口が叫んでいる。危機感があるのかな
いのかよく分からない子だ。
「ねぇねぇ、みっちゃん!もし矢口が狙われたら助けてよー!?もう身
体張ってバーンって生徒を守ってくれなきゃね!ね、後藤?」
「えっ?何?ゴメン、聞いてなかった」
「もー後藤ー!!ボーっとしてんなよー!!」
「あはは」
後藤は相変わらずのアホッ面で笑っている。そういえば、後藤の様子が
先程からおかしいような気がする。いつもならうるさいくらい話に絡ん
でくるのに、今日は妙に静かだ。
「あれ?もうこんな時間だ。みっちゃん、矢口もう帰るね。カオリももう部活終わる
時間だし。一緒に帰る約束してるんだ」
「ちょお待てや。つーことはなんや、アタシんとこに来たんはただの暇つぶしやった
んかぁ!?」
平家は軽く矢口の頭をはたいた。まったく、暇つぶしに教師を利用するとは何事だ。
平家みちよ、教師魂に満ち溢れた女だ。
「じゃあね、みっちゃん、後藤。バイバーイ!!後藤ー、襲われそうになったらみっ
ちゃんに助けてもらうんだよー!!」
「うん、バイバーイ」
わたわたと騒ぎながら矢口は元気に部屋から出ていった。まるでミニチュアの台風み
たいだ。廊下から聞こえる矢口の足音を聞きながら、平家はそんな事を考えていた。
「後藤、アンタももぉ帰りぃや。そろそろ暗くなるで?」
「じゃあ平家さん、一緒に帰ろうよぉ。最近物騒だからさぁ〜」
そう言うと後藤はすっと平家の首に両手を回す。そしてそのまま、平家の身体にそっ
と寄りかかってきた。
「コラ、後藤。離れんかい。こんなとこで何考えてんねん」
「いいじゃん、別に。ね、平家さん?」
後藤はすっと目を閉じると、平家の方に顔を向けた。いわゆるおねだりポーズという
ヤツだ。平家はしょうがないなぁと言う顔で軽く笑うと、優しく後藤の身体を抱きし
め唇を重ねた。
後藤の唇から切なげな吐息が漏れる。
「んっ…んん…ちょ、後藤…もぉ離さんかい…」
そんな平家の言葉を無視して、後藤は更に唇を深く押し付けてくる。
「ちょ、アカンて!ストップ!!」
そう言うと平家はグッと後藤の身体を引き離した。
「平家さぁ〜ん!なんで嫌がるのよぉ!!」
あからさまに不機嫌そうな顔で後藤が怒った。何故自分が怒られなくてはいけないの
だろうか?そんな疑問を抱きながらも、少し呼吸を整え平家は続ける。
「アホか!もうちょっと場所ってモンを考えんかい!!ホンマ、もうちょっと気ぃを
使って欲しいわ!」
まったく、この子は何を考えているのだろうか。ここは学校ではないか。神聖なる学
び舎で何をするのだ!平家みちよ、教師魂が熱く燃えたぎっている女である。
「だって、前だってここでした事あるじゃん!それに平家さんアタシ家に連れ
てってくれないじゃん!!そんなに言うんだったら平家さんちに連れてって
よぉ!!」
「ア、アホかい!そういう問題ちゃうやろっ!!まったく、何ワケの分からへん
こと言うとんねん…」
「いいじゃんどこでしたってぇ!だって平家さんのこと好きなんだもん!!」
そう言うと後藤は平家の肩を掴み、そのまま壁に押しつけた。どうやら本気
で怒っているようだ。
マズイ…平家がそう思う間もなく、後藤はムリヤリ唇を押し付けてきた。
(はぁ…しゃーないな。今回は諦めるか…)
後藤に唇を吸われながら平家がぼんやりとそんな事を考えていたその時、
天の助けの音がした。
ピピピピピピ…ピピピピピピ…ピピピピピピ……。
ふいに天の助け…もとい携帯の着信音が鳴り響く。平家の携帯に誰かから電話が掛か
ってきたのだ。
「あっ、電話や!!後藤、ちょおごめんな」
すっと後藤の腕の中からすり抜けると、平家は白衣のポケットから携帯を取り出した。誰
だか知らないけどありがとう!平家は心の中でそう叫ぶと、勢い良く通話ボタンを押した。
ふと横を見ると、不機嫌そうな顔をした後藤がこちらを睨んでいる。
(アカン…メッチャ怒っとるわ…。後でなんとかせなアカンなぁ…)
『もしもし?』
電話の向こうから聞き覚えのある声がする。中澤だ。
「はい、もしもし。裕ちゃん?」
『もしもし、みっちゃん。なぁ、自分今夜ヒマ?一緒に飲みに行かへん?』
「あ〜っと、今夜はちょっと…」
平家は壁に寄りかかったままブスッとした顔で自分を睨みつけている後藤に
目をやりながらもごもごと答えた。こんな時に行くだなんて答えたらどうな
るかわからない。まったく、間がいいのか悪いのか良く分からない電話だ。
『なんや、なんか用があるんか?ほな、しゃーないな。今夜は寂しく1人で
飲むとするか』
「ホンマ、ごめんな」
『ええって。気にせんといてぇな。ほな』
そう言うと、プツリと電話は切れた。悪いことをしてしまったな、そう思い
ながら平家は携帯を机の上に置く。平家にはまだ解決せねばならない問題が
残っているのだ。意を決して、平家はその問題の方に振り向いた。問題は平
家と目が合うとプイッと顔をそむけた。やはり、途中で中断された事が不満
らしい。
「後藤、そんなに怒らんといてぇな。な?」
「別に怒ってなんかないもん」
「怒っとるやん?」
「怒ってないですぅ!もういいです、アタシ帰ります。先生さようならっ!!」
わざと『先生』と言う部分を強調させ、後藤は部屋から出ていった。どうや
ら完全に怒らせてしまったようだ。平家はひょいと準備室のドアから顔を出
すと、丁度生物室のドアを開こうとしている後藤の後姿に向かって軽くにや
けながら声をかけた。
「後藤ー、続きはまた今度な?」
そんな平家に向かってベーっと舌を出すと、そのまま後藤は生物室から出
ていった。あの反応ならもう大丈夫だろう。勝手に納得すると、平家は帰り
支度を始めた。勤務時間はもうとっくに過ぎている。
ふと外を見るともう真っ暗だ。平家は急に後藤のことが心配になった。あん
な事件が起こっているのに1人で帰らせたのはやはり軽率だっただろうか。
慌ててバッグを掴むと、平家は後藤の後を追った。
職員用の玄関を出ると、平家は急いで校門へと向かった。門を出て通りをき
ょろきょろと見回すが後藤の姿は見えない。
(まだ中におるんかなぁ?)
そう思った平家は昇降口へと向かった。靴があるかどうか確かめようと思ったの
だ。
しばらく靴箱の辺りをうろうろしていた平家はようやく後藤の靴箱を見つけた。
何百人分もの靴箱の中からたった1人のモノを見つけるのがこんなに大変な
事だとは思わなかった。だからここ十数年程の学生は靴箱にラブレターなどと
言う方法は使わなくなったのかなぁ?などとワケの分からない事を考えながら
平家は靴箱を開けた。
靴は、ない。先程まで後藤が履いていた校舎内用のスリッパが置いてあるだ
けだ。
(やっぱもう帰ってもうたんかなぁ…)
平家はふぅっと溜息を吐くと昇降口を後にした。何事もなければいいのだけど、
そんな事を考えながら平家はゆっくりと校門へと向かって歩き始めた。
夜の学校と言うものはどこか不気味な感じがする。なんとなく気味が悪くなっ
た平家は少し足を速めた。
何かの気配を感じて、平家は後ろを振り返った。
(ん?…気のせいか。…あれ?)
よく見ると、昇降口に誰かがいる。誰だろう?例の事件以来部活動などは
午後7時までに制限されている為、こんな時間に生徒が残っているはずはな
い。後藤かな?そう思った平家はクルリと向きを変えると昇降口に向かって
歩き出した。
近づいていくうちにだんだん人影の輪郭がはっきりしていく。どうやら後藤では
ないようだ。人影はもっと小柄な感じがする。平家がその人影に向かって何
か声をかけようとした時、平家の姿に気付いた小柄な人影が大きな声で叫
んだ。
「あれー!?みっちゃんじゃん!!こんな時間に何してんのー!!?」
「矢口!?アンタこそ何してんねん?飯田と一緒に帰ったとちゃうんかぁ?」
平家は、昇降口からパタパタとこちらに走ってくる矢口に向かって話しかけた。
確か矢口はもう1時間近くも前に部屋から出ていったはずだ。その矢口が何
故まだ学校にいるのだろうか?
「ちょっと忘れ物しちゃってさ、1回家に帰ったんだけどまた戻ってきたんだよ。
もーサイアクだよー!」
「そうやったんか。アタシはまた泥棒かなんかかと思うたわ」
「またまたー、みっちゃん!それを言うなら殺人犯だよ?」
「アホか!シャレにならんこと言わんといてぇな。ホンマに不謹慎な…」
「みっちゃ〜ん、そんな怒んないでよー。あれー?そう言えば後藤は?一緒じ
ゃないの?」
にやにやと笑いながら矢口が上目遣いに尋ねてくる。1人でいる平家を見れ
ばまた後藤を怒らせてしまった事など容易に予想できるだろう。何も言う事が
できず、軽く睨んでくる平家を無視して矢口はおもしろそうに言葉を続ける。
「また後藤怒らせちゃったの?ダメだよー、みっちゃん。少しは後藤の気持ちも
わかってあげなきゃー。あーあ、後藤がかわいそー!!」
「うっさいわ!」
少し居心地が悪そうに平家は短く呟く。矢口はそんな平家を見てまだにやに
やと笑っている。そんな矢口の態度に無性に腹が立った平家は何か言おうと
口を開いた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
突然、女の叫び声が響き渡る。体育館の方からだ。しかもこの声は後藤で
はないだろうか。平家は思わず駆け出した。後ろから矢口も追ってくる。
「後藤!!後藤!!?」
「へ、平家さぁ…ん!!」
体育館の裏手の辺りから後藤が飛び出してきた。顔面蒼白で尋常ではな
い様子だ。
「後藤!?どないしたんや!!なんかあったんか!!?」
後藤はそのままギュッと平家に抱きついた。身体が小刻みに震えている。一
体何があったのだろうか?少し遅れて矢口が追いついてきた。かなり息が切
れている。
「後藤!!どうしたの!?ねぇ!後藤!!?」
「人が…」
「えっ?」
「人が死んでる………」
平家は一瞬後藤の言っている事が理解できなかった。人が死んでいる?ま
さか。隣を見ると、矢口もワケが分からないと言う顔をしている。
「ちょお後藤?どういうことやねん?ひ、人が死んどるって…」
「だからあっちで人が死んでるんだよぉ…。ホントだよぉ…」
なんとか喉から絞り出したような声で後藤が呟く。平家はすっと後藤の身体
を矢口の方に押しやった。
「矢口、警察に電話してぇな。アタシは…ちょお見てくる」
「ちょっとみっちゃん!?マジで!?」
「大丈夫やから。後藤のこと頼むで?」
そう言うと平家はゆっくりと歩き出した。心臓が激しく脈打っている。死体を見
る事など初めてだ。ちらりと後ろを見ると、矢口と後藤が心配そうな顔でこち
らを見つめている。これ以上2人を不安にさせてはいけない!そう心の中で
呟くと平家は力強く足を進めた。
キーンコーンカーンコーン。
「はい、ほな今日の授業はここまで。今日やったトコはテストに出すさかいキ
チッと復習しとくんやで!?」
教卓の前に立った平家が声を張り上げた。そんな平家の言葉を聞いている
のかどうかも分からず、生徒達はどやどやと生物室から出ていった。
(こいつら聞いとるんかぁ?ま、ええわ。そんな難しいトコでもないしな…)
平家は教卓の上に散らばっているノート類を手際よく集めた。6時間目の授
業も終り、生徒達は開放感に満ち溢れている。自分も学生時代はこんな
感じだったな、と平家は少し昔を懐かしく思った。
「みっちゃん、みっちゃん!」
ふと、2人の生徒が平家の元に駆け寄ってきた。でっかいのとでっかいの、飯
田と吉澤だ。
「どないしたん?どっか分からんとこでもあったんか?ま、テストに出す言うても
そんな慌てることないさかい…」
「そんなのどうでもいいよ。ねぇねぇ、昨夜また殺されたんだって!?新聞にで
っかく載ってたのカオリ見たよ!!」
(どうでもいいってどう言うことやねん…)
今の発言にどこか釈然としないものを感じ、平家は軽く飯田を睨んだ。そん
な平家の視線に気がついたのか吉澤が慌てて口を挟む。無論、飯田はそん
な平家の視線にはまったく気付いてはいない。
「別にどうでもいいってワケじゃありませんよ。先生の授業はとてもわかりやすく
て…その…」
「吉澤ー!何ワケ分かんないこと言ってるのよぉ!そんな事言いにきたんじゃ
ないでしょ!」
状況をまったく理解していない飯田が少しイラついたように口をとがらせる。所
詮生徒達にとって生物などその程度のものなのだろうか。受験に生物は必
要ないし…。平家はがっくりと肩を落とした
「でね、みっちゃん。昨夜の事件なんだけどさ…」
「アンタらが気にすることやない。そんなんに余計な首を突っ込んでもええ」
飯田の言葉をさえぎり、平家はぴしゃりと言いきった。
「みっちゃん!なんでそう言う言い方するのよ!カオリそう言うのは良くないと
思う!!」
「ええとか悪いとか言う問題ちゃうわ。アンタらが心配する事はなんもないさか
い、な?余計なことは気にせんでもええから」
「でも、先生。昨夜の第一発見者は先生だと伺ったのですが…」
突然吉澤が口を挟んだ。一体どこからそんな情報が漏れたのだろう?平家
は驚いた顔で吉澤を見た。
「うん、まぁ…一応そうなんやけどな…」
平家はもごもごと口ごもった。昨夜の事を思い出してしまったのだ。あの時、
現場を見に行くなどと言わなければよかった。こみ上げてくる吐き気を抑えな
がら平家は軽い後悔を覚えた。
「先生?どうかしたんですか?なんか顔色が悪いですよ?」
「みっちゃん?どうしたの?」
吉澤と飯田が心配そうに平家の顔を覗きこんでいる。
「ああ、別になんでもないわ。さ、アンタらもさっさと帰りぃ!またあんな事件が
起きたらアカンしな!」
勢いよく顔をあげると、平家は2人に向かってそう言った。
「はぁ〜い。あ、でもカオリ今日部活あるんだ。めんどくさいなー」
「そんなこと言うたらアカンて。部活もないのにアンタのこと待っててくれる子も
おるんやしな?」
昨日の矢口の事を思い出して、平家は軽く飯田をたしなめた。
「えっ?なにそれ?誰のこと?」
「はぁ?アンタ何ボケとんねん。昨日矢口がアンタのこと待っとったやろ?」
「矢口がぁ?ううん。カオリ昨日は矢口と一緒に帰ってないよ?」
どういう事だ?確かに昨日、矢口は飯田との約束があるからと言って先に部
屋を出ていったではないか。平家はそっと飯田の表情をうかがったが、ウソを
ついている様子はない。
「ま、ええからアンタらははよ帰りなさい。はい、さようなら」
「えぇ〜、なんで〜!?なんか気になる!!」
「ええからもう行きなさい。飯田、部活があるんやろ?」
飯田はどこか不満顔だったが、吉澤に連れられてしぶしぶと生物室を出てい
った。ドアが閉まるのを確認すると、平家はそっと教卓に頬杖をついた。
矢口は飯田とは一緒に帰ってはいない。ではあの時矢口は自分達にウソを
ついたのか?何故あんなウソをつく必要などあったのだろうか。それにあんなウ
ソは飯田に確認すればすぐにバレてしまう。そう考えると、昨夜の忘れ物の件
も怪し思えてくる。あんな時間にわざわざ学校まで取りにくる程の忘れ物とは
一体なんなのだろう。
「う〜、わからん!」
平家はそう一言呟くと、勢いよく起きあがった。いくら考えてもわからないもの
はわからない。
(はぁ…コーヒーでも飲も)
だるそうに首を左右にコキコキと動かしながら平家は生物準備室へと消えて
いった。
「ふぅ…」
コーヒーを一口飲むと、平家は深く息を吐いた。やはり矢口の事が気になっ
てしかたがない。忘れ物を取りに来たとしてはどうもタイミングが合いすぎてい
るような気がする。まるで、平家を待っていたかのような…そこまで考えた時、
平家はある事に気がついた。何故今まで気がつかなかったのだろうか?そう、
後藤だ。
何故後藤はあの時死体を発見する事ができたのだ?殺害現場となった体
育館の裏手はどう考えても意図的に移動しなければ辿り着ける場所ではな
い。何の部活動にも参加していない後藤が体育館に用があったとは考えにく
い。警察の検死の結果、遺体は死後30分程度しか経っていなかったらし
い。
平家があの夜校舎を出たのは後藤が出ていってから15分程度経った頃
だ。
昇降口に靴箱を確認しに行っていたりした時間を考えると、実際平家が後
藤と会ったのはあれから1時間近くも経った後…。
(まさか後藤が…いや、アタシは何アホなこと考えとんのや…あの子がそんな
んできるワケないやん)
平家は自嘲ぎみに軽く頭を振った。
被害者は全員女性だ。刃物を使えば例え女でも殺害できない事はない。
それに、あの時他に人影は見えなかった。あの夜、殺害現場の近くにいたの
は、平家、矢口、そして後藤。
(あー!アカンアカン!!アタシ何考えてんねん!!アホか!?)
平家はコーヒーを一気に飲み干した。
コンコン。
ふいにドアがノックされる。誰だろう?と思いながら、平家はドアの向こうにむ
かって声をかけた。
ドアを開けて入ってきたのは後藤だった。平家は少しドキッとした。つい先程
まであんな事を考えていたのだ、無理もない。しかしこの子がノックをするなん
て珍しいな、平家は冷静を装いながら後藤の方に目をやった。
「後藤、どないしたん?ノックするなんて珍しいやん?」
「ん〜、別に。なんとなく、ね」
そう言うと後藤はストンとイスに腰掛けた。やはりどことなく様子がおかしい。そ
んな後藤を見ているとますます昨夜の事が頭に浮かんでくる。後藤はそんな
平家にはまったく気付かず机の上に散らばっている生物の資料をパラパラと
めくっている。
平家は悩んでいた。昨夜、何故後藤が体育館などにいたのか。何故、用も
ないのに1時間近くも学校に残っていたのか。聞きたい、でも聞く事ができな
い。別に後藤を疑っているワケではない。だが、昨夜の後藤の行動には不審
な点が多すぎる。しばらくの沈黙の後、平家は意を決して口を開いた。
「なぁ…、後藤。アンタ…夕べなんであんなとこにいたん?」
「えっ?」
「せやから、その…。なんで体育館なんかにおったんかなぁって、あの…ちょお
気になって…」
そんな平家の言葉に後藤は少し傷ついたように微笑んだ。
「やっぱり平家さんもアタシのこと疑ってんだ…」
「あ、いや…そ、そう言うワケちゃうて!そんなん思ってへんて!!」
「いーよ、気にしなくても。やぐっちゃんにもおんなじこと聞かれたからさ」
「え?矢口にも?」
平家は少し驚いた。まさか矢口も自分と同じ事を考えていただなんて。昨夜
の様子を見る限りでは、矢口は後藤を疑っている様子などまったく見せなか
った。
「うん。さっきね…」
「そっか…、ゴメン…」
平家は少し声を落とした。自分はなんて事をしてしまったのだろうか。後藤の
気持ちなどまったく考えずになんと無遠慮な質問をしてしまったのだろうか。
平家は自分の軽率な行動を深く反省した。
しばらく、沈黙が続く。平家は何かしゃべろうと口を開こうとするもののいい言
葉が浮かばない。今、何を言っても後藤を傷つけてしまうだけだ。平家がおろ
おろとしていると、ふいに後藤が口を開いた。
「アタシが夕べ体育館に行ったのはね、なんか…物音が聞こえた気がして…
それで…」
後藤がポツリポツリと言葉を繋ぐ。顔をうつむけている為、髪に隠れて表情を
伺う事はできない。
「それで…気になって体育館の方に行ってみたら…人が、死んでて…それで
…それで…」
声がかすかに震えている。平家は何も言う事ができない。ただ後藤を見つめ
ているだけだ。
「平家さん…」
後藤がふっと顔を上げた。もう泣きそうな顔をしている。
「アタシじゃないよ…。お願い、信じて…アタシじゃないよぉ…」
後藤はそのままギュッと平家の身体にしがみつくと、激しく泣きじゃくった。平
家の胸に顔をうずめながら、アタシじゃない、アタシじゃないと繰り返している。
平家はそんな後藤を優しく抱きしめると、そっと頭を撫でた。
「わかっとる、後藤はなんもしてへんて。アタシはアンタのこと信じとるから。
な?なんも心配することなんてない。アタシは、アンタの味方やから。」
「うん…」
平家は、自分が情けなくなった。自分は今まで何を考えていたのだろうか。
自分は今まで一体後藤の何を見ていたのだろうか。後藤を一番信じてあげ
なくてはいけないのは自分のはずなのに。
後藤はまだ激しく嗚咽を漏らしている。そんな後藤を見ていると、平家の心
にどうしようもない愛おしさが湧き上がってくる。
もう自分の気持ちを抑える事はできない。平家は力一杯後藤の身体を抱
きしめると、そのまま唇を押し付けた。そして激しく後藤の唇を貪る。後藤は
一瞬驚いたような表情を見せたが、そっと目を閉じ平家にその身体を委ね
た。
後藤の口から切ない声が漏れるたびに平家の気持ちはどんどん昂ぶってい
く。後藤もそんな平家の気持ちに答えようと激しく舌を絡ませる。
2人を阻むものはもうなにもない。ただ時間だけが、優しく2人を包み込んで
いった。
ふと、平家が時計を見るともう8時を回ろうとしている。平家は腕の中でまだ
少し肩で息をしている後藤に向かって声をかけた。
「後藤、もぉ遅いで。そろそろ帰らなアカンやろ」
「うん…もうちょっとだけ…」
そう言うと後藤はすっと平家の首に手を回した。首筋に当たる吐息に心地よ
さを覚えながらも、平家はその後藤の手をはずした。
「アカンて、もう遅いやん。いい加減帰らな家の人心配するやろ?」
平家は後藤の身体を離し立ち上がると、着衣の乱れを整えはじめた。
「もぉ〜!平家さぁ〜ん!!」
後藤が不機嫌そうな顔でこちらを見上げている。こういう顔を見るとまだまだ
子供だな、平家は軽く笑うと後藤の両手を掴みえいっと立ちあがらせた。
「ほら、はよ服直して。それとも、このままの格好で帰るつもりなんか?」
「む〜!!平家さんのイジワル!」
ブツブツと言いながらも後藤がシャツのボタンを留め始めたのを確認すると、
平家は床に散乱している資料やノート類を拾いだした。まぁ、いろいろあった
らしい。
「ほな、門とこで待っててぇな。すぐ行くから」
「うん、じゃあね」
そう言うと平家は後藤と別れて職員用の玄関へと向かった。
職員室の前を通りかかったその時、ふいに平家の携帯が鳴った。誰だろう?
ディスプレイを見ると非通知設定になっている。不審に思いながらも平家は
通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『もしもし…みっちゃん?』
携帯から聞こえてくる声は矢口のものだ。何故矢口が自分の携帯番号を知
っているのだろう。後藤にでも聞いたのかもしれない。でも、何故非通知にす
る必要があるのだろうか?そんな疑問を抱きながらも平家は電話の向こうに
むかって話しかけた。
「もしもし?矢口かぁ?どないしたん?」
『そうだよー、矢口だよ。ねぇ、みっちゃん、こんな時間まで学校に残ってお仕
事?大変だね』
「ああ、別に…。それより、アンタなんでアタシの携帯番号知ってんねん?後
藤にでも…」
そこまでしゃべった時、平家はある事に気がついた。
「矢口…アンタなんでアタシが学校におるって知ってんねん!?」
『さぁ〜、なんででしょ〜か?みっちゃん、矢口前に言ったよね。学校でいちゃ
いちゃしちゃダメだって。あ、あれは後藤に言ったんだっけ?』
「矢口…」
『みっちゃんって結構積極的なんだね。矢口びっくりしちゃった。いつも後藤の
こと嫌がってるのは演技だったのかな?みっちゃん、なかなか演技派だね』
平家は言葉を続ける事ができなかった。どういう事だ?矢口は一体何を言っ
ているのだ?何故先程の事を知っているのだ?何がなんなのかもう分からな
い。自分の心臓が激しく脈打っているのがわかる。
『みっちゃん、今から体育館に来てよ』
「…アンタ一体何を」
『大丈夫。後藤もそこにいるからさ…』
平家は急いで靴に履きかえると体育館へと走った。電話の矢口はもう平家
の知っている矢口ではない。平家には矢口の目的がまったく分からない。だ
が矢口の最後の言葉が気になる。後藤もそこにいる?何故後藤が?やはり
1人になどするべきではなかった。先程の自分の行動を激しく後悔しながら、
平家は全力で走り続けた。
「後藤!!!」
平家は力任せに体育館のドアを開いた。中は真っ暗で人の気配はないよう
に思える。
「後藤!どこや!!後藤!!?」
叫びながら平家は体育館の中に足を踏み入れた、その時だった。
鈍い衝撃が平家の頭を襲う。
「うっ!!」
突然の激痛に平家は頭を押さえた。手になにか温かい液体が触れる。血
だ。
「みっちゃ〜ん。そんなに簡単に人を信用しちゃダメだよー!残念、ここに後
藤はいないよ」
「…や・・ぐち?」
痛みに耐えながら平家がなんとか後ろを振り向くと、そこには掃除用のモップ
を手にした矢口が立っていた。どうやら、モップの先の金属部分で殴られたら
しい。
頭がくらくらする。もう立ってはいられない。平家は思わず床に方膝をついた。
体育館の床にボタボタと血が落ちる。
「や…ぐち…なんで…?」
「みっちゃん、あんましゃべんない方がいいよ?血、すっごい出てるからさー」
軽い調子でそう言うと、矢口はすっと平家の前に仁王立ちになり勢いよく平
家の側頭部を蹴りつけた。
「くっ…!!」
平家はそのまま床に倒れこんだ。もう意識がもうろうとしている。
「ねぇ、みっちゃん。そんなに後藤が大事なの?ねぇ…みっちゃん?」
矢口は軽く笑いながらまるでからかうように平家に問い掛ける。そんな矢口の
声がとても遠いところで聞こえる気がする。平家は、そのままゆっくりと意識を
失っていった。
「むぅ〜、平家さん来ないよぉ〜。なにしてんだろ?携帯にも出ないし…」
そう呟くと、後藤は携帯を切った。先程からずっと門の前で待っているのに平
家はまだ来ない。教室にノートを取りに行っていたため、待ちくたびれて帰って
しまったのかもしれない、後藤はふとそんな事を思った。
(いやいや!平家さんがそんなことするワケない!う〜ん、もいっかい中戻って
みよっかなぁ〜)
そう考えた後藤が校舎に向かって歩き始めたその時、どこかから後藤を呼ぶ
声がした。
「ごとー!!ごとぉー!!」
声のする方を見ると、矢口がこちらに向かって手を振りながら走ってきている。
「あっ!やぐっちゃん?どうしたのぉ、こんな時間に!?」
「後藤、みっちゃん待ってるんでしょ?」
少し息を整えながら矢口がにこやかに笑い後藤に尋ねた。
「うん。…でもなんでソレ知ってんの?つーか、やぐっちゃんなんでここにいる
の?」
「いやー、ちょっと忘れ物しちゃってさー。それよりさ、さっき矢口みっちゃんに会
ったんだけど…」
「平家さん!?どこにいた!!?」
「うん、それでね。なんかみっちゃんどうしても明日までにやっとかなきゃいけな
い仕事思い出したらしくって、そんで後藤が多分自分のこと待ってると思う
から先に帰るように伝えてくれだってさ」
「え〜!!なんでぇ〜!!マジでぇ!?ウソだよぉ〜!!」
「ウソじゃないって。ね、しょーがないよ。矢口ももう帰るからさ、一緒に帰ろう
よ」
「でも、平家さんそんなこと一言も言ってなかったのに…」
後藤は不満そうな顔で校舎の方を見つめた。何故平家は突然そんな事を
言ったのだろうか?しかも何故矢口に?用があるのなら自分の携帯に連絡
すればいいではないか。そう言えば先程から平家の携帯に繋がらない。後藤
は不安を隠せなかった。
「ほら、後藤。もう遅いから帰ろ?ほらほらー!しょーがないじゃん。みっちゃん
にもいろいろ事情があるんだからさー!ね?ワガママ言わなーい。ほら、帰
るよ?」
そう言うと矢口は後藤の手を取り歩き出した。後藤はまだ不安気な顔で校
舎の方を何度も振りかえっている。矢口はそんな後藤の手を強引に引っ張っ
た。
「ほら、後藤!帰るぞー!!」
「うん…」
矢口にムリヤリ手を引かれながら後藤はしぶしぶ歩き出した。何故平家は来
てくれないのだろう。来るのが無理でも電話の1本くらいくれてもいいのに…。
やはり自分の事などたいして大事には思っていないのかもしれない。そんな
思いが頭をよぎる。様々な不安を抱きながらも、後藤は学校を後にした。
「えっ?平家さん休みなんですかぁ?」
後藤は思わず素っ頓狂な声を出した。朝から何度も生物準備室を覗いて
見たが平家の姿が見えない為、心配になった後藤は中澤に様子を聞きに
わざわざ社会科準備室までやって来たのだ。
「そやねん。なぁ後藤、自分なんか聞いてへんか?大きな声では言えんねん
けど、実はみっちゃん無断欠勤やねん」
「無断欠勤!?平家さんがぁ!?」
「おかしいやろ?みっちゃんはそんな事するような子やないのに…。家に電話
してもおらんし、携帯にも出ぇへんねん。ホンマどうしたんやろなぁ?」
平家は学校に来ていない?何故?後藤の知る限りでは、平家が無断欠
勤などした事は1度もないはずだ。昨夜の事も妙に気になる。あれから何度
も平家の携帯に連絡を入れているが、まったく反応はない。
心配になった後藤は、もう一度生物準備室を覗いてみようと足を進めた。
廊下のスピーカーから授業開始を告げるチャイムが聞こえてくるが、後藤はま
ったく気にする様子もなく真っ直ぐ目的地に向かって歩いていった。
後藤はそっと廊下から生物室の様子を伺った。誰もいない。幸い、次の授
業では使用しないらしい。まぁ、生物担当の平家がいないのだから当然とい
えば当然だ。
周りをきょろきょろと見まわすと、後藤はすっと生物室の中に入った。念のた
め、生物室は中から鍵をかけておく。
「平家さん、やっぱりいないかぁ…」
準備室に入った後藤は深いため息をついた。もう朝から何度も覗いているの
だ、突然平家がいるわけがない。
「もぉ〜!!平家さんどこ行っちゃったのよぉ!!!」
後藤はどうにもやりきれなくなり、力一杯壁を蹴りつけた。その時だった。
ドササササッ!!!!
後藤の力があまりにも強かった為か単に壁がもろかっただけなのかは深く追
究はしないが、あまりの衝撃で乱雑に積み重ねてあった本棚の上のファイル
や書物が勢いよく崩れ落ちてきた。
「いった〜!!なにこれぇ!!もぉ〜、ちゃんと片付けといてよぉ…」
頭を痛そうにさすりながら後藤がぼやいた。ファイルの一冊が後藤の頭を直
撃したのだった。
「むぅ〜、置く場所ないなら本棚もう一個入れればいいのにぃ…あれ?」
ふと後藤は、本棚の上に不思議な物体を発見した。どうやら積んであったフ
ァイルやらで今まで見えなかったようだ。
「なんだろ、アレ。…カメラ?」
後藤はイスを踏み台にすると、そっと本棚の上を覗いてみた。ひょいと頭を出
した後藤の目に飛び込んできたのは一台のビデオカメラらしきものだった。カメ
ラの後ろを見ると、コードが下の方にに繋がっている。
「…これってもしかして監視カメラとか?なんでこんなトコに!?」
後藤は店などに設置してある監視カメラの事を思い出した。今自分の目の
前にあるのはまさにそれにそっくりだ。
とりあえず後藤はイスから降りた。監視カメラのスイッチを切ろうとしたのだが、
どこをどういじっていいのかがまったく分からなかったのだ。
ストンとイスに座ると、後藤はある事に気がついた。
「監視カメラってコトはぁ、誰かがここを覗いてたってこと?まさか平家さんが…
ってそんなワケないしなぁ〜、一体誰が…」
そこまでブツブツとひとり言を呟いた瞬間、後藤の顔色が変わった。
「待って!誰かが覗いてたってコトは夕べのアレも撮られてたってコトぉ!?ち
ょっとマジ!?ウソォ!!ヤバイよ、それ!!!」
後藤は勢いよくイスから立ちあがった。あまりの勢いにイスが後ろに思いっきり
倒れる。だが後藤は倒れたイスには目もくれずうろうろと部屋中を歩きはじめ
た。どうやら感情の昂ぶりを抑える事ができないらしい。
「えっ!!マジ!?夕べのが撮られてたってコトはこないだのもぉ!!?つー
かその前のも撮られてたらどうしよぉ〜!!!」
後藤は力尽きたようにその場に座りこむと頭を抱えた。突然の出来事に頭が
混乱している。何をどうしていいのかもわからない。
「平家さぁ〜ん!!どうしよぉ〜〜〜〜!!!」
主のいない生物準備室に、後藤の悲痛な叫び声だけがむなしく響き渡って
いた。
『えっ!!マジ!?夕べのが撮られてたってコトはこないだのもぉ!!?つー
かその前のも撮られてたらどうしよぉ〜!!!』
人影はじっと放送室のモニターに見入っていた。緊急の場合の連絡は職員
室にある放送機材を使う為、授業中である今、放送室に立ち入る者など
いない。
『平家さぁ〜ん!!どうしよぉ〜〜〜〜!!!』
モニターの中では後藤が頭を抱えて平家の名を叫んでいる。そんな後藤の
姿を見ながら、人影は軽く笑った。
「後藤ー、ダメだよ?いつまでもみっちゃんを頼ってちゃ。って言うか2人ともホ
ントに学校をなんだと思ってたのかな?ホテルじゃないんだからさー」
少し羨ましそうな口調でそう言うと、人影―矢口はう〜ん!と伸びをした。
後藤にカメラを見つけられたのは計算外だったが、特に問題はないだろう。あ
んなモノが映っているのでは、後藤もコトを大きくできないはずだ。そう考える
と、矢口はゆっくりとイスから立ちあがった。そろそろ「アレ」の様子が気になる。
一応止血はしておいたので死ぬ事はまずないだろうが万が一と言う事もあ
る。
モニター類の接続を全てオフにすると、矢口は静かに放送室を後にした。
「うぅ…?」
誰かに呼ばれた気がして、平家はゆっくりと目を開けた。座ったまま後ろ手で
縛られている為、身体が痛い。ここはどこだろう?そう思って平家がきょろきょ
ろと回りを見まわしていると、ふと後ろから声がした。
「みっちゃん、おはよう。気分はどう?ってもう夕方か」
「…矢口?」
後ろには跳び箱に座った矢口が笑いながらこちらを見ている。どうやらここは
体育倉庫のようだ。
「ねぇねぇ、キズは大丈夫?矢口が手当てしてあげたんだよ。感謝してよね」
「…アンタがやったくせによう言うわ」
平家は小さく吐き捨てた。
「みっちゃ〜ん!聞こえてるよー!!そう言うことばっか言ってるとココから出し
てあげないよー?」
確かに今の自分の命は矢口に握られているようなものだ。平家はそっと気持
ちを落ち着かせた。
「矢口、アンタの目的はなんやねん?アタシなんか捕まえてどないすんねん?」
「別に?理由なんかないよ。ただ、気絶してる人殺してもおもしろくないじゃ
ん?ね、みっちゃん」
この子は一体何を言っているのだろうか!?平家は一瞬自分の耳が信じら
れなかった。おもしろくない?まさかそんな理由で殺人を繰り返していたの
か!?平家は思わず叫んだ。
「アンタ何考えてんねん!!そんなん…そんなん…アホか!!ふざけんのも
ええかげんにしぃや!!!」
「みっちゃん、何怒ってるの?みっちゃんだって人殺したいって思ったコトあるで
しょ?」
そう言うと矢口はゆっくりと近づいてきた。顔は相変わらず笑ったままだ。
「ねぇ、あるんでしょ?なんでみんな実行しないのかなー?」
「そんなん…そんなんあるワケないやん!!アンタ何アホなこと言うてんね
ん!!」
「そんなに怒んないでよー。もー、恐いじゃん!!」
そう言うと矢口は制服のポケットから小型の折りたたみ式ナイフを取り出し
た。
そして平家の横にしゃがみ込むと、手を縛ってあるロープにスッと軽く切れ目を
入れる。
「みっちゃん、そのロープが切れたら屋上に来てよ。おもしろいモノが見れるか
らさ」
「えっ?」
「じゃあね、みっちゃん。待ってるからねー!」
そう言うと矢口は軽やかな足取りで体育倉庫から出ていった。まるで、遊び
場に向かう子供のような、そんな感じだ。平家は背筋がゾッとするような感覚
に襲われた。このままあの子を好きなようにさせてはいけない!そう思うと平
家は必死に身体を動かし、なんとかロープを切ろうともがき始めた。平家みち
よ、やはり教師魂が溢れきっている女である。
「あぁ〜あ、結局平家さん来なかったなぁ〜。あのビデオのこととか聞きたかっ
たのに…」
後藤はドサッと机に突っ伏すとはぁ〜っと溜息を吐いた。
授業の終了時刻はもうとっくに過ぎており、教室に残っている生徒など誰も
いない。後藤はちらりと教室の壁に掛けてある時計を見た。もう7時を回って
いる。
「もう部活も終わったかぁ〜。これだけ待っても来ないんならやっぱもう来ない
のかなぁ〜?はぁ…カオリでも誘って帰ろっかなぁ。まだ部室に行けばいるよ
ね」
後藤はカバンをつかむと立ちあがり、教室のドアをガラっと開けた。丁度その
時、誰かが教室に入ろうとしていたらしく、後藤はその人影に思いっきりぶつ
かってしまった。
「いった〜!あ、ごめん…」
「いたたたた、アレ?後藤じゃん。こんな時間まで何してんの?」
後藤の目の前に立っていたのは矢口だった。ちっちゃいから気付かなかったよ
…。矢口の頭が直撃した胸のあたりを痛そうにおさえながら、後藤はぼんやり
とそう思った。
「やぐっちゃんこそ何してんの?あ、そうだ。今日もカオリと帰るの?なら、アタ
シも一緒に帰っていい?」
「今日はカオリとは一緒に帰んないよー。後藤、カオリと帰る約束してん
の?」
「ううん。してないよ。他に帰る人いないからさぁ、一緒に帰ろっかなぁ〜って
思って」
「じゃあ後藤。今からちょっと矢口に付き合ってくんない?矢口行くトコあるか
らさー、一緒に来てよ」
「別にいいけど?で、どこ行くの?」
「来ればわかるよー。さ、行こ」
そう言うと矢口は後藤の手をとって歩き出した。ワケが分からないという顔をし
ながらも、後藤は矢口の後に続く。矢口が階段を上ろうとした時、後藤は思
わず声を掛けた。
「ねぇ、なんで上行くの?帰るんじゃないのぉ?」
「まだ帰んないよー。これから面白くなるんだからさ、帰ったりなんかしたらもっ
たいないよー?」
「なにそれ?ワケ分かんないよ〜!ねぇ、どこ行くのぉ?」
「いいから、いいから。矢口についてきなー!」
矢口の楽しそうな様子に後藤は少し不信感を覚えたが、そんな後藤を気に
する様子もなく矢口は後藤の手を引いてどんどん階段を上っていく。後藤
は、ただ矢口についていくしかなかった。
「ねぇ、屋上なんかに何の用があんの?ねぇ〜、聞いてんのぉ〜?」
後藤の言葉を無視して、矢口は屋上のフェンスにそっと寄りかかった。
「後藤ー、こっち来なよ。星すっごいキレイだよー?」
星を見るためにわざわざ屋上まで来たのかな?そう思いながら後藤はゆっくり
とフェンスに近づいていった。
「もう帰ろうよぉ〜。星なんかどこでも見るれるじゃん。アタシお腹すいたよ」
「後藤、みっちゃんがどこにいるか知ってる?」
ふいに矢口が口を開いた。
「えっ!?平家さんどこにいるの?知ってんの?どこ?どこにいるの?」
「そんなに焦んないでよー。多分もうすぐわかると思うからさ」
矢口はなにやらカバンの中をガサガサとあさりながら軽い感じでそう言った。な
にを探しているのだろう?後藤がチラリと矢口のカバンを横目で覗いた、その
時だった。
ブンッ!!
矢口がいきなり右腕を力一杯振り下ろした。突然の出来事に、後藤はとっ
さに両腕を交差させ頭を庇うような体勢をとる。
「や、やぐっちゃん?いきなり何を…」
「あーあ、外しちゃった。残念」
ふいに、右腕に鋭い痛みが走る。見ると、制服のシャツの腕の部分が真っ赤
に染まっている。
「いた…。なんで…?」
後藤は思わず傷口を強く握り締めた。ジンジンと痛みが広がっていく。痛みに
耐えながら矢口の振り下ろされた右腕を見ると、そこには大型のサバイバル
ナイフのようなものが握られている。その瞬間、後藤は全てを悟った。
「やぐっちゃん…ウソだよね…。ねぇ、やぐっちゃんはそんなことしてないよね?」
「後藤、見てわかんない?アンタも結構お人よしだよね。何にも知らずに矢
口についてきちゃうんだからさー」
そう言いながら、矢口はジリジリと後藤との距離を詰めていく。相変わらず顔
は笑ったままだ。まるで、新しいオモチャを見つけた子供のようだ。
「なんで…ウソだよ…。ねぇ、ウソって言ってよぉ!!」
そんな後藤の叫びを無視して、矢口は勢いよく後藤に向かってナイフを突き
出す。
なんで矢口が?どうして?後藤の頭は既にパニック状態で、もうナイフを避け
るのが精一杯だ。後藤には何故矢口がこんな事をするのかがまったく分から
なかった。だた一つ分かるのは、矢口が自分を殺そうとしている事だけ。
「後藤、どうしたのー?ちゃんと逃げないと死んじゃうよ?いいの?」
ふいに、後藤の背中にフェンスが当たる。もう逃げ場はない。矢口は獲物を
追い詰めたハンターのように心から楽しそうなで後藤を見つめている。後藤は
深く深呼吸をした。右腕からはポタポタと鮮血が流れつづけている。もう自分
はダメかもしれない、でもその前に、どうしても矢口に聞いておきたい事があ
る。
後藤は矢口に動揺を悟られないようにゆっくりと口を開いた。
「平家さんは…?」
「ん?何?」
「平家さんは、どうしたの…?」
矢口は軽く笑うとすっとナイフを後藤の首に突きつけた。喉元にチクリと痛み
が走る。
「どうなったと思う?…わかるよね?」
「ウソ!そんな…!!」
「ごとー、動いちゃダメだよー。ノド、切れちゃうよ?」
もうダメだ。もう自分は矢口に殺される。恐らく逃げる事は不可能だ。それに
…、それに、平家はもういない。
後藤は深く息を吐くと、全てを諦めたようにそっと目を閉じた。
「ふーん、結構あっさりしてるね。別に死ぬのは恐くないってカンジなのかな
ー?…ムカツクよ、その態度!!」
そう叫ぶと、矢口は傷ついた後藤の右腕に力一杯ナイフを突き刺した。
「うっ・・!!」
後藤はキツク唇を噛んだ。右腕に激痛が走る。もう泣きたい気分だ。だが後
藤はグッと矢口を睨みつけた。弱い姿など見せたくない!矢口はナイフを抜
こうとはせずに、更にナイフをグリグリと傷口に深く差し込んでいく。
「痛いんだろぉ!!なんでガマンすんだよぉ!!痛いって言えよ!痛いからも
う許してくださいって泣き叫んでみろよぉー!!なんなんだよー!!なんで
お前らはそうなんだよぉーー!!!」
矢口は必死の形相でナイフを握る手に力を込めつづけた。
お前ら?後藤は矢口の言葉にふと違和感を感じた。まるで、自分以外の
誰かにも向かって言っているような、そんな感じだ。一体誰に?
「なんだよぉー!!泣けよぉ!!許してくださいって泣いてみろよぉーー!!
なぁ!その態度がムカツクんだよぉ!!いっつもすました顔してよぉ!!ふざ
けんなよーー!!!!」
もう痛みに耐えきれなくなり、後藤は思わず地面に座りこんだ。足に当たるコ
ンクリートの感触が妙に冷たく感じる。矢口は、全体重をかけてナイフを押し
つける。痛い、もう腕の感覚はない。まるで腕だけが自分の身体から離れて
しまったような、そんな感じだ。
矢口は一体何に対して怒りをぶつけているのだろう?薄らいでいく意識の中
で後藤は考えた。どう考えても矢口の怒りは自分に向けられているものでは
ない。誰か、別の誰かに向けられたもの…。
バンッ!!
突然、屋上のドアが勢いよく開かれた。
「矢口!!やめんかい!!!」
ドアを開けて現れたのは平家だった。
「へ…いけ・・さん?」
後藤はポカンとした顔で平家を見つめている。無理もないだろう、もう平家は
いないものだと思いこんでいたのだから。
「後藤!!大丈夫か!?」
血を流し座りこんでいる後藤を発見すると、平家は慌てて後藤の元に駆け
寄ろうとした。その瞬間、矢口は後藤の腕に突き刺していたナイフをズルっと
抜くと、それを後藤の首筋に突きつけた。
「来るな!!来たら後藤、殺しちゃうよ…」
「矢口…やめなさい。な?そんな危ないモン、持ってたらアカンで…。なぁ?」
そう言いながら、平家はゆっくりと矢口に近づいていく。
「来るなって言ってんじゃん!!来るなよぉー!!!」
矢口の叫びを無視して、平家は更に近づいていく。矢口の手は、何故か震
えていた。それに、先程体育倉庫で見た矢口とは明らかに様子が違うように
思える。まるで、何かに怯えているような、そんな感じがする。
「矢口、それをこっちに寄こしぃ。な?危ないやろ?恐いやろ?お願いやから
アタシの言う事聞いてぇな」
「なんで来るんだよぉ…。もっと恐がって、もっと怯えてくれたら矢口はなんにも
しなかったのに…」
「矢口?」
矢口の様子がおかしい。身体がガタガタと震えている。後藤もそんな矢口に
気付いたようだ。どういうこと?と言う感じで、平家の方に視線を向けている。
「やぐっちゃん…?どうしたの?」
「なんでだよぉ…。なんで…だよぉ…。本気じゃなかったのに…」
矢口はブツブツと小さな声で呟いている。後藤や平家の声などまったく耳に
入ってはいない様子だ。
「矢口…。何を言ってんねん…?」
「ちょっとした遊びのつもりだったんだよぉ…。殺すつもりなんてなかったのに…」
「矢口、落ち着きなさい。矢口!?」
「なっちが悪いんだ…。全部、あの女が悪いんだ…。矢口は悪くない…矢口
は…悪くない…」
なっち?どこかで聞いたことのある名前だ。なっちと言うのは恐らく愛称か何か
だろう。本名は何だっただろう。確かにどこかで聞いた事がある…。平家は必
死に記憶をたどった。
「なんでなっちが関係あるの!?ねぇ!やぐっちゃん!!」
「黙れよぉ!!お前には関係ないだろぉ!!!悪いのはなっちなんだよ!ガ
タガタ言うとお前も殺すぞぉー!!!」
矢口は思わず絶叫した。お前も?その瞬間、平家の頭にある人物の顔が
浮かんだ。安倍なつみ―今回の連続殺人事件の第一被害者の名前だ。
前に何回か矢口が「なっち」と言う名前で彼女を呼んでいるのを見たことがあ
る。直接授業を受け持ったことはなかったので、愛称までは記憶してはいな
かったのだ。
「矢口…、どういう事なんや?なんで安倍が関係してんねん…?」
「うるせーよー!!矢口は…矢口は悪くないんだよぉ!!」
そう言うと矢口は後藤の首筋に向かってナイフを突き刺した。後藤の首にうっ
すらと赤い線が浮かび上がる。どうやらギリギリでかわしたらしく、皮が薄く切
れている。
「矢口!落ち着きなさい!矢口!!」
「殺すつもりはなかったんだよぉ…。ただ…ただちょっと脅かしてやろうと思って
…。なのにアイツ…全然恐がらなくって…」
矢口の声が震えている。平家はそっと矢口の右手を掴んだ。抵抗は、しない。
「矢口、どういう事やねん…。アタシに話してみてくれへんか…?」
そう言いながら、平家はゆっくりと矢口の手に握られているナイフを抜いた。あ
まりの無抵抗さに、平家は少し驚いた。先程までの矢口とは完全に別人の
ようだ。平家の目の前に立っている矢口はあまりにも弱弱しく、今にも消えて
しまいそうな、そんな錯覚にさえ陥る。
「最初は冗談のつもりだったんだよぉ…。ムカツクからちょっと脅かしてやろうと
思って…」
ポツリポツリと矢口は言葉を繋いでいく。
「矢口、一体なんの用?なっちもう帰りたいんだけど…」
安倍がクルリと矢口の方を振り向いた。もう空は真っ暗だ。2人がいる学校
の裏庭は、ひっそりと静まりかえっている。
「別にいいじゃん。ちょっとぐらい付き合ってよ」
「だってもうこんな時間だよ。早く帰らないとダメだよ」
先程から、安倍はしきりに時間を気にしている。矢口はゆっくりと安倍に近づ
いていった。安倍は不安気な様子で、何度も腕時計をちらちらと確認してい
る。
「なっちってさー、なんでいっつもそうなのかなー?」
「えっ?」
「なんか優等生ぶってるって言うかさ、そういうの見てると、矢口すっごいムカツ
クんだよねー」
「矢口、なに言ってるの?別になっちは別にそんなつもりじゃ…」
必死になって誤解を解こうとしている安倍の鼻先に、矢口はスッとサバイバル
ナイフを突きつけた。安倍の動きがとまる。
「や、矢口?なにするのよ!?ねぇ、冗談やめてよ…」
「なっち、恐い?ねぇ、恐いんなら恐いって言っていいんだよ?」
矢口は楽しそうに安倍にナイフを突きつけている。完全に安倍をからかってい
る様子だ。そんな矢口に気付いたのか、安倍はスッと矢口の目を睨みつけ
た。
「そう言う事なんだ。矢口…サイテーだよ」
「なんだよ、その目は!その目がムカツクんだよぉ!」
そう言うと矢口はナイフを振り下ろした。安倍の頬にスッと切れ目が入る。だ
が安倍は、切られた頬を押さえようともせずに、ジッと矢口を睨みつけている。
「何ガマンしてんだよぉ!痛いんなら痛いって言えばいいじゃん!そう言うトコ
がムカツクんだよ!!」
その時、ずっと無言だった安倍がふいに口を開いた。何故かとても悲しそうな
顔をしている。
「矢口…可哀相だね。そんなことしかできないなんて。そんなことでしか自分
を表現できないなんて…」
安倍の目は、まるで哀れむかのように矢口を見つめている。矢口は自分の
中から何かが湧き上がってくるような感覚を覚えた。
「その後のことはよく覚えてない…。気がついたら…なっちが倒れてた…」
「矢口…」
平家はなんと言っていいのか分からなかった。今の矢口に自分は一体どんな
言葉をかけてあげられると言うのだろうか。ふと横を見ると、後藤がフェンスに
寄りかかりぐったりとしている。かなり出血がひどいようだ。
「それから…なんか矢口おかしくなっちゃって…。誰かが矢口に怯えてると…
なんかすっごいうれしくて…。なんか…怯えた顔見てるのが、すっごい楽しく
って…」
「…それであんな事をしたんか?」
平家の言葉に、矢口は小さく頷いた。平家はそっと矢口の肩を抱いた。矢
口のした事は決して許される事ではない。だが、平家には小さな身体をカタ
カタと震わせているこの少女を突き放すような事はできなかった。
「矢口…サイテーだよね…。なんであんな事しちゃったんだろ?」
「もうええから。な?矢口、もうええから…」
「なんであんなに楽しかったんだろ…?わかんないよぉ…なんで!なんで!!」
矢口は頭を抱えると絶叫した。
「矢口!落ち着いきぃや!なぁ!!平気や。もう平気やから!!」
「触んないでよぉ!!!」
矢口は力一杯平家を突き飛ばすといきなりフェンスをよじ登り始めた。突然
の矢口の行動に、平家は一瞬動く事ができなかった。矢口は一気にフェンス
の向こう側へ移動した。
最悪の状況だ…。平家は慌ててフェンスに駆け寄った。
「矢口!何アホなこと考えてんねん!!危ないからこっち戻ってきぃや!!
な!?」
平家は懸命に矢口に話しかけるが、矢口はまったく平家の方を振り向く様
子はない。平家の足元では、後藤が血に染まった腕を押さえながら座ってい
る。もうほとんど意識がないようだ。後藤の様子も気になる、だが、今は矢口
が先だ!平家は後藤から目をそらすと再び矢口に声をかける。
「矢口!!聞いとるんかぁ!?なぁ!矢口!!」
「ねぇ、みっちゃん…」
ふいに矢口が口を開いた。身体は、平家とは反対方向を向いたままだ。
「矢口が死んだら、みんな矢口のコト許してくれるかなぁ?」
「矢口…アンタ何アホなこと言うてんねん…。なぁ、矢口…そこは危ないさか
いこっち来ぃや。な?」
「こんなことくらいじゃ、みんな許してくれないよね…。でもさ、矢口、他にどう
していいかわかんないよ…」
「アホか!アンタが生きることが、それがみんなへの償いになんねん!死んだ
らそれで終りやん!なんの償いにもならへんで!!!」
平家は、フェンスの間から必死に手を伸ばそうとした。だが矢口は、そんな平
家の手から逃れるようにジリジリと前に進んでいく。
「みっちゃん、後藤を早く病院に連れてってあげて。もうヤバそうな感じだからさ
…」
「矢口!!アホなことはやめんかい!!!矢口!!!」
矢口は平家の方を振り返ろうともせず更に前に進んでいく。
「みっちゃんゴメンね。矢口バカだからさー、こんなことしか思いつかないんだよ
…。ゴメンね」
そう言うと矢口はふっと振りかえり、そっと平家に笑いかけた。次の瞬間、矢
口の姿が消えた。本当に一瞬の出来事だった。数秒後、下の方から何かが
潰れるような嫌な衝撃音が聞こえる。
平家はただ呆然と立ち尽くしていた。もう何も分からない。足元にいる後藤
の苦しげな呼吸音だけが妙に大きく聞こえる。平家は、ただその場に立ち尽
くしているだけだった。
キーンコーンカーンコーン。
授業の終了を告げる鐘の音が、学園内に響き渡る。この鐘の音だけは創
立当初からまったく変わる事がない。しばらくすると生徒達がザワザワと教室
から飛び出していく。家路につく者、部活へと向かう者、様々だ。
平家はそんな生徒達の声を生物準備室でぼんやりと聞いていた。30分程
前にいれられたコーヒーは、まったく手をつけられていないままもうすっかり冷め
てしまっている。
ふいに平家の背中を衝撃が襲う。平家は軽く笑うとそっと背中にくっついてい
る物体に目をやった。
「後藤、重いで」
「いいじゃん、別に〜!」
そう言うと後藤は平家の首を、後ろからギュッと抱きしめた。
「包帯…もう取れたんか?」
「うん」
平家は、首にまわされた後藤の腕にそっと触れた。半袖のシャツからわずかに
覗く傷跡が痛々しい。
「キズ…残ってもうたな…」
「そうだね」
その時だった。
ガラッ。
突然、生物準備室のドアが勢いよく開いた。
「みっちゃん!!やっぱり後藤とそういう関係だったのね!!ひどい!アタシを
捨てて!!!」
「…矢口?」
平家は思わず自分の目を疑った。何故矢口がここに!?だって矢口は…。
「もぉ〜!みっちゃん!なにボーっとしてんねん!ちゃんとツッコミ入れてくれな
ウチ、アホみたいやん!!」
「あ…裕ちゃん」
ドアを開けて立っていたのは中澤だった。平家は慌てて目をこすった。中澤を
見間違えるだなんてどうかしている。
「ああ、ゴメンゴメン。ちょおボーっとしてて…。で、なんや?なんか用なん?」
平家は、まだ首にくっついている物体を軽くはたくと中澤に向かって尋ねた。
「なぁ、今夜飲みに行かへん?もちろん、後藤も一緒にな」
「は〜い!行く行く!アタシも行きま〜っす!!」
「アホか!未成年飲みに誘ってどないすんねん!ホンマ何考えてんねん。誰
かに見つかったらどないすんのや!だいたい仮にも教師っちゅー立場におる
人間がやなぁ…」
「せやからみっちゃんちで飲んだら問題ないやん。な、後藤?」
「あ〜!アタシ平家さんち行ってみたい!!ね、平家さん。いいでしょ?」
「ええやん、みっちゃん。たまにはパーっと飲もうや!な?飲んで飲んで、飲み
まくったらええねん!!」
「……そうやな」
「やったぁ〜!けって〜い!!!」
「ほな、はよ行こうや!な、みっちゃん?」
「アホかい!勤務時間が終わってからに決まっとるやろ!!」
窓からは眩しい程の太陽の日差しが差し込んでいる。雲ひとつない真っ青な
空が少し目にしみる。遠くの方から、もう夏の訪れを告げる蝉の声が聞こえ
たような、そんな、気がした。
朝比奈学園教師「平家」 完