地のあじ
「お友だち、来てるわよ」
母にそう言われた時、市井はすでに嫌な予感がしていた。
キッチンのテーブルに自転車の鍵を放ると、母をにらむ。
「“来てるよ”じゃないでしょ。なんで、私がいないのに勝手に上げてるんだよ?」
「ちょっとさや。帽子ぐらいとりなさい」
剣のある言葉にもまったくひるまず、母は市井が目深にかぶっていた帽子を取り上げた。
「まったく。毎日毎日何やってんだか……」
お説教の気配に、あわてて口を挟む。
「うるさいなぁ。それより、話それてる! 私がいない時に……」
「だって、忙しい中わざわざ来てくれてるのよ。そんな『娘が帰って来るまで、あげるわけにはいきませんー』なんて、お母さん言えると思う?」
(予感的中か……)
『忙しい中』
母のその言葉で、8割がた確定していた相手の見当は完全についてしまった。市井は大きくため息をつき、廊下をはさんだ自室のドアを見た。
閉ざされたドアの向こうからは、物音1つ聞こえない。
こちらの気配をうかがっているのか、はたまた遅すぎる昼寝でもしているのか。
市井は冷蔵庫から飲茶楼のペットボトルを取り出すと、後ろを向いたまま、母に向かって「なんもいらないからね」と釘をさした。
この母は、昔から友だちが来るとやたらと張り切ってお菓子・ジュース攻めにするクセがある。
今日の来客がその攻撃を嫌がるわけはないが(むしろ大喜びだろう)、こんな夜更けに間食をさせるわけにはいかない。
「そうなの? スイカぐらいならいいじゃない?」
「ダメだって! とにかく、部屋来ないでね!」
「まったく……お母さんだってお話したいのに……」
ぶつぶつ呟く母親を無視して、市井は部屋へと向かう。
手をかけると、いつものように自室のドアは、すこしきしんだ音を立てた。
いつもは気にならないそのきしみが、今日はまるで今の自分の心の音のように、市井には聞こえた。
窓に向かって立っているのは、見覚えのありすぎる後ろ姿。
気配で気づいているはずなのに、どうやら市井が声をかけるまで振りかえらないつもりらしい。
(黙ったまま入ってってやろうか……)
そんないじわるを思いつくが、あまりにもささやかすぎて、バカらしくなってやめた。
「ご……」
市井の口から『とう』の音が発せらるより先に、後藤はふりかえった。
見なれた満面の笑み。
肩より下にかかるまっすぐな茶髪は、二つに束ねられている。膝丈のデニム地のスカートに、オレンジのキャミソール。軽くはおった袖なしのパーカー。
そこらにいる女の子たちと変わらないファッションながら、そこらにいる女の子たちとは明らかに違うぴかぴかしたオーラをもった少女が、
そこには立っていた。
自分の部屋にはそぐわないな、と市井はすこし目を細めた。
「市井ちゃん」
「どしたの」
市井はつとめて無表情な声を出した。はずむ後藤の声に歯向かうように。
後ろ手でドアを閉めると、市井はベッドに歩み寄った。手に持っていたビニール袋を床に置き、ベッドの真ん中に腰を下ろした。
膝の上にひじをつき、後藤を見上げる。
「なんでこんな急に来るの。連絡の1つくらい入れられるでしょ」
後藤は窓を閉じると、肩をすくめた。
「ていうか、市井ちゃんこそいるべきだよね」
「なんだ、それ」
「こんな超ハードスケジュールをぬって会いに来てんだからさ、ちゃーんと待っててくれないと」
「よく言う。いない時見計らって来たくせに」
「あは。なんであたしがそんなことすんの?」
「私が逃げるから」
後藤は間延びした笑い声を上げた。
市井の緊張感は、この子にはまったく通じない。
部屋を横切ると、後藤はあたりまえのように、市井の隣の狭いスペースに腰を下ろす。ベッドのスプリングが大きな音を立てた。
隣に座られないようにわざわざ真ん中に陣取ったのに、これでは意味がない。
後藤のむきだしの肩をさけるようにして、市井は体の位置をずらした。
そんな市井に、後藤はくすりと笑う。
「なに買って来たのー?」
すい、と視線をそらすと、後藤はビニール袋をがさがさと点検し出した。
「勝手に見んな」
無視。
「え〜っと……。コンビニ? ゲーム雑誌だぁ。そういや、またゲーム増えてるよね。市井ちゃん、目ェますます悪くなっちゃうよ。あ、これ………」
嬉しそうに袋からもう一冊の雑誌を取り出すと、後藤は両手で自分の顔の横にかざした。
雑誌の表紙のものと、まったく同じホンモノの笑顔が並ぶ。見上げる笑顔があまりにも近すぎる気がして、市井は心持ち背をそらした。
「市井ちゃん、こんなんも買ってたんだ。キャシーさんに言ったら、いくらでももらえるのに」
「会う機会ないじゃん」
見つかってしまったばつの悪さを隠して、市井は興味のなさそうな顔を作る。
後藤は雑誌のページを楽しげにめくった。
「この写真、後藤どれもイケてないんだよねー。でもほら、よっすぃー。超かわいく写ってんだよ」
差し出されたページには、ぎこちないながらも、精一杯の笑顔を作る吉澤ひとみのアップがあった。
無理の見えるその笑顔に、張りつめていた気分がすこしほどけた。思わず笑ってしまう。
「吉澤、がんばってんね」
「サイテー」
後藤の刃物めいた声が低く響いた。マイナスの感情をむきだしにした声。
「市井ちゃん、今日はじめて笑った。よっすぃーの話で。そんなにあたしヤなんだ」
以前の屈託のなさからは考えもつかない、突きつけるような声色。
ロウソクの炎を思わせる、沈んだ怒りをたたえた瞳。
後藤はまったく動かない表情で、ただ瞳にだけはあまたの感情を込めて、市井を見上げていた。
市井は自分の顔がひきつってしまうのを、止めることができなかった。
この目で見られるのは、この声でなじられるのは、何度目だろう。
たとえ何度目であろうと慣れることはない。新鮮な痛みが、胸を突き刺す。
それはどれほど心に鎧をまとっていても、その目を見返さないようにしても、市井の心の中に寸分も的をはずさずに飛び込んでくる。
「ごと……」
目がそらされる。後藤はベッドからすべりおりた。
「あ、薬局も行って来たんだぁ。どらどら」
スイッチがぱちんと切り替わった。いつもの能天気な声。
市井の言葉を最後まで聞かず、後藤はビニール袋の中から薬局の紙袋を取り出した。
途切れた言葉、言いたかったことよりも、後藤の刺すような視線から逃れられたことだけが、市井を心底ほっとさせる。
そんな自分に、いつもと同じ嫌悪を感じる。いつも後藤は言わせてくれない。
(だけど、それは……言わせないようにしてくれているのかもしれない)
市井は自嘲的に思った。
だって言うことのできる言葉など、今の自分にはなにひとつないからだ。あるとしたら、それは言い訳にしかならない。
紙袋を破く音。抗議をすることも面倒になって、市井は飲茶楼のフタをあけると、ごくごくと飲んだ。
独特の風味がのどをすべり落ちていく。冷たいものが体に入ったせいか、冷えた気分に拍車がかかる。
冷たくしたいわけじゃない。冷たくないと、やっていられないのだ。傷つくのが怖い自分は、後藤にそっけなくすることで、自分を守ろうとしてる……。
「このあぶらとりがみ、あんまよくないよぉ。お、ニキビのお薬。市井ちゃん、ニキビなんかないじゃんねえ」
後藤はシーブリーズのフタを勝手にあけて、くんくんと匂いをかいでいる。
「なんか、男っぽい匂いだな……ね、つけてみていい?」
「……どうぞ」
「いぇーい」
後藤はパーカーを脱ぐと、キャミソールだけになった。心臓の音まで聞こえてきそうな、健康的な色の肌がむきだしになる。
シーブリーズを両手に振りかけると、肩口や首筋、鎖骨のあたりにぱしゃぱしゃとはたいた。
「おお、なんかひゃっこくて気持ちいい〜」
あぐらをかいたまま、嬉しそうに上半身を揺する。
市井はそんな後藤の顔を見ない。微妙に視線を泳がせながらうなずく。
「ねね、匂いする?」
「さあ」
「かいでみて」
静かな声だった。
後藤は床の上に膝立ちになると、そのまま市井のすぐ目の前にいざり寄った。
後藤の体が、目をそらしたがる市井の視界をふさいでしまう。目線の高さ、ごく近いところに鎖骨が位置する。
目を上げると、後藤と目があってしまう。市井は目を伏せた。
(なんでこんなこと言うんだろ……)
「やだよ」
「お願い」
「なんで」
「いいから」
市井は小さくため息をついた。
手の上にあずけていたあごを上げると……そろそろと背筋を伸ばして、顔を後藤の首筋に近づける。
鎖骨に鼻先が触れそうなところで、涼やかなシーブリーズの香りが鼻腔に忍び込む。それと入り混じって、肌の発する甘い香りを感じた気がした。
「するよ、匂い」
「どんな?」
「シーブリーズ」
「そのまんまじゃん」
後藤の言葉とともに目の前の肌が不服そうにはずむ。
「ねえ、ほかには?」
「わかんない」
甘い香りから逃れるように、市井は近づけていた顔を離そうとしたが。
一瞬、後藤の方が早かった。逃げられるのを待ち構えていた速さでその両腕が動き、市井の頭をドッヂボールを抱きしめるように抱え込んだ。
やわらかい香りと感触に首から上が包まれる。
「ちょっ、後藤……」
あわてて体を引こうとするが、そのやわらかさと反比例して、がっちりと抱え込む腕の力は尋常ではない。
首を引き抜こうと壁際に体をねじる。後藤は逃げる市井の頭を抱えたまま、腕を放そうとはせず、もたれかかるように体を押しつけてくる。
となると……どうなるか。
「ぐえ」
間の抜けた声とともに、市井はベッドに仰向けになった。 後藤がべっちゃりとついてきて、視界をオレンジ色でいっぱいにする。
スプリングが派手に弾み、市井は後藤の体重で窒息死しそうな圧迫感に包まれる。
顔がムネにぎゅうとばかりに押しつぶされて、本気で息ができない。男だったら感動モノだろうが、女の市井にはただ苦しいだけだ。
「あはっ。ははははは……」
なにがおかしいのか、後藤は大笑いだ。顔の上で肌が振動する。
「重いって……。苦しい!」
本気でむぎゅむぎゅつぶやく市井に、後藤はようやく少しだけ体を浮かせた。
腰から下はあずけたまま、上半身だけを持ち上げる。
やっと空気を吸いこめて、市井は荒い息をついた。
間近で後藤がこちらをのぞきこんでいることに気づき、すぐに顔を横に向ける。
「なに考えてんだ……」
「市井ちゃん、すっぴんだね。日焼け止めぐらい塗らないと、肌荒れるよ」
例によって、かみ合うことのない会話。
お互いがかみ合わせようとしていないなら、きっとこの先も、永久にすれ違ったままだろう。
「重いよ。どいて」
「ね、今日泊まってっていい?」
無理なのをわかっていて、後藤は毎回同じことを言う。
「ダメだよ。明日も仕事あるじゃん」
そして、市井も毎回同じ言葉を返す。
「いーじゃん」
「ダメ。ちゃんと自分ちで寝ないと、疲れ取れないよ」
「かわんないよ〜。明日の朝イチで帰って、着替えて行けば全然オッケーだってば」
(そんな気なんか、ないくせにな……)
市井が困るのを見て喜んでいるだけだ。
市井が嫌がること、困ること。後藤がそれを選んでするようになったのはいつからだろう。
「ダメ。ていうか、そろそろ帰んないと、電車なくなるから。どいて」
「ケチ〜」
後藤は上半身を起こした。
やっと解放されるかとほっとしたが、甘かったらしい。そのまま、市井のお腹の上に馬乗りになる。
重い。
胃を押しつぶされて、市井は顔をしかめた。
「市井ちゃん」
「……………」
「こっち向いて」
その声に、どことないさびしさを市井は感じた。
市井は逃げたがる視線を無理矢理後藤に向けた。その目をまともに見返す。
白い天井と壁をバックにして、後藤は、背を屈めて市井の顔を見下ろしていた。
あまりなじみのない角度で見る後藤の顔は、同じ顔をした別の人物のような目をしている。
体の角度に連れて、長い髪がゆらゆらとその頬に影を落としている。そういえば以前よりだいぶ前髪が伸びている。
(ずいぶん顔つきが変わったな)
後藤の目の意味を考えるわずらわしさに、市井はそんなどうでもいいことを思ってみる。
(下から見上げてるせいかもしれないけど……)
冷たい瞳の後藤は、おそろしくきれいに見える。
ふにゃふにゃと笑って、泣いて、甘えたことばかり言っていた、あの頃の後藤は――
やたらと張り切って、お姉さんぶってばかりいた、あの頃の自分は――
一体どこに行ってしまったのだろう。
長い間見つめあっていた視線を先にはずしたのは……やはり市井だった。
自分がさまざまなことを思いながら後藤を見上げていた時、同じ時間だけこちらを見下ろしていた後藤は、いったい何を考えていたのだろうか。
視線がはずされるのが合図だったかのように、後藤が市井のシャツのボタンに手をかけた。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。
いつものように下着の見える直前の位置で、後藤はシャツを大きくはだけた。
市井の白い首筋があらわになる。
(ああ、やっぱりな……)
市井は目を閉じた。このあとどうされるのかはわかっている。何度か繰り返された理由のわからない行為。
後藤の指先が、位置を確かめるように鎖骨から下をなぞった。
髪がさらさらと首筋に降り、いつもと同じ所――鎖骨よりも下、胸のふくらみよりすこし上に、
唇がおしつけられた。やわらかくほんのりとあたたかい感触。
後藤は熱心に、円を描くように、狭い範囲をくちづける。そして……。
「いっづ!!」
市井はあまりの痛さに、ベッドから半身を浮かせた。
予想していたとはいえ、今までにない痛さである。後藤の唇が離れる。
鋭い痛みのあとに、鈍痛がじわじわと押し寄せてきた。市井は目を開けて自分の肌を見下ろした。
ほんのりとクレヨンでまぶしたような口紅のあとに囲まれて、真っ赤な血がじわじわと、けっこうな勢いでにじみだしている。
後藤は自らのつけた傷が流す血を、放心して眺めている。
「ちょっと……これは……しゃれになんないよ」
痛さのあまり、市井は涙目になっている。後藤は一瞬市井の顔を見て、傷口に視線を戻した。唇で再び傷口をふさぐ。
(いってぇ……!)
唾液が染みて、声にならない痛さである。市井は歯を食いしばった。
「血……止まったみたい」
後藤はようやっと市井の体を離した。重い動作でベッドの端に移動する後藤は、コンサートのあとのように空気の抜けた顔をしている。
寝転んだままの市井は一気に圧迫感から解放された。のろのろと起きあがると、噛み付かれた傷を見下ろす。
痛みはだいぶひいていたが、真っ赤な皮膚の色と、血のにじんだ歯型が胸元に小さな花を咲かせている。
「ちょっと……血ィ出るまで噛むことはないでしょ……」
頭がぼうっとして、言葉に力が入らない。
「だって……前につけたの、もう消えちゃってたから……。今度あたしが来るまで消えないようにって思ったら、めっちゃ強く噛んじゃった」
後藤は言い訳がましく、でもすこし後ろめたそうに呟く。
「これ……なんの意味があるわけ?」
「市井ちゃんがあたしを忘れないように……って、何回も言ってんじゃん」
「こんなことしないでも……忘れたりしない、よ」
「うそつき」
後藤の声に力がこもる。
「市井ちゃんはうそつきだからね、信用しないの」
市井は言葉を失う。
「帰る」
市井の返ることのない返事を待つことなく、後藤は立ちあがった。投げ捨ててあったパーカーをひっかけると、鏡台に向かい前髪をなおす。
市井は黙ったまま、傷口に触れないよう、そろそろとシャツのボタンをとめた。
(今年の夏は、ノースリーブは着れないな……。水着なんかはもともと着ないからいいんだけど……)
襟ぐりの深い服はとうぶん着ることができない。
後藤が振りかえる。
「市井ちゃんさ、髪切った方がいいよ」
さっきまでのことはなかったことのように、淡々とした顔をしている。
市井が無言でいると「やっぱさ、短い方が似合うと思うんだ」と、またそばに歩み寄ってくる。
「あんたこそ……」
「ん? なに?」
「そのウィッグはどうかと思う」
「あははは。みんな言うよねー。ウチのお母さんも、イケてないって。やぐっちゃんは褒めてくれたんだけど」
「そりゃ矢口はね」
「後藤としては“そ〜と〜”イケてる、って感じなんだけど」
後藤は『そ〜と〜』の部分を、妙な手振りと声色つきで言う。つっこむ気力もなく市井は肩をすくめた。
(なんでこんなにフツウに戻ってんだろ)
以前までの後藤と、今の後藤。
くるくるくるくる、猫の目のように入れ替わる。
「さ。じゃ、ほんとに帰る」
後藤はカバンを取り上げると、ひらひらと手を振った。「バイバイ、市井ちゃん。
ツアーがあるからしばらく来れないけど、元気でね」
(来なくていいよ)
出そうになった言葉を飲みこみ、市井はうなずいた。
ドアに手をかけ、後藤はぴたりと足を止めた。まだなにかあるのかと、市井はうんざりした気分になる。
後藤は背を向けたまま静かに言った。
「市井ちゃんさ――あたしがすごいおかしくなったって―――イっちゃってるって思ってるでしょ」
市井は答えられずに続きを待つ。
「でもね、おかしいのはあたしだけじゃないんだよ。市井ちゃんもなんだからね」
言葉のしっぽと、ドアを閉める音が重なった。
(確かに……)
しばし呆然としたあと、市井はベッドにごろりと仰向けになった。
窓の外からささやかな虫の声が聞こえてくる。ずっと鳴いていただろうに、後藤がいなくなってはじめて虫の存在に気づく。
ひどく疲れてしまっていた。
期待しないくせに私を傷つけずにはいられない後藤も、考えることを放棄してしまっている私も。
あんなことをする後藤も、拒否することのできない私も。
もはやお互いが何を求めているかさえわからなくなっている二人は。
病気なのだろう。
治療法はまだ、見つかりそうにない。
後藤が市井の元を定期的に訪れるようになったのは、市井が脱退してからのことだった。
それまでは一度も市井の家になど、訪ねてきたことはなかった。
娘。を脱退して2週間ばかり。まだなにから手をつけていいのかわからずに、ヒマをもてあましていた市井にとっては、意外で嬉しいお客さんだった。メンバーがこんな風に実家まで訪ねてくることもはじめてだったし「どうしてんのかなーって思ってさ」と笑う後藤の好意は、単純にうれしかった。
後藤は訪ねてきてはなにをするということもなく、娘。の最近の仕事のことや、メンバーのウワサ話、たわいもないことを話す。
特に何が聞いて欲しいというようにも見えなかった。時には市井の部屋でうたた寝を決めこんでしまうときもあった。
(忙しいのにいいのかな)
心配に思う時もあった。
なにしろここは千葉だ。東京から、用もないのにそう簡単には来られる距離ではない。仕事の帰りに原宿によるのとはワケが違う。
そうも思ったが、脱退による予想以上の、時間と心の空白に戸惑っていた市井にとっては、
後藤の訪問は、「あっちの世界」との繋がりを感じさせて、今ある不安を軽減してくれた。
はじめて“しるし”をつけられたのは、うたた寝をしていた時だった。
母が勝手に後藤を上げて買い物に出てしまった日、昼寝から目覚めた市井は、自分の肌にくちづけている後藤に心底驚いてしまった。
動揺する市井に、後藤はにっこりと笑った。
『ほら、市井ちゃん、あとついてるでしょ』と。
『こうすれば、これ見るたびに、あたしのこと思い出してくれるよね』
『写真や持ち物じゃダメなの。忘れちゃうかもしれないじゃん。市井ちゃんの体だったら、市井ちゃんが生きてる限り、いっしょにいるでしょ』
そう笑った後藤に、正直市井は薄気味の悪いものを感じないではなかった。
よくはわからないが、まるで恋人同士のような感覚だ。いや、恋人同士だとしても病的な執着だと思う。
そもそも娘。のメンバー内というのは完全な女子高ノリで、キスやら抱擁やらは日常茶飯事だったが、市井はメンバーみんなとじゃれまくりながらも、後藤とはそういうベタベタしたふざけ合いはほとんどしたことがなかった。
後藤も同様で、安倍や矢口とじゃれることはあっても、市井にまとわりついてきたことは、あまりない。
なんとなく、お互いそういう感覚ではなかったのだ。市井の場合は年上の方が甘えやすかったことと、教育係という立場のせいもあったかも知れない。
しかし、脱退後の後藤は、人が変わったかのように市井に甘えてきた。市井も、もともと甘えられるのが嫌いではない。
悪い気はせず、それはそれで良かった。
しかし、“しるし”をつける行為は、そういったじゃれあいの一環としてはあまりにも度が過ぎているようにも思えた。
けれど----理由はわからないけれど。
市井は後藤を拒むことができなかった。
そして後藤が……おりおり人が変わったように冷たい目をすることも、市井を傷つける言葉を投げかけることも。
すべてはその頃からはじまってしまったような気がした。
後藤が、市井に“しるし”をつけはじめた時から。
『市井ちゃんはさ、しんどいことから逃げたかっただけなんだよね』
『あたしと圭ちゃん捨てたくせに』
『そんな理由で市井ちゃん辞めたら、ほかのみんなどうなんの?』
『新メンバー入って来たばっかなのに。彩っぺの時、あたしそうだった。入ってすぐ誰か辞めんのってどんだけ不安になるか、わかってんの?』
『市井ちゃんさ、結局何がしたいの?』
露骨になじるのではない。
思い出話、現在の話、未来の話……なつかしく、楽しげに、夢見がちに。たわいなく流れて行く会話の中で、後藤の言葉はふいに差し挟まれる。
突如黒雲のたちこめる瞳とともに。
それらは夕立の激しさで市井の上に降ってきた。
今までにそんなことをひとことも言ったことのない後藤だけに、市井は少なからぬ衝撃を受けた。
市井が脱退する時も、ただたださみしそうにしているだけで、ほかのメンバーのように、激しい感情を直接市井にぶつけることはなかったのだ。
いや、後藤がそんな声で他人をなじったのも、怒りをぶつけるのも、本当にはじめて見た。
最初のうちは反論もした。
確かに、私は逃げたかもしれない。でも、それだけじゃないんだ、と。
長い市井の言葉のあとに
後藤は『そう』とうなずく。
市井は『そうなんだよ』と言う。
しかし、次に会ったときにはまた、同じ会話が繰り返される。
後藤の感情は振り子のように揺れて、不安定だった。
ひょっとしたら……市井は考えた。
娘。で仕事をすることには、通常では考えられないストレスがつきまとう。
安倍や飯田も、一時精神のバランスを欠いて、ひどく不安定だった頃があった。
今の後藤もそれと同じなのではないか。
だとしたら原因は……後藤のバランスを狂わせたのは……市井の思考はそこで止まる。
それ以上は考えたくない。わかりきっていることだけれど、認められない。それを認めてしまったら、私は先に進めなくなる。
部屋の隅で埃のたまりだした留学のパンフレット。
買ったまま放り出しているギター。
すでに市井の時間は止まってしまっている。
すべては自分でしたことなのに、傷つく覚悟も、傷つけられる覚悟も、充分だったはずなのに。
もたらしたものは予想外に大きかった。
市井はまだ受け止められずにいる。
事務所の重いガラス戸を開けた瞬間、セミの声が鼓膜をつきさした。
うるさすぎて笑いがこみ上げてくるほどの大音量である。
眼鏡越しに飛びこんでくる陽射しも、これでもかというように夏をアピールしてくる。
これから家までの長い道のりを思い出して、市井はうんざりした気持ちになった。
事務所でさまざまな手続きと話し合いを終えたところだった。
脱退の時にきちんと身辺整理は済ませたはずなのに、社長は一度話をしに来いとうるさかった。
しかしどうにも面倒くさく、市井は先延ばしにしていたのだ。
来てみると案の定、再デビューはウチの事務所からしろだの、だいたいなんで辞めたんだだの、ぐちぐちぐちぐち、社長の話は2時間以上に及んだ。
それでなくても弛緩しきっている市井の神経が、耐え切れるわけもない。事務所の扉を再び開く時には、市井はほとほと疲れ果ててしまっていた。
「市井さん」
顔をしかめて外に出かかった市井を呼び止めたのは、事務所の女性社員だった。
小走りでこちらにやって来ると、にこにことクリアファイルにはいった書類を差し出す。
「忘れ物ですよ」
「なんスか? これ」
市井は肩でドアを押さえたまま、書類を取り出した。A5の紙に大きく書かれたのは、小学生が描いたようなヘタな似顔絵。
サルみたいな顔の女の子がこちらに向かってピースサインをしている。
「これって……」
笑いがこぼれてしまう。
見覚えがあった。保田の絵だ。
絵が得意といいながら、描かせてみると、誰もが笑い出すような似顔絵しか描かない。
『紗耶香の絵は、得意なんだよね〜』などと何枚も描かれたから、これがいつのものかは思いだせないが。
「なつかしいなぁ……。わざわざどうも」
市井の笑顔に、中澤と同じくらいの年齢の女性は嬉しそうな顔をする。
「市井さん、みなさんに会って行かれないんですか? 今日は確か、一度事務所に戻ってから解散って聞きましたよ」
市井は苦笑いをした。脱退してから二ヶ月。まだみんなには会いたくなかった。
せめてなにかが自分の中で動き出すまでは、会わせる顔もない。
「ところで紗耶香、今なにやってんの?」
そんな疑問を投げかけられたら、どう答えていいのか。
「いや……今日はいいっス」
「でも、せっかく来たんですから」
「やー、また今度、来ますよ」
「よく言うよ」
呆れたと言わんばかりの声色が、二人の間に飛び込んで来た。
ちょっと皮肉げで、明確な発音。
「んなこと言って、絶対来る気なんかないでしょ、アンタ」
「圭ちゃん!」
なつかしい口調と、笑顔に、声が思わずはずむ。
保田はもたれていた壁から体を離し「ようようよう。ここまで来といて、このアタシにあいさつなしたぁ、いい度胸じゃねぇかよう」と、
ヤンキー口調ですごんでくる。
隠し切れないなつかしさと嬉しさがあふれている目。
「ちょーっと、顔貸してもらおうかのう」といいつつ市井の頭をヘッドロックする。
市井も満点の笑顔で保田の肩を抱きかえした。
「ひさしぶり、圭ちゃん」
「オッス、紗耶香」
おたがいに最高の笑顔で相手を見返す。
「あの……保田さん。ほかのみなさんは?」
遠慮がちに口をはさむ女性社員。
「あ、まだです」
社員に答えたあと、保田は市井に向かってぺろりと舌を出す。「へっへー。紗耶香くるって聞いてたからね、先帰らしてもらったんだよ」
社員の女性はそんな二人を微笑んで見たあと、気をきかせるように軽く会釈をして去って行った。
「さってと、ここじゃナンだから……。そこの公園行こっか」
保田は市井の首を抱きしめたまま、親指で事務所の外を指す。「みんなに会いたくないんでしょ」
「……すまんね」
市井はあいまいな笑みを返す。
とぎれることのないセミの奏でるバックグラウンドミュージックの中、二人は公園の並木道を歩く。
「あっちぃ。なんだ、この暑さは」
「ヤバイね。焦げるって感じだよ」
とはいえ、今からラジオの仕事に向かわねばならない保田には、喫茶店でお茶をする時間もないらしい。
仕方がないので、広場に向かってそぞろ歩きながら話をする。
「あっ、見たよ、カウントダウーン。一位じゃん。やったね、おめでと〜!」
「へっへっへっ。やー、わたしゃ、がんばったよ」
両手のピースと満面の笑顔。市井も同じ明るさの笑顔で親指を突き出した。
ひとしきり、二人で喜び合う。
「そういえば、裕ちゃん最近ね……」
「犬買ったんだよ〜。も、メッチャかわいんだ……」
堰を切ったように近況報告をしていた保田が、ふいにぴたりと言葉を止めて、うなずきながら聞いていた市井の顔をまじまじと見つめた。
「なんか紗耶香……顔色悪くない? 前にも増して白くなってる気がするんですけど」
「そりゃ、外出てないからね」
市井は自身の頬をぴしゃぴしゃとたたいた。
「美白ってか。へへ。うらやましい?」
「うーん。顔色っつーか、こう、全体? なんか淀んでる気がする」
「はは……。ひでえ」
力なく笑う市井の鼻先に、保田は人さし指を突きつけた。
「ホラ! そこおかしい! アンタがそこで『なんだとっ』ってなんないの、絶対おかしいって。
なに? 悩みでもあんの? 言ってみな」
矢継ぎ早にまくし立てる言葉に圧倒されながらも、市井は、ずいぶん久しぶりだというのに、
自分の悩みを素早く感じとってくれた保田に昔ながらの頼り甲斐を見つけて嬉しかった。
(けど……)
言ってはいけない。言えるわけがない。
市井は心の扉に鍵をかけた。のぞきこまれないよう、入ってこられないよう。
このことは私と後藤二人だけの問題だ。
打ち明けたら、すっきりするのかも知れない。
だけど、きっとなんの解決にもならない。
この痛みを、私が私一人のものとして抱えるつもりなら、口に出すことは甘えでしかないんだ。
私自身の手で、私が動かさないと、何も変わりはしないのだ。
市井は「ぱん」と手を叩いた。にこっ、と笑う。うまく笑えただろうか。
「なんでもないよっ。なんつうかこう、夏バテ? ダルダル病なんだよ〜」
保田は、たっぷり3秒ほど市井の顔を凝視したあと、ふん、と鼻を鳴らした。
「だったらいいよ」
節をつけたその口調が、「悩みがないんだったらいいよ」ではなく明らかに「言いたくないんだったらいいよ」だったことを知りながら、市井は気づかないフリをする。
(ごめん、圭ちゃん……)
きっと、ちゃんとするから。
もう、ちゃんとしなくちゃ。
胸の中で。
いつも響いているその言葉を、いつも以上の痛切さで市井はくりかえす。
公園の真ん中の広場につくと、保田は自動販売機でウーロン茶を2本買った。
ベンチに腰掛け、1本を市井に渡す。
「あ……サンキュ」
(おごってくれるのかな……)
受け取った市井の顔を見て、保田は笑う。
「おごっちゃる、おごっちゃる。プータローに出させるなんて、申し訳なくって」
「プータローってゆうなよー!」
笑いながら怒る市井。
こんなたわいない会話を、すでに貴重だと感じるようになっている自分に、市井はさびしい気がしていた。それはきっと、保田も同じことだろう。
あたりまえだった共に過ごした時間。気づかないほど静かに、時は、おたがいのいない時間をあたりまえにすりかえていく。
市井はウーロン茶のプルタブを引いた。
「で、あんた最近ナニしてんのよ? そろそろお勉強とやら、はじめてんでしょうねぇ」
さっきのことはもう、追及しないでいてくれるらしい。保田は、たわいない質問を市井に投げかける。
聞かれたくない気持ちを汲んでくれた保田に、市井はほっとする。
「あ、あったりまえじゃん。もう、忙しくって大変だよ」
「ふうん。あんまりゲーム・マンガ三昧だったら、だらけグセつくわよ」
「ちょっとちょっとちょっとー。信用してないなー、この人は」
「そろそろプッチモニ、戻って来たくなったんじゃないの?」
保田は意地の悪い口調で聞く。
「んなことないって! ていうか、なんでプッチ限定なんだよ」
「いや、あんたはその方がいいんかと思って」
「問題発言だぜー、圭ちゃんソレ」
久しぶりに、市井の口調も軽くなる。
「そんなことよりー。圭ちゃんの方はどうなのさ? 新生プッチモニの調子は? うまくいってんの?」
(あ。余計なこと聞いちまった)
プッチモニの話題に後藤が出ないわけがない。単純な世間話の記号にすぎないとしても、今の市井は “後藤”の名前を聞きたくなかった。
「プッチ……プッチねぇ」
保田はなにやらフクザツな顔をした。
びっしょり汗をかいているウーロン茶の缶を揺すり、しずくを落とす。
「なんかねえ……や、プッチモニ自体はうまく行ってると思うんだけどね……うん。
うまく行ってる。紗耶香がいなくなっちゃって、どうしようかって思ったけど、心配してたよりずっと、ちゃんと走ってる」
「うん。いい感じだと思う」
「あのさ」
保田は顔を上げると、市井に向き直った。やけに真剣な表情だ。
「実は紗耶香に聞きたいこと、あったんだ……」
市井が事務所で保田と会った翌日、後藤がひさびさにやってきた。
夜の11時過ぎ。
市井は母に見つからないように注意して、そっと家を出る。後藤を駅まで迎えに行くのだ。
先日と違って、今日は来る前に電話が入った。最近後藤はいつも駅に着いてから連絡をしてくる。
携帯電話に光る後藤の名前をしばらく眺めたあと、市井は小さな覚悟をもって、電話を取った。
遅いから外で会おうと言っても、後藤は拒否しなかった。
田んぼのそばのあぜ道を歩く市井の足取りは重い。
昼間保田から聞いた話が、頭にぴったりくっついて離れない。イライラを助長するカエルの鳴き声が、闇夜に響いている。
(セミといいカエルいい、なんだってんだ。昼も夜もやかましいんだよ、ボケ)
心の中で毒づきながら歩く。
薄暗い道沿いにぽつんとたたずむ電信柱。
闇に染み出す中途半端な光の下を、虫たちが狂ったように飛びまわっている。
その根元にしゃがみこんでいるのは後藤。
「市井ちゃん」
街灯が眩しくて、市井は目を細めた。
黙ったまま、1歩、2歩、3歩、歩く。後藤のすぐ前で足を止める。
砂遊びをする子供のような体勢で市井を見上げる後藤。
「駅で待ってるんじゃなかったの」
後藤はゆっくりと、にっこりと、笑った。
「一本道じゃん。待ってるの退屈だった」
よいせ、と立ちあがる。
「それにしてもこのカエルのうたはなんなのさぁ。ほんっと、このへんってイナカだよね。なんでここ、カエルなんかいんの?」
「カエルなんかどこにでもいるじゃん」
「いないよ! だってあたし見たことないもん」
「カエルを?」
「うん。近所では」
後藤はふっふーん、と笑った。
「やー、後藤都会人だからさあ」
黙ったままの市井の腕を、後藤はとった。
「お散歩しよ」
今夜の月は、むやみやたらと明るかった。
まん丸に浮かび上がって、のどかな田園風景を薄青く照らしている。透明の闇の中を後藤は踊るような足取りで歩く。
後藤に腕を引かれるままぷらぷらと歩く市井は、所在無さに、月ばかり見ている。
後藤はそんな市井にまったく頓着せず、鼻歌を歌っている。よくよく聞くと小さな声はループしている。一人輪唱をしているらしい。
『かえるのうたが かえるのうたが かえるのうたが』
後藤の歌声に合わせて、二人の速度はゆっくりだ。
生ぬるい夜気、カエルの声、後藤のこえ。
すべてが市井の口を重くさせていた。聞きたいことはひとつだけ。そのひとつが口に出せないから、なにも言うことができない。
無意識のうちに、市井は昨日の保田との問答を、頭の中で再び繰り返していた。
長い沈黙のあと、保田は思い切ったように顔を上げた。
『単刀直入に行くけどさ、後藤のことなの』
『ごとう』
『最近ヘンだと思わない?』
『そうなんだ』
『ヘンなんだって! オンエア見てんでしょ』
『なんの』
『娘。の番組のだよっ。あーもう、めんどくさいからとぼけんのやめてくれる?どうせヒマにあかしてけっこう見てるんでしょうが』
『見てねぇよう……』
(悪かったな。100%チェックしてらぁ)
腐っても負けず嫌いの市井は、そんなことは死んでも言わない。
保田は「どうだか」という感情を露骨に顔に出しながらも、あえて追求はしなかった。無視して話を進める。
『でね、最近ダメなんだぁ、あの子。ぜんぜんダメ』
『なにが?』
『……いいかげん怒るわよ。顔、顔よ、表情。死んでる。やる気、限りなくゼロに近い』
『…………。』
わかってる。わからないわけがない。
『もともとそんな、あんたやあたしみたいにがんばりまっせ!
ってタイプじゃなかったけどさ、それにしたって最近のアイツはひどいよ。ったく、生放送中に口開けてんなっての』
『……やっぱり怒ったりしてんの?』
『してるわよ! まったく吉澤だけで手一杯だっちゅーのに。なんで今ごろになって加入当時みたいなお説教かまさなきゃなんないんだか』
『でー、後藤は?』
『あいかわらず、いいわけばっかしてるよ。ま、しゅーんとはなってるけど。
なんかすぐ、へらへらして吉澤と遊んでて、よくわかんないね。普段のテンションは高いくせに、画面写るとダメみたい。
どうも心ここにあらずって感じでさ。前にもましてぼーっとしてるよ。ま、それだけだったらいーんだけどさ―――』
「市井ちゃん。いちーちゃん」
下がり気味の目じり、子供っぽい疑問を浮かべた表情。
見上げる顔に、市井は自分の今立っている場所を思い出す。小高い坂を登り切った池の側まで来ていた。
狭い駐車場ほどの池を取り囲むようにして、浜辺を模倣した砂地が広がっている。
真っ黒になっている無意味な杭が、池の周囲を点々と取り囲んでいた。
昔使われていたというそのため池は、今では本来の役目を引退して、ちょっとした子供たちの遊び場になっている。
月の光をのせて、黒々とした水面はたっぷりと揺れていた。
黙ったまま、ずいぶん遠くまで来てしまっていたようだ。
「なんか、いい感じだね。この辺」
後藤は市井にからめていた腕をほどくと、暗い砂地へ踏み込んで行った。ぼろぼろの杭がまばらに立てられた池の端に歩み寄る。
「蚊にかまれるよ。帰ろ」
いいながらも、つられて市井も池に近づく。
通りから離れるにつれて、街灯の明かりも届かない、薄闇の世界へと踏み込んで行く気がして、市井はすこし怖かった。
すべてを吸いこんでしまいそうな水面は、美しいんだか気味が悪いのだか、判然としない。
月は明るく、街灯がなくとも周囲の輪郭を感じることができた。後藤はこちらに背中を向けたまま、水面に目をこらしている。
今日はウィッグはつけていない。
まっすぐな茶髪が薄い月の光を浴びてきれいだ。
市井は後藤の隣に並ぶと、言い出すタイミングを計り始める。
後藤はいつものようにおしゃべりではない。市井の逡巡を感じ取っているのか、黙ったまま、長い爪の先で腐りかけた杭の木肌をはいでいる。
「……爪、汚くなるよ」
「平気」
「ダメだって」
「市井ちゃんは、あたしにしちゃだめってことばっかり。アレもダメ〜、コレもダメ〜。
そんでもって、今日はほかにもダメダメダーメーがあるみたいだねー」
手を止めない後藤の手首を市井はそっとつかんだ。後藤は素直に手をゆだねると、市井の顔を見つめる。
「自分ばっか好きなことしちゃってさ。ずっこいよ」
いつもとは違って、とがめる口調ではなかった。市井を責めないぶん、その声はいっそう市井の胸を突く。その痛みをごまかすため、市井の唇は動く。
「あんただって……」
思わず最悪のタイミングで最悪の言葉が口をついて出た。
「あんただって、好きなことしてるくせに」
「なにが」
きょとんとこちらを見返す後藤。頭を出した言葉を市井は止めることができなかった。
自分には言う権利などないのに。傷つけられても、それを甘んじて受け入れつづけるつもりだったのに。
でもだめだ。このままではきっとだめなんだ。
「……聞いた。最近、すごい遊びまわってるって。ジャニーズの、人とか、イロイロ……みんなも知らないような、ヤバイ連中とも、付き合ってるって」
「あはっ」
後藤は笑った。
いつもとまったく変わらない表情で、月を仰いで、きれいな首筋をのけぞらせて。
がくりと顔をこちらに向けた時、月の光を浴びたその面は、冷え冷えとして見えた。
笑っているのに、冷ややかな表情。輝いているのに冷たく見える月のように。
「そんなこと市井ちゃんに言うのってえ……圭ちゃんだ」
「け、圭ちゃんじゃないよ。誰から聞いたって関係ないじゃん!」
「まーったく。圭ちゃん、うるさいよ。最近ちょっとムカつくんだよね……。なんでそーいう余計なこと言うかな」
いとわしさに満ちたその口ぶりにカッとなり、思わず大きな声が出た。
「後藤のこと心配してるからだろ!」
後藤はぷっと吹きだした。
「やっぱり圭ちゃんなんだ」
(しまった)
市井は自分の馬鹿さ加減に頭を抱えたくなる。後藤、いつの間にこんなにかしこくなったんだ。
後藤は唇の端をきゅーっと持ち上げて、市井の顔をのぞきこんだ。
「ヒサビサに見たよ。市井ちゃんの怒った、顔。最近は、怒るかわりに悲しそうだったから」
「ねえ、後藤……。圭ちゃんだけじゃないよ、メンバーみんな心配してるって」
「それでー、市井ちゃんのご登場ってワケだ。ご苦労なこってす。市井ちゃんの言うことだったら聞くなんて思ってんのかなー。自分で言えっての」
市井は言い返したい気持ちを押さえて、後藤の悪態をなんとか聞き流す。
「わかってると思うけど、今すごい大事な時期なんだよ」
「その大事な時期に辞めたのは誰だっけー」
胸をつく言葉から、必死で気持ちをそらす。
「そんな……週刊誌とかに、撮られたらどうすんの? あんただけの問題じゃない、メンバー全員に迷惑かかるんだよ」
「あたしはなっちみたいなヘマしないよ」
「そういう問題じゃないだろ!」
思わず市井は声を荒げた。
「妬いてくれてんだ。だとしたら嬉しいんだけど」
市井の問いかけに、後藤はどこまでも揶揄でしか返さない。
「マジで言ってんだよ。ゴシップとか、そういう心配だけじゃなくって……。
あんた私んとこにもしょっちゅう来てるし、夜遊びするヒマなんて、どう考えてもないはずだろ!?
こんなむちゃくちゃなスケジュールの上に、そんなことしてたら、自殺行為だよ。体がどうにかなっちゃう!」
後藤は心の奥底を計るように、強い視線で市井を見つめた。しかし、その瞳にはすぐに反抗的な色が翻る。
「心配してくれてありがとー! でも市井ちゃん、はっきり言ってあたしがウザイだけなんでしょ。
そんな、遠まわしない言い方しないでよ。いい人ぶっちゃって、マジむかつく。いっつも市井ちゃんはそう!
いつだって! 誰の前でだって、いい子でいたいんだよ! 心配してるフリなんかしないでよ!
そんなウソでされるくらいだったら、ほっとかれるほうがマシだもん!」
「ちがう! 心配してるんだよ。信じてもらえないかもしれないけど……。
後藤、私に怒ってるのは……私は後藤にウソついちゃったから、だからなんでしょ?
……結果的にはウソつくことになっちゃったけど、でも、本当だったんだ。
私は、みんなとずっといっしょにやってきたいって……後藤とも、ずっといっしょだって、
モーニングでがんばるんだって、そう思ってた。その時の気持ちはほんと……」
「手、離して」
その言葉に、市井は後藤の手首をずっとつかんだままだったことに気づく。興奮にしたがって、思いのほか強い力でその腕をにぎりしめていたらしい。
「ごめん」
ばつが悪くなって放り出すようにその手を離す。後藤はうっすらと赤くなった手首をいとおしそうに親指でなでた。その表情は穏やかだ。
言葉はなにひとつ、後藤の胸には届いていない、そう感じて、市井は苦しかった。
「ね。あたし今日市井ちゃんのケータイにメールしたんだけど、ちゃんと見てくれた?」
はぐらかされる。
後藤のいつものパターンだった。平行線だった会話が核心に迫る時、後藤はいつもこうやって話をそらす。
いや、そらしていたのは後藤だけではない、市井もだった。
しかし、今日は、どんなに傷つこうとも、傷つけようとも、市井は決着がつくまで話すつもりだった。もっと早くにこうするべきだったのだ。
市井は首を振った。
「後藤、話まだ終わってない」
「見てないの? 今見てみて」
「ごとう」
「メール」
市井は唇をかんだ。こうなったら、てこでも動かない。仕方なく肩からかけたカバンを探る。
携帯電話を取り出そうとした時、ひらり、と一枚の紙がカバンから市井と後藤の間にすべり落ちた。
市井の手より先に、後藤がそれをすばやく拾う。
事務所でもらった保田の絵だった。カバンに入れたままになっていたのだ。
後藤は月に透かすようにしてその絵を眺めた。
「ふっうーん。ヘタだこと」
素晴らしく悪意のこもった口調である。
もっとも、その悪意の矛先は保田ではないことは市井にはよくわかっていた。
切っ先が目の前の自分に向けられていることも。
――それでもいい。
市井はそう思った。
後藤が憎むのは、嫌うのは、私だけでいい。
―――私のこういう所が後藤に嫌がられるんだろうな……。
そう考えると、不謹慎にも苦い笑いがこみ上げて来そうになり、市井は口元を引き締めた。
「返して」
「ねえ。市井ちゃんこんなもん大事に持ち歩いてんの? バッカみたい」
さっきの殊勝さが嘘のように、憎々しげな口調だ。言い訳をする気にもなれない。
「返せ」
「メ・エ・ル。先に見てみてってばー」
詰め寄る市井にまったく臆することなく、後藤は市井のカバンを指さした。
市井は苦さを隠し切れず、荒々しくカバンを探った。指先に引っ掛かったストラップをたぐり、ブルーがかったシルバーの携帯電話を取り出す。
いらだつ指先でメールの着信ボックスをチェックする……。
そこには、新しいメールは来ていなかった。
「来てないよ」
「ウソ」
「ほんとだって」
後藤は頬を寄せると、市井の肩口から青く光る画面をのぞきこんだ。
そのとき。
するり。
手の中の携帯電話が、信じられない素早さで、抜き取られた。
「ちょっ、なにすんだっ!」
取りかえそうと手を伸ばす市井の横を、後藤はつむじ風のようにすり抜けた。
すたた、3歩ほどの距離、砂地から路上に飛び出すと、にっこりと微笑む。
変身をするウルトラマンのように、後藤は携帯電話を高くかざし―――振りかぶった。
後藤の手から携帯電話が舞いあがった。
空に向かう一番高いところで、月の光を浴びて一瞬輝く。
「あああああああっ!!」
市井の絶叫が闇を裂いて響き渡る。
次の瞬間「ぽちゃん」という情けない音が市井の耳に響いた。
池の真ん中に一瞬広がった波紋は、市井のすぐ近くの岸までゆらり、と水を揺らした。
市井は放心状態であった。あまりといえばあまりのことに言葉も出ない。ただただ、
もはや波さえも立たない暗い水面を口を、半分あけたまま見つめることしかできない。
後藤が小走りで戻ってきて、市井の腕にしがみついても、なんの反応も示すことができない。
「へへ。市井ちゃん、怒った?」
反応できない。後藤は市井の前に来て、その顔をわざわざ下からのぞきこんだ。
「どしたの? なんで止まっちゃってんの?」
市井はのろのろとその顔に視線を合わせた。ようやっと、感情が現実に追いつき出している。それでもまだ、声が出ない。
「ね? ね? なんか言ってよ」
無邪気なその表情に、市井は腹が立つよりも、むしろ悲しくなって来た。
(私は、後藤とちゃんと話しようと思ってんのに……。今日はちゃんと、わかりあえるって、きっとわかってくれるって……)
胸の中に苦い感情が吐き気のようにせりあがる。市井はそれに耐えるために息を飲みこみ、奥歯を噛み締めた。
後藤の顔色が変わった。親の返事をねだる子供のようだった目が、戸惑いに揺れる。
その口元が、なにかを言いかけて震えたあと、まっすぐに閉じられる。痛みを我慢するように。
市井はふっと気づく。
-----ああ。今の私は、きっとすごい顔してんだろうな。
市井を傷つけることに対して無自覚になって来ている後藤の表情を凍らせ、言葉を奪ってしまうほどに。
「ねえ……なんでこんなことすんの?」
言葉とともに出てきたのは……自分でも意外なことに、涙だった。
「ひどいよ。圭ちゃんとか、裕ちゃんも、メンバーみんな、全部こん中に入ってたのに……。
それでなくても連絡取りにくいのに……。引っ越してった友だちのも、番号、ケータイにしか入れてなかった……もう連絡とれないよ。
いろんな、大事なモン、いっぱいいっぱい入ってたのに……」
涙とともにあふれ出てくる感情を制止できなかった。しゃくりあげながらも言葉は止まらない。
泣き顔を見られたくなくて下を向くと、土の上に大粒の涙が降る。それが情けなくてまた泣けて来る。
市井はしゃがみこんだ。
なんて私は無力なんだろう。
「なあ、ごとう……私にどうして欲しいの? どうしたら後藤は満足してくれる?
私になにを求めてんの? 私もう、あんたになんもあげらんないよ。それでも、私にできること、あったらあげるよ。
なんでもしたげるよ。だからもう、私を赦してよ。お願いだよ。………。」
嗚咽がひどくて、半分以上聞き取れなかったに違いない。
市井は両腕に顔を伏せたまま、泣き続けた。こんな風に泣くのはずいぶん久しぶりの気がした。
精一杯、精一杯、涙を我慢したあの日。胸の中からやって来た涙を、外に出すことなくしまいこんでしまったあの日から。
私の感情はうまく動けなくなっているのかもしれない。
「ごめん。ごめんね、いちーちゃん、ごめんね……」
髪を、肩をなでる後藤の手。困ったように、たどたどしい手つきと声。
濡れた前髪の間から目だけ上げると、後藤の瞳とぶつかった。
その目には、最近見慣れた、市井のすべてに逆らうようなものとはまったく違う、困り果てたような戸惑いの色がにじんでいる。
昔はよくこういう目で、おろおろと私を見たもんだっけ。
もう、思い出せないほどに遠い昔。現実には一年も経っていないのに。
「ちがうの。こんなことしたいんじゃない。あたしは……あたしはただ市井ちゃんに……。なんで……なんでこんな、なっちゃうんだろ」
言葉が途切れ、眉根がぎゅっと寄せられる。後藤は両手で髪をくしゃくしゃとかきあげた。
漂う視線は自分でも、自らの感情を扱いあぐねているようにも見えた。
後藤は苦しそうだった。
立ちあがったらしい衣擦れの音。
後藤の気配から解放された市井は、シャツの胸元を引っ張り上げて、涙を拭う。
小さく深呼吸して、整わない息を無理矢理に正そうと試みる。
自分の感情を吐露してみて、あったのは後悔だけだった。
こんなんじゃだめだ。言いたいことの半分も伝わってはいない。
傷ついてもいいと、傷つけてもいいと、そう思っていたはずなのに、いざ、この場で後藤と向き合っていると、
思っていたよりもずっと弱い自分がそこにいた。
こんなちょっとの言葉で足場を崩してしまう自分たちは、わかりあうことなど、もはや不可能になってしまっているのかもしれない。
唾を飲みこみ飲みこみ、気持ちを落ちつかせる。
と。
ばしゃん。
耳に、小さな水音が飛びこんで来た。
顔を上げると、涙で霞んだ視界の先、両手でゆらゆらとバランスを取りながら、水を切って歩いて行く後ろ姿が見えた。
「後藤!」
ぎょっとして叫ぶ市井の声を無視して、後藤の後ろ姿はどんどん夜の闇を凌ぐ漆黒の水面にのみこまれて行く。
市井ははじかれたように立ちあがった。木の杭に手をかけ、一気に池の水際に飛びこむ。足裏に感じる柔らかい砂を蹴って、市井は池に駆けこんだ。派手な水音と飛沫が飛び散る。生温かい水が、ジーンズに一瞬で染みこんでくる。
水に取られる足を交互に抜き取るようにして、転びそうになりながら駆ける。急ぎすぎて、ぐらりとよろめいた。
とっさに腕をついて転ぶのは避けられたが、体が半分以上水に浸かった。
水が口に入ってしまい顔をしかめるが、そんなことをかまっている場合ではない。
市井は立ちあがる。
後藤はまったく振り返らない。
歩いているくせに、追う立場の市井の目には走っている自分以上に速く思えて、捕まえられないんじゃないかと不安な気持ちになる。
追いついた時には、水は腰の高さまで来ていた。なかばもたれかかるようにして、
市井はふらつく後藤の背中を抱きしめた。二人して水の中に倒れこみそうになる。
市井はバランスを崩す水に逆らって、すくいあげるようにして、後藤の体をしっかりと抱きなおした。
安心とさまざまな感情がないまぜになって、大きく息をつく。
後藤が、市井の肩についた唇を動かした。
「離して。ケータイ、取りに行かなくちゃ……」
「もういいから」
「けど……」
「いいから。もういいから」
後藤のびっしょり濡れた髪をなでる。くたり、と力を失った後藤が市井にもたれかかる。
市井は後藤の体を温めるように抱きしめた。いとおしい気持ちが静かに胸に広がった。
どうしてだろう。どうして、大切に思っているのに、うまくいかない?
なにを言えばいいのだろう。どうすればいいのだろう。
どんなに問いかけても答えは見つからない。
深夜の闖入者に波立っていた池は、ひっそりと元の沈黙を取り戻そうとしている。
市井は後藤を抱きしめたまま、月を仰いだ。
今夜見上げるのは何度目だろう。
見上げるたびに違っている自分の気持ちなど知らぬげに、月は変わらぬ姿で輝きつづけている。
「“月の裏側”って、知ってる?」
昨日読んだ本を思い出して、市井はつぶやいた。
返事を待たずに苦笑する。「後藤が知るわけないっか……。なんか、急に思い出しちゃったよ」
返事はない。かまわずに市井は言葉を継いだ。こんな状況で、どうしてこんなどうでもいいことを口に出しているのか、我ながらおかしかった。
「月ってさ……。いっつも同じとこだけ地球に見せてるから、こっちからは裏側、見えないじゃん。
だから、昔……人が月になんて行けない時代、いろんないいつたえがあったんだって。
ホラ、日本だと、かぐや姫とかさ。で、イギリスでこういう伝説があるんだって」
後藤は市井の肩に伏せていた顔を上げた。その顔には感情というものが何一つ読み取れなかった。
市井はすこし笑う。
「……無駄にした時間とか……お金とか、破った誓い、叶えられなかった祈り、
満たされなかった欲望……そういう、地上で浪費された―――ムダんなっちゃったすべてのものが、貯められてるんだって」
「月の裏側に?」
「そう」
二人はそろって月を見上げる。やがて後藤がぽつりと言った。
「だったら……あるのかな……あそこに」
「なにが」
市井が訊く。
「市井ちゃんとあたしの思い出」
風に吹かれ、池の端に漂っていたA5の紙。絵の中の少女は、染みてくる水ににじんで泣いているようだった。
紙は、ただよってくる波にあおられ、音もなく水底へと沈んで行った。
後藤が消えてしまったのは、その翌日のことだった。
久しぶりに父の夢を見た。
『じゃ、行ってきます』
『いってらっしゃい!』
朝の光のあふれるリビングで。
にこにこと父に向かって手を振る少女は、幼い頃の市井だ。頭をなでる父の手に、
くすぐったそうに、でもとても嬉しそうに笑い、父のズボンの裾を引いている。
床にじかに座りこんだ小さい自分は、いつものように、父に向けていた笑顔をすぐに、目の前の紙粘土に移した。
そう、最後だなんて思わなかった。
『おとうさんが帰ってきたら、さやのつくったわんちゃん、みせたげるね』
父は娘に向けていた視線をはずし、肩にかけたゴルフバッグを揺すり上げた。
何度反芻したか知れない。忘れたくても忘れられない光景だった。
父が、私を、私たち家族を棄てた朝。
『どっからつくろー』
無心に粘土をこねる幼い自分の姿を、市井はもどかしく見ている。
この光景の中に市井はいない。見ることはできるのに、触れられない。
知っている。もう何度も見た。
それでも、わかっていても、市井は同じことを繰り返さずにはいられない。
市井は幼い自分に向かって、出ない声を張り上げる。
――――ばか、お父さんいなくなっちゃうんだ。追いかけろ。今だったら間に合うよ。
行って、行かないでって、紗耶香を捨てないでって、言うんだよ。
市井の声は届かない。
少女は小さな声で歌いながら粘土をちぎる。
――――もう、会えないんだよ! 止めろって!!
玄関口で父は足を止めた。ためらうように、足元を見つめている。
幼い市井は気づかない。父は、ゆっくりと振りかえった。逆光で、その顔は見えない。
たまりかねた市井は父に向かって叫ぶ。
――――行かないで! お父さん!
声は夢の中に吸いこまれて行く。自分の中にしか響かない。
胸の中でだけ、叫ぶ自分自身を切り裂く痛みをもって、市井の声は響き渡る。
それでも市井は叫ばずにはいられない。夢だとわかっていても、取り戻せないと知っていても。
――――おとうさん!!
玄関のドアが開かれる。まばゆい光の洪水がなだれ込み、市井の視界を真っ白にする。
一気に世界が反転した。白から黒へ。光から闇へと。
暗い部屋の中で膝を抱えて泣いているのは自分。
小さな体を震わせて、泣いている。
大声で泣きじゃくることに疲れ果て、声も出さないで、喉が壊れてしまうくらいに、しゃくりあげ続けている子供。
『なん、で……なんでなの? おとうさん……』
『なんで? なんで? さやかのこと、キライなの……?』
この子には、私の声は届かない。
それでも、市井は言わずにはいられない。
触れることのできない手で、その頭を撫でずにはいられない。
――――ちがうよ。嫌いになったわけじゃないんだよ。ただ、お父さんは……。
ゆっくりと、少女は涙に濡れた顔を上げた。
その瞳に宿った深過ぎる悲しみの色に、市井の言葉は惑う。
――――捨てたんじゃないんだ。ただ、お父さん……お父さんは……。
――――捨てたんじゃない、私は……私は。
市井は混乱する。
(ちがう。なんで。私じゃない、私じゃ……)
泣きすぎて真っ赤になっている女の子の顔に、ある泣き顔が重なった。
くしゃくしゃになったその顔。
『ねえ。なんで? 市井ちゃん』
「ちょっと、さや。ここ座りなさい」
呆れるくらいベタな決まり文句で、母はダイニングテーブルを指差した。
(……説教モードだ)
遅い朝食のあと、部屋に戻ろうとした市井は、聞きなれたその口調に、始まる前からうんざりした気持ちになった。
それでも、歯向かうようなことはしない。
離婚してからこっち、大黒柱のいないこの一家を女手一つで支えてきた母を、市井は肉親であるという以上に、一人の人間として慕っている。
市井は素直に母の前に腰を下ろした。
だいたいのテーマは読めている。最近の紗耶香の生活態度について、だ。
まあ、辞めて以来の自分の日常を振り返れば、今まで改まって何も言われていなかったことの方がおかしいくらいだ。
母はじいっ、と市井の顔を見つめた。落ちつかない気分になる。
「率直に聞くけど……。おとといの晩、どこ行ってたの?」
「へ? おととい……? おととい……」
「厳密には昨日になるのかしら。さやが明け方にこっそり帰って来た日のこと」
一瞬、なんのことかわからなかった。が、すぐに腑に落ちる。後藤と会っていたあの月夜のことだ。
「えと、友だち、と会ってた」
“友だち”この言葉は自分と後藤にはそぐわない気がしたが、ほかに言いようがない。
少し前だったら「メンバー」「仲間」「後輩」いくつでも思いつくことができたが、今の二人の関係につけられる名前は、ない。
母はふう、と大きな息をついて市井をにらんだ。
「まったく……バレてないと思ってたんでしょ。そうは問屋が卸さないわよ」
「起こしちゃ悪いかなって、ムスメ心だったんだけど……」
「あんな時間にお風呂入られたら、誰だって起きるわよ。こっちとしては、気づかないふりの母心ってとこね」
(やっぱり風呂はマズかったか……)
が、後藤をあのまま返すわけにはいかなかった。
あの晩。
市井は大活劇のあと、放心したままの後藤を連れて家に帰った。
いくら真夏とはいえびしょ濡れで、これではタクシーにも乗せてもらえないだろうと思ったからだ。
いくらなんでも夜中にずぶ濡れの後藤真希を連れて帰ったら、のんきなウチの母さんだって目を丸くするに違いない。
そう思ったから、こっそりと入り、こっそりと後藤を風呂に入れ、こっそりとタクシーを呼んで、帰した。
その間中、後藤は一言も口をきかなかった。
心配ではあったけれど、市井自身のダメージも大きかった。
『帰れるよね、後藤』
『ちゃんと仕事行くんだよ』
そんなおざなりな言葉をかけるのが精一杯だった。後藤は返事をしなかった。
どんな顔をしていたのかはわからない。
また、市井は後藤の目を見ることができなくなっていたからだ。
(振り出しに戻る、か……)
タクシーを見送ったあと、自分も風呂に入り、泥のように眠った。
目が覚めたらもう夕方で、こんな状態なのに今日一日仕事に追われたであろう後藤のことを思って、
罪悪感にさいなまれた。それと同時に思い出したさまざまなこと、それらから逃れるために、市井はゲームの世界に埋もれて過ごした。
そして明け方、吸いこまれるように眠る。
ひどく嫌な夢を見たような気もしたが、目覚めてからのまどろみの中で、夢の名残を市井は意識の外へと追いやった。
どんな夢だったか、もう思い出せない。
その眠りから目覚めた今日、こうしてきっちりと現実は追いかけてきている。
市井は母の顔をうかがった。怒っているというより、呆れているといった方がいい表情だ。
そしてなにやら思いつめたような……。
そこで市井は母の考えつきそうなあらぬ誤解に気づき、あわてて口を開いた。
「ちょっ、ヘンな誤解しないでよ。別に男の子とアソんでたわけじゃないから」
母は口をへの字に曲げる。
「そういうミもフタもない言い方しなさんな。年頃の女の子が」
「だって、なんかヘンなこと想像してる気がするんだもん」
「してないわよ」
(どうだか……)
市井の疑わしい目つきに、母は肩をすくめた。
「お母さん、さやのこと信用してるもの。もっとも、今度から夜遊びに行く時は、ちゃんとお母さんの許可を取ってから行くこと。
いいわね? 言いたいことは、そういうことだけじゃないの。もちろん、それも一つのきっかけなんだけど……
聞いておきたいの。あなたが、今、どういう風に思って毎日を過ごしてるのか」
来た。やっぱり本題はこれか。
市井は黙っていた。テーブルに視線を落とす。
母の言葉は、あくまで高圧的ではない。市井の感情を充分に考慮しながら、ひとつひとつ解きほぐしていってくれる。
言い出したらてこでも動かない、頑固者の市井のことを誰よりも理解している母は、その扱い方も一流だ。
「さや、モーニング娘脱退して、どれくらいになる?」
「3ヶ月……かなぁ」
「そう。3ヶ月間、なにしてた?」
同じ家で生活していたのだから、よく知っているくせに。
いつもだったら『イヤミない言い方すんなよ〜』と言い返すところだが、今の市井には、その気力はない。
「はは……。イロイロ……」と、あいまいに笑ってごまかそうとする。
厳しかった母の顔が、心配そうな表情に変わった。
「なにか悩んでるの?」
思いもかけなかったことを言われ、どきりとする。
今現在の自分自身の悩み―――母の前ではそれを表面に出すまいと、市井は常に心がけていたからだ。
脱退のことでもずいぶん母親を困らせてしまっただけに、よけいな心配をかけたくはなかった。
「そんなこと……」
「嘘。最近のさや、すごく変よ。ただ単に辞めて気が抜けちゃったにしちゃ、元気なさすぎる」
(参ったな……)
保田にすぐ悩みを見抜かれてしまったこと。
後藤との思い出したくもない夜。
そして母の言葉。
市井は、自分が限界に近いところまで来てしまっていることを感じずにいられなかった。
今までならば、自分の心の中にだけしまっておくことができた。どんな悩みも、痛みも、市井は自分一人のものとして抱え込む。
今までならば、完璧に隠し通すことができた。
しかし、今、市井の心で凝っている想いは、市井が望まないにもかかわらず、池に投げ入れられた携帯電話のように、
周囲の人々の心に小さな波を立ててしまっている。
沈黙を破ったのは電話のベルだった。母は小さなため息をつくと立ちあがった。
市井は無言の圧迫から解放されて小さい息をつく。
「はい、市井でございます」
電話をとった母が驚いた顔になる。「あら、まあ……こんにちは。おひさしぶり。
いえ、いえいえいえ。こちらこそすっかりお世話になっちゃって……。ええ。ええ。
あ、はい、ちょっと待ってね」
母は保留ボタンも押さずに市井に受話器を突き出した。
『だれ』
口だけ動かして市井は聞いてみる。
「中澤さん」
「裕ちゃん?」
意外過ぎる人物に、飛びつくように受話器を取った。
「もしもし」
『うす。裕ちゃんや。おひさしぶりやな、紗耶香』
ちょっとハスキーで、やさしいイントネーションの関西弁。
しかし、その声はいつもより若干早口だ。
「うん、ひさしぶり……どしたの? 今。待ち時間かなんか? それとも……」
『スマン』
中澤は市井の言葉をすぱんとさえぎった。気が急いて仕方がないという口調だ。
『ゆっくり近況報告したいとこなんやけどな、実は超緊急事態発生なんや』
「え?」
『ごっちん、そっちに行ってへんか?』
「後藤?」
市井はすんなりとは理解できなかった。
(なんで裕ちゃんが私に後藤の居場所なんか聞くんだ?)
それよりなにより。
「なに。後藤どうしたの?」
とっさに口を突いて出た言葉に、不安がじわじわと体を侵食し始める。
『紗耶香んとこには行ってへんねんな』
中澤は強い口調で確認する。
「来てない」
『……そか』
明らかに落胆した声だった。
ますます市井は不安になる。
「なに。後藤どうしたの?」
『…………』
電話の向こうで口々になにかを中澤に問いかける声が聞こえる。
その中の、やけにヒステリックな高い声には聞き覚えがあった。声は一人のものではない。やけに周囲はざわざわしている。答える中澤の声。
『紗耶香んとこちゃうかってんて。……ええ、行ってないみたいです。ちょお、落ちつきや矢口』
さらに今度ははっきりと聞き取れる声。
『ちょっとどうするのお!?』
飯田の声だ。
『マジやばいって』『あたし探しに行ってきますよ〜』
ざわざわ、ざわざわ。
電話越しに、かなりの人数が中澤の周りを取り囲んでいる空気が流れてくる。
市井は焦燥に駆られて大きな声を出す。
「ね! どうしたんだよ! なんでみんないんの? 後藤がどうしたのさ!?
裕ちゃん、裕ちゃんて」
『あ、ちょい待って紗耶香。こらこらこらこら。もうアンタら、しいっ! 紗耶香の声聞こえへんやろ』
後半部分は受話器の周りを取り囲むメンバーに言ったらしい。一気に周囲は静まり返る。
『すまんな紗耶香。わけわからへんかったやろ』
「いいよ、それより……」
『後藤が消えた』
中澤の言葉は市井の耳に引っ掛かったものの、胸には落ちてこなかった。
とっさに理解できなかったのだ。
「は?」
『後藤が、消えた』
中澤は再びゆっくりと繰り返した。市井は額を押さえた。言葉の意味が少しずつ沁み渡ってくる。
「え? ……消え…消えたって……」
『あたしら、今日Mステ出んねんな。で、朝からメンバーみんなスタジオ入りしとんねん。
覚えとるやろ? Mステ、放送夜8時のクセに、入りは朝イチや。で、私らみんな楽屋におる。……後藤けぇへんねん。
9時に入りやのに、10時になってもけぇへん。家に電話したら、昨日の晩から帰ってへんて。仕事やゆうて戻らんかったって。
昨日はちゃんと仕事しとったんや。いつも通りに帰ってった。そのあと、どっか行ってもうた……』
まとまらない自身の言葉にいらだつ、舌打ちの音が小さく聞こえた。
市井は顔色を失って行く自分を自覚した。
一昨日。月夜の晩、市井が後藤をタクシーに乗せて。
その日、仕事には出たのか。そのあと。
「……電話、携帯は」
『電源切ってある』
「連絡、とか……」
『一切ナシや! あーもう、なんちゅうことしてくれんねん』
通話口の向こうで髪をくしゃくしゃにかきあげる中澤の姿が目に見えるようだった。
中澤の動揺は市井にも理解することができた。
このまま後藤が帰ってこなければ……生放送に穴をあけることになるのだ。
その考えに、市井は身震いした。
『一応今は体調悪いっちゅうことでごまかしてんねんけどな。マネージャーからなにから、事務所総出で必死こいて探しまわっとるわ。
あーもう! 後藤真希が生放送ボイコットなんて記事にされたらどうなんねん。それでなくても最近あの子評判悪いのに……。
ちゅうか、ただ単なるサボりやったらまだエエけど、なんか変なことにでも巻き込まれとったらどうすんねんな……』
「そうじゃ……ないと思う」
後藤は自分の意思で消えたのだ。
市井の断定的な口調に中澤は怪訝そうに聞き返す。
『なんや紗耶香、心当たりあんのんか?』
「裕ちゃん、探すよ」
市井は声の震えを押し殺しながら呟いた。
「わかんないけど、私も心当たりあたってみる」
『……すまんな、もうあんたには無関係なことやのに甘えてもうて』
「無関係じゃないから」
「え?」
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴り、市井の方を心配そうにうかがっていた母が立ちあがる。
「……とにかく、なんかわかったら連絡するから。じゃ」
『わかった。頼むわ』
電話を切っても、受話器を持ったまま市井は動けなかった。
強くにぎりしめすぎて、手の平が白くなっている。
(後藤……)
月夜の晩のことが鮮明に蘇える。
辛い言葉で市井をなじった目。そのあとの、苦しそうな瞳。
無言のまま帰っていく後藤に、市井は目を合わせることすらできなかった。
どんな顔をしていたのか思い出せない。
どんな想いを抱えて帰ったのか、思い出せない。
見ないようにしていた自分には、思い出せない。
悔やんでも悔やみ切れない後悔で体が支配され、動けない。
市井はますます受話器を強くにぎりしめた。右の手の平に食いこんだ爪が、皮膚を食い破りそうだ。
電話線が市井の手の震えに連れて細かく揺れる。
ふわり、とその手に触れるものがあった。
市井の手を軽くにぎりしめる指には、市井とお揃いのシルバーのリングが光っている。
市井は顔を上げた。
強い光を持つ目が市井を見すえていた。真剣な顔で、けれど、いたわりの色をその瞳からこぼれそうにあふれさせて。
「……圭ちゃん」
市井の手から、受話器がするりと抜け落ちた。
突然現れた保田は市井の取り落とした受話器を拾い上げると、心配顔の市井の母に向かって「ちょっと失礼しますね」と告げた。
うなずく母に会釈をした保田は、市井の手を引いたままずんずんと市井の部屋に向かう。
「圭ちゃん……。どうして……」
「捜索隊だよ。事務所が車出してくれた。裕ちゃんから、話は聞いたね?」
保田のきびきびとした口調に、市井はあいまいにうなずく。
「うん……。でも、なんでここに……」
「そりゃあ」
保田は市井の部屋のドアを開けた。
電気はついていない、昼なのに薄暗い部屋。閉ざされたベージュのカーテン。
つけっぱなしのテレビ画面の中で、一時停止されたゲーム。ゲーム機のそばに向けて据えられた扇風機。
閉め切った部屋の空気をひたすらにかきまわすためだけに、扇風機の風は低く唸り続けている。
ぐるりと一渡り見回し、誰もいないことを悟った保田は当てが外れたとでも言うように「あら」と小さくつぶやいた。
「ここだと思ったんだけど」
背後に立つ市井を振りかえって、首をかたむける。
「まさか」
「裕ちゃんが電話するっては言ってたけど、万が一、かくまうってことも考えられるじゃない?
あんたの携帯もつながんないしさ。だから、独断でワザワザ確認に来たんだけど。ハズレか」
悔しそうな顔をする保田。
しかし次の瞬間「しかしまあ。ほんっと、どうかと思うよ、この部屋」と顔をしかめると、保田は大股で部屋を横切った。
音を立ててカーテンを開き、窓も全開にする。部屋の中が一気に明るくなった。
あの日帰ってきてから、外界からのすべてを閉ざして逃げ込んでいた小さな巣が、保田の手によって破壊された。
不安な気持ちの中に、ある種の開放感があった。
「すっかり引きこもりくんね、あんた。それはさておき……」
保田は窓から離れると、市井の正面に立った。とても厳しい顔をしている。
「全部聞いて知ってると思うけど……。後藤さん、いなくなりました」
努めて冷静であろうとするために、その口振りは低温だ。しかし、今保田が必死で冷静であろうとしていることは、はっきりと見て取れた。
中澤が著しく動揺していることは先ほどの電話で明白だ。
となると、年齢的に二番手である上に人一倍責任感の強い保田は、この状況に、外のメンバーよりはるかにプレッシャーを感じているだろう。
――なんとか収拾しなければならない。私はクールでいなくちゃ。
そんな責任を感じているように思えた。そして、それだけではない。
保田は、もう一つのやっかいごとを、自分自身の目で見据えようとしている。
『後藤がいなくなった』
その言葉は、見えない鎖となって市井をしめつける。首筋から這い上がってくる、
震え出しそうな戦慄。自分の顔がくしゃくしゃと歪みかけているのがわかる。
保田は重ねて問う。
「ほんとに知らない? 後藤がどこに行ったのか」
市井は首を振った。
見当もつかない。
(本当、どこ行っちゃったんだ……)
唇が、喉が、震え出す。市井はシャツの胸のあたりをかきあわせた。
押さえないと、耐えがたい想いが、哀しみが、後悔が、自分の中から飛び出してしまう。助けてと悲鳴を上げてしまう。私のせいだと叫んでしまう。
尋常ではない市井の様子に、保田は眉をひそめた。逃げようとする市井の本心を縛る強い視線で、さらにこちらを見つめる。
「言い方変えようか。じゃ、後藤がいなくなった原因について、心当たりない?」
――ダメだ。
「紗耶香も後藤も、最近おかしかったよね。でも、私は別々に心配してた。紗耶香は何を悩んでんだろう。
後藤は何が不満なんだろうって。だけどね、今すごいクリアになった気がする。
最初は全然わかんなかったけど、考えてみれば腑に落ちることばっかだよ」
――ダメだ。
保田は市井の肩に手をかけた。
触れられてはじめて、自分の肩が震えていることに気づく。
「二人の問題は同じ所からやってきてるんだね?
後藤はあんたのことで、あんたは後藤のことで……あんたたちは繋がってる、あんたと後藤の抱えてるもんは同じなんでしょ?」
――打ち明けたい。
心の底からそう思った。
その感情が口を突いて飛び出してしまうのを、市井は激しく恐れた。
――ダメだ、ダメだ、ダメだ……。
思いきり、唇をかむ。
心を、閉じ込める。
「紗耶香、黙ってちゃわかんない!」
――ダメだ!
「紗耶香」
保田は声を和らげ、市井の瞳をのぞきこんだ。
「私ね、さっきの紗耶香の顔……受話器抱えてぷるぷるしてた顔見て思ったんだ。
ああ、コイツやばいなあって。紗耶香のすごい、追いつめられてる顔……今までに見たことある顔なんだけど、今までで一番辛そうだった。
それで思った。後藤はいなかったけど、ここに来たこと案外はずれてはなかったんじゃないかって。ねえ紗耶香……言ってみな。
あんた何を抱えてんの? あんたと後藤はどうなっちゃってるの? なんで後藤はいなくなったの?」
「け……ちゃんは……」
「なに?」
「いいの、これは……私の……市井の……」
「なに?」
「圭ちゃんには関係ない!」
思わず口をついて出た言葉に市井自身がぎょっとする間もなかった。
耳のそばで少しにごった大きな音がした。頬に鋭い痛みと痺れが広がる。
保田の顔が自分の意思とは無関係に視界から外れた。
思いきり頬を張られたのだ。
思わず頬を押さえながら、市井は保田の顔を見た。保田は殴った手もそのままに、市井の顔を見つめている。
悲しそうな目だった。
「紗耶香」
小さな声だった。
「あんた、いつだってそうだね」
保田は絞り出すような声でつぶやいた。
「……脱退する時、紗耶香、私に何も言ってくれなかった。私だけじゃない、誰にも言わずに一人で考えてたね……。
私はなんにも気づいてあげれなかった。今回のことだってそう。紗耶香、いっつも一人で抱えて、一人で決めて……。
紗耶香、強いよ。ほんとスゴイと思うよ。他人に甘えたくないっていう紗耶香のそういう突っ張ってるとこ、あたしすごい好きだよ。
でもねえ、ほんとにそれが正しいの? だったらなんでそんな辛そうなの?」
保田は市井の体を揺すぶった。その口元が大きく歪む。
「紗耶香……甘えてもいいんだよ。もっと甘えてよ。自分だけじゃなくって、みんな周りにいるんだよ。
あんたのお母さんだって、私だって、メンバーだって、ファンの人たちだって、みんながあんたのこと思ってんだよ。
あんたが辛いの……辛いんだよ。だから、ちょっとわけてくれたっていいでしょ? 紗耶香の思いを、私にも聞かせてよ……」
保田はごつんと頭を市井の額にぶつけた。温かい涙が肩に降りかかる。
市井の両手首をつかむ手も、そばで感じる保田の体温も、暖かかった。
そのぬくもりは魔法のようだった。頑なだった市井の心を解く魔法。
こんなに身近にあったのに、楽になると分かっていたのに、差し伸べられた手をはねのけ続けていたのは自分自身だった。
市井は保田を抱きしめた。
「ごめんね……ごめん、圭ちゃん。ごめん……」
市井は泣いた。
しゃくりあげる声と、涙と交じり合って、溶けた心のカケラがこぼれ落ちて行く。
保田のやさしさに、あたたかさに、すべてを赦されているという感覚は、いっそう市井を泣かせた。
けれどその涙は、あの月夜の晩の身を切るような苦さを失っていた。
保田の前で流した涙は、甘く、あたたかかった。
すぐに涙に濡れた顔を上げると、保田はにやっと笑った。
照れ隠しか、ばさばさと前髪をかきあげ、ベッド脇にかけてあったタオルをとりあげると、しゃくりあげている市井の頬を乱暴に拭った。
自分も素早く涙を拭く。マスカラがすっかり剥げ落ちて、かなりの形相になっている。泣きながらも市井は笑ってしまう。
「は……はは、圭ちゃん、スゴイ顔」
「うっさい! 誰のせいなんだよー」
といいつつ、へへへと笑う。「怒られちゃうなあ、まったく」
ため息を一つつくと、保田はさて、と市井に向き直った。
「泣いてる場合じゃないんだ。あんたに対する恨み言はあとでゆっくり言うとして」
鼻をすすり上げる。「話してもらおうか。あんたと後藤になにがあったのか。……あんまり時間はないけどね」
市井はすべてを話した。
時間は短い。なるたけ簡潔に、今必要なことだけを。
ただ一つ、後藤につけられた『しるし』のことだけをのぞいて。
話していくうちに自分自身の中で凝っていた想いが、みるみる鮮明になっていくことを感じた。
黙って聞いていた保田は、長い話のあと一言「バカだね」と言った。
呆れたような、哀しいような、おかしいような、寂しいような、とても複雑な表情をしていた。
「どっちが?」
「両方。あんたも後藤も、二人そろって素晴らしくアホだよ」
ひとこともない。
「ま、それに関する説教はあとでたっぷりさせてもらうとして……」
保田は体全体で大きなため息を一つついた。
「それにしても、後藤……。そんなことするタイプにゃあ見えないんだけどね……。
なんつーか、そんなに一つのものに執着するようには、私には思えなかった。
でも……後藤の気持ち、わかるような気もする」
保田はつけっぱなしの扇風機に歩み寄ると、スイッチを切った。市井に背中を向けたまま続ける。
「寂しい……いや、寂しいって、そんな簡単な言葉とはちょっと違うけど、たぶんこう、なくなっちゃったんだね、後藤の心の大切なもの。
あのこの中でなくなったのは紗耶香だけじゃなくって。うまく言えないけど、いろんな、たくさんのもの、後藤が大切なもの、大切にして行きたいって思ってたもの。紗耶香がいなくなったことで、それがみんな、違うものに変わっちゃったんだ。後藤はきっと、後藤の大切なものを裏切られたような気持ちだったんじゃないかな」
私もそういう気分、あったからわかる……しんみりとつぶやいたあと、保田はこちらを振りかえって
「ま、私はオトナだからー、コントロールできたけど」と、笑った。
きっと、市井の胸が痛まないように。
「一番楽しい時にいなくなられたでしょ。それがすごくきつくてきつくて、納得できなくて、戻ってこないの、わかってるくせにわかんなくて。
あんたに甘えちゃってた……。でも、それはダメだって、ダメだってわかってるから、傷つけたんだよ紗耶香を。傷つけることで、嫌われることで、あんたと決別しようとしてたのかもね。もっとも、本人にそんな自覚あったかどうかはハナハダ疑問だけどね」
そうかも知れない。
後藤はああやって、市井を困惑させることで、傷つけることで、離れようとしていたのかも知れない。
とても子供っぽくて不器用なやり方だったけど、ほかに方法を知らなかった。
後藤は叱って欲しかった。責めて欲しかった。完全に拒否されたかった。そうでないと、納得できないから。
『あたしのこと、大事だったら市井ちゃん、なんで辞めちゃったの』
という、出口のない疑問に捕まってしまうから。
けれど市井は後藤を拒否することができなかった。そんな後藤を赦し、受け入れつづけた。
傷つけたくなかったこと。自分への迷い、後ろめたさ。さまざまなものが後藤に向かう感情をすくませた。
そして、もう一つの理由。
自分の足をすくませていたその感情の正体が今ならわかる。
「でも、後藤も紗耶香も程度を知らないもんだから、それが限界来ちゃって……いなくなっちゃった。まったく、しょうがないな」
保田は一歩踏み出した。
「このままじゃ、あんたも後藤も先に進めないよ」
市井はうなずいた。保田の目をまっすぐに見返す。
「いろんなことが……」
黙っていた市井がふいに口を開いたので、保田はすこし驚いたように唇を動かした。
「辞めてから……いろんなことが、一気にあって……それは全部自分で決めたことなんだけど、考えてたよりずっとすごい速さで周囲が回転し始めて、いつからなんだろう、まっすぐに進んでたつもりの私が、くるくるくるくる、同じとこ周ってた気がする。
『正しかったのかな』『間違ってなかったのかな』そう、毎日問いかけはじめて、心ン中でいっつも、『間違ってない』って答えてた。全部自分で決めたことだから、誰かに甘えちゃダメだ。ひとりで勝手にやっておいて、いまさら怖いなんて言えなかった。
そんな頃、後藤が来だして……私を責めるのね。『市井ちゃんは勝手だ』『市井ちゃんはヒドイ』なんかすごい、後藤とは思えない顔してさ。そのうち、声が……『間違ってない』って声が、いつの間にか聞こえなくなって……後藤の言葉に感じてた反発が、なんか、ちょっとずつ、薄くなってって――心の中で、後藤の言葉は痛いんだけど、でも、『そうなのかな』って。
『私はヒドイんだ』って、思い出すと、痛いけど、楽だった、すごく、ラクになったんだよ。
うまく言えないけど……痛くて痛くて、絶えられないほどなんだけど、受け入れているうちは考えなくていいから……だからなのかな」
一気に話して言葉の勢いで心が正確に伝わらないことを恐れて、市井はぽつぽつと話した。
話すうちに、余計なものが自分の中からそがれて行く。
保田はやさしい口調で言った。
「それだけじゃないと思うよ。あんたはやっぱり後藤のこと、ちゃんと大事に思ってたんだ。
これ以上傷つけたくなかったから、後藤の無茶を受け入れつづけたんでしょ」
「結果的には――。めちゃくちゃに傷つけることになっちゃったけど」
「紗耶香……認めるのはツラいかもしれない。
大事にしてた後藤を一番傷つけたのは、自分だってこと、向き合いたくないのはわかる。
でも、もうどうしようもない。紗耶香は選んじゃったんだよ。
周りを悲しませても、自分の道に進むってこと、決めちゃったんだよ。
もう元には戻せない、だとしたら、前に行くしかないんじゃない?
止まってても、傷つけ合うだけだと思う。後藤も、あんたも、お互いにとらわれてんだよ」
保田は一息ついた。
「後藤は言って欲しいんだよ……『おまえなんかキライだ』って。『私はあんたなんかより自分の夢を取ったんだよ』って。
そうでもしないと、あんたがやさしいままだと……ツライから。
『なんで? なんで?』って疑問から逃げられなくなってしまうから」
市井は顔を上げた。「もういいかげんにしなきゃなんない。きちんと後藤と話し合って、納得させ……」
「ダメ」
保田の言葉に市井は面食らう。
「ダメって……」
「それじゃ、ダメなんだ。そういうの、うまくいかないよ。大切な何かのために、
放してしまったものをいつまでも抱きしめてちゃ、きっとダメなの。解放してあげなくちゃならない。
……紗耶香は考えすぎてんだ。動く時は考えてちゃダメだよ。考えるよりも感じるの」
保田はにっと笑って、市井の胸をピストル形にした人差し指でとん、と撃った。「ここでね」
市井の心が震えた。
保田の言葉には力があった。
「感じたままにやればいい。辞めた時のアンタはそうだったはずだよ。今アンタはどうしたいの?
何が大切なの?」
そうだ、大切なもの。
市井は一呼吸置いて口に出した。
「私は、夢が大切。後藤を探しに行く」
保田は「よくできました」というように市井の頭をなでた。
「脈絡はないけど、上出来だよ。アホな後藤のこと、見つけてあげてね」
市井はうなずいた。
「ありがとう圭ちゃん」
「これは1回や2回のオゴリじゃ済まないね〜」
ふいに、軽快な携帯電話の着信音が響き渡り、保田が電話を取った。
平謝りをしているところと話の内容からするに、どうやら事務所関係らしい。
保田が話している間に市井は手早く服を着替えた。
「紗耶香、私もう限界だ。あとは頼んだよ」
保田は気合を入れるように市井の背中をどん、と叩いた。
「ほら。ゴーゴー、紗耶香!」
「サンキュー」
保田はひらりと手を振ると、駆け足で部屋を飛び出して行った。
「きゃ」
小さな声が廊下から響き、「すいません、お邪魔しましたっ!」という保田の声が聞こえてくる。母とぶつかりそうになったのだろう。
母が部屋をのぞきこんだ。心配そうな顔だ。
「ちょっとさや……」
「ごめん、私出かけるから。超急ぎなんだよ」
市井は転がっていた財布を拾い上げると、母の横をすり抜けようとする。その腕をつかまれて、市井は転びそうになった。
「ちょっ、なんだよー」
「ほら」
目の前に突き出されたのは、単行本サイズの小さな小包だった。
ボール紙の真ん中には、太いマジックで『市井さやかサマ』と大きく書かれている。
「速達で今来たんだけど」
「あーもう、それどころじゃないんだよっ。じゃねっ」
走りかけた市井は、ふ、と頭のすみにひっかかるものを感じて足を止めた。
不服顔の母のそばに戻り、小包をまじまじと見つめる。
市井の住所と名前をしるす、小作りで子供っぽい文字。『キケン物とりあつかい注意!』と書かれた赤い文字。
見覚えがあった、というより……。
――後藤の字!
「かしてっ!」
市井は母の手から小包を取り上げると、乱暴にガムテープをはがした。
中からはオレンジのハロープロジェクトTシャツでぐるぐる巻きにされた小さなモノが一つ。
携帯電話だった。
ドコモの最新機種だ。
それ以外、なにも入っていなかった。
後藤の手紙かなにか入っていないかと思い、市井は箱を逆さにしてみた。
が、何も降ってこない。
箱にもさっき見たもの以外は何も書いていなかった。
落胆とともに市井は電話を眺めた。半分に折りたたむ式のそれを開いてみる。
画面がオレンジに光る。電源を入れっぱなしにしていたようだ。
メールの表示があった。
――後藤からだ!
市井の胸が踊る。
おそらく買いたてであろう、このピカピカの携帯のメールアドレスを、ほかに知る人間がいるとは思えない。
メールを探したつもりが、使い勝手のわからない機種で、おかしな所を押してしまったらしい。
画面上にずらりと電話帳が表示された。
――説明書ぐらい入れとけよなぁ。
イライラとそれを消そうとした市井の指が止まった。
買ったばかりのはずの携帯電話の画面に、ずらりと並ぶ名前。
『安倍なつみ』から始まり、おそらく、後藤の知る限りすべての市井に関わる人間の番号が、そこに、網羅されていた。
一瞬、一生懸命携帯電話に番号を入力し続ける後藤の姿が頭に浮かんだ。
「ばか……」
泣きたくなる。「こんなことすんだったら、はじめっからあんなことすんなよっ……」
市井は心の中で一言宣言した。
――絶対探し出してやる。
待ってろ、後藤。
後藤は月の裏がわに、市井ちゃんとの思い出を探しに行きマス。。。
探しちゃイヤン。
――月の裏側か……。
タクシーに乗りこんだ市井は運転手に行き先を告げると、再び携帯電話の画面を見つめた。たった一つの手がかり、後藤からのメール。
こんな状況なのに、文面の緊張感のなさに笑いがこみ上げてくる。
――イヤンじゃないよ、バカ後藤。
携帯電話をにぎりしめたまま、市井は頭の中を整理し始めた。
今は12時半。ミュージックステーションの本番は7時53分開始。それまでにどうにか後藤をスタジオに連れて行かなければならない。
あと、約7時間。果たして長いのか短いのか。なんにしろ、早ければ早い方がいい。
それにしてもどこから探せばいいものか。市井は眉根を寄せた。
手がかりが少なすぎる。
とりあえず都内に向かうつもりだった。一人でそんなに遠くに行くような子とも思えない。
しかし、それとてなんの確信もない。
市井は自分の言葉を思い返していた。
『……無駄にした時間とか……お金とか、破った誓い、叶えられなかった祈り、
満たされなかった欲望……そういう、地上で浪費された―――ムダんなっちゃったすべてのものが、貯められてるんだって』
月の裏側……死んでしまった想いの眠る場所。
一体どこにある?
後藤はどこに探しに行った?
どうやって行けばいい?
車窓を流れて行く見慣れた景色をにらみつけて、市井は必死で考える。後藤の行きそうな所、後藤の考えそうなこと、後藤の行動範囲。
何ひとつわからない、けれど……市井は音を立てて携帯電話を閉じた。
たったひとつだけ救いはある。
月の裏側まで追いかけて行くことはできないけど――後藤も、本当のそこには行けない。
だって月は空にあって、私たちは地上にいる。その哀しい場所に、幸か不幸か羽のない私たちはたどりつくことができない。
――だからきっと、私は後藤をつかまえられる。
市井はタクシーの曇ったガラス越しに空を仰いだ。
後藤にとっての月の裏側は、一体どこなのだろうか。
月の見えないこの明るい空の下の、どんな場所で、後藤は叶えられなかった想いを弔っているのだろうか。
なにを言えばいいのか、どうすればいいのか。もう市井は自問することはなかった。
その時の心のままに、考えないでまっすぐに、後藤に向き合う、自分の心を後藤に伝える、それだけだ。もう迷いはなかった。
ただ、後藤に会いたかった。
テレビ局やスタジオ、そういったメディアに関わりのあるところには100%いないと仮定して、市井は個人的な場所を探しまわった。
市井自身も顔を知られた身だ。
マスコミ周りで後藤を探しまわっていたなどということがバレてはならない。
今日も晴天だった。運動不足の身を呪いながら汗を流して駆けまわっているうちに、捜索のネタはあっという間に尽きてしまった。
プッチモニで合宿をしたウィークリーマンション。そこにも後藤はいなかった。
がらんとした室内を見渡して、市井は深い息をついた。
――いない……か。
壁に後頭部をもたせかけると思ったより大きな音がして、自分の手足に力が入っていないことを知る。
脱力感のまま市井はずるずると床に座りこんだ。閉め切られていた部屋の空気はじっとりとした熱をはらんでいる。
生え際からふきだした汗が、頬をつたって首筋に落ちた。
今の所、手がかりはなにひとつ見つかっていない。まだ時間はあるがお手上げに近い状態だった。思いつく限りの場所はあたってしまっていた。
それでも、ここで座っているわけにはいかない。どんなに確率が低くても、後藤が存在している限り、可能性がある限り、探しつづけるしかない。
(ひょっとして、めっちゃ遠くとかに行っちゃってたりして……もしそうだったらかなりヤバイよな……。
ツアー先とかピンチの撮影したとことか言い出したら、キリないぞ。まさか、タイとか。……そんなわけないわな)
腕時計に目をやる。もう4時を過ぎていた。かれこれ3時間以上。期限のついた時間は体感をはるかに超えるスピードで流れている。
後藤を追う市井と、市井を追う時間。果たして、自分はこの追いかけっこに勝つことができるのか。
市井は目を閉じた。
――ここだったらいると思ったんだけどな。
当てがはずれてしまった。いまだ手がかりを何ひとつつかめない自分を、市井は自嘲した。
思ったよりもずっと、仕事以外で自分と後藤が過ごした時間も場所も少なかったことに、いまさらながら気づかされていた。
自分は一体後藤の何を知っていたというのだろう。
何を知っていたつもりだったのだろう。
――そんなことは今はいい。
市井は首を振って弱気な気分を打ち消そうとした。思考の迷路に落ちている場合ではない。
しかし、自分自身に対する不信が、立ちあがろうとする足を萎えさせる。
生活感のないこの部屋にただよう、まさしく市井たちの、三人の大量の思いの残滓が市井を絡めとる。
なつかしい顔が、会話が浮かんでは消える。
ボケている暇はないとわかっていながらも、市井はさまざまな感傷が胸に沸いてくるのを留められなかった。
交わしたさまざまな約束、ぶつけ合った感情、確かにここにあったもの。
そして今はないもの。
――私が……捨てたもの。
『うそつき』
後藤の言葉が響く。
『どうして』
後藤の声が問う。
『どうして、市井ちゃん』
『どうして、お父さん』
後藤の声が、もうひとつの小さな声と重なる。
ふいに自分の回想の中に紛れこんだ記憶に、胸がずんとする。見ていたビデオに突然知らない映像が差し挟まれたような感覚。
けれど、市井はその理由を知っていた。
そして、その声が誰のものかも。
市井は自分の心の中に耳をすました。
なつかしい、かなしい感覚が蘇える。
――私だ。ちいさい私。ちいさい私は後藤と似ている。
後藤の泣き顔と幼い自分の姿が重なる。
『どうして?』『なんで?』泣きじゃくる少女。
囚われていたのは、市井の方だった。
幼い自分を打ちのめした父との別れ、その時と同じことを、あれだけ傷ついたのに、
私もしようとしている――その感情が足をすくませていたのだ。
認めたくなかった。自分が父と同じことをしたということを。
大切な人たちを捨てて、一人で遠くに行こうとしている、そのことを。
でも、私はお父さんと違う。
そして後藤も、私じゃない。
私は捨ててなんかない!
市井は頬を思いきり叩いた。耳までじんと響く痛みで自分を取り戻す。
目を開けた。意味なく室内をにらみつける。そこかしこに漂う自身の感傷を振り切るかのように。
保田の忠告の甲斐なく、また考えこんでいた自分が情けない。
「月の裏側。つきのうらがわ……」
もはや呪文のように意味をなさないその言葉を、市井はつぶやいてみる。
「どこなんだよ、後藤さぁ……」
と一人ごちたあと「あーっ、もう!」と大声を出して市井は立ちあがった。
その瞬間、胸にちいさくひらめいたものがあった。
『後藤は月の裏がわに、市井ちゃんとの思い出を探しに行きマス。。。
探しちゃイヤン』
『動く時は考えてちゃダメだよ。考えるよりも感じるの』
感じる……感じたままに。
――もしかして……。
ひょっとしたら間違っているかもしれない。見当違いなのかもしれないけれど――。
けれど。
市井は顔を上げた。
市井の見つけたゴールに後藤がいるかはわからない。だが、今は走りつづけるしかない。
その先に答えは見えなくとも、もう立ち止まるわけにはいかなかった。
停める所がないタクシーを坂の下に待たせると、市井はいっきに狭い坂を登り始めた。
急な勾配に、すぐに息が切れ出す。両端に土を残して舗装されたアスファルトのかたわらには、鮮やかな赤い花が点々と、急ぐ自分を笑うかのようにのどかに揺れている。
視界の端にちらつく赤を横目に市井は走った。
揺れる花や草を透かして見つめる先に、光る水面が見えてくる。そのほとりに後藤の姿があることを、市井は切に祈った。
きっと後藤にとって月は月、それ以外のなにものでもない。月に行くと言ったらそれは本当に言葉通りの月であって、比喩でもなんでもないのだ。行くことができないのなら、近づこうとする。
それがこの場所だという確信はなにもなかったが、あの晩――焦がれた瞳で見上げていた月が浮かんでいたこの場所に、後藤はいるような気がした。
坂を登り切ると視界が開ける。小さな池とそれを取り囲む砂地。さえぎるもののない太陽。
その傍に置物みたいにぽつんと座っている少女。その小さな背中以外に人影はない。
かたむきかけた太陽に照らされた池は、夜に見たそれとはまったく違う印象を市井に与えた。
きらきらと輝く水面は、ゆるい風に小さなさざなみを立てている。
おだやかな風景の中に、後藤はいた。
――いた。
息切れの中で眩暈を起こしそうになって市井はふらついた。幻でないことを確認するために目をしばたたいた。
何度目かのまばたきのあとに大きな安堵が訪れる。
さまざまな思いが胸によぎる。しかしそれらをひとつひとつ確認している時間はない。
市井は足を踏み出した。
「なにやってんの?」
震えないように大きく張り上げた市井の声に、後藤は振りかえった。
頬にふりかかる髪、軽く開かれたままの不機嫌そうな唇、眠たげな目元。黙っていると妙に大人びた表情。
その顔を見るだけで市井は泣いてしまいそうになる。見ている市井自身の心が、後藤の顔にそれ以上のものを映し出すからだ。
その存在のすべてを、彼女に感じたすべてが、その表情にこの瞬間に集約されて、強烈に心をねじる。懐かしくて、眩しくて、いとしくて、憎らしくて、うらやましくて、哀しくて、さまざまなものが入り混じって、心が吸い寄せられるような感覚に市井は戸惑う。
まるで時計を眺めただけのように、市井の姿をとらえても後藤の瞳は色を変えなかった。
感情のこもらない、平べったい視線で市井を見つめつづける。
市井はかまわずに歩み寄った。膝を抱えて座りこんでいるかたわらに、口をくくったコンビニのビニール袋とポテトチップスの筒が転がっていた。
なんだか笑えてやさしい気持ちになる。
飲まず食わずというわけではなかったらしいことにほっとする。
「灯台モト暗しってか。こんなとこにいるなんてね」
言葉とともに市井は後藤の横に腰を下ろした。座ったとたん、足の裏がじんじんする。
後藤は市井の顔を見るのをやめて、砂の上についている自分の指先に視線を移した。
「どして」
短いつぶやきはひとりごとのように小さかった。ひどくひさしぶりに聞いた気のする後藤の声。
「どうしてって?」
「……探さないでって言ったじゃん」
「“探さないで”って人が言う時は、本当は探して欲しいっていうのが世のツネなのさ」
市井がうそぶくと、後藤はお尻のそばの砂を手の指を立ててかきまわした。
砂の上には幾筋も指の跡がついている。無表情のまま、後藤は「そうなんだ」と言う。
「ほんとに探して欲しくなかったから、あんなこと書いたの?」
市井の質問に後藤はゆるゆると首を振った。
「わかんない」
そのまま視線を砂の上から水面にうつす。後藤の声はおだやかだった。
感情を表に出してしまうことを恐れるように、伏せられた瞳。長い前髪がその表情をさらに隠してしまう。
「みんな心配してる。昨日、どこ泊まった?」
「友だちん家。ホントは昨日ここに来る予定だったんだけど、特急待ってる間に寝ちって、電車なくなったんだ。一日ズレちゃったよ」
「……携帯、ありがとね」
後藤は首を振ると、まったく違うことを口に出した。
「月の裏側、行こうと思ったの。でもさ、よく考えたら、ロケットないと、行けないじゃん」
笑ってしまう。市井は「よく考えなくても行けないよ」と言うと、投げ出していた足を引き寄せてあぐらをかいた。
「へへ」
後藤は前を向いたままほんのすこし笑う。
「で?」
「だからぁ、どうしよっかなーって。とりあえず、お月さん出るまで待とうかなあと」
市井は空を見上げた。真っ青な空には茜色に染まりかけた入道雲と落ちかけた太陽。
日が沈めば涼しい風が吹くだろう。もう夏も終わりだ。
「後藤、見えないけど、月はずっと空にあるんだよ。昼間でも、ずっと」
「そうなんだ? じゃあ月、今でもあるんだ」
後藤はびっくり顔をそのまま空へと向けた。薄まった空は真昼の蒼さを失っている。
すぐに夜はやって来るだろう。市井と後藤のタイムリミット。
「ばっか。本気で知んないの?」
と、市井は真顔でつっこんでしまう。
「んん? やー、そういえば遊んでる時とか、空に浮かんでたような」
後藤の方に体を向けて話している市井を、後藤は見ないようにしている。なにげなく語らいながらも、なにかを避けつづけている目。
「小学校で習ったじゃん。ずっとそこにはあるんだけど、太陽が明るすぎて、昼間は月、見えないんだって。そろそろほら、うっすらと見えてくる頃だよ」
市井は空の一隅を指さした。ぺらりとした小さな月が、落ちてきそうな頼りなさで青空に張りついている。
「ほら、あのへん。あれ、そうじゃない?」
「ああ、なんか白っぽい。紙みたいね」
市井の視線の先をたどった後藤は唇をとがらせた。
「あんなんじゃだめじゃん。行ってもゼッタイ乗れないよ」
そう言って立ちあがると、軽快に10歩ほど駆けて行ってしまう。
砂浜に群れていた小さなたくさんの鳥が、後藤に追われていっせいに夕やけ空に舞いあがる。
(なんだ?)
後藤は広場の端まで行くと、斜めに月を見上げる。首をかしげると、また月に向かって数歩。のぞきこむように見上げる。
――ははあ。
戻って来た後藤に市井は笑いをこらえて声をかけた。
「裏側、見えた?」
「ダメっす。こっからじゃダメみたいだわー」
執念深く月をにらんだまま、本気でふくれる後藤に市井は我慢できずに笑い出した。
「どっからでもダメだってば。行かなくちゃね」
「そっか。地球からは見えないって言ってたもんね……」
「行きたい?」
「うん」
後藤は振りかえった。正面から市井を見る。
屈託のない言葉が切実に響いた。
「連れてってくれる?」
いつものちょっとだらしのない笑顔は、なぜかはかなく見えた。
はかないなんて言葉とはほど遠い後藤の笑顔がそう見えるのは、おそらく、後藤が傷ついているからだ。
そして私がかなしいからだ。
すべてがいとしく見えるのは、きっと私がかなしいからだ。
市井は首を振った。
後藤の笑顔が曇る。
「月の裏側に行ったって、なにもないよ」
「だって……」
「ないよ。あんたと私の今までは、月の裏側になんかない」
「あるよ」
「ない」
「あるよ!」
なにかが弾け飛んだ。ヒステリックに震えて響く後藤の声は悲鳴に近かった。
市井の否定を切り裂く高い声。
「だって、あたし叶ってないもん! 果たされなかった! ムダんなった! なくなったよ! なくなったもん! 消えちゃったじゃんっ……」
動かない景色の中で、後藤の姿がビデオのノイズのようにぐらりとたわんだ。
実際にはその頬が、唇が、かすかに震えただけだった。が、なにかが壊れる音を、市井は確かに聞いた。
胸がきしむ。それをこらえて後藤を見つめる。
大切な人を傷つけることは、自分自身も損なうことだ。自分が傷つくより大切な人が傷つけられる方が辛い。
ましてや傷つけるのが自分なら、その痛みはどれほどのものだろう。
この痛みはきっと、市井を傷つけつづけていた後藤の痛みだ。
後藤は泣いていた。
夕日に照らされた頬を伝う涙を、市井は心底きれいだと思った。ぐにゃりと崩れた口元から、声にならない泣き声がもれる。
泣きながらも顔を上げたまま、後藤は叫んだ。
「あたしは元に戻したいの! 前の市井ちゃんに、前の後藤に、みんなに、戻りたいの!
だって違う、こんなの違うよ、こんなの嫌だよ、こんなのいらないよ、こんなのホントじゃないんだよっ。
だから、取って来るの、月の裏側に行って、前の、まえの、みんな、あたし、いち、ちゃ、に……」
ちいさくうなると、後藤は崩れ落ちた。しゃがみこみ、膝を抱えて泣き出す。市井は立ち上がり歩み寄った。
膝をつき、抱きしめようと腕を伸ばす前に、後藤が全身で飛びついてくる。態勢を崩し砂に座りこみながら、市井は倒れそうになるほどの、
その重みを受けとめた。涙、震える背中、抱きしめる強さ、後藤の感情のすべてが市井にまっすぐに向かってくる。
「あたしは……まだまだ市井ちゃんといっしょにいたかった。教えて欲しいこと、
おしゃべりしたいこと、いっしょにしたいこと、たくさんたくさん、あったの!
市井ちゃんもそうなんだって、そう思ってくれてるって、信じてた。いなくなるなんて、考えたこともないくらい、信じてた。だって市井ちゃん言ったもん!
『がんばろうね』って。『プッチでコンサートやりたいね』って。彩っぺの時、市井ちゃん、辞めないでって……市井ちゃんは絶対辞めないよね、って言ったら『うん』って。『いっしょにがんばろう』って……言ったじゃん。言ったじゃん!」
痛いくらいに市井の背中を抱きしめる後藤は、泣きながら感情を吐き出す。顔をうずめられている胸に、言葉が、涙が、熱を持ってしみてくる。
市井は後藤を強く抱きしめた。
「その時の気持ちは本当だった。私も後藤と……みんなとずっと、モーニングがんばってきたいって思ってた。
それは本当だったんだよ、後藤。確かに私は嘘ついた。でも、あの時の私には嘘じゃなかった」
聞きたくない、というように後藤は激しく首を振った。
「あたしはぁ……」
後藤はしゃくりあげた。泣きながらも、言葉を止めることができないらしい。
それはまるで壊れたおもちゃのようで、痛々しかった。涙でびっしょりと濡れた声。
「いちーちゃんは、あたしよりずっとあたしのことが好きなんだって思ってた。
あたしが……いちーちゃんのこと、思うよりずっとずっと。――やさしかったじゃん。
かまってくれたじゃん。いっつも一番心配してくれた。すごく好かれてるって、大切にしてくれてるってカクシンあったの。
だから――ビックリした。わかんなかった。
どうして捨てられるのって。娘のことだってあたしなんかよりずっとずっと大切にしてるって思ってたのに。
なんで市井ちゃんは大切なものを捨てられるの? なんで一人で行っちゃおうとするの? ねえ、なんでなの?
あたしにとっては――あたしにとっては変わらず大事なのに!」
後藤は息を呑んで口を閉じた。唇はもう涙の声しかもらさなかった。あごに触れる後藤の髪を感じながら、しがみついたまま泣きつづけるその背を、市井は黙ってなでつづけた。
なにも言えなかった。言わなくてもいいのかもしれない。
太陽が光を増しながら、見えない速度で沈んで行く。もう時間は残り少なかった。
長い間泣いたあと、後藤は市井から身を引きはがした。片手でしきりに目をこすりながら、市井を押しのける。
髪の間から上げた目が市井とぶつかると、またその表情がぐにゃりと歪む。新しい涙がまた頬をつたい、後藤は下を向いた。
市井はその髪をそっとなでた。いやいやをする子どもを思わせる仕草で、後藤が首を振る。
「後藤……。月の裏側に行きたいって言ったね」
後藤はなにも言わない。市井は続けた。
「……でもね、私はやっぱり月の裏側にはないと思うんだよ、私たちの……その、思いはさ」
市井は言葉を切り、腕を上げると、手の平で後藤の頭を軽くはさんだ。びくりと後藤の髪が揺れる。
かまわずに市井はゆっくりと顔を上げさせた。涙が雫になった長いまつげの下から、すっかり力を失った瞳がのぞいた。
市井をとらえると、また、そこから涙があふれて来そうになる。その目を市井は見つめた。
見つめることで、すこしでも心が伝わればいい。
「月の裏側に行ったって、きっと……見つからない。私たちの思い出も、約束も、ここにあるんだよ」
「どこに……?」
しゃくりあげながら後藤が問う。
市井は後藤の胸を指差した。
「ここに」
今度は自分の胸を指す。
「ここにも」
「だって、終わってないよ。形は変わったかもしれない。この先も変わりつづけるのかもしれない。
だけど、私たちの過ごした時間や思いがムダだったなんて、そんな訳絶対にない。もういっしょにはいられない。
それでも、私の中でもあんたの中でも、新しいお互いはずっと続いて行くんだよ」
市井は後藤の髪をなでた。
「後藤が大好きだよ」
後藤の唇が震える。
「みんなが大好きだ。だけど、私には大切な夢がある。なにをおいてもやりたいことがある。
だから……いっしょにはいられない。でもそれは、捨てたんじゃない、大切じゃなくなったんでもない」
後藤はうなずいた。何度もうなずいた。
「わかってたの。……知って……知ってた――けど、けどね……」
「いいよ」
もう一度抱きしめる。ちいさな深呼吸が聞こえた。
やがて後藤はぽつりと言った。
「……ほんとだったら、5月21日だったよね。あの時、きちんとバイバイできなかったから、市井ちゃんを苦しめてたんだ」
「あんただけじゃないよ。私の中でも、5月21日は続いてた。……でも、もう終わらせなくちゃね」
そっと後藤の体を離すと、市井は立ち上がった。差し出した手に笑って首を振り、
後藤も立ち上がる。いつのまにか周囲はすっかりオレンジ色の夕日に染まっていた。
市井は時計を見る。6時20分だった。
「間に合いそうだね」
市井は時計を指す。
「市井ちゃん、ずっと探してくれてたの?」
「んん、まあ。そんな、ちょっとだけど」
市井は照れ隠しに、ひとさし指と親指で「ちょっと」のジェスチャーをして片目をつぶる。
後藤はあらたまった表情で、ぺこりと頭を下げた。
「見つけてくれてありがと。きっとあたし、市井ちゃんに見つけて欲しかったんだと思う」
「どういたまして。けど、私が言うのナンだけど、二度とこんなことすんなよ。
今度やったら、かあさん、怒るかんね」
冗談めかした最後の教育係の口調。
「……みんな、怒ってた?」
「そりゃあ、もう。ほら、行こう」
後藤はうなずくと、急きこんで言った。
「ちょっと待って。市井ちゃんさ、ここ、どうなった?」
と、市井の胸を指さす。相変わらず真っ赤な目ながら、悲しみの色は少しずつその瞳から薄れて行っているようだった。
市井は面食らった。
「え、なに?」
「噛んだとこ。治った?」
「あー。まだちょっと……」
「見して」
「今?」
「早く」
一瞬ためらったあと、市井はしぶしぶシャツのボタンをはずした。かすかな傷跡の下の皮膚は、治りかけて色が変わっていた。
「うわ、青タンだ」
後藤が顔をしかめる。無性に恥ずかしい。
「もういいね」市井がボタンを留めようとすると――。
「ねえ」
後藤の目が落ちつきなくまたたいた。恥ずかしそうに小さな声。「ちゅうしてもいい?」
沈黙のあと、市井はうなずいた。
「噛みつくのはナシだよ」
後藤はそっと市井の両肩に手をかけた。まるで今まさにファーストキスを迎えようとしている恋人同士の体勢に、市井は笑ってしまう。
笑う市井の肩を後藤は気まずそうについた。頬をかたむけ体をかがめて、後藤は市井の胸の花にくちづけた。
ちゅっ、と小さな音を立てて。
しびれるような感覚が市井の中に走った。
やさしく触れただけなのに、それは今まで後藤がその場所に繰り返したくちづけの中で、一番痛かった。
「ごめんなさい」
後藤が花を見つめたまま、ないしょ話の声でささやいた。
「いいよ」
「いっぱい噛んじゃった。市井ちゃんも、後藤噛んでいいよ」
「いらない」
「へへ」
後藤が自分を見て笑う。胸が痛い。でも笑う。後藤も笑う。
「これ――消えちゃっても、後藤のこと、忘れないでね?」
「このしるしが消えてもさ、後藤があたしにつけたしるしは消えることはないからね」
「しるし?」
後藤が不思議そうな顔になる。
「どこに?」
「ここにね」
市井は自分を指さした。
「たとえばさ、ピスタチオ見たら、きっと私後藤を思い出すよ。昆布を見ても後藤を思い出す」
「なんで食べものばっかなのさぁ」
後藤が頬をふくらませる。
「……後藤といっしょにしたいろんなこと、話したこと、見たもの、ぜんぶ私の中にある。それが後藤のしるしなんだ。
後藤が私の世界につけたしるしが、後藤を思い出させてくれる。だから、私はきっと、どんな遠いところにいたって、どんなに長い間会えなくっても、世界中に後藤の存在を感じることができるんだ」
言いながら、市井は思った。
どうして、私はこんなにすべてを、今、言ってしまおうとしているのだろう。
「……そっか。ふふ。市井ちゃん、あいかわらずロマンチストだねー」
「うっせぇよ」
市井は笑うと、
「ほら」
後藤の両手首をつかみ、そっと自分から離した。後藤は市井の手をそのまま逆に握り返してゆらゆらと揺らす。
「行かなくっちゃね。Mステ今からだったら間に合う」と、市井。
「うん」
「行かなくちゃね」
「うん」
ゆらゆらゆらゆら。
足元から伸びる二人の影も、つないだ手が揺れている。
「送ってってあげたいけど、ウロウロできないからさ。一人で帰れんね」
「うん」
「タクシー来てるから。タクシー代ある?」
「うん」
「ちゃんとみんなに謝れる?」
「うん」
「場所わかってるよね」
「うん」
「そっか……」
もう言うことはない。
市井は後藤の顔を見つめた。頬の半分が夕日を受けてぴかぴかしている。茶色の髪がきらきら輝いている。
ヤバイ顔の一歩手前までくしゃくしゃに崩れている顔は、とびきりかわいらしくて、かわいらしいからではなく、いとしくてたまらなかった。
市井もつられて笑った。本当に笑うことができた。
そして、手を離した。
「バイバイ、後藤」
「うん、いちいちゃん」
後藤はこちらを向いたままだ。
「ほら。行きな」
「市井ちゃんもいっしょに行こうよ。途中まで」
「もうちょっとここにいるよ。月の裏側への行き方、研究してみる」
「そっか。わかったら、連れてってね」
「ダメ」
「けち」
後藤は一歩後ろへ下がった。
「ありがとね、市井ちゃん」
「うん」
後藤は背中を向け歩き出す。市井は精一杯背筋を伸ばして、後藤を見送る。
ゆらゆらと歩く姿が、長い影が、少しずつ離れて行く。後藤が振りかえる。
「がんばってね、市井ちゃん」
「おう」
市井の姿を確認して、また数歩。思い出したように振りかえる。
「あたし、なんかヘンなウワサ立ってるみたいだけど、なんかスサんじゃって、遊んだりしたけど、ヘンな遊び、してないからね! 誤解しないでね?」
「うん」
思い切ったように後藤は走り出した。広場を出たところで両足を踏ん張って振りかえる。
大きくこちらに向かって両手を振った。
「またね! 市井ちゃん!」
「おう」
鮮烈な笑顔を残すと後藤は走り去った。坂を降りて行く姿が、ひるがえった髪が、視界の端から消える。
それを確認して、市井は上げていた手を下ろした。
とたんに、涙がぼろぼろとこぼれ出して、ぎょっとする。
――あれ? なんだってんだ。
自分のことなのに、不思議で、市井はこめかみを押さえた。胸がぎゅっと痛くなる。
どうしようもない喪失感がやってくる。市井は座りこんだ。
拭っても拭っても、涙はあふれてくる。戸惑いの中で市井は悟った。
そうか。私が最初からずっと泣きたかったのは、これが終わりだってわかってたからだ。
後藤だけではない、市井の中のある時間、大切だった時。
きっと私はまた後藤と会うだろう。でも、今消えた私たち二人は、もう永久に戻ってはこない。
そんなことはわかっていたことなんだ。本当だったら3ヶ月も前に消えてしまっていたものだ。
後藤が手を離さないから、私も手を離せないから、そこにあるかのように留まりつづけたもの。
けど、これで私は先に進むことができる。
市井は胸からあふれ出る涙をもう止めようとはしなかった。泣くのは今だけだ、そしたら私は今度こそ、今度こそ迷いなく前に進める。
――後藤、あんたは知らないかも知れないけど……。
市井は夕日を見た。
――私はホントはあんたよりずっと、泣き虫なんだよ。
空一面に朱色を滲ませた夕日が、涙にかすんだ市井の目を容赦なく射していた。
軽快なギターのリズムにあわせて滑るカメラが、出演者たちをなめるようなアングルで映し出す。
ミュージックステーション、スタート直前のCM。
最後に映ったモーニング娘。は、メンバー全員がなにやらかごめかごめでもするかのように、円陣を組んでいた。
その中央にしゃがみこんでいるのは後藤。手をつないで後藤を取り囲むメンバーは、カメラを待ち構えたようにいっせいに後藤を蹴るまねをし始める。手を合わせて、画面に向かってしきりにごめんなさいのジェスチャーをくりかえす後藤。
全員の満面の笑みのおかげで、それはすぐに冗談だとわかる。
一人だけ真顔の飯田が怖かった――そんな話を保田から聞いたのは、9月も半ば、市井がイギリスに旅立つ3日前のことだった。
旅立つ2日前、市井は父とひさしぶりに会った。
「大人っぽくなったな」と言われ、悪い気はしなかった。
旅立つ前日、荷物をスーツケースに詰め込んでいる途中、市井はふと手を止めた。
昨日送られて来たメンバー全員の寄せ書きの色紙。
その中の一つを眺める。
「後藤はもっと強くなります。だから、市井ちゃんも、もっと強くなれ!
。。。元気でネ」
後藤は、娘。のみんなは、今日もきっとどこかでがんばってるんだろう。
市井は窓を開けると空を見上げた。夜空にはあいかわらず月が煌々と輝いている。
見るとこのできない月の裏側。目には見えないけど、確かにそこに存在するもの。
虫の声がひっきりなしに耳に響いてくる。吹きこんでくる風は心地よかった。
夏は終わる。けれど、秋はすぐそこにやってきているのだ。