チャイルドプラネット
序章 白い部屋
白い天井、白い蛍光灯、白いドア、白いベッド、白いシーツ、窓の無い一面の白い壁。
体に纏う白い服。腕に抱かれた白いテディベア。
いつから、どれくらいここにいるのか。
―――――――
どれくらい?
そもそも時間ってなんだったろう?
随分沢山の事を忘れてしまったような気がする。
いつしか、唇はメロディーを刻んでいる。
50回繰り返せば、白いドアの下についた小さなドアから白いトレーが差し出される。
白いトレーに乗った食べものによって、かろうじてこの世に白以外の色があることを思い出す。
あれは、緑、黄、紫、…………
46回目の歌を口ずさんだとき、ドアの開く音がした。
ドアが開く音ってこんな音だっただろうか。
まだ途中なのにな。最後まで歌わなきゃいけないのに。
少女の思いとは裏腹に46回目のメロディーは遮られた。
女は傷を負っていた。
乱れた呼吸を必死に整える。静寂の中で女の呼吸音だけが響く。
しくじった、人が居るとは。その上小窓一つしかない閉ざされた空間。
ここさえ抜ければという女の目論みは敢無く打ち砕かれた。
自分の不運を呪う。
とにかく騒がれる前にこの少女を始末しなくては。
少女の口から手を外し、両手を細い首に掛ける。
少女はピクリともせず女を見つめた。
女の腕を赤い液体が伝い、少女の白い服を染めた。
これ……なんていう色だったっけ。
懐かしい色。
確か……そうあの色だ。
私の愛しい人の色。
少女は微笑んだ。
「やっと来てくれたんだね。」
そう、ずっとずっと待ってたんだ。私はここで。あなたが来てくれるのを。
この色は赤。
赤はお母さんの色。
お母さんの……流した色……
赤は……血の色。血、血………ああ、そうだ。
「怪我してるんだね……」
痛いんだね、辛いんだね、苦しいんだね。
…ごめんね。でも、私は何も出来ないんだ。
だから。
だから、歌を歌ってあげる。
いっぱい、いっぱい。
そしたら、ほんの少しだけ
寂しく無くなるでしょう?
女は涙を流した。
一章 逃走
戦争だって?そんなの、やりたい奴だけがやればいい。
矢口真里は、心の中で悪態をつきながら森の中を駆け抜けた。
――20XX年――
極限状態にまで達した環境汚染は、思いも寄らぬ形で人類に報復した。
それはほんの小さな形で顔を表した。
12年前、ある小さな村の老人が、農作業中に突然おびただしい量の血を吐き変死した。2件、3件、10件と瞬く間に同様の事件が相次ぎ、徐々に広範囲へと及び遂には地球全体に及んだ。
それが、ある種の汚染により発生した伝染性の病であり、何故か30歳を超えた者を例外無く死に至らしめると気付いたときには、既に人類の2/3が死に絶えていた。
昨日まで病気一つ無いほど元気だったのに、突然床中が真っ赤に染まるほど血を吐いて倒れた父の顔。衰弱し、痩せ細って骨と皮だけになって死んだ母の顔が真里の脳裏を掠めた。
病に対するの特効薬は、開発されはしたものの、ごく少量しか採取できない資源を原料としたそれを手にすることが出来たのは、特権階級、富裕層の一部の人間に過ぎなかった。
一握りの権力者とそうでないもの。命長らえるものとそうでないもの。持つものと持たざるもの。
薬はやがて絶対的な力の象徴となり、それを制するものは、富、地位、名声、権力全てを欲しいままにした。
わずかな薬を巡り、人々は争い、やがて戦乱の中に奇妙な秩序が生まれていった。
日本でも、軍隊に似たものが各地域に形成され、しかるべき通知のあったものは否応無く一堂に集められ、戦いを余儀なくされた。
通知のあった者はまずコミュニティーと呼ばれる訓練校に配置される。
半年前、真里が収容された第一コミュニティーは日本国内に100ヶ所以上あるうちの最大規模のものであり同時に正規軍の本拠地とも隣接していた。
真里は収容初日の日本総司令の言葉を思い出した。
「これは、奪い合う戦いではない。人類全てを救う方法を探すためには全世界が歩みを一つにしなくてはならない。しかし、残念なことに多くは己の命のみを尊び、生き延びようとしている。……」
偽善者め。
そう語る総司令は優に50歳を超えており、薬を登用し生き長らえた者であることは明白だった。
妻は例の伝染病とは異なる病での病死と発表されていたがその真偽は定かではなく、全財産で自分の命のみ買ったと影で囁かれている事も少なくなかった。
だが、そんなことはどうでもいい。
人類全てを救う?全世界を?そんなこと知るもんか。
私にとっては意味の無いこと。
愛しい人の事を思った。
光に透ける金色の髪、笑うと細くなる優しい瞳、白くて細い指先、私を呼ぶ独特のアクセントの声。
戦いが終わるのは果たして何年後?、2年?3年?それとももっと?
裕ちゃんは……もう27歳だ。
一番愛しい人と、残り何年かを一緒に過ごしたいと思って何が悪いの?
コミュニティーでの成績が優秀で、特待生に認定されればある程度自由は許されるらしいが、身長も低く頭脳も人並みの自分にはその可能性は皆無に等しい。
半年に一度の野外訓練。こうやって抜け出すチャンスをずっと待っていた。
コミュニティーからの脱走は、反逆罪に問われる厳罰処分、即ち死。
捕まってたまるものか。あたしは、裕ちゃんに会うんだ。
裕ちゃんにもう一度抱きしめてもらうんだ。
ああ、でも……
一体この森は何処まで続くんだろう。
二章 コミュニティー
上空からそこを見たとき、丁度山腹の影で死角になっている為か、ただの真っ暗な闇が広がっているようにしか思えなかった。
大気自体が多分に有色のガスを帯びており、まっすぐ伸ばした自分の掌が漸く確認できる程度の視界。
全く随分な所に大層なものを作ったものだ。
不自然に高い壁に囲まれた灰白色の建物は、監獄さながらの様相だった。来るもの全ての進入を拒んでいる。少し離れた所に立つ塔のような建物もよりそう思わせた。
第一コミュニティー。
日本国内最大規模にして、正規軍の本部。
2重に設置された重厚な鉄格子の門を潜り抜けると訓練用のグラウンドが広がっている。
外から見た分には解からなかったが、中から壁を見上げると細い電子鉄線のようなものは張り巡らされている。
すぐ傍の木々には数知れない鴉が止まっているというのに、ただの一羽もそこに近づこうとはしない。ふいに吹き付けた強い風に待った木の葉が鉄線に触れた瞬間真っ黒に焦げ付くのが見えた。
不思議と恐怖は湧いて来なかった。
正規軍の数は聞いていないが、訓練生は約500名収容されているらしい。が、おおよそ人の気配というものが感じられない。
前方を無表情に歩く2人の士官にわざわざ理由を尋ねるほどでもないと思い、黙って絵画一枚飾られていない無機質な廊下を歩いてゆく。
突き当たりの部屋まで来た所で士官が立ち止まった。どうやらここが終着点らしい。
顎を小さく横に振る、入れという合図なのだろう。
扉に歩み寄りドアを叩いた。
「第八コミュニティー所属吉澤ひとみ、入ります」
「驚いたやろ?」
このコミュニティーの司令の部屋と聞き、さぞ豪華なつくりを想像していたが、中には簡素なデスクとパソコン、重役には似つかわしくない低めのテーブルとパイプ椅子が幾つかあるだけの極めて質素なものだった。
答えあぐねていると、男が再び口を開いた。
「第八コミュニティーは結構自由の利くところやからな。市街地の近くにあるし締め付けもそうは厳しくない。ましてや電子鉄線なんかあらへん」
「事前にある程度は聞いてましたから」
耳慣れない関西なまりのイントネーションを聞きながらゆっくりと男を観察する。
袖口までぴったり覆われた派手目のシャツ。痩せこけた頬。耳に飾られたピアス。
「わざわざ、ここに編入希望を出すとわ、変わった奴やな。」
手元に持った書類に男は目を移す。腕に嵌められた金色のブレス。
「成績も優秀。第八では特待生候補やったみたいやな。ああ、でもお前が向こうを発った後すぐ1人任命されたみたいやな。」
その事にはさして関心が無いようですぐに書類から目を離す。
「ま、理由はあえて聞かん。言いたくないんやろ?」
ひとみの顔をじっと覗きこむ。
うっすらと刻み込まれた皺。メイクを施しているが疲れを感じさせる肌。深い色の瞳。
かなり若作りをしているが20代というには少々無理があるように感じた。
特効薬を手に入れられるほどの特権階級のものならばこんな一コミュニティーの司令などやっているわけはない。世界的な視野で、とでもいって豪邸でふんぞり返っているのが関の山だ。なぜ?という疑問が頭を掠める。
「なんや?」
いつのまにか無遠慮に男をみていることに気付き慌てて視線を反らす。
「いえ」
男はその仕草をおかしそうに眺めると、ひとみに椅子に腰掛けるよう促した。
軽く一礼して椅子に腰を下ろす。固いパイプ椅子はひんやりと冷たく、男に全てを見透かされているようで居心地が悪かった。
ひとみが座ったとたん男は話し始めた。
「……ご察しの通り、俺は30超えてるで」
「あ……」
咄嗟に否定が出来ず、明らかにYesのサインを送ってしまったことを悔やむ。
「まぁ、どうせそのうちどっかから耳にはいるやろうから先に言っとく」
男の様子は至って落ち着き払っていたので、ひとみは黙って男の言葉を待った。
「俺はもともと日本軍総司令、まああの頃は大臣やな。大臣の秘書やったんやけど、開発途中の特効薬の被験者になったんや。いうてもそれは完成品やなくてな、1年ごとにワクチンをうたなあかんもんやった。まあ、それかて、大層な金額が張るもんや。」
男はまるで他人のように淡々と語った。
「俺に払えるはずもなかったんやけどなぁ、幸い軍事の采配能力を買われて、ここで司令勤めることを交換条件に延命してるんや。……他人の命をくいもんにしてな」
最後の一言を男は吐き捨てるように言った。
(この人、本当は戦いたくないのではないだろうか)
男の、瞳の色の深さを思う。
「ああ、随分無駄話してしもうたな。遅くなったけど第一コミュニティー総司令つんくや、よろしくな」
差し出された右手を一瞬戸惑いながらも握り返す。
「そろそろ終わる頃やと思うけどな……」
手を離してつんくが呟いた声はノックの音でかき消された。
「お、来た来た。入れ」
「……失礼します」
音も無くドアが開く。そこには戦場には不釣り合いなほど長い漆黒の髪を携えた少女が立っていた。
「どうやった?飯田。野外訓練は」
「楽しかった。鳥とか、虫とかいっぱいいて。パンパンパーンって」
完全な軍隊ではないといってもつんくは上官のはずだ。友人とでも話すかのような少女の口調にひとみは驚く。
最初、黒髪にばかり目がいったが、よくみるとかなりの美少女である。
すらりとした長身と大人びた面持ち。
先ほどの発言とのアンバランスさが奇妙だった。
「この子?」
ひとみの方を指差して問い掛ける。
「そうや」
全く会話から取り残され、ひとみは所在無げに視線を泳がせた。
「ああ、すまんすまん。こう見えてもなうちのコミュニティーでの成績はトップなんや。飯田圭織、これから同室になるから細かいことは飯田に聞いてくれ」
「よろしくね。なんでも聞いて」
にっこり笑って親しげに近づいて来る。
「よろしく……お願いします」
態度を決めかねておずおずと口を開く。
「ふ〜ん…」
息遣いが聞こえてきそうな程の至近距離によると圭織はひとみを上から下まで眺めた。
値踏みされているようでいささか不愉快になる。
「なるほど、ね」
「は?」
圭織は一通りじっくり眺めると目を閉じて満足そうに頷いた。
訳がわからずすっかり固まってしまったひとみの肩をつんくが軽く叩く。
「あんまり気にせんといてな。ときどき…その、なんや飯田、なにかしらと交信すんねん」
「交信じゃないよ!!教えてくれるっていうか、わかるんだもん」
どちらも大差あるように思えなかったが、つんくはそれ以上相手にはせず席を立ちパソコン前に向かった。
話しは終わったから出て行けということなのだろう。
「行こう、案内するよ」
この少女とこれから行動を共にすることに不安を覚えながらも後にしたがった。
「美人だね」
「そんなことないですよ」
「もてたでしょ?むこうでも」
「もてたって…女ばっかりですよ」
「女の子にももてそうだから。王子様って感じじゃん。それにこのご時世そんなこと気にしてる人あんまりいないし」
先ほどは少しも人の気配が感じられなかったがつんくの部屋を出るとあちこちに雑談を交わす少女達がいた。
先ほど耳にした通り人がいなかったのは野外訓練中だったせいで時間が来たので皆帰ってきたのだろう。
極力短く返答するひとみをよそに圭織は饒舌に喋りつづけた。
「でさ〜、どうしてここに来たの?」
恐れていた問い
ズキン
胸が痛んだ。
幸いつんくは聞かずにいてくれたが、先ほどからしつこく質問を重ねる圭織は許してくれるとも思わなかった。
なんとか誤魔化そうと目論んでいると圭織は笑った。
「いいの、いいの。言わなくて。圭織わかるから。」
「え……?」
まさかという思いが胸をよぎる。
ダレモシラナイハズナノニ。
「第八コミュニティーで特待生になってもせいぜいB待遇だもんね。それがここなら上手くいったらS待遇の本部付けの士官だもん。」
「あ……」
(そうだ、この人が知っているわけは無い……知っているのは私だけ)
「ああ、でも第八出身でも一人すごい人いたな。この間うちに監査に来た中にいたんだけどさ。格好よかったな、あのひと〜きれーな、まっすぐな瞳してて」
ズキリ
また、胸が痛んだ。
黙り込むひとみを気にすることも無く話を続ける。
「カオリわかるんだ」
「何がですか?」
「クールに見せてるけどホントはそうじゃないって」
「どういうことでしょうか?」
「言葉どおりの意味だよ」
最上階に位置されていたつんくの部屋から階段を3フロア下った所で廊下を折れ曲がる。
「圭織が行く前さ飼い犬と何話してたの?」
「は?飼い犬?」
圭織の話はさっきから、まるで支離滅裂だ。顔をしかめるひとみに圭織は笑っていった。
「ああ、ごめんごめん。司令のことだよ。みんなそう言ってるからさー。軍部の飼い犬。媚(こ)び諂(へつら)って毎日毎日命乞い……」
「結構です。聞きたくありません」
無邪気な圭織の笑い声がとてつもなく不快で眉を寄せた。
吐き捨てるように自らを罵ったつんくの深い、哀しい瞳が浮かぶ。
だが、圭織はものともせず嬉しそうに言った。
「その様子じゃもう知ってるんだね。でも、やっぱり予想通り」
「予想?」
「さっき言ったこと。クールなんかじゃない。まっすぐで」
まっすぐなものか。
「真っ白で」
私の手は汚れている。
「強いヒト」
強いものか。
私は、逃げてきたんだから、あそこから
彼女から。
「ここだよ」
階段から3つ目の扉の前で止まるとさっさと圭織は中に入る。
部屋の中を簡単に説明され、荷物を部屋の脇に置くと空いているほうのベッドにぐったりと横になる。
(疲れた。眠りたい。……)
圭織はまだ話したりないのか横になるひとみのベッドの脇に腰を下ろす。
仕方なく閉じかけた目を開ける。
(眠ってなにもかも忘れたい)
「きれいな瞳だね」
圭織は頬にかかったひとみの髪を掻き分けた。
「でもね……そういう瞳してる人ってねぇ、哀しい死に方しか出来ないんだよ。」
愛しげに指でひとみの唇をなぞる。
「あの士官もそうだったから。強くて、まっすぐで…きれーなきれーな瞳をした……」
(聞きたくない、忘れたい、逃げてきた……のに)
ヤメ………………
「市井紗耶香」
三章 守る者
『第八コミュニティー』
他のコミュニティーに比べて格段に自由度が高いとはいえ、戦いを強制されることに変わりは無い。
人が人を殺す。そんな事ができるものか。
収容初日から逃げ出したい衝動に駆られたひとみの気持ちを変えた少女。
それが後藤真希だった。
同期で召集され、同室になった真希は年も同じですぐに意気投合した。
コミュニティー内を流れる、殺伐とした空気に影響されること無く、真希はよく笑った。
「だってしょーがないじゃん」
戦いからの逃避と生への執着の葛藤を、真希は事も無く崩壊させた。
「戦わなきゃ死んじゃうんだよ?そんなの嫌だもん。好きな人といつまでも一緒にいたい。だからアタシは戦うよ。戦って、大事な人を守りたいから」
「ごっちん……」
「だからさ、よっすぃーもがんばろ」
「大事な人を守るため……」
「そ。だから、よっすぃーの事も守ってあげるよん」
全体重を預けて抱きついてくる真希にバランスを崩し、ベッドに倒れこむ。
全く、力が強いんだから少しは加減して欲しい。
そう思いながらも内心ちっとも嫌な気は起こらない。
(だったら、私はごっちんの事を守りたい)
固く誓って、真希の身体を抱きしめた。
「よっすぃー、何考えてんの?」
「え?ううん、なんでもないよ」
自室のベッドの上でぼんやりと考えていたひとみの目の前に当の本人が顔を近づけてきた。
「選抜のこと?」
「え?ああ、まあね」
本当は違ったのだけれど都合がよく勘違いしてくれたのでそういうことにした。
「誰が選ばれても恨みっこなしね」
「当たり前じゃん」
近々、第八コミュニティーから1人特殊部隊への配属が予定されているとの事だった。
そこに選ばれたものには例の薬が投与されるというのである。なんでも優秀な戦力を確保するためだそうだが、いわゆる民間人が薬を手に出来るのは異例のことでコミュニティー内はその噂で持ちきりだった。
ひとみも真希も成績は優秀で、十分に選ばれる可能性はあったがそんなことよりも、ひとみには真希と過ごす時間が重要だった。
「どぉなるんだろうね?」
ベッドの上をぴょんぴょん飛び跳ねる。マイペースな真希も流石に気になるのかいつにもましてテンションが高いように思えた。
「ごっちん機嫌いいね。なんかあった?」
なんとなく聞いてみると真希は一瞬のうちに顔を明るくさせた。
「え〜、やっぱわかる!?」
飛び跳ねるのをやめて身を乗り出す。
ひとみはそれで全てを悟った。
真希にこんな顔をさせる人物はひとりしかいない。
「あのね、市井ちゃんに会えるんだよ!!」
直接会ったことはないがひとみは嫌というほどその人物を知っていた。
盗聴、電波ジャックの危険性があるとして電話やメールといった通信手段は上層部の許可が無い限り、禁じられている。
文明がこれほど発達したというのに通信手段がむしろ後退し、主たる方法が手紙だけとは滑稽な話だったがそれでも数日空けずにせっせと手紙を書く真希。
ベッドのヘッドボードと机に飾られた写真。
1ヶ月に1度来るか来ないかの返事を小躍りして喜ぶ真希。
それも、何度か見せてもらった内容は近況を知らせるだけの素っ気無いものだった。
「ごっちん、こんなに一生懸命手紙かいてるのに、市井さんて冷たいんだね」
「そんなことないよ。すっごく優しいんだから、ロマンチストで人情家で」
どんなに返事がまばらだろうとも、素っ気無くても真希は「市井ちゃん元気なのかな」と繰り返す。
市井紗耶香は真希の幼馴染でひとみ達より一年早くこのコミュニティーに収容された人物だ。天才との名を欲しいままにした才気を発揮し、早々と特待生に選ばれSランクの士官として正規軍に配属されていた。
「市井ちゃんはね、歌手になるのが夢なんだよ」
真希は目を輝かせて語った。ふうん、とひとみは興味無さそうに相槌を打つ。
Sランク士官といえば他国との戦争においては先陣を斬って数々の戦場を戦い抜いてきた証。幾多の血で染められたであろう手に握られるものが武器ではなくマイクだなんて、想像するだけで馬鹿らしい。
大体、娯楽と呼ばれる施設が軒並み閉鎖されているというのに一体何処でやる気なのか。
「約束したんだ、子供のときに。ほら、なんだっけ誰かのうたで星屑のステージって」
決まって懐かしむように真希は空を仰いだ。
「あそこでね、いつか私の為に歌ってくれるんだって。だから……」
夢のまた夢。儚い夢の話。なんの力も持たない。
私なら、今ここで抱きしめてあげられる。
「え〜っと、だいすきな市井ちゃんへっと……ってこれこの前のと書き方おんなじだ」
手紙に工夫を凝らそうと悪戦苦闘する真希を後ろから勢いよく抱きしめる。
「はれ?どしたのよっすぃー?」
「……先寝るね。眠くなってきちゃった」
「あ、じゃあ電気消そっか?」
「大丈夫」
振りかえった真希の頬に手を当てて唇を近づける。
「うん、じゃおやすみ、よっすぃー」
首をちょこんと突き出して唇を合わせる。
「おやすみ、大好きだよごっちん」
唇を離して自分のベッドにもぐりこんで頭から布団をかぶる。
真希と市井紗耶香がどれほど思いあってるかなんて知りたくもない。
今、真希の一番そばにいるのは……私だ。
絶対に振り向かせて見せる。こんなに近くにいるんだから。
何度も心で繰り返し自身を奮い立たせた。
なのに、
明日、市井紗耶香がやってくる。
第一コミュニティーの視察を終えた後、この第八コミュニティーにも訪れるという。
大丈夫、大丈夫、大丈夫………
何度心の中で繰り返しても頭から拭えない不安。
ほとんど一睡も出来ずに朝を迎えた。
まだ眠っている真希を起こさないように気を付けながら部屋を出る。
外の空気でも吸って頭をすっきりさせないとおかしくなってしまいそうだ。
早朝特有のひんやりした空気を肺の奥まで入れる。
小一時間ほど時間を潰して部屋に戻ると真希は既に起きていた。
ひとみが部屋に入ってきたというのに何の反応もしない。ぼんやりと座りこんでいる。
「ど、どうしたの?ごっちん」
「よっすぃ〜」
声をかけたとたん、半ベソを掻いて胸に飛び込んでくる。
「ひどいんだよぉ、よりによってこんな日に外周警備の当番回ってきちゃったよぉ。」
「え……」
市街地に近い第八コミュニティーは常時訓練生が交代で市街の警備にあたる。
14〜15歳以上のもののほとんどが既に召集されているため市街地といっても残っているのは子供ばかり。秩序を保つための警備は必要不可欠であった。
とはいえ、過疎地などにある市街にはほとんどそういった措置も施されず無法地帯と化している。
年々召集の若年齢化が進みゆくゆくは幼い子供までを戦いに駆り立てるのかと思うとひどく鬱な気分になる。
人民への救済措置として、昨年度より役を25歳まで勤めたものは政府の用意した保養所で死を迎えるまでを暮らせるということになったがそもそも、この戦乱の中その年齢まで生きるものは少数で人民に対する慰めには程遠かった。
いずれにしろ、市街地の警備は訓練生の義務であり断るすべはなかった。
「今日のお昼…会えると思ってたのに…どんなに急いで周っても、帰ってくるの夜になっちゃうよぉ…」
「ごっちん…」
(そっか……会えないんだ)
気分がスーッと晴れていくのを感じる。
自分の顔がもしかしたら笑ってはいまいかと泣きじゃくる真希に本心を悟られないように強く抱きしめる。
「……今日すぐに帰る訳じゃないし、明日会えるよ、きっと。元気出して」
(会えなきゃいいと思ってるくせに…私)
「うん……ありがと」
真希はゆっくりひとみから離れるとのろのろと出発の準備をはじめた。
偽りの自分の言葉に対して素直に頷いた真希の純粋さに居た堪れなくなって部屋を出た。
四章 罪
「ねぇ、ねぇよっすぃー見た、見た?かっこいいよねぇ〜」
「なんのこと?」
昼食を済ませると、言い寄ってくる隣室の少女を交わして席を立った。
同じような会話が食堂のあちこちでかわされている。
面白くない。
どこもかしこも市井紗耶香の話ばかり。
単調な館内の生活に飽き飽きした少女達は水を得た魚のように、口々に市井をもてはやしていた。このコミュニティー出身で、しかもSランク、その上容姿も兼ね備わっているとくれば当然のことかもしれない。
訓練の合間を縫っては、館内を視察している市井紗耶香を盗み見て話に花を咲かせている。
ひとみが午前中に予定していた銃器訓練にもやって来たらしいが、顔を見たくなくて普段やりもしない個別の筋力トレーニングに変更した。
……いっそ今日は午後休んでしまおうか。
近々の選抜試験のことを考えるとかなりのマイナスになることは予想されたが、なんだかどうでもよくなっていた。
そうと決め、自室に戻ることにした。普段のこの時間は、昼食を終えた真希が部屋で昼寝をしているのだけれど、今日は外周警備で夜まで帰ってこない。
余計な詮索をされることもなく好都合だった。
L字型の建物の短い方の一番奥に位置する自室へと足を進める。短いほうの並びには二つしか部屋が無く隣室の少女はまだ食堂に居た。
(戻ってあれこれ聞かれる前に部屋に入ろう)
勢いよく角を曲がる。
誰も居ない。
ドアノブに手を掛ける。
ドアが開き中に入ろうとした瞬間後ろから誰かに押された。
「ぁ……っ」
よろめいて2、3歩前進する。
重心を失いぐらりと揺らいで倒れそうになった体を力強く支えられる。
(なに!?)
思わず声をあげそうになった口を掌で塞がれる。
「少しだけ話を聞いてもらえるかな」
抵抗しようとしたが、その声があまりに優しくてひとみは黙って頷く。
「ありがとう……」
(なんて暖かい声をしているんだろう。一体……)
口から掌が離れ体が解放されるとゆっくり振りかえる。
「手荒なまねしてごめんね。痛くなかった?」
ひとみの肩に手を置くとにっこり微笑んだ。
誰?なんてこと、
聞かなくたってわかる。
真希の机に飾られた写真と同じ顔。
同じ笑顔。
市井紗耶香
凛とした面持ち。
意志の強そうな眼差し。
包み込むような微笑み。
きっと、
誰もが引きつけられる。
事実、自分だってどうだ。何もかも預けてしまいたくなる。
自信が音を立てて崩れ落ち、ひとみをどうしようもない敗北感が包んだ。
「……ごっちんならいませんよ」
「うん、みたいだね」
ひとみの全神経を総動員しての拒絶をものともせず、柔らかな笑みは崩れることが無かった。
「夜にならないと帰ってこないですよ。」
「夜……か」
「ええ」
「そう……」
紗耶香はしばらく考え込んだ後ひとみの方を向き直った。
「よっすぃー」
「は?」
唐突に、初対面のはずの紗耶香から親しげに自分の名が出たことに驚く。大体ひとみの顔だって知らないだろうに。
「ああ、ごめんごめん。後藤の手紙でいつもそうかいてあるから、すぐわかったよ。つい、初めて会う気がしなくてね。……吉澤さん、だよね?」
「……ええ」
俄かに紗耶香と真希の絆をほのめかされたようで内心むっとしながら答える。
「いくつか質問があるんだけど、聞いてもいいかな?」
真希のことなら紗耶香のほうがよく知っているだろうに。だが、ひとみはそれを認めるのが嫌で、黙って頷く。紗耶香の視線が自分の全ての欺瞞をはぎとっていくような錯覚を覚える。
「よっすぃーはさ、大切な人がいる?」
紗耶香の問いかけはまるで昔からの友人に接するかのようだった。変な小細工や誤魔化しをすることは馬鹿らしく思える。
「います。とても、大切な人が」
私のほうが、あなたよりもずっとごっちんのことを大切に思っている。
「その人と一緒にいたい?」
「もちろんです」
ごっちんと、ずっとずっと一緒にいたい。何者にも渡したくない。
「………一緒にいることでその人に危険が及ぶとしても」
一瞬、苦痛に顔を歪めた真希の画像が頭を掠める。
「守って見せます。絶対に」
一番大切な人、絶対に守ってみせる。
「そっか……うん……そっかぁ」
紗耶香はフッと微笑むとゆっくりと真希の机に歩み寄った。
「私さ」
机に飾られたフォトフレームを手に取る。
「偉そうに聞こえるかもしれないけど、自分のことをね、強い人間だと思ってた。誰かを危険にさらすくらいならいっそ私だけが戦えばいい。それが自分にとっても相手にとっても最善だと思ってた」
「理想論ですね」
「ははっ…理想論か……そうだね。自分の理想は所詮自分だけのもので相手の事なんかまるで考えてないんだから」
「……市井さん」
紗耶香の意図を掴めず言葉に詰まる。
「お願いがあるんだ」
フォトフレームを元の位置に戻すと紗耶香は懐から水色の封筒を取り出してひとみの手に握らせた。
「後藤に渡して欲しい」
「市井さん?」
封筒を握ったひとみの手に紗耶香は自分の手を重ねた。
キュっと力を込めて握り締められた部分が暖かく感じた。柔らかな微笑み。
「……頼んだよ」
でも
なんて、
なんて哀しい笑い方をするんだろう。
一人になって、ひとみは手の中にある水色の封筒を見つめた。
熱にうかされたような状態から少しずつ少しずつ体が冷えていくのがわかる。
体の冷えと同時に思考がどんどん冷静になっていく。
(大体………)
なんだって自分が紗耶香からの手紙を渡さなきゃいけないんだ。よりによって私が。
そう思うと冷静になったはずの頭にカッと血が上る。
封のしていない手紙。
衝動的にひとみは中身をとりだして便箋を開いた。
封筒と同じ薄いブルーに書かれたちょっと癖のある文字。
無心でひとみは文字を追った。
『私は戦ってきた。
たくさんの人を犠牲にして。それが正しいと思ってたから。
けどね、そうじゃないってことがわかった。
この国は間違ってる。
私は自分の信じる道を進むから、
後悔はしないから、
どうか後藤も
私は、約束の場所にいるからさ』
2枚綴りの便箋をめくる。2枚目には真ん中に一言だけ書いてあった。
『愛してる』
なんてことだ。
グシャリとひとみは封筒を握りつぶした。
これは逢引きの手紙だ。愛を囁きあう恋人達の手紙。
約束の場所という言い方が癪に障る。二人だけに許された秘密めいた言葉。
自分に、逢瀬の手助けをしろというのか。
先ほど一瞬でも紗耶香に心頭しそうになったことを激しく憎悪した。
絶対に、
(絶対にごっちんは渡さない)
「ふえ〜疲れたよお」
午後9時を回った頃にようやく朝から出ずっぱりだった真希が戻ってきた。
「ね、ね。市井ちゃんいたでしょ?どうだったっ?よっすぃー」
ベッドで布団を被って横になっているひとみの上にぴょこんと乗っかってくる。
「ねーってば、起きてるんでしょ?よっすぃ〜」
目を閉じて返事をしないひとみの口と鼻を押さえる。
呼吸を遮られて息苦しさで真希の手を払いのける。
「ほーら、やっぱ起きてんじゃん!」
嬉しそうにきゅーっと抱きついてくる真希の体を抱き返したい衝動を押さえゆっくり体をどかせる。
「ごめん……ちょっと体調悪いんだ」
「え………そうなんだ。ごめん、よっすぃー」
しゅんとして自分のベッドのほうに移る。
この時間を過ぎると基本的に部屋を出ることは禁じられているのでひとみが相手をしないときは大抵さっさと寝てしまうのだが真希は落ち着き無くごろごろと転がっていた。
チクタクと秒針の進む音だけが響く。
10分、30分……時間が恐ろしいほどゆっくりと感じる。
ポケットに押し込んだ封筒を握り締める。
今ごろ紗耶香は、一人待っているんだろうか。
この手紙を渡せば、すぐさま真希は飛んでいってしまうことだろう。
……どうせ明日には会えるんだ。
「よっすぃー……寝ちゃった?」
「起きてるよ……」
1時間、あるいは2時間が経過したころふいに真希は口を開いた。動きが無いのでさすがにも眠っていると思っていただけにひとみは少し驚いた。
「そっち……いってもいい?」
「……いいよ」
ひとみが返事をすると猫のようにするりと布団にもぐりこんでくる。ずっと外にいたせいか真希の体はひんやりしていて一瞬ひとみは体を固くした。
「よっすぃー、あったかい」
ぴったり体を寄せ、ひとみの胸元に頭を預ける。
半分外に出ていた封筒を再びポケットにねじり込んだ。
その手を真希の背に廻し抱き寄せる。少しずつ冷えた真希の体に自分の熱が伝わっていく。
「寂しいから……こうしてて」
普段からあまり一人で寝る事が好きではない真希。いつもなら嬉しいこの台詞も、その真意をひとみははっきり自覚した。
真希が……本当に求めているのは、
「ごっちん、好きだよ」
「……よっすぃー?」
無言で廻した手に力を込めて唇を重ねる。重ねた唇を強く押し付ける。
あわせるだけのキスと違った奪うようなキスに真希の体が反応する。
「や……よっすぃー…っ」
両腕を突っ張ってひとみの体を遠ざけようとするが腕に一層力をいれ、それを許さない。
片手で真希の腕を制し、もう片方でTシャツに手を掛ける。市井紗耶香の残像を追い払うように乱暴に手を差し入れる。
その時、突然、どこからかけたたましい警報音が響いた。
驚いて、動きの止まったひとみの腕からすり抜ける。
「どうしたんだろっ?」
起きあがろうとする真希の腕を引きとめる。
「……慌てないで指示を待とうよ。ね、ほら座って」
「う、うん……」
素直にひとみの隣に座ったものの警戒心を抱かれたように感じた。
真希の望んでいないことはするつもりなどないのに。
ひとみは激しく後悔する。無理矢理、笑顔を作る。
「あははっ、ごめんごめん。本気で襲われると思っちゃった?もしかして?」
「も、もぉよっすぃーったらやだなっ!シャレになんないよぉ」
ようやく肩の力を抜いて安心して自分に体を預ける真希に心が痛んだ。
「それにしても、どうしたんだろう」
立ちあがって窓を開いてみる。雲一つ無い空に明々と月が輝いている。
ひとみはぼんやりと月を眺めた。
キューン!!
暗闇の中を銃声が響き渡った。
中庭の傍らの茂みから白い鳥が舞って大空に逃げてゆく。
暗闇の中に舞う白い鳥の美しさと相反した銃声の一種異様な空間にひとみは一瞬目が眩む。
キューン、キューン!!
立て続けに銃声が響く。
目を凝らしてみると人間らしき物体が茂みの奥を移動して行く。
ひとみはその影を夢中で目で追った。
「何、何!?どうしたの、よっすぃー!!」
真希もひとみの横に来て食入る様に身を乗り出す。
ズキューン!!
一際大きな銃声の後、どさりと人影が倒れるのが見えた。
再び、暗闇を静寂が包む。
何人かの人影が倒れた人物に近づいていく。
ひとみと真希は呆然と立ち尽くしてその様を見守っていた。
ピーっという館内放送を告げる合図が聞こえる。
第八コミュニティーの司令の声が流れる。
『先ほどの警報は、我が館内にスパイがいるとの報告を受け、その処理にあたったものである。なお、当方において既に処罰にあたったのでこれをもって警報は解除する。以上。』
抑揚の無い口調で語られていることが先ほど目の前に見た光景とリンクする。
人間一人の命を処罰という言葉で簡単に片付けることに吐き気がした。
「よっすぃー……あたし、なんか気持ち悪い。外の空気吸いたいな」
「うん……」
本来は外出は禁じられているのだが自分もそうしたかったので真希と体を寄せ合いながら部屋を出る。廊下の角を曲がって階段を降りてゆく。
「なにやってんだ!!外出は禁じられているはずだぞ!!」
1階のフロアに出た所で4人連れの士官とかち合った。二人は白い布をかぶせた担架をかついでいる。
「すいません……気分が悪くて……」
「いくら気分が悪くても……」
「まあまあ、いいじゃないか少しくらい」
一人の士官がひとみ達を諌めようとすると、下品な笑いを浮かべた士官がそれを制した。
「今日は、気分がいいんだ。許してやろう」
「そりゃ、お前はいいだろうよ。大手柄だもんな」
「ははっまあな。なんてったってスパイを始末したんだから」
士官たちの来た方向と担架から大方のことは予想できたが、その話振りに眉をひそめる。ひとみは真希の腕を取り軽く一礼して立ち去ろうとした。
「でも、変だよなあ。さっさと第一コミュニティー訪れた後逃げりゃよかったのにさ。なんでわざわざここまで来たんだろうな」
ひとみはぴたりと足を止めた。肌を通じて真希の腕が硬直するのが伝わってくる。
「そうだよ、しかもこんな夜まで一体何を……うわっ」
「ごっちん……!!」
ひとみの腕を振り解いて白い布を掴む。
白い布は宙を舞って冷たい床に落ちた。
「い……」
断末魔のような絶叫がひとみの耳を劈いた。
「嫌あぁぁぁぁーーーーっ!!」
白い担架に横たわったまだ生気を帯びた体。
真っ赤に濡らした胸元。
閉じられたまま開かない瞼。
「い……ちいさ……ん」
士官の制止も聞かず胸元に顔をうずめ顔中を血で染める真希をただ呆然とながめた。
「どおしてっ!?どうしてなのよお!?」
『この国は間違ってる。
私は自分の信じる道を進むから』
市井さんは何かに気付いたんだ。
(さっさと逃げりゃよかったのにな)
でも市井さんはそうしなかった。
『どうか後藤も』
ごっちんを
迎えに来たんだ。
『約束の場所にいるからさ』
(こんな夜まで)
待ってたんだ、ごっちんを。
『頼んだよ』
私に手紙を託して。
でも、
もしかしたら行かなかったかもしれないじゃないか、誰だって自分の命が一番大事。
手紙を私が渡したとしても、危険とわかったならごっちんは行かなかったかもしれない。
「市井ちゃん、市井ちゃん……なんでっ!!なんでアタシのこと置いてくのお?」
獣じみた叫び声がこだまする。
「畜生、コイツ!!おい、鎮静剤持ってこいよ!!」
動揺しきった士官が慌てて走り去ってゆく。
…………違う。
真希は、
例えどんなに危険だったとしても付いていった。
どんなに、例えそこに待っているのが破滅だったとしても。
私が、
私が市井紗耶香を殺したんだ。
五章 ミッション
間近で光が点滅するのを感じてひとみは目を開いた。
開いたということで自分がいつのまにか眠っていたらしいことに気付く。ヘッドボードの紅いランプがチカチカと点滅を繰り返している。
「それ、司令官室への緊急呼び出しの合図だよ」
カチッと室内の電気を点す音と同時に圭織の声が聞こえる。
「どうも……」
普段着のままうたた寝していたので軽く髪だけ整え、立ちあがる。
「待って、圭織も行くから。まだここの中よくわかんないでしょ」
ひとみがちらりと圭織の方についているランプを見ると消えたままなのが確認できた。どうやら呼び出されたのは自分だけらしい。
時計も既に午前0時をまわっている。
「大丈夫ですよ。一人で行けますから」
「ああ、いいのいいの」
ひとみの言葉を全く無視して圭織はパジャマ代わりに来ていたトレーナーを脱ぎ捨てる。
同性とはいえ、初対面の人間の肌を直視するのは躊躇われて視線を反らす。
「本当に大丈夫ですよ。遅いし、寝ててください」
「いいっていってるじゃん。圭織が行きたいから行くだけ」
「……行きたいって?」
気配から着替え終わったらしいことを察して視線を戻して問い掛ける。
圭織は長い黒髪をはらりと後ろに流しながら言った。
「なんかね、行った方がいいような気がするんだよね」
何がおかしいのかクスクスと笑い出す。
「そういうのね、わかるんだ私。こういうのね、圭織はずれたこと無いの」
(さっきといい、この人って……)
ひとみはその笑い声をどこか違う次元のもののように感じた。
ぼんやりとただ立ち尽くす。
「ねえ」
ピタリと笑いを止める。整った顔立ちがマネキンのように無機質に感ずる。
「今、圭織のこと気持ち悪いって思ったでしょ?」
ひとみが押し黙っていると圭織は同じ質問を繰り返す。
「思ったでしょ?」
「いえ、ただ」
ただ、
本当にわかるんだったとしたら
もし自分に未来を察知できる力が少しでもあったならば
「羨ましいと思いました」
あんなことにはならなかったかもしれない。
「あ、アハハっ、羨ましいかぁ、クス…フフフ」
大して面白いことを言っていないはずなのに体を揺らすほどに笑う圭織を横目に部屋のドアを開いた。慌てて椅子にかけてあったストールを掴んで後を追う。
「あ、待ってよ。今行くからっ」
消灯時間を大分過ぎていたので廊下は静まり返っている。ひんやりとした空気を静寂が一層温度を下げているように感じた。広い空間に二人分の足音が響いては吸収されていく。
静寂に耐えかねて、至って単純な疑問を圭織にぶつける。
「こんな時間に呼び出しって、よくあることなんですか?」
「ううん、めったにない。っていうか私ははじめて」
正確に言うと圭織は呼ばれていないのだからそのはじめてもないのだが敢えて否定するのもなんなので黙って聞き流す。
饒舌に喋るかと思えば、ロクに会話がなりたたない。圭織の本質を掴みかねた。
廊下も消灯後とあって小さな非常灯のみが最低限の光量を保っている。
踏み外さぬように慎重に階段を上ってゆく。電球のいくつかは切れているようで、会談の先の廊下の明かりだけを頼りに歩を進めていくと、最上階の1フロア手前で複数の足音が聞こえた。
「な……」
二人の士官らしき人物が自分と同い年くらいの少女を両側から囲んでいる。
向こうからはこちらは暗がりで見えないらしく目前に来ても気付く様子は無い。
少女の具合でも悪くなって医務室にでも連れてっているのだろうかと思っていたが士官達のにやにやしたいやらしい笑いが妙に勘に触った。
ふらふらした足取りで従っている少女の胸元に士官達の手が伸ばされているのが目に入りギョッとする。
はだけた衣服を直そうともせずただ虚ろな瞳で空を見つめている。
コミュニティー内での恋愛自体はそう珍しくも無いがどう見てもそうは思えない。
常識的に判断して少女と複数の士官がどのような関係か瞬時に推し量ることが出来た。
「やめなよ」
咎めようと踏み出したひとみの行く手を圭織は遮った。
「そん……」
圭織の体をどけようとした手を逆に捕まれもう一方の手で口を塞がれる。
そう強い力で押さえられているわけでもないのにどういう要領なのかがっちりと体が固定され身動きが取れない。
階段から幾分か離れた所でパタンとドアが閉まる音がする。再び、静寂の中二人だけが取り残される。
圭織の手が離れ体を解放されると向き直ってひとみは問い掛ける。
「……どうしてですか?飯田さん、あなただってさっきのわかったでしょう?」
「あんまり遅くなると懲罰受けちゃうよ。早く行こ」
「飯田さん……!!だってあの子……」
容易に想像できる少女の受けているだろう行為。激しい嫌悪感が押し寄せる。
今すぐに踏み込んで直訴すれば。
「ここにいる人間なら誰でも知ってるよ」
「え…!……どういうことですか?」
「求められれば拒まないんだよ、あの子。だから私達がどうこういうことじゃないの」
階段を上りかけていた足を戻し、ひとみと同じ高さに視線をあわす。
「それにしたってっ……」
「あの子はね、あーいう風にしか生きれないの」
抜け殻のような少女の姿がシンクロする。
「ああすることでしか自分の存在価値を見出せないから」
「存在……価値?」
人が人で在る、人として在ることの価値。
私がここにいる価値。
なぜ、自分は生きているのか。
あの人の命を踏み台にしてまで。
ぐるぐると脳内をどす黒いものが渦巻く。
「行こ」
「失礼します」
「遅いで」
入ってきた人物を確認するとつんくはまだ随分と長い煙草を灰皿に押し付け火を消した。
「女の子には色々準備ってもんがあるんだから」
ガラス細工の灰皿にいくつかの吸殻が転がっている。
ひとみのほうにちらりと視線をやり、圭織の所で止める。
「呼んだんは吉澤だけのはずやけど?」
最後の1本を取り出すと空箱をくしゃりと握りつぶす。
「まだこの中よくわかんないんだろうから案内してあげたの。でも来ちゃったからいてもいいでしょ?」
まったく悪びれる様子の無い圭織にやれやれと溜息をつく。
「まぁええわ。とりあえず座って」
据えられた椅子に座るってつんくの言葉を待つ。
壁掛けの時計を見てしばらく沈黙する。
「何か、待ってるの?」
なかなか話が始まらないことに痺れを切らした圭織が最初に沈黙を破る。
「いや、とりあえず話をはじめるわ」
立ちあがってデスクのうえに置かれてあった黒い小型のスーツケースのようなものを持ってくるとひとみ達の前に置いた。
「今日、野外訓練があったっちゅうことはさっき話したな」
「ええ」
「圭織もやったよ」
指をピストルの形に変えてパーンとつんくの額の方向に向ける。
「参加した中の一人が戻ってないねん。迷った可能性も考えて、夕方頃照明弾を2発ほど目印としてあげたんやけどこの時間になっても帰ってくる様子が無い。つまり……」
「脱走……ですか?」
「アタリ」
コミュニティーの中でも本部に隣接している第一コミュニティーは最も厳戒な体制で管理されている上人里から離れた樹海の中に位置するため脱走の可能性はゼロに等しい。
誰もがそう思い、他コミュニティーならまだしもここでそのようなことをしようという者は自殺行為に等しいといわれていた。
「油断大敵ってやつやな。誰しもが大丈夫やと気が緩んだときにやられてしもうた」
圭織は相手にしてもらえないのがわかるとムスッと顔をしかめて黙り込んで話を聞いた。
「本来なら正規軍から派遣して脱走者を捕らえる手筈なんやけどな……わけあって候補生からってことになった」
「わけって?」
おぼろげながら自分の呼ばれた理由が推測されてきてつんくに先を促す。
「要するに、難攻不落なんていわれてた第一コミュニティーがあっさり脱走者を出しちゃったってことを隠蔽したいんでしょ?簡単に抜けれるって思ったら同じような考えを起こす子が次々と現れるじゃない。内内に処理しちゃいたいんだよ。つまり、編入してきたばっかりでほとんどみんなに顔を知られていない吉澤はその役にうってつけっていいたいんでしょ?」
つらつらと自分の論理を展開させる圭織の意見を否定せずにただ少しだけ唇の端をあげて笑うとポケットから一枚の写真を取り出した。
「名前は矢口真里。細かい特徴なんかはこっちの登録票に書いてるからザッと読んどいてくれ」
出身地、血液型、生年月日、身長などが記載された用紙を写真の隣に置く。
「見つけ次第、無線で報告。素直に従ったら連れかえること。抵抗した場合は………」
黒い小型のスーツケースの錠を外す。カチャリという金属音の後前側に開き中身が露わになる。
「反逆者とみなして始末するように…とのことや」
ケースに収められた黒光りする銃を取り出すとひとみのほうに投げてよこす。
ずっしりとした重みが腕に伝わる。
訓練用のものと同じ型のはずなのになぜか重く感じる。
「圭織も行くっ!!」
ひとみの手に握られた銃を爛々とした表情で凝視しながら圭織が叫んだ。
「来たばっかりじゃ樹海で迷っちゃうよ。道案内が必要でしょ?圭織行ってあげる」
異様なほどに熱を帯びた圭織の様子にひとみは圧倒される。
「ご親切に……といいたいところやけどな、もう……」
圭織を牽制しながら軽い口調で流れるつんくの言葉にコンコンといくノックの音がだぶる。
「まったく一応上官命令やっちゅうのに社長出勤さんばっかりやなぁ、入って」
つんくの声の向けられた方向をひとみも振り返る。
ノブをひねる音の後、重々しく扉が開かれる。
「細かい話は後や。とりあえず、紹介するわ。先導役兼お前のパートナー」
入室した人物にひとみは驚きで釘付けになる。
焦点の定まらない瞳。
か細い手足。
薄く開かれた唇。
「石川梨華や。仲良うやってくれ」
あの薄暗い廊下で見かけた少女だった。
六章 理由
「以上や。夜明けと同時に出発してくれ。それまでは各自の部屋で仮眠をとるように」
梨華と呼ばれた少女は説明を聞き終えると軽く一礼だけして部屋を出ていった。
霧のかかったような気持ちを抱えながらその背をひとみは見送る。
「だからあっ、圭織も行くってば!」
「諦めが悪いなぁ、飯田。今回、お前は任命されてないねん」
ひとみはなぜここまで圭織がこの指令に固執するのか不思議に思った。
二人のやりとりを聞きながら部屋の出口を眺める。
「……行かせてくれないと、脱走者が出たこといいふらしちゃうよ?それでもいいの?」
「まったく……痛い所ついてくるなぁ。お前ホンマにやりそうやからな」
「ほら、こまるでしょ?じゃ、OKだねっ!」
外人のよくやるような肩を竦めるジェスチャーの後、返事をするかわりにつんくは机の上に銃と並べて置かれてあった無線機を圭織に投げてよこした。
「銃は規定数以上は出せへん。ちゃんと報告するんやで」
「やたっ」
はしゃぐ圭織をよそにひとみは銃と『矢口真里』の写真と書類を手に取る。
「指令の内容はわかりました。では、失礼します」
「あ、ちょ……圭織も一緒に行くから待ってよ」
小型の無線機をズボンのポケットに突っ込むと足早に部屋を出るひとみの後を追う。
大きな音を立てて閉まるドアを眺めながらデスクに移動すると引出しから新しい煙草を取り出した。
火を点しゆっくりと煙を吐き出しながら目を閉じた。
「ちょっとぉ、なんで走るの?」
部屋を出たとたん走り出したひとみの後を圭織は必死で追いかける。
全力で司令官室のある廊下を突抜け、階段に達した所で前方に梨華の姿をとらえた。
足音に気付いて梨華は振りかえった。
梨華が立ち止まったのがわかると息を整えながらひとみは近づいた。
「……何?」
はじめて間近で聞く梨華の声が予想外に高いことに驚く。
追いかけはしたもののほとんど何も考えていなかったひとみは言葉に詰まる。
だが、先ほどの闇の中での士官達との映像と、目の前の少女のともすると今にも折れてしまいそうな儚い姿が頭の中で入り混じる。
(でも、この環境を望んでいるなんて思えない)
何も言わないひとみから視線を外すと、階段を黙って下り始める。
先ほど、梨華を目撃したフロアのところで曲がる梨華のあとに続こうとするひとみに圭織は囁いた。
「カオたちの部屋、もういっこ下だよ?」
「いや……ただ」
先ほどの事態がすぐさま起こるとは思えなかったが、せめて部屋に入るまで見届けたいとひとみは内心思っていた。
梨華は二人のやり取りを不思議そうに眺める。
気まずい沈黙が包む。
ほんの数秒だったかもしれないがひとみはその沈黙がとてつもなく長いように感じた。
(何やってんだか、私)
自分だけが空回りしているようで気恥ずかしくなる。
何個めかのドアの前で梨華が立ち止まる。
「じゃあ、私ここだから。また」
「あ……じゃあ」
ぎこちない挨拶を交わす梨華とひとみを見ながら圭織は笑った。
「なるほどっ。優しいね、吉澤って。ホント王子様って感じ」
「え……?」
心のうちを見透かされたようでひとみは思わず声をあげた。
動揺を悟られないようにこのまま去ってしまおうかと思ったが、自分をじっと見つめる梨華に釘付けになる。
「お役目完了!無事暴漢の手にかかることなく送り届けましたとさ」
「あ……いや……」
なんだって自分はいつもこうなんだろう。
「ご……めん……さっき……そこで………」
「そう」
しどろもどろになるひとみとは裏腹に梨華の声は最初と変わらないトーンだった。
「だからってどうこうっていうんじゃなくて……」
「……心配して送ってくれたんだ、ありがとう」
「え……」
梨華の手がひとみの頬に寄せられる。
「ねえ」
艶っぽく濡れた唇が動く。甘ったるい高い声。視界が一瞬ぐらりと揺らいだように感じる。
「少し……部屋寄っていく?」
梨華の指先が頬に触れる。ビクンと体が反応する。
パシン
乾いた音が響いた。
「………あ」
梨華の手を払いのけた自分の手をひとみは呆然と見つめた。
「アハハハッ。王子様は汚れるのが嫌なんだって。残念だったね、石川」
「ちが……」
まただ。また、誰かを傷つけてしまう。
「おやすみなさい」
部屋の中に消えた梨華がどんな顔をしていたのかひとみは見ることが出来なかった。
部屋に戻って、意気揚揚と支度する圭織をぼんやりと眺めた。
何故、梨華の手を払いのけてしまったんだろう。
『汚れるのが嫌なんだって』
そんなんじゃない。
……じゃあ、何故?
ぐるぐる、ぐるぐると何度も同じ問答を繰り返す。
なんて思った?私……
「これでよしっと!!電気消していい?」
「あ、はい……」
小さな明かり一つを残して蛍光色を施された時計の針だけが輝く。
圭織がベッドに入る音が聞こえてくる。その音ですら妙にアップテンポに聞こえた。
「……どうして、志願したんですか?」
知り合ったばかりの自分の身を心配してとは思えない。ひとみは横になったまま問いかけた。
……まただ。饒舌に喋るかと思えば急にだんまりを決め込む。
もしかして、もう眠ったのだろうか、別段返事は期待していなかったのでひとみも目を閉じる。
「行かなきゃいけないの」
凛とした声が脈絡も無く発せられた。
「みんなね、すごいすごいっていってくれてたんだよ、圭織のこと。お父さんも、お母さんも、街の人もみんなみんな。圭織はなんでもわかってすごいねって。
もっと言って、もっと教えてってみんなお願いするんだよ圭織に。
だから教えてあげたのに。いい事も……悪いこともっ!!ぜーんぶ。
なのに、
なのにね……いつのまにか誰も聞かなくなった。
気持ち悪いって……気持ち悪いって圭織のこと。
それで、誰もいないひとりぼっちの家に閉じ込めるの。
圭織はすごいからこの家はそのご褒美よって。
そんなの、嘘」
強い風がふいたのか、窓枠がガタガタと揺れた。
「ここだってそう。入るのが決まったとき『寂しい』ってみんな言うの。でもね……嘘。誰もそんなこと思ってない。ホッとしてるのがわかった。みんなみんなうそつきばっかり。
だからね、もう誰も信じないの。誰の言葉も。
だからね、行くんだ。ここにこのままいちゃ駄目って警告されてるから」
荒れた息に息継ぎもままに言葉を吐ききったことに圭織は気づく。なんでこんなこと言っちゃったんだろう……ううん、違う。今のはただの独白なんだ。
体を少し起こしてひとみのベッドのほうを見ると自分に背を向けたまま横たわる姿が映る。
「……寝ちゃったのかな?」
ぽそりと呟いて自分の布団を肩まで掻けなおした。
ひとみは乾いた唇をきゅっと噛み締めた。
七章 遺産
5歳の時、お父さんが死んだ。
忌々しい病に侵されて、床が真っ赤になるほど血を吐いて。
そして、お母さんが死んだ。
やせ細って骨と皮だけになって。
ろくに食事もせず、働いて、働いて。
自分の生きる最低限の生活すらせずに
ただ、真里だけには助かってほしいからって。
あなたの分だけは薬を手に入れてあげるわって。
そして、ある日お母さんは冷たくなっていた。まだ30歳になってなかったのに。
そうやってきっと一生どころか、10回生き死に繰り返したところで到底薬を買える金額には届くわけがないのに。それなのに無理して……
………馬鹿なお母さん。
私のためなんかじゃなく、どうせみんなみんな死んじゃうんだから、
自分のために使えばよかったのに。
私はあんなお母さんの姿なんか見たくなかったんだ。
それにね、笑っちゃうんだよ。
それまで私はお父さんとお母さん以外の肉親や親戚なんか知らなかったのにさ、お母さんがためたお金があるってわかったとたん
『真里ちゃんかわいそうにね、まだ小さいのに』
『一人でこれを管理するのは無理だから』
同情した顔で近づいてくるやつら。
死体に群がるハイエナみたいに。
あの頃は小さかったからよくわからなかった。今はよくわかる。みんな自分が一番。自分が生きることだけで精一杯。こころから他人のことを思いやってるやつなんかいない。
結局のところ、ひとりぼっちなんだ。
だから、私は2度と泣いたりしない。
「畜生……!」
右足を引きずりながらな民家の外壁によりかかり、そのままずるずると座り込んだ。
ついてない。
よりによって銃撃戦に巻き込まれるなんて。
流れ弾を不覚にも右足に受けてしまった。この先の避難所まで歩けるかどうか。
「どけよっ!!」
「いやぁ―――っ!!」
爆撃で破壊された瓦礫で狭くなった通りを我先にと争っている人間たち。
結局みんな死んじゃうのに馬鹿みたい。
いつのまにか口元から笑みがこぼれていた。こんな状況で笑えるなんて私って結構大物だったりして。
い……ったいなぁ。思ったより出血がひどいみたい。意識がぼんやりしてきた。
痛みに顔をしかめて目を閉じていると音だけが流れ込んでくる。
建物の崩れる音。何かがぶつかり合う音。人々の罵声。
そのなかになにか泣き声のようなものがまじっているような気がした。
ゆっくりと目を開けるとその先に瓦礫の下敷きになった死体が、とおりを挟んだところにあった。私もああなっちゃうのかなぁ。
「………?」
男性らしい死体の下で何かが動いたような気がした。
なんだろう?目を凝らしてみる。
……子供だ。まだ小さな少女。
死体のほうは兄弟なんだろう。かばって死んだんだろうか?
完全に瓦礫と地面の間に挟まった格好で、恐らくはその死角になっていて通りを行く人間の目には入らないんだ。
その少女の方には誰も目をくれず一直線に必死の形相で駆けて行く。
てゆうか、気付いたところで誰も助けやしないから一緒か。
「大丈夫か!?」
頭上でふいに人の声がした。耳慣れない関西訛りの女性の声。
「なんや……怪我してるやんかっ……」
30センチ四方の布を取り出し私の足を縛る。
サラサラした金色の髪が私の頬をくすぐった。この場に似つかわしくない香水の香りが微かにした。
「痛いと思うけど、ちょっと我慢してな。ここ一番危険なとこなんや。また襲撃される」
彼女は側面から私を支えて立ちあがらせようとした。
「……誰?あんた」
ふらふらと起きあがりながら彼女の襟もとのバッチを確認する。正規軍、それもかなり上の立場であることをしめす印が輝いている。
「この先の避難所での指揮を任されてる人間や」
よいしょといって私の身体を自分によりかからせるとニカッと笑った。
私がさっき浮かべていた自虐的な笑みとは異質のもので妙に印象に残った。
「だったらなんだってこんなとこ来てるの?危険なんでしょ?」
「まだ残ってるやつがおると思ってなぁ、ちょこっと様子見にきたんや」
さらりと彼女はいってのけた。
ちょこっと見に来たなんてどういうつもりなのか。
ほんとか嘘か、たいしたおひとよしだと私は思った。それとも上層部への点数稼ぎのつもりだろうか。私なんか助けたってしょうがないっていうのに。
瞬間、そう遠くないところに爆音がする。
その衝撃で向かいの瓦礫がまた少し崩れる。
その音で身体が強張った。
咄嗟に目で少女のいる辺りの瓦礫を確認する。
まだ生きているのに。
「うん、なんや?」
異変を敏感に感じ取ったのか彼女は周囲を気にしながら問い掛けた。
……ほおっておけばいい。
今は、自分が助かることが先決なんだから。
………そうでしょ?矢口真里。
ひとはみんな
自分のことが一番。
ひとのことなんか、思いもしない。
ひとのことなんか……
それが私が学んだこと。
それが私がお母さんの人生から学んだこと。
お……かあさ……ん
「あそこ」
「え?」
彼女は私の指差した方向をみて首をかしげる。
「……しゃがんで下から見て。子供がいる」
「なんやてっ!?」
私の身体をいったん壁にもたれさせるとしゃがんで覗きこむ。
すぐさま立ちあがってわき目もふらずに少女のいるところに走っていく。
小さな少女の体が瓦礫の中から救い出されるのが見える。
やはり、肉親だったのか死体から離れようとしない少女を金髪の女性が強引に抱きかかえる。
少女をかかえたまま私のところに戻ってくる。
「いいから、先行ってよ。一人で私は行けるから」
もう右足の感覚がほとんどない。
いくら小さいとはいえどちらかといえば小柄な彼女が少女を抱えたまま、もう一人の人間を支えられるわけはない。
「なにゆうてんねん。無理やろ!!はよつかまり」
「いいからっ」
また、さっきよりももっと近くで爆音がする。
「……その子んちさぁ、結構な資産家だからお礼もたっぷりもらえるよ」
「な……っ」
目を見開いて私の顔を凝視する。
ほんの数秒、唇を噛み締めた後、彼女は少女を抱えたまま避難所のほうに駆け出した。
「アハハハッ」
おかしくってしょうがない。
善人面したって見ての通りだ。
でも私はあなたを恨んだりしないよ。
だってあなたが正しいんだもの。
座っているのさえ億劫になって地面に上半身も横たえる。
お母さん……
「お…かあ……さぁん」
地面を転がる石ころと砂。
これが最後に見るものだっていうのに涙も出てこない。
「おいっ!!まだ生きてるなっ?大丈夫やなっ?」
深層へと移行しかけていた意識が無理やり現実世界に引き戻される。
独特のイントネーションの声。
「急ぐでっ!」
両腕を肩に乗っけて膝を抱えて背負われる。
「……なにやってんの」
「話は後や。とりあえず逃げるで」
「……あの子は?」
「預けてきた」
淡々と答える彼女の体が震えているのが伝わってきた。
背に濡れたような感触。肩口から少なくない量の血が流れている。
さっきはなかったはずだ。
「こ……れ」
「話は後やゆうてるやろ」
厳しくはないが反論を許さない口調に私は何も言えなくなった。
大きな建物の崩れる音。
私がついさっきまでいたところの外壁が通りに向かって倒れていた。
怖いものなんてもうないと思っていたのに、体がぞくりと震えた。
けれどもたれた背中に触れた部分だけが暖かいと思った。
「ほい、これでしばらくじっとしてれば大丈夫やろ」
おろしたての清潔な布が巻かれた足。落ち着いて少し感覚が戻ってくると、出血は酷かったわりには骨には異常がないらしいことが悟られた。
「……あんたは?」
べっとりと血がこびりついた肩口を目で指し示す。
「あんたじゃなくて、ちゃんと名前があんねんけどな」
無造作に衣服を肩のところから引き裂いて消毒薬を塗る。傷口が染みたのか彼女の整った顔立ちが苦痛で一瞬ゆがむ。
器用に一人で包帯を巻き終えると、近くにきた大柄な男性仕官になにか指示を与えると私の隣にやってきて腰を下ろす。
「中澤裕子や、あんたは?」
答えるのは正直面倒だったけれど結果的に助けてもらった借りはあるから仕方なく相手をする。
「矢口……真里」
「なんや、うざったいって感じやなあ。まあ、どうせ敵さんの攻撃が一段落するまでここで足止めなんやからちょっと話し相手になってや」
言葉遣いのせいかもしれないが、私がこれまで会ってきた人間とは異なる親しげな口調に戸惑う。
行き場をなくしてしまった視線を周囲に注ぐと、結構な人数がこの避難所に待機していることがわかった。皆それぞれ不安なのか誰かと身を寄せ合っているものが大半だった。
兄弟、親友、恋人、仲間たち。
「……家族はおらへんのか?」
「いないよ」
「例の伝染病か?」
「父さんはね」
さっきのあの子、無事だろうか?
「父さんは……ってお母さんはどうしたんや?」
「それよりもっと最低な死に方」
「はあ?」
しまった。上の空で答えたものだからつい正直に話してしまった。
そうそうって頷いていればよかったのに。
食い入るような視線を肌に感じる。
「馬鹿みたいに私の薬買う為に働いて金貯めて、挙げ句の果てに死んじゃってその上その金もだましとられて」
中澤と名乗った女は黙って私の話を聞いていた。
ただ黙っているはずなのに、それだけなのに何故か私の口から言葉が零れ落ちる。
「ただの犬死に」
泳がせていた視線がある一点でとまる。壁際の隅にさっきの少女がいた。
膝を抱えて蹲る少女。全身泥と埃と汗にまみれて。
「ん?どこいくんや」
立ちあがって少女の傍に近寄っていく。
頼れる人間なんて誰もいない。
……ひとりぼっちで。
あれは、昔の私だ。
「だいじょ……」
「大丈夫っ!?」
私と同年代くらいの女の子が駆け寄ってきて少女を抱きしめた。
少女はお姉ちゃんといって風船が破裂したようにわんわんと泣いている。
掻き消された私の声。
延ばしかけた指先……
あはは……よかったじゃんか……
スーッと何かが抜け落ちてゆく。
ふいに冷たくなった指先を暖かいものが包んだ。
「足、まだ痛むやろ。あっちで座ろうや」
「放っといて」
その手を払いのける。けれどぐらりと重心が揺らいだ。
崩れて片腕を地面につく。
「ほら、ええから」
脇から支えられてもと居た所に連れ戻される。
「放っといてっていってるじゃんか!!」
壁際についたとたん払いのける。
助けてこんな態度をとられたんじゃ流石にどこかいくだろう。
「……大丈夫か?」
私の頭を包む手のひらの感触。
昔、ずいぶん昔の感触。
「これじゃ、しばらく一人で生活できんやろ?よかったらなおるまで一緒に……」
「同情なんていらない」
いらない、いらない。結局そんなものはなんにもならないから。
「同情なんてしてへんよ」
親切面した偽善者ばっかりってわかってるんだ。
「こう見えても私、結構可哀想なやつなんやで?2年前の戦争で町ごと焼き討ちにあったんやから………せやなぁ、むしろどっちかっていうと同情してほしい方かもな」
人のことを思ったところで残せるものなんか何も無いんだから。
よーくよーくわかってる。
だから、きっとこの…流れているものは、痛みのせい。
「お母さん犬死なんかやないで?ほら、ちゃーんと残してくれたもんがある」
掠れた視界の向こうに少女の姿が映った。
年上の少女の胸に抱かれて安心しきった顔。
「思いは………誰かに受け継がれる。ちゃんと…生きてるんだから」
「………ぇ」
なんだよぉ。この変な声はぁ……こんなの私の声じゃ……ないはずなのに
なのに
私は二度と流さないはずだった涙を馬鹿みたいに流して
子供みたいに声をあげた。
甲高い鳴き声をあげながら上空を5、6羽の鳥の群れが通過した。
―――――――――
痛い、痛い、痛いよ。
足は裕ちゃんがきちんと処置してくれてなおったのに。
でも、痛い……足だけじゃなくて他の部分も痺れて動かない。
それに
真っ暗だ。どこまでも深い闇、闇、闇。
ざわざわという木々の擦れる音と、無数の獣の鳴き声。
誰もいない。
裕ちゃんがいない。
寒いよ、裕ちゃん。寂しいよ、裕ちゃん。
一人は、嫌だよ裕ちゃん。
そうだよ、私裕ちゃんに会わなきゃいけないのに。
裕ちゃんに会うために逃げ出してきたのに。
こんなところで……
八章 遭遇
しっとりとした地面が足音を吸収する。
それどころか、深い霧と伴って歩いているだけで体力を吸い取られているような錯覚に陥った。
道無き道を掻き分けながら森の中を進んで行く。木々についた朝露が頬をぬらす。
これほど視界が悪いのなら夜間に出発しても大差なかったのではないだろうか。
「あー、もぉっ。髪の毛ぐちゃぐちゃだよぉ」
先頭を行く圭織は、足を止め、無造作に長い髪を束ねる。
コミュニティーを出発してから3時間あまり。足取りはまだ軽かったが倒れた樹木によって出来た空間にたどり着き小休止をとることにする。
木の根っこの座りがよさそうなところを見つけて腰を下ろすと圭織はバッグからミネラルウォーターを取り出すとごくごくと音を立てて飲み干した。
「飲む?」
同様に適当な場所に座ったひとみに向かってボトルを指し示す。
正直、取り出すのが面倒だったので軽く頷くと圭織が投げてよこしたのを両手でキャッチする。
キャップを廻しながら少し離れたところに座った梨華を横目で見る。道中もほとんど言葉を交わすことが無くひとみはどことなく居心地の悪さを感じていた。相変わらず焦点のはっきりしない瞳で自分のバッグから水を取り出して飲んでいる。
「疲れた?」
つんくから預かった無線機を玩びながら圭織は言った。
「少し」
どちらに聞いたわけでも無さそうだったが、梨華は答える雰囲気がなかったのでひとみが答える。
「ま、今日中、遅くとも明後日には終わるよ」
「どうしてですか?」
脱走されてから相当の時間が経過している上にこの視界では発見は困難なのではないかとひとみは思っていた。また、例の「カオリにはわかるの」じゃないだろうな、と思いながらも一応尋ねてみる。
「なんでさぁ、夜明けまで待ってから出発しろっていわれたかわかる?」
挑戦的な笑みを圭織は浮かべる。
「さあ?……視界が悪いからですか?もっともそうとは思えませんが」
相変わらず梨華は2人の会話には興味無さげに飲み終えたボトルをバッグにしまっている。
「夜行性のね、毒蛇がいるんだよ。この森」
「蛇?」
「そ、蛇。だからね、夜、森を歩くのは自殺行為。完全武装でもしてない限りね」
いくら夜行性とはいっても昼間100%安全とはいえないのではという不安が胸を過る。
「大丈夫大丈夫。ちゃんと支給された荷物の中にワクチンも入ってるし」
ガサゴソとバッグの中から小さなケースを取り出してひとみに見せる。
「それに、ここから後5〜6時間歩くと管理用の小屋があるから今晩はそこで寝るから安心していいよ。で、さっきの話に戻るわけだけど、今日明日には終わるっていうのはね」
「その……蛇にやられてるだろうからっていうんですね」
「ピンポーン。吉澤、なかなか頭いいじゃん」
「だったら……」
自分たちは要するにもしものためのおまけということなのか。
それとも、死体探しの為に借り出されているのだろうか。
「ま、どういう方法にしろ矢口が死んじゃうのは確定なんだよねー」
「……見つけておとなしく従ったらいいんでしょう」
つんくはそう言っていた。抵抗するようなら即射殺。従えば……
「同じことよ」
圭織とは違う方向からの声が聞こえる。
「連れて帰ったって、晒し者になって殺されるだけ。二度と逃げ出そうなんて考える人間が出ないように」
淡々と同じテンポで語る梨華に何故だか思わず息を呑む。
「だから、せめて………カオリ達で殺してあげた方が幸せなのかもね?」
笑顔が向けられた瞬間胸元にしまってある銃がやけに重く感じた。
その感覚を振り払うように立ちあがると圭織から受け取ったボトルを持ち主のところに返す。
「行きましょう……霧が少し晴れてきましたから」
「オーケー」
飛び跳ねるように起きあがると、圭織はやって来た方角から見てやや右の方に進む。
ひとみの前を横切って後に続こうとする梨華の額に汗が滲んでいる。
自分達と比べ、華奢で大凡野戦向きではない梨華には幾分酷なのかもしれない。
口には出していないが顔色からその疲労が伺えた。
前方を突き進む圭織が木々を掻き分けるザクザクという音を聞きながら考えた。
光の無い瞳をした石川梨華。
自分だけを信じる飯田圭織。
与えられた生に屈するつんく。
何よりも大切だった後藤真希。
そして………市井紗耶香。
会ったことも無い、けれどこの手にその命が委ねられるかもしれない矢口真里。
ただ、自分は何をするのかわからなくて、与えられた指令に身を任せているだけ。
そこにただ仮初の目的を持たされることで今歩いているだけ。
種類のわからない虫の鳴き声と時折けたたましく聞こえる鴉に似た鳥の鳴き声のなかをただ歩く。
ぬかるみが徐々に酷くなり、まともに進むのが困難になってくる。
最初のうち「疲れた」「あ、この花なんていうんだっけー」などと軽口を叩いていた圭織も次第に無口になり口には出さないがかなり体力を消耗しているようにみえた。
そういうひとみ自身も滞り気味の歩みをなんとか進めている状態だった。
一際大きな段差を越える瞬間、前を行く梨華の背が大きく揺れ、ひとみは咄嗟に腕を伸ばした。
「あ……!!」
華奢な梨華とはいえ、足場も悪く、勢いづいた体もろとも地面に突っ伏す。
「どうしたのー?大丈夫―?」
後方の異変に気付いた圭織が呼びかける。
「すみませんっ。大丈夫です。少し足を滑らしただけで」
地面はぬかるんで柔らかかったものの大きく露出した木の根から受けた衝撃がズキズキと響く。けれど、その木の根の向こう側は急斜面になっていたため下手をすると転がり落ちていたかと思うと案外、幸いであったのかもしれない。
「もうすぐそこが小屋だから、とりあえずそこで待ってるよ」
「そうしてください」
右手を大きく振り上げて無事だという合図を圭織に送る。
「……平気?」
先に起きあがった梨華が助け起こそうとしているのか、手を伸ばしているのが目に入る。
思いきり握り締めたら壊れそうなほど細い手。
(……何を意識しているんだろう)
差し出された手をかり、立ち上がる。
手を離してあちこちについた泥を払う。
「こっち、向いて」
「え………ああ」
手もとのハンカチで梨華はひとみの顔についた泥を拭う。
間近で見る梨華の瞳は相変わらず静かだったけれど鬱なものではなくひとみは思わず魅入ってしまう。
「昨日は……ごめん」
意識とは別にするりと言葉が抜け落ちる。
「なんのこと?」
「……やっぱいい、忘れて」
一体自分は何を言おうというのだろう。
ああいうことはやめたほうがいいよ、とでも言うのか?何の資格があって?何の権利があって?誰の為に?何の為に?
「とれたよ」
「ありがとう」
梨華はハンカチをしまうと地面に置いていた荷物を手に取った。
「危なかったね。もう少しずれてたら大怪我してたわ」
「うん……」
すぐ間近の急斜面を見る。
「……!!ちょっと待って」
「え?」
ずり落ちないように姿勢を低くして斜面に近づく。
「これって」
何かがずり落ちたような後が斜面の泥が露出した部分に刻まれている。
(まさか)
「どうしたの?危ないよ?」
声をかける梨華をよそに、ひとみは慎重にずり落ちた後をたどって少しずつ降りてゆく。
「あっ!」
数メートル降りた所で足元をすくわれる。そのままずるずると滑り落ちた。
軽い衝撃を受けた後、何かにあたってからだが止まった。
そして、
ひとみが想像していたよりもずっと小さくて
ずっと頼りなくて
ずっと力無い
少女の体が転がっていた。
ぶつかったのに反応が無く指一本動かない。
少女のくるぶしの上あたりに、噛み傷のような二つの跡があり出血しているのが見て取れた。
(これ、飯田さんの言ってた……)
ひとみは少女の口元に頬を近づけた。
(呼吸、してる……)
かすかに頬をくすぐる呼吸音で少女の生は確認できたが頼りないその呼吸からかなり危険な状態であることがわかった。
背にしょっていたリュックを全面に担ぎなおすと少女の体を代わりに背に乗せる。
(こんな小さな体で、一人でこんな目にあってまで)
小柄とはいえ足場が悪くその上自分の荷物も加わり思うように登ることが出来ない。
早朝からの疲労も重なり地面に手を突く。
「吉澤っ!!聞こえる?」
(飯田さん)
どうやら梨華が圭織を呼んできてくれたらしいことをひとみは悟った。
「聞こえます、飯田さん」
「今、ロープ落とす」
声と同時に上方から細身だがしっかりとしたロープが降りてくる。とりあえず荷物だけを先に引き上げてもらうように頼み先端に括り付ける。
しばらくしてそれが引き上げられた後、再びおろされたロープの先に自分の体を固定する。
圭織はもう一方のロープの端を近くの頃合のいい木の幹に固定すると、力を込めた。
うっすら暗くなってきたので梨華はその先をライトで照らした。
予想以上の重みで圭織は顔をしかめる。
じりじりと手繰り寄せられるロープの先に出てきたものをみてようやく圭織はその原因を悟った。
「……矢口」
「下で発見しました」
器用に真里を背負ったまま体に巻きつけたロープを紐解いていく。
「落ちた衝撃で怪我している上に、例の毒蛇にやられてるみたいです」
「みたいだね……しかもやばそうだね」
真里の足の傷口をちらりと見る。
「石川、荷物もって先に行ってお湯沸かしておいて」
コクリと頷くと梨華は圭織に示されたほうに駆け出す。
「クス、石川なかなか元気じゃん。さて、と」
「飯田さん?」
ひとみに真里をいったんおろさせると両脇から二人で真里を支えるような格好をとる。
「運がいいのか、悪いのか。ま、とりあえず見つかってよかったのかな」
「すみません。勝手に行動して……」
「いいよ、いいよ。石川がすぐ呼びに来てくれたから。吉澤のことあれで結構気に入ってるんだね」
「そうは思えませんが……」
先ほどの梨華とのやり取りが思い出されたがそれよりもひとみは今にも命の灯火が燃え尽きようとしている真里から伝わってくる呼吸に神経を注がれていた。
(この少女は、何の為に飛び出したんだろう)
「ほら、あそこだよ」
一際大きな樹木の枝をよけると目前に見張り台のような少し小高い建物と、その脇に小さな山小屋が姿をあらわした。
先に来ていた梨華が入り口を開けて中に招き入れる。
中は表から見たよりも案外と広く簡単なキッチンのほかに二部屋が配置されていた。
その片方に真里を運び入れると味気ない黒いパイプベッドの上に横たえた。
「石川、お湯ある?」
キッチンから金属製のボールに入れた熱湯を梨華が運んでくる。
ベッドの脇にそれを置かせると圭織はサバイバルナイフを取り出し刃先を熱湯につけこんだ。
「飯田さんっ!?」
次の瞬間その切っ先で真里の足を圭織は切りつけた。
そのショックで真里の体がビクンと反応する。
「まあ、もうほとんど毒が体に廻っちゃってると思うからあんまり意味無いけど、やんないよりマシでしょ」
続いて先だって圭織が見せてくれた小さなケースを取り出すのを見てようやくひとみは毒を出してるんだとわかった。
(矢口……真里、か。私の知らない、そして私のことも知らない)
ケースから注射器と透明な液体を取り出すと手早く注入し真里の上服の袖を捲り上げる。
「こうしとけば、明日の朝には目が覚めるでしょ……」
ワクチンを注射し終えると空になった注射器と容器を元の所に戻す。
誰もが完全に意識を無くしていると思っていた真里の目がうっすらと開く。
「カ……オリ?」
ぼんやりとした景色の中に映し出された見覚えのある顔。
あれ……あたしどうしちゃったんだろう?裕ちゃんに会うために逃げ出して
森の中を走って、走って、
真っ暗な闇の中を走って
それで……?
「圭織たちね、上の命令で矢口を捕まえに来たの」
ああ、そういうこと。
「どうする?素直に帰るんなら……」
帰る?裕ちゃんに会っていないのに?
「飯田さん、こんな状態で聞いたって」
ん?これは知らない声だな。誰の声だろう?
「いいから、矢口、どうする?」
どうするって?そんなの……決まってんじゃん。
「……帰る……わけ…無いでしょ」
「そう。じゃ、さよならだね」
事務的な圭織の声。
振り上げられた銀色のナイフ。
そこで私の意識は途切れた。
九章 訪問者〜そして〜
切り裂かれた真里の足から流れる鮮血にひとみは激しい眩暈を感じた。
(……いちいさ……ん)
ノイズ交じりの映像がフラッシュバックする。
「そう。じゃ、さよならだね」
勢いよく腕が振りあがられライトの反射でナイフがキラリと光った。
「待ってください!!」
その光でひとみは現実に引き戻されると同時にそう叫んでいた。
腕を上げたまま横目でひとみを睨む。
「なに言ってんの?ミッションの内容忘れた?」
「覚えてますよ。でも、こんな状態で」
「同じ事よ。矢口の性格知ってるもの。目覚めた所でかわりっこな……」
ひとみを睨みつけていた圭織の大きめの瞳が一層見開かれた。
「……ナイフ、捨ててください。でないと、撃ちますよ」
「どういうつもり?」
圭織は自分に向けられた銃口を見つめた。
訓練で幾度と無く手にしてはいたものの、実際人に向けたのははじめてだった。
指先の震えを押さえるためにひとみは強く握りなおす。
「このミッションの正式に受けているのは私です。飯田さんはオブザーバーのはずでしょう?」
引き金にゆっくりと手をかける。
「……OK」
圭織はフンと鼻をならすと右腕を下ろしてナイフを湯の中に投げ入れる。
飛沫が真里の寝るシーツの方に飛び、ゆっくりと布が水滴を吸い込んでいく。
圭織はポケットから出した無線機の回線をオンにした。
「いいださ……」
「……経過報告…………」
事務的なやりとりの後、未だ目標を発見しておらず明朝より引き続き捜索を続ける旨を伝える会話が聞こえてきた。
ガクンと肩の力が抜け落ちる。
「今日来た道をまた戻んなきゃいけないんだから明日また早いよ」
「ええ」
銃を下ろし胸元にしまう。
「じゃ、一人は向こうの見張り台ね。いくらここが自領とはいえ野戦に巻き込まれる可能性は少なくないからね」
事実、当初は文化遺産の保護のため、市街地での戦闘は避けられていたが激化してきた近年、もはや惨劇は場所を選ばなかった。無論、逆に一見なんの価値もあると思えないここも例外ではない。
「私がいきますよ」
正直な所進んで買って出るというよりは、単に一人になりたいというのが本音だったがひとみは即答した。
「わかった。2時間したら交代する。適当に呼びに来て。ああ、それから……」
「え……?」
つかつかと歩み寄ると、指先を司令室でつんくにやってみせたように銃の形に似せてひとみの左胸に突きつけた。
「銃を抜くときは安全装置外したほうがいいよ。じゃないと、撃てないって習わなかった?」
パーンと口パクで言った後圭織はクスクスと笑い転げた。
その笑い声を聞きながら、死んだように眠る真里と無言でナイフの投げ込まれた湯を取りかえる梨華を背に部屋を後にした。
あるいは、ただ目の前で死を見たくなかっただけなのかもしれない。
一人になると、ひとみは自分のとった不可解な行動を思った。
あらかじめ用意しておいた仕掛けを小屋と見張り台の廻りに張り巡らせる。
ロープに吊るされた無数の缶の小さなもの。軽くロープに触れるとチリンという金属音が響く。
こうしておけば、誰かが侵入してきたら知らせてくれる。
一通り作業を済ませると見張り台の階段を上った。
幸い仮眠を取る為の毛布とうすっぺらい敷布団だけは用意されてあったので荷をおろすとそれにくるまった。
極端に縦幅の狭い窓から月が見える。
確か、あの夜も、市井紗耶香が死んだあの夜も、小さな星までくっきりと見えるこんな夜だった。
どうして、いるだろうか?
銃を携帯している反対側の内ポケットから水色の封筒を取り出した。
いっそ、
捨ててしまえばよかったのかもしれない。
だが、こうして持ちつづけることが自分の罪を忘れない罰なのだから。
けれどそれも……
(ただの、自己満足かもね)
明日の行程を考えると体を少しでも休めるのが得策だろう。
しかしどうにも落ち着かず、真新しいナイフを磨く無意味な行為を繰り返す。
この分では眠れそうに無い。2時間交代とは言っていたが朝まで自分がやっても別に構わないなと思った。
座って壁にもたれかかる姿勢に疲れたので、立ち上がって大きく伸びをした。
目線の先にある窓から外を覗きこむ。
山小屋のほうは既に明かりは消えており高原の無い森の中で月明かりだけが薄暗くあたりを照らしていた。
(ん……?)
ふいにそこを人影が過ったような気がした。
気のせいか……?
先だって仕掛けた侵入者を知らせる音は聞こえ無かったし、木の影が風になびくのを見間違えたのかもしれないと思ったが、ひとみは注意深くあたりを観察した。
(……やっぱり、誰かいる)
位置を確認すると、銃の安全装置を外して後ろ手に持つ。
足音を立てないように一段、一段階段を降りてゆく。
下りきった先の出入り口のドアをかろうじて体が通るほど薄く扉を開けた。
空気はひんやりしているというのにじわりと額に汗が滲む。
(来る………こっちに、近づいて)
神経を集中させ、徐々に、しかし確実に近づいて来る気配にのみ意識を注いだ。
(……来た!!)
勢いよくドアを肩で押し開けるとそのすぐそばにあった黒い塊に体をぶつけた。
軽いうめき声をあげて倒れた人影に馬乗りになり腕をねじりあげる。
「動かないで!!……動くと撃つよ」
「い……た……」
・
・
・
「え?」
突きつけた銃口で下になった人物の顔にかかった長めの前髪をよける。
(嘘。)
愛しい顔。それでいて二度と見る事は無いと思っていた。
「……ごっちん」
ネジの切れた機械人形のように停止した腕から銃が零れ落ちた。
「よっすぃー」
その唇は確かにそう言った。
見張り塔の中に導くと、階段を登り切ったとたん真希はひとみに抱きついた。
勢いで先ほどまで包っていた毛布の上に倒れこむ。
「ごっち………」
所在を無くした両手を真希の背に廻すとべっとりとしたものが掌に付着した。
なんだろう?
不思議に思い掌を顔の前に持ってくる。
それ特有の色と匂い。
「ごっちん!?」
慌てて真希の体を掴んで引き離しその部分を見ようとすると真希はケラケラと笑い出した。
「アハハハっ!だーいじょうぶだよん、私のじゃないから」
あちこちが血でよごれた上下グレーの囚人のような服は真希には不似合いでひとみは夢を見ているような気分になる。それに……
先ほど掴んだ腕の細さ。
倒れこんできた真希の体の軽さ。
目だけが爛々と輝いて、後は張りの無い肌に骨ばった体。
最後に会ってからまだ幾ばくもたっていないというのに異様なまでに痩せこけた真希の体にひとみは言葉を失った。
「よっすぃー?どうかしたの?」
笑うと少し盛りあがって愛らしかった頬は見る影もなくこけておりたまらずひとみは指を当てた。
「どうして……こんな」
真希が士官達に取り押さえられ医務室で拘束されている間にひとみは編入手続きを取った。
そして、何日間かのセミナーを受けた後第一コミュニティーに配属された。
最後に見た真希の姿。獣のように絶叫して涙を流し士官達に取り押さえられた真希。
『市井ちゃん!!』
耳を塞いでも頭の中で響くあの声。
だとしたら、真希をこんな状態にさせた理由は……
「ごっちん……市井さんは……」
「市井ちゃんの話はしないでくれる?したくないから」
途端にさっきまでの笑顔は嘘だったかのように真希の表情は冷たく凍りつく。
ゴクリと自分が息を飲む音がはっきりと聞こえる。
「わか……った」
そう言わざるを得ない力が真希から発せられていた。
「どうしてここへ?」
質問を変えると真希は再び笑顔を取り戻しひとみの首に腕を廻した。
「よっすぃーに、会いに来た」
「えっ?」
予想外の答えにひとみは動揺した。
「会いたかったのよっすぃーに。ずっと、ずっと」
「あ……」
まだあの日から何年もたっているわけでもないのに鼻先をくすぐる真希の髪から漂う香りはひどく懐かしいものだった。
「まさか、途中で会えるとは思ってなかったけどね。運命ってやつかなあ?」
廻された腕に力がこもる。
その体を力いっぱい抱きしめたい衝動をひとみは押さえつけ、ゆっくりと真希の腰に手を廻す。
そこに覚えのある硬い感触を感じて、ひとみははっとして真希の顔を覗きこんだ。
「ああ、これ?」
グレーのトレーナーを捲り上げると鈍く光った小型の銃が姿をあらわした。
「じゃじゃーん。似合う?」
陽気な口調は一見して普通の健康状態ではないとわかる真希には奇妙でひとみは違和感に苛まれた。
「なんで、それ……」
「細かいこといいっこなし!!よっすぃーだって持ってるじゃん。ちょっと見せてよ」
「あ……」
しまったはずの銃はいつのまにか真希の手元におさまっており、真希は面白そうに二つの銃を見比べる。
「ふーん、あたしのより一回り大きいんだ」
「ごっちん!!」
堪りかねてひとみは強引に真希の腕を取り上げると自分のほうを向かせた。
その拍子に真希のトレーナーの袖がずり落ちて腕が露わになった。
そこに現れた光景にひとみは目を見張った。
鋭い物で切りつけた無数の傷跡。
直りかけのものもあれば真新しいものもある。
「なにこれ……」
「離してよ!!」
ガツンと大きな音を立ててひとみは壁にうち付けられた。
ハアハアと肩で息をしながら自分を見据える真希にひとみは愕然とした。
姿にではない。こんな細い体なのに……なんなんだろう、この異様な力は?
「あ……ごめん、よっすぃー!!」
そうかと思うと突然大声で泣き始める真希。
しゃくりあげながら真希はひとみの頭をなでた。いや、むしろかきむしるといった方があるいは近いのかもしれない。
「ごめんね、よっすぃー、ごめんね……だから、嫌いにならないでよ」
「嫌いに……なるわけ、ないよ……」
「ホント―!?よかったっ!」
次の瞬間に子供のようにはしゃぐ真希。
何?この激しい感情の変化は?
「あーあ、しまったしまった。後藤また脱線しちゃったよ。ちゃんと話すね」
ひとみの頭をつかんだままにこっと真希は笑った。
何より好きだった、今も焦がれてやまない真希の笑顔に魅入られて脱力する。
「えーっとぉ……まずね、後藤さ、特殊部隊の選抜に選ばれたんだよ」
つんくが初対面のときに言っていたことから半ば予想はついていたがやはり真希が選ばれたのだ。
「そう……じゃあごっちん特効薬もらったんだね」
よく二人でベッドの上で話題にした。誰が選ばれるのかなって……
「特効薬、特効薬ね……フフ、そーだよ!特効薬も特効薬!!とっておきの」
体中で笑う真希の肩をひとみは両手で押さえつけたが、あまりにその力が強くて肩の腕にただ手を乗せているのと大差が無かった。
「あたしたちホント馬鹿だよね。上のヤツラがさ、おいそれと一般ピープルに命を救うそんな大事な薬くれるわけないのに」
「え……?」
(薬、クスリ……?なんていってた?たしか……)
「優秀な戦力を確保するため、っていう文句に踊らされて。上の奴誰もあの薬だなんて言ってやしないのに、勝手に例の薬だと思ってはしゃいじゃって」
クスクス……クスクス…乾いた笑いがこだまする。
「ただの人間兵器作るための薬じゃん。見てよ」
ものすごい勢いで拳を壁にぶつける。鈍い衝撃音の後パラパラと壁の崩れる音。
それに、真希の腕を真新しい赤い筋が伝う。
「人間の能力を極限まで高めるんだってさ、おかげさまでぜーん然痛くもかゆくもない。それにね」
やや小型の方の銃を拾うと銃口を自分の口に中に指しこんだ。引き金に指をかける。
「ほらね、恐くもなんともないの。……パン!!」
「ごっちん!!」
引き金を引くと同時にカシャリと機械音がひとみの耳を貫く。
がっくりとうなだれる体を無我夢中でゆする。
「……なーんてね。あははっ、驚いたー?実はもう弾入ってないんだ、これが。ここにくるまでに色々あって全部使っちゃったから。百発百中……じゃなくて6人だったから6発6中か!」
ほらっとトレーナーに付着する血液を指差すと銃を投げ捨てた。
瞬間、真希から表情が消える。
「弾もないし……痛みも無いし……恐怖も無いし……でも、何もいらなかったのにっ!!市井ちゃんさえいればっ、市井ちゃんさえ!!」
ヒュウと喉の奥がなる。
(誰が、ここまで追いこんだ?)
「でも市井ちゃんにも置いてけぼり……」
(違う、ごっちん……市井さんは、市井さんは)
ち……が……
そう言ってるはずなのに喉の奥がひゅうひゅうと鳴るばかりで声が出ない。
「けどね、やっとわかったんだよ?私にはね、よっすぃーが一番大切なんだって。
よっすぃーがいなくなってやっとわかった。誰が一番私のこと思っていてくれたかって
ごめんね、ずっとずっと気付かなくて。後藤鈍いから。けどね、もうアタシ長くないみたい。もう体のアチコチがボロボロ。それに馬鹿みたいに頭が痛くなるの。そのたびにどんどんいろんな事がわかんなくなるの。こうやってね、体のどっか傷つけないと忘れちゃいそうなんだよ。きっと、もうすぐ死んじゃうんだよ」
視界がゆらゆらと歪んだ。
真希はひとみの目から伝う涙に唇を近づけた。
乾いた唇を水滴が濡らす。
「けどね……もう一人は嫌なの」
頬にある真希の唇が自分の唇の上に移動する。ゆっくりと眼を閉じるとまた雫が零れ落ちる。
「だから」
すうっと唇が離れる。
かわりに冷たい金属が額に押し付けられる。
「よっすぃー、一緒に死んで」
十章 約束の場所
死ぬ。
ごっちんと一緒に死ぬ。
ひとみはその甘美な響きに酔いしれた。
額に感じる冷たい感触に言いようの無い幸福感がこみ上げてくる。
さっきまで聞こえていた風の音、鳥の鳴き声が止む。
無音、音の無い世界に残された二人。
「よっすぃー……」
自分を呼ぶ愛しい人の声。
ひとみは最後に聞く音が真希の声であることに感謝した。
次にこの静寂を切り裂くおとが鳴り響くとき、
自分はもうここにはいないのだから。
(……私は、ずるい人間だ)
そして、静寂に身を委ねた。
………ラン…カラン、カラン………カラ…
幾重も重なる金属同士のぶつかる音。
チッと真希は舌打ちをすると銃を構えて窓から外を伺う。
「1、2、3……5人てとこかな?思ったより早いじゃん。ったく邪魔しないでほしいんだよねえ」
引き金に指をかけるとためらうことなく手前に引く。
「ごっちん……!?」
「フフ……ちょっと待っててね。よっすぃー、すぐ片付けちゃうから」
「片付けるって……」
「士官達殺して脱走してきたアタシのこと追ってきたんだよ。一人相手に随分手厚い歓迎だよね」
真希が窓から離れるのと同時に窓の外の鉄格子にキーンと弾の弾かれる音が続く。
階段を駆け下りていく真希をひとみは必死で追う。
こちら側から打ったのだから既に真希の位置は把握されているはずだ。
入り口を出た所で狙われるのは目に見えている。
銃をひとつ持ったきりの真希に勝てるはずがない。
ましてや暗闇の中で複数は絶対的に有利な状況といえる。
(止めなきゃ)
そう思ったときに既に真希は扉に手を掛けていた。
扉が開いた瞬間真希は暗闇に向けて2発発砲する。
「アハハハっ。2名様終了っと。隠れたって無駄だってば」
どさりと人の倒れる音がする。
極限まで能力を引き出すという薬のせいなのか。
映画のワンシーンのように繰り広げられた目の前の映像に、
ひとみは自分がただのエキストラで、そこから拒絶されているような感覚を覚えた。
「上から一人殺したからー。4ひく3は1……。ラスト一名様っ」
暗闇の中に駆け出す真希。見張り台の傍にある茂みに向かって撃つ。
「終了〜っと。アハッ。さ、よっすぃーこれで誰も邪魔しないよ」
だらりと銃を持った腕を下げて微笑む真希。
月明かりに照らされたその顔はどんな狂気に満ちていようとも美しいとひとみは思った。
両手を広げて迎え入れる真希に1歩1歩歩み寄る。
ズ……キュン…
本当はそんな音ではなかったのかもしれない。
しかしひとみの耳には、薄い膜ごしのようにやけに鈍く聞こえた。
(え……)
重心を失って倒れる真希。
ゆっくり、ゆっくり、
コマ送りされる映像。
少しずつ傾いて、
ドサリ
「……あーあ…お仲間がいたってわけね。アタシが気付かないわけだ」
倒れこんだままひとみの真横に向けて発砲する。
ツウとひとみの頬に一筋の赤い線が描かれる。
真希と同じように痩せ細った少女は、笑ったまま地面に突っ伏した。
「ごっちん!!」
無我夢中でひとみは真希を抱き起こした。
胸の真ん中からやや左寄りの位置から一面の赤い染み。
どんどん広がっていく。
「止まらない、止まらないよぉっ!!」
その上を押さえたひとみの手もみるみる真っ赤に染まる。
「くそぉっ、なんなんだよっ!止まれってば!!……止まれって!!」
胸元にうずくまって血に塗れたひとみの頭を真希はゆっくりと撫でる。
「……よっすぃー、無理だよ。あの子も薬打たれてたみたいだから、はずすわけないから」
たった一発の弾丸は確実に真希を捉えていた。
腕の中から少しずつ彼女の命が零れ落ちてゆくのがわかった。
(ああ……そうだ)
「もう一発……残ってるよね?撃ってよごっちん……」
そうだ、簡単なこと。最初からこうするつもりだったんだから。
それで、全てが本当に終わる。
その言葉に真希は力が抜けたように笑った。
「よっすぃー……」
垂れ下がった腕を重々しくあげて銃口を向ける。
「ごっちん」
「……そうしたいのは山々なんだけどね」
すっと右に銃を寄せて発砲する。
(え……?)
「怪我してる状態で撃っちゃったからさ、ちょっと的外してたみたい」
銃口の先を見る。
先ほどの少女が半分おこしかけた体を再び地面にかえした。
「……アハ……これで撃ち止めだね〜ついてないなあアタシ」
真希の手を離れた銃は乾いた地面に落下する。
「嘘っ、嫌だよっ、ごっちん!!」
嘘だ、嘘だ、嘘だ、
「いいんだよ、よっすぃー。きっと後藤、罰があたっちゃったんだ」
何をいってるんだろう。罰せられるのは私であるはずなのに。
「アタシずるかったから。ずっと知ってたのに。
よっすぃーがアタシのことどう思ってるか。ずっと知ってた。
なのに知らないフリしてた。
よっすぃーの優しさを利用してつけこんでたんだよ。
都合のいいときだけ甘えて、寂しさを紛らわして。
最後の最後まで、よっすぃーに甘えっぱなしだったの。
これじゃ、ひとりぼっちで死んで当然だよ。
市井ちゃんに捨てられても当然なんだよ」
違うよ、違うよごっちん。
市井さんは、市井さんは……
「違うよ、ごっちん……市井さんはごっちんの事を捨てたりなんかしてない」
ひとみは水色の封筒を真希に差し出した。
中からあの手紙を取り出す。
「あの日、市井さんが死んだ日に渡されたんだ」
けれど、自分のエゴで真希の手元に渡らなかった手紙。
罰せられるのは自分。
「……ちーちゃんの…市井ちゃんの字だあ…」
『私は戦ってきた。
たくさんの人を犠牲にして。それが正しいと思ってたから。
けどね、そうじゃないってことがわかった。
この国は間違ってる。
私は自分の信じる道を進むから、
後悔はしないから、
どうか後藤も
私は、約束の場所にいるからさ』
『愛してる』
2枚目の文字を追った瞬間真希の目から涙があふれた。
「ひ…どいよぉ、市井ちゃん一回も言ってくれたことなかったのに。
どんなに頼んでも言ってくれなかったのに。
アタシは何万回も『アイシテル』言ったのに愛してるよ、いちーちゃんって
アハハ、でもやーっと言わせたぞ。やったね……」
愛しそうに手紙を抱きしめる。
ねえ、ごっちん。早く私を罰してよ
なのに、
なぜ、そんなに幸せそうに微笑むの?
「ああ、よかった。でもこんないい天気の日で」
こんな真希をいつか見た。懐かしむように星空を見上げる真希を。
「これなら、ちゃんと約束の場所にいけるよね?市井ちゃん……」
……え?
「あー、でも心配だなあちゃんと曲とかつくれてんのかなあ。
やっぱアタシがついててあげないとね……最初の観客になってあげるよ……」
「星屑のステージで……」
ガクンと真希の首がうな垂れた。
(ご……っちん?)
嘘、嘘だよ。ごっちん。なんで?なんでそんな幸せそうに笑っていたの?
わかんないよ!
『よっすぃーはさ、大切な人がいる?』
『います。とても、大切な人が』
『………一緒にいることでその人に危険が及ぶとしても?』
『守って見せます。絶対に』
い…ちいさ……
『私は自分の信じる道を進むから、
後悔はしないから、
どうか後藤も』
(後藤も信じる道を生きて)
市井さんは……
最初から一人で行くつもりだったんだ。
……逢引きの手紙なんかじゃない。あの手紙は、市井さんの
『私は、約束の場所にいるからさ』
市井さんの遺書だったんだ。
『……頼んだよ』
そう言ってあの人は笑った。
私に……ごっちんを託してあの人は行った。
なのに、
なのに私は
腕の中の真希はまだ暖かい。
けれど、もう微笑むことはなかった。
市井さん
どうか私を罰してください。
それともそうされる資格すら私にはないのでしょうか?
あなたは私に託してくれたのに
私は
彼女を守れなかったんです。
十一章 分岐
厄介なことになった。
その光景を見たとき、圭織は何より先にそう思った。
最初の音を聞いたときすでに目は覚めていた。
続いて聞こえた銃声。
驚いて起きあがり、明かりをつけようとする梨華の手を止める。
「しばらく様子みて」
自分の力にはもちろん自信はあったけれど、飛び道具を持った相手に
アーミーナイフ一本で立ち向かっていくほどバカじゃない。
これは別に裏切りでもなんでもなく、ただ単純に生きていくための知恵だ。
一人……二人。
冷静に銃声の数と倒れていく人数を数えてゆく。
………止んだ。
(行くよ)
梨華に合図を送る。
念のために明かりはつけず、気配を殺して扉を開ける。
月明かりに照らされた光景。
地上に転がる死体。
そのちょうど真ん中に、
体中を紅く染めたひとみが、既に事切れていると見える少女を抱きかかえてひざまづいていた。
「な……に、これ」
圭織はゆっくりと廻りを見渡す。
1、2、3……それに茂みのなかに1つ、それから向こうにも一体、それとひとみが抱いている少女をあわせれば全部で6体の死体。
周囲のものはいずれも同じ戦闘服に身を包んでいる。
胸のエンブレムから正規の自分達と同じ士官候補生、あるいは士官だと察することが出来た。
仲間割れ?いや、それにしてはおかしい。
「吉澤、これどういうこと?」
反応がない。聞こえなかったのかと思いもう一度同じ事を繰り返す。
「……てたのに……」
「えっ!?」
ただでさえ混乱しているというのに聞き取れなくて、圭織は苛立った。
「愛してたのに……守れなかった……」
なんのこと?
ただ要領を得ない言葉を連ねるひとみを一瞥すると圭織は廻りを調べにかかった。
銃、これ……私達に支給された奴だ。もう弾が無い。
死体の持っている銃も調べる。
何発か発砲しているものもあればそうでないものもある、が自分達のものとは明らかに
型が違う。
銃を調べながら死体の傷口も調べる。
まずい。
「……石川、こいつらのもってる武器と食料、あと役に立ちそうなもの全部回収して」
「え?なぜですか?」
「いいから」
疑わしきものは罰せよ。それが今の世界、暗黙のルール。
自分達に支給された武器により、味方が殺されている。
そうなると容疑がかかるのは、生き残っている自分達だ。
どういう経緯でそうなったかなんて関係無い。
どんな理由があれ、不安因子はとりのぞかれるんだ。
だとしたら、逃げるしかない。
「吉澤、あんたも手伝って。荷物まとめたら移動するよ」
死体から奪ったデイバッグに手早く詰め込んでいく。
「……行って下さい。私はここにいます。ごっちんと一緒に」
「ねえ、その子もう死んでるよ」
自分を見下ろす静かな瞳。
けれどひとみには梨華の後ろに輝く月と星以外何も映らなかった。
「ここにいたら、捕まって殺されるよ?」
その言葉にひとみは初めて反応らしい反応を見せた。
(殺される……死……訪れる永遠の静寂)
「石川!!」
圭織の声に振りかえる。
「終わったらこっち手伝って。小屋から荷物運び出すよ」
圭織はちらりとひとみの方を見る。
亡骸を抱きしめたまま、ただ月を見上げる。
荷を持って出てくる梨華を確認すると、圭織は小屋のほうに向かって歩いた。
(畜生)
部屋のベッドで薬で眠っている真里を引き摺り下ろすとそのまま強引に外に連れ出す。
意識の無い真里の体をひとみの前に投げ下ろす。
「吉澤、あんたが死のうが生きようが圭織には関係無い。けどね」
乱暴にひとみの頭を掴んで真里のほうを向かせる。
「あんたが自分の意志で助けたんだから責任持ってよね。
自分の命だって危ういっていうのにこんなお荷物抱えて行く気サラサラ無いから。
圭織、そんなお人好しじゃないしね、矢口がどうなろうが知らないもの。
ま、もっともそれも吉澤には関係無いかな?」
吐き捨てるように言うと圭織は森に向かって歩き出した。
無造作に大地に横たえられた真里の小さな体。
指先がほんの数cmだけ動く。
その動きをひとみはぼんやりと眺めた。
「……急ごう。湿地帯を越えればこの辺りには無数の洞窟や横穴があるはずだから」
それに……圭織は森の風と西の空から感じる。
明日になっちゃうと一雨きそうだしね。
かなりのハイペースで歩を進める。後ろを振り返ると梨華、真里を担いだひとみが続いている。
共に行動しているというよりは、ただ何も他に目的がないから圭織の足跡を辿っているという表現の方が正しいように思えた。
(どっちでもいいんだけどね、私は。でも少しは役に立つかもしれないもんね)
サラサラと水の流れる音が聞こえてきた。
(川だ)
「ちょっと待ってて」
梨華たちを留まらせると圭織は川に向かって下りてゆく。
ポケットから無線機を取り出す。現在地を知らせる機能を兼ね備えた装置をONにする。
バッグから防水性の袋を出しそこに無線機をいれ、近くに転がっていた適当な枯れ木の枝に結びつける。
(気休め程度にしかなんないけどね)
丁寧に川の流れに乗せて視界から消えてゆくのを見守る。
「お待たせ。行こう」
(休んでるヒマなんかない。
もしもこの命に限りがあるとしても
圭織は最後の一日まで生きてやる)
明け方が近くなり辺りが薄っすらと日を帯びてきた頃、生い茂った木々の影になった洞穴に辿りついた。
ほとんど不眠不休の身体は鉛のようで自分のものとは思えないほど疲労しきっていた。
圭織は他の3人の様子を伺う。
意識を完全に失っている矢口は別として、口には出さないが体力的に劣る梨華はもう限界の筈。
それに、いくら小柄とはいえ人間ひとりここまで運んできたひとみは憔悴しきっている。
だがそれとはまったく別で生気といったものが感じられない。
(やっぱ自分で行くのがベストだね)
「石川、さっきの銃かして。そう、それとあとそっちのね」
使いなれたアーミーナイフ。それに死体から回収した拳銃2丁をしのばせる。
「飯田さん?」
怪訝そうに眉をひそめる梨華を無視して作業を進める。
普段ならなんということのない重さが倍ぐらいになってのしかかる。
(かなりキツイ……けど雨が来たらますます動けなくなる)
ナイロン製の上着を着ているものの上から羽織ると圭織は一端置いていたバッグを担ぎなおした。
「ここから一番近い街に下りるよ。ダッシュで行けば日暮れ前につける」
「え?」
普段あまり感情を表に出さない梨華も、圭織の真意を図りかねて思わず声をあげた。
「このままここにいても時間の問題で発見される。
かといって4人でおりたら目立つ上に、怪我人、半病人抱えてちゃ一発で御用だよ。
それに、なにするにしろ情報が必要だしね。
とりあえず圭織一人で下りる。2日後に戻ってくる。
戻ってこなかったら、後は勝手に行動してよ」
梨華はただ黙って圭織を見つめた。
「……別に裏切ったって思ってくれても一向に構わないけどね」
(ま、半分本心だけどね)
長い黒髪を束ねなおす。
自慢の黒髪がこころもち、べた付いている不快感に圭織は顔をしかめた。
(ふう……セットしてもすぐ無駄になっちゃうんだもんなあ)
明るかった空が少しずつ陰りを帯びてくる。
あのつんくのことだ。
真里を追わせるにも出来るだけ目立たないように処理しようとした。
となると、大々的に自分達が追われることは無い筈だ。
少数ならば油断しなければ絶対やられない。
ましてや今の自分には武器がある。
それにコミュニティーでもトップクラスの第一コミュニティーでの首席の実力
が揃えば、なおさらだ。
……ベストコンディションならね。
こういうとき立ち止まると一気に筋肉が強張り動かなくなることを知っている。
筋肉がその動きを休ませないようにひたすら前に進める。
ポツリと頬を最初の水滴がうった。
一滴、二滴が一呼吸置いて落ちると、その後は加速度的にその感覚が縮まっていき、
何分もしないうちに叩きつけるような雨に変わった。
水分を含んだ衣服はますます重みを増し、圭織の身体を容赦無く襲う。
防水性の時計を見ると夕刻過ぎを指している。
昨晩2時間ほど横になって起きあがってから、12時間以上歩きつづけている換算になる。
さすがに限界を感じかけたときに、同じように続いた景色が変化を告げた。
(燃料切れ寸前、ギリギリセーフ……ってとこだね)
どしゃぶりの中圭織は引きずるように歩いて街を目指す。
点点とした明かりが少しずつ大きくなっていく。
まずは、身体を休めることが先決だと判断し適当な場所を探す。
この天気では出足も遠のくのが当たり前だがそれにしても……
人の気配が無さ過ぎる。好都合といえばそうであるが圭織は不信に思った。
おかしい。
もとよりある程度の大人(といっても14〜5の少年少女ですらそうとみなされるのだが)
は皆ここに配属されているもの以外はおらず、絶対数が少ないのはわかっているが。
猫の子一匹通らない。
はじめ物陰を隠れるように歩いていたが次第に億劫になる。
左右に立ち並ぶ民家は無人ものは、既に封鎖されている。
洗いざらい、軍の手が入ったであろう民家に圭織の必要なものがある可能性は皆無だ。
ふと、圭織の目がその界隈から少し離れたところに一軒だけある赤い屋根に止まった。
直観的に圭織はそこに惹き付けられる。
明かりは消えている。家主は不在のようだ。しかも
(ビンゴ!!)
思わず圭織は笑みをもらした。
一階の窓が薄い網戸を擁しただけで1箇所まるで圭織を迎え入れるように開け放たれている。
どこの無用心な人間か知らないが、こんな雨の日にわざわざ締め忘れるとは。
(カオリンご一行様到着〜って一行っていっても一人だけなんだけどね)
とりあえず落ち着ける。緊張しきっていた細胞が徐々に緩和されてゆく。
雨足はますます強くなり跳ね返るしぶきで視界は白くも見えた。
激しい雨音だけが辺りを支配する。
窓枠に手を掛ける。
「あの……」
ビクン
圭織の身体が反応する。
しまった。……誰か後ろから来ていたのか?
武器を持っていたらどうする?下手に抵抗しないほうがいい。
圭織は落ち着いてできるだけ、そうできるだけ自然に振り返った。
「お姉さん、なにかご用ですか?」
幼い、どこか舌っ足らずな声。
ピンク色の小さな傘。
それもこの激しい雨にはまるで用を成さず全身がびっしょりと濡れている。
「お姉さん?」
無邪気な眼差し。
(……子供だ。圭織ってばどこまでもついてるじゃん)
圭織は今度こそ本当に落ち着いて
出来るだけ、そう出来るだけ自然に、そして出来る限り柔らかく微笑んだ。
「そうだよ、ちょっとご用があるんだ」
つられてにっこり微笑む少女。
(上手く笑えたみたい)
心の中で舌を出した。
十二章 子供の街
「へえ、辻希美ちゃんていうんだ」
「はい、お母さんがつけてくれました」
目の前でにこやかにと微笑む少女。
圭織は彼女とのやりとりを思い出す。
『仲間とはぐれて道に迷った』なんていういかにも怪しげな理由を一も二も無く信じて家の中に案内された。
こんなに雨の中大変でしたね、と本気で心配する少女。
タオルを借りてちゃっかりシャワーまで浴びてしまった。
どうぞ、どうぞとひたすら笑顔で応対する。
(何にせよ、圭織ってばついてるなあ。ホントこの子、どんなお気楽な育ちしたのか)
疑うって事を知らない。
2年か3年先には多分にもれず召集されるんだろうけど真っ先に死ぬタイプね。
身体が温まって余裕が生まれてくると思考が冴えてきた。
「お姉さんはなんていうお名前なんですか?」
「それよりさ、ここには貴方しか居ないの?お兄さんとかお姉さんは?」
両親は既にいないと考えていいだろう。他に人でも居たら面倒なことになる。
「居ました……けど戦争で死んじゃったんです」
「そうなんだ……ごめんね、辛いこと聞いて」
「今お姉さんの着てる服、実は辻のお姉ちゃんのなんですよ。
なんかお姉ちゃんが戻ってきたみたいですごく嬉しい……
あ、ごめんなさい。死んだ人みたいっていわれても困っちゃいますよね」
シャワーからあがってきたときにこれどうぞと手渡された服。
少し袖丈が短いし、ギャルっぽい服は趣味じゃなかったけど、びしょ濡れの服にもう一度袖を通す気は無かったのでこの際細かいことには目をつぶる。
(家族ごっこのおままごとに付き合うのはごめんなんだけどな)
「そんなことないよ、私もなんか妹ができたみたいで嬉しい」
家族なんか居ない。ましてや仲間なんかいるもんか。
私は信じない。誰も。
「ホントに困ってたんだ。街の人誰もいないし」
「あ、それはですね。今街の真ん中で緊急集会があるからですよ」
「集会?」
「はい。この街、もう私達が一番年上なくらいであとは子供ばっかりなんです。
だから、週に一回くらいお兄さん、お姉さんたちがお知らせをするために来るんですけど」
もっと大きな都市ならば、毎日のように警備の人間がまわる筈。
だが、この規模の街になると杜撰にならざるをえないところまで来ているのか
と圭織は思った。
「今日はなんだか緊急のお知らせがあるからってさっき放送があったんです」
「へえ……どんな?」
「うーんとですね……指名手配がどうとかこうとか、えーっとぉ、そうだ!
なんか味方を何人も殺しちゃった人がいて、ここにくるかもしれないからって。
それで、その人達の顔写真配るから取りに来なさいって」
「え……!?」
早過ぎる。翌朝すぐに見つかったとしてもあのつんくがこんな方法をとるとは思えない。
「でもね、いつもとお知らせする人の名前が違ったような気がするんですよね。
なんか、いつもは本部なんとか、とか第一なんとか、なのに第八…とか言ってたような」
そういうことか。
圭織は自分の目がつんくだけに向けられていたことの誤算に気が付いた。
管理下のミスはすなわちその上官の責任。
曲がりなりにも正規軍の司令官の元締め的ポストをつとめるつんくの足を引っ張り、自分がのしあがるのには絶好のチャンスだ。
死んでいた人間は恐らく第8所属のものだったのだろう。
自分達の損失を逆手にとって、まるでハイエナだ。
今ごろつんくは第8コミュニティーの先走った行動にさぞ悔しがっていることだろう。
「でも、辻こんな雨なのに窓を閉めてくるの忘れちゃったの思い出して
ひき返してきたんです。そしたら、お姉さんがいて。でもよかったぁ」
希美は圭織の横にちょこんと腰掛ける。
「これで恐い人が来ても安心だもん。お姉さん、すっごく強そうだから」
圭織の肩に甘えるように頭をコツンとぶつける。
綺麗に二つに分けて結ばれた髪が揺れる。
「……私のことは恐くないの?」
「え?どうしてですか?全然恐くないですよ」
「なんで、そんなのわかるの?さっき会ったばっかりなのに」
「あー、そういえばなんででしょう?でも恐くないです。
人を殺すような恐いことしてるわけないです。ね?」
「まあ……ね」
確かに殺したことはまだないので間違ってはいないが。
「でもさ、悪い人かもしれないよ?」
「悪い人は自分で悪い人って言ったりしません。それに……お姉さんと話してるとすごくほっとした気分になるんです」
『気持ち悪い子、なんでもわかって』
『圭織と話すと恐いよ。なんか、なんでもその通りになっちゃうんだもん』
『ねえ、あなた……私あのこに見られてると生きた心地がしないんです』
(なんなの?なんでこんなヤなこと思い出すんだろう)
顔が割れるのも時間の問題だ。ここにきた痕跡を残すのはまずい。
(親切にしてくれたこの子にはさすがにちょっと悪いけど、顔見られちゃったしね不安要素は取り除かないと。大丈夫、圭織、腕には自信があるから。
一突きで、苦しまないように、そうと気付かないくらいに一瞬で殺してあげる。
戦地で苦しみながら泥と汗と血にまみれて死ぬよりいいでしょう?
だからね、少しだけお姉さんのフリをしてあげるよ)
「かわいいね。ホント妹ができたみたいだよ」
身体のラインははっきりでる服にさすがに銃をしのばせることはできなかったけれどナイフだけはズボンの後ろポケットに入れておいた。
左手で希美の頭を撫でながら右手をそっと後ろに回す。
「あ、そうだ!!」
急になにかをおもいたったように立ちあがる希美。
「あのっ、おなかずいてませんか?」
圭織は後ろに廻しかけた右手をさりげなく戻して膝の上に置き「ちょっと」と答えた。
焦ることは無い。やろうと思えばいつでもできる。
だが、心の何処かでホッとしている自分に圭織は気付いていなかった。
「待っててくださいね」
パタパタと音を立てて部屋を出て行く。
数十秒後に再び同じ音がして希美がなにかを手にして戻ってくる。
「はいっ。食べてください」
赤く丸い物体が圭織の目の前に置かれる。
「りんご?」
「はい、そうです。食べてください」
てへっと笑う。口元に覗く八重歯がその笑顔にはよく似合っていた。
「あ、ちゃんと洗ったから大丈夫ですよ」
「……じゃなくってさあ」
丸ごと出された一個のりんご。
「ごめんなさい……辻、包丁上手く使えなくて。剥くと食べるとこほとんどなくなっちゃうんです」
恥ずかしそうに俯く。
自分から視線が反れた。チャンスだ。
圭織は、今度は素早くナイフに手をかけた。
「のの!!」
突然窓が大きく開け放たれる。
「亜依ちゃん!?」
希美と同い年くらいの少女がどしゃ降りの中傘を投げ捨て立ち尽くしている。
(鍵、かけてないわけ?この子)
その少女の手にもたれたビラの表面がチラリと圭織の目に映る。
(クソッ)
右手に持ったナイフ。はっきりとあの少女の目に入っただろう。
「のの!!そいつから離れて!!」
「え、えっ?亜依ちゃん?」
戸惑う希美を左手で引き寄せる。
亜依と呼ばれた少女は小さな身体に不似合いなほど激しい形相で圭織を睨みつけた。
「ののを放せっ!!放さないと痛い目にあうで!!」
開け放たれた窓から激しい雨が室内に吹き込む。
恐らく圭織より20センチ近く低いであろう少女から発せられる強気な台詞に、圭織は笑いがこみあげてきた。
「どういう目にあうの?」
「……こういう目や」
瞬間、圭織の笑顔が凍りついた。
黒光りする外国製の拳銃。
(なんでこんな子供が……)
「言っとくけど本物やからな」
その少女の表情、そして銃を扱う手馴れた手つきから圭織は脅しではないことを察する。
「亜依ちゃん!一体どうしたの!?」
希美が困惑した表情で叫ぶ。
銃をかまえたまま手持っていたビラを二人に見えるように突き出す。
(あーあ、どうせならもっと写りのいい写真使ってくれればいいのに)
さてどうしようか、希美を一突きでやってそのまま彼女の身体を盾に突っ込むか圭織は思案した。
「間違いです!!」
「の……の、なにゆうてんねん!!はっきり見えるやろ!」
ビラをもった手を目一杯前に伸ばす。
「お姉さんは人を殺したりなんかしないよ!」
「いいから早くこっちに来るんや!」
「やだ!」
圭織の左手を希美の手が握り締めた。
子供らしい高い体温が伝わってくる。
(バッカじゃないのぉ……?)
私なんか信じて。
こんな、私なんかを信じて。
私はあんたのことなんか、ちっとも思ってやしないのに。
「のの、よく考えるんや。じゃあ、なんでそいつはナイフ持ってるんや!?それぐらいわかるやろ!?」
(そうだよ、その子に言う通り。これはね、あなたの命を奪うための切っ先なんだよ)
「馬鹿は……亜依ちゃんだよぉ」
「のの………?」
「お姉さんは……お姉さんはね、辻の為に」
テーブルの上に腕を伸ばす。
「ほら」
赤い、丸い、小さな球体。
「りんごを剥いてくれるつもりだったんだよ?そうだよね?お姉さん」
曇りも不安も陰りもない澄み切った笑顔。
希美を拘束していた左腕が解放される。
「……っかじゃないのぉ?」
「え?ごめんなさい。よく聞こえ……」
馬鹿じゃないの?
こんな馬鹿見たこと無い。
こんな……
「お姉さん!?あ、あれ、ほらっ亜依ちゃんがそんな恐いもの向けるからお姉さん泣いちゃったよ。ほら、早くしまってってばあ。ねえ」
泣いてる?誰が?泣くわけないじゃん、圭織が。
今日は雨が激しいから、ちょっと圭織も雨漏りしちゃってるだけだよ。
けど、随分あたたかい雨だね。
………思い出したよ。
涙ってこんなんだった。
十三章 長い雨
よっすぃー、一緒に死んで
よっすぃー……
…………ぃ……
「ご……っち……」
イヤだ。待ってよ。
待ってよ。
冷たい岩肌。
ポタン、ポタンという一定のリズムと砂嵐にも似た激しいリズム。
「……目、覚めた?」
薄暗い空間に開いたフィルター越しにみるような画像。
無機質な岩のフレームの中で悲鳴をあげている木々たち。
頭の中が素手でかき回されたようにどろどろしている。
「体、だるいでしょう?何度止めても出て行こうとするから、軽い麻酔うたせてもらったわ。じきに覚めると思うけど」
ひざまづいて、自分に語り掛ける少女。
(ゴッチンジャナイ……)
モスグリーンの寝袋に包れた少女が少し奥で横たわっている。
「彼女には解毒薬追加してうっておいたから、明日まで目が覚めないと思うわ」
(アノコモチガウ……)
「ひどい雨だね」
右から左へ視線を動かす。一番端までいくと今度は左から右へ。
(イナイ、どこにも……いない)
わかっていた。
彼女はここにはいない。
この腕の中で死んでしまったのだから。
市井紗耶香の名を呼びながら。
そうして彼女の真っ赤な血で、
私のこの手、この腕、この胸は赤く染まり、
ひとみは掬い上げる様に両手を目の前にかざした。
よく見知った、自分の指。
女の子にしては大きくてキライだった手。
白くて……
ハッとしてひとみは掌を返してみた。
自分の胸元を確認する。
染み1つ無い乾いたシャツ。さらさらした肌触り。
「な……」
衣服を掴んで梨華を見る。
「濡れた服のままだとまずいと思って、勝手に着替えさせてもらったん……っ!」
パシンという響きは雨の音でかき消される。
「なんでそんなことするんだよ!!」
彼女の血。
彼女の生き方みたいに激しくて強い赤い色。
彼女が……生きていた証。
ツウ、梨華の唇から同じ色が滲む。
うたれた頬を押さえようとも、血を拭おうともしないで梨華はただ静かにひとみを見つめていた。
「ご……め…ん」
ゆっくりと指を伸ばす。
梨華の唇に持っていきそっと傷口を拭う。
指先に小さな赤い点が出来る。
(私もこれと同じ色にこの辺り一面を染めたら死ねるんだろうな)
「震えてる」
梨華の手がその指先に触れると赤い点が広がった。
「寒いの?ねえ」
小刻みに体が震える。
口の中で歯と歯がカタカタと細かくぶつかりあう。
体が冷たい。
すべてを流し尽くすような激しく、冷たい雨。
彼女は今もこの雨に打たれているのだろうか。
行かなくちゃ、彼女の所へ。
「寒いなら何か口に入れた方がいいわ」
携帯用の固形燃料を使って沸かしたのか、湯気の立ち上る液体を梨華は差し出した。
ひとみは黙って首を振り、ふらついた足取りで立ちあがった。
「行くの?死んじゃうよ」
思いがけない強い力で梨華に手首を掴まれる。
出会ったときと同じ、静かな、空虚な瞳。
何も無い、ガランドウ、空っぽな瞳。
そう、これは抜け殻の……死人の瞳だ。
「これ飲んでから行って。冷めたら無駄になってしまうから」
(どうせもう終わりなのだから、どうだっていい。
この次の瞬間には全てが無に帰るのだから)
梨華の手からカップを受け取る。
耐熱性の容器から立ちこめる白い煙が肌をくすぐる。
ボサボサになった前髪。そろそろ切りたいなって思ってたっけ。
少し長くなってきた髪をかきあげてカップに口をつける。
唇から熱が伝わり口内を通って体内に伝導していく。
(温かい……)
(温かい?)
「……ック……アハ」
(ついさっき死のうとか終わりとか全て無に帰るとか散々言っていた自分が温かいなんて感じるなんて。おまけに、美味しいなんて思うなんてね。)
これ以上もう、感情なんてもたない。
「泣いてるの?」
カランと音を立ててひとみの手からカップが転がり落ちる。まだ残っていた液体が音もなく地面に吸収されていく。
ひんやりとした手がひとみの頬を包む。
「哀しいの?もう死んじゃいたい?」
首に廻された細い腕。
ゆっくりと、ゆっくりと近づいて来る、瞳。
「ねえ」
その瞳の中に映し出された自分の姿が、同じ、抜け殻のような死人に見えて
「生きるのって死ぬことよりもずっと辛いのかもね」
唇に下りる柔らかくて、冷たい感触。
恐くなって目を閉じた。
いつ終わるともわからない騒音をかきたてながら雨は降り続いている。
背中に感じる細い指が上から下へと滑っていく。
「まだ、降ってるね」
先ほどまでの行為の後の、けだるい感触が体全体をつつんでいる。
「そうね」
背から離した指をひとみの首筋にあてる。
露出した肩が寒そうに見えたが梨華は気にする様子もなく半身をおこす。
その姿を眺めながら、ひとみは己の愚かさを呪った。
「……最低」
「なにが?」
しなだれかかる感覚だけに身を任せて及んだ行為。
(一番好きだった人が死んだそのすぐ後に、他の人間と寝るなんて)
最低だ。
けど、それが私にはお似合いなのかもしれない。
この世で最低の人間。
「ごめん……ね」
「どうしてあやまったりするの?」
「いつも誰かを傷つけてばかりかだら」
「よくわからないわ。私は傷ついたりしていないもの」
「………」
「貴方の方が傷ついた顔をしてるのにね」
生きるのは死ぬことより辛いというならば、生きることが罰なのだろうか。
生きることでまた罪を重ねて罰を受ける。
「そうだ、じゃあこんな話をしてあげる。笑い話。おかしな話。」
突然思い立ったかのように梨華が口を開く。
「タイトルはね……『役に立たない女の子の話』
あるところにね、何をやってもダメな女の子がいたの。
いつもいつもみんなの足手まといで失敗してばかり。
うちは貧乏でいつもどこか薄汚れた格好をしてて、少しでも働いてお金を稼がなきゃいけないのに。
そんなだから当然雇ってくれる所もなくて。
誰もが呆れ果てて誰も相手になんかしないの。
けどね、その子のお母さんだけは違って、あなたはいい子。
役立たずなんかじゃないよ。
ちゃんとお母さんの役に立ってるわ、って。
だからね、女の子はそんなお母さんが大好きで、いつかきっとちゃんとお母さんの役に立つぞって思ってたの。
そんな矢先にね女の子のお母さんは病気になっちゃったの。
恐い病気に。
お母さんはすごく苦しんで、けどクスリを買うお金は無くて。
女の子は泣いたわ。そしてお祈りしたの。
お願い、なんでもするからお母さんを助けてって。
そしたらね、お母さんが……包丁を持ち出して女の子に言ったの。
『体の中の血を全部入れ替えたら助かるかもしれない。だから…あなたの命をちょうだい』って。そしたらきっと治るのよって。
なのにね、その女の子ったら逃げ出そうとして暴れて……反対にお母さんを刺しちゃったの。
傷口からどっくんどっくん血が流れて、
そしてお母さんは死にましたとさ。
あんなに言ってたのに女の子はちっとも役に立たなかったの、最後まで」
体がどんどん冷たくなっていく。
そうした温度に反したあたたかいものがひとみの頬を伝う。
「で、それには続きがあって……ひとりぼっちになった女の子に男の人が近づいてきて黙っててあげるから、少しじっとして目を閉じていてっていわれたの。
すぐに終わるからって。
女の子は別に黙っていてほしいなんて思わなかったんだけど、その通りにしたの。
そしたらお金をくれたわ……その次の人もその次の人も。
ああ、お金を稼ぐってこういうことだったんだ。お母さんがいなくなって気付くなんてね?おかしいでしょ?笑えるでしょう?」
梨華の頬に次々と雫が落ちる。
「……ねえ、面白くなかった?あーあ……やっぱり私って役に立たないな。だから……」
ひとみは堪らず梨華の体を抱き寄せた。
梨華はゆっくりと唇をひとみの耳元に近づけて囁いた。
「……もう一回、しよ?」
十四章 覚醒
長い夢を見た。
倒壊してしまったはずのあの懐かしい家でお父さん、お母さんが笑ってる。
懐かしくてその胸の中に今すぐにでも飛び込んでいきたい。
けれども私はこの年で親に甘えるのが気恥ずかしくて、わざと憎まれ口を叩く。
『素直にならなあかんやろ』
コツンと頭を小突かれる。
見上げると裕ちゃんがいて、私はコノヤロって殴り返す。
ほんとはちっとも痛くないのに、「痛いだろー」なんて言ったりして。
あるはずのない
哀しい夢。
そこでプッツリと映像は途切れ
永遠に開くことのない暗幕が下ろされるのかと思いきや、しめっぽい空気とごつごつした岩肌の映像が浮かび上がった。
魂の存在とか死後の世界のことなど考えたことはなかったがこんなかんじなのだろうかと思う。
しかし、肌に感じる現実感を帯びた空気から自分が生きていることを実感させられる。
わかっているのはただ、自分は彼女にあうためにコミュニティーを脱走し、敢無く森の中で捕らえられてしまったこと。そして、飯田圭織の手によって処分されようとしていたこと。
だが、その記憶と今の現状を繋ぐ糸がどうにも真里にはつかめない。
洞穴らしきところの入り口から薄っすらと日が差し込んできている。
人の影がそこにうつり、真里は瞬時に身を硬くした。
「カオリっ!?」
頭さえ冴えていれば不用意に声など出したりしないが、そこに考えが至る前にすでに真里はそう叫んでいた。
「飯田さんなら、今別行動をとってます。街に下りて…」
影の主は別段真里の声に驚くことも無く淡々と語った。
身を硬くしたまま真里はその顔を確認した。
(石川……梨華)
真里は自分の知る情報を総動員して現状の把握に努めた。
探るような目つきで梨華を見つめたが、どうにも反応を示さない梨華に観念して問いただす。
「なんで?」
本当はもう少しふさわしい言葉もあろうものだが、彼女にはこれで十分な気がした。
案の定、彼女は最低限、かつおそらく最良の言葉で真里に現状を説明する。
「……圭織が、別行動ねえ」
(ま、戻っちゃ来ないだろう)
圭織の正確から考えて真里は即座に判断する。
あいつは自分の不利益になる理不尽なことなんかしない。
不要だと決めた瞬間自分が生き残る手段に従事する筈だ。
けれどそれを責めることはできない。
万が一梨華の言うようにここに戻ってくるとしても、それは自分にとって得策ではないように思えた。そこまでの義理だてもお互いに持っていないし。
「でも、助けてくれてありがとう」
プロセスはどうあれ、命を救われたことに代りは無い。
「私が助けたわけじゃありませんから」
梨華が視線を反らすと新しい影が入り口に見えた。
長身をかがめて狭そうに中に入ってくる。
(知らない…顔。でもそう、この子だ)
「あなたが助けてくれたの?」
長身の少女はほんの一瞬だけ視線を向けるとそのまま黙って奥に進んで腰を下ろした。
「あのさっ、矢口あんたに聞いてるんだけど!」
幼く見える外見のせいで、軽く扱われることが多かった。反面、人一倍無視されたりするのは大嫌いだった。真里はムッとして声を荒げた。
真里の憤りもなんの効果もなさず、虚ろに膝を抱えて座る。
「ちょっと、生きてんなら返事くらい……」
「ほっといてくれませんか?」
ぽそりと呟く声。
放っておいてくれ、どこかで聞いたこのコトバ。
誰だったっけ?コレ言ってたのって。
そうだ、あのときの、裕ちゃんに出会った頃の私。
「ほっといてほしい人間はそう言うこと言わない」
「……」
「放っておけって言うやつは本当は…」
「黙ってくれませんかっ?」
うつろな目に一瞬だけ怒りの色が浮かび端正な顔立ちが歪んだ。
「大切なものが、大切な人間がいなくなった気持ちなんかワカンナイでしょう?」
「わかるよ」
「……あなたは何かを求めて逃げ出したんでしょう?なら、まだ何か大切なものがあるからでしょう?何もない人間の気持ちなんか…」
無意識にあげていた手を真里は寸前で止めた。
「何も無いことなんてない」
頭の中をあのときの彼女の言葉がよぎる。
(思いは………誰かに受け継がれる。ちゃんと…生きてるんだから)
「生きてるってそれでなにかしなくちゃいけないなんてことはない。死んだらそれで全てが終わる。そこまでただ罪を重ねているだけ。何をしてもどうあっても死は全てを無に……」
「なに、言ってんの?生きてるっていうのはねっ」
「矢口さん」
ひとみの肩を掴んでいた真里の手を静かに制す。
しゃがみこんでいるひとみの肩にをしなやかな指でそっと置く。
上げていた顔を再び俯かせる。
「彼女、大切な人を失ったんです。だから」
(ダカラ?だから?)
「……そうやって、お互いの傷でも慰め合ってれば?」
急速にこみあげてきた不快感に真里は吐き捨てるようにいった。
(昔の私と同じ眼。生きる意欲を失った眼、)
この閉鎖された空間にいることに耐えられなくなり真里は外の空気を吸おうと出口の方に足を向けた。
こういうときに小さな体は便利なもので身をかがめることなくすっと外に出る。
が、突然目の前に障害物が現れ真里のゆく手が阻まれる。
「ちょ……」
「やっほ、お目覚め?矢口」
こざっぱりとした表情で現れた黒髪の少女はどうにも不似合いなハイビスカスのプリントが施されたトレーナーの袖をたくし上げる。
「圭織……」
最初、真里は単純に戻ってこないであろうと思っていた少女の出現に驚いていたが、すぐさまそれだけでないことに気がついた。
(違う、何か……変わった)
彼女特有の、何かが根本的に変わった、そう真里は感じる。
「何よ、矢口。口あけちゃって。ははーん、どうせ圭織が戻ってくるわけ無いとか思ってたんでしょ」
「いや…」
半分は図星だったが、かといって正直に圭織から感じる何かがかわったということを伝えるのも躊躇する。
「なんか、服の趣味変わったなと思って」
「ああ、これ〜?別にカオリの趣味って訳じゃないんだけど、ちょっと、ね」
決まり悪そうに顔をしかめるが、言葉とはうらはらにそうイヤがっている様子でもない。
黒髪を束ねたゴムにはご丁寧にさくらんぼを模した飾りまでついている。
ともあれ、幸いうまく同様を誤魔化せたことにホッとする。
「いる?」
中を指差す圭織に対し肯定の意味でコクリと頷く。
少しだけ背をかがめるとどかどかと中に入っていく。
その姿の後を追おうとするとくっきりと残された泥の跡。よく外をみると地面はかなりぬかるんでいて洞穴の中だけだと思っていた湿っぽさは外でも同様であった。
かなりの雨が降ったことを真里は悟った。
入ったとたんリュックから無造作に黒い塊を次々と取り出すと地面に投げ出す。
「圭織!?それ……」
落下したときの音がずっしりとした重みを伝える。
「適当に取ってよ。必要になるでしょ?」
「適当にって…これ一体」
戸惑いながらもその1つを手にして確かめる。
「ああ、ちょっと街でね、銃器マニアの子供にあってね。ちょこっと拝借してきた」
次々と得意げに武器を取り出していた亜依の顔が浮かぶ。
父親の趣味だったと言っていたが今ではすっかり自分の趣味なんじゃないかと圭織は思った。気が強いようでからきし希美には弱い姿。
知らずに緩んでしまっている口元をきゅっと結んで圭織はポケットから地図を出して地面に広げた。
「ありがたくないことに、思いっきり顔写真入りで指名手配されてた。あ、もちろん矢口もね」
紙面のやや右上のポイントを指し示す。
「今、うちらがいるのがココ」
そのまま圭織はすっと下方に指を滑らせた。
「とりあえずここに移動しようと思ってる」
「え……!?」
真里はその指先が指し示す場所にハッとする。
(これ……この場所って)
「何、矢口?」
驚いた真里の様子に気がついて圭織が問い掛ける。
「そこ、保養所だよね」
「へぇ、よく知ってんじゃん」
圭織は感心した様子で真里をしげしげとながめた。
(当たり前じゃん)
だって自分はそこを目指して逃げ出してきたんだモノ。
25歳以上になって軍役をしりぞいた人間がいるという、そして中澤裕子のいるそこにいくために。
「街に出た所で知らない人間は目立つからね。その点……」
「人の流入が活発なところなら紛れ込めるってわけか」
30歳をすぎた人間は死に、そしてまた軍役を終えたものが入る。
誰が生きているのか死んでいるのかなんてわからない。
そんな世界。
自分の言葉の意味するところを知って真里は鬱な気分になる。
(けれど、そこにいって、そして裕ちゃんに)
「どうする?好きにしなよ」
説明だけし終えると圭織はぐるりと周囲を見渡した。
地面には持ち主のいない銃がいくつか転がっている。
真里はそのひとつを拾い上げた。
「行く」
「あれ、やけに素直だね?どしたの、矢口」
てっきりなにか意見してくると思った圭織は拍子抜けする。
「……そこに行かなきゃ行けない理由があるから」
「理由って?」
「会いたい人間がいるから、なんて言ったら圭織は笑うだろうね」
「さあ?」
(確かにそうだね、でもなんで私笑わないのかな?)
どうせ他に目的も無いのだから黙っていても梨華たちは付いて来ると予想した圭織は人数分だけの武器を残しあとはリュックにしまう。
「で、どうする?もう少しお休みしますか?矢口さん」
「おかげさまで十分眠らしてもらったからすぐ行けるよ」
からかうような圭織の口調に反発する。
この分なら大丈夫そうだ、が。
梨華は二丁の拳銃を手に取るとその1つをひとみに握らせた。
やんわりと髪に触れなにかを囁いている。
(ふぅ…ん……)
二人の姿を横目で圭織はとらえた。
不自然とも思えるほどの勢いでさっそうと準備を終えて出口で真里が待機している。
梨華の後に続こうとしたひとみの肩を掴んで振り向かせる。
「吉澤」
「なんでしょう?」
その顔こそ圭織の方向に向けられていたがガラス玉のようにただ圭織の姿を反射しているだけのように感じた。
(そういうこと……か)
「何か、言いたいんですか?」
ひとみはうしろめたさと、自分の領域に土足で入ってこられたような腹だたしさを覚えた。
「別に。ただ」
「ただ?」
ふっと圭織の表情から力が抜けた。
「圭織が一番最初に言ったこと覚えておいてね」
一番最初に?飯田さんが言ったこと?
「あの子はそういう生きかたしか知らない。そういう生きかたしか出来ないから」
「え?」
「覚えておいて、ね」
ひとみの言葉を待たずに圭織はもう一度そう言うと身をかがめて出て行った。
その黒髪を束ねたピンク色のゴムはやはり彼女には不似合いな気がした。
十五章 執着点
多分に水分を含んだ雨上がりの地面に注意を払いながらも少女達はただ黙々と歩きつづける。
「しかしさぁ、矢口も無茶だよね。ロクな装備もしないで一人であそこまで行こうなんて。
ていうか、ほぼ可能性ゼロパーセントだと思うんだけど」
「そうだね」
だてに何ヶ月かの訓練をつんできたわけではない。脱走がどれだけ危険か、森を一人で歩くことがどれほど向こう見ずなことかは痛いほど分かっていた。
「でも、何もしないよりマシ。どうせなら……」
せめて裕ちゃんのことを思いながら、裕ちゃんのところに1歩でも近づいた所で。
「ま、でも結果的には矢口生きてるんだから」
(そう、私は生きてる。まだ、まだやらなくちゃいけないことがあるんだ)
窮地に立たされれば性別や国籍、ましてや能力の優劣などは慰みの対象にはならない。
小柄な真里は生死の境をさ迷った直後、正直ついていくのが精一杯だった。
が、弱音を吐くことだけはするものか、そう誓っていた。
一歩一歩確実に足を前に。意識をそのことだけに集中する。
だが、そんなささやかな心の中の反発心も絶え間ない体中があげる悲鳴に打ちのめされそうになる。
「矢口―。ちょっと休憩にする?」
「い…い」
こんな短い言葉ひとつ吐くことすらままならない。
「ふうん、まぁそう言うんならいいけど?」
再び歩き始めた圭織の後を追おうとした瞬間、ぐらりと視界がゆれる。
(あ……馬鹿だな私。単に圭織も休憩したかっただけかもしれないのに)
「足、すり足気味に歩くとぬかるみにはまりますよ。つま先よりも、腿を上げることを意識した方が楽な筈です」
何時間ぶりだろう彼女の声を聞くのは。
幾分驚いてひとみを見上げた。
しかし真里の視線に気付くとすぐに瞳をそらした。
「でも……あなたは幸せなのかもしれない」
「え?」
俯いて呟いたひとみの声が聞き取れずに聞き返す。
けれどもその後に続く言葉はなく、待っていても口を開く様子がないのがわかると、真里は諦めて進行方向に向き直った。
「でも、あなたは幸せだな。……会いたい人間がいるんだから」
一体いつ振りだろう?ゆっくり空を見上げたのは。
昨日までのどしゃ降りが嘘のように木々の間からは強めの日差しが差し込んでくる。空気中の埃も一掃され、少しひんやりとした外気をゆっくりと肺の中にいれる。
こんな山中の散策には到底不向きな、初めて羽織る紫色のジャケットは去年の流行り色だったらしいが、どうせそれを見て心ときめかす人間も、誉めてくれるものもいない。そんな自分への一種の嘲りもこみ上げる。けれどそれでもそれを着たのはきっと、戦場を離れれば自分も只の女だ。それを確かめたかっただけかもしれない。
イグゼクター‐Executor‐執行人 自分がなんと呼ばれているかくらい知っている。
着実に命令をこなす、死刑執行人。ただ忠実に求められた事を求められた分だけこなす。
直接手を下した者だけでなく、間接的に死を与えたものを加えればその数は尋常ではないだろう。
ただ直接なにも言うものがいないのは、迷いも戸惑いも無く、制裁のスイッチを入れる自分を恐れているだけ。
それが私。
それでも中には面と向かって不快な表情を見せるものもいたが、それも無くなった。
軍の幹部の中でも指折りのSランクのもうひとつ上を行くSSとして自分が選ばれ、実質上、現在の戦力の大半を任されることになったからだ。
故に私に対する周囲の評価は一掃影でまことしやかに囁かれるようになった。
「なんでも器用にこなすんだけどさ、なんていうのかな面白みにかけるんだよね」
「そうそう、ほらよく言うじゃない『カリスマ性』っていうのが無いんだよ」
「あ、わかるー」
事実、私が実質の実権を握る立場になったのは他ならぬ「繰り上げ当選」に過ぎない。
無くなったから保管する。
代わりに補充する。
その恰好の材料として存在したに過ぎないからだ。
『アホやなー、みっちゃんは。みんななんでも出来るみっちゃんに嫉妬してるだけやねん。
ホラ、とりあえず飲んどこうで』
昔、そう語った彼女は紛れも無く私には無い輝きを持っていて、私の心をくすぶった。
それでも私が決して彼女の輝きを手に入れたいと思わなかったのは、彼女の心を占めるのは私ではなかったけれども、同時に誰でもなかったからだ。
私が特待生に選ばれ、上官の目を盗んで飲み明かした夜を最後に、彼女に会うことは無かった。人づてに聞いた話では国内を中心にどちらかというと戦における土台、もしくは盾の部分を担う役割に就いているということだったが、一見攻撃的に見えてその実心優しい彼女には似合いに思えた。
何ヶ月かぶりにとるたった1日だけの休暇。
往復だけで大半を費やそうというのにわざわざこんなところまで。
そして今更彼女に会ってどうしようというのか。
けれども他にさしたる目的も無い私の足はいつしかここに向いていた。
彼女のいる場所は本部の直結の管理課にあるのだから、視察と言う名目でいくらでも訪れることはできようものだけれど、なぜだか「そんな必要は無い」という回答の一点張りで私の前任者が何ヶ月か前に訪れたのを最後にそれきりらしい。
その前任者もこの世の人ではなく、直接事実を聞き出すことはもう不可能なのだから。
それにしてもなぜ、よりによってこんな僻地に建設しようなどと思ったのか。
ヘリを使わなければ徒歩でしか行きようが無い。
施設の概要だけは知っていたけれど、実際そこがどんなところなのか、詳細をまったく知らされていないことを改めて実感した。
もうしばらくでつく。そう思った時に何かが爆発するような音が聞こえた。
しばらくしてもうひとつ。
……?
だが、どうやら自分に向けて放たれたものではないらしく念の為身構えたけれど、襲ってくるような気配はしない。
目的の建物の方から聞こえたような気がしたがいずれにしろ、行くのを止める気は毛頭ない。10分ほど待ってやはり何の動きも無いので、身を起こして歩き始める。
ようやく見えた外壁。塗装すらされていない剥き出しのコンクリートの壁面が姿をあらわす。
そして、そのあらかたの全容が私の目に映った時、思わず私は自分の目を疑った。
「な……にこれ」
目の前に高々とそびえるグレーの壁面に一同の誰しもが絶句した。
ぐるりと建物の四方を回って、その驚きはさらに高まった。
一周して元のところに戻ってくると、呆然と10mはあろうかという高さにようやく見える窓を眺めた。
「入り口が……ない」
念の為圭織は1人でもう一周してみたが出てくる答えは同じだった。
それになんだろう、急速に淀んで感じる空気とこの匂い。
気分が悪くなる。
四方はいずれもグレーの壁面で覆われておりどこもはるか上方にやっと窓らしきものがついているといった感じだった。
「どうやって入るわけ?一体」
せっかくココまで来たのに。とっくに限界を超えた体をふらふらと壁に寄りかからせ宙を仰ぐ。
「……上から入るしかないんじゃないの?多分。おとぎばなしのラプンツェルじゃないんだから、窓から髪の毛たらしてもらうってわけにも行かないでしょう」
目を凝らすと建物の最上部には手すりのようなものが伺え、どうやら屋上があると推測できた。もっともこんな山中だからそもそもヘリぐらいしか交通手段が無いのかもしれないけれど、それにしても異様な光景だった。
(本当にここに裕ちゃんがいるの?)
疑うことなくここまで突き進んできたけれどそんな不安が真里の胸のうちを過る。
それに第一に人のいる気配がまるでしない。
保養所、というイメージとはあまりにもかけはなれていて、自分達のいたコミュニティーこそ牢獄そのものだと思っていたが、この建物にこそその言葉がふさわしいと思えた。
「入れない?圭織」
「まあ、入れないことも無いけど」
期待せずに聞いた真里はしれっと答える圭織に目を見張る。
「……まさかとは思うけど、圭織の髪の毛が伸びる、とか」
「馬鹿。なワケないでしょ」
ちょんちょんと、デイバッグを指す。
「バクハ、するのよ。爆破。手榴弾で壁ぶち抜いちゃえば入れんじゃん」
「えっ!?」
真里達に手渡されたもの以外にも、あれこれと武器を持っている様子だったことを思い出す。
(よしっ、じゃあそれで……)
「でも駄目」
間髪いれずに圭織は言った。
「まあちょっと見た感じだと人がいるって感じじゃないけどさ、もし誰かいたら?
一発で見つかって、下手すりゃその場でさようならだよ?」
圭織の言っていることは正論だ。自分はそれでもいい。
それ以外に裕ちゃんに会う方法が無いのだとしたら。
けれども、彼女達には自らの命を危険にさらす必要など無いのだから。
「……わかった」
「そっか、じゃあこんなとこさっさと……」
「だから矢口に手榴弾だけ置いてってくれないかな?圭織たちが充分離れたところまで行ったら爆破するから」
躊躇いも無く告げる真里を圭織は静かに見つめた。
「勝手にすれば」
(勇気と無謀を履き違えて)
しかし先ほどから拭い切れないこの不快感はなんなのだろう。
別に知りたくは無い、が反面確かめなくてはならないような、本能的に圭織の体はそう伝えていた。
知ってる、けど知りたくないそんな匂い。
「ありがと」
圭織の手から手榴弾を受け取ると真里は微笑んだ。
(あ……)
確かに美少女ではあったが目を見張る、というわけではない。
だが、ひとみの眼は真里のその屈託の無い微笑みにくぎ付けになった。
ちっとも似てなんかいない、なのにいつか見た眩しい輝きの断片を垣間見た。
なんて幸せそうに微笑むのか。
死を恐れていないから、じゃない。
これは……?
ひとみは何故自分がそんなことをしたのかわからなかった。
「!?馬鹿!吉澤っ」
が、気づいた時にはそれを奪い取って壁に向かって投げつけていた。
「キャッ!」
はじけるような音と共に巻き起こった爆風に圭織は短い悲鳴を上げる。
飛んできた小石か何かの破片でスッと赤い筋がひとみの頬に引かれた。
だが、そんな傷に気付くことなくパラパラと崩れゆく壁の向こうから覗いたものを凝視していた。
「なんてことすんのよ!さっさと逃げるよっ……ていいたいとこだけどそうもいかないみたいだね」
ずっと付きまとっていた不快感、知ってるけれど知りたくない、その原因。
「う……」
こみ上げて来る嘔吐感を真里は必死に抑えつける。
崩れた壁の向こう側から現れたのは無数の、朽ち果てた死体の山だった。
それでも吐き出してしまわなかったのは、むしろそうすることがより一層自分を追い詰めることになり兼ねないと思ったからだ。
普段ほとんど動揺らしい動揺すら見せない梨華も、顔色は蒼白になっている。
中に入るにしてもさすがに死体の山を踏み越えていくわけにも行かず、ふらふらとした足取りで反対側にまわったところでもう一度手榴弾を使って壁穴を作った。
恐る恐る中を除くとどうやら今度は倉庫のようなところだった。
瓦礫をどかして入り口を確保すると、先ほどよりもさらに強まった匂いに口元を抑えながら足を踏み入れた。
やはり、人のいる気配はしない。
彼女がいるはずの場所、だけれど
そこは無人で、
あるのは死体の山ばかり
おのず嫌でもひとつの考えが真里の心中に浮かぶ。
しかし強引にその考えを追いやった。
今は、そんなときじゃない。
まだ、なにひとつわかっていないんだから。
「とりあえず管理室みたいなもんがあるでしょ。そこを探そう」
方向からして正面の廊下を突き抜けた先にある、やけに重々しい鉄製の扉の先は先ほどの死体の山が置いてある部屋のはずだから、わざわざそちらに向かうのも無意味だと判断しちょうど中間点あたりに設けられた階段を上る。
何階かまでは無造作に並べられたダンボールや木の入り混じった箱と、鉄格子だけの奇妙な空間が続き、その後は数mおきに立ち並んだ鳥の巣箱のような部屋が続いた。
試しにそのひとつを開けると中には狭い空間に無理やり置かれた2段ベッドが二つ。
無人であることにはかわりなかったが私物と思われるものが、そのままという状態で放置されていた。ちょうど昨日まで暮らしていた人間が急にいなくなった、そんな感じだ。
(裕ちゃん……!)
「矢口!?」
疲れなど忘れて真里はなりふりかまわず階段を駆け登る。
(何処、何処!?)
ようやく鳥箱のような並びが終わりを告げ今度はやや広めに設置されたドアが並ぶ廊下に出る。
ドアの上部に小さく書かれた表示を眼で追う。
目的の部屋の字を探す。
「管制室……か」
いつのまにか追いついていた圭織が後ろで読み上げた。
探してはみたが恐らくは何も残ってはいまい、という予想とは裏腹に電源こそ入ってはいないがパソコンなどの大型の機器を始め雑多な資料がデスクの上に山積みにされていた。
いくつかを手に取りパラパラとめくる。
「何も無いと言うわけじゃないだろうけど、こんな剥き出しに置いてあるんだから見られて困るってワケでも無さそうだね」
ひとみもそれは同意見だった。
階下に山積みにされていた死体に対する答え、わざわざ残しておくほど甘くは無いだろう。
しかし、傍らで熱心にひとつひとつを模索する真里の姿があった。
(目の前の事実を……信じたくないのだろう。その証拠を探して)
恐らくは彼女の探す人物は生きてはいまい。
けれどまだ胸にともったほんの小さな希望を頼りに彼女は探す。
その終着点がその小さな希望をも打ち消してしまうかもしれないと言うのに。
(それでも、あなたはそこへ行こうと言うんですか?)
「あった!!」
ひとつのファイルを掴みあげて真里は叫んだ。
「8002号室、か。よし」
わき目もふらずに階段の方へ向かう真里が投げ出したファイルを見ると、名簿と思しき文字が連なっていた。
拾い上げて圭織の方を見ると、仕方ないといった具合に肩をすくめていた。
「行こう……か」
開け放たれたままのドアの方向を向いた梨華の言葉に頷いた。
裕ちゃん!!裕ちゃん!!
アタシやっとここまで来たよ。
先ほど登ってきた階段を下り8002号室を探す。
8000番台の表示が目に入りそのフロアに降り立つ。
8008、7、6………
『8002』
裕ちゃん!!
何日間も、いや何週間も換気していない部屋が放つ独特の空気の中にこれまで見てきたような部屋と同じような作りの部屋。
ただ、違ったのは中にあったベッドはひとつだけで、さらにはそのなにもかもがすべてひっくり返されたように荒らされていた事だ。
綺麗ずきの彼女からは普通考えられない状態だ。
おまけに
「ゆ……うちゃ…」
ドサリとしわくちゃのベッドの上に倒れこむ。その上にべっとりと染みついた赤黒い跡。
相当量の血痕が付着していた。
「裕ちゃ……ん」
それまでこらえていたものが一気にこみ上げる。
名を呼びながら次第にそれが嗚咽に変わり真里は点点と血の跡が残る枕を抱きしめた。
これはただのものにすぎない。けれど、彼女の香りがする気がするそれを力の限り抱きしめた。
『ねえ、裕ちゃんなにやってんのぉ?』
『ありゃっ、見つかってしもうた』
歯磨きしようと洗面所に向かったけれどついでにパックもしたくなったので部屋に戻ると
ベッドの上で慌てて何かを隠していた。
『コラ、なにやってたんだよぉ。教えろってば』
『ひゃあ、ご勘弁をっ』
強引に後ろに隠したものを奪い取る。
枕?それになにかその中に入れてるみたい。
『……出しなさい』
『いやぁ、その…ちょっと!!あ』
歯切れの悪い答えに業を煮やしてすばやく手を突っ込んで中を探る。
『……アタシの写真じゃんか』
『まったく…ヒドイなぁ矢口は』
『なんで枕の中にいれるんだよ、こんなの』
すると彼女は照れくさそうに
『昔っからな大事なもんはここに入れることにしてんねん。それに、こうしたら夢ん中でも会えるような気がするやろ』
カーッと頬が熱くなるのを感じる。
そんな自分の頭を撫でて笑う。
『なんや、矢口。変な道具でも隠してるとでも思ったんか?エッチやなー』
『バカ!!』
裕ちゃん……
ふと抱きしめた枕の感触が不自然に硬いことに気がつく。
「……?」
ゆっくりと側面のジッパーをはずし中に手を差し入れる。
乾いた綿をかき分けた丁度真中当りに確かな感触を感じる。
手を引き抜いた先には短い穴のあいた棒のようなものと一冊の小さなノートが握られていた。
十六章 中澤裕子の手記
-5月某日-
今日から私はココで暮らすことになった。
突然の政府命令、25歳を過ぎれば保養所で余生を、などという真意はわからない。
27歳の誕生日を間近に控えた私も、比較的上層部の士官であったとはいえ、例外ではなかった。
しかし、士官といえどもどちらかというとアウトサイダー的であった自分がいかに何も知らされていないかを私は思い知ることになる。
それにしても、何故わざわざ軍用ヘリで来なければ行けないのか。程なく私はその理由を知ることになる。簡単なこと、それ以外の手段が無いからだ。
四方を確認したがやはり地上の出口は無い。その後訪れたものも全て空からであることもその事実を裏付けていた。
簡単な身元チェックを終えた後私達に対してなされた命令はただひとつ『ココからの外出は禁ずる』ただそれだけだった。
内心、てっきり武器作りだのなんだのという女工のような役割を担わされると思っていた私は拍子抜けした。
あまり権力を傘にするのは好きではないけれど、このときばかりは上級士官としての威光を武器に問いただした。けれども帰ってくる答えは同じだった。
結局そんなものなど何の役に立ちもしない。もっとも、初めから期待はしていなかったけれども。唯一、本来4人部屋である筈が上官ということで個室を割り当てられた私だけれども孤独を嫌う自分にとってはかえって迷惑な話。
……はっきりいってめっちゃ寂しい。
5月某日
基本的に食事の時間と入浴の時間のみ部屋を出ることが許され、自分以外の他人の部屋に入ることは禁じられていた。これじゃまるで重度の精神病患者の扱いだ。
だが、長年軍に所属していた私の勘は逆らうことはかなり危険だと教えていた。迎合する気は無いけれどこんなところで簡単に死ぬわけにはいかない。
他のものもそれは同じようだった。
名ばかりの娯楽室はほどほどに広く本、それにテレビが備え付けられていたけれど監視の目がある中くつろぐこともできずロクに会話も出来ないため、みな自室に引きこもるものが多かった。
ただ虚ろにぼんやりとテレビ画面を見つめるだけの集団の中に、それでも毎日私が足を運んでいるのは、わずかながらでもふれあいが欲しかったからかもしれない。
1週間ばかり同じことを続けていると、同じように毎日通ってる者の顔を自然と覚えた。
ある日、その顔なじみの一人が私の隣にすわるとおもむろに新聞を取り出してバサリと広げた。
『つまんないねー。恋愛ドラマにしろって感じ!』
誌面にそう走り書きされた文字を読んで吹き出しそうになるのを必死でこらえる。
なにをいうのかと思えばこんなどうでもいいことを。
けど、そのどうでもよさが私にはこの上なく楽しかった。
新しい雑誌を取りに行こうと立ちあがって、自分の肩で隠しながら端っこに素早く書く。
『タッキー、かわいい。よだれもんやわ』
ククッ、と新聞で咄嗟に顔を隠していたけれど彼女の笑いが微かに聞こえた。
こうして私と彼女との一日たった2、3言の会話がはじまった。
なんか…昔授業中に、先生の眼盗んでこんなことやってたっけなぁ。
6月某日
誕生日を間近に控えたある日私はいつものように落書きされた雑誌の文字に目を見張った。
『明日ココから脱ける』
このときばかりは監視の目を忘れ彼女の顔を凝視した。
私だけにわかるように、それでもよく見なければ分からないくらいに少しだけ唇の端を上げて彼女は笑った。
次の日から、私の小さな文通は途絶えた。
6月19日
27歳になった。
ハッピーバースディー、裕ちゃん。
7月某日
ココにきて二ヶ月になる。その間私はかかさず娯楽室に顔を出している。
もう筆談をする気にはなれなかったけれど、それでも各々自分の定位置みたいなものを作っていた。
私もいつもと同じ所に、そしてその前にいつも座るのも同じ人間。横に座るのも同じ。
けれどどちらも顔ぶれが最近変わった。
そうそう脱走する人間がいるとも思えないから考えられることはひとつ。
……例の病気だ。
きっと彼女達は30歳を迎えて恐らくは自室で死を迎えたんだろう。
それは私にも確実に訪れること。
一人で孤独に迎える死。
漠然としたものでしかなかった死への恐怖が急速に強まった。
が、同時にせめて私の生きているうちは、名前もよく知らない、けれどもたしかにいまここに存在している彼女達の姿を目に焼き付けようと思う。
そうすることで、自分も孤独ではないと思えそうな気がする。
……なんてカッコつけすぎやわ、私。
8月某日
熱心に周囲の人間を観察するうちにおかしなことに気付いた。
いや、むしろ気付くのが遅すぎたのかもしれない。
顔ぶれの入れ替えのサイクルが早すぎる。
ざくっと考えてみても30歳になる人間が一体一日当たり、いや1週間当たりどれくらいいるのかを多めに見積もってみてもおかしい。
たまたま顔を合わしてる人間がそうだっただけ。そうなのかもしれない。
けれど、そんなたまたま続きなんてそうそうあるだろうか?
談話室で死を迎えたものも何人かいたけれどやはり多すぎる。
一度そんな疑問がわき上がると私はもうやりたくないと思っていた筆談を再びはじめた。
質問はいつも同じ『何歳?』それだけ。
答えてくれる人間もいればそうでない人間もいた。
意味があるのかどうかはわからへん。
10月某日
間違い無い。私の疑惑は確信に変わりつつある。
そもそも部屋割りに関して生年月日で振り分けられているのは単に、まだ比較的ここでは若い25、6の人間に30歳を迎えたものの死を目の当たりにさせない為の配慮だと思っていた。
それもあるかもしれない。けどそれが本質かといったら答えは多分『NO』や。
1ヶ月以上に渡って私は同じ事を聞きつづけ出てきた結果は
今現在29歳以上の人間がいない。
いや、もっと正確に言うと28歳と8ヶ月あるいはもう少し短くなっているかもしれない。
誰かが直接手を下している気配はしない。
つまり私の考えが正しいのだとしたら
病気の進行が早まっている。
そうとしか考えようが無かった。
今日もひとり談話室の出口で吐血して絶命した。
28歳と…7ヶ月くらいだったろうか。
ゾッとした。
とにかく、確かめたい。
11月某日
時間が無い。どれくらい進行が早まっているかわからないが、今はそれが緩やかでもいつ急激に寿命が縮まるかなどわかりはしない。
事実だとしてなにゆえそれを伏せているのか、その理由はなんとなく察しがついた。
皆、今不本意ながらも戦っているのはなんとか30歳を迎えるまでにクスリを手に入れられれば助かる。誰もがそう信じているからだろう。
けれど、それが実はもっと短いかもしれない。もしくは今後もっともっとそれが進行するとなったら?
たちまち人々は不安に駆られ、焦り、戸惑いから大混乱を招くことは間違い無い。
保養所の名を借りることでとりあえずは25歳以上の人間を隔離し、その事実を隠蔽しようというのだ。
賢明な判断、……そうかもしれない。
けれどもその結果がこの行ける屍のようにただまんじりと毎日を過ごす人間でいいのだろうか?違う、絶対に違う。
たとえば今の私の27歳という年齢はかつての寿命、人間本来の寿命を考えれば短いかもしれない。
けれども、もし人生が最初から30年だったとしたら?私達は十分に生きた。
ならば残りの時間を残された人達の為に、次をいきる人達の為に使いたい。
思いは受け継がれてちゃんと生きていくんだから。
そう思うためにきちんと皆に事実を伝えたい、そう思う。
けれど、どうやって?
一度だけ見たここの統括者は、以前から見知ってる奴だった。しかし、徹底した合理主義の男で到底私の感情論を聞き入れる可能性は皆無に等しかった。
でもこのままじゃ終われへんねん。
1月某日
年が変わった。
そしてようやく私の待っていた機会が到来した。
本部のしかもかなりの中枢をになう者がココを監査しにくる。
どんな人間が来るのかまではわからない。でもこれに掛けるしかない。
時間が無い。
それに、最近なにか不振な動きがする。
階下でなにかの工事が行われている。一体何の?
今更下水道工事でもあるまいし……わからない。
なにもかも不確かなことばかりや。
1月某日
ついにその日が来た。
このところ私は空ばかり見ている。
食料を運ぶ定期便のヘリと違った速度重視の小型の機体が向かってきた。
そして、その夕方に早速私達は一所に集められた。
どんなやつや。
期待と不安の入り混じった流行る気持ちを押さえながら登場を待つ。
私とかつて少しでもかかわりのあった人間ならば幸いだけれども……
現れたのは私の知らない、どう見積もっても16、7にしか満たない少女だった。
正直、ガッカリした。こんなコミュニティーを出てせいぜい1年か2年のヒヨッコ士官に何を期待するというのか。
でも考えが浅かったんは、ウチの方やった。
ヒヨッコやなんて思うてゴメンな、紗耶香。
(紗耶香……?紗耶香って…)
真里は食い入るように手記を読み進めていた。
次のページをめくろうと手を掛ける。
「そこでなにしてんねん!!」
(裕ちゃん!?)
突如として後方から発せられた声に驚いて振り向く。
(……違う!)
真里が振り返った先には紫色のジャケットを羽織った細身の女がいた。
ただ女性らしい佇まいを唯一否定する材料がその手に握られている。
「ちょっとでも抵抗したら撃つで。手に持ってるものはなして両手を上に」
服装こそ普段着だがその口調から、真里は軍の、しかもかなりの上官であることを悟る。
多分、脅しではない。
「……や」
「は?」
手を離すどころか本、というよりは手帳のようなものをきゅっと抱きしめる姿に眉をひそめる。
(何考えてんねん、撃たないとでも思てるんか)
ズイと近寄ってこめかみの部分に直接銃口を当てる。
恐い、でもこれだけは渡したくない。
「嫌だっ、裕ちゃんのものを渡すもんかっ!」
「なっ……!?」
なぜか緩まった力の隙をついて真里は素早く蹴りを入れて銃を跳ね飛ばす。
が、すぐ手前に転がっただけで女はすぐさま態勢を立て直して再び銃口を向けた。
「度胸だけは一人前やけど、一対一で勝てるほど甘くないで」
「一対一ならね」
後頭部に感じる鉄の感触。
「ていうか、圭織超カッコイイ登場シーンじゃない?」
「圭織……」
へなへなと日記をかかえたまま座りこむ。
「本来なら上官にこんなことしたら射殺もんなんでしょうけど、すでに私達指名手配されちゃってますから、関係無いですよね。というわけで武器を捨ててもらえますか?平家みちよ司令官さま」
恐怖ではない、ただ不覚にもこのような事態に陥った己の軽率さに体を震わせながら、銃を投げ捨てた。
十七章 絶望の淵
迷いが無かったといえば嘘になる。
そうするより仕方が無かったといった方が多分正しい。
夜になるのを待ってひっそりと部屋を抜け出すと上階のVIPルームへと向かった。
いくら最高待遇の幹部といえども就寝するときは一人になる。
短く二回ノックする。
返事が無いのでしばらく待つと、静かにドアが開かれる。
「声出さんといてくれるか?大人しく話だけ聞いてくれたら手荒なまねはせえへん」
ピッタリと押しつけられた鋭い切っ先をドアノブを握ったまま少女は凝視していた。
無言でかろうじて人が通れるくらいに開かれた扉から、ナイフを押しつけたまま中に入る。
カチャリと内側から施錠する。
「心配せんでもどうこうする気は無い。ちょっと聞きたいことがあるだけや」
「……」
接客用のソファーに座るように指示すると素直に従った。
目立った抵抗を見せる様子は無い。けれども、ナイフを恐れてというわけでもない。
おかしなやつやな、と思いながらも隣に座る。
「よっしゃ、ええ子やな。ほな、話聞かせてもらおうかな」
抗えないように両手首を固定しようとする。
「ええ…いいですよ。でも……」
「?」
恐怖など少しも感じさせない微笑を少女は浮かべた。
「痛ッ!!」
ギリリと筋肉のきしむ音と共に通常とは逆方向に腕が捻じ曲げられる。
ナイフが指先から離れ床に落下するのを見届けるとゆっくりと解放する。
「一方的な話し合いは好きじゃないんです。すみません」
ジンと痺れの残る右手首を摩りながら顔を上げる。
その後少女の取った行動はよりいっそう驚かせるものだった。
背筋を伸ばして敬礼の姿勢をとっているのだ。
「お目にかかるのははじめてですがお名前は存じています。中澤司令、ですよね?」
「……元、やけどな」
遠めで見てもそうだったが近くで見ると確かに、鋭い雰囲気は持ってはいるがあちこちにまだ少女っぽさが残っている。こんな小娘にしてやられるなんて。
やっぱ現役にはかなわへんのか。
「私も堅苦しいんはキライやねん。姿勢崩してくれるか?」
「はい」
真夜中の非礼な訪問だというのに紗耶香は上のものを丁重に迎える態度を崩しはしない。
ほんまに変わった奴や。
「なんのお話でしょう?それとも、こんな小娘じゃ話す気にもなれませんか?」
図星、ではあったけれどもここまできたのはそれも承知の上である。
小さく深呼吸して口を開く。
「なんでそう思たか、とかぐだぐだ説明する気は無い。疑問…いやもう確信ていうたほうがええな」
「確信?」
「……進行が……早まってる、って言ったらなんのことか……わかるよな?
あんたも曲がりなりにも監察官としてここにくるくらいなんやから」
しばらく紗耶香の反応を待つ。
その若さで上に立ったエリートさんがどんな回答をしてくれるのか、全面否定か?それとも誤魔化しにはいるか?どっちにしても答弁で負かされるつもりは無い。
紗耶香がなにも答えようとしないのを見てさらに続けた。
「否定しても無駄やで、ずっと周りを見てきた結果や。確かに…ある意味そのことは妥当な手段やて言えるかもしれん。
…でもな、人の命っていうんはその人個人のものやろ?現実から眼を背けさせられて偽りの情報を頼りにいきる。……それを政府がやるっていうんはおかしいと思わんか?各々の生をまっとうさせてやる、それが同じ人間として、いやちゃうな生きるものとしての権利や。残された時間と生を見つめて…」
「中澤さん」
大声ではない。
なのに、自分の名を呼んだその声になぜか言葉を続けることができなかった。
「一番、人間にとって恐ろしいものってなにかわかりますか?」
「恐ろしいもの?」
なにを脈絡もなく聞いているのだろう?
けれど紗耶香の顔は冗談を言っている風でもない。
恐ろしいもの……
「……死、やろ。だからこそ」
だからこそそれを乗り越えて、生を見つめたい。次のもの達に受け継いでもらうために。その為にはきちんと事実を伝えなくてはいけないんとちゃうか?
「私もそう思ってました。でもね、違うんです」
「え?」
強い意志を持っていそうな紗耶香の瞳がふいに翳る。
私は、その瞳の奥に深い悲哀を見た。
「絶望、です」
「ゼ…ツ…」
ゼツボウ?
「私も政府の、ただ混乱を防ぐために監禁ともいえる状況に置くというのは反対でした。
その上、なにも知らせぬままなんて。ご存知でしょうが、もちろん国内にある保養所はここだけじゃありません。私はそのうちの1つに行く機会がありました。悩んだ末に、私は思いきって事実を告げました。30歳ではなくもっと早くに死が訪れる可能性、いや確実に寿命が縮まっているということを。そして告げました。しっかりと……生きて欲しいと」
カタカタと小刻みに震え出す。
「そしたら…どうなったと思います?」
搾り出すように紗耶香は唇をかんで言った。
「どうなったって言ったって……」
自分と同様に紗耶香は考え、あろうことか既に実行していた。
その衝撃に困惑する。
ただ、馬鹿みたいに彼女の答えをじっと待つことしか出来なかった。
「その夜、最初の一人が屋上から飛び降りました。それをなにかの合図のように次々と、私達の制止を聞くこともなく。一人、また一人。……集団自殺が起こったんです」
途端に頭の中を真紅の映像が支配する。
「そん……な」
「みな、もしかしたら、もしかしたら30になるまでに何らかの解決策や延命法が見つかるかもしれない、心の何処かでそう思って生きていた。けれど、そのかすかな希望を失ったんです。運が悪ければ今日にも明日にも訪れるかもしれない死の重圧に耐えきれず。未来に……絶望してしまった…」
絶望……
人間にとって恐ろしいもの。
「屋上から見下ろすと……四方から飛び降りた建物の周りは折り重なった死体が並んでいました」
なんてことや。
思い描くその光景はともすると正気を失いかねない。
けれど、しっかりと現実を見据えた少女の瞳を見つめる。
「でも……」
「……?」
何かを懐かしむように紗耶香は眩しそうに目を細めた。
「あなたは希望の光を失っていない」
「買い被りや…アホなだけや」
浅はかな考えと自分の理想だけを押し付けようとしたバカな人間。
そんな大層なやつやないのにな。
「強いヒト」
……それはあんたや…紗耶香。
ちょっと空気を変えませんか、という紗耶香の提案に乗り屋上へとやってきた。
「けど、あなたにあえてよかったな」
場所が変わったせいか先ほどよりも砕けた口調で紗耶香は笑った。
「ほんというと少し仕方ないやって諦めてたんですよ」
「うん?」
「これは自分の領分じゃないってね。ちょっと腕が立つだけの人間1人でなにができるんだって」
「ハハ…耳が痛い台詞やなあ」
「でも違う」
屋上に流れる一際強い風に紗耶香の短い髪が揺れる。
「あなたもそうでしょう?このまま終わりたくなんか無い。次につながるために少しでも何かをって」
「まあ……」
いまいち心中はまだ整理できていなかったがその気持ちには変わりは無い。
この年下の少女にすっかり圧倒されてしまってる自分が我ながら少々情けない気もする。
「調べて見ませんか?いろいろ、私達なりに」
「は?」
これまで理路整然としていた紗耶香の話がふざけて言っているとも思えない。
慎重に言葉を選ぶ。
「でもなあ、専門知識も無いうちらがなあ……」
「だからいいんですよ。あるヒトが言ってたんです。案外専門家じゃ思いつかないような素人の考えがすごいヒントになったりするのよって」
うん!?なんかそれ私も聞いて事ある。
誰だったっけ……
「せやけど、どうやってお互い連絡取るねん。外部との接触は基本的に禁止やし、いっくらあんたが偉いゆうても手紙のやり取りは検閲入るで?あんたの立場もやばいやろ」
「だ〜いじょうぶ」
舌の先をちょこっと出しておどけて笑う紗耶香。
年相応の茶目っ気が見え隠れしている。
こういう状況だからこそ厳しい雰囲気も漂わせているが本質的には違うのだろう。
得意げに小さな笛みたいなものを取り出すと口にくわえる。
フーッ
息の抜けるだけでまったく音はなっていない。
けれど紗耶香はポケットにそれをしまって空を見上げた。
しばらくして、
小さな白い鳥が一羽だけで近づいてきて、音も無く紗耶香の肩に降り立った。
「は、鳩かあ?それ…よう懐いてるなあ」
「こいつに運んでもらうんですよ。手紙を。これで呼び寄せてね」
笛と肩に乗った鳩を指す。
これは伝書鳩とかいうやつだろうか。
昔使われていたこともあるという話は聞いたことがあるけれどいまどきこんなものが。
呆気に取られていると紗耶香は肩に止まった鳩を指に止まらせ目の前に差し出す。
「フフ、よくできてるでしょう?これ、実は機械なんですよ。笛式のセンサーを感知して寄ってくる」
「うそ……」
恐る恐る振れてみると感触はやっぱり鳥のもの。言われなければそれとわからない。
「知り合いでちょっと面白い子がいて。医者のクセに機械いじりとか好きで…」
ああ、いるいる。そういうやつ自分の知りあいにも。
って……ん!?
「ちょうどさっきの素人の考えがどうこうって言ったのと同じヒトなんですけど。彼女にも協力もしてもらおうかな、なんて」
「なあ……そいつってもしかして…」
「え?知ってるんですか!?あ、もしかして裕ちゃん、てあの人が話してたのは中澤さんのことだったんですね?一緒の部隊にいるときにもそりゃヒドイセクハラだったわよーなんて言ってた」
「なんてことゆうてんねん!!アイツにはしとらんちゅうねん!ったく…」
「アハハ、じゃあ見栄貼ってたんだ?へんなの…」
ほんと、変な奴。
「「圭ちゃんてば」」
綺麗に二つの声が重なった。
差し出された紗耶香の手の上に自分の手を置く。
そのときの私はちょうど小さい頃に友達と一緒になって巨大な悪の組織に立ち向かうヒーロー軍団を結成したような、そんな気分も合い混じっていた。
そう……崖っぷちでも望みを捨てずに闘うヒーロー。
あ、でも女やからヒロインか?
もちろん裕ちゃんは主役のレッドやで。
紗耶香は…そやなあクールアンドビューティーってな感じでブルー。
てことは、圭ちゃんはイエローやな。
って、どういう意味よーなんて怒ったらあかんで。
な、圭坊。
十八章 憧憬
〜レッドからイエローへ〜
よっ、元気してるか?そっちはどうや。
アタシはなあ、すこぶる元気やで。もうじき寿命やなんて忘れるくらいや。
ここでは酒が飲めへんから、下手すりゃ前より健康なくらいかもしれん。
ところでな、ちょっと調べて欲しいことがあんねん……
……
……
曇り1つ無い丁寧に磨き上げられた床、モザイク調の装丁が施された壁。
白衣に袖を通していつもと同じように歩く。
この壁と、そして塀を幾つか乗り越えた先の惨状など嘘のように、静かで、平和で、規則的な、閉塞的な、退屈な世界。
張りを失ってきた肌に聴診器を当てる。
用意された機器を使い機械的にこなしていく。
「……少し脈が早い様ですが気にするほどのものでもありません。健康な状態ですよ」
若さの峠を越えた男は、安心したように一瞬だけ微笑む。とすぐさま声色を変えて
「さっさと出て行け」と促す。
言われなくてもそうしたい。
私が器具を片付けていると思い出したかのように男が尋ねる。
「そういえば、あれの調子はどうだ?」
「変わりはありません」
『変わりが無い』というのは私の精一杯の嫌味。
そう……なんの変わりも無い。
「ふん。スキャンダルだけは困るからな。せいぜい死なん程度に頼む」
「前から申し上げている通り、外に出して普通の生活さえさせてあげればすぐにでも
よくなると……」
「できない相談だな」
「……あなたでも娘はかわいいものですか?」
「滅多な事を言うな!」
検診用の器具の1つを掴み上げると私の頬を打つ。
表向きは国を統べ、人類を救うなどいう聖人君子を語りながら、裏では自分の命のみを気にし、愛人腹の娘の存在をひた隠しにする小心者。
こんな男でも最低限の情ぐらいはあるのだろうか?などと一瞬でも考えたのが馬鹿らしい。
もう慣れた。はじめこそ多少の怒りもあったがそれもとうの昔に枯れ果ててしまった。
じんわりとけれど確実に私は刃向かう牙さえ失っていた。
所詮自分は、お抱えの医者に過ぎない。
自分の為にあてがわれた私室に戻り白衣を脱ぎ捨てる。
(……こんなもの)
この国には、いや多分この国だけではない。全世界的に医師の数は少ない。
それもそのはず、本来なら何年もかけて習得せねばならない医師の資格に技術、それが30年しかいきられないとあっては絶対的に困難になる。
その上毎日夥しい数の怪我人が続出するときているのだから。
患者は後を絶たない。
それでもまだ従軍しているころはよかった。
このご時世に人を救うことをしている自分に誇りも持っていたし、生きている実感があった。
けれど、今はどうだろう?
有り余る金銭で命を長らえたものたちにも年を取れば例の病気以外の症状もあらわれてくるのは自然の理だ。限られた何人かの為だけの専属ドクターとして囲われている。
保証された毎日の生活。
こんなことが許されるはずもないのに。
長い間のその退屈な日常はいつしか私からなにかを奪っていた。
寝ころんだシーツの清潔な匂い。
あの血の匂いも忘れてしまった。
けれど、
小さく折りたたまれた紙を丁寧に広げる。
『今更、て思うかもしれんけどできるだけ例の薬のことを知りたいんや。教えてくれへんか?』
レッド、ブルーなんて暗号(のつもりなんだろうなあ)使ってるけど、その語り口では読む人が読めばばればれだ。
「そこを突っ込まんでくれ〜」という彼女の声が聞こえてきそうで思わず苦笑する。
特効薬は幼い天才科学者「福田明日香」により開発された。
天才、といってももともと一介の生物学者に過ぎなかった彼女が、薬を開発した後そう呼ばれるようになったのだけれども。
ただ、そう呼ばれていることを彼女はもう知る由もない。
というのも、公式発表を間近に控えた前日に実験中の事故によりその命を落としてしまったからだ。
とはいえ本人の死とは裏腹に彼女の残した大いなる遺産は全世界的にもてはやされた。
しかし、一方で彼女自身の名が毛嫌いされるに至ったのはその原材料が多くの人々には到底手に入れられない希少品かつ高額品で、後の幾多の争いを巻き起こす原因になったからである。
『そんなガキにできたんやったら、圭坊も一発キョレーレツなん作って時の人になろうで!』
裕ちゃんは私によくそう言ったものだ。
紗耶香もそう。
『だって圭ちゃん頭いいじゃん。私みたいな体力馬鹿と違ってさ、ほら、こないだ治療してくれたとこなんかどこ怪我したのかわかんないくらいだし。ね!』
違うんだよ。
何かを作り上げることとそれを模造、模倣することは歴然とした差がある。
私は所詮誰かの足跡を辿っているに過ぎない。
そしてそれはね、いくら努力しても永遠に追いつくことは無いんだから。
明日香は凄い。
私とは違う。
私はいつまでたっても敵わない。
特効薬のこと、そして念のため福田明日香の知る限りのプロフィールを添える。
しかし調べれば調べるほど、あの薬を生み出したことを除けば生まれも育ちもごく一般的な家庭、いやむしろ貧しい出から持ち前の才能で伸し上がってきたといえる。
もし彼女が生きてさえいれば名実ともに億万の富、名声を手に入れたであろうに。
富……名声
え?
なにか引っかかる。
小さくまとめて鳩に結びつける。
なにか、わかりかけているようなのに。
もどかしさが募る。
今すぐにでも3人で話し合えれば、と強く思った。
しかも本来二人でのやりとりを構想して作られたこの機械鳩を無理矢理中継点を作って3人で使っているから、裕ちゃんから私、そして私から紗耶香へ、紗耶香からまた裕ちゃんへという一方向のやりとりしか出来ない。自然、裕ちゃんが考え、私が調べ、紗耶香が動くという流れが出来あがっていた。
3人だけの小さな小さな革命軍。
こんなこと言ったら不謹慎だ、けれどね裕ちゃん、紗耶香。
私はね、なにかをやらなきゃという気持ちよりも今こうしていることが楽しい。
輝きを放つあなたたちの中で私もまた輝いているような、そんな幸せな錯覚に陥るから。
〜レッドからイエローへ〜
色々ありがとな。
なーんてせっかく調べてもうた資料も半分以上ちんぷんかんぷんや。
まあ医学的なことは頭痛にバファリンくらいの知識しかないから当然やわな〜。
しかしまあ、明日香いうんはホンマにすごいやつやな。
一世一代の大博打やったろうに。
まあ気持ちはわからんでもないけどな。
私かて、1000円のTシャツ着てるときもあれば勝負服もあるしな。
ああ、そういやなあ、ブルーが誕生日お祝いできんかったお詫びに、成人記念に必ずなにか贈るからて言うてたで。そういや昔どこかに飾ってあったくまのぬいぐるみを、なんか愛しそうな目であんた見てたなあ。私の視線に気付いたら「アハハ、柄じゃないって感じでしょ?」なんて苦笑いしてたけどそんなことないで。あんたはめっちゃかわいいんやから、もっと自身もたなあかんで。
私もこんなとこにさえ閉じ込められていなかったら二十歳になったあんたと思う存分のめるっていうのになあ。
(あ……!!)
どこ、どこだろう!?
ぬいぐるみ?ああそんなこともあったね。紗耶香にも冗談交じりに買ってよ、って言ったっけ。紗耶香みたいに真っ白でブルーのリボンをしたテディベア。
でも違う。ここじゃない。
そうじゃなくて。
『一世一代の大博打』
…
『1000円』
…
『勝負服』
…
あ……
明日香!!
なんで、気付かなかったんだろう。
世界でもほんの一握りの人間しか手に入れられないほどの貴重かつ高額な原材料をなぜ、一介の貧乏学者の福田明日香が用いたのだというのだろう。
大博打や勝負服なんてなまやさしい額じゃない。腎肝臓売り払っても到底手が出せないものをなぜ福田明日香が手に入れられたのか。
国のバックアップもなんの援助も受けていなかった彼女が。
じゃあ、本当に開発したのは彼女ではなく他の誰かなのか?
違う。それでは明日香が開発したという名目にする理由がまるで無い。
だとしたら…
開発したのは福田明日香。
希少な原材料。
開発直後に死んだ明日香。
なんで死んだ?……事故で…?
そんな馬鹿な。
私は狂ったようにデスクトップのパソコンのキーを叩く。
全世界的な経済情勢、そして。
発症後、特効薬が開発されてからの実質の鉱石の産出量を呼び出す。
地を這うような横ばいのグラフ。
そういう…ことだったんだ。
キーに置かれた私の指が震えていた。
怒り、恐怖、哀しみ、驚愕。
まだこれは私の想像に過ぎない。けれどその全ては事実を指し示していた。
明日香は、本当に天才だったんだ。
そして彼女の作ったものは真実人類を救えるものだったんだ。
ちゃんと…誰もが手に入れられるようなもので。
なのに、誰かが、いやそれが人なのか組織なのか国なのかはわからない。
『作り出すのは困難でも模倣もしくは代用は難しいことではない』
わざわざそれを希少なものに置き換えて、いやそもそもそんなものがちゃんと使われているのかどうかさえわからない。研究する対象すら手に入らないんだから言及の仕様が無い。
何の為にそんな。
ただ……餌をぶらさげて食らいついてくる金をものにするためだけに?
一握りの人間が私腹をこやす為だけに。
そのために一体どれだけの人間が…
そして恐らくは明日香は口封じの為に殺されたんだろう。
自分のことだけ考えて平服していれば一生優雅に暮らせただろうに。
明日香。本当はね、少しあなたを恨んだこともあった。
むしろそんな薬無い方がこんな争いなど起こらずに幸せだったんじゃないかって。
……悔しかったろうね。
富とか名声なんてきっとあなたにとっては無意味なこと。
ちっぽけな嫉妬心で腐っていた私。
私は心からあなたに憧れる。
十九章 ハトの日
1月某日
最初、一度読んだだけではわからなかった。
紗耶香の字がところどころ震えているせいもあって読みにくかったというのもあるけれど二度読むうちにその震えの理由が理解できた。
……嘘やろ?
何の気無しに書いた私の手紙をきっかけに圭ちゃんが気付いた事実。
私が気付いた寿命のことはそれに比べればまだ人為的でないぶん考える余地もあった。
けれど、私達がこれまでやってきたこと、いや今現在やっていることをも全て否定する。
足元が掬われた気がした。
畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、
絶対に救って見せる。
だけど今は待つことしか出来ない。
この小さな芽が摘まれぬよう、静かに、牙を隠して。
こうしている間にもいくつもの命が失われていく。
何も知らなかった頃よりずっと苦しい。
紗耶香…
圭ちゃん…
1月末日
紗耶香からの手紙がきた。
特効薬を扱えるのは政府認可のおりた場所でほんの数名のものによってしか注入されないとのこと。これまでは希少なものだけに細心の注意をという理由に納得していたが今は違う。
事実を隠すための口実に過ぎなかったと改めて認識する。
そしてここには何も知らず死を待つ人々が溢れている。
しかし私なんかが言った所で信じる根拠も無い上に、たちまち圭ちゃんや紗耶香に足が着いてしまう。そうなっては何もかもおしまいだ。
前回の手紙以来私は他人の顔を見るのが辛い。部屋に閉じこもりっきりや。
小さな、それこそ20センチ四方くらいの窓を開ける。
紗耶香からの報告に自分の意見を付け加えた文面を結び鳩を飛ばす。
ああ、私も鳩やったらな。
今すぐにでも飛んで行けるのに。
窓をしめようとしたときふいに妙な匂いを、ともすると気のせいかと見逃してしまいそうなほど微かに感じた。
こないだから続いている地下での工事は終わったようやけど…
1月某日
久々に談話室に向かうと、そこには以前の、精々10分の一程度の人間しかいない。
とてつもなく嫌な予感がした。
私が士官の一人に尋ねようとした瞬間部屋にいた女の一人が突然たちあがって叫んだ。
「アタシ、知ってんのよ!!」
何事かと一斉に注目する。
「薬物班にいたからね、わかるのよ。コレ毒ガスの匂いでしょ?それにこないだからこそこそ工事なんかしちゃってさあ。そんなに早く殺した……」
そこで女の言葉は途絶えた。
ドサリという音と共に既に力を失った肉の塊がひれ伏す。
女の胸からどくどくと赤い液体が流れ出す。
部屋は凍りついたように静まり返っていた。
ぽつり、ぽつりと部屋を出て行く。
何も語らず。そよ風ほどの反応も見せずに。
なんで?ってきっと思うやろうな。
けどな、ここではもう死はすっかり普通になってしまっていた。あまりにも普通に。
感覚が麻痺してるんや。
多分、私もな。
ガスね。合理主義のここの司令官が考えそうなことや。
悪戯にただ死んでくだけの人間を生かしとくよりも、さっさとまとめてガス室送りで始末した方がええって話やろ。そのほうが余計なもんを消費せんですむからってな。
ドイツのアウシュビッツを思い出した。
そういや屋根裏で日記を綴った少女……。
アタシには柄じゃないわな。
2月某日
恐れることなどない。
死は終わりではない。
終わりはすなわち希望を失うこと。
私は希望を失わない。
だから恐くなど無い。
思いつづける限り。
希望を持ちつづける限り。
ちゃんと繋がっていく。
絶えることなく、ずっと。
それは全てのはじまりなんだから。
どうやら階下から毎日ワンフロアずつ死の部屋へと送られているらしい。
今日、ちらりと下の階を覗いたらがらんどうやった。
屋上へとあがって笛を吹いてみる。
が、あの白い翼は見えない。
圭ちゃんになんかあったんやろうか?
紗耶香がなんかてこずってるんやろうか?
けどなどうか頼むから、
頼むから
あんまり悲しまんといて欲しい。
そして憎まないで欲しい。
私がどうこうじゃなくて、希望を捨てずに。
な。
ただ私はこの思いが受け継がれることを願う。
なーんてな、照れるわ。
ま、でも本音言うたら涙の一粒くらいは流してな?
パサリと乾いた音を立てて真里の掌から落ちる。
延々と続く真っ白なページ。
パラパラと最後までめくれて、裏表紙が露わになる。
走り書きのように斜めにある文字。
『Hなもんやなくて残念でした!!』
決して上手くは無いが生き生きとした文字が焼きつく。
跪いたままその文字を凝視する。
最後の文章と、白紙のページの意味。ひとみは明白に悟る。
そして傍観者となっていた。
目前で蹲る小さな小さな少女の後姿。
「会いたい人がいる」と語りましたよね。
自らの命、その存在すら忘れてただその人を追いかけていた。
ねえ、ごっちん…私だってあなたさえいれば何もいらなかったのに。
そしてあなたがいなくなった時点で、私には全てが何の意味も持たなくなったんだ。
世界が崩壊する感覚。
あなたの気持ちわかるよ?
そして私は生きていくことで罪を重ね背負うこと、それが最大の罰だから。
残酷にあなたに手を差し伸べることなどしない。
壊れていくあなたを見つめていたい。
残酷な傍観者。
突然、それまで足元に転がっていた小さな棒を真里は拾い上げた。
「矢口!!」
片腕でみちよを拘束し銃をつきつけたまま圭織は叫ぶ。
「くそぉ、後追い自殺なんか後味悪いっつーの!」
「追いかけるの?」
日記を拾い上げ尋ねる梨華を背にひとみは部屋を走り出た。
(ずるいよ、矢口さん。あなただけ解放されようだなんて。だから言ったでしょう?全ての終わりだって)
足音を頼りに追いかける。薄汚れた階段をのぼる。
リーチが長い分少しずつ距離が詰まっていくのがわかる。
屋上?
最後の階段だけやけに短く、大きな音と共に姿を見せた光の中に真里が溶け込んでいった。
光の中に真っ直ぐに佇む少女。
金色に近い髪は日に照らされて透明に近いように輝く。
そこから伸びた影がひとみの方に向かっていた。
「や…ぐちさ…」
聞こえる筈の無い笛の音。きっと風の音を聞き間違えたんだろう。
そうに……決まってる。
なのにひとみはそれを合図のように空を仰ぐ。
「あ……」
ひとみの足元にまで伸びたシルエットは高々と右手を腕に掲げる。
風に煽られる事無く懸命に羽をはばたかせ、その指先と羽はひとつのシルエットになった。
「大丈夫。ちゃんと……消えたりなんか、終わりなんかじゃないから」
ゆっくりと振り返る。
「矢口さん……」
そうやって微笑むあなたの姿は
「思いが、希望がある限りね」
まるでどこかの女神像よりも誇らしくて
そして眩しかったよ。
白い天井、白い蛍光灯、白いドア、白いベッド、白いシーツ、白い壁。
白い服。白いテディベア。
一面の白、白、白。
寂しい?とあなたは聞いたけれど。
そんな感情すら忘れていたから答えられなくて。
自分の名前、お母さんの名前、好きだったもの、キライだったもの少しずつ、少しずつ。
でもたくさんのことを思い出した。
あなたはたくさんの色を連れてきてくるくる私の中を駆け巡る。
あなたの体にある模様も綺麗だって思って。
けど、あなたはただの火傷の跡ってしかめ面。
なんだったっけ?これ…えっとぉ。
あ、そうだ。また1つ思い出したよ。
「せかいちず」。うん、間違い無い。
ほらね、思ったとおり。
あなたはそこへ連れてってくれるために迎えに来てくれたんだ。
せかいってね、いろんなくにがあっていろんなヒトがいて
とにかくとても広くて、そして「じゆう」なところ。
そこへ導いてくれる目印。
嬉しくてそう言ったのに、なぜか哀しそうな目をして。
だからまた唄うよ。
唄う
唄う
唄いつづけてつかれて眠ろう。
そしてあなたも眠れるように。
・
・
・
二十章 革命前夜
〜紗耶香から裕ちゃんへ〜
びっくりした?
圭ちゃんがいつも裕ちゃん裕ちゃんて言ってたから私もそう呼びたくなっちゃいました。
じゃなくてなんで本名で手紙かくんだ、ちゃんとレッドって言え!って言いたいんでしょ?
口に出して裕ちゃんなんて呼べるようになるのはきっと随分先だろうから、最後の手紙くらいちゃんと裕ちゃんて書きたかったから。
って、最後ってそういう意味じゃないよ。
こんな秘密のやり取りをするのは最後だって事。
きっと、今度は堂々とちゃちな(なんて怒らないでね)暗号無しで堂々とやりとりできるはずだから。
私はここ何週か、完全に政府の犬になりきり…そしてここではあまり語りたくないような手も使って徹底的に調べました。
具体的には綴りません。
結果…軍の最高機密となっている例の特効薬のデータ解析をディスクの形で盗み出すことに成功しました。
が、私の力不足で完全に持ち去ることは出来ず、ある個所に一時預けざるを得ない状況になりました。そこで…
……ゴメン。やっぱ勘のいい裕ちゃんのことだから気付くだろうから書いちゃいます。
この手紙は本当に最後の手紙になるかもしれません。
盗み出した直後から明らかに私のまわりに不遜な動きを感じています。
正直、この手紙も書きなおす時間が無いほど切羽詰っていて読みにくい点があると思う。
本来ならすぐにでもディスクを取りに戻らなくてはいけない。わかってる。
でも、どうしても、どうしても会いたい奴がいる。
いや、会えなくてもいいから伝えたいことがあるから。
私のわがままを許してください。
ディスクは、ちゃんと圭ちゃんの手元に渡る筈です。
成人のプレゼントと一緒にね。
外はもちろん圭ちゃんへのプレゼントだけど中身はもっとイカスぜ!って伝えて。
「柄じゃなくなんかないよ。私だと思って大事にしろー」っていえばわかる筈。
最後に、
ありがとう。
(市井さん……)
鳩が運んできた手紙を真里から渡されて目を通すとひとみは静かに涙を零した。
袖口で拭いながら折りたたんで返そうとすると、真里は首を振った。
「持ってなよ。その方がいいような気がする」
戸惑うひとみの手に握らせると、周りを囲んだ3人を振りかえった。
圭織と梨華に両脇から抱えられるように拘束されたみちよは険しい表情で真里を睨みつける。
とはいえ既に手持ちの武器は全て取り上げられ、おまけに両手首を後ろに固定されている。
「どうする?矢口」
「……殺したらええ」
みちよは妙に冷めきった声でそう言った。
「はあ、先に言われちゃったよぉ。ま、そうだよね。うちらがここに来たなんて事ばれたらやばやばだもん。恨みは無いけど口封じしなきゃいけないかなあ」
(あーあ、結局いつも圭織がこういう役なんだよね)
「待ってください。平家さんも私達と同じ立場の筈なんですから。きっとわかってくれますよ」
「吉澤?」
圭織は面食らったようにひとみを眺めた。
(光が…戻ってきてる?)
クスッという笑い声。
「な…」
その主に驚いて目を見張る。
「えらいお人よしやな。大体の話は聞いてたけど、悪いけど何の確証も無い。たいした想像力や。いやはっきりいって妄想の域に入ってるわ」
まるで嘲るかのようにみちよは唇の端を上げて笑う。
「クッ」
怒り。
久しく持たなかった感情がひとみの中に沸き起こる。
「平家さん」
驚くほど凛として真里は視線でひとみを制しみちよに近づいた。
「矢口?」
何する気?といわんばかりに圭織は真里の肩に手をかけようとしたが、止めることを躊躇われた。
「これ、あなたに渡しとく」
「!?」
両手を拘束されているため受け取ることのできないみちよの足元にそっと日記帳を置く。
(何考えてるんだ)
この一冊の日記は彼女にとっては大切なもの。
愛しい人の思いが存分に詰まったもののはずなのに。
ひとみにはまるで理解できなかった。
「それ読んでよ。あなたにとっての真実は、信じるものは何かを考えて、そしたら返して」
「……」
(ねえさん、……裕ちゃんの…思い)
「行こう」
「行こうって…ねえ」
圭織は心底呆れかえる。たちまちこの平家みちよが正規軍に戻って本気で追いかけでもしたら自分達などすぐに殺されるっていうのに。
そんな圭織の反応など無視してひとみまでもが真里の後に続いて出て行く。
(ハア……)
大きな溜息をついてみちよを拘束した手を解き代りに手持ちのロープでさらにからだの自由を奪う。
「1日くらい飲み食いしなくても平気でしょ?街についたら匿名でここにあなたがいるって密告しとくよ。あーあ、めんどくさい」
「……後悔するで」
(もうしてるよ。あー、もうっ)
心の中でぼやきつつも以前なら他人の意見など聞かずに真っ先に手を下していただろう自分の行動に少し戸惑っていた。
でもいまはまだその自分の変化に気付きたくは無かった。
最後に部屋を出た梨華が静かにドアを閉める。
少しずつ足音が遠ざかりやがて消えた。
「クッ」
小さなうめき声をもらしながらみちよは体を小器用にひねる。
何度かそれを繰り返していく。
パラリ、床にロープが落ちると、赤く縄の後がついた腕を軽く振って日記を拾い上げた。
「最近のコミュニティーは何教えてんのやろな。甘いで」
埃を軽く払いながらベッドに腰を下ろす。
(……今回だけは見逃したるわ。次はもう、ないで)
膝の上に日記を載せ、最初のページをめくった。
「飯田さ〜ん!!」
「馬鹿!大声で名前呼んだらばれちゃうでしょうが」
「ごめんなさい……」
しゅんとなった希美の頭をまいったなと眉を寄せながら圭織は撫でた。
散々悩んだすえ、一度態勢を整え体を休めなくてはならない。
ぞろぞろと頭を並べて飛びこんできた自分達を希美は笑顔で迎えてくれた。
瞬間、圭織の胸のうちに激しい後悔が芽生える。
「私のあげたモン役に立った?」
誇らしげに希美の隣に立っている亜依をみやり無言でうなづく。
この子達を危険な目に合わせるかもしれないというのに。
けど自分達には今のところ他の選択肢は皆無に等しかった。
(……いいわけがましいね)
そんな葛藤に苦笑する。ただこの子達に自分は会いたかっただけなのかもしれない。
「圭織ってこういう趣味だったんだ〜」
にやにやと笑いを浮かべながら茶々を入れる真里にむかってむっとした表情をすると、すぐさま階段の方へと逃げ出した。
「怒らない怒らない、それぐらいで。それよりさ、矢口悪いけど今日は疲れちったー」
大げさなジェスチャーで誇示する真里に小さな笑いが巻き起こる。
「辻、今日は亜依ちゃんちにお泊まりしますから好きなところ使ってください」
リビングを覗いても裕に部屋は人数分以上ある。
「じゃあ私は辻ちゃんの部屋使わせてもらおうかな。サイズ的にもちょうどよさそうだし」
「あ、いいですよぉ。2階に「のぞみ」って書いてるから、そこ矢口さん使ってください」
久々に屋根のあるところでベッドの上で眠れることはこのうえなくありがたかった。
「よおし、それじゃオイラはもう寝ちゃうね。おやすみ」
言うや否や真里は階段を駆け上がっていく。
「のの、うちらも行こうか」
亜依は小さな掌を希美に差し出す。その手をきゅっと握り締める。
「おやすみなさい!」
「お、おやすみ……」
(何照れてんだよ、私……)
それを悟られないように圭織は奥の部屋へそそくさと消えていった。
ひとみも希美たちに一通り挨拶をする傍ら、内心先ほどの真里の不自然なまでの明るさを思った。
「どうしたの?」
「いや……」
梨華の問いかけに曖昧に言葉を濁す。
階段の手すりに手をかけ上へと踏み出した。
ひらがなで「のぞみ」と書かれたドアの前に立つ。
コンコンとノックした後ひとみはハッとする。
何を話そうって言うんだろう?大体なんでこんなことしてるんだろう?
けれども今更このまま立ち去るわけにも行かず、ドア前で立ち尽くす。
(あれ…返事が無い)
ひょっとして他の部屋にいるんだろうか?
そっとドアノブをまわし中を覗くとベッドの上のシーツが盛り上がっているのが目に入った。
(なんだ、ほんとに疲れちゃって眠ってるんだ……)
自分も休もうと思い出て行く前に、若干乱れた布団を架け直そうと近づく。
起こさないように、そっとシーツの端を握った手がピタリと止まった。
「……ック」
「矢口さ……ん」
声を漏らさないように必死に我慢しているのか、喉の奥の方を鳴らして、閉じられた瞳から流れる涙が枕をぬらす。
「泣いて……るんですか?」
(なんて間抜けな質問)
「アハ……っ、ばれちゃったかぁ。狸寝入り失敗失敗」
目を開けてちょこっと舌を出す。
「矢口さん…」
どうして、どうしてなんですか?
「内緒だぞー。一応さ、一粒しか涙は流すなってお達しがあったからさ」
どうしてあなたはそんなにも強くいられるんだろう?
「ひとつだけ聞いていいですか?」
「なに?」
「なぜ、日記置いてきたんですか?大切なものなんでしょう?」
「…なんでだろうね。圭織のいうことのほうがもっともなのに。でも…」
「でも?」
「あのひと、平家さんさ、裕ちゃんの名前出した時に一瞬なんだか泣き出しちゃいそうな、そんな顔したんだ。……気のせいって言えばそれまでなんだけどね」
バカでしょ、と笑う。
「……ゴメン、なんか気が抜けちゃったみたいでマジで眠くなってきたみたいだよ」
ゴメンゴメンと呟きながらスット眼をとじる。閉じられた瞳からまた新しい雫が流れ落ちる。
どうしてあなたはそんなにも。
崩れ落ちそうになりながらも。
ベッドの脇にだらりとぶら下がった腕を布団の中に入れ、その手をぎゅっと握り締めた。
「ねえ」
開け放たれたままのドア口にはいつのまにか梨華が立っていた。
「うん?」
返事をするひとみの背を梨華はじっと見つめた。
「寝ないの?」
闇の中の私を照らし出すあなた。
「ああ……先に寝てていいよ。梨華ちゃんも疲れてるでしょ」
だからせめてあなたの光が少しでも力を失わないように。
「……行かない、の?」
気のせいかもしれない。けれど握り締めた真里の手から伝わってきていた震えが、ほんの少し収まったような気がした。
「今日は、なんだかついていてあげたい気分なんだ」
どんなときでも希望を失わずにいる、あなたのその強さを、
「そう……」
音も無くドアが閉じる。
あなたのその強さを
どうか私に分け与えてください。
壊れない様に傷つけないように、そっと少女の肩を抱く。
力など失ったようにただ引かれたから近づいただけと言わんばかりに頭を肩の上に預けた。
少女が抱えたテディベアが音も無く床に落ちる。
拾いあげようともしないでそれを見つめる少女を見て、右手を伸ばす。
“あなたの?”
少女は問い掛ける。
左右に首を振る。
“……そっか”
『寂しい』…?知らない。
心の中に一つの考えが芽生える。
“これがなくなったらイヤ?”
寂しいという答えを期待する。
けれど、予想とは裏腹に少女は迷わず否定した。
“ううん。私のじゃないから”
?
“きれいで強い…でも優しい瞳をした人にお願いされたの”
“私のだ、っていう人が必ず現れるから渡してね、って”
“内緒だよ、って”
“あなたもきれいな眼をしてたから、そうかなって”
瞬間。
すべてを理解した。
「う……ぁ……」
思いきり抱きしめられた白い物体は不自然に形を変える。
そして確信する。
だとしたら、自分のやるべきことは。
一気に溢れ出してきた感情に軽い眩暈すら覚えた。
(行かなきゃ)
ふらふらする頭を押さえて立ちあがろうとする。
行かなきゃ、行かなきゃ、行かなきゃ……
傍らの少女を抱きしめる、というよりは包み込むようにした後、ゆっくりと体を離した。
行かな……
「……しい」
……え?
空耳だろうか?
「寂しいよぉ」
な……
「行っちゃヤダ…寂しい、寂しいよ」
次々と少女の瞳から涙が流れ落ちていく。
……行かな、きゃ
「寂しい…よ」
…なんてことだ。
だらりと両腕を垂らしたまましゃくりあげる小さな体を力の限りに抱きしめた。
二十一章 集結
朝…だ。
いつのまに眠っていたのだろう。気付くと深海に身を置くように沈みこんでいて、次に意識したときにはうっすらと朝日が差し込んできていた。
瞼が腫れぼったく、目の周りがパサついている感じが残る。
(……泣きながら眠っちゃったんだ、アタシ)
けれど、不思議と不快ではない。
(あったかい……)
自分を包み込んでいる暖かい空気に身を委ねる。
その暖かさをたどるとそれは自分の掌から伝わってきていた。
その先にあるさらさらとした髪が心地良さそうで、真里は思わずもう片方の手を伸ばした。
「ん……」
ごくそっと触れたつもりだったがその持ち主は小さく声を漏らしてゆっくりと顔を上げた。
「あ…ごめん、起こしちゃったね」
まだ半分夢の中なのかうつらうつらした瞳を真里に向ける。
が、真里の姿を認識したとたんに見開かれ、同時に握り締めていた手を慌てて離した。
「すみませんっ、あの……つい寝ちゃって…ていうか、その…」
自分よりも大人びた少女のらしからぬ慌てた様子に真里は思わずクスリと笑った。
「ずっと…居てくれたんだ」
まだ暖かみの残る手を黙りこくるひとみの頬にあてる。
「ごめんね。ちゃんと寝れなかったでしょ?」
ベッドの脇でしゃがみこんだ不自然な姿勢を見やる。
「いえっ、全然。勝手に私が……すみません」
朝まで眠らずについててあげる、なんて献身的なシチュエーションをどこかで描いてたくせにしっかり眠っていた自分に恥ずかしさがこみ上げる。
立ち去ろうとするひとみの腕を真里は引きとめた。
さほど強い力ではないはずなのに掴んだ部分から伝わる熱に抗うことができない。
「あんまり時間無いけど、よかったら隣で横になったら?」
「矢口……さん」
「ダメ?」
「いや……私…」
上目遣いに見上げる真里から目をそらそうとして体を引く。
(バカ、何考えてんだよ)
身を引こうとしたとたん突然ガバッと布団の端がめくり上がった。
「ほらっ」
「…?」
「オイラのぬくもりが残ってるうちにカモーンベイベーッ!!」
「へっ??あ…ああっ!?……」
口をあけたまま呆けるひとみの顔を見て真里は吹き出した。
「アハハハッ、そのカオサイコー」
「う……」
からかわれてる、と解り、耳まで熱くなった。
けどそのうち自分もおかしくなってきてひとみはつられて笑った。
「もうっ!からかわないでくださいよ」
その顔をしげしげと眺めて真里は頷いた。
「うん」
そのほうがずっといい。
「矢口さん?」
「そういう風に笑ってるほうがずっといいよ」
せっかく綺麗な顔してるんだからさ、ね。
少し照れたように笑う顔。
「嫌味…」
「はあ?」
意味がわからないといったように真里は首をかしげる。
それは最高の嫌味。
だってそういう矢口さんの笑顔にはかなわない。
きっと……一生かかってもきっと、ね。
ディスプレイに向かったまま聞こえたノック音に振り向かずに返事した。
唯一の外出手段であった毎月の訪問診療が何故か中止され、朝から自室にこもりきりだ。
ただ「わざわざ行かなくとも用が足りるようになった」と告げられた。
まあ医者が要らないというのはいい傾向なのかもしれない。が、それもあるいは違う意味合いを持つ可能性もある。けれどわざわざ鬱な気分になることを長々と考えるのは馬鹿らしい。
だから、考えない。傷つかぬよう、自分の殻に閉じこもる。
これでまたますます籠の鳥。
あの子を憐れんだところで……自分にはその資格すらない。
「すみませんドクター。あなたに呼ばれたという子供が来てるんですが……」
「通して」
「は……しかし許可のない入室は」
「いいから」
口を挟む余地を許さないといった厳しい口調に年若い衛兵はおののいた。
雇われといっても一般的に医者の地位は高い。
渋々といった具合に綺麗に後ろ手にくくられた小さな3人の女の子を「行け」と押し出す。
「あの……」
「何?まだなにかあるの?」
「その、一体何の為に」
「説明したでしょ。今やってる研究の実験体としての身寄りのない子供よ。いなくなっても……それこそ何の影響も及ぼさない、ね」
「ですがそれなら直接研究塔の方に」
「うるさいわね」
カタカタと休みなくキーを叩いていた手を止める。
「どうせ死んじゃう子達なんだから。その前になにしたっていいでしょう?」
は?といいたげに眉を寄せる衛兵を冷たく睨みつける。
「鈍いわね、ひとの趣味にあんまり首突っ込まないでくれる」
「……」
ようやく意味がわかったのか途端に好奇の眼差しを向ける衛兵に「行け」と命ずる。
ドアが閉まり足音が聞こえなくなった所でようやく圭は振りかえった。
「で?」
手前の帽子を目深に被った少女の口を封じていたテープをビリリと乱暴にはがす。
痛いっ、と首を振った反動で帽子が落ち鮮やかな金色の髪がゆれた。
「人をさあ、同性のしかもロリコン趣味の人間だって思わせてまでなんだから、たいしたことじゃなかったらただじゃ置かないわよ」
微かに口元にじんと残る痛みを振り払うように真里は負けじと睨み返した。
「裕ちゃんの話とは随分違うじゃん。なんだよ、その高圧的な態度。人の屍に守られた温室暮らしで性根くさっちゃったわけ?」
「……どうでもいいけどあんた、なりは小さいけど顔見たら子供ってのはキツクない?
後ろの子達がいなかったら一発で怪しまれてるよ」
「うるさいなっ」
自分でも無理があるかと思われたところをズバリと指摘されて言葉に詰まる。
しかしガードの固い館内に入るには子供という傘がもってこいだったのだからやむをえない。
決して友好的とは言い難いやりとりを真里のサイドの二人の少女はおろおろと見守った。
少女達を目にした圭はふっと脱力したように声のトーンを落とした。
「そうだよ……こんな」
自分に近づいて来る手に少女達は身を硬くした。
圭はまるで壊れ物でも触るようにゆっくりと少女達の拘束を解いた。
「こんな子供達に危険な思いさせてまで」
「ふ……ぁ」
久しぶりに口から大きく呼吸すると亜依は隣で涙目で震える希美の手をきゅっと握った。
(だからやめよう言うたのになあ)
普段はどちらかというと余り強く主張しない希美がこのときばかりはと「いいださん」たちと一緒に行くといって聞かなかった。最後は結局折れる形になってしまい、やむなく亜依も同行することにしたのだ。
かといってただついていくだけではそれこそただの足手まといだ。
リスクがないとはいえなかったけれどもそれなりに自分達に価値を見出したいという矛盾した自尊心だけが亜依を突き動かしていた。
圭はデスクの下の引出しを空けるとその奥から小さな紙切れを出して真里の方に投げる。
「『これから尋ねてくる子供達に会え』、さあ言う通りにしたわよ?裕ちゃんの手紙をちょうだい」
無駄だ、と心の何処かで思いながらも半ば習慣づいた行為を何気なく今日も繰り返した。
唇に笛をあてたまま圭は信じられない、と空を見上げた。
最初、空を舞って降立った白い翼を自らの願望が生んだ幻に相違ないと思った。
しかし紛れもなく自分の作った鳩であるとわかると無が夢中でその足元についた紙をとりはずしたのだ
「ない……よ。最後にあったのは…市井紗耶香の手紙」
「なに…それ」
本来順である筈の中澤裕子を抜かして見知らぬ少女が自分のところにやってきた。
その意味するところをうっすらと理解した。
頭に浮かんだ嫌な想像を打ち消す言葉はなにひとつ真里たちの口からは発せられなかった。
絶句する圭を、先ほどまでの喧騒が嘘のように穏やかな瞳をして真里は見つめた。
「矢口真里、です。裕ちゃんの…意志を継ぎたいから、ううん裕ちゃんだけじゃない……
だから」
(矢口…?…………ああ…)
目を細めて愛しそうに話していたっけ。
なあ、圭坊……ええ年こいて言うんもなんやけどな……
ホンマかわいいねん…あーあはよ矢口に会いたいわ〜
(裕ちゃん…!!)
「矢口」
聞きたいことはたくさんある。
大切な人達。
紗耶香のこと。
裕ちゃんのこと。
でも、
「今はまだ悲しむときじゃない」
そのパワーをありったけに使わなきゃ。
そうじゃなきゃ私は一生殻を壊せない。
「仲間んとこに連れてって。まさかあんたたちだけじゃないでしょ?持ってる情報全て提供するわ。はっきりいって余り時間は無いと思うからね。指針が固まり次第動くわよ」
臆することなく言う圭に真里はいくらそのつもりで来たとはいえ戸惑った。
「そりゃ、ありがたいけどさ。入ってくるにも相当な警備だったっていうのに、ましてや一緒に出るとなったら怪しまれるに決まってるよ」
亜依と希美ももっともだと頷く。
「心配無用」
パチンと圭が手を打つと突然ドアが開き3人の白衣を纏った医者らしき人間が立っていた。
反射的に真里は身構えたが相手にその気が無いとわかると動向を見守ることにした。
無言でその白衣をぬぐと真里たちの方に順に差し出した。
よくみるとその中には先ほどまで自分達を拘束していた者も居る。
「ど、ど、どういうことよっ!」
警戒心よりも驚きが先行して思わず無防備に叫ぶ。
「あんたたちさあ、大体医者のみんながみんな、強欲主義のインテリ野郎だなんて思ってるでしょ。そんなんでなれるほど今の時代の医師試験甘くないっつーの」
「じゃあ……」
この人達は、と周りを見渡す。
「人を助けたい、命を救いたいっていう思いが人一倍強いからこそ医師を目指すんだよ。まあ全部が全部とは言わないけどね」
「……って、うちらを嵌めたわけね」
「人聞きの悪い!ほら、とにかくそれ着て。外にある研究塔行くフリしてそのまま逃げるわよ。話はそれから。……ん?どうかしたの?」
恐い、わけじゃない。
ただ確実に動き出した大きな流れに足元をすくわれないように。
踏み出すこの一歩を大事にしよう。
「……行こう!」
二十二章 透明な瞳
すっと通った鼻筋、ふっくらとつややかな唇。
鏡に映し出されたそのひとつひとつを見つめる。
最後に黒目がちな大きな瞳を見つめた。
そして、クスリと笑った。
「圭織っ、何自分に見とれてんの。さっさと来てよ」
少し苛立った真里の声。
「今行くって」
コンパクトをたたんでポケットにしまった。
--- --- --- ---
「一つ一つじゃわからなくてもそれぞれに意味があるのよ。それさえわかれば簡単なこと」
一通りの話を追えた後、圭はそう言った。
もったいぶって、これだからインテリって奴は、と半ば呆れながら圭織は先を促した。
「問題は紗耶香の足取り…」
「あ…!!」
幾重かに重なった声が驚愕の色を帯びて響いた。
最後に来たのは第8コミュニティー、けれどそこには主たる目的が違う。
だとしたら。
「そう」
それを確信させるべく圭は深く頷いた。
「第一コミュニティー……」
市井紗耶香は最後を迎える第8コミュニティー訪問の前に、視察の名目で第一コミュニティーを訪れていた。
国内最大規模のコミュニティー。そして重要施設が併設するその場所は考えてみれば、トップシークレットを保持するにはうってつけの隠れ蓑だったかもしれない。
周りまわって結局元のところに戻るのかと思うと幾分脱力したが、それでも戦う意志は一向にその勢いを弛めなかった。
「そこに行けば例のフロッピーが」
「ある」
力強く圭は応える。
間違い無く。紗耶香はちゃんと私の手に渡るように、それも安全に渡るように画策していてくれた。しかし、それは順当に手紙が私の元に届いていればの話だ。
遅れが呼んだ誤算を悔やんでも仕方が無い。それにいずれにしても単純に手に入れるだけではダメだ。
「ただ単純に手に入ってもそれを生かさなければ関の山よ」
「どういうこと?」
正直考えることはあまり得意ではない。判断を委ねるべく真里は問いただした。
「いい?普通に手に入れて政府の嘘を暴きました!なんていったところで一民間人の政府批判てとられるのがいいとこよ」
「う……」
今すぐに第一コミュニティーを襲撃してフロッピーを奪うことしか考えていなかった真里は言葉に詰まる。
「で?もちろんどうすりゃいいのかは考えてあるんでしょ?」
ごく冷静に圭織は受け流した。
「ドクターヤスダケイサマ」
応える代りに圭は単純な笑みを浮かべた。
「準備、出来た?」
すでに出発の準備を終えたと見える梨華にあいまいな返答をしつつ、彼女の姿を探した。
果たして自分に割り振られた役割をこなすことがきちんと出来るのだろうか?
不安なのは皆同じなのだろうけれど。
だからまた誰かの強さにすがろうとする自分のずるさに嫌気が差す。
けれど、どうしても今一度あの微笑を見たかったから。
「よっ!もう準備できちゃった?」
「あ……」
物陰からひょこっと顔を出して悪戯っぽく笑う。
(私、絶対今…間抜けな顔してる…)
そう思いながらもあんぐりとあいたままの口を塞ぐのも忘れて立ち尽くす。
真里はそんなひとみの様子をほほえましげに眺めながらその手を取った。
「ちょっと歩こうか?こっちはまだチビちゃん二人の準備が出来てないからヒマしてるんだ。圭ちゃんはとっくに準備終えてイライラしちゃってるからちょっと居づらくって」
黙ってその手に引かれていく。
「別行動になっちゃうからさ、しばらく聞けないだろう矢口トークに付き合うのもよくない?」
軽快な口調に頬を緩ませかけた。
が、その手が震えているのに気が付いてハッとして真里を見た。
「なーんて…エヘ…わかっちゃった?震えてるでしょ」
実際に触れていなければきっと気付かなかった。
それくらい不安など感じさせない真里の顔を見つめる。
「矢口さん……」
「死なんて恐くないなんて思っててもやっぱ震えちゃうんだよね」
少し歩いた所で手を放すと真里はうつむき加減に呟いた。
いつだってそうだ。
勝手に相手の中に自分の理想を作って追い求めて。
結局何もかわってやしない。
でも、突っ張るのはもうやめよう。閉じこもるのはもうやめよう。
「私も、怖いです。矢口さん」
気のせいかもしれないけれど、声にして外に出したことでほんの少し軽くなったような気がする。
(ああそうだった。このひと、こんなに小さかったんだ)
頼りなげなその体をただ支えたい、そう思った。
「ねえよっすぃー」
「矢口さん?」
不純な感情はなかったけれど真里の声に心臓が脈打つ。
「今ね、よっすぃーのことすごく……なんていうかさ抱きしめたいって思う」
やんわりとひとみの頬を両手で挟みこむとコツンと額同士をあわせる。
「でも、今はやめとく」
自然とひとみの眼は閉じていた。
彼女の触れた頬と額の暖かさとまだ心の何処かで芽生え始めているまだ名前すらついていない感情に思考を委ねる。
「なんかね、そうしちゃうともう怖いものがなくなっちゃうような気がするから。
恐怖とね背中合わせで共存してるからこそ人間は強いんだよ。だからね、それは今度会えるときまでとっとく」
「矢口さん……私も」
言いかけて、やめた。
今は言葉なんか要らない。
この暖かさを感じることさえ出来れば。
少し離れたところから無邪気に「矢口さーんお待たせしましたー」と叫ぶ声が聞こえる。
やれやれと肩を竦めながら戻っていく真里の後ろ姿を眺めながらひとみもゆっくりと踏み出した。
(そうですね。そのときは、きっと)
この感情にも名前がついているのだろうから。
そしたら伝えよう。
あなたを抱きしめて。
「ほんとに一人で平気なの?」
「誰に言ってんの?そっちこそしくじらないでね」
せっかく人が心配してるのに、と圭はムッとした。
既に第一コミュニティーの方に向かったひとみと梨華をのぞく面々を、圭織は一瞥する。
一番端に居る小さな少女の姿に目を細める。
彼女なりに真剣な表情のつもりなのだろうがどこかとぼけた面持ちになぜだかすこし安心した。自分でも知らずに緊張しているのか。
(まさか)
「んじゃね」
それを振り払うかのように軽く手を振ると圭織は目標に向かって歩き出した。
そう、それが私のポリシー。
あくまでもカッコヨク、スマートにね。
「飯田さん!!」
自分を呼ぶ声。
でも振りかえらない。
ただ軽く手を振ろう。
でも聞くぐらいしてやるか。せっかくだもんね。
なんていうのかな?
月並みな所で、頑張ってってとこ?死なないで?縁起でもないっつーの。
まあ辻のボキャブラで出てくるのはこんなとこかな……
「飯田さ〜ん!!」
はいはい、聞こえてるよ。
「大好きで―――――――す!!」
「は、……はあ!?」
不覚にも思わず振りかえった。
追い討ちをかけるように繰り返す。
「辻、飯田さんのこと大好きですっ!」
「ば、ばばばばば馬鹿っ!何言ってんのよ!」
顔中に、血が上るのがわかる。
その上くすくすという周りの笑い声がますます圭織を紅くさせた。
「ほら」
押し出されるように圭織の前にはじきだされた希美を受けとめる。
「だから、別々になっちゃって、飯田さんが見てくれないの残念ですけど辻、一生懸命頑張りまっす!」
拳を握り締めて振りかざす。
「けどちょっと不安ていうか……飯田さんの目を見てると安心するから…そのぉ」
(あーあ…)
これがいわゆる子供には勝てないとかいうやつ?
圭織にこんな台詞をいわせるんだから。
「見てるよ」
「え?」
「ちゃんと見てる。だから……頑張れ」
もう認めてしまおう。
私をこんなに変えたあんたがこれからどうやって生きていくのかを、私はずっと見ていきたいんだ。
だからさっさと終わらせてしまおう。こんなくだらない争いを。
◇
◇
剥き出しになった黒い配線コードを圭織はぶった切った。
最新の情報機器を駆使した最高のセキュリティとやらも蓋をあければこんなもんだ。
圭から指示された(何かを指示されるのは本意ではないけれど)通りに次々とこじ開けては切断していく。
なるべく痕跡を残すのはスマートじゃないから人の少ない出入り口を狙って進入したつもりだったがそれは無理というもの。
姿を見られた警備員を射殺した。
震えは、無かった。
自分はやはりこういうことに向いているのかもしれない。
この姿を見てもあの子は変わらず自分を好きだと言ってくれるだろうか。
いや、今は考えるまい。
(さて……これは同時に切らなきゃ警報が鳴っちゃうんだったっけ?)
並列された黄色と赤のコードに手をかける。
これが終われば政府の情報網をこちらの手中に収めると同時に全世界に向けての声明を送ることが出来る。
平たくいえば電波ジャックと言う奴だ。
圭織がセキュリティをダウンさせ、他に注意を払わせている間に圭、亜依、希美が中央のコンピューターをのっとり、同時に真里がこの腐敗した国の元凶、つまり総司令を筆頭とした幹部達の首根っこを捕らえるという手筈だ。
一方でその混乱に乗じてひとみと梨華が例のフロッピーを手に入れると言うのだが。
まずは政府に対する疑いを持たせることと、信憑性を増すために例の保養所の死体の映像を流すという圭の発案に真里は流石に難色を示していたが、他に代替案もなく承諾した。
(とりあえず、楽勝楽勝)
これは世界を革命する記念すべき一振り。
圭織はこれまで使っていたナイフをポケットのしまうと、まだおろしたばかりの曇りひとつ無いナイフを手にした。
その切っ先が振り下ろされると同時に「誰なのっ!?」という叫び声。
(クッ……)
切断面をちらりと確認してすぐさまナイフを腰に当てた銃に持ちかえる。
ここの職員らしき女が銃を構えようとするのが見える。
(遅いっつーの)
向けられた銃口に女の目が見開かれる。
「や……」
(まあ相手が圭織だったってことで運が悪かったと諦めてね。)
女の胸元辺りに照準を会わせて引鉄に指をかけた。
「撃たないでっ!!お腹に子供が居るのよぉ――――」
・
……ュン
・
・
・
あ……れ…?
左胸に重い衝撃が走り途端にガクンと膝から崩れ落ちる。
「あ…ぐっ…」
声を出そうとするたびに口元から紅い液体が毀れる。
(なによ……ぉ、これ)
辺りを染める液体が自分のものだと悟るのにしばらく時間がかかった。
引けなかった、
ほんの一瞬、一瞬ためらった。
その一瞬が命取りだって知ってた筈なのに。
命乞い、苦し紛れの嘘かもしれないのに。
冷たい床に突っ伏した目線の先にさっき捨てたナイフが映る。
ナイフに反射されて映し出された自分の顔を見て圭織は笑う。
「ア……ハハ……フフッ」
あの日閉鎖された廊下であった市井紗耶香をみたときもそうだった。
吉澤、あんたにも言ったんだったね。
『きれいな瞳』
でもねそんな瞳をしてると哀しい死に方しか出来ないんだ。
けど。
ほんとはちょっと羨ましかったんだ。
だから圭織嬉しかった、今日鏡の中の自分を見たときに…
――――私もそんな瞳をしていたんだもの。
「よしっ!成功よ。加護っ!!例のフィルムスタートさせて!!」
「はいっ」
圭の合図を受けて亜依は素早く映像を流し始める。
流れ落ちる汗を拭うこともせず、圭は忙しなくキーを叩き続ける。
「これで全世界にネットを通じて映像が流れるわ。こっちで微調整してるから辻、わかってるわね?言ったとおりにその文章を読むのよ。わかった?」
話している間にも圭のアクセスを妨げようとする妨害が次々と入る。
細かいことに構っているヒマなど無いのに、一向に動き出さない希美に苛立つ。
希美は放心したように空を仰いでいた。
「ちょっと!!辻、聞いてんの!?さっさとやりなさいよ」
「は、はいっ」
(やれやれ…)
ようやくヘッドセットをつけた希美を確認し、続けざまにくる妨害の一つ一つを巧みにかわしてゆく。
「これから我々が語ることは、憶測でも妄想でもなく紛れもない真実です。
今流れている映像は政府が昨年より実施した保養所における映像であり、その実体は真実の隠蔽に他なりません。
真実とは1つは疫病の進化、そしてもう1つは既に特効薬は全人類相当のものが開発され……て、いると、いるという…こと……で…かいはつ、されて…いるということ、れす。
み、みなさ…」
「馬鹿っ!!あんたなにやってんのよっ!!」
「の……の?」
ごめんなさい。
「もういいっ、加護、あんた代わって。ほら早く!」
「あ、は、はい」
ほんの少しだけ
1分だけあの人の為に泣かせてください。
それが終わったら
頑張りますから。
辻…ガンバリマス!よ。
だから…ちゃんと、
ちゃんと見ててくださいね?
二十三章 虚言症
「おいっ!!あの映像どういうことだよっ」
「俺達を騙してたのか?出て来い、クソ!」
投げかけた波紋はその連鎖し、またたくまに不安の渦に人々を巻き込んだ。
日本だけではない。
衛星を通じて流された声明は、隠しようの無い映像に裏づけされ全世界的な混乱を招いていた。
総司令の潜むこの官邸は一際強く、もはや暴動と呼べるほどのものになっていた。
あちこちで破壊が起こっている。
混乱の直前に忍び込んだ真里だったが警備は完全に外の暴動に向けられており中は大手を振って歩けるほどの手薄な状態だった。
だが、自分達の起こした混乱は永続的なものではない。
しかるべき機関から整然とした否定の通知がなされでもしたらたちまち鎮火されてしまうことだろう。
そうなる前に、
決定的な証拠を掴まなきゃいけない。
圭から仕入れた情報と勘を頼りに突き進んでいく。
もっと、もっと奥だ。
走る真里の視界に窓から上空に飛ぶヘリがちらりとうつる。
(違う!)
上だ。
こういうときひとまず雲隠れと相場は決まっている。
(逃がすかよ)
踵を返して階段に向かう。
上……もっと、一番上。
なりふりかまわずオフホワイトの階段を駆け上がっていく。
(……見えた!!)
「動かないで!!」
屋上につけられたヘリに足を掛けかけた男の背に向かって真里は叫んだ。
ビクンと、男の肩が震える。
「……動くと、撃つ。脅しじゃないからね」
両手をそろそろとあげ振り返る男の顔を眺める。
そうだ、こいつだった。
コミュニティに収容された初日にしたれ顔で平和を語った日本総司令。
「お前……誰に銃向けてるのかわかってるのか?」
「死にたくなかったら、国民に…いえ世界に向けて真実を語ってもらうわ。日本総司令の言葉としてね」
「なんのことだ?」
「このごに及んでしらばっくれる気!?」
「まあいい……ジャンヌダルク気取りの革命家にでもなったつもりか?」
余裕すら見せる男の様子に真里は戸惑った。
にやにやとした笑いを浮かべながら男は胸のポケットに手を入れた。
「動くなって言ってるでしょ!」
(銃!?)
男の指先を凝視する。
「これ、なんだかわかるか?」
ポケットベルににたような小型の装置を取り出すと真里に向かってかざす。
不審げに眉を寄せる真里を可笑しそうに眺めると悠々と口を開いた。
「わからんだろうな。お前の頭じゃ。どうせ死ぬんだ教えてやるよ」
「な……に?」
「核だよ、核の発動スイッチさ。それもとびきりデカイ奴のな。まあ正確には核じゃない。病原体に手を加えた飛びきりの細菌爆弾だ」
「さ……いきん…って」
怒りを通り越して頭の中が真っ白になる。
「お前が発砲すると同時にこれを押してやるよ。幾千の命と引き換えに出来るか?それでも」
「なんの為に、なんのためにそんなことを!!」
無我夢中で真里はまくし立てた。
そんなことして、これ以上人を殺して一体何になるっていうんだ。
「なあ……」
それまでの台詞が嘘のように男の声が和らいだ。
「知ってるか?地球に現存する人間の数と、次々と枯渇し死に絶えていく他の生命や資源のこと」
真里の返事を待つでもなく男は続ける。
「このままいくとな、そう遠くないうちに人間同士の限られた物資を奪い合う殺し合いが
始まるんだよ。まだ年端もいかない子供達が飴玉一個をかけて殴り合い、それも相手が死
ぬまで続けられるんだ。だから、こう考えたんだ。きっとこの疫病はなあ、長い間地球を
痛めつづけてきた人間に対する地球からの警告なんだよ。昔のように、ちゃんと調和の取
れた数だけが生き残れるように。お前はそれでも皆が助かることが正しいとそういえるの
か?なあお前は違うのか?俺と同じように考えはしないか?」
今まで頑として揺るがなかった真里の根本的なところでなにかがぐらつくのを感じた。
「あ……」
何を絶句してしまってるのだろう。
こんなの演説しなれたこの男の常套手段に過ぎないのに。
「お喋りはそれくらいでいいでしょう」
いつのまにか下がりかけていた銃口をヘリからおりたった声に反応して、真里は再び上に向けた。
(しまった……)
最悪の状況だ。なんだって自分は長々と男の話に付き合ってしまったのか。
後悔の念が押し寄せたが、その声の主を確認して真里は目を見開く。
「平家さん!!」
(助かった!)
きっと、この人ならわかってくれてるはず。
裕ちゃんの思いを…ちゃんと受け取ってくれている筈だから。
みちよは静かに銃を取り出し真里に向けた。
「へ……いけさん?」
愕然とする真里の様子をちょうどみちよと真里の間に位置した男は見る。
「平家、痛くない様にやってやれ。それが終わったらなんでも望むものをやろう」
無言で頷くみちよに真里は叫んだ。
「平家さん!!あなただったらわかるでしょぉ!?矢口は…あんま頭よくないからちゃんと説明できないけど…でも、そいつのいうことは間違ってる。ねえ、あの日記読んだでしょっ!?そしたら……」
「読んだで。まあ、冥土の土産や、一応返しとくわ」
無造作に真里に向けて投げられるノートは地面に落ちると風に吹かれパラパラとめくれた。
「よう出来とるお話やけどな。中澤さん普通の精神状態やなかったんやろうな」
「そ……んな」
ピクリとも表情を変えないみちよの様子に絶望的な感覚を覚える。
「独裁者の……手先になる気かよ?」
信じた自分が馬鹿だった。
わかってくれると、思ってたのに。
「独裁者?じゃあ聞くけどな、ここであんたを助けたとして、今度はあんたがそうならないっていう確証があるいうんか?」
最後のページまでめくれて裏表紙のあらわれたノートを見て真里は言った。
「話し合う余地…無いみたいですね……」
銃身を握り締める手に力を込める。ゆっくりとみちよに銃口を合わせた。
はっきりいって実力差は歴然としている。
相手は百戦錬磨の平家みちよ司令官。
よくて相打ちってとこだろう。
引き金を引いた。
空高く
二つの銃声がこだました。
(う……っ)
発砲した瞬間反射的に眼を閉じた。
硝煙の香りとしびれの残る指先を感じ、ゆっくりと瞼を上げる。
そこには男と女が一人ずつ地面にひれ伏していた。
(嘘……なんで?アタシ)
自分の胸元を確認する。
なんの傷跡も無い。
確かに……銃声はふたつしたのに。
なんで……
「平家さん!!」
銃を投げ捨てて女の元に掛けよりその体を抱き起こす。
ひゅうひゅうと息を漏らしながらみちよは力無く笑った。
「やるやんか……まあ欲を言えばあと2センチずらしたほしかったわ。あんな感じにな」
目線で男の、もうおそらくは絶命したであろう体を指す。
「どうして…どうしてですか?平家さん」
真里にはまるでわからなかった。
あのシチュエーションなら、私を殺した後に男を殺すことだって十分出来たのに。
それには答えずみちよはヘリの方を指した。
「ヘリん中……上の、やつらの盗聴記録入ってる。なんかの役にたつやろ…」
「なんで、なんでだよぉっ!!なんでわざわざ」
こみあげてくる嗚咽で言葉にならない。
ワケわかんないよ。平家さん。
ちゃんとわかってくれてたんじゃんか。
なのにどうしてだよ。
「あなただったら……一緒に未来を作れるって、思ってたのに」
(一緒に、なあ…)
薄れゆく意識の中でみちよは微笑んだ。
「アタシの仇名知ってるか?死刑執行人、や」
「そんなの……!」
「……あまりにもたくさんの人を殺しすぎたんや」
「う……」
「次の時代を生きるにはな背負うモンが重すぎんねん」
――――――――――
……それもちょっとは本当やけどな
ほんとはな
ねえさんの日記、最後の一言だけ意味がわからんかったんや。
『Hなもんやなくて残念でした』
それで、ああ、これは自分に向けられたものじゃないってそう思った。
でもただの嫉妬なんて括弧悪いから、これぐらい気取らしてくれんか?
丁寧にみちよの体を横たえるとふらふらと真里は男の死体に歩み寄った。
目を見開いたまま絶命した男の姿を見下ろす。
男の手に握られた、小さなポケベルに似た機器を取ろうとする。
ふいに、男の指が動く。
カチッとボタンが押される。
けれども男はやはり絶命していたようでそれ以上動かなかった。
キュルルという雑音の後、幼い女の子の声が流れた。
『おとーさーん、なっちね、今日おかあさんに、おうた教えてもらったんだ。じゃうたうよ〜』
舌足らずな唄が一通り終わるとまた最初の言葉が繰り返される。
おとーさ……
「なんだよ……ただのボイスレコーダーじゃんか…」
男の耳元にそれを置き男の瞼を下ろす。
「みんな、みんな……嘘ばっかし…」
本当の事なんか知らない。
そもそも「本当」なんてあるかどうかも。
でも、万が一地球が私達に死を告げているとしても
限られた人間だけが生き残ることを望んでいるのだとしても
「……誰かがそれを決めることなんてできないんだよ」
二十四章 果て無き夢
ヒトとヒト、モノとモノあるいはヒトとものがぶつかり合う。
悲鳴か怒声か区別のつかない幾多の声が交じり合い奇妙な不協和音を奏でていた。
同時に焦げつく匂いがうっすらと立ちこめてくる。
獣の唸り声にもにた音が、炎がすぐそこにまで来ていることを知らせている。
忌まわしい記憶が蘇る。
……恐れるものか。
街中が焼け野原になって死体が転がったあの日だって生き残ることが出来たんだ。
自分は、炎と相性がいい。
密閉されたドアの隙間から匂いと伴って黒みがかった煙が入りこんでくる。
このままでは蒸し焼きか窒息死のどちらかだ。
「ゴホ……ッ」
みるみるうちに充満してきた煙をまともにすいこんでしまったのか、隣でむせかえる少女の背を摩った。
不安げに震える肩にそっと手をおく。
「一緒に、来てくれるか?死ぬかもしれんけど」
嫌だといったところで引きずってでも連れていくけれど。
「連れてって」
考えるまでもなかった。
はじめて会ったときに思ったの。
ああ、やっと迎えに来てくれたんだって。
どんなに嬉しかったかわかる?
ずっとひとりぼっちで寂しかった私に
あなたはいろんなものをくれたんだ。
けれど私はただ唄ってあげることしかできなくて。
でもね、ここから出ればきっと何かができるって……そんな気がする。
だから
なっちを連れていってよ、
……ねえ
「裕ちゃん!!」
あちこちで巻き起こる火の手を前にひとみは表情を硬くした。
それは暗に自分達の計画が予定通りに進行していることを物語っていたがいざ結構に迫られるとあれほど勢いづいていた足も躊躇する。
不安、人々のマイナスのパワーはこれほどにまで強いのか。
声にならない台詞を叫びながら第一コミュニティーを襲撃する波動は炎となって姿を変えていた。
この中から本当にディスクを回収することが出来るのだろうか。
「ねえ、梨華ちゃん」
「なに?」
炎を見つめたまま梨華は小さく答えた。
「うちのお母さんが昔いってたことがあるんだ」
嫌なことがあるとき、苦しいとき、哀しいときそんなときは
「未来のことを考えるんだよ。そうすると不思議と力が涌いてくるって」
「未来の……こと?」
「そう」
未来のこと。
この戦いが終わったら、
全て終わったらちゃんと話そう。
……ごっちん、市井さん。
もうあなたたちから逃げたりしない。
傷つくことを恐れて逃げ回ってばかりいた私。
そんな自分を知られたくなくて
ひた隠しにしていた私の罪を
ちゃんと話そう。
ちゃんと話せる気がするんだ。
そしたらあなたはどんな顔するのだろう?
罵る?嘲る?軽蔑する?
わからないよ。
それとも……
それでも、あなたは私を抱きしめたいと言ってくれるのかな?
変わらない笑顔を浮かべて。
「ヒトの流れが向こうに集中してる……」
「ああ」
軽く頷いて向き直る。
外部からだけでなくどうやらコミュニティー内部でも氾濫が起こり始めたのがわかった。
『考えられる可能性はひとつしかないの』
生真面目な顔で圭は言った。
『私と紗耶香の接点、直接的にはどこにもない。けどね』
人と炎の波を潜り抜け一直線に目的の建物に向かう。
少し離れにぽつんとたたずむそこも無差別に投げつけられた火炎ビンなどで例外なく火の手が上がり始めている。
『私自身の生活を追えば簡単なことなのよ。いい?私はね、まあいわゆる日本の幹部達、お偉いさんのお抱えドクター。そしてそのなかでも総司令付きのね。』
周りに比べ細長い構造の建物の入り口にはヒトの気配はなくなんなく進入を許される。
『この総司令って言うのが曲者でね。家族の死を乗り越えて闘うなんてカッコ付けてんだけどさあ実は隠し子がいるのよ。…といってもかわいそうでね…外にばれちゃまずいってことで小さい頃から隔離されてるの、ずっと…ずっと』
元々窓の少ないつくりのせいで内部は著しく煙が蔓延している。
もたもたしていたらたちまち出入りが不可能になってしまう。
手当たり次第にドアを開いていく。
しかしそのどこもが既に避難を終えてしまったのか蛻の殻、次第焦りがひとみの中に生まれていく。
『紗耶香の手紙に書いたことがあるの。月に一回だけだけどその子のまあいうなれば定期検診をやってるって。きっとその事を覚えていたのね』
用途のわからないコミュニティーに併設した奇妙な塔。
気にもしていなかった。
……ッ、……ンッ、ドンッ!ダン!!
聞こえた!
一番奥、揺らめく炎の向こうの突き当たりのドアからそれは聞こえた。
濡らした上着で炎を払い進む。
熱と緊張で額を汗が伝う。
「誰かいる!」
衝突音と共に揺れるドアが確かにひとみの眼にうつった。
「待って、そのままじゃ無理よ」
素手でドアノブをつかもうとしたひとみを梨華は制した。
鉄製のノブは熱で恐らくは皮膚を一瞬にして駄目にしてしまうだろう様相を醸し出している。
「これ」
差し出された拳銃を受け取り少し下がる。
番いの部分に照準を合わせ発砲する。
小さな破片がとびその一つが頬を掠めたが同時にドアごと転がってきた物体にバランスを崩す。
「……ぁっ」
「うあっ!」
双方からの力がまともにぶつかりあい右肩から地面に落下する。
激しく打ち付けた苦痛が身を貫く。
痛みで閉じた眼をゆっくりと開いていく。
そこには、迫り来る炎と絶妙な色合いを作り出す鮮やかな金。
「……っちぃ、大丈夫か?」
うつぶせたまま伸ばされた手は何かを捜し求めるように宙を舞う。
「なっちっ!」
「裕ちゃん……!」
(あ……)
こんなときに夢でも見てるんだろうかとひとみは思った。
真っ白な少女の手がその手を掴んだとき、それは天使の手なんじゃないかって。
この惨状から私達を救いにきてくれた天使なんじゃないかって。
なぜだか、涙が毀れた。
「あなた……」
そして少女の傍らに置かれた白いテディベアをうっすらと眺めて呟く。
圭から教えられていた名を呼ぶ。
「安倍なつみさん、ですね」
愛しそうに金色の頭を胸元に抱えたまま少女は振り返る。
同時に金髪の女性も視線を向けた。
「あんたらは……」
「たくさんの」
「え?」
きっと随分おかしなやつだって思われたのかもしれない。
「たくさんの思いを受け継いでここまで来たんです」
要領を得ない私の言葉に彼女は泣き笑いの表情を浮かべてただ一言
「ありがとう」
と呟いた。
「これが?」
傍らのテディベアを指して尋ねると、金髪の彼女…中澤裕子さんはコクリと頷いた。
「そんなかに入ってる。間違いない」
なぜ?どうして?尋ねたいことは山ほどあったけれど今の私達にそんな余裕はなかった。
「下はもう無理や」
完全に断たれた階下への通路を一瞥すると中澤さんはチッと舌打ちした。
上へと続く階段を白い少女の手を引き登る彼女の後にしたがった。
幾分炎の勢いはやわらいでいたがすぐに火は回ってくる。いずれにしろ時間の問題だ。
「どうするつもりですかっ!?」
熱と煙で絶え絶えになりながら叫ぶ。
「ここも軍の、しかも機密施設や!だとしたら必ず脱出の措置があるはずやねん」
長年の彼女の経験に裏づけされているのかある種の確信めいた響きを含んでいる。
「でも、なかったら…」
「そんときはそんときでありったけのクッションになりそうなもん巻き付けて飛び降りるだけや。焼け死ぬよかマシやろ」
そんなムチャなと思ったけれど彼女の顔は真剣でそれ以上余計な口を利くことは出来なかった。
がむしゃらに当てのないモノを探しながら走る私達はとうとうてだてを掴めぬまま最上階の塔の先端部分と思われるところに追い詰められた。
(ここに何もなかったら終わりだ)
祈るような気持ちで最後のドアを、開けた。
「ごくろうさん」
静かに、まるでそこだけがミュートされたかのように
静かにこちらを向いてそう言ったサングラスの向こうの眼はゆるやかな微笑を浮かべていた。
「遅かったなあ、待ってたで」
「な……んで?」
「こらこら上官にタメ口はあかんやろ?吉澤」
こちらの様子をあざ笑うかのように余裕めいた素振りですっとサングラスを取る。
「ちゃんと例のモンは手に入れてくれたんやろうな?ほら、はよ渡し」
右手に構えた銃を向けたまま、派手な真紅の模様のシャツから伸びた鈍く光るシルバーリングを嵌めた左手を差し出した。
「どういう、ことですか?……つんくさん」
「どういうことって?ハハハおもろいこというなあ」
乾いた笑い声を上げる男を呆然とただ見守る。
「大体なあ、普通に考えて指名手配軍からくらって逃げ切れるとでもおもてたんか?放置しとくつもりやったんやけど第8の馬鹿司令が先走って顔写真なんかばら撒かれたときはあせったけどな。回収するん大変やったんやで」
言葉を失った少女達を無視して続ける。
「軍の監視で動けへん俺のかわりに色々動いてくれてありがとうな。飯田がついてったんは誤算やけど、予想以上によう働いてくれて感謝しとるわ。そこの女が素直に白状しといてくれればこんな回りくどいことせんでよかったんやけどな」
そこの女という言葉に反応して裕子はギロリと睨みつけるが、気にもせずにつんくは笑った。
「しかしまあ灯台もと暗しとはまさにこのことやな。よりによってここにお前らが戻ってくるとはなあ。市井もしゃれた事してくれるわ。さあ……渡してくれるか?例のモン」
優しく囁くようにつんくは言った。
「これで終わりや。これで全ては」
はじめから。
はじめから仕組まれていたんだ。
真里を追わせた時点で、とっくに彼は自分達が裏切ることを予想していて、
自然、真里と共に中澤さん、市井さん達の動きを追うことを知っていて、
まるでゲームの主催者のように宝物を運んでくるのをただ笑って見ていたんだ。
自分が、今度は世界中を相手にしたゲームの主催者になるために。
「さあ」
「……誰が」
誰が渡すものか。
「……アホやなあ」
にやりとし、ひとみの額辺りに銃口を向ける。
それは銃になど構わず声にならない雄叫びを上げながら突っ込んだのとほぼ同時だった。
「グハッ」という音と共にぴちゃりと生ぬるい液体が頬を濡らした。
顎を伝って床にポツリと落ちる。
「……ハ…」
「つんくさん、あんた……」
何度も何度も見てきた光景に裕子は愕然とする。
つんくの吐いた血を浴び真っ赤になった頬を拭うこともせずにひとみは倒れた男を見下ろした。
ああ、どうして気付かなかったのか。
間近で見た男のシャツは赤い模様なんかじゃなく自らの血で染まっていた。
「……発病、してたんか」
「フ……ン所詮付け焼刃の延命薬投与されたなれの果てや」
倒れたまま眼だけを爛々と輝かせてつんくは顔を上げた。
瞬き一つせず空を睨みつける。
「もうちょっと…もうちょっとやったのになあ」
誰一人動かなかった。
ちりちりと迫ってくる炎の音を他人事のように聞きながら
「もう少しで」
―――――
全てを壊すことが出来たのに。
なにかを手に入れたかったわけじゃない。
ただ
世界を壊したかっただけや。
―――――
「あった!!」
壁際から簡易式のハンググライダーを裕子は引きずり出した。
「なんとか二人ずつ……行けるやろ」
二組のうちひとつはつんくが自分用に使うつもりだったのかすでにフロアに用意されていた。
「先に下りてください」
奥にあるハッチを開こうとする裕子の背に向かいひとみは言った。
でも、といいかけた裕子になつみを誘導する。
「まだ幾分時間はありますから、先に」
ほんの少し躊躇った後頷いた。
「わかった……すぐ来るんやで」
「はい」
なつみの手を取り額に手を当てた裕子にひとみも軽く敬礼して答える。
開かれたハッチからぶわっと流れ込んでくる風に髪が揺らめく。
裕子達が出たのを見届けてからあらかた組み立て終わったグライダーに掛けた手を止めた。
黙って作業する梨華に背を向け、視界につんくの体がうつす。
「……」
そっとその傍にひとみは立ち寄り膝を折った。
空を睨みつけるように見開かれたままの瞳に瞼をすっと下ろした。
これで、
これで終わりだ。
たくさんの人が死に過ぎた。
でもそれもやっと終わるんだ。
目前にせまった炎を見つめる。
「ああ……」
さあ帰ろう。
この炎が消える頃にはきっと、
きっと……
あなたに……
そのとき私は
たしかに光を見た。
二十五章 チャイルドプラネット
―――
――
―
たしかに、
光を見たんだ。
「あ……」
吐息と共に毀れた声は私のモノ。
そう認識した次の瞬間
焼け付くような熱さを感じた。
痛覚よりもむしろ「熱い」という感覚の方が先に訪れたのはまわりの炎と相伴い、私の神経が幾分麻痺していたせいかもしれない。
「ど……して?」
どうしちゃったんだろう?
熱の集中した背を押さえるとそこには硬い鋭い切っ先をともなった金属が私の内側までのめり込んでいる。
……なんだろ、これ?
単純な疑問。
とくんとくんという鼓動と連動するように吹き出す生温い感触。
浮かんでくる様々な疑問符にかられ、振り返る。が、それは中途半端にしかかなわず半ばで私は膝から倒れこんだ。
「どう……して?」
炎の熱のせいなのかうすぼんやりと揺らめく視界の向こうに映し出された光景は薄いスクリーン越しに見ている異世界のようで。
「ごめ……なさ…い」
立ち尽くす彼女のその手に伝う赤い液体と、自分からあふれ出ている液体が同一のものだとわかっても
それでも私はまだ理解できなかった。
「どうして……?」
掠れた声で私はもう一度尋ねた。
どうして?
「ごめんなさ……い…ごめ……」
ごめんなさいと繰り返しながら呆けたように立ち尽くす。
その瞳は相変わらず彼女特有の空虚な闇だけをうつしだして。
「どうして?」
「……って……」
スーッと頬を伝う透明の雫が彼女からこぼれおちた。
それを合図のように次から次へと透明な雫が落ちていく。
「だって……」
……泣いて、るの?
どうして……泣いてるの?…梨華ちゃん。
もうすぐ全てが、全ては終わって
もう泣くことなどないのに。
泣くことなんか。
どうして?
「全てが終わってしまったら」
はじめて彼女は私をその瞳にくっきりと映し出した。
そう感じた。
「またいらなくなっちゃうんだもの」
梨……華ちゃん?
――
――
「私、またいらなくなっちゃうわ……また、いらな、く……イラナクなっちゃう」
「でも」
(もうとっくにいらないのかもしれない)
でも、という言葉に続く彼女の声は遠ざかる意識の向こうでよく聞こえなかった。
そうだ、こんなときは。
未来のことを考えよう。
ねえ。
全てが終わったその時の
未来のことを。
「あなたの未来に……私はいないわ」
―――あの子はそういう生きかたしか出来ないから―――――
そ……っか…
ゆらゆら、ゆらゆら
さっきまでいくらか距離のあった炎はもう目と鼻の先、いやもうすでにその真っ只中にいるといったほうがいいかもしれない。
「梨華ちゃ……」
そういえば。
やっと表情らしい表情みせてくれたね?
泣き顔なのが残念だけどさ、無表情よりはずっといい。
でもやっぱり、人間笑ってるのが一番。
だからせめてあなたが笑えるように。
床に放置されたままのグライダーに炎が今にも燃え移ろうとしている。
指先一本にももう力が入らない。
「早く……逃げ……」
いいから逃げてよ、梨華ちゃん。
今ならまだ……間に合…
は、や……
言いかけて
口をつぐんだ。
あーあ、馬鹿な私。
散々自己嫌悪したくせにちっとも成長してやしない。
違うよ。
こうじゃない。
「ふ……あ…」
泣かないで梨華ちゃん。
「ね……え…梨華ちゃん」
泣きじゃくる彼女の瞳を見つめてやんわりと言った。
願わくば
キミの悲しみが少しでもやわらぎますように。
「傍に……いてくれる?」
一緒にいてくれる?
そして彼女は
幸福な笑みを
浮かべた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
空が、赤い。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あなたさえ、
あなたさえいれば何もいらないって
そう思ってたんだ。
「裕ちゃん!!」
細身の彼女の胸に飛び込むとはじめて会ったあの日の様に彼女は子供をあやす様に私の頭を撫でた。
「矢口……」
「生きて、生きてたんだね。幽霊なんかじゃないよね」
くすぐったがる彼女を無視してぺたぺたと顔を触る。
「あほ、本物やっちゅうねん。ったく……」
裕ちゃんはあの保養所で、秘密裏で動いていることを知られ捕らえられたのだという。
強制的に連行され、自白を強要されたのだが頑として口を割らず、その際に加えられたのか、私の知らない傷跡がまだそのいくつかは生々しい状態で刻まれていた。
結局知らぬ存ぜぬを貫きとしたというのだがそれならばどうして。
「司令は……つんくさんは生かしておいたんだろうね」
それはもちろん私にとってこの上ない幸運だったのだけれど彼の行動は実に不可解だった。
「さあな……」
裕ちゃんは、寂しそうに遠くを眺める。
「もしかしたら」
それはただの憶測にすぎない、と置いて裕ちゃんは言った。
「自分の孤独を……なっちの中に見たからかも知れへんな」
(愛とか。自由とか。生きる喜びを奪われた彼女と自分の姿を重ねたかも知れへんな。
あのとき、あの部屋で私達を見たとき……彼はただ黙ってドアを閉めた。)
それきり裕ちゃんは口をつぐんだ。
裕ちゃんの腕の中にいる私。
この暖かささえあれば、それでいいと思ってた。
それが全てだと思ってた。
なのに、
この胸にぽっかりと開いた穴はなんだろう?
結局、第一コミュニティーを訪れた私達を待っていたのは、焼け焦げた匂いと黒ずんだ瓦礫の山だけだった。
その片隅で肩を寄せ合うように裕ちゃんとあの子はいた。
「裕ちゃん……」
肩越しに、彼女の服のすそを掴み無邪気に微笑む少女の姿が目にうつる。
「なっち、どうした?」
それに気付いた裕ちゃんがほんのすこし口元を弛めて、眩しそうに目を細める。
それで、わかった。
…ここは、もう、私のいる場所じゃないんだって。
「ありがとう、裕ちゃん」
意地やプライドなんかじゃなく、ありったけの感謝の気持ちを込めて私はそう言った。
「矢口?」
きょとんとした顔をして首をかしげる裕ちゃん。
なかなかかわいいよ、なんてね。
ありがとう、裕ちゃん。
あなたと会えて矢口ほんとによかった。
愛とか勇気、っていったら照れくさいけれどいろんなことを教えてくれたね。
「……あの子らやけど」
言いにくそうに裕ちゃんは呟く。
私は黙って首を振った。
それから随分探したけれど、とうとうよっすぃーと梨華ちゃんを見つけることは出来なかった。彼女達がどうなったのか、何があったのか、私にはわからない。
けれど
私は知ってるから。
そしてきっと彼女達も知っていたんだと思うから。
この胸の思いを、希望を持ちつづける限りそれはいつでも始まりの合図なんだって。
……そうだよね?
「どう?圭ちゃん」
「駄目ね」
「そう……って駄目ってどういうことだよ駄目って!!」
「うわっ!アンタなんて声出すのよ。耳がキーンてなったでしょ耳が」
「矢口は声が高いんだよ!仕方ないでしょっ!……じゃなくてえなんで駄目なのよ」
白いクマから取り出した黒いフロッピーの中身を見ながらやり取りする矢口さんと保田さん。
「だから、ちゃんと話し聞きなさいって言うの。このままじゃ駄目って事よ」
「はあ?」
「つまり……ウィルスも進化してるんだからこのワクチンも改良が必要って事」
「……出来るの?」
「出来るかどうかじゃなくてやるの」
こんな会話の後保田さんは研究室にこもりっきりだ。
身寄りのないののと私はとりあえず雑用係ということでここにいる。
連日の寝不足で疲れ顔の保田さんはキーを叩く手を止めて振り返った。
「そうだ、加護」
「はい?」
急に自分の名前を呼ばれて思わず返事が裏返る。
それに保田さんちょっと怖いし。
「辻呼んで来て冷蔵庫んとこいきな。差入れだか補給だかしらないけどケーキ入ってるから」
「え、ケーキ!?」
正直、政府が崩壊した日本の情勢はまさにガタガタで最近は普通の食事をするのもやっとだ。
ケーキ、か。
のの喜ぶやろうなあ。
「ありがとうございます!!」
ぺこりとおじぎをする。
「2個しかないから早くこないとアタシが食べちゃうわよ」
さっき確か玄関のほうでみかけたな。
急がなきゃ、急がなきゃ。
保田さんがほんとに食べるわけはないとわかっていたけれどなんだか無性に嬉しくて私ははしゃいだ気分でののを探した。
ののっ、ケーキやで。甘いもの大好きやもんなっ。
「のの!!」
今まさに玄関から出て行こうとした彼女の後ろ姿を見つけて呼びとめた。
「亜依ちゃん」
振り向いたののは小さな華を手に抱えていた。
そんなに急いでどうしたの?と尋ねるのの。
「あんなあ」
「ん?」
「冷蔵庫にケーキが入ってるんやって。2個しかないから早いものがちや!行くで、のの!!」
こんなときはそう、きまって彼女は目の色を変えて一直線。
普段はおっとりしとるのにな、でもそんなギャップも微笑ましい。
「ケーキ、かあ。いいね」
……けど、
ののは穏やかな笑みを浮かべたままで
「今、ちょっと飯田さんに会いに行く所だったんだ。綺麗な花を見つけたから教えてあげたいと思って。帰ってきたら食べよ?」
「……は?」
あのとき、
安らかな表情で、まるで眠るように横たわっていた飯田さんを見つけたとき、
それほど関わりが無かったと思う私や、憎まれ口を叩いていた矢口さんさえも大声で泣いたさなか、ののはひとり静かに飯田さんの傍にしゃがんでずっと彼女を見つめていた。
「のの……飯田さんはな……」
もうこの世界にはいないんやで、と言いかけた私の言葉を遮るようにののは言った。
「わかってるよ。ちゃんと。ちょっとそこの高台までいってくるね」
ふんわりとした唇の感触が私の頬を包みもう一度私に……大人びた表情で笑いかけるとそのまま入り口へとののは歩いていった。
頼りないのの、ドジなのの。お人好しなのの。
うちがいないと心配でしょうがない。
いつも一緒にくっついて馬鹿なことやって、喧嘩もいっぱいしたけど
それもこれもぜーんぶ楽しかった。
いつも一緒に……
いつも…
―――ののは…
―――いつのまにか
―――知らないうちに、
「何モタモタしてんのよ。さっさとしないと私が食べちゃうっていったでしょ?」
ぼすんと頭上を何かが直撃する。
おかえしといわんばかりにその掌をぺチンと叩き返す。
「…なに泣きそうな顔してんのよ」
「なにいってんですか」
「してるじゃない、泣きそうな顔」
「してないです」
「してるってば」
「してません」
「泣きたいんなら泣けば?」
「泣きたくなんかないですよ」
「無理すんなって」
「無理なんかしてません」
――――――
知らないうちに大人になってしまったんだ。
「ったく」
少し鼻を突く薬品の香りと白い布越しの温度に包まれる。
「ガキはガキらしくしてなさいっていうの」
頭一個分は小さい彼女の体を抱きしめる。
「……っく……ぃ……ゥッ…」
玄関ホールに少女の泣き声が響く。
……
お願いだから生き急がないで。
ゆっくり大人になりなさい。
その為にアタシ達はここにいる。
「保田博士!!南アジアで新種の鉱物が見つかりました。おそらく……」
「今行くわ」
そうやってあんた達子供も、この地球もゆっくりと
成長していくんだから。