春になったら。

 

<第一話> 吉澤ひとみの場合。

「ちゃんと片付いてんのかなぁ」
なんて、ひとりゴト言う声も我ながら弾んでるなぁとか思う。

彼女の部屋へ来るのは、およそ一ヶ月ぶり。
最近は仕事で別々になるコトも多かったし、たまに現場で顔合わせてもゆっくり話せる時間なんかほとんど無かったし。

でも、明日はお休み。
せっかく二人揃ってオフだし、天気よかったらどっか行くかなぁ…。
いや、二人っきりで一日中ずーっと部屋にいるのもいいなぁ…。

「えへへ…」
ガチャ、と鍵の開く音がして、我に返る。
あたしってばニヤニヤしながらいつの間にか、インターホンを押していたらしい。
「あ、梨…」
やけに勢いよくドアが開け放たれたかと思うと、出てきた彼女に突然腕を掴まれ、あたしは強引に中へ引きずり込まれてしまう。
「ちょっ、どうしたの?」
何があったのやら会うなりなぜか必死の形相の梨華ちゃんに、尋ねる。

「早く! 脱いで!!」
「えっ。コ、コココ、ココで!?」
思わず裏返ってしまう。
なるほど、梨華ちゃんってば…会うなりなぜか必死の形相だったのは、そういうワケだったのね。
しかしいくら一ヶ月ぶりだからといって、到着するなり玄関先で、そんなぁ…。

「ちがうっ。靴よ! 靴に決まってるでしょう!? なに考えてるのよ!!」
「えっ」
ジャケットを脱ぎ、下に着ていたパーカーのファスナーを半分ほど下ろしたところで止められる。

「ってゆーか靴ぐらい脱ぐよ、言われなくたってさ」
梨華ちゃん、一体なに慌ててんだろ…。
彼女はあたしがまだ靴を脱ぎ終わらないうちに、あたしに背中を向けスタスタと歩き出し…
たかと思うと突然振り返り、あたしにすがり付いてきた。

「や、なにちょっと、どしたの」
「た、すけ、」
あたしの腕をぎゅっと掴んでる彼女の手も、声も、震えてる。
こっ、コレはタダゴトじゃない、なにがあったんだ一体!?
「ねぇ、ねぇ梨華ちゃん、」
あたしが呼ぶと、梨華ちゃんは顔を上げた。その目には、涙をいっぱいためてる。

「助けてください!! 私……追われているんですっっ!!!」
聴いた瞬間思わず、「はあ?」って言いそうになって、あたしは思いとどまった。

「………エッ?」
とりあえず、それだけ言った。

「私、産業スパイなんです。実は今、ある秘密結社に命を狙われてて」
あたしがあっけにとられているコトをいいことに、彼女はやりたい放題。

「はあ?」
一度は思い留まったがやっぱり、言わずにはいられなかった。

「あ、そうそう。コードネームは、”チャーミー石川”です」
コードネームと言いつつ『石川』って本名名乗ってていいんだろうか…それはコードネームと言うより、ニックネームだと思うが。

「あのさ、梨華ちゃん………どうしたの?」
悩んだあげく、そう尋ねるのが精一杯だった。
だってなんだかワケがわかんなすぎて、「ドウシタノ?」としか言いようが無いんだもん。

「信じては、くれないのね…」
明らかに失望した様子で、梨華ちゃんが呟く。
「信じるって? 梨華ちゃんが産業スパイだってコト? それとも命狙われてるってコト?」
「どっちもよ!」
ぴしゃりと言った梨華ちゃんの表情は、真剣そのもの。
「どういう、コト……?」
彼女の不可解な行動に首を傾げながら、あたしはハッとした。

もしや、コレはギャグなのか?
しまったっ……だとしたらあたしは今この瞬間完全に、笑うタイミングを外してしまっている。
梨華ちゃんが恐らく昨夜はよっすぃーのために寝ないで考えましたぐらいのイキオイで考えてきたギャグを、
あろうことかあたしは、「はあ?」の一言で……彼女、それはそれは深く傷付いたに違いない。

「あ、あは、あはは、あはははは」
今さらだけど、笑ってみた。

「笑うなんて、ひどい……なんて酷い人なの」
「えっ」
どうやら違ったらしい。
どうしよう……。

「もういいわ。自分で何とかします。さようなら」
そう言って目を閉じると、梨華ちゃんはいきなり脱力してあたしに倒れ掛かってきた。
「梨華ちゃん!?」
きっ、気絶っ!?
彼女を抱きかかえるようにして、あたしはその場に座り込む。

「梨華ちゃん! 梨華ちゃん!」
意識を失ってグッタリしている彼女は、あたしの呼びかけにもまったく反応してくれない。
「梨華ちゃん! ねぇ、梨華ちゃんってば!」
しばらく呼び続けていると、彼女はあたしの腕の中でようやく目を開けてくれた。
「梨華ちゃん…良かった」
「わたし……」
「ん? なに?」
宙を彷徨っている彼女の右手を優しく握ってあげながら、問う。

「成功したのね……タイムスリップ」

「はあ?」
あっ、しまったつい!

「あ、吉澤ひとみさんですよね!?」
「はい」
訊かれてつい素直に答えてしまったが…コレも(というかココからが?)ギャグなのか?
だとしたら、どのタイミングで笑えばいいんだろう……。

「はじめまして。わたし、石山梨華と申します」
「石山っ…」
どうリアクションしたらいいんだろう……この中途ハンパさ加減は。

「そっ、そっかぁ。すごぉーい、梨華ちゃんと同じ名前なんだ〜。よろしくね石山さぁーん」
とりあえず、乗っかってみた。

「周りの友達や親戚には、”リカッチ”って呼ばれてます」
「へぇ」
「カタカナで、”リカッチ”です」
「そうなんだー」
正直、どーでもいい。

「ですからわたしも吉澤さんのコト、カタカナで”ヨッスィー”とお呼びしてもよろしいですか?」
「はあ、どうぞ」
呼ぶのにひらがなもカタカナも無いだろ……メールでもくれるつもりなんだろうか。

「ここだけの話ですが…」
リカッチこと石山梨華さんは、声を潜めて言った。
語り始めたその表情はほんの数分前、彼女がまだチャーミー石川さんだった頃と同様、真剣そのもの。

「実はわたし、未来からやって来た、タイムトラベラーなんです」
そして語り始めた内容も案の定ほんの数分前、彼女がまだチャーミー石川さんだった頃と同様、やりたい放題。

「未来って、どれぐらい?」
「2010年です」
わー。
「すげー、近未来…」
たったの6年後じゃねーか。
一体いつまでこの意味不明なプレイに付き合わされんだろ…いきなり気が遠くなった。

「わたし、ここへ来てびっくりしちゃったんですよぉ。だって、車が地面の上を走っているんですもの」
「えっ?」
「だってわたしの住んでいる2010年の世界では、車はもちろん空を飛びますし」
「へぇ」
無理無理。少なくとも6年後じゃ絶対無理だから。

「電車だって大人の腰の高さぐらいの空間を自由に飛び交っていますし」
「わ…邪魔なだけだよねそれ」
「そうなんですよぉ。ホンっトにもう、人身事故が絶えなくって♪ うふふ」
「や…笑うトコじゃないよねそこ」
もう、おうち帰ろっかな…。

「それから人間たちは皆、木の上に家を作ってそこで暮らしています」
「なんで」
リカッチこと石山さんの暮らす2010年の世界では、科学のめざましい進歩により車や電車が空を飛べるようになったが、
なぜか人間たちは高層マンションに住むのを止め、木の上での生活に退化しちゃってるらしい。

「っ…」
突然、彼女がふわりとあたしの胸に寄り掛かってきた。

「梨華ちゃんっ!?」
まさか…また意識飛んじゃった!?
揺り起こすと、梨華ちゃんはぼんやりと目を開けた。よかった…今度は、気絶したんじゃないみたい。
「リ…」
「なに!?」
「リカッチ、です」
「………」
とっさにどつきかけたが、なんとかこらえた。怒りに拳を震わせながら、どうにか笑顔を作る。

「だいじょうぶ? リカッチ」
「ええ。心配しないで、ヨッスィー」
彼女が微笑む。一瞬、どきっとした。
それはあたしの知らない、梨華ちゃんの顔だったから。
あたしの前で、あんなに哀しそうな顔で笑う梨華ちゃんを、あたしは見たことが無かった。

「タイムスリップの後には、よくあることなんです。少し、眠ってもいいですか?」
「うん。今日は、もう寝た方がいいよ」
むしろ頼むから寝てくれ、と思ったのは言うまでもなく。
頭痛がする、と言って梨華ちゃんは、ベッドで横になった。

「おやすみ」
いつもみたくキスをしようと、梨華ちゃんの頬に軽く手を添える。
そしていつもみたく、彼女が目を閉じるのをあたしは待った。
「おやすみなさい」
けど、彼女は瞑らなかった。鈍感なだけなのか、それともわざと避けてるのかはわからない。

「梨華ちゃん」
本当に、今日はどうしちゃったの?

「もう…梨華ちゃんじゃ、ないったら」
疲れて、いるのかな。

「…おやすみ、リカッチ」
「おやすみなさい、ヨッスィー」
笑ってるハズなのにまるで泣いてるみたく見える、あたしの知らない笑顔。
なんだかホントに、梨華ちゃんじゃないみたいな気がした。

「よしざわさん、よしざわさん、起きてくださいまし。よしざわさんっ!」
「んー……?」
気持ちよく眠っていたトコロを、横から起こされる。

「どしたぁ?」
目をこすりこすり、ハッとする。
そうだ。梨華ちゃん、頭痛いって言ってたっけ…。

「まだ、具合わるい?」
「よしざわさんったら、ねるの早すぎですよぉー。あちき、もー、たいくつでたいくつで」
あたしの問いに答える代わりに、とびきり元気そーな声で梨華ちゃんが言う。

「は? ”吉澤さん”?」
はあぁ……気持ちよく眠っていたトコロをいきなり起こされたあげく、タメイキ。
どうやら、タチの悪いゲームはまだ続いていたらしい。
あたしはボケボケの頭で、ぐいぐいと記憶の糸をたぐり寄せる。

「えーっと……リカッチ?」
「だれですか、それは?」
「じゃあ……チャーミー」
「ちがいますよぉー、あちきは、」
「待て」
あちき、って何だ。
加えて前の二人とはガラリと雰囲気の違う、コドモみたく舌っ足らずな喋り方。
まさかまさかもしかして、この期に及んでまたまた新キャラか?
んもおぉぉぉ、いいってぇー……カンベンしてくださいよマジで。

「あちきはぁ、よこはま、っていいます。よろしく〜!」
静かな暗闇に響き渡る、ひたすら明るい声。

「えっなに? 横浜、っつったの?」
てっきり自分の名前をもじってくるんだと思ってたのに…三人目ともなると意表ついてくるなあ。石川梨華、おそるべし。
「あいっ!」
不気味な闇に響き渡る、バカ明るいお返事。

「ちなみに、下のお名前は?」
もはやバカバカしいとかいう次元を超えて、最後まで付き合ってあげなきゃいけないよーな、ヘンな義務感に駆られてきた。

「えー? 上も下もありませんよぉー。よこはまは、よこはまですっ」
「ああ。そーですか」
横浜、ってのはどうやら、フルネームらしい。

「梨華ちゃん」
「………」
あたしの呼びかけを、梨華ちゃんは完全無視。
そーですかああそーですか、わかりましたよやりゃあいーんでしょ。

「横浜さん」
「あいっ」
きっと彼女は疲れてるんだ。そうに違いない。

「明日さあ……病院行こ」
「やったー! おでかけですねっ! はれるといいなぁ」
「そうだね…」
冗談じゃなくマジで、診てもらった方がいいかも……。

「あちき、あったかいのとかだいすきなんですよぉ。もうじき春でしょー? でもって春は、あったかいでしょー?」
「春はおまえの頭ん中だよ」
「そんなあ。あちき、そんないいモンじゃありませんったらぁー。やだなあ、もぉ」
照れてどーする。今のはぜんぜん、誉めコトバじゃないよ石川さんっ!!!

今さらだけどやばいぞコレはっ。
ホントにホントに、マジで重症かもしんないこのヒト……。

「よしざわさんも春みたくあったかいからあちき、だいすきですっ」
ベッドの中で梨華ちゃん(いや、横浜さんと呼ぶべきなんだろうか…)は、あたしに腕を絡めてぴったり密着してくる。
「梨華ちゃん…わざとやってる?」
「んっ? りかちゃんってだーれ?」
「………」
たった今あたしの隣に寝ている彼女は、まぎれもなく『石川梨華』だと頭ではわかっているのに……
今の彼女を襲うのは、間違いなく犯罪だ。そんな気がしてならない。

なんとかしなきゃ。

「……ゴメン。もちょっと離れてくれる?」
「やだやだっ。やーですっ」
「………」

このままだと、あたしの身が持たない。そんな気がする。

<第二話> チャーミー石川の場合。

「軽い分裂症ですね」
30代半ばぐらいに見える、茶髪でちょっぴりつんくさん似の先生は、ごくごく軽い口調で言った。

「なに、心配は要りませんよ。
前世の記憶が蘇ったわけでもなさそうですし、キツネ憑きやゾンビといった霊的なモノでもありませんから。よかったね」
「えーっ…」
たとえ霊的なモノじゃなくても、じゅーぶん心配なんですが……。

「前世だとか悪魔憑きだとか、そういった超常現象の類ですと、人格設定がもっと複雑なはずなんでね。
全てにおいて矛盾が無いというか」
「はあ…」
半信半疑のまま頷く。
昨夜あたしが見た三人の梨華ちゃんについて、先生には全て詳しく話してあった。

「ですが石川さんの場合、時代背景から人物設定に至るまでもう、びっくりするぐらい大雑把ですから。
とにかく、全てにおいていいかげんというか」
「なるほど」
あたしは大いに納得。

秘密結社に命を狙われている、産業スパイ。(産業スパイの意味をびみょーに履き違えている気がする。ってゆーか秘密結社て)
車が空飛ぶ6年後の未来からやってきた、タイムトラベラー。(………)
そして三人目の人格である”横浜さん”に至っては全くつかみどころが無いのでとりあえず置いておくとして…
昨夜あたしが見た三人の梨華ちゃんは前世から背負った記憶でも悪霊が乗り移ったワケでもなく全員、
彼女の中で生まれた別人格というコトか。

「原因は、恐らく過度のストレスによるものでしょう。いやあ最近多いんですよねぇー、こーゆーヒト」
「ストレス、ですか……」
はあっ…あたしは思わずタメイキ。
軽い精神分裂症に陥るほどのストレスを、梨華ちゃんが抱えていたなんて…
我ながら情けないけど、ぜんぜん気がつかなかった。

「それって…治るんでしょうか?」
恐る恐る尋ねる。
ちょっぴりつんくさん似の先生の説明によると…梨華ちゃんの症状は、ストレスによる軽い(…ようには見えないけど)分裂症とのこと。
原因が判ったのは良いけど、治療法ってあるんだろうか?
まさか一生このままなんてコト、ないよね……。

「クル…! 気をつけてフットサル!! 奴らが来るわっ!!!」
「だいじょうぶだよ、チャーミー。ここは安全だからね?」
コードネームチャーミー石川ことチャーミー石川は、あたしの言葉もまるで耳に入っていない様子で辺りを警戒している。

「何ですか、”フットサル”というのは?」
「コードネームです。略さずに言うと、吉澤フットサルひとみ」
あたしは努めて素っ気なく回答。
あまりにバカバカしすぎて言い忘れていたが、改めて説明するとさらにアホしさがこみ上げてくる。
「ぷっ…くくく」
案の定、笑われた。

「言っときますけど無理やり付けられたんですからね。スパイ活動に必要だからとか言われて」
ここへ来る途中チャーミーに「得意なスポーツは?」と聞かれ、何の疑いもなく「フットサル」と答えてしまったコトを、
あたしは死ぬほど後悔していた。

「ぷぷぷっ…コードネームてそれ実名やん…くくくっ」
ちくしょう。

今朝起きたときの梨華ちゃんは、チャーミーでもリカッチでも横浜さんでもなく、普段どおりの梨華ちゃんだった。
けれどホッとしたのも束の間、あたしが顔を洗って戻ってくると梨華ちゃんは横浜さんに変わっており…
彼女のリクエストでホットケーキとココアとあんみつを用意して戻ったときには横浜さんは既にチャーミー石川に変わっており、
朝からそのラインナップはちょっと…と渋る彼女のために鮭を焼いて戻ってくるとチャーミーは既にリカッチこと石山梨華さんに変わっていたのだった。

『これは、さっ…魚!? 大変っ! 早く証拠隠滅して、ヨッスィー!!』
『えっ? 証拠??』
『あっ。もしかして今の時代だとまだ、法改正されていないのかしら』
『ハァ? 法??』
キョトンとするあたしにリカッチは、例によってすごく真剣な顔で至極すっとんきょーな説明を始めたのだった。

『お魚さんが可哀想だから、獲っちゃいけないコトになったんです』
なんでもリカッチこと石山さんの住む今から6年後の未来では何だかの法律が改正されて、
ありとあらゆる魚は獲っちゃいけないコトになってるらしい(それも、可哀想だから、という理由で)。

『国民の着るジャージは大人から子供までもちろん、ピンク以外認められていませんし。
破ると50万円以下の罰金もしくは3年以下の懲役が科せられるんですよ? うふふふ』
三人の人格たちは、梨華ちゃんが前世から背負った記憶でも悪霊が乗り移ったワケでもなく、あくまで彼女自身の中から生まれたモノ。
というコトは…三人の知識とか思想にも、普段の梨華ちゃんのそれが少なからず反映されてるってコトなんだろうか。
だとすると、何故だか理由は判らないが恐らく普段の梨華ちゃんの中で、『2010年』ってのは、
世の中が劇的に変化する何か特別な年なんだろう。

「2010年、か…」
このキーワード、いつだったか彼女との会話の中で出てきたような気がする。それも、ごく最近のコトだ。
なんだっけ…あたしは必死に記憶の糸を手繰り寄せる。

「ああ、2010年と言えば」
つんくさん似の先生が、突然思い立ったように言う。
「石川さんの件には全く関係ありませんが、2010年にドラえもんが発売されますよね。アレ個人的にすごく楽しみなんですよ。
もし出来が良かったら、ボクの代わりに診察とか手術とか宿題とかやってもらっちゃおっかなぁ〜。
なんてね!なんてね!てゆーか宿題て!」
「2010年……」
このキーワード、なんだろう、なんかひっかかるんだけど…。
なんだなんだ思い出せ、ひとみ……

(『2010年にドラえもんが発売されますよね』)

どらえもん……。

あっ!
「それだっ!」
思わず、声が弾んでしまう。

ってゆーか、
「それなのか…」
”夢の2010年”の謎が解けてうれしいハズなのに、こんなに虚しい気持ちになるのは、なぜなんだろう…。

『ねぇねぇ、よっすぃー! 知ってた? 2010年にねっ、本物のドラえもんが発売されるんだって!』
ある日まだ普通だった頃の梨華ちゃんが、うれしそうに報告してきたのを思い出す。

『へぇー、スゲェじゃん。道具とか出せんの?』
『まさか…。だってドラえもん自身を作るのより、道具を開発する方が難しいよ、きっと』
『えーっ。四次元ポケットが無いんじゃあ、それはある意味ドラえもんとは言えないっしょ』
『それは、そうだけど…』
『だいたいさー、道具も出せないドラえもんに何の価値があんの? ドラ焼き代かさむだけじゃん』
『もういいっ』
すっかりふてくされてしまった梨華ちゃんは、それから一週間ほど口も利いてくれなかったのだった。

に、しても…。
ドラえもん自身より彼の秘密道具を開発する方が難しいだなんて冷静なコト言ってたわりに、
彼女の深層心理を反映していると思われるもう一つの人格の彼女が住む世界では、
車は空を飛んでるわ電車は宙に浮いてるわジャージはピンク以外禁止だわ……
実は梨華ちゃんって、あたしの想像を遥かに超えて夢見がちなコなのかも知れない。

「急ぎましょう、フットサルひとみ。家が荒らされていないか心配だわ」
忘れてた…。
2010年問題より先に、コイツを何とかしなくては。

「部屋にはトラップ仕掛けてあるから平気だよ。大丈夫だからおとなしく座ってて、チャーミー石川」
あたしが言うと、彼女は渋々イスに腰を下ろした。
どこから勝手に持ち出したのやら、右手には鋭く光る手術用のメスが握られている。

「ああ、確か…ライバル企業から彼女が盗み出した、画期的な新薬が自宅に隠してあるんでしたっけ? ぷぷぷっ」
そのとおーり。
「ってゆーか、イチイチ笑うのやめてもらえます?」
同じくあたしも心の中ではかなりバカにしてるけど…自分以外の他人に彼女のコト悪く言われると、やっぱなんか腹立つ。

「そんなコトより…治るんですか、コレ」
あたしは、10分ほど前にした質問をもう一度ぶつける。

「三つの人格は恐らく、石川さんが日頃感じているストレスが具現化された存在でしょう。
ですからその原因を取り除いてあげれば、症状は治まると思いますが」
「原因って?」
「それは、私にはわかりませんよ。あなたの方が、石川さんについてよく理解している筈でしょう?」
確かに、それはそうだけど…梨華ちゃんのストレスを取り除くなんて、そんなコトあたしにできるんだろうか。
そもそも情けないコトにあたしには、その原因が何なのかさえまったく見当がつかないってのに。

「しばらく側に付いていてあげることですね。そうすれば彼女をここまで追い込んでしまったものが何なのか、自ずと解るでしょうし」
「…わかりました」
先生にお礼を言って、あたしたちは病院を出た。

「ねぇ梨華ちゃ…じゃなかったチャーミー、紅茶ドコだっけー?」
キッチンから呼びかける。
いくら別人格とはいえ元は梨華ちゃんなワケだから、キッチンにおけるモノの配置くらいはちゃんと把握しているハズ。

「シカトかよ…」
彼女はあたしの声なんかまるで耳に入ってない様子で、鏡の前に座ってどこからか勝手に持ち出した手術用のメスを、じっと見つめている。
「ん?」
完全無視されたコトに少々傷付きながらふと見上げると、食器棚の上に置いてある大きな箱が目に入った。
なんだろ、お中元とかお歳暮とかによくある、何かのギフトセットみたいな箱だけど…
あたしは背伸びして、恐る恐る手を伸ばした。

「危険よ! 触らないで!!」
箱を持ち上げた瞬間、突然大声で怒鳴られる。
「わあっ!?」
あたしがびっくりして床に落としてしまったそれを、チャーミーが慌てて拾い上げる。

「チャーミー、何なのそれ」
あたしはつい詰問口調になってしまう。
もしかするとコレがチャーミーの言ってた、ライバル会社から盗み出した”画期的な新薬”なんじゃないだろうか。
チャーミーがずっとこだわっている、それによって彼女が命を狙われるほど危険なモノ――。
だとしたら、それは梨華ちゃんのストレスと何か関係があるのかも知れない。

「聞いてしまったら、あなたも同罪よ。いいの?」
あたしの目をまっすぐに見て、チャーミーが問う。
「いいよ」
あたしは答えた。
「だって友達じゃん」
するとチャーミーは、諦めとも安堵とも取れる小さなため息をついた。

「商品コードネーム、エー・オー・ジェイ・アイ・アール・ユー」
「ハ?」
ポイントが多すぎていちいち突っ込む気にもならんので…とりあえず彼女が言った謎の暗号を、頭の中で唱えてみる。
エー・オー・ジェイ・アイ・アール・ユー。エー・オー、

「エー・オー・ジェイ・アイ・アール・ユー……A・O・J・I・R・U……あ・お・じ・る……青汁」
その単語を口にした瞬間、突如として言いようのない脱力感に襲われた。

「あっ! 言っちゃダメよっ。暗号化した意味がないでしょう!?」
「どこが画期的な新薬なんだよ…」
どれぐらい力が抜けたかというと言葉にするのは難しいけれど、あえて言うなら、くだらない上に笑えないメールが届いたときぐらい。

「本当は、私が盗んだ物ではないの…。
私のスパイ仲間だったコードネーム保田圭が、ある秘密結社に追われる途中で無理やり私に押し付けた物なのよ」
「保田さんに?」
「暗号化した意味がないわ、ひとみ」
「保田圭に?」
こんな本名全開のコードネーム嫌だ…ってゆーかそういえば同じくあたしも、”フットサル”抜いちゃえばまんま実名なワケだけど。

「こんなモノのために命を狙われるくらいなら、いっそ捨ててしまおうかとも思ったわ…。
だってライバル会社のスパイの手に渡ったこの薬を消すコトだけが、奴らの狙いなんですもの。
だからこの忌々しい薬さえこの世から消え去ってしまえば、私は消されなくてすむ」
「だったら、どうしてそうしないの?」
あたしがチャーミーに対し実に素朴な疑問をぶつけると、彼女は失笑。アンタなに言い出してんの?って表情。

「吉澤フットサルひとみったら…あなた、本気で言ってるの? だって先輩に頂いたモノなのよ?
そんな簡単に捨てられるわけないじゃない」
うわは…待って待って石川さん。

だってキミ、秘密結社のコワーイ人たちに命狙われてんだよね?
いくら先輩にもらったモンだからって、気ぃ使ってる状況じゃないよね?ねっ?ねっ?

「それに体にも良いって聞くし、いざ捨てるとなるとなんだか勿体無くって」
「そんな理由…!?」
一見すると普段の梨華ちゃんとはかけ離れているように見える人格のチャーミー石川だが、
すっとんきょーに義理堅いトコや、びみょーに貧乏くさいトコなど、
梨華ちゃんの梨華ちゃんらしい部分が所々に垣間見えたりしてなんだか哀しくなる。

「ねぇ、どうしたらいいの、私…」
青汁ギフトセットの箱を抱えたまま途方に暮れる梨華ちゃん(チャーミー石川)の姿を見ながら、
あたしの脳裏につい数週間前の苦々しい記憶が蘇る。

『ねぇ、どうしよう、よっすぃー』
『どしたのー?』
『保田さんにね、誕生日プレゼントもらっちゃったんだけど……箱開けたら、青汁だったの』
『マジで?』
『うん。粉末のやつ。やっぱ飲まなきゃダメだよね? ねぇ、よっすぃーも少し引き受けてくれない、かな』
『やだよ』
『そんなこと言わないで…ねぇ、少しでいいからお願い』
『やだって。どっかそのへん放置してれば? ほっときゃそのうち賞味期限きれるって』
『期限切れたら飲めないじゃん』
『だからー、保田さんに聞かれたらさ、大事にとっときすぎて賞味期限切れちゃいましたよぉー、って。なっ?』
『そんな……』
あのときの、彼女の傷付いた表情…今でもはっきり憶えてる。
なのにあたしは、それに気付かないフリをしたんだ。

「梨華ちゃん……」
青汁の一件で、梨華ちゃんがココまで悩んでいたなんて……それなのに、あたしは。
人の誕生日にとんでもないモノをプレゼントしてしまったコードネーム保田圭にも非が無いとは言えないが、
コレは間違いなく彼女の悩みに気付いてあげられなかった、あたしの責任だ。
保田さんを恨むのは、とんでもないお門違いってモノ。

「チャーミー」
決意して、あたしは言った。

「その…コードネーム青汁、あたしが全部引き受けるよ」
「引き受けるって…どうする気なの?」
怯えたような目であたしのコト見てるチャーミーに、あたしは、
「毎朝飲む」
キッパリと言い放った。

「嘘でしょう……」
「嘘じゃない」
呆然と立ち尽くしてる彼女の手から箱を抜き取ると、あたしはその中からスティックタイプの袋を一つ取り出した。

「やめて! あなた……泣くわよ! 脅しなんかじゃないわ、本当にマズイんだからっ!」
「ははは。大げさだなぁ、チャーミー。梨華ちゃんや矢口さんならともかく、ひとみはそんなコトで泣いたりしないぞう?」
だいじょうぶ。コレはすごく体にいい飲み物なんだ。ある意味、画期的な新薬なんだ。
自分に言い聞かせながら、ハサミを入れる。
グラスに粉末を落として水をたっぷり注ぐと…ドロリとした、毒々しい緑色の液体が完成した。

「うっ…!」
グラスに口を付けようとした瞬間、あたしは思わず鼻をつまんだ。
息をすると匂いまで一緒に吸い込んでしまいそうで、息も止めた。
しかし口を閉じたままではいつまで経っても飲めないじゃないかというコトに気付いたので、
あたしは呼吸を止めたまま口だけ開けた。

「教えて」
「えっ? あーぅ、ぅぇぇ…!」
話しかけんな! 息吸っちゃったじゃねーかよっ!!

「ごほっ、ごほっ……な、に?」
コードネームAOJIRUの臭気を一気に吸い込んでしまってむせながら、目の前の彼女に問う。

「私のために、あなたはどうしてそんなことができるの?」
どうしてだろ?
なんて、シラジラしく自分に問いかけてみるけど…考えるまでもなく、答えはとっくにわかっているワケで。

「愛してるから」
あたしは目を閉じて、それを一気にあおった。

ゴク、ゴク、ゴク、ゴク、ゴク。
途中で何度か意識を失いそうになりながらも、あたしはどうにか最後まで飲み終えた。
「ふぅ…」
はじめての味は、言葉にするのはとても難しいけれど、あえて言うなら…
コレで健康になんなきゃ、間違いなく犯罪。そんな味だった。

「大丈夫?」
グラス持つ手をだらりと垂らしたまま放心状態のあたしを、チャーミーが覗き込む。

「んっ? てゆーかぜんぜんオイシイじゃん。もぅ大げさだからチャーミー」
「すごく涙目になってるけど」
あ、どーりで。
目の前が白くぼやけてるわけだ。

あたしは今にも溢れそうになってる自分の涙を、チャーミーに借りたハンカチで拭った。

「ひとみ」
チャーミーが言った。
「ありがとう」
「いいえ。どういたしまして」
すると昨夜からずっとオドオドしてビクビクして何かに怯えていたチャーミーがはじめて、笑ってくれた。

「チャーミー」
肩にそっと触れると、彼女は顔を上げた。

あたしの唇が彼女の唇へあとほんの数センチの距離まで近づいたトコロで、
「ひとみ」
鋭い声があたしを制する。
「歯、磨いてからにして」
「………」
チャーミーわかってる?
吉澤フットサルひとみは他の誰でもないキミのために、青汁イッキしたんだよ?

「チャーミー、お待た、せ……あれっ?」
念入りに歯みがきして戻ってみると、キッチンに彼女の姿は無かった。

「チャーミー?」
部屋に入ると、窓辺に佇むチャーミーを発見。
「あっ、ヨッスィー」
あたしを見つけて、彼女が微笑む。どこか儚げな、あたしの知らない梨華ちゃんのカオ。

「梨華、ちゃん?」
たぶん違うと思う、けど、半信半疑のまま尋ねてみる。

「火星行きロケットの最終って、何時でしたっけ? わたし、昨日デニーズに携帯置き忘れてきちゃって」
「梨華ちゃん……」
6年後の未来にドラえもん風ロボットが発売されるコトがめちゃめちゃうれしい気持ちはよくわかるけど…
夢、広がりすぎだよ……。

「もぅ、梨華ちゃんじゃないったら。リカッチ、でしょ?」
「そっか。ゴメン」
忘れてたんじゃなくてホントは、恥ずかしいから口に出したくなかっただけなんだけど。
石山さん、って呼んでも怒るかな、やっぱし…。

「あっ。ひょっとして今の時代だと、羽田にロケット用の滑走路ってまだ無いんでしたっけ?」
「うん…無いね、まだ」
「あぁー、そうなんですかぁー」
ってゆーか、ロケット飛ばすのに必要なのは発射台であって、滑走路は要らないと思うんだけど…
あたしもそんなにアタマの良い方ではないので、たぶん、としか言えないけど。

いや待てよ。確かに離陸時は発射台だけど、着陸んときは滑走路いるんだっけ?

「どうしよう携帯。ねぇ、どうしましょう。どうしましょう、ヨッスィー」
「ちょっと、落ち着いてよ石山さん」
さり気なく呼んでみた。
「リカッチですっ」
そしてあっさり訂正される。

「落ち着いてよ、リカッチ。リカッチがデニーズに携帯忘れたのって、未来の昨日でしょ?
だったら仮に今ココで火星行きのロケットに乗ってデニーズ行ったって、リカッチの携帯は無いよ。
だって今はさ、リカッチがデニーズに携帯忘れたのよりもずっと昔の世界なんだからさ」
あたしは無理にテンションを上げながら、力説。
今ココでバカバカしいとか我に返ってしまったら、負けだ。そんな気がした。

「あっ。そっか、そうですよね! やだもぅ…いっつもそう。わたしって、こういう状況になるとすぐテンパっちゃうんですよね」
「うん…わかるよスゴク」
リカッチの場合もチャーミー同様、梨華ちゃんの梨華ちゃんによる梨華ちゃんらしい部分が
ふんだんに散りばめられていて、なんだか泣きそうになる。

「あ、ねぇ、おなかすいたよね? お昼、何か作ろっか」
「そうですね。わたしも手伝います」
ってゆーか、キミの家だからココ。
ともあれ、あたしたちは支度をしてスーパーへ買い物に行くコトにした。

「そうだ。リカッチ、野菜しかダメなんだよね。なに食べたい?」
スーパーへ向かう道すがら、彼女に尋ねる。
リカッチこと石山梨華さんの住む2010年の世界では、法律で狩猟が禁止されてるとのコト。
ベジタリアンとなると、口にできる料理がかなり限られてくるからなぁ…。

「焼肉」
「えっ」
肉はいいのか…!

「へ、へぇ…」
魚獲っちゃダメだっつーから、てっきり肉もだと思い込んでたよ! っつーか普通そう思うだろ!?
可哀想だから獲んのやめたっつったじゃん! じゃ牛は!? 豚は!?

「や、焼肉か…ちょっと重いけど、いっか。リカッチ貧血ぎみだしね。昨夜も、」
「あっ。見て見て、ヨッスィー!」
「おい」
ハナシ聞いちゃいねーし。

「あの得体の知れない生き物はなに!? やだ怖いっ、怖いわっ!!」
「え……ネコじゃん」
「嘘!? だってあのネコ二足歩行じゃないし、体だって青くないし鈴もつけてないし…第一、耳があるもの!」
「………あー、なるほど」
リカッチにとって、ネコ型ロボット以外のネコは…ネコじゃないんだ。

「…っ、うぅ、っ…」
「えっ? どうしたの、ヨッスィー? どうして泣いているの? お昼、焼肉じゃなくてヨッスィーの好きなモノでいいよ?」
そうじゃない、そうじゃないの、リカッチ…。

「見て見て。あのコ、チワワですよねっ。かわいいなぁ」
「うぅぅ…っ」
犬はいいのか…!

「あの、本当に、わたしは何でも構いませんから」
「…ぐすっ、っ…」
梨華ちゃんたすけて。

この人を、愛せる自信が無い。

<第三話> リカッチの場合。

「リカッチぃー」
キャベツを切りながら、彼女に呼びかける。
「ねぇー、お皿出してー」
が、返事は無い。
あたしは手を止め、まな板の上に包丁を置いた。

「リカッチ?」
あたしが呼んだの、聞こえなかったのかな…テレビでも観てるんだろうか。

「えっ!?」
彼女の様子を窺おうと部屋へ入るなり、あたしはびっくり。慌てて駆け寄る。
座ったまま、気を失ってるのかリカッチは両腕をだらりと垂らし、ベッドにもたれてぐったりしている。

「リカッチ! リカッチ!」
抱きかかえて何度か揺さぶると、彼女の瞼がぴくりと反応した。

「リカッチ?」
「よっすぃー…」
目を覚ましたもののまだぼーっとしてる様子のリカッチが、少し掠れた声で呟く。

「だいじょうぶ?」
「うん…」
あたしの問いかけに、戸惑いがちに頷くリカッチ。
よかったぁ…あたしは深ーいタメイキ。
昨夜初めて会ったときにも彼女、貧血起こしたりしてたし…
リカッチになってるときの梨華ちゃんは、なんだか危なっかしくて心配になる。

チャーミー、リカッチ、横浜さん。
三人の人格たちはそれぞれ、梨華ちゃんの抑えきれなくなったストレスが生んだ存在。
だとしたら…たった今あたしの腕の中にいる彼女は、一体なにを抱えてるっていうんだろうか。

「どうしたんだろ、あたし…」
「例のアレじゃない? タイムスリップするとよくある、って」
あたしは、まだ不安そうな顔してるリカッチに向かって言う。

「タイム、スリップ?」
目は覚めたもののアタマはまだ完全に覚めていないのか、リカッチはキョトン顔。
「リカッチ、自分で言ってたじゃん」
タイムスリップの後にはよくあることだから心配ない、って…
もしかしてこのヒト、昨夜自分で言ったことキレイさっぱり忘れちゃってるんだろうか。

「ねぇ、よっすぃー」
こめかみの辺りを指でぐりぐりと揉み解しながら、リカッチが言う。
「リカッチ、って?」
あたしを見つめるリカッチの表情は、真剣そのもの。

「……は?」
言った後で、ハッとする。
もしかして、梨華ちゃん……

「ふふ…そっか」
独り言みたく言って、梨華ちゃんが意味ありげに微笑む。

「ホントはそんなふうに呼びたかったんだ、よっすぃー」
「まさか」
んなワケねーだろっ。誰が好き好んであんな恥ずかしい呼び方…!

「リカッチだって。なんか懐かしいかも…んふふ」
間違いない。
今の梨華ちゃんはチャーミーでもリカッチでも横浜さんでもなく、元の”石川梨華”に戻ったんだ。

「ちがっ、ちがくてさ」
今あたしの目の前に座ってる梨華ちゃんはリカッチではなく、いつもの”石川梨華”なんだ。
それに気づかずあたしは、いつもの石川梨華の前で何度も何度も”リカッチ”と…恥ずかしい、ってゆーか恥ずかしすぎ。

「聞き違いだよ。リカッチなんて一言も言ってないもん。ピカチュウって言ったんだもん」
あたしはとっさに、思いつく限りの言い訳。
「えーっ、ピカチュウってそれ無理あるー」
確かに。
いくらとっさのひとこととはいえ、無理がありすぎたか。

「リカッチ、か…よっすぃーが言うとなんか新鮮」
「だからあー、ちがうって」
消えたい。消えて失くなりたい。
ちきしょー…飯田さんのコト”カオリン”って呼ぶのとはワケが違うんだからなっ。桁違いに恥ずかしいんだからなあっ。

「ねぇ、なにコレ……焼肉、するの?」
”リカッチ”の件で赤面するあたしをよそに、テーブルの上に準備された焼肉キットに気付いた梨華ちゃんが言う。

「あぁ…う、うん。そう」
梨華ちゃんの問いに、あたしはなんとも歯切れの悪い回答。

「梨華ちゃんが寝てる間にさ、買い物行ってきたから。ほら、梨華ちゃん貧血ぎみでしょ? だから」
「…そっか」
梨華ちゃんはそう答えつつも、やっぱり腑に落ちない、って表情。
確かに、朝起きたときには普通だった梨華ちゃんが意識を失ってから既に数時間が経過して、今はもうお昼過ぎ。
貧血でぶっ倒れてたにしては少し状況がおかしいって彼女が不審に思うのも当然といえば当然、なんだけど…
でもあたしは、真実を告げるつもりは無かった。
だって、ただでさえストレス抱えてる彼女にこれ以上余計な心配、させるワケにいかないもんね。

「ねぇ、こっち焼けてるよ? よっすぃー」
「うん…」
カルビを勧めてくれる梨華ちゃんに、あたしは生返事。
おなかは空いてるハズなのに、どういうワケか食欲が湧かない。
はぁ…ホットプレートの上ですっかりシナシナになったキャベツを箸でいじくりながら、あたしは小さくタメイキ。

「よっすぃー、どうしたの?」
向かいに座る梨華ちゃんが、怪訝そうにあたしのコト見てる。

「あのさ、梨華ちゃん」
あたしは箸を止め、
「なに?」
「なんか、あった?」
上目使いで、恐る恐る尋ねる。

「…なんで?」
梨華ちゃんは不自然に視線を逸らすと、ごまかすみたく、あたしの器に焼き上がった肉とか野菜とかを乗っけた。

「いや、べつに」
なんかあるんだったら言ってよ。
口に出そうとして、やめた。

なんもない、ワケがない。だったら梨華ちゃんが、あんなふうになるハズないんだから。
って、解っちゃいるけど……
誰かに話すコトで楽になれるなんて、どんなときでも本当にそうとは限らない。
もし、誰にも話したくないくらい辛いコトなら、無理に聞き出すのは逆に彼女を傷つけるコトになりはしないだろうか。

「今日さ、泊まってっていい?」
「今日も、でしょ?」
楽しそうに笑う。
それはあたしの知ってるいつもの笑顔でちょっと安心したけど、だけど反対に、もっと心配になった。
だってリカッチがときどき見せる寂しそうな笑顔は、紛れもなく梨華ちゃんの中で生まれたモノなんだから…
あたしが知らないだけで、彼女はあたしの前でいつも無理に笑ってるだけなんじゃないかなんて、思えてくる。

「明日早いからさあ、帰んのメンドいし」
「無理しちゃって。帰りたくないんだったらそう言えばいいじゃん」
「無理とかしてないもん」
「してるよー。そんでさっ、呼びたいんだよねリカッチって。絶対そう」
「してないっつーの。ってゆーかリカッチとか死んでも呼ばないから」
「うっそぉ、呼んでたもんさっき」
やっぱり梨華ちゃんはすごく楽しそう、に、見える。
けどホントんとこはどうなの?なんて、あたしはつい疑ってしまう。

無理しなくていいよ。なんかあるんだったら言ってよ。
そんなふうに、口に出したくてたまらなくなる。
だってあたしは彼女のコト、なんにも解ってない。
梨華ちゃんが胸に抱え込んでる何かについて彼女の口から直接聞き出さない限り、あたしには到底、解りっこないんだ。

――

「やっぱり、昔は食器ひとつ洗うのも面倒だったんですねぇ。そう考えると昔の人って、ホントすごいなって思うんですよね。
ほらいつもはわたし、自動食器洗い機で洗っちゃうから…。
あ、自動食器洗い機っていうのは、食器の洗浄から乾燥までの工程を全自動でやってくれる機械なんですけど」
あれから昼食を終えるとすぐ、梨華ちゃんは再びリカッチに戻ってしまった。
で、彼女はさっきから、あたしがせっせと皿洗いする様子を興味深そうに傍観しているってワケ。

「食器洗い機なら、今の時代にもあるよ」
ただ、この家に無いだけで。
そう続けようとして、あたしは言葉を飲み込んだ。
言っちゃいけない、ひとみ。
この部屋を否定することは同時に、石川梨華そのものを否定することになるのだから…。

「あぁー、そうなんですかぁー」
リカッチはよっぽど感心したのか、そうなんだぁ、とか言いながらしきりに頷いている。
そこであたしは思った。
普段は機械オンチの梨華ちゃんだが、実は食器洗い機が喉から手が出るほどものすごく欲しいんじゃないだろうか。
しかし機械オンチであるが故に買っても使い方がわからず一生使わずに終わるのが目に見えてるから買えない、とか。

「そうだったか…」
よし。来年の梨華ちゃんの誕生日には、全自動食器洗い機をプレゼントしよう。
そして使い方もちゃんと教えてあげよう。うん、そうしよう。

「でも、この水道…スイッチが二種類しかないんですね。
こっちの、ブルーは水でしょ? もう一つの、ピンクは何ですか? ピーチ?」
「ハイ?」
ピーチ、っつったか今?
聞き間違いでなければ、確かにそう聴こえたのだが。

「ピンクはお湯だよ。お湯に決まってるでしょリカッチ。他に何があんの」
「ええっ!? この水道、ジュース出ないの!?」
小学生か。
「うん…出ないね、まだ」
「あぁー、そうなんですかぁー」
気持ちはわかる、気持ちはわかるが……夢の未来予想図が、ほとんど小学一年生並だよ石川さん。

「けど、なんか楽しそうだよね。リカッチが住んでる、未来の世界ってやつ?」
あたしが言うと、リカッチは意外にも浮かないカオ。
「…どうかな。わたしは」
そして彼女は、例の悲しげな微笑を浮かべて言った。

「ほんの少しだけ昔に、ただ、戻りたかったんです」
どういう、意味…?

「だから、ココへ来たの?」
あたしが尋ねると、リカッチは、こくん、と頷いた。

「でも、わたしが行きたかった場所は、ここではないような気もしているんです。
もう、自分がどこへ戻りたかったのかも、わからなくなってしまって」
リカッチが言ってるコトは、梨華ちゃんのストレスの原因と深く関係している、コトまでは解るんだけど…
相変わらず情けないけどあたしには、それが何なのかって言われるとさっぱり見当がつかないワケで。

「ううん。始めから、」
困惑するあたしに構わず、リカッチは淡々と続ける。

「過去にも、未来にも……どこにも、わたしの居場所なんて無いのかも知れない」
相変わらず意味は解らないままだったけれど、ただ悲しくて、あたしは泣きそうになった。

無理しなくていいよなんかあるんだったら言ってよ、ねぇ、お願いだから。

誰より大切に想ってるハズなのに。
なのにどうしてあたしは彼女のコト、なんにも解らないままなんだろう。

――

「いっただっきまあーっす!!」
両手を合わせて、元気よく言う。

「んー、いいにおい。フワフワしてますねえ。おいしそう…」
目の前に置かれたそれを見つめながら、彼女は満面の笑み。
パチンと小気味良い音をさせて箸を割ると、はじっこの方を一口大に切り分けてパクつく。

「おいしい?」
「んー」
あたしの問いかけに、彼女はてきとーなお返事。
さっきから、食べるのに夢中ってカンジであたしの顔をろくに見もしない。
にしても…ついさっき焼肉食ったばっかだってのに、よく入るよなぁ。
人格が変わると、満腹感までリセットされちゃうんだろーか。

「ふぅ」
残りがちょうど半分ほどになったところで、彼女は箸を置いた。
けれどきっと食べ残すワケではなく、ひと休み、といったトコなんだろう。

「あれっ? よしざわさん、たべないんですかあ?」
今ごろ気付いたか。ったく、どんだけ夢中になってたんだよ…。
「うん。あたしはいいや」
内心ムカつきながらも顔には出さず、あたしはニッコリとお返事。
彼女と喋ってると、あたしってつくづく大人だよなぁと実感する。

「なんでー? おいしいのにぃ」
不服そうに言いながら、彼女は早くもお食事を再開中。
「食欲ないから」
不満顔の彼女に、あたしはきっぱりとお返事。
ただでさえ今日は食欲ないってのに、肉食った直後にんなモン食えますかっつーの。

「あーん」
彼女は身を乗り出し、食べさせようとあたしの口元にそれを差し出した。
おハシに挟まれて、それはまるでお好み焼きのように見える。

「ほらっ。あーん」
彼女が急かすんで、仕方なくあたしは口を開けた。
メイプルシロップの甘い香りが、口いっぱいに広がる。

「ねっ? おいしいでしょ?」
「…うん」
思えば、パスタですら家では箸で食べていた梨華ちゃんだった。
そう考えるとなるほど、横浜さんがホットケーキ食べるのに箸を使うのも頷けるが。

「よしざわさんて、おりょうり上手なんですねえ。おっきくなったらー、あちきのおよめさんにしてあげます」
ほう、それはそれは。ノンキにどーも。ありがとーございます。

「横浜さんも料理ぐらい練習しといた方がいいよ。お嫁に行けなくなっちゃうから」
「あちきは、いーんです。だってよしざわさんがいっしょにいてくれるから」
横浜さんは照れくさそうに言うと、ごまかすみたく再びホットケーキにパクついた。

「おハシってえらいですよねえ。ラーメンもスパゲッティもおみそ汁もゴハンも、それからホットケーキもカレーライスも、
おハシがあればみーんな、たべられるもん」
「そうだね」
知らなかったよ、梨華ちゃん…まさか、カレーまで箸で食べてたなんて。

「おハシだいすき。よしざわさんのつぎに」
「あっそ」
なぜだろう…そんなモノに勝っても、まるでうれしくないんだが。

「もーっ、いーです。よしざわさんより、おハシのほうがずっとえらいもん。あちきはおハシがイチバン好きです。よしざわさんは2バンですっ」
「なっ!?」
なぜだろう…あんなモンに勝ってもまるでうれしくはないが、負けたとなるととてつもなく口惜しい。

「だったら言わせてもらうけど、おハシで何でも食べれると思ったら大間違いなんだからな。
シチューとかビーフシチューとかココナッツミルクとか、食えるモンなら食ってみろよ」
フフン。あたしは勝利の笑み。
あたしのカンペキな理論武装に、さすがの横浜さんも”参りました”ってなご様子。
彼女、ぽかんと口あけてあたしのコトじっと見てる。

「よしざわさん……おとなげない」
「………」
確かに。

「いいから早く食べなよ。冷めちゃうよ?」
「あいっ!」
いつものように元気よく答えると、横浜さんは再びあたしの作ったホットケーキに夢中になった。

「んーっ。おいしい」
「あたしとどっちが好き?」
「んー、と……よしざわさんです」
「悩むなよ」
けらけらと楽しそうに笑う、横浜さん。
その笑顔に、リカッチの寂しそうな横顔が重なる。

(『ほんの少しだけ昔に、ただ、戻りたかったんです』)

結局、その言葉の意味はわからないまま、リカッチはまたすぐに眠ってしまった。
それからあたしは心配する間も考える暇も与えられず、覚醒した横浜さんに命じられるがままホットケーキを焼いたのだった。

「やっぱり、よしざわさんがイチバンです」
「あっそ」
「だって、ホットケーキはホットケーキでしかないけれど、あちきにとってよしざわさんはホットケーキでもありぃー、
カレーライスでもあり、それからー、春でもあるのですよ。だから」
「…ふーん」
あたしは思わず目を逸らした。
横浜さんは直球すぎて、なんだかこっちが照れてしまう。

「でー、晩ゴハンは何にしますかあ、よしざわさん?」
「早いなあ」
ったく…あたしが食欲なくすぐらい、こんなにリカッチのコトで悩んでるってのに。
いいよなぁ、このコは…悩み無さそうで。

んっ? 待てよ。
はたと気付く。
悩みが無いワケないじゃんか。
そうだ。彼女がいくら底なしのノーテンキだからといって、悩みが無いワケがない。
リカッチがときどきすごく寂しそうな顔をするように、チャーミーが保田さんにもらった青汁のコトで悩んでいたように、
横浜さんにだって何か悩みがあるハズなんだ。

「オムレツとー、オムライスとー、目玉やきとー、たまごやきとー、スクランブルエッグにたまごスープに、それからそれから」
「横浜さん、あのさ」
「だってすきでしょ? よしざわさん、たまご」
横浜さんは、あたしの問いかけを完全無視。

「はいはい。オムレツね」
「あちきと、どっちがすきですか?」
「あのさ」
今度はこっちがシカトする番。
あたしはまるで何事も無かったかのように、さらりと切り出した。

「横浜さんは、そのぉー、なんか悩みとか…ないんですかね」
「なやみですか。んー、そぉですねえ……」
そう言うと、横浜さんは頭を抱えて考え込んでしまった。

「とくに思いあたることはありませんけれど、しいて言えば、なやみがないことがなやみといえばいえなくもないですねっ」
つまりは、無いワケだな。

「……そーですか。わかりました。ありがとうございました」
いや。無いワケはない、無いハズがないんだ…。

「ねぇねぇ、あちきとー、どっちがすきですかっ」
「はあ?」
「だからあ」
「ああ、そっかそっか」
彼女のふくれっつらを見て、あたしはようやく思い出した。
そっか、さっきの…”オムレツと横浜さんとどっちが好き?”ってやつだ。

「ねぇねぇ、どっちがすきですかっ?」
「タマゴかけゴハン」
あたしは、わざと冷たく言ってやった。

どーだ。
普通に”オムレツ”ではなく、あえて”タマゴかけゴハン”と返すこのセンス…さすがはよっすぃー。
たとえば安倍さんや矢口さんならココで、
『ってゆーかよっすぃー、タマゴかけゴハンとか一言も出てないから! 出てないから!! ギャハハハハ!!!』
とかっつって大爆笑だもんね。
とゆーワケだっ、さあ笑えヨコハマ!!

「あれ?」
けれどあたしの期待とは裏腹に、彼女は箸をぎゅっと握って俯いていた。その肩が、小さく震えてる。

「横浜さん?」
どうしたんだろ? ガマンしてないで笑えばいいのに…。
あたしは身を乗り出して、彼女の顔を覗き込む。

「うそっ」
泣いてるっ!? ってゆーか何で!?

「…っ、ひぅぅ、っ」
「えっ、なんでなんで!? なんで泣いてんの、ねぇ」
しくしくと泣く横浜さんを前に、あたしはオロオロするばかり。

「っ、あち、あちきに、とってよしざわさんは、いち、いちばん、ですっ。なの、にっ、なのに、あちきは。
よしざわさん、にとって、あち、あちき、っ、あちきは、タマゴかけゴハンいか、なん、ですかっ。ひぃ、っ、ぅっ」
「えーっ」
そんな理由ー?
ってゆーかそこは、笑うトコなんですが…。
ときとして冗談を冗談と受け取ってくれないトコ、いつもの梨華ちゃんにそっくりと言えないこともないけど…
いつもの梨華ちゃんはココまで酷くないぞっ!と、思う。たぶん。

「ゴハンに、ナマタマゴ、かけただけじゃないですかっ。せめてっ、せめて、やいてくださいっ。やいてくださいぃぃ、っ、ふっ」
あーあ。やっかいだなぁ、もう…。

「あー、もう冗談だって。横浜さんがイチバンだよイチバン。オンリーワンだよ」
あたしが投げやりに言うと、とたんに彼女は目を輝かせ、身を乗り出した。

「ホントですかっ?」
「ホントです」
「なぜなぜ? りゆうは?」
「え?」
理由だって?

「理由かぁ」
世の中に、恋人とオムレツを比べてみる人なんかきっといない。
それでも、もし、梨華ちゃんとオムレツとどっちが好きかって聞かれたら…
バカバカしいとか思いつつもあたしは当然、”梨華ちゃん”と答えるだろう。
だけど、”当然”って言うからにはそれなりの理由があるハズで……
なのにその理由をちゃんと説明できないコトに、たった今あたしは気がついた。

(『だって、ホットケーキはホットケーキでしかないけれど、あちきにとってよしざわさんはホットケーキでもありぃー、
 カレーライスでもあり、それからー、春でもあるのですよ。だから』)

あたしは、彼女のためにホットケーキを焼く。もちろん、ご希望とあらば、カレーライスだって。
梨華ちゃんは、『あんまり上手じゃないけど…』なんて言いながら、あたしのためにオムレツやらハムエッグやらを作ってくれる。

「横浜さんは、あたしにとってオムレツでありオムライスであり、タマゴかけゴハンでもあり、それから…春?でもある、から」
あたしが出した答えは単なる彼女の受け売りで、オリジナリティーも何もあったモンじゃないけど…
横浜さんが言ってくれたコトは、どんなコトバよりもしっくりくるって、あたしは思ったんだ。

「よろしいっ! なんちて」
えへへ、と横浜さんが、照れたように笑う。

「そういやぁさ、よく知ってたね。あたしがタマゴ好きなの」
「あいっ。れいぞーこに、いっぱいはいってました。だから」
「ってゆーか」
キミんちだからココ。
藤本ばりにツッコもうとして、あたしはハッとした。

「そっか」
急にうれしくなって、するといきなりおなかが空いてきた。
そうだといいな。や、ぜったいそうに違いない。
梨華ちゃんちの冷蔵庫に、横浜さんがあたしのことタマゴ好きだとわかるぐらいいっぱいのタマゴが入ってたのは…
泊まりに来るあたしのために、彼女が用意しておいてくれたから。

世の中に、恋人とオムレツを比べてみる人なんかきっといない。
それでも、もし、梨華ちゃんとオムレツとどっちが好きかって聞かれたらあたしは当然”梨華ちゃん”って答えるし、なぜってそれは、

オムレツはオムレツでしかないけれど、恋人はオムレツでありオムライスであり、タマゴかけゴハンでもあるからだ。
それからオムレツやらオムライスやらハムエッグやら、いろんな好きなモノをどんだけかき集めたって到底敵わないぐらい、好きだからだ。

「あちきはー、よしざわさんのコトなら、なんだってしってるんです。だってイチバンですから。ねっ?」
「あっそ」
「もぉーっ!」
ふくれっつらの彼女を見ながら、あたしは楽しくて笑った。
リカッチのコトで悩んでたあたしが、横浜さんに励まされるとはなぁ…なんだかフクザツだけど、まいっか。

「ん? どこいくんですか?」
横浜さんがあたしのコト何だって知ってるように、あたしもキミやリカッチのコト、もっと解れるようにがんばるよ。
「もう一枚、焼いてくる」
その前に、まずは腹ごしらえをしよう。

――

「よしざわさんよしざわさん」
「んー?」
ホットケーキを頬張るあたしは、口をモゴモゴさせながら答える。

「あちき、なんだかねむたくなってきました」
そう言う彼女は、ホントにすんごく眠そうなカオ。
首を縦にコクコク揺らしながら、鉛みたく重そうなまぶたと必死に格闘しているものの…今にも負けそう。

「じゃ寝る?」
寝る?ってゆーか、すでに99%眠ってますみたいなカオしてるけど…一応、聞いてみた。

「…あい」
彼女はあたしの問いかけに、夢の中からかろうじてお返事。
その揺れっぷりはすでに、大荒れの海に投げ出された笹舟のよう。
っつーかいつまでも揺れてないでとっとと寝りゃいいのに、と思いつつ眺めていると、彼女がゆっくり顔を上げた。
トロンとした目ですごく眠そうなのは、相変わらず。

「よしざわさん」
「なに?」
「そばにいてください」
ぽつりと言う。

「いるじゃん」
あたしが素っ気なく言うと、横浜さんは唇をとがらし、拗ねたような表情。
上目使いにあたしの顔を見て、何か言いたそうにしてる。

「あ、もしかして一緒に寝てほしいとか?」
あたしの問いに、横浜さんは両手をもじもじさせて俯くばかりで何も答えない。
もしや、図星か?
だとしたら、まったく……ホント甘えんぼだなぁ、このコは。

「……ひざまくら」
「ハァっ!?」
予想外の回答に、思わず裏返ってしまう。

「ダメですかっ」
さっきまでのおねむ顔はどこへやら、横浜さんはいきなり身を乗り出し目をうるうるさせて懇願。

「いや…ダメじゃない、けど」
シロップたっぷりの、あまーいおやつが終了したと思ったら…今度はひざまくらですか。
想像を絶する甘えん坊ぶりだな、コレは。

「じゃあじゃあっ!」
「待ってよ。まだ食べてんだから」
「じゃあ、はやくたべてくーださい」
しゃあしゃあと言う。

「ワガママだなぁ」
「そんなあ」
「なんで照れてんだよ」
今わかった。
彼女、誰かに似てると思ってたら…
バカていねいな喋り方といい、ワガママな性格といい、それからそれから、

「だってー、あちきはワガママなんでしょ?
そんでもってー、よしざわさんがあちきのワガママをかなえてくれるのは、よしざわさんがあちきのことだいすきだからでしょ?」
「タラちゃんかおまえは」
何でも自分に都合よく解釈するトコとか、ホントそっくり。

「はやくはやく。だって、も、ねむ…」
消え入りそうに言いながら、彼女は再び舟を漕ぎ出した。
陽だまりで、立ったままうとうとしてるときの猫ってこんなカンジ。
すごく気持ちよくて、でも眠っちゃうのはもったいない、って心境なんだろーか。陽だまりの猫も、それから、今の横浜さんも。

「ふたつに、ふたつに…」
「ん? なんか言った?」
寝言かな?

「ふたつに、おってたべれば…はやくたべられます。みっつにたためば、もっとです」
「………」
せっかくのオフだってのに。
おやつをゆっくり楽しむコトすら許されんのかあたしには。

「はあっ…」
タメイキをひとつつくとですね、幸せが一コ逃げてくらしいんですよ!
って、小川がいつか言ってたっけなぁ…。

なんでオガワぁ、息はなるべく吐かないようにしてるんですけどー、んでもずっと吸ってばっかってワケにいかないじゃないですかあ。
だからですね、三回吸って一回吐くようにしてんですよ。吸うのより、吐く方を少なくしてるの。
まぁそれでも結局、三回に一回は幸せ逃してるコトになるんデスけどねえ。
あれあれ?ちょっと待って?三回と一回だから、合わせて四回か!ってコトは四回に一回ってコトになるんですかね!
でもまぁどっちにしても、人間って呼吸してる限り、つまり生きてる限りはずっと、幸せにはめぐりあえない運命なんですかねえ。

ねえ、吉澤さん…そう呟いた小川があまりに思いつめたカオしてたんで、あたしは先輩らしく一言、
呼吸とタメイキは別で勘定していーんじゃねーの?
って助言してあげると、彼女はまさに目からウロコって表情で、
あ、そっか!そうじゃん!そうですよね!はあ〜っ。よかったあ〜っ。はああ〜。よかったマジで。はあ〜〜。
その瞬間あたしは、いやそれタメイキ、今のは完全にタメイキだよ麻琴!って思ったけど可哀想だから言わないでおいてあげたのに、
藤本のやつが、
てゆーか言ってるそばからタメイキだよね今の。
なんて余計なツッコミ入れるモンだから、せっかく立ち直ったのに小川のやつ、その日は一日じゅう凹んでたっけ。

…って。
なにやってたんだっけ、あたし。

「よっつ、いつつ、……むっ、つ、なな、つ…」
なんだなんだ? 羊でも数えてんのか?

「あ」
そうだ思い出した。ホットケーキ、早く食えって急かされてたんだっけ。

「ここの、つ、…とーぉ、」
ったくしょーがないなあ。
既に寝言と化してる横浜さんの助言どおり、あたしはお皿に半分ほど残ったホットケーキを
さらに半分に切り分けて二枚重ねにし、大口開けてパクついた。

「!」
しかし思った以上に頬張ってしまい苦しかったので飲み込もうとして、詰まった。くっ、くるしい…っ!
そばにあったマグカップを引っつかみ、一気に飲み干す。しまったコレはミルクココア(ヨコハマさん仕様)じゃないか。あっ、あまい…っ!

意識が、遠のいてゆく。

――タメイキをひとつつくとですね、幸せが一コ逃げてくらしいんですよ。
――てゆーか言ってるそばからタメイキだよね今の。

楽しかった思い出が、走馬灯のよーにアタマの中を駆け巡る。

「はあ〜…」
とりあえず、ホットケーキ喉に詰まらせてご臨終って事態は避けられたらしい…
あたしは思わずタメイキ。しあわせが、またひとつ逃げてったよーな気がした。

「あはははは。よしざわさんたら、あわてんぼうですねえ」
「てめえっ…!」
よくもヌケヌケとっ…誰のせいだと思ってやがんだよっ。

「あはははは。よしざわさんたら、なに泣いてるんですかぁ」
「………」
麻琴の言うとおりだ。
人間はきっと生きてる限りずっと、幸せにはめぐりあえないんだ。

「…ーっ、すぅ、すぅ」
規則正しい寝息が、あたしの、おなかのあたりから聞こえてる。
あたしのひざを枕にして、彼女はぐっすり眠ってる。
ひざの上にちょこんと添えられた彼女の手を、あたしはそっと握った。

「梨華ちゃん」
彼女を起こさないように、小さく呼んでみる。
最後に会ったのは、ほんの数時間前。
なのにもうずっと長い間、その名前を呼んでないような気がする。

今朝あの一件が解決してから、チャーミーは一度も姿を現していない。
チャーミーって存在が梨華ちゃんの中で生まれたのは、恐らく保田さんにもらった青汁が原因。
だとしたら、あたしがそれを飲むことで彼女の中に潜んでたストレスは消え去り、
チャーミーって存在も彼女の中から姿を消したのかもしれない。

「梨華ちゃん」
早く呼びたい。それから、ずっと呼んでたいよ。
チャーミーでもリカッチでも、横浜さんでもなくて…”梨華ちゃん”、ってさ。
そんな日がホントに来るんだろうか。
あたしに、できるだろうか。

「…っ」
いつの間にかうたたねしてたらしい。
座った姿勢のままだから、眠ってたのはほんの数分ってトコなんだろうけど…なんだかすごく長い間眠っていたような気がする。

「…よっすぃー?」
気がつくと、梨華ちゃんがあたしを見上げてきょとんとしてた。

「ゴメン。起こしちゃったね」
あたしってば目が覚めた拍子に梨華ちゃんの手、強く握っちゃってたらしい。
そのせいで彼女のコト起こしちゃったのかどうかは定かではないものの、あたしはとりあえず謝罪。

「あたし…また?」
梨華ちゃんが、おずおずと尋ねる。
『また?』ってのは恐らく、”また倒れたの?”って意味だろう。
あたしは否定も肯定もできず、ただ曖昧に微笑んだ。

「せっかくお休みなのに、あたし」
梨華ちゃんはそう言うと口惜しそうに唇をとがらし、アヒルさんみたいな表情。
今日が”せっかくのお休み”だって知ってる、ってコトは…今の梨華ちゃん、普段の梨華ちゃんに戻ってるんだ。

「なんでさ。お休みだからゆっくり寝れるんじゃん」
「だって…よっすぃー来てるのに」
あたしの投げ出した足の、ひざ小僧のあたりを指でいじくりながら、梨華ちゃんはブツブツ。

「いいよべつに。あたし来てたって」
「だって」
「いいって」
あたしは、まだ何か言いたそうな梨華ちゃんを遮って言った。
すると彼女は再びきゅっと唇を結んで、アヒルちゃんに逆戻り。

かと思うと、急にくすっと笑って、
「でも、きもちいい」
「ん?」
「ひざまくら」
照れたように言って梨華ちゃんは、あたしのジーンズのひざ小僧をぎゅっと握った。

「梨華ちゃん」
あたしは、再びうとうとし始めた彼女の横顔を見下ろして尋ねる。
「また、寝る?」
眠らないで、って言いたかった、ホントは。

「んー、…あ、そっか。足、きついよね」
「そうじゃなくて。ちょっとだけ」
「なぁに?」
言いながらけだるそうに体を起こしかけた梨華ちゃんを、あたしは待ちきれずに抱きしめた。

「…ど、したの?」
次に目覚めるときは、誰だろう。リカッチ? それとも横浜さん?
それまでもう少しだけ、このままでいたい。

「ねぇ、」
眠ってしまう前に。梨華ちゃんが、梨華ちゃんじゃなくなっちゃう前に。

「よっすぃー?」
少し不安そうな、梨華ちゃんの声。
何か言わなきゃ。もちろん、本当のコトは言えないけど。

「ときどきさ、こーゆーのしたくなんない?」
しばらくして、あたしは言った。だけど彼女の背中に回した手は、まだ緩めずに。

「うん。なるね」
そう言うと梨華ちゃんはあたしの耳元で、くすっ、って笑った。

――

「でも、びっくりした」
「なに?」
オフが明け、仕事へ向かうタクシーの中。
あたしの隣で、梨華ちゃんはいきなり思い出し笑い。

「だってあんなにゴクゴク飲むんだもん。なんか心配になっちゃった」
「あー、アレね」
なるほど。今朝あたしが腰に手を当てて豪快に飲み干した、アレのコトか。

「飲んでみたらさぁ、意外においしかったんだよね」
まったくココロにも無いコトを、よくもしゃあしゃあと言えたもんだ。我ながら感心してしまう。

「梨華ちゃんも飲んでみれば? 無理ならいいけどさ」
あたしは彼女にプレッシャーを与えまいと、あくまでさりげなく勧誘。

「うん。あたしはいいや」
そしてあっさり断られる。

「…あっそう」
ちきしょう。ガマンだひとみ。
言いたいコトは山ほどあったが、あたしは涙をのんで引き下がった。
だって今梨華ちゃんにアレを強要しようものなら、彼女が再びチャーミー化してしまう事態は避けられないのだから…。

はじめてのときはあまりの美味しさについ泣いてしまったあたしだが、二度目ともなるとさすがに慣れたもので、
今朝はうっすら涙ぐむ程度でどうにか乗り切るコトができた。
コレはもしかすると三杯目、四杯目と経験を重ねるごとにだんだん平気になってくんじゃなかろーか。
そしてさらに一週間もすると、なんと三度の飯より青汁だいすき星人になっていたりして。いやそれはないか。

昨日あれから、リカッチは一度だけあたしの前に姿を現した。
ベッドに入ったときには横浜さんだった梨華ちゃんは、あたしが夜中に目を覚ましたときにはリカッチになっていて。
ふいに目が覚めて寝返りを打つと、薄闇の中で彼女と目が合った。

『時計の音を、聴いていたんです』
落ち着いた喋り方、言葉遣い。

『わたしたちがこうしている間にも、針は時を刻んでいるんですよね』
リカッチだと、あたしはすぐにわかった。

『なんだか、眠ることさえ怖くなってしまう』
どうして?って尋ねると彼女は、

『時間は、いろんなものを変えてしまうから』
大げさだよ、ってあたしは言った。
リカッチは、いろんなコト考えすぎなんだよ。
これ以上彼女の口から悲しいコトバを聞きたくなくてついそんなふうに言ってしまったけれど、言った後ですごく後悔した。

『たとえば、この針がひとめぐりしたとき、あなたが今と変わらずわたしの隣にいてくれる保証はどこにもないわ』
何も言えずにいるあたしに構わず、彼女は続けた。

『針がひとつ進むたびに、またひとつ、悲しみに近付くだけなのに。
わたしたちは、そこへ向かってただ歩き続けることしかできない』
彼女が眠りについた後も、目覚まし時計の針の音がやけに耳について、あたしはしばらく眠れなかった。

「間に合うかなぁ」
「平気じゃない?」
そう答えたものの、とくに根拠はなし。
あたしがてきとーに返事したってわかってるんだろう、梨華ちゃんは不安そうに窓の外見てる。
どうやら渋滞につかまったらしい。車はなかなか進まない。
リカッチじゃないけど、こんなとき車が空を飛べたら、渋滞の心配なんかしなくていいのに。

「歩いた方が早かったりして」
運転手さんに気をつかってるのか、梨華ちゃんがあたしに顔を寄せて小声で言う。
ラジオの音に消されて、運ちゃんにはきっと聴こえてない。
うちら二人して、まるでカメの背中に乗っかってるみたいにノロノロと流れてく景色を眺めた。

「すげー。おじいちゃんに抜かされた」
今こうしてる間にも、この景色みたいにゆっくり、でも確かに時間は流れている。
時計の針がひとめぐりしたとき、針がまたひとつ、進んだとき。
考えてみたら、神様でもないあたしたちには、たった1秒先の未来だって読めないんだもんね。
だったら2010年の近未来に車が空を飛んでたって、うちらみんな木の上に住んでたって、
そんなん絶対ありえない!とは、誰にも言えないワケで。
リカッチの言うように、たった今こうしてぴったりくっついてるあたしたちが、明日も変わらずにいられるって誰が言えるだろう?
どっちかが心変わりするコトだって無いとは言えないし、どっちかが何かのはずみで突然しんじゃったりするコトだってある。
だからといって、そんな漠然とした不安が梨華ちゃんのストレスの原因だとも思えないけど…。

「あれぇー? なんでいっしょに来てんのー?」
楽屋へ入るなり、あいぼんがニヤニヤしながら近付いてきた。
コイツ…理由は知ってるくせに、うちらが一緒にご出勤すると決まって同じコト聞いてくるんだから。

「偶然だよ偶然。会ったの、そこで」
そしてその度にちゃんと相手してあげるあたしって、我ながらすごくエライと思う。

「そこってドコぉー?」
「どこってホラ、そこの…駅前?」
「なんだそりゃ」
と割り込んできたのは、のの。
「仲がおよろしいコトでぇー」
あいぼんがニヤケ顔で言うと、二人は満足したらしく、うちらから離れていった。
梨華ちゃんは楽しそうな二人の後姿を眺めているのかいないのか、とにかくぼんやりと突っ立ってるだけで何も言わない。

「梨華ちゃん」
「…えっ?」
どうやら完全にボーっとしてたらしく、あたしが声をかけると、彼女が返事するまでだいぶ間があった。

「具合、だいじょうぶ?」
あたしは周りに聞こえないよう、小声で尋ねる。
もしかして、人格が入れ替わる前兆とかだったりしたら…仕事中にそれはマズイ。ひっじょーにマズイ。

「うん。平気」
ホントかよ…梨華ちゃんのコトだから無理してんじゃないかって心配になったけど、あたしは黙って頷いた。

「見て見て。キューピィィー」
鏡の前。自分の前髪で遊ぶのの。
「ヤバイ! ヤバイよそれ!」
あいぼんはおなかを抱えて笑い転げてる。
何がそんなにおかしいのかうちらにはまったく理解不能だけど、こいつらはいっつもこんな調子でじゃれあってる。
だけど、やれやれ…とか思いながらこんなふうに騒がしい二人を眺めるのもあともう少しの間だけなんだなあと思うと、
二人が楽しそうにしてればしてるほど、あたしはなんだか切なくなる。
騒がしい二人が、いっぺんにいなくなるんだもん。
きっと今まででイチバン、静かな楽屋になるんだろうな。

「梨華ちゃ、」
向かいに座る彼女に飲み物を取ってもらおうと口を開きかけて、あたしはとっさに止めた。
あたしが話しかけようとしたことに彼女は気付いてない。
梨華ちゃんはまるで遠くのほうの景色を見るみたいに、二人の様子をぼんやりと眺めている。
さっきだってボーっとしてたワケじゃなくて、こんなふうに二人のコト見てたのかも知れないと、あたしは思った。
頬杖をつく彼女の横顔に、窓の外をひとり眺めていたときの、寂しそうなリカッチの面影が重なる。

(『針がひとつ進むたびに、またひとつ、悲しみに近付くだけなのに。
 わたしたちは、そこへ向かってただ歩き続けることしかできない』)

もし、そうだとしたら、どうしよう。
だって、あたしにできることはなにもないのに。

「梨華ちゃんさあ」
「えっ?」
一瞬遅れて、梨華ちゃんが答える。

「もしもさぁ、タイムマシンあったらどこに行きたい?」
胸が、チクンと痛んだ。
こーゆーの、試してるみたいであんまり好きじゃない。

「なに? いきなり」
突然の問いに、梨華ちゃんはきょとんとしてる。

「あの二人がいなくなったらさ、うちら……
昔に戻りたいとか、思うのかな」

彼女が微笑む。

「そうかもね」
それはリカッチと同じ、哀しい笑顔だった。

もしも、あたしたちが子供なら、きっと過去になんか興味はなくて。
迷わず10年後とか20年後とか100年後とか、ずっと先の未来に行きたいって答えるハズで。
過去に戻りたいなんて考えるようになったのは、あたしたちのそれなりに長い人生の中でもきっとごく最近のコトだ。

時間はあたしと梨華ちゃんの、いろんなモノを変えてしまう。
辛いことや寂しいことが待ってるとわかっているのにそこへ向かって歩いていくことは、やっぱり、かなしいコトなんだろうか。

ただ、あたしもリカッチと同じだってこと。
あたしは、あたしにできることはなにもないけれど、今すぐ彼女に伝えたくてたまらなかった。

――

もしもタイムマシンがあったら、あたしたちはどこへ行くだろう。
あたしたちが戻りたいと思う場所があるとしたら、それはどこなんだろう。

いっそのコト、悩みなんか一つも無かった子供の頃に戻るのがイチバン幸せなのかも知れない。
あ、でも、梨華ちゃんがいない世界まで戻っちゃうのはヤだな。うん、それはハズせないでしょやっぱ。

さっきからずっと、アタマん中がぐるぐるぐるぐるして落ち着かない。
こんなコトいくら考えたって、何の解決にもなんないのに。

「はぁっ…」
タメイキ。
この三日間であたしが逃した幸せは、数え切れない。
そしてそのたびになぜか得意げな麻琴のカオが浮かぶのが、すげームカつく。

梨華ちゃんが抱え込んでる三つの悩み。
うち一つ目はあたしがなんとかしてあげられるモノだったけど、二つ目は…
理由はなんとなくわかったものの、あたしの力でなんとかできる次元の問題じゃない。
だけどあたしは彼女に、一人で思いつめないでって、あたしも同じだよって、せめてそれだけ伝えたかった。

なのに、どうして。

「やったー! あしたははれだって! ねぇねぇおでかけしましょー、よしざわさんっ」
どうしておまえは、リカッチじゃないんだああ……。

「ダーメ。明日は仕事」
天気予報を見てはしゃぐ彼女に短く答えると、あたしはゴハンをモグモグ。

「えーっ! じゃあ、あちきはおるすばんですかー? つまんなぁい」
つーか、おめーも仕事なんですよ石川さん。

仕事を終え、帰宅したあたしたちはちょっと遅い晩ゴハンの途中。
時刻は10時ちょっと前。メニューは梨華ちゃんが作ってくれるハズだった、オムライス。
”ハズだった”というのは、仕事があったせいか今日は家を出てから帰宅するまで梨華ちゃんはずっと普段の梨華ちゃんのままで
(生真面目な彼女らしいといえば、らしいんだけど……あたしにはそれすらもなんだか痛々しく思えた)、
帰りの車の中であたしのためにオムライスを作ってくれるって言ってたんだけど、帰宅したとたん梨華ちゃんは
横浜さんに変わってしまい、昨夜のオムレツに続き今晩のオムライスも結局あたしが作るハメになったとゆーワケ。

「あぁー、あしたもあさっても、そのつぎもはれるんだぁ。じゃあ、いつかいきましょーねっ」
横浜さんは、一週間のお天気をチェックしてはしゃいでる。
やれやれ…ノーテンキだなぁ、相変わらず。

「はぁっ…」
「どーしたのですか? よしざわさん、げんきがありませんね?」
「うん…」
「なにかあったのですか?」
「いや…」
あったもなにも、全ての元凶はおまえらだよ……とは、本人を前にしてさすがに言えず。

「横浜さんさぁ」
「あいっ」
「コレ食べたら、寝ない?」
彼女が眠ってくれれば次はリカッチに会える、かもしれない。
ほのかな期待を抱きつつ、でもほんの少し後ろめたさも感じながら、あたしは切り出した。
横浜さんのコト厄介払いするつもりはないけど…リカッチに会いたいから彼女に早く寝てほしいと思うってコトは、結局そーゆーコトだ。

「なぜ?」
横浜さんはキョトンとして、目をパチパチ。
疑うコトを知らない子供のように澄んだ瞳で見つめられて、あたしは思わず言葉に詰まった。

「いや、あー、っと……そろそろ、眠い頃かなぁって」
「ぜーんぜん」
うっ…。

「…あっそう」
しょーがない、気長に待ちますか…ま、そのうち寝んだろ。

「あちきに、はやくねてほしいんだ」
ポツリと呟く。
「えっ?」
沈んだ声、暗い表情。
いつも元気な彼女らしからぬ言動に一瞬キョトンとしてしまったものの、あたしはすぐに後ろめたさで一杯になった。

「よしざわさんは、あちきのこときらいなんだ」
「そんなワケないじゃん、なに言ってんの」
「だって」
そう言ったきり、横浜さんは唇をきゅっと結んで黙り込んでしまった。
ヤバイ、どうやら怒らせてしまったらしい…あたしのせいで、彼女のゴキゲンは大変よろしくない模様。

「ってかさ、嫌いなワケないじゃん。嫌いなんかじゃ、」
言いかけて、もっと別の言い方があるだろって思って止めた。
ちょっと緊張するけど…彼女になら、素直に言える気がした。

「好きだよ」
あたしが言うと、横浜さんは顔を上げた。目にはうっすら涙が浮かんでる。
そっか…黙ってしまったのは怒ったんじゃなくて、泣くのをガマンしてたからだったんだ。

「だってねむくない。あちき、ねむくないんです」
あたしの告白が功を奏したのかようやく喋ってくれたものの、横浜さんはまださっきのコトにこだわっている様子。
彼女は潤んだ目であたしをまっすぐ見つめ、必死に訴えかけてくる。

「わかったよ、もう言わないって。ってゆーかさ、ちょっと聞いただけじゃん」
そもそも考えてみれば、あたしの思惑はともかく表向きには『そろそろ寝ない?』って軽く聞いただけじゃんか…
なのに彼女がなぜそこまで突っかかってくるのか、あたしにはさっぱり理解不能。

「だって、ねむったら、よしざわさんにあえないもん。だから」
「………」
照れくさいコトバを自分で言うのもかなり恥ずかしいけど、他人が言ってるのを聴くのはもっと恥ずかしい。
けど、あたしは素直に嬉しかった。

「そんなにあたしのコト好き?」
彼女が、こくん、と頷く。

「だったら、夢であえるよ」
あたしは言った。

「そっか! ふふ、よかったあ」
梨華ちゃんもあたしも、ホントの気持ち、照れくさいからってわざと難しくしたり遠まわしに言っちゃったりするけど…
いつもこんなふうに、素直でいられたらいいのにね。
そしたら梨華ちゃんだって、ひとりぼっちで悩んだりしなくて済んだのかもしれない。
いつだってあたしが彼女のハナシ、ちゃんと聞いててあげてれば、こんなコトには……

「よっしざーわさんっ」
「……あ?」
ノーテンキな声に呼ばれて我に返ると、横浜さんが小さく首を傾げて不思議そうにあたしのコト見てた。

「たべないんですかあ?」
「あぁ…」
あたしは生返事。
皿の上にはすっかり冷めてしまったオムライスが、あと三口ぶんぐらい残ってる。

「もうちょっとじゃないですかあ。ほらガンバレっ」
「なんだそりゃ」
とっくに食べ終えてノンキにエールなんか送ってくる横浜さんに苦笑いしながら、
スプーンでオムライスの山を切り崩してはみたものの…口に運ぶ気にはなれなかった。
代わりに出たのは、タメイキ。

「よしざわさん?」
「あたし、」
言いかけたあたしと、心配そうにあたしを見つめる横浜さんの声が重なる。

「あたしさ」
こんなの横浜さんに言ったって、彼女にとってはさっぱり意味不明だと思うけど。
だけどこんなの、梨華ちゃんには言えないから。

「誰かが卒業するって日の朝はさ、部屋出んのが嫌でいつまでもグズグズしててさ」
梨華ちゃんには言えない。けど、横浜さんになら言えるコト。

「ライブ中だって、すっげー必死で強がって、泣かないようにガマンしてる。いっつもそうだよ。いっつも、ぜんぜん、弱虫なんだ」
だんだん息苦しくなって、声が震えてくのが自分でもわかる。
あたしは下を向いていて、横浜さんがどんなカオしてあたしのハナシを聞いてるのかはわからない。

「だから、ホントは、昔に戻りたいって、思うコトもあるし、」
言いながら、あたしは泣いてた。

「だっ、けど、どこに、
戻るの、が、いいのか、も、わかん、なくて」

あたしは、梨華ちゃんの前で弱音は吐かないって決めてる。
梨華ちゃんの前では、ぜったい泣かないって決めてる。
だって頼られたいから。頼りにされたいから。
だからこんなコト、梨華ちゃんにはぜったい言えない。

「ごめ…あたし、ワケわかんないよね、ゴメン」
情けない”よしざわさん”の姿に、さすがの彼女も呆れちゃったんだろうか。
相変わらずあたしは下を向いていて、横浜さんは何も言ってくれない。

「よしざわさんっ」
しばらくして、彼女があたしの名前を呼んだ。
しかもこんな状況に置かれながら、いつものノーテンキなトーンは相変わらず。

「……なんだよ」
あたしはやっぱり下を向いたまま、ぶっきらぼーに答える。けど、すぐに自己嫌悪。
彼女にとっては意味不明なハナシを一方的に聞かせたあげく、ふてくされてる自分がどーしようもなく情けない。
冷たくなって崩れかけたオムライスの山が、あたしをいっそう惨めな気持ちにさせる。

「ひざまくら」
「はあっ?」
なんでそーなる。
あたしはとっさに顔を上げ、彼女に泣き顔を見られてしまった。
っつーか……

「うれしそーだなぁ、自分」
顔を上げて初めて見た横浜さんは、完全に笑顔だった。
さっき天気予報見てはしゃいでたときと同じ、くもりのない笑顔ってやつ。

「ほらっ、はやくたべてくーださい」
「んだよ。さっきは寝ないっつったくせに…」
あたしはブツブツ。
ヒトが涙ながらに弱音吐いてるってのに、まるで何も無かったかのように『ひざまくら』はないだろ。アリなの?ないだろふつー。
ってゆーか、してあげるのはべつに嫌じゃないけど…今ココに藤本がいたら絶対『空気読め石川』って言われてるトコだぞ?

「ちがいますよぉ。あちきがぁ、よしざわさんにー、です」
「へっ?」
横浜さんが、あたしに?
3秒ほど考えた。
それって、つまり……

「あたしに、してくれんの?」
「あいっ」
もしかして、なぐさめようとしてくれてるつもりなんだろーか。
だとしたら、なんて単純――。

でも、まぁ………うれしいけど。

「きもちいーですか?」
横浜さんの、というか梨華ちゃんの声が、耳からと、あたしのカラダに直接伝わってくる。

「んー、…いいね」
あたしは目を閉じて、ふわふわ夢心地。

「よしざわさん」
「んー?」
「にやにやしてキモいです」
「キモイとか言うな」
夢気分終了。あたしは目を明けて、寝転がったまま抗議。

「あのさぁ」
「あい?」
「明日行こっか。早起きしてさ」
彼女のハナシによると、明日は晴れるらしいので。

「さんぽ」
短く言って、あたしはまた目を閉じる。

「あいっ!」
あたしは目をつぶっていて、彼女のカオは見えなかったけど…想像はつく。たぶん、完全に笑顔だ。

「ん……」
どれぐらい眠ってたんだろう?
フッ、と、梨華ちゃんの細い指があたしの前髪に触れる。

「よく眠ってた」
彼女が言った。
くすっ。控えめに笑う声が降ってくる。

「疲れていたんですね」
「あ…」
間違いない、リカッチだ。

あたしが起き上がろうとすると、
「いいのに」
まだ寝てていいのに。と、彼女が優しく微笑む。
ノドが乾いたからと言い訳してあたしは冷蔵庫に直行し、水をゴクゴク。

「リカッチ」
部屋に戻ったあたしは、彼女と向き合って座った。
やっと会えた彼女に、ちゃんと、あたしの気持ちを伝えなきゃいけない。

「あたしね、考えたんだよ。リカッチが言ってたコトさ」
「えっ?」
「考えたんだけど…やっぱり、あたしにはどうしてあげるコトもできないってのがわかった」
リカッチが、寂しげに微笑む。

「もう、いいんです。ごめんなさい。わたしが、変なこと言っちゃったから…」
「あたしも同じだから」
あたしは、彼女を遮って言った。

「過去に戻りたいとか、未来に進みたくない気持ちとか…なんてゆーかさぁほら、
夏休み最後の日とかさ、あー初日に戻んねーかなぁとかって思うじゃん?
あとテストの三日前とかさ。三日後にテストあるってわかってるワケでしょ。永遠に三日後来んなとか思うよね」
あたしだって、同じだ。
卒業してったみんなや、辻や加護だって、彼女たちにとっては悪いハナシじゃないのかもしれないって頭ではわかってるけど。
もう何度となく経験したあのときの気持ちを思い出すと、また同じように泣いたり苦しかったり寂しかったり、
繰り返すのかと思うと、どうしたって胃のあたりがズキズキ疼くんだ。

「って、そーじゃなくて。つまりさ」
あたしはコホンとひとつ、咳払い。

「タイムスリップすんのは勝手だけどさ、そんときはあたしも一緒につれてってくんないかな」
「……一緒、に?」
リカッチの声は、微かに震えていた。

「辛いコトとか、たくさん待ってるってわかっててもさ…
どうやったって未来から逃げられないんだったら、あたしは、進んでこうと思ってるんだよ?」
ずっと考えてた。
あたしには彼女が抱えてるモンダイを解決してあげるコトはできないけど、
あたしにできるコトがもしもあるとしたら、それはたったひとつ。

「リカッチと、いっしょにね」
彼女の過去にも未来にも、いつもそばにいることなんじゃないかな。

「ってかさ、デニーズだっけ? 月に携帯忘れたって言ってたじゃん。そんときあたし、一緒にいなかった?」
「内緒」
リカッチが笑う。
それは昨日までとは違うホントに楽しそうな笑顔で、とりあえずあたしはホッとする。

次に目を覚ましたとき、彼女が現れることはもう二度とないかも知れない。
けれど、梨華ちゃんの中から消えることは、たぶんない。
なぜならそれは、あたしたちがこれからもずっと付き合ってかなきゃいけない痛みだから。

「本当はロケットじゃなくっても、頭に装着するタイプの小型回転翼で、月まで行けるんですよ?」
「へぇ」
大気圏まで越えられるたぁ、タケコプターも進化したもんだ。

「でもわたし、スカートはくことが多いから、実際に使ったことはないんですけど」
「そんな理由…」
相変わらずツッコミ甲斐のある近未来だけど……

梨華ちゃんの夢の未来には、彼女とドラえもん。
そして隣にいるのは、どうか、あたしでありますように。

<第四話> 横浜さんの場合。

カーテンを開けると、外はよく晴れていた。
快晴。横浜さんの言ったとおりだ。

グラスに並々と注がれた、アレ。
眩しさに目を細めながら、昇ったばかりの太陽に透かしてみる。
いつものキッチンで飲むソレは、例えて言うなら暗い底なし沼のような色をしているけれど…
朝日の下で飲む今日のコレは、例えて言うなら、よく晴れた日の沼。

「すぅ」
何度も深呼吸を繰り返すものの、なかなか決心がつかない。
だって沼度が若干ダウンしたとはいえそれはあくまで見た目の問題であって、
日に晒そうが晒すまいが、味にはまったく影響が無いコトは百も承知なワケで……
とゆーかむしろ、時間が経つにつれぬるくなるので味は良くなるどころか落ちる一方だと思う。

「いただきます」
あたしは覚悟を決め、一気に飲み干した。
続いて、あらかじめ用意しておいた水をゴクゴク。

「ん……よっすぃー?」
眠そうな声が聞こえて振り返るとベッドの上には、辛く苦い戦いを終えてしかめっ面のあたしとは対照的に、
太陽が眩しいのか半目で幸せそうにまどろむ恋人の姿。

「おはよう、梨華ちゃん」
あたしは、わざとらしく名前を呼んで本人確認。
もし梨華ちゃんが他の人格になっているとしたらぜったい、この呼び名に異論を唱えるハズ。

「…おはよ」
なにしろ寝ぼけてるんで、少々アヤシイが…彼女、あたしが”梨華ちゃん”と呼んだコトに対してあっさりスルー。
ってコトは…たった今ベッドの上でゴロゴロしてる彼女は、普段の梨華ちゃんと考えて間違いなさそうだ。

「……何時?」
「6時」
「なんだぁ」
ホッとしたように言うと、あたしに背を向け布団をかぶる梨華ちゃん。どうやら二度寝する気らしい。
そうはさせるかっ…あたしは、彼女の背後にそっと忍び寄る。
そして一気に布団を剥ぐと、梨華ちゃんはびっくりしたのか寒かったのか、きゃあっと悲鳴を上げた。

「ダメだよ、せっかく起きたんだから」
「だってぇ」
無残に剥ぎ取られた布団を掴んで引き寄せながら、彼女は恨めしそうにあたしのコト見てる。

「ほら、行くよ」
「え…?」
梨華ちゃんがキョトンとするのも無理はない。けど構わず、あたしは続けた。

「さんぽ」
「さんぽ…?」
梨華ちゃんの目が、『どうして?』って言ってる。

「行こうよ。天気いいし」
「………」
梨華ちゃんは何も言わない。けど、目が『めんどくさい』って言ってる。

「んーじゃ、あたし行ってくるわ」
「………」
梨華ちゃんは唇をへの字に引き結んで、なにやら不満げな表情。
コレは…自分が行くのはめんどくさいけどあたしだけ行くのもそれはそれで気に入らない、ってコトなんだろーか。
黙りこくってるけど何か言いたそうにしてる彼女の言葉を、あたしは待った。

「…待ってよ。着替えるから」
やがてあたしが待ちくたびれた頃、拗ねたように梨華ちゃんが言った。

「梨華ちゃんホント寝起き悪いよねー。すっげーキゲン悪そうだったよ? さっき」
ベンチに腰かけると、あたしはコンビニ袋をガサゴソ。
探し当てたホットウーロンを梨華ちゃんに手渡す。
あたしの言葉が気に入らなかったのか、梨華ちゃんはふくれっ面。

「だって、急に散歩しようなんて言うから。昨夜は何も言ってなかったのに」
「言わないよ。だって思いつきだもん。起きたらすっごい天気よかったからさ、外出たいなぁって思ったの」
するとさっきまでムクれてた梨華ちゃんが、ふっ、と笑顔になった。ずっと笑いたいのをガマンしてたみたいに、いきなり。

「でも来て良かった。気持ちいいね」
梨華ちゃんが言った。そのコトバに、もうさっきまでのトゲはない。

「もうちょっと暖かいと良いんだけどね」
言いながら隣を見ると、梨華ちゃんはペットボトルを両手で包み込むようにしながら手を温めてる。
昨日しきりに横浜さんがおでかけしたいって言ってたから、もしかしたら梨華ちゃんもそう思ってるんじゃないかと思って連れ出してみたけど…
早く帰った方が良いかもしれない。もし風邪でもひいたら大変だし。

季節は二月。それもまだ、三分の一を過ぎたところ。春と呼ぶには少し早い。
すべり台とブランコしかない小さな公園には、時間も時間だしあたしたちの他にはまだ誰もいない。

「ねぇ」
ふいに、梨華ちゃんが言った。

「ん?」
ふたりが何か喋るたびに、白い息がふっと立ち上っては空に向かって吸い込まれてく。
それがなんだか面白くて、あたしは意味なく何度も吸ったり吐いたりした。
コドモっぽいとわかってはいるけどいくつになってもコレは、冬がくるとついやってしまうのだ。

「暖かくなったらまた来ようね。あたし、頑張って早起きするから」
「えっ?」
なんか…べつにあらたまって言うコトでもない気がするんだけど。
「あぁ…うん。そだね」
彼女のコトバにほんの少し違和感を覚えつつ、あたしは頷いた。

「あー、そだ、サンドイッチ食べる?」
なんとなく気まずくなってしまい、あたしはとっさに切り出した。
彼女の返事も聞かず、あたしは再び袋をガサゴソ。

「なになになに? あぁーっ! サンドイッチだサンドイッチだっ! ハムサンドですかあー?」
えっ。
ぎょっとして顔を上げると…頬が触れ合うぐらいの距離に、彼女がいた。

「いや……違います、けど」
横浜さん……いつの間に。

「わかった! タマゴでしょタマゴでしょ! タマゴサンドでしょー」
「………」
あまりにも図星なのであたしが何も言えずにいると、彼女はそれを正解と取ったのか(いや正解なんだけど)、
「やったー! ごほうびくださいっ、ごほうび!」
「じゃあ…メロンパン」
「やったー!」
あたしが差し出したメロンパンを、満面の笑みで受け取る彼女。

「よしざわさん、あーん」
「あーん」
あたしが口を開けると、横浜さんもまた同じポーズでじっとゴハンを待っていた。
18歳と19歳の二人が顔を見合わせて、まるでエサを待つヒナ鳥のよう。
あたしは慌てて口を閉じたものの、もう後の祭り。
横浜さんはあたしを見て、くすくす笑ってる。
しまったぁ…てっきり、あたしに食べさせてくれようとしてるんだとばっかり。

「おまえっ…まぎらわしいんだよ!」
「あはははは」
横浜さんが、こらえきれずに爆笑する。てゆーかそもそもこらえるつもりなんかサラサラ無いんだろうけど。

「「あーん」」
結局、エサはヒナ同士お互いに与え合うことで落ち着いた。
ヒナからヒナへ。
結論。親はなくとも子は育つ。

「あ、あ、」
あたしのひざに、メロンパンのカケラたちがボロボロと零れ落ちる。
「もーっ、じょうずにたべなくっちゃダメでしょ?」
「るっせーなぁ。しょーがないじゃん、こっちはメロンパンなんだからさあ」
「あはははは」
「おまえ笑いすぎ」
素直なのもいいけど、少しは遠慮とか気遣いってモノも覚えてもらいたいモンだ…。
と、メロンパン片手の横浜さんがいきなり、あいた方の腕をあたしに絡めてくる。

「寒いの?」
あたしが尋ねると横浜さんはぶんぶんと首を振って、懸命に否定のサイン。

「べつに、帰るとか言わないから」
「……さむい、です」
やっぱり。
どうやら彼女、正直に答えるとあたしが『帰ろう』って言い出すと思ったみたい。

「けど、もうすぐ暖かくなるね」
「すぐって、いつですか?」
「いつ、って…もうすぐだよ。横浜さんの好きな春がくれば、だんだんとさ」
どうしたんだろ…寒さのせいなのか、横浜さんはなんだか浮かないカオ。

「あちき思うんですけれど、春は、あったかいのになんだかかなしいんです」
「なんで?」
尋ねると、彼女はさっきみたく首を横に振るばかりで何も答えない。

「帰るとか言わないから」
冗談のつもりで言ったのに、でも彼女は笑ってくれない。

「よしざわさん」
「なに?」
「あったかくなっても、あちきとおでかけしますか?」
「え…?」

  ”暖かくなったらまた来ようね。”

さっきは、どうして急にそんなコト言うんだろって思ったけど…
梨華ちゃんが言ったコトバの意味、今さらだけどわかった気がする。

そっか、春になったらあたしたちは。

「違ってたらゴメン」
「あい?」
春になったらあたしはさくら。
春になったらキミはおとめ。
あたしたちは、今までよりもっともっとすれ違ってしまう。

「春が来て、あたしと離れるのがイヤ?」
ややあって、こくん、と頷いたかと思うと…横浜さんの目に、みるみる涙があふれてくる。

「春になったら、あったかくなったら、よしざわさんとくっついて、いられなくなります。だから」
横浜さんはそこまで言うと、
「ふぇ…」
やがて堰を切ったように泣き出した。

「人のコト使い捨てカイロみたいに…」
くっついていられなくなる、って…吉澤ひとみはべつに、キミが寒いときのためだけにいるワケじゃないんだけどさ。

「っ、えっえっ、っえっ…っふぅ、っ」
「横浜さん。ねぇ、横浜さん」
梨華ちゃん。ねぇ、梨華ちゃん。

「ふ、ぅ」
「いっしょにいられるようにするから」
自分なりの大決心とともに、あたしは言った。

「いっしょに買い物したり散歩したり、昼寝したりさ、春になったら、しよ」
吉澤ひとみはべつに、寒いときのためにだけいるんじゃなくて。
キミにとって、ずっと続いてく春になるから。

「…あいっ!」
顔を上げた彼女は泣いてたのがウソのように、カンペキな笑顔。

「ってゆーか自分泣きすぎ」
「だってぇ」
「ちょっと、じっとして」
頬に残った雫を拭ってあげようと手を伸ばすと、横浜さんはあたしの肩に寄りかかり、
それから……ゆっくり、瞳を閉じた。

あ…。

「あー…」
もう会えないのかな…そう思うと少し、ううん、すごく、寂しかった。

「また、やっちゃったんだ…あたし」
しばらくして、梨華ちゃんは目を覚ました。

「なんかひどいかも、最近」
「もうだいじょうぶだよ」
「えっ…?」
梨華ちゃんの目が、『どうして?』って言ってる。
けど、あたしは答えない。

「あたしさぁ」
「うん」
「引越ししようかと思って」
「えーっ? どこに?」
「決まってんじゃん、」
そしてあたしは自分なりの大決心を、彼女に告げた。

<第五話> 石川梨華の場合。

春と呼ぶにはまだ少し早い、二月もちょうど半分を過ぎたころ。
あたしたちは、一緒に暮らし始めた。

「すっごーい、いい天気! ねぇ、おふとん干そ?」
「買出しもいかなきゃ」
「買出し、って…なんかさぁ」
なにやら不満らしく、梨華ちゃんはブツブツ。

「なんで? 食料の買出し。間違ってないよ」
「そうだけどー、なんか可愛くないじゃん」
「さっ、ふとんふとん」
「ちょっとー、無視しないの!」
明日は二人べつべつの仕事だけど、帰る場所は同じだから、どっちかがどっちかの帰りを待っていればいいだけ。
二三日とか離れてるコトがあっても、帰る場所は同じだから、おとなしく待ってさえいれば必ず会えるんだし。

「よっすぃー、窓ちゃんと閉めてね」
「さっ、買出し買出し」
「だからぁ」
やっぱり気に入らないらしく、梨華ちゃんはグチグチ。

「あー、あいてるあいてる」
荷物をおろしてとっとと休みたいとゆー気持ちが、自然にあたしを足早にさせる。

「はぁー、つかれた」
買出しを終え、スーパーからの帰り道。小さな公園には誰もいない。
冷え切ったベンチのひんやり感が、重たい荷物を抱えてすっかり体温の上昇したカラダに心地よい。

「ここっていつも人いないよね。人気ないのかな」
「まだ寒いしね」
あたしが言うと、よっすぃーはぜんぜん寒そうじゃないけど、って梨華ちゃんは笑った。

「だいたいさー、梨華ちゃんがいろいろ買うからでしょ? だからこんな重いんだよ」
「なんでよっ。みんな必要なモノでしょ」
「牛乳とかさー、まだあったのに買っちゃって」
「うっそぉ。なかったよ牛乳は。ぜったいなかったもん!」
梨華ちゃんが無いと言うなら本当に無いのかも知れなかったが、あたしはつい売りコトバに買いコトバとゆーやつで、
「あっ…あったよ。見たもん」
「はあ? いつよ。いつ見たの? ねえ」
はあ?ってちょっと、なにもキレなくたって……。

「あっ…あぁ、ゴメンゴメン。やっぱ牛乳なかったわ。ちょっと、カン違いしてた」
「ほらねー、だから言ったじゃん」
彼女は満面の笑みを浮かべて、勝ち誇ったように言う。
にしても…昔っから負けず嫌いだとは思ってたけど、まさかココまでとは。
一緒に住んでみないとわかんないコトってあるんだなぁ、って実感しまくりの毎日だけど、梨華ちゃんはどうだろう?

「あたしね、ずっと体の調子悪いって言ってたじゃない?」
「うん」
「よっすぃーが来てくれてからね、だいぶよくなったの」
「そうなんだ」
ストレスをひとりでため込んじゃうのは、彼女の悪いくせだ。
放っておいたら、いつまた悩みのタネがすくすくと育ってしまうか知れない。

「よかったじゃん」
二人でいっしょの毎日が、あたしたちをほんの少しずつでも良いほうに変えていってくれるなら、
たとえどんなコトが待っていたって時間が過ぎていくのもそれはそれで楽しいじゃん。
最近のあたしは、そんなふうにも思えるようになった。

「さーてと。帰る?」
「んー、もうちょっと」
「のんびりしますか」
「じゃあねぇ」
と言って梨華ちゃんは、今まであたしが持たされていた袋をガサガサと漁り始めた。
「ハイ」
と言って梨華ちゃんが、よく冷えた缶ジュースを差し出す。

「あーっ、なに缶のやつとか買ってんの? こーゆーの買うから重くなるんだって!」
「だって安かったんだよ?」
「そーゆー問題じゃないっ、ペット何本入ってると思ってんだよ! マジで重いんだからねコレ」
「飲まないの?」
「飲むけどさあ」
一緒に住んでみないとわかんないコトってある。ぜったいある。

「あ、ウマイじゃんコレ」
「ほら。買っといて良かったでしょ? 飲んじゃえば軽くなるしねー」
「こんなん1本じゃ変わんねーよ…」
「それさっき言ったコトと矛盾してるよ?」
「もぉ、藤本みたいなコト言うのやめてよー」
スーパーからの帰り道。小さな公園には誰もいない。
晴れた日にこうしてると、いつもより時間がゆっくり流れてくよーな気がするから不思議だ。

「なんか、ゆっくりしすぎて帰んのめんどくさい」
「ねぇ。それ、そんなに重いの?」
「はぁっ…」

ふたりでいっしょに買い物したり散歩したり、昼寝したり。のんびりいこう、春らしく。
 

<おわり>