おやすみ、また明日。
<1>
「名前、なんにしよ」
「ヒナ、ってのは?」
「いや、そのままだから、それ」
「いーじゃん。なんかカワイくないですか?」
「…まぁ、いいけどさ」
呆れたように矢口さんが言って、彼(彼女?)の名前は『ヒナ』に決まった。
箱の中の『ヒナ』は、所々に黒の混じった茶色い羽を折りたたんで、じっとうずくまっている。
「早く、元気になると良いね」
矢口さんが言った。
駅を出て矢口さんのマンションまであと5分ってトコで、あたしたちはヒナを見つけた。
街路樹の真下に落っこちていたそれを最初に見つけた矢口さんは小さな悲鳴を上げて、
隣を歩いていたあたしの腕を掴んだ。
『ねぇ、生きてる、の?』
『うん。スズメかなぁ…くちばしは黄色いけど』
所々黒い毛の混じった栗色の身体に、ツンと立った白い尾っぽ。
くちばしは、大人になると完全な黒になるんだろうけど、付け根から半分くらいまでが濃い茶色で、
残りの半分はアヒルの口みたいに鮮やかな黄色。
傍にしゃがみ込んでそっと触れてみると、雨に濡れた身体が小刻みに震えているのがわかった。
『まだ子供みたいだから、巣から落ちちゃったのかも』
あたしは傘をたたむと、ヒナを自分の手のひらに乗せ、雨に濡れた身体をハンカチで拭いた。
『どうしよう…このままだと、死んじゃうよね』
あたしに傘を差しかけながら、矢口さんが言った。
あたしは、(あたしのハンカチは濡れてしまっていたから)矢口さんに借りたハンカチでヒナの身体を包んだ。
『しょうがない、っか』
ガードレールに立てかけてあった、あたしの傘を手に取ると、ため息混じりに矢口さんが言った。
左手にヒナを乗せて立ち上がると、矢口さんが差しかけてくれていた傘に頭をコツンとぶつけてしまった。
『あっ、ゴメン』
矢口さんが傘を持つ手を少し上げて、あたしは頭を少しすくめる。
矢口さんの傘に二人で入って、あたしたちは再び歩き始めた。
ヒナは矢口さんのマンションに着くまでずっと、あたしの手の中でぶるぶると震えていた。
「エサって、何あげたらいいのかな」
「やっぱ、虫とかじゃないですか?」
「…無理だよ。よっすぃー、引き取って」
「じゃあ、とりあえず小鳥のエサとかあげてみます?」
「オッケー。鳥カゴとかも、要るよね?」
あたしに留守を任せると、矢口さんは部屋を出て行った。近所にペットショップがあるらしい。
「ヒナぁ、まだ寒いの?」
ヒナはお中元だか何だかでもらったという、ジュースの詰め合わせの空箱の中に寝かされていた。
下にタオルとティッシュを敷いて、上にもタオルを掛けてあげてるんだけど、
濡れた身体が完全に乾いていないせいか、ヒナの震えはまだ止まらない。
テーブルに置いていた箱をカーペットの上に移動させて、あたしはヒナの傍でごろりと横になった。
仰向けになってぐるりと部屋を見回すと、数ヶ月前にココへ来たときよりも、
明らかにぬいぐるみの数が増えていることに気が付く。
「これじゃあ矢口さんってより、プーさんの部屋じゃんねぇ」
そのうちになんだかウトウトしてきて、あたしはいつの間にか眠ってしまった。
耳元でガサガサと物音がして、目が覚めた。
見ると、あたしが寝ている間に帰ってきていた矢口さんが、ヒナを箱から出しているところだった。
「あ、お帰りなさい」
「お帰りじゃないでしょ。疲れてんのはわかるけどさー、ちゃんと見ててって言ったのに」
「…ゴメンなさい」
あたしは目を擦りながら、ゆっくりと起き上がる。
「それ、どうするんですか?」
目の前の矢口さんに尋ねる。
矢口さんは、袋から出した使い捨てカイロを一心不乱に振り続けている。
下に敷いてあったタオルごと箱から出されたヒナは、カーペットの上で小さく震えていた。
「フツーは親鳥が雛を温めるでしょ? だからその代わりに、カイロ入れとくと良いんだって」
「へぇー」
「よっすぃーもボーっとしてないでさ、エサ作ってきてよ」
使い捨てカイロをシャカシャカやりながら、矢口さんが言った。
「ぬるま湯で柔らかくしてあげるんだって」
「ふーん」
矢口さんに手渡された『すり餌』を持って、あたしはキッチンへ向かった。
「ヒナぁ、いい子だから口開けて?」
ぬるま湯に浸して丸めておいたすり餌をピンセットで挟み、箱の中のヒナに近づける。
けれどエサをくちばしの先につけても、ヒナは口を開けてくれない。
「おなか空いてないのかなぁ」
「強引にこじ開けるしかないね。ピンセットでムリヤリ開けてみて」
「えーっ!」
「嫌がってもムリヤリ食べさせなきゃダメなんだって。お店のヒトが言ってた」
「えーっ…」
お店のヒトが言ってたのなら仕方ないか、確かに食べなきゃどんどん衰弱してっちゃうし…。
あたしはヒナをそっと箱から出して手のひらに乗せると、心を鬼にして、ヒナのくちばしにピンセットを差し入れる。
するとそれまでじっとしていたヒナが、いきなり頭を揺らして抵抗し始めた。
あわてて、矢口さんがヒナの頭を押さえつける。
「わっ、矢口さん、鬼! 鬼だよ!」
「うるさい、早くやれよ!」
矢口さんが怒鳴ったのとほぼ同時に、あたしはくちばしの根元にピンセットを差し込むことに成功した。
くちばしを親指で押さえて開かせたまま、ピンセットにエサを挟み、ヒナの口に入れる。
「吐き出しちゃうから、奥のほうに入れて」
「あっ、ちょっ…だいじょうぶなのかな」
「大丈夫だってば」
「ゴメンね。ガマンしてね」
矢口さんの指示通り、嫌がるヒナの口(の奥のほう)に、無理やりエサを押し込む。
すると一瞬カッと目を見開いて、ヒナの動きが止まった。
「ヒナ!?」
「大丈夫だって。ホラ、ちゃんと飲み込んだ。ごくん、って」
お店のヒトに聞いていた筋書き通りの展開だったのか、事も無げに矢口さんが言う。
「あのー、やってる方はめっちゃ怖いんですけど。矢口さんなんか、口ばっかじゃないですか」
「あたしだって、やるのは怖いさ」
「それは」
それは威張って言うコトじゃないです。
そう言おうとして、あたしの言葉は、「チーッ!」という甲高い声に遮られた。
「「あーっ!」」
あたしと矢口さんの声が重なる。
「鳴いたよ!」
あたしは思わず、矢口さんへのツッコミも忘れて叫んでいた。
「鳴いたね! すごいすごい!」
矢口さんは本気で喜んでいたからきっとコレは、
お店のヒトが教えてくれた筋書きにも無い展開だったんだろう。
「また来ますね。っていうか、明日も来ていいですか?」
玄関にしゃがんで靴を履きながら、あたしは言った。
「うん。二人で拾ったんだから、よっすぃーにも責任持って育ててもらわないとねー」
「あ、そうだ。矢口さんのお母さんにも、」
「わかってるって。ウチらがいない時は、ちゃんと頼んどくから」
「じゃあ」
「おつかれー、ってのもなんか変だね。仕事じゃないんだから」
そう言って、矢口さんは笑った。
「おやすみなさい。って言うのもまだ、早いかな」
「それでいいや。おやすみ。また明日ね」
「うん。また明日」
外へ出ると、雨は上がっていた。
早く元気になりますように。沈みかけの夕日を見ながら、小さなヒナを想う。
矢口さんの家にヒナがいるから、明日も、なるべくなら明後日もまた、ココへ来よう。
ヒナに会うために。それから、矢口さんに会うために。
駅へ向かう途中で偶然、矢口さんのお母さんに会って、少し立ち話をしたけれども、
ヒナのコトは何となく話しづらくて、結局、最後まで言えなかった。
<2>
翌朝、仕事へ行く前に矢口さんの家に寄った。
もっとも、現場とは逆方向だから、『寄った』ってのは正しい言い方じゃないのかも知れないけど。
「二時間おきだよ、二時間おき! もぅ、昨夜はほとんど寝れなかったんだから」
箱の中ですやすやと眠っているヒナをうらめしそうに横目で見ながら、矢口さんが言った。
「きっかり二時間おきにピーピー鳴きやがってさー! タイマーでも入ってんのかっつんだよ!」
食べ盛りのヒナは矢口さんがベッドに入った後も、二時間おきにエサをねだって夜鳴きしたらしい。
そうとは知らずあたしは、まだパジャマ姿のままスッピンで髪はボサボサの矢口さんを見るなり、
軽い冗談のつもりで、「一瞬誰かわかりませんでしたよー」なんて言っちゃったものだから、
タダでさえ寝起きの悪い矢口さんはいっそう不機嫌になってしまったのだった。
「やっぱり、ウチで飼いましょっか?」
「ん…いいよ、もうちょっと頑張ってみる」
寝ぐせのついた髪を撫でながら、素っ気なく言った。
矢口さんは誰かにグチをこぼしたかっただけで、本当はヒナのことが大好きなんだと思う。
「ね、着替えるから」
そう言うと矢口さんは、あたしに向かってアゴでドアを指し、『出て行け』のサイン。
「えー、ヒナは良いんですかぁ?」
すると、矢口さんは黙って箱を差し出した。中ではヒナがうずくまって眠っている。
「あ、そうだ。ついでにさぁ、ヒナのコト、お母さんにいろいろ教えといてよ」
「はあーい」
箱を揺らさないように気をつけていたのに、ドアを開ける音でヒナは目を覚ましてしまった。
起きたばかりのヒナはまんまるの黒い目で、あたしの顔をじっと見ている。
「おはよう、ヒナ」
あたしが呼びかけると、ヒナは昨日よりも少し小さな声で、「チーッ」と鳴いた。
「カワイイ…わかるの? ヒナ」
開けかけていたドアを背中で押さえて、箱の中のヒナに呼びかける。
「ヒナぁ。ホラ、返事して。ヒナ!」
けれどいくら呼んでも鳴いてくれたのは最初の一回だけで、
ヒナはあたしの顔をじっと見たまま、時々首を傾げたりするばかり。
「よっすぃー。はーやーく」
「あっ、ゴメン」
ハッとして顔を上げるとそこには、クローゼットの中を漁っている矢口さんの後姿があった。
ベッドの上には、脱ぎ散らされたパジャマ。
「ったく、着替えらんないでしょーが」
「っていうか」
もう脱いでんじゃん。
<3>
「よっすぃー、聞いてよ! すっごいの!!」
ヒナを拾って三日目の朝、楽屋に入るなり矢口さんが駆け寄ってきた。
矢口さんの他には、まだ誰もいない。
「どうしたんですか?」
あたしが尋ねると、矢口さんはとても興奮した様子で、「今朝ね、起きたのよ、ヤグチが!」と言った。
矢口さんが『今朝起きた』ことはそんなに大した出来事だとも思えなかったけど、
きっとその続きにすごいコトがあるのだろうと思って、あたしは何も言わなかった。
「おかーさんが来てたの! 親鳥がね、ヒナに会いに来たんだよ!」
「うそぉ!? えっ、矢口さんトコに!?」
予想以上のすごい出来事に、あたしの声が裏返る。
「そう! ね、ね、すごいっしょ!」
矢口さんの言葉に、うんうん、と繰り返し頷く。
「なんか鳴き声してたから起きたらさ、カゴの隙間からエサあげてんのねっ!
もー、びっくりしちゃってさぁ!」
「矢口さん…」
あの、人一倍寝起きの悪かった矢口さんが、今やスズメの鳴き声一つで目覚めちゃうんだもんね…。
哀しい事実は、ヒナとの生活の過酷さを物語っていた。
「あれっ? そういや、もうカゴに移したんですか?」
目の前の、未だ興奮冷めやらぬ矢口さんに尋ねる。
昨日の朝あたしが矢口さんの家に行ったときは、ヒナはまだ箱の中にいたはず。
帰ってからヒナのこと、鳥かごに移してあげたのかな?
「そうそう。あ、言ってなかったっけ?」
あたしが頷くと矢口さんは、昨夜矢口さんが家に帰ってからの出来事を話してくれた。
昨夜、矢口さんが帰宅すると、ヒナは既にカゴの鳥になっていたらしい。
昼間、よちよち歩いて箱から出ようとしていたヒナを見つけた矢口さんのお母さんが、
ヒナを鳥かごに移してくれたとのこと。
「でね、夜中に外見せてあげようと思って、窓に吊るしたんだけど…ヤグチ寝ちゃってさぁ」
矢口さんは、鳥かごをカーテンレールにぶら下げて窓を開け放したまま、うたた寝して朝を迎えたらしい。
「あっぶねー。カラスとか来なくて良かったですよね」
「ホント、うっかり襲われるトコだよ。ま、カゴに入ってるから大丈夫だとは思うけどね」
「そうかなぁ」
ホントかよぉ…ヒナ、危うし。
「ヒナのおかーさん、また来てるんじゃないかな。見に来る?」
「行く行く」
それから、矢口さんは昨夜のヒナの様子について、事細かに説明してくれた。
矢口さんは、ヒナが二三歩歩いては休み、また二三歩歩いては休んでを繰り返し、
ようやくカゴの中を一周したという話や、食べる量が最初に比べてだいぶ増えたという話なんかをした。
あと、二時間ぴったりの夜鳴きタイマーは昨夜も正確だったって話も。
「もう少し経ったら、自分で食べれるように練習させなきゃね。
なんかいろいろ段階があるみたいなんだけどさ。
ホラ、今って上向いて食べさせてるじゃない? そうじゃなくて、」
「へぇー」
相槌を打ちながら、あたしは、ヒナのことを熱心に話す矢口さんの顔を見ていた。
実を言うと、矢口さんの、雛の育て方に関する話はあまりよく聞いていなかったんだけど、一つ思ったことは。
矢口さんに拾われて本当に良かったよね、ヒナ。
「ホントだ! 来た!」
思わず声を出したあたしに向かって、矢口さんが唇に人差し指を当てて「シーッ」とやる。
ぎょっとして再び鳥かごへ目を遣ると、あたしの声に逃げることもなく、親鳥はまだそこにいた。
ヒナのおかあさんはカゴに足をかけて、くちばしを突き出すヒナに口移しでエサをあげている。
仕事の後、あたしはヒナの様子を見に、それから運が良ければヒナのおかあさんに会えるかも知れない、
ってコトで、またもや矢口さんのマンションを訪れていた。
三日連続で押しかけている上に、今日は晩ゴハンまでごちそうになることになってしまった。
ココへ来るまでは、三日連続はさすがにちょっと迷惑だよなぁ、なんて思っていたんだけど…
窓際に座って待ち伏せること二十分、親鳥が姿を現した瞬間には、そんな思いもどこかへ吹っ飛んでしまった。
「すごいなぁ…どうやって探してくるんだろ」
あたしはヒナとおかあさんを驚かせないよう、小声で言った。
「雛の声聞けば、わかるんだって」
「そうなんだ」
あたしたちは、小声で囁くように会話した。
「鳴き声なんて、みんな同じに聞こえるのにね」
カゴの中のヒナを見ながら、矢口さんが言った。
親鳥にエサをもらって、ヒナはくちばしを忙しなく動かしている。
「ヒナの声だったら、矢口さんにも聞き分けられるんじゃないですか?」
「まさか。無理だよ」
冗談のつもりで言ったのに、でも矢口さんは笑わなかった。あたしは、少しあわてた。
「そうかな」
そんなことないよ、と続けようとすると、矢口さんのお母さんが呼びに来て、
あたしは矢口さんの家族に混じって夕食をごちそうになった。
<4>
「あ、エサ変わってる。タマゴですか、それ」
「そうだよ。よっすぃーの大好きな、ゆでたまご」
そう言うと、矢口さんはゆでたまごの黄色い欠片をピンセットで摘み、ヒナの口に運ぶ。
ヒナはもう、最初のときみたいに嫌がったりはしない。
矢口さんの手のひらに乗せられたヒナは、口を大きく開けて、矢口さんがエサをくれるのを待っている。
タマゴの黄身と白身を交互にあげるのは、黄身は喉に詰まることがあるからだと、矢口さんが教えてくれた。
「矢口さんは、本当にヒナのことが好きなんだね」
ヒナを鳥かごへ戻す後姿を見ながら、あたしは思った。そして言った。
カゴに入ると、ヒナは矢口さんの手からぴょんと飛び降りた。
そして向こう側へ二三歩進んだかと思うと、くるりと振り返ってまた矢口さんの方へよちよちと戻ってくる。
ヒナが出口へ辿り着く寸前に、矢口さんは鳥かごのフタをパタンと下ろした。
「よっすぃーだってそうじゃん、今日でもう四日目。そーとー好きなんじゃない?」
「そりゃあ、好きだけど…」
あたしがココへ来る理由の半分は、矢口さんに会いたいから、だけど、そんなこと言えるはずもない。
「あ、やっぱり迷惑ですよね?」
あたしは、本当はヒナのことなんかどうでも良いのかも知れない。
ヒナを口実に、自分はただ矢口さんに会いたいだけなのではという気がしてきて、なんとなく後ろめたい気持ちになる。
「誰もそんなコト言ってないし」
矢口さんはそう言って立ち上がると、窓を開けた。
鳥かごを抱える矢口さんを、あたしも手伝う。
カーテンレールに取っ手を引っ掛けて、カゴから手を離すと、正面に立つ矢口さんと網越しに目が合った。
「飼い主はあたしだけじゃないんだから、よっすぃーが毎日来るのは当然の義務だよ」
「なら、いいんですけど」
あたしは大人しく引き下がった。矢口さんは、まだ何か言いたそうな顔をしている。
「よっすぃーはさ」
それから少し間が空いて、矢口さんは続けた。
「よっすぃーは、ヤグチのコトが好きなの?」
急に落ち着かなくなって、あたしは何度もまばたきをした。
「…うん」
ほんの少し躊躇して、あたしは答えた。
「好き、っていうのは、その…どういう、好き?」
矢口さんが言った。
あたしも矢口さんも下を向いて、互いに目を合わせようとしない。
「矢口さんとキスしたい、の好き。できればその先もしたい、の好き」
聞かれなければ口にすることもなかったはずの気持ちは、その途端、
編みかけのセーターを解くときみたいにするすると、口を衝いて出た。
「…そっか。ってゆーか、まぁ、うん。そんな気はしてたんだけど、ね」
それはきっと、言わなくても矢口さんには全部お見通しだって、わかっていたからなのかも知れない。
「よっすぃーはさ、なんか変だよ」
「なにが?」
「だって、ヤグチは女のコなんだよ? よっすぃーだってそうでしょ?」
そんなの、わざわざ確認することでもないでしょ。
だからそれには答えずに、あたしは言った。
「あの、自分でもよくわかんないんです。ただ、矢口さんといると幸せだから。
矢口さんと一緒にいるときの自分が、好きなだけなのかも知れないし」
好きとか幸せとか言った後で、それもなんだか違う気がして、あわてた。
「だから別にキスとか、その先とかは、単なる例えっていうか」
あたしがシドロモドロになっていると、耳元でスズメの声がした。
カゴの中のヒナが甲高い声で鳴きながら、おかあさんの元へ一歩ずつ近づいていく。
「だから、ホント、気にしないでください」
矢口さんは俯いて、「うん」と言った。
言わなければ良かったと思った。きっとココへはもう、来ない。
鳥かごのすぐ傍にあたしたちが立っているのに、親鳥は構わずヒナにエサを与え続ける。
その様子をぼんやり眺めていると、「ねぇ」と矢口さんが言ったので、あたしはハッとした。
「ちょっと、してみる?」
矢口さんはいつの間にか、鳥かごの向こう側ではなく、あたしのすぐ後ろに立っていた。
「なにを?」
「キスとか」
「…その先とか?」
「それはまだ、決めてないけど」
そう言ってあたしを見上げる矢口さんの、唇をあたしは真っ先に見た。
「いいんですか?」
「いいよ。べつに、へるもんじゃなし」
事も無げに矢口さんが言う。
「好きでもないのに、そういうコトしたら…なんか、へってくような気がするけど」
矢口さんの冷めた態度に、あたしは少しムッとして言った。
「だったら大丈夫じゃない? そんなに、好きでもなくないし」
「ん? それどういう意味、」
最後まで言い終わらないうちに、あたしの唇は塞がれていた。
あたしのTシャツの袖を掴む手に力がこめられて、あたしは矢口さんが背伸びをしているのだとわかる。
突然の出来事に、目を瞑る間もなくそれは終わった。
「どう?」
唇が離れると、矢口さんが言った。
「やっぱりよくわかんない、けど、気持ちよかった」
すると矢口さんはくすっと笑って、「あたしも」と言った。
そして、ヒナが食べ残したエサを片付けると、矢口さんは部屋を出て行った。
あたしはさっきまで矢口さんのそれに触れていた自分の唇を、指でなぞってみる。
キスは、してるときよりも終わったあとの方が、どきどきした。
「あの…また来ても、いいですか?」
玄関にしゃがんで靴を履きながら、あたしは言った。
そう言えばヒナを拾った日にも、あたしはココで同じことを聞いたんだっけ。
以来、毎日当たり前みたいに通っていたけど、今日は聞かなきゃいけないような気がした。
矢口さんとあんなことになって、明日も当たり前みたいにココへ来る気には、とてもなれなかった。
「はあ? なに言ってんの、今さら」
毎日来といてよく言うよ、と、矢口さんが笑う。
普段と変わらない様子の矢口さんを見ていると、さっきの出来事は全て夢だったんじゃないかという気さえしてくる。
「だって」
「なに?」
矢口さんはあたしの隣にしゃがむと、あたしの顔を覗き込んで言う。
「よっすぃー?」
衝動的に、あたしは矢口さんの腕を掴んでいた。
「やっ…!」
強く引き寄せると、バランスを崩した矢口さんが小さな悲鳴を上げた。
あたしと間近で目が合うと、矢口さんは横目でちらりと辺りを窺い、静かに目を閉じた。
「こんなトコでやめてよ。お母さん、いるんだから」
終わったあとで、矢口さんが言った。
「じゃあ、次から気をつけます」
冗談めかして言うと、矢口さんは笑った。
また来ても、いいですか?
二度目のキスは、矢口さんがくれた答えのようにも思えて、あたしは明日もココへ来ることを決めた。
「おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
「「また明日」」
まるで示し合わせていたみたいに声が重なって、言った後で二人とも吹き出してしまった。
外へ出ると、辺りはすっかり暗くなっていて、帰る途中であたしのおなかがグウっと鳴いた。
帰り際、矢口さんのお母さんが夕食に誘ってくれたのに断ったことを、あたしは少しだけ後悔していた。
<5>
「よっすぃーは、ヒナのおかーさんみたい」
「えー? なんで?」
「毎日ウチに来て、ヤグチにキスして帰ってくから」
矢口さんが言った。
「じゃあ、矢口さんがヒナだ」
親鳥が口移しでヒナにエサをあげている横で、あたしは矢口さんにキスをする。
ヒナが矢口さんの部屋に来て十日目の朝、相変わらずあたしはココにいた。
「なんか、もう飛べそう」
カゴの中で羽をバタつかせているヒナを見て、あたしは言った。
「まだ無理だよ」
矢口さんが素っ気なく言う。
矢口さんは鳥かごのフタを開けて、ヒナが飲むための水を替えている。
「でも、そろそろ飛ぶ練習とかした方が良くないですか?」
「だから、まだ無理だって」
矢口さんは、あたしの言葉を遮るようにぴしゃりと言った。
あたしには何を根拠に矢口さんがそう言うのかわからなかったけど、水を替えたりエサを替えたり、
黙々と作業を続ける彼女を見ていると、なんとなく取りつく島が無くて、それ以上は聞けなかった。
「ホラねぇ、新しい水のがオイシイでしょ?」
さっきまでの素っ気ない態度とは正反対の優しい口調で、矢口さんがヒナに話しかける。
すぐ傍にあたしがいるのに、矢口さんの目にはヒナしか映っていないようで、
あたしはなんだか自分が疎外されているような気がして寂しくなった。
あたしがココにいない間、矢口さんは言葉のわからないヒナに、どんな話をするのだろう?
「ねぇ」
たまらず、あたしは彼女の肩を掴んだ。
振り向かせて顔を近づけると、矢口さんの右手があたしの胸をゆっくりと押し戻す。
「…今は、嫌。ってゆーかさぁ」
呆然と立っているあたしに、矢口さんが言う。
「当たり前みたいにしないでくれる?」
矢口さんは面倒くさそうに言うと、ため息をついた。
あたしは、俯いて唇を噛み締めた。
ハッキリと拒絶されたことがなんだか信じられなくて、恥ずかしくて泣きそうになる。
矢口さんは言葉のわからないヒナには優しくするくせに、言葉のわかるあたしに限って、
どうしてこんな酷いことを言ったりしたりするのだろう。
<6>
次の日もまた次の日も、その次も、あたしは矢口さんのマンションに通った。
あの日以来、矢口さんは家でも仕事場でもなんとなく不機嫌で、
安倍さんや保田さん以外はみんな極力話しかけないようにしているみたいだった。
あたしはもう望まれていないような気がして、ココへ来るのを止めようと思っていたけど、
矢口さんは仕事が終わるといつも通りにあたしの帰り支度を待っていて。
あたしはまるでそうするのが義務みたいに、矢口さんの部屋であまり楽しいとは言えない時間を過ごした。
相変わらずヒナのおかあさんは、毎日ヒナのためにエサを運んで来る。
親鳥が飛び去ってゆく様子をカゴの中からじっと見送るヒナは、おかあさんが戻ってくるのを待つというより、
後を追って一緒に空を飛びたがっているみたいに見えた。
なんだか落ち着かない。
もう何日も、矢口さんとキスしてない。
<7>
ヒナが矢口さんの部屋に来て二週間が過ぎた頃、いつも通りあたしはココにいた。
初めて会ったときよりも一回り体の大きくなったヒナは、もうとっくに矢口さんの手を借りずに、
自分でエサをつつけるようになっていた。
それでも親鳥がやって来た時には途端に赤ちゃんスズメの振りをしてくちばしを突き出すので、
ちゃっかりしてるなぁ、なんて言いながらあたしたちは笑った。
「要領が良いトコは、矢口さんに似たのかなぁ」
「じゃあ、たまご好きなトコはよっすぃー似」
今日はいつもより、矢口さんの機嫌が良いような気がする。
「暑いね」
矢口さんはエアコンのスイッチを入れると、カーテンレールに吊ってあった鳥かごに手をかけた。
夜になれば少しは涼しくなるかと思っていたけど、日が暮れても蒸し暑くて風は止んだまま。
八時を回ってもこの調子だから、これから涼しくなることはあまり期待できそうにない。
「ヒナ、寒くないかな」
「あんまり温度下げなきゃ、大丈夫でしょ」
あたしは雨に濡れて震えていた最初の日のヒナを思い出し、日に日に頑丈になってゆくヒナが頼もしく思えた。
「ん、大丈夫。よっすぃーは窓閉めてくれる?」
あたしがカゴを下ろすのを手伝おうとすると、矢口さんが言った。
「おやすみー」
近くにいるはずの、ヒナのおかあさんに向かって言いながら、窓に手をかける。
すると目の前を何かが物凄いスピードで横切り、あたしは思わず後ろによろけた。
「きゃあっ!?」
矢口さんの悲鳴に振り返ると、さっきの『何か』はまたこちらへ戻ってきて、
あたしの目の前を掠めて窓から飛び去った。
「すごい、部屋ン中まで入ってくるんだ…」
あたしは思わず呟いた。
突然部屋に飛び込んできたそれは、ヒナのおかあさんだった。
「もうっ!」
鳥かごを床に下ろすと、矢口さんは大きな音を立てて窓を閉め、乱暴にカーテンを引いた。
「なんなの、アレ!?」
矢口さんはヒステリックに叫ぶと、窓を平手で強く叩く。
カゴの隅で、ヒナがうずくまって震えている。
あたしは、雨に濡れて震えていたあの時のヒナを思い出した。
「ね、矢口さん、ヒナが怯えてるから」
「こっちが悪いコトしてるみたいじゃん!!」
「矢口さん!」
あたしが止めるのも聞かず、矢口さんは窓を叩くのを止めようとしない。
あたしは、矢口さんが親鳥をヒナから遠ざけようとしているのだと思った。
乱暴に追い払われて、ヒナのおかあさんはもう来ないかも知れない。
そうすれば、矢口さんはヒナとずっと一緒にいられる…のかな。
あたしは止めるのを諦め、矢口さんから手を離した。
矢口さんは、音を聞きつけたお母さんが部屋に入ってくるまでずっと、窓を叩き続けていた。
あたしはお母さんに、窓の傍へ来たカラスを追い払っていたのだと嘘を吐いた。
当の本人は、ふてくされたような顔をしてベッドに腰掛けている。
お母さんが部屋を出て行くと、あたしは矢口さんに歩み寄った。
「向こうから見れば、ウチらがヒナをさらってきたようなモンなんだし…」
しばらくして、あたしが言った。
「それにヒナは矢口さんのでも、おかあさんのでもないと思うし」
矢口さんはそっぽを向いて、あたしの話なんてまるで聞いてない。
「気持ちはわかるけど、」
「わかってるよ。子供あやすみたいな言い方しないでくれる? 年下のくせに。むかつく」
冷たい声で、矢口さんが言った。
「…ゴメン、なさい」
どうしてだろう、あたしが謝る理由は何一つ無いはずなのに。
「よっすぃー」
悔しさに唇を噛み締めると、あたしの左手に矢口さんの手が触れた。
無意識のうちに握り締めていた手を、矢口さんの指がゆっくりと解いてゆく。
あたしは矢口さんの手を握ったまま、右手を彼女の肩に添えた。
「んっ…」
矢口さんのキスは、もう何日もしていないせいでそう感じたのかも知れないけど、
いつもの短いそれとはまるで違っていて、溶けるように甘くて長いキスに、
あたしはいつしか夢中になっていた。
繋いだままの手を引いて立ち上がると、今までの分を取り戻すみたく、
あたしたちは抱き合って何度もした。
「矢口さん…ね、いいよね」
矢口さんの首筋に顔を埋めながら、くぐもった声で聞く。
「そういうのは、聞かなくて、いいの」
上ずった声で途切れ途切れに、矢口さんが言う。
ベッドの上で、矢口さんが立ったまま服を脱ぐのをぼんやりと眺めていた。
するとそれに気づいた矢口さんが大げさに頬を膨らせて、
脱いだTシャツを投げつけてきたので、あたしはあわてて自分のを脱いだ。
そして、『その先』のコトは、あまりよく覚えていない。
「あ」
寝返りを打つと、カゴの中のヒナと目が合って、あたしは思わず言った。
「んー…。なに?」
ついさっき終わったばかりの、矢口さんの気だるそうな声がすぐ傍で聞こえる。
「や、なんか今のぜんぶ、ヒナに見られてたんだと思って」
あたしは、ヒナから目を逸らしながら言った。
ヒナは、チュンチュン、ともう大人のスズメみたいな声で鳴きながら、あたしたちの方をじっと見ている。
あたしは再び寝返りを打って、矢口さんの方へ向き直った。
「あは。教育上、良くなかったかな」
矢口さんはあたしの顔を見ると悪戯っぽく笑って、言った。
つられて、あたしも笑ってしまった。
「こないださぁ」
しばらくぼんやりしていると、ふいに矢口さんが言った。
「カゴの中掃除しようと思って、ヒナのこと外に出したの。
始めは飛び跳ねてるだけってカンジだったんだけど、そのうちにちょっとだけ飛んだんだ。
だから練習すれば、もうすぐ空も飛べると思う」
その声は、微かに震えていた。
「そう、だったんだ」
あたしはようやく、矢口さんがこの頃ずっと苛立っていた訳を理解した。
矢口さんは、ヒナがもうとっくに飛べることを知っていたんだ。
「知らなくてゴメンね」
言いながら、柔らかそうな矢口さんの髪にそっと触れてみる。
何にも知らなくってゴメン、ともう一度言うと、矢口さんは黙って首を横に振った。
「下まで送ってくよ」
二人並んでエレベーターを待っていると、矢口さんが言った。
矢口さんは、いつもは玄関でお別れするのにどういう風の吹き回しなのか、
今日は外まで見送りに来てくれた。
「いいです、ココで」
「送ってくってば」
「だって、ヒナに何かあったら」
「…そっか。そだね」
矢口さんが諦めたのと同時に、エレベーターの扉が開いた。
あたしは中へ乗り込むと『開』マークのボタンを押して、矢口さんと向かい合う。
目の前の矢口さんを見ていたら、さっきまでのキスやその先のコトが頭に浮かんで、
つい、思い出し笑いが込み上げてきた。
「ねぇ、なに笑ってんの?」
怪訝そうな顔で、矢口さんが言う。
「なんか、矢口さんの服が透けて見えるみたい」
「はあ!?」
あたしの言葉を真に受けたのか、矢口さんが素っ頓狂な声をあげる。
「あ、違くて。だってもう、全部知ってるから」
「なんだー。そーゆーコト?」
矢口さんは「失敗したぁー」と笑って、「よっすぃーのも、もっとちゃんと見とくんだった」って言った。
「ねぇ、明日も来んの?」
さよならを言って、扉を閉めようとすると、ぶっきらぼうに矢口さんが言った。
「あ、もしかしてお母さん、何か言ってました?」
あたしは恐る恐る尋ねる。
さすがにココまで入り浸ってちゃあ、矢口さんのお母さんもとっくに呆れてるだろうとは思ってたけど…。
「なにも。ってゆーかウチのお母さん、よっすぃーのコト気に入ってるし。だからべつに、来れば?」
相変わらずの素っ気ない口調で、矢口さんが言う。
お母さんに何か言われたワケでもないのに、どうして今さらそんなコトを聞くのだろうと考えて、ピンときた。
「矢口さん、素直じゃない」
あたしは意地悪く、にんまり笑って言った。
「…明日も、来て」
観念したのか、少しふてくされたように矢口さんが言った。
やっぱり。矢口さんはあたしに明日も来てほしいから、あんな風に聞いたんだ。
「りょーかい」
あたしはボタンを離し、扉がゆっくりと閉まる。
電車の時間まではまだ余裕があったし、カラダだって疲れているはずなのに、
なんだか体力が有り余っているカンジがして、帰り道は意味もなく全力疾走した。
<8>
翌日、ヒナのおかあさんはいつも通りにやって来た。
あたしはもう何も言わなかったけど、矢口さんは部屋に入るとすぐに窓を開け、カーテンレールに鳥かごを吊った。
「良かったね、ヒナ」
他人事のように、矢口さんが言う。
親鳥にエサをもらいながら、ヒナは夢中でくちばしを動かしている。
そうして何度かに分けてエサを運んできた後、親鳥は来なくなった。
「今日はもう、終わりかな」
矢口さんはそう言って窓を閉めると、鳥かごを床に下ろした。
ほんの少しだけど飛ぶことを覚えたヒナは、カゴから出たくて仕方が無いらしく、
あたしたちの顔を見るなりチュンチュンと鳴いて、羽をバタつかせている。
「ヒナぁ、まだだよ、まだだよー」
「あはっ、かわいそうだよ」
矢口さんはカゴの傍に座ってヒナに顔を近づけると、焦らすようにフタを少しだけ開けては閉じ、
また少し開けては閉じを繰り返している。
その度にピョンピョンと飛び跳ねるヒナの仕種は、(ヒナには悪いけど)とても可愛い。
「ヒナ、おいで」
矢口さんはヒナをカゴから出し、少し離れて座ると、その名前を呼ぶ。
するとあたしの目の前で、突然ヒナが羽を広げて飛んだ。
「おおーっ!」
あたしは思わず叫んでいた。
それは地上20cm程の超低空飛行で、ヒナは矢口さんに向かってまっすぐに飛んで行き、
矢口さんの膝に着陸…する寸前に、ポトンと墜落してしまった。
「あっ、惜しい」
「ヒナ」
矢口さんがもう一度呼ぶとヒナは、今度は羽を広げるまでもない距離だと判断したのか、
ピョンピョンと跳ねながら矢口さんに近付き、膝の上に飛び乗った。
「さっきの、何センチぐらいだと思う?」
ヒナを手に乗せると、矢口さんが言った。
「うーん、10センチがこれくらいとして…」
あたしは親指と人差し指を10cm位の間隔で開くと、鳥かごからヒナが不時着した辺りまでの飛行距離を計測した。
指で距離を測りながら、矢口さんの傍まで這うようにして進む。
「80センチくらいかな?」
「ウソ、もうちょっと行ったでしょ」
あたしが顔を上げると、不服そうに矢口さんが言った。
「じゃあ…82センチ」
「ま、そんなモンか」
矢口さんは満足そうに頷くと、あたしにヒナを預けて立ち上がった。
ヒナはあたしの膝の上で、きょとんとしてあたしのことを見上げている。
「なに書いてんですか?」
ベッドに寝転んで、何やら書き物を始めた矢口さんに尋ねる。
「育児日記」
ペンを走らせながら真剣な顔で言い切る矢口さんを見て、あたしは思わず笑ってしまった。
「なによっ」
矢口さんは顔を上げてペンを置くと、あたしに向かって抗議。
「だって、”育児”なんだ」
あたしが言うと矢口さんは、あっ、と小さな声を上げた。
「違うか。飼育日記?」
そう言って、照れたように笑う。
「いーじゃん。なんか矢口さん、赤ちゃん育ててるみたいだもん」
「ちなみにー、今日はヒナがウチに来て16日目の記念日でしたー」
「それって記念日なの?」
言いながらあたしが身を乗り出すと、矢口さんは書きかけのノートをぱたんと閉じてしまった。
「ダメぇ」
矢口さんは笑いながら、結局、日記の中身を見せてはくれなかった。
「すごい見てるよ…カワイイなぁ」
膝の上で、ヒナはさっきからあたしの顔をじっと見ている。
「わっ!?」
かと思うと、いきなりこちらに向かって飛び掛ってきたので、あたしは思わず仰け反った。
「矢口さん見て!」
あたしが叫ぶと、矢口さんはペンを持ったまま顔をこちらに向けた。
「あーっ!」
あたしに続いて今度は矢口さんが大声を上げる。
あたしの肩に飛び乗ったヒナは、矢口さんの声に応えるようにチュンチュンと鳴いた。
「ちょっと待って、そのまま、そのまま」
矢口さんは音を立てないようにそーっとベッドを下りると、バッグから使い捨てカメラを取り出した。
あたしに向かってカメラを構えながら、矢口さんは何やら不満げにブツブツと独り言を言っている。
「なんで、よっすぃーなんだよ」
「………」
ヒナがあたしを相手に初めて肩乗りに成功したことが、気に入らないらしい。
「ピ〜ス!」
「よっすぃー、手がジャマ」
ポーズをキメて勝ち誇るあたしに、矢口さんが冷たく言い放つ。
どうやら、あたしのピースサインとヒナの体が被っていたらしい。
「…はーい」
あたしは渋々、右手を下ろした。
「左でやっていいよ」
あたしは渋々、左手を上げた。
左手のピースは、慣れていないせいで少しぎこちない。
「撮るよー」
矢口さんがシャッターを切ると、フラッシュに驚いてバランスを崩したヒナが、あたしの膝に落下した。
「「ヒナっ!?」」
二人で呼びかけるとヒナはすぐに立ち上がり、目を丸くしてあたしたちを見上げた。
ヒナが丈夫な子で、本当に良かったと思う。
<9>
それから一週間もすると、ヒナはあたしの身長ぐらいの高さまで飛べるようになり、
あたしと矢口さんの肩を行ったり来たりして遊んだ。
飲み水用の水入れで水浴びを覚えたヒナのために、あたしは100円ショップで小さなタッパーを買った。
そのうちにヒナはあたしの、もちろん矢口さんにも、手の届かない高さを飛ぶようになった。
ヒナのおかあさんは相変わらず毎日やって来るし、矢口さんはヒナに何か変化があると
すかさず『育児日記』に記録したり、ヒナのために色々と世話をやいたりしている。
けれど部屋の中を自在に飛び回るヒナは、もう矢口さんのものでも、親鳥のものでもない。
ヒナは、ヒナのモノだと思った。
「ヒナ」
矢口さんが呼ぶと、ヒナはその手に降りてくる。
窓の外に飛び去った後も、また同じように呼んだとしたら、ヒナは矢口さんの元へ戻ってくるだろうか。
<10>
「もう、放しても良い頃だと思うんだけど」
切り出したのは、矢口さんの方だった。
「うん。もう平気ですよね」
体も十分大きくなったし、むしろ遅いかも知れないと思っていた位だから、反対する理由は無い。
あたしたちは明日、ヒナを外に放すことに決めた。
「知ってた? 明日でちょうど一ヶ月なんだよ」
「あ、そっかぁ」
あたしは、雨の中でヒナを見つけた日のことを思い出す。
あの時はまだ梅雨の真っ最中だったのに、今ではもうセミが鳴いていて、あたしは夏休みの真っ最中だ。
「もうちょっと涼しくなってから、放してあげたかったけどね」
ママに愛想尽かされちゃうと困るでしょ?
そう続けると、矢口さんは寂しそうに笑った。
ヒナの飲み水を取り替える矢口さんの後姿を見ながら、あたしは泣きそうになった。
ヒナと別れるのが悲しいのか、矢口さんを失うのが恐いのか、どちらかはわからない。
たぶん、どっちもだ。
「終わったよー、ヒナ。下りといで」
ヒナと過ごす最後の日、矢口さんの日記にはどんな言葉が綴られるのだろう。
<11>
その日は朝からとても暑くて、家を出る前に見たニュースでは、この夏一番の暑さだとか言っていた。
昼過ぎに仕事が終わると、すぐにあたしたちはヒナの待つ部屋へ帰った。
矢口さんのお母さんがあたしたちのために気を利かせてくれたのだろう、
部屋の中はエアコンが効いていて、鳥かごは風の当たらない場所に置かれている。
「ダメだよ、今日はぁ」
お母さんの心遣いも虚しく、中に入るなり矢口さんはエアコンのスイッチを切ってしまった。
「えーっ、暑いのに」
人の家なのに図々しいけど、信じられない矢口さんの行動に、あたしは思わず不満を漏らす。
「いきなり暑いトコに放り出されたら、ヒナがびっくりするでしょー」
「ああ、そうかぁ」
冷え切った部屋から突然外に出したりしたら、体にも悪そうだしね…。
まだスイッチを切ったばかりなのにもうぼんやりとしてきた頭で考えて、あたしは納得した。
矢口さんが窓を開けて、二人で鳥かごを窓際に吊るす。
するとしばらくして、いつものように親鳥がエサをくわえて飛んできた。
「次に来たら、放そう」
鳥かごを挟んで向こう側から、矢口さんが静かに言った。
あたしたちはヒナが外へ出てもまたおかあさんに会えるように、一緒に飛ばせてあげようと決めていた。
「…うん」
あたしは頷いた。初めて、ヒナがいなくなることの実感が湧いた気がした。
ヒナにエサを与え終え、親鳥が飛び去って行く。
「ホント、暑いなぁ」
矢口さんがぽつりと言った。
どうか、おかあさんが戻ってきませんように。あたしはそればかり考えていた。
けれどあたしの無茶なお願いが神様に届くはずもなく、しばらくして親鳥は再びヒナの元へ戻ってきた。
親鳥のくちばしに自分のそれをくっつけて、ヒナは夢中でエサを啄ばむ。
それはとても長い時間のようにも、ほんの一瞬の出来事のようにも思えた。
親鳥がカゴから離れると、矢口さんはきゅっと唇を結んで、カゴの戸に手を掛ける。
戸が開くと、ヒナはまるでその時を長い間ずっと待っていたかのように素早く、外へ飛び出した。
「あっ…」
その瞬間が来たら、あたしは矢口さんがヒナを呼び戻してくれるんじゃないかと思っていた。
なのに、矢口さんは黙っている。
「ヒナ!」
とっさに、あたしは叫んでいた。
「ヒナ! ヒナ!」
けれどいくら呼んでも、ヒナは戻って来なかった。
誰もいなくなった鳥かごの向こう側に、矢口さんの横顔が見える。
彼女は頬を伝う涙を拭いもせず、もう雲しか見えない空を見上げていた。
とても長い時間をヒナと過ごした矢口さんの、ヒナを想う気持ちは、あたしなんかには計り知れない。
この部屋であたしたちを繋いでいたものはきっと、二人の気持ちじゃなくて、ヒナの存在だったんだ。
空っぽの鳥かごを見ていると、ふと、そんな気がした。
「じゃあ、おやすみなさい」
エレベーターに乗ると、あたしが言った。
「おやすみ」
扉を開けたまま少し待ってみたけど、矢口さんは何も言わなかった。
いつも決まって言っていた、「また明日」はもう言えない。
矢口さんとしたキスも、それからその先のことも、まるで無意味に思えて、あたしは弱気になった。
ヒナのいなくなった寂しい鳥かごが、頭から離れない。
「よっすぃー」
矢口さんがあたしの名前を呼んだとき、あたしはもうボタンから手を離していた。
扉がゆっくりと閉まり始める。
「また、おいでよ」
すぐに、矢口さんの顔は見えなくなった。
帰り道、ヒナを見つけたあの場所を通り掛ると何羽かのスズメが歩道に集まっていて、
あたしが近付くと一斉に散って行った。
そうか、ヒナはスズメなんだ、と、今さらのように思う。
もしかしたら、あの中にヒナがいたかも知れない。
ヒナはスズメだ。渡り鳥じゃあないから、そう遠くまでは行かないはず。だったら、また来ればいいや。
ヒナに会うために。それから、矢口さんに会うために。
駅に着いて改札を抜け、ホームで電車を待つ間、あたしは矢口さんにメールした。
『 おやすみなさい、また明日。 』