miracle

 

窓の外は、今日も雨。
朝から降り続いている雨は夕方になってさらに激しさを増し、テレビの音を大きくしても、窓を叩く雨音を消すことはできない。

雨は嫌い。
曇り空を見ていると、なんだか心まで曇ってくみたいな気がする。
だから、一年のうちでイチバンたくさん雨を降らせる六月は、子供の頃から大嫌いだった。
雨の日にひとりぼっちで部屋に居ると思い出すのは遠足の前の日、背伸びをして窓にてるてる坊主を吊るす、幼い頃の自分。
いつだって同じぐらい願いを込めて作るのに、それは神様に届かないことのほうが多くて。

そのたびに、思い知らされるんだ。
どんなに強く願ったって、奇跡なんか起こらないんだ、って。

今日は近くのコンビニに行った以外はずっと部屋に居て、一日中テレビを観たりしてなんとなく過ごした。
雨の休日は、いつもこんなカンジ。
せっかくのオフなのに何だか勿体ない気もするけれど、雨の日に外へ出るのはやっぱり気が進まない。
昼間、矢口から電話があって、「映画行かない?」って誘われたけど断った。
夕方、急に誰かと話がしたくなって、矢口に電話しようかと思ったけど、きっと誰かと一緒に居るだろうから止めた。
コンビニのお弁当で夕飯を済ませて、お風呂に入って、特にすることも無いから今日は早めに寝ることにした。
時計の針は、もうすぐ午前0時を指そうとしている。
雨の音は聴きたくないから、テレビはつけたままにしておく。

電気を消してベッドに入るとすぐ、電話が鳴った。数回のコールの後、留守電に切り替わる。
私はベッドを抜け出した。もしかしたら、矢口かもしれないと思った。

『なっち? あ、もう、寝ちゃったかな』
けれど発信音の後に聞こえてきた声は、まるで予想もしなかった人のモノだった。

『あの、圭織だけど』
電話の向こうの彼女は、さらに言葉を続ける。
圭織が電話してくるなんて、一体どうしたんだろう?
私はほんの少し躊躇して、それから受話器を取った。

「もしもし」
『あっ、なんだ、起きてたんだ』
意外そうに、圭織が言う。

「うん。ちょうど、ベッド入ったトコ」
『そうなの? じゃあ、切ろっか』
「いいよ、べつに。そんなに眠かったワケじゃないし。すること無かっただけだから」
『そっか』
それきり、圭織は黙ってしまった。
自分からかけてきたくせに何も言わないなんて、どういうつもりだろう?
ほんの数秒の沈黙が、とても長い空白のように思えた。

「よいしょ、っと」
意味の無い言葉で間を持たせながら、カーペットの上に腰を下ろす。
「どしたの? めずらしいよね、圭織が電話くれるなんてさ」
どうしてなっちが気ぃ遣わなきゃなんないのさ、なんて思いながら、重たい空気に耐えかねて先に口を開いたのは、私の方だった。

『あのね、圭織の気のせいかも知れないんだけど…なっち、最近元気ないかな、って、思ったから』
私の方から話しかけると、それでも少しの間があって、自信の無さそうな声で途切れ途切れに、圭織が言った。
「ふーん、心配してくれてんだ。リーダーも色々と大変だねえ」
なんだか皮肉めいた言い方になってしまって、言った後ですごく後悔した。
圭織が相手だと、いつもこうなっちゃうんだから。

『…そんなんじゃないよ。別に、リーダーだからとか、関係ないし』
小さな声でぽつりと、圭織が言った。

私が何か言うと、圭織はいつも困ったような、悲しそうな顔をする。
今頃電話の向こうでもきっと、そんな顔をしているに違いない。
気に入らないのならもっと怒ったり怒鳴ったりしてくれる方が、こっちとしてはまだ、気が楽なんだけど。

「ゴメン、そんなつもりじゃなくてさ。あは、なんかおかしいね、なっち」
私はわざと明るく言った。圭織はまた、何も言わない。

「雨のせいかな。ほら、なっち雨降り嫌いだからさ」
『…そっか。それなら、いいんだけど』
言葉とは反対に圭織の言い方はぜんぜん、"良さそう"じゃない。
なんだか、心の奥を全て見透かされているような気がする。
そして、相手が矢口でも裕ちゃんでもなく圭織だったことが、なんとなく私を惨めな気持ちにさせた。

「圭織は何してたの? どっか出かけた?」
『ううん。今日はね、部屋でずっと絵描いてた』
「ああ、そっかー。良いよねぇ、圭織はそういう趣味があるから」
なっちと違って、って言いかけて、あわてて止めた。また皮肉っぽくなっちゃいそうだから。

『なっちは?』
「なっちもねぇ、ずっと部屋ん中だよ。でも何にもすること無いからさぁ、テレビ観たりとか、あとは何だろー」
『覚えてないの?』
「うん。どーでもいいコトしてたんだろうね、きっと」
すると圭織は笑って、たまにはそういうのも良いよ、って言った。

「たまになら良いんだけどさー、雨降りの日はいつもこんなだもん」
『じゃあ、梅雨をどう乗り切るか、考えなきゃね』
「えー? なにそれ?」
圭織があまりに真剣な口調で言うから、ちょっと笑ってしまった。

『圭織の傘はね、空色なんだよ』
「はっ?」
思わず声が裏返る。いつものことだけど、圭織ってば突然変なこと言い出すんだから。

『だって、雨の日で何が嫌かって、あのどんよりした曇り空でしょ?』
「うん、そうね」
『なんか、気持ちまで暗くなっちゃうじゃない』
「そうそう、そうなんだよねぇ」
圭織の言葉に頷きながら、今日初めて話が合ったぞ!なんて心の中でバカみたいにはしゃいで、やれば出来るじゃん!とか思ったりして。
上京して二人で暮らし始めたばかりの、まだ楽しかった頃のことを思い出して、なんだか懐かしい気持ちになった。

『だから、晴れた空と同じ色の傘さして歩くの。したらちょっとは気持ちが晴れるっていうか、明るくなるっしょ?』
「ああ…」
なんというか、圭織らしいとは思うけど…。
何か、梅雨を乗り切るための画期的な方法を思い付いたのかと期待していた私は、少し拍子抜けした。

「晴れ空の傘だから、気持ちも晴れるってコト?」
『そう』
「なんかそれって、ダジャレとかとレベル変わんない気がするんだけどさぁ」
『なんでよー! 気分違うんだって、ホント』
不服そうに圭織が言って、私は笑った。こういうのは、ちょっと悪くない。
外では大雨が降っていることも、少しの間忘れていた。

「なっちはねぇ、てるてる坊主でも作ろっかな」
『え?』
「要するに、雨が降らなきゃ良いワケでしょ? したらさ、傘さす必要もないし」
『てるてる坊主かぁ』
「神様にお願いしたらさ、なんとかなんないかなぁーって」
『なんか、なっちらしい』
圭織は、そう言って笑った。

「朝起きたら雨止んでてさ、青空がパアーって広がっててさぁ!」
きっとこういうのが、"なっちらしい"私なんだろうな、なんて思いながら、はしゃいだ声で言う。
自分でも少し、無理してるなぁ、なんて思いながら。

『じゃあ、ね。夜中にゴメンね』
「ううん。わざわざ、ありがとね」
『じゃあ、おやすみなさい』
「うん。おやすみ」
一時間くらい話して、私たちは電話を切った。
おしゃべりを止めてまたひとりぼっちに戻ったせいか、窓を叩く雨の音がさっきよりもひどくなった気がする。
テレビの音量を上げようとテーブルの上のリモコンに手を伸ばしかけて、ふと、床にぽんと置かれたティッシュの箱に目が留まる。

「朝起きたら雨止んでてさぁ」
ティッシュペーパーを丸めて作ったまんまるの頭を、ティッシュペーパーの薄いマントで包んで、何度も捻る。

「青空がパアーって広がっててさぁ」
人形の細い首を、輪ゴムできつく縛る。

「神様にお願いしたらね」
何もかもが上手くいってさ、なっちも圭織も矢口も圭ちゃんも、大好きな歌いっぱい歌っててさぁ。
なっちはいーっつも真ん中で歌ってるねぇ、ってテレビ観た後で決まって、ばあちゃんが電話してくるんさぁ。

「ぜったい、願いは叶うんだから」
朝、目覚めたばかりの私の元へ突然、奇跡がやって来てくれたら。
私を変えてくれる何かが突然、目の前に現れてくれたら。
雨が止んだら。あの頃に戻れたら。またたくさん、歌えたら。
起こるはずの無い奇跡を願って、誰かに頼って、何かに縋って。
今が嫌いなわけでは、決して、ないのに。

「信じてなんかないくせに。ばーか」
カーテンレールに吊るされた、奇跡の使者に向かって言う。
黒いマジックで描いた顔は、笑ってるふうにしたかったのに上手く描けなくて、への字口の泣きベソになってしまった。

――

「あはっ、やったぁ」
翌朝、起きるなり私は、思わず声に出して喜んでしまっていた。
昨夜の大雨が嘘のように、今朝の天気は快晴。
神様がなっちのお願い聞いてくれたんだ、なんて、如何にも"なっちらしい"ことを思いながら、身支度をして仕事へ向かう。
圭織に見せるための、てるてる坊主をバッグに入れて。

――

「なっち、帰ろー」
バッグから折畳み傘を出してバサバサと開きながら、矢口が言った。

「あ、ゴメン。ちょっと、寄るトコあるから」
私が誘いを断ると、矢口はつまらなそうに「ふーん」と言って、今度は前を歩いていた圭ちゃんに声を掛けている。
午前中に始まって夕方まで続いたレコーディングをようやく終えて、メンバーが次々とスタジオを後にする。
いつの間にか降り始めていた雨のせいで、まだ6時前だというのに外はもう真っ暗。
私は出口の端に寄ってバッグを探る振りをしながら、みんなが出て行くのを待った。
ガサガサと中身をかき混ぜるたびに浮き沈みする、白いてるてる坊主が、いちいち癇に障った。

午後の降水確率は70%だって、レコーディング中に矢口と圭ちゃんが話してた。
今朝晴れたのがうれしくて舞い上がって、天気予報も見ずに部屋を出て来てしまった自分は本当にバカだし呆れちゃうけど、
雨の中をひとり濡れて帰るのも悪くないと思った。
もっとも、天気予報で午後からの雨を知っていたとしても、きっと傘は持たずに出掛けていただろう。
本当にバカだし呆れちゃうけど、今日は一日晴れだって、少しは本気で信じてたんだから。
「…大っ嫌い」
バッグの中の、てるてる坊主に向かって言った。
そいつは今にも泣き出しそうな顔で、私のことをじっと見ている。

「ばか。泣きたいのはこっちだよ」
ほら見ろ。今日もまた、神様に裏切られちゃったじゃんか。
なっちにとって、雨は奇跡を邪魔するモノ。だから、嫌いなんだよ。

外へ出ると、雨足は思ったほど強くなかった。小雨に濡れながら、駅に向かって一人歩く。
ポツポツと、髪に落ちた雨粒はやがて頬を伝い、まるで涙みたい。ただ違うのは冷たいトコと、あとは、味がしないこと。

「なっち!」
突然、後ろから呼ばれて振り返ると、圭織が息を切らして立っていた。
彼女は私の傍へ駆け寄ると、空色のシンプルな傘を私に差しかけた。
「圭織、どしたの?」
「こっちが聞きたいよ!」
ああ、ホントだ、晴れ空の色だ。
私は傘を差しかけてくれた圭織に礼も言わず、頭上に広がる空色を、ぼんやりと眺めた。

「車の中から見つけて、もぅ! 傘もささずにボーッと歩いてんだもん。びっくりするじゃんよ」
「ああ…傘、忘れちゃってさ」
「ほら、風邪ひくから」
私は圭織が差し出したハンカチを受け取ると、雨に濡れた頬を拭った。
圭織の傘に二人で入って、私たちはゆっくりと歩き出す。
二人の間に会話は無い。雨粒が傘を打つ音が、やけに大きく響いた。
ふいに、圭織が傘を私の方へ傾けた。
見ると私の右肩は雨に濡れ、シャツに薄い染みを作っている。
私を庇って圭織が濡れてしまわないか気になったけど、彼女より背の低い私からは、その左側を見下ろすことは出来ない。
肩に落ちた冷たいはずの雫にまるで気が付かなかったのは、隣を歩く圭織の体温のせいなのかも知れなかった。

「本当は」
立ち止まって私は言った。傘から外れた私に、圭織はあわてて、また傘を差しかける。

「本当はなっち、てるてる坊主なんか信じちゃいないよ」
「てるてる坊主?」
言った後で圭織はすぐに昨夜の会話を思い出したらしく、あっ、と小さく声を上げた。
「もしかして、ホントに作った?」
私は頷いた。
「でも信じたかったんだよ。だって信じてれば、奇跡は起こるでしょ?」
「奇跡、ね」
圭織は例の困ったような、悲しそうな顔になって言った。

「ねぇ、なっちが今ココにいることは、奇跡じゃないの? 夢が叶ったことは、奇跡って言わない?」
私は首を振った。
「そういうんじゃないよ。なんていうか、もっとすごいコト」
「たとえば?」
聞かれて私は言葉に詰まる。自分から話を振ったくせに、圭織の質問には答えられそうになかった。
なっちが願う奇跡って、たとえばどんなコトだろう?
満たされすぎていることを虚しく感じているのか、それともまだ何かが足りないのか、自分にもよくわからない。
けれど確かになっちの心には小さな隙間が空いていて、そこから冷たい雨がじわじわと染み込んでくるみたいな今のこのカンジは、
一体どんな言葉にすれば、圭織に伝えられるんだろう。

「たぶん、今が嫌いなワケじゃないんだ。ただ、あの頃が大好きなだけなの」
黙りこくって色んな事を考えた挙句、私はそれだけ言った。
べつに、今が嫌いなわけじゃなくて。
なんだかすごく遠い昔のような気がするあの頃が、私はとくべつ大好きだったんだ。ただ、それだけ。

圭織はますます困ったような顔をして、うーん、と唸っている。
かと思うと、いきなり無表情になって遠くを見つめ、何者かと『交信』を始めてしまった。

「ゴメン。なっち、また変なコト言ってるね。忘れて?」
「だいじょうぶだよ」
しばらく路上で固まった後、いきなり、圭織が言った。

「てるてる坊主なんかに頼らなくたって、雨が降ったら傘させば良いし、傘がなければ雨宿りすれば良いんだし」
「……だから、なに?」
いつもながら圭織の言うことは突拍子が無いし、雨が降るとなっちは情緒不安定になったりするから、
こんな日は普段に輪をかけて話が噛みあわない。

「奇跡なんかなくたって、私たちは変われると思う」
そう言った圭織の声がとても優しくて、なっちは救われたんだ。
とくに何かが解決したわけでもなかったし、開眼、なんて大げさなモノでもない。
けれど、目の前の霧が少しずつ晴れていくみたいにゆっくりと、なっちは救われたんだ。

奇跡なんか本当はどこにもないことを私は知っているし、楽しいこともうれしいことも、そう長くは続かないことだって知ってる。
だから、誰かに言って欲しかったのかも知れない。
奇跡なんかどこにもないんだよ、って。だけどそれでも大丈夫なんだよ、って。
そして、それが矢口でも裕ちゃんでもなく圭織だったことが、どうしてだろう、とても、うれしかった。

ふいに、雨粒が頬を伝う。
あ、違う、これは雨粒じゃない。だって温かいし。きっと、味もするだろう。

涙はしばらく止まらなかったけれど、圭織は何も言わずにずっと傘を差しかけていてくれた。
圭織の晴れ空の傘が、雨降りのなっちをすっぽり包んでくれたから、なっちは誰にも気付かれずに、たくさん泣いた。

「ねぇ、傘買うの付き合ってよ」
ようやく泣き止んだ私が、まるで何も無かったみたいに言うと、圭織も、
「いいよ」
と言って、まるで何も無かったみたいに笑った。

「したっけ圭織も、あんまし人のコト言えないんでない?」
「なにがよ?」
「『晴れた空の傘さして歩くのぉー』ってもぅ、かぁわいーんだから。そんなヒトがなっちのてるてる坊主、バカにできないっしょ」
「なんでー? いいじゃんよー」
「まぁ、いいアイディアだとは思うけどもねぇ」
泣いたことも、憂鬱な気分も、もう戻らない時間も、ぜんぶ六月のせいにして、私たちは歩き出す。

実を言うと私は、圭織と同じ、空色の傘を買おうと決めていた。
曇り空でも、晴れた空と同じ色の傘をさして歩けばきっと、昨日より少しはマシな一日になるのかも知れないから。


<おわり>