楽しいナカザワ一家
「ひとみ…ひとみ!!ねぇ、起きてよ…ひとみってば!!」
朝の静寂をブチ壊す甲高い声。
もぅ…あとちょっと寝かせてよ。
ちゃんと起きるから…。
「起きろっつってんの!!もぅ!遅刻しても知らないからね!?」
うるさいなー…もぅ。
「うん…起きるから…あと5分…」
このまま黙ってると布団を剥ぎ取られそうだから、とりあえず返事だけはしておく。
冬の朝は寒い。とにかく寒い。5分だけ、あと5分だけ…一晩かけてあたためた、この温もりを。
「そんなコト言って、5分で起きたためしないでしょ!?もー!!早く起きろっつーの!!」
「うぎゃああっ!?」
突然、おなかの辺りに重い衝撃を感じて飛び起き…ようとしたが、体の上に何か乗っかってて動けない。
何なんだ、一体…?
「ほんっと、朝弱いんだから…」
頭上から声がして、あたしは寝転んだ体勢のまま、あたしのおなかに跨るようにして乗ってるそのヒトを見上げる。
え…………?
矢口さん…?
何で、矢口さんがあたしの部屋に?
「ホラ、起きた起きた!!朝ゴハン、できてるからね」
言いながらあたしの部屋を出て行く矢口さん。
ワケがわからなかったが…とりあえずあたしはベッドから起き上がると、自分の部屋を出る。
洗面所で顔を洗いながら、あたしは考えた。
そしてひとつの結論に達した。
コレは、夢だ。間違いない。
そうでなきゃ、矢口さんがあたしの家にいるコトの説明がつかない。
昨日は、仕事が終わるとみんなまっすぐ家に帰ったんだから。
第一、矢口さんがあたしの家に来たコトなんて…哀しいコトに今まで一度もないんだから。
顔を洗ってリビングへ行くと、キッチンで何やら料理を作ってるらしい矢口さんの後姿が目に入った。
エプロン姿の矢口さん、後ろから見ても…かわいいなー、やっぱり。
「あ…やっと起きてきた。早く食べないとホントに遅刻するよ?」
入ってきたあたしに気付いた矢口さんが、こっちを振り返って言う。
エプロン姿の矢口さん、前から見ても…かわいいなー、やっぱり。
「矢口さん…おはようございます」
幸せに浸りすぎて、朝のあいさつを忘れていた。
あらためて、包丁片手の矢口さんに一礼する。
「は?『矢口さん』って…なに言ってんの?」
「え…?」
なに言ってんのって、あたしはただ朝のごあいさつを……あっ!そうか!!
さっき矢口さん、あたしのコト『ひとみ』って呼んでた。
そっか…あたしたちは、名前で呼び合う仲ってコトなんだね。
矢口さん、あたしのコト『ひとみ』って呼び捨てだし。
しかも矢口さん、エプロン姿だし。
なんて幸せな夢なんだろう…ああ、どうか覚めませんように。覚めませんように。覚めませんように!!
よし。これだけお願いしておけば、当分覚めるコトもないだろう。
あたしは、大きく深呼吸。
ずっと呼んでみたかった、彼女の名前を…名字ではなく名前を、ついに口に出すときが来たんだ(しかも呼び捨て)。
「真…」
「もー、なんで自分のお母さんのコト、名字で呼ぶかなぁ?しかも旧姓で」
「は…?」
お母さん?旧姓??なにそれ??
「ああああーーー…気分わる…最悪や。矢口ぃ…水一杯くれへん?」
まったく状況が飲み込めずに混乱するあたしをよそに、リビングには新たなる来訪者。
少し身をかがめて入ってきたそのヒトは…見てるこっちが気分悪くなりそうな表情で胃の辺りをさすっている。
「もぅ、裕ちゃん!裕ちゃんがいつまでもあたしのコト矢口なんて呼ぶから…ひとみが真似するんでしょ!?」
冷蔵庫からミネラルウォーターを出しつつ、矢口さんが言った。
「もー…うっさいなぁ。アッタマ痛いねんから大っきな声出すなっちゅーねん。なぁひとみ?」
矢口さんから水の入ったコップを受け取りながら、あたしへ話を振ってくる。
「あの…中澤さん、ですよね?」
そんなの見りゃわかるだろ、って言われそうだけど…とにかくワケがわからんので一応確認してみる。
「はあ!?そら中澤さんには違いないけど…あんたも中澤さんやろ?何言うてんねん。朝っぱらからおかしなコやなー」
どういうコト?あたしも『中澤』?どういう設定なんだよ、この夢は…。
「ただいまー!!」
「あっ、お義父さん帰ってきた!」
また誰か来た…もう、いっぱいいっぱいだっつーのに。
「やっぱし朝の散歩はええなー、さわやかで。1日のはじまりはこうやないとなー」
「あいぼん!?」
真っ赤なジャージ(上下)に身を包み、髪を2つに束ねて横わけの前髪も健在…これはまさしくあいぼん。
「ひとみっ!?あんた今なんて!?『あいぼん』って…『あいぼん』って呼んでくれたんやな!?おじいちゃん、うれしいで!!」
おじいちゃん!?うそだろー!?
「何で孫に『あいぼん』言われてうれしいんかなぁ?ワッケわからんわー」
「やかましいわ!ホンマ、ひとみは裕子に似んとカワイイなぁ!!裕子に似んとなー!!」
あいぼん、中澤さんのコト『裕子』とか言ってる…なんか、新鮮な光景。
「朝からなんだべ…あいぼんも裕ちゃんも、ほどほどにするっしょ」
「お義母さん、おはようございます」
「おはよう、真里っぺ」
矢口さんが『おかあさん』って呼ぶってコトは、安倍さんは…あたしのおばあちゃんか。
それにしても、みんなお互いの呼び方がメチャクチャ…。
とりあえず今の状況をまとめると…ココにいるみんなは家族という設定だというコトは間違いないな。
まず、あいぼんはあたしのおじいちゃんで、安倍さんがおばあちゃん。
そしてコレはかなり認めたくないんだけど、矢口さんはあたしのお母さん。
そしてコレは死んでも認めたくないんだけど、さっきの矢口さんとのやりとりから推察するに…中澤さんは、あたしのお父さん。
で、ココにいるヒトの名字は…全員『中澤さん』ってコトなんだろうな、たぶん。
なんて夢なんだろう…ああ、どうか早く覚めますように。覚めますように。覚めろ!!覚めろ!!覚めろ!!!
…ダメか。
「ひとみ、早くしないと…もう来ちゃうよ?」
朝の一家だんらんの途中、ゴハンを頬張るあたしを矢口さんが急かす。
「え…?来ちゃうって…誰か来るんですか?」
「何とぼけてんねん。えーなぁ、お熱い!!お熱い!!朝っぱらから…ヒューヒューヒューヒュー!!!」
いや、4回も言わなくてもいいですけど…一体誰が来るんだろ?
「でも結構長いよねー。付き合って3年目…だっけ?」
あたしの質問には答えず、お茶をすすりながら矢口さんが言う。
っていうか付き合って3年目!?『付き合って』って!?
しかも中1から!?彼氏!?彼女!?どっち!?
それってメンバーの誰かとか言わないよね!?
もうどこにポイントを置いて驚けばいいのやら、あたしはすっかり混乱してしまった。
ま、ココまで来たらお約束として…メンバーの誰かであるコトは間違いないだろう。
とすると、何となく予想できたぞ…たぶん、あのコなんだろうなぁ。
(『ひとみちゃん…おはよ』)
あたしは、玄関先で照れくさそうにうつむきかげんで笑う梨華ちゃんの姿を想像していた。
矢口さんがお母さんだったのはかなりショックだったけど、梨華ちゃんが彼女かぁ…それはそれでうれしかったりして。
「行ってきます!!」
朝ゴハンもそこそこに、あたしは側に置いてあったカバンを掴むと玄関へと急ぐ。
玄関先に座り込んで靴を履いていると、突然目の前のドアが開いて誰かが入ってきた。
あたしのモノと同じ、通学用の革靴が目に入る。
「ひとみ、オッス!!」
『オッス』…?
ずいぶんワイルドだね…梨華ちゃん。
おそるおそる、目の前に立っているヒトの姿を見上げてみるが…視線はなかなか彼女の顔まで到達しない。
いつの間にそんな身長伸びたの…梨華ちゃん。
「うそっ!?飯田さん!?何で飯田さん!?」
ちょっと予想外すぎるんですけど…。
「はあ?何言ってんの、ひとみ?」
あたしと飯田さんが…付き合って3年目?
なにをどう考えればこういう組み合わせになるんだろう…まいったなぁ。
「2人とも、気をつけてね…いってらっしゃーい!!」
「おかあさん、いってきます」
どうでもいいけど飯田さん、何で矢口さん(あたしのお母さん)のコト、『おかあさん』って呼んでるんですか…。
「いってきます。おかあ…さん」
ついに、矢口さんのコトを『おかあさん』と呼んでしまった。
おかあさん…なんて悲しい響きだろう。
駅までの道を仲良く並んで歩く、制服姿の2人…飯田さんとあたし。
現実世界では絶対にありえないシチュエーション。
あたしたちは同じ制服着てるんだけど…飯田さんはあたしの学校の高等部って設定なんだろうか?
セーラー服姿の飯田さんなんてめったに見れるモンじゃないから、さっきから気になってつい横目で見ちゃうんだけど…
当の飯田さんは、あたしの視線には気づかずにただひたすら歩き続けている。
「ねえ、ひとみ。宿題やってきた?国語のやつ」
「えっ!?」
さっきまで黙々と歩いていたのに突然話しかけられて驚いたのと同時に、さらに驚いたのはその内容。
『宿題やってきた?』ってコトは、あたしと飯田さんは同じクラスってコトになる。
つまり、あたしと飯田さんは…同級生。同い年。
ちょっと無理があるんじゃないか…そう思ったが、次の瞬間その考えは打ち消された。
だって、あたしの家族構成自体が既にムリムリじゃないか。
あいぼんの子供が中澤さんで、さらにその娘があたしって世界なんだから…飯田さんがあたしの同級生だって
飯田さんがあたしの3年目の彼女だって、ぜんぜんおかしいことなんてない。
そう、おかしいことなんて、なにひとつ…。
「飯田さん、やってきたんです…やっ、やってきたの?」
ついいつものクセで敬語を使いそうになってしまい、あわてて言い直す。
「あのさぁ、さっきから何の冗談?『飯田さん』なんて。何でいつもみたく『カオリン』って呼んでくれないの?」
「カ、カオリン!?」
何でよりによってそんな呼び方!?
だったら普通に『カオリ』でいいじゃん…。
「ねー、何で!?」
呼べるかよぉ…カオリンなんて。
「ひとみ!!聞いてる!?」
えーっ…やだよぉ。
「カオ…リン」
ついに、飯田さんのコトを『カオリン』と呼んでしまった。
カオリン…なんて哀しい響きだろう。
「ねぇねぇひとみ、宿題やってきた?」
席につくなり、後ろの席の友達があたしの背中を突付きつつ聞いてくる。
「やってない」
そもそも、宿題が出てたコトすら知らないんだから…やりようがない。
何となくギクシャクとした会話を交わしながら、あたしたちはようやく学校に到着。
あたしと飯田さんは席が離れているから、始業時間ギリギリに教室に入るとすぐにそれぞれの席についた。
飯田さんは窓際の一番後ろの席で、あたしは一番前。しかも真ん中の列、教卓のド真ん前。
この席、実は意外と寝てても見つかりにくいとの噂だけど…やっぱり噂は噂にすぎない。
これまでの経験上、一番前で寝てて最後まで見つからなかった試しはない。
「宿題って、何の…」
友達に聞こうと後ろを振り返った時、突然教室のドアが勢いよく開けられた。
「やばっ、辻先生きたっ!」
辻先生…?うそだろーーっ!?
「みなさん!!おはよーございますっ!!辻希美ですっ!!出席をとりますっっ!!」
このヒトから、一体何を学べというのだろう…。
「しゅくだいを忘れたひとは、バツとして早口ことば10回ですっ!!前にでてきてくださいっ!!」
そして、教室の前に立たされたのは…あたし一人だけ。
あとは全員やってきたってコトか…みんな優秀だなぁ。
「さあ、はじめてくださいっ!!がんばって!!」
声援を受けたあたしは、ののに手渡されたプリントに目を通す…おいおい、コレのどこが早口言葉なんだよ?
「さあ!!」
やだ、こんなの…やりたくない。
「はやくっ!!」
言いながらあたしに近づいてくるののの目は、きらきらと輝きを増して。
純粋で、そして、それゆえに残酷な…コドモの瞳。
「コ、コケッ…コケココ…」
「もっと!!もっと大きな声でっ!!」
みんなが真面目に宿題やってくる理由が、今わかった。
「コケーッ!!コケーッココココ!!コココココココ!!コケーーーッッ!!」
「そう!!そのちょうしだよ、ひとみちゃんっ!!」
このヒトから一つ学んだコト…宿題は、ちゃんとやろう。
「ひとみちゃん、待ってくださいっ!!」
「何ですか?」
帰りのHRが終わり、教室を出ようとしたところをののにつかまる(辻先生はどうやらクラスの担任らしい)。
「何ですか、じゃないのですっ!さいきん、せいせきが落ちてますよ?どうしたんですか?」
「いや、どーしたも、こーしたも…」
確かに現実世界でも成績は下がる一方だが…夢の世界でのあたしの成績なんて知ったこっちゃないんですけど。
「いいださんとあそんでばっかりいないで、ちゃんと勉強するのですっ!!わかりましたねっ!?」
全く身に覚えのないコトで…何であたしが辻に怒られなきゃいけないんだろう?
よりによって辻に…。
「へんじは!?」
「…はい」
ちっくしょー…。
「ま、帰ったらイヤでも勉強することになるとおもいますけどね…」
「えっ…」
意味深な微笑を浮かべながら教室のドアを開け、廊下へと消えていく辻先生。
今のは、どういうイミなんだ…辻。
「ただいまー」
家に着くなり、あたしは矢口さんの顔も見ずに階段を上がる。
今日は朝から本当に疲れる一日だった。
失恋(矢口さん=お母さん)、驚愕(飯田さん=彼女)、屈辱(宿題の罰ゲーム)…もうたくさんだ。
ひとりになりたい。そしてこの悪夢が終わるまで、部屋でじっとしていよう。
「ひとみ、ちょっと待って!!降りてきな!!」
ちょうど階段を上りきったところで、矢口さんに大声で呼ばれる。
仕方なくあたしは階段を降りると、重い足取りで矢口さんの居るリビングへ向かう。
「今朝、電話あったよ…辻先生から」
矢口さんは、リビングの入口で腕を組んで仁王立ち。
「宿題、忘れたんだってね?」
げ…。辻のやつ…チクリやがったな。
「成績も下がってるって言ってたよ?どうりで最近テスト見せないなーって思ってたけど、そーゆーコトだったんだね。
ダメでしょ、ちゃんと勉強しなきゃ!!受験生なんだよ!?自覚なさすぎ!!」
矢口さん、ホントにお母さんみたいなコト言ってる…。
「わかってるよ、ちょっと息抜きしただけだもん。次はちゃんと勉強するから、大丈夫だって」
矢口さんがあまりにお母さんっぽいので、あたしも普段お母さんに言っているような言葉で対抗する。
お母さんのお小言を上手くかわすのは、あたしの得意ワザ。
「うそだね。ひとみはいっつも口だけなんだから…絶対ダマされないんだからね!!」
あれ?このお母さんは…ちょっと手ごわいぞ?
「そう思ってお母さんは…家庭教師の先生を頼んじゃいましたー!!やったね!!」
なっ!?
「はあ!?何だよ、聞いてないよ、家庭教師なんて!?ひどいよ、お母さん勝手に!!」
いつの間にか、矢口さんを『お母さん』と呼ぶことに抵抗を感じなくなってる自分がちょっとだけ哀しい。
「でもさー、もう呼んじゃってるんだよね…会うだけ会ってみてよ。っていうかもう来てるんだ」
「やだよっ、絶対…」
あたしが言いかけたとき、矢口さんの後ろに人影が現れた。
「はじめまして、石川梨華です。あなたが…ひとみちゃん?」
あ…ちょっとうれしいかも。
「…とみちゃん、ひとみちゃん!」
「へっ!?」
自分の名前を呼ばれ、はっと我に返る。
「もぅ、ダメじゃない!ちゃんと聞いてなきゃ!!」
「…すいません」
やっぱり、怒ってる時もかわいいなー…。
さっきから、梨華ちゃんにばかり集中しすぎて…勉強に集中できない。
「しょうがないなー…じゃあ、息抜きにちょっとだけお話しようか?」
「はい!!」
部屋の真ん中に置いてあるテーブルを挟んであたしの真正面に座っている梨華ちゃんは、教科書を閉じるとテーブルに頬杖をつく。
家庭教師ってコトは…大学生なのかなぁ、梨華ちゃん。
それとも近所の高校生?
先生という設定のせいか、梨華ちゃんは普段より少し大人っぽく見える。
同じ先生でも…辻先生とは大違い。
「ひとみちゃんは、部活とかやってるの?」
テーブルに頬杖をついたままで、梨華ちゃんが言った。
「バレーやってました。もう引退しちゃいましたけど…」
本当はモーニング娘。に入ったからできなくなったんだけど、ココでそんなコト言ったってわかってもらえるワケないから、
とりあえず引退したってコトにしておく。
「そうなんだ、すごいね!あたしも中学の時はテニス部だったの!!部長やってたんだけど…」
あ…そのへんの設定は、現実の梨華ちゃんと一緒なんだ。
「だけどみんなが全然言うコト聞いてくれなくて…」
勉強の合間の息抜きのはずが…石川先生は持ち時間である2時間のほとんどを自分のテニス部時代の話に費やして、その日の授業は終了した。
「それじゃあ、失礼します」
初日の授業(ほとんど勉強しなかったけど)を終えて、玄関先で梨華ちゃんを見送る。
「晩ゴハン、食べてけばいいのに」
まだ支度の途中らしくエプロン姿の矢口さんが、キッチンから出てくる。
「すみません、今日はちょっと用事があって…今度ぜひ」
礼儀正しくおじぎをしながら梨華ちゃんが言う。
「オッケー。絶対だよ?」
(この世界では)初対面のはずなのに、梨華ちゃんに対して妙になれなれしい矢口さん。
「はい。それじゃ、お邪魔しました。ひとみちゃん、またね」
「はい!」
梨華ちゃんの授業は、週3回。
次に会えるのは、あさってか…ちょっと寂しいなぁ。
「ただいまー!!」
梨華ちゃんと入れ替わりに、ドアを開けて誰かが中に入ってくる。
「あ、おかえり裕ちゃん」
中澤さんか…一応、会社とか行ってたんだろうか?おとうさんだし。
「だれ?今のかわいいコ…?おじぎしてったで?」
さっそく目をつけたか…さすが中澤さん。
「ひとみの家庭教師の先生。今日から来てもらったんだ…あっ、お湯沸いた」
沸騰したコトを知らせるやかんのピーッという音に、矢口さんはあわててキッチンへ戻っていった。
「ふーん…名前なんて言うん?」
「石川先生、だけど?」
「違うって!下の名前や!!」
何でだよ…。
「石川…梨華」
「へぇ…りかちゃんかぁ」
中澤さんはそう呟くと、靴を脱いでリビングへと消えていった。
「あー…ええわぁー…やっぱ仕事の後の一杯は最高やなぁ」
矢口さんに注いでもらったビールを、おいしそうに飲み干す中澤さん。
それにしても中澤さん、金髪にスーツで…一体何のシゴトしてるヒトなんだろうか。
「お…さんきゅ。気が利くやないか、ひとみ」
「おつかれさまでした」
一応、養ってもらっている身なワケだし…これぐらいはしないとね。
おつまみを用意しにキッチンへと戻った矢口さんに代わって、今度はあたしが中澤さんにお酌。
「それにしても…えーよなぁ、ひとみは。うらやましいでぇ」
グラス片手に遠い目をして、中澤さんがしみじみと言う。
「うらやましいって、何が?」
あたしから見れば、中澤さんの方がよっぽどうらやましいんだけど…矢口さんのコト、ひとり占めできて。
「あんなカワイイ娘が家庭教師やなんて…。あーあ、あたしも石川センセに勉強習いたいわぁ。
ほんでお礼に別のコト教えてあげたいなぁ…」
ったく…何考えてんだか、このヒトは。
矢口さんというカワイイ奥さんがありながら…。
「ゆーこ…あんま調子乗ってると殺すよ?」
いつの間にかあたしたちの後ろには、料理の途中だったのか右手に包丁を持った矢口さんが立っていた。
「げ、矢口!?ちがっ、違うって!!冗談やって…ホラ、ひとみがな、あんまり梨華っちのコトかわいいかわいい
言うモンやから、ハナシ合わせてやってん」
うわ…最悪。人のせいにしてるし。
「もういい。明日からお弁当、ひとみの分しか作んないからね」
「ウソやろ!?先月こづかい減ったばっかしやんか…お昼ゴハンどないしたらええねん!?」
「知らない。みっちゃんにでも分けてもらえば?」
「矢口ぃ…ゴメンって!!な?お願いやからお弁当作って?ホンマ金無いねん」
「知りません」
中澤さんの哀願もむなしく、再びキッチンへと消える矢口さん。
中澤さん、哀れだなぁ…。
やっぱり矢口さんとは、親子で良かった…そんな気がした。
晩ゴハンを終えて自分の部屋に戻ってきたあたしは、携帯のメールをチェック。
梨華ちゃんの授業の間は電源切ってたから、誰かから来てるかも知れない。
と、予想通り電源切ってた間に2件の新着メール。
1件目は…『勉強がんばってくださいね!!辻希美です!!』。一応心配してくれてるのかな…それとも嫌味?
そして2件目…『辻先生に呼び出されてたね?何かあった?』。…飯田さんだ。
『成績落ちてるって怒られたよ。そのせいで今日から家庭教師つけられちゃって、もうサイアクだよー』
梨華ちゃんが家庭教師で、本当は最高の気分なんだけど…とりあえずこんなもんでいいかな?
ののからのメールはあっさり無視して、飯田さんへ返信する。
ふと時計を見ると…時刻は夜9時。
今日はいろんなコトがあって本当に疲れたから…お風呂に入ったらゆっくり寝よう。
着替えを持って部屋を出ようとしたところで、突然携帯が鳴った。
今消したばかりの部屋の電気を再びつける。
鳴り続ける携帯の画面には、『カオリン』の文字…飯田さんからだ。
「もしもし」
『あ、カオリだけど…今だいじょうぶ?』
「はい…あっ、うん。へーきだよ」
飯田さんと敬語使わずに話すのって…やっぱりまだ慣れない。
矢口さんや中澤さんに対しては、とりあえず普通に会話できるようになったんだけど…。
『家庭教師ってホント?最悪だねー』
「うん。そうなんだ」
あたしはベッドの上に腰掛けると、手に持っていた着替えを側に置く。
『じゃあ、これからはあんまし遊べないね?』
「うん…そうだね」
そもそも飯田さんとはあんまり遊んだコトないから…そう言われても何だかピンとこないんだけど。
『あのさ…どんなヒトなの?その…家庭教師って』
ほんの少しの沈黙の後で、飯田さんが言う。
「ああ…石川さんってヒト」
『ふーん』
あたしの答えに、飯田さんはそっけない返事。
あんまり答えになってなかったかな…名前教えただけだもんね。
「何だか顔は大人っぽいんだけど妙にカワイイ声で…あっ、もちろん顔もカワイイんだけど」
『ふーん』
あたしの説明に、飯田さんはまたもやそっけない返事。
まだ、足りないのかな?
「えっと、あとは…あっ、中学のときテニス部で部長やってたらしいんですけど…」
あ…やば、また敬語になっちゃってるし。
『もういい…とにかく、がんばってよね。カオ、会えなくても我慢するから…じゃあな!!』
そう言うと飯田さんは一方的に切ってしまった。
どうしたんだろ…あたし、何か怒らせるようなコト言っちゃったのかなぁ?
何だか今日は、いろんな人に怒られてばっかりだったなぁ…。
「ひとみ…ひとみ!!ねぇ、起きてよ…ひとみってば!!」
あ…また矢口さんの声だ。
ってコトは、あたしはまだこの悪夢から覚めていないってコトか…。
「もぅ!毎朝毎朝、いいかげんにしてよ!!早く起きないと…チューしちゃうからね!?」
え…?
「ええっっ!?」
驚きで一気に目が覚めてしまった。
「やっと起きたか…」
あっ、しまった。
「ちょっと、なに二度寝してんだよ!?起きろーっ!!」
このさい、お母さんでも何でもいい…矢口さんのキスで目覚めたい!!
「このやろぉ…もう許さないんだからねー!!」
いきなり、布団を剥ぎ取られる…寒い。
「うわっ!?はははははは!!わーっはははは!やめて!やめてください、矢口さん!?うぅぅぅ…」
「どーだ!起きないともっとくすぐるよ?」
誰かにおなかをくすぐられるのなんて、小学生の時以来かも知れない。
「痛い!おなか痛いです、矢口さん!!ははははは!!ううっ…」
「いいかげん起きた?っていうか、ちゃんとお母さんって呼びなさい!!」
「起きた、起きたよ!!起きたからやめてっ…おかあさん」
あまりに突然の出来事に、矢口さんがお母さんであるコトをすっかり忘れていた。
「朝ゴハン、できてるからね」
言いながらあたしの部屋を出て行く矢口さん。
昨日の朝と同じ光景…と思いきや、閉まったはずのドアが再び開いて矢口さんが顔を出す。
「二度寝すんなよ」
「…はい」
誰がするもんか。
「おっ、ひとみ。おはよーさん」
リビングへ入ると、中澤さんは既に起きて朝ゴハンの途中。
新聞を読みながらシャケをつついている。
「おはよ」
短くあいさつを返すと、あたしも席について用意されていたゴハンに箸をつける。
「おじいちゃん、おしょうゆ取って」
あたしは、あたしの斜め前に座ってテレビを占領しているあいぼんに言った。
お目当てのおしょうゆは、あいぼんの目の前にあってあたしの位置からは届きそうもない。
「えっ…なんでや?なんでやねん…うぅ…っく…ひっく…」
「はあ?」
何で泣いてんだよ…。
「昨日は、昨日は『あいぼん』言うてくれたやんか…なんでや…うぅ」
ああ…もぅ、うっとーしーなー…朝っぱらから。
「ひとみ、あいぼんって言ってあげて。そうすれば泣き止むから。ねー、あいぼん、そうだよねー?」
言いながらあいぼんのアタマをなでてあげる安倍さん。
「うっ…っく…ウチな、うれしかってん。だってひとみが『あいぼん』て呼んでくれたん、幼稚園の年少さんのとき以来
やったんやもん…せやからウチは…ウチは…っ」
「うんうん…そうだよね。うれしかったんだよね?なっちはあいぼんの味方だからだいじょうぶだよ」
味方って…何かあたしが悪者みたいじゃんか。
「おしょうゆ取って…あいぼん」
「やったー!!年長さん以来や、年長さん以来や!!やったー!!」
年少さんじゃなかったっけ…まあいいや。
結局、飛び上がって喜ぶあいぼんの目の前にあったおしょうゆは、あたしが自分の手で取るハメになった。
「あれ?あたしのお弁当は?」
食べ終わった食器を下げようと立ち上がると、キッチンから中澤さんの声。
「今日から作んないって言ったじゃん」
続いて聞こえてきたのは、矢口さんの冷酷な一言。
「はあ!?ホンマに作ってへんの!?」
「当たり前でしょ」
「やぐちぃぃぃ…」
食器を持ってキッチンへ行くと、テーブルの上にはお弁当がひとつだけ。
もちろんコレは、あたしのために用意されたモノ。
「ひとみ、急がないとカオリン来ちゃうよ?」
矢口さんは、隣で情けない声出してる中澤さんをあっさり無視。
テーブルに置いてあったお弁当を取ると、あたしに差し出す。
「うん…行ってきます」
あたしは矢口さんから受け取ったお弁当をバッグに入れ、玄関へと急ぐ。
「やぐちぃぃぃぃぃぃぃ……」
あきらめ悪いなー…中澤さん。
靴を履いて、玄関のドアを開ける。
…寒い、寒い、寒い。
2月に入ったばかりの今は、一年の内で最も寒い季節である…と、たった今あたしが勝手に決めた。
だって、めちゃめちゃ寒いんだもん。
あーあ…飯田さん、早く来ないかなぁ。
あたしは、昨日飯田さんがウチに来たのと同じ時間に玄関を出て、彼女が来るのを待ってるんだけど…。
かれこれ5分が経過しているが、飯田さんが現れる気配は無い。
たった5分とはいえ、朝の5分は貴重なのに…どうしたのかな、飯田さん。
遅刻なんてしちゃったら、のの(辻先生)に何て言われるか…。
「ひとみーっ!!」
声のした方を振り返ると、通りの向こうから手を振りながら全力で走ってくる飯田さんの姿が見えた。
良かった、この時間なら遅刻しないで済みそうだ。
「ゴメンゴメン。コレ忘れちゃって、取りに帰ってたから」
乱れた息を整えつつ、飯田さんがバッグから取り出してあたしに見せたモノは…小さなポット。
お茶でも入ってるんだろうか?
飯田さんの全力疾走のかいあって、あたしたちは遅刻することもなく無事学校へ到着。
そして、今日の授業は信じられないコトに1時間目から6時間目まで全てが国語。
つまり、朝のHRから帰りのHRまで、一日中びっしり辻先生づくし…ますます頭悪くなりそう。
ようやく午前中の授業が終了したものの、まだあと半分残ってるかと思うと…本気で早退したい。
「ひとみ、行こっか?」
ぐったりと机の上に突っ伏していると、飯田さんがあたしの席にやってきた。
その手にはお弁当と…今朝、忘れたって言ってたポット。
「え…どこ行くの?」
教室で食べるんじゃないのかな?
「どこって…屋上だよ。なに言ってんの?」
「あ、ああ…そうだね。天気良いしね」
昨日のお昼は、飯田さんが校内放送の当番だったから(放送委員らしい)、あたしは友達と教室で食べたんだけど…。
どうやらいつもは、2人で屋上に行って食べているようだ。
「はい。どーぞ」
「え?」
飯田さんが、あたしの目の前にカップを差し出す。
屋上に着いて座るなりポットの中身をカップに注いでいた飯田さん、てっきり自分で飲むのかと思ってたのに…。
「今日はね、コーンスープ。ひとみがいちばん好きなやつにしてみたんだけど…今朝は寒かったから」
寒かったからいちばん好きなやつ…って、よくわかんない理屈だけど。
『今日は』ってコトは、いつも作ってきてくれてるのかなぁ?
「おいしそう…」
寒空の下、カップを持った両手が温かい。
「あったりまえじゃん!カオが作ったんだからおいしいに決まってるでしょ!!」
…はい。そうですね、すいませんでした。
あたしは、飯田さん特製のコーンスープにゆっくりと口をつける。
「あ…おいしい」
「あったりまえじゃん!カオが作ったのは何でもおいしいの!!」
でも…本当にあったかくておいしいです、飯田さんのスープ。
誰もいない屋上を占領して、お弁当を広げるあたしたち。
今は一年の内で最も寒い季節だけど…あたしたちがいるココだけは、3月みたいにあったかい。
天気は良いし、飯田さんの作ってくれたコーンスープも、矢口さんのお弁当も、どっちもめちゃめちゃおいしいし。
なんだか今日はしあわせな日だなぁ…午後からの辻先生の授業を除けば。
「先生さようなら。みなさんさようなら」
「「「先生さようなら。みなさんさようなら」」」
日直に続いて、クラス全員が無機質な声で同じフレーズを繰り返す。
「はいっ!!みなさんさようならっ!!辻希美でしたーっ!!」
クラスのみんなに、大きく手を振りながら教室を出て行くのの。
去りつつ、教室のいちばん後ろまで視線を送る配慮は忘れない…連日のコンサートで鍛えぬかれたワザを垣間見た。
朝のHRから帰りのHRまで、ののづくしだった今日の時間割…もう、ぐったり。
しかものののやつ、1時間ごとに宿題出しやがって…明日までに6種類もの宿題なんて、できるワケないよ。
また早口言葉(というよりあれはモノマネだと思うが)やらされるのかなぁ…。
考えててもしょうがない、とっとと帰ってやんなきゃ間に合わない。
「…コール、アンコール…」
カバンを持って立ち上がろうとした時、どこからともなく機械的な声が聞こえてきた。
「「アンコール、アンコール…」」
それはだんだんクラス中に広がって、もはやあたし以外の全員が同じ言葉を繰り返している。
なに、アンコールって…?
「みんな、ありがとーーっっ!!」
すると突然、教室のドアが開いてさっき出て行ったはずのののが再び入ってくる。
「辻希美ですっ!!最後にもういちどだけ出席をとりますっ!!」
わざわざアンコールでやるコトかよ…っていうか、クラスのみんなもよくこんなのに付き合ってられるよなぁ。
「いっくよぉーっっ」
「「「おー…」」」
相変わらず、やる気のない態度でこぶしを振り上げるみんな。
どーでもいいから、はやく帰りたい…。
「ただいまー!!」
勢いよく玄関のドアを開けて靴を脱ぎ捨てると、あたしは階段を上がって自分の部屋へ直行。
「ひとみーっ、おやつはー?」
「いらなーい」
階段を上る途中、下から聞こえる矢口さんの声に素早く応えつつ部屋のドアを開ける。
ノンキにおやつなんて食べてる場合じゃない…明日の国語の授業までにこの宿題を終わらせなければ。
あたしは、カバンからプリントを出すと早速机に向かう。
さて、と……
「わあああーーーっっ!?」
机の上にプリントを広げたその瞬間、窓の外から大きな音と誰かの悲鳴…なんなんだ一体!?
あたしはあわてて窓を開ける。
「ひとみーっ、たすけて!!」
「ごっちん!?」
窓を開けたあたしが見たモノは…ベランダの手すりにぶらさがったまま助けを求める、ごっちんの姿。
「ああ…コワかった」
「ごっちん…なんでこんなトコから入ってくるワケ?玄関から来なよ」
「だってすぐ隣なのにさー…わざわざ玄関からまわってくんの、めんどくさいじゃん」
どうやらごっちんは、あたしの家のお隣さんちの子供らしい。
ごっちんの部屋のベランダとあたしの部屋のベランダとは隣接していて、手すりを越えればいつでもお互いの部屋を行き来できる。
あたしとごっちんは、仲の良い幼馴染ってトコなんだろうか…。
「ひとみ、アタシおなかすいた」
ごっちんの相手してる場合じゃないんだけどな…どうしよ、宿題。
「じゃあ、下でなんかお菓子とってくるよ」
仕方なくあたしは、ごっちんを一人残して部屋を出る。
「えーっ、アタシごはん食べたい」
ドアを開けようとしたところで、後ろから不服そうなごっちんの声。
「…じゃあ、下でなんか作ってもらおっか」
「うん!」
食べながらやろう…あたしは机の上のプリントとシャーペンを手に取ると、ごっちんと一緒に部屋を出た。
「あ、真希ちゃん。またベランダから入ってきたんでしょ?危ないよぉ?」
矢口さんが、あたしと一緒に降りてきたごっちんに気付く。
「大丈夫だって。へーき、へーき」
どこが…思いっきり危ない目に遭ってたクセに。
「ねぇやぐっちゃん、何か作ってよ?」
ヒトんちのお母さんつかまえて、『やぐっちゃん』とは…マイペースなごっちんらしいけど。
「オッケー。チャーハンでいい?」
「うん!!」
矢口さん、あたしが『矢口さん』って呼ぶと怒るクセに…。
「いいなー、ひとみは。毎日やぐっちゃんのおいしいゴハンが食べれてさ?」
言いながらごっちんは、何の迷いもなくテーブルの真ん中の席に着く…ココがいつも座ってる席なんだろうか。
「よく言うよ、毎日この時間になるとおやつ食べに来るクセに。あっ、でもこないだの大雪の日は来なかったか」
チャーハンの具を準備しつつ、あたしたちに背を向けたままで矢口さんが言う。
「ああ、さすがにあの日はねー。行こうと思ったんだけど、ベランダに雪積もってたから」
コイツはそんな日にまでベランダから入ろうとしてたのか…素直に玄関から来ればいいものを。
「やぐちさーん、ウチちょっと出かけてくるでぇ」
あ…あいぼんだ。
「加護ちゃん。どこ行くの?」
ちょっと待て。ごっちん、いくらマイペースだからって『加護ちゃん』はないだろ…。
中澤さんのお父さんであるあいぼんの名字が『加護』であるハズはない。
お母さんなら旧姓ってコトもあるけど…。
「うん!今日はなっちのカラオケ教室の日やから、お迎え行くねん」
「へぇー、たいへんだねー。ムコ養子ってやつも」
あ…なるほどね。
あいぼんは、中澤家のおムコさんだったのか…それで旧姓が『加護』なんだ。
大胆な配役の割に、妙なトコで設定細かいなぁ。
「ちがうもん!ウチはなっちが心配やからお迎え行くんやもん!行かされてるワケちゃうからな!!」
あいぼんが、ムキになって唇をとがらす。
「「「いってらっしゃーい」」」
あたしたちは、ちょっと不機嫌な様子で出ていくあいぼん(旧姓:加護)を見送った。
「なにそれ?」
あたしがテーブルの上に広げたプリントを見て、ごっちんが言った。
「国語の宿題。聞いてよー、明日までに6コだよ。6種類!!」
誰かに言ったところで宿題が片付くワケじゃないけど、語らずにはいられない…横暴な辻の悪行ざんまい。
「あ、辻先生でしょ?あのヒト、ホント宿題出すの好きだよねー」
この口ぶりからすると、ごっちんのクラスの国語もののが担当しているようだ。
「あっ、コレ…こないだウチで出たやつと一緒だ」
6枚あるプリントの内の1枚を見て、ごっちんが言う。
「うそっ!?ねぇ、答え教えて?」
やった…これで1枚は片付いたぞ。
「でもまだ答え合わせしてないもん」
あたしの期待とは裏腹に、ごっちんから返ってきたのは冷徹な一言。
「いいよ、ごっちんの書いた答えで」
この際、背に腹はかえられない…考える手間が省けると思えば、たとえ間違った答えであってもやらないよりはよっぽどマシ。
「えっ、いいの?じゃあね…1問目は『パパとママが家に来たコト』でしょ。
2問目が『逃げ出したパパがタンスの後ろから出てきたコト』で、
3問目が『いつも寝てばっかのパパを見て、もうちょっと人の役に立とうと思ったコト』」
「はあ?」
どういう問題なんだ、一体…ごっちんが見ていたプリントを取り返す。
-
次のことわざについて、自分のみじかなじれいをあげよ。辻希美より。
1.たなからぼたもち
2.ひょうたんからこま
3.ひとのふりみてわがふりなおせ
じゃあ、がんばってくださいね!!
-
さっきの『パパとママ』ってのは、ごっちんの飼ってるイグアナのコトだろう。
この答えをそのままパクるワケにはいかないよな、さすがに。
『パパとママ』を中澤家のパパとママに置き換えてそのまま使えるような気もするけど…。
やっぱりマジメにやるしかないか…あーあ。
「はい。おまたせー」
「やったー!!」
激しく落胆するあたしとは対照的に、矢口さんによって運ばれてきたチャーハンに大喜びのごっちん。
とりあえず、コレ食べてがんばるか…。
あたしはテーブルに散らばったプリントたちを片付けると、スプーンを手に取った。
と、突然玄関のドアが開く音と同時にインターホンが鳴るコト数回。
開けてから鳴らすなよ…ずいぶんせっかちな人だなぁ。
「こんちわー!!保田屋でーっす!!」
え…。
「あっ、圭ちゃん来た」
言うなり、あわてて玄関へ走る矢口さん。
保田屋…?なんだそれ?
あたしは持っていたスプーンを皿の上に戻すと、矢口さんの後に続く。
「はい。10kgね」
「ごくろーさま」
リビングの入口から顔を出して玄関を除くと…そこには、米袋を肩に担いだ保田さんがいた。
ブルーのつなぎに魚屋さんとかがよくかぶってる帽子(正面にプレートみたいなのがついてるやつ)、
そして腰に巻いたエプロン(?)には、紺地に白抜きで大きく『保田屋』と書かれている。
保田さん、メンバーの中で一番奇抜なカッコウなのに…メンバーの中で一番違和感がないのはなぜだろう。
「あ、ひとみじゃん」
米袋を降ろしながら、あたしの存在に気付いた保田さんが言う。
「こんにちは」
くくっ、保田屋…必死に笑いをこらえつつもあいさつを返す。
「相変わらずシケたカオしてるわねー、テストで0点でも取ったか?」
お得意様の家の子供に対して、この毒の吐きよう…さすがは保田さん。
あたしは、サ○エさんで言うところのタ○ちゃんのような存在なのに…いいんですか、そんな態度とっちゃって?
「圭ちゃん、もうすぐおしょうゆ切れそうだからさ。今度来るとき持ってきてくんない?」
財布からお金を出しながら矢口さんが言う。
「オッケー、しょうゆね。あ、そういえば…そろそろ切れる頃なんじゃないの?ビール」
お酒まで売ってるんだ、保田屋…。
「ああ、いいのいいの。とーぶん禁止だから」
「あっそう」
中澤さん、お弁当作ってもらえない上にビールまで禁止とは…。
自業自得とはいえ、だんだん可哀相に思えてきた。
「じゃ、まいど!!」
「ごくろーさま。またね」
おそばやさんの出前のような、独特のバイクの音を響かせながら…保田屋は去った。
「ひとみ、今月のおこづかい、ちょっとだけ上げてあげよっか。裕ちゃんのビール代浮いたし」
財布の中身をのぞきながら、矢口さんが言う。
「ホント!?」
やった…中澤さんには申し訳ないけど、これは思わぬ幸運。
宿題の1問目『たなからぼたもち』の事例は、コレに決定。
「ひとみ!お行儀悪いでしょ!!食べるか宿題やるかどっちかにしなさい!!」
「じゃあ宿題やる」
あたしは即答。迷わず宿題を選択。
「バカ!!」
「あっ…」
晩ゴハンの途中、矢口さんに宿題のプリントを取り上げられる。
今日の授業で、ののから出された宿題は全部で6つ。
家に帰ってきてからすぐに取り掛かって、やっとそのうちの3つまで終了。
明日は1時間目から国語だから、それまでにあと3種類の宿題を終わらせなくてはならない。
さっさと食べてとっとと終わらせよう…あたしは、茶碗を持つと一気にゴハンをかきこんだ。
「ひとみ、早食いは太るんやでぇ。ゆっくり食べたほうがええよ?」
あたしは、あいぼんの忠告を軽く無視してさらにペースを早める。
「…っ、ひっ…っ…なんで、なんでっ…ムシすんねん…ひっ…ひとっ…ひとみぃ…っ」
うるさい黙れ。どうせいつものウソ泣きに決まってる。
こっちはそれどころじゃないんだから…。
「…ひっっっ…ひっっ…とっっ…ひとっ…ひとっっっ…っっっっ…うぅぅぅ…っ」
あいぼんのあまりの泣きっぷりに、あたしはおそるおそる顔を上げる。
げ…もしかしてホントに泣かしちゃったかな?
「あいぼん、ゴメン…ね?」
泣きじゃくるあいぼんの顔をのぞきこむ。
「ひっく…って、ウソでしたぁー!!やーい、やーい!!」
くっ…!?
「このっ…!!」
アッタマきた…あたしは箸を置いて立ち上がると、テーブルを挟んで真正面に座るあいぼんに掴みかかった。
「ひとみ!お行儀悪いでしょ!!」
次の瞬間、矢口さんに怒られる…なんであたしが!?
「何で!?悪いのあいぼんじゃん!!」
あたしは、あいぼんの襟をつかんでいた手を離して、隣に座る矢口さんに抗議。
「ひとみがあいぼんのコト無視するからでしょ?ねーあいぼん、そうだよねー」
「せやせや、ひとみが悪いんや!ウチ、何もしてへんもん!」
安倍さんに助けられて、あいぼんはますます調子づく…このヤロー、もう許さん。
「ふざけんなよっ…加護!!」
「こらーっ!加護言うなーっ!!」
どうだ…あいぼんって呼ばないどころか旧姓で呼んでやる。
あいぼんは、立っているあたしを恨めしそうな目で見上げている。
「イテッ!?」
と、いきなり立ち上がったあいぼんに思いっきり左腕を叩かれる。
「ひとみのアホ!!」
「なにすんだよっ!!」
頭にきたあたしは、再びあいぼんに掴みかかる。
「ひとみっっ!!静かにしろっつってんの!!!いいかげん怒るよ!?」
矢口さん、もう十分怒ってるじゃないですか…。
「矢口ぃ、ビール持ってきて」
一人、会話に加わっていなかった中澤さんが、ビールの空びんを左右に振りながら言った。
「終わりだよ、それで」
矢口さんがあっさりと言い放つ。
「はあ!?何や、終わりって!?圭坊、来んかったん!?」
それまで気持ち良さそうに飲んでいた中澤さんの表情が一変した。
「来たけど頼んでない」
取り乱す中澤さんとは対照的に、矢口さんの表情は冷静そのもの。
中澤さんの質問に答えつつも、ゴハンを口に運ぶ手は休めない。
「どーゆーコトやねん、意味わからんわ!!あたしがどんだけ仕事の後のビール楽しみにしてるか、わかってるやろ!?」
「お弁当と一緒でしばらく禁止」
「はあ!?何やて!?」
あたしとあいぼんのケンカが終了して静けさの戻った食卓に、再び嵐が吹き荒れる…騒がしい一家だなぁ、ホントに。
「あんたな、誰のおかげで晩ゴハン食べれてると思ってんの!?一家の大黒柱にそんなコトしてええんか!?」
出た…おとうさんって、自分が虐げられると決まって『誰のおかげで』とか恩着せがましく言うんだよなぁ。
中澤さんも例外じゃなかったか…。
「誰って、真里っぺのおかげに決まってるっしょー。いっつもゴハン作ってくれてるんだからさ」
当然のような口調で安倍さんが話に割り込んでくる。
「なに言うてんねん、裕子。おいしいゴハン食べれるん、やぐちさんのおかげやん?」
中澤さんが言いたいのはそういうコトじゃないと思うんだけど…あいぼん、安倍さん夫妻は常に何かがずれている。
「いや、そういうコトやなくてな。そのおいしいゴハンの元となる材料を買うお金はどっから出てるんですか、っちゅーハナシでな…」
2人の的外れな発言により、中澤さんのテンションも下降の一途を辿りつつあった。
「もうええわ…あーあ、それ知ってたらもっと味わって飲むんやったなー。最後の1本やったんか…あーあ」
テーブルの上の空びんを見つめながら、独り言のように呟く中澤さん。
後悔先に立たず…なんて言ってる場合じゃない、宿題やんなきゃいけなかったんだ。
あたしは、茶碗に残ったゴハンの上に味噌汁をかけて…見事、お味噌汁かけゴハン完成。
左手に茶碗(お味噌汁かけゴハン)、右手に箸を持つと…一気にかきこむ!!
ちょっとお行儀悪いけど、おいしいんだよなーコレが。
「こら、ひとみ!!何て食べ方してんの!?お行儀悪いでしょ!!!」
矢口さん、憎たらしいほどお母さんっぽい…。
それから数時間、あたしは自分の部屋でひたすら宿題に没頭し…長かった宿題もようやく1つを残すのみとなった。
あと1つになったのはいいんだけど…時刻は既に11時を回っている。
とりあえず続きはお風呂に入ってからやろう…あたしは着替えを用意すると、部屋を出た。
下へ降りるとキッチンからは明かりが漏れていて、何気なく中をのぞくと…テーブルで一人、グラスを傾ける中澤さんの姿。
「おっ、ひとみやないか。お風呂か?」
着替えを持ったあたしに気付いて、中澤さんが言う。
「うん」
あたしは入口に立ったままで、中澤さんの問いに答える。
「今、矢口が入ってるで」
「えっ、そうなの?」
タイミング悪いなー…どうしよ、また部屋に戻って宿題の続きやろうかな。
「ひとみ、こっち来て付き合わへんか?」
そう言うと中澤さんは入口に立つあたしに、右手に持ったグラスを振ってみせた。
「かんぱーい!」
「かんぱい…」
何に対しての乾杯なんだか…しかもジュースで。
「『心頭を滅却すれば火もまた涼し』や。感情さえ無くせばジュースもビールに思えてくるんや」
それは絶対ウソだと思う…中澤さん、そーとー無理してるなぁ。
「ああ…最高やなぁ、仕事の後の一杯は。ホンマ最高や…」
グラス片手に呟く中澤さんの姿を見ながら、あたしは思った。
あたしが大人になったらいっぱい稼いで思う存分、中澤さんにビールを飲ませてあげよう…と。
結局あたしは、キッチンで中澤さんとジュースを飲みながら、矢口さんがお風呂から上がるのを待った。
ゆっくりと湯船につかりながら、しばらくは宿題のコトも忘れて幸せなひとときを過ごしたものの…
お風呂から上がるとすぐに現実に引き戻される。
残り1つの宿題を今日中(明日の朝まで)に終わらせなきゃ…。
ドライヤー使ってる時間すら惜しいのでタオルドライで済ませてさっさと部屋に戻ると、机の上には一枚のメモが置いてあった。
『パソコン借ります。裕子』
確かに、机の上からはメモが置いてある代わりにノートパソコンがなくなっていた。
中澤さん、ネットでもやってるのかな…変なサイトでも見て矢口さんに怒られてなきゃいいけど。
さ、そんなコトより勉強、勉強っと…お風呂に入ってすっきりした頭で、再び机に向かう。
あたしは、机の上で最後のプリントを広げた。
『ここにあくせすしてみてください!!きっといいことがありますよ!!辻希美からのプレゼントです!!』
プリントの先頭には、のののメッセージに続いてホームページアドレスが記載されていた。
いいこと…?このページに問題のヒントでも載せてくれてるんだろうか…?
あいつも結構いいトコあるじゃん…よし、さっそく見てみよう。
と、そこまで考えて気付いた…パソコン、中澤さんが持ってっちゃったんだっけ。
中澤さん、まだ使ってるかな…でもあたしのパソコンなんだし、使用中だろうとなんだろうと所有権はあたしにあるはず。
例のごとく『誰のおかげで買えたと思ってるんや』とか言われそうだけど、宿題のためだ…取り返してこよう。
あたしは部屋を出ると、廊下をはさんで向かい側にある中澤さんたちの寝室へ向かう。
寝室の前に立ってドアをノックしてみるものの、反応は無し。
おそるおそるドアを開けてみると…電気は点いているが、中には誰もいない。
そして、2つ並んだベッドの側にあるテーブルの上に、お目当てのノートパソコンを発見。
さっきまで使っていたのだろう…接続は切れているものの、電話線はパソコンとつながったまま。
部屋に持ち帰るのも面倒なので、あたしはその場でのののページにアクセスしてみることにした。
現れたトップページの背景には、無数に並ぶののの小さな顔写真。
構図は同じだが、よく見るとひとつひとつ表情が異なっている。
コレ、一枚ずつ別の写真じゃないか…ヒマなやつだなぁ。
『ここをくりっくしてください!!』
命じられるがままにクリックすると、派手なトップページとは対照的に文字だけの地味なページが現れた。
-
『あくせん身につかず』
あくじをはたらいて得た金はいつのまにかだらだらつかいはたしてしまうもので、
しょせん残らないということ(ことわざじてんより)。
楽をしてといたもんだいは、けっきょくはみにつかないのです!!
だから、しゅくだいはじぶんのちからでやろうね!!辻希美より!!
-
……絶句。
自分が誘っといて(『あくせすしてみてください!!』)、『悪事』はないだろ…。
ヒントくれるみたいなコト書きやがって…パソコン持ってるコたちみんなダマされてるなー、きっと。
やり場のない怒りで力の限り握り締めたマウスが、ギリギリと音を立てる。
しばらく放心状態で画面を見つめていたあたしは、階段を上ってくる誰かの足音ではっと我に返った。
その足音はだんだん近づいてきて…あたしのいる寝室の前で止まる。
次の瞬間、部屋のドアが開いて誰かが中に入ってくる。
「ああー…疲れた。今日も一日おつかれさまでしたぁー…っと」
ドサリとベッドに倒れこむ矢口さんを、すぐ側でうずくまって見上げるあたし。
別に悪いコトしてたワケでもないのに、とっさに隠れてしまった…。
ベッドサイドの隅(枕側)に小さく身を潜めてじっとしているあたしにまるで気付く様子もなく、矢口さんは
ベッドの上に寝転んで雑誌を読んでいる。
静かな部屋に、矢口さんがページを繰る音だけが聞こえている。
そしてあたしは、部屋から出て行くタイミングをすっかり失っていた。
あたし、何で隠れちゃったんだろ…自分のマヌケな反射神経が腹立たしい。
今ベッドの下からあたしが飛び出したら、矢口さんびっくりするだろうなぁ…どうしよう。
と、再びドアが開いて誰かが入ってきたと同時に、部屋の電気が消えて真っ暗になる。
なに…停電?
「ちょっと何すんだよ!?本読んでるのに!!」
「ええやんか、後にし」
パタンという雑誌が閉じられる音と、矢口さんの抗議の声…どうやら停電ではなく、入るなり中澤さんが部屋の電気を消したらしい。
「矢口、愛してるで」
そして中澤さんが発した2つ目の言葉は…あたしのすぐ側から聞こえた。
「裕ちゃん!?」
「やぐち…」
あたしの斜め上、距離にして数10センチのところから聞こえてくる2人の声。
ちょっと待ってよ、これはもしかするともしかしてもしかしなくても…かなりやばい状況なのでは?
2人を乗せて軋むベッドの振動が、すぐ側でうずくまるあたしにも伝わってくる。
ああああ、どうしよ、どうしよ…。
「ちょっ…ダメ!!!」
次の瞬間、うろたえるあたしの耳に飛び込んできたのは…矢口さんのきっぱりとした拒絶の言葉。
「はあ!?何でや!?」
「とーぶん禁止だから」
あ…禁止事項その3か。
「禁止って…ええかげんにし!!こっちはお昼ゴハンもビールも我慢してるんやで!?三大欲求禁止する気かい、ツラすぎるわ!!」
「まだ睡眠欲が残ってるじゃん」
「いらんわ、そんなモン!!」
いるだろ…。
ま、何にせよ矢口さんのおかげで最悪の事態は避けられた。
あとは2人が寝静まったところでそっと部屋を出れば、万事オッケー…自分の部屋に戻って宿題の続きをやらなければ。
「せやけど…コレばっかりは禁止したら矢口が困るんやないか?」
「どーゆー…イミだよ」
ホッとしたのも束の間、あたしの斜め上からはまたもやあやしげな会話が聞こえてきた。
「口では何言うても、カラダは正直なんやで…?」
中澤さん、お弁当やビールとは一味違う執着を見せてる…ひとみ、再び大ピンチ。
「ちょっと、やだってば…やっ…」
がんばれ…ガンバレ、矢口さん!!
「なぁ…いつもよりめっちゃ良かったら、またお弁当作ってくれる?」
「え…うん…考えてあげても…いいけど」
ちょっと待て。矢口さん…許すの早すぎ。
「よっしゃ!!言うたな?めっちゃやる気でてきた…」
「あっ…もぅ」
やばい。やばい。やばい。
どうしよう、このままでは……はじまってしまう(っていうかもうはじまってる)!!
タイミングは最悪だが、出て行くなら今しかない。
あたしは意を決してすっくと立ち上がった。
「えっ!?だれ!?うそっ、ひとみ!?」
「なっ、なんや!?いつからおったん!?」
2人はかなり驚いた様子であたしを見上げている…そりゃそうか。
「おつかれさまでしたー!!お先に失礼しますっ!!」
あたしは、伝統のバレー部で培われたこの上ないほどの爽やかなあいさつを残し、部屋を飛び出した。
自分の部屋に戻るなり、あたしはベッドに倒れこんだ。
枕元の目覚し時計を見ると…0:15の文字。
早く残りの宿題を片付けなきゃいけないんだけど、どうしてもそんな気分にはなれなかった。
寝室での2人の会話が、いつまでも耳から離れない。
ごっちん、もう寝ちゃったかな…カーテンを開けてベランダに出る。
隣の家のごっちんの部屋は、既に電気が消えて真っ暗だった。
何だかココにはいたくなくて…着替えて財布と携帯をポケットに入れると、誰にも見つからないようにそっと家を抜け出した。
玄関から外へ出ると、いきなりごっちんの家の犬に吠えられた。
コイツ…あたしはごっちんの幼馴染だぞ?隣の住人の顔ぐらい覚えとけよな…。
このままでは近所の人に気付かれてしまう…あたしは、その場から逃げるように全速力で走り出した。
あたしは走った。
心臓がぶっ壊れちゃうんじゃないかってぐらい、体育祭のリレーでアンカーやった時よりも、とにかく一生懸命走り続けた。
足を一歩踏み出すごとに、ひとつずつ忘れられるような気がして、前へ、前へ。
中澤さんは、あたしのおとうさん。
矢口さんは、あたしのおかあさん。
それは知ってる。
だけど、それは同時に2人が夫婦であることを意味するってコト…あたしはわかってなかった。
知りたくなかったよ、こんなの…もう嫌だ。
あたしはなおも走り続ける。
すべてを忘れたくて、すべてを消したくて、だけどそんなの無理に決まってるのに…。
それでもあたしは走る、走る、走る…。
「わあっ!?」
そして転んだ。
「痛ってー…」
全速力で走っていただけに、転んだ時のダメージは大きい。
あまりの痛さに、あたしはその場にうずくまってしまった。
地面に叩きつけられて痛むヒザをさする右手に…思いがけず、冷たい雫が落ちる。
違う、これは…痛くて泣いてるんだ。
決してくやしいとか、悲しいとか、そんな感情で泣いてるワケじゃないからな…って誰に言い訳してるんだ、あたしは。
そっか…言い訳する相手もココにはいないんだから、泣いたっていいんだ。
今あたしの側にあるのは…夜空と星と月だけ、他には何もないし誰もいない。
突然、携帯の着信音が鳴ってうずくまっていたあたしを驚かす。
転んだ拍子にポケットから飛び出した携帯電話は、道の真ん中に転がったまま鳴り続けている。
あたしは立ち上がると、まだ乾かない涙を手で拭きながら、それを拾い上げた。
着信を知らせる画面には、『カオリン』の文字。
「もしもし」
『あ、ひとみ起きてた?今…だいじょうぶ?』
「うん。へーき」
『なんか、急にひとみの声…聞きたくなっちゃってさ』
耳元で聞こえる飯田さんの声は、一人ぼっちだったあたしの寂しさを紛らわせてくれるには十分で。
「あたしも今…すごく誰かとしゃべりたいって思ってた」
『何だよそれ?なんか誰でも良かったみたいな言い方だよ、それって?』
電話の向こうでむくれる飯田さんの姿を想像して、あたしはちょっとだけ笑った。
『そうだ、宿題やった?国語の』
「あっ!!」
すっかり忘れてた…帰ってからやんなきゃいけないんだった。
『もしかしてまた忘れてた?しょうがないなー、ひとみは』
「ねぇ、明日学校で見せてくんない?」
あきれる飯田さんに、ダメモトでお願いしてみる。
『えーっ、ダメだよ。自分の力でやってこそ意味があるんだから…って言いたいトコだけど、特別に見せてあげるよ』
「ホント!?やったー!!」
『でも、今回だけだからね!次はなし!!』
「はいはい。わかったわかった」
あたしは、いつの間にか飯田さんと自然に話せている自分に驚いていた。
歩きながら話している間に、あたしは近くの公園に到着。
ベンチに座って、あたしは飯田さんといろんな話をした。
さっきは泣きながら見上げていたせいでぼやけていた星空が、今は本当にキレイに見える。
『ひとみ、何か変じゃない?部屋の中じゃないみたいだけど?』
30分くらい話したところで、飯田さんはようやくあたしが外にいるらしいコトに気付いた。
「うん。近くの公園に来てるから」
『はあ!?何してんの、そんなトコで!?』
「別に…何となく、散歩したかったから…」
本当のコトなんて言えるワケないから…あたしは歯切れの悪い言い訳をするしかなかった。
『あぶないって、こんな時間にさ!早く帰んなよ!!』
「うん…そうだね」
飯田さんに怒られて、しぶしぶ立ち上がる。
『じゃあ…もう切る?』
家に帰ろうと歩き出したところで、飯田さんが切り出した。
「これから帰るからさ、家に着くまで…話そっか?」
『…うん』
あたしの言葉に、飯田さんは何だかうれしそうで…飯田さんももう少しあたしと話したいって思ってくれてたのかな。
ほんの30分前、家を飛び出した時は本当に最悪な気分だったけど…帰り道はちょっとだけ幸せな気持ちになっていた。
家の前に着いても、あたしはなかなかそれを言い出せずにいた。
もうすこしだけ、飯田さんと話をしたくて、飯田さんの声を聞いていたくて。
そうすることで、自分が今一人じゃないんだってコトを実感したかったから。
だから、もうすこしだけ…。
「わっ、こら!?吠えるなって…」
『ひとみ?どうしたの?』
確かにあたしは一人じゃなかった。
ごっちんの家の犬によって、あたしたちの会話は終了した。
翌朝、キッチンへ行くとテーブルの上にはお弁当が2つ。
ひとつはもちろんあたしのために用意されたモノで、あとひとつは…見事復活を遂げた、中澤さんのお弁当。
「はい。いってらっしゃい」
矢口さんの手からお弁当を受け取りながら、あたしはしばらく彼女から目を離せずにいた。
「ん?」
矢口さんが、不思議そうにあたしの顔をのぞきこむ。
あたしは矢口さんから目を逸らすと、受け取ったお弁当をバッグに入れる。
「いってきます…おかあさん」
さよなら、矢口さん…大好きでした。
「ひとみ、オッス!!」
「おはよ」
今日もまた、いつも通りの時間に飯田さんがやってきた。
失恋の傷を癒すには、新しい恋を探すのがいちばんってよく言うけど…あたしの場合も例外ではないのだろうか。
新しい恋、か…。
「ひとみ、何ニヤケてんの?」
「ん…何でもない」
今日は、待ちに待った梨華ちゃんの家庭教師の日だ…やば。マジ楽しみ。
「ゴメン、ひとみ。カオ、先帰るね!!」
辻先生のHR(とアンコール)終了後、モノスゴイ勢いで飯田さんがあたしの席にやってきた…と思ったらそのまま素通り。
ひどく慌てた様子で教室を出て行こうとしたところで、ののが閉めかけた入口のドアに思いっきり激突してうずくまるコト数秒。
苦痛に歪んだ表情のまま、ぶつけた左腕を押さえながら嵐のように去っていった…ワケわかんないなー、あいかわらず。
「ひとみー、帰ろ」
騒々しく去っていった飯田さんを見送っていると、それと入れ替わりにごっちんが顔を出した。
ごっちんは、あたしたちの隣のクラスの生徒。
そう言えば、ウチの隣に住んでるのにも関わらずごっちんと帰るのは今日が初めてだ。
いつも一緒に帰ってるワケじゃないのだろうか…。
「今日は居残り免除なんだー」
なるほど、そういうコトか…いつも居残りやらされてるから、あたしたちと下校時間が合わないってワケね。
下校途中の雑談の中で、ごっちんの驚くべきライフスタイルが発覚した。
何でもごっちんは、朝は1時間遅れで登校し、そのぶん放課後に1時間居残りで勉強させられているらしい。
フレックスタイム制の中学なんて聞いたコトないんですけど…ごっちんらしいといえばごっちんらしいか。
「そう言えば、今日カオリは?」
帰りの電車の中で、思い出したようにごっちんが言う。
「うん…先帰っちゃった。何かすごい急いでたみたいだけど」
ちょっと普通じゃなかったよなぁ…何かあったんだろうか?
「あ、そっか…。もぅ、カワイイなー…カオリは」
飯田さんが先に帰ったと聞いて、ごっちんは何やら意味深な笑い。
「なに?」
「ひとみ、考えた?まさか、チョコだけとか言わないよね?」
あたしの問いには答えず、逆にごっちんからあたしに質問してくる。
「いや…だから何が?」
『考えた?』って一体何のコト言ってるんだろ…へんなやつ。
「だから、バレンタインだよー。バレンタイン!!」
え…?
あっ、そっか。もうすぐバレンタインか…そう言えばそんなモンがあったっけ。
中澤家の一員になってからというもの、そんなコト考えてるヒマもなかったもんな…。
「どうすんの?あさってだよ?」
「ああ…そうだよね」
今年は矢口さんに手作りチョコをあげようと思ってたけど、お母さんじゃなぁ…。何かやる気出ないっていうか…。
「梨華ちゃんにあげよっかな…」
「だれ…?りかちゃんって」
心のつぶやきのつもりが、うっかり声に出してしまっていたらしい。
ごっちんは梨華ちゃん(石川先生)と面識ないから、知らないのは当然のコト。
「誰だよ、りかちゃんって?っていうかマズイんじゃないのー、カオリに怒られるよ?」
「は?飯田さんに?何で?」
あたし、何か悪いコトでもしたかな…?
「何でって…他のコにチョコなんかあげたら怒るに決まってんじゃん。っていうかなに、『飯田さん』って?」
「あっ」
しまった、あたしまた飯田さんのコト『飯田さん』って…『カオリン』って呼ばなきゃいけないんだった。
そして、今のごっちんの言葉でようやくあたしは、ココでは飯田さんがあたしの彼女だったのだというコトを思い出した。
そっか、あたしと飯田さん、付き合ってたんだっけ(3年目)…。
じゃあ、何かプレゼントした方がいいよねやっぱり…付き合ってんだし。
とは言うものの、実際何をあげれば飯田さんが喜んでくれるかなんて、あたしにはさっぱり見当もつかない。
「何あげたらいいかなぁ?」
とりあえず、隣にいるごっちんに聞いてみる。
この世界では、彼女の方があたしより飯田さんについて詳しいはず。
「はあ?なんでアタシに聞くの?自分の彼女のプレゼントぐらい自分で考えてよー」
それは確かにごもっともな意見なんだけど…ホントにわかんないんだもん。
あーあ、どうしよー…。
飯田さんが喜んでくれるモノ…北海道の名産品とか?
あ、でもココの飯田さんはあたしの同級生なワケだから、北海道出身ってワケじゃないんだよなー…。
うーん……わからん。
あっ、そうだ!!梨華ちゃんに相談してみよう!!
そう言えば今日は梨華ちゃんがウチに来る日じゃないか…梨華ちゃんにも何かあげたいなー、プレゼント。
梨華ちゃん、何あげたら喜んでくれるかなぁ…。
あっ、そうだ!!梨華ちゃんに直接聞いてみよう!!
そう言えば今日は梨華ちゃんがウチに来る日じゃないか…って、何か大切なコト忘れてる気がするけど、なんだっけ?
梨華ちゃん、何あげたら喜んでくれるかなぁ…。
「ひとみ…なにニヤニヤしてんの?何あげるか決めた?」
「ん?ああ、直接聞く。ちょうど今日ウチに来るし、梨華ちゃん」
「だからりかちゃんって誰だっつってんの。カオリに怒られるって、マジで」
「え?あっ」
そうだった…あたし、飯田さんに何あげようか考えてたんだった。
あーあ…どうしよっかなー。
電車に揺られながら、あたしはバレンタインに飯田さんにあげるプレゼントについてさんざん頭を悩ませたが…
結局なにひとつ浮かばないまま、電車はあたしたちが降りる駅に到着。
やっぱり、梨華ちゃんに相談してみよう。
「「ただいまー!!」」
あたしとごっちんは、2人仲良くあたしの家に到着…ってあれ?
「ごっちん…何でついてきてんの?」
『ただいまー!!』って、あんたの家は隣でしょうが…。
「え…だっておなかすいたもん。いちいち家に帰んのめんどくさいし」
あっそ…。
「2人ともおつかれー。おやつ、すぐできるよ?」
玄関では、エプロン姿の矢口さんがあたしたちを出迎えてくれた。
「やったー!!今日はなに?」
それはあたしのセリフだと思うんだけど…ごっちん、何かウチの子みたいだなぁ。
「今日はねぇ、ホットケーキだよ。真希ちゃん、好きでしょ?」
「うん!!」
ちょっとー、何かあたし抜きで会話が進んでないか?
ココんちの子はあたしなんだぞ…まあ、ホットケーキは好きだからいいけど。
「家庭教師かぁ…カワイイの?そのヒト」
矢口さんがホットケーキ焼いてくれてるのを待ちながら、あたしたちは雑談中。
電車の中でうっかり口を滑らせてしまった梨華ちゃんのコトについて、あたしはごっちんに説明しているところ。
「え…うん、まあね」
っていうか、めちゃめちゃカワイイけどね。
「へぇー…どのくらい?」
「うーん…世界一、ぐらいかなぁ」
ちょっと言いすぎかな?
でも、ひとみの世界ではダントツにいちばんだから…世界一には違いないよね。
「ちょっとー、それ本気で言ってんの!?」
ホットケーキ製造中の矢口さんが、突然話に割り込んでくる。
「え…なんで?」
矢口さん、なんか怒ってるみたいだけど…。
矢口さんは、フライパン片手にほっぺたをふくらましてあたしに迫ってくる。
ちょっとむくれてあたしを見上げてる矢口さん…めちゃめちゃカワイイんですけど。
やっと気持ちの整理をつけたところだったのに、そんなカオされたらまた世界一(ひとみランキング)に戻っちゃうじゃんか。
そんなコトより矢口さん、何で怒ってるんだろう?
もしかして、あたしが梨華ちゃんのコト『世界一』なんて言ったから…?
「えっと、やっぱり…おかあさんが、世界一、かなぁ…」
あたしは、途切れ途切れにせいいっぱいの告白。
今のあたしのカオ、たぶん真っ赤になってると思う…自分でもわかる。
「はあ?なに言ってんの?違うでしょ!!ひとみの世界一はカオリンでしょ!!」
「え…?あっ、ああ…」
そうでした。
「ひとみ、サイッテー!!おやつ抜き!!」
「えーっ!?」
そんな…ヒドイですよ、矢口さん。
「ははははは!!バッカだねー!!ひとみの分もアタシ食べていい?」
「いいよ。真希ちゃん食べな」
「やったね!!」
くっそー…ごっちんのヤロー。
「あっ!梨華ちゃんじゃない?」
玄関で鳴ったインターホンの音に、フライパン片手の矢口さんが反応する。
矢口さん、梨華ちゃんに会うのまだ2回目なはずなのに、もう『梨華ちゃん』とか呼んでるし…。
「あたし出る!」
あたしは、1秒でも早く梨華ちゃんに会いたくて…玄関へ走った。
「プレゼント?」
「はい。友達の…なんですけど」
勉強の間の休憩時間に、あたしは飯田さんにあげるバレンタインのプレゼントについて早速相談してみることにした。
ただ、梨華ちゃんには友達の誕生日プレゼントってコトにしてあるんだけど。
「先生だったら、何もらうのが一番うれしいですか?」
この質問なら、同時に梨華ちゃんが今欲しいモノも聞き出せる…アタマいいじゃん、あたし。
「それってもしかして…彼女にあげるの?」
向かい合って座っている梨華ちゃんが、あたしの顔をのぞきこみながら冷やかすような口調で言った。
「ちがっ、ちがいますっ!!そんなんじゃ…」
あたしは、あわてて否定する。
「いいよぉ、照れなくたって」
「違うんです、ホントに!!飯田さんは単なる友達でっ…」
「飯田さん、っていうんだ。ひとみちゃんの彼女」
だから違うって言ってるのに…いや、ホントは違わないんだけど、梨華ちゃんにはそう思われたくないっていうか…。
「はいはい。わかったわかった」
必死の抵抗もむなしく、梨華ちゃんに軽くあしらわれてしまう。
「そうだなー…私だったら、何でもうれしいかな。大好きなヒトからのプレゼントだったら、何だって」
本人が否定しているのに、梨華ちゃんは飯田さんがあたしの彼女だというコトを前提に話を進めていた。
何でもうれしい、か…。
「そういうのがいちばん困るんですよねー…」
晩ゴハンのメニューと一緒。
『何でもいい』ってのがいちばん困る、って矢口さん(おかあさん)がボヤいてたっけ…。
「先生だったら、何がうれしいですか?そのぉ…大好きなヒトに…もらうとしたら」
あたしは再度梨華ちゃんに質問。今度はもう少し確信に迫った言い方で聞いてみる。
「うーん、何だろー…指輪、とか?もらったらうれしいかなぁ…」
あたしは、なぜかうれしそうに目を細めながらそう言った梨華ちゃんの右手の薬指に、シルバーリングが光っているのに気がついた。
梨華ちゃんの細くて長い、キレイな指に光るクロスのリング。
シンプルなデザインなんだけど何か大人っぽいカンジがして、すごく梨華ちゃんに似合ってると思った。
梨華ちゃん、こういうシンプルなやつが好きなんだ…。
「じゃあ、今度プレゼントしますよ、先生に…指輪!!」
さすがに明後日のバレンタインには無理だけど、何ヶ月分かおこづかい貯めて…絶対に。
「え…?ひとみちゃん、飯田さんってヒトにあげるもの考えてたんじゃないの?」
「あ…」
そうだった。あたしってば、つい舞い上がっちゃって…。
「でも、先生にもあげます!あんまり高いモノは無理だけど…」
「何言ってるの?ダメだよ、そんなコトしちゃ。飯田さんに怒られちゃうよ?」
「じゃあ、飯田さんには内緒で…」
「ひとみちゃん!?いい加減にしなさい!!」
とうとう、梨華ちゃんに怒られてしまった。
だけど、その怒ったカオも…かなりカワイイっす。
梨華ちゃんが帰った後も、あたしはずっと彼女のコトばかり考えていた。
あたしの家庭教師としてウチに来た梨華ちゃん…だけどあたしは、ぜんぜん勉強どころじゃなくて。
逆に成績下がっちゃいそうだなー…まずいよなぁ、それは。
梨華ちゃんが来てからさらにあたしの成績が下がったなんてコトになったら…。
生真面目な彼女のコトだから、責任感じてそーとー落ち込んでしまうに違いない。
よし…決めた!!
梨華ちゃんを悲しませないように。
梨華ちゃんが、ずっとずっとあたしの先生でいられるように。
今日から…がんばって勉強しよ。
あたしが決意を新たにした瞬間、玄関のドアが開く音と同時に鳴り響くインターホン。
ああ…このせっかちな行動は、ひさびさ登場のあのヒトか。
「ちわーっす!!保田屋でーっす!!」
やっぱり。
「ゴメン、ひとみ出て!」
どうやら矢口さんは、炒め物の途中で手が離せないらしい。
代わりに、あたしが玄関へ出て保田さんを出迎える。
「おっ、ひとみじゃん。少しは成績あがった?」
保田さん…第一声がそれですか?
「あの…おかあさん、今手が離せないみたいなんですけど」
あたしは保田さんの質問には答えずにそう告げた。
「あっそ」
保田さんは、あたしが彼女の問いを無視したコトを別段気にする様子もない。
「ゴメンゴメン、圭ちゃん」
そんな短いやりとりの後、すぐに矢口さんが現れたんであたしはホッとした。
保田さんに対しては、やっぱりまだ遠慮があるっていうか…2人っきりでいると何か間が持たないんだよね。
「はい、こないだ頼まれてたしょうゆ。ちょうど近くまで来たからさ」
「さんきゅー、もうちょっとで切れそうだったんだよね」
矢口さんに、持ってきたおしょうゆを手渡す保田さん。
そしてあたしは、見つけてしまった。
保田さんの右手薬指に光る、シルバーのクロスリング。
シンプルだけどちょっと大人っぽくて、すごく梨華ちゃんに似合ってるなーって思いながら眺めていた、あれとまったく同じモノ。
「あーっ、どうしたの圭ちゃん?その指輪、めっちゃカワイイー」
「ああ…コレ?あたしはヤダって言ったんだけどね…どうしてもしろってうるさくてさー」
「いやー、カワイイねぇ…梨華ちゃん。いいなぁ、あたしも裕ちゃんに買ってもらおっかなー」
矢口さんたちの会話が、とても遠くの方から聞こえているような気がした。
ただぼんやりと、薬指のリングが左手じゃなくてよかった、なんてコトを考えていた。
「おかあさん…知ってたの?石川先生と、保田屋さんのコト」
保田さんを見送って、キッチンへ戻ろうとする矢口さんに尋ねる。
「え?ああ、だって圭ちゃんに紹介してもらったんだもん。ひとみの家庭教師にさ、ちょうどいいコがいるって」
そっか…そういうコトだったんだ。
さっき保田さんがあたしに『成績あがった?』って聞いてきたのも、単なるイヤミじゃなかったんだ。
みんな、知ってたんだ。
そして、あたしだけが知らなかったんだ。
あーあ、バッカみてー…。
「ひとみ?もうゴハンできるよ?」
「いらない」
そんな気分じゃない…あたしは、階段を駆け上がると自分の部屋へ逃げ込んだ。
ドアを閉めると、電気もつけずにそのままベッドに潜り込む。
矢口さんに失恋したばっかりなのに。
今度は、梨華ちゃんをあきらめなきゃいけないんですか?
あたし、そんなに日頃の行いが悪いんですか?
神様の、ばかやろー…。
「…っ…っっく…っ」
今日は、昨日みたく転んだワケでもないのに、どこも痛くないのに、泣いてる。
くっそー…言い訳のしようがないじゃんか。
こんなに泣いて、明日の朝起きたらきっとヒドイ顔になってるんだろうな…。
そうだ。学校なんか、休んじゃえばいいや。
もう勉強なんてする必要もないし、どうせやる気も起きないし、どうでもいい。
ぜんぶ、どうでもいいや…。
突然、携帯の着信音が鳴って、カラダがびくんと反応する。
あたしは、その音が聞こえないように頭から布団をかぶった。
だけどその音は、なかなか鳴り止んではくれない。
誰だよ、うるさいよ、もう…ほっといてよ。
あたしは、布団の中で耳をふさいでうずくまる。
留守電に、しとけばよかった。
真っ暗な部屋で、携帯の着信音だけが…いつまでも鳴り響いていた。
「ひとみ、どうしたの?具合でも悪い?」
「うん。今日…学校休む」
翌朝、矢口さんに揺り起こされたあたしは、布団をかぶったままで彼女の問いに答える。
「えーっ…仮病じゃないでしょーね?」
そう言うと矢口さんは、あたしが頭からかぶっていた布団をはぎとり…あたしのおでこに手を当てた。
「ほら。ないじゃん、熱。やっぱ仮病だ」
ひどい…熱がないからって必ずしも仮病とは限らないのに(仮病だけど)。
「熱はないけど、アタマ痛いの!!」
あたしは再び頭から布団をかぶる。
昨日の夜さんざん泣いたせいで、きっとあたし、ヒドイ顔してる…たぶん、目とか腫れちゃってる。
こんな顔で学校なんか行きたくないし、第一そんな気分じゃない。
「しょうがないなー…もぅ。おなかは?昨日の夜から食べてないでしょ?」
「いらない」
「いらないって…もしかしてホントに具合悪いの?」
…まだ疑われてたんですか、あたし。
「ったくもっと早く言えっつーの。もうすぐカオリン来ちゃうじゃん」
あ、そっか…。
飯田さん、今日もいつも通りあたしのコト迎えに来るよね…電話しとけばよかったかな。
「とにかく、今日はおとなしく寝てなさい。わかった?」
「…はい」
地中深く潜り込んだままで矢口さんに返事を返すあたし…なんだか、モグラみたいだ。
このまま深く深く潜って、地球の裏側にまで行けたらなー…。
矢口さんが部屋から出て行って少し経ってから、あたしはベッドを抜け出した。
昨日の夜ずっと鳴り続けていた携帯の着信履歴を確認する。
『19:32 カオリン』
『21:32 カオリン』
『23:32 カオリン』
すっげー…。ぴったり2時間おきだよ…なんとなく飯田さんらしいけど。
そしてさらに2時間後の深夜1時32分には、同じく飯田さんから今度はメールが入っていた。
『カオリ、もう寝るね。おやすみなさい』
飯田さん、今日学校なのにこんな遅くまで起きてて大丈夫だったのかな?
いつもならそろそろ飯田さんがウチに来る時間だけど…。
あたしは持っていた携帯を机の上に置くと、カーテンを開けて窓の外を見る。
矢口さんに、あたしが欠席するコトを聞いたのだろう…駅の方に向かって一人歩く飯田さんの後姿が見えた。
だんだん遠ざかっていく飯田さんの姿が完全に消えるのを見送って、あたしはカーテンを閉めた。
そして、再びベッドに潜り込んで目を閉じる。
「ひとみ…起きてる?」
目を閉じてウトウトしてきたところで、部屋のドアが開く音に続いて矢口さんの声。
「おかゆ、作ったけど食べる?」
食べ物と聞いて、あたしは布団から顔を出した。
上半身をむくっとおこして矢口さんの方を向く。
「食べる」
さっきは『いらない』って言ったけど、昨日は晩ゴハンも食べずに寝ちゃったから…。
ホントはおかゆなんかじゃなくてもっとちゃんとしたモノを食べたいところだけど、病人なんだからしょうがないか。
「はい。あーんして?」
矢口さんが、ベッドに腰掛けておかゆを掬ったスプーンをあたしの口元に近づける。
「いっ…いいよ、自分で食べるから!!」
ホントはうれしいんだけど、なんだか照れくさくて…あたしは矢口さんの手を遮る。
あわててたせいで、怒ったような口調になってしまって…少し後悔した。
「なんでそうやって反抗的な態度とるかなー…」
案の定、矢口さんはあたしの機嫌が悪いのだと誤解してしまった様子。
あたしは、気まずくなって俯いた…まさか、『照れちゃいました』なんて言えないし。
「病気のときぐらいさ…あまえてよ?」
「えっ…」
思いがけない矢口さんの言葉に、あたしは驚いて顔をあげる。
「昨日だって何にも言わないで2階に上がったままで…晩ゴハンも食べてくれないし。
なんか、ひとみがどんどん遠くに行っちゃうみたいでさ…さみしいよ」
矢口さん…。
「ゴメン。あたし…ちゃんと食べる」
「食べさせてほしい?」
「…うん」
観念したあたしは、ベッドの上にきちんと正座すると両手をひざの上に乗せた。
「あははっ、なにかしこまってんの?へんなのー。はい、あーん…」
土砂降りだったあたしの心を、優しく照らしてくれる矢口さんの笑顔はお日さまみたいにあったかくて。
このヒトはいつでも、どんな時にもあたしのコトを考えてくれているんだって思ったら…すごくうれしくなった。
「おいしい?」
「うん」
ありがとう…おかあさん。
『ひとみちゃん、見て?カワイイでしょ?大好きなヒトにもらったんだよ』
そう言って薬指の指輪を見せる梨華ちゃん。
芸能人の婚約発表会見みたく、顔の高さまであげた右手を表にしたり裏にしたりしながら、あたしに微笑む。
『ひとみ、見て?カワイイでしょ?あたしはヤダって言ったんだどさー、どうしてもしろってうるさくてさ』
そう言って薬指の指輪を見せる保田さん。
芸能人の婚約発表会見みたく、顔の高さまであげた右手を表にしたり裏にしたりしながら、あたしに微笑む。
保田さんに恨みはないけど、コイツだけは許せない。消えろ…保田屋。
「ちっくしょー…」
矢口さんのおかげで立ち直れるかと思ったのに、なんて夢だろ…最悪。
矢口さんの作ってくれたおかゆで空腹が満たされて眠りについたあたしは、悪夢にうなされて再び目覚めた。
右手を伸ばして枕元の目覚まし時計を掴む。
16:35…うそでしょ。朝、おかゆ食べてからずっと寝てたのか…結構眠れるモンなんだなー、人間って。
ベッドの上でしばらくぼんやりしていると、メールの到着を知らせる着信音。
あたしは、寝すぎでぼーっとした意識のまま、ゆっくりとベッドから抜け出した。
今着いたばかりのメールをチェックする。
『風邪だいじょうぶ?今日はちょっと用事があってお見舞い行けないんだ、ゴメンね。明日は来れそう?カオリ』
飯田さん、あたしのコト心配してメールくれたんだ…。
『今朝はゴメン。頭いたくて起きれなかったんだ。明日も、たぶん無理かも。ひとみ』
明日もあさっても、もしかしたら一生無理かもしれない。
あたしが風邪で休んだと思ってる飯田さんに嘘をついたことに罪悪感を感じつつも、あたしは彼女への返事を打った。
夕食を済ませて自分の部屋に戻ったあたしは、ベッドに腰掛けてポケットから携帯を取り出す。
今夜は、飯田さんからの電話がない。
メールの返事を出すと、すぐにかかってくるのがいつものパターンなのに…どうしたんだろう?
何かあったのかな…。
なんとなく落ち着かなくて部屋の中をうろうろしながら、あたしは気がついた。
あたし…飯田さんからの電話を待ってる。
昨夜の飯田さんも、今のあたしと同じ気持ちであたしからの電話を待っていたんじゃないだろうか。
待ってる間ずっと、落ち着かなくて、不安で。
なのにあたしは、自分のコトばっか考えて…飯田さんがどんな気持ちでいるかってコト、全然わかってなかった。
そして、今までずっと気付かないフリをしてきた事実。
あたしと飯田さんは、付き合ってる。
つまり飯田さんは…あたしのコトが好きなんだ。
そんな飯田さんをまるっきり無視して、勝手に失恋して勝手に落ち込んでいたあたし…サイテーだ。
『ゴメン。明日も行けそうにない。ひとみ』
あたしは、短いメールを打つとすぐにベッドに入った。
あたしみたいなサイテー人間には、夢の中で悪夢にうなされてるぐらいの方が、きっとお似合いなんだ。
「ひとみ、起きて!まさか今日も休む気じゃないよね?」
今日も学校を休む…そう決めて飯田さんにメールしたのはいいけど、まだ最後の砦、矢口さんが残ってたんだった。
「…休む」
「はあ!?もぅ!ちょっと甘いカオするとすぐ調子に乗るんだから!!」
昨日の朝と同じように、矢口さんはあたしから布団をはぎとると、あたしのおでこに手を当てる。
「ないじゃん、熱!!仮病でしょ。絶対、仮病!!今日という今日はぜったい仮病だからね!!」
『今日という今日はぜったい仮病』って…意味がよくわかんないんですけど。
「熱はないけど、おなか痛いの!!」
昨日は頭痛だったから今日は腹痛にしてみました。
「そんなんでダマされると思ってんの…バカじゃない?殺すよ?」
朝っぱらからそんな物騒なコト言わないでほしい…矢口さん、そーとー怒ってる。
「ホントに痛いんだもん。あたったみたい、昨日の…おかゆ」
矢口さん、ごめんなさい…ウソです。
「はあ!?なにそれ、なんてコト言うの!!って、それホント!?」
矢口さんの言葉に、力なく頷くあたし…我ながら病人っぽい演技が板についてきたと思う。
「そっかぁ…。やっぱり、お義父さんに頼んだのが間違いだった…」
えっ…ちょっと待って。
「アレ、あいぼんが作ったの!?」
「うん。ひとみのために自分が作る、って騒ぐから…頼んじゃった」
「へぇー…そうだったんだ…」
どうしよう、ホントにあたってるかも…。
昨日寝すぎたせいでベッドに入っても全然眠れなくて、部屋で本読んだり寝転んでぼーっとしたりして過ごした。
梨華ちゃんのコト、そして飯田さんへの罪悪感。
いろんなコトが頭の中でぐるぐる回って気持ちが悪い。
アタマの中は霧がかったみたいにぼんやりしてるし、昨日から一歩も外に出てないせいで何となく体がダルい。
ベッドに寝転んだまま枕元の時計に目をやる…18:00。
晩ゴハンまでまだ時間あるし、散歩でもしよっかなー…このままココにいても気が滅入るだけだし。
あたしは、ジャージ姿のまま財布と携帯を持つと部屋を出た。
下へ降りると、矢口さんはキッチンで晩ゴハンの支度中。
足音を立てないようにすり足で玄関まで行くと、そっとドアを開けて外へ出る…脱出成功。
ごっちんの家の犬に吠えられないように注意しながら、近くの公園へ向かって歩いた。
それにしても、寒い…もっと厚着してくるんだった。
こんな真冬に、Tシャツ(半袖)とジャージの上着だけではかなりツライものがある。
このままだとホントに風邪ひきそう…あっ、そしたらもう一日学校休めるかな。
しばらく歩いて目の前に目的地である公園が見えたとき、ポケットの中で携帯が鳴った。
あたしは慌てて右のポケットからそれを取り出して表示を確認する…飯田さんだ。
「もしもし」
『あ…ひとみ、起きてた?ゴメンね、具合悪いんでしょ?』
久しぶりに聞く飯田さんの声…あたしは素直にうれしかった。
「ああ…もう大丈夫。ゴメンね、何か心配かけちゃったね」
『大丈夫って…ホント?ホントに大丈夫?熱とかは?ねぇ…』
歩きながら話してたあたしは、ちょうど公園の中に入ったところで前方に見覚えのある後姿を発見。
あれは…飯田さん?
あたしは後ろからゆっくりと彼女に近づく。
『あのさー…今から、そっち行っていい?』
「えっ、もしかしてお見舞いに来てくれんの?」
そっと近づいておどかしてやろう…あたしは彼女の背後から忍び寄る。
『うん、それもあるけど…ちょっと、渡したいモノあるからさ』
「でもあたし、今ウチにいないんだよねー」
あたしは既に飯田さんの背後3mくらいのところまで来ていたが、彼女はまったく気付く様子がない。
『え…?ウチにいないって…どこにいんの?』
「うしろ。見てみて」
『え…?きゃあああああああーーーーっっ!?』
「うわっ!?」
耳がぶっこわれるかと思った…携帯持ったままで大声出さないでくださいよぉ。
しかも『きゃあ』って、何で悲鳴あげてるんですか…。
「もぉー…やめてよ!びっくりするじゃんよー!!」
「ゴメン…」
まだ、耳鳴りがやまない…。
「でもよかった…元気そうで」
飯田さんのうれしそうな顔を見て、あたしは仮病使って学校休んだコトを死ぬほど後悔した。
一人きりの部屋でじっとしてるより、飯田さんと一緒にいた方が…何十倍も何百倍も元気になれたはずなのに。
「はい、コレ」
突然、少し大きめの紙袋をあたしの目の前に差し出す飯田さん。
「ハッピーバレンタイン!!ねぇ、あけてみて?」
あ、そっか…すっかり忘れてた。
今日、バレンタインデーだったんだ。
「うん…」
飯田さんにもらった袋をあけて、そっと中身を取り出す。
「セーター…?」
中から出てきたのは、ふわふわしてて、あったかそうな紺色のセーター。
「それ編んでたら時間なくなっちゃってさ、今年はチョコ作れなかった…ゴメンね?」
もしかして、あの日あんなに急いで帰ってたのも…コレを作るため?
夜中1時32分のメールも、コレ作ってたからあんなに遅くまで起きてたの?
それから、それから…。
「イニシャルのとこ…ひとみがぜんぜん電話くれないから、カオリが勝手に決めちゃったよ?」
イニシャル…?
あらためて、飯田さん作のセーターを広げてみると…左胸のところに小さく『H』の文字。
『H』か…なんかアレだけど、別にイニシャルだし、『Hitomi』のHなんだから間違いじゃないワケだし。
っていうか、『勝手に決めた』ってどういうコトだろ…『H』か『N』(中澤)かで迷ったってコトかなぁ?
「ローマ字にしようか、ひらがなにしようかどっちがいいか聞こうと思ったんだけど」
「ひらがな…?」
ひらがなでイニシャルって…『ひ』(もしくは『な』)ってコト?うそでしょ…。
「ねぇ、どっちが良かった?正直に言って?気に入らなかったら直すからさ」
「いや、ローマ字が良かったけど」
本当に、心からローマ字で良かったと思ってます…。
「ホント?いやー、やっぱあたしたちってさ、心が通じ合ってんだね。以心伝心ってやつ?」
「ああ…そうだね」
普通、『ひらがなが良い』って言うヤツいないと思うし…。
「ちょっ…なにやってんの、ひとみ!?」
突然ジャージの上着を脱ぎだしたあたしを見て、飯田さんが驚く。
「ちょうど寒かったから、着てみる」
脱いだ上着を飯田さんに持っててもらって、Tシャツの上から彼女にもらったセーターを着てみた。
「似合う?」
「うん。っていうか、カオが作ったんだから似合うに決まってるでしょ!!」
そんな怒んなくたって…照れ隠しだってのはわかってるんだけど。
「コレ…すごいあったかい。さっきまで、ホント寒かったから…」
本当に、寒かったんだ。
部屋の中でどんなにあったかくしてても、ベッドに潜り込んでても…氷の中にいるみたいに、寒くて。
コーンスープ。
セーター。
飯田さんは、寒いのが苦手なあたしに、いつもあったかいモノをくれる。
そして彼女といると…不思議と心の中まであったかくなるみたいな気がする。
「ありがとう…カオリン」
あたしは、ごく自然にそう呼んでいた。何の違和感も抵抗もなく。
「どういたしまして」
飯田さんは、そう言って笑った。
「ゴメン、あたし…何も用意してなくて」
梨華ちゃんのコトでアタマ一杯で、バレンタインのプレゼントなんてすっかり忘れてた…サイテーなあたし。
いくら謝っても足りないけど、許してもらえるまで何回だって謝るつもり。
「いいよ、そんなのいつものコトじゃん」
「え?」
てっきり怒鳴られるかと思ってたのに、飯田さんはあっさり許してくれる。
いつものコトって…?
「バレンタインもホワイトデーもクリスマスも、カオリの誕生日だっていっつも忘れててさ。
そんでいっつも、『ゴメン』とか言って…」
話だけ聞くとかなりヒドイ仕打ちだと思うんだけど、飯田さんは怒っている風でもなくむしろうれしそうに見えた。
「なんで…」
「えっ?」
「なんで、そんなやつと付き合ってんの!?サイテーじゃん!!」
だって、大切なヒトの誕生日まで忘れてるようなやつなんだよ?
っていうか、それってあたしのコトなんだけど、あたしだったら絶対にそんなコトしない。
ってしてるか…すっかり忘れてたもんなー、バレンタイン。
「カオリは、ひとみからプレゼントもらってるよ。いつも。毎日」
「え…?」
どういうコト…?
「ひとみがいつも側にいてくれるコトが、カオリにとっては一番うれしいプレゼントだもん。
だから、毎日が誕生日みたいなカンジ?」
少し照れながらそう言った飯田さんは、何ていうかすごく…かわいかった。
「誕生日だけじゃないよ。毎日、バレンタインとホワイトデーとクリスマスがいっぺんに来たみたいなさ。
あとは何だろー…創立記念日でしょ、成人の日、みどりの日、体育の日、文化の日、勤労感謝の日、イイ夫婦の日でしょ、
それからえっと…」
「カオリン」
このままだと全ての祝日や記念日を挙げそうな勢いだったので、あたしは彼女の話に割り込む。
「ん?」
あたしが呼ぶと飯田さんは喋るのを止めて、その大きな瞳であたしの顔をじっと見つめる。
「あのさ…」
ちゃんと言わなきゃ、って思った。
あたしの知らない間に、あたしは飯田さんと付き合ってるコトになってて…だけど、あたしにそんなつもりは全然なくて。
最初はそうだったけど、でも今は…今の自分の気持ちを、ちゃんと伝えなきゃって思った。
「好きです。付き合ってください」
1年の時から付き合い始めて今年で3年目。
もしあたしの方から告白したんだとしたら、飯田さんにとっては2度目に聞くセリフになるんだろうか。
だけど今のは、今ココにいるあたしの、ありのままの気持ち。
「それ…どういうコト?」
やっぱり、飯田さんにとっては意味不明だよなー…今のあたしの告白。
「えっと…ホラ、今までさ、カオリンに迷惑かけっぱなしだったじゃん?だから初心に戻ってじゃないけど、なんかそんな感じでさ。
もっかい、ちゃんとやり直したいっていうか…ゴメン、何かワケわかんないね」
しどろもどろになるあたしを、飯田さんは楽しそうに眺めている…何かバカっぽいなー、あたし。
「初心か…いいね、それ。大切なコトだもんね、それって」
今のあたしの説明でわかってくれたんだろうか…飯田さんはえらく納得している様子。
「はじめまして、飯田圭織です。札幌の中学校から来ました。よろしくお願いします」
そう言うと飯田さんは、急にかしこまってあたしにおじぎする。
飯田さんって、転校生だったんだ…。
ただ、あたしが『初心に戻りたい』って言ったのは付き合い始めた頃って意味であって、今のはちょっとさかのぼり過ぎなんじゃ…。
「カオリ、なかなかクラスになじめなくてさ…ひとみがいちばん最初に声かけてくれたじゃん?すごくうれしかったんだ、あの時」
へぇ、そうだったんだ…。
はじめまして、か…それもいいのかもしれない。
あたしたちは、まだお互いのコトをよくわかってない。少なくともあたしは。
あたしはまだ飯田さんのコトについて全然知らないし、だからこそ彼女のコト、もっともっと知りたいと思ってる。
だから、あたしたちが出逢ったところから…はじめから、やり直せばいいんだ。
『はじめまして』から、もう一度。
「はじめまして、中澤ひとみです。えっと、好きな食べ物は、ゆでたまごとコーンスープ」
「…違う」
違う、ってなんだよ…人がマジメに自己紹介してるのに。
「ひとみ、『お母さんの作った』コーンスープって言ってた、あの時」
「そう、だっけ…」
あたし、そんなコドモみたいなコト言ってたんだ…1年の時だからしょうがないか。
「やりなおし」
ったく、妙なトコ細かいんだから…。
「はじめまして、中澤ひとみです。好きな食べ物は、ゆでたまごと…カオリンの作ったコーンスープ」
ちょっとだけ変えちゃったけど…また『違う』って怒られるかな。
「なっ、なに気ぃつかってんだよ…」
「つかってません」
だって本当のコトだし。
「じゃあ…これからもよろしく」
あたしは、まだ照れくさそうに俯く飯田さんの目の前に、自分の右手を差し出した。
「…うん。これからもよろしく」
あたしが差し出した右手に、飯田さんの右手が重なる。
仲直り、じゃないな…はじまりの、握手。
「カオリン」
あたしは、まだつないだままの右手を自分の方へ引き寄せた。
「ひとみ…」
そして、左手を飯田さんの肩にそっと添える。
それと同時に、あたしより背が高い飯田さんは少しだけ身をかがめると、静かに目を閉じた。
『初心に戻る』とか言っといてこんなコトするのもアレなんだけど…それはそれ、コレはコレ。
すこしずつ、近付いていく…2人の距離。
飯田さんの唇まであと数センチの距離に迫ったところで、あたしは、ゆっくりと目を閉じた。
「…ひとみ、ひとみ!!コラ!!ふざけてないで、早く起きなさい!!」
ん…だれ?
この声…矢口さん?
「ん?うわっ、うわあああっっ!!!」
目を開けるとそこにあったのは…あと数センチの距離にまで迫った、おかあさん(本物)の唇。
あたしは、寝ぼけておかあさんの首に両腕を回していたらしい。
「おぇぇぇ…」
危なかった…もう少しでおかあさんとキスするところだった。
「早くしなさい。遅刻するよ」
「…はい」
ゆっくりと、ベッドから這い出す。
夢、だったんだ…そりゃそうか。
あんなの、現実にあるワケないよね…でも結構楽しかったな、いろいろあったけど。
洗面所で顔を洗いながら、あたしは考えていた。
どうして、飯田さんだったんだろう…あたしの、彼女。
普段から、飯田さんとはあんまり喋ったコトもないし、接点ないのにどうして…?
玄関で靴を履きながら、あたしはひとつの結論に達した。
…接点がないからだ。
あたしは飯田さんについて、あまり深く知らない。
知らないからこそ飯田さんのコト、もっともっと知りたいって思ってたのかも知れない、心のどこかで。
あたし、飯田さんとキスしようとしてたよな…最後。
夢のラストシーンを思い出して、急に恥ずかしくなった。
夢には自分の願望が表れるって言うけど…もしかして、あたし。
まあ、とりあえずそれは置いといて…今日飯田さんに会ったら、あたしの方から話しかけてみようかな。
もっともっといろんな話をして、もっともっと飯田さんのコト、知りたいと思う。
さすがに、『カオリン』とは呼べないけど…もしかしたら、いつかきっと、そう呼べる日が来たりして。
「いってきまーす!!」
晴れ晴れとした気持ちで、玄関のドアを開ける。
今日は午後から仕事で飯田さんに会える…なんだか楽しみになってきた。
「ひとみ…おはよ」
「え…」
勢いよくドアを開けると、目の前に一人の女のヒトが立っていた。
「中澤…さん?」
どうしたんですか、金髪にセーラー服がよくお似合いで…『○ちゃんの仮装大賞』か何かですか?
「いややわ…何の冗談?いつもみたく『裕子』って名前で呼んでよ…」
そう言ってはにかむ中澤さん。
冗談はそっちでしょ…早くタネあかししてくださいよ、ホラ、ロケだって言ってくださいよ、はやく…。
「ホラ、はやくぅ。『裕子』って…」
「………」
あたしが、この悪夢から目覚める日は来るのだろうか?
それとももうとっくに覚めていて、あたしが現実だと思っていた世界はただの夢で、あたしが夢だと思っているこの世界こそが現実?
「ひ・と・み」
眩しいほどの金髪で、恥ずかしげもなくセーラー服姿を披露する中澤さん(27)を見ていたら…
そんなコトは大した問題ではないような気がしてきた。
「ゆっ、ゆう…こ」
言っちゃった…あたしって、ホント適応能力バツグンだなー。
コレならどこへ行ってもうまくやってけるね、きっと…。
次に目覚めるときは、さっきまで住んでたカオリンのいる世界がいいなぁー…。
せっかく分かり合えたのに。せっかく気持ちが通じ合えたと思ったのに。
全てを失った今なら言える…カオリン、愛してる。
「ひとみぃ…おはようのチューして?」
「嫌です」
<END(LESS)・・・>